Prologue.旅立ち5  -遠くをめざして旅をしよう-

 風が森の奥から吹いてきて、青年は躊躇うように歩調を緩めた。

《どうしたのね?》

 前方をゆるゆると進んでいた深紅の小さな飛竜が、大きなエメラルドの瞳をキョトンッとさせて振り返ると首を傾げて問う。頭の中に直接響くような声は、精神で感じ取る類の思念波のようなものだ。

「いや。別に」

 銀の髪は吹き過ぎた風の名残を惜しむようにハラハラと額に零れ落ち、神秘的な青紫の双眸を持つ青年は複雑な表情をして前方の飛竜に頷いて見せる。と。

《別にって顔じゃないの。どうかしたのね?》

 相棒の異変に逸早く気がついた飛竜がすぐ傍まで飛んできて、訝しそうに眉間に皺を寄せると小首を傾げてみせた。
 エメラルドよりも澄んだ深い緑の瞳は、心の底の、もっと深い暗い部分まで見透かしてしまいそうだ。
 しかし、長年の付き合いからか、もうその瞳にも慣れている様子の青年はそんなことは気に留めた風もなく顎に片手を当てて首を捻るのだ。

「いや、何て言うか…何か嫌な予感がするんだ」

《嫌な予感~?ルーちゃんの嫌な予感はルビアの予感よりもよく当たるから嫌いなの》

 途端に嫌そうな表情をする深紅の飛竜ルビアに、銀髪の青年ルウィンは眉を顰めて苦笑すした。

「予感はあくまで予感だからな。必ずしも当たるとは限らないさ」

 長い旅を物語るような草臥れた漆黒の外套に身を包んだ、先端の尖った耳を有する青年が気休め程度にそう言うと、ルビアは小さな肩を竦めて不満そうに唇を突き出した。

《どんな予感なの~?気持ち悪いの?》

「いや…どんな感じだろう?」

《聞かれてもルビアには判らないのね》

 かなり当然そうに呆れて言う小さな飛竜に、ルウィンはそれもそうかと頷いて、バツが悪そうに顔を顰めた。
 もともと端整な顔立ちの彼は、そんな風に表情を崩してみても嫌悪感を感じさせることはない。取り澄ました表情よりもその態度は却って随分と親しみ易さを醸し出すが、当の本人は気付いてもいないようだ。
 奇妙な予感のようなものは、先日抜け出した城からの追手ではなさそうだと訴えている。

「こんな気分は初めてだな。強いて言えば…不安?いや、まさか!」

 自分で言って信じられないとでも言うように双眸を見開く彼は、すぐに不機嫌そうに眉を寄せてルビアを見る。

《う~ん、ルビアも初めて聞くの。ルーちゃんはあんまり、と言うか、全然弱音を吐かないからビックリしたのね》

「弱音だとかそんなものがないからな。きっとどこかおかしいんだろう」

《弱音だらけの男にもうんざりするの。でも、ルーちゃんはちょっと感情の起伏が少なすぎるのね。良く言えば飄々としてるけど、悪く言ったら丸っきりボケなの》

「何だよ、それは」

 ちょっとムッとしたように目の前を飛ぶ飛竜を捕まえると、嫌がるルビアの唯一柔らかい部分を思い切り擽った。ルビアはこれに弱い。

《やめるの!やめるの!本当のことを言っただけなのね!》

 笑い転げて涙を浮かべるルビアが腹を立ててルウィンに食って掛かると、彼はヌイグルミのようなその顔を胡乱な目付きで覗き込んでからジーッとそのまま眺めている。

《何なのね?》

 ムスッとそんなルウィンを見返すルビアに、彼はそうかと、何かを思い出したように頷いた。

「竜使いか。そうか、奴が現れるんだな」

《竜使いさまが?ホント?》

「オレの身体にも僅かだが竜騎士の血が流れているからな、何となく判るんだよ」

《ふぅん?竜使いさまは神竜のお友達だから、ルビアたち下級の飛竜族には何も感じないのね》

 感心したようにルビアが頷くと、ルウィンは何となく小さく笑って飛竜を解放した。

「おかしな話だ。遠い祖先に竜騎士がいるってだけで、あるかないか判らない血に竜使いは呼び掛け、お前みたいに純粋な竜族は無視するんだからな。変わった奴さ。変わっていると言えばファタルもそうだ。なんせこんな世界を創り出した親玉だからな」

《ファタルさまと竜使いさまは尊い方なのね。悪く言ってはダメなの》

 憮然とした面持ちで小さな腕を振り上げるルビアに、その真っ直ぐな意志の強さが、代々飛竜族の王家に伝わるものを確実に受け継いでいることを証明しているようで、ルウィンは小さく苦笑した。

《笑い事ではないのね!神竜は今も創造主ファタルさまがお遣わしになる竜使いさまのお越しをお待ちしているの。ルビアたちは竜使いさまのお姿が見られたら、それで凄く嬉しいのね。神竜の喜びは竜族の喜びなの》

(本当に、オレたちは変な組み合わせだな。オレは皇位を捨てようと必死に足掻いているのに、ルビアは皇位継承を得るために旅を続けている。世の中、うまくいかないもんだ)

 滔々と捲くし立てるルビアがふと、ポカンッと口を開けたままで自分を通り越した上の方を凝視していることに、彼は暫くして気が付いた。

「どうしたんだ?いったい何が…」

 振り返った彼も、それを見つけて目を丸くする。

《ねぇ、ルーちゃん。人間はお空に住んでるの?》

「さあ?オレの記憶が確かなら、人間は普通、空に住んではいないし、ましてや落ちては来ないだろう」

 ふわりふわりと、目に見えない両腕で守られるかのように静かに降ってくる黒い塊は、僅かに発光しながら明らかに重力を完全に無視している。
 そう思えるのは、自分の意志でゆっくりと降下しているように見えるからだ。
 まるでそれは、神が降臨するかのように。

「たまげたな。予言の竜使いさまのご降臨か」

《たまげてないで、助けに行くの!》

「助ける?なに言ってるんだ、あれが見えないのか?自分で落ちてきてるじゃないか」

 焦れったそうに小さな両手で腕を掴んでグイグイと引っ張るルビアに、ルウィンは呆れたようにゆっくりと舞い降りて来る黒い塊を指差した。

《そんなことじゃないの!各国は神竜を操れる竜使いさまを狙っているの!巨万の富とか、絶対的権力だとか、そんなことに竜使いさまを使ってはダメなの!竜使いさまは、千年の長い孤独の中で待たれていた神竜の、掛け替えのない愛しい人なのねッ》

 半ば強制的にグイグイと腕を引っ張られて、軽く走りながらルビアの言葉にルウィンは納得がいかないと言った様子で首を傾げた。

「目覚めた神竜が迎えに行くんだろ?文献で読んだぞ。何もオレたちが…」

《違うの!他種族に伝わる伝承は間違っているのね!》

 切迫したルビアの声音に、只ならぬ気配を感じたルウィンは仕方なく開けている空間まで走ることにした。

「何が何だって言うんだ、ったく…って、うわッ!…とと。いきなり断崖とはね。さて、ここからならちょうど掴まえられるかな?」

 森の開けた場所は絶壁になっていて、遥か下方には樹海が広がっている。魔物が横行する、魔の樹海だ。

「さすがに下に落ちたら最後だろうよ」

 皮肉気に鼻先で笑って軽口を叩きながら両腕を伸ばすと、黒い物体は大きくユラリッと揺れて、まるで意志を持つようにルウィンの腕の中にまっすぐと降りてきた。

「よーしよし、いい子だッ…と!?うわわわッ」

 慌てたのは両腕にかかったG。
 ふわりと、羽毛の軽さで舞い降りた人物はいきなり、それまでの重力を一気に解放したような重さで腕に圧し掛かってきたのだ。
 取り落とすどころか、自分まで落ちそうになったルウィンは慌てて両足と腕に力を込め、踏ん張るようにして小柄な身体を受け止める。そして、後方へ敢え無くダイブ。

「…っだぁ!…てて、生きてるか?」

 上半身を起こして打った後頭部を擦りながら涙目のルウィンが聞くと、心配したように覗き込んでいたルビアはホッとしたように頷いた。

《大丈夫なのね。気を失っているだけみたいなの》

 ルウィンの上に乗っている黒い塊は、まだ幼い子供のような少年だった。
 彼の母のように、魔族の血を引く者が受け継ぐとされる黒髪は全く同じような柔らかさで、驚くほどサラサラだ。
 ダークで重いイメージしかない黒髪の、意外な一面を立て続けに見てしまったルウィンは、もう黒に対するイメージが180度は変わってしまったに違いないと確信する。
 魔族の血を受け継ぐ者の少ないこの世界では、他に少数民族のカタ族しか黒髪を持っている者はいない。ルウィンのように黒髪に触れる機会が多い者も珍しいが、だからこそ、ルウィンの経験は貴重だと言えるのだが当の本人はそんなことは微塵も感じていないようだ。

「変わった衣装だな。捕まえて下さいって言ってるようなもんだ」

 やれやれと一息ついた彼が前髪を掻きあげながら呟くと、ルビアも困ったように地面に舞い降りた。

《どうしたらいいの、ルーちゃん…》

 困惑したように見上げてくるルビアの、いつもなら勝気な瞳に宿る自信の光が、今日は心配そうな不安に揺れている。
 竜族にとって、何がそれほど竜使いを大切に思わせているのだろうか。

「決まってる。ひとまずここから離れて、人目のつかない所にとんずらするしかないだろ?後は…まぁ、その時にでも考えよう」

《うん!》

 いつもは反発的なくせにやたら素直に頷くルビアに苦笑して、ルウィンは気を失っている少年に視線を落とすと、諦めたように天を仰いで溜め息を吐く。

「また当分、野宿だなぁ…」

 ボソッと、ルビアに聞こえない程度に独り呟いた。

 パチパチと火の爆ぜる音がして、風が暖かな温もりを伝えてくる。
 どれほどそうしていたのか、光太郎は長い眠りから覚めた人のようにぼんやりと覚醒した。
 彷徨う視線は満天の星空に吸い込まれる煙に気付き、続いてその星空を取り囲む、炎に照らされた木々の枝に移った時、虚ろだった双眸に理性の光が戻ってきた。
 完全に覚醒した光太郎は上半身を起こすと、まずは自分が置かれている状況を把握しようとキョロキョロと周囲を見渡す。
 と。

「おはよう…ってのは変だな。ご覧の通り、夜だ」

 炎を絶やさないように薪をくべていた青年が光太郎の気配に気付いてその手を止めると、面白くもなさそうにそう言って肩を竦めて見せた。

「…」

 炎の明りに浮かび上がる顔は、光太郎が今まで見てきたどんな美人にもハンサムにも当て嵌まらない、凡そこの世の者ではないとさえ思えるほど気品があった。目の前の青年はとても端整な顔立ちをしている。
 彼を一言で形容するなら、そう〝美しい人〟ではないだろうか。
 ただ、彼が本当にこの世の者ではないと思えるのは、その先端の尖った耳だ。
 炎の明りを照り返した銀髪と、意志の強さがキツイ印象を与える切れ長の青紫の双眸は彼を間違えることなく男だと物語っていた。その気になれば絶世の美女にでも化けられるのだろうが、今はそんな気など微塵もないのだろう。

(毛布だ。この人が掛けてくれたのかな…?)

 薄いが保温性に優れているのか、柔らかで暖かい布を持ち上げて銀髪の青年ルウィンを見た。

「どうしたんだ…ああ、腹が減ったのか?」

 ルウィンの言葉に、光太郎は反応を見せない。それどころか、まるで戸惑っているように首を傾げている。困惑した表情は、ルビアに似ていて彼は溜め息を吐いた。

(あ、溜め息をついた!どうしよう、怒ったのかな…)

 光太郎は躊躇うようにモジモジとしていたが、ギュッと毛布を握り締めると勇気を振り絞るようにして、美しき異形の人を見つめて口を開いた。

『あの、えーっと、言葉が判らないんです!失礼なことしてると思うんですが、できれば怒らないで欲しいんですけど…』

 ちょっと図々しいかな、とも思ったが、どうせ通じていないのなら少々のことは許されるだろうと自分で自分に言い聞かせてみる。

「…なるほど。言葉が判らないってワケか。でもまぁ、その方が案外やり易いかもな。余計なことを喋られても厄介だし…」

 そこまで呟いたルウィンは、言葉が判らなくて不安そうに首を傾げている心許無さそうな瞳をした少年と目が合い、何となく笑って見せた。別にそれで、安心させようと思っていたわけではないのだが。

(あ、怒ってないみたいだ。良かった)

 自然と意思の疎通をしたような光太郎が明らかにホッとしたような仕種でニコッと笑い返すと、ルウィンはそんなに仏頂面だっただろうかとガラにもなく少し反省した。

《あ!目が覚めたのね、良かったの♪》

 不意に頭の中に言葉が響いて、光太郎はビックリしたように飛び上がりかけたが、目の前に座っている銀髪の青年の傍らに舞い降りた不思議な生き物を見て、違った意味で今度は驚きに眼を瞠って立ち上がることもできない。
 言葉すらも出てこない、そんな驚きだ。
 小さいとは言え小型犬ほどはある身体を空中で支える為の蝙蝠のような翼と、深紅の強靭そうな鱗に覆われた身体、顔は、何に似ているかと言えば多分イグアナだろうか。ただ、エメラルド色の瞳が異常にデカいことを除いて、の話しだが。

「たった今目が覚めたんだ。どうやら言葉は判らないみたいだぞ」

 銀髪の青年が何かを呟くと、イグアナもどきは大きな目をもっと大きくして彼を見上げ、それから光太郎へと視線を移してきた。

《ルビアの言葉も判らないの?》

 不意に、現実に戻ったようにハッと我に返った光太郎は、直接頭の中に響いてくる声のようなものに驚いて思わず耳を塞いでしまう。

《聞こえてるみたいなのね。耳を塞いでも、ルビアの声は聞こえるの。だって、精神でお話をしているから》

 事も無げにさらっと言われ、光太郎は恐る恐る耳から両手を離すと、戸惑いながら口を開いた。

『えっと、その。よく判らないんだけど…』

 どうやらこのイグアナもどきとは会話が出来るようだとホッとした光太郎は、不意に奇妙なことに気付いた。

(…あれ?会話が出来て、空を飛べるイグアナ顔って言ったら…まさか!)

『り、竜…!?』

 驚きを隠せない表情をして目を丸くする光太郎に、ふわりっと浮かび上がったイグアナ…もとい、飛竜ルビアはニコッと嬉しそうに笑って徐に抱きついてきた。

《大当たり~♪飛竜族の皇太子なのね、竜使いさま!》

『え?』

 ビックリして受け止める光太郎と嬉しそうなルビアを見て、ルウィンが憂鬱そうに眉を寄せながら、素早くヤンチャな飛竜を窘めた。

「ルビア!余計なことは言うな。世界中が注目している”レゼル・リアナ”が自分だと知って、お前なら喜んで通りを歩けるか?」

《あう。それはそうだけど、ルビアは少し、舞い上がっていたみたいなの。ごめんね、ルーちゃん》

 思い出したようにハッとして、ルビアは恐る恐る受け止めている光太郎の腕の中から、申し訳なさそうに項垂れて謝った。
 やれやれと先行きの不安に眉を顰めるルウィンは、それでも暗闇ばかりではなさそうだと微かに安堵して吐息した。

「まあいいさ。どうやらルビアとは話せるみたいだし、少しは不便だが、なんとかやっていけるだろう」

 ちゃっかり腕の中に納まっているルビアは嬉しそうに笑うと、どんな会話が交わされているのか断片的にしか判らない光太郎が不安そうに覗き込んでくるその顔を見上げ、彼の不安に気付いているのかいないのか、屈託なくニコッと笑って頷いて見せた。

《まずは自己紹介が先なのね。飛竜族のルビアなの。彼は…》

 チラッと、不機嫌そうに眉を寄せているルウィンを見ると、彼は何か言いたそうな表情をして首を微かに左右に振った。

《あっちの怒りっぽい相棒はハイレーン族のルウィン。賞金稼ぎをしているのね》

『賞金稼ぎ?』

《そうなの。渾名はルーちゃん!…あなたは何てお名前?》

 誰が怒りやすいんだと悪態を吐くルウィンをまるで無視して、無邪気に問い掛けてくる小さな飛竜に、どうやら襲われる心配はなさそうだとホッとした光太郎は小さく笑って頷いた。

『俺は光太郎。秋胤光太郎。コータロー=アキツグって言った方が判りやすいのかなぁ?』

《コータローなのね?変わったお名前。でも、ルビアは大好きなの。ルーちゃん、彼はコータローと言うのね》

「お前が言ったから判ってるよ」

 ルビアの言葉なら理解できるルウィンは呆れたようにそう言うと、肩を竦めて見せた。

『あ、その。ルビア?ここはどこなんだろう。俺、学校から帰る途中で雷が落ちて、たぶんそれに当たったんだと思うんだけど。友達と一緒だったんだ。俺、一人だった?ほかには誰もいなかった?教えてほしいんだ、ねえ、ルビア』

《ち、ちょっと待つのね。順を追って話さないとチンプンカンプンになってしまうの》

『あ、ごめん』

 焦って思わず捲くし立てた光太郎は、ハッと我に返ると赤くなってしまう。

『つい、言葉が判るからって調子に乗っちゃって。いや、でもいつもはこんなことないんだよ。どちらかと言うと彰の方がお喋りなんだ。あ、彰って言うのは俺の親友で…』

 焦って言い訳する光太郎にルビアはキョトンッと首を傾げ、言葉の判らないルウィンは眉を寄せる。

「何を言ってるんだ、ソイツは?変な奴だな」

 怪訝そうにそう言って、首を左右に振ったルウィンは小さくなる炎に勢いを与えようと、枯れ木を数本投げ込んだ。

『あ、あのさ、ルビア。彼、怒ったのかな?なんだか怒らせてばかりで、俺、申し訳なくって』

 シュンッとなってしまった光太郎がルビアに、ルウィンには理解されていないというのに小声でそう言うと、飛竜は不思議そうに相棒を見ながら首を振った。

《ルーちゃんはあんまり感情が豊かじゃないのね。でも、変なの。今日はよく怒るのね。ああ、そうなの。照れてるのね!》

『え?』

「何の話をしてるんだ、お前たちは。ルビア、余計なことはいいからソイツに着替えるように言うんだ」

 色々と入っているのか、膨らんだ荷袋から淡いクリーム色の服を取り出して、憮然とした表情でルウィンはそれを差し出した。

(なんだろう、これ)

 クリーム色の布の塊を受け取って、光太郎は不思議そうに両腕の中のそれを見下ろして首を傾げる。
 と。

《それに着替えるのね。その真っ黒けの服じゃ目立ってしまうの》

 ルビアがすかさずその疑問の答えを口にした。

(ああ、そうか。これ服なんだ。ただの布の塊かと思っちゃったよ)

 ヒョイッと膝から飛び降りたチビ竜が木陰を指差すと、少年は素直に頷いてそれに従うように立ち上がった。

「件の竜使いは自分の価値を知らないようだな」

 後ろ姿を見送るルビアに、木の爆ぜる炎を見つめながらルウィンが呟いた。

《そうみたいなの。なぜ、ここに自分がいるのかも判っていないみたいなのね》

 振り返ったルビアは訝しそうにそう言い、不安そうに炎の向こうのルウィンを見上げると、心許無さそうに顔を顰めた。

《ルビアは間違ってしまったの?本当は、コータローは竜使いさまではないのかもしれないのね…》

 珍しく気弱に項垂れるルビアを冷やかすように見下ろしていたルウィンはしかし、小さく吐息すると首を左右に振って見事に形のよい天然色の唇を開く。

「この際、どうだっていいさ。足手纏いが一人増えるも二人増えるも一緒だからな。食い扶持が増えることに変わりないんだ。アイツの面倒を見ながら、また竜使いを捜せばいいだろう」

 大きなエメラルドの瞳に炎を映しながら、小さな竜は相棒の言いたい真意を見極めようとするように真摯の眼差しで凝視する。

「…アイツが竜使いかどうかなんてことは、もちろんオレにも判らんさ。だが、どちらにせよアイツが気になるんだろ?竜使いとか関係なく」

 本来なら、ルウィン自身もその存在を求めて止まないはずだと言うのに、やけに淡々と、この若きハイレーン族の青年は、モジモジとしながら照れたように短い前足で頭を掻く小さな飛竜に言うのだ。

《すっごく気になるのね。どうしてなの?コータローが優しい目をしてるから…?》

 相変わらずの態度に苛立ちもせずに、ルビアは落ち着いているルウィンに心許無く首を傾げて見せる。

「オレが知るかよ。もしかしたら、アイツは本当に竜使いなのかもしれないし…お前の中に受け継がれている神竜の血は教えてくれないのか?」

《うーん…どうなのね?竜使いさまとかそう言うのとも、ちょっと違うような気がするの。ルビアには判らないのね》

「じゃあ、それが判るまで面倒を見てやればいいさ」

 困惑して項垂れるルビアに仕方なさそうにそう言うと、ルウィンは手持ち無沙汰に枯れ木を一本投げ込んだ。

「ところで、そろそろ教える気になったか?ルビア」

 珍しく優しい打開策を提案するルウィンに驚きながらも満足したように頷いていた小さな飛竜は、キョトンッと首を傾げ、その神秘的な青紫の双眸を見つめ返すと無害な小動物の仕草で首を傾げるのだった。

「やっぱり忘れてたのか。まあいいさ。オレたちの知らないって言う、お前たち竜族にのみ伝わる伝承とやらのことを教える気はあるか?ってことだ」

《ああ、竜使いさまと神竜の?簡単なことなの。神竜がお迎えするはずなのだけれど、神竜にはそれができないのね。遠い、千年もの昔、竜使いさまを亡くした神竜は泣いて泣いて、ずーっと泣いて、涙が枯れてしまうほど長い間泣いて、とうとう石になってしまったのね。その石になってしまった神竜を解放できるのは、竜使いさまの尊い涙だけなの。だから、竜族の長になる為には、竜使いさまを必ずお連れして、神竜を目覚めさせないといけないのね》

「ふーん。良く判らんが、神竜も随分と女々しいんだな。連れ合いの死はそれほど悲しいものなのか?」

 恋人のいないルウィンが納得できないと言いたそうに不平を言うと、故郷であるウルフライン国に愛しい皇太子妃の待っているルビアは仕方なさそうに小さく笑う。

《そのうちルーちゃんにもきっと判る時が来るの。自分が死んでもいいとさえ思える相手に、いつかきっと廻り逢えるのね》

「そんなものなのか?まぁ、どうだっていいんだけどな。でも、オレはソイツの為に死にたいとは思わないだろうな…絶対に」

 読み取ることのできない表情を浮かべ、燃え盛る炎を見つめながら呟く美しいルウィンに、ルビアは呆れたように溜め息を吐いてぶぅっと頬を膨らませた。

《ルーちゃんなら殺したって死なないの。ロマンスの欠片もない面白くない奴なのね!》

 他人事を自分のことのように腹を立てる小さなお人好しに、ルウィンは何も言わずに口許に小さな笑みを浮かべるだけだった。

「…それにしても遅いな。オレの服はそんなに梃子摺るような服だったか?」

 光太郎の遅さに漸く気付いたルウィンは立ち上がると、不思議な少年の消えた木陰に近付こうとした。
 と。

『わ!なんだこれ!?来るな!来るなってばッ!わわわ…あっち行け!うぎゃあぁ~ッ!!』

 いつからそうしていたのか、光太郎は真っ青な顔をして奇妙なものと格闘していたようだ。それはヘドロのような気持ち悪い緑色をした、粘々と纏わりつくような粘液の塊だった。 通常ならアメーバと呼ばれるようなその類の生き物は、RPGで言うところのスライムだろうか。

「何をしてるんだ?」

 呆れたように腕を組んだルウィンは、着替えを済ませた光太郎が必死に自分の学生服を溶かしているスライムと格闘している様を、面白そうに眺めながら声を掛けた。

『ルーちゃん!』

 思わず気の抜けそうな呼ばれ方をしたものの、ルビアで免疫のあるルウィンはしかし、顔を顰めて仏頂面をしながらのんびり歩いてくる彼の姿に気付いて今にも泣き出しそうな顔をしていた光太郎がパッと嬉しそうに笑うのを見返した。

『突然、頭の上からコイツが降ってきたんだ!学生服を放してくれなくて…』

 懸命に引っ張って取り返そうと試みてはいるものの、学生服は端からジワジワと溶かされていく。完全に消滅するのも時間の問題だろう。

『何だよこれ。もう、気持ち悪いな~』

「手を放せ、コータロー。お前は知らないだろうけど、服の次はお前を狙ってるんだぞ。判るか?」

 学生服を引っ張る腕に手を掛けたルウィンがそれを引き剥がそうとすると、光太郎は困ったような怪訝そうな表情をして見上げてくる。

『え?』

 どうしてルウィンが自分を留めようとしているのか理解できない光太郎は、不安そうな表情をして首を傾げた。

「悪食だからな、何でも喰うんだ…と言っても、言葉が判らなきゃここで死ぬんだろうけど」

 皮肉っぽく笑うルウィンに、光太郎は戸惑うように困惑した表情を見せる。

「ま、こんな所に”グレイド・ボウ”がいる方が、本来ならどうかしてるんだけどね」

(ぐれいど…ぼう?)

 語尾は誰に言うともなく呟いて、首を傾げる光太郎の目の前で腰に下げた華奢な意匠の施されている、鎖の巻きついた鞘から鈍い光を放つ剣を引き抜いた。
 賞金稼ぎである証のそれは、奇妙な殺気のようなものに包まれていて、光太郎は一瞬ゾクッとして学生服から手を放してしまう。

(もしかして!これって実は凶悪な魔物だったとか!?それを知らないで俺って…また彼を怒らせちゃうよう!)

 自分の情けなさにポクポクと両手で頭を叩いて反省する光太郎を、ルウィンは目の前のスライムよりも興味深そうな視線で呆れたように見る。

(変な奴)

 呆れて心中で呟くルウィンに気付きもしない光太郎は、何よりも現実的に目の前にいる不気味な魔物の奇妙な呻き声のようなものにギクッとして、思い切り身震いするとルウィンの背後に隠れてしまう。

「…」

 敢えて無言で何も言わないルウィンだったが、極めて正しい判断で行動した光太郎のその行為に免じて、今回は【男なんだから─】だとか【はじめから諦めるな─】と言った言葉は飲み込んで何も言わずに抑えておこうと思った。
 魔剣、或いは妖剣とも形容し得る威圧感でチリチリと空気を焼き付けるような、奇妙な剣の柄を握り締めたルウィンは、然して面白くもなさそうに今しも制服を溶かし切ろうとしているスライムと対峙した。
 本来なら斬っても斬っても分裂してなかなか倒すことのできないスライムでも、ルウィンのような賞金稼ぎにはただの雑魚に過ぎないのか、あまり興味がなさそうだ。

「ったく、一銭の得にもならん」

 要は金銭の問題であって、この魔物に賞金でも懸かっていれば話しは別だったのだろう。悪態を吐いて振り下ろしたボウッと発光している白刃は魔物の断末魔を伴いながら確実に地面へと吸い込まれていく。
 つまり一刀両断したわけだが軽く片手を振ったようにしか見えない。しかしスライムの身体は不気味などす黒い煙を噴出してジクジクと溶けていった。

『すごい、すごい!ルーちゃんって強いんだね!』

 面白くもなさそうに刀剣に付着した魔物の体液を一振りで払い落とし、鞘に収めようとするルウィンの服をくいくいっと引っ張りながら、ヒョコッと背後から顔を覗かせた光太郎が興奮したように尊敬の眼差しで見上げてきた。

『俺の住んでる世界だと、身近な戦いって言ったらスポーツぐらいしかないんだ。こんな戦いだとゲームしかないし、こうして実践してみると泣きたくなるぐらい弱いんだなーって実感しちゃったよ!』

 別に自分が戦ったわけではないのだが、安心したようにホッとしてしっかりと両手で腕を掴んでくる光太郎がニコッと笑うと、ルウィンは少し気圧されたようだったが、その良く言えば順応性のある、悪く言ったら自己中的な性格は今後に役立つだろうと自分に言い聞かせて諦めることにした。

「…どうも調子が狂うな。オレのことはルウィンと呼べ。ルビア、コイツにそう伝えるんだ」

 振り返った先、立ち竦んだように二人の足元を見据える小さな竜に気付いた光太郎が不思議そうに声をかけた。

『あれ?どうしたんだい、ルビア』

 さり気なく腕を引き抜いたルウィンはだが、その姿を見ても別に気にした風もなく何も言わずに炎の傍に戻って行ってしまう。

『あ』

 知らん顔で立ち去るルウィンの背中と小さな飛竜を困惑したように見比べていた光太郎は、困ったように眉を寄せて悩んでいたが、決心したように小さな真紅の飛竜の前にしゃがみ込んで首を傾げた。

『どうしたの?』

 ルビアはハッとして、それから驚いたように首を左右に振った。

《ううん、なんでもないのね。ちょっと、ビックリしただけなの…えっとね、これからルーちゃんのことはルウィンって呼べって言ったのね》

 慌てて首を左右に振りながらパカッと爬虫類特有の口を開いて笑ったルビアは、ふわりと舞い上がると驚く光太郎の腕の中に収まった。そしてまるで、誤魔化すようにルウィンの言葉だけを光太郎に伝えたのだ。だが、それは案外功を奏して、光太郎はその言葉を額面どおり素直に受け止めているようだった。

『そっか、渾名で呼んだから怒っちゃったのか。また俺、迷惑かけちゃった。ごめんね、ルビア』

 謝る光太郎に、ルビアは心ここにあらずの上の空で答えていた。
 本来ならけして出ないであろう場所にいたグレイド・ボウと呼ばれるスライムは、不吉なことの前兆のようでもある。生態系に何か異変が生じているのか、魔物の異常発生も気になるところだ。この世にいなかったはずの人間の出現か、或いは神と呼ばれる者の降臨に世界の均衡が耐え切れなくなっているのだろうか…
 ルビアは、小さな飛竜の態度を不思議そうに首を傾げて見守る光太郎を見上げ、そして素知らぬ顔で荷物の整理をしているルウィンを見た。
 何が起きても、どんな災いを拾いこんだとしても、彼は常にああして飄々と生きるのだろう。辛いだとか、苦しいだとか、皇位継承の問題でない限りは眉一つ動かすこともなく…
 いや、その皇位ですら今の彼にとっては道端に落ちている石よりも意味のないことだと思っているのだ。
 光太郎の介入が、いったいこの世界をどう変貌させていくのだろうか。そして、何を遺すのだろう…
 今まで絶対的に信頼していた竜使いの存在に、不意にルビアは針の穴ほどの不安を覚えていた。
 それはまだ小さくて、一握りしかないのだけれども。
 小さな飛竜は優しくて温かな腕に守られながら、なぜか必死に光太郎の幸せを祈っていた。

Prologue.旅立ち4  -遠くをめざして旅をしよう-

 海を渡り、丘を越え、深い森を抜けながら、〝予言の竜使い〟の噂は風のように世界に広がっていった。
 荒れ狂う北の海を拠点に暴れると言う、深紅の髪がトレードマークの隻眼の男を筆頭に掲げる海賊〝疾風(ゲイル)〟にもその噂は届いていた。
 珍しく晴れた穏やかな凪の日、遠くをのんびりと進む商船の目印とも言えるべき純白の帆を眺めながら、遠見鏡で肩を軽く叩く男が呆れたように後方を振り返ると、甲板に持ち出したデッキチェアに獅子のように長々と寝そべった深紅の髪の男、この船の船長であるレッシュ=ノート=バートンは、まるで牙の抜けたキングコブラか何かのようにダラダラとだらけている。

「あんなところにお宝が転がってますぜ、お頭。あたしを食べてvと股を開いてんですから喰いましょうよ」

「やだね。竜使いが絶世の美女だったらどうするよ?そうだな、ルウィン野郎のお袋さんみてぇなすっげぇ美人さ。あんな二束三文は放っておけ」

 あの人は男じゃねーかよ、と言外に筋違いの悪態を吐きながら、見張りの男は残念そうに目の前を悠々と、しかし本人たちは死に物狂いの速度で通り過ぎていく純白の帆を恨めしそうに見送っている。
 そして、唐突にハッと我に返った男はなんとも情けない顔をして大袈裟に頭をぶるぶると左右に振るのだ。

「そう言う意味じゃねぇよ、お頭!どうして突然、狩りを止めちまったんですかい!?」

 遠見鏡を振り回す勢いで詰め寄るムサい男に、レッシュは面倒臭そうに眉を寄せて身体を退くと気の抜けた欠伸した。

「そりゃあ、ヒース。竜使いって至宝が降ってくるんだぜ?そいつをゲットしねぇであんなもんの尻を追い駆けてられっかよ。なぁ」

 ちょうど船室から出てきた副船長のデュファンが不機嫌そうに寄せた眉で眉間に深い皺を刻んだまま、ダラダラと部下とじゃれ合う頭領に偏頭痛らしく顳かみを押さえながら首を左右に振って見せた。

「話の途中に参加させるな。それよりも遊んでねぇで航路ぐらい確認しろ」

 ポンッと投げて寄越した紙切れをキャッチして、レッシュは厳つい顔の割には律儀なデュファンをニヤニヤと笑ってからかった。

「お前がいるから構わんだろうーが」

 こっちが構うんだけどな、と言いたそうな表情をして溜め息を吐いたデュファンは、遠見鏡を持ってガックリと項垂れているヒースの肩をポンポンッと励ますように叩いてやる。
 と。

「嵐が来るかもな。風向きが変わった」

 不意に身体を起こしたレッシュが天を仰いでそう言うと、デュファンとヒースはそんな彼を振り返る。

「渡り鳥が騒いでるぞ。竜使いはすぐそこだそうだ」

 まるで鳥たちのざわめきを理解できるかのようにレッシュは立ち上がると、遥か彼方を睨み付けるように見据えている。

「南だ。南に向けて全速前進!」

「イエッサー」

「やったぜ!やっと動けるぞーーーッ!」

 デュファンが片手で挨拶して踵を返すのと、漸くだらだらした生活ともおサラバできるヒースが飛び上がらんばかりに喜んで叫ぶのとはほぼ同時だった。
 レッシュはいつものことに鼻先で笑ったが、ふと、何故かいつもらしくもなく、胸の辺りにムクリッと何かが起き上がるのを感じて首を傾げた。

(何だ、この感じは?)

 起き上がったもやもやは容易には消えそうもなく、それは不意に、意志とは無関係のところでソワソワと動き出した。
 恐れのような…不安?

(まさか…な)

 振り払うように首を左右に振って、彼は眼前に広がる海原を見据えた。
 風が、彼の深紅の髪を巻き上げて吹き過ぎていく。
 灰色の隻眼を僅かに細めて、目に見えない予言の獲物を肌で感じるように、彼は自信に満ちた双眸で遥か遠くを目指すのだ。
 ほんの一握りの、一抹の不安を抱えながら…

Prologue.旅立ち3  -遠くをめざして旅をしよう-

 誰も立ち入らない魔性の住まう森の奥深く、静謐と佇む古城があった。周囲は湖に囲まれ、城の主がその気になった時にのみ、中央に上げられた吊り橋から入城できる仕組みになっている。
 どんな魔物がそこに住まうのか、この国の人々の大半はそれを知っていた。だからこそ、その悲しい主のことを悪く言う者はただの一人も居ない。
 近くの村に住む人々はこの城を〝眠れぬ森の孤城〟と呼んで、遠巻きに眺めているだけだった。

「皇子が婚姻する…と?まさか、あの腕白小僧が?」

 森を見渡せるバルコニーに佇むその人影は、背後から囁かれた秘密の噂に少しだけ驚いたように柳眉を上げて微笑んだ。

「お相手はファルーン・フィエラ国の第二王女だとか…」

 密やかな声音は脇に控えた麗しい女戦士の口許から零れ落ちている。

「そうですか。あの国の第一王女は既に身篭られてお出でだとか。惜しいでしょうね、年の頃はちょうど見合うと言うのに。第二王女と申せば、まだ年端もゆかぬ子供ではないですか」

「今年で漸く十を数えられるかと…」

 困ったように柳眉を顰めた絶世の美姫は、腰までもありそうな長い黒髪を悪戯に入り込む風に遊ばせながら、首を左右に振って遠くに煙るように見える優美な城を眺めていた。

「確かにゾッとしない計画ではありますね。しかし、陰謀と呼ぶにも浅はかな…あの方もアスティアの行動には随分と参っておいでのようで」

 クスクスと悪戯を楽しむ子供のように微笑んだこの世のものならざる美貌の人は、不意に振り返ると、傍らに片膝をついて控える女戦士を困ったように苦笑して見下ろした。
 優美で美しい、女でも男でも引き寄せられてしまう柔和なやわらかさを持った美貌の主に、彼女は少し頬を染めた。
 女戦士は何も言わずに頭を垂れる。

「わたしの息子であり、弟でもあるあの子は、それほど軟な性格はしていませんからね。面白くなりそうです」

 にっこりと微笑まれた、この国の麗しき皇后陛下にして前皇位継承者であった彼は優雅に口許に触れると、青紫の双眸を不敵に細められた。

「我が国ガルハにとっても良い縁談かもしれません。しかし、お互いに望む道もあるでしょうに」

 ふと、女戦士が物言いたそうな双眸で后妃を見上げると、それに気付いた彼は口許に当てていた片手を下ろし、柔らかな微笑を浮かべた。繊細そうな手首に嵌められた高価な二対の腕輪がシャラン…と儚い音を立てる。

「わたしの道ですか?わたしは、こうして躊躇いながら進むこの道が案外好きなのですよ」

 運命と同じ重さで揺れる腕輪を愛しむように彼は見下ろした。
 女戦士は悲しげに眉根を寄せたが、皇子の持つ性格は母譲りなのか、それほど気にした風もなく后妃はゆっくりと室内へと歩を向ける。
 この世の美しさを集めて鏤めたような后妃と言葉数の少ないこの護衛の女戦士、そしてあと何人かの使用人が居るぐらいで、この孤城は酷く静かにひっそりと佇んでいた。
 城内に世にも得がたいと世界中から賞賛を浴びた生きた宝石を隠しながら、この城は誰の目にも触れながら干渉されることはない。
 世界中から隔離されたこの空間は、国王が与えた最大の罰であり、そして愛でもある。
 愛する妻を誰の目にも触れさせたくないという国王のその我が侭は、絶対的な権力として后妃を縛り付け、彼の愛する我が子から引き離すことになった。
 それを嘆くこともなく彼が受け入れるのは、生まれ落ちたその瞬間から、教え諭されていたからだろう。彼は皇位継承者としてではなく、継承者を生み出す母として育てられてきた。
 そう、この哀しい孤城でひっそりと世界中から隔離されて暮らす、ガルハ帝国の皇后陛下であるヴェルザ=ライト=バーバレーンは将軍として国を守り、何時の日かこの国を支える皇子を生むという行為でも国を護ると言う、悲しい使命を受けた後継者だったのだ。
 ある意味、最高の被害者であるはずの彼は、それでも待望の世継ぎを生して日々を恙無く暮らしている。
 ただ一つ惜しむべくは、愛する子供たちと暮らせないと言うこと…しかし、それも最愛の子供たちの為であるのならば、彼は腕に下がる烙印の証しさえ愛おしくなるのだろう。
 呪われた血を疎むでもなく世界中を駆け巡る見えない自由の翼を持った、この広い世界の何処かにいる最愛の皇子を、后妃は遠く想いながらふと微笑んだ。

「熱いお茶がいいですね。身体がゆっくりと休まるように」

 華奢な意匠を施された椅子に腰を下ろし、后妃は内心を悟らせぬ微笑を浮かべて女戦士に促した。

「畏まりました、ヴェルザライトさま」

 女戦士は恭しく一礼すると、サッと部屋から出て行った。その後姿を見送っていた后妃の相貌から不意に笑みが消え、感情の窺えない能面のような、ともすればゾッとするほど美しい彫刻のような面持ちだけがそこに残る。
 小さな円卓に頬杖をついて、繊細そうな人差し指を口許に当てて何やら考え込んでいたヴェルザライトは、マントルピースにある小さな額に視線を留めると暫くそれを眺めていた。
 銀髪の赤子を抱えた自分の姿が描かれている肖像画は、男としてはあまりに優しすぎる表情をしている。いや、男…とその性別を言ってしまうのも憚れるような清楚で美しい面立ちだ。

「自分の道が正しかったか…だと?そんなこと、誰も判りはしない。ただ、一つだけ言えるとすれば、王として生きる道よりも随分楽だし、幸せだと言うことは確かかな。ルウィンには申し訳ないけどね」

 立ち上がってマントルピースまで行ったヴェルザライトは片手で額を持ち上げると、キョトンッとした大きな瞳の愛らしい我が子に独り言のように呟いて微笑みかけた。

「竜使いがお出座しするらしいよ、ルウィン。気をつけて、そして必ず生きて帰るように。君はわたしの、大切な息子なのだから…」

 愛しそうにクリスタルの嵌め込まれた額を撫でるヴェルザライトの表情は、海のように深い愛情で満たされている。それは、誰も知らない彼の本当の素顔だ。

Prologue.旅立ち2  -遠くをめざして旅をしよう-

 漆黒の闇が支配するような、黒天鵞絨の垂れ幕が覆う室内には緊張した空気が流れていた。
 大きな机を囲むようにして着席した一同の表情も、どこかぎこちなくソワソワとしている。

「殿下がまたもや城を抜け出されたそうで…」

 堪りかねた誰かが口を開くと、まるでそれを待っていたかのように集められた主要家臣の面々は、一様に頭を抱えて意見の交し合いを始めるのだった。
 どこからともなく入り込む風に、明り取りの蝋燭が一瞬、酸素を得て燃え上がる。

「王家の威信にも関わるお振るまい。もうこれ以上は、黙って見過ごすわけにもゆきますまい」

 ことは王位の問題とあって、居並ぶ重臣たちは上座に御する渋面の、先端の尖った異形の耳を有する老齢な主に注目した。

「皇位継承権の剥奪か。ふむ、皇子は泣いて喜ぶじゃろうな」

「陛下。殿下は事実上の皇太子であられる、このガルハ帝国にとって命にも値される尊いお方。その殿下が賞金稼ぎ如き下賎の職に御身を貶められておいでなどと、他国に知れようものならばそのお命も危ぶまれましょう。これ以上にない、由々しき事態ではありますまいか」

 安穏と口を開く王に、同じく異形の耳を有する重臣が本当はそんなこと望んではいないのだと言うように窘めたとしても、彼の主はやれやれと首を左右に振るばかり。

「賞金稼ぎとな!…下賎にその身を貶め、いったいその先に何があるというのか。いや、判っておる。判ってはおるが、あやつの思惑は皇位継承の剥奪、まさにそれなのじゃ。あれの意思は、あれの母に似て強い。知恵も頗る聡明じゃ。あれ一人に百万の護衛をつけたところで、翌朝には姿もなかろう」

「…」

 一同は言葉もなく顔を見合わせる。
 さすがは皇子の父上であられる、彼の性格を誰よりも心得ているのではないか。

「…我らが如何に口を閉ざそうとも、噂と言うものは野に荒れる風の如き素早さで瞬く間に国中に知れ渡ることでしょう。時期に各国にも流れてゆきます。このままでは、まさに殿下のお命に関わるのではないでしょうか」

「殿下の今のお立場は常に危険と背中合わせです。賞金稼ぎと言う職に乗じて、刺客を送り込む国もないとは言いきれません。ましてやこの時期です」

 控え目に口を開く年若い重臣に大きく頷いて、幼い頃から件の皇子の指南役として共に成長してきた将軍が心持ち憂鬱そうな表情をすると、こめかみを押さえる国王に意見した。

「若輩であるにもかかわらず、あれの行動には躊躇いがない。恐れすらないのではないかと思わせるほどじゃ。いや、年若い故の愚かさか…いずれにせよ、皇子は縛られることを疎んでおる。皇位すら例外ではないのだろう」

 吐息して、老齢の王は暫し瞑目する。
 この場に居並ぶ重臣の、いったい誰が唯一無二の皇子から継承権を剥奪したい、などと考える者がいるだろうか。
 意外に、破天荒で寂しがり屋の皇子には重臣たちの熱い人気があるのだ。国民も然りで、だからこそ国王は皇子の少々の我侭にも目を瞑り、慈しんで育ててきた。
 出生が誰よりも複雑だと言うのに、彼はいまいちそう言うことは気にしている風でもなく、却ってどう言うわけか、身分と言うものに酷い嫌悪感を持っているようだ。
 ある意味では、それが父親である王に対する最高の抵抗なのかもしれないが…
 驚くほど気品のある面立ちには不似合いの、親しみやすいその下世話さが、あるいは国民や一部を除いた重臣たちからの不動の信頼を勝ち得ているのかもしれない。
 しかし、それにも限界はある。
 重い沈黙が暫く続き、瞑目していた王がゆっくりと双眸を開いた。

「しかし、特権を得る王族の制約とはそれほど生温いものではない」

 王はたっぷりと蓄えた顎鬚を緩慢な動作で扱きながら、遠い空の下で奔放に飛び回っているのであろう銀髪の生意気な青年の母譲りの美しい顔を思い浮かべ、眉間に皺を寄せながら首を左右に振るのだった。

「特権などいりませんよ」

 不意に凛とした、居並ぶ誰もが一度は耳にしたことのある聞き慣れた声音が、静まり返った広間に波紋を投げかけるように響き渡った。その場にいた一同は、驚愕したように今朝方、抜け出したばかりの声の主を凝視した。
 王がゆっくりと首を傍らに巡らせると、いつからそこにいたのか、天鵞絨の垂れた壁際から姿を現した噂の青年は、長い旅を物語る草臥れた漆黒の外套に身を包んで立っている。

「旅に出る前にご挨拶でも…と思っていたのですが。まだこんな下らない閣議を開いておいででしたか」

 王族として、当たり前のように宮殿内で大切に守られている他国の皇子や、戦しか知らない身勝手な何処かの国王たちのような甘えを持ってはいない強い光を放つ双眸が、優しげな口調のわりに、皇子が見つめてきた厳しさを静かに物語っている。

「アスティア」

 国王が静かに放蕩皇子の名を口の端にすると、彼はそれに応えるように口許に笑みを浮かべたが、その青紫の神秘的な双眸は揺るぎ無く淡々としている。

「それなりの制約があるからこそ、身分と言う特権もあるのだぞ。そなた、何が不服と申すのか」

「その身分と言う砂上の城に胡座をかかれた父上には、わたしの意志などお判りにはなりませんよ」

 皇子の行き過ぎた言動を咎めようと立ち上がりかけた家臣を片手で制し、王は頑なな息子の双眸を見つめ返して小さく嘆息した。

「何が言いたいのだ、そなた」

「あるいは何も…思惑など、どうでもいいことなのかもしれません。ただの私事なれば、父上のお気を揉むことでもありますまい。貴方の治世が恙無く続く限り、わたしは放蕩皇子がよいのです」

「ふむ、されば。そなたの治世となれば、今までの言動を悔い改め、恙無く王位に属すると言うのだな?」

「まさか!ご冗談を」

 本気で声を立てて笑う皇子を、居並ぶ一同は固唾を飲んで見守るしか術がないようで。

「なるようにしかなりませんよ、陛下」

 誰にともなく呟く皇子の、銀色の頭髪に燭台の灯りがオレンジの光を燈す。

「わたし如き若輩者の下らない行為に、御身の貴重なる時を割かれますな。どちらにせよ、わたしが大人しく城に留まるはずもないことを、貴方が一番良く存じているではありませんか。学ぶべきものはまだ、星の数ほど散らばっています。この世界はとても魅力的だ」

 言葉尻の通り、とても魅力的な微笑を浮かべる皇子に、頭を抱えたくなった王は肘掛に肘をつき、こめかみの辺りを押さえながら首を左右に振る。

「世界の魅力も結構だが、そなたはこのガルハ帝国の皇太子になるべく皇子ぞ。何処の馬の骨とも判らぬような執着など棄て、国の行く末を少しは考えてみてはどうじゃ。そなたの想う、世界ほどにな」

「それは父上のお役目です。貴方の治世は、貴方が望まざるともまだ続く」

「…先見の術も、衰えてはおらぬようだの」

「恙無く」

 母譲りの魔力は計り知れないが、皇子は何でもないことのように静かに微笑んだ。

「貴方の治世が続くと言うのに、今から身分に縛られるなんて真っ平だ」

「皇子!」

 語尾を吐き棄てるように言い放つ皇子に、一同はいつものことにまたしても頭を抱えるが、王はついに高血圧らしくカッと頭に血を昇らせた。

「いい加減にせぬか!そなたに王族としての誇りはないのかっ」

「ありません。人としての誇りはありますけどね」

 悪戯っ子のように少しだけ舌を覗かせた皇子は、次いですぐに微笑むと、見事に優雅な一礼をした。

 身に纏うものがどれほど草臥れていたとしても、その仕草は王族たる所以のように堂々として、如何なる者の視線をも全て釘付けにしたであろうと思わせるほど美しかった。

「わたしがここにいますと、どうも貴方のお身体に障るようだ。それではこれにて失礼します」

「殿下!」

 慌てたように幾人かの将軍が制止しようとしたが、皇子は聞く耳など持ってはいないとばかりに無視して踵を返そうとしたが、ふと立ち止まり、怒りに打ち震えながら玉座に腰を落ち着けた王を振り返った。

「父上と母上の息子としての誇りも、もちろんあります。掛け替えのない、名誉だと」

 激昂していた王が、不意にその怒りを静め、遠くを見るように双眸を細めて何かを言おうとする皇子を眺めると、彼は暫くその双眸を見つめ返していたが、結局何も言わずに口許に小さな笑みだけを残してその場から立ち去ってしまった。

(でた、皇子の必殺親殺し)

 物騒なネーミングではあるが、家臣の間では実しやかに流れている言葉の愛称なのである。皇子がその言葉を口にすると、国王がどんなに火蜥蜴の主のように怒り狂っていても一瞬のうちに沈下させてしまうと言う必殺技なのだ。
 皇子を溺愛している国王にだからこそ効く必殺技なのだが。
 水を打ったように静まり返る広間で、誰ともなく目線を交えた重臣たちはしかし、何も言えずに困惑した面持ちで玉座に鎮座ます王を仰いだ。
 老齢の王は暫く瞑目していたが、やがてゆっくりと双眸を開くと、やれやれと吐息するのだった。

「予言の竜使いも間もなく現れようと言う今、あれを野放しにしておくわけにもいかんだろう。王族の制約を忌み嫌うのなら、あれが尤も気に入るようにしてやろうではないか。後宮に后でも迎えれば、あやつとて立太子せずにはいられまい」

 咳き込むようにそう言って、王は一息つくと重臣の一人に言い放った。

「各国に触れを出すのじゃ。剣豪王ブラジェスカ=ハイン=バーバレーンの次代後継者であるアスティア=シェア=バーバレーンが正妃ほか側室を迎えるとな。我こそはと思う各国の姫君を集めるのじゃ!」

 一同は驚きに瞠目して国王を凝視した。
 ご乱心召されたのでは、と思ったのだ。
 火噴きドラゴンよりも狂暴なあの皇子を政略結婚させようと言うのだ。有力な姫君と婚姻することによって国は勢力を得て、皇子は家族を得ることで玉座に縛り付けられる。案外、優しい性格の皇子だから家族を得ればフラフラと国外逃亡などはしないだろう。これ以上にない名案だが、一同は困惑と恐れが矛盾なく入り混じる複雑な表情をして、眉間に深い皺を刻む老齢な王に注目した。
 無理だろう…と、誰もが心中で思っていたが、もしやと言う希望もある。
 こうして、国王の下した決定はすぐに国中に広がり、野を渡る風のような密やかさで世界中に流れていった。
 皇位継承権を何とか放棄したい皇子の、その預かり知らぬ婚姻話は予言の竜使いの出現と並行するように大きな噂となって広がっていくことになる。

Prologue.旅立ち1  -遠くをめざして旅をしよう-

 鬱陶しい雨が降る平日の午後はどこか物寂しくて寒いような気分になると、秋胤光太郎は机に頬杖をついて考えていた。一日の授業も全て終了していて、そろそろ夕方の気配が教室に流れ込んで来ようとしているせいなのかもしれないが。

「光太郎?何、ボンヤリしてるんだよ。何か見えるのか?」

「彰」

 悪友で幼馴染み、果てはクラスメイトでお隣さんと言う御崎彰が視線の先を追って校庭を眺めていたが、然して面白くもなさそうに肩を竦めると呆れたように光太郎を見下ろしてくる。

「終ったなら帰ろうぜ。途中で寄りたい所もあるし…」

「本屋?」

「うん。調べたいことがあるんだ」

 それなら学生の本分として図書室にでも行けばいいのにと呆れながらも、光太郎は立ち上がると学生カバンの代わりに持って来ているスポーツバッグに教科書を詰め込んだ。

「お前ってさぁ、呆れるぐらい律儀だよな。今時、教科書なんて持って帰る奴いないよ?」

 彰が薄っぺらの学生カバンを持ち上げて見せると、光太郎はムッとしたように唇を尖らせて抗議する。

「俺は真面目なの!予習もすれば復習だってするよ」

 それすらもしないで主席をキープする彰がおやおやと眉をおどけたように上げると、そんな嫌味にも慣れっこの光太郎は肩を竦めてさっさと教室を後にするのだった。

「昨日の特番さ、観た?」

 帰り慣れた道を、肩を並べて歩く彰が不意に思い出したように口を開いた。

(昨日の特番って言ったら…確かオカルト物だったっけ?)

 興味を惹かれるほどの番組でもなかったのでその内容を半分以上は忘れていた。
 裏覚えで首を傾げる光太郎は、傍らを歩く文武両道にして健康優良不良少年の彰を見上げた。
 教師たちも一目置くような、今世紀が生み出した最高の傑作だと謳われる頭脳の持ち主は、何故か無類のオカルトマニアだったりする。

「うん、まあボチボチ観たよ。何か面白い特集とかあったっけ?」

「なんか歯切れの悪い言い方だなぁ…ま、いいか。あったよ、ホラ。あの雷のヤツ」

 疑い深く双眸を細めはしたものの、すぐに大好きな話題に集中した彰は目をキラキラと好奇に輝かせて頷いた。その様子を、光太郎はいつものことながら不思議そうに見守るのだ。

(頭のいいヤツってオカルトだとか超常現象だとか、そう言った迷信は普通信じないよなぁ…)

 しかし、この彰と言う今もって謎の生き物は、心霊現象から科学では説明できないものまで、幅広い超自然現象が大好きなのだ。科学で説明できないのならこの俺さまが説明してやろうと考えているようで、当人はよしとしても、それに付き合わされる光太郎にはいい迷惑だとしか言いようがない。
 去年の夏も【UFOを呼び出すぞ!】と息巻くと、幼馴染みの光太郎を連れ出して近所の山にキャンプに行った。
 それぐらいのことならさすがに光太郎も文句は言わないだろう。そう、ただのキャンプならばである。
 しかし、そうは問屋が卸してくれないのが彰と言う奴だ。
 夜通し徹夜に付き合わされた挙句、訳の判らない呪文らしきものを夜明けまで詠唱させられたのだ。迷惑以上の何ものでもないだろう。
 しかも父子家庭である光太郎の風来坊の父親などにいたっては、母譲りの優しい気立ての光太郎を強くしてくれると手放しで喜ぶから堪らない。彰には絶対的な信頼があるようで、何度、息子が死にかかったか判らないと言うのに笑顔で送り出すと言う有り様だ。いや、判ったとしても送り出すだろう。光太郎の父親とはそんな男なのだ。

(父さんにしても彰にしても、どうしてこう、天才って呼ばれるヤツらは変人になっちゃうんだろう)

 天才的な冒険家───、それが光太郎の父である秋胤光夜の世間での呼び名である。
 今も世界の何処かを飛び回っているのだろう。

「光太郎、おい!光太郎ってば」

 どうやらトリップしていたらしい光太郎はハッとしたように目を瞬かせて、照れ隠しのようにエヘヘ…っと笑ってみせた。

「まだ夕方だぜ?雨が降ってて暗いからって、立ったままで夢なんか見るなよな…て言うか、寝るなよ」

「寝てないよ!…それで?雷がどうしたって?」

 わざとらしく怒った口調で言い返す光太郎の、その照れ隠しの仕方にも慣れている彰は然して気に留めた風もなく、それよりも楽しい話題の方を優先することにしたようだ。

「雷だよ、雷!ピカッと光ってズドンッ」

「…ズドンッは嫌だなぁ。彰が言うと本当になりそうで怖いんだよなぁ…」

 グズグズと嫌がる光太郎は何となく涙を零す曇天の空を見上げた。

「雷が落ちた飛行機が、確か乗客と一緒に過去にタイムスリップしたって言う、アレのことだろ」

 思い出したくない事柄と言うのは嫌でも思い出すもので、ワクワクしている彰に光太郎は傘の柄の部分を持ち直しながら溜め息を吐いて呟くように言った。

「そう、それだよそれ!ああもう、光ちゃん!判ってんじゃん」

「で、それがどうしたんだ?」

 結局、盛り上がる彰に水が差せない、良く言えばお人好し、悪く言えば優柔不断の光太郎は苦笑しながら先を促した。

「人間の体は微弱ながらも帯電してることは知ってるだろ?機体が鉄だったから、あの飛行機は余計に電流を通したんだ。それで内部にいた乗客の持つ電流と相俟って爆発的な放電をしたんじゃないかな。そのショックで機体ごと過去にタイムスリップしたってワケだ」

 詳しい仕組みになど興味のない光太郎は、それでも感心したように相槌を打って頷いた。しかし、彰はそんな光太郎を好奇に目を爛々と輝かせて振り返る。

「でもどうして過去なんだ?」

「知らないよ。彰が知らないのに、どうして俺が判るんだよ」

 つまりタイムスリップの原理などには少しも興味がなかったと言うわけで、眉を寄せて唇を尖らせる光太郎に彰は奇妙な疑問を口にする。

「未来だっていいじゃないか、なあ?それよりも俺が気になるのは、この世界中の到る所に開いてるアナザーワールドの扉なんだよな。未来だとか過去だとか、そんなありふれたものじゃなくて、どうして異世界に飛ばされないんだろう…?」

 雷が落ちたらUFOに会えると聞けば、他人の迷惑など顧みずに〝俺たちの上にも落ちないかなぁ…よし!試してみようぜ〟などとほざく罰当たりなヤツだ。現在、危ない人ラインのギリギリでフラフラしている彰の心境に、光太郎はハラハラしながら口を開いた。

「俺たちの上に雷が落ちたからって、あの飛行機と同じ事が起こる、なんてまさか考えてないよね?起こらないから!ほぼ、絶対!」

 不安そうに眉を寄せて言い募る光太郎に、いまいち納得していないような不満顔で唇を尖らせる彰は、それでも諦めきれないように呟いた。

「わかんないじゃん。奇跡ってのは滅多に起こらないけどさ、必ず起こるからその言葉があるんじゃないのか?」

 やっぱり考えていたのか…と光太郎はクラッと眩暈を覚えたが、ここで負けるわけにはいかないので応戦する。
 お人好しの光太郎でも命は惜しい。

「そうかもしれないけど。だって彰だって言ってたじゃないか。そう言う奇跡は特殊な状況下でしか起こらないって…むやみやたらに起こらないから興味深いんだって」

「だから雷なんだろー?」

 どうしても諦められないように不服そうに眉を寄せる、言い出したら聞かない彰に光太郎は呆れたようにやれやれと溜め息を吐いて首を左右に振った。

「俺たち、あと1年もしたら社会人なんだよ?そりゃあ、頭のいい彰は大学に進学するだろうけど。だからさ、そう言うコトは研究室に入って勉強したらいいんじゃないの?」

 何を言っても、こと超常現象に関してだけは揺るぎ無い信念を胸に抱えている彰の意思の強さに、結局は危なくないと自分で判断できるレベルの問題には付き合うことになってしまう。
 そんな自分に苦笑しながら、納得していないんだようと眉を寄せる悪友に首を傾げて笑って見せた。

「結局、凡人の俺にはいくら言ったって判んないってコトだよ」

「う?」

 身長も高く、スポーツにも秀でていて女の子の人気もある文武両道で青春街道まっしぐらの彰の、そんなちょっと情けない表情を見られるのは光太郎だけだろう。その分、リスクも背負っているのだ。まあ、あまり有り難くもないのだが。
 光太郎は、風が少し吹けばサラサラと舞うような、重いイメージを払拭するような柔らかな髪質を持ってはいるものの、茶髪が横行する今時には珍しい見事な黒髪の持ち主だ。
 日本人らしい、はにかむような奥床しい柔和な笑みが、お人好しと呼ばれる所以である。
 小さな頃からその優しい笑顔を見てきた彰は、それがニセモノではないことを知っているからこそ、それ以上は何も言えなくなる。
 光太郎本人は17年間一度も気付いてはいないが、それこそが彰を黙らせる一発必中の隠し技なのであった。

「ちぇ。じゃあ今度、一緒に試そうぜ。その時まで危険にならないように調べておくからさ」

 念を押すように唇を尖らせる彰に、光太郎は頬を引き攣らせて乾いた笑みを浮かべた。

(どうしたって試す気なんだ───…)

 某有名大学の大槻教授とは正反対の考えを持つこの天才の今日の予定である調べものとは、どうやらそのことについてだったらしい。

「彰ってどうしてそう、不思議なことに夢中になれるんだろうな」

「お前がクールすぎるんだよ。もっと柔軟に物事を考えて、熱くデッドヒートした方がいいんだって」

「そう言うもんかなぁ…」

「ぜーったい、そうだって!今だけだぜ?青春真っ盛りなんだからさ♪」

「何だよ、それ。古ッ」

 シトシトと陰気に降り続ける雨模様とは裏腹に、青の傘と派手な黄色の傘の下からは陽気な笑い声が響く。
 と。
 不意にピカッと辺りを白く光らせて、ビクッとしたところを曇天の空を揺るがせる雷鳴が襲ってくる。

「うっわ。マジでやべーかも。走ろうぜ!」

 空を見上げていた彰が首を竦めながらそう言うと、光太郎も同じような態勢をとりながら同感したように頷いた。
 家は隣同士だ。走って帰れば同時にゴールインできる。

 まあ、百歩譲って彰が光太郎に合わせれば、の話だが。
 しかし、彰はこう言う時は必ず光太郎に合わせていた。生まれ月も日にちも一緒の二人である。双子のように以心伝心もできるのだから凄い。彰は超常現象を調べる前に、まずは光太郎との目に見えない繋がりから紐解いて行けば何れ全てが判るのではないだろうか?もちろん、本人はそんなことには少しも気付いてなどいないのだが…
 ほぼ同時に走り出したまさにその時、唐突にそれは牙をむいて襲いかかってきた。
 まず、大地も周囲も真っ白になった。
 眩い閃光はその瞳を閉じさせ、光太郎をその場に立ち竦ませるには充分だった。長い時間そうしているようにも思えたが、すぐにそれが錯覚であることに気付いた。
 何故なら、瞬時に襲ってきた耳を劈くような轟音と、身体中がバラバラに砕け散りそうな激痛にショックを受けたからだ。
 何処かで滅茶苦茶に叫ぶ彰の声が聞こえたような気がする。名前を呼んでいるような悲鳴のような…それともそれは自分が叫んでいたのだろうか…
 何もかも判らなくなって、まるで前後不覚になったように唐突に光太郎は意識を手放してしまった。
 薄れゆく意識の中でただ1つ、ハッキリと脳裏によぎる確信がある。
 それは。
 雷が落ちたのだと言うこと。
 それだけがハッキリとしていて、その他のことは全て夢の中での出来事のようだと思っていた。
 目が覚めたら、突然倒れた自分をビックリした彰が心配そうに覗き込んでくるのだ。
 早く目覚めよう。

 早く。

 そう。

 早く…