死人返り 6  -死人遊戯-

 遺体の収まった棺は、こんな船でホントに大丈夫なの?と聞きたくなるような小さな船をグラリと傾がせながら、船底を叩くような重い音をさせてゆっくりと積み込まれているようだった…と僕が言うのも、ガタガタと震えながら必死で弟の腕にしがみ付いていて、本当はよ
く見ていなかったんだ。
 弟はそんな僕の背中を片手で抱くようにして身体を潜めながら、興味深そうにその一連の行動を見守っていたから、その時の様子は実は匡太郎に聞いたんだ。
 は、早く終わってくれないかな?とか、もし、遺体が動いたらどうしようとか、目の前に動く死体である匡太郎がいるってのに、僕はその恐怖の対象にだってなり得る弟に抱きつきながら、こんな時に限って遅々として進まない時間や恐怖と戦っていた。
 僕よりも年下の弟である匡太郎はこんなに平然としてるのに!ホントはちょっと恥ずかしいんだ。ううん、きっと凄く恥ずかしい…でも、それよりも僕は、真新しい棺桶の中で眠っている国安の友達のお姉さんの死体が動き出しませんように!と、真剣に祈っていた。そん
な僕の気配を感じたのか、匡太郎は安心でもさせようとしているように、軽く僕の背中を叩いてくれたから…どうしてだろう、それだけで少しホッとできたんだ。
 それで、唐突にハッとした。
 今までは死体とか、毛布の向こうから聞こえてくる奇妙な唸り声だとか…あとでその声は読経だったって教えてもらったんだけど、僕はそんなものに怯えて竦んで、状況を把握することなんか丸っきりできる状態じゃなかったんだけど、匡太郎が励ますように上からギュッと抱き締めるようにしてくれてホッとしたもんだから、唐突にその事実に気付いたんだ。
 毛布の向こうの様子を伺いながら僕の心配をしている匡太郎の、普通の人間の体温よりも低い、冷たい肌の感触を薄いTシャツ越しの背中に感じたら、心臓の音が伝わらない不自然な感覚に早鐘を鳴らすように鼓動が早くなった。

 ドキッと、心臓が跳ね上がる。

 僕は…こんな時なのに、弟に怯えているのかもしれない。
 そんな僕の馬鹿な考えなんかお見通してなのか、匡太郎は覆い被さるように抱き締めてきながらふと、笑ったみたいだった。
 今まではスッカリ忘れていたんだ。
 匡太郎は、身体はたぶん死んでいるんだろうけど、なぜか呼吸している。
 それはきっと匡太郎が生きていた時の記憶が無意識の行動として起きている現象に過ぎないんだろうけど、そのおかげでまるで生きているように見えるんだ。だから僕は、きっと忘れていたんだ。
 その上に僕は、その弟に怯えてるんだから…僕と言う人間は…なんて、なんて無責任なヤツだろう。
 キュッと唇を噛んで、冷たい船底に頬を摺り寄せるようにして瞼を閉じたら、笑った匡太郎の吐息が首筋を掠めたんだ。
 コッソリと真上から僕を見下ろしているんだろうな…今の僕は、いったい匡太郎にどんな風に写っているんだろう?

「…光太郎、怖い?」

 毛布が阻んだ匡太郎の声は、もちろん外に聞こえるはずはないんだけど、それでなくても負い目に苛まされて竦んでる弱虫な僕の耳には思った以上に近くで聞こえたその声は予想以上に大きかったみたいで、ビクッとして振り返りそうになってしまった。でもそれはすぐに匡太郎の大きな掌に遮られて、どうやら毛布を動かして外の人たちに僕たちの存在を知らせないで済んだみたいだ。

「…ごめん」

 コッソリと謝ったら、大丈夫だとでも言うように頭に何か柔らかいような固いような感触が触れてきて、それが匡太郎の頬だと言うことに気付いた。
 温もりがあれば…すぐに頬だって気付けたはずだ。
 僕は…僕があの公園に約束通り行っていたとしたら、たぶん、弟があの暑い熱帯夜の公園で殺されることもなかっただろうし、こうして蘇えることもなかったんだと思う。そう思うと、やっぱり罪悪感が襲ってきて、僕は息苦しくなる。ましてや毛布なんか被っているからもっと息苦しくて…でもそれが、匡太郎がこの暑いのに抱きついてきているから…なんてことはないよね?
 さっきまで抱きついていたのは僕のほうなんだし、安心させてくれようとしている弟に…弟に安心させてもらってる兄貴ってのも情けないんだけど…振り払うのも申し訳ないし、と言うよりも、安心しきってる僕からこの柔らかな締め付けを奪うのは酷だと思う。
 さっきまで怖がっていたのに…僕ってばホントに現金なヤツだ!

「こちらこそ。怖がってるって知ってたんだけど…」

 匡太郎がクスクスと笑う。
 囁くと耳元に微かな息が触れて…こうしてると、本当に生きてるみたいなのにな。
 匡太郎の身体は冷たいままで、心音も背中に伝わってこない。
 どうしよう…泣きたくなってくる。
 鼻の奥のほうがツンとしてきて、じわりと目の縁に何かが盛り上がる感触がしたら、やけにご機嫌な弟の声が聞こえてきた。

「こうして抱き締めてると、アニキは温かいね。オレは冷たいけど、ほら、アイスノン代わりになって暑い夜には最高だろ?」

 何が楽しいのか、今夜の匡太郎はすごくご機嫌だ。
 僕は申し訳なくて泣き出しそうなのに、僕の様子にホントはちっとも気付いていなかった弟は陽気に笑って抱き締めてくる。
 冷たい身体がアイスノン代わりだって!?どこからそんな発想が浮かんでくるの?
 どこに自分の身体を代用品に喩える人がいるんだよぅ…
 泣きたいし笑いたいし…僕は本当にこの弟に救われてるんだと思う。
 どうして僕は、こんなに優しくて楽しくて、頼りになる弟をあんなに嫌っていたんだろう?
 きっと、他の誰よりも理解のできない苦痛に責め苛まれながら、日々を怯えて過ごしているに違いない、まだたったの17歳で、人生にけして訪れることのない最大級の災難に見舞われている弟の、その苦痛を理解してやることもできずにただ甘えてばかりいて…最低のお兄ちゃんでごめんね。
 僕は、抱き締めてくる弟の腕に縋り付くようにして頬を寄せながら、小さく笑ったんだ。

「ホントだ。気持ちいいね…」

 呟いたら、匡太郎はそうだろ?とでも言いたそうに嬉しそうに笑ったみたいで、その仕種が僕にはとても切なかった。でも、今の僕には切ながったり悲しがったりばかりしているワケにはいかないんだ。
 …と言うことを、今更ながら匡太郎のウキウキした声音で思い出させられてしまった。

「ホラ!国安さんだ。そろそろ未知の船出に出航…道中、お気をつけて」

 まるで他人事みたいに意地悪く呟く匡太郎の一回りは大きな身体の下で、僕は恐怖に竦んでしまっていた。
 これから赴く場所は死体が消えちゃう未知の島で…わーん、国安が乗り込むまではへっちゃらだったのに、僕は途端に怖くなって匡太郎の腕に今以上に強い力でしがみ付いてしまった。

「…では、渡し守。本日、滞りなく…」

 外でボソボソと話し声が聞こえると、渡し守の役をしている国安が礼をしてから、ギシッと小船を軋ませて乗り込んできた。そうして、彼はオールで砂浜を押し遣るようにして海へと漕ぎ出したんだ。
 潮風を感じたのは匡太郎がソッと毛布を捲って顔を外に出したからだった。
 バックンバックン高鳴る心臓を押さえながら一緒に顔を出してみたら、忘却の川の渡し守のような格好をした国安がフードの奥からボソッと呟いたんだ。

「期待してくれるのは有り難いんだけど、もう少し隠れててくれよ。あと少し漕いだら、村人はそれぞれの家に帰るから…」

「OK」

 軽く呟いてから、匡太郎は僕の頭を押さえるようにしてまた船底にへばりついたんだ。
 これから行く波埜神寄島にはもしかしたら、ゾンビがうじゃうじゃいたらどうしよう…
 匡太郎みたいに生きてる人と体温とか肌の色とかが少し違うぐらいで、まるで生きてるのとちっとも変わらない姿なら僕だって耐えられる…でも そこまで考えていたら、頭上から匡太郎の声が降ってきたんだ。

「大丈夫。アニキはオレがちゃんと守るから…いや、アニキに守ってもらうんだっけ?」

 クスクスと笑って、匡太郎の鼻先が僕の頭に触れてくる。
 馬鹿にされてるってことは判るけど、それでもそんな匡太郎が傍にいてくれてるって思うと強くなれるのは、現金な僕の性格の成せる業だと思うよ。

「ぼ、僕が守るに決まってるだろ!」

 声が裏返っていまいち様にならないんだけど…バツが悪くてモジモジしていたら、国安が声を押し殺したような低い声で笑っているのが聞こえてきた。

「どっちもどっちだって。大変なことなんてなんにも起こらねーよ。文献探しに時間がないってだけさ」

「言えてるね」

 匡太郎が爆笑するから、僕はムッとしてその腹に肘鉄を食らわせたんだ。
 怖がってるのは僕だけって言いたいんだろ!?くぅ~!!!
 僕は負けないぞ!
 絶対に匡太郎を守ってみせる!!
 僕は決意しながら、波に揺れてゴツンッと船底を叩く棺桶に怯えながら匡太郎の腕にしがみ付いた…ってこれじゃ、ちっとも説得力がないよ。
 肩を揺らして笑う匡太郎の気配に国安も気付いたのか、波の音に混じって笑い声が聞こえてくる。
 僕って…いや、こんなことじゃもう落ち込まないぞ。
 波頭を蹴って走る小さな船は、そんな三者三様の思いを乗せて波埜神寄島に向かって進んでいた。
 僕たちは…いや、この僕は。
 本当に匡太郎を救ってあげられるのだろうか…?
 一抹の希望のような思いは、波音に消される匡太郎の呼吸のように儚いように思えていた

死人返り 5  -死人遊戯-

 午前零時を少し過ぎた真夜中の海辺は、人っ子一人いなくて寂しかった。
 今頃、土葬の習慣があるこの村の唯一の墓場である神寄憑霊園に村民が全員、集結しているはずだ。
 今年死んだ、国安の友人の姉さんの遺体を巫女が清め僧侶が経を上げると、真新しい古風な桶に入れる。
 それが1時間30分と少しかかる。
 その間に木製の船に乗り込んでおく…ってのが、今の僕たちの使命だ!…って言っても、死体と一緒に船に乗るなんて、きっといい気分のワケがない。絶対、ない。

「…死体と一緒に乗るのってどんな気分なんだろう?」

「気持ち悪いんじゃない?」

 普通なら…と呟いて、そんな匡太郎は特別気にした様子もないようで、却ってそんな弟に僕はなんとなく勇気づけられた。

「俺も死体なんだけどなー」

 あっけらかんと笑って言われて、僕は唐突にハッとなる。
 思わず匡太郎を見上げて…それから目線を伏せてしまう。
 何を言ったらいいんだろう。こんな時、普通、他の人はなんて言うんだろう…
 僕は溜め息をつく。
 冷たいって言うのは…きっとこんな風に、人の心を理解できない僕のこの優柔不断さを言うんだろうな。

「ごめん」

 俯いて呟くと、匡太郎はなぜか唐突にそんな僕の顎を掴むと、有無も言わせずに上向かせたんだ!

「???」

「ご、ごめん」

 ビックリしていると、匡太郎の方がもっと驚いたような顔をして、それからバツが悪そうにニヤリと笑って謝ったんだ。

「急に黙り込んだかと思ったら突然謝るんだモンなー。俺、ビックリしちゃったよ」

 顔を覗き込みながらバツが悪そうに笑うから、僕も思わず釣られたように小さく笑ってしまう。その顔を見てホッとしたのか、匡太郎は掴んでいた手を離すと肩を竦めて満天の星空を仰いだ。
 降ってくるような星空が、今夜は良く晴れていることを物語っている。
 天の川が見えて…ああ、どれくらい僕は、こんな星空を見ていなかったのかな。

「綺麗な星空だよなー」

 匡太郎が呟くように言った時、唐突に風が吹いて、木の葉のように小さな船がグラリッと揺れる。船は…と言うか、乗り物全般が苦手な僕としては、そんな風に揺られてしまうと。

「?」

 思わず傍らにいる弟にしがみ付いてしまう。
 僕の方が兄貴なのに、恥ずかしいなぁ…

「アニキってさ、昔からそうなんだよな。幽霊とか、ジェットコースターとか苦手で…それであんた、何が楽しくて生きてんの?って俺、ずっと不思議だったんだ」

 不意に僕の肩を抱くようにして揺れから庇ってくれながら匡太郎が淡々と話し出したから、そんな弟を見るのは初めてだったし、もしかしたら離れていた1年間のことも何か聞けるんじゃないかって他力本願な思いで僕は匡太郎を見上げていた。

「楽しいことにホント、興味なくってさ。しょっちゅう本を読んでるか勉強してるぐらいで、そのくせあんまりテストの点とか良くなくて…」

 なんか、言いたい放題言われてないかな?僕。

「でも、アニキ。動物に優しいんだよ。ってゆうか、なんに対しても優しすぎるんだろうな。親父がほら、動物嫌いで何も飼えなくってさ。でも、アニキは何も言わないんだ。そのくせ学校で飼ってるウサギだとかニワトリの飼育当番、自分から進んでやってたのってアニキぐらいだった。俺、知ってるんだぜ」

 僕は驚いて瞠目したんだ。
 どうしてそんなことまで知ってるのか、理解できなくてたぶん、動転したんだと思う。
 だって、飼育当番はみんなが帰ってから、コッソリと学校に忍び込んで誰にも内緒でしていたってのに、どうして匡太郎が知っていたんだろう?放課後になると友達とサッカーだとか野球とかに出て行ってた匡太郎が、どうしてそのことを知っているの…?

「アニキが可愛がっていたウサギとかニワトリとか、その、殺されちゃっただろ?光太郎さ、すごく落ち込んでて…だから俺、コッソリ犯人捜ししてたんだよ。知ってた?」

「ええ!?み、みんなが噂していたからなんとなくは知っていたけど、本当に匡太郎だったの!?」

「うん…」

 テレテレと照れ臭そうにはにかむ匡太郎の顔を見て、僕はまた泣きたくなったんだ。
 あんなに嫌っていた弟が、本当は1番の理解者だったなんて…僕はなんてバカだったんだろう。

「違うよ、匡太郎。僕は優しくなんかない。本当に優しいって言うのは、匡太郎のことを言うんだよ」

 呟いて、久し振りに僕は弟の凭れかかった。
 僕なんかよりも一回りぐらい身体も大きくて、誰の子なんだと疑いたくなるぐらいハンサムな顔をしている僕の弟。
 弟ってだけでも不思議なのに、どうしてこんなに優しいんだろう。
 僕とは大違いだ!

「それは違うよ、アニキ。へっへっへ。俺はちっとも優しくないんだよ~?これからアニキには心構えを作っておいてもらわないと困るからね」

「…へ?」

 思わず首を傾げて見上げると、月明かりの下、匡太郎はニヤッと人の悪い笑みを浮かべてこう言ったんだ。

「決まってるだろ?幽霊すら怖がる光太郎だ。これから死体と2時間もの船旅なんだよ?心構えも必要でしょ。腐敗臭とか」

 眩暈がした。
 思わず倒れそうになると慌てたように匡太郎が捕まえて、青褪めたままで目の焦点が合わない僕を心配そうに覗き込みながら言うんだ。

「冗談冗談!冗談だよ、光太郎!国安さんの話しだと、『御霊送り』にする遺体は予め決まってるらしいんだ。その遺体は蝋とか…なんか古来から村に伝わる防腐剤らしきものを塗りたくられてるんで腐ることはないんだそうだよ。匂いとかもあんまりしないって言ってたし」

「それ、ほ、ホント?」

 恐る恐る訊ねると、匡太郎は安心させるようにニッコリ笑って頷いた。
 …いまいち、信用できないんだけど。
 匡太郎がこの顔をする時は、本当は自身がないときなんだ。
 ああ、忘れていたけど僕、本当は郷土文化って好きなんだけど、どうしてもこの土着の風習…それも死体だとか甦るとか…そう言ったものには弱いんだよなぁ。ゾンビとかも…怖い。
 でも確かに匡太郎は死んでるんだけど、怖くない。
 これがゾンビだったら…僕はどうしてるんだろう。
 本当だよ、とわざとらしく笑う匡太郎を見上げて、僕は違った意味でどんな表情をしていいのか判らなくて小さく笑うことしかできなかった。
 何を言ったらいいのか判らない、ちょうどそんな僕的に気まずい気分の時に、雑木林の向こうが明るくなった。

「ヤバイ!連中が来たよ、光太郎!隠れよう」

 ガバッと、毛布を頭からすっぽり被せられて、僕は後頭部を匡太郎に抑え込まれながら船の底にへばり付けられてしまったんだ。
 僕たちの目の前に棺桶 が置かれるんだ…ひぃぃ~
 ドキドキしながら僕は匡太郎にしがみ付いていた。

死人返り 4  -死人遊戯-

 グラスとお菓子の乗ったトレーを片手に、よく冷えたコーラのペットボトルを掴んで戻ってきた国安は、少し疲れたような表情をしていた。懐いてくる弟たちを振り切ってここまで戻ってきたのかな?いつもは格好をつけてる髪が、ものの見事にグシャグシャだ。
 僕は思わず笑ってしまったけど、国安に胡乱な目付きで睨まれて俯いた。それでも肩が震える。
 だって、大学の国安とは大違いだから。
 女の子をナンパすることが生き甲斐で、けっこう見られる顔をしてるからそれなりに取り繕ってるのに、今の国安を見たらまるっきりただの兄ちゃんだ。同じ学科の美紀ちゃんが泣いてしまうよ。噂では国安のシンパの1人だって言うのに。

「お前さ、ちょっと笑いすぎ」

「そりゃ笑っちゃうよ。なんだい、その格好」

「Tシャツと短パンで何が悪い。おらおら、お前たちもぼぅっとしてないで着替える着替える!」

 どっかりとペットボトルを直接床に置いた国安に、匡太郎と僕は追い立てられるようにしてボストンを投げられた。
 そんなにモノの入っていないボストンを受け取って、匡太郎は僕を見下ろすと仕方なさそうに肩を竦めてるんだ。困ったような表情が、ワガママな匡太郎にしては珍しいな。
 僕が思わず笑っちゃうと、匡太郎は訝しそうに眉を寄せて見下ろしていたけど、肩を竦めただけで別に何も言わなかった。
 …で、結局は国安の思い通り着替えて寛いだ僕たちは円座を組んで部屋の中央で胡座をかいている。男が三人で顔を突きつけるってのは…あんまり色気のあるものじゃないよね。だからって国安の妹の乱入があっても困るんだけど。

「兄ちゃんたちは大切な話をしてるの!母さーん!由紀をここに来させるなッ!」

 追い出して叫ぶ国安に、遠くの方でお袋さんの豪快な笑い声が聞こえて、小さな子供の泣き声が遠ざかっていく。障子を閉めてぐったりと座り込む国安に、匡太郎がクスクスと笑った。

「面白いほど賑やかな家族だな」

「放っておいてくれ」

「嫌味じゃないんだけど…」

 クスッと笑う匡太郎に、国安がバツの悪そうな顔をして肩を竦めた。下唇を突き出して、そんな表情をするとさっきの由紀ちゃんによく似てる。
 さすが兄妹。

「さて、本題に入ろうぜ!」

 半ば自棄になって話題を変えようとする国安を、僕と匡太郎は顔を見合わせて笑った。笑って、僕は気付いたんだ。
 この島に来てから、僕はやけに素直に笑えてる。
 あれほど嫌で、逃げ回っていた弟とこんな風に和やかに会話ができるなんて…失ってみて初めて気付いた大切なものを、僕はもう二度と手放すつもりはなかったから必死だったのかもしれない。
 匡太郎と肩を並べて歩いても、今の僕なら、あの中学生や高校生だった頃のように恥ずかしいとかそう言った感情はもうないし、喜んで歩けるかもしれない。
 そんな風に思えるのは、きっと、本当は酷く閉鎖的で気が滅入りそうになるはずのこんな村でも、ちっともめげることなく大らかに生きている国安家のお陰なんだろうなって思う。
 匡太郎も近頃よく見せていた奇妙な、あの大人びた表情が少し鳴りを潜めてるみたいで、警戒心が和らいでるのかも。

「結局、俺たちは深夜にあの島に行って、夜明け前にこっちに戻って来ないといけないんだ。その間の時間は7時までに戻るとして、3時間ぐらいしかない」

「7時で大丈夫なのか?田舎の朝は早いって言うけど…」

「大丈夫だ。この日だけは、みんなの起床は9時きっかりだと決まってる」

「…はぁ、なんかそれもすごい話だよね。脈々と受け継がれてるんでしょ?」

 僕は思わず2人の会話に割り込んでしまって、ちょっと溜め息をついた。
 だって、すごいと思わないかい?100年以上も昔から、この島の人たちはひっそりとこの行事を続けてきたんだよ。僕たちなんかが介入できない、この島にだけ受け継がれる神秘の営みに、本当に入り込んでもいいんだろうか…いや、僕はもう偽善者になることはやめたんだ。
 弟の秘密が判るのなら、どんなことだってしてみせる。
 それは償いだし、何よりも兄としては当然のことだと思うから。

「受け継がれてるけど…まあ、俺としては実際の話。こんなのは下らない風習だと思うんだよ」

 匡太郎は無言で国安の顔を見詰めたけど、僕としてはどうしてそんなことを言うのか判らなくて首を傾げてしまった。

「考えてもみろよ。骨すらも残らないんだぜ?棺桶ごとなくなっちまうんだからな」

 残された遺族を思えば…なるほど、それはそうかもしれない。

「うんざりしちまうよな?時代は21世紀に入って、都会じゃやれインターネットだケータイだって文明の利器を叫んでるのに、この村はいつまで経っても昔の因習に縛られたままなんだ」

 溜め息をつく国安は、時代の流れに取り残されていく自分の故郷を心配してるんだろう。
何か名物になるものでもあれば観光地として生き残ることもできるかもしれないけど、こんな閉鎖的な村では、いずれ過疎化が進んで国安の故郷はなくなってしまうかもしれないんだ。

「…」

 匡太郎はなぜか、唐突にどこか痛いような表情をして下唇を軽く噛んだ。
 綺麗な色素の薄い髪がハラッと額を横切って、長い睫毛が縁取る同じように色素の薄い瞳が微かに伏せられた。いつの間にかそんな大人びた表情を覚えてしまった僕の弟は、いったい今、何を考えてるんだろう?

「…どうしたの?匡太郎」

 僕が顔を覗き込むと、匡太郎は色素の薄い、綺麗な透明感のある目で僕を見つめ返して小さく、本当によく見ていないと見落としてしまうほど小さな笑みを浮かべたんだ。

「何でもないよ」

 と呟いて国安を見ると、彼はなんだかバツの悪そうな顔をして視線を外してしまった。そんな態度を見ても、僕にはまだ2人が醸し出しているこの奇妙な雰囲気の意味が判らなかった。
 不思議そうに首を傾げると、国安は舌打ちして匡太郎の脇腹を刺した。
 そう、手刀でサクッと。
 あう…と痛そうに眉を寄せた弟に、国安は首を左右に振ってやれやれと呟いた。

「匡ちゃんは鋭いなぁ。兄ちゃんも少しは見習わないと悪い奴に騙されちゃうぞ」

 溜め息をついて子供扱いする国安にムカッとする僕に、弟は刺された脇腹を擦りながら子供らしい顔でニコッと笑うと、僕の肩をギュッと抱きかかえて親指を立てるんだ。

「大丈夫。俺がちゃんとアニキを守るから!」

 弟に守られる兄…冗談じゃないぞ!

「弟に守られる兄なんかいるもんか!僕が匡太郎を守るんだッ」

 怒鳴り散らすと、弟と国安は目を丸くして顔を見合わせたが、どちらからともなく噴き出しちゃって匡太郎はギュッと僕に抱きついてきた。

「守って!お兄ちゃんvどこまでもついていくから!!」

 頬擦りしてくる匡太郎にギョッとしながらも、目の前で腹を抱えて笑う国安を睨みつける僕は、それでもなんだか嬉しくて思わず笑ってしまった。
 いつの間に、最初はあんなに犬猿の仲だった国安と仲良くなっちゃったんだろう、匡太郎は。でも、もともと人懐こい性格だったから、ここの家族に打ち解けちゃったんだろうなぁ…
でも、それもいいか。
 僕は幸せな気分で…あれ?何か忘れてるような…
 なんだっただろう?
 …んーと、ま、いっか。
 僕は弟を首に齧り付けたまま、炭酸の弾けるコーラを咽喉に流し込みながら、本当は単純な僕はよく考えもせずにそのことを忘れた。
 僕が冷たいって言う本当の理由は…この忘れっぽさにあるのかもしれない。

死人返り 3  -死人遊戯-

 僕たちは電車と連絡船を乗り継いで神寄憑島に辿り着いた。車中ではまるで子供のように騒いでいた匡太郎と国安は、今は黙り込んで驚くほど静かだ。
 閉鎖的な村は国安の帰りは歓迎したものの、僕たちの存在は軽く無視されてしまった。それどころか、まるで嫌なものでも見るような目付きをしてコソコソと隠れてしまうんだ。
 だから匡太郎が怒って無言なのかと言うと、どうもそうではないみたいで。
 たぶん匡太郎も、僕がさっき感じたあの奇妙な違和感が原因で無口になってしまったんだと思う。

「壱太さま、よくぞお戻り下さいました」

「壱太さま」

 口々にそう言っては恭しく頭を下げる村民に、僕と匡太郎は面食らってしまったが、国安は苦虫を噛み潰したような表情をして適当に言葉を返していた。
 渡し守の役目…と言うことからでもなさそうなその村民の態度は、まるで昔からそうだったようにやけに自然な口調だったんだ。

「昔からなんだよな…別に村長の息子とかでもないのに」

 ポツリと国安が口を開いたんだけど、まるで僕の心中を透かし見たようなその台詞にドキッとしながらも、石造りのデコボコした緩やかな坂道を登りながら、僕は匡太郎と顔を見合わせた。

「どう言うことだ?」

 匡太郎が遠慮も臆面もなく口を開くと、肩越しにチラッと振り返って、国安は肩を竦めながら苦笑するんだ。

「言葉のまんまだよ。昔からこの村の住人は俺を『さま』付けで呼んで恭しく接するんだ。なんでかって親に聞いてみたけど、神妙な顔をして時が来れば判る…としか言わないんだよ。息苦しくってさ、それで村を出たってワケだ」

「ふーん。それも何かの言い伝えが原因とか?」

「さあな?俺も気になってそれを調べてるんだが、肝心なところが燃えちまっててワケが判らんのよ」

 わざとらしく溜め息を吐く国安に、匡太郎は視線を伏せて何かを考えているようだった。暫く会わないうちに、匡太郎は酷く大人びたと思う。
 以前のような無邪気さはときおり陰を潜め、思慮深く、ハッとするほど大人びた表情をするようになった。この1年、いったい匡太郎はどうやって過ごしてきたんだろう?誰と知り合って、何に縋りながら日々を過ごしていたんだろう。
 弟を支えてくれた人はいたんだろうか…
 僕は怖くて、まだ弟に空白の1年間のことは聞いていない。

「火事があったのか?」

「ああ、俺がまだガキの頃にな。文献が収められている波埜神寄島のあの社が燃えたんだ。その時、俺の2番目の妹が焼け死んだ」

「そいつは…悪い事を聞いた。ごめん」

 素直に謝る匡太郎に、国安は肩を叩きながら朗らかに笑って首を左右に振る。

「気にするなって。お前今年で17だっけ?だったら沙夜と同い年だな」

 生きていたら…と言って、眩しそうに双眸を細める国安に、それで匡太郎のことを無条件で可愛がるのかと僕は思った。僕は本当に冷たいのかもしれない、国安のことさえもこんなに知らないなんて…

「ほ、ほら!あそこで手を振ってるのって国安のお母さんじゃないのかい?」

 緩やかな坂を登りきった、見晴らしの良い高台に国安の実家はあった。
 旧い旧家の家屋は潮風に晒されながらも年月を積み重ね、荘厳とした佇まいでひっそりとそこに存在している。

「ああ」

 漸く笑顔らしい笑顔を取り戻した国安が腕を振り返すのを見て、僕はホッとしていた。この心の冷たさを知られたくなくて…事勿れ主義、うんざりする。

「あらま、イッちゃんの友達は男前じゃぁねぇ」

 恰幅の良い肝っ玉母さんを地でいっているような国安のお袋さんは、匡太郎を見て感心したようにほっこり微笑んでそう言った。

「電話で話しただろ?光太郎の弟なんだ」

「よう越しなったなぁ。はよう、家に入らんかね」

 嫌がる国安から荷物を奪い取ったお袋さんは、ニコニコと人の好い笑みを浮かべてガラガラと横引きのドアを開いて少し暗い室内に促してくれる。
 夏のキツイ陽射しの下から家の中に入ると妙にシンとして、一瞬暗くなったような錯覚になる。家屋の中は、ほんの少し潮の匂いがした。

「兄ちゃーん!お帰りぃ」

 唐突にドタドタと広そうな家の中に怒涛のような足音が響き渡って、チビッ子集団が姿を現すと問答無用で国安に飛び付いた。

「うわぁッ!」

 1、2…4人に飛びつかれたら誰だってこけそうになるよ。しかし、国安はもう、本当は予め判っていたんだろうなぁ。その子たちを全員受け止めて、あーあ、思いきり眦を下げちゃってるよ。兄弟思いなんだから…
 そんな微笑ましい光景を見ていたら、ふと傍らに立つ匡太郎に気づいた。
 微笑ましい光景に頬が緩んでいる匡太郎を、僕はこんな風に可愛がってあげることはなかった。小さい頃から当たり前のように傍にいて、懐いてくるのが当然のことだと思っていたんだ。
 僕は1度も、匡太郎を可愛がってあげたことはない。
 唐突に気付いて、不意にドキッとしたんだ。
 僕は、なんて冷たかったんだろう。
 兄だと思って甘えていたのは、本当は僕だったのかもしれないね…
 その弟が死ぬなんて…でも、死んだはずなのに目の前にいる。現時点でも、本当は既に死んでいるのに…そんな風に穏やかに笑っていると、まるで嘘みたいだね。
 夢でも見ているような気がするよ。

「よ、兄貴が帰ってくるなんて珍しいな」

 物思いに耽っていた僕を現実に引き戻すような声は、短パンにTシャツ姿の中学生ぐらいの少年のものだった。彼は一番最後に奥から出てきてアイスをぱくつきながら壁に凭れかかると、つまらなさそうに呟いた。

「出たな、ガキ大将。コイツは弟の二郎だ。で、この二人は兄ちゃんの親友とその弟だ」

 安直な名前が嫌いなのか、二郎と紹介された少年は不貞腐れた様に唇を尖らせて、それでも母親がニコニコ笑って見守っているから軽く頭を下げて挨拶した。

「こんちは」

「こんにちは」

 僕は笑って挨拶を返したけど、二郎くんの興味はすぐに弟の匡太郎にいったみたいだ。年齢的にはこの中で一番近いから、話が合うといいけど。

「はいはい、兄ちゃんたちを休ませてあげなぁねぇ」

 独特の方言で兄弟たちを散らすお袋さんに促されて、僕たちは漸く居間に通された。
 この島の無愛想な島民に比べて、国安の家族は比較的取っ付き易い。この大家族の中で国安の性格は構成されて、今の彼が存在するのだろう。僕は何となく、この家族に感謝したかった。
 僕のこの暗い性格でも受け入れてくれる国安の、その性格を築き上げてくれてありがとう、と。
 僕たちは先に国安の部屋に行った。
 そこは男3人で寝てもまだ広くて、狭い安アパートで暮らしていた僕としては凄く驚いた。でも、国安は慣れた様子(当たり前だけど)で、お袋さんから受け取っていた荷物を置いて、僕たちにゆっくりしてろよと言い置いて部屋から出て行ってしまったんだ。

「いい家族だよな」

 不意にポツリと匡太郎が呟いた。
 ハッとして顔を上げると、彼は小さく微笑んでいた。
 僕はその表情を見て、何も言えなくなった。
 ただ、微笑んでいるだけなのに、どうしてだろう。
 僕たちはすることもなく、何となく会話を交わしながら国安が来るのを待っていた。
 でも、僕の心の中は穏やかじゃなかったんだ。
 僕は、きっと弟を助けよう。
 そして、今度こそ、可愛がってやるんだ…

死人返り 2  -死人遊戯-

「は?なんて言ったんだ、今」

「だから、その。弟が生きてたんだ」

 僕は昨夜、散々考えた結果、もう素直に言うしかないといった結論を弾き出した。
 突然ファミレスに呼び出され、唐突に打ち明けられた国安は目を白黒させたが「そりゃあ、良かったじゃないか」と半信半疑で喜んではくれた。

「でも、葬式とか出しちまったんだろ?死亡届は?」

 矢継ぎ早の質問に落ち着いてくれと両手を上げて、僕は困惑した表情のままで首を左右に振って見せた。

「ちょっと事情があって、親は知らないんだよ。なぁ、国安。悪いんだけど今度の旅行…」

「あ、ああ。行けなくなったんだろ?いいさ、いいさ。仕方ないもんな」

「違うよ!ゼヒ、行かせて欲しいんだ!その、弟も一緒に…ダメかな?」

 僕の申し出に驚いたように眉を上げた国安は、それでもすぐに快諾してくれた。

 彼は高校の時から一人暮しをしていたから、実家の人は匡太郎のことを知らないから別に連れていっても支障はないんだと言ってくれた。

「光太郎の弟と言うと…あのえらくハンサムなやんちゃ坊主だったよな?兄ちゃん命で、よく睨まれてたっけ」

 懐かしむように思い出す国安は、あれほど、僕のせいなんだけど、邪険にしていた弟をそれでも気に入っていたんだ。実家にいる5人の弟妹の長兄だから、弟と名の付くものは無条件で可愛いのかもしれない。

「あいつ、きっと兄ちゃん会いたさに生き返ったんだぜ。絶対そうだって…おい?どうしたんだよ」

 不覚にも僕は泣いていた。
 突然、涙が零れたんだ。
 止めようとしても、一度零れ出した涙はすぐには引っ込んでくれなかった。

「あ、あれ?変だな。どうしたんだろう」

 僕は慌てて腕で目を擦ったけど、そうすればそうするほど、涙は後から後から溢れ出して堰を切ったように流れ続けるんだ。

「…良かったな、光太郎。どんな理由であれ、もうお前が苦しむことは何もないんだよ」

 国安は駄々を捏ねる子供をあやすような優しさで、僕の肩を軽く叩いて労いの言葉を掛けてくれた。
 でも、違うんだ。
 弟はまだ死んだままなんだ。
 でも生きててくれたんだ。
 でも…何もかも全てが判ったとき、弟は本当に死んでしまうかもしれない。
 もう一度戻ってきてくれて嬉しい…でも、不安で、怖くて…
 この感情は言葉では言い表せないよ。どうしたらいいんだろう。
 僕は、心の底から泣きたかった。
 1年間、ずっと涙が出てこなかった。泣きたくても、まるで涙腺をどこかに置き忘れてきたみたいに、涙は一滴も零れなかった。両親はひっそりと僕を冷たい子供だと言っていたし、近所のおばさん連中も強い子だねぇと嫌味を言っていたけど、僕はそれでも泣けなかった。
 僕は、僕は…自分が本当に冷たいんだと思っていた。
 いや、冷たいのかもしれない…

◇ ◆ ◇

「おい!」

 唐突に、僕の背後で新聞を読んでいた男が立ちあがった。
 僕も国安も驚いて振り返ったが、そこに立っていたのは丸めた新聞を投げ捨てた匡太郎だったんだ。
 掛けていたサングラスを外すと、不機嫌そうに細められた色素の薄い双眸が国安を睨みつけている。

「なんでアニキを泣かせるんだよ!?」

「き、匡太郎!?どうしてここに…」

 思わず声を上げて、店内の視線を釘付けにしていることに気付いてハッとした。
 いくらここが実家から遠い場所にあるファミレスだからって、知り合いがいないとも限らないんだ。僕の知り合いじゃなくても、交際範囲の広かった匡太郎の知り合いがいたら一大事じゃないか。
 弟が生きてることを知ってる人は、そんなにたくさんいたら困る。何れ母さんたちの耳にも入ってしまうから。
 今はどうしたって穏便に行動しないと…

「こらこら、匡太郎くん。兄ちゃんが困ってるじゃないか。まあ、ちょうど良かった。今度の旅行の話をしよう。ほら、君も座って座って」

 国安の憎めない笑顔に気勢を殺がれた匡太郎は、チラッと僕を見下ろすと、不貞腐れたままで僕の隣りに腰を下ろした。
 凄い、さすが6人兄弟の長男!

「本当に生きてたんだな…あれ?でもちょっと感じが変わったかな?」

「そりゃあ、1年も経ってるからね。ところでさ、あんたの実家があるって言う神寄憑島の言い伝えってどんなものなんだ?アニキからそれとなくは聞いてるけど…」

 ザッと観察して鋭く気付く国安に僕はハラハラしたけど、匡太郎はどこ吹く風と言った感じで肩を竦めるだけで、話題を違う方向に導いた。

「ああ、『死人返り伝説』のことだよ。まあ、過疎の進んだ小さな村だからね、奇妙な伝説はわんさとある。俺の故郷では土葬と風葬の習慣があるんだ。盂蘭盆会の時期にその年死んだ一番新しい死体を『御霊送り』するのさ」

「御霊送り?…って、F○10のあれ?」

 どこで知ったのか、匡太郎はテーブルに頬杖をついて人気のRPGの名前を口にした。国安はそれに苦笑で応えながら、首を左右に振ってアイスコーヒーを飲む。

「『御霊送り』って言うのは、俺たちの島から程近い場所にある無人島『波埜神寄島』に、その一番新しい死体を送ることをそう言うんだよ。そこには社があって、死体の入った桶をその社の中に置いておくと、次の年には桶ごとなくなっている。きっと生きかえったんだろう…って言う、まあ良くある話なんだけど」

「ないって」

 匡太郎は呆れたようにそう言ったが、興味があるのか、色素の薄い瞳が好奇心に煌いている。

「その島には『憑黄泉さま』がいらっしゃるんだそうだ」

「憑黄泉?」

 僕も初めて聞く名前に声を出すと、国安は小さく頷いて先を進める。

「遠い昔、神である憑黄泉さまが波埜神寄島に流れつき、神寄憑島の死体に悪さをしていた鬼を懲らしめてくれたんだそうだ。だが鬼は死ぬときに神寄憑島に呪いをかけた。盂蘭盆会までに一番最後に死んだヤツの肉体に乗り移って復活する、ってな」

「それで『御霊送り』なんだね」

「そう。憑黄泉さまに浄化して頂くんだとよ」

 自分の故郷の言い伝えだと言うのに、国安は丸っきり、頭から信じていないのか、苦笑しながら肩を竦めたけど、不意に難しい顔をして黙り込んだ匡太郎に気付いて首を傾げた。

「どうしたんだ?」

「え?ああ、いや別に。面白い話だな、と思って」

 声を掛けられた匡太郎は肩を竦めてそう言っただけで、後はやっぱり押し黙ったまま何も言わなかった。訝しげに眉を寄せながら首を傾げる国安に、僕は慌てて話し掛けた。

「それで、今年の渡し守の役目が国安なんだろ?」

「ああ。正直、気色のいい話じゃないけどな!」

 国安は明らかに嫌そうな表情をして頷いた。
 僕と一緒で、国安はオカルト物がまるで駄目なんだ。
 死体を波埜神寄島に連れて行く『渡し守』の役目は神聖で、たった一人で盂蘭盆会の真夜中の2時過ぎに漕ぎ出し、約1時間かけてゆっくりと連れて行くんだ。
 このたった一人で夜中の2時に死体と一緒、と言うのが気に入らないらしく、僕を誘ったと言うわけだ。つまり、こっそりと乗せてくれるんだ。

「人数は多ければ多いほうが良いからな。その時間、島の連中はありがたいことに全員寝てるから。知ってしまうと駄目だと言う言い伝えもあるんだよ。だからわざと寝るんだ」

 お陰でお前たちを同乗させることができるからいいんだけど、と言って国安は笑った。心底、本当はホッとしてるみたいだった。
 やっぱり僕じゃ頼りないんだろうなぁ、その点で言えば、匡太郎は心強いだろう。
 何事にも豪胆に行動するし、幽霊やその類を丸っきり信じていない、死体は抜け殻だから怖くない、本当に怖いのは人間だと言い切るような、あんまり可愛げのないヤツだから。

「いつ、行くんだ?」

 唐突に黙り込んでいた匡太郎が口を開いた。
 僕と国安は顔を見合わせて、同時に口を開いていた。

「今度の土曜」

死人返り 1  -死人遊戯-

 暑い夜だった。
 その年の異常気象を物語るような蒸し暑い夏の夜、僕の大切な弟は通り魔に殺された。
 死体は無残に切り裂かれ、犯人の異常性を物語るようなこの上ない惨い殺され方だったと、近所の口さがない非常識な大人たちが噂話で教えてくれた。
 判別もできないほどグチャグチャに引き裂かれた顔には何重にも包帯が巻かれていたらしいが、僕はどうしても大好きだった弟の最後の顔、包帯のぐるぐる巻かれたその顔を見てやることができなかった。
 それは辛くて悲しいばかりだけが原因じゃなかったんだ。
 半分以上、罪の意識だった。
 1ヶ月も前から一緒に映画を観に行こうと約束していた。
 高校のクラスでも人気者で、運動神経も抜群で頭も良くて、顔だって誰に似たんだと言いたくなるぐらいのハンサムな、誰からでも好かれる弟とは対照的にスポーツもできない、取り柄と言えば物覚えの良さぐらいの僕には勿体無い彼は、そんな僕を何かと気にかけてくれていた。
 心配だったのかもしれない。
 自分の兄が、いつも優柔不断でふらふらしていたから、きっとすごく心配していたんだと思う。
 あの日の朝も、僕に2枚のチケット見せながら何事もないような爽やかな笑顔をしていた。
 僕なんか誘わずに、気に入ってる女の子もいるんだから彼女を誘えばいいのにと言うと、拗ねたような不機嫌そうな表情をして怒ったっけ。
 その怒りに拍車をかけるように、あの日の朝、僕は弟にこう言ったんだ。

「友達と約束したんだ。だから今日は行けないよ」

 そのチケットの有効期限がその日までだと知っていたから、僕はわざと数少ない友人を誘って無理やり用事を作った。
 怒るだろうな、と思った。
 兄である僕は、いつだって弟の言う事を1番に優先していたから。
 兄弟でもこんなに違うんだと両親に言われ続け、可愛い弟は彼らの期待と愛情を一身に受けて、ある意味、我が侭に育っていた。
 だから僕のそんな行為にもすぐにキレて、チケットを破り捨てると家から出て行ってしまった。
 それでもすぐに携帯に電話がかかってきて、『ごめん』と謝るんだ。
 悪いのは僕なのに。

『高校生にもなって弟と一緒に映画を観てランチして、仲良くお買い物して帰るんだろ?まるでデートじゃねぇか、気持ち悪ッ』

 後で聞いて知ったんだけど、そう言ったクラスメートは、実は彼女を弟に取られて悔し紛れにそう言って僕をからかったんだそうだ。
 知っていたら後悔なんかしていなかったのに…たぶん、それでもやっぱり後悔するような事はしていただろうな。

「遊園地のナイトチケット持ってるんだ。友達と遊んだ後でもいいから、一緒に行こうよ。俺、いつもの噴水の前で待ってるから」

 どこで手に入れてくるのか、弟は魔法使いのように色々なものを持っていては、屈託なく僕を誘う。家に何度か連れてくる彼女や、小学校の時からの親友と行けばいいのに、どうして僕を誘ってくれるんだろう、とそんな風に思い出したのは中学の後期からだった。
 ヘンだと指摘され出したのもちょうどその頃からだったと思う。
 クラスメイトの女の子たちのやっかみ半分の中傷や、彼女を取られて苛々している男子の揶揄も本当は羨ましいだけだって知っていたけど、高校受験で気分のすぐれなかった僕にとっては煩わしいばかりだった。だから、弟離れをしようと思ったんだ。
 でも、弟は離れなかった。
 もう1ランク上の高校だって望めば合格できたのに、わざわざ僕と同じ高校に来て、わざと避けている僕に何かと懐いてきた。いつも通りに。
 あの日も、そうだった。
 いつも通りに懐いてきただけだったんだ。
 そして僕は、いつも通りに彼を邪険にした。
 約束の7時を過ぎても公園の噴水の前には行かなかった。彼は10時過ぎまで待っていたらしくて、諦めたように帰途に着いたのは10時半過ぎだったらしい。
 僕は、何も考えずにいつも通りに突き放した。
 そして、弟は死んだ───…

◇ ◆ ◇

 あれから1年以上が過ぎて、僕は大学生になっていた。
 今は一人暮しをしている。
 弟が死んだあの日から、まるで火が消えたような我が家にいることがとても苦痛だったから、大学から程近い安アパートに転がり込んだ。荷物なんて何もない、殺風景な室内が不思議なほど落ち着く。僕の聖域だ。
 僕は両親たちの反対を押し切って、三流大学の民俗学部に入学した。
 数少ない友人の国安壱太と一緒の大学は、別に示し合わせて受験したわけじゃない。たまたまお互いの希望学部が同じだっただけってことで、まあ、だからこんな性格の僕とでも長く友人を続けてくれているんだろうけど。

「佐伯!おい、佐伯光太郎ってばよ」

 不意に声を掛けられて、僕はハッとしたように傍らで不機嫌そうに眉を寄せて立っている国安を見上げた。

「え?ご、ごめん。どうかした?」

「どうかした?…じゃないって!だから、今度の夏の休みにさ、俺の田舎に行くんだろ?」

「あ、うん。悪いんだけど、お邪魔させてもらおうって思ってる」

「ウチは全然、悪くなんか思ってないって。その代わり、弟妹たちのお守は必須だぜ?」

 国安は腕を組んでニヤニヤと笑ったけど、不意にハッとしたように口を噤んで、バツが悪そうに顔を顰めた。小さな声で「ごめん」と言う。

「気にしないでよ、国安。もう、1年以上も前のことだよ…」

 忘れるには、まだ日も浅い月日だ。だからと言って、国安に失言だと言って腹を立てる気にはなれない。いや、些細なことにも気を遣ってくれるこの友人が、誰よりもありがたいと思った。

「ありがとう、国安」

「何がだよ」

 訝しそうに唇を子供のように突き出す、弟が良くしていた子供染みた仕草に苦笑しながら、不思議と憎めない友人を見上げて僕は笑った。

「国安の実家に泊めてもらうこと。神寄憑島の民俗的な言い伝えにはずっと興味があったんだ。弟さんたちの面倒はもちろん見るよ!」

 僕がニコッと笑うと、国安は幾分かホッとしたように表情を緩め、偉そうに胸を張りながらよしよしと僕の頭を撫でた。

「聞き分けが大変宜しい。そうでなくっちゃね」

「何を言ってるんだか」

 僕が笑うと、国安は人の悪そうな笑みを浮かべて行ってしまった。

 この友人と話をしていると、僕は良く笑う。
 弟と一緒にいるときは、いつも俯いてばかりいるのに…
 でも、僕は良く考えてもいなかった。そんな風に、俯いてばかりいた僕のことを、弟はその時、いったいどんな表情をして見つめていたんだろう。
 彼のことを省みることもせずに俯いてばかりいた僕、それはきっと、この罪を背負うには充分な理由だったのかもしれない。
 殺風景な部屋に戻った僕は電灯を点けると、コンビニの袋を小さなコタツ兼用のテーブルに投げ出して、センベイ座布団の上に胡座をかいて座った。
 午前1時過ぎだといいテレビもしていないけど、適当なチャンネルに合わせて旧式の冷房のスイッチを入れた。ガタガタと音を立てて動き出す冷房の風も、あんまり役に立ちそうもない蒸し暑い夜だった。
 この安アパートは、安いくせに風呂とトイレだけはちゃんと常備されているんだ。そういった物件を探した賜物かな。
 その代わり、築年数はかなりいってたりする。
 いいんだ、住めればそれで。
 バイトはハードでキツいけど、それでも何もせずにジッとしているよりも時間が有効に過ごせる。親に頼り切ることもできたけど、条件として実家から通うのだけは勘弁して欲しかったから、2・3件のバイトぐらいなんてことはなかった。
 風呂に入ろうか、それとも先にコンビニの弁当にしようか…僕がそんなことを考えていたちょうどその時、突然、ドアがノックされた。
 ドキッとする。
 こんな真夜中にいったい誰が来るんだろう?
 薄いアパートの木のドアにはスリ硝子が嵌め込まれていて、切れかけた電灯にチラチラと人影が浮かび上がっては消える。

(人…?)

 どうやらちゃんとした人間のようで、僕は幾分かホッとして立ちあがった。
 そうこうしてる間でも、ノックは続く。
 気短い人なのか、だんだんと大きくなっているような気がする。
 こんな安アパートだと音が響くし、追い出され兼ねないから僕は慌ててドアを開けた。開けて…固まってしまった。

「よ。元気してたかい?光太郎」

 弟は、あの頃と少しも変わらない屈託のない表情をして笑っていた。

「わっ!?光太郎!?」

 これは酷い悪夢なんだと、僕は後ろに倒れながらぼんやりと考えていた。

◇ ◆ ◇

 それでもすぐに意識を取り戻した僕は、弟の腕に抱き上げられていることに気付いてギョッとした。これは誰かの悪い冗談じゃないのかと叫びたかったけど、彼のやわらかな特徴のある猫っ毛や、色素の薄い瞳の色は、確かに懐かしい弟だった。
 死んだはずなのに…でも僕は死体を直接見ていない。
 母さんたちは見たけれど…あれは人違いだったのか?
 そんな、まさか…

「お、目が醒めたか?突然だったからさ、驚いたんだろ」

「き、匡太郎?」

「うん、そうだよ。どうしたんだよ?弟の顔を見忘れちゃったのかい?薄情だなぁ」

 愉快そうにクスクスと笑って鼻先を僕の頬に擦りつけてくる。弟のこの癖は、あの頃からちっとも変わっていない。

「ひ、一先ず降ろしてくれないか…?」

 部屋の中央まで来たのに降ろしてくれようとしない弟に、僕は慌てたようにそう言って降りようとした。

「やだよ。せっかく光太郎を久し振りに抱き締めてるのに…もう少しこのままでもいいだろ?」

 お姫さまのように横抱きにした僕の身体を抱き締めるようにして頬を摺り寄せてくる弟に、不思議と気持ち悪いとか、怖いと言った感情は湧いてこなかった。幽霊や、超常現象にめっぽう弱い僕だというのに。

「…生きていたのか?」

 恐る恐る訊ねると、弟の茶色い瞳が一瞬だけ影を落とした。

「判らないんだ。気付いたら包帯が顔中に巻かれていて、ドライアイスとか入った棺桶の中だった」

「あの日。生きかえっていたのか!?じゃあ、どうして黙って出て行ったりしたんだ!」

 思わず大きな声で怒鳴って、僕は慌てて口を噤んだ。真夜中の1時を過ぎているのに、大声なんか出していたら隣りの住人から怒鳴り込んで来られる。ここが壁の薄い安アパートってことを忘れないようにしないと…

「普通なら棺桶の周りに人がいるもんだけど、あの日はちょうど皆いなくてさ。こっそり出ていったんだ。サンドバックを身代わりにして」

 淡々と語る弟に、僕は開いた口が閉まらないほど唖然とした顔で覗き込んだ。
 逃げるように家を出て行ったのか?なんで、そんな必要があったんだ!?
 いや、ちょっと待てよ。
 確かにあの日、僕は家族で弟の骨を拾ったんだ。アレは夢でも幻でもない…サンドバックが身代わりなんかになるわけがない!

「嘘だ!僕はお前の骨を拾ったんだよ!?白木の箱に収まった骨壷はあたたかくて、まるでお前のぬくもりが腕の中に帰ってきたみたいで凄く不思議だった。あんな思い、もう二度としたくないって思ったんだ。だから、僕の記憶違いであるはずがないよッ」

 僕が必死で見上げると、弟は少しだけ驚いたような、切ないような…とでも複雑な表情をしながらも、嬉しそうにはにかんだんだ。

「スゲーな。光太郎がちゃんと俺の顔を見て話してるなんて、どんな奇跡より嬉しいよ」

 そんな、ささやかなことぐらいで嬉しそうな顔をして、はぐらかそうとしたってダメなんだからな!僕は、いったい誰の骨を拾ったんだ!?

「えーっと…まぁ、本当は病院の霊安室で目が覚めたんだよね。ちょうどその時、院内を徘徊していたら解剖用に身元不明の死体があってね。その、拝借したと言うかなんと言うか…」

 歯切れの悪い弟なんか初めて見るけど、僕はポカンッとしてあんぐり口を開いてしまった。

「じ、じゃあ、あの日病院が騒いでいて…暫くニュースになったあの事件の犯人って…」

「そ、俺」

 匡太郎はバツが悪そうに肩を竦めて溜め息を吐くと、観念したように頷いたんだ。
 え…でも、生きてた??
 生きていたんだったら…

「どうして、素直に生き返ったって言わなかったんだ!?」

「…ねえ、アニキ。俺の心臓の音を聞いてごらんよ」

 僕の凄い剣幕に少し圧倒されたような弟は、それでも酷くゆっくりとした口調で、僕の嫌になるぐらい重いイメージしかない黒髪に口付けてそう言った。
 心臓?
 僕は慌てたように抱き上げられたままで弟の心臓のある部分に耳を当てた。
 心音が───…しない。
 どう言うことだ?

「ね?これじゃ、嫌でも出て行かざるを得ないだろ?心音がしないなんて、よくて何かのモルモットにされちゃうよ」

「一理あるかも…でも、どうして…?」

 それ以上言葉の続かない僕に、匡太郎は苦笑を洩らして首を左右に振った。

「俺にもよく判らないんだ。この1年、色んな事をしながら、たぶん、生きてきたんだけど…なんの情報も得られなかった。風の噂で光太郎が一人暮しを始めたって聞いて、逢いたくてさ…いや、正直アニキを頼ろうって思ったんだ」

「僕を?」

 一瞬だけ思い詰めたように視線を伏せた匡太郎は、それでもすぐにいつものお調子者のような陽気な笑顔で頷いて見せたんだ。

「うん。ほら、光太郎って大学で民俗学を研究してるんだろ?死人返りとか、そんな話が言い伝えでないかと思ってさ。四国辺りとか…」

「僕の大学なんて高々知れた三流大学だよ…って、そう言うことも調べたんだね」

 まあ、当然と言えば当然だけど…誰かを頼る時、その人の身辺調査を欠かさないのが匡太郎の癖だった。
 滅多に誰も頼らない匡太郎だから、変なところで慎重になってしまうんだろう。

「…別に、だからって調べたわけじゃないよ。この1年、アニキのことはずっと見てたんだ」

「え…?」

 ドキッとした。
 僕が落ち込んで、自暴自棄になりながらあの大学に入ったことも、逃げるようにして実家を飛び出したことも、全部見ていたのか?

「光太郎…俺が死んだのは自分のせいだって自分を責めてただろ?違うよって言ってやりたかったけど…こんな身体だし、光太郎はオカルトに弱いしで、ずっと出てくるのを躊躇っていたんだ」

 匡太郎は俺の髪を懐かしむように頬摺りをしながら、抱き上げている腕に力を入れた。そう言えば、そろそろ疲れないんだろうか?
 いくら僕が匡太郎よりも身長が幾分か低いと言っても、体重自体は平均的な重さを持ってるんだ。普通の男だってそろそろ疲れてくるだろうに、匡太郎は極めて平然とした表情をして、この狭い部屋の中央で僕を抱え上げている。

「でもさ、アニキ。今度、あの国安とか言うヤツと旅行に行くんだろ?いても立ってもいられなくてさ、出てきちゃったんだ」

 不貞腐れたように唇を尖らせる、いつもの拗ねた表情を見上げながら僕は困惑した表情をした。
 国安は、あの日、匡太郎との約束をすっぽかして遊んでいた友人だ。
 匡太郎にとって、もしかしたら天敵みたいに思ってるんじゃないだろうか。

「最初の方は倒れたけど、もう大丈夫だろ?心臓さえ気にしなかったら俺は佐伯匡太郎だし。ゾンビみたいに腐ってるわけでもない」

「あ、ああ。でも、国安にはなんて言おう?今度行くアイツの実家のある神寄憑島には興味深い言い伝えがあるんだよ。だから、絶対に行かないと…」

 お前を見れば、なおさらだ。

「言い伝え?どんな?」

 匡太郎が不満そうに眉を寄せたが、声音の裏には好奇心がちらついている。

「死人返り」

「ビンゴ?」

 僕の言葉にニヤッと笑った匡太郎は、躊躇わずに頬に唇を押し付けてきた。

僕の大事な弟が地獄から蘇ったのは。
あの日の夜のように、やけに蒸し暑い熱帯夜だった。

11  -ヴァンパイアと真夜中に踊れ-

 デュークと言う、ディープブルーの仄かに煌く不思議な髪を持つ妖魔は、色んなヤツの感情を真っ向から受け止めては、自分の身内に抱えてひっそりと傷を増やしていくような馬鹿なヤツだと思う。
 人間よりも人間らしい感情の持ち主で、長い睫毛を伏せて、頬に草臥れたような影を作りながら、いったいどれだけの長い時間を過ごし、幾つの傷を心に刻み付けて生きてきたんだろう。
 はかり知ることなんかできない遥かな時間の中で、きっと、デュークは傷付き過ぎて、もう自分が傷付いているのかいないのかも判らなくなっちまったんじゃないかな。
 だから、口先ではシークを罵りながら、その剥き出しの悪意の全てを自分のせいにして、真っ向から受け止めようとか…考えてるんだろうな、コイツのことだから。
 あれから、すぐにデュークは俺を連れてマンションに戻ってきたんだけど、《今日は疲れたね》と呟くように言ってから、まるで死んだように俺を抱き締めたままで眠ってしまった。
 血液の媒介でシークを倒そうとしたんだけど、今一歩のところでアークが取り逃がしちまって、それでも、俺の血液で体力は戻ったんだとばかり思っていたんだけど…大丈夫なのか?
 ぎゅうっと抱き締められているから起き上がることもできないんだけど、それでも、この豪胆なほど強い妖魔にしては珍しく、まるで縋り付くようにして俺の色気もない胸元に顔を埋めるようにして眠っているデュークを見下ろしながら、俺は一抹の不安を感じていた。
 表情こそ、いつも通りの飄々とした感じなんだけど、どこか必死な感じがして、心配で仕方ないんだよ。
 額に浮かんだ汗が、この眠りがけして穏やかなものではない…と言うことを、静かに物語っている。
 心にまたひとつ、傷を隠して、お前ってヤツは何事もなかったような面をして眠るんだな。

「デューク…俺、うまく言えないんだけどさ。それでも、沙弥音は幸せだったんじゃないかと思うよ。僅かな時間だったし、最後はその、悲惨な状況だったのかもしれないけど。それでも、いつもは知らん顔のお前が、必死な顔で助け出してくれたんだ。だからこそ、沙弥音は最後の一瞬に正気を取り戻して、お前に聞いたんだよ。それは、純粋な妖魔であり、この世で最も優しい人生の教師だったお前にしか聞けない最後の質問だったんだ。どんな意味があるにしろ、沙弥音にとってお前は、世界中で一番優しい家族だったんだぞ」

 だからもう、傷付くなよ。
 眠っているデュークの耳に届いてるかどうかまでは判らないけど、いや、判ろうとは思わないんだけど、俺はたとえデュークが聞いていなかったとしても、それでもたどたどしく言ったんだ。
 想いがちゃんと伝わればいいんだけど、考えていることは、言葉にすると誤った表現になったりするから、気持ちを伝えるのは難しいと思う。
 まるで子供みたいにギュッと抱き付いたままで眠っているデュークの頭を抱え込むようにして、俺はその不思議な色合いで仄かに光を放つ髪に頬を寄せていた。
 世界中で一番、優しくて信頼できる家族のような存在だったからこそ、沙弥音はシークでも、ましてやアークでもなく、唯一お前一人に、最後の言葉を遺したんじゃないのか?

【私はシーク様を覚えているでしょうか?】

 きっと、もう虫の息だった沙弥音には時間がなかったに違いない。
 だから、そんな彼女が言いたかったのは、シークへの想い、デュークへの感謝…いろんな思いをちゃんと覚えていることができるのか…何度もデュークを煩わせた同じ質問を、最後に投げかけることで、きっと全てを失ってしまうだろう自分のことを、せめてデュークには覚えていて欲しかったんじゃないのかな。
 俺だったら、そう思って行動しただろう。

《…ボクはそんなに優しい妖魔ではないよ》

「ぐは!お前、起きてたのか?!」

《ちょっと前にね。光太郎の声が聞こえたから》

 物思いに思い切り耽っていたから、俺はあわあわと泡食ったようにしどろもどろで真っ赤になるんだけど、俺を抱き締めて離そうとしない、ディープブルーの仄かに煌く不思議な髪を持った、綺麗な顔立ちの妖魔は人の悪い笑みを浮かべて俺を見詰めてくる。
 そんな風に妖魔らしい笑い方をしながら、そのくせ金色の双眸が、どこか嬉しそうに見えるのが俺の見間違いじゃないとすれば…くそぅ、怒る気も失せちまう。

《…沙弥音の想いは遥か彼方、もうボクでは判らないところに逝ってしまったよ》

 それは、そうなのかもしれないけど…そうしてお前、ほら見ろ、やっぱりそんな風に、平気そうな面して普通に笑うんだろ。そんな風に、悲しい顔ばっかりして、何が楽しいんだ。

「お前はバカだ。大馬鹿な妖魔だ」

 俺は下唇を突き出すようにして悪態を吐いたけど、ふと、嬉しそうに金の双眸を細めて笑ったデュークが力強い腕で俺を抱き締めるもんだから、逃げ出すこともできやしない。

《そうだね、気付きもしなかったよ。ボクは馬鹿なんだ》

 ポツリと呟いた声音の頼りなさに、俺はハッとして綺麗な妖魔の顔を見た。
 まるで今にも消えてしまいそうな覚束無い表情をしているくせに、デュークは俺を抱き締めたままで淡々と笑っているんだ。真っ赤な唇と金の双眸が、俺を不安にさせる。
 何でそんなに不安になるのかは判らないんだけど、それでも、俺は食い入るように、必死に絡み付いているデュークの腕をギュッと掴んでいた。

《光太郎?どうかした??》

 ふと、不思議そうな顔をして見下ろしてきたデュークに、へそ曲がりな俺はムッとしたままで、なんでもねーよと目線を逸らすことぐらいしかできない。
 そんな俺の態度が理解できなかったのか、綺麗な妖魔は《おかしな光太郎だね》とクスクス笑って抱きついてきやがるんだ。
 お前の方が、よほどおかしい妖魔だよ、コンチクショウ。

《…ボクは本当にバカだな》

 クスクス笑っていたデュークは、ふと、小さくポツリと呟いた。

《大切なものばかり見失って、それなのに、ボクはそれに気付きもしなかった》

「…」

《光太郎に言われてハッとしたよ。随分と長いこと、沙弥音はボクに難題を遺していたんだけど。今日ね、なんとなくその答えが判ったような気がするよ。光太郎が気付かせてくれたね》

 男二人で寝てても余裕のあるベッドで、薄暗い室内でも仄かに煌くディープブルーの不思議な髪を持つ、闇夜でも確り見えるんだろう金色の瞳を細めて、デュークはなんとも言えない表情をして俺を見詰めてきたんだ。

「お前はさ、お前が思っている以上に優しい妖魔なんだよ。そんなの、もういい加減気付くに決まってるじゃねーか」

 やれやれと目線を逸らしながら悪態を吐いたら、俺に抱き付いていたデュークは、絡めていた腕を離すと不貞腐れている俺の頬を両手で包み込んできたんだ。思わずギョッとしてデュークを見返したら、頓珍漢な妖魔野郎は不思議そうな顔をして俺をマジマジと見やがるんだ。

《だから、ボクはそんなに優しい妖魔じゃないよ?》

「そう思ってんのはだなぁ、お前だけだっての!」

 思わず鼻筋の通っているその鼻先をグニッと突っついてやったら、デュークのヤツは思わず…と言った感じで寄り目なんかしやがるから、このバカヤローさまは憎めないんだよな。
 …って、何を言ってるんだ?!くぅ…俺様としたことがッ。

《…もう、随分と長いこと生きてしまったからね。ボクには感情らしいものなんてないんだよ。だから、どんなに光太郎がボクを擁護してくれても、ボクの中に僅かに残っているのかもしれないその優しい感情すら、希薄で、指の隙間から擦り抜けてしまうほど心許無いんだ》

 デュークは金色の双眸で俺を見詰めながら、そんな風に、胸がズキリと痛むことを言いやがった。
 何なんだよ、お前は。
 妖魔のくせに、いつもは人間を襲って、その血肉を喰らって生きているくせに、どうしてそんな風に何もかも全てを悟っちまったような顔をしやがるんだ!
 なんか、ムカムカするな。

「あのなぁ、この俺様がお前は優しい妖魔だって言ってんだ。だったらお前は、優しい妖魔なんだよッ」

 渾身の力でデュークの腕をもぎ離した俺は、それから反対にヤツの腕を掴むと、ベッドに懐いている中途半端な妖魔の身体を引き起こしたんだ。
 いや、実際は正真正銘の妖魔なんだろうが、んなもんはこの際無視に決まってら!

《??》

 目を白黒させているデュークを無視して、俺は呆気に取られているふざけた妖魔の顔を見下ろして眉尻を跳ね上げたんだ。

「だいたい、そもそもどーしてテメーが中途半端な妖魔たちの色恋沙汰に振り回されてんだよ?!その段階で、優しいとかんな問題じゃねぇ。とんだ大間抜けじゃねーかッッ!」

 俺が何を怒っているのか、たぶん、このちゃらんぽらんそうな妖魔には判らないと思う。
 それでも俺は、自らが生み出したとは言え、自分勝手な半人前の妖魔たちに、本気で振り回されている正真正銘の妖魔であるはずのデュークの、その献身ぶりが腹立たしくて仕方なかったんだ。
 きっと、デュークは沙弥音も、そしてあの遠い異国の旅人に成り果ててしまったシークすら、心の底でひっそりと愛していたんだろう。愛し過ぎて、二人の空回りする運命の歯車をなんとかしてやりたくて、でもどうすることもできない事実に傷付いて、泣くこともできないから、シークが自分を恨むことを止めることもせずに、一心にその憎しみを受け止めようとしているんだろう。そんな風に考えたら、尚いっそう、俺はムシャクシャして歯軋りだってしたくなっちまうよ。

《だって…光太郎。それはね、全ての原因がボクにあるからだよ》

「お前ってヤツは…またそんなことを抜かしやがってッ」

《違うんだよ》

 そう言って、誰もが恐れる妖魔のくせに、まるで無害な生き物のような双眸で俺を見詰めながら、デュークのヤツはクスッと自嘲するように笑った。

《ボクが、シークを殺してあげてれば良かったんだ》

「…え?」

 ポツリと呟いた台詞に、怒りの冷めやらぬ俺は眉を寄せたままで、デュークの真意を探ろうとしたんだけど…さすが、何百年も生きている妖魔だけあって、その思惑は判らなかった。
 いや、20年かそこらしか生きていない俺が、何百年も、それこそこの世に存在していることが不思議な、人智を超えた超自然の生き物の考えていることが判るとしたら、たぶん、こんな貧乏探偵なんて職業を生業にはしていないと思うぞ。
 デュークは眉間に皺を寄せて胡乱げに見下ろす俺の双眸を、何を考えているのかいまいち掴みどころのない無頓着な金色の双眸で見詰めてくる。

《でもできなかった…ボクは、シークを殺してあげることができなかったんだよ。アークからは散々嗤われてしまったけれど、それでもボクは、シークを殺せなかった》

 どんなに面倒臭くてもアークを消せなかった、と言って寂しそうに笑っていたコイツのことだ、どーせまた奇妙な仏心でも出てるんだろうと、俺は苛々しながらデュークの話を聞いていた。

《だって、シークを殺してしまったら…ボクはまた独りぼっちになってしまうんだ。沙弥音やシークの想いを慮るのなら、ボクのこの行為はとても罪深い。シークの怒りはボクへの罰なんだよ》

「だから、お前はシークに狙われて、その命すら危険に晒しても、アイツを殺さなかったんだな」

《…》

 俺が気付いていないと思っていたのか?
 あの時、アークが取り逃がしたのはわざとだ。それも、デュークの思念を敏感に感じ取る双子のようなアークは、一瞬、怯んだようにデュークを見て、それから慌てたようにペラペラ喋って消えてしまった。
 物言わぬ影のようにひっそりとした双眸で俺を見詰めてくる妖魔に、俺は腹立たしげに鼻に皺を寄せてフンッと鼻で息を吐き出した。

「違うね。お前は独りぼっちになるのが怖いんじゃない。お前は…」

 俺は呟いて、それから見下ろしている綺麗な妖魔の酷薄そうな薄い唇に口付けた。
 デュークは驚いたように目を瞠ったようだったけど、気付いたらキスをしてた俺の方がビビッてんじゃ意味がないんだけどよ。それはもう、ご愛嬌ってモンだ。

「沙弥音を想うシークと、シークを想う沙弥音の感情を失いたくなかったんだよ」

《…え?》

 どれだけ驚いているのかは、キスされたことだとか、俺の台詞とかに思い切り動揺している…って、あの飄々として掴みどころがない、ふざけたピエロの妖魔が動揺なんかしやがるんだ。でも、自分が言ってることが、本当はまるで見当違いな頓珍漢なことを抜かしてるんじゃねぇかって、心配している俺の方がもっと動揺してるんだから、そんなの気になんかしてやれるかよ。

「だから、殺せなかった…んじゃなくて、お前は殺さなかったんだ。敢えて、わざとシークを生かし続けていたんだ。お前がさっき言ったように、長い年月を生きたせいで感情を亡くしてしまったんだろ?だから、シークまで失ってしまったら、お前は愛することも誰かを気遣う心も、何もかも全て失ってしまうんじゃないかって、デューク、お前はそう考えてしまったんじゃねーのか?」

《……ッ》

 デュークは、何故か泣きだしそうに顔を歪めた。
 そんな風に顔を歪めているくせに、デュークは自嘲的な笑みを口許に浮かべやがるんだ。
 その顔は、あまりに辛そうで、そして悲しげだった。

《…恐るべし、探偵さんだね。まるで何もかもお見通し。だからボクは、もうシークを殺すことができるんだろう》

 泣くことができないと言っていたデュークは、心から悲しそうに眉を顰めて、虚ろな笑みを口許に刻んでいた。
 だから、俺は自分の考えが間違っていないと確信することができた。

「でも、そうじゃねーんだよな?」

 苦笑を浮かべた俺が見下ろすと、悲しそうに眉を顰めている妖魔の、金色の双眸が訝しそうに細められたんだ。

《光太郎?》

「そんな顔してもダメだぜ。だから、気付いてるって言ってんだろ?最初は俺もそう思ったんだ。お前は馬鹿なほど優しい妖魔だからな。でも、違うんだよ。根本がまるで違う。お前は、自分の感情の希薄さに気付いていた。だからこそ、シークを生かし続けることで、シークと沙弥音が大切に育んでいた【愛情】と言う感情を残そうとしたんだろ?自分が忘れてしまったら、それこそ、自分が戯れで命を与えてしまったこの哀れで愚かな、悲しい生き物たちの記憶はどうなってしまうんだって…考えちまったんだよな、デューク」

 お前は、気が遠くなるほど長い年月を生き続けてしまったせいで、その行為が本当はどれほど【優しい】のかを忘れてしまったんだよ。その優しさがたくさんの犠牲を生んでしまったのは、恐らく、事実ではあるんだろうけど…それでも俺は、この無垢な妖魔を恨んで見捨てるなんてことはできなかった。
 俺の依頼人、娘を亡くしてしまったお袋さんには申し訳ないんだけど…

「そんなくだらねーこと、何百年も心に抱え続けやがって!…俺は呆気なく死んじまう人間でしかねーけどさ、俺を想ってくれる気持ちがあるんなら、大丈夫だ。デュークの中でちゃんと、沙弥音とシークの想いは生き続けるさ」

 照れ臭くて、気付けば仏頂面でぶっきらぼうに言ってしまっていたんだけど、俺は、そんな風に全身で物悲しさを訴える身体を抱き締めながら、デュークの震える唇に口付けていた。
 優しすぎる妖魔の無垢な想いが沙弥音の許にシークを逝かせてやることもできなかったデュークだけど、その優しさを誰よりもよく知っていたから、沙弥音はデュークにあの言葉を遺したんだろう。

【私はシーク様を忘れないでしょうか?】

 この想いを忘れずにいられるか…愛を知ることのないデュークに、どうか、誰かを愛して欲しいと。
 自分の代わりに、この想いを忘れないで欲しい…私にそれができるのなら、きっとあなたにもできると、これは俺の勝手な解釈なんだけど、短い時間の中で死に逝く沙弥音が必死に考えた、優しい妖魔への別れの言葉だったんだろう。
 その言葉をずっとデュークに、デュークだけに投げ掛けていたのは、その答えを知りたいとか、そんな単純なことじゃなくってさ、その答えをデュークに見つけて欲しかったんだよ。
 忘れるのだと言えば…いや、やるな沙弥音。
 彼女は、デュークがそうは言わないことをちゃんと判っていたんだと思うぜ。
 優しいデュークだから、きっと《忘れないよ》と答えを見つけると踏んでたんだな。中途半端な出来損ないの自分ですら忘れない感情なのだから、正当な妖魔であるデュークが、感情を亡くしてしまうはずがないと、沙弥音は言いたかったに違いない。
 でも、それにはあまりに時間がなさ過ぎた。
 まるでナゾナゾのような言葉を遺して逝った沙弥音の心残りは、きっとシークなんだろうけど、それ以上に、彼女はシークの戯れが生んだ自分を殺すこともなく傍に置いてくれたデュークを直向に信じて、そして遺して逝く悲しい妖魔が心配で仕方なかったんだろう。
 俺の心は必死にアシュリーを求めている…でも、認めたくはないんだが。
 俺は…俺の心は、切なくなるほど、デュークを愛しいとも思うんだ。
 気紛れで残忍で…遣る瀬無いほど優しすぎる腕の中にいるこの妖魔が、俺は愛しくて、長い睫毛に縁取られた目蓋で金色の双眸を隠してしまうデュークの腕に抱かれながら、手に余る感情を持て余したまま、自分がいったい何をしたいのか判らない、取りとめもない思考の中で、溺れるように抱き締めてくるこの腕が全てなんだと思い込もうとしていた。

10  -ヴァンパイアと真夜中に踊れ-

 立ち寄ったブティックは酷い有様だった。
 中立の立場にある『旅人』である妖魔がオーナーを勤めるブティックは、確かに何か、人間ならざるものに荒らされた気配が濃厚に漂っていた。
 警察が来るよりも先に、結界を張っている室内に立ち入ったアシュリーは、どうやら遠き異国の旅人の仕業に違いないとは思いながらも、何か鳩尾の辺りに引っ掛かるものを感じて垂れた双眸を細めながら周囲の気配を窺っている。

「おっどろいたわね!遠き異国の旅人の仕業にしては、規模が小さいと思わない?」

 オーナー室から出てきた、ホットパンツから素足を惜しげもなく晒す、強気なアーモンドアイがチャーミングな美しい娘が、肩口で綺麗に摘み揃えられた黒髪を優雅に揺らしながら肩を竦めて賛同を求めた。
 だが、声を掛けられたはずの金髪の大男は、微かに発光する非常灯の明かりでも充分認識できる室内を見渡しながら、訝しげに眉根を寄せている。

「…ふーん?あんたがそんな難しい顔をするなんて珍しいじゃない。何か気になった?」

「エレーネ…不思議だと思わない?」

 弾け飛んだ電球の残骸を晒す天井は打ちっぱなしのコンクリートが接げて無残なものだし、床に突き刺さった鉄製のドアは激しい力でもって投げ出されたことを雄弁に物語っている。
 …と言うことは、だ。

「この惨状、明らかに何かを狙っていたんだよ」

「あら、随分と進歩したようね。その辺に気付くなんて、昔のあんたからじゃ到底考えられないもの」

「ハイハイ、姐さんの嫌味なんてどーでもイイですよ。コイツは参ったね。どうやら、遠き異国の旅人に別の何かが絡んでる」

 両手を呆れたように上げて溜め息を吐いたアシュリーは、微かに残る、何者かの気配をその鋭敏な嗅覚で感じ取ろうとでもしているようだったが…エレーネは肩を竦めてクスッと笑うのだ。

「厄介になっちゃったなーって思ってるでしょ?」

「う…バレた?」

 顰めていた眉をパッと上げると、クスクス笑うエレーネにウィンクなどして見せる。

「顔に書いてあるもの。あんたは感情が面に出やすいのが玉に瑕ね」

「ほっといてくれる?」

 人気の途絶えた廃墟と化したブティックの一室で、白い息を吐き出しながら笑うアシュリーとエレーネの奇妙なデコボココンビを物珍しげに見ているオーナー、妖魔であるタスクは腕を組んで事の成り行きを見守っていた。
 相手は『旅人』が派遣したギルドの処刑人たちだ、ここにデュークでもいてくれるのなら好んで戦ってみたい相手でもあるが、今は大人しく指示に従うしかなさそうだ。
 只ならぬ気配を宿した小柄な娘は真冬だと言うのにホットパンツにヘソ出しルックと言う、見るからに寒そうな、それ故の身軽さでもって大柄な金髪男を見上げている。
 だが…

(奇妙な氣を持った男ねぇ…何かしら?アタシたち、そうね、そこの姐さんとも少し違うわね)

 実力は恐らく計り知れないだろう小娘の皮を被った化け物よりも、その傍らで、その大柄な体躯からは想像もできないほどひっそりと佇んで状況判断をしている煌く金髪の異国の顔立ちをした男の方が気になったタスクは、腕を組んだままでその素性を探ろうとでもするかのようにコッソリと窺っている。

「それにしてもヘンねぇ!ここには色んな氣が入り乱れていて思うように掴めないわ」

 エレーネが面倒臭そうに息を吐くと、アシュリーが仕方なさそうに肩を竦めたのだが…ふと、金髪の垂れ目が憎めない大男は、何かを感じたようにハッと顔を上げたのだ。

「…?どうしたの??」

 小生意気そうなアーモンドアイをすっと細めると、微かな殺気を漲らせた不似合いな娘はオフホワイトのコートを着て呆然と突っ立っている相棒を見上げると、その見事な柳眉をそっと顰めた。

「…光ちゃん?」

 ふと漏れた呟きに、タスクの眉が僅かに動いた。

(光ちゃん?)

「あの人間の坊やがどうしたって言うの?」

 ぼんやりと中空に漂っていた双眸にゆっくりと生気が戻ってくると、ハッとしたようにアシュリーは周囲を見渡したのだ。

「光ちゃんの気配がする!どう言うワケ!?」

「なんですって?…ちょっと!タスクとか言ったっけ?ここで遠き異国の旅人と遣り合ったのはどんなヤツだった!?」

 驚くことに、『旅人』が差し向けたはずの処刑人であるエレーネの、そのキツイ印象の綺麗な顔が一瞬だが引き攣るように青褪めて、振り返るなりかなり失礼に問い質してきたのだ。
 そんな顔、『旅人』でも恐れる実力者たちが見せるなんて…タスクは滅多に拝めないものを見てしまった代償として、自らが隠し持っている秘密を口にしなければいけなくなってしまった。
 だが、勿論この姑息な妖魔が易々と口を割るわけがない。

「綺麗な顔をした妖魔だったわ。でも、見たことのない顔だったから余所者じゃないかしらね」

「…人間はいなかったのか?」

 ふと、それまで驚愕したように目を見開いて電球の弾け飛んだ無残な電灯の残骸を見上げていた大男は、ゆっくりと目線を下げると、まるで身内に得体の知れない狂気を宿し持っているような胡乱な目付きで睨んできたのだ。
 それが人にモノを尋ねるときの態度なのかと、できれば言ってやりたいタスクだったが、やれやれと眉根を寄せて首を左右に振った。

「残念ながら人間はいなかったわ。でもね、ここは人間でも入れるブティックなのよ。人間の気配がしてもおかしくないじゃない」

「違うね」

 ふと、タスクの言葉を全面的に否定するようにアシュリーは呟いた。
 その、さっきまであれほど殺意を浮かべていた碧の双眸には、愛しげな、誰かを想っているやわらかな感情が浮いていて、ブティックのオーナーである妖魔を驚かせた。

(人間に惚れてる妖魔?なによ、おかしいのはデュークだけじゃなかったのね。何か、嫌な病でも流行ってんのかしら)

 けして口に出せないことを思いながらもタスクは、アシュリーの確信に近い何かを物語る台詞に肩を竦めるだけだった。

「光ちゃんはね、こんなところには来ないワケ。何よりあのひとには似合わないし」

「或いは調査でここを訪れたのか。ここには妖魔の匂いがぷんぷんするもの」

 クスクスとエレーネが笑う。
 その嫌味的な笑みには、根が優しいオカマのタスクでもムッとしてしまう。

「ちょっとぉ!失礼こいちゃうわねぇ。こう見えても雑誌にだって載ったお洒落なお店だったのよ!…あぁ~ん、こんなになっちゃってぇ。保険の件もあるからそろそろ警察を呼びたいんだけど、まだ何かあるのかしら??」

 店内を見渡しながらガックリと派手に項垂れて恨めしげな目付きで言い募るタスクに、エレーネは肩を竦めながら相棒の大男を見上げた。
 オフホワイトのコートに身を包んでいてでさえ、どこか寒そうに身体を強張らせている金髪に憎めない垂れ目の大男は、切なそうに店内を見渡している。

(光ちゃん…そんな”まさか”だよね?)

 柄にもなくハラハラしているアシュリーのそんな態度に、業を煮やしたようなエレーネはグイッと腕を引っ張って彼を現実に引き戻すのだ。

「そろそろ行くわよ。ここにいたってあんたの気持ちを漫ろにするんじゃ意味がない。氣が消えないうちに追いかけるんでね。早くおし!」

「エレーネ、でもオレは…」

「でももクソもないの!行くよッ」

 腕を引っ掴むようにしてエレーネはもはや瓦礫と化した店舗を省みることもなく立ち去ろうとするが…金髪に碧眼の、異国の顔立ちをした大男だけは名残惜しそうに振り返っている。
 僅か数日離れているだけで、どうしてこんなに心が千切れてしまいそうなほどの焦燥感を感じてしまうのだろう。
 アシュリーにはそれが判らなかった。
 1人荒れ果てた店内に取り残されたタスクは、やれやれと腰に手を当ててどこから片付けるものかと思案に暮れながら溜め息を吐いていたが、ふと、静かな風のように現れて旋風のように立ち去っていった2人のその後姿の消えた出入り口を見詰めて不安げに綺麗に剃った眉を寄せた。
 『旅人』の命令さえ背いてでもここに残って氣の流れを追いたそうに見えたあのオフホワイトのコートに身を包んだ大男は、風変わりな気配を持ちながらも、明らかに妖魔の側に立つべき者だった。
 それなのに、いったい誰にそれほどまで心を砕いているのだろう?
 どうしてそれほどまで、人間に想いを寄せられるのだろう…

(光ちゃん…そう言えば、デュークが連れていたあの子も確か、光太郎とか言ってたわね)

 一瞬、ディープブルーの綺麗な顔立ちをした妖魔と、風変わりな気配を持つ金髪碧眼の垂れ目の大男が対峙する場面が脳裏を掠め、タスクはブルブルッと首を左右に振って寒くもないのに我が身を抱き締めるのだ。
 余計な好奇心は我が身をも滅ぼす…長いこと生き続けた妖魔の直感に、タスクは素直に従うことにして携帯電話を取り出すと溜め息を吐いて通話ボタンを押すのだった。 

◇ ◆ ◇

「光太郎のフィンランド人の恋人!?」
 鈴が転がるような可愛らしい声音で呼ばわれて、それでなくても『光太郎』と言うキーワードに敏感になっているアシュリーは、ハッとしたように声のした背後を振り返った。
 視線をぐっと下げた先にいたのは、ミニスカートにピンクのブーツでセーターの上からコートを取り敢えず羽織った感じで飛び出してきた、と言わんとばかりの出で立ちをした少女が驚いたように目を見開いて立っていたのだ。

「えーっと…確かすみれ?」

「あ、うん。そうそう!アシュリーって言うんでしょ?どうしてこんなところにいるの??」

「どうしてって…」

 スタスタと歩いてきたすみれにエレーネが訝しそうな表情をして背後から手の甲を抓ってくる。

(この娘はだれ?)

 と言葉に出さずに態度で表す乱暴な姐さんに、取り敢えず少し待っててもらうことにして、アシュリーは切迫したような表情をしているすみれの顔を見下ろした。
 アイツは勝気なヤツなんだ…と、光太郎が仲間の話をするときに常に出てきた彼女の雰囲気は、勝気で男勝りなじゃじゃ馬娘、と言った印象が色濃いアシュリーは、いや、現にその姿を見たときもそう感じていたのに…今日の彼女はその顔に疲労の影を落としている。
 恐らく、随分と寝ていないんじゃないだろうか。
 一見すればいつもと変わりなくも見えるのだが、どこか心許無い、不安に寄せられた綺麗な柳眉がアシュリーに只ならぬ焦燥感を呼び起こした。

「何か、あったワケ?」

 首を傾げて、憎めない垂れ目の大男を見上げたすみれの瞳から、ぽろりと一滴の涙が零れ落ちたとき、アシュリーの中で渦巻く不安が形を成して胸元を締め付けてきた。
 嫌な予感の時ほど、よく当たるものだ。

「こ、光太郎が…あ、ごめんなさい。彼女がいたのね」

 思わずよろけるようにして近付こうとしたすみれは、彼の大きな身体の背後で仕方なく待ちぼうけを食らっている小柄な少女に気付いて、ハッとしたように頬に零れた涙を拭いながら一歩、後退った。
 一瞬きつく睨まれたような気がしたアシュリーは、それでも微妙なニュアンスで言葉を止めてしまったすみれの華奢な両肩をグッと掴んで、焦ったように詰め寄るのだ。

「光太郎!?光ちゃんが、光ちゃんに何かあったのか!?」

「あ、痛ッ…」

 もどかしさに思わず力が入ってしまったのか、すみれが辛そうに可愛い顔を歪めてしまう。
 夜明け前の眠りについた街とは言え、これでは何らかの犯罪現場のようでそのうち警察でも来られたら厄介以上の何ものでもないと知るエレーネが、呆れたように溜め息を吐きながら見た目やんわりとアシュリーの腕を掴んでにっこり笑うのだ。

「女の子にそんな乱暴したら駄目じゃない。何があったのか、順を追って聞かなくちゃ」

 優しげな口調とは裏腹の強い力でもってアシュリーの腕をはがしたエレーネの、その尤もそうな口振りに漸く我を忘れかけていた大男は叱られた大型犬のようにシュンッと我に返ったのか唇を尖らせた。

「あたしはエレーネって言うの。このでっかい垂れ目男の保護者みたいなものね。だから彼女なんかじゃないわ」

 ニコッと笑って、保護者にしては若すぎる彼女を訝しそうに眉を寄せるすみれは、それでもどうやらこの寒々しい姿をした少女の言うことは的外れではないのだろうと、大人しくなったアシュリーを見て感じ取ったのかすみれは慌てたように頷いたのだ。
 何よりも、光太郎の身を案じているのが手に取るように判る金髪碧眼の大男のその、憎めない垂れ目が焦りに暗く沈んでいれば、嫌でも信じざるを得ないのだが。

「光太郎がいなくなったの!つ、連れ去られたって…アリストアさんが教えて下さって」

「アリストア?」

 あの胡散臭いヴァンパイアが?…ふと、アシュリーの眉間に深い縦ジワが寄った。
 光太郎を狙う者は全てが敵だと認識しているアシュリーは、ついでのように、あの日光太郎を襲って重症を負わせたヴァンパイアを調べていたのだ。
 教会でエクソシストとヴァンパイアハンターを生業にしていると言う、なんとも胡散臭いヴァンパイアがわざわざどうしてすみれにそんなことを教えたのだろう?これには裏でもあるのだろうか…アシュリーが無言のままで思いを巡らせている間に、すみれは切迫したようにエレーネの冷えた両手を掴んで泣き出しそうな顔をして縋るように言った。
 頼れる全てにあたって、悉く相手にされなかったのだ。
 縋れるものにはなんにでも縋りたい、その態度が、アシュリーとエレーネに何か只ならぬ…そう、自分たちの側に在る者の気配を感じ取っていた。
 そっと目線を交えてきたエレーネに頷いて、驚くほど冷静にアシュリーはすみれを見下ろした。

「あ、あなたたちは信じてくれないかもしれないけど…魔物が、魔物が光太郎を攫ってしまったの!何とかしたいんだけど、頼れる人もいなくて…」

 うぅ…と、泣き出してしまう彼女を見下ろすアシュリーは、思わず、ギリッと奥歯を噛み締めた。
 やはり、あの時感じた心を引き千切られてしまいそうな予感は間違いではなかったのだ。
 遠き異国の旅人と互角に、或いは上回ったのか、それだけの戦闘をして小規模で抑えきった妖魔が…恐らく、光太郎を連れ去った犯人に違いはないのだろう。

「あのタヌキ妖魔め!」

 ニヤリと、腹に一物隠したような侮れない仏頂面のおネェ言葉の妖魔を思い出しながら、唇の端を捲り上げて笑うアシュリーが吐き捨てるように呟くと、泣き出してしまったすみれを労わるように抱き締めていたエレーネが目線を向けてくる。

《どちらにしても、遠き異国の旅人と渡り合ったその妖魔、見つけ出さないとお話にならないようね》

 脳内に響いた声はエレーネが持つ精神感応術の一種で、幸いなことにすみれには聞こえない仕組みになっている。
 アシュリーは募る焦燥感に押し潰されそうになりながらも、彼女の真摯な双眸を見詰め返して感情を押し殺すように瞼を閉じると頷くしかなかった。

《自らに害を与えた妖魔を、遠き異国の旅人が放っておくはずないもの。ソイツを見つけ出せば遠き異国の旅人も捕獲できるってワケね》

 「大丈夫よ」と囁きながらすみれを労わる反面を見せながら、脳内には計算高い台詞が送られてくる。エレーネらしい遣り方に苦笑すらできず、アシュリーは吐き出した白い息が吸い込まれる、スモッグに汚されてしまった夜明けの空を見上げていた。
 いつからか汚されてしまった空は、青空を隠して途方に暮れて立ち竦んでいるようにすら見える。
 それはまるで鏡のように、取り残されて呆然と立ち尽くす身体ばかり大きくなってしまった少年のような垂れ目の大男に似ていて、冷たい風に舞い上がる金髪はそのままでアシュリーは泣きたくなっていた。
 あの愛しいひとを手離してしまったら自分は…今度こそ後戻りできない場所まで堕ちてしまうのだろう。
 確信めいた思いを胸に、それでも、あのひとを助けに行きたいと思っていた。
 どんな姿になって…たとえ変わり果てた姿になっていたとしても、それでも、アシュリーは光太郎を見つけ出して、その大きな胸の中に抱き締めてもう離しはしないのに…と、開いた両の掌に呆然と目線を落としていた彼は、まるで早鐘のようにドクドクと耳元でがなり立てる煩い音を掻き消そうとでもするように拳に握って、白くなるまで握り締めていた。
 渦巻く身内の、深い深い深淵に隠し持っていたどす黒いうねりを感じながら、アシュリーはほの暗い双眸を細めて静かに笑うのだ。
 何も心配いらない。
 不安になることなど何もない。
 だって…そう、だってね。
 あのひとは他の誰のものでもない、自分のものなのだから…と。
 温かな血の通うものが見れば一瞬で凍り付いてしまいそうな冷たい微笑に、すみれを宥めていたエレーネは、肌寒い何かを感じ取ったように華奢な人間の少女の温もりに縋ろうとしているようだった。
 あの日のように…忌まわしい結果にならなければいいのだが、と、エレーネは養い子の行く末を案じていた。

9  -ヴァンパイアと真夜中に踊れ-

 デュークは電球の弾け飛んだ殺風景な天井を見上げたままで、ポツリポツリと語り始めた。
 貧血を起こしていた俺は、そんなデュークの胸元に凭れたままで、悔しいけど話を聞いてるしかなかったんだ。

《あれは…16世紀の中期か後期ぐらいの頃だったと思うよ。もしかしたらもっと前かもしれないけれど…もう、随分と昔のことだからね、記憶が曖昧なのはご愛嬌だとでも思ってくれる?まあ、もともと、妖魔という生き物には家族という習性を持たないんだ。その当時、妖魔の間では奇妙な現象が流行していてね。血液の媒介で種族を増やす…とか。やっぱり、独りぼっちは寂しいのかな?》

 皮肉げに笑うデュークの話を聞いていて、俺は軽く息を吐きながら「ああ…」と頷いていた。
 俗に言う、あのブラム・ストーカーの吸血鬼が血を吸って仲間にするってことなんだろう。
 強ちウソでもなかったのか…

《ボクはそれに興味がなかった。仲間たちは人間をどんどん仲間にしていたし、それをしないでいるボクを異端の者でも見るような目でみていたけれど。自分たちこそ妖魔の癖にね》

 クスクスと笑いながら、デュークはそれでもどこか寂しそうだった。

《ボクは…人間を仲間にしても無意味なことを知っていたからね。本当は連中だってそうだったのに、それでも心の奥底にいつもポッカリと空いている穴は深くて、吹き上げてくる風は冷たかったから仕方なかったんだと思う。純粋な妖魔は次々と人間を仲間にしては、虚しさに苦しんでいた。そんな馬鹿げた行為が流行していた頃、ボクはあることにとり憑かれていたんだ》

 なんだと思う?…と小首を傾げながら覗き込んでくる金色の双眸をムッとしたままで見返してやった。判るかってんだ。

「判るかよ」

 素っ気無く答えたら、微かに発光するディープブルーの髪を持つ妖魔はクスクスと笑って、それでこそボクの光太郎だとかなんとか呟いていた。

《“創り出すこと”だよ》

「はあ?」

《判らないかな。ボクが、ボク自身が創り出すと言うことだよ。人間をただ仲間にするなんてゾッとしないしね。他の誰かと寝て子供を作るなんてことはもっとゾッとしない。だったら自分で創っちゃおかな~とか、安直に思いついてしまってね》

 困ったな~とでも言いたそうに笑うデュークを、この時になって俺は漸くコイツが、実はとんでもなく強い妖魔で、限りなく我が侭で、半端じゃない間抜けなんだと言うことに気付いたんだ。
 安直に思いついただけで妖魔を創り出すって言うのか!?
 いや、寧ろどうやって創りだしたって言うんだ?
 俺は呆れながらも興味深々でデュークの言葉に耳を傾けていた。

《手始めに創りだしたのがアークだよ。彼にボクは、ボクの持つ力…まあ攻撃力ってヤツかな?それを与えたんだ》

 突拍子もない台詞に俺の思考回路がバーストしそうになった。
 は?今、なんて言ったんだ??
 アークを創りだした?
 アイツとは双子じゃなかったのか??
 クエスチョンマークだらけになる俺の頭なんかお構いなしに、デュークは一方的に話を続けていた。

《これが意外と面倒臭いことに気付いたのは別の妖魔に攻撃された時でね~。結局、ボクは自らの血液を代償にしないと戦うことも出来なくなったんだ》

「…つーことは、アークが死ねばお前も死ぬのか?」

 なんか、ワケの判らん質問だったかもしれないけど、面倒臭い存在のアークを消せないとなると、やっぱりそう思うのが自然なことじゃないかな。

《別に?ボクが死ねばアークも死ぬけど、アークが死んでもボクには攻撃力が戻ってくるってだけのことだよ。ボクがアークを消せなかったのは…他の妖魔と一緒、独りになるのが忍びなくてね》

 照れ臭そうに笑ったのは、長い時間を独りぼっちで過ごしてきたデュークが手に入れたモノは、俺たち人間が考えるよりももっと奥深いものだったからなんだろうと思えた。ただ、それがどれほど貴重なものであるかなんてことは、今の俺では…いや、人間として生きている俺では到底はかり知ることなんてできない領域の問題なんだろうけど。

《調子に乗ったボクは、死にかけた人間を見つけたんだ。雨が降っていて、薄ら寒い午後だった。ペストが流行った後の街はどこも蛻の殻で寂しいぐらい静かで、その時もアークはあの調子でふらふらしていたから、唐突に独りぼっちになったみたいで寂しかったのかな?死にかけた人間に、悪戯に生命力を与えたんだ。やった行為が結局、ボクが笑ってた連中と同じだったかどうかと言うことは今となっても判らないんだけど…それがシークだよ》

 遠い昔の出来事で、記憶が曖昧なんだと釘をさしながらも、デュークのヤツはどうやらその脳裏に当時のことを鮮明に思い出してるようだった。

《ボクたちの性格はそれぞれバラバラでね。アークはボクが創り出したせいかそれこそ顔はソックリだったんだけど、なぜか性格はまるで正反対だった。ボクはどちらかと言うと執着心の強いタイプだけど、アークの場合は闘争心が強いカンジ。恋愛とかよりも喧嘩を優先しちゃうタイプだね。シークの場合は…妖魔のボクが言うのもなんなんだけど、鬼畜とでも言うのかな?》

 言い難そうに言葉を選んでいたデュークは、仕方なさそうにポツリと言ったんだ。

《人間だった時の性格が妖魔の体質にどんな影響力を与えたのかはボクには判らない。ただ、よほど人間の時は女好きだったみたいでねぇ…仲間にした後に放り出すのも忍びなくて、嫌がるアークを説得して傍に置いていたんだけど。シークはいつも古巣に女を連れ込んでいたよ。そのくせ、仲間にするワケでもなく食餌にしては打ち捨てていた。酷いヤツでしょ?》

 クスクスと笑いながらも、デュークの金色の双眸はそれほど愉快ではないと物語っている。
 このデュークと言う妖魔は、どうも妖魔らしくないと思う。
 恐らく、アークに攻撃力を与えた時に妖魔としての本質も手渡してしまったのかもしれない。いや、コイツらはきっと2人で1人なんだろう。妖魔の残虐性と素っ気無さはアークが、妖魔がどこかに持ち合わせている人間を憐れむ優しさのようなものがデュークに残ったんじゃないのかな。
 アークが不思議がっていた俺を好きだという気持ちも、別の固体を生み出してしまった副作用のようなものなんだろう。
 あくまでもこれは、俺の勝手な推測なんだけど…

《そんなある日…あれは、17世紀もそろそろ終焉を迎えていた時だったかな、シークが1人の少女を連れて帰ってきたんだ。日本人かどうかは今となっても判らないけれど…アジア系のその少女は酷く怯えていた。どんな方法で連れてきたのかはだいたい想像はついたけど、それでも結局、ボクには興味がなかったからね。沙弥音と言う名前で食餌にする気だとシークは言っていたよ》

 デュークは言葉を切って何事かに思考を廻らしているようだったけど、不意に小さく苦笑したんだ。

《名前を覚えていたってだけでも目覚しい進化だね…シークは賢い妖魔ではあったけど、とても愚かでもあった。自分の恋心にも気付けなくて》

 誰かを思いやる心なんか、妖魔が持っていちゃおかしいと俺は思う。
 でもそれは、妖魔は残酷かもしれないと言う先入観を持っているからそう思うのであって、本物の妖魔ってヤツには、もしかしたらこんな風に、人間と同じようにいろんな性格のヤツがいるのかもしれないなぁ…

《沙弥音は大人しい素直な娘だったよ。無体に扱われても、奴隷のように過酷な命令を与えられても従順で大人しくて…瞳をキラキラさせながらシークを慕っていた》

 そこでデュークはちょっと考え込んで、頷いた。

《うん、きっと最初から沙弥音はシークを好きだったんだろうね。シークもそれに気付いていたのかな?どんな気紛れだったのか、どこでその方法を聞きつけたのか、ある日シークは沙弥音を仲間にしてしまったんだ》

「仲間…って言うとその、同じ吸血鬼にしたってことか?」

 判り切っていることだったけど、今さらながら聞く俺に、デュークは小さく肩を竦めて見せた。

《吸血鬼…なんて呼ぶのは人間だけだから。はたしてボクがそうだよと言ってもいいのかどうか判らないけどね。面倒くさいから、もうそれでもいいよ》

 この野郎…と俺が思っても仕方ないと思うけど、そんなことぐらいでいちいち話を中断しても面白くないんで、俺はムッとしたまま黙り込んで先を促したんだ。その沈黙をどう受け取ったのか、デュークはでも、別に気にした様子もなく遠い昔話に戻った。

《仲間にしたことをアークは酷く怒っていたようだったけど、シークは丁度良い小間使いができた程度にしか思っていないみたいだった。まあ、現に沙弥音は実によく働いていたよ。シークは金色の髪と白い肌が好みでね、沙弥音は愛する妖魔のために、バカみたいに2日おきに女を調達していた》

 ふと、見上げたデュークの双眸が険悪な光を宿していて、語尾のきつさからもその行為を酷く嫌悪しているんだなと言うことは判った。
 どうでもいいことだとか言いながら、デュークはもしかしたら、その沙弥音と言う少女を結構気に入っていたんじゃないかと思う。
 …と言うか、デュークはもしかしたら、考えたくはないんだがコイツはまあ、簡単に言えば一夫一婦制と言う道徳心を重んじてるんじゃないだろうか?
 いや、全く考えたくはないんだが。

《どんな気分だったんだろうね?好きな男が他の女と戯れるのを傍らで見ているってのは?ボクは実に執着心が強いから、そんなマゾヒスティックなことはお断りだけど》

 フンッと鼻先で笑って、デュークは溜め息をついた。

《きっと、シークはそんな時間がいつまでも続くと信じてしまったんだろうね。沙弥音の無償の愛が、何かを狂わせて、ボクたちが簡単に手に入れてしまう永遠と言う膨大な時間を無意味なものにしてしまったのかな…》

 独り言のように呟いたデュークは、もう弾けて、何の意味もなさない電灯の残骸を見上げていた。
 その胸に去来する思いが、いったいどんなものなのか、俺は知ろうとも思わなければ知りたいとも思わなかった。
 なんだかそれは、とても陰惨で冷たいもののような気がしたからだ。

《あの日も雨で、街はまるで沈黙に支配されてでもいるかのように静かだった。シークは丘の上の館に住む貴族の娘を気に入ってしまって、でもモチロン、その頃はもう人間で言うところの“吸血鬼”の噂は実しやかに流れていたし、ヴァンパイアハンターと言う胡散臭い連中が我が物顔で低級妖魔を狩っていた時代でもあるから、食餌を調達するのはなかなか骨折りだったんだ。そのくせ、シークは怠惰な生活に溺れきっていたからその全てを沙弥音に任せていた》

 語尾を吐き捨てたデュークは少しハッとしたようで、照れ臭そうに前髪を掻き揚げて話を続けた。

《沙弥音も従順にそれに従っていたから、シークが望む娘を手に入れようと、あのバカな娘は考えてしまったんだろうね。シークはモチロン、本当にその娘を手に入れる気なんかなかったんだよ》

 そう言われて、唐突に俺は首を傾げた。
 だっておかしいじゃないか。今までの話だと、沙弥音はシークが欲しがるものは全て手に入れてきたんだろ?だったら、丘の上の貴族の娘だって、気に入れば手に入れる気だってことじゃないか。

「どうして手に入れる気なんかなかったんだ?」

 素朴な疑問に、デュークは金色の双眸を細めて見下ろしてきた。

《さっきも言ったと思うけど、その当時はもうヴァンパイアハンターなんて言う俗な仕事が当たり前の時代だったから、モチロン、その高貴な娘が巷を賑わせている“吸血鬼”に狙われると予め予測していた父親がハンターを雇っていたんだよ》

 それを聞いて俺はなるほどと頷いた。
 ヴァンパイアハンターなんかに煩わされなくても、コイツらなら簡単に人間なんか襲えるんだろう。
 今こうして、俺を労わるこの腕だって、一皮むけば兇器以外の何ものでもないんだ…

《コイツが厄介なハンターでね。良く言えば腕が立つってことなんだろうけど、とんだ狸親爺だったってワケ》

 肩を竦めるデュークから並々ならぬ嫌悪感を感じ取って、なるほど、相当手を焼かされたに違いないんだろう。

《妖魔になって日も浅いし、高々人間上がりの妖魔とも呼べない半人前が創り出した半人前以下の沙弥音なんかが、到底倒せる相手なんかじゃないことをシークもボクたちも知っていたからね。シークの悪い冗談が始まったぐらいにしか思っていなかったんだ…でも、沙弥音は違った》

 言葉を噛み締めるようにいったん思考を閉ざしたデュークは、まるで人間がするように思念の声にあわせてゆっくりと口を開いたんだ。

《アレは無邪気でお人好しでバカな娘だったから、シークの言葉をそのままいつもの要望として受け止めてしまったんだろうね。ボクが行ったときには、沙弥音はもう半死状態だったよ》

 妖魔は死なないと豪語していたデュークに、ふと違和感を覚えて見上げたものの、そこには人間から妖魔になった存在と、最初から妖魔だった存在では何かが違うんだろうと言うことを、俺だってここまで聞けば少しぐらい判るようになってたから敢えて何も口にしなかった。
 でもデュークは、俺がやっぱり理解していないだろうと思ったのか、ちゃんとご丁寧に説明してくれた。ありがとうよ、フンッ。

《ある特殊な条件下でならボクたち妖魔にだって完全なる死があると言うことを言ってなかったね。知りたい?だったらいつか、その時が来たら教えてあげるよ》

 そう言って、デュークは凄く綺麗な顔で微笑んでから先を続けた。

『完全なる死に導くための条件』

 聞きたいような聞きたくないような、こんな強い連中にどんな弱点があるって言うんだ、聞いてもどうせ掴み所のない飄々とした内容に違いない。そうして俺は、また煙に巻かれるんだろう。
 だったら聞かない方がいいや。

《雨が降り出した街は酷く寒くて心細くて、ボクは奇妙な焦燥感に駆り立てられていた。ある種の予感のようなものがボクを焦らせて、そして、別に行く気もなかった丘の上の洋館まで導いたんだろうね。ボクがそこで目にしたのは…》

 一瞬、言葉を区切って、デュークにしては珍しく小さな溜め息を零した。
 口からキチンと『はぁ』と言ったんだ。
 鼻先だけで溜め息を吐くことはあったんだけど…なんと言うか、そう言う小さな変化にもドキッとしてしまう俺がいる。
 今耳にしている話は、もう100年以上も前の話だと言うのに。
 どこかで、あの不気味な化け物に成り果ててしまったシークのヤツが、血塗られたような真っ赤な双眸をぎらつかせながら耳を欹て、闇の中で呼吸しているような気がして知らず強張らせた身体をデュークに寄せていた。
 そんな俺の態度に気付いたのか、デュークのヤツは背中に回していた腕に力を込めて、俺の髪に頬を埋めてきたんだ。

《沙弥音の哀れな姿だったよ…ヴァンパイアハンターって言うのは目下名ばかりの連中で、低級淫魔や、ともすれば偶然姿を現した精霊なんかを捕まえては、性行為に耽るような輩が多くてね》

 そこまで言われて、俺は沙弥音がどんな風になっていたのか想像がついてしまった。
 同じ人間としてそれは、許されないことだろうし、妖魔よりも悪質で顔を上げられなかった。

《なまじ、霊力?とでも言うのかな、そんなものを持っている人間ってのは性質が悪い。ボクが言うのもなんだけど、その力を良い方向性で行使すれば丸く収まるところでも、どうしてなんだろうね、人間と言う生き物は必ずそれを悪用したがるんだ》

 デュークの言いたいことは痛いほどよく判る。
 本来ならその台詞は、妖魔と対峙した人間が声高に叫ぶ正当性であるはずなのに…妖魔に言われちゃ面目ない。

「沙弥音はその…やっぱり…」

 言葉を選ぶ俺に、優しさをチラリと見せるくせに、すぐに妖魔の顔に戻ったデュークは肩を竦めてズバリと言いやがる。

《犯されていたよ。見るも無残なほど出鱈目に。虫の息の沙弥音を見た瞬間…んー、ボクとしては珍しく頭に血が上っちゃった》

 照れ臭そうにポツリと呟くデュークを、頭に頬をくっ付けられている格好じゃ見上げることもできないんで、俺は不思議に思っていた。

《沙弥音は、ボクにしてみたら可愛い妹みたいなものでね。アークやシークとも違う、その、なんて言うか穏やかさがあったんだ。物事を良く聞いてくる子でね、ヒマな午後なんか読書をしてると足許にちょこんと座って「アレはなんですか?」「これはどう言うことですか?」ってね、よく尋ねられて。ボクはぼんやりとそれに受け答えながら永遠に続く退屈な日々を過ごしていた。でも、ボクはその時間がとても好きだったんだよ》

 話を聞いてるだけで浮かんでくる情景は、古い街並みに似合う洋館で、暖炉の前で退屈そうに本を読んでいるコイツの足許に座り込んで、興味津々で見上げている少女…人間のような、いやもしかすると人間よりも人間らしい感情を持っているデュークなら、きっとそれは、愛すべき日々だったに違いない。

《結局、ボクはヴァンパイハンターを名乗る彼の首を圧し折って沙弥音を助けたんだけど…彼女の双眸はもう虚空を見つめてしかいなかったし、うわ言のように呼ぶのはシークだけだった。でも》

 呟くように囁いて、デュークは一旦言葉を切ると、溜め息をついて話を続けた。

《一瞬だけ正気を取り戻した彼女は、光太郎みたいに勝気な黒い瞳をキラキラさせて、最期にボクに言ったんだ。なんて言ったと思う?》

 困ったような口調の質問に俺は首を横に振るだけだった。

《「わたしはシーク様を忘れないでしょうか?」…忘れないかだって?そんなのボクに判るワケないじゃない。でもね、沙弥音は常々ボクに聞いていたんだよ。妖魔は死ねば魂が残らないから転生することもない。でも人間は、生まれ変わることができる。では、人間から妖魔になった者はどうなるんだってね》

 妖魔で、なんでも知っているデュークにすら難解な質問を、俺なんかが答えられるはずもなく、黙ってその先を聞いてることにしたんだ。

《ボクは考えもしなかった。妖魔は消えてしまっても、残される人間は形を変えても生き続ける…光太郎を愛するまで、そんなこと思い出しもしなかったよ。ボクが死ねば、ボクのこの想いはどこにいってしまうんだろう…シークはそれに耐えられなくて遠き異国の旅人に成り果ててしまった。半人前の妖魔が創り出した半人前以下の妖魔に人間の規定が当て嵌まるのだとしたら、沙弥音は次の形に変わって甦る、でも、半人前とは言え、正当なる妖魔が作り出した自分の魂やその想いは、いったいどこに行ってしまうんだろう?》

 ともすれば自分に言い聞かせるように話し続けるデュークの、その身体中からチリッと大気を焼くような奇妙な気配が流れ出していることに俺は気付いた。
 それは殺気?それとも怒り?それとも…まさか、不安?

《シークはね。沙弥音を抱きしめて大急ぎで帰ってきたずぶ濡れのボクを見て、はじめは笑っていたよ。攫ってきた娘を抱きながら、血と精液がこびり付いた哀れな沙弥音の遺体とボクを交互に見比べて、酒に酔っていたのか、それとも、ボクが悪戯に教えた輪廻の仕組みを覚えていたのか、彼はその時、まだ沙弥音が生まれ変わるんだと信じていたようだった。「言うことはない?」と聞いても、肩を竦めて鼻先で笑うだけだったから、ボクは首を左右に振りながら「そう」とだけ答えていた。沙弥音に声が伝わるのは今だけなんだけどって言っても、シークは目先の快楽に溺れちゃっていてね、とうとうその声は沙弥音に届くことはなかったんだ。ほどなくして、妖魔らしく、指先から崩れだした沙弥音の灰は開け放たれた窓から、濡れた街に流れて逝ってしまった。もう、どこに逝ったのかも判らなくて、その後を追うこともできない場所に逝ってしまったんだ》

 そこまで一気に話したデュークは、軽く呼吸を整えると、俺の頭にもっと頬を摺り寄せながら先を続けてくれた。

《その様子を見て、その時になって漸く、あの愚かな妖魔は自分の犯した過ちと失態に気付いたのか、それとも不安になったのか、ボクに詰め寄ってきたんだよね。だから沙弥音がどうなってどうなるのか教えてやったってワケ。でも、気付いたって今さらもう遅いんだよ。そこで、人間上がりの半人前の妖魔が下した結論は、ボクが沙弥音を誑かして丘の上の洋館に行かせたって思い込むこと。本当は好きだったくせにね。手離して初めて気付いても、もう遅いんだ。何もかも遅すぎるんだよ》

 呟いて、溜め息。
 どうしたって言うんだ、デューク。
 妖魔なんだろ?妖魔じゃないか。
 どうしてそんなにもお前は、痛ましそうに話すことができるんだよ。
 そんなの、妖魔らしくないじゃないか…

《ねえ、光太郎。光太郎はいいね、人間だから。想いを抱えたまま何度だって転生することができる…でも、妖魔は違うんだよ。思いを抱えたまま、どこに逝ってしまうんだろう。いや、人間ですら、その想いを抱えられることもなく、どこか遠い場所で彷徨ってしまうことだってあるんだ。いわばルーレットのような確率に縋るしかないってワケ。『死』は矛盾ではないよ。いつだって、ボクたち妖魔に永遠があるように、死にも永遠が付き纏っているんだ。妖魔と死は表裏一体なんだよ。シークはそれに気付くのが遅すぎたんだろうね》

「死に永遠?俺にはよく判らない」

 呟くと、デュークは小さく笑った。
 光太郎はまだ幼いから判らなくても仕方ないんだ…不可視の、声にも思念にもならないような感情がそんな風に語りかけてきたような錯覚がした。
 俺も大概、デュークに感化されつつあると思う。

《死は永遠だよ。『永遠の別れ』だ》

 それは妖魔にも繋がることだと、コイツは言いたいのだろう。
 妖魔の仕組みも、死の仕組みも俺なんかにはよく判らない。
 だが、今回のこの厄介な事件の背景には、それが色濃く染み付いちまってるんだろう。
 シークは沙弥音を恋焦がれて遠き異国の旅人になった。そして、その姿のまま、沙弥音の魂を持っている女性を、或いは男を、或いは動物を…捜しているんだろう。見つかることなんか、きっとないだろうと本能のどこかで知りながら、それを信じることができなくて、最悪の姿になってまでも手離してしまった最愛の宝を捜し続けている…悲しい妖魔の話だ。
 ああ、だからデュークは、コイツは少しでも俺を離そうとしないし、執着しちまってるんだろう。
 妖魔の中に普遍に受け継がれている確信が、コイツを常に不安にさせているんだ。
 愛しあえるのは今だけ、そんな刹那の感情を俺には理解できない。
 寂しいな、と思うし哀れだとも思う。
 だけど。
 ああ、だけど。
 デュークは言わなかったか?
 人間ですら、転生の確率はルーレットのようなモノだ…ってことは、転生しないことだってある、賭けのようなものってことだろ?
 妖魔にしろ人間にしろ、もう一度、逢えるなんて確証はまるでないんだ。
 そんな一瞬の邂逅だからこそ、俺たちは必死でお互いを繋ぎとめようと努力するんじゃないか。
 だからこそシーク、俺はアンタを見逃すわけにはいかない。
 俺は。
 この瞬間を必死で生きているあのお袋さんの願いを、人間として叶えたい。
 たとえそれが、妖魔にとって身勝手な行為だとしても、俺は叶えたいんだ。
 俺は、人間だから。

8  -ヴァンパイアと真夜中に踊れ-

 長い舌がだらりと垂れて、まるでそれだけが別の生き物みたいに器用に動き回って長い指先の兇器を舐め上げた。
 まるでエルム街の悪夢に登場するクリーチャーの持つ兇器のようなソレに俺が身震いしたことを、動向を敏感に察するデュークがモチロン気付かないはずもなく、ゆっくりと俺を促しながら立ち上がったヤツは剣呑とした表情で醜悪な化け物を見た。
 ピンと尖った大きな耳と人間には有り得ないその鮮紅色の双眸さえなければ、デュークは超美形のモデルか俳優と言っても過言にはならない、充分人間に見える。俺はてっきり、妖魔やヴァンパイアと言った連中はみんなこんな風貌をしているのかと思っていた。
 でも、本当に禍々しい、お伽噺やゲームに現れるあの魔物の正体が、本当はデュークやアリストアのような綺麗な生き物ではないことを、目の前の化け物が克明に教えてくれる。

『…ギギぎ…』

 耳障りな金属を引っ掻くような音がして、それが化け物の口許から出ていることを知るのに数分掛かった時には、ヤツは肥大した頭部を支える筋の浮いた首を奇妙に捻らせて首を傾げると、滑るように光る真紅の双眸で俺たちを一瞥したんだ。

『…ぎぃ…キキキ…で、…デュー…ギシュゥ…』

 何か言おうと言葉にならない声を紡ぐたびに、その唾液なのか何なのか良く判らない分泌物を垂れ流す口許から瘴気のような呼気が吐き出されて、ドライアイスのような煙が宙を漂う。

「…な、んだ、アレ…」

《しー》

 思わず口をついて出た言葉に、デュークの繊細そうな人差し指が制するように口許に触れてきた。

『デュー…くぅぅぅ…きさ…キサキサ…キサマが…なぜぇぇぇッ…こぉこにぃぃ…』

 デュークの名を呼んで、化け物はそれでなくても禍々しい光を放つ双眸に、一種独特な、濡れ光る嫌悪感のようなものを浮かべたんだ。
 この化け物…デュークを知ってるのか?
 壊れたテープレコーダのように同じ言葉を繰り返しながら、やがてそれが、少しずつ明瞭な言葉として発せられるようになる頃には、俺は頭を抱えて蹲りたくなっていた。
 その声が、デュークの直接脳みそに話し掛けてくるようなあの声にでさえ頭が割れるほど痛い拒絶反応が付きまとってるって言うのに、金属を、ともすれば黒板を引っ掻くようなあの不愉快さを伴った声は吐き気がするほど頭にガンガンと響き渡る。
 不意に。
 一瞬だったが、奇妙なズレが生じた。
 ズレ…ってのが何か判らなかったけど、俺は一瞬だったがその声に嫌悪感を持って化け物から目を離した。その時だったんだと思う、気付いたら突き飛ばされていた。

「…ッて!」

 思い切り背後に転がったとほぼ同時に、タスクに受け止められたのか、すぐ真上でヤツの声にならないような悲鳴が聞こえた。
 ハッとした時には、デュークが化け物のまさに振り下ろそうとしていた腕を掴んでいた。その傍らにパタパタ…ッと何かが零れ落ちて、目に見えなくても床に溜まる液体がなんであるのかすぐに判った。
 俺を庇うことに気を取られた一瞬の隙を、狡猾な化け物が見逃すはずもなくて、デュークは生じた隙のせいで左腕をやられていたんだ。ベロンと何かが垂れ下がっていて、それが服の残骸と…皮膚の切れ端だと気付くにはさすがの俺も時間を要してしまった。そんな時間、ありはしないのに。

「デュークッ!」

 自分のせいだ!嫌な汗が背中にびっしりと張り付いて、そのくせやけに寒い室内で冷えていく指先と爪先を感じながら、俺は目の前の惨状が嘘であって欲しいと願いながら名前を叫んでいた。口の中がカラカラになっていて、思うように声にならなかったし、駆け出したい衝動に突き動かされて動こうとしてるのに、タスクにそれを遮られて俺は滅茶苦茶に暴れた。
 でも…

《大丈夫だよ》

 デュークの声音はなぜか平然としていて、お互いで威嚇していたにも関わらず、ヤツは握り締めていた化け物の腕を離すなり背後に飛び退いたんだ。それは化け物も同じで、だがヤツはしたり顔で長い鎌のような爪に付着したデュークの血液を美味そうに紫の長い舌で舐め取っている。

「デューク、ごめん!俺のせいで…」

 いつからそうなったのか良く覚えていないんだけど、俺の涙腺は確か、こんなに脆くなかったはずだ。なのに、今の俺は、デュークの痛々しい腕を見ながら思わず泣きそうになっていた。
 俺さえいなかったら…その言葉がグルグルと脳裏を駆け巡って、アシュリーの時といい今といい、忠告を無視したばっかりにいつも俺は最悪の事態を招いてしまうんだ。
 タスクの腕から身を乗り出すようにしてデュークに触れようとしたら、なぜかヤツはビクッとして、その行為を疎んで嫌がった。

《ボクは大丈夫だよ…でも、光太郎は気持ち悪いかもね》

 ぶっきらぼうにそう言って、油断なく化け物を睨み据えながら、デュークのヤツは腕からべろんと剥げてしまっている服だとか肉だとか皮膚だとかの残骸を毟り取ったんだ!無造作にコンクリの床に投げ捨てて、ビシャッと音を立てて散る自らの肉体の一部に一瞥をくれることもなく、デュークはそれまで折り畳むようにしていた腕を伸ばして肩を回した…ん?折り畳む?
 そこで俺は気付いたんだ。
 触れることを疎んだデュークの真意に。
 デュークの腕は目の前にいる化け物のソレと同じように不気味に長く、滑るような灰色の皮膚に覆われていて血管が青紫に浮き上がっていた。指先の兇器までソックリで、嫌悪感を抱かずにはいられないほど醜悪な姿を晒していたんだ。
 不機嫌そうに眉を寄せるデュークの横顔は拗ねた子供のようで、この緊迫した修羅場には似つかわしくなんかなかったけど、でも、俺はそれでもホッとしたんだ。
 アレは、あの床で鮮血に塗れた肉塊は、アレはデュークの言っていた仮初の姿だったのか。
 だったら大丈夫なのか?
 お前の腕は、剥ぎ取られたんじゃないんだよな?

「デューク、良かった!」

 俺がホッとしてそう言うと、デュークは化け物に成り果てている妖魔を睨み据えながら、それでも呆れたように眉を上げて首を傾げやがったようだった。

《気持ち悪くないの?》

「モチロンだ!そんなことよりもお前に怪我がなくてよかったよ!」

 タスクの馬鹿力を引き剥がすことはできなかったけど、俺は精一杯に身を乗り出してデュークの背中に頷いて見せたけど、それを思念か何かで感じ取ったのか、それまで強張っていた肩から少し力が抜けたようだった。

『…でゅ、デュゥークゥゥゥ…き、キキ…キサマが人間とぉ…共にあるとはなぁぁぁ!!!』

 それまで無言で動向を見守っていた妖魔は、突然壊れかけた人形のような金切り声で大音声を張り上げやがった。
 次の瞬間、妖魔は不可視の力で空気中にある水分を氷の刃に変えて、冷気の波動を投げかけてきやがったんだ!デュークは本性である長い化け物の腕を広げて一振りすると、その波動は霧散するように空気に散ってしまった。

『キキ…きさまハ……にん、…人間を嫌って……人間をぉぉ…』

《うるさいよ。時が経てば時代も変わる、それと同じように妖魔だって嗜好は変わるもんだよ》

 フンッと鼻先で笑うデュークが本性の腕を軽く振って纏わりつく冷気の名残を払うと、妖魔はギリッと歯噛みするようにギザギザの歯をガチガチと鳴らしたが、すぐにニタリと笑った。

《タスク》

 ハッとするよりも先に何かを感じたデュークが行動を起こした、次の瞬間、ガツンと何か固いもの同士がぶつかり合うような音が室内に響き渡った。
 どんな素早さでそれが可能になったのか、人間の動体視力ではとうてい見極めることなんか不可能な素早さで、妖魔はデュークの眼前に迫っていたんだ。図体のでかいその身体のどこに、そんな敏捷さが隠れていたって言うんだ!?
 デュークはそれでもやはり人間には有り得ない可能性で繰り出してきた鍵爪の攻撃を自分の腕で押さえ込んでいた、そしてすぐにその腕を掴んで身動きを封じた…ように見えたけれど、あの凄まじい力でもってしても、妖魔を完全に押さえ込むことは不可能みたいだった。
 それどころか…タスクの息を飲むような気配がして、俺は複雑に交差しているデュークと化け物の対峙を懸命に目で追っていたが、不意に、有り得ない場所に化け物の腕を見つけて絶句しちまったんだ。
 その化け物の腕…それは、デュークの胸を貫いて伸び、俺たちの方に向かって虚空を切
るような仕種をしていた。
 それでなくても蒼白の頬を持つデュークの横顔は、眉根を寄せて額には汗がビッシリと張り付いていた。
 そ、そんなこと、有り得るわけがない。
 デュークが…死ぬ?
 そんな、まさか…

「嫌だ!デューク、嫌だ!死んだらダメだ!!」

 俺は滅茶苦茶に暴れて、一瞬のことで腕の力を緩めてしまっていたタスクの腕から逃れると、ヤツの制止を聞かずに妖魔に殴りかかっていた。硬い肉に俺の拳が鈍い音を立てて減り込んだが、ギシッと軋んだ拳が悲鳴を上げただけで化け物にはイマイチ効いてないよいだった。クソッ!なんだってこう、俺は無力なんだ!
 拳でダメなら足だ!
 俺は回し蹴りと踵落しをお見舞いして臨戦したが、妖魔はやはりビクともしなくて、それどころか俺なんかには目もくれずに、ただ一心に目の前にいるデュークの綺麗な顔を睨みつけながら紫の厭らしい舌で舐めやがったんだ。

《タスク…急いで光太郎を…》

 こめかみから頬に零れた汗が鋭角的な顎を伝い落ちていく。
 充血した双眸はますます凄みを増した鮮紅色に彩られて、こんな緊迫した時だと言うのに、デュークは綺麗だった。言葉をなくしてしまった俺は、背後に近付いてきていたタスクにあっという間に抱きすくめられていた。

「た、タスク!何やってんだよ、お前!?早くデュークを助けるんだッ、俺なんか放って置いていいんだから!早くデュークをっ…」

《ダメよ》

 タスクはキッパリとそう言って油断なく妖魔の動きとデュークの動向に気を配り、俺を抱きすくめたままで首を左右に振りながら後退していく。
 な、何をワケの判らんことを!お前だって妖魔じゃねーか!

《あのデュークが苦戦してんのよ!?アタシが出てどうなるってモンじゃないわ。それどころか、今のアンタみたいに足手纏いになって苦労するに決まってんの!アンタこそ大人しくしてなさい》

 俺は唇を噛んだ。
 タスクの言葉は尤もで、いちいち俺の胸にグサリと突き刺さるから黙って…いるワケがない!んなこた判ってるさ!どーせ俺はひ弱で脆弱な人間だよ。デュークやタスクや目の前の化け物にしてみたら、指先でひねり潰せるぐらいの存在だ。でも、だからって人間を舐めんなッ!
 やってできないことなんかあるワケがねーだろ!?
 俺がもう一度タスクを振り払おうとした時だった。

《大丈夫だよ》

 デュークの声がした。
 あんなに苦しそうなのに、あれほど嫌だった脳内に響く声がいっそ心地よくて、人間なんて現金なモノで、俺はデュークの声音がシッカリしていることに安堵すらしたんだ。
 魔物を睨みつけながらデュークは、真っ赤に濡れたように光る唇の端から、その唇とおんなじぐらい真っ赤な鮮血を一筋零して、俺を安心させるように小さく笑った。

「デューク…」

『…き、きさまハ…おれ、オレノ…さ…サヤネを…』

《グッ》

 俺の言葉に被さるようにして妖魔が金切り声を上げ、デュークの表情が苦悶にギュッと歪んだ。
 貫いた腕をグリッと動かして、だからデュークの胸元からは新しい鮮血が溢れ出していた。

『サヤネをぉぉぉ…殺したオマエがぁぁ!!人間と共にあるだとぉぉぉ!?』

 ふざけるな…とその思念が憎悪を伴って渦巻く殺気として襲いかかる。その瞬間、デュークの真紅の双眸がカッと見開いて、吐き気すら催してしまいそうなその醜悪な妖魔の顔を引き寄せてニヤッと笑いやがったんだ。

『痴れ者シーク』

 不意にデュークの口許から、化け物と成り果てた妖魔と同じ金属を引っ掻くようなあの不愉快な独特の声音が漏れて、俺はなぜかギョッとした。

『あれは優しいが愚かな娘だった。最後までお前を信じた愚かで哀れなあの娘…捨てたのはお前ではなかったか?』

『ぐぅぅぅ…だだ…ダマ、黙れぇぇ!!』

 ズシャッと鈍い音がして、デュークの胸を貫いていた腕が引き抜かれると、夥しい鮮血が辺り一面にパッと散って、紅蓮の花が一瞬だが虚空に咲き誇った。そんな視覚的効果に惑わされていた俺の目の前で、デュークは一瞬だが引き抜かれる腕に誘導されるように前のめりによろけたが、すぐにグッと化け物を見据えて体勢を維持したんだ。
 恐らく、立っていることすら困難に違いないのに…本来ならけして有り得るはずがない部分はポッカリと空洞を晒すように、時折血飛沫がデュークの鼓動にあわせて噴出している。デュークが人間なら…いや、妖魔だとしてもこの深手だ、もう、ダメかもしれない…
 そんなことは嫌だよ、デューク。
 俺はお前が嫌いだけど、死んで欲しいなんて思っちゃいない。
 長くダラリと垂れ下がっている巨大な腕を振り回して言葉にならない音で喚き散らす化け物は、まるで目に見えない戒めに苛まされたように頭を振って暴れていた。地団太を踏んでいるようにも見えるその姿を、デュークは赤金の双眸を僅かに細めて食い入るように見つめている。その双眸が悲しげに見えるのは、苦痛を堪えている顔の、べったりと張り付いている疲労のせいなのか…?

『シーク…下賎にその身を貶めて、探求の末に捜し求めたモノはそんなお粗末なものであったのか?お前の愛した沙弥音の魂は、そんなガラクタでしかなかったのか?』

 デュークは、俺には判らない感情で淡々と呟いた。そして…

『くくく…だからお前は浅はかな猿知恵しかない愚か者だと言うんだ』

 辛辣さに嘲りを込めたその言葉が、妖魔の何を刺激したのか、いや、かなり刺激したに違いないその台詞に、この非常時になんだって逆撫でするようなことをしやがるんだ、お前は!…と怒鳴りたい俺の目の前でヤツはカッと見たくもないほどおぞましい光を放つ双眸を燃え上がらせて、ギッと眦を吊り上げるなり再度デュークに襲い掛かったんだ!

「デューク!」

 あの血の量だと、もう本当に立っているのがやっとに違いないんだ!
 俺はガムシャラに暴れてタスクの腕の戒めを振り解こうと懸命になったし、それをさせまいとするタスクも腹に蹴りを入れる攻撃に眉を顰めながら臨戦しやがったから、俺はただ、ここでこうして指を咥えてデュークが死ぬのを見ていないといけないのか!?
 アイツの次は俺たちなんだッ!ここでボサッと観戦してたって殺られるのが少し延びるってだけのことじゃねーかよ!そんな延命ならお断りだ。俺は精一杯戦って死ぬ方がいい。
 決意した。
 諦めたフリをして一瞬の隙を突こう…ちょうどそう考えた時だった。

《双方そこまで~☆なんちゃって》

 あまりにも緊迫した空気には不似合いの声音が響き渡って、ポカンとする俺の目の前、デュークと化け物の中央の空間からヒョコッと覗いた青い二股に分かれたピエロの帽子。
 あ、あれは…?

『アーク、お前は相変わらず遅い』

 デュークが赤金のようになった双眸でギロッと、中空からヌッと両腕を出して顔を覗かせるふざけたピエロを睨んだ。

《だって面白かったもの。でもまさか、遠き異国の旅人がシークだったなんてね~》

 指先で軽々と妖魔の動きを止めてしまったアークは、血の気の失せたデュークの顎に空いている方の指先を添えてうふふんと笑っている。
 …なんて、場違いで嫌なヤツなんだ。
 俺が呆れたって仕方がないんだろうけど、デュークのヤツは少しホッとしたように息をついた。

《デュークの、伯爵さまの血を汚すワケにはいかない。ここはボクがお相手》

 ニッコリと不気味に微笑んで、アークが指先を回すようにすると妖魔の身体の周りが次第にボウッと発光した。光なのか、それとも空気中の重力が圧縮でもされているのか、空間がグニャリと歪んで妖魔の身体を飲み込むように急速に光が音もなく消えていく。それは一瞬のことで、気付けばアッという間にもとの静寂とした闇が戻ってきていた。
 …なん、だったんだ、いったい?

《ヤバイ。失敗してるかも?ちょっと行ってくる》

 俺が呆気にとられていると、青いピエロは怪訝そうに眉を寄せて暫く虚空を睨んでいたが、ハッとしたように双眸を見開いて慌てたように来た時と同じように唐突に漆黒の闇に滲むように消えてしまった。
 何から何までが一瞬のような出来事で、今までの俺たちの努力はいったい…いや、そんなこたどうでもいい!今はデュークだッ。
 呆れたように溜め息をついたタスクは何時の間にか腕の力を抜いていて、ガクッと冷たいコンクリの床に片方の膝をついて屈み込んでしまったデュークに、俺は思わず駆け寄っていた。

「デューク!おい、デューク!大丈夫か!?」

 額にビッシリと嫌な汗を浮かべているデュークは、釣り上がり気味の切れ長の双眸を僅かに細めて、心配そうに覗き込んでいるだろう俺の顔を見上げて小さく笑いやがったんだ。

《光太郎…心配してくれるの?》

「当たり前だろうが!このヘッポコ妖魔!」

 押さえ込むようにしている胸元は、繊細そうな白い指先を濡らして、吹き出す鮮血が真っ赤に染め上げている。本性を晒してしまった左腕を庇うように身体を傾いでいるデュークは、俺に触れようとして、でもその指先が血塗れになっていることに気付くと苦笑して諦めたんだ。

《アークったらもう!ホントに遅いんだからッ。きっとまた高見の見物してたのよ。根性悪いんだから~》

 タスクがヘトヘトに疲れきったように溜め息をついて俺たちの背後に近付くなり、青いピエロが消えてしまった空間を睨み据えながら悪態をついた。

《アークったら最低。取り逃がしちゃってるよ。馬鹿だね》

《馬鹿はアンタよ》

 呆れたように胸元を抑えているデュークを見下ろしたタスクは溜め息をついて、俺に傍らに退いておくような仕種をしてから屈み込むようにしてその胸元を覗き込んだ。

《全く!自分の血液を代償にするなんて大馬鹿者よ!おまけにおっかない奥様を貰ってるんだから。アタシなんて蹴り5発、パンチ十数発よ?慰謝料でも請求しようかしら》

 ブツブツと本気だとも冗談ともつかない悪態をつきながら、それでも熱心に患部を覗き込むタスクの背後で、俺はハラハラしながらそんな2人を見守っていた。
 そんな俺を、デュークのヤツは真っ赤な口許に笑みを浮かべてジーッと見上げてるんだけど、そんなことに構ってられるかってんだ。

「ど、どうなんだよ?なあ、タスク…」

《やーね、どうして光太郎が死にそうな顔してんのよ?大丈夫、大したことないわ》

 服を掴んでグイグイ引っ張る俺に犬歯をむいて威嚇しながら、タスクはやれやれと呟いて立ち上がるなりそう言ったんだ。へ?こんな重症で、血がたくさん出て、あんなに辛そうにしていたのに大丈夫だと!?エセ診療をしたんじゃねーだろうな?
 こうなったら俺の知り合いの医者を呼んで診てもらった方が…

《大丈夫だよ》

 不意に何度も聞いた台詞が聞こえて、俺はデュークを見た。デュークを見て、ぶったまげた。
 その胸元にポッカリと開いているはずの傷が、あのザックリと抉られていたあの傷跡が、服の下から覗く皮膚に引き攣れたような傷跡を残しているだけで、綺麗さっぱり消えていたんだ。
 俺は思わず屈みこんで、床に膝をついているデュークの服を引っ掴んで乱暴にその胸元を覗き込んでしまった。

「傷が…消えてる?」

《うん。そんな大したことないから、大丈夫だよって言ったでしょ?》

 あっけらかんと言ってるくせに、でも、デュークの顔色は紙のように白い。
 具合が悪くないはずはないって判っているけど、それでも、元気そうなヤツの表情を見ていたらスッと力が抜けちまって、思わずその場にへたり込んでしまった。

《やっぱ、気持ち悪いかな?》

 デュークが心なしか不安そうな表情でそんなこと言って覗き込んできても、俺は相手をしてやれる気にもなれなくて、ただホッとして息をつくしかできなかったんだ。

「や、無事で何より…」

《無事ってワケでもないのよね》

《タスク》

 タスクが散乱してしまっている衣服の残骸を拾い上げながら、本性の腕を晒しているデュークを呆れたように見下ろして呟くと、デュークがムッとしたように名前を呼んだ。

「やっぱり…どっか悪いのか!?」

 俺が慌ててデュークの襟元を締め上げると、タスクがくすくすと鼻先で笑いやがった。

《いいじゃない、奥様なんだから》

 服の残骸を棚に戻して、何やら黒い塊と化したデュークの腕の残骸を拾い上げて始末しながら、タスクは肩を竦めて膝をついている妖魔の反撃の双眸なんかどこ吹く風と言った感じで全く相手にせずに言い放つから、それはどうやら、俺によってどうにかなる類のことらしい。

「なんだよ、デューク。俺でできることなら何だってしてやるぞ?」

《ああ言ってるんだし…》

《やだね》

 デュークが子供のようにプイッと外方向く。
 その顔を引っ掴んで無理矢理こっちを向かせて引き寄せると、俺は歯をむいた。

「何を駄々こねてんだ、このスカンチン妖魔!身体大事に、命大事に!がモットーだろうがよッ」

《それは人間だけでしょ…はぁ》

 デュークは拗ねた子供のように下唇を突き出して言ったが、踏ん張る俺に諦めたように溜め息をつきやがった。なんだ、その態度は。この俺様がわざわざお前なんかの為に一肌脱いでやろうって言ってやってんのに!

《有り難いけどね…ボクは、もう二度と光太郎から血を貰おうとは思っていないもの》

「…血?血が欲しいのか?」

《軽蔑するでしょ?》

 即答に、不安交じりの複雑な感情が交じっていて、それでなくても晒したくもなかった本性を無様に晒してしまってバツが悪いってのに、よりによって血液が欲しいなんてどんな口で言うんだと、デュークの金と赤の微妙な色合いを持つ不思議な双眸が不機嫌そうに物語っている。
 血…血か。
 吸血鬼なんて言うなと言ったデュークは、やっぱり吸血鬼だったのか…

「そらみろ。やっぱり吸血鬼だったんじゃないか!」

 関係ないとは思いながらも、コイツに犯られちまった時のことを思い出して、俺は自分の首筋に触れながら胡乱な目付きでデュークを睨んでやった。

《別に…ボクは吸血鬼じゃありません…なんて言ってないよ?》

 キョトンとしてデュークのヤツが首を傾げるから、俺はよくよく思い出したんだ。
 コイツはなんて言ってたっけ?

(吸血鬼!?よして。吸血鬼になんかするワケないでしょ?)

 …だったっけ?
 うう…ホントだ。コイツは別に自分は吸血鬼じゃない、なんて一言も言ってねぇ。
 探偵業に就いているくせに物覚えの悪い自分の頭を恨めしく思いながら、俺はうるうると涙を堪えてデュークのヤツに言ってやった。

「判った。だったらとっとと俺の血でよけりゃ吸っちまえ!」

 おお!今日の俺はなんて仏様なんだ!
 タスクは呆れたように俺たちの遣り取りを見物していたが、馬鹿らしいと思ったのか、肩を竦めて《事務室に行ってるから好きにしてなさいよ》と言って立ち去ってしまった。
 その後姿を見送っていたデュークは、不意にちょっと意地悪な顔をして俺を見ると小さく笑ったんだ。

《タスクがいなくなったよ。逃げ出すなら今がチャンス!…って思わない?》

 その途端、俺はハッとした。
 そうだ。
 俺はずっと逃げ出すことばかり考えていた。運が良ければ今日だって逃げ出してやるんだって…デュークは血液不足で力が出ないんだろうし、あのおねぇちゃん言葉が様になる妖魔もいない。
 本当だ、全くもって今がチャンスって感じじゃねーか!
 俺は散乱しちまった室内を見渡して外に通じるドアが弾き飛ばされていることを確認すると、それから、傷付いて、外見的には平気そうにしてるくせに、内面的な部分でかなりのダメージを被っている妖魔を見た。
 本性の末端が曝け出されている双眸は、いつも見るあの金の綺麗な瞳じゃなくて、爬虫類が、特にイグアナが持っているだろう、あの金に赤の縁取りのある独特な目で、俺をただ静かに見守っている。
 逃げるか、このままここに残るのか?
 …決まってる。結果なんてたった1つしか弾き出せないのが、人間の無能な頭が弾き出す答えだ。
 それも自分に一番有利な道を選ぶしかない、腐りきった人間の出す答えなんかただ1つ。
 俺が逃げ出そうとしていることを、ずいぶん前からこの妖魔は知っていたんだろう。
 事の成り行きに任せながら、いつかそのチャンスが来たら、俺を手放すつもりでいたのか?
 言葉の端々にあったあの躊躇いのようなものは、いつか俺を手放す時に、自分の理性が収まるだろうかと心配していたんだろう。だから、敢えて自分が傷付いたこの時を狙ったんだろうな。
 馬鹿なヤツだ、お前って。
 もともとヘンなヤツだとは思っていたんだけどな、タスクが言うように馬鹿なのはお前の方だ。
 やれやれと、俺は溜め息をつく。
 溜め息をついて、袖を捲くった腕を差し出した。

 《…光太郎?》

 デュークが、ヤツにしては珍しく困惑したような表情を見せて首を傾げやがるから、俺はその口許に強引に自分の手首を押し付けてやったんだ。

「俺もとことん自分が馬鹿だって思うよ。そら、吸えよ!」

 一瞬、怯んだようにデュークは俺を見たが、それから、クスッと笑って目を閉じると俺の手首に口付けたんだ。

《手首なんか噛まないよ》

「首筋か?いいぞ、ほら」

 そう言って咽喉元を晒すと、デュークは抑えがたい欲求に耐えるように開いた目をもう一度閉じて、それからゴクッと咽喉を鳴らしたんだ。かなり餓えているし、理性の限界も近そうだと鈍い俺にも良く判った。殺されるかもしれない…そんな考えがチラッと脳裏を過ぎりもしたけど、それでも仕方ない。俺はこの妖魔を見捨てられないんだ。

《…ボクは、もう二度と光太郎から血は吸わないって自分に誓ったんだよ。あんなに嫌がることを、愛するヒトに強制するのはよくないって》

 震える吐息が頚動脈のすぐ上の皮膚に触れて、俺はなぜかギクッとした。
 怖い。
 血を吸われることにモチロン慣れているはずもないこの俺が、平気でいるってのもおかしな話だ。ましてや前回吸われた時だって、意識がなかったのが救いだったってのに…
 それでも、ふわりと片腕だけで抱き締められると、デュークのひんやりした身体が沸騰しそうになった俺の意識を冷静に引き戻してくれて、まあ、いいかって思えるように落ち着いた。
 どうせ、1回吸われるも2回吸われるも一緒じゃねーか。
 吸血鬼にならなきゃ…俺はアシュリーと逢える。
 甘い考えかもしれなかったけれど、俺はそれでもやっぱり、デュークを見捨てることもできないんだ。

《ボクは…もう二度と。沙弥音の二の舞を見たくないのに…なんて罪深い》

 そう言って、デュークは目を閉じた。
 泣いてるような仕種に俺はどうしてそうしようと思ったのかよく判らないんだけど、片手を背中に回して、もう片方の手でその頭を抱くようにして首筋に押し付けていたんだ。

《光太郎…ごめんね》

 呟きが終わるか否かの時だった。
 デュークの口許に煌く犬歯が牙をむき、鼻にシワを寄せたヤツは妖魔そのモノのような禍々しい相貌で俺の首筋に喰らいついたんだ!

「…ッ!…ぅ、……ぐッ!…あ、……あぅ!」

 メリメリ…っと、皮膚を切り裂いて肉を貫く刃のような牙は、お目当ての頚動脈を噛み切るようにして切り開くと、溢れ出した鮮血を舌を蠢かして咽喉元に流し込んでいく。その行為は、身体中を切り裂かれるような苦痛と、初めて抱かれた時に感じたあの激しい激痛を思い出させ、俺は歯を食いしばりながらデュークの背中を引っ掻くようにして力任せに抱きついていた。
 漏れる声は苦痛と痛みと…快楽めいたものに犯されていて、なぜか、認めたくはないのに淫らな喘ぎ声そのものだった。
 不意に酩酊感のようなものが襲ってきて、頭の芯が痺れるような、フワフワとした夢見心地に足が地に付かない感じがしたが、そのすぐ後にスパークする閃きのようなモノを感じていた。これは一種の性行為のようで、アリストアが言っていた、官能的なキスの意味を我が身を持って思い知ってしまった。
 官能的な口付けを施すデュークは、一心に何かを見つめるように虚空を睨みつけていて、時折俺の鼓動に合わせて脈打つ血管から牙が外れそうになるのを噛み締め直したりしながら、血液の甘い味を思う様堪能しているようだった。

「…ん、…うぁ……ッ、…あ」

 淫らな快楽に犯されていく脳に比例するように、俺の下半身には失っていくにも関わらず、血液が集まっていた。感じていたんだと思う。
 デュークの牙は収まりがいいように体内で蠢いて、その行為に従うように快楽が官能の灯火を脳裏に打ち込んでいく。冷たい牙は、以前抱かれた時に体内に受け入れたあの、熱い楔を思い起こさせるには充分すぎるほどの刺激だった。

「デュー…」

 呟きかけた名前は結局最後まで言えず、朦朧とする意識のなかで、唇に触れる甘い血の味を感じていた。
 俺は結局、デュークに血を吸われながら、そのまま気絶してしまっていたんだ。

◇ ◆ ◇

 気を失っていたのはそんなに長くはなかった。
 ペロリと傷口を舐められる感触で、霞みのかかった両目を開いて自分がどうなっているのか確認しようと、朦朧とする頭を振ったところで、デュークの聞き慣れた声がしたんだ。

《光太郎?大丈夫?》

「…デューク?大丈夫なのは…ッ、お前の方だ」

 憎まれ口が叩けたのは自分なりに天晴れだと思うけど、喋るたびに咽喉元が引き攣れるような感じがするのは…やっぱりアレが夢じゃなかったってのを物語っているんだろう。オマケのこの頭痛と眩暈は…

《ごめんね、また無理をさせちゃったみたい。見境なくなるね、光太郎の血はとても甘いから》

 そんなゾッとすることを言いやがる元気そうなデュークの腕の中で俺はホッと息をついたけど…ん?両腕がある。ってことは、もう随分と大丈夫なようだな。
 あーあ、これで俺はせっかくの逃げ出すチャンスを失ったってワケか。

《ちょっと残念?でも、ボクは。光太郎が逃げ出さなかったことがとても嬉しくて。思わず犯っちゃいそうになりました》

 エヘッと笑われても困る。
 なんてヤツだ、クソッ!この次は絶対に逃げ出してやるからな!
 そう思いながら、俺はなんか凄く体力を使った後のようにヘトヘトで、抱きかかえてくれているデュークにそのまま体重を預けながら溜め息をついたんだ。それぐらいはさせろよな~、ったく。
 一時はどうなることかと思ったけど、コイツが無事でよかった。
 判らないことだらけで、聞きたいことは山ほどあるし…血をやったんだから情報ぐらいは貰っとかないとな。ギブ&テイクってヤツだ。

《光太郎、ありがと。嬉しかった》

 子犬…と言うにはデカすぎて凶暴すぎるけど、犬のように額を摺り寄せてきてご機嫌に笑うデュークに、俺はくすぐったくて首を竦めながらその片方の袖が引き千切られている服の襟元を引っ掴んだんだ。

「やい、デューク!探偵ってのはギブ&テイクだと相場が決まってるんだ。血をやったんだから、俺の質問に答えろよ!」

 ポカンとしたように、いつもの金色の双眸に戻っているデュークは目を丸くしたが、次いで、ムッとしたように唇を尖らせた。

《なるほど。情報を聞くために血をくれたってワケだね》

「当たり前だろ!?情報のためなら血ぐらい幾らでもくれてやる」

 貧血起こして頭がクラクラしてるけど…

《…命懸けだね》

 デュークは困ったようにちょっと苦笑して、仕方ないなぁ…と呟いた。

《問題はきっと【遠き異国の旅人】のことで、シークの正体ってワケでしょ》

「ああ。なんか…その、お前の知り合いなんだろ?」

 デュークの腕に凭れていないと満足に座ることもできないぐらいの量をくれてやったんだ、それぐらいの価値がある貴重な情報を提供しろよな!…ってか、俺ってばいつもこんな手段で情報をゲットしてるような…気のせいだ。うん、気のせい。

《それにはまず、ボクとアークとシークの関係を話さないとねぇ…》

 いつものピエロのあのふざけた化粧をしていないのにデュークの肌はもともとから綺麗なのか、女の子がどんな手段を使ってでも手に入れたいと思うような染み1つない肌は、吸収した血潮で生気を取り戻しているようだった。

「それと、サヤネだ」

《…そこまで聞いてたの?恐るべし地獄耳。さすがは探偵さん》

 ムッとした不機嫌そうなツラをして、スマートではない厭味を言ってのけたデュークのヤツは、それでもポツポツと話し出した。

《どこから話そうかな?たとえばそうだね、まだ倫敦にガス灯があった時代。19世紀の初頭のお話なんかどう?》

 陽気な語り口調、でも…
 本当に話したくなかったのか、話すという行為を明らかに疎んでいるようなムスッとした表情をして、デュークは遠い昔に起こった、俺には判らない出来事を、思い起こすように懐かしむように双眸を細めたんだ。

《悲しい悲しい妖魔のお話。ねえ、人間の光太郎。覚悟して聞くんだよ》

 そう言ってデュークは、貧血でクラクラする俺に口付けてきた。
 突発的なことでギョッとする俺に、デュークはしてやったりの顔でクスッと笑う。
 クスッと笑って、何かを断ち切るように硝子の弾けた電灯が並ぶ天井を振り仰いで、遠い、俺が生まれるよりももっともっと遠い昔の、誰も知らない妖魔たちの話を始めたんだ…