11.散歩の理由  -Crimson Hearts-

 あのドーナツ事件以来、那智がまともに食事をし始めたかと言うと、答えはNO。
 相も変わらず、未だに食事は咽喉を通らないんだそうだ。
 当たり前か、あの後も盛大に吐いてたしな。
 何があったのか知らないけど、那智はそれでも、あの日以来とても不機嫌になることが多くなった。それは本人もどうしていいのか判らない感情の起伏のようでもあるけど…その凶悪な思いと言うものが、手当たり次第に身近にあるものを壊してしまいたい衝動を突き動かしてしまっているんじゃないかって思えるほど、最近の那智は荒っぽくなったし、何より、殺人の回数が増えたような気がする。
 まるで月に狂う人間のように、漸く縋り付いている理性の欠片を弾き飛ばした那智は、ネゴシエーターの仕事の範疇ではない場所でも、平気で人殺しをするようになった。
 そのせいで、随分と命を狙われるようにもなったようだったが、それすらも本人は何処吹く風でサラッと聞き流しながら最も危険だと言われている南地区のろくでもない区域をぶらぶらしては、世の中を拗ねたような顔をして嗤っていた。
 ベントレーのお願いとかで、那智は渋々と言った感じで俺を散歩に誘ったのがついさっきのことで、あれほど仕事に連れて行くと言って躍起になっていたヤツとは思えないほど、苦渋に満ちた笑みは見ていて不気味だった。

「…どうしたんだよ、この間からおかしいぞ?」

 スタスタと淀みなく前を歩く黒コートを掴んで首を傾げると、ニヤニヤと不機嫌そうに笑っている那智は目線だけでチラリと俺を見下ろすと、シレッとした態度で肩を竦めやがったんだ。

「別にぃ?なんでもないさ」

「なんでもない、ってツラじゃないんだけどなぁ。気付いてもいないんだろ?」

 なんだか那智のその態度があまりにも子供っぽすぎて、俺は苦笑を禁じえなかった。
 つーか、プッと噴出して黒コートから手を離しながら、おおかた、不機嫌の固まりになっているんだろう那智の顔を覗き込んだんだ。

「ぽちが悪いんだぜ~」

「へ?俺か??」

「そーだ!…ったく、誰にでも尻尾振るから見ろよぉ。ベントレさままでお気に入りなんだと」

 ははーん…なるほど。
 飼い犬が自分以外の人間に懐いているような仕種が気に喰わないんだな。

「オレには最大限警戒してたくせにさー。ベントレさまには尻尾振るのな」

 ムスッとしてニヤニヤ笑うと言う、なんとも奇妙な表情をしながら肩を竦める黒コートの男は、その図体とは裏腹にあんまり子供っぽくて本気で笑ってしまいそうになる。
 別に俺、ベントレーに懐いてるってワケじゃないんだけどなぁ。
 ただ、ベントレーがこの禄でもない世界では珍しく、あんまりいいヤツだからついつい、話し掛けてしまうってだけでさ。
 その態度がイケナイのか?
 なんだ、那智のヤツ、ホントにガキみたいだ。

「普通、そこで笑うかぁ?ぽちって冷たいしー」

 不機嫌そうにツーンッと外方向く那智にクスクス笑っていたら、そんな俺たちをそれはそれは不気味そうにベントレーが蒼褪めて振り返っていた。

「なんだよー、ベントレさまめ」

「なんでもねぇっての!…ただ、なんつーか。那智が蛍都以外のヤツに懐くなんざ珍しいからな~」

「オレは見世物じゃございません」

 珍しく語尾を伸ばさないキチンとした物言いでキッパリと言い切った那智の表情は、薄ら笑いこそ浮かべているけど、大変機嫌が悪いらしいことは俺じゃなくて、長年の付き合いであるベントレーには逸早く判ったようだった。

「へーへー。んなの、おっかなくて見世物にしようなんて気持ちはこれっぽっちも起きませんよーだ」

「うるせ」

 これまた子供のように唇を尖らせて言い返すベントレーに、薄ら笑いが絶対に違うとは思うんだけど、でも仕種は充分子供っぽく中指を立てた那智が軽くあしらっている。その光景は、こうして傍らで見ているのならそれほど害はないものの、第三者として遠目で見る立場にあるとしたら多分、俺は間違いなくダッシュでこの場から立ち去っていたに違いない。
 それほど、凶悪なオーラを纏っている那智に対抗できるのはベントレーと、あの鉄虎と言う大男だけだと思い知ることができた。
 心底、おっかない。

「でー?これからどこに行くワケ??」

 ご丁寧にぽちまで引っ張り出しやがって、これで下弦のところにでも連れて行きやがったらベントレ様は宙吊りで一週間ね…とでも言いたそうな、凶悪な双眸をスゥッと細めてニヤニヤ笑う那智に、それこそベントレーは蒼褪めながら嫌なものでも見ちまったとでも言いたそうな顔をして目線を逸らすのだ。

「下弦のところじゃねーよ。蛍都から珍しく電話があってよぉ」

「蛍都が?なんでベントレーに??」

 蛍都、の名前だけで敏感に反応する那智を盗み見ながら、それでも、どうして自称なりなんなり、セックスをするほどの仲であると言うのに、蛍都が那智ではなくベントレーに電話を入れたのか俺も興味深くオレンジのツンツン頭の返事を待っていた。

「知るかよ。お前にしろ蛍都にしろ、大方俺を伝言板か何かと勘違いしてんじゃねーのか??」

 フンッと不機嫌そうに外方向くベントレーの、その肩に背後からゆっくりと腕を回した那智が底冷えのする目付きでにやぁ~と笑いながら、左右の色の違う双眸を覗き込んで繊細そうな、人殺しの時には優雅ささえ感じる指先で、ひぇぇぇ~…と息を飲んでいるベントレーの顎を擽った。

「そんなこた聞いちゃいません。蛍都がなんつってたんだぁ?」

「ぅ判ってるよ!こん畜生!!来週末に蛍都が退院するんだろ?それで…那智が犬を飼ってるらしいから、捨てさせろだってよ」

「…え?」

 思わず、言葉が漏れたのは俺だった。
 別に、この生活がいつまでも続くなんざ思っちゃいなかった。
 幸福だと感じる時間は、いつだってあっと言う間に指の隙間から滑り落ちる砂みたいに消えてしまう。
それはどうしても、止めようとして留まってくれるものじゃないってことぐらい、俺だってよく判ってら。
 ポツリと呟いた俺を、ベントレーから邪険に振り払われた那智が足を止めて、ふと、振り返った。
 その顔は、相変わらず何を考えているのか良く判らない、ニヤニヤ笑いのポーカーフェイスだったけど、ベントレーが不機嫌そうにムッツリと黙り込んでいるのを見れば、それはもう那智も知っていることだったんだと判った。
 なんだ、そうか。
 そりゃ、そうだよな。
 ずっと、お互いの身体すら知り尽くしている恋人なんだ、帰宅して見知らぬ男が一緒にいて、それだって不気味なのにましてや自分も眠るだろうベッドまで使用されていると知れば、誰だっていい気分になるワケがない。
 判ってたんだけど、あまりにも突然すぎて、一瞬ワケが判らなくなってしまったんだ。

「蛍都が…帰ってくるのか?」

 ふと訊いたら、ベントレーは外方向いたけど、那智は笑ったままで肩を竦めて見せた。

「そうか、よかった」

「…あーん?」

 ポツリと呟いて俯いたら、那智のヤツが訝しそうに眉を寄せて首を傾げたから、俺は顔を上げると驚くほど爽快に笑ってやったんだ。

「よかったな、那智!やっと好きな人が帰って来るんだろ?なんてツラしてんだよ。もっと喜ばないと」

「ぽち?」

 驚くほど、那智のヤツが動揺しているのが手に取るように判って、そんな初めて見る態度に、なんでだろう俺は、可笑しくってさ。ホントに笑っちゃったんだよ。
 でも、当たり前だろ?
 あんなに目をキラキラさせて、蛍都の名前を聞くだけで嬉しそうな反応を示すアンタに、俺が何を言えるって言うんだ?

「そうだよな、あんな狭い部屋に犬が居座るのもどうかしてると思うぞ。来週末に帰ってくるんだって?それじゃあ、それまでに出て行くように準備しておくよ」

 自分でも驚くほどスラスラと言葉が出ていた。
 感じていた不安は、那智から離れる時間が近付いていたからなのかとか、心のどこか奥の方でぼんやりと考えながら、それでも表面上ではなんでもないことのように振舞えるのは、俺が身に付けた処世術だ。
 なのに、どうして那智のヤツはそんな、寂しそうな顔をするんだろう?
 蛍都が帰ってくることを、きっと誰よりも待ち望んでいたに違いないってのに。
 馬鹿だなぁ、那智。
 俺は気紛れで飼ったんだろ?それも、誰が捨てたかも判らないような野良だったんだ、事情が出来れば捨ててしまっても仕方ない、だって俺は犬じゃないから大丈夫だ。
 これが本当の犬だったら大問題なんだけど、やめてやれよ、可哀相だからな。
 独りになることは慣れてるから、そんな寂しそうな、心配そうなツラなんかするなよ。
 思わず笑っちゃうじゃないか。
 アンタらしくないってね。

「で、これから保健所にでも連れてってくれるのかい。ベントレー?」

「…なんだよ、案外平気そうだな」

 ベントレーがムスッとしたままでそんなことを言うから、俺は呆然と突っ立ったままで何も言おうとしない薄ら笑いの那智の腕を掴んで、その冷たくなっている指先に指を絡めながらニッと笑ったんだ。

「野良だからな。こうしてご主人さまが拾ってくれたお陰で命拾いはしたけどさ、恩義はあっても忠義ってのはないのが野良なんだ」

「そんなもんかよ」

 心配して損したぜ、とでも言いたそうなベントレーから目線を那智に移して、思わず息を飲んでしまった。
 その目付きが、冷ややかに俺を見下ろしてきた那智の目付きが、まるで今にもその腰に下がった鞘から抜刀して、微塵に切り刻んでやろうかとでも企んでいるような殺意を秘めた暗い双眸が、俺の腹を震え上がらせたんだ。
 な、なんだってそんな目付きをするんだよ?
 恩義はあるってちゃんと言っただろ!?

「…ぽちはさぁ、オレから離れるのが嬉しいのかぁ?」

「は?いや、別に」

「じゃあ、どうしてさぁ、そんなに平然としてるワケ?」

「平然って…あのなぁ、那智。アンタが心から大好きな恋人が帰ってくるんだろ?その恋人が、アンタは俺のことを犬だと思っていても、ちゃんとソイツには俺が人間に見えるんだから俺がいちゃ不都合だろうがよ。那智、俺は犬じゃない。人間なんだ」

 ちょうどいい、ここでちゃんと那智に俺が何者なのか判らせてやろう。
 ずっと、那智が犬だと思い込んでいるならそれもいいかと思って放っておいたけど、今回ばかりはちゃんと説明しておかないと、後々那智が苦労するだけだ。
 俺を捨てろって言うぐらいだ、当初感じていたイメージとは違って、蛍都はどうもかなり嫉妬深いと睨んだからな。

「…?」

 ワケが判りませんってな顔をして、そのくせ、食い殺すぞと冗談じゃない冷えた目付きで睨んだままで、那智はそれでも黙って俺の話を聞こうと思ったようだった。
 こんな往来の真ん中でだって、どこでだって気が向けば立ち止まって話をしたがる那智の突拍子も無い行動に、ベントレーはモチロンだが、俺も随分と慣れてきていたし嫌でもなかった。それどころか、今はそれが有り難いとすら思えるから終わってるんじゃないかな、俺。
 それでも、ベントレーだけでもその名は轟いているのか、それにあの浅羽那智が加わったとなれば賑やかだった往来も、急にシンッと静まり返ってしまう。
 それが、那智とベントレーが持つ絶対的な実力の表れなんだろう。

「どこをどう見たら俺が犬なのか良く判らないんだけどな、俺は人間だよ、那智。犬は四つん這いで動くけど、俺はちゃんと2本の足で立ってるだろ?言葉だって喋る。そんな犬がこの世界のどこにいるんだよ?まあ、アンタが俺を下等動物的な扱いをしてるだけならそれでもいいけど、でもそれなら尚更、どうして蛍都が俺を捨てろなんて言ったのか判ってやれるだろ?」

 上手い具合に説明なんか出来ないけど、それでも手を繋いだままで話す俺を見下ろしながら那智は、唐突に不機嫌そうに口許を歪めたんだ。
 あれほど、貼り付けたような笑みしか見たことがない俺の前で、那智は悔しそうに唇をキュッと引き締めた。
 何が起こったのか一瞬判らなくて呆気に取られていたら、俺たちの傍らで話を聞いていたベントレーがヤレヤレと溜め息を吐いたようだった。

「テメーを捨てろと言ったヤツの気持ちを判ってやれか…んなこと、ぽち以外の誰が口にするんだよってなぁー…まあ、いいか。これから行こうと思ってるのは、俺の居住区さ」

「ベントレーの居住区?なんでそんなところに…」

「俺がお前さんを引き取ろうと思っただけだ」

「嫌だ!」

 首を傾げてベントレーと話していた俺の繋いだ手にギュッと力を込めて、那智は駄々を捏ねる子供のようにムッとしたままでオレンジのツンツン頭を睨み付けたんだ。

「もうさぁ、ぽちがなに言ってんだか全然判んねってのにベントレまで妙なこと言いやがってさぁ!そもそも、コイツの飼い主はオレなのに、どうして勝手に話が進んでるんだ??別にオレは、ぽちを手離そうなんざ思っちゃいないし!」

「…蛍都が、どーせ那智は駄々を捏ねるだろうから、そのときはこう言ってくれって言ってた

ぜ。お前が犬を捨てないんなら、俺がお前を捨ててやるってよ。まんま、蛍都の言葉だからな。脚色は一切ナシ!」

「蛍都って男だったのか!?」

「はぁ?当たり前でしょ、蛍都は正真正銘の男だけど??」

 ギョッとして目を見開く俺に、何を今更とでも言いたそうな胡乱な目付きで見下ろしてきた

那智に素っ気無く言われて…って、アンタたちは古くからの知り合いだから当然知ってるだろうけどな、こっちとしては恋人とかセフレだとか聞いてたら誰でも女だって思うじゃないか!
 いや、確かに男にその、だ、抱かれた経験がある俺としてはなんとも言えないんだけど…
いや、何もかも、本当は気紛れな冗談で犯られちまったってだけのことで…って、俺の方が何がなんだかだよ!

「オレを捨てるって?…ふーん…どちらにしたって、できもしないくせに」

「その言葉、そのまま蛍都に言えるのかよ?」

 ベントレーが意地悪く腕を組んでフンッと鼻を鳴らしながら言うと、那智のヤツはウザそうな表情をして鬱陶しそうに脱色し過ぎて黄褐色になっている髪を掻き揚げた。

「言えるさ!ずーっと、蛍都に言われてからなんか引っ掛かってたんだけどさぁ、どうしてオレが犬を飼っちゃダメなんだ??いや、ここで話してたって埒があかないし?もういい、ぽち、おいで」

「は?は?…って、どこに行くんだ!?」

「蛍都のところに決まってる!」

「ええ!?」

 そんな、イキナリ恋敵と対面かよ!!?…って俺、何を言ってるんだ。
 いや、蛍都にしてみたらもしかして、俺と言う存在を疎ましく思ってるぐらいなんだから恋敵と思っていたっておかしくはないと思う。
 手を繋いだままで引き摺られるようにして那智に連行される俺を憐れに思ったのか、いや、それじゃどうしてベントレーのヤツはあんなにホッとしたような嬉しそうな顔をしているんだ??
 必死に救いを求めて目線を向けると、ベントレーのヤツは呆れたように肩を竦めるとそんな俺たちを追って来ながらニヤニヤと笑っている。

「ぽちは蛍都とは初対面だったよなぁ~?第一印象ぶっ壊された時のぽちの顔が見物だぜ」

 明らかに楽しんでいるようなベントレーの言葉なんか耳に入っちゃいねぇ不機嫌のオーラ出しまくりの那智に引き摺られるまま、俺はあわあわと泡食いながらどうするべきなのか最早当てにはならないベントレーに救いを求める術は断たれたと知ったから、それでなくても乏しい脳細胞をフル回転させて大いに考えてみた。
 考えてみて、出てきた答えはひとつしかない。
 出たとこ勝負。
 まあ、そんな感じで一路、町外れの古惚けた病院へと赴くことになっちまった俺の運命は…
 悲惨でないことだけを祈ろう、と、思う。
 うん。

 ここから先に未来はありません。
 と、君が言うのなら。
 ぼくはその未来さえ。
 君の為に手に入れようと思っていた。

10.不安  -Crimson Hearts-

 灰色の町には似合いの雨が降っている。
 もう随分と、長いこと降っているように感じるのは俺の錯覚なんだろうか?
 いや、そんなはずはないな。那智と別れてからベントレーの肩の上に担がれて、オレンジのツンツン頭の行き付けとか言うファーストフードから出てきた時にはもう、泣き出しそうな曇天の空から大粒の雫がポツポツと落ちてきていたから…那智は。
 ふと俺は、いつも座っている場所から見える、窓の外に陰鬱に広がる空を見上げていた。
 夜の帳は雨のせいで思うよりも早く下りてきているし、かと言って、それに怯むほど俺が待っているヤツは臆病者でもなければ腰抜けでもない。
 やたら機嫌の悪かったベントレーが『土産』だと言って寄越したお持ち帰り用に用意されたビニールの袋は無造作に床に転がって、それが却ってこのアンティークな部屋を薄ら寒くしているような気がして、俺は縮こまるように膝を抱えて座りなおした。
 那智は、蛍都がいる病院に行ったきり戻って来ない。
 ベントレーが言うには、面会時間ギリギリまで一緒にいるから、大方、戻って来るのは夜中になるだろうと言っていた。
 確かにそうなのかもしれない。
 いつもはそれなりに賑やかな通りには、既に夜の気配が濃厚になり始めた夕暮れ時には人影もなく、車すらも走らない、一種のゴーストタウンのようになっている。
 仕事が長引いて真夜中に戻って来ることもあった那智は、そんな薄気味の悪い通りを、まるで何事もないかのように鼻歌なんか口ずさみながら足音高く帰って来ることがあった。そんな時は決まって、誰かが犠牲になるワケなんだけど、もうこの近辺に息を潜めている悪党どもは心得ているのか、そんな那智を暗がりに身を潜めてビクビクと見守っているようだった。
 泣く子も黙る浅羽那智。
 その那智を、さらに黙らせることができる蛍都。
 一瞬、脳裏に閃くように掠める嫌な想像に、俺はギュッと瞼を閉じて唇を噛み締めた。
 どうして…こんなに嫌な気分になるんだろう?
 那智を、癒して支えている蛍都のことを考えるだけで?
 もしかしたら蛍都は、やわらかな栗色の髪をしているんじゃないか…色が白くて可憐で、那智がそのやわらかな胸元に頬を埋めれば、まるで女神のように優しく微笑んで、痛んでしまって傷付いた黄褐色の髪に唇を寄せるんだろう。
 そんな妄想が脳裏に浮かべば、それだけで嫌気がさす。
 なぜだろう…そんな自分が嫌で、なぜ自分がそんなことを思ってしまうのか、判らなくて不安になってくる。

「いーじゃねーか。那智は幸せなんだ…」

 もし今、妹が、可愛かったふわふわくるくるの栗色の髪をした紫苑が生きていれば、俺はこんなに不安を感じなかったのか…よく、判らない。
 この世に漸く、何か救いのようなものを見つけ出しちまったせいで俺は、その存在が自分ではない誰かのものだと知ったからこんなに不安になっているのか。

 判らない。
 判らない。 

 心を寄り添いあえる家族が生きてさえいてくれたら、那智の不在をこんなに不安には思ってはいないんだろう。
 俺はきっと、那智を家族のように考えてしまっているのかもしれない。
 あの雨の日、俺はまるで雛鳥のすり込みのように、瞼を開いて見た那智を、あのクソッタレな街角から引き摺り上げてくれたあの腕を、家族のように大事だと思うようになったんだろうなぁ…
 窓の外に広がる夜の帳を下ろして雨に濡れる灰色の町を見詰めながら、俺はちょうどこんな日だったと思い出していた。
 そして、そんな思いにふと囚われそうになった時、まるで俺の妄想から抜け出してきたみたいに漆黒のコートのポケットに無造作に両手を突っ込んで、まるで無頓着に飄々と歩いてきている那智に気付いたんだ。
 少し俯き加減ではあるけれど、別に機嫌がよさそうもないし、俺を見ようともしない。
 どうしたってんだ、那智は?
 いつもなら何処にいたって一目で俺の動向なんか捕らえてしまうはずの那智の、その眼差しは今にもショートしそうな、チカチカと切れかけている街灯が作り出す陰影に隠れて確認することもできない。
 一抹の、不安。
 何が?とか、どうして?とか、聞かれてしまっても判らないんだけど、胸の辺りをギュッと掴まれるような、そのくせ、素っ気無く突き放されるような心許無さに俺は、慌てて膝立ちになると窓ガラスに掌の体温を吸われながらへばりついてしまった。

「那智…?」

 聞こえないって判ってるんだけどな、どうしても呟かずにはいられない俺の口から零れ落ちたその声を、まさかお前、聞こえたなんて言わないでくれよ?
 ふと、名前を呼んだら、那智はまるで返事でもするようにヒョイッと顔を上げたんだ。
 いつものニヤニヤ笑いは相変わらず口許に貼り付けて、そのくせ、どこか不機嫌そうな目付きは凶悪なオーラを垂れ流しにしている。
 この辺りの人影を、いつもより余計に失せさせたのはまさか、那智のその目付きなんじゃなかろうか…と、俺が思ったとしても致し方ないと思う。
 何か、俺は那智を怒らせるようなことでもしてしまったかな?
 ベントレーや鉄虎に蛍都のことを聞いてしまったのがいけなかったのかな…そんな風に、那智に一睨みされただけで竦んでしまう俺は、自分の根性のなさにどうしようもなくて泣きたくなってしまった。
 どうして、胸の辺りが痛いんだろう。
 那智の眼光に怯んでしまったせいなんだろうなぁ、やっぱり。
 胸の辺りが痛くて思わず顔を歪めたままで見下ろした那智は、飽きもせずに降り続ける雨の中で呆然と突っ立っているようだった。
 降り頻る雨にすっかり濡れてしまった前髪の隙間から、物言わぬ影のように、ひっそりと、そのくせ雄弁に語り掛けてくるような目付きをした那智を、俺はどんな顔をして見下ろしたらいいのか判らなかった。
 町の喧騒も、今はそれすらも鳴りを潜めて静寂に静まり返った町に、只管降り続ける雨の音さえも遮断されたこちらの世界から、現実を真っ向から叩きつけられる殺伐とした世界にいる那智を見下ろす俺…まるで、そうだ。
 こうしている今でさえも俺は、那智が与えてくれた安楽な場所で、あれほど殺気だって怯えまくっていた世界から護られるようにして『生きている』と言う事実を、今更ながら気付いてしまった。

(俺は…あれほど死にたいと思っていたこんな薄ら寒い町で、生きているのか)

 硝子に蒸気で手形を残しながら拳を握った俺は、淡々と見上げてくる薄ら笑いのそれこそ不気味としか形容できない男を、見下ろしたままで笑っていた。
 そんなつもりは全くなかったけど、気付いたら口が勝手に動いていた。

「お帰り」

 声のない、唇だけの言葉に、いったい那智が何を感じるのかなんてことはケチなコソ泥の身分じゃ…いや、今はただの野良犬の身分では理解なんかできるはずもないけど、ふと瞬きをした那智は漸く、貼り付けただけの口許の笑みを感情的に歪めて見せた。
 それは、那智らしい不器用な笑い方だった。
 どこかホッとしたような、いつも見せるあの一瞬しかない、ホッとしたような笑顔。

「ただいま」

 俺の真似でもしたのか、声に出さずにそう言った那智はニッコリ笑うと、やっといつものように大型の犬がするような素振りで頭をブルブルッと振って水を弾き飛ばすと、サッサと砂岩色のアンティークなビルの扉を派手に開けて飛び込んだようだった。
 那智には『何故か』だとか『どうして』と言う副詞がまるでない…と、ずっと思っていたし、本人もそのつもりでいるようだった。でも、最近の那智には『何故?』や『どうして?』の言葉が多くなったような気がする。
 那智自身、無意識のうちに呟いているだけなのかもしれないけど、それでも、なんだか今まで無機質のように感じていた那智の感情が、やっと人間らしくなったような気がして少しだけ嬉しかった。

(あれ?なんで俺、そんなことで喜んでるんだ??)

 ハッと我に返ったら、そんな馬鹿げた思想に首を傾げてしまった。
 ちょうど俺が首を傾げたぐらいの時に那智がニヤニヤ笑いながら部屋に入ってきたんだ。
 いつものように盛大に扉を思い切り蹴り開けて…と思えるほど乱暴にドアを開いて入ってきた那智は、窓から見下ろした時には気付かなかったけど相変わらずその脇に買い物袋を抱えていた。

「遅かったな」

 できるだけ気のない風に言ったつもりだったけど、那智にしてみたら俺の感情なんかどうでもいいことなんだろう、瞼を閉じてハッ…と笑っただけだった。

「…ところでさぁ、これってナニ?」

 俺の質問には肩を竦めるだけのくせに、床に転がっているビニールの袋を取り上げてニヤァ~ッと笑ったままで首を傾げてくるから、俺も素っ気無く肩を竦めながら答えてやった。いや、答えてやるだけ俺のほうが優しいと思うぞ。

「ドーナツなんだと。ベントレーの行き付けの店らしくてさ、結構旨かったぞ…って、アンタには関係ないか」

「…ドーナツねぇ」

 どうせ興味なんかないくせに、那智はそれでも紙袋をテーブルに投げ出すとビニール袋からドーナツを一つ取り出して繁々と眺めているようだ。
 粉砂糖を散らしたドーナツは、揚げ立ての時はそりゃあ旨かったけど、今は少しだけしんなりしているようで不味そうとまではいかなくても、旨そうと思える代物でもなくなっていた。
 そのドーナツを何か物珍しいものでも見るような目付きでニヤニヤ笑ってマジマジと見詰めながら、目線だけを動かすと言うヤツらしい芸当でもって俺をチラッと見てから言ったんだ。

「今夜の飯はコレ?」

「え?あ、ああ…そうだけど?」

「ふーん、ベントレさまめ。こんな安上がりしちゃってさぁ、明日は文句を言うべきかぁ?」

「あ!いや、なかなか旨かったって!!いや、マジで」

「ホントにぃ?」

 疑い深そうな目付きでニヤニヤ笑う那智に肝が冷えたが、ここは正念場だと頷いて見せた。脳裏にはどうしても、あのお人好しそうなヴィヴィッドなオレンジのツンツン頭が浮かんで離れないからなぁ。
 ビルに独りで残すのは忍びないんだが、と前置きしてからベントレーは、自分はこれから用事があるから仕事場に向かわないといけないと言って不機嫌そうに行ってしまった。
 ベントレーの不機嫌さは、ある意味、優しさの裏返しだと言うことに気付いたから、あのお人好しに迷惑を掛けるワケにはいかないんだ。

「そもそもだ。飼い犬を他人に預けた那智が悪い。預けた段階で、ソイツが何をやろうと文句を言うのはお門違いだと俺は思うぞ」

 俺が精一杯尤もらしくそう言うと、那智のヤツは口許に貼り付けたような笑みを浮かべたままで、優しい甘い匂いを漂わせる粉砂糖のまぶされたドーナツを見下ろした。

「別にさぁ、預けたかったワケじゃないけどー」

 不貞腐れたように唇を尖らせるワケでもなく、那智はどこか、叱られた子供のような目付きをしてドーナツを見下ろしたままだ。

「コレ、旨かったって?」

「ああ!もう随分昔のことなんだけど、子供の頃、クリスマスにサンタから貰ったドーナツにソックリで旨かった!」

 独り言のような呟きに大きく頷いて俺が笑いながら応えると、暗黒がよく似合うはずのネゴシエーターには絶対に不似合いだと思っているドーナツを手にしたままで、那智は小さく笑ったんだ。

「クリスマスにサンタ?はーん?ぽちはサンタを信じてるのか~」

「別にだ!今も信じてるってワケじゃないぞ。チビの頃に甘いお菓子を貰ったらこんなご時勢だ、誰だってサンタぐらい信じたくなるさ」

「…子供の頃に喰ったって?旨かったかぁ??」

 だから、そう言ってるだろ…と、思わず言ってしまった昔話を鼻先で笑われた気になっていた俺は、顔を真っ赤にしてブツブツと悪態を吐きながらも頷いた。
 恐らく、那智にどんなに説明しても、人肉にしか興味を示すことの出来ない彼には、そのほろほろと甘い、優しいドーナツの味など伝わりはしないんだろうけど…それでも俺は、できる限り那智にその気分を味わって欲しいと思っていた。

「ああ、妹と半分こにしたんだけど。まだちっちゃくて、食べられやしないんだけどさ。あんまり甘くて旨かったから無理に食べさせて泣かせてしまったんだ。そんなことしてしまうぐらい、甘くてホッとする味だったよ」

 アンタには判らないだろうけど…そう思うことが、少しだけ寂しいな。
 もっと那智を身近に感じたいのに感じられない…蛍都は、きっとそんなアンタの全てを受け入れて、やわらかく微笑みながら抱き締めてやるんだろうな。
 俺には到底できない判りあえて、許しあえた者だけが持つ特権のような触れ合い。
 俺は、アンタの過去を知らないから。

「どうやって妹に喰わせたんだ?オレに同じようにしてみろよ」

 唐突にそう言って、那智がドーナツを持つ手を俺の目の前に突き出してきた。
 その顔は、どうも俺を馬鹿にしているとか、茶化しているとか、そう言った感情は微塵も浮かんでいなくて、どうやら本気でその時を再現させて、純粋に見てみたいと思っているようだ。
 俺は呆気に取られながらも仕方なく、那智の差し出したドーナツを受け取って、それを半分に割ると黙ったままでジーッと見詰めてくるずぶ濡れの黒コートの男に近付くと、その口許に歪な形で半分になってしまったドーナツを近付けたんだ。
 こうして妹に食べさせた。
 むずがるようにして嫌がっていた紫苑はでも、その甘い匂いに誘われるようにして嬉しそうに笑いながら食ったっけ。結局、少しも食べられなかったんだけどな…
 ほんの僅かな時間、回想に耽った俺のドーナツを持つ手をガシッと掴んだ那智の動作にハッと我に返ったときには、俺がギョッとするのもお構いなしで、前髪から水滴を零している那智はそのままパクッとドーナツに食いつきやがったんだ!

「なな、那智!アンタ、大丈夫…」

「…ぅ、ぐ…ッッ!…ぅぅ…うん、旨いな」

 脂汗をビッシリと額に浮かべながらも、俺の腕を掴んだままでニヤァ~ッと笑ってモグモグと口を動かせて上目遣いに見上げてくる那智に、「なのか?」と続きそうになった言葉が咽喉をするりと抜けて胃の辺りまで落ちてしまった。
 いったい、何が起こったって言うんだ??

「旨いって…アンタ、なに無理してんだよ!?そんなんじゃ、味だって判らないだろうに。苦しんで食ったって旨かないだろ!?」

「そんなこたないさ。甘くて旨かったし?」

 飄々とそんな風に嘯くけど、俺にはちゃんと判ってるんだぞ。
 その額に光る雫が、雨粒だけのせいじゃないってな。

「ど、どうしたんだよ?ドーナツなんてそんな珍しいもんじゃないし…」

 こんなクソッタレなご時勢でも、ファーストフードは手頃な値段で腹を満たしてくれる、俺たちの最後の砦のような場所だ。那智ほどに稼いでいるのなら、そんな物など口にしなくったっていつものように自慢の手料理を無理してでも食べればいいのに…そもそも、ドーナツなんか無理して食べるもんじゃないだろ!?
 ハラハラしながら俺が見上げたら、掴んだ腕をそのままに、那智は、那智らしくもなくニヤニヤ笑ってそんな俺を見下ろしてくる。

「ぽちがさぁ、子供の頃に喰った味なんだろ?どんなモンかと思ってさ。まあ、キョウミホンイってヤツ??」

「興味本位ってな、アンタ…なに考えてるのか判んないよ」

 あれほど苦しそうにドーナツを食うヤツなんか初めて見たし、きちんと租借して嚥下した那智を見るのも初めてだったから…とは言え、俺が那智と一緒に過ごしだしてから、それほど長い月日が流れたってワケじゃないからな。せいぜい、2ヶ月かそこらだ。
 それで那智の何が判るんだと言われても、言葉に詰まって黙り込むしかないんだけどさ…

「甘い…ぽちの指も甘いなぁ?」

 ペロペロと、まるで巨大な猫科の肉食獣がそうするように俺の指先を舐めていた那智は、不意に舐めるのをやめて、どんな顔をすりゃいいのか判らないでうろたえるしかない困惑した俺の顔を、まるで穴でも開くんじゃないかと言うほど、暫くマジマジと見つめていた。

「…な、なんだよ?」

 わざとぶっきら棒に唇を尖らせたら、那智はそれでもニヤニヤ笑ったままでジーッと俺の顔を食い入るように見詰めていた。
 一抹の、不安。
 まただ。
 また、競り上がってくるこの胸の息苦しさ。
 不安で、不安で…思った以上に俺は、那智に依存しているのかもしれない。 
 こんな風に那智が突拍子もないことを仕出かすのはいつものことだと言うのに、どうしてだろう?今夜はやけに胸の辺りに何かが引っ掛かって、それが却ってこの現状がより一層いつもとは違うんだとでも言うように胸を奇妙な焦燥感が駆り立てて仕方がないんだ。
 いつもと変わりないはずなのに。
 いつも通りのはずなのに。
 いつもと何が違うって言うんだ!

 不安で、不安で…思わず眉を寄せてしまった俺は今にも泣き出しそうな顔をしていたのかもしれない。
 那智が一瞬、ハッとした様な顔をしてから、それからニヤァ~ッと笑いやがったからだ。

「ぽちはさぁ…やっぱ、可愛いのなー」

 そう言って、ずぶ濡れの那智のコートに押し付けられるようにして抱き締められても俺の、胸の中に湧き上がったどす黒い何かは大きなシコリのようになって蟠ったままだ。
 その正体が判らなくて、俺は暗闇を手探りで探るようにしながら必死で答えを探していた。
 手探りで伸ばす指先で那智の黒コートを掴んだとしても、答えなんか見付かるはずもないのに。
 俺は、どうしていいのか判らなくて無性に泣きたくなっていた。
 こんなのは、俺らしくないと言うのに…

 揺れる想いを繋ぎとめる鎖のように。
 あなたの指先が触れる琴線。
 後には戻れないこの道がたとえ棘だったとしても。
 もう、後悔などしない…

9.蛍都  -Crimson Hearts-

 ベントレーに肩に担ぎ上げられたままで街路を進んでいると、意外とこのオレンジのツンツン頭には仲間が多いんだと判った。
 一方的に那智と別れてから俺は、案の定と言うかなんと言うか、やっぱり下ろして貰えないままベントレーと帰路に着くことになったんだ。

「よーう、ベントレー!」

「なんだ、面白いの抱えてんなッ」

 それぞれが勝手に声をかけてはゲラゲラ笑うと、左右の色が違う双眸を細めながら、向こうっ気の強そうなベントレーはニヤッと笑って肩を竦めて見せた。その態度は、那智や鉄虎と一緒にいる時とはガラッと違って、確かにどこか冷酷そうな冷やかさを持っているような気がする。

「手なんか出してんじゃねーぞ?コイツは那智さまの預かりもんだからなぁ」

「…那智だと」

 どうでも良さそうにベントレーが気軽に言えば、馬鹿笑いしていた連中の声がピタリと止んで、違った声音でざわついた。
 そうか、あんな風にニヤニヤ笑ってるだけでちょっと変わったヤツってぐらいにしか思えない那智は、やっぱり誰もが怖れるネゴシエーターなんだなぁと、連中の態度で今更ながら改めて思ったもんだ。
 ヒソヒソと肩を寄せ合うようにして何やら悪巧みでもしているように見える連中に、ベントレーはそれ以上は興味がなさそうに肩を竦めて歩き出した。
 外見こそヒョロリとしていて、どこか臆病そうに見えるんだが、このベントレーって男はやはりあんな化け物みたいな鉄虎や那智と一緒にいるぐらいだ、それなりに肝が据わってるんだろう。外見とは裏腹な印象が付き纏っている。
 外見と内面がこれほど食い違うヤツも珍しい…そんな風に思いながらベントレーのジーンズの腰に無造作に突っ込んでいる二丁の銃を見下ろしていたら、唇を尖らせてると思しきベントレーが何やらブツブツ言っているのが聞こえたんだ。

「…ったくよぉ、なんでもかんでも人のモンに興味を持ちやがって!那智もそうだ。俺の可愛いスパイシーとキラーを遣いやがるしッ」

 どうやら、よほど愛用しているカスタマイズ済みの拳銃を遣われることがムカついているのか、オレンジのツンツン頭をしたベントレーは溜め息を吐いている。

「スパイシーとキラーって…この拳銃のことか?」

「あん?」

 大人しく肩に担がれたままでジーンズの腰に突っ込まれた銃を見下ろしながら俺が言うと、ベントレーは気のない返事を返してきた。

「まーな」

「触っちゃ、やっぱ拙いんだよな?」

「あー?」

 カスタマイズした拳銃…と言うのを、俺は一度しか見たことがない。
 と言うよりも寧ろ、こんな廃頽して荒んじまった町では、何もかもが貴重で容易く手に入るものではない。殊更、武器にいたってもそうだ。拳銃など、盗賊集団の頭領が持っているのを遠目から見たぐらいで、触るチャンスなんてこれっぽっちもなかった。
 もちろん、拳銃を遣われることをこれほど嫌がっているベントレーのことだ、触らせろと言ってはいドウゾなんてこた、口が裂けても言っちゃくれないだろうなぁ。
 半ば諦め交じりで訊いてみたら、ベントレーのヤツは暫く何かを考えているようだったけど、不意に嬉しそうに笑ったようだった。

「?」

 訝しんで眉を顰めたら、オレンジのツンツン頭のネゴシエーターは薬でもやっていたのか、ボロボロになった歯をカチカチ鳴らしながらヒャハハハッと笑っている。

「そーか、そーか!お前も銃に興味があるんだな?鉄虎にしても那智にしても、飛び道具なんざ武器じゃねぇとか言いやがるからなぁ。そのクセ、那智のヤツは俺に無断でスパイシーとキラーを遣いやがるんだ。言ってることとやってる行動が意味判んねっての…お、そーだ!お前にも銃を造ってやろうか?撃ち方とかも教えてやるぜ」

「ホントか?!」

 バッと顔を上げてオレンジの髪を引っ張ったら、ベントレーはニヤニヤ笑いながら快く頷いてくれたんだ。那智や鉄虎の仲間にしては、ベントレーはなかなかいいヤツだと思うぞ。

「手始めにスパイシーを触ってもいいぜ。っつーか、ぽちは礼儀のあるヤツなんだなぁ。俺の周りにいる連中は、断りもなく勝手に触るヤツばっかりでな!…ぽちならいつでも触っていい。なんなら遣ってもいいんだぜ?」

「ホントか?ありがとうな!」

 機嫌が良さそうなベントレーに礼を言って、俺は無造作に覗いているグリップの部分を見下ろしながら、唐突にハタと気づいたんだ。
 どっちがスパイシーで、どっちがキラーなんだ??

「グリップが白い方があるだろ?ソイツがスパイシーって言うんだ。ピリッとキレのあるヤツなんだぜ。あ、それと…ッ!」

 ベントレーの説明の最中にズゥンッと腹に響くような銃声が響き渡って、ギクッとしたようにオレンジのツンツン頭は首を竦めてから言わんこっちゃないと額に片手を当てたみたいだった。発砲した当の犯人である俺としては、吹っ飛ばされそうになった身体をベントレーに受け止められて、ジーンッと両手を痺れさせたまま目を白黒させていた。
 それでもスパイシーを手離さなかったのは天晴れだと言って欲しい。
 飛び出した弾丸は地面に命中すると、乾いた埃を巻き上げている。

「…安全装置を外してるからさぁ、無闇に引き金を引くと今みたいなことになるってワケよ。判ったか?」

「わわ…判った。でも、安全装置を外してたら危ないんじゃないのか?」

「んなワケないだろ。スパイシーとキラーはお利口さんだからな」

 俺を肩に担いだままで平然と歩行を再開したベントレーは、どうやら何よりもこの二丁の拳銃を信頼しているんだろう。確かに、この二丁の拳銃は常に安全装置を外しているわりに、未だにベントレーの身体に風穴を開けてるってワケでもないから、強ちツンツン頭のネゴシエーターの言い分に偽りはないのかもしれないなぁ。

「すげーな!俺、こんなの初めて見たよ。ベントレーは軽く操れちまうんだろうな」

「まーな。ふふん、どーだ」

 見掛けや内面よりも子供染みた様子で胸を張るベントレーに、いったいコイツには幾つの顔があるんだと首を傾げたくなったが我慢することにした。せっかく機嫌がいいんだ、不機嫌になってイロイロ教えて貰えなくなるのも損だしな。
 でも…この銃は違う。
 あの男が持っていた拳銃は、もっとこう、銃身が長かったし口径が小さかったような気がする。まるで、そうだな。ちょっと遊びで持ってるんだけど、本当は肉弾戦の方が好きなんだ、とでも言いそうな雰囲気だったと思う。
 残酷に人体を貫いた指先は真っ赤に脈打つ心臓を掴んだままで…そこまで思い出してゾッとする俺の態度が、勝手に発砲してしまって申し訳なく思って落ち込んでいると受け取ったのか、ベントレーは肩を竦めながら首を左右に振ったんだ。

「ま、気にすんな。誰でも初めてのときは失敗するもんだ」

「なあ、ベントレー?」

「あん?」

「アンタみたいにさ、銃を持ってるヤツってこの町には後何人ぐらいいるんだろう?」

「あーん?…そうだな、あんまり持ってるヤツって見たことがないからさぁ。せいぜい、5~6人ってとこじゃないか?」

 この広い町でも5~6人しか持っていないのか。
 それなら、案外捜し易いのかもしれない。

「ベントレーみたいにさ、銃をカスタマイズしてるヤツって多いのかな?」

「んなワケないって。カスタマイズには金がかかるだろ?俺以外のヤツは誰かから分捕ったか、或いは購入したのをそのまんま遣ってる連中が殆どさ…ってなんだ、まるで誰か捜してるみたいな口調だな」

 ギクッとした。
 案外、このスパンキーで子供っぽい、そのくせどこかお人好しに見えてしまうこのベントレーと言う男は、抜け目のない洞察力を持っているのかもしれない。
 さり気なく聞いていたつもりだったのに…俺は息を呑むようにして首を左右に振ったんだ。

「い、いや。こんなに間近に銃を拝める機会なんてそうそうなかったからさ、つい好奇心で。気に障ったんだったら謝るよ」

「…」

 俺の態度をどう思ったのか、那智とはまた勝手の違うベントレーは比較的体温が高いのか、俺の腰に回した熱っぽい掌で脇腹を擽るように落ち着きなく手遊びをしながら考え込んでいるようだった。
 いや、ちょっと…脇腹は弱いんだけど。
 思わず笑い出しそうになっちまった俺は、慌てて声を噛み殺しながら小刻みに身体を震わせている。

「…やっぱさぁ、ぽちは変わってるんだな。こんなクソッタレな町で謝るだと?そんなことしてたらお前、付け入られて骨の髄までしゃぶられながら殺されるんだぜ」

「え?」

 想像していたのとはちょっと違う、呆れたような溜め息を吐きながらベントレーは心配そうな響きをその声に滲ませたんだ。てっきり、底意地悪く嫌味でも言われるもんだとばかり思っていた俺は、動揺してどう返事をしたらいいのか判らないでいる。

「あ、それで那智なんかにとっ捕まっちまったのか。バッカなヤツだな~!アイツはさぁ、鉄虎に言わせたら執着心の塊なんだってよ。そんなヤツに見込まれたら最後、地獄の底に堕ちたって連れ戻されるんじゃねーか?」

 ヒャッハッハ!…と、なんとも小気味良さそうに笑うベントレーに、俺の頬が引き攣ったのは言うまでもない。いや、確かに那智はちょっとおかしいと思っていた。でも、そんな鉄虎が言うような執着心なんか凡そ持ち合わせていないように思えて仕方ないんだけどなぁ…

「那智はどこか飄々としてて、なんでもすぐに捨てちまうのに、執着心とか有り得ないだろ?」

「あーん?あ、そっか。ぽちは知らないんだな。那智の執着心は蛍都からはじまってるんだ」

「蛍都…」

 また、その名前だ。
 そうだ、那智には恋人がいたんだった。
 ついさっき聞いた名前なのに、こうして改めて聞くとどうしてだろう?胸の辺りがズシリと重くなる。
 嫌な、気分だ。

「那智がタオに入ったのってさぁ、俺よりもっと古いんだよな。俺が那智と知り合った時にはもう、その傍らには蛍都がくっ付いていたからよぉ、経緯とか詳しくは知らないんだけどさ。はじめは蛍都のヤツが那智にべったりで、すげー独占欲だなとか思ってたんだけど、ホントは違ったんだ」

「そうなのか?」

「ああ。蛍都がべったりくっ付いてるんじゃない。ホントは那智が片時も離れなかったんだ。蛍都のヤツはウザがっててさぁ、ふらふら1人で出歩くことを好んでたよ」

「…でも、なんかそれって那智らしいな。アイツってベタベタするの好きそうだし」

 『犬、犬』と言って俺をヌイグルミか何かと勘違いでもしてるみたいにして抱き締めてくる那智の、あの嬉しそうなニヤニヤ笑いを思い出したら自然と笑いが零れてしまって、そんな俺にベントレーは「はて?」とでも言いたそうに首を傾げながら、どうやら眉でも顰めているようだ。

「ベタベタ…とかはしなかったぜ?なんつーか、どこか1本、キッチリと線を引いてるような…そのくせ、お互い離れるわけにはいかないとでも思ってるみたいでさぁ。なんか、見てて肩が凝るような関係だったよ」

「…は?それで恋人同士なのか??」

「そりゃあ、まーな。1日と空けずに、飽きもせずにセックス三昧だったからさぁ。恋人、って呼ばずになんて呼ぶんだ?セフレ?つーか、そんな生易しい関係でもなさそうだったし」

「そ、そーか!そりゃあ、まあそーだな!」

 ベントレーの生々しい発言に、別に免疫がないワケでもないんだけど、なんとなくいつも傍にいた空気みたいにあやふやな存在だった那智が、唐突に生身の実体を持ってしまったような錯覚がして顔が真っ赤になってしまったんだ。
 あの年だ、そりゃあ、セックスぐらいはするだろうな。
 なに、動揺してるんだ俺は。
 きっと、那智のヤツがどこか禁欲的で、凡そ性欲とかないんじゃないかって思えるほど人間離れしてる雰囲気を持っていたから、高を括っちまってたんだろう。

「ズルイよなー。人殺しのが楽しい、みたいなツラしやがってッ」

 小声で毒づいたつもりだったのに、やっぱ耳の傍に顔があれば嫌でもベントレーに気付かれるか。
 いや、もちろん。
 狙ってたんだけどな。

「いや、正直に言えば那智はセックスよりも人殺しの方が達ける!…と豪語はしてたけどよ。蛍都は別なんだってさ。アイツは宝物なんだってよ。ワケ判んねーけどなー」

 聞きたかった台詞を聞いたワケなんだけど、嬉しくないオマケまで聞いてしまった気分だ。
 那智が宝物だと言って大事にしている蛍都…どんな美人なんだろう?
 或いはもしかしたら、アイツを柔らかく包み込む可愛らしい面立ちの少女なのかな…
 ちぇ!そんな可愛い恋人がいるんなら、俺なんか構わずに放っておいてくれてりゃよかったのに!
 ワケもなく腹立たしくてムッツリ黙り込んでしまった俺のことなんかお構いなしで、ベントレーのヤツはどうでも良さそうに肩を竦めたんだ。

「まあ、なんにせよ。蛍都はどうあれ、那智がアイツに夢中ってのは間違いないだろうな。心の底から惚れてるようにも見えるしさ」

「そっか。でも、よかった。那智にはちゃんと、寄り添えて理解してくれる恋人がいるんだから」

 あんな風に奇抜な嗜好の持ち主である那智を、確りと受け止めているひとがいる。
 その存在があるからきっと、今の那智がいるんだろう。
 人間なんてのはいつだって、心に拠り所がないと生きていけないんだ。
 そう言うものを全て見失ってしまった俺が言うのもおかしいんだけど、そうじゃないと、身体が虚ろになって生きているのか死んでいるのかさえ判らなくなってしまう。
 俺の空っぽな身体を抱き締めていた那智が可哀相で仕方なかったんだけど、ああ、でもよかった。
 あのどん底のような街角から図らずも救い上げてくれた那智には感謝してるし、有り難いとも思っていた。その那智が、孤独ばかりを抱えているワケじゃないと判ったんだ。それでいいじゃねーか。
 これで、なんて言ったらおこがましいんだけど、俺も安心してあの男を捜すことができる。

「…まあ、誰よりも理解はしてるだろうな。でもさぁ、よくぽちは平気でそんなことが言えるよな」

「え?」

 俺、何か悪いことを言ってしまったか??
 ベントレーの口調は明らかに不機嫌になっていた。
 何か不味いことでも口走ってしまったかと、ハラハラしていたらベントレーが悔しそうに言ったんだ。

「那智は蛍都しか見ていないんだぜ?なのに、那智の傍にいてお前、よく平気でそんなことが言えるよな」

 ああ…なんだ、そう言うことか。
 それでベントレーは怒っているんだな。
 こんな風に見えても、ベントレーにとっては那智も蛍都も大切な仲間なんだ。
 遠い昔に、確かに俺にもそんな仲間がいたのにな…いつから、こんな風に空虚になってしまったんだろう。

「俺も、判ってるんだ。ついさっきまでは蛍都の存在とか知らなかったからさ、なんとも思っちゃいなかったんだけど…那智の恋人は病院で苦しんでるってのに、俺が傍にいるのはおかしいよな?このまま那智の家に帰るのも気が引けるんだけど…」

 行く場所がないんだ…それは、単純な言い訳に過ぎない。
 何処だって行けるはずだ。
 俺はそうやって生きてきたんだ。
 那智に触れて…この奇妙な関係に甘ったれてるに過ぎない。
 でも、大丈夫だ。

「俺さ、那智に頼んでることがあるんだよ。ソイツが見付かったら、ちゃんと出て行くからそれまでは蛍都に目を瞑っていてもらいたいんだ。身勝手なのは承知だけどさ」

「…~って、ホント。ぽちってなんかワケの判んねーヤツだよな!あんなクソッタレで我が侭な那智なんかに振り回されやがって!!アイツはな、蛍都しか見てないんだぞ!?」

「…?うん、判ってるさ」

 どうしたって言うんだ、ベントレーは。
 薬でもやっていた名残りのギザギザの歯で迂闊にも歯軋りして、癇癪でも起こしそうな雰囲気で腹を立てているベントレーは、抱えている俺の腰に服の上からガブッと噛み付きやがったんだ!

「イテ!イテテッ!いてーよ、ベントレー!!」

「当たり前だ、わざと痛く噛んでるんだからな!!」

「な、どうしたって言うんだよ?!」

「…ちぇ!ぽちは忠犬なんだな。飼い主がよそ見してても、只管ジッと見詰め続けるんだろ?可愛がってくれるその指先だけを待ち侘びてよ。ゾッとしない話じゃねーか!」

 いまいち、ベントレーが何を言いたいのかよく判らない。
 そもそも、俺は犬じゃないんだが…と、那智ウィルスが蔓延してそうなベントレーに幾ら言い募ったところで、どうも堂々巡りにしかならないような気がして、俺は派手なクエスチョンマークを背後に背負ったままで黙り込むしかないように思えた。

「なんかもう、あったまきたな!飯でも喰うか!!行きつけがあるんだ。今夜はそこで我慢しろよ?」

「…う、うん」

 独りでいきなり腹を立てて、それから思い出したように消沈させてしまうベントレーの不気味な行動に、俺は息を呑みながら頷くしかなかった。
 とは言え、俺の腹の虫が盛大に食い物を求めた…ってのが、ベントレーの中の怒りに水をかけて、消火させてしまったのかもしれないけどな。

 四方を薄汚れた、嘗ては白かったのだろう灰色の壁に囲まれた些末な病室に、荒い息が響いていた。
 単調に響く電子の音は、その病室に横たわる者の生命の在り処を知らせているようでもあり、物悲しげに響いている。その音に被さるようにして、二匹の獣の交じり合う淫らな気配がしていた。

「ッ…うぁ…はぁはぁ…ッ」

 静まり返った病室には切なそうに求める声が響いて、荒々しい呼気を繰り返すその口唇に、その身体に、覆い被さるようにして抱き締める男が、うっとりと口付けた。

「…くぅん…っぁ!…あ、…な、那智!」

「蛍都…好きだよ」

「…死に…やがれッ」

 まるで無表情と取れるかもしれない冷めた双眸で、それでも熱く滾る蛍都の内壁を抉るように腰をグラインドさせて楽しむ那智に、蛍都と名前を囁かれた男はニヤリと嗤うと、その耳朶を噛み締めながら嘯いた。
 いや、殺してやろう…と。
 褐色の肌は浅黒く、引き締まったウェストには深い、ともすれば致命傷にもなりかねない傷痕が出鱈目に刻まれている。その膚を確かめるように那智の腕が辿ると、蛍都の男らしい釣り上がり気味の殺意を秘めた双眸がすっと細められて、空いている腕が緩慢な仕種で持ち上がると…

「ッ」

 那智の顔を歪めるほどには強い力でもって、蛍都はその脱色し過ぎて痛んでしまった黄褐色の髪を強引に引っ張ったのだ。
 そんな風に無体に扱われても那智は、まるで貼り付けたような笑みを口許に浮かべたままで、憎らしげに双眸を細めている蛍都に口付けた。
 額に薄っすらと浮かんだ汗も、那智のスレンダーな体躯も、全てが組み敷いている蛍都よりも華奢ではあったが、力強さは互角か、はたまた上回っているに違いない陵辱者を、ベッドのシーツを乱しながら古くからの相棒は唇の端を捲り上げて見詰めている。
 狭い病室に秘めやかな湿った音が響いて、もう何度もそうして那智を受け入れている後孔が淫猥にひくつくと、まるでゴムで出来た輪のように傍若無人に暴れる陰茎を締め上げた。滑る前立腺を亀頭でゴリゴリと擦り上げれば、その時になって漸く蛍都の口許から愉悦に濡れた声が漏れる。
 ねち…っと、カテーテルの埋まった陰茎を震わせながら腰を振る蛍都の根元を、やわやわと掴んだ那智が尿道を犯しているゴムの管を確認でもするかのように揉み込むと、犯されている男は唇の端から透明な唾液を零しながら頭を激しく振ったのだ。

「…ひぁッ!…あッ、…ふゥん…アッ…ッ」

「そんなに頭を振ったらさぁ…また気分、悪くなるし?」

 耳元に囁くようにして呟けば、忌々しそうに眉を顰めた蛍都がニヤッと嗤って、鼻先が触れ合いそうなほど顔を近づけている那智に乱暴なキスをした。

「ふん…ッ、…体調を崩せばッ!…辛いのはお前だ」

「…つれないね、蛍都。こんなに大好きなのにさー」

「なんとでも言え…ッ」

 柔なベッドが悲鳴を上げるようにスプリングを軋らせ、動くことを放棄してしまってから長い不自由な右足を抱え上げられたまま、蛍都は那智の腰に片足を絡めながら更に奥へ、もっともっと…とせがむように唆すように内壁を蠕動させる。その痛いほどの締め付けの合間に、たゆたうようにやわやわと絡み付いてくる滑る腸壁の感触に、那智は目許を染めて亀頭で蛍都の最も奥深い場所を抉るのだ。
 蛍都の熱く滾る前立腺を激しく擦りながら、殆ど抜けてしまいそうなほど腰を引くと、また粘膜をわざと押し開くような虫の這う速度で踏み入った。そうすると、奇妙な排泄感と圧倒的な圧迫感に翻弄されながら蛍都の熟れた内壁が蠢くようにして那智の陰茎に絡みつく。

「ふ…ぅア!…ん、…クゥッ…ぁ」

 くちゅくちゅと粘着質な音を響かせて、那智は先走りで滑る鈴口から力なく垂れたカテーテルのゴム管を抓むと、膀胱に納まっているはずのそれをずるりっと引き抜こうとして蛍都を喘がせた。
 狭い尿道にいっぱいに納まっているゴム管に、まるで嫉妬でもしているかのように那智は、カテーテルを乱暴に出し入れしながら蛍都の耳朶を甘く噛んだ。

「こんなところにこんなモノ咥え込んでさ。どんな気分なワケ?ムカツクんですけど。ここに、突っ込みたいぐらい」

「…ッ!…んな、こと…ッ…んぁ!」

 押し殺したように喘ぐ蛍都はだが、たった今那智に尿道を犯されているような錯覚に眩暈を感じ、出入りするカテーテルのゴム管を求めるようにして腰を振れば、図らずも締まった尻で那智の陰茎を頬張る結果になってしまう。その快楽に漸くうっとりと笑う那智の顔を睨みつけながら蛍都は、そのくせ恍惚とした双眸で誘うようにペロリと唇を舐めた。

「オレのセーエキ飲んでよ、蛍都」

 いつも飲ませているくせに…蛍都はうんざりしたように、誘うように双眸を細めたが、毎回ゴムも着けずに胎内の奥深い場所に砲弾を撃ち込む那智の我が侭に、それでもそれでしか達けなくなってしまった自分を自嘲とも悦楽とも言えない顔で笑いながら、那智を咥え込んでいる襞を押し開くように指先で広げてニヤッと笑った。

「ここは病院だ。思うさま吐き出すといい」

「ゾクゾクするね。大好きだぜー、蛍都」

「ふん」

 ニヤッと笑う那智に唆すような双眸を向ける蛍都は気付かなかった。
 突発的にカテーテルと同時に、胎内の奥深いところに納まっていた陰茎までずるりと引き抜かれて、蛍都がギョッとするよりも早く蛍都の陰茎の先端に那智の鈴口が押し当てられる。

「何を…?」

「飲んでくれるって言ったじゃん」

 那智がご機嫌そうに笑うと、一抹の嫌な予感を抱きながらも蛍都は、まだ那智を咥え込んでいると勘違いでもしているように収斂を繰り返す後孔から先走りをとろり…っと零しながら、両足を大きく割り開いてクスクスと笑って自ら陰茎を支えたのだ。

「いっぱい挿れろよ?」

「蛍都、大好き」

 思わず語尾にハートマークでも飛ばしそうなほどご機嫌に笑いながら那智は、そんな蛍都を片手で抱き締めながら口付けた。

「…んぁ!…ひ…痛ゥ…クッ!」

「…ッ」

 二、三度軽く扱いただけで、蛍都の胎内で悦楽に濡れていた陰茎は大きく膨らむと、その狭い尿管にゴプッと粘着質な音を響かせて白濁の奔流を叩き込んだ。尿道をジリッと焼くような錯覚がして、蛍都は本来なら排泄すべき場所に大量の精液を受け入れてしまい、なんとも言えない疼痛と快楽に口許から唾液をボタボタと零してしまう。
 完結はしていなくとも、どうやら蛍都も達ってしまったようだ。
 後孔が淫猥にひくついて、もうどちらのものとも言えない精液が陰茎の先端からプクリと浮き上がり、そして力なくぼたぼたと蛍都の浅黒い膚を汚していった。

「ぅ…あ、はぁはぁ…」

 ぐったりと弛緩してしまってベッドに倒れ込む蛍都の腕を掴んだ那智は、ガクンッと身体を揺らして見上げてくる色素の薄い双眸を覗き込んだ。
 全裸の蛍都は情事の名残りを艶やかに身に纏っていて、こんなところを彼の主治医が見れば目をむいて怒るか…さもなくば、その色香に惑って彼を犯してしまうだろうと考えて、その有り得ない妄想に那智はクスッと笑ってしまう。
 自分以外の誰かがこの引き締まった男らしい体躯に、性的な意味で触れれば、いやそれ以外でも、この男の身体に触れればその息の根すら止まってしまうだろう。
 浅羽那智が宝物のように大事にしている蛍都は、幾つもの戦場を駆け抜けた鍛え抜かれた褐色の体躯を持つ、色素の薄い髪と双眸の凶悪な殺気を纏った男らしい死神なのだ。けして、男に抱かれて喘ぐような存在ではない。
 その蛍都を、地獄に叩き落したのは…

(オレ)

 那智が貼り付けたような笑みを浮かべた。
 その顔を、蛍都が何よりも嫌っているのを、知らない那智ではない。

「貴様はまたその顔をしやがるんだな。いったい何処で覚えた?」

「忘れた」

「ふん、まあいい」

 まるで何かを見抜こうとでもするかのように双眸を細めた蛍都はだが、掴んでいる那智の腕を厭うように振り払ってベッドに腰掛けると脱ぎ散らかした患者用のガウンを羽織った。

「今日は端から機嫌がよさそうじゃねーか。いったい何があったんだ?」

「はーん?オレ、機嫌がよさそう??」

 自分でも気付いていないのか、身支度を整えた那智は訝しそうに眉を寄せて顎を擦っているが、口許はニヤニヤと笑っている。
 その仕種で、長年の付き合いである蛍都は那智の機嫌のよさを悟っていたが、本人は自分のことをいまいち把握はしていないのだろう。

「それはやっぱり、今日が月曜日だからさぁ」

 ニコッと笑う那智に、蛍都は呆れたような、馬鹿にしたような目付きをして溜め息を吐いた。

「くだらん」

「蛍都に逢えるのは月曜だけだし?蛍都がいるだけでいいワケよ」

「…くだらんな」

 那智の愛の告白をうんざりしたように蛍都は眉根を寄せて吐き捨てた。
 この世から蛍都が消えてしまったら、恐らく那智の存在もなくなってしまうだろう。そう思っているのは那智だけなのか、この狭い病室で曇天の空から降り頻る雨に濡れた灰色の町を見詰める蛍都にとって、その言葉はくだらない足枷であり、捨ててしまいたい重荷だった。
 何度身体を重ねたとしても、それはあくまで性的欲求を満たすための運動であり、それ以外の何ものでもないのだ。

「来週末には退院できるそうだ」

 これ以上、不毛な会話をしていたくない蛍都がどうでも良さそうに呟くと、那智は一瞬ポカンッとしたが、ハッとしたようにして嬉しそうに笑ったのだ。

「マジで?鉄虎たちに報せないとなぁ」

「ヤツらはまだくたばっていないのか?」

「下弦も元気そうだぜぇ?」

 ニヤッと笑って頷く那智に、蛍都は気のない返事をして、それから徐に色素の薄い仄暗い殺気を纏った視線を、目の前に立っている漆黒のコートに身を包んだ暗黒のネゴシエーターに向けた。

「どうでもいいが、那智。臭ぇぞ。何か匂うな。プンプンする」

「え?」

 ギクッとしたように片方の眉をクイッと上げる那智に、蛍都は探るように双眸を細めてみせる。
 人殺しをした…と言っても鋭い蛍都のことだ、だからなんだと言い返されてしまうだろう。
 だが…言わないといけない。
 蛍都が嫌っていると知っていたんだけど。
 那智がほんの一瞬、しょんぼりと目線を落としたことに気付かない蛍都ではない。

「言え」

 顎をクイッと上げて促す愛しい人に、那智は貼り付けたような笑みを浮かべたままで肩を竦めて見せた。

「犬を…飼ったワケ」

「犬だと?お前はまたそんなくだらないことをしているのか。言わなかったか?俺は犬は嫌いだ」

「…判ってるけど」

「俺が戻るまでに捨てておけよ」

 日頃なら蛍都の言葉は即ち絶対で、即座に返事が返ってくると思っていた蛍都はだが、困惑したように笑ったままで固まっている那智に気付いて眉間に皺を寄せた。
 それでなくても長いこと病院に縛り付けられていたのだ、虫の居所はとっくの昔に悪かった。

「俺の機嫌をこれ以上悪くさせる気か?なんなら、その犬は俺が殺してやる。さもなければ、お前の場所に俺が戻らないと言うだけだ」

「それは!…嫌だよ、蛍都」

 ソッと目線を伏せる那智に、それまでの気迫が消え失せていた。
 蛍都だけがこの世界の全て。
 蛍都だけを守らないと。
 蛍都がいなくなってしまえば。
 こんな腐敗した世界などもういらない…
 それは昔からの那智の想いだった。
 それは揺るがないはずの不変の気持ちだった。
 なのに…なぜ?

「判ったか?那智」

「蛍都…でも、犬は弱いし?こんなクソみてーな町に放り出したら死んでしまう」

「知ったことか。その犬と俺、選ぶ権利をくれてやるんだ。さっさと答えろ」

 揺るがない自信に満ち溢れた蛍都の色素の薄い双眸を、弾かれたように見詰める那智の瞳にはいつものふざけた光は微塵も浮かんでいない。
 ああ、でもそうか。
 那智はふと考えた。
 長年連れ添った大事な相棒であり愛しい人と、つい最近、気紛れで拾ったぽちを比べるほうがどうかしている。
 ただ単に、漸く懐いてきたあの犬を、手離してしまうのが惜しいような気がしていたに過ぎないんだろう。

「判ったよ、蛍都。蛍都と比べられるワケないし?ぽちは捨てる」

「…当たり前だ。馬鹿馬鹿しい」

 嫌気がさしたように瞼を閉じた蛍都は、枕代わりにしている大きなクッションに疲れたように凭れてしまった。
 遠い昔の思い出が、那智を素直にさせたのだろう。
 蛍都はふと思った。
 『あの場所』で、那智が拾って可愛がっていたずぶ濡れの野良犬を、気に喰わないから捨てろと言ったのに那智は捨てなかった。その反抗的な態度にカッと頭に血が昇った蛍都は、無言のままでその犬を血祭りに揚げていた。
 仕事から戻ってきた那智は、降り頻る雨の中で呆然と立ち尽くして、口の端から長い舌をだらりと垂らして息絶えている犬を見下ろしていた。泣くことも笑うこともしなかった当時の那智は、何の感情もなさそうに血塗れで死んでいた犬の身体を抱き上げて、暫くそうして雨に濡れていた。

「お前が犬を飼うだと?命を奪うことを何よりの糧にしているお前が?…笑わせるな」

「…判ってるさぁ。ただ、懐いたら可愛いし?蛍都も今度、何か飼ってみれば?」

「お前を飼っているから俺はよかろうよ。それよりも、そろそろ殺したくてウズウズしてるんだぜ?」

 瞼を開いて何事かを企むようにニヤッ…と、腹の底から冷えるような笑みを浮かべる蛍都の、その昔どおりの凄味に鳩尾の辺りをゾワゾワさせながら、那智はワクワクしたようにニヤ~ッと笑った。
 大好きな蛍都との殺戮の日々が戻ってくるのだ。
 どれほど長いこと待ち望んでいたか…その時を夢見るようにニヤニヤと笑う那智の、その胸の奥が微かに痛んだことを、蛍都はもちろん、那智ですら気づかないでいた。

 堕ちていく、錯覚に。
 溺れてしまう…過去に。
 救いを捜し求めて伸ばした指先に。
 無常に触れる、恋しいあなた。

8.こころ  -Crimson Hearts-

 ぽちに別れを告げてから、那智が今にも倒壊する恐れもあるんじゃないかと思わせる、そのボロいビルの二階から砂利だらけのアスファルトに着地したときには、既に取引相手であるSRSの連中は路地に立っていた。
 派手な真っ赤なコートに身を包んだ三人組は、ともすればヘビのように纏わりつく、嫌な目付きをした連中だなぁとぽちは窓枠に手をかけて、眼下の路地を見下ろしながら思っている。

「那智くん、相変わらず美しいねぇ」

 今にも抱き付きそうな勢いで、SRSの先頭に立つ男、恐らくリーダーなのだろうが、彼はコートの裾を翻して立ち上がったなんとも面倒臭そうにニヤニヤ笑いながらぼんやりしている那智に、その黒革の手袋を嵌めた両手を差し出した。が、もちろん、そんなことを気にするような男ではないのが、那智の那智たる所以なのだが。

「鉄虎ぁ、今日の品物ってなに?」

「あ?あー…食料と武器だ」

「はーん…SRSつったら、武器しか能がねーもんなぁ」

 面倒臭そうにまるきり無視した那智が首を左右に振ると、鉄虎がクククッと人の悪い笑みを浮かべ、ベントレーが呆れたように肩を竦めている。
 そんな彼らの態度を別段、気にもとめていないのか、或いは慣れているのか、どちらにしろSRSのリーダー格らしき男は伸ばしていた腕を仕方なく腰に当てると、舐めるような目付きで繁々と久し振りに会う愛しい人を舌なめずりでもしてるんじゃないかと言う勢いで見詰めている。

「今日は那智くんの為に、私が特別にプレゼントを用意したのだよ。ゼヒとも、受け取って貰い…」

 流れるような、腰までもある茶髪を無造作に後ろで束ねている男の、その台詞が終わりもしないと言うのに、那智はぼんやり笑いながらベントレーに言ったのだ。

「借りるぜ?」

「は?」

 ベントレーが首を傾げるよりも早く、ツンツンに立てた髪をヴィヴィッドなオレンジに染めた青年の、その腰に隠されたホルダーから45口径を2丁、素早く引き抜いた那智は電光石火で笑いながら発砲していた。
 それは或いは向かいのビルに、もう一方はまるで見当外れな倒壊寸前のような3つ先のビルに向けて…
 那智はまた驚くことに、そのどの標的にも視線を向けてはいなかった。
 野生の生き物が本能で動いたような、そんな錯覚すらも起こしそうになる一瞬の出来事だった。

「ベントレー、またカスタマイズした?2ミリずれる。うざー」

 声すらも上げる暇などなかったに違いない銃器を携えた男達は、まるで無口にビルからどさりと重い音を立てて落ちてしまった。

「ああ!?また勝手に人の銃を使いやがって!!俺専用なんだからいいの!」

 そんなことを言いながら引っ手繰ろうともせずに額に手を当てるベントレーの腰のホルダーに、那智はキチンと2丁の45口径を戻してやった。

「2ミリもずれると眉間を狙えないし?ま、ベントレさまの腕じゃそれでいーのか」

「…そりゃ、どう言う意味だよ?ああ??」

 シレッとしてニヤニヤ笑う那智を振り返ったベントレーの額に血管が盛り上がっていて、どんな理不尽なことでも仕方なさそうな顔をして受け入れているこのオレンジのツンツンヘアの男には、それほどまでに愛用しているカスタマイズ済みの45口径が大事なのだろうと、ぽちは一部始終を呆気に取られたように見ながら思っていた。

「さすが!…いや、全くお見事。それでこそ私の那智くんだ」

 パンパンパンッと、やたら気障ったらしく手を叩いて喜ばしそうにフッと笑う赤コートの長髪野郎に、ニヤニヤ笑いながら呆れているらしい那智は肩を竦めると、今更気付いたとでも言うように眉をヒョイッと上げたのだ。

「ああ!クルーガー。あれ?お前、SRSにいたっけなぁ??」

「…私はSRSのネゴシエーターどもを総括しているリーダーだ」

 あからさまに馬鹿にしたように聞こえる口調も標準装備の那智だと知っているのか、それでも声音は先程よりもワントーン低くなったような気がする。

「おお、そうか!私としたことがしまった。今回のプレゼントが気に喰わなかったのだね、マイスウィート!」

 大袈裟に額に片手を当てながら胸元を押さえるクルーガーに、ぽちはどんな人種なんだろうアイツはと思いながら、そのとき那智が、いったいどんな顔をしているのか見てやろうと目線を移した。
 呆れたようなうんざりしたようなベントレーの傍らで、何が面白いのか鉄虎がニタニタと笑い、その前で漆黒のコートの腰を両手で掴んで面倒臭そうに突っ立っている那智は何やら企んでいるのか、ニヤニヤニヤニヤ、ある意味何か恐ろしいものを感じてしまう笑みを浮かべている。
 そんな那智に気付いているのかいないのか、それとも那智の心情は即ち自分へと一心に傾けられているとでも思っているのか、大きな勘違い野郎さまは困ったように眉を寄せながら嬉しそうに笑ったのだ。

「この次の取引のときは美味しそうな若者を用意するよ。あのようなところに隠れていたとは…おおかた、ドラッグでもやっていたんだろうね。申し訳ない」

「なー、鉄虎ぁ」

「なんだ?」

「オレはコレも飼ってみたいんだがなぁ…ククク」

「やめとけ」

 同じく内心で「やめとけ」と言ってしまったぽちは、呆れたように自分を見上げているベントレーと目が合ってしまった。その目付きは、那智ってのはこんなヤツなんだが、ちゃんとついて来れてるか?と言いたそうに見える。ぽちは、なぜかそんな風に溜め息を吐きながらも仕方なさそうに那智たちに付き合っているこのベントレーと言う男を、仲間たちが噂していたほど冷酷なヤツではないように思っていた。
 大丈夫だとジェスチャアで示すと、ヤレヤレと言いたそうにベントレーは肩を竦めて首を振っている。

「いや、那智くん!この際だ、どうだね?古めかしい戒律のあるタオなど抜けて、私の許へ来ないかね?君ならば喜んで歓迎するよ。もちろん、ベッドの中まで一緒だ」

「ベッド?」

 ふと、那智が口許に笑みを貼り付けたままで首を傾げると、何かまたしても勘違いしたのか、クルーガーはパッと表情を綻ばせて、またしても嬉しそうに両腕を差し出すのだ。

「モチロンだとも、那智くん!朝も昼も夜も、私は君を離さないだろう。マイハニィ!さあ、私の腕の中へ!!」

 目許の泣き黒子が色気のある、冷たい美貌のクルーガーは、そんな吐きそうな台詞さえ言わなければ一流のネゴシエーターだと良く判る。使用する武器は恐らく、ベントレーと同じで、いや或いは、そのコートの中にえぐい兇器をわっさり抱えているんじゃないかとさえ思えてしまう、胡散臭さだ。
 仲間のSRSの連中すらも蒼褪めて、暴走する自分たちのリーダーに「おいおい」と言っているような有様だ。

「ベッドねぇ…あのさぁ」

 ふと、那智がニヤニヤしながらクルーガーを見詰めた。
 まるで愛の告白でも待っている乙女のように、長髪を優雅に揺らして頬を染める期待に満ち溢れるクルーガーが、そんな那智を熱っぽい眼差しで見つめ返した。
 そんなSRSのリーダーの前でスッと腕を持ち上げた那智は、吃驚するぽちを指差してニッコリ笑ったのだ。

「あそこにぽちを待たせてんだよなぁ。オレ、さっさと帰りたいし?早く荷物を見せろ」

「ぽち…?なんだね、それは」

 ふと、眉間に皺を寄せてギロリと見上げてきたクルーガーに、ぽちは一瞬息を呑んでしまった。
 まるで、そうだまるで、蛇に睨まれた蛙のように身動きすら出来ない威圧感は…彼が、間違えることなく勢力を誇るSRSの、荒くれどもを統括しているボスなのだと言うことを物語っている。
 全身から吹き零れる殺気は舐めるように路地に蟠るが、那智も鉄虎も、ましてやベントレーですらどうでも良さそうな顔をしている。いったい、タオのネゴシエーターはどれだけ凄いんだ!?と、ぽちが思ったかどうかは定かではない。

「首輪をしているようだが…?」

 ムッとするクルーガーに、とうとう噴出してしまった鉄虎が目尻に浮く涙を親指の先で拭いながら肩を竦めると、クックックと笑ってその疑問に応えたのだ。

「お前さんの那智様がお拾いなすった捨て犬さぁ。ぽちっつってなぁ、ええ?そりゃあ、可愛いもんだぜぇ。あれで耳と尻尾がないってのは下手な冗談より性質が悪ぃよなぁ」

「バカだな、鉄虎。あれだからいいんだ。なまじ尻尾があると振って欲しくなっちまうだろぉ?」

 ムッとしたように眉根を寄せてニヤニヤ笑っている那智のと、そのなんとも言えない壮絶な顔付きも意に介さない鉄虎の会話を聞いていたクルーガーは、途端に不機嫌そうなオーラを垂れ流しにして腕を組むと、けして逸らさない双眸に更なる憤りを込めてぽちを睨み据えている。
 その目付きに、もともとただのコソ泥だったぽちに好奇心以外に睨み返すなどと言う度胸があるはずもなく、思わず腰を抜かして失禁でもするところだった。
 それだけの殺意が込められた目付きだったのだ。

「ぽちをさぁ、睨んでじゃねーぞ!この変態クルーガーがよぉ。おめーは那智にだけ血迷っとけばいいんだよ!」

 指を気障ったらしくパチンッと鳴らして、苛立たしそうなリーダーの合図で二人掛かりで持ってきた木箱を思い切り蹴り上げたベントレーが忌々しそうに言うと、那智に血迷っているからこそ不機嫌なクルーガーが殊更嫌そうな顔をして腕を組んだ。

「ベントレーくんは短気が欠点だね」

「うるせーよ!お前に言われたかないね」

「いやぁ?ベントレーはお人好しがいまいちっつーだけだなぁ」

「そうじゃない。ベントレーはぽちに優しいだけさ」

 憎々しげに吐き捨てるクルーガーに牙をむくベントレーの背後で、鉄虎がニヤニヤしながら言うと、那智がオレには冷たいんだぜーとニタァ~ッと笑っている。いったいお前たちは誰の味方なんだとぽちが真剣に悩み出したときには、漸く彼らはネゴシエーターとしての仕事を始めたようだった。

 散々易く叩かれたものの、思う以上の収穫があったのか、SRSのネゴシエーターたちは顔を見合わせると納得して取引を成立させた。その立ち去り際に、抱き締めたそうに名残惜しげにいつまでもうだうだと未練がましく居残っていたクルーガーは、だが、そんな彼をサッサと残した那智がまたしても砂利だらけのアスファルトを蹴って廃ビルにぽちを迎えに行ってしまうと、仕方なさそうに、そして地獄の底から恨めしいと思っているような目付きをして戻って行った。

「クルーガーって言ったっけ?すげーな、俺初めてSRSのネゴシエーターを見たよ」

 身軽な仕種でトンッと窓枠に乗った那智を見上げながら興奮の冷め遣らぬぽちが言うと、那智は何がそれほどぽちの好奇心を満たしているのか判らず、結局どうでも良さそうに肩を竦めてビルの床に降り立った。

「クルーガーに会えて嬉しいワケ?ふーん」

「いや、嬉しいとかそう言うんじゃなくってさ。まだ、グループにいた時、仲間は見たことがあったんだけど俺はてんでダメで、きっと死ぬまでネゴシエーターとは会わないんだろうと思ってたからさ」

「…オレも、ネゴシエーターだけど?」

「ああ、知ってるよ。この町でタオのネゴシエーターの浅羽那智って言ったら、神様と一緒だ」

「神さま?はーん…随分と安っぽい神なんだなぁ」

 那智があの、瞼を閉じる独特の笑みを浮かべたままで肩を竦めてみせた。
 那智にしてみたら、どうして自分がそんな馬鹿げたものに奉られなければいけないのかとでも思っているのだろう、肩を竦めて直接床に腰を下ろしているぽちの傍らにしゃがみ込んだ。

「なに言ってんだよ!那智は強いんだ。俺みたいな底辺を這いつくばって生きいる連中にしてみたら、こうして話してるのだって奇跡じゃないかと思っちまうぐらいなんだぜ」

「…そのワリにはさぁ、最初の頃は思いきり威嚇してたし?何言ってんだか全然判んねーよ」

「し、信じられなかったんだ。あの那智が俺なんかを拾うなんて…つーか、こんな性格とか全然知らなかったしな」

 ブツブツ言うぽちの顔をニヤニヤ笑いながら覗き込んでいる那智に、ぽちは嫌な予感を感じながら眉を寄せて、そんな最強のネゴシエーターを見返した。と言うか、睨み返した。
 なぜか、あれほどクルーガーには恐怖心しか感じなかったと言うのに、那智にはそんな気持ちがこれっぽっちも沸き起こらない。それはきっと、那智が本気の怒りだとか、殺意と言うものを匂わせないからなどと言うことに気付けるほど、ぽちはまだ人生経験が足りてはいない。

「どう言う性格?…ぽちは面白いことばかり言うなぁ」

「面白いのは那智の方だ」

「あ?そうかぁ??」

 ニタァッと笑って擦り寄るようにして近付いてくる那智に、なにやら只ならぬ気配を感じて、ぽちがちょっと後退さった。が、その腕はすぐに掴まれて、ぽちは気付けば那智に抱き締められていた。

「なな、なにすんだ!?」

「本当は喜んでるくせに。犬はこんな風にヨシヨシと構ってもらうと嬉しいんだろ?」

「そりゃ、犬だったらだろ!俺は犬じゃないし…だいたい那智は俺のこと犬とか言いやがるけどなぁ」

「ぽちは犬だし?なに言ってっかわかんね」

 この可愛い犬はどうしてしまったんだろう?どうしてご主人様が可愛がっているのに威嚇してるんだろう…と、那智の張り付けたような笑みの表情からでは読み取れないものの、どうやら困惑していることは確かなようだった。
 そもそも、だがぽちは最初から那智は少し変わっていると思っていた。だから少々珍奇な台詞を言ったとしても、それが那智のモチベーションなら仕方ないのかもしれない、とまで思っていたのだ。だが、どうして那智は自分のことを『犬』だと言ってきかないのか判らない。
 尋ねたところでこの男は、ニヤニヤ笑いながら「犬は犬でしょ?」と言うだけだ。
 那智は満足そうに膝の上に抱え上げた大型犬もどきのぽちの頭をヨシヨシと撫でながら、ちょっと嬉しそうな顔をしている。
 そこでふと、ぽちは思うのだ。
 もしかして那智と言うこの、泣く子も黙るタオ最強のネゴシエーターは、人一倍の寂しがり屋なのかもしれないと。そんな恐ろしい妄想を青褪めながら考えてしまう自分は、いったい何を考えてるんだと危うげな思考を振り払おうと首を微かに振ってしまった。
 それでも。
 ぽちは思う。
 仕事が終わると確かに一直線に家を目指して帰ってきていたこのニヤニヤ笑いの男は、窓辺から見下ろしているぽちの姿を認めると、一瞬、本当に僅か一瞬にすぎないのだが、ホッとした顔をしてニヤァッと笑うのだ。
 那智にとってぽちはただの犬なのかもしれない。
 多くの人間を生きる為に殺している那智にしてみたら、犬と言う傀儡に隠された人間であるぽちを傍に置くことで、長く不在している心の拠り所を見つけたつもりになって自分を慰めてるのかもしれないなぁ…と、そんなことを思っていたぽちは、それから唐突に自分は何を考えているんだろうと激しく照れてしまった。
 ぽちは溜め息を吐いて、それから大人しく那智の血臭の漂う胸元に頬を寄せた。
 つい先ほど、喰らうために殺した人間から溢れ出た夥しい血液の生臭い匂いは、まるで死神のように那智に付き纏っている。
 帰ってきてからすぐに浴室に直行する那智の心は、思うほど冷たいわけではないのか…付き纏う血臭を一番毛嫌っているのは、ともすれば那智だったのかもしれない。
 ぽちは、人間に抱き締められることが何よりも、嫌だった。
 できればソッと、突き放してくれる方が楽なのに、と思っていたのだ。
 なぜならそれは、ぽちは人間が嫌いだったからだ。
 半ば、犯されるようにして関係を結んだ娘は、彼を利用して、そして彼から最愛の養父母を奪って行った。それから孤独になった彼は、薄汚い路地裏を徘徊しながら、それこそ残飯でもなんでも漁って、明日のために必死で足掻きながら生きていた。そうまでして、この荒んで見捨てられた世界にしがみ付いていたのは、彼には養父母が遺した幼い妹がいたからだ。
 妹のために、まともな食事は全て彼女に食べさせて、自分は落ちたものでも誰かが投げ捨てた食べ残しでも、それこそなんでも口にして空腹を満たしながら、ケチな盗みを繰り返して夜に怯えながら妹と肩を寄せ合って生きていた。
 それが、このクソッたれな世界で唯一遺された幸福なのだと、彼は信じて疑っていなかった。それは妹も同じだったのか、瑣末なねぐらで極力目立たないように熾した小さな炎で暖を取りながら、彼の妹は幸せそうに笑っていたから…
 だが…彼の目の前から、驚くほど呆気無く、その幸福は掻き消えてしまった。
 彼は、那智に会うまで属していた強盗集団の頭領に、手酷く犯されたのだ。何が気に食わなかったのか、或いは理由もなく目障りなだけだったのか…いずれにせよ、彼は3日3晩犯され続け、それからほぼ監禁状態で長いこと拘束されていた。
 妹が、お願いだから妹がいるから…帰してくれと泣く彼の前で、強盗集団の頭領はゲラゲラ笑いながら言ったのだ。
 お前の妹は餓死した、と。
 どれほど、あの小さな妹は恐怖に怯えながら空腹に苦しんだんだろう。
 可哀相な妹は、ひもじさを凌ぐために枯れかけた草を食い、落ちている砂利を口にしていたと言う。 
 なぜ、そこまで知っていながら助けてくれなかったんだと出鱈目に暴れて叫んでも、あの男は馬鹿にしたように。

「人間が死ぬところを見たかったからだ」

 と、酒に酔ったまま笑いながらそう言った。
 彼は嘆き悲しんで、ああそうかと、その時になって漸く気付いたのだ。
 自分が嬲り者にされて監禁されたのは、たった1人の小さな妹を死の淵に追いやる為だったのだと。
 自分さえいなかったら…養父母が死ぬことも、妹が死ぬこともなかったに違いないのに。
 彼は一方的に叩きつけられた残酷な仕打ちによって、たったひとつの大切な幸福を奪われ、心まで亡くしてしまったのだ。
 それから彼は、もうずっと、毎日死ぬことばかり考えるようになっていた。
 だが、できることなら、必ずや妹の仇は討ってやらねばと思い、妹が死んでからまるでもう興味がないとでも言うように打ち捨てられた彼は、奥歯を噛み締めてこの腐敗した世界でもう一度死ぬ為に必死で生き続けたのだ。
 だが、妹の時と同じように、強盗集団の頭領も呆気無く死んでしまった。
 その現場を、頭領を付け狙っていた彼は偶然見てしまったのだ。
 ヴィヴィッドなオレンジのパーカーを着た、目深にフードを被った男がブラブラと裏路地を歩いていた。
 強盗の頭領はソイツを獲物にして、今夜の酒代とでも思ったのだろう。
 だが男は、フードの奥に隠れた酷薄そうな薄い唇をニヤッと歪めて、集団で襲いかかる連中を悉く殺してしまった。その素早さは驚くべきもので、手にした特徴的な銃身の長い銃を器用に操りながら、応戦する連中のひとりひとりを、まるでちょっとした体操のように残酷に殺していった。
 ある者は、驚くほど呆気無く、その身体に挿し込まれた腕で心臓をもぎ取られ、ある者は軽く首を圧し折られ…頭領は四肢の自由を奪われると、一番最後に跪いた格好のまま、怯える眼窩に指を捻じ込んだパーカーの男が、断末魔のような悲鳴を上げる頭領の目玉をずるり…っと、眼窩から引き摺りだすと視神経が切れずに血液と一緒に引っ張り出され、ぶつりと千切れた。
 連中を殺しながら笑っているのだろう男を、彼は驚きと、そして恐怖に震えながら見詰めたものだ。
 命辛々逃げ出した彼は、走りながらそれでも笑っている自分に気付いて、とうとう狂ってしまったのかと、どこかでホッと安堵していた。
 翌日、それなりにダウンタウンで名を馳せていた強盗集団の頭領の凄惨な殺害現場の噂は、噂話にすら事欠くような腐敗した町には瞬く間に広がったと言うのに、誰一人として、頭領を殺した人物を知る者はなかった。
 そう、彼ひとりを除いては。
 高い酒代を払ってしまった頭領の死は、少なくとも狂うこともできなかった彼から復讐と言う言葉を奪い、生き残ると言う気力さえ奪い去ってしまったようだった。
 まるで心を亡くした人形のようになってしまった彼を拾ったのが、あの強盗集団を引き継いだ今の頭領だった。ケチなコソ泥をしながら、それでも彼がもう少し生きているのは、あの時頭領を惨殺した男に、できればもう一度会ってみたいと思ったからだ。
 なぜか、よくは判らなかったが、殺人を楽しんでいるような男に、嬲り殺して欲しいと思ったのかもしれない。
 そうでもしないと、生きてここに立っているこの罪深い自分は、恐らくこのまま死んだとしても養父母と妹たちに合わせる顔がないのだ。
 そう思い込んで生きていた、そんな矢先に那智に出会ったのだ。
 自分を抱き締めるこの腕のぬくもりに慣れてしまったら、退き返せないような奇妙な予感がして、ぽちは恐ろしくなっていた。

 そうだ、自分はあの男を捜さなければ。

 もう、7年も前に出会った6人を相手しても怯むこともなかったあの男は、那智までとはいかなくても、それなりに強そうだった。
 恐らくどこかで、或いはネゴシエーターでもしているかもしれない。
 あの当時、ちょうど今の那智ぐらいの年齢だったから、あれから7年ほど老けたとしても、今でも立派に人殺しはしているだろう。

「そうだ、那智」

「んー?大人しくなったなぁ、やっぱ気持ちいいワケ?」

 気付けば延々と頭を撫でてニヤニヤ笑いながら抱き締めていた那智に、ハッとしたぽちは顔を上げると、そのニヤニヤ笑っている顔を覗き込んでいた。
 首を傾げながらも頭を撫でる手は止めないから、どうやら本気で、那智はぽちを誉めていたようだ。
 どうして、あんなに『男』に触れられることに怯えていた自分が、この男の腕は振り払わないんだろう?どうして…グルグル脳内を巡る理不尽な思考を振り払うように、勤めて平静を装ったぽちは『タオ』に属している那智なら、或いはあの男の素性を知っているかもしれないと訊ねることにしたのだ。

「アンタに聞きたいことがあるんだ」

「あーん?嘘吐くかもしれないけど、聞くぐらいならいくらでも」

 ニヤニヤと笑う那智にぽちが思わずムッとすると、最強であるはずのネゴシエーターはニヤァッと笑いながら色気も何もない黒髪に頬を寄せて笑っている。

「7年前に…ある強盗集団のボスが殺されたんだけど、知ってるか?」

 ニヤニヤ笑いながら真正面を見据える那智に気付かないぽちは、たぶんきっと、この町では殺人など日常茶飯事で、常にどこかで小競り合いが発展した殴り合いの喧嘩が頻繁に起こっているのだから、毎夜殺人を繰り返す那智が知っていても覚えているはずがないと覚悟は決めている。
 だが那智は、その頭脳をフル回転させて思い出そうとしていた。
 悲しいかな、あまりに他人に興味がないせいか、彼は昨日の仕事内容すらケロッと忘れてしまうのだ。

「ん~…思い出せないなぁ」

「ヤッパリか…じゃ、じゃあさ、那智ほどには強くないとは思うんだけど。オレンジのパーカー…いや、もう着てないかもしれないけど、特徴のある、銃身の長い銃を持った、強い男を知らないか?」

「オレンジのパーカー?銃身の長い…銃?それから強い男…ねぇ」

「タオにいないか?そんなヤツ。強かったから、たぶんネゴシエーターになってると思うんだけどな」

「ふーん…見つけ出してどーするワケ?知り合いなのかぁ??」

 然して興味もなさそうに呟く那智に、ぽちは一瞬息を飲んで、それから諦めたように溜め息を吐いた。
 那智のぬくもりに慣れてしまっていた事実を見せ付けられたような気がして、ソッと瞼を閉じながら決意していたはずの想いを思い出したのだ。
 こんな世界で生き続けるには、あまりにも悲しいことばかり起こってしまって、その疲れた心にこの不可思議な生き物である那智は、ある意味想像以上にぽちを癒していたのかもしれない。
 その事実が、ぽちに反抗心を芽生えさせてしまう。
 照れ隠しが、萎えた心を奮い起こさせるには十分だった。

「殺してもらうんだ」

「…は?誰に?その男を殺せばいいのかぁ??」

「違うよ!俺を…俺を殺してもらうんだ!」

「…」

 那智は黙り込んで、それから不安になったぽちが顔を上げようとすると、ニタァ~ッと笑っているネゴシエーターに頭をその胸元にを押さえつけられてしまった。

「なな、なにす…ッ」

「その男をさァ、見つけ出してたワケ?7年前から追いかけてるのかぁ。誰かの仇とか?」

「…いや、恩人なんだ」

「へー」

 尻上がりの口笛を吹いた那智にしてみたら、恩人などと言う言葉は彼の辞書の中にはないのか、よく判らないなぁとでも言いたそうに首を傾げている。その瞬間には、彼の脳内から彼を迎え入れたはずの『下弦』に対する恩義などはこれっぽっちも残ってはなかった。
 そんな那智に、ぽちはふと苦笑した。

「おかしいよな?こんなクソッたれな町で、恩人もクソもないとは思うんだけど…俺にとってアイツだけは、殺しても殺したりないぐらい憎んでる男だったから。アイツを、あのパーカーの男がまるであっさり殺してくれたとき、この手でなかったことは口惜しかったけど、それでも仇は討てたと嬉しかった。俺は弱いから」

「…」

 無言で聞いている那智は、何かを考えているかのように顎を少し上げてぽちの黒髪を見下ろしている。何を考えているのか読み取らせないその貼り付けたような微笑の下の、素顔を見てみたいとぽちが思ったとしても仕方がない。

「確かに、あの日アイツが死んでから、生きていく希望もなくなったような気はしたけど…でも、どうせ死ぬんなら、あの男に殺してもらいたいって思うようになったんだ。あのパーカーの男は、人殺しを楽しんでいるようなところがあったからな」

「…なるほど、7年前にオレンジのパーカーを着てて、銃身の長い特徴的な銃を持った、人殺しを楽しんでいる強い男ねぇ。はーん?判った、捜してやるよ」

「本当か!?」

 パッと顔を上げるぽちに、那智はニヤニヤと笑いながら頷いた。

「ソイツがさぁ、ぽちを殺るってんなら話しは別だけど?まあ、捜すぐらいなら簡単だし?鉄虎に聞いてやるよ。鉄虎は物知りだからなぁ」

「…ありがとう、那智」

「嬉しいかぁ?」

「ああ」

 ぽちが大きく頷いて見せると、那智はふと、ニタァッと笑ってその黒い髪をワシワシと掻き回した。
 その仕種は乱暴だったが、どこか優しくて、ぽちは那智に向けていた猜疑心がほろほろと崩れ去っていくような気がしていた。

「なんて言うんだぁ?ぽちがさぁ、嬉しそうにしてるとオレも嬉しいのか?」

「いや、聞かれても俺には判らないよ」

「嬉しいんだろうな。まあ、よく判らないけどさぁ」

 そう言って那智はぽちの腕を掴んで立ち上がった。
 さて、そろそろ帰ろうかとニヤァッと笑いながら、「今夜は何が食いたい?」と聞く那智に眉を顰めたぽちが考え込んだ時、路地から鉄虎の張りのある声が響き渡った。

「那智よぉ。今日は蛍都んとこに行くんだろぉ?ぽちはベントレーが送るってよ」

「ゲッ!俺そんなこと言ってね…ふぐぐぐッ!!」

「あー…」

 素っ気無い鉄虎の語尾に被さるようにしてベントレーが何か喚いていたが、不意にその声がくぐもってしまって、どうやら鉄虎に口を塞がれたんだろうなぁと、ぽちは内心であのオレンジのツンツン頭をご愁傷様だと合掌していた。
 そんなぽちの傍らで、その言葉に顔を上げていた那智は、ニヤニヤ笑ったままで「忘れてた」と呟いたが、その顔は、ぽちが今まで見た以上に、頗るご機嫌で、そして嬉しそうだった。
 そんな見たこともない那智の姿に驚きながら、ぽちはソッと眉を顰めてしまう。

(…ケイト?蛍都って誰だ??)

 聞いてみたい。
 だが、ぽちは那智にしてみたらただの野良犬で、気紛れで飼い始めたにすぎないのだから、恐らく答えてはくれないだろう。
 何故か那智は、真剣にぽちのことを犬だと思っているのだから、ぽちがそんな風に思い悩んだとしても仕方のないことだった。

「用事なんだろ?その、気を付けてな」

 この町で最早那智を殺せるものなどいやしないのだろうが、それでも習慣的な挨拶をしてしまうぽちに、既に行動を起こしていた那智は、その時ハッと、ぽちがいたことを思い出したようだった。
 あれほどベタベタしていた那智の豹変ぶりに吃驚するぽちをさっさと抱きかかえると、さらに慌てる可愛い愛犬をまるで無視して、死神だと恐れられるネゴシエーターは有無も言わさずに走り出すとハードルを飛び越える要領で、まるでそこに地面でもあるかのように軽やかに窓から飛び出したのだ。

「わわ!?」

 慌ててしがみ付くぽちを抱いたままで地面に到着した那智は、もちろん那智ともども重力の餌食となって頭をクラクラさせるぽちの両脇を掴んでベントレーに差し出した。
 それはまるで、本当に犬猫の扱いだった。

「夕食がまだだからさぁ、何か食わせといてくれ」

「あぁ?面倒くせーなー」

 それでもベントレーはなぜか嬉しそうにぽちを受け取っている。
 ぽちにしてみたら那智も長身だが、十分、ベントレーも長身だった。だからと言って、軽々と抱え上げられてしまうと、やはり男としては沽券に関わってしまう。

「お、下ろせよ!」

「あー?うるせーなー。下ろして逃がしてみろ、俺が那智に殺されるんだぜ」

「殺されはしないって…って、もう那智はいないのか」

 ギャーギャー、ベントレーと言い合っていたぽちは、ふと、那智の姿がないことに気付いて少しだけしょんぼりとしてしまった。

「那智はよぉ。町外れに薄汚れた灰色の建物があるだろ?あの病院に行ったのさ」

「病院?那智は病気なのか??」

「んなワケないっての。蛍都に会いに行ってんだよ」

 ぽちは、聞いてみようかと思った。
 もしかしたら、那智は教えてくれなくても、ベントレーたちは教えてくれるかもしれない。
 いや、恐らく那智に「犬だ」と紹介されても「へー」で終わった連中である、犬に教えてやる謂れはないぐらいは平気で言うのではないだろうか。いや、或いはアッサリ教えてくれるのか…ぽちがグルグルと思い悩んでいる間に、鉄虎が「先に帰ってるからな」と言って、サッサと木箱を担ぎ上げて立ち去ってしまった。
 まるで那智と同じように、歩いているのに足音がしていない。

「あのさ、ベントレー」

「あーん?」

 ご丁寧に首輪をしているぽちを物珍しそうに繁々と見ているベントレーは、ともすればやんちゃな子供のような表情をしている。珍しいおもちゃを前に、さてどうしようと考えてでもいるのか。
 彼の左右の色が違う双眸を覗き込んで、ぽちは決意したように口を開いた。

「蛍都って誰だ?」

「あ?お前のご主人様の恋人だよ」

「…は?那智って恋人がいるのか??」

「ああ。週に一回、蛍都の調子が悪いときは月に一回しか会えないけどな。那智が『タオ』に来た時から一緒だったから、もう誰でも知ってるぜ」

「…そうだったのか」

 ぽちはてっきり、那智は孤独なのかと思っていた。
 人間を喰らう特殊な嗜好を持っているがために、那智は人間と過ごすことができなくて、彼を『犬』と見る擬似的な感覚で孤独を癒す為に傍に置いている…と、思っていたのだ。
 だが…

(そうか、那智には寄り添いあう相手がいたのか…)

 ふと、どこかホッとしたような、そのくせどこか物寂しい思いを感じて、ぽちはどうして自分がそんなことを考えているんだろうかと首を傾げる。
 那智に恋人がいる、ただそれだけのことなのに、気にしてしまう自分の行動が判らなかった。
 ベントレーの肩越しに見えた空は、俯きがちな今のぽちの心を表しているかのように、どんよりと曇って今にも泣き出しそうだった。

 少しずつ狂いだした時計の秒針みたいに。
 少しずつ狂いだしていく世界の秩序。
 軋む運命の歯車に。
 飛び乗る勇気すらもなくて…

7.カニバリズム  -Crimson Hearts-

(ぽちめー、逃げたな…)

 那智は機嫌が良さそうにニヤニヤと笑いながら、目線だけで廃墟と化した当時は権勢を誇っていたのだろうビルを見上げていた。

「…と言うワケでさ、SRSの連中の言い分だと2500万は固いって…おい、那智、聞いてんのか?」

「んぁ?あー、聞いてるよ。SRSのネゴシエーターも舐めたこと抜かしやがるからなぁ」

「半分以上は聞いちゃいねーよ。おおかた、頭ん中ぁビルん中に隠れてるワンコのことでいっぱいなんだろーさ?」

「ハッハ…よく心得てるじゃねーか」

「…はぁ」

 一連の会話に耳を傾けながらもぽちは、先ほど紹介された溜め息を吐いているベントレーが可哀相になっていた。
 よくよく聞けば、仕事のことを考えているのは3人の中じゃベントレーぐらいじゃないか。
 どちらにせよ、あの3人にはどこに自分がいるのかとっくの昔にバレているようだとぽちは仕方なく溜め息をついた。
 確かに間近で、この腐敗した町では誰もが憧れる『タオ』のネゴシエーターがどんな仕事をするのか、見たくなかったと言えば嘘になる。だが、足手纏いになるのはどうしても嫌だったし、即ち足手纏いになると言うことはこの場所で命を亡くしてしまうと言うことになる。
 死ぬのは嫌じゃない、寧ろ望むところだが…誰かを道連れにして死ぬのなんかは真っ平ゴメンだった。

「たくよぉ、那智もとんだ犬を背負い込んじまったなぁ?」

「あー?」

 鉄虎の台詞に、那智はニヤニヤ笑いながら目元を細めている。
 鉄虎の言おうとしていることを見抜こうとするかのように、或いは、何が言いたいんだコノヤローとでも思っているのか、どちらにしても那智はそれ以上口を開くつもりはないようだ。

「ありゃあ、手負いの犬じゃねーか。そのうち、お前さんの大事な部分でも食い千切っちまうんじゃねーのか?」

「…なんで?ぽちはそんなこたしねーよ?」

 不意に無表情になった那智は、相変わらずきょとんっとしたように首を傾げている。
 ともすれば馬鹿にしたようにも見えるその顔付きに、長いこと見てきたのだろう、その顔付きの意味するところを知っているのか、鉄虎は肩を竦めながらニヤニヤと笑っている。

「いーや、判らんぞ?ああ言う、手負いの獣は容赦がねぇ。愛情に飢えてるからなぁ、裏切ったと知れば喰い殺されちまうぜ」

「…ぽちを裏切る?ハッハ、起きながら夢見てんじゃねーぞ…つーか、おせーなぁ。何やってんだぁ?」

 そろそろ待ち惚けに飽きてきたのか、手に馴染んだお気に入りの日本刀を抜刀するなり、那智は外見こそへらへら笑ってはいるが、どうやらかなり苛立っているのか、何もない電柱に向かって軽く手を振るようにして斬りかかったのだ。

「ぎゃぁッ!!」

 ぽちが不審に思って眉を顰めながら見下ろすのとほぼ同時に、甲高い悲鳴が上がって廃ビルに身を潜めていたぽちはギョッとしたように崩れかけた窓に噛り付いていた。

「ぽち、めーっけ♪」

 刃から滴り落ちる鮮血をべろりと舐めながら、那智はにやにやと笑って上目遣いで廃ビルの二階の窓から見下ろしているぽちを見上げてご機嫌そうにそう言った。これから取引するはずの相手の登場が遅い…とは言っても、約束の時間から未だ5分も過ぎてはいないのだが、それでも充分待たされている那智はバカみたいに突っ立っていることにうんざりしたのか、こうなったら時間潰しにぽちを見つけて傍に連れて来ようと考えたのだ。

「ひ、…ヒギィ…いてぇ、いてぇよぉ…」

「ぽちー?降りて来いよ。ご主人さま、寂しいよ」

 ニヤァ~ッと笑いながら両手に日本刀を携えた那智は、腕を斬り飛ばされて転げ回るまだ若い青年の痛めつけられた肩を靴先で踏みつけながら、なんでもないことのように呆然と見下ろしているぽちを見上げている。
 その足許で転がっているのは、恐らく自分が所属していた集団と同じように、1人では生きていけなくてどうしても集団で寄り集まって行動することしかできない、いわゆるストリートギャングの成れの果ての一員なのだろう。
 ぽちがいたグループでも、自分の度胸を試すために深夜の町を徘徊するデッドゲームが流行っていた。
 その時に偶然、本当に偶然でしか有り得ない確率でタオのネゴシエーターたちが仕事をしている場面に出くわしたら、どれぐらいまで見届けられるのかを賭けた馬鹿げた遊びがある。
 大概のヘボいネゴシエーターなら最後まで見届けられて、胸を張って帰ってきた仲間に渋々混じり物だらけの(それでも高価な)炭酸水を渡したものだが…相手が那智なら話は別だ。
 そうか、こんな風に仲間は帰って来なかったのか。
 ぽちが眉間に皺を寄せて唇を噛み締めると、その様子の変化に気付いた那智がご機嫌そうな笑いをスッと引っ込めると、ニヤニヤと口許に笑みを浮かべたままで不思議そうに首を傾げている。

「ぽち?」

「た!…助けてくれよぉ、じゃ、邪魔なんかしねーから。ヒィ!…い、いてーよぉ」

「…うるせーな」

「ヒッ!」

 ハッとした。
 ぽちは慌てて何か言おうと硝子の砕けた窓に手を掛けながら身を乗り出したが一瞬遅く、まるで小煩い蝿でも追い払うような仕種で、滑るように月明かりに青白く浮かび上がる日本刀を振ったその途端、痛みと恐怖に因るもので拭えもしない涙と鼻水で顔をグチャグチャにしていた青年の腹が無造作に引き裂かれた。

「…はぁ…へぁ?…んだ、これ?」

 鋭利な刃物で切り裂かれた傷は、はじめ熱いような痛みを感じる。
 だが、腹を裂かれた青年は自分の身の上に起こったことがあまりにも非現実的で、頭では判っているのに肉体的な面で何が起こったのか理解することなどできなかったのだろう。
 熱くて、滑り気のある生命の象徴の様な鮮血が溢れ出て服を濡らすと、無意識に手を滑らせた青年が握ったのはブヨブヨとした血液に滑る自らの腸だった。
 ずるずると引き出しながら不思議そうに首を傾げていた青年は、それから徐に自分の腹に片手でそれを必死に戻そうとしているようだったが、腹圧がそれを阻んで外気に触れた腸は異臭を放って力なく垂れている。

「な…だ、これ…なん…う、うわ、ひぃぁぁぁぁ!!」

 夜の闇を引き裂くような断末魔の絶叫を上げる青年の側頭部が、不意に風船でも破裂したような音を立てて、ビシャッと脳漿やら肉片やら、既に何であるのかも判らないものを血液と一緒に撒き散らしながら青年の頭部は割れて腐ったスイカのようにゴロリと転がると、力を失くした身体がビクビクと痙攣して事切れた。

「…ベントレー。てめー、人の獲物を横取りしたなぁ?あぁー?」

 やっと事の次第に気付いて悲鳴を上げる青年を嬉しそうにワクワクしたように見下ろしていた那智が、その惨状に一瞬言葉を失くして、次いで恨めしそうにニヤァ~ッと笑いながら、カスタマイズした45口径の先端から煙を立ち昇らせたまま憮然としているベントレーを睨み据えたのだ。
 もちろん、ベントレーは一瞬ビクッとしたものの、携えた45口径の背で肩を叩きながら眉を寄せた。

「うるせーんだもんよ、そいつ。それでなくてもここは国境近くで、ネゴシエーターの取引を狙う…」

「だからどーした?オレは待ち草臥れて腹が減ったんだよ。どうしてくれるワケ?それとも、お前の腕でもくれるのか??」

「まー、那智。それぐらいにしとけや」

「うるせー、死体は不味いっていつも言ってるだろーがよ…あーあ、また腕だけかぁ」

 口許に笑みを貼り付けたままでしょんぼりしているような那智は脳漿と目玉を飛び散らして息絶えた、最早人間ではなくなってしまったものにはこれっぽっちも興味を示さず、押さえつけていた肩からゆっくりと靴先を退かすと鞘に刀を戻してから転がっている腕を拾い上げて溜め息を吐いた。
 鉄虎と目を合わせたベントレーがうんざりしたように肩を竦めると、飄々としている巨体の男は肩を竦めるだけで何も言わずにニヤニヤ笑っている。

(腹が減る…で、どうして人間の腕を持ってるんだ??)

 一連の出来事を呆気に取られたまま唖然と見下ろしていたぽちは、唐突に我に返って眼下で繰り広げられている凄惨な現場に立ち尽くしている那智に目線を移した。
 目線を移して、思い切り後方に後退ってしまう。

「なな、何を…何をしてるんだ、那智は!?」

 思い切り後方に倒れ込みそうになって慌てて体勢を整えたぽちは、今し方目にした行為が信じられなくて、恐る恐ると言ったようにもう一度硝子の砕けた窓から見下ろしたのだが、丁度、だらりと力を失くした腕から喰いちぎった人肉を租借したせいで口許を血塗れにした那智と目線が合ってしまって、またしても心臓が飛び上がりそうになった。

「な、那智…あんた、それ」

 とうとう口を開いてしまったぽちにニヤァ~ッと笑った那智が、食べ掛けていた腕を放り出しながら口許を拭ってジリッと一歩踏み出した。その仕種のせいで、まるで蛇に睨まれた蛙のようにぽちは身動きができなくなってしまう。

「やっぱ、不味いのな。こんな所にいるぐらいだし?酒に溺れたドリンカーだったのかも」

 拭いきれない血をペロペロと動物か何かのように舌先で拭う那智に、今まで見たこともない凄惨なものを感じて、ぽちは腰が抜けたように窓辺に座り込んでしまった。

「いーじゃねーか、喰えるんならなんでもよぉ。カニバリズムが贅沢こいてんじゃねーぞ」

 ガッハッハ!と笑う鉄虎を丸っきり無視して、脱色し過ぎて痛んでしまった髪を揺らして見上げてくる漆黒のコートの男はニヤニヤと笑っている。
 まるで、悪いことなど何もしていないとでも思っているのか、その態度に悪びれたところは微塵も見受けられない。

(カニバリズムだと…?)

 何かで聞いたことがあったぽちは、それが人肉嗜食者であることを思い出してゾッとした。
 当然のように人体を生きたまま解体して、那智はあの薄ら笑いを浮かべたままでその腹を満たしていくのだろうか…そこまで考えて、たった今見てしまった光景とオーバーラップしたのか猛烈な吐き気に襲われたぽちは床に蹲ってしまった。

「那智の嗜好にぽちがくたばったんじゃねーのか?」

「あぁ?」

 ベントレーが愛用の銃を背後に隠したホルダーに戻しながら肩を竦めると、その台詞にだけ那智は眉をピクリと動かして反応を見せた。

「なんで?ぽちがくたばるワケないだろー」

「…くたばると思うけどなぁ。那智や鉄虎でもあるまいし」

「そーそー、初めておめーの食餌場面を見た時のベントレーを思い出してみ?白目剥いてぶっ倒れたろ?アレと一緒さ」

「どうしてそこで俺を引き合いに出すんだよ。このクソジーがッ」

「はーん…」

 ムキィッと薬でギザギザになってしまったボロボロの歯で迂闊にも歯軋りして、ベントレーが鉄虎の腕に喰い付くのと、うるせーうるせーと言ってそんなベントレーを無表情で振り回しながら遊んでいる鉄虎を見ているような振りをして、全く見ていない那智はうーんっと、珍しく眉間に皺を寄せて笑いながら腰に両手を当てて廃ビルを見上げた。

「ぽち、気絶しちゃったのかぁ?」

「あー?」

 ガジガジと鋭い歯型を残すベントレーをそのままにして鉄虎が首を傾げるのと、一瞬、踏ん張るように足に力を込めた那智が反動をつけて跳ぶのは同時だった。

「…口許血塗れにしちまってよぉ。アレじゃあ、ひ弱なワンコは卒倒どころか心臓が止まっちまうぞ」

「…那智さぁ。少しは自分の存在ってのを意識してくれりゃあいいんだけどな。黒コート着て口許血塗れなんて、どんなB級ホラーだよ」

 巨体に這い登っていたベントレーがヤレヤレと溜め息を吐くと、鉄虎は面白そうに尻上がりの口笛を吹いた。どうも、このスパンキーなアンちゃんよりも、極悪そうにニヤリと笑っている鉄虎の方が余程いい性格をしているようだ。
 そんな2人を地上に残したままで、廃ビルの二階の窓に降り立った那智はコンクリの床に蹲っているぽちを捜し出した。

「う、うわぁ!」

「…?」

 那智の姿を認めたぽちが怯えたように悲鳴を上げて後退ると、きょとんと笑う暗黒のネゴシエーターは訝しそうに首を傾げるのだ。何が、そこまでぽちを怯えさせているのか理解できないとでも言うように。

「あ!あーなるほど、そうかぁ。ぽちさぁ、オレが人殺すの初めて見たもんな?ビビるよなー。そっかー鉄虎が言ってたのはそう言うことかぁ」

 ケラケラと笑いながら、漸く合点がいったとばかりに勝手に納得している那智に思わずぽちが間髪入れずに口を開いていた。

「そんな問題じゃねぇ!」

「はーん?じゃあさぁ、どんな問題なワケ?」

 ヨッと窓枠から室内に飛び降りた那智が片手を腰に当ててニヤニヤ笑いながら小首を傾げると、ぽちは思わずウッと言葉を飲み込んでしまった。
 愕然としたように自分を見上げてくるぽちの何とも言えない眼差しに気付いて、その視線が自分の口許にあると知った那智は思い出したように渇いてしまった血糊を舐めて、それから服の袖で拭った。
 そのヤンチャな子供のような仕種に思わず呆気に取られてしまったぽちは、ふと、へたり込んでしまったコンクリの床に最近誰かが入り込んでいたという名残りのようなペットボトルを見つけて那智を見上げた。

「そんなんじゃ、血は拭けないだろ?こっちに来いよ」

「ふーん…」

 ゴシゴシとコートの袖で口許を拭っていた那智は探るようにぽちの様子を窺っていたが、それでもすぐに素直に言われるまま彼の前まで行くと、同じようにストンッと腰を下ろしてしまった。
 どうするんだと興味深そうに見詰めてくる那智の前で、ぽちはそれまで、あんなに恐ろしいと思っていたこの漆黒のコートの男のことを、どうしてあんなに恐ろしいと思ってしまったのかと溜め息を吐いてしまった。
 こんな腐った町で、ふざけた余興が1つ増えたに過ぎないだけだと言うのに。

「那智は那智だしなー」

「あーん?…ッ!」

 開封されていないペットボトルの蓋を開いて水が腐っていないか臭いで確認してから、不思議そうに首を傾げる那智の顔に勢いよく浴びせたのだ。
 ぽたぽた…ッと顎から水滴をしたたらせて俯いていた那智が、ニヤァ~ッと凶悪な双眸で笑いながら上目遣いに見上げてきた時には、流石のぽちも背筋が凍りつくかと思ったが、すんでのところで踏み止まって今度は容赦なく自分の袖で口許やら濡れた顔やらをゴシゴシと拭ってやったのだ。

「…ぽちは凶暴だ」

 それでも大人しく拭かれている那智は、ムッと唇を尖らせながらもせっせと血糊を拭う可愛い飼い犬の仕種が嬉しくて仕方ないのか、ぽちがこれでいいかなと腕を離した時にはニヤニヤと笑っていたからだ。

「どうして、那智は人間を食べるんだ?」

「んー?じゃあさぁ、どうしてぽちは飯を喰うんだぁ?」

「え?」

「それと一緒でしょ?理由なんてないワケよ。ぽちにとってオレの作る料理が生きていく糧なら、オレにとって生きた人間が糧なのさ」

「それはおかしいよ、那智。飯を食べようとは思わないのか?」

「おかしい?なんで?鉄虎たちは何も言わないけどなぁ」

 憮然としたようにニヤニヤ笑いながらコンクリの床に目線を落とした那智に対して、アイツらは自分を紹介された時も「へー」で終わったような連中だ、そいつらの反応なんか当てになるわけがない、と、ぽちは言ってやりたかったが、長いこと一緒にいた彼らは那智にとっては大事な仲間なんだろう。
 この場合はどう言ったらいいんだろうか…と、ぽちが思い悩んで目線を落としたときだった。

「いつからかは忘れたけどさぁー…気付いたら人間しか喰えなくなってたワケよ。試しに自分で料理したものを喰ってみたけど吐いちまった。ぽちは…そう言うの嫌なのか?」

 ポツポツと語り出した那智に上目遣いで見られて、そりゃ、もちろん嫌だと言ってやりたかったが、そう言ってしまえば那智は、驚くほど素直なヤツだから「ダメなのかー」とでも言って何も口にしなくなるんじゃないのか。生きることにも死ぬことにも無頓着そうなこの男だ、空腹で死にそうになっても事の重大さにすら気付かないんじゃないかと思ったらゾッとしたのだ。
 ダメだ、空腹で死ぬことほど残酷なことがあるか。

「できる限り見たくはないけど…それで、アンタは料理を一切口にしなかったんだな」

「んー?そう。ぽちが美味そうに喰ってるのを見るのは好きだけどな」

 ニコッと笑う那智にどんな顔をしたらいいのかとぽちは困惑してしまったが、元来ケチなコソ泥だった彼は頭を使うことが苦手だった。
 はぁーッと長く溜め息を吐いてから、ニヤニヤ笑っている那智の無表情な双眸を覗き込みながら唇を尖らせるのだ。

「せめて、苦しまずに殺してやれよ。それから食べるんじゃダメなのか?」

「あぁー??」

 こんな荒んだ世界で人殺しはダメだとか、上辺だけのおべんちゃらな道徳を語ったところで鼻先で笑われて殺されるのがオチなのだ。殺るか殺られるかの日常なら、せめて殺してやって欲しいと思う。生きながらに自分の肉体が喰われていく様を見せ付けられることがどれほど残酷か、それを説明したところで那智が理解できるとは思えない。だが、せめて…
 そんなぽちの思惑など知る由もない那智は、心底嫌そうに眉を寄せて腕を組んでしまった。
 どうやら考え込んでしまったようだ。
 そんなに悩むことなのかとぽちが眉を寄せていると、那智は不服そうに鼻に皺を寄せながらペロッと舌を出した。

「冷めて腐った料理を、ぽちは喜んで喰えるのか?」

「へ?…ああ、そう言うことなのか。うーん…」

 今度はぽちが悩む番で、そうこうしている間に地上にいるベントレーの大声が聞こえてきた。

「那智ー!奴さんたちのお出ましだぜー!?そろそろ降りて来いよッ」

「あ、仕事か。んじゃ、これはちょっと保留だな」

 ベントレーの声に気付いてぽちが少しホッとしたように那智を見ると、それまでムッとしたように悩んでいた黒衣のネゴシエーターは、ニヤァ~ッと何やら企んでいるように笑っている。

「なんだよ?」

「ぽちが怯えてたのはオレがカニバリズムだったからなんだな」

「お。怯えてなんかないぞ!」

 意地を張ってみても仕方がないのだが、どうしてもぽちは那智に対しては反抗的になってしまう。そんなぽちの態度にクスクスと笑ってから、那智は満足したように立ち上がったのだ。

「ハッハ…だったらいーや。人殺しを怯えてるんだったらさぁー、もう連れて来られないだろぉー?悩んじゃったよ」

 そうじゃないのならいいんだと、那智は嬉しそうに笑っている。
 呆れたように見上げていたぽちがガックリと肩を落としながら、やっぱりまだ付き合わないといけないのかと観念しながら立ち上がろうとするのを、那智が止めるのだ。

「やっぱここにいるほうがいいだろーし?オレさぁ、腹減ってるんだよね。判るだろー?」

「あー、判った」

 頷くと、窓辺に歩き出した那智は背中を向けたままでニヤァ~ッと笑った。

「やっぱ、嫌われたくないんだよね」

「は?」

「オレ、ぽち好きだしー」

 窓枠に手をかけながら肩越しに振り返ってそんなことを言うから、不意にぽちはドキッとしてしまった。
 こんな時なのに、なぜそんな風に胸が高鳴るのか…幼い頃から殺伐とした町で育ってきたぽちには判らなかった。

「じゃ、イイ子で待ってろよ?」

 そう言ってから、那智は眼下のアスファルトへダイブした。
 姿が消えてしまっても、何故かぽちはドキドキと高鳴る胸を押さえたまま動けずにいた。
 いったい自分はどうしてしまったのかと、怯えながら。

 目覚めてしまう気持ちは狂気。
 諸刃の剣に貫かれる心…

6.那智の仕事  -Crimson Hearts-

 足許から崩れ去っていくようなこの世界で、何を求めて生きてきたのか。
 何を求めて…そんなこと、当の昔に忘れてしまった。
 ただ、ただ果てしない感情の流れを誰かに止めて欲しくて…誰かに?
 いったい、誰に?
 誰も助けてなどくれなかった。
 心を救う者もいなかった。
 所詮は儚い夢だった。
 そんなこと、判りきっているはずなのにオレは何を期待しているんだろう。
 期待?…そんなもの、もう、忘れてしまった。
 ただ、アイツを守らないと。
 アイツだけがこの世界の全てなのだから。
 アイツがいなくなってしまえば。
 こんな腐敗した世界などもういらない…

 比較的、あれから那智はとことん機嫌がいいようだ。
 いまいち、何を考えて何を感じているのかとか、そう言うことは全くよく判らないんだけど、ニヤニヤ笑いが多くなったような気がするし、仕事から早く帰るようになった。
 料理は毎日作ってくれるし、もし仕事が引いて帰ることが出来ないだろうなと自分が感じたときは、予め作って行ってくれる。後は温めるだけ、と言う親切ぶりだ。
 俺、犬なのに…コンロの使い方とか判らない。
 とか、冗談でも那智の前で言ったらコンロを投げ捨てて、たぶん、原始的な火の熾し方とかレクチャーし始めるんだろうなぁと思ったら少し笑えるようになった。
 しかし、那智のヤツはああ見えて結構物知りだったりするから、驚かされることが多々ある。
 それに、この部屋を見ても判るように、那智の好みはかなり古い。
 あれだけ資産を持ってるのなら、最新の設備だって整えられるだろうに、那智は旧式のコンロを愛用している。今みたいにどこから手に入れてくるのか判らないけど、食材に紛れてガスボンベが入ってるのを見たときは驚いた。俺は、その使い方が判らなかったから…
 そう言って興味津々で仕分けをしている手許を覗き込んだら、那智はニヤァ~っと笑ってボンベを片手に俺を見下ろしてきた。

「ぽち、尻尾あったらいいのになぁ?少しだけど、慣れてきたみたいだからさぁ」

「ああ?それとボンベと何の関係があるんだ」

「大有りさ~。いつもは知らん顔で窓の下に座ってんのに、最近は傍に寄って来るようになったし?もっと懐いてくると尻尾も振り出すんだぜ~」

「…気が向いたら振ってやるよ」

 延々と続きそうな頭の痛くなる会話に早々に終止符を打って、肩を竦めながらもニヤニヤと笑っている那智がカセットコンロにボンベを充填するのをマジマジと見ていた。
 そんな携帯用のコンロがあるってことにも驚いたけど、まさかボンベで動くなんてな。
 吃驚だ。
 以前、一度だけ出所を聞いたことがあったけど、その時の那智の反応はほぼ無反応だった。
 曖昧な返事で、言葉にもなっていない、なんと言うか「あー」だとか「んー」で終わったと思う。
 食材のときも吃驚したからな。
 どうせ、今回も曖昧にはぐらかされるんだろうと思いながら、それでも俺は訊ねずにはいられなかった。

「那智、こう言ったモノはどこで手に入れるんだ?俺なんかじゃお目にかかるだけで奇跡みたいなんだけど…」

「ハッ…、ぽちは面白いこと言うなぁ。こんなの見ただけで奇跡だって?ハッハ」

 アンタとこうして喋っていることだって、こんな腐敗した世界に神なんか笑わせるなと思っていたけど、いったいどこの誰がどんな気紛れでこんなチャンスを俺に与えたのか判らないけど、奇跡だって思っているんだ。だけど、そんなこと言っても那智のことだから、また瞼を閉じるあの独特な笑い方をして首を左右に振るんだろう。
 そんなこと、どうでもいいって感じでさ。
 ほんのちょっとだけは認めてやってもいいって思えるようになったから、牛乳の件は忘れてやるとして、俺だって少なからず夢みたいだって思ってるんだぜ。
 あの浅羽那智と、こうして一緒に買い物袋から物を取り出すなんて…これは何かの悪い夢か?と思ってしまうけどな。
 そう言えば…那智と一緒に暮らしだしてから俺は、誰かに付け狙われることも、冷たい雨を避けて廃ビルで蹲って寝ることも、ビクビクしながら通りを足早に渡ることもなくなった。
 ベッドは、スプリングが軋んでマットは硬いし、なんと言ってもシングルに毛の生えたようなダブルに那智と一緒に寝るからきつくて仕方ないんだけど、毎日寒いはずの夜が暖かくてホッとするなんて…これこそ奇跡だって思う。
 夜がホッとするだって?
 夢なら、でも、夢なら…覚めて欲しくはない。

「あ、そーだ。今夜仕事あるんだー…来るでしょ?」

 もちろん来ると決め付けての発言に、脳裏で彷徨っていた思考が呼び戻された俺は慌てて頷いた。
 そうだった、那智がどんな仕事をしているのか見てやろうって思ってたんだ。
 いや、正直に言えば好奇心からだったんだけど…
 思わずバツが悪くてエヘヘヘと笑ってしまう俺を、那智のヤツはニヤニヤ笑いながら首を傾げていた。
 ネゴシエーター…交渉人である那智の仕事ってのがどんなものなのか、そうして那智は、どんな風に人を殺すのか…噂ばかりで一度も見たことはないし、ケチな喧嘩での殺傷事件は日常茶飯事だったから、人殺しには慣れている。俺自身、殺されかけたんだ。
 もう、怖いものなんか何もない。

「足手纏いにならないように隠れてる方がいいかな?」

「隠れる~?ハッハ…バカだなぁ、ぽちは。隠れてたらヘンなヤツに殺されるだろー?だったら、オレの傍にいるのが一番に決まってる」

「…その自信を信じてついて行くけど。何かあったら脱兎の如く逃げ出すからな」

 至極真面目に言ったつもりだったのに、那智は一瞬無表情になってから、それからニヤァ~っと笑い出したんだ。
 なんだ?俺は何か笑うようなことを言ったか??
 それともその何か企んでいるような笑いの裏には、何か別の意味でもあるのか…?

「なに、笑ってんだよ。俺は真面目なんだぞ?何がおかしいんだよ、言えよー」

「…別に笑ってないぜ~?」

「いーや、笑ってる!ニヤニヤ笑ってる!!」

 俺がムゥッとしてその顔を覗き込みながら食って掛かると、那智はそんな俺を無言でジーッと見下ろしてくるんだ。あれほどにやーっと笑っていたのに、その笑みを不意に引っ込めて、だからと言って奇妙な顔付きをするでもなく、ただ柔らかいと表現すればシックリくるような、そんな不思議な表情をして見下ろしてくるから、いったいどんな顔をすればいいんだよ。

「な、なんだよ?」

「ん~?いや、ちょっとねー。昔飼ってた犬を思い出したんだー」

「…犬を飼ってたのか?」

「うん。もうずっと、昔の話なんだけどね」

 ニヤニヤ笑いながらも、そんなことはもうどうでもいいことなんだと思い込んででもいるのか、那智はそれ以上は何かを話そうとはしなかった。俺も、それ以上何かを聞こうとは思わなかったから、結局この話はこれで終わってしまった。
 だけど、ヘンなもんだな。
 あの、浅羽那智が犬を飼っていた…どこか人を馬鹿にしたような顔付きで平気で人殺しだってするくせに、どこに犬を飼うなんて言う殊勝な感情があるって言うんだ?

「…ああ、でも俺も飼われてるのか。全く何を考えてるんだか、ヘンなヤツだ」

「だって、ぽち死にそうだっただろ~?死ぬのは怖くないとか意地張って、そのくせ、縋るような目をしてさ。拾って帰んなきゃーって思ったワケ」

 俺の独り言を聞いていた那智はふふーんっとでも言いたそうにニヤニヤ笑いながらそんなことを言うと、古惚けたソファにドッカリと腰を下ろして投げ出していた日本刀の柄を無造作に掴むと乱暴に鞘から引き抜いたんだ。
 人の生き血を随分と吸っているはずの刀身は、それでも刃毀れすることもなく不思議と青白く光っている。ともすれば安っぽい蛍光灯の明かりすらも弾き返して、その輝きはまるで衰えることもなく人殺しの道具だと言うのに綺麗だった。
 ぼんやりと眺めていたら、ふと那智と目が合ってしまって、俺は一瞬どんな顔をすればいいのかと悩んでしまう。
 なぜなら、日本刀を眼前に翳してニヤァ~ッと笑っている那智は確かにいつもの那智だとは思うんだが、そのくせ、時折フッと笑っている姿はいつもよりなんと言うか…
 たぶん、イイ男に見えるんだろう。
 何を考えてるんだかと呟いて溜め息を吐いたら、那智は相変わらず調子でもいいのか、ご自慢の日本刀にニヤァ~ッと笑いながらも俺の独り言に首を傾げている。

「ぽちはさぁ~、オレと話してて楽しいワケ?」

 不意に日本刀の調子を眺めるようにして確かめながら、那智はどうでも良さそうにそんなことを聞いてきた。別に、どうでも良さそうなんだから答えなくても良いはずなんだけど、それでも俺は、その奇妙な質問に答えてみようって気になったんだ。

「楽しい…と言うか、興味はある。アンタはヘンなヤツだから」

「ヘンなヤツか、ハッハ!…そいつはいいな」

「どうしてそんなこと聞くんだよ。じゃあ、アンタは?アンタは俺と話してて楽しいのか?」

 何が言いたいのか良く判らない表情をして日本刀を見詰めている那智に、なんとなく俺はその理不尽な質問の意図が読めなくてムッとしちまった。
 我ながら子供染みてるとは思ったが、ついつい唇を尖らせて聞いてしまう。

「さあ~?楽しい…と言うか、興味はある。ぽちはヘンな犬だから」

「…なんだよ、それ」

 にやぁ~っと笑って日本刀を鞘に戻しながらチラリと視線を上げて俺を見た那智は、ニヤニヤしながら肩を竦めてご満悦だ。
 殆ど呆れて眉を顰めれば、そんな俺を瞼を閉じて口許だけで笑うんだ。
 那智は恐ろしいヤツだと仲間の誰かが言っていたけど…こうして傍にいてみると、どのヘンが恐ろしいんだか判らない。たとえば、気が短いんじゃないかと眉を顰めたくなるほど些細なことで手当たり次第にモノを捨ててしまうことを恐ろしいとでも言うのか?それとも、雨にずぶ濡れになっても平気そうに通りを歩いているところ?
 或いは、どんなに離れていても正確に俺がどこに立っているのか確認できるその人間離れした観察眼?いや、それは正直、恐ろしいヤツだとは思ったけど…でも、今の時代だと、それぐらいの観察力がないと荒くれどもに命を狙われている那智が生き残ることなんか難しいんだろう。
 那智は確かに平気で食べ物を粗末にするし、嫌味だってサラッと言っちまえるような大変いやーな野郎ではあるけれど、それでも、この間みたいに会話の噛み合わない喧嘩…らしい喧嘩でもなかったけど、結局俺が1人でワーワー騒いだだけだったんだけど、そんな風に話している間に、俺は那智を憎めなくなっていた。
 どう言えばいいのか判らないけれど、那智は本当は、寂しい人間なんじゃないかと思うようになっていたからかもしれない。
 俺の中で渦巻く罪悪感が、那智と言う救いを見つけ過去の後悔を摩り替えようとしているだけなのかもしれなかったが、それでも那智と言う男に興味を持ったのは確かだった。

「ネゴシエーターってどんなことをするんだ?今の時代でまともな仕事なんか期待しちゃいないけど、それでも、ケチなコソ泥よりはいくらかマシなんだろ?」

 俺はいつも座っているお気に入りの窓の下に腰を下ろしながら、今夜着いて行くことになった仕事について聞いてみようと好奇心丸出しで訊ねていた。壁に凭れて、ソファにだらしなく座っている猫科の猛獣のような獰猛さを隠し持った那智を眺めながら訊ねれば、背もたれに頬杖をついて退屈そうにニヤニヤ笑っているネゴシエーターはそんな俺を横目でチラリと見て口を開いたんだ。

「似たようなもん…なワケないかー。どちらかって言うとー、ケチなコソ泥よりはクソみてーな仕事かなぁ」

 本気でそう思っているのか、それともただの謙遜なのか…どちらにしても那智は、どうでも良さそうに欠伸をしている。
 自分の仕事に…と言うか、自らが持っている絶対的な強さを、那智はどんな風に受け止めているんだろう。それすらもやはり、どうでもいいことだとでも思っているんだろうか。
 それとも、厄介だなーとでも思ってるのかな…?
 いや、そんなはずはないな。こんなメチャクチャな、退廃して荒んじまった町だと、力こそが全てなんだから、余りある実力は持っていて邪魔になるもんじゃないだろう。
 ある意味それは、巨万の富さえも生み出すんだから…厄介なワケないか、ったく俺こそ何を考えてるんだ。

「でもさー、オレあんまり仕事しないんだよ。いつも鉄虎かベントレーが始末してくれてるし。仕事っつってもつまんねーのな」

「それは那智が強すぎてスムーズに仕事が早く終わるから…ってことか?」

「あー?んー、どーかな。話してるとさー、ムカツクんだよなぁ?たいした品でもねーくせに、値段を釣り上げてくるしよー。そうすると、怒られるのはオレたちなんだぜー?ふざけるなって思わない?そうしたらムカムカしてきてさぁ、気付いたら死体がゴロゴロ…別に頭に血が昇ったってワケでもないのにね、記憶がなーんにもない。も、ぜーんぜん判んねって感じでさー。まあ、オレは話し合うなんてガラじゃないし?殺す方が楽しいけど?」

 なるほど、仕事が速く終わるからあんまり仕事をしてない…ってワケじゃなく、ついつい交渉相手を殺してしまうから仕事にならなくなる、ってことだな。
 俺は思わず溜め息を吐いてしまった。
 そりゃあ、鉄虎とベントレーは苦労してるんだろう。

「…ネゴシエーターって売買の交渉とかもしてるのか?」

「するよ?殆どそう。人質を解放するように説得するとか言うのは昔の話。今じゃヤクの売買の交渉だとか、物資の売買、人身売買…って、売買ばっかだなー」

 ハッハ…ッと瞼を閉じて笑う那智を見ながら、俺はそれでかと納得した。
 どうして那智が、仕事中に必ず相手を殺すのか、よく判らなかったんだ。
 命辛々で逃げ出してきた仲間の1人が、那智の仕事現場を怖いモノ見たさで覗いていたらしいんだけど、そのあまりの凄惨さに声すらも出せなくなっていた。震えながら途切れ途切れに話してくれていたけど、色んな場所で目撃される那智は常に対の日本刀の柄を握り締めて、ニヤニヤ笑いながら血の海の中で立っているそうだ。
 血臭が一番良く似合う男だと、この町の住人は誰もが口にしていた。
 俺はてっきり那智は殺し屋なんだとばかり思っていたからそれも当たり前だと思っていたけど、そうか、那智はこの町の裏社会を取り仕切っているファミリーの一員で、そいつらがお抱えにしているネゴシエーターの1人だったのか。
 そうと知ってから、もうずっと不思議で仕方なかったんだ。
 ネゴシエーターなのに問答無用で殺すのか?
 交渉人だろ?
 だけど、腕に三日月の刺青がないから判らなかったけど、ネゴシエーターはつまり交渉人だから、交渉中にあのワケが判らない気の短さのようなもので、捨てる代わりに殺してしまうんだろう。
 それも、見るも無残にバラバラにして。
 一説では銃弾でさえその日本刀で弾き返すなんて噂が出てるぐらい強い那智のことだからなぁ、多少腕に自信のあるネゴシエーターぐらいどうってことないだろう。
 まあ、銃弾の件は尾ひれはひれってヤツだろうけど。
 そう考えれば合点がいった。
 この世界に点在している町には『機動警備隊』とは別に、裏社会、つまり俺たちのような半端なワルじゃなくて、気合の入った連中を取り締まっている組織が1つの街に必ず1つ存在しているんだ。そいつらはあらゆるあくどい方法で色んなものを貯め込んでいて、そう言う貴重なものを町ごとの組織で遣り取りをしている。その遣り取りを行うのがネゴシエーター、つまり那智たちってワケだ。
 噂では貴重なもの、つまり物資だとか薬だとかの取引だけじゃなくて、機動の連中が目を付けているグループの有益な情報を握っている証人なんかを説得して連行する仕事とかもあるらしいけど…仲間内で流れている噂に過ぎないからなんとも言えないんだけどな。
 俺たちの町は『道<タオ>』と言うファミリーが取り仕切っていて、組織の一員は必ず腕に三日月の刺青をしている。俺たちのようなケチなコソ泥のグループにとってそれは、憧れの対象でもあった。仲間の誰かがファミリーの一員になって、グループを抜けるときなんか、皆で祝福しながら心の中じゃ早く死ねって罵っていた。誰もがそうだったし、それが当たり前だからな。
 だってさ、『タオ』のファミリーに入れば食いっぱぐれることもないし、まあ狙われないと言えば嘘になるけど、ともかく特典が凄すぎる。誰もが入りたくて、でも入れない敷居の高い場所なんだ。
 平然と罵るヤツもいる。
 まあ、俺はおべんちゃらとか言えないから、そっちの部類に入ってしまうけど。
 ただ、腕に三日月の刺青を入れてしまうのもそれなりに覚悟がいる。
 なぜなら、こんな情勢だ。
 力こそが全ての世界で、なぜ腕に刺青を入れるのか…それは非情な『タオ』のボスである『下弦』が考えた掟のせいだ。

《腕に三日月の刺青を持つ者を殺せ。その腕を持参した者は報奨金と『タオ』のファミリーの一員となるべく権利を得るだろう》

 それが現在の『タオ』のボスが布告した掟だった。
 下っ端なんかだと寄って集って嬲り殺しにされるから、よほど腕に自信のあるヤツしか入らないし、入れない。長い歴史のある『タオ』の中でも、長く生き残っているのは鉄虎だと聞いていたけど…そうか、那智が『タオ』の一員なら那智もそうだろうな。
 だが…

「那智は腕に刺青がないんだな。タオの一員なんだろ?」

「あーん?まぁ、一応ね。でもオレ、お客さんだし?刺青入れる必要ないワケ」

「はー?そんなもんなのか??」

 あっけらかんと答える那智に、理解できないでいる俺が首を傾げていると、背凭れの部分に頬杖をついていたヤツは身体を起こすと、ダルそうに凭れながらニヤァ~ッと笑った。

「それに、刺青ってアレ、目印みたいなもんでしょ?コイツはタオの一員ですよ、殺しなさいって言うさぁ」

 ああ、まあ確かにそのとおりだ。
 下弦が宣言した事実上の殺人予告だ。
 機動すら手が出せないから、下弦の言葉こそこの町では絶対であり、覆せない残酷な命令でもある。
 参加するしないは自分次第だけど。
 俺が神妙に頷くと、那智のヤツは可笑しそうにニヤニヤと笑いながら先を続けた。

「オレの場合だと、刺青なんて必要ないし?日本刀が目印ね。これを持って行ったら、ぽちは犬だけど、ぽちでもタオのファミリーに入れるぜ~。いるかい?」

 ポンッと気軽に放って寄越されて、その突然の行動に思わず呆気に取られるよりも先に、慌てて放り投げられた日本刀を落ちないように受け取っていた…けど、なんだこの重さは!?
 ズシッと両手にかなり重い鉛でも乗せられたような重量感に驚いて、俺はこんな重いものを軽々と2本も操ってしまう那智のその腕力に、今さらながら閉口してしまっていた。

「い、いらねー。鄭重にお断りするよ」

「ハッハ!タオのファミリーに入りたがるヤツは多いのにさぁ、やっぱぽちもヘンなヤツだ」

「…俺の口癖を盗るんじゃねー」

「大丈夫。ちゃんと、もって言ってるだろー?」

「そう言う問題じゃねぇ」

 ムッと眉を寄せて唇を尖らせる俺を見て、さらに那智のヤツはニヤニヤと笑いやがる。
 つまり満面の笑みってヤツなんだろーけど、だからこそ、殊更腹が立って仕方がねぇ。
 アンタの日本刀なんか持って行ってみろ、その日から俺はこの町にいるありとあらゆる荒くれ者たちの標的になるに決まってら。この町の掟は強い者こそが全てなんだ、その頂点に君臨している浅羽那智を殺ったヤツが現れたとなれば、今度はソイツを殺そうと躍起になるってのが火を見るより明らかじゃねーか。
 まあ、俺にコイツの半分でも迫力があれば信じてもらえるだろうけど、大方、那智の悪ふざけぐらいにしか思われず、日本刀を取り上げられていい子でお家に帰りなさいと言われるのがオチなんだろーけどな。帰してくれるなら運がいい方で、那智の悪ふざけに付き合った咎とかなんかで、恐らく俺がこの町を見ることは二度とないだろう。
 それならそれでもいいけど。

 俺がそう言うと、那智のヤツは「そう言うもんかぁ~?」と言って、どうも本気で違うだろ?と思っているようだったが、そうなんだよ!
 アンタほど自分の実力を知っていて、そのくせ無頓着なヤツも珍しいよ。
 夜の帳が下りた街角で、漆黒のコートを着た両手に対の日本刀を握り締めて、血塗れのアスファルトに転がる人間の頭を片足で踏み締めながら嫣然と笑うその姿が、どれほど俺たちの心臓の奥深いところまで恐怖を植え込んでいるか、脳裏の隅々まで畏怖を沁み込ませているか…本気で判らないなんて言うんだったら、頼むから一発殴らせてくれ。

「まあ、タオの一員なんてウゼーだけでつまんねーんだけどな。殺しができるからまあ、いいかなって思ってるぐらいでさぁ」

「人殺しが楽しいのか?」

 素朴な疑問だった。
 俺は、こんなご時勢だけど、人殺しは嫌だ。
 できれば、殺すぐらいなら死んだ方がマシだった。
 もう、何人も死人を見てきた。
 見るだけでもうんざりなのに、殺すなんてどうかしてる。
 できれば俺のほうが死にたいぐらいだ…そうしたら、もう一度逢えるのかな。

「面白いぜ~?最初は偉そーにしてるけどよ、腕が跳ね飛ばされるときのソイツの顔は見ていてゲラゲラ笑いたくなる。許しを請うっつーのかな?憐れっぽい目付きしてさぁ、そうしたらオレは、慈悲深くなっちまうのな。鄭重に止めを刺してやるというワケ」

「そういうのを慈悲深いって言うのか?」

「え?違うのか??鉄虎はそうだと言ってたぜー」

「ははぁ~…なんか、今夜の仕事に着いて行きたくなくなってきたよ」

「…なんで?」

 普通に判らないとでも言いたそうな無表情の顔で見詰められて、俺は眩暈を覚えていた。
 そうか、那智は何も知らない子供みたいに純粋なヤツなんだ。だから、教えられたことを素直に聞くんだろう。
 俺は、この素直な那智に湾曲したモノの考え方を植え込んでいる鉄虎と言う男に、できれば会いたくないと思っていた。
 那智だって手が一杯なのに、鉄虎なんて言う化け物と対等に遣り合えるのか、今から不安になってきたんだ。
 そう言えば、那智には鉄虎とは別にベントレーとか言う曲者もいたんだっけ?
 ますます頭を抱え込みたくなってきた俺に、那智は無表情の顔のままで問い質してくる。
 なんで、着いてこないなんて言い出すんだ?と、大方聞きたいんだろう。
 俺はもしかしたら、無謀なことを切り出してしまったのかもしれない。
 那智の仕事について行く、なんて言うんじゃなかったなぁと今さら思ってみても、それはやはり、後の祭りと言うことになる。

 寄せては返す時の波に、たゆたうように運命が翻弄されている。
 たとえそれが真実だったとしても、俺は何も感じないんだろう。

5.ぽちの憂鬱  -Crimson Hearts-

 鬱陶しい雨だがそれほど嫌いだと言うワケではない。
 寧ろ。
 このまま延々と振り続けて、良ければこの虚ろな世界すらも押し流して消滅させてくれればと思う。
 けして起こり得ない幻想を胸に抱いたままで、那智は殊更機嫌良く人影も疎らの往来を足早に渡っていた。
 夕暮れ時は逢魔が時とも言って、人の心を狂わせるような何かを秘めているのか、それとも、混沌とした夜の訪れに怯えた人々が恐怖から起こす突発的な衝動のせいなのか、夕暮れ時は特に殺傷事件が多くなる。
 その為、人々はできる限り外に出ようとしないし、こうして暢気に警戒心さえも抱かずに町を歩いているのは精神が崩壊したジャンキーか、或いは物乞いせずにはいられないほど貧しい子供たちか、はたまた夜な夜な男を求めて彷徨う場末の娼婦たちか…また或いは、人殺しを何よりの糧として、面白味の失せた世界を薔薇色に染め上げてくれる殺戮行為に快楽さえ感じている、矢張り心を何処かに置き忘れてきてしまったのだろう、虚ろな器のような泣く子も黙る浅羽那智ぐらいだろう。
 現につい先ほども、暢気に歩いている男に目を付けた凶暴な物盗りが、黒コートに隠れていた2本の鞘に気付いて息を飲むと、すごすごと裏路地に隠れてしまった。
 その気配にすら気付いているのかいないのか、那智は気に留めた様子もなくぶらぶらと、まるで散歩でもしているような気楽さで砂利だらけの、遠い昔には舗装されていたのだろうアスファルトの道を踏み締めるようにして歩いていた。

「ぽちは~、いい子にしてるかにゃぁ?」

 ニヤニヤ笑って、それから意志の強さを秘めているようにキラキラと光る双眸を顰めた眉の下で細める、あの首輪を付けた可愛い犬の顔を思い出してニヤァ~ッとその邪悪そうな笑みを更に深いものにした。
 本来なら犬は、ご主人様に千切れんばかりに尾を振ってついて回るものだ。
 たとえば、キッチンに行けばキッチンに、ランドリー室に向かえばランドリー室に、果てはバスルームに来たっておかしくないと言うのに…あの犬は、全身で警戒したように那智の存在に怯えているようだった。

「まあ?野良だったし?最初は懐かないもんさ。オレ様気長だし~、ぽちがいい子になるまで充分待てるもんねー」

 フフーンッと胸を張る那智の存在に、夜陰に乗じて何かを仕掛けようと企む連中でさえ、一瞬出遅れてそのチャンスを逃してしまう。そんな風に悪運が強いばかりで生き延びてきたわけではない。
 那智の持つ本来の戦闘能力は一度目にした者ならば、余程腕に自信があるか、或いは全くの向こう見ずの若造が、駆り立てられた妄想に突き動かされる行動ででもなければ、襲いかかろうなどとは思いもよらないことだろう。
 だが、最近この町にも、至るところで溢れ返った人口のはみ出し者たちが集まってきていた。
 あれほど人が死んでいると言うのにこの町は、いや、この世界の人口が減ることは全くない。
 死の恐怖に耐えられなくなった者、自分より弱い者しか相手に出来ない小心者、己の一時凌ぎの快楽を味わう為だけに襲う者などなど…そんな連中の捌け口になってしまった女たちは子を孕み、人が死ぬのと同じぐらい哀れな命が日々誕生し続けている。そんな悪夢のような連鎖が日常的に起こっているのだ、ぽちが悲観して死にたくなるのも頷けてしまう。

「ぽちには…牛乳かぁ?そーだな、それと…今夜はタンドリーチキンでも作ろっかなぁ♪」

 そんな世界中の悲観などどこ吹く風で、那智はただ今日一日を思うように生きている。
 悲観して死ぬなどとんでもない、ましてや殺してくれ?自殺?どこのバカの考えることだと鼻先でせせら笑うだろう。彼は、確かに生き続けたいと執着するほどまでは思っていないまでも、死に執着することもない。
 ただ、生きているから生きている。
 死ぬときは、まあ仕方ないか…ぐらいの考えの持ち主なのだ。
 今が楽しければそれでいい、楽しみなどない町だけど…世界中を探しても同じなら、この町で鼓動が止まるその時までは生きているのも悪くないだろう。
 そんな考えを持つ浅羽那智は、見慣れた砂岩色の壁を持つアンティークな我が家を視界に入れて嬉しそうにニヤニヤと笑っていた。

「チキンばかりだと身体を壊すかもなぁ…ぽちは肉付けねーと。弱すぎ」

 ズバズバと、帰ってくるなり黒コートを脱いで腰の鞘を乱暴に引き抜くとソファーに投げ出した那智は、派手なアクションでドアを開いて入ってきたこの家の主の登場に酷く驚いて動揺している俺になんでもないことのように言い放ったんだ。
 なんだって言うんだ??
 目を白黒させる俺をジッと、その光の加減によっては赤に見える、少し色素の薄い凶暴性を秘めた双眸で、そのくせ気のなさそうな表情で見詰めていた那智は、フッと口許の力を抜いて笑ったようだった。

「犬は通常、ご主人様が戻ってきたら『寂しかった』と言って擦り寄ってくるもんじゃねーのかー?」

「悪かったな。生憎と育ちの悪い雑種なんだよ」

 以前はあれほど恐怖に駆り立てられていた存在だったはずの那智に、最近の俺はそんな風に軽口を叩けるようになっていた。とは言え、それだって本当は緊張から来るものだったんだが…あわよくば、この浅羽那智が煩いハエだぐらいに思ってくれて、あの底冷えのする青白い刃を持つ日本刀でこの首を刎ねてくれたらいいのにと言う、浅ましい考えがないと言えばウソになる。
 わざと乱暴に突き放したら、或いは答えが見えてくるのかも…そんなこと、有り得るはずもないんだが。

「あーん?雑種は好きだなぁ。頑丈で、懐いたら可愛いしー」

 どうでもいいことを呟きながら髪から水滴をポタポタと落とす那智は、相変わらず毎日抱えて帰る紙袋の中から何かを掴んで取り出すと、一瞬警戒する俺にソレを無造作に投げて寄越してきた。
 条件反射で慌てて受け止めた俺の手の中に納まったそれは、紙パックの牛乳だった。
 第三次大戦以降、物資があまりにも不足している現代では、500mlの紙パックの牛乳など拝むのも難しいぐらいだ。今では、牛乳に似た混ざり物が、それでも高額で取引されていたりする。

「んー?牛乳は嫌いだったかぁ??」

「い、いや…嫌いだとかそんなことじゃなく。これ、高いんじゃないのか?」

「はーん?なんだそんなことかよ。嫌いじゃねーならいーじゃねーか。メシ出来るまで大人しくあっち行ってろ。なぁ?」

 雨に濡れすぎたせいで冷えているのか、那智のひんやりした指先が俺の髪の中に潜り込んできた。
 思わず身構えると、那智のヤツは呆れたように肩を竦めてニヤニヤと笑いながら行ってしまった。キッチンに姿を消した奇妙な男は、鼻歌交じりに「まだまだ懐かないねぇ」と楽しそうに呟いている。
 何もかもがアンバランスな気がして、たまにここに居ると頭がおかしくなるような気がするんだが…気のせいなんだろう。
 那智は料理を作るのが大好きなようだった。
 そのくせ、自分は一口も食べないんだが…外で何か食ってきているんだろう。
 こう言うところも、不思議だと言えば不思議だ。
 料理を作るのが好きなくせに自分では一口も食わない、じゃあ、今まではその作った料理はどうしていたんだ?
 那智はやっぱりこんな風に、誰かを拾ってきて『犬』と呼んで世話をしていたんだろうか…
 手の中で冷えている牛乳パックの内容物がちゃぷんっと音を立ててはねたようだ。

「バカみたいだな、俺。こんなところに閉じ篭ってるから、バカみたいなことばかり考えて…脳味噌が腐っちまうんだ」

「じゃー、オレの仕事についてくる?」

 暫くぼんやり考え込んでいた俺が唐突にハッとして顔を上げたら、いつの間に近付いて来ていたのか、両手に湯気が上がる美味しそうな料理を乗せた盆を持った那智が立っていた。
 その目付きは冴え冴えとしていて、見下ろす双眸は冷たかった。
 あの日、俺を拾うときに見せていた、あの虫けらでも見るような興味のなさそうな冷めた双眸は、ジッと見詰めていると尻の辺りがもぞもぞするような、どうも居心地の悪い罪悪感のようなものを感じてしまう。
 何故かと問われても答えられないが…たぶん、本能が警鐘を鳴らしているんだろう。
 コイツを怒らせたらヤバイと。
 ん?と、言うことは、那智は怒っているのか?
 俺が逃げ出したいと思っているんじゃないかとでも考えて?
 俺は溜め息を吐いていた。
 この狭い町で、那智の目の届かない場所なんてないじゃないか。
 俺よりも古くからこの町に棲み付いている那智だ、何を考えているんだ。
 いや、こんなことを妄想する俺の方がどうかしてる。

「いや、別に俺はアンタから逃げ出したいとか思ってるわけじゃ…」

「はぁ!?んなの、当たり前でしょーが。なに?ぽちは逃げ出したいわけ??こんなクソみてーな町に?ご冗談でしょ」

 自分で言って自分で否定する、もちろん、俺の感情なんかその時点では丸っきり無視だ。
 ニヤニヤ笑いながら首を左右に振って、両手で掲げるようにして持っていたご自慢の今夜のご馳走をテーブルの上に乱暴に置くと、那智はニタ~ッと笑って上目遣いに見上げてくる。

「退屈なんだろー?だったらさぁ、オレの仕事についてきなよ。犬はさ、自由でないとストレス溜まっちゃうワケよ。だからさ、んな、ワケの判んないこと考えるんだぜ?外の空気吸いにいこーな」

「…アンタって、よく判らないヤツだな」

「あー?そうかぁ?鉄虎に言わせれば、オレほど判りやすいヤツはいないらしーぜ」

 テツトラ…そう言えば、確か那智には仲間がいて、ソイツの名前が鉄虎とベントレーと言っていたな。
 俺自身が直接拝んだわけじゃないが、吹き溜まりで屯していた連中が口々に罵っているときに良く出てきた名前だったから覚えている。
 俺が所属していたコソ泥集団でも、やっぱり浅羽那智は畏怖の対象であり、変な意味、尊敬の対象でもあった。
 もちろん俺も、少なからず那智を恐れながらも憧れていたさ。俺だって男だ、絶対的な、圧倒的な強さを前にすればこんな風に一度でいいからなってみたいと思っちまう。そうすれば、もしかしたら、あんなことにはならなかったかもしれないのにと…弱気な心が訴えてくる。
 強さが欲しかった。
 もう、今更なんだけど。
 だがまあ、当のご本人がこんなヤツだとは知らなかったけどな!
 あの頃の俺たちには、浅羽那智と言えばこの町で神にも等しいぐらい高みに居る存在で、手を伸ばしても届かない、漆黒のコートに身を包んだ死を司る最強の神だった。
 その脇を固めるのが鉄虎と言う巨体の男と、ベントレーと言う小狡賢そうなヒョロリとした男だと聞いていた。
 俺だって、その存在に一度は会ってみたいと思っていたさ。
 だが、実際にお目にかかるには、自分自身の首が狙われるしかなかったんだ。
 それ以外の方法と言えば、偶然誰かが襲われている場所に出くわして偶々拝んじまうって言う、この世界ではなかなか有り得ないチャンスが訪れるってことぐらいだが…もちろん、それ以外の危険から身を守らなければならない俺なんかだと、夜中にうろつくなんて命知らずなことはできなかったから丸っきり無理な方法なんだけどな。
 この町で一番危険だと言われる夕暮れ時か、或いは真夜中にしか出没しないと言われる浅羽那智との遭遇だ、その殺人現場から偶然出くわして命辛々逃げ出した連中の噂でしかその存在を耳にしたことはなかったのに…まさか、こんな形で出会う羽目になるとはなぁ。
 いったいどんな、アンビリーバボーだよ。
 ニヤニヤと笑いながら椅子に腰掛けていた那智は、長い足を組んでテーブルに頬杖をつくと、顎をしゃくるようにして呆然と突っ立っている俺にも座れと促した。
 一瞬戸惑った俺は、それでもいつも通り椅子に腰掛けると「どうぞ、召し上がれ」と片掌を上に向けて上げる那智の動作を見詰めながら、ナイフとフォークを取ろうとして掌の中にある牛乳パックに気付いて眉を顰めた。
 そうだこれ、どうしよう。
 こんな高価なものを…いや、目の前の食事だって本当はどこで手に入れて来るんだと首を傾げたくなるほど高価で、俺みたいにケチなコソ泥じゃあ一生かかってもお目に掛かれないような代物なんだ。
 冷蔵庫に仕舞っておいたら駄目かな。
 一瞬、チラッと上目遣いで那智を見ると、薄ら寒い笑みをいつも口許に浮かべている奇妙な男は、軽く眉を上げて首を傾げて見せた。

「どーしたぽち。牛乳はいらないか?」

「いや、えっと…ッ!」

 言い訳を試みようとしたその時、伸びてきた腕があっさりと大事に持っていた牛乳パックを奪い取って、表情の変化も見せないまま那智のヤツはそれをダストシュートに投げ込んじまったんだ!

「な、何をするんだ!」

 転がるようにして椅子から飛び降りた俺は、たった今ダストシュートに投げ込まれてしまった牛乳パックを慌てて拾い上げると、強い力で投げられたわりには破れてなくて、角がへこんだぐらいのパックにホッと息を吐いた。

「ハッハ!犬はやっぱり牛乳好きなんだな」

 ニヤニヤ笑う那智に振り返って、俺はそのニヤ~ッと邪悪そうに笑っている顔を睨みつけて牙を剥いた。犬だと呼ぶならそれもいい、だが、粗末にするのは許せない。
 お前には、食事がなくてひもじくて、たった僅かな食い物を必死で分け合って食いながら生き延びることの惨めさや悔しさなんてのは判らないんだろうな。
 だから俺は、どんなに気安くされていても、心のどこかでアンタを好きになれなかった。

「…へぇー、ぽちでもそんな目付きをするんだなぁ」

「アンタに!…ッ、何が判るんだよ。人のこと犬だといって馬鹿にしてるアンタには、ケチなコソ泥なんざクソみてーなモンだろうな!」

「コソ泥?あー…ぽちは野良だもんなぁ。残飯でも漁ってたか?」

「…ッ!人のこと馬鹿にしやがってッ!だいたい、なんでアンタみたいなヤツが俺に興味を示したのか判らなかったんだ。おおかた、そうして馬鹿にするためだったんだよな!こんなクソッタレな場所で…!クソ…畜生!」

 自分でも、何を言ってるのか判らなかった。
 ただただ目の前が真っ赤になっていた。
 貧しさで家族を亡くしてしまった気持ちなんて、コイツには判らないんだ。最強と謳われて、欲しいものは何でも手に入れてきただろうこの男に、何を言ったって無駄に決まっているのに、それでも何か言っていないとメチャクチャになりそうな俺がいたんだ。

「ぽち?」

 急に喚き出した俺に驚いているのか、それとも全く何も感じていないのか、妙に冷めた双眸をして那智は立ち上がると、全身で身構えている俺の傍まで暢気に歩いてきて首を傾げて見せた。
 そんないちいち癪に障る行動に苛々しながら、俺はすぐ傍まで来た那智が、気軽に伸ばしてきた腕を条件反射で振り払っていた。
 もう、こんなところには一秒だっていたくない。
 恐怖だとか怯えだとか、そんなものに支配されていたはずの俺の肝っ玉もやっぱり男だったんだな、殆ど我武者羅だったから恐怖心なんかスッカリ忘れて那智に言い放っていた。

「気安く触るなよッ!…アンタには助けてもらって感謝してる。だが、俺は犬じゃない。この恩はきっといつか返すけど、だからと言ってアンタに『犬』呼ばわりされてここにいるつもりはない!」

 振り払われた掌を、何を考えているのか、那智のヤツはただ呆然としたようにジーッと見下ろしている。犬の反抗に、どう対応したらいいのか判らない、そんな態度がますます俺を苛立たせた。
 もちろん、那智が本当にそんなことを考えているのかどうかなんてことは判らなかったが、一連の態度が俺に先入観を植え付けていたからもうダメなんだ。

「ちゃんと礼ができるようになったらここを訪ねるつもりだ。感謝はしてるんだ。だが、馬鹿にされるのはどうしても嫌だ!世話になったなッ」

 吐き捨てるようにそう言って、俺は首に下がっている首輪を掻き毟ってでも剥ぎ取りたい気持ちをグッと堪えて、なんとも言えない奇妙な顔付きをして掌を見下ろしたまま立ち尽くしている那智の傍を通り過ぎようとした。もう、俺のことすら眼中になさそうな那智のその態度は、俺が立ち去ることにも無頓着なようだった。
 なんだ、案外あっさりしていたんだな。
 クソ、そう考えてしまうと、なんだ、俺の方が居心地がよくてここに居座っていたみたいで胸糞が悪くなる。まあ、実際はそうだったのかもしれないけど…
 さて、これからどうするかな…そんなことを考えながら通り過ぎようとする俺の腕を、唐突にガシッと掴んできた思いのほか強い力に、俺は思わず飛び上がりそうになってしまった。
 掌を見下ろしたまま、俺の腕を掴んでいる那智に、何が起こったのか判らない突発的な動作には心臓がギュッと縮こまるような恐怖心が甦ってきた。
 殺されるんだろうか…ふと、そんな思いが脳裏を巡ったときだった。
 面白くもなんともない、いや、感情すら持ち合わせてはいないんじゃないかと言うほど無表情に掌を見下ろしていた那智は、目線だけを動かして俺を見たんだ。
 そう、何の感情も浮かべない、まるで人形のような無機質な眼差しで。
 それがどれほど恐ろしいものであるか、俺はこのとき初めて知った。
 全身から嫌な汗が噴出して、あまりの緊張感に軽い眩暈すらしている。

「ぽち?はぁ??何を言ってるんだ?世話になった??どこか行くのか?」

「…え?」

 なんとも言えない口調でキョトンと呟く那智は、その無機質な感情のない双眸とは裏腹の、やけに拍子抜けするほど不思議そうに頓珍漢なことを言ったんだ。

「どこかに行くなら…オレも一緒に行くぜ?夜になるとさぁ、この町は結構危ないワケよ。ぽちなんか可愛いだけで、他はまるで無防備だからさぁ。すぐに殺されちゃうんだぜー」

「…ッ」

 お前から離れてこの家を出ると言っているのに、何でお前がついて来るんだよ。
 いや、その前に、いったい何を聞いていたんだ?!

「そうやって、俺を鼻先で笑うんだろうな。アンタたち、力のある連中はいつもそうだ。そうやって、這い蹲って生きている連中を嘲笑うんだよ」

 何も感じもしないで。
 クソみたいな常識が全てだとでも言うように。
 弱いヤツが悪い、そんな馬鹿みたいな屁理屈を本気で信じやがって!

「もういい。アンタ、殺し屋なんだろ?俺を殺してくれよ。依頼なら何でも受けるって聞いた。じゃあ、俺を殺してくれ。西地区の36番地に壊れかけた古いビルがある。その3階の奥の部屋にベッドがあって、その下に金庫があるんだ。そこに俺の全財産が入ってるからそれを代金にしてくれ。130万ある」

 もう、何も聞きたくなくて、俺は捲くし立てるようにして一気に言った。
 那智がどんな顔をしているのかだとか、あの無機質な冷たい目なんか見たくもないしで、俺は床を睨みつけながら死を司る、この最強の神が下す決断をジッと待っていた。
 那智の腕なら、俺の首を圧し折ることぐらい朝飯前だろう。
 わざわざ、その鞘に収まった愛用の日本刀を、こんなケチなコソ泥の血で汚すことなんてないんだ。
 唇を噛み締めたら、なぜかじんわりと目の前が滲んで、俺は自分が泣き出しそうになっていることに気付いて舌打ちしてしまった。
 こんなことぐらいで泣くなよ、あれほど酷い目にあったって、こうして生きてきたじゃねーか!
 ああ、クソッ!
 力が、力があればよかったんだ。
 そうすれば、みんなあんな風に酷い死に方をしなくても良かったのに…俺だけがおめおめと生き残って、きっと彼の世に逝ったら謝らないとな。
 もう、こんな世界で地獄のような夢に魘されて生きていくのなんか真っ平だ。

「130万で殺しねぇ。ふーん、別に構わねーけど?で、誰を殺すんだぁ?あーでもオレ、殺し屋じゃねーよ?」

 不意に、的外れなことを言って面倒臭そうに頭を掻いている那智を、俺は呆然としたようにして見上げてしまった。いや、殆どたぶん、呆れていたんだと思う。
 コイツは一体、何を言っているんだ?
 誰をって…俺だって言ったじゃねーか!
 殺し屋だとかそんなこと、問題じゃないだろ?!
 コイツは、いったい何を言ってるんだ。

「オレー、ネゴシエーターなんだよね。まあ、必要に迫られれば殺しもするけどさー。んー、殺しは殆ど趣味だし?殺れっつーんなら殺ってもいーけどよ、別に」

「ネゴシエーターでも何でも構わないんだ!俺だ、俺を殺してくれ」

「なんで?」

 殆どキョトンとしたように、那智は俺の腕を掴んだままで見下ろしてきた。
 いったいこのワンコは、突然何を言い出したんだろうと、妙に冷めた双眸が見下ろしていた。 今までの話が一体なんだったのか…俺は眩暈を起こしそうになる弱気な脳味噌に確りしろと刺激を与えて、本当に良く判らなさそうに首を傾げている那智を見上げた。

「なんでって…もう、こんな世界は嫌だからだ。生きていくのが嫌なんだよ!嫌だから、死にたいんだ!」

 それの何が悪い?
 それなのにアンタには、こんなに言っても無駄なのか?
 そんなに俺を、蔑みたいのか?

「生きるのが嫌なのか?ふーん、じゃあ死ねばいい。そら、バーン!だ。これでたった今、お前は死にました。ハッハ!それで、生まれ変わってオレのぽちになったってワケ。知ってるかぁ?人間てヤツはなぁ、死ねば生まれ変わるんだぜ?それが同じ世界だったとしても、もうオレはお前を殺してやらない。だから次に死ぬときまで、大人しく『ぽち』でいればいいーんだよ。なぁ?」

 そう言って、那智のヤツは呆然と立ち竦んでいる俺の顔を覗きこみながら、ニヤ~ッと笑いやがったんだ。さも満足そうに、自分の言うことこそが全てだと、ヘンな自信にふふんと胸を張りながら…
 コイツはなんなんだ?
 なんと言う生き物なんだ??
 何も考えられずにグルグルする頭を持て余して倒れそうになる俺を、那智はニヤニヤと笑いながら抱き締めてきたんだ。

「可哀相になぁ、ぽち。でも安心しろよー?お前はオレがちゃんと面倒見てやるからな」

 頭に頬を寄せながら、グリグリと掌で後頭部を撫でてくる那智のその態度は、あくまでも俺を『犬』としてしか扱っていない。
 どうやら俺が、大好きな牛乳を勝手に奪われて、「何すんだよ、このバカ飼い主!」とワンワン吼えて怒っているのだと本気で思い込んでいるようだ。
 ああ、そうか判った。
 コイツを普通の人間だと思っちゃいけないんだ。
 たぶん、こんな世界に生れ落ちたコイツは、心を母親の腹に置き忘れてきた身体ばっか大きな子供なんだろう。
 玩具のようにして人間を殺すことで楽しさを感じてきた大きな子供は、どこが捻じ曲がったのか、俺を『犬』に見立てて育てることに楽しみを見出したのかもしれない。
 理解しろと言われても、理解なんか到底できないけど…俺は。
 死に損なっちまったな、とそんなどうでもいいことをぼんやり考えていた。
 これでコイツに命を助けられたのは2回目だ。
 皮肉なもんだな、死を司る神だと言って怖れられている、死を玩具にしてその掌の上で転がして遊んでいるようなヤツに、二度も命を救われるなんて…本当に、この世界はどうかしている。

「やっぱり、アンタはよく判らないヤツだ」

 殆どヤケクソでそう言ったら、那智のヤツはキョトンとして、それから何が面白かったのかニヤニヤと笑ったんだ。

「それはぽちがオレのことを良く知らないからさー。まあ、任せろって。仕事についてくればオレのことがよく判るようになって、きっとお前はオレに懐くんだから」

 またしても頭がどうかなってるんじゃないかと思うような台詞を平気で言って、那智は結構楽しそうに笑っている。その思惑や真相だとかが、もしかしたら俺の取り越し苦労なんじゃないかと思えてしまえるほど。
 那智のヤツは、本当はそんなつもりはなくて、思ったことをそのまま口にしているから皮肉になってしまうんじゃないだろうか。
 装飾されて飾り立てられた言葉に慣れすぎている俺なんかだと、那智の言葉にいちいちカッカして、卑屈になって途方もなく落ち込むんだけど…コイツはもしかしたら、そのあまりの強さのせいで刃向かうヤツとかいなくて、上辺のおべんちゃらを言うってことを知らないのかもしれない。
 それは人付き合いの上で最重要部分だって言うのに、那智はいったい、どんな風に育ってきたんだろう?
 人間はいつも、何かしら嘘をついて生きている。
 たとえばそれは、思ったことを装飾して話すことだって嘘の一種なんだし、それをしない那智と言うこの男は素直すぎるほど、ただ単に素直なだけなのかもしれない。
 だが、そのどうも腹に一物も二物も隠し持っていそうな、何か悪巧みしているようなニヤニヤ笑いの顔を見ていると、いまいち自分の考えに自信が持てないんだが…
 ますます頭がこんがらがってしまって、俺はなんだかバカらしくなって、もうどうでもいいような気になりかけてもいた。この際だ、那智が言うように仕事について行って、コイツのことを見極めて見るのもいいのかもしれない。
 俺は溜め息を吐いて、そんな恐ろしいことをどうでもいいことのようにして考えていた。
 本当にどうかしてる。
 いや。
 どうかしているのは俺の方なのかもしれない。

 俺の中の均衡が、この世界のように、ゆっくり軋んで狂いだしている。
 俺はそんな幻を見ていた…

4.雨の町  -Crimson Hearts-

 言葉は噛み砕く度に不思議なほど苦く身体中に浸透していた。
 フワリフワリと宙を歩くような奇妙な違和感に、気付けばいつも笑みが零れていた。
 両手を持ち上げてふと見下ろしてみれば、べっとりと張り付いた血生臭い液体が指の隙間を伝っていくつもいくつもボタボタと零れ落ちている。
 あまりにも当たり前すぎる日常に忘れていることが多すぎて、たまに自分が何処にいるのか判らなくなってしまった。
 世界はまるで無頓着に回転し、気怠い午後の日差しのように、どうでも良い日常に無情の光を投げ出している。
 当て所もなく流離うこの世界が回る、そんな馬鹿げた錯覚に囚われながら、オレは瞼を閉じて無常の雨を受け止めていた。

 雨が降り続いていた。
 もう、止むことはとっくの昔に忘れてしまったんだろう、酸に侵された雨は鬱陶しいぐらい空を舐めるように覆いつくす曇天の空から降り頻っていた。
 きっと、この世界のどこかで日毎、夜毎繰り返されている殺戮の血を洗い流そうと、自然の浄化作用でも働いているんだろう。
 そんなもの、人間が抱える欲望が産み落としたこんな世界では、まるで無意味だと言うのに、地球は諦めてはいないようにこんな風に四季を残していた。
 差し詰め今は、雨期に当たるんだろう。
 浅羽那智だと名乗った俺のことを『ぽち』と呼ぶあのふざけた男は、雨が好きなのか、こんな酸性濃度の強い危険極まりない、いつもは悪事なんか見て見ぬふりの機動警備隊ですらも『外出禁止令』等と言うものを発令しながら空を飛び回っているって言うのに…平気で出掛けて行ってしまった。
 今のこの荒んだ世界にも、高度成長期だった電脳文明の名残が息衝いていて、警備システムが未だに起動している。俺も良くは知らないんだが、遠隔操作?或いは何らかのコンピュータで制御されているらしいって噂は聞いたけど、その実体がどんなものかはよく判らないんだ。
 ただ、警察が使っている番犬みたいなもので、俺たちはそのコンパクトな銀色のボディが凶悪な空飛ぶ鉄の塊をコソリと『K-9(ケイナイン)』と呼んでいる。
 そいつに見つかったら最後、些細な喧嘩だって容易く通報されちまうからな。
 そんなことになったら機動警備隊の連中がすっ飛んできて、容赦なく捕獲すると収容所に連行されちまう。そうなると、生涯出てくることはないかもしれない…
 俺は実際にその場所に行ったことがないから知らないが、簡単に『収容所』と呼ばれているその場所は旧時代の産物で、第三次大戦が勃発する前まで世界中が行っていた『クリーンシステム』の名残だと言われている。
 俺たちは第三次大戦前を『旧時代』と呼んでいるんだ。
 もう、知ってるヤツなんて殆どいないんだろうけど…その当時、世界中は高度に発達した電脳文明を思う様駆使して、なんともバカらしい『浄化システム』なんて言うのを作り出して実行していたんだそうだ。
 その概要ってのがなんともお粗末で、簡単に言えば『悪事をなくして住み易い町作りをしましょう』ってのが根本のスローガンだったらしい。そうして配備されたのが警察とは別の『機動警備隊』と言う組織で、その連中が世界規模に張り巡らせた警備網が俺たちが俗に『K-9』と呼んでいる警備システムのことだ。
 機動警備隊は少しばかり形が変わっているんだが今も健在で、各主要都市には必ず配置されている。それも大規模な部隊編成だから、警備システムがワンワン吼えれば何処にいても数秒で駆けつけてくる。見つかれば最後、奴らが居座る巨大ビルの地下に設置された収容所に叩き込まれるんだ。
 引き摺って連れて行かれてたのをもう何人も見たことがあったけど…戻ってきた奴は1人もいなかった。
 だから俺たちはその収容所のことを『エル・ヘヴン』と呼んでいる。
 この世界で生きる連中の誰もが心のどこかに必ず、永遠の安らぎを求めているんだ。それはこんな世界に生まれてしまった奴なら誰だって抱える、心の闇の部分だったから、収容所でどんな極悪な日々が待っているのか、或いは生きることよりも辛く苦しい責め苦を与えられる場所かもしれないと言うのに俺たちは、まるでそこを天国か何かのように考えていた…のかもしれない。
 そうでも考えていないと、それでなくてもこの日常だって充分、極悪すぎるほど極悪な毎日なんだ。町のどこかでは必ず殺人が起こっているし、女は必ず一度は犯されている。子供は哺乳瓶の代わりにナイフを与えられて、仲間と過ごすことを教わる代わりにどれほど敏捷に人を殺せるかを生きていく中で覚えていくような、そんなクソッタレな世界なんだ。
 両足で立っている俺ですら『ぽち』と呼ばれて、首から兇悪なスパイクが禍々しい首輪を下げて町中をうろついたとしても、誰も気にも留めやしないだろう。それどころか、スパイク部分の鉄を奪おうとして襲い掛かって来る、それぐらい、無頓着で凶暴な町だった。
 ここだけじゃない、世界中がそんな風に荒んでいたからな。
 その荒んだ世界で未だに『クリーンシステム』が起動してるなんて、一体誰の悪い冗談なんだ?
 チャリッ…と無機質な音を鳴らす首輪の違和感に、未だに慣れないでいる俺はアンティークな窓枠に凭れながら冷たい雨にけぶる灰色の町を見下ろしていた。

 浅羽那智は、ちょうど『ぽち』が物思いに耽って世を儚んでいるその時、腰のベルトに無造作に突き刺した対の日本刀を両手で掴んで笑っていた。
 その血の気の失せた白い頬にはたった今噴出した断末魔の名残が飛び散り、紅い舌がペロリと伝い落ちてくる鮮血を舐めて味わっていた。
 漆黒のコートが吸い込んだ血の重みでズシリと重くなっているはずだと言うのに、那智はさほど苦にした風もなく、降り頻る雨の中で呆然と突っ立っていた。

「あーあ、また殺っちまったよ。コイツ等から聞きてーことがあったのによ」

「またまたぁ~そんなご冗談を」

 背後から呆れたようにニヤニヤと笑いながら姿を現した頑丈な体躯の男と、ヒョロリと頼り甲斐のなさそうな男が那智の言葉にヤレヤレと肩を竦めて顔を見合わせている。

「おーかたどっかのジャンキー君だろ?全く、つまんねーな」

 那智は呟くと、たった今アスファルトに上半身と下半身をバラバラに撒き散らした男たちの亡骸を蹴飛ばしながら、肩を竦めるどうやら『仲間』らしき連中を振り返った。
 その脱色し過ぎて黄褐色になった髪を持つ、どこか飄々として馬鹿にしたような、気楽そうな双眸に射竦められただけで男たちは微かに息を飲んでいた。
 しかし、流石に長い付き合いなのか、ヤレヤレと溜め息を吐きながらすぐに気を取り直したようだった。

「つまんねーつまんねー言ってろよ?それで証人どもを殺されてちゃたまんねーんだがな。ええ?」

「証人だと!?ハッハ…」

 まるでどの口で言ってるんだとでも言いたげに、瞼を閉じて口許を笑みに象る那智の単純な笑い方にも、底知れない恐怖を感じているのか、ヒョロリとした男は寡黙そうにソワソワと辺りを見渡している。

「そろそろ『K-9』が嗅ぎつける頃じゃねーか?こんな場所からはサッサとおサラバ…」

「はーん、ワンコがなんだって?」

 口許に笑みを浮かべたままで、那智は2本の刀にベットリと付着しているどす黒い血液を一振りして散らしながら、腰のベルトに無造作に突き刺している鞘に納めて黒コートの下に隠してしまうと馬鹿にしたように腕を組んだ。
 この世界に生きる住人ならば誰しもが怖れて震え上がる『K-9』の存在も、浅羽那智と言う男にはそれでも纏わりついて煩い蚊程度にしか考えていないようだと、ヒョロリとした男は薬でボロボロになったギザギザの歯をカチカチと鳴らしていた。

「まあ、ベントレーの台詞じゃねーが。『K-9』が来れば確かに厄介じゃねーか?」

「ふーん…」

 ベントレーと言う明らかに名前負けしているストリートキッズ崩れの男をチラリと見た那智は、全く面白くもなさそうに目線を落としてバラバラになってしまった亡骸を無表情で見下ろしていた。

「どーせ、後始末は『機動』の連中がするんだろ。マズソーだしつまんねーし…オレは帰るよ」

「…って、おい。ちょっと待てよ?お前、最近やたらサッサと帰るじゃねーか。ニヤニヤ笑ってるしなぁ、何かいいことでもあったか?」

 感情を読み取らせない無表情で突発的に踵を返そうとする那智を呼び止めたガタイの良い男は、腰に手を当ててニヤニヤと鋭い犬歯を覗かせながら笑っている。その顔をチラリと肩越しに振り返った那智は、相変わらず何事かを企んでいるようにニヤ~ッと笑って肩を竦めるのだ。

「知りたいかぁ?鉄虎(テツトラ)。ワンコだよ、ワンコ」

「あん?『K-9』でも落っこちてたか」

「バッカ!違うよ、違う。ワンワン吼える『ぽち』を拾ったのさー」

「あーん?」

 いまいちワケが判らないと言ったように眉間に皺を刻む体躯の良い男、鉄虎にニヤニヤと笑う那智はもうそれ以上は何かを言うつもりはないようで、そのまま片手を振って雨を蹴散らすようにして灰色の町に踏み出していた。

「那智よぉ。『下弦』が会いたがってたぜ」

 鉄虎の台詞にピタリと足を止めた那智はしかし、微かに首を傾げるだけで振り返ろうとはしなかった。
 その様子にベントレーと鉄虎が一抹の不安を覚えながら顔を見合わせている。

「まさかとは思うけどよ。那智、『下弦』を忘れたとか言うんじゃ…」

 ベントレーが恐る恐ると言った感じで訊ねると…那智は背を向けたままで両肩を振るわせた。
 その仕種には見覚えのある2人は、呆れたように肩を竦めるのだ。

「ハッハ…忘れるかよ。あの老い耄れめー。まだ生きてんのかぁ?」

「あーあー。ボスを忘れてちゃ、おめーもお終いだろーからなぁ」

「まー…『証人』を見つけ次第、会いに行ってやらぁ」

 振り返ることもしない浅羽那智は、ゆっくりとポケットに両手を突っ込むと、降り頻る雨の中を飄々と立ち去ってしまった。灰色の町には不似合いなほどどす黒い存在だと言うのに、まるで溶け込んでしまうようにして消える那智に出会う度に、鉄虎は思っていた。
 この町に落ちた一滴のどす黒い不協和音だと言うのに、那智はともすればここに生きる誰よりも、この町に溶け込んで馴染んでしまっているのではないかと。

「アイツはよぉー、死にたがっちゃいねーんだがなぁ。なんつーか、生きてることには頓着がねーからまあ、珍しいっちゃ珍しい…珍獣ってとこかぁ?」

 突拍子もなく呟いてガッハッハッと大いに笑う鉄虎を、訝しそうに眉を寄せたベントレーが怪訝そうに頭1つ分上にある顔を見上げている。
 どうやら鉄虎も少なからず浅羽那智の毒に当てられているんだろう。
 確りしてくれよぉとグニャッと細い眉を歪めるベントレーの、ジャラジャラとピアスや安全ピン、鎖と言った飾りの下がった耳に耳障りな電子音が響き渡った。
 聞き覚えのあるそれは…

「やっべ!ホラ見ろッ。『K-9』が来やがったじゃねーか!」

「そう気色ばむなって。要はトンずらすりゃいいってことよ」

「軽く言いやがって!鉄虎よ、今日も報酬はナシ!なんだぜ~」

「まあ、那智だし」

「あー…那智だしなぁ」

 ベントレーが思い切りガックリしている間にもドンドン電子音が近付いてくる。
 だが2人とも、口ほどには然程気にした風もない。
 それもそのはず…溜め息が零れ落ちるその前に、2人の影はまるで掻き消えるようにしてその場から消え去ってしまったのだ。 
 大地を踏み締めた2人の巨体が宙を舞い、信じられないことに廃墟となったビルの二階部分に着地していたのだ。割れ放題のビルの窓からワンワンと吼えながら近付いてきた『K-9』を見下ろしていた2人は、『緊急事態発生!緊急事態発生!』とがなり立てる無機質な声を尻目に那智がそうしたように、灰色よりももっと暗い町に姿を隠してしまった。

 世界が回る。
 いっそ、殺してくれと悲鳴を上げるように軋みながら…

3.君の名は  -Crimson Hearts-

 結局俺は、奇妙な男が作ったオジヤを食う羽目になった。
 でもそれは、驚くことに泣きたくなるほど旨かった。
 ああ、当たり前か。
 飯らしい飯なんて、ここ数ヶ月まともに食ったことなかったんだっけ…
 無様な姿を晒してるってのもウンザリするが、この鬱陶しい雨続きの毎日だってのに、何もかもがアンバランスなこの奇妙にチグハグな男はさして気にした風もなく淡々と過ごしているようだった。
 脇腹の傷はお陰さまで随分とよくなったのか、傷口は殆ど塞がっていた。
 雨は相変わらず灰色の町に降り続けていたし、奇妙な男が俺のことを『ぽち』と呼ぶのにも慣れてきていた。
 本当は今すぐにでも逃げ出したいんだけど、いや、正確に言えば逃げ出せるんだが…なぜか、俺はこの住み心地のいい場所から離れ難くなってしまっていた。
 男は外見や口調とは裏腹なほど生真面目なのか、部屋の掃除や炊事などは殆ど嬉しそうにこなしていたから、少し気を許してしまうと唐突に顔を覗かせる殺気が心臓の奥の血管を縮み上がらせてくれた。
 曇天の空が晴れることもなく、かと言って陰鬱になりがちな室内は常に清潔だったから、スプリングが軋む安ベッドに寝かされていても然程気にはならなかった。それどころか、いつか何かが潜り込んできて咽喉を切り裂かれてしまうんじゃないかと言う恐怖に怯えることもないその、こんな異常な世界にあっても護られているように安全な場所に警戒心の固まりになっていた心が甘えているんだと思う。
 逃げ出さないと…こんな所で蹲っていられるほど、俺はまだ堕ちちゃいない。
 男が朝から出かけた部屋はやけに広くて、俺はもう起き上がるまでに回復していたから、ベッドを抜け出すとアンティークな部屋の中を横切って窓辺に立っていた。
 もう、歩くことも大丈夫だな。
 確かめるように踏み出した足の動作に、脇腹の傷は少し引き攣れるような痛みを残すだけで、重篤な症状は訴えてこない。
 逃げ出すなら…今だと思おうとしたその時、もう降り止まないんじゃないかと疑いたくなる雨の中を、黒コートの男が道路を挟んだ向かいの街路から車を避けながら渡って来るのが見えた。
 この雨の中を、男は傘も差さない。
 あれほど几帳面なくせに、ずぶ濡れになっても平気そうな顔をしている。
 ああ、そうだったな。
 初めて会ったあの時も、コイツは雨に濡れることも厭わずにずぶ濡れになって俺を見下ろしていたんだっけ。
 虫けらでも見るような、面倒臭そうな、淡々とした冷たい双眸で…

「そのくせ、俺を犬だと言って傍に置くなんてどうかしてる」

 人間を犬だと言うこと自体、コイツの脳も大概イカれているんだろうよ。
 俺が見下ろしていることにも気付かずに道路を渡りきった黒コートの男は立ち止まると、頭を激しく左右に振って脱色しすぎて色の抜けた黄褐色の髪から水飛沫を飛ばしている。片手に紙袋さえ抱えていなければ…アイツこそ犬じゃないか。
 やれやれと溜め息を吐いて、そして俺は息を飲んだ。
 そう、黒コートの男は髪を濡らす雨水を弾き飛ばしたあと、ゆっくりと顔を上げて、目線だけを動かすようにして俺を見上げてきたんだ。
 その口許は、やっぱり何かを企んででもいるかのようにニヤ~ッと笑っている。
 俺は殆ど条件反射でバッとしゃがみ込んでしまったが、あの男、あの距離から俺が見ていることに気付いていたとでも言うのか。いや、気付いていたんだろう。
 気付いていて、知らぬ素振りをしていたんだ。
 何故かとか、どうしてだとか、アイツの中にはそう言った副詞がまるでない。
 思うままに行動しているから、その理由を問われても答えられないんだそうだ。

「ただいまー、ぽち。イイ子にしてたかぁ?…歩けるようになったんだろ?そんなところに座ってないで、来い来い」

 片手に紙袋を抱えたままでシトシトと雨水を滴らせる黒コートの男は、ニヤニヤと笑いながら窓辺の下にしゃがみ込んでいる俺を退屈そうな冷めた双眸で見詰めて手招きしている。
 この場合、近付かないとコイツは癇癪を起こす。
 それはもう、経験済みだ。
 癇癪を起こしたら最後、部屋は壊滅的なダメージを受けて、男の機嫌は延々と悪い方向へ向かっていくんだ。そんな殺気垂れ流しの男と一緒に暮らすのはウンザリするし、相手が殺そうとしないことで余計な恐怖心がジワジワと身体を蝕むから堪らないんだ。

「イイ子にしてたぽちにはぁ…そら、これをやる」

 渋々近付いた俺の首を掴んだ男に一瞬身体を竦ませたものの、このまま圧し折られて死ねば、意外と楽かもしれない。そんな風に考えていると、男は何かを確かめるように俺の首を擦っていたが、ニヤ~ッと笑って紙袋から取り出した何かをサッと嵌めやがったのだ。

「!?…なんだ、これはッ」

 ズシリと下がる首に巻きついたそれは、チョーカーなんて言う生易しいものじゃなく、ハッキリそれと判る首輪だったんだ。
 慌てて引き剥がそうとする俺の無駄な抵抗をハッ…っと瞼を閉じて笑った男は、素早く手にしていた何かでカチリッと金属音を鳴らして取り付けてしまった。

「これで外せなくなったなー?まあ、外せないよなぁ。ぽちはご主人さまがいないと生きていけないし」

 惨めな首輪をぶら下げたままで、俺は胡乱な目付きをして男を見上げた。
 首輪の形状は少し変わっていて、通常犬に嵌めるあんな感じの首輪ではないんだ。
 そもそも留具の部分がベルトのアレとは違って、先端が丸くなっているポッチがついている。そのポッチには穴が開いているんだが、それを上に来るベルトの等間隔に開いている穴に差し込む、そうするとポッチが外に向かって飛び出すからその部分に鍵を取り付けたというわけだ。
 ご丁寧に…こんな時間まで、まさかこの首輪を探していた、なんて言うんじゃないだろうな?
 別に侮蔑するでも、侮辱するでもなく、淡々としたあのほの暗い兇気を醸した双眸で見下ろすだけで、男は満足そうにニヤニヤと笑っている。
 俺は喋れるようになっても、男との会話でヤツの名を呼ぶことはなかった。
 どう言った理由でか、その理由を到底説明できるはずもないんだが、この何もかも奇妙な男は信じられないことに俺のことを犬だと本気で思い込んでいるようだ。
 犬は飼い主をご主人と呼ぶことが当たり前だとでも思っているのか、自分から名乗ることはなかった。俺も然程不便は感じていなかったから聞くことをしなかったんだけど…コイツのことを、何故か知ってみたいと思うようになっている自分が、不思議で仕方なかった。
 どうせ喚いても怒鳴ってみても、このアンバランスな男にとってそれはどこ吹く風で、僅かに突き出たスパイクが禍々しいほど鈍い光を放つこの忌々しい首輪を外してはくれないだろう。
 俺は溜め息を吐いた。

「…ぽちは、アンタのことをご主人様と呼べばいいのか?」

 溜め息を吐いたらなんか無性に悲しくなって、俺は首を左右に振りながら訊ねていた。
 名前なんて、奴隷になってしまった今の俺には必要もないことなんだろうけど…どこかで、まだ人間らしさを失いたくない俺が理性にしがみ付いてでもいるんだろう。
 素っ気無い問い掛けに、男は一瞬ポカンとしたような顔をしたが、ニヤニヤッと笑って紙袋を抱えたままで俺の頬に音を立ててキスしてきやがった。

「な、なな…ッ!?」

 顔を真っ赤にして頬を押さえる俺に、男はニヤ~ッと、鋭く尖って見える犬歯を覗かせて笑いながら紙袋を整頓されているテーブルの上に投げ出した。

「那智だよ、ぽち。ん?なんだ、名前が似ちゃったなぁ~?ハッハ…」

「な、那智?…那智?」

 動揺していた俺はふと、その名に聞き覚えがあるような気がして眉を顰めた。
 そうだ、どこかで聞いたことがある。
 那智…

「それは名前なのか?」

「…おかしなことを言うワンコだねぇ。名前に決まってるだろ?オレは浅羽那智(アサバ ナチ)」

 その瞬間、俺の全身に鳥肌が立っていた。
 ああ、なんてこった!
 苗字と名前を聞くまで思い出しもしなかった。
 いや、まさかそんな馬鹿な…そんな思いが、思い出させなかったんだろう。
 実際、その名を耳にした今だって、目の前の男があの【浅羽那智】だなんて信じられないでいる。

 浅羽那智…ソイツは日本刀を愛用している殺人鬼だ。
 いや、正確に言えば用心棒。
 そう言えば、こんな言い方もある。
 何よりも殺しが好きな殺し屋とでも言うか…ああ、ピッタリな表現だな。
 その実際の姿を見たことはなかったが、街をうろついていれば嫌でも一度は耳にした名前だった。大概が、何処其処の町で実力者が殺られた、その仕業は大方アサバだろう。何処其処のエリアで大量殺人があった、大方アサバを狙った馬鹿どもが返り討ちにでもあったんじゃねーか。ナチがこの街に戻ってきた、また犠牲者が出る、ヤツは狂った殺人者だ…などなど、凡そ負けると言う言葉が出てこない、最後には兇気だけが住民を震え上がらせて、月のない夜の人影を完全に消し去らせていた。
 そんな恐怖をベッタリと俺たち一般人の背中に塗りたくっている張本人が、今目の前にいる奇妙なこの男だと言うのか?

 動悸が激しくなって、渇いた唇を何度も舐めながら、全身の毛穴と言う毛穴から嫌な汗をビッシリと掻いている俺は、首許を締め付ける違和感を思い切り訴えてくる首輪を満足そうに笑いながら触れている男、浅羽那智を凝視していた。
 実際に会ったことなんかなかったし、これからだって会うようなレベルじゃないと高を括っていた。
 浅羽那智は、この廃頽して荒んじまったあらゆる国から来たならず者が跋扈する無法地帯にあってでも、充分怖れられる存在だった。
 それが何を意味しているのか、チンケなコソ泥の脳味噌でだって理解できる。
 浅羽那智を殺れば箔がつく、この世界で顔が利くようになる…そんな噂を信じて何人の豪胆な連中が荒れ果てたアスファルトに命を吸い込まれたか。

 浅羽那智?
 コイツが?
 あの浅羽那智だと言うのか?

 俺に浅羽那智だと名乗った奇妙な男は、とてもそんな存在だとは思わせもしないアンバランスな雰囲気を漂わせながら、テーブルに投げ出していた紙袋をゴソゴソと漁りながら上機嫌で呟いた。

「飯を作ってやるよ。今日はチキンのリゾットかなぁ~?」

 嬉しいだろ?とでも言いたそうにニヤニヤする男を凝視して、どうやら那智らしいその男を見詰めたままで俺はゴクリと息を飲んだ。
 コイツと一緒にいれば、或いは俺が望む幸福が手に入るのかもしれない。
 目の前にポッカリと深淵の口が手招くように開いているのかもしれないと言うのに俺は、もう後には戻れない地獄の日々だとしても、その先にある幸福だけを夢見ながらまるで夢遊病者のようにフラフラと歩き出そうとしていた。

 欲しいものはそう、永遠の安らぎだった…

2.犬  -Crimson Hearts-

 いつの間にか気絶でもしていたのか、俺は鈍い感覚に翻弄されながら重い腕を持ち上げようとして、脇腹に突き刺さるような激痛を感じて呻いてしまった。
 ここは…どこだ?
 ともすればその激痛に億劫になってしまいそうになる瞼の重みに逃げ出しそうになる思考を、ふと、胸元に乗せられた何かの感触で身じろいだ途端にハッと目が覚めた。
 鬱陶しくなるほど見慣れた曇天から降りしきっていたあの雨はどこへ行った?
 今にも飛び出しそうになる心臓の音に額にビッシリと嫌な汗を張り付かせた俺は、そんな風に、異常な事態に思考が追いつかず息をするのも忘れていた。
 こんなメチャクチャな世界では、気を許せば最後、骨の髄までしゃぶりつくされてしまう。
 死ぬことよりも残酷で、生きていることよりも過酷な仕打ちが待ち構えているんだ。
 逃げ出さなければ…冗談みたいに笑い出す全身には力が入らなくて、気付けば脇腹には激しいくせにジワジワと追い詰めるような鈍痛が舐めるように張り付いてやがる。
 何が、起こったんだ。
 何が、起こってるんだ。
 力の入らない腕を持ち上げて…いや、そんな気分になっているだけで、本当は1ミリだって動かせていない腕は指先をピクリと動かしただけで、俺の意図する脇腹を押さえるって行為を端から無視しているようだった。
 息苦しく胸を喘がせた俺はふと、遠く近くに鳴り響く耳鳴りの向こう側に、どこか懐かしい雨音を聞いて漸く動かせる首を捻って音のする方に、できるだけ現実感を取り戻そうとするかのように視線を動かした。 
 アンティークな室内にある唯一の明り取りの窓の向こうには、幾つも玉を結んで零れ落ちていく水滴がまるで混沌とした外界からこの部屋を切り離したように孤立させているように思える。
 …ん?部屋だと。
 ああ、そうか。
 この見慣れない場所は部屋なのか。
 そして自分が寝かされていたのが重厚感を持つ部屋にしてはやけに安っぽい、スプリングもヘタれているような軋みの耳障りなベッドであることに驚いた。
 どんなミラクルが起きて、俺はベッドに寝てるんだ?
 いつもは殺人鬼紛いの泥棒に怯えながら廃ビルを点々とする生活をしているから、こんな風にマットレスの硬い安っぽいベッドとは言っても人間らしい寝具で寝るのは久し振りだったんだ。
 もう、最後にベッドで休んでからどれぐらい経つのか…考えるだけでウンザリした俺は、できるならこのまま死ねたらいいのにと瞼を閉じた。
 こんなヤケクソな世界で、何が楽しくて生きていけると思う?
 毎日怯えながら暮らす生活に、もうほとほとウンザリしているんだ。
 できるなら、あのまま死なせてくれればよかったのに…
 ん?そうか、そうだった。
 俺を拾って帰ると言ったあの男…アイツはどこにいるんだ?
 重くなりすぎていた瞼を億劫そうに押し上げた俺は、恐らくは、あの言葉が事実なら、俺を犬か猫のように拾って帰った男がいるはずだ。
 脱色して痛んだ黄褐色の髪と、身内に宿した抑え難い兇悪な殺気を溢れかえらせているあの鋭い双眸を持った、明らかに人を小馬鹿にしているに違いないと思える軽めの口調の、あのチグハグな男…
 そこまで考えてギョッとした。
 ボンヤリと窓に向けていた視線を傍らに移したその時、不意にジッと俺を見詰めている双眸に気付いたからだ。
 あの、深々と身体の奥深い部分まで侵食していくような、恐ろしいほど冷静な醒めた視線。

「やっと起きたかぁー。もうね、死んじまったのかと思ったけど。息してるじゃん。死に損なったなぁ、あぁ?」

 男は独特の尻上がりな間延びしたあの軽い口調でそう言うと、ハッ…と笑って瞼を閉じて首を左右に振っている。
 それも、俺の胸の上に腕を投げ出すようにして横になったままでだ。
 あの息苦しさはコイツの腕の重さだったのか。

「またダンマリだろぉ?もう慣れたもんね。はーん、気にしてないさ」

「どう…ッ」

 どうして俺を?
 どうして横にいるんだ?
 どうして拾った?

 口から溢れ出しそうになる言葉は後から後から咽喉を迫り上げてくると言うのに、肝心の声が出ない。
 いや、正確に言うなら腹部の激痛と、高熱でも出ているのか、渇き切った咽喉に何かが引っ掛かったようになっていて咳き込みそうになってしまったんだ。
 そんな俺のことなど意に介さない男は何が物珍しいのか、マジマジと顔を覗き込んできて、それから楽しげにハッ…と笑って瞼を閉じてしまった。
 そう言えば、コイツは最初からこんな笑い方をする。
 人間が目の前にいるのに、コイツは瞼を閉じて笑いやがるんだ。
 どうせ、俺なんかは取るに足らない虫けら同然なんだろうけどな、この世界でそんな笑い方をしていたらそのうち確実に命を落とすだろうよ。
 まあ、俺には関係のないことなんだが…

「へえ、喋れそうなのか。だけど喋れないんだよなぁ?だってお前、犬だからー」

 は?
 無謀なほど殺気を纏って、そのくせ威嚇すらもしない獰猛な目の前の人間は、張り詰めた緊張がブチ切れようが緊張し続けていようが、そんなことはお構いなしで気が向いたら襲い掛かるんだろう気紛れそうな口調で、上半身を軽く起こして頬杖をついたままニヤニヤと笑っている。
 何を言ってるんだ?
 俺が、…犬?

「ふざけるな」

 発音は完璧のはずだった。
 当たり前だ。
 だが、自分が思っているのとは随分とかけ離れた、嗄れた声が引っ掛かりながら途切れ途切れに耳に届いた。
 無様な姿に泣きたくもなるが、この一言で、この気紛れな男が笑って殺してくれるならそれはそれでもいいかと思う。
 気が向いた程度で俺から大事なものを奪いやがって。
 いっそ、その手で殺すといい。

「ハッハァ!なーんだ、喋れるんじゃん。いいもの拾ったなぁ…喋る犬か。名前をつけないとな」

 自分勝手にポンポンッと話し倒す男は、やはり当初感じたようなあの凄まじい冷酷さは微塵もない。
 と言うよりも寧ろ、その話題の中心が俺でさえなければ、何故か憎めない取っ付き易い男だとすら思えてくるから不思議だ。こんな世界で、こんな風に生きていながら、このチグハグな男はどこまでもアンバランスな存在感だと思う。

「犬、イヌ、いぬー…《ぽち》、うん、ぽちがいいなぁ」

 俺は嫌だ。
 そう言いたいのに、そんな時に限って俺の咽喉は言葉を発することを拒否でもするかのように、まるで馬鹿にしたようにヒューヒューと気管支を鳴らしていた。

「ぽち?腹減らないかぁ?熱があるみたいだからさー…オジヤでも作ってやる」

 ニヤ~ッと何やら悪巧みでもしていそうな顔で笑った男をマジマジと見詰めていた俺の茹って腐りそうな脳味噌は、それでも、このお気楽なバカがどうやら俺を殺してはくれないんだと言う事実を認めたようだった。
 生きることも、死ぬことすらも凌駕する最大限の辱めを、この男は俺に無条件で投げつけようとしているんだろう。

 この世界に生きながら、今更俺は泣きたくなった。
 あの恐ろしいほどスッポリと全身を覆っていた殺気の在り処が、この男の計り知れない部分から吐き出されているのだとすれば、俺のようなチンケなコソ泥が到底太刀打ちなどできるはずもない。
 足掻けば足掻くほど、底なし沼に捕まって、ジワジワと息の根が止まるまで沈んでいく犠牲者のように、這い上がれもせずに溺れていくに違いないんだ。
 弱者は常に強者に喰われてしまう世界。
 理不尽が正当化される異常な世界。
 そのくせ、その全てが驚くほど当たり前のことであり平凡であって、そしてあまりに日常的な日々で…
 だからこそ、願わずにはいられない。
 殺してくれればいいのに。

 こんな世界にはもう、ウンザリだ。