死人返り 7  -死人遊戯-

「…っと、ここまで来ればもう大丈夫かな?」

 両手を祈るように組んでギュッと両目を閉じていた僕の耳に、目深に被っていたフードを背に払ったのか、比較的明瞭な国安の声が毛布の向こう側から聞こえてきた。
 不意に潮の匂いが鼻をついて、気付いたら国安のヤツが毛布を剥ぎ取りながら立ち上がるように促していたんだ。

「お疲れさん。さて、これからの行動について話し合おうぜ」

「OK」

 やたら気さくに頷く匡太郎は、どうも俄然やる気を出したのか、好奇心旺盛は死んでも治

っていないようで…嬉しく思えばいいのか哀しく思うべきなのか、僕はどんな表情をしたらいいのか判らなくて眉を寄せてしまう。

「ん?なんだ、酔ったのか光太郎」

 ヘンな表情をしてしまっている僕の顔を、潮風に吹かれる真っ黒の前髪を掻き揚げながら真っ直ぐに覗き込んでくる匡太郎に、なぜだかドキンとしてしまうから本当に自分自身が良く判らなくなってしまう。どうして弟にトキメイたりしちゃってるんだろう、僕…んー、ヘンだ!

 思わず顔を赤くした僕に気付いたのか気付いていないのか、ちょっとおかしな表情をした匡太郎はなんだか慌てたように僕の前髪から手を離して「大丈夫ならいいんだけどさ…」とかなんとかブツブツと言いながら外方向いてしまった。
 …ヘンな匡太郎だ。
 真っ暗だし、辺りは朧げな月明かりしかないから…もしかしたら気付かなかったのかもしれないけど…うん、きっとそうだ。
 全く、どうして僕たち兄弟ってこうソックリなんだろう?ヘンな顔するところまで同じじゃなくったっていいのにな。
 匡太郎は気を取り直したように国安と話し始めた。
 その態度はまるで僕なんか頼りにしていないって風で、うーん、兄貴は僕の方だって言うのに、どうしてこう子供扱いされちゃうんだろう。

「前にも言った通り、社に棺桶を置いて船に戻るまでに4時間ぐらいしかない。どんなに大急ぎで漕いでもざっと1時間はかかるんだ。往復で2時間…となると、やっぱ向こうでの行動は迅速にやらなけりゃいけないってワケだ」

「そうか、別に古式に則って片道に2時間もかける必要はないんだな。と言うことは正味2時間が余るってワケだから4時間の余裕がある。ってことは、4時間で社の文献を調べて、島の中央にあるって言う山の祠まで行ってそこを調べて戻って来ないといけないってことか。まあ、楽勝…ってことないか」

 その通り、と国安は肩を竦めて匡太郎を見た。
 僕はと言えば、どうして揺れる小船に2人が立て話していられるのか不思議なぐらいで、波が作る揺れに立っていられなくて船底に座り込んだままでそんな2人を見上げているのが精一杯だった。

「山がどんなものかオレたちは知らない。でも二手に分かれないとロスは多くなる…ってことはじゃあ、山の祠にはオレたちで行くよ。国安さんは悪いけど、社のほうをお願いできるかな?」

 どこをどうしたら島の状況を全く知らない僕たちが祠の方に行かないといけないんだ!?
 勝手に話を進める匡太郎に口をぱくつかせて声にならない抗議をしていると、国安のヤツはちょっとホッとしたような顔をして頷き返していた。

「良かった。俺もちょうどそう言おうとしていたんだ。社には妹との関係があるんだ。何か判らないかと思って調べたくてね。まあ、もともと光太郎を誘ったのもそれが理由でさ」

「か、勝手に話を進めるなよ!き、匡太郎!山の祠って言ったら何が出るか…」

 思わず匡太郎の服の裾を掴んで抗議してしまう僕に、弟は仕方のないお兄ちゃんを見下ろして溜め息なんかついてくれた。うう、判ってるよ!子供だって言いたいんだろう!?
 でも!怖いものは怖いんだから仕方ないじゃないか!!…って、もとはそれを探るために来たんだもの、ここで挫けちゃったら全部がパアになることぐらい僕にだって判る。判るんだけど、でも…

「大丈夫さ。アニキはオレが守るって言っただろ?大船に乗ったつもりで頼ってもいいんだよ」

 僕はそんなに不安そうな顔をしていたのかな?
 弟は柔らかく微笑んで僕の頬に片手を差し伸べてきた。
 だから、安心して…と、匡太郎の表情が無言で物語っているから、いつまでも駄々を捏ねていたらそれこそ恥ずかしいし、国安の目的はもともと社にあったワケなんだから、便乗させてもらってる僕たちとしてはもう祠の方に行くしかないんだよね。
 うん、判ってる。判ってるんだよ…でも~
 往生際が悪くブツブツと訴える僕を、弟は仕方なさそうに微笑みながらウィンクなんかしてくれた。

「安心しろって、お兄ちゃん。いざとなったらオレが抱き上げて連れて逃げてやるからさ!」

 ウキウキとそんなことを言うな。

「僕が抱き上げて連れて逃げてあげるよ!…うう、判ったよ。国安にはムリにお願いしたんだから、こっちが譲歩しないと恩知らずになっちゃうからね」

 子供みたいに唇を尖らせる僕を見下ろしていた2人は、お互いに顔を見合わせると、首を傾げる僕の前で国安のヤツが溜め息をつきながら首を左右に振って、匡太郎の肩をポンポンと軽く叩いて言ったんだ。

「可愛いお兄ちゃんですこと。心配で、心配で仕方なくって生き返ったんだろ?お前」

 思わずドキッとしていたら…

「ビンゴ」

 匡太郎がクスッと笑って肩を竦めるから、それが彼らなりの冗談なんだと知ってホッとした。
 いけないな、こんなちょっとしたことでビクビクしてるようじゃ、堂々としてる弟よりも早くにヘンに勘繰られてしまうよ。ダメな兄貴になってしまうな、僕。
 だから気を取り直して僕は、わざと不貞腐れたように頬を膨らませてあげるんだ。
 怒ったんだぞとみせかけて、そうしたら国安と匡太郎は2人でプッと吹き出した。
 結局、2人ともこんな僕を馬鹿にして喜んでるってワケだ。
 ふふん、でも今夜の僕はとっても寛大だから、君たちがお子様に見えるんだって。
 プッと噴き出している匡太郎と国安、内心でふふんと他愛のないことで威張っている僕たちを乗せた御霊送りの小さな船は、一路波埜神寄島めざして静かに進んでいる。

◇ ◆ ◇

 ザザーンッと背後で波の音を聞きながら、僕はゴクリと息を飲み込んだ。
 そりゃあね、確かに少しぐらいは陰鬱とした島かもしれないんじゃないかな…ぐらいは想像していたけど、まさかこんなに想像どおりの不気味な島だなんて思ってもいなかった。
 だから船から降りて、なぜかそのままもう一度小船に乗り込もうとしていたら、匡太郎に抓み出されてしまったんだ。

「ふーん、雰囲気ある島だな」

 朧げな月明かり、ぬるい風に揺れる奇妙に捩れた木だとか、荒削りな岩が浮かび上がらせる陰影は…こ、怖い!…のに、匡太郎と国安は別に怯えた様子も見せずにケロッとして突っ立っているんだ。きっと、コイツら僕なんかよりもはるかに心臓に毛が生えてるに違いないよ。
 寒くもないのに…と言うか、むしろ暑くすらある島のぬるい風に肌を撫でられて、嫌でも声を上げそうになって唇を噛み締めた。

「よし、じゃあ棺を社に運ぼう。まずはそこからスタートだ」

 国安の声を合図にボケッと陰鬱そうな島を見渡していた匡太郎は頷くと、僕を押し退けるようにして棺桶の片方を抱え上げる手伝いをした。

「へーえ!凄いな、匡ちゃんv案外力持ちなんだな~、ってことは。よかったな、光太郎。抱き上げてもらって逃げ出せるぞ」

 本来なら男が3、4人で抱え上げる棺桶を、用意されていた道具も使わずにヒョイッと抱え上げてしまう匡太郎を驚いたように尻上がりの口笛を吹いて覗き込む国安は、それでも助かったと言わんばかりに肩を竦めてただ見守っているだけの役立たずの僕に「腰が抜けても大丈夫だな!」と辛辣な嫌味を言う。
 し、仕方ないだろ?民俗学で土堀も経験してるってのにひ弱なヤツで申し訳ありません!
 …でも、死んだはずの匡太郎に初めて会ったときから感じていたんだけど…
 匡太郎は以前よりも強くなったと思う。それに、力持ちになった。
 ボウッとしてることも多くなったけど、どこか大人っぽい仕種をするときもあるんだ。
 あんな風に惨たらしく死んでしまって、生き返ったお前はどうしてしまったんだろう。
 死に直面した時の記憶は残っているのかい?全身を走る痛みに耐えながらきっと、身体中の血液が流れ出るのを感じて…1歩ずつ死に近付きながら身体が冷たくなっていくのを、薄れていく意識の中で感じていた絶望感みたいなものがきっとあったに違いないんだ。
そのことを、お前は覚えているのかな…それは、地獄よりももっと恐ろしい、とても堪え難い究極の恐怖だったはずだ。
 ねえ、こんな弱虫な僕は聞いてやることも、尋ねることすらもできないでいるんだけど…匡太郎、やっぱりお前は苦しんでいるんだろう。
 打ち明けてしまうにはお前の兄は、とても頼りがないって思ってるんだよね?
 死んでしまうその寸前まで、きっとお前が後悔したのは、頼りなくて情けない僕を置いて逝ってしまうことだったのかな…それともそれは、僕の勝手な思い上がりなのかな。
 国安の掛け声に応えるようにして進む匡太郎の後を追いながら、俯き加減の僕はキュッと唇を噛み締めた。
 どうして僕は、こんな風に役立たずなんだろう…
 もっと、匡太郎が頼れるぐらいには強くなりたいのに。
 もっともっと…そこまで考えて、僕は今さらになって漸く、今回この島に来た本当の目的を思い出したんだ。
 もちろん、死人返り伝説の文献を調べることも大事なんだけど、僕の本当の目的はこの旅で強くなるんだって決めたこと。匡太郎が安心できるように、もし、そんなことは考えたくもないんだけど…匡太郎が本当に最後の時を迎えた時は、弟が安心して逝けるように強い兄になるんだって決めていたじゃないか。
 なのに…どうして今この僕は、弟を死なせてしまいたくないと思っているんだろう?
 どうしてだろう?
 僕は、目の前の匡太郎の背中を見つめながら、最後の時なんかこなければいいのにと思っていた。
 大人っぽい仕種をするようになった弟の本当の安らぎが死であるのなら、兄である僕は懸命にその術を探してあげなければいけないのだろう。
 でも…噛み締めていた歯から力が抜けて、僕は居た堪れなくて俯いてしまう。
 僕は、弟に死んでほしくはない。
 まるでフラッシュバックするように脳裏に何かが閃いて、それまで頭の中でモヤモヤしてるものがなんであるのか判らなかったんだけど、僕はその正体が漸く判ったような気がした。
 迷っているなら成仏させてあげないと…幽霊みたいに他の人には見えないってワケじゃなくて、堂々と存在感のある匡太郎だけど、それでも迷って生き返ってしまったのなら成仏させてあげないと…バカみたいにそんなことばかり考えていることに、僕は引っ掛かっていたんだ。
 どうして成仏させないといけないんだろう?
 弟はこうして息こそはしていないけど、ちゃんと目の前に立って歩いてると言うのに、どうしてもう一度殺さなくちゃいけないんだろう?
 僕は、怖いとかそんな感情ではなくて…この島から逃げ出したいと思い始めていた…

死人返り 6  -死人遊戯-

 遺体の収まった棺は、こんな船でホントに大丈夫なの?と聞きたくなるような小さな船をグラリと傾がせながら、船底を叩くような重い音をさせてゆっくりと積み込まれているようだった…と僕が言うのも、ガタガタと震えながら必死で弟の腕にしがみ付いていて、本当はよ
く見ていなかったんだ。
 弟はそんな僕の背中を片手で抱くようにして身体を潜めながら、興味深そうにその一連の行動を見守っていたから、その時の様子は実は匡太郎に聞いたんだ。
 は、早く終わってくれないかな?とか、もし、遺体が動いたらどうしようとか、目の前に動く死体である匡太郎がいるってのに、僕はその恐怖の対象にだってなり得る弟に抱きつきながら、こんな時に限って遅々として進まない時間や恐怖と戦っていた。
 僕よりも年下の弟である匡太郎はこんなに平然としてるのに!ホントはちょっと恥ずかしいんだ。ううん、きっと凄く恥ずかしい…でも、それよりも僕は、真新しい棺桶の中で眠っている国安の友達のお姉さんの死体が動き出しませんように!と、真剣に祈っていた。そん
な僕の気配を感じたのか、匡太郎は安心でもさせようとしているように、軽く僕の背中を叩いてくれたから…どうしてだろう、それだけで少しホッとできたんだ。
 それで、唐突にハッとした。
 今までは死体とか、毛布の向こうから聞こえてくる奇妙な唸り声だとか…あとでその声は読経だったって教えてもらったんだけど、僕はそんなものに怯えて竦んで、状況を把握することなんか丸っきりできる状態じゃなかったんだけど、匡太郎が励ますように上からギュッと抱き締めるようにしてくれてホッとしたもんだから、唐突にその事実に気付いたんだ。
 毛布の向こうの様子を伺いながら僕の心配をしている匡太郎の、普通の人間の体温よりも低い、冷たい肌の感触を薄いTシャツ越しの背中に感じたら、心臓の音が伝わらない不自然な感覚に早鐘を鳴らすように鼓動が早くなった。

 ドキッと、心臓が跳ね上がる。

 僕は…こんな時なのに、弟に怯えているのかもしれない。
 そんな僕の馬鹿な考えなんかお見通してなのか、匡太郎は覆い被さるように抱き締めてきながらふと、笑ったみたいだった。
 今まではスッカリ忘れていたんだ。
 匡太郎は、身体はたぶん死んでいるんだろうけど、なぜか呼吸している。
 それはきっと匡太郎が生きていた時の記憶が無意識の行動として起きている現象に過ぎないんだろうけど、そのおかげでまるで生きているように見えるんだ。だから僕は、きっと忘れていたんだ。
 その上に僕は、その弟に怯えてるんだから…僕と言う人間は…なんて、なんて無責任なヤツだろう。
 キュッと唇を噛んで、冷たい船底に頬を摺り寄せるようにして瞼を閉じたら、笑った匡太郎の吐息が首筋を掠めたんだ。
 コッソリと真上から僕を見下ろしているんだろうな…今の僕は、いったい匡太郎にどんな風に写っているんだろう?

「…光太郎、怖い?」

 毛布が阻んだ匡太郎の声は、もちろん外に聞こえるはずはないんだけど、それでなくても負い目に苛まされて竦んでる弱虫な僕の耳には思った以上に近くで聞こえたその声は予想以上に大きかったみたいで、ビクッとして振り返りそうになってしまった。でもそれはすぐに匡太郎の大きな掌に遮られて、どうやら毛布を動かして外の人たちに僕たちの存在を知らせないで済んだみたいだ。

「…ごめん」

 コッソリと謝ったら、大丈夫だとでも言うように頭に何か柔らかいような固いような感触が触れてきて、それが匡太郎の頬だと言うことに気付いた。
 温もりがあれば…すぐに頬だって気付けたはずだ。
 僕は…僕があの公園に約束通り行っていたとしたら、たぶん、弟があの暑い熱帯夜の公園で殺されることもなかっただろうし、こうして蘇えることもなかったんだと思う。そう思うと、やっぱり罪悪感が襲ってきて、僕は息苦しくなる。ましてや毛布なんか被っているからもっと息苦しくて…でもそれが、匡太郎がこの暑いのに抱きついてきているから…なんてことはないよね?
 さっきまで抱きついていたのは僕のほうなんだし、安心させてくれようとしている弟に…弟に安心させてもらってる兄貴ってのも情けないんだけど…振り払うのも申し訳ないし、と言うよりも、安心しきってる僕からこの柔らかな締め付けを奪うのは酷だと思う。
 さっきまで怖がっていたのに…僕ってばホントに現金なヤツだ!

「こちらこそ。怖がってるって知ってたんだけど…」

 匡太郎がクスクスと笑う。
 囁くと耳元に微かな息が触れて…こうしてると、本当に生きてるみたいなのにな。
 匡太郎の身体は冷たいままで、心音も背中に伝わってこない。
 どうしよう…泣きたくなってくる。
 鼻の奥のほうがツンとしてきて、じわりと目の縁に何かが盛り上がる感触がしたら、やけにご機嫌な弟の声が聞こえてきた。

「こうして抱き締めてると、アニキは温かいね。オレは冷たいけど、ほら、アイスノン代わりになって暑い夜には最高だろ?」

 何が楽しいのか、今夜の匡太郎はすごくご機嫌だ。
 僕は申し訳なくて泣き出しそうなのに、僕の様子にホントはちっとも気付いていなかった弟は陽気に笑って抱き締めてくる。
 冷たい身体がアイスノン代わりだって!?どこからそんな発想が浮かんでくるの?
 どこに自分の身体を代用品に喩える人がいるんだよぅ…
 泣きたいし笑いたいし…僕は本当にこの弟に救われてるんだと思う。
 どうして僕は、こんなに優しくて楽しくて、頼りになる弟をあんなに嫌っていたんだろう?
 きっと、他の誰よりも理解のできない苦痛に責め苛まれながら、日々を怯えて過ごしているに違いない、まだたったの17歳で、人生にけして訪れることのない最大級の災難に見舞われている弟の、その苦痛を理解してやることもできずにただ甘えてばかりいて…最低のお兄ちゃんでごめんね。
 僕は、抱き締めてくる弟の腕に縋り付くようにして頬を寄せながら、小さく笑ったんだ。

「ホントだ。気持ちいいね…」

 呟いたら、匡太郎はそうだろ?とでも言いたそうに嬉しそうに笑ったみたいで、その仕種が僕にはとても切なかった。でも、今の僕には切ながったり悲しがったりばかりしているワケにはいかないんだ。
 …と言うことを、今更ながら匡太郎のウキウキした声音で思い出させられてしまった。

「ホラ!国安さんだ。そろそろ未知の船出に出航…道中、お気をつけて」

 まるで他人事みたいに意地悪く呟く匡太郎の一回りは大きな身体の下で、僕は恐怖に竦んでしまっていた。
 これから赴く場所は死体が消えちゃう未知の島で…わーん、国安が乗り込むまではへっちゃらだったのに、僕は途端に怖くなって匡太郎の腕に今以上に強い力でしがみ付いてしまった。

「…では、渡し守。本日、滞りなく…」

 外でボソボソと話し声が聞こえると、渡し守の役をしている国安が礼をしてから、ギシッと小船を軋ませて乗り込んできた。そうして、彼はオールで砂浜を押し遣るようにして海へと漕ぎ出したんだ。
 潮風を感じたのは匡太郎がソッと毛布を捲って顔を外に出したからだった。
 バックンバックン高鳴る心臓を押さえながら一緒に顔を出してみたら、忘却の川の渡し守のような格好をした国安がフードの奥からボソッと呟いたんだ。

「期待してくれるのは有り難いんだけど、もう少し隠れててくれよ。あと少し漕いだら、村人はそれぞれの家に帰るから…」

「OK」

 軽く呟いてから、匡太郎は僕の頭を押さえるようにしてまた船底にへばりついたんだ。
 これから行く波埜神寄島にはもしかしたら、ゾンビがうじゃうじゃいたらどうしよう…
 匡太郎みたいに生きてる人と体温とか肌の色とかが少し違うぐらいで、まるで生きてるのとちっとも変わらない姿なら僕だって耐えられる…でも そこまで考えていたら、頭上から匡太郎の声が降ってきたんだ。

「大丈夫。アニキはオレがちゃんと守るから…いや、アニキに守ってもらうんだっけ?」

 クスクスと笑って、匡太郎の鼻先が僕の頭に触れてくる。
 馬鹿にされてるってことは判るけど、それでもそんな匡太郎が傍にいてくれてるって思うと強くなれるのは、現金な僕の性格の成せる業だと思うよ。

「ぼ、僕が守るに決まってるだろ!」

 声が裏返っていまいち様にならないんだけど…バツが悪くてモジモジしていたら、国安が声を押し殺したような低い声で笑っているのが聞こえてきた。

「どっちもどっちだって。大変なことなんてなんにも起こらねーよ。文献探しに時間がないってだけさ」

「言えてるね」

 匡太郎が爆笑するから、僕はムッとしてその腹に肘鉄を食らわせたんだ。
 怖がってるのは僕だけって言いたいんだろ!?くぅ~!!!
 僕は負けないぞ!
 絶対に匡太郎を守ってみせる!!
 僕は決意しながら、波に揺れてゴツンッと船底を叩く棺桶に怯えながら匡太郎の腕にしがみ付いた…ってこれじゃ、ちっとも説得力がないよ。
 肩を揺らして笑う匡太郎の気配に国安も気付いたのか、波の音に混じって笑い声が聞こえてくる。
 僕って…いや、こんなことじゃもう落ち込まないぞ。
 波頭を蹴って走る小さな船は、そんな三者三様の思いを乗せて波埜神寄島に向かって進んでいた。
 僕たちは…いや、この僕は。
 本当に匡太郎を救ってあげられるのだろうか…?
 一抹の希望のような思いは、波音に消される匡太郎の呼吸のように儚いように思えていた

死人返り 5  -死人遊戯-

 午前零時を少し過ぎた真夜中の海辺は、人っ子一人いなくて寂しかった。
 今頃、土葬の習慣があるこの村の唯一の墓場である神寄憑霊園に村民が全員、集結しているはずだ。
 今年死んだ、国安の友人の姉さんの遺体を巫女が清め僧侶が経を上げると、真新しい古風な桶に入れる。
 それが1時間30分と少しかかる。
 その間に木製の船に乗り込んでおく…ってのが、今の僕たちの使命だ!…って言っても、死体と一緒に船に乗るなんて、きっといい気分のワケがない。絶対、ない。

「…死体と一緒に乗るのってどんな気分なんだろう?」

「気持ち悪いんじゃない?」

 普通なら…と呟いて、そんな匡太郎は特別気にした様子もないようで、却ってそんな弟に僕はなんとなく勇気づけられた。

「俺も死体なんだけどなー」

 あっけらかんと笑って言われて、僕は唐突にハッとなる。
 思わず匡太郎を見上げて…それから目線を伏せてしまう。
 何を言ったらいいんだろう。こんな時、普通、他の人はなんて言うんだろう…
 僕は溜め息をつく。
 冷たいって言うのは…きっとこんな風に、人の心を理解できない僕のこの優柔不断さを言うんだろうな。

「ごめん」

 俯いて呟くと、匡太郎はなぜか唐突にそんな僕の顎を掴むと、有無も言わせずに上向かせたんだ!

「???」

「ご、ごめん」

 ビックリしていると、匡太郎の方がもっと驚いたような顔をして、それからバツが悪そうにニヤリと笑って謝ったんだ。

「急に黙り込んだかと思ったら突然謝るんだモンなー。俺、ビックリしちゃったよ」

 顔を覗き込みながらバツが悪そうに笑うから、僕も思わず釣られたように小さく笑ってしまう。その顔を見てホッとしたのか、匡太郎は掴んでいた手を離すと肩を竦めて満天の星空を仰いだ。
 降ってくるような星空が、今夜は良く晴れていることを物語っている。
 天の川が見えて…ああ、どれくらい僕は、こんな星空を見ていなかったのかな。

「綺麗な星空だよなー」

 匡太郎が呟くように言った時、唐突に風が吹いて、木の葉のように小さな船がグラリッと揺れる。船は…と言うか、乗り物全般が苦手な僕としては、そんな風に揺られてしまうと。

「?」

 思わず傍らにいる弟にしがみ付いてしまう。
 僕の方が兄貴なのに、恥ずかしいなぁ…

「アニキってさ、昔からそうなんだよな。幽霊とか、ジェットコースターとか苦手で…それであんた、何が楽しくて生きてんの?って俺、ずっと不思議だったんだ」

 不意に僕の肩を抱くようにして揺れから庇ってくれながら匡太郎が淡々と話し出したから、そんな弟を見るのは初めてだったし、もしかしたら離れていた1年間のことも何か聞けるんじゃないかって他力本願な思いで僕は匡太郎を見上げていた。

「楽しいことにホント、興味なくってさ。しょっちゅう本を読んでるか勉強してるぐらいで、そのくせあんまりテストの点とか良くなくて…」

 なんか、言いたい放題言われてないかな?僕。

「でも、アニキ。動物に優しいんだよ。ってゆうか、なんに対しても優しすぎるんだろうな。親父がほら、動物嫌いで何も飼えなくってさ。でも、アニキは何も言わないんだ。そのくせ学校で飼ってるウサギだとかニワトリの飼育当番、自分から進んでやってたのってアニキぐらいだった。俺、知ってるんだぜ」

 僕は驚いて瞠目したんだ。
 どうしてそんなことまで知ってるのか、理解できなくてたぶん、動転したんだと思う。
 だって、飼育当番はみんなが帰ってから、コッソリと学校に忍び込んで誰にも内緒でしていたってのに、どうして匡太郎が知っていたんだろう?放課後になると友達とサッカーだとか野球とかに出て行ってた匡太郎が、どうしてそのことを知っているの…?

「アニキが可愛がっていたウサギとかニワトリとか、その、殺されちゃっただろ?光太郎さ、すごく落ち込んでて…だから俺、コッソリ犯人捜ししてたんだよ。知ってた?」

「ええ!?み、みんなが噂していたからなんとなくは知っていたけど、本当に匡太郎だったの!?」

「うん…」

 テレテレと照れ臭そうにはにかむ匡太郎の顔を見て、僕はまた泣きたくなったんだ。
 あんなに嫌っていた弟が、本当は1番の理解者だったなんて…僕はなんてバカだったんだろう。

「違うよ、匡太郎。僕は優しくなんかない。本当に優しいって言うのは、匡太郎のことを言うんだよ」

 呟いて、久し振りに僕は弟の凭れかかった。
 僕なんかよりも一回りぐらい身体も大きくて、誰の子なんだと疑いたくなるぐらいハンサムな顔をしている僕の弟。
 弟ってだけでも不思議なのに、どうしてこんなに優しいんだろう。
 僕とは大違いだ!

「それは違うよ、アニキ。へっへっへ。俺はちっとも優しくないんだよ~?これからアニキには心構えを作っておいてもらわないと困るからね」

「…へ?」

 思わず首を傾げて見上げると、月明かりの下、匡太郎はニヤッと人の悪い笑みを浮かべてこう言ったんだ。

「決まってるだろ?幽霊すら怖がる光太郎だ。これから死体と2時間もの船旅なんだよ?心構えも必要でしょ。腐敗臭とか」

 眩暈がした。
 思わず倒れそうになると慌てたように匡太郎が捕まえて、青褪めたままで目の焦点が合わない僕を心配そうに覗き込みながら言うんだ。

「冗談冗談!冗談だよ、光太郎!国安さんの話しだと、『御霊送り』にする遺体は予め決まってるらしいんだ。その遺体は蝋とか…なんか古来から村に伝わる防腐剤らしきものを塗りたくられてるんで腐ることはないんだそうだよ。匂いとかもあんまりしないって言ってたし」

「それ、ほ、ホント?」

 恐る恐る訊ねると、匡太郎は安心させるようにニッコリ笑って頷いた。
 …いまいち、信用できないんだけど。
 匡太郎がこの顔をする時は、本当は自身がないときなんだ。
 ああ、忘れていたけど僕、本当は郷土文化って好きなんだけど、どうしてもこの土着の風習…それも死体だとか甦るとか…そう言ったものには弱いんだよなぁ。ゾンビとかも…怖い。
 でも確かに匡太郎は死んでるんだけど、怖くない。
 これがゾンビだったら…僕はどうしてるんだろう。
 本当だよ、とわざとらしく笑う匡太郎を見上げて、僕は違った意味でどんな表情をしていいのか判らなくて小さく笑うことしかできなかった。
 何を言ったらいいのか判らない、ちょうどそんな僕的に気まずい気分の時に、雑木林の向こうが明るくなった。

「ヤバイ!連中が来たよ、光太郎!隠れよう」

 ガバッと、毛布を頭からすっぽり被せられて、僕は後頭部を匡太郎に抑え込まれながら船の底にへばり付けられてしまったんだ。
 僕たちの目の前に棺桶 が置かれるんだ…ひぃぃ~
 ドキドキしながら僕は匡太郎にしがみ付いていた。

死人返り 4  -死人遊戯-

 グラスとお菓子の乗ったトレーを片手に、よく冷えたコーラのペットボトルを掴んで戻ってきた国安は、少し疲れたような表情をしていた。懐いてくる弟たちを振り切ってここまで戻ってきたのかな?いつもは格好をつけてる髪が、ものの見事にグシャグシャだ。
 僕は思わず笑ってしまったけど、国安に胡乱な目付きで睨まれて俯いた。それでも肩が震える。
 だって、大学の国安とは大違いだから。
 女の子をナンパすることが生き甲斐で、けっこう見られる顔をしてるからそれなりに取り繕ってるのに、今の国安を見たらまるっきりただの兄ちゃんだ。同じ学科の美紀ちゃんが泣いてしまうよ。噂では国安のシンパの1人だって言うのに。

「お前さ、ちょっと笑いすぎ」

「そりゃ笑っちゃうよ。なんだい、その格好」

「Tシャツと短パンで何が悪い。おらおら、お前たちもぼぅっとしてないで着替える着替える!」

 どっかりとペットボトルを直接床に置いた国安に、匡太郎と僕は追い立てられるようにしてボストンを投げられた。
 そんなにモノの入っていないボストンを受け取って、匡太郎は僕を見下ろすと仕方なさそうに肩を竦めてるんだ。困ったような表情が、ワガママな匡太郎にしては珍しいな。
 僕が思わず笑っちゃうと、匡太郎は訝しそうに眉を寄せて見下ろしていたけど、肩を竦めただけで別に何も言わなかった。
 …で、結局は国安の思い通り着替えて寛いだ僕たちは円座を組んで部屋の中央で胡座をかいている。男が三人で顔を突きつけるってのは…あんまり色気のあるものじゃないよね。だからって国安の妹の乱入があっても困るんだけど。

「兄ちゃんたちは大切な話をしてるの!母さーん!由紀をここに来させるなッ!」

 追い出して叫ぶ国安に、遠くの方でお袋さんの豪快な笑い声が聞こえて、小さな子供の泣き声が遠ざかっていく。障子を閉めてぐったりと座り込む国安に、匡太郎がクスクスと笑った。

「面白いほど賑やかな家族だな」

「放っておいてくれ」

「嫌味じゃないんだけど…」

 クスッと笑う匡太郎に、国安がバツの悪そうな顔をして肩を竦めた。下唇を突き出して、そんな表情をするとさっきの由紀ちゃんによく似てる。
 さすが兄妹。

「さて、本題に入ろうぜ!」

 半ば自棄になって話題を変えようとする国安を、僕と匡太郎は顔を見合わせて笑った。笑って、僕は気付いたんだ。
 この島に来てから、僕はやけに素直に笑えてる。
 あれほど嫌で、逃げ回っていた弟とこんな風に和やかに会話ができるなんて…失ってみて初めて気付いた大切なものを、僕はもう二度と手放すつもりはなかったから必死だったのかもしれない。
 匡太郎と肩を並べて歩いても、今の僕なら、あの中学生や高校生だった頃のように恥ずかしいとかそう言った感情はもうないし、喜んで歩けるかもしれない。
 そんな風に思えるのは、きっと、本当は酷く閉鎖的で気が滅入りそうになるはずのこんな村でも、ちっともめげることなく大らかに生きている国安家のお陰なんだろうなって思う。
 匡太郎も近頃よく見せていた奇妙な、あの大人びた表情が少し鳴りを潜めてるみたいで、警戒心が和らいでるのかも。

「結局、俺たちは深夜にあの島に行って、夜明け前にこっちに戻って来ないといけないんだ。その間の時間は7時までに戻るとして、3時間ぐらいしかない」

「7時で大丈夫なのか?田舎の朝は早いって言うけど…」

「大丈夫だ。この日だけは、みんなの起床は9時きっかりだと決まってる」

「…はぁ、なんかそれもすごい話だよね。脈々と受け継がれてるんでしょ?」

 僕は思わず2人の会話に割り込んでしまって、ちょっと溜め息をついた。
 だって、すごいと思わないかい?100年以上も昔から、この島の人たちはひっそりとこの行事を続けてきたんだよ。僕たちなんかが介入できない、この島にだけ受け継がれる神秘の営みに、本当に入り込んでもいいんだろうか…いや、僕はもう偽善者になることはやめたんだ。
 弟の秘密が判るのなら、どんなことだってしてみせる。
 それは償いだし、何よりも兄としては当然のことだと思うから。

「受け継がれてるけど…まあ、俺としては実際の話。こんなのは下らない風習だと思うんだよ」

 匡太郎は無言で国安の顔を見詰めたけど、僕としてはどうしてそんなことを言うのか判らなくて首を傾げてしまった。

「考えてもみろよ。骨すらも残らないんだぜ?棺桶ごとなくなっちまうんだからな」

 残された遺族を思えば…なるほど、それはそうかもしれない。

「うんざりしちまうよな?時代は21世紀に入って、都会じゃやれインターネットだケータイだって文明の利器を叫んでるのに、この村はいつまで経っても昔の因習に縛られたままなんだ」

 溜め息をつく国安は、時代の流れに取り残されていく自分の故郷を心配してるんだろう。
何か名物になるものでもあれば観光地として生き残ることもできるかもしれないけど、こんな閉鎖的な村では、いずれ過疎化が進んで国安の故郷はなくなってしまうかもしれないんだ。

「…」

 匡太郎はなぜか、唐突にどこか痛いような表情をして下唇を軽く噛んだ。
 綺麗な色素の薄い髪がハラッと額を横切って、長い睫毛が縁取る同じように色素の薄い瞳が微かに伏せられた。いつの間にかそんな大人びた表情を覚えてしまった僕の弟は、いったい今、何を考えてるんだろう?

「…どうしたの?匡太郎」

 僕が顔を覗き込むと、匡太郎は色素の薄い、綺麗な透明感のある目で僕を見つめ返して小さく、本当によく見ていないと見落としてしまうほど小さな笑みを浮かべたんだ。

「何でもないよ」

 と呟いて国安を見ると、彼はなんだかバツの悪そうな顔をして視線を外してしまった。そんな態度を見ても、僕にはまだ2人が醸し出しているこの奇妙な雰囲気の意味が判らなかった。
 不思議そうに首を傾げると、国安は舌打ちして匡太郎の脇腹を刺した。
 そう、手刀でサクッと。
 あう…と痛そうに眉を寄せた弟に、国安は首を左右に振ってやれやれと呟いた。

「匡ちゃんは鋭いなぁ。兄ちゃんも少しは見習わないと悪い奴に騙されちゃうぞ」

 溜め息をついて子供扱いする国安にムカッとする僕に、弟は刺された脇腹を擦りながら子供らしい顔でニコッと笑うと、僕の肩をギュッと抱きかかえて親指を立てるんだ。

「大丈夫。俺がちゃんとアニキを守るから!」

 弟に守られる兄…冗談じゃないぞ!

「弟に守られる兄なんかいるもんか!僕が匡太郎を守るんだッ」

 怒鳴り散らすと、弟と国安は目を丸くして顔を見合わせたが、どちらからともなく噴き出しちゃって匡太郎はギュッと僕に抱きついてきた。

「守って!お兄ちゃんvどこまでもついていくから!!」

 頬擦りしてくる匡太郎にギョッとしながらも、目の前で腹を抱えて笑う国安を睨みつける僕は、それでもなんだか嬉しくて思わず笑ってしまった。
 いつの間に、最初はあんなに犬猿の仲だった国安と仲良くなっちゃったんだろう、匡太郎は。でも、もともと人懐こい性格だったから、ここの家族に打ち解けちゃったんだろうなぁ…
でも、それもいいか。
 僕は幸せな気分で…あれ?何か忘れてるような…
 なんだっただろう?
 …んーと、ま、いっか。
 僕は弟を首に齧り付けたまま、炭酸の弾けるコーラを咽喉に流し込みながら、本当は単純な僕はよく考えもせずにそのことを忘れた。
 僕が冷たいって言う本当の理由は…この忘れっぽさにあるのかもしれない。

死人返り 3  -死人遊戯-

 僕たちは電車と連絡船を乗り継いで神寄憑島に辿り着いた。車中ではまるで子供のように騒いでいた匡太郎と国安は、今は黙り込んで驚くほど静かだ。
 閉鎖的な村は国安の帰りは歓迎したものの、僕たちの存在は軽く無視されてしまった。それどころか、まるで嫌なものでも見るような目付きをしてコソコソと隠れてしまうんだ。
 だから匡太郎が怒って無言なのかと言うと、どうもそうではないみたいで。
 たぶん匡太郎も、僕がさっき感じたあの奇妙な違和感が原因で無口になってしまったんだと思う。

「壱太さま、よくぞお戻り下さいました」

「壱太さま」

 口々にそう言っては恭しく頭を下げる村民に、僕と匡太郎は面食らってしまったが、国安は苦虫を噛み潰したような表情をして適当に言葉を返していた。
 渡し守の役目…と言うことからでもなさそうなその村民の態度は、まるで昔からそうだったようにやけに自然な口調だったんだ。

「昔からなんだよな…別に村長の息子とかでもないのに」

 ポツリと国安が口を開いたんだけど、まるで僕の心中を透かし見たようなその台詞にドキッとしながらも、石造りのデコボコした緩やかな坂道を登りながら、僕は匡太郎と顔を見合わせた。

「どう言うことだ?」

 匡太郎が遠慮も臆面もなく口を開くと、肩越しにチラッと振り返って、国安は肩を竦めながら苦笑するんだ。

「言葉のまんまだよ。昔からこの村の住人は俺を『さま』付けで呼んで恭しく接するんだ。なんでかって親に聞いてみたけど、神妙な顔をして時が来れば判る…としか言わないんだよ。息苦しくってさ、それで村を出たってワケだ」

「ふーん。それも何かの言い伝えが原因とか?」

「さあな?俺も気になってそれを調べてるんだが、肝心なところが燃えちまっててワケが判らんのよ」

 わざとらしく溜め息を吐く国安に、匡太郎は視線を伏せて何かを考えているようだった。暫く会わないうちに、匡太郎は酷く大人びたと思う。
 以前のような無邪気さはときおり陰を潜め、思慮深く、ハッとするほど大人びた表情をするようになった。この1年、いったい匡太郎はどうやって過ごしてきたんだろう?誰と知り合って、何に縋りながら日々を過ごしていたんだろう。
 弟を支えてくれた人はいたんだろうか…
 僕は怖くて、まだ弟に空白の1年間のことは聞いていない。

「火事があったのか?」

「ああ、俺がまだガキの頃にな。文献が収められている波埜神寄島のあの社が燃えたんだ。その時、俺の2番目の妹が焼け死んだ」

「そいつは…悪い事を聞いた。ごめん」

 素直に謝る匡太郎に、国安は肩を叩きながら朗らかに笑って首を左右に振る。

「気にするなって。お前今年で17だっけ?だったら沙夜と同い年だな」

 生きていたら…と言って、眩しそうに双眸を細める国安に、それで匡太郎のことを無条件で可愛がるのかと僕は思った。僕は本当に冷たいのかもしれない、国安のことさえもこんなに知らないなんて…

「ほ、ほら!あそこで手を振ってるのって国安のお母さんじゃないのかい?」

 緩やかな坂を登りきった、見晴らしの良い高台に国安の実家はあった。
 旧い旧家の家屋は潮風に晒されながらも年月を積み重ね、荘厳とした佇まいでひっそりとそこに存在している。

「ああ」

 漸く笑顔らしい笑顔を取り戻した国安が腕を振り返すのを見て、僕はホッとしていた。この心の冷たさを知られたくなくて…事勿れ主義、うんざりする。

「あらま、イッちゃんの友達は男前じゃぁねぇ」

 恰幅の良い肝っ玉母さんを地でいっているような国安のお袋さんは、匡太郎を見て感心したようにほっこり微笑んでそう言った。

「電話で話しただろ?光太郎の弟なんだ」

「よう越しなったなぁ。はよう、家に入らんかね」

 嫌がる国安から荷物を奪い取ったお袋さんは、ニコニコと人の好い笑みを浮かべてガラガラと横引きのドアを開いて少し暗い室内に促してくれる。
 夏のキツイ陽射しの下から家の中に入ると妙にシンとして、一瞬暗くなったような錯覚になる。家屋の中は、ほんの少し潮の匂いがした。

「兄ちゃーん!お帰りぃ」

 唐突にドタドタと広そうな家の中に怒涛のような足音が響き渡って、チビッ子集団が姿を現すと問答無用で国安に飛び付いた。

「うわぁッ!」

 1、2…4人に飛びつかれたら誰だってこけそうになるよ。しかし、国安はもう、本当は予め判っていたんだろうなぁ。その子たちを全員受け止めて、あーあ、思いきり眦を下げちゃってるよ。兄弟思いなんだから…
 そんな微笑ましい光景を見ていたら、ふと傍らに立つ匡太郎に気づいた。
 微笑ましい光景に頬が緩んでいる匡太郎を、僕はこんな風に可愛がってあげることはなかった。小さい頃から当たり前のように傍にいて、懐いてくるのが当然のことだと思っていたんだ。
 僕は1度も、匡太郎を可愛がってあげたことはない。
 唐突に気付いて、不意にドキッとしたんだ。
 僕は、なんて冷たかったんだろう。
 兄だと思って甘えていたのは、本当は僕だったのかもしれないね…
 その弟が死ぬなんて…でも、死んだはずなのに目の前にいる。現時点でも、本当は既に死んでいるのに…そんな風に穏やかに笑っていると、まるで嘘みたいだね。
 夢でも見ているような気がするよ。

「よ、兄貴が帰ってくるなんて珍しいな」

 物思いに耽っていた僕を現実に引き戻すような声は、短パンにTシャツ姿の中学生ぐらいの少年のものだった。彼は一番最後に奥から出てきてアイスをぱくつきながら壁に凭れかかると、つまらなさそうに呟いた。

「出たな、ガキ大将。コイツは弟の二郎だ。で、この二人は兄ちゃんの親友とその弟だ」

 安直な名前が嫌いなのか、二郎と紹介された少年は不貞腐れた様に唇を尖らせて、それでも母親がニコニコ笑って見守っているから軽く頭を下げて挨拶した。

「こんちは」

「こんにちは」

 僕は笑って挨拶を返したけど、二郎くんの興味はすぐに弟の匡太郎にいったみたいだ。年齢的にはこの中で一番近いから、話が合うといいけど。

「はいはい、兄ちゃんたちを休ませてあげなぁねぇ」

 独特の方言で兄弟たちを散らすお袋さんに促されて、僕たちは漸く居間に通された。
 この島の無愛想な島民に比べて、国安の家族は比較的取っ付き易い。この大家族の中で国安の性格は構成されて、今の彼が存在するのだろう。僕は何となく、この家族に感謝したかった。
 僕のこの暗い性格でも受け入れてくれる国安の、その性格を築き上げてくれてありがとう、と。
 僕たちは先に国安の部屋に行った。
 そこは男3人で寝てもまだ広くて、狭い安アパートで暮らしていた僕としては凄く驚いた。でも、国安は慣れた様子(当たり前だけど)で、お袋さんから受け取っていた荷物を置いて、僕たちにゆっくりしてろよと言い置いて部屋から出て行ってしまったんだ。

「いい家族だよな」

 不意にポツリと匡太郎が呟いた。
 ハッとして顔を上げると、彼は小さく微笑んでいた。
 僕はその表情を見て、何も言えなくなった。
 ただ、微笑んでいるだけなのに、どうしてだろう。
 僕たちはすることもなく、何となく会話を交わしながら国安が来るのを待っていた。
 でも、僕の心の中は穏やかじゃなかったんだ。
 僕は、きっと弟を助けよう。
 そして、今度こそ、可愛がってやるんだ…

死人返り 2  -死人遊戯-

「は?なんて言ったんだ、今」

「だから、その。弟が生きてたんだ」

 僕は昨夜、散々考えた結果、もう素直に言うしかないといった結論を弾き出した。
 突然ファミレスに呼び出され、唐突に打ち明けられた国安は目を白黒させたが「そりゃあ、良かったじゃないか」と半信半疑で喜んではくれた。

「でも、葬式とか出しちまったんだろ?死亡届は?」

 矢継ぎ早の質問に落ち着いてくれと両手を上げて、僕は困惑した表情のままで首を左右に振って見せた。

「ちょっと事情があって、親は知らないんだよ。なぁ、国安。悪いんだけど今度の旅行…」

「あ、ああ。行けなくなったんだろ?いいさ、いいさ。仕方ないもんな」

「違うよ!ゼヒ、行かせて欲しいんだ!その、弟も一緒に…ダメかな?」

 僕の申し出に驚いたように眉を上げた国安は、それでもすぐに快諾してくれた。

 彼は高校の時から一人暮しをしていたから、実家の人は匡太郎のことを知らないから別に連れていっても支障はないんだと言ってくれた。

「光太郎の弟と言うと…あのえらくハンサムなやんちゃ坊主だったよな?兄ちゃん命で、よく睨まれてたっけ」

 懐かしむように思い出す国安は、あれほど、僕のせいなんだけど、邪険にしていた弟をそれでも気に入っていたんだ。実家にいる5人の弟妹の長兄だから、弟と名の付くものは無条件で可愛いのかもしれない。

「あいつ、きっと兄ちゃん会いたさに生き返ったんだぜ。絶対そうだって…おい?どうしたんだよ」

 不覚にも僕は泣いていた。
 突然、涙が零れたんだ。
 止めようとしても、一度零れ出した涙はすぐには引っ込んでくれなかった。

「あ、あれ?変だな。どうしたんだろう」

 僕は慌てて腕で目を擦ったけど、そうすればそうするほど、涙は後から後から溢れ出して堰を切ったように流れ続けるんだ。

「…良かったな、光太郎。どんな理由であれ、もうお前が苦しむことは何もないんだよ」

 国安は駄々を捏ねる子供をあやすような優しさで、僕の肩を軽く叩いて労いの言葉を掛けてくれた。
 でも、違うんだ。
 弟はまだ死んだままなんだ。
 でも生きててくれたんだ。
 でも…何もかも全てが判ったとき、弟は本当に死んでしまうかもしれない。
 もう一度戻ってきてくれて嬉しい…でも、不安で、怖くて…
 この感情は言葉では言い表せないよ。どうしたらいいんだろう。
 僕は、心の底から泣きたかった。
 1年間、ずっと涙が出てこなかった。泣きたくても、まるで涙腺をどこかに置き忘れてきたみたいに、涙は一滴も零れなかった。両親はひっそりと僕を冷たい子供だと言っていたし、近所のおばさん連中も強い子だねぇと嫌味を言っていたけど、僕はそれでも泣けなかった。
 僕は、僕は…自分が本当に冷たいんだと思っていた。
 いや、冷たいのかもしれない…

◇ ◆ ◇

「おい!」

 唐突に、僕の背後で新聞を読んでいた男が立ちあがった。
 僕も国安も驚いて振り返ったが、そこに立っていたのは丸めた新聞を投げ捨てた匡太郎だったんだ。
 掛けていたサングラスを外すと、不機嫌そうに細められた色素の薄い双眸が国安を睨みつけている。

「なんでアニキを泣かせるんだよ!?」

「き、匡太郎!?どうしてここに…」

 思わず声を上げて、店内の視線を釘付けにしていることに気付いてハッとした。
 いくらここが実家から遠い場所にあるファミレスだからって、知り合いがいないとも限らないんだ。僕の知り合いじゃなくても、交際範囲の広かった匡太郎の知り合いがいたら一大事じゃないか。
 弟が生きてることを知ってる人は、そんなにたくさんいたら困る。何れ母さんたちの耳にも入ってしまうから。
 今はどうしたって穏便に行動しないと…

「こらこら、匡太郎くん。兄ちゃんが困ってるじゃないか。まあ、ちょうど良かった。今度の旅行の話をしよう。ほら、君も座って座って」

 国安の憎めない笑顔に気勢を殺がれた匡太郎は、チラッと僕を見下ろすと、不貞腐れたままで僕の隣りに腰を下ろした。
 凄い、さすが6人兄弟の長男!

「本当に生きてたんだな…あれ?でもちょっと感じが変わったかな?」

「そりゃあ、1年も経ってるからね。ところでさ、あんたの実家があるって言う神寄憑島の言い伝えってどんなものなんだ?アニキからそれとなくは聞いてるけど…」

 ザッと観察して鋭く気付く国安に僕はハラハラしたけど、匡太郎はどこ吹く風と言った感じで肩を竦めるだけで、話題を違う方向に導いた。

「ああ、『死人返り伝説』のことだよ。まあ、過疎の進んだ小さな村だからね、奇妙な伝説はわんさとある。俺の故郷では土葬と風葬の習慣があるんだ。盂蘭盆会の時期にその年死んだ一番新しい死体を『御霊送り』するのさ」

「御霊送り?…って、F○10のあれ?」

 どこで知ったのか、匡太郎はテーブルに頬杖をついて人気のRPGの名前を口にした。国安はそれに苦笑で応えながら、首を左右に振ってアイスコーヒーを飲む。

「『御霊送り』って言うのは、俺たちの島から程近い場所にある無人島『波埜神寄島』に、その一番新しい死体を送ることをそう言うんだよ。そこには社があって、死体の入った桶をその社の中に置いておくと、次の年には桶ごとなくなっている。きっと生きかえったんだろう…って言う、まあ良くある話なんだけど」

「ないって」

 匡太郎は呆れたようにそう言ったが、興味があるのか、色素の薄い瞳が好奇心に煌いている。

「その島には『憑黄泉さま』がいらっしゃるんだそうだ」

「憑黄泉?」

 僕も初めて聞く名前に声を出すと、国安は小さく頷いて先を進める。

「遠い昔、神である憑黄泉さまが波埜神寄島に流れつき、神寄憑島の死体に悪さをしていた鬼を懲らしめてくれたんだそうだ。だが鬼は死ぬときに神寄憑島に呪いをかけた。盂蘭盆会までに一番最後に死んだヤツの肉体に乗り移って復活する、ってな」

「それで『御霊送り』なんだね」

「そう。憑黄泉さまに浄化して頂くんだとよ」

 自分の故郷の言い伝えだと言うのに、国安は丸っきり、頭から信じていないのか、苦笑しながら肩を竦めたけど、不意に難しい顔をして黙り込んだ匡太郎に気付いて首を傾げた。

「どうしたんだ?」

「え?ああ、いや別に。面白い話だな、と思って」

 声を掛けられた匡太郎は肩を竦めてそう言っただけで、後はやっぱり押し黙ったまま何も言わなかった。訝しげに眉を寄せながら首を傾げる国安に、僕は慌てて話し掛けた。

「それで、今年の渡し守の役目が国安なんだろ?」

「ああ。正直、気色のいい話じゃないけどな!」

 国安は明らかに嫌そうな表情をして頷いた。
 僕と一緒で、国安はオカルト物がまるで駄目なんだ。
 死体を波埜神寄島に連れて行く『渡し守』の役目は神聖で、たった一人で盂蘭盆会の真夜中の2時過ぎに漕ぎ出し、約1時間かけてゆっくりと連れて行くんだ。
 このたった一人で夜中の2時に死体と一緒、と言うのが気に入らないらしく、僕を誘ったと言うわけだ。つまり、こっそりと乗せてくれるんだ。

「人数は多ければ多いほうが良いからな。その時間、島の連中はありがたいことに全員寝てるから。知ってしまうと駄目だと言う言い伝えもあるんだよ。だからわざと寝るんだ」

 お陰でお前たちを同乗させることができるからいいんだけど、と言って国安は笑った。心底、本当はホッとしてるみたいだった。
 やっぱり僕じゃ頼りないんだろうなぁ、その点で言えば、匡太郎は心強いだろう。
 何事にも豪胆に行動するし、幽霊やその類を丸っきり信じていない、死体は抜け殻だから怖くない、本当に怖いのは人間だと言い切るような、あんまり可愛げのないヤツだから。

「いつ、行くんだ?」

 唐突に黙り込んでいた匡太郎が口を開いた。
 僕と国安は顔を見合わせて、同時に口を開いていた。

「今度の土曜」

死人返り 1  -死人遊戯-

 暑い夜だった。
 その年の異常気象を物語るような蒸し暑い夏の夜、僕の大切な弟は通り魔に殺された。
 死体は無残に切り裂かれ、犯人の異常性を物語るようなこの上ない惨い殺され方だったと、近所の口さがない非常識な大人たちが噂話で教えてくれた。
 判別もできないほどグチャグチャに引き裂かれた顔には何重にも包帯が巻かれていたらしいが、僕はどうしても大好きだった弟の最後の顔、包帯のぐるぐる巻かれたその顔を見てやることができなかった。
 それは辛くて悲しいばかりだけが原因じゃなかったんだ。
 半分以上、罪の意識だった。
 1ヶ月も前から一緒に映画を観に行こうと約束していた。
 高校のクラスでも人気者で、運動神経も抜群で頭も良くて、顔だって誰に似たんだと言いたくなるぐらいのハンサムな、誰からでも好かれる弟とは対照的にスポーツもできない、取り柄と言えば物覚えの良さぐらいの僕には勿体無い彼は、そんな僕を何かと気にかけてくれていた。
 心配だったのかもしれない。
 自分の兄が、いつも優柔不断でふらふらしていたから、きっとすごく心配していたんだと思う。
 あの日の朝も、僕に2枚のチケット見せながら何事もないような爽やかな笑顔をしていた。
 僕なんか誘わずに、気に入ってる女の子もいるんだから彼女を誘えばいいのにと言うと、拗ねたような不機嫌そうな表情をして怒ったっけ。
 その怒りに拍車をかけるように、あの日の朝、僕は弟にこう言ったんだ。

「友達と約束したんだ。だから今日は行けないよ」

 そのチケットの有効期限がその日までだと知っていたから、僕はわざと数少ない友人を誘って無理やり用事を作った。
 怒るだろうな、と思った。
 兄である僕は、いつだって弟の言う事を1番に優先していたから。
 兄弟でもこんなに違うんだと両親に言われ続け、可愛い弟は彼らの期待と愛情を一身に受けて、ある意味、我が侭に育っていた。
 だから僕のそんな行為にもすぐにキレて、チケットを破り捨てると家から出て行ってしまった。
 それでもすぐに携帯に電話がかかってきて、『ごめん』と謝るんだ。
 悪いのは僕なのに。

『高校生にもなって弟と一緒に映画を観てランチして、仲良くお買い物して帰るんだろ?まるでデートじゃねぇか、気持ち悪ッ』

 後で聞いて知ったんだけど、そう言ったクラスメートは、実は彼女を弟に取られて悔し紛れにそう言って僕をからかったんだそうだ。
 知っていたら後悔なんかしていなかったのに…たぶん、それでもやっぱり後悔するような事はしていただろうな。

「遊園地のナイトチケット持ってるんだ。友達と遊んだ後でもいいから、一緒に行こうよ。俺、いつもの噴水の前で待ってるから」

 どこで手に入れてくるのか、弟は魔法使いのように色々なものを持っていては、屈託なく僕を誘う。家に何度か連れてくる彼女や、小学校の時からの親友と行けばいいのに、どうして僕を誘ってくれるんだろう、とそんな風に思い出したのは中学の後期からだった。
 ヘンだと指摘され出したのもちょうどその頃からだったと思う。
 クラスメイトの女の子たちのやっかみ半分の中傷や、彼女を取られて苛々している男子の揶揄も本当は羨ましいだけだって知っていたけど、高校受験で気分のすぐれなかった僕にとっては煩わしいばかりだった。だから、弟離れをしようと思ったんだ。
 でも、弟は離れなかった。
 もう1ランク上の高校だって望めば合格できたのに、わざわざ僕と同じ高校に来て、わざと避けている僕に何かと懐いてきた。いつも通りに。
 あの日も、そうだった。
 いつも通りに懐いてきただけだったんだ。
 そして僕は、いつも通りに彼を邪険にした。
 約束の7時を過ぎても公園の噴水の前には行かなかった。彼は10時過ぎまで待っていたらしくて、諦めたように帰途に着いたのは10時半過ぎだったらしい。
 僕は、何も考えずにいつも通りに突き放した。
 そして、弟は死んだ───…

◇ ◆ ◇

 あれから1年以上が過ぎて、僕は大学生になっていた。
 今は一人暮しをしている。
 弟が死んだあの日から、まるで火が消えたような我が家にいることがとても苦痛だったから、大学から程近い安アパートに転がり込んだ。荷物なんて何もない、殺風景な室内が不思議なほど落ち着く。僕の聖域だ。
 僕は両親たちの反対を押し切って、三流大学の民俗学部に入学した。
 数少ない友人の国安壱太と一緒の大学は、別に示し合わせて受験したわけじゃない。たまたまお互いの希望学部が同じだっただけってことで、まあ、だからこんな性格の僕とでも長く友人を続けてくれているんだろうけど。

「佐伯!おい、佐伯光太郎ってばよ」

 不意に声を掛けられて、僕はハッとしたように傍らで不機嫌そうに眉を寄せて立っている国安を見上げた。

「え?ご、ごめん。どうかした?」

「どうかした?…じゃないって!だから、今度の夏の休みにさ、俺の田舎に行くんだろ?」

「あ、うん。悪いんだけど、お邪魔させてもらおうって思ってる」

「ウチは全然、悪くなんか思ってないって。その代わり、弟妹たちのお守は必須だぜ?」

 国安は腕を組んでニヤニヤと笑ったけど、不意にハッとしたように口を噤んで、バツが悪そうに顔を顰めた。小さな声で「ごめん」と言う。

「気にしないでよ、国安。もう、1年以上も前のことだよ…」

 忘れるには、まだ日も浅い月日だ。だからと言って、国安に失言だと言って腹を立てる気にはなれない。いや、些細なことにも気を遣ってくれるこの友人が、誰よりもありがたいと思った。

「ありがとう、国安」

「何がだよ」

 訝しそうに唇を子供のように突き出す、弟が良くしていた子供染みた仕草に苦笑しながら、不思議と憎めない友人を見上げて僕は笑った。

「国安の実家に泊めてもらうこと。神寄憑島の民俗的な言い伝えにはずっと興味があったんだ。弟さんたちの面倒はもちろん見るよ!」

 僕がニコッと笑うと、国安は幾分かホッとしたように表情を緩め、偉そうに胸を張りながらよしよしと僕の頭を撫でた。

「聞き分けが大変宜しい。そうでなくっちゃね」

「何を言ってるんだか」

 僕が笑うと、国安は人の悪そうな笑みを浮かべて行ってしまった。

 この友人と話をしていると、僕は良く笑う。
 弟と一緒にいるときは、いつも俯いてばかりいるのに…
 でも、僕は良く考えてもいなかった。そんな風に、俯いてばかりいた僕のことを、弟はその時、いったいどんな表情をして見つめていたんだろう。
 彼のことを省みることもせずに俯いてばかりいた僕、それはきっと、この罪を背負うには充分な理由だったのかもしれない。
 殺風景な部屋に戻った僕は電灯を点けると、コンビニの袋を小さなコタツ兼用のテーブルに投げ出して、センベイ座布団の上に胡座をかいて座った。
 午前1時過ぎだといいテレビもしていないけど、適当なチャンネルに合わせて旧式の冷房のスイッチを入れた。ガタガタと音を立てて動き出す冷房の風も、あんまり役に立ちそうもない蒸し暑い夜だった。
 この安アパートは、安いくせに風呂とトイレだけはちゃんと常備されているんだ。そういった物件を探した賜物かな。
 その代わり、築年数はかなりいってたりする。
 いいんだ、住めればそれで。
 バイトはハードでキツいけど、それでも何もせずにジッとしているよりも時間が有効に過ごせる。親に頼り切ることもできたけど、条件として実家から通うのだけは勘弁して欲しかったから、2・3件のバイトぐらいなんてことはなかった。
 風呂に入ろうか、それとも先にコンビニの弁当にしようか…僕がそんなことを考えていたちょうどその時、突然、ドアがノックされた。
 ドキッとする。
 こんな真夜中にいったい誰が来るんだろう?
 薄いアパートの木のドアにはスリ硝子が嵌め込まれていて、切れかけた電灯にチラチラと人影が浮かび上がっては消える。

(人…?)

 どうやらちゃんとした人間のようで、僕は幾分かホッとして立ちあがった。
 そうこうしてる間でも、ノックは続く。
 気短い人なのか、だんだんと大きくなっているような気がする。
 こんな安アパートだと音が響くし、追い出され兼ねないから僕は慌ててドアを開けた。開けて…固まってしまった。

「よ。元気してたかい?光太郎」

 弟は、あの頃と少しも変わらない屈託のない表情をして笑っていた。

「わっ!?光太郎!?」

 これは酷い悪夢なんだと、僕は後ろに倒れながらぼんやりと考えていた。

◇ ◆ ◇

 それでもすぐに意識を取り戻した僕は、弟の腕に抱き上げられていることに気付いてギョッとした。これは誰かの悪い冗談じゃないのかと叫びたかったけど、彼のやわらかな特徴のある猫っ毛や、色素の薄い瞳の色は、確かに懐かしい弟だった。
 死んだはずなのに…でも僕は死体を直接見ていない。
 母さんたちは見たけれど…あれは人違いだったのか?
 そんな、まさか…

「お、目が醒めたか?突然だったからさ、驚いたんだろ」

「き、匡太郎?」

「うん、そうだよ。どうしたんだよ?弟の顔を見忘れちゃったのかい?薄情だなぁ」

 愉快そうにクスクスと笑って鼻先を僕の頬に擦りつけてくる。弟のこの癖は、あの頃からちっとも変わっていない。

「ひ、一先ず降ろしてくれないか…?」

 部屋の中央まで来たのに降ろしてくれようとしない弟に、僕は慌てたようにそう言って降りようとした。

「やだよ。せっかく光太郎を久し振りに抱き締めてるのに…もう少しこのままでもいいだろ?」

 お姫さまのように横抱きにした僕の身体を抱き締めるようにして頬を摺り寄せてくる弟に、不思議と気持ち悪いとか、怖いと言った感情は湧いてこなかった。幽霊や、超常現象にめっぽう弱い僕だというのに。

「…生きていたのか?」

 恐る恐る訊ねると、弟の茶色い瞳が一瞬だけ影を落とした。

「判らないんだ。気付いたら包帯が顔中に巻かれていて、ドライアイスとか入った棺桶の中だった」

「あの日。生きかえっていたのか!?じゃあ、どうして黙って出て行ったりしたんだ!」

 思わず大きな声で怒鳴って、僕は慌てて口を噤んだ。真夜中の1時を過ぎているのに、大声なんか出していたら隣りの住人から怒鳴り込んで来られる。ここが壁の薄い安アパートってことを忘れないようにしないと…

「普通なら棺桶の周りに人がいるもんだけど、あの日はちょうど皆いなくてさ。こっそり出ていったんだ。サンドバックを身代わりにして」

 淡々と語る弟に、僕は開いた口が閉まらないほど唖然とした顔で覗き込んだ。
 逃げるように家を出て行ったのか?なんで、そんな必要があったんだ!?
 いや、ちょっと待てよ。
 確かにあの日、僕は家族で弟の骨を拾ったんだ。アレは夢でも幻でもない…サンドバックが身代わりなんかになるわけがない!

「嘘だ!僕はお前の骨を拾ったんだよ!?白木の箱に収まった骨壷はあたたかくて、まるでお前のぬくもりが腕の中に帰ってきたみたいで凄く不思議だった。あんな思い、もう二度としたくないって思ったんだ。だから、僕の記憶違いであるはずがないよッ」

 僕が必死で見上げると、弟は少しだけ驚いたような、切ないような…とでも複雑な表情をしながらも、嬉しそうにはにかんだんだ。

「スゲーな。光太郎がちゃんと俺の顔を見て話してるなんて、どんな奇跡より嬉しいよ」

 そんな、ささやかなことぐらいで嬉しそうな顔をして、はぐらかそうとしたってダメなんだからな!僕は、いったい誰の骨を拾ったんだ!?

「えーっと…まぁ、本当は病院の霊安室で目が覚めたんだよね。ちょうどその時、院内を徘徊していたら解剖用に身元不明の死体があってね。その、拝借したと言うかなんと言うか…」

 歯切れの悪い弟なんか初めて見るけど、僕はポカンッとしてあんぐり口を開いてしまった。

「じ、じゃあ、あの日病院が騒いでいて…暫くニュースになったあの事件の犯人って…」

「そ、俺」

 匡太郎はバツが悪そうに肩を竦めて溜め息を吐くと、観念したように頷いたんだ。
 え…でも、生きてた??
 生きていたんだったら…

「どうして、素直に生き返ったって言わなかったんだ!?」

「…ねえ、アニキ。俺の心臓の音を聞いてごらんよ」

 僕の凄い剣幕に少し圧倒されたような弟は、それでも酷くゆっくりとした口調で、僕の嫌になるぐらい重いイメージしかない黒髪に口付けてそう言った。
 心臓?
 僕は慌てたように抱き上げられたままで弟の心臓のある部分に耳を当てた。
 心音が───…しない。
 どう言うことだ?

「ね?これじゃ、嫌でも出て行かざるを得ないだろ?心音がしないなんて、よくて何かのモルモットにされちゃうよ」

「一理あるかも…でも、どうして…?」

 それ以上言葉の続かない僕に、匡太郎は苦笑を洩らして首を左右に振った。

「俺にもよく判らないんだ。この1年、色んな事をしながら、たぶん、生きてきたんだけど…なんの情報も得られなかった。風の噂で光太郎が一人暮しを始めたって聞いて、逢いたくてさ…いや、正直アニキを頼ろうって思ったんだ」

「僕を?」

 一瞬だけ思い詰めたように視線を伏せた匡太郎は、それでもすぐにいつものお調子者のような陽気な笑顔で頷いて見せたんだ。

「うん。ほら、光太郎って大学で民俗学を研究してるんだろ?死人返りとか、そんな話が言い伝えでないかと思ってさ。四国辺りとか…」

「僕の大学なんて高々知れた三流大学だよ…って、そう言うことも調べたんだね」

 まあ、当然と言えば当然だけど…誰かを頼る時、その人の身辺調査を欠かさないのが匡太郎の癖だった。
 滅多に誰も頼らない匡太郎だから、変なところで慎重になってしまうんだろう。

「…別に、だからって調べたわけじゃないよ。この1年、アニキのことはずっと見てたんだ」

「え…?」

 ドキッとした。
 僕が落ち込んで、自暴自棄になりながらあの大学に入ったことも、逃げるようにして実家を飛び出したことも、全部見ていたのか?

「光太郎…俺が死んだのは自分のせいだって自分を責めてただろ?違うよって言ってやりたかったけど…こんな身体だし、光太郎はオカルトに弱いしで、ずっと出てくるのを躊躇っていたんだ」

 匡太郎は俺の髪を懐かしむように頬摺りをしながら、抱き上げている腕に力を入れた。そう言えば、そろそろ疲れないんだろうか?
 いくら僕が匡太郎よりも身長が幾分か低いと言っても、体重自体は平均的な重さを持ってるんだ。普通の男だってそろそろ疲れてくるだろうに、匡太郎は極めて平然とした表情をして、この狭い部屋の中央で僕を抱え上げている。

「でもさ、アニキ。今度、あの国安とか言うヤツと旅行に行くんだろ?いても立ってもいられなくてさ、出てきちゃったんだ」

 不貞腐れたように唇を尖らせる、いつもの拗ねた表情を見上げながら僕は困惑した表情をした。
 国安は、あの日、匡太郎との約束をすっぽかして遊んでいた友人だ。
 匡太郎にとって、もしかしたら天敵みたいに思ってるんじゃないだろうか。

「最初の方は倒れたけど、もう大丈夫だろ?心臓さえ気にしなかったら俺は佐伯匡太郎だし。ゾンビみたいに腐ってるわけでもない」

「あ、ああ。でも、国安にはなんて言おう?今度行くアイツの実家のある神寄憑島には興味深い言い伝えがあるんだよ。だから、絶対に行かないと…」

 お前を見れば、なおさらだ。

「言い伝え?どんな?」

 匡太郎が不満そうに眉を寄せたが、声音の裏には好奇心がちらついている。

「死人返り」

「ビンゴ?」

 僕の言葉にニヤッと笑った匡太郎は、躊躇わずに頬に唇を押し付けてきた。

僕の大事な弟が地獄から蘇ったのは。
あの日の夜のように、やけに蒸し暑い熱帯夜だった。