だからって、眠ってるわけじゃないぜ?幸福を、ただひしひしと噛み締めてるだけさ。
あの後、熱を出した佐渡を連れて、まあ俺も一応診てもらったんだけど、病院に行って入院の手続きをしたりとかテンヤワンヤだった。俺は入院しなくても済んだんだけど、佐渡のヤツは、やっぱり無茶したんだろう。検査入院と言う形で2日間だけ入院することになっちまったんだ。
嫌がってたけど、俺たちが宥めすかしたら仕方なさそうに頷いたっけ。
洋太もいたし、小林の騒ぎ方も半端じゃなかったからな…入院せざるをえんだろう。
そりゃあ、小林はすごかった。
鼻水と涙でグチャグチャにした顔で拝み倒すように足に縋りつかれたりしたら、やっぱり恥ずかしいし、医者や看護婦さんに笑われたら「やめてよーッ!」と叫びたくなっても仕方ないだろう。うんうん。
確かに佐渡はヒステリックに叫んだし、それでさらに熱が上がって嫌でも入院しなくちゃならなくなったんだけど…でも、アイツ。まんざら嫌そうでもなかったな。
小林と佐渡…か。
うん、お似合いのカップルかもしれねぇ。
「どうしたの?」
俺がクスクスと小さく笑ったせいで、洋太が気付いて顔を覗き込んできた。
素っ裸で、シーツ1枚が俺たちを守ってる。
幸せだな。
「いや、幸せだって思ってたんだ」
「幸せ?…うん、そうだね。僕もとても幸せだよ」
俺の肩をギュッと抱き締めてくる洋太にうっとりと笑いかけて、俺は洋太のふくふくした頬に片手を伸ばして、確かめるようにソッと触れてみた。そうしたら、洋太は俺の顔を覗き込んできて、鼻先を擦り合わせてきたんだ!
初めてのことにビックリする俺に、洋太はちょっと情けなさそうに笑って見せた。
「ホントはね、いつだって僕、光ちゃんをこんな風に抱き締めてキスしたかったんだ」
「じゃ、じゃあ!してくれたらいいじゃねぇか!俺はいつだって待ってるのに…バッカな奴だ」
俺が笑ってそのちょっと厚めの唇に口付けると、洋太は幸せそうに笑ってキスに応えてくれた。
「うん。光ちゃんはそう言ってくれて、ホントにすごい嬉しかった。でも…」
そこで言葉を切った洋太は、俺の下半身に回した掌で悪戯を仕掛けてきながら、気持ちよさに少し仰け反らせた首筋に口付けしてきた。いや!すっげ嬉しいな!
なんだよ、なんだよ!?洋太!どうしたってんだ!?
ハッ!ま、まさか…
「ん…よう…た。ちょ…待てって」
「怖かったんだ」
不意にポツリと呟いて、洋太は俺の髪にキスをする。
怖い?
何が怖いってんだ。
「光ちゃんは、いつも躊躇わずに僕を好きだと言ってくれる。でも、もしその言葉を聞けなくなったら?光ちゃんに嫌われてしまったら…僕は生きていけないって思うんだ」
「それって、洋太…」
俺は、泣きそうになった。
それと全く同じことを、俺はいつも考えていた。
佐渡が現れたりして、不安ばかりだった。お前に嫌われたら、いや、ホントは嫌われてんじゃねぇかとか…
胃が痛くて…死ぬかと思うほど、俺だって怖かった。
同じことを、お前も考えていたのか?
俺は思わず笑ってしまった。
「光ちゃん?」
「俺たちってバカばっかだな。変に遠回りして。ホントはきっと、両想いなのに…」
そうだろ?と見上げた洋太の双眸に、俺の泣き笑いのような顔が写る。
ああ、なんて間抜け面だ。
でも案外、この顔も悪くねぇな。
だってそれは、嬉しいからそんな顔になるんだ。
「光ちゃんが僕を好きって言うよりもずっと、きっと僕は光ちゃんが大好きだよ。両想いって言うのとはちょっと違うかもね」
クスクスと笑う洋太の意地悪な顔を覗き込みながら、俺は鼻先を摺り寄せて小さく呟いた。
洋太の温かなぬくもりを感じながらその首筋に両手を伸ばして、もう俺はきっと、不安なんか感じないだろうと思う。
でも俺、嫉妬深いし独占欲も強いし…きっと、これからだってハラハラと気を揉むんだろう。それでも、それも幸せなことなんだって判ったから、もう胃が痛くなったりなんかしない。
それだけは、どうしてだろう。
確信できたんだ。
「なんだよ、それ」
呟くと、洋太はそんな俺の背中に回した太い腕でギュッと抱き締めてくれた。
幸福に、目の前がクラクラする。
「だって、僕のほうが数倍も光ちゃんを好きだから。この恋は、きっと僕の永遠の片思いなんだ」
「ふんっ!冗談じゃねぇや。俺のほうがその100万倍好きに決まってら!」
何を言い合ってんだか、俺たち。
それでも嬉しくってさ、俺は不貞腐れた顔をしたままでそんな洋太にギュッと抱きついてやる。
ふん、当然じゃん。俺なんかお前のことを思って胃まで痛くしたんだからな!
「ホント?」
洋太は俺の髪に鼻先を埋めながら、嬉しそうに笑った。
ちぇッ!そんな顔されたら…嬉しいじゃねぇか!
「じゃあ、僕たちはホントに両想いだね」
「ああ…ああ、その通りだよ。洋太、俺たちはきっと、両想いだ」
身体を起こして洋太と向かい合った俺は、その頬を両手で包んで鼻先を摺り寄せ、うっとりと微笑んだ。幸せってどうしてこう、笑顔が絶えないんだろう。
俺は洋太にキスをした。
もう二度と、俺は両想いを疑わない。
もう二度と、俺は洋太の心を疑わないよ。
洋太が好きだ。
大好きだ…
俺は今、すごく幸せだ。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「僕はね!本当は里野くんが好きだったんだ!」
うえ?
思わず変な声を出して、俺は口に突っ込んでいたパンを思わず落っことしそうになって焦っちまった。
な、何を言い出すんだ、突然。
俺と洋太はいつものように平凡な昼休みを、いつもよりももっと幸せそうに飯を食って過ごしていたんだ。
あれから3日が過ぎて、佐渡は無事に退院してきた。小林は嬉しそうだったけど、なぜか洋太はあんまり嬉しそうじゃなかった。
いや、確かに体調を良くした佐渡のことは喜んでいたんだけど…なんか、妙な違和感があって。
「な、何を言い出すんだよ、突然」
俺が咳き込みながらバナナ牛乳に挿したストローを咥えて言うと、佐渡は腰巾着の小林を背後に控えさせて、冷たい屋上のコンクリートにチョコンッと座って俺たちを睨んでいる。
なんだってんだ。
「だから!本当はね、僕は里野くんが好きだったの」
「お、俺は洋太が好きだ!」
思わず叫んで、俺は傍らで仕方なさそうな表情をしている洋太に抱きついていた。
佐渡はちょっと寂しそうな顔をしたが、キュッと意志の強さを物語る表情をして頷いた。
「知ってるよ。でもね、やっぱり諦めないことにしたんだ」
ギョッとする俺。頭を抱える洋太。
そして、佐渡の背後に控えていた小林の驚愕に見開いた目。んで、ガックリと肩を落としてコンクリートの床に両手をついている。
こ、小林…なんか、哀れだなお前。
つーか!そんなことよりも!
なんだってんだ!?このお坊ちゃんは!
突然俺たちの幸福な昼休みに割り込んできて、突拍子もないことを抜かしやがる!
新手の嫌がらせか!?
「はじめはずっと洋ちゃんが好きだったよ。でもね、ある時から洋ちゃんが本当に幸せそうに話す、その相手の人に興味が湧いちゃったんだ。ずっと、病院のちょっと汚れた白い天井を見上げながら思ってた。どんな人なんだろう?とか、どんな感じなんだろう…って。洋ちゃんに写真を見せてもらっていたから、顔はもう知ってた。その顔をずっと思い浮かべながら考えていたんだ。そしたら…」
一気にまくし立てるようにそう言った佐渡は、それから小さく息をついて、本当によく耳を澄ましていないと聞き取れないほどの小さな声で呟いたんだ。
「恋をしてるんだって、気付いた」
チラッと自分を見る佐渡に、洋太はちょっと溜め息をついたようだった。
「知ってたよ。だから、翔の興味が僕にあるのなら、それを利用しようと思ったんだ。だって、こればっかりは翔にだって譲れないからね」
洋太はそう言うと、抱きついている俺の腰に太い腕を回してギュッと抱き締めながら、神妙な顔付きで首を左右に振るんだ。
そうか、俺に興味を持たせないように、佐渡の言うことを黙って聞いていたんだコイツ。
「光ちゃんには辛い思いをさせちゃったけど…」
抱きついてる俺を見下ろしながら、そっと腹部に触れてきた。
胃痛を、コイツは知っていたんだ。
「洋太…」
嬉しくてその頬に手を添えて見上げる俺を、洋太が覗き込んでくる。
このままキスしてくれたらいいのに…
「ああもう!」
佐渡は癇癪を起こしたように叫ぶと、細くて華奢な腕を伸ばして抱きついてきやがった!
ぎゃあッ!
「僕は!洋ちゃんより2歳も年上だけど、きっと、振り向かせて見せるんだからね!」
「さ、佐渡ぃ~」
小林が縋るようにそんな佐渡に抱きついた。涙を流してる、おいおい、本気で泣いてるぞ、コイツ。
「う、うぇぇ~!?な、何を勝手なことを言ってるんだよ!?俺は洋太が好きなんだ!今、すっげぇ幸せなんだ!!…つーか待て、佐渡!お前、俺たちより2歳年上だと!?」
思わず縋りつくように抱きついている佐渡に目をむくと、小柄な、無害なリスのように可愛い顔を小さく傾げながら奴は当然そうに頷いた。
「アレ?洋ちゃんに聞いてなかったの?僕、身体が弱いせいで成長があんまり良くないんだ。留年もしてるし…僕、君たちよりも年上だよ?」
平然と…と、年上…この小柄で可愛い佐渡が…
守ってやらねば…と思っていた、佐渡が年上…
「だけど!そんなこと関係ないよね?僕のこの恋心に変わりはないもの!」
キュウッと抱きついてくる佐渡にクラクラしながら、俺は漸く収まったはずの胃の痛みが再開するのを感じた。
ああ…俺。
どうなるんだろう。
くそ…クソッ!
「それでも俺は洋太が好きなんだよぉーッ!」
絶叫は校舎を揺るがすほど響いたけど、佐渡はケロリとしてるし、洋太は頭を抱えながらもなんだか嬉しそうだ。佐渡が思ったよりも元気になって、俺が抱きついてるから?
つーか、お前も止めろよ!
俺の、初めての両想い。
この恋は、どうやら前途多難のようだ。
負けるな俺よ!
胃痛と仲良くなった腹を擦りながら、大好きな洋太の大きな身体をギュッと抱き締めて、それでもきっと幸福だと思う。
俺は、本当は幸福な奴なんだ。
きっとそうだ。
佐渡も思ったよりも元気になって、そして…何よりも洋太がいる。
困ったような、仕方ないような…複雑な表情をして、でも、幸せそうに笑っている洋太が俺の傍にいる。
なんか、いいじゃねぇか。
うん、これもなかなかいい感じだ。
幸せだって思えるよ。
ああ、なんか、やたらサイコーだぜ!
俺たちはハッピーだ!
なあ、そう思うだろ?
洋太!
─END─
俺が胃痛になったワケ 9 -デブと俺の恋愛事情-
洋太はそんなことはしない、洋太だったらそこはこうするのに…ああ、俺。洋太が好きなんだなぁ、とそうすることでつくづくと思っちまうんだよな。
俺が初めて病院送りにするまで人間を叩きのめしたのは、中学2年に進級したばかりの頃だった。
近所の受験に行き詰まった高校生だったけど、俺は少年院送りにはならなかった。
状況が状況だっただけに、相手の親も相手も不問にしたがったらしい。当たり前か、どちらかと言えば不名誉は俺なんだけど、面子を守るために少年の将来を考えてとか何とか、うまいことを言って逃げたんだろう。
全部知ってるのは洋太と家族と、一部の人間だけだし、逃げやすかっただろうな。
俺は、中学2年の夏休みに…犯されたんだ。
洋太ん家から帰る途中の公園で。
だから、本当は初めては洋太じゃない。
もともと俺は汚れているんだ。
こうして、別の誰かに抱かれる度に、そんな思いが脳裏を矛盾なく渦巻いていくんだ。レイプされた記憶って言うのは、ある日突然むくりと起き上がっては、長いこと被害者を苦しめる。それを知ってるから、俺はレイプだけは許せねぇ。そんなことを佐渡にしやがっていたら、今ごろ黙って犯られちゃいないだろう。
俺は…怖いんだ。
洋太を守ると言いながら、本当は自分自身を守るためだけに強くなった。
洋太はそれを知ってるのに…俺を好きだと言ってくれる。
俺は…俺は欲張りすぎたんだな。
「…うぁ…」
何人目かの奴が、灼熱で俺の深い部分を抉りやがって、声なんか出すつもりはなかったけど思わず洩れちまった。チッ、そうすることがより相手を興奮させるなんてこた、嫌でも知ってるのに、クソッ!
佐渡は大きく見開いた大きな両目から滝のように涙を流しながら、俺を食い入るように見ている。男に押し倒されて、四つん這いに這わされ腰を高く持ち上げられて、思うさま犯される俺の姿…
ハッ!滑稽なこった。
でも俺がそんなことでヘコたれるとか思うなよ。
そう言う意味では俺は強くなったんだ。そうしてくれたのは、洋太だったんだけど。
けっきょく俺も、コイツらやあの高校生となんら変わりはないんだ。
俺も洋太を犯した。
別に嫌がりはしなかったけど、押し倒して、上に乗っかってやった。
いや、嫌だったかもしれないんだ。俺に同情して俺を抱いてくれたのかもしれねぇ…クソッ!
「…ッ…はぁ…コイツ、よく締まる」
俺の背中に上体を倒しながら感極まったように叫ぶ仲間を、ヤツらは興奮に頬を上気させながらニヤニヤと笑いながら見てやがる。もう何度目かの熱い飛沫を身体の最奥に感じて、こんなことはいったいあとどれぐらいで終るんだろうと、霞んだ頭でぼんやりと考えていた。
「次は俺だ!」
見知らぬ誰かがジッパーを慌てて下ろしながら近付いてくる。
「じゃあ、俺は上だな。食い千切るなよ」
あの、俺がパンチで口許に青痣を作ってやったヤツが顎を持ち上げながらそう言って、ニヤリと笑いやがるから吐き気がした。唾でも吐いてやるかな。そしたら殴られるかな?犯られるよりはマシか。
「…もう、もうやめてよぉ!!それ以上したら、里野くんが死んじゃうよ!」
佐渡が眉を寄せて、やけに辛そうな表情で泣きながら訴えてくる。
ああ、身体が自由だったら助けてやるのに…
「ヘッ!うるせーよ、お姫さん。なんならどうだ?そのうるせーお口を塞いでやろうか?」
「やめろ!ソイツには手を出すなッ!」
だから俺が抱かれてやってるんだろうが!この野郎…いい加減なことすると殺すぞ。
胡乱な目付きで睨んでやると、ソイツはグイッと前髪を引き抜かんばかりに持ち上げて、苦痛に眉を寄せながら睨みつける俺の顔をマジマジと覗き込みやがった。
「へえ…なんだ、里野。こうして見ると、誘うように綺麗な顔をしてるんだな、お前」
何を言ってやがる、気色わりぃ。
引っ張ってる手はそのままに、空いてる方の手で俺の頬を弄るように撫で回したソイツは、鳥肌を立てている俺の口許を親指で触れて、思い切り開かせた。
「…ッ…」
眉を寄せて無理に開かされた口許から唾液が零れて、異常に興奮したソイツが慌てたようにジッパーを引き下ろして勃ち上がったそれを俺の鼻先で何度か扱いた。
く…キモイっつの!
背後の男も俺の後ろに擦りつけるようにして挿し込もうとしたし、ソイツも肩で息をしながら俺の口に捩じ込もうとした。
観念して両目を閉じたら…
「光ちゃん!」
声がした。聞きたくて…今は聞きたくなかった、大好きで愛しい声。
「洋ちゃん!洋ちゃん!里野くんを助けてッ!!」
悲鳴のような声で叫ぶ佐渡に、小林新とか言うヤツと一緒に現れた洋太は…俺の愛する洋太は、肩で息をしながら凄まじい目でザッとその場でうろたえる連中を睨みつけていた。 俺は泣きたくなりながら、そんな洋太を見つめていた。
「お前ら…殺してやる」
言葉は短くて単調なフレーズだったけど、洋太の眼光と、底冷えがするほど低い声音の相乗効果は、思った以上に連中にハードな恐怖心を植え付けたようだ。
洋太は敏捷な動きで大股に近付くと、それでも殴りかかる連中の1人の腕を鈍い音を立てて圧し折ったようだ。力任せに、顔色も変えず。
仲間の悲鳴で我に返った連中は、俄かに殺気だったけど、もう遅いッつーの。
戦闘モードに入った洋太は手加減しない。
日ごろが温厚な分、キレると見境がなくなるんだ。
でも洋太、かっこいいv
投げ出すように押し退けられて床に蹲った俺は、それでも惚れ惚れするデブをうっとりと眺めていた。
「洋ちゃん!危ないッ」
小林に縄を解いてもらった佐渡が俺に駆け寄りながら叫ぶのと、尻のポケットからナイフを取り出したバカな奴が襲い掛かるのとはほぼ同時だった。
腰が痛むのも忘れて思わず浮かしかけた身体を佐渡に引き戻された俺が見た光景は、小林新が回し蹴りでそのナイフを弾き飛ばしたところだった。
背中を合わせるようにして立った双璧は、互いをニヤリと笑い合っている。
おお!すっげぇカッコイイな!
「やるね、新くん」
「あんたこそ、長崎先輩!」
口調こそ悪いものの、この2人は案外、馬が合うかもな。
その後のことは、ここで言うのもなんだと思うけれど、やはり俺は愛するデブの活躍を口にしたい。
そこら辺に転がっている腐った角材や、錆びた鉄棒で襲い掛かる連中を、悉く血反吐を吐かせながら廃工場の床に沈めたからだ。
最後に立っていたあの口許に痣がある奴が、青褪めたように角材を振り上げたその顎を蹴りで砕いた洋太は、ソイツが床に沈むのを見もせずに佐渡に上着を借りて床に蹲る俺のもとまで駆け寄ってきた。
慌てた風な洋太の大きな身体に抱きつきながら、俺は骨が軋るほど抱き締められて、すっげぇ幸せだった。こんな風に汚れても、洋太は俺を抱き締めてくれる。
それだけで幸せなんだ。
「洋ちゃ…」
何か言おうと口を開きかける佐渡には悪いけど、俺は今、洋太を渡すわけにはいかないんだ。
ふくふくしている頬に片手を添えて、鼻先を擦りつけるようにして俺は大好きな洋太を見上げた。
「洋太…ごめん、俺また」
口許に小さな笑みを浮かべて…そんな顔で言ったって説得力がねーけど…ま、いっか。
幸せなんだ。
やっぱりお前、助けに来てくれた。
「光ちゃん…僕の方こそ、今回も遅れてしまってごめんね。光ちゃんには心配ばかりさせて…僕は、光ちゃんだけが好きなのに」
そう言って、洋太は俺の口許に少し厚めの唇で口付けてきた。
濃厚なディープじゃなくて、掠めるような優しいキス。
「洋太…いいんだ。お前がいつだって好きって言ってくれたら。俺はもう、それだけで幸せなんだ」
名前を呼び合うことがこんなに幸せなんて、見つめ合うだけで天にも昇るほど嬉しいなんて…洋太と抱き合ってるだけで胃痛が消えちまうなんて…俺って現金な奴だけど、幸せは人間を現金にするもんなんだ。
洋太が好きだ。
洋太も俺が好きだ。
だったらもう、それでいいじゃねぇか。
俺は悩むことをやめて、洋太の頬に頬を摺り寄せながらこれ以上はないってぐらい抱きついた。上着はハラリッと肩から滑り落ちて、もう、全くの素っ裸なんだけどよ。
腰を抱き締めてくれる洋太に、俺は幸せを感じながら目を閉じた。
洋太が好きだ。
コイツを愛してる。
それが…俺の幸せなんだ。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「悪いのは僕なんだよ…」
唐突に佐渡が口を開いた。
俺は慌てて両目を開いて、それでも洋太から離れるつもりなんかなかったから、その首とも言えない首筋に噛り付きながら佐渡に振り返った。
なぬ?
いや、そりゃあ、連中に捕まったけどさ。それだって悪いのはアイツらなんだ。佐渡が気に病むほどでもないだろう?
「洋ちゃんやママや…病院の先生は止めたのに。君に会いたくて出てきちゃったから。でも僕、こんなことになるなんて…里野くんを、里野くんを…」
唇を噛み締めて俯く佐渡の細い肩が震えている。
ああ、可哀相に。
なんだって泣くんだよ。俺は幸せなんだぜ?
「な、泣くなよ。佐渡…俺は洋太が傍にいてくれればそれだけで幸せなんだ」
洋太がもう手離さないと言う意思を込めて俺の腰に回した腕に力を込めてくれて…うっ、でもあんまり遣りすぎると苦しいッス。
「僕はね、生まれた時から体が弱かったんだ」
ポツリポツリと、佐渡は累々と死体(?)の転がった廃工場の床に座り込んで語り始めた。
洋太はそれを止めようとしたけど、でも思いとどまったように口を噤んでしまった。
「体重が僅か760グラムの超未熟児だった僕は、本当はこの年まで生きられないって言われてたんだ。現に、今だってずっと病院暮らしなんだけど…」
小さく笑って、佐渡は溜め息をついた。
佐渡の影のように寄り添う小林が、ちょっと驚いたように目を瞠りながらそれでも黙ったまま聞いている。
ああ、コイツ。そうか、佐渡が好きなのか。
「病院にお見舞いに毎日来てくれる洋ちゃんが、いつも夢見るように幸せそうに語るのが君のことだったから。僕は君に会いたいとずっと思っていたんだ。長い病院暮らしの中で、僕の全ては洋ちゃんだった。洋ちゃんだけが、僕の世界だったんだ」
俺はキュッと唇を噛んだ。
そう言われてしまうと俺は、俺は…でも、ダメなんだ。俺は冷たい奴だから、そう言われても、洋太を手離すことだけは絶対にできない。
その思いを知ってか、洋太が俺の肩をそっと抱き締めてくれた。
申し訳なく思いながらも、俺は幸せを感じていた。
そんな俺たちを困ったように微笑みながら、佐渡は呟くんだ。
「とっても小さくて狭い世界だったんだけどね。僕は生涯でたった一度のお願いを先生にした。『学校に行きたい』って。望んでも望んでも、僕にはけして叶うことのない夢だったから。咽喉から手が出るほど、僕は学校に行きたかった。渇望していたんだ。断られるって思っていたから、とうとうこの年齢になるまで言い出せないでいたお願いを、先生は条件付で許してくれたんだ。それはね、無茶をしないこと」
クスッと笑う佐渡。
ああ、お前。どれほど、俺たちがバカらしいと思っていた学校に通いたかったんだろうな。
お前が見た、白い壁に覆われた狭い病室の中で、たった1つだけ開かれた窓の外だけが希望だったんだろう。俺も、短いながら入院したことがあるから、ほんのちょっとだけ判る気がするよ。
お前に比べたら、砂漠の砂ほども小さな理解だろうけど。
「君に会って…僕の世界は広がったんだ。洋ちゃんしか見えなくて、優しいたった1人の従兄弟を困らせてばかりいた僕の前で、君はとても鮮烈だった。一途で、尽くして…それでもあんまり多くを望まない。涙を素直に流せる人…僕があれほど嫌った涙を」
佐渡は泣いていた。
声もなく、きっと本人も気付いてなんかいなんだろう。じゃないと、笑ったりできない。
「僕はね。いろんな治療を受けていたんだ。今もなんだけど、その治療で全裸になることだってあったし、いろんな人にも見られた。研修医の先生だとか、いろんな先生とか。看護婦さんだとか、看護士さんだとか…痛い治療もした。セックスだって…あの病院で、僕はなんだって体験した。さすがにセックスの後は死ぬかと思ったけどね」
小さく笑った佐渡が、だからあんなに強い眼差しができるんだと思った。そして、みんなに見られても別に気にした様子もなく平然としていたんだ。
それはその、やっぱりレイプだったんだろうか…だろうな、きっと。
俺は唇を噛んだ。
「翔!?まさか、あの高熱が出て暫く面会謝絶だったあの時…?」
洋太が驚いたような、鋭い声で佐渡に詰め寄ろうとすると、小林の方が早かった。
「どうして病院でそんなこと!?」
「イロイロとあるんだよ。洋ちゃんも新も…もう終ったことだから気にしないで。それよりも、あんな苦しい思いを里野くんにさせたかと思うと…僕は自分のワガママな性格を呪ったんだ。僕は…ごめん、ごめんね、里野くん。もう…病院に戻るよ」
ハラハラと綺麗な涙を零して頭を下げる佐渡に、俺は洋太から離れると、震える肩を抱き締めてやりながら柔らかい栗色の髪に口付けてやった。この髪の色も、きっと薬でやられたんだろう。
ビックリしたように大きな目をもっと大きく見開いた佐渡の顔をそのまま抱き締めてやりながら、俺は小さく呟いた。
「バッカだな!お前。せっかく今は元気なんだろ?だったら倒れちまうぐらいには世間ってモノを味わえよ!わざわざ病院に帰る必要なんてないんだ。そうだろ?洋太」
「もちろんだよ、光ちゃん」
頷く大きな顔を見上げて、佐渡はふぇっと泣いた。
洋太に抱きついて泣いても、今は許してやろう。俺は嫉妬深くて独占欲が強いけど、こんな時にまで駄々をこねるつもりもない。
だけど、佐渡は洋太に抱きつかなかった。
俺の素肌に顔を埋めて、泣いていた。きっと明日には泣きすぎて頭が痛くなるだろうけど、佐渡は良く泣いた。泣いてる佐渡を見て、俺も不意に涙が出た。
俺だって、張り詰めていた緊張の糸ってのがあるんだ。それがプッツリと切れたようで、もらい泣きのようにポロポロと涙が零れた。
抱き合って泣く俺たちを洋太と小林は暫く黙って見ていたが、そろそろうめいている工業の連中を気にしたのか、俺たちを促して廃工場を後にしたんだ。
ああ、もう二度とここには来たくないなと思いながら、俺は薄闇に浮かぶ工場を肩越しに振り返って溜め息をついた。