生暖かい風がふっと耳元を掠めて、恐怖と驚きと不思議な気分に支配されていた柏木の、唯一の弱点である恐怖心を増大させてしまった。
「ひぃー!!!」
刹那の甘やかな雰囲気はあっと言う間に霧散し、柏木はキスされたことも忘れてもう一度立原の首に抱き付いてしまう。
目を白黒させていた立原は、困惑して、それから諦めたように溜め息を吐いたが、それでも限界まで我慢した欲望に燈った熱情は容易く消えるものでもなくて、立原はこのチャンスを思いきり活かすことにしたようだ。
「大丈夫だよ、柏木。霊魂はさまようだけで悪さはしないよ…」
「れ、霊魂なんか言うな!どれほど怖いと思ってるんだ!!そんな話をしてたら寄って来るんだぞ!?」
クスッと、立原は微かに笑う。
本気で幽霊を信じてしまえる柏木を、心の底から愛しいと思っていた。
喚き立てながら、それでも支離滅裂になっている柏木を無視して、立原は浴衣の裾から腕を忍び込ませて下着を引き下ろしにかかる。
狼の被りモノはこうなると邪魔臭くて、立原は抱き付く柏木を器用にあやしながら手早く上着を脱ぎ、いつでも襲いかかれるように用意した。その反面、口では酷いことを言い募るのだ。
「しー。声を潜めなよ、柏木。山で死んだ人間は寂しくて、常に仲間を求めて彷徨っているんだ。幽霊でもいいヤツばっかり、ってワケじゃないから」
もちろん、人間もだけど…と、立原がそう言ったかどうかは定かではないが、柏木には効果覿面の台詞に、臆病な姫君は肩を竦めてますますギュッと抱き付いてくる。
「うう…立原~」
男として!…恐らく柏木にとって一番屈辱的なことだろう。立原もそれには気付いていた、が、だからと言って今更止めることなど、もうできないのだ。
「柏木、どうして幽霊が怖いの?哀しい連中じゃないか。もう、何もできないんだよ?」
「お前は何も判っちゃいないんだッ。ヤツらは取り憑くんだぞ!?」
浴衣の裾から忍び込ませた手で、器用にトランクスを引き下ろす行為にも全く気付いていない柏木は、嫌々するように首を左右に振って立原の肩口に額を擦りつけている。
立原にとってどうでもいい会話は、柏木にとっては地獄の試練で。
だがそれ以上に、凄まじいはずの試練が待ち構えていることに全く気付かない柏木は、目先の試練に怯えて、自分をその崖っぷちに追い立てる悪魔な立原に闇雲にしがみ付いていた。
乱れた浴衣と、脱ぎ下ろされたトランクス、涙を零す顔をチラッと見ただけで、立原の沸点は既に頂上を突き破っていることは確かだ。
「た、立原!?」
首に回した腕を無理矢理引き剥がされて、動揺した柏木は泣いている顔を見られる恥ずかしさよりも、見捨てられる恐怖に怯えて必死で腕を伸ばそうとする。その時になっても、立原が幸せそうに笑いながら上着を脱いでしまっていることに気付かない。
正真正銘、愚鈍な姫君だ。
「大丈夫だよ、柏木。参ったな。最初の夜は純白のベッドの上だって決めてたのに…こんな山奥の安っぽいビニールシートの上だなんてね」
「な、何を言ってんだよ~!?は、早く戻ろう!もう、戻ろう!!」
ビクビクしながら、最早思考回路がグルグルしてしまっている柏木の悲痛な悲鳴でさえ、もう立原の固い決意を覆すことはできなかった。
「戻る?冗談。戻ってる最中に幽霊に襲われちゃうよ」
「うう!」
目許に浮かぶ涙のしょっぱさを唇で感じながら、いつになく饒舌な立原はクスッと笑って柏木の素肌を楽しむように露出した腿を擦りながら、その足をグイッと片手で抱え上げた。上体を倒して、覗き込むように見つめる柏木の泣き顔は、動揺と、すぐ傍に自分がいることに微かに安堵しているように見える。
その全てが愛しくて。
「幽霊に襲われるぐらいなら…ちょっと痛いだろうけど、俺に襲われたらどう?」
「立原…?」
「全力で守るから」
呟きが消えるか消えないか…まさにその瞬間だった。
「~~~…ッ!!」
悲鳴さえも上げられない、苦痛に全身びっしょりと嫌な汗が覆う。
無理矢理捻じ込まれた灼熱の杭が、いったいどこに忍び込んでいるのか初めは判らなくて、柏木は見開いていた双眸をギュッと閉じて噛み切る勢いで唇を噛み締めた。
「うう~うーッ!」
もう、まともな声も上げられなくて、それでも、自分をこんな苦痛に叩き落した張本人であるはずの立原に、柏木は縋りつくしか他に術がない。
ギュッと、冗談としか言いようのない狼の被り物を、今は腰の辺りに蟠らせている立原の、その素肌の背中に腕を回してギリッと爪を立てた。
「…ッ」
けしてわざとではないと判っているのだが、背中にぬるっと伝う僅かな熱い筋に、柏木が受けている苦痛を少し感じ取れたような気がして立原は嬉しかった。
ギチギチッ…と、狭い器官は悲鳴を上げて、立原の灼熱を無理矢理捻じ込まれた部分は切れ、真っ赤な血の涙を零している。
「…ッ、やっぱり…思った通り、最高の気分だ」
こめかみを伝って頬を流れる汗もそのままに、唇を噛み締めてギュッと眉を顰めたまま泣いている柏木に、眉を寄せて笑いながら口付ける立原は、その唇に微かな鉄錆のような味を感じた。
「唇が…切れてるよ」
「…ッ、はッ」
噛み締めた口を開こうとしない柏木に焦れて、立原は萎えて萎んだままの柏木自身に触れてると、意識を苦痛から逸らすためにゆっくりと扱いて頬にキスをする。
「う…ううッ」
肩で荒く息を繰り返しながら、嫌々するように首を左右に振っても、下半身に施される苦痛と快楽が綯い交ぜした奇妙な快感から逃げることができず、柏木は助けを求めるように震える瞼を開いて立原の顔を見上げた。
「た、立原…ッ。俺、俺は…あうッ!…どうしたんッ…だろ?」
ゆっくりと抽送を繰り返す激情とは裏腹の穏やかな腰遣いと、優しげな愛撫に戸惑うに双眸は涙が滲んでいる。自分にいったい何が起こっているのか、どうしてこんなことが起こり続けているのか、判らないと訴える双眸は小動物のような不安に揺れている。
「ずっと、ずっと好きだったんだよ。言わなかった?可愛いって、俺の弱点は柏木だってさ…」
「好…?好き?…お、俺を?…んぅッ!」
グイッと深く挿し込まれて、まだ慣れない器官が苦痛を訴えて収縮を繰り返すと、柏木は辛そうに眉を寄せたが、上体を倒してくる立原を信じられないような不安の双眸で見上げた。自分が聞いたことは、この信じられない状況下で聞いている幻聴ではないのかと…自分に都合よく聞こえているだけの嘘の言葉なのではないかと困惑しているようだ。
「本気だよ…もうずっと、好きだった」
不安に揺れる相貌を見つめて、安心させてやりたくて立原は柏木の頬を包み込んだ。
前に施される行為が遠退いて、痛みが少し増したような気がした柏木はそれでも立原の真意を見極めたくて首に回していた片腕を離すと立原の頬を確認するように触れてみる。
「…嘘だろ?お前…俺をからかいたいだけで…ッ、そんなこと言うんだ。こんなこと…してるんだ…ッ」
泣き笑いのような表情をする柏木の真意が判らなくて、立原はムッとしたように眉を顰めて蒼白の顔をした姫君を見下ろした。滲んだ汗が漆黒の前髪を額に張り付かせて、それでなくても惹かれて惹かれて、恋焦がれていた柏木にどうして想いがまっすぐに伝わらないのだろう?
なんでも手に入れることのできた自分が、だからこそ、優等生でいることにうんざりした自分が、何もかも捨ててもいいとさえ思うこの熱い想いを、どうして一番大事なひとにはまっすぐに伝わらないのだろう?
「柏木が好きだよ。こんなに好きだ…」
なんてこと、君はきっと気付かないんだろうけど…
頬に触れてくる震える無骨な手を掴んでそっと口付けても、柏木は不安に揺れる双眸を瞼の裏に隠しながら、永遠のような暗闇に落ちていく酩酊感のような錯覚に囚われながら、呟くように囁いた。
「嘘だ…」
後部に灼熱を受け入れたままで無理に抱き起こされて、しかし、それさえも感じない闇に沈んだ柏木の汗に濡れた身体を、もうずっと抱き締めたくてできなかったその身体を愛しむように抱き締めて…
「嘘じゃないのに」
呟いた言葉は、意識の淵に沈んでしまった柏木の耳にはとうとう届くことはなかった。