4  -狼男に気をつけて!-

 ヘトヘトに疲れてバイト先から帰りついたのが午前様、全くツイてないと言うかなんと言うか…
 今日は思ったよりもお客の入りが多くて、最近別のバイトくんが辞めちまったってのもあったもんだから、こうして午前様も仕方ないってワケだ。
 なんつっても24時間営業だから文句は言えないんだけど…
 カンカンと古びた金属製の階段を上がって安っぽいアパート2階の自室、やっと息のつける昭和初期も真っ青な狭い部屋に入る為の木製のボロッちぃ扉の金属のノブに、やっぱりいつも通りコンビニのビニール袋が下がっている。
 アイツもマメだよなぁ…とか思いながら、思わずニヤける顔に叱咤して。

「あり?今日は俺がバイトしてるコンビニの袋だ…そっか。これを買うためにわざわざあんな遠くまで買い物に来たのか」

 それを知るともっと嬉しくなって、俺はなんの疑いもなくぶら下がっているビニール袋に手を出した。

「…?」

 ビニール袋の中の異質感。
 なんだ、これ?
 俺の見慣れたビニール袋の中、珍しく500ml入りの牛乳パックとパン、それから…ビデオ?
 なんだってビデオテープなんか入ってるんだ?
 レンタルで返すのを忘れてこの中に入れたとか?でもおかしいな、黒いケースに収まっているそれは背面にタイトルを示すテープが貼っていない。明らかに…もしかして。

「アダルトかよ!?辻波ぃ~勘弁してくれよぉ」

 とか言いながら、本当は興味津々だったりして…
 巻き戻して返せば、アイツも気付かないだろうしなぁ…見ちまおうか?
 鍵穴にキーをさして、開けるのももどかしく思いながら金属のノブを回す。
 案の定、いつも通りゴキちゃんと仲良く眠れそうな散らかし放題の部屋の真中、万年床の少し上の方に無造作に置いてある電話には留守電ランプが赤い点滅を繰り返していた。
 20件以上も無言の上に、辻波の陰気な声でのお出迎えよりも、今はやっぱりビデオでしょう!
 はあはあ言いながら楽しませてもらいます!!
 …けど、うーん。
 やっぱりいつも通り聞いておこうかな。
 せっかく、辻波が連絡くれてるんだし、無精者でぶっきらぼうで愛想なしの仏頂面のアイツが。
 気付いたら留守電の赤いランプを押していた。
 巻き戻しが終わって、機械的な女の声で件数が告げられる。

『13件です』

 ああああ…またしてもこの回数かよ。縁起悪ぃし多過ぎだっての!
 ムカツキながらも根気良く無言電話を無視して辻波の声を待った。
 ピーと言う発信音の後…

『お帰り…えーっと。じゃ、また大学で』

 拍子抜けするほどあっさりと切れたメッセージに、俺はポカンとしちまった。
 いつもならちょっとした感想だとか、労いとか入ってんのに…そっか、アイツ。俺が声の相手が自分だと知ってるって思ったから、バツが悪くなっちまったのかな?
 だとしたら…このビデオを観る行為ってのはもしかして、かなり拙いのではなかろうか?
 まんじりともせずに布団の上に置いたビデオテープの黒いケースを睨みつけていた俺は、それでもと言うか、やっぱりと言うか…好奇心に負けてしまった。
 し、仕方ないよな?風が吹いただけでも勃つお年頃…からは少し時期が外れてるけど、それなりに女の身体には興味あるし、辻波のヤツがどんなタイプが好きなのかとか気になる要素大だから無視するわけにはいかないだろう。
 『観てください』ってスタンバってるワケなんだし。
 よし、観よう!
 決心して、それでも愚図る手には愛のお仕置きをしてから、俺は黒いケースからなんの変哲もないカセットを取り出した。
 どんなに俺が貧乏と言えど、なぜかビデオデッキだけは置いてあるんだよな。DVDとか洒落たものはないんだけど。
 挿入口にカセットを押し込んで、薄い壁だし、ボリュームは極力絞って画面を待つ。
 砂嵐が暫く続いて、すぐにその映像は現れた。

『…ぅあ!…ん。あん!…あ、あ、あ…あぅ…』

 絞った音量はのっけからお楽しみの真っ最中だと教えてくれたけど、俺の耳はもう、そんな音を聞いてなんかいなかった。ただただ、画面の中で必要以上に喘ぐヤツの、男のナニを受け入れて気持ち良さそうにヨガるヤツの、その顔を食い入るように見ていたんだ。
 男を咥え込んでヨガるソイツ…まさに俺だったんだ。

3  -狼男に気をつけて!-

 セーフで辿り着いたバイト先は某有名チェーンのコンビニだ。
 水色と白のボーダーシャツを着た愛想の良い店長が女性客と話している。ヤツがけっこう人気があるから、この店は繁盛してるんだそうだ。オーナーがそんなことを言ってたっけ。

「やあ!東城くん」

 俺を目敏く見付けた店長こと藤沢実は爽やかに笑って声をかけてきた。

「うぃっす!遅くなりました!」

 元気良く声をかけると、ありがとうございましたと女性客を見送った店長が思ったよりも敏捷な動きで俺に近付いてきたんだ。二の腕をグッと掴んで、顔は笑顔のままで言う。

「心配したよ!例のストーカー野郎に悪戯でもされてるんじゃないかってね」

「冗談キツいッスねー」

 寝言は寝てから言ってくださいよー。ニコッと笑って付け加えてやると、藤沢のヤツは大らかに笑って1本取られたとかなんとか言ってるけど、腕は離してくれねーのか。
 この時間帯、実は一番お客が来ないから店長はこんな風に悪ふざけを仕掛けてくるんだ。
 迷惑なヤツだ。
 だいたい、なんだっていつもこの時間帯ばっかなんだ?深夜だったら深夜給で時給も上がるってのにな。畜生だ。

「ストーカー野郎に襲われたら間違いなく店長に助けを求めるんで、可愛がってくださいね」

 うふんっと笑ってやると、店長は任せないさいと胸板をドンッと叩いて見せる。
 悔しいんでこんな風に店長をからかったりからかわれたりして遊んでやるんだ。

「そろそろ腕を離してくださいよ。制服に着替えてくるんで…」

「ああ!申し訳ないね。うん、着替えておいで」

 漸くパッと腕を離した店長から離れて白い扉をくぐると、奥に続く薄暗い廊下を通って狭い更衣室に入る。更衣室と言ってもヤロー専用となると質素なもので、安っぽいパイプ椅子と長机が1個、それと小さなロッカーが人数分あるぐらいだ。
 軽く羽織っていた上着を脱いで、T-シャツの上から制服を着こんでいざ!カウンターへ。
 そこではちょうど店長がレジを打っている最中だった。
 いらっしゃいませーと、ヤル気なく声を掛けて客を見た瞬間、俺は思わずポカンとしてしまった。
 なぜならソイツは…

「辻波?」

 思いっきり…とは言わないまでも、やっぱりけっこう驚いた。
 俺がここでバイトしてること、知ってたのか。
 それとも、ただの偶然?
 なんにせよ俺は、ちょっと嬉しかったんだ。

「あれ、東城くんの知り合いなのかい?」

 手にしていた500mlの牛乳パックをビニール袋に入れながら、店長は少し怪訝そうな顔をした。
 ヤッバイ、ヤバイ。
 俺って、もしかして今、ニヤけてたとか…

「あ、ああ、はい。大学で同じ学部のヤツなんスよ」

 な?辻波!…と目配せで笑うと、辻波のヤツは然して驚いた様子も見せずにチラッと俺を見ただけで、金を払うとサッサと出て行ってしまった。無愛想この上ないヤツだ。
 呆気に取られたようにポカンッとしていた店長は、やれやれと溜め息を吐く俺を呆れたように振り返りながら、嫌味でも言うようにニヤッと笑ったんだ。

「なあ、東城くん。もしかして、今のが件のストーカーくんだったりしてね」

 核心を突くような抉り込んだ言葉に一瞬、心臓が跳ね上がるような錯覚がして、俺は息をするのを忘れたように唾を飲み込んで…

「まっさかぁ!何言ってるんスか。アイツ、確かにちょっと根暗そうですけど、意外にいいヤツなんスよね」

 笑ってそう言った。
 店長はいまいちの表情をして肩を竦めたけど、それ以上は何も言わなかった。
 ま、他人事だし。ホントはどうでもいいんだろう。
 俺が店長でもそうしてるモンな。一応相談には乗るけど、それ以上のことは押し付けるな、ってのが今の世の中だ。
 ああ、でも辻波が来たんだ。
 相変わらず無愛想だったけど、いつものことだし、けどヤツを知らない他人にしてみたらヘンなヤツに見えるんだろうな。
 ストーカーかぁ。
 まあ、そんなモンなんだろうけど。
 でも、アイツの無愛想の奥にはホント、いいヤツの素顔が隠れてるんだぜ?
 あれだけプッシュしてもちっとも振り向いてくれなかった辻波が、ほんのちょっと歩み寄ってくれた、そんな気分だ。ああ、なんかマジ、いい気分だな。
 ストーカーでもなんでもいい。
 もっと俺を信頼してくれればいいのに…
 こんなこと言ってると、まるで俺の方がストーカーみたいだ。
 ヤバイやつだよな、俺も。

2  -狼男に気をつけて!-

「気を付けほうがいいんじゃねーの?」

 翌日、俺は大学の講堂で論文を書いてる最中に、親友の桜沢にいつも通り報告を兼ねて昨夜のことを話してみた。案の定…と言うか、やっぱりいつも通りの返答が返ってくる。
 心配性の俺の幼馴染みは、それなりに女の子にもモテるってのに眉間に皺を寄せて…心配のし過ぎだっての!

「大丈夫だって!別に女じゃあるまいし。実害も出てねーかんな、却ってありがたいぐらいさ」

 シャーペンをクルクルと器用に回しながらそう言うと、桜沢のヤツは思い切り不審そうな表情をして溜め息を吐いた。

「実害があってからじゃおせーだろうがよ」

「大丈夫だって…お。よお!辻波!…って思い切り無視すんなよ。辻波!つ・じ・な・み!!」

 大声で呼んでも辻波櫂貴はまるで無視で、少し長い前髪に隠れたけっこう鋭い双眸を胡乱なほど細めて、鬱陶しそうに俺をチラッと見るだけだ。
 うーん…毎度のことだけど露骨だよなぁ、アイツ。
 呆れたように笑う俺を、桜沢は何か言いたそうに眉間を寄せて凝視してくる。

「…なんだよ」

「お前もとことん変わったヤツだよなぁ。普通、あんだけあからさまに嫌がられてたらそろそろ諦めるって」

「うーん…まあ、別に思ったほど悪いヤツじゃないと思うんだ」

 なんとなく言って、それから思わず噴出しちまった。
 怪訝そうな目付きで俺を見る桜沢は、仕方なさそうに溜め息を吐くと肩を竦めた。
 コイツが知ったらなんて言うんだろう?
 ストーカーもどきがあの辻波櫂貴だって言ったら。
 ま、ややこしくなるから余計なことまで言うつもりはないけどな。
 夕食を運んでくる大事な物資供給班なんだ、無下にできるかよ…って、ああ、俺ってばなんて貧乏ったらしいんだ。仕方ない、苦学生はいつだって貧乏だって決まってんだ。
 プライドなんか持ってられるかよ。

「そんじゃ、桜沢。俺、バイト行くわ」

「ああ、頑張んな。…お前さ」

 レポート用紙とペンケースを鞄に乱暴に突っ込みながら帰り支度をする俺に、桜沢のヤツは頬杖を付いたままで唐突に声をかけてきた。

「マジで。ホントに気を付けろよな」

 心配性が再発したのかよ?やれやれだぜ。

「大丈夫だって!じゃあな、桜沢」

 鞄を引っ掴んで講堂を後にしようとする俺を、桜沢のヤツは仕方なさそうに首を左右に振りながら、片手を振って見送ってくれた。コイツはあと1教科あるんだよな。
 おっと、ヤバイヤバイ。
 俺は慌てて講堂から出て行こうとする辻波の後を追いかけた。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆

「まーてーよ!待て待て待て待て待て…」

「…うるさい」

 ボソッと言われても怯むわけないって。
 今日は機嫌がいいのか、なかなか良い反応をするじゃねーか。

「辻波さぁ。どうして電話だとあんなに喋るのに、現実には喋らねーんだ?」

 日頃から聞きたかった質問を投げかけてみると、肩を並べる俺をうんざりしたように見下ろした辻波は溜め息を吐いた。

「何を言ってんのか判らない」

「あのなぁ…お前の声だって判ってるんだぜ?」

「…え?」

 初めて驚いたような反応を見せる辻波に、なんだコイツ、俺が本気で気付いていないと思ってたのか?

「いつも聞いてるんだぜ?お前の声ぐらい判るよ」

 バッカなヤツだぜ、コイツ。
 同じ大学で同じ講義受けてるんだぜ?流暢な英語だって聞き慣れてるんだ。見た目の野暮ったさに比べてコイツは頭がキレるからな、教授たちがこぞって当てるんだ、声なんか嫌でも覚えるさ。
 根が暗くて抑揚のない…1度聞いたら忘れるかって。
 ニッと笑ってやると、辻波は真剣に驚いたような顔をしていたが、ついで少し狼狽えて、それから信じられないものでも見るような目付きをしてマジマジと俺を見た。

「…本気で?」

「あったりまえだろ!バッカなヤツだな、お前って」

 ケラケラ笑って、しかし大事な物資供給班だ。馬鹿にするのはこれぐらいにしておこう。

「…嫌だとか、思わないのか?」

 秋になればそれなりにいいカンジになる並木道をブラブラと歩きながら、少し前に出ていた俺は蚊の鳴くような声を出す辻波を振り返った。

「は?」

「…だから。その、俺のことキモいとか思わないのかって」

 今時には珍しい黒髪を風に軽く遊ばせながら、鬱陶しい前髪の奥の双眸を伏せる辻波のヤツはバツが悪そうに足元の小石を蹴っている。

「思うかよ」

 自分で言い出しておきながら俺の返事に動揺したように顔を上げる辻波に、そんなに突拍子もないことを言ったか?

「だからその。まあ…電話代は気になるけどなー」

 お前は大事な夕飯だ!…とは言わないでおこう。ってか、言えねっての。

「なんだ、そんなこと」

 辻波はそれだけ言うと、唇を噛んだ。
 何か言おうと逡巡しているようだったけど、結局何も言わず、ヤツは無言のままで俺をいつも通り無視してさっさと行ってしまった。
 なんなんだ、いったい。
 …ちえっ、今日も捕まえられなかったか。
 あーあ、今日こそは捕まえて、なんであんなことしてんのか聞くつもりだったのに。
 本当ストーカーなのか…どうかとか、知りたいし。
 でも…ストーカーって惚れてるってことなんだろ?
 んー…まいっか。

「やべぇ!遅刻する!!」

 腕時計が電子音を響かせて、俺は慌てて手首を見た。
 ヤバイ!マジで遅刻だッ。
 俺は慌ててバス停に走った。

1  -狼男に気をつけて!-

 ストーカー…だと言うんだそうだ。
 正直に言うと、それまでの俺はそんなこと、実は微塵も感じていなかった…と言うよりはむしろ、未だにそんな風にヤツのことを思ったことはない。
 いいヤツだなぁとか、そんなモン。
 俺ってばもしかして、頗る鈍感ってヤツなんだろうか…?

◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 親にごねて手に入れたワンルームマンションの独り暮し!…と言うには程遠いきったならしい1DKアパートの、安っぽい木の扉に申し訳程度に取り付けられた鉄製のノブにぶら下がった近所のコンビニのビニール袋。
 内容は見なくても判る。
 俺がいつも買うお決まりの商品が一式詰まってるってワケ。
 本日も夕食代が浮きました!
 苦学生には付き物の赤貧と言う名の悪魔に取り付かれた俺、東城光太郎の夕食はお決まりのワンパターンだけれども、毎晩毎晩ありがたい差し入れだと思うよ。
 本当にその機能を発揮してるのか、いまいち疑いたくなる鍵穴に挿し込んだ鍵を回すと鈍い音を響かせて金属がカチリと回る。立て付けの悪さも築年数の古さが物語る時間の流れだと思えば案外と住み心地のいいアパートの一室は少し…どころかかなり散らかっている。足の踏み込み場もない、そろそろ片付けないとゴキちゃんとコンニチワだ。

「ん?」

 チカチカと、外の通路から挿し込む、まるで取って付けたような切れかけた電球の薄明かりに浮かび上がる室内で、主の帰りを待つ電話の留守番機能が反応している。

「…母さんかなぁ?また何か送ってきたのかも」

 口では悪態、でも内心では物資の供給にホクホクしながら、俺は赤いランプを点滅させるボタンを押してみた。
 玄関に行ってドアを閉めて、電灯を点けたところで巻き戻し完了。冷めた機械の声が件数を抑揚のない声で言った後に…無言。

「20件?…で無言。またいつもの悪戯かよ。嫌になるよな、全く」

 これが苦痛だと言う連中もいるらしいけど、俺は気にしない。
 つーか、気にならない。
 消しちまえばいいワケだし、相手にしなきゃそのうち諦めてくれるだろう。
 イタ電なんざ、相手してやるから調子に乗るんだ。無視無視、これに限るよな。

『…もうそろそろ帰り着くよね?今日もバイト、お疲れさま。あんまり店長と親しくしない方がいいよ』

 最後に入ってるのはほんの5分ほど前に掛けたんだろう、いつもの根が暗そうなアイツからの労いの声。
 抑揚らしい抑揚もなくて、一体何を考えてるのか良く判らないヤツだ。

「店長ねぇ…そう言えば」

 俺は今日の店長こと、藤沢実の台詞を思い出した。
 店長と言っても俺と同様の雇われで、確か1つか2つぐらい上だったんじゃないかな?よく覚えてないや。
 つーか、気にしてないから忘れてしまう。悪い癖だとは思うよ。

「ストーカーかぁ…まあ、根が暗そうだって点では頷けるけど。女でもあるまいし、気にする必要もないか」

 簡単に言ってのけたその台詞を、俺が死ぬほど後悔するのはもう少し後の話になる。
 その日の俺は店長の忠告をケロリと忘れて、挿し入れられた夕食を感謝しながら頂きました。
 毒入りのリンゴを、甘くて美味そうだと信じた白雪姫の様に疑いもせずに…俺はペロリと平らげちまった。

Level.12  -暴君皇子と哀れな姫君-

 麗らかに良く晴れた午後の校舎の屋上は、ハッキリ言って誰もいなくて心地好い。
 絶好の昼寝日和の空にプカリと浮かぶのは、モチロン校則違反の紫煙のドーナツ。
 眼下の校庭では璃紅堂の生徒たちが思い思いの部活動に専念したり、この学校を取り仕切る暴君と名高い現生徒会長さまが闊歩して横切ったりしている。その先に、待っているのはやはり『硝子宮殿の姫君』…と呼ぶにはあまりにも男らしい生徒の1人で、ちょっと嬉しそうにはにかんでいる姿が恨めしい。

「タバコは校則違反じゃないの?」

 ピッと激しい仕種で吸いかけのタバコを取り上げられて、いつの間に近付いてきたのか、琴野原の可愛い顔がムッとしたように唇を突き出しながら見下ろしているのに、その時になって漸く宮本は気が付いた。

「チクリますか?」

「…別に。そんな面倒くさいことしないもん」

 恋焦がれていた想い人を奪われてしまった琴野原にとっての学校は、何か大事なものが擦り抜けて行った抜け殻のようになっていた。ぶらぶらとその辺りを歩いたあと、フェンスに凭れて両足を投げ出している宮本の傍らに唐突にペタンと座り込んだ。

「結局、ねえ?俊介は柏木くんとできちゃったの?」

 決まりきったことではあったが、琴野原はどうしてもコトの真相を情報通の宮本の口から聞き出したかったのだ。

「あの姿を見て、誰も付き合ってません。…なんて言えないッス」

 トレードマークのようになってしまったウォークマンの片方のイヤフォンを渡しながら、立原は柏木に何か話し掛けた後、何が楽しいのか、小さく笑っている。そんな仕種は、柏木が入学してくるまでは誰も見たことがない。
 もちろん、上辺だけのおざなりの微笑なら何度も見たことがある彼らにとってだが。
 口許の微笑は、満面の笑顔よりも珍しい。
 手に入れてしまったら飽きるんだろうと高を括っていた宮本にとって、その拍子抜けしてしまうほどあっさりと陥落した暴君の仮面を、よければニッコリ笑って引っぺがしてやりたいぐらいだ。

「ふーん、やっぱりそうなのか…ちっくしょー」

 可愛らしく唇を尖らせてフェンスをカシャンと掴んだ琴野原は、そうして、暴君皇子と哀れなお姫様が仲良く寮に戻って行く姿を恨めしそうに見下ろしていた。

「…」

 ぷかりぷかりと青空に吸い込まれていく投げ捨てられた煙草の煙が、大気に霧散して有害な空気になるのをぼんやりと見届けていた宮本に、唐突に立ち上がった琴野原は片足で蹴りを入れた。

「イテッ!」

「そりゃ痛いよ。わざと痛く蹴ったんだもん…ねえ、結局思い通りになったってワケ?」

 土曜の午後の気怠い陽射しを背にした琴野原は、しゃがみ込みながら柔らかそうな髪を風に遊ばせている。

「どう言う意味ですかな?」

「恍けてるでしょ?うーん、もう!別にいいんだけどね」

 疲れたように溜め息をついた琴野原はやはり宮本の傍らにぺたりと座り込んでしまう。
 キョトキョトとよく動く、まるで小動物のような可愛らしさだ。
 だが、件の暴君皇子はお姫様のように可愛らしい琴野原など眼中にもなく、どこをどう見たらそんな恋愛の対象になったんだ!?と思えるほど体格の良い、スポーツ特待生の柏木に心を奪われきっている。もはや、何もつける薬はない。
 可哀相に琴野原は、泣く泣く諦めなくてはいけないのだろう。
 ふと、ショボンと眼下を見下ろしていた琴野原の顎を掴んで、宮本は対面するように座っている彼の顔を自分の方に向けたのだ。

「なに?別に僕は落ち込んでなんか…」

 言い掛けた台詞が宮本の口腔内に吸い取られ、琴野原は一瞬ビックリしたように目を見開いていたが、うっとりと双眸を閉じて宮本の口付けを受け入れた。
 肉厚の舌を絡めて濃厚な口付けを交わす2人の姿が、一朝一夕でないことぐらい傍目にも明らかだ。
 軽く息を弾ませて宮本の胸元に頬を埋める琴野原の頭を撫でながら、宮本は溜め息のような苦笑を浮かべた。

「また笑ってるんでしょ?結局、宮本くんは俊介が好きだったし、僕は柏木くんが好きだった。でも、お互い手に入らないのなら僕たちが付き合って、彼らをくっ付けちゃったら幸せだ…なんて言ったのは、君なんだからね」

「賛同したのはお前だろ?」

 そうだけど…と、子供のように唇を尖らせた琴野原はしかし、あの登山大会が終了してから初めて見せる柔らかな微笑を浮かべて宮本を見上げた。

「でもね、今となってはこれで良かったんだって思えるよ。だって、僕はもう二度と先生たちとセックスをすることもなければ、大好きな人を奪われることもないんだもの…これは、たぶんきっと、幸せだって言うんだよね?」

 チカリと光る綺麗な瞳の中に、一瞬揺らめく不安を見つけても、宮本は琴野原の濡れた唇をペロリと舐めるだけだった。

「はじめはすごいビックリしたけど…でも、どうせ手に入らないのなら、僕は俊介も大好きだから、他の誰かに取られてしまうぐらいなら、2人をくっ付けちゃった方が、もう安心だものね」

 うっとりと両目を閉じて囁くように呟く琴野原に、宮本はもう一度口唇を重ねながら内心で苦笑していた。
 そう。
 これはあくまでも立原の計画。
 目障りな琴野原を宮本に押し付けて、自分はまんまと愛する者を手に入れる。
 だが…

「お生憎さまさ」

「…え?」

 キョトンと小動物のように小首を傾げる琴野原に何でもないと頭を振って、宮本は白い雲がのん気に流れている空を見上げていた。
 立原の思惑通りにいかないのが、人間が辿る恋路だろう。
 別に宮本は立原を好きでもなんでもない。
 そう、彼が好きなのは柏木に嘘だと思わせるためについた嘘…ではなく、あの真実の告白通り、他の誰でもないこの琴野原なのだ。
 いやしかし、あのエイリアンで暴君皇子の立原のこと、よもやそこまで考えていた…なんてことは、できれば考えたくない。
 何はともあれ。
 日本晴れの空の下、皇子は姫を手に入れて、忠実な家臣は夢にまで見た愛らしい小動物を手に入れたのだ。
 波乱万丈も若さで乗り切るお年頃。
 彼らのゆく手を待ち受けている一波乱があったとしても、大切なものを手に入れた彼らに怖いものなど、もうありはしないのだ。

エンドレスエンドで続く恋もある…のかもしれない。

─END─

Level.11  -暴君皇子と哀れな姫君-

 身体が軋むように痛くて、俺は彷徨っていた闇の中から覚醒した…んだと思う。
 けど、どうして俺はベッドの上で寝ているんだ?
 確か、立原と山の中にいて、アイツは狼男で俺は幽霊だったはずじゃ…
 朦朧とする頭じゃ思うようにハッキリしなくて、起き上がろうとしたらズキッと痛む腰に眉が寄ってしまう。

「う、うう…」

 思わず漏れた呻き声が思った以上に掠れていて、いよいよ俺は自分の身体に何が起こったのか不安になっちまったんだ。

「…気が付いた?」

 不意に、頭上から声が降ってきて、それが誰の声なのか、確認しなくても判る辺りが聞き慣れたヤツだって判るよな。

「立原?」

 声が掠れて思うように声が出ないから少し咳払いをして、あの抑揚のない淡々とした声音の持ち主を見上げたんだ。目の周りがバリバリしていて、この感触は…そうか、俺、泣いたんだろうな。
 それもたぶん、この立原の前で!
 きっとコイツのことだ、鼻先で笑って気のない表情をして俺を馬鹿にするんだろう。

「俺…えっと、何があったんだ?」

 何か言われるよりも先に何か…と思ったのは確かで、けっこう男らしい口元の立原に口を開かせる勇気が弱虫毛虫の俺にはなかったんだ。
 ヤツはクスッと、案の定、他人を馬鹿にしたように鼻先で笑うあの独特の笑い方をして、冷たい指先を伸ばして額に触れてきた。

「良かった。熱は下がったみたい」

「熱?…俺、何かあったのか?」

 そう言えば、この腰の痛みとか、少年自然の家の安っぽい部屋から見える窓の外はもう随分と暗くなってるみたいだし…あの後の、毎年恒例だったキャンプファイアーも後回しになったんだけど、そんなものはどうなったんだろう?
 異常に頭が痛くて、なんか腰の辺りがズキズキして…頭にまるでモヤでもかかってるみたいだ。

「…柏木、覚えてないの?」

 覚えてる?
 何を?
 他の連中とかどこに行っちまったんだ?
 なんか…重要なことを忘れているような気がするんだけど…

「立原…俺、覚えてないんだ。何があったんだ?他の連中はどこに行ったんだよ?」

 ベッドに横になったままで見上げた立原の顔はいつも通り無表情だったんだけど、どこか痛そうな…と言うか、ムッとしたように唇を尖らせている、まるで駄々をこねたガキみたいな表情をしやがったんだ。

「立原?」

「…他の連中は大部屋で休んでいるよ。キャンプファイアーも恙無く終わったしね。柏木はその間、ずーっと寝てたんだ。酷くしてしまったから」

 つっけんどんに投げ槍に言う立原が、いったい何に怒っているのか理解できなくて、俺は眉間にシワを寄せながらムスッとしているヤツの胸倉を掴んで引き寄せた…けど、途端に身体の中心を貫くような激痛に飛び上がりそうになって思わず呻きながら手を離すと、立原はケロッとした表情で蹲る俺をベッドの端に腰を下ろしながら馬鹿にしたように見下ろしやがったんだ。

「大丈夫?ムリはしない方がいい。ムリヤリ貫いちゃったから、たぶんきっと、酷いことになってると思うよ」

「…へ?」

 蹲るようにシーツの下で身体を縮こまらせて見上げると、立原はこの上なく幸せそうにニッコリと笑ったんだ。それまで、あの中学の時の親善試合の開会式の時以来、立原のそんな笑顔を見たことのない俺は、突発的な笑顔にドキッとしてしまった。
 あう、なんで胸を高鳴らせてるんだよ、俺!
 いや、確かにこの笑顔に惚れたのは確かだけど…って、惚れたとか言うな。
 顔を真っ赤にして1人で焦る俺の頬を片手で包み込みながら、立原はなんとも綺麗な笑顔をしてこれ以上にない恐ろしいことを言ってくださった。

「今夜から俺だけの姫君になったんだ。ああ、良かった。今まで悪い虫に手をつけられたらどうしよう…とか悩んでたんだけど。もう、誰も手出しはできないね」

「…に、言ってるんだ?」

「何って…山の中でセックスしたじゃない。虫に刺されて大変だったけど…ああ、柏木は別のところを俺に刺されて大変だったから、きっと忘れたんだね」

 頭がスパークして、たぶんこれは、悪い冗談か悪夢なんだと思った。
 パクパク、酸素不足の金魚みたいに口をパクつかせていたら酸素供給できたのか、俺の鈍い頭が少しずつ鮮明に色付いてきたんだ。
 それで、信じたくなくて忘れていた記憶をまざまざと思い出しちまった!
 嫌だ、と喚いて抱きついたのは確かに俺だし、貫かれながらキスをせがんだのも…俺だ。
 わ、わー!!!

「なななななななな…なんてことだ!!俺、俺、お前と!?わーッ!嘘だッ、違う!」

 腰の痛みに怯みながら…つーか、腰が痛いだけでもその事実を如実に俺に思い知らせてるってのに、それでも俺は信じられなくて、恥ずかしくて、シーツを頭から被って暴れてしまった。
 でも、すぐにそのシーツは立原の思わぬ強い力で剥ぎ取られて、真っ赤で涙目になっている顔を覗き込まれてしまったんだ。

「何が違うの?」

「おおお、お前!こんなことになって、なに、平気そうな顔してんだよ!?俺たちは男同士で、お前はエイリアンでッッッ」

「…」

 支離滅裂なことを言って腕をばたつかせるその手を掴んで、立原は馬鹿みたいに間抜けなことをしやがった。
 俺の手を掴んで、案外長い睫毛を伏せながら手の甲にキスをする。
 思わず痛む上半身を起こしてポカンッとする俺に、立原は口付けながら小さく笑ったんだ。

「愛する俺の姫君。この忠誠を永遠に誓いましょう」

「な、に言ってんだよ、立原!ちっくしょう!なんだって男同士でその、え、エッチなんかしないといけないんだ!あ、愛してるなんてそんな冗談言いやがって!!俺は…俺はお前が嫌いなのに!」

 ギュッと目を閉じて、恥ずかしさやら情けなさやら、何よりも信じられなくて思わず在らぬ事を口走ってしまった…って言うか、俺は確かに最初、立原にムカツイてこの高校に入ったんだ。
 でも、立原のヤツは少しもあのキラキラ光り輝くような優等生生徒会長さまなんかじゃなくて!俺のこと…忘れてるようなヤツだったじゃねーかよ!
 なのに、何でいまさら…
 そこまで考えていたら、不意に手をギュッと掴まれたもんだから強い力に眉を寄せて両目を開いたら…立原の、それまで見たこともないような鋭い双眸に勝ち合ってしまった。思わず息を飲んだのは、その凄みが半端じゃなく強烈で、底冷えする殺気に腰が抜けそうになっちまったからだ。

「…嫌い?柏木は、俺のこと嫌いなの?」

「あ、ああ!大ッ嫌いだね!お前みたいになに考えてんのかわかんねーヤツ、大ッ嫌いだ!」

 下手な冗談で俺をからかったり、ドサクサで犯っちまうようなヤツは大ッ嫌いだ!!
 当たり前じゃねーか!そんな、凄んだって負けないからなッッッ!
 …と、面と向かって言えたんなら俺も随分と天晴れなもんだけど、最初の台詞だけで実はびびっちまって後は妄想だけが意気込んだだけで…

「うッ」

 不意に手を掴まれたまま、空いてる方の腕で頬を掴まれて、俺は全身に走る痛みに眉を寄せながら真っ向から覗き込んでくる立原の双眸を睨み返してやった。

「…ずっと好きで、大事にしてやろうって思ってたんだけどな。残念だよ、柏木。手に入らないなら、壊れちゃう?」

 そんなゾッとするような台詞を言ってのけた立原は、問答無用で俺をベッドに押し倒すように覆い被さってきながらキスしてきたんだ!

「…ん!、…ぅ…ッ、めろって!」

 そりゃあもう、全身を貫くような激痛は、実際犯られたヤツじゃなきゃ判らないほど痛いし苦しいんだ!なのに、覆い被さってくる立原の体重を押し返すことは愚か、嫌がることさえ半端じゃなくムリに近い行為なんだよぅ…
 それなのに立原のヤツは、嫌がる俺なんかお構いなしにキチンと着ていたシャツを引き千切るようにして引っぺがしながら、手当たり次第に触りまくってくるんだ。激情だとか、激しく怒ってんだな…ってことはよく判る。でもな、怒りたいのはこっちなんだぞ!
 くそぅ…俺のことなんか、俺のことなんかホントはなんにも考えてないんだっ。
 コイツは、ゾッとするけど、俺の身体だけが目当てなんだ!!
 …なんて情けないこと言ってるけど、もう、マジで勘弁して欲しい。

「…う、ひ…ッく、…うぅ~」

「…柏木?」

 不意に、室内に響く俺の押し殺した泣き声に気付いたのか、怒りに我を忘れていたような立原は唐突に動きを止めて、ボロボロ泣いてる俺を覗き込みながら首を傾げたんだ。

「お…まえ、俺を馬鹿にしてんだろ?中学の時だって俺、お前に会えた時すっげぇ嬉しくって、話せただけでホント、飛んじまうぐらい幸せだったのに!…ッ、でも、…ッく、お前…高校になってスッカリ忘れやがって!!なのに、いまさら…好きとか言うな!俺は、そんなお前は大嫌いだッ」

 両の拳で両目を覆い隠しながら、恥ずかしいのに、くそ!こんなこと言わせやがって!
 ああ、もう、そうだよ!
 俺は、ずっとお前に憧れてたんだ。
 憧れて憧れて…ずっと、好きだったのは俺のほうだ!
 ヘンなとこばっか見られて、でも、飄々としてまるで無視されて…そりゃ、偶然だってあったけど、半分ぐらいは、お前が来るの待ってて見つかるようにコソコソ画策だってしてた。お前に俺、思い出して欲しかったから…なのに。

「おま…え、ぜんぜん俺に気付かないで、最初はヘンなヤツでも見るような目で見てたくせに!す…き、好きってなんだよ!」

 グスグス鼻を啜りながら悪態をつく俺を、立原のヤツはどんな目で見ていたんだろう。
 ヤツは暫く無言だったけど、不意に俺の身体の下にムリヤリ腕を捻じ込むと、いとも簡単にヒョイッと抱き起こしやがったんだ!

「な、なにす…」

 んだ!と、思わず食って掛かりそうになった俺の顔を覗き込んできた立原の表情は、何が嬉しいのか、ニヤニヤと笑っていて、今までの無表情がまるで嘘みたいにコロコロと表情を変えていた。

「う~ッ、まえなんか!嫌いなんだからな…」

 そんな、俺好みの笑顔なんか浮かべやがって…俯いて、エグエグと涙を零しながら片手で両目を擦っていると、立原はそんな俺を覗き込んできながら、困ったようにクスッと笑ったようだった。

「柏木…ねえ?それって、俺のこと好きってことじゃないの?」

 ブンブンッと首を左右に振ってそれを否定する俺の頭を抱くようにして、立原は嬉しそうに、黒い髪に頬を寄せてきたんだ。
 んなこと、するんじゃねーよ!
 俺は、お前なんか嫌いなんだ。

「う、ぬぼれんな!お前にムカツイて入学したんだぞ!?好きなわけ…」

「でも、俺を追ってきたんでしょ?」

「うッ」

 涙でグチャグチャの顔だけども!今は無視してもらって、俺は困ったように笑っている立原の顔を凝視しながら言葉に詰まってしまった。

「~だよッ!その通りです!俺は、お前が好きだ…」

 セックスだって、したって構わないんだ。
 でも、できれば俺が立原の尻を弄りたかったんだけど…でも!立原がしたいってんなら、ホントはどっちでもよかったんだ。そんなことよりもただ、俺はコイツに思い出してもらいたかったんだ。
 中学の頃、お前にしてみたらただの親善試合の相手チームの選手に過ぎなかったんだろうけど、俺にしてみたらお前は、手の届かない高嶺の花だったんだ。誰もが憧れる名門私立の異例の生徒会長で、花が咲き綻ぶみたいな笑顔を浮かべる優しげな顔をした無敵の優等生だった立原が、俺なんかどこにでもいるヤツに声をかけてくれて…ちょっとした夢ぐらい見たってバチなんか当たらないだろ?そりゃ、そんな些細なことで覚えててもらえるなんて思ってる俺もどうかしてたけど、でも、覚えてて欲しいって願っていたんだ。好きなんて、そんな大それたことは考えていなかったけど…
 たぶん、もうずっと好きだった。

「柏木…ごめんね」

 突然謝られて、やっぱりこれは、俺を騙してみんなで笑おうとした茶番劇だったんだと思った。
 判ってる、立原と俺なんか月とスッポンに決まってる。
 でもやっぱり、それでもちょっと辛いし、傷ついてしまう…うぅ、泣きそうだ。もう、泣いてて顔がぐちゃぐちゃだけど…

「どうしようか?もう、絶対に手放せないよ。悪いのは柏木だから」

 そう言って抱き締められても、やっぱりいまいち信用できなくて、俺は立原の肩に額を擦り寄せながらボロボロと泣いてしまった。でも、それでもいいと思ったんだ。
 立原が俺を好きなら、もう覚えてないことは悲しくても、多分それは当たり前のことだから…もういいんだ。
 これから、立原が覚えていってくれるなら、俺はもう、それでいい。
 ボロボロと零れる涙が、立原のシャツにボタボタと落ちて吸い込まれていく。
 ぼんやりと涙目で見つめていたら…

「ホントはね、覚えていたよ」

 立原は暫くしてからポツンとそう言った。

「へ?」

 呆気にとられて顔を上げたら、立原はバツが悪そうな表情をして笑っていた。

「忘れるられるわけなんかないよ…あの日俺、柏木に一目惚れしちゃってね。気付いたら声をかけていたんだけど…なんて言ったらいいのか判らなくて、思わず在り来たりなことを言ってしまったよ。それで随分と後悔したんだけど…違う中学だし、もう2度とは逢えないだろうってずっと思ってたんだ。でも、柏木が突然、入学式のあの日に目の前に現れるから…ビックリして。忘れた、その、フリをしたんだ」

 立原は言おうかどうしようか迷ってるようだったけど、俺の不安そうな顔に気付いたのか、鼻の小脇を掻きながらポツポツと語りだした。

「ちょっとムシャクシャしたことがあって、当時俺は、優等生でいることが嫌になったんだ。校則で禁じられているウォークマンをして、できるだけ他人の話は聞かないようにしていた。それが、中学3年の頃で…まさか高校で柏木に出会えるなんて思ってもいなかったから。俺は、自分のそんな姿を柏木に見せたくなかった」

 どうして?…とか、聞けなかった。
 なんとなく、その理由が判るからだ。
 俺だって、私立璃紅堂学院の校門を潜るとき、ちょっとした心構えのようなものをしたもんな。
 桜が満開で、夢みたいに綺麗な校門を潜った先に絶対いるに違いない憧れの生徒会長。その学校に受かったこともすっげぇ嬉しかったのに、その先にいるはずの憧れの人に会うために…俺だって教養とか頑張って覚えたんだぜ?なけなしの知恵を振り絞ってさ!
 …全く、役に立たなかったけど。
 たぶん同じことを、立原も思ってくれていたのかな? 

「きっと君は、俺を優等生然とした生徒会長さまだって思ってるに違いなかったからね。こんなボーッとした姿を見たら、嫌われるんじゃないかって…その、不安だった」

「…驚きはしたけど、俺は忘れられてることの方がすごいショックだった」

「逆効果だったってワケか」

 俺の言葉を聞いた立原は小さく笑ってポツリと呟くと、えへへと笑う俺の額に自分の額を擦りつけるようにして摺り寄せてきたんだ。

「でも、こんな俺でも好きなんでしょ?」

「う~、まあ!100歩譲ってな」

「え?」

 ギクッとしたような顔をして両目を見開いた立原だったけど、すぐに意地悪そうに双眸を細めてニヤッと笑うから、今度は俺の方がギクッとしてしまう。立原は意地悪なヤツだ。

「エイリアンなんでしょ?だったら柏木の思惑なんかどうでもいいってことで」

「はあ?それって横暴…」

「しー」

 クスクス笑って、立原はキスしてきた。
 コイツとはここに来てたくさんキスをした。
 でも、今日のこの時ほど最高な気分のキスは初めてだ。
 あの立原がこの俺を好きなんだぜ?信じられるかよ、まるで夢でも見てるみたいだ…
 今はまだそんな風にしか考えられないんだけど、きっと明日になったらもっと実感として感じて、もっともっと傍にいたいと思うようになるんだろうな。そしてそれよりももっと明日になったら、それは現実になって俺の身体に浸透していくんだろう。
 エイリアン立原が身体中に溢れるってのもなんだかな、と思うけど、俺はたぶん、優等生の立原もモチロン好きだけど…
 この、何を考えてるのかいまいちよく判らないエイリアンみたいな立原のことを、たぶんきっと、初めて会ったあの時よりも、ずっと好きになっていると思う。
 俺は立原が好きだよ。
 思ったよりもかさついた唇が触れると、まるで電流でも流れたように全身がビリビリする。
 舌がゆっくりと歯列を割って潜り込んでくると、おっかなびっくりで戸惑っている俺の舌を探り当てて、キスをもっと深く印象付けていくようだった。
 うっとりとした初めての深いキスに俺が酔っていると、濡れた唇を離した立原は満足そうに笑って…想いが通じ合えた最初の言葉を、開口一番でこう言ったんだ。

「柏木はホントに俺のモノになってしまったね。これから問答無用で可愛がるけど、逆らうことはモチロン、許さない」

 ニッコリ笑われて、俺は思わずポカンとしてしまった。
 それから、思い切り溜め息をついて立原の胸元に軽く額を押し当てたんだ。

「お前って…やっぱ俺さまなヤツなのな」

 なんとなくはそう思ってたんだ。
 宮本も琴野原も逆らわないし、なんか、みんな一目…当たり前だけど置いてるみたいだったし…グレたって平然としてられるのはやっぱ、性格が俺さまNo.1野郎だったんだろう。
 はあ、俺ってとんでもないヤツに惚れたし、惚れられたのかな?
 でもそれは、望むところってことで。

「さあ、どうかな?」

 そう言ってクスクス笑う立原に、俺は、俺も、自然と気付いたら笑っていた。

「…今度は、優しくしてくれよなー」

 笑いながらも俺が拗ねたように唇を尖らせて悪態をついてみたら、立原は…少し驚いたような顔をしたけれど、クスクスと笑って頬にキスをしてくれたんだ。

「もちろん、今度は一緒に天国にいこう」

「…………バーカ」

 顔を真っ赤にして言う台詞でもないんだけど…それでも、俺は嬉しかった。
 これからきっと、まだたくさん、色んなことが起こるんだと思う。
 でも、そのどの時でも、こんなにすげぇヤツをゲットできたんだから、俺は腕の中にいるエイリアンを大事にしていくんだろうなと思う。
 立原も、そう思っていてくれたらいいな。
 そうしたらきっと、最高にいい気分になれると思う。
 たぶんきっと、今以上に!
 大切な人とするキスは、幸せな涙の味がした。
 俺たちはこれから、きっともっと幸せになるんだ。
 それが俺の希望だ。

Level.10  -暴君皇子と哀れな姫君-

 柏木が一瞬気を緩めた瞬間だった。
 生暖かい風がふっと耳元を掠めて、恐怖と驚きと不思議な気分に支配されていた柏木の、唯一の弱点である恐怖心を増大させてしまった。

「ひぃー!!!」

 刹那の甘やかな雰囲気はあっと言う間に霧散し、柏木はキスされたことも忘れてもう一度立原の首に抱き付いてしまう。
 目を白黒させていた立原は、困惑して、それから諦めたように溜め息を吐いたが、それでも限界まで我慢した欲望に燈った熱情は容易く消えるものでもなくて、立原はこのチャンスを思いきり活かすことにしたようだ。

「大丈夫だよ、柏木。霊魂はさまようだけで悪さはしないよ…」

「れ、霊魂なんか言うな!どれほど怖いと思ってるんだ!!そんな話をしてたら寄って来るんだぞ!?」

 クスッと、立原は微かに笑う。
 本気で幽霊を信じてしまえる柏木を、心の底から愛しいと思っていた。
 喚き立てながら、それでも支離滅裂になっている柏木を無視して、立原は浴衣の裾から腕を忍び込ませて下着を引き下ろしにかかる。
 狼の被りモノはこうなると邪魔臭くて、立原は抱き付く柏木を器用にあやしながら手早く上着を脱ぎ、いつでも襲いかかれるように用意した。その反面、口では酷いことを言い募るのだ。

「しー。声を潜めなよ、柏木。山で死んだ人間は寂しくて、常に仲間を求めて彷徨っているんだ。幽霊でもいいヤツばっかり、ってワケじゃないから」

 もちろん、人間もだけど…と、立原がそう言ったかどうかは定かではないが、柏木には効果覿面の台詞に、臆病な姫君は肩を竦めてますますギュッと抱き付いてくる。

「うう…立原~」

 男として!…恐らく柏木にとって一番屈辱的なことだろう。立原もそれには気付いていた、が、だからと言って今更止めることなど、もうできないのだ。

「柏木、どうして幽霊が怖いの?哀しい連中じゃないか。もう、何もできないんだよ?」

「お前は何も判っちゃいないんだッ。ヤツらは取り憑くんだぞ!?」

 浴衣の裾から忍び込ませた手で、器用にトランクスを引き下ろす行為にも全く気付いていない柏木は、嫌々するように首を左右に振って立原の肩口に額を擦りつけている。
 立原にとってどうでもいい会話は、柏木にとっては地獄の試練で。
 だがそれ以上に、凄まじいはずの試練が待ち構えていることに全く気付かない柏木は、目先の試練に怯えて、自分をその崖っぷちに追い立てる悪魔な立原に闇雲にしがみ付いていた。
 乱れた浴衣と、脱ぎ下ろされたトランクス、涙を零す顔をチラッと見ただけで、立原の沸点は既に頂上を突き破っていることは確かだ。

「た、立原!?」

 首に回した腕を無理矢理引き剥がされて、動揺した柏木は泣いている顔を見られる恥ずかしさよりも、見捨てられる恐怖に怯えて必死で腕を伸ばそうとする。その時になっても、立原が幸せそうに笑いながら上着を脱いでしまっていることに気付かない。
 正真正銘、愚鈍な姫君だ。

「大丈夫だよ、柏木。参ったな。最初の夜は純白のベッドの上だって決めてたのに…こんな山奥の安っぽいビニールシートの上だなんてね」

「な、何を言ってんだよ~!?は、早く戻ろう!もう、戻ろう!!」

 ビクビクしながら、最早思考回路がグルグルしてしまっている柏木の悲痛な悲鳴でさえ、もう立原の固い決意を覆すことはできなかった。

「戻る?冗談。戻ってる最中に幽霊に襲われちゃうよ」

「うう!」

 目許に浮かぶ涙のしょっぱさを唇で感じながら、いつになく饒舌な立原はクスッと笑って柏木の素肌を楽しむように露出した腿を擦りながら、その足をグイッと片手で抱え上げた。上体を倒して、覗き込むように見つめる柏木の泣き顔は、動揺と、すぐ傍に自分がいることに微かに安堵しているように見える。
 その全てが愛しくて。

「幽霊に襲われるぐらいなら…ちょっと痛いだろうけど、俺に襲われたらどう?」

「立原…?」

「全力で守るから」

 呟きが消えるか消えないか…まさにその瞬間だった。

「~~~…ッ!!」

 悲鳴さえも上げられない、苦痛に全身びっしょりと嫌な汗が覆う。
 無理矢理捻じ込まれた灼熱の杭が、いったいどこに忍び込んでいるのか初めは判らなくて、柏木は見開いていた双眸をギュッと閉じて噛み切る勢いで唇を噛み締めた。

「うう~うーッ!」

 もう、まともな声も上げられなくて、それでも、自分をこんな苦痛に叩き落した張本人であるはずの立原に、柏木は縋りつくしか他に術がない。
 ギュッと、冗談としか言いようのない狼の被り物を、今は腰の辺りに蟠らせている立原の、その素肌の背中に腕を回してギリッと爪を立てた。

「…ッ」

 けしてわざとではないと判っているのだが、背中にぬるっと伝う僅かな熱い筋に、柏木が受けている苦痛を少し感じ取れたような気がして立原は嬉しかった。
 ギチギチッ…と、狭い器官は悲鳴を上げて、立原の灼熱を無理矢理捻じ込まれた部分は切れ、真っ赤な血の涙を零している。

「…ッ、やっぱり…思った通り、最高の気分だ」

 こめかみを伝って頬を流れる汗もそのままに、唇を噛み締めてギュッと眉を顰めたまま泣いている柏木に、眉を寄せて笑いながら口付ける立原は、その唇に微かな鉄錆のような味を感じた。

「唇が…切れてるよ」

「…ッ、はッ」

 噛み締めた口を開こうとしない柏木に焦れて、立原は萎えて萎んだままの柏木自身に触れてると、意識を苦痛から逸らすためにゆっくりと扱いて頬にキスをする。

「う…ううッ」

 肩で荒く息を繰り返しながら、嫌々するように首を左右に振っても、下半身に施される苦痛と快楽が綯い交ぜした奇妙な快感から逃げることができず、柏木は助けを求めるように震える瞼を開いて立原の顔を見上げた。

「た、立原…ッ。俺、俺は…あうッ!…どうしたんッ…だろ?」

 ゆっくりと抽送を繰り返す激情とは裏腹の穏やかな腰遣いと、優しげな愛撫に戸惑うに双眸は涙が滲んでいる。自分にいったい何が起こっているのか、どうしてこんなことが起こり続けているのか、判らないと訴える双眸は小動物のような不安に揺れている。

「ずっと、ずっと好きだったんだよ。言わなかった?可愛いって、俺の弱点は柏木だってさ…」

「好…?好き?…お、俺を?…んぅッ!」

 グイッと深く挿し込まれて、まだ慣れない器官が苦痛を訴えて収縮を繰り返すと、柏木は辛そうに眉を寄せたが、上体を倒してくる立原を信じられないような不安の双眸で見上げた。自分が聞いたことは、この信じられない状況下で聞いている幻聴ではないのかと…自分に都合よく聞こえているだけの嘘の言葉なのではないかと困惑しているようだ。

「本気だよ…もうずっと、好きだった」

 不安に揺れる相貌を見つめて、安心させてやりたくて立原は柏木の頬を包み込んだ。
 前に施される行為が遠退いて、痛みが少し増したような気がした柏木はそれでも立原の真意を見極めたくて首に回していた片腕を離すと立原の頬を確認するように触れてみる。

「…嘘だろ?お前…俺をからかいたいだけで…ッ、そんなこと言うんだ。こんなこと…してるんだ…ッ」

 泣き笑いのような表情をする柏木の真意が判らなくて、立原はムッとしたように眉を顰めて蒼白の顔をした姫君を見下ろした。滲んだ汗が漆黒の前髪を額に張り付かせて、それでなくても惹かれて惹かれて、恋焦がれていた柏木にどうして想いがまっすぐに伝わらないのだろう?
 なんでも手に入れることのできた自分が、だからこそ、優等生でいることにうんざりした自分が、何もかも捨ててもいいとさえ思うこの熱い想いを、どうして一番大事なひとにはまっすぐに伝わらないのだろう?

「柏木が好きだよ。こんなに好きだ…」

 なんてこと、君はきっと気付かないんだろうけど…
 頬に触れてくる震える無骨な手を掴んでそっと口付けても、柏木は不安に揺れる双眸を瞼の裏に隠しながら、永遠のような暗闇に落ちていく酩酊感のような錯覚に囚われながら、呟くように囁いた。

「嘘だ…」

 後部に灼熱を受け入れたままで無理に抱き起こされて、しかし、それさえも感じない闇に沈んだ柏木の汗に濡れた身体を、もうずっと抱き締めたくてできなかったその身体を愛しむように抱き締めて…

「嘘じゃないのに」

 呟いた言葉は、意識の淵に沈んでしまった柏木の耳にはとうとう届くことはなかった。

Level.9  -暴君皇子と哀れな姫君-

「…柏木?」

 シッカリとしがみ付いて俺は、立原の呼びかけに答える気力もなかった。
 狼の被り物がなんだかな、とも思うけど、今頼れるものはコイツしかいないんだ。抱き付いてみて判ったことだけど、立原は思った以上にいいガタイをしてる。まあ、それもそっか。
 初めて会ったときは、確か中学の2年だった。
 私立離紅堂学院中等部で行われたバレーの親善試合で、コイツはキャプテンでもないただの他校のレギュラーだった俺に声をかけてきたんだ。
 泣く子も黙る離紅堂の立原…と知っていたから、ビビリまくっていた俺に、コイツは噂されるほどには強面でもなくて、ニコッと屈託なく笑って挨拶をしてきた。

『どうも初めまして。他校の構内…と言うこともあって何かと不便でしょうが、今日はお互いにベストを尽くして頑張りましょう』

 異例の2年生生徒会長は爽やかに笑ってそう言うと、そのまま呆然としている俺を残して行ってしまった。
 その頃はまだウォークマンも聴いていなくて、理想を絵に描いたような優良生徒会長さまだったんだ。
 部活の仲間たちには羨ましがられて小突かれるは、近くの女子高のファンクラブのお姉さま方からは黄色い声で貶されるは…俺にとっちゃ踏んだり蹴ったりの初対面だったけど、正直少し憧れていた。俺の鬱陶しいぐらい黒いのとは違って、ちょっと色素の薄い髪は睫毛と同じで、やたら男前のソイツがなんて言うか、やっぱりカッコイイと思ったんだ。
 お高くとまってもいないし、一級品の容姿のわりには気さくで人懐こいイメージが嫌味でもない。
 言うことのないコイツに憧れはじめてすぐに、俺はセカンドショックを受けることになった。
 気まぐれにしたって、わざわざこの日の為に他校から来た生徒にも気さくに話し掛ける生徒会長さまは、きっと箸よりも重いものなんか持つこともなくて、文武両道の『文』を担ってるんだろうとばかり思っていたから、コートの中にユニフォームを着て立っている姿を見つけたときは驚いて声も出なかった。
 おまけにムチャクチャ強くて、結局俺たちは敗退したんだけど…それでも眩しいぐらい、なんでもできるカッコイイ生徒会長さまに、この立原に!俺は何時の間にか憧れを通り過ぎて反発心が芽生えたんだと思う。
 ムカツイたんだ。
 俺なんかと違ってなんでもできるコイツに。
 幽霊なんかに真剣に怯えてる俺なんかと違って、飄々と周囲に気配を巡らせるほどには怯えてもいない立原の、その完璧振りがムカツイたんだ!
 いや、今は抱き付いてて離れきらない俺の独り言だけど、あの頃の俺は必死に勉強して、運動に優れるように努力して、なんとかこの私立離紅堂学院の高等部に体育特待生として滑り込むことに成功した。
 立原の、あの取り澄ました仮面を引っぺがして鼻っ柱をへし折ってやる!…ってのが当初の目的だったんだけど、現実の立原は180度性格が変わっていて、あの中学の頃の爽やかな生徒会長さまはどこに行っちまったんだと問い詰めたくなったぐらいだ。
 でも、立原は入学式の朝に会った時、俺のことを忘れていた。
 訝しそうに一瞥しただけで、いつも通りのウォークマンを聴きながらサッサと講堂に姿を消してしまう。慌てて追い縋る俺に眉間に皺を寄せた立原は、ほぼ完璧に、綺麗さっぱりと俺のことなんか忘れていた。
 未だに『そんなこともあったっけ?』と言う始末だ。
 双子の兄貴か弟だったんじゃないかと疑いもしたが、中等部の泣く子も黙る立原は結局ソイツ1人しかいなくて、俺は俄かに夢から覚めたような気分になったもんだ。
 で、寮では常に溜め息を吐いていたんだけど…まさか、こんなエイリアン野郎だなんて思ってもいなかったから、俺の理想と反発心は対象物をなくして空回りばっかりだ。こんなことなら、こんなワケの判らん登山大会で肝試し!のあるような学校に来るんじゃなかったって後悔してる。見渡せば野郎、野郎ばっかり。校内恋愛も恙無く行われていて…キモすぎるんだよッ!離紅堂!!!

「柏木。大丈夫。ホラ、ビニールの敷物だ」

 嫌なことを忘れるために過去の記憶を引き出しながら必死でしがみ付く俺の耳元で、立原のやけに冷静な声が響いている。
 俺はガムシャラに首を左右に振ってそれを断ると、さらにしがみ付きながら喚きたてたんだ。

「違う!フワッて、白い着物で…お前!俺のこと騙してるんだ!畜生…笑ってんだろッ!?」

 支離滅裂で喚く俺に呆れたのか、立原は小さく吐息して俺の背中に腕を回してきた。
 みっともないぐらいガタガタ震えていて、羞恥心も感じないぐらい、いや、全ての感情がショートしちまったみたいに何も考えられない俺を抱きかかえるようにして、立原は少しだけ身じろいだ。

「ホラ。大丈夫だから」

 短く言って何かゴワゴワした、ビニールの感触をした何かを俺に見せようとする立原に、俺は聞き分けのない子供みたいに首を振ってそれを拒んだ。もう半泣き状態ってヤツだ。
 後で思い出せば恥ずかしくて顔を覆いたくもなるけど、今の俺にはそれが精一杯で、立原のしようとしていることなんか気に留める余裕なんかこれっぽっちもないんだ。
 立原はきっと困ってるんだろうに、暫く俺を抱きしめるようにして頬を髪に押し当てるようにしていたけど、依然として落ち着かない俺に焦れたようにゴソゴソと何かをし始めたんだ。

「?」

 訝しく思いながら恐る恐る顔を上げようとした途端だった!
 唐突に押し倒されるようにして俺は何かゴワゴワしたものの上に寝かされたんだ。

「立原…!」

 ギョッとしていると、立原のいつにも増して抑揚のない、その無頓着な表情が薄明かりの中で俺を見下ろしてくる。

「…立原?」

 これはどう言う状況なんだろう?
 俺は問い質すような目付きで立原を見上げながら、でも、シッカリとヤツの首には噛り付いている。
 ヤッベんだって、マジで今!なんかヘンなもんがフワッて飛んでたんだぞ!?女だ!きっと幽霊なんだ!!!
 半泣きで見上げる俺を、それまで抑揚もなく見下ろしていた立原は、やっぱりいつものように鼻先で笑って首を左右に振ったんだ。

「このまま寝てなよ。気分を落ち着けたら大丈夫。幽霊はいないって判るから…」

 立原の狼の肩越しに、木々の枝を透かして雲から少し顔を覗かせた月が見える。
 今日は満月が近いのか、月は不気味なほど赤味を帯びていて、ああ…ヤなもん見なきゃ良かったってほどの相乗効果で俺を震いあがらせたんだ。

「立原!やっぱ、こえぇぇッ!!」

 横になったままでギュッとしがみ付くと、少し浮いた背中に腕を差し込んで抱き締めてくる立原に、俺は遠慮もなく両腕に力を込めたんだ。
 …たぶん、それがいけなかったんだと思う。
 気付いたのが少し遅かったし、それだってもう、後の祭なんだけど。
 気付いたら俺は、立原にキスをされていた。

□ ■ □ ■ □

 幽霊騒ぎで興奮していたし、縋れるものにはなんだって縋り付きたい気分だった俺は、それが最初、どう言う行為なのか良く判らなかったんだ。
 少しカサついた唇がやけにリアルな感触で、いつも眠そうな表情でボーッとしている立原が、ホントに盛りのついた今時の高校生なんだって思い知るには十分な効果だったはずなのに、俺はバカみたいにポカンッとして立原の顔を見上げていた。
 唇を離して、ほんの少し、苦笑するように笑う綺麗な顔。
 月明かりを背にして、狼の被り物ってのが笑えるけど、立原のそんな表情は初めて見るし、未だ理解できていない俺がどんな顔をしてるのかなんてこた判らねぇ。
 とんだ間抜け面だってことは確かだろうけど…

「もうずっと、こうしたかったって言ったら信じる?」

 立原の、ヤツらしい少し低めの声。

「…えっと」

 なんて答えたらいいのか判らない俺の、間抜けな返事。
 バカみたいに見つめあって、嘘だって笑えよ。
 バーカ、柏木。騙されちゃって…っていつもの皮肉げな、あの抑揚のない笑い方でバカにしろってば。じゃないと、じゃないと俺は…
 どんな顔していいか判んねぇだろーが!
 幽霊がいるかもしれないこんな山奥で、何をしてるんだよ立原ぁ~

「…落ち着いた?」

 クスッと立原が笑って、俺は呆気に取られたようにポカンッとヤツを見上げた。
 …つーことは、やっぱ冗談だったのか。なんだ、そうか。

「…お、落ち着くわけねぇだろ!!何をするんだッ、何を!」

「怖いよ~って泣きじゃくる柏木が悪い。可愛くって思わず抱きしめたくなる」

 …可愛い?くぅおの野郎!

「幽霊が怖くて悪いかよ!?人間、誰だって弱点ぐらいあるさッ」

「うん。俺の弱点は柏木」

 …コイツ、きっとバカだ。いや、俺を苛つかせるためだけにこんな趣味の悪い冗談を言ってるに違いないんだ!クソッ!
 思い切り睨みながら、でも、そんな立原にしがみ付いて鼻先だって引っ付きそうなほど近くにいるってのも間抜けだけど、これじゃ凄んでるのか誘ってのかいまいち判らねーな。
 ん?誘う…?
 誘うってなんだよ!?
 嫌な響きだぜ、俺も大バカ野郎だ。

「柏木…我慢しようって思ったんだ。怖がりな俺の姫君は、いつだって大事に守って幸せにしてやりたい」

「…立原、何を言ってんだ?」

 姫君…ってのはなんだよ?俺は男だし、守ってもらわなくたっていいに決まってんだろ?
 …いや、今は守ってもらってるけどな。思いっきり!
 だからってそれに甘んじるのもどうかと思うぞ。いや、こんなことを言ってる場合じゃないのでは…

「でも、ダメだ」

 立原は唇を噛み締めると、眉を寄せて何かを必死で我慢しているような表情で俺を見下ろしていた。けど、ヤツは鼻先すらも掠めるほど近くにいる俺を間近で見下ろすと、今度こそ確かな意思を持ってもう一度キスしてきたんだ。
 呆気に取られて動揺して、抵抗すらしない…と言うかできない俺を見下ろしながら、立原はあの低い声で囁くように呟いた。

「もう、ダメなんだ…」

 耳元にポツリと落ちた立原の声は、何だかザワザワと胸元を騒がせて、俺を奇妙な気分にさせたんだ。

Level.8  -暴君皇子と哀れな姫君-

 薮蚊が悩ませる山中の限られた空間で、柏木は恐怖とはまた違った心臓の高鳴りを覚えてギクシャクと首に回していた腕を離した。
 その様子を訝しそうに眉を寄せて見ていた暴君皇子立原は、浴衣の裾から覗く、思ったよりも細い足を目にした途端、フイッとその視線を逸らしてしまう。
 我慢我慢我慢我慢我慢…
 何かの呪詛か祝詞のように繰り返される言葉に支配される脳内は、もはや肝試しとか、与えられた任務だとかはどうでもよくなっていて、ただひたすら目の前に転がる美味そうな獲物以外は何も考えられないでいた。
 柏木光太郎と出会って数ヶ月、立原俊介は欲しいモノはなんでも手に入れた。
 好きなヤツがいるからと、涙を流して嫌がったヤツでも平気で手に入れた男であるはずの自分が、どうしてこう…巷では『硝子宮殿の姫君』と呼ばれる、どこにでもいる柏木だけに手が出せないでいるんだろう…

「硝子宮殿か…」

 まるで儚く脆いガラスのように、大切にされた姫君。
 全くもって、柏木にピッタリの表現だと噂を流した張本人は満足したように笑う。

「は?」

 間抜けな口調で自分を見上げる柏木の、良く晴れた夜空色の双眸に、間抜けな姿をした自分が映る。狼の耳をピンッと立てて、そのくせ、心許ない双眸は不安に揺れてバカみたいだと立原は思った。
 そうすると、不思議そうな表情をする柏木がずっと愛しく思えて、口許は知らずに綻んでしまう。

「なんでもない」

「おかしなヤツだな、立原って。お前、ホント。エイリアンみたいな奴だよな」

 くすくすと笑った柏木がそう言った次の瞬間、昼間見たら自然ライフを満喫できそうな登山道が左右の木々の間にあるその道を、今夜最初のお客さんが訪れた。

「呉内ちゃん~vここって何が出るんだろうねぇ?楽しみだねぇ」

 ひっひっひ…と不気味に笑いながらそう言った、その猫のように長身の男に擦り寄る生徒は…

「斉木と呉内か。呉内もご愁傷さま。あんな得体の知れないヤツに取り憑かれて」

 心底嫌そうに眉を寄せる立原に、柏木はそうかと頷いた。
 この学校にはエイリアン立原と並ぶぐらい不気味なヤツがいるのだ。斉木と呼ばれるその生徒は、何を考えているのか全くと言っていいほど良く判らず、いつも一緒にいる無口な呉内に疎ましがられていたりする。
 以前1度、「立原は熱い男だよぉ~」とワケの判らないコトを言って、ひっひっひ…と笑いながら去って行かれた柏木としては、できるだけ関わり合いになりたくないと近付かないようにしていた。

「立原ぁ~、俺、アイツ苦手なんだよな…」

「同感。この際、無視しよう?」

 傍らに擦り寄ってきた柏木と腕を組んで頷く立原の2人は、できる限り息を殺して連中が通りすぎるのを待った。

「何も出ないねぇ。面白くないねぇ。このまま山の中を冒険するってのも悪かねぇな。どうするよ?呉内ちゃん」

「断る…と言うよりもむしろ、勘弁してくれ」

「ええ~?残念だな~」

 ブツブツと悪態を吐きながら遠ざかる気配にホッと胸を撫で下ろした柏木は、ふと、すぐ間近にある立原の腕を見てドキッとした。
 思ったよりも男らしい腕は、手袋と長袖仕様の着グルミのその袖を肘まで捲り上げていて、無造作に投げ出されている。と言うか、2人の気配を追う立原が、その辺を注意していないので無造作に肩に触れたりするのだ。

(…なんで俺、ドキドキしてるんだ?なんだ、なんだろう?ヘンだ…)

 こんなのはおかしいと判っているのに、柏木は1度確認してしまった胸の高鳴りに動揺して、思わず俯いてしまう。

「柏木?気分でも悪くなった?」

 不意に、少し低い声がすぐ傍で聞えて、柏木はドギマギと顔を上げて立原を見た。

「?」

 彼は訝しそうに眉を寄せているが、柏木の変化には気付いていないようだ。こう言うところは愚鈍な姫君をとやかく言えない暴君魔王だった。

「…立原、俺、ヘンなんだ」

「…?」

 首を傾げる立原に、柏木はなぜか息苦しくなる胸元を両手で押さえて、縋るような眼差しで少し上にある狼小僧の双眸を見上げて呟くように、掠れる声で囁くようにそう言った。

「なんだろう?」

「…さあ?突然聞かれても…頭、痛いとか?」

「違う…なんて言ったらいいんだ?ええっと…」

 胸がドキドキして…立原の横にいると、意味もなく顔が火照って頭がボウッとするんだ、と言いかけて、柏木は慌てて開きかけた口を両手で塞いだ。何を言ってるんだと、おかしなことを口走りそうになった自分に喝を入れるつもりで頭を殴った。
 立原の頭を、グーで。

「…ホント、柏木はヘン」

 半泣きで頭を擦りながら迷惑そうな顔をする立原に、柏木は顔を真っ赤にして握った拳をそのままでぎこちなく声を上げて笑った。

「ハッ…ははは!いやぁ、夏の夜は熱くていかん!たまには運動してスッキリしないとなっ!」

 人を殴ることが運動?…と疑わしそうに眉を寄せる立原からギクシャクと目線を逸らす柏木は、傍らの雑草が生い茂る地面を見下ろしながら深呼吸した。

(落ち着け!落ち着くんだ、俺!)

 はあはあと肩で息をしながら両拳を握って気合を入れる柏木を、立原は頭を擦りながら訝しそうに眺めている。

「柏木。次が来るけど、無視する?」

「へ…?あ、いや!脅そう、こうなったら徹底的に脅しまくろう!!」

「…まあ、ホドホドに」

 俄然ヤル気を出す姿に何やら恐ろしいものを感じた立原の声音にはしかし、動揺は見て取れず、だからこそ柏木のボルテージもさらに上がったりするのだ。

(こんなの!こんなの、まるで立原に恋でもしてるみてぇじゃねーか!いかん!そんなコトはいかん!俺は!男なんかに恋愛感情を抱くヤツの気なんか知らねんだ!これは…きっと肝試しで気が動転してるだけで、明日になったらきっと落ち着く。絶対だ!)

 まるで何かに願うように何度も呟いて、柏木はチラッと立原を盗み見た。盗み見て、溜め息を吐く。

(…たぶん。きっと)

□ ■ □ ■ □

 次の連中の声に耳を欹てていた立原はそんな小動物のようにビクビクしている柏木に気付いて、思わず口許が緩みそうになって慌てた。笑ったな!…と言って、それでなくても可愛い柏木がもっと可愛らしくなってしまう。

(よほど怖いんだろう。これじゃ、手は出せないな)

 愛しいから大事にしたいと思って、でもその我慢も限界で、今日こそは!…と決心していた立原の想いはグラリと揺らいで、やはり最愛の姫君を前にしては『守りたい』と思う気持ちの方が優先に動いてしまう。

「柏木、大丈夫?顔色悪い」

「へあ!?だ、大丈夫だって、畜生!幽霊の1匹や2匹、それがなんだって言うんだ!?」

 あからさまに動揺して意味不明のコトを叫ぶ柏木に、ニッコリ笑ったままでクエスチョンを浮かべて首を傾げる立原の内心は複雑だった。

「…幽霊は1匹って数えないけど」

 ヘンなところで訂正してしまう。
 やはり動揺は伝染するのか、立原も次第に支離滅裂になっているようだ。

「なんだっていいんだよ!こんなバカげたことはさっさと終わらせようぜッ」

 薄闇に浮かぶ柏木の顔を見ることができたのなら、立原はそれほど焦ったりはしなかっただろうし、いや、もしかしたら別の意味では焦ったかもしれないが、後にあんな結果を生みもしなかっただろう。
 ただ、『こんなバカげたコト』だと言って切り捨てたその態度が、まるで自分すらも拒絶されたように勘違いした立原は、焦って柏木の腕を掴んだ。その瞬間、怯えたようにビクッとした柏木が焦りから手を振り払おうとして、なぜか事態は悪い方向へと進もうとしている。

「柏木…?」

「た、立原…」

 腕を掴んだままで首を傾げる立原と、その細く射し込む月明かりを背にした立原を見上げる柏木の睨み合い…改め、見詰め合った瞬間、彼らの潜むその草陰がガサリッと揺れて、何かが二人に近付いた。
 ビクッとした柏木が反対に立原に抱き付き、不穏な空気を掻き乱した闖入者はムッととした表情で草叢から顔を覗かせた。

「ちゃんとユーレー役と狼男役をしてよね!クレームが入ってるんですけど!」

 宮本を従えた琴野原に胡乱な目付きで睨まれながら手にした懐中電灯で照らされると、抱き付いている自分にハッと気付いた柏木が慌てて立原から離れ、それを見ていた宮本がニヤニヤと笑っている。琴野原よりも近しい位置にいる宮本にとってその現場は美味しい場面で、双眸を細めて立原に『邪魔だった?』と聞いている。
 何が何やらワケの判らない展開に憮然としている立原は、そんな宮本を鼻にシワを寄せて威嚇するように睨んだ。『琴野原を連れてさっさと戻ってろ』…とその双眸が訴えていることに気付いた宮本は、肩を竦めて呆れた表情をする。何の進展もなし、とその場の雰囲気で読んだ情報屋は、まだ何か言いたそうにしている琴野原の腕を掴んで「お邪魔しましたぁ~」と陽気に言って立ち去った。

「…」

「……」

 まるで何事もなかったかのような闇が戻ってきて、柏木と立原はまたしても奇妙な沈黙に陥ってしまう。

(なんだってんだよ!俺ッ。これじゃあ、まるで立原を怖がってるみたいじゃないかぁ!!)

 内心でならなんとでも叫べる柏木も、いざ口にしようとすると咽喉元で言葉が詰まってしまう。

(俺の…気持ちに気付いて怯えてるのか?まさか…)

 訝しそうに眉を寄せた立原は、完璧だったはずの仮面の綻びが信じられなくて違った意味で唇を噛んだ。
 まんじりともしないで肩を寄せ合うようにして狭い空間に座る二人は、まるで意識したように同時に口を開いてしまう。

「あのさ!」

「柏木…」

 顔を見合わせて慌てたようにお互いで俯くと、これはまるで、告白しようとしているようじゃないかと柏木は照れを通り越した動揺に思わず顔を赤らめてしまう。

「柏木…何?」

「立原こそ!な、なんだよ…」

 モジモジと照れる柏木に気付かない立原は、木々の隙間から覗く月を見上げて溜め息を吐いた。

 怯えさせたくないと、ずっと大切にしていたつもりだったのに…つもりはあくまでつもりで、本当はこんなに怯えさせてしまっていたのか。
 それならいっそ、もう何もかもかなぐり捨てて奪ってしまおうか、とも思うのだが、それができないほど柏木に心酔している自分に気付いて今更ながら瞠目してしまう。

「お、俺…あの、立原…ッ!」

 何か言おうとして、途端に柏木の目が大きく見開かれる。
 次の瞬間。

「ぎ、ぎぃやぁあああああ!!!で、出たーーーッ!!!」

 柏木の声は天をも揺るがすほど凄まじく、傍らにいた立原でさえも思わず飛び上がりそうになるほどだった。悲鳴と言うよりもそれは、絶叫に近かったはずだ。
 山に木霊するその声は、暫く響き渡ったと言う。

Level.7  -暴君皇子と哀れな姫君-

 ああ…
 迫りに迫った悪夢の期日。
 逃げ出せないだろうか…なんて、無理だって。
 そう。
 本日、午後7時より肝試し大会始まり始まり~♪…って、1人で明るく振舞っても虚しいだけだ。
 クソッ!なんでみんな平然とした顔でいられるんだ!?

「柏木っくん♪」

 突然、背後から抱きつかれて俺は思わず飛び上がりそうになってしまった。
 な、なんだってんだよ、いったい!?

「ゲッ」

「うっわ、下品な言い様。俺さま傷付いちゃう」

「キモッ!宮本キモッ!」

「冗談だって、柏木くん。僕がそんな酷い言葉如きで傷付くはずがないだろう」

 …なんか、ちょっと変だな宮本のヤツ。

「ん、もう!回りくどいなッ」

 何か言おうと開きかけた口を閉ざさせたのは、長身の宮本の背後から顔をひょっこり覗かせた琴野原で。
 ははん、なるほど、そう言うことか。それで宮本のヤツ、調子がおかしいんだな。
 この宮本も例外なくアイドルの琴野原にメロリンラブで、結局、なんでもハイハイと言うことを聞いちまうんだよな。全くもっての下僕根性には正直頭が下がるってもんだ。
 にしたって、いくら顔が可愛いからって恋愛感情にまで発展するヤツの気は知れないけど。

「琴野原?どうしたんだよ」

 確かに、平均身長に漸く届くかどうかって言う背丈も、大きくて黒目がちで綺麗な目をした琴野原に見上げられれば、女の子かなと勘違いはするかもしれない。でも、それだって勘違いに過ぎないんだ。よく見りゃ咽喉仏だってあるし…俺がこの学校に来てどうしても馴染めないのがコレなんだよなぁ。
 宮本もその性癖があるみたいだし…まあ、なんにせよ自分に火の粉がかからなきゃそれはそれでいいんだけど…とか言って、昨日のアレは早いところ忘れよう。
 俺が1人で悩んで勝手に納得していると、琴野原が綺麗な形をした唇を尖らせて俺を見上げてきた。

「柏木くん、今日ユーレーの役でしょ?田宮センセが浴衣とヒトダマの花火を取りに来いってさ」

「あう~、1番嫌な響きだぜ。ったく…おっと、サンキューな琴野原!」

 わざわざその為だけに来たらしい琴野原は、すぐに踵を返して立ち去ろうとするから、俺は慌ててその小さな背中に礼を言った。本来なら確か同じ班のはずなんだけど…琴野原のヤツはいつもどこかにさっさと行っちまうんだよなぁ。で、こんな風に端から見ればとんちんかんな会話が成立するってワケだ。
 …そう言や立原も村田もサッサと姿をくらますんだけど…俺たちの班ってのはこう、どうしてこんなに協調性がないんだろうな。まあ、得体の知れない連中の吹き溜まり…って言えばそれまでなんだけど。
 それに自分も含まれてるのかと思うとちょっと泣きたくなるなと思っていると、琴野原は肩越しにチラッとそんな俺を振り返り、ちょっとムッとしたような、なんとも形容のしようがない複雑な表情で口を尖らせた。

「別にいいよ。僕はただ、俊に頼まれただけだもの」

 じゃなかったら、誰がお前なんかに関るもんか、とでも言いたいんだろう。琴野原はつんと唇を尖らせたままでさっさとどこかに行ってしまった。その後を慌てたように宮本が追う。
 俊…つーのはやっぱり立原のことなんだろうな。
 そうか、琴野原は立原の幼馴染みとかなんとか言っていたような…宮本が。ってことは、確かな情報ってワケか。
 なんかこう、琴野原に目の仇にされてるのかな、俺。
 なんで?
 んー…まあ、そんなことはどうでもいいや。
 俺はこれから、嫌でも取りに行かなきゃならないものがあるんだ。
 今はそのことで頭がいっぱいなんだ。
 ああ…このまま逃げ出せねーかなぁ…

□ ■ □ ■ □

 …つって逃げ出せるわけもねーか。はぁ。
 いや、判っていたさ。これは俺の限りなく無謀と思える願いなんだ。

「柏木、顔色が悪いよ」

 ふかふかの、ともすればこんな状況じゃなかったらよく似合ってるとカラカえもするんだけど、今はそんな気分にもなれなくて、俺は草がボウボウに生い茂った部分にぽっかりと口を開いている空き地のような狭い空間に両足を抱えて座りこんでいる。その俺に、キャンプファイアー後にさっさと着替えを済ませた立原が傍らに腰を下ろしてくぐもった声をかけたってワケだ。
 虫が飛んだり、薮蚊が耳元で唸り声を上げて、怖いと思うよりもむしろ苛々するけど、やっぱりどこかの草陰でガサリッとでも音がしようものなら飛びあがらんばかりに怯えちまう。
 うう…恥かしい。
 狼の着グルミ…どこで手に入れてきたんだと思うような、そのふかふかの茶毛に覆われた格好は見ているだけで暑くなる。にも関らず、立原のヤツは殊の外平然としやがるからホント、エイリアンのようなヤツだ。
 口元にはご丁寧に鼻筋の長い狼か何かのマスクまでしている。
 ああ、だから声が篭って別人のような声に聞えるんだ。
 立原ッス!…と名乗らなければ立原と判らない全身着グルミ男は、それでも僅かな部分から覗く眠たそうな双眸が立原であると判る…けど、これで脅すのか?
 あのー…けっこう可愛いんッスけど。

「ジロジロ見て?どうかした?」 

 不思議そうに首を傾げる立原にハッとした俺は、そっか、知らん間に凝視していたのか。

「いやぁ…耳元。まだ、ホラ。ジャンバリしてんのか?」

「ああー…いや。今回は置いてきた」

 あれだけ毎日カシャカシャ聴いていたってのに、どうした気分転換なんだと俺は却って心細くなっちまった。いや、何が…ってワケじゃないけど、ホラ、こんな状況じゃねぇか。
 それでなくても環境の変化はお肌に悪いんだ!

「…ごめん。煩いとバレて【脅かす】意味がないって。級長に…」

 ポンッと頭に神経質そうな級長の顔が浮かんで、ああ、まあそりゃ頷けるけど。でも…

「なんで謝るんだよ?」

 俺に。

「いや、約束してたじゃん。あっかるい曲を聴かせるって」

 …ああ、そう言やそんな約束をしていたっけ。周り真っ暗だし、肩でも寄せ合っていないと立原の顔すらも良く見えない状況下なんだ、忘れて当然。大目に見てくれ!
 手前勝手な言い訳にも、立原は鼻先で笑うようなあの独特の表情を、覗いてる目許だけに浮かべて見せた。

「キャーッv」

「おわっ!?」

 やたら夜空に響く絹を裂くような悲鳴に、思わず腰を浮かした俺は傍らで平然と座っている狼着グルミ男に抱きついちまっていた!
 でも、その事実に気付くよりも俺は、バックンバックンと口から飛び出してしまいそうなほど跳ね上がる心臓を宥めながら、と言うことはつまり、暑さも感じずに狼のふかふか着グルミ男に抱き付いたままで声のした方を見たってことだ。

「な、なんだ?もうお客さんか!?」

「…お客さん…ってワケじゃないと思うけど。楽しんでいるような悲鳴だった」

「はぁ?」

 狼の鼻面をつけた立原の思ったよりも近くにある顔を見上げて。
 ん?
 コイツって…思ったよりもいい顔してるんだな。眠そうな目ってのにも、なんか今更ながら気付いたって感じだ。
 あり?
 俺ってそうしてみたら、立原のことって何も知らなかったんじゃないのか?
 なんかやたら面白そうなことを言う、そのくせ性格がいまいち掴めない、得体の知れないエイリアンってぐらいで。深いことなんか何も知らなかったな。
 コイツってどう言うヤツなんだろう?

「ほら。本当に怖いと声とかでなくなるでしょ?柏木もそう。だから、アレは楽しんでる声」

「…まあ、今時の高校生は肝試しなんかチョロイんだろうけど」

「今時ねぇ…」

 首根っこにいつまでも噛り付いている俺をチラッと見下ろした立原は、着グルミの大きな指先でぐにっと俺の鼻先を突いた。

「ここにいる今時の高校生は怖がるけど」

 それから鼻先でクスッと笑う。
 悲鳴が少しずつ近付いてきて、俺のボルテージもマックスまで跳ね上がるんだけど…
 あれ?
 なんだろう。
 なんかちょっと、今までと違う。
 ヘンな感じだ。