那智は機嫌が良さそうにニヤニヤと笑いながら、目線だけで廃墟と化した当時は権勢を誇っていたのだろうビルを見上げていた。
「…と言うワケでさ、SRSの連中の言い分だと2500万は固いって…おい、那智、聞いてんのか?」
「んぁ?あー、聞いてるよ。SRSのネゴシエーターも舐めたこと抜かしやがるからなぁ」
「半分以上は聞いちゃいねーよ。おおかた、頭ん中ぁビルん中に隠れてるワンコのことでいっぱいなんだろーさ?」
「ハッハ…よく心得てるじゃねーか」
「…はぁ」
一連の会話に耳を傾けながらもぽちは、先ほど紹介された溜め息を吐いているベントレーが可哀相になっていた。
よくよく聞けば、仕事のことを考えているのは3人の中じゃベントレーぐらいじゃないか。
どちらにせよ、あの3人にはどこに自分がいるのかとっくの昔にバレているようだとぽちは仕方なく溜め息をついた。
確かに間近で、この腐敗した町では誰もが憧れる『タオ』のネゴシエーターがどんな仕事をするのか、見たくなかったと言えば嘘になる。だが、足手纏いになるのはどうしても嫌だったし、即ち足手纏いになると言うことはこの場所で命を亡くしてしまうと言うことになる。
死ぬのは嫌じゃない、寧ろ望むところだが…誰かを道連れにして死ぬのなんかは真っ平ゴメンだった。
「たくよぉ、那智もとんだ犬を背負い込んじまったなぁ?」
「あー?」
鉄虎の台詞に、那智はニヤニヤ笑いながら目元を細めている。
鉄虎の言おうとしていることを見抜こうとするかのように、或いは、何が言いたいんだコノヤローとでも思っているのか、どちらにしても那智はそれ以上口を開くつもりはないようだ。
「ありゃあ、手負いの犬じゃねーか。そのうち、お前さんの大事な部分でも食い千切っちまうんじゃねーのか?」
「…なんで?ぽちはそんなこたしねーよ?」
不意に無表情になった那智は、相変わらずきょとんっとしたように首を傾げている。
ともすれば馬鹿にしたようにも見えるその顔付きに、長いこと見てきたのだろう、その顔付きの意味するところを知っているのか、鉄虎は肩を竦めながらニヤニヤと笑っている。
「いーや、判らんぞ?ああ言う、手負いの獣は容赦がねぇ。愛情に飢えてるからなぁ、裏切ったと知れば喰い殺されちまうぜ」
「…ぽちを裏切る?ハッハ、起きながら夢見てんじゃねーぞ…つーか、おせーなぁ。何やってんだぁ?」
そろそろ待ち惚けに飽きてきたのか、手に馴染んだお気に入りの日本刀を抜刀するなり、那智は外見こそへらへら笑ってはいるが、どうやらかなり苛立っているのか、何もない電柱に向かって軽く手を振るようにして斬りかかったのだ。
「ぎゃぁッ!!」
ぽちが不審に思って眉を顰めながら見下ろすのとほぼ同時に、甲高い悲鳴が上がって廃ビルに身を潜めていたぽちはギョッとしたように崩れかけた窓に噛り付いていた。
「ぽち、めーっけ♪」
刃から滴り落ちる鮮血をべろりと舐めながら、那智はにやにやと笑って上目遣いで廃ビルの二階の窓から見下ろしているぽちを見上げてご機嫌そうにそう言った。これから取引するはずの相手の登場が遅い…とは言っても、約束の時間から未だ5分も過ぎてはいないのだが、それでも充分待たされている那智はバカみたいに突っ立っていることにうんざりしたのか、こうなったら時間潰しにぽちを見つけて傍に連れて来ようと考えたのだ。
「ひ、…ヒギィ…いてぇ、いてぇよぉ…」
「ぽちー?降りて来いよ。ご主人さま、寂しいよ」
ニヤァ~ッと笑いながら両手に日本刀を携えた那智は、腕を斬り飛ばされて転げ回るまだ若い青年の痛めつけられた肩を靴先で踏みつけながら、なんでもないことのように呆然と見下ろしているぽちを見上げている。
その足許で転がっているのは、恐らく自分が所属していた集団と同じように、1人では生きていけなくてどうしても集団で寄り集まって行動することしかできない、いわゆるストリートギャングの成れの果ての一員なのだろう。
ぽちがいたグループでも、自分の度胸を試すために深夜の町を徘徊するデッドゲームが流行っていた。
その時に偶然、本当に偶然でしか有り得ない確率でタオのネゴシエーターたちが仕事をしている場面に出くわしたら、どれぐらいまで見届けられるのかを賭けた馬鹿げた遊びがある。
大概のヘボいネゴシエーターなら最後まで見届けられて、胸を張って帰ってきた仲間に渋々混じり物だらけの(それでも高価な)炭酸水を渡したものだが…相手が那智なら話は別だ。
そうか、こんな風に仲間は帰って来なかったのか。
ぽちが眉間に皺を寄せて唇を噛み締めると、その様子の変化に気付いた那智がご機嫌そうな笑いをスッと引っ込めると、ニヤニヤと口許に笑みを浮かべたままで不思議そうに首を傾げている。
「ぽち?」
「た!…助けてくれよぉ、じゃ、邪魔なんかしねーから。ヒィ!…い、いてーよぉ」
「…うるせーな」
「ヒッ!」
ハッとした。
ぽちは慌てて何か言おうと硝子の砕けた窓に手を掛けながら身を乗り出したが一瞬遅く、まるで小煩い蝿でも追い払うような仕種で、滑るように月明かりに青白く浮かび上がる日本刀を振ったその途端、痛みと恐怖に因るもので拭えもしない涙と鼻水で顔をグチャグチャにしていた青年の腹が無造作に引き裂かれた。
「…はぁ…へぁ?…んだ、これ?」
鋭利な刃物で切り裂かれた傷は、はじめ熱いような痛みを感じる。
だが、腹を裂かれた青年は自分の身の上に起こったことがあまりにも非現実的で、頭では判っているのに肉体的な面で何が起こったのか理解することなどできなかったのだろう。
熱くて、滑り気のある生命の象徴の様な鮮血が溢れ出て服を濡らすと、無意識に手を滑らせた青年が握ったのはブヨブヨとした血液に滑る自らの腸だった。
ずるずると引き出しながら不思議そうに首を傾げていた青年は、それから徐に自分の腹に片手でそれを必死に戻そうとしているようだったが、腹圧がそれを阻んで外気に触れた腸は異臭を放って力なく垂れている。
「な…だ、これ…なん…う、うわ、ひぃぁぁぁぁ!!」
夜の闇を引き裂くような断末魔の絶叫を上げる青年の側頭部が、不意に風船でも破裂したような音を立てて、ビシャッと脳漿やら肉片やら、既に何であるのかも判らないものを血液と一緒に撒き散らしながら青年の頭部は割れて腐ったスイカのようにゴロリと転がると、力を失くした身体がビクビクと痙攣して事切れた。
「…ベントレー。てめー、人の獲物を横取りしたなぁ?あぁー?」
やっと事の次第に気付いて悲鳴を上げる青年を嬉しそうにワクワクしたように見下ろしていた那智が、その惨状に一瞬言葉を失くして、次いで恨めしそうにニヤァ~ッと笑いながら、カスタマイズした45口径の先端から煙を立ち昇らせたまま憮然としているベントレーを睨み据えたのだ。
もちろん、ベントレーは一瞬ビクッとしたものの、携えた45口径の背で肩を叩きながら眉を寄せた。
「うるせーんだもんよ、そいつ。それでなくてもここは国境近くで、ネゴシエーターの取引を狙う…」
「だからどーした?オレは待ち草臥れて腹が減ったんだよ。どうしてくれるワケ?それとも、お前の腕でもくれるのか??」
「まー、那智。それぐらいにしとけや」
「うるせー、死体は不味いっていつも言ってるだろーがよ…あーあ、また腕だけかぁ」
口許に笑みを貼り付けたままでしょんぼりしているような那智は脳漿と目玉を飛び散らして息絶えた、最早人間ではなくなってしまったものにはこれっぽっちも興味を示さず、押さえつけていた肩からゆっくりと靴先を退かすと鞘に刀を戻してから転がっている腕を拾い上げて溜め息を吐いた。
鉄虎と目を合わせたベントレーがうんざりしたように肩を竦めると、飄々としている巨体の男は肩を竦めるだけで何も言わずにニヤニヤ笑っている。
(腹が減る…で、どうして人間の腕を持ってるんだ??)
一連の出来事を呆気に取られたまま唖然と見下ろしていたぽちは、唐突に我に返って眼下で繰り広げられている凄惨な現場に立ち尽くしている那智に目線を移した。
目線を移して、思い切り後方に後退ってしまう。
「なな、何を…何をしてるんだ、那智は!?」
思い切り後方に倒れ込みそうになって慌てて体勢を整えたぽちは、今し方目にした行為が信じられなくて、恐る恐ると言ったようにもう一度硝子の砕けた窓から見下ろしたのだが、丁度、だらりと力を失くした腕から喰いちぎった人肉を租借したせいで口許を血塗れにした那智と目線が合ってしまって、またしても心臓が飛び上がりそうになった。
「な、那智…あんた、それ」
とうとう口を開いてしまったぽちにニヤァ~ッと笑った那智が、食べ掛けていた腕を放り出しながら口許を拭ってジリッと一歩踏み出した。その仕種のせいで、まるで蛇に睨まれた蛙のようにぽちは身動きができなくなってしまう。
「やっぱ、不味いのな。こんな所にいるぐらいだし?酒に溺れたドリンカーだったのかも」
拭いきれない血をペロペロと動物か何かのように舌先で拭う那智に、今まで見たこともない凄惨なものを感じて、ぽちは腰が抜けたように窓辺に座り込んでしまった。
「いーじゃねーか、喰えるんならなんでもよぉ。カニバリズムが贅沢こいてんじゃねーぞ」
ガッハッハ!と笑う鉄虎を丸っきり無視して、脱色し過ぎて痛んでしまった髪を揺らして見上げてくる漆黒のコートの男はニヤニヤと笑っている。
まるで、悪いことなど何もしていないとでも思っているのか、その態度に悪びれたところは微塵も見受けられない。
(カニバリズムだと…?)
何かで聞いたことがあったぽちは、それが人肉嗜食者であることを思い出してゾッとした。
当然のように人体を生きたまま解体して、那智はあの薄ら笑いを浮かべたままでその腹を満たしていくのだろうか…そこまで考えて、たった今見てしまった光景とオーバーラップしたのか猛烈な吐き気に襲われたぽちは床に蹲ってしまった。
「那智の嗜好にぽちがくたばったんじゃねーのか?」
「あぁ?」
ベントレーが愛用の銃を背後に隠したホルダーに戻しながら肩を竦めると、その台詞にだけ那智は眉をピクリと動かして反応を見せた。
「なんで?ぽちがくたばるワケないだろー」
「…くたばると思うけどなぁ。那智や鉄虎でもあるまいし」
「そーそー、初めておめーの食餌場面を見た時のベントレーを思い出してみ?白目剥いてぶっ倒れたろ?アレと一緒さ」
「どうしてそこで俺を引き合いに出すんだよ。このクソジーがッ」
「はーん…」
ムキィッと薬でギザギザになってしまったボロボロの歯で迂闊にも歯軋りして、ベントレーが鉄虎の腕に喰い付くのと、うるせーうるせーと言ってそんなベントレーを無表情で振り回しながら遊んでいる鉄虎を見ているような振りをして、全く見ていない那智はうーんっと、珍しく眉間に皺を寄せて笑いながら腰に両手を当てて廃ビルを見上げた。
「ぽち、気絶しちゃったのかぁ?」
「あー?」
ガジガジと鋭い歯型を残すベントレーをそのままにして鉄虎が首を傾げるのと、一瞬、踏ん張るように足に力を込めた那智が反動をつけて跳ぶのは同時だった。
「…口許血塗れにしちまってよぉ。アレじゃあ、ひ弱なワンコは卒倒どころか心臓が止まっちまうぞ」
「…那智さぁ。少しは自分の存在ってのを意識してくれりゃあいいんだけどな。黒コート着て口許血塗れなんて、どんなB級ホラーだよ」
巨体に這い登っていたベントレーがヤレヤレと溜め息を吐くと、鉄虎は面白そうに尻上がりの口笛を吹いた。どうも、このスパンキーなアンちゃんよりも、極悪そうにニヤリと笑っている鉄虎の方が余程いい性格をしているようだ。
そんな2人を地上に残したままで、廃ビルの二階の窓に降り立った那智はコンクリの床に蹲っているぽちを捜し出した。
「う、うわぁ!」
「…?」
那智の姿を認めたぽちが怯えたように悲鳴を上げて後退ると、きょとんと笑う暗黒のネゴシエーターは訝しそうに首を傾げるのだ。何が、そこまでぽちを怯えさせているのか理解できないとでも言うように。
「あ!あーなるほど、そうかぁ。ぽちさぁ、オレが人殺すの初めて見たもんな?ビビるよなー。そっかー鉄虎が言ってたのはそう言うことかぁ」
ケラケラと笑いながら、漸く合点がいったとばかりに勝手に納得している那智に思わずぽちが間髪入れずに口を開いていた。
「そんな問題じゃねぇ!」
「はーん?じゃあさぁ、どんな問題なワケ?」
ヨッと窓枠から室内に飛び降りた那智が片手を腰に当ててニヤニヤ笑いながら小首を傾げると、ぽちは思わずウッと言葉を飲み込んでしまった。
愕然としたように自分を見上げてくるぽちの何とも言えない眼差しに気付いて、その視線が自分の口許にあると知った那智は思い出したように渇いてしまった血糊を舐めて、それから服の袖で拭った。
そのヤンチャな子供のような仕種に思わず呆気に取られてしまったぽちは、ふと、へたり込んでしまったコンクリの床に最近誰かが入り込んでいたという名残りのようなペットボトルを見つけて那智を見上げた。
「そんなんじゃ、血は拭けないだろ?こっちに来いよ」
「ふーん…」
ゴシゴシとコートの袖で口許を拭っていた那智は探るようにぽちの様子を窺っていたが、それでもすぐに素直に言われるまま彼の前まで行くと、同じようにストンッと腰を下ろしてしまった。
どうするんだと興味深そうに見詰めてくる那智の前で、ぽちはそれまで、あんなに恐ろしいと思っていたこの漆黒のコートの男のことを、どうしてあんなに恐ろしいと思ってしまったのかと溜め息を吐いてしまった。
こんな腐った町で、ふざけた余興が1つ増えたに過ぎないだけだと言うのに。
「那智は那智だしなー」
「あーん?…ッ!」
開封されていないペットボトルの蓋を開いて水が腐っていないか臭いで確認してから、不思議そうに首を傾げる那智の顔に勢いよく浴びせたのだ。
ぽたぽた…ッと顎から水滴をしたたらせて俯いていた那智が、ニヤァ~ッと凶悪な双眸で笑いながら上目遣いに見上げてきた時には、流石のぽちも背筋が凍りつくかと思ったが、すんでのところで踏み止まって今度は容赦なく自分の袖で口許やら濡れた顔やらをゴシゴシと拭ってやったのだ。
「…ぽちは凶暴だ」
それでも大人しく拭かれている那智は、ムッと唇を尖らせながらもせっせと血糊を拭う可愛い飼い犬の仕種が嬉しくて仕方ないのか、ぽちがこれでいいかなと腕を離した時にはニヤニヤと笑っていたからだ。
「どうして、那智は人間を食べるんだ?」
「んー?じゃあさぁ、どうしてぽちは飯を喰うんだぁ?」
「え?」
「それと一緒でしょ?理由なんてないワケよ。ぽちにとってオレの作る料理が生きていく糧なら、オレにとって生きた人間が糧なのさ」
「それはおかしいよ、那智。飯を食べようとは思わないのか?」
「おかしい?なんで?鉄虎たちは何も言わないけどなぁ」
憮然としたようにニヤニヤ笑いながらコンクリの床に目線を落とした那智に対して、アイツらは自分を紹介された時も「へー」で終わったような連中だ、そいつらの反応なんか当てになるわけがない、と、ぽちは言ってやりたかったが、長いこと一緒にいた彼らは那智にとっては大事な仲間なんだろう。
この場合はどう言ったらいいんだろうか…と、ぽちが思い悩んで目線を落としたときだった。
「いつからかは忘れたけどさぁー…気付いたら人間しか喰えなくなってたワケよ。試しに自分で料理したものを喰ってみたけど吐いちまった。ぽちは…そう言うの嫌なのか?」
ポツポツと語り出した那智に上目遣いで見られて、そりゃ、もちろん嫌だと言ってやりたかったが、そう言ってしまえば那智は、驚くほど素直なヤツだから「ダメなのかー」とでも言って何も口にしなくなるんじゃないのか。生きることにも死ぬことにも無頓着そうなこの男だ、空腹で死にそうになっても事の重大さにすら気付かないんじゃないかと思ったらゾッとしたのだ。
ダメだ、空腹で死ぬことほど残酷なことがあるか。
「できる限り見たくはないけど…それで、アンタは料理を一切口にしなかったんだな」
「んー?そう。ぽちが美味そうに喰ってるのを見るのは好きだけどな」
ニコッと笑う那智にどんな顔をしたらいいのかとぽちは困惑してしまったが、元来ケチなコソ泥だった彼は頭を使うことが苦手だった。
はぁーッと長く溜め息を吐いてから、ニヤニヤ笑っている那智の無表情な双眸を覗き込みながら唇を尖らせるのだ。
「せめて、苦しまずに殺してやれよ。それから食べるんじゃダメなのか?」
「あぁー??」
こんな荒んだ世界で人殺しはダメだとか、上辺だけのおべんちゃらな道徳を語ったところで鼻先で笑われて殺されるのがオチなのだ。殺るか殺られるかの日常なら、せめて殺してやって欲しいと思う。生きながらに自分の肉体が喰われていく様を見せ付けられることがどれほど残酷か、それを説明したところで那智が理解できるとは思えない。だが、せめて…
そんなぽちの思惑など知る由もない那智は、心底嫌そうに眉を寄せて腕を組んでしまった。
どうやら考え込んでしまったようだ。
そんなに悩むことなのかとぽちが眉を寄せていると、那智は不服そうに鼻に皺を寄せながらペロッと舌を出した。
「冷めて腐った料理を、ぽちは喜んで喰えるのか?」
「へ?…ああ、そう言うことなのか。うーん…」
今度はぽちが悩む番で、そうこうしている間に地上にいるベントレーの大声が聞こえてきた。
「那智ー!奴さんたちのお出ましだぜー!?そろそろ降りて来いよッ」
「あ、仕事か。んじゃ、これはちょっと保留だな」
ベントレーの声に気付いてぽちが少しホッとしたように那智を見ると、それまでムッとしたように悩んでいた黒衣のネゴシエーターは、ニヤァ~ッと何やら企んでいるように笑っている。
「なんだよ?」
「ぽちが怯えてたのはオレがカニバリズムだったからなんだな」
「お。怯えてなんかないぞ!」
意地を張ってみても仕方がないのだが、どうしてもぽちは那智に対しては反抗的になってしまう。そんなぽちの態度にクスクスと笑ってから、那智は満足したように立ち上がったのだ。
「ハッハ…だったらいーや。人殺しを怯えてるんだったらさぁー、もう連れて来られないだろぉー?悩んじゃったよ」
そうじゃないのならいいんだと、那智は嬉しそうに笑っている。
呆れたように見上げていたぽちがガックリと肩を落としながら、やっぱりまだ付き合わないといけないのかと観念しながら立ち上がろうとするのを、那智が止めるのだ。
「やっぱここにいるほうがいいだろーし?オレさぁ、腹減ってるんだよね。判るだろー?」
「あー、判った」
頷くと、窓辺に歩き出した那智は背中を向けたままでニヤァ~ッと笑った。
「やっぱ、嫌われたくないんだよね」
「は?」
「オレ、ぽち好きだしー」
窓枠に手をかけながら肩越しに振り返ってそんなことを言うから、不意にぽちはドキッとしてしまった。
こんな時なのに、なぜそんな風に胸が高鳴るのか…幼い頃から殺伐とした町で育ってきたぽちには判らなかった。
「じゃ、イイ子で待ってろよ?」
そう言ってから、那智は眼下のアスファルトへダイブした。
姿が消えてしまっても、何故かぽちはドキドキと高鳴る胸を押さえたまま動けずにいた。
いったい自分はどうしてしまったのかと、怯えながら。
目覚めてしまう気持ちは狂気。
諸刃の剣に貫かれる心…