Act.9  -Vandal Affection-

 揺れている錯覚がした。
 誰かの温もりを感じて、俺はホッとしていた。
 ああ、生きてる人間が傍にいるんだと思ったら、無条件で安心できたんだ。
 血と硝煙と腐った臭いばかりに慣れていた俺の鼻先に、微かな柑橘系の匂いがする。ああ、いい匂いだ。

 思わず鼻先を擦りつけると、匂いの持ち主の頬が汗臭い俺の髪に寄せられたようだった。
 誰なんだろう?
 逃げ出した須藤が戻ってきたのかな…それとも博士?いや、あの遺跡オタクがこんないい匂いをさせてるはずがない。三浦女史は、もっと女らしい匂いがする。こんな匂いがしそうなのは…早河かな?
 ふと、俺は何か柔らかい布の上に下ろされたような気がする。スプリングが利いている、これはベッドかな。そうか、あの匂いの持ち主は俺を抱き上げていたんだ。
 …ある意味、凄い怪力だな。

「何がおかしい?…変わったラットだ」

 久し振りに笑っていたのだと気付いたのは、氷よりも冷たいんじゃないかと思えるほど冷めた声が、頭上から降ってきたからだ。
 そして、俺は一挙に覚醒した。
 ハッと。そうだ、夢を見て笑ってる場合じゃない!
 俺は白衣を追っていて、ゾンビかもしれない奴に気絶させられたんだ!
 ガバッと起きあがろうとしてガクンッと身体が激しく揺れ、ベッドに引き戻されてしまった。それでよくよく見ると、頭上で両腕を縛られていた。
 な、なんなんだ、こりゃ。

「目が醒めたかね?」

 今では白衣を脱いでいて、着ているグレーのシャツの袖のボタンを外している金髪の男は俺に気付いたらしく、緩慢な動作で見下ろしてきた。
 腹の底が痺れるような、冷徹な目をした男だ。
 虚ろな双眸で虚空を見つめているゾンビよりも怖いかもしれない…

「英語は判るはずだがね、コータロー=サトリ」

「俺の名前…!?あんた、いったい何者だ?」

 なんとか外そうと暴れてみたが、どんな風に縛っているのか、それはビクともしなくて俺を焦らせた。

「暴れない方がいい。手首を無駄に傷付けるだけだ…いや、もっと酷いことになるだろうがね」

 鼻先で笑っているのに、やけに抑揚がなくて、この男はちゃんと生きているのだろうかと思った。
 ここの住人なんだろうか?それとも、俺たちみたいにどこかの大学から来た発掘隊の一員だったのだろうか?どちらにせよ、なんで俺は縛られてるんだろう。

「なあ、これを外してくれよ。あんたは誰なんだ?ここの研究員か?それとも、俺たちみたいに発掘隊として来た人なのか?」

「質問が多いようだ。まず1つに、君は暴れるだろうから手枷を外してやるわけにはいかない。2つ目の質問は前者が正解だ。そしてここは私の部屋」

 男はそう言うとゆっくりとベッドの端に腰掛けた。無気力と言うか、感情が読み取れない表情をしている。横顔は、酷く落ち着いていた。

「殺風景な部屋でね。唯一のインテリアと言えば…自家製のプラネタリウムぐらいか」

 男が、掛けていた銀縁の眼鏡を外しながら感情の窺えない双眸で上を見上げたから、俺は釣られたように天井を見上げた。

「あ…星だ」

 驚いた。
 ベッドの真上に天体が広がっていたんだ。
 漆黒の闇の中、無数の星が煌いている。いったいどうやって作ったんだろう?
 密林で見上げた、あの星空によく似てる。この男は、いったい何時からこの研究所にいて、化け物から逃げながら生きてきたんだろう。

「さて、君にはここで見たことを忘れてもらわないといけない。あの、研究員の報告書だとかね」

 ハッとしてズボンに目をやる。
 男はまるで端から知っていたかのようにそれに手を伸ばすと、ヒラリと優雅な手つきで奪い去ってしまった。

「全く、余計なものを…」

 一言だけポツリと呟いて、彼は自分のポケットから取り出したライターで火を点ける。

「あ!」

 その薄汚れた、何かしら重要な紙片にはすぐに火が燃え移って、男は興味のなさそうな素振りでそれを手放すと床に落ちる灰を見つめていた。
 アイスブルーの瞳はとても冷たくて無感情で…寂しそうだ。

「な、なんてことするんだ!だいたい、あんたは何者なんだ!?俺の名前を知ってるし…名前ぐらい言ったらどうなんだよ!」

 突然奪われてしまった情報にカッとした俺が喚くと、男の肩が僅かに揺れた。それから小刻みに揺れて、俺は突然、男が泣き出したんじゃないかと思った。
 でも、本当は違っていたんだ。
 必死で手枷を外そうともがきながら喚いている俺を、笑っていたんだ。
 抑揚もなく、酷く冷たく、無頓着に。

「くっくっく…私の名前を知りたいのか?だが生憎と、君にはここで見たことを忘れてもらわないといけない。言わなかったかね?」

 片目だけで見下ろされて、ゾッとした。
 腹の底から冷えあがるような、何か重いものを飲み込まされたような、酷く嫌な気分になる目付きだ。俺はどこかでこの目を見たことがあるような気がした。あれはどこでだっただろう…

「私の名前など、必要ないのだよ」

 最後の呟きは掠れていて、殆ど良く聞き取れなかった。
 不意に立ちあがった男にギクッとした俺の目の前で、彼は唐突にグレーのシャツを脱ぎ捨てた。

「?」

 白人特有の白さを持った背中は研究員とか言いながら、やけに筋肉質で逞しかった。着やせするタイプなのか、服の上からじゃ判らなかったけど、これなら俺一人ぐらいは抱え上げるのも無理じゃないだろう。
 でもなんで、上着を脱ぐんだ?

「君は無防備だ。何れここの最下層に行けば死ぬことになるだろう。何も見ずに、地上に戻りなさい。救援隊も間もなく来る」

 むこうを向いたままで男が呟くように言った。

「救援隊!?でも、それじゃあ博士たちを助けないと!」

 当然じゃないか!そのためにここまで来たんだ。

「聞こえなかったのか?地上に戻るのだ」

「嫌だ!俺は生き残ってる人たちを助けてから日本に帰る!」

 間髪入れずに叫ぶように言うと、男は振り向き様に俺を殴った。

「ぐっ…ッ」

「死にたいのか?ここは地上と違って生易しくない。確実に死ぬ…死にたいのか?」

 ギシッとベッドを軋らせて俺の顔の横に片手をついた男は、鼻先が擦れ合うほど近くまで顔を覗き込んで来ると、片手で頬を嫌というほど掴み上げた。すぅ…っと細めた双眸が、獲物を捕らえた時に見せた、あの大毒蛇のようにゾッとする殺意に揺らめいている。
 殺してやろうか?…の言葉を唇の形だけで刻んで、彼は苦痛に眉を寄せる俺にキスをした。
 最初、何が起こったんだろうと目を見開いていた俺には理解できなかった。たった今まで殺してやると凄んでいた奴が、まるで貪るようにキスをしてるんだ。
 男が…男である俺に?

「や…めろっ!」

「ッ」

 俺は思い切り舌を噛んでやって、ちょうどさっき殴られたときに口の中を切ってたから、血の混じった唾を吐いてやった。
 すると、男は不意に嬉しそうに微笑んだ。
 こんな時なのに、この男が初めて見せた感情のある表情に、不覚にも俺は見惚れてしまった。
 その表情が一変して冷たくなる様まで、ゆっくりと見届けるほどに。

「ヒッ…」

 思わず声が出るほど冷たくなった表情は、彼が本当に生きている人間なのだろうかと疑いたくなるほど冷え冷えとしている。その口角は笑みの形を象っているというのに…

「おもしろい。実に愉快じゃないか。ラットは活きが良いほど、細菌を植え込んでやる時の鳴き声が堪らなくてね…君はどんな声で鳴くのかな?」

「…ッ」

 俺はあらん限りの力を眼光に集結させて睨み据えたが、男にはちっとも効果がないようだった。それどころか、そんな俺の抵抗を明らかに楽しんでいるようだ。
 狂ってる。
 そう思った。この男は狂ってるんだと。
 当たり前だ、こんな狂気の沙汰じゃない場所でたった一人で生きてるんだ、どうして逃げようと考えないんだろう?コイツこそ、まるで死を望んでいるようじゃないか!

「思った通り、良い目付きだ。中に出してやってもいいが、それでは地上に戻る時が辛いだろう」

「なんの話だ!?」

 噛みつくように食って掛かると、男はズボンのポケットから小さな四角い袋を取り出して、その端っこを見せつけるように口に咥えた。
 俺は、その袋を見たことがある。
 同室だった御前崎が恋人の雪ちゃんとデートの時に、いつもいそいそと用意をしては、結局役に立てずに持って帰ってたアレだ。

「そそそそそそそそそ…そんなもん!お、俺に使うのか!?使えるわけねぇだろ!なに言ってるんだ!この、へ、変態ッ」

「なんとでも言いなさい。私は君の顔が苦痛に歪む様を見たいだけだ」

 それが変態だって言うんだ!
 口に袋を咥えたままで器用に喋る変態男は、その恐ろしい内容とは裏腹で、やけに緩慢な動作で俺の首筋に唇を落としてきた。
 ひぃいいい~、袋の端がギザギザでチクチクするよう!
 背筋がゾワゾワして嫌々するように首を左右に振ったが、男の唇から逃げることはできなかった。当たり前だ!縛られてるんだからなッ!!

「ヒッ」

 思わず声が出て、唇を噛み締めた。
 男の、驚くほど繊細そうな指先が、異臭を放っているはずのTシャツの裾から忍び込んできて、俺の胸にある飾りを撫で上げたんだ。

「い…ッ」

 そして、そこを思い切り捻り上げてくれた。千切れるかと思った。
 苦痛に眉を寄せ、冷や汗を浮かべる俺の額に口付けながら、男は奇妙に落ち着いた双眸で条件反射で涙を浮かべる俺の目を覗き込んでくる。

「…ど…して、こん…な…」

「おやおや、こんなことぐらいで根を上げるのかい?階上の化け物どもと渡り合った君が?」

 そんなこと!関係ねぇじゃねぇか…
 未知の苦痛は死ぬことよりも怖い。
 俺はこれからコイツに、いったい何をされるんだろう…?
 男の肩越しに覗く満天の星空を見上げ、俺は震える瞼をギュッと閉じた。