7  -EVIL EYE-

 肌寒さを感じて、暗い闇の中から目覚めた俺は、顔を上げようとして首の痛みに顔を顰めていた。

「う…」

 声にならない声を出して痛みをやり過ごそうとしたんだけど、腕が、思うように動かない。いや、そうじゃないな、腕を一纏めに括られて、頭上で縛り上げられているんだ。
 すわカタラギかと目を瞬かせた矢先に、眩しいライトを照らされて、目を焼いたような鮮烈な光に目蓋を閉じて顔を歪めてしまった。

「お目覚めかな、相羽くん」

 声は、確かに兵藤だ。
 でも、何処か抑揚がなくて、兵藤らしくもなく静かだった。
 いや、この建物自体が驚くほど静かだ…そこまで考えて、俺は嫌な予感がした。
 息遣いさえ、俺以外に聞こえないなんて、そんな非常識なことが有り得るかよ。
 そこに、兵藤と…もしかしたら松崎もいるかもしれないってのに。

「ひ、兵藤!これ、いったい何だよ?手を解いてくれッ」

「ダメだって…なぁ?相羽、ホント、いきなり美味そうになっちゃってさぁ、お前こそどうしたんだ?」

 射抜くような強烈な光のライトが不意に下げられて、漸く俺は確りと目を開くことができたけど、チカチカしていてそんなによくは見えない。
 それでも、目の前で禍々しい表情で鼻に皺を寄せて笑う兵藤の顔は、嫌でも見えるから、吐き出される息遣いを頬に感じながら、俺は嫌がって両腕を縛り上げられたまま、自由になる足で兵藤の向こう脛を蹴飛ばしてやった。
 これぐらいはしないとな、気が済むかよ。
 カタラギの時は蹴り損なっちまった。

「相変わらず威勢がいいよな。俺さぁ、このまま喰うってのでもいいけど…相羽を犯っちゃいたいんだけど、お前らどう?」

 ニタリと笑って、そんな恐ろしい提案をする兵藤にグイッと顎を引っ掴まれて、痛みに顔を顰めながらハッとした時には、ヤツは異常に長い、粘着質の唾液に塗れた舌でベロリと頬を舐めてきたんだ。

「物好きだなぁ…いいぜ。それも楽しそう」

「何よ、アタシはお腹空いてんだけど!」

「俺、相羽と犯りたい。なんか、ソイツ見てると勃った」

 口々に言いたい放題の連中を忌々しく見渡したら、なんてこった、そこにいる連中は誰も顔馴染みで、数多くいる俺の友人どもじゃねーか。

「な、何言ってるんだよッ!お前ら、頭おかしいんじゃねーのかッッ」

 悔し紛れに叫んだけど…コイツ等があの化け物だとすれば、こんな風に縛る前に、俺は既に息絶えているはずなんだから、生かされたことには理由があるんだろう。
 それが友人の姿で輪姦とかだったら、ホント、今日から俺は何を信じて生きていけばいいんだ。

「エヴィルハンターが来る前に殺しちゃおうよぉ。アタシ、お腹が空いたぁ!」

 松崎の可愛いと評判の口は耳まで裂けて、両端から、やっぱり粘る粘液のような唾液がボタボタと溢れている。その松崎の腰を掴んだ真鍋のヤツが、唾液を零す松崎の裂けた頬にキスをした。

「ヤツ等が殺れるのは下等エヴィルだけだよ、松崎。夜は長いんだ。愉しませろよ」

 だらんと垂れた舌で口の周りの粘液を拭き取ろうとしているのか、余計汚しているのか、どちらとも取れるように長い舌で顔を嘗め回す松崎は、胡乱な目付きで荒々しく息を吐きながら、恨めしそうに俺を見詰めてくる。
 吐き気がした。
 コレはもう、松崎じゃない。
 兵藤でも、俺の知る友人たちじゃない。

「俺さぁ、ずーっと相羽が憎かったんだよなぁ。でも、今日はラッキーだったぜ。小煩い安河もいねーし、存分に可愛がってから、美味しく頂いてやるよ」

 ギザギザの歯をガチガチと鳴らした後、長い舌で首筋から頬をベロリと嘗め回す兵藤は、なんの前触れもなく俺のカッターシャツを引き千切ったんだ!
 ハッとした時には、クスクスと背後で笑う気配がして、長い兇器みたいな爪を持っている誰かの指先が、いや、爪の先が、恐怖に縮こまっている乳首を抓んでキュッと引っ張った。

「ッ…」

 痛みに目蓋を閉じると、ニヤニヤ笑っているんだろう、兵藤は荒い息を吐きながら俺の耳の穴を舐めている。

「お前、知らなかっただろ?エスカレーター式の学校にさ、お前なんかが外部入学してきやがって。それ以来、ずっと人気の的だった俺が常に2番になっちまったんだッ」

「ちがッ!…うぁ……て、ストも、何もかも、い…つも、兵藤が一番…っ…」

 乳首を爪の先でギリギリと捻り上げられて、痛みに唇を噛み締めながら言ったら、兵藤は馬鹿みたいにゲラゲラ笑って、噛み締めている俺の唇を別の生きものみたいな舌で嘗め回した。

「可愛いこと言ってくれるじゃん。兵藤に惚れてるかもよ?」

 俺の股間に跪いて前を寛げていた半田が、そんな笑えもしない冗談を言って、萎えて項垂れている俺のペニスを掴むと問答無用で咥えやがった。

「…ぅあッ……嫌だッッ」

 思わず暴れそうになって、縛り上げられている縄が両手首に食い込んだまま、ギシッと軋る関節が悲鳴を上げても、俺はどうにかしてこの場から逃げ出したいともがいていた。

「可愛い声だな。まぁ、どーしても相羽が俺を好きだって言うんなら、俺の気が済むまで傍に置いてやってもいいけどな」

「お!兵藤ちゃん、優しい♪」

 背後から乳首を弄りながら項を舐めていた真鍋が野次るように尻上りの口笛を吹くと、ペニスを口に含んで、まるで生きものみたいに蠢く舌で絡みとって扱いていた半田は、俺のペニスに巻き付いてもまだ余っている舌先を細く変形させて、鈴口にグリグリと押し込もうとしながら笑うんだ。

「や…ぁ、…い、……も、やめろッ……ヒ」

 滑る粘液塗れになる股間の滑りを、そのまま肛門に導くようにして突っ込んでくる半田の指を、一度開かれて傷付いたその部位の痛みに恐怖心を煽られて、俺は知らずに括約筋に力を入れていた。

「優しいに決まってんだろ?女子にも男子にも人気のある相羽くんがさ、あの根暗野郎に夢中になるのを辞めて、可愛い顔して好きだと言えば、俺だって鬼じゃねーワケだし?朝昼晩をずーっと犯し続けて気が済むまで傍に置いてやるって」

 ゲラゲラと2人が笑うと、凶悪な面構えでニヤニヤ笑った兵藤は、涙目で俯いている俺の顔中を舐めながら、ジーンズのジッパーを引き摺り下ろすと…既に半田のせいでズボンを引き抜かれていたから、素足の膝裏に手を入れて抱え上げるようにしたら、フェラに夢中になっていた半田が掻き回している直腸から指を引き抜いた。

「コイツ、もう誰かを咥え込んでるぞ」

 傷付いて、ズタズタになっているじゃないかって思う肛門を軽く指の腹で撫でる半田がにやつく口調で言うと、唐突に、兵藤がカッと高血圧みたいに顔を真っ赤にして、掴んでいる俺の顎を力任せにグイッと上向かせたんだ!

「…ぅ……ッ」

 痛みに眉を顰める俺の顔を繁々と覗き込んできた兵藤は、双眸を真っ赤に充血させて、鋭く尖った鋭利な牙が生え揃う口許をガチガチと鳴らして唾を飛ばした。

「相手は誰だよ?!安河かッ!」

 どーして、こう、短絡的に考えるんだよ、この変態どもは。
 強い力で顎を掴まれているから、動かし難い頭を僅かに左右に振って、俺は狂気の矛先が安河に向かないように否定した。だって、相手は安河じゃない。
 カタラギだ。

「お前は淫乱なのかよ?まぁ、淫乱だよな。この人数をこれから相手するんだしぃ?」

 ヒャハハハハ!ッと、馬鹿みたいに哄笑した兵藤は、隆々と勃起しているペニスを掴むと、何度か扱いて強度を持たせ、その血管の浮き上がる凶悪そうな怒張の先端で狙いを定めると、熱を持って腫れている肛門に前触れもなく乱暴に突っ込んできやがったッ!

「ヒィ…ッッ!い…っう……ッッ」

 それでもカタラギに比べれば、まだ声が出るぐらいの余裕はあったけど、内臓が引っ繰り返るような衝撃は相変わらずで、思わず吐きそうになりながらも俺は、縋るものはもう、手首に食い込む縄しかないから…これで二度目だから、擦り切れて、もしかしたら血管とか破って死ねるんじゃないかと思う。
 俺の何が気に障ったのか…カタラギにしても兵藤にしても、ここにいる全員とも、まるで俺が女か何かみたいに、当然そうに肛門を犯そうとする。
 俺は男なのに…もう、何もかも捨て去って、このまま死ねたらいいんだ。
 グチュグチュッ…と膨大な粘液を滴らせて俺の内壁を抉るようにして突っ込んでくる凶暴なペニスに翻弄されて、前に与えられる信じられない愛撫に一瞬、理性が吹っ飛びそうになったけど、それでも唇を噛み締めて与えられる快楽から逃げ出そうと足掻いていた。

「あ、いば…お前のなか、ぬるぬるしてスゲー気持ちいい!」

 ハァハァと耳障りな息遣いで夢中になって腰を進めてくる兵藤に、俺はむずがる子供みたいに汗を飛び散らせながら頭を左右に振った。
 背後にピッタリと密着した兵藤は腰を蠢かしながら、無防備に晒している俺のあらゆる素肌を弄りながら、さっきまで真鍋が遊んでいた乳首に戯れかかると、俺はもう、思考回路がバーストして、何を考えたらいいのか判らなくなっていく。

「も、…許して…うぁ!…ん、く……やぁ……ッッ」

 あられもない喘ぎ声の語尾は悲鳴に近い叫びになって、俺は逃げ出そうと腰を捩ったけど、接合部分を長くて凶悪な舌で舐め始める真鍋を引き剥がせなかった。
 ビクンビクンッと身体が震えて、何度も絶頂に駆け上っていると言うのに、半田の舌が射精を塞き止めているから、完結できないまま何度も身体を震わせて、イくこともできずに身体をビクンッと波打たせる俺の括約筋が、その度に兵藤を締め上げて、ヤツは好色そうな目付きをしたままで、俺の中に灼熱みたいな奔流を叩き付けた。
 ゴプッと嫌な音を立てて、引き抜かれたペニスに導かれるようにして精液が零れると、内股にツゥ…ッと滴る嫌な感触に全身が震えてしまう。

「よし、次は俺だ」

 いそいそと真鍋が、まだ何かを咥えていると思い込んで閉じきらない肛門に捻じ込んできた。
 ペニスってのは男によって違うモンなんだな…とか、余計なことばかり頭の中でぐるぐるするけど、確かに突っ込まれる角度なんかで、思う以上に深い部分を貫かれて息が止まる思いに吐き気がしたり、性急なピッチで追いつく暇もなくすぐさま射精されて、俺は壊れた人形みたいに喘ぎながら、風に翻弄される木の葉みたいだと自嘲したくなっちまう。
 早く、終わってしまえばいいのに…

「んもう!早く終わってよねぇッ」

 俺の想いを代弁するような松崎の癇に障る声に眉根を寄せると、俺の口腔に貪るように長い舌を挿し込んで咽喉の奥を犯す兵藤が興奮したように牙をむいたみたいだ。

「うるせーよ、松崎!腹が減ってるんならそこらヘンの人間でも喰って来いッ」

「えー、何よそれぇ」

 憤然と激怒する松崎は端から無視で、俺の締め付けを堪能している真鍋が「おぅ、う、スゲー、いい!」とか、意味不明な言葉を発しながら、何度も射精したりしやがるから、胎内では精液が溢れたみたいで、抜き差しを繰り返す度に、粘着質な音を立てて白濁とした飛沫が散っていた。

「う…うぅ……も、い、嫌だ…や、…誰…か……ッ」

 そんな奇特なヤツ、いるワケないんだけど。
 そんなこと判りきっているんだけど、我知らず動いている腰だとか、夢中で貪られるペニスの快楽だとか、そんなもの、全部投げ出してもいいから、誰か、俺をここから救って欲しい。

「なんだよ、誰に救いを求めてるんだ?こんなエロい格好して、誰に見て欲しいワケぇ~?」

 思い切り馬鹿にしたような兵藤が、夢中で腰を振っている真鍋の横に割り込むようにして、張り詰めている怒張を、それでなくても真鍋のモノだけでもめいいっぱいだって言うのに、割り込ませようとしている事実にハッと気付いたら、背中に冷水を浴びせられた気がした。

「や!…ヒ……む、無理、…や、うあッ!……嫌だぁぁぁッッ」

 涙が飛び散る。
 ギチギチに男を頬張っている直腸に、兵藤はニタニタ笑いながら張り切って怒張しているペニスをグイグイと押し込もうとしている。
 そんなの入れられたら、俺は壊れてしまう。
 一本だって胃がせり上がるような不快感に吐き気がして、脂汗が滲んでるって言うのに、これ以上何か入れられたらと思うと、俺は恐怖と激しい痛みを恐れて両目を見開いて「もう、やめてくれ」と懇願した。にも拘らず、兵藤は指を使って少しでも広げようと焦っているみたいだったけど、その指でさえ辛い。

「ぐぅッ……ッまえら、い、ちど、自分でも突っ込まれてみろってんだッッ」

 思わずそんな憎まれ口が吐き出せたけど、みんなゲラゲラ笑うだけで、それが却って癪に障るのに、動かせない拳を握り締めて、力とか入らないけど、俺のペニスを咥えて放さない半田の脇腹の辺りを思い切り蹴り上げてやった!

「ぐわッ!!」

「んぁ?!…ぃ…ひぁ!」

 その瞬間、何処まで入り込んでいたのか、長い舌が尿道から鈴口に向けて一気に引き抜かれたと同時に、ビュルッと溜まりに溜まっていた精液が飛び出して、その腰が萎えそうな快感に悲鳴みたいな声を上げてしまった。

「何、やられてんだよ、半田!バッカじゃねぇッ」

 兵藤がゲラゲラ笑うと、顔を両手で覆って転げまわっている半田は、蹴ったのは脇腹のはずなのに、覆った指の間からどす黒い液体が滴ってるから、どうやら今の衝撃で舌を食い千切ったみたいだ。ふん!いいザマだ、そのまま昇天してろッ。

「…ッ!」

 肩で息をしながら、それでも内心で悪態を吐いていたら、不意に顎を引っ掴まれて、痛みにギュッと顔を顰めると、すぐ耳元で兵藤の粘る声がした。

「なかなかやるじゃん。お前さ、さっき誰か…って言ってたよな?アレ、誰を呼んでるんだ。しつこく纏わりついてる愛しの安河か?それとも…」

「オレだよッ」

 不意に頭上から降ってきた凶暴そうな声にギョッとした兵藤が振り仰いだ先には、ここは近所の廃工場なんだろう…天井の辺りにもう錆びて剥き出しになっている鉄筋の上に立ち尽くしている派手な出で立ちの男が不可視のオーラを浮かべていた。

「き、貴様は…ッ」

 松崎が両手の爪をジャキッと伸ばして身構えると、転がるようにして俺を突き飛ばした真鍋も兵藤と肩を並べて、どうやら戦闘態勢に入ったみたいだ。
 たった一本の縄で漸く繋がれている両腕に体重をかけながら俺は、できれば逢いたくなかったけど、でも、今は唯一、この地獄のような場所から救ってくれるかもしれない男を見上げていた。
 カタラギは、エヴィルである連中を、まるで虫けらでも見るような目付きでチラッと見ただけで、後はただただ、壮絶な表情で俺を見詰め返している。
 まるでそれは、そうして犯されている俺が悪いとでも言うような非難の目付きだったから…つーか、お前、何時からそこにいたんだ?
 そう考えた瞬間、思い切り頭を打ん殴られたような衝撃を受けて、気付いたら頭にガチンッと来たまま思わず叫んでいた。

「テメーは自分の女が輪姦されるのを黙って見てるのが趣味なのかよッ!!」

「今来たんだッッッッ!!」

 間髪入れずに腹にズンッと響く怒気を孕んだ低い声音で言い返されて、その、腹の底が冷たくなるような威圧感の伴う声音に一瞬でも怯んでしまったんだけど、それは、その場にいる誰もがそうだったのか、ヤツ等は怯えたように声にならない声を上げて威嚇してるみたいだ。でも、カタラギはそんな連中なんか眼中にもない様子で、ギリッと奥歯を噛み締めたような仕種をしてから、鉄筋から飛び降りると、ダンッ!…と、凄まじい音を響かせて俺の前に着地しやがった。
 …なんか、非常に拙いような気がする。
 さっきまでワケの判らない怒りで見境がなかったんだけど、カタラギの声を聞いた途端、頭から氷水を被ったような錯覚がするほど唐突に冷静になったから…今は素直に判る。
 うん、ヤバイ予感がする。
 ゆらっと、真っ赤な髪の派手な男が顔を上げると、右の邪眼が愈々禍々しく見えるほど忌々しそうに双眸を細めて、ビクッと竦んでいる俺を見据えたカタラギは、ゆらりっと殺気のオーラを纏って立ち上がったんだ。
 着地した場所のコンクリートが、あれほど自在に空気を操っているんじゃないかってほど、軽々と体重も感じさせずに飛び降りることだってできるくせに、砕けて弾け飛んでいるのは…それだけ、コイツは怒っていると言外に意思表示しているのかも知れない。

「さ、捜せなかったんだ!突然だったし…嫌だって言ったんだぞ!やめてくれって言ったんだけど、でも」

 無理に犯されたのは俺なのに、どうしてそんな目で俺を見るんだよ?!悪いのは全部、俺だって言うのか??!
 必死で言い訳する俺もどうかしてるのかもしれないけど、そう言わざるを得ないほど、今のカタラギは凄まじく腹を立てている。

「俺、首の辺りを叩かれて意識がなくなっちまったし…、し、仕方なかったんだ!だって…って、ん?」

 必死の言い訳なんか耳にも入っていないカタラギは、何時の間にか、見据えていた俺の顔からズーッと下の方、つまりその、なんと言うか、さんざん射精されまくって夥しい精液に濡れた下半身を、ジッと見下ろしていたんだ。
 な、何を見てるんだよ、お前は!!
 漸く引っ掛かってるだけのシャツでなんとか隠そうと足をモジモジさせて画策しながら俺は、真っ赤な髪と、鎖だとかなんだとかのアクセサリーで胸元とベルトをジャラジャラさせている、昨日とは違うダメージデニムに袖を捲くった昨日と同じ黒コートの派手なロック系のバンド野郎みたいな出で立ちのカタラギを睨みつけた。

「お、俺のことはいいから、早くエヴィルをやっつけろよッ」

「…ヤッツケロ、か。ふん!こんな雑魚はいつでも狩れるッ…でもさぁ、なんだよ、光太郎のその格好は」

 悪態吐くときぐらいは俺の顔を見ろよ。
 女ってワケじゃねーんだから、同性に見られたって屁でもないはずなんだけど…でもコイツの場合は違う意味で俺を見てることもあるワケだから、気を抜いてはダメなんだ。

「だ、だから、これは、その…」

「イッたな」

「へ?」

 忌々しい目付きで鼻に皺を寄せて口には犬歯をむいたままで、漸く隠れている俺の下半身を穴が開くほど睨み据えているカタラギが、なんとも突拍子もないことを言いやがるから、思わず呆気に取られた俺はポカンとして間抜けな声しか出なかった。

「オレの時は萎えてたくせに、そんなにエヴィルに犯られるのはよかったのかよッ?!」

「バッ!な、何言ってんだよッ?!お前はやめてくれって言ってもグイグイ突っ込んできて、血が出てたんだぞッ!痛くて感じることができなかったんだッッ」

 あれ?俺なんか売り言葉に買い言葉でヘンなこと言ってるような気がするんだけど…

「あー、そーですか。だったら優しいエヴィルちゃんどもと遊んでりゃいーんだよッ」

 フンッと鼻で笑って片手を振るカタラギの視線は、それでもしつこいぐらい僅かに布が覆ってる下半身に向けられてるから、居た堪れない気持ちになって顔が真っ赤になってしまう。

「…だって、どうしていいか判らなかったんだ。身体はヘンな具合になるし…抱かれたのだってお前が初めてだったから、あれが本当なんだって思ってたから、今の自分はおかしくなってると思って…こ、怖くて…」

 思わずポロッと涙が零れ落ちた。
 悲しいとか恐怖だとかそんな感情じゃない、選りによってなんでこんなワケの判らないことでカタラギに責められて、こんな無様な格好まで晒してなきゃいけないんだと、自分のあまりの不遇な運命に泣けてきたんだ。
 でも、それをカタラギは明らかに曲解して受け止めてしまったらしい。

「あの時は時間がなかったからな…くそ、オレとしたことが。じゃあ、お前。今度オレが抱いたら、ちゃんとイけるのかよ?」

 なんでそこに拘るんだ…と、言いたいけど、漸く俺の顔を捉えた禍々しい邪眼と険しい左目に見据えられると、なんか反論したら余計面倒臭いことになりそうな予感がしたから、俺は諦めたみたいに目を閉じてしまった。

「わ、判んねーよ。その、抱かれてみないと」

 でも、少なくとも…カタラギは仲間と俺を共有しようとは考えていないみたいだから、それがたぶん、せめてもの救いだと思う。

「でも!…今度は、ちゃんと優しくしてくれよっ」

 あんな痛いのはもう、懲り懲りだ。
 耳まで真っ赤になりながら、つっけんどんに唇を尖らせて言ったら、それでどれほどの溜飲が下がったのかは判らないけど、カタラギのヤツは陽炎のように殺気を立ち昇らせて、それでもニヤッと笑ったみたいだった。

「よし、今回は光太郎が可愛らしく反省してるみたいだから許してやる。あ・と・は」

 理不尽な物言いになんだとこの野郎とカチンとくる俺の前で、カタラギがリズムに乗るようにしてくるりと背後を振り返ると、怯えて竦んでしまっている、さっきまではあれほど偉そうだった兵藤たちが青褪めているみたいだ。

「オレの女に手を出したエヴィルどもをぶっ殺すか。雑魚だと思って見逃してやってたのにな」

 犬歯をむいてニヤッと笑うカタラギの根性の悪そうな表情に、兵藤じゃなくても怯えるに違いないけど、ヤツ等はジリジリと後退して、そのまま脱兎の如く出口に向かって逃げ出したんだ。
 その後ろ姿を腕を組んで悠然と見送るカタラギに、このままじゃ逃げられちまうと焦る俺の目の前で、突然真鍋の身体が高圧電流に触れたみたいに吹っ飛んだからギョッとした。

「あらら、強気のエヴィルちゃん。鬼ごっこはナシだぜ?なんせ、お前ら。選りによってカタラギの女に手を出したんだからな」

 両手を広げるようにして出入り口の辺りからゆらりと現れた緑の髪の派手な男は、広げた両腕の肘から掌にかけてバチバチと火花を散らして笑ってる。

「俺たちでさえおっかなくて関わらねーってのによ。強気なエヴィルちゃんは、カタラギに遊んでもらいな」

 何時の間に現れたのか、何かの機械の残骸らしきものの上にだるそうにしゃがみ込んでいるオレンジの髪の男が、投げ出している片手に一丁、肩を叩いてる手に一丁の、二丁拳銃を手にしてどうでも良さそうに無責任に言い放った。

「兵藤とか言ったっけ?光太郎、今日でコイツとはお別れだ。何か言うこととかあるか?」

 言うことなんかあるか。
 あるとすれば、どうでもいいからこの腕の縄を解いてくれ。
 さっきのことを思い出したら急に吐き気がして、俺はブンブンッと首を左右に振ってやった。
 その態度がまたカタラギをいい気分にさせたみたいで、どうやらそれで、本当に俺の言葉を頭から信じることにしたみたいだった。
 これで、カタラギたちみたいに「グッバイ、兵藤」とか言ってたら、また曲解したカタラギが激怒してたんじゃ…とか、理不尽なDV夫に恐怖する奥さんみたいに、俺はたらりと冷や汗を掻いて息を呑んでしまった。
 よかった、喋らなくて。

「…って、ことらしいぜ?んじゃ。グッバイ、エヴィルちゃん」

 ニコッと、信じられない顔で笑ったカタラギが両手を前に差し出すと、まるで空気中にある何かの粒子みたいなものが集まってきて、青白く発光しながらそれは片方を日本刀に、もう片方の手の甲を覆う鉤爪に変化したんだ。
 ニコッと笑ってるくせに、ピクッとこめかみが引き攣るってことは、やっぱり、カタラギのヤツは余程激怒してるんじゃないかと思う。
 さっきから少しも勢いの衰えない陽炎みたいな殺気は相変わらずだし、豪語していたようには強くもないような兵藤、松崎、さっき吹っ飛ばされた真鍋の顔色を見ても、それが判る。
 俺がなんとなく、こんな目に遭わされたってのに、憐れだなぁと思ったときには、電光石火の素早さで斬り込んで行ったカタラギが、呆気に取られている松崎の胴を真っ二つにして、断末魔を口にするヒマもなかった彼女は砂利だらけの廃工場の床に倒れると、グズグズと溶け出して消えてしまった。その光景に気を取られている隙に、次の行動に出たカタラギが、電気にやられて身を捩って喚き散らしている真鍋の身体を鉤爪で掬い上げるようにして投げ出したら、ついでのようにオレンジの髪の男の手にしている銃口が火を噴いた。
 乾いた音が1発響いたら、落下する真鍋の後頭部が破裂したみたいにバシュッと何かを撒き散らしたら、眉間に数センチの穴が開いたみたいだ。
 それら全てを見届けることもせずに、カタラギは、呼吸すら乱れないままニコニコ笑って今や1人になってしまった兵藤のところにぶらぶらと近付いて行った。
 それがどれほど恐ろしいだろうと、あの邪眼に何度も射竦められている俺としては、内心で合掌していた。

「オレのさ、女は美味かっただろ?兵藤くん」

 腰が抜けたように…いや、よくよく見ると、緑髪の男の電気が足許でバチバチしてるから、両手以外は身動き取れなくされている兵藤が、ゆらりと殺気を滲ませて見下ろしてくるカタラギを睨んでいるようだ。だけど、既に観念しているのか、兵藤はニヤッと嫌になる笑みを浮かべて、最後の一矢を打ち出した。

「ああ、美味かったぜ。癖になる味だ。まだ、抱かれ慣れてない身体が自分から腰を振るようになってたぜ。結局、アンタの女はアンタよりも俺のチン●で男を知ったってワケだ」

 ぶち、…と。
 その言葉が終わるか終わらないかのところで、確かにハッキリと、何かが切れたような鈍い音がしたと思う。それは俺だけじゃない、カタラギの仲間も聞いてたみたいだ。
 何故なら、オレンジの髪の男が「ゲ」と顔を顰めると、緑の髪の男が片目を閉じて、「アチャ」と片手で額を押さえたからな。

「なるほど!」

 搾り出すような声は却って冷静さを保っていたから、俺が思わず眉を顰めた次の瞬間、風を切るようにして日本刀が触れるか触れないかの近距離で、俺の横を凄まじいスピードで飛んで行った。
 んな、俺に当たるなよ。
 青褪めて言葉も出ない俺の背後で、何かが倒れる音がして、その時になって漸く、俺は半田の存在を思い出していた。

「雑魚は寝てろ」

 鉤爪でガッチリと兵藤の頭を掴んだまま、振り返るついでのように投げた日本刀は、指を変形させて造り上げたナイフのようなもので、俺に襲い掛かろうとしていた半田の頭を貫いていた。
 やっぱ…カタラギはスゲーと思う。
 ガックリと項垂れそうになる俺の目の前で、ニコニコ笑いがすぐに化けの皮を剥いで、ヒクヒクと口許を引き攣らせたカタラギは絶句している兵藤を見下ろした。

「すぐには殺してやらねーぜ。兵藤くんは昼は大人しい高校生なんだろ?お前に最大の屈辱を与えてやるよ」

「ぐ…ッ、ま、まさか…ッ」

 グエッと拉げた悲鳴を上げたのは、どうやら重いブーツの底で腹を蹴られたらしくて、兵藤はつんのめるようにして倒れそうになったんだけど、カタラギの凶悪な鉤爪がそれを許さなかった。

「そうそう、そのまさかだ。生き恥を晒してハンターの慈悲に縋って生き残っちまったエヴィルの行く末は憐れだよな?仲間に食い殺されろよ。でも、それじゃあんまりつまんねーから、もうひとつ、ハンター様からの慈悲を与えてやる」

 肩が震えるぐらいの屈辱を受けたカタラギは、邪眼を細めてニヤッと、邪悪な表情で性質の悪い笑みを浮かべながら言い放ったんだ。

「夜明けから夕暮れまで、オレの女を護るんだ」

「…!!」

 鉤爪が深々と突き刺さった頭部からどす黒い血液らしきものを流しながら、唇を噛み切るほど噛んでいる兵藤が震えるようにカタラギを睨みつけた。
 なんて条件を出してるんだよ、どうせ、んなことして解放しても言うことなんか聞くワケないだろ。
 とっとと、とんずらするに決まってるってのにさ、カタラギは結構抜けてるんじゃないのか?
 馬鹿らしい条件に溜め息でも吐こうかと思っていたら、オレンジの髪の男が低く笑う声がした。

「?」

 訝しく思ってオレンジの髪の男を見たら、その向こうの出入り口の辺りの壁に腕を組んで凭れている緑の髪の男も同じように笑っているみたいだ。
 なんなんだ。

「ワケが判らん…ってツラしてるね、カタラギの彼女」

「…その言い方はやめて欲しい」

「なんでだよッ」

 オレンジの髪の男の台詞にうんざりしたように呟いたら、そっちで勝手にやってるはずのカタラギが、間髪入れずに犬歯をむいて口を挟むから、俺は呆れたようなツラをしてしまった。

「判った、彼女でも女でもなんでもいーよ」

 もう、こうなりゃヤケクソだ。
 どうでもよさそうにフンッと鼻を鳴らしたら、なんだか納得できていなさそうな顔をしていたカタラギは、それでもそれ以上は何か言うつもりはないらしい。それを見越して、オレンジの髪の男は肩を竦めた。

「エヴィルってのはよ、仲間を裏切ると制裁を加えるんだ。ま、もともと共食いするんだから制裁ってのもどうかしてるけどな。ましてや、ハンターの女を護るなんざ愚行をすれば、それこそ嬲り殺しにされるだろーよ」

「つまり、夜が活動の全てのエヴィルが、夜道を歩けなくなるってことだな」

 オレンジの髪の男の台詞を引き継ぐようにして、緑の髪の男はそう言うとプッと噴出した。
 それで、2人してゲラゲラ笑ってるんだけど、何がそんなに可笑しいのかいまいちよく判らん。
 そもそも、エヴィルってなんなんだ??

「なんの庇護もなく、もう、人間狩りもできねーな?ましてや頼る仲間も失って、オレの命令を無視すればどちらにしても、地獄よりも苦しい死に様が待ってるってワケだが。これからどうして生きていこうか、エヴィルちゃん?」

 首を傾げている俺の前で、カタラギが皮肉気に鼻先で笑った。
 それは、エヴィルにとって最大の屈辱なのかもしれない。それに、カタラギが言うように、兵藤は他の連中よりも過酷な死に様をするんだと判る。あれほど激怒していたカタラギが、そう易々と見逃すはずがないもんなぁ。
 絶望したように青褪めた兵藤は、それでも、何もかも失って、どうすることもできないまま、カタラギの叩き付けた条件に縋るように承知したみたいだった。
 ガックリと項垂れるように頷いた兵藤を見ながら俺は、今日からエヴィルに護られることになったワケなんだけど…って、おいおい、ちょっと待てよ。
 俺の意見とか権利とかは…やっぱ無視なのか?
 その日何度目かの溜め息が、項垂れて疲れ切った口から吐き出されていた。

6  -EVIL EYE-

 「一緒に帰ろう」…ってさ、なかなか振り向いてくれない友人が漸く口にした台詞に、俺は嬉しくて舞い上がっていたってのに…現実はとても残酷だと思う。
 俺の唯一の楽しみなのは、安河が重い口を開いて話をしてくれることなんだ。
 それなのに、エヴィルが跋扈する闇は、もうすぐそこまで迫っていて、俺は眉を寄せると唇を噛み締めて俯いてしまった。

「…相羽?」

 ふと、玄関を一瞬振り返った安河は、何も見当たらないことに首を傾げてから、硬直したように立ち止まっている俺に振り向いて首を傾げてきた。
 長い前髪に覆い被さった双眸が、何時の間にか点いている電灯の光を受けてキラッと光ったみたいだ。

「…ごめん。俺、急用を思い出したんだ。先に帰ってくれ」

「え……、待ってるけど」

「いや、いいんだ。遅くなると思うし。悪いから」

 断固とした決意で安河を見上げる俺に、物静かな友人は一瞬だけ表情を固くしたみたいだったけど、何時もはクラスメイトが唖然とするぐらい付き纏う俺のその変貌振りに、どう対処していいのか判らないってさ、動揺したような態度が伝わってくる。
 そうだよな、さっきまではあんなに喜んでいた俺が、いきなり掌を返したみたいにして突き放したんだ。何が起こったんだって、ビビッても仕方ねーよな。

「ごめん」

 一言だけ呟いて、俺はぼんやりと突っ立ったている安河をその場に残したまま、呆然と突っ立って見送る安河に何時ものように片手をグルグルと振り回して別れを告げると靴のままでダッシュしながら廊下を引き返していた。
 裏門から帰ればいい。
 そんなこと、判ってるけど…やっぱりちょっと寂しいよな。
 こんな性格だと、きっと安河も、もう呆れたに決まってる。
 長い前髪に隠れた双眸からは表情を読み取ることなんか不可能に近いんだけど、でも、あの安河が少しでもいいから残念がってくれたら…俺の日頃の行いも少しは報われるんだけどなぁ。
 ははは、んなこたないか。
 走って、走って、それから、歩調を緩めて、ピタリと立ち止まった。
 裏門に続くガラスのドアの向こうに逢う魔が時の夕日が沈む。
 きっと、道路は薄暗くて、何が潜んでいるのか判らない恐怖がある。
 でも今は、そんな夕暮れ時よりももっと恐ろしい、夜が来るんだ。
 俺はそれでも、随分と回復した身体を引き摺るようにしてガラスのドアを押し開けていた。
 裏門から突っ走って、取り敢えずすぐに大通りに出る、それからバスに乗って…いや、それよりも電車がいいかな。人を巻き込まないようにするなら徒歩なんだけど、そうすると、途中で薄暗い公園を突っ切らなきゃいけなくなる…それは絶対に避けたい。
 やっぱりバスかな…とか、脳内を凄まじい早さで考えが駆け巡って…って、俺、今までにこんなに考えたこととかたぶん、一度もないんじゃないかと苦笑しちまった。
 裏門の鉄の格子に手を掛けて開こうとしたその時…

「よう、相羽。今、帰り?」

 それまで誰もいないと、あんなに何度も確認したってのに、背後から声がして俺は振り返っていた。
 だってさ、その声には聞き覚えがあったから。

「あれ?どうして、兵藤がいるんだ??さっき安河が、お前は有沢と帰ったって言ってたのに…」

 あんな悪夢を見たせいか、なんとも居心地の悪い気分を味わいながら、俺はそれでも罪悪感みたいなものを感じていたから、薄暗いなかで笑っている私服の兵藤を見ていた。

「決まってるだろ?お前を待ってたんだ」

「は?」

 間抜けな声を出して眉を顰める俺に、兵藤はゆっくりと近付いて来ながら笑っている。

「だからさ、さっきの続きをしようぜ…」

「?!」

 ハッとした。
 その異常な口の大きさが、やたら目立ってアンバランスに眉を寄せていたんだけど、違う、この違和感はそんなモンじゃねぇ!
 ヤバイ!…と、直感が身体を動かして、踵を返して逃げ出そうとした俺の首に、衝撃を伴った痛みが走った。その瞬間、フッと目の前が暗くなって、身動きが取れないまま地面にダイブしてしまった。
 スローモーションのように地面にぶっ倒れる俺が見た光景は、制服のスカートの裾をひらひらさせた…それは、確か2組の松崎って言う女子だ。
 彼女の、氷のように冷たい、禍々しさを宿した双眸が冷めたように見下ろす姿だった。

5  -EVIL EYE-

 一歩、歩くごとに下半身に激痛が走るなんか、どうかしてるよな、全く。
 今は放課後で、クラスの連中はもういない。
 早く帰らないと夜が来ると判っているのに、身体が重くて、全身が火を噴いたように熱くなっていた。
 午後から体調は悪くなっていたから、たぶん、熱が出始めたんだと思う。

「馬鹿だよなぁ…俺。こんなとこでグズグズしてたら、あのエヴィルとかって化け物の格好の餌食だよ」

 頭では判っているのに、身体が思うように言うことをきいてくれないんだ。
 熱い息を吐いて、椅子から立ち上がることもできないなんて…ホント、どうかしている。
 まさか、今夜は学校で一夜を明かすとか…いや、それはダメだ。
 それでなくても学校ってだけでも早いところずらかりたいってのに、一夜を過ごすなんか冗談じゃねぇ!…俺をこんな身体にしやがって、覚えてろよ、カタラギ。
 復讐心をメラメラと燃やしながらも、カタカタと震える足には力が入らない。立ち上がることができれば幾らかマシになるんだけどさ、その瞬間の激痛を思うと、どうしても立ち上がる勇気が出ない。
 身体を真っ二つに引き裂かれるんじゃないかって痛みは、その、レイプされている時よりも痛いってのはどう言うことだ。
 ハァ…っと、吐き出した溜め息は熱っぽいから、たぶん、かなり熱が出てるんだと思う。

「エヴィルかぁ…なんだったんだろう、アレは」

「エヴィル?」

 誰もいないとばかり思っていた教室に響き渡った声に、教室の入り口からのびる長身の影に、俺の咽喉がヒクッと痙攣して、アレだけ悪態を吐いていたのに、いざカタラギ本人が目の前に来たら竦んで身動きが取れなくなっちう。

「エヴィルってさぁ、あの化け物のことか?」

 てっきり、カタラギが教室まで押し掛けて来たんだとばかり思っていたから、あの陰険なニヤニヤ笑いを思い出して震え上がったってのに、実際は兵藤がひょっこり顔を覗かせて、思案げにアイスクリームの棒を咥えたままで下唇を突き出していた。

「ひ、兵藤かよ…驚かすなよ」

「はぁ~?ああ、そっか。こんな時間にエヴィルとか考えてたんだ。そりゃ、ビビルわな」

 ひゃっはっはっと、日頃はそんな笑い方とかしないのに、おかしそうに笑う兵藤は咥えていたアイスの棒を掴むとチラッと見下ろして、どうやらはずれクジだったのか、眉間に皺を寄せてゴミ箱にポンッと放り込んだ。ナイスコントロールはバスケで証明済みだし、心配しなくてもアイスの棒はきっちりとゴミ箱に吸い込まれていった。

「兵藤!そう言えば、今お前エヴィルって言ったよな?何か、知ってるのか??」

「知ってるのかって…はぁ?何を言ってんだよ、相羽。ネットでジャンジャン写真が出てるじゃん。昨日もどっかにエヴィルが出て、特殊部隊が動員されたってのに退治できなくってさ、賞金目当てのエヴィルハンターが仕留めたんだろ」

 エヴィルハンター!…そうか、カタラギたちは実在する連中だったんだ。
 俺、ネットって言えばネトゲぐらいだから、そんな噂知りもしなかった。
 だから、そうか。
 母さんはあんなに心配して俺を待っていたんだ…くそぅ、あのクソ親父。

「エヴィルハンターって尋常じゃない身体能力とか持ってるらしくってさ、誰も姿を見なければ、写真すらないらしいぜ。そのわりには、初遭遇~とかってエヴィルの写真は出回ってるようだけど。ありゃ、どーせ合成かニュースからの転載だよ」

 俺のほうに向かって歩きながら面倒臭そうに肩を竦めて、それからニヤッと笑ったんだ。

「相羽もさぁ、んな寝惚けたこと言ってないで、ちゃんとニュースとか見て用心したほうがいいと思うぜ」

「う…だよな」

 俺が素直に頷いたら、兵藤のヤツは「おや」っと眉を上げて、やたら素直な俺を気持ち悪いものでも見るような目付きで覗き込みやがるから、なんだよ、その目は。

「じゃあ、兵藤はエヴィルとか信じていないんだな」

「は?まさか、信じてるに決まってるだろ」

「はぁ?」

 思わずキョトンッとして見上げたら、兵藤のヤツは馬鹿にした目付きをして肩を竦めた。

「だからさ。出回ってる写真は殆ど合成だって、言ったんだよ」

「ああ、なるほど…ってこた、お前はエヴィルを見たことがあるのか?」

 思わず納得しかかって床を見下ろした俺は、唐突にハタと気付いた。
 影が…教室に射し込む暮れなずむ夕日に伸びる兵藤の影が…ない。
 さっきは長身の陰が伸びて、俺はそれを見て思い切り怯えていた。てっきりカタラギだろうと思ったからだ。
 でも、この影のない兵藤は、もしかしたら、カタラギよりも性質が悪いんじゃないだろうか。
 そこまで考えて、唐突に静まり返った室内に恐怖を覚えた俺は、震えだしそうになるのを必死に我慢しながら、殊の外平然とした口調で尋ねていた。

「つーかさ、兵藤。どうして学校に残ってるんだ?お前さ、今日は確か3組の有沢とデートするって言ってたんじゃ…」

「何、怯えてるんだよ?確かにキョーコとデートも楽しいんだけどさ。なんか、やたら美味しそーな匂いがしてたからここに来たんだよ。そしたらお前が居たってワケ。相羽ってさぁ、美味そうなんだよなぁ」

 見詰めていた顔からふと、目線を逸らした。
 その態度はいけないと安河にあれだけ注意したんだけど、見たくない時だってあるさ。
 それでなくても、カタラギに痛めつけられた身体だと、満足に逃げ出すことだってできやしないだろうと思う。そんな、融通のきかない身体を持て余してるってのに…何を言ってるんだ、俺。
 きっと、これは悪戯好きの兵藤の、性質の悪い冗談に決まってるじゃねーか。
 ちょっと、イロイロと有り過ぎたから、何もかもを疑いすぎてよくないと思う。
 …いや、影を消すなんて芸当、どうやったらできるのとかは判らないんだけど。

「う、美味そうって…何を言ってんだよ。それなら有沢の方がもーっと美味そうだ」

 そう言って、冗談のつもりで笑いながら逸らしていた視線を向けて、俺はその場に凍りついてしまった。
 兵藤の顔が、あれほど整っていて、女子が王子様だと実しやかに囁いて喜んでいた、兵藤の自慢の顔が…ボタ、ボタ、ボタ…と、目とか鼻だとかが溶けるように落ちて、のっぺりとした顔なし状態になっているんだ。

「ひ、兵藤?」

「キョーコもちゃんと後で喰うよ。でもよぉ、ホントにさぁ…相羽、美味そうだよなぁ…」

「!」

 ベリッと顔の中央が破けたように開くと、そこにはビッシリと鋭く尖った細かい歯がヤツメウナギみたいに円を描くようにして並んでいて…あの耳障りな、ガチガチと歯を鳴らす音を響かせていたんだ。
 夕暮れ間もないから、まだ夜じゃないはずなのに…これは、きっとエヴィルだ。
 カタラギのヤツ!う、嘘なんか吐きやがってッ。
 ホント、後で覚えてろよッッ!!…って、俺が生きていたらの話なんだけど。
 目の前が真っ暗になる、どうしよう、こんな熱に浮かされたような痛む身体を抱えて、いったい俺に何ができるって言うんだ。
 見たくもない異形の化け物に変貌しつつある兵藤の顔を呆然と見上げたまま、俺は成す術もなくて、誰かに助けを求めるなんて考えることもできなかった。
 エヴィルは人間でも何でも喰うんだろう、現に、あのOLのお姉ちゃんみたいなエヴィルは俺を喰おうとした。だけど、巨大なエヴィルはそのOLエヴィルを喰って…でも、カタラギが来なかったらきっと、俺も喰われていたと思う。
 だから、兵藤だったエヴィルは俺を喰うつもりなんだろう。
 はぁーはぁー…と、顔全体が口になってしまった、それもヤツメウナギのように吸盤のついた、臭気を伴う滑る粘液が滴り落ちる顔をカク…カク…と首を傾げるように動かして、兵藤なのか化け物なのか、もうどちらかも判らない不気味なソイツは、身動きすらできないまま、椅子の上で精一杯に身体を退く俺に近付いてくる。
 ぼた、ぼた…ッと、制服を汚す粘液の塊が、化け物がもう、俺の目の前まで迫ってきていることを告げていた。
 ああ、誰か…誰か俺を助けてくれ。
 あれほど友達がいるんだと思っていた俺は、その時になって初めて、誰を呼んだらいいのか判らないことに気付いたんだ。
 だから、助けを呼ぶことができなかった。
 命を懸けて救いたいと思う友達も、命を懸けて救ってくれる友達も…誰も思い出せない。
 浅く広く…そんな当たり前の付き合いが、こんな時、致命的な結果を齎すなんて…そんなこと、考えもしなかった。
 生臭い息を吐き出しながら、近付く大きな口は、細かい歯を振動させてカチカチと音を鳴らしている。
 カタラギが言ったように、俺はエヴィルを呼ぶ体質になっていて、でもそれでも、カタラギに救いを求めるのはどうしても嫌で…死にたいとか思っていないのに、そんなこと思ってもいないんだけど、自分をレイプした男に救いを求めるさせるなんて、どれほどカタラギは、俺から男としての尊厳だとか、プライドとか…そんな大事なものを奪い取って、踏み躙ろうとしているんだろう。
 何もかも悲しくなって、俺、そんなに女々しいヤツじゃなかったはずなのに、閉じた目蓋からポロポロと涙の玉が転がり落ちていく。
 首筋に生臭い息を感じた時、ああ、これでもう終わりだと思った。
 カタラギは自分を捜して俺が走り回ると思い込んでいるみたいだったけど…それはあくまで、身体が自由で、動き回る体力があるとき限定の思い込みに過ぎないだろ。こんな風に散々痛めつけられた身体で、どうやってお前を探し回ればいいんだよ。
 学校にまでエヴィルなんて言う化け物が居る有様だってのに…そこまで考えて、俺はふと苦笑してしまった。プライドだとか何だとか、なんやかんや言いながら、確りこんな身体にしやがった責任は取って貰おうって、嘯きながら俺、カタラギに期待なんかしちまってるんだなぁ。
 あんな薄情なヤツ、俺が捜さないと姿も現さないような酷いヤツに、助けてくれなんて馬鹿な期待ばかりするから、化け物とかカタラギなんかに付け込まれるんだよ。
 ぬらりとした粘液が滴る長い舌が伸びて、びちゃっと首筋が粘るように濡れたから、頚動脈を食い千切られる錯覚を感じて、青褪めた俺は震える指先で机の上を探ると、それから、漸く辿り着いたシャーペンを握り締めたんだ。
 これを突き刺せば、少しでもエヴィルの動きを止めることができるかもしれない。

 それから、全力で逃げ出せば…火事場の馬鹿力を出せれば逃げ切れるかもしれない…そんな、途方もないことを考えながらギッと口だけの兵藤を睨み付けた。

「うぁ!」

 渾身の力で突き出した腕は、奇妙に捩れた腕に遮られて、反対に捩じ上げられてしまった。

「…う、うぅ……ッ」

 椅子の上で愈々身動きも取れないし、痛めつけられている身体は悲鳴を上げて、ドッと脂汗が噴き出した。
 ああ、もうダメなんだ。
 諦めたくなんかないんだけど、絶望感がゆっくりと頭上から爪先に浸透していくようで、唇を噛み締めながら俺が目蓋を閉じたその時…

「相羽?」

 聞き慣れた、何処か物静かな口調で声を掛けられて俺はハッと目蓋を開いた。
 額にはビッシリと汗が浮かんでいて、慌てて起き上がって周囲を見渡せば、間もなく日が暮れそうな午後の陽射しが射し込む教室が、何事もなかったように静まり返っていた。

「ひ、兵藤は?!」

「…?3組の女子と帰った」

 薄っぺらい鞄を片手に、長い前髪の向こうからじゃ何を考えているのか判らない安河が、首を傾げるような仕種で呟くように言ったんだ。

「…ぁ、ああ…そっか、なんだ。夢か」

 全身に嫌な汗をびっしりと掻いてしまった俺は、どうやら熱のせいで悪夢に魘されていたようだ。
 それにしても、選りに選って兵藤をエヴィルと思うなんて…俺、どうかしてるよ。
 まさか、男にレイプされてヤケッパチになったせいで、女子に大人気の兵藤に嫉妬してるのか?…うわぁ、考えたくないけど、なんか、それが本音だったらもうホント、死にたくなるよ、マジで。
 はぁぁぁ…っと、涙目で盛大な溜め息を吐いた俺を無言で見下ろしたまま突っ立っている安河に気付いて、俺は慌てて両手を振り回して顔を真っ赤にしてしまった。なんか、心の奥を見透かされたような気がして慌てたんだけど、そんなはずがあるワケもなく、安河は不思議そうに首を傾げるだけなんだ。
 当たり前だ、俺。
 確りしろ、俺!

「え…っと、へへ。居眠りしちゃったよ」

「…」

 頭を掻きながら顔を真っ赤にして照れ笑いをしていたら、口許が僅かに綻んだから…お?珍しく安河が笑ったみたいだ。
 なんか、どんな態度もやわらかいんだよなぁ、安河は。
 だから、俺は苛々させられるんだけど、兵藤から面と向かって陰口を叩かれても(それはそれで酷いヤツなんだからあんな夢を見られても仕方ない)、俺は安河のストーカーを辞められないんだ。

「ってか、安河、どうしたんだ?何時もは俺から逃げる為に即行で帰ってただろ」

 逃げるなんて…とでも言いたかったのか、モゴモゴと口篭りながら俯いた安河の黒い髪が、夕暮れの陽射しを受けてキラッと光った。

「ラーメン…食うって」

「へ?あ、ああ、言ったな、俺。でも、安河はパスなんだろ?」

 どんなに誘っても、何時もはぐらかして、気付いたらそそくさと帰っていた安河だから、俺は肩を竦めながら苦笑したんだ。
 毎度のことだし、もう慣れっこだよ。

「いや…一緒に食おうって。誘おうと思って…」

 小さな声なんだけど、オマケにくぐもっているからこう言うのが苛々するんだけど、それでも俺は、呆気に取られたようにポカンとしてしまった。
 あの安河が一緒にラーメンを食うだと?どんなアンビリーバボーだよ。
 ん?ちょっと懐いてきたのかな??
 そんな嬉しい気持ちに、思わずヘラッと笑ってしまったら、安河は照れたように頬を染めて俯いてしまった。
 でも、ちょっと口許が綻んでいるから、笑っているのかな。

「そっか、じゃ、一緒にッ!…って、悪い。そうだ、今日はダメなんだッ」

「…え?」

 ふと顔を上げた安河は、長い前髪の向こうからは窺えない表情で俺を見ているようだったけど、ああ、せっかく安河ともう少し距離を縮められるいいチャンスだってのに、俺は泣く泣く頭を掻きながら用事を思い出したふりをしたんだ。

「今日は親父の会社に届け物をしないといけなかったんだ。俺から言い出したのに、ごめん!この次、よかったら日曜にラーメン奢るよ」

「あ、…その、俺…日曜日は……」

 そっか、やっぱまだ日曜日の壁は高いのか。
 仕方ない、せっかくのチャンスだけど、これは諦めるしかないな。
 だって、俺…安河をエヴィルとか言う化け物に殺されたくないんだ。
 あんな思いをするのは俺ひとりで十分だ、安河まで巻き込まなくていい。

「そっか、じゃぁ…残念だけど。また、今度な」

 何時になるのか判らない約束の代名詞みたいな言い訳を呟きながら俺は、ガッカリして溜め息を吐いてしまう。できればもっと、色んな安河を見てみたいと思っているのに、残念だなー

「判った…」

 シュンッとしたように俯いた安河も、やっぱり残念だと思ってくれているみたいだ。
 ま、いいか。
 これだけ進歩したんだから、いつかカタラギだとかエヴィルだとか、そんな連中に見切りをつけることができた暁には、頑張って安河をもう一度誘ってラーメンぐらいは食いにいこう。
 それを希望に、明るくない学校生活をエンジョイでもしてみるか…ってんだ、畜生。
 そんな、内心で悪態を吐きまくっている俺に、やっぱり残念そうな顔をしていた安河は、言葉数少なにポツポツと一緒に帰ろうと言ったんだ。
 そりゃ、驚くだろ、普通に。
 何時もはサッサと帰ってる安河が、ヒッジョーに短い言葉ではあるんだけど、一緒に帰ろうとか言うなんて思わなかったから、椅子に腰掛けたままで近付いてきている安河の、その長い前髪に隠れる双眸を見上げながらポカンッとしちまった。

「俺…ヘンなこと言った?」

 呆気に取られる俺に、言い出したわりには弱気な安河は、既に後悔しているみたいだ。
 違う、そうじゃない。

「んなワケないって。いや、安河が俺のことを誘ってくれるとか思わなかったから、正直驚いてるだけ」

 顔を真っ赤にして喜んでいる俺に、安河はちょっと驚いたような顔をしたけど、すぐにホッとしたように息を吐いてから片腕を差し出してきたんだ。

「?」

 差し出された腕を見詰めて首を傾げていたら、手持ち無沙汰に疲れたのか、それとも、俺のそんな態度に戸惑ったのか、いずれにしても安河は、反射的に手を引っ込めてしまった。

「ごめん…その、具合、悪そうだったから」

「あ!ああー、それで立ち上がらせてくれようとしたんだな?うっわ、ごめん。でも、マジで嬉しいよ。んじゃ、遠慮なく」

 何時もは俺が引っ掴んで連れまわす腕を、また掴もうとしたら、すぐに引っ込めていた腕を差し出して、安河は伸ばした俺の掌を握り締めたんだ。
 ちょっと汗ばんだ手はしっとりしてたけど、俺のほうが何倍も(悪夢のせいで)汗を掻いていたから、別に気にならなかった。それよりも、安河って掌が大きいんだなぁと、ヘンなところに感心していたってのは内緒だ。

「今日、ちょっと具合悪くてさ。安河が来てくれて助かったよ。有難う」

「そんなの…俺は何時も相羽に助けてもらってるから」

「へ?そんなの初耳だな。ぜってー迷惑してるって確信してたもん。でも辞めてやらないんだよなぁ。悪魔だよな、俺」

 ヘヘヘッと笑いながら、本当は立つのも辛いんだけど、思ったより力強い腕に引き起こされて立ち上がった俺は、ちょっとよろけてしまって、安河の胸元にそのまま顔を突っ込んでしまった。

「グハッ!…とと、悪い。ちょっと足許がふらついて」

「…大丈夫か?」

 慌てて身体を起こした俺が手を離そうとしたら、安河はそれを許してくれなかった。
 でもま、そうやって手をつないでくれているほうが、俺には有り難いからいいんだけど。

「これが女子だったらよかったのにな」

 ウハハハッと笑って、頭ひとつ分上にある安河の顔を見上げたら、ちょっと頬を染めて照れているような表情をしたままで、もぐもぐと何かを呟いたみたいだった…んだけど、何を言ったのかよく判らなかったし、取り敢えず、俺は楽ちんだしでここは笑ってすっ呆けるしかないな。
 なんか、久し振りに充実してるような気がする。
 あんな悲惨な目に遭って、できればすぐにでも死にたいとか考えてたんだけど、死ななくて良かったって素直に思えるよ。死んでたら、こんなスゲー体験とかできなかったと思う。
 安河はあんまり人に関わるタイプじゃないみたいで、「牛乳買って来い」とか、命令されると無言のままのそのそと教室を出て行くのは、喚き散らされるよりも指示に従ったほうが気が楽だからなんだと思ってた。事実、本人もそう思っていたんだろう、殴られてもパシリにされても、殆ど口を開かずに黙ったままで、ボーっとしたり本を読んだりしていた。
 女子はそんな安河が不気味だって言って、陰湿ないじめとかもしているみたいだった。
 安河はガタイもいいし、タッパもあるんだから、その気になれば彼女なんか選り取り見取りに違いないのに、その異様な雰囲気が女子を遠ざけているんだと思う。
 兵藤みたいにあからさまなのもどうかしてるとは思うけど、安河はもっとお洒落に気を遣うべきだ。

「お前さ、今度髪とか切って、ちょっとお洒落とかしたらどうだ?」

「……」

 他愛なく呟いたつもりだったのに、俺の腕を引いて教室を後にした安河は、何か言いたそうな表情でそんなのほほんとした顔の俺を見下ろしてきた。

「顔立ちとかカッコイイし、ぜってー彼女とかできると思うぜ」

 エヘヘヘッと笑ったら、安河もはにかむように小さな笑みを浮かべて首を左右に振ったんだ。

「…女とか、面倒臭い。人付き合いは…苦手なんだ」

「そりゃ、見てりゃ判るよ。入学した時から見てるんだから、安河のぶきっちょさとか百も承知だぜ」

 ウハハハッと声を出して笑ってやったら、「そうか」と呟いて、それでも、安河は他の連中みたいに感情が豊かではない分、物静かに口許を綻ばせるだけだ。
 これが他の連中だと、気分を害せば大声で怒鳴って喧嘩になるし、その後はバツが悪くて嫌な気分を味わうことだってある。そんなの、安河の言葉を借りれば面倒臭いから、だから俺は安河を気に入ってるんだと思う。

「相羽は?……2組の斉藤と付き合ってるって…」

「ブハッ!…ったく、誰だよ。んな、根も葉もない嘘言ってるの」

「え?……本人」

「マジで?!」

 …って、斉藤のヤツ、何を考えてんだよ。
 本命は兵藤とか言って、ちゃっかりアイツの彼女のくせに、どうして俺を当て馬に使うんだ。

「ヒッデーよなぁ!アイツ、ここだけの話、兵藤の彼女なんだぜ。おおかた、シンパの目を撹乱する為にわざと俺の名前を出したんだよ」

「…」

「そんなのに利用されてるんだぜ?彼女とかいないっての」

 自分から話を振っておきながら、とんだ薮蛇にトホホな気分で溜め息を吐いたら、黙って俺の話を聞いていた安河は、「そうか」と短く呟いて、何時もどおり黙り込んでしまった。
 あんまり喋らないヤツなんだよな。
 黙っているくせに、それでも俺がペラペラとどうでもいいような話をしている間、下らない話を根気よく聞いてくれている。だから、何が楽しいんだと級友たちが呆れてるって判っていても、やっぱり俺は安河と話したいと思うし、ストーカーとか言われても友人でいたいんだよな。

「あ、そーだ。今度さぁ…ッ!」

 下駄箱で靴に履き替えながら先にいる安河を見た瞬間、俺の行動は完全に止まってしまった。
 だって、安河の向こう、玄関の外はすっかり日が暮れて、夜の闇が忍び寄っていたんだ。

4  -EVIL EYE-

 結局、午後から学校に行くことにした俺は、昼休みで賑やかな教室のドアの前で深呼吸をした。
 俺は、こう見えても友達は多いほうだ。
 中には、俺の表情で今日の気分を見抜くヤツだっている。
 だから、昨夜のことは全部嘘だと自分に言い聞かせて、震える指先を握り締めながら、教室のドアに手を掛けた時だった。突然、内側から勢い良く横開きのドアが開いたんだ!
 …ったく、いったい誰だよ?
 学生鞄の代わりに愛用しているスポーツバッグを肩から提げている俺に気付いたソイツは、ちょっと驚いたように、鬱陶しいぐらい伸び放題の前髪の隙間から陰気そうなツラをして見下ろしてきた。

「なんだ、安河か。あれ?こんな時間に何処に行くんだよ」

 目障りなほど鬱陶しい前髪に両目を隠して…って言うか、コイツの場合、図体のわりには驚くほどボーっとしてて、実際、何を考えてるのか判らないところがあるもんだから色んなヤツに目を付けられる。んで、何も言わないし、小突かれてもぼんやりしてるばっかりに、ヤンゾーたちに目を付けられてパシリとか、丁度いい小間使いに使われるんだよな。
 そう言うの見てるとムカムカしてたから、何時からか俺はコイツの友達になっていた。
 とは言っても、口数とかメチャクチャ少ないし、友達らしいこととかそんなにしたことはないんだけどなー
 何時も目の端にいる存在だし、朝の声掛けも、まぁ、昼飯も一緒に食うこともあるんだけど、日曜日に映画に行くとか、何処かに遊びに行くほどの付き合いはない。それなのに、気付いたら安河は俺に懐いていた。

「相羽…ちょっとパンを買いに行こうかって…」

「パン~?この時間に行っても、もうねーんじゃねーのか」

 俺が呆れたように笑ったら、ちょっと動揺したような顔をしてフイッと目線を逸らしてしまう。
 これ、コイツの悪い癖だよな。
 人と話してる時に目線とか離すから、ヤンゾー連中に絡まれて小突かれるんだよ。
 でも俺は、すぐにムッと唇を尖らせるんだ。

「さては、また誰かにパシられてんな?ったく、今度はどいつだよ?」

 頭ひとつは上にあるんじゃないかって、俺たちのクラスでも背の高い方に入る安河は、いつもボヘーッとしていて、何を考えてるのか判らないツラをしてんだよな。そのくせ、臆病でビクビクするから、ヤンゾー先輩たちに目を付けられて、気分次第で財布を取り上げられるんだよ。

「いや、違う。今日は自分の…相羽が来なかったから、気付いたらこんな時間に…」

「え?あ、そーか。何時も学食に連行してたモンな。そっか。俺も昼飯食ってないんだよなぁ…今から学食つっても、もう時間もないか」

「…」

 いつもはボーッとしてるくせに、たまにこんな風に動揺してるようにモジモジするのは、たぶん、一刻も早くこの場所から立ち去りたいんだろうと思う。
 コイツは何時もそうだ。
 みんな、見ていて苛々するから、よく俺が根暗の安河やすかわ 万里ばんり とつるんでるなと不思議がっている。俺だって苛々する、苛々はするんだけど、別にそれほど嫌ってワケでもないし、女子が言うほど気持ち悪いヤツでもない。
 話せば意外と真面目な返事もすれば、小さな犬にはにかむように笑う一面だって持ってるんだ。一概には信じらんねーんだけど。
 ただ、コイツはどうも俺のことは敬遠してるみたいだ。
 できれば、避けたいとか思ってるに違いない。
 そのくせ、腕を引っ張って学食に連行しようと、体育の時に集中的に狙っても文句一つ言わず、俺にされるがままになっているし、こんな風に、俺がたまに相手をしないとぼんやり待ってるような一面もあるから、嫌なんだけど、懐いてる…ってそんな感じだと思う。
 まさかとは思うけど、俺が生活の一部…ただの習慣になってるだけだとか?
 だから、嫌なんだけど切り離せない、絶対悪みたいな存在…とかだったら、嫌だぞ。

「ま、いっか。帰りにラーメンでも食うし。安河は…って、お前はパスだよな?」

 と言うか、今は俺が安河に近付きたくない。
 丁度、アイツもこれぐらいの長身だったし…いや、もっとデカかったな。190センチは余裕であるんじゃないか?俺を軽々と抱え上げたり、見上げる目線の高さももっと上だったような気がする。でも、こんな風に見下ろされていると、もしかしたら、いや、そんなのは妄想で、そんなことはあの変態野郎以外には考えもしないってこた判ってるんだけど、このまま覆い被さってこられたら…俺は逃げ出せないと思うから、怖いんだ。
 今だって、よく判らないけど緊張して、却って俺のほうが不自然だと思う。
 だから、困ったように笑って、安河がそうであってくれることに感謝しながら、片手をヒラヒラと振ったんだ。

「!」

 ふと、いきなりガシッと手首を掴まれてギョッとした。
 振り払いたいのに、イキナリの行動に脳が追いつかないのか、判らないんだけど硬直したように身体が固まってしまった。

「…な、何だよ」

 漸くそれだけ搾り出せたんだけど、安河のヤツは相変わらず何を考えてるのか判らない感じで、モゴモゴと篭ったような口調で言いやがった。

「手首…」

 それで、漸く我に返ったように、俺はハッとして掴まれた腕を振り払って自分の手首を掴んでしまった。
 見られた、縛られて擦り切れて、鬱血してしまっている手首を…

「何か…」

「な、なんでもないんだよ。ハハハ、ちょっと怪我しちゃってさ」

 見っとも無いほど動揺して笑ったりすれば、何か起こったんじゃないかってことがバレるに決まっているんだけど、それでも俺は誤魔化すように笑うしかない。
 ぼんやりしている安河は…「そうか」と呟いただけで、それ以上は詮索しようとしないから、俺は思い切り安堵してホッと息を吐いた。

「あっれぇ?なんだ、相羽じゃん。遅いご登校ですこと…って、なんだよ。また安河にストーカーしてんのか」

「誰がストーカーだ」

 安河を押し遣るようにして教室から出てきたのは、コイツもやっぱりムカツクぐらい長身の兵藤だ。
 気のいいヤツで、クラスでもそれなりに人気があって、悔しいかな、女子には頗る大人気の兵藤要王子さまだ。どうかしてるよな、女子って。こんなこと面と向かって言ったら殺されるけどさ。

「昼飯について講義してたんだよ。な?安河」

「え?…えっと、その」

 ぼんやり俺たちの話を上の空で聞いていた安河は、突然話を振られて言葉に詰まっているみたいだ。
 その姿に兵藤は思わずと言った感じでプッと笑ったけど、俺は呆れたように溜め息を吐いて、ムッと口を尖らせてやった。

「ちゃんとさ、俺たちの話も聞いてろよ?」

「え?そっちかい」

 兵藤が驚いたように眉を跳ね上げるけど、こっちこそ「はぁ?」だよ。

「安河は人の話を聞かな過ぎるんだよ。だから、なんか何時もボーっとしてるって勘違いされるんだ」

 兵藤はたまげたとでも言いたそうにヘンな顔をしやがるけど、安河は驚いたように鬱陶しい前髪の隙間から俺を見下ろしている。

「髪型もいかんね。切ってみたり、上げてみりゃいいんじゃねーかな?」

 ヒョイッと気軽に前髪を掻き揚げたら、もう、俺の行動に成す術もないと観念しているみたいな安河は、されるがままになりながら、ジッと見ていたはずの視線をふいっと逸らしてしまった。
 顔立ちもイイ感じなのにな、どうして、安河は兵藤みたいに派手な感じで格好つけたりとか、お洒落とかしないんだろう。兵藤よりは似合うと思うんだけどなぁ。
 そう言えば、兵藤はスゲー派手なヤツだから、アイツ等の仲間かも…って言えば、そんな感じだよなぁ。
 年齢とか判らないけど、たぶん、俺よりも1個か2個ぐらいは上なんじゃないかと思う。
 身体能力とかずば抜けてるみたいだったし…ホント、アイツ等は何者だったんだろう。

「おいおい、何を見詰め合ってんだよ。つーか、一方的に相羽が見詰めてる感じだけどな」

 安河はと言うと、急所を掴まれた動物みたいにまんじりともせずに、俺の出方を怯えたように観察しているみたいだ。そろそろ、手を離してくれればいいのに…とか、やっぱ考えてるんだろうな。

「おっと、いかん。微妙にトリップしてた。ごめんな、安河…って、もう予鈴がなっちまったな。じゃ、またな」

 俺はパッと掻き揚げていた手を離して慌てたんだけど、頭上で暢気なチャイムが、授業が始まるぞクソガキどもがと言うように鳴り響いたから、結局、お互い昼飯抜きなんだけど仕方ないよなと笑って、安河に手を振ってやった。
 バサバサと前髪が被さって表情はよく見えなかったけど、安河はちょっと頬を赤くして頷いたみたいだった。そりゃ、男の俺にマジマジと凝視されたんだ、居心地悪くもなるよな。
 これが普通の反応なんだ、カタラギがどうかしているんだ。

「おいおい、ヒッデーな!俺への挨拶はなしかよ?」

 肩をグイッと掴まれて、兵藤は何時ものように気軽なつもりの行動だったんだろうけど、激痛のある身体を持て余している俺としては思わず「うッ」と顔を顰めてしまった。だけど、苦痛の声が出る前に女子の黄色い声がワッと上がったりするから、痛みに青褪めながらも思わず驚いてポカンとしちまったじゃねーか。

「やっだー!兵藤くぅーん」

「ヘンなカンジぃ」

「キャハハハッ」

 美形の兵藤が俺なんかと戯れるのがそんな面白いですか、シンパの皆さまがた。
 黄色い声に気圧された俺は、なんかドッと疲れてやんわりと首に腕を回してニヤニヤ笑っている兵藤の脇腹にエルボーを食らわせて、呆気なく撃沈させながら自分の席に着いたんだ。
 今までなんとも思っていなかったこんな触れ合いの一つ一つに敏感になって、緊張するなんか思いもしなかった。ましてや、身体に激痛が走っている今なんかは、冗談でも触って欲しくない。
 はぁ…草臥れた。
 まだ1時間も経っていないのに…来なきゃよかったな、学校。

3  -EVIL EYE-

 何処をどう歩いて帰り着いたのか、気付いた時、俺はジリジリと脂汗が浮き上がるような痛みに引き攣る身体を引き摺るようにして玄関前に突っ立っていた。
 何が起こったのか、全部覚えている。
 あの後、信じられないんだけど、夜明けまでの中途半端な時間の中で再び俺を抱いたカタラギは、俺の胎内にもう一度子種を撒き散らして、名残惜しそうに射精することのない俺のペニスを弄びつつ、別れを惜しんでいるみたいだった。
 でも、その後の記憶がすっぽりない。
 たぶん、ここに立ち竦んでいるのは…状況だけ考えると、カタラギが俺をここまで連れて来たんだと思う。それで、あの時に言っていた奴らの棲み処?…か何か判らない場所の記憶を消して、何処をどう歩いて戻ったのか忘れさせたんだと思うんだ。
 俺は溜め息を吐いた。
 アレが全部、夢じゃないなんて。
 明け始めた空の彼方、朝焼けの中からそろそろ顔を覗かせる太陽を拝むには、なんとも退廃的な気分に陥って泣きたくなった。
 何処をどう見ても立派な男であるはずの俺が、何が悲しくて、たぶん何かの映画か漫画の影響を受けてるヲタクか変質者でしかない、あの奇妙なカタラギに犯されなきゃならないんだ。
 考え出せばきりがない。
 カタラギがエヴィルとか呼んでいた、あの謎の化け物の正体だって判らないのに…これから毎晩、俺はあの化け物に狙われるようになるって言うのか?
 何故か、カタラギの精液は俺の胎内に残ったままで、排出されないんだ。
 だからずっと、腹の奥がずーんと重いような、むず痒いような、なんとも言えない奇妙な気分になって落ち着かない。
 奇妙な感覚の残る下腹を押さえると、少しだけふっくらと膨らんでいるのが判る。
 まさか…本当に妊娠とかしてるんじゃねーよな?これはあの変態の精液が入ってるから、こうなってるんだよな…不安がグルグル渦巻きはするけど、男同士でその、エッチとかしたことがない俺には、この現象が何からきているのか判らなくて途方に暮れるしかない。
 いや、暗く考えるのはよそう。
 どーせ、夜中に外に出なきゃいいんだよ。
 そうしたら、俺はわざわざカタラギを捜すこともないし、ヘンな化け物に狙われることもねーだろ。
 ましてや、この腹だって一度クソをすれば引っ込むに決まってる。
 うん、俺、なんか自信が出てきた。
 絶対に、あの変態ヲタクとはもう二度と、顔を合わせたりとかするもんか!
 意を決して頷いた俺は、まだみんな寝静まってるに決まっている家に帰るため、玄関のドアをコソリと持っていた鍵で開けて中に入った。中に入って…ギョッと立ち竦んじまった。
 だって、母さんが腕を組んで立っていたから。

「か、母さん…」

「良かった…無事だったのね。お父さんから来ていないって連絡があって、事故にあったんじゃないかとか、何かに巻き込まれたんじゃないかとか、お母さん、心配したのよ」

 たぶん、一睡もしていないんだろう、真っ赤な目をした母さんは、今日も仕事があるって言うのに眠らないまま待っていてくれたんだ。

「光太郎が家出をするなんて…もう、高校生だものね。そんなはずないって思ってたんだけど、お母さん、心配しちゃったのよ」

「…ごめん。ちょっと、小学校の時の友達に会っちゃってさ。マックでさっきまで話し込んでたんだ。電話するの忘れてた」

 俺の嘘を頭から信じたのか、母さんはホッとしたように息を吐いてから、「そう」と呟いて、ずれたカーディガンを羽織り直して笑った。

「今日は学校だけど…行けるの?行けるようなら、少しでも寝なさい。酷い顔をしてるわ」

 俺はギクッとしたけど、殊更なんでもないように笑って頷いた。

「たぶん、行けると思う。行けなかったら、ごめん、1日休むよ」

 男にレイプされていましたとか、口が裂けても言えないし、軋む身体が辛いから今日は学校に行けるか判らない、だから、わざと眠そうなふりをして大きな欠伸をして見せた。
 そうすると母さんは、困った子ねとでも言いたそうな顔をして、仕方なさそうに苦笑したんだ。

「じゃあ、もう寝なさい」

「うん、有難う」

 俺は靴を脱ぐと、極力平静を装いながら、二階にある自分の部屋に行くために階段をトントントン…ッと軽快に上がって見せた。
 そうでもしないと、鋭い母さんのことだから、何かあったんじゃないかと勘繰るに決まってる。
 今だって、俺の顔色の悪さでなんとなく疑ってるみたいだったしな。
 別に俺、過去に家出したとか、そんな経験はこれっぽっちもない。
 ただ、母さんは昔からもの凄く心配性で、その間逆が親父なんだよな。親父はのほほんとしていて、何があっても順応力で乗り切るし、転勤族だったから自然とそんな性格になったのかな?まぁ、俺としては口煩くないから伸び伸びと過ごせるんだけどさ。
 俺が自由奔放じゃない理由は、母さんの心配性にある。親父があの性格のせいなのか、正反対の母さんは頗る心配性で、学校行事で遅く帰っても心配そうに玄関先とか、門扉の前とかで待っているんだ。
 俺、女の子じゃないのに…と言ったら、母さんは「大事な独り息子よ」と笑ってた。
 親父に言わせると、それが母さんのステータスらしいから、今はもう、そんな風に心配性の母さんでも慣れてしまっている。こう言うところは、順応力のある親父譲りなのかもしれない。
 俺は溜め息を吐いてベッドにダイブした。
 できれば、アイツが隈なく指先で、舌先で辿った身体に残る痕跡をシャワーで洗い流してしまいたいんだけど…この疲れ切って激痛の走る身体ではシャワーなんてとても無理だ。ここまで歩けたのだって奇跡だと思ってるぐらいなんだぜ。
 今は泥沼に沈むみたいに眠い。
 何も考えずに眠ったら、目が覚めるころにはスッキリして、爽快な気分で全てを忘れていたい。
 叶わない希望だって判っているけど、それでも俺は、男にレイプされた事実だけは消えて欲しかった。
 記憶を全部消してしまう決まりなら、何もかも消してくれたら良かったのに!
 …カタラギは、変態で、ヲタクで、鬼畜で、鬼で、悪魔だと思う。
 絶対に、そうだ…そう考えた後で、俺は目蓋を閉じて眠ってしまった。
 窓の外には何も知らない清廉な朝の光が満ちていて、無邪気な鳥が鳴いていた。

2  -EVIL EYE-

 ふと、俺は目を覚ました。
 ここが何処なのか、ぼんやりしている頭では考えることもできない。
 ただ、打ちっ放しのコンクリートに囲まれた部屋は、天井が高くて、剥き出しの配管が無機質な静けさを醸していて…何処か不気味だった。
 漸く鈍い頭が少し確りしたところで、両手をベッドヘッドの鉄格子に縛り付けられていることに気付いた。
 正直、ギョッとした。
 それぞれの手首に無造作に、いや大雑把って感じか、どちらにしても遣っ付けで縛り付けているくせに、少し引っ張ったり、思い切り暴れても、その雑然とした縛り方にも拘らず、ロープが緩んでくれる気配はない。
 それどころか、もがけばもがくほど食い込んでいく。いったい、どんな縛り方をしてるんだ?!

(何だ…いったい、何が……)

 自由になるのは両足だけで、それがとても心許無くて、俺はワケもなく怯えていた。
 それでなくても、ハッキリしてきた頭には、化け物が女を喰らうシーンだとか、ウゾウゾと何かの生きものみたいに蠢く肉片を鉤爪で創り出していた男の高笑いだとか…まるで性質の悪い悪夢から抜け出せないみたいに、脳裏に閃く光景を忘れることなんかできないんだから、そんな風に怯えたとしても仕方ないと思う。

(そうだ、確か…カタラギ?とか、言ったっけ。アイツのオッドアイの目を見ていたら俺、気絶しちまったんだよな)

 気付いたらここに寝かされていたワケなんだが…意識を失う前に、俺の幻聴じゃなきゃ、確かにあのカタラギとか言う派手な男は俺のこと…自分のお、女とかなんとか、そんなふざけたことを言っていたような気がする。
 できれば片手で両目を覆って溜め息を吐きたい。
 あの化け物が何で、ソイツを退治しているお前らは誰なんだとか…聞きたいことは山ほどあるってのに、その不気味な台詞が耳を木霊して離れないんだ。
 たぶん、その場凌ぎの出鱈目で、俺をからかって喜んでるに違いないんだろうけど…手首を戒める、このやんわりと自由を奪っている、あの掴みどころのなさそうな派手な男に良く似たロープの存在が、そんな俺の焦燥感を駆り立てていた。
 ここに居てはダメだ、今度こそ、本気で逃げないと大変な目に遭う。
 そんな言葉が、まるで警鐘みたいに脳裏にガンガン響くんだけど、ロープはガッチリ手首に食い込んでいて、俺を容易に自由にはしてくれないみたいだ。
 何度も引っ張ったり、腕を抜こうともがいたりしてベッドを軋らせていると、不意に打ちっ放しのコンクリートに、ついでのように取り付けられている質素な鉄の扉が内側へ開いて、俺はギクッとして目線を向けた。
 そこには、あの赤い髪の派手な男と、オレンジの髪を持つ二丁拳銃の男が立っていた。

「まぁな…夜明けまでには終わらせろよ?それで、判ってるとは思うけどよ、記憶の消去も忘れるんじゃねーぞ」

「判ってる」

 俺を見ながら不遜に言い切る赤い髪の男に、肩を竦めたオレンジの髪の男は、呆れたように溜め息を吐いただけで、「それじゃ、俺たちは帰るぜ」と言って、さっさと踵を返してしまった。
 青褪める俺と真っ黒いレザー系のコートにダメージデニムを穿いて、鎖だとかイロイロなアクセサリーをジャラジャラ胸元だとか、ベルトだとかに下げているロック系バンドの兄ちゃんみたいに派手な男を残して、室内も、いやこの建物全体がシンッと静まり返ったような錯覚を感じて寒気がした。
 どうやら、ここにはもう、俺たち2人しかいないらしい。
 カラカラに渇いた咽喉の奥から、言葉を搾り出そうとする俺を尻目に、ニヤニヤ笑っている派手な男はブーツの底でコンクリートの床を蹴るようにしてヅカヅカと入り込んでくると、両手首を縛られた拘束状態で寝転がされている俺の横にベッドを軋らせて乱暴に腰を下ろしたんだ。
 徐に袖を捲くっている黒コートを脱いで床に投げ捨てると、その下は素っ裸で、幾つもの傷痕が舐めるように走る鍛え上げられた背中には、隆起する筋肉が見た目以上の力強さを物語っているから、こんな時だと言うのに、俺はそれが羨ましいと思ってしまった。
 そりゃ、俺だって男なんだ。
 これぐらい、筋肉があって、均整の取れた身体をしてたら女の子にもモテるだろうし、何より、あんな化け物にだって太刀打ちぐらいできたに違いない。
 男の左肩から肘にかけて、大きな蜥蜴の墨彫りが浮き上がっていた。
 そんな風に悠長に観察なんかしてるから、ニヤッと笑った男が肩越しに俺を見下ろして、いそいそとズボンのチャックなんか下ろそうとするんだ。

「ちょ!…マジでッ、ちょっと待てよ!俺、男だからッ!!何を考えてるんだか判んねーけど、アンタのその、お、女とかなれないだろッッ」

 焦り過ぎて何かワケの判らないことにはなってるんだけど、俺の必死の言い分なんか何処吹く風で、派手な男はズボンの前を寛げたまま、ベッドに這い上がってきて、それこそ俺の両足を抱えるようにして覆い被さってきやがったんだ!

「ま、待てってば!お願いだから、俺、そんなの無理だッ」

 殆ど泣きが入っていたってのに、気付けば俺、シャツ以外は何もつけていない状態で…ってことは、ヤツが大きな掌で掴んだ俺の腿は素肌だし、股間とか、その部分も素っ裸ってことになるじゃねーか。
 拙い、確かにコレは思い切り貞操の危機だッッ!
 こっちは必死で両拳を握って身体を捩るようにしながら抵抗しているってのに、件の派手な男は何が面白いのか、ゲラゲラ笑いながら、そんな俺の顎を掴んで真上からベロリと頬を舐めてくるんだ。
 鳥肌が立って、愈々泣きそうに眉を歪めたら、派手な男はそのまま舌先で俺の素肌を辿るようにしながら、鎖骨に辿り着くと、やんわりと力を込めて噛みやがった。

「…ッ」

 思わず食い千切られるんじゃないかと言う恐怖にギュッと目蓋を閉じたけど、このままだと、冗談じゃなく、この頭のおかしそうな派手な男に確実に犯られると思うから、俺は慌てて目蓋を開くと、殆ど目と鼻の先にあるオッドアイを見詰めて口を開いていた。
 男はそんな風に俺の身体を堪能しながらも、その双眸は少しも俺の顔から離れることがないんだ。

「あ、あの化け物はなんなんだ?アンタたちは、いったい何者なんだよ?!」

 もうすぐ、もうすぐきっと夜が明ける。
 あの時だって真夜中だったんだから…淡い期待を胸に、俺はどうにか喋って夜を明かそうと企んでいた。あのオレンジ色の髪の男は、夜明けまでには終わらせろと念を押していた、ってことは、絶対にそうしないといけない何かがあるはずだ。
 それなら、それまで時間を稼げさえすれば、俺は貞操を守ることができる…はずだ。
 でも、その思いは甘かった。
 男は上体を起こすと、いきなり俺の頭の下に敷いていた枕を抜き取って、ギョッとする俺の腰の辺りにソイツを突っ込んできたんだ。
 そうされると、腰だけが浮き上がるような形になって、なんて言うのか、股間部分が丸見えの状態になってしまう。
 一気に頭とか頬に血が上って、俺は顔を真っ赤にさせて激しく首を左右に振ったんだ。

「…い、嫌だ。こんなの、どうかしてる!!」

 気付けば、さっきから喋ってるのは俺だけで、化け物の時とは違う別の恐怖で、気付けば俺は馬鹿みたいにポロポロと泣いていた。
 何が起こるのかとか、どうやって男同士で犯るのかとか、判らないことだらけで、だからこそ余計に怖くて仕方ないってのに、男は長い指を2本、唐突に俺の口に突っ込んできたんだ。

「…んぐぅ!……ッ」

 もう煩いとか、そんなこと考えてるんだろうな、涙目で見上げると、目許を薄っすらと染めて…ああ、信じたくねーけどコイツ、俺に欲情してる。
 俺の口腔で器用に指を蠢かして舌を扱いたり抓んだり、粘る唾液をめいいっぱい絡めながら蠢くこの指を、思い切り噛んだら殴られるだろうか。
 これだけ見事な身体を鍛え上げてるんだから、俺なんか平気で頬骨と顎を砕かれるに違いない。
 それでも、男なんかに犯されるよりは幾らもマシだ。
 痛みは傷が治れば忘れられる…でも、心の痛みは絶対に消えない。
 何時だったか、何かの小説でそんなことを読んだ気がする。
 それなら、今ここで、この指を噛み切って殴られるほうがいい。
 決意して歯を食い縛ろうとした…のに、俺はそれができなかった。
 まるで惚けたように男のオッドアイの双眸を見詰めたまま、口許から唾液を零して、必死にその指の戯れに応えようと舌を絡ませたりした。

(な、なんだよ、これ?俺、何してるんだ?!)

 頭では判っているから、こんなのはヘンだと叫んでいるのに、身体は何の抵抗もしてくれない。
 ふと、引き抜かれた指先を追うように伸ばした舌先には、銀色の唾液が名残惜しそうに糸を引いて…そんな有り得ない光景に脳内はグラグラしてるってのに、男は満足そうに俺の唾液に塗れた指先をペロッと舐めた。

「ハジメテ、だろ?だよな。ゆっくり解してやりてーんだけど、もうすぐ夜が明けるし、今日は痛いだろーけど、次は優しくしてやるから我慢しろよ」

 漸く口を開いた男は、あっけらかんとした口調でそんな恐ろしいことを口にしやがった。
 恐慌状態の脳内とは裏腹に、俺はひっそりと眉を寄せるだけで、それぐらいが感情らしい感情で、止めてくれも、許してくれの言葉を出すこともできないまま、促されるまま足を開いて、ぐったりしているペニスと睾丸の下にある、あの信じられない部分にイキナリ指を突っ込まれて両目を見開いた。
 ドッと脂汗が噴出して、緊張に指先は冷たくなるし、ガチガチと合わさらない歯が鳴った。
 それは、想像を絶する痛みだった。
 いきなり肛門に指を2本も突っ込まれたからなのか、それとも、同時にペニスを握られたせいなのか、もうどちらか判らない痛みにギュッと目蓋を閉じて、震える頬にポロポロと涙を零しているってのに、俺の身体はやっぱり言うことを聞いてくれないし、ゆるゆると首を左右に振るぐらいで、ぐったりとしている両足に力を入れて男を蹴散らすこともできない。
 こんな苦痛、こんな屈辱、どうして俺が受けないといけないんだ?!
 それなのに、どうして俺の身体は言うことを聞いてくれないんだ!!
 戒められた両手首と鉄格子を結ぶロープを、知らずに握り締めたままで、思わず逃げ出すようにずり上がる身体を押し戻されて、指先はもっと深々と突き刺さり、奥を探るようにぐいぐいと動き回るから、得も言えぬ吐き気と痛みに一瞬でも意識が遠退きそうになる。

「も…い、やだ……ぉ願い…ッ…やめ……ひぃッ」

 漸く出せた声はか細くて、粘着質な音を響かせて指先が狭い直腸の中を掻き回すから、俺はやっぱりそれ以上の声は出せなかった。
 もう片方の掌で俺のペニスを扱いている男は、それでも、ぐちゅぐちゅと卑猥な音を立てて先端から先走りを零しながらも、勃起する気配のないことに気付いたのか、不思議そうな顔をして、一瞬でも俺の顔から逸らさないオッドアイで穴が開くほど見詰めてくる。
 何がしたいのか…きっと、コイツは本気で俺を犯すつもりなんだろう。
 涙に濡れる双眸で、もう許してくれと見詰めても、目許を染める派手な男は怪訝そうに眉を寄せながら、酷薄そうな薄い唇に笑みを浮かべた。
 その獰猛な笑みに、何が起こるのか…何処でこの男を受け入れるのか、指先の乱暴な動きでもう気付いてしまっているから、俺は観念したように目蓋を閉じた。
 ああ、どうか…どうか、もうやめてくれ。
 これは悪い冗談だと言って、誰か俺の頬を思い切り引っ叩いてくれよぉ!!
 ロープをギュッと握り締めるのと、重量感と質量を持つ、灼熱の棍棒のような男のペニスが俺の肛門を貫くのはほぼ同時だった。
 指でもアレだけの痛みだったのに…その衝撃は俺から言葉を奪い、引き裂かれる痛みは限界まで見開いた双眸から滴り落ちるだけの涙を滂沱に変えた。

「~~~くッ」

 俺の食い千切るような括約筋の締め付けに痛みを感じたのか、余裕だった男も思わず声を漏らしたんだけど、突っ張るように伸びた足を掴みながら、それでも、もっともっと奥を目指そうとグイグイと腰を進めてくるから、最初の衝撃から立ち直れない俺は、まるでガキみたいに声を出して泣いてしまった。

「ぅあ!…あ、あぁ……い、痛ぇ、いてーよぉッッ!!…ひ、…ィ……も、…い、やだ…嫌だーーーッッ」

 漸く俺は声を上げることができたし、掴まれた激痛の走る足を僅かに動かすこともできた…んだけど、今の俺にはそんなこと、もうどうでもいいほど死にそうで、苦しくて、腹の中で暴れている凶悪なペニスが出て行ってくれることばかりを願っていた。
 ギシッギシッと男と俺の動きにあわせてベッドが軋りながら動くのが嫌にリアルで、滴る汗をこめかみから頬、頬から顎に零しながら、男は荒い息を吐き出して、その口許に、やっぱり不敵で不遜な笑みを浮かべやがる。
 こんな非常識な痛みの中で、そんな余裕の男が許せなかった。
 できれば、今ここで殺してやりたいとすら思うのに、どうすることもできなくて、俺はグイグイと腰を押し進めてくる男のペニスのゴツゴツした先端が直腸の内壁をグリグリと擦り上げる感触に、またボロボロと泣いてしまった。

「…嫌?オレの女なのに、嫌なのか?こうして、こうされて…お前はもう、オレのモノなのにさ。ヘンなこと言うヤツだな」

 うっとりと目許を染めて笑う男は、酷薄そうな薄い唇を開いて、真っ赤な舌で泣いている俺の頬をベロリと舐めた。
 言葉のように直腸にある、睾丸の裏側辺りにあるしこりの部分をグリッと突き上げられて、精液の漏れるような感覚を味わったけど、それを快感と呼ぶには程遠い痛みのほうが強くて、俺は泣きながらやめてくれと懇願した。
 でも勿論、男が俺の願いなんか聞いてくれるはずもない。
 両手を縛られて、ベッドに拘束されたままで、有り得ないほど足を開いて受け入れている男の逞しい身体は、萎えることなんかないんじゃないかと思うほど力強くて、そして精力的で、切れて真っ赤な涙を零す肛門への蹂躙はやめてくれる気配もない。
 俺…こんな得体の知れないヤツの女になるのかな。
 それがどんな意味なのか、もう考える力もない脳内にぼんやりと浮かんだ言葉は形を作らないまま俺の中で消えて、オッドアイの赤い髪をした派手な男は、俺の乳首に舌先を這わせながら抱き締めると、直腸の奥深くに溶岩のように熱い精液を吐き出していた。
 俺は結局、イくこともなく、男の全てを受け入れてしまっていた。
 ひくひくと痛みの為に震える肛門の収斂を楽しむみたいに抜こうとしない男は、痛いほど身体中に吸い付いて口付けの痕を残しやがったから、たぶん、後で見たら酷いことになっていると思う。
 信じられない思いと、諦めるような気持ちに支配されて脱力する身体を、男は俺の胎内にペニスを残したままで抱き締めてくる。
 もう、どうしていいのか判らないほどの絶望を感じているから、そんな男がちょっと不機嫌そうに真っ赤な眉を寄せていることにも気付けなかった。

「本気で嫌がってるのか?オレのこと」

「…」

 当たり前じゃねーか!…と言えれば大したモンなんだけど、痛みで叫び過ぎた咽喉は嗄れていて、声らしい声なんか出るはずもないから、俺は黙ったままで目蓋を閉じた。
 ポロッと頬に涙が零れて、そんな女々しくはないはずだったのに…どうして俺、男に犯されたんだろう。
 ワケが判らないのに、こんなヤツに返事をするのも嫌だ。

「でも、もうダメだからな。直腸の中にオレの子種を孕んだんだ。お前は常にエヴィルに狙われるだろうし、夜毎、オレを求めるようになるんだぜ」

「う、嘘だ…ッ」

 ガラガラの声で思わず反論したら、腹に力が入ったせいか、未だに隆々と勃起してるコイツのペニスにグリッと内壁を擦り上げられて、息を呑んでしまった。

「嘘なワケないじゃん。その為に、こんな時間がないってのに、お前を抱いたんだぜ」

 そう言って、何を考えたのか、いきなりソイツは俺の唇にキスしてきた。

「…んぅ?!」

 その、…レイプの最中でさえキスしなかったくせに、目を見開いて抗議するように歯を食い縛るんだけど、やっぱり、ジッと見据えてくるオッドアイを見詰めてしまうと、俺は考える力を失くしたみたいに力が抜けて、気付いたら貪るようにして肉厚の舌に自分の舌を絡めて濃厚な口付けを交わしていた。

「…ふ、……ん」

 大型の犬が水を飲むような水音を響かせながら、砂漠で行き倒れた人が水を貪るような必死さで、俺はソイツとのキスに溺れて、無我夢中にもっととせがんでいた。
 違う。
 そうだ、違う。
 何かが間違っている。
 俺は、自分をレイプした男に、男なのに、キスをせがむような真似はしない。
 何かがおかしい…ズキッと頭が痛んで、キスをしながら顔を顰める俺に気付いたのか、目蓋を閉じもせずに口付けを愉しんでいた男は、やれやれと溜め息を吐いて舌を引き抜いた。
 名残りを惜しむように伸ばす舌先を、男はちょっと嬉しそうに濡れた唇で挟んだ。

「オレはエヴィルハンターのカタラギって言うんだ。お前は?オレ、名前もきかなかったって思ってさ。そしたら、セックスがもっと楽しかったのに、馬鹿だよな」

 挟んだ舌を舐めてから、俺の頬に口付けるカタラギと名乗った男を睨みつけて、俺は口を噤んだ。
 チグハグな想いに頭が割れそうに痛ぇけど、俺はこんな得体の知れない男に自分の素性を明かす気になんかなれなかった。
 でも、口が開く。
 勝手に、開くんだ。

「…う、……んだよ、これ。どうして、喋ろうとするんだ??アンタ、俺に何をしたんだ?!」

「あれ?抵抗してるのか…馬鹿だな、その方が辛いのに。邪眼の意思に従えば、苦痛も快楽も全部お前のものなのに」

「わ、け、判んねーよ!え、ヴィルとか、ハンターとか、なんだよそれ。なんかの映画か漫画か?!あ、んた、これは犯罪なんだぞッ」

 何かもっと別のことが言いたいと口が勝手に動こうとする欲求を俺は必死に抑え付けながら、誘拐してレイプするなんてれっきとした犯罪なんだと言ってやった。
 なのに、馬鹿にしたような、一見すれば冷酷そうに細めた双眸で俺を見下ろしながら、胎内で息を潜める凶暴な楔を突き動かして俺を喘がせると、カタラギはニヤニヤと笑ったんだ。

「犯罪?はぁ??何言ってんだよ。その法とかってのの親玉どもが、オレたちにエヴィルを狩らせてんじゃねーか。馬鹿だな!ホント、お前は馬鹿だ」

「なん…だって?」

 虫けらでも見るような目付きで見下ろしてくるくせに、思い付いたように俺の首筋に口付けて歯を立てる感触は、痛みで朦朧とする頭に鮮烈な快感を閃かせた。
 ビクッと身体を震わせたら、カタラギは嬉しそうにクスクスと笑う。

「オレたちが何を破壊しても、何を自分のモノにしても、誰も何も言わない。それどころか、喜んでソイツの人権すら無視するんだぜ」

 信じられなくてハッと双眸を見開いたら、カタラギは残酷そうに嗤った。

「そうさ、だから何度も言ってるだろ?お前はもう、オレの女なんだ。オレが決めた。オレが何時何処でお前とセックスしても誰も気にしない。公の連中にお前が泣きついたとしても、誰も相手すらしない。ってことで、そろそろオレの女だって自覚しろよな」

 残酷そうに嗤うカタラギの顔を見上げたままで、コレは嘘なんだと思おうとした。でも、それが完全に否定できないのは、あの化け物の存在であり、そして、俺をレイプしたくせにやけに自信満々で威風堂々としているカタラギの、その得体の知れない自信だった。

「名前を言えよ」

 甘えるように俺の身体を抱き締めてくるカタラギの、その金色に赤の奇妙な文様の浮かんだ虹彩を持つ、茶色っぽい瞳孔の右の瞳を見詰めながら、俺は身体中の力が抜けるのを感じていた。

「本当は全部記憶を消すのが決まりなんだけど。オレ、お前には覚えていて欲しいから、ここの場所以外は…勿論、セックスした記憶も全部、残しておく。だって、その方が次にセックスするとき楽しいと思うんだ」

 掟なんかクソ喰らえとでも思っているのか、カタラギはそんなことをしゃあしゃあと言って、俺の鼻先にキスをした。

「エヴィルは夜しか現れないんだぜ、心配しなくても昼間は襲われたりとかしねーんだ。だから、夜毎お前はオレを捜さないといけないってワケさ。それで、泣きながら抱いてくれって言うんだよ。その代わり、オレはエヴィルを狩ってやる」

 どんな了見でそうなるんだよと、思い切り反論したかった。
 身体と引き換えに襲ってくるエヴィルとか言う、あの化け物を退治してやるって?そもそも、化け物に目を付けられるようにしたのはお前じゃねーか!…とか、判りきってるのに言ってるんだ、俺が何を言ったって、コイツは聞いちゃいないんだろう。
 溜め息が出る。
 できれば、ホント、できれば片手で両目を覆って溜め息を吐きたい。

「ほら、名前を言えよ」

 呟くように、唆すようにそう言って、邪眼を細めるカタラギの双眸を見詰めながら、俺は泣きたいような顔をして…

「光太郎、 相羽光太郎」

 ポツリと、呟いていた。

1  -EVIL EYE-

 その出来事は突然、まるで切れかけた電球が弾け飛ぶような鮮烈さで、俺の目の前で起こった。

 景気の悪いビル街は何処も、夜ともなれば静寂が支配するゴーストタウン化するもんなんだけど、その日の俺は、残業中の親父に呼び出されてそんな風に静まり返った街を歩いていた。
 親父の会社の入っているビルは、駅からそう遠くはないんだけど、幾つかビルとビルの間の、俗に言う裏路地を通り抜けた方が近道で早いんだ。
 だから、何時ものようにその近道を選んだ…つもりだったのに、たぶん、それが拙かったんだと思う。
 残業上がりのOLのお姉さんたちですら、足早で帰りを急いでいるのに何が悲しくてこんなところを歩かなきゃいけないんだ…ふと、そこまで考えた俺は首を傾げると、目の前を歩いているスーツ姿のOLさんを見たんだ。
 こんな裏路地、男の俺ですら早く立ち去ろうと考えるってのに、どうして、この女のひとはこんなところを歩いているんだ…?
 それは素朴な疑問だった。それと同時に、何か嫌な予感がして、俺は歩調をさらに速めて、そのOLを追い抜こうとした。追い抜こうとして、見なきゃいいのにその顔を見てしまったんだ。
 見開いた双眸は明らかに何かに怯えていると言うのに、その目玉は、何処か虚ろで何を見ているのか良く判らない。そのくせ、青褪めた顔には冷や汗がビッシリで、惚けたように半開きの口からはブツブツと聞き取れない声が漏れている。
 やべ、こりゃマジでラリってんじゃねーのか?
 直感した俺は、やっぱり早いところ追い越そうとした。
 追い越そうとする俺の耳に、その時漸く、女が何を呟いているのか聞こえてきたんだ。

「…ろしてやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる。助けて、殺してやる、殺してやる、殺してやる…」

 耳に粘りつくように響いた声音に、俺の背筋に汗が滲んだ。
 ゾクリとする感覚は、それが何か良くないものだと物語っていた。
 足を速めたのに、声はまるで耳元で聞こえているように近付いていた。
 そんなはずない、判ってる、そんなはずはない。
 まるで念じるようにそう呟いて、俺はビッシリと額に汗を浮かべたまま、声のする方を肩越しに振り返った。
 何処を見ているのか判らない目玉が異様に飛び出した女は、真っ赤な口紅を塗りたくった口許をニタリと歪めて、俺の肩をガッチリと掴んだんだ。

「…ヒュ」

 何時の間に…声にならない声を上げる俺の真横に、足音もさせずに近付いていた女は、だらんと力の抜けた顎を俺の肩に乗せて歯をカチカチと耳障りに鳴らして、やたら長い腕で俺の頭を掴んでくるんだ。
 限界まで見開いた双眸で、月明かりが照らすアスファルトを見下ろせば…なんてこった、そんな馬鹿な。
 言葉が出てこない…だって、アスファルトに伸びた影が、有り得ない現状を物語っているんだ!
 信じられるか?俺に縋り付いている女の双肩の間、肩甲骨と肩甲骨の間が異様にベコンッと凹んだのか、肩がグイッと伸びて、首がグッと縮こまったんだ。そのせいで、静か過ぎるほど静かな街に、奇妙な音を響かせながら腕が変形して伸びていく。その脇腹から千手観音みたいに、骨を圧し折る音を響かせて、両方更に2本ずつ、腕が生えた。そう、生えたんだ!

「…ぁ、…あ…あ……ッ」

 声が出ない。
 こんな時なのに、誰かに助けを求める声、いや息すら出ない。
 こめかみの辺りからブワッと汗は噴出してるのに、肩も足もこれ以上はないほど震え出しているのに、声が、息が…出ないなんて。
 変形して曲がりくねった指先に捩れるように伸びた爪が虚空を掻いていたけど、ふと、今気付いたようにぎこちない動きで折れ曲がると、俺の顔を突き刺そうとでもするようにゆっくりと近付いてくる。
 コイツは俺を殺すつもりなんだ。
 何故とかどうしてとか、そんな言葉、殺される寸前の人間てのは考えることもできないんだと、その時初めて知った。知りたくもないのに、初めて知ったんだ。
 どうして俺なんだとか何故こんな場所通っちまったんだろう…とか、もっと考えても良さそうなのに、今の俺は、そんなこと全部どうでも良くて、ただ、コイツが何か得たいの知れない生きもので、今まさに俺を殺そうとしてる。本気で俺を殺そうとしてる…そんなことしか考えられない。
 小刻みにカチカチと鳴らしていた音は、次第に噛み締めるみたいにカツンカツンと響くようになると、その耳障りな歯を鳴らす音が馬鹿みたいに脳内に響きやがった。
 もう、何を考えたらいいのか判らない。
 知らず、死ぬことへの恐怖だとか、まだ遣りたいことがたくさんあるのにとか…後悔とか何もかも綯い交ぜした涙が、頬を伝ってガタガタと震える顎から零れ落ちた。
 どう言う理由かは判らないけど、俺はここで、何か得体の知れない者から本気で殺されるんだ。 
 冗談だろとか、何かの番組かよとか、そんなの、この生臭い息とか、尋常じゃない気配を感じていたらスッカリ脳みそから弾き出された。
 嘘じゃないし、冗談でもない。
 これは現実で、本気で俺はここで死ぬ。
 ああ…誰か…
 曲がりくねった指先の汚らしい爪が、もう目と鼻の先だ。
 もう死ぬんだとギュッと目を閉じた瞬間だった。

「?!」

 凄まじい力がドンッと身体を圧迫したかと思うと、俺を掴んでいるはずの女の身体が突然、宙に舞い上がったんだ。
 俺は泣いていることも忘れてポカンッと女の身体を追うように上空を見上げたんだけど、どうやら、俺の救世主は更に俺を苦しめる原因でしかないようで、絶望的な気持ちに震える膝の力が抜けて、間抜けなことに俺は、その場に蹲ってしまったんだ。
 逃げたいのに、逃げ出せるはずなのに…キィキィと声にならない悲鳴を上げる女を頭からガブリと噛み付いたソレ、なんと表現したらいいのか判らない、ビルの壁にへばり付くようにして長い手足を伸ばしているくせに、口らしい部分から伸びた細い器官で女の身体を掴んでそのまま口に引き摺り込んでいる。
 たぶん、女が終わったら、次は俺だ。
 それでも、なまじ負けん気の強い俺だから、そんなところにへばっているワケにもいかないし、何より、ダッシュで逃げ出すにしても、ソイツは巨体で、口からあんな器官を出しやがるってことは、俺を殺すのだって簡単なはずだ。
 あの女の化け物だってすげー力だったのに、そんなヤツを難なく俺から毟り取って喰えるんだぜ。
 勝ち目とかないに決まってる。
 有り得ない場所に、人間で言えば側頭部の辺りにギョロリとした目が幾つもあって、忙しなく動き回っているくせに、その目は掠めるように俺を捕らえては止まり、止まっては動くような動作を繰り返している。
 その中の幾つかは、確実に俺だけを見ている…それを確認したら、震える指先が地面を掻くようにして転がっている鉄パイプを掴んだし、尻餅でもつくようにへたり込んだアスファルトから立ち上がることができた。
 ここでどうせ死ぬなら、反撃ぐらいしないと男じゃないぜ!
 恐怖心でどうしても震える足は仕方ない、それでも、俺は鉄パイプを握り締めながら、ジリジリと後退しつつ、バリバリと静まり返ったビル街に骨の砕ける音を響かせながら、女を食い尽くす化け物を見上げていた。
 緊張から乾ききった唇はカサカサで、咽喉の奥もカラカラだったけど…でも、俺は最後まで負けない、こんなところで死ぬとか思わなかったけど、それでも、最後まで戦って、それでダメなら仕方ないって諦めることが、たぶんできると思う。
 だから、俺は…

「邪魔だ、退け!人間ッ」

 決意してパイプを握り直した俺のなけなしの決意を鼻先で笑うように、背中を突き飛ばされて再びアスファルトに転がる俺の横を、まるで風のような速さで駆け抜けたソイツは、口許に禍々しい笑みを浮かべながら、片手に鉤爪のような装具を嵌めて、もう片方は戦国武将が持っているような日本刀を掴んで…倒れた俺の目が正常なら、化け物のへばり付いているビルの壁を駆け上がりやがったんだ!!
 な、なんなんだ、アイツは?!
 「ヒャッホウ!」と叫びながら、どうやら楽しんでいるような男は派手な真っ赤な髪をしていて、鎖だとかなんだとか、胸元や腰のベルトにジャラジャラさせて、袖を捲り上げている黒コートの裾を翻すと、ブーツの底でビルの壁を踏み締めるとダンッと蹴飛ばすようにして跳躍したんだ。
 有り得ない!有り得ないだろ、マジで!
 前につんのめるようにして倒れていた俺は、上体を起こしながら、ただただ呆気に取られたようにポカンッと派手な、まるでロック系バンドみたいな派手な出で立ちの男を見上げていた。
 跳躍したその勢いのままで空を蹴ると、ソイツはビルにへばり付いたままで警戒して奇声を上げて奇妙に伸びた首をブンブン振り回している化け物に向かって飛び掛りやがったんだ!
 そりゃ、無謀だろ?!と、俺が思わず叫びそうになったにも拘らず、ソイツはまるでそんな攻撃、屁とも思っちゃいないのか、それまで何の変哲もなかったはずなのに!バチバチと青白い火花を散らす日本刀を構えて突き刺したんだ。
 日本刀を掴んだそのままで、重力に任せて落下すると、化け物の身体は鋭利な刃物に真っ二つに引き裂かれた。
 す、スゲー…
 純粋に今、目の前で起こっている全てに感動して、俺は思わずガッツポーズを握り締めていた。
 だけど、すぐにその手が開いてしまった。

「危ない!!」

 俺が叫ぶと、ソイツはそんな上の方からでも俺を確認できたのか、「ん?」と気付いたような顔をしてから、ひょいっと上を見た。
 ビルすらも切り裂く日本刀にブレーキをかけるために、コンクリートにブーツの踵を擦らせて火花を散らすと、「よっ」とでも言った感じでコンクリートに突き刺さった日本刀の上に乗っかると、凄まじい勢いで変形しながら降ってくる…って言葉がしっくりくる化け物の顔を目掛けて身構えると、ニヤニヤ笑いながら鉤爪の拳を突き出したんだ!

『ギィギャァアァァアアァッッ』

 断末魔のような悲鳴を上げる化け物は、それでも両足で身体を支えながら、裂けて目茶目茶になっている頭部はそのままで、細長く伸びている両腕で派手な男を掴んだみたいだった。
 絶体絶命だ!
 アワアワと頭を抱えそうになる俺の横にスタスタと歩いてきた、派手な男と同じように派手な格好をしているくせに、激しい男とは対照的なのんびりした仕種のオレンジの髪をした男が手にした銃口を向けた。
 化け物にではなく、俺に。

「!」

 ハッと、反射的に目を閉じた。
 化け物を見た俺を口封じするんだとか、自分たちの存在に気付いたから消されるんだとか、親父とか母さんとか、友達とか、学校の仲間とか、そんな人たちの顔が脳裏に怒涛のように駆け巡った…んだけど、パンッと乾いた音がしたと同時に、耳の横を風を切るような轟音を轟かせて何かが飛んで行き、後ろで重い音を立てて何かが倒れたみたいだった。
 一瞬にして走馬灯のように半生を振り返っていた俺は、恐る恐る目蓋を開いて、それから、背後を振り返って目を見開いた。
 今や、アレほど力強い腕らしきものに掴まれていた筈なのに、鉤爪で引き裂いたのか、解放されて自由の身になっている派手な男は、声高に笑いながら、化け物の身体を蹴っては攻撃を回避し、回避しては空を蹴って飛び掛ると鉤爪で切り裂くを繰り返しているんだけど、その飛び散った肉片がボタボタ落ちてきては、ウゾウゾと蠢いて単体の生き物のように這い出しているんだ。
 その奇妙な物体が、たぶん、今まさに俺に襲いかかろうとしていたんだろう、どうやら人間のような形に成りそこなっている肉片は撃たれた場所がグズグズと燻って、それから溶けるようにしてアスファルトに吸い込まれてしまった。
 周囲に異様な悪臭が立ち込めた。

「あ、有難う…」

 ボケッとしたような呆れたような顔をして銃身で肩を叩いて、片手で腰を掴んで呆れている男は、思わず恐る恐る口を開く俺に気付いたのか、確かに気付いたとは思うんだ。だってさ、チラッと見たようなんだけど、俺なんか眼中にないとでも言いたそうに無視しやがったからな!

「ったくよ~、カタラギの野郎。エヴィルを増殖させてどーすんだ」

(…エヴィル?)

「仕方ねーよ。アレがヤツの戦うスタイルじゃん。ま、それだけ俺たちは雑魚狩りやってりゃいーんだから、楽だろ?」

 ジャリッと、アスファルトを踏み締めるようにして、もう1人が暗闇から姿を浮かび上がらせた。
 いや、ホントにそんな感じでゆらっと浮かび上がってきたんだ。
 もう1人いたのかと、もう、驚きすぎて驚けなくなった俺が呆気に取られたように、長身の2人を見上げていると、銃の男が「まーな」と肩を竦めて、それから腰を掴んでいた手を差し出した。
 何時の間に握っていたのか、もう一丁の銃のグリップを握って発砲すると、肩を叩いていた銃口も火を噴いた。
 何時の間にかウゾウゾと取り囲んでいた肉片が幾つか吹っ飛び、突然の出来事に呆気に取られている俺の目の前で、闇から浮かび上がった緑の髪の男が、犬歯を覗かせるようにしてニヤァッと嫌な笑みを浮かやがった。
 瞬間、バチバチと空気中に火花が炸裂して、取り囲むようにして近付いていた、人形の成り損ないの身体が破裂したんだ!

「それにしたってキリがねぇ。カタラギッ、そろそろ本気出せよッ!」

 吠えるようにしてオレンジが叫ぶと、カタラギと呼ばれた、空気を自在に操っているように見える、派手な赤い髪の男は大声で笑いながら片手をグルグル振り回している。
 どうやらOKとでも言ってるんだろう。
 な、なんなんだ、コイツ等…

「スメラギとアララギが退屈そうだからなッ!」

 ニヤッと笑ったのか、半分以上削ぎ落とされてしまった肉の塊に、ビルに突き刺さっていた日本刀をついでのように引き抜いた男は、重力を思い切り無視してビルに立つと、バチバチと青白い火花を散らす日本刀を構えたんだ。

「お前とのお遊びはこれで終わりだ。グッバイ、エヴィルちゃん!」

 肉を増殖させて人形に戻ろうと試みるその化け物に、男は構えた腰を低く落として両足を踏ん張ると、反動をつけて走り出し、問答無用で突き刺したんだ!
 次の瞬間にはその身体を肉の塊が覆いつくしたから、思わず声を上げそうになった俺の目の前で、一瞬カッと凄まじい閃光が走ったんだけど、眩しくて目を細める俺の目の前で凝縮するみたいに光は小さくなると、バシュゥンッ!と風を切るような音を響かせて化け物の身体が破裂したんだ!
 バラバラと飛び散る肉片はどれも焦げていて、もうウゾウゾと動くこともなかったけど、アスファルトに落ちる端からシュウシュウとドライアイスみたいに煙を噴出して、溶けるようにアスファルトに吸い込まれてしまった。
 …辺りは相変わらずゴーストタウンそのもので、シンッと静まり返ってるってのに、俺の心臓はこれ以上はないぐらいバックンバックンと破裂しそうな勢いで動いているみたいだ。

(お、わった…終わったんだよな?)

 へたり込んだままで口を開けてポカンッとしている俺なんか、どうせ無視してくれる連中だから、この衝撃が去ってから帰ろうとか考えていたってのに…いや、そうだ。親父のところに行かないと。
 確かにオレンジと緑の髪は肩を竦めながら、やっと終わったとばかり、俺なんか見向きもしないで踵を返したってのに、高笑いしながら、全く重力を無視してゆっくりと上空から降りてきた派手な赤い髪の男が、アスファルトの道に着地すると、地面を蹴るようにしてズカズカと近寄ってきたんだ。
 いや、違うだろ?
 何が起こったのか理解もできない脳みそで、思考回路なんかグチャグチャの俺でも判るんだ。アンタの仲間は向こうだ。
 そう言えない、あんまりの衝撃的な出来事に呆けながらも、ハッと我に返って眉を寄せる、思い切り警戒する俺を、腰に両手を当てて覗き込んできたニヤニヤ笑いの派手な男は、ジロジロと不躾に俺を眺め回すんだ。

「な、なんだよ?!その、助けてくれたのは有り難いと思ってる。有難う」

 この場合、邪魔だ退け!とか言われたんだから、別に俺を助けるつもりはなかったと思うんだけど、結果的には助けられたワケだし、わざわざ俺に近付いてきたって事は、それなりの謝辞が欲しいんだろうと思ったから、俺は素直に礼を述べたんだ。
 赤い髪の派手な男は、まるで品定めでもするように、何処に隠してしまったのか、既に武器のない片手は腰に当てたまま、もう片方の手で自分の顎を擦りながらニヤニヤと笑って見下ろしてくる。

「?」

 首を傾げた次の瞬間には、俺は何故か懐いていた硬いアスファルトの感触を失っていた。
 そう、俺、何故かもうホントに良く判らないんだけど、あの長身の派手な男の肩に担ぎ上げられていたんだ。

「ゲッ!なんだよ、カタラギ。ソイツをどーすんだ?」

 緑の電気男がギョッとしたように振り返ると、嫌なものでも見ちまったと言いたそうな顔付きで唇を歪めて犬歯を覗かせている。

「はぁ?どーするって…これ、オレの戦利品だろ。昨夜の女はスメラギとアララギにやったじゃん。これ、オレが貰ってもいいんだろ?」

「お前がソイツでいいってんなら、まぁ、俺たちに異論はねーけど」

 オレンジの髪の男が、相変わらずやる気がなさそうに肩を竦めるから、いや、お前たちに異論がなくても俺にはある。

「ち、ちょっと待ってくれよ!戦利品って…なんだ、そりゃ??」

 なんとか引き留めないとと、慌てて黒コートの背中を掴んで引っ張ると、赤い髪の男はな、なんと!そんな俺を片手で掴んでそのまま、自分の目の前に翳しやがるんだッ!
 ど、どれだけ力持ちなんだ…
 青褪めたままでパクパクと言葉の出ない口を開閉していると、男はニヤニヤ笑ったままで俺の顔を覗き込んできた。

「!」

 その時になって漸く、俺はソイツの顔をマジマジと見たワケなんだけど、ヤツの右目は…金色だった。いや、その表現もおかしいな。
 茶色がかった瞳孔の周囲、金色の虹彩の中に、赤い線がまるで何か、文様のようなものを描き出している。
 その目を見詰めていると、どうしてだろう?落ち着かないような、逆らえないような威圧感を感じて、片手で吊り下げられてるワケなんだが、俺は息を呑んでいた。

「エヴィルに狙われたってことは、いい餌になるんだよ。そう言うヤツを傍に置けば、わざわざ探す手間も省けるってワケだからさ。まぁ、簡単に言えばオレの女になるってワケだ」

「!!」

 聞き慣れない言葉にギョッとしたそれは、俺が聞いた幻聴に過ぎないんだろう。
 だってそうじゃなきゃ、どうして目が回るんだ?
 それに身体から力が抜けて…俺、どうなるんだろう。
 それが、真っ暗闇に落ちる寸前に、俺が考えた全てだった。