「うは~、ここが北条さんの家なんだ」
嬉しそうに俺の後をついて来ていた虎丸は、ごっちゃごっちゃに散らかっている俺の部屋を見渡しながら、その人一人ぐらい平気で射殺せるんじゃないかと思う鋭い双眸をキラキラさせて室内を見渡してやがる。
「散らかってるからな。座れるようにそこらヘン片付けとけよ」
「あ、うん。判った」
壁に掛けてあるエプロンを引っ手繰りながら指示すると、虎丸はハッとしたようにして急いでしゃがみ込むとテキパキと片付けを始めたんだ。
コイツはなんか、こう言うところが敏捷なんだよなぁ。
ヤレヤレと溜め息をついて、俺は狭いキッチンに入ると適当に夕食の準備を始めたんだ。
今夜は何を食うかなぁ…そーだ、昨日の残りがあったな。
ブツブツと献立を考えながら冷蔵庫から卵やら何やら、材料を取り出して下準備に入る頃、ふと、視線を感じてキッチンの入り口を振り返って思わずへたり込みそうになっちまった。
「…虎丸。何してんだ?」
「お!俺の名前を呼んでくれた♪えっへっへー、片付け済んだから手伝おうと思ってさぁ」
ニコッと笑って見上げてくる虎丸は、どこをどう見たら手伝う体勢なんだと聞き返したいぐらい、しゃがみ込んだ姿勢で壁の向こうからジーッと見てやがったんだ。
何を考えているんだか…
溜め息を吐くと、虎丸はヨッと立ち上がって腰を叩きながら俺の傍までいそいそと寄って来た。
「なになに?今夜は何を作るんだ??」
「そーだなー、麻婆豆腐と昨日の残りとサラダでどうだ?」
「うっそ!マジ、うまそー♪」
嬉しそうに虎丸が笑うと、それに応えるように腹もグーと返事をする。
見た感じ、24、5歳といったところだが、言動や仕種は子供っぽさが抜け切れていないのか、どこか憎めないところがある。その並のヤンゾーなら裸足で逃げ出すような、凶悪な双眸さえなければどこかで立派なサラリーマンでもやれそうなのに…ニートっつーのもなぁ。
そうの上、オマケにホモってのもあるから、コイツがこの先、明るい未来を歩めるのかどうか不安で仕方ない。
「…手伝うんじゃないのか?」
俺がフライパンを片手にやれやれと笑ったら、虎丸はちょっと頬を赤くして、それからはにかむように笑ったんだ。
「うん、手伝うよ」
鼻歌交じりで豆腐に包丁を入れる虎丸は、楽しそうに料理をしながらまるで大型犬が嬉しくって仕方がないと言いたげに転げまわるようなイメージすら浮いてくるほど、ご機嫌な様子だった。
包丁で豆腐を切りながら嬉しそうに俺に擦り寄ってくる虎丸の、そのでかい図体を片手で押し遣りながら邪険にあしらう俺のことなんか、今の虎丸にはなんのダメージにもなっていないようだ。
「危ねーな、近寄るな」
「北条さん、冷たいなぁ。こうしてると俺たち、まるで新婚の夫婦みたいだね♪ぜってー、北条さんには裸エプロンしてもらうんだ」
「ブホッ!」
思わず咳き込んでしまってシンクに片手を付いた俺を、慌てたように虎丸が覗き込んできやがるから、俺は思わずフライパンでその頭を勝ち割ってやろうかと思った。
「なな、何を突然お前は…」
「ええー?だってさっきもさ、こっち見ろこっち見ろ~!ってテレパシー送ったら、北条さん、ちゃんと見てくれたじゃないか。俺たちはもう、相思相愛なんだよ。これはもう、結婚するしかないね♪」
咳き込む俺の背中を擦りながら、虎丸のヤツは事も無げに平然とそんなことを言いやがるから、開いた口が塞がらない。コイツはいったい、どんな教育を受けてきたんだ。
「…はいはい、もう判ったからこれ持ってあっちに行ってろ」
レタスを手で千切って、プチトマトを乗っけただけのいたってシンプルなサラダらしきものを手渡しながら追い払うと、素直に受け取った虎丸はそれをジーッと見た後に笑って首を傾げた。
「ツナ缶ない?俺、シーチキン大好きなんだ」
「シーチキン?そう言えば買い置きがあったな…」
屈み込んでシンク下の扉を開くと、ストックしておいたはずのツナ缶を探してみた。
確か、この辺に置いていたはずなんだが…
「…北条さんて優しいよね」
「んー?」
ふと、ポツリと呟いた虎丸の、それまでとは違った雰囲気の声色に俺は気付けなくて、バカみたいに無邪気に喜んでいる犬のようなヤツの為にツナ缶探しに没頭していた。
それが、いけなかったのか。
「素性も知らない俺をさ、家の中に平気で上げるもんな」
「何言ってんだ。毎日毎日、コンビニに押しかけてきちゃ好きだ好きだ言いやがって!常連さんの間でお前を知らないヤツなんていやしねーよ」
「そっか…へへ、嬉しいな」
ワントーン落ちている声が少し震えていることに、その時になって漸く気付いた俺が振り返ろうとした時だった。不意に、覆い被さるようにして虎丸が背後から抱き付いてきたんだ。
「北条さんさ、絶対信じてないよね?俺がこんなに、毎晩眠れないほどあなたを愛してるってこと」
「お前なー…ッ」
ツナ缶探してやってるのに何を言い出すんだと言い掛けたその言葉は、虎丸が首筋に口付けたことで途切れてしまった。
首筋に口付けながら器用に背後から回した手でシャツのボタンを外そうとする虎丸に、顔を茹でタコよりも真っ赤にした俺は慌てて振り解こうとしたが…なぜか、腕に力が入らない。
これじゃあ、自慢の柔道の腕前もみせられないじゃないか…
そんなどうでもいいことを考えているうちに、虎丸の指先はどんどん有り得ない場所まで潜り込んでこようとして、とうとう俺は顔を真っ赤にしたままで言葉で抵抗する他に手段がなくなってしまった。
「や、やめんか!このバカが、俺は男だって何度も言ってるだろうがッ」
「知ってるよ、ずっと見てたし。北条さんは全く気付いてないみたいだったけど、俺、ちゃんとずっと見てたんだ」
「…ッ」
背後から被さるようにして俺を抱き締めてくる虎丸の体温は、シャツを通していてもダイレクトにその熱さを伝えてくるから、その時になって漸く俺は、虎丸が強ち嘘は言っていないんじゃないかと思うようになっていた。
恋や愛だなんて、厄介だとかなんだとか、まるで硬派でも気取るように嘯いて過ごしてきたこの28年間、本当は恋だ愛だに怯えていたのかもしれない。
こんな風に必死にしがみ付くようにして、縋るように愛を囁く虎丸は、その子供染みた仕種とは裏腹に、素直な分だけ大人なのかもしれないなぁ。
「俺、初めて北条さんが叱ってくれた時、頭の上で鐘が鳴ったみたいな、ハンマーで頭を打ん殴られたようなショックを受けてさ。最初はうるせー、このジジーとか思ったんだけど、北条さん凄い必死でさ。こんな猛毒を吸って何が楽しいんだって、自分の身体をもっと大事にしろって…母ちゃんが死んでから、もうずっと誰も言ってくれなかった言葉を、北条さんはすらすら言っちゃったんだよね。その時から俺、もうずっと北条さんしか見ていないんだ」
一気に捲くし立てた虎丸は、それから震えるような溜め息を一つ零して、真っ赤になって口をパクパクさせていることしかできない俺をそのままギュッと抱き締めてきた。まるで、長いこと欲しくて、やっと手に入れた何か、凄く愛しいものでも抱き締めているような、そんな優しい仕種だった。
「ねえ、北条さん。どうしたら、信じてくれるのかなぁ?俺、どうしたら北条さんと結婚できるのかな」
震えるように呟いて、この図体のでかいきかん気の強そうなガキは、抑え難い衝動に突き動かされたようにしてそのまま俺の首筋に顔を埋めるようにして口付けてきたんだ!
「…ッ、め、ろ…そんなことして…ッぉまえ!」
半分以上脱がしたシャツの開いた部分から指先を滑らせて、何もない平らなだけの胸元を辿るようにして触っていたが、ふと、胸にある突起物に気付いたのか、その部分をキュッと抓んできたんだ。
「ッ」
舐めるように首筋に口付けられるその感触は、長いこと交渉のなかった身体には、ダイレクトな刺激を与えるには充分だった。
ゾクゾクする背筋を持て余して、声すらも出せずに唇を噛み締めて俯くと、少し息を弾ませた虎丸が耳朶を噛むようにしてポツリと囁いてきた。
「北条さん。今、すげー…エロい顔してるよ」
「!」
顔を真っ赤にした俺が、いったいどんな顔をしてるかなんてそんなこたどうでもいいんだ。この絶体絶命的なピンチをどう乗り切るかが今後の課題だと思う。
空いている方の手を滑らせて、ジーンズのベルトを器用に外した虎丸は、そのままチャックまで下げて手を突っ込んでこようとするから、こればっかりは抵抗しないと本当に貞操の危機だぞ。
「や、めろ。やめないと…お前を嫌いになるからな!」
「!」
不意にビクッとして、虎丸は唐突に悪戯を仕掛けていた手をバッと離したんだ。
一瞬、こっちがポカンッとなるほどの素早さで、慌てたように身体を離した虎丸は、そのくせ、今にも泣き出しそうな、捨てられた犬のような目付きをして俺をジッと見詰めてきた。
「イヤだ、俺を嫌いにならないでよ」
震える声で呟く虎丸に、狭いキッチンだってのに、なんで男二人でゴチャゴチャしてなきゃいけないんだと内心で吐き捨てながら俺は、体勢を整えながら振り返ったんだ。
「…お前ってヤツは」
「嫌いにならないでよ!俺、北条さんに嫌われたらどうしていいか判らなくなる…ッ」
俺の言葉を遮るようにして、虎丸は片手で顔を覆いながら壮絶な目付きをしてキッチンの床を睨みつけたんだ。爆発しそうな感情の波を、いったいどうやって押し殺したらいいのか判らない、まるで駄々を捏ねる子供のような態度が、俺の内に凝り固まっている世間だとか常識だとか言った厄介なものを解きほぐしたのかもしれない。
こんなさらな感情を剥き出しにするようなヤツが、冗談や遊びなんかで男を、それも年上のおっさんを口説こうなんか思ったりしないんだろう。恋愛ごとの駆け引きもよく判らない、ただただ、真摯で一途な思いだけを判ってくれとぶつけてくる。
俺が女だったら…そんな馬鹿げた思いが一瞬脳裏に閃いたが、俺はそれを溜め息と一緒に吐き出していた。
「俺なんかを、北条さんは家まで上げてくれて…コンビニでも、ちゃんと婚約者だって言ってくれた。俺のこと、突き放そうとしたら絶対できるのに、でも、北条さんは優しいから付き合ってくれてるんだよね?俺、そう言うことちゃんと判ってたから、このささやかな幸せだけでいいって思ってた。でも、やっぱりダメなんだ!俺、俺は…やっぱりちゃんと、北条さんに好きになってもらいたい」
努力するから…と、今にも人を食い殺しそうな強烈な双眸を持つ虎丸は、まるで怯えた猫のように身体を丸めて、そのくせ、縋るように俺を見上げてくる。
そんな目付き、するもんじゃねぇ。
お前はもっと、自信に溢れたように堂々と笑ってろ。
それが一番、お前らしい姿じゃないか。
俺が好きになった虎丸は、そんな死にそうな目付きをしたひ弱な猛獣じゃないだろう?
気付いていなかっただと?
毎日、コンビニの前で煙草をふかしながら、何をするでもなくボーッと突っ立てたお前に、この俺が気付かなかったとでも思ってるのか?
そしてお前の、あの眼差し…
「…やれやれ」
「北条さん!俺は…」
ビクッとして、俺の口を開かせないようにでもしようとしているのか、虎丸は必死にタイミングを計って口を開いているようだ。
バカなヤツだ、それじゃあ何も聞けないじゃないか。
「俺を、薔薇色の世界に連れてってくれるんじゃなかったのか?」
「!…北条さん?」
吃驚したように目を見開いた虎丸は、それでも不安そうに首を傾げてきた。
何を言い出したんだろう?これは自分に都合のいい、ただの幻聴なのだろうか…とでも思ってるのか、虎丸は不安と微かな期待の入り混じる不思議な目付きをしてジッと見詰めてきた。
この強い眼差しを、俺が忘れられるわけがない。
気付いていたからこそ俺は、どんな時でもお前の視線だけは判っていたんだ。
「ったく、物好きもいいところだ。こんなおっさんなんか好きにならなくても、可愛い女の子はたくさんいるのに」
「女なんていらないよ。俺は、北条さんが傍にいてくれたらそれでいいんだ…それだけで良かったはずなのに、俺は」
愛されたいと願ってしまった。
言葉にならない思いを溜め息と一緒に呟いた虎丸は、キュッと唇を噛み締めて俺を見詰め続けている。そんな強い激情を、俺はいったい、何時頃から忘れてしまったんだろう。
こんな風に震えるほど誰かを、俺は愛したことがあっただろうか…
「いいか、虎丸。結婚て言うのはな、お互いの心が寄り添いあって初めて成立するもんなんだぞ」
「…わ、判ってるよ」
俺の言葉を否定だと受け止めたのか、虎丸は切なそうに俯いた。
お前は、見かけ以上にバカなヤツなんだな。
「だから、初めはお付き合いするんだろ?」
「え?」
「それからだ!まあ、婚約して結婚するんだろ?まずは付き合ってみないとな」
「北条さん…」
虎丸は、その時になって漸く、俺が何を言いたいのか気付いたようだった。
渾身の力を込めて言ったんだぞ?
さあ、あの自信に満ちたお前らしい顔をして笑うんだ。
「俺と付き合ってくれるの?」
「…そう言わなかったか?」
俺は…虎丸は何かを呟きそうになって、それから、不意にこれ以上はない極上の笑顔をみせた。
俺の好きな、あの自信に満ち溢れた男らしい笑顔だ。
「じゃあさぁ、北条さん!キスしていい?」
「グッ!…直球だな、おい」
「ずっと、我慢してたんだぜ。俺、北条さんとキスしたい」
「…ダメだ、っつってもするんだろ?」
ポリポリと、キッチンの狭苦しい床に腰を下ろしたままで照れ隠しに頭を掻く俺に、虎丸はワクワクしたような顔をして同じように跪いままで頷いた。
「うん、だって俺」
そうして身を乗り出してきた虎丸の、思った以上に柔らかい唇が少しかさついた俺の口許に押し付けられてくる。
「北条さんの恋人だから」
嬉しそうに笑って虎丸は、それから深い深い口付けをしてきたんだ。
煙草を取り上げたあの時から、恋に落ちたのはお前だけじゃないんだぜ。
とっくの昔に俺はお前の、その眼差しのとりこだったのさ。
そんなこと、お前には教えてやらないけどな。
おまけ。
後日。
「北条さん!俺、やっぱり正規でバイトするよ。募集してる?」
「へ?ああ、いいけど。ニートはやめたのか?」
少し伸びてきた前髪を、100円均一で売ってるようなファンシーなゴムで留めた虎丸は、はぁ?とでも言いたそうな顔付きをして首を傾げた。
「俺、高校生だよ。バリバリの17歳!宜しくね♪はい、履歴書」
「!!」
手渡された履歴書の生年月日を見て俺は、11歳も年下の恋人からニコニコ笑いながら頬にキスされるのだった。
ああ、それで。
動作も敏捷なら、仕種も子供っぽかったわけだ。
目の前がグルグルする。
「あれ?北条さん??大丈夫か!?」
くらりと眩暈がしたことは言うまでもない。
─END─
前編 -あなたのとりこ-
たとえそれに全く縁のない俺だったとしても、ある日突然、まるで落雷するように襲い掛かってくるに違いない。
恋だ愛だってのは、そんな風に凶暴で、ハッキリ言って迷惑以外のなにものでもない。
いわば交通事故のように偶発的に、1人の人間と1人の人間がすれ違い様に思い切りぶつかるような、そんな確率なのかもしれないが…俺にはよく、判らない。
ただ、迷惑で厄介なものだと言うこと以外は。
「…は?」
思わず呆気に取られて聞き返すと、ソイツは小生意気そうな顔付きをしてニコッと笑った。
笑えば少し子供っぽくなる双眸が、ともすればチャーミングなんて言うのなら、冗談じゃねぇ。
剃った眉は細く、その下で煌く強い意思を秘めていそうな釣り上がり気味の双眸はいつでも喧嘩を売ってるような鋭さで、外見も見事な今時のヤンゾーってヤツだ。
大方、ニートだとかしてるんだろう、俺より2、3コぐらい年は下なんだろうがな。
こんなヤツとは一秒だって一緒にいたくはないのに、なんだって言うんだ。
「なんだと?」
難聴でも起こしたか、はたまた、ただの空耳だったのか…どちらにせよ、耳に届いた言葉がするりと抜けて、鼓膜までは届かなかった。
困惑して顎を掻いていると、ソイツはまた、勝気な双眸を細めるようにして笑いやがった。
「だから、俺のお嫁さんになってよ」
「…黙れ」
「はー?なんだと聞いてみたり黙れって言ってみたり、北条さんってばヘンな人だな」
クスクスと、そのくせ全然気にした風でもないくせに、ソイツは呆れたように笑いながらカチリと音を響かせて、煙草に火をつけた。
空に吸い込まれるようにして、猛毒の紫煙が立ち昇るのを目線で追うソイツの手から、気付いたら俺は煙草を?ぎ取っていた。
こんなの吸いやがって!金と健康の無駄遣いだ!…ハッ、そうだった、それどころじゃなかった。
親の仇でもあるように靴底で煙草を踏み消しながら、唐突に俺は自分の置かれている現状に気付いた。
「…ふふ、北条さんらしいや。煙草、相変わらず嫌いなんだ」
ゆったりと、人影のない路地裏のビルの壁に凭れかかりながら、ソイツは鼻先で笑うように呟いて俺をジッと見るんだ。
「まあ、騙されたと思って俺と付き合ってみなよ」
ふざけるなと食って掛かろうとしたその矢先、ソイツは凭れていた上半身を起こすなり、グッと下から俺の顔を覗きこんでニッと笑ったんだ。
「薔薇色の世界に連れてってやるからさ」
ソイツはまるで小悪魔みたいにニヤッと笑ったが、どんな悪い夢なんだと頬を抓りたくなった俺の行動が言葉通りに伴わないのは、その射竦めるような双眸に、もしかしたら…完全に囚われていたからなのかもしれない。
全く、冗談じゃないんだが。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「北条さーん!」
それから毎日のようにソイツは、俺のバイト先に現れては元気よく名前を連呼してくれた。
「ねね、まだバイト上がらないの?」
ウキウキしたようにしゃがみ込んでレジに頬杖をつきながら覗き込んでくるソイツは、初めて声をかけて来たときの様に、クソ生意気な顔をして笑いやがるから…殴りたくなっても仕方ないよな。
「…あのな、俺はここの雇われ店長なんだよ。上がるのは夜だ」
「へー、夜か。んじゃ、それまでお店手伝ってやるよ」
ヨッと、まるでおっさんのような掛け声をわざとらしく上げて、ヤツは敏速に立ち上がりながら伸びをして笑うんだ。
「はぁ!?そんなの構わん!いいから、帰れ」
「酷いなー…どうせ、バイトもいないんでしょ?独りじゃつまんねーでしょうし、別に俺、バイト料なんていらないよ」
「そんな問題じゃないだろ?…って、おい!」
どんな問題だよ、とでも言いたそうに笑ったソイツは、そのくせ俺の言葉など聞いちゃいないんだな。
勝手にレジの奥に続く部屋に入って行くなり、制服を引っ掴んで戻ってきた。
その速さと言ったら…追いつけない俺のこの伸ばした手をどうすりゃいいんだ。
「よーし、じゃあ店長さん?まずは店内でも掃除しましょーかね?」
「…なんで、お前」
「なんでって…愛する婚約者が頑張ってるのに、夫になる者がボーッと見てるわけにいかないじゃん」
思わず、ガックリと項垂れてしまいそうになった俺は、それでも只管落ち込んでいく思考を引き戻しながら、キョトンッとしているソイツの肩を掴んで溜め息を吐いた。
「…あのな、ちょっと頭に春が来てるのはよく判る。でも、これだけは言っておいてやるよ。俺は男でお前も男だ。男同士で結婚なんかできるわけないだろ?学校で習ってこなかったのか??」
「…情報遅れてんね!北条さん。外国には男同士でも結婚できる州があるんだぜ?大丈夫、ちゃんと俺、リサーチ済みだし。なんだ、北条さん。もしかしてそんなこと心配してたの?可愛いなぁ~」
ニコニコと嬉しそうに笑うソイツの頭を、蒼褪めたままでニッコリ笑いながら打ん殴れたら少しは溜飲も下がるんだろうけど。仕方なく俺は、渇いた笑い声を上げながらソイツの肩をポンポンと叩いてやったのだ。
「は、はははー…そーかそーか、まあそんなこたどうでもいいんだがな。先月、煙草を吸ってるのを見咎めて勝手に取り上げたのは謝る。大方、それが原因なんだろ?」
この嫌がらせは。
「はー?ああ、うん。あの時かな~、一目惚れしたのは♪」
「ブホッ!」
思わず吐きそうになって、咽た俺はよろけながらキャッシャーの向こうにある椅子に腰を下ろした。
「…あのなぁ、冗談も大概にしろよ?お前、見た目なかなか男前っつーのにな、そんなバカみたいな冗談ばっか言ってると女の子にモテないぞ」
「はぁ?別に女にモテなくても関係ないし?だって俺、北条さんだけ!見ててくれたら満足だもん♪」
ニコニコ笑いながらそんなふざけたことを抜かすソイツに、ズキズキするこめかみを押さえながら思い切り溜め息を吐いちまった。
「お前なぁ、だいたいどこで俺の名前を知ったんだ?」
俺のことを嫁にすると言ってきかないそのふざけた野郎は、一瞬パチクリと目を見開いてから、キョトンッとしたままで俺の胸元を指差したんだ。
「ネームプレート。北条ってちゃんと書いてるじゃん」
「…あ」
自分の胸元を見て、ああ、これだったのかと一人納得する俺を見ながら、ソイツは不意にケタケタと笑い出したんだ。
「やっぱ、すげーや。北条さんは♪」
「あぁ?」
ムッとして眉間に皺を寄せて見上げると、唐突にソイツは抱き付いてきやがったんだ!
「なな、何を…ッ!?」
「無敵の可愛いさだもんな♪だから俺、もうメロメロなんだよ」
嬉しそうに頬にチュッチュッとキスしてきやがるソイツの態度に、一瞬凍りついてしまった俺は愕然としたままで動けずにいたが、唐突にハッと我に返って慌ててソイツの身体を突き飛ばそうとして…ギクッとした。
そう、思った以上にガッシリとした身体つきのソイツは、柔な外見とは裏腹に随分と身体を鍛えているようだ。学生時代に柔道で腕を鳴らしたこの俺が、さっさと払い除けることもできないんだ。
「あ、そーか。北条さん、俺の名前知らないんだっけ?あんまり可愛くて大好きになっちゃったもんだから、一番大事なこと忘れてた。迂闊だな、俺!」
ギュッと俺の首に抱きついたままでハタと自分の失態に気付いたとでも言うように呟いたソイツに、俺は蒼褪めたままで頬を引き攣らせながら見た目より逞しいその背中をポンポンッと叩いてやった。
「はははー、そうだったな。名前も知らなかった!ところで、俺は仕事に戻りたいんだが…」
「もー!そう言う大事なことは、北条さんもちゃんと言ってくれよなー」
身体を起こして顔を覗き込んでくるソイツは、上目遣いに甘えるような仕種をする。
瞬間、ドキンッと胸が高鳴ったのはたぶん気のせいだ。
ドキドキするのは悪寒に違いない。
顔が暑いのは熱が出たんだろう。
そうだ、これは風邪なんだ!!
…早く帰って寝よう。
「俺は南條虎丸!北と南で何か縁を感じるよね。これはもう、運命なんだよ♪」
ニコ~ッとまるでガキみたいに笑ってそんなワケの判らんことを言いながら、虎丸と名乗ったソイツはまたしてもギューッと抱きついて来た。
動悸も早いし、頭も暑い。
こりゃ、いよいよ風邪だなと思いながら俺は、いつまでもコイツに抱き付かれていて、もしお客でも来たら事だなと思うとヤレヤレと溜め息を吐きながら背中を軽く叩いたんだ。
「…判った、なんか良く判らんが、判った。取り敢えず、仕事に戻らせてくれ」
「あ!そーだね、愛する婚約者の仕事の邪魔をしちゃいけないね。俺、手伝うとか言いながらごめん」
エヘヘヘッと笑いながら身体を起こした虎丸は、その反動を利用するようにして俺の腕を掴むとグイッと引っ張って引き起こしやがったんだ。余計なお世話なんだが、立ち上がる気力もなかった俺には正直少し、有り難かった。
そうして俺は、精神的にヘトヘトになりながら仕事に取り掛かったのだが、箒を持って軽く掃きながら店内をウロウロしている虎丸と、事あるごとに目が合うたびにドキドキしてしまって仕事が手につかない。なんなんだ、これは!?
ふと、虎丸の姿が見えなくなったと思って店内を見渡して、防犯用の鏡を見たときだった。
「!」
座り込んだままこちらをジーッと見ているキツイ双眸の男と目が合って、俺が見ていることに気付いた虎丸がパッと嬉しそうに笑って立ち上がったんだ。それから、レジをしめてる俺の許へバタバタと走って近寄って来やがるから、なぜか照れ隠しにぶっきら棒になってしまう。
「お前は何をやってんだ」
「えへへ。テレパシーだよ」
「…は?」
いや、聞き返しちゃいけないとは判っていたんだが、虎丸のヤツはその凶暴そうな外見とは裏腹で、ニッコニッコと嬉しそうに笑いながら俺の手を取ったんだ。
「こっち見ろ、こっち見ろ、こっち見ろ~!…ってね。こっちを見たら、俺と北条さんは相思相愛だって思ってさぁ」
「…勝手に思ってろ」
蒼褪めながらレジしめをしようとしたけど、気付けば虎丸のヤツから手を掴まれたままだった。
「離せよ」
「…嫌だ」
ハァ、と溜め息を吐いて首を左右に振った。
「レジがしめられんぞ。婚約者を手伝うんじゃなかったのか?」
「!」
バッと鋭い双眸で見詰めてきた虎丸の視線に、一瞬、怯んでしまった俺だったが、虎丸がどんな思いでそうやって俺を見たのかいまいちよく判らない。
「えへへ…俺ね」
「んー?」
取り敢えず片手でレジしめをすることにした俺の、その握っている手に瞼を閉じてソッと口付けながら虎丸は幸せそうにうっとりと呟いた。
「北条さんのこと、ホントに好きだよ」
腕を離してくれぇぇ…と、鳥肌を立てている俺の気持ちなんかまるで無視しやがって、虎丸のヤツは口付けたまま上目遣いで俺を見上げてきやがるのだ。
その真摯で一途な目付きは、本気で俺のことを好きだとか言ってるのか。
切なそうに双眸を細められても、それに応えられるほど俺は寛容な男じゃねぇ。
もしコイツが、俺がその気になった途端に「ウソだよん!あったり前じゃん。キモイなぁ、バカじゃねぇ」とか言い出さないとも限らない。
信じられるかそんな話。
「あー、判った判った。判ったから手を離せ」
振り払おうとしたら余計強く握られてしまって、俺はムッとしたように眉を寄せながら虎丸を軽く睨んだんだ。そんな俺の目力なんか、悔しいが虎丸のキツイ双眸に比べれば牙のないライオンぐらいなんだろうがな、それでも虎丸はビクッとしたようだった。
「なんにも判っちゃいねーよ、北条さんは。俺がどれほど、アンタを好きなのか」
判れと言うのか?
28年間、男として暮らしてきたこの俺に?
「だって、俺は北条さんのこと───…ッ」
語尾を言い終わらない間に、まるで被さるようにして虎丸の腹がグーッと盛大な声を上げて鳴いたんだ。
「…ぷ。そう言やお前、昼から何も食ってなかったな」
「…くそー、カッコつけてたのに」
ブツブツ言ってるその間も、虎丸の腹はグーグーッとまるで田舎の蛙の合唱のように鳴り響いてる。仕方なさそうに溜め息を吐いた虎丸は、情けなさそうに眉を八の字にして上目遣いに俺を見上げてきた。
「北条さん、俺バイト料はいらないからさ。その、弁当貰って帰っていい?」
「…家で用意してるんじゃないのか?」
あーあと、決め所を逃したとでも思っている虎丸は頭を掻きながら、なんでもないことのように言いやがったんだ。
「ウチ、母ちゃん死んでいないんだ。親父は今夜も夜勤だし。これから帰って飯作るの面倒臭いんだよなぁ」
でも、弁当が貰えないなら仕方ないけどと、そのキツイ双眸の男はまるで待てと言われたワンコのようにジッと俺を見上げてその判断を待っているようだ。
恐らくこの男は、その外見通り喧嘩っ早くてきかん気の強いヤツに違いないんだろうけど、俺の前ではまるで従順な犬のように静かで人懐こい。初めて煙草を取り上げた時は、何しやがるんだとそれはそれは恐ろしい目付きで睨みつけてきたのになぁ。
あの迫力はどこにいったんだ。
ははは、まさか本気で俺のことを好きだなんて言うよな。
「ダメかな?んー、じゃあ仕方ねーや。帰って…」
「弁当なんか身体に悪いだろ?今日は客も多くて手伝って貰って助かったし、よかったら俺んちで飯を食ってかないか?」
「…ッ」
どーせ、いつも1人で食ってるんだ。どうせなら二人分作ったほうが旨いに決まってるからな…ん?
どうして虎丸のヤツはこんなポカンとしてるんだ?
「あ、そっか嫌だよな。じゃあ、弁当持って行ってもいいぞ」
「あ、あ、いや。その、いいの?北条さん家に行ってもいいの??」
「ああ!いいに決まってるだろ?ヘンなヤツだな。味に保障はねーけどよ」
ハハハッと笑ったら、虎丸のヤツはまるで極上の笑みを浮かべて、嬉しそうに首を左右に振ったんだ。
「俺、誰かの手料理なんて久し振りだ。久し振りが一番好きな人の手料理なんて、俺って幸せ者だよね?嬉しいなー」
ニコニコと笑いながらそんなことを呟く虎丸に、またしてもドキッとしてしまう俺もどうかしてると思うが、それでも、たかが俺なんかが作る飯をこんなに喜ぶ虎丸もどうかしてると思うぞ。
「そうと決まれば早く帰ろうよ!俺、腹ペコペコだよ」
嬉しそうにまたしても俺の腕を掴んだ虎丸は、着ていた制服を脱ぎながらいそいそと帰り支度を始めやがったんだ。
なんだ、そんなに腹が減ってたのか。
バカなヤツだな、あんなワケの判らんことをしてないで、パンでも食ってりゃいいのによ。
俺はそんな暢気なことを考えながら、この虎丸と言う風変わりな男に促されるままに帰り支度を始めるのだった。
9 -狼男に気をつけて!-
殆ど熱を出して辻波は起きっぱなしだったけど、あんまり気にした風も、疲れた様子も見せずにヘンな言い方だけど元気に帰っていった。
店長とは…あれっきりだ。
来ても今度は撃退してやる!…と意欲満々の俺の殺気を感じてるのか、姿すら見えない。
バイトは…辞めた。
あの日は店長も休んでいたから、代理のバイト君に伝えてもらって、それで終了。
そんなもん。あっさりしてら。
が、あっさりしていないのは俺の日常で、店長のおかげで唯一の現金支給所を失ってしまった俺は、それでなくてもちょっと苦しくて家賃を貯めていたってこともあるからアパートを追い出されてしまった。
なぜか?
暴れたからだよ。店長との大立ち回りは安アパートだと壁も薄くて乱闘の音が筒抜けだったんだ。
で、隣人と下の階の住人から苦情が大家にいって、アパートも終了。
ああ、くそッ!
「なッ、桜沢!頼むよ、この通りだから!暫くでいいから置いてくれねーかな?」
土下座せんばかりの勢いで両手を擦り合わせて拝む俺に、桜沢は困ったように眉を寄せている。
「でもなぁ、東城。俺、彼女と同棲してんだよなぁ」
「ゲ!彼女とかいたのかよ!?」
「失敬な!一昨日から一緒に住んでるんだよッ」
「えええ~」
ガックリと肩を落として項垂れた俺は、隣に座っている枕崎に同じように拝んでみたがヤツの場合は狭い部屋に兄貴と二人暮しなんでペケだと抜かしやがった。他にも数人に頼み込んだがどいつもこいつも二人暮しだの実家だので無理だった。
はぁ、今夜から野宿だなぁ…
なけなしの生活用品一式は大家に預かってもらってるからいいけど、今夜は野宿だからもう少し預かっててもらうしかないか。
「東城」
溜め息を吐いていると、不意に声をかけられて俺は驚いた。
桜沢たちもそうだったみたいだ。
なんせ、いつもは俺が追い駆けましてばかりいたあの辻波が、反対に俺を呼んだんだから、そりゃあ、みんなビックリもするだろうさ。
講堂の出入り口になる扉の前で立っていた辻波は俺を人差し指でクイクイと手招きして、そのままそのドアから出て行った。
「辻波!」
俺は慌てて辻波を追ってその後ろに追いついた。
あれから辻波とは話していないから、なんかちょっと気恥ずかしくもあるけど、でも無視されるよりは随分幸せだから取り敢えずは現状の悪夢は忘れて辻波と歩きながら楽しく話をしよう。
「アパート追い出されたって?」
ウゲッ、のっけからその話しかよ。
どうやら現実は忘れるなと言ってるみたいだ、畜生。
「うー…まあな!」
「…東城さ、あの晩に言った言葉を覚えてるか?」
「へ?」
えーっと、俺何か言ったのか?
あの晩と言うと、きっと熱出して寝こんでいたときだよな?
えーっと、えーっと。
…思い出せん。
まあ、でもここは話しを合わせておこう。
「あ、ああ。覚えてるさ!」
適当な返事で頷いてみたものの、いったい何を言ったんだ、俺よ!
「じゃあ…あの言葉は本当なんだな?」
「あの言葉って…う、うん」
何か徒ならぬ雰囲気だけど、俺は辻波と肩を並べて歩きながら頷いたんだ。
「そうか…それなら、俺の家に来いよ」
「へ?いいのか!?」
思わぬ方向転換した話しに追いついていなかった俺は、それでもここはチャンスだと思いきり食らいついたんだ。
すると辻波は…まるで今まで見たこともないほど満面の笑みを浮かべて俺の好きな、あの呟くような低い声で言い放ったんだ。
まるで宣言でもするように。
「もちろんだろ?東城は俺のモノになったんだから」
…俺は何を言ったんだ?
愕然としながらも、でも、それもいいかと思った。
なぜか知らないけど、俺はずっと辻波が気になっていたんだ。これが恋なら、俺はそれを受け入れよう。
どうせ俺にとってはいい方向に進むんだ。
赤頭巾ちゃん、狼男には注意しなよ。
と、辻波に言ってやらないとな。
ニコッと笑って少し高い位置にある辻波の鬱陶しい前髪から覗くキリリとした双眸を見上げた。
「これから宜しく、東城」
何も知らない辻波は微笑んで…そんな嬉しいことを言ってくれるから、俺も笑わずにはいられないじゃないか。
だって、そうだろ?
俺はきっと、もうずっと、辻波櫂貴のことを好きだったんだから…
付き纏って付き纏って…この恋が成就するんだ。
飛び切り最高の笑顔で笑わないでどうるすんだよ?
なあ、辻波。
そうだろ?
ところで、いったい誰がストーカーだったんだ?
***END***
8 -狼男に気をつけて!-
ただ、俺の視覚が状況として捉えたのは、藤沢が下半身丸出しの状態で鼻血を出して寝転がっているってことだ。
限界まで開かれた足はだらしなくそのままで、切れた部分からはたまに何かぬるっとしたモノが零れるような感覚がある。な、何が起こったんだろう…?
上半身を起こそうとして、眩暈を覚えた俺はそのまま吐きそうになった。
「…その、大丈夫か?」
不意に頭上から聞き慣れた声が落ちてきて…落ち着いて、でも無愛想なこの声は…
「つ、辻波!?」
あ、大声出したから頭がグラグラする。
「…桜沢に全部聞いた。おかしいと思ったからさ、その、来てみたんだ」
遅くなってごめん、と呟いて俯いた顔は、下から覗き込んだこととかなかったから、長い前髪の隙間からいつも覗いていたあのキリリとした双眸が心配そうに俺を見下ろしていた。
「辻波!俺、酷いこと言って…ッ!」
起き上がろうとして、腰に鈍痛が走った俺は奇妙な声でうめきながらズルズルとまた辻波の腕の中に凭れ込んでしまった。
「ムリするな。その、けっこう酷いことになってるから」
だいたいどんな状況なのか、驚きで意識がハッキリしてきた俺は理解していたから、バツが悪くて唇を噛むしかできなかった。
薄っぺらい毛布を被せてあったけど、でも下半身の不快感はある程度なくなっていた。痛みはまだあるけど、あのグチュグチュとした嫌なカンジはない。
もしかして…コイツが始末してくれたのか?
う!それはちょっと…どころかかなり恥ずかしいぞ!?
あうあう言いながら真っ赤な顔をして辻波を見上げると、ヤツはほんの少し頬を赤くしていたけど、思ったよりも俺が元気そうだと思ったのか、安心したように小さく笑ったんだ。
「…アイツ、どうしようか?警察に突き出してもいいけど、だったら東城が…」
辻波は俺の体裁を慮ってくれたのか、それだけ言って口を噤んでしまった。
「外、放っておいてくれてもいいけど…メンドイよな」
チッ!あの野郎、よくも人をお、犯しやがって!!身体がまともになったら殴り飛ばしてケチョンケチョンにしてやるからな!…っと、今はそれどころじゃねぇな。
どうしよう、アイツ。
「…外に出してもいいのか?一発殴ったらすぐに伸びたし、大丈夫だ」
頷いた辻波が俺の頭をゆっくりと下ろして枕に置くと、立ち上がって伸びている藤沢をヒョイッと肩に担ぎ上げて部屋から出て行ってしまった。
生ゴミに出しててくれ…
でも辻波、こんな狭い部屋で余裕だな。
意外だ、辻波って強かったのか。俺よりも弱いと思ってたのに…
ああ、俺、辻波になんて言おう。
ストーカーとか、みんながいる前で言っちゃったんだよなぁ。
そんなことを考えているとドアが開いて、暗くてボーッとしてるように見える辻波が入ってきた。
黒いタートルネックのセーターを着ていて、良く見ると男前なのにな。どうしてモテなんだろう。
ハッ!だからそんなことじゃなくて!!
「辻波…その、ごめん」
「え?」
首を傾げる辻波に、俺はなんとか上半身だけを起こしてヤツを見上げたんだ。
「みんなの前でさ、ストーカーとか言ったりして…あの」
「ああ、なんだそんなことか…」
ホッとしたように軽く吐息を吐いた辻波は、狭い室内だけどなんとか胡座を掻いて座り込みながら首を左右に振ったんだ。
「俺の方こそ…疑われるようなことしたし。それに、謝らないとな」
「…?」
俺が首を傾げると、辻波は小鼻の脇を人差し指で掻いて視線を泳がせた。
何か…隠してんのか?
「なんだよ、辻波。言えよ」
「…その、あのテープを…」
「観たのか!?…みんなの前でとか?」
自分はへっちゃらでなんでもしたくせに、いざ自分の番になると恥ずかしがる典型的な自己中野郎としては、ホントにどうしようかと考え込んでしまった。明日から、大学中の噂になってるだろうな。
東城光太郎は変態ホモ野郎だって…自分じゃないのに、やたら似てるせいで自分のことみたいに思えてしまうんだ。あの男優。
「いや。俺1人で観たよ」
ホッとしたのもつかの間。
「ち、違うんだからな!アレは俺じゃないから!!俺はあんな変態行為なんてしてないからな!!」
「…うん、判ってるよ。あれは東城じゃない」
言い切られて、拍子抜けしてしまった。
「へ?」
「冒頭だけ観て、東城じゃないって思ったらホッとした」
「う、うん」
モジモジしながら頷く俺に、辻波は不機嫌そうな仏頂面で首を左右に振ったんだ。
「確かに、俺は差し入れとか電話とかしてたし。ストーカーまがいだと思うよ。ただ、どうして東城がそんな俺の行動を受け入れてるのか判らなくて…きっと意地になってたんだと思う」
そんな風に淡々と語る辻波の少し伏し目がちのキリリとした目が好きで、俺は思わず見惚れてしまっていて、訝しそうに眉を寄せた辻波と目があってハッと我に返った。
「や、いや!ほら、辻波さ。入学して間もない頃、俺親の反対押し切って上京したわけだから極貧でさぁ。飯もまともに食ってなかったとき、腹が鳴って。みんなクスクス笑ってんのに、お前だけ仏頂面で、無愛想にオニギリを2個くれただろ?あのとき、真剣嬉しくてさ。コイツ、いいヤツなんだって思ったんだ」
辻波は呆気に取られたようにニコッと笑う俺を見下ろしていた。
たぶん、そんな単純なことで?と思ったに違いない。
そう、こんな単純なことで、俺は辻波を好きになったんだ。
…ん?好きになった?
不意にドキンと胸が鳴ったんだけど、俺はその意味が判らなくて胸元にかかる毛布を掴んで首を傾げていた。
「…東城って変わってるな。俺はそんなところが…」
何か言おうとして、辻波はまた黙ってしまった。
いつか、確か大学のあの並木道で見せたときのような、何か言いたそうなあの顔だ。
「辻波?」
「いや、それじゃあ俺は…」
そう言って立ち上がりかけた辻波のズボンを、俺は無意識の間に掴んでいた。
「…東城?」
不意に、ホントに唐突に、いきなり腰が抜けたと言うかなんと言うか、感覚がなくなったような気になって不安になったんだ。
行かないでくれ…そう言いたくて、でも言えないから、俺は縋るように眉を寄せて辻波を見上げていた。立ち上がりかけていた辻波は再び腰を下ろすと、俺の手をズボンから離そうとした。でも、今更恐怖に全身を震わせている俺の手にはヘンに力が入っていてなかなか離せなくて、辻波は仕方なく諦めた。でも、そうしたらスッと力が抜けて、俺は思わず辻波の服を掴んで額をその胸元に押し付けていた。
辻波はちょっと驚いたようだったけど、それは俺も同じことで、どうして自分がこんなことをするのか判らないんだけど、怖かったんだ。
なんか、無性に怖くなって。
独りぼっちになるって思ったらホント唐突で…
「辻波…俺…辻波…」
「コンビニに…その、何か栄養のつくものとか薬とか買ってこようかって思ったんだ。大丈夫、どこにもいかないよ。たぶん、夜から熱が出るだろうから…安静にしないと」
呟く辻波に、俺は嫌々するようにギュッと両手で辻波の胸元の服を掴んで顔を埋めた。
ええい、恥をかくならとことんだ!
「大丈夫だ。俺はここにいるよ…だから、安心して」
呟く辻波に安心して、力の抜けた俺はそのまま意識を失ってしまった。
7 -狼男に気をつけて!-
繰り返してもう一度聞くと、朝でも薄暗い俺の部屋の中央で腕を組んでる長身の男は、まるで何か面白そうに笑いやがった。
「辻波ってのは確か、君の同級生だったよね?」
クスクスと笑いながら玄関から射し込む明かりに姿を現したのは…
「店長!?」
ギョッとする俺にニヤッと笑った店長は、ゆっくりと近付いてきた。
なんでここにいるのか、とか、さっきまで店にいたじゃないかって思いがグルグル脳内を回るけど、結局うまい表現が弾き出せずに、俺は思わずそのまま蹲って頭を抱え込みそうになってしまった。
あ!…そうか、この人、バイクを持ってたんだっけ。
混乱してパクパクと酸欠の魚みたいに肩で息をしながら立ち竦む俺に腕を伸ばすと、店長は人の良さそうな笑顔を浮かべて肌の質感でも確認するように少し汗ばんだ手で撫でてきた。背筋に冷たいものが走る。
なぜか…なんてことは判らない。
ただ漠然と、コイツはヤバイと本能が訴えてくる。
「て…店長!ど、どうしたんスか?なんか俺…」
漸く吐き出した言葉もそんなもので、店長は小馬鹿にしたように鼻先で笑ってグイッと撫でていた手で顎を掴んで俺の顔を上向かせたんだ!
「しらばっくれるなよ。判ってんだろ?ったく、突然帰ってくるんだもんな、ビックリしたよ。でもま、それで良かったかも♪…コレで何回ヌけた?」
ギリギリと掴んだ腕に力を込めやがるから、俺は痛みで眉を寄せながらい壁を角で軽くコツコツと叩く店長の手元を見たんだ。
それは、その黒いケースは…
「ヌ…けるわけねーだろ!?この変態野郎!!」
今更だけど自分が情けなくなった。
そうか、あのストーカー行為はコイツがしていたのか。俺は馬鹿だから、てっきりあの電話だけで全部が辻波のしてくれてることなんだと思い込んでいたんだ。
クッソ!なんて間抜けだ!!
俺は自分の顎を掴む店長、藤沢の腕をバックを投げ出して両手で掴むと引き剥がしにかかる。
と。
「ッ!?」
ガツッと鈍い音がして、俺はビデオケースの角で思いきり頭を殴られてしまった。
鈍い音がしたと気付いたときは、もうこめかみを何か熱いものが零れ落ちていて、一瞬だけ起こった立ち眩みで藤沢のヤツに引き倒されるようにして万年床に投げ倒されちまったんだ。
クラクラする頭を振りながら見上げた藤沢は、ニヤニヤ笑いながら羽織っていたパーカーのジッパーを引き下ろしている。
「全く、いけない子だなぁ。あんな得体の知れない男にでもすぐに尻尾を振ったりして…僕の愛を疑ってるの?もっと、もっと身体に教え込んであげないとねぇ」
クスクスと笑う。
女どもがお付き合いしたいと黄色い声を上げる甘いマスクで。
でも…コイツは狂ってる。
「な、何を言ってんだよ!何が愛だ!気持ちわ…ッ!!」
鈍い音を立てて頬が鳴る。
引っ叩かれたんだと知ったのはすぐで、それでなくても気分が悪いってのに…ったく、ホントに今日はツイてねぇ。
遠退きそうになる意識の中で、藤沢の執拗な両手が服を次々に引っぺがしていくのを感じていた。ああ、これはもう貞操の危機だと本能が警鐘を鳴らしても、頭部に受けた打撲で身体が弛緩しきってる俺にはなす術もない。
…スマン、辻波。
勝手に俺の勘違いでストーカー呼ばわりとかして、迷惑しただろうな…
助けてくれってのは無理な話だから、せめてお前のあの仏頂面とか見ておきたいなぁ…
首筋に吸い付かれて、気持ち悪さに鳥肌が立つ。
まだ誰にも触られたことのない部分を執拗に撫でまわされて、緩やかに、強弱をつけて扱かれると嫌でも気分が盛り上がる。
片足を割開くようにして藤沢の肩に担がれて、それがどんな姿勢になってるのかとか理解できない俺の尻に、唐突に何かぬるっとしたモノが押し当てられた。
何かを塗りたくった指先で、それはすぐに尻の中に挿し込まれて…思わず唇を噛み締めた。
グリグリと乱暴に掻き回されて、俺は嫌がるように肩に担がれた足で空を蹴りながら、もう一方でもメチャクチャ暴れまわったんだけど…なぜか全く力が出ないで、それどころか挿し込まれてる指をギュッと締め付けてその感触をまざまざと味わってしまった!馬鹿だろ、俺!!
「…う…ぅぅ…」
「そんなに締め付けて…もう欲しいのか?」
何がとか、そんなどうでもいいことは聞けなくて、それどころか掻き回す指の疼痛に眉を顰めて首を左右に振るのが精一杯だった。
「あのビデオはあんまり役に立たなかったのか。まだまだ狭い。コレだと裂けちゃうけど…ま、いいだろう」
それが何を意味するか、昨夜のビデオが嫌と言うほど思い知らせてくれてるから、俺は懇願するように首を左右に振って泣いていた。
未知の苦痛が尻を穿ってる。
それだけだってこんなに痛いのに、あの、目の前にあるあんなモノが入り込んできたら…
「あ…あ!や、嫌だ!やめ…ひぃ!」
必死で抵抗しても力の入らない腕だとなんの役にも立たなくて、引き抜かれた指の代わりにもっと太くて硬くて、灼熱のような棒がグリグリとソコに捻じ込まれてきたんだ!
「や、い、いてッ!痛い、いッッッつぅーーーッ」
グッと歯を食い縛りでもしないとどこにこの痛みの矛先を向けたらいいのか判らなくて、俺はメチャクチャに暴れてみた。暴れても、腕を伸ばしてみても、掴むのは空ばかりで。
捻じ込まれて、ガクガクと身体全体を揺するようにして腰を遣われて…
誰か…こんなのは嫌だ。
嫌なんだ!
誰か…誰か助けてくれ。
ふと、脳裏に過ぎるあのぶっきらぼうな仏頂面。
ああ、俺…今更になって気付くなんてな。
俺…俺は。
辻波…ごめん。
6 -狼男に気をつけて!-
結局昨日は、一睡もできなかった。
まんじりともせずに考えていたのは辻波の真意だ。
100円ショップで買ったバッグの中には、昨夜のビデオテープが黒いケースに入って収まっている。
あの野郎…俺のことをなんだと思ってんだよ。
俺はなぁ…エッチなホモビデオに出てアンアン言ってる趣味はねぇんだ!
バスに揺られながら降り積もる怒りを深々と胸に溜め込んでいた。
バスは俺の怒りなんかどこ吹く風でガタゴトと揺れながら大学まで一路のんびりと進んでいた。
その途中でバイト先のコンビニを通りすぎた。
お、店長だ。
相変わらず女の客に人気があんなぁ。タレ目の長身ってのは何かとモテるんだろう。
きっと、憎めない笑顔が人気の秘密だと俺は見た。
俺だってあんな顔で笑いかけられたらそれまでの怒りが一気に萎えちまうもんなぁ。だから仕方なく夜番も引き受けちまうんだ。
茶髪も悪い。ひよこみたいにほえーっと見えるからな!
…。
いや!そんなこた今は関係ない!!
ったく、なんだってこんなことになっちまったんだ?
俺は…無愛想で仏頂面の辻波のこと、けっこう好きなんだ。
ちょっとした些細なことにもよく気がつくし、本を静かに読んでいるくせに妙な存在感とかあってそれなりに目立つヤツで、でも、なぜか『暗い』ってイメージだけで誰も近寄らないってのが不思議だった。
でも…みんなが言うように、やっぱりアイツは陰湿なヤツだったのかな?
こんな陰険なことで、『嫌いだ』って意思表示なんかすんなよ。
バッグからチラッと覗く黒いケースを、何か汚いものでも見るような目付きで見ていたんだと思う。俺の横に座ったおばちゃんが胡散臭そうな目つきをしてるからな。
なんか、もうマジでムカツク!
俺はブスッとした膨れっ面で窓の外を緩やかに流れる景色を目で追っていて、思わず気分が悪くなった。
全くついてねぇな!
朝っぱらから車酔いかよ!?
くそぅ!!ほんっとに覚えてろよ、辻波!
全ての元凶がまるで辻波とでも言うように、俺は近付いてくる大学を睨みつけていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「辻波!」
いつも通り出入り口に近い場所に陣取っているヤツの前に立ちはだかって眦を吊り上げる俺を、辻波は読みかけの本から鬱陶しそうに目線を上げて頬杖をしたままで見上げてきた。
「…なんだよ」
俺はその冷静な態度にますますムカツキながら、ギリッと奥歯を噛み締めてバッグの中から黒いケースを取り出した。
「?」
訝しそうなものでも見るような目付きで俺の手元を見る辻波の野郎、何を空々しいことしてやがるんだ!
「お、おいおい。どうしたんだよ、東城…?」
俺の剣幕に桜沢のヤツが驚いたように飛んできて、慌てたように腕を掴んできた。その腕を振り払いながら、講堂の連中が注視するのも気に留めずに苛々と怒鳴っていた。
「コレ、見覚えもねーのかよ!?ちっくしょう!お前は信じられるヤツだって思ってたのに…これじゃまるっきりストーカーじゃねぇか!気持ち悪ぃんだよ!!」
持っていた黒いビデオケースを投げつけて、驚いたようにポカンッとする桜沢をその場に残して、俺はさっさと講堂を後にしようとした…けど、俺の耳に飛び込んできたのはポツリと言ったカンジで零れ落ちた一言。
「…ストーカー?」
訝しそうな顔がチラついてもいたけど、それがなんだって言うんだ!?
ホンット!コイツってばいつからこんな空々しいヤツになっちまったんだよ?
ブスくれた俺はこのまま授業に出る気にもなれなくて、やっぱり、と言うか案の定そのまま家に帰ることにしたんだ。バイトは夕方からだし…なんかそれにも出る気になれないけど、バイトは俺のライフラインだ。クビにでもなったら大変だ。
でもなんとか頭も冷やしたいことだし、まずはアパートに戻ろう。
クソッ!逝っちまえ、辻波!!
悪態を吐きながらバスに揺られて戻ってきたアパートは、やっぱり泣きたくなるほどボロっちくて、なんか唐突に怒りの萎えた俺は郵便受けを覗くことにしたんだ。
信じていたヤツに裏切られるのはやっぱりちょっとツライ。
古ぼけて半分以上壊れかけた郵便受けから請求書だとかダイレクトメールの束を取り出しながらそんなことを考えていて、階段を上りながら確認していた俺の足取りが唐突に止まった。
コピー用紙にカラーで刷られたそれは、SMかなんかの広告だった。
ただし。
縛られてしなる鞭で打ち据えられているソイツの顔は俺で、デジカメかなんかで隠し撮りした写真を切り取って貼りつけただけの粗雑なモンだったけど、中傷誹謗の書きたてられた紙は見るのもおぞましくて気付いたらグシャグシャにしていた。
なんなんだ、これは!?
俺は慌てて束にしているゴムを取ってバラバラに見てみると、カラーコピーされたそのチラシが何十枚もあった。最後になっている1枚に、まるでバカにしたような丸字のフォントで
『ご近所にバラまいちゃうぞ!』と書いてあった。
洒落になんねぇよ、これは。
いったい何十枚コピーしてんだよ!?
苛々しながらそれらを全部グシャグシャに丸めて、俺は階段を一段抜かしで駆け上がってから安アパートの扉を引き開けた。
くそ!ムカツク…って、あれ?なんでドアが開いてるんだ?
鍵を…そう思って怒りで我を忘れていた俺はハッとして室内を見渡した。
程なくして鍵を開けて上がり込んでいるヤツの正体が判った。
そこにいたのは…
「…辻波?」
5 -狼男に気をつけて!-
もしかしたらただの勘違いかもしれない。それだったら俺だって救われるってのに…俺のアイコラなんじゃないかって思うほど良く似た男は、同じ野郎に犯されながら恍惚とした表情を浮かべている。両手を縛られて、まるで無理やり咥え込まされてるようなのに、なんだってそんな嬉しそうな顔してるんだよ!
まるで自分が犯されてるような気分になって、吐きそうになった。
開きっぱなしの口元からは唾液が溢れてて、ボリュームを絞った向こうで相手の野郎が何か言っている。
良く聞き取れなくて…聞き取りたくもなくて、でも嫌でも画面から目が離せないでいる自分に驚いた。
消しちまえ!こんなモンッ!!
なのに、リモコンを握る手が動かない。
画面の中では何かを懇願するように目許から涙を零す男の、その口元に凶悪な光を放つ無機質なものが押し当てられていた。
子供の手首ぐらいはありそうな…バイブ?
や、やめてくれ。
ビデオの中の男と、一瞬だけどシンクロした。
無理やり押し込まれて、嗚咽しながらその醜悪な代物に舌を這わせる男は、これから自分を責め苛むであろうその玩具に、何かを期待してるとでも言うんだろうか?潤んだ目付きで、俺には背中を向けている野郎を食い入るように見ている。
俺の顔で。
グロテスクな形を持つプラスチックのそれを舐めながら、誘うように目を細めて、野郎の腰遣いが激しくなっても男はそれをやめようとはしなくて…結局叩かれた。
小さく悲鳴を上げた男の口が切れたのか、口元から血を流す男を野郎は問答無用で繋がったまま身体を反転させて、やっぱり男に悲鳴を上げさせていた。
ギチギチに野郎を含んでいる部分がアップで映されて、思わず目を覆いたくなるような出来事が展開されたんだ!おぞましくて…でも目が離せない。
なんだって言うんだ…
ギチギチで、その部分は野郎のソレだけでも一杯だってのに、その脇から、男の口から落ちた唾液まみれのバイブを挿入しようとしている。
嫌がって首を振る男の項を押さえ付けて、限界よりもさらにめい一杯押し開きながら入りこんで行く無機質の塊に、男の絶叫が響き渡る。その瞬間、ピシッと裂ける音が聞こえたような気がして、男のその部分は野郎とバイブを飲み込んでいた。
ぬらぬらと血を纏わりつかせた野郎の不気味な性器は、別の物体に犯されて悲鳴を上げている部分に捻じ込まれては律動を繰り返す。
なのに男は、俺の顔をした男は…恍惚とした顔をして射精していた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
たぶん俺は、呆然としていたに違いない。
ザーッと砂嵐が流れる画面を、いったいどれぐらい観ていたんだろう。
ハッと気付いたときには、無意識にビデオを止めてテレビを消していた。
股間が熱くて、驚いたことに…俺は勃っていた。
アダルトなんか中坊の頃に悪友どもと腐るほど観ていた。耳年増ってだけのことだけど、あの頃のビデオは女の裸体とモザイクだらけの部分を想像することだけが精一杯で、それをおかずに夜を過ごしていたんだ。
そりゃあ、勃ったさ。
でもあれは、当たり前のことなんだ。
女の身体に素直に反応することのナニが悪いって言うんだよ?
でも、これは違う。
男が、同じ男に犯されてる…ホモビデオじゃねーか!
…俺は正直な話、辻波の趣味に驚いていた。
アイツ…いつもこんなことを想像してたのか?俺に似たヤツのビデオを観て、お前もオナッてたって言うのかよ!?
それとも…本当はやっぱり、ただの嫌がらせなんだろうか。
熱を持て余して勃ち上がっている息子を撫で付けるようにして扱きながら、俺はその味気ない快感を手持ち無沙汰で追いながら、ぼんやりと考えていた。
辻波はしつこく付きまとう俺を嫌っていた。
だから、あんな風にストーカー紛いなことをして、本当は俺を遠ざけようとしていたんだろうか…?
どっちにしても、ムカツクんだよ!
半ば投げやりに扱いてさっさとイっちまうと、俺はティッシュで自棄っぱちに掌に零れた濃厚な白濁を拭うとゴミ箱に投げ捨てた。
それでなくても汚れているんだから、ゴミ箱がどんな役に立っているのかはこの際無視して、俺は万年床の布団にダイブした。
問題は辻波が何を考えているかってことだ。
俺に彼女が数年間いないことと同じぐらい重要だぞ。
悶々とした思いを一杯に抱えながら、俺は早く朝が来ることを望んでいた。
明日は1限から授業だ。
ちっくしょう!待ってろよ、辻波!!
4 -狼男に気をつけて!-
今日は思ったよりもお客の入りが多くて、最近別のバイトくんが辞めちまったってのもあったもんだから、こうして午前様も仕方ないってワケだ。
なんつっても24時間営業だから文句は言えないんだけど…
カンカンと古びた金属製の階段を上がって安っぽいアパート2階の自室、やっと息のつける昭和初期も真っ青な狭い部屋に入る為の木製のボロッちぃ扉の金属のノブに、やっぱりいつも通りコンビニのビニール袋が下がっている。
アイツもマメだよなぁ…とか思いながら、思わずニヤける顔に叱咤して。
「あり?今日は俺がバイトしてるコンビニの袋だ…そっか。これを買うためにわざわざあんな遠くまで買い物に来たのか」
それを知るともっと嬉しくなって、俺はなんの疑いもなくぶら下がっているビニール袋に手を出した。
「…?」
ビニール袋の中の異質感。
なんだ、これ?
俺の見慣れたビニール袋の中、珍しく500ml入りの牛乳パックとパン、それから…ビデオ?
なんだってビデオテープなんか入ってるんだ?
レンタルで返すのを忘れてこの中に入れたとか?でもおかしいな、黒いケースに収まっているそれは背面にタイトルを示すテープが貼っていない。明らかに…もしかして。
「アダルトかよ!?辻波ぃ~勘弁してくれよぉ」
とか言いながら、本当は興味津々だったりして…
巻き戻して返せば、アイツも気付かないだろうしなぁ…見ちまおうか?
鍵穴にキーをさして、開けるのももどかしく思いながら金属のノブを回す。
案の定、いつも通りゴキちゃんと仲良く眠れそうな散らかし放題の部屋の真中、万年床の少し上の方に無造作に置いてある電話には留守電ランプが赤い点滅を繰り返していた。
20件以上も無言の上に、辻波の陰気な声でのお出迎えよりも、今はやっぱりビデオでしょう!
はあはあ言いながら楽しませてもらいます!!
…けど、うーん。
やっぱりいつも通り聞いておこうかな。
せっかく、辻波が連絡くれてるんだし、無精者でぶっきらぼうで愛想なしの仏頂面のアイツが。
気付いたら留守電の赤いランプを押していた。
巻き戻しが終わって、機械的な女の声で件数が告げられる。
『13件です』
ああああ…またしてもこの回数かよ。縁起悪ぃし多過ぎだっての!
ムカツキながらも根気良く無言電話を無視して辻波の声を待った。
ピーと言う発信音の後…
『お帰り…えーっと。じゃ、また大学で』
拍子抜けするほどあっさりと切れたメッセージに、俺はポカンとしちまった。
いつもならちょっとした感想だとか、労いとか入ってんのに…そっか、アイツ。俺が声の相手が自分だと知ってるって思ったから、バツが悪くなっちまったのかな?
だとしたら…このビデオを観る行為ってのはもしかして、かなり拙いのではなかろうか?
まんじりともせずに布団の上に置いたビデオテープの黒いケースを睨みつけていた俺は、それでもと言うか、やっぱりと言うか…好奇心に負けてしまった。
し、仕方ないよな?風が吹いただけでも勃つお年頃…からは少し時期が外れてるけど、それなりに女の身体には興味あるし、辻波のヤツがどんなタイプが好きなのかとか気になる要素大だから無視するわけにはいかないだろう。
『観てください』ってスタンバってるワケなんだし。
よし、観よう!
決心して、それでも愚図る手には愛のお仕置きをしてから、俺は黒いケースからなんの変哲もないカセットを取り出した。
どんなに俺が貧乏と言えど、なぜかビデオデッキだけは置いてあるんだよな。DVDとか洒落たものはないんだけど。
挿入口にカセットを押し込んで、薄い壁だし、ボリュームは極力絞って画面を待つ。
砂嵐が暫く続いて、すぐにその映像は現れた。
『…ぅあ!…ん。あん!…あ、あ、あ…あぅ…』
絞った音量はのっけからお楽しみの真っ最中だと教えてくれたけど、俺の耳はもう、そんな音を聞いてなんかいなかった。ただただ、画面の中で必要以上に喘ぐヤツの、男のナニを受け入れて気持ち良さそうにヨガるヤツの、その顔を食い入るように見ていたんだ。
男を咥え込んでヨガるソイツ…まさに俺だったんだ。
3 -狼男に気をつけて!-
水色と白のボーダーシャツを着た愛想の良い店長が女性客と話している。ヤツがけっこう人気があるから、この店は繁盛してるんだそうだ。オーナーがそんなことを言ってたっけ。
「やあ!東城くん」
俺を目敏く見付けた店長こと藤沢実は爽やかに笑って声をかけてきた。
「うぃっす!遅くなりました!」
元気良く声をかけると、ありがとうございましたと女性客を見送った店長が思ったよりも敏捷な動きで俺に近付いてきたんだ。二の腕をグッと掴んで、顔は笑顔のままで言う。
「心配したよ!例のストーカー野郎に悪戯でもされてるんじゃないかってね」
「冗談キツいッスねー」
寝言は寝てから言ってくださいよー。ニコッと笑って付け加えてやると、藤沢のヤツは大らかに笑って1本取られたとかなんとか言ってるけど、腕は離してくれねーのか。
この時間帯、実は一番お客が来ないから店長はこんな風に悪ふざけを仕掛けてくるんだ。
迷惑なヤツだ。
だいたい、なんだっていつもこの時間帯ばっかなんだ?深夜だったら深夜給で時給も上がるってのにな。畜生だ。
「ストーカー野郎に襲われたら間違いなく店長に助けを求めるんで、可愛がってくださいね」
うふんっと笑ってやると、店長は任せないさいと胸板をドンッと叩いて見せる。
悔しいんでこんな風に店長をからかったりからかわれたりして遊んでやるんだ。
「そろそろ腕を離してくださいよ。制服に着替えてくるんで…」
「ああ!申し訳ないね。うん、着替えておいで」
漸くパッと腕を離した店長から離れて白い扉をくぐると、奥に続く薄暗い廊下を通って狭い更衣室に入る。更衣室と言ってもヤロー専用となると質素なもので、安っぽいパイプ椅子と長机が1個、それと小さなロッカーが人数分あるぐらいだ。
軽く羽織っていた上着を脱いで、T-シャツの上から制服を着こんでいざ!カウンターへ。
そこではちょうど店長がレジを打っている最中だった。
いらっしゃいませーと、ヤル気なく声を掛けて客を見た瞬間、俺は思わずポカンとしてしまった。
なぜならソイツは…
「辻波?」
思いっきり…とは言わないまでも、やっぱりけっこう驚いた。
俺がここでバイトしてること、知ってたのか。
それとも、ただの偶然?
なんにせよ俺は、ちょっと嬉しかったんだ。
「あれ、東城くんの知り合いなのかい?」
手にしていた500mlの牛乳パックをビニール袋に入れながら、店長は少し怪訝そうな顔をした。
ヤッバイ、ヤバイ。
俺って、もしかして今、ニヤけてたとか…
「あ、ああ、はい。大学で同じ学部のヤツなんスよ」
な?辻波!…と目配せで笑うと、辻波のヤツは然して驚いた様子も見せずにチラッと俺を見ただけで、金を払うとサッサと出て行ってしまった。無愛想この上ないヤツだ。
呆気に取られたようにポカンッとしていた店長は、やれやれと溜め息を吐く俺を呆れたように振り返りながら、嫌味でも言うようにニヤッと笑ったんだ。
「なあ、東城くん。もしかして、今のが件のストーカーくんだったりしてね」
核心を突くような抉り込んだ言葉に一瞬、心臓が跳ね上がるような錯覚がして、俺は息をするのを忘れたように唾を飲み込んで…
「まっさかぁ!何言ってるんスか。アイツ、確かにちょっと根暗そうですけど、意外にいいヤツなんスよね」
笑ってそう言った。
店長はいまいちの表情をして肩を竦めたけど、それ以上は何も言わなかった。
ま、他人事だし。ホントはどうでもいいんだろう。
俺が店長でもそうしてるモンな。一応相談には乗るけど、それ以上のことは押し付けるな、ってのが今の世の中だ。
ああ、でも辻波が来たんだ。
相変わらず無愛想だったけど、いつものことだし、けどヤツを知らない他人にしてみたらヘンなヤツに見えるんだろうな。
ストーカーかぁ。
まあ、そんなモンなんだろうけど。
でも、アイツの無愛想の奥にはホント、いいヤツの素顔が隠れてるんだぜ?
あれだけプッシュしてもちっとも振り向いてくれなかった辻波が、ほんのちょっと歩み寄ってくれた、そんな気分だ。ああ、なんかマジ、いい気分だな。
ストーカーでもなんでもいい。
もっと俺を信頼してくれればいいのに…
こんなこと言ってると、まるで俺の方がストーカーみたいだ。
ヤバイやつだよな、俺も。
2 -狼男に気をつけて!-
翌日、俺は大学の講堂で論文を書いてる最中に、親友の桜沢にいつも通り報告を兼ねて昨夜のことを話してみた。案の定…と言うか、やっぱりいつも通りの返答が返ってくる。
心配性の俺の幼馴染みは、それなりに女の子にもモテるってのに眉間に皺を寄せて…心配のし過ぎだっての!
「大丈夫だって!別に女じゃあるまいし。実害も出てねーかんな、却ってありがたいぐらいさ」
シャーペンをクルクルと器用に回しながらそう言うと、桜沢のヤツは思い切り不審そうな表情をして溜め息を吐いた。
「実害があってからじゃおせーだろうがよ」
「大丈夫だって…お。よお!辻波!…って思い切り無視すんなよ。辻波!つ・じ・な・み!!」
大声で呼んでも辻波櫂貴はまるで無視で、少し長い前髪に隠れたけっこう鋭い双眸を胡乱なほど細めて、鬱陶しそうに俺をチラッと見るだけだ。
うーん…毎度のことだけど露骨だよなぁ、アイツ。
呆れたように笑う俺を、桜沢は何か言いたそうに眉間を寄せて凝視してくる。
「…なんだよ」
「お前もとことん変わったヤツだよなぁ。普通、あんだけあからさまに嫌がられてたらそろそろ諦めるって」
「うーん…まあ、別に思ったほど悪いヤツじゃないと思うんだ」
なんとなく言って、それから思わず噴出しちまった。
怪訝そうな目付きで俺を見る桜沢は、仕方なさそうに溜め息を吐くと肩を竦めた。
コイツが知ったらなんて言うんだろう?
ストーカーもどきがあの辻波櫂貴だって言ったら。
ま、ややこしくなるから余計なことまで言うつもりはないけどな。
夕食を運んでくる大事な物資供給班なんだ、無下にできるかよ…って、ああ、俺ってばなんて貧乏ったらしいんだ。仕方ない、苦学生はいつだって貧乏だって決まってんだ。
プライドなんか持ってられるかよ。
「そんじゃ、桜沢。俺、バイト行くわ」
「ああ、頑張んな。…お前さ」
レポート用紙とペンケースを鞄に乱暴に突っ込みながら帰り支度をする俺に、桜沢のヤツは頬杖を付いたままで唐突に声をかけてきた。
「マジで。ホントに気を付けろよな」
心配性が再発したのかよ?やれやれだぜ。
「大丈夫だって!じゃあな、桜沢」
鞄を引っ掴んで講堂を後にしようとする俺を、桜沢のヤツは仕方なさそうに首を左右に振りながら、片手を振って見送ってくれた。コイツはあと1教科あるんだよな。
おっと、ヤバイヤバイ。
俺は慌てて講堂から出て行こうとする辻波の後を追いかけた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「まーてーよ!待て待て待て待て待て…」
「…うるさい」
ボソッと言われても怯むわけないって。
今日は機嫌がいいのか、なかなか良い反応をするじゃねーか。
「辻波さぁ。どうして電話だとあんなに喋るのに、現実には喋らねーんだ?」
日頃から聞きたかった質問を投げかけてみると、肩を並べる俺をうんざりしたように見下ろした辻波は溜め息を吐いた。
「何を言ってんのか判らない」
「あのなぁ…お前の声だって判ってるんだぜ?」
「…え?」
初めて驚いたような反応を見せる辻波に、なんだコイツ、俺が本気で気付いていないと思ってたのか?
「いつも聞いてるんだぜ?お前の声ぐらい判るよ」
バッカなヤツだぜ、コイツ。
同じ大学で同じ講義受けてるんだぜ?流暢な英語だって聞き慣れてるんだ。見た目の野暮ったさに比べてコイツは頭がキレるからな、教授たちがこぞって当てるんだ、声なんか嫌でも覚えるさ。
根が暗くて抑揚のない…1度聞いたら忘れるかって。
ニッと笑ってやると、辻波は真剣に驚いたような顔をしていたが、ついで少し狼狽えて、それから信じられないものでも見るような目付きをしてマジマジと俺を見た。
「…本気で?」
「あったりまえだろ!バッカなヤツだな、お前って」
ケラケラ笑って、しかし大事な物資供給班だ。馬鹿にするのはこれぐらいにしておこう。
「…嫌だとか、思わないのか?」
秋になればそれなりにいいカンジになる並木道をブラブラと歩きながら、少し前に出ていた俺は蚊の鳴くような声を出す辻波を振り返った。
「は?」
「…だから。その、俺のことキモいとか思わないのかって」
今時には珍しい黒髪を風に軽く遊ばせながら、鬱陶しい前髪の奥の双眸を伏せる辻波のヤツはバツが悪そうに足元の小石を蹴っている。
「思うかよ」
自分で言い出しておきながら俺の返事に動揺したように顔を上げる辻波に、そんなに突拍子もないことを言ったか?
「だからその。まあ…電話代は気になるけどなー」
お前は大事な夕飯だ!…とは言わないでおこう。ってか、言えねっての。
「なんだ、そんなこと」
辻波はそれだけ言うと、唇を噛んだ。
何か言おうと逡巡しているようだったけど、結局何も言わず、ヤツは無言のままで俺をいつも通り無視してさっさと行ってしまった。
なんなんだ、いったい。
…ちえっ、今日も捕まえられなかったか。
あーあ、今日こそは捕まえて、なんであんなことしてんのか聞くつもりだったのに。
本当ストーカーなのか…どうかとか、知りたいし。
でも…ストーカーって惚れてるってことなんだろ?
んー…まいっか。
「やべぇ!遅刻する!!」
腕時計が電子音を響かせて、俺は慌てて手首を見た。
ヤバイ!マジで遅刻だッ。
俺は慌ててバス停に走った。