Level.9  -冷血野郎にご用心-

 匠はそれからすぐに来た。
 息せき切って、俺が倒れたんだと聞いたと言ったけど、本当は何をされたのか知ってるんだろう。俺が甲斐に抱かれてることを、匠は知っているからな。
 シーツは既に綺麗なものに取り替えられていたし、俺の顔も髪も、温かな湯で綺麗になっていた。ただ、風呂上りの上気した頬を見られたら、それがナニをした後だって言うのは嫌でも判るだろうから、これが甲斐流の嫌がらせなんだろう。
 倒れたってことは酷くされたんだと思っている、実際に酷くされたんだけど、匠は甲斐の方は見ようとせずに俺の肩を抱くようにして瀟洒なマンションを後にした。
 甲斐は無言で俺を見送ったけど、その目にはもう、何の感動も抑揚もなかった。壊れた玩具にさようならを言ってるみたいで、匠がいなかったら縋りついて泣いていたと思う。
 匠がいなかったら…きっと、俺の気持ちなんてそんなもんだったんだ。
 家族にも誰にも知られたくない、そのくせ、甲斐には全てを望んでいたような気がする。
 これは罪なんだろうか。
 甲斐の心を開かせる努力もせずに、どうして自分を見てくれないんだろうと身勝手なことを願っていた俺の、よく物事を考えもしなかったこの俺の…罪。
 まさか、こんな形であのマンションを後にするなんて思ってもみなかった。
 身体が辛い。
 甲斐の傍らで、きっと明日も目を覚ますんだと疑いもしていなかった。

「あ、兄貴!?」

 不意にしゃがみ込んで両腕の中に顔を隠してしまった俺の突拍子もない行動に、道を行く仕事帰りのおネェちゃんだとかサラリーマンのおっさんだとかがジロジロ見て、すまん。きっと匠に恥をかかせている。
 でも俺、すっげぇ辛いんだ。胸が痛くて痛くて…身体よりも辛いんだ。
 どうしたら、どうすれば…そんなことばかりが脳裏を駆け巡っていて、きっとお前のことを思いやる余裕がない。こう言うことが響いて、甲斐のことを思いやることをしなかったから、こんな結末になったのか。きっとそうかもしれない。
 俺は泣いた。
 オロオロする匠と、道を行く顔のない人たち。
 俺が認識できる全ては甲斐…お前なのに。
 思いが先走って心が追いつけない結果は、どうしていつもこんな風に、唐突な結末を呼び起こすんだろう。
 自分を偽って、でも、それ以上に相手を偽って。
 心が見えなくなって、身体ばかり求めて…そう言う関係でもいいと思っていた。
 甲斐は誰も愛さない。
 甲斐は恋をしない。
 甲斐は望まれれば誰とでも寝る。
 甲斐は。
 甲斐は…
 その中に隠されているお前の素顔を、俺は見ようとしていたっけ?
 嫌われることばかり怖がって、俺は、お前をよく見ていたか?
 お前を好きだと言いながら、冷めた双眸の奥に確かに存在するはずの情熱の欠片を、俺はいったい何度見過ごして…いや、見ないフリをしてきたんだろう。
 このままじゃいけない。
 きっと、いや絶対!
 このままでいいはずがないじゃないか!

「兄貴!」

 身体の痛みに堪えて立ち上がった俺を、匠が慌てたように腕を掴んで引き止めた。

「お願いだ、匠!行かせてくれ。このままでいいはずなんてないんだッ」

「兄貴…俺は行かせないよ。言わなかったっけ?俺は兄貴が好きだ。あんなヤツ、兄貴を無駄に傷付けてるだけじゃないか!」

 往来で言う台詞でもないが、それでも俺は腕を振り払って叫んでいた。

「それでも俺は甲斐が好きなんだ!それに…アイツを傷付けていたのは俺なんだ。そう言うことに気付いたから、もうダメなんだ」

 匠は伸ばしかけていた腕を唐突に引っ込めて、どこか痛いような顔をしながら腹立たしそうに外方向いた。

「行ってどうするんだよ?アイツは…兄貴を愛してなんかいない」

 それは、いつも俺が思っていたことで、なのにどうしてだろう?こうして他の人間の口から聞いているのに、どこか笑えてしまうのは。

「ああ、判ってるさ」

「それなのにどうして…?」

 口許が震えていて、コイツの恋心を知っているから辛くなった。
 そうなんだ、俺も匠も素直に感情を剥き出しにする術を持っている。
 でも、甲斐は…アイツは本当は驚くほど不器用なヤツだから、きっと今ごろ仕方なさそうに溜め息をついてるんだろう。
 俺は自惚れる。
 手離した玩具を後悔しながらアイツは、膝を抱えて別の玩具に慰められるんだ。でも、心に開いた穴は滅多なことで埋まるもんじゃなくて、隙間風に凍えながらぬくめてもくれない温かなベッドで眠るんだろう。
 匠は、俺たちは兄弟だ。
 どうして、この隙間を埋めるだろう?
 忘れるまで自棄になって…それで結局ちゃんと消化して新しい恋を見つけることができるんだろう。
 俺の弟なんだけど、そう考えると少し笑えた。
 俺のように一途な匠、だからきっとお前もそんな風に恋に恋してる状況から抜け出せる相手を見つけ出すことができる。
 大丈夫、俺たちの性格はきっと最愛の相手を見つけ出すさ。
 でも甲斐は、アイツはダメなんだ。
 アイツは無理して忘れようとする。
 想い出にかえる術を持っていないから。
 そうしてアイツは、忘れる為に傷付いていくんだろう。
 それを当然のような当たり前の顔をして、まるで傷付いてることに気付きもせずに、今まで通りの冷血の仮面を被って生きていく。瞳の奥に燻っている、情熱の欠片を抱き締めながら。

「匠…俺は甲斐じゃないとダメなんだ」

「でも兄貴。アイツは俺に言ったんだぜ?もう用無しだから、さっさと引き取りに来てくれ。迷惑だって」

「言うだろうな」

 クスッと笑うと、匠は訝しそうな顔をした。
 いつもの俺ならその言葉に動揺して、落ち込んで、二度と甲斐の傍には近寄らないだろう。
 アイツがそれを望むのなら、俺はきっともう二度と傍には近寄らない。
 でも違う。
 キスマーク1つで顔色を変えるアイツが俺を嫌いだって?
 なぜ、こんな簡単なことに気付かなかったのだろう。
 自分より、弟を選んだんだって、アイツは勘違いしたんじゃないだろうか。アイツに嫌われたくなくて黙っていたことが、甲斐にとっては愛してるヤツを守っていると言う風に取ったのだとしたら…?
 アイツはきっと誰も愛さないだろう。
 アイツはきっと誰とも恋をしないだろう。
 でも、請われればいつだって誰とでも寝る。
 アイツはだって、俺を愛してるし。
 アイツはだって、俺と恋をしてるんだし。
 アイツはだって…それに気付いていないから。
 誰とでも寝ることができるのは、アイツは心の中にいる誰かを捜しているんだろう。
 手探りで、かつて俺がそうしたように。
 俺は自惚れるよ、甲斐。
 きっとその相手は俺なんだ。

「兄貴…クソッ!もういいよ。行っちゃいな!その代わり、泣かされて帰ってきたらもう、どこにも行かせないんだからなッ」

 拗ねた子供が駄々をこねるように下唇を尖らせた匠に、俺は思わず抱きついていた。ああ、俺はなんていい弟を持ったんだろう。
 甲斐に出会って辛かった。
 でも、損なうことのない喜びがいつだって傍に佇んでいた。
 脳裏に閃いたあの一瞬のスパークが、俺の運命を鮮やかに変えてくれたんだ。
 甲斐に出会えてよかった。
 本当は一度だって後悔したことなんかない。
 匠のことを理解する余裕をくれたのも甲斐なんだ。
 往来で、奇異の目に晒されながらも、俺は初めて味わうこの心底の喜びを匠に伝えたかった。
 アイツの掌の上で守られていたのは…きっと俺なんだ。
 俺はきっと、もう間違えたりしない。
 仕方なさそうに俺から身体を離した匠のヤツは、呆れたような溜め息を1つ零して、俺の背中をグイッと押した。

「甲斐ってヤツは冷たいから。きっと兄貴はこれからもずっと泣くんだろう。でもそれが幸せなら、俺はもう何も言わないよ。でもな、兄貴」

 そう言った匠を肩越しに振り返る俺に、弟は困ったような心配そうな複雑な表情を浮かべたままで笑いながらウィンクするんだ

「冷血野郎にご用心!くれぐれもなッ」

 俺はそれに笑った。
 久し振りに心底から笑えた。
 もうじき季節は巡り初夏が訪れようとしている。
 俺は未だ春すら来ない、氷の城に眠る冷たい美貌の主の居城に赴くことにしたんだ。
 俺が愛する、たった1人の冷血野郎。
 きっと俺は、お前を目覚めさせる。