7.カニバリズム  -Crimson Hearts-

(ぽちめー、逃げたな…)

 那智は機嫌が良さそうにニヤニヤと笑いながら、目線だけで廃墟と化した当時は権勢を誇っていたのだろうビルを見上げていた。

「…と言うワケでさ、SRSの連中の言い分だと2500万は固いって…おい、那智、聞いてんのか?」

「んぁ?あー、聞いてるよ。SRSのネゴシエーターも舐めたこと抜かしやがるからなぁ」

「半分以上は聞いちゃいねーよ。おおかた、頭ん中ぁビルん中に隠れてるワンコのことでいっぱいなんだろーさ?」

「ハッハ…よく心得てるじゃねーか」

「…はぁ」

 一連の会話に耳を傾けながらもぽちは、先ほど紹介された溜め息を吐いているベントレーが可哀相になっていた。
 よくよく聞けば、仕事のことを考えているのは3人の中じゃベントレーぐらいじゃないか。
 どちらにせよ、あの3人にはどこに自分がいるのかとっくの昔にバレているようだとぽちは仕方なく溜め息をついた。
 確かに間近で、この腐敗した町では誰もが憧れる『タオ』のネゴシエーターがどんな仕事をするのか、見たくなかったと言えば嘘になる。だが、足手纏いになるのはどうしても嫌だったし、即ち足手纏いになると言うことはこの場所で命を亡くしてしまうと言うことになる。
 死ぬのは嫌じゃない、寧ろ望むところだが…誰かを道連れにして死ぬのなんかは真っ平ゴメンだった。

「たくよぉ、那智もとんだ犬を背負い込んじまったなぁ?」

「あー?」

 鉄虎の台詞に、那智はニヤニヤ笑いながら目元を細めている。
 鉄虎の言おうとしていることを見抜こうとするかのように、或いは、何が言いたいんだコノヤローとでも思っているのか、どちらにしても那智はそれ以上口を開くつもりはないようだ。

「ありゃあ、手負いの犬じゃねーか。そのうち、お前さんの大事な部分でも食い千切っちまうんじゃねーのか?」

「…なんで?ぽちはそんなこたしねーよ?」

 不意に無表情になった那智は、相変わらずきょとんっとしたように首を傾げている。
 ともすれば馬鹿にしたようにも見えるその顔付きに、長いこと見てきたのだろう、その顔付きの意味するところを知っているのか、鉄虎は肩を竦めながらニヤニヤと笑っている。

「いーや、判らんぞ?ああ言う、手負いの獣は容赦がねぇ。愛情に飢えてるからなぁ、裏切ったと知れば喰い殺されちまうぜ」

「…ぽちを裏切る?ハッハ、起きながら夢見てんじゃねーぞ…つーか、おせーなぁ。何やってんだぁ?」

 そろそろ待ち惚けに飽きてきたのか、手に馴染んだお気に入りの日本刀を抜刀するなり、那智は外見こそへらへら笑ってはいるが、どうやらかなり苛立っているのか、何もない電柱に向かって軽く手を振るようにして斬りかかったのだ。

「ぎゃぁッ!!」

 ぽちが不審に思って眉を顰めながら見下ろすのとほぼ同時に、甲高い悲鳴が上がって廃ビルに身を潜めていたぽちはギョッとしたように崩れかけた窓に噛り付いていた。

「ぽち、めーっけ♪」

 刃から滴り落ちる鮮血をべろりと舐めながら、那智はにやにやと笑って上目遣いで廃ビルの二階の窓から見下ろしているぽちを見上げてご機嫌そうにそう言った。これから取引するはずの相手の登場が遅い…とは言っても、約束の時間から未だ5分も過ぎてはいないのだが、それでも充分待たされている那智はバカみたいに突っ立っていることにうんざりしたのか、こうなったら時間潰しにぽちを見つけて傍に連れて来ようと考えたのだ。

「ひ、…ヒギィ…いてぇ、いてぇよぉ…」

「ぽちー?降りて来いよ。ご主人さま、寂しいよ」

 ニヤァ~ッと笑いながら両手に日本刀を携えた那智は、腕を斬り飛ばされて転げ回るまだ若い青年の痛めつけられた肩を靴先で踏みつけながら、なんでもないことのように呆然と見下ろしているぽちを見上げている。
 その足許で転がっているのは、恐らく自分が所属していた集団と同じように、1人では生きていけなくてどうしても集団で寄り集まって行動することしかできない、いわゆるストリートギャングの成れの果ての一員なのだろう。
 ぽちがいたグループでも、自分の度胸を試すために深夜の町を徘徊するデッドゲームが流行っていた。
 その時に偶然、本当に偶然でしか有り得ない確率でタオのネゴシエーターたちが仕事をしている場面に出くわしたら、どれぐらいまで見届けられるのかを賭けた馬鹿げた遊びがある。
 大概のヘボいネゴシエーターなら最後まで見届けられて、胸を張って帰ってきた仲間に渋々混じり物だらけの(それでも高価な)炭酸水を渡したものだが…相手が那智なら話は別だ。
 そうか、こんな風に仲間は帰って来なかったのか。
 ぽちが眉間に皺を寄せて唇を噛み締めると、その様子の変化に気付いた那智がご機嫌そうな笑いをスッと引っ込めると、ニヤニヤと口許に笑みを浮かべたままで不思議そうに首を傾げている。

「ぽち?」

「た!…助けてくれよぉ、じゃ、邪魔なんかしねーから。ヒィ!…い、いてーよぉ」

「…うるせーな」

「ヒッ!」

 ハッとした。
 ぽちは慌てて何か言おうと硝子の砕けた窓に手を掛けながら身を乗り出したが一瞬遅く、まるで小煩い蝿でも追い払うような仕種で、滑るように月明かりに青白く浮かび上がる日本刀を振ったその途端、痛みと恐怖に因るもので拭えもしない涙と鼻水で顔をグチャグチャにしていた青年の腹が無造作に引き裂かれた。

「…はぁ…へぁ?…んだ、これ?」

 鋭利な刃物で切り裂かれた傷は、はじめ熱いような痛みを感じる。
 だが、腹を裂かれた青年は自分の身の上に起こったことがあまりにも非現実的で、頭では判っているのに肉体的な面で何が起こったのか理解することなどできなかったのだろう。
 熱くて、滑り気のある生命の象徴の様な鮮血が溢れ出て服を濡らすと、無意識に手を滑らせた青年が握ったのはブヨブヨとした血液に滑る自らの腸だった。
 ずるずると引き出しながら不思議そうに首を傾げていた青年は、それから徐に自分の腹に片手でそれを必死に戻そうとしているようだったが、腹圧がそれを阻んで外気に触れた腸は異臭を放って力なく垂れている。

「な…だ、これ…なん…う、うわ、ひぃぁぁぁぁ!!」

 夜の闇を引き裂くような断末魔の絶叫を上げる青年の側頭部が、不意に風船でも破裂したような音を立てて、ビシャッと脳漿やら肉片やら、既に何であるのかも判らないものを血液と一緒に撒き散らしながら青年の頭部は割れて腐ったスイカのようにゴロリと転がると、力を失くした身体がビクビクと痙攣して事切れた。

「…ベントレー。てめー、人の獲物を横取りしたなぁ?あぁー?」

 やっと事の次第に気付いて悲鳴を上げる青年を嬉しそうにワクワクしたように見下ろしていた那智が、その惨状に一瞬言葉を失くして、次いで恨めしそうにニヤァ~ッと笑いながら、カスタマイズした45口径の先端から煙を立ち昇らせたまま憮然としているベントレーを睨み据えたのだ。
 もちろん、ベントレーは一瞬ビクッとしたものの、携えた45口径の背で肩を叩きながら眉を寄せた。

「うるせーんだもんよ、そいつ。それでなくてもここは国境近くで、ネゴシエーターの取引を狙う…」

「だからどーした?オレは待ち草臥れて腹が減ったんだよ。どうしてくれるワケ?それとも、お前の腕でもくれるのか??」

「まー、那智。それぐらいにしとけや」

「うるせー、死体は不味いっていつも言ってるだろーがよ…あーあ、また腕だけかぁ」

 口許に笑みを貼り付けたままでしょんぼりしているような那智は脳漿と目玉を飛び散らして息絶えた、最早人間ではなくなってしまったものにはこれっぽっちも興味を示さず、押さえつけていた肩からゆっくりと靴先を退かすと鞘に刀を戻してから転がっている腕を拾い上げて溜め息を吐いた。
 鉄虎と目を合わせたベントレーがうんざりしたように肩を竦めると、飄々としている巨体の男は肩を竦めるだけで何も言わずにニヤニヤ笑っている。

(腹が減る…で、どうして人間の腕を持ってるんだ??)

 一連の出来事を呆気に取られたまま唖然と見下ろしていたぽちは、唐突に我に返って眼下で繰り広げられている凄惨な現場に立ち尽くしている那智に目線を移した。
 目線を移して、思い切り後方に後退ってしまう。

「なな、何を…何をしてるんだ、那智は!?」

 思い切り後方に倒れ込みそうになって慌てて体勢を整えたぽちは、今し方目にした行為が信じられなくて、恐る恐ると言ったようにもう一度硝子の砕けた窓から見下ろしたのだが、丁度、だらりと力を失くした腕から喰いちぎった人肉を租借したせいで口許を血塗れにした那智と目線が合ってしまって、またしても心臓が飛び上がりそうになった。

「な、那智…あんた、それ」

 とうとう口を開いてしまったぽちにニヤァ~ッと笑った那智が、食べ掛けていた腕を放り出しながら口許を拭ってジリッと一歩踏み出した。その仕種のせいで、まるで蛇に睨まれた蛙のようにぽちは身動きができなくなってしまう。

「やっぱ、不味いのな。こんな所にいるぐらいだし?酒に溺れたドリンカーだったのかも」

 拭いきれない血をペロペロと動物か何かのように舌先で拭う那智に、今まで見たこともない凄惨なものを感じて、ぽちは腰が抜けたように窓辺に座り込んでしまった。

「いーじゃねーか、喰えるんならなんでもよぉ。カニバリズムが贅沢こいてんじゃねーぞ」

 ガッハッハ!と笑う鉄虎を丸っきり無視して、脱色し過ぎて痛んでしまった髪を揺らして見上げてくる漆黒のコートの男はニヤニヤと笑っている。
 まるで、悪いことなど何もしていないとでも思っているのか、その態度に悪びれたところは微塵も見受けられない。

(カニバリズムだと…?)

 何かで聞いたことがあったぽちは、それが人肉嗜食者であることを思い出してゾッとした。
 当然のように人体を生きたまま解体して、那智はあの薄ら笑いを浮かべたままでその腹を満たしていくのだろうか…そこまで考えて、たった今見てしまった光景とオーバーラップしたのか猛烈な吐き気に襲われたぽちは床に蹲ってしまった。

「那智の嗜好にぽちがくたばったんじゃねーのか?」

「あぁ?」

 ベントレーが愛用の銃を背後に隠したホルダーに戻しながら肩を竦めると、その台詞にだけ那智は眉をピクリと動かして反応を見せた。

「なんで?ぽちがくたばるワケないだろー」

「…くたばると思うけどなぁ。那智や鉄虎でもあるまいし」

「そーそー、初めておめーの食餌場面を見た時のベントレーを思い出してみ?白目剥いてぶっ倒れたろ?アレと一緒さ」

「どうしてそこで俺を引き合いに出すんだよ。このクソジーがッ」

「はーん…」

 ムキィッと薬でギザギザになってしまったボロボロの歯で迂闊にも歯軋りして、ベントレーが鉄虎の腕に喰い付くのと、うるせーうるせーと言ってそんなベントレーを無表情で振り回しながら遊んでいる鉄虎を見ているような振りをして、全く見ていない那智はうーんっと、珍しく眉間に皺を寄せて笑いながら腰に両手を当てて廃ビルを見上げた。

「ぽち、気絶しちゃったのかぁ?」

「あー?」

 ガジガジと鋭い歯型を残すベントレーをそのままにして鉄虎が首を傾げるのと、一瞬、踏ん張るように足に力を込めた那智が反動をつけて跳ぶのは同時だった。

「…口許血塗れにしちまってよぉ。アレじゃあ、ひ弱なワンコは卒倒どころか心臓が止まっちまうぞ」

「…那智さぁ。少しは自分の存在ってのを意識してくれりゃあいいんだけどな。黒コート着て口許血塗れなんて、どんなB級ホラーだよ」

 巨体に這い登っていたベントレーがヤレヤレと溜め息を吐くと、鉄虎は面白そうに尻上がりの口笛を吹いた。どうも、このスパンキーなアンちゃんよりも、極悪そうにニヤリと笑っている鉄虎の方が余程いい性格をしているようだ。
 そんな2人を地上に残したままで、廃ビルの二階の窓に降り立った那智はコンクリの床に蹲っているぽちを捜し出した。

「う、うわぁ!」

「…?」

 那智の姿を認めたぽちが怯えたように悲鳴を上げて後退ると、きょとんと笑う暗黒のネゴシエーターは訝しそうに首を傾げるのだ。何が、そこまでぽちを怯えさせているのか理解できないとでも言うように。

「あ!あーなるほど、そうかぁ。ぽちさぁ、オレが人殺すの初めて見たもんな?ビビるよなー。そっかー鉄虎が言ってたのはそう言うことかぁ」

 ケラケラと笑いながら、漸く合点がいったとばかりに勝手に納得している那智に思わずぽちが間髪入れずに口を開いていた。

「そんな問題じゃねぇ!」

「はーん?じゃあさぁ、どんな問題なワケ?」

 ヨッと窓枠から室内に飛び降りた那智が片手を腰に当ててニヤニヤ笑いながら小首を傾げると、ぽちは思わずウッと言葉を飲み込んでしまった。
 愕然としたように自分を見上げてくるぽちの何とも言えない眼差しに気付いて、その視線が自分の口許にあると知った那智は思い出したように渇いてしまった血糊を舐めて、それから服の袖で拭った。
 そのヤンチャな子供のような仕種に思わず呆気に取られてしまったぽちは、ふと、へたり込んでしまったコンクリの床に最近誰かが入り込んでいたという名残りのようなペットボトルを見つけて那智を見上げた。

「そんなんじゃ、血は拭けないだろ?こっちに来いよ」

「ふーん…」

 ゴシゴシとコートの袖で口許を拭っていた那智は探るようにぽちの様子を窺っていたが、それでもすぐに素直に言われるまま彼の前まで行くと、同じようにストンッと腰を下ろしてしまった。
 どうするんだと興味深そうに見詰めてくる那智の前で、ぽちはそれまで、あんなに恐ろしいと思っていたこの漆黒のコートの男のことを、どうしてあんなに恐ろしいと思ってしまったのかと溜め息を吐いてしまった。
 こんな腐った町で、ふざけた余興が1つ増えたに過ぎないだけだと言うのに。

「那智は那智だしなー」

「あーん?…ッ!」

 開封されていないペットボトルの蓋を開いて水が腐っていないか臭いで確認してから、不思議そうに首を傾げる那智の顔に勢いよく浴びせたのだ。
 ぽたぽた…ッと顎から水滴をしたたらせて俯いていた那智が、ニヤァ~ッと凶悪な双眸で笑いながら上目遣いに見上げてきた時には、流石のぽちも背筋が凍りつくかと思ったが、すんでのところで踏み止まって今度は容赦なく自分の袖で口許やら濡れた顔やらをゴシゴシと拭ってやったのだ。

「…ぽちは凶暴だ」

 それでも大人しく拭かれている那智は、ムッと唇を尖らせながらもせっせと血糊を拭う可愛い飼い犬の仕種が嬉しくて仕方ないのか、ぽちがこれでいいかなと腕を離した時にはニヤニヤと笑っていたからだ。

「どうして、那智は人間を食べるんだ?」

「んー?じゃあさぁ、どうしてぽちは飯を喰うんだぁ?」

「え?」

「それと一緒でしょ?理由なんてないワケよ。ぽちにとってオレの作る料理が生きていく糧なら、オレにとって生きた人間が糧なのさ」

「それはおかしいよ、那智。飯を食べようとは思わないのか?」

「おかしい?なんで?鉄虎たちは何も言わないけどなぁ」

 憮然としたようにニヤニヤ笑いながらコンクリの床に目線を落とした那智に対して、アイツらは自分を紹介された時も「へー」で終わったような連中だ、そいつらの反応なんか当てになるわけがない、と、ぽちは言ってやりたかったが、長いこと一緒にいた彼らは那智にとっては大事な仲間なんだろう。
 この場合はどう言ったらいいんだろうか…と、ぽちが思い悩んで目線を落としたときだった。

「いつからかは忘れたけどさぁー…気付いたら人間しか喰えなくなってたワケよ。試しに自分で料理したものを喰ってみたけど吐いちまった。ぽちは…そう言うの嫌なのか?」

 ポツポツと語り出した那智に上目遣いで見られて、そりゃ、もちろん嫌だと言ってやりたかったが、そう言ってしまえば那智は、驚くほど素直なヤツだから「ダメなのかー」とでも言って何も口にしなくなるんじゃないのか。生きることにも死ぬことにも無頓着そうなこの男だ、空腹で死にそうになっても事の重大さにすら気付かないんじゃないかと思ったらゾッとしたのだ。
 ダメだ、空腹で死ぬことほど残酷なことがあるか。

「できる限り見たくはないけど…それで、アンタは料理を一切口にしなかったんだな」

「んー?そう。ぽちが美味そうに喰ってるのを見るのは好きだけどな」

 ニコッと笑う那智にどんな顔をしたらいいのかとぽちは困惑してしまったが、元来ケチなコソ泥だった彼は頭を使うことが苦手だった。
 はぁーッと長く溜め息を吐いてから、ニヤニヤ笑っている那智の無表情な双眸を覗き込みながら唇を尖らせるのだ。

「せめて、苦しまずに殺してやれよ。それから食べるんじゃダメなのか?」

「あぁー??」

 こんな荒んだ世界で人殺しはダメだとか、上辺だけのおべんちゃらな道徳を語ったところで鼻先で笑われて殺されるのがオチなのだ。殺るか殺られるかの日常なら、せめて殺してやって欲しいと思う。生きながらに自分の肉体が喰われていく様を見せ付けられることがどれほど残酷か、それを説明したところで那智が理解できるとは思えない。だが、せめて…
 そんなぽちの思惑など知る由もない那智は、心底嫌そうに眉を寄せて腕を組んでしまった。
 どうやら考え込んでしまったようだ。
 そんなに悩むことなのかとぽちが眉を寄せていると、那智は不服そうに鼻に皺を寄せながらペロッと舌を出した。

「冷めて腐った料理を、ぽちは喜んで喰えるのか?」

「へ?…ああ、そう言うことなのか。うーん…」

 今度はぽちが悩む番で、そうこうしている間に地上にいるベントレーの大声が聞こえてきた。

「那智ー!奴さんたちのお出ましだぜー!?そろそろ降りて来いよッ」

「あ、仕事か。んじゃ、これはちょっと保留だな」

 ベントレーの声に気付いてぽちが少しホッとしたように那智を見ると、それまでムッとしたように悩んでいた黒衣のネゴシエーターは、ニヤァ~ッと何やら企んでいるように笑っている。

「なんだよ?」

「ぽちが怯えてたのはオレがカニバリズムだったからなんだな」

「お。怯えてなんかないぞ!」

 意地を張ってみても仕方がないのだが、どうしてもぽちは那智に対しては反抗的になってしまう。そんなぽちの態度にクスクスと笑ってから、那智は満足したように立ち上がったのだ。

「ハッハ…だったらいーや。人殺しを怯えてるんだったらさぁー、もう連れて来られないだろぉー?悩んじゃったよ」

 そうじゃないのならいいんだと、那智は嬉しそうに笑っている。
 呆れたように見上げていたぽちがガックリと肩を落としながら、やっぱりまだ付き合わないといけないのかと観念しながら立ち上がろうとするのを、那智が止めるのだ。

「やっぱここにいるほうがいいだろーし?オレさぁ、腹減ってるんだよね。判るだろー?」

「あー、判った」

 頷くと、窓辺に歩き出した那智は背中を向けたままでニヤァ~ッと笑った。

「やっぱ、嫌われたくないんだよね」

「は?」

「オレ、ぽち好きだしー」

 窓枠に手をかけながら肩越しに振り返ってそんなことを言うから、不意にぽちはドキッとしてしまった。
 こんな時なのに、なぜそんな風に胸が高鳴るのか…幼い頃から殺伐とした町で育ってきたぽちには判らなかった。

「じゃ、イイ子で待ってろよ?」

 そう言ってから、那智は眼下のアスファルトへダイブした。
 姿が消えてしまっても、何故かぽちはドキドキと高鳴る胸を押さえたまま動けずにいた。
 いったい自分はどうしてしまったのかと、怯えながら。

 目覚めてしまう気持ちは狂気。
 諸刃の剣に貫かれる心…

6.那智の仕事  -Crimson Hearts-

 足許から崩れ去っていくようなこの世界で、何を求めて生きてきたのか。
 何を求めて…そんなこと、当の昔に忘れてしまった。
 ただ、ただ果てしない感情の流れを誰かに止めて欲しくて…誰かに?
 いったい、誰に?
 誰も助けてなどくれなかった。
 心を救う者もいなかった。
 所詮は儚い夢だった。
 そんなこと、判りきっているはずなのにオレは何を期待しているんだろう。
 期待?…そんなもの、もう、忘れてしまった。
 ただ、アイツを守らないと。
 アイツだけがこの世界の全てなのだから。
 アイツがいなくなってしまえば。
 こんな腐敗した世界などもういらない…

 比較的、あれから那智はとことん機嫌がいいようだ。
 いまいち、何を考えて何を感じているのかとか、そう言うことは全くよく判らないんだけど、ニヤニヤ笑いが多くなったような気がするし、仕事から早く帰るようになった。
 料理は毎日作ってくれるし、もし仕事が引いて帰ることが出来ないだろうなと自分が感じたときは、予め作って行ってくれる。後は温めるだけ、と言う親切ぶりだ。
 俺、犬なのに…コンロの使い方とか判らない。
 とか、冗談でも那智の前で言ったらコンロを投げ捨てて、たぶん、原始的な火の熾し方とかレクチャーし始めるんだろうなぁと思ったら少し笑えるようになった。
 しかし、那智のヤツはああ見えて結構物知りだったりするから、驚かされることが多々ある。
 それに、この部屋を見ても判るように、那智の好みはかなり古い。
 あれだけ資産を持ってるのなら、最新の設備だって整えられるだろうに、那智は旧式のコンロを愛用している。今みたいにどこから手に入れてくるのか判らないけど、食材に紛れてガスボンベが入ってるのを見たときは驚いた。俺は、その使い方が判らなかったから…
 そう言って興味津々で仕分けをしている手許を覗き込んだら、那智はニヤァ~っと笑ってボンベを片手に俺を見下ろしてきた。

「ぽち、尻尾あったらいいのになぁ?少しだけど、慣れてきたみたいだからさぁ」

「ああ?それとボンベと何の関係があるんだ」

「大有りさ~。いつもは知らん顔で窓の下に座ってんのに、最近は傍に寄って来るようになったし?もっと懐いてくると尻尾も振り出すんだぜ~」

「…気が向いたら振ってやるよ」

 延々と続きそうな頭の痛くなる会話に早々に終止符を打って、肩を竦めながらもニヤニヤと笑っている那智がカセットコンロにボンベを充填するのをマジマジと見ていた。
 そんな携帯用のコンロがあるってことにも驚いたけど、まさかボンベで動くなんてな。
 吃驚だ。
 以前、一度だけ出所を聞いたことがあったけど、その時の那智の反応はほぼ無反応だった。
 曖昧な返事で、言葉にもなっていない、なんと言うか「あー」だとか「んー」で終わったと思う。
 食材のときも吃驚したからな。
 どうせ、今回も曖昧にはぐらかされるんだろうと思いながら、それでも俺は訊ねずにはいられなかった。

「那智、こう言ったモノはどこで手に入れるんだ?俺なんかじゃお目にかかるだけで奇跡みたいなんだけど…」

「ハッ…、ぽちは面白いこと言うなぁ。こんなの見ただけで奇跡だって?ハッハ」

 アンタとこうして喋っていることだって、こんな腐敗した世界に神なんか笑わせるなと思っていたけど、いったいどこの誰がどんな気紛れでこんなチャンスを俺に与えたのか判らないけど、奇跡だって思っているんだ。だけど、そんなこと言っても那智のことだから、また瞼を閉じるあの独特な笑い方をして首を左右に振るんだろう。
 そんなこと、どうでもいいって感じでさ。
 ほんのちょっとだけは認めてやってもいいって思えるようになったから、牛乳の件は忘れてやるとして、俺だって少なからず夢みたいだって思ってるんだぜ。
 あの浅羽那智と、こうして一緒に買い物袋から物を取り出すなんて…これは何かの悪い夢か?と思ってしまうけどな。
 そう言えば…那智と一緒に暮らしだしてから俺は、誰かに付け狙われることも、冷たい雨を避けて廃ビルで蹲って寝ることも、ビクビクしながら通りを足早に渡ることもなくなった。
 ベッドは、スプリングが軋んでマットは硬いし、なんと言ってもシングルに毛の生えたようなダブルに那智と一緒に寝るからきつくて仕方ないんだけど、毎日寒いはずの夜が暖かくてホッとするなんて…これこそ奇跡だって思う。
 夜がホッとするだって?
 夢なら、でも、夢なら…覚めて欲しくはない。

「あ、そーだ。今夜仕事あるんだー…来るでしょ?」

 もちろん来ると決め付けての発言に、脳裏で彷徨っていた思考が呼び戻された俺は慌てて頷いた。
 そうだった、那智がどんな仕事をしているのか見てやろうって思ってたんだ。
 いや、正直に言えば好奇心からだったんだけど…
 思わずバツが悪くてエヘヘヘと笑ってしまう俺を、那智のヤツはニヤニヤ笑いながら首を傾げていた。
 ネゴシエーター…交渉人である那智の仕事ってのがどんなものなのか、そうして那智は、どんな風に人を殺すのか…噂ばかりで一度も見たことはないし、ケチな喧嘩での殺傷事件は日常茶飯事だったから、人殺しには慣れている。俺自身、殺されかけたんだ。
 もう、怖いものなんか何もない。

「足手纏いにならないように隠れてる方がいいかな?」

「隠れる~?ハッハ…バカだなぁ、ぽちは。隠れてたらヘンなヤツに殺されるだろー?だったら、オレの傍にいるのが一番に決まってる」

「…その自信を信じてついて行くけど。何かあったら脱兎の如く逃げ出すからな」

 至極真面目に言ったつもりだったのに、那智は一瞬無表情になってから、それからニヤァ~っと笑い出したんだ。
 なんだ?俺は何か笑うようなことを言ったか??
 それともその何か企んでいるような笑いの裏には、何か別の意味でもあるのか…?

「なに、笑ってんだよ。俺は真面目なんだぞ?何がおかしいんだよ、言えよー」

「…別に笑ってないぜ~?」

「いーや、笑ってる!ニヤニヤ笑ってる!!」

 俺がムゥッとしてその顔を覗き込みながら食って掛かると、那智はそんな俺を無言でジーッと見下ろしてくるんだ。あれほどにやーっと笑っていたのに、その笑みを不意に引っ込めて、だからと言って奇妙な顔付きをするでもなく、ただ柔らかいと表現すればシックリくるような、そんな不思議な表情をして見下ろしてくるから、いったいどんな顔をすればいいんだよ。

「な、なんだよ?」

「ん~?いや、ちょっとねー。昔飼ってた犬を思い出したんだー」

「…犬を飼ってたのか?」

「うん。もうずっと、昔の話なんだけどね」

 ニヤニヤ笑いながらも、そんなことはもうどうでもいいことなんだと思い込んででもいるのか、那智はそれ以上は何かを話そうとはしなかった。俺も、それ以上何かを聞こうとは思わなかったから、結局この話はこれで終わってしまった。
 だけど、ヘンなもんだな。
 あの、浅羽那智が犬を飼っていた…どこか人を馬鹿にしたような顔付きで平気で人殺しだってするくせに、どこに犬を飼うなんて言う殊勝な感情があるって言うんだ?

「…ああ、でも俺も飼われてるのか。全く何を考えてるんだか、ヘンなヤツだ」

「だって、ぽち死にそうだっただろ~?死ぬのは怖くないとか意地張って、そのくせ、縋るような目をしてさ。拾って帰んなきゃーって思ったワケ」

 俺の独り言を聞いていた那智はふふーんっとでも言いたそうにニヤニヤ笑いながらそんなことを言うと、古惚けたソファにドッカリと腰を下ろして投げ出していた日本刀の柄を無造作に掴むと乱暴に鞘から引き抜いたんだ。
 人の生き血を随分と吸っているはずの刀身は、それでも刃毀れすることもなく不思議と青白く光っている。ともすれば安っぽい蛍光灯の明かりすらも弾き返して、その輝きはまるで衰えることもなく人殺しの道具だと言うのに綺麗だった。
 ぼんやりと眺めていたら、ふと那智と目が合ってしまって、俺は一瞬どんな顔をすればいいのかと悩んでしまう。
 なぜなら、日本刀を眼前に翳してニヤァ~ッと笑っている那智は確かにいつもの那智だとは思うんだが、そのくせ、時折フッと笑っている姿はいつもよりなんと言うか…
 たぶん、イイ男に見えるんだろう。
 何を考えてるんだかと呟いて溜め息を吐いたら、那智は相変わらず調子でもいいのか、ご自慢の日本刀にニヤァ~ッと笑いながらも俺の独り言に首を傾げている。

「ぽちはさぁ~、オレと話してて楽しいワケ?」

 不意に日本刀の調子を眺めるようにして確かめながら、那智はどうでも良さそうにそんなことを聞いてきた。別に、どうでも良さそうなんだから答えなくても良いはずなんだけど、それでも俺は、その奇妙な質問に答えてみようって気になったんだ。

「楽しい…と言うか、興味はある。アンタはヘンなヤツだから」

「ヘンなヤツか、ハッハ!…そいつはいいな」

「どうしてそんなこと聞くんだよ。じゃあ、アンタは?アンタは俺と話してて楽しいのか?」

 何が言いたいのか良く判らない表情をして日本刀を見詰めている那智に、なんとなく俺はその理不尽な質問の意図が読めなくてムッとしちまった。
 我ながら子供染みてるとは思ったが、ついつい唇を尖らせて聞いてしまう。

「さあ~?楽しい…と言うか、興味はある。ぽちはヘンな犬だから」

「…なんだよ、それ」

 にやぁ~っと笑って日本刀を鞘に戻しながらチラリと視線を上げて俺を見た那智は、ニヤニヤしながら肩を竦めてご満悦だ。
 殆ど呆れて眉を顰めれば、そんな俺を瞼を閉じて口許だけで笑うんだ。
 那智は恐ろしいヤツだと仲間の誰かが言っていたけど…こうして傍にいてみると、どのヘンが恐ろしいんだか判らない。たとえば、気が短いんじゃないかと眉を顰めたくなるほど些細なことで手当たり次第にモノを捨ててしまうことを恐ろしいとでも言うのか?それとも、雨にずぶ濡れになっても平気そうに通りを歩いているところ?
 或いは、どんなに離れていても正確に俺がどこに立っているのか確認できるその人間離れした観察眼?いや、それは正直、恐ろしいヤツだとは思ったけど…でも、今の時代だと、それぐらいの観察力がないと荒くれどもに命を狙われている那智が生き残ることなんか難しいんだろう。
 那智は確かに平気で食べ物を粗末にするし、嫌味だってサラッと言っちまえるような大変いやーな野郎ではあるけれど、それでも、この間みたいに会話の噛み合わない喧嘩…らしい喧嘩でもなかったけど、結局俺が1人でワーワー騒いだだけだったんだけど、そんな風に話している間に、俺は那智を憎めなくなっていた。
 どう言えばいいのか判らないけれど、那智は本当は、寂しい人間なんじゃないかと思うようになっていたからかもしれない。
 俺の中で渦巻く罪悪感が、那智と言う救いを見つけ過去の後悔を摩り替えようとしているだけなのかもしれなかったが、それでも那智と言う男に興味を持ったのは確かだった。

「ネゴシエーターってどんなことをするんだ?今の時代でまともな仕事なんか期待しちゃいないけど、それでも、ケチなコソ泥よりはいくらかマシなんだろ?」

 俺はいつも座っているお気に入りの窓の下に腰を下ろしながら、今夜着いて行くことになった仕事について聞いてみようと好奇心丸出しで訊ねていた。壁に凭れて、ソファにだらしなく座っている猫科の猛獣のような獰猛さを隠し持った那智を眺めながら訊ねれば、背もたれに頬杖をついて退屈そうにニヤニヤ笑っているネゴシエーターはそんな俺を横目でチラリと見て口を開いたんだ。

「似たようなもん…なワケないかー。どちらかって言うとー、ケチなコソ泥よりはクソみてーな仕事かなぁ」

 本気でそう思っているのか、それともただの謙遜なのか…どちらにしても那智は、どうでも良さそうに欠伸をしている。
 自分の仕事に…と言うか、自らが持っている絶対的な強さを、那智はどんな風に受け止めているんだろう。それすらもやはり、どうでもいいことだとでも思っているんだろうか。
 それとも、厄介だなーとでも思ってるのかな…?
 いや、そんなはずはないな。こんなメチャクチャな、退廃して荒んじまった町だと、力こそが全てなんだから、余りある実力は持っていて邪魔になるもんじゃないだろう。
 ある意味それは、巨万の富さえも生み出すんだから…厄介なワケないか、ったく俺こそ何を考えてるんだ。

「でもさー、オレあんまり仕事しないんだよ。いつも鉄虎かベントレーが始末してくれてるし。仕事っつってもつまんねーのな」

「それは那智が強すぎてスムーズに仕事が早く終わるから…ってことか?」

「あー?んー、どーかな。話してるとさー、ムカツクんだよなぁ?たいした品でもねーくせに、値段を釣り上げてくるしよー。そうすると、怒られるのはオレたちなんだぜー?ふざけるなって思わない?そうしたらムカムカしてきてさぁ、気付いたら死体がゴロゴロ…別に頭に血が昇ったってワケでもないのにね、記憶がなーんにもない。も、ぜーんぜん判んねって感じでさー。まあ、オレは話し合うなんてガラじゃないし?殺す方が楽しいけど?」

 なるほど、仕事が速く終わるからあんまり仕事をしてない…ってワケじゃなく、ついつい交渉相手を殺してしまうから仕事にならなくなる、ってことだな。
 俺は思わず溜め息を吐いてしまった。
 そりゃあ、鉄虎とベントレーは苦労してるんだろう。

「…ネゴシエーターって売買の交渉とかもしてるのか?」

「するよ?殆どそう。人質を解放するように説得するとか言うのは昔の話。今じゃヤクの売買の交渉だとか、物資の売買、人身売買…って、売買ばっかだなー」

 ハッハ…ッと瞼を閉じて笑う那智を見ながら、俺はそれでかと納得した。
 どうして那智が、仕事中に必ず相手を殺すのか、よく判らなかったんだ。
 命辛々で逃げ出してきた仲間の1人が、那智の仕事現場を怖いモノ見たさで覗いていたらしいんだけど、そのあまりの凄惨さに声すらも出せなくなっていた。震えながら途切れ途切れに話してくれていたけど、色んな場所で目撃される那智は常に対の日本刀の柄を握り締めて、ニヤニヤ笑いながら血の海の中で立っているそうだ。
 血臭が一番良く似合う男だと、この町の住人は誰もが口にしていた。
 俺はてっきり那智は殺し屋なんだとばかり思っていたからそれも当たり前だと思っていたけど、そうか、那智はこの町の裏社会を取り仕切っているファミリーの一員で、そいつらがお抱えにしているネゴシエーターの1人だったのか。
 そうと知ってから、もうずっと不思議で仕方なかったんだ。
 ネゴシエーターなのに問答無用で殺すのか?
 交渉人だろ?
 だけど、腕に三日月の刺青がないから判らなかったけど、ネゴシエーターはつまり交渉人だから、交渉中にあのワケが判らない気の短さのようなもので、捨てる代わりに殺してしまうんだろう。
 それも、見るも無残にバラバラにして。
 一説では銃弾でさえその日本刀で弾き返すなんて噂が出てるぐらい強い那智のことだからなぁ、多少腕に自信のあるネゴシエーターぐらいどうってことないだろう。
 まあ、銃弾の件は尾ひれはひれってヤツだろうけど。
 そう考えれば合点がいった。
 この世界に点在している町には『機動警備隊』とは別に、裏社会、つまり俺たちのような半端なワルじゃなくて、気合の入った連中を取り締まっている組織が1つの街に必ず1つ存在しているんだ。そいつらはあらゆるあくどい方法で色んなものを貯め込んでいて、そう言う貴重なものを町ごとの組織で遣り取りをしている。その遣り取りを行うのがネゴシエーター、つまり那智たちってワケだ。
 噂では貴重なもの、つまり物資だとか薬だとかの取引だけじゃなくて、機動の連中が目を付けているグループの有益な情報を握っている証人なんかを説得して連行する仕事とかもあるらしいけど…仲間内で流れている噂に過ぎないからなんとも言えないんだけどな。
 俺たちの町は『道<タオ>』と言うファミリーが取り仕切っていて、組織の一員は必ず腕に三日月の刺青をしている。俺たちのようなケチなコソ泥のグループにとってそれは、憧れの対象でもあった。仲間の誰かがファミリーの一員になって、グループを抜けるときなんか、皆で祝福しながら心の中じゃ早く死ねって罵っていた。誰もがそうだったし、それが当たり前だからな。
 だってさ、『タオ』のファミリーに入れば食いっぱぐれることもないし、まあ狙われないと言えば嘘になるけど、ともかく特典が凄すぎる。誰もが入りたくて、でも入れない敷居の高い場所なんだ。
 平然と罵るヤツもいる。
 まあ、俺はおべんちゃらとか言えないから、そっちの部類に入ってしまうけど。
 ただ、腕に三日月の刺青を入れてしまうのもそれなりに覚悟がいる。
 なぜなら、こんな情勢だ。
 力こそが全ての世界で、なぜ腕に刺青を入れるのか…それは非情な『タオ』のボスである『下弦』が考えた掟のせいだ。

《腕に三日月の刺青を持つ者を殺せ。その腕を持参した者は報奨金と『タオ』のファミリーの一員となるべく権利を得るだろう》

 それが現在の『タオ』のボスが布告した掟だった。
 下っ端なんかだと寄って集って嬲り殺しにされるから、よほど腕に自信のあるヤツしか入らないし、入れない。長い歴史のある『タオ』の中でも、長く生き残っているのは鉄虎だと聞いていたけど…そうか、那智が『タオ』の一員なら那智もそうだろうな。
 だが…

「那智は腕に刺青がないんだな。タオの一員なんだろ?」

「あーん?まぁ、一応ね。でもオレ、お客さんだし?刺青入れる必要ないワケ」

「はー?そんなもんなのか??」

 あっけらかんと答える那智に、理解できないでいる俺が首を傾げていると、背凭れの部分に頬杖をついていたヤツは身体を起こすと、ダルそうに凭れながらニヤァ~ッと笑った。

「それに、刺青ってアレ、目印みたいなもんでしょ?コイツはタオの一員ですよ、殺しなさいって言うさぁ」

 ああ、まあ確かにそのとおりだ。
 下弦が宣言した事実上の殺人予告だ。
 機動すら手が出せないから、下弦の言葉こそこの町では絶対であり、覆せない残酷な命令でもある。
 参加するしないは自分次第だけど。
 俺が神妙に頷くと、那智のヤツは可笑しそうにニヤニヤと笑いながら先を続けた。

「オレの場合だと、刺青なんて必要ないし?日本刀が目印ね。これを持って行ったら、ぽちは犬だけど、ぽちでもタオのファミリーに入れるぜ~。いるかい?」

 ポンッと気軽に放って寄越されて、その突然の行動に思わず呆気に取られるよりも先に、慌てて放り投げられた日本刀を落ちないように受け取っていた…けど、なんだこの重さは!?
 ズシッと両手にかなり重い鉛でも乗せられたような重量感に驚いて、俺はこんな重いものを軽々と2本も操ってしまう那智のその腕力に、今さらながら閉口してしまっていた。

「い、いらねー。鄭重にお断りするよ」

「ハッハ!タオのファミリーに入りたがるヤツは多いのにさぁ、やっぱぽちもヘンなヤツだ」

「…俺の口癖を盗るんじゃねー」

「大丈夫。ちゃんと、もって言ってるだろー?」

「そう言う問題じゃねぇ」

 ムッと眉を寄せて唇を尖らせる俺を見て、さらに那智のヤツはニヤニヤと笑いやがる。
 つまり満面の笑みってヤツなんだろーけど、だからこそ、殊更腹が立って仕方がねぇ。
 アンタの日本刀なんか持って行ってみろ、その日から俺はこの町にいるありとあらゆる荒くれ者たちの標的になるに決まってら。この町の掟は強い者こそが全てなんだ、その頂点に君臨している浅羽那智を殺ったヤツが現れたとなれば、今度はソイツを殺そうと躍起になるってのが火を見るより明らかじゃねーか。
 まあ、俺にコイツの半分でも迫力があれば信じてもらえるだろうけど、大方、那智の悪ふざけぐらいにしか思われず、日本刀を取り上げられていい子でお家に帰りなさいと言われるのがオチなんだろーけどな。帰してくれるなら運がいい方で、那智の悪ふざけに付き合った咎とかなんかで、恐らく俺がこの町を見ることは二度とないだろう。
 それならそれでもいいけど。

 俺がそう言うと、那智のヤツは「そう言うもんかぁ~?」と言って、どうも本気で違うだろ?と思っているようだったが、そうなんだよ!
 アンタほど自分の実力を知っていて、そのくせ無頓着なヤツも珍しいよ。
 夜の帳が下りた街角で、漆黒のコートを着た両手に対の日本刀を握り締めて、血塗れのアスファルトに転がる人間の頭を片足で踏み締めながら嫣然と笑うその姿が、どれほど俺たちの心臓の奥深いところまで恐怖を植え込んでいるか、脳裏の隅々まで畏怖を沁み込ませているか…本気で判らないなんて言うんだったら、頼むから一発殴らせてくれ。

「まあ、タオの一員なんてウゼーだけでつまんねーんだけどな。殺しができるからまあ、いいかなって思ってるぐらいでさぁ」

「人殺しが楽しいのか?」

 素朴な疑問だった。
 俺は、こんなご時勢だけど、人殺しは嫌だ。
 できれば、殺すぐらいなら死んだ方がマシだった。
 もう、何人も死人を見てきた。
 見るだけでもうんざりなのに、殺すなんてどうかしてる。
 できれば俺のほうが死にたいぐらいだ…そうしたら、もう一度逢えるのかな。

「面白いぜ~?最初は偉そーにしてるけどよ、腕が跳ね飛ばされるときのソイツの顔は見ていてゲラゲラ笑いたくなる。許しを請うっつーのかな?憐れっぽい目付きしてさぁ、そうしたらオレは、慈悲深くなっちまうのな。鄭重に止めを刺してやるというワケ」

「そういうのを慈悲深いって言うのか?」

「え?違うのか??鉄虎はそうだと言ってたぜー」

「ははぁ~…なんか、今夜の仕事に着いて行きたくなくなってきたよ」

「…なんで?」

 普通に判らないとでも言いたそうな無表情の顔で見詰められて、俺は眩暈を覚えていた。
 そうか、那智は何も知らない子供みたいに純粋なヤツなんだ。だから、教えられたことを素直に聞くんだろう。
 俺は、この素直な那智に湾曲したモノの考え方を植え込んでいる鉄虎と言う男に、できれば会いたくないと思っていた。
 那智だって手が一杯なのに、鉄虎なんて言う化け物と対等に遣り合えるのか、今から不安になってきたんだ。
 そう言えば、那智には鉄虎とは別にベントレーとか言う曲者もいたんだっけ?
 ますます頭を抱え込みたくなってきた俺に、那智は無表情の顔のままで問い質してくる。
 なんで、着いてこないなんて言い出すんだ?と、大方聞きたいんだろう。
 俺はもしかしたら、無謀なことを切り出してしまったのかもしれない。
 那智の仕事について行く、なんて言うんじゃなかったなぁと今さら思ってみても、それはやはり、後の祭りと言うことになる。

 寄せては返す時の波に、たゆたうように運命が翻弄されている。
 たとえそれが真実だったとしても、俺は何も感じないんだろう。

5.ぽちの憂鬱  -Crimson Hearts-

 鬱陶しい雨だがそれほど嫌いだと言うワケではない。
 寧ろ。
 このまま延々と振り続けて、良ければこの虚ろな世界すらも押し流して消滅させてくれればと思う。
 けして起こり得ない幻想を胸に抱いたままで、那智は殊更機嫌良く人影も疎らの往来を足早に渡っていた。
 夕暮れ時は逢魔が時とも言って、人の心を狂わせるような何かを秘めているのか、それとも、混沌とした夜の訪れに怯えた人々が恐怖から起こす突発的な衝動のせいなのか、夕暮れ時は特に殺傷事件が多くなる。
 その為、人々はできる限り外に出ようとしないし、こうして暢気に警戒心さえも抱かずに町を歩いているのは精神が崩壊したジャンキーか、或いは物乞いせずにはいられないほど貧しい子供たちか、はたまた夜な夜な男を求めて彷徨う場末の娼婦たちか…また或いは、人殺しを何よりの糧として、面白味の失せた世界を薔薇色に染め上げてくれる殺戮行為に快楽さえ感じている、矢張り心を何処かに置き忘れてきてしまったのだろう、虚ろな器のような泣く子も黙る浅羽那智ぐらいだろう。
 現につい先ほども、暢気に歩いている男に目を付けた凶暴な物盗りが、黒コートに隠れていた2本の鞘に気付いて息を飲むと、すごすごと裏路地に隠れてしまった。
 その気配にすら気付いているのかいないのか、那智は気に留めた様子もなくぶらぶらと、まるで散歩でもしているような気楽さで砂利だらけの、遠い昔には舗装されていたのだろうアスファルトの道を踏み締めるようにして歩いていた。

「ぽちは~、いい子にしてるかにゃぁ?」

 ニヤニヤ笑って、それから意志の強さを秘めているようにキラキラと光る双眸を顰めた眉の下で細める、あの首輪を付けた可愛い犬の顔を思い出してニヤァ~ッとその邪悪そうな笑みを更に深いものにした。
 本来なら犬は、ご主人様に千切れんばかりに尾を振ってついて回るものだ。
 たとえば、キッチンに行けばキッチンに、ランドリー室に向かえばランドリー室に、果てはバスルームに来たっておかしくないと言うのに…あの犬は、全身で警戒したように那智の存在に怯えているようだった。

「まあ?野良だったし?最初は懐かないもんさ。オレ様気長だし~、ぽちがいい子になるまで充分待てるもんねー」

 フフーンッと胸を張る那智の存在に、夜陰に乗じて何かを仕掛けようと企む連中でさえ、一瞬出遅れてそのチャンスを逃してしまう。そんな風に悪運が強いばかりで生き延びてきたわけではない。
 那智の持つ本来の戦闘能力は一度目にした者ならば、余程腕に自信があるか、或いは全くの向こう見ずの若造が、駆り立てられた妄想に突き動かされる行動ででもなければ、襲いかかろうなどとは思いもよらないことだろう。
 だが、最近この町にも、至るところで溢れ返った人口のはみ出し者たちが集まってきていた。
 あれほど人が死んでいると言うのにこの町は、いや、この世界の人口が減ることは全くない。
 死の恐怖に耐えられなくなった者、自分より弱い者しか相手に出来ない小心者、己の一時凌ぎの快楽を味わう為だけに襲う者などなど…そんな連中の捌け口になってしまった女たちは子を孕み、人が死ぬのと同じぐらい哀れな命が日々誕生し続けている。そんな悪夢のような連鎖が日常的に起こっているのだ、ぽちが悲観して死にたくなるのも頷けてしまう。

「ぽちには…牛乳かぁ?そーだな、それと…今夜はタンドリーチキンでも作ろっかなぁ♪」

 そんな世界中の悲観などどこ吹く風で、那智はただ今日一日を思うように生きている。
 悲観して死ぬなどとんでもない、ましてや殺してくれ?自殺?どこのバカの考えることだと鼻先でせせら笑うだろう。彼は、確かに生き続けたいと執着するほどまでは思っていないまでも、死に執着することもない。
 ただ、生きているから生きている。
 死ぬときは、まあ仕方ないか…ぐらいの考えの持ち主なのだ。
 今が楽しければそれでいい、楽しみなどない町だけど…世界中を探しても同じなら、この町で鼓動が止まるその時までは生きているのも悪くないだろう。
 そんな考えを持つ浅羽那智は、見慣れた砂岩色の壁を持つアンティークな我が家を視界に入れて嬉しそうにニヤニヤと笑っていた。

「チキンばかりだと身体を壊すかもなぁ…ぽちは肉付けねーと。弱すぎ」

 ズバズバと、帰ってくるなり黒コートを脱いで腰の鞘を乱暴に引き抜くとソファーに投げ出した那智は、派手なアクションでドアを開いて入ってきたこの家の主の登場に酷く驚いて動揺している俺になんでもないことのように言い放ったんだ。
 なんだって言うんだ??
 目を白黒させる俺をジッと、その光の加減によっては赤に見える、少し色素の薄い凶暴性を秘めた双眸で、そのくせ気のなさそうな表情で見詰めていた那智は、フッと口許の力を抜いて笑ったようだった。

「犬は通常、ご主人様が戻ってきたら『寂しかった』と言って擦り寄ってくるもんじゃねーのかー?」

「悪かったな。生憎と育ちの悪い雑種なんだよ」

 以前はあれほど恐怖に駆り立てられていた存在だったはずの那智に、最近の俺はそんな風に軽口を叩けるようになっていた。とは言え、それだって本当は緊張から来るものだったんだが…あわよくば、この浅羽那智が煩いハエだぐらいに思ってくれて、あの底冷えのする青白い刃を持つ日本刀でこの首を刎ねてくれたらいいのにと言う、浅ましい考えがないと言えばウソになる。
 わざと乱暴に突き放したら、或いは答えが見えてくるのかも…そんなこと、有り得るはずもないんだが。

「あーん?雑種は好きだなぁ。頑丈で、懐いたら可愛いしー」

 どうでもいいことを呟きながら髪から水滴をポタポタと落とす那智は、相変わらず毎日抱えて帰る紙袋の中から何かを掴んで取り出すと、一瞬警戒する俺にソレを無造作に投げて寄越してきた。
 条件反射で慌てて受け止めた俺の手の中に納まったそれは、紙パックの牛乳だった。
 第三次大戦以降、物資があまりにも不足している現代では、500mlの紙パックの牛乳など拝むのも難しいぐらいだ。今では、牛乳に似た混ざり物が、それでも高額で取引されていたりする。

「んー?牛乳は嫌いだったかぁ??」

「い、いや…嫌いだとかそんなことじゃなく。これ、高いんじゃないのか?」

「はーん?なんだそんなことかよ。嫌いじゃねーならいーじゃねーか。メシ出来るまで大人しくあっち行ってろ。なぁ?」

 雨に濡れすぎたせいで冷えているのか、那智のひんやりした指先が俺の髪の中に潜り込んできた。
 思わず身構えると、那智のヤツは呆れたように肩を竦めてニヤニヤと笑いながら行ってしまった。キッチンに姿を消した奇妙な男は、鼻歌交じりに「まだまだ懐かないねぇ」と楽しそうに呟いている。
 何もかもがアンバランスな気がして、たまにここに居ると頭がおかしくなるような気がするんだが…気のせいなんだろう。
 那智は料理を作るのが大好きなようだった。
 そのくせ、自分は一口も食べないんだが…外で何か食ってきているんだろう。
 こう言うところも、不思議だと言えば不思議だ。
 料理を作るのが好きなくせに自分では一口も食わない、じゃあ、今まではその作った料理はどうしていたんだ?
 那智はやっぱりこんな風に、誰かを拾ってきて『犬』と呼んで世話をしていたんだろうか…
 手の中で冷えている牛乳パックの内容物がちゃぷんっと音を立ててはねたようだ。

「バカみたいだな、俺。こんなところに閉じ篭ってるから、バカみたいなことばかり考えて…脳味噌が腐っちまうんだ」

「じゃー、オレの仕事についてくる?」

 暫くぼんやり考え込んでいた俺が唐突にハッとして顔を上げたら、いつの間に近付いて来ていたのか、両手に湯気が上がる美味しそうな料理を乗せた盆を持った那智が立っていた。
 その目付きは冴え冴えとしていて、見下ろす双眸は冷たかった。
 あの日、俺を拾うときに見せていた、あの虫けらでも見るような興味のなさそうな冷めた双眸は、ジッと見詰めていると尻の辺りがもぞもぞするような、どうも居心地の悪い罪悪感のようなものを感じてしまう。
 何故かと問われても答えられないが…たぶん、本能が警鐘を鳴らしているんだろう。
 コイツを怒らせたらヤバイと。
 ん?と、言うことは、那智は怒っているのか?
 俺が逃げ出したいと思っているんじゃないかとでも考えて?
 俺は溜め息を吐いていた。
 この狭い町で、那智の目の届かない場所なんてないじゃないか。
 俺よりも古くからこの町に棲み付いている那智だ、何を考えているんだ。
 いや、こんなことを妄想する俺の方がどうかしてる。

「いや、別に俺はアンタから逃げ出したいとか思ってるわけじゃ…」

「はぁ!?んなの、当たり前でしょーが。なに?ぽちは逃げ出したいわけ??こんなクソみてーな町に?ご冗談でしょ」

 自分で言って自分で否定する、もちろん、俺の感情なんかその時点では丸っきり無視だ。
 ニヤニヤ笑いながら首を左右に振って、両手で掲げるようにして持っていたご自慢の今夜のご馳走をテーブルの上に乱暴に置くと、那智はニタ~ッと笑って上目遣いに見上げてくる。

「退屈なんだろー?だったらさぁ、オレの仕事についてきなよ。犬はさ、自由でないとストレス溜まっちゃうワケよ。だからさ、んな、ワケの判んないこと考えるんだぜ?外の空気吸いにいこーな」

「…アンタって、よく判らないヤツだな」

「あー?そうかぁ?鉄虎に言わせれば、オレほど判りやすいヤツはいないらしーぜ」

 テツトラ…そう言えば、確か那智には仲間がいて、ソイツの名前が鉄虎とベントレーと言っていたな。
 俺自身が直接拝んだわけじゃないが、吹き溜まりで屯していた連中が口々に罵っているときに良く出てきた名前だったから覚えている。
 俺が所属していたコソ泥集団でも、やっぱり浅羽那智は畏怖の対象であり、変な意味、尊敬の対象でもあった。
 もちろん俺も、少なからず那智を恐れながらも憧れていたさ。俺だって男だ、絶対的な、圧倒的な強さを前にすればこんな風に一度でいいからなってみたいと思っちまう。そうすれば、もしかしたら、あんなことにはならなかったかもしれないのにと…弱気な心が訴えてくる。
 強さが欲しかった。
 もう、今更なんだけど。
 だがまあ、当のご本人がこんなヤツだとは知らなかったけどな!
 あの頃の俺たちには、浅羽那智と言えばこの町で神にも等しいぐらい高みに居る存在で、手を伸ばしても届かない、漆黒のコートに身を包んだ死を司る最強の神だった。
 その脇を固めるのが鉄虎と言う巨体の男と、ベントレーと言う小狡賢そうなヒョロリとした男だと聞いていた。
 俺だって、その存在に一度は会ってみたいと思っていたさ。
 だが、実際にお目にかかるには、自分自身の首が狙われるしかなかったんだ。
 それ以外の方法と言えば、偶然誰かが襲われている場所に出くわして偶々拝んじまうって言う、この世界ではなかなか有り得ないチャンスが訪れるってことぐらいだが…もちろん、それ以外の危険から身を守らなければならない俺なんかだと、夜中にうろつくなんて命知らずなことはできなかったから丸っきり無理な方法なんだけどな。
 この町で一番危険だと言われる夕暮れ時か、或いは真夜中にしか出没しないと言われる浅羽那智との遭遇だ、その殺人現場から偶然出くわして命辛々逃げ出した連中の噂でしかその存在を耳にしたことはなかったのに…まさか、こんな形で出会う羽目になるとはなぁ。
 いったいどんな、アンビリーバボーだよ。
 ニヤニヤと笑いながら椅子に腰掛けていた那智は、長い足を組んでテーブルに頬杖をつくと、顎をしゃくるようにして呆然と突っ立っている俺にも座れと促した。
 一瞬戸惑った俺は、それでもいつも通り椅子に腰掛けると「どうぞ、召し上がれ」と片掌を上に向けて上げる那智の動作を見詰めながら、ナイフとフォークを取ろうとして掌の中にある牛乳パックに気付いて眉を顰めた。
 そうだこれ、どうしよう。
 こんな高価なものを…いや、目の前の食事だって本当はどこで手に入れて来るんだと首を傾げたくなるほど高価で、俺みたいにケチなコソ泥じゃあ一生かかってもお目に掛かれないような代物なんだ。
 冷蔵庫に仕舞っておいたら駄目かな。
 一瞬、チラッと上目遣いで那智を見ると、薄ら寒い笑みをいつも口許に浮かべている奇妙な男は、軽く眉を上げて首を傾げて見せた。

「どーしたぽち。牛乳はいらないか?」

「いや、えっと…ッ!」

 言い訳を試みようとしたその時、伸びてきた腕があっさりと大事に持っていた牛乳パックを奪い取って、表情の変化も見せないまま那智のヤツはそれをダストシュートに投げ込んじまったんだ!

「な、何をするんだ!」

 転がるようにして椅子から飛び降りた俺は、たった今ダストシュートに投げ込まれてしまった牛乳パックを慌てて拾い上げると、強い力で投げられたわりには破れてなくて、角がへこんだぐらいのパックにホッと息を吐いた。

「ハッハ!犬はやっぱり牛乳好きなんだな」

 ニヤニヤ笑う那智に振り返って、俺はそのニヤ~ッと邪悪そうに笑っている顔を睨みつけて牙を剥いた。犬だと呼ぶならそれもいい、だが、粗末にするのは許せない。
 お前には、食事がなくてひもじくて、たった僅かな食い物を必死で分け合って食いながら生き延びることの惨めさや悔しさなんてのは判らないんだろうな。
 だから俺は、どんなに気安くされていても、心のどこかでアンタを好きになれなかった。

「…へぇー、ぽちでもそんな目付きをするんだなぁ」

「アンタに!…ッ、何が判るんだよ。人のこと犬だといって馬鹿にしてるアンタには、ケチなコソ泥なんざクソみてーなモンだろうな!」

「コソ泥?あー…ぽちは野良だもんなぁ。残飯でも漁ってたか?」

「…ッ!人のこと馬鹿にしやがってッ!だいたい、なんでアンタみたいなヤツが俺に興味を示したのか判らなかったんだ。おおかた、そうして馬鹿にするためだったんだよな!こんなクソッタレな場所で…!クソ…畜生!」

 自分でも、何を言ってるのか判らなかった。
 ただただ目の前が真っ赤になっていた。
 貧しさで家族を亡くしてしまった気持ちなんて、コイツには判らないんだ。最強と謳われて、欲しいものは何でも手に入れてきただろうこの男に、何を言ったって無駄に決まっているのに、それでも何か言っていないとメチャクチャになりそうな俺がいたんだ。

「ぽち?」

 急に喚き出した俺に驚いているのか、それとも全く何も感じていないのか、妙に冷めた双眸をして那智は立ち上がると、全身で身構えている俺の傍まで暢気に歩いてきて首を傾げて見せた。
 そんないちいち癪に障る行動に苛々しながら、俺はすぐ傍まで来た那智が、気軽に伸ばしてきた腕を条件反射で振り払っていた。
 もう、こんなところには一秒だっていたくない。
 恐怖だとか怯えだとか、そんなものに支配されていたはずの俺の肝っ玉もやっぱり男だったんだな、殆ど我武者羅だったから恐怖心なんかスッカリ忘れて那智に言い放っていた。

「気安く触るなよッ!…アンタには助けてもらって感謝してる。だが、俺は犬じゃない。この恩はきっといつか返すけど、だからと言ってアンタに『犬』呼ばわりされてここにいるつもりはない!」

 振り払われた掌を、何を考えているのか、那智のヤツはただ呆然としたようにジーッと見下ろしている。犬の反抗に、どう対応したらいいのか判らない、そんな態度がますます俺を苛立たせた。
 もちろん、那智が本当にそんなことを考えているのかどうかなんてことは判らなかったが、一連の態度が俺に先入観を植え付けていたからもうダメなんだ。

「ちゃんと礼ができるようになったらここを訪ねるつもりだ。感謝はしてるんだ。だが、馬鹿にされるのはどうしても嫌だ!世話になったなッ」

 吐き捨てるようにそう言って、俺は首に下がっている首輪を掻き毟ってでも剥ぎ取りたい気持ちをグッと堪えて、なんとも言えない奇妙な顔付きをして掌を見下ろしたまま立ち尽くしている那智の傍を通り過ぎようとした。もう、俺のことすら眼中になさそうな那智のその態度は、俺が立ち去ることにも無頓着なようだった。
 なんだ、案外あっさりしていたんだな。
 クソ、そう考えてしまうと、なんだ、俺の方が居心地がよくてここに居座っていたみたいで胸糞が悪くなる。まあ、実際はそうだったのかもしれないけど…
 さて、これからどうするかな…そんなことを考えながら通り過ぎようとする俺の腕を、唐突にガシッと掴んできた思いのほか強い力に、俺は思わず飛び上がりそうになってしまった。
 掌を見下ろしたまま、俺の腕を掴んでいる那智に、何が起こったのか判らない突発的な動作には心臓がギュッと縮こまるような恐怖心が甦ってきた。
 殺されるんだろうか…ふと、そんな思いが脳裏を巡ったときだった。
 面白くもなんともない、いや、感情すら持ち合わせてはいないんじゃないかと言うほど無表情に掌を見下ろしていた那智は、目線だけを動かして俺を見たんだ。
 そう、何の感情も浮かべない、まるで人形のような無機質な眼差しで。
 それがどれほど恐ろしいものであるか、俺はこのとき初めて知った。
 全身から嫌な汗が噴出して、あまりの緊張感に軽い眩暈すらしている。

「ぽち?はぁ??何を言ってるんだ?世話になった??どこか行くのか?」

「…え?」

 なんとも言えない口調でキョトンと呟く那智は、その無機質な感情のない双眸とは裏腹の、やけに拍子抜けするほど不思議そうに頓珍漢なことを言ったんだ。

「どこかに行くなら…オレも一緒に行くぜ?夜になるとさぁ、この町は結構危ないワケよ。ぽちなんか可愛いだけで、他はまるで無防備だからさぁ。すぐに殺されちゃうんだぜー」

「…ッ」

 お前から離れてこの家を出ると言っているのに、何でお前がついて来るんだよ。
 いや、その前に、いったい何を聞いていたんだ?!

「そうやって、俺を鼻先で笑うんだろうな。アンタたち、力のある連中はいつもそうだ。そうやって、這い蹲って生きている連中を嘲笑うんだよ」

 何も感じもしないで。
 クソみたいな常識が全てだとでも言うように。
 弱いヤツが悪い、そんな馬鹿みたいな屁理屈を本気で信じやがって!

「もういい。アンタ、殺し屋なんだろ?俺を殺してくれよ。依頼なら何でも受けるって聞いた。じゃあ、俺を殺してくれ。西地区の36番地に壊れかけた古いビルがある。その3階の奥の部屋にベッドがあって、その下に金庫があるんだ。そこに俺の全財産が入ってるからそれを代金にしてくれ。130万ある」

 もう、何も聞きたくなくて、俺は捲くし立てるようにして一気に言った。
 那智がどんな顔をしているのかだとか、あの無機質な冷たい目なんか見たくもないしで、俺は床を睨みつけながら死を司る、この最強の神が下す決断をジッと待っていた。
 那智の腕なら、俺の首を圧し折ることぐらい朝飯前だろう。
 わざわざ、その鞘に収まった愛用の日本刀を、こんなケチなコソ泥の血で汚すことなんてないんだ。
 唇を噛み締めたら、なぜかじんわりと目の前が滲んで、俺は自分が泣き出しそうになっていることに気付いて舌打ちしてしまった。
 こんなことぐらいで泣くなよ、あれほど酷い目にあったって、こうして生きてきたじゃねーか!
 ああ、クソッ!
 力が、力があればよかったんだ。
 そうすれば、みんなあんな風に酷い死に方をしなくても良かったのに…俺だけがおめおめと生き残って、きっと彼の世に逝ったら謝らないとな。
 もう、こんな世界で地獄のような夢に魘されて生きていくのなんか真っ平だ。

「130万で殺しねぇ。ふーん、別に構わねーけど?で、誰を殺すんだぁ?あーでもオレ、殺し屋じゃねーよ?」

 不意に、的外れなことを言って面倒臭そうに頭を掻いている那智を、俺は呆然としたようにして見上げてしまった。いや、殆どたぶん、呆れていたんだと思う。
 コイツは一体、何を言っているんだ?
 誰をって…俺だって言ったじゃねーか!
 殺し屋だとかそんなこと、問題じゃないだろ?!
 コイツは、いったい何を言ってるんだ。

「オレー、ネゴシエーターなんだよね。まあ、必要に迫られれば殺しもするけどさー。んー、殺しは殆ど趣味だし?殺れっつーんなら殺ってもいーけどよ、別に」

「ネゴシエーターでも何でも構わないんだ!俺だ、俺を殺してくれ」

「なんで?」

 殆どキョトンとしたように、那智は俺の腕を掴んだままで見下ろしてきた。
 いったいこのワンコは、突然何を言い出したんだろうと、妙に冷めた双眸が見下ろしていた。 今までの話が一体なんだったのか…俺は眩暈を起こしそうになる弱気な脳味噌に確りしろと刺激を与えて、本当に良く判らなさそうに首を傾げている那智を見上げた。

「なんでって…もう、こんな世界は嫌だからだ。生きていくのが嫌なんだよ!嫌だから、死にたいんだ!」

 それの何が悪い?
 それなのにアンタには、こんなに言っても無駄なのか?
 そんなに俺を、蔑みたいのか?

「生きるのが嫌なのか?ふーん、じゃあ死ねばいい。そら、バーン!だ。これでたった今、お前は死にました。ハッハ!それで、生まれ変わってオレのぽちになったってワケ。知ってるかぁ?人間てヤツはなぁ、死ねば生まれ変わるんだぜ?それが同じ世界だったとしても、もうオレはお前を殺してやらない。だから次に死ぬときまで、大人しく『ぽち』でいればいいーんだよ。なぁ?」

 そう言って、那智のヤツは呆然と立ち竦んでいる俺の顔を覗きこみながら、ニヤ~ッと笑いやがったんだ。さも満足そうに、自分の言うことこそが全てだと、ヘンな自信にふふんと胸を張りながら…
 コイツはなんなんだ?
 なんと言う生き物なんだ??
 何も考えられずにグルグルする頭を持て余して倒れそうになる俺を、那智はニヤニヤと笑いながら抱き締めてきたんだ。

「可哀相になぁ、ぽち。でも安心しろよー?お前はオレがちゃんと面倒見てやるからな」

 頭に頬を寄せながら、グリグリと掌で後頭部を撫でてくる那智のその態度は、あくまでも俺を『犬』としてしか扱っていない。
 どうやら俺が、大好きな牛乳を勝手に奪われて、「何すんだよ、このバカ飼い主!」とワンワン吼えて怒っているのだと本気で思い込んでいるようだ。
 ああ、そうか判った。
 コイツを普通の人間だと思っちゃいけないんだ。
 たぶん、こんな世界に生れ落ちたコイツは、心を母親の腹に置き忘れてきた身体ばっか大きな子供なんだろう。
 玩具のようにして人間を殺すことで楽しさを感じてきた大きな子供は、どこが捻じ曲がったのか、俺を『犬』に見立てて育てることに楽しみを見出したのかもしれない。
 理解しろと言われても、理解なんか到底できないけど…俺は。
 死に損なっちまったな、とそんなどうでもいいことをぼんやり考えていた。
 これでコイツに命を助けられたのは2回目だ。
 皮肉なもんだな、死を司る神だと言って怖れられている、死を玩具にしてその掌の上で転がして遊んでいるようなヤツに、二度も命を救われるなんて…本当に、この世界はどうかしている。

「やっぱり、アンタはよく判らないヤツだ」

 殆どヤケクソでそう言ったら、那智のヤツはキョトンとして、それから何が面白かったのかニヤニヤと笑ったんだ。

「それはぽちがオレのことを良く知らないからさー。まあ、任せろって。仕事についてくればオレのことがよく判るようになって、きっとお前はオレに懐くんだから」

 またしても頭がどうかなってるんじゃないかと思うような台詞を平気で言って、那智は結構楽しそうに笑っている。その思惑や真相だとかが、もしかしたら俺の取り越し苦労なんじゃないかと思えてしまえるほど。
 那智のヤツは、本当はそんなつもりはなくて、思ったことをそのまま口にしているから皮肉になってしまうんじゃないだろうか。
 装飾されて飾り立てられた言葉に慣れすぎている俺なんかだと、那智の言葉にいちいちカッカして、卑屈になって途方もなく落ち込むんだけど…コイツはもしかしたら、そのあまりの強さのせいで刃向かうヤツとかいなくて、上辺のおべんちゃらを言うってことを知らないのかもしれない。
 それは人付き合いの上で最重要部分だって言うのに、那智はいったい、どんな風に育ってきたんだろう?
 人間はいつも、何かしら嘘をついて生きている。
 たとえばそれは、思ったことを装飾して話すことだって嘘の一種なんだし、それをしない那智と言うこの男は素直すぎるほど、ただ単に素直なだけなのかもしれない。
 だが、そのどうも腹に一物も二物も隠し持っていそうな、何か悪巧みしているようなニヤニヤ笑いの顔を見ていると、いまいち自分の考えに自信が持てないんだが…
 ますます頭がこんがらがってしまって、俺はなんだかバカらしくなって、もうどうでもいいような気になりかけてもいた。この際だ、那智が言うように仕事について行って、コイツのことを見極めて見るのもいいのかもしれない。
 俺は溜め息を吐いて、そんな恐ろしいことをどうでもいいことのようにして考えていた。
 本当にどうかしてる。
 いや。
 どうかしているのは俺の方なのかもしれない。

 俺の中の均衡が、この世界のように、ゆっくり軋んで狂いだしている。
 俺はそんな幻を見ていた…

4.雨の町  -Crimson Hearts-

 言葉は噛み砕く度に不思議なほど苦く身体中に浸透していた。
 フワリフワリと宙を歩くような奇妙な違和感に、気付けばいつも笑みが零れていた。
 両手を持ち上げてふと見下ろしてみれば、べっとりと張り付いた血生臭い液体が指の隙間を伝っていくつもいくつもボタボタと零れ落ちている。
 あまりにも当たり前すぎる日常に忘れていることが多すぎて、たまに自分が何処にいるのか判らなくなってしまった。
 世界はまるで無頓着に回転し、気怠い午後の日差しのように、どうでも良い日常に無情の光を投げ出している。
 当て所もなく流離うこの世界が回る、そんな馬鹿げた錯覚に囚われながら、オレは瞼を閉じて無常の雨を受け止めていた。

 雨が降り続いていた。
 もう、止むことはとっくの昔に忘れてしまったんだろう、酸に侵された雨は鬱陶しいぐらい空を舐めるように覆いつくす曇天の空から降り頻っていた。
 きっと、この世界のどこかで日毎、夜毎繰り返されている殺戮の血を洗い流そうと、自然の浄化作用でも働いているんだろう。
 そんなもの、人間が抱える欲望が産み落としたこんな世界では、まるで無意味だと言うのに、地球は諦めてはいないようにこんな風に四季を残していた。
 差し詰め今は、雨期に当たるんだろう。
 浅羽那智だと名乗った俺のことを『ぽち』と呼ぶあのふざけた男は、雨が好きなのか、こんな酸性濃度の強い危険極まりない、いつもは悪事なんか見て見ぬふりの機動警備隊ですらも『外出禁止令』等と言うものを発令しながら空を飛び回っているって言うのに…平気で出掛けて行ってしまった。
 今のこの荒んだ世界にも、高度成長期だった電脳文明の名残が息衝いていて、警備システムが未だに起動している。俺も良くは知らないんだが、遠隔操作?或いは何らかのコンピュータで制御されているらしいって噂は聞いたけど、その実体がどんなものかはよく判らないんだ。
 ただ、警察が使っている番犬みたいなもので、俺たちはそのコンパクトな銀色のボディが凶悪な空飛ぶ鉄の塊をコソリと『K-9(ケイナイン)』と呼んでいる。
 そいつに見つかったら最後、些細な喧嘩だって容易く通報されちまうからな。
 そんなことになったら機動警備隊の連中がすっ飛んできて、容赦なく捕獲すると収容所に連行されちまう。そうなると、生涯出てくることはないかもしれない…
 俺は実際にその場所に行ったことがないから知らないが、簡単に『収容所』と呼ばれているその場所は旧時代の産物で、第三次大戦が勃発する前まで世界中が行っていた『クリーンシステム』の名残だと言われている。
 俺たちは第三次大戦前を『旧時代』と呼んでいるんだ。
 もう、知ってるヤツなんて殆どいないんだろうけど…その当時、世界中は高度に発達した電脳文明を思う様駆使して、なんともバカらしい『浄化システム』なんて言うのを作り出して実行していたんだそうだ。
 その概要ってのがなんともお粗末で、簡単に言えば『悪事をなくして住み易い町作りをしましょう』ってのが根本のスローガンだったらしい。そうして配備されたのが警察とは別の『機動警備隊』と言う組織で、その連中が世界規模に張り巡らせた警備網が俺たちが俗に『K-9』と呼んでいる警備システムのことだ。
 機動警備隊は少しばかり形が変わっているんだが今も健在で、各主要都市には必ず配置されている。それも大規模な部隊編成だから、警備システムがワンワン吼えれば何処にいても数秒で駆けつけてくる。見つかれば最後、奴らが居座る巨大ビルの地下に設置された収容所に叩き込まれるんだ。
 引き摺って連れて行かれてたのをもう何人も見たことがあったけど…戻ってきた奴は1人もいなかった。
 だから俺たちはその収容所のことを『エル・ヘヴン』と呼んでいる。
 この世界で生きる連中の誰もが心のどこかに必ず、永遠の安らぎを求めているんだ。それはこんな世界に生まれてしまった奴なら誰だって抱える、心の闇の部分だったから、収容所でどんな極悪な日々が待っているのか、或いは生きることよりも辛く苦しい責め苦を与えられる場所かもしれないと言うのに俺たちは、まるでそこを天国か何かのように考えていた…のかもしれない。
 そうでも考えていないと、それでなくてもこの日常だって充分、極悪すぎるほど極悪な毎日なんだ。町のどこかでは必ず殺人が起こっているし、女は必ず一度は犯されている。子供は哺乳瓶の代わりにナイフを与えられて、仲間と過ごすことを教わる代わりにどれほど敏捷に人を殺せるかを生きていく中で覚えていくような、そんなクソッタレな世界なんだ。
 両足で立っている俺ですら『ぽち』と呼ばれて、首から兇悪なスパイクが禍々しい首輪を下げて町中をうろついたとしても、誰も気にも留めやしないだろう。それどころか、スパイク部分の鉄を奪おうとして襲い掛かって来る、それぐらい、無頓着で凶暴な町だった。
 ここだけじゃない、世界中がそんな風に荒んでいたからな。
 その荒んだ世界で未だに『クリーンシステム』が起動してるなんて、一体誰の悪い冗談なんだ?
 チャリッ…と無機質な音を鳴らす首輪の違和感に、未だに慣れないでいる俺はアンティークな窓枠に凭れながら冷たい雨にけぶる灰色の町を見下ろしていた。

 浅羽那智は、ちょうど『ぽち』が物思いに耽って世を儚んでいるその時、腰のベルトに無造作に突き刺した対の日本刀を両手で掴んで笑っていた。
 その血の気の失せた白い頬にはたった今噴出した断末魔の名残が飛び散り、紅い舌がペロリと伝い落ちてくる鮮血を舐めて味わっていた。
 漆黒のコートが吸い込んだ血の重みでズシリと重くなっているはずだと言うのに、那智はさほど苦にした風もなく、降り頻る雨の中で呆然と突っ立っていた。

「あーあ、また殺っちまったよ。コイツ等から聞きてーことがあったのによ」

「またまたぁ~そんなご冗談を」

 背後から呆れたようにニヤニヤと笑いながら姿を現した頑丈な体躯の男と、ヒョロリと頼り甲斐のなさそうな男が那智の言葉にヤレヤレと肩を竦めて顔を見合わせている。

「おーかたどっかのジャンキー君だろ?全く、つまんねーな」

 那智は呟くと、たった今アスファルトに上半身と下半身をバラバラに撒き散らした男たちの亡骸を蹴飛ばしながら、肩を竦めるどうやら『仲間』らしき連中を振り返った。
 その脱色し過ぎて黄褐色になった髪を持つ、どこか飄々として馬鹿にしたような、気楽そうな双眸に射竦められただけで男たちは微かに息を飲んでいた。
 しかし、流石に長い付き合いなのか、ヤレヤレと溜め息を吐きながらすぐに気を取り直したようだった。

「つまんねーつまんねー言ってろよ?それで証人どもを殺されてちゃたまんねーんだがな。ええ?」

「証人だと!?ハッハ…」

 まるでどの口で言ってるんだとでも言いたげに、瞼を閉じて口許を笑みに象る那智の単純な笑い方にも、底知れない恐怖を感じているのか、ヒョロリとした男は寡黙そうにソワソワと辺りを見渡している。

「そろそろ『K-9』が嗅ぎつける頃じゃねーか?こんな場所からはサッサとおサラバ…」

「はーん、ワンコがなんだって?」

 口許に笑みを浮かべたままで、那智は2本の刀にベットリと付着しているどす黒い血液を一振りして散らしながら、腰のベルトに無造作に突き刺している鞘に納めて黒コートの下に隠してしまうと馬鹿にしたように腕を組んだ。
 この世界に生きる住人ならば誰しもが怖れて震え上がる『K-9』の存在も、浅羽那智と言う男にはそれでも纏わりついて煩い蚊程度にしか考えていないようだと、ヒョロリとした男は薬でボロボロになったギザギザの歯をカチカチと鳴らしていた。

「まあ、ベントレーの台詞じゃねーが。『K-9』が来れば確かに厄介じゃねーか?」

「ふーん…」

 ベントレーと言う明らかに名前負けしているストリートキッズ崩れの男をチラリと見た那智は、全く面白くもなさそうに目線を落としてバラバラになってしまった亡骸を無表情で見下ろしていた。

「どーせ、後始末は『機動』の連中がするんだろ。マズソーだしつまんねーし…オレは帰るよ」

「…って、おい。ちょっと待てよ?お前、最近やたらサッサと帰るじゃねーか。ニヤニヤ笑ってるしなぁ、何かいいことでもあったか?」

 感情を読み取らせない無表情で突発的に踵を返そうとする那智を呼び止めたガタイの良い男は、腰に手を当ててニヤニヤと鋭い犬歯を覗かせながら笑っている。その顔をチラリと肩越しに振り返った那智は、相変わらず何事かを企んでいるようにニヤ~ッと笑って肩を竦めるのだ。

「知りたいかぁ?鉄虎(テツトラ)。ワンコだよ、ワンコ」

「あん?『K-9』でも落っこちてたか」

「バッカ!違うよ、違う。ワンワン吼える『ぽち』を拾ったのさー」

「あーん?」

 いまいちワケが判らないと言ったように眉間に皺を刻む体躯の良い男、鉄虎にニヤニヤと笑う那智はもうそれ以上は何かを言うつもりはないようで、そのまま片手を振って雨を蹴散らすようにして灰色の町に踏み出していた。

「那智よぉ。『下弦』が会いたがってたぜ」

 鉄虎の台詞にピタリと足を止めた那智はしかし、微かに首を傾げるだけで振り返ろうとはしなかった。
 その様子にベントレーと鉄虎が一抹の不安を覚えながら顔を見合わせている。

「まさかとは思うけどよ。那智、『下弦』を忘れたとか言うんじゃ…」

 ベントレーが恐る恐ると言った感じで訊ねると…那智は背を向けたままで両肩を振るわせた。
 その仕種には見覚えのある2人は、呆れたように肩を竦めるのだ。

「ハッハ…忘れるかよ。あの老い耄れめー。まだ生きてんのかぁ?」

「あーあー。ボスを忘れてちゃ、おめーもお終いだろーからなぁ」

「まー…『証人』を見つけ次第、会いに行ってやらぁ」

 振り返ることもしない浅羽那智は、ゆっくりとポケットに両手を突っ込むと、降り頻る雨の中を飄々と立ち去ってしまった。灰色の町には不似合いなほどどす黒い存在だと言うのに、まるで溶け込んでしまうようにして消える那智に出会う度に、鉄虎は思っていた。
 この町に落ちた一滴のどす黒い不協和音だと言うのに、那智はともすればここに生きる誰よりも、この町に溶け込んで馴染んでしまっているのではないかと。

「アイツはよぉー、死にたがっちゃいねーんだがなぁ。なんつーか、生きてることには頓着がねーからまあ、珍しいっちゃ珍しい…珍獣ってとこかぁ?」

 突拍子もなく呟いてガッハッハッと大いに笑う鉄虎を、訝しそうに眉を寄せたベントレーが怪訝そうに頭1つ分上にある顔を見上げている。
 どうやら鉄虎も少なからず浅羽那智の毒に当てられているんだろう。
 確りしてくれよぉとグニャッと細い眉を歪めるベントレーの、ジャラジャラとピアスや安全ピン、鎖と言った飾りの下がった耳に耳障りな電子音が響き渡った。
 聞き覚えのあるそれは…

「やっべ!ホラ見ろッ。『K-9』が来やがったじゃねーか!」

「そう気色ばむなって。要はトンずらすりゃいいってことよ」

「軽く言いやがって!鉄虎よ、今日も報酬はナシ!なんだぜ~」

「まあ、那智だし」

「あー…那智だしなぁ」

 ベントレーが思い切りガックリしている間にもドンドン電子音が近付いてくる。
 だが2人とも、口ほどには然程気にした風もない。
 それもそのはず…溜め息が零れ落ちるその前に、2人の影はまるで掻き消えるようにしてその場から消え去ってしまったのだ。 
 大地を踏み締めた2人の巨体が宙を舞い、信じられないことに廃墟となったビルの二階部分に着地していたのだ。割れ放題のビルの窓からワンワンと吼えながら近付いてきた『K-9』を見下ろしていた2人は、『緊急事態発生!緊急事態発生!』とがなり立てる無機質な声を尻目に那智がそうしたように、灰色よりももっと暗い町に姿を隠してしまった。

 世界が回る。
 いっそ、殺してくれと悲鳴を上げるように軋みながら…

3.君の名は  -Crimson Hearts-

 結局俺は、奇妙な男が作ったオジヤを食う羽目になった。
 でもそれは、驚くことに泣きたくなるほど旨かった。
 ああ、当たり前か。
 飯らしい飯なんて、ここ数ヶ月まともに食ったことなかったんだっけ…
 無様な姿を晒してるってのもウンザリするが、この鬱陶しい雨続きの毎日だってのに、何もかもがアンバランスなこの奇妙にチグハグな男はさして気にした風もなく淡々と過ごしているようだった。
 脇腹の傷はお陰さまで随分とよくなったのか、傷口は殆ど塞がっていた。
 雨は相変わらず灰色の町に降り続けていたし、奇妙な男が俺のことを『ぽち』と呼ぶのにも慣れてきていた。
 本当は今すぐにでも逃げ出したいんだけど、いや、正確に言えば逃げ出せるんだが…なぜか、俺はこの住み心地のいい場所から離れ難くなってしまっていた。
 男は外見や口調とは裏腹なほど生真面目なのか、部屋の掃除や炊事などは殆ど嬉しそうにこなしていたから、少し気を許してしまうと唐突に顔を覗かせる殺気が心臓の奥の血管を縮み上がらせてくれた。
 曇天の空が晴れることもなく、かと言って陰鬱になりがちな室内は常に清潔だったから、スプリングが軋む安ベッドに寝かされていても然程気にはならなかった。それどころか、いつか何かが潜り込んできて咽喉を切り裂かれてしまうんじゃないかと言う恐怖に怯えることもないその、こんな異常な世界にあっても護られているように安全な場所に警戒心の固まりになっていた心が甘えているんだと思う。
 逃げ出さないと…こんな所で蹲っていられるほど、俺はまだ堕ちちゃいない。
 男が朝から出かけた部屋はやけに広くて、俺はもう起き上がるまでに回復していたから、ベッドを抜け出すとアンティークな部屋の中を横切って窓辺に立っていた。
 もう、歩くことも大丈夫だな。
 確かめるように踏み出した足の動作に、脇腹の傷は少し引き攣れるような痛みを残すだけで、重篤な症状は訴えてこない。
 逃げ出すなら…今だと思おうとしたその時、もう降り止まないんじゃないかと疑いたくなる雨の中を、黒コートの男が道路を挟んだ向かいの街路から車を避けながら渡って来るのが見えた。
 この雨の中を、男は傘も差さない。
 あれほど几帳面なくせに、ずぶ濡れになっても平気そうな顔をしている。
 ああ、そうだったな。
 初めて会ったあの時も、コイツは雨に濡れることも厭わずにずぶ濡れになって俺を見下ろしていたんだっけ。
 虫けらでも見るような、面倒臭そうな、淡々とした冷たい双眸で…

「そのくせ、俺を犬だと言って傍に置くなんてどうかしてる」

 人間を犬だと言うこと自体、コイツの脳も大概イカれているんだろうよ。
 俺が見下ろしていることにも気付かずに道路を渡りきった黒コートの男は立ち止まると、頭を激しく左右に振って脱色しすぎて色の抜けた黄褐色の髪から水飛沫を飛ばしている。片手に紙袋さえ抱えていなければ…アイツこそ犬じゃないか。
 やれやれと溜め息を吐いて、そして俺は息を飲んだ。
 そう、黒コートの男は髪を濡らす雨水を弾き飛ばしたあと、ゆっくりと顔を上げて、目線だけを動かすようにして俺を見上げてきたんだ。
 その口許は、やっぱり何かを企んででもいるかのようにニヤ~ッと笑っている。
 俺は殆ど条件反射でバッとしゃがみ込んでしまったが、あの男、あの距離から俺が見ていることに気付いていたとでも言うのか。いや、気付いていたんだろう。
 気付いていて、知らぬ素振りをしていたんだ。
 何故かとか、どうしてだとか、アイツの中にはそう言った副詞がまるでない。
 思うままに行動しているから、その理由を問われても答えられないんだそうだ。

「ただいまー、ぽち。イイ子にしてたかぁ?…歩けるようになったんだろ?そんなところに座ってないで、来い来い」

 片手に紙袋を抱えたままでシトシトと雨水を滴らせる黒コートの男は、ニヤニヤと笑いながら窓辺の下にしゃがみ込んでいる俺を退屈そうな冷めた双眸で見詰めて手招きしている。
 この場合、近付かないとコイツは癇癪を起こす。
 それはもう、経験済みだ。
 癇癪を起こしたら最後、部屋は壊滅的なダメージを受けて、男の機嫌は延々と悪い方向へ向かっていくんだ。そんな殺気垂れ流しの男と一緒に暮らすのはウンザリするし、相手が殺そうとしないことで余計な恐怖心がジワジワと身体を蝕むから堪らないんだ。

「イイ子にしてたぽちにはぁ…そら、これをやる」

 渋々近付いた俺の首を掴んだ男に一瞬身体を竦ませたものの、このまま圧し折られて死ねば、意外と楽かもしれない。そんな風に考えていると、男は何かを確かめるように俺の首を擦っていたが、ニヤ~ッと笑って紙袋から取り出した何かをサッと嵌めやがったのだ。

「!?…なんだ、これはッ」

 ズシリと下がる首に巻きついたそれは、チョーカーなんて言う生易しいものじゃなく、ハッキリそれと判る首輪だったんだ。
 慌てて引き剥がそうとする俺の無駄な抵抗をハッ…っと瞼を閉じて笑った男は、素早く手にしていた何かでカチリッと金属音を鳴らして取り付けてしまった。

「これで外せなくなったなー?まあ、外せないよなぁ。ぽちはご主人さまがいないと生きていけないし」

 惨めな首輪をぶら下げたままで、俺は胡乱な目付きをして男を見上げた。
 首輪の形状は少し変わっていて、通常犬に嵌めるあんな感じの首輪ではないんだ。
 そもそも留具の部分がベルトのアレとは違って、先端が丸くなっているポッチがついている。そのポッチには穴が開いているんだが、それを上に来るベルトの等間隔に開いている穴に差し込む、そうするとポッチが外に向かって飛び出すからその部分に鍵を取り付けたというわけだ。
 ご丁寧に…こんな時間まで、まさかこの首輪を探していた、なんて言うんじゃないだろうな?
 別に侮蔑するでも、侮辱するでもなく、淡々としたあのほの暗い兇気を醸した双眸で見下ろすだけで、男は満足そうにニヤニヤと笑っている。
 俺は喋れるようになっても、男との会話でヤツの名を呼ぶことはなかった。
 どう言った理由でか、その理由を到底説明できるはずもないんだが、この何もかも奇妙な男は信じられないことに俺のことを犬だと本気で思い込んでいるようだ。
 犬は飼い主をご主人と呼ぶことが当たり前だとでも思っているのか、自分から名乗ることはなかった。俺も然程不便は感じていなかったから聞くことをしなかったんだけど…コイツのことを、何故か知ってみたいと思うようになっている自分が、不思議で仕方なかった。
 どうせ喚いても怒鳴ってみても、このアンバランスな男にとってそれはどこ吹く風で、僅かに突き出たスパイクが禍々しいほど鈍い光を放つこの忌々しい首輪を外してはくれないだろう。
 俺は溜め息を吐いた。

「…ぽちは、アンタのことをご主人様と呼べばいいのか?」

 溜め息を吐いたらなんか無性に悲しくなって、俺は首を左右に振りながら訊ねていた。
 名前なんて、奴隷になってしまった今の俺には必要もないことなんだろうけど…どこかで、まだ人間らしさを失いたくない俺が理性にしがみ付いてでもいるんだろう。
 素っ気無い問い掛けに、男は一瞬ポカンとしたような顔をしたが、ニヤニヤッと笑って紙袋を抱えたままで俺の頬に音を立ててキスしてきやがった。

「な、なな…ッ!?」

 顔を真っ赤にして頬を押さえる俺に、男はニヤ~ッと、鋭く尖って見える犬歯を覗かせて笑いながら紙袋を整頓されているテーブルの上に投げ出した。

「那智だよ、ぽち。ん?なんだ、名前が似ちゃったなぁ~?ハッハ…」

「な、那智?…那智?」

 動揺していた俺はふと、その名に聞き覚えがあるような気がして眉を顰めた。
 そうだ、どこかで聞いたことがある。
 那智…

「それは名前なのか?」

「…おかしなことを言うワンコだねぇ。名前に決まってるだろ?オレは浅羽那智(アサバ ナチ)」

 その瞬間、俺の全身に鳥肌が立っていた。
 ああ、なんてこった!
 苗字と名前を聞くまで思い出しもしなかった。
 いや、まさかそんな馬鹿な…そんな思いが、思い出させなかったんだろう。
 実際、その名を耳にした今だって、目の前の男があの【浅羽那智】だなんて信じられないでいる。

 浅羽那智…ソイツは日本刀を愛用している殺人鬼だ。
 いや、正確に言えば用心棒。
 そう言えば、こんな言い方もある。
 何よりも殺しが好きな殺し屋とでも言うか…ああ、ピッタリな表現だな。
 その実際の姿を見たことはなかったが、街をうろついていれば嫌でも一度は耳にした名前だった。大概が、何処其処の町で実力者が殺られた、その仕業は大方アサバだろう。何処其処のエリアで大量殺人があった、大方アサバを狙った馬鹿どもが返り討ちにでもあったんじゃねーか。ナチがこの街に戻ってきた、また犠牲者が出る、ヤツは狂った殺人者だ…などなど、凡そ負けると言う言葉が出てこない、最後には兇気だけが住民を震え上がらせて、月のない夜の人影を完全に消し去らせていた。
 そんな恐怖をベッタリと俺たち一般人の背中に塗りたくっている張本人が、今目の前にいる奇妙なこの男だと言うのか?

 動悸が激しくなって、渇いた唇を何度も舐めながら、全身の毛穴と言う毛穴から嫌な汗をビッシリと掻いている俺は、首許を締め付ける違和感を思い切り訴えてくる首輪を満足そうに笑いながら触れている男、浅羽那智を凝視していた。
 実際に会ったことなんかなかったし、これからだって会うようなレベルじゃないと高を括っていた。
 浅羽那智は、この廃頽して荒んじまったあらゆる国から来たならず者が跋扈する無法地帯にあってでも、充分怖れられる存在だった。
 それが何を意味しているのか、チンケなコソ泥の脳味噌でだって理解できる。
 浅羽那智を殺れば箔がつく、この世界で顔が利くようになる…そんな噂を信じて何人の豪胆な連中が荒れ果てたアスファルトに命を吸い込まれたか。

 浅羽那智?
 コイツが?
 あの浅羽那智だと言うのか?

 俺に浅羽那智だと名乗った奇妙な男は、とてもそんな存在だとは思わせもしないアンバランスな雰囲気を漂わせながら、テーブルに投げ出していた紙袋をゴソゴソと漁りながら上機嫌で呟いた。

「飯を作ってやるよ。今日はチキンのリゾットかなぁ~?」

 嬉しいだろ?とでも言いたそうにニヤニヤする男を凝視して、どうやら那智らしいその男を見詰めたままで俺はゴクリと息を飲んだ。
 コイツと一緒にいれば、或いは俺が望む幸福が手に入るのかもしれない。
 目の前にポッカリと深淵の口が手招くように開いているのかもしれないと言うのに俺は、もう後には戻れない地獄の日々だとしても、その先にある幸福だけを夢見ながらまるで夢遊病者のようにフラフラと歩き出そうとしていた。

 欲しいものはそう、永遠の安らぎだった…

2.犬  -Crimson Hearts-

 いつの間にか気絶でもしていたのか、俺は鈍い感覚に翻弄されながら重い腕を持ち上げようとして、脇腹に突き刺さるような激痛を感じて呻いてしまった。
 ここは…どこだ?
 ともすればその激痛に億劫になってしまいそうになる瞼の重みに逃げ出しそうになる思考を、ふと、胸元に乗せられた何かの感触で身じろいだ途端にハッと目が覚めた。
 鬱陶しくなるほど見慣れた曇天から降りしきっていたあの雨はどこへ行った?
 今にも飛び出しそうになる心臓の音に額にビッシリと嫌な汗を張り付かせた俺は、そんな風に、異常な事態に思考が追いつかず息をするのも忘れていた。
 こんなメチャクチャな世界では、気を許せば最後、骨の髄までしゃぶりつくされてしまう。
 死ぬことよりも残酷で、生きていることよりも過酷な仕打ちが待ち構えているんだ。
 逃げ出さなければ…冗談みたいに笑い出す全身には力が入らなくて、気付けば脇腹には激しいくせにジワジワと追い詰めるような鈍痛が舐めるように張り付いてやがる。
 何が、起こったんだ。
 何が、起こってるんだ。
 力の入らない腕を持ち上げて…いや、そんな気分になっているだけで、本当は1ミリだって動かせていない腕は指先をピクリと動かしただけで、俺の意図する脇腹を押さえるって行為を端から無視しているようだった。
 息苦しく胸を喘がせた俺はふと、遠く近くに鳴り響く耳鳴りの向こう側に、どこか懐かしい雨音を聞いて漸く動かせる首を捻って音のする方に、できるだけ現実感を取り戻そうとするかのように視線を動かした。 
 アンティークな室内にある唯一の明り取りの窓の向こうには、幾つも玉を結んで零れ落ちていく水滴がまるで混沌とした外界からこの部屋を切り離したように孤立させているように思える。
 …ん?部屋だと。
 ああ、そうか。
 この見慣れない場所は部屋なのか。
 そして自分が寝かされていたのが重厚感を持つ部屋にしてはやけに安っぽい、スプリングもヘタれているような軋みの耳障りなベッドであることに驚いた。
 どんなミラクルが起きて、俺はベッドに寝てるんだ?
 いつもは殺人鬼紛いの泥棒に怯えながら廃ビルを点々とする生活をしているから、こんな風にマットレスの硬い安っぽいベッドとは言っても人間らしい寝具で寝るのは久し振りだったんだ。
 もう、最後にベッドで休んでからどれぐらい経つのか…考えるだけでウンザリした俺は、できるならこのまま死ねたらいいのにと瞼を閉じた。
 こんなヤケクソな世界で、何が楽しくて生きていけると思う?
 毎日怯えながら暮らす生活に、もうほとほとウンザリしているんだ。
 できるなら、あのまま死なせてくれればよかったのに…
 ん?そうか、そうだった。
 俺を拾って帰ると言ったあの男…アイツはどこにいるんだ?
 重くなりすぎていた瞼を億劫そうに押し上げた俺は、恐らくは、あの言葉が事実なら、俺を犬か猫のように拾って帰った男がいるはずだ。
 脱色して痛んだ黄褐色の髪と、身内に宿した抑え難い兇悪な殺気を溢れかえらせているあの鋭い双眸を持った、明らかに人を小馬鹿にしているに違いないと思える軽めの口調の、あのチグハグな男…
 そこまで考えてギョッとした。
 ボンヤリと窓に向けていた視線を傍らに移したその時、不意にジッと俺を見詰めている双眸に気付いたからだ。
 あの、深々と身体の奥深い部分まで侵食していくような、恐ろしいほど冷静な醒めた視線。

「やっと起きたかぁー。もうね、死んじまったのかと思ったけど。息してるじゃん。死に損なったなぁ、あぁ?」

 男は独特の尻上がりな間延びしたあの軽い口調でそう言うと、ハッ…と笑って瞼を閉じて首を左右に振っている。
 それも、俺の胸の上に腕を投げ出すようにして横になったままでだ。
 あの息苦しさはコイツの腕の重さだったのか。

「またダンマリだろぉ?もう慣れたもんね。はーん、気にしてないさ」

「どう…ッ」

 どうして俺を?
 どうして横にいるんだ?
 どうして拾った?

 口から溢れ出しそうになる言葉は後から後から咽喉を迫り上げてくると言うのに、肝心の声が出ない。
 いや、正確に言うなら腹部の激痛と、高熱でも出ているのか、渇き切った咽喉に何かが引っ掛かったようになっていて咳き込みそうになってしまったんだ。
 そんな俺のことなど意に介さない男は何が物珍しいのか、マジマジと顔を覗き込んできて、それから楽しげにハッ…と笑って瞼を閉じてしまった。
 そう言えば、コイツは最初からこんな笑い方をする。
 人間が目の前にいるのに、コイツは瞼を閉じて笑いやがるんだ。
 どうせ、俺なんかは取るに足らない虫けら同然なんだろうけどな、この世界でそんな笑い方をしていたらそのうち確実に命を落とすだろうよ。
 まあ、俺には関係のないことなんだが…

「へえ、喋れそうなのか。だけど喋れないんだよなぁ?だってお前、犬だからー」

 は?
 無謀なほど殺気を纏って、そのくせ威嚇すらもしない獰猛な目の前の人間は、張り詰めた緊張がブチ切れようが緊張し続けていようが、そんなことはお構いなしで気が向いたら襲い掛かるんだろう気紛れそうな口調で、上半身を軽く起こして頬杖をついたままニヤニヤと笑っている。
 何を言ってるんだ?
 俺が、…犬?

「ふざけるな」

 発音は完璧のはずだった。
 当たり前だ。
 だが、自分が思っているのとは随分とかけ離れた、嗄れた声が引っ掛かりながら途切れ途切れに耳に届いた。
 無様な姿に泣きたくもなるが、この一言で、この気紛れな男が笑って殺してくれるならそれはそれでもいいかと思う。
 気が向いた程度で俺から大事なものを奪いやがって。
 いっそ、その手で殺すといい。

「ハッハァ!なーんだ、喋れるんじゃん。いいもの拾ったなぁ…喋る犬か。名前をつけないとな」

 自分勝手にポンポンッと話し倒す男は、やはり当初感じたようなあの凄まじい冷酷さは微塵もない。
 と言うよりも寧ろ、その話題の中心が俺でさえなければ、何故か憎めない取っ付き易い男だとすら思えてくるから不思議だ。こんな世界で、こんな風に生きていながら、このチグハグな男はどこまでもアンバランスな存在感だと思う。

「犬、イヌ、いぬー…《ぽち》、うん、ぽちがいいなぁ」

 俺は嫌だ。
 そう言いたいのに、そんな時に限って俺の咽喉は言葉を発することを拒否でもするかのように、まるで馬鹿にしたようにヒューヒューと気管支を鳴らしていた。

「ぽち?腹減らないかぁ?熱があるみたいだからさー…オジヤでも作ってやる」

 ニヤ~ッと何やら悪巧みでもしていそうな顔で笑った男をマジマジと見詰めていた俺の茹って腐りそうな脳味噌は、それでも、このお気楽なバカがどうやら俺を殺してはくれないんだと言う事実を認めたようだった。
 生きることも、死ぬことすらも凌駕する最大限の辱めを、この男は俺に無条件で投げつけようとしているんだろう。

 この世界に生きながら、今更俺は泣きたくなった。
 あの恐ろしいほどスッポリと全身を覆っていた殺気の在り処が、この男の計り知れない部分から吐き出されているのだとすれば、俺のようなチンケなコソ泥が到底太刀打ちなどできるはずもない。
 足掻けば足掻くほど、底なし沼に捕まって、ジワジワと息の根が止まるまで沈んでいく犠牲者のように、這い上がれもせずに溺れていくに違いないんだ。
 弱者は常に強者に喰われてしまう世界。
 理不尽が正当化される異常な世界。
 そのくせ、その全てが驚くほど当たり前のことであり平凡であって、そしてあまりに日常的な日々で…
 だからこそ、願わずにはいられない。
 殺してくれればいいのに。

 こんな世界にはもう、ウンザリだ。

1.出会う  -Crimson Hearts-

 死は誰にでも平等に降りそそぐもので、俺はそれを当たり前のように受け止めていた。
 世界は常に波乱の匂いを漂わせていて、戦争に飽きた連中は無闇に秩序を築きながら無法地帯を放置していた。
 そんな世界に生を受けたのだから、もう何があっても不思議ではないとさえ思える。
 こうして鬱陶しい、もう見慣れてしまった曇天から降りしきる雨に双眸を眇めて、もう時期お別れするクソッタレな世界を網膜に焼き付けながら呼吸が止まろうとしているこの時でさえ、俺は何が起こっても不思議じゃないと思っていた。
 些細な喧嘩が命取りになるこのダウンタウンで、買い物袋を抱えた俺の肩が触れた、そんな些細なことでさえも誰かの癇に障って、歯車が急速に狂っていく。世界はそんな風に、秩序と言う無秩序の中で回転しているようだった。

(あー、もう死ぬのか。短かったな、俺の人生)

 ドクドクと流れ出る止め処ない血潮の行きつく先は、雨に濡れた泥だらけの砂利道で…ははは、最初はあんなに焼け付くみたいな激痛が襲ったって言うのに、こうして身体から血液が流れ出ていくと急速に体温が冷えてきて、無性に眠くなるもんなんだなぁ。
 雨が濡らしていく泥と砂利に覆われた、嘗ては舗装されていたアスファルトの上に大の字になったまま、俺は体温と一緒に流れ出ていく血液の存在に苦笑していた。
 死ぬのか、ああそうか。
 やっと、死ねるのか…
 このムチャクチャな世界に生れ落ちて、両親の顔さえ知らない俺が、一体どんな気持ちで今まで生きてきたと思うんだ?
 誰にともなく呟いて、いや、もう声なんか出せる状態じゃなかったんだけど、俺はやっと差し伸べられる慈悲の腕に縋りつきたい気分で死の訪れを待っていた。
 ジャリ…
 不意に、頭上の方で砂利を踏み締めるような足音が聞こえて…ああ、きっと、もう珍しくもないだろうに名もなき死体に哀れを感じて、いや違うな。死に逝く者の最後の顔を見てやろうって言うイカレたヤツでも近付いてきたのかな。
 こんな狂った世界で誰かを哀れむだと?
 自分で思っておきながら、そんな反吐の出る台詞に早く俺を殺してくれと溜め息が出た。
 死に逝く者を見ることを嗜好にしているイカレた連中は、この世界でまだ生き残れていることに安堵する為に、弱者を見つけては日々の恐怖に怯えている自分の心を安堵させていやがるんだ。そう言う連中を喜ばせるのも癪なんだけどな、そんなことはもうどうだっていいんだ。
 やっと死ねるから、この何もかもがいつからかゆっくりと狂いだしたこの世界から、漸く解放されるんだ。
 見たければ見るが良い。
 何れお前たちの姿だと思い知れ。
 ジャ、ジャリ…
 重い長靴でも履いているのか、やたらゆっくりとした足取りでソイツは近付いてきたようだった。
 俺が本当に死んでいるのか、急に起き上がってきてナイフで腹でも刺されるんじゃないかとか、今の世の中では当たり前のようなことを考えて怯えている…ってワケでもなさそうだ。
 もともと暢気な性格なのか、その足取りには怯みがない。
 もう、半分以上は霞んでいる双眸に、涙みたいに雨が入り込んでくる。
 曇天の空から降りしきる汚染された雨だ、目に入れば激痛だって感じていたのに…ああ、俺は本当に死ぬんだな。
 もう、あんまり重くなってきた目蓋をゆっくりと閉じようとした時だった。
 不意に顔に影が差して、俺は閉じようとする重い目蓋を押し開きながら瞬きをしてどんなヤツか見てやろうと思った。
 逝き掛けの駄賃だ、この世で最後に見る顔を覚えていたって死ねば忘れるんだ、いいだろ?
 誰にともなく呟いて、俺は見下ろしてくるソイツの顔を見上げていた。
 切れかけた裸電球が雨にショートでもしそうな街頭の明かりを背にしていると言うのに、真上から虫けらでも見るように目線だけで見下ろしてきたソイツは、何度脱色を繰り返したのか判らないほど色を抜ききった痛んだ黄褐色の髪をしていて、そのくせ、前髪に隠れそうな切れ長の双眸はゾッとするほど切れ味の良さそうなナイフみたいな殺気を漂わせていた。
 この世界で生き残ってきた男が匂わせる、ほの暗い狂気のような殺気は…何度見ても気持ちのいいもんじゃない。
 俺はこう言うヤツを良く知っている、だが、けして係わり合いになろうなんて思っちゃいなかったけど、このダウンタウンにはこんな連中がゴロゴロいるから嫌でも目に付くのは仕方がなかった。
 でもコイツは、無言で淡々と死に逝こうとする俺を見下ろしている、ずぶ濡れの黒コートのポケットに素っ気無く両手を突っ込んで立っているこの男は、俺がよく目にするあんな連中とは違うような気がする。
 もっとこう、底知れない何かをそのコートの内側に隠し持っているような…あんな風に、狂気に怯えて粋がってるだけの連中が持つ殺気じゃなくて、腹の底から震え上がるような正真正銘の兇気のような殺気は、死を眼前にしている俺でさえ竦んでしまいそうになる。
 誰なんだ…?
 なぜこんなヤツが、確かにコイツが蔑むように、ケチなコソ泥でしかないこのダウンタウンだと虫けら程度の俺の死なんかに興味を持ったんだろう。
 どうせ死ぬんだ、さっさと行っちまえばいいのに。

「あっれぇ?なぁーんだ、もう死んでんのかと思ったら。まだ生きてんじゃん。おっもしれー」

 不意に、誰が言ったんだろうと最初は判らなかった拍子抜けするぐらい明るい、どこか人を小馬鹿にしたような軽めの口調が降り注いできて、唐突に俺は、ニヤ~ッと口許を歪めて笑っている真上の男が洩らした言葉なんだと知ってギョッとした。
 あまりにも、漂わせている雰囲気と口調が違っていたからだ。
 何か口を開こうとしたけど、その時になって突然引き裂かれるような痛みを感じて、突き刺さったままのナイフの根元から止め処なく流れる鮮血にぬるつく腹を押さえたままで俺が喘ぐと、男は何が面白いのかハッ…と笑ってそのままヒョイッと屈み込んで苦悶に歪む俺の顔を覗き込んできた。

「なー、なにそれ?腹にナイフ刺してさぁ…寝転ぶッつーのは新しい遊び?最近戻ってきたからさぁ、こっちの事情は飲み込めてないワケよ」

 どこからか戻ってきたのか、そのわりにはしょぼくれた格好をしている男だと思う。
 兇悪な殺気を纏っているくせに、打ち捨てられた野良犬みたいにずぶ濡れの黒コートに破れそうなジーパン姿で、よく見れば何もかもチグハグな、アンバランスな男だと思った。

「なー、答えろよ?…ん、喋れないのか。なんだ、つまんねーな」

 俺の顔を覗き込みながら、俺なんかよりももっと冷たい指先を伸ばしてきて雨に濡れて張り付いてしまっている俺の前髪を乱暴に払いながら、男はしばらく俺を見下ろして何かを考えているようだったけど、俺は、もう、眠いんだ。
 頼むから、もう放っておいてくれ。
 このまま、あれほど夢に見た何もない、無の世界に逝かせてくれ…

「ふふーん、オレ様いいこと思いついちゃったよ。どーせ、家に帰っても独りだしさぁ…アンタを拾って帰ろうっと」

 は…?
 何を言ってんのか全く判らん状態で、それでなくてもズクズクと疼く腹の痛みに眉を寄せている俺が、砂利と泥を雨が濡らしているアスファルトに寝転がったままで呆然と見上げていたら、男はゆっくりと目蓋を閉じて小首を傾げるようにして口許だけで笑うと、ギョッとする間もない素早さで俺をまるで荷物でも扱うように肩に担ぎ上げたんだ。
 ナイフを引き抜きもしないから、人間の肉を貫いたナイフは切れ味が鈍っているのか、またゆっくりと腹の奥を突こうとして悲鳴が漏れた。だが、男はそんなことに構いもせずに、クスクスと笑いながら降りしきる雨の中を厭いもせずに歩き出したんだ。
 驚くほど確りとした足取りで、俺は。
 買い物は全部盗まれてしまっていて、紙袋だけが情けなく濡れて転がっている血塗れのアスファルトを遠退く意識の中でぼんやりと見つめていた。

 俺は、このまま死ねるんだろうか…