その様子を訝しそうに眉を寄せて見ていた暴君皇子立原は、浴衣の裾から覗く、思ったよりも細い足を目にした途端、フイッとその視線を逸らしてしまう。
我慢我慢我慢我慢我慢…
何かの呪詛か祝詞のように繰り返される言葉に支配される脳内は、もはや肝試しとか、与えられた任務だとかはどうでもよくなっていて、ただひたすら目の前に転がる美味そうな獲物以外は何も考えられないでいた。
柏木光太郎と出会って数ヶ月、立原俊介は欲しいモノはなんでも手に入れた。
好きなヤツがいるからと、涙を流して嫌がったヤツでも平気で手に入れた男であるはずの自分が、どうしてこう…巷では『硝子宮殿の姫君』と呼ばれる、どこにでもいる柏木だけに手が出せないでいるんだろう…
「硝子宮殿か…」
まるで儚く脆いガラスのように、大切にされた姫君。
全くもって、柏木にピッタリの表現だと噂を流した張本人は満足したように笑う。
「は?」
間抜けな口調で自分を見上げる柏木の、良く晴れた夜空色の双眸に、間抜けな姿をした自分が映る。狼の耳をピンッと立てて、そのくせ、心許ない双眸は不安に揺れてバカみたいだと立原は思った。
そうすると、不思議そうな表情をする柏木がずっと愛しく思えて、口許は知らずに綻んでしまう。
「なんでもない」
「おかしなヤツだな、立原って。お前、ホント。エイリアンみたいな奴だよな」
くすくすと笑った柏木がそう言った次の瞬間、昼間見たら自然ライフを満喫できそうな登山道が左右の木々の間にあるその道を、今夜最初のお客さんが訪れた。
「呉内ちゃん~vここって何が出るんだろうねぇ?楽しみだねぇ」
ひっひっひ…と不気味に笑いながらそう言った、その猫のように長身の男に擦り寄る生徒は…
「斉木と呉内か。呉内もご愁傷さま。あんな得体の知れないヤツに取り憑かれて」
心底嫌そうに眉を寄せる立原に、柏木はそうかと頷いた。
この学校にはエイリアン立原と並ぶぐらい不気味なヤツがいるのだ。斉木と呼ばれるその生徒は、何を考えているのか全くと言っていいほど良く判らず、いつも一緒にいる無口な呉内に疎ましがられていたりする。
以前1度、「立原は熱い男だよぉ~」とワケの判らないコトを言って、ひっひっひ…と笑いながら去って行かれた柏木としては、できるだけ関わり合いになりたくないと近付かないようにしていた。
「立原ぁ~、俺、アイツ苦手なんだよな…」
「同感。この際、無視しよう?」
傍らに擦り寄ってきた柏木と腕を組んで頷く立原の2人は、できる限り息を殺して連中が通りすぎるのを待った。
「何も出ないねぇ。面白くないねぇ。このまま山の中を冒険するってのも悪かねぇな。どうするよ?呉内ちゃん」
「断る…と言うよりもむしろ、勘弁してくれ」
「ええ~?残念だな~」
ブツブツと悪態を吐きながら遠ざかる気配にホッと胸を撫で下ろした柏木は、ふと、すぐ間近にある立原の腕を見てドキッとした。
思ったよりも男らしい腕は、手袋と長袖仕様の着グルミのその袖を肘まで捲り上げていて、無造作に投げ出されている。と言うか、2人の気配を追う立原が、その辺を注意していないので無造作に肩に触れたりするのだ。
(…なんで俺、ドキドキしてるんだ?なんだ、なんだろう?ヘンだ…)
こんなのはおかしいと判っているのに、柏木は1度確認してしまった胸の高鳴りに動揺して、思わず俯いてしまう。
「柏木?気分でも悪くなった?」
不意に、少し低い声がすぐ傍で聞えて、柏木はドギマギと顔を上げて立原を見た。
「?」
彼は訝しそうに眉を寄せているが、柏木の変化には気付いていないようだ。こう言うところは愚鈍な姫君をとやかく言えない暴君魔王だった。
「…立原、俺、ヘンなんだ」
「…?」
首を傾げる立原に、柏木はなぜか息苦しくなる胸元を両手で押さえて、縋るような眼差しで少し上にある狼小僧の双眸を見上げて呟くように、掠れる声で囁くようにそう言った。
「なんだろう?」
「…さあ?突然聞かれても…頭、痛いとか?」
「違う…なんて言ったらいいんだ?ええっと…」
胸がドキドキして…立原の横にいると、意味もなく顔が火照って頭がボウッとするんだ、と言いかけて、柏木は慌てて開きかけた口を両手で塞いだ。何を言ってるんだと、おかしなことを口走りそうになった自分に喝を入れるつもりで頭を殴った。
立原の頭を、グーで。
「…ホント、柏木はヘン」
半泣きで頭を擦りながら迷惑そうな顔をする立原に、柏木は顔を真っ赤にして握った拳をそのままでぎこちなく声を上げて笑った。
「ハッ…ははは!いやぁ、夏の夜は熱くていかん!たまには運動してスッキリしないとなっ!」
人を殴ることが運動?…と疑わしそうに眉を寄せる立原からギクシャクと目線を逸らす柏木は、傍らの雑草が生い茂る地面を見下ろしながら深呼吸した。
(落ち着け!落ち着くんだ、俺!)
はあはあと肩で息をしながら両拳を握って気合を入れる柏木を、立原は頭を擦りながら訝しそうに眺めている。
「柏木。次が来るけど、無視する?」
「へ…?あ、いや!脅そう、こうなったら徹底的に脅しまくろう!!」
「…まあ、ホドホドに」
俄然ヤル気を出す姿に何やら恐ろしいものを感じた立原の声音にはしかし、動揺は見て取れず、だからこそ柏木のボルテージもさらに上がったりするのだ。
(こんなの!こんなの、まるで立原に恋でもしてるみてぇじゃねーか!いかん!そんなコトはいかん!俺は!男なんかに恋愛感情を抱くヤツの気なんか知らねんだ!これは…きっと肝試しで気が動転してるだけで、明日になったらきっと落ち着く。絶対だ!)
まるで何かに願うように何度も呟いて、柏木はチラッと立原を盗み見た。盗み見て、溜め息を吐く。
(…たぶん。きっと)
□ ■ □ ■ □
次の連中の声に耳を欹てていた立原はそんな小動物のようにビクビクしている柏木に気付いて、思わず口許が緩みそうになって慌てた。笑ったな!…と言って、それでなくても可愛い柏木がもっと可愛らしくなってしまう。
(よほど怖いんだろう。これじゃ、手は出せないな)
愛しいから大事にしたいと思って、でもその我慢も限界で、今日こそは!…と決心していた立原の想いはグラリと揺らいで、やはり最愛の姫君を前にしては『守りたい』と思う気持ちの方が優先に動いてしまう。
「柏木、大丈夫?顔色悪い」
「へあ!?だ、大丈夫だって、畜生!幽霊の1匹や2匹、それがなんだって言うんだ!?」
あからさまに動揺して意味不明のコトを叫ぶ柏木に、ニッコリ笑ったままでクエスチョンを浮かべて首を傾げる立原の内心は複雑だった。
「…幽霊は1匹って数えないけど」
ヘンなところで訂正してしまう。
やはり動揺は伝染するのか、立原も次第に支離滅裂になっているようだ。
「なんだっていいんだよ!こんなバカげたことはさっさと終わらせようぜッ」
薄闇に浮かぶ柏木の顔を見ることができたのなら、立原はそれほど焦ったりはしなかっただろうし、いや、もしかしたら別の意味では焦ったかもしれないが、後にあんな結果を生みもしなかっただろう。
ただ、『こんなバカげたコト』だと言って切り捨てたその態度が、まるで自分すらも拒絶されたように勘違いした立原は、焦って柏木の腕を掴んだ。その瞬間、怯えたようにビクッとした柏木が焦りから手を振り払おうとして、なぜか事態は悪い方向へと進もうとしている。
「柏木…?」
「た、立原…」
腕を掴んだままで首を傾げる立原と、その細く射し込む月明かりを背にした立原を見上げる柏木の睨み合い…改め、見詰め合った瞬間、彼らの潜むその草陰がガサリッと揺れて、何かが二人に近付いた。
ビクッとした柏木が反対に立原に抱き付き、不穏な空気を掻き乱した闖入者はムッととした表情で草叢から顔を覗かせた。
「ちゃんとユーレー役と狼男役をしてよね!クレームが入ってるんですけど!」
宮本を従えた琴野原に胡乱な目付きで睨まれながら手にした懐中電灯で照らされると、抱き付いている自分にハッと気付いた柏木が慌てて立原から離れ、それを見ていた宮本がニヤニヤと笑っている。琴野原よりも近しい位置にいる宮本にとってその現場は美味しい場面で、双眸を細めて立原に『邪魔だった?』と聞いている。
何が何やらワケの判らない展開に憮然としている立原は、そんな宮本を鼻にシワを寄せて威嚇するように睨んだ。『琴野原を連れてさっさと戻ってろ』…とその双眸が訴えていることに気付いた宮本は、肩を竦めて呆れた表情をする。何の進展もなし、とその場の雰囲気で読んだ情報屋は、まだ何か言いたそうにしている琴野原の腕を掴んで「お邪魔しましたぁ~」と陽気に言って立ち去った。
「…」
「……」
まるで何事もなかったかのような闇が戻ってきて、柏木と立原はまたしても奇妙な沈黙に陥ってしまう。
(なんだってんだよ!俺ッ。これじゃあ、まるで立原を怖がってるみたいじゃないかぁ!!)
内心でならなんとでも叫べる柏木も、いざ口にしようとすると咽喉元で言葉が詰まってしまう。
(俺の…気持ちに気付いて怯えてるのか?まさか…)
訝しそうに眉を寄せた立原は、完璧だったはずの仮面の綻びが信じられなくて違った意味で唇を噛んだ。
まんじりともしないで肩を寄せ合うようにして狭い空間に座る二人は、まるで意識したように同時に口を開いてしまう。
「あのさ!」
「柏木…」
顔を見合わせて慌てたようにお互いで俯くと、これはまるで、告白しようとしているようじゃないかと柏木は照れを通り越した動揺に思わず顔を赤らめてしまう。
「柏木…何?」
「立原こそ!な、なんだよ…」
モジモジと照れる柏木に気付かない立原は、木々の隙間から覗く月を見上げて溜め息を吐いた。
怯えさせたくないと、ずっと大切にしていたつもりだったのに…つもりはあくまでつもりで、本当はこんなに怯えさせてしまっていたのか。
それならいっそ、もう何もかもかなぐり捨てて奪ってしまおうか、とも思うのだが、それができないほど柏木に心酔している自分に気付いて今更ながら瞠目してしまう。
「お、俺…あの、立原…ッ!」
何か言おうとして、途端に柏木の目が大きく見開かれる。
次の瞬間。
「ぎ、ぎぃやぁあああああ!!!で、出たーーーッ!!!」
柏木の声は天をも揺るがすほど凄まじく、傍らにいた立原でさえも思わず飛び上がりそうになるほどだった。悲鳴と言うよりもそれは、絶叫に近かったはずだ。
山に木霊するその声は、暫く響き渡ったと言う。