第一章.特訓!5  -遠くをめざして旅をしよう-

『町だー!!』

 思わず通りを行き交う人々がギョッとするほど大きな声で叫んでしまった光太郎に、少し先を歩いていたルウィンがギクッとしたように首を竦めて訝しそうな表情をしながら胡乱な目付きで振り返った。
 その緩慢な動作に一瞬ハッと我に返った光太郎は慌てたように口元を両手で押さえて首を竦めてしまう。

「ごめんした」

「…」

 胡乱な目付きでジロッと見下ろすルウィンを恐る恐る上目遣いで窺いながら、光太郎は逸れないように背中の部分の服を掴んで言い訳を試みることにしたようだ。

『だって、この世界に来て初めてルウィン以外の人がいる場所に来たんだよ?そりゃあ、俺ももう高校生だし、町中で騒ぐなんて恥ずかしいと思うよ。でもホラ、やっぱり異世界の町なんて初めてだし、これはもう修学旅行と同じレベルだと思うんだよね』

 捲くし立てるように言いながら、怒られそうになっていると言うのにそれでも物珍しそうにキョロキョロする光太郎を、呆れてモノが言えなくなったルウィンは何か言おうと開きかけていた口を一瞬噤んで、無表情のままで止めていた足を動かした。

「お前の言ってることは判らん」

 どこかで聞いたことのあるようなフレーズで言うルウィンに気付いて、光太郎はニコッと笑いながらその言葉を繰り返した。そこで漸くルウィンは、そうか自分が何か喋ると、この変な異世界人は同じフレーズをそのまま鸚鵡返しにしてくるんだったと気付いて、途方もなく大きな溜め息をついた。

『?』

 疲れたような表情で首を左右に振るルウィンを不思議そうに見上げていた光太郎の興味はしかし、すぐに賑やかな大通りへと移されたようだ。

「ルウィン、町。大きい。なにする?」

 やれやれと溜め息をつくルウィンの服をクイクイと引っ張って光太郎が不思議そうに首を傾げると、まだ何かあるのかよとでも言いたそうな表情をしていた銀髪のハイレーン族の青年は肩を竦めながら、それでも面倒臭そうに答えてやった。

「大きい町で何をするかって?決まってるだろ、買い物をするんだ」

 それに、大きな町なら多少風変わりな出で立ちの光太郎でも目立たないだろう…と言うのは、敢えて口にはしなかったが。
 以前、手に入れたはいいが持て余していたカタ族の衣装がまさかこんなところで役に立つとは思っていなかったルウィンだったが、既に寝巻き用にしている彼のクリーム色の服とは違い、カタ特有の幾つかの布を重ね腰の部分を帯で縛る着物のような上着と黒いズボンは光太郎の体にピッタリだったので無駄にならなくて良かったと思っていた。

「かぬもの。なにかぬ?」

 矢継ぎ早の質問にも、ルウィンは商店通りをめざして歩きながら肩を竦めて答えてやる。

「…そう、買い物な。まあ、いろいろさ」

『そっかー、物資調達なんだ!それでこんな大きな町に来たんだね。やっぱり、この世界でも田舎だと思ったような商品って手に入らないのかな?通販とかもいいけど、やっぱり品物はちゃんと目で確かめておかないと信用できないよね。あ、でもそう言えば。この世界でもやっぱり十進法で計算とかするのかなぁ…?』

 呆れたように眉を跳ね上げて肩を竦めるルウィンにニッコリと笑いかけて、光太郎は興味深そうな顔をしてルウィンのめざす商店通りへと向かうことにした。

「アキラ?…そう言えば最初の頃もそんなことを言ってたな、お前」

 賑やかな町並みを見渡していた光太郎はふと、この大勢の中からひょっこりと彰が姿を現すような錯覚を感じて、思わずルウィンの服をギュッと掴んでしまった。道具の露天商から勧められている粉袋を片手に眉を寄せたルウィンがそんな心細そうな顔をして見上げてくる光太郎に気付いて首を傾げると、迷子になった子犬のような少年は寂しそうに眉を寄せる。

「お兄さん!それ、安いんだよ~?他じゃこの値段で売ってないって!マジで」

「ああ、だがちょっと高いな。あと20ギール負けたら2袋買うぜ?」

 交渉上手なルウィンがニッコリ笑うと、道具屋の主人は困惑したように眉を寄せて「う~んう~ん」と腕を組んで唸っていたが、顔色を窺うように上目遣いで銀髪の旅人を見上げると思い切って片手を出した。

「5ギールだ!」

「15ギール」

 間髪入れずにニッコリ笑う旅人に、主人は「じゃあ、10ギールだ!これ以上は負けられん!!」と言い募るとルウィンは「じゃあ、それで」と言って支払った。主人は毎度~っとは言ったものの、ちょっと不服そうな表情をしてとほほ…と渋い顔をする。

「はっはっはっ、このオレさまをぼったくろうなんざ甘い甘い」

 片手で奇妙な粉の入った袋をポンッと放ってタイミングよくキャッチしながら満足そうに笑うルウィンは、彼の服の腰辺りを掴んで怪訝そうな表情をしている光太郎に気付いて先ほどの会話を思い出した。

「アキラだったな。覚えてるって。そんなあからさまに疑い深そうな目をすんなよ」

 最近、喋ることはまだまだ覚束無いものの、漸く聞き取ることは幾分かできるようになった光太郎はルウィンを質問攻めしては、彼をうんざりさせている。

「アキラ、一緒。たぶん」

 身振り手振りでなんとか意思を伝えようとするものの、思うように言葉にできない。アークの共通語は英語よりも難しそうだ。

「一緒に来てるはず、って言いたいんだろ?」

 だが、ルウィンの努力の賜物で、彼は光太郎の意志を汲み取ることができるようになった。その成果は、異世界から突然降ってきた少年を安心させるには充分だった。

「あの時、お前と一緒には落っこちてこなかったけど…」

 町中でこのような会話をしても大丈夫なのだろうかと思われるだろうが、その点は光太郎が今着ている衣裳によってカバーされていたりする。
 謎の流民カタの衣裳を手に入れたルウィンは、それを躊躇うことなく光太郎に着せた。この衣裳を身につけていれば、多少竜使いや神竜の話をしていても誰も気にもとめないし、カタコトの共通語でもおかなしな表情はされない。
 もともと謎である流民は独特の言語を持っている。
 彼ら独自の楽器であるシュラーンを爪弾いて踊るカンターナを披露して世界中を回る場合はその場所場所の言葉を話しているが、仲間内では独自の言語であるカタ語で会話している。だから、共通語を喋ることができないカタ人がいたとしてもおかしくはないのだ。
 魔族が持っているような漆黒の髪と夜空色の瞳を持つ、独自の文化を花咲かせている謎多きカタ族。神竜や竜使いに尤も近い存在だとも噂されている。多少の奇行もカバーできるだろうと考慮しての結果だった。
 光太郎はその扮装をして、ルウィンと共に旅をしている。

「もしかしたら、別の場所に落ちたのかもな」

「タイヘン!助けるする」

「そりゃそうだけど」

 そう言って肩を竦めたルウィンは、光太郎の着ている独特の衣裳にあるポケットの中に、先ほど購入したばかりの小袋を仕舞い込んでやりながら言葉を続けた。

「どこに落ちたかにもよるだろうな。生きてるのか死んでいるのかも判らんし、何よりこの世界に来ているのかも定かじゃないんだろ?」

 ルウィンに入れてもらった小袋を不思議そうに見下ろしていた光太郎は、ハッとしたように顔を上げて銀髪の美しい賞金稼ぎを見上げた。

『えーっと、えーっと』

「ん?」

 必死に言葉を発せようと開きかけていた口は閉じ、顔は俯いてしまう。
 ボキャブラリーはまだまだ少ないのだ。

『判ってるんだけど、でも、何だか絶対に彰もここに来ているような気がするんだ。漠然とだけど…俺には判るんだよ。やっぱり、兄弟みたいな幼馴染みだからかもしれないけど』

 日本語で言ってもルウィンには理解してもらえない、判っているのだが、何かを口にして伝えたい気持ちがいっぱいある。そうしないと、いてもたってもいられない気分になってしまうのだ。叫びだしたいような、心許無い不安は、何処にいるのかも判らない幼馴染の顔を見ればきっと、落ち着くのだと確信している。
 だが…
 顔を上げてルウィンを見上げると、良く晴れた陽射しの中、とても綺麗な顔が困ったような苦笑を浮かべている。その表情が、この世界に来て初めて触れ合った”ヒト”と呼べる存在が良く浮かべる、温かな感情だと言うことをもう光太郎は知っていた。
 あっさりと突き放されるのでもなく、かと言ってベタベタと馴れ合うわけでもない。
 どこか一歩退いていて、でも近付いているような奇妙な感覚のその表情が、光太郎は優しさだと感じていた。
 この人と一緒にいれば大丈夫、漠然とだがそんな確信が何故か光太郎にはあった。

「仕方ないな…じゃあ、捜してやるよ。それで文句ないだろ?」

『あいたッ』

 ピンッと額を指先で弾かれて、光太郎は痛そうに眉を寄せて両手で額を押さえた。
 仕方なさそうな表情をするルウィンを見上げて、それでも嬉しそうに笑った。

『あれ?そう言えばルビアはどこに行ったんだろう?』

「ん?百歩も譲ってやったこのオレさまに、まだ何か文句があるのか?殺されたいのか?」

 やけに物騒な台詞を吐いてニッコリ笑いながら顔を覗き込んでくるルウィンに、光太郎はちょっと頬を赤くしてぶんぶんっと首を左右に振った。綺麗な顔に冗談でも笑顔で凄まれると、怖いしドキッとしてしまう。
 ともすれば美女にだって化けることができそうなルウィンだ、大抵の人間が見ればその美しさに強く惹かれるだろう。ハイレーン族の賞金稼ぎは、エルフのように美しい幻想的な相貌を持っている。

「ルビアない。どこいぬ?」

「ルビア?ああ、ヤツなら一足先に宿屋に行ったんじゃないかな。この人出だ、何かの祭りでもあるんだろう。宿が満室じゃなきゃいいが…」

 そう言ってルウィンが覗き込むように屈めていた上半身を起こして、大通りを見渡すと、独り言のように語尾を呟いた。
 先端の尖った独特な耳を持っているのは、この人手の中でもルウィンぐらいしかいないんだな、と光太郎は周囲を見渡してそう思った。
 髪の色も肌の色も様々なのに、取り残されたように異形の耳を持つルウィンの背中は、なぜか時折寂しく見える。それは光太郎の思い過ごしなのだが、彼はそう思うと、どうしてもルウィンの服を掴まずにはいられなくなってしまうのだ。
 このままここから消えてしまいそうで…そんな風に、本当に心細いのは、実は光太郎の方だったりするのだが。
 腰の辺りの服をギュッと掴んだ光太郎に気付いたルウィンがそんな彼を見下ろしたその時、不意に、まるで踊り子のようにあられもない姿の少女が銀髪の賞金稼ぎに突然抱きついた。

『わっ』

 驚いたのは光太郎で、抱きつかれた当の本人は別に気にした様子でもなく、緩慢な動作で少女を見下ろした。

「ルビア」

『へ?』

 間抜けな声を上げてマジマジと凝視する光太郎を無視して、僅かな部分だけを覆うような衣裳に身を包んだ小さな美少女は、ルウィンに思いきり抱きついて頬摺りをしながらクスクスと笑う。

「宿屋は一室だけ空いてたのね。でも、ツインしかなくて、トリプルにすることができないって言われちゃったの」

「構わんよ。お前は竜に戻ればいい」

「判ってるのね」

 しなやかな仕草で光太郎を振り返った美少女の大きなエメラルドの瞳だけが、彼女がルビアであることを物語るように縦割れだった。笑みに揺れる美しい少女の顔を、光太郎は驚きに見開いた双眸をしてマジマジと食い入るように見入っている。

「光ちゃんが驚いてるのね!おっかしーの」

 ケラケラと笑ってルウィンから離れた美少女ルビアは、そんな光太郎に思いきり抱きついて少し伸び上がるようにして頬を摺り寄せた。

『ルビア?変身もできるのかい!?』

 驚いたように声を上げる光太郎に、ルビアはちょっと困ったように眉を顰めて小首を傾げた。

「ごめんね、光ちゃん。ルビアは人型に変化すると、言葉が判らなくなってしまうの」

『あ、そうなんだ。…つくづく、ここは異世界なんだなぁって実感しちゃうよ』

 光太郎は呆然としたような、あんまりビックリしすぎて却って冷静になったように感嘆の吐息を洩らして呟いた。

『あれ?でもどうして女の子に変化してるんだろう?』

 光太郎の中に疑問を残したルビアの変化は、その後も様々に形を変えて現れるのだが、その度に彼は首を傾げることになる。…が、敢えてそれについて何か聞こうとはしない。と言うか、聞いてはいけないような気がするのだ。
 ニコニコと微笑むルビアが踊るように通りを宿屋まで案内すると、ルウィンは呆気に取られている光太郎に苦笑を洩らし、肩を竦めながら「ほら、行くぞ」と言って後を追うように促した。
 三人の背後に、運命を指し示す賢者の指先が風となって吹きすぎてゆく。

第一章.特訓!4  -遠くをめざして旅をしよう-

「赤い牙?」

「違いやすぜ、お頭。紅の牙と言うんでやす」

 間もなく中立国の海域に入ろうとしている〝疾風〟の海賊船女神の涙号は、爽やかな潮の香る風を帆にいっぱいに受け、いとも優雅に進んでいる。
 その船上で、いつものようにデッキチェアに長々と伸びている赤い髪の頭領レッシュが眠たそうな顔をして、新米の見張り番レトロとそんな会話をしていた。
 それはこのゲイルではいつも通りの、日常的な風景なのだが…

『赤だろうが青だろうが、関係ねぇっての!畜生ッ、放しやがれ!』

 ただ一ついつもと違うのは、レッシュの足元で蹲る一人の少年の存在だった。

「お?またワケの判らんこと言ってるな。竜使いさんは案外、ほどほどの別嬪さんだったなぁ」

 アラブの貫頭衣に似た風変わりな上着にズボンを穿いた茶色っぽい髪をした少年は、何とかダレている獅子の身体の下からベルトの先を引き抜こうと懸命に格闘している。その様が面白いのか、レッシュは咽喉で笑うと片手を伸ばした。

『くそう、ここに来てまだたった一ヶ月ぐらいだからな。いまいち、言葉が理解できねぇ』

 忌々しそうに舌打ちして、ワシワシと髪を掻き混ぜるその、剣を振るえば海をも切る、と海賊たちの恐れるゲイルの頭領の手を疎んで片手で振り払った。

「何だよ、アキラ。片言でも喋るんだから共通語を使いやがれ」

 ワシッと首を片手で掴んで引き寄せると、怒った様子のないレッシュはニヤッと笑って少年の頬にキスをした。

「うぎゃあぁぁぁ!へ、ヘンなことするなッ、へんたいレッシュ!」

 少年は思い切り嫌そうに両手でレッシュの顔を引き離しながら言うと、隻眼の海賊はしたり顔でニヤッと笑う。

「あ!」

 ハッとして慌てて口を噤んでも既に遅く、レッシュは満足そうに頷いてニヤニヤと嬉しそうに笑っている。

「くそう…ヒキョウだ!」

「当然。海賊はそうでなくっちゃね」

 事も無げにさらっと流されて、少年御崎彰は不満そうに眉を寄せて唇を噛んだ。
 彰は光太郎とほぼ同時期にこちらの世界に降って来ていた。ただ、運がいいのか悪いのか、落ちた先は大海原で、北海の獅子と恐れられている海賊船の真上だったのだ。
 いつも通りに長々と寝そべっているレッシュの真上に落ちたのだから、その重力の反動は彼に数日間食欲を失せさせていた…と言っても過言ではないだろう。
 だが、そんな痛い目に遭っているにも関わらず、レッシュは彰を酷く気に入ったようだった。
 あれ以来、彰を片時も離そうとしないのだから、その執着振りが覗えるだろう。仲間の海賊たちも呆れて肩を竦めるほどだ。

「お頭ぁ…竜使いを発見したら、ソッコーでコウエリフェルかパソ・デルタに売るんじゃなかったんすか?」

「ま、気が向いたらな」

「そんなぁ~」

 長いこと狩りをしてはいないものの、ゲイルは安泰だ。しかし、それでなくても巷が騒いでいる元凶とも言える竜使いなのだ、できれば早々におさらばしたいところである。

「まあね、判ってたんでやすよ。お頭が中立国のウルフラインに行くって言い出したときから、こうなるんじゃないかってね…」

 力のない笑みを浮かべて項垂れるレトロは、交代の時間だと言ってやってきたヒースと入れ替わりで船室に戻って行った。

「何だ、レトロの奴。またお頭に念仏でも唱えてたのか」

「何だそりゃ」

 レッシュが呆れたように片方の眉を上げると、遠見鏡で肩を叩いていたヒースは、ケロッとした顔して至極当然そうに言うのだ。

「お頭の耳に念仏って言葉を知らないンすか?一度こうだと決めたら何を言っても聞き入れてもらえないって言う、ゲイルでは有名な諺ですぜ」

「あのなぁ、お前ら…そんなクダラネェことを言ってるのか」

 レッシュは呆れたように溜め息を吐いたが、不意に傍らの床に座っている彰が声を殺しながら笑っていることに気付いて、その頭をワシッと掴んだ。

「お前…知ってただろ?」

「うっぷっぷ…みんな、知ってるよ」

 不貞腐れた子供のような拗ねた顔をしていたレッシュも、いつも神妙な表情をして空ばかり見ていた彰のその久し振りに笑っている顔を見て、すぐに表情を和らげた。
 竜使いは驚くほど幼い少年だった。
 巷が噂する屈強な戦士でも、ナイスバディの綺麗なおねぇちゃんでも、ましてや勇者でもなかった。何処にでもいる、ただの人間だったのだ。
 世界中が手に入れようと目論む少年の本当の幸福が神竜の許にあると言うのなら、レッシュは彼を伝説の翼竜に届けてやりたいと思った。それが多少危険なことであっても、彼が望む幸福に近付けてやりたいと思ったのだ。
 その気持ちが何処から湧いて、何処に流れて行くのかなどと言う厄介な感情は理解できなくても、レッシュは本能のままにそれを実行しようとしている。多少、彰の気持ちとは違うのだが、ここでも言葉の不通が厄介な事態を引き起こしているようだ。

第一章.特訓!3  -遠くをめざして旅をしよう-

 暗く狭い地下道は、地上にある華やかな町並みに付き纏う影のように、湿った風が吹く淀んだ暗闇のようだった。この地で暮らす人々の双眸は何かに飢え、許しを請うような、怒りに満ちた光を放っている。

「これじゃ、まるでネズミにでもなった気分だねぇ」

 その、壁に掛かった松明だけが明り取りの狭い地下道で、一際目立つ派手な衣装に身を包んだ奇妙な道化師が何故か愉快そうにそう言うと、前方を行く旅装束に身を固めたコウエリフェルの王宮竜騎士団々長リジュが迷惑そうに眉を寄せて肩越しに振り返る。

「ウルフラインのレジスタンスに漸くアポが取れたんだ。滅多なことを言ってくれるなよ」

「うん、判ってるよ。でも、この臭い!すっごいねー、地上の瘴気がみんな流れ込んできてるみたい」

 クスクスと他人事のように笑って、諦めたように溜め息を吐くリジュに肩を竦めて見せた。

「通路の横でこれでもかって、汚物の用水路が流れてるのも凄いよねー」

「悪かったな。それを承知で地下に潜ってるんだ、文句あるか?」

 不意に声が掛かり、リジュはさり気なく身構えるが、気紛れそうな道化師に至ってはさほど気にした様子もなく緩慢な仕種で振り返った。

「子供…?」

 そこには14、5歳ぐらいの少女が、明らかに敵意を剥き出しにして不貞腐れて立っていた。

「あんたたち、コウエリフェルのお役人だろ?おれは案内役だよ」

 自然に口をついて出る男言葉は、生まれた時からそんな言葉遣いの中で暮らしてきたことを物語っているようだ。

「あ、そう。じゃあ、早く案内してくれる?ここはちょっと…ねぇ?」

 ニコッと笑うデュアルに奇妙な違和感を覚えた彼女は、何となく身構えるような仕種をして顎をしゃくって促した。

「こっちだよ」

「…だそうだよ、早く行こう」

 軽くウィンクしてリジュを促すデュアルに、団長は何か言いたそうな表情をしたが、あんまり怖がらせるなよと一言、言っただけだった。

「?」

 キョトンッと、意味が判らないように首を傾げていると、先の細い道に曲がった少女がヒョコッと顔だけ出して怒鳴った。

「早くしなッ」

 デュアルは肩を竦めると、強気な少女の後を疲れた表情のリジュと一緒に追い駆ける。
 彼女の足取りは漆黒とは言わないまでも、明り取りに揺らめく松明だけを頼りにした通路にあっても、その足元は軽やかだ。長いことこの地下で暮らしているのか、闇にある人に多くいるように、彼女の肌は驚くほど白かった。いや、青白いと言ってもいいぐらいだ。

(不健康な…)

 デュアルの眉を寄せた不機嫌そうな呟きは誰の耳にも届くことはない。
 それなりに繕えば可愛らしい少女も、こんな時代にあっては煤に汚れていても気に止めることもないのだろうか。

「せっかくのお顔が台無しだねぇ」

 ちょこまかと通路を行く少女に遅れることもなくのんびりと進む道化師の、突然、頭上から降ってきたその言葉にビクッとした彼女は驚いたようにデュアルを振り返り、すぐ傍らに立っていることに更に驚いたように彼を見上げて目を丸くした。

「ほら、汚れてるよ。女の子なのに」

 少しひんやりとした指先に頬を撫でられて、少女は微かに警戒したように顔色を曇らせた。

(何時の間におれの背後に立ったんだ…コイツ。いったい何モンなんだろう。兄者はもしかして、何かとんでもない化け物を身内に飼おうとしてるんじゃないだろうな…)

 ビクビクしながら前方に歩き出した少女の後姿を見送りながら、漸く追いついてきたリジュにニヤニヤ笑いながら腕を組んだデュアルは言った。

「怯えてる怯えてる。楽しいったらないね。ホント」

「…小さな子供を虐めて遊ぶなよ。性格悪いぞ」

 空気も悪い地下道でやや息を詰まらせながらリジュが呆れたように呟くと、腕を組んでいたデュアルはちょっとムッとしたように組んでいた腕を解いて、どっかりとその肩に乗せながら鼻を鳴らした。

「小さくても自分で生きてるなら立派な大人!認めてあげないと可哀相でしょ?自分で僕ちゃん子供~って言うんなら子供だって認めたげるよ。団長さんはどう?」

 子供かな~?とふざけたように顔を覗き込んでくる派手な化粧を施したデュアルの顔を呆れたように見ていたが、諦めたように溜め息を吐いてその顔をぐいっと押し遣りながら首を左右に振る。

「あう」

「付き合ってられん」

 角を曲がる少女の後を追いかけながら吐き捨てるように言ったリジュに、ひっどいなぁ~とクスクス笑うデュアルもその後を追いながら、そうして暫く笑っていた。

第一章.特訓!2  -遠くをめざして旅をしよう-

『うわぁ、星が綺麗だー』

 両手を伸ばせば届きそうな、と言う形容がまさに似合う、降ってきそうな満天の星空を見上げ、光太郎はお約束通りに両手を伸ばしている。
 道中の長い道程にも関わらず、然して疲れた様子も見せないルウィンは魔物避けに火を熾すと近くの大きな石に腰を下ろし、そんな光太郎に目を向けた。
 こうして、天候の良い日は見晴らしの良い小高い丘で野宿をすることが多い。魔物に比較的見付かりやすい場所だが、だからこそ防御もすぐにできると言うのがルウィンの持論だ。何事もうざったいと考えている彼のことだ、魔物に関わらないでいられるのならそれにこしたことはないのだが… 
 恐らく全ては光太郎のことを考えてなのかもしれない。
 と言うのはつまり、保身の為に茂みに隠れていたのではせっかくの夜空を台無しにしてしまう、それよりは少々危険でもこの方が幾分かでも気分は爽快になるはずだ。
 もともと賞金稼ぎと言う危険な職業を生業にしているのだ、殺気は敏感に感じ取ることができる。何より、この周辺で彼よりも強い魔物などいないのだ。ただ遭遇することにうんざりするだけで、それを我慢すれば別に気にするほどのことでもない。
 賞金稼ぎと言うのは所謂、この世界での何でも屋の事で、時には要人の警護をすることもあるらしく、光太郎一人ぐらい護れなかったら今ごろルウィンはここに生きてはいないだろう…と、ルビアが以前にそう言っていた。

『ルウィン、見て。星が綺麗だよ!』

「?」

 夜空でキラキラと瞬く小さな光は、何万光年も離れた遥か彼方で燃え尽きようとしているのだ。しかし、光太郎の住む世界では、そんな儚い彼らの姿が見られるところは限定されてしまう。
 だからこそ、光太郎がこの世界に来て一番に心惹かれたものがこの星空であり、大自然だった。

『俺の世界だと、星って言ったらちょこっとぐらいしか見えないんだよ。それで、本格的に見ようと思ったら山に登ったりとか、海外の砂漠とか、あんまり人のいないところに行かないと見られないんだよね。あ、でもネオンだったら見られるよ。でも、それって星じゃないから意味がないんだ。便利だけど、時々勿体無いなぁとか思うんだ。本当だよ?』

 ルビアがいないと言葉の不通のせいか、無口になるルウィンに光太郎はへっちゃらで話し掛ける。それが通じていないと判っても、喋らずにはいられないのだ。
 一つには恐らく不安。
 オカルト好きな彰ならともかく、どうして自分がこんなところにいるのかとか、これからどうしようとか、考え込めば果てしなく落ち込んでしまうような悩みの種ばかりが脳裏を渦巻いてしまう。知らず、他愛のないお喋りが口をついて出ても仕方がないのだろう。
 だが、その光太郎のお喋りには意図的なものがあって…

「言葉を理解していないヤツに、よく話し掛けられるな。全く、変な奴だよコータローは」

 呆れたように眉を上げるルウィンに、光太郎はパッと笑ってから、漸く出てきた言葉をお浚いしようと両目を閉じた。

「何だ?」

 ちょっと訝しそうに首をげるルウィンに、パチッと双眸を開いた光太郎は彼を見上げてゆっくりと慎重に口を開いた。

「にゃんた」

「は?」

 さらに訝しそうに眉を寄せると、光太郎はニコッと笑って嬉しそうに頷いた。やはりどうも、言葉は通じていないようだ。

『ヴォイス?』

 小首を傾げる仕種をして尋ねるようなイントネーションに変えると、漸く光太郎の意図する思いが判ったらしく何か言いたそうにしていたルウィンはしかし、首を左右に振って今度はゆっくりと発音した。

「にゃんた(ヴォイス)…じゃない、」

「にゃんだ(ルヴォイス)」

「惜しい!…けど違う。ル・ヴァ・イス。判るか?」

「何だ」

「よし。発音とかムチャクチャだが、聞こうと思えば何とか聞けるな」

 ルウィンが腕を組んで頷くと、光太郎は嬉しそうに何度かその言葉を繰り返した。
 そう、光太郎は、何もせずに不安で眠れない夜を過ごすぐらいなら、毎夜起きて寝ずの番をしているルウィンを相手に、取り敢えず言葉を覚えようと決意したのだ。
 言葉を覚えなければ何も始まらない、それが悩みに悩んだ末、光太郎が弾き出した答えだった。

「…」

 もちろん、そんなことは露知らぬルウィンはしかし、その様子を見ていてすぐさますべてを理解したのだ。
 …恐らく自分は、これからこの言葉覚えに付き合わされるのだろうと内心でたらりっと汗を流しながら、ルビア、早く帰って来いよ、と思っていた。
 そんな複雑な表情をしたルウィンに気付いて、光太郎が嬉しそうにニコッと笑う。
 どうやら悪い予感は的中しそうで、ルウィンは密かに冷や汗を額に浮かべてニコッと笑い返しながら祖国ウルフラインに一時帰国しているルビアのことを考えていた。

《うふふふ~ん♪クローディアは相変わらず可愛いの》

 口笛を吹きながら陽気に戻ってきたルビアを迎えたルウィンは、やや不機嫌そうに眉を寄せているものの何か文句を言おうと口を開きそうな気配はない。

《ど、どうしたのね?いつもは普通に迎えてくれるのに、どうして今回に限ってそんなにどんより雲を背負っているの…?》

「うるせーな。オレに話し掛けるな。寝ろ。そして明日に備えろ」

《…話し方が何か、ヘン、なのね》

 一語一句を綺麗に分けて、なお且つ聞き取りやすい発音で話すルウィンの言葉遣いは、ルビアにしてみれば極めておかしく聞こえるのだ。

「う?…マジかよ。ヘンな癖になりそうだ」

 地面に直接布を一枚敷いただけの簡素なベッドに潜り込んだ光太郎は、柔らかい布に包まれて焚き火の傍で安らかな寝息を立てている。
 困惑したような疲れたような、複雑な表情をして石に腰掛けているルウィンは焚き火の光を受けて静かに眠っている光太郎を見下ろした。

《いったいどうしたの?》

 どんなに鈍いルビアでも、光太郎が関係していることぐらいルウィンの行動を見ていれば充分に予想がつく、が、敢えて聞いてしまうのは好奇心のなせる業だ。

「いや、別に」

 素っ気無くそう言って外方向くルウィンに、ルビアは訝しそうに眉を寄せてその目の前に飛んで行くと、顔を覗き込むようにして詰め寄った。

《別に、じゃないのね!ルウィンの〝別に〟は絶対に裏に何かあるの!隠さないで話すのね!》

「別にそんな大したことじゃないさ。それよりも、光太郎がお前に見捨てられたって嘆いていたぞ」

《大袈裟なの。これからウルフラインに行くのだから、隣国のブルーランドのことも下調べをしないといけないのね》

 ブルーランド。
 今から凡そ十年ほど前、ルビアの祖国ウルフラインの隣国ブルーランドは魔物による叛乱で滅亡してしまった国である。今では魔族が住み着き、魔族の王が支配している。
 その凶悪な闇の支配する国に、噂ではブルーオーブと呼ばれる秘宝が隠されているらしい。もちろん、ルウィンにとって興味深い噂だが、今はお荷物を抱えてどのようにしてその国を抜けてウルフラインに行くのか、と言うことに頭を悩ませていた。
 途中の峠では盗賊も出没するようになったと聞いている。
 凶悪な魔物の支配する国の隣国と言うこともあって、いったん祖国に戻っていたルビアの顔はそれでも僅かながら曇っていた。自分の祖国でも、やはりそれなりの諍い事は勃発しているのだ。中立国と言うこともあって、他国の干渉の全てを自国で解決しなくてはいけない為に、国内ではいらぬ諍い事が多発しているのだ。簡単に言えば、内乱である。
 つまり、皇太子であるルビアは、ガルハの賓客であるルウィンを狙うだろうレジスタンスを注意していた。
 いや、ルウィンを狙うレジスタンスを心配している、とでも言うべきだろうか。

《どっちの国も、今はやっぱり危険なのね。ブルーランドは相変わらずだし、峠の盗賊は恐ろしく強くて魔物ですら避けて通るらしいの。ウルフラインは中立と言う立場で常に近隣諸国との間に緊張感もあるし、さらに重税による圧迫で嫌気が差しているレジスタンスは竜使いさまの出現もあってますます過激化する一方なのね》

「そうか」

 残念なのかそうでないのか、よく読み取れない表情をして頷くルウィンに、ルビアは残念そうに溜め息を吐いて首を左右に振った。

《残念だけど、今のウルフラインに光ちゃんを連れて行くわけにはいかないの。どちらかの国でソッコー捕まっちゃうのね》

「光ちゃん?で、そのレジスタンスとやらの主力部隊ってのはいるのか?ああ、その、リーダー的存在の集団だな」

《光ちゃんは渾名なの。〝紅の牙〟って言うのが、今のところ彼らのリーダーみたいなのね》

 端的に説明すると、ルビアはルウィンの傍らの石に舞い降りて腰掛け、短い足をブラブラさせながら光太郎を見つめた。

《紅の牙って言うのが、誰かの名前なのか、それとも集団の名前なのか、或いは何かの暗号なのか。ぜーんぜん判らないの。これを聞き出すのも大変だったのね》

「厄介と言えば厄介だが、だからと言って何もせずに無駄に過ごすのも面白くないな」

 そう言って立ち上がったルウィンは、軽く伸びをしてから満天の星空を見上げた。
 見慣れたはずの星空は、ふと気付くと、随分長いこと見上げていなかったような気がする。

「綺麗だな。本当だ」

《?》

 呟くような独り言に眉を寄せるルビアを見下ろして、ルウィンは珍しく小さく笑った。

「竜使いはこの星空が好きなんだそうだ。自然をこよなく愛してるコイツになら、神竜の頑なな意志も解けるんじゃないのか?」

《たぶん…でも、危険なのね》

 ルビアが困惑したように言うと、ルウィンは肩を竦めてからもう一度星空を見上げた。

「諍いと騒乱…か。だが、どの国にも渡さずに神竜に届ければ、世界も少しは幸福になるんだろう?それならば、多少の危険は覚悟しないとな」

 ブルーランドを通らずにウルフラインに抜ける道もあるだろう。
 ルウィンは僅かな希望でも試してみる価値はあるだろうと思ったのだ。

《じゃあ、ルウィン!》

「明日、ウルフラインに発とう」

 神秘的な青紫の瞳の中にある満天の星の一つが、まるで希望のような彗星となって夜空を駆け抜けていった。

第一章.特訓!1  -遠くをめざして旅をしよう-

 瀟洒な緋色の天鵞絨が垂れる謁見の間には、純白の甲冑に身を包んだ青年が豪華な緋毛氈の上で畏まったように片膝を付き、最敬礼とも言える騎士の礼をとっている。その傍らに、そんな厳然とした場には不似合いな道化師が酷く退屈そうな顔をして立っていた。

「よう戻ったと労いたいところじゃが、どうしたことか儂の眼に竜使いの姿が見えぬ」

 白い髭を蓄えた老齢の王は豪奢な玉座にどっしりと鎮座まし、恐縮する甲冑の青年を訝しむような胡乱な目付きで捉えると咳き込むようにそうのたもうた。

「竜使いと、それを奪いし者を見付けることもせずにおめおめと舞い戻ってきた団長リジュよ、訳を陛下に詳しく申すのじゃ」

 王の傍らに控える側近の大臣は、踏ん反り返って高慢な口調で促した。

「副団長のセシルくん、ちょっとお口が軽すぎる~♪」

 道化のくせに吟遊詩人のように声の良い、派手な男は素知らぬ顔をして歌うように嘯いた。

「黙らぬか、デュアル!そなたには聞いておらんっ」

「あ、言っちゃった。ごっめ~ん♪」

 小馬鹿にしたように戯ける道化師に大臣は頭を抱えたが、王の面前に控える団長リジュが肩越しに窘めると、なぜか彼は、その言葉に素直に従って悪怯れた風もなく肩を竦めて欠伸をする。

「兎にも角にも、どう言うことが起こったのか手早く申せ。デュアルは黙っておれよ!」

「はいはい」

 先程の行為を教訓に先手を取る大臣に、デュアルと呼ばれた道化師は肩を竦めて舌を出した。

「魔の森は昼なお暗い魔物の巣窟です。いかに屈強なコウエリフェルの翼竜部隊とは申しましても、地上戦には向きません」

 さっさと話を進めようとするリジュに、大臣が水を差すように口を挟んだ。

「それ故に道化を供に連れて行かせたであろう」

「あの森の魔物を一掃すれば気が済むの?あの金額で?冗談じゃないですー」

 実は半端な額を手にしてるわけではないと言うのだが、それでも受けられないほどリスクの大きな依頼に冗談じゃなさそうにデュアルが外方向いたままで言い放つと、ムッとしたような大臣はそんな彼を睨んだが、それ以上発展しないようにリジュが慌てて先を進めるように僅かに声音を上げる。

「湿地帯でもない森にスライムがいたようです。これがその証拠ですが、このような痕跡とも言えない僅かな手掛かりだけを頼りに、あの森の深淵に進むには証拠が少なすぎると判断して戻って参りました」

 脇に置いていた皮袋を手に取り、それを開いて中に納まる粘液に塗れた黒い布の残骸を提示した。
 ムッとする異臭に大臣と国王は嫌そうに眉を寄せるが、平然とした顔でそれを持ち上げたリジュは粘る液体の絡んだ掌を開いて見せる。黒い服の残骸が溶け切れずに零れ落ちた。

「魔の森にスライムか…それで?竜使いの消息はどうした」

 不意に艶やかなバリトンが響き、太い石柱の陰から姿を現した榛色の豊かに長い髪を後ろで三つ編みに束ねた、何処かの国の裕福そうな商人風の出で立ちをした青年が腕を組んで玉座の傍らに立った。

「セイラン殿下」

 大臣とリジュはハッとしたように眼を瞠ると、セイランと呼ばれた青年はその甘いマスクにゆったりと微笑みを浮かべて頷いてみせる。

「おお、セイランか。この放蕩皇子め、いずこに参っておった?」

 王が自慢の息子を見上げて言うが、彼はそれに微笑みだけで答え、質問したリジュにではなく道化師のデュアルを見つめて話を促す。

「は。今のところは不明でありますが、現在、このコウエリフェルを始め、魔の森が位置するヴィール王国全土を探らせています。しかし、あまりに情報が少なすぎる為に難航してはいますが…」

「なるほど」

 セイラン皇子はゆったりとした足取りでリジュたちに近付くと、後ろ手に組んで、暫く何事か考えている風だった。

「時にデュアル」

 突然名指しされても道化師は驚いた様子もなく、却って不貞腐れたような表情をしてその紺瑠璃色の瞳を見据えた。

「なんですか、皇子さま」

 気乗りしない口調ではあるが、ふざけた態度は見せずにそう答えると、セイランは何がおかしいのかクスッと小さく笑う。
 そう言う態度が気に食わないデュアルだったが、どうもこう、腹に一物も二物もありそうなこの皇子の底知れぬ何かが、件の道化師にとっては苦手なようである。どんな権力者も鼻先で笑うデュアルにしては珍しいことだが、それだけに、この気紛れそうな得体の知れない権力者の不気味さが窺えるのではないだろうか。

(気紛れで得体が知れないって良く言われるけど…彼ほどじゃないとは思うんだよねぇ)

 誰にともなく言外に呟く道化師に、セイラン皇子は知ってか知らずか言を次いだ。

「お前は優れた先見の持ち主だと聞く。そのお前でも、竜使いの行方を知ることはできぬのであろうな?」

「判ったらこんな所にはいません。さっさと見つけに行ってますー」

「素直なことだ」

 クックッと笑って玉座に戻りかけるセイランに、デュアルはちらっとリジュを見て、それから徐に声をかけた。

「竜使いを連れ去った奇特な奴は、どうも頗る腕が立つみたいだよ」

 足を止め、振り返ったセイランの無表情な顔を眺めながら、デュアルは腰に片手を当ててニッコリ笑う。

「スライム然り。でもそれだけじゃあない。野営の場所に結界の跡があった。アレって確か、ハイ・ブラッヂスが使うシェリルじゃなかったっけ?」

 わざとらしく聞いてくるデュアルに、そこまで調べていたのなら証拠も一緒に持ってきてくれればいいのにと、リジュは溜め息を吐きながら頷いて答えた。

「その通りです。スライムを一刀両断にしたその腕も然ることながら、恐らく剣に施されているのだろうデュラジオの水準も驚くほど高いと思われます。そのような人物がこの世界に存在していると考えると、わたしは寒気すら覚えます」

「…なるほど。我が国きっての使い手であるお前がそこまで言うとは、面白い」

 興味を示した皇子はすぐにでも謁見の間を後にしようとしたが、ふと振り返り、派手な道化師と純白の甲冑に身を包んだ無骨そうな青年を交互に指差しながら何事かを考えているようだったが、すぐに頷いて手早く告げた。

「そうだな、お前たちに命じる。竜使いと、数多の国々を出し抜いたその使い手とやらを見つけ出してくるのだ。時間を費やしても必ず」

「ちょっと待ってよ。あれぐらいの報酬で長くクラウンを空けろって?冗談じゃないです。団長に殺されますー」

 不機嫌そうに唇を尖らせるデュアルは、まるでお話にならないとでも言うように、片手を振って踵を返そうとした。

「報酬はお前が必要とするだけ出そう。その条件でどうかな?シュカーティア」

 ピタッと道化師の足が止まる。
 無表情で振り返ったとほぼ同時に、不可視の殺気がまるでドライアイスのようにその身体から溢れ出し、リジュは思わず抜刀しそうになった。
 今度こそ意識してそうしているのか、彼の殺気は間違えることなくコウエリフェルの皇太子に向けられている。側近も大臣も、そして国王ですら思わず立ち上がりそうなほど、その気配は冷たい霧のようにゆっくりと大広間を満たしていく。
 しかし、腕を組んで平然と構える皇子を暫く無言で見据えていたデュアルは、不意にニコッと満面の笑みを浮かべると、パチンッと両手を打ち合わせると祈るようにしてその手を組んだ。

「そうこなくっちゃ、皇子さま!やった、これで目標金額に達成する~♪」

 まるでそれまでの殺気が嘘のようにケロッとしたデュアルは飛び上がらんばかりに喜んで、呆気に取られてポカンッとしているリジュを立ち上がらせると、その首に片腕を回して親指を立てて見せたのだ。

「任せなさい!すぐにでも見つけてくるさッ」

 安易に引き受けるデュアルに文句を言おうと開きかけた口をもう片方の手で塞がれ、リジュは苦しそうにもがいたが、圧倒的な力の強さにとうとう断念せずにはいられなかった。
 …と言うよりはむしろ、皇太子殿下の命令であればどのような事情があろうと最優先しなければいけないのだから、断ろうなどとは思ってもいない。ただ、どうしてこのふざけた男と旅を共にせねばならないのだろうと、実直な騎士は些か不満そうに鼻を鳴らした。

「では、任せた。モール大臣」

「は、はい、何でございましょう。殿下」

 同じく呆気に取られていた大臣はハッと我に返り、慌てて低頭すると皇子の言葉を待った。

「彼らが欲しいというものを全て用意せよ」

「はっ」

 深く頭を垂れて仰せ付かる大臣を残し、セイランは颯爽と謁見の大広間を後にした。出て行く方向がいささか違うようでもあるが、その場に居るものは敢えて何も言わなかった。

「ほっほっほ。先行きが安泰じゃ」

 黙して見守っていた王は満足そうに白い顎鬚を扱きながらそう言ったが、リジュとその場にいた側近たちは先行きの不安を感じてこっそりと溜め息を吐いた。
 皇位にある間だけでも、どうかご自分の立場だけは弁えて欲しいと。
 がっくりと一同が肩を落としているその時、デュアルだけがいつもの戯けた態度とは裏腹の、やけに冷めた双眸で皇子を見送るのだった。

Prologue.旅立ち6  -遠くをめざして旅をしよう-

「竜使いさまは予言通りに現れたの~?」

 道化師のような衣装に身を包んだ、黄金の髪をツンツンに立てた青年は腕を組んだ不遜な態度で振り返ると、やけに惚けた口調でそう言った。

「ああ。王宮付きの占者によれば、だがな」

 純白の甲冑に身を包んだ男が、胡散臭そうな目付きを隠しもせずに道化師の男に頷いてみせると、青年は怪訝そうな表情で唇を尖らせ人を食ったような物言いで言葉を返した。

「占者~?胡散臭そうな名前だねぇ。当たるのかい?その占者さんとやらは」

 しかし、特徴的な左目の下の涙型の青い刺青と、右目の下瞼の縁から放射状に伸びた五本の赤い刺青を持つ年齢不詳の青年は、すぐに油断のないゾッとするほど冷たい双眸で微笑んでみせた。
 別に意識しているつもりもないのだろうが、彼の発する殺気のようなものは、昨日今日で身に付けたものではなさそうだ。

「お前は我々の用心棒として国家に雇われたに過ぎん身だ。余計なことに首を突っ込むんじゃないぞ」

 甲冑の男はこの道化師を嫌っているのか、憎々しそうにそう言って同じように腕を組んで威嚇する。

「おやおや…」

 両手を〝参った〟と言うように体の前で翳しながら冷やかに呟いて、道化師はニコッと屈託なく笑う。

「国家を護ることがお勤めの王宮騎士団の護衛としては、一介の旅道化などでは役不足でしょうねぇ。しかしこの役不足の道化一人に護衛を任せるとは、いったいコウエリフェルの王さまは何を考えておいででしょう?」

「!」

 辛辣に嫌味を言って、どうやら騎士団の副団長らしき男をヘコませた道化師はいきり立つように歯軋りする彼に見えないように舌を出すと、惚けたように知らん顔をする。

「喧嘩なら余所でやってくれよ。全員いるか?セシル、引き上げるぞ」

 木立ちの陰から姿を現した年若い男が、片手に何やら滑る黒い物体を手にして副団長と全員に呼び掛けた。

「団長さん、何か見つかったみたいだねぇ。で?竜使いはどこにいるわけ?」

 遠目でも見分けられる派手な衣装に身を包んだ道化は、魔物の多発するこの危険な森の中にあっても、目に痛い黄色の衣装でキメている。

「いない。もうここにはいないだろう。野営をした痕跡は見つかったが、どうも誰かに先を越されてしまったらしい」

 さして残念そうでもないその無感動な糸目をした団長は、手にした緑色の粘液に塗れた黒い布切れを皮袋に投げ込みながら端的に答えた。

「へぇぇ。どっかの国かい?たとえば、ガルハだとか…」

「それは有り得んだろうな。あの国は竜騎士の流れを持つ血族が支配している。竜使いなど災い以外の何ものでもないと考えているだろう」

「ふーん。ま、関係ないけどねー。それにしても、ちっとも残念そうじゃないね。まるでこう、何だかホッとしているみたい」

 付け入るような口調で意地悪く笑って言うと、団長らしき青年は肩を竦めるだけで上手い具合にはぐらかした。

「災厄が降りかからないようでホッとしてる?まあ、そんな答えでもいいんだけどねぇ~。それじゃ、もう帰るんでしょ?」

「そう言うことになるな」

 頷く彼の指示に従って騎乗した一同の最後に、風変わりな道化師は続いた。

「残念。できれば手土産にでもと思ったんだけど。どうもそう、易々と物事は運びそうにないねぇ。…しかし」

 不意に身体からドライアイスのような殺気が不可視の霧となって溢れ出し、馬が怯えたように嘶いた。

「どんな物好きさんがこんな魔の森に入ったんだろう?あれは湿地帯にいるはずのスライムの残骸だった。ここらでも滅多にお目にかかれないから貴重なスライムくん。けっこう強いよ~?」

 ヒッヒッヒッ…と、咽喉の奥で笑う道化師の密やかな独り言を、至近距離にいた兵士は良く聞き取れないせいでゾッとしたように馬を引き離す。

「賞金稼ぎだったら面白いことになるのにねぇ…」

 周囲に異様な空気を張り詰めさせて、派手な道化師は暫く一人で笑うのだった。

 コウエリフェル兵が撤退した魔の森では、殺気を孕んだ別の一行が到着していた。

「やれやれ、出足が遅れた」

 長く豊かな榛色の髪を背後で三つ編みに編んだ男は、漆黒の馬から苔生す大地に降り立つと、それほど残念そうでもない様子で呟いた。
 風変わりな衣装は風を孕んで長身の男をより大きく見せ、美丈夫は威風堂々とした態度でゆったりと腕を組むと小さく笑う。

「先刻、翼竜部隊の一行が飛び立ちました。恐らく、コウエリフェルの兵士かと…」

 彼の後方に控えている物静かな女が控え目に言うと、男は片手でそれを制して首を左右に振る。

「彼らも出遅れたと見える。件の道化師が物浮かぬ顔をしていたからな」

 風変わりな道化師を知っているのか、男は遠目にも目立つ派手な衣装を確認していたらしく、そう言うとクスッと笑った。

「それでは、いったい何者が…」

 物静かな女の傍らに立つ、やはり優雅な物腰の女が困惑したように柳眉を顰めると、何処かの国の裕福な商人風の出で立ちをした男はやれやれと吐息する。

「さあて、何者であろうな?道化師でもウルフラインでも、ましてやガルハ帝国でもあるまい。もちろん、コウエリフェルでもなかろうよ」

 特に残念そうでもない表情で面白そうに呟く男に、麗しい女たちは困ったように柳眉を寄せて顔を見合わせた。

「いずれにせよ、どうも無駄足であったようだ」

 男は呟くようにそう言うと、颯爽と踵を返して漆黒の愛馬へと騎乗した。

「戻るぞ」

「はっ」

 女たちも白馬にひらりと跨ると、風のように速い漆黒の馬の後を追った。彼らが去った昼なお暗い魔の森に、一陣の風が波乱の種子を撒き散らして吹き過ぎていく。
 災いと諍い、そして一種の希望のようなものを象徴する予言の竜使いは、世界中に一滴の雫を投げかけたのだ。
 その波紋は小さな漣となり、やがて津波となるかもしれない。しかし、それが幸いとなるのか災いとなるのかは、まだ誰も判らないことである。

(中央寄せ)いまはまだ、小さな波紋に過ぎないのだ…

Prologue.旅立ち5  -遠くをめざして旅をしよう-

 風が森の奥から吹いてきて、青年は躊躇うように歩調を緩めた。

《どうしたのね?》

 前方をゆるゆると進んでいた深紅の小さな飛竜が、大きなエメラルドの瞳をキョトンッとさせて振り返ると首を傾げて問う。頭の中に直接響くような声は、精神で感じ取る類の思念波のようなものだ。

「いや。別に」

 銀の髪は吹き過ぎた風の名残を惜しむようにハラハラと額に零れ落ち、神秘的な青紫の双眸を持つ青年は複雑な表情をして前方の飛竜に頷いて見せる。と。

《別にって顔じゃないの。どうかしたのね?》

 相棒の異変に逸早く気がついた飛竜がすぐ傍まで飛んできて、訝しそうに眉間に皺を寄せると小首を傾げてみせた。
 エメラルドよりも澄んだ深い緑の瞳は、心の底の、もっと深い暗い部分まで見透かしてしまいそうだ。
 しかし、長年の付き合いからか、もうその瞳にも慣れている様子の青年はそんなことは気に留めた風もなく顎に片手を当てて首を捻るのだ。

「いや、何て言うか…何か嫌な予感がするんだ」

《嫌な予感~?ルーちゃんの嫌な予感はルビアの予感よりもよく当たるから嫌いなの》

 途端に嫌そうな表情をする深紅の飛竜ルビアに、銀髪の青年ルウィンは眉を顰めて苦笑すした。

「予感はあくまで予感だからな。必ずしも当たるとは限らないさ」

 長い旅を物語るような草臥れた漆黒の外套に身を包んだ、先端の尖った耳を有する青年が気休め程度にそう言うと、ルビアは小さな肩を竦めて不満そうに唇を突き出した。

《どんな予感なの~?気持ち悪いの?》

「いや…どんな感じだろう?」

《聞かれてもルビアには判らないのね》

 かなり当然そうに呆れて言う小さな飛竜に、ルウィンはそれもそうかと頷いて、バツが悪そうに顔を顰めた。
 もともと端整な顔立ちの彼は、そんな風に表情を崩してみても嫌悪感を感じさせることはない。取り澄ました表情よりもその態度は却って随分と親しみ易さを醸し出すが、当の本人は気付いてもいないようだ。
 奇妙な予感のようなものは、先日抜け出した城からの追手ではなさそうだと訴えている。

「こんな気分は初めてだな。強いて言えば…不安?いや、まさか!」

 自分で言って信じられないとでも言うように双眸を見開く彼は、すぐに不機嫌そうに眉を寄せてルビアを見る。

《う~ん、ルビアも初めて聞くの。ルーちゃんはあんまり、と言うか、全然弱音を吐かないからビックリしたのね》

「弱音だとかそんなものがないからな。きっとどこかおかしいんだろう」

《弱音だらけの男にもうんざりするの。でも、ルーちゃんはちょっと感情の起伏が少なすぎるのね。良く言えば飄々としてるけど、悪く言ったら丸っきりボケなの》

「何だよ、それは」

 ちょっとムッとしたように目の前を飛ぶ飛竜を捕まえると、嫌がるルビアの唯一柔らかい部分を思い切り擽った。ルビアはこれに弱い。

《やめるの!やめるの!本当のことを言っただけなのね!》

 笑い転げて涙を浮かべるルビアが腹を立ててルウィンに食って掛かると、彼はヌイグルミのようなその顔を胡乱な目付きで覗き込んでからジーッとそのまま眺めている。

《何なのね?》

 ムスッとそんなルウィンを見返すルビアに、彼はそうかと、何かを思い出したように頷いた。

「竜使いか。そうか、奴が現れるんだな」

《竜使いさまが?ホント?》

「オレの身体にも僅かだが竜騎士の血が流れているからな、何となく判るんだよ」

《ふぅん?竜使いさまは神竜のお友達だから、ルビアたち下級の飛竜族には何も感じないのね》

 感心したようにルビアが頷くと、ルウィンは何となく小さく笑って飛竜を解放した。

「おかしな話だ。遠い祖先に竜騎士がいるってだけで、あるかないか判らない血に竜使いは呼び掛け、お前みたいに純粋な竜族は無視するんだからな。変わった奴さ。変わっていると言えばファタルもそうだ。なんせこんな世界を創り出した親玉だからな」

《ファタルさまと竜使いさまは尊い方なのね。悪く言ってはダメなの》

 憮然とした面持ちで小さな腕を振り上げるルビアに、その真っ直ぐな意志の強さが、代々飛竜族の王家に伝わるものを確実に受け継いでいることを証明しているようで、ルウィンは小さく苦笑した。

《笑い事ではないのね!神竜は今も創造主ファタルさまがお遣わしになる竜使いさまのお越しをお待ちしているの。ルビアたちは竜使いさまのお姿が見られたら、それで凄く嬉しいのね。神竜の喜びは竜族の喜びなの》

(本当に、オレたちは変な組み合わせだな。オレは皇位を捨てようと必死に足掻いているのに、ルビアは皇位継承を得るために旅を続けている。世の中、うまくいかないもんだ)

 滔々と捲くし立てるルビアがふと、ポカンッと口を開けたままで自分を通り越した上の方を凝視していることに、彼は暫くして気が付いた。

「どうしたんだ?いったい何が…」

 振り返った彼も、それを見つけて目を丸くする。

《ねぇ、ルーちゃん。人間はお空に住んでるの?》

「さあ?オレの記憶が確かなら、人間は普通、空に住んではいないし、ましてや落ちては来ないだろう」

 ふわりふわりと、目に見えない両腕で守られるかのように静かに降ってくる黒い塊は、僅かに発光しながら明らかに重力を完全に無視している。
 そう思えるのは、自分の意志でゆっくりと降下しているように見えるからだ。
 まるでそれは、神が降臨するかのように。

「たまげたな。予言の竜使いさまのご降臨か」

《たまげてないで、助けに行くの!》

「助ける?なに言ってるんだ、あれが見えないのか?自分で落ちてきてるじゃないか」

 焦れったそうに小さな両手で腕を掴んでグイグイと引っ張るルビアに、ルウィンは呆れたようにゆっくりと舞い降りて来る黒い塊を指差した。

《そんなことじゃないの!各国は神竜を操れる竜使いさまを狙っているの!巨万の富とか、絶対的権力だとか、そんなことに竜使いさまを使ってはダメなの!竜使いさまは、千年の長い孤独の中で待たれていた神竜の、掛け替えのない愛しい人なのねッ》

 半ば強制的にグイグイと腕を引っ張られて、軽く走りながらルビアの言葉にルウィンは納得がいかないと言った様子で首を傾げた。

「目覚めた神竜が迎えに行くんだろ?文献で読んだぞ。何もオレたちが…」

《違うの!他種族に伝わる伝承は間違っているのね!》

 切迫したルビアの声音に、只ならぬ気配を感じたルウィンは仕方なく開けている空間まで走ることにした。

「何が何だって言うんだ、ったく…って、うわッ!…とと。いきなり断崖とはね。さて、ここからならちょうど掴まえられるかな?」

 森の開けた場所は絶壁になっていて、遥か下方には樹海が広がっている。魔物が横行する、魔の樹海だ。

「さすがに下に落ちたら最後だろうよ」

 皮肉気に鼻先で笑って軽口を叩きながら両腕を伸ばすと、黒い物体は大きくユラリッと揺れて、まるで意志を持つようにルウィンの腕の中にまっすぐと降りてきた。

「よーしよし、いい子だッ…と!?うわわわッ」

 慌てたのは両腕にかかったG。
 ふわりと、羽毛の軽さで舞い降りた人物はいきなり、それまでの重力を一気に解放したような重さで腕に圧し掛かってきたのだ。
 取り落とすどころか、自分まで落ちそうになったルウィンは慌てて両足と腕に力を込め、踏ん張るようにして小柄な身体を受け止める。そして、後方へ敢え無くダイブ。

「…っだぁ!…てて、生きてるか?」

 上半身を起こして打った後頭部を擦りながら涙目のルウィンが聞くと、心配したように覗き込んでいたルビアはホッとしたように頷いた。

《大丈夫なのね。気を失っているだけみたいなの》

 ルウィンの上に乗っている黒い塊は、まだ幼い子供のような少年だった。
 彼の母のように、魔族の血を引く者が受け継ぐとされる黒髪は全く同じような柔らかさで、驚くほどサラサラだ。
 ダークで重いイメージしかない黒髪の、意外な一面を立て続けに見てしまったルウィンは、もう黒に対するイメージが180度は変わってしまったに違いないと確信する。
 魔族の血を受け継ぐ者の少ないこの世界では、他に少数民族のカタ族しか黒髪を持っている者はいない。ルウィンのように黒髪に触れる機会が多い者も珍しいが、だからこそ、ルウィンの経験は貴重だと言えるのだが当の本人はそんなことは微塵も感じていないようだ。

「変わった衣装だな。捕まえて下さいって言ってるようなもんだ」

 やれやれと一息ついた彼が前髪を掻きあげながら呟くと、ルビアも困ったように地面に舞い降りた。

《どうしたらいいの、ルーちゃん…》

 困惑したように見上げてくるルビアの、いつもなら勝気な瞳に宿る自信の光が、今日は心配そうな不安に揺れている。
 竜族にとって、何がそれほど竜使いを大切に思わせているのだろうか。

「決まってる。ひとまずここから離れて、人目のつかない所にとんずらするしかないだろ?後は…まぁ、その時にでも考えよう」

《うん!》

 いつもは反発的なくせにやたら素直に頷くルビアに苦笑して、ルウィンは気を失っている少年に視線を落とすと、諦めたように天を仰いで溜め息を吐く。

「また当分、野宿だなぁ…」

 ボソッと、ルビアに聞こえない程度に独り呟いた。

 パチパチと火の爆ぜる音がして、風が暖かな温もりを伝えてくる。
 どれほどそうしていたのか、光太郎は長い眠りから覚めた人のようにぼんやりと覚醒した。
 彷徨う視線は満天の星空に吸い込まれる煙に気付き、続いてその星空を取り囲む、炎に照らされた木々の枝に移った時、虚ろだった双眸に理性の光が戻ってきた。
 完全に覚醒した光太郎は上半身を起こすと、まずは自分が置かれている状況を把握しようとキョロキョロと周囲を見渡す。
 と。

「おはよう…ってのは変だな。ご覧の通り、夜だ」

 炎を絶やさないように薪をくべていた青年が光太郎の気配に気付いてその手を止めると、面白くもなさそうにそう言って肩を竦めて見せた。

「…」

 炎の明りに浮かび上がる顔は、光太郎が今まで見てきたどんな美人にもハンサムにも当て嵌まらない、凡そこの世の者ではないとさえ思えるほど気品があった。目の前の青年はとても端整な顔立ちをしている。
 彼を一言で形容するなら、そう〝美しい人〟ではないだろうか。
 ただ、彼が本当にこの世の者ではないと思えるのは、その先端の尖った耳だ。
 炎の明りを照り返した銀髪と、意志の強さがキツイ印象を与える切れ長の青紫の双眸は彼を間違えることなく男だと物語っていた。その気になれば絶世の美女にでも化けられるのだろうが、今はそんな気など微塵もないのだろう。

(毛布だ。この人が掛けてくれたのかな…?)

 薄いが保温性に優れているのか、柔らかで暖かい布を持ち上げて銀髪の青年ルウィンを見た。

「どうしたんだ…ああ、腹が減ったのか?」

 ルウィンの言葉に、光太郎は反応を見せない。それどころか、まるで戸惑っているように首を傾げている。困惑した表情は、ルビアに似ていて彼は溜め息を吐いた。

(あ、溜め息をついた!どうしよう、怒ったのかな…)

 光太郎は躊躇うようにモジモジとしていたが、ギュッと毛布を握り締めると勇気を振り絞るようにして、美しき異形の人を見つめて口を開いた。

『あの、えーっと、言葉が判らないんです!失礼なことしてると思うんですが、できれば怒らないで欲しいんですけど…』

 ちょっと図々しいかな、とも思ったが、どうせ通じていないのなら少々のことは許されるだろうと自分で自分に言い聞かせてみる。

「…なるほど。言葉が判らないってワケか。でもまぁ、その方が案外やり易いかもな。余計なことを喋られても厄介だし…」

 そこまで呟いたルウィンは、言葉が判らなくて不安そうに首を傾げている心許無さそうな瞳をした少年と目が合い、何となく笑って見せた。別にそれで、安心させようと思っていたわけではないのだが。

(あ、怒ってないみたいだ。良かった)

 自然と意思の疎通をしたような光太郎が明らかにホッとしたような仕種でニコッと笑い返すと、ルウィンはそんなに仏頂面だっただろうかとガラにもなく少し反省した。

《あ!目が覚めたのね、良かったの♪》

 不意に頭の中に言葉が響いて、光太郎はビックリしたように飛び上がりかけたが、目の前に座っている銀髪の青年の傍らに舞い降りた不思議な生き物を見て、違った意味で今度は驚きに眼を瞠って立ち上がることもできない。
 言葉すらも出てこない、そんな驚きだ。
 小さいとは言え小型犬ほどはある身体を空中で支える為の蝙蝠のような翼と、深紅の強靭そうな鱗に覆われた身体、顔は、何に似ているかと言えば多分イグアナだろうか。ただ、エメラルド色の瞳が異常にデカいことを除いて、の話しだが。

「たった今目が覚めたんだ。どうやら言葉は判らないみたいだぞ」

 銀髪の青年が何かを呟くと、イグアナもどきは大きな目をもっと大きくして彼を見上げ、それから光太郎へと視線を移してきた。

《ルビアの言葉も判らないの?》

 不意に、現実に戻ったようにハッと我に返った光太郎は、直接頭の中に響いてくる声のようなものに驚いて思わず耳を塞いでしまう。

《聞こえてるみたいなのね。耳を塞いでも、ルビアの声は聞こえるの。だって、精神でお話をしているから》

 事も無げにさらっと言われ、光太郎は恐る恐る耳から両手を離すと、戸惑いながら口を開いた。

『えっと、その。よく判らないんだけど…』

 どうやらこのイグアナもどきとは会話が出来るようだとホッとした光太郎は、不意に奇妙なことに気付いた。

(…あれ?会話が出来て、空を飛べるイグアナ顔って言ったら…まさか!)

『り、竜…!?』

 驚きを隠せない表情をして目を丸くする光太郎に、ふわりっと浮かび上がったイグアナ…もとい、飛竜ルビアはニコッと嬉しそうに笑って徐に抱きついてきた。

《大当たり~♪飛竜族の皇太子なのね、竜使いさま!》

『え?』

 ビックリして受け止める光太郎と嬉しそうなルビアを見て、ルウィンが憂鬱そうに眉を寄せながら、素早くヤンチャな飛竜を窘めた。

「ルビア!余計なことは言うな。世界中が注目している”レゼル・リアナ”が自分だと知って、お前なら喜んで通りを歩けるか?」

《あう。それはそうだけど、ルビアは少し、舞い上がっていたみたいなの。ごめんね、ルーちゃん》

 思い出したようにハッとして、ルビアは恐る恐る受け止めている光太郎の腕の中から、申し訳なさそうに項垂れて謝った。
 やれやれと先行きの不安に眉を顰めるルウィンは、それでも暗闇ばかりではなさそうだと微かに安堵して吐息した。

「まあいいさ。どうやらルビアとは話せるみたいだし、少しは不便だが、なんとかやっていけるだろう」

 ちゃっかり腕の中に納まっているルビアは嬉しそうに笑うと、どんな会話が交わされているのか断片的にしか判らない光太郎が不安そうに覗き込んでくるその顔を見上げ、彼の不安に気付いているのかいないのか、屈託なくニコッと笑って頷いて見せた。

《まずは自己紹介が先なのね。飛竜族のルビアなの。彼は…》

 チラッと、不機嫌そうに眉を寄せているルウィンを見ると、彼は何か言いたそうな表情をして首を微かに左右に振った。

《あっちの怒りっぽい相棒はハイレーン族のルウィン。賞金稼ぎをしているのね》

『賞金稼ぎ?』

《そうなの。渾名はルーちゃん!…あなたは何てお名前?》

 誰が怒りやすいんだと悪態を吐くルウィンをまるで無視して、無邪気に問い掛けてくる小さな飛竜に、どうやら襲われる心配はなさそうだとホッとした光太郎は小さく笑って頷いた。

『俺は光太郎。秋胤光太郎。コータロー=アキツグって言った方が判りやすいのかなぁ?』

《コータローなのね?変わったお名前。でも、ルビアは大好きなの。ルーちゃん、彼はコータローと言うのね》

「お前が言ったから判ってるよ」

 ルビアの言葉なら理解できるルウィンは呆れたようにそう言うと、肩を竦めて見せた。

『あ、その。ルビア?ここはどこなんだろう。俺、学校から帰る途中で雷が落ちて、たぶんそれに当たったんだと思うんだけど。友達と一緒だったんだ。俺、一人だった?ほかには誰もいなかった?教えてほしいんだ、ねえ、ルビア』

《ち、ちょっと待つのね。順を追って話さないとチンプンカンプンになってしまうの》

『あ、ごめん』

 焦って思わず捲くし立てた光太郎は、ハッと我に返ると赤くなってしまう。

『つい、言葉が判るからって調子に乗っちゃって。いや、でもいつもはこんなことないんだよ。どちらかと言うと彰の方がお喋りなんだ。あ、彰って言うのは俺の親友で…』

 焦って言い訳する光太郎にルビアはキョトンッと首を傾げ、言葉の判らないルウィンは眉を寄せる。

「何を言ってるんだ、ソイツは?変な奴だな」

 怪訝そうにそう言って、首を左右に振ったルウィンは小さくなる炎に勢いを与えようと、枯れ木を数本投げ込んだ。

『あ、あのさ、ルビア。彼、怒ったのかな?なんだか怒らせてばかりで、俺、申し訳なくって』

 シュンッとなってしまった光太郎がルビアに、ルウィンには理解されていないというのに小声でそう言うと、飛竜は不思議そうに相棒を見ながら首を振った。

《ルーちゃんはあんまり感情が豊かじゃないのね。でも、変なの。今日はよく怒るのね。ああ、そうなの。照れてるのね!》

『え?』

「何の話をしてるんだ、お前たちは。ルビア、余計なことはいいからソイツに着替えるように言うんだ」

 色々と入っているのか、膨らんだ荷袋から淡いクリーム色の服を取り出して、憮然とした表情でルウィンはそれを差し出した。

(なんだろう、これ)

 クリーム色の布の塊を受け取って、光太郎は不思議そうに両腕の中のそれを見下ろして首を傾げる。
 と。

《それに着替えるのね。その真っ黒けの服じゃ目立ってしまうの》

 ルビアがすかさずその疑問の答えを口にした。

(ああ、そうか。これ服なんだ。ただの布の塊かと思っちゃったよ)

 ヒョイッと膝から飛び降りたチビ竜が木陰を指差すと、少年は素直に頷いてそれに従うように立ち上がった。

「件の竜使いは自分の価値を知らないようだな」

 後ろ姿を見送るルビアに、木の爆ぜる炎を見つめながらルウィンが呟いた。

《そうみたいなの。なぜ、ここに自分がいるのかも判っていないみたいなのね》

 振り返ったルビアは訝しそうにそう言い、不安そうに炎の向こうのルウィンを見上げると、心許無さそうに顔を顰めた。

《ルビアは間違ってしまったの?本当は、コータローは竜使いさまではないのかもしれないのね…》

 珍しく気弱に項垂れるルビアを冷やかすように見下ろしていたルウィンはしかし、小さく吐息すると首を左右に振って見事に形のよい天然色の唇を開く。

「この際、どうだっていいさ。足手纏いが一人増えるも二人増えるも一緒だからな。食い扶持が増えることに変わりないんだ。アイツの面倒を見ながら、また竜使いを捜せばいいだろう」

 大きなエメラルドの瞳に炎を映しながら、小さな竜は相棒の言いたい真意を見極めようとするように真摯の眼差しで凝視する。

「…アイツが竜使いかどうかなんてことは、もちろんオレにも判らんさ。だが、どちらにせよアイツが気になるんだろ?竜使いとか関係なく」

 本来なら、ルウィン自身もその存在を求めて止まないはずだと言うのに、やけに淡々と、この若きハイレーン族の青年は、モジモジとしながら照れたように短い前足で頭を掻く小さな飛竜に言うのだ。

《すっごく気になるのね。どうしてなの?コータローが優しい目をしてるから…?》

 相変わらずの態度に苛立ちもせずに、ルビアは落ち着いているルウィンに心許無く首を傾げて見せる。

「オレが知るかよ。もしかしたら、アイツは本当に竜使いなのかもしれないし…お前の中に受け継がれている神竜の血は教えてくれないのか?」

《うーん…どうなのね?竜使いさまとかそう言うのとも、ちょっと違うような気がするの。ルビアには判らないのね》

「じゃあ、それが判るまで面倒を見てやればいいさ」

 困惑して項垂れるルビアに仕方なさそうにそう言うと、ルウィンは手持ち無沙汰に枯れ木を一本投げ込んだ。

「ところで、そろそろ教える気になったか?ルビア」

 珍しく優しい打開策を提案するルウィンに驚きながらも満足したように頷いていた小さな飛竜は、キョトンッと首を傾げ、その神秘的な青紫の双眸を見つめ返すと無害な小動物の仕草で首を傾げるのだった。

「やっぱり忘れてたのか。まあいいさ。オレたちの知らないって言う、お前たち竜族にのみ伝わる伝承とやらのことを教える気はあるか?ってことだ」

《ああ、竜使いさまと神竜の?簡単なことなの。神竜がお迎えするはずなのだけれど、神竜にはそれができないのね。遠い、千年もの昔、竜使いさまを亡くした神竜は泣いて泣いて、ずーっと泣いて、涙が枯れてしまうほど長い間泣いて、とうとう石になってしまったのね。その石になってしまった神竜を解放できるのは、竜使いさまの尊い涙だけなの。だから、竜族の長になる為には、竜使いさまを必ずお連れして、神竜を目覚めさせないといけないのね》

「ふーん。良く判らんが、神竜も随分と女々しいんだな。連れ合いの死はそれほど悲しいものなのか?」

 恋人のいないルウィンが納得できないと言いたそうに不平を言うと、故郷であるウルフライン国に愛しい皇太子妃の待っているルビアは仕方なさそうに小さく笑う。

《そのうちルーちゃんにもきっと判る時が来るの。自分が死んでもいいとさえ思える相手に、いつかきっと廻り逢えるのね》

「そんなものなのか?まぁ、どうだっていいんだけどな。でも、オレはソイツの為に死にたいとは思わないだろうな…絶対に」

 読み取ることのできない表情を浮かべ、燃え盛る炎を見つめながら呟く美しいルウィンに、ルビアは呆れたように溜め息を吐いてぶぅっと頬を膨らませた。

《ルーちゃんなら殺したって死なないの。ロマンスの欠片もない面白くない奴なのね!》

 他人事を自分のことのように腹を立てる小さなお人好しに、ルウィンは何も言わずに口許に小さな笑みを浮かべるだけだった。

「…それにしても遅いな。オレの服はそんなに梃子摺るような服だったか?」

 光太郎の遅さに漸く気付いたルウィンは立ち上がると、不思議な少年の消えた木陰に近付こうとした。
 と。

『わ!なんだこれ!?来るな!来るなってばッ!わわわ…あっち行け!うぎゃあぁ~ッ!!』

 いつからそうしていたのか、光太郎は真っ青な顔をして奇妙なものと格闘していたようだ。それはヘドロのような気持ち悪い緑色をした、粘々と纏わりつくような粘液の塊だった。 通常ならアメーバと呼ばれるようなその類の生き物は、RPGで言うところのスライムだろうか。

「何をしてるんだ?」

 呆れたように腕を組んだルウィンは、着替えを済ませた光太郎が必死に自分の学生服を溶かしているスライムと格闘している様を、面白そうに眺めながら声を掛けた。

『ルーちゃん!』

 思わず気の抜けそうな呼ばれ方をしたものの、ルビアで免疫のあるルウィンはしかし、顔を顰めて仏頂面をしながらのんびり歩いてくる彼の姿に気付いて今にも泣き出しそうな顔をしていた光太郎がパッと嬉しそうに笑うのを見返した。

『突然、頭の上からコイツが降ってきたんだ!学生服を放してくれなくて…』

 懸命に引っ張って取り返そうと試みてはいるものの、学生服は端からジワジワと溶かされていく。完全に消滅するのも時間の問題だろう。

『何だよこれ。もう、気持ち悪いな~』

「手を放せ、コータロー。お前は知らないだろうけど、服の次はお前を狙ってるんだぞ。判るか?」

 学生服を引っ張る腕に手を掛けたルウィンがそれを引き剥がそうとすると、光太郎は困ったような怪訝そうな表情をして見上げてくる。

『え?』

 どうしてルウィンが自分を留めようとしているのか理解できない光太郎は、不安そうな表情をして首を傾げた。

「悪食だからな、何でも喰うんだ…と言っても、言葉が判らなきゃここで死ぬんだろうけど」

 皮肉っぽく笑うルウィンに、光太郎は戸惑うように困惑した表情を見せる。

「ま、こんな所に”グレイド・ボウ”がいる方が、本来ならどうかしてるんだけどね」

(ぐれいど…ぼう?)

 語尾は誰に言うともなく呟いて、首を傾げる光太郎の目の前で腰に下げた華奢な意匠の施されている、鎖の巻きついた鞘から鈍い光を放つ剣を引き抜いた。
 賞金稼ぎである証のそれは、奇妙な殺気のようなものに包まれていて、光太郎は一瞬ゾクッとして学生服から手を放してしまう。

(もしかして!これって実は凶悪な魔物だったとか!?それを知らないで俺って…また彼を怒らせちゃうよう!)

 自分の情けなさにポクポクと両手で頭を叩いて反省する光太郎を、ルウィンは目の前のスライムよりも興味深そうな視線で呆れたように見る。

(変な奴)

 呆れて心中で呟くルウィンに気付きもしない光太郎は、何よりも現実的に目の前にいる不気味な魔物の奇妙な呻き声のようなものにギクッとして、思い切り身震いするとルウィンの背後に隠れてしまう。

「…」

 敢えて無言で何も言わないルウィンだったが、極めて正しい判断で行動した光太郎のその行為に免じて、今回は【男なんだから─】だとか【はじめから諦めるな─】と言った言葉は飲み込んで何も言わずに抑えておこうと思った。
 魔剣、或いは妖剣とも形容し得る威圧感でチリチリと空気を焼き付けるような、奇妙な剣の柄を握り締めたルウィンは、然して面白くもなさそうに今しも制服を溶かし切ろうとしているスライムと対峙した。
 本来なら斬っても斬っても分裂してなかなか倒すことのできないスライムでも、ルウィンのような賞金稼ぎにはただの雑魚に過ぎないのか、あまり興味がなさそうだ。

「ったく、一銭の得にもならん」

 要は金銭の問題であって、この魔物に賞金でも懸かっていれば話しは別だったのだろう。悪態を吐いて振り下ろしたボウッと発光している白刃は魔物の断末魔を伴いながら確実に地面へと吸い込まれていく。
 つまり一刀両断したわけだが軽く片手を振ったようにしか見えない。しかしスライムの身体は不気味などす黒い煙を噴出してジクジクと溶けていった。

『すごい、すごい!ルーちゃんって強いんだね!』

 面白くもなさそうに刀剣に付着した魔物の体液を一振りで払い落とし、鞘に収めようとするルウィンの服をくいくいっと引っ張りながら、ヒョコッと背後から顔を覗かせた光太郎が興奮したように尊敬の眼差しで見上げてきた。

『俺の住んでる世界だと、身近な戦いって言ったらスポーツぐらいしかないんだ。こんな戦いだとゲームしかないし、こうして実践してみると泣きたくなるぐらい弱いんだなーって実感しちゃったよ!』

 別に自分が戦ったわけではないのだが、安心したようにホッとしてしっかりと両手で腕を掴んでくる光太郎がニコッと笑うと、ルウィンは少し気圧されたようだったが、その良く言えば順応性のある、悪く言ったら自己中的な性格は今後に役立つだろうと自分に言い聞かせて諦めることにした。

「…どうも調子が狂うな。オレのことはルウィンと呼べ。ルビア、コイツにそう伝えるんだ」

 振り返った先、立ち竦んだように二人の足元を見据える小さな竜に気付いた光太郎が不思議そうに声をかけた。

『あれ?どうしたんだい、ルビア』

 さり気なく腕を引き抜いたルウィンはだが、その姿を見ても別に気にした風もなく何も言わずに炎の傍に戻って行ってしまう。

『あ』

 知らん顔で立ち去るルウィンの背中と小さな飛竜を困惑したように見比べていた光太郎は、困ったように眉を寄せて悩んでいたが、決心したように小さな真紅の飛竜の前にしゃがみ込んで首を傾げた。

『どうしたの?』

 ルビアはハッとして、それから驚いたように首を左右に振った。

《ううん、なんでもないのね。ちょっと、ビックリしただけなの…えっとね、これからルーちゃんのことはルウィンって呼べって言ったのね》

 慌てて首を左右に振りながらパカッと爬虫類特有の口を開いて笑ったルビアは、ふわりと舞い上がると驚く光太郎の腕の中に収まった。そしてまるで、誤魔化すようにルウィンの言葉だけを光太郎に伝えたのだ。だが、それは案外功を奏して、光太郎はその言葉を額面どおり素直に受け止めているようだった。

『そっか、渾名で呼んだから怒っちゃったのか。また俺、迷惑かけちゃった。ごめんね、ルビア』

 謝る光太郎に、ルビアは心ここにあらずの上の空で答えていた。
 本来ならけして出ないであろう場所にいたグレイド・ボウと呼ばれるスライムは、不吉なことの前兆のようでもある。生態系に何か異変が生じているのか、魔物の異常発生も気になるところだ。この世にいなかったはずの人間の出現か、或いは神と呼ばれる者の降臨に世界の均衡が耐え切れなくなっているのだろうか…
 ルビアは、小さな飛竜の態度を不思議そうに首を傾げて見守る光太郎を見上げ、そして素知らぬ顔で荷物の整理をしているルウィンを見た。
 何が起きても、どんな災いを拾いこんだとしても、彼は常にああして飄々と生きるのだろう。辛いだとか、苦しいだとか、皇位継承の問題でない限りは眉一つ動かすこともなく…
 いや、その皇位ですら今の彼にとっては道端に落ちている石よりも意味のないことだと思っているのだ。
 光太郎の介入が、いったいこの世界をどう変貌させていくのだろうか。そして、何を遺すのだろう…
 今まで絶対的に信頼していた竜使いの存在に、不意にルビアは針の穴ほどの不安を覚えていた。
 それはまだ小さくて、一握りしかないのだけれども。
 小さな飛竜は優しくて温かな腕に守られながら、なぜか必死に光太郎の幸せを祈っていた。

Prologue.旅立ち4  -遠くをめざして旅をしよう-

 海を渡り、丘を越え、深い森を抜けながら、〝予言の竜使い〟の噂は風のように世界に広がっていった。
 荒れ狂う北の海を拠点に暴れると言う、深紅の髪がトレードマークの隻眼の男を筆頭に掲げる海賊〝疾風(ゲイル)〟にもその噂は届いていた。
 珍しく晴れた穏やかな凪の日、遠くをのんびりと進む商船の目印とも言えるべき純白の帆を眺めながら、遠見鏡で肩を軽く叩く男が呆れたように後方を振り返ると、甲板に持ち出したデッキチェアに獅子のように長々と寝そべった深紅の髪の男、この船の船長であるレッシュ=ノート=バートンは、まるで牙の抜けたキングコブラか何かのようにダラダラとだらけている。

「あんなところにお宝が転がってますぜ、お頭。あたしを食べてvと股を開いてんですから喰いましょうよ」

「やだね。竜使いが絶世の美女だったらどうするよ?そうだな、ルウィン野郎のお袋さんみてぇなすっげぇ美人さ。あんな二束三文は放っておけ」

 あの人は男じゃねーかよ、と言外に筋違いの悪態を吐きながら、見張りの男は残念そうに目の前を悠々と、しかし本人たちは死に物狂いの速度で通り過ぎていく純白の帆を恨めしそうに見送っている。
 そして、唐突にハッと我に返った男はなんとも情けない顔をして大袈裟に頭をぶるぶると左右に振るのだ。

「そう言う意味じゃねぇよ、お頭!どうして突然、狩りを止めちまったんですかい!?」

 遠見鏡を振り回す勢いで詰め寄るムサい男に、レッシュは面倒臭そうに眉を寄せて身体を退くと気の抜けた欠伸した。

「そりゃあ、ヒース。竜使いって至宝が降ってくるんだぜ?そいつをゲットしねぇであんなもんの尻を追い駆けてられっかよ。なぁ」

 ちょうど船室から出てきた副船長のデュファンが不機嫌そうに寄せた眉で眉間に深い皺を刻んだまま、ダラダラと部下とじゃれ合う頭領に偏頭痛らしく顳かみを押さえながら首を左右に振って見せた。

「話の途中に参加させるな。それよりも遊んでねぇで航路ぐらい確認しろ」

 ポンッと投げて寄越した紙切れをキャッチして、レッシュは厳つい顔の割には律儀なデュファンをニヤニヤと笑ってからかった。

「お前がいるから構わんだろうーが」

 こっちが構うんだけどな、と言いたそうな表情をして溜め息を吐いたデュファンは、遠見鏡を持ってガックリと項垂れているヒースの肩をポンポンッと励ますように叩いてやる。
 と。

「嵐が来るかもな。風向きが変わった」

 不意に身体を起こしたレッシュが天を仰いでそう言うと、デュファンとヒースはそんな彼を振り返る。

「渡り鳥が騒いでるぞ。竜使いはすぐそこだそうだ」

 まるで鳥たちのざわめきを理解できるかのようにレッシュは立ち上がると、遥か彼方を睨み付けるように見据えている。

「南だ。南に向けて全速前進!」

「イエッサー」

「やったぜ!やっと動けるぞーーーッ!」

 デュファンが片手で挨拶して踵を返すのと、漸くだらだらした生活ともおサラバできるヒースが飛び上がらんばかりに喜んで叫ぶのとはほぼ同時だった。
 レッシュはいつものことに鼻先で笑ったが、ふと、何故かいつもらしくもなく、胸の辺りにムクリッと何かが起き上がるのを感じて首を傾げた。

(何だ、この感じは?)

 起き上がったもやもやは容易には消えそうもなく、それは不意に、意志とは無関係のところでソワソワと動き出した。
 恐れのような…不安?

(まさか…な)

 振り払うように首を左右に振って、彼は眼前に広がる海原を見据えた。
 風が、彼の深紅の髪を巻き上げて吹き過ぎていく。
 灰色の隻眼を僅かに細めて、目に見えない予言の獲物を肌で感じるように、彼は自信に満ちた双眸で遥か遠くを目指すのだ。
 ほんの一握りの、一抹の不安を抱えながら…

Prologue.旅立ち3  -遠くをめざして旅をしよう-

 誰も立ち入らない魔性の住まう森の奥深く、静謐と佇む古城があった。周囲は湖に囲まれ、城の主がその気になった時にのみ、中央に上げられた吊り橋から入城できる仕組みになっている。
 どんな魔物がそこに住まうのか、この国の人々の大半はそれを知っていた。だからこそ、その悲しい主のことを悪く言う者はただの一人も居ない。
 近くの村に住む人々はこの城を〝眠れぬ森の孤城〟と呼んで、遠巻きに眺めているだけだった。

「皇子が婚姻する…と?まさか、あの腕白小僧が?」

 森を見渡せるバルコニーに佇むその人影は、背後から囁かれた秘密の噂に少しだけ驚いたように柳眉を上げて微笑んだ。

「お相手はファルーン・フィエラ国の第二王女だとか…」

 密やかな声音は脇に控えた麗しい女戦士の口許から零れ落ちている。

「そうですか。あの国の第一王女は既に身篭られてお出でだとか。惜しいでしょうね、年の頃はちょうど見合うと言うのに。第二王女と申せば、まだ年端もゆかぬ子供ではないですか」

「今年で漸く十を数えられるかと…」

 困ったように柳眉を顰めた絶世の美姫は、腰までもありそうな長い黒髪を悪戯に入り込む風に遊ばせながら、首を左右に振って遠くに煙るように見える優美な城を眺めていた。

「確かにゾッとしない計画ではありますね。しかし、陰謀と呼ぶにも浅はかな…あの方もアスティアの行動には随分と参っておいでのようで」

 クスクスと悪戯を楽しむ子供のように微笑んだこの世のものならざる美貌の人は、不意に振り返ると、傍らに片膝をついて控える女戦士を困ったように苦笑して見下ろした。
 優美で美しい、女でも男でも引き寄せられてしまう柔和なやわらかさを持った美貌の主に、彼女は少し頬を染めた。
 女戦士は何も言わずに頭を垂れる。

「わたしの息子であり、弟でもあるあの子は、それほど軟な性格はしていませんからね。面白くなりそうです」

 にっこりと微笑まれた、この国の麗しき皇后陛下にして前皇位継承者であった彼は優雅に口許に触れると、青紫の双眸を不敵に細められた。

「我が国ガルハにとっても良い縁談かもしれません。しかし、お互いに望む道もあるでしょうに」

 ふと、女戦士が物言いたそうな双眸で后妃を見上げると、それに気付いた彼は口許に当てていた片手を下ろし、柔らかな微笑を浮かべた。繊細そうな手首に嵌められた高価な二対の腕輪がシャラン…と儚い音を立てる。

「わたしの道ですか?わたしは、こうして躊躇いながら進むこの道が案外好きなのですよ」

 運命と同じ重さで揺れる腕輪を愛しむように彼は見下ろした。
 女戦士は悲しげに眉根を寄せたが、皇子の持つ性格は母譲りなのか、それほど気にした風もなく后妃はゆっくりと室内へと歩を向ける。
 この世の美しさを集めて鏤めたような后妃と言葉数の少ないこの護衛の女戦士、そしてあと何人かの使用人が居るぐらいで、この孤城は酷く静かにひっそりと佇んでいた。
 城内に世にも得がたいと世界中から賞賛を浴びた生きた宝石を隠しながら、この城は誰の目にも触れながら干渉されることはない。
 世界中から隔離されたこの空間は、国王が与えた最大の罰であり、そして愛でもある。
 愛する妻を誰の目にも触れさせたくないという国王のその我が侭は、絶対的な権力として后妃を縛り付け、彼の愛する我が子から引き離すことになった。
 それを嘆くこともなく彼が受け入れるのは、生まれ落ちたその瞬間から、教え諭されていたからだろう。彼は皇位継承者としてではなく、継承者を生み出す母として育てられてきた。
 そう、この哀しい孤城でひっそりと世界中から隔離されて暮らす、ガルハ帝国の皇后陛下であるヴェルザ=ライト=バーバレーンは将軍として国を守り、何時の日かこの国を支える皇子を生むという行為でも国を護ると言う、悲しい使命を受けた後継者だったのだ。
 ある意味、最高の被害者であるはずの彼は、それでも待望の世継ぎを生して日々を恙無く暮らしている。
 ただ一つ惜しむべくは、愛する子供たちと暮らせないと言うこと…しかし、それも最愛の子供たちの為であるのならば、彼は腕に下がる烙印の証しさえ愛おしくなるのだろう。
 呪われた血を疎むでもなく世界中を駆け巡る見えない自由の翼を持った、この広い世界の何処かにいる最愛の皇子を、后妃は遠く想いながらふと微笑んだ。

「熱いお茶がいいですね。身体がゆっくりと休まるように」

 華奢な意匠を施された椅子に腰を下ろし、后妃は内心を悟らせぬ微笑を浮かべて女戦士に促した。

「畏まりました、ヴェルザライトさま」

 女戦士は恭しく一礼すると、サッと部屋から出て行った。その後姿を見送っていた后妃の相貌から不意に笑みが消え、感情の窺えない能面のような、ともすればゾッとするほど美しい彫刻のような面持ちだけがそこに残る。
 小さな円卓に頬杖をついて、繊細そうな人差し指を口許に当てて何やら考え込んでいたヴェルザライトは、マントルピースにある小さな額に視線を留めると暫くそれを眺めていた。
 銀髪の赤子を抱えた自分の姿が描かれている肖像画は、男としてはあまりに優しすぎる表情をしている。いや、男…とその性別を言ってしまうのも憚れるような清楚で美しい面立ちだ。

「自分の道が正しかったか…だと?そんなこと、誰も判りはしない。ただ、一つだけ言えるとすれば、王として生きる道よりも随分楽だし、幸せだと言うことは確かかな。ルウィンには申し訳ないけどね」

 立ち上がってマントルピースまで行ったヴェルザライトは片手で額を持ち上げると、キョトンッとした大きな瞳の愛らしい我が子に独り言のように呟いて微笑みかけた。

「竜使いがお出座しするらしいよ、ルウィン。気をつけて、そして必ず生きて帰るように。君はわたしの、大切な息子なのだから…」

 愛しそうにクリスタルの嵌め込まれた額を撫でるヴェルザライトの表情は、海のように深い愛情で満たされている。それは、誰も知らない彼の本当の素顔だ。

Prologue.旅立ち2  -遠くをめざして旅をしよう-

 漆黒の闇が支配するような、黒天鵞絨の垂れ幕が覆う室内には緊張した空気が流れていた。
 大きな机を囲むようにして着席した一同の表情も、どこかぎこちなくソワソワとしている。

「殿下がまたもや城を抜け出されたそうで…」

 堪りかねた誰かが口を開くと、まるでそれを待っていたかのように集められた主要家臣の面々は、一様に頭を抱えて意見の交し合いを始めるのだった。
 どこからともなく入り込む風に、明り取りの蝋燭が一瞬、酸素を得て燃え上がる。

「王家の威信にも関わるお振るまい。もうこれ以上は、黙って見過ごすわけにもゆきますまい」

 ことは王位の問題とあって、居並ぶ重臣たちは上座に御する渋面の、先端の尖った異形の耳を有する老齢な主に注目した。

「皇位継承権の剥奪か。ふむ、皇子は泣いて喜ぶじゃろうな」

「陛下。殿下は事実上の皇太子であられる、このガルハ帝国にとって命にも値される尊いお方。その殿下が賞金稼ぎ如き下賎の職に御身を貶められておいでなどと、他国に知れようものならばそのお命も危ぶまれましょう。これ以上にない、由々しき事態ではありますまいか」

 安穏と口を開く王に、同じく異形の耳を有する重臣が本当はそんなこと望んではいないのだと言うように窘めたとしても、彼の主はやれやれと首を左右に振るばかり。

「賞金稼ぎとな!…下賎にその身を貶め、いったいその先に何があるというのか。いや、判っておる。判ってはおるが、あやつの思惑は皇位継承の剥奪、まさにそれなのじゃ。あれの意思は、あれの母に似て強い。知恵も頗る聡明じゃ。あれ一人に百万の護衛をつけたところで、翌朝には姿もなかろう」

「…」

 一同は言葉もなく顔を見合わせる。
 さすがは皇子の父上であられる、彼の性格を誰よりも心得ているのではないか。

「…我らが如何に口を閉ざそうとも、噂と言うものは野に荒れる風の如き素早さで瞬く間に国中に知れ渡ることでしょう。時期に各国にも流れてゆきます。このままでは、まさに殿下のお命に関わるのではないでしょうか」

「殿下の今のお立場は常に危険と背中合わせです。賞金稼ぎと言う職に乗じて、刺客を送り込む国もないとは言いきれません。ましてやこの時期です」

 控え目に口を開く年若い重臣に大きく頷いて、幼い頃から件の皇子の指南役として共に成長してきた将軍が心持ち憂鬱そうな表情をすると、こめかみを押さえる国王に意見した。

「若輩であるにもかかわらず、あれの行動には躊躇いがない。恐れすらないのではないかと思わせるほどじゃ。いや、年若い故の愚かさか…いずれにせよ、皇子は縛られることを疎んでおる。皇位すら例外ではないのだろう」

 吐息して、老齢の王は暫し瞑目する。
 この場に居並ぶ重臣の、いったい誰が唯一無二の皇子から継承権を剥奪したい、などと考える者がいるだろうか。
 意外に、破天荒で寂しがり屋の皇子には重臣たちの熱い人気があるのだ。国民も然りで、だからこそ国王は皇子の少々の我侭にも目を瞑り、慈しんで育ててきた。
 出生が誰よりも複雑だと言うのに、彼はいまいちそう言うことは気にしている風でもなく、却ってどう言うわけか、身分と言うものに酷い嫌悪感を持っているようだ。
 ある意味では、それが父親である王に対する最高の抵抗なのかもしれないが…
 驚くほど気品のある面立ちには不似合いの、親しみやすいその下世話さが、あるいは国民や一部を除いた重臣たちからの不動の信頼を勝ち得ているのかもしれない。
 しかし、それにも限界はある。
 重い沈黙が暫く続き、瞑目していた王がゆっくりと双眸を開いた。

「しかし、特権を得る王族の制約とはそれほど生温いものではない」

 王はたっぷりと蓄えた顎鬚を緩慢な動作で扱きながら、遠い空の下で奔放に飛び回っているのであろう銀髪の生意気な青年の母譲りの美しい顔を思い浮かべ、眉間に皺を寄せながら首を左右に振るのだった。

「特権などいりませんよ」

 不意に凛とした、居並ぶ誰もが一度は耳にしたことのある聞き慣れた声音が、静まり返った広間に波紋を投げかけるように響き渡った。その場にいた一同は、驚愕したように今朝方、抜け出したばかりの声の主を凝視した。
 王がゆっくりと首を傍らに巡らせると、いつからそこにいたのか、天鵞絨の垂れた壁際から姿を現した噂の青年は、長い旅を物語る草臥れた漆黒の外套に身を包んで立っている。

「旅に出る前にご挨拶でも…と思っていたのですが。まだこんな下らない閣議を開いておいででしたか」

 王族として、当たり前のように宮殿内で大切に守られている他国の皇子や、戦しか知らない身勝手な何処かの国王たちのような甘えを持ってはいない強い光を放つ双眸が、優しげな口調のわりに、皇子が見つめてきた厳しさを静かに物語っている。

「アスティア」

 国王が静かに放蕩皇子の名を口の端にすると、彼はそれに応えるように口許に笑みを浮かべたが、その青紫の神秘的な双眸は揺るぎ無く淡々としている。

「それなりの制約があるからこそ、身分と言う特権もあるのだぞ。そなた、何が不服と申すのか」

「その身分と言う砂上の城に胡座をかかれた父上には、わたしの意志などお判りにはなりませんよ」

 皇子の行き過ぎた言動を咎めようと立ち上がりかけた家臣を片手で制し、王は頑なな息子の双眸を見つめ返して小さく嘆息した。

「何が言いたいのだ、そなた」

「あるいは何も…思惑など、どうでもいいことなのかもしれません。ただの私事なれば、父上のお気を揉むことでもありますまい。貴方の治世が恙無く続く限り、わたしは放蕩皇子がよいのです」

「ふむ、されば。そなたの治世となれば、今までの言動を悔い改め、恙無く王位に属すると言うのだな?」

「まさか!ご冗談を」

 本気で声を立てて笑う皇子を、居並ぶ一同は固唾を飲んで見守るしか術がないようで。

「なるようにしかなりませんよ、陛下」

 誰にともなく呟く皇子の、銀色の頭髪に燭台の灯りがオレンジの光を燈す。

「わたし如き若輩者の下らない行為に、御身の貴重なる時を割かれますな。どちらにせよ、わたしが大人しく城に留まるはずもないことを、貴方が一番良く存じているではありませんか。学ぶべきものはまだ、星の数ほど散らばっています。この世界はとても魅力的だ」

 言葉尻の通り、とても魅力的な微笑を浮かべる皇子に、頭を抱えたくなった王は肘掛に肘をつき、こめかみの辺りを押さえながら首を左右に振る。

「世界の魅力も結構だが、そなたはこのガルハ帝国の皇太子になるべく皇子ぞ。何処の馬の骨とも判らぬような執着など棄て、国の行く末を少しは考えてみてはどうじゃ。そなたの想う、世界ほどにな」

「それは父上のお役目です。貴方の治世は、貴方が望まざるともまだ続く」

「…先見の術も、衰えてはおらぬようだの」

「恙無く」

 母譲りの魔力は計り知れないが、皇子は何でもないことのように静かに微笑んだ。

「貴方の治世が続くと言うのに、今から身分に縛られるなんて真っ平だ」

「皇子!」

 語尾を吐き棄てるように言い放つ皇子に、一同はいつものことにまたしても頭を抱えるが、王はついに高血圧らしくカッと頭に血を昇らせた。

「いい加減にせぬか!そなたに王族としての誇りはないのかっ」

「ありません。人としての誇りはありますけどね」

 悪戯っ子のように少しだけ舌を覗かせた皇子は、次いですぐに微笑むと、見事に優雅な一礼をした。

 身に纏うものがどれほど草臥れていたとしても、その仕草は王族たる所以のように堂々として、如何なる者の視線をも全て釘付けにしたであろうと思わせるほど美しかった。

「わたしがここにいますと、どうも貴方のお身体に障るようだ。それではこれにて失礼します」

「殿下!」

 慌てたように幾人かの将軍が制止しようとしたが、皇子は聞く耳など持ってはいないとばかりに無視して踵を返そうとしたが、ふと立ち止まり、怒りに打ち震えながら玉座に腰を落ち着けた王を振り返った。

「父上と母上の息子としての誇りも、もちろんあります。掛け替えのない、名誉だと」

 激昂していた王が、不意にその怒りを静め、遠くを見るように双眸を細めて何かを言おうとする皇子を眺めると、彼は暫くその双眸を見つめ返していたが、結局何も言わずに口許に小さな笑みだけを残してその場から立ち去ってしまった。

(でた、皇子の必殺親殺し)

 物騒なネーミングではあるが、家臣の間では実しやかに流れている言葉の愛称なのである。皇子がその言葉を口にすると、国王がどんなに火蜥蜴の主のように怒り狂っていても一瞬のうちに沈下させてしまうと言う必殺技なのだ。
 皇子を溺愛している国王にだからこそ効く必殺技なのだが。
 水を打ったように静まり返る広間で、誰ともなく目線を交えた重臣たちはしかし、何も言えずに困惑した面持ちで玉座に鎮座ます王を仰いだ。
 老齢の王は暫く瞑目していたが、やがてゆっくりと双眸を開くと、やれやれと吐息するのだった。

「予言の竜使いも間もなく現れようと言う今、あれを野放しにしておくわけにもいかんだろう。王族の制約を忌み嫌うのなら、あれが尤も気に入るようにしてやろうではないか。後宮に后でも迎えれば、あやつとて立太子せずにはいられまい」

 咳き込むようにそう言って、王は一息つくと重臣の一人に言い放った。

「各国に触れを出すのじゃ。剣豪王ブラジェスカ=ハイン=バーバレーンの次代後継者であるアスティア=シェア=バーバレーンが正妃ほか側室を迎えるとな。我こそはと思う各国の姫君を集めるのじゃ!」

 一同は驚きに瞠目して国王を凝視した。
 ご乱心召されたのでは、と思ったのだ。
 火噴きドラゴンよりも狂暴なあの皇子を政略結婚させようと言うのだ。有力な姫君と婚姻することによって国は勢力を得て、皇子は家族を得ることで玉座に縛り付けられる。案外、優しい性格の皇子だから家族を得ればフラフラと国外逃亡などはしないだろう。これ以上にない名案だが、一同は困惑と恐れが矛盾なく入り混じる複雑な表情をして、眉間に深い皺を刻む老齢な王に注目した。
 無理だろう…と、誰もが心中で思っていたが、もしやと言う希望もある。
 こうして、国王の下した決定はすぐに国中に広がり、野を渡る風のような密やかさで世界中に流れていった。
 皇位継承権を何とか放棄したい皇子の、その預かり知らぬ婚姻話は予言の竜使いの出現と並行するように大きな噂となって広がっていくことになる。