Level.8  -冷血野郎にご用心-

 ひんやりとした何かが額に触れて、俺はぼんやりと覚醒した。
 どこかで見たことのあるような、でも全く知らない天井と、虚ろな目が映し出すのは見知らぬ部屋だった。
 やや大きめの、シルクの肌触りをした…ああ、きっとシルクなんだろう。黒いシーツに包まれて、俺は痛むこめかみを押さえながら悪態をついた。
 ここは…どこだ?
 ぼんやりと彷徨っていた両目が唐突に誰かの顔を映し出し、その上で視線が止まる。
 霞んでいた脳裏に幾つかの記憶が鮮明に浮かんできて、俺は唐突にハッと完全に目を覚ました。
 そうだ!
 甲斐と一緒にヤツのマンションに来たんだった!
 そこで、匠につけられたキスマークで問い質されて…別れるって言われそうになって、俺焦って。
 焦って…?
 そっか、気を失ったんだ。
 ああ、あれは夢じゃなかったんだ…

「気が付いた?」

 不意に頭上から声が降ってきて、俺は弾かれたようにその声の主を見上げた。
 綺麗な、ハンサムな双眸が見下ろしている。
 ベッドサイドに腰掛けて、いったい、何時からそんな風に俺を覗き込んでいたんだ?
 お気に入りの玩具を捨てようかどうしようか、悩んでる子供の目だ。
 壊れてるから…でも、捨てがたいんだよね。
 そんな感じで。

「俺…」

 声が咽喉に絡んで、ひっくり返るような、なんとも奇妙な発音になっちまった。
 一つ咳払いをして搾り出そうとする言葉を、甲斐はひんやりと冷たい指先で俺の唇をなぞってそれを止めるんだ。言いたいのに…こんなに、言いたいのに。

「喋らないで。まだ身体も辛いだろう?酷くしちゃったから…でもまさか」

 そこまで言って、甲斐のヤツは抑揚のない声で笑う。
 やけに乾いた苦笑は、部屋の張り詰めた空気を微かに震わせた。

「こんなことぐらいでダウンしちゃうなんてね。君は思ったほどタフじゃなかったんだ」

「甲斐…ッ!」

「しー」

 嫌だ!嫌なんだ!
 そんな、いつもより冷たい顔をするなよ!
 いつものように馬鹿にしてもいい、蔑んだっていい。
 でも、お願いだから、そんな感情のない顔をしないでくれ!…俺を、嫌わないでくれ。
 俺を黙らせた甲斐は鼻先が触れ合うぐらい深く覗き込んできて、暫く、なんとも言えない表情を浮かべてマジマジと俺を見つめていた。
 ドキドキと、もしかしたら外に聞こえるんじゃないかと思うほど心臓が高鳴って、ドクドクと血流が耳元で破裂しそうなほど早く流れている音が聞こえる。甲斐に見つめられて、口許にその息を感じるだけで、俺はいつだってこんな風に処女の女の子みたいに胸をときめかせるんだ。
 甲斐の覗き込んでくる目をまともに見つめ返すこともできなくて、俺はギュッと両目を閉じた。
 顔なんか茹でて真っ赤になったタコみたいに上気してるに違いねぇ。
 キスしたい…
 嘘だって、今までのことは全部悪い夢だったんだって言って、甲斐は乱暴でもいい、キスをしてくれないだろうか?
 俺は淡い期待を胸元に抱えて、震える瞼を押し上げて甲斐の目を見つめ返した。
 真っ赤になって、馬鹿みたいに動揺しながら、俺は甲斐がくれるかもしれないキスに胸をときめかすんだ。
 甲斐は少しハッとしたように目を瞠ったけど、感情を見せたのはそれぐらいで、まるでついでのように口付けてきた。
 驚いたことに、キスしてくれたんだ。
 口唇を合わせて、舌と舌がぶつかり合って、まるで喧嘩でもするように絡めて吸って深く突き入れて…舌に犯されてる気がして苦しく喘ぎそうになるけど、甲斐は許してくれない。
 それでもいい。
 キスしてるんだ。
 俺の目尻から涙が零れた。
 生理的なものか、それとももっと違った、複雑な感情が流れさせたのか…

「…ぅ…ふ…」

 長く貪るような口付けを唐突に切り上げて、甲斐は自分の唾液で濡れた唇をペロリと舐めながらクスッと鼻先で笑った。喘ぐ俺を見下ろして、ゾッとするほど妖艶で綺麗だ。

「このまま突っ込んじゃおっかな?傷口もそんなに癒えてないから、きっとまた新しい血が出るよ。今度こそ、本当に医者の世話になるかもね。…それでも、俺としたいんだろ?光太郎」

 唆すように、上体を倒して耳元に囁いてくる甲斐は、滅多に名前で呼んでくれないくせにその時はそう言って、俺の首筋に口付けてきた。
 痕を残すように強く吸われて、ビクッと身体が跳ねる。
 声だって出る。
 全てに感じる…

「したい…したいよ、甲斐。俺を抱いてくれよ」

 縋りつくように腕を伸ばしても、甲斐はそれを振り払わなかった。それどころか、背中に腕を入れて抱き起こして、そして抱きしめてくれたんだ!
 嬉しかった!すごく嬉しくて…涙が出た。
 これが、本当はこっちの方が夢なんじゃないかって思うと、俺はいてもたってもいられずに甲斐の背中に伸ばした腕でギュッとヤツを抱き締めた。消えないでくれ!
 幻なら、もっと長く…

「苦しいよ、光太郎。やっぱり、突っ込むのはやめるよ。いろいろと面倒臭そうだし…」

 そう言って少し身体を離す甲斐にもっと縋り付こうと伸ばす手を取られて、俺は不安そうに少し上にある双眸を見上げるとヤツの次の言葉を待った。

「だから、ね?口でして」

「え?」

「できない?まださせたことなかったからな…欲情したんだよ、誘うような目をするから」

 俺は少し目を瞠って逡巡したけど、すぐに腕を放して甲斐の股間に手を伸ばした。

「してくれるの?…ホント、聞き分けの良い玩具だよね」

 馬鹿にしたように鼻で笑われて、俺はホッとした。
 いつもの甲斐に戻ってる。
 あれは、きっと聞き分けのない俺に苛ついて脅しただけなんだ。
 それなら、俺はできるだけ甲斐の言うことを聞こうと思う。
 甲斐のモノなんだ。舐めるのなんか全然平気だって!
 ジッパーを下ろして、センスの良いトランクスからその姿を現した灼熱の杭は、既に確かな形を作って隆起してる。
 熱気を孕んで、ムッと男の匂いがした。
 俺は目を閉じると、美味い菓子を貪るようにヤツの股間に顔を埋めたんだ。

□ ■ □ ■ □

「…くっ…上手だね。どこで覚えたの?」

 労わるように、灼熱を頬張った俺の頬を撫でながら、甲斐は小さく笑った。

「キスマークの相手?」

「…んぅ…!」

 グイッと唐突に咽喉を突かれて吐きそうになったけど、俺は必死で舌を動かしながらそれに堪えた。
 生理的な涙で頬を濡らしながら、甲斐のそれを舐める。
 別に経験があるわけじゃない。当たり前だ。
 甲斐が教えてくれたことを忠実に反芻することしかできない俺なんだ、上手いのは、きっと俺の身体に教え込んだ甲斐が上手いってだけだ。
 でも、キスマークの相手、匠に対して疑っている甲斐にしたら、そんなこと考えてもいないんだろう。グイグイと押し込んできて、咽喉の奥を突いてくるから、吐かないようにするので精一杯になっちまう。もっと、もっと楽しんで欲しいのに。
 柔らかく撫でていた手で俺の髪を乱暴に掴むと、まるでエッチする時にそうするように、腰を使ってもっと奥まで入れようとするから…俺は咽ながらそれに堪えるしかないんだ。

「…ん…んん……ぅ…ッ」

 それでも必死に舌を絡めていたら、突然口の中からそれを引き抜かれてしまった。
 名残惜しそうに舌が追おうとするけど、唾液に濡れたその先端から唐突に白濁が飛び出して、予想し忘れていたことにハッとした時にはもう顔にぶちまけられていた。
 粘るそれが頬や鼻や顎や、いたるところに飛び散って、とろり…っと垂れる熱い飛沫に思わず声が漏れてしまう。
 突然、甲斐がクスッと笑った。

「綺麗だよ。頬が上気して…僕の精液と綺麗なコントラストができてる。まるで芸術品だよね」

 肩で息をする甲斐は、イッたばかりでまだヒクついて震えている灼熱を俺の口許に擦りつけながら、そんなことを抜かしやがった。…それでも、俺は幸せなんだ。
 寄せられた、まだほんの少し零しているその先端に唇を寄せ、舌先で舐めながら甲斐を見上げた。
 捨てられるんだろうか…まだ、そんな不安に揺れ動いてる俺の心。

「捨てられた玩具みたいな目をして…僕を誘うの?」

 顎に手をかけられて、上向かされる。
 灼熱をトランクスの中に収めて、欲情の名残を頬にだけ留めた甲斐が、ジッパーをわざとらしく上げながら首を左右に振った。

「でもダメだよ。早く顔を拭いなよ。ああ、それとも。弟にその顔を見せる?きっと欲情するだろうね。酷くされるのは好きだもんねぇ、結城くんは」

 弾かれたように目を見開く俺に、氷でできてるんじゃないかと思えるほど冷たい冷めた双眸で見下ろしながら、甲斐は妖艶で綺麗で、酷く危うげな微笑を嫣然と浮かべた口で言葉を続けた。

「電話をしたんだよ。迎えに来いってね。相当泡食ってたから、君に惚れぬいてるって暴露してたよ。犯ったのは、弟だったんだね」

 咽喉の奥に何か冷たいものを押し込められて、うまく嚥下できないそれに苦しげに眉を寄せながら、俺は震えながら甲斐を見上げていた。
 ば、バレた…
 潔癖症のヤツのことだ、今度こそ本当に捨てられてしまう。

「なんだ、本当だったのか。ふぅん。面白くないね」

 ハッと目を瞠ると、俺は自分が暴露したんだと唐突に気付いて舌打ちしたかった。
 馬鹿な俺は、否定すればよかったのに全身でその通りですってゲロってたんだ!
 ああ、眩暈がする。

「ち、違う。違うんだ、甲斐」

 漸く搾り出した台詞にも、面白くなさそうな表情をした甲斐は俺を突き放しながらベッドから降りてしまう。ああ!待ってくれ!そうじゃないんだ…でも俺は、いったい何を言おうとしてるんだ?
 どっちにしろ甲斐の言う通り、匠と寝たのは確かじゃねぇか!
 俺は、俺は…何してるんだ。

「弟が迎えに来るってのはホントだよ。早く、顔にこびり付いてるソレ、始末しなよ。弟に見せたいって言うのなら話は別だけど」

 冷めたように言い放って部屋から出て行く甲斐を引き止めることができなかった。
 匠が迎えに来る、用意しないと。
 甲斐が行ってしまう、引き止めないと。
 引き千切れるように矛盾した考えが脳裏を侵し、それでも行動しなければと何かに急き立てられる身体に心が追い付かなくて、俺は黒のシルクに飛び散ってもう乾いてパリパリになった白濁を呆然と見下ろしていた。
 どうしよう。
 どうしたらいいのか、もう判らない。
 ガタガタと震える俺はたぶん、信じられないモノでも見るような目をしてシーツを握り締めているだろうと思う。
 誰か。
 ああ、誰か。
 甲斐佑介、俺にどうすればいいのか教えてくれよ…