第二部 2  -悪魔の樹-

『寂しそうだねぇ、お兄さん』

 その声で、ハッと我に返ったら、足許で薄汚れたような灰色の猫が「にゃあ」と鳴いて擦り寄ってきた。
 いつも、寂しい時には一緒にいてくれる灰色猫がいたから、きっと俺は寂しさを紛らわせることができたんだろう。

「ちょっとな。いつもベッタリいるヤツがいないんだ。そりゃ、少しぐらいは寂しいさ」

『別に言い訳なんか聞いてないよ』

 クスクスッと、猫のクセに妙に知ったように鼻先で笑うから、俺はクソーッと思ってそんな猫を抱き上げてやるんだ。

「そもそもだ、どうしてレヴィは俺を魔界に行かせたがらないんだよ!?」

 完全に八つ当たりなんだけど、それでも聞かずにはいられないじゃないか。
 そもそも、魔界があることを俺が知ったのは、この灰色猫のおかげなんだからな。
 なんだってレクチャーしてくれるんだ、最後まで面倒見てくれよなー…って、ちょっと情けないけど聞かぬは一生の恥!って、ばあちゃんが言ってたんだから間違いない。
 さあ、遠慮せずに教えてくれ。

『魔界って言うところはね、以前にも言ったと思うけど、そりゃあ厄介なところなのさ。お兄さんのようなへな猪口人間がヘナヘナ行ったら、すぐに悪魔たちに取って食われるからねぇ、ご主人は気が気じゃないからお連れしないんだよ』

「なんだよ、それ」

 そりゃぁ、俺は確かにレヴィや灰色猫のような悪魔じゃないから、へな猪口ヘナヘナ人間かもしれない。だからって、そんな簡単に取って食われたりしないさ!!
 つーか、泣く子も黙るリヴァイアサンがいるのに、どうして簡単に取って食われるんだよ?

「レヴィが一緒なら大丈夫なんじゃないのか??」

『それが、そうでもなくてね』

 灰色猫は俺の腕の中に具合良くおさまると、やれやれと息を吐きながら、まるで心の奥底までも覗き見ることができるんじゃないかって思うほど綺麗な金色の双眸で見上げてきた。

『魔界には色んな掟やルールがあるんだよ。それはこの人間どもが暮らす世界にもあるよね?それが言わば1つの秩序となって、魔界はたゆたう時の中で静かに時間を刻んでいるんだ。だから、異質な物質は排除されてしまう』

「それが、俺ってこと?はぁ??なんか、良く判らないよ」

 何時もより小難しく、偉そうにツンツンの髭をピンピン震わせて話す灰色猫の、得意そうな顔を覗き込みながら首を傾げたら、灰色猫は金色の双眸を細めると、短毛種特有の滑らかな頭部で顎の辺りに擦り寄ってきたんだ。

『お兄さんはさぁ、ご主人の心から愛する人なワケでしょ?』

「…う、うん。…その、たぶん…」

 顔を真っ赤にして口の中でモゴモゴ言っていたら、灰色猫は呆れたように双眸を細めると、大きな口をパカッと開いて欠伸なんかしやがった。
 灰色猫じゃなかったら殴りたかった。

『まあ、お兄さんの自信の有無はこの際無視して。つまりね、悪魔は人間を愛さないんだよ』

「…え?」

 眉を顰めると、灰色猫はクルリンッとした可愛い目をして俺を見上げてきた。
 そんな小馬鹿にした態度も、気にならない。
 それは、どう言う意味なんだろう…?

『そして、人間も悪魔を愛さない。悪魔と人間は相容れない関係でしかないんだ。でも、悪魔は人間に恋焦がれているし、人間も悪魔の魅力に恋してる。だけど、けして平行線になれない関係だから、悪魔は人間を陥れるし、人間は悪魔を憎むワケ』

 灰色猫は、猫にしてはやけに穏やかな表情をして、淡々と話している。
 まるで万華鏡みたいにクルクル変わる表情が、今日は何処か静かで、レヴィのいなくなった部屋をより閑散とさせていたから、知らずに俺はギュッとそんな灰色猫を抱き締めていた。

『だから、人間を愛する悪魔と悪魔を愛する人間なんて、魔界に存在してはいけない関係なんだよ。だから、ご主人はお兄さんを魔界にけして連れて行かないんだ。連れて行ってしまえば、異質な物質として、他の悪魔たちがお兄さんを唆して、何処か遠い場所へ連れ去ってしまうからね』

「神隠しみたいなもんか?」

 俺の台詞に灰色猫は『なにそれ』と言って、プッと噴出したんだけど、ペロペロと退屈そうに前足を舐めると耳や耳の後ろをセッセと拭い始めたんだ。

『まあ、似たようなもんかな?でも、ちょっと違うのは…お兄さんが無事ではいられないってことだね。だって、彼らは悪魔であって、神ではないんだよ』

 それは尤もだったから、俺は自分がどんな悲惨な目に遭うのか、その時になって漸く、灰色猫やレヴィが何を言いたかったのか判ったような気がして身震いしてしまった。

「取り敢えず、レヴィの帰りを大人しく待つことにするよ」

『それが賢明な判断だね』

 灰色猫は前足をペロリと舐めて、心地良さそうに双眸を細めると、にんまり笑って頷いた。
 その顔を青褪めたままで見下ろして、俺は半分以上引き攣ってたに違いないだろうけど、ニコッと笑って見下ろしていた。
 レヴィ、早く帰ってきてくれよ。

 でも、レヴィはすぐには帰って来なかった。
 と、言うか。
 もう、1週間以上も経っているのに、レヴィはまだ帰って来ないんだ。

「あれ?最近、あの鬱陶しい白蜥蜴がいないんだな」

 なんて、茜に言われると殴りたくなるほど、俺の今の心理状態は最悪だった。
 何故、レヴィは帰って来ないんだろう?
 魔界で何かあったのか…でも、それにしては灰色猫が大人しくしているし、もしかしたら、甚大な被害を及ぼすからと、レヴィがあれほど懸念していた兄弟が、何かとんでもない問題を起こしていて、その後始末に今まで掛かっていたりするんだろうか?
 うん、きっとそうだろうな。
 そんな風に思い込んでいられるのも最初の4日目までで、さすがにそれ以上になると、やっぱり居ても立ってもいられなくなって、俺は暢気に昼寝をかましている灰色猫の首根っこを引っ掴んで無理矢理起こしたんだ。

『アイテテテ…!酷いなぁ、お兄さん。もうちょっとマシな起こし方ってのがあるでショーがッ』

「灰色猫!どうして、レヴィは帰ってこないんだよ!?もう、一週間以上も経ってるんだぞ??」

 脇の下に両手を差し込んで持ち上げれば、何処まで伸びるんだと疑いたくなるほどダランッと両足をたらした灰色猫は、一瞬だけどキョトンとしたけど、胡乱な目付きのままでクックックッと嫌な笑い方をしやがった。

『ああ、ご主人が心配なんだね』

「あったりまえだろーが!心配して悪いかよ!?」

 ムキッと腹を立てていると、灰色猫は悪魔のような顔をして(まあ、実際は使い魔なんだけど)欠伸をしたけど、それでもムッツリした顔でのんびりと言ったんだ。

『そうだね、いつもなら何を差し置いてもサクッと帰ってくるのに…こんなのはご主人らしくない。よし、ちょっと魔界に戻ってみるよ』

 灰色猫はどう言った仕組みかは判らないけど、あれほど確りと掴んでいたと言うのに、スルリと俺の腕から抜け出ると、軽やかにフローリングの床に降り立ったんだ。
 その時にはもう、灰色の薄汚れたようなフード付きのローブを着た、口許に怪しげな薄ら笑いを浮かべている胡散臭い占い師の姿になっていた。

「…あのさ」

 とっとと魔界に行こうと煙を身に纏った灰色猫の腕を慌てて掴んで、俺は引き留めながら、ニヤニヤと薄ら笑っている灰色猫の、良く見えないフードの中を覗き込んで言ったんだ。

『?』

 口許の笑みはそのままだけど、不思議そうに小首を傾げる灰色猫、どうかお前まで…

「お前まで…消えてしまうなよ」

 何故そんなことを思ったのか良く判らないんだけど、このまま、灰色猫まで戻って来なかったらと思うと…レヴィに繋がる全てから隔離されるような気がして、不安で仕方ないんだ。
 俺とレヴィの繋がりなんて、こんな風に儚くて、脆いものなのかと現実を叩きつけられたような気がしたから、だから、余計に不安で寂しかった。

『…お兄さん』

 灰色猫は一瞬だったけど、息を呑むような仕種をして、それからまた、口許にお馴染みのにんまり笑いを浮かべて首を左右に振ったんだ。

『心配性のお兄さん。ご主人の情報を引っ提げて、無事にこの灰色猫が戻った暁には、鰹節がたっぷりのあったかいご飯を用意しておくれね』

 そんな風におどけてくれる灰色猫の、何処にそんな自信があるのか、そう言ってクスクスと笑った胡散臭い占い師はフワリと、少しだけ硫黄の匂いのする煙に包まれて消えてしまった。
 ああ…そう言えば。
 レヴィが初めて俺の部屋に誕生した時も、まるで消火器でもぶちまけたようにモウモウと煙が溢れ返っていたっけ?
 と言うことはだ、あの種からレヴィは生まれたんじゃなくて、あの種が魔界とこの世界を結んだ、1つの道だったんだな…とか、硫黄の匂いが微かに残る部屋の中で、俺は呆然とベッドに腰掛けてそんなどうでもいいことばかり考えていた。
 灰色猫は、どれぐらいで戻ってくるんだろう?

 結局、やっぱり灰色猫もすぐには帰って来なかった。
 こうなってしまっては、もしかしたら、実は何もかもあの白い悪魔が仕組んだお芝居で、そろそろ潮時だとでも思って、都合よく理由をつけて戻っただけなんじゃないか…とか、そんなことを考えて途方もなく落ち込みながら、それでも日常生活は毎秒100キロの速さで背後に喰らいついているんだと思い知らされるように、夕飯の買い物にトボトボと出掛けることにした。
 腹を空かせた大きな子供が、家には2人もいるんだ。
 打ちひしがれてばかりはいられないけど…それでも、この日常の生活のおかげで、俺はあまり腐らずに済んでいた。
 何時もの商店街で特売のチラシを握り締めながら、キョロキョロとお目当ての食材を探していると、不意にドンッと背中に何かがぶつかってきたから…すわ!もしやスリじゃねーだろうな!?と、今月の生活費を預かる財布を握り締めて振り返ったら、そこには…

「ふぅん、君がセトウチコウタロウね」

 ふくよかな胸が押し上げるようなブレザーと、細いウエストに引っ掛かるような短いスカート姿の、ふんわり巻き髪が小顔を包み込んでいる少女は、細い腰に片手を当てて、勝気そうな双眸を細めて見上げていたから…コイツ、誰だろう?
 どうして、俺の名前を知っているんだ??
 目許にはセクシーな黒子があって、どう見ても、噂にも話題にも出てくるに違いない、とても可愛くて綺麗な子なんだけど…全く見覚えがない。
 ただ、この制服は確か、隣町のお嬢様学校だって言われている女子高のモノだけど。
 クラスメイトがあの女子高の子と付き合っていたから、制服だけは覚えているんだけど、しがない俺の高校如きじゃなかなか会うチャンスもないから、別に知らなくても仕方ないのか。

「えーっと…誰?」

 失礼なヤツだとは思うけど、顔も名前も知らないんだ、こんなつっけんどんな聞き方になっても仕方ないと俺は思う。うん、勝手にそう思う。
 でも、彼女は気分を害しているようでもなく、小馬鹿にしたようにクスッと鼻先で笑ったんだ。

「誰でもいいのよ。貴方、悪魔が憑いてるわよ」

「え!?」

 ギクッとした。
 いやまさか、レヴィのことを言ってるなんて思ってもいないし、何か、性質の悪い冗談か何かだろうぐらいにしか思わなかったんだけど…彼女の、少しだけ色素の薄い勝気な瞳が、何かを探るように細められたりするから、俺はヘンに動揺してしまって目線を泳がせてしまった。
 こんな、顔も知らないようなヤツの台詞に簡単に動揺するなんて…とか、思うだろ?
 実際は、そんなことに動揺したんじゃないんだ。
 誰かが、たとえばこの胡散臭い女子高生だったとしても、まだ俺に、悪魔が憑いていると言ってくれたんだ。
 ほんの少し、胸の奥でずっと燻っていた不安のようなものが、ゆっくりと溶けたような…そんな安堵。

「強ち、満更でもないようね。人間如きが第一階級の悪魔を手懐けるなんて、やるじゃない」

 名前も名乗らないような失礼な女子高生は、フンッと鼻先で笑うと、すぐにニヤリと笑いやがったんだ。
 あう、こんな往来で悪魔の談議なんて冗談じゃないよな。
 顔馴染みの八百屋のおばちゃんが、あからさまに怪訝そうな顔をしてるから、俺はコホンッと咳払いして軽くあしらってやるつもりだったんだ。

「何を言ってんだ?この暑さだ、熱中症とかかからないように気を付けろよ」

 じゃーなと片手を振って立ち去りかける俺を慌てたように追い駆けてくると、ふんわり巻き毛の女子高生は、なんだか、見ているだけで嫌な気分になるような笑みを、その綺麗な唇に浮かべていた。

「随分と落ち着いてるじゃない。アンタにレヴィアタンは勿体無いのよ」

「…え?」

 ふと、見下ろした先の彼女の顔は、まるで妖艶な熟女のようにしっとりとした雰囲気を漂わせていて、俺は思わず我が目を疑って瞬きを繰り返してしまう。
 そうすると彼女は、そんな俺の隙をついて、いきなり、そうまるで嵐のように唐突に、いきなり胸倉を掴んでグイッと、それはそれは凄まじい力で引き寄せると、問答無用でキスしてきた!

「ななな…ッッ!?」

「…ふん、キスぐらいで動揺しないでよね」

 呆気に取られている俺や、道行く買い物客たちが驚いたように目を瞠っているのに、彼女は全く動じた様子も見せずに、まるで勝ち誇ったかのようにフフンッと笑いやがったんだ。
 なな、なんなんだ!?

「アンタの中にあるレヴィアタンの記憶は貰ったわ。これでお仕舞い。結局、人間如きが第一階級の悪魔の愛を得ようなんて、100万年早いってことよ」

 彼女は不意に、憎々しげに俺を睨むと、フンッと胡乱な目付きで一瞥してから外方向くようにして行ってしまったんだけど…いったい、何が起こったんだ??
 あのお嬢様学校の女子高生は、レヴィの記憶を貰ったとか言いやがったけど…そもそも、どうしてレヴィのことを、彼女は知っていたんだろう。
 有名なお嬢学校はカトリックだと彼女持ちのクラスメートが言ってたから、もしかしたら、彼女はエクソシストだったんじゃないだろうな?
 それだと、もしかしたら…俺は目を付けられたのかもしれないから、レヴィが危険かもしれない。
 俺は、実際に第三者として聞いていたら、おかしな会話だと思われるに違いないんだけど、それでも俺は、胸に微かに巻き起こった旋風に、ソッと眉を顰めて俯いていた。
 レヴィも、灰色猫も帰って来ない。
 ここで俺は、待っているのに。
 どうして、2人とも帰って来ないんだろう?
 それとも…もう、帰って来ないのかな?
 ここにはエクソシストとかいて、危険だし…
 帰って来ない方がいいのか?
 でも、俺は。
 俺は、ここに、いるのに…

第二部 1  -悪魔の樹-

 今日は朝から茜は友達の家に遊びに行って今日は帰らないし、父親はついさっき、夜勤の為に出勤したばっかりだ…と、言うことはだ、目の前で嬉しそうにニコニコ笑っている、この世のモノとは到底思えないほど綺麗な白い悪魔の思惑通り、今日一日は2人っきりになるってワケだ。
 生涯の愛を誓ってしまった身としては、最愛の旦那様に得意の手製料理を振舞うべく、キッチンに篭ってウンウン唸っているんだけど、実際の関係は、どうも俺が旦那様で白い悪魔が貞淑なメイドって感じだ…って、自分で言っておきながら何なんだけど、アキバ系が泣いて喜ぶような萌え要素がまるでない、キリリとキツイ双眸をしている白い悪魔に、嬉しそうに『ご主人さま』なんて呼ばれてみろよ、一気に萌え上がった心も萎えるからな。
 本来ならきっと、この白い悪魔…リヴァイアサンのレヴィこそが『ご主人さま』と呼ばれて、多くの使い魔たちが平伏す光景がお似合いだってのに、レヴィは全く似合わないニコニコ笑いを浮かべて、何が楽しいんだか、大人しくキッチンにあるテーブルの椅子に行儀良く座ってるんだ。
 ジャラジャラと鬱陶しいぐらい飾り立てた宝飾品を除けば、古風な外套に古風な衣装を身に纏っている姿は、悪魔の貴公子と言われれば頷けてしまうぐらい、とてもよく似合っている。
 最近、レヴィの白い悪魔姿を見ることが少なくなっていたから…惚れた弱みとしては、久し振りに見る白い悪魔の端整な横顔に、ドキドキと胸を高鳴らせて、頬を染めても誰からも文句は言われないと思うぞ。
 茜や父さんがいる時はいつも白蜥蜴の姿をしているから、久し振りに見る白い睫毛も、金色の双眸も、何もかもが新鮮で、ジッと見詰められてしまうと照れ臭くて思わず笑うしかない。
 そんな時は決まって、レヴィも嬉しそうにはにかむから、なんだか、こっちの方が心があったかくなってさ、レヴィのことをもっともっと好きになってしまうんだ。
 そんなこと、この白い悪魔はちっとも感じちゃいないんだろうけど…
 でも、この白い悪魔は、驚くことに、俺の手料理が甚くお気に入りなのか、どんな姿の時でも嬉しそうにペロリと平らげてくれる。
 だいたい、悪魔って何を食うんだか皆目検討もつかなかったんだけど…前に聞いた時は、なんか、大気にある純粋なモノが食事だとか何とか言ってたから、きっと空気を吸ってることが食事なんだろう、植物みたいなヤツだなーって、単純に思っていたんだけど、実際は俺が用意したモノならなんでもペロリと平らげてくれたんだ。
 それも飛び切り嬉しそうに…そんな風にされてしまうと、それでなくてもレヴィを好きな俺としては、腕によりをかけて頑張らないとって思っても、やっぱり仕方ないと思うんだよなぁ。
 そのあまりの食いっぷりに、一度、茜のヤツから食卓にでんっと鎮座ましてる白蜥蜴をうんざりしたように見ながら言われたことがある。

「光太郎さぁ、食卓にまでトカゲを置くなんかどうかしてるよ。食事が不味くな…ウギャァ!」

 結局、腹立たしそうなレヴィに指を食い付かれて今は黙ってしまったんだけど、それでも茜は今でも忌々しそうに白蜥蜴を睨みながら食事をしている…んだけど、スマン、茜。
 それでも俺は、白蜥蜴を食卓の上に乗せておきたいんだ。
 父親も茜も、誰も食事を褒めてくれないし、結構残すようになった最近、レヴィだけは嬉しそうに金色の双眸を細めながら、美味しそうに皿に盛られた料理を平らげてくれるんだよ。
その姿を見ていると、心の奥底からあたたかい気持ちがじんわりと広がってきて、また頑張ろうって気持ちになれるから、だから俺は、レヴィを食卓の上に乗せているんだ。
 そんなこと、きっと父親たちは気付きもしないんだろうけど…
 まあ、白い悪魔の姿で肉ジャガを頬張るのはどうかしてると呆れちまうけどな。
 レヴィは、俺の作る肉ジャガがお気に入りなんだそうだ。
 端整な横顔で、頬にかかる白い髪はそのままで、長い白い睫毛に縁取られた綺麗な金色の双眸を嬉しそうに細めながら、中世から抜け出してきたような貴公子然とした風貌で、思い切り肉ジャガを食ってる姿は、なんつーか、信じられないモノでも見ているような、なんとも不思議な気分になった。
 オマケにだ、その箸遣いの器用なことと言ったら、もしかしたら、そんじょそこらの高校生よりは上手かもしれない…見掛けが外国人なだけに、日本人顔負けでバリバリ箸を使われてしまうと…俺が複雑な顔をしてもそれこそ本当に仕方ないと思うぞ。

『ご主人さま!今日の肉ジャガも美味いです♪』

 まだ母さんが生きていた時に座っていた場所に腰を下ろしている白い悪魔は、ニコニコと上機嫌で笑いながらそんなことを言うから、俺は照れを隠すように唇を尖らせて「当たり前だ」って呟くんだよな。
 そうすると、レヴィは嬉しそうに笑うから…そんな、他愛ない会話にも俺は、凄く幸せだと思ってしまうんだ。
 だから、ドンッとわざと大きな音を立てて、味噌汁とご飯のお代わりなんかをテーブルに置いてしまう。
 それすらも白い悪魔は、嬉しそうに平らげてくれるから。
 それが凄く嬉しくて…

『ご主人さま』

 腹をたっぷり満たしたレヴィは、ニコニコと悪魔のクセに屈託のない笑みを浮かべると、身体ごと俺の方を向いて『おいでおいで』と片手で手招いたりするから、食器の後片付けをしていた俺は水道の水を止めると、エプロンで両手を拭いながら近付いて、遠慮も躊躇いもなくその膝に横座りするように腰を下ろすとひんやりする指先よりも冷たい青褪めた頬に掌を押し当てた。

「レヴィ…」

 どうせ、今夜は誰もいないんだから、思い切り、俺はこの、この世ならざる美しい白い悪魔の甘ったるい桃のような芳香に包まれたまま、やっぱり甘ったるい唇に口付けを強請って唇を寄せるんだ。

『ああ…貴方はとても淫らにオレを誘うんですね』

 飛び切り嬉しそうに笑って、綺麗な真珠の歯の隙間から伸ばした舌先で、まだ覚えたばかりのキスしかできない幼い俺の舌を絡め取ると、上手に口中に誘って、腰掛けたままの腰が砕けるほど甘ったるくて濃厚な、深い深いキスをしてくれる。
 息の上がる俺は夢中になって、そんな情熱的な白い悪魔の首筋に両腕を回して唇を押し付けると、腰に回す腕に力を込めてくれるレヴィがテーブルの上に押し倒すようにして覆い被さりながら思うさま、俺の口腔を蹂躙して体内の性感帯に熾き火のような快楽を点していく。

「ん…ふぅ……ぅあ…ンン……ッ」

 砂糖菓子にさらに粉砂糖を塗したよりももっと甘い声で甘えるように吐息を吐けば、レヴィは呼気すらも乱さずに、蛍光灯の光を反射させる唾液の糸で舌と舌を結んで、そのまま俺の頬をペロリと舐めるから、そんな些細な行為にも、欲望を植え付けられた身体はビクンッと反応してしまう。

『ご主人さま…今夜はキスだけでは止まりません』

 チュッチュッと、頬や閉じてしまっている瞼、ほんのり染めてしまった目尻に覚悟を促すキスの雨を降らせながら、欲望の滲む声音で囁かれて、身体も心もすっかりレヴィのモノになっている俺は、快楽の虜にした白い悪魔だと言うのに、何もかも信じ込んでうっとりと笑うんだ。

「…俺だって、レヴィにいっぱい、えっちしてもらいたいよ」

 伸ばした腕に力を込めて、色気も誘う方法すらあまりよく知らない幼稚な俺の台詞に、レヴィは静かに桃のような甘ったるい芳香に良く似た蠱惑的な微笑を浮かべて、欲望に滾る金色の双眸を細めると、襲い掛かる前の獰猛な野生の肉食獣のような表情には、期待にゾクゾクと震えちまう。
 どうやって嬲ろうか…そんな暗喩を匂わせる悪魔の微笑で(…って、実際にレヴィは悪魔なんだけど)、白い悪魔は寝巻き代わりのジャージのズボンを下着ごとグイッと引き下ろしてしまう。そうるすと、既に半勃ち状態の俺の息子が外気に晒されてフルフルと震えて、レヴィの古風な衣装に擦れるから、それだけでもイッてしまいそうになる。
 それを見逃さない意地悪な白い悪魔は、俺の根元をゆっくり掴んで、そのくせ人差し指でグニグニと尿道口を刺激したりするから、俺はあられもない素っ頓狂な声を上げてしまう。

「ひゃ…ッぅん!」

 ジャージが足首で蟠っているし、捲れたエプロンに隠されないまま露出された性器に絡まる長くて繊細な指先の戯れが、蛍光灯の下で晒される図は、きっととても厭らしくて、耳朶を打つくちゅ、ぬちゅ…っと湿った音がさらに俺を煽るように追い詰めていく。
 頬を真っ赤に染めて、それでも従順に快楽に溺れる自らの主人を、いったいどんな顔をして見下ろしているんだろうと、俺は羞恥に悶えそうになりながらも、ソッと震える瞼を押し開いて見上げれば、男らしいキリリッとした白い睫毛に縁取られた金色の双眸は、欲望に濡れて微かに赤く光っているようで、野生の雄の匂いにギクリとする前に、期待に胸躍らせるんだから大概、俺もどうかしちまったんだろうなぁ。
 いや、それだけ…俺はレヴィが好きなんだろう。

「…ふぁ……ぁ、んぅ…ヒ……れ、レヴィッ」

 長い指先が、溢れ出る先走りに滑る陰茎からゆっくりと蜜を掬い取って、そのまま無防備な後腔へと潜り込んでくる。僅かに引き攣れるように痛んだけど、俺の肛門はまるで貪欲にレヴィの指先を求めて淫らに収斂するから、どれほど俺が興奮しているのか、もうすっかりレヴィにはバレてるんだろうなぁ…うう、恥ずかしい。
 最初はあれほど激痛を感じていたってのに、今では、白い悪魔のレヴィが俺を抱きかかえるようにしてひっそりと息衝く窄まりに長い指先を潜り込ませて悪戯をしながら、首筋から胸元の飾りまでわざと音を立ててチュッチュッと口付けたりするから、そのムッとする甘い桃のような芳香とレヴィの体温にクラクラして…このまま思い切り貫いて欲しい…なんて願ってしまうようになるなんて思いもしなかった。
 そんな自分が存在するなんて…考えてもいなかったってのに、俺はレヴィの背中に回した腕でギュウッと服を掴みながら、顔を真っ赤にして綺麗な白髪から覗く先端の尖った耳にソッと口付けた。

『…ッ!…』

 レヴィの性感帯はその耳なのか、ちょっと擽ったそうにクスッと笑ったようだった。そう感じたのは、ちょうどペロリと舐めていた乳首にフッと、あたたかな吐息が触れたから…その感触に、またしても俺は切なげな溜め息を吐いて、悪戯されている先端から堪え切れない液体がトロリ…ッと溢れていた。
 う、墓穴を掘っちまった。
 顔を真っ赤にして白い髪に頬を寄せると、悪魔は心得たウットリするほど淫らで妖艶な笑みを、その真っ赤に濡れ光る口許に浮かべて、レヴィは後腔に収めていた指先をわざと乱暴に引き抜いて俺を喘がせると、俺の脱力している片方の腿を抱え上げたんだ。
 ヒクンと収斂するその熱く疼く部位に、灼熱の鉄の棍棒をまるでオブラートか何かで包んだような、何か凶悪な気配を醸す杭に擦られて…俺はハッと生理的な涙に濡れる双眸を見開いた。

『…ご主人さま、堪らなく貴方が愛しいです。このまま全て、今すぐにでも貴方をオレのものにしたい。いや、そうじゃない。モノじゃないんです、ご主人さま。貴方をオレの一部にしたいんだ』

「…ぅ…ぁ……そ、れ。どゆ…ことだ?」

 湿った淫らな音を響かせてヌチュヌチュと窄まりを擦られながら、それでなくてもレヴィの桃のように甘ったるい体臭にクラクラしているって言うのに、その得も言えぬ快楽に眉を顰めながら俺は不思議そうな顔をして、こんなコトの最中だってのに、真摯な双眸で見下ろしてくるレヴィを見詰めたんだ。
 いつ、潜り込まれてもおかしくない状況が、俺の中の被虐心を余計に煽って、上ずる吐息を噛み締めるようにして耐えながら、ポロポロと涙を零して見詰めていると、目許を朱色に染めた妖艶な眼差しのレヴィは、俺がこの世界中で誰よりも愛している白い悪魔は、クスッと小さく笑って、頬に零れる涙をその酷薄そうな薄い唇で掬ってくれる。

『オレの一部ですよ、ご主人さま。そうすれば、貴方はもう、他の誰のものにもならないでしょう?ここに他の誰かを迎え入れることもなければ、心をくれてやることもできない。全て、オレになるんだから』

 まるですぐにでもそうして、レヴィのなかに取り込まれてしまうような錯覚に震えながら、俺は嬉しそうに笑っていた。

「ああ、じゃあ俺を…ン…ッ……ぅ、あ…お、前の…一部に…」

 して、と囁く前に、嫉妬深いレヴィは俺の背中に腕を差し込むと、抱え上げるようにしてユックリと後腔にその先端をぬぷ…っと沈めてきたんだ。

「あ!…ぅん……あ、ア…んー」

 その虫が這うようなもどかしい感触に、そっと眉を顰めて、それから何故か、ほんのちょっと嬉しくて…くふんと笑うと、ほんの一筋、こめかみから一滴の汗を零すレヴィが満足そうに笑って荒い息を吐く俺の唇を、優しく啄ばむようにキスしてくれた。

『勿論です、ご主人さま。貴方が嫌だと言えば、オレはその咽喉を食い千切って、すぐにでもオレの中に取り入れて差し上げますよ』  

 優しい仕種とは裏腹の物騒な台詞でも、俺はそのレヴィ特有の嫉妬深い一言一言がいちいち嬉しくて、胎内に全て収まる白い悪魔が愛おしくて…何もかも飲み込んで、身体の一部にしたいのは本当は俺の方なんだと自覚する。
 そんなこと、もうとっくの昔に気付いてるんだろう白い悪魔は、甘い桃のような芳香を散らしながら、嬉しくて泣いている俺の目尻の涙を唇で拭ってくれるんだ。
 心の底から、こんな風に誰かを愛せるなんて、思ってもいなかった。
 愛って言うのはもっと漠然としたもので、だからきっと、最初は恋をするもんなんだろうなぁと思っていたのに…レヴィとは、何故か最初から愛し合っていたような気がする、のは、もしかしたら気のせいなのかもしれないけど、でも、俺はその気持ちを信じたいと思っていた。
 激情のまま揺すられる身体はきっと、明日には軽い筋肉痛を訴えるのかもしれないけど、心は凄く幸せで幸福だろうと思う。
 レヴィを、この白い悪魔を、俺は心から愛している。

 結局、昨夜はキッチンで1回、ベッドで2回もヤッてしまって、翌朝は爽快な目覚め…ってワケにもいかず、朝日に白い髪が眩しい、白い睫毛に縁取られた双眸を瞼の裏に隠した悪魔に抱き付きながら、ヘトヘトの身体を横たえて目を閉じていた。
 茜は当分帰ってこないし、父親も10時を回らないと帰って来ない、となれば俺は、レヴィとの甘い蜜月を優しい光の中で堪能するしかないワケだ。
 嬉しくて口許がエヘラ…ッと笑っていたとしても、それはそれで大歓迎ってヤツだ。
 ふと、瞼を開いて、俺はドキッとした。
 てっきり、白い睫毛に縁取られた瞼の裏に、その綺麗な金色の双眸を隠してしまっているとばかり思っていたから、俺を優しく抱き締めている白い悪魔が目を覚まして、ジッと俺の寝顔を見ていたなんて、なんてこっぱずかしいんだ。

「お、おはよう」

 思わずエヘへッと笑ったら、静かな微笑を湛えていたレヴィは、それはそれは嬉しそうにニコッと笑って、ギュウッと俺を抱き締めながらやわらかいキスを頬に落としてくれた。

『おはようございます、ご主人さま』

 相変わらず仰々しい朝の挨拶にももう慣れた俺は、そんなレヴィのキスの雨が擽ったくて、でも嬉しいから好きなようにさせてやるんだ。
 とか、偉そうに言ってるけども、正直な話、レヴィの人間よりも(って言うか、俺がマジマジと見たのはレヴィだけだからなんとも言えないんだけど)大きなアレが、朝の生理的現象のせいでやや硬度を増して腿の辺りに触れてるから、そんな余裕はないんだけど。
 もう、何度もレヴィを迎え入れたし、キスだって何度もした。
 こうして、狭いシングルのベッドで抱き合って眠るのも、数え切れないほどだと言うのに、俺はやっぱり抱かれた翌日の、この朝の生理現象に馴染めないでいる。
 レヴィに言わせれば、『目が覚めて目の前に愛するご主人さまがいるのに、勃起しない男は失格なのです』ってことらしい、良く判んねーよ。
 またしても、相変わらず真っ赤になっている俺に、レヴィのヤツはクスクスと笑って覆い被さってくると、頭の両側に肘をついて、俺の髪を優しく弄びながら深いキスをしてくれるんだ。燃え上がるような金色の双眸を細めて覗き込みながら、酷薄そうな薄い唇が笑みを象って、朝日の中であんまり艶かしいからドキッとする俺は、それでも、その逞しい背中に両腕を回して「もっと、もっと…」とキスをせがむ。
 いつからこんな風に、甘ったれたヤツになっちまったのか…それはきっと、砂糖菓子よりも何よりも、俺に対して甘すぎるレヴィのせいだと思うぞ。
 キスに煽られるままにレヴィの逞しい情熱を胎内に受け入れると、昨夜、この白い悪魔が残した所有の証のような白濁がぬるく掻き混ぜられて、思わず眉を顰めたら、ぐちゅ…っと湿った水音を狭い室内に響かせて、肛門からトロリ…ッと零れてしまう。

『…ご主人さま』

 ふと、呼ばれて震える瞼を押し開いて見上げると、思わずドキッとするほど真摯な眼差しのレヴィがそんな俺を見下ろしながら、少し切なげに眉根を寄せて囁くんだ。

『オレを愛してくれていますか?』

 朝の清廉なひと時、いつも必ず聞いてくる質問。
 コトの最中で熱に煽られるだけ煽られて、本当はそれどころじゃないって言うのに、どうしてだろう?レヴィにそんな顔をされてしまうと、俺は居ても立っても居られなくて、その着痩せするタイプなんだろう、思う以上に逞しい身体に抱き付いて何度も頷いた。
 それもやっぱり、毎朝のことで。

「愛しているよ、レヴィ」

 何がそんなに不安なのか、極平凡な高校生でしかない俺には、悩める悪魔の気持ちなんかこれっぽっちも判らない。それがどうしても悔しいんだけど、気の遠くなるほどの時間を生きてきたに違いないレヴィの、その心の奥に蹲るものがなんなのか、たかだか17年しか生きていない人間なんかが理解するには、身の程知らずだって笑われるに決まってる。
 それでも俺は、この悩める白い悪魔の心に蹲る何かから、必死に守ってあげたくて背中に回した腕に渾身の力を込めてみる。
 いまいち、効いていないんだろうけど、それでもレヴィは俺のそんな態度に毎朝、どこかホッとしたように安心して、思うさま突き上げて、散々俺を鳴かせてくれるんだ。
 嬉しそうにいつもニコニコ笑っているレヴィ。
 俺が差し出すものは、何一つ疑わずに全て受け入れてしまうから…悪魔なのに、人間を騙して貶めて散々酷い目に遭わせて、絶望に打ちひしがれるその姿を見て大笑いするはずの悪魔なのに、俺は凄く嬉しくて、悪魔であるはずのレヴィにずっと、恋焦がれていくんだと思う。
 レヴィはずるいよ。
 俺がこんなに恥かしげもなく愛してるって思っているのに、その心を毎朝確かめてくるんだから。
 寝惚け眼を擦りながら、白い蜥蜴にキスして頷く朝もあるし。
 レヴィ、なぁ、何がそんなに不安なんだよ?
 聞きたくて、でも紙一重で何かが拒絶するような気配に、どうしても問い質す勇気もなくて、臆病な俺は1人で唇を突き出して拗ねるしかない。

『ご主人さま?』

 そんな俺に、決まって朝っぱらから盛ってくれた白い悪魔は悪気もなく首を傾げて覗き込んでくるから、唇を尖らせたままで俺は「なんでもないよ!」と、不機嫌そうに突っ撥ねちまうんだよなぁ。
 でも、そんなことでは挫けない、悪魔に不可能はないレヴィはややムッとしたようにキリリとした眉根を寄せて、背後から抱きすくめてくるんだ。

『なんでもない…と言う表情ではありませんね。何かオレに隠している。何を隠しているんです?』

 嫉妬深いレヴィは、もしやまた誰かを想っているのでは…と、以前、悪友だと思っていたけど本当は大魔王ルシフェルだった友人とのコトを思い出したのか、ムムムッと薄い唇を引き結んで胡乱な目付きで覗き込んでくるから…それだけで俺は、思わず噴出しちまうんだ。

「何も隠してないさ、レヴィ。ああ、でもそうだなぁ…たとえば今夜はチンジャオロースーと玉子焼きの異色のコラボレーションだ!とか、イロイロと企んではいるから、もしかしたらそのことを疑ってるのか?だったら俺は、素知らぬ顔で知らんぷりしてないとなぁ~」

 ニヤニヤ笑ってそんなことを言ってみると、思う以上に嫉妬深いレヴィのヤツは疑い深そうに眉を寄せたまま、探る目付きで胡乱な気配を漂わせながら覗き込んでくるから、俺の腹はますます引っ繰り返りそうなほどの爆笑に引き攣れて、とうとう横隔膜の辺りが痛み出してくる。
 そんなに笑わせないでくれよ。
 ケタケタ笑う俺に、不思議そうにムッとしたままで首を傾げていたレヴィはでも、愛するご主人さまが朝っぱらから嬉しそうに笑う姿に気を良くしたのか、疑い深そうな眼差しはそのままで、そのくせクスクスと笑っている俺の頬にソッと唇を落としてくれたんだ。

「レヴィ…」

 何時の間にかあの見慣れた古風な衣装に身を包んでしまった白い悪魔に、嬉しくてその名前を呼ぶ俺はもちろん全裸で、それはとても不公平に見えるんだけど、レヴィはそうして、自分の裏地が鮮紅色の漆黒の外套で幸せそうに笑っている俺を包み込むのが何よりも好きらしくて、セックスの後はいつもこうして背後から外套に包んで項や頭にキスしてくる。
 その擽ったい行為が、密かに俺が気に入ってるなんてこと、この悪魔は気付いているんだろうか…って、もちろん気付いているんだろうなぁ。だって、悪魔に不可能はないし、心の奥深いところまで、きっとレヴィにはお見通しなんだろう。
 背後を振り返りながらキスを強請ろうとした丁度その時、不意に呼び鈴が鳴って、俺は思わず痛む腰を庇うことも忘れてガバッと起き上がっちまったんだ!
 父親は10時にならないと帰らないし、茜は友達の家に行ったら夜中まで帰って来ないはずなのに…まさか、気紛れに帰ってきたとか!?いや、思う以上に早く仕事が終わって、父さんが帰ってきたんじゃないだろうな!!?
 はわわわ…こんな男と抱き合って眠ってる姿を父親に見られでもしたら…たぶんきっと、明日には精神病院に厄介になってんじゃないのか、俺!
 思い切り動揺して頭をグルグルさせてへたり込んでいる俺の傍らで、ギシ…ッと狭いシングルのベッドを軋らせて起き上がったレヴィは、先端の尖った大きな長い耳を欹てて気配を感じているようだったけど、ヒョイッと映画俳優のように片方の眉を上げて俺を見下ろしてきたんだ。

『ご主人さま、弟君でもお父上でもないようです。オレが代わりに出てみますね』

 繊細そうな長い凶器のような爪を有した指先で自分を指差してニコッと笑うレヴィに、そうか…茜でも父親でもないのかとホッと安心した俺は、それでもまさか、こんな白い貴公子然とした悪魔に客の対応を任せられるはずもないから、脱ぎ散らかしていたジャージを拾いながら慌てて首を左右に振ったんだけど、レヴィは殊の外強い口調で断りやがったんだ。
 何だって言うんだ??

『そのような…蠱惑的なお姿のご主人さまを、何処の馬の骨とも判らぬ輩に見せるつもりなど毛頭ありません。それなら、オレが出た方が何万倍もマシです!』

 言い切るレヴィの、ツラに似合わない子供っぽい台詞に、俺は思わずクスクスと笑ってしまい、不機嫌そうな胡乱な目付きの白い悪魔には逆らえそうもないから、有り難くその好意を受け入れることにした。

「ありがとう、レヴィ。宜しく頼むよ」

『はい、ご主人さま♪』

 現金なもので、レヴィのヤツは嬉しそうにパッと表情を綻ばせやがったんだ。その仕種が可愛いなんて、俺は絶対に、口が避けても言ってやらないけどな。

『では、暫し待っていてくださいね』

 レヴィはベッドを軋らせて降りると、そんなことを言いながら歩き出したんだけど…一歩足が出ると、漆黒の外套は翻って漆黒のシャツに変化し、もう一歩足が出ると、革らしい物質でできた靴を履いていた足は裸足になってズボンはジーンズに変化した、そして、もう一歩足を踏み出すと、その真っ白の髪と真っ白の睫毛は黒くなって、先端の尖った耳は見覚えのある丸みを帯びたんだ。
 部屋を出るころには、レヴィはどうやら、立派な【人間】になっていた。
 もちろん、その上に頗るが付く【美形の】だけどな。
 うう…ホントに、悪魔って便利なヤツだよなぁ…と、妙に感心してしまった。
 暫く玄関先で遣り取りがあったけど、俺が心配するようなことは何もなくて…って、たとえば茜たちじゃないにしても、学校の友達とか、近所のおばちゃん、果ては親戚だったらどうしよう…とか、悩んでたんだけど、そのどれでもなかったみたいだ。
 室内に戻ってくるなり、まるでドライアイスに水をかけたら噴き出るような煙を一瞬だけ纏ったレヴィの身体は、すぐに元の白い悪魔に戻って、その両手で抱えた洗剤の山に困惑したような顔をして俺を見詰めてきたんだ。

『なんなんでしょうね?何やら、この悪魔のオレに契約などを要求してきたので、キッパリと断ったらこんなモノをくれました。契約はいらないから受け取ってくれとのことですが…ご主人さまは嬉しいですか?』

 小首を傾げる白い悪魔の、その仕種があんまり可愛くて可笑しかったから、俺は思わず噴出してベッドの上に転がった。
 レヴィは『はて?』とでも言いたそうに眉を顰めて、更に訝しそうにするから、俺のツボに見事にクリーンヒットだ。

「それはきっと新聞のセールスマンだったんだよ。契約もせずに洗剤を貰ったんだ、そりゃあ、俺は嬉しいよ」

『せーるすまん…ですか?』

 人間界のことを熟知していそうで全く今の状況を知らないレヴィの知識は、どうも15世紀だとか、そんな気の遠くなるような昔で止まっているようだ。だから、セールスマンだとかそんな、俺には普通の事柄でも、レヴィには良く判らないんだよ。

「ああ、新聞…いつも朝、父さんが読んでいるだろ?あの新聞を取るように勧誘している人だとか、その他にも、なんちゃら還元水とか売りに来るヤツもいるんだけど、そう言う、訪問販売をする連中のことをセールスマンって言うんだよ。そう言う連中は追い返すのが正しいんだ」

『そうなんですか。では、今回は正しい行いをしたのですね?それに、ご主人さまも喜んでくださったようなので、良く判りました。なんだかオレ、ひとつ賢くなったような気がします♪』

 エヘッと笑うレヴィの、悪魔だと言うのに憎めない笑顔に、どうしてこの悪魔はこんなに素直で可愛いんだろうと身悶えそうになるけど、その気持ちをグッと堪えて、俺はニコッと笑い返すんだ。
 悪魔のクセに良い行いをしたがるレヴィのこの性格は、やっぱり、あの『悪魔の樹』の契約が何らかの影響を及ぼしているんだろうか…
 『悪魔の樹』の契約は、レヴィの使い魔である灰色猫が凶暴な主人に愛する者を与える為に用意した儀式の一種らしいんだけど、詳しいことはあまりよく判らない。チンコに似たグロテスクな木に、水以外の液体を与えてしまったせいで、性格が逆転して登場してしまったレヴィ…でも、俺はそんな白い悪魔のレヴィが大好きなんだ。
 たまたま目にしたゲームのジャケットを見て、白い悪魔に姿を変えて俺の前に現れた悪魔の名はレヴィアタンと言って、あの有名なリヴァイアサンだった。
 そんな凶暴そうには全然見えないレヴィは、『悪魔の樹』の契約のせいなんだけど…俺は、心から灰色猫に感謝していた。
 だって…
 灰色猫の機転の良さで、今こうして、レヴィとの甘い生活を恙無く過ごせているんだ。
 あのヘンな契約がなかったら、今頃俺はレヴィに殺されていただろうし、こうして幸せな気分なんか味わえなかったに違いない。

「レヴィはそのままでも賢いよ」

『いいえ、オレは愚かです。ご主人さまが喜ぶようなことを、ほんの少しでも多く知ることができるのなら、貪欲に学んでいこうと思っているのですよ』

 それは、この人間が住む世界で生きていくことを決めたらしいレヴィの、何らかの決意の宣言だったのかもしれない。
 そんな風に想ってくれているのだから、俺だって悪い気はしないさ。
 それどころか、スゲー嬉しい…

「じゃあ、俺も。レヴィが喜ぶようなことを、少しでも多く知るように頑張るよ」

 パジャマ代わりのジャージを着込んだままでニコッと笑えば、ホエッと脱力したような笑みを浮かべたレヴィは、唐突にハッとして、慌てたようにコホンッと咳払いした。
 青褪めた頬がほんのり赤いのは、どうも照れてるんだろう。 

『オレには、ご主人さまが傍にいてくれることこそが、何よりの至上の喜びなのです』

 そんな嬉しいことを言ったら、思わず抱き付いて、キスしたくなっちゃうじゃないか!

「レヴィ…」

 嬉しくて伸ばした指先で、その冷たい青褪めた頬に触れようとした時だった、いつもはレヴィとイチャイチャしている時には気を遣っているのか、それともレヴィの嫉妬深い怒りに恐れをなしているせいなのか…どちらにしても絶対に姿を見せない、この家の新しい住人、パッと見は薄汚れているようなくすんだ灰色の猫が、少し開いている扉から顔を覗かせて「にゃあ」と鳴いたんだ。

『どうした?灰色猫』

 両手に洗剤を持っている間抜けな姿の主を見上げて、思わず言葉を詰まらせてしまった灰色の猫は、それでも気を取り直したようにコホンッと咳払いをしてちょこんと座り込んだ。

『ご主人。今日からお兄さんたちの通っているガッコウが夏休みになるそうで…』

『ああ、そうだな。で、それがどうしたんだ??』

 勿論、だからこそ茜もお出かけの真っ最中だし、夏休みになったことを逸早く告げた時、レヴィは嬉しそうに笑って『では、どこか遠くに行きましょう』と言ってくれたんだ。
 何処までも遠く…レヴィと2人きりで旅行ができるなんて、夢みたいで嬉しかった。
 レヴィもそうだったのか、だからこそ、そんなことはとっくの昔に知っているわ、とでも言いたそうな、折角俺との甘い一時を邪魔しやがってとでも思っているように、胡乱な目付きで不機嫌そうに首を傾げてみせるから、灰色の猫は一瞬息を呑むようにして首を竦めたけど、気を取り直したようにピンピンの髭をピクピクッと動かして頷いたんだ。

『さっき、ルシフェル様のお遣いが来て、レヴィアタン様にも一度魔界の方にお戻りくださいって言ってましたよ。折角の夏休みだってのに…ねぇ?』

 灰色猫は些かうんざりしたように溜め息を吐いて首を左右に振ったんだけど、レヴィはキリリとした眉を僅かに顰めて『はて?』と首を傾げたようだった。
 そう言えば篠沢のヤツ、何となく不貞腐れたような顔付きで、同級生の女子たちのお誘いを断っていたな…確か故郷に帰るんだとか何とか、そんなことを言ってたっけ?
 俺が首を傾げながら、最終日の時の篠沢…本当は悪魔のルシフェルなんだけど、ヤツの仏頂面を思い出していたら、レヴィが金色の双眸を細めて灰色猫を見下ろした。

『どう言うことだ?魔界に戻るも戻らないも、オレの自由ではないか』

『そりゃそうなんですけどね…』

 灰色猫は、恐らくレヴィがそう言うだろうと予想はしていたのか、なだらかな肩を竦めるようにして首を左右に振ったんだ。

『豪く切迫してましたよ。どうも、魔界であのお方が大暴れでも始めたんじゃないですか?』

 その台詞で、レヴィはバツの悪そうな顔をして唇を突き出したんだ。
 それはそんな、子供っぽい仕種ではなく、心の底から憎々しそうな、金色の双眸には燃え上がる紅蓮の焔がチラチラと燃え盛っているようで、真正面から見たらきっと俺は卒倒してたんじゃないかなと思う。
 そんな眼差しでふと目線を落としたレヴィは、それでも思い切るように一瞬だけ双眸を閉じると、吹っ切るようにして開いた何時も通りの金色の双眸で俺を振り返った。

『ご主人さま、所要ができましたので、私は少し故郷に戻らせて頂きます』

 振り返ったレヴィは、それでも、俺と目線を合わせないようにしているのか、微妙に視線を逸らして素っ気無く言ったんだ。
 なんなんだよ、いったい?

「どうしてお前が戻るんだよ。あのお方って誰だよ??」

『ご主人さま…』

 ほんの少し、困惑したように俺を見詰めるレヴィは、何か言いたそうだけど、それを言ってしまうにはまだ心の準備ができていないんだとでも言いたそうな、あやふやな目付きで目線を伏せてしまう。
 それまで、あんなに揺るがなかった金色の双眸の、目に見える動揺に、不意に俺の胸の奥にムクリ…ッと、何か黒い蟠りが生まれたような気がした。
 それが、どす黒い煙に包まれた不安だと気付いたのは、胸苦しさに眉を顰めた時だった。
 どうして俺、不安なんか感じているんだろう?

『私には兄弟がいるのですよ。その者は地上を支配する悪魔で、癇癪を起こしては大地に並々ならぬ甚大な被害を齎す厄介な者なのです。対である私の言うことしか、彼は聞こうとしない。なので、私が戻らなければならないのです』

 でも、俺の不安を逸早く感じ取ったのか、やっぱり悪魔に不可能のないレヴィは、困ったように苦笑しながらキチンと説明をしてくれたんだ。
 そうか…って、レヴィには兄弟がいたのか!
 悪魔って…兄弟とかいないって思ってたんだけどなぁ。

「そっか、それなら仕方ないな。じゃあ、気を付けて」

『はい、ご主人さま。ほんの僅かな間のことです。寂しいのですが、暫し待っていてください』

 その台詞は、そっくりそのまま、レヴィの気持ちなんだと思う。
 洗剤の箱を傍らの机の上に置いたレヴィは、真っ白の髪に飾り髪を肩に垂らして、キリリとした眉の下、寂しげに揺れる金色の双眸が切なそうで、そのくせ、裏地が鮮紅色の古めかしい外套に胸元にはジャラジャラと色とりどりの宝飾品が揺れる、そんな古風な衣装に身を包んで確りと立ち尽くす姿には、威風堂々とした気品のような威圧感が漂っている。
 俺が愛している白い悪魔は、ほんの少しの別れでも、そんな風に悲しんでくれるんだ。
 でも、俺を想えば想うほど、別れ難くなってしまうから、そうして心を押し隠すように威圧感で孤独の心をオブラートのように包んで、魔界の実力者然として無関心を装うんだろう。
 以前にも一度、学校がある俺を残して魔界に戻らなければならない時、そんな風に突き放すようにして姿を消したことがあった。

『では、失礼』

 優雅に一礼してから煙と共に姿を隠そうとしたレヴィの、そのジャラジャラと装飾品が揺れる胸倉を引っ掴んで、俺は慌てて消えそうになる白い悪魔を掴まえたんだ。

『ご主人さま?!』

 何時もは仕方なく見送っていた俺の、その突然の反応に嬉しいやら驚くやらで、目を白黒させているレヴィが首を傾げて見せる。その姿は、既に腰の辺りまで消えているんだけど…

「レヴィ!俺、今日から夏休みだし、一緒に遠くに行こうって言ってただろ?その、一緒に魔界に行きたいんだ。ダメかな?」

 エヘッと、照れ臭くて頭を掻きながら申し出てみたんだけど、レヴィは一瞬、それはそれは嬉しそうに頬を染めて愛しそうに俺を見詰めてくれたんだけど、それでもすぐに、悪魔所以のような冷たい表情をして、今までにない厳しい口調で突き放してきたんだ。

『いけません、ご主人さま。魔界にはお連れするつもりはありません』

「レヴィ?」

『良い子で待っていてください。ほんの僅かなことです。すぐに戻って参ります』

 そう言って、有無も言わせない強い力で、胸倉を掴んでいた俺の腕を引き剥がすと、そのまま容赦なく引き寄せて、そうしてキスしてくれた。
 なんだろう、冷たい扱いのはずなのに、俺は凄く嬉しいなんて感じているんだ。
 どうかしているんだろうけど、白い悪魔の柔らかな唇が、手放したくないんだけど…と名残惜しそうに口中を蹂躙する肉厚の舌に翻弄されて、堪らずに吐息を漏らしてしまう俺に、レヴィは寂しそうに笑った。
 離れ難いのはレヴィだって一緒なのに、この優しい白い悪魔に、俺はまたしても甘えてしまっていた。

「ごめん、レヴィ。言ってみただけなんだ」

『いいえ、ご主人さま。申し訳ありません』

 寂しそうに笑って、レヴィはもう一度、俺の頬に口付けると、今度こそ本当に煙の中に姿を隠してしまった。そうなると、もう何処を捜しても、この世界にレヴィは存在しないんだ。
 唐突に独りぼっちになったような気がして、自分で自分を抱き締めるように腕を掴んでみたけど、何処か心にポッカリと穴でも開いたみたいに寂しくて…それで、レヴィが毎朝俺に『愛しているか?』と聞いてしまうほど不安な時ってのは、きっとこんな気持ちになっているんだろうなぁと思った。
 いや、もしかしたら完全に的外れなことなのかもしれないけど…
 俺は溜め息を吐いていた。
 レヴィがいなくなった部屋は、何処か寒々しくて、精彩に欠けたように静かだった。

6  -悪魔の樹-

落下に怯える俺の耳に篠崎の声音で『灰色猫、貸し1ね』と聞こえたような気がしたけど、今はそれどころじゃねぇ!!

「うひぇあぁぁぁーッッ!!…って、あれ?」

 思わず風圧を感じてレヴィに抱き付きながら素っ頓狂な悲鳴を上げたんだけども…あれ?落ちていく感じが全くしないぞ。

『大丈夫ですよ、ご主人さま』

 事も無げなレヴィの台詞に、眼を白黒させたままで俺は、軽く笑っているレヴィの肩越しにルシフェルが暢気に片手を振ってから、やれやれと室内に姿を消すのを見上げていた。
 そう、見上げていたんだ。

「ここ、これはど、どう言うことだ!?」

『簡単なことですよ。私は悪魔ですから、不可能などありません』

 ニィーッと笑って混乱している俺の顔を覗き込んできた性悪そうな白い悪魔に、ムッとして唇を突き出せば、啄ばむようにキスをされてしまう。
 う、案外恥ずかしいぞ。

『寒いですね。この季節はまだ、上空は凍えてしまうでしょう』

 いや、この季節じゃなくても上空は寒いと思うんだけど…そんな突っ込みは取り敢えず後回しにして、レヴィが労わるように優しく裏地が赤の、古風な漆黒の外套で包んでくれたりするから、俺はいったいどんな顔をすりゃいいんだよ?

「えっと、その。ありがとう」

 モジモジとレヴィの胸元辺りのジャラジャラアクセサリーを見詰めながら、柄にもなく礼なんか言ってみると、やっぱりレヴィは「はて?」とでも言いたそうに首を傾げやがるから、俺はクスクスと笑うしかない。

『礼を言われるようなことはまだしていませんよ、ご主人さま』

 相変わらずレヴィらしい返答に、俺は吹き上げてくるはずの冷たい風から完全に護られたまま、このぬくもりに礼を言わなければ罰が当たるんだぞとか内心で呟きながら、悪魔のクセに恩を売ることをすっかり忘れている白い悪魔が愛しくて仕方なかった。

『ご主人さま、如何でしょう?私の真実の名もお教えしましたし、これから海まで行ってみませんか』

「へ?海??」

『そうです』

 超絶…なんて言葉があるけど、ゲームのキャラクターから容姿を真似したと言う白い悪魔は、白いだけで、他は全然似てないよ、と突っ込みたいぐらい美形の顔立ちでニッコリと笑う。
 高い鼻梁も、酷薄そうな薄い唇も、髪も眉毛も睫毛もどれも真っ白で、心の奥底まで見抜いてしまうんじゃないかと思わせる金色の綺麗な双眸も…どれもこの世ならざる美しさで、俺は初めて、この世界には泣きたくなるほど綺麗な生き物がいるんだなぁと思っていた。
 長い耳が唯一、人間ではない事を物語っているけれど、それさえも気にならないほど、レヴィの存在は俺の中で大きくなっている。
 そんなこと、コイツは少しも気付いちゃいないんだろうけどな。

『私の真実の姿を見てください。もしそれで…貴方がどうしても嫌だと言われるのなら、私はご主人さまの前から姿を消しましょう』

「嫌だ!どんな姿だってレヴィはレヴィだ!!姿なんか消すなッ」

 即答に、そんな返事が返ってくるなんて予想もしていなかったのか、いや或いは、僅かでも期待していたから期待通りの返事に吃驚しただけなのか…どちらにしてもレヴィは、どちらとも取れる表情をしながら、嬉しそうにギュウッと抱き締めてきた。

『そんな嬉しい事を言われますと…このまま連れ去ってしまいそうになります』

 ほえっと、俺がとても好きなうっとりした笑みを浮かべて、色気もクソもない黒い髪にグリグリと頬を押し付けてくるレヴィに思わず苦笑したんだけど、この白い悪魔が、連れ去ってしまいたいと言うのなら、俺はこのまま何処までだってついて行きたいと思っちまうじゃないか。

『この世界がご主人さまの棲み処でないのなら、どんなにか良かったのですがね…しかし、この世界だからこそ、こうしてご主人さまを偽りなく存在させてくれたのなら、私は感謝しなくてはいけません』

 今なら平気でラブラブビィームだって撃てるんじゃないかってくらい、悪魔に不可能のないレヴィは、どうしてくれようとでも言いたそうに溜め息なんか吐きやがるから、俺は嬉しくてそのジャラジャラとネックレスだとかペンダントだとか、宝飾品が鏤められた胸元に頬を擦り寄せながら照れ隠しするしかない。

『ご主人、こんな空の上でイチャイチャしてたら未確認飛行物体だとか言われて、バッチリ朝刊の一面を飾っちゃいますよ』

 ふと、上空から聞き覚えのある声がして、懐いていたレヴィの甘い匂いのする胸元から顔を上げた俺は、ギョッとしたように目を見開いてしまった。

「灰色フード男!!」

 どうしてアンタがここに…って言うか、どうしてアンタまで同じように空に浮いてるんだ!?
 ギョッとしている俺を余所に、掴み所がないとでも思っていたのか、そんな俺がラブラブと抱き締めてくる感触に有頂天になっているらしかったレヴィは、ムッとしたように眉を寄せて、主よりも高い場所で暢気にフヨフヨ浮いている灰色のローブ姿の男を見上げたようだ。

『灰色猫、今回は手柄だったと誉めてやる。だが、調子に乗るな』

『ひえ!はいはい、判ってますってご主人』

 まあ、誉められたからいいんだけどとでも言うように、大きめな口にニィッと笑みを刻む、それはそれは不気味な占い師に首を傾げる俺に気付いたのか、灰色フード男は肩を竦めてニタニタと笑っているようだ。

『よかったね、お兄さん』

「灰色フード男、アンタは何者だったんだ?」

 胡散臭い占い師はチラッと、どうやら自らの主ででもあるのか、レヴィのご機嫌を窺っているようだったけど、それこそ俺と相思相愛になれたと信じている(いや実際はそうなんだけどなー…う、照れるぜ)、超!ご機嫌の白い悪魔は何も言わずに瞬きをした。
 それを合図のように受け止めた灰色フード男は、やっぱり肩を竦めながらニヤニヤと笑っている。

『レヴィアタン様の使い魔だよ、お兄さん。名前は灰色猫、これからも宜しく♪』

 そう言って、ニヤニヤ笑いの胡散臭い占い師は、上空でクルンッと回転でもするようにして一匹の灰色の猫に姿を変えると、にゃーんっと可愛らしく鳴いたりした。

「使い魔…そうだったんだ」

 あの町角で見掛けた灰色の猫、俺にニヤッと笑って名前を聞くことを最後まで促していたあの猫が…やっぱり胡散臭い灰色フード男だったんだな。
 なんだか、コイツにはイロイロと世話になっちゃったよなぁ…

『では、ご主人さま。海に参りましょう。灰色猫もついて来い』

 感慨深そうに灰色の猫を見上げる俺に焦れたのか、それとも自分でもそう言ったように嫉妬したのか、レヴィが不機嫌そうに顎をしゃくるようにして促すと、灰色の猫は「にゃーん」と鳴いて、嫉妬深いご主人さまに懐くように肩に張り付いてしまった。

「うん、レヴィが行くのなら何処へでも」

 以前、同じことをレヴィに言われた時、予想通りの返事に独占欲が満たされて嬉しかった。
 同じように、俺を独占してくれればなんて、こっぱずかしいことを考えてるってことは内緒だ。
 レヴィの首筋に頬を擦り寄せたら、途端にパッと嬉しそうな顔をした現金な白い悪魔は、ゴロゴロと懐く俺の髪に頬を擦り寄せながら、まるで一陣の風のように俺を遠い海へと連れ去ったんだ。
 このまま…レヴィが行きたいという全ての場所に、ついて行けたらいいのに。

「結局、【悪魔の樹】に色んなことしちゃったんだけどさ。強いしかっこいいレヴィが生まれたんだけど、アレって別に深い意味とかなかったのか?」

 周辺に漁船や客船などの船がないかどうか、また、彼が支配するのは全ての海だから、近隣の長と呼ばれるものたちにご挨拶しているレヴィの不在中に、護衛…ってのもヘンな言い方だけど、俺にお供させられている灰色猫にずっと気になっていたことを聞いてみた。

『へ?大ありだよ、お兄さん。何を言ってるんですか』

「え?」

 俺の首筋に襟巻き宜しく、ダラリと懐いている灰色猫は、欠伸を噛み殺しながら暢気に「にゃーん」と鳴いた。

『だから、レヴィアタン様と主従関係が築けたんでショーが』

「んん?どう言うことだ??」

 訝しそうに首を傾げてしまう俺に、灰色猫はちゃんと説明しないと判らないよなとでも思ったのか、改めてコホンと咳払いなんかした。そのくせ、俺の首筋でダレている姿勢はちっとも変えないのな。

『まあ、簡単に言いますとね。ご主人の性格ってのはもともとかなり凶暴でさ、高圧的だし、まあ…凡そ従順に主に従うような性格じゃないワケね。つーか、主とか持つようなそんな低い身分でもないしね』

 それは、なんとなくルシフェルや灰色猫との遣り取りでも判ったような気がする。

『愛しいひとを見つけても、そんな性格だから、心から愛する前に殺してしまうワケだよ』

「ぬな!?」

 ギョッとする俺の頬に、短毛種らしい滑らかな頭部を擦り寄せながら、灰色猫はニヤッと笑うんだ。
 驚いたって仕方ないだろ、あんなに、愛しそうに抱き締めて、穏やかに傍にいてくれるレヴィがそんなに激情的だなんて思えない。確かに、本人も『嫉妬深い』とは言っていたけど、それにだって限度ってのはあると思うし…

『そこに登場しますのがこの灰色猫でありますよ、お兄さん。魔界にいても退屈で仕方ないから、人間界に遊びに行きたいと仰られたのを利用、もとい、その願いを叶えるためにもどうせなら、心からご主人を愛してくれる人を捜して差し上げよう。んで、その性格から殺してしまわないように【悪魔の樹】を利用したワケだ』

「悪魔の樹…」

 イロイロ世話になったあのグロテスクな樹にも、重要な意味があったんだと思う。

『そう、【悪魔の樹】の契約の効力は絶大で、ご主人や、ましてやルシフェル様だって破ることなんかできないほど強力な戒めでもって、こちら側の世界の者、つまりお兄さんを護ることにしたんだ。でも、それだけだと威圧的なご主人を前に、お兄さんは逃げ出してしまうと思ったから、ちょっとした小細工をしたワケだね』

 ゴロゴロと咽喉を鳴らしながら、うっとりと肩で休んでいる灰色猫は、その金色の双眸をスゥッと細めて、飛び切り上等な秘密を漏らそうとでもしているような表情をしたんだ。

『悪魔の樹には別にしなくてもいいことを、お兄さんにさせたワケ』

「…それってまさか」

 話の流れからみても、きっとアレだ、あの恥ずかしい行為のことを仄めかしているに違いない。
 うう、思い出せば顔が茹でタコよりも真っ赤っかだぜ、こん畜生!

『たぶん、推察通りだと思うよ。召喚者の精液や唾液を与えることで、呼び出される悪魔はその性格が逆転してしまう。つまり、気の弱い淫魔だったら気が強くなるワケだし、絶大な力を誇るレヴィアタン様のような魔神だったら、子猫のように従順になる。案の定、お兄さんは言いつけ通り根元を擦って、悪魔の樹が分泌する誘惑の樹液の誘いに負けてしまった。それを知った時はヒャッホウ!って叫びたかったよ』

 満足そうに双眸を細める灰色猫の咽喉を擽ってやりながら、俺は感心しているのか、それとも脱力しているのか、なんとも言えない表情をして呆然としていたに違いない。

「…はぁ、そうだったのか。でも、よくそんな条件の悪い【悪魔の樹】の契約にレヴィが納得したな」

『ご主人は…』

 そこで一旦言葉を切ったレヴィの使い魔は、今頃は海の底で悠々と泳いでいるに違いない、この辺りの海を支配している長と挨拶をしているのだろう白い悪魔、自らのご主人を思い浮かべでもしたのか、ゴロゴロ咽喉を鳴らしたままでニヤッと笑ったんだ。

『最初は胡散臭そうだったけど、それでも、自らの力に自信を持ってる方だからね。気に食わなければ契約の破棄などいつでもできる…なんて、思い込んでいたようだよ。まあ、そう仕向けたんだけどさ』

 恐るべし、灰色猫!

「…もしかして、最強なのはお前なんじゃないか?灰色猫」

『にゃははは♪そんなワケないよ、お兄さん。最強なのは、お兄さんさ』

「そりゃあ、まぁ、レヴィのご主人さまだからそうかもしれないけど」

 プッと唇を尖らせたら、灰色猫はツンっと尖がっている両耳を僅かに伏せながら、判ってないなぁとでも言いたそうにチッチッチッと舌を鳴らした。

『違うね。お兄さんはご主人のハートを射止めたから最強なんだよ。その辺は、賭けだったワケだし、すんなりご主人がお兄さんを気に入るなんて思ってはいなかったんだけど、まぁ良かった』

「グハッ!無責任だなッ」

『悪魔の使い魔に責任なんてないよ』

 気持ち良さそうにゴロゴロ咽喉を鳴らす灰色猫は、欠伸なんかしながらニヤニヤ笑っている。

『ああ、でも…一時はどうなることかと思ったけど、ホントに良かったよ。まさか、ルシフェル様まで協力してくれるとは思わなかったんだけどね』

「…へ?」

 今、なんて言ったんだ?
 ルシフェルが協力…って、この話はいったい何時から実行されてるんだ?!

『まあ、お兄さんが驚くのも無理はないんだけど…実は、お兄さんに目を付けたのは10年前なんだよ』

「なな、何ぃ!!?」

『初めて人間界に降りた時、知識とかないワケじゃない?だから、気軽に車に撥ね飛ばされたんだけど』

 グハッ!なんて壮絶だったんだ、灰色猫…やっぱ、お前は最強だよ。
 呆れたようにそんなことを考えていたら、のんびりと伸びをして肩から降りてきて、ヘンな話、上空でレヴィの漆黒の外套に身体を包みながら胡坐を掻いている俺の膝の上にちょこんと座った灰色猫は、「にゃーん」と鳴きながら小首を傾げた。

『こんな薄汚れた灰色の猫なんか、人間には興味ないでショ。つーか、誰も見向きもしないから、こりゃあ骨が折れるなぁとか、ホントに背骨が折れてるのに暢気に考えていたら…』

 そこでちょっと区切って、それから、遠い昔を思い出すように金色の双眸を細めて俺を見詰めてくる灰色猫は、思うほどお茶らけたヤツでもないんだろう。
 この猫は、そんな昔から俺を見ていたのか。

『お兄さんが現れたんだよね。車道の脇に撥ね飛ばされて、それこそ虫の息だったんだけど。ま、使い魔なんだから死にはしないってのに、それでもその、お人好しの人間は大きな目に涙をいっぱい浮かべて、優しい手を伸ばして労わるように抱き上げてくれた。その人間はさ、優しげな家族と一緒にわざわざ動物病院まで運ぶなんてバカなことまでしてくれちゃったワケよ』

 口調こそ憎らしいけど、でもその目は、本当なら禍々しいと表現するべきその双眸は、穏やかに澄んでいて、まるでビー玉のように綺麗だった。

『コイツにしようって思ったね。それから、ずっと他の人間も捜すには捜したけど、いないんだよ。まあ、最初が強烈な出会いだったから、もうお兄さんを忘れるなんて事はできなかったんだって思うけどさ』

 その言葉に偽りなんかないんだろう…どうして、悪魔のレヴィにしろ、使い魔の灰色猫にしろ、こんなに魔物らしくない目付きをするんだろうか。
 悪魔って言うのは…まるで人間をバカにしたように唆して、意地悪く殺したりするんじゃなかったのか?
 俺の中の悪魔の概念を根底から覆すようなことを、灰色猫はあっさりと白状してくれた。

『できれば、母親を助けてあげたかったけど、所詮使い魔の力なんて高が知れてるからさ。泣いているお兄さんを慰めることもできなかったなぁ』

 ああ、思い出したよ。
 あの日、どんなに祈り願っても戻ってこなかった母さんに絶望した夜明けに、俺の傍らでニャァと鳴いた猫。
 病院なのに、何処から紛れ込んできたのか…薄汚れた灰色の猫は、物悲しそうに「にゃぁ」と鳴いていた。

「あれも、お前だったんだな…」

『うん、そう。それで、母親が死んでも健気に生きているお兄さんのために、どうやって悪魔の樹を渡し、どうやってご主人と相思相愛にさせるか…悩んでいたら、たまたまお兄さんと同じ学校にルシフェル様がいらっしゃってね。ヒマだから学生気分を満喫中♪とか仰ってたんで、満喫ついでにお力を貸してくださいと頼んでみたんだよ。そしたらビンゴ!超乗り気で手伝って下さったんだ』

 ぐはっ!…あの、篠沢なら遣りかねないな。
 そう言われてみたら、母さんが死んだぐらいの時から篠沢が話し掛けてきたんだっけ?
 俺たちの間には共通の話題とかないし、それこそ、学年でも目立つ篠沢の何が俺を気に入らせたのか、あの時はよく判らなくて考え込んだりもしていたけど…そっか、最初から仕組まれていたと思えば納得できるな。

『あ、今ちょっと落ち込んだでショ?でも、そのおかげでレヴィアタン様と知り合えたんだから、何かを得るには失う事も知らなければいけないんだよ』

「わ、判ってるよ。ちょっと、やっぱりかー…ってショックを受けただけだ。でも、今回はすぐに復活できたけど」

 フンッと唇を尖らせると、灰色猫はちょっとホッとしたような顔をして、それから嬉しそうに

「にゃぁ」と鳴きながらふにふにの猫きゅうが可愛い小さな掌で俺の腕に触れてきた。

『成長したね、それはいいことだ。でも、まさかルシフェル様があそこまでするとは思っていなかったから、ちょっと焦ったけどね…って、お兄さん?』

「ありがとう、灰色猫。やっぱり俺、お前には随分と世話になってたんだなぁ」

 心を込めて…できれば、少しでもこの気持ちが伝わるならいいんだけど。

『や、やめなよ。そんなこと言うのは!ただ使い魔として、ご主人の命令に従っただけさ』

 急にギョッとしたような顔をした灰色の猫は、どうしたワケか俯きながらピンッと立っている耳を腕で撫でるようにして身繕いを始めると、やっぱりピンピンの髭を微かに震わせている。

「うん、でもありがとう」

 使い魔なんて大層な肩書きだけど、こうして見ると、ただの小さな灰色の猫でしかないのに、そのなだらかな肩には余りあるほど重い指名を受けて降り立ったこの世界が、どんなに酷くて大変だったか…考えれば知らずに涙が出そうになる。
 よく覚えていないんだけど、あの頃はまだ元気だった母さんと父さんがいて、2歳下の弟は動物アレルギーがあるから動物も飼えないと言ってはしょぼくれていた俺を、2人は2人なりに努力して毎週末に動物園に行ったり、デパートの生物店に連れて行ってくれたりしていたんだよな。
 ああ、そんな温かな気持ちも忘れていた。
 母さんの代わりばかりしてうんざりだとか思っていた近頃は、ドロドロの醜い気持ちばかりが先走っていて俺、きっと嫌なヤツに成り下がっていたんだと思う。
 あんなにキラキラ輝いていた日々は、確かにあったのに。
 その何時かの日に、出会っていた事実を覚えていなくても、そんな俺を慕ってくれている灰色猫に、この申し訳ない気持ちと、あの優しさに満ち溢れていた幸福だった頃を思い出させてくれたことを感謝する心がどうか、この小さな灰色の猫に伝わりますように。

『どうか、幸せにおなり。でも、照れ臭いなぁ…』

『何が照れ臭いんだ、灰色猫』

 ずごごごご…っと、まるで地獄の底から甦った亡者か何かのように凶悪な顔付きをしたレヴィが、照れ臭そうにニヤッと笑っている灰色猫と、咽喉の辺りをワシャワシャしている俺の間に割り込むようにして、額に血管を浮かべながらニタリ…っと笑ってやがる。

『げ、ご主人』

 ギクッとしたように首を竦める灰色猫をヨシヨシと撫でながら、俺はそんなレヴィに飛び切り上等な笑顔をニコッと浮かべて、小首を傾げて見せた。

「あ、レヴィ。もう、用事は済んだのか?」

『ご主人さま…はい、この近辺も恙無いようでした。船影も見られませんので、私の真実の姿をお見せするには絶好の場所だと思われます』

 思いっきり脱力したように間抜けな顔でヘラッと笑ったレヴィは、ハッと我に却って、それから徐に姿勢を正すとコホンッと咳払いしながら神妙な顔で頷いた。

『ご主人、顔がにやけてますよ』

『煩い』

「!?…ぎゃぁぁぁぁ!!」

 俺の腕の中に落ち着いている灰色の猫をヒョイッと掻っ攫って、ガクンッとそれまで保っていた重力が一気に襲い掛かってきたようにスッコーンッと落ちていく俺が絶叫を上げていると、すぐ真下に待機していた肩に灰色猫を乗せたレヴィがストンッとすぐに両腕で受け止めてくれる。
 な、なんだったんだ、今のは…

『嫉妬だよ』

 レヴィの肩から頭にかけて懐いている灰色の猫が、至極当然そうに「にゃあ」と鳴くと、レヴィは腹立たしそうに頷いた。
 こうして見るとどっちが主人なのか判らなくなるんだけど…これもやっぱり、【悪魔の樹】の契約ってのが影響してるのかな。

『ご主人さま、人間が勝手に決めたことではありますが、7つの大罪と言うのをご存知ですか?』

「えーっと、確かブラッド・ピットが主演していた映画であったな。傲慢・嫉妬・憤怒・怠惰・強欲…えーっと、後は食欲と色欲だっけ?」

『大正解です、さすがはご主人さま』

 嬉しそうにニコッと笑うレヴィがチュッと頬にキスしてくれて、くすぐったくて笑っていたら、灰色猫に呆れたように肩を竦めながらもニヤッと笑われてしまった。

『レヴィアタンは【嫉妬】を司るそうですよ。人間にしては小賢しいですが、当たっていると言わざるを得ませんね。それほど、私は嫉妬深いのです』

「使い魔にも妬いちゃうのか?」

 俺の質問にも、レヴィは生真面目に頷いた。
 それは何より、これから共に生きる為には重大な事ででもあるかのように、白い悪魔は神妙な目付きで俺の出方をみているようだ。

「バッカだなー…灰色猫だってレヴィを好きなのに、そんな灰色猫なんだから、俺が気に入ったって仕方ないだろ?」

『なぬ!?そんなこと言ってないよッ』

 焦ったような灰色猫を無視してニコッと笑ったら、それでも…と、レヴィは切なそうに真っ白の眉を寄せてシュンッとしてしまう。

『貴方が他の誰かを想う時、私の心は嫉妬で燃え上がってしまうのです』

「それじゃあ、心が幾つあっても足らなくなっちゃうな。つーか、お前。それじゃあ、俺が誰彼なく好意を寄せてるって疑ってるってことじゃないか!」

 頬や首筋にキスしてくるレヴィの甘ったるい愛撫に流されそうになっていた俺は、ハタと気付いて、お姫様抱っことやらをやらかされながらもレヴィの青褪めた頬を両手でバシンッと掴むと、その金色の双眸を覗き込んで威嚇するように歯を剥いてやったんだ。
 そうだ、どう考えても疑ってるとしか言いようがない!

『そ、それは…でも、気に入るという事は好きだってことじゃないですか。ひいてはそれは、愛へと繋がる感情で…!』

 バカなヤツには胸倉を引っ掴んで、それから、キスしてやるしかない。
 気に入ったぐらいで、こんなこと、お前以外の誰にできるって言うんだよ。

「キスしたいとか、エッチしたいとか…そう思うのはレヴィだけだ。灰色猫や篠沢にそんな感情を持ったことはない。茜にだって、そんなこと思ったこたねーよ!ホントは悪魔なんだから、俺の心とか見抜いちまってんだろーが!性格悪いぞ!!」

 ムキッと癇癪みたいに怒ってやると、レヴィは俺の真実の声に満足したように青褪めた頬を染めて、嬉しそうにうっとりと微笑みながら抱き締めると、頭に頬を擦り寄せてくる。
 どんな単純な感情でも、レヴィには千の言葉よりもきっと、大事なんだろうな。

『私の真実の姿を見られても同じことを仰って戴ければ、きっと、私は天にも昇るほど幸福な気持ちを感じる事ができるのでしょうね』

「おう!すぐに感じさせてやるから、とっとと真実の姿を見せてみろよ」

 胸元を掴んで、額にキスしてくるレヴィの甘い匂いに翻弄されながらも俺は、こうなりゃ槍でも鉄砲でも持ってきやがれ!なメタメタな気分で怒鳴っていた。
 でも勿論、大船に乗ったつもりになっててもいいんだぜ、レヴィ。
 どんなお前でもきっと、俺は嫌いになんてなれないんだから…

『ご主人さま、愛しています』

「!…お、俺も…ッ」

 ささやかな秘密のように囁いて、そんな初めての告白に俺は動揺したように自分だってと頷こうとしたら、そんな綺麗な微笑を浮かべるレヴィから突き放されてしまったんだ! 

「!!」

 ハッとした時には風の抵抗を全身で感じながらも、あの日、悪魔の樹から誕生した時のように眩い閃光を放ちながらレヴィの身体は、上空でみるみる巨大化していったんだ。それは、姿はもう人間のものじゃなくて、巨大な蛇のような…或いは海竜そのもののようで、凶悪に大きく開けた口には禍々しい牙が幾つもあって、口許には消えない炎が渦を巻いている。きっと、伝説にある通りに胃液が外気に触れて炎になっているんだろう。頭部には大きな角が2本配し、その周辺に一回り小さな夥しい突起物がある。
 禍々しい金色の双眸をニタリと細めて、凶悪な海の王者は長い真っ白な体躯をくねらせるようにしてけたたましい水飛沫を上げて海中に巨体を没したんだけど…これじゃあ、津波か地震でも起こるんじゃないのか!?

「れ、レヴィ!」

 両手を差し出して、水面から凶悪そうな禍々しい顔を覗かせる、海を支配する壮大な幻想から抜け出してきたような誇り高い海の王者リヴァイアサンの上に、まっ逆さまに落下する俺を、レヴィはどんな思いで見つめているんだろう。

《ご主人さま、オレを恐れますか?》

「んなワケない!すっげーカッコイイよ♪レヴィ、ずっとそのまんまでもいいぐらいなのにーッッ」

 凄まじい風圧と重力に大声を出しても聞こえないんじゃないかと焦ったけど、俺の思いはきちんとレヴィに届いていたようで、俺はそのまま嬉しそうに笑ってリヴァイアサンの顔の上に落下したんだ。
 炎は鳴りを潜めていて、硬い鱗に覆われているはずのレヴィの輝く純白の顔には薄青と薄緑の溶け合ったような透明なヒレがついていて、それがやわらかな絨毯のように俺を受け止めてくれた。
 きっと、レヴィがそうなるように顔を動かしたんだろうけど、白い海の王者は嬉しそうに、本来なら凶悪そのものの面構えなんだけど、その時ばかりは俺でも判るほど嬉しそうに笑っているようだった。

《ご、ご主人さま!こんなにも愛しいです》

「俺も、レヴィのこと、心の奥底から愛しいよ」

 柔らかなレヴィの繊毛らしきものを必死で掴みながら、青と緑のグラデーションが月明かりにとても綺麗なヒレに頬を擦り寄せて、俺は海王と謳われるリヴァイアサンに永遠の誓いのような愛の告白をした。

「お前にきっと、ついて行くから。レヴィの望むところに連れて行ってくれ」

 たとえそれが地獄でも、きっと俺は喜んでついて行くと思う。
 レヴィがいるのなら怖くない。
 レヴィのいなくなった世界で生きるよりも、たとえ地獄の業火に焼かれるような苦痛を味わわなければいけないとしても、俺はきっとレヴィについて行く。
 この、伝説の海の王者である、リヴァイアサンについて行くんだ。

『ご主人さま…では、どうぞ。私たちの家に帰りましょう』

 嬉しそうに顔を擦り寄せていた巨大な海の支配者であるリヴァイアサンは、まるでポンッと音が聞こえそうなほどアッサリと、もとの綺麗な白い悪魔に戻って俺を抱き締めてくれた。
 ゆっくりと浮上しながら擦り寄せ合った額と額を離して、頬を寄せ合うとキスして、お互い何故こんなにも必死なんだろうと思うほど、情熱的で蠱惑的な口付けを求め合っていた。
 それは確かな感触で俺たちを包み込んで、そして、昇る朝陽の中で呟いていた。

『愛しています、ご主人さま。これからもどうぞ、私と共に在り続けて下さい』

「愛しているよ、レヴィ。俺をずっと、離さないでくれ」

 喜んで…呟いてレヴィは、純白の朝陽の中で、誓うようにキスしてくれた。
 これからもきっと俺は、この白い悪魔に魅了され続けて、そして。
 ずっと愛していくんだと思う。
 相思相愛を夢見るように、うっとりと目蓋を閉じて、レヴィのキスに心を委ねた。

 悪魔の樹から誕生してしまった不幸な悪魔は、創生の時代から求め続けていた心の欠片を、もう随分と永いこと見失っていた最後の欠片を、こうして見つけ出す事ができた。
 多少の不便はあったとしても、彼は生涯、人間界の移ろいゆく光の中で、愛しい者と時間を共有し続ける事になる。
 【悪魔の樹】の呪縛は…そう、永遠なのだ。

* * * * *

「ところで、地震とか津波は大丈夫だったのか?」

『勿論です、ご主人さま。悪魔に不可能はありません』

「なるほど、悪魔って便利だな♪」

『はい♪ずっとお傍においてくださいねv』

「当り前だ」

『♪』

 数千メートル上空での他愛ない会話。
 聞いていた灰色猫は『ご馳走様』と言って、ラブラブのご主人ズを前に、それはそれは幸せそうに「にゃあ」と鳴くと、柔らかい猫手で両目を覆うのだった。

5  -悪魔の樹-

 灰色フード男は笑顔で立ち去る俺を暫く名残惜しそうに見送っていたけど、結局、声も掛けずにそのままそれっきりになった。
 トボトボ…ッと、それでなくても昨夜の酷い行為に身体は悲鳴を上げていたけど、それでもやっぱり、心は寂しさがいっぱいで、切なく痛んでいた。
 俺は…あの白い悪魔に何をしたんだろう?
 入念な復讐は、俺の心に蕩かすほど甘ったるい匂いと優しさをくれて、そのくせ、最終的には「さようなら」をするよりももっと手酷くお別れをしやがった。
 裏切る…と言う言葉が脳裏を掠めた時、唐突に俺は、切なそうな金色の双眸を思い出した。

【篠沢はお前なんかよりずっと大切なんだ】

 そう言った時に見せた、レヴィのあの裏切られた時に見せるような絶望的な眼差し。
 気付いていたんだけど、観衆の目を気にしたふりをして、本当はどう取り繕ったらいいのか判らなくて見て見ぬふりをしてしまった。
 レヴィはきっと、それにも気付いていたに違いない。
 俺は…酷いヤツだ。
 それでも、擦り寄るようにして甘えてくる白い悪魔が堪らなく愛しくて、俺はその悪魔の優しさにすっかり高を括って、甘えていたのは俺の方だったのに…レヴィと一緒にいる時が一番幸せだったと思う。
 あのぬくもりを…できればもう一度この腕に抱き締めたかった。

「レヴィが大好きなのに…」

「は?誰がなんだって??」

「!!」

 ギョッとして振り返ったら、不思議そうな顔でキョトンとしている篠沢が立っていて、大遅刻覚悟で歩いていた俺はパクパクと驚きに言葉が出ない状況でぶっ魂消ていた。

「なんだよー、面白い顔をしやがってさぁ。あ、何お前ズル遅刻狙ってるワケ?」

「ズル遅刻ってなんだよ」

 思わず脱力しちまいそうな台詞に、溜め息を吐きながらガックリしていたら、学生カバン代わりのスポーツバックを肩に提げた篠沢は、ニヤニヤ笑って肩を竦めたんだ。

「ズル休みまではいかない、遅刻野郎のことだな」

「なんだよそれ。つーか、お前こそズル遅刻なんじゃねーの?」

「あ?バレました??実はズル休み決定のはずが、瀬戸内くんとお約束していたことを思い出しちゃってね。学校に行きましょうと思い立った次第ですよ」

 つーことは、俺のことを完全に忘れていたら学校に来る予定はなかったってことか?

「まあ、それならそれで学校帰りに寄るだけだがなー」

「そうか、その手があったか。俺様としたことがなんたる迂闊…ん?もしかして、瀬戸内ってば泣いてないか??」

 ギクッとした。
 相変わらず洞察力の鋭い篠沢は、目尻に浮かんでいた涙に気付いたのか、俺がギョッとする間もなく、伸ばした指先で目元を拭ったりなんかしてくれたんだ。
 ぐはっ!底抜けに恥ずかしいぞッッ。

「バババ…バッカだな!そんな、泣いてるワケないだろ??」

 思わず顔を真っ赤にしてその手を軽く振り払うと、篠沢は暫く何かを考えているように目線を彷徨わせたんだけども、突然ニッコリ笑って俺の腕なんかを掴みやがったんだ。

「うを!?」

「ふふん♪この際、仲良くズル休みに徹しまして、早速俺んちにレッツゴーしませうよ」

 ヘンな乗り気の篠沢の陽気さに助けられる形になったのか、腕を引っ張られながら強引に連れ去られていた俺は、なんとなく少しだけ笑えたんだ。
 ああ、やっぱり篠沢がいてくれてよかった。
 レヴィはここにはいないけど。
 もう、どこにもいないんだろうけど…

 篠沢の家は…豪華なワンルームマンションだ。
 両親が共働きで家にいないことをいいことに、この悪賢い悪友は、駄々を捏ねて独り暮らしアンドワンルームマンションを手に入れたらしい。
 中学からの長い付き合いだって言うのに俺は、よく考えてみたら篠沢のことをそれほど理解していなかったんだなぁ…と、今更ながら気付いていた。
 なんとなく、席が隣同士になって、お互い共通の話題とかないのに、何故か驚くほど気が合った。
 母さんが死んでからは目まぐるしく生活が一転して、高校生らしいことなんてたぶん、これっぽっちもしていやしないと思うんだけど、それでもどこかで高校生活を満喫しながら腐らずにすんだのは、この篠沢のおかげだったと言っても過言じゃないだろうなぁ、やっぱり。
 だからこそ、レヴィに言われた言葉にカチンときて、取り返しのつかないことをしてしまった。
 篠沢はそれでもただの友達で、レヴィは…俺が育てた悪魔の樹から生まれた、俺だけを見詰めてくれるたった1人の悪魔だから。
 たとえばどうしようもなく切なくて、寂しさをたくさん抱えていたとしよう。
 その時、篠沢ならたくさんの級友が誘えばそっちに行っちまう。それは当り前の事だけど、それでも俺は、その事実に少しでも傷付くんだと思う。
 でもレヴィは…あの白い悪魔なら、きっと寂しがる俺をソッと抱き締めて、綺麗な真っ白の睫毛が縁取る目蓋に金色の双眸を隠しながら、落ち着くまでそうして頬を頭に寄せて黙ったままで傍にいてくれるんだろう。
 その悪魔を手離してしまったのは俺だし、その考え自体も甘ったるい妄想にすぎないんだけど。
 微かに溜め息を吐いていたら、篠沢が缶ジュースを持ってキッチンから姿を現した。

「なんだ、コップにも入れてくれないんだなー」

 女子に人気の篠沢でも、こんなズボラちゃんなワケか。

「お前ほど機転が利かなくて悪かったな!飲めるだけ有り難いと思え」

「なんだよ、そりゃあ」

 やれやれと首を左右に振って、俺は遠慮もせずにコーラの缶を手に取ると、カシュッと小気味よい音を立ててプルを引いて開けると、憂さ晴らしのようにゴクゴクと凶悪に弾ける炭酸を咽喉の奥に流し込んだ。
 たとえ咽たとしても、それで少しは気が晴れるだろうとか、バカみたいな事を考えながら。

「お!豪快な飲みっぷりじゃん。完全な男飲みってヤツだな♪…つーかさぁ、やっぱ瀬戸内、なんかあったんじゃないの?」

「え!?」

 案の定と言うか、思い切り咽て涙目になっていた俺がギクッとして顔を上げたら、ファンタの缶を気だるそうに弄んでいる篠沢が意味ありげな流し目で見詰めてきやがったから…うう、なんて答えよう。
 それでなくても洞察力の鋭い篠沢の事だ、俺がとやかく言い募ったところできっと、アッサリと見抜いちまうに決まってる。
 でも、それでも俺は、誰にもレヴィの事は言いたくない。
 あれがもし幻だったのだとしても、レヴィを知っているのは俺だけなんだから、このささやかな幸福を、誰かに分け与えられるほど俺は出来たヤツじゃないんだ。

「目尻が腫れてる…思いっ切り泣いたとか?」

「えーっと、つまりだな…」

 あからさまに動揺してオタオタと言い募ろうとする俺よ!
 いったいどれだけ隠し事が出来ないんだよー

「…あのペンパルが帰ったとか?」

「へ?…あ、そう、そうなんだ!いきなり帰りやがったからさぁ、ちょっと寂しくて…」

 それだけのことで泣けるほどセンチメンタルじゃない俺なんだけど、まさかそれを篠沢が信じてくれるなんてこれっぽっちも思っちゃいなかったってのに、悪友は冷えたファンタの缶をフローリングの床に置きながら溜め息を吐いたんだ。

「じゃないかって思ったんだよな」

「へ?」

 いや、確かに人間に化けていたレヴィは綺麗でハンサムだったけど、外見上は男だし…悪魔って確か両性具有って聞いたことがあったけど、でもレヴィは立派に男だった。それはこの身体でもって実証済みだからな、間違いないって…って、何を言ってるんだ俺!
 アワアワしている俺に、篠沢はその女子どもが黄色い声を上げるほど整った顔に冷やかな表情を浮かべて、脇に置いていた雑誌を差し出してきた。
 怪訝に思いながらも、ずっと読みたかった約束の雑誌だったし、何より条件反射で受け取ろうと差し出した腕を掴まれて、俺は。

「??」

 一瞬のことだったから思考回路はまともに動かないし、掴まれた腕を強引に引き寄せられて、前のめりに倒れそうになった俺を空いている方の腕で支えながら篠沢は、思いつめた表情のままでキスしてきた。
 そう、キスしてきたんだ。
 パニックするにも真っ白になっちまっている俺は、呆然と口付ける篠沢を凝視してしまう。

「中学からずっと目を付けてたってのにさぁ…あんな虫が付くなんて思いも寄らなかったよ。まさか、もう犯っちまったってんじゃないだろうな?」

 苛立たしそうに歯噛みする篠沢に、その時になって漸くこの間抜けな俺は、ハッと我に返ったんだ。

「な、何するんだよ!?は、離せよッ」

「離せ?」

 そう言って、整った顔立ちの篠沢は、ほの暗い笑みを口許に張り付かせたままで、腰に回した腕にグッと力を入れやがったから、俺は手にしていたコーラの缶を投げ出しながら悪友に抱き締められてしまった。
 不意に、あれほどレヴィに抱き締められてもキスされても、そんな気持ちはこれっぽっちも湧かなかったって言うのに、篠沢の腕が腰に回っている、そんな些細なことでゾワッと背筋を這い上がるような悪寒に身震いしてしまうし、吐き気だってする。

「やめろ!嫌だッ、離せよッッ!!」

 思わず渾身の力で突き放したら、俺がそんなに暴れると思っていなかったのか、隙を突かれて僅かに腕の力が緩んだ隙に後退りはしたものの、身体が訴える不調は俺が思う以上に深刻だったのか、そのままダッシュで逃げ出せるほど回復はしていなかった。
 だから、尻餅をついたような形でフローリングに両腕を付いて、ジリジリと後退りながら篠沢を睨み付けた。
 自分の両腕を暫くぼんやりと見詰めていた篠沢は、それから不意に、ククク…ッと、鳩尾の辺りがゾワゾワするほど嫌な笑みを浮かべたままで上目遣いに俺を見据えてきたんだ。
 うう、やっぱ美人の凄味は超こえぇぇ!!
 それでも怯むわけにもいかないし、俺はゴクッと息を飲みながら思わず縋るように言ってしまう。

「な、何だよ。そんな真剣な顔してさ。これって悪いジョークなんだろ?俺、男だし…その、見て判るよな?な?」

 頼むから、お願いだから悪いジョークだって鼻先で笑ってくれよ。
 ああ、でも。
 願い事なんて叶わない、そんなこと、もうとっくの昔に知っていた筈なのに。

「冗談?それこそ悪い冗談だよ、光太郎。俺さぁ、言っただろ?ずっとお前を狙ってたんだって。お袋さんが死んでから、雰囲気とかガラッと変わって、お前エロくなったんだよ。自分じゃ気付かなかったか?」

「は、はぁ??」

 思わず眉間に皺が寄るようなことをサラリと言ってのける篠沢に、ムッとして首を傾げれば、今まで見たこともないほど凶悪な面構えをした悪友は目蓋を閉じると首を左右に振って鼻先で笑うんだ。

「組み敷いてさぁ、ヒィヒィ言わせてみたいんだよな。つーか、もうヒィヒィ言ったって風情だけどさ」

 ギクッとした。
 そりゃあ、長い付き合いなんだ。
 いつもの腹を立てた俺なら、サッサと篠沢を殴ってからこんなクソッタレな部屋からはとっととおさらばしてるってのに、へたり込んで身動きが取れない俺を見れば、何が起こったのか、たぶん百戦錬磨だと噂されている篠沢になら今の身体的状況はモロバレなのかもしれない。
 ゆらりと立ち上がる、その雰囲気に気圧されて、俺は息を飲むようにして思い切り後退るけど、背中はすぐに壁についちまって、絶望的な目付きのままで篠沢を見上げていた。

「…んな、誘うような目付きをするなよ」

 いちいち癪に障る物言いだったけど、そんなことよりも俺は、まさか篠沢が本気で俺を犯そうとしているのかと思ったら、立ち眩みのような眩暈を感じてしまう。

「相手はアイツか?ふん、たかが人間如きに獲物を掻っ攫われるなんてさぁ、俺もどうかしちまったよ」

 自嘲的に笑った篠沢は、追い詰められて青褪める俺を事も無げにヒョイッと抱え上げると、ギョッとして暴れようとする俺の行動をいとも容易く封じ込めながら、ニヤニヤと笑って大股で寝室まで行くと大きなベッドに放り出しやがったんだ。

「うッ!」

 たぶん、上等なベッドなんだろうけど、それでも傷付いている俺の身体にその衝撃はきつかった。
 息も絶え絶えになりながら逃げようとしてシーツを掴んだところで、鼻歌混じりの篠沢に両腕を思い切り後ろで縛られてしまった。縛られて、学ランを思い切り剥ぎ取られて縛られた腕に蟠るその感触に恐れをなした俺は愈々恐怖心を駆り立てられながら、信じられないものでもみるような目付きをして、きっと背後の篠沢を見ていたに違いない。
 その視線に気付いた悪友は、背後から俺を抱き締めながらクスクスと綺麗に笑いやがるんだ。

「酷くされたんだろ?大丈夫だ、俺は気持ちよくしてやるからな」

「い、嫌だ!篠沢…まッ!んぐぅ…ッ」

 最後まで言えなかったのは、趣味の悪い笑みを口許に張り付かせて、手に入れた玩具をどうやって壊してやろうとかと企む子供のような嫌な目付きをした篠沢に、何かで猿轡を噛まされたからだ。

「んほふぁぁ、まへー!まへっはらー!!」

「何言ってんだか判んねーよ、大人しくしろよ。ほら」

 そう言って冷たく笑った篠沢にドンッと突き飛ばされて、俺は腕を縛られているから肩からベッドに倒れこんでしまった。
 いててて…それでなくても身体が痛いってのに、篠沢の野郎ぉ~
 ムキィッと、恐怖よりも腹立たしくなって上半身を起そうとしたその矢先、鼻歌なんか歌いやがる篠沢は、嬉々として俺の学生ズボンを下着ごと剥ぎ取りにかかったんだ。
 ウワッ!?それは、マジでヤバイ!!
 それでなくても尻だけを高く掲げたような中途半端な体勢だって言うのに…それに、下着を剥ぎ取られたらバレてしまう。
 俺の下半身に起こっている状態に、気付かれちまう。
 羞恥と恐怖に思い切り暴れようとしても、少し汗ばんだ篠沢の腕でベッドに縫い付けられてしまった俺は、冷やりとした外気を、本来なら人前ではけして触れるはずのない場所に感じてギュッと目蓋を閉じてしまった。
 尻を両手で鷲掴んでグイッと押し開きながら、篠沢はマジマジと俺のその部分を凝視しているようだ。
 果てしない羞恥に、ともすれば泣き出しそうになりながらも俺は、必死で、有り得るワケもないと言うのに、必死で…レヴィに助けを求めていた。
 もしかしたら…そんな儚い願望を打ち砕くようにして、ヒクヒクと熱を持って脈打つその部分に、篠沢の熱い息を感じて背中がビクンッと跳ねてしまう。

「へー、これは酷いな。ちょっと切れてるし…強姦でもされたのか?って、そうか。話せないんだよな」

 クスクス…ッと笑って、篠沢はこれ以上はないぐらい押し開いている尻の中央、腫れぼったく熱を持った肛門をぬるい熱を持つ軟体動物のような錯覚を思わせる舌先でベロリッと舐めやがったんだ!

「!!」

 ビクッとして、それから嫌だと頭を振っても、篠沢の執拗な舌戯は止まらないし、その度に引き攣れるような痛みが全身を犯していくようで、心がバラバラになるような錯覚がした。
 信頼していたはずの親友。
 レヴィの、切なそうな眼差し。
 【悪友】と【親友】を履き違えていた俺を、心配そうに見詰めていた、悪魔のクセに穏やかなあの眼差し…

「…ヴィ」

 猿轡を噛まされている状況では言葉らしい言葉にもならないけど、俺は、もう見捨てられてしまっていると言うのに、愛しい悪魔の名を呼んでいた。
 逃げ出せない絶望の中に降り注ぐ、やわらかな免罪符のようなその名を。
 ぴちゃぴちゃ…と、厭らしく響く湿った音に、ガンガン痛む頭には快楽はなくて、淫らに這い回る陰茎への愛撫さえも吐き気しか催さない。
 舌先に促されるようにしてズルッと押し込まれる篠沢の長い人差し指の無情な動きには、高く掲げている尻がゆらゆらと拒絶するように揺らめいていた。

「…ッ、吸い付いてくるようだ。光太郎の中、熱くて真っ赤で、誘うように厭らしいよ」

 粘りつくような声音には鳥肌しか立たないと言うのに、何処か切羽詰ったような篠沢はその時になって漸く、戒めていた猿轡を外してくれたんだ。
 胸を喘がせるように大きく息を吸い込んだ俺が、思い切り悪態をつくよりも先に、篠沢は俺の首を信じられないほど曲げて噛み付くようにしてキスしてきた。
 舌と舌をぶつけ合うようにして絡めて、肛門に差し込んだ指を淫猥に蠢かしながら、陶酔しているような篠沢の濃厚なキスに俺は吐き気さえ感じている。
 入れられるんだろうか…それは嫌だな。
 諦めたように目尻から涙を零しながら、俺は一秒だって感じることもなく、篠沢の口付けを放心したように受け入れていたんだけど…ふと、思い切り捲り上げたシャツが隠してくれない乳首を厭らしく捏ね繰りながら、口内を思う様蹂躙するように吸い付いて蠢くように這い回る舌の動きがピタリと止んだんだ。

「…?」

 訝しげに眉を寄せる俺の目の前で、篠沢の双眸が有り得ないほど見開いている。
 な、何が起こったんだ!?

「…う、ぐ…グゥアッ!…うわぁぁぁッッ!!」

 ドンッと突き飛ばされて前のめりに倒れながら俺は、信じられないものを目撃してしまった。
 それは…双眸を見開いて額に血管を浮かべた篠沢の、両手で覆っている口許からシュウシュウ…ッと白っぽい煙が出ていた。まるで、硫酸か何かで焼いたように、室内にはムッとする悪臭が立ち込めて、俺は吐き気を催すよりも先にいったい何が起こったんだと、身体の向きを変えながら瞠目していた。
 な、なんなんだ、いったい!?

「グゥアアアア…ッ」

 指先にまで引っ付いた溶ける皮膚を信じられないように見詰める篠沢の皮膚は、口許から頬、頬から顔全体をドロドロと溶かしながら、皮膚の張り付いた指先までも溶け始めていた。

「し、篠沢…ッ」

 壁にこれ以上はないぐらい背中を押し付けながら、目の前で繰り広げられている惨劇に、為す術もなく俺は、ああ、俺は…息を飲んで名前を呼ぶ事ぐらいしかできないでいる。
 ああ、どうしよう!!?

「…ぐぅ…うう…んの、野郎…貴様、悪魔と契約してやがるな!?』

 ドロドロに溶けていく皮膚の下から、ずるり…と、何か見たくないものが滑り落ちたような気がして目を逸らしたかったんだけど、愕然と見据える篠沢の足元に、滑り落ちたそれは艶めくほど綺麗な漆黒の髪だった。そして、溶け切った皮膚がボタボタとフローリングの床を汚していくその最中に憤然と立ち尽くしたその姿は…俺が見たこともない鋭い眼光を忌々しそうに放っている、夢のように綺麗な男だった。

「し、篠沢?」

『可愛い面しやがって!そのくせ、悪魔と契るなんて強かなヤツだな?』

 フンッと鼻先で笑う篠沢は、それまで見てきた見慣れた篠沢の姿はどこにもなくて、腹立たしそうに憤然と怒っている傲慢そうに腕を組んだ、艶めくビロードのような漆黒のローブに身を包んだ、チャラチャラとレヴィと同じように宝石を鏤めている男は、忌々しそうに俺の元に音もない素早さで近付くと、痛む身体を庇う隙さえも与えずにグイッと顎を掴んできやがったんだ。
 クソッ!腕さえ自由ならこんなヤツ…ッ!!
 悔しくてギッと睨み据えたつもりなのに、いまいち効いていないようだ。

『貴様、【悪魔の樹】の契約を交わしているんだろ?相手はどんな悪魔だ。大方、淫魔にでも魅入られたか??そんな雑魚、このオレが消してやる。だから、契約を破棄するんだ。そして…』

 艶やかな黒髪に、青褪めたように白い額には華奢な意匠を施した額飾りをしていて、嫌味ったらしくうっとりと笑う表情は、ゾッとするほど綺麗だ。
 【悪魔の樹】の契約を知っているなんて…コイツは、この篠沢の皮を被っていたコイツは、いったい何者なんだ!?

『お前はオレのものになれ』

「…い、嫌だ!離せッ、離せよこん畜生!!」

 喚くようにして拒絶する俺に、額に血管を浮かべた見たこともない、この世のものとも思えないほど綺麗な顔をした男は頬を引き攣らせて笑うと、煩く喚く俺の口を封じようとでもするように口付けようとしやがるから…

「や、嫌だ!レヴィ!レヴィ、助けてくれ!!」

 こんな得体の知れないヤツのモノになるぐらいなら、どうか、今すぐレヴィ、お願いだから俺を殺してくれ!

『…レヴィだと?』

 そんな名の悪魔がいたかと、口付けようとしていた得体の知れない男はソッと眉を寄せたが、ふと、背後から伸びてきた何かによって俺から引き剥がされたんだ。

「…ッ」

『何者だ!?』

 音もなく、気配もなく忍び寄ったのか、何者かに対して思い切り敵意を剥き出しにしていた男をサラッと無視したソイツは…その、見覚えがあり過ぎて、もうずっと忘れられなかった古風な衣装を身に纏ったその…あまりにも冷やかな金色の眼差しに無表情に見下ろされて俺は、今にも泣き出しそうに眉を寄せてしまった。
 ああ、こんな見っとも無い姿を見て、お前、また俺を嫌いになるんだろうな。
 でも、でも俺、それでもやっぱりお前には見詰めていて欲しいよ。

『…』

 何か言おうかどうしようか迷っているのか、傲慢不遜に立ち尽くしていた古風な衣装の白い悪魔は片膝を付いて身を屈めるから、俺は何か言われる前に渾身の力を込めて体当たりしていたんだ。

『!』

「レヴィ!俺、お前の忠告を無視してこんな風になってしまったけど、あんなヤツに犯されるぐらいなら死んだ方がマシだ!だから、今ここで俺を殺してくれ。償えるとは思わないけど、俺の命でいいならあげるからッ!だから、だから…それ以上俺を嫌いにならないでくれ」

 腕を縛られたままじゃ抱き締める事もできないけど、それでも俺は、縋るようにその胸元に額を押し付けながらボロボロと泣いていた。
 泣きじゃくる俺を見下ろして、白い悪魔は何を考えているのか、見上げる勇気すらなくて俺は、嫌われている事実に気付く前に早く、早く…もう、これ以上は耐えられないんだ。
 ふと、頭上で溜め息が零れたようで、やっと、この悪魔が願いを叶えてくれるんだと目蓋を閉じた。
 僅か17年だったけど、色んな経験ができてよかった。
 向こうに逝けば母さんは、きっと怒るんだろうけど、それを笑顔で受けながら俺は、きっとこの長い責め苦から解き放たれるならそれでもいいと考えるんだろう…そんなこと、思ってたってのに、白い悪魔のレヴィは予想もしない行動に出たんだ。
 それは…

『全く、貴方と言う人は。私がどんな気持ちで見守っていたと思うんですか』

「れ、レヴィ?」

 やれやれと、呆れたように溜め息を吐いて抱き締めるようにして背中に回した腕で戒める腕の縄を解いたレヴィは、それからホッとしたように本格的にギュウッと俺を抱き締めてくれた。
 な、何がなんだか…

『何を勘違いされたのか知りませんが、私は最初から貴方を嫌ってなどいません。あの時言った言葉に偽りなどないのです。貴方を初めて見た時から、私はご主人さまを愛していますよ。ただ、悪友などと言う存在に夢中になるご主人さまには腹立たしくて仕方ありませんでしたがねッ』

「だって、レヴィ…だって」

 言葉にならなくてポロポロ涙を零してしまう俺は、縛られたままで無理な体勢ばかり強いられていたせいか、痺れるように震える腕を伸ばしてレヴィの、白い悪魔の背中に腕を回していた。振り払われないか凄く心配だったけど、それでも俺は、縋りつきたくて、もうレヴィを離したくなくて力いっぱい抱き締めていた。

『ご主人さまには実践で【悪友】と呼ばれる者の実態を把握してもらわないことには、どうやら一生、その【悪友】とやらに振り回されるような気がしましてね。荒療治ではありましたが突き放したんです。オレは…ご主人さまを嫌った事など一度もありません。それどころか、嫉妬にこの身を焼き焦がしたいほどでした。貴方はオレを呼んでくれた、それだけで充分なはずなのですが、オレは悪魔です。貪欲なほど貴方を求めている。だから、オレはご主人さまにオレ以外の何者をも想ってなど欲しくはない』

 キッパリと宣言するレヴィに、俺は抱き付いたままでその顔を見上げていた。

「じゃあ、ずっと俺のことを見ていてくれたのか?俺のこと、嫌いになったからじゃなくて
…?」

『当り前ですッ。まんまとルゥの手に陥落して…そりゃあ、確かにルゥは美しいです。オレなんかよりも遥かに綺麗だ。到底、太刀打ちなんかできやしない事は判っているんです。でも、オレだって実力では負けませんッ』

 レヴィが、正直何を言っているのか判らなかった。
 訝しくて眉を寄せる俺をギュッと抱き締めたレヴィは、背後で事の成り行きを緩慢そうに眺めながら腕を組んで呆れたように溜め息を吐いている男を振り返ったんだ。

『そう言う事だ、ルゥ。悪いがアンタにこの人をくれてやるつもりはない』

『…と言うか、お前は誰だ?どうしてオレの名を知っている??気配だけはオレと互角のようだが…見知らぬ貌だ』

 フンッと、忌々しそうに鼻に皺を寄せる綺麗な男は、確かにその言葉通りレヴィの実力を認めているのか、何か手を出してこようとはせずに、ただただ、まるでドライアイスが水に濡れて噴出す煙のような殺気を滾らせながら憎々しげにレヴィを睨み据えている。
 馴れ馴れしく俺の名を呼ぶなと、その声音は物語っているようだ。

『オレが判らないだと?長い付き合いなのに酷いな、ルシフェル』

『…?ああ、なるほど!そうか、そう言うことね。気配まで綺麗に消してレヴィか、考えたな。これからオレもそう呼ぼう。とは言え…その様はなんだ?』

 ムッとしたように唇を尖らせるレヴィを見れば、どうやら知り合いのようでホッとした…って、ん?待てよ。今、ルシフェルとか言わなかったか?

『【悪魔の樹】の契約の際に、たまたま見た姿を真似ただけだ。真実の姿でここに来れば、忽ちこんなちっぽけな国は沈んじまう。そんなことも判らないとは呆れたな』

『言ってくれるじゃないか』

 ニヤニヤと笑う長い黒髪を優雅に揺らして腕を組んだルシフェルは(つーか、まさかホントに大魔王ルシフェルなのか!?)、綺麗な漆黒の双眸を薄らと細めて、肩を竦めながら笑うんだ。

『で?誰の物真似だ』

『さあ?確か、デビルメイクライとか言うゲームのダンテとか言ったかな??』

 ぐは!…思わず噴出してしまったのは、じゃあ、ああやって悪魔の樹を育てていた俺の知らないところで、気体にでもなっていたレヴィのヤツは俺の部屋の中を悠々自適に詮索でもしていたって言うのか?
 そのタイトルのゲームは、俺の部屋にしかないんだ。

『なるほどなるほど。大方、瀬戸内の趣味だろうからなそれは…レヴィ、お前なら仕方ないなぁ』

 それで、レヴィは何もかもが真っ白なんだ。
 顔立ちこそはちょっと違うけど…って、そうだよな、ダンテが実写に磨きをかけたって感じなら、こんな風に綺麗になるんだろうか?

『手を引くか?ルゥ』

 突き刺すように金色の双眸で射抜くレヴィに、その眼差しを真っ向から受け止めたルシフェルは…いや、たぶん。やっぱり篠沢の皮を被っていたこの、ルシフェルなんて言う有り得ない名前の胡散臭い男も、やっぱり悪魔なんだろう。
 レヴィの氷点下よりも更に凍りつきそうな冷やかな眼差しを真っ向から受けても、怯むどころか、傲慢に顎を上げて見下ろしている。そんな余裕さえ窺わせるルシフェルは、苛立たしそうに見事な柳眉をクッと顰めてニヤッと笑うんだ。

『それはどうかな?【悪魔の樹】の契約を交わしてはいても、瀬戸内はお前の真実の名を知らない。いつでも破棄できる状態だよなぁ?』

 ギョッとしてレヴィの男らしい横顔を見上げたら、唐突に不安になって、俺はますますこの白い悪魔の背中に回した腕にギュウッと力を込めたんだ。
 嫌だ、レヴィと契約を破棄するなんて。
 そんなのは絶対に嫌だ。
 何時の間にか巻き込まれていた【悪魔の樹】の契約かもしれないけど、それでも俺は、今はそのことに感謝している。なのに、この時になってどうして、破棄できるなんて知ってしまったんだろう。
 ああ、それで。
 ふと、俺は灰色フード男が言っていた3つ目の大事な約束を思い出していた。

【それから、3番目は尤も重要な『悪魔の名前を知ること』】

 そう、言っていたのに…俺は灰色フード男に「真実の名前を知らなくてよかった」とか、大層なことを言っちまったんだけど、うう、今は後悔しているよ。

「レヴィ、俺はお前の名前を知りたいよ。こんな思いはもう二度としたくない。俺は、我が侭だから、きっと死んだ後でもお前には俺だけを想っていて欲しい…なんて思ってるんだぜ」

『…誰よりも、私のことを一番に考えてくださいますか?』

「当り前だ!俺、俺はレヴィが好きだよ」

 人間なんか嘘吐きかもしれないけど、なぁレヴィ、地獄の業火に焼かれてもいいから、悪魔のお前とずっと一緒にいたいって心底から思ってるんだ。
 この心を、見せてあげられたらいいのに…

『永遠に?私はとても嫉妬深いんです、ご主人さま。これから先も、きっと些細な事で貴方を縛り付けるに違いありません。だからこそ、私はご主人さまに真実の名を言わなかった。本当は、真っ先に教えて差し上げたかったのに』

 少し冷やりとする掌で、涙腺でもぶっ壊れたのかと不安になるほどポロポロ泣いている俺の頬を掴んだレヴィは、真っ白の睫毛が縁取る目蓋に綺麗な金色の瞳を隠して、それから震えるようにソッと濡れた目尻に口付けてくれた。
 ああ、永遠だ。
 俺の意識がなくなるその瞬間でも、きっと俺は、お前を想い続けるんだろう。
 目蓋を閉じて、そのやわらかなキスを誓いのように受け止めながら、俺は小さく笑って頷いていた。

「レヴィが好きだよ。永遠だ」

『ご主人さま…!』

 震える目蓋を開いたレヴィが、嬉しそうに頬の緊張を緩めると、そのまま唇に掠めるだけのキスをくれた。
 痺れるように誰かを好きになるなんて、思いもしなかった。
 たとえ相手が悪魔だったとしても、きっと俺は後悔なんかしないだろう。

『…それにしても、レヴィの言葉遣いはなんだ。キモイ』

 ブツブツ蚊帳の外で悪態を吐いているルシフェルなんか、たぶんこの時の俺たちは気にもしていなかった。自分たちの甘ったるい、確かにレヴィは桃のような芳香がして甘ったるくはあるんだけど、2人だけの世界にどっぷりと浸っていたから仕方ないんだけどさ。

『私の真実の名は…レヴィアタンと申します』

「…レヴィア、たん?」

『ぶっ』

 思わずと言った感じで噴出してしまったルシフェルは、額に血管を浮かべたレヴィに壮絶に睨まれてしまって、『悪かった、スマン。続けてくれ』と、傲慢が服を着て歩いてるんじゃないかってな尊大な態度にしては、片手を挙げて素直に謝ってるのは不気味だったりする。
 でも、そうは感じなかったのか、レヴィのヤツは不機嫌そうに俺を抱き締めながら唇を尖らせるんだ。

『ヘンな発音で言わないでください、ご主人さま。レヴィアタンです。そうですね、ご主人さまたち人間に馴染み深い名前で言えば、リヴァイアサンです』

「り、リヴァイアサン!?」

 素直にギョッとしてしまった。
 だ、だって、海の魔物だって恐れられている、それもサタンと互角とも言われるFFでも梃子摺ったあのリヴァイアサンだって言うのか??

『驚きましたか?それともその…嫌いになりましたか?』

 しょんぼりとしたように、あの見慣れた表情で不安そうに覗き込んでくる金色の双眸を見詰めて、俺は思わずニコッと笑っていた。

「なんだ、それで白蜥蜴だったんだな。驚いただけだ。レヴィ、凄いな!リヴァイアサンなんてカッコイイよ♪」

 心から賞賛する俺に、ルシフェルは肩を竦めたんだけど、レヴィのヤツは、その、けして揺るがないはずの金色の双眸をウルウルと潤ませて、いきなりグワシッと抱き締めてきやがったんだ!

「く、苦し…って、どうしたんだよ、レヴィ??」

『ご主人さま!嘘でも嬉しいです!!もう、ずっと不安で仕方ありませんでした。オレは醜い海の魔物で、確かにルシフェルのように美しくもなければ気品もありません、ましてやオレは凶暴で冷酷無情ときているから、ご主人さまはきっと呆れ果ててしまうに決まっています』

 どう捻じくれたらそんな答えになるのか判らないんだけど、別に、確かに俺はルシフェルは地球上でも最高に綺麗で男にしておくには勿体無いぐらい妖艶だと思う。でも、だからって好きかと言われれば、それほどでもない。だって、傲慢そうで…それこそ、レヴィの百万倍は凶暴そうだもんな。

「嘘でも嬉しい…なんて失礼だなー。つーか、そんな得体の知れないヤツのモノになるぐらいなら、死んだ方がマシだって俺は言ったはずだけど?」

『くそー、マジで酷いよな!瀬戸内は』

 相変わらず篠沢っぽい口調でブーたれるルシフェルにも呆れるけど、エグエグと思わず泣いてしまっている男前にはもっと呆れ果てるぞ、マジで。

「それに嘘じゃないよ。せっかく男前なリヴァイアサンのクセして、メソメソ泣くな!これからはご主人さまの言葉は絶対なんだからな!!」

『ぅあ、は、ハイ!』

 吃驚したように目をパチクリさせるレヴィの綺麗な顔を覗き込みながら、漸く、自分らしさを取り戻した俺はニヤッと笑ったんだ。

「よし、それでよし。レヴィ、大好きだ」

 そう言ってギュッと抱き締めれば、目を白黒させていたレヴィは少しホッとしたように小さく微笑んで、それからあんなに望んでいた優しい両腕でやんわりと抱き締めてくれたんだ。

『ご主人さま…オレもです♪』

 上機嫌でラブラブになっちまった俺たち2人を、最初から最後まで蚊帳の外を決め込んでたくせにチャチャを入れていたルシフェルが、盛大な溜め息を吐きながら苛々したように腰に手を当てて睨み付けてくる。

『…どーでもいーんだけどよ。ハッピーエンドはご馳走様だから、そろそろ出て行ってくれねーかなぁ?』

 真冬の吹雪よりも凍りつきそうなほどおっかない気配を漂わせるルシフェル、たぶん、レヴィにとっては後者の意味になる【悪友】にハッと我に返ったようなレヴィは、バツの悪そうな顔をして肩と一緒に首まで竦めてしまう。

『あ、ヤベ。ここルシフェルの家だったな』

 そんな間抜けな事まで言って、やっぱり大悪魔と恐れられているルシフェルは怖いのか。

「じゃあ、帰ろうか。俺たちの家に」

 思い切り着乱れてしまっていた学生服をせっせと整えてくれる健気なレヴィに笑いかけると、白い悪魔は一瞬、それはそれは嬉しそうに花が咲き誇るように破顔してくれた。

『はい、ご主人さま』

 そんなくすぐったい返事にテレテレしていたら、呆れたような溜め息を吐いていたルシフェルが、肩を竦めながら仕方なさそうに腕を組んだ。

『…よかったな、瀬戸内』

「え?」

 レヴィの力強い腕に護られたままで顔を上げると、壮絶なほど綺麗なくせに、何処か懐かしい篠沢の相貌をチラチラと垣間見せているルシフェルは、クスッと笑って軽く顎を上げたりする。

『さあ、もう行けよ。目障りだ♪』

 そう言って、ルシフェルはレヴィと俺を、高層マンションの最上階だと言うのに、窓から軽く
放り出しやがったんだ!!

4  -悪魔の樹-

 俺の肩にちょこんっと乗っかっている小さな白い蜥蜴は、不思議そうに茶碗を洗っている俺の手許を覗き込んでいる。
 大きな金色の瞳がキョトキョトと、それでなくても実体は頗るカッコイイから、こんな風に白い蜥蜴になっているレヴィは可愛くて仕方ない。爬虫類って滑ってそうだけど、レヴィはイグアナの子供とでも言うような出で立ちで、触ればガサリとしているから、蜥蜴でも気持ち悪いとは思わない。

「もうちょっと待っててくれよ。これを洗ったら終わりだからさ」

《…ご主人さまはどうして皿を洗うのですか?年長であるのですから、弟君に命じれば宜しいのに》

 キョトンッと小首を傾げて俺の頬のところに頭を擦り付けてくる白い蜥蜴の、その尤もな疑問に俺は苦く笑いながら肩を竦めて見せた。

「ん~、頼んでも断るような弟だからな。命令して言うことなんか聞かないよ」

 濡れた手で布巾を掴んで、最後に洗った茶碗を拭いていると、レヴィはむ~っと考えているようだったけど、鱗に覆われているザラザラの掌でペタリと俺の頬に触れながら小首を傾げている。

《なんなら、ご主人さま。私が聞き分けの良い人間にしましょうか?》

「ここ、断る」

 屈託もないようなくるりんっとした金色の瞳で俺を覗き込んでくる白い蜥蜴の、確かに俺を思ってくれる気持ちから出た言葉なんだろうけど、青褪めながら丁重にお断りする俺にレヴィは残念そうに《そうですか》と呟いた。
 いや、白蜥蜴とは言ってもれっきとした悪魔なんだ、【お願い】すればニッコリ笑ってロボトミー手術でもした患者のように素直になってくれるだろう。
 ごめん、怖いからやめてください。

「…光太郎さぁ」

 不意に背後から声を掛けられてビクゥッとした俺は、慌ててキッチンの出入り口に呆れたように腕を組んで立っている茜に振り返った。

「な、なんだよ?」

「よく、そんな爬虫類を肩に乗っけてられるよなぁ。気持ち悪くね?」

「へ?いや、別に…」

 なまじ、悪魔の囁きのように耳元で唆す茜の従順計画を聞かれてしまったかと、バツが悪い思いに駆られていただけに、肩透かしのような弟の台詞には呆気に取られてしまった。

「俺にはさ、平気で威嚇するんだぜ?絶対!レヴィよりもバウンサーの方が似合うって」

「はぁ??」

 ワケの判らない悪態を吐きながら、身体を屈めるようにして胡乱な目付きで肩に乗っている白い蜥蜴を睨みつける茜に、白い悪魔はムスッとしているようだけど、それでも何も言わずに俺の首筋に身体を寄せて背を丸めているようだ。

「ネーミングセンスの悪い光太郎が【レヴィ】なんていい名前付けたじゃん。なに?篠沢さんにでも付けてもらったとか??」

 身体を起した茜のヤツは、ニヤニヤ笑いながらムッとした俺の顔を覗き込んできたけど、んなワケねーっての!と、あからさまに物語る俺の仏頂面に肩を竦めて、それからまるで、ついでのようにチュッと音を立てて尖らせる俺の唇にキスなんかしてきやがった。

「…あのなぁ、茜…ッ!?」

「いってーーーッッ!!この、クソ蜥蜴ッ」

 相変わらず、レヴィの熱いキッスを頬に受けた茜は思い切り痛そうに噛まれた場所を押さえて蹲ってしまったから、俺は呆れたように笑いながら首を傾げて見せたんだ。

「毎回毎回、レヴィに噛まれるのにヘンなことするからだ」

「…ってぇ、畜生。昔はさぁ、茜、茜って言ってさ。光太郎の方がキスしてきてたのに、なんだよ、イキナリ用心棒とか飼いやがるし」

《!!》

 ギョッとしたようにパカッと口を開けた白蜥蜴は、そのまま俺の顔を見上げてきた。
 いや、なんでそんなに驚いてるんだよ、レヴィ。

「アレは、お前が喜ぶからただのスキンシップだろ?」

 現に、頬っぺたや額にキスしてやると、どんなに愚図って泣いていても、すぐに嬉しそうに喜んでご機嫌になってたんだよな。
 だから、それが癖になっていて、中学1年の時に反抗期で父親と遣り合った後に悔し泣きしていた茜の頬にキスしちまって、その時はアレだけ嫌がっていたってのに、それからこんな風にキスばかりしてくる。
 だけどなぁ、お前の場合は必ず口にするから嫌なんだよ。

「そもそも、俺がしてたのは頬っぺたや額だったじゃないか。口にするのなんかヘンなんだろ??」

 お前がそう言ったんだぞ。

「んー、あの時はちょっとね。でも、今はそれが嬉しいんだからさせろよな」

「はぁ…ヘンなヤツに磨きをかけてるなよ、茜」

「キスでヘン?じゃあ、犯すとどう言われるんだろ。変態とか??」

 クスクスと笑いながら、真っ赤になってしまった頬を晒して男前の顔立ちをしている茜のヤツは、あんぐりしている白蜥蜴を追い払って、そのまま俺を抱き締めてきたんだ。
 いつからこんなに成長したのか、茜のヤツは記憶していたよりも随分と逞しく育ったと思う。

「何を懐いてんだ、茜?」

「懐いてないって♪このまま押し倒そうと思ってるだけ」

 そう言ってもう後ろがない俺は、そのままシンクに身体を押し付けられるようにして茜にキスされてしまった。

「んぅ!…ん…んぁ…フ……んん」

 肉厚の舌が歯列を舐めて、途端に、あの時嗅いだ桃のような甘ったるい匂いを思い出だしてしまった俺は、トロンッと腰砕けにでもなりそうな顔付きで、逞しい茜の背中に腕を回しながら口付けの深さに酔いそうになっちまって…

《ご主人さま!何をなさっておいでですッ》

 脳内に響いたレヴィの苛立たしそうな思念にハッと我に返るのと、どうやら思い切りやわらかい脹脛に食いつかれたんだろう茜が、悲痛な絶叫を上げてダイニングの床に転がるのはほぼ同時だった。

「え、えっと!だ、大丈夫か!?茜??」

 やっべ!思わず弟に流されるところだった!!

 俺の濡れたように光る唇に親指を這わせて、激痛に顔を歪めたままで床の上で威嚇している白蜥蜴を睨んだ茜は、それから心配している俺の顔を覗き込んで笑いやがったんだ。

「クッソー!白蜥蜴の飼い主は光太郎なんだから、絶対にこの責任は取ってもらうからなッ」

「金ならない!スマンッ」

 損害賠償を訴えられたらレヴィとお別れか!?
 それは嫌だ、素直に謝ろうとする俺の後頭部を掴んだ茜は、グイッと力を込めながら犬歯を覗かせてニヤッと笑いやがったんだ。

「もちろん、金なんかいらないよ。決まってる!ペットの不始末は身体で払ってもらわないとなッ」

 どこのエロ親父だよ、茜!
 俺は脱力しながら、痛みで額に汗する弟の身体から手を離していた。
 哀れ茜、床へ背中からダイブである。

「だから、アレは弾みだって」

《貴方は弾みで誰とでもキスするんですかッ》

 胡乱な目付きで肩に乗っかっている白蜥蜴が睨みつけてくるのを、半ばうんざりしながら溜め息を吐いて受話器を持ち上げると、耳元に聞き慣れた悪友の声がした。
 茜は篠沢から電話がかかってきたのを知らせようとして、まあ、あんなことになっちまったので、篠沢のヤツは結構待たされたと思うんだけど…別に気に留めた様子もなく上機嫌だ。
 後でキッチリ説明でも求めているような白蜥蜴の執拗な視線から逃げるようにして、俺は待たされていたに違いない友人に勤めて陽気に応えたていた。

「篠沢?ごめんごめん、待たせちまって…」

“いいって別に。んでさ、今日言ってた本だけど…”

 あー、そう言えば。
 商店街で会った時に、いつか見せてくれるって言ってたモデルガンの雑誌が戻って来たって言ってたっけ?わざわざその為に電話をくれたのか…うう、持つべき者は悪友だな。

「うん、その本がどうしたんだ??」

“従兄弟のヤツが貸してくれって言ってるんだよね。だからさ、明日でもウチに来ない?”

 明日か…ああ、明日なら父親も弟もいないからいいか。

「判った、じゃあ明日学校帰りに寄るよ」

“そうしてくれ”

 んじゃなーっと言って、言いたいことだけ言うとサッサと切ってしまう、篠沢らしい対応に思わず苦笑していたら…不機嫌そうな思念が脳内に響いてきた。

《あの人間ですね?ご主人さまは…やっぱり行かれるんですか》

 そのくせ、ちょっとションボリしているのは否めない。
 だから俺は、レヴィを憎めないんだ。

「好きな本なんだよ。まあ、それを読んだらすぐ帰るから」

《私はお留守番ですか!?》

 ギョッとしたような白蜥蜴がガサリとした身体を摺り寄せながら見上げてくるから、俺は鼻の横をポリポリと掻き掻きトントンッと自室に戻るために階段を上がったんだ。

「えーっと、まぁ。篠沢のヤツ、爬虫類が苦手なんだよな」

 いや、得意ってのもスゲーけど…俺の場合は、この白蜥蜴がレヴィって判ってるから肩に乗せたり、キスしたり摺り寄られても鳥肌とか立たないんだけど、これが茜や篠沢なら、特に篠沢なら卒倒ぐらいは平気でするだろう。

「ごめん、レヴィ」

 そう言って室内に入ると、脳内にヤレヤレとでも言いたそうな、理不尽そうなレヴィの思考が流れ込んできた。そりゃあ、やっぱり怒ってるだろうなぁ。
 それとも呆れてるかな…俺、結構レヴィに酷いこと言っちゃったし。

「あのさぁ、その、レヴィ…」

『私は、ご主人さまが心配なんです』

 呟くような声が耳に直接届いて、ハッと肩に触れた時には白蜥蜴の姿はなく振り返った先に、漆黒の外套に中世の貴公子が着込んでいるような古風な衣装に身を包んだ、白髪で先端の尖った大きな耳を持つ、金色の双眸を拗ねたように光らせている白い悪魔が立っていたんだ。
 部屋は狭いし、振り返ればすぐ目の前にいる悪魔は、ちょっと寂しそうに俺に向けていた金色の視線をふと逸らして、それでも無言で抱き締めてきたりするから…俺はどんな顔をすればいいんだよ。

『貴方があの人間のところに行かれるのであれば、それは貴方が望むこと。致し方ありません。でも私は…貴方にとってはただの悪魔でしかありませんが、私にとって貴方はとても大切な方です。どうぞ、忘れないでください』

 そんなこと言って…俺は、俺の中に蹲る凶悪なものがあるなんてこと、気付きもしなかった。
 悪魔だと言うのに、抱き締めれば温もりだってあるのに、俺は抱き締めるレヴィの背中に腕を回して、誰よりも抱き心地のいい白い悪魔の胸元に頬を寄せていた。
 チャラチャラ宝石類を身に着けているのは、レヴィが魅力的な悪魔だからかもしれない。
 悪魔はそうして、人間の心を誘惑するんだろう。

(…とても大切なのは主人だからであって、俺がただの人間だったら見向きもしないくせに。本当の名前だって、俺には教えてくれない)

 あんな非道いことを言っておきながら俺は、この白い悪魔に全てを求めたくなっていた。
 レヴィの本名を知ってどうなるのかも判らないけど、ちゃんとその名前を呼びながら、俺も白い悪魔が大好きだって、ちゃんと言いたいのに。
 でも、レヴィにとってこれは、ただの契約上のなにものでもないのかもしれない。
 だってレヴィは…悪魔だもんな。

『ご主人さま、どうか私を離さないでください。貴方に捨てられてしまったら私は…』

 不安そうに白い眉根を寄せて、レヴィは俺の色気も何もない黒い髪に頬を摺り寄せながら、まるで縋るようにそんなことを言うから、だからきっと、俺は勘違いしてしまうんだろう。
 判ってるくせに。

「捨てたりするワケないだろ?俺は非道い人間だから、レヴィをきっと独り占めするんだ。俺が死ぬまで、レヴィは自由にはなれないよ」

 顔を上げると、不安そうな顔をしている白い悪魔の冷やりとする頬にソッと掌を添えたら、レヴィは金色の瞳で何かを探ろうとでもするように見下ろしてきた。俺の言葉を信じたいんだけど、人間は悪魔と同じぐらい嘘吐きだからなぁ…と思っているのか、それとも、昼に言った言葉のせいで、自分が綺麗だから傍に置いてくれてるんだろうなぁ…とでも思っているんだろう。
 どちらにしても、レヴィは少しだけ嬉しそうに頬の緊張を緩めたようだった。
 それでも、我が侭に非道いことを言う俺の言葉でも、レヴィは嬉しそうな顔をしてくれるんだ。

『ご、ご主人さま!?』

 レヴィがギョッとしても仕方ない。
 俺は、嬉しそうにしているレヴィの頬に掌を添えたままで、そのジャラジャラとアクセサリーが飾る胸元を掴んで、強引に引き寄せたからだ。引き寄せて、それから俺は…
 ゆっくりと瞼を閉じて、白い悪魔のレヴィにキスしていた。
 自分からキスしたことなんかないから、どういう風にしたらいいのかよく判らないんだけど、レヴィや茜にされるように、ちょっと驚いて開いている、真珠色の歯がとても綺麗なレヴィの口内に舌を挿し込んでみた。
 恐る恐る生温かい口内を舌先で探っていたら、すぐに肉厚の舌が絡まってきて、時折優しく吸ったり、淫らに絡み付いてきてくれる。その仕種が気持ちよくて、俺は必死でその動きにあわせようと頑張ったんだけど、結局、主導権はいつもレヴィに握られてしまう。
 仕方ないよな、恋すらも初めての人間が、きっと百戦錬磨に違いない悪魔に勝てるワケがない。
 レヴィの頬から離れてしまった手で、必死にレヴィの古風な衣装を縋るように掴もうとして、カクンッと足の力が抜けたように倒れそうになる俺に、覆い被さるように貪欲なレヴィが深い深いキスをしてくれる。

「…ふ、ぅ……んん…ッ」

『…ッ…』

 貪るようにキスしてくるレヴィは、百戦錬磨のクセに必死で、縋るように抱き締めてくるから俺は…白い悪魔に抱き付きながら、息も絶え絶えの声でキスの合間にレヴィの尖った大きな耳に囁いた。

「…えっち、しよ…」

『ご、主人さま…それは、その』

 クッソー!こんな恥ずかしい事は一度しか言いたくないんだぞ!??
 顔を真っ赤にした俺はレヴィを軽く睨んだんだけど、件の悪魔は、それこそ、思わず呆気に取られて噴出しちまいそうになるほど、動揺したような嬉しそうな、色んな感情が綯い交ぜした間抜けな表情をしやがったから、顔を真っ赤にしたままで俺はギューッとその胸に顔を押し付けながらヤケクソで言うしかなかった。

「だ、だから!…その、レヴィ…えっち、しよーぜッ」

 湯気だって出れば、頭に水の入った薬缶でも置いてくれれば沸騰だってさせてやらぁ!
 そんな覚悟の台詞だったってのに、いつまで経っても白い悪魔はウンともスンとも言いやがらないから、俺は顔を真っ赤にしたままで恐る恐るレヴィを見上げたんだ。
 白い悪魔は…なんとも言えない表情をして、俺を見下ろしていた。
 それは、嬉しいとか興奮してるとか、そんな感情じゃなくて、それどころか、どこか冷めたような冷静な双眸だったから、言った俺の方が居心地が悪くて、もしかしたらなんとも的外れな事を言ってしまったんじゃないかと胸がズキンッと痛んだ。
 レヴィに纏わりつくあの蠱惑的な芳香に酔い痴れてしまって、俺はとんでもないことを口走ってしまったんじゃないのか?…レヴィは、ただ単にあの時の行為はお互いを知るためであって、楽しいからしているワケじゃないと言わなかったか?
 そうだ、俺は凄い勘違いをしていたに違いない。

「ごめん!…レヴィ、その、今のはナシ!聞かなかったことにしてくれ。ははは…俺ってばどうかしてたんだよ!」

 胸がズキンッと痛むけど、それは我が侭ばかり言う俺を、本気でレヴィが好きだなんて思い込んでいた思い上がりへの罰だ。
 だって、レヴィは悪魔なのに…
 俺は慌てて顔を真っ赤にしたままでそう言いながら、レヴィから離れようとして、ガッチリと抱き締められている事実に気付いて首を傾げてしまった。
 だって、レヴィのヤツは今、俺の言った言葉に困惑して、それからきっと、嫌だと思ったに違いないってのに。どうしてそんなヤツを、抱き締めてくるんだよ?

「れ、レヴィ…離せよ。じょ、冗談だってば、気分を悪くしたんだったら…」

『ご主人さまは、そんな淫らな顔をして誘うんですね。きっと、弟君やあの人間にも、その淫靡な表情で誘うんでしょう』

「は?レヴィ、何を言って…ッ」

 ドンッと突き飛ばされて、身構えてもいなかった突発的な行動に、追いつかなかった俺はそのまま突き飛ばされた先にあったベッドに背中からダイブしてしまった。

「なな!?何す…んぅ!」

 覆い被さってきた悪魔は、冷めた表情をしながらも、何故か、何故そう思ったのか今でも判らないんだけど、静かに怒っているようにも見えた。
 荒々しいキスは自尊心を踏みつけるほど淫らだったけど、何故、そんなことをされるのか判らなくて目を白黒させている俺は、それでも蠱惑的で腰が砕けちまいそうなほど厭らしい気分になるレヴィの芳香に酔い痴れて、もう何をされてもいいような気持ちになっていた。
 ハッ!いかん、このままじゃいかん!!

「や、やめ…ッ!……んぁ…ッッ…れ、レヴィ…お願いだからッ」

『ご主人さま?どうして嫌がるんです。貴方は、セックスがお好きなんでしょう?』 

「ちが!…んぅ!…れ、レヴィだから!…レヴィとだから……ッ…えっちしたいのに」

 追い詰めるようなキスにポロポロと涙を零しながら首を左右に振れば、俺の様子がおかしいと思ったのか、それとも、必死に搾り出した言葉に何かを感じたのか、レヴィはキスをやめてくれた。
 濡れた真っ赤な唇から覗く舌に、俺の舌からのびた唾液が常夜灯に反射してキラリと光ったけど、レヴィはその舌先でペロリと唇を舐め、それから俺の唾液塗れの唇をペロペロと舐めたんだ。

『ご主人さまは、セックスが好きではないんですか?』

「あのな、レヴィ!俺は、誰かとえっちしたことなんかないんだ。お前がその…は、初めてだったし。それに、レヴィとだからえっちしたいって思ってるんだ。こんな気持ち、誰にも持ったこたねーよ!」

 畜生、これ以上何を言わせるんだよ。

『…それは、本当ですか?』

 一言一句、まるで区切るように、覆い被さっているレヴィが俺の両腕を脇で押さえ付けたままで覗き込んでくるから、その金色の揺るがない双眸を見据えたままで、俺はこれ以上はないってぐらい顔を真っ赤にして宣言でもするように喚いたんだ。

「あったりまえだろ!!好きな人としかえっちなんかできるかよ!!?」

『それは、私が綺麗だからですよね?』

 凄まじい力で俺を押さえ付けたままで、ションボリと白い睫毛を震わせて金色の目線を伏せる白い悪魔を、腕の自由が利くんだったらその両頬をバシンッと挟んで確りと見据えて言ってやるんだが…まあ、でもこんな事を思い込ませたのは俺の責任でもあるんだけど。

「…うん、レヴィは綺麗だ。俺なんかが傍にいても、本当にいいのかって不安になるぐらい綺麗だよ」

 ますますシュンッとしたように伏せた金色の瞳で、ふと俺を覗き込んできたレヴィは、もうそれでもいいかな…と、自分で自分に言い聞かせているように溜め息を吐いたみたいだった。

「思わず嫉妬してしまうほど、レヴィは綺麗だ。だから、俺は不安になるんだ。レヴィが本当に俺と一緒にいてくれるのか、俺を好きだって言ってくれるのか…イロイロと試してしまう。悪魔には判らないかもしれないけど、何にもできない人間って言うのは、いつだって心配で仕方ないんだ。だから、逃げられる場所を作る。お前がもし、何処かに行ってしまったら、逃げられる場所を…」

『それが、彼なんですか?』

「うん、悪友だし」

『悪友…ねぇ』

 ポツリと、レヴィが忌々しそうに呟いた。
 あれ?雰囲気がちょっと違うようなんだけど…

『ご主人さま、悪友って言葉の意味をご存知ですか?』

「へ?」

 レヴィは冷やかな眼差しで、きっと間抜けな顔をしているに違いない俺を覗き込みながら、それはそれは酷薄そうに笑うんだ。

『交友するとためにならない友人、若しくは特に仲のよい友人や遊び仲間のこと…恐らく、貴方は後者の意味で仰っているんでしょうが、あの人間は前者に値しますよ。貴方はそう言うと怒るでしょうが、私は悪魔です。人間がたとえ怒ったとしても、本当はね。怖くなどないのですよ』

「れ、レヴィ…?」

 それはもしかしたら、レヴィなりの、白い悪魔の嫉妬だったのかもしれない。
 忌々しそうに呟きながら、レヴィの冷たい指先がシャツの裾から忍び込んで、乳首をキュッと抓んだりするから、俺は思わず声を出して白い悪魔の胸元を解放された方の腕で引き寄せながら額を寄せてしまう。
 片腕は自由にならないし、レヴィの窺うような金色の双眸に見詰められたまま頬を朱に染めて、感じてしまう顔なんか見せられない…と言うか、見せたくないっての!

『ただ、貴方の乱れる様が見たい…そう思っただけなんです。悪魔は悪魔の樹から生まれると、そのまま恩義も感じずに立ち去るものです。しかし、私は貴方を見た瞬間、心が騒いで仕方なかった。貴方をこの身体の下に組み敷いて、思う様突き上げれば、どんな声で鳴くんだろうと試したくて仕方なかった』

 まるで氷のように、酷薄な笑みを浮かべる唇の隙間から、ブリザードのように凍える言葉がポロポロと落ちてくる。一瞬、凍傷にでもなったようにビクッとして、腕を解き放たれた俺は、それでもズボンを下着ごと剥ぎ取られながらも抵抗する事はできなかった。

『つまらない、私の好奇心だったのですよ』 

 抵抗できなかった。
 その言葉が、あんまり深々と胸に突き刺さっていたから。

『思った以上に貴方は素敵でした。肛門が切れて、真っ赤な血を流しながら…それでも私を受け入れようと腰を蠢かす貴方の、青褪めた顔がどれほど私を興奮させたか判りますか?』

 首筋に口付けられて、俺はその時漸く、自分が泣いていることに気付いた。
 声を出すことも忘れて、俺は泣いていた。
 そのことに、レヴィは気付いているんだろうか。

『この顔も身体も、汚らわしい人間などに触れさせたくもないと思ったのですが…貴方は存外に鈍感で、そしてあまりにも愚かでした。私は言いませんでしたか?貴方は我慢強く、そしてお人好しだ。悪魔の私を好きなどと言う』

 レヴィは呟くようにそう言うと、力が抜けている俺の片足を抱え上げて、それから腿にチュッと音を立ててキスをしたんだ。
 下腹部の全てを晒して、どんなに無防備な姿を晒しているのか、後から考えたら羞恥心で身悶えちまうって言うのに俺は、その時はそんなこと、考える余裕すらなかった。
 形すらも成さない陰茎に指先を這わせて、その凍傷しそうなほど冷やりとする指先が、まるで今のレヴィの心のようで、思い上がっていた人間に施す最後の愛撫にしては、優しすぎて泣けてくる。
 それだって、これっぽっちも感じやしないのに。

「…知ってるよ」

『え…?』

 不意に零れ落ちた言葉に、レヴィの白い眉が微かに寄った。
 涙を零して、滲む白い悪魔の顔を淡々と見詰めると、それでも俺はあられもない姿を晒しながらも怪訝そうな顔をするレヴィを見上げたんだ。
 レヴィは、きっと、悪魔だから、俺の好意を知ってから突き放すつもりでいたんだろう。
 どうして、レヴィにそこまで恨まれているのかは知らないけど、どうも俺は、いつかレヴィを怒らせたようだ。だから、この白い悪魔は手の込んだ計画を練って、俺を貶めるためにこの地上に来たんだろう。

「レヴィさ、本当は最初から、俺のこと嫌いだっただろ?」

『…』

 無言はいつだって肯定だ。
 言い訳するよりもハッキリしているから、俺は自分の予感の的中に喜ぶどころか、心臓の奥の方がズキンッと痛むのを感じていた。

「最初に俺を見下ろした時の、あの目だ。あの目は、俺を虫けらでも見るような、忌々しそうな目だった…俺、レヴィに何かしたのか?だったら、許してはくれないだろうけど、謝りたいんだ」

『何を今更…』

 レヴィは忌々しそうに唇を噛んだ。
 綺麗な真っ赤な唇に、整った歯並びが綺麗な真珠色の歯が食い込んだ。

『では、どうぞ。私に抱かれてください』

「…レヴィ」

 好きでもないのに、レヴィは俺を抱こうとしている。
 たぶんそれはきっと、凄く辛いに違いない。
 でも、大丈夫だ。
 この胸の痛みに比べたら…身体の痛みなんか我慢できる。

「…ヒ!…く…ぅ……ああッ!!」

 隣りに弟がいるはずなのに、そんなこと考える余裕すらなくて、俺は闇雲に押し入ってくるレヴィの巨大な灼熱の陰茎に翻弄されながら泣き喚いていた。
 もうやめてくれと泣き叫んでも、冷たい白い悪魔は許してくれない。
 ズル…ッと一旦、大きく引き抜かれた猛り狂った陰茎は、まるで責め苛むように悲鳴を上げる狭い器官に捩じ込まれていく。苦痛に喘ぐ肛門は、レヴィの陰茎をぴっちりと咥え込んで、切れている端からタラタラと先走りと血液の混じった体液を零している。

「いぅ…ッ……あ、ああ…い、……いたッ…ヒィ」

 自分がどんな体勢でいるのかもうメチャクチャで判らないけど、腰を高く掲げて獣のように這わされた姿は、白い悪魔の下僕にでも成り下がったような羞恥心を煽るはずなのに、シーツに頬を擦り付けながら涙を零している俺には、そんなことはどうでもよかった。
 ぬちゅ…ちゅ…ッと、室内に湿った音を響かせて、有り得ない器官に捩じ込まれた陰茎が出入りする音が耳を打って、俺は思わずシーツを噛み締めてしまった。
 細い腰はレヴィの逞しい大きな掌に掴まれて、冷たいはずなのに、その掌の感触だけが俺を現実に引き戻していた。
 これは夢、きっと悪い夢。
 そんな浅はかなことに希望を見出しては、それが全て嘘だと知るための掌…なのに、その掌が背中を滑って、一度も勃起しない俺の陰茎に絡まると、ムッとする芳香に酔い痴れるように、熱い掌がまるで愛してくれているように錯覚してしまう。

「んぁ!…ヒィ……あ!?……ッ」

 ギョッとしたのは、這わせていた俺の身体を軽々と持ち上げると、大股に開かせた足はそのままで胡坐を掻くレヴィの上に座るような形で下ろされたからだ。
 重力に逆らうことなくずるずるとレヴィの陰茎を飲み込む形になって、俺は一瞬、意識が飛びそうになってしまった。

「れ、レヴィ…あッ……ぉ願いだ、から…何か…なにか……ヒ!」

 何か言ってくれ。
 恨み言でも何でもいいから、何か言って、俺に愛されてるんだと錯覚させてくれ。
 このセックスは、痛みだけを叩きつけるだけの非情な行為なのかもしれないけど、それでも俺にとっては、愛しいお前との愛の証なんだ。
 そんなこと、照れ臭くて言えやしないんだけど…一度でも言っておけばよかった。
 俺は、レヴィが好きなんだ。
 こんな非道いことされながらも、キスを促されれば舌だって絡めるほど、俺はレヴィが好きだ。
 膝が胸までつくほど折り曲げられて、まるで性行為の為だけの道具か何かのような扱いではあったけど、ガクガクッと力が失せてしまった足を揺するほど激しく攻められて嬉しいような悲しいような…きっと、悲しいんだろうなぁ。

「…ぅッ」

『…ッ…』

 ゴプ…ッと、何度目かの吐精はゆるやかな抽挿に泡立って、胎内でぬるく掻き混ぜられているようだ。
 今、引き抜かれたらごぽごぽと嫌な音を立てて、泡立った精液がレヴィの綺麗なズボンを汚して、シーツにまで垂れ流されるんだと思うと、このまま抜かないで欲しいと思った。
 いや、そうじゃない。
 このまま抜かないで欲しい…たとえ、1ミリだって感じもせずに勃起もできないでいることは判っているんだけど、それでも抜かないで欲しい。
 抜かれてしまったらもう、何故かレヴィに会えないような気がしたからだ。
 どんな非道い仕打ちをされたとしても、俺はレヴィを憎めないし、レヴィともう一度えっちしたいと思うんだろう。
 だって俺は、この白い悪魔を見た瞬間から、恋に落ちていた。
 射精後の脱力感からなのか、それが何を意味しているのか、レヴィは背後からギュウッと
俺を抱き締めてくれた。
 抱き締めたままで何かを呟いたのに、その肝心な言葉が聞こえなかった。
 聞こえていても、もしかしたら俺には判らない国の言葉だったかもしれないけれど…
 俺はレヴィに抱き締められたままで唇にキスされながら、嬉しくて嬉しくて…頬にポロリと涙を零したまま意識を手離していた。
 このまま目なんか、醒めない方がいい。
 もうずっと、闇に閉じ込めて欲しい。

 願い事なんていつだって叶わないものさ。
 俺がそれを知ったのは、可愛がっていた犬が死んだ日で、再び思い知ったのは母さんが死んだ夜明けだった。
 お願いだから、この世界の何処かにいる偉い人、俺の願いを叶えて…
 身体はだるくて、下半身は思うように言うことを効いてはくれなかったけど、それでも日常は当り前のようにやってくるし、それに乗っかっていないと限界なんかとっくの昔に超えていたから、頭がどうにかなってしまいそうだ。
 目覚めた時、やっぱりレヴィはいなかった。
 俺を憎んでいる理由も、気持ちも、何もかも言わないままで、俺の身体に濃厚な存在感だけを残したままレヴィは何処か遠くへ行ってしまった。
 きっと、俺の手の届かない場所なんだろうなぁ。
 そう考えたら切なくて、俺は溜め息を吐きながら着替えると、カバンを抱えて階下に降りたけど、その時にはもう父親の姿も茜の姿もなくて、時計を見たら遅刻は決定だった。
 なんだか一気に独りぼっちになったような気がして、俺は、誰もいないことをいいことにダイニングの床にしゃがみ込んで泣いていた。
 膝を抱えて声を殺して、誰もいないこの場所で…レヴィのいない、この場所で。
 いつまでも泣いているワケにもいかないし、学校を休む気にもなれなかったから、俺はカバンを持ったままで家を出た。家を出ても、学校に行く気にはなれなかったんだけど…それでも通い慣れた道を足は覚えていて、トボトボと行きたくないと駄々を捏ねる心を叱咤して歩いていた。

「おや、お兄さんじゃありませんか」

 呼ばれたような気がして振り返れば、そこにはいかにも胡散臭そうな灰色のフード付きローブを着ている占い師…アイツがいたんだ!

「あ、アンタ!」

「どうしたんですか、そんな悪魔でも見たような顔をして」

 目深に被ったフードで覆った目許は見えないけど、覗いているやや大きめの口許がニヤニヤと笑っている。間違いなく、あの灰色フード男だ!

「あ、悪魔の樹なんだけど…悪魔が生まれたよ」

「おお!ちゃんと生まれたんだ。よかったね♪」

「よかったね♪…じゃない!なんだよ、あの悪魔は…」

 ふと、ジワリと涙が浮かんできて、俺は慌てて学ランの袖で乱暴に顔を擦っていた。
 泣き過ぎて、腫れてしまった目許は誤魔化しようがないから、本当は学校には行きたくなかったんだけど…

「おや?悪魔がどうかしたのかい??と言うか、何かあったことは明確みたいだねぇ」

 灰色フード男はキョトンッとしたように、今にも壊れそうな安っぽいパイプ椅子に腰掛けて、薄汚れた布を掛けただけの粗末な机に両肘を着くと指を組んで俺を見上げてくる。
 せっかく会えたんだし、もう回り逢えもしないだろうあの白い悪魔のことを、どうせ誰にも言えないんだからせめて元凶のこの灰色フード男には聞いてもらおうと思ったんだ。
 事のあらましを説明したら、「うんうん」と感情の読み取れない声音で頷きながら、灰色フード男は大きめな口許を引き結んで聞いていた。

「…というワケなんだけど、俺は悪魔に恨まれるようなことをした記憶がないんだ。アンタがあの樹をくれたんだから、あの悪魔について何か知らないか?」

「うーん…何かと言われてもねぇ。あ、そーだ。お兄さん、ところで悪魔の真実の名は聞いた?」

「え?…いや、聞かなかった」

「どうして!?」

 驚いたように声を上げる灰色フード男に、俺はショボンッとして目線を伏せてしまった。
 名前を聞くも何も、あれほど俺を憎んでいるようなレヴィが、俺なんかに本当の名前を教えてくれるはずないだろうが。悪魔にとって、本当の名前は大切なんだろうし。

「どうしてって…さっき言ったように、憎まれてるのに名前なんか聞けないよ。そもそも、名前を知ったらどうなるんだ?」

「ああ、言ってなかったかな?真実の名を知ると、その悪魔が望むと望まざると、名前を知った人間が死ぬまで悪魔は仕えなくちゃいけなくなるんだよ。だからね、ホラ、悪魔の名前を絶対に聞き出せって言ったでショーが」

 そう、だったのか。
 レヴィの本当の名前を聞いたら、レヴィはずっと俺の傍にいてくれたのか…ははは、馬鹿らしい。
 だったら俺は、永遠にレヴィの本名なんか知らなくてもいいや。

「アイツにあんなに憎まれているのに、名前なんかで縛るのはダメだ。よかった、俺はレヴィの真実の名前なんて知らなくていい」

「え!?そんな、勿体無いでショーが!…でも、お兄さんがいいって言うのならいいけど。まあ、もう悪魔もいないんだし、聞く術もないからね」

 そうなんだ、こんな口論しても仕方ない。
 もう、レヴィはいないんだ。

「んじゃ、お兄さん。もう1本、悪魔の樹があるんだけど育ててみる?」

 それは、ともすれば甘い誘惑だったのかもしれない…でも、俺は灰色フード男の掌に乗っている干乾びかけたグロテスクな樹を見下ろして、クスッと笑ったんだ。

「お兄さん?」

「いや、ごめん。でも、それはいらないよ」

「へえ?お代は特別にオマケするけどね、それでもいらない?」

 押し付けたそうに言い募る灰色フード男に、俺は今度はキッパリと断った。

「レヴィに出逢えた樹だから、すっげー魅力的なんだけどさ。でも、いらない」

「もう、二度と手に入らないかもしれなくても?」

「…もう二度と手に入らないものは失くしてしまったから。そんな思いは懲り懲りだ。だからいらない」

「レヴィが生まれるかもしれないのに?」

 ふと、灰色フード男の口許に目線を上げたら、胡散臭い占い師は大きな口をニヤニヤさせながら俺の出方を見守っているようだ。
 もう一度、レヴィに逢えるのか?
 あの古風な衣装に身を包んだ、漆黒の外套を翻して立っていた、真っ白な髪と先端の尖った大きな耳、飾り髪に色とりどりのアクセサリー…それから、いつもションボリするくせに、一度も揺らがなかった金色の双眸を持つ、あの白い悪魔に?

「逢って、また同じことの繰り返しなら…やっぱりいらないよ。俺、こんなこと言ったらアンタは笑うかもしれないけど、レヴィが好きだったんだ。アンタに悪魔の樹を押し付けられた時は、正直迷惑だって思ってたけど、今は感謝してる。ずっと礼が言いたかったんだぜ?ありがとう」

 ニコッと笑ったら、灰色フードの男は一瞬口許を引き締めて、それからちょっと俯いたようだった。

「もし、誰かがレヴィに出逢ったとして、それをアンタに報告に来たとき…その人にお願いしてレヴィに伝えて欲しいんだ」

 そんな胡散臭い占い師を見詰めたままで俺が呟くと、灰色フード男は首を傾げるような仕種をして、フードの奥に隠れている双眸が一瞬、キラッと光ったような気がしたのは気のせいだと思う。

「いいよ、伝えておく。たとえば、たとえば愛してるとか、そんなこと?」

 口許をニヤニヤさせる占い師に、俺は一瞬目線を伏せて胸がズキリと痛むのを感じながら、それでも口許に笑みを浮かべて吹っ切るように灰色フード男を見た。

「サヨナラぐらいはちゃんと言え!…ってな、伝えてくれ」

 さようならも言わずに行ってしまった薄情な悪魔の後姿を思い浮かべながら、俺は…俺は、気付いたら少しだけ泣いていた。
 それで最後なら、もっと諦めがついたのに…悪魔は非道いヤツばっかりだ。

「それじゃ、俺はもう行くよ」

 じゃーなと手を振ろうとしたら、灰色フード男にガシッと腕を掴まれてギョッとしてしまった。

「なな、なんだよ?」

「今日は、友人の家に行くのかい?」

「…は?なんで、それを知ってるんだ??って、そうか。占い師だもんな」

 俺の財布の事情だって判るんだ、それぐらい知っていてもおかしくはないか。
 腕を掴まれたままで俺は、仕方なく笑って頷いた。
 もう、レヴィもいないんだ、いつもの生活に戻ったんだから悪友と過ごすのもいつも通りだ。

「言わなくても判ると思うけど、お気に入りの雑誌を見せてもらうんだ」

「…それはきっと楽しいだろうね。でも、お気をつけ。世の中は楽しいことばかりでもないからね」

 グイッと腕を引っ張られて、見下ろした灰色フード男のフードのなか…暗がりに潜む闇のようなその中に、キラッと光ったのは縦に割れた猫のような金色の双眸、どこかで見たことがあるような、でもそんなはずはない。
 レヴィの双眸は縦には割れていなかったからな。

「ご忠告、ありがとう。それじゃあ、さよなら」

 ニコッと笑って腕を離そうとしたら、灰色フード男は名残惜しそうに一瞬きつく掴んだけ
ど、諦めたようにソッと離してしまった。
 その姿を見て、もしや…っと思う気持ちもあったけど、そんなまさか、と思う気持ちの方が勝っていて俺はもう一度、「さよなら」と呟いた。
 なぜだか、もう二度とこの灰色フード男にも会えないような気がしたからだ。
 できればもう一度、アンタに会いたいけれど…

3  -悪魔の樹-

『ご主人さま!大丈夫ですか!!?』

 慌てたようにその男、恐らく悪魔は気障ったらしい仕種で優雅に片膝をつくと、倒れてしまった俺の身体をソッと抱き起こしたんだ。

「お、おおお、おま、お前はお前は誰だ!?」

 冷たく冴えた、冬の大気のように凛とした綺麗な顔立ちのソイツは、怪訝そうに白い眉を寄せて、「はて?」と首を傾げやがったが…何をしても、いちいち様になるからなんかやたらと腹立たしいんですが。

『悪魔に決まっているじゃないですか。あなたが育ててくれた悪魔の樹から生まれた、悪魔です』

 自らを『悪魔』と名乗った悪魔は(こう言うとかなりおかしく聞こえるが、はたしてその通りだから仕方ない)、至極当然そうにキリリとした顔立ちで宣言するように言い放った。

「あ、くま?」

『ヘンなところで切らないでください。悪魔ですよ、ご主人さま』

「悪魔って…呼び難いじゃないか。名前はなんて言うんだ?」

 俺は当初、あの灰色フード男に言われた約束を綺麗サッパリ忘れていた。でも、俺を抱き起こしていた悪魔が微かに眉根を寄せたのを見た瞬間に、パッと思い出したんだ。

【悪魔は本当の名前は教えてくれないけど、それでも必ず聞き出すといいよ。方法はお任せするけどね】

 確か、あの灰色フード男はそんなことを言っていた。
 じゃあ、この悪魔とか言うヘンチクリンなヤツも【本当の名前】ってのは教えてはくれないんだろう。

『…なんとでも。ご主人さまがお呼びくだされば、即ちそれが私の名前となるでしょう』

 悪魔はやたら優雅にニコリと笑った。
 一瞬の怪訝そうな顔などまるで嘘みたいに、そのくせ、自らが名乗ることはしないんだ。
 確かに、灰色フード男の言うとおりだなぁと感心していた。
 いや、抱き起こされたまま感心しているのもどうかしてる。
 俺は真っ赤になりながら白い悪魔の腕をソッと押し遣りながら身体を退こうとして、思わぬ強い力に拒まれてギョッとしてしまった。
 それでも悪魔は、優雅にニッコリ笑っている。

「えーっと…じゃあ、ポチ」

『…ポチですか?構いませんよ、それで。では、今日から私はポチです』

「じ、冗談に決まってるだろ!?あくまでも外見上は人間なんだ、えーっと、えーっと…俺、名付けるのって苦手なんだよな。アンタの本当の名前を聞こうとは思わないけど、渾名ぐらいは教えてくれよ」

 素直にネーミングセンスの悪さを認めて見上げると、白い髪の悪魔は、真っ白な睫毛をパチパチと瞬いてから、暫く考えるような仕種をしていたけど、ふと、シニカルに笑いやがったんだ。

『そうですか。本当の名前について、何か聞いているのですね。人間にしては珍しいですね。私たち悪魔の本当の名を知りたがらないなんて』

「知ってどうなるかも判らないのに、別に知らなくてもいいよ。呼び易いように、渾名ぐらいは知りたいけど」

 やれやれと溜め息を吐いて、離してくれそうな気配もない、どうやら悪魔らしいソイツの腕に体重を預けながら見上げたら、綺麗な顔立ちの白い悪魔は口許に悪魔らしい蠱惑的な笑みを浮かべて囁くように呟いた。

『では、そうですね。ベリアルとお呼びください。ご主人さま』

「ベリアル?」

『ええ、知り合いの悪魔にベリアルと言う者がいまして。同性愛を推奨する悪魔です。私はけして興味はありませんが、今は一応男性体であり、ご主人さまを求めていますから、ヤツの名を名乗るのも面白いかもしれません』

 白い悪魔はククク…ッと、それはそれは邪悪な顔をしてニタリと笑ったけど、俺がそのあまりに綺麗な邪悪な顔に一瞬青褪めると、逸早く気付いた悪魔はバツが悪そうな顔をしてションボリしたようだった。それにハッと気付いたから俺は、ムッとして悪魔のひと房だけ伸びた宝飾に彩られた肩に下がる飾り髪をグイッと引っ張ってやったんだ。

「お前さぁ、バカだろ?」

 人間なんかにバカ呼ばわりされて、多少はムッとしてるんだろうけど、悪魔は「はて?」と首を傾げながら俺を金色の双眸で見下ろしてきた。

「どうして他の悪魔の名前なんかで呼ばないといけないんだ?お前にはお前の、個性ってのがあるんだからちゃんとお前らしい名前で呼びたいよ。そうだな、待ってろよ。俺がもっといい名前を考えてやるからな。ネーミングセンスのことはとやかく言うな」

 ヘヘヘッと笑ったら、悪魔は面食らったように驚いているようだった。
 悪魔に説教する俺ってのもどうかしてるけど、それでも、他の悪魔の名前なんかで呼べるかよ。
 本当の名前を知られたくない、悟られたくもない、と思ってるんなら、俺が何かいい名前を考えてやるしかないワケだ。それなら、ネーミングセンスとかとやかく言わず、何かいい名前を考えてやろう。
 何か、何かいい名前ってないかなぁ…?
 俺が首を捻って考え込んでいると、表情を読み取らせない無表情で俯いていた白い悪魔がポツリと言ったんだ。

『…では、ご主人さま。私のことは、レヴィとお呼びください』

「へ?レヴィ??」

『はい。私の、渾名ですよ』

 悪魔は静かに笑った。
 それは、とても綺麗な笑顔だったから、いけないとは判っているのに、俺はレヴィと名乗ったこの悪魔のことを、ほんの少しだけど、好きだなと思ってしまった。

「れ、レヴィ?何をしてるんだ??」

『何を?決まっているではありませんか。私たちは主従関係にあるワケですから、お互いの事をもっとよく知り合わなくてはいけません』

「そ、それと俺をベッドに押し倒すことと何の関係があるんだ?」

 その台詞には、白い悪魔のレヴィはニッコリ笑うだけで答えようとしない。
 だから余計に、怖いんだけど。
 渾名とは言え、名前を名乗った白い悪魔のレヴィは、俺を両腕に抱え上げたままでスクッと立ち上がると、狭い部屋ではその威圧感さえ漂わせる長身の悪魔には狭すぎるとさえ思えるベッドの上に、抱えていた俺をユックリ下ろすとそのまま圧し掛かってきたんだ。
 ギシッとベッドが軋んで、悪魔なんて何かの冗談だと思うはずの俺に、今さらながらこれは現実なんだと叩きつけられたような気がする。

「ちょ…待って」

 思わずグッと、白い悪魔であるレヴィの腕を掴んだら、その実体はあまりに確かなもので、安心させるつもりなのか唆すつもりなのか、綺麗過ぎるほど綺麗な男らしい顔で笑うレヴィには泣きたくなった。

『ご主人さま、どうぞ力を抜いて…私にお任せください』

 やわらかく口付けられて…それがファーストキスだってのに、俺は心臓をバクバクさせながら思わず瞼を閉じていた。
 ひやりと冷たい唇に触れてギクッとしたのも束の間、レヴィの情熱的な舌先が唆すように歯列を突付いて、それでなくても恥ずかしいのに俺は、知らずに口を開いていた。
 キスは濃厚で、あの、甘ったるい桃のような芳香が狭苦しい部屋一杯に広がって、思わず条件反射でトロンッとしちまった俺は、引き剥がすつもりで掴んでいた手で、もっとと、強請るようにレヴィの背中に腕を回していた。
 その事さえ気付けずに、甘いレヴィの唾液に酔い痴れる俺を、人間なんかいとも容易く掌中にできるこの白い悪魔は、いったいどんな思いでその金色の双眸で見下ろしているんだろう?
 そんなクダラナイコト、蕩ける頭で考えながら、シャツの裾から忍び込んでくる冷たい指先に理性を飛ばしてレヴィの頬に自分からキスしていた。
 俺は、きっとどうかしてる。
 レヴィが甘い、桃と思っちまうなんて!

『ご主人さま…オレ、貴方のことが好きですよ。こんな気持ちは初めてだ』

「へ?」

 ふと、レヴィがクスッと笑いながら何か言ったような気がしたけど、それはあまりに微かな呟きでしかなかったし、俺自身は教え込まれた桃のような甘い芳香に酔い痴れていてそれどころじゃなかったから、目尻を染めながらトロンッと見上げるしかない。

『大丈夫ですよ。痛いのはきっと、最初だけですから』

 冷たい指先で乳首を弄られ、男なのに乳首なんか弄られてもきっとくすぐったいぐらいで何も感じやしないのに、と高を括っていた俺は、それが全く甘ちゃんな考えであったことをレヴィに思い知らされてしまった。

「…ッ…ふ……や、嫌だ、もう、胸は……ッ」

 なにやら恐ろしいことを呟きながらクスクス笑うレヴィに嫌々するように首を振れば、白い悪魔はニタリと真っ赤な唇で笑って首筋に口付けながら寝巻き代わりのジャージのズボンを下着ごと剥ぎ取ったんだ。

「!?…レヴィ、な、何をするんだ?」

 桃の芳香が思考回路を狂わせるけど素肌に空気の冷たさを感じて、却って不安になった俺は綺麗な白い悪魔を見上げていた。

『人間界で言うところのセックスです。ご主人さま、人間と言う生き物は、身体を重ねることで信頼を得るのでしょう?私は、貴方に私を信じてもらいたいのです』

「はぁ?レヴィ、それは間違ってるよ。男同士でその、え、えっちとかはできないし、それに別にそんなことをしなくても信頼ってのは…」

『ダメです。ご主人さまはまだ幼くて、繋がりを理解していらっしゃらないだけなのです。私に全て委ねて下さい。そして、私を信頼してください』

 レヴィが切実に言い募って、それから震えるようにキスしてきた。
 そうされてしまうと、男同士のセックスなんてどうするんだろう?と訝しくは思ったものの、桃の芳香が俺を狂わせたのか、レヴィの切ない金色の双眸が思い込ませたのか、どちらにしてもこの白い悪魔が嘘を吐いているような気がしなくて強張らせていた身体の力を抜いていた。
 レヴィは悪魔なのに、俺はまんまとその罠に嵌ってしまったんだって気付いたのは、それからすぐだった。

「うあ!?…あ、…や、ヤだよ……レヴィ、は、恥ずかしい……ッ」

 真っ白な頭髪を掴んで引き剥がそうとする俺のことなんか一向に無視して、レヴィは半勃ちしていた欲望の証をペロリと真っ赤な舌で舐め上げるなり、パクンッと咥え込んだんだ。
 そんなの信じられなくて、俺はこれ以上はないってぐらい大きく両足を開かされて、その間に古風な衣装に身を包んだレヴィが居座る様を、それこそ暴れるようにして嫌がりながら抵抗したって言うのに、白い悪魔の齎す舌戯に翻弄されて、次第に指先の力は弱々しくなっていった。
 う、気持ちよすぎる!!
 レヴィは外套すらも乱していないのに、下半身丸出しで、上着も思い切り捲り上げられているあられもない姿の俺って…そう考えただけも羞恥で真っ赤になるって言うのに、熱い舌に舐め上げられて、先走りをとろりと零す鈴口を舌先でグリグリされただけでも、身体がビクンッと跳ねて、揺らめく腰をとめることもできない。
 どうしよう、怖い。
 涙目になって、どうしていいのか判らないままでガクガク震えていたら、そんな俺の姿に気付いたのか、片足の腿を掴んで陰茎に舌先を這わせて翻弄しておきながら、レヴィはゆったりと笑いやがったんだ。

『気持ちいいんですか?それとも、怖い?』

「うぇ…ヒ……ど、っちも…」

 グスグスと鼻を啜るようにして目元を染める俺を、レヴィのヤツはクスクス笑いながら陰茎の根元は掴んだままで、伸び上がるようにしてキスしてきたんだ。

『大丈夫です、心配しないでください。私は貴方の怖がるような事はしません。私が齎す快楽にどうぞ、心ゆくまで溺れてください』

「れ、レヴィ…う……ッ、…レヴィ…」

 気付いたらポロポロと頬に涙が零れていて、俺は恐怖心と気持ちよさに、そうしているのは白い悪魔のレヴィだと言うのに、縋るようにして頬に触れながらレヴィのキスを受け入れるつもりだった。
 なのにレヴィは、突然どうしたのか、冷たい唇をキュッと引き結びなり、またしても身体を戻して俺の陰茎に舌を這わせたりするから、俺はヒクッと身体を震わせて嫌々するように首を左右に振るしかなかったんだ。

「ヒッ!?…うぁ…ッ、い、痛い……レヴィ!」

 悲鳴のような声は、突然レヴィが陰茎に這わせていた舌を、その奥、更に奥にある本来なら排泄行為にしか使わない窄まりに這わせて、桃のような甘い匂いのする、もちろん味も甘いんだけど、その唾液と一緒に繊細そうな長い指先まで潜り込ませてくるから身体が波打ち際の魚みたいに跳ねてしまった。

「い、嫌だよ、レヴィ!そこは、そこは汚い…ッッ」

『汚くなど…貴方の身体は何処も甘いです』

 嘘ばっかりだ。
 レヴィの身体の方が、まるで何かの果物でできてるような甘ったるさじゃないか。

「レヴィは…嘘つきだ」

『スミマセン、私は悪魔ですから』

 尻に舌先を潜り込ませて長い指先で奥まで貫きながら、レヴィは思わず笑っちゃうようなことを言ってくれるから…ついつい、身体の力を抜いてしまったじゃないか。

「んぁ!…あ、……ヒゥ…ッ…い、イタ……ッ」

『でも、嘘ではありません。貴方は甘いです』

 身体を起して、男なのにポロポロと、未知の恐怖に涙を零す俺の頬に唇を落としながら、白い悪魔はどこか痛いように眉を寄せて綺麗な白い睫毛の縁取る瞼の裏に金色の双眸を隠すと、真っ赤な唇に笑みを刻んで俺の力の入らない両足を抱え上げたんだ。

「…レヴィ?」

『ご主人さま、どうか私を受け入れてください』

「?……~ッッッ!!」

 カッと見開いた目、涙が限界の目尻から零れ落ちて、視線の先、白い悪魔のレヴィがゆったりと冷たく微笑んでいる。
 強烈な圧迫感は内臓すらも貫いて、身体の芯に灼熱の棒を捩じ込まれて串刺しにされた錯覚に陥ったのは一瞬のことで、引き抜かれる絶望的な痛みには脳が真っ白になってしまった。
 ヌル…ッと滑るのは、レヴィの甘くて脳みそがクラクラするような芳香を漂わせる先走りのせいばかりじゃなくて、鈍い音が胎内で響いたから、きっと肛門が切れたんだと思う。
 レヴィの陰茎は、驚くほどでかい。
 それともそれは、男を胎内に受け入れたことのない俺だから、ただただ、その圧迫感と苦しさと痛みで、そんな風に思っているだけなのかな…

「…ッ……ハッ……ッッ」

『息を吐いてください、ご主人さま。そのままでは辛いですよ』

 じゃあ、抜いてくれ。
 目尻から情けなく涙を零しながら痛みに耐えてレヴィを見ると、さっき見たあの悪魔のように冷酷そうな微笑が嘘のように、白い悪魔は心配そうに真っ白な眉根を寄せている。
 ガクガクッと、まるで壊れた人形のように、レヴィの動きにあわせて力なく足が揺れているけど、抵抗しようにも力が出ないんだ。
 全くもっての無防備は、それでも、レヴィの許しを請うようなキスには蕩けてしまいそうな甘さがあった。
 ああ、どうしてだろう…俺。
 こんなに意味もなく非道いことをされているのに、俺はレヴィを憎むこともできなければ、恨むこともできない。ましてや…嫌うことさえできないでいるのは、きっと、どこかおかしいんだろう。
 こんな時なのに俺は、クスッと笑っていた。
 そんな余裕はどこにもないと言うのに。

『…ご主人さま?』

「レヴィ…」

 何か言いたくて、でも言えなくて。
 咽喉の奥で引っかかってしまった言葉は、悲鳴のようにヒューヒューと切ない呼吸音しか響かない。
 レヴィの灼熱の飛沫を胎内の奥で受け止めた瞬間、きっとコイツの精液はピンクなんだろうとか、そんなどうでもいいことを考えながら、桃のような強い芳香に包まれたまま俺は意識を手離していた。

 ふと、意識を取り戻した時には着衣もキチンとしていたし、布団もかけられていた。 ただ、性行為の名残と言えば下半身の非道い激痛と、少し身体を動かしただけでドロリ…ッと肛門から零れるレヴィの精液の感触だけだ。
 う、うわぁぁぁ…俺、レヴィと犯っちまったのか!?
 初めて会った悪魔なのに!
 人間じゃないヤツなのに!!
 いや、悪魔だからなのか…?
 起き上がるのも億劫だったけど、それでも身体を起してアワアワと泡食っていると、傍らで何かが動く気配がしてハッとした。

『ご主人さま!ああ、よかった。目覚められたんですね!?あんまり目覚められないので、私は…』

 綺麗な顔には似つかわしくないほど、うぇ…ッと眉を顰めた白い悪魔が、半べそ状態で抱き付きながら叫びやがったから堪らない。

「い、いてててッ!!だ、抱き付くなよ、大丈夫だからッ」

『あ、申し訳ありません!…無理をさせてしまいました』

 悪魔のクセに、あんまりションボリするもんだから、俺は思わず抱き締めてくるレヴィの背中に腕を回しながらクスクスと笑ってしまった。

「レヴィってヘンな悪魔だよな!人間とこんなことしたって面白くないだろうにさ」

『…面白いとかそう言うワケではないんです』

「ああ、そうだったな。お互い分かり合う為だったっけ?んじゃ、レヴィは俺のこと、少しは判ってくれたのか??」

 古風な衣装に身を包んでいるレヴィの身体はどこか冷たくて、その感触だけが、ああ、コイツは人間ではないんだなぁと思わせていた。でも、だからと言って幽霊のように実体があやふやってワケでもないし、いったいレヴィって何者なんだろう。
 本当に悪魔なのかなぁ?

『よく判りました。貴方は我慢強く、そしてお人好しだ』

「はぁ?」

 レヴィは何が楽しいのか、クスクスと笑いながら痛む身体を労わるように優しく抱き締めてくれるから、その背中に腕を回したままで、俺はこの白い悪魔に凭れながら首を傾げてしまう。

『貴方は私のことは非道い悪魔だと思っていますね?』

「悪魔に非道くないヤツなんかいるのか?レヴィはヘンなヤツだ」

 アハハハッと笑ったら、思うよりもガッシリした体躯を持っているレヴィは、そんな俺を身体が痛まないように気を遣いながらギュウッと抱き締めてきたんだ。

「くる、苦しいんだけど。どうしたんだよ、レヴィ?」

『悪魔の本質を受け入れるなんて、ご主人さまこそ変わられた方だ。そんな貴方が、ご主人さまで本当に良かったと、感慨に耽っているのです』

「…やっぱ、レヴィはヘンなヤツだ」

 ニッコニッコ笑いながら抱き締めてくる古風な衣装の白い悪魔に、俺は呆れたように笑いながらも、コソッと思うのだ。
 俺の方こそ、レヴィのような風変わりな悪魔と知り合えて良かったと。
 俺、あんまり痛くないなら、これからもレヴィとその、エッチしてもいいとさえ思う。
 なんでそんな風に思うのか良く判らないんだけど、この白い悪魔を手離したくないと思っていた。

「光太郎!…顔色が悪いみたいだけど大丈夫なのか?」

 翌日、よく晴れた休日の朝なんだけども、欲求不満を解消してきたらしい弟はツヤツヤした肌をして生き生きと俺を振り返って、それから途端に眉間に皺を寄せたんだ。
 う、そんなに顔色が悪くなってるのか?
 やっぱ、レヴィは悪魔じゃなくて幽霊で精気を吸い取られて…ひー。

《そんなワケないじゃないですか!ご主人さま、非道いです》

 思わず『るー』と泣いていそうな気弱な声で、俺の肩に乗っかっている小さな蜥蜴が舌を出している。
 どうも、蜥蜴に化けるとレヴィは俺の考えている事が【読め】るらしく、厄介なんだど、何か伝えたい時は便利だなぁと思ってしまう。

《昨夜、無理をさせてしまったので心配です》

 ションボリと蜥蜴が首筋に頭を摺り寄せてくるから、ヨシヨシとその小さな身体を撫でて「そんなことないよ」と安心させてやりながら、俺は朝帰りの弟を胡乱な目付きで睨むのだ。

「中学生が朝帰りとは戴けないな。本当に友達の家だったのか?」

「あっれ?光太郎ってば心配してくれてるの??それともヤキモチ?今日も甘い匂いがしてるな~」

 そう言ってから茜のヤツは、んーっと、父親がいないのをいいことに思い切りうちゅぅっとキスしてきやがったんだ!!

《!!》

「んんッ!?…ッ、んの、何をするんだよッッ…!?」

「いってぇぇッ!!」

 後頭部に手を当てて、ご丁寧に舌まで入れてきた俺より長身の弟、茜はギョッとしたように頬を押さえて離れたんだけど、その頬は血こそ出てはいないものの、真っ赤に腫れている。
 レヴィがガッツリ食いついたんだ。

「せ、茜??大丈夫なのか!?」

「んだよ、その蜥蜴!光太郎、蜥蜴なんか飼い出したのか??」

「へ?あ、うん。レヴィって言うんだ」

 俺は肩に乗っかって《ご主人さまに何をする!?》と、鼻息荒く怒っている小さい蜥蜴を掌に乗せて茜に見せながら頷いた。

「うっわ、すげー。コイツ、何?アルビノ??」

「あ、ああ。綺麗な白だったから…」

「噛まれないように気をつけろよ」

 指先で突付こうとして、パカッと口を開いた白い蜥蜴にビクッとしたのか、恐れをなしたような茜はやれやれとでも言いたげに肩を竦めて不機嫌そうだ。

「ちぇ!ソイツの名前、バウンサーってのにすればよかったのに」

「用心棒?どうしてだ」

 首を傾げたら、茜は不機嫌そうに肩を竦めるだけで何も言わなかった。
 そのまま朝食はいらないからと言って2階に上がってしまったんだけど…茜のヤツ、いったいどうしたっていうんだ?

《ご主人さまの弟君は、兄上に懸想していらっしゃるんですねッ》

 ムスゥッとしたように白い蜥蜴は咽喉の下を掻きながら不機嫌そうに呟いたけど、俺は「懸想?なんだそれ」と首を傾げながら夜勤で帰ってくるだろう父親の為の朝食の支度を始めたんだけど…そうか、昨日作っておいた肉ジャガがあったんだっけ?

「そーだ、レヴィ。お前は飯とか食わないのか?」

《食事ですか?私の食事は大気に含まれる純粋なものです。ですが、ご主人さまが食せと言うのならば何でも食べます》

 ゴロゴロと、そんなはずはないのに咽喉でも鳴らしているように目を細めて頬に頭を摺り寄せる白蜥蜴に、俺は肩を竦めながらエプロンをつけて首を傾げて見せた。

「人間のモノを食わせたら腹を壊すかもなぁ」

《そんなことはありません。ご主人さまが自らお作りになったもので腹を壊すなど、畏れ多いことです》

「ははは。レヴィは大袈裟だよ」

《そうでしょうか?》

 ムゥ?っと理不尽そうに首を傾げる白蜥蜴に笑っていたら、たいそう不気味そうに背後から声を掛けられてしまった。

「…光太郎、大丈夫か?」

「わわッ!?あ、なんだ茜か」

「なんだじゃねーよ。誰と話してたんだ??」

 胡散臭そうに片目を眇める茜に下から覗きこまれるようにして、俺は焦ってお玉を持ったままエプロンを握り締めてしまった。

「誰にって…レヴィに腹は空いたかって聞いてただけだ」

 アハハハッと笑ったてみたけど、どうも、かなり疑われてしまったらしい。
 んー、わざとらしすぎたかな??

「白蜥蜴なんか虫でも食わせとけばいいんじゃね?…っと、なんだよ、この蜥蜴。なんか今、一瞬だけど壮絶に睨まれたような気がする」

 そりゃ、そうだろ。
 悪魔に向かって虫を食えなんて…人間を馬鹿にしてるかもしれないってのに。 悪魔のプライドを傷付けたんだ、睨まれるぐらいはするさ。

「んじゃ、俺さ。出掛けてくる」

「…はぁ!?お前、今帰ってきたのにまた出掛けるのかッ!?」

「いーじゃん、今日は休みだし?なんか、光太郎ってばホントにお母さんだよなぁ。いつかきっと、嫁さんにするから覚悟しとけよ♪」

「断る!」

「ははは!んじゃ、行ってきまーす♪」

「あ!ちょ、コラ待て…って、行きやがった。中学生のクセになぁ」

 伸ばしたまま行き場を失った手でそのまま頭を掻きながら、やれやれと溜め息を吐いていたら、肩の上でジーッと俺を見上げていた白蜥蜴、レヴィが不思議そうに首を傾げている。

《ご主人さまは出掛けられないのですか?》

「へ?」

《弟君は楽しげに出掛けられた。ご主人さまはどこにも行かれないのですか?》

 ああ、俺は…あれ?そう言えば俺、いつからこんな風に出かけなくなったんだろう。
 確か、母さんが亡くなる前は悪友の篠沢たちとカラオケに行ったりゲーセン行ったり…それなりに楽しんでいたと思う。
 ああ、そうか。
 母さんが死んでから、高校生らしい生活とかしてないよな、俺。

「よし!じゃあ、今日は朝食の準備をしてから出掛けるかな。レヴィは行きたいところとかあるか?」

 一大決心だ。
 父親には、昼食は出前で我慢してもらおう。

《私ですか?私は、ご主人さまが行かれるのなら何処へでも》

「はは、そう言うと思った」

 白蜥蜴はそんな俺にキョトンッとしたようだったけど、それでもなぜか、嬉しそうに頭を頬に摺り寄せてくる。

《…しかし、強いて挙げるのならば》

「お?どこか行きたいところでも見つかったのか??」

 小さな蜥蜴を掴んで目の高さまで持ち上げると、金色の双眸をクルクルさせて、レヴィはパカッと口を開いて見せた。

《スーパー銭湯へ!》

「なぬ!?」

 思わずギョッとすれば、白い悪魔の化身である蜥蜴は、それこそニヤッと笑ったように無機質な双眸をスッと細めて見せたんだ。

《お身体は大丈夫ですか?》

 ソッと囁かれて、途端に俺の頬が赤くなるけど、レヴィはそれこそキョトンッとしている。
 あのなぁ…結構気恥ずかしいもんだな、俺をこんな身体にした張本人に気遣われると。
 それでも、照れ臭そうに笑ってしまう俺も俺なんだろうけど。
 ああ、でもそれで。
 スーパー銭湯なんてワケの判らないことを言い出したんだな。

「スッゲー、美形のクセにスーパー銭湯とか言うな」

《はて?容姿など関係ないではありませんか。ただ、ご主人さまのお身体が心配です》

 真摯に呟く蜥蜴ってのもヘンなもんだけど、そうして誰かに心配されるのも久し振りだったから、腹の辺りがこそばゆいような気がして思わずエヘヘッと笑ってしまった。
 今までは俺が弟や父親の心配ばかりしていたから、母さんがいなくなってから誰も俺のことなんか気にかけてもくれなかったし…だから、本当は凄く嬉しかったんだ。

「ありがとう、レヴィ」

《礼を言われるようなことはまだしていませんが?》

 はてはて?と首を傾げる目の高さの白蜥蜴に、なんでもないんだよと呟いて、それから俺はエヘヘッと照れ隠しにレヴィの身体に頬を摺り寄せてしまった。それが嬉しかったのかどうだったのか、俺には判らないんだけど、白蜥蜴は少しだけ身動ぎして身体を乗り出すように俺の頬に自分の頭を持ってこようとしているようだった。

《よく判りませんが、感謝を示すのなら唇に口付けて欲しいです》

 躊躇いも恥ずかしげもなくそんなことを抜かすレヴィに盛大に照れてムッとしたものの、キョトキョトしている小さな白い蜥蜴はそれだけでも可愛くて、俺はクスクスと笑ってしまう。

「はいはい、それじゃあ取って置きのキスを」

 そう言って、持ち上げた白蜥蜴の冷たい鱗に覆われた口許にブチュッとキスしてやった。

《では、お返しは夜の営みにて♪》

「ぐはっ!!」

 嬉しそうにてれんと垂れている尻尾を左右に振り振りの蜥蜴に思わず吐き出すのと、漸く帰宅した父親にバッチリ、蜥蜴とのキスシーンを見られてしまって身悶えるのはほぼ同時だった。
 トホホホ…

 久し振りの外出に、さすがの俺もテストの赤点なんかなんのそので、気分も軽やかにウキウキしていた。
 たとえ外が、こんな時に限って雨だったとしても、今の俺にはなんら気になるような状況じゃない。
 だって、肩に白蜥蜴を乗せている…って状況じゃぁないからな。
 じゃあ、どう言う状況なんだ?って言われれば、白髪と金眼、大きくて長い耳を隠したレヴィが、黒髪で黒い瞳の普通の人間になって俺の傍らに立っているんだ。
 道を行く女も男も、みんな例外なく振り返るのは、やっぱり悪魔が持つ独特のフェロモンのようなモノの成せる業なのか、はたまた、レヴィ特有の独特な香水のような匂いに釣られているのか、それともその、人間離れした美しさのせいなのか…たぶん、全部当て嵌まるんだろうけど、冷たい相貌で道行く人間たちを悉く無視する(今こそ本当にそれらしく見える)悪魔は、ぼんやり見蕩れている俺に気付いたのか、ニコッと屈託なく笑いかけてくるんだ。
 その気持ちがいいことと言ったらない。

「どうなさいました、ご主人さま」

「…ッ!!だから、その喋り方はNGだって」

「あ、そうでしたね。では、光太郎さん。どうしました?」

 あんまり変わらないんだけど、これが精一杯のレヴィの譲歩なら、俺だって無碍にするワケにはいかないし…でもホント、よくあんなチンコの樹から、こんな綺麗な悪魔が生まれたよなぁ。
 絶対、あの灰色フードの占い師は詐欺師だって思ってたのに…

「信じてみるモンなんだな」

「…?何をですか??」

 ポツリと呟いた台詞を耳聡く聞きつけたのか、レヴィが何か、面白そうな表情をして俺を見下ろしてきた。
 身長差が茜よりもあるモンだから、それでなくても威圧的に見えるレヴィはますます高圧的に見えてしまう。でも、それを打ち消しているのはポヤポヤとした笑顔のせいだ。
 ともすれば、酷く冷酷な、酷薄そうな面立ちにだって見える白い悪魔のレヴィは、笑うと憎めない犬歯が覗いて、それだけでも可愛いヤツだなぁと思えるから、きっと女はイチコロなんだろうと思う。

「なんでもないよ…ああ、ここだ!ここに灰色のローブを着た占い師がいたんだよ」

「…そうですか」

「悪魔の樹をくれたんだけど。ちゃんとレヴィと出逢えたって報告しようと思ったんだけどなぁ…」

「必要ありませんよ。さあ、行きましょうか」

 ふと、冷たく言い放ったレヴィはまるで、そう、まるで虫けらでも見下ろすような蔑みに満ちた双眸をして、俺が指差した灰色フード男のいた場所を一瞥しただけだった。
 そんな目付きのレヴィを何度か見たことがあったけど、いつも、どうしてか判らないけれど胸の奥がざわめいていた。どうして、そんな落ち着かない気分になるのか全く判らないんだけど…俺は、レヴィのその、悪魔らしい表情が大嫌いだった。
 ホエッと笑う、ホノボノしたレヴィが大好きだ…なんてことは、直接本人には言えないんだけど。
 恥ずかしくてなー

「ごしゅ…光太郎さんはいつもは何をしているんですか?」

 あの町角を離れて、俺たちは商店街をブラブラしていたんだけど、やっぱり道行く人たちはみんなレヴィを見ている。この町で、一番人の多い場所だと言うのに、レヴィはそれでも群を抜いて目立っていた。

「俺?俺は…夕飯の支度をしたり、弁当だとか朝食の買い物をしたり…主に家事かな」

 17歳の男子高校生には有るまじき日常生活に、トホホホ…ッと、思わず項垂れてしまう俺の気持ちなんかまるで無視して、レヴィはいつもの、悪魔のクセに見る者全てを幸せにするような穏やかな笑みを浮かべたんだ。

「そうですか。私は貴方の作る肉ジャガが大好きです」

 ほえ~っと笑うレヴィに絆されていると、今は黒い悪魔になっているレヴィはそんな俺をジックリと見詰めてくるんだ。

「な、なんだよ?今夜も肉ジャガ作ってやるよ。アレは母さんの直伝で…」

 料理を誉められるのは少なからず嬉しい。
 花の男子高校生がそんなことじゃいかんとは思うんだけど、それでも、手料理ってのはある意味格闘以外の何ものでもなくて、いつも献立に頭を悩ませては火の調整や味への追求を怠るわけにはいかない。だからこそ、誰かが口にした時に「美味しい」と言って貰えると不思議に疲れが吹っ飛んで、嬉しい気持ちになる。
 でも、最近の父親も茜も料理の感想を言ってくれなくなった。
 それがもう、当り前になっていたから…だから、レヴィに「好き」だと言われて、久し振りにこそばゆいような、面映いような気持ちになってしまったんだ。
 そこまで言ってくれるのなら、俺は張り切って作っちゃうんだぜ~♪

「私は幸せです。貴方の顔を見ているだけで幸せな気分になるのは何故でしょう?」

 悪魔のクセにそんな奇妙なことを言って笑いながら、思い切り注目を集めているこのすかぽんたんのレヴィを誰かなんとかしてください。

「そ、それは、その…俺にも判らないよ」

「そうですか。仕方ないですね」

 そう言ってニコリと笑うレヴィには内緒だ。
 俺だって、もうずっとそう思ってることは。
 俺だって、レヴィの嬉しそうな、幸せそうな顔を見ていると凄く、凄く…

「あっれぇ?瀬戸内じゃん、何してんだ??」

 綺麗なレヴィの顔を見上げていた俺の背後で誰かが呼び掛ける声…そう、見なくても判る篠沢だ。

「うげっ、篠沢」

「なんだよ、その思い切り傷付いちまう台詞は…っと、なんだ、連れがいるんだ?」

 誰だよ、この美人は…と、コソリと胡乱な篠沢の目付きが訊ねてくる。
 俺の知らないうちに、いつの間にこんな美人と知り合ったんだよと、相変わらず面食いの篠沢は、大方俺がカラオケとかの誘いを断っている原因はレヴィだと思い込んでいるに違いない。

「誰だよ、紹介しろよ」

 肘で突付かれてしまうと…俺はハタと気付く。
 いったい、なんて紹介したらいいんだ?
 まさか、チンコに似た『悪魔の樹』から生まれた白い悪魔のレヴィ…とか紹介できないし、コイツには教えようとか思っていたけど、いざそうなると、なぜか言いたくなくなってしまう。
 どうしてだろう?

「えーっと、コイツはその…」

「私は光太郎さんのペンパルでレヴィ・バレンタインと言います。日本に来ていて、光太郎さんの家に厄介になってるんですよ」

 ぬな!?

「あ、あー…そうなんだ。外国の人か、そうだよな。顔立ちが日本人と違うし、でも、日本語がお上手なんですね」

 篠沢はコロッと優等生の顔をして、ちゃっかりレヴィと握手なんか交わしてやがる。
 なんか、ムッとしていたら、篠沢はケラケラと笑ってから、まるで秘密を打ち明けるようにおどけてレヴィに言ってくれたんだ。

「でもま、レヴィさんが日本語お上手なんで信じましたよ。だって、瀬戸内に英語の理解力があるなんて到底思えないからさ。コイツってば赤点大魔王なんですよ♪」

 俺の恥を。
 うう、クッソー。

「大魔王なんですか?それは凄いですね」

 レヴィがニコニコと笑って、どうやら本気で感動しているらしいその姿を、ただの日本語がいまいち理解できていない外国人だと認識している篠沢が、拙いことを言っちゃったかなぁと頭を掻いて照れている。
 そう、照れている。
 あの、言い寄る女の子や親衛隊をモノともしない、あの篠沢が。
 すげー、恐るべしレヴィの魔力!…ってヤツかな?よく判らないんだけども。

「赤点取って凄いヤツがいるもんか。ところで篠沢はこんなところで何してんだよ?」

 ムゥッとして口を尖らせると、レヴィは訝しそうに眉を顰めたようだった。
 いったい、俺が何に対して腹を立てているのか判らない…その表情が、さらに俺に追い討ちをかけてるなんてこた、きっとレヴィには判らないんだろう。

「俺?ん~、ここに来れば瀬戸内に会えるかと思ってさぁ。ま、会えるこた会えたんだけどね。コブ付きで」

「は?」

「いんや、なんでもない。ところでさ、今日ヒマそうじゃん?これから…」

 あのなぁ、篠沢。
 見て判らないのか?俺は今、レヴィと…

「申し訳ありません、篠沢さん。光太郎さんは今日、ずぅーっと私と一緒にいてくれるんです。だからヒマじゃありません」

 ニコッと、威圧感のある笑顔で押しを強く言ったら、篠沢はギクッとしたような顔をした。
 そうだ、美人が凄むと怖いんだ。

「し、仕方ないよな。そうだよな。せっかく遠くから来てるんだし…なぁ?」

 いきなり、篠沢は俺の肩にいつもどおり腕を回すと、耳元にコソコソと話し掛けてきたんだ。

「今度、俺んちに来いよ。あの時話してた本が手に入ったから見せてやるって」

「ホントか!?うっわ、マジで嬉しいな。学校じゃなんだし、うん。今度行くように都合つけとくよ♪」

「お前さぁ、忙しいって言って中学の時から1回も俺んちに来ないだろ?たまには本ぐらい読みに来いよなー。約束だぜ?」

「そ、そうだったっけ?うん、判った。任せとけ!」

 いつも以上にベタベタするのはとっておきの秘密を打ち明けているからだ。こんな時の篠沢はホント、悪巧みをするガキっぽくて、そんな姿が女子に人気があるってことを、アイツはちゃんと計算に入れてるんだからスゲーよな。
 まあ、俺にはとうてい真似なんてできないけどよー
 「んじゃなー」と手を振って立ち去って行った篠沢の後姿を見送りながらふと、傍らで様子を窺っていたレヴィに気付いて見上げたら。

「お話は終わったんですか?」

 ニコッと笑いかけてくる。
 一瞬だが放って置いてしまって悪かったな…と思ったんだけど、レヴィのヤツはさほど気にした様子もなさそうでホッとした…その矢先だった。

「…でも、あまりあの方と関わるのは戴けませんね」

「は?」

「悪魔の勘とでも言いましょうか?」

 レヴィは申し訳なさそうに眉を寄せて肩を竦めたが、俺はちょっとムッとしてしまった。
 中学からの悪友で、確かにイロイロとアイツとの間にはあったけど、それだって一過性のモノで、今更蒸し返すような事でもないし、何より、もうずっと友人できたんだ。
 誰よりも良く知っている…その友人を、レヴィに悪く言われたような気がして、俺は傷付いた。
 そうだ、傷付いてしまったんだ。

「レヴィには関係ないだろ?お前の知らない時間ってのがあるんだ。余計な事に口を出すなよ」

 だから、口調がやけに刺々しくなっていたのは認める。
 認めるけど、だからってそんなにショックを受けたような顔をするなよ。
 眉を寄せて、寂しそうに小首を傾げるレヴィ…でも、そんな顔したって駄目なんだからな。
 よりにもよって親友とも呼べる友人を、悪く言われる筋合いとかないんだ。

「も、申し訳ありません。ですが、彼は…」

「あー、もう!聞きたくないって言ってるだろ!?なんだよ、お前。どうしてお前にそんなこと言われないといけないんだ!?」

 伸ばされた腕を邪険に振り払って、どうしてこの時の俺は、こんなに頭にきていたんだろう。
 レヴィはただ単に、悪友ってだけあって、影で悪い事をしているだろう篠沢の、もちろん俺はそんなことはとっくの昔に知り過ぎるほど知っているんだけど、知らないレヴィは注意するように忠告してくれているに過ぎないってのに…
 それが、なんだかとても嫌だった。
 俺が付き合っている友達を否定された、ひいてはそれは、俺自身を否定されたような気がしたんだ。

「…申し訳ありません、ご主人さま。どうぞ、私を捨てないでください」

 ショボンッと俯いてしまうレヴィの長い睫毛に、ゆっくりと降り頻る雨の雫が、まるで涙みたいな玉を結んでいたからドキッとしたけど…バカな俺は、そんないちいち様になるレヴィに対してさらに腹立たしく思ってしまった。
 何もかも手にしている悪魔のクセに、そうして、人間をバカにしているんだろ?
 ああ、これ以上、動くな俺の口。

「捨てる?捨てられるはずないだろ??お前は綺麗な悪魔なんだ、それだけでも優越感に浸れるしな!どーせ、それだけの価値しかねーじゃねぇかッ。そんなヤツに俺の友人の悪口なんか言われたかないね。篠沢はお前なんかよりずっと大切なんだッ」

 瞬間、レヴィは俯いていた顔を上げて、そう言った俺の顔を見詰めてきた。
 物言いたげな表情は、まるで裏切られた時に見せる絶望のようなものを含んでいたけど、俺は観衆の大注目の中にあることにハッと気付いて、レヴィを思い遣ってやる余裕をなくしていた。
 だから、フォローなんて考えもしないで、取り敢えずその場から立ち去ることを選んだんだけど…
 それでもレヴィは、あの白い綺麗な悪魔は、物静かに俺の後に大人しくついてきていた。
 この世界で、頼れる者は俺しかいない、俺だけが全てなんだとでも言いたそうに…
 レヴィの一瞬、金色に輝いた瞳は、切ない光に揺れていた。
 俺は敢えてそれを見ないふりをして、わざと苛立たしげに歩いていたんだけど、どうしてそ
んな態度を取ってしまったんだろう。
 レヴィと一緒にいる時の方が、こんなに安らげるのに。
 本当はたぶん、篠沢よりもレヴィの方が大切だと思っているのに…そんなこと、本人には言えないんだけど。

『…うぜぇな、アイツ』

 ポツリと、背後で何かを呟いたレヴィに振り返ったら、今は黒くなっているけど、白い悪魔はションボリした顔をして俯いていた。
 綺麗な眼差しを地面に落として、俺に嫌われてしまったんじゃないかとビクビクしている姿は、とても悪魔には見えないし、何より、その際立つ美しさには不似合いだった。
 そんな姿を見ていると、さっき何か言ったように感じたのは気のせいだったのか…
 俺が立ち止まると気配を感じるのか、無言のままで立ち止まるレヴィ。
 今にも泣き出しそうな綺麗な瞳は伏せたまま、ごめんなさいと態度が物語っている。
 そんな、ホントはただの八つ当たりなのに、そこまでしょ気られてしまうとなんだか物凄く

悪い事をしているような気になって、俺は誰もいないことをいいことに、コホンッと咳払いをして俯いているレヴィを下から覗き込んでやった。

「なんだよ、悪魔のクセに。そんな落ち込むようなことかよ?」

「…だって、ご主人さま。私には貴方しかいないのに。嫌われてしまったらそれで終わりなんです。そんなのは嫌です…出過ぎたことを言ってしまいました。申し訳ありません」

 ショボッと目線を伏せるレヴィの、人間らしく今風の服を着込んでいる胸倉をグイッと掴んで、何事かと視線を上げてきたその切なく揺れる瞳を見据えたままで、何故か俺は、気付いたらキスをしていたんだ。
 どうしてそんなことしたのか良く判らないんだけど、それでも俺は、瞼を閉じてキスしていた。
 触れるだけの、掠めるだけのキスだったけど、唇が離れるか離れないかのところでレヴィがちょっと驚いたように呟いた。

「…ご主人さま?」

「お、俺にも良く判らないけど!レヴィとキスしたいし、ずっと一緒にいたいって思う。誰がレヴィと離れるなんて言ったんだ!…俺は、我が侭なんだよ」

 ブスッと膨れっ面をしたら、レヴィはキョトンッとしたけど、ちょっと嬉しそうに綺麗な顔ではにかんで、恐る恐ると言った感じで抱き締めてきたんだ。
 俺だって、レヴィを好きなのに。
 嫌いになんてなるわけないじゃないか。

「私は我が侭なご主人さまも大好きです」

 ポツリと、そんな嬉しいことを言ってくれるから、俺はレヴィの背中に腕を回して、同じように抱き締めながら瞼を閉じていた。
 たぶんきっと、レヴィを嫌いになんてなれるワケがない。
 初めて俺を見下ろしたあの瞬間の、あの金色の双眸を忘れられないんだから…

『…それにしてもホント、アイツはウザイ』

 口の中だけで呟くようにレヴィが何か言ったけど、その時の俺には、この白い悪魔が何を言っているのかよく聞き取れなかったんだ。

2  -悪魔の樹-

 翌日俺は、久し振りに爽やかな目覚めってヤツで早起きして、いつもギリギリで作っていた弁当を時間内で見事クリアすると言う偉業を成し遂げてしまった。
 やればできる子なんだ、俺って。
 エプロンを握り締めて爽やかな朝陽の中、嬉しさに涙を流す俺の背後に、その不気味な影は迫っていた。
 だっらーっと半分以上やる気のなさそうな両腕が、シンクに向かっている俺の両肩に無造作に投げ出されてきたから吃驚した。

「なななッ…って、なんだ、茜(セン)かよ。兄ちゃん、吃驚しちまったじゃないか」

「朝っぱらから光太郎にこんなことするのって、俺しかいないだろ?他に誰がいるっつーんだよ。誠太郎なんか論外なのにさ」

 ぶすぅっと、寝起きの悪さを物語るように唇を尖らせているような茜は、俺の肩に懐くように顎を乗せながら父親の悪態を吐いている。うん、それは判るけど…

「なんか、今日は朝からツヤツヤしてんな?それに、すげー…いい匂いがする」

「ゲゲ!?そ、そうか??」

 思わずビクッとして肩を揺らしてしまった俺の態度に、それこそ何をしても卒なくこなす茜は、敏感に気付いたように鼻面を耳の下の首筋の辺りに摺り寄せてきやがるから…う、朝っぱらからヘンな気分になりそうだ。
 朝の生理現象も手伝ってるんだ、そろそろ離して欲しいんだけどね。

「なに、反応してんの?朝風呂した…ってワケでもなさそうだし。うーん、それにしてもいい匂いだ。えい、舐めてみよ♪」

「はぁ!?…ッ、よ、よせって!バカ弟!!」

 首筋をベロリと舐められて、妙にゾクゾクしてしまった俺は顔を真っ赤にしながら引き剥がそうとして暴れているってのに、弟は俺の抵抗なんかそよ風とでも思っているのか、興味深そうに首筋にチュッチュッとキスまでしてきやがる始末だ。

「うーん、味はしないんだな」

「あったりまえだろうが!そのクソッタレな脳みそはちゃんと動いてんのか!!?」

 キィッと悪態を吐いて背後の弟を振り返るついでに胡乱に睨みつけたら、茜は面白くないとでも言いたそうな顔をしてチェッと舌打ちなんかしやがった。

「俺にじゃれ付くヒマがあるんだったら朝飯を食ってけ!いつも僕の朝食はコーヒーで結構なんだ、とか、どこぞのジェントルマンみたいな真似ばっかりしやがって。お前は育ち盛りなんだからちゃんと飯を食って行くんだ!」

 外したエプロンを専用のフックに戻しながら、濡れた首筋を手の甲で拭いながらビシィッと食卓テーブルを指差してやると、茜はホカホカご飯に味噌汁、焼き魚に玉子焼き、ほうれん草のお浸しに昆布の佃煮と言う、何処から見ても立派な日本の朝食を目にして尻上がりの口笛なんか吹いたんだ。

「やっぱ、光太郎ってお母さん気質なのな。いつ嫁に行っても苦労はしないだろうよ」

 嬉しそうにいつもの席に腰を下ろす茜の聞き捨てならない台詞には眉が寄ったが、それよりも朝っぱらから俺を脱力させたのは実の父親の暢気なバカ発言だった。

「何を言ってるんだ、茜。光ちゃんがお嫁さんに行ったらお父さんはどうなるんだい?靴下のある場所も判らないのに」

 メソメソ泣いてんじゃねぇぇ!!

「靴下は父さんの部屋の箪笥にちゃんと仕舞ってるだろ?!一番上の右端!」

「え?ああ、そうだったのか」

 ひょこっと2階の自分の部屋を見上げる父親に思い切り溜め息を吐いていたら、行儀悪く両肘をテーブルについて味噌汁を啜っていた茜がぶっきら棒な調子で思わず萎える発言をくださいました。

「だから、嫁に行かせなければいいってワケよ。大丈夫、責任持って俺が嫁に貰うし♪」

「未成年じゃダメだけど、18になれば全然オッケーだから、お父さんも協力するね」

 そこ、同意しない。
 しかも、朝っぱらから何の話ですか。

「はいはい!どうでもいいから親父も飯を食ってくれ。片付けは帰ってからするけど、食った後の茶碗ぐらいはシンクに戻しておいてくれよ」

「ふぇ~い」

「うんうん♪」

 気のない返事の茜と至極嬉しそうな父親の陽気な返事を聞きながら、思い切り疲れてしまった俺はガックリと茜の横に腰を下ろしていた。

「あ、そーだ。今日俺、帰らないと思うんだけど。誠太郎と光太郎はどんな感じ?」

「お父さんも今日は残業だよ。もしかしたら、そのまま帰れないかもかも」

「へ?俺はいつも通りだけど…」

 焼き魚を突付いていた茜は、ちょっとムッとしたように唇を尖らせて、肩を竦めながらまたしても俺の肩に懐いてきやがるんだ。

「友達んちにさぁ、お泊りなんだけどぉ。お小遣い、ちょっぴり先取りしたいんだぁ~」

 ははーん、コイツの朝っぱらからのあの態度は、これを切り出すための予防線だったんだな。

「ダメだ!お前、そう言って先月も先取りしただろ??」

「チェッ!あと千円しかないオトートが可哀想だって思わないのかよ、おにーちゃん!」

 せ!…千円って、つい3日前に1万も渡したのに、この見てくれも脳みそもやる気なさそうな弟は、いったい何にそんなに金が必要なんだ!?

「この不良弟が!いったい何にそんなに金が必要なんだよ?」

「え~、イロイロ。ゲーセン行ったり、フラフラしたり~」

「茜には彼女でもいるんじゃないのかい?光ちゃん、可哀想だからあと5千円渡してあげなさい」

「やっり!さすがお父様、話が判る♪」

「ぐはっ!」

 家計は確かに毎月父親に報告してるし、毎日忙しなく働いている父親の稼ぎはそれほど悪くない、と言うか、このご時世では裕福な方だ。
 だからと言って、奔放に遊びまわっている弟をそんなに甘やかしてだな…って、そう言いながらもまるで甘えん坊の子犬のような上目遣いでキュゥ~ンと見上げられてしまうと、苛々しながらも溜め息を吐いて財布から5千円札を取り出す俺って…さようなら、一葉さん。

「へっへっへ~、んじゃ、ご馳走様でした!俺、学校行って来る」

「おう、行ってらっさい」

「明日は早めに帰るんですよ~」

 明らかに弟は父親に似たなと確信する俺の前で、ほんわか眉尻を垂れている父が俺を見ていることに気付いた。

「なんだよ?」

「ホントに、光ちゃんはいい子に育ってくれたと思ってね」

 そんなこと、嬉しそうに笑いながら言われても困るだろ。
 朝っぱらから、昨夜致してしまった悪戯の罪悪感も手伝ってか、俺は顔を真っ赤にしながらわざと怒ったふりをしてガチャガチャと茶碗を集めてシンクに置きに行ったんだ。
 案の定、弟は食器を下げずに行っちまったしな…くそ。

「朝っぱらかヘンなこと言ってないで、父さんもさっさと仕事に行けよ!」

 俺は、本来なら母さんが座ってたはずの椅子の背に掛けていたスポーツバックを引っ掴みながら、どこからでもバッチリ見ることができる母さんの写真を拝んで、それから父親にそう言うと慌てて玄関に突っ走った。
 時間に余裕があると思って高を括っていたら、気付いたらもうこんな時間になっていた。
 ヤバイヤバイ。

「…本当のことなのになぁ」

 父親がやれやれと溜め息を吐きながら味噌汁を啜る音が聞こえたけど、この際無視してスニーカーを履こうと玄関に行ったら、どうしたことか茜が立っていたんだ。

「あれ?お前、先に行ったんじゃないの??」

「…俺、彼女とかいないぜ」

「はぁ?」

 いきなり何を言い出すんだと首を傾げたら、中学3年でピアスをしている充分ヤンゾな茜のヤツは、小脇に薄っぺらい学生カバンを抱えたままでポケットに両手を突っ込んだ姿で、不機嫌そうな仏頂面をしていた。

「昨日の兄貴の色っぽい声に中てられてさ、欲求不満を解消しに行くだけだ」

「…!!」

 その台詞で一気に顔を真っ赤にしてしまっては、自分が何をしていたのか雄弁にゲロしてるようなもんだ。元来、あんまり嘘とか吐けない体質の俺だから、普通ならニヤッと笑ってさらりと流すモンなんだろうけど、アワアワと泡食ってしまえばますます茜の発言が真実味を増してくる。
 いかん!いかんのに…

「な、何、言ってんだよ」

「判らない?ハッキリ言ってもいいんだけど、俺、光太郎のこと好きだから。アンタのチンコ舐めてしゃぶりたいし、それから尻の穴もたっぷり舐めて俺のチ…むぐむぐ」

「こ、このバカがッッー!!朝っぱらから、そ、それも玄関先で!!な、何をくっちゃべってんだーッッ」

 シレッと事も無げに言い放つ茜の口を慌てて両手で押さえると、それでなくてもダイニングには父親もいるって言うのに、いったいこの弟は何を考えているんだ!?

「…光太郎が聞いたんじゃねーか。俺、アンタのこと兄貴なんて思ったこと一度もない。だって、光太郎はいつだって性欲の対象だったし」

「グハッ!!」

 思わず吐血でもしちまったんじゃないかと思ったほど、俺はブホッと息を吐き出してしまっていた。
 まま、まさか、昨日の声を聞かれていただけでも恥ずかしいって言うのに、こんな頭のネジがどこかに飛んで行っちゃいました、えへ♪…な会話まで言われるとは思っていなかったから、俺はどんな顔すりゃいいんだよ。
 曲がりなりにも兄貴なのに…な、何が兄貴だと思ったこともない、だ。
 あ、なんかムカムカしてきた。

「…あのなぁ、今の台詞は聞き捨てならんぞ。俺を兄貴だと思ったことないだって?いくら俺がちょっとばかり抜けてるとは言えどもな、お前より2年も長く生きてるんだぞ!その年長者を掴まえて何を言いやがるッ、お兄様と呼べ!」

 最後はちょっとエキサイトし過ぎてなんか勘違いしたこと言ってしまったけど、それでもムッとしたままで、シレッとした涼しい顔の弟の胸倉を掴んでその目を覗き込んだら、弟は…ん?なんで、マジマジと見返してくるんだ?ごめんなさいって謝らないのかよ??

「…ああ、もうホント。押し倒して犯してやりたい」

「ぬな!?お、お前ってヤツは口を開けばからかってばっかりでッ!」

「からかう?んなつもりは毛頭ございませんけど。うん、やっぱ今日は2人で学校休んで、このままベッドにゴーしよう。一日たっぷり時間をかけて、ジックリ肛門拡張してやるから…ぶはっ!」

 思い切り片掌でその顔を押し退けてやると、茜は予測もしていなかったのか、思い切りバシンッと殴られてしまってしゃがみ込んじまった。

「自業自得だ。少しは反省しろ」

 ふん!
 俺はスニーカーを履くとそのままズカズカと玄関を後にしようとして、閉じかけた扉の向こうから「本気なのにな…」なんて言う茜の言葉を聞いてしまって、ますます顔を真っ赤にしたまま憤っていた。
 いったい、なんなんだ突然。
 どこか飄々としていて、掴み所のない雲みたいな男だったのに、今朝の茜はどうかしてる。
 た、確かに昨日は1人遊びに夢中になってて、隣にいるはずの弟の存在は綺麗サッパリ忘れていた。そんなヤツ、兄貴と呼ぶのもどうかしてるのかもしれないけど、それでも、俺だって男だし人間だ。
 1人遊びぐらいするだろ!?
 …ハッ、考える部分が間違えてた!
 あーあ、あの『悪魔の樹』を持って帰ってから碌なことが起こらない。
 なんか、朝っぱらから気が滅入ってきた。
 あんなに、爽やかな目覚めだったってのにな…はぁ。
 こんな調子で、本日の瀬戸内家の一日は始まるのだった。

 学校に着くと、中学からの悪友である篠沢がニヤニヤ笑いながらお出迎えしてくださった。

「なんだよ、ムカツク」

「うっわ、なに?朝っぱらからイキナリご機嫌ナナメだね」

 不機嫌そうに唇を尖らせて悪態を吐いたってのに、八つ当たりをされた篠沢は一向に応えた様子もなく肩なんか竦めて笑っている。

「弟のヤツが朝っぱらからヘンなこと言いやがったから、一発殴ってきたんだよ」

「あー…茜くんね。ふーん」

「なんだよ?」

 こうして見れば憎たらしいほど甘いマスクの篠沢は、これでも学級委員長で文武両道なところが女子の間でも人気があったりする羨ましいヤツだ。
 その篠沢が顎に手を当てながら何か考え込んでるんだ、どうせ下らないことを悪巧みしてるんだってコトは長年の付き合いでよく判っていたのに、ついつい聞いてしまうのもいつもの俺のクセだ。

「お前さー、弟くんにメロメロだもんな。すっげーブラコンだから、殴ったこと一日中気にし続けるんだろうなぁと思ってさ」

「う」

 …そう、篠沢の言うとおり。
 俺はたった一人の弟、茜を凄く大切に思っている。
 本当はあんな風にヤンゾなんかにさせたくはないんだけど、それでも弟が楽しいのなら、まいっか、なんて思ってしまうのは、父親といい勝負いってるのかもしれない。
 その茜に「兄貴なんて思ったことない」と言われて、「押し倒して犯したい」とまで言われてしまった俺だ、そりゃあ、一日中だって不機嫌だしどっぷり落ち込みそうだ。

「昨日はテストで欠点取るし、なんか大殺界にでも突入してんじゃないのか?」

 ニヤニヤ、相変わらず笑いながら肩に腕を回されて、俺は首筋に当たる篠沢の腕に後頭部を押し付けて盛大な溜め息を吐いてやった。

「あーあ、なんかいいことないかなぁ」

「ははは!そんな、いいことが転がってりゃ誰も苦労して予習復習なんかしないだろ?」

「ぐはー、言われちまった」

 まあ、どうこう言ってもこの悪友がいれば、学校もそれほどつまらなくもないんだけどね。
 他愛のない話をしているうちに予鈴が鳴って、俺たちは自分の席について大人しく勉学に励むのだった。
 それにしても…『悪魔の樹』のことは、さすがに悪友でも篠沢には言えないよな。
 クールで超!現実主義の篠沢のことだ、話せばたぶん、上から人を冷めた目で見下ろしながら腕を組んで、一言「あほう」って言うんだろう。いや、確実に言われる。
 それでもって、俺がアレを咥えて舐めたりしゃぶったりしたって言えば、馬鹿にして「んじゃ、俺のもついでに咥えてくれよ」ってなことを平気で言いやがるに違いない。
 そう言う、嫌な性格なんだ篠沢って。
 やっぱ、アレのことは内緒にしておこう。
 まだ悪魔も生ってないし…悪魔が生ったら教えてやればいい。
 相変わらずダラダラと学校が終わり、さて、帰って米を炊いて夕食の準備をして、それから『悪魔の樹』の世話をしてやろう。いや、昨日は俺が世話をされちゃったんだけども…ぐは。

「瀬戸内!」

 スポーツバッグには律儀に教科書を仕舞いながら、帰り支度をしていた俺に背後から声を掛けてきたのは振り向かなくても判る、篠沢だ。

「なんだよ?」

「これからカラオケ行くんだけど、お前はどうする?」

「あー…俺、パス」

「またかよ!」

 知ってるくせにわざとらしく眉を寄せる悪友に、俺は鼻に皺を寄せて笑ってやった。

「悪かったな。帰ってから米を炊いて夕飯の準備だ!」

 『悪魔の樹』の世話のことはナイショで。
 こんなヤツに教えてやる必要もない。

「ちょっとぉ、瀬戸内ぃ。チョー面白くないんだけど」

 頭を掻きながらピンクのグロスにテカテカ光る、可愛い唇を尖らせた、確か晴美とか言う篠沢信者が鬱陶しそうに細い眉を寄せて睨んでくる。

「はいはい。面白くないヤツは帰るんで、お前たちは楽しんで来いよ」

 バイバイと手を振ろうとしたら、何を思ったのか篠沢が、イキナリ顎に手を当てて何か考えていたくせに俺の腕を掴みやがったんだ。

「俺も、一緒に帰ろっかな…」

「はぁ!?ちょっとぉ、冗談じゃないんですけど!」

 晴美と、その背後に控えている派手な女子と悪友の男子が残念そうな顔をするから…ほら、学年のアイドル様が意地悪なことしてるんじゃねーよ。

「お前を連れて帰ったら俺が殺される。だから、とっとと行ってくれ」

 端から行く気満々のくせに、絶対に俺に絡んでくるんだからムカツクよなー

「あ?そうかぁ??」

 ニヤニヤ笑いやがって…そうなんだよ!
 思わず軽い回し蹴りで脛を蹴ってやったら、「うお!?」とか言ってわざとらしく蹴られた足を抱えてピョンピョン飛び跳ねる篠沢を尻目に、カラオケ行く組の男子や女子が「瀬戸内、ぐはーい♪」と言うのに片手を振って、そのまま商店街を目指すことにした。

「…あ、確かこの辺に、昨日はあの怪しい占い師がいたんだっけ」

 あの壊れそうなパイプ椅子も、薄汚れたクロスを掛けただけの丸テーブルも、胡散臭い灰色のフード付きローブを着たあの占い師の姿も、もう何処にも見当たらなかったけど…それでも俺は、なぜかちょっと立ち止まってしまった。
 にゃーん。
 あの占い師が座っていた場所の脇にある路地から、不意に灰色の猫が出てきて、思わずあの占い師は本当は猫だったんじゃないかとか思ったりして、そんなワケないと誰に聞かれたワケでもないのに派手に照れてしまった。
 にゃーん。
 猫はゴロゴロと咽喉を鳴らしながら足元に擦り寄ってきて無邪気に甘えたりするから、茜の動物嫌いさえなかったら直ぐにでも拾って帰ろうと思ったんだけど、猫はその気配を察したのか、一緒には行かないよとでも言うようにフイッと気紛れに離れて行った。

「おい、猫。腹は空いてないのか?」

 ピンッと伸ばした尻尾を左右に振り振り、路地に戻ろうとする猫は、そんな俺の言葉に「んにゃ?」と振り返ったんだ。

 振り返って、金色のビー玉みたいな両目をくるんっと細めて、それからニヤッと笑った。
 笑った!?
 た、確かに今、笑ったように見えたんだけど…

『いらないよ。悪魔の樹に精液も唾液もかけちゃって。主従関係が逆転したよ。それでもいいから忘れずに、名前だけは聞くんだよ』

 まるで歌うように韻を踏んだ声が頭に響いて、ギョッとした時には灰色の猫の姿は何処にもなかった。
 幻覚でも見たのかな…
 どちらにしても馬鹿らしいことを考えていたと首を左右に振って、俺は狐に抓まれたような気分のままで頭を掻きながら商店街に向かって歩き出した。
 それにしてもアレはなんだったんだろう…あの猫が、やっぱり灰色ローブの占い師だったんだろうか。
 いや、そんなまさか。
 『悪魔の樹』を手に入れてから、俺の周りはなんだかおかしい。
 やっぱり悪魔に関わってしまったからなのか…よく判らないけど、それでも何故か俺は『悪魔の樹』を手離そうとは思わなかったんだ。

 家に帰ると怒涛のように炊事に明け暮れてから…それからハタと、そうだ、今日は父親も弟もいなかったんだと、食卓テーブルの上にホカホカの肉じゃがが盛られた皿を置いた時点で気付いた。

「しまった。今日は料理しなくて良かったんだ…はぁ、まあいいか。どーせ、父さんは帰ってくるだろうし」

 エプロンで濡れた手を軽く拭ってからそれを仕舞うと、俺は肉じゃがにラップして、それから2階の部屋に戻ったんだ。

「さて、悪魔の樹はどうなったかな?」

 ゴチャゴチャと置いていた物を1個ずつ退かしていたら、相変わらずエグクてキモイ、あられもない露骨なモノが姿を現したんだけど…あれ?

「お前、もっさり葉っぱが出てるじゃないか!」

 あのチンコの形を覆うように、目に優しい緑の葉っぱをまるでベンジャミンのように茂らせていたんだ。
 そして、思わず目がいってしまったのは…真っ白な花が、醜悪な原形の樹にはとても似つかわしくない可憐な花が、少しずつ少しずつ、花開こうとしていた。

「花だ!う、うわー、スゲースゲーッ!花が咲こうとしてるッ」

 大輪なのに、まるで白百合のように可憐に俯きがちの花は、ゆっくりゆっくり、一枚一枚を惜しむようにして開いていたんだ。
 3分なんてあまりにも短くて、ジックリ見詰めている先で、白い花はゆっくりと満開してしまった。

「う、うわー…悪魔の樹なんて恐ろしげな名前なのに、花は凄く綺麗だ。あ、この匂い…」

 頭の芯に熾き火のように燻る官能に訴えかけるように鼻腔を擽った匂いは、昨夜嗅いだ、あの桃のような甘ったるい芳香だった。
 部屋中にも充満しそうな強香に条件反射で頬を上気させてクラクラしていると、匂いの元であるはずの白いあの花が、あれほど綺麗に咲き誇っていたのにあっと言う間にシワシワと萎れて汚らしい茶色へと変色してしまった。それでも甘い桃のような匂いは部屋中に充満していたし、身体の芯が疼くように火照っていた俺は、萎んで汚い茶色になった花弁が一枚ずつ散って、その中央に大きな種が姿を現すのをぼんやりと見ていたんだ。

「あ…種だ」

 つるんっとした滑らかそうな種はぷっくりと大きくて、思わず触りたくなってしまう。
 触ればぷるるんっと震えるほど柔らかそうなイメージだったのに、本当に触ってみるとそれは思う以上に硬かった。硬い種はそれでも確りと細い枝にぶら下がっていて、この後これを、一体どうしたらいいんだろうと頭を抱えたくなった俺の鼻先で、種は一瞬だけもそ…っと動いたんだ。
 そう、動いたんだ。

「ひ、ひえぇぇぇ~ッッッ!!何かいるッ、中に何かいる!!」

 思わず座っていた椅子からずり落ちてしまった俺の声に呼応するように、最初こそ微かだった動きが、いきなり『暴れる』と表現する行動ってこんな感じなんだろうなぁと思わせるほど、激しく動き出したんだ!

「何か動いてるッ!なんだ、これ!?ど、どうしよう!ヘンなの出てきたらッッ」

 激しく動いてるってのに、『悪魔の樹』から伸びている頼りなげな細い枝は折れるどころかうまい具合に撓って、種はなかなか落ちることができないでいるようだった。
 俺はもう観念した表情で床にへたり込んで、デスクの上で妖しく蠢くように動いている種を呆気に取られたようにポカンッと見詰めていた。
 いったい、何が起こるのか。
 何が、生まれるのか。
 悪魔っていったい…
 俺がそこまで考えた時だった、やっとブツリと鈍い音を立てて千切れた枝から転がり落ちた種は、そのままコロコロとデスクの上を転がって、床にボトンッと落ちると、まるで意思でもあるかのように俺の手前まで転がってきたんだ。

「…種、よかったな。落ちられて」

 どうも落ちたかったような気配の真ん丸い種は、それから暫くは身動ぎもしなかったから、恐る恐る俺は震える指先を伸ばして、その硬い種子に触れたんだ。
 その瞬間だった。
 カッと部屋中に眩い閃光が走って、驚くことに種子からシュウシュウッと煙が噴出していたんだ!

「うっわ!やべぇッ!!火事になる!爆弾だったのか!?」

 支離滅裂なことを喋りながら片手で顔を覆った俺は、噴出す煙に気圧されたように仰け反りながらも確りと何が起こるのか目の当たりにしようと躍起になっていた。
 そして。
 漸く辺りに溢れ返っていた光が静まると、もうもうと充満した煙にゲホゲホと咳をしながら周囲を見渡したら…ギクッとした。
 ユックリと晴れてくる煙の向こうに、人影が立っていたからだ。

「だ、だだ、誰だ!?」

 思いっきりビビリまくっている俺の前に突っ立っていたのは、傲慢そうに腕を組んで、一段高いところから人を見下げるような尊大な目付きをした裏地が赤の漆黒の外套に身を包んだ、赤と黒を基調にした年代がかった衣装を着ている男が…真っ白な髪、その髪から突き出した大きな尖った耳、腹の底から突き上げるような恐怖心を煽る、それはそれは冷たい金色の双眸…どれをとっても人間なんて思えない、高い鼻梁に酷薄そうな薄い唇を真一文字に引き締めた、不機嫌そうな男が立っていたんだ。
 もちろん。
 俺はソイツの姿を認めるなり、「あははは」と陽気に笑って、それから思いっきり後ろにバッターンッと派手に倒れてしまった…ってことは、言うまでもない。

1  -悪魔の樹-

「お兄さん、そこのお兄さん」

 呼ばれたような気がして振り返れば、そこにはいかにも胡散臭そうな灰色のローブを着てフードで顔を隠した占い師らしき怪しいヤツが、覗いている口許をニヤニヤさせながら手招きなんかしている。
 う、思い切り怪しい。
 今日は試験で思うような点を弾き出せなかったから、それでなくても鬱陶しい顔でもしてたんだろうか、安っぽいパイプ椅子に腰掛けて、壊れかけたような机には薄汚れたクロスを掛けただけの、いかにも怪しい呪いで生計は立っていませんとでも言いたそうなその占い師は上機嫌で俺を手招いては「早く来いよ」と急かしているようだ。
 嫌だ、行きたくない。
 素直な感情をそのまま出せれば俺だって天晴れなんだけど、17歳にもなって自己主張できない優柔不断な性格では、内心で喚きながらも押しの強い手招きに負けてフラフラと近付いてしまった。
 ああ、馬鹿だ。

「よく来たね。ヨッシヨシ!んじゃ、そんなお兄さんにはこれをあげよう」

「…は?いらないです」

 手渡されたグロテスクなものを、俺は「うわぁぁぁ…やっぱ来るんじゃなかった」とメチャクチャ後悔している薄ら笑いを浮かべて、懇切丁寧に妖しい占い師の手に突き返して差し上げた。

「…!」

 掴んだ手が、異常に冷やりとしていてビクッとしたら、フードから僅かに覗く口許を一瞬キョトンと噤んだソイツは、途端にニヤァ~ッと笑って犬歯を覗かせたんだ。

「ほら、木枯らしが吹いててね。ここはとても寒いんだ。あと、コイツを捌かさなきゃ帰れないんだよね。ね?だから、あげるって♪」

「いや、俺、そんな趣味はないッス」

 俺たちの間で押し問答されている茶褐色のソレは…見るからに、俺の股間にもぶら下がってるヤツと同類じゃないか。そりゃ、干乾びかけてはいるけどな。
 とは言え、勿論本物じゃないのは判ってるけど、どう見てもエグイしキモイ。

「んん?なんか、勘違いしてないかい?お兄さん。これは『悪魔の樹』と言って、ちゃんと育ててやればアラ不思議、悪魔が誕生しましたとさ。と、言う世にも不思議な…って、ああ!逃げるな逃げるな!!」

「いらないッスよ、いりません。そんな胡散臭いものはそこら辺に捨ててさっさと帰ればいいじゃないですか!」

「うっわ、マジで非道いね!こんな寒空の下でガタガタ震えながら頑張ってるのに、そんな言い方はないでショーが!コイツはね、ちゃんと育ててやればキッチリ言うことを聞いてくれる、大変重宝な悪魔の奴隷が誕生する世にも得難い魔法の樹なんだよ?」

「…はいはい。じゃあ、アンタが育てればいいじゃねーか」

「…」

 フードの男は優柔不断を絵に描いたようなこの俺が、まさかここまで強情を張るとは思っていなかったのか、それまでのお茶らけた態度を改めるように口許を引き締めると、スッと冷たい人差し指を伸ばしてビシッと俺の顔を指差すと、事も無げに淡々と言い放ったんだ。

「お兄さんさぁ、今度の試験で赤点取ったら留年ケテイでショーが」

「う!なな、何故それを!?」

 的を得たような俺の反応に、フードで顔半分を見事に隠したソイツは、一瞬、鬱陶しいほど伸び放題の前髪からキラリと光る瞳で睨んでから、ニヤァッと笑って肩を竦めやがるのだ。
 そうだ、今日俺は、担任の小暮先生から「この次、欠点を取ったら残念だけど、留年だ」と言われてしまっていた。それだけに憂鬱になっちまってて、だから、こんなワケの判らん占い師なんかにとっ捕まっちまったんだろう。

「そんなのはね、占い師なら当然判るものですよ。だから、この『悪魔の樹』を持って行きなさいって。悪魔は叡智を持ってるからね、教えろと命令すれば姿を隠してでも耳元に答えを囁いてくれるよ。これは悪いことではないからね。ちょっと、他の人より近道をしているだけなのさ」

「…」

 だからと言って、ソレをポケットに入れて家に帰る気には、どうしてもなれない。
 干乾びた野郎のポコチンなんかよー…トホホ。

「帰ってから直ぐに水をあげて、そうすればちゃんと葉をつけるから」

「…へ?葉っぱが出るのか??」

「当り前でショーが。これを何だと思ってるんだ?あくまでも『樹』だよ」

 う、改めて言われると俺の方がヘンなことを妄想しているようで、却って気恥ずかしくなってしまった。

「うう…なんか、よく判んねーけど。人助けだと思って貰ってやるよ」

「うははは♪そうこなくっちゃね。んじゃ、はい」

 『悪魔の樹』、なんつー世にも胡散臭いものを成り行きと勢いだけで手に入れてしまった俺が、途方に暮れたようにその干乾びてしまってカサカサのソレを見下ろしていたら、フードの男がニヤニヤ笑いながら片手を突き出してきたんだ。

「へ?」

「毎度あり♪もちろん只じゃないでショーが、普通」

 うげ!なんか、悪徳詐欺に引っ掛かった気分だぞ。

「金を取るのかよ!?んじゃ、いらない」

「バッカだね!金を取るからいいモノなんじゃないか…そうだね、お兄さんは最後のお客さんだから、特別に100円でいいよ」

「グハッ!さらに胡散臭ぇぇッ」

 ニヤニヤ笑うフードの占い師に、それでも今更突っ返すのもどうかと思って、まあいいや、消しゴムでも買ったと思って諦めるか。
 募金だ、募金。
 そう思ってポケットから財布を取り出すと、俺んちは片親だから晩飯の用意を頼まれてて、その日の買い物をするための1万と小銭は100円玉が1個しか入っていなかった。

「お釣りがね、ないワケよ」

 伸び過ぎて鬱陶しい前髪に灰色のフード、少し大きめの口許がニヤァッと笑って胡散臭い男が肩を竦める。
 俺の所持金を知っていたのか…いや、そんなまさか。

「…アンタを信じたワケじゃないけど。これはあくまで!募金だからなッ」

「ククク、いいよ」

 咽喉の奥で笑ったソイツは、俺が突き出した100円玉を恭しく受け取ると、銀色に光る硬貨にニヤッと笑ったままでチュッとキスをしたんだ。

「毎度あり♪」

 そんな胡散臭いフード男とは、一刻も早くオサラバしたいと思っていた俺は、グロテスクでエグくてキモイ、そのなんとも言えないモノを学ランのポケットに突っ込んでから、学生カバン代わりのスポーツバックを抱え直して歩き出そうとした。
 その背中に。

「あ、そうそう。お兄さん」

 胡散臭い灰色フードの男が、ついでのようにヒョイッと声を掛けてきたんだ。

「なんだよ、まだ何かあるのか?」

「あるある、大あり」

 雰囲気通り怪しいほど軽い口調でそう言ってから、フード男は鬱陶しい前髪の隙間から、キラキラ光らせている双眸を微かに覗かせて俺を見据えているようだ。

「その樹には、水以外の液体をかけてはダメだよ」

「…は?お茶とかダメってことか??」

「そうそう。それと、唾液とか、精液とかね」

「…はぁ?」

 フード男は意味深にそんなことを言ってから、途端に陽気にウハハハッと笑いやがったんだ。

「涙もダメだよ。ただ、汗だけはなぜかいいんだけどね。あと、凄い誘惑があるかもしれないけど、それはまぁ、ほら『悪魔の樹』だし?困難を乗り越えてこそ最強の奴隷を手に入れられるってワケだから♪」

「…かけたら、どうなるんだ?」

 恐る恐る聞いたら、フード男は一瞬ニッと笑って口を噤んだけど…

「…まあ、なんとかなるよ」

 なんなんだ、その間はぁぁぁ!!

「いらん!やっぱ、こんな胡散臭いモンは返す!!」

「ナマモノですので返品不可」

 ニコッと犬歯が覗く口許を笑みに象ってから、男は凍えてしまって冷たくなった掌でポンポンッと、嫌がる俺の肩を叩いてそんなことを抜かしやがった。
 う…そう言われてしまうと、根が単純な俺は掌の中にもう一度掴んでしまったそのエグイもの、根元にはちゃんと根っこが生えてるんだけど…それがまた、なんとも…ただ、干乾びているから枝みたいに細くなっているソレを見下ろして、仕方なく溜め息を吐いた。

「判ったよ。返品はしないから、どうなるかぐらい覚悟させろよ」

「…そこまで言うなら。主従関係が逆転するってだけだ」

 コーヒーはホットだよ、と気軽に注文するような気安さで言った男の顔を、俺が青褪めてマジマジと見詰めたことは言うまでもない。

「…何日ぐらいで悪魔ができるんだ?」

 青褪めはしたものの、まだまだ半信半疑だし、もうどうでもいいやと投げ遣りな気持ちで頭を掻きながら聞いたら、男は少し考えてから頷いた。

「人にも因るけど、お兄さんの場合だと早くて2日、遅くても5日ぐらいかな?」

「そんなに早いのか!?」

「うん、花はゆっくり3分で咲いてから、10秒で枯れる。すぐに種ができて、そこから生まれるんだ」

「そ、そうなのか」

 花は3分も費やして咲くってのに、たった10秒で枯れるなんて…どうなってるんだ、この植物は。
 蝉よりも哀れじゃないか。

「悪魔は本当の名前は教えてくれないけど、それでも、必ず聞き出すといいよ。方法はお任せするけどね」

「…へ?どうしてだ」

「それは…より深い契りのためさ」

「…ワケ判らん」

 はぁっと溜め息を吐いて頭を抱え込みたくなった俺を、それまであんなにニタニタ笑っているだけだった灰色フードの男は、ふと笑みを引っ込めると、冷え切った手で口許を覆うようにしてボソボソと何かを言った。
 よく聞こえなかったけど、「最高だ」とかなんとか、そんなことを呟いていたようだ。

「はぁ…もういいや。面白い悪魔が生まれるように頑張ってみるよ」

「あ、もうひとつ忘れるところだった!」

「はぁ!?まだ何かあるのかよッ」

「うん、毎晩心を込めて…」

 そう言ってから、灰色フードの男はニィッと笑ったんだ。

「根元を扱いてやるんだよ」

「はぁ!?」

「そうすると生育が良くなるんだ。すぐに大きくなる」

「ぜ、絶対にそれをしないといけないのか??」

 思わず目玉が飛び出るほど驚いたってのに、俺に胸倉を掴まれて揺す振られている怪しいフード男は、シレッとした顔をしてなんでもないことのように頷いたんだ。

「まあ、植物を育てる時に肥料をあげるでショ?それと一緒だって思えば判り易いかな」

「…アンタ、俺をからかってるんだろ?」

 ジトッと胡乱な目付きに睨みつけてやったら、フード男は途端にムッとしたように口許を引き結んでから、ちょっと唇を尖らせた。

「からかうつもりだったら水遣りの件は教えません。あくまでも、最強の悪魔が生まれるように心から協力しているだけです」

 それまでの軽い調子なんか嘘だったかのように、灰色フード男は懇切丁寧な口調でそう言ってくれた。
 だから余計に俺が萎えちまったとしても、致し方ないと思う。

「はぁぁぁ…判ったよ。んじゃ、俺、もう行くよ」

「はいはい♪『悪魔の樹』の3つの約束を忘れないようにね。1に『水以外はやるな』で2に『根元を扱く』、それから3番目は尤も重要な『悪魔の名前を知ること』。この3つの約束は絶対に忘れないように!」

「へいへい」

 いつまでもこの寒空の下に立って、こんな下らない話ばかりしているのもどうかしてると思った俺は、やれやれと頭を振ると、後ろ手に手を振って別れを告げてから仕方なくトボトボと一路、商店街を目指すのだった。
 その時はもう、あの灰色フードの男も引き止めることはしなかったけど、もう見慣れてしまったニヤニヤ笑いを浮かべたままで「またね」と手を振っていた。
 できればもう二度と、アンタとは会いたくない。

 家に帰ってから、2歳下の弟と会社帰りでは何もしてくれない父親の為に猛烈な勢いで夕飯を作ってから、貯まりに貯まっている洗濯の山を片付けて、風呂を用意してグルグル目を回して、全てを終わらせて気付いた時には23時を大幅に過ぎていた。
 クタクタになった風呂上りでベッドに寝転がろうとして、ふと、脱ぎ散らかしていた制服のポケットから露骨なモノが転がっていて、俺は真っ赤に赤面すると「うわぁぁぁ」と叫びながら慌ててソレを拾い上げた。
 ゲーム貸せよと、勝手にズカズカ入って来る弟に!お父さん、ワイシャツの替えが何処にあるか判んないとクスンと泣きそうになって入ってくる父親に!んなモン見つかったらなんて言われるかッッ!!
 弟にいたってはシレッとした冷たい双眸で、兄貴の趣味ってそんなモンだったのかと蔑まれて、一生ヤツの奴隷になってしまう。父親はショックを受けたらそのまま気絶して、次の日には俺は病院送りになってるだろう。
 どちらにしたって、けして愉快な結果にはならない。

「…悪魔の樹かなんだか知らないけど。お前も厄介なヤツだよな。はぁ、でも俺に貰われて感謝しろよ。なんかの植物なんだろうから、ちゃんと育ててやるよ」

 とは言ったものの、母さんが死んでから植木鉢なんてお目にかかってもないし、まあ仕方がない。
 俺はみんな部屋に戻ってしまってガランとしたダイニングに行くと、もうヒビが入っていて、いつ割れてもおかしかないだろうってな大きなお椀を持って外に出ると、庭から土を掘ってお椀に入れ、それから2階の自室に戻ったんだ。
 薄暗い部屋にはデスクの電灯がほの暗く室内を照らしているだけで、そうでもしないと、こんなグロテスクなモノを抓んでせっせとお椀に植えてる姿なんて…誰にも見られたくないし、自分だって見たくない。だからわざと薄暗くしているんだけど、こっちの方が却って怪しかった。
 迂闊だ、俺!

「やれやれ、こんなモンかな?さてと、水以外は遣っちゃダメだったよな」

 デスクの上に置いた『悪魔の樹』にコップに汲んできていた水をかけてやりながら俺は、そうだ、紙かなんかに忘れないように3つの約束を書き留めておこうと思っていた。
 3つの約束なんて…なんかの映画で観た内容に似ていないこともないけど…まあ、胡散臭いフード男の言葉なんか信じるつもりはなかった。でも、それでもこんな見たこともない植物の育て方とか判らないし、少しは忠実に従ってやろうとは思う。
 はぁ、俺も厄介なモンを押し付けられちまったよな。
 でも、いつもそうなんだ。
 母さんが死んだ時も、結局、俺が家事全般をする破目になったし…家事とか、こんな晩くまでしなきゃいけないから、勉強だって追いつかない。
 いや、完全に言い訳なんだけど。
 頑張れば勉強だってできるはずなんだ、なのに俺は、この環境にどっぷり嵌ってて、「逃げ」の口実にしているに過ぎないんだ。
 だから、『悪魔の樹』なんて恐ろしい名前のものを押し付けられちまったんだろう。

「ダメダメだなぁ、俺…って、ん?」

 水をやった後に溜め息を吐いて考え込んでいる間に、どうやら『悪魔の樹』はたっぷりの水に生き返ったようにシュゥシュゥ…ッと、なんか根元から煙が出てるんですけど…

「なな、なんだ!?水だぞ!おい、水を遣ったんだぞ!!」

 どうしてこんな変化が起こるんだ!?俺は聞いてないぞ!!
 思わず椅子から仰け反っていると、煙みたいなものを撒き散らしていた『悪魔の樹』は漸く落ち着いたのか、少しは煙を纏ったままで…立派なチンコになっていた。
 ああ、くそ。
 なんだよ、俺の部屋って。
 思わず椅子に腰掛けたまま髪の中に指先を突っ込んでガックリと項垂れていたけど、いつまでも項垂れっぱなしってのもどうかしてるし、かと言って、水気を帯びて却ってぬらぬらとグロテスクになっちまったチンコを前にするってのもなぁ。
 どちらにしたって気も引ければ腰だって抜けそうだ。
 あ、そうか。
 3つの約束のもうひとつに、根元を扱くんだったっけ。
 それじゃやっぱり、立派なチンコじゃねーか。
 あの灰色フード野郎…はぁぁ…でも、この際だ。
 どーせ騙されてるんだから、こんなのただの大人の玩具だと思って触ってやろうじゃねぇか。
 いや、正直に言えば嫌だけど。物凄く、嫌だけど…好奇心の方が勝ったってのはナイショさ♪
 そーだ、どうせならじっくり観察してやろうじゃねぇか。育ててもらってるんだから、お前だって少しぐらいは我慢しろよ?…とか、喋ることもしない植物に俺ってば何を言ってるんだか。
 ぬらぬらと水気を帯びて、デスクの光を凶悪に反射させるその男の逸物と見間違えても、ちっとも全く全然おかしかないソレは、よくよく見れば確かに植物…それも硬質な皮を持つ樹だ。そもそも既に怒張しているソレは、まるで生々しく浮かんでいる血管みたいなものを巻きつけているけど、どうやらそれも木の皮が変質してできただけのモノのようだ。

「…んだ、やっぱちゃんとした樹だったのか。うわ…また俺、なんかヘンなこと考えちまってたぜ。でもなぁ、お前も悪いんだぞ。こんな見掛けチンコですってな姿しやがってさ」

 ガックリと脱力してしまって背凭れに項垂れてしまった俺は、それでも片手で真っ赤になってしまった顔を覆いながら、ムッと唇を尖らせて逸物もどきの『悪魔の樹』を胡乱に睨むと指先でピンッと弾いてやった。
 微かにふるふると震えはしたものの、それ以上の反応は何もない。

「いや、当り前だって」

 はぁ…っと、本日何度目かの溜め息を吐いてから、俺はそれならもう大丈夫だと思いながら、灰色フードの男が言っていたように根元をギュッと掴んでみた。
 なぜか、たぶん気のせいだとは思うんだけど、手の中でその、並の男よりは大きいだろうと思えるそれが、一瞬ブルッと身震いしたような気がしたんだけど…いや、まさかな。
 恐る恐る上下に扱いてみたら…思った以上に滑らかな手触りで、硬質な樹にしては少しやわらかくて、掌に吸い付いてくるような感触には思わずうっとりしてしまう。

「いかん!相手はチンコもどきのただの植物だぞ!!」

 何をうっとりしてるんだ、俺よ!!
 思わずギュッと『悪魔の樹』を掴んだままでウガーッと叫んでいたら、隣の部屋からドカッと壁を蹴る音が聞こえて、どうやら弟が「うるせーッ」と無言の抗議をしたらしい。
 言葉よりも先に足の出るヤツだからなぁ…
 スマンと片手で隣の部屋を拝んだ後、俺は手にしている『悪魔の樹』をもう一度、ズッズ…ッと扱いてみた。その手触りと、この異常な状況が相乗効果になったのか、ついつい一心不乱で扱くことに夢中になっていた。
 指先に冷やりとした液体が触れて、その時になって漸くハッと我に返った俺は、気恥ずかしさに思わず真っ赤に赤面して、耳まで真っ赤っかだ。これじゃあ、誰が見たって茹でタコじゃないか。
 トホホホ…でも、待てよ。
 なんか今、手が濡れたような気がしたんだけど…

「って!なんだ、これ!?なんか出てる…」

 俺の手をねっとりと濡らしているソレは…明らかに亀頭部分にしか思えない先端部分の、ちょっと窪んだところからプクリと浮かび上がった雫が、とろとろと俺の手の動きにあわせるようにして零れていたんだ。
 あ、なんだ。

「…これって、樹液か何かか?クッソ、灰色フード男め!こんなの聞いてないぞ」

 思わず濡れそぼってしまった手を離してティッシュか何かで拭こうとしたんだけど、フワリと鼻腔を擽った匂いがあまりに甘くて、桃みたいに爽やかだったから…だから!その、好奇心。
 うん、好奇心でちょっと、ほんのちょっと、舐めてみたいって思っちまった。
 顔を真っ赤にして、とろりと掌を濡らす『悪魔の樹』の樹液に、恐る恐る震える舌を伸ばしてペロリと舐めたそれは、一瞬ビリッと舌を痺れさせたけど、身体中に染み渡るような甘い、甘い桃の味が溢れていたんだ。
 思わずうっとりしてしまう匂いの渦と、その甘さに、俺は貪るようにして甘い樹液に濡れた指先を嘗め回していた。
 一度知ってしまうと、その味は忘れられなくて、もう掌にはどこにもついていないしで俺は、ふと『悪魔の樹』に魅入ってしまった。
 『悪魔の樹』はなんでもないように、ただヒッソリと勃起したまんまの逸物みたいにぬらぬらと、あの甘い樹液に塗れて屹立している。

「…甘い。もっと、もっと舐めてみたい…」

 思わず声が上擦っていて、それなのにどうして俺はおかしいっておもわないんだろう?
 頭がボウッと上気していて、もう、目の前にある『悪魔の樹』しか見えていないのに。
 唾液に塗れた掌を伸ばして扱けば、身震いするように『悪魔の樹』は震えて、先端の窪みからプクリと液体を溢れさせる。指先についた甘い樹液を舐めて、それから両手で扱いてさらに、もっとたくさん溢れさせて…

「…ッ……ハゥ…ん」

 別に、何が厭らしいってワケでもないのに俺は、妙に興奮していて、片手で『悪魔の樹』を扱きながら、気付いたらパジャマの裾から忍び込ませていた片手で自分の陰茎に触れていた。
 甘い『悪魔の樹』の樹液に塗れた指先で扱けば、すぐにムッとする桃の匂いが広がって、陰茎がビクンビクンッと震えていた。いつもよりも数倍感じていて、俺は知らず目尻から生理的な涙を零しながら掌に零れる樹液を舐めていた。

「ん……んふ、…ア……もち、いい…ッ」

 誰かが、もっとと要求する。
 頭の片隅で、もっと甘い樹液を啜りたいと熱望している。
 そんなのはきっと錯覚で、快楽と甘い匂いに溺れた俺が聞いた幻聴にすぎないんだろうけど…俺は、目尻を赤く染めたままで、胸の奥底から湧き上がる『悪魔の樹』の樹液を啜りたいと言う欲求のまま、口を開いて、いつもの俺なら信じられないって言うのに、その時はごく自然に『悪魔の樹』を咥えていたんだ。

「ん…ふ…んん……あま…ふ、……ッ」

 ちゅうっと先端から零れる樹液を吸って、それから零れて濡れ光る根元にも舌を這わせて、そんな行為が脳内にある快楽中枢でも刺激したのか、ビクンビクンッと震える陰茎を思う様、濡れた音を響かせて扱いていた。

「ふぁ…ッ……んぁ、はぁはぁ…あ、も、出る…ッ」

 頭も、口も、陰茎も…何もかも犯されているような錯覚を感じて、俺はむずがるように涙を零しながら『悪魔の樹』に吸い付いて、久し振りに味わう快感に自分の鈴口を人差し指で穿って、その快楽に身悶えながら一気に扱いて射精していた。
 パジャマの中、パンツともどもしとどに濡らして俺は、濃くてどろりとした精液を吐き出しながら、凶悪で厭らしく…そして、甘く誘惑する『悪魔の樹』を舐め続けていた。
 その甘ったるい匂いに、暫く痺れたように酔いながら…

「どど、どうしよう」

 ハタと我に返った俺は、自分の指を濡らすモノが『悪魔の樹』の樹液なのか、それとも自分が放ってしまった精液なのか、もうよく判らなくなってしまった両掌を見下ろしたまま、呆然と青褪めていた。
 パジャマもパンツも乾いてガビガビになり始めているし、そうすると、愈々1番目のお約束を思い切り破ってしまった事実が愕然とする俺に、嫌でも今までのことが夢でも幻でもないと思い知らせてくれる。

「思わず、思わず舐めたりしゃぶったり、精液塗れの指で扱いちまった!おい、大丈夫か!悪魔の樹ッッ…って、ん……ッ」

 思わず『悪魔の樹』の変化が気になって覗き込もうとしたら、甘ったるいあの匂いが鼻腔を擽って、またしてもトロンッと瞼が閉じそうになってしまった。

「う…い、いかん!流されるな、俺!悪魔、悪魔の樹は大丈夫なのか??」

 匂いに頭をクラクラさせながらも、デスクの上でぬらぬらと濡れ光っている『悪魔の樹』を見詰めて、濡れている以外には何の変哲も見せない植物に、思わずホッと溜め息を吐いていた。

「…な、なんだ、何もないじゃないか。よかった。あの灰色フード野郎め!嘘吐いたんだなッ」

 それとも、もしかして樹液に毒があったりして…うお!?俺、マジで即死だったんじゃ??
 そう思ったらメチャクチャ怖くなったけど、よく考えてみたら身体はピンピンしてるし、何より、一発抜いたから頭がスッキリしていたりする。
 うははは、なんか現金だなぁ、俺。
 これだと、今度のテストはバッチリいけそうな気がしてきた。結局…俺ってば欲求不満だったのか??
 顔を真っ赤にして独りで騒いでいたら、俺の目の前にいた『悪魔の樹』はゆっくり、茎の部分から細い枝を伸ばしたんだ。それは、あの血管だとばかり思っていた部分で、ゆっくりと幹から剥がれるようにして細長い枝を伸ばすと、それから小さな葉っぱがシュルシュルと開いた。

「あ、葉っぱだ…ホントだな、葉っぱが出てきた」

 そうして見ると、確かにまだまだグロテスクでエグクてキモイんだけど、ちゃんと立派な植物に見えてきたから不思議だ。

「…なんか、エッチなことに遣っちゃって悪かったなぁ。うわ、すげー俺ってば恥ずかしい。ごめんな、悪魔の樹!」

 そう言ってから、時計に気付いて、うお!?もう2時じゃないか。
 いったい、何時間遊んでたんだ!!?
 くはー、もうすげー恥ずかしいのな。
 俺は弟や父親に見つけられでもしたらコトなんで、置いてあった本を出して開いた空間に『悪魔の樹』を納めると、それからカモフラージュにイロイロとモノを置いたんだ。こうすると、面倒臭がりの弟は手を出さないし、家事全般を任せっきりの父親は見ようともしないだろう。
 横にあるものも取らないような父親なんだ、俺の部屋に来る時はワイシャツの替えがない時か、買い置きの煙草のある場所が判らないか、それから腹が減った時ぐらいだ。
 弟以外は悩むことは全くない、天晴れ陽気な我が家族ってな。
 ホント、何言ってんだろ、俺。

「さてと、悪魔の樹も仕舞ったことだし、俺も寝るか」

 早ければ2日、遅くても5日で悪魔ができるのか…なんか、絶対に嘘くせぇって完璧に思ってるんだけども、頭の何処か片隅では、できるかもしれないとか期待している俺もいるんだよな。
 どんな悪魔なんだろう?
 やっぱり、角とか生えてて、牛みたいな顔してて、蛇がうじゃうじゃ出てくるんだろうか…嫌だ。
 そんな悪魔はやっぱり嫌だ。
 できればカッコイイ悪魔がいいなぁ…でも俺、ヘンなことしちまったから、淫魔とかできたりして。
 うわぁ、精気吸い取られて干乾びて死ぬのなんて嫌だなぁ。

「悪魔の樹、お願いだからカッコイイ悪魔を作ってくれよ」

 物の影に隠れてしまったえげつない『悪魔の樹』に、俺は馬鹿みたいに両手を合わせて拝んでいた。
 神だとか仏じゃなくて、悪魔だって言うのに、俺はホントどうかしてる。
 眠い目を擦りながら、明日は晴れたらいいなぁと、ベッドに潜り込みながらぼんやりと考えていた。
 『悪魔の樹』も、早く大きくなれ。