7  -ヴァンパイアと真夜中に踊れ-

 臭気が満ちた世界は酷く陰鬱で、風さえも威力を失っているようだ。
 戦の臭いは魔物を呼び寄せ、世界の破滅を予言する。
 海が色を失い、空に枯れた悲鳴が木霊する。
 声が出ない。
 助けてくれと慈悲を請う声。
 助けてくれるなと拒絶する声。
 渇きが満ちた世界に希望などない。
 全てが死の臭い。
 死の声。
 救いなどない。
 覚えておけ。

◆ ◇ ◆

 冬にしては珍しい生温い風が、生臭い匂いを孕んで路地裏を吹き抜けていく。
 漆黒の闇には切れかけた電飾が、所々抜け落ちた看板を馬鹿みたいに彩っている。
 空には星が見えるのか、或いはこの腐敗した街を覆う偽りの光を映し出しているのか、無頓着に夜空がビルの谷間に広がっていた。
 OLは足早にマンションへの近道を急いでいる。
 上司との不倫はバレてはいけない。だからこそ、彼女は昼なお人通りの少ないこの裏路地を、足早に通り過ぎようとしている。
 1日中、世間を騒がせている猟奇的殺人事件の概要は彼女も理解していた。しかし、『自分には関係のないこと』だと割り切っていたOLは、いずれ我が身に降り掛かる災いすらも他人事のように高いヒールで砂利を蹴りつけながら、まるで日中の雑踏に取り残されたような寂れた路地を進んでいる。
 切れかけた電灯がチラチラと研ぎ澄まされた鋭い爪に、鈍い輝きを落としていた。
 シュウシュウ…
 聞き慣れない音が風に混じって聞こえてくる。

「やだ、何かしら?それにここ、とっても臭いわ!」

 ふと立ち止まった彼女は背後の異様な気配を感じ取り、研ぎ澄まされて鋭敏になっている自分に呆れながら悪態を吐いた。

「だいだい、部長も部長だわ!こんな時間に呼び出すなんて失礼しちゃうッ」

 薄暗い路地への恐怖を上司への怒りに換えて、彼女はブツブツと綺麗に口紅を塗った唇をツンと尖らせて悪態を吐くと、綺麗にマニキュアでコーティングした爪を弄りながらマンションを目指す。
 …と。
 闇からズルリッと何かが這い出してきて、長く鋭い爪が電飾の明かりを弾いて不気味に鈍く光っている。

「…?」

 彼女は何度目かの気配を感じて、なんなのよ、もう!と、呟きながらもう一度背後を振り返った。
 振り返った先に立っている異形の化け物を目にした瞬間、彼女は腰が抜けてその場にへたり込んでしまう。薄闇ではハッキリしないが、彼女の座り込んでいる場所が静かに水浸しになっていく。

「ひ…ひ…」

 声にならない悲鳴を聞いて、爬虫類のような、その滴り落ちる鮮血を思わせる濁った双眸を細めると、化け物は人間のものとは思えないほど大きな牙を有した口を大きく広げて威嚇する。

『ギギ…ギシャァ…』

「きゃあああ…ッ!!」

 思わず悲鳴を上げた瞬間、化け物の鈍い光を放つ鋭い爪が容赦なく腹部を貫いた。そのまま引き抜くと同時に引き裂いて内臓を引きずり出すと、周囲に血の匂いが充満して、ムッとする生臭さを心地よさそうにうっとりしながら化け物は爪に付着している肉の塊を貪った。

「あ…ア…ヒィ…」

 自分の引き裂かれて空洞を晒す腹部を信じられないものでも見るように見下ろしていた彼女は、撒き散らされた血液や内臓を拾い集めようとするような仕種をしたが、もはや人間ではない声をあげながら狂ったように頭部を掻き毟る。

『ギギ…ちぃ…ちぃぅおもっとぉ…』

「ヒ、ヒギ…ギィ!!」

 鈍い光を放つ鋭くて大きな爪を振り翳して、化け物は女の首を事も無げに跳ね飛ばした。
 ブシュゥッ!っと噴き上がる鮮血を全身に浴びて化け物が咆哮する。
 そして事切れた女の身体に覆い被さると餓えを癒すかのようにその身体を貪り喰らった。
内蔵を引き出し、胃袋で消化しきれていないものまで噛み砕き、内容物を含んでいる腸を引きずり出して咀嚼するとブシュブシュウッと噛み潰された腸から出た体液が口の端を滴り落ちる。筋肉と脂肪でピンクになっている骨をしゃぶって噛み砕く。
 地獄のような饗宴は、それから暫く続いたのだった。
 生臭い匂いが充満して、偽りの世界は何事もなかったかのように淡々としていた…

◆ ◇ ◆

「遠き異国の旅人?ボクが?まっさかぁ!」

 なんとなく、やっぱりまだ違和感がある口から出る言葉に、俺はなぜか居心地の悪さを感じながら頷いていた。
 デュークのヤツは行き付けの店だからと言って、1件のブティックらしきところに俺を連れてきたんだ。妖魔の仲間が経営している店らしいんだが、お得意さんは妖魔だけじゃなくて、なんと人間の!それも有名人だとかそんな連中も買いに来るってんだから凄いよな。だから、外でお買い物の時はデュークは言葉でちゃんと話すんだそうだ。俺といる時もそうしろよと言ったら、これが結構疲れるんだよね、と言われてしまった。疲れてもいいじゃねーかよ。ふん!
 ブティックなんて貧乏探偵の俺には縁も所縁もないし、なんたってガラじゃねぇんだ。
 ソワソワして背中の辺りがむず痒くなっちまうよ。
 野郎でも専用の服の店なんかあるんだなぁ、ちょっと感心した。
 だってさ、俺なんかドン・キ○ーテだとかユニ○ロにしか服なんか買いにいかねぇもんな。気に入った色のフリースがあれば御の字だし、安ければ安いほどラッキーだったり…情けねぇな俺。
 あ、泣きたくなってきた。
 いや!そんなこたどうだっていい!!
 問題はそんなことじゃねぇ!!

「違うのかよ?」

 胡乱な目付きで腕を組んで睨んでやると、服を選んでいたデュークは灰色のセーターを手に取りながら、肩を竦めて鼻先で笑いやがる。

「あら!デュークが『遠き異国の旅人』なワケないでしょお?オツム弱そーね、今度の彼女ぉ」

 このブティックのオーナーを兼任しているお姉ちゃん言葉がやけにお似合いの店長は、恐らくデュークと同じ属性の住人なんだろう。こうして見ると、デュークやアリストアが言うように俺たちが住んでいるこの世界には本当に闇の住人が多いんだと改めて思い知らされた気分だ。
 俺がムッとして傍らに立つヒョロッと細長いクネクネした長身の店長を睨んでいると、デュークはクスッと笑って灰色のセーターをソイツに投げた。

「またタートルネックぅ?あんたも好きねぇ」

 やれやれと溜め息を吐く店長に、肩を竦めてスタスタと嫌味なほど長い足で店内を動き回る。
 今度はコートかよ!?

「おい!まだ質問に答えてないぞ!」

 コートは店に入る時に店に預けていたから、俺はデュークの薄い黒のセーターの腕を掴んで呼び止めたんだ。

「だから、タスクが言ってるようにボクは『遠き異国の旅人』じゃないよ」

「じゃあ、なんなんだよ?吸血鬼でもないって言うし…お前たちみたいな連中はあとどれぐらいの種類がいるんだ?」

 ムスッとして聞き返すと、デュークはコートが整然と陳列している場所まで俺を導きながら小首を傾げやがる。

「なんだ、『遠き異国の旅人』の実態も知らなくて追っかけてたの?すっごいムチャするね、ボクの奥さんは」

 クスクスと笑う。
 全部がサマになっているからムカツクんですけども…

「ボクはただの『旅人』だよ…って言っても判らないね。うーんと、そうだねぇ。ここで1つ、ボクが光太郎にレクチャーしてあげるよ」

 振り返ってニコッと笑うデュークの笑顔は顔が引き攣るほど恐ろしいものがあるし、コイツに言われたってのがムカツクんだけど、言われてみたら俺は本当にこの件の『犯人』について何も知らないんだ。あまりにもコトが起こり過ぎて、脳内がショート寸前で細やかなことが何もできなかった。つーか、してるヒマもなかったんだっけ。
 アリストアのヤツもいまいち言葉を濁しているようだったし…『遠き異国の旅人』ってヤツはなんなんだ?

「ちょっとデュークぅ…いいのぉ?『旅人』に知れたら厄介じゃない?」

「構わないよ」

 デュークは殊の外あっさりとタスクと呼ばれた店長に頷いて、それから横に立つ俺をチラッと見下ろしたんだ。

「ボクの奥さんに、これ以上危険なコトに首を突っ込んで欲しくないからねぇ」

 誰が奥さんだ、誰が。
 でも今はそれに貝のようにムッツリと口を噤む。何か言って外出禁止になるよりは、今のこの有効な立場を利用しないとな。何やら聞き出せそうな気配もプンプンするし…

「あらやだ!ホントに奥さんだったのぉ?意外ねぇ、デュークはもっとメンクイだと思ってたんだけどぉ」

 余計なお世話だ、不細工で悪かったな。

「アークちゃんよりもあっけらかんとしてんのねぇ、あんた」

「タスク。ねえ、事務所に行ってなよ」

 OKだと呟いたものの、タスクは俺を不躾なほどマジマジと見やがって、それから不機嫌そうにしているデュークを呆れたように見た。

「テキトーに選んじゃいなさいよぉ。お会計の時はアタシを呼んでねぇ」

「OK」

 肩を竦めてタスクを追い散らしたデュークは、それから徐に陳列しているコートに興味を移しやがるから…おいおい、そうじゃねえだろう。

「レクチャーその1。『旅人』と『遠き異国の旅人』の違いについて」

 しかし、デュークのヤツは別に忘れていると言うわけじゃなくて、コートを繁々と物色しながら話し始めた。

「ボクはね、『旅人』と呼ばれる集団に属してるんだよ。そして、その集団から逃亡した連中のコトを『遠き異国の旅人』と言うんだ」

 そう言ってコートを元のハンガーに掛け直したデュークは唐突に俺を振り返ると、鼻先が触れ合うほど近くに顔を寄せながら覗き込んで、目を白黒させている俺にクスッと笑いながら首を傾げてきた。

「ねえ、光太郎。ボクはかっこいい?」

「…はあ?」

 何を突拍子もないこと言い出すんだコイツは。前々から変なヤツだとは思っていたけど、いよいよどこかおかしくなったのか?なんにしたって、春はまだ来ないぞ?

「人間として見たら…ってコトだよ。かっこいい・美形・美しい・綺麗・秀麗・端正…などなど。賛辞の言葉はたくさんあるね。でもそれは、外見上ってコト」

 そう言って身体を起こしたデュークは腕を捲りながら淡々と、まるで今までの惚けっぷりが嘘のような冷静な態度で話すもんだから、この話がどれほど重要なのか、それとも、デュークが、本当はこの話をしたがっていないんじゃないかとか思ってしまった。なぜか、とか良く判らないんだけど…もしかしたら、怒ってるように見えるせいからかな?
 そんなことを考えていると、黒のセーターを肘まで捲り上げたデュークはつっけんどんに目の前にその腕を差し出してきた。

「レクチャーその2。触って確かめてみよう」

「は?」

 首を傾げると、デュークは口元だけで小さく笑って言葉を続ける。

「ボクたちのこの姿はあくまでも仮初めの姿。本来あるべき姿を自制心で抑制をかけて人間に馴染もうとするのが『旅人』。自制心を見失って、本来の姿に戻ってしまった連中のコトを『遠き異国の旅人』って言うんだよ。ほら、触って確かめてみよう」

 ズイッと腕を差し出されて、俺は恐る恐るデュークの見た目よりも逞しい腕に触れてみた。触ってみて、ギョッとする。思わず引っ込めそうになった手をグッと上から押さえられて、俺は直接その感触を味わった。
 本来、人間の持っている腕は筋肉がどんなに付いているヤツでも、ある程度肉に弾力があって柔らかかったりする。でも、このデュークの腕は…
 この腕は…

「硬いでしょ?それに、ちょっとゴツゴツしてる。明らかに人間の腕ではないね」

 はい、終了~と言って、デュークは俺の手を名残惜しそうに離してから、捲くっていた袖を元に戻しながら肩を竦めたんだ。

「妖魔にしろヴァンパイアにしろ、悪魔系の住人が綺麗でかっこいいワケないでしょ?本来の姿が醜いからこそ、自制心により磨きをかけて、愛するヒトの為に綺麗になるんだよ~…なんてね」

 クスッと笑う。
 でもそれは、切なくて、なんて俺が口にしてもサマにならない言葉だけど、ちょっと悲しそうだった。

「光太郎の好きなアシュリーが、妖魔じゃなきゃいいね」

 ポツリと呟かれて、俺はハッとしたようにデュークを見上げたけど、ヤツは不機嫌そうに唇を尖らせてフンッと鼻を鳴らすだけで、それ以上は何も言おうとしない。
 明らかに、そう。確かに、明らかに人間とは違う感触だった。脈動も独特で、薄皮1枚隔てた向こう側にあるものは、何かおぞましくて不気味で…ゴツゴツと硬いワニか何かのような感じだと思う。実際にワニに触ってみてないからなんとも言えないんだけど、視覚的な感じがあんなもんだ。

「レクチャーその3。ボクを嫌いになったでしょ?」

 唐突にそんなことを言われても…俺はなんて言ったらいいのか判らなくて、ムスッとしたままでなんとなく情けなく見える妖魔を見上げた。いつもは、どこにそんな自信があるんだよ!?と聞きたくなるほどの自身過剰屋で、強引’グマイウェイのはずのデュークが、どこかバツが悪そうに、諦めたような顔をしているんだ。出会ってから初めて見る表情にビックリだ。

「妖魔なんて端から信じていなかったんだ!今更綺麗だとか醜いだとか関係あるかっての。肝心なのはハートだろ?ハート!」

「…光太郎って、変わってるね」

 はじめ、酷く驚いたような顔をしていたデュークは、次いで、どこか物悲しげに笑って首を左右に振るから、俺はその頬を両手でガッチリと引っ掴んで顔をグイッと引き寄せてやった!

「良く言われるよ、サンキューな!あんたの本当の姿とやらを見ても俺は驚くぐらいに決まってんだろ!?なんせ、子供の頃からお伽噺やゲームなんかで、魔物と言えば変わった姿をしてるのが殆どだったからな!却ってお前みたいに綺麗な顔をしてるヤツの方がよほどビックリしたよ。そう言うこと判ってないだろ、デューク。お前こそ、人間のことをもっと良く誰かにレクチャーしてもらうんだな!」

 目を白黒させながら、珍しく間抜けな顔をしていたデュークはしかし、突然ギュッと俺を抱き締めてきたんだ!ぎゃあッ!なんで抱き締めるんだよ!?そう言う話をしてるわけじゃないだろうが!
 ぎゃあぎゃあ喚く俺をギュッと抱き締めて、デュークは頬を摺り寄せながら嬉しそうだ。
 冗談じゃないぞ!

「光太郎ってば優しい。ボクを心配して勇気付けてくれるなんて…ボクは最高の伴侶を手に入れました!レクチャーは光太郎にしてもらおうっと」

「ななな…!?なんで話しがその方向に行くんだよ!?」

「さいっこうにイイ気分だから!今日は奮発して現金キャッシュ!カードなんて使わない」

 現金もキャッシュもおんなじ意味だぞ、おい。とか!そんなツッコミどころじゃねーんだ!
 いい加減下ろしてくれよ~
 思わず泣きが入りそうになった時、事務所から騒ぎを人間の数倍は良く聞こえる耳で聞きつけたのか、タスク店長がノソノソと出てきて、抱き合って店内でクルクル回っている俺たちを見つけると呆れたように腕を組んで溜め息を吐いた。首まで左右に振ってくれている、嫌だ、恥ずかしすぎるぞ…

「もう決まったのぉ?」

「あ、タスク。ねえねえ、聞いてよ」

 デュークが嬉しそうに話そうとするその口を、俺は思わず捻り上げたくなった。もちろん、そんなことができていれば今頃俺はここにいないんだけどな…ふんッ。

「今日はキャッシュでお支払い」

 なんだ、そっちの話か…なんてホッとしてる場合じゃないぞ!いい加減下ろせッ!このスカンチン野郎!!

「キャッシュぅ~?いや~ん、やったわねぇ」

 嬉しそうに擦り手をするタスク店長を、コイツも妖魔のくせに人間社会に馴染みまくってるなぁ…と思って呆れちまった。

「それじゃあ、ボクと光太郎の…」

 と、デュークはそこまで言うとハッとしたように周囲に注意を払った。
 すぐに伝染するようにタスクも背後を振り返る。

「チッ」

 デュークにしては珍しく舌打ちなんかして…いや、でもこの気配は。何かゾクッとするようなこの異様な気配は…
 デュークは反射的に俺を床に下ろすと、気配の糸を手繰り寄せるようにして意識を集中しているようだったが、次の瞬間、いきなりパンッ!と音を立てて次々と電気が破裂して室内が一瞬だが真っ暗になった。すぐに予備灯が点灯したが、それも音を立てて破裂したんだ!
 な、何が起こってるんだ!?

《タスク!光太郎を地下室へ》

《了解!》

 突然、脳内に声が響き渡って俺は思わず耳を押さえたけど、緊迫した2人の気配を直接肌で感じている現状では文句も言えない。俺には良く判らないけど、確実に今この時、何かが起こっているんだ!
 連れて行こうとする腕を思いきり振り払って、俺は真っ暗な闇の中、気配だけでデュークを捜しながら叫んだんだ。

「地下室なんか行かないぞ!何か来ようとしてるんだろ!?『遠き異国の旅人』じゃないのか?」

《いけない。それはダメだよ、光太郎》

「何が駄目なんだよ!?」

 見えない暗闇からスッと腕が伸びてきて、少しひんやりする掌が頬を包み込んでくる。

《光太郎は人間だから、暗闇は味方しない。なぜ、『遠き異国の旅人』が暗闇を好むのか…》

《デューク、時間がないわよ》

 判っているよ、と呟くデュークは俺の頬から手を離したんだ。

《人間を狩りやすくする為だよ》

 突き放すようにそう言ってデュークの気配が一瞬消える。

「デューク!」

 叫ぼうとすると、両方の頬をグッと掴まれて何かが顔を覗き込んできた!
 金から血のような鮮紅色に変化する双眸が間近に俺を見据えて、俺は思わず震え上がってしまった。

《地下室に行け、光太郎!ボクにビビッてるようじゃまだまだ甘い》

 ドンッと突き飛ばされて俺は何かに受け止められた。漸く目が闇に馴染んでくると、ディープブルーが仄かに煌く不思議な髪を目印に、鮮紅色の濡れた双眸を持つデュークが店の扉を見据えて立ちはだかっているのが見える。
 何か来る。
 気配がビンビンと肌を刺すような刺激にゾワゾワしながら、俺は確実にこの殺気の持ち主がここに来ようとしていることを感じていた。
 アリストアなんか目じゃない。この感じは…デュークが怒った時に良く似ている。ただ、もっと禍々しいおぞましさをプラスすれば、たぶんもっと良く似てくるような気がする。

《さ、早く!こっちよ!!》

「でゅ、デューク…!」

 名前を呼んでみたけど、あのふざけた妖魔はピクリともせず俺を振り返ることもなかった。
 腕を引かれながら連れて行かれようとする、でも俺は…!
 俺は…あの時、お袋さんと約束したんだ!娘さんの仇は絶対に取るって…ッ!

「デューク!俺だってそれなりに戦えるんだ!アリストアの時は不意打ちみたいなものだったし…今度は心構えもある!」

 腕を振り払ってデュークの腕を掴むと、チラッとだけ深紅の双眸で俺を見ただけで、仕方なさそうに溜め息を吐いた。

《ボクでも、アークかタスクがいないと1匹狩るのが精一杯なんだよ?判る?》

「う…判る!判るとも!おお、もちろんだぜ!!」

《降参しなさいよ、デューク。奥様の気の強さは知ってるんでしょ?》

 諦めなさいと言うタスクに、デュークは肩を竦めた。

《判った…でも、きっと気をつけてね。ボクもできる限り守るから》

「お、おう!」

 頷くと、タスクが苦笑する。このヒョロくてクネクネしてる妖魔が緊迫した時でもどこか抜けてるように思えるのは、やっぱりそのお姉ちゃん言葉のせいなんだろう。
 デュークは少し溜め息を吐いて、それから紅蓮に燃えるような双眸で扉を焦がすんじゃないかと思えるほど禍々しく睨みつけていた。

《アリストアのコトは後で詳しく訊くからね》

「…へ!?」

 ギクッとした瞬間、扉が突然外から内側…つまり俺たちに向かって吹っ飛ばされてきた!!

《!》

「わ!」

 ガンッ!と音を立てて床に叩きつけられた扉は奇妙な形に歪んでいて、その力の凄まじさが良く判る。
 デュークが一瞬早く俺を横抱きにして跳び下がっていなかったら、あの鉄の塊の扉が直撃していたことになる。変形してコンクリートの床に突き刺さっているあの扉の餌食だ…
 俺は、もしかしたら…デュークが言うようにとんでもないことに首を突っ込んじまったんじゃないだろうか?
 生唾をゆっくりと飲み込んだその時、のっそりと化け物が姿を現した。
 巨大な爪を有するガタイの大きなヒルのように滑る肌を持つ化け物…
 これが。
 これが『遠き異国の旅人』なのか…?

6  -ヴァンパイアと真夜中に踊れ-

 まるで口を閉じた貝のように、いつもはお喋りな男の普段とは違う雰囲気に、彼の相棒である小柄な少女は桜色の唇をツンッと尖らせて見上げていた。
 街の明かりは細かな金粉のように眩い金髪を闇夜に浮かび上がらせて、男がこの世ならざる者の美しさを隠し持つ、得体の知れない存在を際立たせていると彼女は感じている。

「おかしいわよ、アシュリー」

 ポツリと呟く少女の方に、ビルの屋上から恐ろしげもなく地上の光を見下ろしていた男、巨体をオフホワイトのコートに包んだアシュリー=R=シェラードが視線を動かした。

「エレーネ?」

「おかしいのよ。どうしたって言うの?今日のあんたはおかしいわ」

 少女はまるでダンスでも踊るかのように屋上のフェンスにヒョイッと飛び乗ると、心許無い足取りでふらふらと細い柵の上を歩く。

「なにかしら?あの人間の坊やかしらね。そうね、きっとそうだわ」

 考え事をするようにふらふらと柵の上を行ったり来たりする少女エレーネは、漠然としない答えを導き出して首を傾げている。そんな彼女を何か言いたそうに、しかし言葉が見つからないのかアシュリーは苦笑しながらただ見上げていた。危なっかしい少女の行動を咎めるでもなく、アシュリーはポケットに両手を突っ込んで手持ち無沙汰に立っているだけだ。

「鈍感な坊やだものね。あんたが殺し屋だって知っていても離れない。それってまるで恋みたいじゃない?」

 クルクルとダンスを踊るような足取りでフェンスを行き来する小柄な影が、コンクリートで固められた冷たい地面に微かな影を落としている。

「でも違う」

 即座に否定したエレーネは鼻先でクスッと笑って、苦笑する相棒の微かな苛立ちに気付いていた。

「ねえ。どうするの?この世は不思議がいっぱいで戸惑っちゃうのよね。たくさんのことに押し潰されて、人間は何に変化しようとしてるのかしら?その人間を守るために生きてるあたしたちの存在って何かしらね」

 星すらも見えない都会の夜空を振り仰いで、エレーネは白い息を吐き出す自分を不思議そうな顔をして首を傾げた。両手を広げて深呼吸したとしても、その肺は黒く霞むだけだと言うのに。

「ねえ!あんたがただの殺し屋じゃないって知ったら、あの坊やはどうするのかしら?」

「…さあ」

 アシュリーは広い肩を竦めて見せると、ほんの少し、自嘲的に笑ったようだ。

「殺し屋に“ヘン”の文字がオマケにつくだけじゃない?光ちゃんのオレに対する認識なんてそんなモンだし」

「ヘンな殺し屋?もう、ホント、鈍感にもほどがあるわね」

 エレーネはまるで自分が貶されでもしたかのように見事な柳眉を吊り上げると、不意に悲しそうな双眸をしてアシュリーを振り返った。

「でも…妖魔の殺し屋、よりは幾らかマシね。愛する人間に、怯えられてしまうことほど哀しいことはないもの」

 きっとあのヴァンパイアも…途切れた言葉の先を追うようにエレーネを見上げたアシュリーは、彼女が諦めたように溜め息を吐くのを見た。幼い少女の面影を宿す整った風貌には疲れが見え、彼女が年端もいかぬ小娘の表面を持つだけの大人の女だと言うことを物語っているようだ。

「人間に恋をするなんておかしいのよね。あたしもあんたも、だからこんな仕事に就かざるを得なくなっちゃうのよ。妖魔からは爪弾き、でも恋い慕う人間は全くの無頓着…ねえ、それってホントは幸せなことなのかしら?」

「100年考え続けた姐さんに判らないことを、どうしてオレが判るワケ?まあ、なんにせよオレは、光ちゃんが鈍感だろうとなんだろうと、傍にいられたらそれだけで幸せだなんて思わないけどね」

 腕を組んでどうでもよさそうにストーカー紛いの執着心を見せるアシュリーを、エレーネは目を丸くして見ていたが、不意に夜空に木霊するほど高らかに笑った。

「あっははは!同感よ。それ、同感!」

 暫く笑っていたエレーネは肩で息をしながら目許の涙を拭って、夜空に瞬く小さな星の影を見上げて白い息が消えるのを見送った。

「モノにしなくっちゃね、意味はないわ」

「…エレーネ。オレたちが追っているヴァンパイアってのは…最近騒がせてるアレ?」

 言い難そうに訊ねるアシュリーを見下ろしたエレーネは、安定感のない柵の上に腰を屈めた中腰の態勢で座ると、ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべてアシュリーの頬を指先で擽った。

「あらあら。あの坊やが追ってるのも確かヴァンパイアだったわね?」

「…」

 頬を弄ぶ指先をそのままに、アシュリーは無言で、ただ口元に皮肉げな笑みを浮かべただけで反論や言い訳を試みる様子はない。
 情報収集は相変わらずヘタで、しかしエレーネにはいつまでも愛おしいアシュリーの仕種だ。
 無口な少年が凶悪な双眸を抱えて自分の前に現れたのは、彼が人間の歳で言うところの8歳の時だった。
 傷だらけで、まるで野生の獣が傷付きながら、敗北に打ちひしがれている…そんな雰囲気を持つにはあまりに幼くて、一度は母として我が子を抱き締めたことのあるエレーネには痛々しくすらあった。
 何に立ち向かい、何がこの少年をこれほどまでに打ちのめしたのか、そしてどう言う経緯でギルドに拾われたのかエレーネには知らされていない。ただただ、途方もなく立ち竦む凶悪な殺意を内に秘めた少年を見守ることしかできなかったと言うのが、ことの次第なのだ。
 現在でさえ、今だ癒えない傷を身内に隠し持つアシュリーの双眸が時折、抑えきれない狂気を覗かせて殺意を滾らせることもあるが、不思議とあの槙村光太郎と言う人間に出会ってからは忽然と鳴りを潜めてしまっている。
 牙を抜かれた野獣の本性は今だ計り知れないが、エレーネはその方がいいのかもしれないとも思うようになっていた。光太郎の性格の愚鈍さが、アシュリーの何かを溶かしているのなら、それは以前の自分に酷似しているから安心と不安が綯い交ぜになる。
 先立たれたら…マイナス思考は身の破滅を暗示する。
 エレーネは心中で首を左右に振ると、ささやかに苛立つアシュリーにうっとりするほど極上の笑みを見せた。

「さあ、どうかしらね?あたしを追ってきて捕まえな。そうしたら、飛びきり上等な情報を教えてあげる」

 スクッと立ち上がったエレーネは吊り上がり気味のアーモンドアイをうっすらと細めて笑うと、徐に両手を広げ、そしてトンッとフェンスを軽く蹴って宙に身体を踊らせた!
 圧倒的な風圧に怯むこともなく空中で一回転したエレーネは、まるでそこに何かあるかのようにスムーズに行動した。ビルの壁に器用に両足をついた彼女は、グッと力を込めてその壁を蹴った。その反動のまま凄まじい勢いで対面するビルの屋上に飛んでいく。
 踊るように舞う彼女は対面のビルの屋上に着地すると、ホットパンツから伸びる素足を惜しげもなく晒しながら腰に片手を当てて、遠目に見えるアシュリーに投げキッスを送る。ウィンクはオマケだ。
 そんな彼女を冷ややかな碧眼で見送っていたアシュリーは小さな溜め息を吐くと、それでも一瞬脳裏を掠める笑顔を思い出して首を左右に振った。

「飛びきり上等の情報を抱えて帰れば、あるいはキス以上の期待ができるのかな…」

 呟いて、なんとなく情けなくなったアシュリーは泣きたくなった。

「ああ。オレってばつくづく働くお兄さんだなぁ…ってマジで思っちゃうよ。尻尾振る狼ってのも悪くないかもね」

 狼に成り下がってもいいと思えるほど、光太郎のどこにそんな魅力があるのか…ハッキリ言って彼には判らなかった。また、判らなくてもいいと思っている。
 敢えて『犬』と言わないところが、彼の下心を如実に物語っている…などと言うことはどうでもいいのだろう。
 アシュリーにとって光太郎は、自分以上の何かなのだ。
 それでいい。

「さってと。エレーネ姐さんをサッサと捕まえて、ヴァンアパイアを召し取ったら極上のご褒美をもらおう」

 今夜はきっと、いつもよりも生臭い夜になるだろう。
 そうして明け方に帰るあのマンションで、少し眠たそうな双眸をした最愛の相棒は、仕方なさそうな顔をしてバスタオルと大き目のシャツを手渡すんだろう。
 風呂に入ってスッキリすれば、嫌なこた全部忘れるって。
 憎めない笑顔のオマケ付きで、そのことを教えてくれたのは光太郎。
 あどけない顔立ちをした、最愛のひと。
 明日の朝、もたらす筈の最高に上等なお土産に、光太郎は飛びきりの笑顔をくれるだろうか?
 どんな顔をするのかな、あのヒトは。
 それは考えただけでもウキウキする、俄然、この後の仕事にヤル気を起こさせてくれるちょっと危険な妄想だ。
 命の重みよりもアシュリーにとって重要なのは、まさにそのことだなどと光太郎が知るのは、もう暫く後のことで、エレーネすらも開いた口が塞がらない間抜けな状況も彼にとってはどこ吹く風で。
 カシャン…と柵を微かに鳴らせて身軽に飛び乗るアシュリーの重さをまるで気にした風もなく、フェンスは細やかに振動している。確かに何かが乗ってはいる様子だが…

「やれやれ。オレってばなんてケナゲ」

 軽く肩を竦めたアシュリーのふざけた独り言は吹き上げる風に掻き消されて夜空に吸い込まれて行く。だがそれよりも一瞬早く、アシュリーの巨体がゆっくりと眼下の小さな光の河にダイブした。
 恐ろしい風圧を心地よさそうに双眸を閉じるアシュリーの見る一瞬の幻がなんであるのか。
 確認できるのは彼本人。
 光の河に吸い込まれて、エレーネは遠い別のビルの屋上で苦笑いしていた。

5  -ヴァンパイアと真夜中に踊れ-

 夜空に煌く星を散りばめた全てが、どこかに隠れてしまったあのひとだとしたら。
 見つけ出して抱きしめて。
 ああ…もう二度と手離したりはしないのに。
 この胸の奥に滾る想いはなんだろう…?
 欲しい。
 欲しい。
 彼女が欲しい。
 彼女がその身内に隠し持っていた。
 あの甘い血。
 鼓動を脈打つ優しい心。
 握り潰したいほど愛おしくて。
 手に入れたかった…

◆ ◇ ◆

 逃げ出した『旅人』は吸血鬼だった。
 彼は遠い昔に亡くした恋人を捜して捜して…彷徨っていたところをエレーネがアシュリーとはまた別の仲間と捕獲していたのだが、上層部の不手際から取り逃がしてしまったと言うのが事の次第だ。
 『旅人』と呼ばれ、戒律の厳しい妖魔の集団から己の意思で逸れてしまった孤独な妖魔のことを、闇の世界では通常『遠き異国の旅人』と呼んでいる。その彼らの秩序を取り締まるのが、人間の世界では殺し屋を生業としながらもたまにアシュリーが顔を覗かせているギルドの連中だった。
 その素性も正体も一切が不明ではあるが、人間として名前を列席している者はただの一人もいない特殊機関であることは確かだ。
 実際のところ、アシュリーにもよく判ってはいなかった。
 物心もつかないうちに両親を亡くし、妖魔の手によって育てられた彼は、反発するようにその妖魔の許から飛び出してエレーネに拾われ、以来ずっとなんの疑問も持たずに行き場をなくした『旅人』を狩っていた。
 だが、今回のターゲットは自らの強い執念の意思で群れを逸れた『遠き異国の旅人』なのだ。
 群れから逸れた妖魔に自らを戒める戒律はなく、その為、その解放された力は想像を遥かに凌駕し、百戦錬磨の腕を持つエレーネを持ってしても、一瞬に生じる隙を見逃さない限りは捕獲は困難だと言われるほどだ。
 アシュリーは自分が身震いしていることに気付いて苦笑した。

「いけない、いけない。こんなところを光ちゃんに見られたら笑われちゃうね」

 呟いて、アシュリーはどこかの闇に膝を抱えて蹲る孤独に愛されて遠き異国の旅人と成り果てた、悲しい妖魔を思った。
 遠い昔に亡くした恋人は、同じヴァンパイアだったと聞く。
 輪廻の輪から逸れてしまった魂の生まれ変わりは存在しないと言うのに、どうして、その妖魔は『旅人』から抜け出してまでも彼女を捜し続けるのだろうか…?
 誰か別の妖魔を愛せばすむことなのに…そこまで考えて、アシュリーは小さく笑った。

「そんなこと。きっとできるはずもないか」

 別の誰かは所詮別の誰かであって、心から惹かれあって心を寄せた伴侶ではないのだ。その愛しい魂が永遠に失われた事実に生涯を囚われて、彷徨うのも生きる道なのかもしれない。
 妖魔は自殺できない。
 誰か、他人の手に掛かって死ねることを、ただひたすら望んでいるのだろうか…
 必死に生きるのか、必死に死ぬのか…囚われた孤独に押し潰される恐怖を味わいながら、無差別に人間を狩るのには理由があるんだろう。

「誰かの温もりに触れて、それがたとえ彼女じゃなかったとしても、幻想に溺れてしまう道…ってのもゾッとしないね」

 どこか遠くでエレーネの声がして、アシュリーは馬鹿げた妄想から覚醒した。
 オフホワイトのコートは彼の戒め。
 返り血を浴びる度に自分が人間ではない化け物だと思い知るための虚ろな道具に過ぎない。
 彼が愛している人間は、そのコートを見るたびに首を傾げては不思議そうな顔をしていた。
 『殺し屋なのに白系のコートは目立って変だ』と言われても、アシュリーは笑うことしかできなかった。どこまで理解してるんだろうか、この愛しい人は。

「きっと何も理解なんかしていないんだよねぇ。オレの愛しい人は鈍感野郎だから。ま、そんな光ちゃんを愛しちゃったオレもどうかしてるんだろうけど」

「?」

 自己完結して肩を竦める傍らの相棒に、エレーネは不審そうな双眸を向けて柳眉を顰めたが、別に何か言おうとはしなかった。
 風が吹き上げていくビルの頂きで、痩身で小柄なエレーネと大柄な体躯を夜目にも明るい白のコートに隠した長身のアシュリーは、華やかな闇を矛盾なく抱え込んだ空虚な電飾に彩られた虚ろな街を見下ろしていた。
 こんな薄ら寒い街で、孤独を抱き締めて泣く妖魔は…何に癒されてると言うのだろう?
 彼女を亡くした街で…心まで亡くしながら。

◇ ◆ ◇

「ちょ、勇ちゃん!?どうしちゃったって言うの!?」

 すみれは驚きに双眸を見開きながらも、得体の知れない外国人の腕に意識をなくして抱き上げられている勇一を見るなり、手際よく室内に通してベッドに横たわらせた。
 意識を失っているようだがそれほど大した事はないようだと、手首を掴んで腕時計に目線を落としていたすみれはホッとして寝室を後にすると、漆黒の衣服に身体を包んで居間に立っている男に警戒したように両腕を組んで唇を尖らせた。

「で?詳しい事情を話してくれない?」

 むやみやたらに追い出すのではなく、腕に自信のあるすみれは勇一の身の上に起きた事実を知ろうと見知らぬ男と対峙する。

「まあ、落ち着いてください。お嬢さん、私は別に怪しい者ではありませんから…」

 男が優雅に呟くと、彫りの深い顔立ちに電灯が陰影を落として、普通の女性なら腰が抜けるほど端整な顔立ちをした男にも、すみれは怯まずに綺麗な柳眉を寄せて食って掛かる。

「そんなにあからさまに怪しそうなのに、信じろって方がどうかしてるんじゃないかしらね」

 男は面食らったように一瞬だけ驚きに双眸を開いたが、次いで、くっくっく…っと愉快そうに微笑んだ。いちいち全てに格好をつける男に、すみれはあからさまに胡散臭そうな目付きをした。

(コイツ…きっと自分の容姿に自信があるのね。寒気がするわ、ヘンな奴)

 胸中で思って口を噤むすみれのその勝気そうな双眸に、男は強情な娘だと思って欲しくなった…が、今はそれどころではないのだと思い直して、彼は肩を竦めると自己紹介をした。

「私はアリストア=レガーシル。通り掛かりにちょっとしたアクシデントに見舞われましてね。倒れている彼を見つけたのだよ」

「…アリストア=レガーシル?って、もしかしたら立原伯父さまのお知り合いの?」

 強情そうな娘の口から洩れた恩人の名前に反応した男、アリストアは驚いたように色素の薄い双眸を細めてすみれを見た。

「立原氏をご存知で?」

 すみれは幾分かホッとしたように気丈に振舞っていた緊張を解いて頷いた。頷いて、伯父の知り合いに対して失礼な振る舞いをしていることにハッと気付き、慌てたように可愛らしいフリルのクッションを勧めてキッチンへと姿を消した。

「母のお兄さんなんです。良かった、勇ちゃんが知ってる人に助けられて…」

 紅茶を淹れながら応えるすみれに、アリストアは襲わなくて良かったと胸を撫で下ろした。

「気を失う前に、彼がここの住所を言ったのでね。連れて来てみたのだよ」

「ありがとうございます。勇ちゃん…きっとあたしに何か言いたいことがあったのね。取り敢えず、友人たちを呼びたいんですが…」

 花柄のセンスの良いカップに注がれた琥珀のお茶を見つめながら、アリストアはその方がいいだろうと頷いて見せた。

「私は構いませんよ。時に、お嬢さん。君は槙村光太郎をご存知かな?」

「私は滝川すみれです。光太郎が、光太郎に何かあったんですか?」

 震える指先で恋人である彰の番号をプッシュし、呼び出し音を確認してからすみれはアリストアを振り返った。

「…彼は攫われてしまったよ」

 すみれは驚いたように双眸を見開いて絶句したが、何をどう理解しようかと思い悩んだようにこめかみを押さえながら、ちょうど受話器を取った彰に思わず怒鳴ってしまっていた。

「みんな集合よ!場所はあたしの家ッ」

 それで電話を切って子機をテーブルに戻したすみれは、あたたかな温もりを大事そうに両手で包み込んでいる風変わりな外国人に、眉根を寄せて尋ねていた。

「光太郎はどんな奴に攫われたんです!?アイツ、けっこう強いから、そんな簡単に攫われるはずはないんです!」

 滑り込むようにアリストアの前に座ったすみれに、彼は思った以上に臆病そうな彼女の、外見では人間を見極められないことを思い出しながら不安に揺れる双眸を見つめて口を開いた。

「魔物です。…きっと貴女は信じないでしょうがね」

◆ ◇ ◆

《ただいまv》

 赤いピエロは俺の身体を抱き締めると、愛おしいそうに頬擦りをしてきた。
 奥さんは相変わらず逃げ出そうと毎日のように部屋をグッチャグチャにしていて、仕事?…か何か判らない外出先から戻ってくる自称夫は、やっぱり相変わらずの仕種でそんな俺を抱き締めてキスをするんだ。
 もうそんなことには慣れてしまった俺って…かなりヤバイ精神状態だとは思うけど、それだっていつかの隙を狙えるだけの余裕は欲しいと思うからの苦肉の策で。

「…」

《? どうかしたの?》

 ずっと長くいるからだとか、そう言うんじゃなくて、なんかヘンだって肌が感じ取ったんだと思う。
 コイツはデュークか?

「誰だよ、お前」

 赤い衣装に身を包んだピエロはビックリしたようにキョトンとして、それから困ったように眉を寄せると俺の顎に手をかけて覗き込んで来た。金色の双眸は見透かすように俺の心の内側まで覗き込もうとしているようだ。

《何を言ってるの?ボクはデューク。キミの旦那さんでしょう》

 声も、あの憎たらしいほど澄ました喋り方も、人を馬鹿にしたようなポンポンの付いてる二股割れの帽子の裾から覗くディープブルーの髪も、匂いも…気配すら全てデュークなのに、何が違うんだろう?コイツはデュークじゃない。
 口唇に触れた唇のやわらかさも、俺に触れるときの、その鋭い凶器を持つ指先の驚くほど繊細な仕種も、何もかもがデュークなのに…何だろう?

「違う。お前はデュークじゃない。誰だ?アイツの知り合いなのか?俺をからかってんのか?」

 その腕から逃れようと両手でソイツの身体を引き離しながら言うと、赤い衣装のデュークもどきはキョトンとした表情でそんな俺を見下ろしてくるんだ。
 コイツはなんだ?
 別の妖魔が俺を殺しにでも来たって言うのか?だったら、何もデュークの格好をする必要もないだろうに…アイツ、実はそうとう恨まれてるとか?
 有り得そうだから怖いんだよなぁ。

《光太郎?》

「何だよ」

 呼ばれて顔を上げた俺は、思わず目をむいてしまった。
 なぜかって…その。
 突然、キスされたからだ。
 キスなんて慣れてるつもりでいたのに…舌に柔らかく当たる犬歯のような歯の感触を感じたとたん、ビリビリと身体中に電気みたいなものが走った気がして…感じた、んだと思う。
 良く判らないんだけど、腰が抜けそうになって思わずその得体の知れない妖魔に縋り付いてしまった。
 一生の不覚だ!畜生ッ。
 デュークやアシュリーのキスに慣れていると思っていたのは俺の勘違いだったのかもしれない。そう思わせるほど、その鮮烈なキスはそう簡単には忘れられそうもないぐらい強烈だった。

「…ッ!んた、だ、誰なんだよ!?離せッ!離せよ!!」

《ふん。しがみ付いてるのはキミの方》

 鼻先で笑って手を離したソイツからずり落ちた俺は、情けなくも床にそのまま座り込んでしまった。

《これぐらいで感じちゃう。デュークったらどんな調教をしてるの?》

「ち、調教!?ふざけんなッ!」

 腰は萎えてるし、思うように身体に力は入らないし、繰り出した拳の威力なんざ高が知れてるとしても殴らずにはいられなかった。ヘロヘロのパンチはすぐに受け止められて、掴まれた腕ごと引き寄せられて、屈み込む妖魔の金に煌く妖しい双眸に見据えられて咽喉の奥が渇くのを感じた。
 …なんだってこう、妖魔の凄みに怯んじまうんだ、俺よ!
 殺された娘の仇を打ちたいからと娘を殺した奴を捕まえてくれって依頼、辛いぐらいのお袋さんの気持ちに共感して引き受けただけの、ただの変態がらみの依頼だって思っていたんだ。なのに、どうも調べていくうちにこの世ならざる者の仕業なんじゃないかって思うようになって、殺され方の尋常じゃない様にある仮説をたてたんだ。
 つまり、『ヴァンパイアの仕業』じゃないかってな。
 馬鹿みたいで、でも満更じゃなさそうだって言う俺は自分の直感を信じた。
 友人にも相談した。彼らは賛同してくれた。
 こんなことになる前に手を引けとも言われたさ。
 でも俺は…あのお袋さんの、絶望を押し殺しながら娘の仇を討ちたいという悲しいまでの母親の気持ちを踏み躙りたくはなかったんだ。その想いが達成したときにたとえあのお袋さんが亡くなったとしても、それが幸福ならそれでもいいと思う。
 だから…
 たとえ相手が悪魔だとしても、俺は怯むわけにはいかないんだ!
 方法なんか知らないけど、できることはなんだってする。
 それが『私立槙村探偵事務所』のモットーだ!

《!》

 キッと睨み付けた俺はヘロッた足腰に気合をぶち込んで、自力で立つとその腕を振り払った。
 デュークもどきは突然の俺の反撃に少しは驚いたようだったけど、何か面白いものを見つけた猛獣のような獰猛さでニヤッと笑ったんだ。

《面白い。うん、とっても面白いよ》

 不可視の霧のように殺気を撒き散らすソイツの気配は、今や氷のような冷たさで、俺の口許からは事実、それを物語るように吐き出される息が白くなっている。

《ヤってみる?面白そう。ドキドキする》

 ズイッと一歩を踏み締める様にして息を飲む俺に近付いてきたソイツは不意にハッとしたけど、その時はもう遅くて、深紅の衣装に絡みつくように漆黒の袖から伸びた腕がヤツの動きを封じ込めたんだ。

《勝手にドキドキするのはルール違反だよ、アーク》

 頭に直接響くこの声は…

「デューク?」

 思わず口から洩れた言葉に反応するように冷えた大気がユラリッと熱を取り戻して、赤いピエロの背後の空間が陽炎のように揺らめいた。

《なんだか楽しげにさっさと帰るから心配はしてたけど…他人の伴侶に手を出すのはご法度だよ、アーク。『旅人』に申告してもいい?》

《やめて。それはやめて》

 漆黒のシャツを着た、いつもとは違う出で立ちのデュークはディープブルーの髪もそのままの、ごく普通の格好をして揺らめく空間の中から姿を現すと、抱き付いている妖魔の耳元に不機嫌そうに囁いているようだ。そうすると、赤のピエロ、アークとか言う妖魔はデュークと全く同じ顔を引き攣らせて嫌そうに笑っている。
 …なんか、どうも一難は去ったようだ。

《ふん。デュークったら本気で骨抜き。でも楽しいから、いつかまた来ようっと》

 楽しそうにクスクスと笑った後、アークはスルリッとデュークの腕から逃れ、ほんの一瞬指先を動かしただけで青いピエロの衣装に着替えてしまった。
 すっげぇ早業だな。芸能人とかって舞台で着替えの早業があるって聞いたけど、これだと便利なんだろうな。とか、俺がそんな下らないことを考えている間に、アークはチラッとこっちを見てクスッともう一度笑ったんだ。

《デュークのように恋をするつもりはないけど。キミとはゼヒ、拳で勝負してみたいな》

《アーク》

 腕を組んだデュークが胡乱な目付きで不機嫌そうにその名前を呼ぶと、胸の前で小さく降参のポーズをして「はいはい」と言いたげなアークは面倒臭そうな顔をして立ち去ろうとした。
 けど。

「!」

《他人のものってのは興味がわいちゃうんだよねぇ。タフそうだし。ボクもキミを気に入ったよ。だって、ボクとデュークを見分けられたのなんて二人目だものね》

 立ち去り際、頬に掠めるようなキスを残すと、ムスッとしているデュークに舌を出しながらアークは空間に溶け込むようにして姿を消してしまった。
 青いピエロはなんとも恐ろしいが、どうもデュークよりは陽気そうだ。
 拳で勝負とかって部分が引っ掛かるんだけど…

《アークは気紛れだから、いつかまた来るよ。メンドイ》

 肩を竦めて、さっさと床にへたり込んでしまった俺の腕を取って立ち上がらせながら、デュークは本当に面倒臭そうな顔をした。

「デューク。なんで、そんな妙な格好をしてるんだ?」

 いつもの見慣れたピエロの衣装ではないそのホストみたいな格好に両腕を掴んで立ち上がらせてもらいながら首を傾げると、デュークの奴は片方の眉を小器用に釣り上げて憮然とした表情で唇を尖らせた。

《ヘン?これは人間のカッコでしょーが。お店のヒトは誉めてくれたんだけど》

「いや。素直に言えばカッコイイとは思うよ。禍々しさにも磨きがかかってるしな。俺が言いたいのはどうしてそんな格好をしてるかってことだ」

 デュークになると大きな態度に出る俺ってのもなんだかな…とは思うけど、その分、この妖魔が本気で俺を大事にしてるんだなってことはアークの態度で判った。本来なら、俺なんか指先で消しちまうことだってできるんだろう。
 でも、デュークの奴はそんなことはしない。
 指先にある凶器で俺を傷付けないように柔らかく抱き締めたりする仕種とか…ホント、鳥肌もんだよな。
 全く。

《買い物に行こう。高い建物の中は息が詰まるからいけない》

「お前が閉じ込めてるくせに」

《そう。だって、誰にも見せたくないから。でも、光太郎は人間だから、太陽に当ててまっすぐに育てないと》

 人を植物みたいに言うな…とか言ってやりたかったけど、呆れて何か言う気にもなれなかったから俺は黙って頷くことにしたんだ。

《息抜き…って奴だね》

 外に出られる。
 だってそれは、逃げ出せるチャンスじゃないか。
 俺は黒のシャツを着たデュークの背中に腕を回しながら、その胸に頬を寄せた。デュークは奇妙に素直な俺を訝しみながらも、俺の後頭部に片手で触れながら頬を寄せてきた。
 この得体の知れない妖魔の弱点が、ともすれば俺を好きだと言う一瞬の隙だとしたら…逃げ出せる。
 ああ、逃げ出して見せるさ。
 祈るようにそう思っていた。

4  -ヴァンパイアと真夜中に踊れ-

 ちっくしょう…
 どうやらここはどこかのマンションのようだ。それも、格別高い、高層マンションのようだ。
 どう言う仕掛けなのか、窓には鍵がかかってるってワケでもないのに、なぜか開かない。
 デュークはあの青いピエロと仕事があるからと言って出かけてしまった。
 ヒョイッと肩越しに振り返って《逃げようと思っても無駄だよ。ここは、人間的に言ったら結界?が張ってあるからね》と嬉しそうに言っていた。
 疑問形で聞かれたってなんて答えりゃいいのか判らない俺は、溜め息をついて、自称〝夫〟を見送ってやったさ。

「いってらっしゃい、あなた」

 そう言ったら、ちょっと驚いたような表情をしていた妖魔はすぐにニヤッと笑って、素直なのは好きだよ…とか言いながら肩を竦めると玄関に向かって、まあ、先のようなことを言ったわけだ。
 本気で言うワケがねぇだろ、バカ野郎。
 あの変態ピエロがいない隙に、どんなことがあったって俺は逃げ出さないと…
 アシュリーは…まだ戻ってねぇだろうな。
 アイツのことを思い出したら、俺は唐突に暗くなってしまった。
 俯いて、唇を噛む。
 俺は、けしてアシュリーを嫌っていたわけじゃない。アイツなりの挨拶にしても、キスされたって嫌じゃなかった。デュークにされた時のような嫌悪感が、端からなかった。
まるで昔から知っているような、そんな懐かしい感触が案外好きだったんだ。
 なんだろう、この気持ちは…
 いや、今はそんなことはどうだっていい。
 ここから逃げ出すことが先決だ。
 一晩中抱かれた身体は痛みを強かに訴えてくるが、そんなこともどうでもいい。
 俺は取り敢えず、無駄だと判っていても薄いただのガラスが嵌め込まれた窓に力任せに椅子を投げつけてみた。
 ガァンッと凄まじい音がして椅子が床に転がったけど、窓自体は別に平然と傷1つなく佇んでいる。いったい、どんな強化ガラスだよ。全く。
 何度したって同じだろうから、俺は椅子をサッサと諦めて周囲を見渡した。
 変態ピエロがいなくなって、よくよく部屋を見渡してみると、けっこう、高額を出さないと手に入れることはできないだろうってぐらい高級な、恐らく分譲住宅だってことは判った。
 調度品も添え付けで、マホガニーだとか、俺が咽喉から手が出るほど欲しかった事務用の重厚なテーブルが書斎に備わっていて…おい、なんだよこれは。書斎だと?
 ふざけやがって!
 どうせ俺のアパートはせいぜい良くて3DKだよ!
 クソッ。
 はっ!いやいや、自分の家と比較しちゃいかん。こんなものは、夢なんだ。
 俺が必死で働いて手に入れるなら現実になる、夢なんだ。
 逃げ出せないって判ってるんだろう、デュークは俺を自由にしている。
 服もあるし、財布も家の鍵もそのまんま置いてある。
 ふざけやがって…絶対に逃げ出してやる。
 人間さまを舐めるなよ!

◆ ◇ ◆

 クスッと魔物が笑う。

《デューク?》

 青い衣装に身を包んだピエロが不思議そうに背後の影に振り返ると、真っ赤な衣装の魔物は鮮血に彩られた衣装と同じく真っ赤な唇を優雅な笑みに象って首を微かに振った。
 それでも楽しそうだ。

《ヘンなヒト。デュークはあの人間を手に入れてから、牙が抜けた猛獣のよう》

 そう言って、青いピエロは惜しむように首を左右に振るのだった。

《まるで飼い猫》

 赤のピエロはその挑戦的な台詞にも肩を竦めるだけで何も言い返そうとはしない。

《でも、それもいいかも♪》

 結局、何が言いたいのか。
 青のピエロは蒼白の頬を上気させてクスクスと笑いながら宙に身体を踊らせた。クルンと逆さになって、それでも根性(?)で落ちない二股割れの帽子についたポンポンを揺らしながら、唆すような双眸で赤のピエロに口付けた。

《間接キス。あの人間の味がするよ。昨日は随分と楽しんだ?》

 唇を離した妖魔が嗾けるようにクスッと鼻先で笑って小首を傾げると、その時になって漸く赤い衣装の妖魔はニッコリと見る者の心を魅了してやまない美しい笑みを浮かべて口を開いた。

《アークってば、いつからそんなオヤジ?幻滅しちゃうよ》

 ガタガタと、二人の間で恐怖に震える綺麗な娘は、胸元と首筋から多量の鮮血を滴らせて、もう余命の灯火が消えかけていることを物語っている。恐怖に引き攣った蒼白の頬と、見開いた狂気を宿す双眸が、たとえ助かったとしても、彼女の心に巣食う残酷な悪夢が消えないこともまた、物語っている。

《酷い。オヤジなんて酷い。美味しいからあの人間に持って帰ってあげなよって言うつもりだったけど、もうあげない。デュークにもあげない。これはボクが1人で食べる》

《ご自由に》

 そんな阿婆擦れ…言外の台詞に気付いたのか気付かないのか、プイッと腹を立てたアークは逆さまのままニヤァッと不気味に微笑んで、ヒィッと怯える娘の長い髪を引き掴んでさらに高く舞い上がる。

「き、キャァァァッ!!あ…あ…願い、た、助けて…」

 長い髪を思い切り掴みあげられて、ブチブチと鈍い音を立てて皮膚ごと毟り取られながら無理矢理立ち上がらせられた娘が、無理なことだと判りきっているのに綺麗なピエロに救いの双眸を向けた。ボタボタと大粒の涙を零す娘を哀れむように見下ろしたデュークの金色の双眸には、凡そ感情と言うものは見受けられないが、人間に対するにしては哀れみのフリをしているのも珍しいことだ。

《デューク、骨抜き。うんざり》

 肩を竦めた青のピエロは憎々しげに吐き捨てて、忌々しそうに断末魔のような絶叫を上げる娘を闇の中に隠してしまった。顔だけを宙に浮かした奇妙な青のピエロを見据える深紅の妖魔に、彼はもう一度大きな溜め息をついた。

《あの人間。ヴァンパイアが狙ってるよ》

《ヴァンパイア?》

 不思議そうに小首を傾げると、青の妖魔は暫く何事かを考えているようだったが、ニッコリと笑って頷いた。

《うんとヤキモチを焼くといいよ。それと…イロイロ。あの人間、色んな妖魔が狙ってる。甘い血のせい?それとも…?》

 意味深に呟いて口許に笑みを浮かべたままで宙に浮いた頭を闇にスゥッと消した青のピエロを見送った妖魔、深紅の衣装に身を包んだデュークは暫く訝しそうに腰に手を当てて考え込んでいるようだったが、綺麗な面にうっそりとした微笑を張り付かせてつまらなさそうに思念の声で呟いた。

《アシュリー?》

 つまらなさそうな声音も微笑みも、全ては嫉妬の裏返しで、底知れない殺意が不可視のオーラとなって無気味に裏通りをドライアイスの煙が舐めるように立ち込めた。
 浮浪者は恐怖に溜め息をつき、売春婦は小さな悲鳴をあげて失神する。
 だが、やたらと嫉妬深い不気味な妖魔の姿を見た者は存在せず、彼は煙のような殺意の気配だけを遺して闇に消えた。
 娘の遺した皮膚のこびり付いた自慢の髪だけが、何事もなかったかのように生臭い風に揺れていた。

◆ ◇ ◆

「ああ、クソッ!」

 先ほどから繰り返している行為に、俺は疲れきったようにガックリと床に両手をついて項垂れてしまう。
 破壊された椅子の残骸が散乱して、その他も細々としたもので部屋中は引っ繰り返ったような騒ぎになっている。フンッ!構うもんか。
 俺はそれでも諦めきれなくて立ち上がると、大股で玄関に行ってノブに手をかけた。嫌味たらしく鍵すらもかかっていないそれは、ビクともしないからムカツクんだよな!
 ガチャガチャと回していると、あんなに重かったノブがふわりと軽くなって、俺は呆気に取られながらも慌ててノブに飛びついた、飛びついて回しながらその足で部屋の奥に逃げ出したくなった。
 なぜなら、この脳に直接響く不快な声とも言えない音は…

《おや、奥さん。わざわざお出迎え?》

 そう言ってニッコリと笑った綺麗な顔の不気味なピエロの衣装に身を包んだ妖魔は、人間ならざる金色の瞳をキラキラとさせて部屋に入り込むと、その手で俺を抱きすくめて来やがった!
 ひ、ひえぇぇ~…

《ありゃ、凄いね。逃げようと必死だったんだ?でも無理だった。もう、諦めた?》

 凄惨とした部屋を見渡した後、苦笑しながら覗き込んでくる金色の瞳をキッと睨みつけてやると、ヤツはやれやれと言うように俺をギュウッと抱き締めたままで器用に肩を竦めやがった。

《諦めてないみたい》

 それからクスッと笑う。
 訝しくて睨みつけようとしたら、唐突に、啄むだけの小さなキスをしてきた。
 キスされて…気付いたんだ。
 不意に口に一瞬だけ広がった鉄錆の味。
 思わず吐きたくなるこの味は…アリストアに殴られた時に口いっぱいに広がった、あの、血の味だ。
 コイツ…ッ!!

「人間を襲ってきたのか!?仕事って人間を喰うことなのか!?」

 よくよく見れば唇は真っ赤で、妖魔特有の金の目と、上気した頬は血を吸った後のアリストアに酷似している。俺は恐ろしくなって、その胸元を必死で掴みながら訴えた。
 殺したのか!?人間を…?
 アリストアはなんて言った?彼らの通った後に横たわる遺体は無残だと、確かそう言わなかったか?

「デューク…人間を襲ったのか?」

 見上げる俺を覗き込むようにして冷やかに見下ろしていた金の目の、けして陽気ではないピエロは胡乱な目付きのまま俺の抗議する口に貪るように口付けてきた。

「い、やだ!デューク!やめろッ!ん…むぅ」

 眉を寄せて、イヤイヤするように首を振ってもデュークはやめようとしない。俺の台詞にムカツイたのか、人間ごときに無駄口は叩かせたくないのか…俺は息苦しさと悔しさにギュッと目を閉じながら、生理的に目元に涙を浮かべてそれでも必死で抵抗しようとしていた。

《アリストアって誰?》

 唐突に、頭に響いてきた思念の声にギュッと閉じていた目を見開くと、デュークの剣呑とした不機嫌そうな金の目が間近にあってちょっと驚いた。…どうやらヤツは、俺の人殺し発言にでも、逃げ出そうとしていたことにでもなく、なぜか俺が考えていたアリストアという名前に嫉妬…そう、嫉妬してるんだ。
 口付けながら喋ることのできる思念の声って便利だよな、とか!そんなことはそうだっていいんだ!
 俺は口を無理矢理引き離しながら変態ピエロに喰らいついた。

「なんで、お前がアリストアを知ってるんだよ!?」

《今、考えたでしょ?名前のイメージがね、頭に響いたんだ》

 …ってことは、顔までは浮かばなかったってワケか。
 にしたって、イメージだと?妖魔ってのはなんだってこう…なんでもできるんだ!?

《ねぇ、アリストアって誰?コータローの友達?それとも…ボクの仲間?》

 どっちにしても許さないんだろうな。

「俺の友人知人、全員に嫉妬するつもりかよ?とんだ独占欲だな。そう言うことする野郎ってのはモテないんだぜ?しかも、ストーカーだと嫌われるんだ。判るか?」

《ストーカぁー?どちだっていいよ、別に。変態でもストーカーでも、コータローの好きに呼ぶといい。ボクたち妖魔って生き物はね、一度奥さんに決めたら、二度と手離さないんだよ。死んでも生まれ変わるまで待つんだ。キミたち人間は生まれ変わりを信じていないけどね、妖魔は死の仕組みを熟知してるから待つこともできるんだよ》

 アンビリバボーな発言に目を白黒させながら、俺はそれでも抱き締めてくる身体を精一杯両手を突っ張って引き離しながら睨みつけた。俺の抵抗を楽しんでるんだろう、じゃなきゃ、さっさと抱き締められてるからな。

「死んだ後まで追われるのかよ!?ゴメンだ!」

《契りはもう結んじゃったからね。その首筋の痕は、一生消えないって言ったでしょ?それがボクのものだと言う証。犬になっても猫になっても、ゴキブリになっても虫になっても。どんな姿でも必ず見つけ出して、ずっと一緒にいるから。ボクたちだけが使える、永遠だよ》

 胡乱な目付きをフッと和ませて、デュークは問答無用で俺を抱き締めてきた。俺の色気もない黒髪に頬擦りしながら、デュークは嬉しそうに呟くんだ。

《ああ、どうしてこんなに愛しいんだろう?人間なんて、ただの食餌でしかなかったのに》

 うっとりと呟くデュークに、青褪めた俺は聞かれても構わないと思いながらも、冗談じゃねぇと内心で思っていた。
 抱き締められながら、自由な片腕で首筋に開いている二つの穴を押さえた。
 この疵は、妖魔との永遠を誓う為の証であり、永遠に消えない罪の証でもあるんだ。
 アシュリー!
 俺は怖い!怖いんだ!
 俄かに震えだした俺の肩を慮るように抱き締めるデュークの、人間の血液に潤った温かな身体を感じながら、必死でここにはいないたった1人の名前を心で叫んでいた。
 俺は、俺は人間に戻りたいと思っていた…

◇ ◆ ◇

「アシュリー?」

 若い、16か17ぐらいの娘が細く華奢な腕を伸ばして首筋に抱きつきながら、甘い声音でその名を呼ぶと、物思いに耽っていた金髪の大男はふと思考を遮断されて小さく苦笑した。

「なんだい、エレーネ?」

 垂れた双眸はふとした事で酷く冷たくなることを知っている美しい娘は、クスッと微笑んでその鼻先をピンッと小さく弾いた。

「痛いな」

 困ったように笑うアシュリーに、エレーネは意地悪く鼻に皺を寄せて見せる。

「考え事ばっかり!ちっとも相手をしてくれないんだもの、怒って当然でしょ?」

 小首を傾げる仕種はまるで小動物のような愛らしさがあるが、アシュリーの視線は遠く、彼女を通して誰かを見ているようだ。それを知っているから、娘は鼻先に皺を寄せてツンっとわざと外方向くのだ。

「怒ってるワケ?愛情もないくせに、そうゆうことは一人前だね」

 意地悪く言うアシュリーに、エレーネは漸く調子を取り戻した相棒を嬉しそうに振り返ると、彼の傍から立ち上がった。

「仕事に支障をきたすからよ。人間に現を抜かすのもいいけど、仕事はバリバリこなしてよね」

「ババァは口うるさくていけないね」

「ババァって言ったわね?女性の年をとやかく言うってことは、あんたも立派なおじさんになったってことよ。そのうち、若い人間の坊やから捨てられるかもね。その時になって縁りを戻そうなんて言って来ても相手にしてあげないからね」

 それほど傷付いたのよと、思い知りなさいと言ってフンッと鼻を鳴らして機関銃のように言い募った相変わらずの相棒の仕種に、アシュリーは何年振りかに懐かしく思った。

「師匠に縁りを戻してくれなんて言えないよ。アソコをチョン切られる覚悟でもしないとね」

「言ってくれるじゃない」

 齢100歳は悠に超える若い娘は、ホットパンツから伸びた長い素肌の足を惜しげもなく晒し、誘うような釣り上がり気味の綺麗なアーモンドアイを細めて笑った。
 会えば憎まれ口しか叩かない師弟は、それでも案外気の合う相棒としてはピカイチだ。
 今度の仕事も、それなりに命を張らねばいけないものなんだろう。彼が誰よりも想いを寄せている愛しい人が就いている職業に、自分も似たり寄ったりのことをしているなぁと苦笑して内心で思っていた。
 今度の依頼はズバリ、人間の暗殺ではない。
 人間如きの暗殺なら、この世界から遠く離れていた彼の、この世でたった1人の師匠であり恋人だった娘がこうして傍にいるはずがない。

「今回はナニ?エレーネから逃げ出した男でも殺るワケ?」

「あたしから逃げ出した?冗談じゃないわよ、アシュリー。長らく人間の世界に漬かっていて脳みそまで人間臭くなっちゃったの?馬鹿をお言いでないよ。あのヒトはずっと傍にいてくれてるさ」

 クスッと笑って片手を腰に当てて小首を傾げるエレーネの、冷たい風に揺れる肩口でキッチリと摘み揃えられている黒髪がサラリッと風を孕んだ。
 …剥製にしたあの人間の恋人を未だに想っているのかと、その一途なまでの思いの深さにアシュリーは眩暈がしそうだった。二度と生まれ変わらないように、別の誰かを愛さないように、でも仲間にはしたくなかった人間の恋人を剥製にして自分の館に閉じ込めた哀れな生き物に…いずれ自分もなるのだろうかとアシュリーは溜め息をついた。
 目も開かず、語りかけてもくれない、そんな剥製を傍らに?

「冗談じゃない。オレには無理な話だよ」

 肩を竦める相棒に片目を眇めたエレーネは、それでもそんな仕種をまるで無視して全く別のことを口にした。

「逃げ出した妖魔を殺すのさ。まあ、今回は表の仕事じゃないことは確かだね。裏の仕事よ」

「妖魔ぁ~?面倒臭いなぁ。エレーネ姐さん1人で殺るってのはどう?」

 真夜中のベンチに腰掛けてうんざりしたように背凭れに長い両手を伸ばして凭れるオフホワイトのコートを着た男に、ホットパンツに今は懐かしいチビTに身を包んだ寒そうな娘は鼻先だけで笑って腕を組んだ。

「あたしだってそのつもりだったのよ。あんたがいたら足手纏いだもの」

 なぬ?っと胡乱な目付きで睨むと、エレーネは少し真剣な双眸をしてアシュリーを見た。

「でもね、上がいい機会だからって言うのよ。あんたも昇格するってワケよ。そうしたら、もうホントにあたしの手から離れちゃうのよねぇ。そう思うと、惜しい男じゃない?もう一発ぐらいしちゃおうかしらとも思うワケ」

 アシュリーの独特な物言いは恐らく彼女から引き継がれたものなのだろう、エレーネはまんざら嘘とも言えない口調でそう言うと、上体を屈めるようにして無愛想な表情をした大男に口付けた。

「まあ、一発犯るかどうかは獲物を殺った後の話よね」

 思ったよりも長いキスの後で、エレーネは濡れた唇を舐めながら何でもないことのように呟いた。

「逃げ出した獲物ってナニ?ナニ系の妖魔?」

 うざったそうに訊いてくるアシュリーに、エレーネは殊更何でもないことのようにあっさりと答えた。

「遠き異国の旅人よ。漸く捕まえたって言うのにね、逃がしてんの。馬鹿な連中よねぇ?」

 クスクスと気のない微笑を浮かべるエレーネに、小さく息を飲みながらアシュリーはニッと笑った。

「ゾッとしない依頼だね。俄然、やる気が出ちゃった」

「天邪鬼ね」

 クスッと笑うエレーネの、その夜の闇よりも深い、多くの謎を秘めた漆黒の黒曜石のように煌く双眸が微笑まなかったことを、アシュリーはちゃんと気付いていた。
 一週間で帰られるかなぁ…光ちゃん、怒るだろうなと呟く溜め息は、口中で噛み締めてエレーネには悟らせなかった。
 勤務地は日本。
 喜んでいいのか悪いのか、訝しそうな表情のエレーネを気にすることもなく、とうとうアシュリーは盛大な溜め息を吐くのだった。

3  -ヴァンパイアと真夜中に踊れ-

「遠き異国の旅人とは殺人集団のことだよ。それも、我らの属性にある、闇の集団だ。しかし、彼らに実体はなく、その姿を見た者はいないと言う」

 アリストアは淡々と語り、蒸気は勢いを増して薬缶から吹きあがる。
 それだって隙間だらけの事務所だとなんの役にも立っていなくて、暑くなんかないはずなのにやけに汗が額を濡らすんだ。

「彼らの通りすぎた後に横たわる死体は無残だそうだよ。残念ながら私は見たこともなければ、見えたこともないのだがね。しかし、一度は会ってみたいと思っているよ。とても魅力的だからねぇ」

「魅力的だと…?」

 俺は乾いた唇を何度か舐めて、搾り出すように呟いていた。

「全く…相変わらず君は偽善者だね」

「偽善者で悪いかよ?人が死ぬのを笑っていられるほど冷たくないんでね」

 俺は人間なんだ。冗談じゃねぇ。

「君の、相棒だと言ったかな。彼は殺し屋だろう?死臭と血の匂いがプンプンとしていたよ。本人にその気さえあれば、ここいらの人間はひとたまりもないんじゃないのかな。そして、君もそのことは知っているのだろう」

 気障なヴァンパイアはそう言うと、色素の薄い瞳を金色に煌かせて真っ赤な唇をニヤッと釣り上げた。

「それでも離れることをしない君は、充分、冷たいのではないのかね?」

 息と一緒に言葉を飲み込んだ。
 震える拳を握り締めて、俺は唇を噛みながら金色の双眸を睨みつけた。
 何がおかしいのか、アリストアは人ならざる者の表情でうっとりと微笑みやがる。

「君は本当に…いや、そんなことはどうでもいいね。君の追うべきターゲットは『遠き異国の旅人』だ。捜し出せるものなら捜し出してみるといい」

「お前がその一員じゃないと言う証拠がない限り、お前だってターゲットだ」

 俺は漸く、そんな憎まれ口を言った。
 いまいちどころか、全然効いていないんだろう、アリストアは一瞬だけ呆気に取られたような間抜けな顔をしたが、次いで、すぐにおかしそうに笑ったんだ。その時はもう、人を食らう時に見せるあの尋常じゃない妖魔の顔じゃなく、しっかりと人間に化けてやがった。

「わたしは人間を殺さないよ。大切な食餌だからね。愛おしんで、悦楽も苦痛も長引かせてあげるのが愛の深さだ…」

 ちゃっかりと不気味なことまで嘯いて、ヴァンパイアは牧師の顔に戻って慈悲深く微笑んだ。

「さあ、わたしの情報はこの程度だよ。もう行きなさい、ここにいても時間の無駄ではないのかね?」

「…なんであんたは、俺に教えたんだ?狙われたりとかしないのかよ?」

 アリストアは面食らったような表情をしたが、すぐに牧師の慈悲深い表情で俺をまっすぐに見つめてきながら呟くように言った。

「言わなかったかね。わたしも会ってみたいのだよ。その姿なき来訪者に」

 相変わらず気障な台詞を吐いたヴァンパイアの双眸はどこか真剣で、口ほどには茶化してるわけじゃないことを俺は感じたんだ。
 と言うことは、これから俺が駆け回って探す情報の先々にコイツが現れるってワケなんだが、それでもいいかと思った。俺の邪魔をしなければただの牧師だ。
 そう自分に言い聞かせる、とんだ偽善者面に吐き気がしながら。
 目の前にヴァンパイアがいるのに、若い娘の咽喉を食い破る異形の化け物がのうのうと腕を組んで立っているって言うのに、俺はソイツの胸に杭を打つどころか、まるで負け犬のように教会を後にしたんだ。
 俺はいったい、何がしたいんだろう…

◆ ◇ ◆

 指の隙間から零れ落ちる砂のように、儚くも脆い人の魂の逝きつく先を見つめながら、寄せては返す時の波に想いの深さを感じていた。
 遠く愛した日々を口の端に浮かべたところで、物笑いの種にされることは仕方がない。
 死に逝く者が見せる一瞬の輝きのようなこの愛は、闇の底で膝を抱えて蹲る、気弱な生き物に落とされた情けのようなものだったから、いまさら恨む気にもなれなかった。
 今一度、あの輝く姿を見るまでは。
 暗い暗い深淵の底から見上げた空に似た、あの笑顔をみるまでは…

◆ ◇ ◆

 俺はトボトボと街路樹のある歩道を歩いていた。
 冬の匂いを散らつかせる冷たい風に首を竦めながら、微かな温もりをくれるマフラーで口許を覆った。そうでもしないと、噛み締めて白くなってる唇を訝しそうに見られてしまうからだ。
 この街路樹のある通りは恋人たちにけっこう人気があって、肩を寄せ合う連中は不躾な目付きで俺を見るんだ。
 だから俺は顔を隠す。
 たぶん、酷く憔悴してるんじゃねーかな?
 季節は冬だし、痛めた身体はあちこち痛いし…

「あれ、光太郎くん?」

 不意に聞き慣れた声に気付いて振り返ると、真っ白なコートに身を包んだ野崎勇一が茶色の紙袋を抱えて嬉しそうに立っていた。

「良かった、ここで会えて。すみれちゃんに聞いてお見舞いに行ったんだけど誰もいなくて…」

 小走りで近付いてきた勇一の口許には弾む息が白く空に舞いあがってる。

「勇一…ごめん、ちょっと用事でさ」

「もう仕事してもいいの?身体、まだ本調子じゃないんでしょ?」

 眉を顰めて小首を傾げる仕草は、すみれとは違った可愛らしさがある。高校の時も不埒なヤツに告白なんかされてたっけ。俺にとっては冗談じゃないけど、何となくヤツらの気持ちも判らんでもないよ。

「ああ。でももう動ける。ほらなっ!」

 そう言って腕を振り上げて見せると、勇一は少しホッとしたように顰めていた眉を和らげて、小さく微笑むんだ。うん、やっぱりヤツらの気持ちが判る。
 なんか、抱き締めてやりたくなるからな。守りたくなる、うん、そんなカンジ。

「じゃあ、もう大丈夫なんだね。それじゃ、これ。果物。身体にいいと思って」

「おお!サンキューな。あれ?お前、もう帰るのか」

「うん。ちょっと用事もあるし…それじゃあね」

 ニコッと微笑んで勇一は手を振った。
 小さな仕草も可愛くて、女連れの野郎だって振り返ってる。
 あーあ、彼女に耳を引っ張られてるよ。なんつー古典的なことを…
 俺は思わず笑って、それから白くなった息が薄暗くなった青空に吸い込まれて行くのを見上げながら、これからどうしようかと思った。
 依頼人…吸血鬼に娘を殺された未亡人に、なんて報告しよう。
 相手が悪いです。警察には逮捕なんてとても無理でしょう…とか言えねぇしな。
 ああ、どんより。
 俺が肩を落として歩き出した時だった。
 不意に何か、声のようなものが聞こえたんだ。
 勇一が消えた街路樹の通りを折れた裏道、突き刺さる視線のようなもの。
 ゾクッとした。やばい。
 この気配はヤバイんだ!
 条件反射で走り出していた。手にした紙袋がガサガサと耳障りな音を出すけど、俺はお構いなしに通りから入った裏道をめざす。

「こ、光太郎くん!」

 悲痛な勇一の声は、その真っ白なコートに包まれた身体を抱きすくめられた腕の中で不安に鋭く尖っている。恐怖が、可愛い顔を歪めさせていた。
 抱きすくめてるのは変態か…それとも。

◆ ◇ ◆

《あれぇ?獲物が向こうからやってきたよ》

 声じゃない、思念。
 笑ってるように揺れて頭に響いてくる。ハッキリ言って不気味だ。

《面倒臭いなぁ…》

 唐突にすぐ近くで思念の声がして、ハッとした時には遅かった。
 持っていた紙袋が乾いた音を立てて地面に落ちると、中からミカンとネーブルが転がり出てしまう。
 腕を凄まじい力で捩じ上げられ、苦痛に歪む顎を掴まれて上向かされた。
 2人…だったのか!
 覗き込んできた金色の目と俺の目が合った。それは明らかに人間じゃなくて、面倒臭そうな、不機嫌そうな表情をしたピエロは奇妙な化粧を塗りたくった口許を歪めている。チラッと覗いてるのは、牙かもしれない。
 蒼白の顔は化粧で誤魔化して、二つ割れの先端にポンポンの付いた帽子を被って…なるほど、これなら昼間に行動してもバレないって手筈なんだろう。遊園地とか…
 獲物は山ほどいるってワケか。クソッ!

《この子の方が好み~。そっちはデュークにあげるよv》

 勇一を捕まえてる青いピエロが笑ってそう言うと、睨み付ける俺を奇妙な目付きで見下ろしていた赤いピエロが唐突に口付けてきた。
 ぎゃあ!

《デューク!?》

 ギョッとしたように青いピエロが名前を呼ぶと、赤いピエロは暫くして唇を離してペロリと呆然としている俺の口許を舐めてきた。そして、ペコちゃんみたいに自分の唇を舐める。
 アシュリー以外にされるのは初めてだった俺は、目を白黒させて呆気に取られ、恐怖に青褪めている勇一も何が起こったんだと涙に濡れた目で俺たちを見てる。
 一番驚いてるのは青いピエロで、なんで人間なんかに興味を持ってるんだよとでも言いたそうな表情をしてる。人間はただの食餌なのに、とでも思ってるんだろう。

《アーク。ボクはコイツを気に入ったよ。ソイツはキミが楽しむといい。ボクはコイツを可愛がる》

《ヘンなの。デューク、それはヘンだよ》

《ヘンじゃないよ。ボクはこの人間を手許に置きたいんだ。大丈夫。キミの仕事もちゃんと手伝うよ。でも、可愛がるのはコイツだけでいい》

《まるで一目惚れ。デュークらしくもない》

《うん。そうかもね》

 ゾッとする会話をしながら赤いピエロは俺の髪に頬摺りをしてきた。
 そう言えば、あのアリストアも俺を伴侶にするとか気持ち悪ぃこと言ってたよな。なんだって言うんだ、俺よ!いったいどうなってるんだ。

「じ、冗談じゃねぇ!離せッ、離しやがれ!」

 俺が思いきり暴れると、赤いピエロは殊の外、あっさりとその手を離しやがった。

《あらら、デュークったら優しい。ホントにメロメロ?》

《うん。可愛い。ボクを睨んでるよ》

 反動でよろけながらもすぐに態勢を整えて身構える俺を、いつの間に傍に寄ったのか、勇一を片手に抱きかかえた青いピエロが赤いピエロの肩に腕を回してそう言うと、赤いピエロは腕を組んで笑った。
 可愛いとか言うな、気持ち悪い!
 アシュリーにしろ、アリストアにしろ、このピエロにしろ!いったい、コイツらは俺のことをなんだと思ってるんだ!俺は男で、こう見えても20歳になる健康優良児なんだぜ!そりゃ、確かに学生さんですか?と聞かれるぐらいに童顔だけどよ、だからって女に見えるはずもないだろう。俺の顔は立派な男だ!男なんだ!ただ童顔ってだけなんだよう!
 ああもう、泣きそうになるぜ。ちっくしょう!

《人間の男なんか対象外だけど…コイツは違う。あの目付きが腰にくる。食べるだけなんて勿体無い》

《女だったらいいのに。そしたら気紛れデュークの子が見られる》

《うん。初めての子はコイツに産んで欲しかった》

「なに、人を無視して気持ち悪ぃこと言ってやがる!俺は男だ!!」

 そもそも子供だと?
 この化け物たちは子供を作る事ができるのか?
 恐るべし…だ。

《判ってるよ。見れば判る。ねえ、名前はなんて言うの?どんなモノが好き?欲しいものを言って、ぜんぶ集めてあげるから…》

 瞬きしている間に近付いた赤いピエロに抱え上げられて、うっとり細めた金色の双眸で見上げられた俺は声を失った。気持ち悪いし、できることなら思いきり暴れたい。
 でも、その金色の目を見た途端、まるで腰砕けにでもなったように身体に力が入らなくて…声すら出せねぇ。なんてこった…

「ゆ…ゆう…勇一を…はな……し、やがれっ!」

 根性でそう言うと、赤いピエロは驚いたように双眸を見開いて、それから嬉しそうに笑って青いピエロを振り返った。

《聞いた?ボクの力で押さえこんだって言うのに、喋るんだよ!すごいよ、この人間ッ》

《でも危険。やっぱり食べて殺そうよ》

《イヤだ。ボクはコイツを連れて行く》

《判らず屋。相変わらず判らず屋》

《なんとでも》

 ニッコリ笑って赤いピエロは睨み付ける俺の顔をうっとりと覗き込んで来る。気味が…悪いはずの顔はハッとするほど綺麗だ。アリストアもいい顔をしてたけど、人間じゃない連中ってのはどうしてこう、いい顔をしてるんだ?コレで人間を誑かすのか。そうなんだろうな、きっと。

《ボクをきっと、好きになってね。大丈夫。ボクはキミを幸せにするよ》

《まるでプロポーズ。デュークったらご機嫌。珍しい》

 青いピエロは肩を竦めると、ガタガタ震える勇一を胡乱な目付きで見下ろした。
 ヤバイ!助けなきゃ…ッ!

《食欲が失せちゃった。可愛いけど、お前はいらない。ボクは古巣に戻ってる》

 そう言って勇一を突き放した青いピエロは赤いピエロをチラッと見ると、もう一度、肩を竦めて首を左右に振った。

《あんまり犯り過ぎないようにね。人間はすぐに壊れるから》

《うん。大事にする》

《どこかに愛の巣を作って…旅人にはもう戻らないの?》

《ボクは旅人。でも、コイツは仲間にしない。だって、ボクのお嫁さんだから》

《ふぅん。旅は道連れ、世は情け…》

 クスクス笑って青いピエロは闇に消えた。
 呆然とへたり込んでいる勇一には何が起こったのか判っていないみたいだった。
 実際、俺にだって今の状況なんか判らないって!つーか、なんか凄くヤバイ状況のような気がするんですけど…
 ガクガクと震えて、見開いた大きな双眸からは大粒の涙が零れ落ちている。
 こんな時だけど、勇一の方が遥かに可愛い。なのに、どうして俺なんだ!?

《そこの人間は気が触れたか、或いは恐怖に怯えてるだけ。ほら、助かった。だからキミはボクを好きになるんだ》

「どう…どう言う理由からそうなるんだよ?そう言うのを人間は変態って言うけど、わかるか?」

 喋られるようになって、俺は抱き締めてくる赤いピエロを憮然とした表情で見下ろしながらそう言った。なんか、こいつの雰囲気には覚えがあるんだ。凄く身近にいた、誰かの雰囲気にそっくりだ。そう。
 アシュリーに。

《変態?上等だよ。ねえ、なんて名前なの?教えて。キミの口で教えて》

 教える気なんかなかった。
 コイツが、この赤いピエロがその気にさえなればアッサリと口を割らされる事は目に見えてるからな。

《だんまりする?ソイツを殺しちゃうよ。それでもいい?》

「光太郎。俺は光太郎だ」

《コータロー?可愛い名前。ボクはデューク。キミはボクの特別なヒトだから、デュークって呼んでもいいよ》

「判ったよ、デューク。勇一を助けてくれ」

 諦めたように呟くと、ピエロはニッコリ笑った。
 どこから出したのか、真っ黒の外套でフワリッと俺を包んだデュークはその上から抱き締めて、耳元に小さく囁いてきた。本当は声なんか出していない、思念なのにな。

《大丈夫。ボクは愛するヒトの言うことには忠実だから。もっと我が侭を言ってね》

 そのまま、クラリと意識が遠退いた。

「光太郎くん!!」

 悲痛な叫び声を聞いたような気がしたけど、あれは誰の声だったんだろう?
 勇一?
 俺?
 それとも、違う誰かだったのか…

◆ ◇ ◆

 暗闇に湿った音がする。
 俺は両足を大きく割り開かれて、掴まれた足首をギュッと握り締められると、苦痛に少し眉が寄った。
 何時間、そうして受け入れさせられていたのか…もう判らない。
 初めのときは絶叫した。
 身体を裂かれてるような気がして、怖くて怖くて…断末魔のような絶叫を上げた。
 でもピエロは、デュークは許してくれなかった。
 それでも何時間も身体の奥に受け入れてる間に、俺はゆっくりと慣れていった。
 快感も覚えた。
 でも、心だけがとても追い付いてこなかった。
 デュークにキスされて、それに応える。
 愛してると囁かれて、眉を寄せた。
 何が起こってるんだろう?これは夢だ。
 酷い悪夢なんだ。
 俺は信じたくなくて、そのまま気を失った。

◆ ◇ ◆

 気付いたら見知らぬ部屋のベッドの上だった。
 酷い倦怠感が襲ってきて、腰が鈍く痛んだ。
 ああ、そうか。俺、男に犯られたんだ…
 クソッ!
 上半身だけ起こしてシーツを握り締めて悪態を吐くと、忌々しくて舌打ちした。
 脳裏に浮かぶのはアシュリーの顔で、あの垂れた双眸が懐かしかった。

(この一週間だけは絶対に危険なことに関わっちゃダメだからね)

 あの台詞を守っておけば良かった。さすが後に悔いると書いて後悔ってだけのことはある。すっげぇ落ち込みまくり。溜め息ばっかりが出るよ。
 犬に噛まれたと思って…それだって膿んで腐る重症だけど。
 諦めたかった。
 不意に、窓に映った自分の姿にギョッとする。
 全身に散らばる小さな鬱血にもギョッとしたけど、この咽喉もとの小さな二つの傷はなんだろう。恐る恐る触ろうとした腕を背後から掴まれて、思いきり引き寄せられた。

《ごめんね。ムリさせちゃったみたい》

 あの、人を馬鹿にしたような二つ割れの帽子は今は脱いでいて、ディープブルーの髪がほの暗い常夜灯に微かに煌いている。奇妙な、変わった髪の色と金色の瞳は、やっぱり人間じゃないんだろう。
 しかも、化粧が落ちた顔立ちは恐ろしく整っている。釣り上がり気味の鋭い双眸が、俺を写して少しだけ和んだようだ。化粧なんかしなきゃいいのに…と思ってハッとした。何を言ってるんだッ、俺!
 組み敷かれながらキスを強要されても、今度はそれに逆らった。
 もう、冗談じゃねぇ!勇一もいないんだ、なんでコイツの思い通りになってやらなきゃいかんのだ!?
 キュッと真一文字に唇を引き結ぶと、デュークは舌先でチロリッとそんな俺の唇を舐めるだけでそれ以上は何もしなかった。
 けど。

《…ねえ、アシュリーって誰?》

 酷く静かな淡々とした思念で語りかけてくる。

「うえ!?」

 しまった、俺は無意識の内にアイツの名前を呼んでいたんだ!
 思わず変な声を洩らしてしまうと、デュークは面白くなさそうに唇を尖らせた。

《ボクに抱きつきながらキミ、ずっとその名前を呼んでいた。だからムカツイて首筋を噛んじゃった。悪いコトしたとは思ってないよ》

 口許を覆って目を見開く俺を、冷めた目で見下ろしていたデュークはしかし、すぐに俺の鼻先にキスして身体を起こした。

「噛んだって…じゃあ、俺も吸血鬼になったのか!?」

《吸血鬼!?》

 ギョッとしたように俺を振り返ったピエロは、それからすぐに噴き出すと、首を左右に振って両手を降参するように軽く上げながら肩を竦める。

《よして。吸血鬼になんかするワケないでしょ?》

「噛んだって…」

 言ったじゃねぇかよ。
 胡乱な目付きで睨み付けると、そんな俺を見下ろしたデュークは小さく笑った。

《噛んだよ。ボクのお嫁さんって意味でね。その傷痕、消えないよ。アシュリーはなんて言うだろう》

 そのやけに冷やかな双眸は、内側で何かを秘めている。
 暗くて根深い…それはきっと、嫉妬だ。
 アシュリーがヤバイ!

「ち、ちょっと待てよ!俺はあんたのよ、嫁さんにだってなってやる!でも、俺の仲間には手を出すなよッ」

 上半身を起して思ったよりもしっかりと筋肉のついている腕を掴んで必死に言うと、妖魔は感情を窺わせない表情でニッコリ笑って頷いた。

《我が侭を言ってもいいって言ったのはボクだから、光太郎の気持ちを最大限に優先するよ》

 チリッと空気が震える。
 見たことも感じたこともない殺気が空気を焼いてるんだ。
 俺は思わず息を飲んで、握り締めた拳は爪が皮膚に食い込んだ。
 妖魔の腕を掴んでいる腕が震えて、俺は自分の咽喉がこれ以上はないってぐらい渇き切っているのを感じた。ああ、コイツは妖魔なんだ。
 しかも、もしかしたら【遠き異国の旅人】だと呼ばれる集団の1人。
 いやたぶん、絶対にその1人だ。
 自分でも言っていたじゃないか、自分は旅人だと。

《バカな光太郎。キミが震えることなんて何もないのに。ボクはキミをきっと守る。妖魔の約束だけど信じてね》

 震える俺に気付いたのか、デュークはすぐに抱き締めてきた。
 俺が震えてるのは、お前のせいなんだ。
 そんな、無条件で殺気を散らつかせながら抱き締めるなよ。
 俺はお前が怖い。
 いや、この時になって漸く俺は【遠き異国の旅人】を心底から恐ろしいと思ったんだ。こんなヤツがあと何人いるんだ?
 そんな連中を相手にするのか?

《ボクの大事なお嫁さん》

 コイツは知らない。
 俺は、お前たちを狙ってるんだ。
 妖魔のくせに温かな身体を持っているデュークの背中に腕を回す気にはなれなかった。
 ああ、ここにお前がいたらいいのに…
 お前は知っていたんだな。
 俺は目を閉じて、ただ一人の名前を噛み締めるように思っていた。
 アシュリー。
 助けてくれ。

2  -ヴァンパイアと真夜中に踊れ-

 全治三ヶ月―――俺を診た馴染みの医者はトレーラーにでもぶつかったのかと、呆れたような口調でそう言い渡したらしい。

「肋骨三本、両腕の骨、その他数箇所の骨折だってさ」

 相変わらずの仏頂面で帰って行った医者を見送ったアシュリーは、両手に氷の入ったボウルを持って、つまらなさそうに不貞腐れてそう言った。同居しているせいか、俺の保護者と言う形で医者と話をしたらしい。

「どれぐらいかかるって?」

「少なくとも二ヶ月は安静にしてろって…でも、光ちゃんのことだから、仕事があれば無理するだろうから見張ってろとも言われたよ」

 不服なのは看病することに対してなのか、医者の言うことを端から無視しようとしている俺に対してなのか…恐らく、やっぱり後者なんだろう。

「見張ってなくてもいいって。無茶はしないから…」

「嘘だね。顔にそう書いてあるよ。熱が続くだろうから、頭を冷やさないと…」

 カランッ…と小気味良い音を立てて、アシュリーの長い指先が冷え切った氷水に浸けられた。タオルがしっとりと水分を含んでいく。
 あれから、アシュリーは何も言わない。
 俺から聞くことを待っているのか、聞かれることに怯えているのか…
 俺としては、それら全てのことが嘘のように思えて仕方ないんだ。あの、アシュリーが困惑してるんだからな、驚かない方がどうかしてるって。
 いつも飄々として掴み所のないアシュリー、殺し屋と言う職業も卒なく淡々とこなしてる。
 あのヴァンパイアの言った一言が、いったいどれぐらいアシュリーを困らせているんだろう。

『遠き異国の旅人ってなんだ?』

 簡単に聞けそうなのに…う~ん、なんか聞き辛いんだよなー。

「あ!そう言えば翔太からメールがきてないか?たぶん、添付ファイルで送ってくると思うんだけど…」

 すみれにだけは秘密にしているメルアドは、専ら仕事専用に開放してある。すみれの奴に教えたら最後、訳の判らん画像やメールを送ってきて大変なことになる。
 そんなことはないと思うけど、開発したばかりの新型ウイルスでも送信されたら取り扱いに困ってしまう。俺はそれほど、ネットに詳しいわけじゃないんだ。

『これは本当に優れていてね、送信者のアドレスを判らなくしちゃうのよ!それで、着信と同時に勝手に開いてパソを壊しちゃうから、嫌な奴に送っちゃえ~』

 と、あっけらかんと翔太に言って渡したことがある。でもって、翔太がそれをどうしたかと言うと、それは想像次第だから敢えて何も言わないでおく。うん。

「翔太ぁ~?また、アイツか」

 俺の額に濡れたタオルを置きながら憮然とした口調のアシュリーは、眉間に皺を寄せて唇を尖らせた。
 どうしてこう、翔太とアシュリーは馬が合わないんだろう。きっと、生まれながらの犬猿の仲って奴なのかもしれない。

「たぶん、きっとアレだろうね」

 不服そうにそう言ったけど、極めて平常心を保つようにしてるんだろう、アシュリーはヒョイッと長い腕を伸ばしてサイドボードから小さなモバイルを取り上げた。

「はい。身体に負担がかからないように小さい方に移しておいたよ。こっちの方が早そうだしね」

 殺し屋のクセにパソコンが全く判らないと言うアシュリーは、見様見真似で覚えたから少しぐらいは扱えると威張って弄りたがる。笑っちゃうような奴だ。

「サンキュ」

「お礼なら言葉じゃなくて態度で欲しいね」

 これだよ。

「礼を言ってもらえるだけありがたいと思え」

「つっめたいねー。そんなだったら嫌われちゃうよ?」

 肩を竦めて苦笑したアシュリーは、起ち上がった画面に写し出される新着メールの表記を興味深そうに目で追っている。翔太からのメールは、〝情報〟のタイトルで内容は何も書かれていない、極めてシンプルなものだ。

「…メールってもっとこう、何か書くもんじゃないの?」

 あまりのシンプルさに納得がいかないのか、アシュリーは不服そうに唇を尖らせている。

「いいんだよ、これで。あいつはこう言う性格だから」

「ふぅん」

 いまいちの表情で腕を組んだが興味はもう内容に移ったらしい。ジッとちっこい画面に見入る大男というのは、何となく笑えるから不思議だよな。

「これって、例のヴァンパイアの情報なんでしょ?」

 思わずドキッとした。
 添付ファイルを開こうとマウスを動かす手が一瞬だけ強張ったように止まる。

「?」

 訝しそうに俺の顔を覗き込んでいたアシュリーは、それから何だか不機嫌そうな顔をして何かを納得したように勝手に頷いて立ちあがった。

「オレがいると迷惑だね。そっか、守秘義務ってヤツだ」

 別にそんなつもりはないのだが、勝手に勘違いしたアシュリーは何となくその垂れ目を冷たく細めて俺を見下ろすと、憮然としたままでせまっ苦しいキッチンの方に姿を消してしまった。コーヒーでも煎れるんだろう。
 俺はそんな後ろ姿を無言で見ていた。

◇ ◆ ◇

 結局俺は、何となくファイルを見ることができなかった。
 確かに依頼のヴァンパイアのことだから、何を差し置いても早く見ないといけないんだけど、同じヴァンパイア関連でも【遠き異国の旅人】のことで頭がいっぱいだったんだ。
 それを感じ取っているのか、アシュリーは俺の額に額を擦りつけながら、熱を測るついでに覗き込みながら聞いてきた。

「何か聞きたいって顔してるよ」

「ええ!?」

 ドキッとした。
 そうだ、こいつには俺の考えてることが判っちまうんだ!…う~、厄介なヤツめ。

「べ、別に俺は…」

「ん~、どうなのかなぁ?」

 鼻先を合わせるような近さで覗き込みながら動揺に視線を逸らす俺の顎を掴んで、負担にならない程度にクイッと上げてキスするように問いかけてきた。

「本当は聞きたいんでしょ?あのヴァンパイアの言った【遠き異国の旅人】のことを」

 長い睫毛に縁取られた綺麗なエメラルドの瞳が、どこか寂しそうに、奇妙な光を宿している。
 何でそんな目をするんだ。
 あのヴァンパイアと会話をしていたときも、こんな奇妙な目をしていたっけ。
 聞いてもいいけど、本当は聞いて欲しくない。
 まるでそう言ってるような表情が、なぜか酷く胸を苦しくさせた。

「聞いてもいいよ」

 俺の唇に額を押し付けて、ヤツはうっとりしたように双眸を閉じると、まるで呟くようにごく簡単にそう言った。

「そのかわりキスして」

 唇から俺の胸元に額を落として、心音を聞こうとしているように頬を寄せるアシュリーに俺はいよいよ息苦しくなって、動かせない腕で思いきり突っ撥ねようとしたけど無駄だった。
 当たり前だよな。
 広辞苑四冊分の重さの辞書を平気で三冊軽々と持ち上げるヤツだ、俺が押したぐらいで退けるはずもない。判ってるけど、息苦しいんだっ!
 …でも、それなのに折れた肋骨が疼かないのはどうしてだろう。
 アシュリーの体温は薄いパジャマを通してこんなにハッキリと伝わってきてるっていうのに、不思議とそれほど重さを感じない。
 こいつ…ったく。

「いい加減にしろよ、アシュリー!お前に聞かなくても知りたいことがあれば自分で調べるさ。だから何で俺が…その、き、キスなんかしなくちゃなんねぇんだよッ」

 ふんっと強がって鼻で息をしてやると、アシュリーはちょっと面食らったような顔をして上目遣いに俺を見上げてきたけど、顔を起こすと照れたようにはにかんだ。
 その表情が嬉しそうに見えるのは、やっぱ聞いて欲しくないんだろうな。

「ごめんね、光太郎」

 そう言って、ヤツは頬に口付けた。
 掠めるだけの、ほんの一瞬。

「バーカ」

 俺は敢えて憎まれ口でそう言って、でもそれ以上は口を開かなかった。

◇ ◆ ◇

 医者は二ヶ月だと言ったが、俺は根性で一ヶ月半で身動きが取れるまでに回復させた。まだ動かせば胸は痛むけど、これ以上寝てられるか。

「オレとしてはもう少しベッドにいて欲しかったんだけど…でも、やっぱり元気な光太郎の方が嬉しいよ」

 アシュリーは早速朝刊に目を通してる俺に、ちょっと呆れたような苦笑を洩らしながらそう言った。あったりまえだろ、俺は元気が取り柄なんだ。

「あ、そうだ。これから暫く仕事で家を空けるけど、いいかな?」

「仕事って…」

 ハイネックの黒のセーターを着たアシュリーは捲くっていた袖を下ろしながら、ソファに無造作に投げ出していたオフホワイトのコートを取り上げてあっさりと言った。

「殺しだよ」

 酷く、無頓着に。

「けっこう、面倒な相手でね。時間がかかりそうだから、もしかすると一週間はかかるかもしれない。だからさ、この一週間だけは絶対に危険なことに関わっちゃダメだからね」

 前科のある俺としては思わず言葉を詰まらせたけど、だからってコイツがいない一週間を何もしないで過ごせる訳がない。と言うか、煩いのがいない、丁度いい絶好のチャンスじゃないか!

「そうか!そりゃあ、大変だな!頑張ってこいよ!」

 俺が盛大に激励をしてやると、アシュリーのヤツは憮然とした表情をして大丈夫かなぁ…と言いたそうな目で見下ろしてきた。
 キッチリとコートを着込んだアシュリーは玄関まで歩いていき、不意に、コロンボのようにひょいっと俺を振り返える。
 気にしている垂れ目は、どうかすると優しく見えるから不思議だ。
 殺し屋なのにな。反則だよ。

「これからって…これから行くのか?すぐに?」

「そうだよ。寂しい?」

「バカ言ってんな」

 投げやりに返すとアシュリーのヤツはクスッと笑って、じゃあね、と言って出ていった。
 アイツは、仕事に行く時は必ず【じゃあね】と言う。
 じゃあ、また後でね…の短縮形なんだと本気で信じてる。流暢な日本語を話すくせに、どこか抜けてるヤツなんだ。
 でも俺は、そう言うアイツが嫌いじゃない。
 きっと好きなんだと思う。この【好き】がどんな感情なのかは判らないけれど、俺はきっと、あの殺し屋のことが好きだ。
 俺はアシュリーの出ていったドアを暫く呆然と眺めていたが、唐突に鳴った携帯にビクッとして、慌ててソファに投げてあるダッフルコートから旧式の携帯電話を取り出した。

「もしもし?槙村だけど…」

『光太郎?あったしよ、あたし。すみれよ』

 鈴が転がるように可愛らしい声音でコロコロと呼びかけられて、俺は何故かホッとしたように吐息した。

『どうしたのよ?溜め息なんか吐いちゃって…なぁに?あたしでガッカリしちゃったってカンジね』

 すみれが受話器の向こうでクスクスと笑っている。

「どうしたんだよ?」

『どうしたんだよ…じゃないわよ!一ヶ月ちょっとも連絡を寄越さないで!心配したんだからね。電話しても、あのアシュリーって言うフィンランドの恋人が出るだけじゃない。何かあったんじゃないかと思ってたのよ』

「ん、まあちょっとな。それだけか?」

 恋人の部分を思い切り無視した俺が端的に問い返すと、受話器の向こうのすみれは、きっとあのピンクのグロスにてかってるだろうぽってりした下唇を尖らせながら、怒ったように溜め息を吐いているようだった。

『ねえ、翔太のファイルはもう見たの?』

「あ、それがまだなんだ」

 仕方ないわねぇと、すみれがあの可愛い仕草で小首を傾げている様子が浮かんだ。

『じゃあ、もうそれって用無しだと思うのよね。時間も経っちゃってるし…ねえ、あたしってば知り合いに聞いたんだけど、ヴァンパイアハンターとエクソシストをしている牧師さんがいるらしいのよ。ねぇ、その人とお話したらどうかしら?』

「マジで!?教えてくれよ!その牧師の住所!」

 俺は唐突に現実に戻った。
 そうだ、【遠き異国の旅人】のことだって判るかもしれない!この事件に深く関わってる気もするけど、そのこともその牧師なら知ってるかもしれないし…
 すみれが教えてくれた住所をメモ帳に書き留めて、俺は短く礼を言うと携帯を切ってダッフルコートを片手に家を飛び出した。

◆ ◇ ◆

 彼女の匂いがしていた…
 遠い昔、記憶が覚えている彼女の匂い…
 もう間もなく、この腕に抱ける。
 あの懐かしい身体。
 温かくてぎこちない。
 甘い血の流れる、あの身体…

◆ ◇ ◆

 俺はすみれに教えてもらった住所を手掛かりにその教会を探した…けど、それは案外すぐに見つかった。俺の家から車で数分のところにある、こじんまりとした質素な教会だった。前庭も狭くて、マリア像も建ててない。
 貧乏なのかな。
 貧乏探偵の俺としては妙なところに共感が持てて、早速薄い木のドアを叩くようにノックして反応を待った。

「はい」

 ガチャリッ、ギギギィーーーっと、軋らせながら扉が開いて、年の頃、俺よりも1つか2つぐらい上と思うひょろりとした男が顔を覗かせた。
 痩せた顔は青白くて、まともに飯を食ってるんだろうかと心配になるほどだ。

「え、えっと。あの、わたし立原氏よりご紹介されて来ました、槙原と申します」

「ああ、話は伺っています。さ、お入り下さい」

 そう言って、ひょろりとした男は俺を教会の中へと促した。
 ひんやりとした空気の流れるそこは、神聖で厳かな…と言うイメージはあまりなかった。と言うのも、この教会が清貧だって判るからだ。
 辛いだろうなー、うう、その気持ち判るよ、俺。
 細長い、教会に良くある椅子が対で3列しかない狭い講堂を抜け、懺悔の為の小さな小部屋があるその脇の扉から応接室…と言うか、事務所になっている部屋に通されて待っているように促された。
 どうやらあの牧師がここの主ではなさそうだ。
 雑然とした室内は狭く、俺としては懐かしさでいっぱいになる趣だけど、一般人に言わせると汚くて狭いと言う表現になっちゃうんだろうなぁ、この場合。
 取り急ぎの書類でもあるのか、使い古した旧式のタイプライターで何かを打ち込んでいる先ほどの牧師の使っている机も、古い蔵書が無造作に並べられている埃の被った本棚も、まるで一昔前の映画から抜け出してきたような光景だった。

「どうかいたしましたか?」

 ぼんやりと室内を不躾に見渡す俺の気配に気付いたのか、縁無しの眼鏡をかけた牧師が怪訝そうに声をかけてくる。

「あ、いえ。なんでもないです」

 俺は取り繕うように笑って、傍らでシュンシュンッと蒸気を上げている薬缶と、暖かな温もりを燈す旧式のストーブを何となく見た。
 その時、先ほど俺が入って来た扉が開いて、誰かが室内に入って来たのが判った。座っているのも失礼だろうと思った俺は、慌てて立ち上がるとローマンカラーシャツにジャケットを羽織っているこの教会の主でありエクソシスト、そしてヴァンパイアハンターも兼任していると言う凄い人に挨拶をした。

「あ、この度はお忙しいところを時間を頂いてしまって。私は槙原光…」

 そこまで言ったら、牧師さんは低く笑ったようだ。
 俺は訝しく思いながら顔を上げた。上げて、アッと驚いた。
 そこにいたのは、深夜の裏路地で俺の肋骨と両腕をへし折ってくれた、あのヴァンパイアだったんだ。

◇ ◆ ◇

「とうとう、こんなところにまで来るとはね。光太郎くん」

「あ、あんたは…!」

 俺は上ずる声をなんとか正常に戻そうと努力しながら後退さると、警戒しながらクックッと咽喉で笑うヴァンパイアを睨み据えた。
 まずいな…腕も肋骨も完全ってワケじゃない。こいつと、まともな時でさえ互角じゃなかったこいつと、どこまで渡り合えるだろうか。この身体で。

「ああ、気にしなくてもいいよ。更科くん。君は仕事を続けなさい。光太郎くんも、そんなに力まなくてもすぐにどうこうしようとは思っていないから心配しなくてもいい」

 気障ったらしいヴァンパイア野郎は優雅な身のこなしでそう言うと、手に持っていた聖書と十字架を散らかった机に置いて、警戒している俺に向き直った。

「座りなさい。身体に響くだろう」

 ちっ、やっぱり不調ってヤツはどんなに隠していてもバレるってことか。
 なんてこった、このヴァンパイア野郎はこの日中に外に出ていたって事か?
 不意に、窓から射し込む陽射しに気付いて俺は瞠目した。
 …十字架と聖書と教会と太陽、もしかしたらニンニクも平気だとか言うんじゃねーだろうな。恐るべし、ヴァンパイア。弱点なんかあるのかよ?

「自己紹介がまだだったね。私はアリストア=レガーシル。この教会の牧師をしている」

 そんなの見りゃ判るって。

「おおかた、遠き異国の旅人について聞きに来たのだろう?あの、美しい野獣は何も教えてくれなかったのかい?あれほど、大事にしているように見えたのだがねぇ…」

「大きなお世話だよ。あんたが牧師なんてな、世も末だぜ」

 漸く乾いた口から声を絞り出して、俺は額に嫌な汗を浮かべながら笑ってやった。

「くくく…この世に神がいると、君たち人間は本気で信じているのかい?私は神にはあったことはないが、悪魔にならあったことはある。そう言う世の中だよ、光太郎くん。私が牧師であったとしても、なんら驚くほどの事でもないだろう。さて、君の用件を聞こうか」

 俺はカサカサになった唇を何度も舐めながら、緊張で冷たくなる指先を感じて握り締めていた拳を開いた。
 本気でそんなこと言っているのか?コイツは…
 いや、魔物の言うことだ。

「信じる信じないは君に任せよう。聞きたい事があるのなら早く言うといい。私もそれほど閑ではないのでね」

 人間を食らいに行くのかよ…と聞きそうになったが、俺は敢えてその言葉を飲み込んだ。もし、コイツが本気で『遠き異国の旅人』のことを喋る気なら、それを聞くのも手だ。嘘だとしても、何かしら得るものはあるだろう。
 机の端に軽く腰掛けた姿勢のアリストアは器用に眉を上げると、映画俳優か何かのように口許に薄い笑みを貼りつかせて、促すように片手で椅子を勧める。
 俺は、俺は賭けてみようと思った。
 無言で腰掛けながら、油断なくヴァンパイア野郎の様子を窺う。
 なんでもないことのように、ヤツは肩を軽く竦めた。
 その口から漏れた言葉に、俺の顔色が変わるのはそれからすぐのことだった。

1  -ヴァンパイアと真夜中に踊れ-

 ───いっぱんに吸血鬼、あるいはドラキュラと呼ばれる彼らは人間の生き血を糧とする、闇の住人である。
 そんなことぐらい俺にだって判る。俺が知りたいのはそんな当たり前のことじゃなくて、奴らを退治する方法なんだ!
 俺の名は槙村光太郎。人からは学生さんですか?と、よく聞かれる童顔だが、これでも20歳になる社会人だ。
 冒頭のようなことを調べるために、わざわざ休日を返上してまで面白くもない図書館に来てるわけじゃない。…と、言っても、自営業の私立探偵に休日もクソもないんだが。
 山のような分厚い文献に机を丸ごと一つ潰して頭を抱えていると、もう顔馴染の若い司書は苦笑するだけで何も言わずに通り過ぎていく。
 平日の午前中ともなると館内はがらんとしていて、初冬にはありがたい木漏れ日がやわらかに天窓から差し込み、それはそれでここに来た甲斐はあったと思えるんだ。こんな何気ない、ふとしたことに喜びを感じる俺も、渇いてる現代人と言うワケか。

「やれやれ。どうしてこう、俺の事務所に持ち込まれる依頼ってのは、オカルト関係が多いんだろうな?」

 受ける俺も俺なんだが。…と、言うことはつまり、俺自身、満更でもないってワケだ。…正直に言えば、そんな依頼でも受けないとやってられない、と言う奥の深い理由があるわけで、だけどそれをここで追求すると悲しくなるから敢えて触れないでおこう。
 俺は誰もいないことをいいことに、盛大な溜め息を吐きながら半分以上やけくそで独り事を偉そうに呟いた。

「ま、美人の依頼なら断るわけにもいかねーよな」

「ってゆーか、そんな依頼でも受けとかないと生活ヤバイんじゃないの?」

 不意に後方から声を掛けられて(と言うか、一方的に嫌味を言われて)、俺は流暢に日本語を操る聞き慣れた声の持ち主をうんざりしたように振り返った。
 胡乱な目付きも仕方がない、仕事中なワケだし、できることなら会いたくない奴だからな。

「なんて目付きだよ。人がわざわざ訪日してやってるのに、もっとにこやかに迎えられないワケ?」

 デカイ図体をオフホワイトのコートに隠した金髪の男は、不満そうに下唇を突き出すと、エメラルド色の双眸を細めながら腕を組んで俺を見下ろしてくる。
 やや垂れ気味の双眸は、実はハッとするほど切れ味のいいナイフのような鋭さを持っていることを俺は知っている。

「アシュリー。別に俺はテレックスでも全然構わなかったんだぜ」

 全然の部分で少し力を込めて言うと、巨体の男は俺の隣の椅子に腰掛け、長い足を嫌味たらしく組んで机に頬杖をついた。
 お前は映画俳優か。
 だが、悔しくもそう思えてしまうのは、巨体のわりにはスレンダーな体付きをしているからだろう。モデルにでもなれば、一世を風靡してビバリーヒルズの一等地に豪邸でも建てられるだろうに、敢えてコイツはダークサイドに身を隠している。

「酷いね。相棒が遠いニューヨークからわざわざ会いに来たってゆうのに、そんな言い方?」

「ふん、俺は殺し屋を相棒に持った覚えはない」

 突き放すように言うと、変な顔をしたアシュリーの奴は不意にプッと噴出してから、フフンッと鼻で笑って偉そうに言い返してきた。

「殺し屋を辞めれば相棒にするってワケだ」

「そんなこと言ってねーだろッ」

「言いました。オレは確かに聞きました」

 これでは子供の言い合いなんだが、このアシュリーと言う男と話すといつもこんな感じになってしまう。
 世界を叉にかけて活躍(?)する、世紀の犯罪者としてインターポールやFBIに追われているこのSSクラスの殺し屋は、たまたま立ち寄ったこのちっぽけな日本のこれまたちっぽけな地方で知り合った俺を、どうしたわけか気に入ってしまったらしい。
 最初は何を言ってるんだこの野郎、と思って相手にもしていなかったが、とある依頼で侵入した、とある重要機密機関のデータバンクでコイツの顔を見つけた時には、さすがの俺も腰が抜けるほどたまげたね。おまけにその時の注意事項が要注意人物でもなく、ただ、危険と言う文字だったからさらにゾッとした。
 そう、ゾッとしたんだ。
 俺はもしかしたら、とんでもない化け物に気に入られたんじゃないか、ってな。
 今でも覚えている。真っ暗な部屋の中、モニターの薄明かりに浮かび上がる真っ赤な文字を。

「辞められるわけがないんだろ?滅多なことを言うもんじゃない」

「ふうん。心配してくれるんだ?進歩したね、嬉しいよ」

「誰が…ッ!って、もういいよ。で?情報ってなんだ」

 俺が肩を竦めてこの無謀な言い合いにケリをつけると、アシュリーの奴は不満そうな顔をして唇を尖らせた。
 仕種の1つ1つがいちいち子供っぽいのだが、それが女には受けがいいんだろう。奴のプライベートハウスには一軒に必ず独り美人の女が待っている。
 貧乏探偵には羨ましい限りだぜ。

「心配するってことはもお、立派に相棒に認めてるってことなんじゃないの?」

「…あのな、俺は情報を聞いてるんだよ」

「どうしてそんな風に意地を張るワケ?別にオレのことを嫌ってるってワケでもないんでしょ?やっぱ、ダークサイドにいるせい?」

「~~~」

 平気で人前でも自分の素性をくっちゃべるアシュリーを、以前はどれほど必死に止めていたか。今はもう、好きにさせてるけどね。誰が聞いたってコイツがラリッてるか、頭に春が来てる人だろうとしか思わないだろうからな。
 ああ言えばこう言うアシュリーに真剣に頭を抱える俺を無視したヤツは、広げっ放しにしている分厚い文献をヒョイッと片手で持ち上げて、さして興味もなさそうな表情でそれを覗き込んだ。

「ヴァンパイアねぇ。まーた面白そうなことに手を出してるじゃない」

「勝手だろ、うるせーな」

 と言って、文献を引っ手繰れたら立派なもんだが、さすがにそれはできないだろう。広辞苑の二冊分の厚さに四冊分の大きさだぜ?それを易々と片手で持ち上げるアシュリーが化け物なんだ。

「…なあ、アシュリー。お前はヴァンパイアが存在すると思うか?」

 何故か突然、聞きたくなった。
 何でかなんてことは判らない。たぶん、何かの本能なんだと思う。

「どうしたのさ、改まって。…うーん、どうだろうねぇ。このオレがこの世に存在してるんだから、何だってアリなんじゃないの?」

 事も無げに言ってくれるぜ、この野郎。
 屈託なく笑う垂れ目が無性に腹立たしいんですけど。

「お前に聞いた俺が馬鹿だった。もういいよ、外に出ようぜ。そろそろ人も来るだろう」

「オッケ。で、この本は片付けてもいいワケ?」

「ああ」

 ふぅんっと気のない返事をして、アシュリーは五冊ほどある文献を一挙に持ち上げて、整然と並ぶ棚に戻しに行ってしまった。…まあ、楽はできたけど、もうこの図書館には来れないなぁと、何となくそう思った。
たぶん、それは確信に近い、んだろうな。やっぱ。

◇ ◆ ◇

 秋が暮れてもうじき冬が来ると言うのに、今年の初冬は穏やかだなぁとか思いながら、やわらかい陽射しに縁側の猫みたいに目を細めてベンチに座る人影はどうやら俺とアシュリーぐらいしかいないようだ。

「実はさぁ、そろそろ日本に引越そうかと思ってるんだよね」

 俺は危うく飲みかけていたココアを噴き零しそうになった。
 と、突然何を言い出すんだ、この天然春男は!

「あのなぁ、アシュリー。俺はお前に情報を聞いてるんであって、てめぇの近況報告を聞いてるわけじゃねぇんだぞ!」

 つーか、そんな恐ろしいこと、何があったって聞く気にはなれねぇよ。
 日本に帰化するだって?俺の聞き間違いか、あるいはこんな時に限ってのヤツのお得意とするゾッとしない冗談なんだろう。
 口元を拭いながら睨みつけてやると、アシュリーの奴はキョトンッとして首を傾げやがる。

「なんで?これだって立派な情報だと思うよ」

「…ってまさか、それが入手した情報って言うんじゃないだろうな?」

「うん」

 そうだよと、殊のほかあっさりと答えられたもんだから、俺は二の句が告げられずに唖然としてしまった。
 そんな俺を訝しそうに覗き込んでいたアシュリーは、やれやれと首を左右に振ってベンチの背に深く凭れると事も無げに言うのだ。

「日本に帰化しようと思うんだよね。ああ、別にコセキとか面倒くさいこともちゃんと処理してだよ?ほら、やっぱり相棒が日本で頑張ってるならさ、オレも日本に来たほうがいいかなって思うワケ」

 勝手に思うなよ、そんなこと。
 ダラダラと冷や汗を流しながら思い切り首を横に振ると、アシュリーは険しい顔付きをしてぐっと詰め寄ってくる。
 美人に凄まれると怖いと言うが、顔が整ってりゃなんでも一緒だと思うぞ。

「別に光太郎くんの為だけってワケでもないんだよ。当分こっちで仕事をすることになるかもしれないからさ。気が向いたらまた手伝うし、じゃあね」

 胡乱な目付きで睨んでたくせに、ヒョイッと立ち上がったアシュリーは、デカイ図体のわりに敏捷な動きでさっさと立ち去ろうとする。

「ああ、そうだ」

 ふと立ち止まって、体格の差はどうあれ、まるでコロンボ刑事のようにヒョイッと振り返ると、人の悪そうな笑みを口許に浮かべて酷くあっさりと言うのだ。

「数日前に倒れた女優がいたよね。あれも同じ、ヴァンパイアと呼ばれる者の仕業だよ」

「なぬ」

 何と言う大事なことを隠し球に持ってるんだよ、お前は!
 思わず叫びそうになったが、それでなくとも目立つアシュリーと一緒にいるんだ、人目を気にして取り敢えず立ち上がって詰め寄ることにした。

「なんでそんなことお前が知ってんだ!?…って、どうしてもっと早く教えてくれなかったんだよ!」

「あれぇ?確かオレは相棒じゃなかったんだよね。それじゃあ、何をいつ教えようとオレの勝手だし、教えるってことはつまり好意なんだから、お礼がもらえるってことだよねぇ?」

 ぐっ、いきなり痛いところを冷静につきやがって。コイツのこう言う抜け目のないところが一番ムカツクんだが、大事な情報網だ、無下にもできない。

「判ったよ、一件につき10万でどうだ?」

「10万?たったの?」

 俺にとっては死活問題の金額を〝たったの〟とか言うんじゃねぇよ。恐らく俺なんかじゃ到底拝んだことのない金額を報酬として支払われているアシュリーには、判らん問題なんだろうな。聞いた話だと、手付かずの通帳が何冊もあるらしい。羨ましいぜ…

「それ以上は無理だ。最高でもあと1万が限度なんだよ」

 みみっちぃ話だが、食い下がらないわけにはいかない。コイツの知る裏ルートの情報は何よりも確実なんだ。正直な話、コイツの情報で過去何件もの依頼が解決したってことが何よりの証拠でもあるからな。

「11万か。泣けてくるほど安いね、オレの情報って」

何時になく嫌味の切れ味が鋭いな。かなり根に持ってんのか…くそぅ、どうしろって言うんだ?

「じゃあさ、オレが一つ提案するよ。それだったら、これからの情報は1件につき1万でOKにしてもいい」

「なんすか、その提案とわ!」

 食い付きました、思い切り。何とでも言ってくれ、貧乏探偵ってのは時にはプライドだって捨てられるものなんだ。
 フンッと鼻を鳴らして開き直ると、アシュリーは楽しそうにクスクスと笑う。その笑顔があまりに自然なものだから、ついつい見惚れてしまう。

「家賃を折半で光ちゃんのマンションに居候させてよ」

「…はぁ?」

 思わず拍子抜けするほど呆れた提案に俺がポカンッとしていると、何を勘違いしたのか、アシュリーはちょっと真剣な表情をして見下ろしてきた。

「切実なんだよね。こっちに家を買うって手もあるけど、不動産屋を回るのも面倒くさいし…なんなら情報料はいらないからさ、居候させてよ」

 家賃を折半して一緒に暮らすことを、ふつう居候って言うか?同居の間違いなのでは…

 しかし!妙に流暢に話すくせにヘンなところで日本語に暗いアシュリーに、今は講義している暇などないのだ。
 俺はその提案を二つ返事で快諾することにした。
 …アシュリーの来日の、本当の目的がそこにあったと俺が知るのは、もう少し後のことになる。

◆ ◇ ◆

 咽喉が渇く。酷い飢えだ。
 水だ、水が欲しい!
 息が苦しい…
 水をくれっ!水だ…
 いや、そんなものよりも。
 もっと温くて滑った赤黒い液体をくれ…

◆ ◇ ◆

三人目の被害者は会社帰りのOLだったらしい。午前二時の、人通りの少ない路地裏での出来事だ。
 ドラッグに狂ったジャンキーの証言では、奇妙にやつれた青白い顔をした長身のイケメンが、突然空から舞い降りてきて、若い女の咽喉元に覆い被さったのだそうだ。

「…で、その話を信じちゃうワケ?相手はジャンキーなんだろ」

 契約上、既に狭い我が家に居座った巨体は直接床に胡座をかいて座り、俺のお気に入りのマグカップでコーヒーを飲みながら、新聞を読んでる俺を見上げてきた。

「そうは言っても、唯一の証人だからなぁ」

「まあね。狂った人間って言うのはさ、時折ドキッとするほど的を得たことを言ったりするからね。そう言う奴らほど実は賢いのかもしれないし」

 人間を否定するのは何時ものことだが、時として奴は、酷く感傷的になったりする。
 外国人的思想で言うなら、ロマンチストって奴なのかもしれない。俺にしてみたら、ご免こうむりたい寒気のする言葉だけど。

「それで、これからどうするつもりなの?オレはちょっと、明日は出かけるけど」

「どこに行くんだ?」

 俺の言葉を待っていたかのように、アシュリーの奴はうふんっと笑って顔を近づけてきた。気色悪いぞ。

「知りたい?でも教えてやんないよ」

「なんでだよ!」

 ムッとして聞き返すと、挑発するような笑みを口許に浮かべて鼻先をくっつけるようにして顔を寄せてくる。
 下から覗き込まれると、何かバランスが狂ってしまう。いつも見下ろされっぱなしだからか?ふんっ!

「相棒でもないのにオレの行き先が気になるワケ?虫がいいんじゃないの?」

「う~、いちいち嫌味な奴だな!別にお前の行き先なんて気にならないさっ」

「強がってるね。本当は知りたくってウズウズしてるんじゃないの?探偵さん」

 う、図星です。はい…って言っても!仕方ないんだよッ。
 こいつの〝ちょっと〟は殺しか有益な情報収集のどちらかだからな、後者だとすっごい気になって夜も眠れないんだよ、正直な話。

「…そうだよ、聞きたくってウズウズしてる。情報収集じゃないのか?」

 素直に答えると、奴はなんだか嬉しそうな顔をしてウチュッと、キ、キスしてきやがった!
 何すんだーっと叫びたかったが、実はこれ、いつものことなんだよな。いい加減、俺も慣れればいいのに、外国人流の挨拶には免疫がないからいつもドキドキする。

「そんな風に、いつも素直でいてくれたらね」

 奴に言わせれば、キスはご褒美なんだそうだ。アシュリーの育った環境では、それが日常的なことだと言うから、いくらカルチャーショックでも拒否しては何となく申し訳ない気がして、今に至ってるってワケだ。

「残念ながら、今回はただのお仕事です。ヴァンパイアの方は、光ちゃん頑張れ」

 笑いながら床に座りなおしたアシュリーは、ムスッとしている俺にウィンクしてから満足そうにコーヒーを飲んだ。ブラックがお好みだとか、ふざけるなこの野郎。
 仕事ってことは、〝殺し〟の方か。
 確かに巨体だし、どうかすると近付き難い威圧感みたいなものを感じる時もあるけど、無害とまでは言わないが、こんな容姿を除けばどこにでもいるような天然春男くんがどうやって人を殺すんだろう。
 自慢の怪力で?それとも、スマートに銃で一発ズドンッと?
 う~、考えられん!
 確かに某機密機関のデータバンクにその顔はデカデカと載っかってたけど、どうしたってこいつが人を殺すようには思えないんだよなー。人を食ったところはあるけど…それはそれで大問題か。

「どうしたの?人の顔をじろじろ見て。って、はは~ん。オレがあんまりハンサムだから見惚れてたね?いいよ、どんどん見ても。なんなら近寄ろうか?」

 大きな猫科の肉食獣のようにしなやかな動きで近づいてくると、伸び上がるようにして俺の顔をまたもや覗き込んでくる。やめろ、気色悪い!

「見惚れたりなんかしてねぇよ!こんな春男でも生きてるんだなーって思っただけさ」

「ハルオトコ?なに、それ」

 鳩が豆鉄砲でも食らったような間の抜けた顔をして首を傾げるから、俺はちょっとだけ噴出してしまった。ハンサムな奴でもこんな間抜けた顔をすればただの人だ。

「なんだよ、教えろよ」

 俺があんまり笑うから、アシュリーは訳の判らない顔をしながらも、付き合うようにニコッと笑った。こんなところは憎めない、犬っコロのような奴なんだ。
 人殺しねぇ…何かの間違いなんじゃないのか?
 そうは思っていても、翌朝姿を消した奴が次の日の朝刊と一緒に帰ってくれば、嫌でも本当のことだと思い知らされる。
 その新聞の一面に、デカデカと〝某企業グループ総帥、暗殺か!?〟の見出しが躍っていたりすればなおさらだ。
 アシュリーはと言うと、素知らぬ顔でシャワーを浴びている。昨日の垢は綺麗に洗い流そうね、と、奴なりの口調で言えばそんな感じで。
 やっぱり、あいつがやったんだろうか…
 やったんだろうな、確実に。
 アシュリー=ルウィン=シェラードは、れっきとした殺し屋なのだ。

◇ ◆ ◇

「ヴァンパイアぁ!?…って、あんたまた訳の判んないものに関わってんのねー」

 久しぶりに高校時代の仲間と会うことになったファミレスで、開口一番に口を開いたのは悪友、御影彰の恋人の滝川すみれだった。
 う~、コイツ苦手なんだよなぁ…

「そんなこと言うなよ、すみれ。結構な人数が襲われてるらしいじゃないか。お前も気をつけろよ」

 彰が言うように、すみれは美人だ。今まで襲われた女性も美人が多かったからコイツも危ない可能性はあるだろう。

「あーら、あたしは大丈夫よ。そんなに軟じゃないもの。そんな変態なんてパンチでやっつけちゃうわよ!」

 だから、探偵家業で最も大事な守秘義務って奴を無視して言ってやってんのに、コイツは~。

「お前のパンチで片付くようなら俺も警察も動いてないっての!そんなこと言ってる連中がヤられてるんだ、もっと真剣に考えろよな」

「なによ~」

 この俺さまが有り難くも注意してやってると言うのに、すみれの奴はピンクのグロスでテカる唇をつんっと尖らせて外方向く。これだから、女って奴は…

「でも、光太郎くんの言う通りだと思うよ。すみれちゃん、夜遅いんでしょ?気を付けないと…」

 これでも男です…ってぐらい言ってやらないと、傍目から見たらしっかり少女を地で行っている野崎勇一はオズオズと勝気女のすみれに言ってやる。
 俺たちのグループのアイドルだったすみれを、きっとコイツもこんな顔して好きだったに違いないんだ。だから心配してやってるんだろうな。いい奴だよ、勇一って。
 なのに、コイツときたら…

「あたしは大丈夫だってば!襲われたら襲い返してやるんだから。でも、勇ちゃんの方が心配よ」

 まあ、それもそうなんだが…
 勇一の奴、高校の時からヤローの痴漢にモテまくりだったんだよな、ヴァンパイアは女しか襲わないし、大丈夫とは思うんだけど。

「でさ、そのヴァンパイアの特徴とかあるの~?」

 脇からチョコレートパフェに舌鼓していた山根翔太が、銜えていたスプーンを振り回して聞いてくる。

「それが…実に曖昧で。長身の痩せたイケメンらしいことは判ったんだけどな…」

「何、それぇ。ゼンゼン判ってないんじゃん!」

 頬杖を付いたすみれが呆れたように言う。
 う…まさにその通り、八方塞がりなのであります。ふん、どうせ無能だよ俺は。 八つ当たりするつもりもないけど、図星をさされりゃ誰だって熱くなるもんさ。
 アシュリーの真似してブラックを注文したけど、やめとけば良かった。苦さが胃に染みて気持ち悪くなりそうだ。
 カフェ・ラテにしとけば良かった…

「ヴァンパイアなんて雲を掴むような話しだ。そんなに情報がゴロゴロしてたら警察なんていらなくなるだろう?一週間かそこらじゃ、無理だって」

 ナイス、彰!
 やっぱり持つべきものは友達だー。

「でも、信じられないな~。だってさ、吸血鬼なんてこの世にいると思うー?きっと、ブラム・ストーカーの熱狂的なファンが起こしてる連続猟奇殺人事件だってばー」

 独特な口調が特徴の翔太は、両肘をテーブルにつけて所在なさそうにパフェのクリームをスプーンで掻き混ぜながら、相変わらずの間延びした口調でそう言うと俺を上目遣いで見上げてくる。

「それはそれで困るよなー。実際、襲われた被害者の首には牙の痕も残ってたらしいんだ。全体の30パーセント以上の血液もなかったらしい」

「僕、読んだことあるよー。プロファイラーの本」

「茶化すなよ、翔太」

 彰にすかさず窘められて、翔太の奴は悪びれた風もなく舌を出す。

「光太郎君はそれで、僕たちが何か知っていたらって思ったんだね」

 はい、その通りでございます。
 こいつらは何やかんや言いながらも、それぞれがみんな某有名企業や某研究施設に入社してる超エリートなんだ。
 高卒でエリート?って馬鹿にするなよ、今の企業も施設も、ほぼ全社と言ってもいいぐらい独自の学習機関を持っているんだ。
 有名な話しでいけば、通信教育とか付属大学とか、そんなものかな。

「他力本願ねぇ!もうっ、利用できるものなら親でも使うって手合いでしょ?」

 いや、使えるもんなら殺し屋だって使っちゃうような手合いです。
 すみれは某有名な研究所に勤めてる。こう見えても、帰国子女の典型的な才女なんだ。

「僕、知ってるよー。ちょっと前まで、ネットにのっかってたもんねー」

「おお、インターネット!で?それってどんな情報だったんだ?教えろよ、ケチくせぇなぁ」

「自分で調べればー…って言っても、もう載ってないけどねー」

「なんでだよ!?」

 いつも眠たそうな半開きの目をした翔太は、スプーンをグラスに投げ入れて頬杖をつくと、何の感情も見せないシレッとした表情で俺を見た。

「あのねー、光太郎。情報って言うのはさー、いつも動いてるものなんだよねー。表向きの安っぽいエセ情報ならすぐにでも入手してあげられるけどー、アングラだともうダメ。流れてるからー」

「??どういうことだよ?」

 翔太はダメな奴だなー、とでも言いたそうな呆れた表情をして首を左右に振った。
 またこう見えてもだが、コイツはネット管理者だとかそんなことをしてる、俺にも良く判らない職種に就いていたりする。ハッキングだとかはお手の物らしいけど、俺はネットの仕事をする奴らってのはもっとこう、ビシッとした格好をしていて、神経質な奴が多いのかと思っていた。
 でも、翔太はどう見てもボーッとした、どこにでもいる兄ちゃんだ。

「古い情報は手に入らないってことだよー。リアルタイムに時間は流れてるからねー。ログが消されてるってのがオチなんだけどー…でも」

「でも!?でもってなんだよ!?」

 翔太の奴は勿体ぶるようにジーッと俺を見ていたが、ニヤッと笑って詰め寄ってきた。

「面白そうな情報だったからさー、光ちゃん好きかなーって思って、一応ダウンロードはしてるんだよねー」

「送ってくれ!すぐにっ」

「もう、翔太ったら光太郎にだけは優しいんだから」

 不服そうにすみれは唇を尖らせて、あたしには何にも情報くれないーとか悪態を吐いている。そりゃそうだろう、グレイだとかラルクとか言う流行のバンド連中のライブチケットの予約状況だとか、そいつらの裏情報をくれっつったって、あんまり馬鹿らしすぎて相手になんかできるもんか。

「いいよー、でも条件もあるんだー」

「う、条件ってのはつまり、情報料ってことか?俺、今金欠なんだよな」

 コイツの情報料がまた、高いんだ。いつもは昼飯とかそんなもんに化けて安上がりなんだけど、コイツがこんな顔する時は、決まって何か凄い厄介事が条件になるんだよ。

「はっはっはー、情報料なんて取ったことないじゃんー。そんなことじゃないよー、ほら、例の彼、アシュリーって言ったっけ?彼のことについて、ちょっと教えて欲しいんだよねー」

「うえ?」

 唐突に出たヤツの名前に、俺は思わず変な声を出してしまった。
 まさかアシュリーのことが話題に出るとは思ってもいなかったから、俺にはそれに対する準備ってのができていなかったんだ。

「アシュリーのことか?」

「そう」

 にこーッと穏やかに笑う翔太に、まさかヤツはただの人殺しだよとは言えないよなぁ、絶対。言っても信じてくれないだろうし…

「ちょっとぉ、翔太。いくら友達だからって、あたしたちとは別の時間の間でできた友達のことを聞くなんて失礼よ」

 たまにはいいことを言ってくれるすみれに感謝しながらも、どうして翔太が突然アシュリーに興味を持ったのか首を傾げてしまう。

「う~ん、僕は光ちゃんが大切だからさー。危険からはできるだけ遠ざけたいんだよねー」

 ギクッ…ってまさか、翔太はアシュリーの素性を知ってるとか?まさか…な。

「危険も何も、光太郎は進んで自分から危険に突き進んで行くんだぞ?いくら俺たちが止めたって無理だろう。卒業の時もお前が散々止めたってさ、言うこと聞かなかったんだからな。それをまた繰り返すのか?」

 物好きだなぁと、彰が呆れたように首を左右に振って背凭れに凭れた。

「そうだよ、翔太くん。それに、あのアシュリーって人、なんだかとても優しそうに見えたよ。とても光太郎くんに危害を加えそうには見えなかったけどな」

 以前にこんな風に会ってるときに、ひょっこり姿を見せたアシュリーを、こいつらはこいつらなりに観察してたんだな。
 そう言えば俺もデータバンクにハッキングしたことがあった…まさか、翔太の奴もあの機密ファイルを検索したんじゃ―――…

「ま、いいんだけどねー。今はそんなことよりも情報をあげるから、早く依頼を片付けなよー」

 まだ、何となく納得していないような表情をしていたが、『今夜中に送信しとくよー』っと言って、その話しはそこで打ち切りになってしまった。
 しかし、翔太の奴、本当に何も知らないのかなー?うーん、いまいち正体の掴めない友人だからな、翔太ってヤツは。
 …謎だけが残っちまう。嫌な気分だ。

◆ ◇ ◆

 若い女がいい…健康で、処女ならもっと理想的だ。
 細い女よりも、肉の付いた女がいい…
 首筋にくっきりと、脈打つ静脈が魅力的なら。
 それだけでいい…
 体が熱い…
 もっと、強かな興奮が欲しい…

◆ ◇ ◆

「いいかげん、ケータイぐらい買い換えなさいよ!」

 遅れてるんだから!と叫ぶ、ちょっと酔っ払ったすみれを抱えた彰たち一行と別れて、俺はぶらぶらと歩きながら帰途についた。
 繁華街を離れた路地裏は寂れていて、危険な匂いもプンプンするが、俺はここを通るのが一番好きだ。
 人生の裏側みたいで…と、以前アシュリーだったか、誰でもいい、尋ねられたときにそう言ったら、それは俺が幸福に育ったからで、人生の裏側なんか見たこともない人間だからこそ憧れてるんだろうなと言われたことがあった。
 そうかもしれないし、違うかもしれない。
 いや、多分その通りなんだろう。
 だからこそ、本当は危険なダークサイドの匂いがプンプンするアシュリーといても、それを否定しながら離れようとしないんだ。
 久し振りに連中と会ったせいか、俺は冷静に色んなことを考えながら歩いていた。

「?」

 ふと、何か気配がしたような気がして、俺は後方を振り返った。しかし、誰もいない。
 おかしいな、こんな寂れた裏通りだ、いくら俺だって警戒ぐらいはしている。これでも少林寺と空手はマスターしてるからな、殺気だとか、そういったものには敏感になるよう訓練も受けた。
 至る所に如何わしい行為を目的にしたお姉ちゃんや、ドラッグのバイヤーが物陰に姿を潜めているのは判る。だが、この気配はそんなどこにでもある生易しいものじゃなくて、もっとこう、研ぎ澄まされた圧迫感のような…殺気…?

「きゃあぁぁぁぁぁっ!!」

 と、突然、夜の静寂を引き裂くような女の悲鳴が響いた。表通りならいざ知らず、裏通りの女の悲鳴には誰も気を留めようとする奴はいない。
 犯されているか、ドラッグ中毒のイカれた女が狂ったように叫んでるかのどちらかだからだ。誰も危険を冒してまで、こんな場所に足を踏み込もうなんて物好きはいないんだ。俺以外は。
 今の声はどう聞いても、死を前にした女の洩らす断末魔のように聞こえた。
 空耳ならいいんだが…
 俺は走り出して、祈るような思いで表から見れば瀟洒なビルの角を曲がる。そこには―――
 月明かりの中、黒コートを翻す長身の男がぐったりと意識を失っている女を抱えて呆然と立っていた。
 白い華奢な腕はだらりと垂れ、何処から連れて来たのか、裏通りには不似合いな綺麗な女だった。がくりと仰け反った白い華奢な首筋には、牙の痕がくっきりと刻まれている。鮮血は、止め処なく溢れていた。
 女の命は、その血潮と同じぐらい、もうすぐ途切れてしまうのだろう。
 マジかよ、件のヴァンパイアにこんなところで逢うなんてな。
 虚ろな眼をしたヴァンパイア野郎は、呆然と腕の中で生き絶えていく女の苦悶の表情を見下ろしている。唇の端からは、ゾッとするような赤黒い液体が零れていた。
 うん、その通りだと思うよ翔太。コイツはきっと、ブラム・ストーカーの熱狂的なファンで、女の咽喉を見たら噛み付かずにはいられないって言う変態なんだ。
 不意に、青白い相貌をしたヴァンパイアはゆっくりと顔を上げ、虚ろだった光る眼に生気を取り戻すと、息を呑んで立ちすくむ俺を禍々しく睨みつけてきた。

〈男には用はない…若い女の生き血だ!もっと、もっと…ッ〉

 声…ではなかったのかもしれない。それは目の前の男が持つ壮絶な思念のようなものが、俺に声として認識させただけのただの幻聴だったのかもしれない。

「女を離しやがれっ!俺が相手だ」

 取り敢えず、死にかけてるお姉さんを放っておく訳にもいかないので、俺は戦闘態勢の構えで狂った変態野郎にそう叫んでいた。
 俺の怒声は痛く奴の神経を逆撫でしたのか、ハッと気付いて横から飛んでくる足を両腕でカバーしていなかったら、確実に俺の横っ面は陥没していたに違いない。
 横に思いっきり吹き飛んだ俺の体はビルの壁にぶち当たり地面に這いずると、口の中を切ったのか、それとも内臓を損傷したのか、どちらにしろ温い鉄の味が口いっぱいに広がって、思わずその場にガハッと吐き出してしまった。咄嗟に受身を取ったものの、それでもきっと腕は折れてるだろう。

「う…、ぐっ…ちく…しょぉッ」

 何とか上半身だけでも起こそうとのた打ち回る俺の目の前で、どんな速度で回り込んできて蹴りを放ち元の場所に戻ったのか、平然とした男は腕に抱えていた女をまるで壊れた玩具でも扱うように投げ捨て、ゆっくりとした歩調で近付いてきた。

「痛そうだ。ああ、じっとしていなさい。腕の骨が砕けているかもしれないからね…」

「う、ぐわッ」

 そう言って、奴は俺の腕を捻り上げて上半身を起こさせると、腕はそのままで顔を覗き込んできた。
 長身の、ともすれば女にさぞやモテるだろう甘いマスクの男は、苦痛に歪む俺の顔を不思議そうに首を傾げながら覗き込んでくる。

「君は…数日前から私の行動を探っていた探偵だね。子供のような顔をしていたから覚えているよ」

 何だと!?いったい、いつ顔を見られていたって言うんだ!…って言うか俺、こんな優男の顔は知らないぞ!

「ああ、少年でもいいね。君にはあの阿婆擦れにはない、清純な清らかさがある。今は早いけれど、脈打つ鼓動も穏やかな美しい音色だ。素晴らしい、これほど理想的な人間がこんなにも近くにいたとは…神よ、許したまえ。しかし、もう一つ贅沢を言わせてもらうならば、少女だったらどんなに良かったことか…」

 何を…言ってるんだ?
 痛みは既に限界に達していて、俺は霞む頭をしっかりさせようと、両目を歪めながら必死でヴァンパイア気取りの優男を睨みつけた。

「ここに口付ける時、大抵の女は悲鳴を上げるが、それは私が乱暴なキスを好むからだ。しかし、君は優しくしてあげようね。これからの私の大切な伴侶となり、糧となるのだから…」

 お喋りな男の言葉は淀むことなく続き、俺は朦朧とする意識の中で、そんなことは絶対にお断りだと叫んでいた。

「苦痛に歪む顔は快楽の表情に良く似ているから、つい乱暴になってしまうのだ。だがそれは、私が君たち人間を愛おしんでいるが故の行為。愛の証なのだ」

「愛の証ねぇ。オレにしてみたらそう言うことは然るべき人種とした方がいいんじゃないかと思うよ。そっちの方が楽しめると思うしね。少なくとも、オレの光ちゃんは苦痛が好きって人種とはちょっと違うんだよね」

 大いに違う!…とこの状況で叫べたのなら俺も天晴れなもんだが、実際に口から出た言葉は情けない呻き声だけだ。畜生…ッ。
 離してくれる?と、まるでちょっとそこでコーヒーでも買ってきてくれる?と尋ねるような気安さでそう言ってから、白いコートに巨体を包んだ男はポケットに手を突っ込んでテクテクと歩いてくる。
 ギョッとして振り返ったヴァンパイアの腕から手が離れ、俺はそのまま地面に逆戻りしてしまった。

「う…」

「あらら。乱暴にしないでくれる?光ちゃんは普通の人間だからね、ちょっと触っただけでも壊れちゃうんだよ。だから大事に、そっとしないとね」

 どうかしなくても、明らかに人を食ったようなふざけた声音に、しかし、ヴァンパイア気取りは油断なく気配を窺いながらゆらりっと立ち上がった。

「何者だ?気配を感じなかったが…」

「そう?変だなぁ。そうと判るようにちゃんと殺気は出してたんだけど…ああ、そうか。可愛い光ちゃんに気を取られていたから気付かなかったんだよ、きっと」

「ふ…ざけるな…っ…よ、アシュ…リー!」

 思わず咽て咳き込むと、心配そうに眉を寄せた大男は痛々しそうに俺を見て、それからヴァンパイア気取りに笑いかけた。

「ヴァンパイアハンターになるつもりはないけど、お望みとあれば何だってするよ。光ちゃんを返してくれないとね」

 ヴァンパイア気取りは暫くそんなアシュリーを眺めていたが、不意に、クックッ…と咽喉の奥で笑うと首を左右に振った。

「なるほど、君は私と同属か、或いはそれに最も近しい種族のようだ。クク…よくよくこの少年の血は魔を好むらしい。いや、魔がこの少年の血を好むのか…どちらにせよ、可哀相に。とんだ化け物に惚れられるとは…」

「お喋り好きのヴァンパイア。もっと喋ってオレを怒らせるのか?それとも、素直に光ちゃんを解放するか。どちらを選ぶ?尤も、後者を選んでも光ちゃんは君を追い続けるだろうけどね」

 最後の方を少しだけ不服そうな声音で言ったアシュリーに、澄んだ大気に浮かび上がる月の、その幻のような明かりの中で佇む空想上の妖魔は気の毒そうに眉を顰めた。

「残念だが、君の愛する探偵が捜し求めているヴァンパイアは私ではない。彼は、いや彼らは、遠き異国の旅人だ」

「何だって」

 不意に、アシュリーの顔色が曇る。
 それは月のか細い明かりの中にあっても読み取ることができるほどハッキリとした変化で、訝しむ余裕すらない俺にだって不安を覚えさせる威力があった。
 漆黒のコートを翻したヴァンパイア気取りは優雅な一礼を残すと、それに答えることなく闇に溶けるようにして唐突に消えてしまった。
 あれはやっぱり本物の吸血鬼だったんだろうか…
 いや、そんなことよりもアシュリーのあの態度は何なんだ!?

「アシュ…」

「光ちゃん。ほらね、オレが言った通りだったでしょ?相棒にしていれば、こんな不測の事態にだってもっと早く駆けつけられたのに…」

 近付いてきた白いコートの大男は屈み込むと、苦痛に歪む俺の顔を痛々しそうな困惑したような、複雑な表情をして見下ろしてくる。

「う、るせ…助け…な…か、いら…ね」

 そんなことよりも…
 俺の精一杯の強がりを、奴はいつも通りに笑うのでもなく冷やかすのでもない、困ったような表情をしただけで何も言わなかった。

「う…っ…」

 無骨そうに見えるのに、驚くほど繊細な仕種で労わるように俺を抱き起こしたアシュリーは、そのまま何も言わずに抱き締めてきた。
 そんな風にされるのは初めてだったし、俺自身、かなり緊張していたのか、幾つもの疑問が頭を悩ませていると言うのに、逃げ出したいのか何かに縋り付きたいのか…許容範囲を大幅に越えた俺の脳味噌は手っ取り早く後者を選んだようで、意識を手放すことに成功したのだった。
 アシュリーの物言いたそうなエメラルドの双眸に守られながら、霞む意識の中でその規則正しい心音を静かに聞きながら…

17  -EVIL EYE-

 カタラギに半ば抱かれるような形で、まるで空気を自分のものにしてしまっている真っ赤な髪のエヴィルハンターに連れられて、きっと安河が苦戦してるに違いないあの場所に戻って来た。
 カタラギのヤツは俺が教えなくても、間違うことなくその場所に行ったから…って、こら。
 お前、やっぱり最初から見てたんだな?
 だったらさぁ…せめてエヴィルに襲われる前に助けてくれよ。
 不満そうな目付きで睨んだら、真っ赤な髪の派手なエヴィルハンター様は俺の視線に気付いたのか、不機嫌そうに唇なんか尖らせて言いやがったんだ。

「エヴィルの気配を追ってきたんだよ。お前についてたからな」

 それが本当なのか嘘なのかは判らなかったけど、今はそんなことを探ってる場合じゃない。
 いや、疑ったのは俺だけど…コホン。この際、自分の非は無視しよう。
 カタラギの腕の中から身体を乗り出して、俺は思わず安河!…と、叫びそうになったんだけど、その口は自然と閉じてしまう。
 まるで何事もなかったかのように静まり返ったアスファルトには、風に白いコートの裾を靡かせて立つ、一人の男を除いては何一つ変わったところなんかなかったんだ。
 安河は…キョロキョロしていたら、なんだか、カタラギは嫌そうな顔をして顔を顰めたりしているのに気付いて、俺は首を傾げてしまった。
 いや、今はカタラギどころじゃないぞ!

「…あれ?カタラギ??」

 指先にやたら長い爪を持っているのか、色素の薄い唇でフッと息を吹きかけていた彼は、俺を抱きかかえたままでアスファルトに直撃する勢いで降り立った俺たちを見て、吃驚もせずにキョトンッと眠そうな半目で首を傾げた。
 カタラギの知り合いなのか?
 不意に見上げたら、カタラギはバツが悪そうな顔をして肩を竦めたりした。

「よぉ、キサラギ。なんだ、戻って来てたのか」

「お言葉ですが。僕が戻ってきてはいけない理由とかあるワケですか?」

 カタラギと同じぐらいの長身なんだけど、カタラギよりもほっそりした体型の彼、キサラギは、ムッとしたように唇を尖らせて腰に手を当てると、大人しく抱きかかえられている俺を見てまたしてもキョトンッとしたみたいだ。
 でも、たぶん。
 俺も驚くほどポカンッとしていたに違いない。
 だって、このキサラギってヤツは、何もかもが真っ白なんだ!
 髪も、眉毛も、睫毛も、肌も!
 そして、右目だけが金色のオッドアイなんだけど、その左目も真っ白なんだから吃驚しても仕方ないだろ?!
 …って言っても、虹彩が真っ白で瞳孔部分は真っ黒なんだけど。
「ふぅん、彼がカタラギのハートを射止めた彼女か」

 興味深そうに繁々と俺を見るキサラギから、唐突にハッとしたようなカタラギは、まるでクソガキみたいに慌てて背後に俺を隠してしまった…いや、待て。確かに長身だし、でかいガタイのカタラギの背後に回されたら全く見えなくなるけどよ、俺はそれどころじゃないんだ!
 たぶん、カタラギの知り合いって事は、コイツもきっとエヴィルハンターに違いない…と言うことはだ!安河の安否を知っていてもおかしくないだろ?!

「コイツはお前にはやらんッ…って、こらこら!」

 やっぱりクソガキみたいに口を尖らせて言い募っていたカタラギは、慌てて背中を掴みながら顔を覗かせようとする俺にやんわりとパンチなんかくれてきやがるから、反撃しそうになっちまった。
 いや、いかん。
 カタラギなんか相手にしてる場合じゃないんだよ、俺は!

「あの!…キサラギ?さん!ここでエヴィルに襲われてたヤツがいたと思うんだけど、そいつ、どうなったか知りませんか??!」

「え?」

 腕を組んで思わず笑っていた真っ白なエヴィルハンターは、キョトンッとして俺を見詰めてきた。
 やっぱり、ドキリとするほど綺麗なんだけど、その双眸は思う以上に冴え冴えとしていて、カタラギのように気安く話せる雰囲気ではまるでなかった。
 キョトンっとするのがクセなのか、もしかすると、じっと凝視してるのを見ると目が相当悪いのかもしれない。いや、気のせいかもしれないけど、何となくそう思ってしまうんだよね。

「あ、そーか。キサラギがここに居るってことは、エヴィルを狩ったワケか。んじゃ、ここに居た安河っつークソガキがヌッ倒れてなかったか?」

 思わず見蕩れてしまう俺を横抱きに抱え上げてしまって、てめーこそクソガキのくせにそんな聞き方でキサラギに安河のことを訊いてくれた。
 どーも、俺が聞いただけだと答えてくれそうな雰囲気じゃなかったんだよな。
 ってことは、カタラギが居て正解だったのか…なんか、ムカツクけど、一応感謝しておこう。

「ヤスカワ?…さぁ、名前は知らないけど。人間は居たよ。エヴィルに囲まれてね。僕が来た時には喰われる寸前だった」

 楽しそうに笑って言うから、俺は思わずジタバタしてカタラギの腕の拘束を、外せるワケもないのに暴れながら言ったんだ。

「く、喰われる寸前って…じゃあ、安河は?!安河はどうなったんだ??!」

「…どうって」

 楽しそうな雰囲気がガラリと変わって、冴え冴えとした双眸のままでまたしてもキョトンッとしたキサラギは、不平そうに唇を尖らせるんだ。
 うう、まるでカタラギがもう一人居るみたいだ。
 容姿とか物言いとかはまるで別人だけど…なんか、雰囲気とかがソックリなんだよ。

「仕方ないから救急車を呼んで病院に運んでもらったよ。聖和総合病院だけど、たぶんあの程度なら2、3日の検査入院で退院できるんじゃないかな」

 それを聞いて、俺は心底からホッと息を吐き出してしまった。

「そ、そっか。じゃあ、安河は無事なんだな?」

 念を押すように尋ねたら、キサラギはますます不満そうに下唇を突き出して、剣呑なオーラを纏いながら言うんだ。

「そう言ってるじゃないか」

「そっか…そうなんだ。良かった~、俺、安河が死んだりしたらどうしようかって思ってたんだ。キサラギさん、有難う!」

 ホッと息をついて思い切り笑って礼を言ったら、途端に真っ白なエヴィルハンターは電流でも受けたような表情をして固まってしまった。
 あれ?俺、なんか悪いこととかしたか??
 確かにムッツリ不機嫌そうなカタラギに小脇に抱えられてるような姿勢で礼を言われても嬉しかないだろうけど、だからってそんな表情はあんまりじゃないか。
 呆気に取られている俺を荷物みたいに手軽に抱えている無言だったカタラギが、唐突に嫌~ぁな表情をして舌打ちなんかしやがったんだ。

「マズイ」

 ん?
 何が不味いんだと、素っ頓狂なことを思っていたら、不意に純白のエヴィルハンターが思わず見蕩れる綺麗な顔を破顔させたりするから、意味もなくギョッとしていると、そんな俺に向かって両手を差し出したりするんだ。

「君、可愛いよね。僕に?この僕にありがとうだなんて、笑って言えるから可愛い。うん、カタラギが彼女に欲しがるワケだ」

 言ってることと、やってることが全く食い違っているように思うのは俺の気のせいだろうか…

「あのな、キサラギ。何を聞いてたか知らんが、コイツはオレのモノ!オレの大事な女なんだ、お前でもやんねーよ!」

 ムッとして眉根を寄せる真っ赤な髪の派手なエヴィルハンターは、最強だって嘯いてるくせに、間合いも十分ある純白の綺麗なエヴィルハンターを警戒して、とうとう俺を両腕で抱き締めやがったんだ。
 なんか、猫か犬の扱いだよな。

「…えー」

「なんだよ、そのあからさまに不服そうな声はッ」

 あのカタラギが圧されてる…いや、それも十分楽しめるんだけど、それ以前にどーしてキサラギが俺に興味なんか持ったんだ?…って、当たり前か。
 アレだよ、アレ!
 どうも久し振りに会ったっぽい2人だもんな、きっとカタラギをからかって遊んでるに違いないよ。
 安河が無事だと知って余裕になっている俺は、親友そうな2人の様子を、暢気にも高みの見物と洒落込むことにしたんだ。

「なんだ、もうセックスはしたの?」

 真っ白な目は、瞳孔だけが黒くて、なのに、右目はカタラギと同じような邪眼の金色をしているから、それがガラス玉みたいにとても綺麗で、俺は思わず頷きそうになってハッとした。
 やばい、これはまた、あの時のカタラギの質問と同じ状況だ。
 邪眼でなんでも話させようなんっつーのはな、卑怯なんだぞ。
 ムッとして口を噤んだら、キサラギのヤツは両手を差し出したままでやたら吃驚したみたいに双眸を見開いてキョトンッとしたんだ。

「なんでか知らねーけど、コイツに邪眼は効かねーよ」

 カタラギが勝ち誇ったようにフフンッとして、ムッとしたままの俺の頭に顎を乗せると、懐くみたいにグリグリしやがるから、痛い痛い!

「でも、セックスはしてるに決まってんだろ?オレの女だし。オレたち愛し合ってるからな」

 でも、確りそれは言いやがるんだな。
 語弊があるぞ!俺たちは愛し合ってなんかない…って、そっか俺、さっき成り行きとは言えカタラギ相手に愛の告白なんかをやらかしちまったんだ。
 今更青褪めてひえぇぇ~っと言っても後の祭りなんだけど、何か衝撃を受けたような顔をしていたキサラギは、それから伸ばしていた腕を組むと、片手を顎に当ててフムフムと独りで納得したように頷いてるんだ。
 あれ?もしかして、なんかまた、カタラギみたいに曲解したんじゃ…

「邪眼が効かないのか。ふーん、珍しいなぁ。でも、セックスぐらいなら今時、小学生でもしてるんじゃないの?そんなの意味ない。証拠はあるかい?」

 小学生って!
 思わず開いた口が塞がらない俺だけど、驚くべき部分が間違ってるんだから放っておくとして、証拠ってなんだ?まさか、愛し合ってるなんつー証拠とか言うんじゃ…

「証拠?証拠ねぇ」

 と、カタラギはそう言った途端、俺の身体をクルリと反転させて、ギョッとしたままの俺の唇に、少しカサツイた薄い唇を合わせてきたんだ。そうされると、何故か俺の身体は条件反射みたいに、そのキスに応えようとかしやがるんだぜ?信じられるかよ!
 それも邪眼の力とかそんなんじゃなくて…うぅ、どうも俺の脳みそは、すっかりカタラギの女だって自覚とかしちまってるんじゃないかと思う。
 家族とか、大事なひととか守りたいから、それなら、カタラギの女でいることは有益じゃないか…って、考えての行動なら天晴れなんだけど、たぶんきっと、済し崩しにカタラギを受け入れてしまったんだ。
 あの愛の言葉が、俺の中の何かを吹っ切らせたんだと思う。
 目蓋を閉じて、口腔を探る肉厚の舌に自分の舌を絡めて拙い仕種で応えると、カタラギはちょっと嬉しそうに浅い口付けを濃厚なものに変えていく。
 溺れるみたいにカタラギの背中に腕を回せば、覆い被さるように俺を抱き締める。
 そんなキスを嫌じゃないとか、恐ろしいことを考えていたら、キサラギはキョトンとしたままで首を左右に振ったんだ。

「ふぅん、なるほどね。どうやら、確かにカタラギの女みたいだ。じゃあ、仕方ない。僕は退散するよ」

「…って、諦めねーのかよッ」

 思わず舌を引き抜いてキサラギを睨むカタラギの頬に、俺はうっとりしたままで指先を伸ばすと、歯をむいているその口許に唇を寄せて、ペロッと舌先で舐めたんだ。
 もっと、もっとキスしたい。
 溺れるみたいにカタラギに抱きついて、クラクラするようなキスがしたいんだ…
 後になったら顔面真っ赤にしてのた打ち回るに違いないのに、そんな風にキスを強請る俺を満足そうに見下ろしたカタラギは、薄い唇に笑みを浮かべて俺の目蓋にキスしたりした。

「諦めないよ。脈がないほど燃えるしね」

 クスクス笑って驚異的な跳躍で飛び上がったキサラギは、驚くことに、そのまま闇に溶け込むようにして消えてしまったんだ。
 白いのに、まるで不似合いなはずの黒に馴染むように溶けてしまったのに俺は、それに気付けもせずにカタラギに夢中になっていた。
 だから、件の真っ赤な髪をした派手なエヴィルハンターは嬉しそうにニヤッと笑って。

「今夜はイケそうだな」

 なんて、なんとも色っぽくないことをのたまいやがったんだ。
 でもまぁ、俺も俺なんだけどさ。
 全くもって、トホホホ…だ。

16  -EVIL EYE-

 ビルとビルが鬩ぎ合う薄暗い路地裏で、俺はコンクリートの壁に片手を付いて背中を丸めるようにして荒く息を吐き出していた。
 咽喉が奇妙な音を出して、息遣いは酷く荒い。
 苦しい、スゲー苦しいんだけど、それ以上に残酷な場所に安河を残してきてしまったんだから、俺はなんとしてもカタラギを見つけないといけないんだ。
 捜せばいいとか言いやがって!…本当に、アイツは何処にいるんだよ。
 こめかみから零れ落ちた汗は頬を伝って顎から落ちるから、俺はそれを片手で拭いながら、キッと薄暗い路地裏を睨みつけたんだ。
 俺の身体はカタラギの女になってから、エヴィルを引き寄せるようになっているはずなんだ。だから、安河と一緒の時も現れたに違いない。
 それじゃあ、今だって、こんな薄暗い絶好の場所に俺と言う餌を撒けばエヴィルは現れるだろうし、カタラギじゃないにしても、誰か近くにいるハンターが来てくれるんじゃないかと思う。
 日本には7人しかいないエヴィルハンターだから、遭遇する確立は低いだろうけど…でも、今の俺はその砂粒ほどの確立にも縋りたかった。
 さあ、来い!エヴィル、絶好の餌だぞ。
 意を決して狭くて薄汚くてジメジメした路地裏に足を踏み入れた。
 踏み入れたのに、何時まで経ってもエヴィルは現れない。ジリジリと無駄に時間ばかりが消費されて…って、それでも、本当はほんの数分だったに違いないのに、俺には永遠にだって感じられていた。

「やい!エヴィルどもッッ。ここに餌がいるんだぞ!出て来いよッッ」

 しーん…カサリと小さな風がゴミを散らしたぐらいで、俺の声に応答するヤツは1匹もいない。
 こうしている間にも、安河はあの不気味な粘液のエヴィルに襲われているに違いないのに…俺は、無力だ。何もできない。
 あんな風に身体を奪われても、件のカタラギすら、俺なんか相手にしないのに…それなのに、安河は馬鹿だ。こんな俺なんか相手にしなければ、たとえエヴィルに襲われるにしても、今じゃなかったはずだ。
 ポロ…ッと涙が零れ落ちて、零れ落ちてしまうと、まるで堰を切ったみたいにポロポロと涙

が止まらなくて、そんなに弱気じゃないはずなのに、俺は唇を噛んで声も出せずに泣いてしまった。
 平凡を望み過ぎて、手に入れた友人である安河を犠牲にすることで、俺は『普通』に生きていると思い込もうとしていたんだ。そんな馬鹿みたいなこと考えて、俺は安河の友達になったはずじゃないのに。
 仕方なさそうに笑う顔だとか、嫌がっているくせに、それでも、俺に付き合ってくれる優しさだとか気安さが、凄く好きだったんだ。
 その安河を、俺は利用していたのか…嫌だ。
 こんなことは考えたくない、それだとまるで、もう安河が死んだと決め付けてるみたいじゃねーか!

「クッソー!!カタラギぃーーーッッ!!!これだけ捜してんだッ!何処にいるんだよ、出て来いよッッ」

 頬に涙を零したままで、なんつーか、手当たり次第に何もかも壊してしまいたいような、当り散らしたい感情が爆発したみたいに俺は叫んでいた。
 不況ばかりのせいってワケじゃなく、静まり返ったビル群に俺の声は虚しく木霊するだけで、誰にも届かなかったみたいに路地裏は静寂を取り戻しやがるから…俺はギリッと唇を噛み締めた。
 俺が弱くなくて、カタラギたちみたいに強いハンターだったら、こんな悔しい思いとかしなくてもよかったのに!
 俺は、俺は…!
 目線を落とした砂利だらけのアスファルトは寂しげで、俺はギュッと目蓋を閉じていた。
 と。
 首筋にボタリと何かが落ちてきた。 
 この感触を、俺が忘れるはずがない。
 ボタ…ボタ…ッと首筋や制服の肩を濡らしている、これは…
 恐る恐る落としていた目線を頭上に向けて、俺は息を呑んだ。
 そこには巨大な鳥のような姿をしたエヴィルが、燃えるような真っ赤な双眸で俺を睨み据えるようにして見下ろしていたからだ。
 鋭く尖った嘴の端から零れる粘液のような唾液は、美味そうな獲物を見つけて、狂喜している化け物の意思表示なんだろう。
 今からお前を食うぞ…なんて、ゾッとしない想像に眩暈を覚えながら、俺はジリッと後退った。
 背後は路地裏の行き止まりだし、目の前の化け物の身体の下を潜って走り抜ける自信は勿論ない。そんなに抜け目があるはずもないし、図体のデカいエヴィルは賢いからな。
 ゴクッと息を呑んだ瞬間、まるで待ち構えていたかのように鳥型のエヴィルが襲い掛かってきたんだ。
 目蓋を閉じる前に見た鳥らしい足の先端の兇器の、禍々しいまでの鋭さは、切れ味のよさを物語っているみたいに硬質に電灯の明かりを反射させていた。
 きっと、この風圧が覆い被さった瞬間、俺はあの爪に切り裂かれるに違いない。
 両手を庇うようにしてあげた瞬間だった、俺は鋭い凶悪な爪に引き裂かれることはなかった、でもその代わりに、夥しい何かがビシャッと全身に叩きつけられたんだ!
 独特の生臭い匂いは、前にも嗅いだことがある。
 これはたぶん、間違えることのない血だ。
 しかもまだ生きていた名残りを漂わせるように温かくて、全身を自分のものじゃない血液で濡らしたまま、冷えていく血液のせいか、それとも新たな敵の出現に怯えているからなのか、俺は震える身体を持て余すようにして顔を上げた。
 どうせ、あの時のOLの姉ちゃんエヴィルのように、また巨大なエヴィルが現れたんだろうと思った。でも、それならそれで、誰かハンターが嗅ぎ付けてやって来てくれるんじゃないかとか、そんな甘いことを考えてなかったと言えば嘘になる。
 だから、俺は期待していた。
 巨大なエヴィルを…なのに。

「元気にしてたか?」

 緊迫しているってのにあっけらかんと能天気そうにそんなことを言ってのけて、片手の日本刀で肩を叩きながら、もう片方の鉤爪のある片手で震える俺の身体を引き寄せると、カタラギはエヴィルの血に塗れた身体を頭の天辺から繁々と見ているみたいだ。
 元気にしてたか…だと?

「俺は!お前を捜したんだぞッ、なのに何処にもいなくて…何してるんだよ!自分の女が助けを求めてるのにどうして姿を見せないんだッッ」

 俺はむずがるガキみたいに両手を伸ばして、そのデカいガタイの胸元を突っ張りながら、眉を寄せてギッと睨み付けながら叫んでいた。
 そんな風にして、必死にその腕から逃れようとする俺の身体をガッチリと引き寄せたままで、カタラギはフンッと鼻を鳴らしやがった。

「光太郎のためじゃないからさ」

「…は?」

 何を言ってるんだ、カタラギは?
 漸く逢えたのに、相変わらず何か理不尽な物言いに眉が寄る。
 これだけ捜し回って、漸く見つけ出したんだ…と言うか、見つけ出したのは俺じゃなくてカタラギなんだけど、それでもコイツは素知らぬ振りして外方向くのかよ。

「だってさ、お前。ヘンな野郎の為に駆けずり回ってるじゃねーか。んなの、オレの知ったことかよ」

 冷めた双眸で繁々と俺を見下ろしているカタラギは、思い切り不機嫌そうな顔をしている。
 その顔を見上げて俺は…

「な、なな…おま、もしかしてずっと見てたのか?」

 …って、おいおい。
 まさか、あの廃工場の時みたいに『今来たんだ』はないだろうけど、ずっと見ていたって言うのか?
 だったら、せめてエヴィルに襲われる前に助けてくれよ。
 思わず半泣きで睨む俺を見下ろしたまま、カタラギは面白くないと全身で物語りながらも、素直じゃないツラをしてニヤッと笑うんだ。

「途中からな。オレだってお前がいるんじゃねーかと、毎晩、この辺りを捜してたんだぜ?今だってそうだったんだ。なのに光太郎ときたら、ヘンな野郎と楽しげに話しなんかしやがってさ。ムカツクに決まってるだろ」

 それでも、言葉を言い終わる頃にはガキみたいに唇は尖ってる。
 半分以上、呆れ果てて見上げていた俺は、唐突にハッとして、それから、あれだけ嫌がって逃げようとしていたカタラギの腕を掴んで身体を寄せたんだ。

「あ!そーだ、こんなこと言い合ってる場合じゃなかったッ。頼む!お願いだから、一緒に来て安河を助けて欲しいんだ」

「やだね」

 間髪入れない返答は判っているつもりだったけど、それでも引き下がるワケにはいかないから、俺はさらに身体を寄せて、まるで他人事…事実そうではあるんだけど、みたいなツラをして見下ろしてくるカタラギを見上げていた。

「安河は俺の友達なんだ!友達を助けてくれるなら、俺、何でもする。約束するから…」

「…信じらんねーな。人間は簡単に嘘を吐く」

 吐き捨てるように言うくせに、身体を寄せる俺を片腕で抱き締めたまま、カタラギは必死な俺の顔を愉しんでいるのか、繁々と覗き込んでくるけど、そんなこと気に留める余裕もない。
 だから俺は、掴んでいたカタラギの腕から手を離して、ニヤニヤと意地悪そうなツラをしてオッドアイの双眸を細めているカタラギの頬に両手を添えて…それから、その、やっぱり覚悟は決めないといけないと思う。
 だから俺は、ギュッと両目を閉じると、意を決してその薄い唇に口付けたんだ。

「…これで、本気だって判ってくれよ。これ以上は、今はダメだ。安河を助けてくれてからじゃないと…」

 俺は、たぶんこの時までに自分からキスしたことはなかったと思う。
 男が男にキスするなんて『うぎゃー』としか言いようがないんだぞ。
 確かに、俺だってぶつけるようにして唇に唇を押し付けただけとは言え、内心で『うぎゃー』とのた打ち回ったんだ。だからこそ、俺が真剣だって判って欲しかった。
 …なのに。

「キスもセックスも、オレの女なら当然だろ?どうして、わざわざ当たり前のことでオレがくだらねーエヴィル狩りなんかしなきゃいけねーんだよ」

 とかあっさり抜かしやがるんだ。
 俺は思わず呆気に取られてカタラギを見上げていた。
 いや、もしかしたら、カタラギの言うとおりなのかもしれない。
 カタラギにしてみたら俺なんか、気が向けば何をしても構わない…殺すことだって許されている存在なんだから、その俺が何をしたってそんなの当たり前になっちまうのか。
 じゃ、じゃぁ、俺の取り柄ってなんなんだ?!

「…じゃあ、どうしたらいいんだ?どうすれば、カタラギは俺が本気だって判ってくれるんだよ?」

 あわあわと脳内では思考回路が破裂寸前になりながら、俺は平然としている小憎たらしいカタラギの胸元を引っ掴んで言い募った。
 言い募って俺は…
 俺ができることは……

「そうだなぁ…って!お前、何してんだ」

 俺が口付けた唇をペロリと舐めながらニヤニヤ笑っていたカタラギは、不意にギョッとしたようにして力を込めようとしていた俺の口に手を差し込んできたんだ。
 思わずハッとしたけど、気付いたらカタラギの手を噛んでいた。

「…だ、だって!お前は何をしても信じてくれないじゃないか。だったら、死ねば信じてくれるだろ?それだったら、何時だって死んでやるよッ」

 俺が噛んだ手はさほどダメージを与えていないのか、暴れるようにして、戒めているような腕から逃げようとする身体を易々と片手で封じ込めやがって、カタラギは忌々しそうな、腹立たしそうなツラをして歯型から薄っすらと血の滲む箇所をペロッと舐める。

「バッカじゃねーの?んなに大事なヤツなのかよ。だったら、オレは絶対に…」

 鼻に皺を寄せて、まるで見たこともないような険悪なツラで吐き捨てようとする語尾に被せて、俺は叫ぶように口走っていた。

「違う!死ぬのはお前の為だ。だって、そうしないと信じてくれないんだろ?安河は確かに大事な友人だ、それを判って貰えるなら、俺は死んだっていいよ」

 だってよー、ちゃんと判って欲しいんだ。
 俺、安河に恋愛感情なんか持ったことはないし、いや、それ自体、考えているカタラギがどうかしてるだろ。
 スゲー真剣なのに、カタラギは何を言っても信じてくれない。
 勿論、本気で死ぬ気とかないんだけど、少しでも俺の心意気ってのを判ってくれればいいとか、考えてたってのに…まさか、カタラギが手を犠牲にするとか思わなかった。
 ただ、信じて欲しいだけなのに…犠牲にした手にはそれほど関心を示さずに、何か面白いものでも見るような目付きをして、カタラギのヤツは平然とした口調で言った。

「別にさ。誰も死ねとは言ってないだろ?オレを信じさせるのにいちいち死んでたら、命が幾つあっても足らねーじゃん。まぁ、そうだなぁ…お前からのキスは初めてだったしな、じゃあ、カタラギ愛してるって言えよ。ちゃんと、感情もたっぷり込めてな?」

 少なからず、俺を死なせないと思っているカタラギの意思に動揺していた俺は、不意にその口から飛び出したふざけた台詞に目をむいてしまった。
 あ、愛してるだと?!
 死ぬ覚悟でいた俺に、なんだよ、そのふざけた要求は??!!
 …ってか、俺。
 そんな言葉、まともに言ったことねーぞ?!
 顔が一気に茹蛸みたいに真っ赤になっちまった。
 その一部始終を、カタラギはスゲー楽しそうにじっくりと拝んでやがるから…うぅ、時間がないのは良く判ってるんだけど、それでも、なかなか言い出せないのは、その言葉は心の奥底に仕舞いこんでいて、何時か、大切な時に然るべき覚悟を決めて言うべき言葉だと思っていたからだ。
 こんな時に、こんな場所で言うべき言葉じゃないだろ。
 でも、本当は簡単なことだと思う。
 嘘で言えばいいんだから…なのに、どうしてだろう?俺はその言葉はとても大切で、こんなことで言ってはいけないような気持ちになっている。
 でも、それをカタラギは要求しているし、安河を救うためなら…俺の感情は無視しないといけないんだよな。
 …。
 ……。
 ………。
 カタラギの大馬鹿野郎。
 こんな時に、こんなに大事な言葉を言わせて、カタラギなんか大嫌いだ。
 俺はムッとしたままで、覗きこんでくるカタラギの右目が金色のオッドアイを見詰めながら、顔を真っ赤にしたままで不機嫌に口を開いた。

「…カタラギ、愛してるよ。俺、お前のこと、大好きだ」

 ワクワクしてるように覗き込んで待ち構えていたカタラギは、そんな風に、ムッとしたままで言ったはずなのに、それでも、俺にとってはとても大切な言葉だったから、驚くほど心が篭ってしまった愛の告白を聞くなり、不意にすっ呆けたようなツラをして身体を起こしやがったんだ。

「へー、それは知らなかったな。てっきり思い切り嫌われてるんだとばかり思ってたよ。まぁ、そんなに愛されちゃってるんなら仕方ねーな。助けてやるよ、安河って言ったっけ?そのお友達を」

 そのくせ、確り俺の背中に回している腕の力を抜くつもりはないらしい。
 こんな形で、ワケの判らないまま愛の告白をやらかしてしまった俺は、だからと言ってカタラギを好きなのかと言うと…実はよく判らない。
 そりゃぁもう、あんなことやこんなことも犯っちゃってるワケなんだが、それでも、俺はカタラギに要求されたままに口にした愛の言葉が本物だなんて思っちゃいない。
 カタラギは何か勘違いして…何時もの曲解で満足してるみたいだけど、俺は嫌だ。
 でも今は、約束を破らないカタラギの言葉を受け入れるしかないんだけどさ。

「カタラギ、有難う!」

 今は、俺の心なんかどうだっていい。
 良かった!安河、待ってろよ。

「どー致しまして。ま、それなりの見返りは要求するけど」

 俺が嬉しくて満面の笑みで感謝してるってのに、どうしてコイツはこんな風に、水を差すんだ。
 うぅ~、ホントはできれば殴りたい。
 思い切り噛み付いたってへっちゃらなツラしてるカタラギに、俺のへなちょこパンチがどこまで効くか判らないけど、それでもできれば殴りたい。
 だけどさ、これは俺が言い出したことなんだし、今は安河救出が最優先なんだから大目に見て頷くしかないワケだ。

「う…わ、判った」

 顔は湯気が出そうなほど真っ赤だったけどな!

15  -EVIL EYE-

 もうじき夕暮れが迫るラーメン屋までの道のりを、俺と安河は他愛のない話をしながらぶらぶらと歩いていた。
 普通にエヴィルと言う化け物が徘徊する夕暮れともなると、何処の家もピシャリと窓を閉めて、何事もない夜を祈るようにして電気も切って息を潜めて過ごしている…のかと思ったら、意外と何処も団欒の明かりが灯っているし、笑い声だって聞こえるんだから不思議だよな。
 ぼんやりと歩き慣れた道を進みながら左右に立ち並ぶ家々を見ていたら、安河のヤツが首を傾げて長い前髪の向こうから俺を見下ろしてきた。

「家が、どうかしたのか?」

「あ、えーっと…」

 そうか、俺。
 まだ、安河にエヴィルのこととかエヴィルハンターのこととか知らないって教えてないんだった。
 でも、何故か…それを言うのは気が咎めてしまう。
 だってさ、じゃあ、どうして思い出したんだって聞かれたら、俺のことだから、たぶんポロリと本当のこととか言っちゃいそうなんだよなぁ。
 それは、拙い。
 極めて拙い。
 だから、なんとなく…って感じでタハハハッと笑って頭を掻いたんだ。

「エヴィルとかいるのに、みんな平気で窓とか開けてるだろ?怖くないのかとか思ってさ」

「…?エヴィルは明かりが嫌いだから、電気さえ点けていれば窓を開けていても平気だ。それに、最近はハンターが徘徊してるから、小さな家なんかは襲わないよ」

 明かりが嫌いなら、ビルとか電気を点けていれば寄って来ないんじゃないのか?…あ、そうか、だから残業してビルの中にいるのか。
 馬鹿だな、俺。
 でもそれってさ、極当たり前のことなんだろうな。
 安河でさえ一瞬、訝しそうに眉を寄せたんだから…う、俺ってば何処まで墓穴を掘るんだ。

「そ、そーだよな!当たり前だよな、そんなこと。俺ってばうっかりしてたよ、アハハハ」

 アハハハ…ッと、馬鹿みたいに取り繕いながらも俺は、ふと、安河の台詞で引っ掛かるものを感じた。
 いや、胸の辺りがドキリとした、とでも言うべきか。

「…最近、ハンターがうろついてるのか?」

「ああ。ネットで検索するとガセが多いんだけど、よく出没しているって噂にあるよ。エヴィルハンターは気紛れだからさ、そんなに姿を見せることもなかったんだけどな。まるで…」

 そこまで言って、安河は首を傾げて見せた。
 長い前髪に双眸が隠れてしまうから、実際は何を考えてるのかいまいち判らない。今だって安河がどんな表情を浮かべているのか、気配だけで感じないといけないもんだから、他の連中は安河を倦厭しちまうんだろう。
 付き合ってみると、案外気安くて、いいヤツなんだけどな… 

「まるで何かを探してるみたいだ」

「え?」

 ドキッとした。
 そのハンターってのが、何も全てカタラギってワケじゃないのに、それでも俺の胸はトクンッと普段よりも強く鼓動したみたいだった。

「…?ハンターって言うぐらいだから、エヴィルを探しているんじゃないか?狩り過ぎて、あまり姿を見せなくなったのかもな」

 スッと顔色が変わる俺なんかさらりと無視して、軽く言ってのけた安河に、下手に動揺してしまった俺はバツが悪かったんだけど、まぁ、安河にしてみればただの話題じゃないか。そりゃ、さらりと受け流すに決まってるよな。
 それにヘンに反応して、根掘り葉掘り聞くと、またもや俺は、とんでもない墓穴を掘るってワケだ。
 よし、だいぶ学習してきたぞ…とか拳を握る辺り、ガックリしちまうよな、マジで。

「相羽も…エヴィルハンターが気になるのか?」

 ふと、安河が口許に静かな笑みを浮かべて聞いてきたりするから、俺はその仕種に見蕩れてしまった。
 なんつーか、こんな風に、長い前髪で鋭さすらある双眸が隠れちまうせいか、口許に静かな笑みを浮かべる安河の表情が大好きなんだ。

「相羽も…って、じゃあ、安河も気になるのか?」

「え?いや、俺はそうでもない。他の連中が、特に女子とかは気になってるみたいだからさ」

 女子と一緒かい!…と突っ込まなかったのは、何故か俺は女子受けがいいからだ。 いや、兵藤みたいに黄色い声を上げて追いかけられる…ってそんな受けじゃねーぞ、悔しいけどさ。
 なんか、気軽に話し易いみたいなんだよなー
 だから、自然と女子から声を掛けられる、そうなると、話題にも事欠かないってワケだ。暗に、安河はそれを口にしたに過ぎないってワケ。

「そうだなー、なんか理想のハンターとかいるみたいだぞ。俺もよく聞いてないから判らないけどさ」

 …ってのは嘘だ。
 女子どもが兵藤以上に熱くなる話題…ってのが、エヴィルハンターで、それは少なからず、男子の間でも人気があったりする。
 日本には7人のエヴィルハンターがいるらしくて、その中でも大人気なのがスメラギって言う、あの緑の電気野郎なんだけど、それを押し遣るほどの爆人気がカタラギだった。
 あのヘンタイが…女子どもと野郎どもの人を見る目がないのは、きっとガキだからだ。そう、信じたい。
 これでOLのお姉ちゃんたちにも人気があるとかだったら、俺は爆死するだろうな。
 いや、マジで。
 いや、そもそも姿も見せないエヴィルハンターだって聞いたのに、どうして『カタラギ』だの『スメラギ』だの名前が知れてるんだ?もしかしたら、あの派手な連中のことだから、まさかとは思うけど、自分たちで宣伝してたりして。
 それだったらちょっと笑える。
 ま、んなこたないだろーけどさ。

「相羽?その…ごめん。気に障ること言ってしまったな」

 ムッツリと黙り込んでしまった俺に居た堪れないみたいに、申し訳なさそうに呟いた安河にハッと気付いて、いかんいかん、俺が凹んでムカッとしてるのは安河のせいじゃないんだ。
 あのクソッタレなカタラギなんだよ。
 でも、これは言えないから辛いよな。

「いや、違う違う!別に安河の台詞にムカついたってワケじゃないんだ。だったら何なんだって思うだろうけど、なんか、女子とか、野郎もだけどさー、ヘンなのを好きになるよな」

「…相羽はエヴィルハンターが嫌いなのか?」

 大嫌いだ!!…と言えれば天晴れだけどさ、流石にそこまで嫌ってるワケでもないし、関わり合いたくないだけだ。

「んー、そこまで熱狂はしないよ。気にはなるけど」

「はは、同感だな」

 安河がちょっとはにかむように笑うから、俺も釣られて笑ったんだけど…その表情はすぐに引き攣ってしまった。
 だ、だって…今、安河の背後にゆらゆらしてる、アレは、あの影は…

「や、安河!」

 危ないっと、差し出した腕を掴んだのは安河の方で、その表情は今までに見たこともないほど険しく歪んでいた。

「…相羽、囲まれてる」

 俺を引き寄せた安河は忌々しそうに舌打ちして周囲を見渡している…んだけど、こんな時なのに、安河の知られざる部分を新発見、とかふざけたことを考えてるほどには余裕があったのか、俺も安河の背後に揺らめく靄のような影を睨みつけていた。

「こんな時こそ、エヴィルハンターが呼ばれて飛び出てくれないと困るよな!」

「…」

 けしておちゃらけてるつもりはないんだけど、安河の制服をギュッと握り締めたままで抱き付いてしまっている俺は、その時になって漸くハッと我に返った。
 あんまり、カタラギとか兵藤に抱かれることが多くなったせいか、男同士だってのに平気で安河に抱きついてしまっていた。
 安河にしてみたら「うげ」だろうけどさ、この場合は、それでも離れるよりも固まっているほうがいいんだろうか?うう、判らん!

「安河、ごめん!俺がラーメンとか誘ったから…」

 心の何処かで、こうなることは判っていたと思う。それでも、俺は安河と少しでも一緒にいたかったし、平凡を味わっていたかったんだ。
 だから、こんな非日常なことに、俺が安河を巻き込んでしまった。

「馬鹿だな」

 ふと、安河は仕方なさそうな表情をして、そんな俺を笑ったみたいだった。
 俺の身体をグッと抱き寄せながら、素早い仕種で…って、あのボーっとしてる安河からは想像もできない素早さで、鞄から何かを取り出した。
 それは、エヴィルを傷付けることはできないまでも、唯一撃退できる物質で作られた折畳み式の警棒のようなモノらしい。
 奇妙な光沢を放つ刀身を持つ警棒の柄を握り締めて、安河が長い前髪の隙間から、鋭さすら漂わせる双眸でギッと闇から這い出てくるような不気味なエヴィルを睨み据えると、ヤツらは一瞬だけど怯んだみたいだった。
 それでもすぐに緑色の臭気を放つ粘液を撒き散らして飛び掛ってきた!
 人型の成り損ないのようなエヴィルを、安河は握り締めていた警棒で振り払うようにして投げ飛ばしたんだ。
 『グギャ』っと、ヘンな声を出してベシャッとアスファルトに叩きつけられたエヴィルが『ギーギー』と呻くと、まるで色めき立ったように仲間のエヴィルたちが口々に金切り声を上げ始めたんだ。

「な、なんだ、これ…」

「拙いな」

 思わず耳を覆いたくなった俺の傍らで、小さな舌打ちをした安河は、それからポツリと呟いた。
 確かに、拙いと思う。
 エヴィルたちが『ギーギー』と鳴けば、まるでそれに呼応するように闇の中からズルリと一匹、また一匹と緑の粘液の塊みたいなモノが溢れ出して来るんだ。
 そのうち、何処にも逃げ道とかなくなるんじゃないか…そう思ったときだった。

「相羽、お前は逃げろ」

 こんな時だって言うのに、淡々とした口調で安河は言った。

「…は?!な、何言ってるんだよッ。そしたらお前、たった独りじゃないか!嫌だぞ、絶対に一緒にいるからなッッ」

 そんな理不尽なこと、こんな状況に巻き込んだのは俺なのに、それなのに安河をたった独りぼっちで残して行くなんて、そんなのできるワケがない!こんな時だってのに、安河は何を言ってるんだ。

「見ろ。あそこだけエヴィルが避けてるだろ?1人なら通れる。俺は…この武器がある。相羽には足があるだろ?助けを呼んできてくれ」

 ギュッと抱き付いたままで離れようとしない俺を困ったように見下ろしていた安河は、ほんのちょっぴりだけど嬉しそうな表情をして、それから、すぐに声を潜めて目線だけで促しながら言った。

「相羽は…武器を持っていないから。俺はバイトの時にもエヴィルに襲われた経験があるんだ。だから、大丈夫だ」

 そんな風に言って、俺をその気にさせようとしている安河を、俺はたぶん、これ以上はないぐらい不安そうな顔で見上げたんだと思う。
 あの何を考えてるのかいまいち良く判らない表情でボーっとしている安河からはとても想像とかできないような、真摯な表情で俺を見下ろして、それから飛んでくる緑の粘液を警棒で振り払いながら、安河は必死に言い募るんだ。
 どうも、今の世の中だと、安河が持っているような武器を持つことは当たり前になっているみたいで、だからこそ、武器すらも持たずにいる俺の身の上を心配してくれているのは良く判る。こんなヘンなヤツ、放っておけば安河だけならきっと、逃げ切れたに違いない。
 『俺』と言う足手纏いに、安河が困惑しているのはすぐに判った。
 …だから、俺は。

「判った!俺、知ってるエヴィルハンターがいるから、ソイツを呼んでくるッ。だから、お願いだから安河、絶対に死ぬんじゃないぞッッ」

「相羽?!」

 俺が知っているハンターは勿論カタラギだけど、アイツに会って、お願いなんかしてみろ。必ず何かを要求してくるに決まってる。
 そんなこと、判りきっているんだけど…それでも俺は、キュッと唇を噛み締めると、驚いたように目を瞠る安河を、断腸の思いでその場に残して、緑の粘液が嫌そうに避けている電信柱の脇を擦り抜けて走り出していた。
 カタラギが俺の身体を欲しいと言うのならくれてやるし、何だって言うことも聞いてやる。
 だから、お願いだから、安河を助けて欲しい。
 俺が平凡な日常と唯一の繋がりだと感じている安河の存在を、ここで失ってしまったら、俺はきっとどうにかなってしまうと思う。だから、俺は、カタラギがいそうな場所を目指して、エヴィルが徘徊していそうな場所ばかり選んで、走って走って走り続けたんだ。
 何処か遠い空の上にいる偉い人、お願いだ。
 どうか、お願いだから、俺をカタラギのところまで連れて行ってくれ!