Level.9  -暴君皇子と哀れな姫君-

「…柏木?」

 シッカリとしがみ付いて俺は、立原の呼びかけに答える気力もなかった。
 狼の被り物がなんだかな、とも思うけど、今頼れるものはコイツしかいないんだ。抱き付いてみて判ったことだけど、立原は思った以上にいいガタイをしてる。まあ、それもそっか。
 初めて会ったときは、確か中学の2年だった。
 私立離紅堂学院中等部で行われたバレーの親善試合で、コイツはキャプテンでもないただの他校のレギュラーだった俺に声をかけてきたんだ。
 泣く子も黙る離紅堂の立原…と知っていたから、ビビリまくっていた俺に、コイツは噂されるほどには強面でもなくて、ニコッと屈託なく笑って挨拶をしてきた。

『どうも初めまして。他校の構内…と言うこともあって何かと不便でしょうが、今日はお互いにベストを尽くして頑張りましょう』

 異例の2年生生徒会長は爽やかに笑ってそう言うと、そのまま呆然としている俺を残して行ってしまった。
 その頃はまだウォークマンも聴いていなくて、理想を絵に描いたような優良生徒会長さまだったんだ。
 部活の仲間たちには羨ましがられて小突かれるは、近くの女子高のファンクラブのお姉さま方からは黄色い声で貶されるは…俺にとっちゃ踏んだり蹴ったりの初対面だったけど、正直少し憧れていた。俺の鬱陶しいぐらい黒いのとは違って、ちょっと色素の薄い髪は睫毛と同じで、やたら男前のソイツがなんて言うか、やっぱりカッコイイと思ったんだ。
 お高くとまってもいないし、一級品の容姿のわりには気さくで人懐こいイメージが嫌味でもない。
 言うことのないコイツに憧れはじめてすぐに、俺はセカンドショックを受けることになった。
 気まぐれにしたって、わざわざこの日の為に他校から来た生徒にも気さくに話し掛ける生徒会長さまは、きっと箸よりも重いものなんか持つこともなくて、文武両道の『文』を担ってるんだろうとばかり思っていたから、コートの中にユニフォームを着て立っている姿を見つけたときは驚いて声も出なかった。
 おまけにムチャクチャ強くて、結局俺たちは敗退したんだけど…それでも眩しいぐらい、なんでもできるカッコイイ生徒会長さまに、この立原に!俺は何時の間にか憧れを通り過ぎて反発心が芽生えたんだと思う。
 ムカツイたんだ。
 俺なんかと違ってなんでもできるコイツに。
 幽霊なんかに真剣に怯えてる俺なんかと違って、飄々と周囲に気配を巡らせるほどには怯えてもいない立原の、その完璧振りがムカツイたんだ!
 いや、今は抱き付いてて離れきらない俺の独り言だけど、あの頃の俺は必死に勉強して、運動に優れるように努力して、なんとかこの私立離紅堂学院の高等部に体育特待生として滑り込むことに成功した。
 立原の、あの取り澄ました仮面を引っぺがして鼻っ柱をへし折ってやる!…ってのが当初の目的だったんだけど、現実の立原は180度性格が変わっていて、あの中学の頃の爽やかな生徒会長さまはどこに行っちまったんだと問い詰めたくなったぐらいだ。
 でも、立原は入学式の朝に会った時、俺のことを忘れていた。
 訝しそうに一瞥しただけで、いつも通りのウォークマンを聴きながらサッサと講堂に姿を消してしまう。慌てて追い縋る俺に眉間に皺を寄せた立原は、ほぼ完璧に、綺麗さっぱりと俺のことなんか忘れていた。
 未だに『そんなこともあったっけ?』と言う始末だ。
 双子の兄貴か弟だったんじゃないかと疑いもしたが、中等部の泣く子も黙る立原は結局ソイツ1人しかいなくて、俺は俄かに夢から覚めたような気分になったもんだ。
 で、寮では常に溜め息を吐いていたんだけど…まさか、こんなエイリアン野郎だなんて思ってもいなかったから、俺の理想と反発心は対象物をなくして空回りばっかりだ。こんなことなら、こんなワケの判らん登山大会で肝試し!のあるような学校に来るんじゃなかったって後悔してる。見渡せば野郎、野郎ばっかり。校内恋愛も恙無く行われていて…キモすぎるんだよッ!離紅堂!!!

「柏木。大丈夫。ホラ、ビニールの敷物だ」

 嫌なことを忘れるために過去の記憶を引き出しながら必死でしがみ付く俺の耳元で、立原のやけに冷静な声が響いている。
 俺はガムシャラに首を左右に振ってそれを断ると、さらにしがみ付きながら喚きたてたんだ。

「違う!フワッて、白い着物で…お前!俺のこと騙してるんだ!畜生…笑ってんだろッ!?」

 支離滅裂で喚く俺に呆れたのか、立原は小さく吐息して俺の背中に腕を回してきた。
 みっともないぐらいガタガタ震えていて、羞恥心も感じないぐらい、いや、全ての感情がショートしちまったみたいに何も考えられない俺を抱きかかえるようにして、立原は少しだけ身じろいだ。

「ホラ。大丈夫だから」

 短く言って何かゴワゴワした、ビニールの感触をした何かを俺に見せようとする立原に、俺は聞き分けのない子供みたいに首を振ってそれを拒んだ。もう半泣き状態ってヤツだ。
 後で思い出せば恥ずかしくて顔を覆いたくもなるけど、今の俺にはそれが精一杯で、立原のしようとしていることなんか気に留める余裕なんかこれっぽっちもないんだ。
 立原はきっと困ってるんだろうに、暫く俺を抱きしめるようにして頬を髪に押し当てるようにしていたけど、依然として落ち着かない俺に焦れたようにゴソゴソと何かをし始めたんだ。

「?」

 訝しく思いながら恐る恐る顔を上げようとした途端だった!
 唐突に押し倒されるようにして俺は何かゴワゴワしたものの上に寝かされたんだ。

「立原…!」

 ギョッとしていると、立原のいつにも増して抑揚のない、その無頓着な表情が薄明かりの中で俺を見下ろしてくる。

「…立原?」

 これはどう言う状況なんだろう?
 俺は問い質すような目付きで立原を見上げながら、でも、シッカリとヤツの首には噛り付いている。
 ヤッベんだって、マジで今!なんかヘンなもんがフワッて飛んでたんだぞ!?女だ!きっと幽霊なんだ!!!
 半泣きで見上げる俺を、それまで抑揚もなく見下ろしていた立原は、やっぱりいつものように鼻先で笑って首を左右に振ったんだ。

「このまま寝てなよ。気分を落ち着けたら大丈夫。幽霊はいないって判るから…」

 立原の狼の肩越しに、木々の枝を透かして雲から少し顔を覗かせた月が見える。
 今日は満月が近いのか、月は不気味なほど赤味を帯びていて、ああ…ヤなもん見なきゃ良かったってほどの相乗効果で俺を震いあがらせたんだ。

「立原!やっぱ、こえぇぇッ!!」

 横になったままでギュッとしがみ付くと、少し浮いた背中に腕を差し込んで抱き締めてくる立原に、俺は遠慮もなく両腕に力を込めたんだ。
 …たぶん、それがいけなかったんだと思う。
 気付いたのが少し遅かったし、それだってもう、後の祭なんだけど。
 気付いたら俺は、立原にキスをされていた。

□ ■ □ ■ □

 幽霊騒ぎで興奮していたし、縋れるものにはなんだって縋り付きたい気分だった俺は、それが最初、どう言う行為なのか良く判らなかったんだ。
 少しカサついた唇がやけにリアルな感触で、いつも眠そうな表情でボーッとしている立原が、ホントに盛りのついた今時の高校生なんだって思い知るには十分な効果だったはずなのに、俺はバカみたいにポカンッとして立原の顔を見上げていた。
 唇を離して、ほんの少し、苦笑するように笑う綺麗な顔。
 月明かりを背にして、狼の被り物ってのが笑えるけど、立原のそんな表情は初めて見るし、未だ理解できていない俺がどんな顔をしてるのかなんてこた判らねぇ。
 とんだ間抜け面だってことは確かだろうけど…

「もうずっと、こうしたかったって言ったら信じる?」

 立原の、ヤツらしい少し低めの声。

「…えっと」

 なんて答えたらいいのか判らない俺の、間抜けな返事。
 バカみたいに見つめあって、嘘だって笑えよ。
 バーカ、柏木。騙されちゃって…っていつもの皮肉げな、あの抑揚のない笑い方でバカにしろってば。じゃないと、じゃないと俺は…
 どんな顔していいか判んねぇだろーが!
 幽霊がいるかもしれないこんな山奥で、何をしてるんだよ立原ぁ~

「…落ち着いた?」

 クスッと立原が笑って、俺は呆気に取られたようにポカンッとヤツを見上げた。
 …つーことは、やっぱ冗談だったのか。なんだ、そうか。

「…お、落ち着くわけねぇだろ!!何をするんだッ、何を!」

「怖いよ~って泣きじゃくる柏木が悪い。可愛くって思わず抱きしめたくなる」

 …可愛い?くぅおの野郎!

「幽霊が怖くて悪いかよ!?人間、誰だって弱点ぐらいあるさッ」

「うん。俺の弱点は柏木」

 …コイツ、きっとバカだ。いや、俺を苛つかせるためだけにこんな趣味の悪い冗談を言ってるに違いないんだ!クソッ!
 思い切り睨みながら、でも、そんな立原にしがみ付いて鼻先だって引っ付きそうなほど近くにいるってのも間抜けだけど、これじゃ凄んでるのか誘ってのかいまいち判らねーな。
 ん?誘う…?
 誘うってなんだよ!?
 嫌な響きだぜ、俺も大バカ野郎だ。

「柏木…我慢しようって思ったんだ。怖がりな俺の姫君は、いつだって大事に守って幸せにしてやりたい」

「…立原、何を言ってんだ?」

 姫君…ってのはなんだよ?俺は男だし、守ってもらわなくたっていいに決まってんだろ?
 …いや、今は守ってもらってるけどな。思いっきり!
 だからってそれに甘んじるのもどうかと思うぞ。いや、こんなことを言ってる場合じゃないのでは…

「でも、ダメだ」

 立原は唇を噛み締めると、眉を寄せて何かを必死で我慢しているような表情で俺を見下ろしていた。けど、ヤツは鼻先すらも掠めるほど近くにいる俺を間近で見下ろすと、今度こそ確かな意思を持ってもう一度キスしてきたんだ。
 呆気に取られて動揺して、抵抗すらしない…と言うかできない俺を見下ろしながら、立原はあの低い声で囁くように呟いた。

「もう、ダメなんだ…」

 耳元にポツリと落ちた立原の声は、何だかザワザワと胸元を騒がせて、俺を奇妙な気分にさせたんだ。