Act.4  -Vandal Affection-

 奇妙な光景だった。
 宮原は発狂し兼ねない勢いで叫びまくる桜木の口を塞ぐようにして抱きかかえながら、怯えたような目をして上空に枝を張る木を睨み据え、小松は殆ど腰を抜かしたような状態で失禁していた。レンジャーの連中は夢中で発砲しまくり、栗田が虚ろな目をして口許から泡を吹いている。
 何が起こったのかなんて聞きたくもない。
 惨状の凄まじさは俺が見たあらゆるモノの中で最高に匹敵するほど惨たらしかった。
 死んでいるレンジャーもいる。その死に様が尋常でない。
 俺の前に放り出された頭は、ここにはいなかったはずのレンジャーのものだったんだと判った。
 なぜかって、臓腑が飛び散った血溜りに体をクの字のようにへし折られて投げ出されている死体には、全員頭がついているからだ。半分以上ない顔の中からここではない世界を虚ろに見つめている目と目が合って、俺はその場にへたり込んで吐いてしまった。

「ぐえッ!ぐえッ!ぅおぇぇッ」

 ビシャビシャッと、今朝食ったサンドイッチが消化しきれていなかったのか、そのまま吐き出された。
 風が、熱帯らしいムッとする風が、血の匂いを撒き散らしている。

(な、何が起こってんだよ!?)

 吐くものがなくてキリキリと痛み出す胃の部分を押さえながら、俺は口の端を拭ってそれでも懸命に立ちあがった。理解しなくては、この状況を。
 ない知恵をフル回転させて現状打開の策を探す。

(見つかるかっての!)

 それでなくても須藤あたりに言わせれば”脳味噌筋肉”の俺だ。その俺が考えてどんな知恵が浮かぶって言うんだよ!

「ぎぃゃあああああああああああああああああッッ!!!!!」

 半ば絶望したように呆然と立ち竦む俺の目の前で、レンジャーの一人がまた襲われた。
 それは、その異常な化け物は、蛇らしかった。
 らしい…と俺が思うのは、その姿が、今まで見たこともないほど巨大だったからだ。
 上空から降るように落ちてきた巨大な頭部は三角形の形をしていて、毒蛇だと判るけど、俺はこんなに大きな毒蛇は見たことがない。いや、普通の蛇でだって見たことがない。
 アナコンダやニシキヘビにだって、こんな大きさのヤツなんていないだろう。
 レンジャーの断末魔さえ美味そうな顔をして、蛇のくせに!…なぜかギザギザに生えた歯で、巻きつかれて苦しそうにもがく彼の肩の肉を食い千切った。ぶしゅうッと動脈でも切れたのか鮮血が噴き出して、ああ、あのレンジャーはもう駄目だと他人事のように俺は成す術もなく立ち尽くしていた。次は俺の番かもしれないのに…

「ヒギィッ!ギィッ!ギィッ!」

 言葉にならない悲鳴で助けを求める仲間を、レンジャーたちですら成す術もなく見てるだけなんだ。この状況で、何かできるのはスクリーンやブラウン管を通した別の世界で生きているヒーローぐらいだ。一般人の俺に何ができるって言うんだ。

「ぎゃああああああ!!!」

 最後の断末魔を残して、レンジャーの頭部が弾けた。
 目玉が飛び出し、体が奇妙なほどぐにゃりと曲がる。垂れた舌は驚くほど長くて、変な色をしている。血と、圧力のせいでどす黒くなった頭部は、通常の人間の頭より2倍以上膨れ上がっていた。

「う、うぉおおおおおおおおッッ!!!」

 俺は、きっとその光景を目の当たりにしてキレたんだと思う。
 その部分の記憶が曖昧だからだ。
 弾き飛ばされて転がっていたライフルを拾い上げて、滅多矢鱈に撃ちまくった。もちろん、銃なんて撃ったことも手にしたこともない。ゲームで遊び半分におもちゃの銃を振り回したことはあるけどな。
 反動で肩をやったかもしれないけど、その時の俺にはそんなこと気にもならなかった。
 腹に鈍い音を立てて幾つかの銃弾がヒットすると、それまで美味そうに食っていた獲物の体を落として悲鳴を上げた大毒蛇は、ギザギザの歯の中でも一際鋭く尖った、二対の血に染まった牙をギラつかせながら俺にめがけて鎌首を持ち上げた。
 それでも俺は手なんか止めなかった。撃って、撃って、撃ちまくって弾がなくなったって撃つつもりでいたんだ。その様子に仲間の惨状に身動きが取れないでいたレンジャーたちが漸くハッと我に返って、今度は奴の後方から発砲した。

「ギッ」

 鋭い悲鳴のような声を上げて、奇妙な緑色の血を撒き散らしながら大毒蛇は退散しようとした。
 その時。

「ぎゃあ!」

 悲鳴は失神しかけていた栗田の方向から上がった。
 行きがけの駄賃とばかりに、毒蛇らしく、奴は毒液を噴き出して注意を引いている内にジャングルの奥に姿を消してしまったんだ。

(何だったんだ、アレは…)

 肩で息をするのも束の間、両目を覆ってのた打ち回る栗田の元に俺は駆けつけて片膝をついてしゃがみ込んだ。もう役に立たなくなったライフルは、それでも護身用のつもりで肩に下げている。

「大丈夫か!?栗田!」

 何かが、まるで髪の毛が焼けるような異臭が鼻をついて、俺は栗田の上半分の顔が焼けているんだと判った。奴の毒液は硫酸系か…だとすると、あの頭部に焼け焦げた痕はなかったから、別モノが他にいるってことか?

「ひぃ!ひぃ!ギャウッ!」

『救護箱を持って来い!…ああ、だがこれじゃもう駄目だ。顔が溶けてる』

 俺を押し退けるようにして駆けつけてきた壮年の男は、やがて力なく荒い息を繰り返すようになった栗田の、その覆っていた腕を退かしながら一瞬息を飲み、それから首を左右に降った。
 その行動で、ああ、栗田はもう駄目なんだと思った。
 思わず目を背けたくなる惨状は、人間の、本来なら目のある部分から額の辺りにかけて肉は溶け落ち骨も溶けて、どす黒く燻る空洞がポッカリと口を開いていたんだ。

「きゃああああああッ」

 唐突に鋭い悲鳴を上げた桜木にビクッとして振り返った俺と壮年のレンジャーの前で、まるで事切れたようにいきなり桜木は失神した。
 もう堪えられなかったんだろう。
 でも俺は、そんな桜木のことがちょっと羨ましいと思った。

 みんな無口だった。
 ありったけのもので炎を起こして、残された俺たちは膝を抱えながら体を寄せ合っていた。

「遅いな…」

 ボソッと、宮原は俺が考えていたのと同じ事を口にした。
 桜木と小松は死んだように眠っている。

「レンジャーのおっさん、大丈夫かな…」

 残された二人のレンジャーの顔色を見ると、俺たちと同じぐらい蒼白になっていて、人間の顔色がどこまでも変化できることを知った。
 そのレンジャーを代表して、先程の壮年の男が遺跡に向かったんだ。
 俺も行くと言ってみたけど、たった二人のレンジャーだけ残して行くのでは心許無い、と言って止められてしまった。

「君は強い。ここに残って他のメンバーと彼らを護ってくれ」

 と、宮原が訳してくれた。
 そう言われると、駄々を捏ねるわけにもいかず、俺は仕方なく膝を抱えて彼を待つことにしたんだ。
 俺だって、本当は強くなんかない。
 ただ、ここにいるのが嫌だっただけなんだ。亜熱帯特有の湿度のある熱さは、死体を腐らせるのが早い。生臭いような吐き気のする腐臭と、夥しい血痕の跡を見るのが本当に、本当に嫌だった。
 死体は俺とレンジャー三人と宮原で埋めたんだけど、血液は確実に腐っていく。
 そうこうしてるうちに遺跡の連中が気になって、代表して壮年のレンジャーが様子を窺いに行くことになったんだ。いつまたあの蛇が襲ってくるか判らない、この密林の中をたった一人で行ってしまった。そして、その帰りが遅い。

「やっぱり向こうも…」

 そう言いかけて、宮原は口を噤んだ。
 言ってしまうと、もう後戻りができないような気がしたんだと思う…と言うか、今のこの状況だって充分後戻りなんかできないんだけどな。

「こうしていても埒があかねぇ。おい、宮原。このおっさんたちに弾を寄越せと通訳してくれ」

 徐に立ちあがる俺を宮原とレンジャーは驚いたように見上げてきたが、俺がそう言うと、やっぱり同じことを考えていたのだろう、宮原は素直に訳してくれた。

『正気か!?』

『ここにいる方が安全なんだと彼に伝えてくれ』

 二人は同時に声を発したが、賢い宮原は二つともきちんと訳してくれた。

「ばっかだな!ここは密林なんだぜ?何が出るか判らない場所なんだ。どこにいたって安全かどうかなんて判るかよ。それよりも、今は少しだって仲間がいた方がいい。向こうも、救援を待ってるかもしれないし…」

 俺にしては上出来の言葉だったと思う。
 そうかどうかは判らないけど、レンジャーは顔を見合わせていたが渋々弾の詰まった箱を1ケースくれた。そして、弾の詰まったライフルを、護身用にしていたライフルと換えると言ってくれたが、それはありがたく辞退した。
 この銃は俺を護ってくれたんだ。
 目と鼻の先にある遺跡に行くために、俺は大きく息を吸い込んで密林へと1歩を踏み出していた。

Act.3  -Vandal Affection-

 夜明けからスコールが降り出したが、熱帯の雨は唐突に上がって、俺たちの作業の手を止めるほどではなかった。体も濡れたけど、すぐに乾くから平気だとコンカトス半島に良く来ているジジィ博士は言ったが、俺も別に気にならないから無視することにした。

「ふわぁ~」

 盛大に欠伸をして目許の涙を拭うと、周辺警備をしているレンジャーの1人、タユの奴がクスッと笑う。
 くそう、元はといえばコイツのせいなんだ。
 あの後、コーヒーで目が冴えた俺に遺跡まで散歩をしようと言い出して、俺はジジィ博士に断りもなく入るのはいけないんだと言って断ったけど、言葉が判らないせいで結局強引に連れ出されてしまった。全くの漆黒の闇の中、俺はタユの腕だけを頼りに前進したが奴は懐中電灯を懐に隠していて、月明かりに浮かび上がる遺跡を照らして見せてくれた。

「すげぇなぁ。明日、ジジィ…じゃなかった、倉岳博士がいよいよここに入るんだぜ」

 タユは静かに笑っていたが、俺の言葉なんぞ判っちゃいねぇんだろう。
 でもま、感謝しないとな。
 みんながまだ入らない場所に連れてきてくれたんだからさ。

「サンキューな、タユ」

「?」

 ニコッと笑うだけで首を傾げるこいつは、いい奴だ。うん、きっとそうだ。
 …とまあ、そんな訳なんだが、結局、悪いのは俺か?
 タユの行為を無にしないように、ありがたく胸に仕舞っておこう。

「なんだ、佐鳥。何時の間にタユと親しくなったんだ?」

 須藤が訝しそうに俺と、茂みの向こうでライフルを抱えて密林の奥を凝視しているタユの横顔を交互に見比べていたようだが、不機嫌そうに腕を組んだ姿勢で声を掛けてきた。

「親しくって…いやぁ、別にたいしたことじゃないんだ。言葉も通じないし、何となくかな」

「なんだ、そりゃ」

 遺跡の周辺に黙って入ったってこともあるので、俺がなんとか取り繕おうとチグハグなことを言うと、須藤はあからさまに訝しそうな表情をして眉間に皺を寄せる。

「どちらにしろ、あまり足手纏いなことはしてくれるなよ」

 神経質そうな表情に険を走らせて、勝手なことを言い散らすと須藤はさっさと行ってしまった。
 なんだ、ありゃ。

「佐鳥くん。申し訳ないんだけどこれをあれに替えてきてくれないかな?」

「ほいッス!」

 奇跡の12名に選ばれた小松雄二が申し訳なさそうに、と言うか、オドオドしたように緑色のバッグを差し出すのを受け取って、彼の言った【アレ】を探した。

(あり?ないや。誰か持ってたのか?)

 俺は頼まれた荷物を探して右往左往する。
 そろそろジジィ博士と須藤、他6名が例の先古典期のマヤ文明で知られるエル・ミラドールにあったティカル神殿に似た遺跡に入るみたいだ。
 ゾロゾロとそれぞれに何やら持っている。

「あ、【アレ】だ。まっずいなー、小松に言わないと」

 そうして徐に小松のところに引き返そうとした時、不意に、誰かに見られているような気配がして俺は背後の遺跡を振り返った。

「…?」

 昨夜感じた、あの奇妙な雰囲気に似てる。
 なんだろう、この気配は…
 俺は何故か酷く不安になった。
 その時はもう、俺の頭の中に【UMA】のことはなかった。
 誰かの悪戯だろう、そう決め付けてもいたし、タユたちの態度にもそんな噂が嘘のように思えていたんだ。
 だからなのかもしれない。この、得体の知れない腹の底から沸き上がるような恐怖は―――…
 嫌な胸騒ぎがする。

「すまん、小松。【アレ】、実動隊の連中が持ってっちまったみたいだ」

「ええ?そうか、困ったなぁ。あれがないと倉岳博士の仰られた石碑の解読ができないのに…あ、ありがとう、佐鳥くん」

 困惑するように眉根を寄せていた小松は、俺が立っていることに気付いて慌てたように頭を下げた。

「いいってことよ!…でも、必要なんじゃないのか?なんだったら俺が…」

 遺跡まで取りに行ってもいいし…と言いかけたが、小松は困ったように笑って首を左右に振った。
 ちっ、この俺が行きたかったのに。

「うん、大丈夫。なくても何とかできると思うから」

 そう言って持ち場に戻る小松の後姿を見送りながら、俺はふと、警備に来てる連中が少なくなっていることに気付いた。

(あれ?タユもいねーや)

 暫く考えたけど、そうか、実動隊の連中について行ったんだな、と判った。
 アイツ、見た目よりも結構強そうだったからなー…あれ?でもどうして遺跡に入るのにレンジャーの連中がついていくんだ?
 ああ、そうか。未知の遺跡だもんな、こんな密林だし何が棲みついてるか判ったもんじゃねーからな。
 残ってるのは…俺と小松、宮原に栗田、あと学生では紅一点の桜木ぐらいだ。
 それぞれが黙々と今日のノルマを無難にこなしているけど、雑用係の俺としてはやることがポッとなくなっちまった。人数少ないと、頼まれる用事も少なくなるんだ。
 で、なんとはなしにブラブラとジャングルの中を散歩することにした。
 奴らの声で帰ることだって可能な範囲の限られた散歩は、それでも俺に息を吐かせるには充分だった。汗だくになって動き回るのも嫌いじゃないが、こうしてのんびり異国の土地を散策してみるのも悪くない。
 毒蛇だとか毒蜘蛛なんかにも遭遇できて、おお、ここは本当に密林なんだな!と、実感したり。

「おっと、そろそろ戻らないと」

 気付いたら随分と遠くまで来ていて、今朝須藤に言われたばかりのことを思い出した。

(俺たちがいないからと言って、物見遊山でジャングルを見て回ろうなんて思わないことだ。ここは未知の土地だし、何が出てもおかしくないからな)

 たった今、毒蛇と遭遇すれば嫌でもその言葉に真実味が増してくる。
 そうだ、この密林にはUMAだっているかもしれないんだ。
 密林に吹く湿気を帯びた暑苦しい風に吹かれながらも、寒気を覚えた肌には鳥肌が立っている。たとえそれが偽物だったにしても、こんな雰囲気だとあながちリアルに思えてしまう出発前に見せられたあの写真が、脳裏を掠めて恐怖心を呼び起こさせるんだろう。
 慌てて踵を返そうとする俺の前に何かがドサリッと降ってきた。

「?」

 訝しく思いながら足元に無造作に転がる奇妙な物体を見下ろす。
 そして───…

「きゃぁぁぁぁぁーーーーーッッ!!!」

 突然、密林に響き渡る女の悲鳴が聞こえ、続いて乾いた銃声が数度繰り返し発砲された。
 銃声って、乾いた音なんだなとか、あの声は桜木かなとか、どこか遠くでそんなことをぼんやりと考えていた。目の前にある現実が理解できないのに、遠くで起こっている非現実的な銃撃戦なんて気にできるほど余裕はない。
 俺は、足元に転がる物体から目が離せないでいたんだ。
 こめかみから頬に向かって流れ落ちる汗も、めいいっぱい開ききった双眸も、全身総毛だっている体も、何だか全部が嘘みたいで。
 息が、俺の息が、漸く耳元に届いてきた。
 一瞬のフラッシュバックの後。
 これは嘘なんだと笑いたかった。
 足元に転がるそれは、顔半分を食い荒らされて眼窩が虚ろな空洞をさらす、人間の頭部だったんだ。

Act.2  -Vandal Affection-

 亜熱帯地方特有の密林は、風に湿気があって日本とは違う暑苦しさがある。
 荷物係の俺は、博士を手伝ってあれやこれやと最新機器と睨めっこをしている須藤を羨ましく思いながらも、太古の昔に生きていた人々が残した遺産を前に感嘆の溜め息を洩らしていた。
 鬱蒼と生い茂る下ばえの草と大木に囲まれて、その遺跡はひっそりと眠っている。
 今日から博士たちの実動隊はこの遺跡を眠りから目覚めさせるんだ。
 ゾクゾクするほど楽しいけど、運搬部の俺がすることと言えば不要になった荷物を縛って保管したり、みんなのできない雑務をしたり、ケーブルを到るところに張り巡らせたり、飯を作ったりと、専ら雑用ばかりだ。
 今だって肩に重い機材の入った袋を下げて、汗だくになりながら密林の中を右往左往している。

「佐鳥くーん!ごめん、これも持って行ってちょうだい」

 人遣いの荒い三浦女史が大声を張り上げて俺を呼ぶ。
 そう言うことは、頼むからさっき言ってくれよな。あんたの前をほんの1分前に通ったじゃないか。

「佐鳥くんってば!」

「へいへい。そんなに怒鳴らなくても聞こえてますよッ!」

 俺は肩から重い袋を下ろし、三浦女史の所まで走って行った。

「ねえねえ、この遺跡ってちょっと変じゃない?」

「は?ヘンですか?」

 奇妙なグッズ一式の入った袋を差し出しながら三浦女史がコソコソと言うから、俺はそれを受け取りながら後方にある静まり返った遺跡を振り返って見た。木々の枝の隙間から射し込む陽射しに、その姿は荘厳な雰囲気を醸し出している。
 マヤ文明で有名な、ティグレピラミッドの形に良く似ている。でも、どちらかと言うとエル・ミラドールにあった小規模なティグレ神殿の方があってるかな。

「どこら辺がヘンなんスか?」

 俺にはさしておかしな所は見当たらなかった。コンカトス半島では珍しくないテの遺跡だ。

「ほら、あの紋章を見て。ここら一帯の豪族のものとは明らかに違うじゃない。なんだかこう、もっと現代っぽい匂いがするのよね」

 32歳と言う年のわりには若々しく見える三浦女史は、顎に右手の人差し指の第1関節を押し当て、興味深そうにピラミッドの頂上付近にある小さな紋章を食い入るように見つめている。

(現代っぽいねぇ…)

 未だここらいったいの時の豪族を把握しきれていない俺としては、そんことを言われても首を傾げるしかない。こんな時、須藤はとっても役に立つ。

「須藤に聞いたらどうですか?俺なんかと違って、ぜってぇ予習とかしてきてると思うから」

「あら!嫌よ。あたしは佐鳥くんだから話してるの。他なんてオタンチンよ」

 オタンチンって…

「佐鳥!見取り図を持ってこい!」

 博士と何やら話し込んでいた須藤が腰に片手を当てて俺に腕を差し出している。

「へいへい!」

 …ったく、人遣いの荒い連中だ!

 渡航日前の1週間は、本来予習復習の為に空けられている時間だった。
 どうせ運搬部なんだからと、俺はバイトに明け暮れて体力をもう少し養っておくことにした。そんな奴、考古学学科にゃいないと思うだろ?チッチッチ、考古学ってのは結構体力の要る分野なんだ。だから俺のようにガテン系でバイトしてる奴は結構少なくない。なんたって女の子だっているぐらいなんだぜ。
 ま、俺ほど働いてる奴はいねぇけどな。

「光太郎ぉ~、知ってっか?」

 寮の同室であり教育学科の御前崎が、胡乱な目付きで寝転がってる俺を上から覗き込みながら唇を尖らせた。

「知らん!お前の好きなアユなんて知らん」

 魚ぐらいしか…と言おうとして、俺は奴に脇腹を蹴られてしまった。

「アウチッ!」

「真剣に言ってるんだぜ!あのなぁ、お前らが今度行く遺跡のある、ほら、なんて言ったかな?コカ?コカトリスだっけ?」

「コンカトス」

「そう、それだ!」

 そう言ってポンッと拳を掌に打ちつけた御前崎は頷いて、そして徐に俺の横にどっかりと腰を下ろした。

「コンカトスがどうしたんだよ」

 日夜のバイトでヘトヘトに疲れた体を長々と横たわらせていた俺はむくりと起きあがると、傍らでやけに神妙な顔つきをした御前崎に眉を寄せる。

「あのさぁ、お前ってちゃんと自分が行く国のことを調べてるか?」

「はぁ?ヤダよ、面倒くせぇ」

「お前なぁ…」

 御前崎は呆れたように息を吐いて、苛々したようにビシッと人差し指を突き付けて来た。
 人を指差すなんていけないんだぞ。…と、言ってやろうと思ったけど、御前崎の迫力は半端じゃなくて、俺は取り敢えず言い訳を試みた。

「地図を見るってだけでも頭が痛くなるんだよな。ましてや国家情勢なんて関係ないっての」

「バカか?お前はバカか?…おいおい、その頭ん中は本当に脳味噌が詰まってんのか?筋肉じゃあないだろうな」

 真剣な表情で俺の頭を両手でガッチリ掴んだ御前崎は、これでもかと言うほど前後に揺さぶりやがる!

「な、なにすんだ!この野郎ッ」

「極めて簡単なインターネットって手があんだろう!?この頃、ネットサーフィンしてると決まってUMA関係のページに飛んじゃうんだよな。つーのも、お前が行くコンカトスをW-TRENDYで検索したらヒットするんだよ」

「UMA?」

 聞き慣れない単語に俺が首を傾げると、大丈夫かなぁとでも言いたそうに眉を顰める御前崎は、呆れを通り越して本気で心配しているようだった。

「未確認生物のことだよ。なんでも、コンカトス半島に広がる密林にそのUMAが出没するらしいぜ」

「おおかたデマじゃねぇの?ネットの世界はそんなの多いって聞くし」

「そうとも一概には言えねぇんだぜ。プリントアウトしたんだけど…」

 そう言って御前崎はよれたジーパンのポケットからクシャクシャの紙を取り出した。
 おいおい、お前こそ人に何か見せる時に、その資料をクシャクシャにしてるのかよ。たぶん、半分も見れないんじゃないのか…

「…?」

 俺は最初、それが何であるのか判らなかった。
 緑が生い茂るジャングルの中、何かがぶら下がってる。
 何かが…

「ぅぐっ!?」

 思わず吐きそうになって口許を覆ってしまう。
 それは、そのプリントアウトされた代物は…木の上にぶら下がっていた人間の首だった。
 いや、首と言うよりもなんて説明するべきか…本来あるはずの下半身がなく、背骨だとか内蔵が引き摺り出されて剥き出しになっていて、その先に頭部がだらりと垂れ下がった血塗れの肉の塊とでも言うべきなんだろうか。へたなスプラッター映画を見るよりも胃にきた。

「な、なんなんだよ!?それッ」

 俺は思いきり尻でいざって後方に飛びのくと気味の悪いその紙を投げ出していた。

「だから、UMA。それも、どうやら飛びきり狂暴な」

 どこか遠くから呟くように、俺の投げ出した紙片を拾いながら、御前崎はやけに冷静な声音でそう言ったんだ。

(アレってなんだったんだろう…)

 昼間の重労働でクタクタになってるんだから、ぐっすり眠れるはずのテントを抜け出すと、俺は警護として雇われている地元のレンジャーの連中が囲む炎に仲間入りさせてもらって、炎から舞い上がる火の粉が満天の夜空に吸い込まれていくのを見上げながら、出発前に御前崎に見せてもらった写真のことを思い出していた。
 下半身を食い千切られて、上半身だけ、まるで襤褸切れのように投げ出されていた無残な死体。
 思わず胸が悪くなって、俺は眉を寄せた。
 いや、あんなモノはきっと誰かの、性質の悪い悪戯なんだろう。
 あんなことが現実に起こってたりしたら、それこそ世間が黙っちゃいないだろうし…
 さっきから隣りの、迷彩服に身を包んだ俺と同い年ぐらいの男が、そんな風に物思いに耽っている俺にやたらと話しかけてくる。

「ごめんな、俺、言葉が判らねぇんだ。須藤とかだったら、全然OKなんだろうけど」

 地元の言葉で陽気に話しかけられても、勉強不足の俺には理解なんて到底できそうもない。日本語で申し訳なく謝ると、若い男は暫く何かを考えているようだったが、徐に自身を指差した。

「タユ。タユ=キアージ」

「…?ああ!お前の名前か?そうか。じゃあ、俺。俺な?コータロー。コータロー=サトリ」

「コータロー」

 ぎこちなく自己紹介するとタユの奴はすぐに理解したようで、屈託なさそうに笑って片手を差し出した。よく日に焼けた褐色の肌に、白い歯が爽やかな好青年を印象付ける。
 俺だってたいがいバイトで体を鍛えてるつもりだったけど、こいつら、密林を住処にして仕事をしている連中に比べるとすっげぇ生っちろくて頼りなく見えるんだ。当たり前か、ジャングルで猛獣とだって格闘してんだからな、俺なんかが勝てるかっての。
 ひょっとして、コイツらだったら例のUMAのことを知っていたりするんだろうか?
 噂とかにもなってるだろうし…言葉さえ判ればなぁと思いながら差し出された手を愛想良く握り返してギョッとした。
 見た目通り、こいつの手の力強さは思わず眉を顰めてしまうほどだったんだ。
 構内で行われた「腕相撲大会」で2年連続優勝した、この俺が。

『日本人を虐めるのはそのくらいにしとけ。大事なお客さんだからな、タユ』

『わかってるさ。こいつがあんまり馴れ馴れしくて可愛いんでね』

『ケッ、嫌な病を流行らせるんじゃねぇぞ』

 地元の言葉で会話をして一斉に笑うタユたちに、俺は怪訝そうに眉を寄せながら、早くこの手を放してくれないだろうかと思っていた。痛いんだよ、思いきり!

「痛いんだって、マジで。放せよッ」

 俺が必死で手を引こうとすると、漸く気付いたスカンチン野郎はなぜかわざとらしく大袈裟に眉を寄せて手を放した。
 すまない、と言っているようにも見えるその態度に、俺は仕方なく許してやることにした。本来の力が強いんだろうし…まさか、わざとって訳でもねぇだろう。

「コータロー」

 日本じゃ殆どの奴が俺のことをそう呼ぶんだが、ここに来てからはみんな苗字でしか呼ばないから、その独特な異国訛りのある発音で呼ばれると懐かしくて、俺はすぐに気に入った。
 俺を呼んでタユが差し出したマグカップには、深夜を通して野営する彼らの為に用意された飛びきり濃いコーヒーが満たされている。

「お、おう。サンキューな」

 ありがたく受け取りながらも、俺はそれを口にすることに躊躇った。
 何故かって?…俺はガキじゃねぇんだけど、ブラックコーヒーってのが苦手なんだよな。別に飲めないって訳じゃないんだけど、こいつを飲んだ夜は眠れなくなってしまう。明日も朝から荷物運びだってのに。

(ま、いいか。バイトで夜遅いのは慣れてるし…)

 そうして俺が、そのマグカップに口をつけようとした、まさにその時だった。

「!」

 ガバッと咄嗟に遺跡の方を振り返った俺を、タユとその仲間たちは驚いたように眉を上げたが、キョロキョロと周囲を見渡して訝しそうに首を傾げる俺を見て大いに笑ってくれた。クソッ。
 おおかた、動物の気配に驚いたんだろう、とでも思ってるんだろう。
 …でも、なんだったんだろう。今の気配は。
 首の後ろがチリチリするような…怖気みたいな。
 殺気…?いや、まさか。だいたい殺気ってのはなんなんだよ。俺がそんなの判るわけないよな。
 それだったら、タユたちの方が真っ先に気付くはずだ。きっと、何かの間違いだろう。
 俺は自分にそう言い聞かせて、笑っているタユを小突いた後でマグカップのコーヒーを飲んだ。
 苦くて、胃に染みるコーヒーに眉を顰めていた俺は気付かなかった。
 暗い暗い、漆黒の闇が支配する密林の奥地で、ひっそりと佇む旧時代の遺跡から見つめてくるゾッとするほど冷たい、滑るような嫌悪感を抱くその双眸の存在に。
 見知らぬ異国の地で言葉の判らない現地の連中と会話する、そんな風にその夜は深けていった。

Act.1  -Vandal Affection-

 俺は膝を抱えて蹲っていた。
 いったい何がそうして、こんな状況に陥ってしまったのだろう…
 考えても始まらない夜は、暗い暗い、月明かりだけが頼りの熱帯雨林の中で暮れようとし
ていた。

 冒険家───確かにそんなものに憧れていた時代もあった。
 高校を出る頃にはそんな夢物語、とっくの昔に諦めていたはずだった。
 大学に入ってから、それでも忘れられないでいた子供の頃の夢が半端に叶って、俺は考古学を専攻することに成功したんだ。
 老いぼれた教授は博士号を習得していて、その分、嫌になるほど頑固なジジィでもあった。点付けとかも厳しく、ほんの一時間でも授業をすっぽかすと落第だと喚きたてる、そんなヒステリックな一面を持っている、実に厄介なジジィだ。
 でも、今回の俺はそんなジジィ博士に感謝しなくてはいけない。

『新しく発掘するべき旧世界の遺産が、南米のコンカトス半島で発見された』

 それは、俺たち考古学の教室がある構内で実しやかに流れた飛びきり一級品のニュースだった。
 外れるだろうな。俺は運が悪いから。
 発掘隊のメンバーは、この大学での伝統的慣わしになっている抽選で決まる。
 伝統と言ったってたかが知れてる。
 まあ、なんと言うか…あみだくじとか、あるいは単なるくじ引きと言った感じだ。
 どちらにせよ、ジジィ博士の気紛れで決まるってのは言うまでもない。
 俺は、あの博士には睨まれているからなぁ…
 普通のサラリーマンの家庭で、一流とも謳われた私立の大学に行くことは自殺行為でもある。
 その上、俺の家はある意味、適度に貧乏だ。
 だから、単位を落とさない程度に授業を受け、あとは四六時中バイトに明け暮れている俺の身体はそれなりに肉体労働には向くようになっていた。でもまあ、そんな身体を作ってるが為に、ジジィ博士に目をつけられることになっちまったんだけどな。
 つまり、えーっと…そんなヒステリックな博士の授業中でも、俺はその、お構いなしに熟睡しちまうってワケだ。
 夜明けと共に起き出して、次の日の夜明け近くに眠る。
 そんな奇妙な習慣が、俺に毛の生えた太い神経を培わせた。
 そんな俺でもやっぱりドキドキはするんだなと、当選確率の極めて低い抽選箱に、汚い字で走り書いた学科名と名前と学生番号の記載された白い紙を投入した。
 当たりますように…必死で願っていた。
 その結果が、俺に人生で最悪の道を歩ませることになるなんて、思いもせずに…

「佐鳥光太郎!やったじゃーん!」

 突然、高校時代からの友人である御前崎彰が背後から抱きついて、構内で、しかも人の目もあるというのに問答無用で歓声を上げた。…いや、奇声とでも言うべきか。

「なんだよ、彰。いきなり人をフルネームで呼びやがって」

「…って、何だよ。感動が足りねぇなぁ…って、もしかしてまだ知らないのか?」

「知るって、なんのことだよ」

 俺はこれからジジィ博士に呼ばれてるんだ。たぶんに、授業態度と成績のことなんだろうけど。だから御前崎に付き合ってる暇はないんだよ。
 明らかに訝しそうに眉を寄せる俺に、同じ構内にある教育学科の御前崎は含めた笑みを零しながら、俺の脇腹を肘で小突いた。痛いんだってマジで。

「とにかく、大講堂の前に行ってみろよ。すんげぇものが拝めるんだって」

 【すんげぇもの】…と言われてもいまいち感動できない。大方、コイツが言ってるのは春先に行われる寮祭に来る芸能人のことだろう。
 プッチモニとか、ミーハーな連中が喜びそうなヤツを連れてくることから、この有名私立大学の寮会長の人気は鰻上りなんだ。俺としては、あんまり興味がないんだけど。

「行けって!いいから、ほら」

 背中を押されても困る。だから俺は、これからジジィ博士んとこに行かなきゃ拙いんだって。

「いいよ、別に。興味ないし」

「マジで!?だったらなんで応募なんかするんだよ」

 不満そうに唇を尖らせる御前崎。
 ん?今、何て言った。

「なに、ヘンな顔してんだよ。自分で決めたくせに。あ~あ、派手に喜んでやってソンした気分だぜ」

 御前崎はガッカリしたように溜め息を吐いて、胡乱な目付きで俺を睨んできた。
 いい、ちっとも怖くなんかねぇ!

「どう言うことだ!?まさか…発掘隊の…」

「メンバーリストが貼ってあるんだよ。合格者の」

「こいつ!そう言う大事なことは早く言えッ」

 親切にも教えてくれた上に喜んでくれた友人の脇腹を、俺は容赦なく手刀で突いて、あまりの痛さにうめいて蹲る御前崎を残したまま脱兎の如く大講堂まで走った。
 スマン、御前崎。今はお前のことなんか構ってるヒマはないんだ。
 俺が肩で息をしながら到着した時にはもう、数人の見知った顔が神妙な顔付きで講堂の出入り口付近の壁を睨みつけながら、ある者は落胆し、ある者は嬉々とした顔をし、またある者は当然そうにニヤリと笑っていた。
 そのニヤリ笑いの男、秀才の須藤義章に俺は声を掛ける。

「その顔だと受かってたんだな」

「ん?なんだ、佐鳥か。まあな、あの倉岳博士がこの俺を選ばないはずがなかろう」

 誰もが一目置く秀才の須藤と、誰も俺の名前なんか知っちゃいねぇ佐鳥の組み合わせは、知らない内に構内でも噂になっているらしい。
 コイツと知り合ったのはごく簡単な切っ掛けだった。
 別にそれほど大した理由じゃないと思う。
 たまたま講堂で席が隣同士になり、たまたま奴が間抜けにもシャーペンを忘れ、たまたま俺がそれを貸してやった。ただそれだけのことなんだ。

「へいへい、秀才さまは完璧でいらっしゃる」

 俺が呆れたように肩を竦めて嫌味を言うと、須藤はちょっとムッとしたように唇を尖らせたが、次いですぐにその口角をクッと上げてニヤリと笑った。

「お前も受かってるぞ。どうした気紛れだろうな?あの倉岳博士が」

 よほど意外だったのか、須藤のみならず、その場にいて聞き耳を立てていた考古学専攻の学生どももこっそりと頷いていたりする。
 なんだよ、その反応は。
 でもま、当たり前と言えば当たり前なんだがね。
 落ちこぼれのこの俺さまが、まさか受かってるなんて、何かの間違いじゃないのかと落っこちた連中が思うのも無理はない。
 俺は、結局色んな奴から教えてもらったけど、漸く自分の目で事実を確認することができた。
 嬉しくて嬉しくて、柄にもなくドキドキしながら。
 五十音順で縦に並んでいるサ行に、その名前は載っていた。
 110人中、奇跡の12名だ。
 博士の達筆な字で、1名1名直筆で書いていた。
 名前の下に各所属が、これはワープロか何かで打ち込まれている。

【佐鳥光太郎 ─所属:運搬部─】

 やっぱり。
 体力にだけは自信のある俺のことだ、大方そんなもんだろうと高は括っていたし、だからと言って行きたくないなんて言うわけもない。運搬だろうがなんだろうが、喜んで引き受けるさ。
 費用も渡航手続きも全て大学持ちなんだ。
 こうして、俺の生まれて初めての海外旅行はジャングルに決定したのだった。

 ジジィ博士の用件はつまり発掘隊のことで、俺だけじゃなくて須藤以下10名も呼ばれていた。
 簡単な講習を受け、さらに適正を入念に調べた上で漸く本決定となる。
 その晩俺は嬉しくて、寮の同室である御前崎と祝杯を強かに上げた。
 渡航日は1週間後に迫っていた。

第一話 花嫁に選ばれた男 28  -鬼哭の杜-

 結局蒼牙は、昼頃まで俺を離してはくれなかった。
 まるで溶けて混ざり合いたいとでも思っているように、執拗に俺を抱いた蒼牙は、それでもまだ抱き足りないとでも思っているみたいに、濡れた身体を寄せ合って抱き合うようにして眠っていた。

「う~…眩し…」

 片手を上げて汗で張り付いてしまった前髪を掻き揚げながら呟いた声は、自分が思う以上に掠れていて、どれだけ泣いて蒼牙に甘えたのか、昨夜のことがたった今起こったような生々しさに感じて顔が真っ赤になってしまう。
 件の俺の旦那様、若干17歳の本来なら高校生である不思議な青白髪をした龍の子は、身動ぎして昼の暑さにうんざりしている俺に、抱き付くようにしてぐっすり眠っているみたいだ。
 うわ、寝起きの良いあの蒼牙が、安らかな寝息を立てて眠ってるなんか信じられねーよ。
 俺が目を覚ますといつも布団の中は蛻の殻で、いつも独りぼっちで目を覚ましてたってのに、今日はなんだか嬉しいぞ?
 目の周りとか頬とか、身体の至るところがバリバリになってるんだけど、そんなのはこの際無視して、俺は物珍しいものでも見るように、ぐっすりと眠っている蒼牙の寝顔を、今度はいつ拝めるか判らないんだからじっくりと観察していた。
 まだ、たったの17歳なんだよなぁ…高校生特有の性欲に翻弄された身では、外見がなまじ大人びているばっかりに、なんでも知っている大人をイメージしがちな俺に、確り年齢を実感させてくれた。
 下半身が重くて、まだ当分は起き上がれないんだから、蒼牙が目覚めるまでの間、滅多に見られない寝顔の観察も悪くないよな。
 俺はふふんっと独り言を呟いて、あの神秘的な青味を帯びた双眸を目蓋の裏に隠してしまっている、世界で一番大好きなヤツの寝顔を堪能していた。
 うーん…やっぱ、コイツはカッコイイんだよな。睫毛も長いし、眠っている時ですら引き結んでいる口許とか、鼻筋も通っているし、眉なんか、青白髪なんだけどキリリ…ッとしていて、肌だって高校生にしてはニキビもなくて綺麗なもんだ。ホント、見ていて飽きないんだから不思議だよなぁ。
 その点で言えば俺なんか、気付けば口は半開きだし、たまに半目開けて寝てることもあれば、涎だって垂らすんだぜ。ホント、できれば蒼牙には寝顔を見られたくない…とか、乙女みたいなことを言っちゃうほどには、悲惨な顔だと思うぞ。
 まだ若いくせにさー、俺なんかのどこが良かったんだろうな?
 思わずじっくり観察しながら、気付いたら鼻先を指でぐにっと押してしまっていた。
 やべ、と思って慌てて指を引っ込めた時には、既に蒼牙はパチッと目を覚ましていたんだ。
 ホント、どれだけ目覚めがいいんだか。

「…光太郎?なんだ、もう起きたのか??」

 障子から真夏の陽射しが透けていて、やっぱり蒼牙も少し眩しそうに眉を寄せたものの、上半身を起こすようにして俺を覗き込んできてそんなことを言うから、俺は顔を真っ赤にしてエヘヘヘッと笑うしかないだろ。

「もう…って、もうお昼になるんじゃないか?寝すぎだよ」

 俺は身体を起こす余裕とかないから、寝転んだままで笑ったら、蒼牙も珍しくやわらかく微笑んでから、遅いおはようを呟いて口付けてきた。
 俺はクスクス笑いながら、その口付けを確り受けるんだよな。
 夜が明けるのも気付かずに、夜が明けても抱き合っていたんだ、それから寝たんだから…それでも、まだ3時間ぐらいしか寝てないのか。
 蒼牙は今日も仕事なのに、なんだか悪いなぁ…
 上げるのも億劫な腕で蒼牙の首に縋るように抱きついて、朝の挨拶にしては濃厚なキスを堪能していたら、不意に低い声が障子の向こう側から聞こえてきてギョッとした。

「蒼牙様、光太郎様。お目覚めでございますか?」

「桂か」

 俺の身体を抱き締めるようにキスしていた蒼牙は、唇をずらすようにして声に応えるんだけど…抱き締める腕は緩めないんだから、その、元気がいいよなと思う。
 若さにクラクラだ。

「はい、蒼牙様」

 何か言いたそうな気配の桂なんだけど、キスの合間に戯れるように「風呂に行くか?」と呟く蒼牙と「できれば…一緒に入りたいなぁ」と冗談のつもりでそれに頷く俺とのいちゃいちゃした雰囲気に気圧されているのか、いや違う、この場合は仲の良い夫婦に水をさしてはいけないと真剣に思っているから何も言わずに待っているみたいだ。
 「もちろん一緒に決まっているだろ」と蒼牙が鼻先を擦り付けるようにして悪戯に言いやがるから、いきなり顔を真っ赤にしてしまう俺に、意地悪な当主がクスクス笑った時点で、このいちゃいちゃムードは一段落したと考えたのか、桂は厳かに口を開いた。

「蒼牙様、婚礼の儀の準備が整っておりますが…」

 申し訳なさそうな、控え目な執事の鑑とも言うべき桂の言葉に、嬉しそうに笑っていた蒼牙は一瞬だけど「はて?」と言いたげな表情をした。表情をして、それから唐突にガバッと身体を起こしたんだ。
 起き上がるのも億劫な俺はそんな蒼牙をギョッとして見上げてしまった。
 なな、なんだって言うんだ。

「そ…うか、朔の礼か」

 唇を真一文字に引き結んでいた蒼牙は、それから徐に、キスの痕を散らす肌を隠すのも忘れ、なんとかやっと上半身を起こすことに成功して心配そうに覗き込んでいる俺の顔を見下ろしたんだ。
 眉を寄せて首を傾げたら、蒼牙にしては本当に珍しく、バツの悪そうな、決まりの悪そうな顔をして言ったんだ。

「今夜、婚礼の儀を執り行うことに決まっていたんだ。すまん、忘れていた」

「へ??」

 思わず目を丸くする俺に、困り果てた顔をした蒼牙はバツが悪そうに首を左右に振って、後で行くからと言って桂を退席させてしまうと、布団の上に胡坐をかいて青白髪の頭をバリバリと掻いている。
 なんでもコンピュータみたいに正確な蒼牙が、忘れるとか…信じらんねーよ。
 でも、人間らしくて、俺はなんだかホッとした顔をして笑ってしまった。

「こんな風にアンタに無理をさせるつもりじゃなかったのに…すまん、昨夜は我を忘れてしまった」

 俺に謝ることとか絶対ないと思っていたのに、ほんのり頬を染めて素直に謝る蒼牙の、その子供っぽい仕種に俺はますます嬉しくなった。

「なんだよ、朔の礼って今夜だったのか?」

「ああ、今夜は新月なんだ。だが、無理をしなくてもいい。婚儀は来月に延ばすこともできる」

 蒼牙は俺の身体を労わるような眼差しをして、自分の不甲斐なさを悔やんでいるような顔をしたんだけど、我を忘れるぐらい俺に夢中になってくれた旦那様を、どうして俺が無碍にできるって言うんだ?
 それに俺は…

「嫌だ!結婚を延期するとか、俺は嫌だよ。蒼牙、俺ならそんなに軟じゃねーから。だから、大丈夫だから今日、結婚しよう」

 もう、1日だって延ばしたくない。
 俺は早く、蒼牙の本当のお嫁さんになりたいんだよ。

「だが、アンタには無理をさせてしまった。起き上がるのも困難じゃないのか?」

 心配そうに、蒼牙は俺の身体を引き寄せて抱き締めてくれたから、俺は素肌に触れる蒼牙のぬくもりを感じながら首を左右に振ってやった。

「大丈夫だよ。そりゃ、今はちょっと辛いけど…だから、風呂にじっくり浸かってさ、ゆっくりしたら絶対復活できるって!式は何時からなんだ?」

「宵宮を予定している。だいたい、19時ぐらいから執り行う予定だ」

「…と言うことは、まだ7時間もあるじゃないか。だったら、大丈夫だって」

 そりゃあ…何時間も受け入れさせられて、散々喘いでいたんだから、咽喉だって痛ければ身体の節々も痛い。ましてや熱を持ったように腫れぼったく疼く下半身なんか憐れなものなんだけど、それでも俺は、頑張って蒼牙のお嫁さんになりたいと思っている。この決意はちょっとやそっとじゃ揺るがないんだぞ。
 身体は確かに蒼牙に全てを捧げて、逸早くお嫁さんになったんだけど、やっぱり村の人たちとか、親族とかにもちゃんと認められたいと思うんだ。特に、これからことあるごとに顔を合わせるに違いない村の人たちには、やっぱり祝福して欲しいなぁとか思ってしまうんだから、どれほど乙女ちっくなんだよ俺と、凹みそうになるのは仕方ない。

「だが…」

 と、まだ言い募ろうとする蒼牙に、俺はムッとしたように唇を尖らせて、青白髪の髪をグッと掴んで引っ張ってやった。

「なんだよ、蒼牙は俺と結婚したくないのか?俺は、村の人たちとか、繭葵とか、眞琴さんたちにも祝福して欲しいんだよ。それに…こんな俺を最初から受け入れてくれていた村の人たちに、早く安心して欲しいんだ」

 驚いたように目を瞠る蒼牙に捲くし立てて、思わず下半身に響いてさらに眉が寄ってしまう俺に、蒼牙はそれでも心配そうな顔をしたけど、ソッと頬に口付けてきた。

「辛くなったら遠慮なく言うんだぞ。アンタが倒れてしまっては、朔の礼など意味はないんだ」

「うん、判った」

 俺が嬉しそうにニカッと笑うと、蒼牙はやっぱり心配そうに大丈夫かなぁ…と言いたそうな顔をするんだけど、大丈夫だって!色んなバイトして鍛えてる身体なんだぞ、都会育ちだからって舐めんなよ♪
 嬉しくて笑っている俺なんか無視して、そうと決まれば蒼牙の行動は早かった。
 サッと脱ぎ散らかしていた着流しを適当に着ると、ヘンな決心をしている俺に浴衣を引っ掛け、さっさと抱え上げて部屋を出た。それから行き着く先は、この屋敷に入って一番最初に驚いた、天然温泉が滾々と湧き出ている大浴場だ。
 ヘンなちょっかいなんか出さずに、蒼牙は労わるように俺の身体を洗ってくれて、甲斐甲斐しく世話をしてくれたんだけど…明るい陽の下で見た自分の惨状に、思わず言葉をなくしそうになってしまった。
 だってさー、すげーんだぜ?
 身体中にキスの痕が散っていて、まるで昨夜の蒼牙の言葉通り、至るところに蒼牙の烙印を捺されているんだから…顔が真っ赤になっても仕方ないよな。

「…俺、ホントに蒼牙のものになったみたいだ」

 自分の身体を繁々と見下ろして思わず呟いたら、抱き締めるようにして一緒に湯船に浸かっていた蒼牙が、ムッとしたように眉を寄せた。

「なったみたい…じゃないだろう?なっているんだ。アンタはもう、俺のものだ」

 そう言って背後からぎゅうっと抱き締めてくれるから、俺は顔を真っ赤にしてエヘヘヘッと笑うと大きく頷いて言ったんだ。

「うん、そうなんだけどさ。今夜、俺ホントに蒼牙のものになるんだろ?なんかドキドキするな。スゲー嬉しい」

 そう言って肩越しに振り返ったら、蒼牙はなんとも言えない顔をして呆気に取られたようにポカンッとしてたんだけど、次いで、すぐに顔を赤くしてますます抱き締める腕に力を入れるから…おいおい、苦しんですけども。
 頬の赤さは温泉の熱さばかりじゃないんだよな、ちゃんと、照れて赤くなっているんだよな。
 そんなひとつひとつの仕種がやっぱり嬉しくってさ、俺の胸はドキドキしっ放しだった。
 今夜、俺。
 蒼牙のお嫁さんになるんだぜ、ホントに信じられないよな。
 幸せすぎて、顔がにやけっ放しで元に戻らなくなったらどうしよう。
 そんなどうでもいいことを考えながら、俺は蒼牙に凭れるようにして幸せを噛み締めていた。

「結局、ちゃんと晦の儀を迎えたんだね」

 遅い昼食を摂っていたら、既に終わらせてるはずの繭葵が、お手伝いさんたちから貰った菓子を食いながら俺の横に腰を下ろして、湯上りでポカポカしている俺を見ながらそんなことを言いやがった。
 う、確かに…晦ってのは新月の前の日なワケだから、蕩けちまうような昨晩のえっちが、やっぱり晦の儀になるんだよな。
 顔を真っ赤にしていたら、繭葵は菓子を食ってるくせにごちそうさまと言いやがったんだ。

「蒼牙様はご飯も食べずに朔の礼の打ち合わせかい?大変だねー」

「まぁな。ところで繭葵さぁ、お前って朔の礼がどんなことするか知ってるか?」

 実は俺、朔の礼の内容を知らないんだ。
 蒼牙のヤツは、昨日散々草臥れさせてしまった俺を気遣ってか、何も考えずに座っていればいいとか言いやがってさ、何も教えてくれなかったんだよ。
 いや、それには語弊があるな。
 式での俺が言わなけりゃならない言葉とかだいたいの流れとか、そんなものは教えられた。
 でも、なんか、『朔の礼』とかって、呉高木家だけに伝わるような結婚式なんだから、何か他にもあるんじゃないかと疑っているだけなんだけどな、本当は。

「ゲ、光太郎くん、呉高木のお嫁様のくせにそんなことも知らないの??」

 ダメじゃん!…とその顔は言っているんだけど、確かにダメじゃんな俺ですがね、突いても蹴っても何も教えてくれない、やっぱり秘密主義の旦那様が全て悪いんだ。
 フンッと鼻で息を噴出してやったら、繭葵は嫌そうな顔をして仕方ないなーっと唇を尖らせた。

「朔の礼ってのは婚礼のお式のことだよ。それは知ってるよね?んで、呉高木家の婚礼のお式ってちょっと変わっててね。公開のお式なんだよ」

「公開?」

「意味判んねって顔だね。えーっと、前回、『弦月の奉納祭』の時に行った神社があったでショ?あそこで祝言を挙げるんだよ。その際は、その様子を村人たちが見守るんだ。なんせ、この村を護る龍神様にご報告の儀式だからね」

 首を傾げている俺に、繭葵は大福を食いながらそんなことを言ったから、なんだ、祝言は普通に挙げるのか、と俺はちょっとホッとした。そんな俺を横目で見ていた繭葵は、途端に邪悪な顔をして、ニヤーッと笑いやがったんだ。

「な、なんだよ、その顔は?!」

「今、ホッとしたでショ?ホッとしたよね。残念でした、『朔の礼』はそれで終わるわけではありません」

「ゲ、じゃ、その他にもやっぱり何かあるのかよ??」

 繭葵はニヤニヤ笑いながら、俺の茶を分捕って飲むと、教えようかどうしようか迷っているみたいだ。
 いや、お喋り好きの妖怪娘が何を悩んでんだよ、さっさと教えてくれよ。

「見てからのお楽しみ…って言いたいところだけど、初々しいお嫁様にそれ以上の心労はよくないもんね。教えたげるよ。実は『朔の礼』ってお祭りなんだよ」

「へ??」

 思い切り驚いた顔をしたら、繭葵のヤツはケタケタと笑いやがったんだ。

「まあ、結婚式ってのは本当は全部お祭りなんだけどね。でも、今の日本じゃそんな考え方する人とか少ないだろうから、ビックリするよね、フツーはさぁ。祝言が終わったらどんちゃん騒ぎだよ。あの神社の境内で、みんな呑めや歌えや踊れやってね、夜明けまでどんちゃん騒ぎが続くんだよ」

 そう、だったのか。
 だから蒼牙は俺の身体を心配して、朔の礼を延期しようとしたんだな。
 うっかり屋さんの青白髪の旦那様の顔を思い出して、俺は思わず笑ってしまっていた。
 そんな俺に、繭葵は「おや?」と眉を上げて首を傾げた。

「でもそれってさ、披露宴の後の二次会みたいなモンじゃないのか?」

「あー、そんな感じかもしれないけど。アレってたぶん、こんなお式の流れが高じて派生した形じゃないかと思うんだよね。ま、似たようなモンだろうけどさ。でもちょっと違うのはそれが親族は勿論、関係のない村人まで交えての大宴会が夜明けまでぶっとうしで続くことだね」

 はー、なるほどな。

「お嫁さんとお婿さんは白無垢と紋付袴でどんちゃん騒ぎなのか?ソイツは大変だろうなぁ…でも、楽しい結婚式だな。俺、もっと格式ばってるのかと思って緊張していたんだけど、そんな結婚式なら大歓迎だな」

 だってさ、みんなが楽しめるんだぜ。
 普通、結婚式とか言ったら本人たちが楽しむものだろ?でも、この村に息衝く古い因習は、なんて陽気で楽しげなんだろう。
 みんなで祝福して、みんなで喜んで、みんなで幸せを分かち合うんだから…村人たちに、どれほど慕われているんだろうな、呉高木家ってさ。

「ふふふ…光太郎くんならそう言うと思ってたよ、実はさ。たぶん、白無垢は途中で着替えると思うけど、晴れて夫婦となった2人も夜明けまでどんちゃん騒ぎに参加するんだよ。だってね、村の一員になって、何より、ご当主様のお嫁様の初披露なんだからさ~」

 繭葵は楽しそうに笑っている。
 そうだよな、想像しただけで楽しそうだもんな。
 篝火に囲まれた境内ではあるんだろうけど、みんなで敷物を敷いて、酒を呑んだり踊ったり、本当にどれだけ楽しいんだろう。

「だからね、晦の儀は前の日なんだよ。お嫁様は体調が悪ければ途中で退席して、ご当主がホストを務めるってワケ。初披露の日ではあるんだけど、結局、ご当主を祝福する宴だしね。でも勿論、お嫁様が臨席されるのが一番村人たちには喜ばしいことなんだけどね。だって、お嫁様を大歓迎しますって、心からはしゃいでるんだから」

 繭葵の説明を聞きながら、俺は大きく頷いていた。
 うん、途中退席なんか絶対にしないぞ。

「最初に思ってたよりも、この村の人たちって明るいんだよな」

「ああ、うん。地図にも載ってないぐらい閉鎖的な小さな村だから、最初は取っ付き難いだろうと思ってたんだけど、早起きだし、仕事もチャキチャキこなして、みんな朗らかで明るいんだよね。僕も最初は偏見とか持ってたんだけど、目から鱗が落ちちゃったよ」

 秘密主義はご当主と同じなんだけどな。
 村の秘密については誰も口を開かなかったけど、何故だか最初から、俺のことはお嫁様と言って大事にしてくれてたんだよな。たぶんそれは、蒼牙が昔から花嫁は俺だって決めていたから、村人たちは当然俺のことを知っていたんだと思う。
 それだけ蒼牙は、揺ぎ無い気持ちで俺を花嫁に迎えようとしていたんだ。
 それが判ったから、俺は、蒼牙のお嫁さんになりたいって思うようになったんだぜ。
 蒼牙は知らないだろうけどな。

『そんな村じゃなければー、お嫁様を呉高木に嫁がせる気にはならなかったのよー』

 ひょこんっと、どこから現れたのか、何時の間にか縁側に立っている座敷ッ娘が嬉しそうに双眸を細めて着物の袂で口を隠しながら言ったんだ。

「座敷ッ娘、お前何処に行ってたんだよ」

「ザシキッコ?え、誰に言ってるんだい??」

 繭葵がキョトンッとしたように唇を尖らせると、キョロキョロと周囲を見渡しながら俺の肩を叩いて首を傾げている。その仕種は冗談とかコイツ特有の悪戯ってワケでもなさそうで、どうも本気で座敷ッ娘が見えていないようなんだ。

「え?誰にって、そこにいるじゃないか」

 ニコニコ笑っている座敷ッ娘を指差しながら、俺はワケが判らずに眉を寄せて言ったら、繭葵は真剣に「はぁ?」と言いたそうな顔をして大袈裟にキョロキョロするんだよな。
 眞琴さんはちゃんとコトノハって呼んで見えていたのに…え?どう言うことなんだ??

『それはねー。繭葵は呉高木の血が殆ど入っていないのよぉ。だから、私が見えないのー』

「でも、眞琴さんは見えてたじゃないか」

『眞琴は巫子なのよー。だから私や小手鞠が見えるのぉ。でも、繭葵も小手鞠は見えるわよぉ』

 座敷ッ娘は嬉しそうにニコニコしたまま説明してくれる。神妙に頷いている俺の横で、もしかしたらあんまり蒼牙とラブラブになって、それが信じられなくて頭のネジが何処かに飛んで行ったんじゃないかって、繭葵は真剣に心配しているようだった。
 何故なら、座敷ッ娘と話している間中、そんなことを言いながら俺の額に手を当てて熱を測ったり、小林のじっちゃんを呼ばなければとかワァワァ言ってたからな。

「なんだ、そうだったのか。じゃぁ、繭葵は可哀想なんだな」

「え?何がだい??」

 眉を顰めて可愛い顔を顰める繭葵に、俺はなんでもないと肩を竦めてみせた。

『私たちが見えないからー?可哀想かどうかは判らないのよー、でも、繭葵は私たちが見えなくてもそれなりに楽しんでいると思うけどねぇ』

 座敷ッ娘は訝しそうに眉を寄せて俺を見上げている繭葵の傍らまでトコトコ歩いてくると、本当に幸せそうにほっこりと笑いながら唇を尖らせている妖怪娘の顔を見上げた。
 そうだなと座敷ッ娘の返事に応えて、俺はこの時ふと思ったんだ。
 こんな風に、何処彼処に呉高木や楡崎のように、不思議な血を持つ一族がいて、昔はそんな人たちが多かったから、妖怪だとか物の怪なんかを見ることができていたんじゃないかな。でも、日本人は文明開化だとか、そう言った近代文化に慣れ親しんで、いつしかその記憶を忘れてしまった。だから、もう二度と、彼らと触れ合うことはなくなってしまったんじゃないかな。
 それはなんだか、日本の持つ古来からの良さを失くしていっているような気がして、俺は寂しいと思った。

「なんだよ、急に黙り込んじゃってさぁ…ホント、今日は大丈夫なワケ??」

 可愛い唇を尖らせて眉を寄せていた繭葵は、それでもふと、心配そうに尖らせていた唇を引っ込めると俺の顔を覗き込んできた。
 でも、ああ、そうだな。
 こうして、民俗学的なものを執拗に追っかけているようなヤツもいるんだ。
 たとえ、彼らの存在を見ることができなくなっていても、心の奥深いところで絶えず流れる川のように連綿と受け継がれる何かがあるのだとしたら、彼らの存在は消去されたのではなく、ソッと大切に保存されている…ってことになるのかもしれないな。
 うまく、説明とかできないんだけど。

「大丈夫、大丈夫!ちゃーんと、お前に蔵開きを見せてやるって」

 うはははっと笑って箸を持つ手を左右に振ったら、それでもなんか、一抹の不安とかありそうな顔付きをした繭葵は、大福の最後の欠片を口に放り込みながら言いやがった。

「ま、根性だけはありそうな光太郎くんだもんね。蟹股をなんとかしたら立派なお嫁様に見えなくもないよ」

 ニヤニヤ笑われて、う、俺ってば今、そんなにヘンな歩き方してるか??

「お、男なんだからいーだろ、蟹股ぐらい」

「お嫁様なのに男ってねー。まぁ、いいんだけどさ。初々しすぎてこっちの方が恥ずかしいよ」

 ナニが、とか言わないのな。
 いや、言われても言い返す言葉が思い当たらないんで、言われる方が俺としては大変なことになるのは確かなんだけど。

「後は体力回復なんだよな」

「ホントはヘトヘトなんでショ?根性は認めるけど、無理はしないよーに!」

 そんなことを言って、繭葵はウィンクしながら、これから眞琴さんと打ち合わせがあるからじゃあねと言ってさっさと行ってしまった。
 その後姿を見送っていたら、黙って話を聞いていた座敷ッ娘がニッコリ笑って言ったんだ。

『蟹股は蒼くんに愛された証だから仕方ないのよー』

 頼む、繭葵ですら遠巻きに言ったことを、直球で言ってくれるなよ、座敷ッ娘。
 恥ずかしくて、歩けなくなっちまうよ。
 俺はガックリと溜め息を吐いて項垂れてしまった。

 宵宮…と蒼牙が言ったように、その日の19時頃から婚礼の儀は滞りなく始まったんだけど、その前に俺は白無垢に着替えて蒼牙の前に引き出されていた。
 俺は、恥かしながらも角隠しと白無垢と言った出で立ちで、呉高木家の家紋の入った紋付袴を着ている蒼牙の前に眞琴さんに介添えしてもらって立っていた。
 何を言ったらいいのか判らないんだけど、何か言わないとと思えば思うほど、言葉ってのはなかなか出てこないもんなんだ。
 だから俺、頬を染めて俯いていたんだけど、エヘッと笑って蒼牙の顔を見上げた。
 そりゃあな、真っ白に塗ったくられた面して、真っ赤な口紅をちょっと塗ってる、どこのお化けだよの顔をしているってこた判ってるんだ。だからってさ、んな呆気に取られた顔とかしてくれるなよ。

「…何か言えよ、蒼牙」

 照れ臭くてモジモジしている俺は、片手で白無垢の裾を持って(…って、こうしていないと歩けないんだよ)、片手は眞琴さんに預けて支えて貰っているんだ。
 そんな俺を、蒼牙は少し、眩しそうに見詰めていたんだけど、俺に言われてハッと我に返ったのか、滲むように笑って頬を染めたんだ。

「綺麗だ」

「ぶッ」

 思わず噴出したら、綺麗にビシッと化粧を決めて巫女装束を着ている眞琴さんは、整った柳眉を顰めてそんな俺をチラッと見るんだけど、誰だってんなこと言われたら噴出すだろ。

「こんな真っ白い顔してるのが綺麗なのか?ったく、判らんこと言うよなー」

「そうか?アンタは綺麗だ」

 まるで、ずっとこの瞬間を待っていたんだとでも言いたそうな表情をして、蒼牙は俺を真摯に見詰めている。その痛いほどに強い視線を受け止めて、俺は照れ臭くて、思わず俯いてしまった。
 伸ばされる指先が、ソッと頬に触れて、俺はおずおずと蒼牙を見上げた。

「アンタはもう、後悔することはできない。これから永遠のような時を、俺だけを愛して生きて行くんだ」

 蒼牙は厳かに命令した。
 これから呉高木家の一員になる以上、絶対的地位にいる当主たる蒼牙の言葉だ。俺は素直に頷くか、「喜んで」と誓わなければならない。
 でも、俺はハッキリとそれを断った。

「それはできない」

「!」

 この喜ばしき日に何を言い出すんだと、蒼牙はスッと表情を変えて、掴んでいる手に力を込めた。
 俺の心変わりに驚いたのか、信じられないのか、冗談だと思ったのか…一瞬のうちに冷やかな双眸になった蒼牙は、それでも、事も無げにシニカルに笑ったんだ。
 眞琴さんはばっちりポーカーフェイスなんだけど、嬉しそうに柔和な表情を浮かべていた顔が、一瞬にして真顔になったから、やっぱり動揺しているんだと思う。
 でも俺は、ちゃんとこれだけは言っておかなくてはいけないと思うんだよ。

「俺、蒼牙を愛してることに後悔とかしないし、この村で生きることもちゃんと納得してるつもりだ。でも、この先蒼牙だけを愛して生きていく自信はないよ」

「なんだと?」

 シニカルな笑みを片頬に浮かべたままで、神秘的な青味を帯びた双眸がすぅっと細められて、思わず逃げ出したくなるほど冷徹な眼差しが突き刺してくるから、俺はできればこのままダッシュで逃げ出したい気もしたんだけど、今一歩で踏みとどまるのは、やっぱり蒼牙を愛しているからだ。

「だって、仕方ないだろ。お前と同じぐらい大切で愛しい人がきっと現れてしまうんだから」

「アンタは…自分が何を言っているのか判っているのか?」

 この好き日に?
 蒼牙の双眸はいよいよ凶暴になり、俺の頬を掴む手もますます力を増してくるから、俺は思わず顔を顰めてしまった。

「蒼牙さん」

 冷静で、落ち着いた口調のまま呟いた眞琴さんの声には、底知れぬ威圧感があって、これが蒼牙じゃなかったらみんなビビッてサッと手を離していたに違いない。
 でも、相手はあの蒼牙なんだ。眞琴さんの脅しなんか何処吹く風で相手もしていない。
 あちゃー、こんな反応が返ってくるんじゃないかって、予め予想はしていたんだけど、それでもやっぱり祝言を挙げる前にハッキリ言っておかないといけないこともあるってワケだ。

「…ッ。ちゃんと、判ってるさ」

 持っていた白無垢の裾から手を離して、俺は頬に触れている怒りっぽい蒼牙の掌に触れると、目蓋を閉じてその大きな手に頬を摺り寄せながら、溜め息のように言った。
 俺が触れると蒼牙の手の力は緩んだんだけど、怒りを滲ませている目付きに変わりはなく、俺は目蓋を開くと腹立たしげに睨んでいる、これから俺の一生の全てを抱き締めてくれる生涯の伴侶の顔を見詰めたんだ。
 何故だと腹を立てている蒼牙、なぁ、俺が言いたいことが判らないのか?
 俺の身も心も全て、俺はお前にあげたんだ。
 その俺が、どうしても、その条件だけは飲めないって言ってるのに、判らないのかよ。
 なんでも、全てパーフェクトにこなせる蒼牙だけど、人の心は移ろい易いから判らないんだよな。
 俺だってそうだ、この瞬間でさえ、蒼牙の愛が欲しくて仕方ないんだから…

「だってさ、俺、お前の子供を授かってしまったら、やっぱりお前と同じぐらい、いやそれ以上は愛してしまうと思うんだ。だから、お前だけを愛することはできないんだよ」

「俺以上に愛するだと?それはダメだ。そんなことは許さん」

 双眸の凶暴性はなりを潜めたものの、でも、蒼牙はまるで子供みたいに唇をへの字に曲げて、唐突に俺を抱き締めてきたんだ。
 思わず眞琴さんの手を離すは、角隠しは歪みそうになるはで散々だったんだけど、それでも俺は、そんな風に憎まれ口を叩きながらも、俺が子供を愛してしまうことをけして否定はしなかった蒼牙が愛しくて仕方なかった。
 俺は幸せで仕方なくって、思わず幸福全開で笑いながら蒼牙の背中に腕を回して抱きついていた。
 …こんなことがあったもんだから、お色直し(?)をしなくちゃいけなくなって、本当は婚礼の儀の開始時間は延びてしまったんだけどな。
 巫女装束を身に纏った眞琴さんに先導されて、俺と蒼牙は式場となるご神殿に入場した。俺たちを先頭に媒酌人夫婦である親族のおっちゃんとおばちゃん、それから俺の(何時の間にか来ていた)両親と蒼牙の養父である直哉と伊織さん、それから血縁関係の近い親族が順に並んでの入場だったから思いっきり緊張するよなぁ。
 神棚に向かって右側が蒼牙と呉高木家の親族、左側が俺と楡崎の親族が並ぶんだけど、媒酌人夫婦は俺たちの後ろにそれぞれ並んだようだった…ってのも、角隠しも重いし、振り返って確認とかできる雰囲気じゃなかったからな。
 全員が揃ったら、斎主が入場するんだけど、その姿を見てビックリしてしまった。
 神事に携わっている素振りなんかちっとも見せなかったくせに、厳かで荘厳な雰囲気の中、神職の姿をした桂が入ってきたんだ、驚かずにいられるかよ。

(そっか、桂さんはこの呉高木家の神社の神主でもあったのか)

 なんか、ビックリしまくりだよな、おい。
 最初に行われるのは『修跋の儀』と言って、全員起立して拝礼をする。それから斎主である桂が御祓詞(はらえことば)を唱えながら、新郎新婦、それから参列者の身を浄めるためのお祓いをするんだ。そのお祓いが終わったら全員着席した。
 で、 『斎主一拝』ってのがあって、全員起立し、斎主である桂が神棚に向かって一拝をするんだけど、それに合わせて全員で一拝をしないといけない。これは神への敬意を表し、一度おじぎをするってことで、一礼とも言うんだそうだ。
 それから『祝詞奏上』 ってのがあって、これは斎主が神に結婚の報告と結婚を祝う祝詞(のりと)を奏上、つまり読み上げるのをみんな起立して聞くんだけど、桂が着席したら俺たちも着席する。
 神前結婚しきってのは、なんか屈伸運動が多いような気がして、やっぱり身体には結構負担がかかるけど、ここで倒れるわけにもいかないんで、俺は気合を入れて臨んでいた。
 つーか、両親が来ていることにも驚いていたんだけど、花嫁が結婚前に両親にお別れの言葉を言うじゃないか?そう言うの、俺にはなかったよなと考えていたけど、そう言えば、呉高木の家に来る前の日に俺、母さんにはちゃんとさよならを言ったんだよな。
 長い間有難う…って、今にして思えば、あれが花嫁が両親に向ける言葉に似てなくもないかなと思う。
 どんな気持ちで、母さんはそれを聞いていたんだろう。
 てっきり俺は、普通のしがないサラリーマンをして、普通の女の子を嫁さんに貰って、普通の可愛い孫を作って、それを抱き上げながら恙無く同居する…って、母さんは思っていたんじゃないかなぁ。
 だからあの日、あんなに寂しそうに泣いていたんだ。
 もう、戻ってくることはないだろう、旧家に嫁いでいく息子を、どれだけ複雑な想いで見送ったんだろう。
 いやもしかしたら、母さんも楡崎の人間だから、俺の行く末は判っていたのかもしれない。
 父さんがあれだけだらしなくても、母さんは必死に俺を育ててくれた。
 そんな母さんを見ているから、俺もきっと、子供には優しくありたいと思うんだ。
 物思いに耽っているうちに、『三献の儀』が終わっていた。『三献の儀』と言うのは、三三九度の盃を交わす儀式のことを言うんだ。巫女の姿をした眞琴さんが俺たちの前に大中小の3つの盃とお神酒を持ってくる。飲むときには、1.2.3と三回、盃を傾けるんだけど、1、2回めは口をつけるだけで、3回目に飲み干すようするんだと。三つの盃を三回ずつ飲むから、三三九度と言うんだそうだ。
 順番は最初に小の盃(一献め)を新郎である蒼牙が受け、まず飲み、新婦である俺に渡し、俺が飲むんだ。それから中の盃(ニ献め)も蒼牙が受け、まず飲み、俺に渡し、俺が飲む。最後に大の盃(三献め)で、それもやっぱり新郎である蒼牙が受け、まず飲み、新婦である俺に渡し、俺が飲む…と言う順番になっている。
 三献の儀ってのは、「式三献」とも言われ、宮中などで正式な祝賀のお祝い膳の初めに供された盃三献に由来するんだと、繭葵が婚礼の式の前に話していた。一献ごとに酒肴が変えられるんだそうだが、内容は「熨斗鮑」のしあわび(別名うちあわび)、「搗栗」かちぐり、「昆布」などだ。「打ち(のし)、勝ち、よろこぶ」という縁起を担いだってワケだな。戦国武将たちも出陣前に三献の盃を飲み干して勝ちどきをあげたってんだから、これがどれだけ重要な儀式だか判るよな。祝賀、婚礼、大切な客人の接待、宴席、出陣などで用いられる儀式として受け継がれてきたんだそうだ。現在では神前結婚式の一連の儀式の中でも最も厳粛な儀式の一つになってるんだから、ボーッとしてるワケにはいかなかったのに、俺ってヤツはやれやれだ。
 それから『神楽奉納』があって、『誓詞奏上』があるんだけど…この段階で、俺はちょっとウルウルしてしまった。
 だってさ、これっていわゆる『誓いの言葉』ってヤツなんだぜ。
 俺と蒼牙が神前で誓いの詞(ちかいのことば)を読み上げる儀式なんだ。
 まずは蒼牙と俺が神前に進み出て一礼し、蒼牙が誓いの詞が書かれた巻紙を持って読み上げるんだ。読み終わったところで、蒼牙は名前を述べて、俺が自分の名前を述べるんだけど…蒼牙は、威風堂々とした態度で、耳に心地好い朗々とした声音で読み上げた。その姿を盗み見ながら、この瞬間、俺は蒼牙のお嫁さんになったんだと、自分の名前を言う時、ちょっと声が震えてしまった。
 嬉しくて、気恥ずかしくて…でも、やっぱり幸せだったから、ウルウルしちまったんだ。
 読み終えたら、蒼牙は誓詞をもとどおり巻き直したあと、神前に献上するんだけど、『玉串案(たまぐしあん)』ってのに乗せるんだな。
 俺たちは二礼二拍手一礼をして、『誓詞奏上』の儀式は終わる。
 この後は、『指輪交換の儀』があったんだけど、本来、神前結婚式ではこんな儀式はないんだけど、蒼牙がどうしても指輪の交換はしたいと言ったから、特別に設けられた儀式なんだそうだ。
 巫女装束の眞琴さんが指輪を持ってきてくれて、蒼牙が俺の左薬指に結婚指輪を嵌めるんだけど…その時、蒼牙は真摯な双眸で俺を見詰めたんだ。照れとか、気恥ずかしさとか、蒼牙からは伺えなかったけど、これからの決意のような、生涯を守ってみせるからな…と、その不思議な青味を帯びた双眸が物語っているようで、やっぱりここでも俺は思わず泣きそうになっていた。
 まるで永遠の誓いのような、甘い束縛のように、左手の薬指の指輪が嬉しい存在感をズシリと感じさせてくれた。
 俺、たぶん、毎日この指輪を眺めてはニンマリするんだろうなーとか、そんなことを考えていたら、涙目で笑ってしまった。
 そんなはにかむような顔をして蒼牙の左手の薬指に指輪を嵌めたら、蒼牙は、やっぱり同じように万感の想いを秘めた双眸で指輪の嵌る薬指を見詰めていた。
 洋風の結婚式じゃないから、キスとかできないんだけど、できれば今すぐ抱きついて、愛してると言って誓うように口付けたいなぁ…と思うのは、護り神である龍神さまに悪いよな。
 思わずエヘヘヘッと笑っていたら、『玉串奉奠』の儀式が始まった。『玉串奉奠』って言うのは、『たまぐしほうてん』と読むんだけど、神式の儀式に於いて神前に玉串を捧げる、謹んで供えると言う意味なんだそうだ。
 巫女の眞琴さんが玉串を持ってきて、俺たちはその玉串を受け取り神前に進んだ。それから一礼して玉串案に供え、一歩下がってから二人揃って二礼二拍手一礼をする。俺たちに続き、媒酌人、親族代表の順で玉串をお供えする。
 これが終わったら『親族盃の儀』と言う儀式があって、これは『御親族御固めの儀』とも言うんだそうだ。両家の親族の固めの盃を交わすってワケだな。親族の前に眞琴さんがお神酒を注いで、全員にお神酒が注がれたら一同起立をして酒を飲み干す。飲み干す際には、三三九度のときと同じように、1.2.3と三回、盃を傾けるんだけど、1.2回目は口をつけるだけで、3回目に飲み干すようにしないといけない、だからみんなそうしていた。
 俺が寝てる間に両親と親族が集まっていたのか…声ぐらい掛けてくれれば…ってそうか、まだ結婚式前だってのに蒼牙に散々抱かれてヘトヘトの身体で両親に会えるワケないか。
 思わずガックリしそうなところで『斎主一拝』 と言う儀式に入った。
 それから退場で神前結婚式は終了となるワケだが、この退場のところから、呉高木家の結婚式は様相を変えちまうんだよな。
 『斎主一拝』が終わった瞬間、固唾を呑んで見守っていた村人の間で歓声が上がって、思い切り拍手されるんだ。それを機に、親族一同もワイワイとお社の前の境内みたいなところに敷かれた緋毛氈の上に銘々、村人たちと座って、飲めや踊れや歌えの大宴会に突入するってワケだ。
 あの爆裂娘も「光太郎くん!おめでとうッッ」と叫びながら、行き着く先はダッシュで緋毛氈の宴会場に突撃ってところだ。目指すは酒と肴と歌に踊りか?はぁ、元気いいよな繭葵。
 でも、祝福されるのは悪い気はしないから、大いに飲んで食って歌って踊って、今日の日を一緒に祝って慶んでくれ。
 そんな繭葵を見送った俺は、大役を終わらせてホッと息を吐いて用意されている椅子に腰掛けたんだけど、蒼牙が気遣うように俺の、指輪の嵌っている左手を取ると、口許に引き寄せながら言ったんだ。

「大丈夫か?」

「ちょっと、スゲー緊張したから草臥れたけど、うん、大丈夫だ」

 ニコッと笑っても、蒼牙は苛立たしそうに眉間に皺を寄せて、角隠しに隠れてしまいそうな俺の顔を覗き込んできた。

「具合が悪いようなら、無理はするな。アンタは大事な身体なんだ」

「何を言ってんだよ、蒼牙。お前だって大事な身体なんだぞ。無理はするなよ」

 思わずアハハハッと笑ったら、蒼牙のヤツは片頬でニヤッと笑って、誰も見ていないのをいいことに、屈み込みながらチュッと唇にキスしてきたんだ。
 俺がビックリして目を白黒させると、蒼牙は俺の手を握ったままで屈み込んでいた上体を起こして、やっぱりニヤリと笑いやがる。

「洋風の婚礼の儀では、こうして神の前で誓いのキスをするんだろ?龍神にも俺たちの仲を認めてもらおうじゃないか」

「…なんだよ、それ。って、でも嬉しいな」

 顔を真っ赤にしながらも、俺はドキドキと高鳴る胸を押さえて、嬉しくて笑ってしまった。
 俺たちの背後では大宴会が村ぐるみで催されて、お囃子の音まで聞こえて、調子に乗った何人かが踊り始めたりするから、ドッと歓声が沸き起こった。
 元気がいいよなぁ…とか思いながらも俺は、涙腺が弱くなっている双眸で、愛しくて仕方ない不思議な青白髪の龍の子を見上げたんだ。
 ああ、コイツととうとう結婚したんだなぁ、俺。
 本当ならとんでもない運命に導かれて結ばれたんだろうけど…なんと言うか、どんな運命だって、こんな幸福な気持ちにしてくれるのなら、どんと来いって気分だ。
 蒼牙がそうしたように、龍神様の前でもう一度、俺は誓いたいよ。

「蒼牙…俺はこんなだけど、お前が迷惑に思わない限りはずっと、お前について行くからな。何が起こっても、俺は蒼牙を愛して、蒼牙を信じ続けるから、だから…」

 だから…蒼牙も。
 どうか、俺を愛して欲しい。
 俺を信じて欲しい。
 できれば…愛人とか持って欲しくない。

「俺、自分がこんなに嫉妬深いって思わなかった。もし俺に子供が授からなくて、蒼牙が俺以外のひとを…女でも男でも、愛人にしたらどうしよう。そんな時はきっと、俺はどうにかなってしまうって思うんだ」

 唇を尖らせて、涙腺が弱くなっているから、ポロリと頬に涙が零れたら、蒼牙は無言のままでそんな俺を見下ろしているようだった。
 だって、呉高木の因習では、もし正妻に子供ができない時は、何人でも愛人を囲ってもいいんだ。呉高木の資産は、俺が見たこともないぐらいの桁を有しているし、不動産も世界各国にあるぐらいの大金持ちなんだぜ。愛人の50人ぐらいは余裕で持てるんだ。
 心配がないって方が、どうかしてる。

「俺さ、頑張るからな。お前に愛されるように、頑張ってみせるからな」

 角隠しが重くてあまり顔を上げられないんだけど、涙の零れる頬を拭いもせずに、俺は蒼牙の顔を見ようとした。
 ふと、蒼牙が吐息したようだった。

「言いたいことはそれだけか?」

 声音は何故か、当初、蒼牙に出会ったときのように尊大で冷やかだった。
 だから、妙に不安になって眉を寄せたら、いきなり抱き上げられてビックリしてしまった。
 だってよ、白無垢と角隠しって結構重いんだぞ!しかも、俺は普通の男のガタイはあるんだから、スゲー大きな花嫁さんを抱き上げてるんだぞ。しかも、不機嫌以外に表情も呼吸も乱れていないんだから…どうかしてる。

「アンタは俺の妻だ。たとえば俺が誰かを愛人として娶ったとしても、アンタは黙って俺の傍にいなければならない。どれほどアンタが逃げ出したくても、俺の傍から離れるワケにはいかないんだ。アンタはこの場でそれを誓い、後悔すらできない立場になった」

 うん、判ってる。
 俺は甘えたことを言っているんだ。
 角隠しで顔が隠れてしまえばいいのに…俺はポロポロ泣きながら唇を噛んで、黙って蒼牙の言葉に頷いていた。

「…その逆もある。たとえば、俺がアンタに夢中になって、片時も離さなかったとしても、アンタは黙って俺の傍にいなければならない。どれほどアンタが逃げ出したくても、俺の傍から離れるワケにはいかないんだ。俺は人一倍、嫉妬深いからな。光太郎が泣いて謝っても許しはしない。たとえそれが、我が子に向ける愛だとしても、俺に向ける以上に愛情を傾けることは許さない。そう、言わなかったか?」

 冷徹で冷やかな口調ではあるんだけど、それは裏返しの愛情だと気付いている。気付いていても、俺は零れる涙を止めることができないし、そんなの理不尽だよなぁと思わず笑ってしまう。

「光太郎…たとえ相手が俺たちの子供だとしても、村人たちだったとしても、いいか?俺に向ける以上に、その心を砕くことは許さん。アンタはこの日より、俺だけのものだからな」

 俺に泣かれるのは辛いと言う本音もよく判るけど、今日の蒼牙は、たとえ俺が泣いても許してはくれないようだ。
 眩暈がするような蒼牙の執着は俺だけを求めているから、俺は、なんつーのかな?その、嬉しいとか思ってしまうのは、やっぱり俺もどうかしてるのかもしれない。
 でもさ、どれも杞憂に過ぎない誓いだったんだと思い知らされる蒼牙の台詞に、俺はポロポロと泣きながら、やっぱり傲慢で尊大で、でも、それら全てがとてもよく似合う呉高木家の現当主の絶対的に俺を手離さないと躊躇いもせずに宣言してしまう、その偽りのない直向な心を愛しいと思っていた。

「蒼牙、愛してるよ…」

 俺の愛はきっと、蒼牙と言う突風にこれからも散々翻弄されるんだろうけど、それでもこの愛は、そんなに軟じゃないから振り落とされないように確りとしがみ付いて、どこまでもクルクルとついてまわるんだろう。

 蒼牙…俺はお前を愛しているよ。
 最初の頃、あれだけ嫌いだと思っていたのに、ずっと憎めなかったのは、お前の愛が俺には眩しくて、そしてとても羨ましかったからだ。
 いつしか俺が忘れてしまった、純粋で直向で、真摯な想いが身体の隅々まで行き渡って…どれほど俺が、幸福を噛み締めて、でもこれは一時の夢なんだと自分に言い聞かせて、溺れてしまったら後戻りはできないと怯えていたか判るか?
 俺は男で、お前も男だから、一夜の遊びに高い金を出して俺を買ったんだと、これは割り切らなければいけない愛なんだって、俺が泣いたことをお前は知っているか?
 だから、蒼牙。
 お前こそ、覚悟を決めるんだ。
 俺はもう、お前を愛することを諦めたりはしないからな。
 これからの長い月日を、お前だけに心を砕いて…ああ、本当にそうして生きていければいいのに。
 まるで、全てが夢みたいで、このまま目が覚めなければいいのに。
 これが儚い運命のような縁だとしても、俺は千切れてしまいそうな運命の糸を手繰り寄せて、ぎっちり結んで、お前が知らないうちに絶対的な絆にしてみせるんだからな。
 だから…どうか、蒼牙。
 このまま俺を攫って、お前の愛で雁字搦めにしてくれ。
 それが俺の、唯一の望みだ。

第一話 完

第一話 花嫁に選ばれた男 27  -鬼哭の杜-

 その後、どうなったかと言うと、実はよく判らないんだ。
 結局あの後、俺は部屋でそのまま寝てしまったし、それから小林のじっちゃんが来て一通りの診察を受けて、夕食の時にはもう、みんな蒼牙と何かの話し合いをスッカリ済ませちまってたからな。
 小林のじっちゃんの話では、女の子に付きものの例のアレは、本来なら一週間は続くんだそうだけど、秘薬で女になってしまった俺の場合、初潮は数時間で終わってしまうんだそうだ。で、すぐに身篭れる身体になるってんだから、恐るべし秘薬!…だよなぁ。でも、その後は本来の周期に戻るから、やっぱり例のアレは一週間は続くんだそうだ。
 暢気に笑ったじっちゃんが戻った後、俺はぼんやりと部屋の中に座っていたんだけど、蒼牙たちが集まって、いったい何の話をしたのか、気にならない…って言えば嘘になる。
 嘘になる…ってことは、やっぱ気になってるってことなんだから、食事が終わって蒼牙が早々に仕事部屋に引き上げたのを見送ってから、俺は満腹に猫みたいに目を細めながら行儀悪くゲプッ…っと咽喉を鳴らす繭葵を掴まえた。

「ちょい、待ち」

「ゲ、光太郎くん」

 なんだよ、そのあからさまに嫌そうな顔は。

「飯ん時も横に居ただろ、なんだよそのゲってのは」

 ムッとして見下ろせば、小柄な繭葵はニャハハハッと笑って「嘘だよん」と言いやがった。
 なんかホント、この妖怪爆裂娘は雲を掴むようなヤツだと思う。

「蒼牙と何を話したんだ??」

 溜め息を吐きながら聞いたら、繭葵は「おや?」と首を傾げるような仕種をして、途端に眉を寄せちまったんだ。
 なんだよ、その態度は。

「あれ?光太郎くん、蒼牙様から何も聞いてないのかい??」

「へ?あ、ああ。あの後、まだ一度も話をしていないんだ」

 なんだそうなのかーと、繭葵は驚いたように大きな目を更に大きく見開いていたけど、すぐにニヤッと嫌な目付きで笑いやがったんだ。

「じゃあ、蒼牙様ってば。愛妻に心配掛けたくないからってコソリとしてるんだねぇ」

「何をコソリとしてるんだよ?」

 すっげー、気になる言い方をしやがる繭葵を見下ろせば、ぬるい夜風にピンクのチュニックを揺らしながら、繭葵のヤツはニヤニヤと笑うから、底知れぬ何かを感じた俺はうんざりしたように首を傾げてやった。
 僕が話してもいいのかなぁ…と、それでも一抹の不安を感じているような繭葵ぐらいにしか、実は聞ける相手がいないってのは内緒だ。
 こんな時に限って、楡崎の護り手だとか言ってほんわか笑っていた座敷ッ娘もいないしなぁ。
 ましてや眞琴さんに聞こうとしても、あの物言わぬアルカイックなスマイルで薄っすらと微笑んで見詰め返されただけで、悪くもないのにごめんなさいと謝ってその場から逃げ出したくなる、あの威圧感を打ち破って聞き出す根性なんか俺にはない。
 桂は…問答無用で俺を無視するだろうしなぁ。
 蒼牙に止められていれば、たとえ何が起こっても、貝よりも固く口を噤んで、死ぬその瞬間でさえ何も喋らないだろうと思う。そんな人の口を割らせるだけの要素が今の俺には皆無だ。
 と、なればだ。
 今にも話し出したくてウズウズしてそうなヤツが、丁度手頃にゴロゴロ目の前にいるじゃないか。
 コイツを使わない手はない。
 と言うワケで、掴まえた繭葵に事の真相を聞いているワケなんだけど、当の繭葵も何故かあまり話したがらなかった。

「なんだよ、そんなに俺には言えないことなのか?」

「うーん…そゆワケじゃないと思うんだけどねぇ。ただ、蒼牙様も言ってないことを、僕が言ってもいいのかなぁって心配になってるワケだよ」

 そっか…そうだよな、無理に繭葵から聞き出して、それが蒼牙にバレちまったらアイツのことだから、相当繭葵を怒るに違いない。
 それじゃ繭葵にあんまり気の毒だ。
 しょうがない、こうなったら直談判でもするか。
 俺がそう考えていたら、繭葵のヤツはちょっと苦笑して、それから縁側に腰掛けようよと促してきた。

「まま、少しぐらいなら話しても蒼牙様は怒らないと思うから。このやっさしー繭葵様が話してあげようじゃないか」

 なんだ、やっぱ話したかったんじゃねーかよ。

「む。なんだい、その目は。僕は別にどっちでもいいんだよ?」

 ニヤニヤ笑いながらそんなこと言われると、俺は慌ててちゃっかり座っている繭葵の横に腰を下ろすしかない。

「で、ちょっとってどんな話だよ?」

「んー、まずは直哉のおっちゃんと小雛についてかな…」

 小雛!
 それで俺は唐突にハッとした。
 俺が余計なことをしたばっかりに、小雛まで巻き込んでしまったんだ!!
 すっかり、蒼牙と結ばれて浮かれぽんちになっちまってて忘れてたけど、そう言えば小雛はどうしたんだろう。この際、直哉はどうなっても知ったこっちゃないけど、小雛は違う。彼女は俺を憐れんで、力を貸してくれたんじゃないか。

「繭葵!蒼牙はその、小雛をどうしたんだ??」

 そう言えば姿を見ていない。
 まさか、そんなまさか…

「もう、ホンットにキミってば優しいんだよな。だから、蒼牙様は光太郎くんにだけは聞かせなかったんだよ」

「って、もしかして小雛は…」

 俺がハラハラしているように繭葵を見下ろしたら、小柄な彼女は目線だけを上げるようにして俺を上目遣いに見上げてきたんだけど、まるで猫みたいに双眸を細めてニッと笑ったんだ。

「そりゃぁ、激怒してる蒼牙様にメッチャクチャに怒られるに決まってるでショ?」

 ああ、やっぱりそうなんだ。
 あの強い意志を持っている、小さな少女は、愛する男に激怒されてどれだけ傷付いてしまったんだろう。
 そうさせてしまったのは俺なのに…その俺はこんなに幸せを噛み締めている。
 こんなこと、あっていいワケがない。

「コラコラ。どこに行こうっての?蒼牙様のところ?それとも小雛??彼女なら、もういないよ」

 決心して立ち上がろうとする俺の腕を掴んだ繭葵は、呆れたように溜め息を吐きながらそんなことを言った。
 え、今なんて…

「小雛、もういないのか?」

「うん。結局、ご当主はちゃっかり楡崎の者を娶っちゃったじゃない?だから、じーさんが諦めて連れ戻しちゃったんだよ」

「…蒼牙が帰したんじゃないのか?」

 繭葵は呆気に取られている俺をチラッと見たけど、肩を竦めて頷いた。

「怒りはしたけど、蒼牙様も愛する心を知っている人だからね。それに、呉高木の分家と仲違いしても具合も悪くなるしねぇ。結局、今回の件は不問として、呉高木の分家に帰しちゃったんだよ。じーさんを使って」

 ああ、蒼牙のやりそうなことだな。
 小雛は、泣いていたと繭葵は言った。
 初恋の淡い心を直向に傾けて、小雛は真摯に蒼牙を愛していた。
 蒼牙もその気持ちを知っていたんだろう、だから、禁域を侵すと言う絶対的タブーを行ってしまった小雛だと言うのに、実家に戻すだけでお咎めなしにしたんだ。

「そもそもねぇ。悪いのは勘違いした光太郎くんだからね。今回の件は不問で丁度いいんだよ」

 ホッと胸を撫で下ろす俺の傍らで、足をブラブラさせていた繭葵が唇を尖らせてそんなことを言うから、ちぇ、俺だってちゃんと判ってるって。

「ああ、そうだな。でも…お礼も言えなかったなぁ」

 強い意志を秘めた、優しい双眸をしたあの少女。
 何処か、桜姫に似た潔さを持っていたから、きっと俺を見つけなければ、蒼牙は彼女を妻にしたんじゃないのかなぁ…いや、違うか。
 蒼牙は俺と出逢わなければ、龍雅の花嫁になっていたんだっけ。
 なんつーか、どっちにしても、報われないよなぁ、小雛。
 だからせめて、今度はちゃんとした幸せを掴んで欲しいと、心から祈っているよ。
 滲むように微笑んだ小さな顔を思い出して、俺は心からそう思っていた。

「んで、直哉のおっちゃんだけど…」

 思わず物思いに耽っていた俺は、ああ、そう言えば、あのおっさんはどうなったんだろうと繭葵の勝気そうな双眸を見下ろして頷いた。

「眞琴さんや伊織さんのこともあるし、何より、眞琴さんはこの家にはなくてはならない人だからさぁ。やっぱこっちも不問だったんだよね」

「なんだ、そっか。ま、それが一番いいよな」

 俺が思わず笑ったら、繭葵のヤツが不意にジトッとした目付きをしやがるから…う、なんだよ?
 俺、なんか悪いことでも言ったかよ。

「ったくさー、蒼牙様に光太郎くんが禁域にいるとかチクッて、更に禁域に入れちまった張本人だってのに…蒼牙様のご心労も判らなくもないよね」

 可愛い唇を尖らせてムスッと呟く繭葵に、いやまぁ、そうかもしれないんだけどさぁ…と、俺は何故か言い訳めいた調子で頭を掻いてしまう。
 そもそも、本当はアレは全部蒼牙が悪いんだ。
 幾ら、俺が人間にフラフラ靡く楡崎の血の持ち主だからって、龍雅を警戒してヤツに抱かれていた蒼牙の計画ミスなんだよ。俺こそ、ホント、そんなにフラフラしたヤツじゃないぞ。
 取り越し苦労だったなと、いつだったか、蒼牙がそんな風に言って笑ったけど、まさにその通りだったんだ。俺は龍雅に絶対に惚れたりしないし、できれば近付きたいとも思わない。
 いや、蒼牙と抱き合うアイツを見たからかもしれないけど、そもそもだ。蒼牙は肝心なことを忘れている。
 俺、男なんだぞ?…いや、正確にはだったと言うべきなのか??なんつーか、ややこしい身の上になっちまったけど、男だったのになんで龍雅なんかにフラフラすると思うんだよ。
 蒼牙にでさえ、俺は警戒しまくってたってのに…アイツが、傲慢不遜のアイツが心を砕いてくれたから、俺はそんな蒼牙を好きになって、それだってかなり葛藤したってのにさぁ。
 蒼牙はやっぱり心配性過ぎるんだよ。

「あの一件は蒼牙が悪い。小雛を巻き込んだのは確かに俺だから俺も悪いけど、でも、禁域に行く羽目になったのは蒼牙のせいだからな」

 フンッと鼻で息を吐き出して外方向くと、繭葵は呆れたように肩を竦めたけど、そろそろ星が瞬きだした夕暮れの空を見上げて、ちょっとホッとしたように笑った。

「でも、何もかも、あるべきところに納まったような感じじゃないかい?僕は、なんだか大役を果たしたような気分だよ」

 だからもう、この村を出て行ける…言外にそのニュアンスを感じ取って、俺は急に不安になったんだ。
 確かに、蒼牙もいるし、座敷ッ娘もいる。
 でも、この村で唯一、バカ騒ぎしたり肩を張らずに面と向かって話せたのってさぁ、繭葵だけなんだよなぁ。

「そっか。お前も、もう行くんだな」

「ははは。光太郎くんの祝言を見て、蒼牙様との約束どおり、蔵開きしてからね」

 一抹の寂しさを含んだ双眸は、星を浮かべる夜空のようにキラキラしていて綺麗だった。
 繭葵はもう、心残りは何もないんだろう。

「たまにはさ、思い出したように遊びに来いよ?」

 ちょっと寂しくてそんな風に誘ったら、繭葵のヤツは、ニコッと笑ってから大きく頷いてくれた。

「うん。光太郎くんに可愛いベビーが誕生したら、真っ先に来るからさ!」

 そんな感じでドンッと背中を叩かれて、新米のお嫁さんは頑張れよって言われてるみたいだった。
 結局、蒼牙の話はそれだけで、後は有耶無耶に誤魔化されちまったんだけど、俺はそんなことよりも、繭葵との別れが寂しくて仕方なかった。
 こんな小さな女の子なのに、俺は随分と助けられて、依存してたんだなぁと今更ながら溜め息が出た。
 それでも、繭葵は世界にだって飛び出しちまうような、飛び切り頑丈な精神の持ち主で、あらゆる民俗学的な価値あるものを見て、そして発見してその名を轟かせるんだろうなと思う。
 そんな自由な生き方にも憧れるけど、俺としては、可愛い子供たちに囲まれながら、ちょっとヤキモチ焼きの子供っぽい、そのくせ凄く頼り甲斐のある旦那様の傍でゆっくりと暮らす生活の方がいいと思う。

「繭葵、頑張って新発見とかしろよ」

「…やだなぁ、まだお別れじゃないのに。そんなこと言われちゃうと、出発できなくなっちまうよ」

 照れ照れと頭を掻きながら、それでも、繭葵も寂しさを感じてくれてるみたいだ。
 コイツ、ホントにいいヤツだよな。
 性格とか妖怪爆裂娘なんだけど…でも、繭葵はいい女だと思う。

「欧とか言ったっけ?お前の相棒、ソイツも待ってることだしな。行かなきゃいけないだろ?」

「欧くん?うん、そうだね。世紀の大発見も待ち構えちゃってるよ~?ウシシシ」

 歯をむいて笑う繭葵の頭にヤツはそれほど入っちゃいないんだろう。だが、いつかお前も気付くよ。
 直向な視線に、その意味に。
 んで、いつかさぁ。
 お前とその欧とか言うヤツが仲良く訪ねてきてくれたら、俺は嬉しいと思う。
 そんな日が来ればいいな。
 俺と繭葵は、夕暮れから満天の夜空に移り変わる空を、暫くそうして見詰め続けていた。

 夜半過ぎに俺を起こさないように布団に潜り込もうとする蒼牙の着流しの胸元を、俺はムンズッと掴んで起き上がると、その驚いた顔を見上げたんだ。

「捕まえたぞ、この野郎。昼はズーッと仕事なんかしやがって!説明とか全然してくれないんだなッ」

 唇を尖らせて悪態を吐けば、蒼牙のヤツはやれやれと苦笑して、着流しを掴んでいる俺の手を大きな掌で包み込んだりしやがるから、思わず顔が赤くなってしまった。

「そんなことでアンタは起きてたのか?」

「そーだよ!俺の旦那様は秘密主義だからな。奥さんとしては心配で夜が眠れねーんだよッ」

 ムムムッと眉を寄せると、蒼牙はクスクスと笑って、それから掴んだ俺の手を引き寄せるようにして抱き締めると俺の肩に顔を埋めて、疲れたように溜め息を吐いたんだ。

「別に秘密主義じゃない。婚儀の日取りを決めていたのさ」

「…え?」

 ビックリして目を見開いたけど、俺の肩に顔を埋めている蒼牙には見えなかったと思う。
 婚儀…あ、そうか。
 そう言えば忘れてた、俺、ついつい晦の儀とかやらかしちまったから、結婚した気でいたんだ。
 そうだ、俺、蒼牙と朔の礼を挙げないといけないんだ。

「繭葵にも出席して欲しいだろ?それと、眞琴と桂に日取りなどの打ち合わせをしていたんだ」

 ああ、そうだったのか。

「だったら、俺も参加するべきじゃねーのかよ」

 だってさー、結婚式ってのは夫婦になる初めての共同作業だろ?
 なんか、取り残されたみたいでムカツクんだけどよー
 納得いかないんだと言う顔をして蒼牙の掌をゆっくり離して、その背中に腕を回したら、俺の肩に顔を埋めたままの、綺麗な青白髪のご当主さまはクスクスと笑っているみたいだ。

「アンタは大事な身体だ。朔の礼までゆっくり休んでいるべきだ」

「…そうか、朔の礼」

 眉を寄せたままで、俺は蒼牙の身体のぬくもりを感じながら、やっぱりちょっと納得いかないまま唇を尖らせてしまう。
 せっかく蒼牙と結ばれたのに…

「そっか、俺、まだ蒼牙のお嫁さんじゃなかったんだな」

 ポツリと呟いたら、不意にガバッと蒼牙が身体を起こして、目を白黒させている俺の顔を覗き込んできたんだ。強い意志を秘めた男らしい、神秘的な青味を帯びた双眸で挑むように睨まれて、う、俺なんかとんでもないことでも口走っちまったのかと焦ってしまう。

「なんだと?誰がそんなことを言ったんだ?!」

「へ?い、いや誰も言ってないけど。ただ、朔の礼を挙げないと、俺、蒼牙の奥さんにはなってないじゃないか」

 両の手首を握られて、俺は困惑したように眉を寄せて首を左右に振ったんだけど、蒼牙のヤツは思い切り腹を立ててるみたいだ。

「朔の礼など、本当はどうでもいいんだ。ただ、眞琴や桂たちが執り行わないとアンタに申し訳ないと言うから、素直に従っているだけなんだぞ!俺にとって、アンタはもう妻だ。それは誰にも変えられないッ」

 ムスッと、本当に腹立たしいんだろうなぁ、この青白髪の鬼っ子は。
 いや、違うな。
 龍の子だ。
 俺は思わずプッと噴出して、俺の手首を掴んで引き寄せている蒼牙の、その不機嫌そうな顔に目蓋を閉じて顔を寄せたんだ。
 やわらかく触れた、少しかさついた唇にキスをしたら、あれほど激怒していたくせに、蒼牙はすぐにキスを受け入れてくれた。
 舌で頑なそうな真珠色の歯に触れたら、その城門はすぐに開いて、俺からの口付けを蒼牙は嬉しそうに楽しんでいるみたいだ。
 俺だって、そうなんだ。
 別に婚礼の儀式とか行わなくても、あの時、蒼牙に俺の身体の奥深いところに触れられたあの瞬間に、俺の心も身体も全て、蒼牙のものになったんだから。
 俺の心はもう、蒼牙のお嫁さんだと認識している。
 でも、なんだか儀式とか残ってしまうと、まだそうじゃなかったのかと寂しい気持ちになっちまっただけだよ。
 お前が違うんだと否定してくれれば、本当はそれだけで安心できる。
 だから、言っちゃったのかもしれないけどな。

「…ん、ふ……ッ、ぅん…」

 弄るように戯れる俺の拙い舌の動きなんか、易々と蒼牙に攫われてしまって、主導権は奪われてしまう。ちょっと楽しかったけど、でも、それでもいいと思ってしまうのは惚れた弱みだ。
 掴まれていた手首が離されたから、俺は蒼牙の首に噛り付くようにして腕を回したら、俺の旦那様は浴衣の裾から悪戯な指先を忍ばせてくるんだ。
 うん、何度でも。
 俺は蒼牙に抱かれたい。
 蒼牙が触れやすいようにちょっと足をずらしたら、キスはますます濃厚になって、大胆な俺の身体を隈なく辿るように空いている方の手で愛撫してくれる。

「…ぁ」

 キスの合間に思わず声が漏れたのは、まだ慣れていない女性器に蒼牙の無骨な指先が触れたからで…でも、俺のそこはもう、蒼牙を求めてねっとりと粘る粘液を溢れさせていた。

「アンタは俺の妻だ。ここに誰かを受け入れるとすればそれは、俺だけだ」

 ゆっくりと指が挿入されて、俺は腰をもじもじさせながら、逞しい背中に抱きついてしまう。

「うん、俺、蒼牙だけしか知らない」

 それでいい。
 ぎゅうっと縋りつくと、ねっとりと纏わりつく内部を掻き回すようにぐるりと指を回されて、俺はあられもない嬌声を上げてしまった。
 ハッとして慌てて唇を噛み締めたけど、蒼牙がそれを許してくれず、女になってからやたら涙腺が緩くなった俺の目からポロポロと涙が零れるけど、お構いなしにキスしてくれる。

「アンタは凄いな。どんな姿でも、俺を欲情させてしまう」

「そんな…ッ!…んぁ…や、……ぁん」

 官能を刺激するような湿った音を響かせる下腹部が、どんな状態になっているのか触らなくても良く判る。俺の息子はヒクヒクと震えながらガチガチに硬くなって筋張ったまま屹立して、先端から悲しいと粘る涙を零しているし、女性器もそれに反応して愛液を溢れさせてるんだから、凄まじい惨状になってると思う。
 にも拘らず、蒼牙は興奮を物語るように目許を朱に染めて、口許に淫らな笑みを浮かべたままで俺に覆い被さってくるんだ。

「アンタは俺の妻であり、生涯の伴侶だ。これからは毎晩でもここに俺を受け入れて、俺の子種を受け止めるんだ。何が嫁じゃないだと?こんなことをされてもアンタはまだ、俺の妻になっていないと思っているのか?」

 恥ずかしい台詞を抜け抜けと言いながらも、蒼牙はひくんっと震える淫らな部位に、猛々しく屹立している灼熱の杭を押し込んできた。

「んあ!…や、いた…あ、あぁ……ッ」

 まだ慣れていない挿入の衝撃は痛みを伴うけど、それでもすぐに濡れた女陰は絡みつくようにして硬度を保つ筋張った雄を咥え込もうと、淫らに蠕動を繰り返す。
 蒼牙がゆっくりと腰を押し進めると、まるで逃げるみたいにずり上がる俺の身体を押さえて、挿入を更に深めようと押し入ってくる。その凶暴な仕種にポロリと涙が零れて、俺は頭を左右に振りながら、蒼牙の背中に爪を立てた。
 しかも、挿入をスムーズにするつもりなのか、どうかは判らないんだけど、これ以上はない快感に翻弄されているって言うのに、蒼牙のヤツは、俺と蒼牙の腹の間で揺れている息子を掴むと、先端の鈴口をぐりっと指先で抉るようにするから…

「ひぁ!…や、あぅ!…い、だめ…や、いやだッ…あぅ……んッ」

 強烈な快感に脳内がスパークして、もう突き上げられる快感に悦んでいるのか、雄を掻き毟られる快感に泣いているのか、頭がぐちゃぐちゃになって、もう許してくれと懇願しても、俺の身体に夢中になってくれている青白髪の、御伽噺から抜け出してきたような男は許してくれないんだ。

「あ、あぁ…も、ゆるし…ッッ……ひぃ、…んッ……ぅ」

 掻き毟るように背中に回した指先に力を込めて縋りつく俺の身体を抱き締めるようにして、絡みつく肉の欲望をじっくりと堪能する蒼牙は唇を扇情的にペロリと舐めると、その顔を見上げて涙を零している俺の頬を同じようにペロッと舐めたんだ。

「何度でもアンタを抱いてやる。この身体の隅々に、いったい誰のものなのか。烙印を刻み込んでやる」

 蒼牙は嗤った。
 俺を奈落に突き落とすような快楽に喘がせながら、子宮に叩きつけるように熱の奔流を流し込んで。
 そんな、淫らな顔で笑って欲しくない。
 そうしたら俺は、何度だって抱いて欲しくなるし、一度射精してしまってもまだ硬度を保っているこの灼熱の雄を、身体の中から出して欲しくなくなってしまうから。

「お、俺の旦那様…あぅ…ん、も、と、もっと抱いてくれ…」

 蒼牙の腹に思い切りぶちまけても、まだ硬度を失わずに震える雄を擦り付けながら、まだ咥え込んだままのそこに力を込めて、きゅぅっと収斂させて引き止めると、内部の締め付けを愉しんでいる蒼牙は嬉しそうに笑うんだ。
 揺らめかす俺の腰を掴んで、どうやら蒼牙は、今夜はもう離してくれないみたいだ。
 俺は嬉しくて、傲慢で自分勝手な愛しい青白髪の龍の子に縋り付いて、頬に涙を零しながら蕩けてしまうキスをした。

第一話 花嫁に選ばれた男 26  -鬼哭の杜-

 どうやら俺は一瞬でも意識を失っていたみたいだ。
 ふと目を開けたら、心配そうに覗き込んでくる蒼牙の青味がかった不思議な双眸を見つけた。

「大丈夫か?」

 すぐに返事をしようと思ったんだけど、何故か、声が咽喉に引っ掛かったみたいになって思うように言葉を出せないから、仕方なく頷くしかなかった。
 大丈夫だって、こんなもんでちゃんと伝わるのかよ。

「そうか、だが、あまり無理はするな。暫くここで休もう」

 そう言って、蒼牙は俺の前髪を掻き揚げてくれた。
 それで唐突にハッと気づくワケなんだけど、おお、俺ってそう言えば蒼牙と遂に結ばれたんだ。
 ずっとこの時を、本当は待っていたってのに、いざそうなるとやたら気恥ずかしくてどんな顔をすればいいんだよって、なー
 顔を真っ赤にして、それでも、半裸の蒼牙の逞しい胸元とか見てしまうと、やっぱ惚れ惚れと見蕩れてしまう。
 今更なんだけど、コイツが女の子だった時もあるんだから、もう何が起こったってちょっとやそっとじゃ驚かないだろうな、俺。
 つーか、俺自身が一部とは言え女になってるんだ、信じないワケにいかないよな。

「蒼牙…」

 ちょっと咳払いして、漸く声を出したら、夏なんだから寒くもないんだけど、あの傲慢不遜の化身みたいな呉高木家の当主様にしては珍しく、心配して布団を掛けようとしていた蒼牙がすぐに振り向いてくれた。

「どうした?具合が悪いのか??」

「いや、そうじゃないんだけど…その、汚しちゃったな」

 言外に含んで言ったのは、その、蒼牙を受け止めた瞬間に俺の息子が腹筋が程よくついている蒼牙の腹に悪戯をしちゃったんだよなぁ。
 顔を真っ赤にしていたら、蒼牙のヤツは「なんだそんなことか」と呟いて、ニッと笑ったんだ。

「気にするな。それだけ、アンタも感じたってことだろ?」

「うッ…ん、そうだな。我慢できなかった」

 照れ笑いをしたら、蒼牙のヤツはまさか俺がそんなこと言うとか思ってもいなかったのか、ちょっと驚いたみたいだったけど、それでも嬉しそうに額にキスしてくれた。

「それから、もうひとつ」

 呟くように言ったら、蒼牙は不思議そうな顔をした。
 俺が何を言うんだろうと、その言葉を待っているみたいだった。
 だから、俺はできるだけ心を込めて言ったんだ。

「あのな、その、ありがとう」

 エヘッと笑ったら、蒼牙のヤツは少し面食らったような顔をしたから、思わず笑ってしまう。

「何を、言ってるんだ…?」

「だからさ、俺を選んでくれたじゃないか。俺さぁ、いつも自分って不幸だよなぁと思ってたんだ。あのクソ親父は見境なく借金とかするし、でも、こんな生活でも生きてるだけまだマシかって」

「…」

 俺の傍らにうつ伏せになって両肘で上体を支えながら俺を覗き込んでくる、不思議な青白髪の美丈夫の顔を見上げて、俺はポツポツと話した。

「なのに、お前。借金の形だとか言って、俺をあそこから助けてくれただけじゃなくて、母さんたちにも普通の暮らしをくれただろ?それに俺、最初は花嫁なんか冗談じゃない。呉高木の当主は酷いヤツだってずっと思ってたんだ」

「…なるほど。その考えは当たっていたな」

 ちょっとムッとしたように唇を尖らせて、蒼牙はそれでもそれ以上は何も言わずに、俺の話を黙って聞いてくれる。
 忘れていたけど、コイツはまだ高校生で、なのに、その仕種も態度も、もう何もかもを知り尽くしている大人よりも大人に見えるから…頼り甲斐のある旦那様なんだろうけど、俺はちょっと寂しいなぁと思ってしまうんだ。

「ああ、そーだよ。問答無用で俺を女にして、とうとう奥さんにまでするんだからなー」

 唇を尖らせたら、何故か蒼牙はクスッと笑って、そんな俺の唇をソッと啄ばむようにキスをした。

「だが、そんな酷いヤツに惚れてるんじゃないのか?」

 ニッと笑ったりするから、ちょっと意地悪な気持ちにもなる、なるんだけど、それよりも今はもっと大事なことがある。
 だから俺はニヘッと笑うんだ。

「ああ、スッゲー惚れてるさ!」

 すると、俺の憎まれ口を聞くもんだとばかり思っていたのか、蒼牙は一瞬ビックリしたような顔をして、それから唐突に、本当に唐突に、顔を紅潮させたんだ。
 耳まで真っ赤になってるんだぜ、信じられるかよ。
 そんな顔をするとか思っていなかった俺は、俺のほうこそ驚いてポカンッとしてしまう。

「いや、まぁ、判った」

 頬を染めて頷くなんて、今日の蒼牙はどうかしてる。 
 いや、違うな。
 どうかしてるんじゃない、蒼牙の新しい部分を新たに発見したんだ。
 俺、こうして、この村で暮らしながら、あとどれぐらい蒼牙のこんな風な新しい部分を発見できるんだろう。
 これは、とても喜ばしいことなんだと思う。
 俺は笑って、蒼牙の頬に片手を伸ばしたんだ。

「俺、お前にスッゲー惚れてるんだよ。こんなに誰かを好きになるとか思わなかった。そのお前が、他の誰でもない、俺を選んでくれたんだ。俺、今さ、スッゲー幸せなんだ。このたくさんの幸せをくれたから、だから、蒼牙に何度だってお礼を言いたいよ。ありがとう、蒼牙」

 精悍な頬を包み込んで、愛しい肌触りを忘れないように、俺は心を込めてそう言った。
 蒼牙は驚いたような顔をしていたけど、ふと、少し拗ねたような顔をして頬を染めた。

「アンタこそ、俺になんでもくれる」

「え?」

 頬に触れていた俺の手を掴んで口許に寄せながら、蒼牙は、不思議な青白髪の前髪の奥から、神秘的な青味を帯びた双眸で真摯に俺を見詰めながら呟いた。

「少し、話をしてもいいか?」

「へ?あ、ああ、うん。いいよ」

 そりゃ、その、心から好きなヤツに、その、女として抱かれたワケだから、男の部分が状況を理解しようと身体の何処かでフル活動してるんだから、身体はヘトヘトで草臥れてるんだけど、女の部分が満ち足りた幸せを噛み締めているから、頭はスッキリしてる。
 なんつーか、ヘンな感覚ではあるんだけど、身体を休めがてら、蒼牙の話を聞くのは辛くない。
 蒼牙、いったい何を話すつもりなんだろう。

「俺の両親について、アンタに知っていて欲しい」

「え?」

 ドキッとした。
 俺は、今日、やっと蒼牙のお嫁さんになれたんだ。
 これからは呉高木家のことも聞くようになるんだろうけど、真っ先に蒼牙の親父さんの話を聞くとは思わなかった。
 蒼牙の親父さんについては、誰も口を開かない。
 それはまるで、この禁域と同じぐらい、触れてはいけないものなんだと認識していた。
 だから俺は、俺の横で少し、ほんの少し思い詰めた双眸をしている蒼牙を見上げてしまう。

「俺の母さん…桜姫は、直哉の許婚だったんだ」

「へ?そうだったのか??」

 じゃぁ、今の関係は当初の通りだったってことになるのか…と、そこまで考えて唐突にハッとしたんだ。
 平気で聞いてしまったけど、桜姫は呉高木家の一族の掟みたいなものを破って、恋に生きたってことなんだな。
 ふーん…なんだ、ロマンチックじゃないか。

「仕来りに縛られない、蒼牙のお母さんはチャレンジャーだったんだな。すげーロマンチックだ」

 ヘヘヘッと笑っていたら、蒼牙は目線を伏せて口許に小さな笑みを浮かべた。

「アンタぐらいだな、そんなことを言うのは…ロマンチックかどうかは判らんが、桜姫はある日、この禁域の傍にある大きな池の畔で男に出会った」

 確か、龍神池だっけ?
 繭葵が得意そうに説明していたのを思い出した。

「ソイツは、青味のある真っ白な髪を腰まで伸ばした、青い目の男だったそうだ」

 きっと、目の前にいる蒼牙のような顔をした男だったんだろう。
 蒼牙は、お父さんの血をちゃんと受け継いでいるんだ。
 実際に見ていないんだけど、なんとなく、判るような気がする。
 だってさ、桜姫に似てねーもん、蒼牙。

「名を蒼牙と言って、龍神池に棲むこの村の護り神、蛟龍だった」

「…ソウガ?」

「そうだ。俺のこの名は、父から譲り受けた」

 そう、だったのか。
 ん?待てよ、護り神の蛟龍って…

「蒼牙は長い間、血を分けた一族が治める村の繁栄を龍神池から見守っていたんだが、ある日、桜姫を見つけたんだ。俺の父は、いてもたってもいられなかったんだろう、仮初めの姿で母の前に姿を現した。もともと、同じ血を持つもの同士だったワケだが、いや、だからこそ、桜姫も蒼牙に惚れたんだろう。桜姫は直哉との縁談を破棄した。腹に俺がいたからな」

 少し照れ臭そうに話すのは、同じ名前だからなのか、それとも、両親の幸福だった日々を想像しているからなのか…どちらにしても、今まであんまり楽しい話じゃなかったから、俺としては、この話が一番好きだと思った。
 でも、呉高木の掟はそんな2人を許しはしなかったんだろうなぁ…

「けして、起こり得てはいけない恋だった。蛟龍は天女の末裔を待ち続けていたし、桜姫は呉高木のなかでも、唯一、蛟龍の血を色濃く引いていた。だからこそ、彼らは楡崎を待たなければならなかったんだ。だが結局、蛟龍は罰を受け天に逝き、桜姫は直哉に嫁がざるを得なかった」

「…」

 でも、蒼牙の親父さんとお母さんは、それぞれの存在を必要としたんだ。
 親父さんを亡くして、ああ、だから、桜姫は心の奥深いところを壊してしまったんだな。
 その気持ち、今の俺にはよく判るよ。
 蒼牙がいなくなったら、そう考えるだけで心許無くて、まるで足許から地面がスッポリとなくなってしまうような不安感に襲われるんだ。
 なんだ、この話も悲しいんじゃないか。
 でも、ちゃんと、先祖の身勝手な妄執から逃れようとした人たちもいたんだなぁ。
 紅河だけじゃない、その最も近い末裔の蛟龍本人ですら、そんな古臭い雁字搦めの鎖のような掟の戒めを引きちぎろうとしていたってのに。

「だが、その母さんも漸く、黄泉比良坂で父さんに逢えただろうよ…そんな二人の子だからな、俺は龍になるのさ」

「ああ、なんだ、そうだったのか。蒼牙の親父さんは龍だったんだな」

 普通に聞けばおいおいってなモンだけど、俺の場合、目の前で龍の蒼牙をみたし、こんな身体にもなったワケだから、今ならそんな話でも素直に信じられる。
 俺が合点がいったように言うと、蒼牙は「そうだ」と頷いて、それからほんの少し不機嫌そうに眉を寄せてしまった。
 おや?っと首を傾げたら、蒼牙は俺の頭に手を置いて、ワシャワシャと撫でてきたんだ。
 なんなんだ?

「…俺が、気持ち悪いと思うか?」

 顔を上げようとしたんだけど、蒼牙の大きな掌がそれを阻んで、俺はやれやれと溜め息を吐いた。
 できれば、ちゃんと顔を見て言いたいんだけどなぁ…

「ったく、何を言ってんだよ。ここは日本なんだぞ?そりゃ、伝説の龍の子供なんて聞けばビックリしたけどな。じゃあ、俺の愛する旦那様は神様ってワケか。俺こそ、釣り合うか不安だ」

 天女の血っつってもなー、俺なんかこれっぽっちも片鱗を見せてないんだぞ?
 畏れ多いんだけど…でも。

「俺、蒼牙が龍の子供だろうとなんだろうと、愛してるぞ。気持ち悪いなんか、思ったこともない。そんなこと思うんだったら、小手鞠たちを見た瞬間に逃げ出してる」

 それまで俺の頭を押さえていた蒼牙は、その手の力を抜いて、それから、恐る恐ると言った感じで…って、信じられるか?あの蒼牙が、不安そうに恐る恐る俺の顔を覗き込んできたんだぞ。
 俺がどんな顔してると思ったんだよ。
 そもそも、眞琴さんの手紙で龍の子だって聞いてたし…いや、まさか、本当に龍の子だとは思わなかったけど、でも、それならそれで、いいかと思う。

「あ、でもさ。お前は紅河や蛟龍の蒼牙と違って、ちゃんと一族の掟を守ってくれよ?」

「…え?」

 驚いたように俺を見下ろしてくる蒼牙の青味を帯びた神秘的な双眸を見上げながら、俺は思い切り必死に訴えたんだ。
 だって、そうだろ?

「俺は楡崎の、天女の血を持ってるんだから、お前はちゃんとご先祖の気持ちを汲んで、俺を愛してくれないとダメなんだからな」

 そりゃ、必死になるって。
 だってよー、聞いていたら初代の蛟龍の気持ちを汲んでるヤツなんか、本当は殆どいないじゃねーか。
 もしかしたら、蒼牙だっていつ心変わりするか判らない。

「疑うのかとか、蒼牙すぐ怒るけどさ。お前の親父さんだって楡崎なんかさっさと忘れて桜姫を愛したんだろ?俺の立場って非常に拙いじゃねーかよ」

 呆気に取られたようにポカンとする蒼牙に、俺はムゥッと唇を尖らせて顔を寄せたんだ。
 そりゃ、そうだろ。
 一族の掟なんかなんのそので、桜姫をまんまと奥さんにしてしまった蛟龍の血を引いてる蒼牙なんだ。確かに、楡崎の血は関係ない、俺を愛しているんだとは言ってくれるけど、でも、やっぱり不安になるじゃないか。

「…はははッ」

 蒼牙は思わずと言った感じで声を立てて笑いやがったんだ。
 くそ、なんてヤツだ。

「笑うところじゃないだろ?!そもそも、楡崎の呪いか何だか判んねーけどさ。結局、掟に関係ないヤツに惚れてるのは蛟龍の末裔の方が多いじゃねーかよ。そんなの聞いて、俺が冷静でいられると思うのか?俺はこんなに必死なのにさ、なんだよ、蒼牙は酷いぞッ」

 真珠色の歯を覗かせて心から愉快そうに笑う蒼牙に、漸く起こせる上半身を起こして詰め寄ろうとしたら、そんな俺に覆い被さるようにして抱き締めてきた蒼牙のせいで、またしても布団に逆戻りだ。
 ムッとする俺の鼻先に、触れ合うように鼻先を擦り付けてくる蒼牙に、こりゃもう一言ぐらい言わないとコイツは本当に判っていないなと思っていたら…

「矢張り俺は、アンタを愛して良かったと思う。これからも随分と長いこと、アンタを心から想い続けるんだろう」

「へ?」

 そんなこと言うから、俺はワケが判らずにポカンッと目を丸くした。
 口許に幸せそうな笑みを浮かべたままで、蒼牙は俺に口付けてきた。

「お前なー、キスで誤魔化そうとしてるだろ?クッソー、先が思いやられる旦那様だなぁ」

 やれやれと眉を寄せながらも、蒼牙の逞しい背中に腕を回して、それでもやっぱり愛しい旦那様のキスを受け入れてしまう俺は、どれだけ蒼牙にメロメロなんだよと恥ずかしくなる。

「光太郎、アンタ以外に、俺の心を奪えるヤツなんかいないさ」

「だったらいいけどなぁ。俺、頑張るよ」

 頬に目蓋に、蒼牙の啄ばむような優しいキスを受けながら、俺は内心でガッチリと拳を握り締めていた。
 蒼牙のヤツはそんな俺を抱き締めて、何故か幸せそうに笑っている。
 そんな蒼牙の表情を見たことがなかったから、俺はムッとしながらも、まぁ、これはこれでいいかと溜め息を吐いて、この傍若無人なはずの呉高木家のご当主様に抱き付きながら笑った。
 だって、俺だって、蒼牙に負けないぐらい幸せなんだから。
 本当はそう伝えたかったのに、話が全然違う方向に行ってしまったんだけどさ、それで蒼牙がこんなに嬉しそうな、幸せそうな顔をしてくれるんだったらなんでもよし。どんと来いってんだ。
 俺も大概現金だけど、今はまぁ、よしとしておこう。
 うん。

「光太郎くん!その、大丈夫かい??」

 歩けるからと言っても頑として首を縦に振ってくれなかった蒼牙にお姫様抱っこをされて山を降りた俺を待っていたのは、ワクワクしてるような、大きな目をキラキラ輝かせたなんとも気持ちの悪い繭葵の元気のいい声だった。
 蒼牙、気持ち悪いってのはこう言うヤツのことを言うんだぞ。

「ああ、その、心配かけたのか?」

 こんな恥ずかしい姿を見られて赤面する暇も与えてくれない爆弾娘に呆れながら聞いたら、繭葵はすっ呆けた口調で言いやがったんだ。

「心配するに決まってんじゃーん!真夜中に抜け出しちゃってさぁ、朝まで帰って来ないんだから…うーん、蒼牙様の顔を見ればなんとなく判ると思ってたんだけど、ゲロバレで面白くもないね!」

「なんだ、それは」

 流石の蒼牙もイラッとしたようだったけど、この村に来て唯一俺が心を許して仲良くしている繭葵を邪険にしても悪いと思っているのか、1万歩ぐらい譲って肩を竦めるぐらいに留めてくれたから…なんだ、前はちょっと嫉妬とかしてくれてたのに、もう繭葵は眼中にないんだな。
 それはそれで、俺的にはちょっと寂しいかも。

「でもさ、本当に体調とか大丈夫?蒼牙様がいらっしゃるから、大丈夫だとは思うんだけどね」

「うん、もう大丈夫なんだ。だから降ろしてくれって言ってんのに、この心配性の旦那様は降ろしてくれねーんだよ」

 上目遣いに睨んでやっても、平然と俺を抱き上げている蒼牙はシレッとした顔をして外方向きやがった。
 ムムムッと唇を尖らせて口を開きかけようとしたんだけど、繭葵の盛大な溜め息に邪魔されてしまった。

「前は恥らう姿とかが面白かったのに、なんか、二人とも甘々でこっちが砂でも吐きそうだよ」

「甘々ぁ?!俺と蒼牙を見て、どこが甘々って言うんだよ!俺は思い切り意地悪されてるんだぞ」

 人前で恥ずかしげもなくお姫様抱っこなんかするコイツと、俺の何処が甘々って言うんだ。
 それでも、無理に降りようとしないから、甘いとか言われてんのかな、俺。
 え?じゃぁ、結局俺が悪いってことになるのか??

「繭葵、光太郎を悩ませるな。アンタには後で話がある。俺の仕事部屋に来てくれ」

 ん?繭葵に話って、なんだろう?
 俺が首を傾げて蒼牙を見上げると、繭葵もそうだったのか、きょとんっと一瞬目を丸くしたけど、それでも興味深そうにニヤッと笑うんだ。

「へぇー!蒼牙様が僕にお話ってのも珍しいね!うんうん、すぐ行くよ」

「後でいい。今は、光太郎を休ませてやりたいからな」

「え?いや、繭葵に話があるんなら、俺はひとりで部屋に戻れるぞ」

 もしかしたら、大木田家と何か大切な話でもあるのかもしれないと思ったから、俺が慌てて降りようとすると、蒼牙のヤツはガッチリ抱き締めた腕に力を込めて俺の動きを押さえつけやがったんだ。
 なんなんだよ、いったい。
 ちょっとムッとして見上げたら、蒼牙のヤツは目蓋を閉じて俺の額に頬を寄せてきたんだ。

「俺が独りになりたくないんだ。今はアンタとこうしていたい」

「うぇ?!」

 思わずヘンな声を出して真っ赤になったら、繭葵は盛大に爆笑して手を振りやがった。

「はいはい。幸せな2人にちょっかい出すと馬に蹴られるから後にするよ。お昼頃でいいかな?」

「ああ、そうしてくれ。悪いな」

「あははは!」

 蒼牙の比較的やわらかい態度に、事の真相を思い切り見抜いてしまっている、そう言うところだけは勘の鋭い繭葵は嬉しそうに爆笑して手を振ってさっさと何処かに消えてしまった。
 蔵だ、きっと呉高木家の宝物庫だとか言ってた蔵に行ったんだろうなぁ。
 蔵開きの前準備か…ってことは、バレてるんだろうなぁ、あの天然爆裂娘には。

「…繭葵に話ってなんだよ?」

 思い切り気になりますって面して聞いたのに、蒼牙のヤツは「ちょっとな」と言って肩を竦めるぐらいで答えてくれなかった。
 そうなると、俺は知りたくてウズウズしちまうじゃねーか。
 だいたい、奥さんに隠し事って良くないんじゃないか?それってお前、あの爆裂娘と、けして有り得ないとは重々承知しているんだけど、浮気だって疑っちまうぞ。
 …俺、なんか嫉妬深くなったような気がするなぁ。
 これじゃ、流石にいかんだろ。

「話したくないなら別にいいけどな」

 十分、気になりますって面して言っても真実味がないだろうけど、それでも、俺はそれ以上聞かないことにした。だって、なんか、蒼牙を縛り付けてるみたいで嫌な感じがしたんだ。
 そんな俺を見下ろしていた蒼牙が何か言おうとしたとき、ふと、まるで陰のように佇んでいる人影に気付いた。

「桂さん!」

 ああ、そう言えば、この執事の鑑のような人にもなんか、やたら迷惑をかけたような気がする。
 あの時は気付かなかったけど、たぶん、あの禁域だとか直哉が言っていた桜姫の閉じ込められていた座敷牢のところにも、桂は来てくれていたに違いない。
 だって、この執事の鑑のような人が、有り得ないことに、口許に静かな微笑を湛えているんだ。
 それはまるで、ちょっとホッとしているように見える。
 いつもは完璧なポーカーフェイスだってのに、俺を見る目付きが、まるで父親みたいに穏やかで温かい…うぅ、俺のホントの親父にも見せてやりたいよ。くそぅ。

「お加減は如何ですか、光太郎様」

「もう大丈夫です。あの、イロイロと迷惑をかけちゃって、俺…」

 もう、この人には蒼牙に抱っこされてるところは何度も見られているから、そう言う意味では恥ずかしさとかなかったから、慌てて身を乗り出すようにしてお礼を言おうとしたんだけど、物言わぬ影のように物静かな人は、やわらかな表情で頭を垂れたんだ。

「いえ、とんでもございません。光太郎様さえご無事でしたら。蒼牙様もお疲れではありませんか?」

「いや、俺のことはいい。それよりも桂、お前に話がある。後で俺の仕事部屋に来てくれ」

「畏まりました」

 ん?桂にも同じことを言ったな。
 んん~、なんか、ますます気になるんだけどなぁ。
 それでも蒼牙は俺には何も言ってくれないんだよな。

「それなのに、何が傍にいたいだよ」

 ムスッとして独り言のように呟いたら、蒼牙のヤツは眉を上げて俺を見下ろしたようだったけど、俺はそれを華麗に無視してやった。
 フンッと外方向く俺に何か言いたそうな顔をしたんだけど、深々と桂が頭を下げて「では、後ほど伺います」と言って見送るから、蒼牙はタイミングを外したみたいだった。
 最後に、もうひとり、いや、正確には2人なんだけど、心配そうに俺たちの帰りを待っていた眞琴さんと座敷ッ娘が母屋の玄関、でも、土間って言ったほうが早い、旧家らしい作りの玄関に立っていたんだ。

「眞琴さん、それに座敷ッ娘…」

 そうか、2人にも随分と心配をかけちゃったなぁ。
 眞琴さんなんか、蒼牙の剣幕に圧されながらも、必死で食い下がってくれていた。どこをどうしたら、俺なんかを気に入ってくれたのか判らないんだけど、あれほど取り澄ました顔で冷やかに笑っていた眞琴さんは、今ではその長い睫毛の縁取る目許に憔悴したような翳りを浮かべて、それでもホッとしたように形の良い唇に笑みを浮かべている。

『嫁御さま、よかったぁ~。おめでとうございますぅ』

「え、座敷ッ娘?」

 思わずギクッとして見下ろした小さな童は、細い目を更に細めて幸せそうにほっこり笑っている。だから、判るんだけど、やっぱりこの楡崎の護り手だって言う座敷ッ娘には、俺の身の上に起こったことは全部お見通しなんだなぁ…と妙に実感しちまった。

「たははは…ありがとう」

 照れ臭くて真っ赤になりながらお礼を言えば、座敷ッ娘もエヘヘヘッと笑って眞琴さんの着物の裾を掴んだ。どうやら座敷ッ娘は、何故か眞琴さんに懐いてしまったようだ。
 あ、そうか。
 俺が呉高木家に嫁ぐってことは、座敷ッ娘もこの妖怪化け物屋敷の一員になるってことか。
 ますます化け物屋敷に磨きがかかる一族だよな、呉高木家って。

「蒼牙さん、恙無く楡崎の方を娶られまして、喜ばしゅうございますわ」

 思わずガクーリしそうになった俺の耳に、鈴を転がすような綺麗な声音で眞琴さんが呟いた。
 まぁ、どう言うワケでこの人たちが知っているのか、その辺は恐るべし化け物一族呉高木!…ってところだけど、いちいち触れ回らなくていいだけ便利でよかったよ。

「ああ、これで我が一族も安泰だ。眞琴、楡崎の護り手と共に後ほど俺の仕事部屋に来てくれ」

「あら?わたくしとコトノハさんとでですの??」

「え?座敷ッ娘ってコトノハって言う名前なのか!?」

 し、知らなかった…つーか、眞琴さんには教えて、どうして楡崎の人間である俺には言わないんだよ、座敷ッ娘!!
 思わず胡乱な目付きで見てしまったら、座敷ッ娘ことコトノハは双眸を細めてほんわり笑いながらなんでもないことみたいに言いやがったんだ。

『嫁御さまは座敷ッ娘と呼べばいいのよぉ。嫁御さまは特別だからー、他のひとはコトノハと呼ぶのよー』

 なんか、違った意味の特別みたいで嫌だけどなぁ…とは口に出さずに、そんなもんかよと唇を尖らせれば、コトノハは着物の袂で口許を隠しながら『そうなのよー』とケタケタ笑った。

「ああ、昼過ぎまでには集まってくれ」

 その台詞で他にも来訪者があるのだと知った眞琴さんは、コトノハと顔を合わせてから、チラッと俺を見たんだ。

「光太郎さんは…少しお顔の色が優れていませんことよ?それでも、皆さんで集まりますの?」

 切れ長の綺麗な双眸に不穏な気配を宿して見詰める眞琴さんの双眸を平然と受け止めながら、蒼牙のヤツはそれでも、俺の顔を覗き込んで頷いたんだ。

「顔色が悪い?ああ、本当だな。今日は随分と草臥れたな?早く部屋に戻ろう」

 俺の顔色の悪さなんか端から知っていたんだろう。だからこそ、俺をけして歩かせようとしないんだから、そのくせ、まるで今気付いたみたいな口調ではぐらかそうとするんだから、いい根性してるよな。
 俺がまたもやムッとしようした矢先、蒼牙は後に残した眞琴さんとコトノハを肩越しに振り返って肩を竦めたんだ。

「そう言う理由だ。光太郎は部屋で休ませる。集まるのは俺たちだけだ」

 その台詞で、漸く眞琴さんはホッとしたように吐息して「判りましたわ」と了承した。
 そんな2人を残して歩き出す蒼牙に、俺はちょっと苛々したようにその着流しの合わせ目を引っ張って口を尖らせてやった。

「あのさぁ、いったいなんで集まるんだよ。んで、俺だけ顔色が悪いから留守番かよ?」

 説明もなしなんか酷いじゃないか。
 あんまり頼りないんだけど、眼力で睨みつけて「さあ言え!」と脅す俺に、蒼牙のヤツは小馬鹿にしたような顔をして言いやがったんだ。

「ふん。女主人は堂々と部屋で休むものだ。雑用は主人に任せておけばそれでいい」

「いや、そりゃ違うだろ?呉高木のご主人が雑用とかするかよ、普通!」

 ったく、なんだよ、その言い訳は。
 まあ、俺に知られたくないからってヘンな言い訳まで考えやがってさぁ…だから、余計に不安になっちまうだろ?
 ちゃんと俺にも説明してくれよ。
 俺、蒼牙のお嫁さんなんだぞ。
 不意に、俺の眼差しに不安が混ざったのに気付いたのか、蒼牙はやれやれと仕方なさそうに笑いながら、誰もいないことをいいことにやわらかく口付けてきたんだ。
 絶対、キスで誤魔化すだろ、お前。
 でも、そのキスに誤魔化されちまう俺も俺なんだけどなぁ…はぁ。

「…大事な身体なんだ。無用なことで思い悩まなくてもいい。俺は、俺がこの世で何よりも愛しい妻にそんな顔をされるのだけは辛い」

 唇を離しても不安の色は消えていなかったのか、蒼牙はそう言いながら俺の額に口付けた。
 辛いんなら理由ぐらい説明しろよなー…って、でも、それだけ俺に言いたくないってことは、俺には大して関係のないことなんだろうな。
 そんな風に都合よく考えて、って、そうでも考えないとやってられっかよ。

「判った。もう、聞かないよ。俺には関係ないって思っとく」

 仕方なさそうに笑ったら、一瞬だけど、蒼牙は少し寂しげな顔をした。
 見ているこっちの方がドキッとするほど、真摯な双眸で、蒼牙は俺を見下ろしている。
 …卑怯だよなぁ、そんな顔しやがって。
 そのくせ、俺には説明とか何もしてくれないんだぜ。
 夜が明けて間もない母屋は清々しい空気が溢れていて、お手伝いさんたちが朝の支度に追われている最中、俺たちはそのまま無言で宛がわれている部屋に戻った。
 幸福で幸せで…別に蒼牙が隠し事をしたとしても、一族を束ねる長なんだから、秘密のひとつやふたつあったところで仕方ないんだ。ただ、願わくば、その輪の中に俺も入りたかったって言う、これは身勝手な願望だった。
 だから、俺はこの幸せと幸福を噛み締めることに専念することにして、頭の中から蒼牙たちが何を話すのか、そんな疑心暗鬼は追い出してしまうことにした。
 蒼牙のいなくなった部屋は広く感じて、ちょっぴり寂しかった。

第一話 花嫁に選ばれた男 25  -鬼哭の杜-

 月明かりの下、俺は目蓋を閉じていた。
 やわらかく触れる唇の温かさに、ホッとした。
 まるで誓うような口付けに、涙が一滴、ぽろりと頬を滑り落ちていく。
 愛しいと、想うし、そう想って欲しいと切望している。
 山の中腹にある、禁域として何者をも立ち入ることを拒んでいた気配が、今はやわらかく霧散していた。
 俺と蒼牙はあの後、館に戻らずに禁域の祠に行ったんだ。
 禁域と言うと、俺のなかではあの蒼牙のお母さんが閉じ込められていたって言う座敷牢を思い出すんだけど、どうもこの場所はそことはまた違うようだ。いったい、どれぐらいこの山には禁域があるんだろう。
 でも蒼牙の話では、この場所こそが本当の禁域らしい。
 俺は懸念して眉を顰めたんだけど、俺をその、お姫様抱っこしている蒼牙は、一見すれば判り難いんだけど、どうも嬉しそうに笑っているんだろう、そんな顔して「大丈夫」だと言うから、その胸元に頬を寄せながら蒼牙に全てを任せることにした。
 どうせ俺があれこれ頭を悩ませたって、蒼牙がそれでいいんだと言えば、この村にいる誰でも、あの呉高木家の護り手と呼ばれてる小手鞠たちでさえ、口出しはしないんだから悩むだけバカらしいよな。

「俺がいいと言っているんだ。いったい誰が、それを制すると言うんだ」

 傲慢な年下の旦那様は、俺の懸念を腹立たしそうに否定するから、思わず笑うしかないじゃないか。

「…今更だけどさ、蒼牙」

「なんだ」

 俺を抱きかかえていた蒼牙は、嘗て、蒼牙のお母さんが次代当主を身篭った場所にそっと俺を下ろしながら真摯な双眸で見詰め返してきた。

「その、ホントに俺でいいのか?今ならまだ…」

「間に合うとでも思っているのか?アンタは、本当にお目出度いな」

 蒼牙は鼻先でクスッと笑う。
 なんだよ、そんな、見たこともないような大人びた態度で、そんなこと言わなくてもいいじゃないか。
 俺はただ…そう、ただ、本当に俺で蒼牙の未来を壊してしまいやしないかと、不安で仕方ないんだ。
 一遍の揺らぎだってない、純粋な想いは胸の奥深いところにちゃんと根付いているから、今ならまだ、お前と言う想い出だけでも俺は満足できる。
 でも、お前に抱かれてしまったら…きっと俺は、お前から離れられなくなる。
 未来ある蒼牙の負担になるんじゃないかと、無駄に年を食って大人になっちまった俺の、軟なハートが不安がっているんだ。

「ん?いや、待てよ。今ならまだ…と言うことは、アンタの中では俺はまだ迷いの対象になっていると言うことか?」

 祠の中は部屋になっていて、月明かりが届くこの場所には毎日変えられている布団が敷いてあるんだ。
 それは、いつかこの場所で、蒼牙も花嫁を娶るのだと誓っていたから、当主になったときから欠かしていない日課だったそうだ。
 その布団の上に横たえた俺に覆い被さるように傍らに横になる蒼牙が、ふと、ムッとしたような顔をして唇を尖らせるから、その子供っぽい仕種も愛しいのに、迷いなんかあるもんか。
 違う、そうじゃない。

「へ?いや、そうじゃない。お前のことを迷ってるんじゃないよ、俺自身のことだ」

 目線を落とすと、蒼牙はムッとした表情のままで訝しそうな目付きをした。
 俺自身に迷いがある。
 あの時、蒼牙に迷わないでくれと思ったってのに、今の俺は迷いだらけだ。
 溜め息を吐いて、鼻先が擦れそうなほど近付いている蒼牙の男らしい顔を見詰めて、俺はちょっと苦笑してしまう。

「俺さぁ、こんな姿だし、年だってお前より上なんだぞ。女になった…とは言っても、一部だし。自信なんか全然ないんだ」

 お前を繋ぎ止めておけると言う。
 蒼牙が愛しいと言って抱き締めてくれる腕の確かさを感じながらも、それでもやっぱり、出来損ないの女になっちまった身の上としては、その腕に甘えてばかりもいられないと思うから。

「それは、アンタ自身の迷いなんかじゃない。矢張りアンタは、俺を疑ってるんだよ」

 ムッとした子供みたいに下唇を突き出して睨んでくる蒼牙に、どうしてそうなるんだよと、俺は呆れたようにその顔を見詰め、その頬を片手でやわらかく包み込んだ。

「違うって言ってるだろ。これは俺自身の問題だよ」

「いいや、違う。アンタは俺を疑ってるのさ。姿、年、性別に自信がないだと?なんの自信だ。俺が心変わりでもすると疑っているんだろう」

 そこまで言われて、あ、そうかと、俺は蒼牙がムスッとして腹を立てている理由に今更気付いたんだ。
 そうか、自分に自信がないってこた、蒼牙の心が離れてしまうかもしれないと言う不安を言っているようなもんだったのか。
 そりゃぁ、傲慢不遜な俺の旦那様は腹を立てるよなぁ。

「俺が唯一お前に威張れるのってさぁ、楡崎の血の持ち主ってそれだけなんだぜ?それだけで、これからずっと長い生涯を、蒼牙を引き留めておかなくちゃならないんだ。そりゃあ、少しは不安がったっていいんじゃないのかよ?」

 クスッと笑ったら、そんな俺を暫く見下ろしていた青白髪の綺麗な呉高木家の当主様は、馬鹿馬鹿しいとでも言うようにフンッと鼻で息を吐いてから、俺に口付けてきたんだ。
 蒼牙にしては優しい、啄ばむようなキスで、俺はそのキスが大好きだったから嬉しくて、目蓋を閉じて受け入れていた。

「こんな善き日に不安がられる花婿の気持ちは無視なんだな」

 キスの最中に、やっぱり腹立たしそうに唇を離した蒼牙はそんなことを呟くと、ムムッとしたように青味を帯びた不思議な双眸で見下ろしてきた。
 そんな真摯な顔をされると、お前に参ってる俺の心は鷲掴みだ。
 たぶん、蒼牙のヤツはそんなこと、考えてもいないだろうけどさ。

「楡崎の血は関係ない。たとえ光太郎が楡崎の人間でなかったとしても、俺はアンタを愛していると言っただろう。それから姿…だが、今だって十分、欲情してるんだぞ?」

 囁くように呟いて額にキスされると、う、生々しい表現に、今のこの状況を思い出して顔が真っ赤になってしまった。

「う、うん。判った」

 俺だって、今すぐにだって蒼牙に抱いて欲しいと思ってるぐらいには、欲情してるんだ。
 抱きついて、不安がないって言えばいつだって嘘になるんだけど、今はそんなこと考えたくない。
 蒼牙もそう思ってるんだろうか。
 照れ隠しに頷いたのに、蒼牙はそれじゃ許してくれない。

「判ってないな。光太郎は何も判ってない。年齢も何もかも、全てを超越しても手に入れたいと思うこの衝動を、アンタは何も判らないんだ」

 呟くように言って、動揺している俺にいきなり激しく口唇を重ねてきた。
 肉厚の舌で唇を開くと、思わず噛み締めた歯を舌の侵入を許すように舐めて、勿論すぐに根負けする俺はそれを受け入れてしまうから、蒼牙とのキスは深くて激しくなる一方だ。
 むせ返るようなキスの中で、俺の緊張していた身も凝り固まっていた心も蕩けてしまって、気付いたら恥も外聞もなく両腕を回して縋りつくようにして抱きついていた。
 その身体を片手で受け止めて、空いている方の腕…蒼牙の悪戯な指先が浴衣の合わせ目から忍び込んでくると、もう何もかも、俺の全てを蒼牙に差し出したくなった。
 どうなってもいい、この腕に抱かれるのなら。
 全身で俺を愛しいと呟くこの男のものになるのなら、俺の全てなんか、すぐにだって奪い去ってくれ。
 身体を隈なく辿る指先にいちいち反応して、キスの合間にも甘い溜め息を零す俺に、満足しているのか、それとも…そんなこと信じられないんだけど、あの世界の中心は自分で回っているぐらいは平気で思っているんじゃないかって思える、俺の年下の旦那様は、ホッと安堵しているようなんだ。

「蒼牙…蒼牙…」

 甘えるように溜め息を吐いて頬を摺り寄せると、蒼牙は俺を安心させようとするように、「愛してる」と囁いてくれた。
 それに、俺が嬉しいと思うのは当たり前のことなんだけど、指先が…あの場所に触れた瞬間、ビクッと身体が強張ってしまう。
 嫌なワケじゃないんだ。
 勿論、すぐにでも受け入れたいと思ってる、でも…頭で理解はできているはずなんだけど、本能の、多分女になっている本能の部分が、愛する男の愛撫に怯えて竦んでしまっているんだ。
 愛しているのに、反射的に男の指に怯えたんだろう。
 既にねっとりと粘り気のある液体を滲ませている女の部分は、撫でられると収斂して、そのくせ受け入れようと、中をかき混ぜる指先に絡み付こうと蠢いている。
 その全ての一連の行為が、俺の羞恥とかそんなものをスパークさせて、目を白黒させながら蒼牙を見詰めてしまう。

「…怖いか?」

 呟かれて、反射的にポロッと涙が零れた。
 怖くない、と言えば嘘になる。
 俺、本当は男だからさ、女として男を受け入れること事態、本当はよく判らないんだ。
 それを理解しろと言われても、男の部分が理解できずに拒否するし、そのくせ、女の本能が目の前の男を生涯の伴侶だと認めてしまっているから、早く受け入れようとしているんだ。
 バラバラでチグハグな感情をどう呼べばいいんだろう。
 それでも、やっぱり最初に言ったように俺に欲情してくれている蒼牙を見てしまうと、バラバラでメチャクチャに混乱していた頭の中が急に冷静になって、いや、その言い方もおかしいな、冷静じゃない、興奮してるんだ。
 蒼牙が欲しくて仕方がない。
 こんな感情、初めてだ。

「怖くないよ、蒼牙…俺を、たくさん愛してくれ」

 囁いて、蒼牙に縋りつく。
 その言葉に蒼牙は目蓋を閉じると、愛しいと呟くように俺の色気もクソもない黒い髪に唇を寄せた。
 前を寛げた蒼牙の、前はあんなに怖くて、嫌で嫌で仕方なかった雄の証が足の付け根に触れて、頭では判っているのに緊張に身体が強張ると、蒼牙は宥めるように背中を擦ってくれて、安心させるようにキスしてくれた。
 ああ、大丈夫、これは蒼牙なんだとホッとしたように全身の力が抜けた瞬間、滑るように愛液を漏らす女の部位に、熱い灼熱の杭のようなソレが侵入しようとした。
 思わず目を見開いた俺は、それから、次に襲ってきた激痛に目蓋を閉じてしまう。

「う、ぅぅぅ~ッッ」

 俺の女の部分は侵入の衝撃に悲鳴を上げて、女としてはまだ未熟なのか、それともそれが当たり前なのか、あんまりの痛みに脳内がグルグルする俺の気持ちとは裏腹に、それでも必死に受け入れようと愛液を溢れさせて絡み付いている。
 粘るそれが潤滑剤になっているのか、入り口の辺りで躊躇している雄の侵入を助けるくせに、拒もうとでもするように収斂を繰り返して許して欲しいと涙を零す。
 俺はワケが判らなくて、どうしていいのか伸ばした指先は蒼牙の背中を掴まえていた。
 無意識に爪を立てながら、無理に抉じ開けられる衝撃をやり過ごそうとする。

「光太郎…愛してるんだ」

 まるで蒼牙こそ、許しを請おうとしているように呟くから、俺は咽喉の奥で引っかかった悲鳴を飲み込みながら、ポロポロ涙を零して唇を噛み締めて、それでもうんうんっと頷いてしまう。

「お、っれも、愛してる…ぅッッ」

 女で男を受け入れるなんて言うセックスをしたこともない俺は、こんな時だって言うのに、この痛みを幼い蒼牙も感じていたんだと思ったら、余計に悲しくなっていた。
 大の男である俺でさえ我慢できない激痛なのに、幼い身体でそれを受け止めていた蒼牙、どれだけ辛かったんだと、俺を陵辱しているはずの、今は逞しい呉高木家の当主に抱き付きながら、蒼牙の過去すらも抱き締めたかった。
 ああ、だから。
 痛みに霞む目を開けたら、欲望に目許を染めながらも、心配そうに俺を見下ろしてくる青味を帯びた不思議な双眸を見つけて、ホッとしたら涙が零れた。
 蒼牙はこの痛みを知っているから、こんなセックスの最中だと言うのに俺を労わる心を持っているんだ。
 だから、あれほどチャンスがあっても、この時まで俺を抱かなかったんだ。

「蒼牙、蒼牙…ッ!…ぅあッ…あ、…ッッ」

 大丈夫だから、俺はこんなことぐらいで壊れたりしない。
 涙が零れた瞬間、ふと、蒼牙が一瞬動きを止めたかと思うと、嫌な汗をじっとりと浮かべている俺の身体を抱き締めて、もっともっと、もっと深く交じり合おうとでもするように身体を進めてきたんだ。
 ハッと目を見開いた。
 胎内の奥深いところで、不意に何か、神聖で大切な何かが散ってしまうような、そんなことがあるはずないのに、硝子細工が弾けたような錯覚がした。
 蒼牙が決意して破ってしまったその神聖な何か、その償いのように溶岩のような熱を持った、粘る流れが内股を伝って溢れていた。
 俺はああ…と、痛みを一瞬忘れて、儚い誓いを全て捧げた愛しい男を見詰めて、その身体に抱きついて、キスしてくれと強請った。
 一瞬の躊躇いさえ見せずに、欲望に濡れた双眸を閉じて、蒼牙は俺に期待通りキスしてくれた。
 灼熱に焼かれた鉄をオブラートか何かで包み込んでいるような先端で、破瓜されたばかりの胎内をゆっくりと掻き回されて、子宮の奥が痛みを伴ってジーンッと疼いた。
 こんなに痛くて、死にそうなのに…なんだろう、この充足感は。
 できれば、もっと、と頭の片隅で考えている俺がいて、それには流石に驚いた。
 でも、すぐに判った。
 俺の中にある女の本能が、蒼牙の子供を欲しているんだ。
 だから、ねっとりと蒼牙の灼熱に絡み付いて、蒼牙の律動にあわせるように身体が反応を始めたんだと思う。
 蒼牙と俺の間で擦れていた息子は、あまりの痛みに項垂れていたはずなのに、何時の間にか熱を持ってガチガチに硬度を増すと、先端から後から後から粘る涙を零して濡らしていた。
 本能が蒼牙を求めている。
 それと、俺の気持ち。

「ぅ、…あ、アァ…ッ…んぁ……ッ」

 ゴツゴツとした先端で胎内を擦られて、その感触に快感が混じり始めたから、俺は漸く安堵して絡みつけていた腕の力を抜いたけど、蒼牙はそれを許してくれず、もっともっとと深く俺を貪りながら、濡れている身体が溶けて混ざり合ってしまいたいと思っているかのようにギュッと抱き締めてくれた。
 快感に、たまに思い出したように痛みが閃いて、だから、蒼牙がそんなことしなくても、すぐに俺は怯えたように抱きついてしまうんだけどなー
 ああ、なんだろう、この幸福感は。

「そ、が…俺を、俺を感じてる…?」

 俺はお前を感じているよ。
 身体の奥深いところで、これ以上はない充足感に支配されながら、もがくようにお前を求めて、お前を見つけて、安心してお前に全てを委ねながら、お前の全てを感じているよ。
 この気持ちを、蒼牙、お前にも感じて欲しいんだ。
 俺、凄く幸せなんだよ。

「ああ…光太郎、俺はアンタを感じている。これ以上はない、幸せだ」

 男らしい双眸を細めて、濡れて額に張り付いた不思議な青白髪はそのままに、顎から汗を滴らせて、俺の、俺だけの旦那様はキリリとした口許に笑みを浮かべている。

「…ぅあ…ッ、蒼牙、お、俺…俺も、幸せだッ」

 ポロポロと涙が頬を零れ落ちたけど、汗なのか涙なのか、見分けなんかつきやしないけど、それでも俺は幸せすぎて眩暈がしていた。

「…ッ」

 男らしい蒼牙の口許から溜め息のような声が漏れて、その瞬間、俺は胎内にマグマのような奔流を受け止めていた。子宮の全てで、俺はそれを受け止めたかった。
 子供を孕むと言うことが、どんなことなのか、男だった俺には判らない。
 痛いとも聞くし、不安だとも聞いた。
 それでも、今、この瞬間。
 俺は蒼牙の子供を欲しいと思っていた。
 どうか、ここにはいない遠いところに鎮座ます誰か。
 生まれてきたら、きっと、可愛がって悲しい想いはけしてさせないから、だから。
 蒼牙の子供を俺にください。
 俺に、蒼牙の子供をください。
 ぽろ…と涙が零れて、俺はビクンッと身体を震わせながら逞しい蒼牙の背中に抱きついて、同じ昂揚とした気分を分かち合っていた。
 手離しそうになる意識の中で、蒼牙の唇がやわらかく俺の唇を啄ばむ感触がした。
 俺は、貪欲な欲望と満ち足りた幸福の中で、目蓋を閉じていた。

第一話 花嫁に選ばれた男 24  -鬼哭の杜-

 月明かりは静かに青味を帯びた白銀の龍と、その背中に乗っかってるちっぽけな人間を照らしている。
 全てが、まるで静寂の中にあるような気がして、風さえも音がしないなんて、そんな有り得ない光景はそれでも、ひと時の安らぎのようにも思えた。
 こんな平和な世界に生まれて俺は、どうして、幸せじゃないなんて思ってしまったんだろう。
 莫大な借金があって、身売り同然でこの綺麗な白銀の龍が護る村に来たワケなんだけど、たとえ些細な切欠だったとしても、俺は今、たぶん初めて、心の底からこの村に来て良かったと思ってる。

「なぁ、蒼牙?」

《なんだ?》

 この、心地好い静寂を破りたくはないんだけど、それでもきっと、俺は聞かなければならないんだろう。
 どうして、なぁ、蒼牙。

「どうして、そんな風に、もう随分と昔にいなくなってしまった紅河をお前は心配してるんだ?」

《…なんだと?》

 白銀の龍は、どこか拍子抜けしたような、怪訝そうな雰囲気で問い返してきた。
 いや、これはヘンな言い回しだったのかもしれないけど、それでも、今の俺の率直な疑問だった。
 だからなのか、それでも蒼牙は、軽く溜め息を吐きながら何かを考えているようだ。

《ああ、まぁ、そうかもしれんな。特に心配をしているワケではないんだが。ただ、その死を悼んでいるだけだ》

 ああ、そうか。
 蒼牙にとっては大事なご先祖さまだしなぁ、死を悼んだって不思議じゃないんだけど、でも、今の蒼牙の雰囲気はそうじゃない。
 まるで、不安そうに、心配しているように感じるんだけど…

《きっと、それは思い過ごしだ》

「お前はそう言うけど…」

 なんだろう、この胸の鼓動は。
 まるで、蒼牙の気持ちに呼応するように、心臓の辺りが熱くなる。
 あの、やわらかに笑っていた青年は、たとえば彼が、楡崎の人間だったとしたら、もしかしたら、俺が蒼牙を思うように、きっと紅河に恋をしたに違いない。
 愛しても報われないのなら、その思いを胸に秘めたまま、他の誰かに愛を囁くその人を見るぐらいなら…いっそ、潔く、散ってしまうのも悪くない。
 ああ、そうか…
 あの青年は、来世を信じたワケじゃない。
 信じてなんか、いなかった。
 心から愛していたから、愛するその人が苦しまないように、戸惑わないように、手離してしまうものの大きさは痛いほど良く判るんだけど、それでも、その代償を払ったとしても、護り
たいものがあったんだろう。
 愛する人の、泣き出しそうな顔を脳裏に焼き付けたまま、どうか、自分のことは忘れてくれと…思いたくもないのに、そう思って、散ってしまった儚い花は、何処に消えてしまったんだろう。

《…アンタが泣くことではない》

「うん、判ってるんだけど」

 それでも、ハラハラと頬を零れる涙を、俺はまだ、拭えない。
 どうしていいのか判らなくて瞼を閉じたら、ポロポロと、珠になって滑り落ちていく。

《今夜は紅河の命日なのさ》

「…え?」

《名も無き人間を救えず、楡崎の者を殺そうとした紅河が、次期当主に討たれた日…と言った方が、判り易いのかもな》

 ああ、それで。
 遠くに思いを馳せる蒼牙の、その気持ちが少しだけど判ったような気がした。
 蒼牙はもしかしたら、紅河を大切に思っているのかもしれない。
 いや、呉高木の当主だからご先祖を大切にするって言う思いじゃなくて…って、あれ?何が言いたんだっけ。
 つまり、蒼牙は…

「紅河を憐れんでるのか?…いや、そうじゃないんだよなぁ。なんだろ?俺、何が言いたいんだろ」

 咽喉元まで出掛かっているのに、奥歯にモノが挟まったみたいにもどかしくて、思うように言葉が出てこない。なんだ、やたら苛々するんだけど。
 いや、本当は判っているのかもしれない。
 もしかしたら蒼牙は…

《それは有り得ない。アンタ以外を嫁にするつもりはない》

 キッパリ断言されて、やっぱ、心の声が判ってるんじゃねーかと怒鳴りたいのをグッと堪えて、それどころじゃない俺は不安そうに僅かに発光している青白い龍の背中に視線を落とした。

《俺は…考えてしまうんだ》

 何を?…と、口に出して聞くのを躊躇ったのは、蒼牙はちゃんと俺に答えをくれるから。
 俺はちゃんとそれを知っているから、安直な言葉を口に出したくなかったんだ。

《よく、あの山に独りで昇っては、月を見上げて考えていた》

 その光景は、見なくても頭の中に浮かんできた。
 不思議な青白髪の、それこそ鬼っ子みたいな凛々しい顔立ちをした蒼牙が、呉高木家の当主としてではなく、独りの人間としてぽっかり浮かぶ月を見上げているんだ。

《もし、俺の愛する者が、ただの人間だとしたら俺はどうするだろう?…アンタを初めて見たとき、俺には光太郎がただの人間にしか見えなかったんだ》

「え?」

 それは初耳だった。
 だってさ、蒼牙は俺を一目見て、恋に落ちたと言っていた…言っていたんだけど、そう言えば、俺を一目で楡崎の者だと気付いた…とは、言っていなかったな。

《あんまり綺麗で、精霊妃じゃないかと思ったぐらいで、それでも人間だと思ってしまった。だから俺は、子供の頃から好きな場所だったからな。そこで、一晩中考えていた。その時
に、ふと、紅河を思い出すんだ。やはり俺も、楡崎の者を殺すのかと》

 そのとき、俺は桂の言っていた言葉を思い出していた。
 あの清々しい清廉な朝日の中で、キリリと白装束に身を包んだ潔白の蒼牙を見送った後、執事の鑑のような無表情のはずの桂が、珍しく表情を曇らせていたことを。

『蒼牙様こそ免許皆伝を受けてもおかしくはないのですが、そうされていないのはご自身に未だ迷いがあるからなのでしょう』

 朝稽古を見学に行ったあの日、桂はそんなことを言っていた。
 蒼牙の中に矛盾なく存在する迷いは、きっと、『俺』なのかもしれない。
 俺を愛してくれた時から、蒼牙の中で生まれてしまったに違いない迷い。
 その迷いが、蒼牙に一歩を踏み出させずにいるのだろうか…そんなことを考えていたら、うッ、果てしなく落ち込みそうになるぞ。

《だが、それは違うと思った。紅河が生きていた時代は、今とはあまりにも違いすぎるからな》

 それはそうなんだけど…俺はやっぱり、蒼牙の青白い、綺麗な背ビレが風に揺れる背中を見詰めていた。

《それに俺には、龍雅と言うスケープゴートもいるワケだしな…だがもし、先代から強要されてしまったら、俺はどうするんだろう?》

 それが一番、蒼牙を苦しめたに違いない。
 先代が、蒼牙を当主にずっと推し続けていたんだから、蒼牙がその件を悩まないはずがない。
 男の俺を花嫁にすると言って驚いたと言っていた先代は、もしかしたら、男と言う部分に驚いたのではなく、楡崎の者を嫁にしたいから当主になると決意した蒼牙に驚いたんじゃないのかな。
 そこまで考えて、俺の頭の中の靄がパッと晴れたような気がした。
 そうか、そうだったんだ。
 どうして、こんな簡単なことに気付かなかったんだろう。

「蒼牙、お前もしかして…」

 つい、口から言葉がポロリと落ちてしまった。

《ああ、恐らくアンタが考えている通りだ。俺は、当主になる気などさらさらなかった》

 ああ、やっぱり。
 蒼牙は、呉高木家の当主になんか、これっぽっちも興味がなかったんだろう。
 恐らく、先代から推されてものらりくらりと逃げていたに違いない。
 それほど、俺の知らない間の蒼牙は奔放で、自由だったんだろう。
 蒼牙にとっての迷いは『全て』だったんだ。
 ああ、だから、蒼牙は紅河に影響を受けてしまうのか。
 お互い、当主になど興味のない存在だから…

「…蒼牙、俺のために当主になったのか?」

《初めからそう言わなかったか?俺はアンタを花嫁にする為だけに、当主になることにしたと》

 うん、聞いた。
 でもそれは、成り行きなんだとばかり、都合よく思っていたんだ。
 それぐらい、俺は蒼牙の10年を簡単に考えてしまっていたんだろうな。
 俺は酷いヤツだ。

《内心ではホッとしたよ。光太郎が楡崎の者で、俺は親族の望みどおり当主に落ち着いた。これで、全てが良かったんだろう》

 だが、と蒼牙の言外の気配がした。

《それでも時々、酷く不安になる。たとえばアンタが離れることがあれば、と考える度にな》

「…傲岸不遜のお前が不安になるとか言うな。こっちの方が不安になるだろ」

《なんだ、それは》

 俺は思わずプッと噴出してしまった。
 蒼牙は不満そうに鼻息を荒々しく吐き出したけど、それでも、架空の生き物であるはずの龍の背に乗ったままで、俺はとても嬉しくて嬉しくて、ポロポロ泣きながら笑ってしまった。
 大丈夫だ、蒼牙。
 俺だって、来世なんか信じちゃいない。そんなものを信じるぐらいなら、俺はいつだってお
前の傍にいたい。
 それが、俺の願いの全てなんだ。
 だから、どうか蒼牙も、その迷いを消してしまってくれ。
 俺がこんなこと言っても、お前はただ、笑うんだろうけど。

 たとえば、蒼牙は昔から、俺のことを知っていた。
 そうして、俺が人間であるかもしれないと思い込んだんだ。
 だから、こんなに回りくどい方法で、俺を手に入れようとした。
 なのに、運命は悉く都合よく全てをよい方向に導いた。
 …ってことはさ。
 なぁ、蒼牙。
 きっと、この出逢いは運命とかそんなものじゃなかったんだ。

 鬼は。
 小さな花が咲く場所で見つけた巫女と。
 やっと本当の幸せを掴むことができたんだよ。
 十三夜の物語は、紅河でも誰でもない。
 きっと、俺とお前の物語だったんだ。

 そして、その物語はハッピーエンドだ。
 お前と約束するよ。

 だって、俺は。
 お前が選んだ花嫁だから。

第一話 花嫁に選ばれた男 23  -鬼哭の杜-

 夜のしじまを縫うようにしてゆっくりと進んでいる青味を帯びた白銀の龍は、そんな時でさえ、話すべきなのか話さざるべきなのかを悩んでいるようだった。
 天女の羽衣は夜風を受けていると言うのに、まるで重力を無視するかのように、ふんわりと俺の身体に纏わりついている。そのおかげで、寒さを凌げているんだけど、それでもやっぱり、こう言う雰囲気はいつまで経っても慣れるもんじゃないよなぁ。
 龍の思考なんて判りゃしないんだけど、相手はただの幻想の龍ってだけじゃない。
 なんだか、凄い運命とか、そんな目に見えない奇妙な縁で繋がった俺の旦那様である蒼牙なんだ。
 コイツの考えてることぐらい、判ってやれる伴侶になれたらいいのに。
 ふと、溜め息を吐いたら、蒼牙は俺の気配で何かハッとしたようだった。
 どうも、やっぱり蒼牙のヤツも思案にくれていたんだと思う。
 でもどうして、遠い昔の話に、そんなに悩んでいるだろう?

「蒼牙さぁ、本当は紅河のこと話したくないんじゃないのか?」

 コイツが口篭るのは、だいたい、聞かれたくない話だって判る。
 ここに来て、本当はそんなに時間は経っていないはずなんだけど、俺にとって、もう随分と長いこと、この村に暮らして蒼牙の傍にいるような気持ちになっていた。
 だから、話したがらない蒼牙の気持ちも判るから、聞かないでいるべきならそれでも構わないと思えるんだ。
 その、やっぱり…愛してるヤツが苦しんだり悩んだりする姿は見たくないしな。

《…そう言うワケではないんだがな》

 夜風に靡く髭がピクリと動いて、何故だか判らないんだけど、蒼牙のヤツが少し嬉しそうな気がした。
 声だけでは判らない、微かな変化だけど、俺はそれを感じていた。

《一族の中でも、紅河は風変わりなヤツだった》

 ポツポツと語る蒼牙に、俺はクスッと笑って茶々を入れた。

「お前以上に風変わりなヤツとかいたのか」

《酷い言われようだな》

 ちょっとムッとしたような声音だけど、実際はそんなに怒っちゃいないことが十分判るから、俺は風に揺れる蒼牙の背ビレ(?)を掴んだままクスクスと笑ってその背中に上体を倒して頬を摺り寄せた。
 だってさー、お前みたいに男の俺を愛してくれて、ついには両性具有にしちまうのなんか、蒼牙ぐらいしかいないって絶対思ったもんな。その蒼牙に風変わりなんか言われるんだ、どんなヤツか非常に興味はある。

《…ふん。風変わりに決まっている。紅河は天女の末裔である楡崎の者を欲しなかったからな》

「え?」

 ふと、楽しげな雰囲気の中で、蒼牙の声のトーンが低くなったような気がして、胸の辺りがドキリとしてしまう。
 そりゃ、大飢饉の年、生贄として求めた…ってぐらいだから、心の何処かではここぞとばかりに天女の末裔である楡崎の人間を所望したんだろうと思ってたんだ。
 それが、まるで当たり前だと思っていた。
 だから、きっと、蒼牙は俺を嫌いになったりしないなんて、どうして思えるんだろう。

《紅河が望んだのは、山に捨てられた名もなき人間だったのさ》

 蛟龍にだって、それぞれの性格があるはずなのに。

《両親を戦で亡くし、口減らしに山に打ち捨てられた人間を一目で愛してしまった紅河が何よりも必要としたのは、その人間の存在だったんだろう。だが勿論、一族はそれを許さなかった》

 そりゃそうだ、呉高木の一族にとって、天女の血は悲願だったに違いない。
 なのに、その当主は、楡崎ではない血の持ち主を愛してしまった。

《全てが失われていく飢饉の最中で、それでも、紅河はその人間を匿って傍に置き、慈しんでいた》

 それは、幻のように見た、あの幻影の中でもよく判った。
 見守る双眸の切なさも、まるで自分のことのように辛かった。
 その視線の意味を知っているあの青年は、心の奥深いところにソッと気持ちを隠したままで、幸せそうに笑っていた。悲しいことばかりが渦巻いていたのに、どうして、そんな顔ができるんだと不思議だった。

《だが、一族の執拗な詮索はすぐに楡崎ではない人間の存在を嗅ぎつけてしまった》

 別れの瞬間が近付いていると知っていたはずなのに、どうして、あんな風に幸せそうな顔をして笑えたんだろう。

《たった二人きりで、生きていくにはあまりに辛い時代だった。にも拘らず、紅河は二人で生きることを望んだ。だが、人間はそれを望まなかった》

「…愛する人が幸せになってくれるのなら、俺だって、喜んで崖から落ちるさ」

 それ以上聞かなくても、十三夜祭りでその先は知っている。

《確かに、追い詰められた人間は崖から身を投げた。来世の出逢いとやらを信じたんだろう。だが、話はそれでは終わらなかった》

「へ?」

 至極真面目な蒼牙の台詞に応えるには、俺の返答はあまりに間抜けなものだったと思う。

《ソイツを救えなかった、守ることもできずに一族を選んでしまった自分に怒り狂った紅河は、こともあろうに、けしてしてはならないことをしたのさ》

 なんだと思う?と、あれほど真面目な口調だったくせに、蒼牙のヤツは話の重大さのわりには、意外と軽い調子で聞いてきたりするから、どんな顔をしたらいいのか判らない俺は首を傾げるしかない。背ビレでそれを感じたのか…ってのもヘンな言い方なんだけど、蒼牙のヤツはひっそりと笑ったようだった。

《楡崎の一族を滅ぼそうとしたのさ。全ての原因は、そこにあると思ってな》

「…それは」

 本当は、俺自身、そう思っていることは蒼牙には内緒だ。
 もし、天女が悪戯に舞い降りさえしなければ、人間の男は恋をすることもなかっただろうし、天空に住んでると言う偉い人だって蛟龍を地上に行かせたりはしなかっただろう。
 全ての歯車が天女から始まっているのだとしたら、その罪は、やっぱり楡崎の血にあるんじゃないかなぁ。

《それは違う。アンタはやはり、優しすぎるんだよ》

「そうかなぁ~…って、俺、いま口に出してないんだけど。どうして、お前が応えるんだよ!?」

 ずっと気になってたことなんだけど、ジトッとぼんやり光る不思議な白銀の龍の背中を睨んで呟いたら、蒼牙は一瞬黙り込んだけど、軽く溜め息なんか吐きながら言いやがったんだ。

《なんだ、気にしていないのかと思っていたが…本体に戻ると、だいたい、人間の考えていることは判るようになる》

 おお!ソイツは便利だ~♪…とか言うと思うなよ。

「なな、なんだって!?じゃぁ、俺が考えてること、ずっと判ってたってことなのかよ!?」

 俺の動揺を隠し切れない声に、蒼牙のヤツがニヤニヤと笑っているようだ。
 うひ~っ、たぶん、スゲー恥ずかしいこととか考えてたと思うぞ。
 口に出しては言えないあんなこととか、こんなこととか…その、大半が、蒼牙のこと、愛し
てるとか…ぎゃーっ!!穴があったら入りたいぐらいだッッ。実際に、穴があって入ったらも
っと恥ずかしくても、それ以上の恥ずかしさだ、こんちくしょーーーッッッ!!
 思わず蒼牙のぼんやりと月明かりにキラキラ光る背ビレに突っ伏すようにして、耳まで真っ赤になった俺が声も出せずにアワアワと慌てふためいていると、蒼牙のヤツはやれやれと溜め息を吐いて苦笑なんかしやがった。
 うう、殴りたい。すんげー殴りたい…

《心配するな。言っただろう?だいたい、こんなことを考えているだろうと判る程度だ。明白に理解してるわけじゃない》

「そ、そうなのか?じゃあ、なんとなくのニュアンスってことか?」

《…まぁな》

 う、今の微妙な間はなんだ!?
 なんなんだ、今の微妙な間は!!?

《はっはっはっ、気にするなよ。俺を愛していることは、アンタが思わなくても端から判ってることだ》

 あ、なんだそうか。
 そうだよなー、はははー

「って、違うだろ!?おま、やっぱ、俺が考えてたこと全部判ってるんじゃねーか!!」

《ニュアンスだ、ニュアンス》

 ぐぅ~…なんか、非常に理不尽なんだけどよ。
 不思議な青白い白銀の龍は、殊更、機嫌が良さそうで、ともすれば鼻歌なんか口ずさむんじゃないかと不安になるほど上機嫌だ。

「…そりゃ、その、まぁ…口に出さない方が悪いとは思うけどよ。俺だって恥ずかしいんだ!」

 ムッスーと不機嫌そうに唇を尖らせて悪態を吐けば、蒼牙のヤツは軽い調子で《判った判った》とか言いやがるから、これじゃあ、いったいどっちが年上なのか判りゃしねーよ。

「でも、その…思ってることは確かだから、その通りだと思う」

 思ったよりもやわらかい背ビレに頬を寄せて、俺は顔を真っ赤に茹で上がらせたままで、瞼を閉じて心を込めて口に出さずに囁いた。
 本当は、今は天女に感謝してるんだ。俺と蒼牙を結び付けてくれたのは、この頼りない宿命めいたもののお陰だから…

《いや、それは違う。俺が紅河と同じ立場だったとしても、やはり俺は天女の末裔である楡崎の血を…》

 その台詞の続きは聞かなくても判ってる。
 火照る頬を夜風がやわらかく撫でて、蒼牙の背中に抱きつくようにして凭れている俺は、そっと目線を伏せて吐息した。
 あれほど、俺を愛してくれている蒼牙だから、楡崎の血を何よりも大事にしてくれてる。
 俺が天女の末裔じゃなかったら…いや、考えたって仕方ない。
 この、まるで儚い、頼りない因縁のおかげで、俺は蒼牙に愛してもらえるんだから…欲張っちゃダメなんだよ。

《違うと言っているだろうが。アンタはいつも、独りで突っ走るからな。放っておけないんだ》

 蒼牙が憤懣やるかたなさそうに鼻息を荒々しく吐き出すと、長い白銀の髭をピクリと動かして、それでも機嫌が良さそうな気配に、俺はムッとした。
 当たり前じゃねーか。
 どうして、こんな物悲しいのに、蒼牙だけ1人幸せそうなんだよ。

《楡崎の血を滅ぼそうと考えるだろう…これも違うか。俺の場合は、まず一族を選んだりしないからな。アンタを手に入れる為に当主になったんだし、アンタが楡崎の血じゃなければ、喜んで龍雅に当主の座なんぞくれてやったさ》

 ははは…っと、蒼牙にしては、凄く上機嫌そうに笑った。
 俺の為なら、女になってもいいとすら言ってのける蒼牙だから、もしかしたら俺がたとえ楡崎の血じゃなくても、いつか出逢えていたのかな…とか、まるで恋する乙女みたいに喜んでしまっている俺って。

「んで、蒼牙は葵姫のまま、俺を愛してくれるのか?」

《勿論だ。アンタが楡崎の血じゃなければ、アンタの性別はそのままだからな。そうすれば、俺が女じゃないと駄目だろ?アンタがそれを許さないはずだ》

「…そんなこと、ないと思う」

 たとえお前が男だったとしても、きっと俺は、お前を愛してるよ。

《は?》

 俺がポツリと呟いたら、蒼牙は一瞬、本気で呆気に取られたような、間抜けな声を出したんだ。
 いったい、俺が何を言い出すんだと、訝しんでいる気配が手に取るようによく判る。
 だってさ。

「俺、両性体になったから蒼牙を好きになったワケじゃねーだろ?俺、ちゃんと俺のままで、蒼牙を好きになったんだぜ?」

 クスクス笑ったら、蒼牙は《ん?》と眉間に皺を寄せて考えているようだったけど、唐突にムッツリと黙り込んじまったんだ。
 ふふーん、俺から一本取られたからってさ、凹むこたないと思うんだけどな♪
 ニヤニヤ笑いながら蒼牙の背中…じゃないんだろうけど、鱗の覆われた部分にキスしてやった。
 蒼牙はちょっと擽ったそうだったけど、それでも、暫くは黙ったままだった。
 その沈黙は、驚くことにスゲー心地好かった。
 いや、してやったりで心地好い…とかじゃないんだ。
 なんつーか、その、幸せだと噛み締めるような嬉しさだとか、そんな感じだ。

《…なるほど、そう言われてみればそうなんだろうな。アンタは別に、性別が変わったから、俺を愛したワケじゃない。最初から、俺に惚れたんだったな》

 うんうん…って、ハッ!?
 俺、もしかして今、とんでもないことを告白しちまったのか!!?
 …グハッ!俺、とんでもねー恥ずかしいことを言っちまった。
 たぶん、この夜風と最高に綺麗な光景のせいで、心が緩んじまったんだよ。
 月明かりにたゆたうように浮かぶ白銀の龍は泣きたくなるほど綺麗だし、陰影が見事な山も田んぼも何もかも、どれもが懐かしくて、俺の心を開放しちまうから、なんでもペラペラ喋っちまうんだ。
 もう、気分的には身から出た錆に転げ回りたいほど恥ずかしがる俺を無視して、蒼牙は吸い込まれそうなほど綺麗な星空を見上げているようだった。

《紅河も、この気持ちを忘れなければ或いは…》

「…?」

 ポツリと呟いた台詞の語尾は夜風に攫われて、俺の耳にまでは届かなかったんだけど、蒼牙は嬉しいような悲しいような、なんとも言えない雰囲気を醸し出していた。
 龍の姿では計り知れないんだけど…でも、ふと俺は思うんだ。
 どうして、蒼牙はこんなに紅河のことを案じているんだろう。
 もう、百年以上も前にいなくなってしまった、この山の守り神であった紅河を。
 蒼牙はどうして、我がことのように傷付いているんだろう。
 胸の辺りにチクリと、何かが刺さったような気がした。