4  -EVIL EYE-

 結局、午後から学校に行くことにした俺は、昼休みで賑やかな教室のドアの前で深呼吸をした。
 俺は、こう見えても友達は多いほうだ。
 中には、俺の表情で今日の気分を見抜くヤツだっている。
 だから、昨夜のことは全部嘘だと自分に言い聞かせて、震える指先を握り締めながら、教室のドアに手を掛けた時だった。突然、内側から勢い良く横開きのドアが開いたんだ!
 …ったく、いったい誰だよ?
 学生鞄の代わりに愛用しているスポーツバッグを肩から提げている俺に気付いたソイツは、ちょっと驚いたように、鬱陶しいぐらい伸び放題の前髪の隙間から陰気そうなツラをして見下ろしてきた。

「なんだ、安河か。あれ?こんな時間に何処に行くんだよ」

 目障りなほど鬱陶しい前髪に両目を隠して…って言うか、コイツの場合、図体のわりには驚くほどボーっとしてて、実際、何を考えてるのか判らないところがあるもんだから色んなヤツに目を付けられる。んで、何も言わないし、小突かれてもぼんやりしてるばっかりに、ヤンゾーたちに目を付けられてパシリとか、丁度いい小間使いに使われるんだよな。
 そう言うの見てるとムカムカしてたから、何時からか俺はコイツの友達になっていた。
 とは言っても、口数とかメチャクチャ少ないし、友達らしいこととかそんなにしたことはないんだけどなー
 何時も目の端にいる存在だし、朝の声掛けも、まぁ、昼飯も一緒に食うこともあるんだけど、日曜日に映画に行くとか、何処かに遊びに行くほどの付き合いはない。それなのに、気付いたら安河は俺に懐いていた。

「相羽…ちょっとパンを買いに行こうかって…」

「パン~?この時間に行っても、もうねーんじゃねーのか」

 俺が呆れたように笑ったら、ちょっと動揺したような顔をしてフイッと目線を逸らしてしまう。
 これ、コイツの悪い癖だよな。
 人と話してる時に目線とか離すから、ヤンゾー連中に絡まれて小突かれるんだよ。
 でも俺は、すぐにムッと唇を尖らせるんだ。

「さては、また誰かにパシられてんな?ったく、今度はどいつだよ?」

 頭ひとつは上にあるんじゃないかって、俺たちのクラスでも背の高い方に入る安河は、いつもボヘーッとしていて、何を考えてるのか判らないツラをしてんだよな。そのくせ、臆病でビクビクするから、ヤンゾー先輩たちに目を付けられて、気分次第で財布を取り上げられるんだよ。

「いや、違う。今日は自分の…相羽が来なかったから、気付いたらこんな時間に…」

「え?あ、そーか。何時も学食に連行してたモンな。そっか。俺も昼飯食ってないんだよなぁ…今から学食つっても、もう時間もないか」

「…」

 いつもはボーッとしてるくせに、たまにこんな風に動揺してるようにモジモジするのは、たぶん、一刻も早くこの場所から立ち去りたいんだろうと思う。
 コイツは何時もそうだ。
 みんな、見ていて苛々するから、よく俺が根暗の安河やすかわ 万里ばんり とつるんでるなと不思議がっている。俺だって苛々する、苛々はするんだけど、別にそれほど嫌ってワケでもないし、女子が言うほど気持ち悪いヤツでもない。
 話せば意外と真面目な返事もすれば、小さな犬にはにかむように笑う一面だって持ってるんだ。一概には信じらんねーんだけど。
 ただ、コイツはどうも俺のことは敬遠してるみたいだ。
 できれば、避けたいとか思ってるに違いない。
 そのくせ、腕を引っ張って学食に連行しようと、体育の時に集中的に狙っても文句一つ言わず、俺にされるがままになっているし、こんな風に、俺がたまに相手をしないとぼんやり待ってるような一面もあるから、嫌なんだけど、懐いてる…ってそんな感じだと思う。
 まさかとは思うけど、俺が生活の一部…ただの習慣になってるだけだとか?
 だから、嫌なんだけど切り離せない、絶対悪みたいな存在…とかだったら、嫌だぞ。

「ま、いっか。帰りにラーメンでも食うし。安河は…って、お前はパスだよな?」

 と言うか、今は俺が安河に近付きたくない。
 丁度、アイツもこれぐらいの長身だったし…いや、もっとデカかったな。190センチは余裕であるんじゃないか?俺を軽々と抱え上げたり、見上げる目線の高さももっと上だったような気がする。でも、こんな風に見下ろされていると、もしかしたら、いや、そんなのは妄想で、そんなことはあの変態野郎以外には考えもしないってこた判ってるんだけど、このまま覆い被さってこられたら…俺は逃げ出せないと思うから、怖いんだ。
 今だって、よく判らないけど緊張して、却って俺のほうが不自然だと思う。
 だから、困ったように笑って、安河がそうであってくれることに感謝しながら、片手をヒラヒラと振ったんだ。

「!」

 ふと、いきなりガシッと手首を掴まれてギョッとした。
 振り払いたいのに、イキナリの行動に脳が追いつかないのか、判らないんだけど硬直したように身体が固まってしまった。

「…な、何だよ」

 漸くそれだけ搾り出せたんだけど、安河のヤツは相変わらず何を考えてるのか判らない感じで、モゴモゴと篭ったような口調で言いやがった。

「手首…」

 それで、漸く我に返ったように、俺はハッとして掴まれた腕を振り払って自分の手首を掴んでしまった。
 見られた、縛られて擦り切れて、鬱血してしまっている手首を…

「何か…」

「な、なんでもないんだよ。ハハハ、ちょっと怪我しちゃってさ」

 見っとも無いほど動揺して笑ったりすれば、何か起こったんじゃないかってことがバレるに決まっているんだけど、それでも俺は誤魔化すように笑うしかない。
 ぼんやりしている安河は…「そうか」と呟いただけで、それ以上は詮索しようとしないから、俺は思い切り安堵してホッと息を吐いた。

「あっれぇ?なんだ、相羽じゃん。遅いご登校ですこと…って、なんだよ。また安河にストーカーしてんのか」

「誰がストーカーだ」

 安河を押し遣るようにして教室から出てきたのは、コイツもやっぱりムカツクぐらい長身の兵藤だ。
 気のいいヤツで、クラスでもそれなりに人気があって、悔しいかな、女子には頗る大人気の兵藤要王子さまだ。どうかしてるよな、女子って。こんなこと面と向かって言ったら殺されるけどさ。

「昼飯について講義してたんだよ。な?安河」

「え?…えっと、その」

 ぼんやり俺たちの話を上の空で聞いていた安河は、突然話を振られて言葉に詰まっているみたいだ。
 その姿に兵藤は思わずと言った感じでプッと笑ったけど、俺は呆れたように溜め息を吐いて、ムッと口を尖らせてやった。

「ちゃんとさ、俺たちの話も聞いてろよ?」

「え?そっちかい」

 兵藤が驚いたように眉を跳ね上げるけど、こっちこそ「はぁ?」だよ。

「安河は人の話を聞かな過ぎるんだよ。だから、なんか何時もボーっとしてるって勘違いされるんだ」

 兵藤はたまげたとでも言いたそうにヘンな顔をしやがるけど、安河は驚いたように鬱陶しい前髪の隙間から俺を見下ろしている。

「髪型もいかんね。切ってみたり、上げてみりゃいいんじゃねーかな?」

 ヒョイッと気軽に前髪を掻き揚げたら、もう、俺の行動に成す術もないと観念しているみたいな安河は、されるがままになりながら、ジッと見ていたはずの視線をふいっと逸らしてしまった。
 顔立ちもイイ感じなのにな、どうして、安河は兵藤みたいに派手な感じで格好つけたりとか、お洒落とかしないんだろう。兵藤よりは似合うと思うんだけどなぁ。
 そう言えば、兵藤はスゲー派手なヤツだから、アイツ等の仲間かも…って言えば、そんな感じだよなぁ。
 年齢とか判らないけど、たぶん、俺よりも1個か2個ぐらいは上なんじゃないかと思う。
 身体能力とかずば抜けてるみたいだったし…ホント、アイツ等は何者だったんだろう。

「おいおい、何を見詰め合ってんだよ。つーか、一方的に相羽が見詰めてる感じだけどな」

 安河はと言うと、急所を掴まれた動物みたいにまんじりともせずに、俺の出方を怯えたように観察しているみたいだ。そろそろ、手を離してくれればいいのに…とか、やっぱ考えてるんだろうな。

「おっと、いかん。微妙にトリップしてた。ごめんな、安河…って、もう予鈴がなっちまったな。じゃ、またな」

 俺はパッと掻き揚げていた手を離して慌てたんだけど、頭上で暢気なチャイムが、授業が始まるぞクソガキどもがと言うように鳴り響いたから、結局、お互い昼飯抜きなんだけど仕方ないよなと笑って、安河に手を振ってやった。
 バサバサと前髪が被さって表情はよく見えなかったけど、安河はちょっと頬を赤くして頷いたみたいだった。そりゃ、男の俺にマジマジと凝視されたんだ、居心地悪くもなるよな。
 これが普通の反応なんだ、カタラギがどうかしているんだ。

「おいおい、ヒッデーな!俺への挨拶はなしかよ?」

 肩をグイッと掴まれて、兵藤は何時ものように気軽なつもりの行動だったんだろうけど、激痛のある身体を持て余している俺としては思わず「うッ」と顔を顰めてしまった。だけど、苦痛の声が出る前に女子の黄色い声がワッと上がったりするから、痛みに青褪めながらも思わず驚いてポカンとしちまったじゃねーか。

「やっだー!兵藤くぅーん」

「ヘンなカンジぃ」

「キャハハハッ」

 美形の兵藤が俺なんかと戯れるのがそんな面白いですか、シンパの皆さまがた。
 黄色い声に気圧された俺は、なんかドッと疲れてやんわりと首に腕を回してニヤニヤ笑っている兵藤の脇腹にエルボーを食らわせて、呆気なく撃沈させながら自分の席に着いたんだ。
 今までなんとも思っていなかったこんな触れ合いの一つ一つに敏感になって、緊張するなんか思いもしなかった。ましてや、身体に激痛が走っている今なんかは、冗談でも触って欲しくない。
 はぁ…草臥れた。
 まだ1時間も経っていないのに…来なきゃよかったな、学校。

3  -EVIL EYE-

 何処をどう歩いて帰り着いたのか、気付いた時、俺はジリジリと脂汗が浮き上がるような痛みに引き攣る身体を引き摺るようにして玄関前に突っ立っていた。
 何が起こったのか、全部覚えている。
 あの後、信じられないんだけど、夜明けまでの中途半端な時間の中で再び俺を抱いたカタラギは、俺の胎内にもう一度子種を撒き散らして、名残惜しそうに射精することのない俺のペニスを弄びつつ、別れを惜しんでいるみたいだった。
 でも、その後の記憶がすっぽりない。
 たぶん、ここに立ち竦んでいるのは…状況だけ考えると、カタラギが俺をここまで連れて来たんだと思う。それで、あの時に言っていた奴らの棲み処?…か何か判らない場所の記憶を消して、何処をどう歩いて戻ったのか忘れさせたんだと思うんだ。
 俺は溜め息を吐いた。
 アレが全部、夢じゃないなんて。
 明け始めた空の彼方、朝焼けの中からそろそろ顔を覗かせる太陽を拝むには、なんとも退廃的な気分に陥って泣きたくなった。
 何処をどう見ても立派な男であるはずの俺が、何が悲しくて、たぶん何かの映画か漫画の影響を受けてるヲタクか変質者でしかない、あの奇妙なカタラギに犯されなきゃならないんだ。
 考え出せばきりがない。
 カタラギがエヴィルとか呼んでいた、あの謎の化け物の正体だって判らないのに…これから毎晩、俺はあの化け物に狙われるようになるって言うのか?
 何故か、カタラギの精液は俺の胎内に残ったままで、排出されないんだ。
 だからずっと、腹の奥がずーんと重いような、むず痒いような、なんとも言えない奇妙な気分になって落ち着かない。
 奇妙な感覚の残る下腹を押さえると、少しだけふっくらと膨らんでいるのが判る。
 まさか…本当に妊娠とかしてるんじゃねーよな?これはあの変態の精液が入ってるから、こうなってるんだよな…不安がグルグル渦巻きはするけど、男同士でその、エッチとかしたことがない俺には、この現象が何からきているのか判らなくて途方に暮れるしかない。
 いや、暗く考えるのはよそう。
 どーせ、夜中に外に出なきゃいいんだよ。
 そうしたら、俺はわざわざカタラギを捜すこともないし、ヘンな化け物に狙われることもねーだろ。
 ましてや、この腹だって一度クソをすれば引っ込むに決まってる。
 うん、俺、なんか自信が出てきた。
 絶対に、あの変態ヲタクとはもう二度と、顔を合わせたりとかするもんか!
 意を決して頷いた俺は、まだみんな寝静まってるに決まっている家に帰るため、玄関のドアをコソリと持っていた鍵で開けて中に入った。中に入って…ギョッと立ち竦んじまった。
 だって、母さんが腕を組んで立っていたから。

「か、母さん…」

「良かった…無事だったのね。お父さんから来ていないって連絡があって、事故にあったんじゃないかとか、何かに巻き込まれたんじゃないかとか、お母さん、心配したのよ」

 たぶん、一睡もしていないんだろう、真っ赤な目をした母さんは、今日も仕事があるって言うのに眠らないまま待っていてくれたんだ。

「光太郎が家出をするなんて…もう、高校生だものね。そんなはずないって思ってたんだけど、お母さん、心配しちゃったのよ」

「…ごめん。ちょっと、小学校の時の友達に会っちゃってさ。マックでさっきまで話し込んでたんだ。電話するの忘れてた」

 俺の嘘を頭から信じたのか、母さんはホッとしたように息を吐いてから、「そう」と呟いて、ずれたカーディガンを羽織り直して笑った。

「今日は学校だけど…行けるの?行けるようなら、少しでも寝なさい。酷い顔をしてるわ」

 俺はギクッとしたけど、殊更なんでもないように笑って頷いた。

「たぶん、行けると思う。行けなかったら、ごめん、1日休むよ」

 男にレイプされていましたとか、口が裂けても言えないし、軋む身体が辛いから今日は学校に行けるか判らない、だから、わざと眠そうなふりをして大きな欠伸をして見せた。
 そうすると母さんは、困った子ねとでも言いたそうな顔をして、仕方なさそうに苦笑したんだ。

「じゃあ、もう寝なさい」

「うん、有難う」

 俺は靴を脱ぐと、極力平静を装いながら、二階にある自分の部屋に行くために階段をトントントン…ッと軽快に上がって見せた。
 そうでもしないと、鋭い母さんのことだから、何かあったんじゃないかと勘繰るに決まってる。
 今だって、俺の顔色の悪さでなんとなく疑ってるみたいだったしな。
 別に俺、過去に家出したとか、そんな経験はこれっぽっちもない。
 ただ、母さんは昔からもの凄く心配性で、その間逆が親父なんだよな。親父はのほほんとしていて、何があっても順応力で乗り切るし、転勤族だったから自然とそんな性格になったのかな?まぁ、俺としては口煩くないから伸び伸びと過ごせるんだけどさ。
 俺が自由奔放じゃない理由は、母さんの心配性にある。親父があの性格のせいなのか、正反対の母さんは頗る心配性で、学校行事で遅く帰っても心配そうに玄関先とか、門扉の前とかで待っているんだ。
 俺、女の子じゃないのに…と言ったら、母さんは「大事な独り息子よ」と笑ってた。
 親父に言わせると、それが母さんのステータスらしいから、今はもう、そんな風に心配性の母さんでも慣れてしまっている。こう言うところは、順応力のある親父譲りなのかもしれない。
 俺は溜め息を吐いてベッドにダイブした。
 できれば、アイツが隈なく指先で、舌先で辿った身体に残る痕跡をシャワーで洗い流してしまいたいんだけど…この疲れ切って激痛の走る身体ではシャワーなんてとても無理だ。ここまで歩けたのだって奇跡だと思ってるぐらいなんだぜ。
 今は泥沼に沈むみたいに眠い。
 何も考えずに眠ったら、目が覚めるころにはスッキリして、爽快な気分で全てを忘れていたい。
 叶わない希望だって判っているけど、それでも俺は、男にレイプされた事実だけは消えて欲しかった。
 記憶を全部消してしまう決まりなら、何もかも消してくれたら良かったのに!
 …カタラギは、変態で、ヲタクで、鬼畜で、鬼で、悪魔だと思う。
 絶対に、そうだ…そう考えた後で、俺は目蓋を閉じて眠ってしまった。
 窓の外には何も知らない清廉な朝の光が満ちていて、無邪気な鳥が鳴いていた。

2  -EVIL EYE-

 ふと、俺は目を覚ました。
 ここが何処なのか、ぼんやりしている頭では考えることもできない。
 ただ、打ちっ放しのコンクリートに囲まれた部屋は、天井が高くて、剥き出しの配管が無機質な静けさを醸していて…何処か不気味だった。
 漸く鈍い頭が少し確りしたところで、両手をベッドヘッドの鉄格子に縛り付けられていることに気付いた。
 正直、ギョッとした。
 それぞれの手首に無造作に、いや大雑把って感じか、どちらにしても遣っ付けで縛り付けているくせに、少し引っ張ったり、思い切り暴れても、その雑然とした縛り方にも拘らず、ロープが緩んでくれる気配はない。
 それどころか、もがけばもがくほど食い込んでいく。いったい、どんな縛り方をしてるんだ?!

(何だ…いったい、何が……)

 自由になるのは両足だけで、それがとても心許無くて、俺はワケもなく怯えていた。
 それでなくても、ハッキリしてきた頭には、化け物が女を喰らうシーンだとか、ウゾウゾと何かの生きものみたいに蠢く肉片を鉤爪で創り出していた男の高笑いだとか…まるで性質の悪い悪夢から抜け出せないみたいに、脳裏に閃く光景を忘れることなんかできないんだから、そんな風に怯えたとしても仕方ないと思う。

(そうだ、確か…カタラギ?とか、言ったっけ。アイツのオッドアイの目を見ていたら俺、気絶しちまったんだよな)

 気付いたらここに寝かされていたワケなんだが…意識を失う前に、俺の幻聴じゃなきゃ、確かにあのカタラギとか言う派手な男は俺のこと…自分のお、女とかなんとか、そんなふざけたことを言っていたような気がする。
 できれば片手で両目を覆って溜め息を吐きたい。
 あの化け物が何で、ソイツを退治しているお前らは誰なんだとか…聞きたいことは山ほどあるってのに、その不気味な台詞が耳を木霊して離れないんだ。
 たぶん、その場凌ぎの出鱈目で、俺をからかって喜んでるに違いないんだろうけど…手首を戒める、このやんわりと自由を奪っている、あの掴みどころのなさそうな派手な男に良く似たロープの存在が、そんな俺の焦燥感を駆り立てていた。
 ここに居てはダメだ、今度こそ、本気で逃げないと大変な目に遭う。
 そんな言葉が、まるで警鐘みたいに脳裏にガンガン響くんだけど、ロープはガッチリ手首に食い込んでいて、俺を容易に自由にはしてくれないみたいだ。
 何度も引っ張ったり、腕を抜こうともがいたりしてベッドを軋らせていると、不意に打ちっ放しのコンクリートに、ついでのように取り付けられている質素な鉄の扉が内側へ開いて、俺はギクッとして目線を向けた。
 そこには、あの赤い髪の派手な男と、オレンジの髪を持つ二丁拳銃の男が立っていた。

「まぁな…夜明けまでには終わらせろよ?それで、判ってるとは思うけどよ、記憶の消去も忘れるんじゃねーぞ」

「判ってる」

 俺を見ながら不遜に言い切る赤い髪の男に、肩を竦めたオレンジの髪の男は、呆れたように溜め息を吐いただけで、「それじゃ、俺たちは帰るぜ」と言って、さっさと踵を返してしまった。
 青褪める俺と真っ黒いレザー系のコートにダメージデニムを穿いて、鎖だとかイロイロなアクセサリーをジャラジャラ胸元だとか、ベルトだとかに下げているロック系バンドの兄ちゃんみたいに派手な男を残して、室内も、いやこの建物全体がシンッと静まり返ったような錯覚を感じて寒気がした。
 どうやら、ここにはもう、俺たち2人しかいないらしい。
 カラカラに渇いた咽喉の奥から、言葉を搾り出そうとする俺を尻目に、ニヤニヤ笑っている派手な男はブーツの底でコンクリートの床を蹴るようにしてヅカヅカと入り込んでくると、両手首を縛られた拘束状態で寝転がされている俺の横にベッドを軋らせて乱暴に腰を下ろしたんだ。
 徐に袖を捲くっている黒コートを脱いで床に投げ捨てると、その下は素っ裸で、幾つもの傷痕が舐めるように走る鍛え上げられた背中には、隆起する筋肉が見た目以上の力強さを物語っているから、こんな時だと言うのに、俺はそれが羨ましいと思ってしまった。
 そりゃ、俺だって男なんだ。
 これぐらい、筋肉があって、均整の取れた身体をしてたら女の子にもモテるだろうし、何より、あんな化け物にだって太刀打ちぐらいできたに違いない。
 男の左肩から肘にかけて、大きな蜥蜴の墨彫りが浮き上がっていた。
 そんな風に悠長に観察なんかしてるから、ニヤッと笑った男が肩越しに俺を見下ろして、いそいそとズボンのチャックなんか下ろそうとするんだ。

「ちょ!…マジでッ、ちょっと待てよ!俺、男だからッ!!何を考えてるんだか判んねーけど、アンタのその、お、女とかなれないだろッッ」

 焦り過ぎて何かワケの判らないことにはなってるんだけど、俺の必死の言い分なんか何処吹く風で、派手な男はズボンの前を寛げたまま、ベッドに這い上がってきて、それこそ俺の両足を抱えるようにして覆い被さってきやがったんだ!

「ま、待てってば!お願いだから、俺、そんなの無理だッ」

 殆ど泣きが入っていたってのに、気付けば俺、シャツ以外は何もつけていない状態で…ってことは、ヤツが大きな掌で掴んだ俺の腿は素肌だし、股間とか、その部分も素っ裸ってことになるじゃねーか。
 拙い、確かにコレは思い切り貞操の危機だッッ!
 こっちは必死で両拳を握って身体を捩るようにしながら抵抗しているってのに、件の派手な男は何が面白いのか、ゲラゲラ笑いながら、そんな俺の顎を掴んで真上からベロリと頬を舐めてくるんだ。
 鳥肌が立って、愈々泣きそうに眉を歪めたら、派手な男はそのまま舌先で俺の素肌を辿るようにしながら、鎖骨に辿り着くと、やんわりと力を込めて噛みやがった。

「…ッ」

 思わず食い千切られるんじゃないかと言う恐怖にギュッと目蓋を閉じたけど、このままだと、冗談じゃなく、この頭のおかしそうな派手な男に確実に犯られると思うから、俺は慌てて目蓋を開くと、殆ど目と鼻の先にあるオッドアイを見詰めて口を開いていた。
 男はそんな風に俺の身体を堪能しながらも、その双眸は少しも俺の顔から離れることがないんだ。

「あ、あの化け物はなんなんだ?アンタたちは、いったい何者なんだよ?!」

 もうすぐ、もうすぐきっと夜が明ける。
 あの時だって真夜中だったんだから…淡い期待を胸に、俺はどうにか喋って夜を明かそうと企んでいた。あのオレンジ色の髪の男は、夜明けまでには終わらせろと念を押していた、ってことは、絶対にそうしないといけない何かがあるはずだ。
 それなら、それまで時間を稼げさえすれば、俺は貞操を守ることができる…はずだ。
 でも、その思いは甘かった。
 男は上体を起こすと、いきなり俺の頭の下に敷いていた枕を抜き取って、ギョッとする俺の腰の辺りにソイツを突っ込んできたんだ。
 そうされると、腰だけが浮き上がるような形になって、なんて言うのか、股間部分が丸見えの状態になってしまう。
 一気に頭とか頬に血が上って、俺は顔を真っ赤にさせて激しく首を左右に振ったんだ。

「…い、嫌だ。こんなの、どうかしてる!!」

 気付けば、さっきから喋ってるのは俺だけで、化け物の時とは違う別の恐怖で、気付けば俺は馬鹿みたいにポロポロと泣いていた。
 何が起こるのかとか、どうやって男同士で犯るのかとか、判らないことだらけで、だからこそ余計に怖くて仕方ないってのに、男は長い指を2本、唐突に俺の口に突っ込んできたんだ。

「…んぐぅ!……ッ」

 もう煩いとか、そんなこと考えてるんだろうな、涙目で見上げると、目許を薄っすらと染めて…ああ、信じたくねーけどコイツ、俺に欲情してる。
 俺の口腔で器用に指を蠢かして舌を扱いたり抓んだり、粘る唾液をめいいっぱい絡めながら蠢くこの指を、思い切り噛んだら殴られるだろうか。
 これだけ見事な身体を鍛え上げてるんだから、俺なんか平気で頬骨と顎を砕かれるに違いない。
 それでも、男なんかに犯されるよりは幾らもマシだ。
 痛みは傷が治れば忘れられる…でも、心の痛みは絶対に消えない。
 何時だったか、何かの小説でそんなことを読んだ気がする。
 それなら、今ここで、この指を噛み切って殴られるほうがいい。
 決意して歯を食い縛ろうとした…のに、俺はそれができなかった。
 まるで惚けたように男のオッドアイの双眸を見詰めたまま、口許から唾液を零して、必死にその指の戯れに応えようと舌を絡ませたりした。

(な、なんだよ、これ?俺、何してるんだ?!)

 頭では判っているから、こんなのはヘンだと叫んでいるのに、身体は何の抵抗もしてくれない。
 ふと、引き抜かれた指先を追うように伸ばした舌先には、銀色の唾液が名残惜しそうに糸を引いて…そんな有り得ない光景に脳内はグラグラしてるってのに、男は満足そうに俺の唾液に塗れた指先をペロッと舐めた。

「ハジメテ、だろ?だよな。ゆっくり解してやりてーんだけど、もうすぐ夜が明けるし、今日は痛いだろーけど、次は優しくしてやるから我慢しろよ」

 漸く口を開いた男は、あっけらかんとした口調でそんな恐ろしいことを口にしやがった。
 恐慌状態の脳内とは裏腹に、俺はひっそりと眉を寄せるだけで、それぐらいが感情らしい感情で、止めてくれも、許してくれの言葉を出すこともできないまま、促されるまま足を開いて、ぐったりしているペニスと睾丸の下にある、あの信じられない部分にイキナリ指を突っ込まれて両目を見開いた。
 ドッと脂汗が噴出して、緊張に指先は冷たくなるし、ガチガチと合わさらない歯が鳴った。
 それは、想像を絶する痛みだった。
 いきなり肛門に指を2本も突っ込まれたからなのか、それとも、同時にペニスを握られたせいなのか、もうどちらか判らない痛みにギュッと目蓋を閉じて、震える頬にポロポロと涙を零しているってのに、俺の身体はやっぱり言うことを聞いてくれないし、ゆるゆると首を左右に振るぐらいで、ぐったりとしている両足に力を入れて男を蹴散らすこともできない。
 こんな苦痛、こんな屈辱、どうして俺が受けないといけないんだ?!
 それなのに、どうして俺の身体は言うことを聞いてくれないんだ!!
 戒められた両手首と鉄格子を結ぶロープを、知らずに握り締めたままで、思わず逃げ出すようにずり上がる身体を押し戻されて、指先はもっと深々と突き刺さり、奥を探るようにぐいぐいと動き回るから、得も言えぬ吐き気と痛みに一瞬でも意識が遠退きそうになる。

「も…い、やだ……ぉ願い…ッ…やめ……ひぃッ」

 漸く出せた声はか細くて、粘着質な音を響かせて指先が狭い直腸の中を掻き回すから、俺はやっぱりそれ以上の声は出せなかった。
 もう片方の掌で俺のペニスを扱いている男は、それでも、ぐちゅぐちゅと卑猥な音を立てて先端から先走りを零しながらも、勃起する気配のないことに気付いたのか、不思議そうな顔をして、一瞬でも俺の顔から逸らさないオッドアイで穴が開くほど見詰めてくる。
 何がしたいのか…きっと、コイツは本気で俺を犯すつもりなんだろう。
 涙に濡れる双眸で、もう許してくれと見詰めても、目許を染める派手な男は怪訝そうに眉を寄せながら、酷薄そうな薄い唇に笑みを浮かべた。
 その獰猛な笑みに、何が起こるのか…何処でこの男を受け入れるのか、指先の乱暴な動きでもう気付いてしまっているから、俺は観念したように目蓋を閉じた。
 ああ、どうか…どうか、もうやめてくれ。
 これは悪い冗談だと言って、誰か俺の頬を思い切り引っ叩いてくれよぉ!!
 ロープをギュッと握り締めるのと、重量感と質量を持つ、灼熱の棍棒のような男のペニスが俺の肛門を貫くのはほぼ同時だった。
 指でもアレだけの痛みだったのに…その衝撃は俺から言葉を奪い、引き裂かれる痛みは限界まで見開いた双眸から滴り落ちるだけの涙を滂沱に変えた。

「~~~くッ」

 俺の食い千切るような括約筋の締め付けに痛みを感じたのか、余裕だった男も思わず声を漏らしたんだけど、突っ張るように伸びた足を掴みながら、それでも、もっともっと奥を目指そうとグイグイと腰を進めてくるから、最初の衝撃から立ち直れない俺は、まるでガキみたいに声を出して泣いてしまった。

「ぅあ!…あ、あぁ……い、痛ぇ、いてーよぉッッ!!…ひ、…ィ……も、…い、やだ…嫌だーーーッッ」

 漸く俺は声を上げることができたし、掴まれた激痛の走る足を僅かに動かすこともできた…んだけど、今の俺にはそんなこと、もうどうでもいいほど死にそうで、苦しくて、腹の中で暴れている凶悪なペニスが出て行ってくれることばかりを願っていた。
 ギシッギシッと男と俺の動きにあわせてベッドが軋りながら動くのが嫌にリアルで、滴る汗をこめかみから頬、頬から顎に零しながら、男は荒い息を吐き出して、その口許に、やっぱり不敵で不遜な笑みを浮かべやがる。
 こんな非常識な痛みの中で、そんな余裕の男が許せなかった。
 できれば、今ここで殺してやりたいとすら思うのに、どうすることもできなくて、俺はグイグイと腰を押し進めてくる男のペニスのゴツゴツした先端が直腸の内壁をグリグリと擦り上げる感触に、またボロボロと泣いてしまった。

「…嫌?オレの女なのに、嫌なのか?こうして、こうされて…お前はもう、オレのモノなのにさ。ヘンなこと言うヤツだな」

 うっとりと目許を染めて笑う男は、酷薄そうな薄い唇を開いて、真っ赤な舌で泣いている俺の頬をベロリと舐めた。
 言葉のように直腸にある、睾丸の裏側辺りにあるしこりの部分をグリッと突き上げられて、精液の漏れるような感覚を味わったけど、それを快感と呼ぶには程遠い痛みのほうが強くて、俺は泣きながらやめてくれと懇願した。
 でも勿論、男が俺の願いなんか聞いてくれるはずもない。
 両手を縛られて、ベッドに拘束されたままで、有り得ないほど足を開いて受け入れている男の逞しい身体は、萎えることなんかないんじゃないかと思うほど力強くて、そして精力的で、切れて真っ赤な涙を零す肛門への蹂躙はやめてくれる気配もない。
 俺…こんな得体の知れないヤツの女になるのかな。
 それがどんな意味なのか、もう考える力もない脳内にぼんやりと浮かんだ言葉は形を作らないまま俺の中で消えて、オッドアイの赤い髪をした派手な男は、俺の乳首に舌先を這わせながら抱き締めると、直腸の奥深くに溶岩のように熱い精液を吐き出していた。
 俺は結局、イくこともなく、男の全てを受け入れてしまっていた。
 ひくひくと痛みの為に震える肛門の収斂を楽しむみたいに抜こうとしない男は、痛いほど身体中に吸い付いて口付けの痕を残しやがったから、たぶん、後で見たら酷いことになっていると思う。
 信じられない思いと、諦めるような気持ちに支配されて脱力する身体を、男は俺の胎内にペニスを残したままで抱き締めてくる。
 もう、どうしていいのか判らないほどの絶望を感じているから、そんな男がちょっと不機嫌そうに真っ赤な眉を寄せていることにも気付けなかった。

「本気で嫌がってるのか?オレのこと」

「…」

 当たり前じゃねーか!…と言えれば大したモンなんだけど、痛みで叫び過ぎた咽喉は嗄れていて、声らしい声なんか出るはずもないから、俺は黙ったままで目蓋を閉じた。
 ポロッと頬に涙が零れて、そんな女々しくはないはずだったのに…どうして俺、男に犯されたんだろう。
 ワケが判らないのに、こんなヤツに返事をするのも嫌だ。

「でも、もうダメだからな。直腸の中にオレの子種を孕んだんだ。お前は常にエヴィルに狙われるだろうし、夜毎、オレを求めるようになるんだぜ」

「う、嘘だ…ッ」

 ガラガラの声で思わず反論したら、腹に力が入ったせいか、未だに隆々と勃起してるコイツのペニスにグリッと内壁を擦り上げられて、息を呑んでしまった。

「嘘なワケないじゃん。その為に、こんな時間がないってのに、お前を抱いたんだぜ」

 そう言って、何を考えたのか、いきなりソイツは俺の唇にキスしてきた。

「…んぅ?!」

 その、…レイプの最中でさえキスしなかったくせに、目を見開いて抗議するように歯を食い縛るんだけど、やっぱり、ジッと見据えてくるオッドアイを見詰めてしまうと、俺は考える力を失くしたみたいに力が抜けて、気付いたら貪るようにして肉厚の舌に自分の舌を絡めて濃厚な口付けを交わしていた。

「…ふ、……ん」

 大型の犬が水を飲むような水音を響かせながら、砂漠で行き倒れた人が水を貪るような必死さで、俺はソイツとのキスに溺れて、無我夢中にもっととせがんでいた。
 違う。
 そうだ、違う。
 何かが間違っている。
 俺は、自分をレイプした男に、男なのに、キスをせがむような真似はしない。
 何かがおかしい…ズキッと頭が痛んで、キスをしながら顔を顰める俺に気付いたのか、目蓋を閉じもせずに口付けを愉しんでいた男は、やれやれと溜め息を吐いて舌を引き抜いた。
 名残りを惜しむように伸ばす舌先を、男はちょっと嬉しそうに濡れた唇で挟んだ。

「オレはエヴィルハンターのカタラギって言うんだ。お前は?オレ、名前もきかなかったって思ってさ。そしたら、セックスがもっと楽しかったのに、馬鹿だよな」

 挟んだ舌を舐めてから、俺の頬に口付けるカタラギと名乗った男を睨みつけて、俺は口を噤んだ。
 チグハグな想いに頭が割れそうに痛ぇけど、俺はこんな得体の知れない男に自分の素性を明かす気になんかなれなかった。
 でも、口が開く。
 勝手に、開くんだ。

「…う、……んだよ、これ。どうして、喋ろうとするんだ??アンタ、俺に何をしたんだ?!」

「あれ?抵抗してるのか…馬鹿だな、その方が辛いのに。邪眼の意思に従えば、苦痛も快楽も全部お前のものなのに」

「わ、け、判んねーよ!え、ヴィルとか、ハンターとか、なんだよそれ。なんかの映画か漫画か?!あ、んた、これは犯罪なんだぞッ」

 何かもっと別のことが言いたいと口が勝手に動こうとする欲求を俺は必死に抑え付けながら、誘拐してレイプするなんてれっきとした犯罪なんだと言ってやった。
 なのに、馬鹿にしたような、一見すれば冷酷そうに細めた双眸で俺を見下ろしながら、胎内で息を潜める凶暴な楔を突き動かして俺を喘がせると、カタラギはニヤニヤと笑ったんだ。

「犯罪?はぁ??何言ってんだよ。その法とかってのの親玉どもが、オレたちにエヴィルを狩らせてんじゃねーか。馬鹿だな!ホント、お前は馬鹿だ」

「なん…だって?」

 虫けらでも見るような目付きで見下ろしてくるくせに、思い付いたように俺の首筋に口付けて歯を立てる感触は、痛みで朦朧とする頭に鮮烈な快感を閃かせた。
 ビクッと身体を震わせたら、カタラギは嬉しそうにクスクスと笑う。

「オレたちが何を破壊しても、何を自分のモノにしても、誰も何も言わない。それどころか、喜んでソイツの人権すら無視するんだぜ」

 信じられなくてハッと双眸を見開いたら、カタラギは残酷そうに嗤った。

「そうさ、だから何度も言ってるだろ?お前はもう、オレの女なんだ。オレが決めた。オレが何時何処でお前とセックスしても誰も気にしない。公の連中にお前が泣きついたとしても、誰も相手すらしない。ってことで、そろそろオレの女だって自覚しろよな」

 残酷そうに嗤うカタラギの顔を見上げたままで、コレは嘘なんだと思おうとした。でも、それが完全に否定できないのは、あの化け物の存在であり、そして、俺をレイプしたくせにやけに自信満々で威風堂々としているカタラギの、その得体の知れない自信だった。

「名前を言えよ」

 甘えるように俺の身体を抱き締めてくるカタラギの、その金色に赤の奇妙な文様の浮かんだ虹彩を持つ、茶色っぽい瞳孔の右の瞳を見詰めながら、俺は身体中の力が抜けるのを感じていた。

「本当は全部記憶を消すのが決まりなんだけど。オレ、お前には覚えていて欲しいから、ここの場所以外は…勿論、セックスした記憶も全部、残しておく。だって、その方が次にセックスするとき楽しいと思うんだ」

 掟なんかクソ喰らえとでも思っているのか、カタラギはそんなことをしゃあしゃあと言って、俺の鼻先にキスをした。

「エヴィルは夜しか現れないんだぜ、心配しなくても昼間は襲われたりとかしねーんだ。だから、夜毎お前はオレを捜さないといけないってワケさ。それで、泣きながら抱いてくれって言うんだよ。その代わり、オレはエヴィルを狩ってやる」

 どんな了見でそうなるんだよと、思い切り反論したかった。
 身体と引き換えに襲ってくるエヴィルとか言う、あの化け物を退治してやるって?そもそも、化け物に目を付けられるようにしたのはお前じゃねーか!…とか、判りきってるのに言ってるんだ、俺が何を言ったって、コイツは聞いちゃいないんだろう。
 溜め息が出る。
 できれば、ホント、できれば片手で両目を覆って溜め息を吐きたい。

「ほら、名前を言えよ」

 呟くように、唆すようにそう言って、邪眼を細めるカタラギの双眸を見詰めながら、俺は泣きたいような顔をして…

「光太郎、 相羽光太郎」

 ポツリと、呟いていた。

1  -EVIL EYE-

 その出来事は突然、まるで切れかけた電球が弾け飛ぶような鮮烈さで、俺の目の前で起こった。

 景気の悪いビル街は何処も、夜ともなれば静寂が支配するゴーストタウン化するもんなんだけど、その日の俺は、残業中の親父に呼び出されてそんな風に静まり返った街を歩いていた。
 親父の会社の入っているビルは、駅からそう遠くはないんだけど、幾つかビルとビルの間の、俗に言う裏路地を通り抜けた方が近道で早いんだ。
 だから、何時ものようにその近道を選んだ…つもりだったのに、たぶん、それが拙かったんだと思う。
 残業上がりのOLのお姉さんたちですら、足早で帰りを急いでいるのに何が悲しくてこんなところを歩かなきゃいけないんだ…ふと、そこまで考えた俺は首を傾げると、目の前を歩いているスーツ姿のOLさんを見たんだ。
 こんな裏路地、男の俺ですら早く立ち去ろうと考えるってのに、どうして、この女のひとはこんなところを歩いているんだ…?
 それは素朴な疑問だった。それと同時に、何か嫌な予感がして、俺は歩調をさらに速めて、そのOLを追い抜こうとした。追い抜こうとして、見なきゃいいのにその顔を見てしまったんだ。
 見開いた双眸は明らかに何かに怯えていると言うのに、その目玉は、何処か虚ろで何を見ているのか良く判らない。そのくせ、青褪めた顔には冷や汗がビッシリで、惚けたように半開きの口からはブツブツと聞き取れない声が漏れている。
 やべ、こりゃマジでラリってんじゃねーのか?
 直感した俺は、やっぱり早いところ追い越そうとした。
 追い越そうとする俺の耳に、その時漸く、女が何を呟いているのか聞こえてきたんだ。

「…ろしてやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる。助けて、殺してやる、殺してやる、殺してやる…」

 耳に粘りつくように響いた声音に、俺の背筋に汗が滲んだ。
 ゾクリとする感覚は、それが何か良くないものだと物語っていた。
 足を速めたのに、声はまるで耳元で聞こえているように近付いていた。
 そんなはずない、判ってる、そんなはずはない。
 まるで念じるようにそう呟いて、俺はビッシリと額に汗を浮かべたまま、声のする方を肩越しに振り返った。
 何処を見ているのか判らない目玉が異様に飛び出した女は、真っ赤な口紅を塗りたくった口許をニタリと歪めて、俺の肩をガッチリと掴んだんだ。

「…ヒュ」

 何時の間に…声にならない声を上げる俺の真横に、足音もさせずに近付いていた女は、だらんと力の抜けた顎を俺の肩に乗せて歯をカチカチと耳障りに鳴らして、やたら長い腕で俺の頭を掴んでくるんだ。
 限界まで見開いた双眸で、月明かりが照らすアスファルトを見下ろせば…なんてこった、そんな馬鹿な。
 言葉が出てこない…だって、アスファルトに伸びた影が、有り得ない現状を物語っているんだ!
 信じられるか?俺に縋り付いている女の双肩の間、肩甲骨と肩甲骨の間が異様にベコンッと凹んだのか、肩がグイッと伸びて、首がグッと縮こまったんだ。そのせいで、静か過ぎるほど静かな街に、奇妙な音を響かせながら腕が変形して伸びていく。その脇腹から千手観音みたいに、骨を圧し折る音を響かせて、両方更に2本ずつ、腕が生えた。そう、生えたんだ!

「…ぁ、…あ…あ……ッ」

 声が出ない。
 こんな時なのに、誰かに助けを求める声、いや息すら出ない。
 こめかみの辺りからブワッと汗は噴出してるのに、肩も足もこれ以上はないほど震え出しているのに、声が、息が…出ないなんて。
 変形して曲がりくねった指先に捩れるように伸びた爪が虚空を掻いていたけど、ふと、今気付いたようにぎこちない動きで折れ曲がると、俺の顔を突き刺そうとでもするようにゆっくりと近付いてくる。
 コイツは俺を殺すつもりなんだ。
 何故とかどうしてとか、そんな言葉、殺される寸前の人間てのは考えることもできないんだと、その時初めて知った。知りたくもないのに、初めて知ったんだ。
 どうして俺なんだとか何故こんな場所通っちまったんだろう…とか、もっと考えても良さそうなのに、今の俺は、そんなこと全部どうでも良くて、ただ、コイツが何か得たいの知れない生きもので、今まさに俺を殺そうとしてる。本気で俺を殺そうとしてる…そんなことしか考えられない。
 小刻みにカチカチと鳴らしていた音は、次第に噛み締めるみたいにカツンカツンと響くようになると、その耳障りな歯を鳴らす音が馬鹿みたいに脳内に響きやがった。
 もう、何を考えたらいいのか判らない。
 知らず、死ぬことへの恐怖だとか、まだ遣りたいことがたくさんあるのにとか…後悔とか何もかも綯い交ぜした涙が、頬を伝ってガタガタと震える顎から零れ落ちた。
 どう言う理由かは判らないけど、俺はここで、何か得体の知れない者から本気で殺されるんだ。 
 冗談だろとか、何かの番組かよとか、そんなの、この生臭い息とか、尋常じゃない気配を感じていたらスッカリ脳みそから弾き出された。
 嘘じゃないし、冗談でもない。
 これは現実で、本気で俺はここで死ぬ。
 ああ…誰か…
 曲がりくねった指先の汚らしい爪が、もう目と鼻の先だ。
 もう死ぬんだとギュッと目を閉じた瞬間だった。

「?!」

 凄まじい力がドンッと身体を圧迫したかと思うと、俺を掴んでいるはずの女の身体が突然、宙に舞い上がったんだ。
 俺は泣いていることも忘れてポカンッと女の身体を追うように上空を見上げたんだけど、どうやら、俺の救世主は更に俺を苦しめる原因でしかないようで、絶望的な気持ちに震える膝の力が抜けて、間抜けなことに俺は、その場に蹲ってしまったんだ。
 逃げたいのに、逃げ出せるはずなのに…キィキィと声にならない悲鳴を上げる女を頭からガブリと噛み付いたソレ、なんと表現したらいいのか判らない、ビルの壁にへばり付くようにして長い手足を伸ばしているくせに、口らしい部分から伸びた細い器官で女の身体を掴んでそのまま口に引き摺り込んでいる。
 たぶん、女が終わったら、次は俺だ。
 それでも、なまじ負けん気の強い俺だから、そんなところにへばっているワケにもいかないし、何より、ダッシュで逃げ出すにしても、ソイツは巨体で、口からあんな器官を出しやがるってことは、俺を殺すのだって簡単なはずだ。
 あの女の化け物だってすげー力だったのに、そんなヤツを難なく俺から毟り取って喰えるんだぜ。
 勝ち目とかないに決まってる。
 有り得ない場所に、人間で言えば側頭部の辺りにギョロリとした目が幾つもあって、忙しなく動き回っているくせに、その目は掠めるように俺を捕らえては止まり、止まっては動くような動作を繰り返している。
 その中の幾つかは、確実に俺だけを見ている…それを確認したら、震える指先が地面を掻くようにして転がっている鉄パイプを掴んだし、尻餅でもつくようにへたり込んだアスファルトから立ち上がることができた。
 ここでどうせ死ぬなら、反撃ぐらいしないと男じゃないぜ!
 恐怖心でどうしても震える足は仕方ない、それでも、俺は鉄パイプを握り締めながら、ジリジリと後退しつつ、バリバリと静まり返ったビル街に骨の砕ける音を響かせながら、女を食い尽くす化け物を見上げていた。
 緊張から乾ききった唇はカサカサで、咽喉の奥もカラカラだったけど…でも、俺は最後まで負けない、こんなところで死ぬとか思わなかったけど、それでも、最後まで戦って、それでダメなら仕方ないって諦めることが、たぶんできると思う。
 だから、俺は…

「邪魔だ、退け!人間ッ」

 決意してパイプを握り直した俺のなけなしの決意を鼻先で笑うように、背中を突き飛ばされて再びアスファルトに転がる俺の横を、まるで風のような速さで駆け抜けたソイツは、口許に禍々しい笑みを浮かべながら、片手に鉤爪のような装具を嵌めて、もう片方は戦国武将が持っているような日本刀を掴んで…倒れた俺の目が正常なら、化け物のへばり付いているビルの壁を駆け上がりやがったんだ!!
 な、なんなんだ、アイツは?!
 「ヒャッホウ!」と叫びながら、どうやら楽しんでいるような男は派手な真っ赤な髪をしていて、鎖だとかなんだとか、胸元や腰のベルトにジャラジャラさせて、袖を捲り上げている黒コートの裾を翻すと、ブーツの底でビルの壁を踏み締めるとダンッと蹴飛ばすようにして跳躍したんだ。
 有り得ない!有り得ないだろ、マジで!
 前につんのめるようにして倒れていた俺は、上体を起こしながら、ただただ呆気に取られたようにポカンッと派手な、まるでロック系バンドみたいな派手な出で立ちの男を見上げていた。
 跳躍したその勢いのままで空を蹴ると、ソイツはビルにへばり付いたままで警戒して奇声を上げて奇妙に伸びた首をブンブン振り回している化け物に向かって飛び掛りやがったんだ!
 そりゃ、無謀だろ?!と、俺が思わず叫びそうになったにも拘らず、ソイツはまるでそんな攻撃、屁とも思っちゃいないのか、それまで何の変哲もなかったはずなのに!バチバチと青白い火花を散らす日本刀を構えて突き刺したんだ。
 日本刀を掴んだそのままで、重力に任せて落下すると、化け物の身体は鋭利な刃物に真っ二つに引き裂かれた。
 す、スゲー…
 純粋に今、目の前で起こっている全てに感動して、俺は思わずガッツポーズを握り締めていた。
 だけど、すぐにその手が開いてしまった。

「危ない!!」

 俺が叫ぶと、ソイツはそんな上の方からでも俺を確認できたのか、「ん?」と気付いたような顔をしてから、ひょいっと上を見た。
 ビルすらも切り裂く日本刀にブレーキをかけるために、コンクリートにブーツの踵を擦らせて火花を散らすと、「よっ」とでも言った感じでコンクリートに突き刺さった日本刀の上に乗っかると、凄まじい勢いで変形しながら降ってくる…って言葉がしっくりくる化け物の顔を目掛けて身構えると、ニヤニヤ笑いながら鉤爪の拳を突き出したんだ!

『ギィギャァアァァアアァッッ』

 断末魔のような悲鳴を上げる化け物は、それでも両足で身体を支えながら、裂けて目茶目茶になっている頭部はそのままで、細長く伸びている両腕で派手な男を掴んだみたいだった。
 絶体絶命だ!
 アワアワと頭を抱えそうになる俺の横にスタスタと歩いてきた、派手な男と同じように派手な格好をしているくせに、激しい男とは対照的なのんびりした仕種のオレンジの髪をした男が手にした銃口を向けた。
 化け物にではなく、俺に。

「!」

 ハッと、反射的に目を閉じた。
 化け物を見た俺を口封じするんだとか、自分たちの存在に気付いたから消されるんだとか、親父とか母さんとか、友達とか、学校の仲間とか、そんな人たちの顔が脳裏に怒涛のように駆け巡った…んだけど、パンッと乾いた音がしたと同時に、耳の横を風を切るような轟音を轟かせて何かが飛んで行き、後ろで重い音を立てて何かが倒れたみたいだった。
 一瞬にして走馬灯のように半生を振り返っていた俺は、恐る恐る目蓋を開いて、それから、背後を振り返って目を見開いた。
 今や、アレほど力強い腕らしきものに掴まれていた筈なのに、鉤爪で引き裂いたのか、解放されて自由の身になっている派手な男は、声高に笑いながら、化け物の身体を蹴っては攻撃を回避し、回避しては空を蹴って飛び掛ると鉤爪で切り裂くを繰り返しているんだけど、その飛び散った肉片がボタボタ落ちてきては、ウゾウゾと蠢いて単体の生き物のように這い出しているんだ。
 その奇妙な物体が、たぶん、今まさに俺に襲いかかろうとしていたんだろう、どうやら人間のような形に成りそこなっている肉片は撃たれた場所がグズグズと燻って、それから溶けるようにしてアスファルトに吸い込まれてしまった。
 周囲に異様な悪臭が立ち込めた。

「あ、有難う…」

 ボケッとしたような呆れたような顔をして銃身で肩を叩いて、片手で腰を掴んで呆れている男は、思わず恐る恐る口を開く俺に気付いたのか、確かに気付いたとは思うんだ。だってさ、チラッと見たようなんだけど、俺なんか眼中にないとでも言いたそうに無視しやがったからな!

「ったくよ~、カタラギの野郎。エヴィルを増殖させてどーすんだ」

(…エヴィル?)

「仕方ねーよ。アレがヤツの戦うスタイルじゃん。ま、それだけ俺たちは雑魚狩りやってりゃいーんだから、楽だろ?」

 ジャリッと、アスファルトを踏み締めるようにして、もう1人が暗闇から姿を浮かび上がらせた。
 いや、ホントにそんな感じでゆらっと浮かび上がってきたんだ。
 もう1人いたのかと、もう、驚きすぎて驚けなくなった俺が呆気に取られたように、長身の2人を見上げていると、銃の男が「まーな」と肩を竦めて、それから腰を掴んでいた手を差し出した。
 何時の間に握っていたのか、もう一丁の銃のグリップを握って発砲すると、肩を叩いていた銃口も火を噴いた。
 何時の間にかウゾウゾと取り囲んでいた肉片が幾つか吹っ飛び、突然の出来事に呆気に取られている俺の目の前で、闇から浮かび上がった緑の髪の男が、犬歯を覗かせるようにしてニヤァッと嫌な笑みを浮かやがった。
 瞬間、バチバチと空気中に火花が炸裂して、取り囲むようにして近付いていた、人形の成り損ないの身体が破裂したんだ!

「それにしたってキリがねぇ。カタラギッ、そろそろ本気出せよッ!」

 吠えるようにしてオレンジが叫ぶと、カタラギと呼ばれた、空気を自在に操っているように見える、派手な赤い髪の男は大声で笑いながら片手をグルグル振り回している。
 どうやらOKとでも言ってるんだろう。
 な、なんなんだ、コイツ等…

「スメラギとアララギが退屈そうだからなッ!」

 ニヤッと笑ったのか、半分以上削ぎ落とされてしまった肉の塊に、ビルに突き刺さっていた日本刀をついでのように引き抜いた男は、重力を思い切り無視してビルに立つと、バチバチと青白い火花を散らす日本刀を構えたんだ。

「お前とのお遊びはこれで終わりだ。グッバイ、エヴィルちゃん!」

 肉を増殖させて人形に戻ろうと試みるその化け物に、男は構えた腰を低く落として両足を踏ん張ると、反動をつけて走り出し、問答無用で突き刺したんだ!
 次の瞬間にはその身体を肉の塊が覆いつくしたから、思わず声を上げそうになった俺の目の前で、一瞬カッと凄まじい閃光が走ったんだけど、眩しくて目を細める俺の目の前で凝縮するみたいに光は小さくなると、バシュゥンッ!と風を切るような音を響かせて化け物の身体が破裂したんだ!
 バラバラと飛び散る肉片はどれも焦げていて、もうウゾウゾと動くこともなかったけど、アスファルトに落ちる端からシュウシュウとドライアイスみたいに煙を噴出して、溶けるようにアスファルトに吸い込まれてしまった。
 …辺りは相変わらずゴーストタウンそのもので、シンッと静まり返ってるってのに、俺の心臓はこれ以上はないぐらいバックンバックンと破裂しそうな勢いで動いているみたいだ。

(お、わった…終わったんだよな?)

 へたり込んだままで口を開けてポカンッとしている俺なんか、どうせ無視してくれる連中だから、この衝撃が去ってから帰ろうとか考えていたってのに…いや、そうだ。親父のところに行かないと。
 確かにオレンジと緑の髪は肩を竦めながら、やっと終わったとばかり、俺なんか見向きもしないで踵を返したってのに、高笑いしながら、全く重力を無視してゆっくりと上空から降りてきた派手な赤い髪の男が、アスファルトの道に着地すると、地面を蹴るようにしてズカズカと近寄ってきたんだ。
 いや、違うだろ?
 何が起こったのか理解もできない脳みそで、思考回路なんかグチャグチャの俺でも判るんだ。アンタの仲間は向こうだ。
 そう言えない、あんまりの衝撃的な出来事に呆けながらも、ハッと我に返って眉を寄せる、思い切り警戒する俺を、腰に両手を当てて覗き込んできたニヤニヤ笑いの派手な男は、ジロジロと不躾に俺を眺め回すんだ。

「な、なんだよ?!その、助けてくれたのは有り難いと思ってる。有難う」

 この場合、邪魔だ退け!とか言われたんだから、別に俺を助けるつもりはなかったと思うんだけど、結果的には助けられたワケだし、わざわざ俺に近付いてきたって事は、それなりの謝辞が欲しいんだろうと思ったから、俺は素直に礼を述べたんだ。
 赤い髪の派手な男は、まるで品定めでもするように、何処に隠してしまったのか、既に武器のない片手は腰に当てたまま、もう片方の手で自分の顎を擦りながらニヤニヤと笑って見下ろしてくる。

「?」

 首を傾げた次の瞬間には、俺は何故か懐いていた硬いアスファルトの感触を失っていた。
 そう、俺、何故かもうホントに良く判らないんだけど、あの長身の派手な男の肩に担ぎ上げられていたんだ。

「ゲッ!なんだよ、カタラギ。ソイツをどーすんだ?」

 緑の電気男がギョッとしたように振り返ると、嫌なものでも見ちまったと言いたそうな顔付きで唇を歪めて犬歯を覗かせている。

「はぁ?どーするって…これ、オレの戦利品だろ。昨夜の女はスメラギとアララギにやったじゃん。これ、オレが貰ってもいいんだろ?」

「お前がソイツでいいってんなら、まぁ、俺たちに異論はねーけど」

 オレンジの髪の男が、相変わらずやる気がなさそうに肩を竦めるから、いや、お前たちに異論がなくても俺にはある。

「ち、ちょっと待ってくれよ!戦利品って…なんだ、そりゃ??」

 なんとか引き留めないとと、慌てて黒コートの背中を掴んで引っ張ると、赤い髪の男はな、なんと!そんな俺を片手で掴んでそのまま、自分の目の前に翳しやがるんだッ!
 ど、どれだけ力持ちなんだ…
 青褪めたままでパクパクと言葉の出ない口を開閉していると、男はニヤニヤ笑ったままで俺の顔を覗き込んできた。

「!」

 その時になって漸く、俺はソイツの顔をマジマジと見たワケなんだけど、ヤツの右目は…金色だった。いや、その表現もおかしいな。
 茶色がかった瞳孔の周囲、金色の虹彩の中に、赤い線がまるで何か、文様のようなものを描き出している。
 その目を見詰めていると、どうしてだろう?落ち着かないような、逆らえないような威圧感を感じて、片手で吊り下げられてるワケなんだが、俺は息を呑んでいた。

「エヴィルに狙われたってことは、いい餌になるんだよ。そう言うヤツを傍に置けば、わざわざ探す手間も省けるってワケだからさ。まぁ、簡単に言えばオレの女になるってワケだ」

「!!」

 聞き慣れない言葉にギョッとしたそれは、俺が聞いた幻聴に過ぎないんだろう。
 だってそうじゃなきゃ、どうして目が回るんだ?
 それに身体から力が抜けて…俺、どうなるんだろう。
 それが、真っ暗闇に落ちる寸前に、俺が考えた全てだった。

17.手探りの気持ち  -Crimson Hearts-

 『タオ』の本部がある地区から戻ってきたスピカの顔色は悪かった。
 土気色とか、病気の顔色じゃない。
 何処か青褪めていて、僅かに震えているような…
 
「血の匂いがする。どうして、アタシが出掛けた後は決まって血の匂いがするの?」

 当たり前か。
 どんなに綺麗に片付けたとしても、何よりも血の匂いに敏感な『タオ』のメンバーであるスピカが、あの惨劇を想像しないはずがない。
 怒ってるんだ、激しく。
 そうだ、那智は一度怒られた方がいい。
 絶対、反省なんかしないだろうけど。

「さぁ?何故だろうなぁ。判らんなぁ」

 すっ呆ける那智なんか初めて見るから、俺がポカンとして、同じように立たされている傍らのご主人さまを見上げたら、お黙んなさいとでも言いたそうに、チラッと目線をくれただけで視線は『Voyage』の女主人に戻った。
 いやまぁ、あの浅羽那智が立たされてるってのもヘンな話しだけど、その那智を立たせている、小柄なスピカの度胸も大したモンだと思う。
 最初は新参者の俺が残飯でも撒き散らしたと思って呼び付けたんだろうと高を括っていたってのに、実際は俺を呼びつけた後、スピカは苛々したように那智すらも怒鳴りつけたんだ。
 スピカにとってこの店は、それほど大事なんだろうと思う。
 でも、それだと那智を雇っている時点で終了だと思うぞ。

「出たわね。ニヤニヤ笑うだけかすっ呆けるか、いずれにしてもアンタがここで人を殺したってのだけは判るわ」

「…」

「はぁ…そこで呆れてるぽちちゃん!」

 ニヤニヤ笑う那智の姿を見て、スピカは俺のご主人をよく理解してるなぁと呆れてしまった。
 でもすぐに鋭い声で名前を呼ばれ…って、もう、俺の名前はぽちで定着しちまったのか。自分の本当の名前も忘れちまいそうだ。

「はいッ」

 思わず背筋なんか正してしまうのは、脳内で考えているのとは裏腹で、小柄で女性だとは言え、スピカが撒き散らしている怒気のオーラは、チンケなコソ泥では到底太刀打ちできないほど、身の引き締まるような厳しさがあった。

「アンタがついてれば少しでも大人しいと思ったのに。ちゃんと、手綱は握ってないと駄目でしょう」

「へ?」

 手綱…って、思い切り握られてるのは俺の方だってのに、思わずヘンな声を出してしまったら、俺の傍らで退屈そうにニヤニヤ笑っている那智は、ふと、俺の腰に腕を回してきて、ハッとした時にはまるで荷物でも扱うような気軽さでヒョイッと小脇に抱え上げられてしまった。

「どーでもいーけどさぁ。ちゃんと掃除はしたし?スピカ、怒りすぎ。ワケ判んねっての」

 俺を小脇に抱えたままで黒エプロンを脱ぎながらニヤァ~ッと笑ってそんな身勝手なことをほざく那智に、スピカの額にビシッと血管が浮き上がる。口許は笑っている分、それが凄みを増してやたら怖い。
 どうして、『タオ』のメンバーはみんな笑って怒るんだろう。
 那智もそうだ、最近はめっきりと鳴りを潜めちまったけど、最初に出会った頃はモノは投げるは部屋は破壊するは…でも、そんな時ですらニヤニヤ笑っていて、だから余計に不気味だったし恐ろしかった。
 こうして見てみると、どうも、『タオ』の連中は笑って怒るクセがあるみたいだ。
 あれ?でも、俺たちのボスは笑いながら怒らないよな。
 ただ無表情に怒ってるんだ。
 それはそれで、腹の底が冷えあがるように怖いんだがな…

「で、すぐゲロするんだから。ったくもう、この店で人殺しはするなって、条件に入れておけばよかった」

 2人の会話を片手で抱えられたままで聞いている俺の前で、気だるそうに木製の椅子に腰掛けているスピカは溜め息を吐いたけど、『Voyage』の女主人の頭痛の元凶である俺のご主人は、相変わらずニヤニヤ笑いながら肩なんか竦めて見せた。

「もう条件変更はできません」

 こんな時ばっかりやたら丁寧語を使う那智には、そりゃぁ…もし俺が那智ぐらい強かったとしたら、思わず回し蹴りしたくなるほどには、イラッとするけどな。
 勿論、スピカもそうだったのか、眉根を寄せて胡乱な目付きで睨みはしたが、次の那智の台詞で驚くほどキョトンッとしてしまった。

「だいたいさぁ…敵が多すぎるスピカが悪い。オレ、ちゃんと用心棒もしてるワケよ?」

「…ふぅん、そうだったの。お腹が空いてるから殺ってるワケじゃないのね」

「違う。ちゃーんと、用心棒をしてるってなぁー?だからさぁ…」

 呆気に取られているスピカに、ニヤニヤ笑う那智はここぞとばかりに言ったんだ。

「牛乳をくれ」

「また牛乳を追加しろって?いいわ、好きなだけ持って行きなさい。それと、カウンターの下に今日の報酬を置いてあるわ」

 シュッと風を切るような音をさせてマッチを擦ったスピカは、細長い煙草に火を点けると、何処か痛いような表情をして口に咥えたまま片手でマッチを消して、片手で髪を掻き揚げながら溜め息を吐いた。
 どうも、もうどうでもいいと思ったようだ。
 まぁ…那智の耳に念仏とでも言うか、自分がこうだと思うと梃子でも意思を変えない『タオ』のお客さんネゴシエーターの気質を十分熟知しているんだろう、無駄な時間の浪費を避けたんだな。
 俺なんかの場合だと、那智と言い合ってしまって、気付いたら何時間も押し問答をすることもあった。
 苛々して夢中になっている俺が時間を忘れるのはよしとしても、どうして、ただニヤニヤ笑ってるだけで、別に話の内容なんかこれっぽっちも気にしていない那智まで、時間を忘れて言い合ってるんだ?!
 …と驚いたこともあったけど、那智の場合、俺が納得するまで何時間でも話に付き合ってくれるんだよな。
 大抵の人間がイラッとして喧嘩をするか、黙り込むかで話は決着するってのに、那智の場合は違う。  俺が納得するまで話を聞くくせに、かと言ってお喋りかと言えばそれも違う。
 今は独りになりたいと思っていたら、突然、ふらりと町に出て行ってしまったり、傍にいて欲しいと思うと、驚くことに、しつこいぐらい構ってくれる…よくよく考えると、もしかして浅羽那智って気の利くヤツなんじゃないかって最近はよく思う。
 そう言うのって嫌いじゃないから、ちょっと蛍都が羨ましいよなぁ。
 いや、ちょっとじゃない。
 凄く羨ましい。

「やった。今日はコレで終わりだってさー。んじゃ、ぽち。帰るかー?」

「おわり?!へ、俺は何もしてッッ…ふぐぐぐ」

「したよな?ちゃーんと用心棒の手助けをしたよなぁ?何言ってんだか判んねーよ、ぽち」

 那智は相変わらずニヤニヤ笑ってるけど、焦ってスピカを見たら、彼女はどうでも良さそうに頬杖をついて鼻先でクスクスと笑っていた。
 どうも、女主人がよしと思ってるんなら、俺がとやかく言っても仕方ないか。
 口を塞ぐ那智を胡乱な目付きで睨んでも、俺のご主人にしてみたらそんな飼い犬の不平なんか屁でもないんだろうなぁ。

「いいのよ。ぽちちゃんは店の掃除をしてくれた。誰かさんと違ってちゃんと働いてくれたじゃない」

「スピカは酷いしー」

 ニヤァッと笑って不機嫌そうな那智をまるで無視するスピカの、そのまるで見ていたような言い方に俺はギクッとした。
 だって、スピカはこの店よりも随分と離れた地区に行っていたはずだ。
 それなのに、掃除のことを知っているのはおかしい。
 確かに、那智も重いテーブルを運んだりと手伝いはしたものの、それは食餌が終わってからだ。解体後の目を覆いたくなる光景と匂いに吐きそうになりながら始末する俺を、なんとも不思議そうに見ていたのが印象的だったけど…それを、スピカは知らないはずだ。
 すわ、盗聴器、もしくは監視カメラがあるのかと、そっと店内を見回した時、彼女が事も無げに秘密を暴露した。

「酷くない。アンタの場合、血痕がいたるところに残ってて、その分、いつもアタシが大変だったんだよ。今日は綺麗になってるじゃない。それは偏にぽちちゃんの功績よ」

 なるほど、そうだよな。
 今日が初めてなワケがないんだから、以前も殺して、それなりに掃除はしてても散らかし放題にしてた前科があるんだな…って、でも待てよ。
 那智は食餌に関して以外は潔癖じゃないかと思うほど、綺麗好きなんだぞ。
 ニヤニヤ笑いながら掃除する姿に何度俺が青褪めたか判らないけど、それでも、陰鬱が支配しているような灰色の町で、那智はいつも鼻歌なんか歌いながら、楽しそうにニヤニヤ笑って掃除したり洗濯したりしているのに…

「俺…じゃないよ。那智は綺麗好きだ」

 ポツリと呟いたら、少し気になる咳をしたスピカは、那智の小脇に抱えられたままの俺を物珍しそうに見ていたけど、やっぱりどうでも良さそうに鼻先で笑うんだ。

「じゃあ、ウチでは手を抜いてるのね」

「家は綺麗にしないとぽちが病気になるだろ~?」

「へ?」

「犬は弱いし~?ここに来る連中にそんな繊細なヤツなんかいないワケよ」

「だからって誰が手を抜いていいって言った?」

 気が短いのか長いのか、よく判らないスピカは煙草をふかしながら胡乱な目付きで睨んだみたいだ。
 そんなの、やっぱり屁でもない那智はニヤニヤ笑ったままで、特に気にした様子はない…ってか、少しは気にしないといけないだろ。曲がりなりにも、雇い主なんだぞ。
 俺がハラハラしていると、スピカはそれ以上の問答はやっぱり避けるつもりなのか、苦笑するように鼻先で笑ってから、小脇に俺を抱えたままで、殆ど何もかも完全無視で…って、用は全て終わったとでも思っているんだろう、鼻歌なんか歌いながらカウンターの下に置いてある…そうか、こうやって調達してたのかと感心する俺すらも無視して紙袋を抱えてスタスタと歩いて店内を横切って出て行こうとする那智に、やっぱり気になる咳をして言ったんだ。

「久し振りに本部に顔をお出しなさいってさ。下弦が誘ってたわよ」

「…はーん」

 気のない返事…なのかどうか判らない、曖昧な態度の那智に、スピカは呆れたような顔をしたものの、どうでも良さそうに長い年月を物語るような光沢のあるテーブルに片肘をつくと、掌に側頭部を押し付けて疲れたような溜め息を吐いたみたいだ。

「…蛍都が退院するんでしょ。処分を考えてるから、アンタに話があるんじゃない?」

「…」

 ふと、足を止めた那智は身体ごとスピカに振り返って、相変わらずのニヤニヤ笑いの双眸をスッと細めると、キッと睨んだみたいだった。
 みたいだ…と俺が言うのは、どうも荷物みたいに抱えられてるんじゃ、どんな展開が起こっているのか詳細に見ることができないんだよ。

「アタシを睨んでもどうしようもないわ。ドジを踏んだアンタの相棒が悪いのよ。足まで失くして、この碌でもないクソッタレな世界で、せいぜい、守ってやるといいわ」

 嫌味なのか本気なのか…スピカは咳をして、それからジリジリと燃えた灰をポトリと床に落とすと、双眸を細めながら片手に持っている煙草を咥えて深々と毒の煙を吸い込んだ。
 身体中を侵す灰に満たされて、まるで満たされることなんかこれっぽっちもないと思い込んでいるような目付きをして那智を見詰めたけれど、俺のご主人はそうして、暫く立ち尽くしているみたいだったけど、まるで諦めたようにニヤニヤ笑いながら袋を持っている片手を挙げて、シンと静まる店内にまるで置き去りにされたみたいにして取り残されたようなスピカに別れを告げだ。
 物言わぬ別れは、何故か物悲しさを漂わせていた。

「…那智」

 俺がポツリと、忘れたみたいに小脇に抱えたままでいる那智を見上げて呟いたら、物思いに沈んでいたんだろう、俺のご主人はハッとしたようにニヤニヤ笑って見下ろしてきた。

「なに?ぽちは腹でも減ったかぁ??」

「そうじゃない。スピカ…」

「蛍都のこと?ぽちは蛍都が気になるのか~??」

 それはアンタだろ…とは言わずに、一旦グッと堪えた俺は、見下ろしてくるニヤニヤ笑いを見上げて首を左右に振りながら言ったんだ。

「蛍都じゃない。スピカ…何処か身体が悪いんじゃないか?」

 そりゃ、蛍都のことだってスッゲー気になるさ。気になるな、って方がどうかしてるだろ。
 それでも、あの湿ったような咳の方が気になる。
 あんな寂れた、誰も訪れないんじゃないかと思うほど寂しい店で、独りぼっちで切り盛りしているあの女主人は、気になる咳をしながら煙草をふかしていた。そうして、物言わぬまま死ぬんだろう。
 この世界ではそれが当たり前で、だから、誰も他人の身体のことなんか気をつけることもない。それどころか、自分自身が生きていくのも必死な世の中なんだから、こんなこと考えている俺の方がどうかしてるんだろうなぁ…
 でも俺は、あの寂しそうな目をしていた、俺たちの雇い主を嫌いにはなれないから、その身を気遣ってしまうんだ。

「…」

 思わず溜め息を吐いた俺を、那智はニヤニヤ笑いながら見下ろしている。
 それに気付いて、俺は訝しそうに眉を寄せて那智を見上げた。

「ぽちはさぁ~、ちょっとヘン。でも、オレはそれでいいと思ってるんだぜー」

「…はぁ?」

 思わず呆気に取られてポカンとしたけど、那智のヤツは咽喉の奥でクックックッと笑いながら、目蓋を閉じて首を左右に振ったんだ。

「スピカはビョーキだし」

「病気?…もう、治らないのか??」

「それはオレが関与する問題じゃないだろ。だってさぁ、スピカが自分で決めてることだし?口出しできないワケよ」

 なんだか、良く判らないんだが、そこには『タオ』に関わる連中だけが知る決まりがあるのか、或いは、スピカを想うからこそ、ソッとしておこうとする、それは那智の優しさなのか…いずれにしても、その中に俺が立ち入れる領域はないってことだ。
 となれば、俺が言うべきことは1つしかないだろ?

「そうか。じゃ、どうでもいいけど降ろしてくれ」

 そろそろ抱えられてるのもうんざりだぞ。
 と言うか、どれだけ力持ちなんだ。
 片手には物資のしこたま入った袋だろ?片手には俺だ。
 それでなくてもまだ夕暮れではないのか、それにしたって、人影がないワケじゃないんだ。
 両手が塞がってて、あの浅羽那智を殺れるって、絶好の好機だとか思って無謀な誰かがバカみたいに襲ってこないとも限らないだろう。
 俺はそれが不安で仕方ないんだ。
 あの浅羽那智に限ってそんなこと、有り得ないとは思っているんだけど…用心に越したことはない。

「はーん?どうしてぽちを降ろすんだぁ??」

「…どうしてって、決まってるだろ。俺は歩けるんだ」

「ぽちは二足歩行できるもんなぁ」

「…」

 噛み合わない会話にはもう慣れっこなんだけど、恐らく俺を下ろす気なんかこれっぽっちもないんだろう。那智は鼻先で笑うようにして、ニヤニヤしてる。

「蛍都もさぁ、昔は二足歩行できたのに。今は歩けないんだぜー?笑っちゃうよなぁ」

「…」

 いや、笑い事じゃないだろ。
 真剣にどうかしてるぞと見上げると、那智は感情を窺わせないニヤニヤ笑いを浮かべたままで、殆どどうでも良さそうに肩なんか竦めている。
 コイツの場合、本当に蛍都を愛してるんだろうかと心配になる。
 そう言えば、ベントレーもそんなことを言ってたっけ。
 恋人同士だってのにさ、何処か一本、線を引いたみたいに割り切った関係…そのくせ、毎晩身体を求め合って、愛を確認しているのか、それとも、ただのスポーツだとでも思っているのか、得体の知れない那智らしく、その愛し方もやっぱり不思議で、得体が知れないんだよな。
 それでも、心の奥で何時も思い浮かべてるに違いないほど、そんな愛し方でもきっと心から大切に想っているんだろう、そんな存在である蛍都を、俺はまた暗い嫉妬を胸の奥にひっそりと隠しながら、羨ましいと感じていた。
 どんな愛し方でも、スピカが言ったように、こんなクソッタレで碌でもない世界ではどうってこたない、その愛し方でもいいから、心の何処か片隅に、俺を入れてくれないかな。
 犬、としてではなく、ひとりの人間として…そこまで考えて、俺は那智の横顔を盗み見ながら、自嘲的に笑うしかなかった。
 負け犬として生き長らえた人間には、那智の扱いは当然なのかもしれない。
 犬、でもいいから、その心の中に俺を入れて、どうかほんの少しでも長く、忘れないでいて欲しい。
 妹と、義理の両親を死なせてしまった俺のこれは儚い夢なんだ。
 あのオレンジパーカーの男を捜して、いや、そうじゃなくても…蛍都が帰ってくるその前までに、何処か決意を秘めた双眸を持つ、あの悲しい女のように、俺もヒッソリと死のう。
 その時、ほんの少しでも那智が、寂しいと感じてくれたら、きっとそれだけで俺は満足できる。
 そしてそれは。
 あの日この世界に引き留めてくれた…希望だ。

 この想いは空回りしてあなたに届きません。
 この声はこんなにもあなたに届くのに。
 この心だけ取り残されたように独りぼっちです。

16.Voyageの謎  -Crimson Hearts-

 店の雰囲気を見事にぶち壊している俺に、スピカは「似合うわねぇ」と、強ち冗談とも思えない口調で言ってから、奥に引っ込んでしまった。
 これから、集金した金をタオに届けるんだそうだ。
 どうやら戻れるのは夜半になりそうだと言って、『Voyage』の女主人だと言うのに、今日は那智と俺に任せるからと彼女はふらふら出て行ってしまった。
 こんなウェイターなり立ての俺と那智とで、どうやって店なんか切りもりできるってんだ?
 正直な話、俺はウェイターなんかしたことがない。
 今まではしがないコソ泥で生計を立てていたし、まともな仕事なんかしたことがないから、俺は不安そうに那智を見上げていた。
 当の那智はと言えば、慣れたものなのか、別にどうってことない面でニヤニヤ笑っていて、それどころか、非常に嬉しそうにさえ見える。

「お、俺は何をしたらいいんだ?」

 結局、根負けして口を開いたら、仕込んでいた料理を一通り作り終えて一段落着いていたのか、満足そうな那智は目線だけ動かして俺を見下ろしてきた。

「ん~?ぽち、ミルク好きだろ。お座りして飲めばいい」

「は?」

 思わず呆気に取られてポカンとしたら、背後の棚に無造作に置かれている酒瓶のひとつを引っ手繰って、那智は勝手に無造作に瓶のまま呷ったんだ。
 う、それは不味いんじゃないか?
 動揺して目を丸くしていたら、那智は呆然としている俺に気付いて、それから「ああ…」と呟いたかと思うと、カウンターの下にちんまりと置かれているらしい、旧式の冷蔵庫から涼しげな音を響かせて瓶入りの牛乳を取り出して差し出してきたんだ。
 さぁ、これを飲めと言いたいんだろうけど…いや、だから、そうじゃないだろ。

「売り物に手を付けていいのか?」

 呆れたような、訝しそうに眉を寄せて聞いたら、那智こそニヤニヤ笑いながら訝しそうに首を傾げやがったんだ。

「はーん?ここ、スピカのお店だし?別に、何がどうなろうと知ったことかよ。スピカに雇われる時にさぁ、自由にしてていいって契約したんだよ。だから、オレが良ければ何でもいいんじゃね?」

「そう言う問題だろうか…」

「どーゆー問題がお気に入りなワケ?どうでもいいけどさぁ、ご主人さまがお座りって言ってんだ、ぽちは大人しくお座りすれば?」

 ニヤニヤ笑ったままでカウンター越しに牛乳瓶を押し付けてくる那智の手から、俺は恐る恐るその真っ白な液体を満たす瓶を受け取った。
 確かに牛乳は好きだけど、だからと言って、こう毎日飲まされてもなぁ…は、いかん。
 那智菌に頭を侵されるところだったが、そう言う問題じゃない。

「コーヒー以外も飲めるんだな」

 牛乳の白い液体を眺めながら、そう言えばと、普通のモノはコーヒー以外口にできないとニヤニヤ言っていたのを思い出して聞いてみた。
  
「はぁ?これもコーヒーだし?酸化したコーヒーは酒と同じになるみたいなんだよなぁ」

 オレにとってはと那智がどうでも良さそうに答えたから、どうやら売り物に手を付けているのは俺の牛乳だけだったのか…
 てことは、古くなったコーヒーを飲めば酒を飲んだ時のように酔うってことなのか。とか、そんなどうでもいいことを考えてガックリしたことは言うまでもない。

「開店はいつなんだ?」

 お座りと言われて、家にいる時みたいに床に直に座るのも気が引けて、俺は咎められるだろうとは思ったけど椅子に腰を下ろした。
 だが、那智は俺が考えている以上には、お座りにたいした意味を持っているワケではなかったんだろう。何故なら、俺にとってお座りってのは床に直で座るんだとばかり思っていたんだけど、那智はお座り=ただ座ると考えているようなんだ。
 だから、お叱りはなかった。
 それどころか、カウンターに両肘を着いて、「んー?」と俺の顔を覗き込んできたんだ。
 もちろん、ニヤニヤ笑いながら。

「ぽちはさぁ、開店が気になるワケ?」

「…当たり前だろ」

 何の為の店番だよ。
 たまに那智は、やっぱ、どっかおかしいんじゃないかと思うようなことを言う。

「そーなのかぁ?ま、どうでもいいんだけどさぁ。お客は気が向いたらそのうち来るでしょ?」

「…」

 どれほど適当に店番しているんだ、コイツは。
 俺がいない時は、こんな調子で勝手に酒を呑んでぶらぶら時間を潰してたのか?
 それで、あの気だるそうなスピカはよく怒らないなぁ。
 瓶の牛乳を飲みながら…うん、やっぱり本物の牛乳は美味いな。毎日飲まされてるから、骨太になってて骨折とか滅多にしないんじゃないかと思うぐらいだけど、毎日でもいいかもしれない。

「なんだよ?」

 ふと、ニヤニヤ笑っている那智と目が合った。
 相変わらず胡散臭く笑うんだけど、なんとなく、いつもとは違うような気がして首を傾げたら、那智はなんでもないようにニヤーッと笑って酒瓶を呷ったんだ。

「別にぃ?ただ、ぽちはさぁ。牛乳飲む時、本当に嬉しそうな顔をするなぁって思ったワケ」

「え?」

 目蓋を閉じて笑う那智を見ていて、俺はふと思う。
 もしかして、毎日牛乳を飲ませていたのは単なる嫌がらせだとかそんなものじゃなく、俺が嬉しそうに飲んでいたから、よほど好きなんだろうと気を遣っていた…とか?
 はは、いや、そんなまさか。
 この浅羽那智様が、俺のご主人さまと豪語する、この天下のネゴシエーターが俺なんかに気を遣うだと?
 ホント、冗談も大概にしやがれってんだ。
 でも、冗談にならないのが那智の、那智たる所以なんだよなぁ。

「う…嫌いじゃないし。それに、アンタがいつもくれるじゃないか」

「はーん?そりゃそうでしょーが。ぽちが大好きなら、好きなものを与えるのがご主人さまの醍醐味なんじゃね?」

 ニヤァ~ッと笑っているところを見ると、やっぱりかと思ってしまう。
 最強のネゴシエーターのくせに、こんな寂れた酒場でバイトしたり、自分こそ犬みたいに無頓着なくせに、那智はそこそこ、俺を大事にしてくれているんだ。
 面映いような、胸がくすぐったいような気がして、俺は思わず俯いてしまう。

「その、有難う」

 で、口をへの字にして礼を言うんだ。
 そんな俺の態度を理解できない鈍感なご主人様がニヤニヤ笑いながら首を傾げたその時、古い扉だと言うのに唐突に扉が蹴るようにして開けられた。
 バターンッと大きな音が店内に響いて、思わず反射的に椅子から飛び降りて身構えてしまう俺の傍らに、何時の間にか来ていた那智がニヤァ~ッと、何か邪な笑みを浮かべて入り口を見た。

「スピカ!そろそろ店をたたむ準備はできたかよッ!!」

 巨体を重そうにのっしのっしと歩く大男を先頭に、どやどやと下卑た野次を飛ばしながら数人の男たちが店内に雪崩れ込んできた。
 気だるげな双眸の女主人を捜していた大男は、那智と俺の存在に気付いてピクリと眉を震わせた。
 そうだ、那智がいる。
 那智に気付けば誰も何もできない。
 思わずホッとする俺の耳には、ゲラゲラと笑う耳障りな声が響いていた。

「なんだ、スピカのヤツめ。恐れをなして用心棒でも雇ったのか?それもこんなふざけたヤツをッッ」

「ギャハハハ!バッカじゃねーの?見ろよ、胸にぽちって書いてあんぜ!」

「かっわいいじゃん!コイツ、貰ってこうぜ」

 那智なんかよりもっと性質の悪いニヤニヤ笑いを浮かべて…いや、那智以上に性質の悪いニヤニヤはないんだけど、それでも、嫌悪感が背筋を走る嫌な笑い方をして、男たちが口々にそんなことを言いやがるから、向こうっ気なんかこれっぽっちも持ち合わせちゃいない、ケチなコソ泥の俺だってムッとしたよ。

「おいおい、睨んでるぜ?こんなチビとそっちの細っこいのを雇って、スピカのヤツは何を考えてるんだ?」

 ギャハハハッと笑う男たちは、ニヤニヤ笑いながら一歩踏み出して、自然と背後に俺を庇うように前に出た那智に気付いていないようだった。
 エプロンをしてしまうと邪魔になるベルトに差した二対の鞘から覗く柄が、よく見れば左右に突き出しているんだけど、頭からバカにしている男たちは気付いてもいないようだ。

「…」

 那智が無言でニヤニヤ笑っているのを、気に障ったのか、仲間の一人がペッと床に唾棄して額に血管を浮かべた。
 どうも、こう言う手合いに多い、血の気の多いヤツみたいだな。

「なんだぁ?お前、ニヤニヤしやがって。舐めてんのか?」

「…」

 それでも那智はニヤニヤ笑っている。
 けして美味そうではないけれど、今夜はご馳走だなぁ…とでも思っているのか、その笑みは早く戦いたくてウズウズしているように見えるんだけど…どうして仕掛けないんだろう。
 そこまで考えて、漸く俺はハッとしたんだ。
 那智が、那智らしくもなく間合いを取っている。
 その理由は、きっと俺なんだと気付いた。
 那智は殺戮を好むけど、そうなると見境がなくなるのか、気付けば血の海になるから飼い犬である俺を汚すと面倒だと考えているに違いない。

「ああ?なんだ、コイツ。気に喰わねぇなぁ…」

「殺っちまえ。スピカの腰抜けが用意した用心棒なんざ、たかが知れてる。ちょうどいい、暇潰しになるだろ?」

 スピカが帰って来るまでここで待つ気でいた男たちは、ニヤニヤ笑って無言で立ち尽くしている、脱色し過ぎで茶色になっている髪の、前髪から覗く仄暗い光を宿した双眸を持つ男を、暇潰しに遊んでやろうとでも思っているんだ。
 その相手が、誰だかも知らないで…
 俺は、那智の身体から気付かない程度で漏れ始めた殺気を感じ取って、思わず立ち竦んでしまった。
 その態度が、大男たちには自分たちに怯えていると受け取ったんだろう。
 下卑た声を上げて、仲間と目線を交わしながら馬鹿笑いなんかしやがった。
 その瞬間だった。
 風を切る音をさせただけで、薄暗いランプの明かりを反射させて、煌く人殺しの刃が閃いた。
 音もなく、ともすれば身動きすらしていないのではないかと思わせる那智の両手には、何時の間にか日本刀が握られていた。
 その日本刀は2本とも、鮮血を滴らせている。
 …と言うことは。

「なんだ、なんだ…な、ん?」

 一瞬の出来事は、何時だってやられた相手には、自分の身の上に起こった出来事を理解する暇など与えないんだ。
 那智に喧嘩を吹っ掛けていた男もそうだったんだろう。
 その身体に、そう、その巨体に…真っ赤な何かで大きなバツ印が浮かび上がった。
 浮かび上がると同時に、意識するよりも早く、クロスするようにしてズ…ッとずれた。
 そう、ずれたんだ。
 こんな碌でもない世界で生きていながらも俺は、喧嘩や人殺しに弱くて、思わずギュッと目蓋を閉じてしまった。
 何が起こったのか、見なくても判る。
 断末魔は仲間の息を呑む気配に勿論消されるワケもなく、店内に響き渡っていた。

「こ、れ…ぎゃあああああぁぁぁッッッ!」

 一瞬の出来事だった。
 たった一瞬の出来事で、顔に返り血を浴びてニヤニヤ笑っている浅羽那智は、あの屈強そうな大男の身体を二刀で両断していたんだ。
 ピクピクと動く腕を踏みつけて、その時漸く那智が行動らしい行動を起こした。
 刀から滴る鮮血をべろりと舐めたんだ。

「あのさぁ、舐めるってのはこういうことを言ってんのかぁ??」

「野郎…よくも弟をッ」

 中でも一番の巨体の大男が、ゆらりと殺気を纏って身を乗り出した。
 その腕には既に武器が装着されているんだけど、文字通り、鉄のグローブを改造している、スパイクだらけで肘までもありそうなそれを装着して、醜悪な顔で憎々しげに那智を見下ろしたんだ。
 他の仲間も血に飢えた猛獣みたいに興奮して、それぞれの武器を手にして那智を睨み据えた。
 その時、それまで潜んでいた狂気のような殺気が噴出して、慣れていない俺と、相手の何人かがビクリと竦み上がってしまった。
 流石は奴らのボスなのか、スパイクグローブの男だけはギクリとしたものの、面白うそうにニヤッと笑ったんだ。

「どうやら、腕に覚えはあるようじゃねーか。弟の仇、存分に取らせて貰うぞッ」

「…ぽちさぁ」

 一瞬、思わず呆気に取られるほど暢気な口調で尋ねてきた那智に、俺は思わず頷いていた。
 声の調子とは裏腹の殺気に、凍り付いて動けないんだ。

「な、なんだよ?」

「これからコイツら始末するワケじゃね?だったらさぁ、オレ、また店内を汚しちまうワケ。掃除、一緒にしような?」

 ニヤニヤと那智が笑う。
 その態度を、無謀な男たちは挑発と受け取ったようだった。
 いや、確かに挑発に見える…見えるんだけど、那智の場合、これは真剣そのものの発言なんだ。

「…ッ、バカにしやがってッッ」

 案の定、男たちは一斉に飛び掛った。
 天井こそ高いがこの狭い店内で、大男4人に囲まれて、しかもそれぞれ腕には凶悪な武器を持ってるんだ。
 流石の那智だってヤバイ、これはヤバイぞ。
 チンケなコソ泥の俺に何ができるってワケでもねーんだけど、それでも何かしないと、このまま那智が殺られるのを黙ってなんか見てられるかよッ!
 カウンターの向こう側に回って武器になりそうな肉切り包丁を引っ掴んで、囲まれた那智を助けようと振り返った俺の目の前で、惨劇は繰り広げられていた。

「ぎゃッ!」

 短い悲鳴を上げる男のナックルを装着した腕が肩から吹っ飛んだかと思うと、もう片方で殴りかかっていた男の顔半分が弾け飛んだ。
 血飛沫が吹き上がる中を、那智は絶命の断末魔を上げる男たちの身体を蹴りながら、ニヤニヤを猛烈に凶悪な笑みに変えて、振り下ろされるスパイクだらけのグローブを片方の日本刀で受け止め、羽交い絞めにしてくる背後の男を逆手に持った日本刀で貫いた。
 耳を劈くような金属音を響かせた防御は、拳の重さを物語っていると思う。
 戦うことが嬉しくてしょうがないと言った感じで、声を立てて笑う那智を見て、肉切り包丁を両手で持ったままの俺は、心底から、ああ、那智は本当に浅羽那智なんだなぁと実感していた。
 今までが今までだったから、呆気に取られて見入っている目の前で、那智は貫いた日本刀の柄を持ち替えて、そのまま上に引き裂きやがった。
 あらゆる動脈を引き裂いた結果、夥しい血飛沫が吹き上がり、断末魔を上げた男がふらふらとよろめくと、生きていた名残のように、鼓動するように鮮血が吹き上がったけど、そのまま仰向けに倒れてしまった。
 その時でさえ、平然とガッシリした体躯の大男の渾身の一撃をたった一本の細い日本刀で受け止めたままで、ニヤニヤと笑ってるんだ。

「…き、貴様、いったい何者なんだ!?」

「あっはっは!知らなくていーよ、うぜーなぁ。どーせ死ぬんだし?お前には必要ないってワケ」

 久し振りに爽快に笑う那智が、背後の役目を終えた日本刀を返す手で振り下ろそうとすると、一瞬早く大男は那智の身体を弾いて背後に飛び退いて危険を回避した。
 その一連の出来事は、僅か数秒の出来事だと言って、いったい誰が信じてくれるんだ。

「…なんだかなぁ、あんまり役に立たねーな。コイツらさぁ」

 那智は肉塊に、或いは身体の一部を欠損した死体を踏み躙りながらそう言うと、片手に持つ日本刀から滴るまだ熱の冷めない鮮血を目蓋を閉じて舐めた。その隙を突いて大男が一撃を繰り出したが、那智は造作もなくそれを片方の日本刀で受け止め、それから受け流した。
 そうして、隙を作る大男の腹を思い切り膝蹴りしたんだ!
 あのガタイのおっさんに比べれば細い足だし、いまいち効いちゃいないだろうとハラハラしながら、肉切り包丁の柄を握り締めて見守る俺の前で、大男は巨体をくの字にして「ゲェッ」と胃液を吐き出した。
 腹には鎖やら鉄板やらで防御してるってのに、那智のクリティカルがヒットしたって言うのか?
 それとも、わざと蹴り上げて、あの鉄板やら鎖やらでクリティカルを狙ったのか…?

「アンタもあんまり役に立たねーなぁ?なに?スピカに金でも貸したのかぁ??」

 じゃぁ、返ってこねーよと笑って、那智は体勢を崩すおっさんに日本刀を振り下ろした!…んだけど、おっさんも素直にやられる気はないらしく、スパイクの腕で受け止めた。
 鋭い金属音で、どれだけの力が圧し掛かっているのか判るような気がする。
 あくまで喧嘩に無縁の俺の感想だから、気がするだけなんだけどな。
 形勢逆転の状態で受け止める日本刀をギリギリと押し遣りながら、大男は眼前に迫る悪魔に目を見開いた。

「お、お前は、もしや…浅羽那智か?!」

「ぽちは那智って呼んでんだぜー」

 可愛いよなぁと、どうでもいいことをケロッと言いながら那智は、一旦、巨体を押し遣って体勢を整えると、ニヤニヤと笑って身構えた。
 頬の返り血が顎から零れ落ちている。

「あれ?ぽち、なに包丁とか持ってんだぁ??」

 顎を拭いながらニヤニヤ笑って俺に気付いた那智は、そんなどうでもいいことを、戦いの最中だって言うのに言いやがるんだ。
 どうだっていいだろ!…と口に出す前に、大男のグローブが那智に振り下ろされるけど、那智はそれを難なく受け止めた。その攻防に足技まで繰り出すんだけど、見ているうちに、どちらが優勢かよく判る。
 これは喧嘩に疎い俺にだってよく判った。
 何故なら、おっさんは肩で息をしているのに、那智は少しも呼吸を乱していないんだ。
 驚異的な体力に俺が更に呆気に取られていると、ブンッと風を切るようにして繰り出される拳を僅かに避けた那智はニヤニヤ笑いながら、その場でいきなり飛び上がると、空中で一回転するようにして驚く俺の傍らのカウンターに降り立ったんだ。

「ぽちさぁ、それ危険だから。だから、オレに寄越せってば」

「この店の天井が高かったからよかったものの、アンタ、戦う時は状況をよく考えて…」

「はぁ?ちゃんと目測はしてたぜ~」

 そう言われてみればそうかと、現に、ちゃんと俺の目の前のカウンターの上に着地してんだからいいのか。
 屈み込みながら首を傾げる那智に、そんなことを考えながら俺は言われるままに、差し出された手に肉切り包丁を渡したんだ。

「ち、畜生…ハァ、ハァッ」

 既に肩で息をしてる時点で、この戦闘の勝敗は判り切っているような気がするのに、ニヤニヤ笑う余裕の那智は許してやる気なんかさらさらないみたいだった。

「畜生じゃねーよ。それはこっちの台詞だし?あーあ、またスピカに怒られる」

 うんざりしたように、日本刀で肩を叩いてニヤニヤしている那智は、まるで何かのついでのように肉切り包丁をヒュッと投げたんだ。
 ハッとした時には、回転を早めた包丁は凄まじい早さで、おっさんの首を刎ねていた…と思う。
 鮮血を吹き上げて、大男はきっと、何が起こったのか判らないまま死んだに違いない。
 暫くふらふらと動いていたけど、グルンッと目玉が上を向くと同時に首が転げ落ち、頚動脈を切断した首から生命の名残りすら吹き飛ばすように鮮血が迸り、その反動で巨体は大きな振動を起こしてぶっ倒れてしまった。 
 あんまり速度が速かったから、避けることも逃げることも考える余裕さえないんだから、首も刎ね飛ばされなかったんだと思う。

「スピカに内緒でさぁ、掃除しよーぜ?」

 あまりの出来事に声すらも上げ忘れて呆然と立ち尽くす俺なんかお構いなしに、那智のヤツはカウンターから血塗れの床にゆっくりと降り立つと、振り返ってニヤッと笑った。
 木製の床にじくじくと広がる血の海と、累々と横たわる死体、鼻を突く異臭に眉を寄せる
 俺の目の前には、返り血を浴びてニヤニヤ笑う那智がいる。

「…その死体はどうするんだ?」

 まさかゴミ捨て場に投げ捨てるワケが…あるか。
 だいたい、この町にあるゴミ捨て場はいつも何かしらの死体が投げ込まれているから、一種独特の死臭が染み付いている。いまさら、それが4体増えたところで、誰も機動警備隊に通報しようなんて物好きはいないからな。

「喰える分は喰いたいかなぁ~、腹も減ったしさぁ」

 言うが早いか、まだ温かさを残す腕を拾い上げて口に持って行くと、那智は歯を立てて肉を食い千切って租借した。
 何度見ても、慣れるもんじゃねーよなぁと思う。
 俺が青褪めて見詰める先、租借していた那智が急にヘンな顔をしたかと思ったら、ぶぇっと吐き出してしまった。床に吐き出して、噎せたように咳き込むその口許が、ニタッと笑ったから、やっぱり反射的にゾッとしてしまう。

「コイツ、薬やってたな。薬はダメだ。これはもう喰えねーなぁ」

 口許にこびり付く血を片腕で拭いながら、ふと気付いたように、両手に持っている日本刀に付着した血液をビュッと風を切るようにして振り落としてから、腰に佩いている鞘に納めたんだ。

「…じゃ、もう用無しってことか?」

「とは限らないし?オレさぁ、すげー腹が減ってるんだよなぁ」

「人間以外に喰えないのは辛いな」

 ポツリと呟いたら、他に良さそうな死体を選んで口に運んでいた那智は、「ん?」と言いたそうな顔をして俺を振り返ったんだ。

「別に普通の飯が喰えないってさぁ、苦労したこたないし?お、これはイケる。今の時代、人口は増える一方で、喰うのに困ることもないってワケ」

 那智は、そんなに観察とかしたくはないんだけど、食餌をするとき、肉を喰うと骨の周りにある筋や健なんかも綺麗に喰って、それから、どれほど歯が丈夫なんだか判らないんだが、骨まで噛み砕いてしまう。かと言って、それを夢中で貪るってこともなく、何かのついでのように片手に持って別のことをしながら喰うんだ。
 小さな部位、たとえば指なんかは無造作に口に放り込んでしまう。

「那智は増え過ぎる人口を抑えるために、そう言う身体になってしまったのかもしれないな」

 取り敢えず、那智の食餌が終わるまで、その辺の片付けを始めながら言ったら、黒エプロンのネゴシエーターは片手に人体の一部を持って、しかもそれを喰いながらニヤニヤ笑うんだ。
 血溜まりに立ち尽くして人肉を喰らいながら笑うんだから、悪夢…のようだとは思うけど、何故か、それしか喰えない身体になってしまっている那智を、怖いとか気持ち悪いとか思えないでいた。
 却って、悲しいとすら思ってしまうんだ。
 俺も大概、どうかしてるとは思うけどな。

「はーん?よく判らねーなぁ。気付いた時には人間を喰ってたんだから、何故こうなったとか、考えたこともないワケよ」

「そうか」

 調理場に回ってゴミ箱用のビニール袋を見つけた俺は、カウンターを回って店内に戻ると、そこら中に飛び散っている、嘗ては大男たちだった亡骸を拾い集めた。
 比較的大きなビニール袋が10枚分になりそうなソイツ等は、那智が喰い易いように壁に突き刺さっていた肉切り包丁を取って来て勝手に解体を始めてるから、余計に数を増やしている。
 そうか、なんとなく判った。
 那智が開店時間を全く気にしないワケが。
 気にしていないんじゃない、こんな連中が来るもんだから、オープンしていても客の方が来ないんだ。
 那智にしてみれば、これは絶好の食餌タイムだし、うっかり足を踏み入れた客は、たとえ開店時間だったとしてもダッシュで逃げ出すだろうから…那智が言っていたように「気が向いた客がそのうち」来るんだろう。
 …なんつーか、その、先が思いやられると思うのは、俺だけなんだろうか。

 足許に広がる闇は何処までも暗くて。
 その先を見ようとしても無理だった。
 無理ならそれで諦めればいいものを。
 どうして覗き込みたいと思うのか。
 不思議だと首を傾げれば。
 闇なんか見なくてもいいと笑う声がする。
 光が満ち溢れるように心を満たすから。
 オレは。
 暫くその笑い声を聞いておこうと思う。

 いや、違う。

 ずっと、永遠でもいいから聞いていたいと切望する。
 足許にある無限のような闇が。
 気にならなくなっていた。

15.幸せなこと  -Crimson Hearts-

 那智はニヤニヤ笑いながらも不思議そうに首を傾げ、それでも別に気にしてもいないのか、首を振りながら予め仕込んでいたんだろう、鍋に火を入れた。
 俺は首輪をしたままだし、このままブラブラ突っ立っていてもなんだし…ってことで、勝手にカウンター席に腰掛けたんだ。
 頬杖をついて、砂岩ビルでいつも見ている見慣れた光景をぼんやり眺めていたら、那智のヤツがニヤァ~ッと笑って目線だけを向けてきやがったから…う、また何かとんでもない事実が飛び出すぞ。
 なんか俺、だいぶ身構えるのが上手くなったような気がする。
 いや、身構える必要なんかないんじゃないかとか、脳内で突っ込む自分を軽く無視して、ハラハラしながらそんな那智を見返した。

「な、なんだよ?」

「なんだよじゃねっての。ぽちはさぁ、ご主人さま働かせて、自分はお座りしてんのかぁ??」

「は?」

 それがあんまり間抜けな顔に見えたんだろ、那智のヤツはハッハッ…と声を出して笑ってから、首を左右に振って漆黒のエプロンで両手を拭う…ワケもなく、ヘンなところで潔癖症っぽいコイツは、キチンと布巾で手を拭いながら言ったんだ。

「だからさぁ、は?じゃねっての。ぽちはさぁ、今日からウェイターになるんだぜー」

 それがもう、本当に嬉しいんだろう。
 何がそんなに嬉しいんだよと聞きたくなるほど、那智のヤツは盛大にニヤニヤ、ニヤニヤ笑って喜んでるから…俺はその思考回路にやっぱり追い付けずに呆気に取られてしまうんだ。
 つーかさ、やっぱり、那智の方が全然犬っぽいと思うんだけどなぁ。

「わ、判った。でも、犬でも雇って貰えるのか?」

 まぁ、働かざる者喰うべからずだし?
 バイトでもさせて貰えりゃ、何もせずに一日中家にいるよりは遥かにマシってモンだから、俺は歓迎なんだけどよ。
 あの気だるげな美人のねーちゃんがOKしてくれるのか、問題はその辺りにあるワケだし、どーせまた那智の行き当たりばったりの思い付きだとは思うんだけどさ。

「はーん?…どだろね、どーせスピカの趣味のお店だしぃ??別にいーんじゃね」

「…なんだよ、その遣る瀬無いほどのどーでもよさそうな口調は」

 思わずガックリと年月を物語る床に膝を着きそうになりながら突っ込むと、泣く子も黙る天下の浅羽那智様は片手を腰に当てて、ニヤニヤ笑ってどうでも良さそうに唇を尖らせやがる。
 どうでもいいけど、器用な表情をするよなぁ。

「実際、どーでもいいでショ、んなこと。オレがバイトしてんのにー…ぽちが傍にいなくてどーするワケ?」

「…今まで、家にいたけどよ」

「そんな言い訳聞きません」

「……言い訳じゃない。事実だ」

 ああ、なんだこの不毛な会話は。
 取り敢えず判ることと言えば、仕込みなんかとっくの昔に終わってて、開店準備も恙無くすませちまった那智が、どうしても俺をウェイターにすると決めてるってことだな。
 しない?…とか聞くんじゃないんだ、コイツの場合は。
 オレがバイトをする⇒ぽちが家にいる…いや、そりゃいかん。
 オレがバイトする⇒ぽちも一緒にいるべき…うん、それだ!
 実際、那智の脳内なんかそんな単純明快な答えしかないに違いない。
 実際に聞いてみた。

「はぁ?んなこと、当然だろ」

 いや、聞くなよって気もするけど、案の定の返答に、もう、那智の性格にすっかり馴染んじまった俺の反応なんか決まってら。
 両拳を握って、『ヨシ!』とガッツポーズだろ。

「…つまり、これはアンタなりのジョークだったんだな?」

「??」

「散歩だとか言って連れ出して、蛍都に会わせるふりをして、詰まるところ、ウェイターにするのが目的だったんだな」

 途端、那智がニヤァ~っと笑って俺を見た。
 うん、たぶん、この反応は図星だったな。
 でも嘘が下手な那智は、ニヤニヤ笑いながら瞼を閉じて肩なんぞ竦めやがった。

「まぁね~。半分は当たり。でも、蛍都には本気で会わせる予定だったんだけどさぁ。クソ看護師」

 最後の一言はホント、さらっとした口調で本音を言って、那智はそれでも嬉しそうだ。
 犬なんか冗談じゃない…って思ってたんだけど、俺はどうしてかな、那智が「ぽち」と呼ぶのはそれほど嫌な気がしない。
 それは、このクソッタレで碌でもない街の中で、唯一、しゃがんで俺を見下ろして、ニヤニヤ(それはそれで十分怪しいんだけどな)笑いながら嬉しそうに拾い上げてくれた、この理解し難い思考回路の持ち主を、俺がそれほど嫌っていない証なんだろうけど。
 まるで貼り付けたような笑みはいつも絶えないから、那智の感情の起伏がよく判らない。
 こんな風に偶に、全開で嬉しいそうにしている時だとか、強烈に激怒している時ぐらいしか、那智の感情は判らない。
 微妙な感情のニュアンスを見事に隠して、この灰色の街に溶け込んでしまった那智のあやふやな実体を、チンケなコソ泥上がりの犬の鼻なんかじゃとうてい嗅ぎ分けることなんかできるワケないか。
 諦めて肩を竦めたら、いつの間に傍まで来ていたのか、那智のヤツがガバッと抱きついてきたりするから俺の心臓は跳ね上がっちまった!
 いちいち、動作が静か過ぎるくせに派手なんだよなぁ。

「で、ウェイターぽちはこれからお客さんのさぁ、皿を片付けるワケよ」

「あ、ああ。判った」

 バクバクする心臓を抱えたままで、間近まで迫っているニヤニヤ笑いに頷くと、脱色を重ね過ぎて傷んだ前髪の間から、心の奥底まで覗き込んでしまうんじゃないかと思えるほど、一途な目付きをしていた那智は嬉しそうにニヤニヤニヤニヤ笑った。
 どうやら、愛犬が素直に指示に従ったのが嬉しくて仕方ないようだ。
 …つくづく、ヘンなヤツだ。

「楽しみだなぁ~、ぽちに手を出そうとするヤツがオレの晩飯ね♪」

「は!?」

「殺すか殺されるかなんだから、別にいいけどね。いつからぽちちゃんを雇うことになったの?アタシじゃなくてアンタが」

 咥えタバコの気だるげなねーちゃん…こと、スピカが、呆れたように古めかしい木製のドアを軋らせて店内に入りながらぼやいた。
 どうやら、集金は恙無く終わったようだ。
 膨らんだ黒いバックを、年月の経過とともに染み込んだ食べ物の染みとか飲み物の染みとかで、奇妙な光沢を放つテーブルに投げ出して、疲れたように椅子に腰を下ろすと髪を掻き揚げながら溜め息を吐いた。

「はーん?そりゃ当たり前でしょ?オレがバイトをするってこたぁ、イコールぽちが傍にいて当然。そう決まってるってワケ」

 アンタの脳内完結の方向でな。
 抱き付かれたままで口からエクトプラズムでも吐きそうなほどうんざりしている俺と、これ以上はないほど嬉しそうにニヤニヤ笑っている那智を交互に見ていたスピカは、ただただ、どうでもよさそうに咥えていた煙草を指先で挟んでふぅーっと紫煙を吐き出した。

「那智は一度決めると煩いからねぇ。いいわよ、ぽちちゃんウェイター決定ね」

「早ッ!」

「そうでなくっちゃなぁ、スピカ」

 やっぱり那智は嬉しそうだ。
 何がそんなに嬉しいんだろう?

「那智さぁ、アンタ、何がそんなに嬉しいんだ?」

 それは素朴な疑問だった。
 俺が傍に居ようといまいと、那智はあんまり気にしている風には思えなかった。
 仕事を見せてやるとか、犬には自由がないとストレスが溜まるとか、ワケの判らん理由で俺を連れ回すのは好きなようだけど、傍に居ると嬉しいとか、そんな場面は一度も見たことがない。
 だから、俺は首を傾げるしかないワケだ。

「決まってるだろ~?ぽち、ウェイターなんだぜ??ワンコでウェイターでぽちなんてさぁ。楽しいじゃねーか♪」

「…はぁ??」

 それはそれは嬉しそうにニヤニヤニヤニヤァッと力いっぱい笑われて、俺は思い切り後ずさってしまった。
 だって、なんだよ、その理由は!?
 勿論、那智の腕に阻まれてるワケだから、気持ち後ずさった程度なんだけどよ、それでも俺は、どんな顔をしたらいいのか判らずに、呆気に取られてポカンッと自分の飼い主を見上げていた。
 すると、クックック…っと、咳き込むように気だるげなスピカが静かに笑ったんだ。
 煙草を指に挟んで髪を掻き揚げながら、何が面白いのか、困ったように笑っている。
 那智は、そんなスピカを華麗に無視して(それはそれでなんてヤツだ)、どこから取り出したのか、嬉しそうに唖然としている俺にお揃いらしい黒のエプロンを着せやがった。
 ひとつ違うのは、その胸元に黄色のアップリケで『ぽち』と書いてあることだ。
 ご丁寧に犬の顔付きだ。

 恐るべし、天下の浅羽那智!

 …はぁ。

 目に見える全てが。
 幸福の欠片なら。
 きっと、この瞼が閉じてしまったとしても。
 その在り処が判ることでしょう。
 私は手探りでその欠片を集め。
 ひとつずつ嵌め込んで。
 大切なあなたに贈ります。
 散らばってしまった私のこの心を。
 大切なあなたに贈ります。

14.秘密  -Crimson Hearts-

 那智はそれから、機嫌よくニヤニヤ笑いを浮かべたままでジャンクフードとドリンクの入っている紙袋俺から引っ手繰って投げ捨てると(あーあ、相変わらず勿体無いことをするヤツだ)、俺の手をまたしても握り直すと、問答無用でどこかを目指すような足取りで歩き出したんだ。
 それこそ、うっかりしていたら鼻歌でも歌いだすんじゃないかと思うほど、ご機嫌の那智に、俺は呆れながらその背中を追って首を傾げるしかない。

「これから何処に行くんだ?家とは反対方向みたいだけど…」

「はーん?散歩だろー、楽しもうぜ~♪」

 全く意味不明の言葉にだって、そろそろ慣れればいいのに、俺は相変わらず溜め息を吐きながら那智に付き合ってしまうんだろう。それでも、存外、嫌な気分でもないのは俺も那智ウィルスに感染してしまったのかもしれないなー
 那智に連れられてどこまでも歩いていると、何故か、過去がフラッシュバックして俺は眩暈がした。
 那智、アンタは俺に、この町のことを知らないだろうと言った。確かに、俺はこの町のことなんざ、これっぽっちも知らなかったし、知ろうとも思っていなかった。
 でもな、アンタは知らないだろうけど、俺はこの町のことをよく知っているよ。
 ボスに拾われた日も、こんな薄曇の日で、雨が降らないだけでもラッキーだなんて、お目出度いことを言っていたなぁ…
 俺をメチャクチャにした頭領は、妹がゴミ屑のように死んだ日に、ゲラゲラ笑いながら俺をゴミ屑のように捨てた。散々犯された身体はどこも傷だらけで、尻からはまるで女の生理みたいにたらたらと血が零れていた。ボロボロになった上着一枚で放り出したのは、できればそのままくたばっちまえばいいと思っていたんだろう。そんな姿でも俺は、抜け殻…とまではいかなくても、ただただ、妹の死体であったとしても、会いたくて、ただ会いたくて、曇天の空が広がる灰色の町をフラフラと歩いていた。
 ああ、今日は雨が降らなくてラッキーだなぁ…とか、馬鹿みたいに暢気に思いながら。
 薬に溺れたジャンキーだとでも思ったのか、そんな俺を、町に巣食う荒くれどもは笑っていたし、中には、連れ込んで犯そうとしたヤツもいた。
 俺がソイツらに散々輪姦されなかったのは、偏に、スバルのおかげだった。
 ボスは、俺を連れ込んだヤツの部屋のドアを、堂々と蹴破って入ってきた。
 ベッドの上でぼんやりしている俺の目の前で、ボスはソイツを殴り殺したんだ。
 その姿を見て俺は、どうして…このまま死なせてくれないんだろうと恨んだもんだ。
 この汚い身体を、汚らしく強姦されて殺されるなら自業自得じゃねーかと、無表情で見下ろすスバルに半ば自棄っぱちに叫んでいた。
 どうして助けたんだ、死にたかったのに!…ってな。
 そうしたらボスは、憐れむでもなく嫌悪するでもなく、握った拳にじっとりと付着した鮮血を拭いながら溜め息を吐いて、それから、まるで無表情の淡々とした双眸で俺を見下ろすと、「俺の場所に来るか?」って聞いてきたんだ。
 コイツは何を言ってるんだ?頭がおかしいのかと思ったよ。
 そうしてボスは、「全て、自分の意思で動け」と言い放ったんだ。
 踵を返して歩き出したボスに、俺は暫くポカンッとしていたんだけど、壊れた人形みたいに思考回路とかまともじゃなかったから、どんな気持ちの変化だったのか、俺は釣られるようにしてボスの後を追っていた。
 コイツなら、もしかしたら、この地獄のような世界から開放してくれるかもしれない…そんな馬鹿げた妄想に突き動かされて、腕を差し伸べるでもなく、救い出してくれるってワケでもないのに、俺はボスの後を追って行ったんだ。
 ボスの部屋に入って、俺の抱えていた願いのような思いが、全くの幻想で、意地汚い妄想だったと思い知ったのは、それからすぐだった。
 ボスは俺の襤褸切れのようになった上着を引き剥がすと、そのまま、セミダブルのベッドに突き飛ばしたんだ。覆い被さってくる男の体臭に、こうなることは判っていたくせに、俺はめいいっぱい両目を見開いて、それからガチガチと歯の根が合わないほど震えて、ボロボロ泣きながらボスに抱かれていた。
 まだ、傷だってうまく塞がっていなかったから、俺の尻はボスのモノに耐えられなくて、また真っ赤な血をタラタラと零していたけど、ボスは、スバルはその行為をやめてはくれなかった。
 そこで俺は、なんだ、この身体を差し出せばなんでも思いのままだったんじゃねーかと、激しく身体を揺すられながら、ボロボロ泣いて死んでいった妹に申し訳なくて申し訳なくて、このままスバルが俺を殺してくれたらいいのにと思っていた。
 でも結局、俺はボスに飼われることになったんだけど…はは、ボスはおかしなことを言ったよな。
 犬ではなかったかもしれないけど、アンタだって十分、俺を人間扱いなんかしていなかったじゃねーか。
 犬扱いではあるけど、那智の方が余程、俺個人の感情を尊重して人間らしく扱ってくれている。
 ああ…だから。
 俺は那智とのこの甘ったれた生活が不思議で、そうして、守りたいと思ってしまったんだろう。
 那智だけが、俺を人間として扱ってくれていたんだ。

「今更、気付いたって遅いのに」

「はーん?何が??」

「いや、なんでもないんだ。那智、ありがとう」

「はぁー??」

 言っておかないと、人間は驚くほどあっさりとどうにでもなってしまえるから、言える時に伝えたい気持ちは伝えておかないと。
 たとえちょっと、ニヤニヤ笑いの那智が呆気に取られたようにニヤニヤしていても、だがな。

「ぽちはさぁ、たま~にヘンなこと言うのな?まぁ、オレは別に気にならないんだけどさー」

 大いに気になっていそうな台詞に、思わず笑いそうになったら、唐突に那智の足が止まって、思わずその漆黒のコートの背中に鼻をぶつけるところだった。

「ど、どうしたんだ!?」

 いったい何事が起きたのかと首を傾げていたら、ニヤニヤ笑っていた那智がチラッと目線だけで俺を見下ろして、空いている方の腕を伸ばすと、古惚けた店を指差したんだ。
 風化しそうなほど寂れてしまった木製の看板は、歳月の風雨に晒されて、今にもボロボロと壊れてしまいそうなほど痛んでいて、漸く読めるのは『Voyage』の文字だった。

「この店がどうしたんだ?」

「入ってみれば判るし?」

「…そうか」

 入れと言われれば、入るしかないだろうな普通は。
 別に特に変わった店、と言うワケでもないんだが…その、雰囲気が、確かにニヤニヤ嬉しそうに笑っている那智が贔屓にしているだけあって、雰囲気があまりにもやばそうだったんだ。
 チンケなコソ泥の勘、とでも言えばいいのか、取り敢えず、ここはヤバイから逃げろと、俺の脳内の警鐘は喧しいぐらいがなりたてている。
 それでも、ウキウキしたように俺の腕を引いて那智が行くのなら、こんなクソッタレで禄でもない町から唯一、腕を差し伸ばして救い上げてくれた那智が行くのなら、俺だって行かないワケにはいかないだろう。
 ゴクッと、息を呑んで重い足を引き摺るようにして、那智が開けた木製の扉から中に入ってみたんだ。

「いらっしゃい、悪いけどまだ…って、なんだ、那智か」

「何だってのは何だ。スピカは酷いしー」

「あっははは!遅刻寸前のあんたに言われたかないわよ」

 気さくに名前を呼び合う仲なのか、退廃した町に良く似合う、気だるげな美女はぽってりした可愛らしい唇を尖らせて、それでもクスクスと笑っている。

「遅刻寸前?何か約束でもあったんじゃ…」

「あら?可愛い連れね。この子が噂の『ぽち』ちゃん?」

「あー、まあ、そう」

 いつもより歯切れが悪く頷いた薄ら笑いのネゴシエーターに、黒のエプロンを差し出したスピカと言う美女に気を取られてる間に、那智はコートを脱ぐとそのエプロンを身につけたんだ。
 何をしてるんだ?
 思わず動揺したって罰なんか当たりゃしないとは思うんだが、それでも俺は、目を白黒させてそんな、気だるげな美人のスピカと、漆黒のエプロンに派手なTシャツ、古惚けたジーンズ姿のネゴシエーターを交互に見遣るぐらいしかできなかった。

「どうってことない、どこにでもいそうなワンちゃんねぇ」

「んなのは勝手だし?それよりスピカ、開店までまだ時間あるぜ~?取立て行ったら??」

 気のない薄ら笑いの那智はカウンターの向こう側に入り込むと、シンクに煙草の灰を捨てる、どうもかなり行儀が悪いらしいスピカを追い出そうとでもするように肩で押しやると神経質そうにジャブジャブと水で手を洗い始めたんだ。
 どうも、あのアンティークな砂岩色のビルでよく見掛けるその行為から、那智のヤツは本格的な料理を始めるようだ…けど、なぜ?
 呆気に取られてポカンとしていると、煙草を指先で挟んだままの手で、取れかけた緩やかなパーマの髪を掻き揚げるようにして、面倒臭そうにカウンターから追い出された豊満なボディのスピカは、そんな俺に気付くと、面白い玩具でも見るような見定めるような、強かな目付きをしてクスッと鼻先で笑いやがったんだ。
 だから俺も、思わずムッとするしかなかったと、思うんだけど。

「何が起こったのかちっとも判らない…ってツラしてんのね。那智さえ良ければ、この子はあたしがお世話してもいいんだけどなぁ♪」

「ダメ、スピカはお呼びじゃねっての」

「んま!酷い言われようね。…でも、那智がそこまで肩入れしてるのなら、そうね。あたしはお呼びじゃないわ」

 スピカは鼻先でクスクス笑うと、面倒臭そうに髪を掻き揚げてふらふらと渋みのある木製のドアからクソッタレで碌でもない町に、まるで無頓着に出て行った。
 ど、どう言う事なんだ?
 いや、それよりもまずはだ、あのふらふらしてる美人をこんなクソッタレな町に放り出してもいいのか!?

「那智!彼女、出て行ったけど…大丈夫なのか!?」

「はーん?タオのメンバーの中でも凄腕のスピカが外を歩いたからってさぁ、襲い掛かるのは潜りの余所者ってワケ」

 それにオレ、別にソイツらが殺られたって興味ねーし…と、何故か不気味なほど嬉しそうにニヤニヤ笑いながら仕込みに勤しむ那智に絶句しながらも、それでも俺は、オロオロとそんな那智とスピカの出て行った木製のドアを交互に見詰めてしまった。

「説明が欲しいんだけどよ…」

 そりゃ、そうだろ。
 いきなり散歩に連れ出されて、いきなりヘンな店に連れ込まれて、その店の(どうやら)女主人らしいヤツはふらふら出て行くし、俺の飼い主様は至福の顔をして仕込みに勤しんでるんだ、誰かこの状況を説明してくれと、叫び出さないだけ天晴れだと思ってくれ。

「はーん?まぁ、簡単に言えばさぁ…バイトしてるんだ」

「…は?」

 はい?
 それこそ『タオ』でも最強と謳われる、泣く子も黙る浅羽那智様が…こともあろうにバイトだと?
 恐らく、金も物資もうざるほど持ってるに違いない、あの浅羽那智が…バイト?
 誰か、悪い夢だと言って起こしてくれ。

「そうやってまた、俺を騙すんだろ?騙されてやらないからな」

 思わず青褪めてその場にぶっ倒れそうになりながらも、いや、ちょっと待て、これは那智特有の悪い冗談に違いないと思い至った俺は、ちょっとムッとしたように眉を寄せて言ってやったんだけど、俺の飼い主様は平然としたニヤニヤ笑いで肩なんか竦めて下さった。

「はぁ?どーしてオレがぽちを騙すワケ??」

「…」

 ああ、そうだ。
 那智は今までで俺を騙したことなんか一度もない。
 却って、俺に騙されてるぐらいなんだから、この一番有害なはずなのに無害な姿でジャガイモの皮を剥いているこの『タオ』最強のネゴシエーターは、本気で自分はバイトをしているのだとゲロってるんだ。
 許されるなら俺は、その場にガックリと跪きたくなっていた。

「…うん、まぁ、そう言うことにしてだ。どうしてアンタともあろうヤツがバイトなんかしてるんだ?」

「んー?ぽちの餌代稼ぎ」

「え?」

 突然、話題の中心が自分になって、俺は動揺したように那智を見上げた。
 件の飼い主様は、鼻歌なんか歌いながら、綺麗に剥いたジャガイモをシンクに置いてあるザルの中に投げ込んで、返す手でニンジンを掴んだりしやがるから、相変わらずあの砂岩色のビルで見慣れた光景に、雨にずぶ濡れで紙袋を抱えて帰ってくる那智の姿がオーバーラップして、俺は眩暈がしていた。
 俺の…ためだって言うのか?
 そんな、馬鹿な。

「だって、アンタは凄腕のネゴシエーターだから…わざわざ餌代なんか稼がなくても」

「そうも言ってらんないんだよね。だって、オレは人間喰っときゃ生き長らえるけどさぁ。ぽちは違うでしょ?飯を喰わないと死んじまう。それは嫌だし~」

 那智はニヤニヤ笑いながら、スライサーで綺麗にニンジンを裸に剥いていく。
 そのこなれた手付きを見ていると、どうやら随分と長いこと、調理に携わっていた経験があるように思える。
 ああ、なるほど。
 こうしてバイトしながら那智は、蛍都と一緒に生きてきたんだろう。

「嘘だな。アンタの手付きは昨日今日のモノじゃない…蛍都のためなんだろ?」

「蛍都?いやぁ??アイツはなんでも自分で喰うよ。たまにはオレも作るけどさぁ、オレの作る飯は不味いっつって、だいたいここに来てたみたいだし」

「…」

 那智の飯は旨い。
 きっと毎日食べていたに違いない蛍都に、俺は少なからず嫉妬していた。それなのに、当の蛍都は那智の飯を不味いと言って、外に出ていたって言うんだから…自己嫌悪だ。

「オレがさぁ、持って帰ってた材料とかガスボンベとか…出所はココってワケ」

「あ、ああ。そうだったのか」

「ぽちが可愛い顔して知りたいってさぁ、珍しく付いて回ってたし?だから連れて来た。ストレス発散できたか??」

 ニヤァ~ッと笑う顔さえなけりゃ、ああ、那智は俺のことをちゃんと考えてくれていたのかと感動もできるんだけど、いまいち、その顔があるばっかりに感動が半減しちまう。

「う…まぁな!」

 …つって、本当はかなり照れているんだが。
 那智はまるで、遠い昔に義母さんが読んでくれた絵本に出てきた魔法使いみたいだ。
 魔法の杖を一振りすれば、あら不思議、望んだものは思いのまま…そんなこと、あるはずがないと知ってしまった汚れた俺が、こんなことを言うのもなんなんだけど。

「やっぱり、魔法なんかないんだな」

「魔法~??ぽちは面白いこと言うんだなぁ」

 はっは…っと瞼を閉じる、あの独特の笑い方をする那智を見詰めながら、俺は心から思っていた。

「ああ、魔法なんかない。いつだって、望むものは努力しないと手に入らないって判ったんだ」

「へぇ?」

 アンタでさえ、俺のために無駄に身体を動かして何かを勝ち得ている。
 俺は、ずっと、強くさえあればなんだって願いは叶うと思っていたんだ。
 でも、そうじゃない。
 そうじゃないことを、たった今、俺はアンタに教えてもらった。
 誰もが恐れる浅羽那智…それがアンタの素顔であるはずなのに、俺は…
 俺は…那智が好きだ。
 そんな那智を、好きだと思う。
 許されない想いに唇を噛んだ。
 苦い味がパッと、胸の奥に広がっていた。

 どうか…言葉に惑わされないでください。
 どうか…この胸の奥に蹲る想いを感じてください。
 どうか…忘れないでください。
 どうか…僕を傍に置いてください。
 どうか…

13.過去からの  -Crimson Hearts-

 公園は壊れかけたブランコがポツンとあるぐらいで、他には公園らしいものなんて何もなかった。
 と言うよりも寧ろ、そこは広大な植物園…とでも言えば、思うよりシックリくるような気がするんだけど…なんとも言えないな。
 那智はどうも、暇さえあればこの公園もどきに足を運んでいるのか、歩き慣れた様子で闊歩する姿が獰猛な野生の肉食獣が、本来在るべき姿に戻って伸び伸びしているような一瞬の錯覚を垣間見せていた。
 俺の腕を掴んだままで、嬉しそうに見えるのは気のせいなのか…どちらにしても、今の俺はそんな那智に従順に従う犬でしかないんだろう。12.てのひら  -Crimson Hearts-

「ここはさぁ…もともと、大きな会社があった場所で、ちょうどこの辺りは植物園だったらしーぜ~」

 不意に正面を向いたままで那智が、物珍しさにキョロキョロしている俺に、そんなトリビアを披露してくれたりするから、面食らったままでポカンッと見上げてしまえば、俺の主人はどうでも良さそうに肩なんか竦めやがった。

「そのなれの果てってヤツか?」

「…ってワケでもねーんじゃねーか?よく、知らねーんだよなぁ。つーか、これは蛍都の受け売りってヤツさー」

「…へえ」

 そうか、ここはもしかしたら、那智と蛍都の思い出の場所か何かなのかもな。
 んな、野暮なことを聞けるほど、俺の心臓はまだ頑丈じゃないらしい。

「蛍都はここが嫌いなんだってさぁ。だから、オレはこの場所が好き」

「え?」

 ふと、違和感を覚えて顔を上げてみたんだけど、今にも雫を零そうとしているような曇天の空をバックに、那智は脱色し過ぎて痛んでしまった黄褐色の髪を鬱陶しそうに掻き揚げながら、口元に微妙な笑みを浮かべるだけで何も言わなかった。
 違和感は胸の奥で蟠ってくれず、どうも、早急に答えとして弾き出たいようだ。

「…那智は、もしかしたら蛍都が嫌いなのか?」

 いや、勿論そんなはずはない。
 俺は何を言ってるんだ。

「いや、悪い。そんなはずがあるワケないな。蛍都は那智の恋人なんだから」

 こうして腕を掴んでいるのは、本当は蛍都でなければならないのに、その言葉はきっと、この穏やかな関係に慣れ親しんでしまった俺の…嫉妬なんだろうなぁ。
 気恥ずかしくて、バツが悪そうに苦笑したら、那智は口許に相変わらず微妙な笑みを浮かべたままで、ポカンッとそんな俺を見下ろしてくるから、ますます居た堪れなくなっちまうんだけども。

「どうして、そう思ったんだぁ?鉄虎もベントレさまも、そんなこと言ったことないし。なぁ?」

 那智の口から出てくる知人はいつも鉄虎かベントレーだから、無類の殺人好きには友達と呼べる人間が少ないんだなぁと思った。
 まあ、こんなクソッタレな禄でもない街で、友達もクソもないんだけどな。

「いや、なんとなくだけど。いつも、那智は蛍都のことを話すとき、複雑そうな顔をしてるからさ」

 まさか突っ込まれるとは思ってもいなかったから、俺はシドロモドロで弁明をする羽目になった。これからは、できるだけ無駄口は叩かないでおこうと思う、うん。

「ぽちはー…可愛いだけじゃなくて、たまにドキッとするほど鋭いしー、でも、残念。ブー、ハズレ~」

「はは、やっぱりな」

 そりゃ、そうだ。
 ベントレーだって言っていたじゃないか、那智は蛍都を宝物のように大事にしてるって。
 心の底から惚れてるように見えて、毎日セックスしてたような関係なのにさ、俺はどうかしてるよ。

「蛍都のことは好きだし?」

 口許に浮かべた薄ら笑いに感情は読み取れなかったけど、ふと、目線を落としてしまう那智の横顔は、恋焦がれている蛍都のことを思い浮かべているのか、胸をギュッと鷲掴みにされるような錯覚を覚えちまうほど、切なげに見えた。
 ああ、ベントレーの言うとおりだ。
 那智は本当に、蛍都のことが好きなんだなぁ。
 俺が割り込める余地なんてこれっぽっちもねーや。
 ま、当たり前か…って俺!いい、今何を考えてたんだ!?

「早く、蛍都が帰ってきたらいいな!」

 照れ臭さを誤魔化すように笑って言ったら、那智のヤツは微かに俯いたままで、目線だけをキロッと向けて薄ら笑いをニヤァッと浮かべたまま肩を竦めるだけで何も言わなかった。
 確りと握り締めているはずの那智の腕が、そんなはずはないのに、唐突に頼りないような気がして、俺はいつかこの腕を放さなければいけない時がくるんだろうと、甘ったれそうになる気持ちにもう一度、改めて言い聞かせるように腕を掴む手に力を込めた。
 那智がそんな俺を訝しそうに見下ろしてきたんだけど…オレンジのパーカー男を見つけ出すのが先か、蛍都が帰ってくるのが先か…どちらにしても、俺はあのアンティークな砂岩色のビルから出て行く決意を固めていたんだ。
 勿論、那智には内緒なんだけどな。
 訝しそうに眉を顰めながらもニヤニヤと笑っている那智を見上げて、俺は仕方なさそうに苦笑していた。
 この気持ちは、那智に悟られてはいけない。
 那智は、それほどまでに想っている蛍都と、きっと幸せになるんだ。
 だから、俺はここにいてはいけない。
 そんなこと、誰かに言われなくてもよく判っている。
 僅かな間でも、幸せな日々をくれた那智に感謝しているんだ。だから、今度は那智が幸せになってくれればと思っているよ。

「あ、そーだ。この先にタオの連中の1人が出してる店があるからさぁ、何か買って来てやるってなぁ?大人しく待ってろよー」

 那智は不意に思いついたように頷いて、それだけ言うと、サッサと手を離して歩き出してしまった。
 慌てて追いかけようとして、どうして俺はそんな行動を起こそうとしたんだと、弱気になりそうな自分に叱咤しながら、大人しく待っていようと思ったんだ。
 腕が離れたぐらいで不安になってどうするんだ。何れ、俺はこのクソッタレな禄でもない灰色の町で死ぬんだから、何を恐れることがあるって言うんだ。
 あの頃の俺なら、きっと逃げ出そうとしていたに違いない。この場所にたった独りで残されて、生き延びられる自信なんかありゃしないからさ。でも、今の俺は違う。
 この場所で、那智が好きだと言うこの場所で死ぬのも悪くないなって思ってるからな。
 ただ、那智の好きな場所で死ぬのは、汚すみたいで忍びないんだけど…

「この公園はさー、タオの私有地なワケよ。だから、死のうと思ってもダメなワケ。ぽち、残念だったなぁ?」

 ぶらぶら歩きながらニヤァッと笑って端的言ってのけた那智は、どうやら、この植物園のなれの果ては『タオ』の持ち物で、タオのメンバーは既に那智のペットのことを承知しているから誰も手を出さない、無論、他所から入り込んでくるヤツもいない、だからお前は死ねないよ…と言いたかったようだ。
 あんまり俺が死にたがっていたから、那智なりに、実は心配してくれているのかと、ヘンに胸の辺りがこそばゆくて何故か、俺は照れてしまっていた。

「判ってるさ。さっさと何か買って来てくれよ。俺、腹がペコペコだ」

「リョーカイ♪犬は素直が一番だ」

 ニタァッと笑いながら行ってしまう那智の不気味な後ろ姿を青褪めたままで見送った後、俺は取り敢えずするべきこともないし、仕方なくこの辺りをフラフラ探索でもすることにした。
 思ったとおり、この場所は公園と言うよりも巨大な植物園のようだ。
 それも、ガラスなんかで覆われた温室型ではなく、開放的な野天式になっている。
 それにしてもたいしたもんだな、酸性の強くなった雨に晒されて、大半は枯れてしまっているけど、それでも頑張って枝をめいいっぱい広げながら生きようとしている植物があるんだ。
 『生きよう』としている植物の姿に、『死ぬこと』ばかり考えている俺は、その力強さに自嘲的に笑うしかなかった。
 それでも、下の方は少しずつ枯れてるんだな…そう思って、俺が名前も知らない植物に手を伸ばしたときだった。
 ハッとした時には遅かったんだ!
 しまった!俺としたことが…那智の傍に居過ぎたせいで、すっかり感覚が鈍っちまった。
 常に命を狙われるような町に暮らして、些細な気配にでさえ敏感だったのに、まんまと背後を取られるなんてどうかしてる。
 気付いた時には羽交い絞めにされて、咽喉許に鋭利なナイフを突き付けられると言う、なんとも絶体絶命的な状況に落ち込んでいた。

「…うッ…く、クソッ!……ッッ」

「…」

 背後から襲いかかってきたソイツは無言で、だから余計に、俺はソイツに殺されるんだろうと観念していた。
 生きることには疲れていたし、この場所で死ぬのならそれも仕方ない…ただ、最後にもう一度だけ、那智に逢いたかった…なんて、どこまでも今の俺は女々しくて甘ったれなんだろう。

「?」

 不意に抵抗していた腕の力を抜いて、俺はスパイクの付いた首輪の上の、脈打つ頚動脈を覆う皮膚にナイフの冷たい感触を感じたままで、観念して瞼を閉じていた。その行動が予想外だったのか、俺を羽交い絞めにしている不審者は、微かに動揺しているようだ。

「…お前!もしかして、ギアか!?」

「え?」

 その時だったんだ、ソイツが、あまりにも懐かしい名前で呼んだのは。ハッと双眸を見開いて、首筋にあるナイフすら忘れて振り返ろうとしたら、ソイツは焦ったようにギラつく兇器を引っ込めると、それから驚くほどの力強さで腕を掴んできた。
 この感触は…ああ、忘れもしない。
 俺を、俺のことを…メカに強いから、『ギア』と呼んでいた懐かしい仲間。
 いや、仲間なんて呼ぶのもおこがましい。

「ぼ、ボス…ッ」

 そうだ、俺がずっと所属していたグループの、紛れもない、今のボスだった。
 俺はケチなコソ泥でしかないけど、先代のボスが惨殺されてから抜擢されたこの現頭領は『タオ』ですら一目置くような、ストリートではそれなりに名の知れたグループを統括している。そこまで伸し上げたのもこのボスだし、最初はチンケなコソ泥集団だったんだけど、何時の間にか、俺の所属していたグループは大きくなっていたっけ。
 たった一人の力…と言っても過言ではないほど、今のボスは強い。
 先代のボスに襤褸切れのように捨てられた俺を、この人は、憐れむでもなく、嫌悪するでもなく、ただ、そう、ただ淡々とした眼差しで見下ろして、自分の場所に来るかと言ってくれた。
 全て、自分の意思で動けと、俺が聞いたそれが、ボスの第一声だった。
 そんなボスと暮らすようになって、どうしてこの人が俺なんかを選んだのかは良く判らないけど、まあ、体の良い小間使いにはちょうど良かったんだろうと思う。
 腕を差し伸べてくれたワケでも、救い出そうとしてくれたワケでもなくて…なんとなく、魂の抜けた抜け殻のようだった俺は、言われるままにボスの後を追っていた。
 そうして、ボスと暮らすようになったんだけど…あの日も、居住を共にすることを許してくれていたボスの遣いで、俺は買い物に出ていた。
 その帰り道に暴漢に襲われて…俺は。
 ああ、拙い!俺、何一つ連絡らしいこともしていなかったッ。
 いや、できれば、このまま出逢わずに逃げ出せていたのなら、それはそれで楽だったのかもしれないんだけど…

「あ、す、スミマセンでした!実は…」

「よかった!お前、無事だったんだな?」

 ボスはそれだけを言うと、感極まったように力強く掴んでいた腕を引き寄せて、抱きしめてくれた。
 その感触は、長いこと身体に染み込んだ習性のように俺の中で忘れもしない、従順と言う言葉を思い出させるのに十分だった。

「心配をさせてしまってスミマセン。俺、買い物の帰り道で…」

「あのまま音信不通になっちまっただろ?心配したんだ。お前は逃げ出すようなヤツだとは思っていなかったからな。何か、もしや殺されたんじゃないかと思っていたんだが…ああ、よかった」

 色気もクソもない俺の黒い髪に頬を摺り寄せるようにして、ボスは抱き締める腕に力を込めて、心底からホッとしたように溜め息すら吐いてくれた。
 日頃は冷静が服を着て歩いているんじゃないかってほど落ち着いていて、何事にも動じないボスには、凡そ人間らしい感情なんか持ち合わせてはいないんじゃないかって、グループのメンバーどもはそんなことをほざいていたけど…俺は知っている、どれほどこのボスが、感情的になるかを。
 生易しい奇麗事なんか吹き飛ばしちまうような、荒々しい気性の持ち主だってことを…

「帰り道でどうした?何かに襲われたのか??」

「はい…油断したせいで、脇腹を刺されました」

「なんだと?」

 ボスは俺が毎日死にたがっていることを知っている、だからこそ、こうして腹を刺されながらも生きて立っている俺の姿に訝しげに眉を顰めたに違いない。
 毎夜、組み敷かれるベッドの中で、ボスの激情に煽られるままに死ねたらいいと、睦言よりも甘ったるく、戯言よりも真摯に囁いていたのを覚えている。
 それでも俺は、やっぱり死ねないでいるんだ。

「怪我をしたのか?お前…今まで何処に…ッ!!」

 ハッとした時には遅かった。
 不意に風を切るような鋭い音を響かせて、俺を掴むボスの腕が吹っ飛ぶんじゃないかって思ったけど、流石はボスだ。寸でのところでサッと腕を引っ込めたから、腕を犠牲にすることはなかった。
 ボスはあくまでも冷静だったけど、軽く突き飛ばされた俺はよろけるようにして、バクバクしている心臓を押さえながら振り返った。
 その場所に突っ立っていたのは…決まってる。
 唯一、口にすることができるコーヒーを2本と在り来たりのジャンクフードを小脇に抱えて、鈍い光を放つ凶悪なほど綺麗な日本刀の柄を掴んで立っているのは、他の誰でもない浅羽那智だ。
 俺に、この場所で待っていろと言い付けて何処かに姿を消していた、俺の今のご主人だ。
 貼り付けたような笑みには誤魔化しきれない、険悪なオーラを身に纏った那智は、全身で『不機嫌です』と物語っている。
 だから余計に、俺の心臓は激しく脈打っている。

「…誰だぁ?オレのぽちに気安く触んなよってなぁ?」

 唇を尖らせて、そのくせ、気安さを求められない笑みを口許に浮かべたままで、那智は唯一口にできるまともな飲料物であるコーヒーの缶を無造作にジャンクフードの納まった紙袋に突っ込むと、それをそのまま俺に投げて寄越したんだ。 どうやら、臨戦態勢に入りたいらしい。
 いかん!それはダメだッ。

「な、那智!この人は違うんだッ。俺の…」

「ぽちの知り合いでも関係ねーよ?オレは、自分のモノに気安く触ってくれた、お礼をしたいだけさ」

「ぽち…だと?それに、アンタは浅羽那智じゃないか。これは、どう言うことなんだ?!」

 ボスが冷静の仮面の裏で動揺しているのが手に取るようによく判る。
 事実、俺だって那智が俺を拾って、そのままずっと飼い続けているのには動揺しまくっているんだ、それは仕方ないことだと思う。

「は、話せば長くなるんですけど…」

「話す必要なんて一切ないし?どうして、ぽちはコイツに懐いてるワケ??」

 ムスッとしているのは、飼い犬が主人である自分よりも、見知らぬ男に尻尾を振っている(ように見えるのは那智だけなんだけど)ことが、どうも随分と気に食わないようだ。
 不機嫌のオーラを纏った漆黒のコートにTシャツ、在り来たりなジーンズと言った出で立ちの那智は、片手に凶悪なほど仄かに発光しているんじゃないかと思わせる、人殺しの武器なのにとても綺麗な日本刀を握り締めて薄ら笑いながらムスッとしている。

「…そうか。お前がタオの連中といるところを見た、と情報があってここに来たんだが。ギアを拾ったのは浅羽那智だったのか」

「はーん?ギアなんてヤツは知らないね。ぽちはくたばり掛けていた野良犬ってだけでさぁ、飼い主がいないんなら、拾ってやるのが当たり前ってなー」

 肩を竦める那智に、相変わらず、平静の仮面を被ったボスは、それでも那智の全身から無造作に溢れ出る殺気のような気配に、明らかに動揺しているんだろう、何度も乾いた唇を舐めながら間合いを取っているようだ。

「野良犬?どう言うことだ。タオの一員である浅羽、アンタなら、俺のことも『L(エッレ)』のことも知らないワケではないだろう。ギアは、ソイツは『L』のボスである俺、スバルの所有物だ」

 タオの頭領、下弦でさえも一目置いている『L』のボスであるスバルは、どうも那智のことを知っているような口振りだ。いや、誰だって、この町に住んでいるヤツなら那智のことを知らないとなるとモグリか逃亡者だって相場は決まっているんだけど、そういう意味じゃなくて、ボスは那智のことを識っているようなんだ。

「はーん…『L』のことも、スバルのことも知ってるけどさぁ、ギアなんてヤツは知らねーし?そもそも、ソイツは人間なんだろー?ぽちは犬だろ。スバルも『L』も関係ねっての」

 鞘から引き抜かれてギラギラと凶悪に輝く刀身の刀背で軽々しく肩なんか叩きながら、どうでもいいんだとでも言いたそうに那智は不機嫌そうな薄ら笑いを浮かべている。

「…ギアは人間だ。勿論、そこにいるソイツも人間だろう?何を言っているんだ」

 訝しそうに眉を顰めたボスと、それでなくても、今にも飛び掛りそうな獰猛な野生の肉食獣のような那智の雰囲気に、ハラハラしてその場に立ち尽くしていた俺は、慌てて2人の間に割り込んでいた。
 いや、割り込んだからと言って何かできるってワケでもないんだが、何か言わないと大変なことが起こりそうな気がしていたんだ。

「ボス!俺は、今は浅羽那智に飼われている犬なんです。どう言うワケで俺が犬に見えるのか判らないんですが、取り敢えず、今は那智の犬なんです。俺は…『L』に帰ることはできないと思います」

 那智が帰れと言うのなら、いや、蛍都が退院してきたとしても、俺は『L』に、ボスの許に戻る気はなかった。
 だって俺は、那智に触れてしまったから。
 見返りもなく、傍に置いてくれる、温かくて優しい…人殺しなのに冗談じゃないって笑えるんだけど、それでも、掛け替えのない優しさを知ってしまったから、ボスの許には戻れない。いや、戻りたくない。
 身体を差し出す代わりに得られる安住?…そんなのもう、クソ食らえだ。
 ボスにはきっと、判りはしないだろうけど。

「何を言っているんだ、ギア。浅羽はお前を馬鹿にしているんじゃないのか?犬だと??どう言う了見だ」

 ボスが、あれほど冷静だったボスが、不意にギッと双眸に殺意を滾らせて、軽々しく笑いながら一部の隙も見せない、戦闘のスペシャリストと言っても過言にはならないだろう那智と、あの浅羽那智と、対峙するんだから…やっぱり、ボスはすげーと思っちまう。
 最後の台詞が自分に向けられたと気付いているのかいないのか、どちらにしても、どうやら自分の大事な飼い犬を横取りされそうになっていることにだけは敏感に感じ取ったのか、那智は不機嫌に殺意のオブラートを纏って狩りをする態勢に入ったようだった。
 ああ、だからそれはダメだって!

「ば、馬鹿になんかされてないんですよ、ボス!どう言うワケか、那智には俺が、本当にモノを言う犬に見えてるんです。それに、那智は俺にとっては命の恩人なんです。だから、彼が飽きるまで何処にも行くつもりはありません」

 ハッキリと言い切ったんだけど、蛍都が帰ってくるまで…ってのも、ちゃんと言っておくべきだったかなと思いはしたものの、それ以上は何も言わなかった、と言うか、言えなかった。

「…さっすが、オレのぽち!飼い犬はお利口さんが一番だよなぁ?今日はローストビーフのご馳走かなぁ」

 それまで、あれほど殺気を撒き散らしていた那智のヤツが、一気に殺意をかなぐり捨てたのか、嬉しそうにニタァッと笑って背後から抱きついたりするから、出掛かった言葉だって咽喉の奥に引っ込んじまうよ。

「だいたいさぁ、ぽち嫌がってるんだし。空気読めよ」

「…!」

 グッと息を呑んだボスに、那智は薄ら笑いを張り付かせた表情のままで、冷え冷えとする眼光で『L』のボスを睨み据えたんだ。

「今は殺してやらない。でも…この次はねーかもなぁー?そう言うこと、ちゃんと理解して帰ればいいんじゃね?」

 那智の吐き捨てるような台詞なんか、もう聞いてはいなかったんだろう。
 ボスは、まるで食い入るように、俺の真意を見極めようとでもするようにマジマジと凝視していたけど、応える術を持っていない俺が居た堪れなくて目線を伏せると、何かを感じ取ったのか、それとも、勝手に都合よく解釈したのか、何れにせよボスは、左手の中に何かを握り締めたままでゆっくりと間合いを取りながら、じわじわと後退を始めていた。
 その立ち去り際にハッキリと言い残して行ったんだけど。

「ギア、お前はきっと後悔する」

「ボス…」

「後悔?ナニ言ってんだか判んねっての。とっとと失せろよ」

 それがいったい何を意味するのか俺には判らなかったけど、那智には何か理解できたのか、片手で俺を抱き締めたままで一気に興味が失せたのか、肩を竦めながらどうでもいいことのように吐き捨てたんだ。
 植物園もどきの公園から完全にボスの気配が消えて、俺はどうして、あの時差し伸ばされたボスの腕を掴まなかったんだろうと、目線を伏せて自嘲的に笑うしかなかった。
 那智には蛍都がいる。
 俺の存在は、いつかきっと那智に迷惑をかけちまうんだろう。
 その時…ああ、そうだ。
 ボスが言うとおりに俺は、きっと後悔するに違いない。

「アイツ…スバルってさぁ、もともとタオの一員なんだぜ」

「ボスがタオの一員だって!?」

 唐突に那智のヤツがそんなことを言い出したりするから、思わずギョッとして見上げたら、那智のヤツはフンッと鼻を鳴らしてどうでもよさそうだ。
 いや、那智にしてみたら全てがどうでもいいことなんだろうけど…

「じゃないと、『L』のボスになんかなれるかっての。大方、下弦が何かを命じでもしたんじゃね?あの古狸の遣りそうなことだし。まあ、今日は新発見だったけどなー」

「は?」

「ぽちがさぁ、『L』なんて言う下らねー組織のメンバーで『ギア』って名前だったってこと」

「コソ泥だって、言っただろ?それにギアって言うのは通り名で本当の名前は…」

「はーん?『L』はコソ泥集団じゃないし?ま、名前とかどうでもいいんだけどさぁ」

 だって、ぽちはぽちだしーと、那智らしい気だるげな口調で不機嫌そうにそう言ってから、漆黒の外套に身を包んだ、派手なTシャツにジーンズ姿と言うスパンキーなネゴシエーターはニヤニヤと薄ら笑いながら身体を離した。そこで漸く俺は、ずっと那智が抱き締めていたことに気付いたんだ。
 壊れた人形みたいにボスに抱かれていたあの頃でさえ、夜以外の時に触れられると鳥肌が立って、息ができなくなっていたのに…俺は、那智だけには免疫があるようだ。
 それはたぶん、那智にセクシャルなモノを感じないからだろう。
 たとえ、蛍都と毎晩抱き合って寝ていると聞いたとしても、どうしても、それが信じられないぐらい浅羽那智はストイックなハンサムなんだよ。
 でも、なるほど。
 ちゃんと、ボスの台詞は聞いていたんだな。俺のことを野良犬だと言いながらも、ちゃんと『ギア』と言う名があったことをは認めてくれたんだ。

「そんな…じゃあ、もしかしたら。7年前のあの事件は…」

「あぁ?…あー、そう言えば。確かスバルが潜り込んだコソ泥集団がいたっけなぁ?そこのお山の大将が証人で、生きたまま捕まえろとか命じられてたっけ」

「え!?じゃあ、ボスはネゴシエーターだったのか!?」

「だった、じゃない。今も、ネゴシエーター」

 初耳だった。
 物言わぬ影のように静かで、そのくせ絶大な存在感でグループの連中に慕われていたスバルと言う青年は、あのクソッタレの頭領が死んでから、すぐに次のボスの座に君臨したんだけど、誰もがそれに否は唱えなかったし、却って大歓迎だった。
 そのボスが、俺たちが憎んでいる集団の一員だったなんて。
 そりゃあ、『タオ』は魅力的だし、誰もが憧れていたから一員になりたいと思っていたさ。
 でも、根本のところでは、仲間をメンバーの一員にしてやると甘い言葉で誘っては、集団で弄り殺すだけが目的だと知っていたから、そんな最強ファミリーに憧れながらも俺たちのような下っ端は、『タオ』と言うこの町の巨大組織を憎んでいた。
 その話は、もちろん、タオの連中に知られるワケにはいかなかったから、密やかにグループ内でだけ話していた。その輪の中に、スバルもいたのに…ボスは、何も言わずに、那智とはまた違った静かな笑みを浮かべたままで黙って聞いていたっけ。
 どんな思いで聞いていたんだ?
 クソッ!

「大方、俺たち雑魚がほざいてろとでも思ってたんだろうな」

「ぽちは雑魚じゃないぜ~?」

「…あぁ?」

「犬でしょ?ワン!ってさぁー」

 思わずその場に蹲りたくなったものの、それでも俺は、屈託なく、ニヤニヤ笑っている最強のネゴシエーターに、仕方なくボディブローを食らわせるしかなかった。
 もちろん、悪乗りをする那智は素直にボディブローを食らいながらも、ニヤァッと笑って楽しそうだ。
 確かにだ、ヒットなんかしてるワケじゃないんだろうけど、少しぐらい痛そうな顔をしてくれよ。
 だがまあ、このタオが支配する(していない場所なんてもう、この街の何処にもないんだけど)所有地で、組織の頂点に立つ『下弦』ですら一目置いている、お客さんネゴシエーターに平気でボディブローなんか食らわせることができるのは、恐らく、鉄虎やベントレー、そして蛍都ぐらいだろうと思う。
 そんな錚々たるメンバーの末席にでも名を連ねることを許されるのだとしたら、それはそれだけでもいいんじゃねーのかと思ってしまう辺り、俺もこのクソッタレな禄でもない世界に順応しちまったと言うワケか。
 那智の傍にいることは心地いい。
 だけど、俺はあくまで犬でしかない。
 犬は従順に従わなければ捨てられる…友人や、肉親や、仲間や、恋人のような確信は何一つない。
 言われなくても判っているよ、ボス。
 きっと俺は、後悔する。

 …だけどな、ボス。
 俺だって大人しく後悔ばかりするワケじゃないんだ。
 人間なんだから考えて、ちゃんと行動してみせるさ。
 それまでの僅かな間、俺はこの幻のような甘ったれた生活を満喫してるだけなんだ。
 そう、ちゃんと判っている。
 ここは俺のいる場所じゃない。

 縋り付く指先に未来を見ていた。
 迷信に揺れる双眸を瞬かせて。
 世界が回る。
 まるで無頓着に。
 全てを信じる余裕さえないのに。
 呆然と立ち尽くす、僕がいる。

12.てのひら  -Crimson Hearts-

 那智に連れられて行った古惚けた灰色の病院は、どこか物悲しくて、俯き加減の入院患者や冷めた目をした看護婦、遽しく怯えているような医者以外に眼を惹くものなど何もなかった。
 こんな鬱陶しい場所でいったいどれだけ長いこと、蛍都はくすんだ個室に閉じ込められているんだろう。
 それを考えるだけでも、彼の置かれている状況の不安定さが浮き彫りされるようで、那智のヤツに悪態のひとつでも吐きたくなったとしても、それは仕方ないように思えてきた。
 看護婦は一瞬、壮絶にムッとしながらニヤニヤと笑っている那智のツラに怯えたようだったけど、(それは誰だって怯えるけど)それでも面倒臭そうに綺麗な細い眉を顰めて胡散臭そうに黒コートの男を見上げて言い放ったんだ。

「何度も言ってるじゃないですか。蛍都さんは月曜日以外は面会謝絶。何故ならそれは、リハビリを集中的に行っていてお疲れだからですよ」

 カルテか何か、もしかしたら医師の指示書なのか、取り敢えず何かを挟んでいるバインダーを大事そうに胸に抱えた、目許に泣き黒子のあるキツイ印象の美人な看護婦は、その表情のまま冷たくあしらった。
 それで怯んでいたら、この場所に浅羽那智なんて言う、凄腕のネゴシエーターは存在していなかったと思う。
 那智はムスーッと、歩道で見れば即死ものの仏頂面で笑ったまま下唇を突き出すと、陰険そうな美人の看護婦の顔を覗き込みながら、あの独特の口調で食って掛かった。

「別にさぁ、蛍都が疲れてようがオレには関係ないし?だから逢う、それだけなのに止めるワケ?」

「凄んでもダメですよ。先生から許可がない限りは、たとえ浅羽さん、貴方でも蛍都さんに逢わせる訳にはいかないんです」

 こんな荒んでぶっ壊れてしまったろくでもない町の看護婦だ、少々の荒くれ者どもの凄味にいちいち反応していたら身体が持たないんだろう。天晴れと言うかなんと言うか、女だってのに看護婦さんは呆れるぐらい那智を相手にしていない。
 どうやらその看護婦と那智は顔見知りのようで、蛍都が入院した当初から、もう随分と遣り合っているってのが手に取るように判ったってのはよく判る。
 ああ、だからベントレーが「そら見ろ」ってな顔してるんだな。
 見ものだとかなんだとか言いながら、本当は最初から会えないことを知っていたんだろう。
 腕を掴まれたままじゃ何とも言えない俺は、背後で何が面白いのか、ニヤニヤ笑ってるベントレーをチラッと肩越しに振り返ったら、ヤツは肩を竦めて今の状況を楽しんでいるようだった。
 …ったく、止めないとそのうち那智のことだ、いきなり殺しちまうかもしれないじゃないか。
 でも俺のそんな心配は杞憂に過ぎず、百戦錬磨の看護婦でも一瞬は怯えた那智の眼光に、それでも怯まなかったナイスバディの陰険そうなおねえちゃん看護婦は、ペンの先で頭を掻きながらシレッとした顔をして言ったんだ。

「何度来られても返事は一緒、面会謝絶ですよ。逢いたいのなら、また月曜日にお越し下さい。では、失礼します」

「って、ちょっとまだ話が…ッ」

「…もう、それぐらいにしておけよ、那智。看護婦さん、困ってるじゃないか」

「アレのどこが困ってるって?ちっくしょー、また断られちまった」

 それがいったい何度目なのか判らないけど、それでも、その台詞からあの看護婦が相当手強い存在であることは確かなようだ。
 どーせ利かん気を出してそのまま看護婦は無視でヅカヅカと病室にでも行くんだろうと、ちょっとばかし高を括っていたってのに、那智はしょんぼりしたように口許に例のニヤニヤ笑いを貼り付けて、迷子になった犬のように途方に暮れた目をして俺を見下ろしてきたんだ。

「どうしよう?」

「どうしよう…って、このまま散歩して帰るべきだと思うけど」

 いつもの那智だったら絶対に唯我独尊であるはずなのに、今日の那智は看護婦に牽制されたぐらいで凹んで沈んでるんだ。呆気に取られてポカンとしたまま、動揺しながら返事をするしかない俺が居てもおかしくないと思うんだけどな。
 そこで笑っているベントレーに押し付けちまうぞ、この野郎。

「…今度の月曜日かぁ。つまんねーの!来週末には蛍都も帰ってくるしなぁ?意味ないっての」

「来週末に帰ってくるんだし、月曜もあるんだろ?いいんじゃないのか??」

「…ぽちはさぁ、ホンットに可愛いだけで無防備だよなぁ!」

「はぁ?」

 しょんぼりした那智の怒りの矛先が俺に向いたようだったけど、なんだってそんなことぐらいで怒られなきゃならないんだよ?蛍都とは来週末に会えるんだし、それ以前に来週の月曜日に会えばいいんじゃないか。

「月曜に逢えなかったらどうするんだぁ?来週末には蛍都は帰ってくるんだぜー?」

「別に…いいんじゃないのか?」

「だから無防備って言ってるんだって!」

「??」

 握ってる手に更に力を込めて握り締められれば、確かに那智の怒りってのが良く伝わってくるけど、それだってどうしてそんなに怒っているのかよく判らないんだ。
 いったい、なんだって言うんだ?

「蛍都はさぁ、気に入らないヤツは見境なく殺っちまうしぃー、なぁ?」

「へ?…ああ、それで怒ったのか」

 なんだ、そんなことだったのか。
 じゃあ、話は早いじゃないか。

「それなら大丈夫だ」

 何がだよ?とでも言いたそうに眉間に皺を寄せて見下ろしてくる那智を見上げると、その背後でベントレーが面白そうに高見の見物と洒落込みながら、それでも俺が何を言い出すのか興味津々と言った感じで俺たちを見守っている。

「だって、那智がいるんだろ?さっき、言ってたじゃないか。俺を手離す気はないってさ。だったら、飼い主なんだから殺されないように守ってくれるんだろ?」

 そんなことぐらいで怒るなよって言って首を傾げて笑ってやったら、那智のヤツは眉間に皺を寄せたまま口許には笑みを浮かべるって言う、いつものあの妙ちくりんな表情のまま一瞬、確かに一瞬だけ凍り付いたようになったんだ。
 どうしたって言うんだ?
 訝しげに眉を寄せて首を傾げている俺の前で、那智が凍りついたのとほぼ同時にブーッと思わず息を吐き出したベントレーが、一瞬呆気に取られたような顔をしたが、それでも唐突に腹を抱えて笑い出したんだ!

「な、なんだよ、ベントレー!?」

「なんだもクソもねぇっての!こいつぁいいやッ。戻ってから鉄虎に話すネタができた♪」

「はぁ?何言ってんだよ!?…っつーか、那智も何をボゥッとしてるんだ?」

 ベントレーにあからさまにからかわれてるって言うのによ。

「え?ああ、別にベントレさまなんかどうでもいーよ」

「あんだと、ゴルァァ!!」

 あっさりと相手にされずにベントレーはなんだかムカツイたのか、ムキッと薬でやられたんだろうボロボロの歯をガチガチと鳴らして中指を立てている。すると、カルテを持って忙しなく歩いてきた年配の看護婦さんからギロッと睨まれて、「院内ではお静かに願いますよ!」と言われてちょっとたじろいだようだ。スンマセンと顎を突き出すようにして頭を下げてるから、俺の方が今度は笑ってしまったじゃないか。

「…なんだ、そっかぁ」

 ふと、ニヤニヤしていた那智がニヤァッと笑って俺を見下ろすと、ふふんっと嬉しそうに掴んだ手を上下に振って鼻歌なんか歌いやがるから、力いっぱい振り回されている俺としてはどんな対応をしていいのか判らない。

「な、なんだよ!?」

「そうだよなぁ?別に黙って蛍都に殺らせてる必要なんてないんだし?オレはぽちの飼い主なんだから、ぽちの命はオレのモノだよなぁ」

 とうとう両方とも手を掴まれてしまって、ハッキリ言ってブンブンと病院内で腕を振り回されている俺も振り回している那智の姿も充分人目を引くし、どうかしてると思われるぞ。いや、那智は確かにどうかしているけれども、俺までそんな目で見られるじゃないかー!!…って、ん?そうか、那智は俺の主人なんだから、那智がおかしく見られるのなら俺だっておかしく見られるのか?だったら、仕方ないのか。

「納得してるなよ、そこ!それに、思ってることが口から出てるぞ」

「へ?あ、そうだったか??」

「はぁ…那智が那智ならぽちもぽちか。まあ、案外お前たちっていいコンビなのかもな」

 やれやれとベントレーが「心配して損したぜ」と溜め息を吐きながら首を左右に振る傍らで、それこそ鼻歌を続行しそうな那智は邪悪な笑みに更に磨きをかけて、それでも目を白黒させている俺の掴んだ手をグイッと引っ張って引き寄せると真上から覗き込んできたんだ。

「ぽちはいいこと言うなぁ?一緒にいたいよなー??」

「へ?あ、ああ、そうだな。でも、蛍都が嫌がるんだったらやめておけよ。アンタにとってはとても大切な人なんだからさ、嫌がることはやめておかないと」

「ったく、ぽちはあったま悪いよな?蛍都はオレの嫌がることをしてるんだし?たまには蛍都だって嫌なことされないと判らないんだって」

 もう、別に凹んでもいない那智は、どうやら自分の中に渦巻いていた謎に答えが見つかったのか、ニヤニヤ笑いながらギュッと手を繋いだままで、呆れ果てて開いた口が塞がりませんとでも言いたそうなベントレーに振り返って宣言したんだ。

「よし!今日は気分がいいからぽちはこのまま散歩でも行くよなぁ?ベントレさまはどうしたいワケ?」

「俺はいーよ。今日は鉄虎が珍しく家にいるからさ。土産持って帰る」

「ベントレさまはホンットに鉄虎が好きなんだなー」

 那智が悪気がないようにニヤニヤ笑いながらそんなことを言うと、ベントレーは顔を真っ赤にしてクワッと目を見開くと、ボロボロの歯をガチガチ鳴らして食って掛かるんだ。

「う、うるせーな!仕方ねーだろ、鉄虎は俺の保護者なんだからよぉッ」

 そんな風にしてると照れてるのがバッチリ判るんだけどなぁ、当のベントレーは全く気付いていないようだし、口にした那智ですらよく判ってないみたいだ。

「はーん?まあ、別にどうでもいいし?じゃあ、鉄虎に例の証人のことで話があるって伝えといてくれ」

「…!何か判ったのか?」

「まーねー、殺した分はきっちりカタ付ければいいんだろ?」

「ハッ!それでこそ那智って言っておいてやるよ。んじゃ、ぽち。気を付けて帰れよ」

「帰るんじゃない。散歩だっつってんだろ」

「へーへー」

 いちいち言い直しをさせる那智の上機嫌っぷりに肩を竦めて呆れたベントレーは、それでもちょっと嬉しそうに片方の頬を歪めてニヤッと笑ったんだ。
 その顔は、「まあ、なんかイロイロあるけど一応一件落着でよかったな。今後はどうなっても知らんがな」と言う気持ちをふんだんに染み込ませた複雑なものではあったけれど、それでも俺は、「まあな」とそれに応えて瞼を軽く閉じて開いて見せた。
 肩を竦めたベントレーは首を傾げるような素振りを見せて、那智に手を振るとそのまま別れを告げて病院から灰色の町に出て行ってしまった。

「…ベントレー、行っちまったな。んで、これからどこに行くんだ?」

「んー、ゆっくり町でも歩いてみる?だってさぁ、ぽちはこの町をゆっくり見て回ったこととかないんだろー?」

「まあ…ね。いつも、いつ殺されるかってビクビクしてたからな。ゆっくり、空を見上げることもないよ」

 生まれてから、両親が死んで、この町に住んでいた養父母に引き取られてから、もうずっとだなぁ。
 別に、それを不幸だなんて思ったことはないけど、俺を養ってくれた父さんや母さん、それに紫苑にしてみれば俺が来たことは不幸だったかもしれないけど…

「まぁた、暗くなってるしー」

「え?」

「パッと気分を切り替えればいいワケよ。お散歩してるワケだし?犬にはそれが一番だって」

 那智はそう言うなり、黒いコートの裾を翻して俺と手を繋いだままで憂鬱な病院を後にした。
 なんだか、済し崩しで散歩に出かけることになったワケなんだけども、俺は那智に言われるまでちっとも気付かなかったんだ。
 この町のことを…そんなにゆっくり散策したことなんて正直言って全くない。
 ゆっくり散歩しようなんて、考えたこともないんだ。
 このクソッタレなろくでもない町を、歩き回ったって命を狙われるぐらいで、その恐怖にビクビクしながら散歩しようなんて気持ちはこれっぽっちも起こらない。それどころか、どうやったら盗みに入れるのか、どうやったらうまく逃げられるのか、逃げるための抜け道はどこにある?…とか、そんなことばかり考えながら生きてきたのに、こんな風に誰かと一緒に歩くことがあるなんて思いもしなかった。
 死ぬ恐怖に怯えることもなく、確りと手を掴んでくれている人が傍らにいるなんて…ああ、こんな気持ち、初めてだ。
 雨ばかり降ってて、灰色に濡れた町はいつだって物寂しくて、膝を抱えて嵐が過ぎるのを待つように
 誰かが殺されるのを耳を塞いで過ごした夜もある。
 養父母がいなくなって、妹と2人、俺に失うものなんて何もないって思っていても、ヘンなプライドだけは残っているから、男に連れ込まれそうになっても従うこともできずに、ひもじい思いの方を取って逃げ出した俺を、妹が許してくれるはずなんてないのに。
 それなのに、俺だけこうして那智に守られているのか?
 こんなのは、おかしい。
 こんなのは、おかしいんだ。

「…那智」

「んー?ここを曲がるとさぁ、公園に出るワケよ。今日は曇ってるし、雨が降らないから少しはマシじゃね?」

 ニヤニヤ笑いながら前を向いたままで話す那智を見上げたら、絶対的な力を持つ者だけが見せる自信に溢れた顔をして迷うことなく歩いている。
 その行く手を遮るものなんか、きっとないんだろうなぁ…
 ああ、力が欲しかったなぁ。
 どうせ男に抱かれるんだったのなら、どうしてあの時、そうして金を作らなかったんだろう。
 そうしたら妹が死ぬこともなかったし、頭領に会うことだってなかったかもしれないのに…

「暗いなぁ。少しは周りを見てみたら?ほら」

 そう言ってピタリと足を止めた那智は俯きがちになる俺の顎を捉えると、ハッとした時にはグイッと上げて俺の目を覗き込んできたんだ。

「7年前に会った男だっけ?出会えるかもよ。そう言う可能性だって転がってるのにさぁ、ぽちは可愛いだけで間抜けだもんなぁ?」

「…え?」

 覗き込んでくる、光の加減によっては赤にも見えるその色素の薄い、渦巻く狂気を漲らせた空恐ろしい殺気を抱え込む双眸を覗き込んでいたら、それこそ何もかも見失ってしまいそうになるんだけど、それでも、俺は那智がどうして散歩に連れ出したのか、その理由が判ったような気がしたんだ。

「もしかして、一緒に捜してくれてるのか?」

「そんなつもりは毛頭ないし?」

「は?」

 思わず眉を寄せたら、那智はニヤニヤッと笑って俺の顎から手を離したんだ。
 なんだってんだ?

「散歩なワケよ。その道中で誰かに会えば、それはそれでラッキーだ、ってなぁ?」

「…ぷ。那智はヘンなヤツだ」

「それ、よく言われるんだけど。まあ、ほっとけ!ってなぁー」

 思わず噴出したら、ツーンッと外方向いた那智は、それでも上機嫌で俺の手を引いて公園を目指して歩き出した。その後ろから引っ張られるようにして追いながら、俺は。
 そう、俺は。
 今だけ、そう、ほんの少しだけ、この幸せな気分を味わっていたいって思ったんだ。
 許されるのなら、ほんの少しだけ…

 辿れる道は、そう、棘しかないのなら。
 それすらも運命だと思いながら。
 貴方の優しい姿を追い求めましょう。
 ああ。
 どうして…
 僕はこんなにも、貴方を想い続けるんだろう…