Level.6  -暴君皇子と哀れな姫君-

 オリエンテーションの朝は早い。
 柏木たちの学校もそれは例外ではなく、眠い目をこすりながら少年自然の家の前にある開けた広場に集合して、引率の田宮の登場を待っていた。

「あれって名門の桜花院大学付属高校のジャージじゃないか?」

「は?」

 宮本に脇腹をつつかれて、柏木はムッとしながらも眠気眼の目を言われた方向に向けてみた。
 向けてみて、途端にギョッとしたように顔を伏せる。

「?」

 訝しそうに宮本が眉を寄せたが、柏木はどうしてもその方向を見ることができなかった。
 そう、その真っ青なジャージは、ほんの数時間前、自分を組み敷いていた男が着ていた服と全く同じだったからだ。彼の場合は、上着はT-シャツだった。
 見れるかっての!
 内心で悪態をつきながら背中を向けると、館内から腕に琴野原を下げた立原が別になんの感情も窺わせない無表情で姿を現した。
 柏木が泣きそうな顔をして俯いている姿を目敏く見つけた璃紅堂の暴君皇子は、腕にへばり付いている琴野原を面倒臭そうに振り払いながら唇を噛み締めている姫君のもとに赴いた。本来ならこう言う場合は走って駆け寄るものだが、どんな理由で落ち込んでいるのか知っている立原は、殊更ゆっくりと歩いて近付く。
 柏木の少し青ざめた顔を見るのが好きだからだ。
 彼が辛そうに唇を噛み締めたり、泣きそうな表情をしているのが、この暴君と呼ばれる立原を興奮させるのは確かで、歪んだ劣情が時に酷く冷たく柏木を突き放す行為に繋がるのだが…今回は第三者の手がそれをしていると言うことがムカツイてムカツイて仕方がないのだ。
 だがそれでも、切なそうに眉を寄せる姿はダイレクトに下半身を刺激して、今すぐにでも犯したい衝動に立原を駆りたてている。
 だが、そんなことは露ほども知らない柏木は立原の姿を見止めると幾分かホッとしたような表情をした。
 悲しいかな、立原はしかし、柏木のそんな顔も好きなのだ。
 綯い交ぜした切ない思いを抱えながら、立原は漸く柏木の傍らに肩を並べる。

「柏木、泣きそう。大丈夫?」

「ああ、まあな」

 全然平気そうではないが、背後を気にしながら俯いた姿はなぜか酷く立原を腹立たしく思わせた。なぜか…自分以外の名前も知らない誰かに心を奪われている行為が気に食わないのだ。

「柏木、知ってる?昨夜のアイツ…」

 その話題を持ち出すと、柏木はビクッとしたようだった。
 肩が不自然に揺れて、少し離れたところで耳をダンボにしている宮下が気になって仕方がないように、柏木は救いを求めるような無防備な目付きで上目遣いに立原を見た。
 朝の生理的現象だったそれが、明らかに欲望の兆しを見せて立ち上がろうとしている。
 立原はいつだって柏木を犯したいと思っていた。
 だが、全く無頓着な彼は立原の思いになど一向に気付く様子もなく、それどころか平気で彼の前で下着姿になったりするのだ。無防備な姫君のあられもない姿を見せ付けられて、この暴君で知られる皇子が何度彼を押し倒そうとして苦汁の思いで踏み止まったかを、愚鈍な柏木は知らない。
 泣き叫ぶ顔が見たい。
 だが、最初の夜は神聖で、ひっそりと、包み込むように抱きたいと言うのが立原の願いである。だが、その後は柏木がどんなに嫌がっても無理矢理にでも抱きたい時に抱くつもりではいた。

(我慢我慢…)

 我慢の後に来る開放感はとても官能的で、淫らに甘いことを知っている立原はギュウッと誰の目にも触れないように握った拳に爪を立ててニコリと笑った。

「アイツ、もういないよ」

「…へ?」

 間抜けな声をあげる柏木に、腕を組んだ立原は口許に酷薄そうな笑みを一瞬だけ閃かせて頷いて見せた。

「今朝方、なんだかやけに騒がしくて目が覚めたんだ。そしたら…アイツね。階段から落ちたらしいよ。もう早くに落ちてたようだけど、誰も気付かなくて。今朝になって発見されたみたい」

「落ちて…って。し、死んだのか?」

「まさか!」

 立原はクスクスと珍しく笑ったが、その表情に感情はなく、酷く冷たい笑い方だと柏木はなぜかゾッとした。だからこそ、その可能性を疑ってしまうのだ。
 立原は笑いながらも、自分を犯そうとした、大切な姫君を犯そうとした野郎のことにまで気を遣ってやるその優しさに苦笑して、もっと愛しいと思った。

「脳震盪か何かを起こしたみたい。俺も詳しくは聞いていないから判らないけど、命に別状はないらしいよ」

 今朝は珍しく表情のある立原に気付いている柏木はしかし、大切なことを見落としていた。
 確かに表情はある。
 だが、冷たい。
 そして…彼にしては珍しく饒舌なのだ。
 あらゆる意味で、申し訳ないとも思いながらホッとする柏木の横顔を見つめながら、立原はゆっくりと微笑んだ。
 愛しい。
 愛おしい。
 愛してる。
 どんな言葉でも言い表せる感情を噛み締めながら、目を細めた立原は貪欲に考えていた。
 彼をこの合宿中にどうやって手に入れようかと…
 その為にならなんでもする。
 彼を煩わせる全てを抹殺しても構わない。
 死んだのかだって?ああ、できれば殺してやりたかったさ。首の骨をへし折って…だが、それでなくても優しい柏木のこと、そんなことをしたら一生あの男のことで思い煩うだろう。
 いや、何よりも。
 生涯、柏木があの男のことを覚えているということが気に食わない。
 だからこそ、一発殴って我慢してやったのだ。
 階段から落ちて気を失うことも計算済みだった。
 なんでもする。
 この愛しい男を手に入れる為ならば。
 ほっそりとした首筋を見つめながら、獲物を狙う肉食獣の獰猛さで、ペロリとを舐めた。

□ ■ □ ■ □

 初夏にしては暑い日差しにうんざりしながら、柏木は地図を片手に森の中を彷徨っていた。
 宮本たちと逸れてしまった柏木は、なんとも簡単な地図だけを頼りにまずは彼らを捜しているようだ。暑さに負けて脱いだジャージの上着を腰に巻いて、派手なプリントが目立つT-シャツになった彼のそれは、汗で少し濡れていた。

「ったく。申し合わせたように逸れちまうんだもんなぁ…」

 地図を持った手でこめかみから頬へ、そして顎を伝う汗を拭った柏木は大きな樹木に手を当てて差し込む陽射しに眩しそうに目を細めながら、溜め息をついて周辺を見渡した。
 もう何度も大声で叫んでみたが、残念ながら反応は皆無。
 心細くないと言えば嘘になるが、柏木ももう高校生男児だ。
 少々のことで怖いよう~と泣くワケにはいかないのだろう。
 男の意地というヤツだ。

「はぁ…」

 溜め息をついた柏木は疲れたように近くにあった大きな木の根元で少し休むことにしたようだ。逸れてからずっと歩き続けて、足はもうヘトヘトで棒のようになっている。
 陽射しが柔らかに射し込む大きな木の根元は苔生していて、微かに湿った感触のあるそれはベルベットのような柔らかさで、柏木は思わず欠伸をしてしまう。
 ウトウトとしても仕方がないのだ。
 昨夜は変態野郎に襲われかかり、部屋に戻れば恒例のようにトランプを遅くまでして、皆が寝静まってからトイレに行って下着を替えた。そんなこんなで、漸く布団に潜り込んだのは短針が3を回ったぐらいの時間だった。

「で、起床が6時だもんなぁ…眠いっつの!」

 ふぁ~と大きな欠伸をして伸びをした柏木は、そのまま背後の大木に凭れてウトウトと舟を漕ぐ。どうせ服は汗で濡れているのだ、もう少し濡れたってどうってことはない。
 散々捜して見つからないのなら、少しぐらいは休んだっていいだろう。
 安易にそんなことを考えて目を閉じた柏木はすぐに寝息を立て始める。
 そうして暫くして、彼にしては珍しく慌てた表情をしていた立原はそんな柏木を発見したのだ。
 大木の根元ですやすやと寝息を立てている柏木の、その汗で透けた胸元の小さな突起に気付いた立原は思わず息を飲んだ。
 犯るなら今だ!…と思ったかどうかは謎だが、まだその時ではないんだとギュッと目を閉じて思い留まった立原はそっと目を開いて恐る恐る柏木の身体に触れた。

「柏木?柏木、起きなよ。迎えに来たよ」

「…ん」

 目を覚ます気配もなく、柏木は心地よさそうに規則正しい呼吸を繰り返しながら身体を微かに動かすだけだった。

「…柏木?」

 揺すっていた腕を止めて、立原は恋を覚えた少年のようにドキドキと胸を高鳴らせて、傍らに片方の膝をついて屈み込むと、あれほど起こそうとしていたのに今度は起きるなと願いながらそっと胸元に触れてみる。
 ふっつりと立ち上がっている胸元に触れてみても身動ぎしない柏木に、調子に乗った立原はそのグッスリと眠りこけている顔を覗き込んだ。
 乳首を捏ねるように弄りながら、少し溜め息をつくその唇に顔を寄せてそっと口付ける。
 思った以上に柔らかい唇に胸を高鳴らせて、立原はそっと忍ばせた舌で歯列を舐めてみた。まるで応えるように口を開いた柏木の口中に舌を忍ばせて、ゆったりとその身を横たえる舌に舌を絡めて濃厚なキスをしても、やはり愚鈍な姫君は目蓋の裏に大好きな漆黒の双眸を隠したままだ。

「大好きだよ…」

 唇が触れるか触れないかまで放して、そっと囁くと、その時になって漸くピクリと柏木の目蓋が反応を見せた。起きていたのかと冷やりとした、だがやはり、柏木はすぅすぅと気持ち良さそうな寝息を立てている。
 微かに息は上がっているようだが、気に留めるほどではない。

「無防備な俺の姫君。また犯られてるんじゃないかって心配してたけど…まさか寝ていたなんてね。そんな風にあんまりぐっすり眠っていると、今すぐここで抱いてしまうよ?」

 囁いて乳首を弾くと、ん…ッと小さな溜め息をついて、その官能的な反応に立原は嬉しくなった。
 他の誰でもない、自分の手に反応している柏木の仕種が可愛くて仕方がない。

「もっともっと、大事に。壊れてしまわないように…」

 同時に、誰かの目に触れさせるぐらいなら閉じ込めてしまうか、それを嫌がれば壊してしまいたいとさえ思う。
 狂暴な思いを抱えながら、立原はもう一度思いを込めてキスをした。
 唇を離して、ゆっくりと目を開いた立原は、それからすぐに柏木の頭を叩いた。
 先ほどの柔らかさや健気さと言ったものは欠片もなく、いつも通りの無表情な何を考えてるのか良く判らない表情に戻って、立原はもう一度乱暴に頭を小突いて柏木を起こした。
 驚いた表情をして目を覚ました柏木は、悪戯されたことにも気付かずにふんわりと笑って助かったーっと叫んで立原に抱き付くのだ。
 自分の残酷さに気付かない柏木の背に感情を窺わせない表情で腕を回して、立原はもう合宿所のある自然の家の方に戻ろうと促した。
 素直に頷く柏木を見つめながら、自分の我慢の限界を立原は悟っていた。
 恐らく、もうどれほども我慢なんかできないだろう。
 我が侭で知られる暴君皇子が良くぞここまで我慢したものだと自分自身で感心しながら、立原は必ずチャンスを見つけて彼を抱こうと決心した。
 もう、我慢も限界なのだ。

Level.5  -暴君皇子と哀れな姫君-

 初めの1日目は班長と副班長が集まっての簡単なミーティングだけだった。そりゃ、当たり前か。
 ここに着いたのがもう夕暮れだったからな。
 明日はオリエンテーションがあって、翌日が登山大会、そのままキャンプファイアーになだれ込んで…アレだ。
 そう、口にだってしたくない、アレだ。
 何が悲しくてヘトヘトに疲れたその晩に、蚊にやられながらコンニャク垂らした釣竿持って、浴衣に着替えて山ん中で蹲ってなきゃならんのだ!?
 たった今配られた、肝試し大会計画表なるものを見下ろしながら、俺は人目がなかったら泣いていただろうと思う。

「柏木、泣きそう」

 クスッと、鼻先で抑揚もなく笑う気配がして、俺は胡乱な目付きで傍らのパイプ椅子に退屈そうに腰掛けている立原を睨んでやった。

「うるせーな。こう言うときは音楽聴かねーのかよ?」

「聴いてるよ」

 片方のイヤホンは抜け落ちていたが、反対の、向こう側ではちゃっかりシャカシャカ鳴ってる。
 ちぇっ!呑気なもんだよな。
 いいよな、立原は。そう言うことにまるで無頓着で、凡そもう五感なんかねぇんじゃねかって思うぐらい、ケロッとしてるんだ。怖くないのかよ、山ん中で2人っきりなんだぞと聞いても、アイツは別にどうでもいいことだとばかりに肩を竦めるだけで、お前が邪魔しなければ恙無く終るだろうと仰って下さった。
 このエイリアン立原のことだ、五感はなくったって第六感が研ぎ澄まされてるのかもしれねぇ…つーことはだ!コイツと2人なら幽霊も拝めるってことか?
 ひ、ひえぇぇ~

「青くなったり赤くなったり…まるで信号機みたいだねぇ」

 気のない様子で呟く立原は、やっぱり気のない様子で明日の予定を詳細に確認している委員長を眺めている。その横顔はとり止めもなくて、俺はぼんやりと眺めるぐらいしかできない。
 ホントこいつ、何を考えてるんだろう?
 俺は手持ち無沙汰で弄んでいるクシャクシャのプリントを見下ろして、狼男と書かれている項目を見た。
 玩具の耳に着ぐるみを着て、どんな面で脅かすんだろう。
 どうせ、この無表情で耳にはウォークマンをしてシャカシャカ、シャカシャカ…暗闇でその音を聞きながら膝を抱えて蹲ってるんだろうな、俺。虫の音とか聞きながら…夜行性の動物の気配を肌に感じながら…幽霊だってすぐ傍にいるかもしれねぇのに?
 ひえぇぇぇ~!!!

「立原。肝試しの時、俺にもウォークマンを聴かせてくれよ。できるだけ、あっかるい曲がいいな、俺」

「…」

 一瞬黙り込んで俺を見ていた立原は、何かを考えてるようだったが、すぐに頷いて興味のなさそうな双眸を向けて呟いた。

「…別に構わないけど。どうする?」

「は?何が??」

 唐突に聞かれても…俺はウォークマンを聴かせてもらえればそれでいいし。どうする?って、今はいいけど…えーっと?
 そして俺は、唐突に自分の勘違いに気付くんだ。いや、立原の言葉を聞いてから…だけどな。

「ウォークマンからこの世ならざる世界からの声が誘うように…」

 語尾が途絶えたのは俺が躊躇わずにその口許を塞いだからだ。
 それでもまだ何か言おうとする立原の口許を塞いだままで、そのハッキリ言って無気力そうな双眸を睨み据えた。顔色は…クソッ!立原の言う通り青褪めてるだろう。

「お前ってヤツは…ひゃっ!?」

 ビクッとした。
 突然、そう唐突に立原がその口を塞いでる俺の掌を舐めたんだ。ペロッと別に気にしたようでもなく。
 俺だけが真っ赤になってバッと掌を離すと、パイプ椅子のギリギリまで身体を引き離して立原を見た。ななな…何をするんだ!?
 普通、掌なんか舐めるかよ!?

「て、てめぇ…何、何を…」

 動揺して何がなんだか判らないことを口走る俺を、立原は別にどうでもいいような無表情で肩を竦めて見せた。本当に、どうでもよさそうだ。
 なんか、こんなことでヘンに意識してる俺の方がおかしく見えるんだけど…

「柏木が悪いんだろ。苦しいって言ってるのに…」

 本当に苦しかったのか!?…と聞きたくなるほど冷静に呟く立原に、なんか1人でドキマギしている俺って…もしかして滑稽か?
 思い切り脱力して肩を落としていると、我慢も限界と言わんばかりに額に血管を浮かべた委員長の鋭い叱責が飛ぶ。立原じゃなく、俺に。

「柏木くん!静かにしないと肝試しの後片付けもお願いするよ!」

「ひえぇ!それだけは勘弁!!」

 後片付けって言ったら山の中腹の道標代わりの大きな石碑の前にある、みんなが置いてきたローソクの残りを始末する係りだ。無理、1人なんて絶対に無理だ。
 ったく、こう言うとき得体のしれないエイリアンってヤツは、一見大人しく見えるから、とばっちりはいつだって俺に降りかかるんだ。近頃、立原と一緒だからいつもこうだ。
 コイツは声も低いし、それほど目立つってワケでもない。
 そのくせ存在感はどっかりとその場にあるってのにな。
 なんでも注意されるのはこの俺だ。
 とか言って、アレの怖さに立原に当たってるだけッスよ、マジで。
 俺ってばサイテーな奴だけど、今はなんだか世界中が敵のように思えていかん。
 ああ、何だって班長なんかになったんだよ、俺!
 項垂れている間にも、委員長の神経質そうな声は淡々と響いて、楽しいはずの新入生歓迎強化合宿の最初の夜はこうして静かに深けていく。

□ ■ □ ■ □

 …はずもなく。
 俺は解散した後部屋に戻るのも億劫だったから、ちょっと、この少年自然の家の中を勝手に散策することにした。
 夜の9時をすっかり回った館内は不気味なほど静まり返っていて、昼間の賑やかさがない。
 ロビーのような、受付になっているフロアには人影もなく、受付のところに明かりが点ってるぐらいで、省エネ対策なのか電気は全部消えている。ぼやぁっと明るいのは、自販機のおかげだ。

「ホンットに何もねーところだよな」

 俺は青紫のジャージのポケットに手を突っ込んで、ブラブラとその辺を歩き回ったけど、けっきょく真新しい事は何もなかったから踵を返して部屋に戻ろうと思っていた。
 夕方に見たときは他校の生徒も来ていたような気がしたんだけど…連中も確かどっかの男子校だって聞こえたんだけどなぁ、誰にも会わないや。ま、俺たちのような名門校だったら大人しくお部屋で仲間とトランプでもしてるんだろう。
 ちッ、クソ面白くもねーな。
 ブチブチと小声で悪態をつきながら歩き出した、その時…

「…ッ…んぅ…あぁ」

 押し殺したような、咽ぶような泣き声が確かに聞こえて、俺は、俺は…
 落ち着け、俺よ!これは幻聴だ。空耳だ。俺には何も聞こえちゃいねぇ!
 自分に言い聞かせながら顔を真っ青にして踵を返そうとする俺の耳に、咽び泣きとはまた違った声が響いてきた。どちらにしても、押し殺してるのに変わりはないから良く聞き取れねーんだけど…
 …このまま逃げ出せ、と本能が警鐘を鳴らして教えてくれるけど、人間てのには厄介な感情があって、俺にだってその怖いもの見たさの好奇心ぐらいはある。
 何をしてるのか気になるじゃねぇか。

「…ゃ、だ、…んぅ…誰か…来たら…」

 それは、薄暗い館内の死角になる階段の下にある、狭い空間から聞こえていた。
 恐る恐る近付くと、耳朶をやらしい息遣いが打った。

「うるせってんだよ、この淫乱野郎!…お前が、クソッ!誘うから…」

「やぁ…」

 小柄な栗色の髪には見覚えがある。
 琴野原に良く似た奴だと…確か、夕方見た男子校にいた奴じゃなかったっけ?
 う、うえぇぇ…何をやってんだ、コイツら。
 湿った音が微かに狭い空間に響いていて、その湿気た水音はやけに腰にくる。
 なんだろうコレ、どこかで聞いたような…

「あぅ…んん」

 栗色の髪の奴が切なそうな声を上げると、その背中に覆い被さる男は荒い息をつきながら腰の辺りを忙しなく動かしている。その度に、猫が水を飲むような密やかな湿った音が響く。
 腰が抜けそうな甘い声…とでも言うのか、その2人は俺がそこにいることにも気付かず、その犯っちゃてんじゃないでしょうか?
 これは、この音は。
 友達ん家で観た、AVで聞いたことがあるし…
 その唆すような、甘えるような…なんとも言えない耐えているような密やかな声は、確かにAVほどわざとらしくはないけど…ああ、それで下半身が熱くなってきたんだ。
 や、やべぇ!
 このままここにいたらヤバイことになるのは確実で、俺は慌てたように踵を返そうとして口を塞がれてしまった。背後から突然、伸びてきたその腕で。

「んん!?」

 抗議の声を上げようにも無理な話で、俺は必死にもがいて暴れたけど、ソイツの腕は力強くて半端な抵抗なんか蚊が止まったぐらいにしか思っていないようだ。つーか!何なんだよいったい!?
 ヤロー同士のエッチシーンを目撃して、日頃たまりまくってる悪環境の中で、下半身を熱くしてるなんつー恥ずかしい姿は誰にだって見せたくなんかねぇ!変態だ!それってマジで変態みてぇじゃねーか!
 男ってのはどうしてこう、こんなに節操なく勃たせることができるんだ!?っつーぐらい、熱くなった下半身をもじもじさせる俺を引きずるようにしてソイツは、薄暗い廊下を俺の口を塞いだまま暫く行くと、何やらワケの判らん…コミュニティルーム?と書かれたプレートが貼ってある部屋に突き飛ばしやがった。

「なにすんだ!?」

 突き飛ばされて倒れこんだ俺が上体を起こしてキッと睨みつけると、ソイツは…誰だ、コイツ?
 はぁはぁと肩で荒い息をしながら慌てたようにジャージのズボンを脱がしに来る熱い手に嫌悪感を抱きながら、俺は見たこともないニキビ面を非常灯の薄ぼんやりとした緑の明りだけを頼りに思い切り抵抗しながら睨みつけた。

「だ、誰だよ!」

「だ、誰だっていいじゃねーか。ほら、お前だって勃ってるし。あんなの見せつけられたらたまんねぇよ」

 いや、だからってどうして俺がお前とサカらなきゃならんのだ!?
 この野郎!俺は男となんかぜってぇに嫌だってんだ!そりゃ、あんな音を聞かされたら寮で禁欲生活をしていた10代の若い身体にはそうとうな刺激はあったけどさ…だからって!

「…ぁうッ!」

 不意に外気に晒された下半身の素肌を汗でぬるつく掌に撫でられて、不覚にも声を上げちまった俺をソイツは嬉しそうにニヤニヤと笑いながらダイレクトに触ってきやがった!

「…んぅ…」

「ほら、感じてんだろ?…すっげ、マジであんた色っぽいな」

 はあはあとさらに息遣いを荒くしたソイツは、抵抗力の萎えてしまった俺の下半身を思い通りに弄りながら、自分のおっ勃ったナニを背後から尻に擦り付けてきやがる。俺は素肌だけど、ソイツはまだズボンを穿いたままだから一部を突っ張らせた布地が尻をダイレクトにすりあげてくるんだ。

「ん…やめ…い、嫌だ!」

 俺はその感触にハッと我に返ったけど、抵抗しようにも大事な息子は奴の掌の中だ。
 先走りでぬるつく指先で、こともあろうに奴は、俺の尻を弄りはじめたんだ!
 長らく、立原に見つかっちまったあの一発以外はずっと禁欲生活だった俺の若い身体は、嫌がる意思を無視して本能で喜びに震えながら、この得体の知れねー男に身体を摺り寄せている。
 満更でもねぇ…耳元で囁かれた言葉に吐き気がしたけど、俺の身体の如実な変化は誰の目にも明らかだった。やめろ!嫌だ、抵抗しろよ!俺!
 シュッシュッと扱く音を響かせて、俺のナニは限界まで膨れ上がってるってのに決定的な一撃を与えてもらえずに、切なそうに涙を零しやがる。うう…情けねぇ。

「い、挿れてやるからな。辛ぇーんだろ?」

 はあはあ言いながら、辛いのはお前だろうがよ!クソッ!
 慌てたようにズボンを引き摺り下ろしたソイツのナニが、俺の尻に擦りつけられる。先走りに濡れてぬるつく先端は、まるで焦らすように尻の際どい部分を往復するんだ。期待…なんかするわけもなく、俺は唐突に熱が冷め、恐怖に青褪めながら首を激しく左右に打ち振るって嫌がった。

「ちっ!大人しくしやがれッ!」

 バシッと尻を思い切り殴られて、俺は微かに悲鳴をあげる。
 非常灯の明りだけが頼りの暗い室内で、変態野郎の喘ぎ声とかクチュクチュと湿った音が響いていて、気持ちいいんだか恐ろしいんだか、もうよく判らない感情で俺は泣きたくなった。
 尻の敏感な部分を灼熱の先端で擦られるうちに、俺の中で奇妙な感情が生まれた。
 これはもしかしたら…けっこう気持ちよくないか?
 ああ!男って生き物は…

「…ん…あぁ」

 俺の声かよ!?…ってぐらい甘い溜め息が零れて、背後から覆い被さっている男は嬉しそうに笑った気配がする。耳の後ろを舐めながら、前に回した掌で俺の息子を強弱つけながら扱いて、空いている方の手で俺の尻に擦りつけてるモノの照準を定めているようだ。
 俺、挿れられるのかな…

「気持ちいいんだろ?お前さ、夕方見たときから狙ってたんだよなぁ」

 …と、欲情に濡れる荒い息を吐きながら、ねっとりと首筋に吸い付いてくるヤツの性急さにゾクッとした。
 や、やっぱ、嫌だ!
 そこは出るとこであって入れるところじゃねぇんだ!!
 俺が反撃しようと身体を捻った時だった。

「ヒッ!」

 身体が動いたせいですぐそこにあったヤツのモノの、その先っちょが入っちまったんだ!

「うッ!…な、なんだよ?もう、我慢できねぇのか」

 ソイツにもけっこう衝撃がきたんだろう、とっさに腰を掴んでそれ以上の侵入を食い止めた。それは俺にとってもありがたいことだったけど、結果的に自分で入れちまって、愕然としている俺の尻を揉みながら、ヤツはゆっくりと挿入を開始した。
 あ、あ…嫌なのに。嫌なのに…

「い、やだ!やめろ!入れるんじゃねぇ!!」

 まだ先っぽだってのにすげぇ痛さで、俺は涙ぐみながら暴れてやった。
 俺が喚いて暴れるもんだから、先っぽから次に進まなくて、ソイツは焦れたように俺の尻を思い切り叩きやがる。ジーンッとした痛みに、明日には真っ赤な掌の痕がついてるだろうと確信したけど、そんなことに構ってるヒマはねぇ!
 なんだってこの俺がヤローなんかに犯られなきゃならん!

「離せ!離しやがれッ!!」

「うるせぇッ!じゅうぶんソノ気だったじゃねぇか!」

 バシッともう一度、尻が叩かれて…俺は布団だとか座布団じゃねぇぞ!

「うっうっ…クソッ!」

 尻を打たれた痛みに増す身体の痛みに、俺は尻を突き上げるような形で床に押さえつけられて、ギチギチと軋む挿入部に捩じ込まれる苦痛にギュッと目を閉じた。

「男を犯るのって楽しい?」

 不意に背後にかかった声に、俺の中に何とか自分を捩じ込もうとしていた野郎の動きが、ビクッとしたように唐突に止まった。俺は、無様に野郎に尻を突き出すような形で押さえ込まれて、頭を床に押さえつけられていたから背後を振り返ることなんかできないけど、その声には覚えがある。
 近頃よく聞く声だ。
 決まって、シャカシャカと耳障りな音と一緒に。

「だ、誰だ!?」

「ただの見物人。だけど、柏木が嫌がってるから救世主」

 抑揚のない声で言ってクスッと鼻先で笑う、あの独特の無気力さがなんかいまいち頼りないんだけど、今はすっげぇそれがありがてぇ!

「た、立原…」

 苦しく息を吐き出すと、唐突に男の身体が上から退いた。
 立原がヤツの耳元に何かを呟いたら、ソイツはまだ入ったとも言えないモノを引き抜くと、慌てたようにズボンの中に仕舞いこみながら「覚えてろよ!」の捨て台詞を吐いてその部屋から転がるようにして出て行った。

「…ッ、…うう」

 緩慢な動作で軋むように上半身を起こした俺を、抑揚もなく見下ろしていた立原は暫く何かを考えているようだったけど、羞恥で俯く俺にやけにあっさりと言いやがった。

「ズボン穿いて、歩けるようになったら部屋に戻ろう。歩けなくても部屋に戻りたいならおぶってやるよ?それで、ウォークマンを聞こう。あっかるい曲」

 俺はポカンッとして立原を見上げた。
 恥ずかしいのも忘れてマジマジと見上げると、別になんの興味もなさそうな目付きのままで立原のヤツは屈みこんで俺の顔を覗き込んできた。馬鹿にしているのでも蔑んでるのでもない、かと言って哀れんでるってワケでも同情してるってワケでもねぇ、いつも通りの無表情な目付きだ。
 ポーカーフェイスって言うんだろうけど、今の俺にはホント、コイツはありがたいヤツだ。

「でも…部屋に戻るよりもここで大人しくしておいた方がいいかもね。落ち着くまで。じゃ、ウォークマン聴く?」

 いつも垂らしてる片方のイヤホンを差し出して首を傾げる立原はニコリともしない。
 だから、却って俺は噴出しちまった。
 無表情な立原は、これでも精一杯気を遣ってくれてるんだろう。それがありがたいし、もちろん無下にする気なんかねぇ。
 でも、なんかおかしかった。
 大いに笑えた。
 すげぇな、立原マジックだ。
 俺は、深く落ち込むこともなく痛む身体で立ち上がって服装を整えると、反対に立原の腕を掴んで立ち上がらせた。

「サンキューな。思ったほどは酷くねぇから、戻れるよ。ただ、ちょっと風呂に入りたいかな…」

「入る?」

 首を傾げる立原に、さすがにそこまではできんだろうと首を振った俺はニッと笑うことができた。
 引き攣らなかったのは、相手が立原だからだ。もう、恥ずかしい部分は殆ど見せたコイツがなんだかすごく身近に感じて、俺は軽口も叩けた。

「班長が規則を破っちゃマズイだろ?」

 散歩に出てたってだけでもじゅうぶん規則違反なんだけど、敢えて立原は何も言わずに気のない様子で肩を竦めただけだった。
 俺はベタベタに汚れて気持ちワリィ下半身をモジモジさせながら、溜め息をついて立原と部屋に戻った。
 幸い誰にも気付かれなかったから、俺は真夜中にこっそりトイレでパンツを穿き替えた。
 波乱に満ちた…幕開けだぜ。とほほ…
 …ああ、色んなゴタゴタで忘れてたけど、俺の部屋割りの組合せは、俺、立原、琴野原、宮本、村田の5人だ。まあ、そんなこたどうでもいいんだけどさ。
 疲れた…もう寝よう。
 初日はそんな風に、とんでもない幕開けとともに暮れていった。

Level.4  -暴君皇子と哀れな姫君-

 どんなに溜め息をついたとしても、悪夢のような日々は確実に、足音を忍ばせて近付いてくるものだ。
 どんよりと暗雲を背後に背負った柏木のもとにも、それはやはり、当然の顔をして訪れた。
 そう、今日から、4日間の正式名称『新入生歓迎強化合宿』の幕開けである。

「柏木?何を恨めしそうな顔をしてるんだ」

 寮長でもある生活指導の田宮が睨みつけている狂暴そうな視線の主に、訝しそうに眉を寄せて丸めたキャンプのしおりでその頭をポンッと叩いた。

(あんたらには判らねぇんだよ!この、アレさえなければきっと楽しいはずの脱落コンテストだっつーのに。アレが、アレがあるばっかりに…うっうっ)

 下唇を噛み締めて、それでも口にするのも嫌なのか、柏木は胡乱な目付きでそんな教師を睨んだが別に何も言わずに頭を掻いた。
 えへへへ…と。
 アレ…そう、つまり言葉を濁しているが『肝試し大会』のことだ。
 言い出したのは驚くことに、この引率の田宮だった。
 ニヤニヤ笑いながら、まさかこの年になっても怖いよぅ~なんつー腰抜けはいないだろうと、高を括っての提案に青褪めたのは柏木だけで、その他の生徒は一様に馬鹿にして呆れるか、キャーキャー言って喜ぶかのどちらかの反応に綺麗に分かれた。
 ああ、クソ野郎ども…
 柏木が密かに袖を濡らしたことは言うまでもないが、肝試しが大半の賛成の声で決まったこともまた言うまでもなかった。
 そんな思いもあるせいか、誤魔化しても目付きの悪さは尋常じゃなく、教師は何か言いたそうに口を開きかけたが諦めたように溜め息をついて首を左右に振った。見本になるべきはずの田宮は丸めたしおりで自分の腕を叩きながら、総勢30名の生徒たちに整列するよう拡声器で怒鳴った。

「おらおら!お前たち、並べ並べーッ!」

 班長である柏木たちも整列させるべく忙しなく動いているが、本来、良いところの坊ちゃんである箱入りウサギのような彼らは、人気のあるまだ若い田宮の一喝にキャーキャー言いながら素直に整列している。それほど、柏木たちの手を煩わせることはなかった。

「…つーか、立原。お前さぁ、旅行先でもジャンバリかよ?」

「…?ジャンバリ?なに、ソレ」

 耳元でシャカシャカと音量の洩れるイヤホンは、満員電車だと躊躇わずに非難の視線を一身に受けること間違いなしだろう。しかし、さすがに大自然に囲まれたキャンプ場。ワイワイ騒ぐ生徒の声に紛れてそれほど鮮明には聴こえないが、肩を並べている柏木の耳には届いていた。

「何を聴いてるんだ?」

「…柏木っていつもそうだな。俺が聞いてる曲に興味があるわけ?」

 クスッと抑揚もなく鼻先で笑う立原に、これまたやはり同じように、いつも通り外してある片方のイヤホンを奪うように柏木はコッソリ田宮の様子を窺いながら、それを耳に嵌めて聴いてみる。
 片耳では拡声器でがなる田宮の声を聞きながら…

「なんだ、こりゃ?」

「大自然の中にいるんだ。心を安らげないとな。フィールだよ」

「フィール?ええっと、近頃流行ってるって言うヒーリング系のアレか?」

「ご名答」

 立原と仲良く…と言うワケでもないが、よく一緒にいることが多くなったここ最近では、彼のおかげで音楽に興味のない柏木もけっこう曲名に詳しくなっていた。
 独特のフレーズを口ずさむ物悲しげな歌声で…立原はよくこう言った悲しげな曲を聴いている。
 だが本人にそれを聞くと、彼はいたって抑揚のない無表情で突拍子もない感想を述べてくる。柏木にはそれが不思議でもあったが、気に入っていた。立原は気付きもしないことをあっさりと口にするくせに、それに対しての頓着がない。
 この年代の少年にしては珍しく、ふふんっと奢ると言うことがまずないのだ。
 何事に対しても…そう言うことが面倒臭いのだろう。
 本人もたまにそんなことを口にすることがある。

「お前ってさ。いつもこんな風に物悲しい曲ばかり聴いてるよなー」

「物悲しい?」

 立原は拡声器で注意事項を叫んでいる田宮を感情の窺わせない表情で見つめながら、暫く何かを考えているようだったが、肩を竦めて鼻先で笑った。

「柏木にはこう言う曲は物悲しく聞こえるんだな」

「え?お前にはそんな風に聴こえないのか」

 柏木の驚いたような姿をチラッと見返して、彼は僅かに肩を竦めただけで説明しようとはしない。

「なんだよ、教えろよ」

 柏木は少なからず立原のエイリアン的発言を心待ちにしていた。
 それは面白いし、なんの刺激もない寮生活あって立原ほど面白い奴はいないと、初めて見た毛色の違う玩具に興奮する子供のように柏木は立原に噛み付いた。…と言うよりも、じゃれていた。

「先生―。立原が柏木に襲われてますぅー」

 誰かが、いやきっと歩く宣伝カー的宮本が野次るように面白半分で田宮に大声で告げ口すると、肩を寄せ合っていた柏木は一斉に全員の視線を集めてハッとしたようなバツが悪そうな顔をし、イヤホンを外すとそれを立原に返しながら身体を退いてしまった。
 その瞬間、微かに傍らから舌打ちしたような声が聞こえて、柏木は訝しそうに立原の方を振り返ってみた。が、彼は相変わらずの無表情で受け取ったイヤホンを耳にしながら、別に気にとめた素振りもなくまた自分の世界に没頭したようだ。
 なんだ…気のせいか。

(そうだよな。あの感情のない宇宙人があんなことぐらいで不機嫌になるはずがねぇや)

 でも…と、柏木は傍らで退屈そうに腰を下ろしている立原の、その抑揚のない横顔を盗み見をしながら思うのだ。

(コイツの取り乱した顔とか…一度でいいから拝んでみたいもんだな)

 そう遠くない未来をコッソリ思いながら、柏木も同じように退屈そうに座りなおした。
 田宮の取り留めのないキャンプにおける注意事項と称した武勇伝は、それから暫くは続いていた。

□ ■ □ ■ □

(…宮本、殺す)

 まさか、その抑揚のない仮面の下で狂暴な焔が渦巻いているなどと言うことにこれっぽっちも気付いていない愚鈍な姫君の傍らで、暴君魔王の冷やかな双眸がチラッと自分を見て舌を出す優秀な片腕に注がれている。
 内心の憎悪を感じ取ったのか、それでも宮本はゾッとしながら肩を竦めて見せる。
 どうせあと少しで聞き分けのないじゃじゃ馬はあんたの腕に堕ちるんだ。こんな些細なことで怒るなよと、その怯えを孕んだ双眸が訴えかけている。
 暴君な硝子宮殿の皇子はしかし、すぐにそれにも興味を無くしたように視線を逸らせると、傍らで退屈そうに欠伸を噛み殺している柏木をコッソリと見た。
 意志の強そうな横顔も好きだと…覚えたての恋に戸惑う少年のように胸を高鳴らせて、そのある程度整った鼻筋に見惚れている。
 難を逃れた宮本は吐息し、それから何も知らずにしおりに視線を落として面白くもなさそうに読んでいる柏木に、同情したような溜め息をつく。
 こうして、やや波乱気味の長い4日間はこんな風に幕を開けたのだった。

Level.3  -暴君皇子と哀れな姫君-

 せまっ苦しい会議室の中では、雁首を揃えた一年の寮生たちが思い思いの姿勢で配られたプリントに目線を落としている。俺もその一人で…
 まあ、登山大会と称した新入生脱落コンテストの打ち合わせに呼び出されてるだけなんだけどね。
 思わず欠伸をしたら、班長たちを取り仕切る委員長がジロッと睨みつけてきて俺が首を竦めると、小さなイヤホンを片方の耳にして音楽を聴きながらパイプ椅子にダレている立原がクスッと鼻先で笑った。

「何を聴いてるんだ?」

 抑揚のない、どうでもよさそうな笑い方にカチンッときた俺が外している方のイヤホンを耳にしながら聞くと、立原は身体を起こして俺の方の耳にイヤホンをして…どうやら一緒に聞く気らしい。ジャンバリだったら苦手なんだけど…

「月光」

「鬼束…なんたらとか言う女か?」

「そう、それ」

 ふ~ん、センスがいいのか悪いのか、いまいちよく判らねぇんだよな。俺って音楽とかに興味ないし。
 でも、そんなに耳にクルってほど不快なもんでもないし、会議は退屈だし、聴いて時間を潰すにはちょうどいいや。その点で言ったら、バリバリ立原ってセンスがいいのかもな。

「なんかこう、物悲しくて切ない歌だな」

「そうか?俺には女の執念のような恐ろしい歌に聴こえるけどな」

 平然と呟いてプリントに目線を落としている立原の、抑揚のない横顔をギョッとしたように見た。そんなもんだと思いながら聴いてるのかよ、ホント、つくづくヘンな奴だ。
 それで気が楽になるのか?
 音楽ってのはこう、心を安らがせる為に聴くんじゃないのか…?
 俺にはいまいち立原の趣味が判らなくなってしまった。いや、もともとワケの判らん奴だったけど。

「…と言うワケで、柏木と立原ペアにお願いするよ」

 委員長がそう言って、俺は慌てて黒板に目を向けた。
 うっわ、マジでやべぇ。聞いてなかったよ。
 耳にしていたイヤホンをこっそり外して礼を言いながら立原に返すと、奴も外すだろうと思ったのに…なんと二つともしてパイプ椅子の背に深く凭れて両目を閉じやがったんだ!
 マジでヤバイって、あの委員長。
 すっげ、うるせーのに。

「立原くん!」

 苛々としたように委員長が机を叩いたが、素知らぬ顔で寝たフリを決め込んでる立原に肩を竦めて諦めることにしたようだ。寮内でも、下手をしたら学校中に知れ渡ってるほど名高い『エイリアン立原』に、果敢に挑めるほどの生徒はいないだろう。こんな山奥のお坊ちゃま高校じゃぁさ。

「ああ、ええっと柏木くん。聞いておいてくれ」

 軽い咳払いでバツの悪さを払拭した委員長に、俺はなんか楽しくて笑いを噛み殺しながら頷いた。

□ ■ □ ■ □

「キモダメシ大会~!?」

 思わずと言った感じで声を上げてしまった宮本は、慌てたように口を押さえて声を潜めた。
 俺の悪友の一人で、中学からの持ち上がり組(…と言っても、今年の外部生は俺一人なんだけど)のコイツはなかなかの情報通で、俺としては恙無くここでの寮生活をエンジョイできるための情報屋のようなもんだ。
 が、今は俺が情報屋だ。

「うえぇ~。高校にもなって肝試しかよ。冗談じゃねぇな!」

 宮本は今夜のおかず…っつってもヘンな意味じゃねぇぞ!
 そう、ここは寮の学食なんだけど、俺たちは飯を食いながら大いにその日の報告をするってワケだ。
 ハンバーグに箸を突き立てながらかったるそうに唇を尖らせた。

「キャンプファイアーの後にするんだってさ。毎年恒例だそうだから、文句も言えねぇよ」

 肩を竦めて言うと、宮本は俺を哀れむような目をしてハンバーグの欠片を口に放り込んだ。

「で、お前さんが立原と幽霊役ってワケか?」

「ああ。木ばっかりのところで浴衣を着て幽霊~らしいぜ?立原なんかまだいいよな。狼男かなんかだった」

 行儀悪く尻上がりの口笛を吹いた宮本は、唐突にニヤニヤと笑いながら俺を覗き込んできた。う、コイツはそうか、知ってるんだった。
 うう、マジでかっこわりぃよな。

「大丈夫かぁ?お前確か、オカルト物には弱かったんじゃなかったっけ?」

 そうだ。
 俺は超常現象にメチャメチャ弱い。
 何が嫌って、何か嫌なんだよ!理由なんかあるもんか。
 とか言いながら、怖いもの見たさで心霊写真なんかはまんじりともせずに食い入るように見てしまったり。
 そんな怪奇物をテレビで観ているときに、よせばいいのに暗闇なんかにしてたもんだから、突然入ってきた立原に心臓が飛び上がるほど驚いて抱きついたと言う過去がある。
 ああ、そう言えば。
 立原って奴はいつも唐突に俺の部屋に現れるんだよな。どこでくすねてきたのか、必ず趣味の悪いキーホルダーの下がった合鍵を持っているんだ。いい加減、寮長も取り上げてくれればいいんだけど…ま、別に気にしていないからいいんだけどさ。
 恥ずかしいところをこう何度も見られたんだったら、もう開き直るしかねぇよな。
 別にそれを言い触らすってワケでもないし、それでチクチクと嫌がらせを言うワケでもない。
 変わってる奴だけど、案外、アイツはいい奴だと思うよ。
 さすがに無頓着ってだけはあるな。エイリアンと呼ばれる所以も実はそこだったり。
 人間って奴は普通、他人の弱味を握ったらそれを利用してやろうと考えるのに、アイツにはそれがない。
 なんか、そんなことをすること自体が面倒臭そうなんだ。変人…とまではいかないけど、やっぱエイリアンなんだろう。つーか、そっちの呼び名の方がどうかと思うぞ、俺は。
 で、言い触らしたのはつまり、コイツ。
 目の前にいる宮本だ。
 立原と一緒に俺に用件を伝えに来ていたもんだから、飛び上がらんばかりに驚いて立原に抱きついた瞬間をバッチリと見られちまったんだ。立原は無言でそんな俺を押しやったけど、宮本はスクープをモノにした時の新聞記者か、はたまた週刊誌の記者のように目をキラーンと光らせやがった。実際、宮本は寮内で発行している玻璃寮ジャーナルの優秀な記者でもあるんだ。
 性質の悪い奴に見つかっちゃったなぁと、いつも通りに抑揚なく鼻先で笑って立原はそんなことを言ったけど、お前だってじゅうぶん被害者になるんだぞ!?…と思った。でも、アイツは興味がなさそうに肩を竦めただけだった。
 翌日にはすっぱ抜かれた記事は一面を飾っていた…ワケでもなく、と言うのも、話題性もないし、写真と言う強い証拠もないってワケで三面にちんまりと載っかったぐらいだ。
 今にして思えば、あんな他愛のないことがよく載ったよな。

「おーい、柏木。生きてるかぁ?」

 俺を散々いびり倒した諸悪の権現はニヤニヤと笑いながら目の前で手を振っている。垂れた目がムカツク野郎だ。おおかた俺が、あの時のことを思い出してヘコんでるとでも思ったんだろう。
 ああ、確かにヘコんでいたとも!
 いや、偉そうに言うなよ、俺。

「ああぅ~、ヤだよなぁ。肝試しなんかやりたい奴だけやっときゃいいのに」

 思わず泣きそうになりながら呟く俺に、宮本は肩を竦めて食後のコーヒーに口をつけている。相変わらず、食うのが早い奴だ。

「反対…はそっか、できないんだったな」

「できてたらとっくにしてるさ!ああ…俺、チビルかも」

 情けなく眉を寄せると、悪友は慰めるどころか追い討ちをかけやがる。

「その時はゼヒ!カメラに収めさせてくれ」

「やなこった!柏木光太郎くん16歳が森林の中で失禁!…なんて見出しで一面は飾りたくねぇからな」 

 俺が笑いながらそう言うと、宮本は「案外、それっていけるかもよ。トップスター間違いなし!」とか言いやがるから、俺はニッコリ笑ってパンチを一発お見舞いしてやった。
 ああ、憂鬱な登山大会兼新入生脱落コンテスト兼触れ合いキャンプ兼肝試し大会は、一週間後に迫っている。…畜生。

Level.2  -暴君皇子と哀れな姫君-

「いやぁん…ああん…きもち…いいよう~」

 甘い嬌声が響き渡る室内で、ヘッドホンをかけて音量をフルに上げてそれを平然と聞きながら勉強をする立原を、琴野原はしゃがみ込んで机の端に両手を添えながら見上げている。シャカシャカと洩れ聞こえる音楽に、鼻に皺を寄せた少女のように愛らしい琴野原は思い余ったようにヘッドホンを外してしまった。手許にあっても音が鮮明に聞こえてくる。
 どんな耳をしているのだ、立原よ!

「何をする」

 ムッとしたようにジロリと琴野原を見る双眸は、それでも口調ほどには抑揚がない。
 まるで完全にどうでもいいと無視しているのか、そう思わざるを得ないほど、立原は無表情だ。
 何を考えているのだろうと、琴野原はほんの少しゾッとした。

「僕の相手をしてよ!少しぐらいはいいじゃないッ!いっつも柏木くんの所ばっかりに行って…」

 しかし、彼の情欲を煽ろうと謀る琴野原にとってはそんなことはどうでもよくて、ムスッとして言い返すと立原は少し考えるように彼を見つめていたが、鼻先で笑ってノートに視線を落とした。

「だったらどうだって言うの?お前には関係ないでしょ」

 シレッと言い返す立原に、キーッと癇癪を起こした琴野原は無理やり立原の顔を引き寄せて口付けた。舌を絡めて煽ってみると、立原は殊のほかあっさりとそれに応えてくる。応えてくるが、それ以上は何もない。
 抑揚もなく、無感情に交わす口付けは、琴野原が遊んだどんな男のものよりも冷たく、無頓着に突き放している。

「もうッ!…サイテー」

 頬を上気させて、潤んだ瞳はじゅうぶん誘っているが、立原は無感情でそれを見つめている。濡れた瞳に力を込めて睨んでみても、まるでどこ吹く風と相手にもしてくれない。

「…相手をしてくれないと、柏木くんと寝るよ。それでもいい?」

 言った瞬間、琴野原はしまったと唇を噛んだ。
 立原の地雷原。
 他にはこんな言い方もある。
 立原の逆鱗…に触れてしまったのだ、琴野原は。

「柏木と…寝る?」

 ゆっくりと首を巡らせて琴野原を見上げる立原の瞳に、この時、漸く感情らしいものがチラリと窺えた。チラリとだが、その威力は琴野原を竦みあがらせるには充分だった。

「俺の姫君に手を出すって言うの?ねぇ、琴野原くん。君、何か勘違いしてないかい?」

 ゆらりと立ち上がると、琴野原よりも高い長身の立原は、獰猛そうに双眸を細めて覗き込んでくる。
 琴野原はビクッとして細い肩を竦ませた。

「君はあくまでこの寮の均衡を保たせる為の道具なんだよ。判りやすく言えば性欲処理機。俺の大切な姫君に手を出させない為の防波堤でしかないんだ。ね?この犯ることしか考えてない脳みそにそう言うこと、ちゃんと叩き込んでおきなさい」

 ゆっくりと柔らかな猫っ毛を掻き混ぜるようにして撫でると、琴野原は青褪めた顔で頷くことしかできない。彼の言葉は、この寮…いや、学院にあっては絶対の威力を持っているのだ。そして彼は、罰の恐ろしさを誰よりも良く知っていた。
 その年のたった1人の外部生である柏木光太郎だけ知らない、立原俊介の真実の顔。
 どこにでもいそうな極平凡な顔立ちをした、お世辞にも女の子には到底見えない柏木を愛し、彼をいつか自分のものにしようとその無表情の仮面の下で企んでいることなど、当の本人である柏木には知る由もなかった。
 そしてそんな自分が、『硝子宮殿の姫君』と呼ばれていることなど…全く、これっぽっちも知らなかったのだ。それなりに名の知れた財閥などの子息が通う名門の男子校で、柏木よりも見目麗しい少年がわっさりいると言うのに、彼はこの学院の王者…いや、魔王が愛する姫君なのだ。
 無理に自分のものしようと思えばいつだってそうできるのに、彼は姫を大事にしていた。恐らくどんなに泣き喚いても、いつかは立原のものになるのだろうが、今は彼の好きにさせてやっている。寛大な部分をアピールしているつもりなのだろうが、もちろん、そんなこと知ったことかの柏木には通用しない。
 琴野原は息を飲みながら、それでも、そんな哀れな柏木に嫉妬していた。
 保・幼・小・中・高・大・大学院まであって、海外にも分校のある名門校を取り仕切るこの無表情の魔王を、大抵の生徒は畏怖と敬意と、そして恋愛の対象として見ている。だが誰も落とせない。
 陥落できるのはただ1人、名もない中学からひょっこり現れた『硝子宮殿の姫君』だけなのだ。
 ある者は嫉妬と羨望の入り混じる複雑な視線で、ある者は憧れと微かな欲望の視線で見つめていたが柏木にはそれら全て蚊が止まった程度の認識しかない。
 近頃よく睨まれてるんだよなぁ、自意識過剰かな?と悪友…と言っても、これも立原の息のかかった生徒なのだが、に不貞腐れたように言い立てる柏木の姿を見たことがある。
 案外、自分で思っている以上に、柏木光太郎は鈍感な男なのだ。
 そしてその愚鈍な姫君は気付かない。
 どうして無表情の魔王が今度の登山大会にあんなに乗り気でウキウキしているのかと言うことに。
 張り切ってるなぁ…ぐらいの認識しかない。
 さすが愚鈍王。
 今度の登山大会が自分の初夜になることを彼は知らない。自分の周りの全てがそれを知っていることにも、もちろん気付いてもいない。
 だからこそ、琴野原が言葉だけで何のお咎めもないのだ。そこにはそんな理由があった。
 魔王が浮かれている。そんな理由が。

「俺の愛する姫君は、真綿に包んで大切にしないと…何れ大学まで連れて行かないといけないからね。結婚をするのなら、やはり大学まで遊ばせてやらないと。それから先は、永遠に俺のものになってもらうから」

 そう言って、この私立璃紅堂学院玻璃寮に君臨する、陰の支配者である立原俊介は満足そうにニッコリと笑うのだった。

□ ■ □ ■ □

 …へッきしっ!
 柏木がクシャミをする。
 自室で優雅な夕べを過ごしながら、何れ自分の愚鈍さを嘆くことになる姫君は、風邪でも引いたかなぁ…今日はもうねよぅっと、と、のん気に呟いてベッドに潜り込んでいく。
 今夜見る夢が、幸福であるように…

Level.1  -暴君皇子と哀れな姫君-

 快感に反り返って歓喜に打ち震える灼熱の杭が天を仰いで涙を零している。
 大きくなったそれに手を添えて勢いよく扱くと、脳天を貫くような快感が押し寄せてきて…
 俺はうっとりと目を閉じながらその快楽に酔っていた。
 追い詰められる胸苦しさに恍惚としながら自慰に耽る俺の部屋のドアが、その時、突然!いきなり!唐突に!勢い良く開いたんだ。
 ギョッとして慌てて起き上がった瞬間…俺はイッていた。
 びゅるるっ…と濃い白濁が勢い良く飛んで、俺は全身をブルブルと震わせた。

「…ッ…あ、はぁ…」

 名残惜しそうにヒクヒクと鈴口を抉じ開けて、白濁の名残が零れる様をその突然の闖入者はバカにしたような目で見下ろしている。
 よ、よりによって本当に久し振りにした、そのたった一回が見られちまうなんて…うわぁあ!誰か俺を消してくれーッ!!
 真っ青になって両手でベッドのシーツを掴んでいると、ソイツ…立原俊介は片方の口角をクッと釣り上げた。
 嫌味たらしい笑いかただ。

「おやおや…一人遊びが上手だな、柏木光太郎くん。なんなら肛門にも指を突っ込んでみろよ。前立腺ってのがあって、案外気持ちいいらしいぜ」

「なっ!…つーか、なんでお前がそんなことを知ってるんだよ。てめぇこそ、自分でそんなことしてんじゃねーだろうな!?」

 羞恥だとかそんなものが入り混じる厄介な感情を押し殺そうと必死になって胡乱な目付きをすると、顔を真っ赤にしながらベッドの上から立原を見上げる俺に、ヤツは鼻先でバカにしたように笑った。

「まさか!俺は相手に事欠かない。なにより、同室の野郎が毎晩そうやって俺を誘うのさ」

「…同室って。琴野原?」

「そ。男子のアイドル。男のくせに」

 バカにしたように笑って腕を組んでいた立原は、下半身がスッポンポンのままで蹲るように両手でシーツを握っている俺を暫く無感情に見下ろしていたが、色素の薄い双眸を僅かに細めて片眉をクイッと上げると、何でもないことのように顎をしゃくってみせる。

「ズボン穿いたら?それとも、お前も俺を誘ってるワケ?」

 お前なら相手にしてもいいぜ。
 そう言って冗談に取れないことを無表情で嘯く立原の前で、俺は慌ててパジャマのズボンを穿いた。
 冷えてパリパリになったシーツのアレは…後で始末しよう、うん。

□ ■ □ ■ □

「なんだよ。話があるから来たんだろッ」

 照れ隠しに怒鳴るように言うと、俺の部屋を物珍しそうに見渡していた立原はクルリと振り返って、片方の眉を器用に上げると馬鹿にしたような目でジロジロと見るんだ。

「当たり前だ。そうでもなきゃ、どうして俺がお前なんかの青臭い部屋に来るんだ」

「う」

 ピシャリッと言われて、もはや前科者に成り果てた俺は何も言えずに下唇を噛み締めたが、ん?ちょっと待てよ。なんか引っ掛かる…あ!

「おい、待てよ!なんで鍵のかかってる部屋に入れたんだ!?お前、どうやって入ってきたんだよ!」

「…」

 部屋の真ん中で正座をして立原を見上げる俺を、ヤツは暫く何かを考えてるような表情で見下ろしていたが、すぐに首を左右に振ると無表情で言いやがる。

「魔法で」

 思わず咽そうになったけど、天才で、同じ寮に暮らしていてもいまいちよく生態の判らない立原のことだ。
 噂では黒魔術を駆使して嫌な奴を追い出してると聞いたこともある。
 青褪めて退きそうになる俺を、立原は馬鹿にしたように小さく吐息して、肩を竦めて見せた。

「そんなことあるわけないだろ?せめて超能力ぐらいで反応してくれよな。合鍵だよ」

 チャラッと、誰の趣味かわからないキーホルダーをぶら下げた鍵を持ち上げて見せると、興味のなさそうな双眸で鍵に向けていた視線を俺に戻す。

「まあ、誰かさんは別のことに気を取られていて、俺が入ってきたことにイくまで気付きませんでしたけどね」

「あう!」

 そ、それを言うな、それを!
 顔を真っ赤にして項垂れる俺の前で屈み込んだ立原は、本当になんとも言えない無表情でジーンズの尻ポケットから無造作に取り出したプリントを差し出してきた。

「今度の登山の件だってさ、班長さん。まあ、せいぜい頑張っておくんなさい」

 小さくフッと笑って立ち上がった立原のヤツは、用件だけ言うとさっさと部屋を後にしようとして、唐突に思い直したように立ち止まるとクルリと顔だけ肩越しに振り返る。

「?…なんだよ」

 プリントを握り締めて訝しそうに首を傾げる俺に、立原は何でもないことのように呟いた。

「別の頂上に登りつめないようにね。あんまりしすぎると、太陽が黄色くなっちゃうよ」

「?」

 何を言われたのかよく判らなくて首を傾げる俺に、立原はクスッと鼻先で笑ってから出て行った。
 なんだったんだ?
 俺はいまいち要領を得なくて、仕方なく手渡されたプリントに目線を落とした。
 なんにせよ、立原ってのは一種のエイリアンのようなヤツなんだ、俺に理解しろって方がどうかしてる。だいたい、男の一人エッチを見ても驚きもしなけりゃバツが悪そうな顔もしない、まるで他人事(いや、確かに他人事ではあるんだけど…)のように我関せずって顔して嫌味だけはキッチリ言う。ホント、なんてヤツなんだろう、立原って。まあ、いいや。
 目線を落としたプリントには小さな文字でビッチリと、1年の寮生で行く今度の春の登山大会の概要が書き並べられている。
 くじ引きで引き当てた輝かしき班長の座!…なワケないか。ある種の罰ゲームだぜ。くそぅ。
 立原はいわゆる登山大会終了までの俺の相棒なんだ。
 副班長。
 みんなは同情してくれたけど、俺は別になんてこたねーんだけど。
 あのズバリと嫌味を言うのが、クラスの連中は嫌いらしい。
 女子の一人でもいれば華やかなんだろうけど、全校の半分以上が寮生と言うこの私立璃紅堂学院は由緒正しき名門校だ。その名門校にどうして落ちこぼれの俺がいるのか?
 決まっている。
 体育特待生ってヤツだ。
 文武両道を重んじるこの学校に入学できるのは、まあそんなもんしかないだろう。
 何を好き好んでこんな山奥に…クラスメイトは花背負った深窓の王子さまぶぅわっかりだし。
 漸くいた、まともそうなヤツはあの立原と数人の悪友どもだ。
 ああ…なんか帰りたいんすけど。マジで。
 薄暗くなってきた部屋の中に、俺の諦めたような溜め息がやけにハッキリと響きやがった。