第一話 花嫁に選ばれた男 22  -鬼哭の杜-

 目の前の龍に恐れをなして目を回しはしたものの、ちょっと待て!こんな状況で倒れるワケにはいかんだろ!!?…と、我が身を落ち着かせて、俺は恐る恐る伝説上の語り草でしかないはずの、永遠に、きっと目にすることなんかないだろうと思っていた、あまりにも荘厳で、神秘的な青白い龍を見上げていた。
 不思議な龍が、恐らく蒼牙であることは判ってるんだ。
 ただ、あれほど何度も『龍の子』だと聞いていたのに、どうして俺は、その存在をこれぽっちも疑わなかったんだろう。
 今は、気付けずにこんな失態を仕出かしちまった自分の態度に、死ぬほど腹立たしくて仕方ない。

「…蒼牙、だよな?」

 そんな、第一声がありふれた質問だってことにも、頭の芯が痛くなるほどムカツクんだ。

《そうだな。驚いたか?》

 頭に直接語りかけてくるような、膜の張った向こうから聞こえるような、どこか違和感のある声音は、それでも仕方なさそうな苦笑を滲ませていた。

「少しな…でも、怖くなんかないからな」

 それだけは言っておかないと。
 俺は、それこそ不思議なんだけど、死ぬほど魂消たってのにさ、驚くことに少しも怖くなんかなかった。
 それどころか、この空想でしか有り得ないだろうと思っていた伝説の龍を見られたことが、どこかちょっぴり嬉しかったりするんだから…現金なモンだよな。

「まぁ、俺が天女の末裔なんてのも有りなワケなんだから、蒼牙が龍であったっておかしかないんだろう」

 漸く最初の衝撃から落ち着けたのか、俺はホッと息を吐いて、今や近寄り難い存在となってしまっている蒼牙を見上げて笑ってそんなことを言っていた。

《…光太郎らしいな》

 ボソッと言った感じで、蒼牙であるはずの龍は呟いたようだった。

「へ?」

 首を傾げながらも、今や見上げていないとその顔すらも見られないほど大きな龍に間抜けな返事をしていたら、青白い龍は不意にグイッと巨体をくねらせて、微かに青白く発光している不思議な鱗に覆われた鼻面で俺の頬にソッと触れてきた。
 それで、俺が本当に怖がっていないのか、或いは、怖がらせないように免疫を付けさせようとでも思ったのか、どちらにしてもその行為こそ、蒼牙らしいと笑えちまうんだけどな。

《小手鞠どもの真実の姿を見たときでさえ、アンタは怯えもしなかった。だからこそ、俺はそんなアンタを愛してるんだ》

「あ!そう言えば地蔵さんたちも龍だったな!!そっか、そうだよな。なのに、気付かなかったなんて…俺ってば迂闊すぎだ」

 頬にスリスリされて擽ったいんだけどさぁ、今の俺はそれどころじゃない。
 そうか、地蔵さんたちだって龍だったんだし、ここには座敷ッ娘だっているってのにな、どうしてこんな簡単なことに気付けなかったんだろう。
 トホホ…っと、思わず項垂れてしまう俺に、龍の姿になってるとは言っても、根本は確り蒼牙なワケだから、青白い龍は落ち込むなとでも言いたそうに鼻面をさらにスリスリと摺り寄せてくる。

《気付かなくて当たり前だ。現代の日本では、既に俺たちの存在など時の流れの中で風化しているのだから》

 仕方ないんだと苦笑しているような声音に、俺は励まされでもしたのか、それとも、その台詞があんまり寂しそうだったから、落ち込んでることをサッパリと忘れちまったのか…どちらにしても、現金な俺は龍の顔にソッと触れていた。

「じゃあ、俺は幸運だったってワケだな。みんなが忘れているはずの連中に、悉く会えてるワケだし♪」

 その、冷たいとばかり思っていた温かい顔に触れたままで、エヘヘッと満足そうに笑えば、蒼牙のヤツは一瞬呆気にでも取られたのか、綺麗な真珠色の牙が羅列する口をポカンッと開けた、龍にしては間抜けな顔をしやがったんだ。

《きっとアンタは、悲しい巫女にはならないだろう》

「え?」

 それは、鬼を愛して、でも報われない愛だったから死を選んだあの巫女のことか?

《いや、正確には違う》

 まるで俺の考えていることを読み取ったかのような台詞にドキッとしたものの、鬼と巫女の昔話を教えてくれとせがんだんだから、俺の考えてることなんか判って当たり前じゃないか。

《それに、ソイツは巫女じゃないし、鬼は鬼じゃない》

「??…どう言うことだ?」

 青白い神秘的な龍は、まるで俺に背中に乗れとでも言うように長い胴体をくねらせる様にして低くしながら、首を傾げている俺の背中を鼻先でつつくんだ。

《大飢饉の年、龍刃山の守護龍は生贄を要求した。勿論、食う為じゃない。子孫を残すためだ》

 よっこらしょと、まるでおっさんみたいな掛け声を反動に龍の背中に乗りながら…って、おお!案外乗り心地がいいじゃないか。
 なんか、もっとこう、ゴツゴツしてて背中の突起物が刺さるかと思ってたんだけど、驚くことにヒレのように柔らかいんだ。
 そんな風に、龍の背中に感動している俺を乗っけたまま、蒼牙は《落ちるなよ》と一言注意してから、上体を起こすようにして天高く飛翔したんだ!

「うっっわぁぁーーーーーーー!!」

 それは、たぶん。
 現実的にはけして有り得ない体験だったと思う。
 大きな満月は小さな山村を照らし出していて、青っぽい陰影が何処までも続く世界は息を呑むほど綺麗なんだ。こんな御伽噺、どうして俺が経験できるんだろうと、気付いたら泣いていた。
 きっと、天女の羽衣がなければ寒さに凍えて凍死していたに違いないんだろうけど、風も月も龍も、何もかもが優しく温かく俺を包み込んでくれていた。
 日本はとてもちっぽけなんだけど、こんなに素敵な存在を懐に抱いているんだ。
 どうして、ああ、本当にどうしてこんな簡単なことに、俺たちは気付けないままなんだろう。
 自然の僅かな隙間にだって、こんな風に転がっているに違いないのに…田舎を忘れてしまうほど、何に追い立てられて毒されているんだ。

《お気に召したか?》

 冗談っぽく蒼牙がそんなことを言うんだけど、今の俺は悪態をつけるような状態じゃない。 恥ずかしいんだけど、まるで子供みたいに素直に感動していたんだ。

「もっちろんだ♪有難う、蒼牙!」

《俺の妻が喜ぶのならば、何度でも飛んでやるさ》

「そうか?だったら、何度でもおねだりするだろうな♪」

 どんな台詞だって、こんな素晴らしい景色を見せて貰えるんなら喜んで聞くに決まってる。 俺が蒼牙の背中のヒレ(?)のようなモノにしがみ付きながら笑っていたら、青白い龍はたぶん、雰囲気で判るんだけど、どうも照れているようなんだ。

《おねだりか、それも悪くないな》

 そのくせ、しみじみとそんなことを言ってくれるから、今度は俺の方が顔を真っ赤にしてしまう。
 なんなんだ、俺たちは。
 まぁ、まだ祝言は挙げてないワケなんだけど、心の中では俺はもう、蒼牙の嫁だと思っているワケなんだから、気分的には新婚なんだし、こんな2人でも別にいいんだよな。
 と、自分に言い聞かせてみて、さらに盛大に照れてしまっている俺をサラリと無視して、蒼牙はどうやら本題に入ってくれたようだ。
 いや、そうじゃないとたぶん、困っているのは俺だ。

《そんな風に、おねだりをされていたのだとしたら、紅河は見誤ることなどしなかっただろうにな》

「こうが…?」

《そうだ、大飢饉の年に花嫁を要求した龍刃山の守護龍にして呉高木家の10代目の当主だ》

 俺の幻想は、強ち外れていたワケではなかったのかもしれない。
 ほっそりした白い手で逃してしまった小魚を、愛しそうに見詰めていた不思議な雰囲気の存在を、真っ赤な髪の男は切なそうな眼差しで見詰めていた。
 愛されているのか、愛されていないのか…もしかしたら、天女の末裔ではなかった人間を、最初で最後に惚れ込んでしまった蛟龍の子孫だったのかもしれない。
 もしも俺が、天女の末裔ではなかったとしたら、それでも蒼牙は俺を愛してくれたんだろうか。
 千切れてしまいそうな心を持て余してでもいるようだったあの、深紅の髪の男のように。
 呉高木紅河。
 呉高木家の10代目の当主の悲恋を、どうして俺は、こんなに聞きたいと思ってしまったんだろう。

第一話 花嫁に選ばれた男 21  -鬼哭の杜-

 俺を静かに下ろした蒼牙が佇む山頂はそこだけが木も生えていなくて、ぽっかりと開けていた。
 月が、まるで手に届くような近さに感じて、俺は一瞬、眩暈すら覚えた。
 だって、こんな浴衣姿でそんなに高くまで登って来ていないはずの山頂を照らす月は、今まで見たこともないほどの大きさで、もし月光浴とか楽しみたいんだったら、絶好のスポットだなぁとか、そんなどうでもいいことばかり考えている俺は、ふと、思うんだ。
 深夜に仕事部屋から戻ってくる蒼牙は、もしかしたら、こんな風に、夜毎この月を見上げて村の行く末を案じていたりするんじゃないかと、そのまだ若い双肩の重い使命のようなものに、やっぱり俺は、ソッと眉を寄せて傍らに立つ綺麗な呉高木家の当主を見上げていた。

「月光浴には最適だな」

 本当は心地好い沈黙だったんだけど、何時間だって、こうして蒼牙と二人きりで月を見上げていたい気分だったんだけど、それでも俺は、おどけたように、たゆたうように穏やかな沈黙に水を差しちまった。

「…月光浴だけではないよ。月の光は時に人を狂わせるが、一様に、真実を映し出す無常の光でもある」

 蒼牙が何を言いたいのか判らなくてソッと眉を顰めてその真意を探ろうと、間近にある男らしいキリリとした相貌を見上げたら、何処か自嘲気味に笑う蒼牙の顔を見つけてハッと目を瞠ってしまった。
 物言いたげなその眼差しには閃くような決意が浮かんでいて、俺は唐突に一人取り残されるような、心許無い不安から蒼牙の着物をギュッと掴んでいた。

「どうした?」

 決意しているくせに、揺ぎ無い想いを秘めているくせに、殊更なんでもないことだとでも言わんばかりの顔つきをして笑うなよ。
 お前は覚悟していても、いつだって腰抜けの俺は不安で仕方ないんだ。
 まさか、これで、お別れだとか言うんじゃないだろうな??
 垣間見たに過ぎない幻想を真実のように思い込んで俺は、どうしてこんなにも不安になるんだろう。
 結末がたとえ同じだったとしても、俺自身がそれを阻止してしまえばどうってこたない。
 そんなこと、判り切っているはずなんだけど、それでもやっぱり、『運命』なんて言う陳腐な言葉の持つ重みに意気地なしの心が震え上がってるのかもしれない。
 真夏だと言うのに、山は寒い。
 それとも、頼りない気持ちが感じさせる錯覚なんだろうか…

「なんて顔をしているんだ?まるで、取り残された犬みたいな顔だぞ」

 蒼牙が静かに笑った。
 17歳の若き呉高木家の当主は、いつからこんな笑い方を覚えたんだろう。
 俺が17歳の頃なんて、戸惑いながら手探りで生きる…なんて、んな殊勝な真似はできなかった。いつだって向こう見ずの無鉄砲さで、なるようにしかならないと思って生きていた。
 その点で言えば、蒼牙もその通りなのかもしれない…いや、コイツの場合は、その上に傲慢不遜大人顔負けってのまでついてくる。
 って、よく考えてみたら、とても戸惑いながら手探りで生きているようには見えないな。
 でも、違う。
 蒼牙は、同じ年の少年の持つ奔放さがないんだ。
 思慮深い面差しで静かに笑みを湛えた姿は、その眼差しに見詰められるだけで、俺は泣きたくなるほど切なくなる。

「蒼牙…その」

 何が言いたいんだろう?
 何が言えるんだろう?
 逡巡して躊躇って、でもそんな余裕はないから、俺は引っ掴んでいる着流しを思い切り引っ張って…って、俺如きの力なんかじゃビクともしない蒼牙だから、反対に俺はその胸元に飛び込むようにして頬を寄せたんだ。

「…光太郎?」

 突然、抱きついた俺に一瞬だけ驚いたようだった蒼牙は、それでもまるで安心でもさせようとするかのように、そんな俺をやんわりと抱き寄せてくれたんだ。

「俺を!」

 馬鹿みたいに怒った口調のままで、俺は両手でギュッと着物の胸元を握り締めながら、両目を瞑って思い切り言ってやった。

「俺を独りになんかするんじゃねーぞ!絶対に、俺より先に死んだりとか、何処か遠くに行ったりとかしたら駄目なんだからなッ。それに、お前は生涯、俺だけを好きでいるんだ。愛人とか…他の誰かを好きになったりしたら…俺が何処かに行くんだからな!」

 子供みたいに駄々を捏ねているのかもしれない。
 子供を授かる身体を手に入れてしまったのだとしたら俺は、それまで、仕方ないと諦めていた呉高木家の古い因習の『愛人を認める』なんてこと、考えられなくなっていたってのは否めない。
 だからこそ、蒼牙が言ったことが正しいのなら、真実を映し出す無常の光である月光の下で、俺は言っておきたかったんだ。
 醜い我が侭なのかもしれないけど、たとえそれが、守られない約束だったとしても、俺は俺の意思をキチンと伝えておきたかった。
 そうじゃないと、これから聞いてしまう何か大変なことを、受け入れられないかもしれないから…俺はきっと、凄く弱い人間だから。
 ごめんな、蒼牙。
 カタカタと、意気地なしの肩が震えて、蒼牙が今、どんな顔をしているのかを見る勇気すらなくて、俺は目を閉じたままでその答えを待っていた。
 ふと、蒼牙はまた、あの笑みを浮かべたようだった。
 はにかむような、照れ臭いような…雰囲気が、あんなに張り詰めていた空気が、まるでフッと肩の力が抜けたように軽くなったから、俺は恐る恐る顔を上げようとして、反対に蒼牙のヤツに頭を押さえ込まれてしまった。
 と言うことはだ、つまり俺の顔は必然的に蒼牙の胸元に押さえつけられる形になったワケだから、その珍しい表情を見ることはできなかったってことだ。

「俺は言わなかったか?生涯、アンタだけを愛し続けると…なるほど、それだけでは納得できないんだな?では、すぐにでもその身体にじっくりと教えてやってもいいんだぞ」

「グハッ!」

 思わずギョッとする俺に、蒼牙のヤツはクスクス笑うと、あちゃーっと眉を寄せている俺の肩を掴んで顔を覗き込んできやがったんだ。

「…だが、それは晦の儀まで取っておこう。楽しみは引き延ばされれば引き延ばされるほど、喜びが倍増するからな」

「なんだよ、それは」

 ウヒーッと顔を真っ赤にしたままでムッと唇を尖らせると、今夜は機嫌が頗る良いのか、蒼牙は相変わらずクスクスと笑いながら尖らせたまんまの唇に啄ばむようにキスしてくれた。
 思わず目を閉じてしまったら、蒼牙は懐から何時の間に取り出したのか、何かふわりとしたモノを俺の肩に羽織らせてくれたんだ。
 寒くはないんだけど…そのふわりとしたモノは、心地好い温もりを与えてくれる。
 なんだろ、これ。
 ふと、閉じていた瞼を開いて、間近にある蒼牙の顔を見詰めながら首を傾げたら、件の青白髪のご当主様は、何処か困ったような、複雑な表情で微笑んだまま、そんな俺を見下ろしてきたんだ。

「なんだ、これ??」

 ふわりとした、半透明の桜色の不思議な布は、まるで羽根のような軽さで、いや、乗っかっているのかも判らないほどの存在感のなさで、俺の肩に引っ掛かっている。

「判らないのか?」

「…いや、布ってのは判るけど」

 俺のすっ呆けた返事に、流石の蒼牙も呆れたのか、仕方ないヤツだとでも言いたそうな顔つきをして俺の色気もクソもない髪に唇を落としたんだ。

「これは…遠い昔に、俺の先祖が隠してしまった【天女の羽衣】だ」

「へ??」

 座敷ッ娘が言っていた、おっちょこちょいの天女が失くしてしまった羽衣が、これだって言うのか??

「んな、まさか」

「それがまさかじゃないのが、呉高木家であり、楡崎家なんだろうよ」

 クスクスと蒼牙が笑えば、俺もなんだか可笑しくなって笑ってしまう。
 そうだよな、なんでも有りが龍の末裔の呉高木家であり、天女の末裔の楡崎家なんだろう。

「天女が失くしてしまったと思い込んでいた羽衣は、実は天空に帰したくなかった蛟龍が必死に考え出して導き出した得策の成せる業で、呉高木家の蔵の中に眠っていたと言うワケだ」

「なるほど。ってことは結果的に、楡崎の当主と引き合わせることになったんだから、得策どころか、とんだ愚作になっちまったってワケだな」

「そこまでは蛟龍も考えてはいなかったんだろうよ」

 蒼牙はそう言って笑うと、少しだけ目線を伏せてしまった。
 もし、何事もなく天空に帰していたら、或いは、こうして永い時を超えて連綿と受け継がれてきたこの不毛な連鎖など起こらなかったのかもしれない。
 そんなことを、蒼牙は考えたんだろうか…?
 ギュッと掴んでいた着物を握る手に力を込めたら、青白髪の神秘的な長い睫毛を瞬かせて、蒼牙は不思議な青みを帯びたドキリとするほど真摯な双眸で見下ろしてきたから…俺はちょっぴり頬を染めながら、それでも確りとその目を見据えて言ったんだ。

「それでも俺は、そんなお茶目な蛟龍に感謝してるんだぜ。こうして、俺は蒼牙と出逢えたんだ。たとえそれが、先祖の因縁だとかそんな不確かな原因であっても、やっぱり俺は、感謝する。うん、絶対だ」

「…そうか」

 何が嬉しいのか、切なくなるほどホッとしたように、蒼牙は俺を見下ろして微笑んだ。

「たとえ俺が、今在る姿ではなくなっても、同じ言葉を誓えるのか?」

「…へ?」

 不意に、やっぱりドキリとするほど真摯にそんな言葉を呟くから、俺はビックリして蒼牙の顔をマジマジと見上げてしまった。
 蒼牙の青みを帯びた不思議な瞳の中にポカンッとする間抜け面の俺が映っているんだけど、俺の色気も取り得もない黒い瞳の中に、蒼牙は少し辛そうな自分の顔を見出しているんだろうか?
 それはとても、切ないよなぁ、蒼牙。

「おう!誓えると思う…いや、そうじゃないな。誓えるさ!俺は、俺と蒼牙を出逢わせてくれた運命にすら感謝してやってるんだからなッ」

 ヤケクソってワケでもなかったんだけどさ、フフーン!っと胸を張って言ってやったら、何をそんなにお互いで心配しあっているのか、馬鹿な俺たちはどちらからともなく笑ってしまう。
 まるで今までのしこったモノが嘘のように消えてしまって、愛し合っている…なんて言ったらこっぱずかしいんだけど、俺たち二人は、明るい月光の中で幸せそうだ。

「たとえば蒼牙が、ふためと見られない姿になったとしても、俺は蒼牙だけを愛するよ」

 抱き付いたままでフフンッと笑ってやったら、蒼牙のヤツは、今まで見たこともないほど照れ臭そうに笑ったりしたんだ。
 そんな顔されたら俺…惚れ直しちまうだろうが!
 ドキドキ高鳴る胸を抱えたままで、このままキスされるんだろうかとか、期待している自分がちょっと恨めしかったりするんだけどな。

「天女は羽衣を…」

 でも蒼牙は、そうじゃなかった。
 キスしてくれずに、不意に口を開いたんだ。
 俺の必死の愛の告白に照れ臭そうな顔をしたくせに、それには応えてもくれずに、今更天女の羽衣なんか俺には関係ないってのにさぁ…キスもしてくれないなんて、酷いんだぞ。
 ムッとしている俺なんかお構いなしに、蒼牙は不貞腐れている自分の花嫁を抱き締めたままで、まるで素朴な疑問を口にしたんだ。

「どうして必要だと思う?」

「はぁ?えーっと…それは、空を飛ぶ為だろ?」

「そうだな、簡単に言えばそれが正解だ。だが、厳密に言えば違う」

「ふーん?」

 でも、遠い昔の物語なんかだと、天女の羽衣は天空を浮遊する為に必要な物だって言われているんだぞ?羽衣がないから、空を飛べなくて、天女は人間の男の許に留まってしまったんだ。
 あれ?違ったっけ??

「半信半疑だな。だが、それも仕方のないことだ」

 蒼牙はそんな訝しそうに眉を寄せている俺にクスッと笑ってから、肩からずり落ちている羽衣を綺麗に直してくれた。

「ああ、でもそうだな。こうして羽織っているのに、俺は空を飛べないや。やっぱり何代も後になると、血が薄くなりすぎて浮遊力をなくしちまったのかな??」

 首を傾げていたら、蒼牙のヤツはそうじゃないと首を左右に振ったんだ。

「天女の浮遊する力を受け継がなかっただけさ。そもそも、その羽衣にはそんな力は宿っちゃいない」

「そうなのか?」

「ああ、羽衣自体には浮遊する力などないんだ。だが、天女とて身体そのものは人間に近い。と言うことは、天空の冷気は身体に堪えるんだろう」

 んん??…ってことは羽衣って言うのは。

「この羽衣は、空を自在に飛翔する天女たちの防寒具だったのさ」

「なんだ、それ??」

 呆気に取られる俺に、蒼牙のヤツはシニカルに笑いやがるから、できれば殴りたくなった。
 きっとそんな話は嘘だろうって思ったからな。
 でも、真実はまるで違っていた。

「でも、そう言われてみればこの羽衣、あったかいな」

 そうか、でも案外、蒼牙の言うことは嘘じゃないような気もする。
 あの薄着で空を飛翔するってのもなんか胡散臭かったんだけど、羽衣が防寒着になってるんだったら、なるほど優雅にふよふよ飛んでてもおかしくないってワケだ。

「…あれ?でも、どうしてイキナリそんな話をして、俺にこの羽衣を貸してくれたんだ??」

「貸したんじゃない」

 蒼牙はそう言ってから、名残惜しそうに俺から身体を離してしまった。
 羽衣は暖かくて、月も綺麗な真夏の夜だと言うのに俺は、蒼牙が離れてしまっただけでどうして、こんなにも薄ら寒さを感じてしまうんだろう。
 思わず、我が身を抱き締めるようにして腕を組んでそんな蒼牙を見詰めたら、呉高木家の当主として常に威厳に満ちた、自信に溢れた表情をするはずの俺の旦那さまは、照れ臭そうな、寂しそうな、なんとも言い難い複雑な表情をして間抜け面で立ってるに違いない俺を見詰め返していた。
 月を背景に、綺麗な青白髪の美丈夫の表情なんか、本当は朧げにしか見えないってのに、それでも蒼牙の、そして俺の、心許無い気持ちが手に取るようによく判る。

「それはもともと、アンタのものだ。数百年以上も経ってしまったが、漸く持ち主の手に戻っただけのことさ」

 俺は…羽衣なんか欲しくない。
 こんなモノを貰ってしまっても、俺は今更天空に戻るワケでもないし、そもそも、本当は俺、自分の体内に天女の遺伝子があるなんて思ってもいないんだ。
 そう言う好都合をただ利用して、蒼牙の傍にいたいなんて…柄にもなく思っただけで、これじゃあ、天女に恋焦がれて自分のものにしたがっていた蛟龍と、なんら変わりないよな。
 実は俺の方が蛟龍の末裔だったりして…なんつって。
 そんな恐ろしいことを意味もなく考えながら、俺は何故か不安に駆られちまって、肩から力なく垂れている羽衣の裾をギュッと両手で握り締めていた。

「俺…羽衣とかいらねーよ。だって、今の俺には必要ないから」

「いや、必ず必要になる」

「は?」

 妙に自信たっぷりにそう言った蒼牙は、青白髪の神秘的な睫毛をソッと伏せてから、小さく自嘲的に笑ったみたいだった。

「まずは、鬼と巫女の御伽噺を物語る前に、アンタには呉高木家の、いや、俺に纏わる秘密について知っていて貰わなければいけない」

「…蒼牙の秘密?」

「ああ、そうだ」

 そう言ってから、蒼牙は…あれ?どうしたんだろう。
 なんだか急に周囲がグニャリと歪んで、蒼牙の姿がぼやけたような気がする。
 俺が慌てて目を擦っている間にも、こんなに狭い山頂だって言うのに、蒼牙との距離がどんどん離れて行ってしまうような錯覚に、急に不安になって俺が走り出そうとしたまさにその時、一瞬、目を覆いたくなるような閃光が辺りを真昼のように照らし出したんだ!

「!?」

 きっと、遠くからこの龍刃山を見た人がいたなら、一瞬だけど山頂が光り輝くのを目撃したに違いない。
 それほど、閃光は眩しくて、真っ白だったから。

「…そ、蒼牙?」

 何が起こったんだと、閉じていた瞼を恐る恐る開いた俺の目の前。
 月明かりが静かに照らし出す、あれほど眩しかった閃光は今は鳴りを潜めてしまった、周囲を木々に囲まれた静寂の山頂で…俺は呆気に取られたようにポカンッと目の前を見詰めていた。
 蒼牙が立っていたはずの場所から、そう遠くない空に、ソレは優雅に立っていた。
 そう、立っているって表現する方が正しいと思うんだけど、両手を身構えるように胸元の辺り(?)で構えている、青味を帯びた白銀の龍は、夜風に長い口許の髭を棚引かせながら、金色の双眸で俺を見下ろしていたんだ。
 龍が、月を背景にゆったりと浮かんでいる…なんてこと、いったい誰が信じるって言うんだ?
 蒼牙は何処に行ったんだ!?
 目の前に在る、コレはなんなんだ!!?
 いや、伝説上の龍ってのはよく判る、判るけど、信じられん!
 突発的な出来事に対応するにはあまりにも考えることが多過ぎて、声も出せなかった俺は、不覚にもそのまま目を回していた。

第一話 花嫁に選ばれた男 20  -鬼哭の杜-

 俺は夢を見ていると、直感的に感じていた。
 辺りは深い霧に閉ざされていて、少し先も見えないぐらいだ。
 それなのに、木立ちに隠れるように流れる川の淵で、俺によく似た顔をしたヤツが幸福そうに微笑みながら振り返っていた。その先には…

(まさか、蒼牙?んな、馬鹿な)

 一瞬は呆気に取られたんだけど、真っ赤な髪をした、蒼牙と不二峰を足して2で割ったような、威風堂々とした美丈夫が、よくよく見ていないと見落としてしまいそうな静かな微笑を浮かべて佇んでいたんだ。
 愛し合っているというにはあまりに物静かな二人は、男とも女とも言えない中性的な顔をした俺に良く似たヤツが大事そうに両手で作った、小さな水溜りに泳がせている小魚を労わるように見詰めているようだ。
 放してもいいかと尋ねる彼に、赤い髪の男は不機嫌そうに鼻先で笑っている。
 どちらでも、お前の望むように…
 折角捕らえたのに、中性的な顔をしたソイツは、それでも嬉しそうに微笑んで小魚を川に放してしまった。
 世の中は大飢饉で、全ての災いを山に棲むという鬼のせいばかりにして、何も対策を練ることもしない村人たちは、中性的な面立ちの彼を人身御供のように山に捨ててしまったんだろう。

(あれ?どうして俺は、そんなことを考えてしまうんだ??)

 真っ赤な髪を持つ龍の眷属の子孫は、そんな彼を見つけ出し、どう言った理由でかは判らないけれど傍に置くようになったんだろうな。
 最初こそ恐れた彼は、それでも、俺のように、いつの間にか『鬼』と噂される『龍の子孫』に恋心を持つようになったのか。
 何もかも判らないと言うのに俺は、そんなことを漠然と考えていた。
 考えながら、それが起きたままに見る夢、まるで白昼夢のようなものなのだと悟ったのは、真摯な双眸をしている青白髪の龍の末裔、俺の『鬼』が心配そうに覗き込んでいる顔を見つけたからだ。

「蒼牙…」

「どうした?まるで目を開けたまま眠っているのかと思ったぞ」

「…なんだよ、それは」

 ちょっとムッとして唇を尖らせば、少しホッとしたように頬の緊張を緩めた蒼牙が、僅かに苦笑しながら色気もない俺の髪に口付けてきた。そう言う、些細な仕種が様になっていて、ああコイツは、本当に神聖で神秘的な、誰もが崇めるだろう龍の末裔なんだなぁと思って見蕩れてしまった。
 俺に良く似た人間を、仕方ないヤツだと静かに笑っていたあの燃えるような赤い髪をした龍の子孫だって、こんな風に、一途に想いを寄せたに違いないのに、どうして…運命は冷たいんだろう。

「あれ?」

「どうしたんだ?!」

 ふと、ほろほろと目尻から頬に雫が玉を結んで零れ落ちると、蒼牙のヤツが、まるで呉高木家の若き当主には似つかわしくないほど、僅かに眉尻を上げて動揺したように覗き込んできたりするから…俺はなぜ自分が泣いているのか判らないと言って、涙を拭うことも忘れて蒼牙の胸元に額を押し付けていた。

「ごめん…、きっと安心したんだ」

「俺がアンタに夢中だって知ったからか?それじゃあ、今までの努力は実を結んだと言うことだな」

 蒼牙…

「お前でも努力とかするのな」

「なんだ、その言い様は」

 心配しながらもそんな軽口を叩けてしまえる俺の旦那様に、呆れ半分、冗談半分でプッと噴出して言い返してみたら、やっぱりちょっとホッとしたように蒼牙は俺を抱き締めてくれた。
 何処にも行かないから心配するな。
 その力強い腕が、まるでそんなことを伝えているような気がして、俺は酷く安心してしまっていた。
 この腕を、俺は手放さないだろう。
 たとえ何があったとしても、蒼牙だけは守ろう。
 そんな風に考えて、唐突にハッと我に返った。
 どうして、こんな幸せな時に不幸なことばかり考えてしまってるんだ、俺?!
 よくよく考えてみたら、蒼牙にこっぱずかしい愛の告白とやらを仕出かしてから、俺は少しおかしくなってしまったような気がする。
 これも鬼哭の杜の亡者どもが見せている幻なんだろうか…そこまで考えて、俺も随分とこの村の毒気に馴染んじまったなぁと嬉しいような悲しいような、苦笑が漏れてしまった。
 でも、いやそうか。

「なぁ、蒼牙」

「なんだ?」

「ちょっと聞きたいんだけどさ、十三夜祭りで踊る舞の、あの鬼と巫女さんに纏わるさぁ。何か言伝えとかないかな?」

 月下に浮かび上がる幻想的な日本庭園を背景に、青白髪の、それこそコイツこそがあの『鬼』が具現化して人間になればこんなモンじゃねーのかと思えるほど、キリリとした意志の強そうな面立ちの蒼牙を見上げて首を傾げたら、俺の誰よりも綺麗な、本当は鬼なんて呼ぶには畏れ多い、龍の末裔は驚いたように一瞬だけど目を瞠り、それから少し考えるような仕種をしたんだ。

「先程からどうしたと言うんだ?アンタらしくないな。ボーッとしているのかと思えば泣き出し、泣き出したかと思えば不思議そうな顔をする…まぁ、だが。そんな可愛らしいところが、アンタらしいと言えば、一番アンタらしいのかもしれないがな」

「…あのなぁ」

 思わず眉間に眉を寄せて、頬を真っ赤にして胡乱な目付きで見上げたものの、どうもそれが、ただの照れ隠しなんてことは、とっくの昔に蒼牙にはバレてしまっているみたいで、ちょっとむかついてしまった。ははは。

「だが、どうしていきなり十三夜祭りが気になったんだ?」

「えーっと、それは…」

 それで俺は、つい今し方見たばかりの夢現の幻か、それとも白昼夢なのか…よく判らない体験を蒼牙に話して聞かせたんだ。そうすると、それまで随分と余裕をかましていたはずの蒼牙のその顔付きが、なんつーか、なんとも形容し難い表情になったから吃驚した。
 ど、どうしたって言うんだ?

「蒼牙?」

「なるほど、それで十三夜の舞か。あの話は…そうだな、光太郎」

 微妙な表情をしていた蒼牙は、何か意を決したような顔で俺の名を呼ぶから、何か、とんでもない秘密を暴露されるのかと、ドキドキしながらゴクンッと息を呑んでしまった。

「なんだよ?」

「身体の具合はどうだ?」

 結果的には拍子抜けだったんだけども、それでもどうして突然、蒼牙のヤツが俺の身体の心配なんかし出したのか良く判らなくて、俺は半信半疑の目付きをしたままで、まるっきり質問に答えちゃくれない蒼牙に頷くぐらいしかできなかった。
 いやまぁ、確かに身体は随分と良くなったし、これなら今からでも元気に山登りだってできるぜ!いえーい…ぐらいは頷きながら言ってやったんだけど、蒼牙はそれを聞くと「そうか」とだけ、一言呟いてから、何か思い詰めたようならしくない双眸をして長い青白髪の睫毛を伏せたんだ。
 ありゃ、俺何かヘンなこと言っちまったか!?
 思わず呆気に取られたものの、不意に不安になって慌てて蒼牙の顔を覗き込もうとしたんだけど…その前に蒼牙のヤツが、何かを決意したような真剣な眼差しで見詰め返してくれたりするから…なんだよ、やっぱり俺は、蒼牙に惚れちゃってるんだなぁとか、今更ながら再認識されられちまったじゃねーか!
 いや、問題はそんなことじゃないんだから、確りしろよ俺!

「そうか。では、少しご足労願おうか」

「へ?」

 蒼牙のヤツが、やっぱり蒼牙らしいシニカルな笑みを口許に刻んで、そんなことを抜かしてくれたりするもんだから俺は、思わずポカンッと、間抜け面して首を傾げるしかなかったんだ。

「…ご足労ってよぉ、本当にご足労なんだな!」

 別に怒ってるってワケじゃねーんだけど、流石に股間から流れる血をやわらかい綿(?)のようなモンに吸わせたまま、腰のだるい身体での登山は悲惨とまでは言わないものの、結構身に応えながら手を繋いだままで一緒に真夜中の山登りを楽しんでいる亭主を見上げて悪態を吐いていたら、件の俺の龍の末裔は真っ直ぐに月下の道先を見詰めたままで口許に微かに笑みを浮かべた。
 笑うだけの余裕があっていいよな、全く。
 身体がだるいせいで、辛辣になっちまってるのか俺?う、ヤな奴になってんな。
 気をつけよう。

「そうだな。弦月の奉納祭を執り行った神社は覚えているか?」

「へ?あ、ああ。あの山頂にある…」

 あの神社に行くつもりなのか。
 ああ、やっぱり十三夜祭の鬼と巫女は、この龍刃山に縁があったんだなぁとか、俺が少し息を弾ませながら頷いていると、蒼牙は全く別のことを抜かしてくれたんだ。

「いや、あそこは山頂ではないんだ」

「ええ!?」

 なぬ!?ち、ちょっと待ってくれよ。
 俺は確かに繭葵や桂から、あの神社がある場所が山頂だって聞いたんだぞ。
 桂はともかく…って、あの人の場合は状況によっては平気で嘘を吐くからな、その辺だけはいまいち信用できないから別としても、繭葵は違う。あの民俗学の亡者が間違えることなんてない、つーか、ネス湖にネッシーがいないってことよりも有り得ないほどの信憑性の高さだぞ。

「そんなワケないだろ?だって繭葵のヤツが…」

「ああ」

 蒼牙のヤツは、繭葵と聞くと何かと子供みたいにムッとしてたってのに、今夜の蒼牙は、それこそしてやったりの顔つきをしてニッと笑いやがったんだ。
 まぁ、子供みたいな部分には変わりはないんだけど…なんか、引っ掛かるぞ。
 繭葵のこと、嫌いなワケじゃないんだろうけど、何か引っ掛かってんだろうなぐらいは判るけどよぉ、今夜の蒼牙の方がちょっと危険な匂いがする。
 うう、なんか繭葵が細胞分裂したみたいで嫌なんだがなぁ…

「繭葵も知らない、呉高木家の秘密ってワケだな」

 クスッと鼻先で笑ったりするから、ますます俺の疑心みたいなもので眉間に皺が寄る。
 訝しんだところで話は進まないんだけど、それでもやっぱり、なんか胸の辺りがモヤモヤして嫌なんだけどな。
 繭葵の知らない呉高木家の秘密…か。
 でもまぁ、よく考えてみたら多いよな。繭葵の知らない秘密ってさ。
 手近なところだと『小手鞠』たちがそうだし…って、あの場合は、繭葵が可愛い小さな地蔵さんたちの群れに手を合わせて、ウキウキしているように俺と蒼牙の朔の礼が恙無く執り行われて『蔵開き』できますようにと、それこそ邪悪な笑みを浮かべて両目をビカァッと光らせながら呪術でも唱えているように拝んでいる背中をモノも言えずに息を呑んで見守りながらも俺、いつも『民俗学に縁のある地蔵』なんだけどなぁと思ってるんだよな。 
 それだけじゃないや、『座敷ッ娘』だってそうだし…何より、目の前にいるこの、青白髪が神秘的な綺麗な呉高木家の当主ですら、民俗学者が、いや、考古学者だって誰だって、一度は拝んでみたいと思ってるに違いない、架空の生き物であるはずの『龍の末裔』なんだから、繭葵の知らないことは山ほどあると思う。
 それなら、繭葵が知らなくても仕方ないのか、そうか。
 独りで納得していたら、蒼牙のヤツは小さくクスッと笑って肩を竦めたんだ。

「俺たちが向かっているのは神社の奥をもう少し登った、本当の頂上だ」

「まだ歩くのか?」

「きついか?」

 げ、それはちょっときついかもなーとか思って聞いたってのに、逆に質問されてしまって、俺は仕方なく溜め息を吐いてしまった。
 正直に言えば…

「ちょっとキツイかも」

 素直に言えば、無言で蒼牙のヤツが抱き上げようとかするから…

「バ!バカだろ、お前!?俺なんか抱えて頂上に登ってたら、夜が明けちまうって」

 その手から逃れながら慌てて言ったんだけど、本当に言いたいのは、蒼牙が疲れてしまうってことだ。
 コイツは、高校生とは思えないほど、ハードな毎日を送っている。
 睡眠時間だって、平均2、3時間程度なんだぜ?
 そんなヤツに、喜んでお姫様抱っことかして欲しくない。
 だから暴れたってのに…畜生。どうしてこう、俺って非力なんだろうな。つーか、一部とは言えその、女になってからますます体力的に衰えちまったような気がする。
 それもこれも、小林さんが言っていた『初潮』ってヤツのせいだとは思うんだけど。

「…蒼牙は本当にバカだ」

「呉高木家の当主に向かって『馬鹿』と罵れるのは、後にも先にも唯一人、アンタだけだろうよ」

 ハァッと溜め息を吐く俺をまるで無視して、蒼牙はまるで平気そうに呼吸も乱さずに皮肉っぽく言いやがるから、この際、お望みとあれば何度でも『馬鹿』を連呼してやろうかとムッとして、そんな仕種が子供っぽくて、ちょっと蒼牙化してきている自分にハッとしてしまった。
 そうか、惚れると似ちまうのか、癖とか…そこまで考えて、独りで派手に照れてしまった。
 まだちゃんと、その、え、えっちもしてないってのに俺、何一人で浮かれあがってんだ。
 うぅ、これじゃ恋に恋してる乙女ちっくでうんざりしちまうぞ。
 何度目かの溜め息を吐いている間に、今や篝火さえも燈っていない、それこそ昼や夕暮れに見るのとはまた違う、月明かりの下に浮かび上がる神社は何処か荘厳で神秘的でそして…なんつーか、やたら不気味だ。
 内心で「うあぁぁぁ…」と、声にならない悲鳴を上げながらも、何も言えずに息を呑んだまま社を見上げている俺を、やっぱり無口な蒼牙はまるで無視して、神社を抜けた奥…って、本当にあった道とも言えない獣道を進んで山頂を目指している。
 山頂に何があるのか。
 ただ、単純に聞きたかった鬼と巫女との悲恋物語の謂れが、何故かどこかに転がって、思わぬ方向に転げだしたような錯覚に陥ってしまう。
 それともやっぱり、鬼も巫女も、呉高木家に因縁があるんだろうか。
 或いは…楡崎の家に纏わることなのかな。
 どちらにしても俺は、息を呑みながらも、蒼牙が与えてくれる全ての呉高木家に纏わる話を全て吸収して、いつか、蒼牙に相応しい嫁になろうと…柄にもなく、そんな恐ろしいことを考えていたりした。
 …そうでもしていないと。
 あの幻覚に視た赤い髪の鬼と、両性のように神秘的な雰囲気を持つ人間の、悲しい運命
の顛末を、いや、そうじゃない。
 或いは、俺と蒼牙の行く末の顛末を知ってしまいそうな気がして…怖かったんだ。

第一話 花嫁に選ばれた男 19  -鬼哭の杜-

 何時の間に眠っていたのか、ふと、頬を擽る風の気配で俺は目を覚ました。
 どれぐらい寝ていたのか、小林さんの姿は既になく、開け放たれた障子からは立派な日本庭園が広がっているし、良く晴れた夜空にポッカリ浮いている月まで見えた。
 そして、俺の眠る部屋の前の廊下に、どうやら胡坐を掻いているんだろう、誰かの背中。
 それを、俺はもう何度も見てきたなぁ…と、静かに見詰めてしまった。

「目覚めたのか?」

 ふと、声をかけられてハッとしたけど、聞き慣れた声音は不安がる心をゆっくりと落ち着けさせてくれたから、俺は優しい気持ちになりながら頷いていた。

「ああ」

 布団に横になったままで見詰めた先の広い背中は、何時もならすぐに、その小生意気そうな勝気な青みがかった双眸で振り返ってくれると言うのに、どう言うワケか、今日の蒼牙はなかなか振り向いてくれないんだ。
 それが何故か、とても不安で、何かあったのかと俺が思わず起き上がりかけると、その時になって漸く、蒼牙のヤツは少し逡巡しているようだったけど身体ごと振り向いてくれた。
 ホッとして笑いかけたら…なんだ、ヘンなヤツだな。
 蒼牙のヤツは珍しく目線を逸らしやがったんだ。

「…?どうしたんだよ??」

 訝しくて眉を顰めたら、まるで貝にでもなったつもりのようにキュッと一文字に口を引き締めていた呉高木家の若き当主は、それでも、ふと頬の緊張を緩めて照れ臭そうに笑ったんだ。

「身体の調子は、大丈夫か?」

 俺をドキッとさせる魅力的な笑みを浮かべながら、どうやら蒼牙のヤツは、それを聞きたかったらしい。

「へ?あ、ああ…その、もう大丈夫だ」

 唐突に、俺は夕方に小林さんと話していた内容を思い出して、途端に瞬間湯沸かし器みたいに顔を真っ赤にして俯いてしまった。
 そそ、そうだった!俺、その、なんかワケの判らん秘薬とかで、なんとも中途半端に一部分だけが女になっちまったんだったッ!!
 それで、子供を授かるために初潮がきて、そのせいで貧血になってたんだっけ…うーん、女って大変なんだなぁとか、暢気に考えている場合じゃないぞ。
 顔を茹でタコみたいに真っ赤にして、あまりに反応を見せない蒼牙に不安を感じて目線だけ上げたら、胡坐を掻いて腕を組んでいる蒼牙も、やっぱり顔を真っ赤にして不機嫌そうに俯いたりしてるから、俺は一瞬だけど呆気に取られちまった。
 あの不遜の大魔王みたいな蒼牙が、照れ臭さを不機嫌で誤魔化しながら、真っ赤になってるなんて!
 …おい、天変地異とか起こるなよ。
 つーか、俺の身体には天変地異よりも凄まじいショックは起こってるんだけどなぁ。
 お互い、まるで初めて恋をしたクソガキみたいに真っ赤になったまま言葉を失くしてるから…こんな時にこんなことを言うのもなんだけど、ほんの少しでも蒼牙のヤツは、俺が(一部でも!)女になったことを喜んでくれているんだろうか。
 こんな出来損ないの身体なのに、それでも、蒼牙は俺を愛してくれるんだろうか…

「あ、あの…」

 不安が嵩じたのは俺の方だったから、思わず上半身を起こして声をかければ、ふと、眉根を寄せて険しい表情になった蒼牙が訝しげに俺を睨んだんだ。
 う、なんか間でも悪かったか??

「起き上がるな。アンタは極度の貧血を起こしてるんだ。今はゆっくり休んでいろ。俺がいて気になるのなら…」

「そんなこたないさ」

 そのまま立ち上がろうとした蒼牙に、俺は上半身を乗り出すようにして、何故か、今は独りにして欲しくなかったから慌てて引き留めていた。
 その目付きが、どうも縋るような目だったのかもしれない。
 と、思うのも、蒼牙のヤツが驚いたように目を瞠ったからだ。

「蒼牙!あの…俺、その…なんて言えばいいのか」

「判っている。アンタは、俺の花嫁になることを選んだんだ」

 口許に掌を当てて、結局、俺は何が言いたかったのか、目線を逸らしながら動揺して口を噤んでいたら、即答のように蒼牙は頷いて、それから目が覚めるような会心の笑みを浮かべたんだ。
 あの時、小林さんに見せたのと同じ笑顔に、それだけで、現金なもんだよな。俺はホッとしたように、蒼牙に腕を伸ばしていた。

「蒼牙…その、俺、うまく言えないんだけど」

 俺の腕を掴むようにして引き寄せてくれた蒼牙は、その胸元に頬を寄せて安心したように瞼を閉じて話し出す俺の言葉を、静かに聞いてくれているようだった。
 だから安心して、俺は今、俺の中に渦巻いている言葉をスラスラと口に出すことができたんだ。

「こんな、見てくれは立派に男なんだけどさ。お前の…子供を産める身体になっちゃったらしいんだよ」

 不安で、少し息を呑んでしまったけど、それでも俺は、何故かどうしても自分の口で言いたくて、着流しの胸元をギュッと掴んで呟いていた。
 見てくれが男らしいってのもどうかしてるんだけどなぁ…と、何気なく呟いたら、蒼牙のヤツが、グイッとわざと乱暴に顎を掴んで上向かせたりするから、俺は痛みよりも吃驚して目を見開いてしまった。

「外見と言うのはな、光太郎が光太郎のままなら、俺はそれだけで構わないんだ。そのままのアンタを愛しているんだから、俺にとってはとてもラッキーなことだと、そうは思わないのか?」

 蒼牙らしくないラッキーなんて言葉を聞いて、俺はまたしても驚いたんだけど、それよりも、一番不安に思っていたことをサラリと否定してくれたから、どうしてだろう?そんなつもりはないのに、ポロリと頬を目尻から零れた雫が滑り落ちたりするから、蒼牙のヤツがギョッとしたような顔をしたんだ。

「男らしいくせに子供を産めるなんて、おかしいよな?」

「…何を聞いていたんだ?俺は、アンタがアンタのままでいて、尚且つ、子供まで授けてくれることをラッキーだと言ったんだぞ。ちゃんと、俺の話を聞いているのか??」

 ムッとしたように、子供っぽく唇を尖らせる蒼牙の背中に腕を回して、俺はポロポロと涙を頬に幾粒も零しながら、嬉しくて嬉しくて…笑ったままで男らしいその唇に口付けていた。
 不安が渦巻く心の霧が、まるでパッと晴れ渡ったかのようなこの高揚とした気分を…なぁ、蒼牙。
 お前に判って貰えるだろうか?
 お前を愛していこうと決意したあの時から、少しずつ蓄積されていた不安が、その言葉で、一瞬で消え去ってしまったんだってことを、どんな言葉でお前に伝えたら、心まで届くだろう。
 俺は、俺は…

「蒼牙」

「なんだ?やっと判ったのか??」

 突然のキスにちょっと面食らったような蒼牙だったけど、それでも俺からの口付けを受け取ってくれた俺の、未来の旦那様は、名前を呼べばクスッと笑って顔を覗き込んできたりするから…

「俺は、蒼牙を愛しているよ」

 その愛しい顔を確りと見詰めて、あの時決意したように、ちゃんと俺の口で言ったんだ。
 もう、迷いも躊躇いもしない。
 俺はこの村で、蒼牙と共に生きていく。

 蒼牙は驚いたのか、それとも何も感じなかったのか、暫く真顔のままで俺を見下ろしてきたから、俺は…何か悪いことを口走ってしまったのかと、思わず眉を顰めてしまったんだけど。

「うわ!?」

 不意に蒼牙に思い切り抱き締められて、素っ頓狂な声を上げちまった!
 どど、どうしたって言うんだ!?

「…初めてだ。アンタが俺に愛を告白するなんて」

「へ?そ、そうだったっけ??」

「そうだ!アンタは、いつもはぐらかしてばかりいたからな」

 ギュウッと抱き締めていた蒼牙は、ムスッと不機嫌そうに眉を顰めていたけど、それでも、ふと、頬の緊張を緩めたように微笑んで、俺の涙に濡れている頬にソッとキスしてくれた。

「そ、うだっけ…ごめん。俺、照れ屋なんだ」

「だろうな。そう言うことにしておいてやる」

 なんだよ、その言い方は。
 そんな風にムッとするはずだったのに、今の俺は、馬鹿みたいにポロポロ涙を零して、微笑む蒼牙に笑い返したりするんだから…今の俺は、大概、どうかしてると思うよ。

「一生に一度の愛の告白になるのか。ならば俺は、随分と苛々しなければいけなくなるんだろうよ」

 俺を胡坐を掻いた足の上に乗せて抱き締めながら、蒼牙のヤツは不機嫌そうにそんなことを言いやがるんだ。
 いったい何時、俺が生涯一度の愛の告白だなんて言った!?

「生涯一度のワケないだろ!」

「へぇ?そうなのか。では、たっぷりと聞かせて欲しいものだ」

「う!」

 しまった!!
 顔を上げたら、月の光を反射した蒼白髪を庭から吹き込む風に遊ばせて、蒼牙のヤツがしてやったりの顔をして笑ってやがるから…これは、何かとんでもないことを言ってしまったのではと、俺が動揺したって仕方ない。
 現に、ヤツの口調はそれを如実に物語っている。

「そ、それは…特別な日にだな」

「では、その特別な日は今だ。そうは思わないか?」

 クスッと、意地悪く蒼牙は笑って、動揺して戸惑っている俺の頬に唇を落としながら呟いた。
 擽ったくて片目を閉じながら首を竦めつつも、そんな風に、愛しそうにキスしてくれる蒼牙に、そりゃあ何度だって言いたいって思っちうさ。
 そうだよ!俺は流され易いんだよッ!!

「蒼牙…愛してるよ」

「ふん」

「愛してるよ、蒼牙…」

 子供みたいに素っ気無く瞼を閉じる蒼牙に、俺は思わずクスクス笑ってしまって、それから、男らしい頬に片手を添えて頬や瞼や鼻先なんかにキスの雨を降らせてやったんだ。
 おお!俺にしてはすげーサービス精神だ。
 そんなささやかな悪戯に夢中になっていたら、蒼牙のヤツが、閉じていた瞼を開いて、思わずドキッとするほど真摯な双眸で見詰めてきた。だから俺は、突然、おかしなもんなんだけど、胸の高鳴りを覚えてドキマギしながら呉高木の若き当主を見上げていた。

「…俺は、生涯、楡崎光太郎だけを愛し続けるだろう。これだけは誓うよ。俺は、光太郎以外の誰をも娶らないし、誰をもこの心に入れるつもりはない」

 それは…以前、俺が不安から呟いた言葉を、愛人は何人作ってもいいから、男は俺だけにしてくれと言ったあの言葉を、確りと覚えていた蒼牙の、コイツらしい愛の告白だったんだと思う。
 だから、ガラにもないってのに俺は、モノも言えずにただ静かに蒼牙を見詰めていた。
 ポロポロと零れていた涙は、何時の間にか細い筋になって頬を滑ると、顎から雫を落としている。

「泣くなと言っただろ?俺は、アンタの涙には弱いんだ」

 たった一つの弱点だな…と呟いて、まるで俺を宥めようとでもするように、そのくせ、まるで初めてみたいにソッと、ぎこちなく俺を抱き締めてくれた。
 こんな風に、男に抱かれて、そうして愛の告白を受け入れるなんて…少し前の俺なら想像だってしていなかったし、もし、こんな場面に遭遇でもしようものなら、ソイツの鼻面にパンチをかまして、サッサと逃げ出していたに違いない。
 でも、運命と言うのは…なんて、不思議なんだろう。
 蒼牙の少し早い心臓の音を聞きながら、俺は涙を零しているのに、こんなに幸せなんだ。
 「愛してる」…って言葉は、運命と同じぐらい不思議だ。
 胸の辺りに蟠っていた何かドロドロとした気持ちが、一気に晴れて、なんだ、こんなことならもっと早く言っておけばよかった…とか、思えちまうほど気持ちよくて素直な、そして、幸福な気分になるんだから。

「そ…が。俺……うぇ…たぶん、きっと、スゲー嬉しい。あ、愛して…る」

 ヒクッとしゃくり上げてしまって、うまい具合に言葉にならないってのに、俺にまるで甘い蒼牙のヤツは、俺の後頭部に掌を当てて、泣きじゃくる俺を閉じ込めようとでもするように抱き締めたまま、ムスッとした口調で言いやがったんだ。

「なんだ、その『たぶん』だとか『きっと』って言うのは。素直に嬉しいと言えないのか!?」

 クッソー!俺の精一杯の喜びの言葉をぶち壊しやがってッッ!!
 ムキッと腹立たしく思ったものの、やっぱり、愛する人に『たぶん』だの、『きっと』ってな不明瞭な表現を言うのは良くないよなと思い直して、俺は、それこそ一世一代の台詞を吐いたんだ。

「俺は…呉高木蒼牙を、愛してるし。この身体も心も全て、お前にやるよ」

 グハッ!!こんな台詞は、きっと、将来の俺の可愛いお嫁さんにこそ言ってやるんだとばかり思っていたんだけどなぁ…ああ、でも。
 愛しいと想う相手にハッキリと愛してるって言えるのは、豪いこっぱずかしいんだけども、ましてやそれが、理想に思い描いたお嫁さんから随分とかけ離れていたとしても、こんなに嬉しくて、ハッピーな気持ちになれるもんなんだな。
 着流しの胸元をギュッと掴んで、朔の礼より一足早く、俺は…いや、俺たちは、永遠の愛を誓い合っていた。
 身体はまだ本調子じゃなくてだるいけど、蒼牙が、初めて見る穏やかで優しい笑みをゆったりと浮かべて、頬を赤らめながら嬉しそうにキスしてくれたりするから…ああ、天にも昇る気持ちって、きっとこんな気分のことを言うんだろうなぁ。
 蒼牙の少しかさついた唇は、俺の唇をしっとりと濡らしてくれる。
 このまま、時間が止まっても、それでも俺はいいとさえ思っていた。
 漸く手に入れた宝物を、今度こそ手放さないように、俺はまるで縋りつくように蒼牙の背中に腕を回して抱きついていた。
 この温かなぬくもりを、けして手放しやしない。
 でも。
 どうして俺は…今度こそ…なんて、思うんだろう…

第一話 花嫁に選ばれた男 18  -鬼哭の杜-

 ふと、俺は夢を見ているんだとばかり思っていた。
 蒼牙は何かを怒鳴りながら、意識が朦朧としている俺を抱き上げると、驚く座敷ッ娘を引き連れて、それでも心配そうに座敷牢のある蔵の外で辛抱強く待っていた眞琴さんと不二峰をまるで無視して、青褪めたまま走り出したんだ。
 驚いたような眞琴さんも不二峰も追ってきているようだったけど、俺は、必死な…ともすれば、泣いているようにも見える蒼牙の真摯な相貌を薄っすらとしか開けることのできない両目で見上げていた。
 何が起こったのかよく判らないんだけど、何故か、とても気分が悪いし、何より…ジーンズを濡らしている何かがとても気持ち悪かった。
 おいおい、もしかしたら俺ってば、失禁とかやらかしてんじゃねーだろうな?
 それだったら、6歳も年下の蒼牙にまたしても恥ずかしい場面を見られちまうワケなんだけども…それでも、そう思ったらクスッと笑ってしまっていた。でも、顔は笑っちゃいなかったんだろう。蒼牙は真摯な双眸そのままで、必死に母屋を目指しているからな…ああ、そうだ。
 こんな風に、俺はいつだって蒼牙には見っとも無い姿ばかり見せている。
 俺の方が年上なのに…蒼牙はいつでも、こんな俺を包み込んで大事にしてくれていたんだ。
 それなのに俺は、いつも自分は愛されていないんじゃないかって不安ばかりで、きっと、蒼牙よりも何歳も年下のような振る舞いばかりしてきたような気がする。
 こんなに幼いはずの蒼牙に…頼ってばかりで俺は…
 意識が遠ざかりかけて、もう少し、あと少しでいいから、もう少しだけ蒼牙の真摯で必死で生真面目な…この横顔を見ていたい。
 傾きかけた夏の夕日を浴びて、蒼牙の青白髪のはずの髪が真っ赤に燃え上がって、まるで山に棲むと言う伝説の鬼が具現化したような横顔には、焦燥の色がべっとりと張り付いていた。
 力なく垂れた腕が所在なげに揺れていても、蒼牙のガッシリした腕が、まるで何者からでも守ってくれているように俺を抱き締めてくれていたから、こんなに落ち着ける場所は他にはないと確信してしまったぐらいだった。
 もし、蒼牙が…俺ではない他の誰かを愛してしまったとしたら、やっぱり俺は、諦めきれずにグズグズ泣くんだろうなぁと、その横顔をぼんやりと眺めながら思ってしまった。そんな風に女々しくなってしまうのは、蒼牙にだけなんだけどな。
 そんなことを言えば、蒼牙はしてやったりの顔をして、フフンッと笑いながら俺を抱き締めてくれるんだろう。
 そんな幸福な夢を見ながら、俺はゆっくりと重くなる瞼を閉じていた。
 次に目覚める時はきっと、俺から告白しよう。
 俺は……お前を…

 俺の覚醒は案外早かったけど、やっぱりまだ夢の中にいるようにあやふやで、視界はぼやけたままだった。
 その時でも俺は、やっぱりこれは、何かの夢なんだろうとばかり思っていた。
 と、言うのもだ。
 あの蒼牙が泣き出しそうな顔をして、布団に横たわる俺の腕から脈を調べながら難しい顔をしている呉高木家のお抱えの侍医である、小林さんの様子をほんのささやかな変化すら見逃さないとでも言うように、真摯な顔をして見詰めているから…これが何かの夢だと思わなくてなんだと思うって言うんだ?

「小林!光太郎はどうなっているんだ!?」

 蒼牙がせっつくようにして随分と年を取っている小林さんを乱暴に揺すりながらそんなことを、まるで切羽詰ったように言うから、できれば俺は止めてやりたかったんだけど、どう言ったワケか腕がピクリとも動いてくれないんだ。
 あーあ、小林さんが困ってら。
 桂でも誰でも、早く助けてあげればいいのになぁ。

「どうと申されましてもな、蒼牙様。ご覧の通り、嫁御殿はご無事ですぞ?」

「そんなはずがあるものか!あ、足の間から、血が流れていたんだッ」

 蒼牙は信じられないとでも言うように一瞬だけど息を呑んだような仕種をして、それから普段から鋭い双眸に、さらに力を込めて小林さんを震え上がらせたんだけど、それでも流石に呉高木家代々からのお抱え侍医をしているだけはある。
 怯えた仕種も見せずに軽く咳払いをして、地獄の底から蘇った亡者のような胡乱さに磨きをかけて睨み据える蒼牙をあしらうように、小林さんは俺の腕を布団の中に隠しながらホッホッホッと笑うんだ。

「それはですなぁ…まあ、ワシよりも手当てをされた眞琴さんたち女人に聞くが宜しかろうがなぁ。簡単に申しますと、初潮でございますじゃ」

 は?

「…なんだと?」

「蒼牙様の御身体にも変化は生じましたじゃろうて。それと同じく、嫁御様の御身体も御子を授かるように変化なされたのですじゃ」

「…」

 双眸を見開いているような蒼牙の横顔をぼんやり眺めながら、俺はそんな信じられない話を聞いていると言うのに…それがどんな話なのか、いまいち判らないでいた。それどころか、話の中心が自分であることにすら気付けないでいるんだから…お目出度いよなぁ。
 トホホ…だ。

「そ、それは、つまり…禊の儀がうまくいったと言うことか?」

 あの蒼牙が…不遜が服を着ている若いくせに偉そうな呉高木家の当主が、まるで似合わない動揺したような声を出すから、余計に俺は呆気に取られちまって、やっぱり、こんな馬鹿みたいな話は夢なんだろうと思い込んでいた。

「そう言うことですな。おめでとうございます、蒼牙様!間もなく、お世継ぎ様のお顔をこの年老いた爺も見れますじゃ」

 ほぇほぇほぇ…っと、屈託なく笑う小林さんを、信じられないと言うように見詰めていた蒼牙は、それから、信じられないことに、ふと俯くと、まるで花が咲き綻ぶような力強さを秘めた笑みを浮かべたから…それはまるで、はにかんでいるようだった。
 嬉しくて嬉しくて…照れ臭くて、どんな顔をすればいいのか判らなくなる、あの一瞬だけどうしても浮かんでしまう、はにかむような嬉しそうな笑み…そんな馬鹿な。
 蒼牙がそんな顔をするのも吃驚だけど、何が一番驚いたかって…御子を授かる?
 それって、俺が子供を身篭るってことなのか?
 この、俺が??
 いや、確か23年間生きてきた間、ずっと鏡には野郎の顔しか映っていなかったし、風呂場で見た股間にも男のシンボルがぶら下がっていたと思うんだけど…それとも何もかも全ては夢で、本当は最初から蒼牙の為に用意されていた花嫁候補の光子ちゃんだった…って、そんなはずがあるくぅわッッ!!
 できれば今すぐにでも起き上がって反論したいところなんだけど、何故か猛烈な眩暈に頭がクラクラして、怒鳴るどころか起き上がることすらできないでいる。
 このままだと、俺が女にしか見えていないこの村の連中のことだ、きっと呉高木家の代々からのお抱え侍医の話を鵜呑みにして、これから顔を合わせる度に『跡継ぎはまだか』って言われるに違いないんだ。
 それは困る。
 大いに困る!

「そうか…光太郎は俺の花嫁になることを選んだんだな」

「勿論ですじゃよ、蒼牙様。こうして、ご立派な御身体にお成り遊ばしたのは、全てが呉高木の、いんや、蒼牙様の御為に他なりませんじゃて」

 小林さんはまるで芝居がかったような口調で蒼牙を煽りやがるから、どうしてくれるんだ、あの目付きは完全に信じ込んだに違いないぞ。これで、なんちゃって、ウッソーん♪…とか言ってみろ、綺麗に研ぎ澄まされた日本刀でスッパーン!と斬られちまうに違いないんだ。
小林さん、今のうちに逃げとけッ!!

「ですが、蒼牙様。今は嫁御様をソッとしておいておあげなされ。突然の変化に御身体も御心も驚かれておられるに違いありませんじゃて。何より、少し貧血も起こされておられるようじゃからなぁ」

「貧血か。それはいけないな。何か滋養に良いものを用意させておこう。小林!確り光太郎を診ていてくれよ」

「お任せあれじゃよ」

 ふぉっふぉっふぉっと笑う信頼ある侍医の小林さんに、蒼牙は会心の笑みを閃かせながら頷くと、まるで慌しく、いつもどおりの揺ぎ無い自信に満ちた足取りなんだけど、それでもどこか浮かれたように大股で部屋から出て行った。

「…さてと、嫁御殿よ。もう気付いておるんじゃろ?」

「……まだ、気分は悪いけど」

 以前、この小林の爺ちゃんとは話したことがあったから、もう気心が知れていたりする。 この間、プチ家出をしたときに足を痛めて(と言うか、ただの擦り傷だったんだけどなぁ)、大袈裟な蒼牙が小林さんを叩き起こして俺の往診をさせたんだ。その時に平謝りに謝っていたら、目を白黒させていた小林さんが、今みたいにふぉえふぉえっと笑ってくれたんだよなぁ。 

「然もあろうよ。立て続けに神経を草臥れさせて、ましてや子を身篭るよう、身体まで変化したんじゃ。気分ぐらいは悪うなろうて」

「んな、他人事みたいに…って、他人事か。やれやれだな。ところで、小林のじっちゃん。その、さっきも言ってたけど…子を身篭るってのはその…」

 瞼を閉じたままで話していた俺は、意を決したように双眸を押し開くと、ご機嫌そうに笑う好々爺の顔を見上げて眉間にソッと眉を寄せて尋ねていた。
 今は、他の誰でもない、呉高木家を代々支えてきた侍医である小林さんに話を聞かないで誰に聞くってんだ。

「ん?何も知らんのか??…じゃが、まぁ仕方ないのう。蒼牙様に無理に嫁御にされたと聞いたからの。禊の儀は済ませたんじゃろ?」

 まあ…無理に、って言われたらそう言うことになるんだろうけど、それでも、今は半分以上が俺の意思で『花嫁になる』って思ってるんだから、本当はもう無理やりってワケじゃないんだけどな。
 いや、そんな惚気は後にして(って、これって惚気なのか??)…禊の儀?って、あの朝、酒を呑んだ儀式のことだよな??

「禊の儀…って言われて眞琴さんが持ってきた桜色の酒を呑んだけど」

「ほぇっほぇっほぇ、それで十分じゃ」

 は?

「??…意味が判らんぞ、小林のじっちゃん」

「お主は禊の日に呑む御神酒のことも知らんのかの?」

 俺が横になったままで首を傾げていると、皺に埋もれてしまいそうなほど細い目を見開くようにして、一瞬驚いたような小林さんは、やれやれと呆れたように首を左右に振りやがるから…悪かったな、何も知らなくて。
 繭葵にも笑われたけどよ、こんな閉鎖的な村の行事のコトなんか、そんなに判ってるヤツなんていやしないっての!繭葵が異常に物知りってだけで、民俗学的なものに興味のないヤツってのは、きっと俺みたいな連中ばっかだって。
 そう言うこと、繭葵も小林さんも知らなさ過ぎるよ、全く。

「あ、ああ…」

 そんな内心じゃ天晴れなことを言ってるワリには口篭るようにして言いよどむ俺に、小林さんはゆっくりと皺に双眸を埋没させるようにして目を閉じると、ポツポツと教えてくれたんだ。

「禊の儀で呑む御神酒はのぅ、古から保管されとる呉高木家に代々伝わる龍の酒に、贄の血…そして、蛟龍の血を色濃く引いておる呉高木の御当主の血を混ぜて作られた、性別を変化させることのできる秘薬なのじゃよ」

「なんだって!?」

 思わずそんな荒唐無稽な話に声を上げてしまって、ハッと我に返った俺は、慌ててシーツを手繰ると口許を覆って小林さんの話の続きに耳を傾けた。
 どちらにせよ、桂と一緒で眞琴さんも嘘がうまいよなぁ。
 何が御神木の樹液由来の赤さだよ…あの『赤』は、あの時殺されたんだろう、高柳の息子さんと蒼牙の血液に因るものだったんじゃないか。
 うう…これが本当の話なら、なんか、更に気分が悪くなったような気がする。

「花嫁の禊の儀の前の晩に、蒼牙様も召し上がられた。性別を男に定めることは先々代との誓いじゃったから、蒼牙様は躊躇いもされなかった…じゃが、一抹の不安はあったようじゃの。お主が、はたしてどちらの性を選ぶのか、それは一種の賭けじゃったからなぁ」

「……」

 そうか、蒼牙は無性別…両性体でありながら中性なんだから、性別を固定しないといけないから、呉高木家の胡散臭い秘薬ってのを呑んだワケか。
 …って、あれ?でもちょっと待てよ。
 蒼牙は昨日、御神酒を呑んだことになる。
 …ってことは。

「蒼牙は今日にはもう、男になっていないとおかしいんじゃないか?」

 だって、不二峰と蒼牙は愛し合っていた。
 それも、男と女としてだから…ヘンだ。
 絶対におかしい。
 ああ、これはきっと壮大なウソなんだ。
 俺を担いでるに違いない、そんなの当たり前じゃないか。
 性別を変更できる薬なんか、この世にあるかっての。そんなモノが実在していれば、今頃ジェンダーに苦しんでる人なんかいないって。
 もう少しで完全に騙されるところだった。
 小手鞠とか座敷ッ娘とか見てきたから、つい信じてしまうところだった。
 危ない危ない。

「じゃから、蒼牙様にも一抹の不安があったようじゃと言うたではないか」

「へ??」

「迷いは即ち秘薬の力を弱めてしまう。強い意志こそが、秘薬の力を完全に発揮させる原動力になるんじゃよ。じゃが、蒼牙様は迷ってしまわれた。それは、お主の意志が判らなかったからじゃ」

 それはきっと、俺が蒼牙を愛しているのかどうか判らなくて、強引なくせにあの若き呉高木家の御当主さまは一歩手前で二の足を踏んじまった…ってことなんだろうなぁ。
 クッソー、やっぱ信じてしまいそうだよ。

「アイツはいつ、男になったんだろう?」

「今し方じゃよ」

「嘘ん!!」

「嘘などではない。蒼牙様がお主を抱きかかえて戻られたときには、既にワシには判っておったんじゃが、それでも呉高木家の侍医であるからにはお主を診た後に蒼牙様のお身体もちゃんと診察したんじゃ。蒼牙様がのぅ、お主を診ない間は自分の身体にも指一本触れさせん!…と怒り狂われたから、先にお主を診たんじゃよ。まあ、そんなことはどうでもよいのじゃが、いったい何が蒼牙様の迷いを消したのかは判らんが、蒼牙様は立派な呉高木家のご嫡男になられておったよ」

 蒼牙は…ふと、俺の脳裏に確信めいた答えが浮かんだような気がした。
 蒼牙はきっと、倒れた俺を抱き上げたあの瞬間、決意したんだろうと思う。
 何故、そんな風に考えたのか絶対的な自信とかはないんだけど、漠然と、でも何故だか確実にそう思うことができた。
 古い、幼い頃の記憶が蒼牙の中の迷いを消して、自らが進むべき、歩むべき道を見つけ出したんじゃないのかなぁ。
 俺の性が、男でも女でも…もう、どちらでもいいんだって思ったんじゃないかな。
 どちらであっても、俺は俺だし、蒼牙は蒼牙なんだ。
 たとえばきっと、このまま蒼牙が本当の男になっていたとしても、やっぱり俺はそんな蒼牙でも愛しているんだと思う。たとえ、外見や姿形が変わったとしても、俺は蒼牙の心の奥にある熱い想いを愛したワケなんだから、きっと、嫌いになることなんかできないと思うんだ。
 その思いを、蒼牙も感じたんじゃないかな。
 俺が男でも女でも、姿形が変わったとしても、俺の心は俺のままなんだから、蒼牙は全てを受け入れることにしたんだろう。
 だから、アイツは男になった。
 せめて…俺が女になっていたら、蒼牙を苦しませやしないのに。
 俺の身体はどこをどう見ても男だし、胸だってぺったんこのままだ。
 あんな薬は嘘で、蒼牙や俺を慰めようと、きっと小林さんが一芝居うったに違いない。

「俺が女だったら…こんなに悩んだりはしないのに」

「…はて?嫁御殿は外見こそ男じゃが、立派な女になっておるではないか」

 小林さんは俺を見下ろしながら、首を傾げて訝しそうに唇を尖らせた。
 は?どこをどう見たら、この俺が女に見えるんだ??
 確かに、この村に代々伝わる秘薬が実在するのだとすれば、村人や呉高木家の連中の『俺が女に見えている』んだろうと思われるあの発言も、百歩譲って信じられる。
 でも、この骨ばった指も咽喉仏も何もかも…股間にぶら下がっている男のシンボルでさえそのままだって言うのに、今の俺のどこが女に見えるって言うんだ。

「気休めはやめてくれよ、じっちゃん。俺だって、少なからずは蒼牙の為に女になれたらって思ってるんだから…」

「じゃから、お主は蒼牙様の為に女になったではないか」

「…」

 ホント、小林さん。
 1回殴るよ?
 俺はそれでなくても貧血を起こしてぶっ倒れてるって言うのに、そんなケロッとした口調の小林さんにニッコリ笑って、思わず本気で殴りそうになっていた。
 ヤバイ、ヤバイ。

「お主の中にも矢張り迷いはあったと見受けられる変化ではあるがのぉ。いやしかし、これで呉高木家も安泰じゃて」

「……言ってる意味が判りません」

「ほ?判らんとな!…まぁ、それも致し方あるまいて。お主は外見も内面も立派に男を残しとるが、確りと、子を生すべき部分は変化しておるんじゃよ。落ち着いたら、確認してみるもよかろうなぁ」

 子を生す部分が変化している…って、それってまさか。
 身体は見る限り何処も男を失くしてるってワケではないけど…まさか。
 まさか、子宮だとか、そんな部分が作られたって言うのか!?
 ま…まさか、俺に、あのAVで見た女の部分があるって、そんなこと、小林さんは本気で言っているのか!?
 思わずガバッと起き上がって、そのまま貧血にクラクラしながらも、俺は震える腕を伸ばすと、今では浴衣に着替えさせられてるんだけども…布団に隠れているその裾から忍ばせて、まさか、そんな馬鹿なことが起こってるはずないと確信しながらも、恐る恐る半信半疑の指先で触れてみた。
 触れてみて…

「小林のじっちゃん!!」

「うむ、丁度蟻の門渡りの部分にあるじゃろ?」

 何が…とは言ってくれないところがより現実的で、俺は呆気に取られたような、放心したような、それでいて動揺した表情をしていたんだろう、小林さんは落ち着かせてくれようと好々爺の顔つきで笑ってくれた。
 だからと言って、俺の感情が落ち着くはずがない。
 なんだ、これは??

「お主の身体は子を孕む為に一部分が変化したんじゃよ。それ故に、お主は高熱を出してのう。蒼牙様が豪く心配しておった」

 少しぬめる感触は、まるで身体の中央にポッカリと穴が開いたような…落ち着けない心許なさに、女はこんな気持ちをいつも味わってるのかと、自分の身体だって言うのに俺は、まるで他人事のように思っていた。

「俺…女になったのか」

「正確に言えば、両性具有体になったのじゃよ。嫁御殿の場合は、子宮を形成した時点で男である機能は逸してしまったのじゃから、両性具有と言うのも違うとは思うのじゃが、性器が残ってしまったからのぅ」

 ああ、そっか…俺は一部でも、ちゃんと女になったんだな。
 どうしてだろう、俺は…こんな常識では考えられない変化が自分の身体に起こったって言うのに、それを気味悪いだとか、勘弁してくれだとか、マイナスに考えてしまう要素がまるで沸き起こってこなかったんだ。それどころか、嬉しいような、照れ臭いような…はにかむような穏やかな感情がヒッソリと身体中を満たして、気付いたら小さく笑って腹を押さえていた。
 ここに…俺はきっと、蒼牙の子供を宿すんだろう。
 何故かな、それが凄く嬉しいと思ってるんだから…あーあ、どうやらあの秘薬とやらのおかげで、感情までもが女っぽくなったみたいだ。
 小林さんの声は聞こえていたんだけど、俺の脳みそはその内容までは理解していないようだった。
 それよりも俺は、不意に一瞬、一抹の不安に襲われていた。
 姿形が変わることなく、一部だけが変化してしまった俺を、蒼牙はどう思うんだろう?
 村人たちも、呉高木家の連中も、スッカリ俺が秘薬の力でもって完全な女になるんだと思っていたとしたら…それはそれで、ちょっと厄介だよなぁ。
 一難去ってまた一難…か。
 あーあ、やっぱり自然の摂理を無視したこの愛は、そう容易く成就するってワケでもなさそうだ。
 小林さんの、少し興奮したような饒舌な話が続く部屋の中で、俺はやれやれと溜め息を吐きながら開け放たれた障子の向こう、月明かりにぼんやりと浮かぶ日本庭園を見詰めていた。

第一話 花嫁に選ばれた男 17  -鬼哭の杜-

 片手に真剣の日本刀を携えた蒼牙は、どうも、息せき切って駆けつけたと言う風情だったけど、俺を見る目付きはとても憎々しげだった。
 だからこそ、俺の頑なになりつつあった心にさらに拍車をかけて、座敷ッ娘を抱き締める腕に力を込めながら、そんな蒼牙を睨み据えるぐらいの根性を発揮できたんだと思う。

「…何故、アンタがここにいる?」

 それは地獄の底から蘇った亡者が、腹の底から呻くような、忌々しい響きを俺の耳に残したけど、その質問に俺は気丈に口を開いていた。

「呉高木の花嫁は、何処にいてもいいんじゃなかったのか?」

「ここはダメだ。言わなかったか?禁域を侵すものは、たとえアンタでも許さないと」

 その気迫は、今にも俺を殺そうと身構える、蛇のような禍々しさがあった。
 全身総毛立って、それでも、震える腕で座敷ッ娘を抱き締めたまま、俺は蛇に睨まれた蛙の心境を嫌と言うほど味わいながら、乾いてくる唇をコソッと舐めていた。

「は?ここは禁域だったのか??」

「…ここが何処だか、知らないワケでもないんだろ?」

 蒼牙はシニカルに笑ったけど、その暗い光を宿す双眸は、驚くことに少しも笑っちゃいない。
 きっと、こんな目をして、蒼牙は高柳の息子さんに引導を渡したんだろう。
 誰かを殺すときに、憐れむ双眸をするヤツなんかいない。
 どんなに誤った感情でも、憎しみを宿して、忌々しそうに殺さなければ、きっと人を殺すことなんかできない。そんな風に、何故か脳内の冷静な部分が、そんなことを分析しているようだった。

「蒼牙!止めなさい、彼は…」

「蒼牙さん!」

 後から追い縋るようにして…今はこのペアを見たくなかったってのに、不二峰は酷く慌てたように蒼牙の腕を掴んだ。その背後で、綺麗な柳眉を思い切り顰めた、折角の美人が台無しになっている眞琴さんが、憎々しげにそんな2人を睨み付けていた。
 ああ、でもこれで…蒼牙の怒りは納まるかもしれない。
 不二峰が止めれば、きっと蒼牙は不機嫌でも、怒りは納まってくれるだろう。
 せめて、この腕の中にいる座敷ッ娘まで道連れにするのは、忍びないんだ。
 俺がホッとしている目の前で、蒼牙のヤツは、唐突に掴まれている腕を振り払うと、それでなくても狭い場所だと言うのに、閃く刀を一振りして不二峰たちを追い払ったんだ。

「アンタらに用はない!ここは禁域だ、アンタらでも入っていい場所ではない。失せろッ」

 その恫喝は、この土蔵に流れる重苦しい空気をビリビリと震わせて、その気迫に、あの不二峰が竦んだんだ!いつもは冷静な眞琴さんですら、ビクッとして着物の袖で口許を隠してしまう有様だった。
 俺はと言えば、やっぱり根っこのところじゃひ弱な都会育ちなんだよな、ビクッとして首を竦めてしまった。
 でも、座敷ッ娘は、俺の腕の中でそんな蒼牙をヒタと見据えて、怯える様子も見せずに厳かに口を開いたんだ。

『ここに嫁御さまがいることをぉ…誰に聞いたのー?』

 蒼牙のあまりの剣幕に、渋々と言った感じで立ち去った不二峰と眞琴さんのいなくなった土蔵は、何処か冷え冷えとしていて、夏だと言うのに俺は背筋が冷たくなるような錯覚に息を呑んでいた。
 座敷ッ娘の声はそんな土蔵の中を、淡々と響いている。

「直哉だ。それがどうした?アンタがついていながら、とんだ粗相だな」

 なるほど、どうやら俺は直哉に諮られたってワケだ。
 端から目障りな俺を、この村から出すつもりなんかなくて、できれば未練がないように蒼牙の手で葬らせる計画を練っていたってワケか。
 なんか、ムカついてきたな。

『…嫁御さまの気持ちをー、聞かないのぉ?』

「関係ない」

 その言葉で、俺の中の何かがプチッと音を立てて切れた…ような気がした。
 たぶんそれは、堪忍袋の緒ってヤツだ。

「…関係ないだと?」

「?」

 俯いたままで、搾り出すような低い声に、蒼牙が訝しそうに眉を寄せる気配を感じた。
 今の俺には、蒼牙の怒りや不機嫌なんかどうでもいい。それ以上に、きっと俺は怒っている。

「勝手に俺を花嫁にしたくせに、その心は、いつだって不二峰のもので。それでもお前を好きだと言う気持ちを未練がましく捨てることもできずに、想いを隠しながら生きていこうとしているこの俺を、関係ないだと…?」

「…何を言ってるんだ?」

「ああ、そうだよな。だから、今だってお前は俺を殺せるんだよ。テメーの心を殺すようなヤツだもんな?ここがどんな場所か知らないかだと?そんなの知ったことかよ。ただ、桜姫が軟禁されていた場所だったってことぐらいだろ。それだってどうでもいい。それこそ、俺には関係ない。そもそも、それがどうしたって言うんだ?なに、目くじら立ててんだよ。お前たち呉高木家の連中は、それが正当だとでも思っていたんだろ?それを今更『禁域』なんて都合のいいこと言いやがって!そんなに大事な場所なら、鍵でも掛けて机の中にでも仕舞っとけばよかったんだッ」

 青褪めるほど怒ってるってのに、こんな時なのに俺は、どうしてなんだろう。
 気付けば悲しくて悲しくて…涙こそ出なかったけど、それほど激しくは言っていなかった。
 淡々とした口調は、心が、もう諦めてしまったからなんだろうか?
 それとも…できれば蒼牙の心にまで届けばと願う思いからなのかな…

「あの場所だってそうだ…そうすれば、俺はお前と出会うこともなくて、平凡なサラリーマン人生を終えていたに違いないんだから」

 悔しいとか、恨めしいとか…不思議とそんな気持ちは少しも起こらなかった、それどころか怒りでさえ、俺の中から唐突に立ち消えてしまっていた。
 なんて言うんだろう、この気持ちは。
 ただ、切なくて…そして、寂しいんだ。

「お前だって、不二峰と歩む人生だってあったかもしれないのに…お前は馬鹿なんだよ。殺したければ殺せばいい、どうせ、俺の命なんてもう随分前に消えていたんだ」

 蒼牙の得も言えない感情を内に秘めた双眸を見上げたまま、笑って言うことができて、俺は何故か酷くホッとしていた。
 どうせ、蒼牙が救いの手を差し伸べなかったら俺は…きっと、一家心中していたに違いない。
 今よりももっと若い、高校の頃には親父の借金は億を超えていたから…仕方なかった。
 ガスも電気も止められて…このご時世に、水道だけがライフラインだった…なんて、いったい誰が信じてくれるんだ?
 そんな荒んだ生活の中で、当時まだ僅か12歳だった蒼牙の一存で、俺たち家族は救われたんだ。
 今なら、高柳家の息子の気持ちが判るような気がする。
 この命、くれてやってもいいよ。

『嫁御さま!いや、死んでしまわないでーッ』

 細目でニコニコ笑っていたはずの座敷ッ娘は、大粒の涙をボロボロ零しながら、決意を固めてしまっていることを、きっと誰よりも敏感に感じ取っているんだろう、小さな紅葉みたいな両手で俺に抱き付いてきた。その背中を優しく撫でながら…俺は楡崎を護ってくれる小さな神様に、心から「ありがとう」と呟いていた。

「天女の血をお前にやるよ」

 ニコッと笑ったら、あれほど怒り狂っていたのに蒼牙は、不意に顔を歪めて、ギリギリと悔しそうに歯軋りを始めたんだ。
 ど、どうしたって言うんだ…?!

「…アンタはそうやって、いつも俺を惑わすんだ。俺の中の迷いを掻き立てては、指の隙間からスルリと消えてしまうくせにッ!いい心掛けじゃないかッ、望みどおり殺してやる!」

 なんだと??
 蒼牙が望むのなら、この命ぐらい喜んで差し出すつもりだったけど、ちょっと待て。
 何か今、理不尽なことを言われなかったか??
 お前の中の迷いだと??

「お前の中の迷い…だと?それはきっと、不二峰への恋心だろ?確かに俺の存在が掻き立ててるのかも知れないけど、消えてしまうって何だ!?」

「龍雅への恋心だと!?何を言ってるんだ、アンタは!!?」

 蒼牙は忌々しそうに俺を見下ろして、その手にギラつく日本刀を構えたままで、心底、不貞腐れたように言いやがるから…

「見たんだよ!お前と不二峰が…でも、だからって俺は文句なんか言わない。お前はお前の自由に生きることが、俺が望む全てだから」

「…なんだと?」

 一瞬だけ、蒼牙は顔色を変えたけど、それでも、さすがは呉高木家の現当主だ。
 冷静さは保っているから天晴れだよな。

「俺たちを見た…と言ったな?なるほど、それで龍雅への恋心ね。それで?アンタは身を引こうとでも思ったのか??」

「当然だろ」

 不二峰を想う蒼牙の傍で、ただ、凡庸と暮らすには、俺はそれほどお気楽な性格じゃないんだ。
 蒼牙のヤツは、構えていた日本刀を下げると、忌々しそうに舌打ちしてから、やれやれと首を左右に振って息を吐いた。

「では、何故この禁域にいるんだ?夜ではないんだ、バスにだって乗れた筈だ」

 そりゃあ、まさに図星だったけど…悔しいから、ムスッとしたままで口は開かなかった。
 それをどう解釈したのか、蒼牙のヤツは日本刀の刀背で肩を叩きながら、呆れたように座り込んでいる俺を見下ろしてきた。

「この禁域を知らないアンタがどうして此処にいるのか…重要なのはその部分だろうがな。アンタの行動に首を傾げたいところだが…俺と龍雅へのあてつけか?」

 そんな風に言われるとは思っていなかったし、実際、そんなことを考えてもいなかったから…気付いたら俺は、外方向いたままでポロポロと涙を零していた。
 ギョッとした蒼牙が何か、また嫌なことでも言い出すんじゃないかと、口を開く前にギッと睨み付けて畳み掛けるように言い返していた。
 蒼牙の、不二峰を想う言葉なんか聞きたくない。

「未練だよ!…笑っても別に構やしないけどなッ、6歳も年下の男に惚れて、忘れられなくて…せめて、晦の儀までは同じ村にいたいって思っただけだ。お前と…不二峰の間を裂こうとか、そんなこと、考えてもなかった…クソッ、そんなこと言われるぐらいなら、初めから素直に帰っていればよかったよ。でも…もう少し、ほんの少しでいいから傍にいたいって思った、ただの未練だったのに…」

 やっぱり、帰っておくべきだったんだ。
 蒼牙の心はもうここにはないのに、どうして俺は、こんなに必死になってるんだろう。
 あんなに愛を囁いてくれていたときは、世間体だとかそんなものばっか気にして、いざ離れてしまうと知ったからって、その時になって追いかけても、もう遅い。もう、遅いのに…
 なんて俺は、未練がましいんだろう。
 これなら蒼牙に想われなくても、仕方ないのか…
 蒼牙の顔を見ているのは辛くて、俺は瞼をギュッと閉じて俯くと、そのまま畳にポタポタと涙を零していた。
 蒼牙の息を呑むような気配がしたけど、このまま放っておいてくれたらいいのに。

「…此処に来たのは、気付いたら土蔵の前に立ってたんだよ。そのまま、何処かに隠れたくて忍び込んだんだ。禁域なんて気付かなかった。殺したければ殺せばいい。俺には、呉高木も楡崎の血も、全部どうでもいいことだ。今更、生きることに未練なんかない」

 ポロポロ泣きながら、俺は畳に呟いていた。
 今更、直哉を庇ってもどうにもならないんだろうけど、これ以上、誰かを殺してしまうかもしれない蒼牙は見たくない。
 これ以上、蒼牙に罪を背負わせたくない。

「…俺には未練があるのに、生きることには未練がないだと?」

「ああ!そうだよッ、うるせーなッ!!さっさと殺すなり放っておくなりしてくれよ」

 これ以上俺に、恥をかかせないでくれ。
 もっと、身も蓋もないことを口走ってしまいそうで、俺はそれ以上は何も言わずにグッと唇を噛み締めていた。
 震える肩も、色気もない黒髪も、こんな風じゃなかったら、蒼牙はもう少し俺を…愛してくれたんだろうか?
 不二峰のように大人だったら、俺を…ああ、俺はどこまで女々しいんだ。

『嫁御さまに触らないでぇ!もう、呉高木の嫁御さまではないのよーッ』

 どうやら、蒼牙は腕を伸ばして俺に触ろうとしたようだった。
 その腕を、楡崎の守り手である座敷ッ娘が邪険に振り払ったんだろう、涙に暮れた双眸を開いて顔を上げたら、何処か痛々しそうな表情をした蒼牙が、日本刀を傍らに落として片膝をつき、蹲るようにしている俺を見詰めていたんだ。
 物言いたそうな顔を見ていたら、また涙が溢れてきて、胸がギュッと痛んだ。
 こんな、壮絶な別れ方をする為にこの村に来たワケじゃないのに…運命は恐ろしいほど残酷だと思う。

「光太郎…アンタは」

『蒼くん!私は貴方に頼まれたから、真剣な貴方だったから、嫁御さまのお輿入れに賛成したのよー。でも、嫁御さまを悲しませるのならぁ、このお話はなかったことにするのー。お仕舞いなのよぉ』

「…誰が仕舞いにするだと?楡崎の守り手よ、儀式は既に執り行われた。アンタもそれは知っているはずだ。今更…婚儀の取り止めなど有り得ない」

『でもー!』

 座敷ッ娘は食って掛かろうとしたけど、腕を伸ばした俺は、それを静かに止めていた。
 呉高木にとって、『楡崎の血』はどうしても必要なんだ。
 俺には恩義がある。
 だから、晦の儀までいることにしていたんだ。

「蒼牙…の、言う、とおりだ。俺は、蒼牙の花嫁に…なる」

 まるで狐にでも抓まれたような顔をした2人に、俺は泣きながら笑っていた。
 蒼牙だって心を殺したのなら、俺だって心を殺すことぐらいできるさ。
 甘く見んなよ、蒼牙!

「楡崎の血を…蒼牙にやるよ」

 その後、俺が何処に行こうと、もういいんだよな?
 この呉高木の家に俺の持っている天女の血を遺せば、蒼牙は、蒼牙の愛する人の場所にいけるんだよな?
 それなら俺は…ああ、最初からそうしていればよかった。
 それなら、あんな無様な告白までしなくてもよかったのになぁ。
 クソッ、俺って何処まで抜けてるんだか…トホホ。

「…今度はアンタが心を殺すのか?ハッ!冗談も大概にしろよ?誰が龍雅を好きだって??」

 それまで、黙って食い入るように俺を見詰めていた蒼牙は、やれやれと溜め息を吐いてから、これ以上はないぐらい苛立たしそうに吐き捨てたんだ。

「だって、お前は否定しなかった。『楡崎の血』の為だけに望まない婚姻を結ぶのかって不二峰に聞かれた時、お前は否定しなかった」

「…アンタは龍雅を知らなさ過ぎる」

「え?」

 蒼牙はこの上なく不機嫌そうに、俺の傍らで守るようにして両手を広げている座敷ッ娘を見下ろしてから、フッと寄せている眉間の力を和らげたようだった。

「…言うべきかどうか悩んだんだがな。教えてやるよ、呉高木家の真実を」

「蒼牙…」

 頬には、止まることを忘れてしまったかのように涙がハラハラと零れていたけど、それでも、俺は蒼牙から視線を外さなかった。
 心が少しでも届くなら…俺は蒼牙が好きだから。
 未練タラタラ…ッてさぁ、情けないほど、6歳も年下の男に惚れてしまったんだよ。
 俺が聞きたいのは呉高木家の秘密じゃない。
 蒼牙の心なのに…

 ポロポロと涙を零している俺の頬を指先で触れても、今度は座敷ッ娘は阻止しなかった。
 俺も、嫌だと言って首を振ることはしなかった。
 「こんなに泣かれてしまうとはな…」と、蒼牙はあれほど怒っていたくせに、現金なほど掌を返して、嬉しそうに頬の緊張を緩めたりするから、グズグズと泣いている俺の方が馬鹿みたいじゃないか。
 畜生。

「どうやら、アンタの身体に流れている血の秘密は守り手から聞いたようだな。では、俺たちの一族が蛟龍と呼ばれていた龍の末裔であることは知っているな?」

「…ああ」

 ヒクッとしゃくりながら頷いたら、蒼牙は、どうしてそんな目付きをするんだよって怒鳴りたいぐらい、愛おしそうに俺を見詰めて、できればこのまま抱き締めて、もう何処にも行かせないんだがなぁ…とでも言いたそうな顔をしやがるから、俺は悔しくてまた泣いてしまった。
 そんな顔、するなよ。
 不二峰を愛してる心を持ちながら、俺に嘘を吐くなんて酷いんだぞ。
 お前にとっては、どうでもいいことなんだろうけどな…

「龍の子と呼ばれる俺たちは、天女の血を持つ楡崎の人間を見つけるまでは、両性体でいるんだ。その間にセックスをしても、子供は生まれない。男であり女である。だが、そのどちらでもない中性体のままだからな」

 それは衝撃的な一言だったから、目をパチクリさせて、それでもどんな顔をしたらいいのか判らなくて、俺は訝るように眉を顰めることぐらいしかできなかった。

「楡崎の人間がどちらの性でも、婚姻できるようにな。龍の子の想いは、それほど楡崎の者に執着しているんだよ」

 勿論、俺もだが…そう呟いて、蒼牙は自嘲的に笑ったんだ。
 どうして、そんな顔をするんだよ?
 やっぱり、お前も楡崎の血に執着してるだけじゃねーか。
 なんか、やっぱり無性にムカツクんだよなぁ。

「…俺はまだ幼い頃、6歳ぐらいまでは女として育っていた。名も『葵姫(アオイヒメ)』と呼ばれていてな、龍雅の花嫁になるんだと思い込んでいたよ」

 遠い昔…と言うほどでもないんだけど、17歳の蒼牙はそんな風に、やはり自嘲的に笑いながら、そのくせやっぱり忌々しそうに呟いていた。

「ちょうど、6歳になるかならないかの時に…俺は母さんに呼ばれたんだ。その頃はまだ、母さんは調子が良かったり悪かったりを繰り返していたから、まだ、この座敷牢にはいなかったんだが…毬遊びをしていた俺は呼ばれるままに、母さんの許まで行った」

 その時の情景が何故か、鮮明に脳裏に浮かんでいた。
 肩の辺りまで伸ばした青白髪の髪をキチンと摘み揃えて、少し勝気そうな双眸をした可愛らしい少女が、嬉しそうに毬を持って、柔らかそうな優しい手に導かれるようにして駆けてくる姿。
 なぜ、こんな光景が視えるんだろう?

「その時、俺は1人の綺麗な人に会った。まだ、幼そうな顔立ちをしていたけれど、俺はその人を初めて見て、一瞬で恋をしていた。とても綺麗な人で、精霊妃がいれば、きっとこんな人だろうと思って、母さんに興奮して誰かと聞いたのさ。そうしたら母さんは、日傘を差したままで首を傾げながら、自分には普通の人に見えるのに、葵姫には特別に見えるのね…って笑った。そしてその人が、龍雅の花嫁になる人だと教えてくれた」

 毬を持ったままで遠くにいる誰かをジッと見詰めたに違いない蒼牙は、その時の視線のままで、憧れと燃え上がるような情熱と、はにかむような照れを隠した双眸で、俺を食い入るように見詰めてきたんだ。

「龍雅の花嫁になるんだろうと思い込んでいた俺は、母さんに聞いたんだ。龍雅の花嫁は自分じゃないのかと。そうしたら母さんは、日傘の下から涼しげな双眸を細めて、寂しそうに笑っていたよ。あの方は特別な人だから、龍雅の1番目の花嫁で、俺は2番目なんだとさ。そりゃあ、冗談じゃないと思ったワケだ。それに…」

 そう言って、蒼牙は何かを思い出すように自嘲的に笑ったんだけど、その顔は、何故かとても不敵なものだった。
 どうしてそんな顔をするんだろうと首を傾げていたら蒼牙は…

「花嫁なんてご免だと思ったんだ。龍雅と話しているその綺麗な人を…俺は、自分の花嫁にしたいと思った。まあ、簡単に考えても判るだろ?俺は両性体で、どちらの性にもなれるんだ。その人を見た時に、俺の性別は決まったも同じだった。俺は、男になる決心をしたのさ」

「…不二峰の花嫁を略奪するつもりだったのか?」

「つもりじゃない、略奪したんだ」

 キッパリと蒼牙は言い切ったけど…実は、涙の乾かない俺は、そんな突拍子もない話を聞きながらも、怪訝そうに眉を寄せて首を傾げてしまった。
 いや、だって。
 たぶん、蒼牙の雰囲気からも、その不二峰の花嫁は…俺だったんだと思う。
 でも、俺にはそんな記憶はこれっぽっちもないんだ。
 つーか、不二峰に会った記憶すらない。
 そのことを蒼牙に言おうとした時、唐突に、それまで黙って聞いていた座敷ッ娘がオズオズと俺の服の裾を掴みながら口を開いた。

『嫁御さまから龍雅の記憶を消したのは私なのよー。ごめんなさいぃ』

「え?」

 どうしてそんなことをしたんだろうと首を傾げたら、その疑問には蒼牙が答えてくれた。

「俺がそう、頼んだんだ」

「へ?…どうしてだ??」

「それは…」

 蒼牙は言い難そうに言葉を切ったけど、フイッと、それまで一度だって逸らしたことのない強い意志を秘めている双眸を伏せて、思い切るように閉じた瞼を開くと、俺を正面に見据えて話を続けたんだ。

「龍雅には龍の血が少ない。それ故に、両性ではなく、最初から男だったんだ。ヤツはそれを酷く恥じていて、呉高木の当主になる為に『天女の血』を持つ楡崎の息子を娶ることにしたのさ。連れて来られた光太郎を一目見て、龍雅は気に入ったようだった。当時、12歳のアンタと16歳の龍雅の、まるで茶番のような見合いに、両家はいたく乗り気だった。だから、俺はそれをぶっ壊そうと考えたんだ。アンタを娶るのは俺だと思っていたからな」

「蒼牙…」

 ふと、こんな時なのに俺は、それでも嬉しい…なんて、どうかしてることを思ってしまった。
 ポロッと頬に涙が零れて、俺は何処までも、この不遜な当主が好きなんだなぁと思う。

「俺はまだ子供で力なんかなかったからな、楡崎の守り手にお願いしたのさ…そんな俺たちが部屋にコソリと行った時には、アンタは龍雅に組み敷かれていた」

「ええ!?んな、馬鹿なッ!」

 見合いの席でイキナリ犯されてたのか、俺!?

『嘘じゃないのよー』

 焦ったようにオタオタと顔を覗き込んでくる座敷ッ娘をマジマジと、信じられないものでも見るようにして、それから改めて蒼牙を見ると、ヤツは珍しく不機嫌そうに目線を逸らしてしまった。
 だから、信じられないんだけど、それが真実なんだと思い知った。
 嘘だ…

「幸い、まだ純潔を奪われたと言うワケではなかったんだが、えらく動揺していてな。守り手と共に助け出したんだが、震えるアンタは、泣きながら幼い俺に縋り付いてきた。俺はそんなアンタを抱き締めながら、生涯、きっと護ろうと決意したよ。ただ、これに懲りてアンタが呉高木の家に来なくなったら元も子もないと思ってな、守り手に頼んで記憶を消してもらったんだ」

「そ…う、だったのか。それで、俺の蒼牙の記憶は、12歳の時からなんだな…」

「ああ。あの後、俺は『女』になる為に祖父や直哉から手解きを受けていたから、その手管と言うヤツで、怒り狂う龍雅を宥めたと言うワケだ。弱冠6歳の俺に翻弄される龍雅も見ものだったがな」

 ニヤッと笑う蒼牙は何処か、今までに見たこともない子供っぽいツラをしていて、俺は凄く好きになったんだけど、話の内容があまりに壮絶すぎて、いったいどんな顔をしたらいいのか判らないまま、複雑な表情で見詰めてしまった。
 そんな俺に、蒼牙は笑ったままで肩を竦めたが、すぐに不機嫌そうにムッとしたんだ。

「だが、その後がいけなかったな。龍雅はスッカリ俺が自分に惚れていると思い込んだようで、俺を娶ることで呉高木を継ぐ気になってしまったんだ。だから、俺は7歳の時に『蒼牙』と改名し、当主になることを条件に、龍雅を不二峰の養子に出すことにしたんだ」

「ゲ!アイツを不二峰家に養子に出したのって蒼牙だったのか!?爺ちゃんじゃなくて!!?」

「ああ、そうだ。目障りなヤツにはお暇願うのが当然だろう?」

 いや、ちょっと待ってくれ。
 じゃ、じゃあ、もともと蒼牙は俺を嫁にするつもりで、当主になったってことか?龍雅は、言わば恋敵だったから、爺さまに頼んで追っ払ったと、つまり、そう言うことなんだな?
 7歳のクソガキがそれを思い付いたって言うのか??
 ポカンッとする俺に、蒼牙は一瞬だけムッとしたけど、でも、すぐに自嘲的に笑ったんだ。
 アイツの男らしい頬に、一筋、頼りなげに青白髪が零れて、その面立ちは寂しかった。

「俺は…誇らしい生き方なんかしていない。アンタの夫になる資格なんか、本当は龍雅よりも持っちゃいないんだ。天女の血を持つ者は、必然的に人に惚れる。だからこそ、俺は龍雅の存在に怯えていた。正当に娶ることを告げれば、龍雅は納得した。だが、アイツはアンタに惚れていたから…今でも、アンタが龍雅のモノになるかもしれない危険はあるんだ」

 悲しげに笑う蒼牙。
 でも、それは…蒼牙のせいじゃない。
 両性であることも、女として生きなければならなかったことも…どちらも、呉高木の思惑と、そして、蛟龍がばら撒いた種なのに…どうして、こんなに蒼牙が傷付くんだろう。
 俺は、幼い蒼牙に守ってやるって約束していたのに…本当に守ってくれていたのは、蒼牙。
 お前だったなんて…
 俺はポロポロと、忘れていた涙が涙腺をぶっ壊して、またしても頬を零れ落ちていく。

「蒼牙…」

 両腕を差し伸ばせば、蒼牙は躊躇うこともなくそんな俺を引き寄せると、ギュウッと両腕に力を込めて、もう絶対に離さないんだと強い意志で抱き締めてくれたんだ。
 蒼牙の首に回した腕に力を込めて、背中に回された腕の力を感じて、俺はボロボロ泣きながら、蒼牙を心の奥底から愛してると感じていた。

「気付かなくて…俺は、馬鹿だ。守ってるつもりで…お前が一番、俺を守ってくれていたのに…」

「龍雅は俺がアンタに惚れていると知れば、どんなことをしてでも、横から掻っ攫って行くつもりだろう。龍雅とはそう言う男なんだよ。だから、俺は心を偽って、アイツに惚れているフリをした。抱かれても気にもならないからな。だが、アンタを妻として正式に娶ってしまえば、たとえ龍雅でも手出しはできなくなる。だからこそ、祝言の日まで呼ぶつもりなんかなかったんだ。それを直哉のヤツめッ!…アンタの純潔を龍雅に奪われることだけは避けなければならないんだ。俺は、心の奥底からアンタを愛している。天女の血なんか、どうでもいい。アンタが、ずっと傍にいてくれれば、もうそれだけでいいんだ」

 蒼牙は、俺が思っていることと、全く同じことを想ってくれながら、優しい愛を込めて抱き締めてくれる。
 不二峰の俺を見る、あの嫌な目付きは、そうか、俺が『天女の血』を持つ楡崎の人間だったからなんだ。
 蒼牙ではなく不二峰こそが、『天女の血』を尤も欲している、龍の子の末裔に成り損ねた呉高木の人間だったんだろう。

「アンタが…俺が女の方がいいと言うなら、俺は別に女になっても構わないんだぞ。どちらでも、光太郎の望むままに」

 クスッと、蒼牙は笑った。
 自然で言うのなら、俺は蒼牙の花婿になるべきなんだろうけど…何故か、この村の連中も、蒼牙自身も、俺を花嫁として迎えようとしている。
 その理由は判らなかったが、今更、蒼牙を女のようには見れないし、ましてや不二峰でもあるまいし、コイツを抱こうなんて気にはどうしてもなれなかった。
 でも…俺は一抹の不安を覚えるんだ。

「俺は、このまま蒼牙の花嫁になれるのか?」

 だって、俺は女じゃないから、蒼牙の子供を産んでやることもできないのに…

「決めるのは、アンタ自身だろう?」

「…え?」

 顔を上げて蒼牙を見ようとしたら、ふと、何故か眩暈がした。
 蒼牙の顔が、二重に三重にぶれてくる。

「アンタのこれ以上はない嬉しい愛の告白が聞けたんだ。俺はなんだってするさ」

 嬉しげに笑う蒼牙の声でさえ、鼓膜を刺激して、何処か遠くで聞こえているような朧げな頼りないモノで…なんだ、これ??

「あ、あれ…??」

 伸ばした指先でその頬に触れようとしたのに、指先は切なく空を切る。

「光太郎?…どうしたんだ!?おい!!」

 蒼牙の腕に抱かれたままで、俺は急速に身体が冷たくなるのを感じていた。
 俺の異変に気付いた蒼牙が俺の名前を呼んでくれているのに、今はそれに応えることもできない。
 まるで貧血のようにスッと血の気が引いて、もがこうと、足掻こうと必死で蒼牙の着流しを掴もうとするのに、指先に力が入らないから、そのままスカンッと腕が落ちてしまう。
 重くなる身体と瞼を持て余して蒼牙を見詰めれば、呉高木の正当な現当主は、まるで似合わない動揺した顔をしてそんな俺を支えてくれる。でも、その顔を安心させることができなくて、俺は悔しくて仕方なかった。
 少しぐらい、俺にも蒼牙を安心させてやるだけの力が欲しいのに…
 気持ちばかりが空回りして、大きな思惑に飲み込まれそうだ。
 俺だって…蒼牙の…傍に…いるだけで…
 …………
 ……
 …
 …幸せ…なのに…
 何処か遠くで、蒼牙の声がしたような気がした。

第一話 花嫁に選ばれた男 16  -鬼哭の杜-

 俺は小雛に促されるまま直哉に会って、そして、大の男である俺がボロボロ涙を零しているのに少し絶句した直哉はでも、深い事情なんかは聞かずにホクホクと隠れられる場所に案内してくれた。
 涙に霞む目で通された場所は、何処をどうやって来たのか全然覚えていないんだけど、直哉の説明では、この場所は呉高木の禁域と呼ばれる場所で、その昔、蒼牙の母である桜姫が閉じ込められていた座敷牢なんだそうだ。
 物寂しい明り取りの行灯を除けば、生活には確かに困らない造りになっているけれど、それでも、こんな場所に閉じ込められたんじゃ、正常でも異常になるだろうなぁとぼんやり考えていた。
 直哉と小雛は、ぼんやりしたままで、まるで魂が抜けてしまったように惚けている俺を暫く見詰めていたけど、小雛が何か言おうと口を開きかけるのを素早く直哉が止めて、2人はそそくさと出て行ってしまった。
 ああ、これで1人になれた…

「…ッ、ふ…う……うぅ~ッ」

 俺は畳の上に敷かれた、つい最近まで誰かが使っていたんじゃないかって思えるほど新しい、緋色の布団に突っ伏して、人差し指を噛みながら声を殺して泣いていた。
 やっと、泣ける。
 俺はこんなに女々しくないはずだったのに、どうしてだろう?蒼牙の傍にいたら、忘れかけていた感情が一気に解き放たれたみたいに、俺は喜怒哀楽をちゃんと表現できるようになったんだ。
 誰かを愛しいと思うのは、きっと、驚くほど体力を使っちまうんだろうけど、それでも、誰かを愛しいと思えないことよりも何万倍も良いに決まってる。
 高い場所に設置されている窓から射し込む、そろそろ傾きかけてきた太陽の頼りない陽光を反射するように、キラキラと光る埃が舞い散る中で、俺は枕を濡らして泣いて、泣いて…このままだったらきっと、両目が溶けてしまうんじゃないかって思えるほど爆泣きしちまった。
 今頃、蒼牙は大好きな不二峰の胸の中で、もしかしたら一瞬の安らぎを求めて眠っているのかもしれない。
 そんなことが脳裏に閃くだけで、俺はまた、流れ出す涙を留めることができなかった。
 どんな思いで…いつも俺に自分の花嫁になれって言ってたんだ?
 心の奥深いところに不二峰への想いを隠して、ただただ、『楡崎の血』の為だけに娶る俺に、どんな気持ちで愛を囁いていたんだ。
 こんなのは酷いよ、蒼牙。
 俺の心をガッチリ掴みながら、握り潰すこともせずに、まるで生殺しで生かし続けるなんて…そんなの、お前じゃない、俺が可哀想だ。
 今だけ、俺は俺の為に泣くから…今だけは、蒼牙。
 お前を恨んでもいいだろ?きっと、晦の儀の時には、スッキリした気分で家に帰るから。
 お前のこと、恨んだりしないし、幸せだけを願い続けるから…だから。
 今だけ、俺は、可哀想な俺の恋心の為に泣いてもいいよな?
 ボロボロ零れる涙に限りなんかあるワケがない、と思えてしまうほど、俺の涙腺は持ち主の意に反して、後から後から透明な雫を零し続けていた。

『あらぁ?可愛らしい嫁御さまが、どうしてこんなところで泣いているのー??』

 ふと、座敷牢って言うぐらいだから、檻の役目をする格子の向こうから子供っぽい声が降ってきて、俺は突っ伏していた顔を上げて、声の主をぼんやりと眺めていた。

「…はは、笠地蔵の次は座敷童子か?」

『座敷童子は男の子よぉ』

 瑣末な着物を着て、オカッパ頭の5、6歳ぐらいの少女らしきその子は、子供らしいあどけない顔でクスクスと笑うから、俺もついつい、あんなに悲しいと思っていたのに、釣られるように笑っていた。

「じゃあ、座敷ッ娘か」

『ザシキッコ?ヘンなのぉ』

 オカッパ頭の少女が楽しそうに笑うから、なんだか、今までのことも全て忘れてしまえるような、不思議な気持ちでいっぱいになっていた。

『嫁御さまがこんな悲しい場所にいてはダメよぉ。早く、母屋にかえろ?蒼くんが心配しながら待ってるよぉ』

 その言葉にも、あまり傷付くこともなく、俺は俯くと散々泣き腫らした目で畳の目を見詰めながら、自嘲するように笑うしかなかったんだ。

「俺はもう、蒼牙の許には帰らないよ。やっぱり座敷ッ娘も呉高木家を見守る神様なんだろ?悪いけど、俺はもう呉高木になるつもりは…」

『ううん、違うよぉ。わたしは楡崎の護り手なのー』

 オカッパ頭の座敷童子もどきの少女は、勝気そうな黒目勝ちの双眸を細めて、照れ臭そうにエヘヘヘッと笑ったから、俺は思わずギョッとしていた。
 そんな…楡崎にも妖怪が棲みついていたのか!? 
 そう言えば昔、ばあちゃん家に遊びに行ったとき、絶対に何かいるって気配が充満していたあの古めかしい日本家屋を思い出したら、なるほど、座敷童子の1人や2人いたっておかしかないのか。
 と、妙に感心してしまった。

『わたしは楡崎のお家から、嫁御さまを護るためだけについてきたのぉ。だから、一緒に母屋にかえろ?』

「…せっかく、俺なんかについてきてくれたのに、ごめんな。やっぱり、俺は戻れないよ」

『どうして?』

 あまりにも澄んだ、汚いことなんか何も知らないようなあどけない子供の双眸で見詰められて、俺は自分勝手な悩みに打ちひしがれていたことを恥ずかしく思いながら、それでも、この小さな味方に秘密を囁くように呟いていた。

「蒼牙の心が俺にはないから。そんなヤツと、一緒に暮らせる自信がないんだ。蒼牙に必要なのは俺じゃない、『楡崎の血』だから」

『…そうねぇ。龍の子にとって『楡崎の血』は重要だからぁ、でも。それでわたしの嫁御さまを泣かせるのは許せないわぁ』

 少女は、まるで今にも取って喰らおうとする鬼のような形相に一瞬変わったけど、すぐにその表情を引っ込めてしまった。
 何故ならそれは、俺が格子から伸ばした腕で彼女の両腕を掴んでいたからだ。

「楡崎の血について…そうか、座敷ッ娘なら何か知ってるんじゃないのか?!」

『知ってるよぉ。あれぇ?嫁御さま、知らないのぉ??』

「ああ、知らない。だから、教えてくれないか?」

 俺は、真摯にオカッパの少女を見詰めていた。
 自分の体内に流れる血に纏わることを、少しでも知ることができたなら、いつかきっと、蒼牙にも笑って会える日が来るんじゃないかって…そんな、夢のような期待を胸に秘めて。
 オカッパの少女は、腕を掴まれたままで、どこか照れ臭そうにクスクスと笑って頷いた。

『いいよぉ。お話しするのは大好きだからぁ』

「…ありがとう」

 ホッとしたら、一粒、涙が頬に零れ落ちた。
 何もかも知って、それでどうなるってワケでもないんだけど…それでも、我が身に纏わることを少しでも知れば、何か解決策が見つかるんじゃないか。繭葵の受け売りを真っ向から信じるつもりなんかないんだけど、それでも、俺は知りたかった。
 蒼牙が心を殺してまでも、こんな俺に偽りの愛を囁いて、娶ろうとしたその真意を。
 この血に関わる、何かを…

『えーっと、何処から話そうかなぁ?んとね、まずは、嫁御さまは【天女伝説】を知ってるぅ??』

「天女…って言うと、あの羽衣のことかな??」

『うん、それ。そもそも、この日本には色んな場所にぃ、天女たちは舞い降りてるのねー。みんな、大事な羽衣を失くしちゃうおっちょこちょいさんばかりだからぁ』

 座敷ッ娘は楽しそうにクスクスと笑った。
 笠地蔵の時も思ったんだけど、いったいどれだけ日本各地に未確認生物が存在してるんだよ!
 まあ、目の前の座敷ッ娘だって、そう言われてみれば、本当は未確認生物なんだから気味悪くて当たり前なんだけど…でも、人間なんかよりもよっぽど、素直で優しい。
 どれほど、この不思議な住人たちに、俺は助けられてるんだろう…

『もともと、この土地を治めていたのは呉高木家ではなかったのぉ。遠い昔、呉高木の前にこの土地を治めていた若い当主さまの時代にぃ、お空を飛ぶために必要な、羽衣を失くしてしまったおっちょこちょいな天女が舞い降りたのね。当時、この土地を治めていた若い当主さまはあんまり綺麗な天女に一目惚れして、彼女を妻にしたのよー』

 良くある昔話なんだろうけど、この場合、これはきっと実際に起こったことに違いないんだろうなぁ。

『天女も若い当主さまを好きになって、もう羽衣なんか必要ないって思ったのねぇ。だって、天女はお空を飛ぶ羽衣よりも大切なものを手に入れてしまったんだものぉ、仕方ないわよねぇ。それで、子供が生まれるんだけどー、お空の上の権力者が、それを見咎めて怒り出しちゃったのねぇ。それで、連れ戻しに差し向けられたのが、龍の子。呉高木家のご先祖さまなのよぉ』

 確かに、俺たちの分家の連中はみんな噂していた。
 呉高木家には龍の子がいる。
 そんなのは何か、性質の悪い冗談だとばかり思っていたのに…まさか、本当だったのか?
 現実に目の前で不思議な生き物がペラペラと会話してるんだから、思わず笑っちゃうような内容なんだけど、俺は息を呑むようにして聞いていた。

『天女は必死に抵抗していたんだけどぉ…龍の子がねぇ。そんな天女に一目惚れしてしまって、若い当主を嫉妬して殺しちゃったのよぉ。それで、龍の子は天女を娶ってこの土地に棲みつこうとしたんだけどぉ…天女は儚く自害してしまったのー。龍の子はぁ、当主さまと天女の間に生まれた、天女の血を持つ子供を必死で探し出そうとしたんだけど、結局、ずっと見つからなかったのねー』

「…どうして、見つからなかったんだろう?」

 それはね、と囁くように呟いて、座敷ッ娘は双眸を猫のように細めて幸せそうに微笑んだ。

『わたしが隠していたからぁ』

「…そ…うだったんだ」

『うん。龍の子、呉高木は天女の血を持つ楡崎を娶ることによって、天女の持っていた御霊寄せの力を欲していたのよー。御霊寄せと言うのはぁ、口寄せのことで…って、嫁御さまにはどっちも意味判んないわよねぇ』

 そう言って、座敷ッ娘は粗末な着物の袖で口許を隠しながら、それはそれは楽しそうにケタケタと笑うんだ。その笑顔を見ていると、悲しみのどん底に落ち込んでいるはずなのに俺は、どう言うワケだか、心がスッと軽くなって同じように幸せな気持ちになっていた。

『恐山にイタコっているでしょー?舞い降りた天女は特殊な能力を持っていた、天の姫さまだったからぁ、そのイタコのように死者と交信できる力を持っていたのねぇ。その力は、この龍刃山に昔から巣食っていた亡者どもを鎮めるための、大切な儀式にも遣えるそれはそれは偉大な力だったのよー』

「??…どうしてこの鬼哭の杜の亡者たちを、天女を追い掛けて来ただけの龍の子が鎮めなければいけないんだ?」

 それは話を聞いてるうちに感じた疑問だった。
 呉高木の先祖の龍の子は、一目惚れした天女が欲しくて若い当主から奪い去ろうとしたのに、結局、特殊能力を持つ天女の血を求めていたってことになるんだろ?それって、正直に言っておかしくないか??

『だってー、鬼哭の杜の亡者どもは、龍の子がその昔惨殺した、忌衆の成れの果てだものぉ。その責任は取らなくてはならないのよー』

「え?龍の子は、天女を追って来ただけじゃないのか??」

『それはお空の上の権力者から命じられたからこの地に追ってきただけなのー。本当は、龍の子はもともと蛟龍だったから、ちゃんと地上で生活していたのよぉ。その時、当時は忌衆と呼ばれていた人間たちと戦って、この場所に怨念を葬ったのねぇ』

「そう…だったのか。じゃあ、最初から…天女に惚れたんじゃなくて、天女の力だけが欲しかったんだな」

 自分で言っておきながら、心の奥深い部分がズキリと痛んで、俺はソッと目線を伏せてしまった。
 今は、純朴な優しい笑顔を見られるほどの余裕がない。
 若い当主を愛していた天女の、その非業の死は、どこか自分に似通っているような気になったからかもしれないけど…どちらにしても、天女も俺も、きっと、呉高木家の身勝手な思惑に踊らされた被害者なんだろう。
 そうでも思わないと、天女と俺は、あまりにも可哀想だ。

『それは違うのぉ。たまたま、天女が特殊な力を持った天姫さまだったってだけで、龍の子には本当はそんなこと、なんにも関係なかったのよぉ。ただ、きっと何か正当な理由をつけて、天女の血を持つ子孫を傍に置きたかっただけだと思うのねー』

「でもそれは、遠い昔の話しだし、俺は天女の子孫じゃない」

 俯いたままでそう呟いたら、能天気な座敷ッ娘はケラケラと愉快そうに着物の袖で口許を覆いながら、唇を突き出して笑ったんだ。

『だからー、楡崎の血の話をしてるのにぃ。その若い当主が治めていたお家はー、楡崎って名前だったのよぉ。天女の血を持っているのはー、楡崎光太郎、唯一の天女の子孫なのー』

 それほど衝撃は受けなかった…と言うか、聞いている間にそうだろうとは思ったからなんだけど、それでも俺は、俄かには信じがたい話を、こんな村だったから、素直に受け入れていた。

「蒼牙は違う。天女の血が欲しいだけだ」

 座敷ッ娘は一瞬だけ、呆気に取られるほどキョトンッとしたけど、すぐに今まで通りニコニコと絶えない笑みを浮かべて俺を、自分で軟禁状態に陥っている格子に手をかけて、覗き込んできたんだ。

『天女の血を持つ者の宿命はー、必ず人と交わってしまうのぉ。龍の子がどんなに四方に手を尽くして捜し出したとしてもぉ、その時にはもう人間と結婚していて子供を生み、死んでいたりするのねぇ。だから、龍の子と交わった者はいないのよぉ』

 それはきっと、こう言う結末に天女の血を持つ者が拒絶反応を起こすから、最後の瞬間で逃げられるんだと俺は思うぞ。俺だって、実際、晦の儀までにはこの村を出ようと考えているぐらいなんだから…

「この村に生きる龍の子が、今度は人間に恋をしたんじゃないのか?それはきっと、永遠に結ばれないと言う運命なんだよ」

 自分でもそんな台詞が出るなんて思ってもいなかったのに、気付いたら、俺は自嘲的に笑いながらそんなことを言っていた。
 こんな小さな座敷ッ娘に、いったい何が判るって言うんだ。
 俺も、やっぱり今は、どうかしているんだろう。
 そもそも、あの不二峰もどうやら呉高木に関わっているみたいだし、人間かどうかもあやふやだってのに、なにセンチメンタルになってるんだろ、俺。
 う、果てしなく落ち込みそうだ。

『…楡崎の若い当主さまの呪いなのよー。でも龍の子は、天女の心を掴もうと必死なのねぇ。だから、蒼くんのいる母屋にかえろ?』

 屈託なく、座敷ッ娘はニコッと笑った。
 いや、だからの意味が判らんのだけど…

『ちゃんと、蒼くんの口から聞くべきなのよー、嫁御さま。楡崎の大切な嫁御さま』

「…俺は、弱虫なんだ」

 ポツリと呟いたら、座敷ッ娘は笑ったままで、不思議そうに小首を傾げた。
 鼻の奥がツンとして、気を緩めたら泣きそうだったから、俺は無理に笑いながら首を左右に振っていた。

「蒼牙の口から、改めて不二峰への想いを聞いてしまったら、きっと俺は、そのまま泣いてしまうと思うんだ」

 今は飛び切り情緒不安定だからさ、思わず、6歳も年下の男に抱き付いて、愛してるって告白しちまうかもしれないだろ?はは、そんなこと、絶対にお断りだ。
 そんな形で愛を告白するぐらいなら、このまま何も言わずに立ち去った方が随分とマシだと思う。
 その時ふと、俺は鬼に想いを告げることもなく死んでしまった、儚い巫女を思い出していた。
 十三夜祭りのあの鬼にも、もしかしたら想い人がいたのかもしれない。
 巫女は潔く、想いを断ち切れないから、せめて来世ではと願いを込めて死んでしまったんだろうなぁ。
 俺はまたしても、そんなことを考えてしまったせいで、意味もなくポロポロと涙を零してしまった。
 頬を伝う透明な雫を、笑みに細めた双眸で食い入るように見詰めていた座敷ッ娘は、徐に格子からか細い手を差し伸べて、頬を濡らす涙を拭ってくれた。
 その優しい温かい掌が、ゆっくりと俺の悲しみを吸い込んでくれているようで、こんな子供なのに、俺は座敷ッ娘の優しさにほんの少し、甘えてしまっていた。

『嫁御さま、涙は悲しみを癒すためのお薬なのよー。だからうんと泣いてもいいのぉ。でも、泣き終わったら母屋にかえろ?』

 座敷ッ娘は優しく頬を拭ってくれながら、十分、気を遣ってくれている様子でニコニコと笑ってそんなことを言うから、どうやら、どんなことをしても俺を母屋に帰らせて、蒼牙と話し合いをさせたいらしい。
 そんな仕種が、傍迷惑な元気娘を思い出させて、俺は思わずクスッと笑ってしまった。
 そうだよな、俺だってもういい大人なんだし、こんな小さな子供を困らせたってどうしようもないんだ。
 ここはあの巫女のように潔く、蒼牙に振られてくるかー
 豪い恥ずかしいけどな。

「判ったよ。今から母屋に帰るよ」

『嫁御さま!…それなら、早くした方がいいのよぉ。ここは禁域の奥に鎮座ます蒼くんの大切な場所。見つかっちゃったらー、きっと怒られてしまうのよぉ』

「え!?そうなのか!!?」

 嬉しそうにニコニコ笑っていた座敷ッ娘は、笑ったままで、酷く気難しそうに慎重に頷いてくれた。

「禁域を侵したら俺でも殺すって言ってたから…その場所って、もしかしてここだったのかも??グハッ!それなら蒼牙に怒られるどころか、殺されてしまうよ~」

 思わず小さな座敷ッ娘に、格子さえなければ抱き付いてしまっていたと思うんだけど、そんな無様な姿を晒さなくてよかった。

『それなら早く。嫁御さま…ッ』

 慌てて座敷牢の扉を開けようとしていた…って、扉はいつでもフリーで開くんだよな。なんせ、監禁されているってワケではないんだし、俺の意思で隠れているんだから、鍵なんか必要ないってのは当たり前か。
 やれやれと溜め息を吐いている俺の前で、唐突に座敷ッ娘はハッとしたように顔を上げると、忌々しそうな顔をして階下の様子に耳を欹ててるようだ。
 どうも、この座敷牢は2階建ての土蔵になっているようで、下は物置か何かで、上のこの僅かな空間に、誰かを閉じ込めていた名残を残す座敷牢がある。
 改めて見渡してみると、随分と高いところにポツンと小さな窓があるぐらいで、他には窓らしい窓もなくて、薄暗い室内には衣桁(いこう)と呼ばれる着物なんかを掛けておく道具にひっそりと掛けられた桃色の着物と、目に毒々しい朱色の布団、それから簡易トイレと小さな箪笥、ちゃぶ台に置かれた朱塗りの高価そうなのに控えめな茶器があるぐらいで、豪華なんだけど派手ではなくて、畳だけが年月の長さを物語っているみたいだ。
 自由さえ気にしなければ、外の光を恋しがらなければ快適かもしれないけど、閉じ込められるのだとしたら、俺はお断りだと思う。

『蒼くんの気配がする。後、何人かー…嫁御さまをどうするつもりなんだろぉ』

 怪訝そうに眉を顰めながら、もともと糸目なのか、口許に薄気味の悪い笑みを貼り付けた座敷ッ娘は、耳を欹てるようにしてするりと牢の中に入ってくると、小さな両腕で庇うように俺に抱きついてきた。
 訝しがる俺の傍らで、ヒシッと睨み据えるのは下へと続く古めかしい木製の階段。
 キョトンッとしている俺の耳にも届いてきたのは、何かの荒々しい声と気配で…思わず首を竦めてしまったのは、誰かの制止を振り払った何者かが、置いてある何かを激しく叩き割った鋭い音がしたからだ。

「な、何が…!?」

 思わず抱き付いている小さな座敷ッ娘に身体を寄せながら俺が呟いたとき、その荒々しい何者かは凄まじい音を立てて階段を駆け上がって来たんだ!
 凄まじく怒り狂ってるんだろうと容易に想像できるその足音にも怯みそうだが、間もなく姿を現すその気配に、思い切り俺のひ弱な心臓が縮こまりそうだ。
 ギュッと瞼を閉じて座敷ッ娘を抱き締めていたけど、肩で息をしている気配だけを感じさせて、凶暴そうに怒っているソイツは口を開こうとしないから、俺は恐る恐る、怯みそうになる瞼を開いて目の前に立っているだろう誰かを見上げたんだ。
 そこに立っていたのは…
 眦を吊り上げた、今までに見たこともないほど壮絶に激怒している、蒼牙だった。

第一話 花嫁に選ばれた男 15  -鬼哭の杜-

「…判った。鬼哭の杜について、話してやろう」

 そう言った蒼牙の双眸は仕方なさそうで…どうしても話したくはなさそうだったんだけど、それでも、意を決したように掠めるキスをくれて、話し出そうとしてくれたってのに…クソッ、こんな時に限って、邪魔って入るんだよな。

「…話し声がしたのでね、失礼。お邪魔だったかな?」

 長身の、ともすれば青年になった蒼牙がその場所に立っているような、そんな奇妙な違和感を感じさせる男、不二峰は口許を僅かに歪めるようにして、チラリと俺を見たぐらいで、その双眸は真っ直ぐに蒼牙に注がれていた。

「邪魔じゃなかった…とは言えないが。何か用か?」

 あれほど、警戒しているようだった蒼牙だと言うのに、どこかホッとしたように俺を抱き締める腕の力を緩めて、縁側に立ち尽くしている不二峰に不機嫌そうに呟いた。

「用がなければ君に話すこともできないんだな。まあ、それはいいんだけどね。ところで、直哉さんが呼んでいらしたから、これから行けるかい?」

 肩を竦めながら酷薄そうな薄い唇で笑みを浮かべる不二峰に、蒼牙は仕方なさそうに首を左右に振って、それから、呆然としてしまっている俺を見下ろしてきたんだ。

「そう言うワケだ。鬼哭の杜の件は、今夜にでも話してやる」

「…判った」

 そんなのはズルイよ、と言えるのなら、どれほど天晴れか、それでも俺は、仕方なく目線を伏せて唇を突き出すしかなかった。
 聞き分けの良い花嫁に満足したのか、蒼牙は俺の頬に掠めるぐらいのキスをしてから、改めて不機嫌そうな表情をして、不二峰を促しながら客室を後にしたんだけど…その時、呉高木家の現当主を追おうとした不二峰が、ふと立ち止まって、ムスッとしたまま見送っている俺を見るなり、何やら意味ありげな含めた笑みを浮かべやがったんだ。

「な、なんだよ?」

 思い切り警戒して…って、それでなくても、肝心な部分を聞き逃してこの上なくムカついているってのに、さらに煽るように意味深な笑みを向けられれば悪態のひとつだって吐きたくなっても仕方ないだろ?
 なのに、俺と違って大人の不二峰の野郎は、事も無げに肩を竦めると「蒼牙を借りるよ」と、何食わぬ顔で言ってさっさと立ち去りやがったんだ!
 くっそー、なんか知らんが、思い切り胸糞悪いなぁ!!
 手当たり次第に物を壊してしまいたい凶悪な感情が沸き起こったものの、実際に実行に起こすとなると、それでなくても日頃からあんまり運動らしいものをしていない俺だ、思うだけで行動を起こせないまま溜め息を吐いて、仕方ないから小手鞠たちに愚痴でも聞いてもらおうと、裏山を目指すことにしたんだ。
 たとえば…ほんの僅かな嘘に、酷く傷付くことってあるんだろうか?
 その答えさえ知らない俺は、まんまと、何かの思惑が手繰り寄せる蜘蛛の巣に引っ掛かった蝶のように、無駄に足掻きながら永遠の地獄のような苦しみを知ることになる。
 そんな未来を知りもしないで、俺は小手鞠たちに会いたくて山に登っていた。

 繭葵を誘おうかとも思ったけど、それでなくても民俗学的なモノに目のないアイツのことだ、小手鞠を見れば垂涎モノで学会とかに発表でもしやがるだろうから、忙しそうに立ち居振舞っているからと自分に理由をつけて、繭葵を誘うことは諦めた。
 だいたい、繭葵のヤツにはロマンがないんだよな。
 未知のもの…たとえばUMAだとかを発見しても、見られただけでもよかったと思ってさ、害がないのならソッとしておくべきだと思うんだよ。学会に発表してどうなるって言うんだ?
 大方、大勢の研究家たちが押し寄せて、荒らすだけ荒らして、自分たちが上だと言って言い争うぐらいで、ソイツらの為になんかこれっぽっちもならないんだぜ。
 それなら、見て見ぬ不利を決め込めることこそが、俺はロマンだと思うんだけどなぁ。
 繭葵はやっぱり、歴史に名前を残すことがロマンだと思ってるのかな?
 ハァ…どうでもいいことなのに、俺ってばどうしてこんなことに真剣になってるんだ。
 いや、何か考えていないと、せっかく蒼牙が話してくれようとしたことを邪魔しやがった不二峰に、果てしなく恨み言をブチブチ言いそうな気がするからなんだろう。
 俺、こんなに愚痴っぽくなかったし、物事にそれほど執着するヤツでもなかったんだけど…
 どうしたワケか、今の俺は、ひとつひとつがいちいち気になって、なんにでも当り散らしたくなるんだよな。そうかと思えば、急に泣きたくるし…どうかしてるよなぁ。
 まぁ、その辺のことも小手鞠たちに聞いてみようかな。
 いつもの登り慣れた山道をブラブラと歩いていたんだけど、ふと、小脇に入る、それこそ獣道のような細い道を発見して、どうせ何かすることもないんだ、興味本位だけでその道を探検するのも悪かないかな。
 高遠先輩たちの一行は、先ほどコソリと覗いた時には既に出発してしまった後だったのか、もう誰もそこにはいなくて、ただ忙しなく、珍しいことに眞琴さんが動き回っていて、その後を害がありまくるってのに、まるで無害な小動物みたいにクルクルと繭葵がついて回っているだけだった。
 だから、もう本当に、高遠先輩たちはあのまま、この村を去ってしまったんだと寂しくなっていた。
 蒼牙や繭葵が言うように、先輩たちは自分から好きでこの村に来て、取り返しのつかない罰を受けて帰っただけなんだろうけど、それでも、俺はそんな先輩たちを放ってはおけなかった。
 だからと言って、何ができるんだと聞かれても、やっぱり蒼牙たちが言うように、結局、何もできやしないんだ。
 溜め息を吐いたと同時に、ポロリ…ッと、頬を涙の粒が転がり落ちていった。
 何時の間にか涙腺まで弱くなっていて…まるで、自分自身が内側から奇妙に捩れて、変わっていくような錯覚がして不安になっていた。
 こんなのは俺らしくないって言うのに。
 はぁ…と溜め息を吐いていたら、ボソボソと何か声を潜めている話し声が聞こえた。
 大方、この山の聞かせる、お馴染みの空耳だろうと肩を竦めたんだけど…俺はその空耳が気になって、何処から聞こえているのか探ることにしたんだ。
 だって、その声が…俺が良く知っている蒼牙と、不二峰のものだったから尚更だってのは仕方ねーだろ?
 この辺りはどのヘンなんだろう?と、首を傾げながら藪を掻き分けるようにして進んでいると、空耳だとばかり思っていた話し声がだんだん近付いてきているのか、声が大きくハッキリ聞き取れるまでになっていた。

「…なんのつもりだ?直哉が待ってるんじゃなかったか??」

 蒼牙の声は低くて、少し不機嫌そうだった。
 それに相反するように不二峰の声は機嫌がいい。

「知っていて、来たのではないのかな?」

「…ふん」

 漸く藪を掻き分けて覗いた先、俺は、あまりの衝撃に声を上げることも、目を逸らすこともできなかった。
 そこにいたのは、確かに蒼牙と不二峰だった。
 でも、蒼牙は着流しの胸元を肌蹴た姿で太い木の幹に押し付けられて、そうしている不二峰は呉高木家の威厳あるはずの現当主の腰を引き寄せながら、その顎に指先を当てて口付けをせがんでいる。
 コンナノハウソダ。
 どこかで空ろな声が響いて、それが俺の頭の中で信じられないと叫ぶ自分の声だと気付くのに暫くかかっている間に、不二峰の唇は不貞腐れている蒼牙の唇を塞いでいた。
 それは挨拶で交わすようなライトキスだとは到底思えない濃厚なキスで、蒼牙はあれほど嫌がっていたくせに、蒼牙の面立ちに良く似ている不二峰龍雅の背中に両腕を伸ばすと、まるで縋り付くようにして抱き締めやがったんだ。
 吐き気がする。
 これは嘘だと、誰か肩を叩いてゲラゲラ笑ってくれよ。
 何が起こっているのか…もう、何がなんだか。
 いや、キスだけだったら、俺だってこんなに動揺はしないさ。
 蒼牙は…亡き祖父と養父に犯されていたんだと、眞琴さんの手紙で知っていたし、どうも不二峰とは只ならぬ関係だったんじゃないかって、鈍い俺だって邪推ぐらいしていたからな。
 実際に、2人のキスシーンを見てしまったからと言って、ここまで自分がショックを受けるとは思ってもいなかったんだけど…それでも、立ち直るだけの根性ぐらいはあったさ。
 その言葉を聞くまでは…

「…ッ、相変わらず色っぽいね」

「フンッ、貴様も相変わらず減らず口が多いな」

 蒼牙の双眸は濡れたように妖艶に煌いていて、その顔はまるで女のように艶を帯びていた。
 ともすれば蒼牙は、そのままそうして立っていれば、日頃のキリリとした男らしさがまるで嘘のように、憂いを秘めた妖艶な美女のようなんだ。
 これは…どう言うことだ?
 あの蒼牙が、女に見えるなんて!俺はどうかしてる。
 こんなシーンを見てしまったからかもしれないけど…

「こんなにも心も身体も私を求めているのに…そんなに、楡崎の血が必要なのかい?」

 不二峰は、横顔しか判らないけど、酷く寂しそうに呟いたんだ。
 …え?『楡崎の血』??
 濡れた唇を親指で撫でられて、まるで女のように誘う眼差しで蒼牙はうっとりと不二峰を見上げたけれど、その口調はまるで不似合いなほど厳しかった。

「もう決めたことだ。我が呉高木には楡崎の血は掛け替えのないモノだ」

「その為に、私を諦めて君は男であることを選ぶのか…?」

「…アンタが先に裏切った。あの日から俺は、呉高木の当主になることを決めた。今更だ」

 不二峰の指先を弄うように首を振ったけど、その指先は所在をなくしたまま、蒼牙の首筋をゆっくりと辿った。
 目尻を朱に染めている、この世のものとは思えないほど淫らで、妖艶な雰囲気を醸し出す蒼牙に、不二峰は押さえ切れないと言った感じで激しく掻き抱くと、その首筋に唇を這わせた。
 その感触を感じながら蒼牙は、淫らに濡れ光る双眸で天を仰いだまま、どこか痛そうな表情をして下腹に指先を這わせる不二峰の背中に回した両腕に力を込めた。

「…楡崎の血の為だけに君は、望まない婚姻を結ぶのか」

「光太郎は…」

 自分の名前が出て思わずギクリとしたけれど、蒼牙のなんとも言い表せない複雑そうな、自嘲的な双眸を見てしまったら、俺は泣きたくなっていた。

「思う以上に優しい。光太郎となら俺は、きっと生きていける」

 心を隠したままで?
 不二峰はそんなことは言わなかったけど、俺は、愛し合う2人を見つめたまま気付いたら両目から静かに涙を零してそんなことを思っていた。

「呉高木の為だけに、その生涯を捧げるんだな」

「それは大袈裟だよ、龍雅」

 蒼牙は自嘲的に笑ったけど、大袈裟じゃねーじゃねーか。

「これは、俺が心から望んだことだ」

 キッパリと言い切って、蒼牙は挑むような、えらく色っぽい双眸をして不二峰の頭をガシッと引っ掴んで言った。
 その言葉を聞いて、不二峰は、あれほど不遜そうに見えたあの蒼牙に良く似た面差しの男は、どこか痛いような顔をしてギュッと双眸を閉じると、蒼牙の身体をこれ以上はないほど愛おしげに抱き締めたんだ。

「これで最後だ。『女』としてアンタに抱かれるのは」

 ゆっくりと肌蹴られた着物の裾からすらりと伸びた足の付け根には、ちゃんと男としての象徴がぶら下がっていた…でもその奥に、俺は信じられないものを見ていた。
 蒼牙の下腹部には、『女』の器官もあったんだ。

 そうか、蒼牙は両性具有だったから、最後まで俺を抱かなかったんだな。
 そんなどうでもいいことを考えながら、気付いたら俺は、ボタボタと涙を零して山道を彷徨っていた。
 呉高木の家に帰る気にもなれないし、こんな顔で小手鞠たちに会う気にもなれない、だから、俺は時間なんか腐るほどあったから、トボトボと龍刃山を彷徨うことにしたんだ。

(楡崎の血の為だけに君は、望まない婚姻を結ぶのか…)

 不二峰の言った言葉が脳内にリフレインして、そうなると俺の涙は比例するようにさらにボタボタと零れ落ちる。
 あの言葉を聞いても蒼牙は、それを否定しなかった。
 蒼牙の心はきっと、十数年前から不二峰のモノだったんだろう。
 どう言った理由でかは判らないけど、不二峰は蒼牙を裏切ってこの村を出て行ってしまったんだろうな。
 だから蒼牙は、その胸の奥に不二峰への気持ちを隠して、当主になる為に…『楡崎の血』を持つ俺を娶って暮らすつもりなんだ。
 そんなのは悲しいよ、蒼牙。
 俺を愛してくれとは言わないけど、心を隠したまま、愛しているようなふりをされるのは、嘘を吐かれるよりも辛いよ。
 俺の血でよければ、そんなことをしなくても幾らでもくれてやれるんだけど、きっとあの意味はそんなことじゃないんだろう。
 どうしよう、俺は…こんな心のまま、蒼牙の花嫁にはなれない。

「きゃぁ!」

 涙で視界が滲んでいるせいで、何が起こったのかだとか、目の前に何があるかだとか、そんなことは気にもならない心境だったからか、俺は誰かに思い切りぶつかったって言うのに、そのまま無視して行こうとしちまった。

「こ、光太郎さん?!ど、どうなさったんですか!」

 俺の腕を、思うよりも強く掴んで引き留めたのは…声だけを頼りにするなら、きっと小雛だ。

「小雛?」

「そうですわ!光太郎さん、そんなにお泣きになって…どうかなさったんですか?」

 自分に蒼牙の子供をくれと言った、気丈で…そして可憐な少女。
 俺は、ずっと蒼牙の花嫁は小雛か繭葵だって思っていた。
 でも、蒼牙の心は不二峰のものだった。
 それでも、この可憐で気丈な少女は蒼牙を愛せるのかな…

「小雛…蒼牙は、不二峰を…」

 そんなこと言うつもりじゃなかったのに、俺の口は驚くほど油を塗りたくったようによく滑った。
 小雛が差し出してくれたハンカチで涙を拭いながら、そう声に出してしまえば何故か涙が溢れてくるから、必死で耐えて小首を傾げる小動物のように可愛らしい少女を見下ろしたら、彼女は殊の外、キッパリとした表情で力強く微笑んだ。

「ええ、知っていますわ」

「…知って?」

「はい。ほんの小さい頃、婚約者としてこの村に来たときに、ハッキリと蒼牙様に言われましたから」

「そう、だったん…ッ、だ」

 そうか、小雛は全てを知っていて、それでも蒼牙を愛しているんだ。
 俺には何一つ言わなかった蒼牙…お前にとって俺は、やっぱり借金の形ぐらいでしかなかったんだろうなぁ。
 俺は、彼女ほど割り切れないし、心を隠したままの蒼牙の傍にいられるほど、肝っ玉も据わっちゃいない。
 はは、なんだ、結局簡単な話なんじゃねーか。
 元鞘におさまるべきなんだよ、蒼牙。
 『楡崎の血』なんつー、得体の知れない迷信に振り回されて、生きていくのなんか味気ないだろ。
 だから、だから俺は…

「小雛…呉高木蒼牙の花嫁は君が適任だよ」

「え?」

 小雛は驚いたように、まるでお人形みたいな顔で信じられないとでも言うように長い睫毛が縁取る大きな双眸を見開いて俺を見上げてきた。
 大の大人の男が、ボロボロ泣きじゃくりながら言う台詞でもないんだけど。

「俺は降りる。晦の日に村を出るから、それまで隠れておける場所を直哉さんに教えて欲しいんだ…ッ」 

 涙が止まらないからいまいち信用がないだろうけど、このまま何処かに行ってしまいたいんだよ。
 何処かで静かに泣きたいし、アイツを諦めたいんだ。

「光太郎さん…」

 小雛には悪いんだけど、きっと俺じゃなかったら、蒼牙はこの『望まれていない』結婚を諦めるだろう。
 その時にこそ、なぁ、蒼牙。
 心なんか偽らずに、きっと、お前が一番好きなヤツと添い遂げるんだぞ。
 俺はチビのお前と約束したから。
 きっと守ってやるってさ。
 それがこの時なら、俺はお前を諦めることができる。
 蒼牙…
 きっと俺は、妙に大人びているくせに子供っぽい仕種が可愛かったお前を、愛していたよ。
 だから、今度はちゃんと、大人として俺が行動を起こさないといけないよな?
 今ならきっと言える。 
 さようなら、蒼牙…

第一話 花嫁に選ばれた男 14  -鬼哭の杜-

 食事を終えた連中は銘銘、好き勝手に広間を後にしたんだけども、俺と繭葵はその場に残っていた。
 この屋敷の主である蒼牙は、食事を終えるといつも決まって仕事部屋として遣っている離れに行ってしまうし、だからと言って部屋に戻るのも面白くないから、ただなんとなくブラブラと残っていたんだけど、繭葵のヤツも釣られたように残ることにしたようだった。

「ボクね、知っているんだよ」

「へ?何をだよ」

 つーか、突然どうしたって言うんだ?
 首を傾げる俺に、繭葵のヤツは女の子だってのに腕を組んで仁王立ちしたままで、フフンッと笑いながらチラリッと俺を横目で見ると肩を竦めやがったんだ。
 なんだよ、その態度はよー

「光太郎くんがここに残った理由。あの先輩が心配なんでショ?」

「…あー、まあな。やっぱ、高校の頃は世話になったし、あんなの異常じゃないか」

 そりゃあ、この村では尋常なことが異常であって、異常なことが尋常なのかもしれないけどなぁ…
 それでも俺は、このまま先輩を帰してしまうのは、なんだかとてもよくないことのような気がして、正直気が気じゃなかった。
 だから繭葵のヤツに、「んっとに、お人好しなんだから」と言われたとしても、反論するよりも先に足が勝手に動き出していた。

「待ってよ、大丈夫!この繭葵さまも一緒について行くよん♪」

 別についてこなくていいっての。
 お前の場合、そこに居るだけで蓮の花が咲いたような清廉でたおやかなイメージの小雛と違って、そこに居るだけで常に風が吹き荒れ、おっさんの鬘が吹っ飛んでいくようなイメージがあるんだよな。だから、厄介ごと以外の何ものでもないんだけど…でも、それでも俺が繭葵を連れて歩くのは、それなりにこの村にまだまだ馴染めていない証なんだろう。

「光太郎様」

 ふと、名前を呼ばれて振り返ったら、なぜか俺よりも遅くに歩き出したくせに少し先を進んでいた繭葵も、その凛と澄んだ、耳に心地良いバリトンの声音に足を止めて振り返ったようだ。

「光太郎様、どちらに行かれるのですか?」

「あ、桂さん…」

 そこには寡黙な面差しの桂が、淡々とした、感情の窺わせない表情をして立っていた。
 そう言われてみたら、桂とも長いこと会っていないような気になってしまったけど…あんまりイロイロなことが一度に起こるからさぁ、俺の、それでなくても自信がない脳みそがそろそろ悲鳴でも上げそうだ。

「えーっと、先輩たちが今日帰っちゃうからさ。その、挨拶にでも行こうかって」

「…左様でございますか。ですが、光太郎様。差し出がましいことを申し上げますが、高遠様は光太郎様を快く思われてはいないように存じます」

 確かに、桂の言う通りなんだけど、それでも俺は、無表情のままでも心配してくれているんだと判る桂の見掛けによらない饒舌な双眸を見詰めたままでニコッと笑ったんだ。

「ありがとう、桂さん。でも、これは俺の問題だし。何より、先輩には高校の頃にお世話になっているから、せめて最後に挨拶ぐらいはしておきたいんだよ」

 もう、この先いつ会えるか判らない…いや、恐らく俺は、この村から出ることなく、蒼牙と一緒にこの村の土に還るんだろうから、これがきっと最後になるだろう。それなら、あんなおかしな状態になっている先輩をそのままにして別れることなんて到底考えられなかった。
 俺の意志の強さを見て取ったのか、それでも桂は、無表情だったくせに眉根を僅かだがソッと寄せて、何か言いたげに開きかけた口を引き結んでしまった。
 完璧な執事の鑑のような桂は、余計なことなどは一切言わないんだけど、その微かに不機嫌そうな双眸が不平を雄弁に物語っている。
 いつもはこんな感情、絶対に見せない人なのに、どうやらよほど先輩は嫌われてしまったらしい。
 それも仕方ないか、あの人は村人の前でも平気で俺を罵るんだから、この村の絶対的君主である蒼牙の花嫁である俺を、悪し様に言う高遠先輩はこの村では嫌われて当然なのか。
 もちろんそれは、俺のためじゃない。
 蒼牙の心を慮っているのが手に取るようによく判る。
 桂にとって蒼牙は、やはりこの村と同じように、なくてはならない存在なんだろう。
 そんな蒼牙に愛されて俺は、心の辺りが擽ったくて思わず笑っていた。

「如何なさいましたか、光太郎様?」

 ふと、表情こそ変えないが、怪訝そうに訊ねてくる桂に、俺はなんでもないんだと首を左右に振って見せた。

「いんや、なんでもないよ」

「…申し訳ございません」

「へ?」

 突然謝られてしまって、俺は慌てて頭を下げる桂の腕を掴んでいた。
 一瞬だったけど、桂の身体が強張るのを感じて、俺は慌てて腕を離してしまった。
 …どうやら俺も、相当嫌われちまったのかなぁ。
 そ、そうだよな。蒼牙を罵る高遠先輩を気にかけてるんだ、桂に嫌われるのも無理ないのか。
 それはちょっと、いやかなり、嫌なんだけど…

「申し訳ございません」

 今度はもう少しハッキリと俺に謝る桂に、俺はもう、ワケが判らずに首を傾げてしまった。

「何を謝ってるんだよ、桂さん。俺、別に桂さんから謝られるようなことはされていないぜ?それどころか、俺の方がお世話になりっぱなしなのに!」

 桂の言いたいことが判らなくてその両手を掴んで顔を覗き込んだら、あの、いつもの無表情な顔のままで覗き込む俺の双眸を、ほの暗い双眸で見下ろしてきた。情熱だとか、感情だとか、そんな人間らしい気持ちを身体の内側に隠して、桂はどこか痛いような表情をしたままで目線を伏せてしまった。

「申し訳ございません、光太郎様。差し出がましいことを申し上げてしまいました、どうぞお聞き流しくださいませ」

 その台詞は、いつか聞いたことがある。
 あの時も、寡黙に黙り込んでいた桂は、無言のままで優しかった。

「だから、気にしてないって。桂さんはいつもそうだな」

「…はい?」

 俺は思わず笑ってしまった。

「そうやって、いつも陰ながら俺を見守ってくれてるんだよな。俺、きっとこれから先も、桂さんに迷惑掛けっぱなしで、それで、またそうやって謝らせてばかりいるんだろうな」

「とんでもございません、私はとても、とても…」

 無表情のままで慌てた様子さえ見せない桂は、それでも彼なりに精一杯慌てたように口を挟もうとして失敗した。だから余計、俺はそんな桂を好きになってしまう。

「とんでもないこともないんだ。これから、きっとずっとなんだぜ?それでも俺は、たぶんやめられないと思うし、桂さんを冷や冷やさせっぱなしかも知れない。だから、こんな俺だけどさ、見捨てずにこれからも宜しく頼むよ」

 そう言って離していた片手を差し出したら、桂はぼんやりと俺の差し出している手を見下ろして、それから何か、なんとも形容のし難い表情をして俺を見たんだ。

「…光太郎様。そのお言葉はもしや、この屋敷から、いいえ、この村から出て行かれないと仰っておいでだと認識しても宜しいのでしょうか?」

 恐る恐ると言った感じで訊いてくる桂に、ああそうか、俺はまだこの人に蒼牙と結婚する決意をしたんだと教えていなかったんだっけ?きっと、誰よりも喜んでくれるはずなのに、俺ってヤツは…大事な人を忘れるなんてどうかしてる。

「ああ、もちろん!桂さんや蒼牙が嫌だって言っても、ここから出て行くつもりなんてないよ」

「こ、光太郎様、それは、あの、蒼牙様の花嫁様にお成り遊ばすと…」

 こんなに動揺している桂を見るのは初めてだったし、そんな風に動揺されてしまうと、却ってヘンに緊張してしまうんだけども…うは。

「あれ?俺は最初から、蒼牙の花嫁だったんじゃないのか??」

「も…勿論でございますとも!も、申し訳ございませんッ」

 慌てて頭を下げる桂の動揺ぶりに、これ以上からかうのもなんだか気が引けてしまって、俺は深々と頭を下げようとする桂を慌ててとめて、それから、先輩たちの出発の時間が迫っていることを伝えてその場を後にすることにしたんだけど…桂は、それでも満足げに、それから嬉しそうに「お気をつけて」と言って見送ってくれたんだ。
 蒼牙の花嫁は俺しかいないと、熱っぽい眼差しで宣言してくれた桂は、今もそのつもり十分の歓喜に満ち溢れた無表情で頭を下げると、いつまでもその場に佇んでいるようだった。
 そのうち、鼻歌とか歌いだしたりして…う、それはちょっと…見てみたいぞ♪

「…プププ」

 不意に、思わずと言った感じで噴出した気配に、俺はそう言えば、繭葵のことを忘れていたとハッと我に返って傍観者に徹していた根性悪の妖怪奇天烈娘を見下ろして…思わず腰が退けそうになった。
 だって繭葵のヤツ、ニヤニヤ笑ってやがるんだ。
 コイツがこういう顔をする時ってのは、大概、何か良からぬことを考えているか、どうでもいいことに思いを廻らせているときだって決まってる。

「な、なんだよ?」

 だから、わざと不機嫌そうに唇を尖らせて促せば、繭葵は馬鹿にしたような目付きをしてフンッと鼻なんか鳴らしやがるんだ。
 うう…根本的な部分はきっと、嫌なヤツなんだろうなと眉を寄せれば、繭葵は肩を竦めて笑うんだ。

「あーあ、桂さんもお気の毒だね」

「は?何がだよ」

「気付かない?ふーん、それもいいけどさ。あんまり桂さんを苛めたらダメだよ」

 あ、ははーん。

「桂さんをからかったのは確かに悪いと思うけど、さっきは見て見ぬ振りしてたくせに注意するだけなんて性格悪いぞ」

「へ?からかう…って、なんだ」

 不意に繭葵のヤツがジトッとした目付きで胡乱に下から覗き込んできたもんだから、俺は思わずギョッとして仰け反ってしまった。
 な、なんだよ、その目付きは。

「性格悪いのは光太郎くんだよ。純情なオトコゴコロを弄ぶと、後でひっどい目に遭っても知らないからね」

 フンッと鼻を鳴らして冷やかに顎を上げるようにしながら俺を見上げた繭葵は、それはそれは冷たく言い放ってくれたんだけど、なんで俺が桂さんの男心を弄ぶんだよ。
 あの人の場合は、常に顔の筋肉なんざ動かしたことなどございません、ってな感じの完璧なポーカーフェイスだからな。それを引っぺがして、人間らしい素顔を見てみたいと思うのは煩悩抱えた人間なんだから仕方ないじゃないか。
 …って、ん?
 やっぱ、俺って性格悪いのか?そうか、そうだよな。
 トホホホ…

「なんだよぉ、別にただ単に、蒼牙との結婚を前向きに考え始めましたって伝えただけじゃないか」

 俺なりの凄い進歩なんだぞ。
 ブツブツと悪態を吐いていたら、少し前を歩いていた繭葵が呆れたように肩越しに振り返ったんだ。

「あっきれたなー、驚くべき鈍感!野郎だねぇ、君も。これじゃあ、蒼牙様は眉間に一本刻んだ縦皺を消すことなんて一生不可能だね」

「…どーして、俺はお前にそこまで言われなきゃならないんだ?」

 思わず胡乱な目付きでジトッと睨むと、繭葵のヤツは苦笑しながら肩を竦めて首を左右に振りやがる。まるで、俺はしょうがないヤツだなぁとでも言いたげに。
 くそー、ますますムカつくんですが。

「光太郎くんは早く蒼牙様のお嫁様になるべきだね。それで、蒼牙様にたくさん愛されて、それから、誰かを愛するってことを学ぶべきだよ」

「…はぁ?」

 こう見えても俺は、今はその、ちゃんと蒼牙をあ…あい、して…愛してるんだぞ!
 よし、言えた。でかした、俺。
 まあ、面と向かって本人とか繭葵とかには言えないけど…それでもちゃんと、誰かを愛することぐらいできるって!蒼牙以前に想っていた人たちはみんな、片思いだったってことはこの際内緒だけどな。

「光太郎くんは確かに優しいんだけど、その優しさが仇になることだってあるんだ。愛することを覚えればさぁ、優しさに思わず縋り付きたくなる人たちの気持ちとか、邪な想いを秘めて近付いてくる妖しげな連中の思惑にも少しぐらいは気付けるようになると思うけど?」

「…よく、意味が判らんのだけどな?」

「あーもう!ボクだって判らないってッ。どうしてこう、いつもボクは光太郎くんにレクチャーしなきゃいけないんだろうねぇ?花嫁候補と花婿よりも、一番年長さんなのにさッ」

「う!」

 思わずクリティカルヒット級のボディーブローを食らったような気分になって蹲りそうになった俺を、今度は本気で蹴りを入れてきながら「何してんだよ!?」と悪態なんか吐いてくれる。

「蹴るな!」

「うっさいなー!君は身体に教えないと判らないタイプだもんねッ」

「なんだとコンチクショー!!」

 クワッと、思い切り向こう脛を蹴られた痛みで本気の涙目になった俺が両目をむいて掴みかかろうとしたその瞬間、俺の背後で忍び笑いが響いたから驚いた。
 もちろん、繭葵とのこんなじゃれ合いは日常茶飯事で、繭葵自身はいつだって本気で蹴っては来るんだけど、その言動はどこか惚けてて、その表情は思い切り笑ってやがるからな。いや、そんなこた今はどうでも良かったんだ、それどころじゃない、いったい誰が盗み聞きしてたんだ?
 ハッとして振り返ったら、不意に繭葵のヤツがズイッと俺を庇うようにして前に出たから、更に吃驚してしまった。
 おいおい、俺ってばどれだけ弱いと思ってるんだ??
 一応、いくら妖怪爆裂娘とは言え、繭葵は女の子だから優しくしてるんであって、たとえもし先輩だったとしても容赦はしないってのになぁ!

「いや、失礼。話し声が聞こえたものでね」

 俺がムッとしながら繭葵に何か言おうと口を開きかけた時、ちょうど、廊下の曲がり角になっていて、死角だった場所から姿を現したのは、蒼牙の面立ちに良く似た不二峰だったから驚いた。

「ふぅーん?それでわざわざ隠れてずっと聞いてたの?」

「へ?」

 俺がキョトンッとして繭葵を見下ろすと、彼女は「そらみろ、やっぱり鈍感だ」とでも言いたそうな顔をして横目だけでチラッと見上げてきただけだった。

「おやおや…そこまで気付いていたのか」

「あっはっは。隠れてるつもりだったんだろうけど残念でした!ボクは勘だけはぴか一なんだ。光太郎くん、これってやっぱ、霊感・ヤマ勘・第六感?」

「はぁ?何言ってんだよ」

「…ククク、おっと、これはまた失礼。君たちはお似合いのカップルだね」

 何気なく不二峰に言われて、俺と繭葵は思わずと言った感じで顔を見合わせてしまった。
 蒼牙の顔に良く似た不二峰にそんなことを言われてしまうと、俺としてはなんだか、ちょっと納得できないモノがムクリと胸の奥に沸き起こるんだけどな。
 繭葵は繭葵で、蒼牙に似ているその顔から、蒼牙がけして言わないだろう言葉を、それこそ良く似た声で言われてしまって、どうも居心地が悪いような、嫌な気分に襲われたようだ。
 綺麗に整えている眉が露骨にキュッと、寄ってしまったからな。

「どうでもいいけど、ボクたち急いでるんだよね。用がないのならもう行ってもいいかな?」

「え?ああ、それは勿論だよ。引き止めてしまって悪かったね」

「どーいたしまして。さ、光太郎くん。行こう」

 そう言って強引に腕を引っ張って歩き出す繭葵に促されるままに、不二峰に、どうも一応はこの家に縁のある人物らしいから、仕方なく軽く頭を下げて行こうとした俺の背中に、ヤツは、蒼牙に良く似た声で言ったんだ。

「蒼牙は本当に君を愛しているのかな?」

 ブリブリと腹立たしげに歩いていた繭葵には聞こえなかったのか…でも、その声はちゃんと俺の鼓膜には届いていたし、慌てて首だけを回して肩越しに振り返れば、蒼牙に良く似た男らしい双眸を細めながら、意味有りげに口許を歪めて笑いやがったから…絶対に空耳なんかじゃねぇ!
 ムッとして遣り返そうとしたものの、繭葵の圧倒的な引きの強さに引っ張られちまって、結局俺は、仕方なく先輩の部屋まで引き摺られて行く破目になった。
 それでも俺の体内では、僅かに散った有毒な塵が、確かに少し降り積もっていた。
 それはほんの少しだけど痛みを伴って、それから、静かに鳴りを潜めてしまったんだけど…
 どうして不二峰が言ったぐらいの言葉を、あんなにここにいる間、一度だって会ってこともないヤツに言われたからって動揺してるんだろう。
 俺は…よく、判らない。
 こんな気持ちは初めてだ。

 自分でも侭ならない鬱陶しい気持ちを抱えたままで、俺と繭葵は帰り支度をぼんやりしている高遠先輩の部屋に声を掛けて入っていた。
 声を掛けた時点で、普段の高遠先輩ならけして俺たちを部屋に招き入れようとは思わないだろうに、そのときの先輩は抑揚のない声で「ああ」と言ったきりだった。
 やっぱり、おかしい。
 こんな先輩は絶対におかしい。

「先輩!いったいどうしたって言うんですか?俺です、楡崎光太郎です。ちゃんと、理解していますか??」

 そんな話、素面で聞けば馬鹿にするなと言って怒鳴られるに決まってるってのに、俺は覚悟してそう言ったんだけど、先輩は何処を見ているのか、少し虚ろな視線でサラッと俺たちを見てから、それから何事もなかったかのように機械的に荷物を片付け始めたんだ。

「せ、先輩。ど、どうしたって…先輩、俺ですよ!?楡崎です!」

 思わず先輩の肩を掴んで、あれほど、山男みたいだと言って俺が笑えば、満更でもなさそうな顔をして喜んでくれていたあの力強い高遠先輩は、まるで腑抜けた老人のような虚ろさで、俺が揺さぶれば素直にそれに従うような有様だった。

「先輩、嫌だ。どうしたって言うんですか!?いつもの、あの威勢を取り戻してください!俺のこと、ホモでもオカマでも構わないから、何か言って怒鳴ってくれよッ!!」

 その肩を掴んで、俺を見ようともしない俯き加減でぼんやりしている高遠先輩を見ていたら、いきなり急激に不安になって、俺は堪らずにその力すらも失くしてしまったかのような高遠先輩の身体を抱き締めたんだ。
 良ければ殴ってくれと、気持ち悪いと言って振り払ってくれと…この異常事態に、俺自身、不安に押し潰されそうで叫びだしたかった。

「…光太郎くん」

 言葉もない繭葵が、痛ましそうにそんな俺を見詰めてくる。
 ああ、繭葵。
 どうしよう、先輩が壊れてる。
 俺が抱き締めたら、先輩の肩が一瞬だけビクリと震えたから、突き飛ばしてくれるもんだとホッとしたってのに…先輩は、それ以上はなにもせずに、ぼんやりと背中を丸めて、胡坐を掻いたままで俺の成すがままになっちまってるんだ。
 こんなの、信じられない!

「ま、ゆき。どうしよう、先輩が壊れてしまった。こんな状態の先輩を、俺は帰せないよ」

「…こ、光太郎くん。でも、でも先輩は帰る用意だって1人でできてるし、反応こそおかしいけど『普通』に見えるんだ。どうしたらいいんだろう!?」

 繭葵も、俺の悲痛な気持ちを痛いほど判ってくれているから、目の前で起こっている異常な事態を理解して、なんとか解決策を練ろうとしてくれているようだったけど、やっぱりそれは無理だった。
 そりゃ、そうだよな。
 繭葵は俺より年下なんだ、なのに、年上の俺が泣いてるなんてのはおかしい。
 この村に来て俺、いったいどれほどこんな経験をしたんだろう…もう、俺の方がおかしくなりそうだ。

「せ、先輩を病院に連れ行く。蒼牙だって、少しぐらい村から出るのを許してくれるに決まってるさ」

 無理に笑いながら言ったら、繭葵は痛々しそうに眉根を寄せて何か言おうとしたんだけど、うまく言葉にならなかったようで、俺の名前を呼ぶぐらいでコクンと息を飲むようにして言葉を飲み込んでしまった。
 重苦しい沈黙に押し潰されそうで、俺は先輩を腕の中に抱き締めたままで、なんとか蒼牙を説得してみようと思い始めていた。
 その矢先に…

「病院だと?笑わせるな。鬼哭の杜の亡者に魂を喰らわれた人間が、病院なんかに行って治ってしまうなどと、まさか本気で思ってるワケじゃないだろう」

 スッと、音もなく障子を開けた青白髪の美丈夫が、高遠先輩の頭を胸に抱き締めたままで途方に暮れてへたり込んでいる俺を見下ろして、一瞬だがピクリと眉尻を震わせた。
 どうも、その眦の上がりようからは、かなり怒っているようだ。
 でも、今の俺にはそんなこと気にする余裕すらなかった。

「え?え、なんて?今、なんて言ったんだ??き、鬼哭の杜の亡者?に、魂を喰われた…?」

「そうだ」

 入り口付近にいた繭葵を押し退けるようにしてズカズカと入ってきた蒼牙は、眦を釣り上げたままで俺の腕を無造作に掴むと、そのままグイッと引き上げて先輩から引き離されてしまった。

「アンタはいつからそんなに誰彼無しに抱きつくようになったんだ?」

「なに、言ってんだよ!先輩が、高遠先輩が壊れてしまったんだッ。俺は彼を病院に連れて行くから、だから、お願いだから行かせてくれッ」

「ダメだ」

 俺は、俺なりにこれ以上はないってぐらい渾身の力を両目に込めて、蒼牙に縋るようにして見上げたままで懇願したって言うのに、青白髪のやたら男らしい浅黒い肌を持つ山から降りて来た鬼のような男は、そんな俺を冷めた双眸で見下ろしながら即答で却下しやがった。

「何度も同じことを言わせるな。その男はあの日、あの場所で鬼哭の杜の亡者どもに魂を喰らわれた懺骸者(ザンガイシャ)だ。医者や祈祷師などが束になって何かしようとも、最早、その男をこの世に連れ戻すことなどできやしないだろうよ」

「そ、蒼牙…俺にはよく、判らない」

「俺は、アンタにも、そしてそこにいる先輩とやらにも言わなかったか?この村の禁域には立ち入るなと。ましてや、鬼哭の杜を舞う日に、あの場所に来るなど狂気の沙汰じゃない。忠告したはずだ、なぁ?繭葵」

 キロッと、双眸だけを動かすような器用な真似をして、蒼牙は部屋の隅で、今までで一度だってそんな姿を見せたことがないって言うのに、蒼牙の圧倒的な威圧感に気圧されてしまった繭葵は、青褪めたままで怯えたように竦んでいたんだ。

「違う!あの場所に行こうと言ったのは俺だ!罰するなら、俺を罰すればいいだろ!?いつだって受けて立ってやるから、今は、そんなことよりも先輩を…ッ」

「ククク…相変わらずアンタはお人好しで優しいな。アンタのそう言うところが、俺は愛しくて堪らない。その優しさを、村人たちにも隔てなく分けてやるんだぞ」

 アンタは、俺の花嫁だから…まるで呟くようにそう言ってから、怖い顔をしたままの蒼牙は問答無用で容赦なく、都会育ちの俺の抵抗なんかものともせずに抑え付けるようにしてキスしてきたんだ。

「ん!…ぅ、うう…ぃ、嫌だ、蒼牙!こんな所で、こんな場所で!何を考えてやがるんだッ」

「特に何も?考える必要などなかろうよ。先輩はもう、お帰りの時間だ」

 キスの合間に馬鹿にしたように蒼牙がそう言うと、まるでその言葉にだけ反応したように、高遠先輩はふらりと立ち上がると、そのくせ、確りした足取りで虚ろなまま部屋から出て行こうとしたんだ。

「せ、先輩!んぅッッ!…ちょ、やめ、…ほ、本気でやめねーと婚約破棄するぞ!!」

 殴っても蹴っても俺を離そうとしない蒼牙に、業を煮やしてしまった結果として喚いた言葉だったんだけど、それが思う以上の効果を奏したようで、青白髪の鬼っ子野郎はムッとしたままでキスだけはやめてくれた。
 うん、キスだけは…って!この腕も離さねーか!!

「俺と先輩とやらを天秤にかけるつもりか?存外に強かだな」

 ムスッとしたままのクセに、口許だけはニヤリと笑って、怒ってるんだぞと蒼牙のヤツが底冷えするようなほの暗い、陰を潜めた双眸で睨み据えてくるから…思わず腰が抜けそうになったってことはこの際無視して、それでもその目を睨み据えたままで抗議できた俺も天晴れだ。
 6歳も年下相手にビビッてる段階で終了だとは思うけど…ガックリ。

「天秤とかそんなんじゃねーだろ!蒼牙は蒼牙で、先輩は先輩だ!それに、先輩は今はああでも、高校の時にはお世話になった人なんだ。こんなことで、先輩がどうかなるなんて…」

「だが、アンタのせいじゃない」

「で、でも…」

 蒼牙は強情に言い張ろうとする俺を呆れたように溜め息を吐いて見ていたけど、仕方なさそうにギリッと釣り上げていた眦と眉尻を下げてしまって、やれやれと俺を抱き締めたままで繭葵に振り返ったんだ。

「悪いが繭葵、高遠さんたちを見送ってくれ。香織とか言ったか、あの娘も懺骸者になっているからな。大方、由美子たちが手を焼いているだろう。眞琴に言えば大人しくなる」

「う、うん、判ったよ…でもあの、あんまり光太郎くんを責めないであげて欲しいんだ」

「…責める?この俺が??ハッ、おかしなことを言うな、繭葵。却って俺の心配こそして欲しいもんだな。さあ、行け」

 ほぼ、命令するように語尾を強めた蒼牙に恐れ戦いたのか、ビクッとして、まるで小動物みたいに踵を返した繭葵だったけど、チラッと、心配そうに振り返ってから、仕方なく行ってしまった。

「さて、これで2人きりだ。弦月の儀も終わり、禊の儀も終わった…残すところはあとひとつ、晦の儀だけだが…知っているか?晦の儀までの間は、花婿は花嫁の純潔を奪っても、最早咎められはしないんだぞ」

「そ、そんなこた知らねーよ!そんなことよりも、先輩を…ッ」

 思わずムッとして睨んだら、蒼牙のヤツから顎を思い切り掴まれてしまった。
 これで明日はまた、顎に痣ができちまうんだろうなぁ…

「そんなことだと?俺にしてみたら先輩こそ、そんなことよりも、だがな。彼は帰った。神聖なる神事を面白半分で覗き見したことに因る、大きな代償を抱えたままでな」

「だ、代償なら…俺だって抱えないといけないんじゃないか?俺も、あの場所にいたんだ…ッ」

 グイッと更に強く掴まれて、蒼牙は男らしい唇を歪めて笑うと苦しげに呻く俺を覗き込んできた。その目付きは、憎々しげ…というよりは寧ろ、苛立たしげだった。
 どうして自分の言っていることが判らないんだろう、きっと、蒼牙はそう思ったに違いない。

「あの場所にいて、アンタと繭葵は魂を喰らわれなかった。それがどう言う意味かまだ判らないのか?それは、鬼哭の杜の亡者どもが、アンタを呉高木家の花嫁として迎え入れたからだ」

「…鬼哭の杜は、呉高木家が代々護っている山だから?」

「そうだ。そして、繭葵はアンタの侍女だとでも勘違いしたんだろう。なんせ、千年も前の亡霊どもだ。いまさら常識を説いたところで理解などしやしない」

 壮大なのか、これはとんでもない茶番劇なのか…どちらにしても、俺には到底、そのどれもが納得のできる説明だとは受け止められなかった。

「判らない、蒼牙。もっと、もっと判り易く説明してくれ」

 思わず泣いてしまいそうになって、俺は蒼牙の着流しの胸元を掴むと、そんな情けない面のままで見上げていた。
 判らない、自分が何を考えているのかも、蒼牙が何を話そうとしているのかも。
 もっと、誰か、お願いだからこんな異常な状況を判り易く説明してくれ。

「…判った、この鬼哭の杜について、話してやろう」

 蒼牙は仕方なく呟いて、それから溜め息のようなキスをしてきた。
 掠めるだけのキスだったけど、どうしてだろう、俺は…その口付けに愈々泣きたくなっていた。
 もっとって、強請りたかった。
 それでも聞かないと。
 繭葵が言ったように、自分が嫁ぐ村のことぐらいはリサーチしないとな。
 せっかく蒼牙が話してくれるんだから、俺はこの村の一員として、この村で今何が起こっているのか、そして、先輩の身体に何が起こったのか…聞かなければいけない。
 その話を聞いたとしても、きっと俺は。
 蒼牙を愛して、この村に留まるんだろう…

第一話 花嫁に選ばれた男 13  -鬼哭の杜-

「むふふふ…」

 遅寝してしまった蒼牙が遽しく部屋を後にする直前、見送る俺を抱き寄せながら色気も何もない髪に唇を寄せて幸せそうにうっとりと瞼を閉じてキスしてくれてから、まるで夢見心地のまま別れて母屋に戻った俺を、不意に不気味な声が出迎えてくれた。
 な、なんだ!?
 慌てて振り返ったそこには、ジーンズに水色の爽やかなキャミソールを着ただけの繭葵が、ニヤニヤ笑いながら腕を組んで立っていた。

「離れから出てくるところバッチリ見ちゃったもんね♪…大丈夫みたいでよかったよ」

 強気で不気味に笑った繭葵だったけど、少しホッとしたように疲れの滲む暗い陰を睫毛の下に落とすようにして瞼を伏せると、小さく笑ったんだ。その顔を見ていたら、幸せな気分に自分だけ浸ってるのも悪いような気がして、慌てて昨夜のことを説明したんだ。
 だってさ、繭葵は聞く権利があると思うから。

「…そうだったんだ。うん、でもボクもその意見には賛成だよ。昨夜ね、眠れずにずっと考えていたんだけど、ボクも全く同じ気持ちで結論付いちゃったからそのまま眠っちゃったよ♪」

 あっけらかんと笑う繭葵に一瞬呆気に取られた俺だったけど、繭葵の吸い込まれそうなほど大きな瞳が潤んだように濡れているのを見てしまうと、同じような気持ちだと思い込んでくれている繭葵の気持ちが有り難かったし素直に嬉しかった。
 あんなこと、通常なら信じられずに、俺や蒼牙のことを気持ち悪いものでも見るような目付きになるって言うのに…繭葵のヤツは、そうはしなかったんだ。
 俺の弾き出した結論に一瞬の躊躇も見せずに、陽気に賛同してくれた。
 眠れてもいないくせに、眠ったんだと嘘まで吐いて。
 繭葵は強いと思う。
 力が強いとかそう言うことじゃなくて、精神的に、繭葵はきっと俺よりも強いと思う。

「俺、繭葵と出会えてよかったよ」

「ん?なに、当たり前のこと言ってるんだい?そんなの当然じゃないか!ボクを誰だと思ってるんだ、民俗学会期待の新星、大木田繭葵そのひとだぞ♪」

「あー、はいはい。俺が悪かった」

「はぁ?何で謝るワケ??」

 繭葵はキョトンッとしたようにうんざりしている俺を見上げていたけど、アイツらしい強気な笑みを浮かべると、フフンッと笑って嬉しそうにそんな俺の腕を飛びつくようにして抱き締めてきたんだ。

「やっぱ、蒼牙様には光太郎くんだよね!ボクさ、もうずっとそう思ってたんだ♪初めて光太郎くんを見たとき、違うか。光太郎くんを見ている蒼牙様を見たときピンッときたからね。やっぱ、アレでショ。恋する乙女の眼差しだったもん」

「ブッ!…ここ、恋する、お、おお、乙女ってッッ」

「…光太郎くん、動揺しすぎだよ」

 呆れたように笑いながらモチロン冗談だと見上げてくる繭葵を、顔を真っ赤にして見下ろしてしまう俺はどんな顔すりゃいいんだと泡食ってしまった。
 いや、冗談だってのはよく判ってるんだけど、笑えない冗談だって。

「でも、光太郎くん偉い!」

「…はぁ?」

 繭葵はウシシシッと笑いながら、勝気な双眸を細めてニヤニヤと笑っている。
 む、なんだよ?

「ボクね、悪いとは思ってたんだけど…きっとね、光太郎くんは逃げ出すんじゃないかって思ってたんだ」

「え?」

 ハッとして爆弾発言が大好物の妖怪娘を見下ろしたら、繭葵は仕方なさそうに笑ってから、申し訳なさそうにポツリポツリと語りだしたんだ。

「人殺し…には変わりないワケでショ?だから、普通の生活をしてきた光太郎くんにはキツイんじゃないかって思ってしまったワケだよ」

 うんうんと、1人で頷きながら言葉を重ねる繭葵に…って、おい。ちょっと待てよ。
 なんだ、その意味ありげな言い方は。

「まるで、普通じゃない生活でもしてきたような言い方だな」

「ククク…」

 え!?今、なんかヘンな笑い方しなかったか!!?

「…なーんつってね♪まあ、民俗学なんてものに携わっているとイロイロと起こってしまうワケですよ。そう言うことに慣れちゃってたからさぁ、ちょっとはビビッたけど、それでも一晩経てば冷静になれたんだ。でも、光太郎くんはそうはいかないでショ?」

「ああ、まあ、そうかな」

 だからね、と、繭葵は俺の腕に抱き付いたままで唇を尖らせるようにしてニヤニヤと笑っている。

「心配だったんだけど。でもまさか、光太郎くんが蒼牙様にプロポーズまでするなんて思わなかったから、偉い!って思ったってワケだよ」

「ああ、なるほど…って、おい!俺はプロポーズなんてッッ」

「あははは!しちゃってるクセに今更照れてるなんて大笑い♪」

 ぐはっ!
 思わず真っ赤になってしまう俺を意地悪く覗き込む繭葵だったけど、ちょっとっつーか、かなりホッとしたように勝気な双眸をやわらかく細めて、エヘヘッと笑いながらそんな俺を見上げている。
 ああ、でも本当に。
 俺はこの村で繭葵に出逢えて良かった。
 誰も知らない、何も頼れないこんな辺鄙な村で…唯一、最初から警戒心も無く接してくれたのは蒼牙と桂と繭葵だけだ。
 この3人には、ホントに感謝しないとなぁ…と思ってしまっても仕方ないんだろう。

「これから朝ご飯だよね?やっぱ、今日は玉子焼きとか出てくる…んん?」

「お前って食うことばっかな…ウワッ!?」

 和やかに談笑する俺たちの間に割って入るように、ふと伸ばされた腕はそのまま肩をやんわりと掴んできた。
 声は確かに似てるのに…

「君が蒼牙の婚約者なのかな?」

 少し大人びた声音は俺の頭上から降り注いで、腕に抱き付いていた繭葵のヤツはムッとしたように綺麗に整っている眉を顰めた。

「えーっと…どなた?」

 思わず、なんとも言えずにただただ訊ねることしかできない俺が胡乱な目付きで睨む繭葵を無視して背後を振り返れば、目線はもう少しズズィッと上に向けなければいけなくて、それでも見上げた先には朝陽を背にした美丈夫が静かな微笑を浮かべて佇んでいた。
 無造作に伸ばした髪は肩の辺りでキッチリと纏められているけど、蒼牙に良く似た眼差しを持つ男は、蒼牙にはないやわらかな栗色の髪と瞳だった。

「ああ、これは失礼。私は不二峰龍雅(フジミネ タツマサ)と申します。どうやら、朔の礼には間に合ったようですね」

 ニコッと穏やかに微笑まれてしまうと、ああ、蒼牙が大人になって落ち着きを持ったら…いや、今でも人前じゃあ充分落ち着いてはいるけど、こんな風に笑う大人になるんだろうと思える、本当に蒼牙に良く似た人だ。
 親戚なんだろうか?

「…ねね、光太郎くん。この不二峰さんってさ、蒼牙様に似てると思わない?」

 繭葵のヤツが全く俺と同意見をコソッと耳打ちしてくるもんだから、俺は思わず釣られて頷いてしまった。それを自分の質問の答えだと勘違いしたのか、不二峰と名乗ったこの美丈夫は、穏やかに双眸を細めて俺の顔をゆっくりと観察しているようだった。

「君は、蒼牙の理想にぴったりだね。子供の頃から話していた初恋の君にソックリだ」

「…え?」

 繭葵も獲物を見つけたハンターのように双眸をキュピィーンッと光らせて、「なんのこと?」と鼻息荒く次の言葉を待っているようだった。
 いや、不二峰さん。
 コイツにだけは蒼牙の知られざる過去話はしてやらないでください。蒼牙の為に、いや、繭葵自身の為に!!
 とは言え、俺だって知りたいじゃないか。
 蒼牙の初恋の相手が誰なのか…いや、たぶん。それは十三夜祭りの日に出逢った俺のことを言っているんだろうけど、それでも、人の口から聞いてみたいってのはただの惚気だったりするんだろうか??
 うっわ!俺、今何を考えちまったんだ。
 1人でアワアワしていたら、不二峰さんは婚約者の俺に余計な心配をかけてしまったかと一瞬眉を寄せたが、安心させようとでもしているかのように、困った顔で僅かに眉を寄せて笑ったんだ。
 そこら辺り、まだまだお子様の蒼牙とは全然違うんだけど…いつか、アイツもこんな風に、ジェントルマンな大人ってヤツになっちまうのかなぁ。

「ああ、これは余計なことを言ってしまったかな?どうか、気にしないでくれ。初恋の君とは言っても蒼牙がまだ5歳ぐらいのときに…」

「龍雅!…アンタ、呼んでもいないのに来ていたのか?」

 まるで余計なことは言うなとでも言うように、唐突に俺の背後から声がして、繭葵を腕にぶら下げたままで肩越しに振り返った先に青白髪の神秘的な髪を持つ、山から降りて来た鬼だってこんなに綺麗じゃなかっただろうって思えるほど、キリリとした男らしい面立ちの蒼牙が朝陽を浴びて立っていた。

「蒼牙…」

「やあ、久し振りだね。暫く見ないうちに大きくなった。だが、私を朔の礼に呼ばないとは悲しいじゃないか」

「アンタだから呼びたくなかっただけだ」

 あからさまに敵意を剥き出しにしている蒼牙のそんな態度は初めてだったし、仕方なさそうに微笑んでいる、蒼牙に良く似た面差しの不二峰さんがそれほど悪い人には見えないから、余計に蒼牙の態度が不思議で仕方なかったんだ。
 だから俺は、驚きを隠しきれずにチラッと繭葵と目線を交えてしまった。
 妖怪爆弾娘も吃驚していたらしく、俺の方をコソッと盗み見た後、何か面白い玩具でも見つけた猫科の猛獣のような獰猛さでニヤッと笑いながら事の成り行きを見守っているようだ。
 ううッ、悪趣味なヤツめ。

「蒼牙、君の愛しい婚約者に私を紹介してくれないのかい?」

「…光太郎に触るな」

 ムスッとしたような顔のままで、有無も言わさずに腕に繭葵をぶら下げた俺をそのままグイッと抱き寄せて、ただやんわりと肩を掴んでいる不二峰から引き離したんだ。
 嫉妬…と言うよりも、蒼牙にしては珍しい嫌悪感のような感じだと思うのは、間違いかな。

「おやおや…私も嫌われてしまったものだな。だが、これでも一族の端くれなのでね、君が好むと好まざるとにかかわらず朔の礼には列席するよ」

 両手を降参するようなポーズで持ち上げていた不二峰は、仕方なさそうに片頬を軽く上げるようにしてシニカルに笑っていたけど、不意にあからさまに不機嫌のオーラを立ち昇らせたままでムスッとしている蒼牙から目線を逸らすと、アワアワと、こんな状況ではどんな顔をすればいいんだと慌てふためく俺に向かって軽くウィンクなんかしやがったんだ。
 それはやっぱり、蒼牙を煽る…って魂胆見え見えの微笑だったんだろうけど。
 あまりの人懐こさに思わず俺も繭葵もヘラッと笑っちまったんだ。
 もちろん、それで蒼牙が更に不機嫌になるなんてこた、きっと不二峰には判りきっていたことで、最初から計算ずくだったんだろう。

「是非とも、蒼牙が惚れぬいている呉高木家の花嫁様の白無垢は拝まないとね。ここに来た意味がない」

 さらりとそんなことを抜かしたものだから、地獄の底から甦った亡者だってこんな顔はしていないだろうって思えるほど、眉間に深い縦皺を刻んだ蒼牙が殺意を込めてそんな不二峰を睨み据えたんだ。
 やばい、繭葵。
 不二峰が殺される!
 俺と繭葵はほぼ同時にそんな考えが脳裏に閃いたのか、お互い、慌てて顔を見合わせてしまったってのは内緒だ。

「10年以上も前に村を捨てたアンタに見せる義理はない」

「…ふふふ、そのことをまだ怒っているのか」

「いや、もう関係のないことだ。俺は光太郎とこの村で生きる。今更アンタの出る幕じゃないだろう?」

 まるで宣言でもするように、それまであれほどムスッとして不機嫌そうに威嚇していたはずの蒼牙が、不意に冷やかな眼差しになって、いっそキッパリと言い放ったんだ。
 蒼牙の声はそれでなくても深くてよく通る声だったから、朝の陽射しの中に、それでも未だまどろむ清廉な大気を震わせるようにして響き渡った。
 不二峰は一瞬、ともすれば見逃してしまいそうなほど微かではあったけれど、僅かに双眸を細めて、そんな蒼牙を食い入るように見詰めたんだ。
 …その瞬間を見てしまった俺は、ドクンッと胸の辺りが爆ぜるような、なんとも言えない奇妙な胸騒ぎのようなものを感じてしまっていた。胸元を押さえて、どんな顔をしているのか、それすらも気に留める余裕もない俺の目の前で、見たこともない蒼牙に良く似た呉高木の一族である男は静かに笑みを湛えている。
 蒼牙の声を聞けて、満足だとでも言うように。
 俺は急速に耳元でがなり立て始めた何かの音が鬱陶しくて、眉間に皺を寄せたままで俯いてしまった。

「…光太郎、どうしたんだ。具合でも悪いのか?大事な身体だ、用心してくれ」

 ふと、青褪めてしまった俺に誰よりも早く気付いたのか、蒼牙が眉間に皺を寄せて覗き込んできた。
 その双眸はどこまでも真摯で、何よりも心配そうだった。
 そんな蒼牙の顔を見ていたら、それまで胸の辺りで蟠っていた不安のようなものがまるでいきなり晴れた霧のようにパッとなくなるんだから不思議だよな。
 …あれ?俺、何を不安に思ってたんだ??

「いや、大丈夫だよ。ちょっと、腹減ったかなぁって」

 エヘヘヘッと笑って見せたら、心配そうに覗き込んできていた蒼牙がホッとしたように男らしい口許を軽く歪めて笑ったんだ。心配させるなよなーと、その双眸が安堵したように細められている。
 そうして、今までの蒼牙なら絶対にしなかったようなことを…えっと、つまり。額と額をコツンッと軽くぶつけてから、上目遣いに覗き込んできたんだ。
 ああ、心配させちまったなぁ…って思ったら、なんか擽ったくってさ。
 俺も思わず笑ってしまったんだ。
 そしたら…

「あーあ!朝っぱらから見せ付けられちゃったよ。えーっと、不二峰さんだっけ?ラッブラブの二人に水差すなんて、馬に蹴られてどうにかなる前に砂でも吐くんだからさ、さっさと退散した方がいいと思うよ」

 俺の腕にしがみ付いてコソコソと様子を窺っていた繭葵のヤツが俺から離れると、突然そんなことを大声で喚くなり盛大な溜め息を吐いて、呆気に取られている不二峰の腕をガバッと掴んで歩き出したんだ。

「んっじゃーね!朝食には遅れないようにね、お二人さん!」

 肩越しに振り返ってニッと笑った繭葵は、ボケッとしている俺に軽いウィンクを寄越してきた。そのウィンクに気を取られていた、だから気付かなかったんだと思う。
 腕を引かれる不二峰も肩越しに振り返って、何か物言いた気な双眸でソッと蒼牙を見詰めたことに。その眼差しを受け止めた蒼牙の双眸もまた、何か言いたそうに細められていたと言うのにな…

「…ったく!」

 不意に頭上で声がして、呆気に取られていた俺はハッとして蒼牙を見上げたんだ。
 そうするとヤツは、思い切り不機嫌そうに眉根を寄せて苛々しているように俺をギュウッと抱き締めてきたから…あの、俺ちょっと苦しんですが。

「蒼牙、苦しいよ」

「フンッ!誰にでも愛想を振り撒くから苦しい思いをするんだ。アンタは俺だけに笑いかけていればいいんだ」

「…なんだよ、それ。蒼牙は思い切り我が侭だなぁ」

 俺が呆れたように笑って、その胸元に頬を寄せれば、蒼牙は当り前だとでも言いたそうに色気もクソもない黒髪に頬を寄せてプリプリと腹を立てている。
 その態度が、最初はあんなに嫌だったのに、現金なもので俺は、それがたまらなく愛しいなんて思ってるんだからどうかしてるよな。

「当然だ。アンタの前では我が侭でもいいと言ったのは光太郎だ。言動には責任を持て」

「…」

 相変わらず、いつもの調子でフフンッと言い張る蒼牙のちょっとした子供っぽさに、その時になって俺は、やっとホッとしていた。
 あんな風に蒼牙に良く似た大人を見てしまうと、なぜだろう、蒼牙がどこか遠くに行ってしまうような予感がして不安になっていた。
 蒼牙はここにいるのに。
 俺の腕の中で、安心したように俺を抱き締めてくれてるって言うのにな…何を不安に思ってしまったんだろう。

「仕方ないよなぁ。蒼牙の子供っぽさは今に始まったってワケじゃないしさ」

「なぬ?この俺のどこが子供っぽいって言うんだ!?」

 ムムッとしたように俺の顎を引っ掴んだ蒼牙が顔を上向かせると、驚くほど胡乱な目付きで睨み据えてくるから思わずビビりそうになって引き攣り笑いをする俺に、ヤツは急に睨む双眸を甘ったるく細めてからチュッとキスしてきたんだ。

「…へへへ、蒼牙だ」

 俺はなんだか嬉しくなって、蒼牙の背中に腕を回したままでその悪戯みたいなキスにじゃれ付きながら、ゆっくりと瞼を閉じた。
 蒼牙は躊躇いもせずに歯列を割ると、ゆっくりと肉厚の舌を挿し込んできて奥でノロノロしている俺の舌を絡め取ると、やわらかく吸ってきた。
 蒼牙とキスするのは大好きだ。
 一度自覚してしまえば恋なんて呆気ないもので、それはすぐに愛に摩り替わってしまうと思う。
 愛しいなんて俺、絶対に思ったりなんかするかよって高を括っていたのに、気付けばすっかり恋に落ちていた。
 カード破産するOLみたいなモンかなぁ…あの、雪ダルマ方式とか言う一気に膨らんでいくとかなんとか…いや、たとえが悪かったな、まあ、こんな時にそんな下らないことを考えていたら蒼牙のヤツが、息が上がっちまうほどの激しいキスの合間で苛立たしそうに言ったんだ。

「龍雅には近付くな、アイツと話をするな、アイツに笑いかけるな」

「…ぅ…ん、ふ…はぁ…って、そ…が?」

 唾液に唇を濡らしたままでトロンッと蒼牙の顔を見上げようとしたけど、すぐにキスの嵐に巻き込まれちまってそれどころじゃない。

「アンタは俺だけの花嫁だ。綺麗な、少しでも力を入れればきっと壊れてしまうんだろうよ。だから、龍雅には近付くな…いや、この俺が触れさせやしない」

「…ッ…?」

 思わずカクンッと膝が笑いそうになって腰砕けになり掛けの俺を抱き寄せたままで、蒼牙は貪るように久し振りの濃厚な口付けに俺を溺れさせてしまった。
 もう、何がなんだか…
 誰に見られたって、どうせ男で白無垢を着るんだ、いまさら捨てる恥なんかないっての。
 溺れるように蒼牙にしがみ付けば、応えるように力強い腕が抱き締めてくる。
 この腕に溺れて俺は、どこまで蒼牙に染まれるんだろう…

 クラクラするような強烈で濃厚なキスに半ば溺れていた俺を抱えるようにして、蒼牙は相変わらずの強引さで朝食の準備された広間まで連れて行ってくれたんだけど…
 正直言って、それだけは勘弁して欲しかった。
 こんな熱に浮かされたような面をしたまま、みんながいる大広間には行きたくなかった。
 捨てる恥なんかない…とか強がりを言ってしまったけど、さすがに小雛のいる場所にこんな顔を晒したくはないよなぁ。
 俺の決断が小雛を悲しませることは判っている、でも、小雛が子供を産むこともまた間違いようのない確信だと信じているから…却って、ホントは今の俺の方が滑稽なんだろうと思っちまう。
 小柄な、まだ少女のような小雛は、あんなにフワフワしている可愛い女の子だって言うのに、あれほど強い意志を秘めて俺を見据えてきた気丈なひとは、きっとそれでも幸せだと笑うんだろう。
 それはホントは喜ばしいことだと言うのに、俺は…嫉妬してる。
 そんな風に、ごく普通に当り前のように子供を産める小雛に、きっと醜い嫉妬をしているんだと思う。
 だから、ヘンなプライドがまたムクムク頭を擡げやがったから、広間と廊下を仕切る障子のところで俺は、蒼牙の腕を疎んで軽く振り払ってしまったんだ。

「…?」

 僅かに眉を寄せた蒼牙に、無理して浮かべた作り笑いには反吐が出そうだったけど、それでもそれが俺なりのプライドだとでも言わんばかりにニコッと笑って言ったんだ。

「今日の朝飯は魚じゃないことを祈ってるんだぜ、俺」

「…へえ?ならば、見てからのお楽しみってヤツだな」

「そそ!そう言うこと」

 蒼牙ってば冴えてるじゃん、とかわざとらしくおどけて見せて、サッサと障子を開けて広間に入ったところで、俺はそれまで忘れていたことにハタッと気付いたんだ。
 いや、その顔を見つけて思い出したと言った方が正しいのかもしれないけども。

「高遠先輩!」

 思わず驚いて立ち竦む俺の背後から入ってきた蒼牙は、別になんでもないことのように肩を竦めて、呉高木家の当主らしく堂々と一段高い、上座に用意されたお膳を前にどっかりと胡坐を掻いて座ったんだけど…高遠先輩がいる。
 悲鳴を上げて逃げ出したのに…そうか、あの後蒼牙は、きっと先輩たちに酷いことはしなかったんだ。
 禁域を侵した咎とか何だとかで、きっと何かされているに違いないってすげー心配していたんだけど、そうか、杞憂に過ぎなかったのか
 ああ、心配して損したぜ。
 蒼牙のヤツが殺すなんて威しやがるから本気で心配していたってのに…蒼牙も人が悪いよなぁ。
 やれやれと、それでも蒼牙の優しさに感謝しながら俺は先輩に声を掛けた。
 たとえ先輩から『ホモ』とか『オカマ』だと罵られたって、元気ないつもの先輩の姿を見たらホッとしてしまったってのは否めない。
 だから、声を掛けたんだけど…

「高遠先輩、無事だったんですね」

「…ああ」

 やけに張りもなく、と言うか、感情そのものがすっぽりと抜け落ちてしまったような、抑揚のない返事に俺は驚いてしまった。
 あまりの素っ気無さに呆気に取られている俺の腕を引っ掴んで、気付いたら傍らにいた繭葵がそのままいつもの席に促してくれたから、惚けたように呆然と突っ立っていた俺を怪訝そうな顔で見ていた他の連中もフイッと視線を外してしまった。

「あ、ありがと、繭葵。な、なぁ…」

「うん、言わなくても判ってるよ。先輩さぁ、なんかヘンだよね。ボクとぶつかっても反応がないんだ。まるでロボトミー手術でもしたみたいに不気味だよね」

 時折、この妖怪娘は難解な発言をかましやがるから、俺は眉間に軽く皺を寄せて首を傾げてしまう。

「ああ、ロボトミーってのはね、前頭葉白質の一部に切開を加えて神経繊維を切断する外科療法のことだよ。人格が変化したり、知能が低下したりするから日本じゃもう、行われていないんじゃないかな?今の先輩ってそんな感じじゃない?」

 そう言われてみれば、抑揚もないし覇気もない、まるであの山男みたいな先輩には似つかわしくない変貌振りだ。

「お、おかしいよな?」

「うん…でも下手なことは言えないよ。外見はちっとも変わっちゃいないんだ」

 思わず同感だと頷きかかった時だった。
 ガチャーンッと何かが割れる音がして、ハッと顔を上げたら、それまでは由美子の陰に隠れるような存在だった可愛い系の香織が般若のような相貌で突っ立っていたんだ。その足元には、散乱した、それはそれは伝統のある古めかしい食器がその上に乗っていた食い物たちを飛び散らして転がっている。

「ち、ちょっとぉ!香織ったらどうしちゃったのぉ!?」

「うっるさいわねぇ!何よ、由美子ったら馬鹿みたいに品作っちゃってさぁ。ここの飯なんかゲロまずだっつってたじゃん!何よ、今日もこんなモンなの??食べれないっての!あたし、今日でおさらばだし、後でファミレスに行くからこんなのいらないッ」

 言い切るなり、香織のヤツは憤然と腹を立てて広間から出て行ってしまった。
 その後姿を呆気に取られたようにポカンッと、朝っぱらからでもキッチリとメイクを決めている由美子が見上げていたけど、ハッと我に返って注目されていることに気付いたのか、彼女は泣き出しそうな心境だっただろうに、毅然とした態度で高遠先輩に肘鉄を食らわしたんだ。

「ちょっと、高遠くん!香織がヘンよッ!この場合、この場を収めるのは部長である高遠くんでしょッ」

「…ああ」

 抑揚もなく頷くだけで、尤もなことを言っているはずの由美子の方が、まるで肩透かしでも食らったようにポカンッとして、同じく信じられないものでも見ている望月と顔を見合わせたんだ。

「ち、ちょっと、望月。悪いけど、ここお願いできる?あたし、香織のところ行って来る!」

「あ、ああ!」

 蒼牙に頭だけ下げると、慌てて広間を飛び出す由美子の後ろ姿を見送ってから、望月は慌てて後片付けにかかるお手伝いさん達を手伝いながら、上座で胡坐を掻いて頬杖をついている蒼牙にしどろもどろで謝辞を述べたけど、呉高木の当主は緩慢な態度で寛容に許しているようだった。
 畳はヒッチャカベッチャカだけども、きっと、その余りある資産でもって畳なんてすぐにでも張り替えちまうんだろうなぁ…う、ちょっと貧乏根性が出てしまった。

「あら!龍雅さんじゃありませんこと。いつからいらしてたの?」

 不意に、まるでそんな一連の出来事など何処吹く風とでも言うように、薄黄緑色のカーディガンを羽織って烟管を燻らせている伊織さんがふらふらと広間に入ってくるなり、朝食の席に何時の間にか家族の一員としてすっかり馴染んでいる不二峰龍雅に声を掛けたんだ。

「昨夜晩くに着きましてね。皆さんを起しても申し訳ないと思い声を掛けなかったのですが…ご挨拶が遅くなりました」

「あら、龍雅さんなら何時でもこの屋敷にお戻りになっても宜しくてよ。ねえ、蒼牙さん?」

「…ふん」

 あからさまに無視を決め込む蒼牙を更に無視した伊織さんは、珍しく機嫌が良さそうに笑っている。
 いつもは何事にも無頓着そうな顔をしている伊織さんのその珍しい表情に、同じように吃驚したんだろう、繭葵と俺の頭からは先輩たちの不可思議な行動はシコリとなって残っていたけど、それでもその場では気にならなくなっていた。

「不二峰の伯母様たちはお元気かしら?」

「ええ、この度の朔の礼にも参列したがっていましたが、何分、高齢なものでして…私が不二峰の代表として参った次第ですよ」

「あらそう?お養父様も宜しかったわね、龍雅さんがお越しになって」

 伊織に話を振られた直哉は勿論だとでも言うように、大袈裟に頷いて意味深な目付きで俺を、そして花嫁候補たちを見渡した。その視線に気付いたのはどうやら俺と繭葵だけだったらしく、俺はムカムカしながら繭葵の腕を肘で突付いてコソッと耳打ちしたんだ。

「先代当主のヤツ、なんか言いたそうな顔してるよな?」

「ホンット!自分からボクたちを花嫁候補だとか迷惑な名目で招いておいて、あの不二峰龍雅だっけ?アイツが現れてから途端に目障りそうな顔しやがってさぁ。迷惑なのはこっちだっての!そうでショ、光太郎くん」

「どーかん」

 2人でコソコソ話していたら、直哉の突発的な馬鹿笑いが聞こえて、俺と繭葵が吃驚したように顔を見合わせて顔を上げたところに、年代物の陶器の水差しを抱えた眞琴さんが相変わらず朝っぱらからキチンと着物を着付けて楚々とした足取りで入ってきたんだ。

「お食事前に、花嫁候補の皆様方には御神酒を召し上がって頂きます」

 凛とした声音の眞琴さんがそう厳かに蒼牙に言うと、上座に座している当主は肩を竦めるようにして面倒臭そうに頷き、それから思わずと言った感じで口許がニヤけたようだった。
 それは見落としてしまいそうな変化だったけど、確かに、面倒臭そうな顔をしていたくせに一瞬、ニヤッと笑ったんだ。でも、それを発見したのはどうやら俺だけだったらしい。
 なんか、ラッキーなんだか何なんだか。

「それでは、まずは小雛さまからお召し上がりください」

「…はい」

 か細くコクリと頷いて、膳の上に用意されていた朱塗りの杯を両手でソッと持った小雛が杯を差し出すと、眞琴さんは無言でトクトクトク…ッと神酒を注いだ。小雛はそれを見詰めてから、息を整えて、それから一気に呑み干した。
 繭葵がその間に説明してくれた話だと、『晦の儀』に向けて『禊の儀』ってのがあるらしく、それはこの御神酒で身体に溜まっている悪しきモノを取り除き、綺麗な身体で当主に身を捧げないといけないらしく、その御神酒ってのは一気呑みしなきゃいけないんだと。
 …とは言っても、酔ってぶっ倒れるほどの量ではなく、お猪口に軽く一杯ってところかな。 小雛の次は繭葵で、「お酒だー」とニヤニヤ笑ってサッサと飲み干した酒豪娘の次が、俺だった。
 小雛ですら薄ら頬を染めて吐息なんか吐いてるってのに、全然呑み足りないとでも言いたそうな顔をした繭葵は、面白くもないだろうに杯に注がれた酒を見下ろす俺をのほほんと見詰めている。

「あれ?この酒…ちょっと赤っぽいな??」

「あら、気付かれましたの?この御神酒はご神木の幹より摘出した樹液を混合していますの。なので、樹液由来の赤みが差すのですわ」

「へー…あ、でもこれ、いい匂いだな」

「そうでございましょう」

 うふふふっと、眞琴さんがアルカイックスマイルなのに嬉しそうに見える笑みを浮かべて頷いたんだけど、ふと、何気なく上座に目をやったら、蒼牙のヤツが今か今かと、食い入るようにこちらを見ていたから思わずビビッてしまいそうになった。
 なんだってんだよ?!と眉を顰めれば、早く呑めと不機嫌そうな蒼牙の双眸が物語る。
 ああ、そうか。
 コイツを呑まないと朝食が始まらないってワケなのか。
 そっか。
 はたとその事実に気付いて、俺は慌てて一気に御神酒を呑み干した。
 咽喉を一瞬カッと焼いたけど、その後味はまるで桜餅とでも言うか、桜の味がしたんだ。

「この酒、美味いな?」

「うんうん、もう一杯!…って言いたくなっちゃうよ。ウッシッシッ」

 浮かれぽんちで笑う繭葵に釣られたように笑ったら、あれ?もしかしたら、この御神酒って結構、度が強いんじゃないのか?
 酔ってないって思っていた繭葵と俺の方が、すげー酔っ払ってんじゃないだろうな?
 お互いに浮かれて笑っていた俺は、何故か知らないんだけど、いつだって上座の蒼牙が気になって、気付いたら目線が呉高木の当主を追っていた。
 ふと、バッチリ目線がかち合ってしまった俺は、その時ほどハッとすることはなかった。
 蒼牙の顔が、あれほどうんざりするほど不機嫌そうだった蒼牙の顔が、まるで染み入るような、物静かな笑みを湛えていたんだ。その顔は、今まで見たこともないほど、幸せそうだった。
 御神酒に酔っ払った俺が見た、これは幻か夢なんだろうか?

「さて、皆さま。お食事を召し上がってくださいな」

 眞琴さんが晴れ晴れとした顔をしてそう言ったから、物静かな朝食タイムは始まったワケだけど、漸く大役を果たした眞琴さんが珍しく機嫌が良さそうに笑っていたんだけど…ふと、不二峰龍雅の前に差し掛かったところで一瞬だが立ち止まった。
 その瞬間、まるで大気中に稲妻でもスパークしたような錯覚さえ覚える、目に見えない攻防戦が繰り広げられたような気がしたのは、たぶんきっと、俺の気のせいじゃないはずだ。

(すっげ、こえぇぇぇぇッ)

 思わずガクガクブルブルしそうになった俺の傍らで、同じく絶句している繭葵が青褪めていた。
 いったい、眞琴さんと不二峰の間に何があったのか知らないが、お陰さまで普段通り、いやそれ以上の沈黙が圧し掛かる、なんとも気まずい朝食タイムは恙無く続行されるのだった。
 俺が嫁になったら絶対に、なんちゃら党をぶっ壊せってワケでもないけど、この風習だけはぶっ潰そうと固く誓ってしまった。
 …やれやれ。