フロントのお姉ちゃんは出て行った時の倍の形相でデブの耳を引っ張りながら戻ってきた俺に、なんて声を掛けたらいいんだろうと、困惑した面持ちで頬を引き攣らせていた。
…取り敢えず、この旅館にはもう来れないかも。
くそ!そう考えたら余計に腹立たしくなって、俺は癇癪を起こしながらグイッと洋太の耳を思いきり引っ張ってやった。
「い、いたたたた…痛いよ、光ちゃん。勘弁してよ~」
「泣き言を言ってんじゃねぇ!俺さまの心はお前の耳の2倍痛いんだッ。覚悟しろよ、洋太!」
「そ、そんな…」
こんな時ばかりは恐れをなした佐渡も、素直に小林の後について部屋に戻って大人しくしているんだろう、鍵を開けて洋太の耳を引っ張りながら入った部屋の中央に敷かれている布団の上に連中がいなかったからそう思った。
ここにヤツらがいたら俺はもっと暴れているに違いない。
ムカムカして仕方がないからな!
突き飛ばすようにして洋太を布団の上に投げ出すと、俺の突然の奇行に目を白黒させているこのデブ野郎に、俺は橋の上でした時と同じように馬乗りになって浴衣の首を締め上げるようにして両手で引っ掴んでその顔を覗き込んでやった。
「なあ、洋太くん。俺が普通の暮らしをしたらどうなると思う?俺はヤンゾなんだぜ?そりゃあ、ムシャクシャして手当たり次第に喧嘩をおっぱじめるだろうな。んでもって、家裁か少年院送りだろうよ。それでも怒りはおさまらないからそこでも喧嘩して、あら、いつの間にか刑務所に行っちまってたよ!…ってことにもなり兼ねねーんだぞ?いいのかよ、それで」
それがお前の言う、『普通の暮らし』ってヤツなのかよ?
「だ、ダメだよ!そんなこと、絶対にダメだ。許さない…」
洋太は俺になすがままにされながら、それでも大きな掌で片方の頬を包み込んでくれた。
「俺、もうずっと言ってるだろ。洋太がいないとダメなんだ。洋太がいないと、俺はあの頃のまま、荒んだ俺でしかないんだ。普通の暮らしなんて真っ平だ!洋太がいればそれでいい。なぁ、それだけじゃダメなのかな?」
しおらしく洋太の大きな掌に頬を押し当てながら手の甲に触れると、勘違い野郎のデブはなんとも情けない面をして俺を見上げてきやがるから…う、なんとも煽情的なんですけども。
俺は洋太のこの顔に弱い。
こんな風に捨てられた犬みたいな顔をされちまうと、思わず抱き締めてキスをしたくなってしまう。いかん!今は怒ってるんだ、これで挫けたら元の木阿弥になっちまう!!
必死で我慢して、眉間にシワを寄せながら洋太の大きなふくふくしてる顔を上から覗き込んでいたら、ヤツは唐突に顔を真っ赤にしてギクシャクと目線を逸らしやがった。
「俺を見ろよ、洋太!俺を見て、質問にちゃんと答えろよ!」
逃げるなんて卑怯だぞ!
「こ、光ちゃん、その…えっと…」
「ああ?」
胡乱な目付きで見下ろしたとほぼ同時に、唐突に洋太の腕が伸びて、あっと言う間に身体を入れ替えられてしまった…と言うことは、この状況は…もしかして、俺ってば初めて洋太に襲われてるのか!?マジで!?うっわ、すっげ嬉しいかも!!…って!そんなこと言ってる場合じゃねぇ!急にどうしたってんだよ?
「よ、洋太?」
「僕は…そんなつもりで光ちゃんに普通の暮らしって言ったワケじゃないんだよ。あと1年もしたら僕たちは卒業するんだ。今はこのままでも楽しいし、何も考えなくてもいいのかもしれない。でも、社会人になって、光ちゃんがもっと広い世界を見るようになった時、きっと僕のことで君は迷ってしまう」
両手首を布団に押さえつけるようにして組み臥したまま、洋太はそんなことを、いつになくシリアスな表情で言いやがるから…俺はどんな顔をしたらいいのか判らなくなってしまった。
「足枷なんてコトは言えないけど…僕の存在で光ちゃんが苦しむのは嫌なんだ。それならいっそ、もっと冷たくして、光ちゃんが自分から離れて行ってくれるのを待っていた。僕は卑怯者だから、どうしても光ちゃんからじゃないといけなかったんだ」
「洋太…俺だって嫌だよ。洋太から離れるのなんて嫌だ!洋太、くそ!どうして…?」
そんなの、ホントに卑怯じゃねぇか!俺からなんて…できるはずないだろ!こんなに好きなのに、空回りばかりしてるかもしれないけど、俺はこんなに洋太が好きなのに。
「どうして?決まってるじゃない。僕が光ちゃんを手放せるはずないからだよ。こんなに愛してるのに、今すぐメチャクチャにしたいほど愛してるのに…」
「洋太ぁ…」
思わずふにゃ…っと泣きたくなった。
最近、本当に弱くなっちまった涙腺を必死で宥めすかして、俺は泣かないようにしながら頭を持ち上げてすぐ目の前にある洋太の鼻に鼻先を摺り寄せてやった。
「お前ってばホント、バッカなヤツだ!なんで離れることしか考えねーんだよ?いつか、いつか洋太が言うように俺に好きなヤツができたとしたら、それはもう、洋太以外にはいないんだよ。俺は、お前の方が他に美人なお姉ちゃんを好きになるんじゃないかってハラハラしてんだぞ?」
「まさか」
クスクスと、泣き笑いのような顔をして洋太が笑う。
「俺…バカだし。取り柄と言ったら喧嘩ぐらいだしな。嫌われる確立は俺の方が上だってコト、もっと把握しててくれよ!お前、頭いいんだから」
「僕はバカだよ。光ちゃんがこんなに僕のコトを好きだって言ってるのに、独りで勝手に不安がって…バカなんだよ」
「ああ!お前は大バカ野郎だ!」
そう言って、俺は思わず笑ってしまった。
笑ってたら、不意に口元が温かくなって、思ったよりもカサついた唇がキスしてきた。
「光ちゃんの唇は柔らかいね」
「あ?そうか?…なんでだろうな」
首を傾げると、洋太はクスッと笑って、それから持ち上げていた頭を布団に押し付けるようにして深くキスしてきたんだ。断る理由もないしな、俺は有り難くそのキスを受け入れた。洋太からのキスなんて珍しいし、嬉しいし。
洋太の肉厚の舌に口腔内を思うさま蹂躙されるのは気持ちいいし嬉しい、しかもそれに、浴衣の裾を捲り上げる仕種が付属されるとなると、飛び上がらんばかりに大喜びなんだけど…どうして、この手を離してくれないんだ?さっきまでは両手で掴まれていたけど、もともと洋太の手は大きいから、俺の手首なんか簡単に片手で持つことはできるだろうよ。
「…ッは!…うた!洋太ってば!ど、どうしたんだよ?」
やけに性急な仕種に、ドキドキしながら不安でもある。
「だ、だって…」
顔を真っ赤にしながらもごもごと口の中で呟くもんだから、聞き取れなくて苛々しながら濡れた唇を舐めていると、洋太はモジモジしながら下半身を摺り寄せてきた。
「光ちゃん…その、さっきからずっと…だし。僕も…」
硬く隆起したものが腿の辺りに触れて、俺は期待しながらドキドキしてお互いバカみたいに顔を真っ赤にしてモジモジした。いつもなら喜び勇んで抱き付くところだけど、こんな風に両手を押さえ込まれて自由を奪われていると、途端に不安になってしまうんだ。
でも、相手は洋太で、洋太以外の誰でもなくて…だったら、いいじゃねぇか。
「犯ろう、洋太。どうせ、あんなに楽しみにしていた旅行も今夜で終りだし。旅行最後の夜に、初夜ってのも悪くねぇと思うけど?」
俺を、洋太のお嫁さんにしてくれよ。
俺の夢だったんだ。
ダメかなぁ、洋太…
「光ちゃん、僕のお嫁さんになってくれるの?」
頬にたぷたぷの頬を摺り寄せながら洋太が嬉しそうに言うから、俺も嬉しくて嬉しくて…つい、意地悪になっちまうんだよな。バッカなヤツだな、俺も。
「洋太がプロポーズしてくれるなら、なってやってもいい」
偉そうに言ったら、洋太はこんな格好の時で悪いんだけど、と呟いて、それから照れ臭そうに笑いながら俺の目をシッカリと見つめて、ドギマギする俺に囁くように言ったんだ。
「僕とずっと、一緒にいてください。卒業したら、一緒に暮らそう。もうずっと、離さないから」
テレテレで、こう、纏まった言葉じゃなかったけど、それがよりリアルで、俺は思わず泣いてしまっていた。ポロポロ、ポロポロ…気付いたら大粒の涙が目尻から頬に零れ落ちていて、それでも俺はそれに気付かなくて、嬉しさが胸を占めているから嬉しいってことしか感じられないんだ。
「うん、洋太。俺を離さないでくれ。ずっと一緒に生きていきたい」
掴んでいた手を離してくれたから、俺は躊躇わずに広い背中に両腕を回して洋太にキスをせがんだ。優しいキスはどんなに強烈で腰が砕けちまいそうなキスよりも刺激的でクラクラして、俺は泣きながら洋太のキスを受け入れていた。
刺激的な夜を期待していたのに…こんな風に、優しい夜も好きだと思った。
今夜からはどうか、いつも傍にいるこの温もりが、このままずっと続きますように…
□ ■ □ ■ □
「洋太、この野郎。俺が泳ぎが苦手だってコト、忘れてただろ?」
それでもやっぱりエッチした俺たちは、気だるい真夜中に寄り添いあって眠っていた。
「え、ええ?わ、忘れてなんかなかったけど…頭に血が昇っちゃって。光ちゃんも悪い!僕以外の人に抱きつくなんて!」
「俺のせいかよ?だったら、これからはお前がずっと傍にいろよ!そうしたら、俺はお前以外のヤツなんかに抱き付いたりしない」
フフンッと鼻を鳴らして偉そうに言うと、洋太はちょっと笑ってから、俺の裸の身体を抱き締めてきた。欲望の名残を残した熱い身体は、洋太に抱き締められただけでゾクゾクしちまう。今夜はいつもりもずっと感じやすくなってるから…もう、勘弁してくれよ。
「光ちゃん、大好きだよ」
「へ?お、おお!俺も大好きだ!」
ヘヘヘッと笑って洋太に抱き付き返しながら、大きな身体に頬を摺り寄せて宣言してやった。
「洋太は父ちゃんの仕事を継ぐんだろ?だったら卒業したら大学生だな」
「え、う、うん。突然、どうしちゃったんだい?でも、光ちゃんはどうするの?」
唐突に話しを振った俺に戸惑いながらも、洋太は優しい目付きをして覗き込んでくるから、闇に馴染んだ目でふくよかな顔を見つめ返しながら大らかに笑ってやる。
「俺はバカだから大学なんか行かないって。だったら、暫くは俺が洋太を食わせてやらなきゃな!任せろ、体力には自信がある」
胸を張ると、洋太は困惑したように首を左右に振った。
「ダメだよ、そんなの。僕はバイトもするし…」
「いーんだ、俺、誘われてる仕事もあるし。卒業したらそこに就職するコトに決めてんだよ。お前は黙って俺について来い!」
洋太の大きな身体に覆い被さるように乗っかって、大きな顔を覗き込みながらニヤッと笑ってやると、なんとも情けない表情をする俺の愛すべきデブ野郎は俺の腰を片手で抱き締めながら溜め息をついた。
「…僕はずっと光ちゃんについて行くよ」
おお!ホントか!?
だったらすっげー嬉しい。
ついて来いよ。
ずっとずっと、ついて来い。
俺はしつこいから、地獄の底まで追っかけて行くって言ってただろ?それが嫌なら、今度はお前がついて来ればいいんだ。
…なんてな、今度はずっと一緒に歩いて行けばいい。
肩並べて、どこまでもずっと。
未来設計も充実してるし、日本の未来は暗雲垂れ込めるほどお先真っ暗だけど、俺たちの未来はハッピーだな!
なあ、洋太。
「光ちゃん、僕はしつこいからずっと一緒にいるけど。もう、逃がさないからね」
逃げられないから…と呟くように耳元に囁かれて、俺はその声をうっとりと天上の鐘の響きのように聞いていた。
今のところ、人生は上々。
これから先だってきっと上々。
何かあったってそれは上々になるための試練だって思えば辛くないよな。
おお、俺ってばすっげー前向き思考だぜ!
なあ、洋太。
ずっと一緒に生きていこう。
─END─