2.部屋に勝手に入っている(但し合鍵は渡していない)  -俺の友達が凄まじいヤンツンデレで困っている件-

 よく晴れた平日の午後、店長の要請で連日バイトに入っていたせいでかなり寝不足な俺は、久し振りに午後のコマが休講で全滅したのでいそいそと部屋に戻ってきた。
 取り敢えず、今日はこれから思うさまガッツリ寝るぞって心意気で、鼻歌でも歌いたい気分で鍵穴に鍵を挿し込んで手応えのなさに…ああ、またかとガックリと肩を落としたくなる。
 ノブを回せば案の定、鍵はかかっていなかったようだ。
 何故なのか?決まってる。
 靴を脱いですぐにキッチンと部屋なワケだが、狭いその場所にはシングルベッドが置かれている。そのシングルベッドの足許側には、見覚えのない男の足がにょっきりと宙に浮くようにして生えている。

「都築。俺、お前に合鍵って渡してないよな」

 俺の枕に思い切り顔を押し付けて熟睡しているらしい不審者からの返事はない。どうせまた、昨日はバイト先で俺の観察と視姦とセクハラに勤しんだ後、華やかグループの仲間と連れ立ってクラブとかその辺りで明け方まで遊んだか、女の子と遊んだかして、そのまま俺の部屋に来てるんだと思われる。
 興梠さんが迎えに行ってくれるんだから、その足で自宅に帰って広いベッドで眠ればいいのに、都築は「ちょっと検討する」と言ったあの日からずっとこんな感じで俺の家に入り浸っている。
 しつこいようだが、合鍵は渡していない。

「都築、都築!お前がベッドで寝たら、俺が眠られないッ」

 朝に脱いで行った部屋着に着替えてから、剥き出しの肩に手を掛けて揺すっても、低く唸るぐらいで起き出す気配すらない。
 俺んちのシャワーを勝手に浴びて、押入れに突っ込んでいる服用の収納ボックス(100円ショップで購入)から俺が几帳面に畳んでいるスウェットのズボンだけ引っ張り出して穿いている現状は、御曹司と言うよりも家主だ。いや、家主は俺だ。
 恐らくご丁寧に脱いだ服は洗濯機の中に甘い匂いをさせて沈んでいるんだろう。
 もうヘトヘトだったからシャワーなんか浴びる気にもなっていない俺は、諦めたように溜め息を吐いて、それから押入れにある客用の布団一式を取りに行こうとやれやれと立ち上がった。立ち上がって、背後からにゅっと伸びた腕にグッと腰を掴まれてベッドに攫われてしまった。
 これは都築の無意識の行動で、おおかた、俺を遊んできた女の子とか男とかと勘違いしているんだろう。でも、もう眠気MAXの俺はそんなことどうでもよくて、サクッと抱え揚げられる猫なんかはこんなどうでもいいような気持ちなんだろうなぁとかどうでもいいことばかり考えながら、頬に触れる裸の肌の温もりに絆されて、うとうとと眠ってしまった。
 文句は言おう。起きてまだ居たら…
 ……。
 そりゃ居るよね。
 俺をガッチリと抱き締めるようにして眠る都築が居ないなんて、やっぱり睡眠不足は思考能力を低下させるんだなぁ。
 抱き枕宜しくしがみ付かれる息苦しさで目覚めた俺は、どうしようもない現実に鼻を鳴らして、それから腹が減ったなぁと思いながら都築の腕の中から問答無用で抜け出した。
 欠伸をしながらトイレとバスが一体になっているユニットの扉を開いたところで、合鍵なんか渡していないはずなのに、この狭い部屋の中の唯一の安らぎ空間を占拠していた長身で大柄の男は低く呻きながら覚醒したみたいだった。
 時計を見ると19時を少し回ったところで、小用を足して洗面台で手を洗ってから、眠気覚ましに顔を洗おうとしていたら、背後から大男に圧し掛かるようにして腰を抱き締められた。
 色素の薄いやわらかな頭髪を持つ都築は、酷く眠そうな感じで額を俺の肩に擦り付けながら意味のない言葉をブツブツと呻いている。どうやら昨夜行ったクラブで軽いドラッグを引っ掛けて酒でも飲みながら女の子と遊んだんだろう、その薬が抜けないとほざいているみたいだ。

「知るかよってな。シャワー浴びても駄目なんだから、うちに居ないでお前んちに帰って興梠さんにどうにかしてもらった方がいいんじゃないか?」

「酷いな、すぐ追い出そうとする。いいから夕食を食わせてくれ」

 欠伸を噛み殺しながら胡乱な目付きで鏡の向こうから睨む都築に、100円ショップで買ったゴムで前髪を縛りながら、俺は呆れたように溜め息を吐きつつ舌を出してやった。

「魔法使いじゃないので頼まれてすぐにお出しすることはできません。家に帰って出前でも頼んでください」

 長身の大男を背中に乗せたままでジャブジャブと顔を洗っていると、都築のヤツは少しムッとしたような顔をして「すぐに用意しろって言ってるワケじゃない」とかなんとか、不機嫌そうに唇を尖らせているみたいだ。
 誰も居ないと思っている部屋に帰宅した時に鍵が開いていて、部屋の窓を見れば電気が点いていたときは、すわ親父が上京でもしてきたんだろうかと期待半分、頑固で礼儀正しいあの親父が何の連絡もなくいきなり尋ねてくることはまずないと確信しているだけに、不安とこんな何もないボロアパートにまさかの泥棒かと少し怯えながらドアを開いた時の衝撃を今でも忘れられない。

「…俺、都築に合鍵って渡してなかったよな?」

 初めて都築に不法侵入された時に開口一番で言った台詞を、フェイスタオルで顔を拭きながら鏡の中の仏頂面の男に呟けば、都築はあの時と全く同じ台詞を返してきた。

「お前がうちに来ないんだから、オレが来てやってるんだ。何が悪い」

 そっか、俺が行かないから悪いのか。だったら、都築がピッキングだか不正取得した鍵で合鍵を作ってんだかして部屋に不法侵入してても仕方ないよな。今後、絶対に鍵を替えるって決めた。
 そもそも、返事になっていないだろ。

「俺が契約している不動産屋って、確かオリエンタル不動産って言うんだけど…都築んとこの系列か?」

「…」

 腰に回していた腕をそのままで、抱き締めるようにしてくっ付いている男を引き摺りながら部屋に戻る俺の頭上で、恐らく都築は素知らぬ顔で外方向いているんだろう。

「俺は知りませんなんてツラしてても許さないからな。鍵の出所を言わなかったら飯にあり付けると思うな。今後は叩き出されると思え」

 どうやら俺が本気でご立腹してプリプリしていると理解したんだろう、都築は参ったように腰に回していた両腕を挙げて、それから仕方なさそうに不機嫌にぶつぶつと口を開いた。

「オリエンタル不動産は都築グループ傘下の不動産屋だから、興梠と視察だと言って店舗に行って、それから、適当な理由でこのアパートの鍵を借りたんだ。それで、興梠に合鍵を作らせた」

 しぶしぶと言った感じでちゃぶ台に投げ出していたウォレットから取り出された、まだ真新しいこの部屋のコピーされた鍵を見せられて、まあ、薬だの乱交だの凡その悪いことはなんでもやってるとは言えお坊ちゃんだから、ピッキングなんて真似はしていなかったんだなと少し安心した。
 ピッキングだったら二度と家に入れるつもりはなかった。問答無用で叩き出してやる。
 軽く溜め息を吐いたら鍵を奪われると思ったのか、都築は素早くウォレットの中に隠してしまった。俺が勝手にウォレットを触らないと知っているからの所業なんだけど、目に余るなら問答無用で取り上げるけどね、俺は。

「…せめて、部屋に来る前に連絡ぐらいくれ。それから、寝るのはいいけど鍵は掛けておいてくれ。何もないとは言っても、泥棒にでも入られたらお前が危ないだろ」

 豚肩スライスと、この前都築が絶賛した鰤のあら煮を作った時に余った生姜があったからさっくりと生姜焼きを作ってガッツリお肉を食うぞとフライパンを出しながら言うと、都築は少し神妙な顔をしたものの、肩を竦めて呆れたように言い返されてしまった。

「オレが居る間はこの部屋は常に監視されているんだ。泥棒なんか入れない」

 ああ、まあそうだな。
 都築王国のたった1人しか居ない次代後継者たる王子様なんだ、こんな安っぽい鍵しかないアパートで爆睡できるのは、俺の知らない見えないところで絶対的なセキュリティが発動しているからなんだろう。
 確か興梠さんを派遣しているツヅキ・アルティメット・セキュリティサービス株式会社とかって警備保障が業界No.1って宣伝しているぐらいなんだから、その中でも興梠さんは凄腕だろうな。
 あれだ、SPとかってヤツじゃないのかな。
 たぶん、今この時も興梠さんだけじゃなくて、すげー人数でアパートを取り囲んでたら笑えるよなぁ。

「ふぅん。じゃあ、心配しなくてもいいのか」

 思わずぷふっと笑いながら言ったら、一瞬、何か言いたそうな表情をしたものの、結局都築は何も言わず、少し甘めのタレを意識して調味料を混ぜる俺をじっくりと、相変わらず嘗め回すって表現が一番しっくりくる感じで見つめてきた。
 都築は実によく酒を呑むし酔わないし、酒好きだと公言しているぐらいの酒豪なんだけど、味覚はお子様なのか甘いものが大好きみたいだ。
 酒好きと言うとどうしても辛党だと思ってしまうけど、都築はチョコレートを肴に日本酒を呑むと言っていた。
 それって普通なんだろうか。
 都築が曰くには、「ぬる燗の日本酒とチョコはなかなか良いマリアージュだと思う」とのことらしい。
 まりあーじゅってなんだ。
 洋食大好きの都築(興梠さん情報)だったらしいけど、俺んちは俺が中学1年の頃に母ちゃんが鬼籍に入ってたんで、親父と俺と弟たちは祖母ちゃんの飯が育ててくれた。俺は長男だと言うこともあって、祖母ちゃんからあらゆる料理のレシピやコツを教わっていたから、高校1年の時に脳卒中で倒れてしまった祖母ちゃんの代わりに家族の胃袋をガッツリ掴むことができた。
 それでも大学進学が決まった時に親父が再婚してくれたから、親父と弟たちを飢えさせることなく上京することができたんだ。
 たまに義母ちゃんから篠原家特製カレーの秘伝やらなんやらを、こそりと教えて欲しいとラインが来るけど、秘伝は義母ちゃんの愛で充分だよと笑わせて、とあるスパイスを入れるんだと教えると意味不明なスタンプが大量にきて感謝される。笑えるけど。
 そんなワケで洋食なんてお子様が好きなハンバーグかカレーかシチューかオムライスとなんちゃってナポリタンしか作れない。
 祖母ちゃん直伝の和食がメインになるんだけど…カレーと言えば、都築からカレーまで甘めがいいと言われた時はどうしてくれよう、レトルトのおこちゃまカレーでも食わせるぞと思ったものの、小学生だった弟たちに作ってやった甘いカレーを思い出して提供したら喜ばれたな。
 この前はケチャップを使ったなんちゃってナポリタンとオムライスを作ったら、お子様大好きな甘い味だったから、いつもは死んだ魚みたいな世の中なんてどうでもいいような目付きをしているくせに、その時はすげー嬉しい!って目をキラキラさせて食べてたな。ちょっと気持ち悪かったけど。
 都築、俺が作るのが和食だけだって知った時はちょっと残念そうだったけど、取り敢えず作れる洋食のレパートリーを言ったら「それで充分だ」と満足そうに頷いたっけ。
 朝食は和食でもいいけど、夕食はたまに洋食にして欲しい。できればお子様ランチ的なものを作ってくれると有難いとか薄気味悪いことを言っていたので、どうしてそう言うのが食べたいんだと聞いたら、子供時代にお子様ランチを食べたことがなくて、親の意向で子供のときは庶民に混じって勉学を学べと言う教えから公立に通っていたらしいんだけど、その時、同級生が昨日ファミレスでお子様ランチを…的な話題についていけなかったのが悔しかったんだそうな。
 まあ、天下無敵の都築家のことだから、恐らく子供じゃ口にできないようなものをお子様ランチ代わりに食べていたんだろうことは、容易に想像できるんだけども。
 大人になってからじゃ流石にファミレスには行けても、お子様ランチを注文するにはかなり勇気がいるだろうな。
 そんな理由で、できれば今味わってみたいとのリクエストだったから、今度の土曜日にでもご馳走してやるかって検討してる。
 ……あれ?よく考えたら一週間で5日ぐらい夕飯と朝の和定食を食べさせてないか。
 …。
 ……。
 このままだったら済し崩しにハウスキーパーにされちゃうじゃないの俺?!

□ ■ □ ■ □

●事例2:部屋に勝手に入っている(但し合鍵は渡していない)
 回答:お前がうちに来ないんだから、オレが来てやってるんだ。何が悪い。
 結果と対策:そっか、俺が行かないから悪いのか。だったら、都築がピッキングだか不正取得した鍵で合鍵を作ってんだかして部屋に不法侵入してても仕方ないよな。今後、絶対に鍵を替えるって決めた。

1.軽く視姦してくる  -俺の友達が凄まじいヤンツンデレで困っている件-

 都築を奇妙な縁で自宅に泊めてから数日が経ったある日、俺はその視線に気付いた。
 いつもどおり華やかで賑やかなグループで中心になっている時もあれば、同じゼミ仲間の地味なグループと居酒屋で猥談に花咲かせている時もある忙しい都築が、俺をじっと見ているんだ。
 ちらちらなら判る。じっくりと、舐めるようには意味が判らん。
 確かに世話をした翌朝はじっと見られていたからそれが都築の癖なんだろうと思っていたけど、注意してよく見ていると別に他の連中にはお座成りに視線をくれるぐらいで、俺を見る時のような熱心さは皆無だった。
 じゃあ、どうしてそんな熱心さで俺を見ているんだと言われると、ちょっと本人じゃないのでなんとも言いようがない。
 俺の周りにいる地味~な連中にも都築の熱心さはすぐにバレて、と言うか、あれだけじっくり見られていたら誰にだってバレると思う。つーか、華やかなグループの連中には完全にバレていると思うぞ。
 だいたい都築は愛想はいいものの不真面目で、誰かの話を聞いているようで聞いていない、スルースキルはリア充らしく高レベルだし、とは言え熱心さの欠片もないような酷いヤツが、何を思ったのか女でもない俺に熱い視線を向けているんだ。誰だって派手に『?』マークが頭上に高々と浮かぶってもんだ。
 特に華やかなグループの連中の大半は都築と深い関係になりたいヤツばかりだし、純粋に都築に惚れているヤツもいれば、将来の有利性を考えて近付いている連中も少なくないワケで、それぞれが全員ライバルだって言うのに、何処の馬の骨かも判らないようなポッと出の俺なんかに美味しい獲物を攫われてなるものかと、ギラギラした目で睨まれるのは正直怖い。

「篠原さぁ、都築となんかあったのか?」

 不意に入学当初から仲の良い、趣味が丸被りの百目木が困惑したように眉根を寄せると何かを恐れるようにしてヒソヒソと話しかけてくる。

「何かって…この間の合コンで都築が潰れたから家に連れて帰ったぐらいだよ」

 なんでコソコソしてんだと腕を引っ張って物陰に隠れて話そうとする百目木に、却って俺のほうが困惑したように眉根を寄せてしまう。

「そっかー、じゃあ都築のヤツ、お前のファンになっちまったんだな」

「はぁ?なんだそれ」

 百目木がまた何やら馬鹿げたことを言い出したから、俺が呆れて壁に背中を預けて溜め息を吐くと、ヤツは不思議そうに首を傾げながら肩を竦めてみせた。

「なんだ、篠原ってば自分の噂を知らないのか。お前、有名なんだぜ。お節介なほど世話焼きで料理上手で、母ちゃんみたいに優しいから、一度家に連れ込まれたヤツはだいたいファンになってて2回目のチャンスを狙ってるんだと。斯く言う俺もお前の飯は狙ってるけどね」

 最後は冗談めかした百目木に「なんだそりゃ」と俺は呆れてしまう。
 よくよく聞けばわざと酔ったふりまでして俺んちに来たがるヤツもいるらしくて、確かに料理には自信があるが、わざわざ酔ったふりまでして口にしたいほどの代物とは思っちゃいない。ましてやそんなことで家計を逼迫して欲しくもない。

「あの都築がファンになるぐらいだから、また実しやかに噂が流れるだろうなぁ」

「なんだよそれ、もう誰の介抱もしてやらねえよ」

 ぶすっと腹立たしく唇を尖らせると、百目木は声を出して笑って「競争率が激しくなりそうだなぁ」なんて他人事みたいに…いや、実際は全くの他人事ではあるんだが、友達甲斐もなく宣うから軽くでこピンをくれてやった。

「で、都築がどうかしたのか?」

「いやいや、篠原の話で判ったよ。都築がお前を熱~く見つめちゃってるから、すわ何事かって噂になってたけど、ファンになったんなら仕方ないな。ほら、アイツって無類の女好きだけど男もいけるだろ?だから、都築が篠原に惚れたんじゃないかって噂が…」

「はあ?!都築って男もいけるのか」

 青天の霹靂とはこのことだと思ったね。
 女を取っ替え引っ替えでだらしねえなと思っていたのに、男にまで手を出してるなんてとことんだらしねえんだな。やっぱり、あの時ハウスキーパーを断っておいて正解だ。
 女だけじゃなくて男とのあれやこれやでも、清らかな俺の視覚や聴覚を汚されるところだった。

「見た目キレイな奴は殆ど喰われてるよ。まあ、まさか篠原が喰われてるとは思わなかったけどさー」

「喰われるかよ。つーか、見た目キレイなら俺は無問題」

 自分で言って自己嫌悪だけども、けして俺は綺麗な容姿をしているワケじゃないしね。どちらかと言うと、あんまりスポーツは得意じゃないんだけど、よく体育会系に間違われるようなタイプだ。
 真っ黒い髪に実直そうだと言われるちょい太めの眉、やや二重の目はパッチリで睫毛が長いのがキモイらしいが、唇もやや厚めだったりする。そんなワケで中肉中背の日本人体型だから体育会系…とか、どんだけ見た目重視の社会なんだろう。くすん。

「じゃあ、問題ないな。引き留めちまって悪かったな」

「いや、いーよ別に。俺もいい話が聞けたし」

 今後一切、絶対に誰も介抱してやらねえって決めた。
 決意も新たに百目木と物陰から2人で連れ立って出たところで、今まで噂話にしていた当の本人とバッタリ出くわしてしまった。

「よ、よう」

 ヒクッと頬を引き攣らせながら、挨拶なんてするつもりもなかったんだけど、あんまりにも冷ややかで蔑んだような、虫けらでも見るような目付きでじっくり見られていたら声を掛けずにはいられなかったんだよ。

「…」

 こっちは挨拶したって言うのに、相変わらず腕に女の子を下げてる都築は何も言わずにふんっと鼻を鳴らして、それから全くの無視状態でその場から離れようとする。
 普通、こんな場合は声を掛けた気恥ずかしさから俯くか、声を掛けてるだろって更に相手の注意を引こうとして恥を掻くパターンだよな。
 だから、敢えて俺は無視されたんならこれ幸いと、そのまま百目木と立ち去ろうとした。
 だらしなくても男女共に無節操でも、みんなが憧れるイケメン御曹司に声を掛けたのに無視されて、周りからの失笑にあわわとしているのは百目木ぐらいだったし、そんな友人の腕を掴んで「ほら、行くぞ」って引っ張ってやった腕を何故かガシッと掴まれた。
 誰にって、都築にだ。

「…なんだよ?」

 ムッとして高い位置にある、女も男もきゃあきゃあ言う高身長ハイスペックの、小顔がモデル並みにカッコイイとか言われている都築のムッツリした不機嫌そうな顔を見上げた。連れの女の子は早いところ何処かに行きたいのか、苛々しているようだったけど、どうも都築の機嫌を損ねたくなくて黙って俺を睨んでいる。
 都築から睨まれるのもイラッとするのに、どうしてヤツの女からまで睨まれなくちゃいけないんだ。
 俺がどうやらぷりぷり腹を立てていると気付いたのか、それでもまるで頭の天辺から爪先までを舐めるようにじろじろ見回す都築の視線に閉口して、用がないなら腕を放して欲しいと態度で示したって言うのに、都築はまるで放そうとしない。
 なんだ、こいつ。

「怒ってるのか?」

 不意に聞かれて、思わず「はぁ??」となったのは俺だけじゃない。
 百目木も都築に注目している周りの連中も、もしかしたら腕から下げている女の子ですら、都築の言葉の意味がちょっと理解できなかったんじゃないかと思う。
 だってさ、最初に無視して不機嫌そうだったのは都築なんだぜ。

「…いや、怒ってるのは都築だろ?」

「はあ?なんでオレが怒らないといけないんだ」

 知るかよ!
 怒る気力も失せて、俺は溜め息を吐きながら首を左右に振ってみせた。

「ああ、そうか。そりゃ悪かったな。じゃあ、もう用がないんなら行ってもいいか。これから講義があるんだよ」

 そう言って腕を振り解こうとしたら余計にガッチリと握られてしまって、ホント、都築はいったい何がしたいんだろう?

「だから、なんだよ?」

 確かに若干苛立たしそうな口調になったかもしれないけど、そんな態度の俺に百目木はハラハラしてるみたいで、女の子も周りのヤツらも身の程知らずがってな怖い目付きで睨まれて、理不尽さに泣きたくなる。

「…考えたか?」

「は?」

 首を傾げて不信そうに眉を寄せた俺を見据える色素の薄い双眸は途端に不機嫌そうに細められて、それから何かをブツブツ言うと、悔しそうに鼻に皺を寄せて傲岸な態度で見下ろしてきたんだ。

「なんだ、少しも考えていなかったのか?ハウスキーパーの件だ」

 まあ、確かにあんな好条件なんだし、好条件じゃなくても都築の家に入れるってだけで他の連中なら挙って頷く案件なんだから、都築のヤツがそんな態度を取っても誰も文句も言わずに納得するとは思う。思うけど、俺は別に都築なんかとはお近付きになりたくないからそんな態度は業腹だ。

「別に俺が頼んでるワケじゃないだろ。考える考えないは俺の自由だ」

 ハウスキーパーの単語に周囲の連中はざわついたけど、都築も俺もそれは無視してお互いの意見を言い合う。
 実は次のコマは休講になったから自由だったんだけど、都築に関わりたくなくて嘘を吐いたことを、どうやらヤツは気付いている、もしくは知っているらしく、この場から俺を立ち去らせる気はないみたいだった。

「だが、お前は判ったって言った」

 不機嫌そうに唇を尖らせる都築に、そりゃ言ったけどもと痛いところを突かれて俺がもごもごと言い訳めいて言ってると、ヤツはあからさまに溜め息なんか吐いて頭を左右に振りやがる。

「オレに嘘を吐いたのか?」

 都築の腕にぶら下がるようにしてしがみ付いた女の子をそのままに、俺の腕を痛いぐらいに握り締めている都築がグイッと身体を寄せると、強いぐらい深い艶を見せる色素の薄い双眸で見据えられて息を呑んでしまう。

「そうじゃないけど、やっぱり俺には無理だってば」

「無理かどうかは試してみないと判らないだろ」

 食い下がる都築に、次第に周りの連中からざわざわと不穏なざわめきが小波のように広がっていく。とは言え、俺の噂とやらを信じている連中もいるワケで、篠原なら金にモノを言わせてでも雇いたいよな~とか言う声まで聞こえてくる始末だった。

「じゃあ、絶対条件として…どんな理由があったとしても部屋に女の子を連れ込まないって約束できるか?」

 絶対無理。100%無理。
 知ってます、知ってるから言ってるんです。

「…彼女も駄目か」

「駄目です」

 お前、彼女って言ったら女の子全部彼女って言うだろ!

「…パーティーも駄目か」

「駄目」

 どうせ乱交するんだろ。乱交じゃなくても遊びに来た女の子を寝室に連れて行くだろ。

「……」

 ぐぬぬぬ…っと、どうやら豪く葛藤しているようなので救いの手を差し伸べてやることにした。

「但し、例外として」

「…?」

 目線は一瞬たりとも外さないからずっと見られっ放しなワケなんだけども、その時の都築の期待に満ちた双眸はきっと忘れられないと思う。

「お母さんと姉妹はいいよ」

「ぐッ」

 期待していただけに裏切られた感が半端ないような目付きで見据えてくるけど、俺はそ知らぬ顔で「それができないなら駄目です」と言ってやった。

「あのさぁ、都築。お前だってその腕に引っ提げてる可愛い子とキャッキャウフフフしたいんだろ?こんなむさい野郎といるよりも何倍もマシだと思うよ。素直にプロのハウスキーパーさんを雇うといいよ」

 掴まれている腕をそっと外しながら苦笑して言うと、都築は何とも言えない複雑な表情をして見下ろしてきた。
 噂では190センチはあるって言う身長は伊達ではないんだろう。

「アイツ等の飯なんか食えたモンじゃない。くそ…どうしたら」

 またしても独りでぶつぶつ言っているから、俺はぽんぽんと引き剥がした都築の男らしい大きな手の甲を叩いて、それから「じゃあな」と言った。
 これでもう、ハウスキーパーになれ地獄からは解放されるだろう。
 頭いいな、俺。

「…わかった。その条件をのむ」

 不意にハッキリと都築が口にした言葉に、周囲から軽くどよめきが起こった。
 俺ですら唖然としたのは、馬鹿みたいに女好きな都築がまさかこの条件をのむとか思ってもいなかったので、今度は都築のターンになるワケだ。

「のめば今夜からでも来るんだろ?引越しは興梠に任せればいい。帰りは一緒に…」

「ちょちょ、ちょっと待て!」

 慌てて俺が止めると、やっと諦めがついてさっぱりした都築が、今度は何だと胡乱な目付きで睨み据えてくる。確かに美人の凄みは怖いと言うけど、イケメンの凄みも大層怖い。
 だが、負けるワケにはいかんぞ、俺!

「…俺、女の子って言ったけど。性的対象として連れて来る全般駄目なんだからな。ちゃんとその辺は理解してるか?」

「!」

 女の子が駄目なら男の子がいるじゃない…どっかの王妃様みたいに優雅な思考だったに違いない都築にクリティカルを決めてみたけど、当然そのつもりでいた都築はあの日から初めて、困惑したように一瞬俺から目線を外した。
 まあ、それぐらい衝撃的で安らげるはずの家だと言うのに、ちっとも安らげない制約を課せられて項垂れたんだろう。
 蝶よ花よと何不自由なく生きてきた都築の癖に、そんな風に不自由な身になってもいいと思えるほど俺の飯は美味かったんだろうか。食えなくはないとか悪くないとか、けして美味いと言わないくせに、大好きな女たちを二の次にしてでも食いたいと思うとか…うう、絆されんな俺!

「まあ、無理すんなって。偶になら、俺んちに飯を食いに来てもいいからさ」

 しょっちゅうだと家計が逼迫するからな。
 小さく苦笑して、よしよしと俺の顔を覗き込むようにしている都築の頭を撫でてやると、ヤツは少し悔しそうに俺の目をガン見してくる。

「それじゃ嫌なんだ」

 と、やけにきっぱりと言い切った言葉に、何故か俺は一抹の不安を感じた。

□ ■ □ ■ □

 結局あの後、ちょっと検討すると言って女の子と一緒に何処かに消える都築を見送って、漸く解放されたと安堵の溜め息を零すなり、今度は百目木に腕を引っ張られてしまった。

「は、ハウスキーパーってどう言うことだよ?!篠原、随分と都築に気に入られたんだな」

「やめてくれよ…なんか餌付けしちまったみたいで嫌なんだよなぁ」

 周りの視線も痛いし、今日はこれで講義もないから一旦家に帰って、それからバイトに行くわと百目木に挨拶した。とは言っても、納得していない百目木のことだ、詳しい事情を知りたいとバイト中に声を掛けてくるに決まっている。
 こう言う時、同じバイト先は辛いんだよなぁ。とほほほ…
 18時から1時までの7時間勤務で週に4日入っている居酒屋『村さ来い』には、まず俺の勤務日を(何故か)熟知している都築が毎回来ている、そしてそれ目当ての男女が犇めく、店長兼オーナーの三枝さんは毎日大喜びだ。
 それに引き換え、白のTシャツに黒のスラックス、動き易さを重視した黒のカフェエプロンを着用中の俺は、実に7時間を都築の視姦に耐えないといけない。
 別に俺自身に興味があるワケでもないくせに、注文は必ず俺に言いつける、その際に白Tの下は何も着ていないせいか、「乳首立ってる」とか「汗掻いた?少し透けてる」とかとかとか!!猥談のついでみたいにそう言って、にやりともせずに胡散臭そうに繁々と俺の胸もとを舐め回すように見るもんだから、冗談だと判っていても恥ずかしい。
 みんな馬鹿みたいに笑うけど、絶対、一回ぐらいは都築を殴りたい。
 酒が入ってたって許したくない。そもそも都築は酒に強いんだ。

「都築さぁ、その性質の悪い視姦もどきにじっと見る癖は止めたほうがいいと思う」

 特に俺を見るのは。
 テーブルには都築の他に、何時もつるんでる佐野ってヤツと梶村ってヤツがこんな居酒屋には来たくねえよと若干不機嫌そうに俺をチラッと見てふんと鼻を鳴らし、その他には特別可愛い女の子たちが数人キャッキャッと都築に科を作って頑張っている。
 注文を受けたハイボールを都築の前に置きながらコソッと忠告してみたら、受け取ったハイボールを呷りながら何を言ってるんだと心外そうな顔付きで眉を寄せた。

「別に見てない」

 いや、今だってハイボールには目もくれずに、じっと俺の顔とか胸もととか見てるぞ。
 傍から見ている百目木が言うには、背中を向けてても舐めるように背中や尻を見てるらしいじゃねえか。

「…見てるとするなら、それはお前が悪い。お前が見られようと意識してオレを見ているんだ」

 なるほど、見られるのは俺が見られようと意識して都築を見ているからだ…とそう言うことか。

「そっか、俺が意識して都築を見ているのがいけないんだな。それじゃあ、お前に見られたって仕方ないな」

 今後、絶対に都築を見ないって決めた。
 そう決めてガン無視に徹してやったら、都築は1日で音を上げていたけど、それでもやっぱり視姦はされるし謝られないし、俺の苦悩はまだまだ続くみたいだ。

□ ■ □ ■ □

●事例1:軽く視姦してくる
 回答:お前が見られようと意識してオレを見るのが悪い。
 結果と対策:そっか、俺が意識して都築を見ているのがいけないのか。だったら、お前に見られたって仕方ないよな。今後、絶対に都築を見ないって決めた。

プロローグ  -俺の友達が凄まじいヤンツンデレで困っている件-

 俺の名前は篠原光太郎。俺には風変わりな友人(?)がいる。
 まず、この話をするためにその友人について説明するべきだろう。
 ソイツは入学時から何かと目立つ存在だったから、俺も名前と噂と顔ぐらいは知っていた。
 ヤツの名は都築一葉。かずはとかいちようと読みそうだが、いちはが正解だ。
 全体的に色素の薄い、かつ目鼻立ちのハッキリした高身長のイケメンは、ハーフは勿論のこと、海外の王族の落胤とか異国の血と交わったために追放されたどっかの国の王子などなど…真しやかにトンでもない噂が付きまとう御曹司様だ。
 実家はヤクザだとか某大企業の経営者だとか華族だとか、ヤツの背景の噂も千差万別で、いったい何が正しいのかよく判らなかった。
 後で判明した事実は、元華族出の父と北欧の小さな街出身の母を持ち、かつヤクザ紛いの手法で財を成した大企業の経営者が祖父で、その大企業の後継者なんだとか。
 ほぼ噂通りの期待を裏切らないヤツだってことは確かだ。
 そんな都築と庶民の俺との間に、知り合う接点なんか殆どなかった。
 合コンにしたって付き合う女や友達のレベルも違えば、取り巻く環境も何もかも違うし、何より俺、合コンとか行かないし興味もないしさ。
 俺らとは違う華やかなグループに属する都築と平凡な俺が知り合う切欠になったのは、たまたま被ったゼミの新歓コンパだった。
 気付けばヤツは、非常にすんなりと俺たちのグループに溶け込み、庶民の居酒屋で大きく口を開けてバカ笑いするような親しみやすさで、驚くほど呆気なく馴染んでいった。
 しかもオブラートに包まれていたみたいなその性格も、前期の試験前にはボロが出まくっていたっけ。
 都築は大雑把な感じの女好きで、酷いときには日替わりなんてこともあって、構内の女は全員竿姉妹になってるなんて、そんな下世話な噂が出るくらいにはだらしなかった。
 だから、それほど真面目ではないものの、童貞の俺からしたらやっかみ半分本音半分で苦手な相手だったのは確かだ。
 できれば絶対に関わりたくない都築と俺が今の関係に陥った決定的な最初の事件は、やっぱり出る気のなかった合コンにお互い参加したことだったと思う。
 都築と寝たい女が盛った薬か何かで体調が悪くなったヤツが、たまたま近くに座っていた同じゼミってだけが接点の俺に、自宅まで送れと言って来たんだ。
 かなり上から目線だったし、隣りに座ってんのは何時もつるんでるヤツなんですけど何で俺?と思わなくもなかったけど、気分悪い時に発情した女の相手もしんどいだろうし、何時もつるんでるヤツは都築そっちのけで一番可愛いって人気の彼女を口説いてる最中で都築どころじゃなさそうだし、指名されたし、おんなじゼミだし、具合悪そうなのを放っておけるほど鬼畜でもないし…まあ、正直に言えばそろそろ抜け出したいとも思っていたから仕方なく引き受けることにした。 
 長々と言い訳を言ったけど、それだけ俺は都築と関わり合いたくなかったんだ。
 豪華にタクシーで帰るって言うから、タクシーに乗せれば大丈夫かってたかをくくる俺に、青褪めた紙みたいな顔色をした都築はタクシー代を奢るから家まで送れと、やっぱり上から目線で不機嫌そうに言うから、仕方なく同乗して都築に聞いていた住所を人の善さそうな運転手に伝えて、具合が悪そうに眉根を寄せて瞼を閉じたまま俺に凭れ掛かる背中を撫でていた。

「吐きそうだ…」

 不意に口許を押さえる都築の呟きに、運転手が困ったようにバックミラーからこちらをチラチラ見るし、狭い車内で吐かれるのも面倒だし…何より都築の家より俺んちの方が近かったから急遽行き先を変更したら、都築のヤツは怪訝そうに俺を見たものの、額に汗を浮かべたまま何も言わずに大人しく肩に凭れてくれた。
 暫く走ってから到着した俺んちは、都築が住んでるだろう高級マンションとは程遠い、風呂とトイレが付いてるだけが自慢のボロアパートの2階に連行したものの、何か言いたそうに顔を顰めたけども、俺は何も言わせずに取り敢えず上着を剥ぎ取ってからベッドに眠らせた。
 毎日シーツは交換してるんだから、シングルだからって文句言うなと思いながら、用意した洗面器に途中で何度か吐いた都築に水を飲ませたり、汚れたシャツを量販店で買っておいたジャージに着替えさせたりしているうちに、だんだん具合も良くなったようで、そのうち静かに寝息を立てるようになったから、俺も諸々始末して、ベッドの横の狭いエリアにお客さん用の布団を敷いて横になった。
 その時はもう2時を回っていたけど、レポートで遅くなることもあるし、まぁ許容範囲かなと思う。
 欠伸をしてスヤァ…と眠って、朝食の準備で早起きする癖のある俺が寝苦しさで7時に目を覚ましたワケなんだか、一瞬、何が起こっているのかよく判らなかった。
 狭い布団に潜り込んで都築、お前は何を背後からしがみついているんだ。
 尻の少し上辺りにゴリゴリするモノを押し付けられていて、ああ、朝立ちかと理解しつつも朝から不愉快だし、ぎゅうぎゅう抱きついてくる腕も苦しいしで、たぶん女を連れ込んでると勘違いしてるんだろう都築に軽く肘鉄を喰らわせて半覚醒を促した。

「ほら、俺は女じゃねえよ。朝飯の用意をしてやるから、もう少しベッドで寝てろよ」

 半覚醒しながらも俺に抱きついたまま、すんすんと頭の匂いなんか嗅ぎやがるから、いよいよ堪り兼ねて起き上がり、何かブツブツ言っている都築の寝惚けた重い身体をベッドに放り出して、さっさと布団を畳んで押し入れに仕舞うと、欠伸をしながらユニットの洗面台で顔を洗って歯を磨いて、完全に目を覚ましたから朝食の準備に取り掛かった。

□ ■ □ ■ □

 完全に覚醒した都築は最初、非常に不機嫌な顔付きをしていた。
 なまじ整った顔をしてるもんだから、不機嫌さは手に取るようによく判る。
 食卓にも勉強机にもしているちゃぶ台に並ぶ和風の朝食に、何か食えないものでもあったのかと首を傾げていると、都築はキョロキョロと落ち着きなく俺の部屋を見渡してから、「マジかよ…」とぼやいて顔を顰めた。
 お持ち帰り予定の女の部屋じゃなかったことに、今更ながらうんざりしてるってワケか。なら、嫌いなモンがあるワケじゃないんだ、そのうち落ち着いたら食うだろぐらいの気持ちで、不機嫌野郎は無視して朝飯を胃袋におさめ始めたら、イライラしてそうに俺の顔を見た都築はもう一度、ちゃぶ台の上の朝飯一式を見下ろしたみたいだった。

「朝はエッグベネディクトかスラット、呑んだ翌日はフレンチトーストにエスプレッソって決めてんだけど…」

 えっぐべね…?なに言ってるんだ、コイツ。

「ほら、金を出すから買って来い」

 昨夜、ベッドに眠らせる前にズボンから抜いてヤツの横に投げ出していたウォレットを取り上げると、幾つかあるカードのひとつを抜いて、不機嫌そうに突き付けて来ながらコンビニにパシらせようとしやがる。

「えっぐべね…?かなんか知らんけど。篠原家特製和朝食だ、食ってみろって。コンビニの弁当より美味いぞ」

 ブツブツ言う都築に、俺は動かしていた箸で行儀悪く食卓を指し示しながらニヤッと笑った。
 都築は嫌そうに眉を潜めたものの、他は用意してやんねーよの態度を崩さない俺に諦めたのか、渋々箸を持って、まずはシジミの味噌汁に口をつけた。
 昨日の合コンで、酒に強いからってしこたま呑んでるみたいだったから、今日は冷凍していたシジミで味噌汁を作ってみた。
 本当はシジミの佃煮を作るつもりだったんだけど、まあ、俺も久し振りに呑んじゃったしね。
 ハーフな御曹司君はやっぱり朝飯もお洒落な洋食なんだろうけど、たまには庶民の和風な朝飯も食っとけってさ。
 一口啜ってちょっと眉をあげた都築は気に入ったのか、気付けばマコガレイの煮物もヒジキの煮物も祖母ちゃん直伝の糠漬けも甘めの卵焼きもすっかり完食して、シジミの味噌汁と俺特製のヒジキの煮物が気に入ったのか、もう少し食いたそうな顔をしていたからお代わりをご飯と一緒に出してやったら、ちょっと嬉しそうにそっちも完食してしまった。
 但し、都築は坊ちゃん仕様なので後片付け属性は全くないらしく、提供したものを嬉しそうに完食されて上機嫌の俺が茶碗を片付けるのを尻目に、ウォレットと同じく投げ出していたスマホをベッドに凭れたままで弄っていたようだったけど、茶碗を洗う俺をじっくりと観察しているみたいだ。

「お前、料理ができるんだな」

 ただ単に手遊びしているだけらしいスマホを適当に弄りながらぶっきら棒に言うから、俺は洗った茶碗を籠の中に伏せて水切りしながらニヤッと笑った。

「おう、貧乏暇なしの一人暮らしだからな。美味かったろ?」

 振り返らなくてもじっと見つめているのは判っていたから、肩を竦めてニヤニヤ言ってやると、最初あれだけブツブツ言ってたくせに見事に完食してしまってバツが悪いのか、都築は不貞腐れたように鼻を鳴らして言い返してきた。

「食えなくはない」

「ぶっは!」

 思わず盛大に噴出したのが不味かったのか、他人に笑われることもそんなにない御曹司はいよいよ不機嫌になってむっつりとスマホに集中するふりなんかしやがるから、なお更笑いたくなるのも仕方ないよな。

「都築って上品でお洒落さんだからさ、どーせ朝飯なんてちょっとしか食わないんだろ?たまにはたくさん食ったほうがいいんだよ。男の子なんだからな」

 夜に吐いたから腹が減ってたんだとかなんだとか、ぶうぶう拗ねる都築にテキパキと茶碗を片付けながら言ってやると、俺をじっと観察している都築は、暫く何かを考えているようだったけど、ふと思いついたように口を開いた。

「夜も自分で作るのか?」

「あ?いや、だいたいバイトの賄いかな。バイトが休みの日は自分で作るけど」

「ふーん」

 水切りの籠に全て洗い終えた食器を伏せてから、俺は布巾で手を拭いながらそう言えばと思い出した。

「そうだ、都築のシャツ。ゲロ塗れだったから洗ったんだけど、俺んちお洒落着洗い用の洗剤とかないから普通ので洗ったけど良かったか?一応、ぬるま湯で手洗いはしたけどさ」

「ああ、いいよ。あれはもう捨てる。新しい服を持って来させる」

 わざわざ人が寝る前に洗ってやったモノをなんだその言い方は。

「お前さ、金持ちなのは判るけど洗濯すればまだ着れるものを捨てるとか気軽に言うなよ」

 どこかに電話を掛けようとしていた都築は、相変わらず眉間に皺を寄せたままで、面倒臭そうに片目を眇めて言いやがった。

「勿体無いって?じゃあ、お前にやるよ」

「そう言う事じゃ…って、まあ、モノの考え方が違うなら何を言っても意味がないな。だったらもういいよ。有難く貰っとくよ」

 肩を竦めて溜め息を吐くと、都築は少し戸惑ったように「ああ…」と呟いてじっと俺を見つめてくる。
 じっと見つめるのはコイツの癖なんだろうか?
 ともかく、自分が悪いことを言ったという観念はないようで、どうして俺が呆れたように溜め息を吐いたのか判らないと言いたげな目付きをしていたけど、たった一度世話しただけで、今後はほぼ接点もない都築に説明するのも面倒臭かったんで、俺はその眼差しを無視することにした。

「都築、今日は何コマ目からあるんだ?」

 1コマ目でも余裕で行ける時間だけど、そう言えば聞き忘れていたな。

「他のヤツはやるって言ったら喜ぶのに、どうして篠原は喜ばないんだ。モノが悪いのか……あ?ああ、1コマ目からだ」

 またブツブツ言っていた都築はだけど、ハッとしたように顔を上げて、それから思い出したようにどこかに電話を掛けた。

「ああ、オレだ。適当にコーディネートして一式持ってきてくれ。住所は…」

 俺に目線で尋ねるから住所を教えてやると、都築はそのまま伝えて電話を切った。
 どうやら本当に新しいのを持って来させるつもりのようで、目の前の図体ばかりでかいガキみたいな男が、本当に御曹司なんだなぁと自分で散々言っておきながらも改めて実感した。
 周囲の噂だと、上にねーちゃんが2人、下に妹が1人の見事な女系一家に産まれた待望の1人息子ということもあって、金にモノを言わせて蝶よ花よと育てられたって聞くから、まあ、ゲロに塗れたシャツなんか、たとえ5万も10万もしても、もう着る価値なんかコイツにはないんだろうなぁ。

「じゃあ、服を持ってきてもらって着替えたら間に合うな」

 壁に掛けたシンプルな時計を見上げて言ったら、電話の間もじっと俺を見つめていた都築は、少し顎を上げるような、横柄な態度で聞いてきた。何にしても態度悪いんだよな、コイツ。

「お前は何コマ目からだ?」

「俺?俺は今日は3コマ目からだから余裕だ」

 何となく笑って言ったら、俯き加減に唇を尖らせて「ふーん」と気のない返事をしてきた。
 興味がないなら聞かなきゃいいのにと思いながらも、そこは未知の御曹司様の思考回路なんで、俺はやっぱり肩を竦めるだけだ。

「今夜はバイトか?」

「ああ、そうだよ」

「どこで、何時までするんだ?」

 唐突に聞いてくるから軽く頷くと、少し残念そうな顔つきをして、でもどうでもよさそうに頭を掻きながらさらに聞いてくる。だから興味がないなら…もういいや。
 御曹司だとバイトなんかしないで遊んで暮らせるワケだから、俺自身には興味はないけどバイトってモノがどんなものか気になるんだろうな。

「ほら、駅前に『村さ来い』って某有名チェーン店のぱっちもんみたいな名前の居酒屋があるだろ?あそこで1時までだよ」

 時給がいいし店長もいい人だし賄いは美味いしで、俺にとってのライフラインでありお気に入りのバイト先だ。

「この前、ゼミの連中で行った居酒屋?」

「あ、そうそう」

「ふーん」

 そう言えば都築は御曹司なんだけど居酒屋とかにも平気で来ていたな。
 都築の目鼻立ちのはっきりとした洋風の顔立ちを見ていると、カフェバーとか、ショットバーでお洒落に酒を嗜んでいるようなイメージがあるんだけど、たぶんあの華やかなグループとはそういった店にも行くんだろうけど、居酒屋で焼酎を呷りながら煙草を吹かせて、猥談に参加するようなオッサン臭いとこもあったりする。
 とは言え、そこは女好きの都築だ。解散時にはちゃっかりOLのおねえちゃんをお持ち帰りしていたけどさ。
 ちょうど話が途切れたころでドアがノックされたから、どうやら都築の洋服一式が届けられたようだと俺が玄関に行ってドアを開くと、ドアの向こう側には壮年の男が幾つかの箱を抱えて立っていた。

「篠原様、わたくしは『ツヅキ・アルティメット・セキュリティサービス』に所属しております一葉様付きの興梠と申します。この度は一葉様が大変お世話になりました。こちらは仰せ付かりました衣装となります。コーディネートは木村が行いましたとお伝え下さいませ」

「ああ、はいはい。って言うか、どうぞ入ってください」

 自分は怪しい者ではないとまず身分を名乗り、それから恭しく頭を下げられて、そして幾つかの箱を差し出すと言う一連の動作を玄関先で行われてしまった俺は、ご近所から奇異の目で見られないとも限らないので、気安くどうぞと身体をずらして招き入れようとした、のに。

「興梠!荷物は篠原に渡して下で待ってろ」

 こんな狭いアパートなんだから伝えるよりも伝わっていた都築が、何時の間にか俺の背後に来て不機嫌そうに腕を組んで立ったまま、横柄に顎で俺を指し示しながら胡乱な目付きで興梠さんを睨んだみたいだった。

「なんだお前、わざわざ荷物を持ってきてくれたのに礼もなしで待ってろって、ちょっと酷くないか?」

「とんでもありません」

 ぶすっとした都築が口を開く前に、興梠さんが即座に否定し、恭しく俺に幾つかの…数えてみたら5個ほどもある箱を渡して、頭を垂れる一礼をしてさっさと鉄製の階段を降りて行ってしまった。
 まあ、都築付きのひとってことだから、命令は絶対なんだろうけどさ。

「いいんだよ。興梠はオレが命じたことに従うためだけにいるんだ。謂わば感情のあるロボットみたいなもんだ。アイツもオレも礼なんか気にしない」

 お前たちの特殊な関係なら気にしないんだろうけど、一派庶民の俺は大いに気になるんだけど…とは言え、とは言えだ。今後、殆ど接点がなくなるだろう俺が、連綿と受け継がれる都築家の慣わしに口を挟める立場ではないんだし、「そっか」と言って肩を竦めるぐらいが妥当な対応だろうなと思うよ。
 そうして箱を持って部屋に戻る俺を、やっぱり少し動揺したような目付きで追ってきた都築は、自分の発言の何が俺を呆れさせ、諦めさせているのかがさっぱり判らないようで、何か言いたそうに何度か形の良い唇を噛んだみたいだった。

「…この部屋は狭いな」

 言うべき言葉が見つからなかったのか、不機嫌そうに都築は腕を組んで突っ立ったままで俺の部屋を貶しやがった。
 そりゃ、お前ぐらいタッパもウエイトもあればこの部屋は狭いんだろうが、日本人男性の平均身長と体重をちょっと上回っているぐらいの俺にはぴったりの居心地いい居住空間なんだよ!

「そりゃ、お前んちの何十畳もあるんだろう高級マンションに比べたら天と地の差だろうけど、このアパートは普通の貧乏学生が住むにしたって手頃でいい部屋なんだぞ」

 文句あるかとベッドに置いた箱の蓋を1つずつ開きながら軽く睨んでやると、珍しく少し慌てたような仕種で首を左右に振ると、俺の傍まで歩いて来て箱の中身を覗き込むようなふりをして都築はじっと俺を見つめながら口を開いた。

「オレのところ、空いている部屋が幾つもあるんだ」

 はいはい、お金持ちお金持ち。
 都築のマンション自慢とか珍しいなと思いながらも肩を竦めて、何万だか何十万だかするシャツやジャケットを取り出していると、すぐ間近で俺の横顔をじっと見つめながらポロッとおかしなことを口走ったんだ。

「お前、オレの部屋に住んだらどうだ。ハウスキーパーとかいいんじゃないか。お前のバイトの合計額の倍の金額で雇ってもいいぞ」

 ……は?
 高級そうなヴィンテージデニムを取り出しつつ振り向けば、思ったよりも近くにこちらをじっと見据える色素の薄い双眸があって、一瞬何故かひやりとした。

「幾つかバイトの掛け持ちをしているんだろ?後期試験もあるし、オレの部屋に住み込みなら家賃と光熱費と食費はフリーでいい。部屋の掃除と3度の食事、あと…」

 俺をじっと見つめながら少し考える仕種をした都築は、1人で納得したように頷いて言った。

「オレの話し相手になれ」

「あ、いや断る」

 少し身体をずらして距離を取った俺が、まさか断るなんて思ってもいなかったように、ぽかんと、見目麗しい都築にしては間抜け面をして眉根を寄せた。

「……どうしてだ?ちゃんと契約書も作成してやるぞ。条件の見直しも都度、行ってやってもいい」

 こんなに好条件なのに何が不満なんだと探るような目をして俺を見据える都築は、俺が開いた分だけ距離を詰めて首を傾げて言い募った。

「いや、だから住み込みでハウスキーパーとかガラじゃねえし」

 慌てて両手と首を横に振ってさらに断る俺に、ムッとしたような不機嫌丸出しの面で、都築は腰に手をやって片手で顎の辺りを擦りながら、何が問題なんだと思いつく限りのことを口にし始めたりする。
 いやいや、だからそうじゃなくて。

「お前の作る食事は悪くないし、部屋の中も掃除が行き届いている。確かにオレの部屋は友人連中のたまり場になることもあって、パーティーとかでかなり酷い状態になることもある。その時はちゃんと専門のハウスキーパーを雇うから、お前は休日にしていいんだ」

「俺は誰かと一緒に住む気なんてないんだよ。独りがいい」

 せっかく実家を離れて独り暮らしにウハウハしてるのに、どうして女好きの御曹司と一緒に暮らさないといけないんだ。
 きっと部屋にも女を連れ込むに違いないし、パーティーなんか噂では乱交だとか薬も飛び交うとか醜聞しか届いてこないし、それでなくても童貞なんだから都築が関わってる女なんかに食われたら堪らないよ。
 俺は健全な女の子と出会うためにコンビニとか色んなバイトをしてるんだ!
 もちろん、これは都築には内緒の話だが。

「…そうか。じゃあ、よく考えみてくれ。それで気が変わったら声を掛けろ。何か条件が必要なら相談に乗る」

「ああ、うん。判った」

 尚も食い下がろうとするから、俺は適当に頷くことにした。そうでもしないと、この押し問答が続いて都築が遅刻しかねないことになりそうだし、何より、押しの強い御曹司パワーに押し切られそうで怖かった。
 都築は俺の貸したジャージの上着とチノパンを脱ぐと、起き抜けに入った風呂で着替えていた大きさ違いでどうしようと思っていたボクサーパンツは(興梠さんは下着まで用意していたけど)そのままで、シャツにヴィンテージデニム、ジャケットを羽織るとこのボロいアパートには似つかわしくないイケメン御曹司様が出来上がっていた。

「じゃあ、気を付けてな」

 外しておいてやった時計とは違う高級腕時計を嵌めている都築に声を掛けると、ヤツはなんと言うか、ほんの少し途方に暮れたような顔をして、それから最初の時のようにキョロキョロと俺の部屋を見渡している。
 たった数時間しかいなかった部屋に愛着でも出てきたのか?
 いや、そんなまさかだ。
 でもまあ、狭い場所は広い家に住み着けた人間には落ち着くこともあるのかもしれないしな、よく判んないけども。

「チノパンも捨てるのか?時計は?」

 なかなか出掛けようとしない都築に、その辺りに放っている高級腕時計と脱ぎ散らかしているチノパンを掴んで見せると、ちょっと嫌そうに眉を寄せながらも、都築はやっぱり「いらない」と首を横に振った。
 チノパンは始末に負えるけども、さすがにうん百万はしそうな腕時計は始末できないぞと眉を寄せて困った顔をしてやったら、何か考えているようだった都築は、それから徐に顔を上げてきっぱりと言ったんだ。

「じゃあ、それは預けておく」

「はぁ?!」

 思わず素っ頓狂な声が出てしまったら、都築のヤツはうんざりしたような顔をして唇を尖らせたりするから、俺はどんな顔をすりゃいいんだよ。

「何時もは泊まらせてもらった礼で置いていくんだよ。でも、お前は絶対に受け取らないんだろ?」

 服だって本当はいらないと判っているのか、都築は少し真剣な表情をして首を傾げてみせた。

「だから、服も時計も預けておく。お前がオレのハウスキーパーになる時に、返してもらう」

「ななな…ッッ」

 自分の考えに満足したのか、ここに来て初めて爽やかにニッコリ笑った都築は、そう言うとさっさと部屋を出て行ってしまった。
 なんなんだ、アイツは。
 こんな防犯もクソもないボロアパートに、数百万の腕時計と数十万相当の服を一式置いて、預けるって何だよ?!盗まれたら、俺が弁償しないといけないんじゃないか??
 まあ、この部屋にそんな高級なものがあるなんて誰も想像もしないだろうけど、現物を見ている俺としては気が休まらないし不安しかない。
 これはアレか、ハウスキーパーにならせるための罠なのか。
 そこまで考えてガックリと部屋の中で膝を折った俺だったが、結局は都築が勝手に置いて行ったようなもんだし、アイツもいらねって唾でも吐きそうな勢いだったワケなんだから、保管だけ確りしておけばいいんじゃないかと思ったのは事実だ。
 ただ、これが。
 俺と都築を繋げる縁になるなんて、思いもしなかったけど…

孤独の棲み処 (番外編)  -ヴァンパイアと真夜中に踊れ-

 孤独はよき隣人。
 常に傍らにあるものの、けして近付けない溝があって、だからこそ心地好い存在である。
 何もいらない。
 たった独りで生きることには慣れているのだから。
 それに、空っぽの身体なら幾つだって転がっている。
 そう言うのを夜毎拾って抱き締めれば、幾らか癒されるだろう。
 たとえそれがまやかしであったとしても、血塗れのオレには上等のご褒美だ。

 男は苦い吐息を噛み殺した。
 もう、何度目になるのか…それは曇天の空から今にも零れ落ちそうな涙のように唐突に、だが消え入りそうな溜め息。
 息は白くたなびいて、男はまるで途方に暮れている顔を隠そうとでもするように、コートの襟を立てて冷気を遮った。
 身震いしそうなほど、今日は寒い。
 いや、もちろん…それだけではないのだ、この寒さは。
 寒気、と言うよりは寧ろ、悪寒めいた予感。

「参ったな」

 呟きとともに、溜め息が零れる。
 男は灰色の空には不似合いの金色の髪に、冷めたアイスブルーの瞳で突きつけられている受け入れ難い現実を凝視していた。

「参られても困る。俺だって、十分参ってるんだ」

 唇を、まるで子供のように尖らせているのは…一見すれば、学生にも見間違ってしまうほど、童顔の顔立ちをした異国の青年。
 ああ、だが…と、男は思う。
 ここは日本なのだから、自分の方がよほど異国の顔立ちではないか、と。

(オレ、微妙に混乱してるのかな?)

 そんなどうでもいいことしか思い浮かばないほどには混乱しているのだろうと、男は自らを冷静に分析して溜め息を吐いた。
 いや、なんにせよ…

「取り敢えず、重いし。退いてくれる?」

 流暢な日本語でやんわりと咎められて、青年はたった今気付いたとでも言うように、ハッとしたのか慌てて金髪碧眼の男の上から身体をずらそうとした…が、青年の身体が男の上から退くことはなかった。

「…ッ!?」

 驚いたように双眸を見開いて自らの顔を覗き込んでくる青年の、素直な性格を示すかのように、サラサラのストレートの黒髪に指先を伸ばして、男はその厚い胸に青年の顔を押し付けた。

「ちょっと黙っててよ。こっちも結構、切羽詰ってんだよね」

 突然、空から降ってきた日本人らしい青年は、順応性があるのか、適応力に優れているのか…何れにせよ、言われたことを素直に飲み込んでいるようだ。

(騒がないのか。ヘンな日本人だなー)

 明らかに切羽詰っていると言うのに男は、それでも暢気にそんなことを考える余裕はあるのか、相変わらず溜め息を吐いて、たった今、ビルから悠々と立ち去ろうとする漆黒のベンツを垂れた双眸で憎々しげに睨み据えた。
 恐らく、これだけ密着しているのだから、その胸元に隠し持っている日本では珍しいだろう兇器の存在に気付いているだろうに、日本人らしい青年は声も出さずに寡黙に抱き締められている。
 その従順な仕種が…いや、違うなと男は思う。
 血臭の染み付いてしまったこの穢れた腕の中にあっても、騒ぐことも、暴れることもない小さなぬくもりを、そんな馬鹿なことがあるわけないと言うのに、愛しいと感じていた。
 恐らく、怖ろしくて声を出せないに違いないと言うのに、いったい自分は、いつからこんなにセンチメンタルになったと言うのだ?

(やれやれ、本当に参ったな)

 老若男女問わずに遊び好きな自分の嗜好を恨めしく思いながらも、どーせ今日の仕事は空振りなんだし、折角だからこの飛んで火に入る日本人を美味しく戴いてしまおうか…などと考えて、またひとつ溜め息が零れ落ちる。
 少し早めとは言え、規則正しい心音を響かせる小さなぬくもりを、手離すのは惜しいんだけど…と、男は参ったとでも言うように両目を覆っていた片手を外すと、漸く青年の身体を押し遣ろうとした…が、今度は日本人の青年の方が身体を退かそうとしない。

「…?」

 訝しそうに眉を寄せれば、言おうかどうしようかと逡巡しているようだった青年は、それでも意を決したように真摯な眼差しで男の碧眼を見据えながら口を開くのだ。

「アンタ…殺し屋なのか?」

「…」

 なるほど、やはり胸元の兇器はバレていたと言うわけか。
 しかし、だからと言って、もちろん男が動揺することはない。

「だったら?どうするって言うの??警察でも呼ぶかい」

 それこそ、心臓が凍りつくような底冷えのする冷ややかな双眸で覗き込んでくる瞳を見据えれば、小動物よりもいたいけな、犯罪には無縁に違いないだろう平和ボケした日本人は震え上がるに違いない。十分、計算され尽くしたシチュエーションだったと言うのに、殊の外、青年は怯えてはいないようだ。

(…オレの眼力に怯まない日本人?まさか、嘘でしょ)

 有り得ない出来事に、男はいよいよ、今度こそ本当に動揺しているようだ。
 そんなことはお構いなしで、日本人の青年は、やはり少し悩んでいるような双眸をして目線を伏せてしまう。

(なんだ、コイツ。よく見れば結構可愛い顔してるじゃない。あ、睫毛長い)

 どうせ、時間は有り余ってしまった。
 本日の仕事が不発なら、チャンスは明日でも明後日でも…男にとってチャンスなどありはしない。常に作っていくものなのだから、毎日がチャンスだと思い込んでいる。
 だから、男は、この突然空から、正確にはビルから降ってきたこの日本人の青年をもう少し観察してみようと思ったようだ。
 いや、確かに、平和ボケしている日本人なら、ビルから降ってくることなどけして有り得ないのだが、如何せん男は、遠い国から来たばかりで、日本のことなど実は少しも判ってはいないのだ。

「人を殺すのは…その、辛くないのか?」

「はぁ?急にナニ、言っちゃってるワケ??辛かったら人殺しなんてできないでショ」

 まあ、もちろん普通なら。
 だが、垂れ目の男は呆れたような顔をするだけで、別段気分を害している様子はない。もっと、できればこの珍妙な生き物の動作を観察してやろうと、もしかしたら考えたのかもしれない。

「そうか…でも、俺なら辛いと思う」

「へーぇ。そりゃあ、日本人だし?仕方ないでしょーね」

 殊更、馬鹿にしたように言い放つ異国の暗殺者に、青年は暫く困惑したような顔をしていたが、それでも毅然とした表情をして頷いた。

「いや、悪かった。そうだな、それはアンタの仕事なんだ。よく知りもしないで、口出しして悪かった」

 男の上に馬乗りになった姿では迫力はないものの、それでも、その言葉は男の中で眠る何かに微かに触れたようだった。

「今日は本当に悪かった。仕事の邪魔をしてしまっただろ?その…死ぬなよ」

「…え?」

「日本には、袖触れ合うも他生の縁って言う言葉があるんだ。せっかく、俺はアンタに出逢ったんだし、死んで欲しいとは思わない」

 青年は、優しい双眸でクスッと笑った。
 そんな優しさを感じたのは、両親が死んでから一度もないと、男はまるで遠い気持ちで思い出していた。日本人だと言うのに、青年の双眸は、遠い昔に見た懐かしさに似ている、と男は思う。

「もう一回笑ってよ」

「え?」

 青年の滲むように優しい双眸がふと、真摯さを取り戻して、その時になって漸く身体の上から退こうとしたのに、またしても男の大きな掌がそれを引き止めた。
 そして、呟く。
 どうか…と。

「ダメ?もう一回、今みたいに笑って欲しいんだけど…」

 驚くほど真剣に、男が首を傾げると、日本人の青年は困ったようにソッと眉を顰めてしまう。

「ああ、違う。そうじゃない、そんな顔じゃないんだ」

 自分がどんな顔で笑ったのか、まるで理解できない青年が困惑したように動揺する腕を掴んで、まるで貪欲に餌に貪り付こうとする肉食獣のような獰猛さで噛み付くように言うと、男は唐突に寂しそうな顔をした。

「ダメか。そうだよな、誰だってオレにそんな笑顔はくれない」

 両親だけがくれた、あの幸福だった無上の笑みを、まさか行きずりの他人がくれるわけがない。今見たのは、たまに見る夢の延長、幻覚に過ぎないと男の唇から溜め息が零れた。

「…馬鹿だな。笑顔ぐらい、誰だってくれるさ」

 青年が笑う。
 まるで慈悲深い、滲むような優しさで。
 ああ…と、男は思う。
 それは、きっとこの青年の内面が滲み出ているのだろうと。
 きっと、この青年は怖ろしくお人好しで、だから、こうして闇でしか生きられない、自分のような殺し屋に目を付けられてしまうのだ。

「ねぇ、キスしてもいいかな?」

「へ?いや、ちょっと待ってくれ。どうしてキスなんか…あ、ああ、そうか。アンタ、外国人だもんな。キスは挨拶か」

 突発的なおねだりに動揺したように目を白黒させたのに、この日本人は、どんな思考回路をしているのか、だが男にしては好都合の誤解で納得したように瞼を閉じるから…震えるように、男はそのやわらかな唇に触れるだけのキスをした。
 まるで初心な少年のようなキスに、男は内心で動揺したように舌打ちしたが、瞼を開いた青年があんまり優しく笑うから、それはけして間違いではなかったのだと思った。

「また、逢えない?」

 それは、どんなにベッドを共にしても翌朝にはあっさりと忘れてしまう男にしては珍しい、誘い文句だった。
 自分のことを殺し屋だと気付いているのだから、きっと、断られると言うことは判っている。判っているのに聞いてしまうのは、このぬくもりと優しさを、どうしても手離したくないと言う身勝手な我侭だ。

「…」

 青年は僅かに戸惑ったように男の碧眼を見詰めていたが、下唇を突き出すようにして頷いた。

「そうだな。また、逢ってもいい。だってさ、アンタがちゃんと生きているかどうか、判らないってのも気分悪いしな」

 まるで行きずりの他人なのに、どうして、この日本人はそこまで男の生命を気にかけるのか…男は、この出逢いはきっと、運命なんじゃないかと、未だに信じたこともない胡散臭い言葉を信じかけていた。

(運命か…ああ、それも悪くないな)

 手離してしまった幾つかの大切なものたちを、この時になって男は、忘れ去っていた遠い記憶を鮮やかに思い出していた。
 あんなに優しかった人たちを亡くして、男の心には大きな穴がポッカリと開いていた。
 その穴からは、いつだって凍えてしまいそうなほど冷たい風が吹き出ていて、女たちを抱いては温かくしていると言うのに、寒くて寒くて…安眠することなんかまるでなかった。
 しかし、今…腕の中にこの青年がいるだけだと言うのに、ひとつに繋がっているわけでもないのに、どうしてだろう?男は今、満ち足りた幸福を感じている。
 じんわりと、開いてしまった穴を温めるように包み込んでくるこの感触をなんと言うのか…それを男は知っていた。
 どんなに望んでも、一夜限りの女や男どもではけして感じることはなかった、それは…
 『優しさ』なんだろう。

「俺は、槙村光太郎って言うんだ。アンタは?」

 あの大好きな笑みを浮かべる青年を抱き締めるようにして、男は呟いた。
 充足感に満ち溢れた笑みを浮かべながら…

「オレはアシュリー。アシュリー・シェラードだ。ヨロシク、コウタロウ」

 思いもしなかった。
 人間のぬくもりが、こんなに温かいなんて。
 オレの中には、確かに矛盾なく孤独が居座っている。
 開いた穴の奥底を棲み処にして蹲る孤独。
 だが、それでも。
 オレはきっと、忘れないだろう。
 この出逢いを、そして…あの優しさを。
 それがあれば、オレは生きていける。

─END─

HOLY DOG (番外編)  -ヴァンパイアと真夜中に踊れ-

「つまり光ちゃんは、こう言うものじゃなくて有益な情報の方がいいってワケね」

 光太郎が常に人を食ったようなと言う表情をしながらも、オレはどこか不満そうな響きを語尾に宿して掌を握り締めた。

「当たり前だろ」

 何を言ってるんだ、当然じゃないかと、勝気そうな黒い瞳に強い意志を煌かせて、小柄で少年のような相貌の光太郎が不貞腐れたように言う。
 時は12月24日。
 巷ではクリスマスムード一色だというのに…

「全くロマンチックじゃないね。だから恋人の1人もいないんだよ」

 掌の中の小さな犬がくしゃみでもするんじゃないかという様子で所在なさそうに蹲っているから、オレはついつい意地悪く言ってしまうんだよ。

「勝手だろ!だいたい、何だよ。その犬の小物は」

 そうとしか表現のしようがなかったのか、ボキャブラリーの乏しい万年貧乏私立探偵であるオレの愛すべき人は、大きな掌の中にある小さな犬の置き物を、それでも少しは興味があるのか、じっと見つめながら唇を尖らせた。

「これはね。オレの生まれ故郷で〝魔除け〟の意味を持つ小物なんだ。生まれるとすぐに両親が赤ん坊の枕元に置いて、それを生涯持ち続けるんだよ。だからね、オレの故郷の出身者は必ずコレを持ってるんだ」

 掌の中で金色に煌く小さな犬が、公園の唯一の明り取りである街灯の光りを反射している。
 18金のそれは、思ったほど値打ちはない。

「それって両親の形見じゃないか。じゃあ、なおさら受け取れない」

 純粋で一途で、日本人らしい気質を持った光太郎は、そんな風に、殺し屋として生きるオレの過去を尊重してくれる。なけなしの両親の愛と言うものを、思い出せてくれたのも光太郎だ。
 頑なに拒む真摯な双眸を見ていると、だからオレは、思わず笑ってしまうんだ。

「なんだよ?」

 ムッとしたように眉を寄せる光太郎。
 あんまり愛しくて、どうしていいのかわからなくなる。
 …なんてことは、口が裂けても言えないけどね。

「これをクリスマスの夜にいちばん大切な人と交換するんだよ」

 訝しそうに眉を寄せたまま首を傾げるから、プレゼントって意味の重さがちょっとだけ増してしまったかもしれない。気付いたかな。

「クリスマスって、まだあと1日あるじゃないか。それに、俺なんかにくれるものじゃないだろう、それ」

 見当違いなことを呟いて、確信めいて言葉を選ぶ。

「だいたい、野郎からクリスマスにプレゼントをもらったって嬉しくともなんともないんだ。そう言う光りものはセカンドハウスにいるお姉ちゃんにでも持ってってやれよ」

 呆れたように溜め息をついて小さく笑う。
 本気でそう思ってるのかな?
 だったらちょっと、ムカツクんだけど。

「25日は仕事だからね。今日中に渡しておこうと思ったんだけど…聖夜の殺人犯からプレゼントは受け取れない?」

 途端に黙り込むと、光太郎はちょっと俯いてしまう。
 キュッと引き結んだ意志の強そうな口許は、僅かな動揺に少し震えていた。
 オレの職種を非難するのでも嫌悪するでもなく、ただ、良く判らないんだろうな。いつも物問いたそうに見上げてくるだけだから。
 信用して、信じられないでいる。そんな表情だからね。

「別に…そんな意味じゃないけど。そもそも、そんな大切なものをどうして俺なんかにくれるんだよ?違うじゃねーか」

 戸惑いに眉を寄せて唇を尖らせた光太郎は、納得いかないと言いたそうな双眸でオレを見上げてくる。
 その眼が好きなんだ。

「何が違うの?だってオレは光ちゃんの相棒じゃない。光ちゃんはずーっと探偵をするんでしょ?だったらオレもずーっと相棒だから。お近付きのシルシってやつv」

「何がお近付きのしるしだよ。いったい、いつお前が俺の相棒になったんだ!?俺は認めてないぞ」

 相変わらず率直に言ってくれる。
 傷付いちゃうじゃない。
 …なんてね。

「あ、そう。だったら情報もお預けかな?だってそうでしょ。相棒じゃないんだから」

 セコイ手だけど、これが意外と光太郎には効くんだよね。

「…うう。ホント、お前ってヤな奴だよな!…でも、やっぱりそれはもらえないよ」

 あら。
 今回はちょっと強情だ。

「どうして?」

「よくわかんねーけど、いらない」

「何だよそれ」

 ちょっと納得がいかないんですけど。
 仏のアシュリ-さまでも、納得いかなかったらムッとするよ。
 説明を要求するように覗き込めば、途端に不機嫌そうに眉を寄せて視線を外されてしまった。

「いらないっつったら、いらねーんだよ」

 片手でオレの身体を押し退けるようにして道を開くと、光太郎は無言のままで振り返らない。
 どうしちゃったんだろうね、こんな簡単なことなのに。
 何を悩んでるんだろう。
 ふと、光太郎がオレに振り返り、そして握っているオレの拳に目線を向けた。
 暫くジッと見ていたけど、なぜかオレを睨み付けてからフイッと外方向いて行ってしまった。

「……」 

 え~っと。
 成す術がないって日本語があるけど、まさにそんなカンジ。
 …と言うか、今日初めて光太郎って人間のことがわからなくなった。いつもは手に取るようにその考えがわかっちゃうんだけどねぇ。
 う~ん、ちょっとカルチャーショックかな☆

◇ ◆ ◇

 アシュリ-をその場に残して、光太郎はむかっ腹を立てながら広い公園を横切っていた。
 何がそんなに腹立たしいのか、決まっている。
 ワケが判らないことだ。

「どうしてアシュリ-の奴はいつだって突然現れて、ああ言うワケの判らん行動を起こしたがるんだッ」

 自分の好みを知ってるからこそ、何やらワケの判らない行為をするのだろう。
 どうしてバレるのか、光太郎はそのことの方が不思議で仕方なかった。

「…」

 ピタリッ、と足を止める。
 暫く俯いて、足元に転がる小石を眺めながら何事かを考えていた光太郎は、不意に顔を上げると不機嫌そうに口元をへの字に曲げる。

「ヤツが俺の好みを熟知してるってことがムカツクんだよな。ってことはつまり、俺もヤツのことを知ればいいんだよ」

 うん、そうだと1人で納得した光太郎は、何かを思いついたように決心して携帯電話を取り出した。
 使い古した古風な機種は、それでもしっくりと手に馴染む。
 もう押し慣れた登録キーを押してどこかに電話をかける。
 と。
 ほどなくして誰かが出た。

『もしもし?』

「アシュリ-か!?」

『…』

 誰からの番号か知っている分だけスラスラと流暢な日本語で応えた、たった今別れて来たばかりのアシュリ-は、それでもその勢いに面食らっているのか、少し無言になっている。

「もしもし?もしもーし!」

『聞こえてるよ。で?どうしたの。プレゼントを受け取る気になった?』

「お前さ、明日は仕事だって言ってたよな。何時からだ?」

 唐突の質問に暫し沈黙したアシュリ-はしかし、すぐに『PM11:30ぐらいかな…』と答えた。

『それがどうかしたの?』

「明日、夜の11時にこの公園に来い。いいな!」

『うん。でもどうして?』

 それには答えずに電話を切る。
 よし、これで時間ができた、と光太郎は小さな携帯電話に向かって頷くのだった。

◇ ◆ ◇

「これくらいの、金色の犬なんだけど…」

「申し訳ございません、お客さま。そのような商品は当店では取り扱いがございませんので…」

 何軒目かの宝石店からの返事も明るくなかった光太郎は、疲れたように溜め息を吐いて豪奢な硝子張りのドアを押し開けてその店を後にした。

「図書館で調べてもあんな風習の国ってなかったからなぁ。どこか、すっごく小さな村なんだろうな、アシュリ-の生まれ故郷ってヤツは」

 結局、光太郎の出した答えは〝アシュリ-の秘密を探る〟だった。
 聞いた話でしか情報を得ることのできない鉄壁のアシュリ-の秘密、手始めは〝魔除けの金の犬〟だ。
 宝石のようにも見えたあの犬の特徴を言えば、大概の宝石商なら何かを知っているんじゃないかと思ったようだが、やはりそう話は簡単に進まないようだ。

「やれやれ、明日の11時までには何とかしないとなぁ…」

「何をなんとかするのよ?」

 不意に、背後からリンッと転がる鈴のような可愛らしい声で憎たらしく声を掛けられて、光太郎は驚いたように振り返るとその先に見慣れた美人を見つけた。

「すみれ」

「こんな街中で難しい顔してるから、きっと貧乏探偵の光太郎だとは思ったのよね。な~に?今度の依頼は宝石に関わるの?イヴだって言うのに大変ね」

 お喋りな彼女は光太郎の元同級生であり、幼馴染みの御影彰の恋人でもある滝川すみれだ。
 今日はどうやら1人でショッピングを楽しんでいるようだ。

「お前こそ、彰はどうしたんだよ?」

 無粋なことを率直に聞いてくる、無神経なところのある光太郎にすみれは可愛らしくニッコリと笑って小首を傾げる。その仕草は無害な森の小リスのようで、はっきり言って可愛い。

「シ・ゴ・ト・よ!決まってるじゃない。こんな可愛いあたしを放っておくなんて言ったら、あの彰にはそれしかないわ」

 至極当然そうに笑って頷くすみれの、彰はどこに惚れたと言うのか。
 光太郎は高校2年の春からの謎にまたしても首を傾げたくなったが、今はそれどころじゃないことを思い出して肩を竦めて見せた。

「別に仕事ってワケじゃないんだ。ちょっと、個人的に調べてることがあってさ…」

「あら、何よ?今、ヒマしてるから付き合ってあげてもいいわよ」

「断る!…と言いたいところだけど。お前さ、これくらいの金色の犬について知らないか?民俗的なことだと思うんだけど…」

「民俗的で金の犬?」

 ミニスカートからすらりと伸びた長い足をブーツで包んだその出で立ちに、彼女連れの男も振り返るスタイルの良さは、そこらのヘタなアイドルよりアイドルらしくて可愛いと思うのは光太郎だけではないだろう。

(これで性格が良ければなぁ…)

 ピンクのグロスにテカる可愛らしい唇をツンッと尖らせたすみれは、暫く何かを思い出そうとしているように小首を傾げていたが、ニコッと笑って頷いて見せた。

「それならたぶん、富子さんに聞いたら判ると思うわ。あたしの行き付けのブティックのオーナーなの」

「ブティックのオーナーが知ってるのか?」

「富子さんをバカにしちゃダメよ。けっこう、物知りさんなんだから」

 そう言ってすみれはしたり顔で微笑んだ。

◇ ◆ ◇

 瀟洒なブティックのドアを潜ることにやや抵抗感を感じながらも、光太郎は渡瀬富子と紹介されたそのブティックのオーナーと対面することができた。40代半ばの、なるほど、やり手のキャリアウーマンと言った感じでセンスの良いご婦人だ。

「金の犬?あら、それはきっと〝ホーリードッグ〟のことね」

「ホーリードッグ?」

 すみれと共に店内に通され、来客用の応接室の椅子に腰掛けた光太郎が首を傾げて聞き返すと、ウェッジウッドのティーカップに薫り高い紅茶を注ぎながら、彼女は目鼻立ちのすっきりした顔に品の良い笑みを浮かべて頷いた。

「ええ、それほど有名ではない村の古くから伝わる慣習に、確かそんな話があったわ」

「その村を知ってますか?」

「少しね。フィンランドの北部にある村だったはずよ」

(フィンランド…アシュリ-の生まれ故郷はフィンランドだったのか)

 少しだけ、鉄壁に護られた謎の殺し屋の秘密が暴かれた。
 ほんの、蟻が通る道よりも小さな、蜘蛛の糸程度の僅かな綻びではあるのだが。

「本当はね、その犬は木でできてるのよ。でも、いつの頃からか金で作るようになったらしいわ。詳しい事情は知らないのだけど、いいのかしら?」

「あ、はい。構わないです。それで、本当はどんな意味のあるものなんですか?」

「ええっと…」

 ティーカップをテーブルにそっと置くと、富子はトレーを傍らの椅子に置いて腰掛け、古い記憶を思い出そうとするかのように口許に人差し指を当てて目を閉じた。

「あれね、富子さんの癖なのよ。思い出す時の」

 どうでもいいすみれの情報に苦笑いしながらも、光太郎はせっかく淹れてもらったお茶に口を付けた。砂糖も何も入れていないというのに、芳醇な香りが甘味を残して咽喉を心地よく滑っていく。
 この紅茶は何と言う種類なのだろう?

「思い出したわ。確か、その村に生まれた赤ちゃんにお父さんとお母さんが贈るお守りだったはずよ。不思議な話でね、その村では子供が1人しか生まれないの。そう言う体質なんでしょうね、きっと。それで、お父さんとお母さんの金の犬を溶かして1つの犬に作り直して、生まれてくる赤ちゃんにプレゼントするって言う風習だったはずよ」

「両親の犬を溶かして…って。それじゃあ、とても大切なものなんですね」

「そうね。でも、まだ続きがあるのよ。その犬を交換するって話…確か、クリスマスの夜に交換すると幸福になるって言い伝えじゃなかったかしら?」

「幸福になるんですか?」

「ええ。確かそうよ。お守りだもの、強運になるんじゃないかしら」

「強運…」

 富子が笑うと、光太郎は何かを考え込むように俯いた。

(聖夜の殺人犯からプレゼントは受け取れない?)

 いつもは憎たらしいほど人を食ったような笑みを浮かべているその目が、一瞬だけ不安気に揺れる瞬間だ。気にしていない…と言えば嘘になるけど、人間は人それぞれに生きる道がある。
 たまたまアシュリーの選んだ道は、一般人では理解ができない道ってだけのことだ。
 それだって何かしらの理由があるのかもしれないし…

「聖夜か…」

「え?」

 傍らに座っているすみれが急に黙り込んだ光太郎を訝しそうに見つめていたが、突発的な発言に、今度は困惑したように眉を顰めて首を傾げた。

「悪魔だって逃げ出す夜だ」

「んもう!何を言ってるのよッ」

 訳が判らずに腹を立てるすみれを無視して、光太郎はまたもや突然婦人の手を取ると、思わず強く尋ねていた。

「その犬を手に入れるにはどうしたらいいんでしょう!?」

「コラッ!」

 思い切り、容赦なくすみれに後頭部を叩かれた光太郎が思わずうめいて手を放すと、ビックリしたように目を開いていた富子はクスクスと笑ってティーカップを手にした。

「残念ながら手に入れる方法はないのよ。現地に行くか、レプリカを作るしかないわよね」

「レプリカって…そう言えば金なんだもの。作っちゃえばいいのよ」

 すみれがポンッと拳で掌を叩くと、富子は困ったように柳眉を顰めて首を左右に振った。

「でも、型がね。日本にあるかどうか…あっても作るには日数が必要なのよ。もちろん、槙村さんは明日までに欲しいんでしょう?」

「はい。やっぱり、無理でしょうか」

 少し落胆したように眉を寄せる光太郎に、すみれがムッとしたように唇を尖らせてヘッドロックを仕掛けてくる。

「な、何するんだよ!すみれッ」

 人前で…と言おうとする光太郎の語尾に被さるようにして、彼女は綺麗に整えた眉を逆立てて怒鳴った。

「何を諦めてるのよ、意気地なしね!どうしても欲しいんじゃないの!?だからわざわざ、こうして調べてるんでしょ!大丈夫よ!きっと作ってくれるお店だって見つかるわ。あたしにまっかせなさいッ」

 誰もどうしてもだとか諦めるとかは言っていないのだが、すみれの強気の発言は光太郎を勇気付けるには充分なものだった。

「ありがとう」

 素直に頷く光太郎とお姉さん気取りで満足そうにニッコリ笑うすみれを、微笑ましく交互に見ていた富子は手にしていたソーサーとカップをテーブルに置いて口を開く。

「無理じゃない…って言えば嘘になるけど、そうね。私も知り合いに当たってみましょう。無理かもしれないけれど、諦めるのはその時にしましょうね」

 軽くウィンクして、〝ちょっと待っててね〟と富子は立ち上がるとディスクに行って受話器を取り上げた。
 知り合いの彫金師に訊ねる富子の表情は次第に暗くなり、光太郎とすみれは祈るようにそんな彼女の背中を見つめていた。イライラとしたように身振り手振りで説明していたが、不意に首を左右に振ると溜め息を吐いて受話器を置く。
 格闘すること凡そ30分、色よい返事はあったのだろうか?
 険しい面持ちで振り返った富子は両腕を組むと、神妙な表情のままで息を飲むようにして待っている二人に口を開く。

「OKよ!明日の夜7時までに何とかして頂けるんですってッ」

 途端にニコッと笑う。
 この富子と言う婦人は、ちょっとお茶目で憎めないところもあるようだ。
 二人はパァッと表情を明るくし、お互いに顔を見合わせて頷きあった。
 そして。

「もう!富子さんったら意地悪なんだからッ。でもでも、良かったわね!…光太郎?」

 自分のことのように喜んでいたすみれはしかし、不意に光太郎の表情がいささか曇っていることに気付いて首を傾げた。

「…いや、何でもないんだ。良かった、手に入る。ありがとうございます、渡瀬さん」

 立ち上がると深々と頭を下げて礼を言う光太郎に、富子は何事かに気付いたように彼を見上げて眉を顰めた。

「もしかして、どなたかと、きっとその金の犬をプレゼントする方と待ち合わせをされてるんじゃなくて?」

 顔を起こした光太郎は何も言わずにニコッと笑って見せたが富子は労わるようにソッと微笑んだ。

「お時間、何時なの?」

「…夜の11時です。大丈夫、俺はウンがいいから。きっと間に合うと思います」

 光太郎が頷いて答えると、暫く時間を計算していた富子はすぐに首を左右に振って眉を寄せた。

「いけないわ。お店に届けてもらうと時間のロスね」

「あの。その彫金師さんのアトリエを教えて頂けますか?もし良かったら俺、取りに行きたいんです」

「そうね。その方がいいかもしれないわ。場所は…」

 ディスクに行ってメモに住所を書き込んだ富子がそれを破って手渡しながら、嬉しそうに受け取る光太郎に軽くウィンクして見せた。

「電話を入れておきますね。きっと、その幸せな方と素敵なクリスマスを迎えてね」

 祝福の言葉に、なぜか盛大に照れる光太郎の脇腹を突付いてすみれが苦笑する。
 こうして、〝アシュリ-の秘密を暴く〟と言う志から大いに逸れた光太郎の野望のようなものは、何となく実を結んで形になろうとしていた。
 たとえ多くの人の助けを借りることになっても、光太郎はその〝ホーリードッグ〟と呼ばれる金の犬が欲しかった。
 その希望は間もなく叶えられようとしている。

◇ ◆ ◇

「いつの間にフィンランド出身の恋人ができたのよ?隅におけないんだから…お尻に敷かれちゃうぐらいの優しさを持ってあげるのよ」

 初めて知る光太郎の恋人(?)のことを想うすみれに景気付けられて、見送られたタクシーで彫金師の元に向かった光太郎は、やがてビルの間で小ぢんまりと経営している小さなアトリエに到着した。
 硝子張りの扉から見えるアトリエ内では数人のスタッフがそれぞれに何かの仕事をしていて、声を掛けて入って来た客に気付く者が1人もいないことから、彼らの真剣さが伝わってくる仕事場だと光太郎は感じていた。
 適度の緊張感が行き渡る室内は、なぜかいっそ、気分に開放感が生まれてしまうのは光太郎だけだろうか。

「おや、君が槙村くんかな?渡瀬さんから電話で伺っているよ」

 不意に衝立に囲まれた奥からひょっこりと顔を覗かせた老人は、ずれた眼鏡を指先で押し上げながら光太郎の姿を見止めて温厚そうな双眸を細めて声を掛けてきた。
 空調の整った室内でダッフルコートを脱いで腕に掛けていた光太郎も、その老人に気付いて軽く頭を下げて挨拶をする。

「宿麻先生!〆切は毎分100キロ(!)の速さで後方から追い立てて来てるんすよ!口を動かす時は手も動かす!ハイ、君も先生の所まで行って下さいね」

 木目調のやわらかさで整えられた室内はしかし、きっちりとした機能性に優れていて、貧乏探偵としては自分もこんな事務所に引っ越したいものだと内心で思って小さく苦笑した。そんな光太郎は、そのアトリエには不似合いなほど派手な出で立ちをした青年に促され、奥にいるこのアトリエのオーナーである宿麻静氏と対面した。
 その手には気を利かせた富子が送ってくれたのだろう、プリントアウトされた金の犬の写真があらゆる角度で写っている紙が握られていた。

「あの、この度は急なお願いをしてしまい…」

「ああ、堅苦しい挨拶は抜きにしておくれ。わしゃ、もう歳でなぁ。そう言うのを聞くと肩が凝っちまうんだわ」

 コキコキとわざとらしく大袈裟に肩を上下させ、愛弟子らしき派手な青年に睨まれた宿麻氏は肩を竦めながら舌を出して光太郎に片目を瞑って見せた。
 このひょうきんな老人を光太郎はすぐに気に入った。

「この写真を見たんじゃがな。これは質素な作りに見えて意外に手強い相手じゃぞい。ここら辺りが小器用に表情を付けとる。金の性質を熟知した上での細工物じゃよ」

「難しいですか?」

「うむ、難しいじゃろうな」

 プリントアウトされた紙を眺めながら頷いた老人はしかし、愉快そうに笑って口許を飾る白い髭を扱き、ご機嫌そうにもう一度頷いた。

「じゃが楽しいぞい。ご覧、この綺麗な流線型を。こんなにも小さいくせに、こやつは見事に自分の存在を主張しとるじゃろう」

 ワクワクしている子供のような素直さで作業に取り掛かった宿麻氏に礼を言って、光太郎は青年が用意してくれたパイプ椅子に静かに腰を下ろすと、その工程を見守ることにした。
 時間は泣いても笑っても残り20時間弱しかない。
 後はこの老人に全てを託すしかないのだ。

「槙村さん。今夜は徹夜になるだろうから、何でしたら2階で休んでててもいいッスよ」

 チュインチュインと金を削る音に紛れるようにして例の派手な青年が声を掛けてくれたが、光太郎はそれを丁重に辞退して宿麻氏の傍らに、邪魔にならないように腰掛けて静かに見守った。

「お前さん。これを贈るのは大切な人なんじゃろうな」

 ポツリと老人が呟いて、光太郎は驚いたように目を見張った。

「いいえ、まさか。あんなヤツっ!」

 思わず本音で言ったはずなのに、まるでなぜか見透かすように老人は小さく口許に笑みを浮かべ、手を動かしながら首も左右に動かした。

「いいんじゃよ、恥ずかしがらんでも」

 ふぉえふぉえっと笑う老人の傍らで、小さなストーブが炎を燈している。シュンシュンッと薬缶から湯気が上がり、夜更けの静まり返るアトリエを温もらせているようだった。 
 そんなんじゃないのに…言外に呟いて、老人の向こう側に見える窓に気付いた光太郎は、ちらちらと舞う白い氷に気が付いた。

「雪だ…」

 思わず声が出ると、宿麻氏はふと、ずり下がる眼鏡の縁を押し上げながら窓の外を覗き込むようにして見上げ、皺に埋まった目をショボショボとさせながら金の犬の形にもなっていない塊を抓んで見下ろした。

「ふむふむ、祝福の贈り物じゃ。きっとこの金色のちぃこい犬は、お前さんの大事なお人の所に駆け出して行くんじゃろうて」

 決まりきったように言われて、ソイツは男なんですよとは、さすがの光太郎も口が裂けても言えないなと思った。ただただ苦笑するしかない。
 暫く無言が続いた。
 何もせずに工程を見守っていると、光太郎の脳裏にはあらゆる疑問を叫ぶ声が渦巻くようになった。
 それは…

(どうして俺は、この金の犬が欲しいんだろう…)

 アシュリーがいつも着ているオフホワイト色をしたコートのポケットから取り出した黄金の犬は、豪華なのに、どこか質素で寂しそうだった。
 大きな掌には不似合いなほど小さい犬は、主の思惑を余所に、無頓着にお座りをしていた。
 それだけだったら、きっとこんなに欲しいとは思わないだろう。
 どこかを旅していた殺し屋が、ほんの気紛れで手に入れた土産品に過ぎないだろうと思っていたからだ。

(でも、違ったんだ)

 殺し屋はいつになく優しい双眸をして、遠い昔に死んでしまった両親の形見だと言う代物を、無造作に取り出して『プレゼントだよ』と言ったのだ。

(普通、両親の形見を得体の知れん奴に気安くやるか!?恋人…ってならまだしも、相棒に認めてもいない俺なんかに)

 質屋にでも売っちまったらどうするんだよ…呟きは声にはならず、光太郎は目の前でほんの少し形になった金の犬に同意を求めるように小さく笑った。

(アイツは、言い出したら利かない奴だから。それに、クリスマスに交換するといいことが起こるって言ってたもんな)

 深い意味になど全く気付くことのない光太郎は、純粋に富子たちの言葉を信じていた。
 良いことが起ればいい…純粋な願いにも似た思いは、アシュリーの職種をいまいち理解していない光太郎にとっての、精一杯の理解であるつもりだった。
 【殺し屋】は【死】と常に背中合せで、飄々としているアシュリーにとっては何でもないことでも、平和な日本に生きる光太郎にとってはオブラートに包まれたような現実だ。半透明で、良く判らない、しかし死は確実に理解している。

(あの馬鹿…よりによって聖夜なんかに仕事をしなくてもいいじゃないか。それでなくても危険な仕事だってのに…)

 死ぬかもしれない。もしかしたら、今この時でも。普通の人間よりもその確率が高いことぐらい、平和ボケしている光太郎にだって判る。

(今回だけは金のお犬さまに、この俺さまが仕方なく!その無事を願っててやろう)

 誰に言うともなく心で偉そうに呟いて、光太郎は金の塊を眺めていた。

◇ ◆ ◇

 雪は夜半過ぎから降り出して、夜明け前に珍しく東京に降り積もっていた。
 根性ある宿麻氏はとうとう一睡もすることなく、未だに小さな犬と格闘している。しかし、その長かった戦いも、もう時期終焉を迎えようとしていた。

「昼には溶け出すと思ってたんだけどなぁ…槙村さん、こりゃあ渋滞は必須だぜ」

 派手な助手が窓の外に降り積もりつつある雪を眺めながら、ダッフルコートを持ち上げようとしている光太郎に肩を竦めてそう言った。

「はぁ。まあ、間に合わなかったら走って行きます」

 無謀とも取れる発言だが、皆の手助けでここまで来たのだ、後一息は自分の足で勝ち取らねば申し訳ない。
 律儀な光太郎らしい発言に、昨日会ったばかりの助手は感心したように振り向いて、小さく笑っている童顔の彼にウィンクして見せた。

「頑張れよ」

「ありがとう」

(…でも、マジでヤバイかも。走りには自信あるけど…)

 記録的、とまではいかないにしても、雪は光太郎の思惑を無視するように静かに降り続ている。
 時刻は午後7時を少し回ったところだ。
 車で飛ばして1時間ほどの距離だが、この様子では3時間はかかってしまうかもしれない。
 貧乏探偵にしては珍しく奮発したプレゼントも、今夜渡せなければ全てが無駄になってしまうのだ。あの、苛々するほどのんびりしている殺し屋も、こと、仕事になると人が変わったようになるから時間を過ぎても待っている、なんてことはないだろう。
 外の寒さを物語るように息で曇る窓の外を眺めながら、光太郎は焦燥感を感じて唇をキュッと噛み締めた。

「よっしゃ!できたぞい!ほれ、如月。可愛くらっぴんぐしてやるんじゃぞい」

「はい!」

 助手が手を出そうとしたが、光太郎は慌ててそれを止めると、腕時計を指差して首を左右に振った。

「せっかくの申し出なんですけど、もう時間もないし。それに、そんなこと気にするような奴でもないんです。ありがとうございました!代金は後ほど指定の口座に振り込ませてもらいます!」

 早口で言うと、慌てて金の犬を掴んだ光太郎はそのままアトリエを飛び出してしまった。
 口よりも素直な身体は、本当はすぐにでも駆け出したいと思っていたのだろう。

「あ!槙村さん!コート、コートッ!!…って、行っちゃったよ。ったく、大丈夫ッスかねぇ?」

 助手の如月が黒のダッフルコートを片手に、腰に手を当てて振り返ると、年輪を刻んだ深い皺に埋もれた双眸を閉ざして宿麻氏は静かに微笑んでいた。

「大丈夫じゃよ。マフラーはしとったからの。タクシーを拾うて行くじゃろう」

「だといいんッスけど」

 如月が幾分か心配そうにアトリエの扉に目を向けたが、大きく伸びをして凝りを解す宿麻氏は首を左右に振って軽く運動し、何でもないことのように呟いた。

「愛する者に向ける情熱は、今時分の若者ならば雪すらも溶かすじゃろうて。心配するに及ばんよ」

「愛…って、マジっすか!?マジで言ってるんすか、宿麻先生!?」

 ふぉえっふぉえっと笑ってはぐらかす宿麻氏に、思わず噴き出しそうになっている如月はその顔を覗き込んで真意を読み取ろうとしたが無駄だった。
 年輪を刻んだ皺は伊達や酔狂ではないのだ。

「愛じゃよ、愛!作品にかける愛も忘れてはいかん」

「…仰る通りで。じゃ、次の愛に取り掛かりますか?」

 意地悪く言う如月に、さすがの宿麻氏も参ったと言うように首を左右に大きく振って苦笑した。

「勘弁しておくれ。老体になれば愛は1日1つでいい。身がもたんでなぁ」

 大きな欠伸をして、日本のサンタクロースは2階に続く階段に姿を消すのだった。

◇ ◆ ◇

 思った以上の混み具合で、光太郎は何度も腕時計に視線を走らせながら、苛立たしそうに窓の外の長い車の列を睨み付けていた。

「お客さん。この通りは平日でも混むんですよ。なかなか動いてくれなくて…」

 不機嫌そうな乗客に愛想良く語りかけるドライバーにも、光太郎は上の空の生返事しか返せない。

「雪がいけないんでしょうねぇ。どいつも用心深くて」

 お喋りが好きなのか、ドライバーは遅々として進まない車のハンドルに暢気に凭れ掛かりながら、バックミラーで光太郎の様子を覗っているようだ。
 彼はもう、そんなことすらも気にならなくなっていた。
 時計を見ると、じきに10時30分を回ろうとしている。約束の時間は11時だ。
 間に合わないかもしれない。
 不意にそんな予感が首を擡げ、余計に光太郎をソワソワと落ち着きなくさせてしまう。

 (ここから走ったら、もしかしたら11時に間に合うかも…)

 唐突にそう思うと、光太郎は居ても立ってもいられなくて、窓の外を見た。コートを忘れていることはタクシーに乗った時点で判っている。マフラーと薄い上着だけでしんしんと降り続ける雪の中を、走ってあの約束の公園まで行けるだろうか…?

(…どうせ駄目でもともとだし、行こう)

「すみません、ここでいいです」

「え!?まだ目的地までずいぶんありますよ?」

 親切な運転手が気を利かせて促したが光太郎は小さく笑って首を左右に振ると、なけなしの千円札を数枚渡してタクシーから飛び降りた。
 途端にビュウッと肌を切るように冷たい風が吹き付けて、思わず首を竦めたが、もともとの気性の激しさでまっすぐに前を睨み付けると、とうとう光太郎は走り出した。
 息が驚くほど白く、街路樹をしならせる雪がぼんやりと光る道路は、恋人たちが寒さから逃れようとするように寄り添いあっている。その間を擦り抜けるようにして走りながら、光太郎はどうしてこんなにも自分は必死になれるんだろうかと、純粋に驚いていていた。
 毎日が退屈だった。
 何かに、仕事にも、こんな風に情熱を傾けることなんてなかった。

(アシュリーと出会って、俺は何かが変わったのかな…)

 息苦しさに眉を顰め、肩で息をしながら立ち止まって少し呼吸を整えた光太郎は、ポケットに突っ込んだ手に当たる小さな物体に気付きそれを握り締めると、口許に小さな微笑を浮かべた。

「頼んだぜ、聖なる犬!これでアシュリーと逢えなかったら大笑いだけど、ヤツの手に渡ったら、きっと護ってやってくれよ」

 聖なる犬に殺し屋の安全を託すと言うのも変な話であるが、それで勇気付けられた光太郎はもう一度大きく深呼吸すると走り出す。
 寒さすら感じない、そんな高揚した気分だった。

◇ ◆ ◇

 公園に着いたとき辺りはシンッと静まり返っていて、街灯も明かりを落としていた。
 時刻は11時30分を過ぎ、そろそろ恋人たちは温もりを求めてホテルに入る頃だ。
 間に合わなかった。
 殺し屋であるアシュリーが、依頼主との時間を破るはずもなく、光太郎は肩で息をしながら途方に暮れたように周囲を見渡した。
 いつも、出会う時は決まって座っているベンチには雪が積もっていたが、つい数十分前には誰かが座っていたと思える痕跡がある。

「来ていたのか…そうか、そうだよな」

 暗い公園内、肩で息をしている光太郎は大きく息を吐くと、そのベンチまで歩いて行ってその傍らにしゃがみ込んだ。

「待ってるよなー、このクソ寒いのに。あいつは、そう言うところは律儀だから」

 オフホワイトのコートを来た金髪の大男は驚くほど従順だ。
 長身で甘いマスクの顔立ちは女が、ともすれば男でさえ放ってはおかないほどの美形だと言うのに、どうした拍子でか光太郎を気に入り、日本に来れば滞在中の殆どを共に過ごしている。
 邪険にしても犬のように懐いてくるのだ。
 ふと、思い出したようにポケットから金の犬を取り出した。

「お前のご主人様は、どうやら仕事に行ったみたいだ。残念だったな…ごめん」

 ポツリと呟く。
 指と指の間で、所在なさそうに輝く金の犬は、アシュリーが見せてくれたものよりも強く輝いている、当然だ、新品だから。

(すみれや渡瀬さん、宿麻さんには悪いコトしちゃったなぁ…)

 申し訳なくて俯いてしまう。
 息が白くて、そろそろ冷えだした身体に寒気が襲ってきても、光太郎は立ち上がる気になれなかった。

「お前にも悪いコトしちゃったしな」

 金の犬は無言で何も語らない。
 もし、これでアシュリーに逢えなくなってしまったらどうしよう。
 不意に、何故か唐突にそんなことが脳裏に浮かんでくる。

「なに、考えてるんだ。俺…」

 そんなこと有り得るはずがないじゃないか、と呟いてみても、悪魔のように心に入り込んできた不安は容易に消えてくれそうもない。聖夜に犯す大罪は、やはり許されることもなく、こうして僅かな願いすらも聞き届けてはもらえなかったのだ。 
 金の犬を握り締めて、光太郎は凍える拳に白い息を吐きかけた。

「きっと大丈夫だ。俺はきっと、ヤツの感傷的な部分に毒されちまったんだ!」

 吐き出すようにそう言って、しんしんと雪を降らせている天空を見上げた。
 どうか。
 未だかつて、神仏と言ったものに縋ったことのない光太郎は、ポツリと口を付いて出た言葉に驚いたように目を見開いた。
 しかし。

「許して下さい。どうか、ほんの少しでいいから、あいつに情けをかけてください。どうか、あいつが死にませんように。明日の朝も、あの人を食ったように笑うあいつに会えますように…」

 まるで堰を切ったように言葉は奔流となって口を付くが、現実的に漏れたのは、静かな、淡々とした切なる願いだった。
 雪が一片、また一片と光太郎の暖かな頬に降り注いでは、その温もりに溶けて玉を結び、流れてゆく。まるで、泣いているかのように。
 誰もいない静かな公園で、光太郎の言葉は夜空に吸い込まれ、この世の何処かにいるのかもしれない何者かのところに届くように、その切ない願いはやがて風になった。
 漸く、もう本当にアシュリーがいないのだと自分に言い聞かせて、光太郎は愚図る両足を叱咤しながらのろのろと立ち上がった。
 このまま帰ってもどうせ寒い我が家が待ってるだけなら、ちょっと散歩でもしてみようか…そう思いながら。

◇ ◆ ◇

「何を泣いてるの?」

 不意に背後からかかった聞き慣れた声に、光太郎は最初、信じていなかった。
 寒さからくる幻聴なのだと、都合の良い空耳を無視しようとしたが…

「わ、凄く冷たくなってるじゃない。大丈夫?」

 光太郎を立ち上がらせた人物は、オフホワイトのコートに冷たくなっている身体を包み込むようにして抱き締めてきた。ホッとするような温もりは、それが幻覚でも幻聴でもないことを意味している。

「…って、アシュリー!?お前、どうしてここに…」

「どうしてって…ヘンな人だね。自分で来いって言ったんじゃない」

「そりゃあ、言ったけど…」

 なぜこの時間にここにいるんだ?仕事はどうしたんだ!?
 ぐるぐる脳裏に渦巻く質問は要領を得ず、寒くてかじかんでしまった口も思うように開かない。

「30分過ぎても来ないからさぁ、てっきりフラれたんだとばかり思ってた。で、ちょっと冷えたから缶コーヒーを買いに行ってたんだよ。この公園って不便だよね?缶コーヒーを買うために通りを渡ってさらに歩いて、結局コンビニまで行かないとないんだから…って、どうしたの?」

 自分勝手に不機嫌そうに話すアシュリーの聞き慣れた声と、黒のセーターに包まれた胸から聞こえてくる規則正しい心音は、やがて光太郎に落ち着きを取り戻させ、先ほどの不安を消し去るには充分効果的だった。
 大丈夫、コイツは殺しても死なない。
 その安堵感から溜め息を吐いて、いっそのことこのまま抱きついておこうと、天然カイロのように抱き締めた光太郎をアシュリーは訝しそうに見下ろしてきた。

「なんでもねーよ、ちくしょう!またお前にしてやられた」

「はぁ?」

 訳が判らずに間の抜けた声を出すアシュリーに、光太郎はその胸元から笑いながら顔を上げて、その雪明りにぼんやりと浮かぶ綺麗な顔を見上げて小さく呟いた。

「お前が死ぬんだって思ったんだ。今夜の仕事で」

「? なに言ってるの。死なないよ」

 縁起でもないなぁ、と、同じく微笑みにエメラルドの双眸を細めたアシュリーも、降り注ぐ雪の中から光太郎を見下ろしてくる。

「あの犬がいただろ、まだ持ってるか?」

 唐突に訊ねられて、光太郎を抱き締めるように包んでいるコートのポケットから金の犬を取り出しながら、アシュリーは訝しそうに眉を顰めて頷いた。

「もしかして、やっと受け取る気になった?だから電話してきたの…」

 そこまで言いかけて、アシュリーはちょっとポカンッとした。
 次いで。

「わお。クリスマスの奇跡かな?」

 嬉しそうに微笑んだ。
 光太郎の手に握られている金の犬を見て、の発言だ。

「大事にしろよ。いろんな人の思いが込められてるんだ。お前が幸せになるように、無事でありますように…ってな!」

 先ほどの反動もあってか、やたら不機嫌そうに語尾を強めて言う光太郎を、金の犬ごと抱きすくめたアシュリーが嬉しそうにその頬にキスをした。

「うん。きっといちばん強い思いは光太郎だね。だってここまで届けてくれたじゃないか。コートを着るのも忘れて」

 指摘されて、キスのせいもあるのだが、照れた光太郎は赤くなりながらポリポリと頭を掻いたが、敢えて反論はせずにそ知らぬ顔を決め込んだ。

「大事にするよ。きっと手放したりしない」

 ぎゅっと抱き締められて、何だか自分がそう言われてるような気分になった光太郎は照れ臭そうに鼻の頭を掻いて頷いていたが、それでも冷え切っていた身体にじんわりと広がる温もりに、まあいいかと成すがままにされていた。が。

「ちょっと待て!き、キスだけはヤだぞ!誰が見てるとも限らないだろ!?屋外じゃ…」

「ええー、誰がいるの?こんな雪の中に」

 馬鹿は二人だけ。
 そうは思っても、やはり屋外では抵抗がある。
 そんな風に嫌がる光太郎の気持ちを慮ったかどうかは判らないが、アシュリーは光太郎が驚く暇もないほどの素早さでコートにすっぽりと包み込むと、そのまだ何か言いたそうにしている唇に口付けた。やわらかな唇と舌の感触は、少しだけ光太郎に安心感を与える。
 大丈夫だと。
 もしかしたらアシュリーは、先ほどの光太郎の願いを聞いていたのかもしれない。
 だからこそ、今夜は必要以上に抱き締め、口付けるのだろうか。
 今夜は不思議な夜だと、光太郎は思っていた。

◇ ◆ ◇

 暫くして、胸元に頬を当てていた光太郎は不意にアシュリーを見上げ、ずっと聞きたかった質問を口にした。

「今夜は仕事だったんだろ?」

「うん。でも、ほら。雪でしょ?こんな日は殺し屋だってお休みだよ」

「…そっか。それもそうか」

 あれほど恨めしく思っていた雪が、結局、いちばんの救世主だったというわけだ。

「ずっと心配してくれてたんだね。気付かなかった」

「馬鹿言え。誰がお前の心配なんかするかよ。いいか、俺はいつかきっとお前の謎を暴いてやるんだ。だから、今死なれちゃ困るんだよ。俺さまの為に決まってるだろ?」

 いつもの勢いを取り戻した光太郎が憎まれ口を叩くと、困惑したように口をへの字に曲げていたアシュリーはしかし、不意にぷっと噴き出して、そして苦笑しながら頷いた。

「やっぱり、光ちゃんはそうじゃないとダメだね。ヘンにロマンチックだと、何だかこっちが不安になっちゃうよ」

「なんだよ、それ」

 むすっとして睨むと、アシュリーはもう一度ギュッと抱き締める。

「そのままの光太郎でいいって言ってるだけだよ。オレは幸せだな」

「はぁ?」

 今度は光太郎が間抜けな声を出したが、アシュリーは何でもないよと首を左右に振った。
 そして。
 何時の間にか雪のやんだ深夜の公園で、光太郎とアシュリーは正式に金の犬を交換したのだった。

クリスマスの夜。
彼らは二人きりだった。
でも、きっと暖かかったよね。
この幸福をくれた。

『みんなが幸せでありますように…』

そう願っていた。

金色に輝く、希望のような、小さな犬に願いを込めて。

それはクリスマスの贈り物。

─END─

悪魔が隣で眠る夜 -悪魔の樹-

りーん。
りーん、りぃーん。

 どこかで澄んだ鈴の音がしている。
 それは遠く、また近くで、まるで寄せてはかえす時の漣のように、ゆるやかに響き渡っていた。
 全体は漆黒の闇だというのに、そこだけがぼんやりとしていて、水もないというのにその足元には幾重にも波紋が広がっている。
 そんな幻。
 そのひとは力なく垂れた掌で、まるで弄ぶように古の鈴を鳴らしている。

■□■

『なんと言う夢を見たのですかッ』

「へ?」

 俺の膝の上で満足そうに咽喉を鳴らして微睡んでいた白蜥蜴は、昨夜、奇妙な夢を見たと言う俺の話を聞いてギョッとしたように目をむいて言った。
 そんな白蜥蜴の動揺がいまいち理解できなくて首を傾げて見下ろしていると、途端に白蜥蜴はボワンッと煙に包まれて、人ならざる絶世の悪魔となって俺の両頬を繊細そうな両手で包んで上向かせると顔を寄せてきた。
 真っ白な睫毛に縁どられた金色の双眸が不安に揺れて、真っ白な眉毛も顰められている。そんな成りを見てしまうと、どうも只事ではないんだろうと、貧弱な人間でしかない俺はゴクリと息を呑んだ。

『ご主人さま、それは死の眷族が齎す禍の夢ではありませんかッ!』

「シノケンゾク?」

 あぁぁ、もう!っと、両手で真っ白な髪を掻き揚げながら、キョトンとしている俺の前で狼狽える白い悪魔の、そんな姿は初めて見るから、俺は正直言ってかなりビビッていた。
 漆黒の外套にじゃらじゃらと古めかしいな宝飾品が下がる赤天鵞絨のようなベストの胸元、肩には飾り髪が一房垂れて、家の中だと言うのにお構いなしの靴も暗黒色のズボンも、どれをとっても一級品であること間違いなしの、やたら古風な出で立ちの先端の尖った長い耳を持つ白い悪魔は、泣く子も黙る海を統べる神にして大悪魔のレヴィアタンだと言うのに、いまいち話の見えていないご主人を前にどうやらかなり動揺しているようだ。
 なんだって言うんだよ。

「ちょっと、まずは落ち着け」

 灰色猫を、いやルゥを…と独りでブツブツ言って取り乱す白い悪魔の、その青褪めた白い頬に、今度は俺が両手を添えて振り向かせる番だ。

『ご主人さま…』
 大悪魔のくせにやたら気弱い表情をして泣きそうな情けない顔をするレヴィに、俺はちょっとよろめきながら…ってそれはいかんのだが、何が彼をそんなに不安にさせているのかを聞きたかった。

「俺の見た夢がそんなに悪かったのか?別に、悪夢ってほどでもなかったんだけど…」

『悪夢は夢魔が見せる一夜の幻影にすぎません。だが死の眷族は違う。彼らが持つ鈴は永劫の罪の証でもあるのですから』

 うん、何を言ってるのかわかるように説明してほしいな。
 俺がにっこり笑って首を傾げると、その姿で漸く我に返ったと言うか落ち着いたと言うか、ともかく自分を取り戻した白い大悪魔はどっかりと床に胡坐を掻いて座ると、俺の両手を掴むと頬からゆっくりと外しながら溜め息を吐いて話し始めた。

『ご主人さま。死の眷族と言うのは闇夜を塒とした暁を見ぬ者。常世の罪を贖う咎人のことを言います…と言っても判り辛いですね。俗に言う死神です』

「あ、なんだ死神か。そう言ってくれた方が判り易い…って、ええッッ?!」

 ご主人さま、最近反応が鈍いです…とかなんとか、酷薄そうな薄い唇を尖らせてブツブツ呟いて、レヴィはやれやれと首を左右に振った。

「じゃあ、俺ってもうすぐ死ぬってことなのか??」

『まさか!』

 思わず口をついて出た言葉に、ギョッとしたレヴィは思い切りキッパリと否定してくれた。

『この大悪魔レヴィアタンの守護するあなたに、たかが死神如きに何ができると言うのですかッ』

 元来、負けん気が強くて嫉妬深く、どんな悪魔よりも暴れん坊で、そして悪魔の中でもほぼ最強を欲しい侭にするレヴィは、人間の常識的に考えて死神と聞けば死期が近いのではと弱気になる俺の握ったままの両手にぐっと力をこめて、それから腹立たしそうに言い放ったんだ。

「…って、レヴィの動揺っぷりにそう思っちゃっただけだよ」

 あれだけ激しく動揺しておいて、なんだ今のその自信満々のキッパリぶりは。
 悪魔すら動揺する死神に思わず死期を悟ってなんで怒られるんだよ。
 ただ、大悪魔から守護されるって…守護って悪魔が使ってもいい台詞なんだろうか。
 やっぱり悪魔に不可能のないレヴィだから使ってもいい言葉なのかなぁ。

『ああ、それは。常しえの鈴を鳴らす夢と聞いたので、少し動揺したのかもしれません』

 少しどころじゃなかっただろ。
 それはグッと飲み込んで、いやでも待てよ。
 死神の夢だったんだよな…

「死神って大きな鎌を持っている骸骨なんだろ?俺の夢に出てきた人は、悲しそうな目をした真っ黒いローブを着た普通の人間みたいだったぞ。それに鎌じゃなくて鈴を持っていたし…」

『ご主人さま。目の前にいるオレはどんな姿に見えますか?もともと、これがオレの本当の姿じゃありません。大海蛇の姿が本来のオレの姿なんですよ?』

「そっか。そう言うことか」

 レヴィが言いたいのは、姿なんてどうとでもなれる。ただ、その本質こそが見抜かなければならない大事なことなんだと言うことなんだろう。

『漆黒のローブで覆い隠すのは淀んだ闇です。闇に喰われて尚、彼らは人の夢に縋り鈴を鳴らすのです』

 苛立たしそうにレヴィはそう呟いた。
 闇に喰われて…その時になって漸く俺は少しゾッとした。
 彼なのか彼女なのか、性別すら超越したその存在は、りぃーんと泣きたくなるような鈴の音を厳かに鳴らし、水はないと言うのに足元に幾重にも波紋を浮かべて歩いていた。でもその波紋が、本当は垂れ流される闇だとしたら、じっとりと獲物を待つ禍々しい狂気だとしたら…そこまで考えて震えたら、不意に甘い桃のような香りに包まれて、それで俺はレヴィに抱き締められたんだと気付いた。

『ああ、もしかして怖がらせてしまいましたか。しかし、大丈夫です!オレは海を統べる大悪魔です。死神如きにあなたをくれてやるつもりはありません』

 体温なんかないんじゃないかと思う大悪魔の胸元は温かくて、俺は大好きな桃のような甘い匂いに包まれながら、嬉しくてすりすりとすり寄ってはみたものの…

「くれてやる…って、やっぱり俺を連れに来ていたってことか?」

 レヴィはレヴィですりすりする俺の態度が嬉しかったのか、色気もクソもない俺の硬い髪に頬擦りなんかしてご満悦しているようだったけれど、ちょっとムッとしたように酷薄そうな薄い唇を尖らせた。

『何かの手違いにしろ何にしろ、確かにその死の眷族はご主人さまを迎えに来たのでしょう』

 やっぱりか。
 と言うことはだ、やっぱり俺の死期が迫ってるってことじゃねーか!

『それは違います』

 レヴィの胸の中でガウッと牙をむく俺に、奴は不貞腐れたように首を振ってやっぱりキッパリと否定してきた。
 俺を見下ろすその黄金色の双眸は、不機嫌そうに冷たかった。
 うう、けして俺に向けている目付きじゃないとわかっても、こう言う眼を見るとレヴィは確かに悪魔も泣き出す大悪魔レヴィアタンなんだなって思うよ。
 これだけの大悪魔だと言うのに、外見は悪魔も泣き出すデビルハンターをパクッたってんだから、流石と言うかなんと言うか…

『ご主人さまは何か勘違いをしていますね。しかし、人間であるご主人さまがそう思うのも仕方がないことです。とは言え、まずは彼の思惑を確かめる必要があります』

 ふと、俺を見下ろすレヴィの双眸がやわらかに細められて、それから少し寂しげな光が揺らいだ。
 名立たる時の王族が持っていたに違いない、華奢な意匠の、それでも十分すぎるぐらい価値のある幾つかの指輪が納まる指を開いて、俺の眼前に掌を翳したレヴィがなんとも悪魔らしくニヤリと笑った時には、俺は両目を瞼の裏に隠してしまっていた。

■□■

『…さま、ご主人さま、どうぞ目を覚ましてください』

 ふと、聞き慣れた愛しい声がして、俺は揺蕩う微睡みの中から意識を取り戻すようにどうにか覚醒したようだった。
 と言うのも、何か薬でも飲まされたような酩酊感が続いていて、目が覚めているのか眠っているのか、いまいちよく判らない心理状態だったりする。

「ぅ…、ここは?」

 脳みそが痺れるような感覚に眩暈を覚えながら、片手で頭を押さえつつ身体を起こす俺を支えるレヴィに聞いてみたら、ヤツは目覚めた俺にホッとしたように安堵の溜め息を吐くと、ことさら何でもない事のようにニッコリ笑って言った。

『ここはご主人さまの夢の中です』

「…は?」

 確かに、悪魔に不可能のないレヴィアタンではあるんだけど、まさか他人の夢の中にまで入れるなんて…って、そうか。悪魔ってヤツは確か眠っている人の夢に入っても悪さをするって悪魔でググッた時に書いてあったもんな。これぐらいはお茶の子さいさいなのか。

『気分は悪くありませんか?吐き気とか頭痛はありませんか?』

 心配そうに覗き込んでくる黄金色の双眸が真摯で、俺は首を左右に振って、そんなレヴィを見上げて笑って見せた。

「ああ、最初は眩暈がしていたけど、今はもう大丈夫だ」

 レヴィはオレが笑うと嬉しそうだし、安心するみたいだ。
 だから、俺の笑顔と言葉でホッとしたのか…とは言っても、心配性で俺に過保護なこの大悪魔様は、それでも少し不安そうに瞬きをして俺をじっと見つめている。

『夢に干渉するのは夢魔或いは夢を司る悪魔の理に基く掟なので、海を統べる悪魔のオレが強引に干渉することによってご主人さまに負担があったと思いますが、死の眷族の誘いがある以上は、こうするより他に術がありませんでした。申し訳ありません』

「だから、今は大丈夫だって。レヴィがそうしたいなら、俺は喜んで受け入れるよ」

 ガラにもなく神妙なツラしてそんなことを言われても、白い悪魔にメロメロな俺なんだから、お前とだったら何処へだって着いて行くし、俺の身体を差し出せと言うのなら切り刻まれて殺されたって平気なんだ。
 そんなちょっとアレな俺に謝ることなんてこれっぽっちもないのにさ。

『ご主人さま!そんなことを仰られると、思わずキスしたくなってしまいます』

 俺をギュウッと抱き締めて、レヴィがもじもじとそんなことを言うもんだから、ついつい俺の顔も真っ赤になってしまうのは仕方ないだろ。

『しかし、キスは今はお預けです。あなたの夢に隠れているふざけた死の眷族を見つけることが先決ですからね』

 名残惜しそうに俺から身体を話したレヴィが青ざめた頬に朱を散らして、『終わってから存分に頂きます』とか何とか嬉しそうにそんなことを言うのを見上げて俺は首を傾げた。

「レヴィが夢に入ることは本来ないことなのか?」

『そうです。オレが夢に介入してしまうと、夢を司る悪魔たちの仕事を奪ってしまうことになり兼ねないんですよ』

 レヴィはちょっと困ったように苦笑して見せた。
 悪魔には悪魔たちの掟があるようなことを以前チラッと聞いたことがあったけど、悪魔とは言え、俺たち人間のようにそれぞれの役目のようなものがあって、それが仕事として生業になっているってことなのかな。
 レヴィは漆黒の闇の中で立ち上がるついでに、そうなのか、と呟く俺の腕を掴んで一緒に立たせてくれながら、この何処までも延々と続いているに違いない、闇の中を見渡しているようだ。

『さて、彼は何処に隠れているのでしょうね?』

 それにしてもおかしなもんだな。
 辺りは一面の闇で、レヴィの足元には水もないと言うのに幾つもの波紋が作られていて、それは歩き出す度に弧を描いて広がっていく。
 そんな有り様が全て見えているんだ、こんなにおかしいことはないと思う。
 これが【夢】だからなのか。
 レヴィの腕を掴んでいないと自分が何処に居て、何処に向かおうとしているのか、方向感覚が全くつかめないから、心許無いし、とても不安になってしまう。
 そんな闇の中で、あの物悲しい眼差しをしたどうやら死の眷族と呼ばれるそのひとは、哀しさと闇しかない俺の夢の中で、澄み渡る風のような優しい鈴の音色を響かせていた。
 自分の足元にはただの闇しかないのに、歩き出したレヴィの足元の波紋が気になっていると、そんな俺に気付いたレヴィは視線の先を追って、ああ、と口を開いた。

『ご主人さま、あなたはこの夢を統べる番人であり人間ですから、足元に渦巻く闇はあなたに呼応することはありません。これは形を成すことができない哀れな魂どものなれの果てですから、悪魔のオレに縋りつこうとしているだけです』

 だから、心配することはありませんと笑いながら言うレヴィの言葉に、俺はこの時になって漸く、背筋に氷水をぶっかけられたような錯覚とともに恐怖のようなものを感じたんだ。

「俺の夢だって言うのにやけに物騒なんだな」

 ポツリと口をついて出た悪態は、でも、レヴィの腕をギュッと掴んでいる様では到底、恰好なんかつけられない。

『ご主人さまの夢ではあるのですが、死の眷族が爪弾く世界でもあるので、あなたのせいではありません』

 白い悪魔は首を左右に振って、もしかしたら指先が震えていたかもしれない俺の色気もクソもない頭に口づけを落としながら、ソッと瞼を閉じて独りぼっちではないんだよと安心させるように呟いたみたいだった。

「…と言うことは、この闇と言うのは、死の眷族、死神が狩ってしまった魂たちだって言うのか?」

 レヴィの桃のような甘い匂いにホッと安心して、その胸元に頬を寄せながら聞いた時、レヴィではない声がそれに応えていた。

<そうでもあるけれど、そうじゃないんだよ>

 ギョッとして顔を上げようとした俺の後頭部に掌を添えて押し留めたまま、白い悪魔は声のする方に剣呑な双眸を向けて、どうやらニヤリと笑ったようだ。

『よう、トート』

 漆黒のローブに身を包んだ死神は哀しげな眼差しのままニッコリと微笑んだ。

■□■

『お前、よくもオレ様のご主人の夢に潜り込んでくれたな。それなりの覚悟はできてるんだろうな?』

 酷薄そうな唇をニヤリと歪めて、白い悪魔はその悪魔たる所以のような口の悪さで、古風な意匠が刻まれた鈴…ではなく俺が見た時とは形が変わっていてベルのようになっているそれを弄びつつ、口元に張り付くような笑みを浮かべる死神に穏やかじゃない口調で言い放った。
 思惑を確かめるって言ってたのにお前、いきなり本題かよ?!と思わず言いたくなったものの、抱き締められている姿勢ではそれも侭ならず、仕方なく俺はレヴィの胸元に頬を寄せたままで事の成り行きを見守ることにした。

<うん、だって彼はとても…でもねぇ、レヴィアタン。もう時間が来てしまったんだよ>

 レヴィの質問に答えているようで応えていないような態度で、死神のトートは笑みを張り付けたままソッと目線を伏せたようだ。
 白い悪魔に阻まれて、なかなか彼を見ることができない俺はそれでもなんとかコッソリ盗み見ていて気付いたんだが、トートの笑みは笑みじゃなくて、もしかしたら彼は感情を表現する方法が判らないんじゃないかと漠然と思っていた。

<時は容赦がないね。降り積もる優しさも何もかも闇に還してしまう。ねぇ、哀しい魂を狩るのが仕事だもの>

『相変わらずふざけたことばかりだな、お前は』

 呆れたように溜め息を吐いて言う白い悪魔に、想像とは遥かに違う死神は相変わらず穏やかそうな笑みを浮かべたままでクスクスと笑っている。

<君は寂しくはないの?辛くはないの?そんな寂しい想いを抱えて、嫉妬深い悪魔は報われない夢を見るの?>

 りん…っと、どこか遠くで鈴がなる音が聞こえた。
 漣のように寄せては返す時のように、それはあまりにおぼろげで寂しい、切ない音色のようだ。
 ふと、見上げる白い悪魔はとても冴え冴えとした双眸で、眼前にひっそりと佇む黒いローブ姿の死神トートを見つめている。
 睨むのでもなく剣呑にあしらうのでもなく、その双眸は単純に淡々としていて、不意に俺は肌寒さを感じて縋りつくようにしてレヴィの胸元を掴んだ。その仕種に気付いたのか、レヴィはふと、表情の伺えない色を浮かべた黄金色の瞳で見下ろしてきた。

『偽物は所詮偽物でしかない。どんなにオレが望んでも、それがオレの思惑通りの操り人形であるならば、これは捜し続けた愛ではないんだろう』

 少し、判っていたような気がする。
 不安に揺れる双眸も、愛しそうに呼ぶ名前も、ここではない何処か遠くで響く鈴の音のように、何処か遠くにいる誰かのために紡がれているものなのだと。

<無責任な夢の代償は大きいだろうね。しかし、君は世界の均衡を担う大切な大悪魔レヴィアタンであるから、今回は大サービスで大目に見てあげようね>

 すいっと、手にした鈴の音を響かせる奇妙なベルを掲げるトートに、レヴィは片手を挙げてその動作を静止した。
 何が起こっているのか、どんな会話なのか…聞かなくても薄々は感じているのだけれど、できればもう少し、このあたたかな胸に護られて眠りたい。

『オレの不安が作り上げてしまった哀しい魂。お前を手離すのはそれでも寂しいよ』

 レヴィの掌が俺の頬を包み込んでくれる。
 ここは大悪魔レヴィアタンの夢の世界。
 どこからが現実で、どこからが彼の夢だったのか…
 じんわりと頬を包んでくれるあたたかさに、自分が泣いていることに気付けないでいた。
 俺は瀬戸内光太郎と言う人間の影であり、レヴィアタンが言えない本音を聞くべき存在にすぎない夢の産物だ。
 ある時、彼は愛するご主人の傍らで眠りにつき、そして夢の世界を泳いでいた。
 そこで蹲る、その時はまだただの闇でしかなかった俺を見付けて、そしてレヴィは戯れに俺に瀬戸内光太郎と言う意識と姿を授けた。

『オレはバカみたいに嫉妬深くて…いつかご主人を殺しかねないと思っていた』

 ふと呟いた言葉に、死神のトートは静かに瞬きする。

<言葉はね…レヴィアタン、とても大切なんだよ。不安があれば、言葉にしなければダメなんだ。想うだけで伝わる気持ちなどあるワケがない。そんなこと、君が一番よく知っているじゃない>

 ああ、どうか悲しまないで欲しい。
 夜毎、訪れて愛してくれた記憶がちゃんとここにはあるから。その想いを胸に抱いて、俺はいつだって眠りにつくことができる。ただの闇でしかなかったちっぽけな俺を、愛してくれた白い悪魔に感謝しているよ。
 あなたが捜しても見つからない愛を俺はちゃんと見つけ出して、その謎を解き明かすことができたのだから、どうか今度は、レヴィアタンが愛する瀬戸内光太郎の中に大切に仕舞われている愛を見つけ出して欲しい。
 見下ろしてくる黄金色の双眸を見詰め返して、偽物でしかない俺ではあるけれど、これはレヴィの夢であるから、人間と悪魔のように想いが伝わらないこともないから、きっとこの気持ちは受け取ってくれたに違いない。
 そう、死神トートでさえも。

<さぁ、レヴィアタン。別れの時だ>

 片手にベルを、そして片手に大きな鎌を持った死神トートは、りーんりーんと鈴の音を打ち鳴らし、水もない床に幾つも波紋を描きながら鎌の柄をぶつけている。
 そうすると全ては闇に包まれて、そうして、ちっぽけな闇にすぎない俺の身体も緩やかに溶け出して、抱き締めてくれるあたたかな白い悪魔のぬくもりを感じながらゆっくりと意識が消えていく。

<不安や悲しみが紡ぎだす魂(想い)を闇に還すのが死神の仕事。死の眷族は夜毎生み出される哀しい魂(想い)を消す咎人>

 ぽつりぽつりと優しい死神の声が聞こえる。
 願わくば、どうかレヴィアタンが俺のことを忘れませんように。
 どうか…

<レヴィアタン。酷い悪魔。アレは君の弱さであり寂しさと言ったもの。そうして、君の心の一部でもあるのだから、きっと忘れてはダメだよ>

『…ああ、判っているさ』

 自らが生み出した儚い想いが掌から消えていく感覚に瞼を閉じて、白い悪魔は白い眉を顰めて苦笑した。
 手の内にあるように思えて、どこか遠いご主人さま、それは自分が悪魔でありご主人が人間であるから、種族の違いで考え方や想い方が違うのかもしれないとレヴィアタンは思っていた。
 たとえば、ご主人を、たとえ学校の同級生と言えども、ましてやルシフェルの目にさえ触れさせたくないと自分が思っていたとしても、人間の光太郎にとってはそれが理解できず、その独占欲と嫉妬深さに困ったように眉を顰める。
 悪魔であれば飽きない人間の奴隷は懐深くに隠して、何者の目にも触れさせず、自分の心の領域に隠すことも当たり前なことだと言うのに。
 愛されているのだろうか…

<レヴィアタン、レヴィアタン。狡猾で大嘘吐きで最強の恐ろしい大悪魔だと言うのに、君はなんて素直で誠実で一途なんだろうね>

『うるせぇッ』

 哀しい目をしたままでクスクスと鼻先で笑うトートをムッとしてジロリと睨みつけたものの、彼はふと目線を落として考える。
 心に過る不安はいつも不確かな形で随分と長く居座るものだ。
 そう感じる度に胸の奥が痛んで、それが【切ない】と言う感情だと知ったのはご主人に出会ってからだ。
 夜は悪魔の忠実な友であり下僕である。
 人間は夜の闇に怯え窓を閉め、明かりが消された闇に震えながら眠りにつくのだろう。だが、その闇と同一である自分に対してご主人はどんな思いで傍らにいるのだろう。
 自分を恐ろしいと感じてはいないだろうか、恐怖していないだろうか、怯えていないだろうか…そうされてしまうと、自分はきっと悪魔であることを後悔するんだろう。
<それが君の弱みなんだねぇ。大悪魔だと言うのに君は人間の心の在り処に子供のように怯えている…ねぇ、人間は存外強いものだよ。レヴィアタン、聞いてごらん。君の愛するご主人さまに>
 韻を踏むように呟くトートは、両手を開いたままで呆然と立ち尽くしているこの世ならざる美しい白い悪魔に、仕方なさそうに微笑んだ。

<愛は何処にあるのかと>
 

■□■

「…い、おい、レヴィ?大丈夫か」

 ふと、悪魔も逃げ出す大悪魔が瞼の裏に隠していた黄金色の双眸を開くと、心配そうに覗き込んでいた漆黒の双眸が安心したように細められた。

「夢の話の途中で彼の思惑を…とか言いながら突然眠るんだから、ビックリしちゃったよ。大丈夫なのか?」

 ホッとしたように横になっている白い悪魔の傍らにゴロンと寝ころんだ、彼の大事なご主人さまは、組んだ両腕の上に顎を乗せてそれでも少し心配そうに尋ねてくる。
 ああ…と、レヴィは間近にある愛しい双眸を見つけてホッとした。

『オレはどれぐらい眠っていましたか?』

「え?…ああ、10分ぐらいかなぁ」

 小首を傾げる姿も愛しいご主人さまの頬を片掌に包んで、レヴィは少し眉を顰めて困ったように微笑んだ。

『オレの傍らでご主人さま、眠ることは怖くありませんか?』

 唐突な問い掛けに、それこそ光太郎はきょとんとしたような顔をして、ついで不審そうな眼差しで不安に揺れる黄金色の双眸を覗き込んでくる。

「どうしたんだよ?何を今さら…」

『今更でもありません。オレは凶暴な悪魔なんですよ?その傍らでご主人さま、あなたは少しも恐ろしいと思わないのですかッ』

 深淵のような夜の帳の落ちる真夜中を想像して、身体を触れ合うことも、奥深くまで繋げることも、巨大な大海蛇の虹色に輝く薄い鰭を掴んで夜明け前の満天の星が降る大空を飛び回ることも、そして何もせずにただ一緒に眠る夜もあった。どんな場面でもその中にはレヴィと言う名の白い悪魔がいて、今更、その大悪魔が傍にいないことなど想像もできないと言うのが光太郎の素直な気持ちだ。
 ギシッとベッドを軋らせて上半身だけ起こして見下ろしてくる白い悪魔は、いったい何をそんなに不安がっているのだろうか。
 切なそうに顰められた真っ白な眉根も、滲むように揺れる黄金色の双眸も、大悪魔のくせに全く威厳を失せさせて、そんな子供っぽい仕草もとても好きだと光太郎は思った。

「そうだなぁ、恐ろしいとは思わないけど。でも、ここからお前が消えていなくなる方が、俺はよほど恐ろしいなぁって思うよ」

 そうしてごろんと仰向けになって、不安そうな悪魔の首に両手を伸ばして抱き着くと、レヴィはどこかホッとしたようにそんな光太郎を抱えると再びごろりと横になってしまった。

『それは、よかった』

 胸の上に光太郎の身体を乗せてギュウッと抱き締めてくるレヴィの体温が嬉しくて思わずにんまりしていた光太郎は、それから徐に思い出したように口を開いた。

「ああ、そうだ。話の途中だったけど、あの夢には続きがあるんだ」

『続きですか?』

 そうそうと頷いて、光太郎は夢の続きを語った。

「黒いマントを着たソイツは、ええと、死神だったっけ?ソイツはへんな奴でさ、ニッコリ笑ってるくせにすごく悲しそうなんだ。なのに、俺に言うんだよ。君はいつも幸せな夢を見ているね。とてもとても幸せそうだけれど、悪魔に憑かれているのにそれで幸せなのかい?ってさ。俺が頷いたら、なんだか最初から判っていたみたいに今度こそ寂しそうじゃない顔をしてニッコリ笑って頷いたんだ。それはよかった。悪魔が常しえに護ってくれる夜はとても貴重だから大切にしろって言うんだよ。何を言ってるのかよく判らないんだけどさ、俺にとってお前が護ってくれる夜よりも、レヴィの存在こそがとても大切で掛け替えがなくて、俺の全てなんだから。いつだって大事で手離すことなんて考えることもできない俺の一番大好きな…って、レヴィ?」

 言葉が遮られてしまったのは、黙って聞いていた白い悪魔が、その桃のような匂いのする胸の中の愛しい人間の身体を思うより強い力で抱き締めたからだ。

『ご主人さま、オレはあなたを愛してよかった』

 溜め息のように零れ落ちた真摯な台詞に、当たり前のことを言っただけの光太郎はキョトンとしたが、すぐに苦笑して、瞼を閉じて震える白い悪魔の青褪めた頬に唇を落とした。

「なんだよ、レヴィ。へんな奴」

 そんな憎まれ口を叩いて、それでも嬉しそうに、引き結ばれた酷薄そうな薄い唇に口付けた。
 初恋のように初心な口づけは、地獄の底から吹き上げる薄ら寒い冷たい風に苛まれる悪魔の氷の心を、途端にパッと氷解し、あたたかな春のぬくもりに包まれるような錯覚を地獄こそ相応しいはずの白い悪魔に齎した。
 その事実を、彼の愛するご主人さまが知ることはなかったが、これがずっと捜し求めていた愛と言うものであるのなら、白い悪魔はこのぬくもり以外はもう何もいらないと思った。

■□■

 なぁ、トート。
 このぬくもりを失ってしまうぐらいなら世界などいらいないんだよ。
 たとえそれが大悪魔のエゴだとしても、胸の中で幸せそうに笑うご主人さまを怯えさせたとしても、それはそれで、もう後悔などしないだろう。

 白い悪魔が隣で安らかに眠る夜、ちっぽけな人間は何者からも護られて、そうして、永遠に続くかもしれない愛について、瞼を閉じて考えるのだった。

番外編 : 花 前編 -永遠の闇の国の物語-

『この国には花は咲いてねぇ…つーか、咲かねーんだ』

 シューはどこか思い悩んだような表情をして、立派な鬣から覗く丸い耳を伏せていた。
 強面の獅子の頭部を持つ、2本の角が禍々しい魔物が、実はそれほど恐ろしげではないことを、もう光太郎は気付いていた。
 魔王の寝所に鎖で繋がれたまま、ふかふかのカーペットの上でごろ寝していた方が遥かに寝易かったけれど、それでも、狭いベッドで反対を向くシューの大きな背中に抱き付いて眠る方が、数百倍も安心できるなんてこと、どうして思ってしまうんだろうと首を傾げながらも光太郎は、そんな獅子面の魔将軍のぶっきら棒な優しさを面映く思いながら感謝していた。

(…なのに、また困らせちゃったな)

 花が欲しいと言った時のシューの金色の双眸は、僅かに細められながら、そんなことあるはずがないとは判っているのに、見落としてしまいそうなほど微かに申し訳なさを含んでいた。
 この闇の国に召喚されたとき、本当は震えるほど怖かった。
 生れ付きの気の強さで対峙した魔王との遣り取りも、気を抜けば平気でお漏らししていたに違いないと頷けるほど恐怖を感じていたと、自分でも判っている。
 震える膝に誰も気付くなと念を込めながら、唇を噛み締めて見上げた大柄な魔物は、最初から光太郎を嫌っているように見えた。虫けらでも見るような目付きは鋭くて、身体こそガッシリとした体躯の人間と寸分変わらない体型をしていると言うのに、その顔だけが、百獣の王と恐れられる獅子の面構えだった。
 ゴクリと息を呑んで見上げた魔物は、彼が仕えている絶対的な君主の命令に、恐らく完璧なポーカーフェイスだってできたはずなのに、困惑したような表情を浮かべて人間の少年を見下ろしていた。
 シューを、なぜか怖いなんて思えなかった。
 それが光太郎の偽らざる気持ちだ。
 強面なのに、シューなんて可愛らしい名前の魔物は、その日から半ば強制的に光太郎のお守り役になった。
 それからイロイロと時間は流れて、ますます、シューの魅力にグングンと引き寄せられていた人間の少年は、シューが傍にいることにスッカリ安心しきって、本来の持分を存分に発揮して闇の国に溶け込んでいった。

(それもこれも全部シューのおかげなんだ…俺、シューのために何かできないかな)

 いつも通り、曇らなくなった窓硝子を丁寧に拭きながら、光太郎はぼんやり考えていた。
 考えて考えて…それでも、今更ながら彼はシューの好みや趣味などを、これっぽちも知らない事実に愕然としてしまったのだ。

「俺、シューのこと何も知らないや…ッ」

 雑巾を握り締めて瞠目している人間の顔を映し出す窓硝子に、呆れたような表情をした小柄な少女のようにあどけない顔をしたシンナがクスクスと笑っているのが映って、光太郎は飛び上がるほど驚いた。

「びび…吃驚した。なんだ、シンナか」

『なんだじゃないのン。どうしたのン?なんだか悩める乙女みたいよン♪』

 シンナにしては珍しいジョークに、光太郎の羞恥に緊張していた頬が僅かに緩んで、心を許せるほど仲良くなった魔軍の副将に笑いかけた。

「俺ね、すっごい重大な事実に気付いてしまったんだよ!」

『ん~??あらン、それは大変そうねン』

 ぷっくらした可愛らしい桜色の唇に指先を当てて、唇を尖らせるシンナに窓枠から軽く飛び降りた光太郎が困惑したように眉を顰めて、どうやら今にも泣き出しそうだ。

「シューって何が好きなんだろう?どんなことをするのが趣味なんだろう??」

 詰め寄るようにして顔を覗き込まれたシンナは、面食らったようにキョトンッとしてしまったが、なんだそんなことかとでも言いたげに、何でもないことのようにクスクスと笑った。

「もう!ちゃんと聞いてよ、シンナ!!俺は真剣なんだよッ」

『ちゃんと聞いてるわよン。要するに、シューのことをもっともっと知りたいってことねン』

「う、うん。簡単に言えばそうなんだけど…あれ?なんでこんなに照れ臭いんだろう??」

 それは貴方が…と、そこまで開きかけた口をムグッと噤んで、ゴクンッと言葉を飲み込んだシンナは、恐らく今自分が言おうとしたことを聞いてしまったら、人間も魔物も平等に恐れている、この魔軍が誇る二大将軍の1人があっさりと卒倒するだろうと容易に予想できて、笑いたくて笑いたくて仕方なかった。
 だが、それができないのは目の前にいる、何処か遠い異世界からワケも判らないまま召喚されてしまった少年が、あまりにも真摯な表情で訴えかけているから、その想いを笑うようで嫌になったのだ。

「いや、そんなのはどうでもいいんだ!ねえ、シンナ!シューって何が好きなんだろう??」

『シューの場合はねン。食べられるものなら何でも好きよン。そうだン!あの時、光太郎が言っていた【かれーらいす】ってのを作ってあげればいいのよン』

「カレーか…食べ物もいいよね。でも、俺はここの材料ってまだよく判らなくて…」

『材料ン?』

 ふと、シンナの顔色が曇った。
 それもそのはずだ、光太郎がこの闇の国に来てからと言うもの、俄然張り切るベノムが腕によりをかけてご馳走を作るけれど、その厨房にはたとえ魔軍の副将と言えども立ち入ることは禁じられている。言わば、ベノムの聖域である神聖な厨房に、ましてや人間の少年が入れるはずもないのだ。
 迂闊なことを言ってしまったとシンナが反省する傍らで、残念そうに溜め息を吐く光太郎を見ていると、まさか『人間殺しを何よりも楽しんでるわよン』などとは、到底冗談でもアドバイスとしては言えないだろうと、泣く子も恐れる魔軍の副将は人間の少年の純粋さを恐れて息を呑んだ。

「…何か、心が休まるものがあればいいんだけど」

『…』

 そんなものがこの闇の国の何処にあると言うのだろうか。
 神々でさえ見捨ててしまった暗黒の世界に、希望などはないのだ。
 シンナがソッと溜め息を吐いたその時、ふと、何かを決意したように俯いていた光太郎が顔を上げた。
 一瞬、嫌な予感がしたシンナに、光太郎は照れたようにえへへへっと笑うのだ。

「この闇の国には花は咲いていないんだよね?」

『花ン?花なんか見つけてどうするのン??』

 光太郎の屈託のない笑顔に興味を惹かれたのか、シンナは少しだけ笑いながら小首を傾げて見せた。

「この殺風景なお城を飾りたいんだよね。綺麗なものを見たらさ、偏屈なシューももう少し、笑ってくれるんじゃないかなって思って」

 ニコッと笑う光太郎に、シンナの頬が引き攣ったのは言うまでもない。
 あのシューが、花を見たぐらいでヘラヘラ笑うのなら、人間たちはそれほど苦戦もせずに済むんだろうけどと、まさかシンナが思っているなどとは露知らずの光太郎は、この瘴気に満ち溢れた闇の国の何処かに、必死に咲いている花がないかと首を傾げているのだ。

『きっと、こんな闇の国ですものン。花なんて咲いていないと思うわン。可哀想だけどン』

 シンナが少しだけ眉を顰めて、それから申し訳なさそうに目線を伏せてしまった。
 その顔は、シューが花の所在を言った時に見せた、彼の表情によく似ていた。

(どうして…)

 光太郎は首を傾げてしまう。
 どうして闇の国の住人たちは、花に対してそんなに寂しそうな顔をするんだろう?
 光太郎はシューやシンナが見せる、一種の躊躇いのような一抹の寂しさのような、そのなんとも言えない表情の意味が判らなくて困惑していた。
 この闇の国の住人にとって【花】は禁句なのだろうか…それならば、光太郎はもう二度と花に関してのことを、せめて闇の国の住人たちの前では話題にしないでおこうと決意するのだった。
 そのくせ、この闇の国に在って唯一の天真爛漫で無鉄砲な人間の少年は、どうやら自力で【花探し】を始めることにしたようだ。

ψ

『どーも、胡散臭ぇ…』

 魔獣の鋭敏な嗅覚で何かを嗅ぎ付けたのか、日頃はそんなこともしやしないと言うのに、その日のシューは鼻をひくつかせながら人間の少年をヒョイッと腰ベルトを掴んで持ち上げると、クンクンッと匂いを嗅いだりするのだ。
 それでなくても、シューやシンナに内緒で【花探し】なる破天荒な冒険を目論んでいる光太郎にしてみたら、その全てにハラハラと内心で冷や汗を掻かざるを得ないのだが、勿論、闇の国の将軍がその大それた陰謀に気付くはずもない。

「な、何が??俺、別に何も隠してないよッ」

 エヘッと笑って、胡乱な目付きで覗き込んでくる、相変わらず鈍感なシューの顔を覗き込みながら光太郎は笑ったが、それで許してくれるほど魔獣の将軍は鈍感だが優しくはない。

『別に…何か隠してやがる。なんてこた、これっぽっちも言っちゃいねぇけどな、俺は』

「あう!」

 あからさまに怪しげに細められた黄金色の双眸で軽く睨まれただけで、危うくゲロしかけた光太郎はだが、一度決意したことは絶対に貫いてやると言う意志の強さでもって、滑りそうになる口にチャックした。

「だってさ!シューが胡散臭いとか言うからついつい、俺も言葉に力が入っちゃったんだよ。シューには、なんにもないってちゃんと信じて欲しいからね」

『いーや、胡散臭ぇ!お前の場合は「何もない」って時が一番胡散臭ぇーんだよッ!!』

 一生懸命、なんでもないことのように取り繕って笑う光太郎に、電光石火、まるで雷でも落ちたような勢いで魔軍の大将は吠え立てた。

「あうぅ~」

 思わず首を竦める光太郎の背後の窓に、シューの怒りを具現化するような稲光が閃光を放って天空を貫いた。
 両手を合わせて拝むように魔獣を半泣きで見つめる光太郎と、そんな人間の少年を胡乱げに睨みつけながらも何故か丸いチャーミングな耳を欹てるようにして呆れているシューの背後で、思わず…っと言った感じの苦笑が漏れた。

『あーん?誰だよ??』

 それでなくても、面倒で厄介な者を押し付けられて苛々しているシューは、できれば問答無用で無闇矢鱈に周囲に当り散らしたい気分を、どうやら解消してくれそうな対象が現れたと内心で北叟笑みながら、その哀れな犠牲者を拝んでやろうと振り返った。
 振り返って…一瞬硬直する。
 硬直したそのワケを、誰でもない、今まで魔獣に睨まれて思い切り怯んでいた人間の少年があっさりと口にしたが、それでも魔将軍は開いた口が塞がらない。
 何故ならそれは…

「あれ?どうしてここにゼインがいるんだ??」

『私がここにいてはおかしいか?』

 いや、普通に有り得ないだろうとシューが額に汗をだらだら浮かべながら、しかし一見しただけでは無表情を装える獣人面のライオンヘッドの魔物は、慌てて光太郎を下ろすと片膝をつく騎士の最敬礼をしながら怖いものなしで向かうところ敵もいないんじゃないかと思える人間の少年の頭部を押さえて平伏させたのだ。

『ま、魔王。このような場所にお出でとは如何いたしましたか??』

 できるだけ動揺を悟られないように片膝をついて顔を上げたシューは、畏れながら口を開いて疑問を問うのだった。
 それも致し方ないことで、何故なら、この回廊はシューでさえ光太郎がいなければ足を踏み入れないだろう、下層階級の魔物たちが徘徊する場所なのだ。その様なところに、どうして魔族の最高位にいる高貴な身分の魔王ゼインがいるのか、シューでなくても聞きたいぐらいだった。

『…判らぬのか?』

 ふと、ゼインがクスッと笑う。
 何かを含んだように紫紺の双眸を細める主に、その忠実な家臣であるシューは唐突にハッと目を瞠った。

『おお…では本日から?』

『左様』

 軽く閉じた双眸を開いて肯定する魔王に、シューはそうかと、ふと目線を落としてしまう。その傍らで、この回廊がシューや魔王の来るべき場所ではないことを、既に理解している光太郎は、そのことよりも何をこの魔族の2人が話しているのか、そちらの方が気になって仕方なさそうだ。

『そうか…もうそんな時期か』

 思わず…と言った感じでポロッと漏れた言葉を、だが魔王は気にした様子もなく、大柄な体躯を畏まらせている将軍の傍らで、不思議そうに様子を窺っている人間の少年に目線を移して小首を傾げて見せた。
 まるでブリザードのように冷たいはずの魔王の声音は、それでもどこか、今日は落ち着いているように思うのが気のせいでないのなら、どうやら魔王の機嫌は良い方なのだろう。
 そんなことを光太郎が考えていると、魔王は青褪めた顔の中で、唯一ゾクッとするほど生々しい印象を与える口唇をゆっくりと笑みに模って、怯えることもしない果敢な光太郎に言うのだ。

『何やらサッパリだ…と言いたげな顔付きであるな。だが、其方が思い煩うほどのことでもあるまいよ』

 魔王の淡々とした口調にシューがハッと気付くよりも先に、向こう見ずな人間の少年は、困惑でもしたかのように眉を顰めると唇を尖らせた。

「でも!俺もこの闇の城に住んでいる以上は魔族の端くれなんだろ?何のことかぐらい、知る権利があると思うんだけどッ」

 ムッとする光太郎に、シューは内心で溜め息を吐いていた。
 たとえば、その話が下級の魔物どもが知らないとする。そうすると、魔族でもないくせに魔族の端くれなどと嘯いている人間如きが知る権利などあるはずもないのだが…と、シューがうんざりしたように首を竦めていると、ほんの僅かに面食らったような魔王は、次いで、何がおかしかったのか握った拳の人差し指の第一間接に唇を押し当てて、珍しいことにクスクスと笑ったのだ。

「!」

 そんなゼインを見たことのなかった光太郎は、思わずパクパクと言葉にできない衝撃をやり過ごそうとでもするかのように、シューの服の裾を掴んで見上げている。もちろん、魔将軍は相手もしていない。

『矢張り、其方は興味深い。だが、委細はそれ、其方の守り役に聞くが良かろうよ』

 今日はとても機嫌がいいのか、魔王は楽しげにチラリとシューを見下ろした。
 魔王と言う地位もなく、何よりも絶対的な信頼がないのであれば、できればシューは相変わらず人の悪い魔王を殴りたくて仕方なかった。いや、魔族の首領であるのだから、確かに人が良くても大変困るのだが、この闇の国を統べる主は些か悪戯っぽいところがあると、シューはやれやれと溜め息を吐いた。
 溜め息を吐いて見下ろせば、さっきまではあれほど驚いていた光太郎が、好奇心に双眸をキラキラさせながら見上げていたから、さらに魔将軍はこの場所から逃げ出したくなっていた。
 そんな2人を交互に見遣っていた魔王は、御付の衛兵を引き連れて、悪戯っぽく笑いながら片手を挙げて別れを告げると足音もさせずに行ってしまう。
 蝋燭の頼りない灯火に浮かび上がる回廊に、魔王の姿は良く似合っていたが、それでも違和感は拭い去れずに光太郎は握り締めていたシューの服をグイグイッと引っ張ると首を傾げて見せたのだ。

「…シュー、どうしてゼインはこんなところにいたんだろう?それに、あの意味深な会話ってなんだったんだい!?」

『俺は知らね』

 立ち上がってフンッと外方向く魔将軍の態度の豹変っぷりに、光太郎はハンマーででも頭を殴られたかのようなショックを受けたのか、却って何が何でも聞き出してやると好奇心に油が注がれたようだった。

「知らないワケないよ!ゼインが聞けって言ったんだ。あ、それとも何?シューはゼインが直々に言った指示に逆らうってワケ??」

『…お前さぁ、結構、闇の城の住人どもに染まってないか?』

「え!?それホント!!?うは~、嬉しいなぁ…って、騙されないからな!もう、そんな時期かって言ってたじゃないかッ、今日は何があるの??」

 騙せなかったかと、浅はかなシューはチッと舌打ちしながら目線を泳がせたが、その胸元に噛り付くように両手を伸ばした光太郎は、思い切り垂れている鬣を引っ張ってギョッとする獅子面の顔を覗き込で唇を尖らせた。

「教えてよ、シュー!じゃなかったら、この城中のあちこちを探検してでも探るんだからな!!」

『…それはちょっと勘弁。その後を追っかける俺の身にもなれ』

「じゃあ、教えるべきだよ♪」

 小悪魔…とまでいかなくても、十分迫力のある笑みをニッコリ浮かべる光太郎を見下ろして、シューはやれやれと溜め息を吐いて首を左右に振るのだった。

ψ

『今日から3日間、一年に一度、魔王の計らいで太陽が顔を出すんだ』

「…え?太陽??」

『ああ、そうだ』

 フーッと大きな溜め息を吐いたシューは、噛り付くように掴んでいた光太郎の両手を、ゆっくりと鬣から外させると、やれやれと首を左右に振りながらポツポツと話し始めたのだ。

『この世界には太陽がねーだろ?それでも、以前は晴天だった日もあるんだぜ』

 太陽を懐かしむように黄金色の双眸を細めて見下ろしてくるシューに、太陽など当たり前のように見上げていた光太郎は、まるでシューの黄金の鬣や顔なんかが、お日様そのもののように思えてソッと眉を寄せてしまった。
 何故、それほどまでに太陽の存在を求めているのか…闇を愛する眷族なのに、太陽を求めて恋しがるなんて、それはおかしいんじゃないかと思っていたのだ。

『だが、魔王は太陽を永遠に奪い去ることにした。人間にとって太陽は、なくてはならない身体の一部のようなもんだったからな』

「…えーっと、それは朝と夜を分けるため、身体的なものだからだよね?」

『いや、違うだろ?太陽は作物を育て、魚を育み、森林を息衝かせるのに欠かせねーんだ。云わば人間にとっての生命そのものってヤツだな。なんせ人間はそれまで、ずっと自然と共生してきたワケだから、それこそ、太陽を奪われた後の人間どもなんてのは見ちゃいられなかったってのが本音だ』

「じゃあ…太陽はずっとなくなっている方が魔族にとってはいいことなんじゃないのかな?なのに、どうして?」

 訝しそうに眉を顰めて首を傾げる光太郎に、シューは黄金色の瞳をクルリとさせてから、仕方なさそうに笑ったのだ。

『太陽は…俺たちにだって必要なんだぜ?』

「え…?」

 キョトンッとする光太郎に、シューは肩を竦めてやれやれと首を回して肩凝りを解すような仕草をして見せた。

『お前はさ、俺たちを何だと思ってるんだ?』

「え!?…えーっと、魔物だけど」

『だろうな』

 頷いて、シューは首を左右に振るのだ。

『だが、根本的には違うんだ。もともと、森で生きていた獣人であったり、動物だったりするんだよ。だから、本当は俺たちは、人間となんら変わるところなんて何もなかったのさ。自然と共生する…そんな生き物だったんだ』

「…」

 光太郎は言葉もなくシューを見上げていた。
 それまで、常識的には魔物と言えば魔王が創り出したなんちゃらだとか、いつの間にか発生した悪の塊のような生き物だと…信じて疑っていなかったのだ。だからこそ、シューの説明がよく判らなかったのかもしれない。
 いや、判っているのだが、脳が理解できないとでも言うか…

「えっと…だから……」

『太陽が必要ってワケだろ。それで、魔王は一年に3日間だけ、俺たちの為に太陽を戻すってこったな。俺たちはその日のことを【太陽の日】と言って、その日ばかりは人間も魔物も無礼講ってことで戦もしない。なんせその日は、この闇の国にも緑が戻ってくるからな』

「え!?…ってことは、花も??」

『あ?ああ、花も3日間だけは咲く…って、お前』

 ふと、シューが胡乱な目付きになって、頬を高潮させる少年をグイッと睨むようにしてその顔を覗き込むと、牙をむいて軽く威嚇したようだ。

『まさか、あの時言ってたように宝器に飾る花を採りにいこうなんざ…』

「考えてない、考えてないってば!俺だってそんなに馬鹿じゃないよ」

 精一杯の嘘を、矢張りシューは信じていないようだ。疑い深そうな目付きで睨んでいたが、屈めていた上半身を起こして腕を組むと、フンッと外方向きながら言い放ったのだ。

『花を摘みに行くんだったら、俺を連れて行け。1日だけなら、許してやらんことも…ッて、うお!?』

「シュー!ありがとうッッ!!」

 魔将軍の言葉も終わらないうちに、光太郎は飛び上がるようにしてシューの首に抱き付いたのだ。
 それだけ、その信じられない申し出が嬉しかった。

『…やっぱり花を摘みに行く気だったんじゃねぇか。ハァ…太陽が出ている間は、聖なる陽光に弱い下等魔物どもは徘徊できねーし、何より、その3日間は俺たち魔族にとってはお祭り騒ぎだしな。まあそれは人間にも変わりねぇから、色んな意味で無礼講になるってワケなんだが…まあ、いい。1日ぐらいだったら付き合ってやるよ。だから、一人で行こうなんざ思うなよ?』

「うんうん。俺、シューがいてくれたら心強いもん!」

『俺はお前のせいでこれ以上、モノが咽喉を通らなくなるのを精一杯防ぎたいってだけのことさ』

 ギュウッと抱き付いてくる光太郎の華奢な身体をぶら下げたままで、この闇の国に来て初めて見せるシューの、それは不器用な優しさだったのかもしれない。

ψ

 お祭り騒ぎだとシューが言っていたように、確かに、魔王が祭儀の宮で両腕を広げて長い詠唱を始めると、俄かに雷光を閃かせていた曇天が、まるで嘘のように晴れ出すと同時に、俄かに城内が賑やかに活気付き始めたと光太郎は目を白黒させていた。
 今日から3日間、城はまるでお祭り騒ぎのように宴会が催され、遠出の薬草採りに女たちは嬉々として出掛け、これから1年分の食料を調達する為に魔兵たちがそれぞれ弓矢を手にして猟に出掛けるのだ。
 生気を取り戻すのは魔族や人間たちばかりではなく、両種族の身勝手な諍いに巻き込まれて、とんだとばっちりを受けている森や川や海で息衝く生き物たちも、その日は長らく胎に抱えていた子供たちを出産したり、新たに交尾して新しい命を宿したり、木々の葉は息を吹き返したように灰色から緑に衣替えをしたかと思えば、瘴気が漂っていたはずの魔の森が色とりどりの花で覆いつくされ、大地の全てが活気付き始めるのだった。
 闇の国に来て初めて見る日差しに、懐かしさを感じながらも、太陽の尊さのようなものをヒシヒシと感じていた光太郎は、いつも何気なく見上げていた太陽を、その日ばかりは感慨深そうに見守るように見詰めていた。
 何処も彼処もが全て、モノトーンから色を取り戻したように穏やかで美しかった。
 ワクワクしたように城内の窓から見下ろしているその背後で、呆れたような声音で、ちゃっかり外行きの格好…つまり、頭には麦藁帽子、首にはタオルを掛け、手には薬草摘みに出掛ける女たちから借りた花切り鋏を持った光太郎に、声を掛ける者がいた。
 それは…

『驚いたな、光太郎。その出で立ち、四方や本気で花を摘みに行くと申すのではあるまいか?』

「あ、ゼィ!うん、シューが連れて行ってくれるんだよ♪」 

 ウキウキしたように振り替えれば、声の主が呆れたように魔族特有の長い耳を伏せて、微かに眉根を寄せて見下ろしてくる。
 この陽気な晴天の中にあっても、何処か禍々しいほど美しい魔物のゼィは、苛立たしそうに溜め息を吐いては光太郎の背後から疎ましそうに晴れ渡った空を見上げて口を開いた。

『また、なんと物好きな。この闇の国にあって太陽など必要もあるまいに、シューも浮かれておると言うワケか…』

「あははは♪シューは浮かれてなんかいないよ。俺のお目付け役だから勝手な行動をしないように見張っているんだよ」

 背後のゼィにケタケタ笑いながら嬉しさを隠し切れない光太郎が言えば、闇こそが似合う魔性の魔物は呆れたように肩を竦めてしまうのだ。

「あれ?そう言えば、シンナを見ないけど。ゼィと一緒じゃないのか?」

 いつも影のようにシンナに寄り添っているゼィが、珍しく、こんなお祭り騒ぎの場所で一人と言うのも変な話だと思ったのか、訝しそうに眉を顰めて光太郎が首を傾げると、魔将軍の片割れはそれこそうんざりしたように眉間に派手な皺を寄せて見下ろしてくる。
 もちろん、ビビらなかったと言えば嘘になる。

『シンナは今し方、狩猟に出掛けおった』

 忌々しそうに言うのは、きっとゼィも着いていきたかったに違いない。

(そうか。でも、置いてきぼり食らっちゃったんだな)

 ハネッかえりでお転婆なシンナに、振り回されても離れないほどには、ゼィも少なからずあの魔軍の副将にしては儚げな、小柄な少女に恋をしているんだろうと光太郎は少しだけニンマリした。
 どうか、シンナのあの切ない想いがゼィに届けばいいのに…と、思いながら。

『それにしても…』

 ふと、ジーッと光太郎を見下ろしていたゼィが、訝しそうに首を傾げてポツリと呟いた。

「?」

 キョトンッとする光太郎に、魔王の右手と謳われる魔将軍の一人は、どうでもよさそうに首を左右に振ると、相変わらず来た時と同じように唐突に興味が失せてしまったのか、踵を返しながらついでのように言うのだ。

『シューのヤツめ。今年は森に赴くのが些か早いのではあるまいか?大方、3日目にこそ赴くのであろうと思っておったのだがな』

「え?シューはこの時期になると森に行っていたの??」

 思わず、聞き捨てならない台詞に、いつもなら奇妙な威圧感を漂わせたゼィの背中をホッとしたように見送るはずの光太郎が、慌てて漆黒の外套をむんずと掴んで引き留めた。

『うむ…どのような所用でかは知らぬが、シューは【太陽の日】には必ず魔の森に赴いておるぞ。光太郎の件も、恐らくは序でなのであろうよ』

 引き留められたゼィは、それでも別に気分を害したワケではなさそうだったが、面白くもなさそうにそう言ってから、魔の森に赴くための準備をしているシューが来るのを待っている光太郎に、肩を竦めながら別れを告げて行ってしまった。

「…そうだったんだ。あ、だから1日ぐらいならって言ったのか」

 別に、だからと言って花摘みの件がなくなると言うワケでもないのに、光太郎は胸の奥に何か、澱のようなものが降り積もるような錯覚がして眉を顰めた。
 なんにせよ、花摘みに出掛けられるのだから光太郎にしてみれば【太陽の日】様々なのに、何故か浮かれることができない自分が不思議で仕方なかった。

「シューは、いったい魔の森で何をしているんだろう?」

 特に、こんな風に晴れ渡った青空の下で、命の灯火に満ち溢れた、魔の森と呼ぶには申し訳ないほど煌く陽光の森の中で、いったい何をしているのか…

「……意外と、日光浴とかしてるだけだったりして」

 そんなまさか、独りで言って苦笑していると、勇ましい獅子の頭部を持つ魔族に在ってもその力を謳われる魔将軍が、仕方なさそうな表情をして姿を現したから、人間の少年はホッとしたように笑った。
 笑って…良ければ聞きたいと思っていた。
 恐らくは、『人間なんかには関係ねぇ』と一喝で切り捨てられてしまうのだろうが…

『なんだよ、ニヤニヤして…いいか、最初に言っておくが!絶対に俺から離れるんじゃねぇぞッ…つーか、単独行動はご法度だからなッ』

 一抹の不安を抱えたのか、シューは眉間に皺を刻みながら、黄金色の双眸を細めて威嚇するように牙をむいて見せた。
 最近の光太郎は、だからと言ってそれに怯むこともなく、エヘヘッと笑って「うんうん」と頷いて見せるから、却ってシューの心臓を縮み上がらせたりする。しかし、その内心など知る由もない光太郎は、ハラハラしている魔獣の心などお構いなしで、嬉しそうに破顔してシューの大きな掌を掴むのだ。

「ほら、手を繋いだら逸れないだろ?大丈夫、迷子になったりしないから」

 所構わずお構いなしに抱き付いてくる光太郎の存在を疎ましく思っているシューだったが…と言うか、部下の前でも平気で懐かれてしまうと、彼らに将軍としての威厳だとか、シメシと言うものがつかなくなってしまう。
 身分などに囚われる性格ではなかったのだが、これではあまりに自分が滑稽だと思ったのか、シューはそんな無邪気な【魔王の贄】を邪険に振り払うことに決めていたのだ。
 魔王の為に召喚された【魔王の贄】であるはずなのに、驚くほど光太郎はシューに懐いてしまった。
 あろうことか、魔軍の最高位である魔王の信任厚い魔将軍であるシューに、異世界から導かれた【魔王の贄】と言うだけで、何処にでもいそうな平凡な人間の少年如きが、外聞も憚らずに【好き】を連呼した挙句、巨体によじ登って抱き付いてくると言う有様なのだから…シューの忠実な部下たちは、遠巻きにしながらも、そんな微笑ましい2人をソッと、祝福しているなどと言うことにこれっぽっちも気付かない魔将軍は、馬鹿にされているだろうと思い込んで、鬱陶しくて仕方なかったが魔王の命令には逆らえずに傍に置いているが、できれば早く魔王が召してくれればいいのにと心底から思っていた。
 こうしてまた、どうして人間如きと仲良く手など繋がなければならないのか…と、シューが耐え難い葛藤に苛まされながら歯軋りしている傍らで、光太郎はエヘッと笑って見上げている。
 その笑顔を見れば、魔王からくれぐれも…と託された【魔王の贄】を危険に晒すこともできずに、シューは溜め息を吐きながらガックリと項垂れるしかない。

『う!…うぅ~…ッ、クソッ!今日だけだからなッ』

 掴んでいる小さな掌を、折れない程度にギュッと握り締めるシューに、ハッとしたように顔を上げた光太郎は、まるで、見たこともない花が咲き誇るような、鮮烈な笑顔を浮かべたから、朴訥としている魔将軍は胸の辺りがドクンッと跳ね上がるような、奇妙な感覚を覚えてギョッとしてしまう。

「♪」

 嬉しそうにぎゅぅっと握り返す光太郎に、シューは呆気に取られたような顔をして、自慢の鬣からヒョッコリ覗く丸い耳を伏せるようにして、それでも、先ほどの衝撃的な感覚に、未だ胸がドキドキしていることは悟られないように内緒にすることにしたようだ。

(なんだったんだ、俺?…はぁ、光太郎が来てから調子が狂いまくってんなぁ)

 シューの、声に出せない諦めのような感情を、全く気付けない光太郎は嬉しそうに見上げたままで、魔獣の大きな掌を幸せそうに掴んでいた。

ψ

 魔の森には陽射しが溢れていて、光太郎は何故か、それは梅雨明けの夏の陽射しに似ているなぁ…と、どうでもいいことだったが考えていた。
 手を繋いだままで前を行く大柄な魔物、魔族の将軍シューの背中を見詰めながら、光太郎は嬉しそうにエヘヘッと笑っている。その仕草を、気配で感じているシューは、半ばうんざりしながらも、久し振りに見る晴れた空を見上げてしまえば、どうでもいいかと思えるから不思議だなぁと、これまたどうでもいいことだったが考えているようだ。
 それまではけたたましい悲鳴のような声で啼くことしかできなかった森の鳥たちが、まるで誘うように、歌うように囀れば、高い木の枝にちょろちょろと動き回る見たこともない小動物が小首を傾げて、鼻をひくひくとひくつかせている。
 その、あまりにも平和な光景が、本当にこの世界に戦争なんて起こっているんだろうかと、光太郎に思わせていたとしても、それは仕方なかった。
 それほどまでも、森は穏やかで、静かだったのだ。

『くそー…あの場所にだけは連れて行きたかねーんだけどよー』

 大柄な魔獣のシューがブツブツと悪態を吐けば、ポカンと澄んだ大気に穏やかな静寂が広がる森を見渡していた光太郎が首を傾げた。

「あの場所…って、もしかしてシューがいつも行ってるって場所?」

『グハッ!なんでお前がそれを…って、シンナに聞いたのか』

「違うよ!」

 半ば引き摺るようにしてズカズカと歩いていたシューに胡乱な目付きで肩越しに見下ろされても、光太郎は怯まずに慌てて無実の友人を護る為に首を左右に振って否定する。
 が、そんな態度でシューが信じるはずもなく、あのお喋りなディハール族には一度、懇々と説教をしてやらねばいかん!…と、シューが思ったかどうかは別として、そう思い込んでしまった光太郎が慌てて空いている方の手で魔将軍の服を引っ張った。

「違うってば、シュー!…もうね、どうしてシンナがそんなこと教えることができるんだよ?俺なんて、今日!シューから【太陽の日】って聞いたばかりなのに。それからシンナには会ってないよ」

『…あー、そう言やアイツ、魔王の詠唱と同時に弓矢を持って城を飛び出して行ったっけか』

「ほら!」

 やっぱりなぁっと眉を寄せてホッと息を吐く光太郎に、それならば、とシューは訝しそうに首を傾げて人間の少年を見下ろした。

『じゃあ、誰から聞きやがったんだ?』

「…えーっと、誰だっていいだろ?それよりも、どうして隠すんだよ。シューはちょっとさ、秘密主義なところがいけないと思うんだよね。だいたい、すぐに…」

『判った!判ったから、それ以上は何も言うんじゃねぇ。お前の話はうんざりするほど長くなるから正直、勘弁して欲しい』

 うんざりしたように息を吐き出したシューに、光太郎はシメシメとでも思ったのかすぐさまニヤッと笑うと、その大きな腕を胸に抱き締めるようにして魔将軍の顔を覗き込んだ。

「じゃあ、教えてくれるよね♪」

 エヘッと笑う魔物もビックリの小悪魔に、シューはできれば一発でいいから殴らせて欲しいと、額に血管を浮かべると頬を引き攣らせて笑いながら見下ろした。

『仕方ねぇヤツだなー…俺が【太陽の日】に行ってる場所ってのはな』

「うんうん」

 ワクワクしたようによく晴れた夜空のような双眸を煌かせて見詰めてくる光太郎に、俺の行き先なんか何が面白いんだと、シューは好奇心に頬を上気させている少年を見下ろして、呆れたように軽い溜め息など吐いた…その時。

《シュー様!》

 ふと、声が聞こえたような気がして、光太郎と顔を見合わせていたシューはだが、すぐに声の主に気付いたのか、緊張していた肩の力を抜いて振り返ったのだ。
 【太陽の日】とは言え、全く凶悪な下級魔物がいなくなっている…と言ったワケではないのだから、シューがピリピリと警戒していたとしても仕方のないことだった。

『なんだよ、驚かせるんじゃねー』

《シュー様……ッ!!》

 不意に、まるで大気から滲み出るようにして姿を現したのは、キラキラと陽光を反射させて煌く、薄い衣を幾重にも纏った、煌く黄金の髪が滝のように零れ落ちては華奢な頤を隠しているようなその顔立ちはとても高貴で、見ている光太郎をポカンッと間抜けな顔にするには充分だった。
 だが、その神々しいまでに美しい満面の笑みを浮かべていた精霊は、そんな間抜け顔の光太郎に酷く怯えたように狼狽え、彼を連れて来た魔獣の将軍を非難するように眉を顰めて睨み付けるのだ。

《シュー様…どうして貴方が人間を?》

『んあ!?…あー、コイツはその、魔王の客人だ』

《魔王様の…?》

 訝しそうに、見事な柳眉をソッと顰めた美しい精霊は、困惑したように惚けている光太郎を見下ろした。
 だが。

「シュー、この人は誰?」

 ハッと、唐突に我に返った光太郎は、どうやらその美しい精霊がシューにとって親密な人物のようだと察知したのか、嫉妬とも、不安とも言えぬ綯い交ぜした表情で魔将軍の顔を見上げながら、掴んだ腕を軽く引っ張ったのだ。
 些か賑わしい少年ではあるが、それほど害があるワケではないのだから用心する必要はないと、この花のようにたおやかで麗しい精霊に説いたところで、人間を何よりも憎んでいる精霊には詮無きことだと知っているから、シューは困ったように丸いチャーミングな耳を伏せるようにして光太郎を見下ろした。
 黄金の双眸は、困惑したように細められている。
 だからこそ、光太郎は途端にハッとするのだ。
 シューを、困らせてしまう…それは、光太郎が尤も嫌っている行為なのに。

(それでも聞きたい…と思うのは、俺の我侭だから。きっと、シューは俺を嫌うんだろうな)

たとえシューを困らせたとしても、光太郎は中空に浮いている儚げに美しい精霊との関係を知りたいと切実に思っている。

『コイツは…まあ、俺の古い知り合いだ』

《シュー様はわたくしの命の恩人でございますのよ》

 ふわりふわりと漂うように薄衣を靡かせてソッと小首を傾げる精霊の、その声音はほんの少しだけでも、堅いんだなぁ…と、光太郎は眉を顰めていた。
 命の恩人…それはずしりと胸に圧し掛かるような重い言葉だったから、光太郎はほんの少し動揺して、困ったなーとでも言いたそうな、魔将軍の顔を見上げていた。
 久し振りに見上げる真っ青な空と眩しいぐらいの太陽の下で、不似合いで然るべきはずの魔獣の面立ちは、百獣の王だと謳わしめるほど毅然と見据えた双眸が力強くて、太陽の下であっても、シューに不幸な翳りなど見出せなかった。
 だからこそ、光太郎はそんなシューが好きだった。
 太陽も闇も、矛盾なくシューの中に当たり前のように存在しているのだから。
 光太郎はふと、目線を落としてしまう。
 キラキラと煌びやかな美しい精霊は、ハッとするほど、シューと並んでも違和感がない。
 それはきっと、魔獣であるはずのシューの、その凛とした面立ちに怯みがないからなのだろう。

『命の恩人ってなぁ、大袈裟だぜ』

《本当のことですから…今も、昔も》

 寄り添うように舞い降りた美しい精霊は、まるで空気のようなさり気なさで、仄かに発光する指先を差し伸べてシューのゴツゴツした大きな掌に触れたのだ。
 人から、たとえば光太郎が触れた時ですら、邪険に振り払うような魔将軍のその態度は、きっと他人に触られるのが嫌だからに違いないと、自分に言い聞かせていた光太郎の儚い希望を打ち砕くように、精霊の指先を振り払うことをしないシューは、どうも精霊が触れていることすら気にしてもいないようだ。

(そ、そうだよな…俺はシューたちが憎んでいる人間なんだから。気に入って貰えるなんて、思っては駄目なんだ)

 ジワリ…ッと、鼻の奥がツキンと痛んで、思わず目尻に盛り上がってしまう涙が溢れそうになった光太郎は、唐突に黙り込んでしまった人間の少年を、訝しそうに覗き込む魔獣の将軍と麗しい精霊を見上げると、まるでこの世界を包み込んでいる太陽そのもののような、あまりにも明るい表情でニコッと笑ったのだ。 

「なんだ!命の恩人っていったら凄いことだよ、シュー。だったらきっと、積もる話もあるんだろ?俺、1人で花を探してくるから、その間、ゆっくり話してていいよ♪」

『な!冗談じゃねぇッ。お前を独りにさせられるかってんだ!』

「独りでも大丈夫。だって、太陽が沈むまでは低級魔物は襲ってこれない…って、ゼインも言ってたからね」

 険悪な形相でグワッと牙をむく獅子面の魔物に、光太郎は顔を覗き込まれたままで屈託なくニコッと笑った。
 その言葉は嘘だったけど、どうもシューにはピンッとくるものがあったのか、光太郎の言葉をそのまま受け取ったようだった。

『ったく、また魔王のお赦しはとってある…って言うつもりなんだな?』

「うん、その通り♪」

 引き止めて欲しい…いや、せめて。
 一緒に花を探したい。
 でも。

(あの精霊はきっと、シューのことを好きなんだ)

 光太郎は噛み締めたくなる唇をソッと歪めるようにして、素直になれない自分を自重しながら笑っていた。
 悲しい表情に気付けない鈍感な獅子面の魔物の傍らで、縋るように指先を絡める精霊が無表情のままそんな光太郎を見下ろしている。
 その鋭い双眸から少しでも早く逃げ出したくて、光太郎は半ば強引に、自らが掴んでいた指先を振り払っていた。いつの間にか、シューが握り返していた温かな掌の不在に、心許無い不安を覚えていたとしても、それでも光太郎は、太陽に似た花が咲いたような笑顔を浮かべたままで、やれやれと溜め息を吐きながらも腕を組んで不安そうにしている魔将軍に手を振って短い間の別れを告げたのだ。
 一分でも一秒でも早く、あの2人の見えないところ、ほんの少しでも遠くへ行きたいと思いながら。

ψ

 シューと別れてトボトボと歩いているうちに、光太郎はほんの少しだけ元気を取り戻していた。
 と、言うのも。
 結局、嫌がっていたシューに無理に頼み込んだのは自分だし、彼が隠したいと思っていた真実を目の当たりにしたからと言って、それに傷付いてしまうのはお門違いなのではないか…と、思い始めていたからだ。

「それに、命の恩人なら、なおさらシューのことを好きになっても仕方ないよね。あんな態度を取ってしまって、俺、なんだか悪いことしちゃったなぁ」

 相変わらず、お人好しを絵に描いたような光太郎が、良く晴れた青空に精一杯、光合成しようと枝を伸ばした木々の隙間からチラチラと光る木漏れ日の中を歩いていると、ふと、そんな少年の背中に呆れたような溜め息が零れた。

「?」

 不思議に思って足を止めた光太郎は、溜め息に釣られるようにして振り返って、次いで驚いたように目をまん丸にした。
 視線の先に立っていたのは…

「シンナ!」

 ゼィの話では空が晴れ渡る頃から弓矢を持って飛び出して行ったらしい元気なディハールの勇敢な副将は、キラキラと光る木漏れ日を全身に浴びて、不貞腐れたような表情には珍しく、可憐な彩りを添えていた。
 その、ドキッとするほど女らしい相貌に、見慣れていたあどけなさを見つけることができなくて、名前を呼んでみたものの、その後の二の句が告げられないでいる光太郎に、シンナらしきその人物は呆れたように溜め息を吐いた。

《ゼルディアスに気を遣うなんてどうかしてるんじゃない?見たとこ、アンタもシュー将軍を好きなんでしょ》

 彼女は可憐な頬にサラリとした髪を散らし、小悪魔ちっくな釣り上がり気味の勝気な双眸で軽く睨むと、馬鹿にしたように大袈裟に溜め息など吐いて腕を組んだ。
 豊満な胸元が盛り上がり、それでなくてもお年頃の光太郎には目のやり場に困ってしまう。
 シンナは…こんなに色っぽい身体をしていただろうか?

「…」

 まるで、顔だけは良く知っている知人なのに、身体も雰囲気もまるで別人のようになってしまった目の前の良く知っているはずなのにまるで知らない人のような少女に、光太郎は何故か急速な焦燥感を覚えて胸の辺りをギュッと掴みながらソッと眉を顰めると小首を傾げていた。 

《アイツ、シュー将軍のこと大好きなんだよね。一年に一度だけ逢える今日を楽しみにしているのに…馬鹿みたい。どうせ精霊は誰とも添い遂げることなんかできないのにさッ!》

 シンナの顔をした少女は、まるで憎らしそうに自らの背後を肩越しに睨みつけて、それから、戸惑っているように立ち尽くしている光太郎に気付くと、組んでいた腕を解いて腰に当てて、スタスタと近付きながらその顔に人差し指の先端を突きつける勢いで詰め寄るのだ。

《そもそもさぁ、シュー将軍が悪いのよ!煮え切らない態度ってチョームカつくんだよねッ。アンタもシュー将軍のことが好きなら、さっさと掻っ攫っちゃいなよ。じゃないと、ゼルディアスは本気なんだからねッ》

「え?え??」

 ぐにっと鼻の頭を押し上げられて、それこそ、まるで青天の霹靂にでも遭遇したかのように目を白黒させる光太郎に、少女は唐突に何かに気付いたのか、ハッとしたように両手を降参でもするように挙げると、ケラケラと笑いながら言ったのだ。

《アッハ!ごめん、ごめん!突然こんなこと言われちゃったら、正直ワケわっかんないよねー》

「え、えーっと…シンナ、じゃないよね?」

《うん》

 少女はクスッと笑うと、小首を傾げるようにして肩を竦めて見せた。
 サラリとした金の髪が、頬にハラハラと散って…矢張りこの少女は、光太郎が良く知る、あの元気いっぱいのシンナではないのだ。
 シンナがもし、もっと女の子っぽい少女だったとしたら、こんな風に大人の魅力を持っているんだろうなぁと、光太郎はどうでもいいことなのにそんなことを考えてしまった。

《魔軍の副将さまのお顔を借りてるだけ♪あたしはニモカ。ゼルディアスと同じ精霊よ》

「顔を借りる…って、良く判らないんだけど。俺は光太郎って言うんだ。その、人間なんだけど…」

《あはは!人間なんて見れば判るわよ。でも安心して、あたしはゼルディアスのような人間嫌いじゃないから》

 ニモカと名乗った精霊は、太陽のように陽気に笑って肩を竦めると、わざとらしくコホンと咳払いなどした。

《えーっと、初対面なのに失礼なこと言っちゃってごめんなさい。花を探してるんでしょ?》

 素っ気無い口調は、どうやら照れ隠しのようだ。

《取って置きの場所を知ってるんだよね。どう?一緒に来る??》

「いいの??」

 パアッと嬉しそうに笑う光太郎に、ニモカは勿論だとでも言うように頷いて見せた。 ふんわりとした薄い絹のヴェールは風を孕んでニモカの小柄な身体を包んでいたが、何処か物寂しげな表情を、光太郎はいつか何処かで見たことがあると思っていた。
 どこで見たのか思い出せなかったが、その表情は陽気な口調とは裏腹に、物寂しげで儚くて、少しでも気を緩めたら消えてしまいそうなほど脆そうだった。
 思い出せない気持ちが、光太郎に一抹の焦燥感を覚えさせていた。

Papa dont’t cry me! 1  -たとえばそれは。-

『故に現在、我が国の少子化は深刻な問題となり…』

 生真面目にサイドに掻き揚げたオールバックに冷徹そうな縁無し眼鏡の父さんは、居並ぶ幹部たちを前に怯むどころか、この上なく無愛想に巨大モニターの前で講義している。
 いつもの白衣姿ではなく、今日はスーツをビシッと着ていて付け入る隙なんかないんじゃないかって思っちまうけど…こうしたいつものだらしない白衣姿とは違う一面を見てしまうと、ああ、この人はやっぱり世界に名立たる天才博士なんだなぁと思うことができる。
 いや、いつものズボラで無頓着な親父の方が、ホントはどうかしてるんだ。
 この人のこの姿こそ、本来癌の権威と謳われる日本が誇るサイエンティスト、沖田蛍杜その人なんだろう。

『Endocrine Disrupting Chemicalsの影響は世界各地でも問題となり、各国の詳細な報告も届いております。お手元にある資料、S-32をご覧ください。これによると少なくとも日本は…』

 父さんが示した資料に、居並ぶ連中は一斉に意識を集中したようだ。
 完璧に整えているはずの頭髪の何が気に食わないのか、父さんは髪を掻き揚げるような仕草をして手にした資料の説明を始めたようだった。
 何がなんだか…聞いてる俺は、さっぱりだ。
 今日は学会…ってワケではなく、現在、この研究所、製薬会社『レッドロータス』で行われている重要な研究の報告発表のようなものを、100%出資会社である『紫貴電工』の幹部たちが定例で開いているのに参加しないといけないから…と言う理由で、今週は帰れないから研究所においでと言われて足を運んだワケなんだけど。
 助手さんだとか、主要な研究から外れてるチームの面々などが、今後の参考のために傍聴できる、囲うように硝子張りで出来た2階の薄暗い部屋で腰を下ろしたまま聞きながら、俺はどうも耳慣れない話に欠伸すら漏らしてしまう有様だ。

『問題となっている重篤な【生殖異常】の現われはほんのささやかなものであったかもしれません。イボニシの【インポセックス】をはじめ、雌の牡化、牡の雌化…また1980年代にイギリスで発見された雌雄同体の「ローチ」にいたっては、それらが具現化した警鐘の現われであったのではないでしょうか。失礼。さて、このEndocrine Disrupting Chemicalsが齎す影響はそれだけではなく、動物実験の結果等によりヒト精子及び精子形成に悪影響を
与えていると言うことは既に認識されている事実です。また、野生生物で報告されている甲状腺の機能異常、妊娠率の低下、生殖行動異常、生殖器の奇形、脱雄性化、雌性化、免疫機能の低下といった生殖・発生影響は、実験動物においてもこのEndocrine Disrupting Chemicalsの投与によって引き起こされています。もちろん、少量のEndocrine Disrupting Chemicalsの投与により、ヒトに対する影響が現れていることは、学会に於いては既に明らかとなっています』

『ドクター、貴方はEndocrine Disrupting Chemicalsに於ける影響を鑑みて、この「Twelfth」を発表するわけだが、この薬によってどう言った可能性が認められるか説明してもらいたい』

 テーブルに頬杖を着いていた初老の男が、資料を振りながら鋭い双眸で父さんを軽く睨んでいるようだ。
 それがその人の癖なのか、俺はムッとしたけど、父さんはそこら辺は全く無視して、軽い溜め息をコソリと吐きながら頷いて傍らにあるノートパソコンに何かを打ち込んだ。
 モニターに出された俺にはよく判らない図解だとか、数式だとかを指し示しながら、父さんは今携わっている研究について、それが齎す結果を細かく説明しているようだった。

「はぁ~、素敵ねぇ。沖田博士♪」

 ハートマークが飛び散るような溜め息交じりで背後から声を掛けられて、俺は肩越しに振り返ると呆れたように肩を竦めて見せた。

「…美鈴女史。貴女は出ないんですか?」

「出ないんじゃないの。出たいけど出してもらえないの」

 もう!…っと、唇を尖らせた白衣の美人に鼻先を弾かれて、俺は首を竦めながらウハハハッと笑ってしまう。
 この人は、もうずっと、父さんを狙っていたりする。
 俺よりも10歳ぐらい年上なんだけど、実際の年齢は「女性に年齢を訊ねるのはご法度よ」とクスクス笑いながらはぐらかされてしまって、本当の年齢を実は知らないんだよな。

「親父は何を研究してるですか?俺、聞いててもちんぷんかんぷんだ」

「あはは!当り前じゃない。一般人には知らされていない内分泌撹乱化学物質の影響について研究し、その成果としてある薬を発表されてるのよ」

「内分泌撹乱化学物質?」

「ええ」

 綺麗に塗られたグロスに煌く唇はセクシーだし、頭の良さだって女だてらにぴか一だってのにさ、父さんは彼女を後妻に迎えればいいんだ。俺なんか、もう放っておいてさぁ…

「Endocrine Disrupting Chemicalsって言うのはね、内分泌撹乱化学物質のことなんだけど。まあ、一般的には『環境ホルモン』って言った方が判り易いわね」

「ああ、それならニュースで聞いたことがある」

 美鈴女史はクスクスと笑ってから、やっぱりね、とでも言いたそうに肩を竦めて手にしている資料を椅子の上に放り出した。

「凄いわよね、沖田博士。あの『Twelfth』がこの『レッドロータス』から販売されれば、向かうところ敵無し!…って感じだわよ」

「へー、そんなに凄いのか?」

「凄いわよ!なんたって、ホルモン関係の病に爆発的な効力を発揮するの。ううん、なんて言うんだろう?つまりね、地球に全く優しくない化学物質の垂れ流しに因る病気や生殖異常、簡単に言えばインポテンツや甲状腺癌乃至は乳癌、精巣癌なんかを悉く治してしまうのね。応用すれば、あらゆる癌に効いてしまうという夢のような薬ってワケ」

「そ、それは凄いかも」

 思わず呆気に取られて見上げると、腕を組んだまま眼下で繰り広げられる遣り取りを見下ろしている美鈴女史は、どこか興奮でもしているように薄暗い中で、頬を紅潮させて父さんを見詰めているようだった。

「かもじゃないわ。世紀の大発見よ」

「…親父がまた有名になるのかぁ」

 見上げていた視線を床に落として、思わずボソッと呟いたら、組んでいた腕を解いた美鈴女史が小首を傾げながら近付いて来た。

「あら、博士が有名になるのは嫌なの?パパを独占できないから??」

「いや…そう言うんじゃないけど」

 どうしてこう、父さんにしろ美鈴女史にしろ、高圧的に上からモノを言うのかなぁ…思わず反発したくなっても仕方ないと思うんだけど。
 ああ、この人が後妻になったらたぶん俺、家に一秒だって帰りたくなくなるだろうなぁ。
 父さん+美鈴女史だぜ。
 どこの研究施設よりもおっかないと思う。

「心配しなくてもいいわ。この研究はあくまでもまだまだ未完なのよ。今は『レッドロータス』内のみで沖田博士によって研究されているだけの極秘的な薬なの。だから、今回の発表は途中経過の報告のようなものね。それを見学することができる研究員、もちろん私も含めてだけど、彼らはみんな、今後の『レッドロータス』を担うと目されているエリートたちよ。それで判るでしょう?どれほど秘密裏かってこと」

「そうだったのか…」

 美鈴女史は口許に薄っすらと微笑を浮かべたままで、腕を組みなおすと、食い入るように一連の質疑応答を終えて退場しようとしている父さんを息を潜めて見詰める連中を眺めながら、よく聞けば度肝を抜くようなことをサラッと言ってくれたんだ。

「あら、博士の発表が終わったようね。見てみなさいよ、光太郎くん。あの紫貴電工の幹部連の満足した顔…これで、博士のこの研究所での地位は確立したも同然だわ」

「…よく判らないんだけど。親父は副所長だし?別に地位はもうあるんじゃ…」

「甘いわね」

 クスッと鼻先で笑われてしまうと、25だって言うのに適当に子供扱いされてるよなぁとガックリしちまうよ。
 そりゃあ、ここにいる連中はトップクラスのエリートさまたちですよ?俺なんかじゃ、到底お呼びにもならない秀才揃いだろうけど、それでも俺は、父さんのようにこんな場所で働きたい…なんてことは、これっぽっちも思わない。
 美鈴女史を見ていても判るように、どこか狂気的に、研究なんて言う地位に固執しているようで気味が悪い。

「副所長の次は所長になることじゃない。沖田博士は、紫貴電工から来たお飾りの所長なんかとは比べものにならないくらい、確固たる実力を兼ね備えた方よ。それなのに副所長なんて…どうかしてるって思わないの?」

「はぁ…俺は別に、胡散臭い研究に没頭できるんなら副所長でも所長でも、親父には一緒じゃないかって思うけど」

 それになんてたってあの人は、莫大な給料を貰ってるし。
 そのおかげでまあ、今頃は薄給でピィピィ泣いてるはずの俺が悠々自適にDVDとか借りて、大型テレビの前に寝転んで映画が観られてるんだ…文句は言えないけどさぁ。

「んもう、光太郎くんには野心ってものがないのね。男としての魅力がなくなっちゃうわよ?博士の息子さんだって、どうしても思えないんだけどなぁ」

「…う」

 男としての魅力がない…いくらオールドミスの美鈴女史、と、これは失礼か。それでも女性に言われてしまうとやっぱり自信がなくなっちまうなぁ。
 それってやっぱり…その、男に抱かれてるせいだからだとか…うわ、俺ってば何を考えてるんだ。
 思わずしょんぼりしそうになった時だった、ふと、ふんわりと嗅ぎ慣れた優しい白檀の匂いがして、ハッとした時には背後から父さんが俯きがちになる俺の肩を掴んでいたんだ。

「待たせてしまったかな?」

「…親父」

「沖田博士!」

 俺の言葉尻に被るようにして美鈴女史が割り込んでくると、父さんはやんわりとした優しげな微笑を浮かべて、まるで今気付いたとでも言うように首を傾げたんだ。

「ああ、橘くん。これから瀬口の研究発表がある。君と似たようなテーマを扱っているようだし、是非とも見ておく価値はあると思うがね?」

「あ、ええ。でも、博士の研究にも感銘を受けましたわ。宜しかったら、この後、私に講義して下さらないかしら?」

 さらりとあしらおうとする父さんに食らいつく美鈴女史に、冷徹な怒りを縁なし眼鏡の奥に隠しながら、ちょっと困ったように笑って肩を竦めている。
 獲物に食らいつく女の怖さを知らなさ過ぎるよ、親父。
 女って生き物はな、一度決めたら諦めない、兎角美鈴女史なんて鑑のような人なんだぞ。
 諦めて今日は女史に付き合うべきだ。

「何事にも関心を持つのは良いことだよ。だが、君の分野は比較行動学に基づくものだろう?せいぜい、精進したまえ。光太郎、おいで」

 そんなことを考えていたら、父さんはにっこりと魅惑的な微笑で美鈴女史を釘付けにしてから、何事もなかったようなアッサリした調子で俺の腕を掴んで薄暗い部屋を後にしたんだ。
 うわ、なんか、親父の知られざる一面をまたしても垣間見たような気がする。
 こんなに面白いんなら、意地なんか張らないで高校の頃からここに来てればよかった。
 あれじゃあ、美鈴女史は振られても振られても、猛然とアタックしちまうわな。

「親父は罪なヤツだ」

「…え?」

 俺が何を言ったのか理解できないとでも言いたそうな顔付きをした父さんは、それまでちょっとだけ寄っていた眉をふと和らげると、やっと面倒臭い会議から解放されたとでも言うように安堵した顔をしたんだ。
 そんなに嫌なのか。
 ああ、でもそうだよな。
 父さんは研究に没頭したい人なんだ、人前で偉そうに舌を振るうのなんかお呼びじゃないんだよなぁ。
 疲れたように、小さく溜め息なんか吐いてるのを見ていると、やっぱり父さんは所長とかに野心は持っちゃいないよと、美鈴女史に言ってやりたくなる。

「なぁ、そう言えば。瀬口さんってどんな研究をしてるんだ?美鈴女史と似たような研究って言ってるし…あ、でも俺が聞いても判らないけど」

 ポリポリと腕を引かれたままで頭を掻きながら訊いたら、父さんはいつものように小さく笑いながら答えてくれるとばかり思っていたのに、今日の父さんは違っていた。

「…瀬口の研究が気になるのかね?」

「は?あー、うん。そりゃあ、まあね」

 瀬口さんの研究ってのは人間行動学に基づく…って確か父さんが言ってたし、その名称はちょっとだけ聞いたことがあるから、どんなものか興味もある。
 人間をボーッと観察でもしてるんだろうか…ってね。

「父さんの研究はわけが判らないと言って聞こうとしない、お前がね」

 嫌味ったらしく見下ろしてきた父さんの、そのいつもと違う髪形だとか服装だとかが奇妙な凄味になって、思わず俺は立ち止まりそうになってしまった。
 双眸を細めて、俺の中にある真意でも見定めようとしているその目付きが、鳩尾の辺りをゾワゾワさせるから…つい溜め息が出てしまう。

「俺を両性具有体にしようとしてる親父の研究なんて、ワケが判らなくて当り前だろ?あの『Twelfth』って薬の実験だったんだろ、俺に飲ませてたし」

「いや、違うよ」

 父さんはムゥッとしながらも、それでもふと笑って、俺と肩を並べながらポツポツと語ってくれたんだ。

「あんなモノは連中の目を晦ます下らないお遊びに過ぎない」

 頬を紅潮させた美鈴女史がその薬を天才の産物だと褒め称えていたって言うのに…いや、俺だって女史から聞いた時には純粋に『スゲー!』と思っちまったんだ。なのに、父さんは、この面倒臭そうにネクタイを緩めているこの人は、その世紀の大発明だと女史に言わしめた薬を、ただのお遊びだと言い放ったんだ。
 環境ホルモンと言った人為的なモノが齎せたあらゆる病気を、悉く治してしまうと言う薬。
 いったい、どれだけの人がそれを待ち望んでると思ってるんだ!

「親父…!」

「私が本当の目的で研究しているのはね、そんな容易いものではないよ」

 抗議しようとした途端、不意にガクンッと力強く腕を引かれてしまって、思わず父さんの胸に倒れ込むような形で空き部屋らしき場所に連れ込まれてしまった俺は、呆気に取られたようにその顔を見上げてしまう。

「あの『Twelfth』は『K-12』の副産物に過ぎないのだよ。私はね、『生殖異常』に着眼したんだ。そこで、見つけ出した原因物質を解明し、『K-12』を発見した。驚いたよ。その矢先に母さんが亡くなって…これはもう、天啓だと思ったのさ」

「…『K-12』ってなんだよ?」

 話が見えなくて首を傾げていると、俺をやんわりと抱き締めてきた父さんがやわらかくキスしてきた。その口付けはうっとりするほど優しくて、俺は嬉しくて忍び込んでくる舌に舌を絡めてそれに応えていた。
 上手にはぐらかす父さんのいつものことだから、これは言いたくないことなんだろうな、まあいいか、今はこの優しいキスに騙されてやろうって思ったのに…俺を追い詰めることもなく離れる濡れた唇は、俺が知りたがったことをキチンと教えてくれたんだ。

「以前にも話したように、遺伝子レベルで両性具有体になることのできる物質だよ」

 いつも嘘ばっかり吐く父さんの唇は、どうやら今度ばかりは本当のことを言っているようだと理解できたけど、その言葉の意味までは判らなかった。

「…俺は『Twelfth』の方が社会に充分貢献できると思うんだけどな」

「社会に貢献?そんなつまらないことの為に私は研究をしているのではないよ。お前を、光太郎を愛しいと思い始めたのはお前がまだ2歳の時だった」

「へ?」

 なんか、混乱してきたぞ。
 俺が3歳の頃に死んだ母さんを想って泣いている父さんを叱ったことで、この人は俺を愛するようになってこんなワケの判らん研究を始めたんじゃなかったのか…?

「可愛らしくてね。でも、お前が女の子だったら…などとは、これっぽっちも思いはしなかったよ。そのままのお前で、私の子を孕んでくれればと思ったら、癌などどうでも良くなった」

 いや、寧ろ子供を孕むとかそっちの方がどうでも良くなるんじゃないのか、普通は。

「き、切欠は…」

「弥生が亡くなる前からどうしようもなく、お前を愛してしまっていて…だから、私はこの研究を始めたのだよ。光太郎に苦痛を与えずに具有体になる方法。20年以上も費やしてしまったが」

「だって、親父は母さんを愛してたから…無気力になって、それで…」

 もう、何がなんだか。
 いきなり、こんな告白をされるとは思っていなかっただけに、免疫もなければ身構えることもしていなかったから、俺は熱を出した人のようにグラグラと天井が回るような錯覚を感じていた。

「愛しているよ、もちろん今も。だがね、それ以上に愛しいと思う人を見つけてしまったのだよ」

 父さんはそう言うと、混乱している俺の耳の下あたりに唇を寄せて、やわらかく吸い付いてきた。

「…ッ」

 思わず上がりそうになる声を噛み締めて、俺は抱き締めてくる白檀の香りに酔いながら、その背中に腕を回してしがみ付くようにして抱き締め返していた。

「弥生が亡くなったとき、これは天啓だと思った。あまりにも幸運なことが起こり過ぎて、私は少し自失してしまっていた」

「ッ!…こ、幸運?母さんが死んだのにッ!?」

 父さんの愛撫に流されそうになっていた俺は、その言葉にハッと我に返ると、思わずその胸倉を掴むようにして覗き込んでくる感情を窺わせない冷たい双眸を見上げたんだ。

「幸運だよ。これでもう、弥生は私から離れないし、彼女があれほど懸念していた年を取ることもない。老いの恐怖から離脱した彼女の空っぽな肉体は滅んでも、弥生はもう、私以外の誰をも愛することができなくなってしまった。もちろん、お前のこともね」

「…お、親父」

 ハッとした時には遅かった。
 冷徹に無表情に見下ろしてくる父さんは、電光石火のような素早さで足を払うと、そのまま床に倒れ込んでしまう俺に圧し掛かりながらクスクスと笑うんだ。

「彼女もね、お前を愛してしまっていたから、私たちはお互いに恋敵でもあった。不思議だね、恋焦がれた者同士だと言うのに、私たちは反目するようにお前を取り合っていたのだ」

 忙しなく這い回る熱い指先がシャツの裾から忍んできて、俺はヒヤリと冷たい空気に晒された胸元に、今更ながらハッとして抵抗を試みようとしたんだけど…できるはずもない。
 だって、俺の身体で父さんが触れてないところなんてもう、どこにもないんだ。
 感じる場所も、うっとりするほど気持ちよくなることも…愛しいと想うことさえ全て、俺の世界は父さんなんだから、抵抗なんて出来るはずもない。知っていたけど、妙な世間体とかが邪魔をして、俺はいつだって父さんを素直に受け入れることができないでいる。
 こんなに、病んでしまっている俺の父さん。
 でも、愛してくれていることに間違いはないのかな。

「だから、弥生よりも分の悪い私は考えてしまったのだよ。とても、下らない、他愛のないことではあるんだが…私も必死でね。お前が成長するたびに、急がなければと気を揉んでしまった」

「年を食ったら役に立たないって?」

 憎まれ口を叩きながらもその頬にキスしたら、もう乱れてしまった前髪の隙間から、光を反射させる眼鏡が父さんの感情を隠してしまっている。
 こんなモノで何もかも隠したまま、それが真実なんて認めてやらない。
 そんなつもりで伸ばした指先で弾くように眼鏡を外したら、心臓が高鳴るって言うのはこういう状況のことを言うのか…と、馬鹿みたいに考えている俺を、男らしい野性的な目付きをしているはずの父さんの、その驚くほど優しさを秘めた双眸が見下ろしていたんだ。

「そうじゃないよ。光太郎が誰かを愛しはしないかと不安で仕方なかった」

「親父が?不安??…信じられないよ」

「私はロボットじゃないよ。感情もあれば、不安だって感じる。だから、私はお前を抱いたのだ」

「…それが、信じられないんだよ」

 信じられるかってんだ。
 いきなり12の夏に、少年自然の家から戻ってくるなり犯されたんだ。
 犯された…ってのは語弊があるかもしれないし、俺は父さんを犯罪者にしたくはない。いや、もう充分、立派に犯罪者ではあるけども。
 ガキの頃から下腹部を悪戯されていたし、帰るなり死人みたいな面をして抱き締めてきた父さんの、そのあまりにも悲愴が漂っている姿には、なんだか凄く悪いことをしてしまったような気がして、ついつい、促されるままに全てを許してしまっていた。
 流されたのかもしれないけど…それでも、まるで溺れている人みたいにすがり付いてくる父さんの熱い指先も、侵入されたときの激痛も、忘れたワケじゃないけど、思い出せばいつだって胸の辺りが苦しくなっていた。
 だって俺、本当は嬉しかったからな。
 でもそのあと、父さんがあの微かな嬉しそうな笑みを浮かべて「してやったり」みたいな顔をしやがったから、騙されたと思ってガックリしてしまったってのに…今更、アレが全部本当のことだったなんて言われても信じられるかよ。
 俺の純潔を易々と奪ったくせに、全てが不安だったって?
 父さんのそれが不安なら、俺なんか七転八倒してあまりの不安に恐怖すら覚えてるに違いないっての!

「信じておくれ。私は、もうお前なしでは生きることすらできない。確かに、弥生が亡くなったときにも感じたように、いやそれ以上に、全てが無意味で、明日の光すら見えなくなってしまうのだから」

 父さんはまるで切実だとでも言わんとばかりに、悪戯しているはずの俺の身体をぎゅうぅっと抱き締めてきたんだ。息苦しさに耐えながら見上げたその顔は、長い睫毛の縁取る瞼の裏にあの鮮烈な双眸を隠したまま、切迫した雰囲気が頬を緊張させていた。

「…親父は、俺を、俺のことを愛してるのか?」

「もちろんだ。愛しているよ、光太郎。この心を見せてあげられたらいいのに…もうずっとね、お前に夢中だよ」

 囁くように呟いて、父さんはゆっくりと俺にキスをしてくれた。
 母さんを愛している父さん。
 その想いは確かに変わってはいないんだろうけど、それ以上に、俺を好きだと言う父さんは…心を壊してしまったのかな。
 息子を愛してしまう父親なんかいない。
 娘だったら、判る気もするけど…そんなの、どちらにしてもヘンだ。
 俺の父さんはきっとおかしい。
 どこかで何かを履き違えてしまったに違いないんだろうけど、それでも。
 ああ、それでも。 
 俺、嬉しいって思ってる。
 俺だって、すげーおかしいのかもしれない。
 でも、俺も。
 俺だってもうずっと、父さんのことしか考えていなかった。
 俺の全ては、父さんだったのに。

「…嬉し、俺…う、うぅ…」

 父さんの首に腕を回して、抱き付くようにして泣きじゃくってしまう俺を、父さんは無言で抱き締めてくれた。でもその腕が微かに震えていて、俺と同じ気持ちを共有してくれているような錯覚に陥ってしまった。
 震えるように抱き締めて、泣きじゃくる俺の背中を宥めるように擦ってくれる父さん。

「お、俺も…父さん、俺も…貴方を愛してる」

 ヘンな家族かもしれない。
 それでもいい、世間が何を言ったって、俺は最初から父さんのものだったんだ。

「光太郎?それは、ホントかい?」

 父さんが震える声で、嬉しそうに囁いた。
 溶けて、このまま自分の中に取り込んでしまいたいとでも思っているような父さんの腕はきつく抱き締めてきて、それだけでも窒息してしまいそうな気がするのに、初めての愛の告白に動揺してしまう俺の気持ちを知っているのか、父さんは囁くように呟いた。

「もう、嘘だと言っても駄目だよ。私は、お前を離さない」

「うん、父さん。俺を離さないでくれ…俺、俺は」

 ヒクッとしゃくり上げて、俺は思い切りぎゅうっと抱きつきながら、これ以上はないってぐらい必死に…後で思い出したらきっと、赤面モノだってことは判っているんだけど、愛の告白とやらをやらかしてしまったんだ。

「俺は…具有体になるよ。それで、父さんの子供を産むんだ」

 だって、それが。
 愛の証ってヤツなんだろ?
 俺にはよく判らないけど、それが間違っているのならせめて、父さんの研究を成功させたくなったんだ。俺の身体で試せばいい、もう俺、たとえ壊れてしまった父さんでも、母さん以上に俺を愛してくれた父さんになら、俺の人生の全てを捧げても、もういいやって思ってしまったんだよ。
 なんだかそれは、早くに亡くなってしまった母さんの想いでもあるような気がして…どうしてそんなことを考えたのかよく判らないんだけど、生きてたら母さん、もう1人ぐらい産めたよなぁ…とか、単純に考えてしまったからなのかもしれないけど。

「お前がいなくなってしまったら、私はどうなってしまうのか判らない。たとえその胎に子供を宿して、その子が産まれたとしても私は、やはりお前を亡くしてしまったら、今度は立ち直れないだろうと思うよ。それほどに、この愛は必死で、より深いのだ」

 父さんはまるで夢遊病者のような心許無い口調で、ポツリ、と呟いた。
 その言葉が何を意味しているのか、頭の悪い俺じゃあ到底理解できないけど、俺の身体をこれ以上はないぐらい激しく強く抱き締めながら、父さんは虚ろに何かを凝視しているようだった。
 その胸の内に渦まくものを混沌とした闇が飲み込むように、何もかもが幸せだと感じて浮かれている俺の、そのささやかで浅はかな想いすらも、何もかも全てを飲み込もうとでもしているように…
 父さんは俺を抱き締めたままで、虚空を睨み据えていた。

1  -たとえばそれは。-

 俺はいつも思うことがある。
 たとえば、そう、たとえばだ。
 俺はもう25歳になるし、平凡なサラリーマンでもある。こう言う感じで日々を恙無く暮らしているわけだが、父親と同居していない姿を想像してみよう。
 …できない。
 研究室に篭って自分の妻を実験体に遣い、挙句の果てに死なせてしまったような愚か者の父は以来、惚けた研究にどっぷりとのめり込んでいる。
 実の息子ですらその研究がどんなものか理解できないって言うのに、ましてや赤の他人が理解できようはずもない。
 だからこそ、こんな『たとえば』は俺たち父子には必要ないんだ。
 溜め息を吐きながら今日も俺は、ほかほかのご飯をランチジャーに詰め込みながら、日曜日が休日と言う願ってもない偶の休日を、父さんの勤める研究室までバスに揺られて行くんだから…大概どうかしていると思うよ。
 電話口の瀬口さんの話じゃ、昨日から何も喰っていないと言う。
 俺が渡した弁当が切れてから、丸々1日以上も何も喰っていないと言うことか…確りして欲しいと思っても罰は当たらんと思う。
 まあ、1日ぐらい何も喰わんでも死にはしないだろうけどな…
 ニヤリと笑って玄関でスニーカーを履いていると、居間にある電話がけたたましく鳴り響いた。
 何だってんだよ、いったい。
 やっと弁当の用意を済ませて、後は届けるだけだってのにな。
 面倒くさそうに引っ掛けていたスニーカーを蹴るようにして脱ぐと、ランチジャーを床に置いてそのまま居間へと後戻りした。

「はい、沖田ですけど」

 電話口の向こうから聞こえる声はやけにくぐもっていて、あまり良く聞こえない。

「どちらさんですか?」

 何度か尋ねてみると、電話口の向こうにいる男は咳払いして、少し不機嫌そうに呟くような独特の言い回しで名乗ったんだ。

『沖田さん家の蛍杜さんですが、光太郎さんはいらっしゃいますかな?』

「…なんだ、親父か。どうしたんだよ?今から弁当持って行くところだったんだぜ」

 漸く空腹を思い出して、腹の虫でもぐうと鳴いてるのか、父さんはちょっと息を呑んでるようだった。
 不機嫌そうな独特の言い回しは父さんの癖で、3歳で母さんが死ぬまではそれを受け応えるのは母さんの役目だったんだけども…今は22年間その役目は俺が引き継いでいる。
 下手すれば母さんよりも長いかもしれない…そんなゾッとしないことを青褪めて考えていた俺の耳元に、相変わらず不機嫌そうな呟きが溜め息のように聞こえてくる。

『ああ、有無。実験が粗方片付いたのでね。今日はそっちに戻ろうかと思っているんだよ』

 どうだ嬉しいかと言わんとばかりの父さんの今の面が、見ていなくても浮かんできそうでうんざりした。
 そしてこの父さん、帰宅時には必ずと言っていいほど真っ赤な薔薇の花束を抱えて帰ってくる。まるで最愛の妻を待たせている夫のようなウキウキぶりで…思わずガックリと肩を落としそうになる俺だけど、仕方ない。相手はあの親父なんだ。
 母さんが死んでから、天才博士と謳われていた父さんは、まるで魂が抜けた抜け殻みたいになっていた。何日も飲まず喰わずで、同じく博士であり友人でもある瀬口さんが、感情を死なせてしまった父さんを説得し続けても駄目だった。なのに、まだ3歳になったばかりの俺が魂を母さんのところに忘れてきてしまった抜け殻のようなあの人の白衣の裾を掴んで、「とーたん、泣くだめよ?かーたんぷんぷん」と言って笑ったのが、父さんの中の何かに火をつけたのかそれからすぐに復活したんだそうだ。
 でもそれ以来、今までは癌の権威と謳われるほど新薬の開発に勤しんでいた父さんは、何やら得体の知れない研究へと没頭し出しちまった。
 以上は瀬口さんの話で、にっこりと笑って天使みたいだったよとウットリ夢見心地の気味悪い父さんの台詞が本当かどうかは、既に記憶のない俺としては半信半疑以外の何ものでもない。

「ふーん?んじゃあ、今日はもう行かなくてもいいってことか??」

『それはいけない。せっかくのお前の手料理だ。一緒に食べようじゃないか』

 どこをどう聞けばそんな結論に到達するのか、いまいち天才を理解できていないごく平凡なこの俺さまは、眉を少し寄せてんー?と首を傾げてしまう。

「別に家で喰えばいいんじゃないのか?」

 どーせいつも一緒なんだし、家事もできない父さんが料理なんか作ってくれるはずもないし、いつだって俺の手料理じゃないか。何を言ってるんだ、このあんぽんたんジジィは。
 ちぇッ、父さんは『こう』だと言い出すとけして持論を曲げるようなことはしない…ってことは、このワガママ野郎に本日もまた振り回されると言うワケか。せっかくの休みだってのになぁ。
 なんか、コイツってば、俺の休みを常にチェックしてるんじゃねーだろうなぁ…最近、もうずっと独りで休日を過ごしたことが無いぞ。
 父さんの『息コン(息子コンプレックス)』なんて、今やもう、誰だって知ってるから何も言われないけどさぁ、やっぱこの年だぜ?いい加減にして欲しいとは思うけど…彼女もできねーじゃねぇか。

『おいで』

 ブツブツと悪態を吐いている俺の耳元で、低くて、聞けば誰でも腰萎えになっちまいそうな甘い声音で父さんが囁けば、思わず腰砕けになりそうになった俺がへなへなとフローリングにへたり込んでしまう。
 この人はどうしてこう、いつもどこかに行くって時にはこんな風に俺を誘うんだろう??
 瀬口さんに言わせれば、父さんは俺を亡くなった母さんだと思い込んでいるらしいから、ついつい、愛する人に愛を語るように話してしまうんだろうって言ってたけど、俺としてはいい迷惑だ。
 こんな父さんが始終、幼稚園の時からもうずっと、ベッタベタに付き纏ってるんだ、そういう理由から恋愛の機微とか全く判らないこの俺が、父さんの声に不覚にも腰萎えになっちまったとしていったい誰が笑えるって言うんだ?笑ったヤツは表へ出ろ。
 それなのにこの人は、思わず泣きたくなる俺の気持ちなんかこれっぽっちも考えずに、俺の向こう側で微笑んでるに違いない母さんに向かって囁きかけやがるから…一緒に外出するのが毎回苦痛で仕方ない。
 それでも。
 俺が父さんに付き合うのは…この世でたった一人の肉親、心を壊してしまった父さんを見捨てるのがどうしても忍びなくて、気付けば結婚もせずに寄り添うように一緒にいてしまった。
 それが父さんの心の病に効いてるのかどうかは判らないけど、やっぱ、どうしても『たとえば』父さんと同居していない日常を考えると、靄がかかったみたいに答えが見つからない。
 そんな俺も、重症なのかもしれないけど。

『お弁当を持って、父さんのところまでおいで。一緒に食べよう』

「…はぁ、判ったよ」

 いつも必ず先に白旗を振る息子を、父さんが満足そうに受話器の向こうで笑っている。
 『おいで』と、誘うように呟きながら。

■ □ ■ □ ■

 バスを幾つか乗り継いで行く、郊外に構えられた白亜の研究施設はこの町のシンボルにもなっている。噂では国が援助して何やら胡散臭い研究をしているとかなんだとか、B級ホラー好きの連中が実しやかに話してるのを聞いたことがあるけど、少なくともそこの副所長を父に持つ息子としては、詳細は家族にも知らされいないんだから、その噂は強ち嘘でもないんじゃないかって言ってやりたい。
 ランチジャーと味噌汁の入った水筒を肩に提げた俺を見て、顔馴染みの警備員のおっさんが出入り口で笑いながら挨拶をしてくれた。
 この研究施設では車から厳しくチェックされてるようで、広大な敷地の出入り口は一箇所しかなくて、その門のところに警備員が睨む警備室が設置されていたりする。
 ますます怪しい研究しかしていないんだろうと、自分の実の父親が勤める研究所を疑いまくっている息子に、警備員のおっちゃんは気のいい好々爺のような顔をして言ったんだ。

「お父さんに差し入れかい?」

「ええ。全く、世話の焼ける父で」

「はっはっは!ワシにも息子がいるんだが、光太郎くんぐらい親孝行ならよかったんだがなぁ」

 豪快に笑う、警察を定年退職したおっちゃんが頬杖をついて笑ってくれたけど、たぶん、一般常識ではこの年になって父さんの世話を小まめに焼いていないおっちゃんの息子さんの方が、充分、常識的だと俺は思うけどなぁ。
 それでも、父親にしてみたら、息子がこんな風に甲斐甲斐しく構ってくれるってのは嬉しいんだそうだ。
 家庭の事情が俺に酷似している、奥さんを早くに亡くしている警備員のおっちゃんはニコニコとご機嫌そうに笑いながらそんな風に説明してくれた…けれどもだ、ひとつ誤解がある。
 俺が父さんを構っているんじゃない。
 父さんが異常なほど、俺が構うように仕向けているんだ。
 それでも、社会的地位が俺よりもある父さんの弁の方が信じられる確立は高くて、セダンの高級外車の運転席から顔を覗かせる父さんが、わざわざ回り込んで通行書をチェックする警備員のおっちゃんに「私の息子は寂しがり屋でね。いつでもここに来てしまうけれど、そのまま通してくれて構わないから」と言いやがったのを、この警備員のおっちゃんは忠実に守ってくれているようで、いつだって顔パスで通過することができる。
 いつでも後生大事に持っている俺の写真を何十枚も焼き回しして、主要な人物全員に渡しているから、取り敢えず俺のこの研究所での立場は悪くない。それどころか、どこだってフリーで歩き回ることができるから、まあ楽と言えば楽なんだが…誰が寂しがり屋だ。
 最初、その話を聞いたときは額に血管が浮いちまって、思わずランチジャーと水筒を投げ出して帰るところだったけど、おっちゃんが実に羨ましそうに溜め息なんか吐いて。

「それはそれは幸せそうに、嬉しそうに笑っておられたよ」

 なんてほっこり笑って言ってしまったから、怒り出す切欠ってのを見失っちまって、そのままズルズルと父さんの飯配達係に成り果ててしまっていると言うワケだ。
 おっちゃんにああ言われて、怒ってたら了見の狭いヤツだと俺が悪く言われる。
 それは嫌だ、言われるなら親父が言われりゃいいんだ。
 俺は陽気に話してくれる警備員のおっちゃんに別れを告げて、広すぎる敷地内にででんと聳え立つ3階建ての中央棟の後方部に位置する研究棟に向かって歩き出した。
 本当は『臨床なんちゃら実験棟』とか呼ばれてるらしいんだけど、父さんの仕事に全く興味の無い俺としては、父さんが居座って何やら怪しげな研究をしている施設なんかはどうでもいい。早いところ、飯を届けてさっさと家に帰りたい。
 借りてるDVDが今日までなんだよなぁ…
 季節は初夏と言うこともあってか、Tシャツにジーンズ、パーカーって出で立ちでもそれほど寒くないし、比較的過ごし易いこのいい天気の日曜日に、なんだって親父に付き合ってこんな無機質な施設に来なきゃいけないんだ。

「あれ?光太郎くんじゃないか!」

 思わず溜め息を吐いていたら、背後から声を掛けられて思わず立ち止まってしまう。
 この声は…

「瀬口さん!」

「いやぁ、毎度毎度電話で呼び出して悪いね。今日はお休みだったんじゃないのかい?」 

 瀬口さんは父さんと同期で、それでも役職ってのを嫌って自由気侭に研究に没頭している、やっぱり父さん同様、たいそう変わり者なんだけど…大らかな性格で、あの我が侭を超越した父さんの世話を焼いてくれる唯一の貴重な人でもある。

「いえいえ!俺のほうこそ、いつも瀬口さんにはお世話になってスンマセン」

 慌てて頭を下げると、目尻に優しげな笑いジワのできる瀬口さんはヒョコヒョコと首を左右に振りながら、それでもなんでもないことのように言ってくれるから、変人の多いこの施設の、父さんの知り合いの中でも唯一大好きな人だったりする。

「いやいや、まだ若いんだからそんなこと気にしなさんな。悪いのは沖田なんだから」

 カカカッと笑う瀬口さんも、どうやら一週間も研究室に篭っている父さんのことは言えない生活をしていたのか、ボサボサの髪をして、よれた白衣のままでジーッと俺の肩に下がる荷物を見つめている。

「…沖田はいいよなぁ、いつも愛息弁当で。俺なんか、これからコンビニまでチャリをかっ飛ばすんだぜ」

 案の定、指を咥えた子供っぽい仕草でジーッとランチジャーを見下ろしていた瀬口さんは、眉を寄せて笑いながら首を左右に振っている。
 そう言えば、瀬口さんはバツいちの独身だっけ。

「ここで瀬口さんに会えてよかった。実は日頃の感謝を込めて…」

 父さんが一緒に喰うと言ってきかなかったんで、用意していた自分の分を手にしていたカバンから取り出しながらニッコリ笑ってそれを差し出した。
 そうしたら、瀬口さんは目をぱちくりさせて、次いですぐに嬉しそうに笑うと弁当ごと俺を抱きしめてきたんだ。10年以上も海外にいた人だけあって、なんにしてもジェスチャアの大きな人だ。何日も風呂にも入っていないのか、無精髭が痛い痛い。

「光太郎くん!なんていい子に育ってくれたんだ!父さん、嬉しいよ♪」

 母さんが死んだ日から、父さんが二人いることは内緒だ。

「うははは。残さず喰ってくださいよ。んで、空箱は親父にでも預けておいてください」

「りょーかい♪」

 嬉しそうにホクホクと弁当を抱えて中央棟…メインセンターとでも言うのか、手を振りながらそっちの方に立ち去っていく瀬口さんの後姿を見送ってから、俺はやれやれと笑ったままで溜め息を吐いた。
 瀬口さんには本当に世話になってるからな。
 俺の作るもの以外は一切口にしない父さんが、研究室で倒れそうになっているのを確りと報告してくれる。今回も、瀬口さんが報告してくれなかったら研究室でぶっ倒れてたに違いない。
 父さんは常習犯だからな、瀬口さんがいつも目を光らせてくれてるから一応安心なんだけど…

「飯で釣られてくれる人でよかった。本当によかった」

 なんてヤツだ俺、とか、一人で悪態を吐きながら父さんが待ち構えている研究室のある建物に溜め息を吐きながら歩き出していた。

■ □ ■ □ ■

 SEMとか言う、まあ簡単に言えば電子顕微鏡ってヤツなんだけど、白衣姿の父さんはガラスで仕切られた専用の室内で面倒臭そうに操作しているようだった。
 室内は幾つかの部屋に区切られていて、電子顕微鏡ってのは、俺たちが理科の実験とかで使っていたあの小さなヤツとは違って、大掛かりな機械みたいだ。
 …天才科学者の息子ではあるけど、平凡なデパートの従業員から主婦になった母さんの血を色濃く引いている俺が見たって、まあ、判る代物じゃないんだけどな。
 椅子に座って小難しい顔をしている父さんは俺がいることに気付いていないのか、深い縦じわを眉間に寄せてモニタリングしながら頬杖を着いている。
 その横顔は、とても45には見えない。
 やっぱ、日頃から頭を使ってるから老けないのか、父さんは巷の同年代より5~10歳は若く見えるから、年齢を言えば吃驚されることも屡だと悪態を吐いていたっけ。
 そのくせ、日本が誇る癌の権威なんだからすげーよな。
 いや、その父さんが、教授の娘ってワケでも研究に関係あるってワケでもない母さんに、容姿だって10人並ぐらいだってのに、一目惚れして猛アタックしたってんだからそっちの方がスゲーのかもしれないけど。
 このまま放って置いたらいつまでも研究に没頭して俺に気付くこともないだろうから、俺は溜め息を吐きながらガラスをコンコンと叩いてみた。
 研究の邪魔をすれば地獄のような目付きで睨まれる…と、父さんの助手の人とか瀬口さんとかが言ってたけど、確かに一瞬、『邪魔をするのは誰だ!?』とでも言いたそうに眼鏡のフレームに光を反射させながら振り返りはしたが、それでも俺が来ることをちゃんと認識していたのか、すぐに頬の緊張を緩めて、そのくせ、口だけはムッとしたままで頷いたんだ。
 研究をそのまま放り出して椅子から立ち上がった父さんは、博士と言うよりもスポーツマンと言った雰囲気を持っていて…と言うのも、この研究施設には研究員たちの体調管理を名目に、専用のジムが設立されてるんだよな。どうしても抜けられない会議のときに、ぼんやり父さんを待ってるだけってのもヒマだったんで使用させてもらったことがある。
 どんな研究をしてるのか…聞いたって判るワケはないけど、国が援助してるってのもなんだか本当のことのように思えてきて仕方ないんだがなぁ。
 そろそろ髪を切らないと、長く伸びすぎた前髪を掻き揚げながら、父さんは不機嫌そうに、そのくせ大股で颯爽と室内を横切ると外で待機している俺の所まで歩いてきたんだ。

「待たせたかね?」

「いや、今来たとこ。さっきさぁ、瀬口さんに会ったよ」

「ほう?」

 父さんは双眸を細めるようにして俺を繁々と見ているが、どうやら話している内容にはさほど興味を示してはいないようだ。

「親父にしろ瀬口さんにしろ、少しは風呂とか入って、喰うものはキチンと喰えよ」

「なに、私はお前の手料理があるから充分だ。だが、お前が瀬口の世話をしてやる必要はないよ。アレも充分年を取っているからな」

「俺より賢いって?そんなこた知ってますよ」

 俺からランチジャーと水筒を受け取ると、興味深そうな、嬉しそうな顔をして見下ろしながら「そんなことは言っていないよ」と言って肩を竦める父さんに、俺は「どうだかな」と意地悪く言って笑ってやった。

「こっちにおいで。私の部屋で一緒に食べよう…ん?お前の分がないようだが」

「あー…作ってくるの忘れた」

「お前が?そんなはずはないだろう。さては、そうか。瀬口か」

 ぐはっ!ホント、何だってこの人はそう言うことには鋭いんだろう。
 だが、ここで素直に「はい、そうです」とか言ってやるのも癪だしな、都合のいい嘘を吐いてやろう。

「んなワケないっての。あの人、今日もコンビにだ!とか言ってチャリに乗って行っちまったんだぜ?」

「…ほう」

 父さんは威圧的な目付きで、上から見下ろすようにして俺を冷ややかに見詰めてきた。
 思わずグッ…と息を呑んでしまうのは、身長差がムカツクからだ。
 何もかも10人並の母さんから遺伝子を受け継いでいる俺には、父さんの持つ優秀さは微塵もない。オマケに、親父のヤツはいつだってそんな俺の事なんか一切お構いなしなもんだから、仕事を辞めてずっと一緒に研究室にいて欲しいなんて言いやがるから、思い切りその向こう脛を蹴ってやったことがある。
 そりゃあ、親父の収入を考えれば俺一人なんか余裕で養っていけるだろうがな、ふん。
 でも、俺はもう25なんだ。
 親父の脛を齧って生きるには年を取りすぎてる。
 そう言うこと、この心を母さんの棺に置き忘れてきた父さんには判らないんだろうけどさ。

「疑ってるだろ?」

 ムッとして唇を尖らせれば、それまであれほど冷ややかだった双眸がフッと和らいで、何が楽しいのかクスクスと笑いながら父さんが俺の眉尻を親指で擦ってきやがった。

「お前はね、嘘を吐くとすぐに顔に出るんだよ。特に眉尻が僅かに動くからすぐに判る」

 げ、そうだったのか。
 流石は生まれたときから俺を知る唯一の人だ、なんでもお見通しってところはムカツクけどなぁ。

「瀬口さんには世話になってるだろ?お礼になんてならないけど、それぐらいはお返ししておかないと」

「…アレは自身の興味で行動を起こす男だ。何もお前が気遣う必要などないのだよ」

「とは言うけど、常識的にはお礼をするのが当たり前だろ。こんな閉鎖的な施設じゃ非常識なんだろうけどな!」

 眉から頬、頬から首筋を確かめるように辿る父さんの、いつものその仕草を疎んで手を振り払えば、おやおやと眉を微かに上げて外国の俳優みたいな仕草をする父さんは肩を竦めて笑った。
 白い歯を覗かせるほど爽やかではないけど、静かな微笑は、とても変態気質に目覚めたマッドサイエンティストには見えないから不思議だ。
 たぶん、今父さんに殺されたとしても、誰もこの人が犯人だなんて疑いもしないだろう。 物静かな微笑は、どこか壊れてしまった父さんの心のように穏やかに見えるからな。

「非常識…などと言ってはいないだろう?さあ、こんな所で立ち話をしていても仕方がない。私の部屋に行こう」

「…へいへい」

 もうそんな話はどうでもいいとでも言いたそうにまるで幼稚園児の手を引くように、父さんは俺の腕を掴むと颯爽と歩き始めた。その後姿を追いながら、俺は無機質な白色電灯が照らす冷たい通路を、やっぱりいつものように少し怯えながら足早に歩いていた。

■ □ ■ □ ■

「玉子焼きは光太郎が好きだったね。お食べ」

 ニッコリ笑って器用な指先で操る箸に挟んだ黄色い物体を、思い切り俺の口に押し付けてくる父さんに半分以上苛立ちながら、俺はその手を丁重に押し戻してやった。

「俺は抓み食いでたらふく喰ってるんだ。全部親父が喰ってくれ」

 押し戻す俺の顔をマジマジと見詰めながら、少しだけしょんぼりしたような、いや、実際には顔色一つ変わっちゃいないんだが、長年の勘で判るその反応に俺は少しだけ呆れて溜め息を吐いた。
 まるでデカイ子供と一緒にいるようだ。

「アンタ、丸一日以上何も喰ってないんだろ?この間みたいに倒れたらどうするんだよ」

 あの時は確か、3日間飲まず喰わずだったんだけどな。

「そうすればまた、お前が看病してくれるじゃないか」

「…あのなぁ、どこをどうしたらそんな結論で納得できるんだよ」

「薬は飲んでいるのか?」

 ふと、何の脈絡もなく話題を変えられて、俺の口元にしつこいぐらい押し付けていた黄色い物体を口に放り込んでゆっくりと租借している父さんを見たら、ヤツは別に何も考えていなかったのか、どうして俺がそんなに驚いているのか判らないと言いたそうに僅かに眉を寄せて飯を喰っている。
 …そりゃあ、驚くに決まってるだろ。
 あの得体の知れない試験薬を俺に試せとか、そのせいで最愛の妻を失った男が息子に差し出したんだぜ。それを飲んでるって信じてるところに驚きを通り過ぎて、呆れ果てたとしても誰も文句なんか言わないと思う。

「確か今日で終わりだろ?一週間、ちゃんと飲んだけど、あのビタミン剤全く効かなかったよ」

「…そうかね?軽い眩暈と、微熱、だるさと筋肉痛は?」

「それそれ!飲みだした方が調子が悪いってどう言うことだよ??」

 悪態を吐きながらもちゃんと飲んでやってる俺も俺だけどな。
 今まで、父さんから渡されたビタミン剤は確かに調子も良くなったし、朝起きるのも苦痛じゃなかったんだけど…今回は少し違う、父さんが言うようにまるで初期の風邪のような症状に悩まされてるんだよな。

「そうかね。では、順調だと言うことだ」

「はぁ?」

 水筒から注いだ味噌汁が湯気を上げるその向こうから、キラリと光を反射させる眼鏡に阻まれて、父さんがどんな表情をしているのか判らなかったけど…あれ?
 不意にぐにゃり…と、視界が歪んだような気がした。
 胸の動悸が少し早い。
 …なんだろう?
 ふと、父さんを見たけど、別に何も変わった様子なんかこれっぽっちもなかった。

「あ、あれ…?」

 平衡感覚が狂ったように、椅子に座っているのもままならなくなった俺は、何かに救いでも求めるかのように椅子の背を掴みながら、立ち上がろうとして失敗した。

「どうしたのかね?」

 やけに、冷静な父さんの声。

「…なんか、眩暈が…」

 くらりと揺れる視界の中で、その時になって漸く、父さんが会心の笑みを浮かべていることに気付いたんだ。
 しまった。
 なぜか俺は不意にそう思ってしまった。
 ガキの頃、父さんが仕掛けた悪戯にまんまとはまっちまった時に見せたあの笑顔に…なぜだろう、薄ら寒さのようなものを感じたのは。

「俺に…何をしたんだ?」

 アンタってヤツはテメーの息子に…いったい、何をしてくれちゃったんだよ。
 歪む視界に映る親父の笑みは、それこそマッドサイエンティストの称号がふさわしいと思ってしまうのは、きっと、俺だけじゃないはずだ。
 三半規管が完全に狂ったのか、もう座っていることも覚束なくなった俺を、弁当箱をテーブルに置いてゆったりと立ち上がった父さんは、冷たい眼鏡の奥にその感情も表情も隠してしまって、そのくせ、喋らない唇が雄弁な動きで笑みを形作っている。
 やめろ…と言った筈の声は言葉にならなくて、あんなに頼り甲斐があると思った父さんの腕が、なぜか今は怖かった。

「どう…」

 して、と続かない言葉に苛立ちを覚える俺を抱き上げた父さんは、眼鏡に隠しきれない喜びを滲ませて呟いたんだ。

「おやおや、貧血でも起こしたのかな?さあ、私の仮眠室に連れて行ってあげよう…愛しい、光太郎」

 ゾクッとした。
 自分の父親なのに、そんな言葉、いつだって聴いてるはずなのに…どうしてだろう、今の俺は随分と弱気になっている。それは、驚くほど身体が言うことを利かないからなんだろうか。
 こんな風に、俺は父さんに抱き上げられて大人しくなんかしていない。
 なのに、眩暈が…
 頭が、グラグラするんだ。

「お、やじ…やめ…」

 掠れた呟きと同じように、俺の意識も掠れて、深い闇の中に落ち込もうとしている。
 何をやめてくれと言っているのか、判らないんだけど、せっかく父さんは俺を休ませようとしてくれてるってのに…どうしたってんだ?
 きっと、昨夜遅くまでDVDを観てて、そのまま朝早く起きたから睡眠不足で父さんが言うように、ああそうだな、きっと貧血でも起こしちまったんだろう。
 この不安は身体が熱いせいだ。
 風邪でも、引いちまったのかな…
 ふと、意識がなくなる寸前、俺の唇に少しかさついた、それでも柔らかな感触がそっと触れてきた。
 その感触は、もう随分長いこと眠る前に感じていた感触だった。
 不安を和らげるように、宥めるように触れる感触にホッとして、俺はとうとう本格的に意識を失ってしまった。

■ □ ■ □ ■

 ふと、意識が覚醒したような気がする。
 と、言うのも、まだ頭がグラグラしていて、思うように意識がハッキリしないからだ。
 熱を帯びた溜め息を吐いて、うっすらと開いた瞼の向こうの景色は…薄暗い仮眠室だった。
 一度だけ、父さんの仕事に興味を持って、学生時代に泊まったままの雑然とした、一見すれば潔癖症にも見えるホントはズボラな父さんらしい室内の荒れように、俺は思わずクスッと笑ってしまった。
 一心不乱で研究に没頭して、倒れるようにして眠っている…と、確か瀬口さんが言ってた。
 実際、そうなんだろう。
 仮眠用の、それでも通常のモノよりは寝心地のいいベッドから、嗅ぎ慣れた父さんの匂いがした。
 ガキの頃はよく抱き締められていたから、懐かしいタバコの匂いだ。
 ギシ…ッと、ベッドが軋む気配がして、その時になって漸く俺の意識は完全に覚醒した。

「…あんた、何してんだ?」

 彷徨っていた視線が覚醒してハッキリすれば、自分に覆い被さるようにして覗き込んできている父さんの姿を見つけたってちっとも不自然じゃない。いや、不自然と言えば、意識を失った息子の上に覆い被さるようにして顔を覗き込んでいるこの『息コン』親父の方がよほど不自然を通り越して怪し過ぎるだろう。

「大切な息子とのスキンシップだよ?いつもそう言っていなかったかね」

「…あのな、親父。俺は今、猛烈に具合が悪いんだよ。スキンシップもクソもあるか」

「ああ、それは大丈夫だ。今の症状は薬が齎せているものであって、何かの病気と言うわけではない。つまり、私の大切な愛息は至って健康体と言うことだよ」

 いつの間にか眼鏡を外していて、見慣れたとは言えいつだってムカツクそのハンサムな顔立ちに、俺はムッと眉を寄せながら、それでも父さんを払い除けようと思って起き上がろうとした…のに、それができなかった。
 何かに阻まれて。

「…ホント、あんた何してんだ」

「何をしていると思う?」

 いつもは滅多に見せないくせに…いや、俺に見せないってことは他人には一切見せていない、微かな、その嬉しそうな微笑に、不意に俺は思い切り不安になっていた。
 ああ、そうだ。
 親父はなんて言った??
 俺のこの症状は薬のせいだって言ってなかったか?
 毎度の態度にうっかり見過ごしていたけど、今の俺は非常にヤバイ状況だ。
 父さんがこんな笑みを浮かべるときってのは…大概、俺にとってはあらゆる危機に晒されている。いや、あらゆる危機に既に陥っている状況ってことだ。
 あらゆる危機…には、貞操だって含まれている。
 俺の精通を促したのは父さんだった。

「身体が、火照るだろう?」

 肛門に何かを咥えてイくことを教え込んだのも…この人だ。
 それはプラスティックの玩具だったり、ゴム製の何か…父さんは、ここで、この研究所の誰が来てもおかしくない父さん専用の仮眠室で、俺を抱こうとしているのか?

「や!嫌だぞ!親父、それだけは嫌だっていつも言ってるだろ!!」

「ほらね。暴れるだろうから手首を縛っただけだよ」

「…ま、マジかよ」

 愕然として目を見開いても、父さんはあの、鬱陶しいほど嬉しそうな微笑を浮かべて俺の頬に唇を寄せてくるだけで。擽るような掠める口付けに、そのキスが何よりも好きな俺は、結局、すぐにその腕に陥落しちまうってのに…今更、縛る必要なんかないのにさ。
 それとも、これも親父特有の変態プレイの一種なのか??
 縛られたことはないけど…なんか、酷く嫌な予感がする。

「私はいつでも、お前には本気だよ」

 呟いて、それからソッとキスしてくる。
 普通、父親にキスされて喜ぶ野郎なんかいない。
 ただ無償の愛で祝福のキスをされるのなら、俺だってこれほど後ろめたい、罪悪感なんか感じずに笑いながらその口付けを受けるんだろうけど…実際は違う。
 このキスは、性欲を煽る情愛のキス。
 舌で、指先で、俺を煽ってその気にさせて、奈落の底に叩き落すような快楽に翻弄させる為に施す、泣きたくなるぐらい素っ気無いキスだ。
 母さん、ああ、母さん。
 俺、きっと死んだら地獄に堕ちるんだろうな。
 いつだって、思い出すのは母さんのあの優しかった笑顔。
 写真の中で微笑んでいるあのひとは、俺と親父のこんな排他的な行為を、いったいどんな思いで見ているんだろう。
 或いはもう、死んでしまえば思いなど消えてしまうんだろうか。
 母さんを想う、この人のキスは、いつだって情熱的で甘くてエロティックだけど…でも、どうしてこんなに悲しくなってしまうんだろう。

「…ッ…ハッ」

 思わず息が上がって、口付けの合間に溜め息を吐けば、父さんの指先がたくし上げたシャツの裾から忍び込んで、まだ素直に反応できない胸元の敏感な部分を弾きやがるから…クソッ。

「ん!」

 キュッと鮮烈な刺激に瞼を閉じれば、唇を離れた柔らかな感触が、そのままやわやわと耳朶を噛んでクスッと笑った。
 …悔しいなぁ。
 ふと、瞼を開けばすぐそこに、昔と変わらない切れ長の双眸が見詰めてきていた。
 文句なく、同じ男でも見惚れて嫉妬して自己嫌悪に陥りたくなっちまうほど、男前の顔を見上げていたら…どうしてだろう、本気で泣きたくなっていた。
 それはいつものことで、全く勘違いしている俺様至上主義の親父のヤツは、それが毎度毎度のセックスに対する恐怖心だとでも思っているのか、まるで処女でも扱うような仕草で俺を抱き締めてくる。
 それが遠い昔、処女だった母さんを抱いた時と同じなんだよ、と笑って教えられたときはハンマーで後頭部をガツンと一発、強烈に殴られたような気がして吐いちまったけど、今はもう大丈夫だ。
 どんな扱いでもいいんだけどな…俺は、こんな親父だけど。
 やっぱり、この心を壊してしまった、今でも母さんしか愛していないこのひとを、放ってはおけないんだ。

「…父さん」

 ポツリと呟けば、父さんは嬉しそうに双眸を細めて首筋にキスをする。
 指先の悪戯は忘れずに、思うよりも繊細なその仕草で、器用にバックルとジーンズのジッパーを下ろした父さんに促されるまま、俺は腰を浮かして下半身を惜しげもなく晒してやる。

「父さん…」

 いつもならそうして、大胆な姿のままで腕を伸ばして、噛み付くようなキスをお見舞いしてやるってのになぁ…今日は腕を縛られているからそれも侭ならない。
 父さんに施される甘ったるい快楽に、頬を染めながら感じるしかない。
 こんなのはヘンなんだけど、閉ざしてしまった心が少しでも取り戻せるのなら…俺は、俺を母さんだと勘違いしている父さんに身を委ねるしかない。

「…ん…」

 研究所にはうんざりするほどイロイロと便利な品が転がっているのか、父さんはいつの間に濡らしたのか、滴るローションが絡まる指先で硬く窄んだ肛門にゆっくりと指を挿し込んできた。
 羞恥に目元が染まるけど、それだってこの人には計算され尽くした結果なんだろうけど。

「…くぅ…ん、は…アァ」

 口付けを交わしながら、ヌチッと音を鳴らして直腸内を掻き回す父さんの、研究に没頭しすぎて節くれだった、それでも繊細な仕草を見せる中指を知らずに締め付けていた。
 欲しい刺激はそんなもんじゃない。
 泣きたくなるけど、俺は我武者羅に世間体だとか倫理だとか、あらゆるものから逃げ出したいみたいに目を閉じて追い詰められる侭に身を任せていた。
 父さん…その言葉は、俺の最後の抵抗。
 そんなの、日毎夜毎実の息子を抱いている親父にしてみたら、鼻先で笑っちまうようなちっぽけな免罪符でしかないんだろうけど。
 それでも、父さん。
 俺は、息子なんだよ。
 俺は、母さんじゃないんだ。
 ねえ。
 父さんが愛してるのは、ホントはどっちなんだ?

「弥生…愛してるよ」

 呟く親父に微笑んで、俺はその頬にキスをした。

「私もよ、あなた」

 泣き笑いでこんな擬似の夫婦を演じて…イッちまってんな、お互いにさぁ。
 微笑んでキスをすると、まるでそれが合図のように、父さんはさほど潤ってもいない俺の肛門に熱く滾る灼熱の杭を挿入してくる。
 滾る血脈は、確かに一緒の遺伝子なのに。
 滑る舌を突き出すようにして舌を絡めながら、挿入の衝撃で僅かに強張る両の腿を抱えあげる父さんの動きに追いつけずに眉を寄せても、許してなんてくれない嫌なヤツだ。
 ギシギシッと、嫌な音を立ててベッドが軋んでも、気に留める余裕なんか俺にはなくて、ただ必死に父さんが翻弄する荒々しい波に乗ろうと我武者羅になってしまう。
 追われて、追って、追い詰められて…こんな関係、早く終われと願う俺と、このままでも仕方ないかと諦めている俺がいる。そのどちらもホントの俺なんだけど、そのどちらも、まるで他人事みたいだ。

「あ、あ、あ…ぅあ!…ん…~…ひぃ」

 突き上げられる度にギチギチと父さんを咥え込んだ部位が悲鳴を上げて、それでもお構いなしに踏み込んでくる傍若無人な蹂躙者に、背中に腕を回すこともできずに俺は、ギシギシッと手首に食い込む縄に縋り付くようにして身体を支えながら、あられもないほど両足を大きく開いて迎え入れている。
 父さんの熱い掌が、労わることもせずにエロティックに支えている筈の腿に愛撫を加えて…それだけで俺はイッちまいそうになる。

「…ココがきゅうきゅうと締め付けてくるよ、弥生。どうしたの?いつからそんなに厭らしい身体になってしまったんだ」

 アンタが仕込んだんじゃねーか。
 そう言ってやりたいけど、唇を噛み締めようにもグイグイと一番感じる急所を突かれちまえば、悲鳴のような嬌声を上げることしかできない。
 こんなとこ、誰かに見られでもしたら憤死モンだけどなぁ。

「だが、私には具合は好い。貞淑な淑女の君も好きだけれど、淫乱な娼婦のように誘う君は…溺れるには充分だ」

「ひぁ!?」

 そう言って、父さんを咥え込んでいる肛門に指を無理やり押し入れてグイグイと掻き回そうなんてしやがるから、俺は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。

「あ、あぅ!や、やめて…」

 涙目で懇願しても許してくれない親父に、俺はヤケクソで腰を摺り寄せながら、こうなったらもうさっさとイッて欲しいと本気で思っていた。父さんの変態セックスに、もう何度も泣かされてきたんだ。
 明日にはもう、擦り切れて痛々しい鬱血になるんだろう、手首を戒める縄を両手でギュッと掴んで、押し上げられる身体を引き戻されては悲鳴を上げる俺に、父さんはクスクスと嬉しそうに笑っている。
 室内にクチュクチュと厭らしい音が響いて、相乗効果のようにギシギシとベッドの軋む音。
 あの白い扉の向こうでは、もしかしたら、休日返上で研究に借り出された研究員たちがいるかもしれないってのに…この人には地位や名誉の大切さとか判ってるんだろうか。
 まあ、倫理に反した研究とやらをやらかしている親父にしてみたら、まだお日様も眩しい昼間っから、実の息子と擬似夫婦ごっこをしながらドロドロの性行為に耽っていたとしてもおかしなことじゃないのかもしれないけどな。
 もう、尻だけでイくことを覚え込まされた身体は、触れてもいないのにいきり立った俺の陰茎の先端から、先走りがたらたらと糸を引くようにして後から後から零れている。
 触って欲しい、できれば思い切り扱いて欲しいのに…
 してくれるわけないよな、この世で誰よりも愛しい女である母さんに、こんなにおっ勃った野郎のナニなんかついてるワケないっての。
 せめて腕を放してくれたら…いつもみたいにコッソリと、父さんに尻を犯されながら思い切り扱けるのに。

「…んふ…ぅ…アア……ッ」

 強弱を付けて腰を揺する父さんに翻弄されながら、イかせて欲しいと甘く強請れば、見る者を魅了せずにはいられない完璧な笑みを浮かべた父さんは、まるで意地悪く快楽の熱に浮かされて朦朧としている俺に覆い被さって来ながら、その耳元で囁くんだ。

「愛してると言いなさい」

「あい…ッ」

 呟きそうになった言葉は、どうしてだろう、いつも咽喉の奥に引っ掛かって言葉として出てこない。
 『愛してる』と言われて『私もよ』と応えることはできるのに…自分から愛してると言うことができないんだ。
 だって。
 父さんが愛してるのは母さんで、俺じゃないだろ。
 俺が愛してるって言って、なぁ父さん、ホントに嬉しいのか?

「なぜ、言わない?」

 初めて父さんを受け入れてから13年間、一度も言えないでいるその言葉に、父さんは相変わらず不機嫌そうにソッと眉間に皺を寄せて静かに激怒しているようだ。
 この場合、ホントは父さんの病気の為には最後まで母さんを演じる方がいいんだろうけど、この段階でいつも俺は誤魔化してしまう。
 母さんのふりをして、愛してると言わないまま、愛してるふりをする。
 そんな俺だったのに、今日はどうかしていた。
 いやきっと、あの薬のせいだったんだと思うけど…今日の俺は、そして父さんも、どうかしていたんだと思う。

「…な…ぜ?…ん、…ッは……だって、父さんが愛してるのは母さんなんだろ?俺じゃないのに、どうして俺にその言葉を言わせたいんだよ…ッ」

 親父の陰茎を尻に咥え込んだ、こんな浅ましい姿で言ったって迫力も説得力もないってのに、どうしてそんなことを言ってしまったんだろう。
 そらみろ、父さんが困惑してるじゃねーか。
 僅かに寄った眉、心配そうな不安そうな、なんとも言えない複雑なその表情に、子供ながらにドキッとした俺は、それ以来、外泊なんかできなくなってしまった。
 たった一度、親父に反抗して飛び出した一泊二日の家出だったけど。
 アレを家出…なんて言うのはこの人ぐらいだ。
 ただ単に、夏休みに友達の家に遊びに行っただけだってのに…はぁ。
 そんな顔付きをしたって駄目だ、もう、俺の中で唯一頑張っていた感情の為の防波堤が、ポロポロとひび割れた隙間から零し始めてしまったんだから。

「お、…俺は…ッ、母さんじゃないんだ。と、…ん!……父さん、俺、光太郎だよ。光太郎としての俺なら、父さんに『好き』だって言えるけど…母さんの身代わりとしての俺なら…ぅあ!……父さんに『愛してる』なんて言えるワケがない」

 心を崩壊してしまった父さんに何を言っても無駄かもしれなかった。
 それでも俺は、どうか、ほんの少しでもいいから、その心の中に『息子』も入れて欲しかったんだ。
 俺は…父さんが好きなのに。
 こんな形じゃなくて、普通の親子でも充分、俺は満足だったのに。
 悔しいけど、もうずっと、父さんしか見ていないのに…父さんは、もうずっと、幻の中の母さんを見詰め続けている。
 寂しいのに、泣けもしない俺もどうかしてる。

「…」

 ふと、父さんが動きを止めて、マジマジと組み敷いている俺を見下ろしてきた。顔を近付けて、覗き込んできながら、その表情はなんとも言えない、何か不思議なものでも見つけたときのような、実に不可思議な顔をしている。
 何を言っているのかね、弥生?君は弥生じゃないか。
 そんな台詞が脳裏を巡って、泣きたいのに泣けない俺は、まるで睨めっこでもしているように覗き込んでくる父さんの双眸を睨み返していた。
 額に薄っすらと汗が浮かんでいて、少し伸びすぎた前髪の隙間から、年のワリには若く見える男らしい、野生の雄の匂いを漂わせる切れ長の双眸が…綺麗だった。
 事の最中はいつだって、俺は『弥生』と言う名の冴えない女になる。
 もう、20年以上も前に死んだ、この野性的な双眸を眼鏡の奥に隠した完璧な男が惚れた、たったひとりの女になるんだ。

 瀬口さんに相談したとき、その時はもう既に父さんに抱かれていたけど、さすがにそこまでは相談できずに『親父が付き纏ってウザい』と言ったら、人の好い瀬口さんは『沖田は、君のお父さんはね、心を病んでしまったんだよ。お母さんのことが大好きだったから、お母さんがいないことが信じられずに死んでしまった事実を認めていないんだ』なんてことを教えてくれた。
 それでなくても10人並の冴えない母さんの遺伝子を色濃く受け継いだ俺だ、そんな素っ頓狂な話には目をパチクリするしかない。と言うよりも、その言葉の意味すら理解してはいなかった。
 母さんが俺に遺してくれた能天気と言う名の特殊技のおかげで、それでも笑いながら『じゃあ、俺が母さんになればいいんですね』とか言えたぐらいだからな。
 そう決めたのは自分だったのに、それでも、俺を見ようとしない父さんに心は張り裂けそうだった。
 こんなに身体はぴったりと密着しているのに、溶けて融合しても構わないとさえ思っているってのに、汗まみれでキスしながらも、その情熱を湛えているはずの双眸を覗き込めば、驚くほど空虚な闇が俺を通り越した、どこか遠くを見詰めていた。
 俺ではない、誰か別の人をひっそりと見詰める、身体だけのひと。

「ッ…から、言えるはずない」

 突っ込まれたままで身動きもできない、そのジワジワと這い上がるような、むず痒い快楽に知らずに腰が揺れていて、俺は濡れそぼった陰茎の先端で父さんの逞しさを物語るような腹筋を突付いていた。
 沈黙が嫌で口を開いたら、何事かを考えていた父さんの虚ろな双眸にふと、生気が戻ってきたような気がした。
 …事の最中にそんな器用なことができるってのは、まあ、俺ほど父さんはこのセックスに夢中にはなってないってことなんだろうな。
 やっと我に返った父さんは、グイッと身体を倒すようにして強かに俺を喘がせてから、その顔を愉しむように覗き込みながら呟いたんだ。
 あのゾクゾクするような低い、セクシーな声で。

「何を言っているのかね、光太郎?そうだよ、お前は光太郎であり母さんじゃないよ」

「…え?」

 思わず両目を思い切り見開いて、ぼんやりと覗き込んできてクスクスと笑っている父さんの顔を見詰め返してしまった。そんなビックリしている俺なんかお構いなしで、父さんは繋がったままの奇妙な体勢で笑いながら、俺の頬に口付けて両手で柔らかく頭を抱き締めようとするんだ。

「何を驚いているんだ?最初からそうだったじゃないか。お前は沖田光太郎。私の可愛い独り息子だ」

「だって!親父はいつだって俺のこと…ッ!うぁ!!」

 グイッと腿を掴まれて、父さんの抽送が思ったよりも激しさを増して再開されたから、俺はそれ以上何も言えずに、ただただ、この押し寄せてくる快楽のうねりをなんとかしたくて腰を振るしかなかった。

「あ、あ、あ…もう、ひ…ィ~ッッ」

 もう、言葉にすらならなくて、まるで壊れた人形みたいに繰り返し「あ」と言うことしかできない様は、見ていてどれほど滑稽だろうかと、事が終わった後にはいつだって罪悪感と羞恥に苛まれてしまう。
 そんなことも知らないくせに…判っていたのか?
 俺が息子だって、ちゃんと理解していたのか?

「お、オヤジ…」

 溜め息のように呟けば、父さんは応えるようにキスをくれる。

「お、父さん…」

 泣きたくて泣けなくて…でも、気付いたらポロポロと涙が零れていた。
 ああ、父さん。
 やっと、やっと俺を見てくれるのか?
 俺は、ここにいるよ。
 許しを請うように挿し込まれた肉厚の舌に舌を絡めれば、魂さえも吸い取られちまいそうな熱いキスに頭はクラクラする。
 ギシッギシッ…と、耳障りなベッドの軋みと、縛られた手首が擦れてぬるりとした感触に、皮膚が破けたんだなと脳裏にチラッと過ぎっても、そんなことは気にならなかった。

「可愛い息子。なんだい、光太郎は母さんになりたいの?」

「ちが…!俺は、俺として父さんを…」

「うん、知っているよ。お前はお前。大切な息子」

 一瞬、脳裏がスパークして、まるで甘い睦言のように繰り返される父さんの声が耳元を擽って、それでなくても一番感じる前立腺の部分をグリグリと先端で押擦られてるんだ、もうどうすることもできずに早々にイッてしまっていた。
 ビシャッと、父さんの逞しい腹筋に吐き出した白濁が滴ってポタポタッと俺の腹に零れると、その感触にも感じて暫くヒクヒクと肛門が戦慄くのが判って真っ赤になってしまう。
 何度犯っても、慣れるもんじゃない。

「…あ」

「ッ…」

 絶頂の余韻に収斂を繰り返す括約筋の動きに、父さんは激しく腰を打ち付けて、結果、俺の胎内に余すところなくビシャビシャとマグマのように熱い精液を吐き出したようだった。
 俺の胎内で死滅しようとしている兄弟に、どんな顔をしたらいいんだろう。
 そんな馬鹿なことを考えていたら、キュウキュウッと締め上げる余韻を充分に愉しんで残滓まで吐き出そうとしていた父さんは腰骨を押し上げるようにして肛門から糸を引く陰茎をズルッと引き抜くと、身体を屈めるようにして俺の腹に散った白濁をペロペロと舐め出したんだ。

「お、親父…俺も」

 いつものように、身体を反転させて俺の胎内で汚れてしまった陰茎が目の前にきて、俺はそれに唇を寄せて舌を這わせた。
 父さんも同じようにして俺の白濁に滑る陰茎の鈴口から根元の部分まで舐め清めてくれるけど、でも、絶対に尻までは舐めない。俺が始末することも許さないときもあるから、何度腹を壊して最悪な目に遭ったか判らない。
 だから、一度聞いてみたら父さんは…

『お尻がヒクヒクしててね、そこからトロッと私の精液が零れる姿はとても美しいよ。何より、ここに。私の子供を孕まないといけないからね』

 と、そんなふざけたことを言って本来なら子宮のある辺りをゆっくりと擦られたことがある。突っ込んでるのは肛門なのに、そんなところに子供を宿すワケないだろ、バカ親父。
 そう思って呆れたんだけど、俺を母さんだと思い込んでいる親父は結局、その信念を曲げることなく、俺はいつだって腹を壊したままだった。
 なのに…俺が母さんじゃないって、気付いてたって?

「今日も素敵だったよ」

 呟いて、満足した父さんはそのまま俺に覆い被さるようにして眠ろうとした。
 そうだ、眠ろうとしやがったんだ。
 こんな状況で眠れるか、普通!!

「つーか、こら!このクソ親父!!腕の縄を解けッッ」

「んー…ふふ、それは駄目だよ。縄を解いたら帰ってしまうじゃないか」

「…はぁ?」

 アンタ、今日は帰るって電話で言ってたじゃないか。

「…研究が長引いてるのか?」

「まあね、そんなところだ」

 あー…それでムシャクシャして俺を抱いたのか。
 明日は月曜日だから、俺はこのまま帰ってしまう。子供のように我が侭な父さんはそれが嫌で、こんな形で引き止めてるんだろう。大方、そんなとこだ。

「俺、明日仕事なんだけど。普通の親父だったらさズル休みするなって怒るのが当り前で、ズル休みを推奨するアンタはどうかしてると思うけどな」

「…ならば、私は普通の父親にならなくて結構だ。もう、一分でもお前と離れるのは嫌なのだよ」

 父さんは頭の上で両手首を縛られている俺に覆い被さるようにして、感極まったように頬に、顎に、こめかみに、そして額にキスの雨でも降らそうとしているようだった。

「弥生が死んでしまったとき、私はもう二度と、この腕の中から大切なものを失いはしないと誓ったのだ。弥生が残した遺伝子。光太郎、お前だけが私たちの全てを知っている唯一の人間だ」

 キスしながらゆっくりと俺の顔を覗き込んできたその双眸は、鳩尾の辺りがゾワゾワするような、1分だってこの場所にいたくない、逃げ出してしまいたいと思わせる底冷えする冷ややかさを持っていて、ほんの少し光が見えたような気がしたのはただの錯覚で、やっぱり父さんは狂っているんだと寂しくなってしまった。
 そうだよな、狂ってでもいないと実の息子を抱こうなんて、普通は思ったりしないよな。

「だからね、光太郎。今夜はもう、ここに父さんと一緒に泊まりなさい。食事は大丈夫だ、自炊できるように店舗が入っているからね」

 そうだ、ここは小都市のようになっている。
 恐らく、何ヶ月閉じ篭っていてもいいように、あらゆる店舗が地下1階に軒を連ねていて、地下2階は駐車場が完備されている。下手をすれば地下3階とかあって、家族の為のテーマパークがあるとかなんとか…ジュラシックパークみたいなヤツだったら面白いかもなぁ。

「地下1階?」

「ああ、そうだよ」

「地下3階にはジュラシックパークとかあるのか?」

「それはないけれど…映画館ならあるよ」

 俺の面白みもない黒い髪を弄びながら、2人で寝るには少し狭いベッドに横になると、クスクスと笑っている。何が嬉しいのか、今日の父さんは上機嫌だ。

「それじゃ駄目だ。俺は恐竜が見たいからなー」

「…甘えてるのかね?では、父さんが面白いものを見せてやろう。それで納得しなさい」

 ムッとして、指先で弄んでいた俺の頬をグイッと掴むと、無理矢理顔を自分の方に向けて、父さんは不機嫌そうに眉を寄せながら、素知らぬ顔で唇を突き出して目線だけ外方向いてる俺の唇にキスしてきた。
 触れるだけの戯れのキスは、どんな濃厚なセックスよりも大好きだった。
 子供の頃、誉めてくれる時に父さんが俺にくれた優しい、愛が溢れていたキス。

「何を見せてくれるんだ?」

「見てからのお楽しみだよ…身体の具合はよくなっただろう?」

 鼻先が触れ合うほど間近で見詰め合っていた俺は、父さんの台詞でハッと我に返ってしまった。
 そう言えば、あの風邪のような症状がなくなっている。
 …ってことはもしや。

「あの薬ってまさか…欲求不満増強剤じゃねーだろうなぁ?」

「はは!…何を言い出すのかと思ったらそんなことかね?いや、そんな生易しいものではないよ」

 ギクッとした。
 この人が薄ら笑いながら何か言うときは、決まって何か、大変なことがその裏側に隠れているんだ。
 唐突に不安になった俺は、鼻先にある父さんの頬に自分の額を擦り付けるようにして上目遣いで覗き込んだんだ。
 俺の身体に何をしたんだ?

「あの薬、なんだったんだよ!?」

 態度と裏腹の言葉遣いの悪さにも、別に怒るでもない親父失格の父さんは、そんな俺の頬を擽りながら不安に怯える俺を組み敷くようにして言った。

「どうも、私の可愛い独り息子は母さんになりたがっているようだったからね。その願いを叶えてあげようと思ったのさ」

「…は?なんで俺が母さんになりたがってるんだよ!?アンタがずっと俺のことを!母さんだと思い込んでたんじゃないか!!」

「…何を言っているのかね?私は一度だって、お前を弥生だと思ったことなどないよ」

 事の最中はいつだって母さんの名前を呼んでるじゃねーか…何がなんだか…頭が混乱し始めたそのときだった。
 ああ、そうか。
 父さんは狂ってるんだ。
 なに、まともに受け答えしてるんだよ、俺。
 この人はいつだって、おかしなことばかり言ってる。家の中に母さんなんかいるワケがないのに、帰って来るときはいつだって薔薇の花束を抱えて、俺のことを『弥生』と呼んでキスをする。それから一瞬息子に戻って近況を報告しあったら、『最愛の妻』として一緒に風呂に入って夜明けまで抱き合って眠る。そんなことの繰り返しだったじゃないか。

「…あー、ハイハイ。それで?それと薬にどんな関係があるんだよ」

 不貞腐れてぶっきら棒に言ったら、父さんは嬉しそうにクスクスと笑ってから、思い切り大胆に舌を絡める濃厚なキスをしながら、今まで父さんを咥え込んでいたせいでとろとろに蕩けている肛門につぷんっと中指を挿し込んでぐるりと円を描くように回しやがったんだ!

「んぁ!…って、な、に…すんだ!!も、や…嫌だってばッッ」

「光太郎とのセックスは甘い果実よりも魅惑的で、私はこのままでも構わないんだがね…お前が望むのなら、何だって叶えてあげたいと思ってしまうのだ」

「俺が?…ん…何を望んでるって??」

 ぐちゅぐちゅと厭らしい音を響かせて中指を腸内を抉るように蠢かす父さんは、そんな俺の耳朶を甘噛みして耳の穴に舌先を挿し込んでくる。その行為だけでも、敏感になっている身体は素直に反応してしまう。

「弥生になることはできないけれどね、お前を女にすることはできる」

「…はぁ?つーことは、アレを切って人工で女の部分でも作るってか??」

 悪戯されながらも呆れたように言ったら、親父のヤツは片方の眉を器用に上げて、シニカルな笑みを浮かべながらとんでもないと鼻先で笑ったんだ。

「この私がそんな単純なことをすると思うのかね?」

 いや、アンタのは複雑過ぎてどうかしてくれってぐらい問題がデカいんだ。できれば単調且つ単純であってくれれば問題もさほど気にならないんだけどなぁ…ははは、無理な話か。 この人だもんな。

「じゃ、どうするんだよ?」

「遺伝子レベルで女になれば済むこと。勿論、私は息子であるお前を愛しているからね、外見上の変化は何もない。ただ、身体のある部位が変化し、なかったものが造り出され、あったものが形を残したままなくなるだけのことだよ」

 思わず目が点になる。

「何を言ってるのか判りません」

「…実に簡単なことではないか。人工的な両性具有者になると言うことだよ。だが、その言葉にも語弊があるね。私は他所の女にお前の子を産ませる気など毛頭ない。お前が産める身体になるのに産ませる必要などないだろう?故に、男である証明は要らないということだ」

「…精嚢がなくなるのか?」

「それは違う。精管を切除して縛る方法もある。所謂パイプカットのことだが、お前の場合は遺伝子レベルから身体が造りを変えてしまうんだよ。つまり無精子になると言うことだ。陰茎、陰嚢、睾丸…つまり、男である部分はそのままだが、会陰の部分、そう、ちょうどこの辺りに女性器が造られる。胎内で子宮ができれば、出入り口を造ってやる必要があるだろう?それには手術を要するだろうから、執刀は私が責任を持って行う予定にしている。身体は…あの薬で随分と整っているからね」

 まるで悪魔のように笑って、父さんはずるりっと肛門から指を引き抜くと、俺の後頭部に枕を押し込んで見え易いように上体を起こさせ、説明するようにグイッと俺の両脚を持ち上げてグイッと押し開くと、呆然としている俺の陰茎と陰嚢を軽く持ち上げて医者か学者のように説明を始めたんだ。
 あ、そっか。
 親父は博士だった。
 陰嚢の付け根辺りから蟻の門渡りにかけてツゥーッと父さんの指先が辿る、その感触に身体がフルッと震えて反応してしまう。
 嫌なのに、今はそれどころじゃないってのに。

「男性の身体は女性とは違う。だから、出産の際は帝王切開になるのは確実だ。安心しなさい、その時は私が取り上げる」

 ポンポンッと聞いたことはあるけど、直接俺には関係のない名称が飛び出してきて、頭上で腕を縛られたままどんな顔をしたらいいのか判らなくなってきた。

「なんで親父が産婦人科医の真似事なんかできるんだよ?そもそも、俺…誰の子を産むんだ??」

 半泣き状態で中途半端に質問すれば、父さんはなぜ俺がそんなに悲しんでいるのか判らないと言うように首を傾げて覗き込んできた。それでもすぐに、俺が喜んでいるんだと勘違いしたのか、いや思い込んだのか、どちらにしろどこかがぶっ壊れてしまった父さんが自分勝手に受け止めることは判りきっていたのに…どうして俺はこんなに泣けてくるんだ。
 それは…きっと、父さんが本気だからだ。
 俺がどんなに嫌だと泣いて喚いても、この人はきっとやり遂げちまうんだろう。
 父さんは俺に、誰の子を産ませようとしてるんだ…瀬口さん?いや、まさか。
 俺は結局、アンタにとってただのモルモットだったんだな。
 それが、胸が張り裂けるように辛い。

「真似事ではないよ。知らないのかね、光太郎。医学に従事する者は全ての科を習得しているんだよ。私はどの分野にも秀でてはいたがね」

 クスッと笑って、絶望してしまっている俺の目尻に浮かぶ涙を唇で拭ってくれた。

「誰の子を産むかだと?決まっているではないか。無論、この私の子だ」

「…!!!」

 あまりのことに絶句して言葉が出てこない。
 いや、確かに。
 実の息子である俺を抱くことすらできる人だ、研究の為なら息子に子供を産ませる事だってへっちゃらなんだろうとは思った。でも、よりによって…実父の子を身篭れと言うのか?

「…ゃ、嫌だ!なんで俺が父さんの子を産まないといけないんだよ!?俺は…俺は、アンタの息子なのにッ」

 思わず、あれほど泣けないでいたのにボロボロと涙が零れて止めることができない。
 止まれ止まれと、思えば思うほど涙は後から後から溢れてきて、まるで涙腺がぶっ壊れたんじゃないかって思っちまったぐらいだ。
 父さんはギョッとしたように、あられもない姿をさせていた両足から手を離すと、あのマッドサイエンティストにしては珍しく、オロオロしたように泣きじゃくる俺の顔を覗き込んでくるんだ。

「わ、私の子だから泣くほど嫌なのか?」

 なに、こんな時に的外れな質問をしてくれてるんだよ!
 そんなんじゃない、俺の胸が張り裂けそうなほど痛いのは…

「ちがッ……うぅ…、じゃ、じゃあ、親父は?親父は俺の気持ちをちゃんと考えてくれてるのか?」

「え…?」

 今までは何をされても黙ってきたし、大人しくだってしてやっていたんだ、それでも、もうこれ以上の非常識には堪えられない。
 研究の為なら最愛だなんだと言いやがるくせに、妻を犠牲にして、今また息子である俺さえも犠牲にしようとしてるんだぞ?
 俺のことは?

「アンタはいつだってそうだ!母さんの時だって、得体の知れない研究の実験体にして、それで最愛の妻なんて笑わせるな!心が壊れただって!?最愛の人を亡くしたって懸命に生きてる人はいっぱいいるんだ。甘ったれるな、親父!アンタには息子である俺がいるのに、それなのに、心を壊したなんか言うなよ…うぅ…アンタにとって家族ってなんだよ?俺って、なんなんだよ…」

 手首を縛られてるせいで思うように身体を動かすこともできないけど、それでも呆気に取られたように見下ろしてくる親父に喰い付くような勢いで喚いた後、俺は強烈な眩暈と吐き気で涙はボロボロボロボロ…それでなくてもセックスのあとで見られたもんじゃないってのに、更に輪をかけて恥ずかしい格好になっていた。
 それでも、言いたかった。
 狂ってるって知ってるけど、判って欲しかったんだ。
 俺はここにいるのに、もうずっと、ここにいたのに。

「研究に遣うだけのモルモットだったのか…」

 自分で言って情けなくなってるって言うのに、それでも言わないでいられない台詞は、俺の涙腺をとうとう完全に壊してしまっていた。
 鼻の奥がツキンツキン痛んでいたけど、それすらも気にならないほど、俺の胸は痛かった。
 実の父に、使い捨てのティッシュみたいに捨てられる息子の気持ちを、ほんのちょっとでいいから、他の誰に知って貰わなくてもいいから、父さん、アンタにだけは知って欲しかった。

「違う!…何を言っているのかね?母さんを研究の実験体にした??何を勘違いしているのか知らないが、お前のお母さんは、弥生は交通事故で亡くなったのだよ」

「…へ?」

「確かに私は癌の権威ではあるけれど、人体に癌細胞を植え付けてまで研究しようなどとは思っていないし、やるのなら自らの身体に植えるに決まっているじゃないか。どうして弥生や、光太郎の身体に植え付けたりするんだ!弥生はもとより、お前を、光太郎を研究のモルモット?冗談じゃない、二度とそんなことは口にするんじゃないッ」

 父さんは、俺の涙と同じぐらい、見たこともないほど怒っているようだった。
 苛々と頭を掻き毟って、腹立たしそうに乱れた前髪を掻き揚げてから、まだボロボロ泣いている俺の脇に乱暴に寝転がるとそのままソッと抱き締めてきた。
 痛々しく腫れてるに違いない手首の縄を解くと、父さんはバツが悪そうな顔をして頬を摺り寄せてきたんだ。

「弥生が死んだとき、確かに私は落ち込んだ。もう、希望すらもない世界が明日から訪れるのかと思ったら、生きているのさえ鬱陶しかった。いや、呼吸をしているかどうかすら判らないでいた。その時、お前が、私の膝に乗ってきたお前が、泣いていることにさえ気付かないでいた私の涙を小さな掌で拭ってくれてね。今のように叱ってくれたんだよ」

 そんなガキの頃のことなんか、覚えてるはずないだろ。
 止まらない涙を気にもせずに、俺は懐かしい匂いのする父さんに甘えるように抱き付いていた。

「愛しくて、愛しくて…この子の為に生きよう。この子の為なら命すらいらないと思ったよ。お前を抱いたことを瀬口に言ったとき」

「い、言ったのか!?」

「…?ああ、殴られたがね。だが、私には判らない。こんなに愛しい人間が、他にどこにいると言うんだ?私は我が子を平気で手離せる普通と呼ばれる父親たちの方が信じられないよ」

 ああ、それで。
 ふと、これまでのこんがらがって霞に隠れていた全てのことが、鮮やかに一直線に繋がったような気がしていた。
 瀬口さんは、知っていたんだ。
 だから、俺を傷付けないように、父さんはちょっと心を病んでいると嘘を吐いたんだ。だから、許してやって欲しいと、他人事なのにあの人は、恐らく強姦されたと思っているに違いないから、免罪符のように嘘を吐いた。父さんにも、そして勿論、俺の為にも。
 あまりに幼すぎて、母さんが死んだ理由さえ覚えていなかった俺に、事故死→研究の失敗と言ったのか…あれ?でも確か、瀬口さんも父さんも、他の人たちも確かに『事故死』と言っていた。俺はてっきり研究の失敗だと思っていたけど…それは、思い込みだったのか?
 なんだ、俺。
 俺も、思い込んでいたのか。
 なんだか一気に脱力しそうになって、いや、それじゃいかんと思い直して父さんの着乱れたシャツを掴んで睨みつけたんだ。

「それで?母さんが交通事故死なのは判った。でも、俺の場合は違うだろ?俺こそ、実験体だったんだろ…」

 アンタは母さんを愛してるから。

「…何を聞いていたのだね?私はお前を愛している。弥生の遺伝子を持ちながら、全く性格の違うお前を、誰よりも愛しいと思っているよ。弥生が生きていても、それは変わらないだろう」

「母さんが生きてても、親父は俺を抱いてたのか?」

 呆れて聞いたら、父さんは軽く肩を竦めて、至極当然だとでも言いたそうな顔をして頷いたんだ。
 なぜ、そんな当たり前のことを聞くんだろうと、半分以上愕然としている俺を訝しそうに見詰めてくる父さんに…ああ、瀬口さん。俺に嘘を吐いたってずっと後悔してるに違いない、重い十字架を背負っている瀬口さん。そんな十字架は発泡スチロールとなんら変わりないから圧し折って投げ出してくれて構わないよ。貴方の言うとおり、父さんは狂ってる。

「勿論、離すつもりもない。お前の身体の準備は整っている。メンタルの部分で納得できれば、いつでも具有体にしてあげるから、私に言いなさい」

「…それは、実験じゃないのか?」

「お前を手離したくない私が、長い時を費やして行った研究の成果だ。動物実験しかしていないからね、実験と言われれば仕方ないかもしれないが、それでもこれは、私の長い夢であり、希望の結晶なのだ」

 どちらにするも、お前次第だよ…と、父さんは囁くように抱き締めながらそう言ったんだ。
 もともと、父さんにとって本当は、その研究結果を俺に使用するかどうかなんてことは、考えていなかったんじゃないかと思った。俺が傍にいるよと言えば、父さんは安心して、こんな奇妙な研究はしていなかったんじゃないかな…だってさ。

「…だから、今日はもう、ここにいなさい」

 何が『だから』なのか判らないけど、命令口調の癖に父さんは、どこか心許無い迷子のような目をして、いつもの人を見下すような高圧的な雰囲気なんか一切なくて、俺がどんな結論を出すのか不安そうだったからな。

「…こんな格好で帰れるか。しょーがないから、今夜はここに泊まってやるよ」

「それは本当かね?」

 まだ疑うのか、この人は。

「だから、思うさま胡散臭い研究に精を出していっぱい稼いでくれよ。でも、会社は辞めないけどな」

 それだけは譲れないプライド…それに、両性具有体になるかどうかなんて、今は考えられない。
 そりゃ、俺だって父さんの傍にいることに苦痛なんか感じてないし、もう25だって言うのにしつこく傍にいるワケだから、実際にそうなる必要があるのかどうか判らない。

「取り敢えず、考えてやるよ。結論は、もっとずっと後だ」

「それでいいよ。その間は、お前は私の傍にいるのだから」

「…俺がいることが、そんなに嬉しいのか?」

「当り前だ」

 父さんはそう言って、ちょっとムッとしたままで俺を抱き締める腕に力を込めた。
 俺は…俺は。
 ここにいるよ。
 その想いが、今やっと、父さんに届いたような気がしていた。

 嬉しくて、嬉しくて…ごめん、母さん。
 貴女が愛した人を、俺も好きになっている。
 その人はとても独占欲が強くて子供っぽい人だけど、それでも、まるで風のように自由な人でもあるから、俺もその風に乗ってみたいって思ったんだ。
 行き着く場所がどこかは判らないけど、その先に、行けるなら一緒に生きたいと思う。
 貴女ができなかったこと、代わりに俺がしてやるよ。
 普通じゃない家族かもしれないけど、俺たちがそれでいいのなら、俺たちはこんな家族でもいいよね。
 母さんのくれた幸せが、じんわりと胸に広がってくる。
 母さん、俺は貴女のことも大好きだよ。

「…ところで、誰に母さんが実験の失敗で死んだなんて吹き込まれたんだね?」

「へ?ああ、いや。それは俺の思い込みだったんだ」

 今日はイロイロあってヘトヘトに疲れていたせいなのか、うとうとしてたら頭の上でポツリと父さんの呟く声が聞こえてハッと覚醒した。

「なぁ、じゃあどうして、親父は俺のことをたまに『弥生』って母さんの名前で呼んでいたんだ?」

 ずっと気になっていたから、父さんに聞いてみることにした。
 だって俺は、そのせいで瀬口さんの言った言葉を信じちゃったんだからな。

「お前が…母さんがいなくて寂しがっていると瀬口に聞いたから、どうしていいのか判らなくてね。母さんが息を引き取る前に言っていた言葉を思い出したんだよ。あの子が物心がついて、物事を理解できるようになるまではどうか、自分が生きているように振舞って欲しいと。弥生は最後まで、お前の心配ばかりしていたから…そうすれば、寂しさが紛れるかと思ったんだよ」

 ややこしい!!…けど、母さんが言ったんじゃ仕方ないよな。
 それから俺は、クスクスと笑って父さんの胸元に擦り寄った。

「母さん、父さんの心配はちっともしてくれなかったんだな?俺ってば愛されてる♪」

「当り前だ。私も母さんも、お前が産まれたとき、嬉しくて嬉しくてね。何度もありがとうって言って産まれてくれたことに感謝したよ」

 その言葉は、まるで母さんが生きてそこにいて、そう言ってくれたような気がした。
 やわらかで優しい気持ちが、このむさ苦しい仮眠室に一瞬、溢れ返ったような気がしたんだ。
 ああ、そうだ。
 俺はここにいると父さんに訴えながら、俺も忘れていた。
 母さんはいつだって、ここにいたのに。
 ありがとう、ありがとう。

「産んでくれてありがとう、母さん。育ててくれてありがとう、父さん」

 思わずポロポロ泣いたら、父さんは面食らったようにキョトンッとして、泣いている俺の顔を覗き込んできた。

「親が我が子を愛するのは当り前のことじゃないか」

「それに胡坐をかいてちゃ駄目なんだ。俺も、いつかきっと、恩返しができるように頑張るから。だから…」

 父さんはクスクスと笑って、縋るようにして抱き付く俺の背中を宥めるように優しく叩きながら、俺のボサボサの髪に唇を寄せてやわらかいキスをくれた。

「楽しみにしているよ」

 俺は、父さんのことをもうずっと、勘違いしていたし誤解していた。
 本当はこんなにも、俺のことを考えてくれている人だったのに…幼い俺を抱えて、まだ若かった父さんはどれほど苦労をしたんだろう。
 まだ平の研究員にしたら足手纏いでしかない俺を片時も離さないようにして、それでも業績を積み上げていくことは大変な苦労だったと思う。
 優秀だから…そんな言葉で片付けられる問題じゃない、それだって、どれほどの努力があって成し得たものなのか、考えれば少しぐらいは想像できる。
 …ちぇ、結局俺の空回りだったのかな。

「親父が俺のこと『弥生』とか呼ぶからさ、てっきり、瀬口さんが言ってたことがホントなのかと思っちまったんだ。ちぇ、心配して損したぜ」

 ついつい、ひとりで考えてバツが悪くなって、そんな憎まれ口を叩いちまう。

「瀬口がお前になんて言ったのかね?」

 父さんの声は冷静だったし、抱き付けばやんわりと抱き締め返してくれたから、これはもう嘘でも幻でもなくて、本当に父さんは俺の存在を認めてくれた、父さんになってくれたんだろうと信じられた。
 もう、疑わなくてもいいんだ。
 もう25なのに、子供っぽいのは俺かもしれないなぁ。

「親父が、母さんのことを本当に愛していたから、亡くなった時に心を少し壊してしまったんだって。ホントは、親父は俺のことを心配してただけだったのにさ」

「…愛していた部分は確かに間違ってはいないが。そうか、なるほど。瀬口の魂胆が読めたぞ」

「…へ?」

「いや、なんでもないよ。さあ、もうお眠り。今日は疲れただろう」

 そう言って、父さんは昔そうしてくれたように、ゆっくりゆっくり、労わるように俺の頭を撫でてくれる。そうされると、条件反射のように俺は夢の世界に旅立ってしまうんだ。
 もう随分昔から、誰よりも父さんが好きだった。
 たった2人きりの親子で、学校に行く前まではこの研究所で、ほぼずっとべったり一緒にいたのを覚えている。研究員から何を言われても、父さんはどこ吹く風で、きっと陰口とか言われて辛かっただろうに、それでも飄々と一緒にいてくれた。
 母さんがいないことの切なさを、父さんなりに必死にカバーしてくれたんだと思う。
 その、異常なほどの愛情が、いつしか歪んだ形になってしまったのだとしたら、それは父さんだけのせいじゃないと思う。
 異常な父さんだし、異常な俺かもしれないけど、でも。
 俺は、沖田蛍杜と沖田弥生の子供として産まれて良かった。
 今なら胸を張って言えるよ。
 本当に良かったって。
 だってさ、きっとこんな風な形にしても、これほど両親に愛されてるのって俺ぐらいだって思い込めるじゃねーか。
 いや、実際はそうだと思う。
 どーだ、へへん!羨ましーか…なんてな、誰もいないってのに威張ってみたり。
 みんな、きっと誰かに愛されてる。
 そう思える人間に生まれてよかった。
 まだまだ、考えなくちゃいけない厄介ごとは多いけど、それでも今はこのハッピーを身体いっぱいに感じていようと思ったんだ。

 翌日。

「それじゃあ、親父。もう帰るよ」

「ああ、お行き」

 元気に手を振って別れを告げる光太郎が、定期バスのステップに足をかけたところで、アッと何かを思い出したようにチラッと沖田を振り返った。

「?…どうしたのかね」

「あのさぁ、面白いもの見せてくれるって言ったのに…結局、見られなかったな」

「…まるで永の別れのようなことを言う」

「え?」

 ふと、呟いた沖田の言葉にドキリとしたように光太郎は目を瞠ったが、それから途端にムッとしたように眉を寄せて唇を尖らせた。

「じゃあ、もう一日お休み。おいで、見せてあげるから」

「いい。どーせ、いつだって会えるんだし。また、今度の土曜日に来るよ…親父が、帰って来られないんなら」

 不機嫌そうに外方向きながらも、普段は言わなかった台詞をぶっきら棒に呟く息子を、沖田は心の奥底から愛しいと思っていた。
 ビーッと出発を促す合図にビクッとした光太郎に、沖田は名残惜しそうに少しだけ、長年の付き合いである瀬口か、或いは愛息しか気付かないほど僅かに眉を寄せて笑ったのだ。

「さあ、お行き」

「ああ。じゃあ、親父!ちゃんと飯食って風呂入れよッ」

 慌てて車内に乗り込んでバスの後部座席に座った光太郎が、初夏の日差しに弾けるような目映い笑顔で手を振りながら、見送る父親に別れを告げて行ってしまった。
 光太郎を乗せた定期バスを見送った、一見すれば全く冷静に澄ました顔をしているような沖田は、悲しみに暮れた心境で砂埃に消えるバスを食い入るように見詰めている。

「そのうちバスに穴でも開いて、光太郎くんが転げ落ちたりしてな」

「瀬口。貴様よくも私たち親子を実験に使ったな」

 ヨレヨレの白衣を初夏の風にたなびかせた無精髭の男は、ニヤニヤと笑いながら、同じくよれてしまった白衣のポケットに無造作に両手を突っ込んでいるボサボサ頭の、この研究所の副所長の地位にいる男に肩を竦めて見せたのだ。

「バレたか」

「だが、あまり役には立たなかっただろう?ふん、それが罰だ」

 だが、さほど怒っていないような沖田の態度に、瀬口は意表を突かれたような顔をして、思わず組んでいた腕を解いてしまう。

「怒らないのか?」

「…怒ってはいるが、だがこちらとしても役得だったんでね」

「はぁ…お前が悪魔だってことはよく判っているがな。光太郎くんも25だ。そろそろ自由にしてやったらどうだ?」

「余計なお世話だ」

 ズバリと斬り捨てる沖田に肩を竦める瀬口は、それから唐突にハッとしたような顔をした。

「まさか、お前あの薬を…」

「使ったよ。やっと成功したのでね。好むと好まざると、光太郎は私のものになる。もう、誰も手離したりしない。私はあの日、そう誓ったのだ」

「…俺を利用したな?」

「なんのことだ?」

 飄々とした口調に寒気を覚えた瀬口は、相変わらず涼しい顔の沖田を食い入るように見詰めている。
 自分の実験にコソリと巻き込んでいたつもりが、沖田の壮大な実験の道具でしかなかった事実に、瀬口は絶句したのだ。

「…」

 瀬口の言葉に偽りなどなかった。
 妻である弥生を失った瞬間から、少しずつ人生の歯車が狂い出して、沖田の心は壊れ始めていた。
 幼い息子に劣情を抱きだしたのもその頃で、異常な執着を愛情とはき違え、瀬口が宥め賺しても聞く耳も持たずに、保育園に預けることもなくべったりと縛り付け、とうとう研究所内にある幼稚園に通わせて手元に置いたほどだった。

「25年間も観察し続けて…お前こそ、光太郎くんをどんな実験に使っているんだ?」

 ふと、瀬口が思い余ったように口を開くと、沖田は胡乱な目付きでジロリと肩越しに振り返ったが、すぐにフッと鼻先で笑うのだ。

「思い込み、だよ。人間と言う生き物はね、瀬口。あまりに滑稽で面白い。思い込ませてやれば、ご覧のとおり、25になっても私から離れようとはしないだろう?」

「解放された今、離れて行ったらどうするんだ?」

「甘いなぁ、瀬口は」

 初夏の風に正面を見据えた沖田は薄っすらと笑った。
 あまりに感情の窺えないその冷たい微笑みは、背中しか見られない瀬口には幸いだったのか、見ることはなかった。

「第2の思い込みさ」

「…ッ、この悪魔め」

「なんとでも」

 呆気に取られて言葉もない瀬口だったが、それでも我が息子を掌中に閉じ込めようとする沖田のその、異常なまでの執着心にはいっそ、哀れさと言うよりも寧ろ感心さえしていたのだ。
 呆れたように笑えば、沖田は肩を竦めて見せた。

「…妻に似たのかな?アレは単純な子でね。だが、お前のおかげですんなりと全てを受け入れようとしているよ。私はね、瀬口」

 ふと、薄ら寒いものを感じた瀬口は初夏だと言うのに、まるで何かから自分を守ろうとでもするかのように腕を組んで首を竦めていた。
 そんな、一種異様な、不気味な微笑を浮かべた沖田は肩越しに振り返り、ニヤリ…と笑ったのだ。

「寧ろお前に感謝しているぐらいだよ。輝かしき未来を、ありがとう、とね」

「…お、沖田」

 ハッと息を呑む瀬口をその場に残し、沖田は勝ち誇ったような笑みを浮かべて歩き出す。
 未来を見据えた、強かな眼差しで。
 初夏の風が、取り返しのつかない片棒を担いでしまったのではないかと、立ち尽くす瀬口と、振り返りもせずに迷いのない足取りで立ち去ろうとする沖田の白衣をはためかせていた。

 たとえばそれは、偽りの私だとしても。
 それでもお前は、私を、愛してくれるのだろうか…

─END─

1  -冷たい星-

 ずっと友人だと信じていた。
 もうずっと、コイツなら信じていられると思っていた。
 俺の幼馴染みで、4つも年下の並木岳。
 誰も知らない俺の秘密を暴く…最大の脅威になるなんて。
 この時の俺は、まるで考えてもいなかった。

■ □ ■ □ ■

 神妙な顔つきで、たぶんきっと、コイツなりに悩んだに違いない表情をした岳は、夕暮れ時の公園のジャングルジムの前で俯いていた。もうじき斜めに光が差す太陽は、オレンジを空いっぱいに広げて、黄色と赤の微妙な混ざり合いを映し出している。
 こんな人気もまばらな公園の片隅で、まさか、そんな冗談言うなよと、俺は岳の顔をマジマジと見つめていた。

「…好きなんだ」

 ポツリと、ともすれば些細な風にも紛れてしまいそうな、よく聞いていないと聞き落としてしまいそうな掠れた声で岳はもう一度繰り返した。空耳だろうとか、聞き間違いであって欲しいとか俺が願ったその言葉を…

「…つっても俺、男だし。見て判らないのかよ?」

 内心の動揺を悟られないように、わざと不貞腐れた態度でそう言うと、岳は困ったように小さく笑って、それから真摯な双眸をして俺を見た。それは凝視のような鮮烈な眼差しで、どうしてだろう?その目つきに一瞬だが、不覚にも俺は怯えてしまった。
 なぜか…なんてこた判らないけど、俺は敢えてその眼差しを無視すると、怯えを悟られないようにわざと呆れたような口調で首を左右に振ったんだ。

「顔だって普通だ。なぁ、お前さぁ。目でも悪くなったんじゃねぇのか?つーか、たぶんそれは病気だ。病院に行ってよし。話はそれから聞いてやる」

「オレは病気じゃないよ、むしろ…」

 言いかけて、岳は俺を見つめてきた。
 そんな思いつめた表情は、女の子の前でやればいい。
 チビの頃から俺の後をついて回っていたあの並木岳が、まだ中学2年なんだぜ?そんな未来ある、バリバリ優等生でクラスの人気者な並木岳さまがだ、男なんかに惚れるのはおかしい。どうかしてる。俺の推察通り、お前は病気だ。病院に行け。

「なぁ、コウタロ兄ちゃん。オレのこと、おかしいって思う?本当に、オレが好きだって言ったら気持ち悪い?」

 思いつめた表情で首を傾げる岳のその顔に、俺はなぜかドキッとして、本来ならこういう場合は穏やかに、やんわりと断らなければってのは良く判ってるってのに…この時の俺はどうかしていた。
 幼馴染みの、いつも俺の後を弟のように追っかけ回していた岳が、そんな男の顔をして見つめてくるもんだから…どうかしたんだろう。

「気持ち悪いに決まってんだろ!?お前が異常じゃなくて正常だってのなら、やっぱどっかおかしいんだよ。病院行って出直して来い」

 たぶん、岳は傷ついた。
 恐ろしく不快そうに傷付くように言ってやったから、ヤツもすっぱりとこれで諦めて、何もかも忘れて元通りの岳に戻ればいい。
 軽くそんなことを考えていた。
 岳は大人しくて優等生で、俺はどちらかと言うと拗ねたタイプだったから、多少の身長差とウェイト差は別としても、たぶん軽く見ていたんだと思う。
 風が吹いて、誰もいない、昼だって人通りの少ない公園はどこか寒くて、初夏だって言うのに俺は肌寒さを感じて知らず拳を握り締めていた。
 岳もそうだったのか、思いつめた表情で俯き加減に視線を伏せたヤツは、唇をキュッと噛んで、噛み締めて無言だった。

「…オレのこと、嫌いなのか?」

 いつにも増して強い口調で呟く岳の、その真に迫った双眸で上目遣いに見つめられて、俺は膨れ上がる不安をどうすることもできなくて、呆気に取られるほど明るく言ってやったんだ。

「バッカだな!別に嫌いになんかなるわけないだろ?俺は近所の優しいお兄さんだぜ。幼馴染みで弟のように可愛いお前を嫌ったりなんかするかよ。ま、その程度ではあるけどな。もう判っただろ?はい、終了!あの同級生の子とでも大人しく付き合ってるんだな」

 …普通、たぶんこれが精一杯の答えなんじゃないかと思う。
 異常か正常かなんて、そんなのは俺の計り知れない部分の問題だから、取り敢えず、今は岳のその強烈な視線から逃げ出したくて、俺はそう言い残して足早にジャングルジムを後にした。
 でもたぶん。
 それが拙かったんじゃないかと思う。
 特に最後の件のところなんか、よりによって俺は、逃げ出したい為だけに岳が告白されて困っていると言っていた、あの副委員長の名前を出したんだからな。
 救いようがない。
 もうじき夕暮れがくるし、それでなくても人通りが少ないんだ。
 岳の双眸の中に見え隠れするあの揺らめきを、俺は別の学校の連中と喧嘩をするたびに見てきた気がする。もしかしたら…アイツは優等生だからそんなことはないと思うけど、アイツの暗い光を放つあの揺らめきは…何かヤバイことが起こる前兆かもしれない。
 俺は、岳が好きだ。
 小さい頃から弟のように慕って懐いてくる岳を疎ましいと思ったこともないし、嫌うだなんてとんでもないことだ。ただ、たぶん、同性愛者…ってことには魂消たけど、それでも岳が好きなんだ。可愛い俺の弟を、ぶん殴りたくはない。
 喧嘩なんかしたいワケがない。
 だから俺は、精一杯にアイツを遠ざけるつもりでそう言ったんだ。
 何が間違えていて、何が正しいのかなんて、俺に判るはずがない。
 誰かを好きになる気持ちを…誰にとめられるって言うんだ?

「…ッ!?」

 ガクンッと身体が一瞬ぶれて、気付いたら俺は岳に引き寄せられていた。
 わき目もふらずにサッサと暗くなる公園を足早で通り抜けようとしていた俺に、岳は敏捷な動きで近付いてきて、背後から腕を引っ張りやがったんだ!

「な!?…が、岳?」

「酷いよ…」

 ポツリと呟いた。
 風が吹いて、誰もいない公園、岳は俺の身体を愛しむように抱き締めて、悔しそうに呟くんだ。

「ずっと、小さいときから好きだったのに…光太郎の何もかも、俺のモノになればいいって」

「んなこと!できるワケがないだろう!?何を言ってんだ、岳!おい、しっかりしてくれ…」

「うるさい!」

 必死で逃げ出そうと抗う俺をギュッと、どこにそんな力を隠してたんだと瞠目するような力強さで拘束して、岳は耳元で怒鳴りやがった。
 ビクッとして、その見上げた双眸の暗い煌きに一瞬でも怯えた俺に、岳は悟ったようにニヤッと笑った。あの嫌な、暗い笑い顔で…

「言うこと聞かないよね。こんなに好きなのに…だったらもう、強硬手段しかないんだ」

「なに言って…ッ」

 口付けられた。
 口唇を重ねて触れるような、あんな生易しいキスじゃなくて…誰に見られたって構うものかと、岳はそんな決意をしていたんだろう。俺がどんなにもがこうと足掻こうと、一向に構う気配すら見せずに押し付けた唇の、その口唇の隙間から舌を捻じ込んできて、深く、もっと深く吸い尽くそうとでもするようなキスをした。

「…んッ、…ふ、…んぅ!」

 逃げ惑う舌を肉厚のソレで追い回し、絡み付いて、ねっとりと唾液を混ざらせる。濃厚なキスは、想像していたよりも強烈で、腰の力がカクンッと抜けるような錯覚…或いは現実だったのか、朦朧とする意識で俺は岳に縋り付くようにして抱きついていた。

「…ぅあ…、ッ、…はぁ」

「光太郎、やっぱり綺麗だ…」

 唾液に濡れて、公園に設置されている街灯に浮かび上がる俺の唇を舐めながら、岳のヤツが堪り兼ねたようにそんなことを呟くから、俺は唐突に現実に戻って慌ててそんな岳の身体を引き剥がそうと試みた。

「…ッに!バカなことを抜かしてるんだ、お前は!!こんなことしやがって…!いくらお前で

も許さないぞ!」

 キッと睨みつけたところで、岳に動きを封じ込められたように押さえつけられている情けない姿じゃ迫力も半減以下で、なんの効果もないだろうけど…岳は見透かしたようにニヤッと笑うと、俺の足の間に膝を割り込ませて耳元で囁いた。

「ココをこんなにしてちゃ、真実味に欠けちまうぜ。なあ、光太郎?オレが本気でいい子ちゃんのままでいると思ってたのか?オレは…この時をずっと待っていたんだ。この時のために、親父を丸め込むよう優等生でいたんだぜ」

 …コイツは何を言ってるんだ?

「何を…」

「何をだって?笑わせるなよ、光太郎。何もかも知ってるって言ったら…お前はどんな顔をするのかな?」

 ギクッとした。
 ギュウッと抱き締めながら膝でグリグリと悪戯をする岳は、街灯の明かりの下で、今まで見たこともないほど凶悪なツラをしてニッと笑いやがったんだ。その表情は雄弁で、何も言わなくても、何を伝えようとしているのか手に取るように判って、俺は胃が痛くなった。
 優等生で可愛くて、デカイ図体のワリには大人しくて、なんでも俺の言うことを聞いていたあの笑顔の岳が…そんな表情を浮かべないでくれ。
 何もかもが崩れ去るような違和感を覚えて、俺は思わずその場に倒れそうになってしまった。
 いや、もしかしたら、俺がそんな態度さえ取らなかったら、全ては杞憂で終わっていたのかもしれない。
 でも、紛れもなくソレは、足音を立てて近付いていたんだ。

「お…とと。こけるなよ、バカだな。オレがいないと立っていられないのか?まあ、そりゃそうだな。これから夫になる相手だ、頼ってくれてもいいんだぜ」

「…な、…何をバカなこと…」

「バカだって!?」

 不意に大声でそう言って、コイツは参ったと大笑いしながら岳は俺の身体を引き寄せると、嫌がって背けようとする俺の頬に手をかけて無理矢理上向かせやがるんだ。

「…ッ」

「…イイ顔するよな、マジで。チビの頃に聞いたんだよ、お前のお袋さんと親父さんがオレんちの両親に話してるところを…で、その時に決意したね。絶対に、光太郎をオレの嫁にするってな」

 …バレ…てたのか?そんな、いったい、いつから…
 信じられないものでも見るように瞠目する俺の双眸をキッチリ捉えて、岳は覗き込んできながら呟くように囁いた。

「両性具有なんだろ?それも極めて珍しい、男のナリをしてるくせに子宮の方が発達してるんだってな。既成事実…って知ってる?」

 もう、俺はバカみたいに、酸欠の魚か何かみたいに口をパクパクさせるだけで、言葉らしい言葉も言えずにいた。そうすると岳は、そんな俺にお構いなく、いきなり俺の手を引いて歩き出しやがったんだ。

「が、岳。も、もちろん、その、冗談だよな?俺はどうみたって男だし、その日はエイプリルフールか何かで、お前、ただ担がれただけなんだよ。な?」

 歩きながら、俺はできるだけ気分を落ち着けて、唐突に弟だと思って可愛がっていた幼馴染みに突き付けられた『現実』ってヤツを、どうしても受け入れ難くてそんな馬鹿げたことを言ってみたりした。岳はほんの少し鼻先で笑っただけで、前を向いた視線を戻そうとしない。その横顔は、付き合ってくれるまでずっと待つから…と言って、ほぼストーカー状態のあの副委員長があれだけのめり込むのが判るほど、男の表情をしていた。優しいだけじゃなく、どこか皮肉げに見えるのは、こんな状況じゃなかったら男前になったなと誉めてやりたいぐらいだった。
 そんなことを考えながらあれやこれやと模索していると、どうやら岳の目的地に着いたようで、俺はその場所を見て改めてギョッとした。
 ラブホにでも連れて行かれた方がまだマシだったか…いや、それと同じぐらいには衝撃的な場所だった。

「初夜はホテルのベッドで…とか夢を持ってたけどな。あれから月日が経って光太郎も聞き分けのないヤツに成長しちまったから、ま、初めてはどこでもいいよな。それこそ女じゃあるまいし、手っ取り早く、公衆便所で用を済ませようぜ」

 そこらでコーヒーでも飲もう…ぐらいの感覚で、岳のヤツは俺の腕を引いて、いつ掃除したとも判らないような汚れた公衆便所の中に入って、鼻を突くアンモニアに顔を顰めながら俺を個室に向かって突き飛ばした。

「…ッ」

 こんな公園なら蓋とかないだろうに、運が良かったのか悪かったのか、俺は埃が積もって汚れきった便座の蓋の上に腰掛けるような形で座り込んでしまった。ハッとして、慌てて立ち上がろうとした時には、もう岳が狭い個室に身体を滑り込ませて、後ろ手で鍵をかけているところだった。
 ま、マジかよ…
 男2人で入るにはあまりにも狭いそこで、岳は俺に覆い被さるようにして文句を言おうと開きかける口にキスをして塞いでしまう。

「…ッ、…う、…く…ッの野郎!」

「…ッ!」

 舌を割り込ませてきたその瞬間を狙って噛み付いてやると、岳のヤツは顔を顰めて、それから嬉しそうにニヤッと笑うんだ。うう、コイツ絶対に狂ってる!

「が、岳!こんなのはおかしい!絶対に間違ってるッ。今なら元に…」

「戻られるとか思うワケ?そんなことあるワケないだろ。これが、本来の並木岳なんだぜ?」

 舌を噛まれて、そりゃ、結構力を入れたんだから痛かっただろうに、岳のヤツは殊更なんでもないかのようにサラッとそんな恐ろしいことを抜かして、極上の笑みを浮かべながらペッと床に血液混じりの唾液を唾棄したんだ。

「ずっと手に入れてやろうと思ってたんだ。どうしてやろうか…って、それを考えながらマスかくのって結構気持ちよかったぜ。お前の泣き顔とか想像して…ケツマンやマン●にたっぷりとぶち込んでやれるって思ったら、3発は余裕で抜けたもんな」

 そんなゾッとする台詞を余裕で吐けるお前もどうかしてるけど、あの喧嘩上等で中指立てていたこの俺が、どうしてこんな変態野郎に怯えて竦んでいるんだ?強姦されるって言う、初めての恐怖に『女の部分』が怯えてるとでも言うのか?
 ふざけるな!

「いい加減にしやがれ、岳!俺は男なんだ!おーとーこ!俺の家族が悪ふざけしたことは悪かったって謝ってやる。でもこれは、こんなことは絶対に許してやらん!」

「悪ふざけ?何をバカなこと言ってるんだ。光太郎の両親は男でありながら、女の器官が発達しているお前の今後についてかなり悩んでいたんだぜ。当時、母さんは大反対したけどな。ソイツも死んでいなくなったワケだから、今は完全に俺主体で動けるんだ…」

 その先は聞きたくなかった。
 おおかたコイツのことだ、厚顔無恥の顔をして、屈託なく笑いながら俺の両親に言ったんだろう。『コウタロ兄ちゃんをオレにください』…ってか?戸籍上、俺は長女だから別にさして問題もない。
 でも!この18年間、ただの一度だって疑ったことなんかなかった。
 俺は男だ、男なんだってな!
 こんなツラして、誰が女だなんて思うかよ。
 実際、当の本人だって鏡を見ても何度も首を傾げて、風呂に入ったって疑ってるくらいだ。
 そりゃ、月に一度は股座からたらたら血が流れることがあって、それがたまらなく気分が悪くて貧血起こしてぶっ倒れそうになったけど、それでも、それが終わる頃にはやっぱり俺は男なんだって思っていた。
 それを、よりによって弟だって可愛がっている岳から『嫁になれ』なんて言われるとは思ってもみなかった。正直、かなりヘコみそうになる。
 一人でさめざめと泣きたい気分になって唇を噛み締めていると、気付いたらいつの間にか岳のヤツが覆い被さったままで股間に手を伸ばしていたんだ。
 ギャーッ!

「や、やめろ!岳、嫌だ、やだって!やめ…ッ」

「うるせーな。もうギャアギャア言うなよ。それでなくてもくせーんだ、さっさと終わらせて帰ろうぜ」

 なんでそんな風に平然としていられるんだ?それはやっぱり、犯られてるのが俺で、犯ってるのがお前だからか…とか、そんなどうでもいいことばかりを考えながら、俺は岳が伸ばしてきた腕から逃げようと、必死で便座の上で無駄に足掻いていた。
 と。

「…ッ!」

 バシッと頬が鳴って、激痛が走る。
 岳に殴られたんだと気付いたのは、ヤツの空いている腕がシャツの裾から滑り込んできて乳首を弄んでいる時だった。

「うるせーつってんだろ?聞き分けがないとそのまま突っ込むぞ」

 恐ろしかった。
 初めて、生まれて初めて『男』が怖いと感じた。
 口調は酷く冷静で、俺を見る双眸もどこか感情の窺えない虚ろなものだったから、それが却って恐ろしかった。
 このままだと、本気で犯される!
 いまさらになって身体が硬直して、俺は恐怖に震えながら岳から逃げ出そうと懇親の力でもがきながら振り払おうとした。すると、今度はもっと強い力で頬を叩かれて、ゴツッと鈍い音を立てながら汚らしい唾とか、なんか奇妙な液体が茶色いシミになっている壁に強かに頭を打ち付けてしまった。目から星が出るような衝撃を受けてクラクラしている間に、岳は俺のズボンのジッパーに無造作に手をかけた。
 キチキチ…っと音を立ててジッパーが下がるのを感じて、俺は、なんて言うか、本気で女にでもなったかのようにハラハラと泣いてしまった。

「怖がるなよ。大丈夫だ、最初は優しくしてやるから。お前がご主人さまに奉仕するのはそのあとからでいい。達く方法だとか、どうしたらオレが気持ちよくなるのかとか、片っぽは同じ男なんだ。よく判ってると思うけどな」

 奉仕の仕方を軽く説明されても、ハイそうですか、なんて言えるワケがねぇ…涙腺は馬鹿みたいに壊れてるし、なんか急に身体に力が入らなくなって、俺はグイッと岳に両の頬を片手で掴まれて強引に口をこじ開けられた。顎の蝶番の部分を強く押されれば、誰だって口が開く。そんなこと、賢い岳なら知ってて当たり前だ。

「うう…」

 苦しそうに眉を寄せると、岳のヤツは自分のズボンのジッパーをこれ見よがしに引き降ろして、トランクスから半勃ちしている陰茎を取り出したんだ。

「苦しいだろ?待ってろって、まずは慣らしとかないとな。なんだってスムーズにはいかないさ。取り敢えず濡らすだけでいいから咥えろよ」

 軽く扱いて、涙目で必死に首を左右に振って嫌がる俺をクスッと鼻先で笑った岳は、端からやめる気なんか毛頭ないだけに問答無用で捻じ込んできやがった。

「ふーん、思ったよりも滑らかで気持ちいいモンなんだな。こう見えてもオレ、きっちり純潔は守ってるんだぜ?」

 クスクスと嫌味ったらしく笑いながら、そんな嘘をサラッと言ってしまえる岳は、俺の何の取り柄もない黒い髪を指先で梳きながら頭を押さえつけて、空いてる方の手で小器用に肌蹴させた胸元に戯れかかるから…俺は思わず咽そうになった。
 男の陰茎を咥えたことなんかモチロンなかったし、ましてや胸元を触られたこともない。必死に舌先で鈴口の辺りを舐めたり吸ったり、それこそ早くこんな苦しみからは解放されたくてありとあらゆる、AVで見た真似事をしていたんだ。突然、何の前触れもなく素肌の乳首なんか弄られたら咽て、もうちょっとで窒息しちまうところだった。いや、マジで。 恨みがましく涙目で見上げると、頬を上気させた岳のヤツが、何が嬉しいのかうっとりと双眸を細めて俺を見下ろしていた。切れかけたような電灯が浮かび上がらせる岳の姿は、それこそ間抜けなんだろうけど、その顔立ちは獲物を狩り終えて満足している野生の獣のような雰囲気がある。ここが便所じゃなかったら、きっと、女はこう言う部分に惹かれるんだろう…

「……ッ、…ぅ、……ん」

 舌先で必死に陰茎を舐めてる自分の姿の方が、いっそ間抜けなモンだけど…そう考えたらまた泣きたくなって、こうなったらもう涙腺は本気で蓋をする気はないようだと思えた。

「泣いてんのかよ?ったく、だらしねーな。濡らすだけ、とか思ってたけどさ。結構、気持ちいいからこのまま出しちまうぞ…今から泣いてたら、この後はどうなるんだろう?」

 さらに、何が可笑しいのか咽喉の奥でくく…っと笑う岳が、今更ながら怖かった。
 亀頭の一番太いところが一番厄介で、かと言って、それを飲み込んでも高々半分ぐらいが収まった程度だった。それでも咽喉の奥を突くような圧迫感は拭えなかったし、わき起こる吐き気も我慢しないといけない。嘔吐に必死で耐えていると生理的な涙が目尻に浮かんで、舌を動かすことを怠ると岳は短気を起こして俺の頭を股座に押し付ける。

「ぅぐッ!!……ぅ、…ッ…!」

 舌の表面のザラッとした部分が滑り込んでくる陰茎を撫で上げ、無理に飲み込まされた先端が問答無用で咽喉の奥を突き上げるから、粘膜が押し込まれるような感触がして、俺はまた吐きそうになった。身体を支えていた手がズルッと滑って、慌てて岳の太腿を掴むと、この息苦しさから逃げ出したくて身体を引き離そうと腕を突っ張ろうにも背後はすぐに汚れて埃の被ってるタンクだし、逃げ出すこともできなくて、俺は岳の手が促すに任せて瞼を閉じた。
 目を閉じたって嘔吐感は拭えないけど、そうして諦めることで、岳は気を良くして押さえつける手の力を緩めてくれた。嗚咽のように咽喉を鳴らして、それから咽喉を突き上げる肉の塊にほんの僅かでも退去してもらおうと奥の方で外に押し出すように舌を動かしていたら、口許から唾液が零れて顎を伝って胸元を濡らしやがった。

「近所のお兄さん…ね。ホント、あんたって笑わせてくれるよ。いつオレがあんたのことを『近所のお兄さん』なんて目で見たって言うんだ?いつだって犯して、オレだけのモノにしてやろうって企んでたってのにな」

 馬鹿にしたように鼻先で笑って、岳は俺の苦しそうな表情を楽しむように見下ろしてくる。
 男の逸物で口腔を穿たれて、そりゃあ、面白いだろうよ!…うう、クソッ。

「ホラ、早く舌を使えよ。さっきみたいなチロチロじゃちっともカンジねーんですけども」

 クスクスと笑って髪をグッと掴まれて、もう条件反射でビクッとした俺はそれでものろのろと舌を這わせて裏筋の辺りを舐めてみた。硬度を増すソレを持て余して、口いっぱいに頬張ってはみたものの、唾液の嚥下が思うようにいかなくて、気付いたら口の端からたらたらと含みきれなかった唾液が零れていた。
 尿道口に先端を尖らせた舌先を突き入れて、ぐにぐにと愛撫してから、唾液をねっとりと亀頭に塗り込める仕種をすると、岳は少し切迫したように荒い息をついた。
 …バーカ、俺だって野郎なんだぞ。
 どこをどうすれば感じるのかぐらい、半分女でも判るんだ。
 両性具有をなめんな。

「…ふ、……ッ、………んぅ」

 眉を寄せて、自分が舐めてるモノを見る気にもならなかったから双眸を細めていたら、肩で息をついたらしい岳が俺の髪を撫で梳きながら少し、なぜかムッとした口調で呟いた。

「…あんた、巧いんだな。どこで覚えた?もしかして、オレ以外のヤツとヤッたことあるとか?」

 …こう言うところが、子供なんだよ。岳は。
 俺はただひたすら岳が達ってくれることを願いながら奉仕を続けて、それでも首を左右に振ってそれを否定しておいた。もちろん、こんな行為は初めてだったから、嘘じゃない。ただ、岳の語尾に孕んだ剣呑な雰囲気が、後で厄介なことになるのはどうしても避けたかったから…ってのが、正直な理由だ。

「だよな。見てくれもイマイチだし、オレ以外にあんたを抱きたいなんて酔狂は他にいないだろうから…」

 呟いて、でもまだ信用ができないのか、胡乱な目付きで見下ろす岳は、テメーの逸物を咥えて必死にご奉仕している俺の姿を見ても、そんなこと抜かせるだけおめでたいヤツだと思うよ。
 無駄なことを詮索されてこの状態を長引かせられるのも嫌だし、持て余すほど膨張してきたその若い肉の塊を、先走りの苦味に眉を寄せながら俺はできる限り敏感な亀頭を集中的に舐めてみた。その刺激がどれぐらい強いのか、実際に誰かにしてもらったことのない俺には判らないけど、岳は気に入ったのか、フッと溜め息をついて少し情けない声を出した。
 慣れない愛撫がどれだけヤツを刺激してるかなんてこた判らないけど、その調子から、もうじき岳が達くんだなと言うことは判ったんだ。

「イイ感じじゃん。じゃ、出すよ」

 息をついて、それから俺の頭に置いていた手に力を込めて注意を促す岳にビクッとなる。当たり前だ、同じ男として生きてきた俺が、どうして野郎のモノなんか飲まなきゃいけないんだ?動きを止めて口に咥えたままで上目遣いに見上げると、やけに色っぽい目付きをした岳がニッと笑った。薄っすら滲んだ汗で前髪が額に張り付いて、少し厚めの唇が形良く笑うと…それだけでなぜか俺はドキッとした。
 そんな風に気を取られていた俺が悪いんだけど、ハッとした時には咽喉の奥に灼熱の飛沫が叩きつけられていた。

「…ん!……ぅ、…ッ、……」

 口の中に注がれた灼熱の体液は、苦くて火傷しそうで、その青臭い匂いだけで吐き気がした。

「…ふ」

 低くうめいて、岳は俺の髪を掴んで小刻みに腰を前後させると、最後まで出そうとしているようだった。その匂いと味に、俺は嗚咽して体積が減らない膨張したソレが引き抜かれたとほぼ同時に、薄汚れた便所の床に吐いていた。

「ぅ、おえぇ…」

 吐き出した体液は白く濁っていて、口許と胸元、床にボタボタと零れ落ちて汚していった。

「あーあ、失礼だなぁ。まあ、いいか。別に飲んだからってどうなるってワケでもないし…」

 ゲホゲホッと酷く咽て便座の上で身体を縮こめて蹲る俺に、肩で息をしていた岳は前髪を掻き上げてそう言うと、言葉も終わらない間にヤツは俺を抱き寄せるようにして引っ繰り返したんだ!…つーのはつまり、便座を跨いでタンクの方を向くってカタチで…

「ぅあ!…ててて…」

 グイッと強引に腰を引かれて、俺は狭い個室の中で岳に尻を差し出すようなカタチでこけてしまった。いつ掃除したのかも判らない、少し黄ばんだタンクに縋りつくようにして抱きつきながら、俺は恐怖の色を隠せずにヤツを振り返っていた。 

「が、岳…」

「怖い?まあ、心配するなよ。痛いのは最初だけ、って言うだろ?案外、最後は自分から腰振ってねだるって言うしな」

 どこのAVビデオでそんな台詞を覚えたんだと頭を抱えたくなったけど、それよりも現実は目の前に押し迫っているワケで、岳の股間部に猛々しく反り返ってるソレは少しも硬度を失っていないし、ましてや膨張率も下がっていない。その気になれば、一気に貫くことだってできるだろう。

「岳、やめ…頼む、もうやめてくれ」

「やめる?」

 俺の素肌を確かめるようにシャツを捲り上げて腰を撫でていた岳は、獰猛そうな目付きで俺を見ると、グイッと覆い被さるようにして俺の耳元に唇を寄せてきた。熱く猛った灼熱の塊が、俺の唾液と先走りに濡れたままで尻の割れ目を撫で上げた。

「…ッ」

「やめるだと?あんたバカか?これから既成事実ってヤツを作って、あんたを縛り付けるんじゃないか。妊娠しても、ご愛嬌だな」

 そんな恐ろしいことを…俺は絶望的になって泣いてしまった。タンクに縋りつきながら、もう、恥も外聞もなく声を出して泣いてしまった。
 どうして、どうして岳はそんなに俺を追い詰めようとするんだろう。そんなに俺のことが…嫌いだったのか?だったらいっそ、殴って喧嘩でもしてくれたほうが今よりも何倍も救われるのに。こんなのは卑怯だ。

「お、俺を嫌いなら、嫌いって言ってくれよ。こんなのは嫌だ…うぅ…どうせ卒業していなくなるんだ…こんなことしなくたって…」

 しゃくりあげながら首を振る俺に、岳は、なぜか耳元に唇を寄せたままで動こうとしなかった。俺は怯えていたし、岳のちょっとした動きにだってビクビクしていたから、その些細な変化に気付かなかったんだ。小刻みに震えて、岳が怒り出したんじゃないかって、それに対してもビクついていた。でも。

「嫌いだって!?…ったく、救いようのないバカだな、あんたは。さっきから何を聞いてるワケ?なんだってこのオレが嫌いなあんたのケツマンとマン●に執着してるってんだよ。オレはそんな変態じゃないって」

 小刻みに震えていたのは怒ってるってワケではなくて、笑っていたんだ。岳は声を立てて笑うと、ズボンを膝まで下ろされて無防備に尻を晒す俺に圧し掛かりながら、前に萎えたままでぶら下がっている陰茎を握ってきた。

「ひぁ…ッ!?」

 ビクッとして身体を竦ませると、岳はクスクスと笑いながら握った陰茎を丹念に扱き出して、微かに潤んでいる女性器に唐突に熱く猛った陰茎を擦り付けてきた。

「ホントに女があるんだな。話だけだと信じられなかったけど…あんた、男性器の方の機能は殆どしてなくて、無精子なんだって?だから、オナッても自分の精液で受精することはないんだってな。てことは、ココを弄りながら女を弄ったりしてたワケ?」

 クックッ…と咽喉で笑いながら、岳は俺の陰茎を弄びながら女性器に這わせた雄をグニッと押し付けてきた。しっとりと濡れていた女の部分は、その刺激で岳を受け入れようと愛液を漏らして雄を包み込んでいる。そんな浅ましい行為に、正直慣れていない俺は、それが恥ずかしくて恥ずかしくて唇を噛み締めて両目を閉じているしかなかった。

「ん?けっこう、濡れてないか?」

 そう言われて、俺は多分、耳まで赤くなっていたと思う。
 そう、俺は濡れている。だって、俺は別に、岳を嫌いじゃないから…アイツが男らしく笑うと、俺の女の部分はそれに惹かれていた。男の俺が岳を可愛い弟だって認識していても、女の俺が岳を1人の男だと認めてしまっていたら、女の部分は岳を受け入れようとしてもおかしくはないだろう。
 でも!俺はこの18年間、男として立派に生きてきたんだ!たとえ半身が認めたとしても、半身の俺がそれを否定したら終了なんだ。俺は岳には、岳にだけは抱かれたくない!

「男と女か…両方あるってのはどんな気分なんだ?どっちの快感も味わえるワケなんだろ。羨ましいとは思わないけど、オレとしても得した気分にはなれるよな」

 冷たい台詞をズバリと言って、岳は俺をその気にさせようと亀頭の部分を揉み解すようにして尿道口に爪を立てると、ビクンッと身体を震わせて唇を噛み締める俺の、無防備になっていた尻に唐突に陰茎を突き入れてきたんだ!

「…ッ!!」

 声にならない悲鳴を上げて仰け反ると、岳のヤツも予想していなかった俺の反発に眉を寄せて顔を顰めているようだった。でも、その時の俺はそんなことにまで気を使っている余裕もなくて…つーか、あ、当たり前だ、そんな突然、なんの前触れもなく、ましてや潤ってもいない、本来出すべき器官に硬い灼熱の棍棒を捻じ込まれたんだ。俺じゃなくても苦痛の絶叫を上げただろうと思う。
 声は咽喉の奥に引っかかって奇妙な感じで拉げると、咽喉を潰した蛙みたいなうめき声しか出せなかった。全身にビッシリと嫌な汗が浮かび上がって、縋り付いていたタンクから指が滑って額を強かに強打してしまう。でも、その額で身体を支えていないと崩れ落ちてしまいそうで、括約筋は岳の陰茎を捻じ切るような力強さで縛り付けたみたいだった。

「…ッ!あんた、バカだろ?ちったぁ、緩めないと進めないよ」

 バカはお前だ!
 ゆ、緩められたらとっくの昔にそうしてるッ!!

「が…岳、お願いだから、ちょ、抜いて…くれ…じゃないと、し、死ぬ…」

 ガクガクッと身体を震わせて全身で拒絶している俺に、岳のヤツは諦めたのか、仕方なく身体を引いて悲鳴を上げる肛門からずるりと陰茎を引き抜いてくれた。微かにてろ…っと生温かい何かが内股を伝って、肛門が切れたんだと思った。
 肩で息をしていると、不意に冷たい何かがヌトッと尾てい骨の付け根に落ちて、それは滑るようにして収縮を繰り返す熱を持った蕾に流れていくと、微かにその部分を疼かせた。

「!?」

 ギョッとしたら、岳の少し太くて、でもピアノを弾いたりと繊細な動きを見せる人差し指が滑りに助けられるようにして蕾を穿って入り込んできた。

「やっぱり潤滑剤が必要なんだな。女の場合は自分で潤ってくれるけど、尻は潤わねーもんな」

 グチュグチュッと人差し指をクの字に曲げて、抉じ開けようとするように縦横無尽に動かされると、切れた部分が沁みて疼いても岳はやめてくれようとしなかった。萎えた陰茎にも指先が這わされて、気付いたら俺は、岳が施してくる陰茎の刺激と後孔を穿つ指先が触れる前立腺の辺りへの刺激にビクンッと身体を震わせていた。

「……ぅ、…ッ、……ぁ」

 捏ね繰り回されて、いいように弄られた陰茎は体温よりも幾分か高い熱を帯びていて、腰の動きを岳の指の動きにあわせて揺らめかせていることに、我に返った瞬間にそれに気付くと恥ずかしくて俯いてしまった。岳はその姿が可笑しかったのか、咽喉の奥でくっくっ…と、あのちょっと特徴のある笑い方をして、さらに指を奥に進めて前立腺の辺りの、こりっとしたシコリのような部分を指先の腹で押し上げた。そうしたら、陰茎が固さを増して、俺は小さく喘いで首を左右に振っていた。
 ネトッとしていたモノは岳の指が腸壁を擦る摩擦に温もって潤いを増したのか、何時の間にか後孔には指が2本に増えて押し開くような動きをしても、先ほどのような痛みは起こらなかった。それどころか、ねだるように絡み付いて収縮を繰り返すと、指を突き入れる動きにあわせるようにして尻が微かに浮いていた。

「イイ感じになったきたみたいだな。まあ、後ろぐらいは血を見ないですむようにしないとね」

 『血』と聞いてギクッとしたけど、首を捻って見た先には、少し腫れて熱を持つ蕾から引き抜いた指で自らの陰茎を扱いている岳の姿があって、俺はそれを挿れられるのかと観念して俯いた。尿道口に人差し指の爪を食い込ませるようにして、親指と中指の腹で亀頭の括れを揉み解すようにされてしまうと、それまで考えていたことが真っ白になっちまうような快感に脳みそがスパークしそうになる。
 岳は、最初から俺を犯そうと思ってこの人気もない公園に呼び出したのか…とか、ローションまでご丁寧に用意していたってことは、話し合いなんか端から考えてもいなかったのか…とか、そんなどうでもいいことは、やっぱりどうでもいいことなのか、綺麗さっぱりと俺の脳みそから剥離されてしまった。
 わざとらしく陰茎の先で尻の割れ目を擦り上げた岳の仕種に、俺は唇を噛み締めて耐えていた。カリの部分が蕾の襞に引っ掛かったりして、奇妙な快感を呼び起こしては、俺の腰を淫らに揺らめかせて岳のヤツを喜ばせたりする。
 俺は…何がしたいんだろう?
 クソッ!こうなったらもう、早いところ突っ込んでくれたらいいのに。そうしたら岳も、それで2発目なワケだから、俺に飽いてアッチまでは犯したりしないかもしれない…
 そんな、浅はかな考え事をしている間に、陰茎がツプッ…と後孔に挿入された。

「…ッ、あッ!」

 でも、それはスムーズに挿入されたワケではなくて、一旦飲み込んだものの、亀頭の一番太い部分でちょっと引っ掛かって、岳は焦れたように腰を前後に揺するようにして小刻みに陰茎を前に押し進めたんだ。
 ハアハア…と、男2人分の荒い息が狭い個室に響き渡って、強烈なアンモニア臭に麻痺したおかげで匂いに気を取られない分、周囲の気配が凄く気になっていた。たった一つある小さな窓から覗く月が、そろそろ夜を迎えることをポッカリと浮かんで教えていた。
 こんな場所で、4歳も年下の、ましてや中学生で、それまで弟のようだと可愛がってきた幼馴染みに犯されるなんて夢にも思っていなかった。
 何時の間にか成長していた岳は、大きくて太い陰茎で、擦り上げるようにして排泄にしか使ったことのない後孔を貫いて少し息をついている。
 一番太い先端部分のカリ首を突っ込まれると、腸壁の抵抗に俺は低く呻いて、吐き気がして眉を寄せた。

「…ッあ、……ぁう!…ん、……ッ、が、……岳…」

 涙目で懇願するように振り返ろうとすると、岳はなぜか俺の首を掴んでタンクに押さえつけると、無理に腰を押し進めて、それまで弄んでいた陰茎から手を離すと圧し掛かるようにして俺の背中に上体を預けてきた。岳の下半身が俺の尻にぴたりと密着して、幾度か落ち着けるように腰を揺らめかした後、満足したようにその腕が首筋から離れていった。

「全部、入ったよ。凄いな、光太郎のケツマン。思った以上に熱くて…よく締まるし。泣き顔もサイコー」

 はあ…と息をついて、岳は少し引き抜いた陰茎をグイッと突き入れて俺を喘がせると、今度は満足したように笑ったんだ。

「気持ちいいんだろ?ホントのところは。嫌よ嫌よも好きのうち…か。ところでどお?バージン犯られるってのは。これが終わったらホントのロストバージンになるワケだけど、心の準備としてはOKってカンジ?」

 咥え込むことで必死の俺はそんな台詞に気を留めることもできなくて、岳の陰茎の先端がシコリの部分をグイッと押し上げる刺激に首を左右に振って、その奇妙で強烈な快感から逃げ出そうとして夢中でもがいていた。
 前立腺を集中的に攻撃するように抜き差しされて、のっぴきならないところまで追い詰められて、俺はバカみたいに開けっ放しの口許から唾液を垂れ流していた。そんな俺を、もう、何がなんでも満足しきっている岳のヤツは心ゆくまで視姦すると、不意に腸壁の弾力を楽しむ余裕も忘れたかのように激しい勢いで抜き差しを始めやがったんだ!

「…ん!……ぁ、…う、……ひぁ!…ぁ、……は、ぅあ!…ッ、……あぁ…」

 腫れぼったく熱を持った粘膜が擦れて快感を脳天に叩きつけると、前立腺を突き破るような突き上げに悲鳴のような声を上げる俺を押さえつけて、岳のヤツはグイグイッと腰を突き動かして快楽を追っているようだ。汚らしいタンクに何度目かのキスをしたとき、俺は我慢できずに喘ぎながらビクンッと身体を震わせていた。緊張したように身体を強張らせて、それから痙攣するように小刻みに身体を震わせながら俺が吐精すると、後孔がギュッと強張るように収縮して括約筋が岳を締め付けた。その締め付けを楽しむように腰を前後させていた岳は、それから勢いよく俺の体内に精液を吐き出したんだ。あまりの勢いを受け止めた俺がひくんっと身体を震わせて、ヒクヒクと後孔を収縮させると、岳はその余韻を味わうように小刻みに腰を動かしていたが腰骨を押し上げるようにして陰茎をずるりと引き抜いた。便座の上で脱力してタンクに凭れるように額を押し付けた俺の、ヒクついている後孔はまだ岳を咥え込んでいるつもりだったのか、暫く閉じることも忘れているようにとろ…っと体内に吐き出された白濁を便座の蓋に零していた。
 ハァハァ…と肩で息をして呼吸を整えていると、いきなり顎を掴むようにしてグイッと身体の向きを無理矢理変えられて、俺は痛みに眉を寄せて岳を見た。こんな狭い場所で無理はしてくれるな…と口を開きかけたら、頬にグイッと陰茎の先端を押し付けられてギョッとした。

「舐めて綺麗にしなよ。あんたのケツマンで汚れたんだよね。コレでマン●に突っ込んで病気とかになられたら困るし」

 ガツンッと脳天をハンマーか何かで殴られたぐらいの衝撃的な台詞に、俺は眩暈を覚えながら、それでも抵抗したところで頬を叩かれるだけだと学習していたから、震える瞼を閉じて岳の陰茎に唇を寄せたんだ。

「ふーん、素直だな。あんたもやっぱりその辺のこと心配してるってワケだ」

 クスクスと笑って、岳が素直な俺の頭を撫でながらそんなことを言うから、俺は今更ながらまた泣きたくなっていた。精液とか汚物とか、確かに汚れた陰茎に舌を伸ばして舐めて清める俺の姿が、この、チビの頃から可愛がってきた弟分にはどんな風に映っているんだろう?そんなことを考えていたら、涙が頬を伝い落ちていた。

「泣くほどムカツクって?怒ってもいいよ、いまさらだ。別に怖くもねーしな」

 頬に零れる涙を掬い取って、指先を濡らすソレを舐めながら、岳は凶悪なツラをして俺を見下ろしてきた。上目遣いに睨みつけながら、その胡乱な雰囲気を孕んだ双眸を見返してやると、狙った獲物は逃がさない、鋭い爪で引き裂いて、内臓を引き摺り出したら骨までしゃぶり尽くしてやる…野生の肉食獣のような獰猛さで、俺を震い上がらせた岳。俺はきっと、岳に負けるんじゃない。
 …『女である俺』に負けるんだ。
 諦めたように双眸を閉じると、達くまでは舐めさせる気はなかったのか、ある程度綺麗にしたら岳は自分から陰茎を引き抜いた。双眸を閉じていた俺はそれに気がつかなくて、口腔から抜け出した陰茎を追うように伸びた舌には唾液が名残のように糸を引いていた。

「えっちぃ顔しちゃって…ドキドキするね。可愛くってさ、滅茶苦茶にしたくなる。こう言うの、嗜虐心を煽るって言うんだぜ?光太郎は罪なヤツだよな」

 クスクスと、嬉しそうに笑う。
 俺は絶望したように岳を見上げた。
 相容れない俺たちは、食い違う思いに翻弄されて、きっと、冒してはいけない禁断の境界線を踏み越えてしまうんだろう。
 岳は、さてと…と呟いて、俺をまたしてもタンクの方に向けようとした。

「ちょ、待て、岳!」

 でも俺は、今度はそう簡単には言うことを聞いてやるもんかと、力の限りで抵抗しながら岳を睨みつけてやった。

「お前、ちょっと冷静になって考えてみろ!」

「オレはいつだって冷静だよ」

 シレッと言い切る岳に、その通りだけど、俺は必死で食い下がったんだ。

「お前はまだ中学生なんだぞ!?俺がに、…妊娠するってことは、お前は中学生で親父になるってことで…ああ!クソッ!責任とかそう言うことはどうでもいいんだ!…お前、まだ若いんだ。他にもっとイイ奴とか現れたら…」

「何、親父臭いこと言ってるワケ?光太郎以外はいらないって言ってるでしょーが」

 鼻先で笑って、岳は呆気に取られる俺を引き寄せて、唐突にキスしてきたんだ。

「んぅ!」

 舌先が触れ合うようなキスから、段々と深く唾液が交じり合う濃厚な口付けに変わって、キスなんて岳ほどには女とも付き合ったことのない俺は、ただ促されるままに舌を絡めているので精一杯だった。そのせいで、息をすることを忘れていたらしい。
 岳が言うように馬鹿な俺は肩で荒く息をしながら、酷く咽て、驚いた岳の肩口に額を押し付けながら酸欠の金魚か何かのようにパクパクと新鮮な空気を求めて口を開いていた。

「オレを心配する前に、自分の身の上を心配したらどうなんだ?高3…いや、もうすぐ社会人か。社会人1年生でもうママになるんだぜ」

 酸欠状態で縋るようにして抱きつく俺の頭に頬を摺り寄せながら、岳はニヤけた調子の声でそう言って、それから抱き起こすように俺の腰を浮かせたんだ。

「あ…ダメ…だッ!」

 ハッとした時には一瞬遅くて、その時を待ち侘びたように、絶倫野郎の岳の逸物は既に先走りを零しながら、ねっとりと愛液を漏らす女性器に陰茎の先端を押し付けてきたんだ。

「ナニがだめ?言ってる意味が判んないよ」

 クスッと笑って、さらに深い部分まで捻じ込もうとする岳の、その背中を思い切り叩いたり爪で引っ掻いたりしても眉を寄せるぐらいで別に怒ったりはせずに、そろそろと忍び込ませようとしていた。だがすぐにそれにも焦れて、無理矢理捻じ込み始めたから大変なのは俺だった。
 まだ女としては未熟らしいその器官は、突然の硬くてグロイ逸物の進入に悲鳴を上げて、受け入れようと努力するように愛液を溢れさせていた。粘るそれが潤滑剤になったのか、まだ入り口付近で右往左往している陰茎の進入を助け、そのくせ、進入を拒むように収縮を繰り返す器官は許しを請うように閉じようとして無理矢理抉じ開けられた。悲鳴が、咽喉の奥に引っかかって奇妙な呻き声しか出せなかった。

「…ひぐッ、……ぐぅ!……ぅ~ッ!!」

 痛烈な痛みに唇を噛み締めて、もう岳を殴るとか引っ掻くとか言う芸当はできなくなっていた俺は、息も絶え絶えにその苦痛をもたらす張本人である目の前の陵辱者に縋るように抱きつくしかなかったんだ。
 ただ、痛みを堪えるために立てた爪が、岳のシャツ越しの背中に鋭い痕を残したことを、後にヤツは、ちょっと嬉しそうにフフンッと胸を張ったりして喜んだ。
 だが現実は未熟な子宮に中学生にしては立派な陰茎をグイグイと押し込めるようにして突っ込んでくる岳の、その座位のような体位にそれでなくてもセックスをしたことのない俺の身体が悲鳴をあげる。

「……ッ!…ぅ、……あ、アァ……、や、嫌だ…ッ…い、痛えぇぇッ!!」

 やたらめたら突っ込んでは定位置を探していた岳は、不意に一瞬動きを止めて、それからさらに奥を目指すようにして嫌な汗でジットリと濡れている俺の身体を抱き締めながら、身体をもっと交じわらせようとでもするように密着させてきた。
 その瞬間、胎内の奥深い部分で何か、繊細で壊れてしまいそうな硝子細工が弾けたような、実際にはそんな音はしなかったかもしれないのに、奇妙な視覚を伴うような音が違和感として胎内に響いた気がしたんだ。
 岳の陰茎が突き破ったその辺りから、不意に溶岩か何かのような熱さを持った粘り気を帯びた液体が洩れ始めると、大切にしてきた何かが、儚い音を立てて崩れてしまったような…その奇妙な焦燥感に一瞬だけど痛みを忘れた俺は、岳から身体を離すようにして恐る恐る下腹部を見てしまった。

「…」

 内部から伝い落ちたその流れは、熱を持って俺の内股を濡らしていた。
 岳にもソレはすぐに判ったらしく、上気した頬に汗の雫を零しながら、軽い尻上がりな口笛を吹いて具合を確かめるように腰を揺らめかしやがったんだ。

「やっぱ処女だったな。破瓜の血なんてオレ、初めて見たよ。犯った女ってみんなヤリマンでさ、ガバガバなのね。でもさすが『近所のお兄さん』、なんでも教えてくれてありがとう」

 おどけたように言われて、でも、俺はそれに傷付いたんだろうか?それとも、失ってしまったものの重要さが、今更ながら圧し掛かってきて怖いだけなのか…ただ、無性に泣きたくて、泣いてしまっていた。

「なんだよ、泣くこたねーだろ?オレは、最高に気持ちいいのに…」

 お前が気持ちよくてもこっちは死ぬほど辛いんだ!
 それでなくてもケツを犯されたばっかりで、まだジーンと沁みるように痛んでるってのに、今度は女の方なんだぞ!?どうかしてるって叫びたいよ。
 しかも、辺りはアンモニア臭が漂う便所の個室だし、こんなところで純潔を失って、ここで身篭ってしまうだろう子供が真剣に可哀相な気になってきた。

「…が、岳…ッ、……願い…だから、…ッ、……う、…外に、……外に出してくれ…」

 嘆願だったと思う。
 コンドームでも付けてりゃ中出しされても諦めるしかないけど、今はダメだ。俺はきっと、女の遺伝子の方がなぜか発達しているから、強い意志を持っているこの並木岳の子供を残そうと腹に宿すだろう。そんなの、岳や俺が良くても、子供が可哀相だ。
 尻に放たれた白濁が、岳の動きに合わせるようにしてたらたらと垂れ落ちては真っ赤な鮮血と交じり合うようにして便座の蓋を汚していた。その体液がたまに岳の腿に飛んだりして、それがニチャニチャと厭らしい音を立てている。

「バーカ!ホント、なに考えてるんだよ?子供作ってるんでしょ?妊娠しなかったら意味ないじゃん」

「…バ!…ッ、……ああ!!…ぃ、…ヒィ!」

 オブラートで灼熱に焼かれた鉄を包み込んでいるような先端が、破瓜されたばかりの胎内を思うさま蹂躙するのは気持ちのいいもんじゃなくて、でも岳は恍惚とした顔をして俺の締まりを堪能しているようだった。
 それが悔しくて、俺は痛みに霞む目で岳の肩を見つけると、そこに口付けるようにして噛み付いてやった。

「…ッ!」

 俺の痛みはそんなモンじゃないんだぞ!もっと大事なモノを失って…ああ、子供を作るときってのは、女は大事なモノを失って、さらに大切なモノを手に入れるんだな。
 それは凄く荘厳で神秘的な行為のはずなのに…うう、俺ときたら、やっぱ両性具有という禁忌を冒している罪なのか、こんなところで無理矢理犯されてその大事なモノを失って、可哀相な子供を作ろうとしてるなんて…

「…ぁうッ!」

 激しい突きをくれられて、俺は悲鳴に近い声を上げていた。
 突き解すように腰を揺すって激しく動く岳の、その動きにはどうしても追いつけなくて…そのくせ、岳の尻上がりのふざけた口笛にビクッとしてギュッと閉じていた双眸を押し開いていた。

「なんだ、感じ出したんじゃん。気持ちよくなった?」

 そんなはずはない!
 叫びたくて、でも、岳と俺の腹の間で擦れている陰茎は確かに熱を持ってガチガチに筋だっている。よく見りゃ快感に先走りの雫まで零していて…精神的な場所で感じる女の部分はこんなに悲鳴を上げてるってのに、本能と直感で感じる男の部分は男を受け入れた女性器のヌメリにあわせるように屹立している。感じているのか?こんな状況下で!?
 …俺、確かマゾじゃないはずだけど…
 そんな馬鹿らしいことを考えながら痛みをやり過ごそうとする俺の陰茎を、岳が興味深そうに握りやがったから、ギクッとしてヤツの顔を見上げてしまった。
 上気して興奮している濡れた双眸の、匂うように雄を感じさせる岳の鋭い視線に射抜かれてビクつきながらも、俺は広げさせられた腿を必死で閉じようと今更ながら画策したがもう後の祭りだった。

「女を犯されながらチン●を弄られたら…どんな感じ?400字詰め原稿用紙2枚分ぐらいで説明してよ」

 興奮したように上ずる語尾に、半分以上嫌気がさして涙ぐんで岳を睨むと、ヤツは殊の外あっさりと『冗談だよ』と呟いて鼻先にキスしてきた。そのくせ、ちゃっかり掴んでいる陰茎には悪戯を嗾けてくる辺り…嫌なヤツだと思うよ。
 でも双方を弄られていると、さすがに頑固な女の部分も蕩けたように受け入れる方を選んだらしく、頭の中がボウッとしてきて、痛みよりも違う何かが生まれてきた。
 たぶん、快感だと思う。
 下腹部と性器が蕩けるように脳みそも崩れ始めて、思考回路もままならない。
 子供のこと、ちゃんと岳に説明しないと拙いってのに…俺は惚けたみたいに快楽を追うことに専念してしまった。…痛いのはもう、嫌なんだ。
 岳の背中に限界まで広げさせられた足を絡めて、首には両腕を回してしがみ付くように抱きつくと、岳は俺の身体を支えるようにして抱え直すと挿入を深めてきた。ゴツゴツした先端が胎内で擦れるような感触は痺れるような快感を呼び起こしたし、たまに忘れたように鮮烈な痛みが襲ってきて、それがまた俺を興奮させた。痛いし、気持ちがいい。
 泣きながら、もうどっちの感情に犯されてるのか判らなくなった。
 岳の荒い息に自分のソレが重なると、どこまでも深く落ちていくような気がして、俺は必死でしがみ付いていた。

「好きだよ…なんて、今更だな」

 呟くような岳の声がよく聞き取れなくて、俺は泣きながら首を左右に振って溜め息をつく。岳の陰茎が一瞬胎内で膨れ上がったような錯覚がして、詰めた息を吐き出すように白濁としているだろう体液が奔流のように注ぎ込まれたんだ。

「…ッ、……ぅあ、……ぁ、…い…ッ!」

 土石流かと思うような激しくて熱い流れが子宮を叩きつけ、その熱は俺にダイレクトな衝撃を与えるには充分だった。愛液と混ざり合ったソレが、とろり…っと岳と俺の素肌を汚して零れたとき、とんでもないことをしてしまったと重罪に後悔してしまった。
 岳が達くのとほぼ同時に俺も果てていたワケだから、まざまざと女性器を濡らして漏れる体液を感じることができてしまう。
 岳は荒く息をつきながら俺をギュッと抱き締めていたけど、便座に2人して腰掛けるように座ったままで互いに向きあっている格好だったからか、まだ繋がったままで余韻にヒクヒクしている自分の性器と収縮を時折繰り返す俺の女性器を見下ろして、何を思ったのか突然その部分に触りやがったんだ!

「…ッあ!」

「…すげ、マジで、スゲーよ。ここヒクヒクしてる。オレの咥えて、オレの精液を零しながら…胸も平らだけど思ったよりも柔らかいし。女なんだな、光太郎…」

 感動したように呟いて、クチュクチュと粘液を擦りつけるように女陰に塗り込める岳の指先を、俺は慌てて制しながら軽く睨んでやった。

「も、もうやめろよ!早く、早く抜いてくれ…」

「妊娠したかな?」

 不意にギクッとするようなことをサラッと呟いて、岳は抜く気がないように陰茎を具合よく収め直してから息をついて、ニッと底意地が悪そうな顔で笑って俺の顔を覗き込んできた。

「もう一発ぐらい犯っとかないと、まだ安心できねーんだけど…ま、光太郎がオレの嫁さんになるって約束するなら抜いてやってもいいよ」

「…お前が18になったら考えてやるよ。それまでは成長…ッん!」

 グリッと先端を動かされて、俺は突然襲ってきた快楽に怯えて慌てて岳にしがみ付いた。

「そんな答えを待ってるワケじゃないっての。男は18からしか結婚できない…なんて法律なんかクソ喰らえだ」

「…俺はお前のモノに…」

 何を言ってもダメなのかと諦めて、溜め息のように呟いたら…

「オレのモノに?」

 岳は期待にキラキラと双眸を輝かせて、ワクワクしているように俺の次の言葉を待っている。そう言うところが子供っぽくて…俺は好きなんだよ。

「なるつもりはない」

 断言すると、それまでキラキラしていた子供のような輝きは一瞬でナリを潜め、あの凶暴で獰猛そうな、俺を犯すために公衆便所に引き摺り込んだあの時の双眸に取って代わった目付きで覗き込んできたんだ。

「なんだと?」

「何をされたって、これから何度犯されてもお前のモノになる気はない、って言ったんだよ」

 キッパリ言い切ると、一瞬、躊躇うように眉を寄せて切なそうな表情をした岳は、それでもすぐに負けん気の強いあの凶悪な双眸をして俺の胎内から荒々しく陰茎を引き抜いて立ち上がった。
 狭い個室の便座に腰が抜けたようにへたり込んでいる俺を冷やかに見下ろしながら、軽く身繕いをする岳は鼻先でフンッと笑ったんだ。

「別にどうだっていいよ、そんなこと。結局、オレはあんたの初物を頂けたらそれでいいワケだし。股から血ぃ流してさ、いい格好じゃん。腰抜けてんだろ?帰れないならこのままココにいればいい。物好きが口コミで何人でも来てくれるよ」

 クスクスと残酷な子供の浮かべる悪魔みたいな笑いに、俺はゾッとした。
 そうだ、確かに岳の言うように俺は腰が抜けて暫く立ち上がれない、こんなところを物好きな変態が見れば犯されるかもしれない…口コミ、と言った岳の台詞は、そのままココに俺がいるってことをコイツが吹聴するって言ってるようなモンだ。

「が、岳…」

 それはやめてくれ、と伸ばしかけた手は軽く払われて、よろけたところをグイッと顎を掴まれて強引に上向かされてしまった。

「頑張って逃げ惑えよ」

 ククッと笑った岳に突き放すように突き飛ばされて、俺は馬鹿みたいに下半身丸出しでタンクにぶつかってしまう。そんな俺を一瞥しただけで、岳は何も言わずに鍵をかけないままで出て行ってしまった。
 ああ、どうしよう…
 岳だけなら、アイツの子供を妊娠したんだったら…俺がなんとかして育てる気にもなれる。でも、他のヤツは…嫌だ!絶対に嫌だ!!
 立ち上がって逃げ出そうにもやっぱり腰が抜けていて、へなへな…っと便座の蓋の上にへたり込んでしまった。ついでのように下腹部がズキッと痛んで、俺はボウッと霞む頭を左右に振ってアンモニア臭が漂う汚い便所の小さな窓から無情に輝きを落とす冷たい月を見上げていた。
 岳が好きだ。
 アイツが好きだ。
 …でも俺は、こんな俺は…
 岳と結婚なんてできるはずがない。
 誰かを好きになる場合、いつだって何某かの条件は必要になってくるわけで…
 その条件すらもクリアしていない俺が、前途ある岳を愛していいはずがない。
 いっそ殺されるなら、その方が楽かもしれないな…
 ずいぶんと待ち焦がれていた深い闇が訪れて、俺は何時の間にか意識を失っていた。

■ □ ■ □ ■

 ふと、温もりを感じて目が覚めた。
 誰かに犯される!…恐怖にビクッとして飛び起きたつもりだったけど、身体中が痛くて、気持ちしか起き上がれなかったようだ。
 ビクビクしながらよくよく辺りを見渡してみたら、薄暗いそこは見慣れた部屋で、ちょっと染みがある天井も見慣れた本棚も…ここ、俺の部屋だ。
 ホッとしたのも束の間で、ハッと我に返ってタオルケットの下にある自分の身形を見てパジャマ姿であることを確認すると、そこで漸く本当に詰めていた息を吐き出した。
 ゆ、夢だったのかな…?
 まさか、そんなはずはないと下半身の痛みが如実に物語っているし、俺自身、まだ幾分か胎内に残っている残滓を感じて吐き気がした。
 岳に犯された…その事実は救いようがない真実で。
 タオルケットをギュッと握り締めると涙が出そうになって、俺は唇を噛んでその感情を押し留めた。
 どこをどう歩いて帰ってきたのか、そんな俺の姿を見た母さんがどう思ったのか…考えればキリがないことだったけど、何もせずに鬱々と寝てるワケにもいかなくて、身体が落ち着くのを待って起き上がることにした。
 股間部に違和感があって、歩き方がぎこちない蟹股だったとしても気に留める気にもなれなくて、仕方なく階下に下りていくと、柱に掛かった時計を見たらまだ9時を回ったばかりで、それほど長く寝ていたわけではないと言うことが判った。リビングに行ったら父さんが新聞を読んでいて、母さんはお茶の用意をしていた。

「…っと」

 どう切り出したらいいんだろうと悩んでいたら、母さんがそんな俺に気付いて声をかけてくれたんだ。

「光太郎!…寝てなくて大丈夫?」

「ああ、目が覚めたのか。貧血だってな、大丈夫か?」

 新聞を読んでいた父さんもそんな俺に気付いたのか、気遣うように眉を寄せて新聞を片付けた。
 この人たちはこんな風に、両性具有という稀有な体質に生まれた俺を心配して、それから放っておいてくれた。恨んだりなんかしてないけど、たまに『ごめんね』と謝る母さんの涙はさすがにちょっと辛い。
 貧血?…と首を傾げながらも頷いた俺に、母さんはホッとしたように人数分のお茶の準備をしていそいそとソファーに腰掛けた。

「お隣の岳ちゃんがね、公園で貧血を起こしたからって言っておんぶして連れてきてくれたのよ。あの子、ちょっと見ない間に大きくなって男らしくなったわね」

 母さんが、弟分のように俺が岳を可愛がっているのを知っているから、ニコニコ笑って説明してくれた。でもその時の俺は、アイツの名前が出てきただけでもビクッとして身体を強張らせてしまったんだ。

「岳が…そう、それでアイツ、何か言ってた?」

 居心地が悪くて居住まいを正しながら、できるだけ気のない素振りで呟く俺に、母さんは父さんと目線を合わせて…拙い。この合図は、何か悪いことの前触れだ。俺が両性具有について尋ねたときも、この人たちは2人で目線を合わせて人生最大級の引導を渡してくれたんだ。
 ハラハラして、次の言葉を待っていたら…

「岳ちゃんがね」

 口火を切ったのは母さん。

「まだ中学生なのに…光太郎、あなた学校を卒業してから地方に就職するじゃない?」

「…ああ」

 掠れた声で頷いたら、もう一度困ったようにチラッと父さんに目線を送った母さんの言葉尻を受けて、今度は父さんが口を開いた。

「岳くんがね、お前について行きたいと言い出したんだよ。あちらのお父さんも近々再婚なさるそうだし、今度のように誰もいないような公園でお前が1人で倒れるのが心配なんだと言っていてね。何よりも、岳くんのお父さんも岳くんを1人にするよりは、お前に預けた方がいいと仰っているんだ」

 咽喉がカラカラに渇いて、俺は何度も舌で唇を濡らしながら、誰もいない公園に俺が1人でいたことよりも岳が俺について来ると言う話に重点を置く辺り、なんとなく両親の魂胆が見えたような気がした。
 両親も…そして岳の親父さんも、実は俺と岳をくっつけたいのかもしれない。
 1つ屋根の下にいれば、嫌でもいつか俺が両性具有だと岳のヤツが気付く…いや、知っていることを端から両親は知ってたんじゃないだろうか?それで、そうこうしてる間に俺たちがくっつけば、この人たちは一安心ってワケなんじゃないだろうか…そこまで考えて、俺は眩暈がした。
 結局、何も知らなくてボサッとしていたのは俺だけで、岳も岳の親父さんも両親も、端からこの計画を立てていたんだ。
 まさか岳が俺を犯したことまでは知らないだろう2人は、俺が就職で地方に行くと言ったとき、一度は困惑して反対したけれど、何時の間にか賛成してくれていた。それはきっと、あの小狡賢い岳が裏で手を回したんだろう。

『地方の方が、コウタロ兄ちゃんを手篭めにしやすい』とかなんとか、そこまで直球ではなかったにしろ、そんな感じの言葉で両親を誑かしたんだろう。
 俺は小さな溜め息をついて、薄いレースのカーテン越しに見える隣家の灯火を見つめていた。
 腹には受精した卵子が眠っているかもしれない…なんとか両親に内密で、父さんの知り合いが院長を務めている俺の主治医のいる病院に行って、先生に調べてもらわないと。
 悩み事は沢山あるし、このまま妊娠していれば地方への就職は断念せざるを得ないだろう。もし妊娠していなくても、地方に行けば岳がついてくる…嫌だと言っても、両親を味方につけたアイツは強い。
 にも関わらず、アイツが俺を抱いたのは…きっと、もし自分の父親の気が変わって、止められた時のことも想定していたんだろう。賢いアイツのことだから、離れた先で悪い虫が付く前に、自分の手で強烈な印象を、たとえば俺が岳を怖がって誰にも近寄らないようにするだとか…これには離れなくても充分な理由があるし、或いはセックスに恐怖を覚えるようにとか…そんな理由でアイツはアイツなりに中学生と言うハンデを消し去ろうとしていたのかもしれない。
 詳しいところまでは岳じゃないから判らないけど…1つ判ることと言えば、それは、岳が強い執念でもって絶対的に俺を手放さないと言うことだ。
 溜め息をついて、腹を擦った。
 心配そうに俺の様子を窺う両親の肩越しに見える隣家の灯火、まだ見ぬ未来を指し示す冷たい星のようなそれを、俺は下腹部に当てた手に力を込めながら暫く無言で見つめていた。

─END─