第二部 12  -悪魔の樹-

 俺がニヤニヤ笑いながら水桶を抱えて戻ると、灰色猫はあからさまにニヤニヤ笑いながら不気味そうな顔をしていた。
 なんだ、その面は。
 でも、今の俺はそんな灰色猫の態度だって許せちゃうぐらい寛大なんだぜ。
 へっへっへー

『気持ち悪い。不気味だ。ヘンだ。おかしい』

 そうはいかなかったのはベヒモスで、灰色猫ほど我慢強くないカバ野郎は、やわらかな草の上で寝そべっていたくせに、のそりと顔だけを起こして胡散臭そうに言いやがった。

「なんとでも言ってくれ♪」

 それでも上機嫌で桶から飲み水用に貯水している水瓶に、程よく冷えている、こんな魔界でマジかよと言わざるを得ないほど澄んだ清水をうつしていると、やれやれと身体を起こしたベヒモスが、やっぱり胡散臭そうな表情で俺を見ている。

『おおかた、小悪魔どもにはめられたか』

「…まぁ、それはそれでも許す」

 ヘッヘッヘ…と、笑いながらウィンクなんかしてやると、驚いたことに、あれほど物憂げな表情しか浮かべないはずなのに、ベヒモスは面食らったように小さな目を見開いた。
 カバ面にしては珍しいこともあるもんだと、俺の方が却って呆気に取られていたら、途端に、不機嫌そうにムッツリと黙り込んでしまう。どうも、カバはカバなりに考えているんだな。
 こう言うところは、本当に兄弟なんだなぁ…レヴィに良く似ていると思うよ。

『…レヴィか。そうか、アイツが何かしたんだろうな?』

「俺の喜ぶ理由なんかそれしかないだろ?」

『ふん』

 カバ面がもし人間だったとしたら、いや、人間みたいな顔立ちだったら、きっと唇を突き出してるんだろうなぁとか、そんな姿が想像できる表情を器用に浮かべて、ベヒモスは呆れたように鼻息で返事する。

『ご主人が記憶を取り戻した…?』

 いや、そんなまさか。
 灰色猫は端から信じちゃいないくせに、それでも、一抹の期待なんかして俺を見詰めてくるから、その疑わしそうな鼻先を指で弾いて両頬を引っ張ってやった。
 いや、そこまでやる必要はないと思うんだけど、なんかムカついた。

『ひひゃいよ、おにいひゃん』

「痛いように態とやってるんだ」

『そりゃ、痛い』

 ベヒモスがニコリともせずに言って、その腹が活火山の下で燻るマグマのように、ゴギュルワーッと奇妙な爆裂音を響かせてくれると、俺は暢気にくっちゃべってるヒマはないと判断した。
 ベヒモスの場合、レヴィと違って、スゲー大喰らいなんだ。
 オマケに腹を空かすと不機嫌…なんてものじゃないぐらい、地獄の悪魔そのものの形相で暴れる。
 ここら辺はさすが兄弟、良く似てるよな。
 レヴィが執着心で暴れるように、ベヒモスは食事への執着で暴れるんだけど、その部分がなかったら、お前ホントに悪魔かよってほど大人しい。大人しいせいか、この森に棲む動物たちは、大小の区別なくどれもベヒモスに絶対的な信頼を寄せているんだから、不思議だよな。
 悪魔なのにさ。
 でもこのカバの親分は肉や魚がまるでダメで、最初、それを知らなかった俺の料理を一口食って、いきなり、ホントにイキナリ、肉の塊を俺にプッと吹き飛ばしてきたんだ。
 そりゃ、ビックリしたのなんのって、続けざまに2、3個もプップッと飛ばされて、それで初めて、ベヒモスは肉が嫌いなんだと知ったし、同じ行為で魚も嫌いなんだと判った。
 完全な菜食主義者なんだぜ、信じられるかよ。
 でも、そんな目を丸くしている俺に、『お前は食っとけよ。人間は動物性たんぱく質も取らないと死ぬからな』と、至極真面目に言うもんだから、呆気に取られるよりも、思わず噴出したね。
 それに、ベヒモスの胃袋の謎だよな。
 この【混沌の森】に来てから、驚くことばっかりだよ。
 たとえば、ベヒモスは悪魔なのに穏やかで物憂げなカバだし、オマケにちんまりとした可愛い家に住んでいて、寝るのは外の草の上なんだぜ。それで、その胃袋はその巨体に似つかわしくなく、小さいんだ。
 成人男性の1日に摂取したほうがよい数値のカロリー分を1日3回口にする…大食らいのくせにそれだけで満足してるんだから、俺が驚いてもおかしくはないよな。
 大食らいってもっとたらふく食べるようなイメージだったんだけど…いや、3日分のカロリーを1日で摂取するってのは人間で考えればエライことだけど、巨体の悪魔がそれだけで大食らいって。
 しかもそれで、地獄の底から響いているんじゃないかと誰もが疑う派手な腹の虫も満足するんだから、ホント、悪魔ってのは名前だけなんだと思う。
 きっと、カバの進化系なんだよ、ベヒモスって。

『む、なんだその目付きは。何やら、オレを侮ってんなッ』

 何処からか、まるで魔法みたいに出してくる食材を使ってその日の食事の用意をするんだけど、今日は珍しく米なんか出してくれたから、俺特製のカレー(もちろん野菜たっぷり)を作ったんだけど、肉は食わないけど調味料としてはOKなベヒモスは嬉しそうに小さな目を細めていたんだけど、俺の思考をまるで読んだかのようにジロッと睨んできたんだ。

「侮る…ってまぁ、そうかもな。だって、ベヒモスって全然悪魔らしくないし」

『失敬なヤツだ』

 フンフンッと腹立たしそうに鼻から息を吐き出すくせに、それでも食べることは止めないベヒモスに灰色猫はニヤニヤ笑っている。

『ベヒモス様はさ、悪魔の中でも特別なお方なんだよ、お兄さん。最強と謳われるレヴィアタン様と対となられるお方なのだけど、凶暴性は全てご主人が取ってしまったんだろうね』

 俺特製のカレーにご満悦はベヒモスだけじゃなくて、灰色猫も、猫のくせに全く猫舌じゃなくて嬉しそうに頬張っていた。

『なんだ、その言われようは。オレが悪魔じゃおかしいってか?散々だ!』

 プリプリ腹を立てているのに、全く腹を立てているように見えない物憂げなカバの顔に、俺は思わず笑ってしまった。

『そもそも、俺が悪魔らしくないなんて戯言はどーでもいい。お前が機嫌よく帰って来たことの方が気になってるんだぜ?何があった。小悪魔の仕業か?』

 食卓を囲んでこんな言われようを聞くと、どうも、親父に詮索されてるみたいで嫌な気分になる。
 まぁ、目の前のカバの巨体を見なければ…ってのが絶対条件なんだけど。

『お兄さん、ここはベヒモス様の領域ではあるけど、小悪魔は狡賢い。気をお付け』

 スプーンを持ったままで心配そうに言われて、これじゃますます、なんだか家にいるみたいじゃないか。

「わ、判ってるよ。それに、アレが小悪魔の仕業がどうかは判らないけど。ただちょっと、その…」

 まさか言えるワケないよな。
 レヴィがキスしてくれたんだ…なんて、レヴィの兄弟にどんな面して言えるんだよ。
 心配性の灰色猫と同じぐらい、普段は気にしていても自由にさせてくれているこの心配性の悪魔は、本当はとても兄弟思いのいいヤツなんだと思う。
 レヴィが大事にしてくれていた俺の安否を、きっと心配してくれてるに違いない。
 アイツが記憶を取り戻すまで見守っていてくれるんだろう…だから、あの我侭し放題の最強の海の悪魔も、ベヒモスには一目置いて、よく懐いているんだろうなぁ。

『本当にレヴィか?』

 モゴモゴと煮え切らずに顔を真っ赤にしている俺を、暫く物憂げな小さい瞳で見詰めていたベヒモスは、やれやれと長いカバ面を左右に振って、鼻から息を吐き出しながら俺たちよりはかなりでかいスプーンでカレーを掬って口に運びながら呟いた。

『それなら、小悪魔の仕業ではないだろーな?』

『そうですねぇ。小悪魔如きでは大悪魔の姿を真似ることは不可能です』

 灰色猫が同意するように頷くと、得意そうにベヒモスが食後のコーヒーをカパッと開いた口に流し込んで、チラリと俺を見た。

『何をされた?その様子では乱暴されたワケではないようだが』

 その言い方はちょっと…っと、俺は耳まで赤くして見返したけど、よく考えたら乱暴ってのにもイロイロと意味があるワケで…う、そうすると俺、思い切り恥ずかしいこと考えたんじゃないか。

『煮詰まってるだろーからな。押し倒すぐらいはやらかすと思うが、レヴィの場合はそれじゃ抑えがきかん。となれば、一気に犯るのが礼儀だ』

 悪魔として、とベヒモスが尤もらしく言いやがるから、赤面して恥ずかしがっている俺の立場って…

『でも、その様子だとご主人に犯された…ってワケじゃなさそうだねぇ』

 灰色猫まで!

「な、何なんだよ、お前らは!」

 俺がキスでこれだけ舞い上がってるってのに、どれだけ邪なんだ、お前らは!
 …って、ああ、そうか。悪魔なんだし、これだって可愛い方か。

『なんだ、お前たち。まだ、光太郎に言ってなかったのか?』

 思い切りしょぼーんと肩を落とす俺を無視して話に花を咲かせようとしたベヒモスと灰色猫の会話に、張りのある、威風堂々とした声が割って入ったんだ。
 よく響く声は聞き覚えがある、ずっと待っていたその声は…

「ルシフェル!」

『なんだかな…ベヒモスに懐いちまってさー。飯か!飯で釣ったんだな』

 呆れたように溜め息を吐いたベヒモスにニヤニヤ笑っていた傲慢の権化のような悪魔、ルシフェルは綺麗な指先でカレーの残りを掬って口に運んだ。

『うん、旨い。やっぱ、光太郎のカレーは最高だな』

 エヘッと笑うルシフェルの、ジャラジャラと宝飾品が飾る胸元を思い切り締め上げた俺は、半泣きでガクガクと揺すってやったんだけど、やっぱ大悪魔様には全く効いちゃいない。

「お前なぁ~!!何処行ってたんだよ?!ずっと待ってたんだぞッ」

 出発だ出発!
 早く、早く魔の森に行かないとッ!

『いやぁ、悪い悪い』

 全く悪気なんかない顔でシレッと言いやがるクソ悪魔の掴みどころのなさに、ギリギリと歯噛みした俺が言葉も出せずに憤怒していると。

『悪かったって。ん?それとも何か、オレがいなくて寂しかったのか?それなら、そうってハッキリ言えよ。可愛いなぁ~、んー』

 憤懣遣るかたなくジリジリしてる俺の頬を、ひやりとする冷たい掌で包み込んだかと思うと、そのままうちゅっとキ、キスなんかしやがったんだ!

「~…!!んの、クソ悪魔ッ!!」

『なんつって。ん?でも待てよ』

 唇を離して悪態を吐くと同時に殴ろうとする俺を片手一本、いや、指先一本で封じやがってルシフェルのヤツは、唇をペロリと舐めて綺麗な柳眉を顰めたんだ。

『…なんだ、光太郎。レヴィとキスしたのか』

「ぎゃー!」

 胸倉を掴んだままで顔を真っ赤にする俺なんかお構いなく、絶世に美しさを誇る美貌の悪魔は大いに笑ってくれた。

『うははは。おっもしれーのな!顔が真っ赤だぞ、おい。この魔界で恥ずかしがるのって光太郎ぐらいなんじゃね?チョーうける』

「何処のギャル嬢だよ、お前わッッ」

 あまりに頭にきすぎたのか、怒りを通り越した俺がガックリと項垂れてしまうと、漸く満足したルシフェルはそんな俺をさっさと手放して、ベヒモスに言ったんだ。

『連中め、コソ~ッとあざといことしてたぜ』

『北の神々との聖戦でか?』

『ああ』

 長い髪を面倒臭そうにガシガシと掻きながら、ルシフェルは草臥れたように古めかしい木製のテーブルと対になっている木の椅子にどっかりと腰を下ろしてしまった。
 ハッとするほど綺麗な顔立ちには不似合いな口調だけど、頬に落ちた影が疲弊していることを物語るようで、俺はこの時になって初めて、ルシフェルがヘトヘトに疲れていることを知ったんだ。

『神々まで欺くなんてやることがきたねぇーんだよなぁ。だがまぁ、それも仕方ないのか。アイツらが崇める神はたった一人で、異国の神は滅んでしまえが信条だからな』

『…ふん。悪魔がこれほどいれば、神も同じだろうに。奴等の考えることはオレには判らん』

 ベヒモスとルシフェルの会話に聞き入ったままで口を開かない灰色猫は、やはり使い魔らしく、神妙な面持ちで高位の悪魔の一挙一動を見入っている。

『犯人が判ったぜ』

 ふと、唐突にルシフェルがニヤッと笑って俺を見た。

「え?」

 ドキッとして、胸の辺りをギュッと掴んだら、そんな俺をじっと見詰めていた傲慢な大悪魔は、鼻先で小さく笑って、妖艶で蠱惑的な口許を綻ばせたんだ。

『聞きたいって面だな。だが、お前が悪い。もっと早くオレとキスしてたらもっと早くに判ったんだぜ』

「はぁ?」

 何を言ってるんだと首を傾げると、ルシフェルはちょっと我に返ったような表情をした。

『あ、そーか。そう言えばキスしたな。でもオレ、頭にきてたから気付かなかったんだ。悪い』

 エヘッと笑うルシフェルの何が悪いのか、いや、問答無用でキスする癖は確かに極悪だけど、それでも全く話が見えない俺は眉根を寄せてジトッと見据えてやった。

「何を言ってるんだよ?ワケ判んねーんだけどさ」

『レヴィの記憶を奪ったヤツだよ』

 犯人?
 犯人って…

「だ、誰だよ!?ソイツはっっ」

 思わず身を乗り出すと、ルシフェルはクスクス笑って、俺のコーヒーカップを奪うと優雅に口なんかつけやがるから…何をもったいぶってるんだと瞬間湯沸し器みたいに頭から湯気が出そうになった。

『天使さ』

 唐突に答えをくれて、俺は一瞬呆気に取られてしまった。

第二部 11  -悪魔の樹-

 ベヒモスと灰色猫との優雅な午後のお茶会なんかしていたばっかりに、俺は今日の水汲みをうっかり忘れてしまっていた。
 もう少しで夕暮れ時で、そうなると、幾らベヒモスの圏内にいるからと言っても、やはり迷い込む悪戯好きの小悪魔にちょっかいを出されるだろうと、灰色猫は夕暮れの仕事を嫌がった。
 それでも、何か気晴らしがしたいからと、心配する灰色猫を押し切って木桶を持って近くの小川に向かったんだ。ベヒモスはそんな俺と灰色猫を見ていたが、物憂げなカバ面を左右に振って、灰色猫に『好きにさせておけ』と言ったきり、なんとその場に寝転んじまったんだ。
 どこまで自由なんだ、ベヒモスって。
 そんな連中を放っておいて、俺が小川に辿り着いた時には、既に太陽は随分と傾いていたのか、黄金色の光が射し込んでいた。
 ホント、異空間だよなぁ…こんな太陽、この鬱陶しい木の枝の向こうにあるワケないのに、きっと、悪魔に不可能のないレヴィの兄弟なんだから、やっぱり悪魔に不可能のないベヒモスの成せる業なんだろうなぁ。
 俺が溜め息を吐いて木桶を冷たい水に漬けた時だった。

『つまらんことに精を出すんだな』

 不機嫌そうな声音は頭上から降ってきて、見上げたら、白い大きな蜥蜴が寝そべっていた枝に、白い綺麗な悪魔が横になっていた。
 肘を付いて仏頂面のままで、白い悪魔は胡乱な目付きで俺を見下ろしている。

「今夜の夕飯の用意に必要だからな、勝手だろ」

 最早、俺を捨て去った悪魔なんかに敬語なんか使うかよ、と、最初から決めてたから、本当なら無視のところなんだけど、そこはやっぱり、愛しいレヴィの声は聞きたいとか思うじゃないか。
 素っ気無く返事を返してやったら、それが意外だったのか、ちょっと眉を跳ね上げたレヴィアタンは、それでも途端に苛々したように険悪な色を浮かべる金色の双眸で俺を睨み据えてきた。
 う、負けるな俺。

『なんだ、その口の利き方は。オレを誰だと思ってるんだ』

「性格の悪い悪魔だろ?」

『なんだと』

 ブリザードみたいに冷ややかになった気配にヒヤリとしながらも、それでも、やっぱり負けるな俺と自分に言い聞かせて、水でたっぷりになった木桶をヨイショッと抱えて、無視を決め込んで歩き出すと、その反応に、人間如きが!…と、本気で腹でも立てたのか、白い悪魔はゆらりと立ち上がって、不機嫌のオーラを完全に纏いながら俺と同じ大地に悠然と降り立ったんだ。
 それこそ、まるで重さを感じさせないぐらい音もなく。
 こうなったら、たぶん、俺の分は悪いと思う。
 それでも、負けるもんかと歯を食いしばって、立ち塞がる白い悪魔の険悪で端麗な顔を見上げてやった。

「退けよ」

『退け?このオレに、人間如きが言うじゃないか』

 自分の実力に自信を持っているヤツが見せる、鼻をつく嫌な笑みを浮かべながら、レヴィはゆっくりと腕を伸ばして、蛇に睨まれた蛙みたいに、何故か竦んでいる俺の顎を掴むと値踏みするようにじろじろと不躾に眺め回すんだ。
 そうだな、敢えて言うなら、何かの品評会に出展された作品を、この価格で購入しても損はないかな…とか、そんな目付きだ。
 それが嫌で振り払おうとしたけど、まるで電流に触れたみたいに痺れて、竦みあがっている俺は、声を出すことも、ましてや口を開くこともできなくなっている。
 ずるいぞ、レヴィ!
 きっと、これは何かの魔法とかそんな類のものに違いない。
 クッソー!以前の俺なら、確かにそんなことしなくても黙って話だって聞いただろうけど、今は違う。今は…裏切られたことが悲しくて、俺以上に、他の誰かを想うレヴィに絶望してしまっているから、俺はきっとこの白い悪魔の思い通りにはならないだろう。
 だから、レヴィはこんな卑怯な手を使うんだ。
 …たかが人間だと、侮ってるくせに。

『お前は…以前から思っていたんだが、どうしてそんな目をしてオレを見るんだ?』

 そんな目ってどんな目だよ。
 …たとえば、そう、たとえば?
 悲しいような寂しいような?
 情けないような辛いような?
 それとも…愛しいような、そんな目付きか?
 決まってるだろ、俺、やっぱり、お前が好きだもん。
 レヴィを見てしまうと、やっぱり愛しくて愛しくて、忘れ去られている現実を叩きつけられて、それが死にたくなるほど悲しくて、寂しくて、情けないんだけど、胸が張り裂けるほど辛いから、だから、こんな目付きになるんだよ。
 口が開かなくて良かった。
 そうじゃなかったら俺、この場で想いの全てをぶちまけていたと思う。
 口を噤んだままで自分を睨む小賢しい人間の姿が、レヴィにはどう映ったんだろう。
 それまで、地獄の底にいればそうなるだろう、ぐらいには陰惨な目付きで俺を睨み据えていた金色の瞳が、今はその気配を潜めて、不思議そうな色に揺れている。

『お前は変わっている。ベヒモスも、ルゥも、灰色猫も、アスタロトもだ。お前に関わった奴等は全ておかしくなった。人間如き…と侮ったが、お前はいったい何者なんだ』

 ふと、重く圧し掛かるようにして口を覆っていた何かの圧力から開放されて、俺は取り敢えず新鮮な空気を貪ると、次いで、感情の読めない無表情の白い悪魔を睨み付けたんだ。

「俺は、俺だよ。瀬戸内光太郎。どこにでもいる普通の高校生だ」

『どこにでもいる人間…それは判っている。だが、どうしてオレを…いや、オレは何を言おうとしているんだ』

 ハッと我に返ったように金色の双眸を瞬かせたレヴィは、それでも一瞬、何かを考えるように視線を彷徨わせていたんだけど、彷徨っていた虚ろな金色の瞳は唐突に俺の顔の上で止まった。
 一瞬躊躇って、それでも、レヴィは口を開いた。

『どうして、お前はオレを捜しているんだ』

「は?」

『お前はずっとオレを呼び続けてるじゃないか。お前は誰だ』

 それはどこか痛いような、苦しいような表情だった。
 その顔を見て、俺はやっぱり泣きたくなった。
 もしかしたら、そう、これは俺の勝手な妄想なんだけど、もしかしたら。
 レヴィもやっぱり苦しんでるんだろうか。
 頭のどこか隅のほうで、忘れてしまった小さな人間の存在を、思い出そうとしてさ。なぁ、お前も苦しんでいるのかよ?

「…俺は、レヴィアタンを呼んだりはしていないよ」

 そうだ、俺はレヴィを呼んでいる。
 もうずっと、心の奥深いところから、お前の名前ばかり叫び続けているよ、レヴィ。
 お前は一度だって、振り返ってはくれないけど。

『…そうだな。違う、声が。懐かしい声が聞こえる。だが、ああ、そうだ。それはオレを呼んでいるワケじゃない。それはとてもあたたかいと言うのに』

 レヴィアタンは悔しそうに唇を引き結んだ。
 悔しそうに唇を引き結んで、それから、苛立たしそうに俺を見下ろした。

『お前は何なんだ?!ベヒモスを手懐け、灰色猫さえも傍を離れない。アイツはオレの使い魔だ。オレが呼んでも応えもせず、捜してみればここにいるじゃねーか!』

 身に覚えのありすぎる言い掛かりなんだけど、話せば長くなるし、記憶のないレヴィに何か言ったところで到底信じてくれるはずもない。
 だから、子供みたいに、悔しそうに唇を尖らせているレヴィアタンに答えてやることなんかできるワケがない。

『…ルシフェルはお前の何なんだ。契約したのか?』

 黙り込んでいたら、ポツリとレヴィアタンが言ったんだ。
 俺は、目線を上げて黄金の双眸を見詰めた。
 その時はもう、怒りとかそんな感情はなくて、ただ、寂しさと切なさしかなかった。

『あの傲慢の代名詞みたいな悪魔が、どうしてお前を懐に入れて、隠そうとしていたんだ?』

「ルシフェルが俺を隠したりはしないよ」

 レヴィアタンはどんな経緯でそうなっているのか、普通の人間である俺が知るはずもないんだけど、ルシフェルにとても執着している。それが判るから、俺は素っ気無く答えていた。
 でも、レヴィアタンはその答えでは満足しなかった。

『いや、したさ。あの野郎…オレが返せと言っても頑として拒否しやがる。かと言って、契約しているワケでもなさそうじゃねーか。怪しいんだよ』

 ムスッと唇を尖らせたレヴィアタンは、顎を掴んだままで器用に人差し指を移動すると、引き結んでいる俺の唇に触れてきた。

『言わないんだな。お前もルシフェルも。ましてや、ベヒモスですら、何も言いやがらねぇ』

 更に腹立たしそうに呟くレヴィアタンは、こんな時なのにどうしてだろう?
 まるで子供みたいで、俺は思わず頬が緩むのを抑えられなかった。
 やっぱ、憎めないよなぁ。
 俺、つくづくレヴィを愛してるんだなぁ。

『…また、その目かよ。畜生ッ。お前は何なんだ、誰なんだよ?!』

「だからさぁ、何度も言ってるだろ?俺は俺!レヴィがなんと言おうと俺は俺なんだ」

 そこまで言って…ヤバイ。
 案の定、俺の心配どおり、レヴィアタンのヤツはキョトンとしてから、すぐに疑わしそうな目付きをしやがったんだ。

『やはり、お前はオレを知っているんだな』

「なんのことだよ?お前は変わった悪魔なんだな。人間の、ましてや奴隷なんかに興味を持つなんて。それはやっぱり…」

 ルシフェルが絡んでるからだろ…ってさ、言い返すつもりで唇を尖らせたんだけど、開いた口からそれ以上の言葉は出てこなかった。
 だって、レヴィアタンのヤツ、まるで捨てられた猛獣みたいな顔をしやがったから。
 くそ、そんな顔されると、意地悪なんか言えなくなっちまうだろ。

「レヴィアタンこそ、どうしてそんなに俺に興味があるんだよ?」

『…』

 つくづく、レヴィを愛してしまっている俺だから、途方に暮れたような白い悪魔を追い詰めることもできずに(いや、俺なんかが海の帝王を追い詰めるなんか夢のまた夢なんだけど)、仕方なく笑ってしまった。
 俺の笑顔をハッとしたように見下ろしたレヴィアタンは、それでも、やっぱりどこか痛いような顔をしたままで首を左右に振ったんだ。
 やけに今日は素直じゃないか。
 まるで、レヴィに戻ったみたいで、ほんの少しなんだけど、俺は嬉しかった。

『…お前なんかにレヴィと呼ばれて、オレはどうかしている』

 独りで考えて、思ったことを口にするレヴィアタンが何を考えているのかは判らなかったけど、悔しそうに伏せた長い白の睫毛が縁取る目蓋に、やっぱり白い前髪が零れ落ちた。
 暫く見ない間に、レヴィの髪は伸びて、どこかボサボサになっている。肩に垂らしたひと房の飾り毛も、所在なさそうに揺れていた。 
 あれだけ光り輝いていた海の魔王は、どうしてこんなに、疲れ果てたような遣る瀬無い雰囲気になってしまったんだろう。
 レヴィ…俺を思い出してくれよ。
 ほんの少しでいいんだ、俺が傍にいることを許してくれよ。

「ところで、俺はいつまでこうしていないといけないんだ?そろそろ、腹を空かせたベヒモスが暴れだすと思うんだけどな」

 もう少しで、レヴィに詰め寄りそうになって、俺はそれを皮肉で隠した。
 いや、詰め寄って、それで思い出してくれるのなら、俺は何度だって詰め寄ってるさ。
 それができないのは、よく判らないんだけど、この魔界には【均衡】って呼ばれる秩序のようなものがあって、その担い手の1人であるレヴィアタンの思考、もしくは感情とかが暴走すると、その【均衡】が保てなくなってしまうんだそうだ。
 だから、早く魔女の森に咲く花を見つけない限り、危険を冒してまでレヴィアタンの記憶を呼び戻そうとしてはダメなんだ。
 だから、俺は唇を噛み締めて、ここに来て、もう嫌なほど繰り返している言葉を口にしたんだ。

「だから、俺はもう行くから。手、離してくれ」

 もう、行くから。
 お前が見ることがないように、何処か、遠くに。

『…』

 レヴィアタンは、何故か、不機嫌そうに俺を見下ろしたまま、顎を掴んでいる手を離してはくれない。
 そのぬくもりも、甘い、まるで桃のような匂いも、俺はもっともっと嗅いでいたいし、触れていて欲しい。
 でも、それは却って俺を苦しめるんだから、こんなことはさっさと終わった方がいい。今日は、きっと、何かの悪戯で幸せな気分を味わえたんだから、だから、早く終わってしまえ。
 こんな、残酷な幸せは消えてしまえ。

「…レヴィアタンはさ、俺のこと、嫌いなんだろ?」

 聞きたくないけど、こう言えば、きっとレヴィアタンはいつもの冷酷なアイツに戻ってくれる。
 そうして、あの冷ややかな、二度と忘れることなんかできやしない、虫けらでも見るようなあの黄金の双眸に戻って、甘ったるい幸せに喜んでいる俺を奈落の底に突き落としてくれればいいんだ。
 そしたら俺は、また、花を見つけるまで待てるんだから。
 なのに、白い悪魔はそうしてはくれなかった。

『…嫌いかだと?そんなこと』

 言葉を切るレヴィアタンの、その先、『当たり前だろ』の言葉を聞きたくなくて、いや、せめてレヴィの顔で言って欲しくないから、俺は諦めたように目蓋を閉じた。
 この白い悪魔は、どれほど俺を傷付けるんだろう。
 それだけ、本当は、レヴィの一途な想いに自惚れていた俺の、傲慢な態度への罰のような気がして仕方なかった。
 溜め息を吐く俺の唇に、ふと、やわらかくて甘い匂いのする何かが触れてきた。

「?!」

 口付けは突然で、俺は何も言えずに呆然と、レヴィアタンのくれる優しいキスを受けていた。
 随分と触れていなかった唇の柔らかさに、俺は目蓋を閉じた。
 ああ、どうか。
 これは夢ではありませんように。

『…判るわけねーだろ』

 ブスッとむくれたレヴィアタンは、唇を離すなりそんな憎まれ口を呟いた。
 自分が何をしたのか、今更驚いているようで、そんな自分の態度に更に腹立たしさを覚えたのか、苛立たしげに俺を突き放した白い悪魔は、うんざりしたように片手で双眸を覆ってから首を左右に振って、不意に何事もなかったかのように浮き上がると、例の枝の上に舞い上がってしまった。
 勝手にキスされて怒られてる俺って…っと、まさかそんなこと考えるワケもないんだけど、それでも呆気に取られたように見上げる俺の視線の先には、自分の腕に顎を乗せて不貞腐れたように見下ろしてくる大きな白い蜥蜴が寝そべっていた。
 俺はそんな白い蜥蜴を見上げて思わず笑ってしまった。
 ああ、レヴィ。
 これはいったい、どんな魔法なんだ?

第二部 10  -悪魔の樹-

 どれぐらいそうしていたんだろう。
 鼻を啜りながら拳で両目を擦った俺が顔を上げると、カバの悪魔は、やっぱりそうして、俺が泣き出した時の格好のままでどっしりと座っていた。

『気は済んだかよ?』

 飄々とした小さな瞳は、何を考えてるのか窺わせない素っ気無さで、そのくせ、その存在はここは魔界だと言うのにあたたかかった。

「…ああ、ありがとう」

『やめとけ。オレは有り難がられることなんざ、これっぽっちもしちゃいない。ただ、身内の撒いた種に頭を悩ませてるだけだ』

 やれやれと、のーんとしたカバ面を面倒臭そうに左右に振って、ベヒモスは肩でも竦めそうな雰囲気だ。
 そう言えば…信じられないことなんだけど、このカバとリヴァイアサンであるレヴィはどうも家族らしい。会話を聞いててそう思ったんだけど…よし、悩んでも仕方ない。
 この際だ、聞いてみよう。

「あのさぁ、ベヒモスとレヴィってその…親子なのか?」

『グハッ!』

 思わずと言った感じで、ベヒモスの口許がぷるるっと震えた。
 どうやら、心底嫌なことを言われてしまったらしく、カバ面からじゃ読み取ることなんか不可能なポーカーフェイスを驚いて見上げる俺を、身震いしながらカバの悪魔は困惑したように見下ろしてきた。

『どうしてそうなる。なぜ、親子なんだ』

「いやぁ~、なんつーか。レヴィが振り回されてるし…それに、アイツが大事にしてるみたいだったから」

 面食らったんだろう、カバ面で呆気に取られていたベヒモスは、やっぱりやれやれと長い顔を左右に振ると溜め息なんか吐きやがった。

『オレとレヴィは兄弟なのさ。どちらが先に生まれたか…に関しては、未だに決着は着いちゃいないんだがな。少なくとも、他の悪魔たちとは違って、オレたちは血肉を分けた兄弟なんだ』

 ああ、それで。
 あの傲慢不遜が服を着てるようなレヴィが、唯一、対等に話したり聞いたりしてるんだなぁ。
 他の悪魔(もちろん人間はそれ以下だから俺のことは論外として)を見る時のあの目は、
たぶん、アイツがレヴィに戻ったとしても、俺は忘れることなんかできないだろうと思う。
 冷ややかで、たとえそれが高位らしい悪魔だったとしても、まるで虫けらでも見るような、凄まじい侮蔑の目付きは、生きているこっちが何の罪もないってのに酷く恥じ入りたくなるぐらい、どれだけ卑しいんだろう俺、と悩んで自殺するぐらいは強烈で残酷なんだ。
 その目付きを、ベヒモスにだけはしないからな。
 あ、あとルシフェルもか。
 何故か…レヴィにとってはルシフェルも特別な存在なんだよな。
 ベヒモスにしてもルシフェルにしても、ましてやリヴァイアサンだって、伝説上とは言え、あまりにも有名な悪魔たちだ…そうなんだよな、レヴィは特別な存在なんだ。
 ルシフェルもベヒモスも、アイツが大事にしているのは特別な存在ばっかりだ。
 それなのに、どうして俺がその仲間に入れるなんて、そんな奢った考えを持ってしまったんだろう。
 俺なんて、ただのちっぽけな人間に過ぎないって言うのに。
 俺、レヴィにあんな目付きで見られても、仕方ないんだって、今なら素直に思えるような気がしてきた。
 はぁ…ちょっと凹んだ。

 それからの俺は、ベヒモスとこんな感じで過ごすことになったワケなんだけど、魔界にしてはこの鬱蒼と不気味な樹が生い茂る陰鬱な森は、住み易いんだから不思議だ。
 驚くことに、動物なんかいないだろうとか高を括ってる俺の前で、嘲笑うかのようにベヒモスの背中で休む鳥や、足許で転げ回って遊ぶ小動物を見てしまうと、大分、魔界の見方が変わってきちまった。
 そんな俺がこんな森で何をしているかと言うと、小さなベヒモスの家で掃除や家事と言った、人間界でしていることとなんら変わらない生活を送っていたりする。
 こんな家にベヒモスのヤツ、どうやって入るんだと疑わしくなるぐらい、森の中の小さな家は、苔生していて、それなりに雰囲気のある可愛らしさだ。まぁ、カバ面の悪魔のくせに憎めないベヒモスを見た後じゃ、うん、似合ってるなぁ…としか思えない俺が居るんだから違和感なんかあるワケないんだけどな。
 大きさとか関係ないんだよ。
 魔界では空間がおかしくなっているらしくて、どんなに小さく見えても、中は東京ドームより広かったりする。だからこそ、あの魔城に数千以上の悪魔が犇めき合いもせずに同居できてるんだから、今更驚くはずもないワケだ。
 この暮らしもそんなに嫌なワケじゃないんだが、ルシフェルのヤツは何処に行ってるのか、サッパリ姿を見せないとなると…まだ戻ってきてないんだろうし、大人しく待つしかない。
 でも、最近の俺の考え方は当初より随分と変わってきたように思う。
 今は…なんて言うのかな。
 もう、レヴィアタンの記憶は戻らなくてもいいんじゃないかとか、思ってる。
 ここが、アイツが生きるべき世界なのに、俺なんか、ちっぽけな人間の傍にいて、その輝くような…ってのもヘンな話なんだけど、自信とかプライドとか、レヴィの特別な何かを霞ませてしまうんじゃないかとか、考え出したら溜め息しか出てこない。
 最初の頃みたいにベヒモスは俺を気にかけない…と言うか、気にしてはくれているんだけど、必要以上にベタベタしてくれないから、こんな魔界に居るってのに俺は、充実した日々を過ごしていたりする。
 ただ、寂しい。
 無性に寂しい。
 何がこんなに寂しいのか判らないんだけど、心の奥がポッカリ空いてしまったような、その隙間にピューピュー風が吹き込んできて寒いような、そんな、物悲しい寂しさが唐突に襲ってくることがある。
 だからって、それをベヒモスに訴えたところで、何も始まりはしないから、俺は仕方なく溜め息ばかり吐いてしまうんだ。
 そんな時、ずっと姿を見せなかった灰色猫が、木々の隙間をすり抜けて飛び出してきた時には、忘れかけていた警戒心を呼び戻してしまったりした。
 そりゃ、そうだろ。
 いきなり、気配もなく飛びつかれれば誰だって女の子みたいに声ぐらい上げちまうよ。

『よかった、お兄さん!消えてしまったのかと心配したよ』

「は、灰色猫!?お前、どうして…」

 『どうしてじゃないよ…』と、俺に飛びついたままでブツブツ悪態をついた灰色猫は、どうやら、この魔界中を飛び回って捜してくれていたらしい。
 どうりで、よく見ると草臥れているわけだ。
 草臥れるまで俺を捜し続けてくれた灰色猫に、レヴィのヤツ、一言も言ってくれもしなかったんだなと、何だかムカついてしまったんだけど、俺も他人のことを言えたワケじゃないから、素直に謝ることにした。
 謝られても気の済まなかった灰色猫は、不安そうな面持ちをしたままで、自分が忙しなく動き回ったせいで隙を作ってしまったからと酷く後悔していて…って、そこまで灰色猫が落ち込む必要はないような気もするんだけど、悪いのは勝手に城から追放させたレヴィなんだけどなぁと、俺が思ったとしても、灰色猫のヤツは全く意に介してもくれず、もう二度と俺の傍から離れないと宣言した。
 宣言したんだから、俺とベヒモスと小動物たちの生活に、新たに灰色猫が加わることになって、現在に至るってワケだ。

『まさかベヒモス様のお傍に居るとは思わなかったよ』

 心底そう思っているんだろう、空を覆うぐらい伸び放題の木々の何処にあるのか知らない陽射しが射し込む場所に、お誂え向きに置かれた木のテーブルと対になった椅子に腰掛けて、灰色猫は俺が煎れたお茶を旨そうに啜っている。
 猫のくせに猫舌じゃない灰色猫の今の姿は、勿論、灰色フードを目深に被ったあの怪しい占い師だ。
 じゃなきゃ、どんな猫手でソーサーとカップなんか持てるよ。
 いや、持てるヤツがいる。
 あの大きな平たい前足のどこで抓んでいるんだか、ベヒモスのヤツは例の如くどっかりと座ったままで、俺の煎れたお茶を、カパッと開いた口に流し込んで、あの小さい目をうっとりと細めている。
 どうやら、お茶が気に入ったようなんだけど…灰色猫よりもツワモノだと、俺がゴクリと咽喉を鳴らしたことは言うまでもない。

『灯台下暗しだねぇ』

 膝の上で持っているソーサーにカップを置きながら、灰色猫はやれやれと溜め息を吐いた。

『仕方ない。あのバカゾーが捨てて行ったんだからな。まぁ、だがオレとしてはメッケもんだったんだぜ。これで、なかなか飯も旨ければ、この茶も旨いんだ。拾いモンさ』

 カバ面はご機嫌で、呆れている灰色猫に自慢した。
 まぁ、コイツら悪魔にしてみたら、人間は奴隷だし、いい奴隷を手に入れればそれなりに自慢もし合うんだろうけど…う、ちょっと俺、今の発言ってば卑屈じゃねーか?

『レヴィアタン様が愛されている方ですからねぇ』

「…そんなんじゃない」

 それまで黙って、ポカポカ陽気にのんびりしながら話を聞いていた俺がつっけんどんに口を開いたもんだから、灰色猫のヤツはおやっと、いつもはニヤニヤ笑っている口許をちょっと尖らせたりした。
 ベヒモスは感情を窺わせない小さな目で俺を見る。
 う、そんなに注目されるとは思っていなかったんだけど…ま、いいか。
 どーせ、本当のことだ。

「アイツなんてスッカリ俺のことなんか忘れちゃってさ、今頃、アスタロトに貰ったヴィーニーとか言う奴隷と仲良くしてるんじゃねーのかッ」

 フンッと鼻を鳴らして茶を飲んだら、そんな俺のささやかなヤキモチに、灰色猫とベヒモスは顔を見合わせると、胡散臭い占い師は困惑したようにニヤニヤ笑って言うんだ。

『それはそうかもしれないけどねぇ…じゃぁ、どうしてあの白い蜥蜴は枝の上からこっちを睨んでるんだい?』

 それは、知ってる。
 数日前、灰色猫と合流して暫くしてから、この【混沌の森】に一匹の白い大きな蜥蜴が棲みついたんだ。
 いつも、金色の胡乱な目付きで、洗濯したり水汲みしたりしている俺の姿を、木の枝に長く伸びながら見下ろしていた。気付いているんだけど、無視してるってワケだ。

「知るかよ。俺の知り合いに白い蜥蜴なんかいねーもん。おおかた、ベヒモスの客じゃないのか?」

 フンッと外方向く素直じゃない俺だけど、素直になんかなれねーよ。
 ただ、あの白い蜥蜴は、俺が自分の部下と兄弟の信頼を勝ち得て、その傍にいることに只管嫉妬してるだけなんだから、喜んで浮かれるほど、俺の想いはそんなに簡単じゃないんだぜ。
 と、言っておく。

『知らんなぁ?オレの客じゃない…ってことは、そうだ。お前だよ、お前!灰色猫の知り合いだぜ。間違いない』

 どんだけ、嬉しそうなんだよベヒモス。
 振られた灰色猫は、さすがにご主人なワケなんだから無碍にもできず、かと言って、この森の住人からこれだけ華麗に無視されているんだから、自分だけ相手をするわけにもいかなかったんだろう。
 暫く考えた末に…

『…迷子の、蜥蜴だね』

 逃げた。
 その方向をできるだけ見ないようにする…そんな灰色猫を見ていたら、なんつーか、憐れな中間管理職の父さんを思い出しちまったじゃねーか。
 はぁ、そう言えば、父さんと茜は元気かな。
 もう、夏休みとかとっくの昔に終わってるだろうなぁ…それで、俺なんか行方不明だから、警察とか動員して山狩りされてたりして。
 あ、もしかしたら、その事態を収拾するためにルシフェルは留守にしてんのかな、なんつって、そんな殊勝な悪友じゃねっての。いや、そうかもしれないけど。
 溜め息を吐いたら、灰色猫が顔を向けた。
 フードの奥の目は見えないけど、どうも、かなり心配してくれているようだ。

「…俺さぁ、灰色猫を好きになればよかった」

『はぁ!?何言ってんのさ。そんなこと、冗談でも言ってはダメだよ』

 そうじゃないと、猫は殺されるよと、満更でもない調子で呟くから、それはアイツが記憶を取り戻したらの話だと俺は素っ気無く言い返してやった。

「そうしたら、灰色猫は俺を忘れないし、いつだって俺のことを気にかけてくれるじゃないか」

『だってそれは…』

「判ってるよ」

 灰色猫が言い訳めいて呟こうとした言葉を遮った。
 判ってるよ、ご主人に頼まれてるから俺を気にかけてるだけなんてことはさ。それでも、ちょっと感傷に浸ってみたいだけなんだよ。
 そんな俺の気持ちを読み取っているのかどうなのか、小さな瞳で俺たちの会話を見守っていたベヒモスは、やれやれとカバ面を左右に振って、小器用に抓んでいるカップを差し出してきた。

『灰色猫を困らせるな』

「ぶー!判ってるってッ」

 差し出されたカップにお茶を注いでやりながらぶーたれて唇を尖らせると、灰色猫はホッとしたように胸を撫で下ろした。

「じゃぁ、そーだなー」

『オレは…選ばねーだろうなぁ。当ててやる。ルシフェルだろ』

「言うと思ったワケか」

 どこまでお見通しなんだ…とか思って、ははは、違うか。
 俺が知ってる悪魔なんてこれぐらいだ、あとはアスタロトとか、でもアイツにはいい思い出がないんだよなぁ。

『やめとけ。ルシフェルは』

「…?別に、本気じゃないぞ」

 俺が肩を竦めてカップに口を付けながらベヒモスを見ると、ヤツは、物憂げな顔をして…って、カバはいつでも物憂げな顔をしてるから、実際はどんな感情を浮かべてるのかいまいち判らないんだけど。

『冗談でもやめとけ』

「傲慢が服を着てるアイツを好きになったりしないさ」

 なんだよ、神妙な顔して、冗談なのに。
 話の腰を折られたような気がしたから、俺が勝手にこの話を終了しようとしたのに、カバ面の悪魔はそれを許してはくれなかった。

『お前が軽い気持ちでレヴィの記憶云々を言うのは構わんが、悪魔は違う。執着もすれば、未練も残すんだ』

「…?」

『…』

 正直、ベヒモスが何を言いたいのか判らなかった。
 数千年も生きている悪魔の感情を、たかが17年かそこらしか生きていない俺に、どうして判るって言うんだよ。

『いずれ判るさ。レヴィがいったい何に、それだけ嫉妬して怒り狂っているのか』

 いずれ…本当に判るんだろうか。
 俺は掌の中で冷めてしまった茶を満たすカップを見下ろした。
 ゆらゆら揺れる琥珀色の液体に、捨てられた子供みたいに、不安そうな顔をした俺が揺らいでいた。

第二部 9  -悪魔の樹-

 引き摺られながら俺が最後に見た光景は(…って、この言い方はおかしいな。正確には違うけど)、困惑した面持ちのねーちゃん悪魔が見下ろす先、絶望したようにへたり込むヴィーニーの姿だった。
 不謹慎なようだけど、その姿は、なんて言うか…希望を永遠になくしてしまった天使が、呪うこともできずに絶望しているような、悲愴感たっぷりで思わず庇護せずにはいられない姿だった。にも拘らず、その姿には目もくれないレヴィも、うんざりしたような迷惑そうな顔付きのねーちゃん悪魔も、さすがと言うか、魔界らしいとでも言うべきか、悪魔たる所以の残酷さを垣間見たような気がしていた。
 背筋が凍りつくような寒気は、きっと、この悪魔たちが、完璧に人間を馬鹿にして、愛情なんてこれっぽっちも持ち合わせていないように感じるからかもしれない。
 ささやかな想いさえ、この殺伐とした世界では足枷にもなれば、取るに足らない安っぽい感情でしかないんだろう。
 だからこそ、俺は心底から身震いしてしまう。
 レヴィの怒りは俺のための嫉妬じゃない。それは明らかに良く判る。
 これは、レヴィの大切な悪友であるルシフェルが、彼の与り知らぬところで、アスタロトから自分が貰い受けたはずの奴隷を譲り受けていた…と言う、その事実に、俺に対して嫉妬しているんだ。
 だから、もしかすると…考えたくはないんだが、たぶん俺は、今回は殺されるのかもしれない。
 レヴィの怒りは底知れないようで、引き摺っている俺の存在すら、もしかしたらその怒りで忘れてしまっているんじゃないかと疑いたくなるほどだった。
 アワアワしてる俺は、それでも何かこの状況を打破できる得策はないものかとない知恵を搾り出していたんだけど…そこで、大変なことを思い出しちまった。
 ああ、そうだ。
 確か、ルシフェルのヤツ、暫く城を留守にするって言ってなかったか!?
 と、言うことはつまり、暫くルシフェルがいない→レヴィの怒りは延々と続く…
 最悪のパターンじゃねーか!!
 さらにアワアワしていた俺は、それでも、城内を怒りのオーラを撒き散らして歩いてるもんだから、格下の魔物が怯えて立ち竦んでいるのに見向きもしない、怒りに任せて手当たり次第歩き回っている、このどうしようもない白い悪魔にその事実を伝える覚悟を決めた。
 無闇矢鱈に城を壊し回っても(事実、レヴィは邪魔なものはなんでも手当たり次第に壊しまくった)、反感を喰らうだけ馬鹿らしいじゃねーか!

「れ、レヴィアタン様!お待ちくださいッ」

『…』

 でも、全然聞かねーのな。
 ちらりと振り返ることもしない。
 まぁ、こんだけ怒ってるんだ、誰の言葉も入らないんだろうけど…さっきも、顔見知りらしい悪魔が『止まれ!』とか『やめてくれ!』とかなんとか、必死で懇願していたにも拘らず、やっぱり大事そうにしていた何かをぶっ壊しちまった。
 人間如きの、しかも、自分の大事な友人を奪いやがった下賎な人間なんかの言葉が、耳に入ったところで脳にまで達することはないだろうなぁ…はぁ、どうしよう。
 ちょうど、そんなことを考えて思い切り凹んだところで、不意に、本当に唐突に、レヴィが足を止めたんだ。
 怒り狂う海の覇王は、額に血管なんか浮かべて、憤懣遣るかたなさそうな金色の瞳で前方を睨み据えたまま言ったんだ。

『なんだ』

 たった、一言。
 それだって、地獄から甦った悪魔が纏う殺気だとか、不穏な気配を濃厚に秘めたブリザードよりも氷点下の声だったから、確かに竦んで咽喉の辺りで言葉が凍り付いちまったような気はする。
 それでも、せっかくレヴィが聞いてくれてるんだから、このチャンスを逃す手はないぞ。
 頑張れ、俺!

「れ、レヴィアタン様。有難うございます。あの、今日はルシ…ご主人様はおりません」

 ルシフェル…と言おうとした瞬間、それこそ焼き殺すとでも言わんばかりの形相で睨み付けられたら、やっぱり言葉を選んだって仕方ねーだろ!?ひぃぃぃ…おっかねぇ。

『いない?』

 短い言葉だけなんだけど、それでも、会話が続くのは奇跡と言っても過言じゃねーぞ。

「はい、今日はご用で出掛けられております」

 行き先は勿論知らないし、用かどうかも判らん。
 でも、いないことは確かだ。
 それを聞いて、あれほど怒り狂っていたのに、ふと、レヴィの背中から怒りの気配が消えたような気がした。
 いや、あくまでも気がしただけなんだから、未だに沸々と怒りの炎が胸の中で煮え滾っているかもしれない。しれないけど、今は知ったこっちゃない。
 取り敢えず、レヴィの怒りが冷めたのなら、それはそれで、俺にとっては命の期限が少し長引いたんだ。
 良かった良かった。
 いや、良くないだろ!
 レヴィは何かを考えているように、俺の手を握ったまま、前方を睨み据えていた。
 いつの間にか、掴んでいたはずの腕は、掌に変わっていて、変な話、俺たちはお互いで手を繋いでいるような格好になっていたんだ。
 久し振りに繋いだレヴィの手は、悪魔だと言うのに温かくて、安心できた。
 悪魔としてのレヴィに逢ったとき、こんなに冷たくなれるんだと竦み上がったんだけどなぁ…やっぱり、コイツの手はホッとするほど温かい。
 傍らにいるこの白い悪魔が、どうして、レヴィじゃないんだろう。
 どうして、レヴィアタンなんだろう。
 レヴィだったら、俺はどんなに嬉しいか…そんなこと、コイツは考えもしないんだろうけどなぁ。

『なるほど、ルゥのヤツはいないのか。だったら、城中を捜しても仕方ない』

 漸く納得したのか、それまでオブラートみたいに殺意を纏っていたレヴィの身体から、拍子抜けするほどあっさりと不穏な気配は消え去った。

 いったい、何にそんなに腹を立てていたんだよ!?…と、思わず突っ込みを入れそうになるぐらいにな。

『じゃあ、お前』

 肩から一房、飾り髪を垂らしている不遜な顔付きの白い悪魔は、冴え冴えとした金色の双眸で俺を見下ろすと、不貞腐れてでもいるように唇を尖らせた。

「?」

 訝しんで見上げると、じゃらじゃらと宝飾品で胸元を飾り立てた漆黒の外套に身を包んでいる白い悪魔は、奇妙なことに、手を繋いだままで言ったんだ。

『独りぼっちじゃないか』

「…え?」

 正直、ビックリした。
 まさか、あれだけ怒っていたレヴィが、俺のことを考えているとか信じられなかったんだ。

『魔界に来てまだ間がないんだろ?この世界は混沌とした闇で、至るところに落とし穴がある。人間の奴隷が独りでいれば、あっと言う間に消えてしまうだろう』

 淡々とした声音はどうでもよさそうで、それでも、何処かに憐憫めいたものを含んでいる。
 このままここに独りでいれば、俺はたぶん、レヴィの言うようにあっと言う間に消えてしまうんだろう。
 それだけ、俺と言う存在はちっぽけで、レヴィの中からもあっと言う間に消えたんだ。
 そう考えたらとても辛くて、レヴィの顔を見ていられなくなった俺が顔を伏せると、白い悪魔はちょっと苛々したように俺の顎を掴んで上向かせたんだ。

『だから、アイツが戻ってくるまでオレが面倒を見ててやる』

「ええ!?」

 さらにビックリして、気付いたら俺、「え」しか言ってねーじゃねーか。
 いや、そんなことよりも、俺にとっては勿論、ウハハな状況なわけなんだけど、それでもこの180度の方向転換には頭が追い付いてくれない。
 目を見開いてビックリする俺に、途端に、レヴィは不機嫌になって握っていた手を振り払ったんだ。

『ご主人以外のヤツに面倒を見られたくないんならそれでもいいさ!オレには関係ないッ』

 まさか…そんなこと。
 あるわけないじゃないか…
 俺は振り払われたはずの手で、あれだけ悪魔のレヴィアタンに怯えていたって言うのに、レヴィのあたたかな掌を両手で包んで泣いていた。

『?』

 ギョッとするような気配がしたけど、俺は嬉しくて…どんな気紛れでもいい、たとえこれが悪魔特有の意地悪だとしても、俺は嬉しかった。
 レヴィとほんの少しでもいいから、できるだけ長く一緒にいたい。
 ルシフェルがこのまま帰ってこなくてもいいか…なんつって、勿論、あのレヴィを心から愛してる俺がそんなことを考えるワケはないんだけどさ、それでも、この嬉しいハプニングは素直に喜べた。

「有難うございます、レヴィ…アタン様」

『…』

 レヴィは何処か、バツが悪そうな顔をして外方向いちまったけど、俺は嬉しくて嬉しくて…何度も「有難う」って言ったんだ。
 一緒にいさせてくれて、有難う…

「あわわわ…れ、レヴィアタン様!こ、ここは何処ですか!!?」

 そりゃあ、俺が憐れな声を出したって仕方ない。
 甘やかな桃の匂いに包まれてるのは嬉しいんだけど、背中に回した両手でギュッと掴んでいないと、思い切り落っこちてしまいそうになっているこの状況じゃぁ、とてもじゃないがレヴィを実感するのなんか無理だ。

『ふん!魔城より遥か西にある、混沌の森だ』

「こ、コントンの森?」

 上空で優雅に立っているレヴィは、外套の裾をはためかせながらニヤッと笑って眼下の、鬱蒼と捩れた枝が幾重にも覆う、殺伐とした気配が漂う不気味な森を見下ろしている。
 あの後、レヴィは有難うと呟く俺をヒョイッと小脇に抱えたかと思ったら、あっと言う間に城外の、それも空の上に連れ出したんだ…んで、今のこの状況なワケなんだけど、どうしてこんなところに来てしまったんだろう。
 恐々と見下ろす俺に、何が嬉しいのか、ニヤニヤ悪質に笑うレヴィに、俺は一抹の不安を感じていた。
 でも、こんな時に限って灰色猫はいないんだ。

「魔の森じゃなくて、混沌の森ですか…?」

 恐怖をできるだけ押し殺して、俺は疑問を白い悪魔に投げ掛けた。
 つーか、なんか喋っていないとマジで怖いぞ。
 あの時は、レヴィがギュッと抱き締めてくれていたから、空の上でも安心だったけど…今は違う。
 レヴィは両手を離しているし、俺がしがみ付いていないと落っこちてしまうんだ。
 腕がぶるぶる震えて…コイツ、たぶんきっと、わざとだと思う。
 思わず胡乱な目付きで見上げたんだけど、俺のことなんかお構いなしで、『ハァ?』と言いたそうな顔をして鼻先で笑った。

『魔の森だと?魔女が好む森なんかに用はない』

 魔女?…ってことは、やっぱりアスタロトの言葉は本当だったんだ。
 できれば、魔の森に連れて行ってくれればよかったのに。
 トホホ…ッと、思わず項垂れてしまう俺に対して、レヴィはどうでもよさそうに肩なんか竦めてくれるから…って、おい、ちょっと待て。

「そ、その…混沌の森にどうして俺を?」

 敬語なんか使ってられるか。
 そうだよ、どうしてこんな不気味で陰惨な雰囲気がぷんぷん漂う、明らかに凶悪そうな場所に俺が来なくちゃいけないんだ?!
 恐る恐るレヴィを見上げたら、白い悪魔は氷のように冷たい表情をしてくれると、シレッと言いやがったんだ。

『ちょうど手頃な土産が手に入ったんだ。ベヒモスの顔を見に来て何が悪い』

「て、手土産ってお前…!」

 ギョッとした次の瞬間、レヴィのヤツは背中に回していた俺の腕を掴んでニッコリ笑うと、それこそ悪魔のような無情さでその手を離しやがったんだ!!

「ちっくしょー!!騙したなッッ、覚えてろー!!」

 …って、おいおい、どこの捨て台詞だよってな台詞を吐き捨てて、真っ逆さまに落ちていく俺を、レヴィのヤツは殊更愉快そうにゲラゲラと笑って見下ろしてやがる!
 やっぱ、悪魔だ。
 アイツは俺の知ってるレヴィなんかじゃない!レヴィアタンって言う悪魔だ!!!!!
 落ちる俺を避けるように、それまで幾重にも折り重なっていたはずの捩れて歪な形をした枝が次々に離れていって、俺は傷付くことなく地面に激突…

「!!」

 …したはずなんだけど、激しい衝撃の後、ギュッと閉じていた目を開いたら、俺は奇妙な生き物に受け止められていた。
 それは、なんと言うか、こんな陰惨で不吉で、凡そ悪いことの代名詞みたいな森の中で、どうしてこんなヤツがいるんだと疑いたくなるほど、可愛いカバだった。
 いや、簡単に言えばってことなんだけど、そりゃ、鼻の上(?)にある角は禍々しいのかもしれないけど…でも、やっぱり可愛いと思う。
 サイとは違って、カバ面に角があるんだよ。
 カバは俺を受け止めた背中から地面に下ろすと、あの、何を考えてるのかよく判らない小さな目で繁々と俺を眺めている。

「あ、ありがとう…」

 のーんっとした雰囲気のカバ面は『ふん』と息を吐き出してから、どうでもよさそうにやれやれと嘆息すると俺の横にドッシンと座った…そう、座りやがったんだ!!
 片足を前に出して、片足は立膝じゃなくて、曲げてる、んで、前足でちゃんと支えてるんだから驚くよな。
 ビーグルとか、ラブラドールとか、よくこんな座り方したと思う。
 …うう、可愛い。

『レヴィアタンは性根が悪い。お前さんをあの高さから落とすなんて、正気の沙汰じゃねーよなぁ?』

「げ、喋るのか!?」

 思わず、本当に思わずだったんだけど、まさか喋るとか思わなくて…それも口が悪いし、フガフガ言いそうな印象なんだけどなー

『なんだよ、「げ」ってのはよー。そりゃあ、オレだって悪魔の端くれだし?喋りもすれば笑いもするさ』

 そう言って、カバは歯を見せてニッと笑う。
 その仕種がまた可笑しくて、俺は思わずうぷぷぷ…って笑っちまったんだ。
 するとカバは、笑うようにむいていた歯を引っ込めると、また『ふん』と鼻を鳴らしたんだ。

『オレはさ、お前さんを知ってるぜ』

「へ?」

『レヴィが嬉しそうに話してた「ご主人」だろ?』

 目許に浮かんだ涙を拭っていた俺は、その言葉にハッとして、カバの悪魔を見上げていた。
 今、なんて…?
 ここにいる悪魔は誰も俺とレヴィのことを知らなかった。
 だからきっと、レヴィは人間がご主人なんて言い出せないでいたから、俺のことは黙っていたんだろうって思っていた。だから、こんな風に、あの頃の俺たちを知る悪魔がいてくれて、俺は素直に嬉しかった。
 だからたぶん、こんな風に縋るような目をしてしまったんだ。

「お、俺のこと、知ってるのか?」

『ああ。お前さんが今、何を考えているのかも判るぜ。だが、それは違う。アイツはそんなに器用じゃない、自分が大切にしているモノは隠したがるんだよ。オレみたいになー』

 ふと、上空の空さえも覆っている捩れて絡み合うような枝が広がる空を見上げたカバの魔物は…そうか、コイツにとって(信じられないことに)此処は安穏とした住処なんだろう。
 だから、護ろうとするように森を覆う奇怪な木々が枝を広げて外敵の侵入を防いでいるんだ。
 あれ?そう言えば、俺も空から落っこちてきた外敵なのに、枝が離れてくれたお陰で傷を負わなくて済んだよな。
、俺が首を傾げている傍らで、ヤレヤレとカバの悪魔が溜め息を吐いたその時、不意に、
捩れた枝を掻き分けて苛々しているような白い悪魔が姿を現したから、カバの魔物は座ったままで、それでなくても小さな目を精一杯見開いて、呆気に取られているようだった。

『なんだ、お前のその姿は』

『煩い!よく判らんのだが、気付いたらこの姿が定着してたんだッ』

 余程、本当は嫌なのか、白い髪に金の双眸を持つ美形の悪魔は、鼻に皺を寄せてカバの悪魔に悪態を吐いた。

『と言うか、どうして人間と馴れ合ってるんだ!?コイツはベヒモスの飯に持ってきたんだぞッ』

 やっぱり騙してたのか。
 流石は悪魔と言うかなんと言うか、ホント、記憶が戻ったら覚えてろよ。
 ムッと眉を寄せる俺を無視して、カバの悪魔はシレッとした様子で言い返した。

『レヴィの大事なモノを喰えるわけがないだろーが。後で騒がれちゃオレが迷惑だ』

 後半は本当に迷惑そうにうんざりした表情(…は良く判らないんだけど)のカバの悪魔に、白い悪魔は怪訝そうに眉を顰めて、ベヒモスは何を言っているんだとでも言いたげな不機嫌そうな顔をして下唇を突き出した。
 あちゃ、ヤバイ。
 そうか、このカバの悪魔はレヴィが俺のことをスッカリ忘れてるなんてこと、知らないんじゃねーのか!?

『何を言ってるんだ、ベヒモス。どうしてオレがコイツを大事に思ったりするんだ??人間など喰ってしまえばそれで終わりじゃないか』

 フンッと鼻を鳴らして不機嫌そうなレヴィに、カバの悪魔、ベヒモスは全く相手にしていないような鷹揚な仕種で大きなカバ面を左右に振ってみせた。

『忘れてるだけさ。いや、忘れようとしているだけじゃねーか。思い出せばもう、手離せなくなる。ただ、それが怖いだけなのさ』

「…え?」

 カバを見上げた。
 でも、静かな光を湛えるその小さな瞳は何も語ってくれないから、俺は恐る恐る、立ち尽くしているような白い悪魔を見上げたんだ。
 でも、やっぱり、レヴィアタンは何を言われているのか判然としない様子で、訝しそうに眉を寄せているだけなんだよなぁ。
 カバの見込み違いじゃねーのか?

『全く、長らくこんな鬱陶しい森にいて脳みそが腐ったんじゃないのか?オレは人間を大事だと思ったことなんか一度だってない』

 腕を組んで小馬鹿にしたように言い放つレヴィアタンの台詞には流石に傷付くけど、それでも泣き笑いしそうな俺なんか端から無視で、ベヒモスは疲れたように溜め息を吐いて言い返した。

『判った判った!それでは、オレにコイツをくれるんだろ?貰ってやるから魔城なり自分の棲み処なりに帰ればいい』

『…喰わないのか?』

『喰う、喰わんはオレの勝手だ。四方や、今更契約を無視するワケではあるまいな?』

『するワケないだろ。馬鹿馬鹿しい!』

 そう言うなり、レヴィアタンは宝飾品がジャラジャラ胸元を飾る漆黒の外套の裾を翻して、ヒョイッと宙に舞い上がったんだ。
 置いて行かれる…と、不安になって後を追いそうになったんだけど、話の成り行きでは俺はここに捨てられたみたいだし、今の白い悪魔には、俺は不要な存在のように思えたから、だから俺は、両手で拳を握って、これ以上はない強い力で握り締めて、捩れた枝に消えてしまう白い悪魔の後姿を見送っていた。
 枝の陰に消えようとしてるレヴィアタンの顔は、一瞬だったけど、不思議そうな困惑したような表情をしていたんだけど…やっぱり、枝の海に消えてしまった。
 そう、消えてしまった。
 俺をこんな寂しい森に残したまま、アイツは嘘を吐いて、俺を城から追い出したんだ。
 でも…

『ああ、馬鹿な人間だ。そんな風に、声も出さずに泣くなんて…声を出さなけりゃ、あの薄情な悪魔にだって聞こえやしねーのになぁ』

 俺は俯いてボロボロ泣いていた。
 でも、俺が本当に辛いのは置いていかれたことでも、城を追放されたことでもない。
 俺が本当に悲しいのは…そうまでして、ルシフェルから俺を遠ざけようとしている、レヴィアタンの本心を知ってしまったから。
 だから、悲しくて悲しくて…俺は立ち尽くしたまま泣いてしまった。
 可愛いカバの悪魔は、俺の気が済むまで、そうして泣き続ける俺の傍らにどっしりと座ったままで、ずっと傍にいてくれた。

第二部 8  -悪魔の樹-

 その後の俺と言ったら、振り返ったらきっと後悔するに違いないってのに、やたら浮かれてはしゃぎまくっていた…って、いや勿論。
 ここは薄ら寒い殺気のような、どこか落ち着かない気配が漂う魔界なのだから、はしゃぐと言っても声を上げて笑うとか、転がり回るとか、んな場違いな行動を起こしてるワケじゃないんだぜ?
 いや、俺だって命ぐらいは惜しいよ。
 ヘラヘラ笑ってる…ってのが、正しい表現かもしれんな。
 それこそ、今は俺のご主人になっているルシフェルでさえ、ポカンッと、呆気にとられたような間抜け面をするぐらいなんだから、その顔のしまりのなさは余程だったんだろう。

『顔が溶けそうだな、おい』

「気持ち悪ぃ発言するな…つっても、全然気にならないけどな~♪」

『…ぐは、気持ち悪ッ』

 俺の浮かれぽんちに、ルシフェルはやれやれと溜め息を吐くものの、それでも何処かホッとしたように笑う辺り、この(レヴィにとってもだけど)悪友は、見た目以上に極悪…ってワケでもないんだろう。
 まぁ、そりゃそうか。
 俺やレヴィのために、悪魔なのに、無罪放免で俺たち人間が暮らす世界に戻ってたって言うのに、わざわざうんざりする魔界に帰ってきてくれたんだからな。
 本当なら、感謝するべきところなのに、俺も大概、恩知らずだって反省してしまうよ。
 でも、顔は笑っちゃうんだよなぁ…いや、ホント。
 友達甲斐のないヤツでスマン、篠沢。

『まぁさぁ、つれない顔して、寂しそうに俯いてばかりいられるよりは、オレとしてはこっちの光太郎の方が随分とマシに思えるからいいんだけどさ』

 瞼を閉じてバフンッと幾つも積まれている、豪奢なクッションに背中からダイブしたルシフェルは、頭の下で両手を組んで機嫌が良さそうだ。
 やっぱ、眉間に皺を寄せてムッツリ黙り込んでばかりいたから、そんな俺を見るよりは、鬱陶しくなくて気が楽にでもなったんだろうな。

「ところどでさ、篠沢。そろそろ、出発してもいいんじゃないのか!?」

 機嫌が良さそうなルシフェルに、俺はベッドに飛び乗って、頭の下で腕を組んでグーグー眠りそうな綺麗な顔を覗き込んでせがんでみた。
 もう、何度となく繰り返しているんだけど、やっぱり、ルシフェルは機嫌が良さそうにキッパリと宣言した。

『まだダメだ』

「…またかよ。もう、その返事は聞き飽きたんだけどよ」

 ムッとして、ジトッと睨み据えても、さすが魔界に君臨する泣く子も黙る堕天使様は、全く意に介した風もなく素知らぬふりで寝たふりなんかしやがるんだ。
 そうなると、傲慢が服を着てるような頑固な悪魔は何が何でも、梃子でも動こうとしないから厄介だ。
 だから俺は、仕方なく溜め息を吐いて、もう暫くだけ幸せの余韻を噛み締めておくことにした。

 それから暫くして、俺はまた、ルシフェルが城を留守にするからと、くれぐれも目立つことはするなと言い付けられて残った魔城で、灰色猫も、最近は忙しそうで相手してくれないし、またふらふらと城内を歩き回ることにしたんだ。
 この魔城ってのはヘンなところで、常に空間が移動してるとか何だとかで、この間行けたはずの食堂に辿り着くことができなくなってるから、まるで迷路、目的地まで延々と探し回らないといけない。
 ルシフェルの部屋に戻るときは、それでも便利なんだよな。
 俺のご主人になってるから、アイツの部屋に戻りたいと願えば、自然と目の前に扉が出てくるんだ。そこがたとえ、廊下の真ん中でも平然と。
 疲れたなー、もう歩きたくねーな、ルシフェルの部屋って何処だったっけ?…とか、そんなことを考えていたら、いきなり目の前にデーンッと現れたりするから、思い切り鼻っ面をぶつけてしまった嫌な思い出がある。
 だから、最近はちゃんと立ち止まって、一呼吸おいてから、部屋よ現れろ!…とか、カッコ付けて言ってみたりする。
 今はまだ、出てきたばかりだから部屋はいらないけどな。
 ふらふら歩いていたら、ふと、目の前に天使が悪戯に人間に化けました…ってな面をした、品の良い顔立ちのヴィーニーが足音もなく近付いてきた。
 たぶん、滑るように歩くとか、優雅だとか、そんな形容詞が良く似合う美少年なんて、うげーな呼ばれ方をする綺麗なヴィーニーは、俺になんか目もくれずに真っ直ぐに前を向いたまま通り過ぎていく。

 おい、ちょっと待てよ!レヴィは何処にいるんだ!?…腕を掴んで引き止めて、捲くし立てられたんだったら俺も天晴れなんだろうけど、近寄り難い品のようなものを撒き散らすヴィーニーを、引き止めて悪態を吐くなんて芸当は、一般市民の俺には到底できない芸当だと、トホホな心境で見送るしか術がない。
 駄目なヤツだなぁ、俺って。
 でも、ふと俺は思うんだ。
 あんなに綺麗な、なんでもそつなくこなせる完璧なヴィーニーでも、やっぱり、何か罪を犯してこの魔界に堕ちてしまったんだな…でもなんか、ヘンな気分だ。
 きっと、向こうの世界で生きていれば、誰からでもちやほやされるに違いないのに、どんな罪でヴィーニーはこの魔界にいるんだろう。
 魔界…ってのも、ヘンな言い方だよなぁ。
 肌寒いような、常に鳥肌が立つようなこの感覚は、たぶん、恐怖だとか殺気だとかが渦巻いているせいだと思うんだけど、それよりも、深い深い…俺たちなんかじゃ想像もできないほど凶悪な何かが潜んでいるような、魔城の窓から覗くこの惨憺たる景色は、どこをどう見ても、立派な地獄に見える。
 こんなところにレヴィはいて、そして、ここで世界の果てを見ていたんだなぁ。
 通り過ぎるヴィーニーの身体からは、嗅ぎ覚えのある、忘れることなんかできるワケがない甘ったるい、あの桃に似た芳香が漂っていた。
 できればいつまででも嗅いでいたいその匂いが、今は吐き気を覚えるほど嫌なものに感じてしまう。
 その匂いが、ヴィーニーだけじゃない、俺以外の他の誰かから漂うことが、こんなに気分の悪いものだったなんて…そんな風に考えてしまう自分の浅ましさみたいなものを見せ付けられたような気がして、地獄の奥深い陰険さにムカついただけなのかもしれないけど。
 ヴィーニーをやり過ごして俯いていたんだけど、もしかしたら、あのままヴィーニーの後を追えば、もう一度白い悪魔に逢えるんじゃないかとか…そこまで考えて苦笑してしまう。
 逢ったって、どうせレヴィは俺のことを覚えてはいないし、お気に入りのヴィーニーにコソコソくっ付いている俺なんか、小煩いハエぐらいにしか思わないような目で見られるのも癪じゃねーか。
 やめた、ヴィーニーを追おうなんて、何馬鹿なこと考えてるんだよ。
 …太陽が眩しくて、見上げれば、変な話なんだけど、青空の下で真っ白な髪をした悪魔が嬉しそうに笑うから、その声を聞けるから、それら全てが当然のことで、まるで当たり前だなんてどうして考えていたんだろう。
 悪魔なのに、悪魔の癖に人間みたいに優しくて、ちっとも悪魔らしくない、そんなレヴィが好きだった。
 陰険で嘘吐きで、凶暴そのもので冷酷無情だなんて、いったい誰が言ったんだ?
 俺が知っているレヴィアタンと言う悪魔は、揺ぎ無い自信を持っている威風堂々とした、海の王者だ。
 津波を起こすこともなく、悪魔に不可能のない、優しさを持っていた。
 でも、たとえば、それら全てが悪魔の樹が成しえたことだったとしたら…俺はどうするんだろう?
 本当は無情な悪魔で、俺なんか、虫けらぐらいにしか思っていないような、酷い(本来はそれが当たり前なんだろうけど)悪魔だったら…それでも俺は、レヴィを好きなんだと思う。
 与えられた優しさを、忘れてしまうには、あまりに鮮烈で強烈な印象だ。
 忘れられやしない。

「ご主人さま」

 きっと、思い切りニッコリと微笑んだに違いない声音で、ヴィーニーの弾んだ声がした。
 思わず振り返りそうになるのを必死で耐えて、耳に届くだろう、あの聞き慣れた声を待ち焦がれていた。
 そんな自分の姿は滑稽で、できれば消えてしまいたい衝動にも駆られたのに、それができないほど俺はその声を…いや、声の持ち主を待ち焦がれているんだ。

『…』

 それでも、待ち望む声は聞こえなくて、ふと、肩越しに振り返ったら、それでも白い悪魔は冷徹な眼差しでヴィーニーを尊大に見下ろしていた。
 そのふてぶてしい態度は、ヴィーニーなんかどうなっても構やしないとでも言いたげで、あんなに上機嫌だったはずなのに、その目付きはもう、興味の失せた人形でも見るような声を出すのも億劫だとでも言いたげな、侮蔑の態度だったと思う。
 その180度豹変した、お前どうしちゃったの!?と、思わず聞かずにはいられないような態度の変化に、それでもヴィーニーは弾んだ声で自らのご主人に擦り寄ったんだ…胸はズキリと痛むはずなんだけど、そんなことを考えるよりも早く、レヴィは煩いハエでも払うように、絡み付いてきた華奢な腕を振り払った。

『馴れ馴れしくするな。下賎の輩は性質が悪い』

 不機嫌そうに振り払った腕は、そんなに大したようには見えなかったのに、ヴィーニーは派手にすっ転んで、一瞬、何が起こったのか判らない顔をした。それでも、動揺したようにレヴィを見上げたんだけど、心の芯まで冷え込むようなブリザードを纏う白い悪魔の声音に、凍りついたように身動きできずにいるようだった。

『レヴィアタン様、如何なさいましたの?』

 ふと、そんなレヴィの背後から声を掛けるヤツがいて、どうしていいのか判らないまま、呆気に取られたように事の成り行きを見守るしかない俺の目の前で、レヴィは冷徹な黄金の双眸で、やっぱりどうでもよさそうに声の主を見ることもせずに吐き捨てた。

『アスタロトと交換した奴隷だが、もう飽きた。欲しければやるぞ』

『えぇ?本当??』

 声の持ち主は、やたら胸元を強調する古風な深紅のドレスを着て、豊かに結い上げた漆黒の髪が気だるげに解れて頬にかかる、退廃的な美貌の女だった。
 レヴィと並べば完璧な対になるほど、整った顔立ちの女は…って、どうして悪魔ってこんなに美形が多いんだ?…なんか知らねーけど、非常に腹立たしいんだが。

『でもねぇ、アスタロトの奴隷でしょ?あたしはいらない。彼女に返してあげればいいわ』

『物好きなベルフェゴールがいらないとはな』

 フンッと鼻先で笑いながらも、けして相手を見ようとしないのは…もしかしたら、ルシフェルよりも、本当はレヴィの方が傲慢なんじゃないかと疑ってしまう。
 いや、その前に、どうしてアスタロトが【彼女】なんだ!?
 今のこの状況で、驚く部分が微妙に間違っているような気もしなくもないんだけど、緩やかな濃紺の巻き毛の、あのチャランポランそうで怠惰な、それから、寂しげな悪魔が女だって言うのか!?…うぅ、信じられん。 だって、俺はアイツに散々お、犯されたんだぞ。
 身体で思い知ったって言うのに…

『あらぁ?ルシフェル様の奴隷ちゃんじゃない』

 思わずガックリしそうになる俺に、退廃的で気だるげな美人がゆったりと声を掛けてきた…んだけど、俺はこんな綺麗な悪魔のおねぇちゃんは知らないし、でも、(気持ち的には冗談じゃないんだけど)ルシフェルの奴隷になったことには間違いないから、仕方なく!ご主人のために笑って愛想良くすることにした。

「こ、こんにちは」

 思わずはにかんだら、女悪魔は気だるそうなのにニコッと笑い返してきた。
 思わず、ほやんっとなる笑い方に、悪魔なんだけど、このおねぇちゃんは害がなさそうな気がした。
 いや、あくまで気がしただけであって、悪魔なんだから害がないワケないことは十分、アスタロトで承知しているから警戒は怠らない。魔界で覚えた護身術だ。

『…なんだと?』

 ふと、そんな美人な悪魔とヘラッと笑い合っている俺の耳に、氷点下よりももっと冷たい、心臓が凍り付いちまいそうな声が滑り込んできて、意味もなくビクッとしてしまった。

『ルシフェルの奴隷だと?』

 軟なハートでは到底、太刀打ちなんかできない魔界の実力者の凄味に、思わず青褪める俺なんか無視して、手許で弄んでいた漆黒の羽根の扇で口許を隠しながら、女悪魔は殊更のんびりと答えてレヴィを苛々させたようだ。
 スゲーな、悪魔のねーちゃん。

『あらぁ、レヴィアタン様は知らなかったの?この子はルシフェル様の奴隷で、一番のお気に入りだそうですわよ』

『まさか!』

 レヴィの即答に、どうやら真剣にそんなはずはないと思い込んでいる様子が伺えて、俺は怪訝そうに眉を寄せてしまった。
 どうして、こんなに全否定するんだ??
 だって、悪魔なんて連中は、常に奴隷を侍らせてるんだから、俺みたいな奴隷の1人や2人…って、そうか。悪魔のねーちゃんが【お気に入り】なんて言ったからビビッたのか。まぁ、そりゃそうだよな。俺みたいな何処にでもいそうな人間がお気に入りじゃ、あの幻みたいに綺麗なルシフェルに失礼だよな。
 そう言ってしまうと、俺を愛していると言ってくれるレヴィの立場もなんだかな…ってことにはなるんだろうけど、この白い悪魔と俺の悪友であるルシフェルの為にも、ここは俺が大人になるべきだ。うん。
 レヴィの氷の美貌に怯んでる場合じゃない。

「とんでもありません」

 えーっと…確か。

「ベルフェゴール様、俺はルシフェル様のお気に入りなんかじゃないです」

 名前、間違ってないよな?
 さっき、レヴィは確かに、この悪魔のねーちゃんのことをベルフェゴールって呼んでたからな。

『うふふ。謙虚な奴隷ちゃんねぇ』

 ホッ、どうやら、名前は間違ってなかったみたいだ。

『…そんな、馬鹿な。ルシフェルが』

 レヴィは雷に打たれでもしたように、黄金の双眸を見開いて俺を睨み付けるから、どれだけ憎まれてるんだと、あらぬ疑いを自分自身に持っちまうじゃねーか。
 コイツの、この目だけはどうしても好きになれない…と、今、気付いた。

『そうですわねぇ。奴隷を1人もお召しになったことがないあのルシフェル様が、お気に入りとまで呼ばれて、寝所を共にされているんですもの。驚いてしまいますわ』

 どうやら、全く悪気はないんだろう。
 まるで世間話でもするかのように、って事実、悪魔のねーちゃんにとってはただの世間話に過ぎなかったのに、どうもそうではなさそうなレヴィの態度に俺がビビたって仕方ない。
 だって、相手は俺を完全に忘れてる魔界の実力者で海の王者なんだ。

『そんな話は聞いてないッ』

 別にレヴィが聞いてなくても、そんなのルシフェルの勝手じゃねーのかと、思わず突っ込みを入れたくなる俺の前で、白い悪魔は綺麗な顔に似合わずかなり怒っている様子で踵を返したんだ。

『あらぁ…ルシフェル様のところに行かれますの?では、この奴隷は如何致しますの?』

 踵を返すついでに、どうしてか、レヴィはガシッと俺の腕を掴みやがるから、引き摺られるようにして連行される俺に言ったのか、はたまた湯気が出るほど怒り狂っている白い悪魔の背中に言ったのか、恐らく後者に決まってるんだろうけど、情けないほど泣き出しそうな顔をしているヴィーニーの前で、気だるげに扇を弄んでいる中世の貴婦人…ってのは言い過ぎの美貌のユルイ女悪魔にレヴィは短く吐き捨てたんだ。
 勿論、振り返りもしないで。

『くれてやる!』

『あら、まぁ』

 心底困ったように眉根を寄せる悪魔のねーちゃんと、気の毒なヴィーニーには悪いんだけど、もしかして、今一番危機なのはズバリ俺じゃないのか!?
 どうして俺が怒られなきゃならないんだ、心外だぞ!
 と、捲くし立てられたら俺も天晴れなモンだけど、やっぱりしがない普通の高校生は、青褪めたままで引き摺られる羽目になるんだろう。
 うぅ、俺、どうなるんだ…ッ!?

第二部 7  -悪魔の樹-

 魔の森に赴くのは、俺の身体が完全に回復してからにしようと、ルシフェルが自室のベッドに俺を放り投げながら提案したから、俺は暫くこの魔城で過ごさなければいけなくなった。
 とは言え、身体の方は2日で元気を取り戻したんだけど、心配性のルシフェルと灰色猫がそれを信じてくれなくて、結局、未だに魔城にいるってワケだ。
 何もすることもなくて手持ち無沙汰でブラブラしていたら、何時の間にか誰もいない食堂に来ていたらしく(迷ったなんて絶対に言わないんだけどな)、シンッと静まり返った厨房を覗いてみたんだけど、やっぱり誰もいなかった。
 誰もいないんだから断る必要もないよなと、自分で勝手に解釈して、俺は我が物顔で厨房内を勝手に見回っていたんだけど…あれ?ここの食材って俺たちの世界で使ってるのとソックリじゃないか。
 ジャガイモに似た野菜に、何の肉か判らないけど牛肉らしい肉、調味料も何でもござれ…って、これならアイツが好きな肉ジャガだってできるな~

「そうだ、どうせレヴィには食ってもらえないだろうけど…世話になってるルシフェルや灰色猫に俺特製の肉ジャガでもプレゼントするか!」

 今の俺にできることと言ったら…これぐらいだもんなぁ。
 それでも久し振りに包丁を握って調理支度を始めると、何故かウキウキしてしまって、ああ俺ってホントに主夫だよなぁ…と、思わず情けなくてトホホホッと笑っちまった。
 心の奥深い部分では…いや、違うな。
 頭では判っているんだ、いますぐにでも飛び出して行って、レヴィの記憶を取り戻すことができるって言う【約束の花】を取りに行きたい。
 でも、と、俺の頭の中で別の声が逸る気持ちに抑制をかけてくる。
 ホントウニソンナハナハソンザイスルノカ?
 …自信なんかこれっぽっちもなかった。
 灰色猫が、ルシフェルが、アスタロトが言うから、信じてみようと思っているだけだ。
 きっと、俺のこんな部分が、ルシフェルに言わせれば『悪魔に身包み剥がされる性格』ってヤツなんだろうな…それでも、何かに縋っていないと、今の俺は満足に立っていることすらできないんじゃないかって思うほど、草臥れていた。
 ヴィーニーと睦まじく姿を消す白い悪魔の背中を見詰めた時、ハンマーで頭を殴られたような衝撃があって、それ以来、なんだかあやふやな水の中を呆然と歩いているような、奇妙な違和感が纏わりついて離れてくれない。
 それが、今の俺の心境だったから、せめて大好きな料理でストレス発散しよう…って思うのは、やっぱり普通の男子高校生としてはおかしなことだよなぁ。
 ムムム…ッと、包丁とジャガイモを握り締めて眉根を寄せていたんだけど…あんまり馬鹿らしいんで、俺は適当な皮むき器も見つからないことだし、仕方なく、手にした良く磨かれて鋭く光る包丁を使うことにしたんだ。

「肉ジャガ肉ジャガ…ジャガジャガジャガ♪」

 適当に作った鼻歌なんか歌って、思い切りリラックスしていたもんだから、俺は気付かなかった。
 厨房の入り口に佇む影のように静かな存在に…
 別に、気配を感じたとか、そんなつもりはなかったんだけど、なんとなく振り返った先に、物言わぬ影のようにヒッソリと立っていたらしいソイツは、フンッと鼻で息を吐き出してから、うっそりと凭れかかっていた壁から身体を起こすと、組んでいた片方の腕を腰に当てて軽く睨むようにして俺を見返したりするから吃驚した。

『こんなところでアスタロトの奴隷が何をしているんだ?』

 聞き覚えのある…いや、聞き慣れ過ぎていて、そのくせ、今はとても懐かしい声音に俺は、思わず泣き出しそうになってしまって、慌てて俯きながら首を左右に振って見せた。

「も、申し訳ありません!勝手に厨房に入ってしまって…ただ、ルシ…主人に食事をご用意しようと思いまして」

『食事だと?』

 ゆっくりと腕を組んで小馬鹿にしたように、丸い木の椅子に座って途中まで剥いたジャガイモと包丁を握り締めている俺を見下ろしていた白い悪魔は、もう一度鼻先で笑ってから、やっぱり馬鹿にしたように肩を竦めて見せたんだ。
 どんなに馬鹿にされても、どんなに皮肉を言われたとしても、やっぱり俺は、そこにそうして佇んでいる古風な中世の貴族のような出で立ちをしている白い悪魔の、肩に一房だけある飾り髪も、ジャラジャラの装飾品も何もかも、全てを愛しいと思ってしまうんだなぁ…
 その事実に、眩暈がした。
 眩暈がして、それから、途方に暮れてしまった。
 ああ、どれだけ俺、この白い悪魔を好きなんだろう。

『人間如きが作る瑣末なモノを、四方やアスタロトが口にするとは思っていないんだろ?』

「い、いいえ。アスタロト様にお持ちするんじゃありません…」

『なんだと?オレはお前を、アスタロトに渡したはずだが??』

 そこには事情があるんだよ…って、いつもの俺ならかるーく噛み付いてやるところなんだろうけど、悪魔としての威厳を取り戻しているレヴィには、けして逆らってはいけないと、灰色猫から拝み倒すようにして約束させられたから、仕方なく忠実にその誓いを守ってるってワケだ。
 オマケに、ルシフェルにまで睨まれてるんだ、反抗なんかできるかよ。

「…えっと、それは。あ、そうだ。どうですか、レヴィアタン様。結構、俺の作る料理は美味いんですよ。一度、召し上がってみませんか?」

 ニコッと、精一杯の愛嬌を振りまくつもりで笑って見上げたら、懐かしい白い睫毛に縁取られた黄金の双眸が一瞬、僅かに一瞬ではあったんだけど、らしくもなく、動揺したように揺れたように見えたのは、俺の都合のいい錯覚だったんだろうか。
 レヴィはうんざりしたように眉間に皺を寄せていたけど、それでも溜め息を吐いみたいだった。

『人間如きの瑣末な代物を口にするなど、甚だ不愉快なんだがな。お前の主人とやらが口にするとなれば、少しばかりは期待できるんだろうよ』

「レヴィアタン様、美味しいですよ。是非、召し上がって下さい」

 それが何を意味しているのか判らなかったから、俺が失礼は承知で丸椅子に腰掛けたままで不機嫌そうな白い悪魔を見上げて精一杯食い下がると、レヴィはツンッと外方向いて言い放ったんだ。

『仕方ない。そこまで言うのなら、毒味をしてやろう』

 どうやらそれは、単なる照れ隠しだったようだ。
 思わず、俺はクスッと笑ってしまった。
 大悪魔様のご悪友にして、海を統べる絶対的統治者であるリヴァイアサンの知られざる側面を見たようで、俺が嬉しそうに笑っていたら、白い悪魔はほんのちょっとだけど、面食らったような顔をしたみたいだった。

「判りました。では、超特急で作りますね♪味の保障は任せてください」

 クスクスと笑ってジャガイモの皮むきに取り掛かる俺に、腕を組んでいたレヴィはバツが悪そうな顔をしたんだけど、それでも、やれやれと腕を解いて厨房に設置されている、恐らくは人間の奴隷たちが賄い食でも食べる場所なんだろう、粗末な木製の椅子を引き出して腰掛けると、油とかで汚れているテーブルに頬杖なんかついたんだ。

『超特急で作らなくてもいい。オレは味に煩いんだ。十分、心して作るんだな。時間なら、まだまだある』

「…はい」

 でも、アンタはヴィーニーと大切な時間を過ごすんじゃないのか…とか、そんな憎まれ口を叩きたくなったんだけど、ふと、顔を上げたら、俺の調理風景を楽しそうに眺めていたあの頃のレヴィのように、テーブルに頬杖を付いて俺を見つめてくる白い悪魔を見た瞬間、俺は思わず泣きそうになっていた。
 だから慌てて俯いたんだけど、レヴィは気付いてはいないようだ。
 そんな風に、口許に薄っすらと笑みを浮かべてお前、俺が料理するところを楽しそうに見ていたんだぞ。なぁ?少しも思い出せないのか??
 あんな風に幸せだった日々を、本当にすっかり忘れてしまったのか?
 なぁ、レヴィ…そんなに、俺たちが過ごした時間は呆気なかったのかな…
 頬をポロッと涙が零れた。
 一番、考えたくないことを、こんな風にレヴィと穏やかに過ごす時の流れの中で考えてしまうと、両手で抱き締めているはずのものが、呆気なく指の隙間から零れ落ちてしまいそうで、緩んだ涙腺をとめることができなかった。
 一粒、ポロリと零れてしまうと、次から次からポロポロ涙が零れて、胸の奥が痛くなって、俺は初めて、切ないと言う気持ちを感じていた。
 滲む手許に必死に集中していると、ふと、溜め息が聞こえてドキッとした。
 見られないように俯いていたはずなのに…

『オレに喰わせるのがそんなに辛いのか?』

 全く的外れだよ、レヴィ。
 どうして、不遜な海の君主はこんなに鈍感な野郎なんだ!

「とんでもありません、レヴィアタン様!ちょっと、目に沁みて…」

『…ふん。そう言うことにしてやってもいいんだが、お前の新しい主はアスタロトより酷いのか?』

 服の袖で慌てて涙を拭いながら、ジャガイモもどきの皮むきを再開しようとした俺は、ちょっとだけハッとしたようにレヴィを見返して、不機嫌そうな、そのどうでもよさそうな黄金の双眸と目があった途端、弾かれたように俯いてしまった。
 まぁ、そうだよな。
 まさか、記憶をなくしているレヴィが、俺の心配なんかしてくれるはずないよな。

「そ…うでもありません。とても、お優しい方です」

 ルシフェルなんかを誉めるのも癪だったけど、いや、めいいっぱい世話になってるんだから癪とか言ってられないんだけど、俺は冴えない灰色の猫を思い出して呟いていた。
 その返答に興味があるのかないのか、レヴィは『フンッ』と鼻を鳴らしただけでそれ以上は何も言わなかった。
 本当はもう少し煮込んで味をしみこませたかったんだけど、さすがに時間は有り余っているかもしれないレヴィをこれ以上待たせるのも気が引けたから、俺はできたての肉ジャガを木製のボゥルによそって恭しく待ち兼ねているレヴィの前に箸と一緒に置いたんだ。
 スゲーよな、魔界。箸とかあるんだぜ、信じられるかよ。
 レヴィは、驚くことに、嬉しそうに頬を緩めてちょっと匂いを嗅ぐと、キチンと両手を合わせて『いただきます』なんて言ってくれるから、思わず、お前絶対記憶を取り戻してるだろ!?んで、俺をからかってるんだろ!…と詰め寄りたくなったんだけど、白い悪魔は唐突にハッとしたようで、自分が何をしたのか良く判らないような顔をして怪訝そうに首を傾げるから、やっぱりそれは、俺の心が願っただけで現実にはありえないことだったんだなと思った。

『うん、旨い』

 口にして、レヴィの第一声はそれだった。
 初めて肉ジャガを口にした時のレヴィは、『ご主人さま!これ、凄く美味しいですね』と、ちょっと興奮したように黄金の双眸をキラキラさせて俺を見た。その光景を、俺は全部覚えてる。
 こんな風に、何かの品評会に嫌々参加しているような、頬杖を付いたままで『旨い』なんか言うヤツじゃなかったし、そんな風に言われても少しも嬉しくなかった。
 それでも…

「有難うございます」

 と、素直に口が開いたのは、やっぱり、レヴィが美味しいと思ってくれているのは、とても嬉しかったんだ。
 だから思わず、エヘヘヘッとはにかんでいたら、つまんなさそうに頬杖を付いて肉ジャガをつついていたレヴィは、呆れたように、器用に箸の先で俺を指しながら言ったんだ。

『まぁ、見てくれは悪いが喰えないワケじゃないから、及第点だ』

 そんな憎まれ口を叩いてから、ボゥルの半分を平らげて、レヴィは満足したように立ち上がった。
 これで…また暫くお別れなんだろうなぁ、と思ったら、やっぱり切なくて、ヴィーニーの許に帰ってしまう白い悪魔を引き止めたかった。
 でも、今の俺にはもう、そんなレヴィを引き止める術とか何もないんだ。
 ヴィーニーと愛し合う姿を目の当たりにしないだけ、まだマシなのかもしれないんだけど。
 はぁ…と溜め息を吐きながら、立ち去るレヴィの背中に頭を下げていたんだけど、物も言わずに立ち去ろうとしていた白い悪魔は、ふと立ち止まって、それからついでのように肩越しに振り返ったんだ。

「…?」

 顔を上げて不思議そうに首を傾げていたら、何かを考えるように目線を逸らしていたレヴィはそれから、口角を微かに吊り上げて、どうやらニヤリと笑ったようだった。

『また作るなら、気が向けば毒見してやる。今度は別なモノを作れよ』

 暗に、次も作れと言ってくれてるような気がして、もう一度ここで、レヴィに逢えるんだと嬉しくなった俺はスッゲー嬉しくて、思わず笑って何度も頷いてしまった。

「勿論です、レヴィアタン様!次も必ず美味しい食事を作りますねッ」

 思わず両方の拳を握ってのガッツポーズで宣言すると、フンッと鼻先で笑ったレヴィは、まるで仮面でも被るようにスッと冷徹な顔付きに戻って、今度こそ本当に振り返りもせずに立ち去ってしまった。
 ……。
 ほんの僅かな逢瀬だったけど、レヴィのいなくなった空間は肌寒いような寂しさが残り香のように漂っていたけど、俺は自分の身体を抱き締めながら、それでも、久し振りに嗅いだ白い悪魔の桃のような甘いあの匂いに包まれて幸せを感じていた。
 なんでもない、気紛れなレヴィらしい演出だったんだけど、俺は嬉しかった。
 この薄ら寒い魔界で、記憶を失くしてしまっているレヴィとこんな風に、会話できるとか思っていなかったから本当に嬉しかったんだ。
 俺は、どうしてだろう?
 意味もなくレヴィに、キスしたいと思っていた。

第二部 6  -悪魔の樹-

「ん…ぅあ……ヒ…んく……ッ…ぁッ」

 もう、どれぐらい時間が経ったのか、既に時間の感覚は完全に失せていると言うのに、長時間甚振られている後腔の感覚は一向に鈍らず、それどころか、異常なほど研ぎ澄まされた快感に、大きく割り開かれて、肩に担ぐようにして折り曲げられた足だけが、無情な悪魔が動く度に頼りなく虚空を蹴り上げるぐらいだ。

『君…ホントに可愛いわ。レヴィアタンには勿体無いぐらい』

 クスクスと、耳元で囁かれる甘い、優しい声音は、ずっと聞き続けていたせいか、それだけで妖しい気持ちに背筋がゾクゾクする。

「んぅ…ぅあ!……あ、も、…やめ……ッ」

 囁きと同時に耳元を舐められて、その熱い感触にも敏感に反応したら、またクスッと笑われて、今度は耳朶を甘く噛まれてしまう。

『やめないでってこと?光太郎ってば、結構大胆だよね』

「んな…ワケ…ない!……ァスタロ、トが、……タフ…ぅあ!」

 思い切り突き上げられて、思わず逃げ出しそうになる肩を掴まれると、上体を倒しているアスタロトに力強く引き戻されて、思うより深い部分まで抉られた俺はまた切なげに鳴いてしまった。 
 コイツ…ホント、なんて絶倫なんだ!?
 あれからとうとう、一回も抜かずにそのまま、延々と犯られ続けてるんだ。
 冗談じゃねーよ!
 もう、俺の尻の中はアスタロトが吐き出した精液で溢れ返ってるから、この体力無限の絶倫馬鹿悪魔が欲望を抜き差しする度に、グチュグチュッと厭らしい湿った音がして、含み切れなくなっている大量の白濁がブジュッとヘンな音を立てて吹き零れて内股を汚しているのがありありと判るから、自然と眉が寄ってしまう。

『絶倫ってコト~?あれぇ、光太郎は知らないんだ??悪魔にはねぇ、果てるって言葉はないの。可愛い子がアンアンお強請りすれば、永遠にだってご奉仕できちゃうんだから♪』

「ぐ…は!…ッ、そ、れじゃ…俺……ッッ…死ぬッ!!」

 いや、マジでホントに死ぬから、だからもうやめてくれよ~
 真剣に泣きが入る俺なんか端から無視して、アスタロトは愉しげにクスクスと笑って啄ばむようにキスしてくるんだ。
 ああ、でも…悪魔に果てはないのか。
 と言うことは、レヴィは俺とのセックスを、それほど愉しいとは思っていなかったんだなぁ…う、こんな時なのに俺、思い切り泣きたくなった。
 本当はアスタロトなんかじゃなくて、レヴィに心行くまで抱いて欲しかったのに。
 そんなこと考えてたら、不意に本当に泣きたくなった。
 俺、いつからこんなに女々しくなったんだろう。

「んぁ!…ヒ……ッ」

 アスタロトの激しい突き上げに、思考が中断されて、俺はもうグチャグチャに乱れてしまっているシーツをギュッと掴むと、与えられる衝撃に堪えようと唇を噛み締めてしまう。

『アタシと寝てるのに何を考えてるの?ねぇ、レヴィアタンのコト??…今頃、ヴィーニーと一緒に眠ってるかもしれない、あの薄情な悪魔のことを考えてるのか』

 馬鹿だね…と、囁くようにして呟くと、震える瞼を押し開いて、ムッと眉を寄せる涙目の俺を見下ろしてアスタロトはちょっとだけ切なそうにクスッと、綺麗な唇を笑みに象った。
 馬鹿みたいだ。
 俺じゃなくて、言った本人が傷付いてるんじゃ、そんなの意地悪でもなんでもないんだぞ。

「バ、カなのは、お前だ」

 半分以上、呆れるぐらい掠れた声で囁けば、アスタロトは静かにクスッと笑った。

『…あのね、光太郎に良いことを教えてあげる。アタシに優しい貴方だもの。お礼をしないとな』

 悪魔がお礼?
 これ以上何か要求されても、俺の身体はガタガタだぞ。
 おいおい…と、こんな状況なのに馬鹿げたことを考える俺なんか無視して、アスタロトは激しく攻めたてるのをやめ、やけに優しく抱き締めたりするから…却って怯えてしまう。
 悪魔が優しいときなんて、きっと碌なモンじゃない。

『悪魔にはね…』

 怯えている俺の気配は感じているはずなのに、アスタロトはやんわり抱き締めたままで静かに囁くようにして言った。

『自制心とか、我慢…なんて言葉がないワケよ。殺したければ殺すし、唆したり、貶めたり、やりたい放題が、云わば悪魔の悪魔たる所以ってヤツでさ』

「…だ、から?」

 それがどうしたんだと、そろそろ抜いて欲しいと切実に望む俺を無視して、アスタロトは淡々と言葉を続ける。

『だから?…ったく、ねぇ。判らないのか?悪魔はこんな風に、犯したい時に好きなだけ犯るんだぜ。それなのに、レヴィアタンは別だった。何故だと思う?』

 何故って…んな、こんなあられもない格好して、急所を責められ続けている今の俺に、正常に思考回路が作動してるから質問した…とか言ったら張り倒すぞ、的な目付きで睨んだら、そんな色っぽい目付きで睨まれても堪えませんと鼻先で笑われて、思い切り項垂れる俺を、やっぱり無視してアスタロトは言ったんだ。

『愛しすぎて壊してしまわないように…そんな心配をしてしまうほど、レヴィアタンにとって君の存在は大きいってコトだよ』

「…え?」

『まぁ、実に信じられないことではあるんだけどね。第一階級の悪魔なのに、どうして、人間の君なんかをそれほどまでに大切に思っていたんだろう?魔界の七不思議のひとつだ』

 本当に、信じられないと言いたそうに、こんな状況ではあるんだけど、俺を散々犯して痛めつけている悪魔は、まるで疲れた表情も見せずに心底不思議そうに呟いた。
 そんなこと、俺に言われたって、俺だって判んねーよ。
 ただ、灰色猫がくれた(正確には100円で買った)悪魔の樹から、たまたま産まれたのがレヴィだったんだ。俺が、約束を破ったばっかりに、レヴィは本来の悪魔の本性を隠してしまって、あんな風に、俺を只管愛してくれる白い悪魔になってしまった。
 それは、俺にとっては嬉しいことだったはずなのに、今となっては、本性であるあのレヴィに愛されてるヴィーニーが羨ましくて仕方ないなんて、魔界の七不思議とまで言わしめているアスタロトには、口が裂けたって言えやしないんだろうけど…
 それでも、愛して欲しいと思ってしまう。
 気が狂いそうなほど苦しいけど、これが、アスタロトがレヴィだったら、きっとどんなに酷いことをされても嬉しいと思って、許してしまえるのに。
 大事にしてくれるのも嬉しいけど、レヴィが納得するまで抱いて欲しいと思っても仕方ないじゃないか…いや、違う。そうじゃない。
 俺は我侭で欲張りだから、きっと、悪魔の本性を曝け出している今のレヴィにも、愛されたいと思ってしまったんだ。

『それはオレの専売特許だぜ、光太郎』

 思わず泣きそうになっている俺に、まるで冷ややかな声が冷水のように響き渡った。
 ギョッとして双眸を見開いて声のした方に顔を向けようとしたまさにその時、ほぼ同時に、いきなり部屋のドアが外側から思い切り開け放たれたから、超絶絶倫お惚け悪魔は驚いたように上体を起こして俺を喘がせた。
 どうも、この部屋の周囲には何らかの結界?のようなものでも施していたのか、全く無防備だったらしいアスタロトは、慌てたように意識を集中しているようだ。
 でも、抜いてはくれないのな。
 トホホ…ッと思いながら、それでも突然の闖入者が、もしやレヴィではと淡い期待を胸に、ズカズカと歩いて天蓋のすぐ傍まで来た人影に希望を抱いて視線を注いだ…んだけど、シャッと天蓋を引き裂くようにして開けたのは、誰でもない、よく知る顔で…

「し、篠沢…?」

 長らくの性行為でトロンッと、それに泣きそうだったから、今にも溶け出しそうな目付きをして見詰めているに違いないその視線の先に立っていたのは、やっぱりと言うか、声が違っていたから薄々は判っていたんだけど、淡い期待を見事に打ち砕いてくれたのは、壮絶な美しさに思い切り険を含んだ形相の、悪友の名で呼ぶよりも、堕天使の名で呼ぶ方が断然相応しい、気品ある顔立ちと威風堂々とした出で立ちの、傲慢が服を着ているような明らかに不機嫌そうな顔をした悪魔だった。

『あらぁ?どうしてルシフェルがアタシの部屋に来たの??』

 怒りの形相でサッと、両足を掴まれるようにして抱え上げられた腰の最奥に深々とアスタロトを咥え込んで、もう、どちらのものか判らない体液で俺の陰茎も腹も腿も、何処も彼処も白濁で汚れた姿を目線で辿ったルシフェルは、どうしたワケか、怒りで肩を震わせながら、それはそれは壮絶にニコッと笑ったんだ。
 ひぇぇぇ…美形の悪魔が凄んだように笑うとスゲーこえぇぇ!!
 それでなくても激しく落ち込んでいる俺が、まるで追い討ちをかけるようなその冷徹な気配で一気に冷水を浴びせられたような恐怖心に青褪めていると、少し怯んだようなアスタロトが小首を傾げて俺の脚を肩から下ろしたんだ。

『ん~?どうして、ルシフェルは怒ってるのかしら??』

『ははは、違った。強欲の専売特許はアモンだったな。あんまり頭にきてたから思わず間違えちまったよ。ところでアスタロト。スマン、殴らせてくれ』

『へ?何を言ってるんだ??』

 額に血管を浮かべたルシフェルが、顔こそ笑っているくせに完全に激怒している様子で指の関節を鳴らしたんだけど、流石に状況を飲み込めていないアスタロトがムッと眉を寄せて反論すると、漸くハッと我に返った大悪魔だと恐れられているはずの傲慢な悪魔は、思い直したように溜め息を吐いた。

『いや、そーだな。意味もなく殴り殺されてもアスタロトが哀れだな。スマン。オレでさえレヴィに遠慮して手を出さなかったのに、たかが第二階級の悪魔なんかにホイホイ犯られやがって、今度は遠慮なんかしてやらねーからな…とか思ってたら、頭に血が昇ってさぁ。思わず、アスタロトを殺すところだったよ、あっはっは』

 エヘッと笑って舌を出すと、思い切り物騒な台詞をアッサリ口にしたルシフェルは、ギョッとしているアスタロトをヒョイッとどかして、乱暴に引き抜かれた衝撃で眉を寄せて溜め息を吐く俺を、なんとも複雑そうな表情をして見下ろしてきた。

『あーあ、光太郎。悪魔を甘く見てたら嬲り殺されるんだぜ~』

 やれやれと溜め息を吐いて、ルシフェルは篠沢らしい口調でそんなことを言うと、全裸で起き上がることもできないほどぐったりしている俺の背中と、膝の裏に腕を差し込んで、優しく抱き上げてくれたんだ。

「し、篠沢…あの」

『言い訳はレヴィの記憶が戻る時までに考えておけよ。オレは、灰色猫に呼ばれて来ただけだし』

「灰色猫!そう言えば、アイツは何処に…」

 思わずジャラジャラと宝飾品に飾られた胸元を掴んで見上げると、よく晴れた夜空よりももっと澄んだ漆黒の双眸で見下ろして、それから…唐突にキスしてきたんだ。

「ん!?…んぅ、…ッざわ……やめッ」

『ったく、ホトホト悪魔に好かれるヤツだよな、お前って…で?アスタロトは良くて、オレがキスするのはダメなのかよ??』

 ムスッとするルシフェルに、今はそんなこと関係ないだろと言いたいのに、それでなくても長時間責め苛まれていた身体は思うように力も入らないし、怒鳴るだけの気力もない俺が恨めしげに睨み付けると、今まで見た悪魔の中では最高に綺麗な顔のルシフェルはニコッと笑って、俺の濡れた唇をペロッと真っ赤な舌で舐めやがったんだ。

『…ねぇ、そろそろ理由を教えて欲しいんだけど?』

 セックスを邪魔されて思い切り不機嫌そうに、既に衣服を身に着けているアスタロトが腕を組んで唇を尖らせて言うと、俺を抱きかかえているルシフェルが肩越しに振り返って、肩を竦めるとニヤッと笑ったんだ。

『まあ、簡単な話。オレも恋敵ってヤツさ』

「はぁ!?』

 思わずアスタロトとハモッてしまったんだけど、ルシフェルはクックック…ッと笑ってから、『冗談だ』と、全く笑えない真顔でフンッと傲慢そうな眼差しで言い放ったから、俺は余計に目をパチクリさせてしまった。
 コイツって…

『灰色猫から、レヴィの記憶がないこと、光太郎がアスタロトに犯されてることを聞いてさ。まぁ、駆け付けたってワケだ』

『ああ、そっか。ルシフェルはレヴィアタンと仲良かったもんね』

 半信半疑、まさか悪魔が知り合いの為だけに駆け付けるワケがないと知っているアスタロトは、いまいち信じられないと言ったように眉を顰めはしたものの、それでも頷いて見せた。

『そう言うこと。それこそ、悪友のためなら一肌脱がなきゃいけねーだろ?』

 ルシフェルが最もそうにニヤッと笑うと、アスタロトは呆れたように肩を竦めて見せた。

『第一階級の悪魔たちに惚れられてる光太郎にも興味あるけどぉ、あのレヴィアタンの記憶を失くさせた犯人ってのも気になるところだよな~』

『じゃ、協力しろよ。お前もさ』

 何かを企んでいるような表情でルシフェルがニヤッと笑うと、何か不吉なものでも感じたのか、アスタロトはうんざりしたように頬を引き攣らせた。
 いや、アスタロトじゃなくても、やっぱりこのシーンでは誰もが頬を引き攣らせてると思うぞ。
 現に、大悪魔として名高いルシフェルの、その酷薄そうな冷ややかな微笑を見ていると、胸の奥がざわめいて、何かとんでもないことを垣間見そうな嫌な予感がするから、ついつい目線を逸らしたくなってしまう、でも、蛇に睨まれた蛙と一緒だから目線なんか逸らせるはずもない、諦めて頬を引き攣らせるぐらいの抵抗しかできない…とまあ、そんな感じだな。

『…何をするつもり?』

『あれ?お前が光太郎に教えたんだろ。城から少し行ったところにある魔の森の、その開けた丘の上に建つ魔女の館、そこに棲む陰険な魔女から【約束の花】を奪い取る…まぁ、こんな筋書きじゃなかったか?』

 ルシフェルはまるで俺たちの会話を最初から聞いていた、とでも言わんとばかりの口調で、知った風にニヤリッと笑ったんだけど、その存在に少なからず気付いていたのか、アスタロトは肩を竦めて、どうやら本調子を取り戻したようだった。
 ん?いや、でも待てよ。

「篠沢、その計画はちょっと違うぞ。だって、丘の上に咲く【約束の花】だ。魔女なんていないよ」

 尤もそうに頷いてエヘンッと胸を張ると、俺を見下ろすこの世のものとはとても思えないほど完璧な相対を持つ双眸は、ハッキリと呆れた色を見せて眉をヒョイッと上げやがったんだ。

「む、なんだよ、その表情は」

 明らかに馬鹿にしてるだろ。

『…あのなぁ、光太郎。もうね、ホントにお前って悪魔に騙されて身包み剥がされた挙句、骨の髄まで犯されて、そのまま悪魔に囲われちまう性格だよなぁ』

「…なんだよ、そのあからさまに馬鹿にした回りくどい言い方は」

 俺がムッとしてルシフェルを睨んでやると、ヤツは思わずと言った感じでプッと笑って、何処から出したのか判らない真っ白のシーツを全裸の俺の上にふわりと掛けやがったんだ。
 どうも、話を逸らそうとしてるんじゃないだろうな??
 むむむ…ッと、眉根を寄せていると、ルシフェルのヤツはクスクス笑って、俺の色気もクソもない黒い髪に頬を摺り寄せてきた。

『やっぱりさぁ…お前、可愛いんだよ。前に灰色猫にお前を襲うようにお願いされた時は興味本位だったけど、今はバッチリ本気モードって知ってた?』

「はぁ?」

『嫌だ!あの地獄の大悪魔たるルシフェル様が人間の、それもこんなフツーの男の子にマジになってるだと??信じらんなーい!』

 アスタロトの黄色い声なんかまるで無視して、ルシフェルは、あれほど怖いと思っていた研ぎ澄まされた美貌の中で、凛然と煌く双眸を信じられないことにやわらかく細めて、綺麗な唇を頬に寄せてきたんだ。

『レヴィが惚けてる間に、さっさとお前を貰っちまおうかな?』

「い・や・だって言ってんだろ!?俺は、レヴィ以外のヤツを好きになったりしないッ」

『…とか言って、アスタロトには易々と抱かせてたくせにさぁ』

「うッ!!!」

 図星をさされちまったワケだが、アレには事情があるんだ。
 記憶を取り戻すことができるかもしれない情報を得るためなら、レヴィの為なら、俺のこんな身体ぐらい幾らだって差し出してみせらぁ!!
 ムキーッと顔を真っ赤にして言い返そうと思ったんだけど…よくよく見上げてみれば、ムッとしたように、らしくもない子供っぽい仕種で唇を尖らせているルシフェルの顔を見た途端、必死の言い訳がなんだか馬鹿らしくなっちまって…そんな風に、よく知っている篠沢の雰囲気を出されてしまうから、思わず、ホッとして笑っちまったじゃねーか。
 お前がここに来てくれて、良かったって思う。

『ふん!光太郎はいつも余裕だよな。この大悪魔ルシフェルさまをヤキモキさせるのなんか、お前だけなんだぞ』

「それは、まあ。光栄ってことでいいのかな?」

『知らねーよ』

 フンッと外方向くルシフェルの子供っぽい仕種に、アスタロトが背後で目を真ん丸くしていたんだけど、それを見るよりも先に、足許で「にゃあ」と声がして、俺は純白のシーツに埋もれながらもハッとして、慌てて足許で蹲るようにして座っている灰色の猫を見たんだ。

「灰色猫!お前、何処に行って…」

『お兄さん、元気そうで良かった。でも、当分は歩けそうもないね』

 灰色猫はあの、お洒落な貴公子然とした格好はしていなくて、ただの猫の姿で俺を見上げてくれた…んだけど、猫の顔だからなんとも言えないんだが、その表情は何処か疲れているように見えるぞ?

「灰色猫…お前」

『光太郎は灰色猫に感謝するべきだ』

 何を言おうとしていたのか、今となっては判らない言い掛けた言葉を遮るようにして、ルシフェルが俺を抱き上げたままの姿で静かに言ったんだ。

「え?」

 意味が判らなくて首を傾げていると、何か言いたそうに黄金色の双眸を細める灰色猫を見下ろしたくせに、ルシフェルは傲慢そうに顎をクイッと上げて、シレッと言い放った。

『お前は何も知らなさ過ぎる。この魔界において、情報収集は身命を削る思いなんだぜ?それを、わざわざ人間界にまで降りてきて俺を呼んだすぐ後に、【約束の花】の情報を掻き集めていたんだ。それこそ、今の灰色猫の方がヘトヘトなんじゃねーのか?』

「…灰色猫」

 ルシフェルの台詞で、俺はなんとも言えない…嬉しいような、悲しいような、こそばゆいような…そんな気持ちで、あんまりにも小さすぎる灰色猫の顔を見下ろしていた。
 ああ、そうか。
 それでお前、そんなに疲れた顔をしていたんだな。

『嫌だなぁ、お兄さん。これは全てご主人の為にしていること。使い魔の仕事ですよ』

 クスッと、灰色の、それこそ草臥れている猫は小さく笑って、俺に心配をかけないように十分配慮した声音でそんなことを言ったんだけど、そんなの、嘘に決まっている。
 なぜなら、レヴィは俺を、アスタロトにやると言ったんだ。それも、ヴィーニーとか言う、お気に入りの奴隷と交換で。
 それを知っている灰色猫なんだから、本当ならわざわざルシフェルを呼ぶ必要も、【約束の花】の情報を嗅ぎ回ることもなかったはずだ。
 灰色猫は、馬鹿だ。
 すげー、馬鹿だ。

「…ありがとう」

 それでも、俺の口から漏れたのは、そんな在り来たりな言葉だった。
 悔しいなぁ、もっと、この気持ちを灰色猫に伝えられたらいいのに…

『やめなよ、お兄さん。お礼なんて、言われるガラじゃないよ』

 ほんの少し、照れ臭そうに笑った灰色猫の、そのヒゲがピンピンの頬の辺りに落ちる影が、何処か草臥れているような気がして、俺の心臓はズキリと痛んだ。

『…素直に礼を受け入れておくことだ。人間なんか冗談じゃないんだろうが、それでも、光太郎だけは特別なんだろ?』

 ルシフェルに促されて、灰色猫は一瞬、キョトンッとしたような大きな瞳で俺を見上げたんだけど、やっぱり、少しだけ照れ臭そうな顔をしてクスッと笑った。

『…ん~、どうでもいいんだけど。光太郎って何者なの??』

『どうでもいいんなら聞くな』

 ツーンッと高級な猫のように取り澄ました顔で外方向くルシフェルに、アスタロトが内心で『この野郎…』と思ったことは間違いないんだろうけど、それでも、すっ呆けた悪魔は素知らぬ顔で、食い下がるんだよな。

『レヴィアタンの想い人…ってだけで、貴方たちはそこまで肩入れするのか?判らないな』

『…レヴィの想い人だからこそ肩入れするのさ。第二階級の悪魔如きでは、その理由など判りはしないんだろうな』

 俺を抱き上げたままで、肩越しに振り返ったルシフェルはそれだけを言うと、灰色猫を促してサッサと部屋を後にしてしまったんだけど…『第二階級の悪魔』と蔑まれたワリにはそれほど傷付いた様子でもないアスタロトは、何処か割り切れない思いでもあるのか、腕を組んだまま顎の辺りを人差し指で擽りながら、訝しげにソッと見事な柳眉を細めたようだった。
 それを確認することもできずに俺は、颯爽と歩くルシフェルに抱えられると言うあまりにも目立つ姿のままで、何も言えずに唇を噛んでいた。
 【約束の花】が本当にあるのなら、見つけ出してどうか…レヴィの記憶を取り戻したい。
 それが俺の、揺ぎ無い願いだった。

第二部 5  -悪魔の樹-

 アスタロトに導かれるままに、曲がりくねった回廊を進む俺たちの後を、灰色猫は無言でついてきていた。なぜ、灰色猫がついてくるのか、不審に思ったアスタロトが眉を顰めて尋ねてみても、小さな猫は大きな金色の瞳で俺を見上げるだけで、派手な悪魔の問い掛けには答えない。
 それでも、別に気を悪くもしていないアスタロトは、大きな扉の前で立ち止まると、うっふんと色っぽい眼差しで灰色猫を見下ろすと、俺の頬に頬擦りしながら蠱惑的に笑いやがった。

『ついてくるのは構わないんだけどぉ…ねぇ、ベッドの中まで覗くつもり?』

『…アスタロト様、レヴィアタン様はああ仰いましたが、どうかその奴隷だけはお許しを…』

 灰色猫らしくない弱々しい声音に、ベッドの中と言う単語が脳内をグルグルしている俺は気付かなかったんだけど、アスタロトは訝しそうに綺麗に整えている見事な柳眉をソッと細めたんだ。

『…灰色猫タン。君、どうしたの?やけにこの子にご執心ね』

『どうか、アスタロト様』

 取り澄ました表情であるはずの猫は、まるで切迫したように胸元で小さな両前足を拝むように合わせて、必死に怠惰な生活を好んでいそうなチャンランポランっぽいお惚け悪魔を見上げている。

『理由を聞かないと…考えることもできないじゃない?何か、あるんじゃないのか??』

 灰色猫はその台詞に、チラッとだけ俺を見たけど、俯くように目線を一瞬落としてから、思い切ったように顔を上げて頷いた。

『お兄さんは、レヴィアタン様のご主人さまなのですよ』

『…はぁ?』

 そりゃ、その反応は頷ける。
 『冗談を言うにも、もうちょっと面白いのじゃないとね~』とでも言いたそうに、灰色猫らしからぬ茶目っ気たっぷりの冗談だとでも思ったのか、アスタロトは肩を竦めて呆れたように溜め息を吐くと、腕の中で息を呑むようにして事の成り行きを見守っている俺を見下ろして、仕方なさそうに頬にやわらかくキスしてきた。

『人間がレヴィアタンのご主人って設定、見たい気もするけど、本人の前で言ってはダメだよ。アタシ、灰色猫タンってチョーお気に入りなんだから。死んで欲しくはないワケよ』

『冗談でも嘘でもありません。お兄さんとご主人は【悪魔の樹】の契約で結ばれた主従関係にあるのです』

『悪魔の樹!?…嘘ん、それなら信じちゃうけど。えー、君、それホントなの??』

 ヒョイッと、切れ長のクセに程よく垂れた、憎めない目付きで覗き込まれて、俺は動揺を隠さないまま頷いて、それから目線を伏せてしまった。
 たとえそれが本当のことであっても、今のレヴィには、俺のことなんか何一つ判りはしないんだ。

『ふぅ~ん。でも、さっきはケロッと手放してたじゃない。レヴィアタンは魔界一、嫉妬深い悪魔なのよ?そんなに大事なご主人を、そう容易く手放すのかしら??』

『それは…』

 言い淀む灰色猫の語尾を攫うようにして、ムゥッと唇を尖らせているアスタロトの顔を見上げながら口を開いていた。

「レヴィには、どう言ったワケか俺の記憶がないんだ」

『え?』

 唇を噛み締める俺を見下ろしていたアスタロトは、何かを考え込むように顔を上げて小首を傾げていたけど、何か合点がいったのか、頷きながら灰色猫と俺を交互に見ながら言ったんだ。

『なるほど~。つまり、レヴィアタンは何かの影響で記憶を失くしたワケで、彼を心配してわざわざご主人様が魔界に乗り込んできた~ってワケね』

『そう言うことなのです』

 神妙な目付きで見上げる灰色猫に、アスタロトは興味深そうに笑って、それから俺の頬にまたしてもキスしてきたんだ!
 俺はレヴィのご主人さまなのに、アスタロトはそんなこと、ちっとも気にした様子もなく、呆気に取られている灰色猫の前で、俺の灰色のローブを弄り始めたんだ。

「なな、何を…ッ!?」

『何を…って、ご主人が奴隷の身体を触って何が悪いの?』

「はぁ!?」

 いったい、何を聞いていたんだ、この能天気クルクルちゃらんぽらん悪魔は!
 俺はレヴィアタン、海王リヴァイアサンのご主人なんだぞ!?どうして、アスタロトの奴隷なんかにならないといけないんだ!!
 顔を真っ赤にして激怒してしまう俺の傍らで、困惑したような表情をする灰色猫に、レヴィと同じように古風な衣装に、それこそ女でもそんなにはつけていないだろうって思えるほどのアクセサリーをジャラジャラつけているアスタロトは、濃紺の巻き髪を掻き揚げながら事も無げに笑った。

『あらぁ?だって、件のレヴィアタンがアタシにこの子を奴隷としてくれたのよ。たとえ、記憶のないレヴィの判断とは言っても、言動には行使力が働くんだ。アタシだってヴィーニーを手放して、結構痛手があるんだから権利ぐらいはあるわよ』

『アスタロト様!』

 うふふんっと、上機嫌で笑いながら、灰色ローブに包まれている俺の身体を触り散らすアスタロトに、灰色猫はポカンッと一瞬、呆れたように呆気に取られていたけど、ハッと我に返ると、思い切り脱力したように溜め息を吐いた。

『…ご主人が記憶を取り戻したとして、その後どうなっても知りませんよ』

『いやん、怖い♪でも、こっちはヴィーニーを貸してるんだから、味見ぐらいするわよーだ』

 クスクスと笑って、それほどレヴィアタンを恐れてはいないアスタロトは、それだけ言うと俺を抱えたままで大きな扉から室内に滑るようにして入ると、そのまま灰色猫の鼻先でドアをバタンッと締めてしまった。
 灰色猫はまだ何かを言っているようだったけど、室内に入ると同時に問答無用で口付けてきたアスタロトに、俺は目を白黒させながら濃厚なキスに頭をクラクラさせて、腰に力が入らない恐怖に何かに縋り付きたくて、気付いたらアスタロトの背中に腕を回して抱き付いていた。
 歯列を割って潜り込んできた肉厚の舌は、まるで俺を翻弄するように逃げる舌を追い駆けて、気付けば身体ごと絡め取るような激しさで絡みつくと、軽く吸ったり、悪戯に噛んだり…思うさま、俺を味わっているようだ。

「ぅ……ん、ァ……ハ…ッ」

 息も絶え絶えのようにキスに翻弄される俺の、灰色ローブを思い切り捲り上げて、その下に隠れているTシャツとジーンズに一瞬、気を取られた隙に、俺は慌ててアスタロトの唇から逃れようと、背中に回していた腕を突っ張るようにして顔を背けてやった。

『レヴィアタンのご主人だって?ふふ、可愛いご主人さまだね』

「く…ぅんッ!……ふ、ざけ…るなッ」

 逃げ出そうとする身体はすぐに押さえつけられて、乱暴に睨み据えると、アスタロトは愉しそうにクスクスと笑って、捕らえた俺の身体を抱き上げて、そのまま豪奢な天蓋付きのベッドに放り投げたんだ!

「ぅわ!…わ、わわ…ッッ」

 スプリングが良く効いているせいで、反動で跳ねてしまう俺の身体に、可笑しそうにベッドに上がってきたアスタロトが覆い被さってきた。
 うう、どうもコイツは、このおネェ系悪魔は、どうやら本気で俺を抱くつもりのようだ。

「や、嫌だ!…やめ…」

『ううん、辞めないのよ♪だって、君ってさぁ、アタシの好みにドンピシャなんだもん』

 うわぁぁ…嫌なヤツの好みにドンピシャしちまったよ。
 キスしてこようとする唇から、なんとか逃れようと顔を背ける俺に、焦れもしないアスタロトは嬉しそうにクスクスと笑って耳の穴をベロリと舐めると、そのまま耳朶をパクンッと甘噛みなんかしやがったんだ!

「ん!」

 思わず、耳を塞ぎたくなるような声を出してしまって、真っ赤になった俺が唇を噛み締めて、ギュッと双眸を閉じていると、アスタロトは忍ぶようにクスクスと笑うから、俺の羞恥心は余計に煽られてしまう。
 クソッ、なんとか、なんとか逃げ出さないと…

『ねぇ、名前教えてよ?別に契約するワケじゃないんだし、名前ぐらいいいだろ』

「…」

 誰がお前なんかに、そんな意味を含んだ目付きで睨みつけたら、垂れ目の憎めない綺麗な顔をした悪魔は、ウフンッと蠱惑的な笑みに揺れる紫の双眸で覗き込んでくる。
 その目を見詰めてしまったら…流されそうになる心を叱咤するつもりで唇を噛んだら、ギリッと強い力で唇を噛み切るつもりだったのに、すぐにアスタロトに止められてしまった。

『なんてことする人間だろうね?そんなに、アタシに名前を知られるのが嫌?それとも、抱かれること??』

「どっちもだ」

 ベッドに押さえ付けられたままで見上げるアスタロトは、どう言う仕組みになっているのか、天蓋からハラハラと散る花びらを緩やかな濃紺の巻き髪で受け止めながら、ちょっと悲しそうに笑うんだ。
 どんな時でも、よく笑う悪魔だと思う。

『酷い~…どうせ、レヴィアタンだって今頃はヴィーニーを抱いているのよ?』

「うッ」

 痛恨の一撃宜しく、思い切り嫌なことを思い出させる台詞に、俺は唐突に現実を叩きつけられたような気がして項垂れてしまった。
 が、だからと言ってだ!してやったり顔で北叟笑むアスタロトの思い通りになるかと言うと、もちろん、んなワケはない。
 どっちにしても、レヴィ以外のヤツに抱かれるなんて冗談じゃない!

「は、離せ!」

『あらん。なんだ、もうちょっと傷付くかと思ったのに…でも、まあいいわ。アタシに名前を教えて大人しく抱かれるんなら、レヴィアタンの記憶に関していいことを教えてあげるんだけどな~』

「え!ま、マジ??」

『マジマジ♪』

 俺を力任せに組み敷いて、その気十分で下半身を摺り寄せてくるアスタロトの胡散臭い笑顔を見上げながら、俺は果たしてこの悪魔の言葉を信じていいものかどうか首を傾げてしまう。
 悪魔は嘘吐きだから…でも、信じられる悪魔も、確かにいるんだけど。

「…光太郎」

 ポソッと呟いたら、よく聞こえなかったのか、アスタロトは眉を顰めながら、それこそ鼻先が触れ合うぐらい顔を近付けて、まるでキスする寸前のような奇妙なシチュエーションで『よく聞こえないよ』と囁いた。
 だから、今度はもう少しハッキリと。

「光太郎。俺の名前は光太郎だ…でも、抱かれるかどうかは、お前の情報次第だな」

『…悪魔と取引しようなんて、アタシの光太郎は可愛らしいね』

 アスタロトは気分を良くしたのか、俺の額に口付けてから、その唇で俺の瞼、頬、首筋にチュッチュッと湿ったような音をたててキスしながら、淡々と話し始めたんだ。
 どうも、抱かない、なんてことは一切考えていないんだろうな…俺、レヴィの記憶のためなら、とか、自分の気持ちを隠しながらアスタロトに抱かれてみようとか、思ってる自分に驚いた。
 あの時のレヴィの姿が目に焼きついていて、そのせいで、脳内が焼き切れるほど…嫉妬してる。
 この感情はレヴィの専売特許のはずなのに、俺は性感帯を爪弾くように唇で暴いていくアスタロトのキスに軽く息を吐きながら、諦めたように花びらが降り注ぐ天蓋の天辺を見上げていた。

『レヴィアタンの記憶を取り戻すためにはね…この城から少し行ったところに魔の森があるのよ。その森には開けた丘があって、その丘に一輪だけ咲く、【約束の花】があるんだ』

「んぁ…ふ……ぅん…は…な…ッ?」

 アスタロトの指先が辿る端から服が消え失せて、気付けば全裸になっていた俺の胸元の肌よりも少し色素の薄い乳首をペロリと舐めて、俺を喘がせたアスタロトは、大人しくなってしまった自らの奴隷に気を良くしたのか、それとも退屈だと思ったのか、どちらにしても、その悪戯な指先は遠慮も躊躇いのなく俺の股間に伸ばされた。

「あ!…んッ」

 ハッと目を見開いてアスタロトを見る。
 ヤツは、クスクスと悪戯っぽく笑いながら、俺の顎に口付けてゆっくりと形作る陰茎に指先を這わせたんだ。
 そこは、きっと、まだレヴィしか触れたことがない。
 そんなこと、脳内で意識するよりも先に、身体が抵抗を示していた。
 嫌だ!…と、逃げ出そうとする身体は難なく無情な悪魔の下敷きになって、先走りがたらたらと漏れ始めた陰茎に、我が物顔で纏わりつく指先が怖かった。

『ふふ…やらしい声だね。アタシ、光太郎とどうしてもセックスしてみたいから、ちゃんとお話してあげるわよ。どこまで話したかな?そうそう、【約束の花】だ』

 アスタロトはそれでなくても暢気な喋り方をする男で、コトの最中だってのに、まるで涼しげな笑顔で俺を翻弄しようとしている。それに負けないように、必死でアスタロトの口から紡ぎ出される言葉に耳を傾けていた。
 その間にも、悪戯な悪魔の指先は煽るように先走りに滑る先端を指先でグリグリと弄っては、ビクンッと震える腿の辺りを空いている方の熱い掌で撫で上げたりするから…俺、顔を真っ赤にしたままで、どんな顔してりゃいいんだよ!?

『その花は満月の夜にだけ花開くから、願いを込めて摘むんだよ。そうしてそれを、上手にレヴィアタンに煎じて飲ませてあげるの。そうすれば、レヴィアタンの記憶はきっと、蘇ると思うわ』

 淫靡な笑みを口許に浮かべたアスタロトの濡れた唇が、気付けばキスを強請っているから、俺は震える瞼を閉じて濃厚な口付けを受け入れた。
 陰茎を思うさま弄られて、それでなくてもレヴィが教え込んだ身体は、たとえそれがレヴィではなくても、やっぱり素直に反応して、俺に自己嫌悪を植え付けていく。でも、それ以上に、俺は胎内でムクリと首を擡げる凶悪な劣情に身悶えして、まだ衣服すら乱していないアスタロトの下半身に、自らの下半身を摺り寄せてしまうと言う痴態を演じてしまった。
 ああ、穴があったら入りたい!

『男を誘う術を誰に習った?ああ、レヴィアタンね。彼、とっても上手でしょ??』

「ふ…んん……ッ、や、ああ…」

 ゆっくりと根元から先端部分にかけて、揉み拉くようにして陰茎の皮を剥いたり窄めたりして思うさま扱いてくれるんだけど、それだけでもイッてしまいそうになる俺の、ビクンッと痙攣しては爪先を突っ張る片足を持ち上げて、アスタロトは漸く興奮したように吐息を吐いて、震える腿に口付けた。

『ねぇ、もう挿れてもいい?アタシ、早く君を犯してみたい』

 明け透けな物言いに目許に朱を散らした俺は、強烈な快感に虚ろになる双眸で、期待に揺れる情熱的な紫の双眸を見据えて唇を噛んだんだ。

「そんなこと、普通、聞くかよ…ッ」

『あは♪それもそうだね。心の準備はオッケーってワケ?』

 今更…心の準備もクソもないような、両の足首を掴まれて大きく割り広げられている、こんなあられもない姿で「準備するまで、待って♪」なんて、この俺が本当に言えるとでも思ってんのか、この惚けた悪魔は!
 その軽口を叩くのほほんとしてそうな悪魔を睨み据えたら、それとほぼ同時に、まるで灼熱の杭をオブラートで包んだような、なんとも言えない感触の先端部分がぬる…っと、弄られもせずに既にヒクついている、どうやら淫乱な窄まりに押し当てられて、俺は思わず息を呑んでしまった。

「あ…あ……や、嫌だッ」

 条件反射で両手を突っ張るようにしてアスタロトの身体を押しやりながら、今まさに、唯一男が男と繋がるために使われる器官に、悪魔の逞しい屹立が潜り込もうとヌルヌルする先端で入り口を擦っている様をまざまざと見せ付けられて、思わず悲痛な声が漏れてしまう。
 信じられない目で見詰めながら、気付けば朱に染まる頬にポロポロと、どうして泣いているんだかまるで見当もつかないんだけど、零れる雫をアスタロトが唇で拭ってくれる。

『うふふふ…怖いの?』

「ちが…ぅぅ…や、やっぱり、それだけは…嫌…だッ」

 お願いだから、これ以上は…だって、俺の全てはレヴィのモノで、生涯、レヴィしか愛さないって約束したのに…どうして、俺はのこのことこんな得体の知れない悪魔に抱かれようと、身を任せようとしちまってるんだ!?

『あら…なぁに?情報だけ聞いて、後はお預けってワケ??それはちょっと、悪魔にも劣るんじゃないのか』

 アスタロトがのほほんと笑う。
 その顔が、やっぱり悪魔だ、凄みがあって震え上がってしまう。
 それでも、俺はカタカタと震えながら、ポロポロと涙を零して首を左右に振っていた。

「ちが…そうじゃッ、ないんだけど……俺、レヴィを…」

 やっぱりさぁ、裏切りたくないんだ。
 やわらかくキスする白い悪魔の、あの優しい包み込むような眼差しを…その瞳に見詰められるだけで、あの桃のようないい匂いに包まれるだけで、あんなに幸せで幸福だった。その白い悪魔が愛してくれるこの身体を、傲慢な我侭かもしれないんだけど、俺は大事にしたいと思ってしまったんだ。

『挿れちゃえば、楽なのよ。大丈夫、レヴィアタンを呑みこめる君だものね♪』

 それなのに、無慈悲な悪魔は一瞬呆れたような顔をしただけで、ペロリと唇の端を舐めながら、抜け抜けとそんなことを言いやがった。

『怖いんでしょ?』

「だ!……んなこと、言ってな…んぅッッ!……ひぃっ」

 思わず睨みつけようとした矢先、先端部分がグニッと潜り込んできて、俺は思わずめいいっぱいに双眸を見開いてしまった。
 見開いた目尻から涙が一滴零れると、嬉しそうにアスタロトが唇で拭ってしまう。

『レヴィアタンを裏切りたくないって?判ってるんだけどさぁ…ほら?彼だって今、ヴィーニーと愛し合ってるワケだしぃ』

 ああ、どうしてこんなことになっちまったんだろう。
 俺は、ただ、レヴィを…レヴィにもう一度逢いたくて…でも、レヴィは今、他の誰かに愛を囁いてるのに。
 アスタロトは心の深いところを抉るような口調で、ニヤニヤと平気で囁いてくる。
 これがホントの悪魔の囁きってヤツだな…とか思ったら、こんな状況なのに俺、馬鹿みたいに両手を組んで顔を隠しながら笑っていた。

『…光太郎?』

 なんでも余裕のアスタロトでさえ、一瞬訝しそうに眉を寄せるぐらいだ。今の俺は、十分、ちょっとヤバイ人になってるんだと思う。それでもいい、いや、だからこそ、いいのかもしれない。
 ポロポロ、ポロポロ…涙が零れる。
 こんなに悲しいのに、こんなに悲しいのなら、いっそ、何もかも俺の方が忘れてしまいたい。

「ち、くしょう!クソ…ッ!よし、挿れろよ、アスタロト!おう、望むところだ、コンチクショーッ」

 両足を抱えられたままで泣きじゃくるのも癪だったし、何より、同じ場所にいて、違う誰かを喜んでレヴィが抱いているのかと思うと、その意地だけで吐き捨てたような気がする。
 そう考えていないと、俺自身、あんまり滑稽で馬鹿で、哀れなんだと思う。

『ホント?嬉しい』

 嬉しげにエヘへッと笑うアスタロトの本当に嬉しそうな顔を見たら、ふと、こんなに綺麗で、望むものならなんでも手に入りそうな、のほほんとしてるクセに品のある悪魔は、俺の何処をそんなに気に入ったって言うんだろうと首を傾げたくなった。
 レヴィにはない、何処か思い詰めたような寂しげな紫の双眸を見詰めていたら、こんな時なのに、灰色猫の言葉が脳裏に響いていた。

[魔界はとても、寂しいところだからね]

 どんな寂しさを持っているんだろう…アスタロトも、そして、この魔界にいる悪魔たちは。 人間なんかじゃ計り知ることのできない寂しさの中で、ぬくもりを求めるようにして、人間の奴隷を傍に置くのか?
 …そっか、そうだよな。
 悪魔はけして人間を好きにはならないし、人間も悪魔を憎む…灰色猫の言っていたことって、本当はこの現実を言葉にしていただけなんだ。
 今だけ、許されるように…俺は悪魔を憎まないでおこうと思う。レヴィもアスタロトも、悪魔として当然のことをしているんだし、要求した者への見返りは当たり前なんだと思う。
 それを求めない灰色猫は、だから、本当はアイツこそこの魔界には不似合いな使い魔だ。
 寂しさとか、やり場のない怒りだとか…そんなものがどす黒く渦巻くこの魔界の中で、俺は寂しそうに笑う白い悪魔の幻を追うようにして両腕を伸ばしていた。
 縋りつくようにして首筋に抱きつく俺に、アスタロトはちょっと驚いたようだったけど、そんな俺の背中に、思うよりも逞しい腕を差し込んで、少し腰を浮かすようにさせてからゆっくりと自身を、アスタロトの先走りで滑る窄まりに押し当てて、そのままグッと潜り込ませてきた。

「!……ッ…ぅ」

 痛みは…やっぱりあるけど、狭い俺の後腔にゆっくりと巨大な灼熱の欲望を捩じ込んだアスタロトは、そのままギュウッと抱き締めてきたから、ちょっとビックリした。
 クラクラ眩暈がするほどの快感は、レヴィが心行くまで教え込んでくれたことだけど、このセックスはなんて言うか…ちょっとだけ、切なくて寂しいなぁと思う。
 だから、俺は我侭を言う何も知らない処女のように、「どうにかして欲しい」と言ってせがむんだ。
 だって、こうでもしないと、このままアスタロトの持つ寂しさに飲み込まれてしまいそうで、それが怖くて腰に力を込めていた。

『…ッ!なんだ、十分その気だったんじゃない』

「あ!」

 ずる…っと、まるで視覚できるような音を立てて腰を引いたアスタロトは、それから、ベッドを軋らせるほど激しく貫いてくるから、俺は馬鹿みたいに、壊れた人形のように「あ」を連発してしまった。
 言葉にできない、そんな恐怖に、思わず逃げ出しそうになる俺の腰を掴んで、アスタロトは強い力で引き戻すと、まるで逃げる隙なんか与えてもくれない。

「…くふぅん!……ク…ぁ、ぁあ……ッ」

 胎内でふっくらと膨らんでいる部分に、巨大な灼熱の先端がゴリゴリと押し当てられて、俺は傷みと快楽の綯い交ぜした快感に陶然として、強請られるままに口付けを交わしていた。
 離れていくアスタロトの舌に絡んだ銀色の糸が、キスを追う俺の舌とを結んで、嬉しそうな悪魔の顔がとても淫らで、突き上げられる腰の動きに反応して、胎内で燃え上がる快楽の火にさらに油を注いでくれるから堪らない。

『ふふふ…感じやすいんだね。レヴィアタンはどうして、こんなに可愛い君を忘れてしまったんだろう…』

 グイッと奥まで突き上げるようにして上体を倒すと、汗に張り付いた俺の前髪を掻き揚げながら、アスタロトは何故か、見事な柳眉をソッと細めて、綺麗な紫色の双眸を瞼の裏に隠したままで額にキスしてくれる。
 縋るものはもう、こんな風に攻め立ててくるアスタロトしかいないから、俺は生理的な涙が浮かぶ双眸を閉じて惚けた悪魔の背中に腕を回していた。
 身体の、もっと奥深くまで貪欲に飲み込みたくて、知らずに腰を揺らしていたらしい俺の身体の隅々までを丁寧に、まるで地図でも描き出すような仕種で快感の在り処を暴き出そうと、繊細な指先が辿る傍からゾクゾクと腰を貫く悦楽にヒクつく窄まりにキュッと力が入ってしまう。
 それを狙うようにアスタロトが思う様貫いてくるから、俺は既にはちきれんばかりに陰茎を勃起させて、先端からだらだらと先走りを吹き零しながら、「もっともっと…」と身悶える。

『ああ…どうしよう。アタシは君を忘れられなくなりそう』

 こめかみから零れた汗が頬を伝って顎から零れ落ちると、そんなささやかな感触にすら震えるほど感じてしまう俺には、アスタロトが何を言っているのか、何が言いたいのか、もうよく判らなかった。
 それよりも、もっともっと奥まで、思い切り大きな灼熱の棍棒で、俺の最奥を貫いて抉って…思う様堪能してくれたらいいのに。
 そうしたら、今だけは、悲しい記憶を忘れていられる。
 俺は、縋るようにアスタロトにしがみ付いて、許されはしないんだろうけど、愛に似たような言葉を囁いていたと思う。
 抱き締めているこの存在が、どうしてだろう、全く姿も形も違うと言うのに、俺に白い悪魔を錯覚させる。
 あの、包み込むようなムッとする桃に似た甘い陶然とする匂いすらないのに…どうして…
 そんな俺を掻き抱くように抱き締めたアスタロトの欲望の在り処が一瞬、大きく膨らんだ気配がして、訪れるだろう熱い飛沫の衝撃に堪えようと瞼を閉じた。
 閉じた瞼からポロリ…ッと零れ落ちたのは、大好きな人への悲しい溜め息に似た、涙。

第二部 4  -悪魔の樹-

『この城内は亜空間になっていてね、実に6万人以上の悪魔や人間の奴隷どもが生活しているんだよ』

 その、想像を遥かに超えた桁に、一瞬、我が身を疑ってみたものの、貴公子然としてツンッと顎を上げている灰色猫の自信に満ちた表情を見ていると、どうも強ち嘘ではないんだと信じられた。
 悪魔を信じるってのもどうかしてるんだけど、灰色猫は使い魔だし、こんな胡散臭い場所で唯一信じられるヤツと言えば、唯一、人間のお願いを聞いて白い悪魔に導いてくれるお人好しな灰色猫しかいないだろ。
 悪魔だろうが人間だろうが関係ない。
 今は、レヴィに導いてくれる灰色猫だけが、信用できる。
 取り澄ました猫の表情をして悠々と先を歩く灰色猫の小さな背中を追いながら、俺は人間界(?)から抱えてきたリュックを大事そうに胸元でギュッと抱き締めたまま、長い回廊を忙しなく行き交う、凡そ人間とは到底思えない、二足歩行の化け物に度肝を抜かれながら見守っていた。
 中には、牛のような頭部を持つ奇妙な肌の色をした悪魔らしい悪魔にその華奢な腕を引っ張られて、泣きながら歩いている人間の少年もいて、その姿に呆然と足を止めてしまった俺を心配したのか、その小さな肉球からでは想像できない、思う以上の力強さで腕を引かれて俺はハッとした。

『お兄さん、よくお聞き。立ち止まってはダメだよ。何を見ても、何を聞いても、お兄さんが思い描くのはご主人のことだけでいいんだから』

 金色の双眸を細めるようにして言ってから、灰色猫はまたしてもツンッと取り澄ました表情で歩き出すから、俺は既に背中を向けている灰色猫に頷きながら、改めてリュックを抱え直すと歩き出した。
 あの少年は、いったい何処につれて行かれるんだろう?
 灰色猫は、魔界にいる人間は、悪業を背負って後悔ばかりしている人間の奴隷だけだと言っていたから、あんなに幼い少年でも、何か悪いことをして、いまさらそれを後悔しているんだろうなぁ…子供なのに、悪魔って連中は容赦がないんだな。
 ちょっと理不尽にムッとしていたら、不意に灰色猫が足を止めたから、俺はその小さな身体に蹴躓かないように慌てて足を止めて、そのまま灰色フードに顔を隠したまま、まさかいきなり正体がバレたんじゃないかとか、そんなあらぬ心配に心臓をバクバク言わせながら、何事が起こったのかと耳を欹てていた。

『これは…アスタロト様。御機嫌よう』

 灰色猫は豪く畏まって、まるで貴族がするように、腹の前に手を当てて、片手を広げながら優雅にお辞儀をすると、長い尻尾がピンッピンッと左右に揺れた。
 緊張しているのか、それとも、とても仲が良くて懐いているのか…猫の行動って傍で見ていても良く判らないんだよな。

『あらぁ…灰色猫タンじゃん。今日はどうしたの?ご主人はいないワケ??』

『はい。ご覧の通り、灰色猫の傍にはいませんが、ご主人は今、城内におられますよ』

 灰色猫がニッと笑った気配がして、聞き覚えのあるようなないような、アスタロトと呼ばれたどうやら悪魔は、呆れたように肩を竦めたようだった。

『別にねぇ、レヴィアタンに会いたいワケじゃないけど。もうね、随分と会っていないのよ。どうしてる、彼?元気なワケ??』

『頗るお元気です』

『そのワリにはねぇ、巨体が城を壊したって噂も聞かないのよ。どう言うコト?彼はホントに城内にいるワケ??』

 会いたいワケではないんだろうけど、どうもこのアスタロトと呼ばれた悪魔は、レヴィの消息ぐらいは知りたいんだろうなぁ。やけに食い下がる悪魔に、内心では何を考えているのかサッパリ読み取れない灰色猫が、優雅にクスッと笑ったんだ。

『おられますよ。お会いになれば宜しいのに。アスタロト様でしたらすぐにでもお会いできるのではありませんか?』

『う~…ん、嫌なのよね。彼、嫉妬深いから』

 まるでおネエちゃん言葉なんだけど、その声音は明らかに男のもので、どうやらこのアスタロトと言う悪魔は、レヴィに会いたいんだけど、会ってしまうと嫉妬深いからウザイ…と言いたいんだろうなぁ、怠惰な口調が何処か面倒臭そうだ。

『!』

 一瞬、灰色猫がハッとしたような気配がして、その顔を上げたんだと気付いた時には遅かった。

 怠惰な素振りで面倒臭そうに話していたはずのアスタロトが、何時の間にか俺の目の前に立っていて、灰色猫が妨害するよりも素早い仕種でサッと、俺は灰色のフードを背に払われてしまったんだ!

「!」

 ギョッと目を見開いて顔を上げたら、ニヤニヤ、楽しげに笑う目許の黒子がセクシーな、やたら垂れ目の派手な兄ちゃんが腰に手を当てて、これまた派手な格好で立っていた。

 悪魔に顔を見られてはいけない、そう灰色猫に言われていたから、俺は慌てて顔を伏せようとして、伸ばされた繊細そうな人差し指の指先一本で、顎をグイッと上げられてしまった。
 こうなったらもう、俯くことなんかできやしねぇ!
 たった指先一本で動きを封じられてしまった俺は、慌てて灰色猫を目線だけで見下ろしたんだけど、猫はソッと怪訝そうに表情を曇らせているようだった。

『あらぁ…小生意気そうな顔をした人間ね。どうしたのコレ?レヴィアタンへのお土産ってワケ??』

『それは…灰色猫の奴隷です』

 灰色猫はなんとか意識を自分に逸らそうとでもするように、俺とアスタロトの間に割って入って、その小さな肉球で派手な悪魔の身体を押し遣ろうとしたんだ。

『ふぅん?そんなに大事な奴隷なら、アタシに預けるべきなのよ。それよりも、ご主人に渡すべきではないのか??』

 あれほど強い力を持っている灰色猫でも、この悪魔の世界では所詮やっぱり猫でしかないのか、アスタロトはビクともせずに、興味深そうにマジマジと俺の顔を覗き込んできた。
 言葉が出ないのは、予め灰色猫が何かを施しているせいなのか、それとも、この派手でチャランポランそうな格好をしているくせに、夥しい殺気のような、チリチリと肌を焼く威圧感を垂れ流すアスタロトの気配のせいなのか、よく判らないんだけど、俺は全く口を動かせないでいた。

『仰るとおりで。この奴隷はレヴィアタン様に献上するつもりです』

『ふふふ…やっぱりぃ、そうじゃなくっちゃね!じゃあ、近いうちにアタシに回ってくるってコト?』

『それは…』

 不貞腐れたように表情を硬くしている灰色猫が、押し遣られるようにして身体を離してしまったから、俺は不安でいっぱいになりながらアスタロトの派手な顔を見上げていた。
 どうしよう、悪魔に顔を見られるなって言われてたのに、これじゃばっちりガン見されてんじゃねーか。
 うう、ドン臭いヤツで悪かったな!
 誰にともなく悪態を吐いていたら、上機嫌で鼻歌を歌いながら、いきなりアスタロトがキスしてきやがったんだ!!

「なな、な…に、すん…だーーーーーッッ!」

 搾り出すように声に出して怒鳴った俺は、漸く動けるようになった身体で思い切り両手を突っ張ったんだけど、俺の唇を塞いで思い切り濃厚なキスをしていたアスタロトは、微かに濡れた唇をペロリと真っ赤な舌で舐めてから、嬉しそうにニコッと笑った。
 な、なんなんだ。

『あっは!元気がいいねぇ。きっと調教のし甲斐があると思うんだ。レヴィアタンに早く渡すように言っておかなくっちゃ』

 アスタロトは平然とそんなことを言ったんだけど…おい、ちょっと待て。
 今、【調教】って言わなかったか!?

「は、灰色猫、今…」

『小生意気な目付きが可愛いから、たっぷり調教してあげるわよぉ』

 そう言って、灰色猫に救いを求めようとする俺のことなんかお構いなしで、派手な悪魔は覆い被さるようにして俺の息でも止めるつもりなのか、噛み付くように口付けてから、肉厚の舌で口腔を蹂躙すると、まだ満足できないとでも言うように、角度を変えてより深く口付けてきた。
 思わず、腰砕け状態に陥りそうになった俺が、闇雲にその背中に腕を回して抱き付いた時だった、不意に一陣の風が吹き抜けるようにして、アスタロトがハッとしたように顔を上げたんだけど、俺はと言えば、それでなくてもレヴィに教え込まれた身体が反応して、肩で息をしながら派手な悪魔に支えられていないと立ってもいられない状態だった。
 それでも、顔だけは動かして何が起こったんだろうと、虚ろな目線で風の行き着いた先を確認したら、ハッと目を瞠ってしまう。
 そこには、不機嫌が服を着ているんじゃないかと思えるほど、忌々しそうに眉根を寄せた白い悪魔が、腕を組んで突っ立っていたんだ!
 れ、レヴィ…ああ、俺、お前に会いたくて…
 泣きそうになりながら、ともすれば会えないんじゃないかと思っていた最愛の人の登場に、俺は安堵して微笑みながらアスタロトを振り払おうとしたんだ。
 きっと、本当は記憶とかあって、みんなで俺をからかったに違いない。
 だって、レヴィはきっと今、嫉妬して駆け付けてくれたんだから…
 でも、そんな淡い期待に胸を躍らせる俺の希望を、粉々に打ち砕いたのは、他の誰でもないレヴィだった。

『…オレはどうして、ここに来たんだ?』

 ふと、あれほど忌々しそうに俺たちを睨んでいたくせに、レヴィは、この白い綺麗な悪魔は、古風な衣装に身を包んだ貴公子のような出で立ちで、僅かに白い眉を顰めて、困惑したように自分の行動に戸惑っているようだった。
 どうして自分が、ここに駆け付けたのか判らない…その表情は何よりも饒舌にそう物語っている。
 鈍感な俺にだって判る、レヴィは嘘なんか吐いていない。
 本当に、何故自分が此処に、息せき切って駆け付けてきたのか、まるで判っていないようだ。

『あらぁ!レヴィアタンなの??気配がなかったらちっとも判らなかったよ。凄いわね~、レヴィアタンが人型になってるなんて!アタシ、てっきり貴方は大海蛇の姿のままかと思ってたんだよね』

『アスタロト?いや、何故こんな姿になっているのか判らないんだ。ただ、どうしてもこの姿でなくてはならないような…ん?なんだ、灰色猫もいたのか』

『ご主人、お元気そうで何より』

 冷徹な光を宿す冷たい金色の双眸は、一度も俺を見ようとしない。
 それどころか、レヴィには俺自身が、まるで見えていないかのようなんだ。
 けして認めたくはないんだけど、どうも、レヴィは俺をただの人間の奴隷ぐらいにしか思っていないようで、興味すらないようだ。
 思わず頭が真っ白になってしまって、自分の名前が呼ばれたことにすら気付かないと言う有様で、灰色猫だけが心配そうに、ソッと顔を顰めた。

『そうそう!灰色猫タンがねぇ、人間の奴隷を連れて来たんだって。レヴィアタンさぁ、この奴隷をどうする?』

『奴隷?ふん、下らんな。腹を空かせたヘビモスへの手土産にでもするか』

『やだ、勿体無い!』

 灰色猫が何か言うよりも先に、アスタロトが俺をギュウッと抱き締めながら、腹立たしそうに言い返していた。でも、そのどの言葉も俺には届かなくて、今は呆然と成り行きを見守るしかない。

『じゃあねぇ、この子とアタシの奴隷。交換しない?どれでもいいんだけど~、悪い条件じゃないと思うぜ??』

 アスタロトはニヤニヤと笑って片目を閉じて見せたんだけど、レヴィはあまり乗り気ではないようだった。
 と言うか、レヴィは人間の奴隷そのものに、あまり魅力を感じていないみたいなんだ。

『ふん…じゃあ、そうだな。ヴィーニーとなら交換してやってもいい』

 腕を組んで、あまり面白くもなさそうに言うくせに、どこか金色の双眸には悪戯っぽい光がチラチラ瞬いていて、俺は…ああ、レヴィってこんな表情もするんだなぁと、こんな時なのに馬鹿みたいに考えていた。
 どの表情も、初めて見る、レヴィの素顔だ。

『ヴィーニー!…嘘ん、あの子はアタシの一番のお気に入りじゃないッ』

『嫌なら別にいいんだぜ。灰色猫、ソイツを連れて…』

 レヴィはニヤニヤ笑うと腕を組みながら指先で飾り髪を弄ぶと、アスタロトの苦悩に満ちた表情をたっぷりと愉しんでいるようだった。
 やっぱり、レヴィは生粋の悪魔なんだ。
 俺と一緒にいる時の、あの穏やかさは微塵もなくて、狡猾に取引を交わす様は、見ていて嫌な気分になるほど鮮やかで、吐き気がした。
 でも、これが悪魔たる所以で、だからこそレヴィは、俺に魔界に来て欲しくなかったんじゃないかなと、今なら少し判るような気がしていた。
 レヴィは連れ去られることを怯えていたんじゃないよ、灰色猫。
 自分の、真実の姿を見られること、そのせいで俺がレヴィを嫌ってしまうかもしれない…そんな、悲しいぐらいの憶測で、魔界に来させないようにしていたんだ。

『ああ、もう!判ったわよ。ヴィーニーをあげる。その代わり、この子はアタシの好きにしてもいいんだな?』

『…へぇ?お前がヴィーニーを手放してまでも手に入れたい奴隷ね。どんな魅力があるのか知らんが、オレには関係ない。煮るなり焼くなり好きにすればいい』

 追い詰められて唇を噛んでいたアスタロトが、それでも思い切ったように宣言すると、肩を竦めたレヴィが完全に興味を失くしたように首を左右に振って、どうでもよさそうに言い放った。

『じゃあ、ヴィーニー!おいで、今日からレヴィアタンがご主人様よ』

 渋々と言った感じで手放す決意を固めたんだろう…って言うか、そんなに大事な奴隷なら、俺のことなんか放っておいて断ってくれればいいのに。
 俺がアスタロトの腕に抱かれたままで不貞腐れたように唇を尖らせていたら、ソッと、灰色猫の小さな猫手がギュッと、ローブの裾を掴んできた。ハッとして見下ろしたら、灰色猫は困惑したような金色の双眸で俺を見上げていて、それでも、一緒に傍にいてくれる意思が伝わってきたような気がして、ソッと眉を顰めて見せた。
 大丈夫だと、言えたら天晴れなんだけど…ごめんな、灰色猫。
 俺、自分が思う以上に弱虫みたいだ。

「はい、ご主人さま」

 ふと、凛とした声が響いて、ハッと目線を上げると、ヴィーニーと呼ばれた人間の奴隷が足音もなく近付いてくると、彼は自信に満ちた表情で笑ってアスタロトを見上げた。
 その顔は、外国人らしい彫りの深さで、どちらかと言えば、並々ならぬ美形なんだけど、どこか抜けてそうなお惚け野郎の雰囲気を持つアスタロトより、キリリとした貴公子のような出で立ちの、白い悪魔のレヴィとの方がお似合いだと思えた。
 少年は、たとえば、天使が悪戯に人間に化けたような、どこか品のある勝気そうな表情の育ちの良さそうなハンサムだった。
 う、思い切り俺、負けてないか??
 所詮は薄い印象の日本人面なんだ、そんな品のある外国人の顔に勝てるはずがない。
 思わず項垂れそうになった目の前で、さらに追い討ちをかけるような光景が繰り広げられて、できれば俺、そのまま卒倒したかった。
 白い悪魔のレヴィは、嬉しそうに片手を伸ばして裏地が鮮紅色の外套を翻すと、まるで恭しくヴィーニーの華奢な手を取って、その甲にキスしたんだ。
 まるで映画のワンシーンみたいに様になる光景に、俺が目を見開いて愕然としているのをどう受け取ったのか、アスタロトが肩を竦めながら首を左右に振った。

『レヴィアタンはあの子をずっと気に入っていたのよ。いつも『くれくれ』って煩かったんだけど…これで彼も満足だろうよ。ただ、レヴィアタンは大嘘吐きで悪戯好きだから、ああして自尊心を擽ってから、奈落に突き落とすんだろうね。ま、もう手放してしまった奴隷がどうなろうと、アタシは興味はないけど』

 ご主人さまと言うよりも寧ろ、彼の美しさに惑った貴族が、その美を賞賛して心酔している…そんな風に見える光景に、アスタロトが鼻先で笑う。

『ふふふ…きっと、彼のアマデウスは役不足だと思うけどね』

 アマデウス?
 そんな名前の悪魔がいるのかな…どちらにしても俺は、それがたとえ嘘だとしても、見ていたくはなかった。
 そんな風に、人間を持ち上げて、そしてお前は奈落に突き落としていたんだ。
 その光景が鮮やかに俺に重なるような気がした…違うのかもしれないけど、その金色の冷たい双眸を見ても、俺の時に見せる、あの情熱に濡れた光は微塵もないから、俺の時とは違うのかもしれないけど、それでも、胸の辺りをギュッと掴まれたような嫌な気分に陥ったのは確かだ。

「…レヴィは、レヴィアタンは彼が好きなのかな?」

『ん~?そうね、お気に入りであることは確かよ。さ、そんな下らないことはどうでもいいわ。アマデウスごっこの好きなレヴィアタンなんか放っておいて、君はアタシの部屋においで』

 可愛がってあげるからね、と、アスタロトは抱き締めている俺の顔を覗き込むと、うっとりするほど綺麗に笑って小首を傾げてきた。
 見るからに上機嫌のレヴィとはにかむように嬉しそうなヴィーニーを見ていたくなかった俺は、心配そうに見上げてくる灰色猫に困惑の眼差しを向けながら、それでも、諦めたように頷いていた。
 口付けをせがむヴィーニーの頬に、俺なんか眼中にないレヴィが微笑んで、優しくキスする場面なんか、それこそ一生見たくなんかなかった。
 色気もクソもない俺の黒髪に、濃紺色の緩やかな長い巻き髪を肩から零したアスタロトが、嬉しそうにニッコリ笑って頬擦りする。
 どうやら俺は、ワケが判らないままアスタロトと呼ばれる悪魔の奴隷になってしまったようだ。
 けど…これからどうなるんだ、俺??

第二部 3  -悪魔の樹-

 ションボリして夕飯の支度をしても、上の空でご飯を零す俺を、茜と父親は呆気に取られたように見ていたようなんだけど、そんなことすらも、その時の俺は気になっていなかった。
 茜に言わせると、大事にしていた白蜥蜴と可愛がっていた灰色の猫が同時に消えたから、ペットロスにでも陥ってるんだろうと、人の気も知らないで父親にくっちゃべってやがった。それだけなら、俺だって傷心に打ちひしがれたままで軽やかに無視したに違いない。
 でも、父親の一言がいけなかった。

「まあまあ、光ちゃん。白い蜥蜴なんて珍しいけど、同じような蜥蜴と猫を飼ってあげるから、そんなに落ち込まないで笑顔笑顔♪」

 悪気なんかない。
 うん、よく判るんだけどな、親父。
 ごめん、殴らせて♪

「グハッ!痛い、痛いよッ、光ちゃん!!」

「うるせー!クソ親父ッ!!レヴィも灰色猫も、同じヤツなんか二度といないんだ。だから、大切なんじゃねーかッッ」

 思わずポロリ…ッと涙が零れて、俺から拳骨を喰らった父親はハッとしたような顔をして、それから申し訳なさそうにシュンッと眉を八の字にして俯いてしまったけど、大人しく蚊帳の外で飯を食っていた茜は、ヤレヤレと首を左右に振った。
 何時の頃からか動物アレルギーの治った弟は、それでも、未だに動物が嫌いらしくて、本当に清々した顔をしているんだけど、それでも俺が泣くのはそれ以上に嫌なのか、箸を置いてガタンッと椅子を蹴るようにして立ち上がったんだ。

「あのバウンサーは白くて目立つから、何処かの保健所に拉致られてるに決まってる。まずは保健所に行くべきだろ?」

 夏休みの一日を返上しても、一緒に保健所に行ってくれると、この仏頂面の弟は腕を組んで態度で示してくれた。そんな茜を見上げたら、弟はバツが悪そうな顔をして外方向いたけど、父親が殴られた頭を庇いながら嬉しそうに目尻に皺なんか寄せやがった。
 今泣いたカラスがもう笑ってんじゃねぇ!お前は子供かッ!!

「ん~、愛すべき兄弟愛!お父さん、嬉しいよ」

 思いっきり脱力して、できればその口を縫い止めてやりたい、と思っても仕方ないと思う。
 茜だって、思わずと言った感じの呆れ顔で、そんな父親を見下ろしていた。
 その時。

「にゃあ」

 猫の鳴き声にハッとして、俺は茜の足許を見下ろしていた。
 そこには、薄汚れているような灰色の猫が、いつもはまん丸で可愛いはずの瞳孔を、キュッと引き絞った細い瞳をして、金色の双眸で俺を見詰めている。
 その表情に、不意に、またしても競り上がってくる不安感に、吐き気がした。

「あ、良かったじゃん。灰色猫が戻ってきたぜ」

 俺の抜群のネーミングセンスの悪さは今更だから、『灰色猫』と名付けて可愛がるからと言った時の父親と茜の顔は、白蜥蜴に続いての胡散臭い生き物登場に溜め息を吐いていたけど…今ではスッカリ、家族の一員のように想ってくれているのが、その安堵した表情でよく判る。
 俺の我侭も、何もかも、全てをひっくるめて愛してくれる家族がいることが、最大の幸福なんだと言うことを、いつか母さんが言っていた。
 その気持ちが、今なら少し判るような気がするよ。
 俺に泣かれるのが嫌な茜も、灰色の、けして可愛いとは言い難いふてぶてしい顔付きをした灰色猫を抱き上げて、ご主人にもう心配かけるなよと、笑いながら窘めてくれている。安堵した表情は少なからず、茜も灰色猫を心配していたに違いないんだ。
 何処から入り込んだのかとか、そんなことは気にせずに、戻ってきた猫の頭に頬を摺り寄せる茜に、灰色猫は照れ臭そうに「にゃあ」と鳴いている。
 でも、その表情は何処か硬くて、チラリと俺を見る目付きは、何か言いたそうに細められている。
 一抹の不安は、今や大きなうねりとなって、俺の心を平常に保たせてはくれないようだ。

「よかった!灰色猫にオヤツを買ってるんだ。テーブルはこのままでいいから先に部屋に戻ってるよ」

 あからさまにわざとらしいかなぁとは思ったけど、その時の俺には、そんなことはどうでも良かった。
 灰色猫も俺の意思を汲んでくれたのか、居心地の良さそうな茜の腕の中で身じろいで、それから難なく擦り抜けると俺の足許に身体を摺り寄せてきた。

「やっぱ、ご主人が一番なんだな~。ま、俺は光太郎が泣かないんなら別にいいんだけどさ」

 ちょっとぐらいは名残惜しそうに唇を尖らせてそんな可愛らしいことを言う茜に、抱き上げた灰色猫と俺は顔を見合わせてこっそりニヤッと笑ったけど、のほほんとテレビを点けた父親にも、伸びをして浴室に行こうとする茜にも気付かれなかった。
 そんな2人をリビングに残して、俺は階段を一段抜かしで一目散に部屋に駆け上がっていた。
 そんなに猫のご帰宅が嬉しいのかと、茜は驚いたような顔をしていたけど、それすらも無視した俺が部屋に飛び込むのと、俺の腕からすっぽ抜けるようにして飛び出した灰色猫が空中で一回転して人型になるのはほぼ同時だった。

「灰色猫!れ、レヴィは??」

 真っ先に聞きたかった質問に、いつもは胡散臭いニヤニヤ笑いを浮かべているはずの占い師は、僅かに表情を曇らせているのか(と、言うのも顔の半分以上を灰色のフードで隠しているから、口許の動きだけで表情を読まないといけないから骨が折れるんだ)、ニヤニヤ笑いの引っ込んだ口許は、微かに強張ったように引き結ばれていた。
 いったい、何が…

「レヴィはもしかして…」

 最悪の答えが脳裏に閃いて、思わず泣きそうになりながら、俺は目の前が真っ暗になるような錯覚を感じていた。でも、そんな俺に、慌てたように灰色猫が首を左右に振って、その思いを払拭させてくれたんだけど…

『そんな、甚だしい問題ではないよ。いや、そうなのかもしれないけれど…お兄さん、どうか、落ち着いて聞いて欲しい』

「…」

 ゴクッと息を呑んだ。
 双眸を灰色フードの奥に隠してしまっている灰色猫の、その微妙な変化では、これが本気なのか、ただ単に悪魔の使い魔らしく、俺を騙しているだけなのか…どうか、後者であって欲しいと言う俺の願いは、悲しいかな、木っ端微塵に打ち砕かれた。

『ご主人、レヴィアタン様は…どうも、記憶を失くされてるようなんだ』

「…え?」

 俄かには、何を言われたのか理解できなくて、俺は眉を顰めて首を傾げてしまった。
 驚くのも無理はない…とでも思ったのか、やれやれと首を左右に振った灰色猫は、俺のベッドに腰を下ろすと疲れたような溜め息を零した。

『実際、信じられなかったんだけどねぇ。いつも通りの記憶はあるのに、まるでスッポリ、お兄さんの記憶だけが消えちゃったみたいなんだよ』

 灰色猫の台詞に、それでもどうやら、レヴィが元気でいることに変わりはないようだと一安心したんだけど、それでも、ムクムクと沸き起こるのはちょっとした激怒。

「…なんだよ、それ」

 ムスッと、眉間に皺を寄せて唇を突き出すと、俺の怒りのオーラを感じ取ったのか、灰色猫は首を竦めるようなフリをしながら、困惑したような声を出すから、どうやらこの話は嘘でも冗談でもないんだと、判ってはいるんだけど、漸く俺の脳が受け入れたようだった。

『最初は冗談だろ?って思ったんだけどねぇ…この灰色猫がお兄さんの許に戻られないんですか?って聞いたらさぁ、ご主人、なんて言ったと思う??』

 想像もできなくて首を左右に振ったら、灰色猫は溜め息を吐いたんだ。

『何を言ってるんだ、灰色猫?光太郎ってのは誰だ??』

 一言一句、聞いた通りを、まるでレヴィがそこにいて喋っているかのように、ソックリな声音で言ったから、俺はビックリして双眸を見開いてしまった。
 でも、それは悪魔の使い魔である灰色猫が、わざと声真似をしているだけだと知って、やっぱり、これは嘘でも夢でもないんだと唇を噛み締めてしまった。

「どうして…俺の記憶だけ失くなったんだろう?」

 灰色猫は『さぁ?』と首を傾げたけれど、思い直したように顔を上げて俺を見上げた。
 フードの奥の、見えないはずの双眸がチカッと光ったような気がしたのは、たぶんきっと、思い過ごしなんだろうけど。

『どちらにしても、このままだとご主人はもう二度と、こちらの世界には帰って来ないよ』

「そんなのは嫌だ!悪魔の…【悪魔の樹】の契約はどうなってるんだよ!?」

 俺を白い悪魔と結び付けてくれる最後の砦であるはずの、【悪魔の樹】の契約の効力だけが、今の俺の縋るものであり、頼れる味方だった。
 離れてしまえばもう二度と出会えないことぐらい、馬鹿な俺の脳みそだって理解してる。

『うーん…難しいねぇ。あの契約はあくまでも悪魔が理解していなくては成り立たないんだ。こんな風になるとは思っていなかったから…兎も角も、ご主人がお兄さんの記憶を取り戻してくれないことには、【悪魔の樹】の契約はドローだよ』

「そんな…!」

 思わず、弾かれたように灰色猫を見詰めたら、いつもはにんまり笑っている灰色フード男は、酷薄そうな薄い唇を引き結んで、まるで居た堪れないような仕種で俯いてしまうから、灰色猫のせいじゃない、そんなこと、百も承知だと言うのに俺は…まるで詰め寄るようにして灰色猫の、その柔らかなローブの胸元を引っ掴んでいた。

「どうすれば!?…なぁ、どうすればレヴィは帰ってくるんだ??俺は、いったいどうすれば…ッ」
 このままだと、レヴィはもう、二度とこの場所に帰って来ることはない。
 毎朝、『おはよう』と呟くようにして、白蜥蜴の姿でキスして起こしてくれることも、情熱的に抱き締めて、何度でも狂おしいほど愛している事実を教えてくれることも、そして、傍に居て、何もかも包み込んでくれるような、全てを許してくれているような、あのあたたかな、優しい、愛しい金色の眼差しも…もう、見ることができない。
 できなくなると言うのか?
 もう、あの白い悪魔に逢えないと、そう言うのか?
 そんなのは嫌だ!

「灰色猫!俺を魔界に連れて行けッ」

 殆ど、命令口調だった。
 それすらも気に止める余裕もない俺の、その突然の豹変振りにギョッとしているような灰色猫は、少し動揺したように首を竦めやがるから、本気で殴りそうになった。

『そ、それはいけない。言わなかったかい?お兄さん。魔界は異質なものを遠ざけてしまう場所なんだ』

「それはもう聞いた。でも、今の俺は異質じゃない。だって、レヴィは俺を愛してないッ」

『そ、それは…』

 魔界に行ったからと言って、いったい何ができるかとか…俺には判らない。
 ただ、逢いたかった。
 もう一度だけでいいから、あの白い悪魔の、金色の瞳を見たかった。
 冷徹でも、俺の知らない色をした瞳でも、なんでもいいから、もう一度だけ、逢いたいんだ。
 ああ、どうか。
 もう一度でいいから、レヴィに逢わせてくれ。

『お兄さん…』

 気付いたら俺は、強い双眸で睨み付けていた筈なのに、視界はぼやけて滲んでいた。
 思うよりも弱気な心が、ポロポロと涙を頬に降らせていたんだ。
 震える指先に、もう力なんか入っちゃいないから、いつだって灰色猫は逃げ出すことだってできたのに…灰色猫はそうしなかった。
 震える肩をそのままに、声を出すことも忘れて泣いている俺の肩を抱いて、ほんの少しだけ思い詰めた口調で囁くように呟いた。
 ポロリと、思わずと言った感じで零れ落ちた言葉に、俺はハッとしたように灰色猫の顔を覗き込んでいた。
 真摯に口許を引き締めた灰色猫は、まるで心を知っている猫のような仕種で、とても優しげに、にんまり笑ったんだ。

『連れて行ってあげるよ、お兄さん。でも気をおつけ。魔界はとても寂しいところだからね』

 今から友達のところに泊りがけで遊びに言ってくると宣言したら、部屋で音楽を聴いていた茜と、風呂上りにビールを飲んでいた父親が愕然とした顔をして、リュックサックを引っ掴んでいる俺を振り返って、さらに目を丸くした。
 止められても行くつもりだったけど、やけに切迫した俺の表情に気付いたのか、父親は口に含んでいたビールをゴクンッと咽喉を鳴らして飲み込みながら、それはそれで動揺したように瞬きを繰り返しながら頷いたんだ。

「べ、別に構やしないけど…どうしたんだい?こんな時間に」

「さっき、携帯に電話があって、キャンプに行くんだと。だから、一緒に行ってもいいだろ??」

「誰と行くんだよ」

 早いところ話を切り上げたかったのに、不貞腐れたように腕を組んで壁に凭れている茜が、怪訝そうな目付きをしてそんなことを言うから…う、思い付きで言っちまったから、誰にするか考えてもいなかった。
 電話で確認されたら嘘だってバレるし、そうすれば止められるのは必至だ…ああ、困った!どうしよう…

「し、篠沢だよ!」

 これも口から出任せだったんだけど、何故か、自然と口が動いていた。

「なんだ、篠沢さんか。で、灰色猫も連れて行くのか?」

 腕の中で素知らぬ体で欠伸なんかしている灰色猫は、「にゃあ」と鳴いて双眸を細めるから、そんな猫を見下ろしながら俺は頷いていた。

「ふーん、じゃあ、俺たちの飯はどうなるワケ??」

 そんなの、もういい年なんだから自分たちで作れよな!…と言えれば、きっと今の俺はいないんだろうと思うけど、仕方ないから冷凍庫に入っているレンジでチン!のレトルトでも食ってて貰うことにした。
 それで、珍しく簡単に引き下がった茜さえどうにかなれば、父親は俺の行動にはとやかく口出ししたりしないから一安心だ。

「じゃあ、気を付けてね」

 そう言った父親に頷いて、俺がリビングから飛び出そうとしたその時、父親が低い声で言ったんだ。

「とても寂しい場所だけど、無事に帰ってくるんだよ」

「え?」

 ギクッとして振り返ったら、父親はキョトンッとして、自分が何を言ったのかよく判っていないようだった。俺は首を傾げながらも、慌てて靴を引っ掛けるとそのまま玄関を飛び出して表に出ようとして…そのまま、濛々とする硫黄臭い煙に撒かれたように包まれたんだけど、気付けばとても寂しそうな細い道に落っこちていた。
 そう、玄関から飛び出すと同時に、そのまま、まるで奈落の底にでも落ちていくような錯覚に囚われるほど、真っ暗な闇の中に硫黄臭い煙と共に落ちてしまったんだ!

「なな…ッ!?」

『ご覧、お兄さん。ここはもう、魔界の入り口だよ』

 そう言って「にゃあ」と鳴いた灰色猫は腕から飛び降りると、細い道にへたり込んでいる俺に、猫の姿のまま、厳しい表情で自分の背後を振り返った。
 そのレヴィに良く似た金色の視線を追って行き着いた先には、まるで、暗黒のお伽噺から抜け出たような、漆黒の空に真っ赤な月が浮かぶ空の下、怪鳥が飛び交う排他的な雰囲気を持つ、薄気味の悪い城が蒼然と突っ立っていた。
 息を呑む音でさえ凍りつくような、心の奥底まで震え上がる殺気が満ち溢れた世界には、引き攣れるような痛みだけが支配している、そんな錯覚すら感じて、俺は気付いたら自分自身を抱き締めていた。

『よくお聞き、お兄さん。此処はぬくもりのある人間の来るべき場所ではないんだよ。此処は悪魔の支配する世界。この場所に来る人間は、悪業を背負って後悔ばかりしている、奴隷だけ』

 灰色猫は、身の竦むような恐怖が渦巻く大気に恐れ戦いている、口では大層なことを言っていた俺のヘタれた腰に擦り寄りながら、それでも、一緒にいることを決意してくれた眼差しで言ったんだ。

『だから、お兄さんはこの灰色猫が連れて来た、新しい奴隷ってことになるから。できる限り、ご主人に会うまでは、どの悪魔にも顔を見られたり、興味を抱かれてはダメだよ』

「わ、判った…って、うわ!?」

 灰色猫の小さな猫手がチョイッと動いた瞬間、俺の真上から何かが降ってきて、気付いたら俺も灰色猫のように灰色フード付きのローブを着ていた。
 Tシャツにジーンズの上から灰色のローブなんて…普通なら暑苦しいんだけど、どう言う仕組みになっているのか、それほど暑くはなかった…と言うか、暑さも寒さも感じない、そんな、何処か気持ちの悪い奇妙な空間だったから、それほど気にはならなかったんだ。

『このローブは人間の本心を隠してくれる。ご主人を想うお兄さんの心を、少しでも他の悪魔に知られないようにね』

「ありがとう、灰色猫」

 灰色猫がいてくれてよかったと思う。
 レヴィに出会う為の切欠を作ってくれたのも、レヴィと信じあえる心ってヤツを教えてくれたのも、この小さな灰色の猫のおかげだったんだから。
 俺は灰色猫がそうしていたように、灰色のフードをできるだけ目深に被って、擦り寄ってくる小さな猫のやわらかな頭部を、ピンッと尖った耳を押し潰すようにして感謝の気持ちをめいいっぱい込めて撫でていた。
 猫は気持ち良さそうにうっとりと目を細めると、「にゃあ」と鳴いて俺を見上げてきた。

『お礼なんて言ってはダメだ。きっと、お兄さんはこの灰色猫を恨むだろうからね』

「そんなこと」

 あるワケないと確信した双眸で見下ろしても、灰色猫は、こんな荒んだ場所にいると言うのに、何処か飄々としていて、のほほんとしたように金色の双眸を細めるだけだ。

『さあ、覚悟はできたかい?』

 気を取り直したようにコホンッと咳払いをして、よっこらしょっとおっさんみたいな掛け声で立ち上がった灰色猫は…って!灰色猫、お前、お前…ッッ!!

「二足歩行してる!!」

『当たり前でショーが。普段は占い師の姿で行動するんですがね、占い師姿で人間を連れていると、それだけで奴隷を調達してきたって思われて、余計な注目を集めるんだよ。それならば、本性で一緒に行動していた方が、下っ端悪魔と戯れている、ぐらいにしか思われないからね。簡単に言えば、カムフラージュだよ』

「はぁ…なるほど」

 灰色猫がのんびりと二足歩行できることにも驚いたけど、歩き出すと同時に短毛種特有の滑らかそうな毛皮の上から、赤と黒のベルベットのベストが現れて、その足にはエナメル質っぽいパンツ、そして靴まで履いてるんだ!!
 …なんつーか、まるで猫の貴公子みたいだ。
 これで羽飾りのついた、つばの広い帽子かシルクハットとか被ると、やっぱ立派に猫の貴族っぽくみえる。とても、灰色の薄汚れた野良猫には見えないよ。
 今まで、薄汚れた灰色の野良猫、って勝手な印象を持っててごめん。

「灰色猫って立派に猫の貴族だったんだなー。って、あ、そうか。やっぱりリヴァイアサンの使い魔となると、きちんと身嗜みを整えていないと、他の悪魔に馬鹿にされるからとか?」

『まあ、間違ってはいないけどね。ただ、灰色猫の趣味ですよ、お兄さん』

 チラッと撫で肩越しに振り返って、ニヤリと金色の双眸を細める灰色猫の、その台詞で遠からず外れてはいないんだろうなぁと思えた。
 漸く、ヘタれていた腰が落ち着いたから、俺は促されるままに立ち上がって、軽く伸びをしながら眼前に悠然と構えている巨大な、暗黒の城を睨み据えていた。
 いったい、何人の悪魔が居住しているのか、皆目見当もつかないんだけど、それでも怯んでばかりいるワケにもいかない。
 俺は決意したんだ。
 もう一度、レヴィに逢いたい。
 レヴィに逢って…冷たく突き放されるかもしれないけど、思い出させるチャンスぐらいは作りたいじゃないか。
 どうして、俺だけの記憶を忘れてしまったのかは判らないけど、俺は…それでも、レヴィに逢いたい。
 ただ、単純に逢いたいと願う気持ちが、今の俺の原動力になってるんだと思う。
 それを知っているから、灰色猫は俺を導いてくれるんだろう。
 何が待ち構えているかは判らないけど、ひとつだけ確かなことは、その先にきっと、レヴィがいるってことだ。
 立ち尽くす白い悪魔に逢えたら…俺は、なんて言えるんだろう。
 何を言うんだろう。
 俺は決意して歩き出した足に、力を込めた。