Act.8  -Vandal Affection-

「わぁあああああっ!!!」

 突発的に須藤が短銃を発砲した。既に腐れた皮膚に至近距離で命中した銃弾に、虚ろなゾンビの身体はグラリッと傾いで倒れたが、それでも床を這うようにして俺たちに近付いてくるその姿に、須藤は狂ったように発砲し続ける。

「バカッ!そんなに弾を使うな!」

 俺が慌ててその腕を止めると、青褪めた須藤は幾分か冷静さを取り戻したように顎を流れる汗を腕で拭いながら「すまない」と言った。ゾンビはどうやら本当に、今度こそ本当に死んだようで、もうピクリとも動かない。
 良かった…ゾンビでも死ぬんだ。
 須藤を叱咤したけど、本当は新たな発見に感謝したいぐらいだった。
 と。

「う、うわぁあ!さ、佐鳥!ゾロゾロ出てきたぞッ」

 俺の背後を指差して青褪めた須藤は咳き込むようにそう言って、躊躇わずに逃げ出した。あの逃げ足の速さが生き残るコツなんだろうな、やっぱり。
 とは言え、俺は別に暢気にそんなことを考えていた訳じゃない。振り返ってライフルを構え、銃声に気付いて駆け付けたんだろう、奇妙な唸り声を発しながら両手を上げて近付いてくるゾンビに発砲した。発砲しながら後退さるのは、一目散に逃げて前からも来た時に退路が塞がれると思ったからだ。
 三人いたそいつらの二体は殺した。あと一体もすぐに折り重なるように倒れて、ジクジクと腐ったどす黒い血液らしき液体でリノリウムの床を汚した。

「やれやれ、須藤は…どこに行っちまったんだアイツは。仕方ない、捜すか」

 空調が整っているのか、ジットリと肌を濡らしていた汗が引き、動きやすくなった俺は取り敢えず須藤の逃げた方向を追って走り出した。
 ゾンビ…になってたってことは、もうここには生きた所員はいないんだろうなぁ。
 驚くほど部屋数の少ないB1フロアを抜け、俺は危険だろうかと考えながら、エレベータのパネルを押した。暫くして、無音で開いたドアの中を見て思わず顔を背けてしまった。
 いや、もう死体はハッキリ言って見慣れたと言えば見慣れたんだ。だから、それほどショックはないはずだったけど、エレベータの床から壁一面に飛び散っている血液を見て胸が悪くなった。
 須藤じゃありませんように、と思いながらも、博士だろうか女史だろうか、それとも早河たちだろうか…そんなことが脳裏を駆け巡った。それでも俺はギュッと双眸を閉じてから、ふと開いて、首を左右に振ったんだ。
 噎せ返るような血の臭いに眩暈を覚えたのかもしれない、そんな中で、エレベータに乗って下に降りる気分にはなれなかった。死体は見慣れても、血の臭いは嗅ぎ慣れるもんじゃない。
 俺はエレベータを諦めてアナログな階段を探すことにした。
 それはすぐに見つかって、薄ぼんやりと浮かび上がらせるパネル式の電灯を頼りに下に降りた。
 何階まであるんだろう。地下30階とか言ったら筋肉痛じゃすまされないだろうなぁ…
 地下2階に降り立った俺はふと、前方の角をひらりっと白衣が翻って誰かが曲がるのが見えた。
 ゾンビか?ゾンビ…だろうな、たぶん。
 しかし、ってことはつまり、ゾンビが向こうに行ってるってことは誰か人間がいる、ってことじゃないのか?学習した俺の知能が弾き出した答えに頷いて、俺はそのゾンビの後を追うことにした。
 慌てて角を曲がると、飄々とした白衣は人物の姿を隠してまたもや次の角を裾だけ覗かせて曲がってしまう。なんか、誘われてるんじゃないだろうな…
 行きついた先はゾンビまみれで、一斉に襲いかかられるとか…それだったら、かなりヤバくないか?…本能ではそう叫んでいるものの、身体は反比例するようについて行く。
 手掛かりも何もないこんな施設の中で、あるものは何でも調べないと…それが鉄則だ。
 ズキンッと、唐突に胃が痛んだ。
 そう言えば、朝にサンドイッチを食ったっきり何も口にしていなかったことを思い出した。そのサンドイッチも吐いてしまったから、胃の中には何も残ってないんだ。

「やれやれ…俺も人間だなぁ。こんな時でも腹が減るなんて…」

 溜め息を吐いて肩を竦めたが、ひらひらと誘うように裾だけ見えていた白衣はある部屋に消えてしまった。

(まずいな…これはやっぱり、ゾンビ集団のお待ちかね体制かな)

 ゴクッと息を飲む。グレーの扉の脇にあるネームプレートは空白だ。扉には何も書かれていないし…ここはどうやら誰かの研究室のようなものらしい。

(入って…みるか)

 誰かが助けを求めているかもしれない。
 ここまで見てきた結果では生きたままにしておくと言うことはなさそうだが、それでもヘンな実験とかされてたら助けてやらないと。まあ、知能がないゾンビだと食うだけなんだろうけど…
 俺はソッとノブを回した。
 ライフルを構えながら内部を覗き込むと、比較的広い研究室であることが判った。
 続き部屋になっているのか、扉があって、白衣はどうもそこに消えたらしい。カチャリッ…と音がして、鍵が下りたことを知った俺は、もしかしてこの白衣の人物は生きた人間なんじゃないかと思った。知恵があるからだ。と言うよりはむしろ、化け物から身を護る為に鍵をかけたんじゃないだろうか?

(いや、待てよ。大蜘蛛も疑似餌もどきで人間を釣ろうと企んでたぐらいだ、知能を持ったゾンビだっているかもしれない)

 そう思って、俺は警戒心を緩めなかった。
 ソッと足音を忍ばせて内部に潜り込むと、背を低くして扉のある付近まで歩いて行った…が、目の前に散乱している書類の束を見つけて手を伸ばしていた。
 それは何かの報告書のようだった。
 全文英語でタイプされているから、どうやらこの施設はアメリカ…或いは英語圏の国のものであるらしいことが判った。現地語は判らないが、英語は理解できる。考古学じゃ必須だからな。
 なぜかと言うと、古文書なんかを翻訳しているのが殆ど英語だからだ。有名なところで言えばヒエログリフなんかも、英語で訳すことができる。まあ、そんなことから俺は英語だけは殆ど理解することができるってわけだ。

「なになに…」

 研究所員の報告書は次の通りだ。

『Code:Unbijys

生物のDNAに異物(別の遺伝子)を組み込むことによって、生物の構造や機能がどのように変わるのか、どのような突然変異が起こるかの研究に関してジャクソン博士の激しい抵抗を受ける。こうした危険性に関しては、博士の考えは承服しかねる。
1.耐病性を強めるため遺伝子組み換えをしたラットに激しいアレルギー性による発疹が偶然発生した件
2.若い研究員の飼育する爬虫類に遺伝子組み換えで生成したDNA入りの昆虫を与えたところ、同爬虫類にて通常では考えられない急速な進化を遂げた件など。

※耐病性ラット事件───1990年秋、現研究所内にて極秘裏に行われた研究上で、原因不明の筋肉の痛みや呼吸困難、咳、皮膚の発疹などの症状を研究員が訴えた。この症状は、好酸球増加・筋肉痛症候群(EMS)といい、政府研究機関はその原因究明を行い、患者たちが一様にこの実験に参加していた事によるものだと判明させた。だが、ジャクソン博士に関してだけは症状が現れず、依然、健康状態を保ち続けていた。その頃、当研究所を民間からバックアップしている政府に縁のある企業の依頼を兼ねて、新たな新種の細菌を開発している最中であったことから、誤った指示が出され、日本企業の紫貴電工のミスは後の遺伝子組み換え技術に大きな影響を与える事になった。これによって改造された細菌にHR-9を作らせ、それを抽出・精製して販売すると言う当初の計画は白紙へと戻されてしまう。HR-9の潜在能力を恐れたジャクソン博士の工作と言う噂が実しやかに囁かれているが、上層部からの圧力でこの事件は極秘のうちに立ち消えとなった。このことから遺伝子組み換えに対してジャクソン博士は強く上層部に抗議したが、予測ができない事態を引き起こさないよう努力せよと言った見解に博士の抗議は幕を閉じる事になった。人類に被害を及ぼす可能性を秘めたHR-9の開発者は、現在博士を除いて二人存在するが、彼らはまるで違う技術を独自に開発研究しているとの情報を得ただけで、この研究施設にいるのかさえ確認できてはいない。ただ、細菌同士の遺伝子組み換えでさえ、これだけ予想のできない害が出るという事にも関わらず、残りの二人の博士はHR-9の起こす複雑な組織を組み替えるという能力で未知の種を誕生させている、と言う噂が所内で広がっている。それが現実であるのか、また起こり得るのかについてはジャクソン博士はコメントしていない…』

 そこで途切れてしまった書類には続きがあるようだったが、埃や茶色い染みによって殆ど読めなくなっていた。

「…これって、俺には良く判らないけど、どうやらここで行っていた研究の事を書いてるみたいだ。須藤や博士に見せたら何か判るかもしれないな…」

 HR-9と言う名の物体が何であるか判らないが、厄介なものであることは俺にだって判る。こんなものを、ここの研究所はどうしようとしていたんだろう。
 俺はそんな事を考えながらズボンのポケットに書類を捻じ込んで立ちあがろうとした───…が、できなかった。なぜなら、何時の間に背後に回ってきたのか判らない、酷く醒めた冷たい声音が頭上から降ってきたからだ。

「おやおや…こんな所に大きなラットが逃げ出してるじゃないか」

 ビクッとして振り返った瞬間、凄まじい激痛が首筋に降って来て、俺は昏倒してしまった。
 薄れ行く意識の中で、俺は電灯に浮かび上がる金の髪と、光を反射した銀縁眼鏡の奥に煌くアイスブルーのゾッとするほど冷たい双眸をぼんやりと見ていた。