第二部 18  -悪魔の樹-

『レヴィアタンはいるか?!』

 俺が泣き止むのを待っていたルシフェルは、それから、不意に城内に響き渡るような大音声で薄情な白い悪魔を呼ばわった。
 思わずキーンッと耳鳴りのする頭を抱えて目を白黒させる俺にはお構いなしに、ルシフェルは綺麗な顔を壮絶に歪めて、影になっている場所、その暗黒を睨み据えている。
 その一言だけで、ルシフェルは他には何も言わなかったけど、それでも、今までに見たこともないぐらいには激しく怒っているみたいなんだ。
 どうして、ルシフェルも灰色猫も、こんなにも俺のことを想ってくれているのに、絶対に吐いてはいけない嘘を吐くんだろう。
 レヴィには俺がいないとダメだとか言って、本当は最愛のリリスがいるんだから、今の俺が、アイツの役に立つはずがないじゃないか。
 世界がおかしくなったのは、リリスと些細な喧嘩でもして、それがレヴィアタンの心に障っただけなんじゃないのか?

『…黙って入り込んだワリには、堂々とした態度だな?』

 ムスッと不機嫌そうに腕を組んだ白い悪魔が、ルシフェルが睨み据えていた暗闇からのっそりと姿を現した。何時からそこにいたのか、一部始終を見られていたのかとハッとした俺がレヴィアタンを見ると、そんな俺の、ささやかに怯えた表情を見て、一瞬だけど、眉を潜めた白い悪魔は、それから忌々しそうに舌打ちなんかするんだ。

『あ・た・り・ま・え・だ、この野郎。コレはオレのモノだと言った筈だぞ?お前が勝手にベヒモスのところに置きやがったから、仕方なく預けていたってのに、今度はこれかよ?なんてことをしてくれたんだ』

 わざとらしく区切った言い方は、どうも挑発しているようにも聞こえるんだけど…ハラハラしたように胸元を掴んでルシフェルを見上げると、ヤツはそんな俺なんか気にした様子もなく、見事な柳眉を顰めてフンッと鼻なんか鳴らしやがるんだ。
 あわわわ、それでなくても散々この目で見てきたんだ。凶暴で冷淡なレヴィアタンのことだから、きっと馬鹿にするなって怒り出すぞ!
 血を見る…と、俺が息を飲んだときだった。

『別に黙って連れ出したワケじゃないさ。中間地に帰ると言ったから、中間地に連れて来てやっただけだろ?』

 俺の心配は大きく的を外して、殊の外冷静にフンッと外方向くレヴィアタンが素っ気無く言うと、ルシフェルは『へー、そうかい』と言ってから、わざとらしく白い悪魔の冷静さにポカンと呆気に取られていた俺の頬に頬を寄せながらニヤッと笑ったんだ。

『じゃぁ、ご主人が迎えに来たんだ。連れて帰ってもいいんだよな?』

『…』

 あんなにどうでもよさそうに素っ気無かったくせに、ルシフェルがそう言うと、レヴィアタンはバッと振り返って、それから燃えるような激しい目付きをして、旧知の友であるはずの傲慢な悪魔を睨み据えたんだ。
 そんなものは蚊でも止まったぐらいにしか感じなかったのか、ルシフェルは素知らぬ顔をして俺の唇にチュッと音を立ててキスをすると、クスクスと、けして双眸は笑っていないってのに、薄笑いなんか浮かべるんだ!正直、超怖ぇぇぇ!!
 なんか、物言わぬ攻防とでも言うのか、目に見えない不可視の火花が炸裂しているように感じるのは俺だけじゃないはずだ!

『待たせちまったな。じゃ、帰ろうか?』

「る、ルシフェル…?」

 あっさりとそんなことを言ってくれるルシフェルの間近にある端正な顔を、俺は殆ど無意識に見上げていた。
 こんな寂しい場所から、俺、本当に帰れるんだろうか。
 我慢して今日までここにいたんだけど…もう、リリスと仲良くしているレヴィアタンを見たくないんだ。
 大事にしていた想い出までも破壊されたみたいで心が引き千切れてしまいそうだったけど、それでも、俺の中にあるレヴィへの恋心は消えてくれないから、ここにいるのはとても辛い。
 だから、俺は救いを求めるような眼差しをしていたんだと思う。
 ルシフェルの名前を呼んだ瞬間、俺たちの背後にあった幾つものシャンデリアが音を立ててガシャンガシャンッと崩れ落ち始めたんだ!
 とても豪華な品々で、ハッとした時には、回廊の端に飾られている綺麗な絵画が彫られた壷までが弾け飛んで、俺は思わず首を竦めてしまった。

『誰が連れ出していいって言ったんだ?』

 暗黒の冷気…とでも言うのか、今まで感じたこともないほどの殺意のようなオーラを感じて、俺は思わずゴクリと息を呑んでいた。
 な、なな…レヴィアタンはどうしたんだろう。

『…なんだと?』

 対をなす、魔界の実力者たちは、お互いの力量を知っているのだろうに、それでも、一歩も退かずに睨み合いを続けている。

『ここはオレの領域だ。たとえ、ルゥの所有物でも、オレの領域に入ったのなら、主の許しがなければ出て行けないことは承知済みのはずだろ?』

『あー、判ってるぜ?だから、連れて帰るってちゃんと報告してるだろ?』

 俺を抱きあげたままで肩を竦めるルシフェルに、レヴィアタンは酷く極悪な面構えをしてニヤッと笑ったんだ。

『ダメだね。そんな態度じゃな。どうしても連れて帰るって言うのなら…ルゥの大事な魂とやらを寄越せ』

 たぶん、最初から狙いはルシフェルの掛け替えのない宝物だったんだろう。
 その事実に、俺の心は今更ながら傷付いて、涙の代わりに溜め息が零れていた。
 俺はただの囮にすぎなかったってワケだ。

『!』

 その魂の所有者が俺であることを、実はレヴィアタンは知らないんだ。
 まさか、そんな条件を出すとは思ってもいなかったルシフェルは、一瞬言葉を飲み込んだが、次いで、不意にその目線を落としてしまった。
 その目線は、ひっそりと俺を見詰めている。
 判ってるんだ、そんな眼差しで見なくても。
 ルシフェルは傲慢で尊大な大悪魔のクセに、どうしたワケか、俺を気に入ってくれている。だから、今の言葉に誰よりも俺が傷付いている事実に、やっぱり誰よりも先に気付いてくれたんだと思う。

『…判った、オレの大切な魂をくれてやる。その代わり、お前は今後一切、その魂の持ち主に嘘は吐くな』

「!」

 ルシフェルの申し出に、驚いたように目を瞠る俺が口を開く前に、腕を組んで胡散臭そうなツラをするレヴィアタンが口を開いていた。

『なんだと?ソイツを連れ出す条件に、さらにお前が条件をつけるのか?』

『そーだよ。オレが大事に見守っている魂は、コイツだからな』

 そう言って、俺を軽々と抱き上げているルシフェルは、その両腕を差し出すようにしてレヴィアタンに掲げて見せたんだ!
 俺は思わずギョッとして、慌てたようにルシフェルの顔を見た。

『?!』

 でも、同じように驚いたツラをするレヴィアタンが、唖然として掲げられている俺を、金色の双眸で見詰めてきた。

『判ったか。あと、ムカついてもコイツを殴るんじゃねーぞ。今度、少しでも頬が、いや身体のどの部分でも、殴られているのを目にしたら、今度こそお前の心が崩壊しようがどうしようが、ここで一戦交えてやる!』

 一瞬だけ、名残惜しそうに俺を見たルシフェルは、それから呆気に取られているレヴィアタンの、ジャラジャラと宝石やらなんやらが飾る胸元に、俺の身体を押し付けやがったんだ。
 勿論、冗談じゃないと思っているレヴィアタンが俺を抱きとめてくれるワケもないから、ルシフェルが腕を離したと同時に、襲ってくるだろう痛みを覚悟して俺はギュッと目蓋を閉じていた…けど、その衝撃は訪れなかった。
 それどころか、焦ったツラをしているレヴィアタンの顔が間近にあって、却って違った意味で俺の心臓は高鳴ってしまった。
 こんな状況なのに、高鳴る俺の心臓って…いや、もうちょっと自重しろよ、俺。

「る、ルシフェル!…お前まで俺を騙すのかよ」

 胸を高鳴らせている場合ではないんだ。
 ここに置いて行かれるなんて予想外だったから、俺は、リリスに微笑むレヴィアタンの顔ばかり思い出して、腕に抱き止めて貰っておきながら、嫌だと暴れて、スッと身体を離したルシフェルを恨めしそうに睨んでやった。
 そうすると、傲慢な悪魔はらしくもなく爽やかな笑みをニッコリ浮かべて言いやがったんだ。

『誰もお前を連れ出してやる…なんて約束はしてないぜ?そもそも、お前が選んでここに来たんだろ。だったら、最後まで、その想いとやらを遂げてみせろよ』

 それは…リリスがいるのに無理に決まってるじゃねーか。あれは、まだレヴィアタンに伴侶がいるなんて知らなかったから、俺はきっと、レヴィを愛し続けると豪語できたんだ。
 酷いよ、ルシフェル。
 誰か他に想い人がいる相手に、自分の想いを遂げるなんて…俺はそんな酷いことはできない。きっと誰かが傷付くし、そして、それ以上に、自分自身が傷付くに決まっている。
 あの深い愛に満ちている2人の間に、どうして、人間の俺が介入できるって言うんだ。
 ここから、どうか、連れ出して欲しい…

『せめてレヴィアタンに聞いてみろよ。ソイツはたった今、オレと契約を結んだんだ。二度と、お前に嘘は言わないし、殴ることもしないんだぜ?』

 ルシフェルは腕を組んだままニヤニヤと笑った。
 その台詞に、何か言いたそうな表情で俺を見下ろしていたレヴィアタンは、ハッと我に返って、それからバツの悪そうなツラをしてギッとルシフェルを睨んだみたいだったけど…それでも、俺を抱きとめてくれた腕の力は抜かなかった。
 どうやら、磨かれた床に激突しなくてもすみそうだ。
 ホッと息を吐いたと同時に、そう言えば…レヴィアタンは、一方的とは言え、契約したんだ。いや、違うな。一方的じゃない、レヴィアタンが進んで契約を持ち出したんだから、この場合は、非は我侭な白い悪魔にあると思うぞ。うん。
 俺が、傲慢で尊大で、誰の言うことにも耳を貸さないほど唯我独尊的な大悪魔だと言うのに、心を傾けて大事にしていた魂だと知ったレヴィアタンは、旧知の友を睨みながらも、少し動揺しているようだった。

『…オレは、冗談のつもりだったんだ。何千年も前から、お前が嬉しそうに話していた魂を見たいと、そう思っただけなんだ』

 それは、あれほど我侭なレヴィアタンからは想像できない台詞だった。
 本気で喧嘩をしても、何があっても、やっぱりレヴィアタンにとってルシフェルは好敵手であり、大事な親友なんだろう。
 動揺したように、愕然としたような表情で自分を見詰める黄金色の双眸を見詰め返して、ルシフェルはそれでもクスッと笑ったみたいだ。
 何ものにも替え難い宝だと…ルシフェルはレヴィアタンに語っていたそうだ。
 その宝を、まさかこんな風に、いともアッサリと自分に寄越すとは思っていなかったのか、だから余計に動揺して、どうしたらいいのか判らないと、その気持ちが手に取るように良く判った。

『じゃぁ、破棄するか?それで、光太郎もオレに返せるのか??』

『!』

 ハッとしたように、レヴィアタンは反射的に俺を抱き締めた。
 あれほど、機嫌が悪ければ殴ったり、気に食わなかったら突き放していたくせに、まるで俺のことを…手離せないと言ってるみたいじゃないか。
 そんなのはズルイんだぞ。
 今更、僅かでも俺を喜ばせようとか…思ってるワケはないんだけど、それでも俺は喜んで、そして酷く傷付くんだ。
 リリスがいるのに…その傍らに俺を置くつもりなのか?
 俺は、古い考え方かもしれないけど、一夫一婦制を重んじてるんだぞ。
 誰か他の人がいるのに、ソイツに寄り添えるほど、俺の心臓には毛は生えてないんだぜ。

『嘘はダメだぞ、レヴィ。オレが大事にしている魂を手離せないだろうと踏んで、交換条件に出したつもりなんだろうが…お生憎さまだな。オレにとってその魂は全てで、その魂が悲しむことをオレが望むと思うのか?冗談じゃない。そんな姿を見るぐらいならくれてやるよ』

 ルシフェルの俺の中にある魂を想う気持ちは、愛だとか恋だとかを超越していて、何よりも最優先だと前に言っていたことを思い出した。それなら、どうして…ここにいることをこんなに嫌がっている俺を残して行くんだと、前の俺ならそう思ったに違いない。
 でも、それは違う。
 ルシフェルは契約を持ちかけたレヴィアタンを巧く利用して、俺が有利になる契約を結んでしまったんだ。破棄することもできるんだろうけど、何故か、レヴィアタンはそれに頷かなかった。

『だから、オレに代わって、ちゃんと大事にしてやってくれよ。オレが見守り続けた魂なんだ。お前なんかの薄汚れた心の領域に置いて行くのは忍びないんだがな』

 最後は本気で嫌そうに言い放ったルシフェルだったけど、レヴィアタンはそれには何も言わなかった。
 それよりも、自分とルシフェルが求めたモノが一緒で、今ではそれが自分の手許にあることに、静かに驚いているみたいなんだ。

『…別にオレは、お前の大事にしている魂が欲しかったワケじゃない。オレは…オレは、その、コイツを気に入ったんだよ』

 まるで語尾は消え入るような掠れた声で呟いて、それから、まるで高血圧のひとみたいに、レヴィアタンは急に牙をむいて怒鳴ったんだ。

『ああ、そーだよ!ルシフェルの言うとおりだッ。オレはお前の大事な魂なんか、これっぽっちも興味はない。ただオレは…コイツが欲しいんだ!』

「!」

 悔しそうに歯噛みしているレヴィアタンを見上げて、俺の双眸は咳を切ったみたいにポロポロと涙を零してしまった。
 その声も、表情も、髪の色も何もかも…全部レヴィなんだけど、心だけがレヴィアタンと言う海の魔物で、俺のことを知らない大悪魔のはずなのに、まるでレヴィみたいに俺を欲しいと言ってくれた。
 たとえ、心の中にリリスと言う大切な存在を隠していたとしても、今だけは、俺は素直に嬉しいと思って泣けて泣けて仕方なかった。
 でも、いつか…俺はリリスよりも先に、お前の前から去る日がくると思う。
 レヴィに誓った永遠なんか、本当は俺のほうこそ嘘だったんだけど…それでも、この目蓋が閉じて、もう二度と目覚めないその時まで、きっと、俺はレヴィとレヴィアタンを忘れないと思う。
 その次の器に魂が入ったとしても、それはもう今の俺ではないから、俺に永遠なんてないんだけど…それでもレヴィ、瀬戸内光太郎で在り続ける間は、精一杯、お前を忘れずに愛し続けるからな。
 たとえお前が、リリスを愛するその片手間で、俺を気に掛けてくれているだけでもいいんだ。
 俺はきっと、忘れないから。

『あーあ、畜生。人間に告る日がくるとはなぁ…まぁ、その人間はオレのことを毛嫌ってんだけどな!』

 フンッと外方向くレヴィアタンに、ルシフェルはクスクスと笑った。
 毛嫌っているヤツが、嬉しくて泣いたりするかよ…って俺も思うんだけど、それでも何も言えずに鼻を啜ってしまう。

『殴ってたんだろ?そりゃ、嫌われて当然だ。これからは精一杯、大事にしてやれよ』

『オレの愛情表現は暴力だ!…どうやって大事にしたらいいのか、判らねーよ』

 冗談めかして言って、それは照れ隠しだったのか、知ってるくせに聞くんじゃねぇと言いたそうにルシフェルに噛み付いたけど、そんなもの、蚊が止まったほどには…って、ルシフェルはどれほどレヴィアタンを歯牙にもかけず、あしらってんだと呆れてしまった。それでも、2人は旧知の友で、それはこれからも永遠に続くんだろうなぁと思ったら、ちょっと羨ましかった。
 そして俺は、やっぱりリリスが羨ましいなぁと思うんだ。
 どうして俺は、人間だったんだろう。
 リリスよりも先にレヴィに、レヴィアタンに逢っていたら、もう少し、この運命は変わっていたかもしれないのに…俺は悪態を吐きあう2人を交互に見詰めながら、諦めたように溜め息を吐いていた。

第二部 17  -悪魔の樹-

 ふと、目が覚めたら豪華な天蓋付きでふかふかしたベッドの上で寝かされていた。
 定まらない焦点を必死で合わそうとして暫く彷徨わせていた視界は、すぐにグニャリと歪んで、陰気な城内では不似合いなほど真っ白な室内の中で、俺は羽毛の柔らかな布団を被って洩れそうになる嗚咽を噛み殺した。
 誰もいないところに行って声を上げて泣きたいのに、そんなこともできない小心者の俺は、ただ唇を噛み締めて、何処かも判らないこんな明るい場所で独りで泣くことぐらいしかできないなんて…どうかしてる。
 俺もどうかしているけど、レヴィも十分、どうかしてると思う。
 ちょっと、傍目にはロリコン…?て疑っちまうのは致し方ないとしても、あんな冴え冴えとした綺麗な子を、心の領域だと言う安息の場所に隠しているくせに、俺に構うなんかホント、どうかしてると思う。
 でも、そこまで考えて、俺はグズグズと鼻を啜りながら気付いたんだ。

「あ、そうか。レヴィはちょっとした退屈凌ぎで俺たちの世界に来たんだったな」

 それを、灰色猫がお節介を焼いて【悪魔の樹】の契約で、俺と出逢わせたんだったっけ。
 なんだ、どちらにしても、悪魔の気紛れに巻き込まれたってだけじゃねーか。
 泣き腫らした目を擦りながら上半身を起こした俺は、ハラハラと天井の辺りから零れ落ちている霧が結晶したような花びらを眺めていた。
 花びらははらはらと零れ落ちると、純白の布団の上に落ちるか落ちないかのところで淡いピンクにパッと霧散して、甘い桃のような匂いを散らしているんだ。
 それは懐かしいレヴィの匂いだったから嫌じゃないけど、今は吐き気がするほど嗅ぎたくない。
 冗談半分の気紛れに付き合えるほど、人間の寿命は長くないんだから…こんな酔狂な遊びはナシにして、もう俺を元の世界に帰してくれないかな。
 レヴィアタンは勘違いしているんだ。
 記憶の中におぼろげに残っている俺の存在が気になるだけなんだから、あの綺麗なリリスの傍にずっといて、俺を人間が暮らす世界に捨ててくれたらいいのに…そこまで考えてたら、途端にまた「うっ」と言葉に詰まって、そのまま泣きたくなってしまう。

『お兄さん!』

 バンッと木製の重々しい重厚感のある扉が外側から開いて、鼻の頭を真っ赤にして、目許からポロポロと涙を零している俺は驚いて顔を上げたけど、俺以上にショックを受けて、息を呑んだ灰色猫は一瞬立ち止まったけど、それでもすぐに脱兎のような素早さでベッドに這い上がると、ふかふかの猫手でギュッと俺を抱き締めてきたんだ。

『お兄さん!心配したんだよ、こんな場所に閉じ込められて…ベヒモス様が案じられていたとおりになってしまった!』

「灰色猫…」

 心配そうに見上げてくる薄汚れた灰色の猫は、金色の双眸を悲しそうに細めながら俺を見上げてくるけど、今のドロドロに腐った根性に成り下がっちまっている俺は、その顔を見るのも、柔らかい身体に触れるのも嫌で、唇を噛み締めて振り払ったんだ…とは言っても、何時だって俺のことばかり考えてくれている灰色猫を突き飛ばせないほどには、コイツを恨んでいないのも確かだ。
 邪険に、それでも静かに疎まれた事態に、灰色猫はベッドの上にちょこんと尻餅をついたような格好で耳を伏せて驚いているみたいだったけど、途端にハッとして、それから寂しそうにピンッと張っていた髭が萎えたみたいに垂れてしまう。

『お兄さん…』

「ごめん…灰色猫。今はお前の顔も見たくないんだ」

『どうしてだい、お兄さん。レヴィアタン様に何か、酷いことをされてしまったのかい?』

 酷いこと…なのか、それとも、本当は他愛のないことなのか…俺には判らないし、今更、そんなことはどうでもよかった。
 ただ、少なからず、こんな風に俺を案じてくれる灰色猫も、やっぱり悪魔の使い魔で、優しい素振りで俺を騙していたんだと思ったら、できればもう、何も信じずにここから逃げ出せたらいいのにと思ってしまう。
 俺は滔々と涙を零したままで、何も言わずに首を左右に振るしかない。
 信じていた…ああ、きっと、ルシフェルもベヒモスも、みんな知っていて黙っていたんだ。
 ちっぽけな人間の小さな恋心を、ただ、アイツ等は嘲笑うことをせずに、俺が諦めるまで見守っていたに過ぎないんだ。
 【約束の花】なんて嘘っぱっちで…だから、何時まで経ってもルシフェルは【魔の森】に行こうとしなかったじゃないか。
 あっさり騙されてる俺って…もう、泣きたいだけ泣いたから、涙も出ないよ。
 グスッと鼻を啜ったら、灰色猫は居た堪れないような顔をして、寂しそうに『にゃあ』と鳴いた。

『お兄さん。どうか、よくお聞き。ここはレヴィアタン様の心の領域ではあるけれど、あのお方はけして安息など求められてはいないんだよ。だから、ここは魔界と寸分変わりない。油断してはダメだよ』

 それだけ言うと、灰色猫は逡巡して、それから諦めたみたいに肩を落としてベッドから降りてしまった。
 どうしても、今の俺が自分の声を聞いていないと、ちゃんと判っていたんだ。
 去っていこうとするその後ろ姿には不安があったし、今、すぐにでも呼び止めて「レヴィに奥さんがいた!」と言って、全部を灰色猫のせいにして、それから、あの小さな猫に慰めて欲しい…なんて、弱虫毛虫の俺は縋りそうになる気持ちを叱咤して、灰色猫を呼び止めなかった。
 この場所でも、いや、本当はこの魔界の何処でも、信じられるヤツなんかいなかったんだ。
 何を信じて…どうして俺、悪魔なんか信じてしまったんだろう。
 まるで穏やかだった気持ちが一変して、俺は全てが、この暗黒で陰気なレヴィの居城みたいに空虚で、陰惨な魔界みたいだと思った。
 もう、何も信じない。
 だって、全ては嘘だったんだから…

 偽りに塗り固められたような幸せだった日々すらも封印して、それからの俺は気持ちの持ち方を変えることにしたんだ。
 何処に行っていたのか、ある日、ふらりと戻ってきた白い悪魔は上機嫌で俺を抱き寄せて、『ただいま』とかおざなりな挨拶をして、気が済むまでキスをした。俺は、ドロドロに恨んでいたから、その舌先を噛んでそれに抵抗したけど、不意に激怒したレヴィアタンに殴られてしまったんだ。
 レヴィアタンはハッとしたように慌てて殴った拳を引っ込めたけど、それでも俺は、だからと言ってそれに反抗なんかしなかった。
 口許から流れる血を拳で拭って、俺はそのまま目線を落としていた。
 もともと、レヴィアタンと言う悪魔は凶暴で嘘吐きで、悪魔らしい悪魔なんだとリリスが教えてくれた。
 だから、レヴィからでは考えられないんだけど…って、アレは【悪魔の樹】の契約のおかげで穏やかになっていたってだけで、レヴィこそが最大の嘘だったのに、馬鹿な俺は嘘のアイツを愛してしまったんだ。本性であるレヴィアタンは冷酷で凶暴だから、気に入らなければ必然的に手が出るんだけど、それでも頭の何処かに人間は脆いと学んでいるのか、ハッとしたように一発殴っただけで止めてしまう。
 この城で暮らす多くの使い魔は、最初の日にリリスが言ったように一矢報いてやろうって考えている連中ばかりだから、そんなレヴィアタンの態度にコソリと驚いているみたいだ。
 それでも、レヴィアタンが帰って来てからと言うもの、日々生傷を作っている俺を見て、こんな傷で済んでいるのは俺ぐらいだって、リリスは嘆息して首を左右に振っていた。
 たぶん、奥方としては愛人が大事にされるのが辛いんだろうな。
 でも、さすがに正妻だと言うだけあって、レヴィアタンはリリスだけは殴らないみたいだ。
 そりゃ、そうだよな。
 何度目かに殴られて、ぶれる頭を落ち着かせようと中庭…なんかあるんだ、さすが灰色猫が魔界みたいなものだと言っただけあって、ここでもおかしな空間が広がっているんだろう。俺はだだっ広い中庭に入り込むと、噴水のある場所にへたり込んで、噴水の水に浸した布で頬を冷やしながら休んでいた。
 アイツは俺を殴ると、決まって後味の悪そうな顔をするくせに、そのまま何も言わずにやっぱりふらりと姿を消してしまう。その日もそうだったから、俺が逃げるみたいにして中庭に腰を落ち着けて、ジンジンと痛む頬を押さえていたら、小さな笑い声がしてハッと姿を隠したんだ。
 俺がその茂みにいることを知っているのかいないのか、いずれにしても、レヴィアタンとリリスはお互いに信じあったように目線を交えて、それから優しそうに微笑んでいた。
 リリスの陶器のようにすべらかで綺麗な頬に指先を伸ばして、レヴィアタンは見たこともないほど穏やかな、まるでレヴィがそこにいるようなツラをしてリリスを見詰めていた。
 そんなツラをしてしまうほど、リリスを信じて、それから…愛しているんだから、人間の奴隷なんかとは比べようもないのにさ。
 リリスは要らない心配をしているに過ぎないんだよ。
 あの日の2人の姿を見てから、いや、正確にはあの日のリリスを見詰めるレヴィアタンのツラを見てから、俺の心は更に頑なになって、レヴィアタンと言う白い悪魔に笑いかけることはなくなっていた。
 レヴィアタンにはそれが気に入らないのか、以前よりも不機嫌そうなツラをして…そうだ、この心の領域とか言う場所に来てから、レヴィアタンの笑っている顔を見ることがなくなったと思う。
 ふらりと戻って来たあの日に、冗談めかして『ただいま』と言って、嬉しそうに俺にキスをしたあの日以来、俺はレヴィアタンの笑顔を見ていない。
 その反動みたいに、リリスに微笑みかける白い悪魔を目にすることはあったけど、それでも、俺はもうそれを視界に入れないようにしていた。
 もし、そう言うことを認めてしまったら、我慢しているモノが堰を切って、忽ち俺は声を上げて泣いてしまうと思うから。
 俺は人間の奴隷…なんだけど、一応、レヴィアタン様の愛人の称号らしきものを貰っているせいか、他の使い魔たちから手を出されることはなかったけど、やっぱり奴隷に変わりはないから下働きとして扱き使われている。
 今日も、何時もみたいに使い魔の独りに手渡された山のような書物を抱えて、ふらふらと廊下を歩いているんだけど…この居城にはレヴィアタンの使い魔が山ほどいるんだが、そのどれもが屈強そうな悪魔たちに見える。そうしてみると、灰色猫はレヴィアタンの使い魔の中でも一風変わっているんだなと判った。
 邪険に振り払ってしまったあの日から、とうとう姿を見ることのなくなった灰色の薄汚れた猫が懐かしくて、俺は極端に多い書物を落とさないように必死で図書館に運びながら、そっと双眸を細めて寂しがっていた。
 だから、前なんか全然、これっぽっちも見ていなかった。
 それが悪かったんだろう、イキナリ、何かにぶつかってしまってすっ転んだ俺はバラバラと幾つもの価値のある書籍を全部落としてしまったんだ。

「わわ!ご、ごめんなさいッ」

 性的な意味での手出しはされないものの、この城にいる連中は誰もが荒くれているから、こんな失態をすると問答無用で暴力による制裁を受けるもんだから、俺はギュッと目蓋を閉じて慌てて飛んでくるだろう拳の衝撃を覚悟した…んだけど、それはなかなか襲ってこなかったんだ。
 何か、時間差とか、新手の嫌がらせかと思って閉じていた目蓋を開いたら…

「る、ルシフェル…」

 ハッと目を瞠ったのは、どーせ、俺を騙した大悪魔の独りなんだから、完全無視を決め込めばよかったのにさ、なんとも言えない双眸を見てしまったからだ。
 悔しそうな、切なそうな…それでいて、静かに怒り狂っている双眸の奥には、何千年も生きて来たに違いない、底知れぬ何かを秘めて淡々とした炎が燃えているみたいだった。

『…だから、言っただろ?白い悪魔に逢うなってさ。こんな薄汚いところに閉じ込められちまって。心の領域は、それを持つ悪魔の性分で形成されているんだ。お前は…こんなところにいるべきじゃない』

 静かだけど、確実に怒っているのが判る口調に、それでも俺は、ソッと目線を伏せるぐらいしかできないでいた。
 大悪魔に俺が不似合いだってことは判っているんだけど…今は、どんな悪魔だって信じたくない。
 何を信じても、結局は全てが嘘なんだ。
 黙りこんでいる俺に、ルシフェルは小さく溜め息を吐いた。

『灰色猫が泣き付いてきたぞ。お前、灰色猫まで拒絶して、どうするつもりなんだ?』

 その言葉にも、俺は何も答えなかった。
 これはもう、レヴィアタンで培った悪魔の対処方法だ。
 何も言わなければ、大概の悪魔も使い魔も焦れて殴るか、殴らなくてもすぐに興味を失くして放っておいてくれる。殴っても、俺の反応がなければそのまま捨てて行くんだ。
 ルシフェルだって悪魔に変わりはないんだから、さっさと何処へでも行っちまえ。

『オレも無視するのか。何があったのか知らないが、今のお前の魂はなんだ。まるで…』

 どーせ、薄汚くなってるとでも言うんだろ?
 いいよ、どんな魂でも。
 何が純粋だよ、人間の魂に純粋もクソもあるかってんだ。
 この胡散臭い大悪魔も、早く何処かに行けばいいんだ。俺のこと、心配しているようなツラをして、平気で騙していたくせに。
 どうして、言ってくれなかったんだ。
 レヴィアタンには既に想い人がいる…ってさ。

『まるで、力を失って、今にも消えてしまいそうだ。こんな終わらせ方をするために見守っていたんじゃないぞッ』

 ギリッと、ルシフェルは奥歯を噛み締めたみたいに鼻に皺を寄せて、なまじ綺麗な顔立ちだから、その激怒したツラはレヴィアタンよりも壮絶に見えた。
 青褪めて、声もなく見上げる俺を見下ろしていたルシフェルは、ふと、その表情を和ませて溜め息を吐いたんだ。

『お前、もうレヴィアタンを愛していないのか?あんなに光り輝いていたのに…見ているオレをあんなにも幸せにしてくれていたのに…』

 何があったんだと、傲慢で身勝手なはずの大悪魔は、ひっそりと呟いた。
 千年以上も前から俺を見守っているなんて…それだって嘘に決まっている。
 何もかも嘘で、そうして、信じ込んでいる人間を見て嘲笑っていたに違いない。

「ルシフェル様、俺に何か御用ですか?御用がなければ、もう行っても構いませんか」

 努めて、冷静に、淡々と言った。
 ルシフェルの双眸を見据えて言ったのなら天晴れなモンなんだけど、小心者の弱虫な俺は、わざとらしく落ちている書物に手を伸ばして、忙しいんだから、構うなと全身で物語ったつもりだった。
 でも俺は、大悪魔を甘く見ていたんだ。

『なるほど。お前がそう言う態度に出るなら、オレにも考えがある。人間は恩知らずが多いんだな!』

 キッパリ言い切って、どうして、俺が悪く言われるんだよ?!
 騙していたくせに、馬鹿みたいに信じて、レヴィを愛し続けていた俺を見て、嘲笑っていたくせに!
 冷淡な眼差しで俺を見下ろすルシフェルをキッと睨み据えて、俺は口を開こうとした。
 騙したのはお前たちじゃないか!…でも、俺はそうしなかった。
 睨み据えただけで、言葉が出なかったんだ。
 ルシフェルが何かしたとか、そう言うことじゃない。
 ただ、俺は唇を噛んで、ルシフェルの暗黒の双眸から目線を外し、やっぱり落ちている本を拾おうとした。その腕を、焦れたようにルシフェルは掴んでいた。

「?!」

 大概の悪魔は、そんな風に小生意気に睨む人間の奴隷の相手なんかしない。
 それは、レヴィアタンもそうだったし、アスタロトもそうだった。
 でも、ルシフェルは違ったんだ。
 俺の腕を掴んで、問答無用で立ち上がらせると、驚愕に目を瞠る俺が慌てて暴れるのを見越していたのか、そのまま抱き上げたんだ。
 間近で見るルシフェルの表情は激しく怒り狂ってるのが手に取るように判るけど、俺が睨んだ行為で、何故かほんの少しなんだけどホッとしているみたいだった。
 俺が、何もかも全て諦めて、心を閉ざしていると悟られてしまったんだな…

『こんなに頬が腫れて…光太郎さ、殴られてるんだろ?』

 軽々と俺を抱き上げているルシフェルは、そうして、冷たい指先で俺の頬に触れてきた。
 それを疎んで顔を振ればいいのに、ここに来て、久し振りに触れた温かい心遣いに、馬鹿な俺はまたしてもまんまと騙されて、ポロッと涙を零してしまった。
 どうして、レヴィは俺に永遠を求めたんだろう。
 どうして、レヴィは俺に愛を求めたんだろう。

「ルシフェル…どうして、悪魔はみんな嘘吐きなんだろう」

 ポロポロ泣きながら、思わず言ってしまった台詞に、傲慢が服を着ているはずの大悪魔はハッとしたような顔をして、それから、何処か痛いような…切なそうに双眸を細めて、やわらかく俺を抱き締めてくれたんだ。

『どんな嘘を吐かれたんだ?だが、その嘘は、お前の心を砕くぐらいには強烈だったんだろうな』

 それが許せないと、ルシフェルはそうして、魔界の貴族とは思えないほど、忌々しげに舌打ちをした。
 誰も信じたくないし、灰色猫ですら拒絶したのに…魔界に君臨するこの大悪魔を、少しでも信じようとか思ったワケでもない。できれば、このまま元の世界に戻してくれればいいのにと思ったんだ。
 身体を縮めるようにして背中を丸めた俺を、ルシフェルは何も言えずに抱き上げた腕に力を入れた。
 両手で双眸を覆うようにして、声も出せずに泣く俺の頭に頬を寄せるルシフェルは、そうして無言で俺の静かな嗚咽を聞いているみたいだった。

第二部 16  -悪魔の樹-

 急に無口になって俯いてしまった俺に焦れたのか、レヴィアタンは暫く無言で俺を見下ろしていたけど、苛々したように『チッ』と舌打ちしたみたいだった。

『…そんな悪魔のことは忘れてしまえばいい』

 忌々しそうにポツリと呟いたレヴィアタンの顔を見上げて、その時になって漸く、俺は海の大悪魔が悲しそうな表情をしているのに気付いたんだ。てっきり、不機嫌そうにイラついた、何時ものあの表情だとばかり思っていたから、却って吃驚してしまった。
 その表情は、とてもレヴィに良く似ていて、だから、忘れようとする俺の心が揺らいでしまう。

「ああ、もう忘れようと決心したよ。だから、俺は元の世界に戻る」

 決意を秘めてそう言ったつもりだったのに、未練がましい俺の心が本人の気持ちを無視
して、涙腺を弱くしてしまうから…ポロッと頬に涙が零れてしまった。
 レヴィアタンはソッと真っ白の眉を顰めて、俺の頬に零れ落ちた涙を指先で掬った。

『中間地に戻るのか?』

 俺たちが住んでいる世界をここでは【中間地】と言うのなら、俺はそうだと頷いて、この網膜に確りと忘れなければならない大悪魔の顔を刻み込むつもりで見詰めていた。
 もう二度と、俺がこの大悪魔に出逢うことはないだろうし、愛した優しいあの白い悪魔に回り逢うこともないんだろうなぁ…何時か、そんなことはないかもしれないし、その時の俺はもう、今の俺ではないんだけど、いつか、俺が生まれ変わって、もう一度レヴィに出逢えることがあるのなら、今度こそ、俺はこの愛しい温もりを手離したりなんかしない。
 ジャラジャラと胸元を飾る宝飾品を避けるようにして、俺はレヴィアタンの胸元をギュッと掴んでいた。
 さようなら…口にすれば簡単な5文字の言葉なのに、どうして、強張ったみたいに口が開かないんだろう。
 心が拒絶するんだろう…

『そうか…お前は面白い人間だった。オレが中間地まで連れて行ってやるよ』

 そう言って、レヴィアタンは俺をギュッと抱き締めて、天高く舞い上がろうとするから、俺は苦笑しながら最後の悪態を吐いてやった。

「断る。どーせ、また嘘なんだろ?俺、ベヒモスに戻してもらうからいいよ」

『…悪魔は薄情で嘘吐きだが、今度は本気だ。オレだって、そんなに薄情ばかりじゃないんだぜ?』

 レヴィアタンは、ここに来て初めて、俺に向かって静かに笑った。
 どの顔も、本当は悪魔なんだから信じられない、胡散臭さがあるんだけど、それでも、これで最後なんだから、もう一度ぐらいは騙されてやってもいい…とか思うから、ルシフェルから悪魔に骨までしゃぶられるんだと悪態を吐かれるのかもな。
 それでも、俺は…もう少し、この大悪魔の傍にいたかったんだ。
 プッと笑って、俺は目蓋を閉じると、レヴィアタンの胸元に頬を寄せて、その逞しい背中に両腕を回して、何処へでも連れて行けと態度で応えることにした。
 レヴィと一緒なら、何処へだって行けると、信じていたあの頃のように。
 俺は、この嘘吐きで薄情な…懐かしい、あの甘い香りで包んでくれる、この大悪魔とも何処へでも行ってやろうと思ったんだ。
 俺の意思を間違えることなく受け止めたレヴィアタンは、縋るように抱きついている俺の身体をギュッと抱き締めて、天高く舞い上がり、眩暈のする速度で俺の知らない場所まで飛んで行った。

 寒さこそ感じなかったものの、重力は感じていたから、ジェットコースターか何かに乗った後のようにフラフラする頭が漸くスッキリしてきたころ、レヴィアタンはゆっくりと着地したみたいだった。
 ギュッと閉じていた目蓋を開いて目を開けたら、そこは、一面に真っ白な花が咲いた小高い丘のようなところで、ああ…俺、とうとう天国まで来てしまったのかと思ったぐらいだ。

『ここは魔界と天界との間の場所だ』

「…げ。それが中間地なら、俺の住んでいる場所とは違う…って、お前、また騙したな」

 ハッとして胡乱な目付きで白い悪魔を見上げると、ヤツはフンッと鼻を鳴らしたけど、すぐにニヤッと笑って不貞腐れている俺の顔を覗き込んできやがったんだ。

『騙してなんかないぜ?ちゃんと、中間地に連れて行ってやるって言っただろ?』

 それはそうだけど…俺は溜め息を吐いて、それから抱き締める腕の力を緩めたレヴィアタンから身体を離しながら、やわらかい、優しい甘い匂いのする花が咲き乱れる一面の白を見渡してみた。
 その甘い匂いは桃のような、レヴィの匂いに良く似ていて、ここで一生を過ごしても悪くないなぁ…なんて、恐ろしいことを考えてしまった俺はハッとして、慌てて頭を左右に振っていた。
 それでも、一面の白は、傍らに腕を組んだ姿勢で肩を並べる漆黒の衣装の白い悪魔を想起させるから、こんな場所でレヴィの記憶だけを宝物にして生きていけたら、それはそれで幸せだろうなと考えた。

「ま、いーや。ここは綺麗だし、懐かしい匂いがするから、迎えが来るまでここにいるよ。レヴィアタン、有難う」

 双眸を細めて同じように一面の白を見渡していたレヴィアタンは、途端にムッとした顔をしてそんな俺を見下ろしてきたから、首を傾げるしかない。
 なんで、そんな顔で俺を見るんだ?

『迎えなんか来るかよ。誰が来るんだ?お前を捨てた悪魔か??』

「いや、そうじゃないけど…たぶん、灰色猫が来てくれると思う」

 俺の台詞に明らかに馬鹿にしたみたいに腰に手を当てて、レヴィアタンは鼻先で笑ったみたいだ。
 むむ、なんでそんな顔をするんだよ?さっきから、いくら大悪魔だからって失礼だぞ。
 何か言ってやろうと開きかけた口を、俺は唖然として閉じるしかなかった。
 何故ならそれは、レヴィアタンが悪魔らしい邪悪な顔をして笑ったからだ。

『灰色猫だと?この場所に?…ここはルシフェルですら入ることはできないんだぜ』

「…なんだと?」

 内心で、灰色猫が駄目なら、問答無用で、あの傲慢でお節介なもう1人の大悪魔が来るだろうって、勝手に高を括っていたから、俺はレヴィアタンの邪悪な顔を見上げて訝しむように眉を寄せた。
 すると、真っ白いイメージの大悪魔様は、愈々、邪悪さにより磨きをかけて、ニヤッと笑ってくれたんだ。

『この場所は中間地に張り巡らせたオレの領域なのさ。オレが許した者以外は立ち入れない。たとえそれが、大悪魔だとしても、一歩でも立ち入れば地獄の業火に焼かれるだろうよ』

「なな…?!なんで、そんな怖いこと…」

 呆気に取られたようにポカンッとしたら、レヴィアタンは小馬鹿にしたような目付きで俺を見下ろして、フンッと鼻を鳴らしたんだ。

『大悪魔ともなれば心の平安が必要なのさ。ルシフェルもこんな領域を持ってるんだぜ?』

 知らなかったのかよと馬鹿にしてるみたいだけどなぁ…俺がいつ、こんな所に連れて来てくれと言ったんだよ?

「だからって、俺が来る理由がないだろ?お前、また騙したな」

『だから、騙してないって言ってるだろ?中間地に連れて行ってやるって言ったんだ。ご覧の通り、ここは魔界と天界の中間地だ。ま、オレの領域ってだけだけどな』

 ふふーんっと勝ち誇った顔で笑いやがって!!その【お前の領域】ってのが大問題なんだろ!
 思い切り睨み据えてやったけど、レヴィアタンは蚊に刺されたほどにも感じていないのか、俺のことなんか華麗に無視して説明なんか始めやがった。
 なんてヤツだ!こんなヤツが、本当にあのレヴィと同一人物だって言うのか?!

『向こうに城が見えるだろ?アレがオレの本来の居城ってヤツさ。んで、その城から向こうに海がある。オレが支配している領域を繋げているんだ』

 ホント、誰か嘘だって言ってくれ。

「レヴィアタンはルシフェルより傲慢だ」

 思わず泣きそうになりながら言ったら、ヤツはちょっとムッとしたような顔をして俺をジロリと見下ろしたけど、それでも機嫌は良いのかニッと笑いやがる。

『なんとでも言え。確かにお前の言うように灰色猫はオレの使い魔だからな、ここに入ることは許されてる。だが、お前を連れ出そうとすればアイツは燃えて消える。それだけは覚えておけよ』

 そんなことを言って腕を組むレヴィアタンのしてやったりの顔を見上げて、その時になって漸く、俺はどうして自分がこんな危険極まりないところに連れて来られたのかと首を傾げたんだ。

「あのさぁ…どうして、お前は俺をこんなところに連れて来たんだ?レヴィアタンにとって俺は目障りじゃなかったのか?」

『スッゲー目障りだな』

 ぐ…なんか、面と向かって言われると、思わず殴りたくなるんだけどよ。
 せっかく、レヴィを忘れる決意をしたってのに、こんなところに閉じ込められていたら、レヴィを忘れるなんて絶対にできない。目の前に張本人がいるってのに、忘れられるかってんだ。

「あ、そうか。灰色猫とかに助けてもらおうってのがいけないんだ。俺が自分で出ればいいのか」

『…どうやって出るんだ?』

 ポンッと掌を拳で打って頷く俺に、腕を組んだままのレヴィアタンはキョトンッとした顔で見下ろしてきた。
 そう言えば、そうか。
 どうやって出られるんだ…

「…って!なんで、こんなところに閉じ込めるんだよ?!おかしいだろッッ」

 思わず納得するところだったぞ。
 そーだ、そもそもどうして俺はこのレヴィアタンの領域なんかに閉じ込められないといけないんだ?!根本的に間違ってるだろ!
 食って掛かるように胡乱な目付きで見上げてくる俺を、レヴィアタンのヤツは参ったとでも言いたそうに、先端の尖った耳を垂らしてプッと噴出しやがったんだッ。

『全く面白いヤツだな、お前は!…そんな面白いヤツがオレの傍にいないなんて冗談じゃない。それなら、誰にも邪魔されない場所に連れ去っただけだ』

 声を立てて笑ったレヴィアタンは、そうして、至極当然そうにそんなことを抜かしやがった。
 面白いから傍に置くだって?
 胸のずっとずっと深いところにある大切な想いを抱えている俺を、ただ面白いから、この地獄のような檻に閉じ込めるって言うのか?
 何処まで酷いヤツなんだ。

「嫌だ。そんなのは、嫌だ。今すぐ俺を、俺が住んでいた場所に戻せよッ!」

 ギッと睨みつけて、身構えて牙をむく俺に、それまで楽しそうに笑っていたレヴィアタンは、ゆっくりと表情を大悪魔らしい冷酷な微笑に変えて言った。
 それはまるで、最後通牒のような冷やかさで…

『嫌だと?人間如きに選ぶ権利があるとでも思っているのか』

 背筋を凍った掌が撫で上げる錯覚に眩暈がした。

 どんなにもがいても足掻いても、レヴィアタンは俺を外に出す気も、勿論、元の場所に戻す気もさらさらないらしく、ニヤニヤ笑ったままで自分の城に連れて来たんだ。
 ルシフェルの件でいつもあんなに嫌がっていたくせに、どうして、イキナリ俺に構い出したのか判らない不気味さもあるし、連れて来られた城が、レヴィアタンの華やかな綺麗さにはあんまり不似合いな不気味な陰鬱さを醸しているのにも驚いて、俺は暫く声も出なかった。

『お帰りなさいませ、レヴィアタン様…その人間は奴隷ですか?人間嫌いのレヴィアタン様が珍しいですわね』

 不気味に軋る大きな扉が内側から開いて、ちょこんっと、ゴシック調のダークなドレスに身を包んだ少女が姿を現すと、ジタバタする俺の首根っこを掴んで笑っているレヴィアタンに、彼女は淡々とした口調で声をかけた。

『いや、奴隷じゃない』

『では?』

 レヴィアタンのご機嫌さも訝しいのか、城に似つかわしいほど不気味な雰囲気の、長いストレートの黒髪を持つ顔色の悪い少女はソッと柳眉を顰めたようだ。
 お願いだから、こっちを見ないでくれ。

『…そうだな』

 レヴィアタンも彼女の視線に促されたみたいにして、暴れて逃げようとする俺を見下ろしたみたいだったが、シックリくる言い回しがないのか、笑ったままで口を噤んでしまった。

『まさか、お客様…と仰るわけでもありませんよね?』

 ふと、溜め息を吐いた不気味な人形のように綺麗な…いや、なんか知らないが、不気味な人形ってみんなちょっとゾッとするぐらい綺麗じゃないか?そんなことはないのかもしれないけど、この子はゾッとするほど綺麗なんだよ。
 柳眉を顰めたままで、突然の闖入者である俺を繁々と観察しているみたいだ…う、怖い。
 こんな、10歳かそこらの女の子に怯える俺って…

『客でもないな』

『…』

 ガックリする俺を2人で見下ろすな!
 だいたい、誰なんだ、この子は?
 レヴィのヤツ、そう言えば魔界での自分の暮らしとか口にしなかったよな。
 微妙なところで、やっぱり忘れられるぐらいなんだから俺、信用とかされてなかったんだろうな。
 ふと、寂しくて暴れるのをやめた俺が目線を落とすと、レヴィアタンは首根っこを掴んだ腕はそのままで、片手で顎を擦りながら『うーむ』と悩んでいるみたいだ。

「ただの玩具だろ?」

 フンッと、寂しくて悲しくて、俺が憎まれ口を叩くと、それでも大悪魔様は不機嫌にもならずに肩を竦めたりするんだ。

『玩具ってワケでもない。そうだなぁ…愛人ってとこか?』

「はぁ?!」

『!』

 素っ頓狂な声を上げる俺と、無表情のままで眉を顰める少女に見上げられて、馬鹿げたことを口にした張本人であるレヴィアタンは楽しそうに笑ってから、首根っこを掴んでいる俺を城の中に投げ飛ばしやがったんだ!

「うわっっ…とと、何すんだよ?!」

『人間の愛人ですの…?』

 突然のことに思わずすっ転んで強かに額を磨き上げられた床でぶつけてしまった俺はガバッと上半身を起こすと、入り口付近にいるだろうレヴィアタンを睨みつけようとしたんだけど、音もなく扉を閉ざした城内は蝋燭の明かりだけで薄暗く、ギョッとしている俺を取り囲むようにして何時の間にかレヴィアタンと少女は俺を見下ろしていたけど、大悪魔様は屈み込んでそんな風に呆気に取られている俺の顎を掴んだんだ。
 それはあっと言う間の出来事で、扉が閉じたことにも、少女とレヴィアタンが傍にいたことも、ましてや顎を捕まれたことにでさえ気付けない俺が呆然としていると、大悪魔様は何が楽しいのか、クスクスと笑った。
 その笑い方は確かにレヴィなんだけど、そんなことにも気付けないほどたらりと汗を垂らす俺の顔を覗き込んで、少女は胡散臭そうにレヴィアタンを見詰めた。

『それにしても…もっと、こう』

 人間の愛人と言うことには然程気にした様子もない少女は、俺の容姿が気になって仕方ないといった風情だ。
 悪かったな、平凡を絵に描いたようなヤツで。
 ホント、こんなところ、来なきゃよかった…って、騙されて連れて来られたんだけどよ。

『リリス、これの世話はお前に任せるからな』

『畏まりましたわ、レヴィアタン様』

 俺の顎から手を離したレヴィアタンが立ち上がって上機嫌で命じると、小柄な少女はコクリと頷いて静かな口調でそれに応え、へたり込んでいる俺の腕を掴んで引き上げやがった!
 ど、どこにそんな力があるんだと、呆気なく引き起こされた俺が呆然と少女を見下ろしていると、レヴィアタンは満足したのか、何も言わずに闇に溶けるようにして消えてしまった。

「あ!ちょ、待て!この野郎ッッ…って、行っちまったのか?」

 何処に行きやがったんだ、あの野郎。
 こんなところに俺を閉じ込めて、いったい何のつもりなんだ。
 ブスッと立ち直った俺が伸ばしていた腕を引っ込めた時、ジッと見上げてくる漆黒の瞳に気付いて、俺は何故かギクッとしてしまった。

「え…っと?」

『わたくしの名前はリリスですわ。あなたは?』

「こ、光太郎。瀬戸内光太郎だけど…その、レヴィアタンの言った愛人って、アレ、嘘だからな。悪魔は平気で嘘を吐くんだろ?だから、あれは大嘘だ」

 どうしてそんな言い訳を必死に言おうとしたのか、決まってるだろ?見ればまだ年端も行かない女の子に、男でありながら愛人ですと紹介されて、どんな気持ちになると思う。
 なのに、俺の必死の言い訳なんか何処吹く風で、彼女は別に気にした風でもなく首を左右に振りやがったんだ。

『愛人であろうとなんであろうと、レヴィアタン様がそう仰ったのなら、あなたはレヴィアタン様の愛人ですのよ』

「う、だから、それは…」

『なんにせよ、それはレヴィアタン様のお心遣いなのです』

「え?」

 少女は酷く真摯な双眸をして俺を見上げてきた。
 真っ白な頬には生気がなく、冷たい白磁のようなすべらかな肌に、キリリとした見事な柳眉、その下には暗黒の海の底のように何かを秘めた輝きを持つ双眸が煌いていた。その部分だけ生きている証のように、熟れきらない苺のような瑞々しい唇の隙間から真珠色の歯が覗いて、どうやら彼女はひっそりと笑ったみたいだ。
 でも、その双眸だけはまるで拒絶するみたいに笑みを浮かべることはないから、何処か背筋が寒くなる表情に、気付けば俺は自分を抱き締めるようにして腕を擦っていた。

『ここはレヴィアタン様の心の領域。ですが、この城に仕えるのはレヴィアタン様に戦いを挑み、何れも敗北し使い魔に成り下がっている悪魔たちですわ。彼らは常に一矢報いることばかりを考えている痴れ者どもですの。レヴィアタン様は常に争いを好みます。ですから、平安を保つはずのこの場所にすら、あの御方は自らに害を成す者すら置いてしまわれる』

 俺の前ではあれほど穏やかそうに見えたレヴィの隠された素顔を見たような気がして、俺の心臓はキュッと竦んだみたいに痛んだ。
 どうして、レヴィは…いや、レヴィアタンはそんなに自分を戒めてるんだろう。
 大地を統べることができなかったことが、それほどまでにアイツの心に深い闇を刻み込んだのかな。

『好戦者と言うのは、同時に好色ですらあります。人間を憎む彼らは、人間の奴隷を見れば好きにしてしまう。たとえ、あなたが人間の奴隷として連れて来られたとしても、レヴィアタン様が【愛人】と仰るならば、誰も手出しはしないでしょう』

「…なんだ、そう言うことだったのか」

 だから、レヴィアタンはこのリリスと言う少女に俺を紹介する時、あんなに悩んでいたんだな。
 どう言うべきか…その地位によっては、俺の命運は決まっていたってワケか。
 なんか、魔界にしろ、この中間地(…この場合はやっぱり魔界なのか?)にしろ、とんでもない所には変わりない。
 俺、こんな場所で生きていけるのかな。
 それなら…そこまで考えて、そうかと思い至った。
 ベヒモスが大事にしていたあの【混沌の森】、あの森はベヒモスにとっての心の平安を保つべき領域だったんだろうな。だから、来る者をあの意思を持つ捩れた木の枝で阻んでいたのか。
 まだ、ベヒモスの領域にいる方が随分と気楽だったよなぁ…
 はぁ、と溜め息を吐いていたら、リリスはそんな俺をやっぱり繁々と観察しているみたいだ。
 大きな深い色を持つ瞳で見据えられると、どうも居心地が悪いんだけど…なんだろう?敵愾心とかそんなモンでもなさそうだし、かと言って、馴れ合う気なんかさらさらないと思っているのも手に取るようによく判る。
 リリスは何が言いたいんだ?

『これからはあなたのお世話はわたくしがします。この城の女主人でもありますから』

 リリスはキッパリと言い放った。
 そうは言われても…俺は何となく頷くことぐらいしかできない。

「へ?あ、ああ、そうなのか。宜しく」

 頭を掻きながら頷く俺に、彼女は薄笑い…こう言うのを、アルカイックスマイルって言うんだよな。
 暢気なツラをして見下ろす俺を、リリスは物憂げな瞳をしてそんなアルカイックスマイルで微笑んだ。

『愛人ではない…とあなたは仰いますが。恐らく、それこそが嘘でしょう』

「そ、そんなワケないって。俺、男だし。それは本当に…ッ」

『いいえ』

 リリスは完璧な美しさを持つ少女で、そんな子から首を振ってキッパリ言われてしまうと、根が単純な俺は二の句が告げられなくなっちまう。
 どれだけ、弱いんだ俺!

『あのレヴィアタン様が人間如きに心を砕くはずがありませんわ…ですが、あなたを見つめるレヴィアタン様の眼差しには、愛がありましたもの』

「…!」

 この場合、俺は喜ぶべきなんだろうか?
 何もかも投げ出しても一緒にいたいと思う白い悪魔は、今、すっかり俺のことなんか忘れて魔界でデカイ面をしてる大悪魔様を気取りやがって、少しも俺を見ようとはしなかった。
 なのに、アイツを忘れる決心をした、今更、アイツが俺に振り返っただと?
 そんなの…

「性質の悪い冗談だ。俺のことなんか、アイツはなんとも思っちゃいない」

 ならどうして、俺を思い出してくれないんだ?
 こんな幼い少女すら気付くほど、俺を愛しいと想ってくれるのなら、どうして、レヴィは俺を思い出さないんだ?!

「君はまだ小さいから、思い過ごしただけだよ」

 幼い子供に言い聞かせるみたいに呟いたら、彼女は仕方なさそうに小さく溜め息を吐いた。

『そうなのですか?ですが、わたくしの思い過ごしではけしてありませんわ。でなければどうして、あなたをレヴィアタン様はわたくしに任せられましたの?』

「え?それは、その…君がこの城の女主人だからって…」

 キリリとした双眸に見詰められてしまうと、やっぱり、なんか居心地が悪いんだよなぁ。
 俺はまた手持ち無沙汰で頭を掻きながら俯いたら、古風なドレスに…ってどう見てもゴスロリのドレスだろ。膝丈までのフリルの裾から伸びた足には白いタイツを穿いていて、ちょこんとした黒のエナメルの靴が上品にすら見える彼女は、やれやれと溜め息を吐いたみたいだ。
 まぁ、この年で、レヴィアタンの城を任されてるってぐらいなんだから、本当は相当な力とか持っている子なんだろうけど、見た目にコロッと騙されるごく普通の高校生をあんまり苛めないでくれよ。

『そうですわ。わたしくはレヴィアタン様の妻であり、この城の女主人ですのよ』

 人形のように綺麗なリリスが言った。
 俺は、今聞いたことが、俺の空耳か、幻聴であって欲しいと思った。
 でも、声が出ない。
 何を言ったらいいんだろう?
 ただ、頭の片隅の遠い何処かで、納得するような声も聞こえていた。
 ああ、だから。
 レヴィは綺麗に俺を忘れることもできたし、レヴィアタンとして俺を突き放すこともできたんだ。今だって、思い出すことすらない。
 こうして、心の平安を保つ領域に大切なひとを隠して…俺は気付いたらポロポロと泣いていた。
 見開いた目から幾つも涙が零れ落ちるのに、不思議なことに、俺は悲しいとか思えないんだ。

『そのわたくしにあなたを任せると言うのは、とても重要なことですのよ。なぜなら…』

 リリスはその後も何かを言っているみたいだったけど、何を聞いたのか、何を言っているのか、頭がショートしたみたいに正常な思考回路じゃなくなっている。何を考えて、どう答えていいのかが判らないんだ。
 俺だけを大事にするとか言ってあの野郎…やっぱり嘘吐きだったんじゃねーか。
 ただ、グルグルと立ち尽くしている磨かれた石造りの床が回っているような錯覚がして、俺は眩暈を感じていた。
 猛烈な吐き気は、もう一瞬だってこの場所にいたくないと訴えているのに、走り出すことも、腕を上げることすらできない、まるで金縛りにでもあったみたいに身動きが取れなかった。
 アイツには…レヴィには大切にしている奥さんがいたんだ。
 だからアイツは、俺を【愛人】って紹介したんだろう。
 なんだ、アイツにとっては俺なんかただの遊びだったんじゃないか。
 何が、永遠だ。
 俺にばかり求めて、お前の永遠って何だったんだよ。
 悪魔なんか信じなければよかった。
 悪魔なんか…愛さなきゃよかった。
 悪魔なんか…そこで、俺の意識はぷっつりと途絶えてしまった。

第二部 15  -悪魔の樹-

 ルシフェルがいなくなってから静まり返った森は、それでも、水汲みの度にレヴィに逢っている俺を嘲笑うかのように、淡々とした時の流れの中で穏やかだった。
 ベヒモスは何時ものカバに戻って俺の相手なんかしようともしないし、気付けばゴロリと寝ている始末だ。
 俺は途方に暮れたようにデカいカバの魔物の背中を見ていたけど、どちらにしても毎日の日課になっている今日の分の水を汲みにいかなければならない。その道すがらで、あの白い蜥蜴に逢うんだ。それはそれで、望むところだとか思うから、ルシフェルに睨まれるんだろうなぁ。
 どっかで『あの野郎…』って言ってそうな姿が想像できて、俺は思わず首を竦めたくなった。
 でも、ベヒモスはレヴィに逢うべきだって言うんだ。
 アイツはもう、俺のレヴィじゃなくて、底意地の悪い海の魔物レヴィアタンだって言うのに、それでも、ベヒモスはそうして俺がレヴィアタンにコッソリ逢っていることを快く思っているみたいで、却ってこっぱずかしくなるのは仕方ない。
 結局、意志薄弱の俺はソワソワしたように水桶を引っ掴むと、水辺の木の枝で微睡む白い蜥蜴に逢いたくて歩き出していた。
 そんな後ろ姿を、ゴロリと寝返りを打った巨体のカバは、何を考えているのか相変わらず判らない小さな目をして見送ってくれた。
 何時の間にか、すっかりこの世界…ベヒモスたちは魔界って言ってるこの空間の生活にも馴染んじまって、俺、ちゃんと日本に戻ったら普通の生活ができるかな?
 一抹の不安もあるんだけど、それ以上に、夏休みを完全に放棄している俺の安否を、やっぱり茜も父さんも心配しているに違いない。
 …俺、こんな性格じゃなかったのに。
 亡くなる前に母さんに頼まれたから、俺にとっては家族が第一で、自分の楽しみとか何時も後回しにしていて、茜のことばかり思い遣っていたってのに…俺は今、レヴィの記憶を取り戻したいばかりに、こんな遠いところまで来てしまった。
 茜たち、ちゃんと飯とか食ってるかな?父さんはちゃんと靴下を見つけてるか…ああ、思い出したら心配が止まらなくなる。
 アイツら、俺がいないと何にもできないからなぁ…
 はぁ、と溜め息を吐いていたら、ふと頭上から、聞き慣れた声が降ってきた。

『今日は浮かない顔だな』

 気付いたら何時もの小川に来ていて、やっぱり何時ものところで長くなっている白蜥蜴は、暢気なツラして俺を見下ろしている。
 大きな瞳が憎めないんだけど、全部お前のせいなんだからな。
 いや、全部ってのは語弊があるな、そもそも俺があの女子とキスとかしたから、こんな結果になったワケで…って、落ち込んでどーする、俺!
 いや、やっぱり全部、レヴィが悪い。
 ちゃんと俺のこと、覚えてさえいれば全てがうまくいったのに…違う、こんなに、心が壊れてしまいそうなほど悲しくなんかならなかったのに。
 俺は、お前が居るだけで幸せだったんだから…

『…?』

 ちょっとギョッとしたような顔をする白蜥蜴に、そんなに悲しそうな顔をしていたのかと気付いたら、急に恥ずかしくなって、今は俺のことなんかこれっぽっちも知らない大悪魔からフイッと目線を逸らしてしまった。
 ムッと引き結んだ口許を綻ばす気にもなれなくて、俺はその場に膝をつくと、無言のままで木桶を冷たい水に浸していた。
 1日に何度か逢う白蜥蜴を、最近は無視することもなかったんだけど、あんなことがあったからとか、そんなワケじゃなくて、何となく口を開きたくなくて黙り込んでいたら…

「?!」

 不意に背後から伸びてきたガッチリと逞しい二の腕に抱き締められて、俺は何が起こったのかと目を白黒させて、ムッとする桃のような甘い香りに包まれていた。

『無視するなどいい度胸じゃねーか…何があったんだ?』

 何もかも知り尽くしているようなツラしてさ、一番肝心なことはスッカリ忘れてやがるくせに、何を偉そうに言ってるんだよ。

「なんでもないし、お前には関係ない」

 慌てて腕から逃れようとしたけど、俺を抱き締める腕の力強さは知っているから、諦めたみたいに抵抗するのをやめて吐き捨てたら、何時だってカッと頭に血を昇らせるくせに、レヴィアタンは何かを考えているような気配を漂わせていた。
 いいから、早く離して欲しい。
 じゃないと…俺は…この腕に縋り付いて泣いてしまいそうだ。

『関係ない…ね。お前になくてもオレにはある』

「はぁ?…ッ」

 胡乱な目付きで振り向こうとした矢先、不意に覆い被さるようにして覗き込んでいた白い悪魔は、問答無用で俺に口付けてきた。
 舌を絡めあって求め合うような濃厚な口付けは、忘れていた官能を刺激して、俺の身体はビクンッと震えてしまった。忘れていたワケじゃない、考えないようにしていたんだ。
 身体を辿る指先も、俺を酔わせる激しくて優しい舌も、愛しいと身体に残していくあの唇の感触も…何もかも、レヴィが俺に焼き付けた痕跡。忘れたくても、忘れられるはずがない。
 でも、そうして俺の身体の隅々にまで自分の存在を刻んで覚えさせたくせに、当の本人であるレヴィ自身が忘れてるんだから、笑うってよりもいっそ、泣きたくなるよな。
 愛しくて…思わず抱き締めてくる腕に縋りつきそうになった俺は、乱暴なくせに知り尽くしたキスをするレヴィに一瞬だけ流されそうになったんだけど、それでもギュッと目蓋を閉じて弱気になる意志に叱咤すると、掴んだ腕を振り払っていた。

「…ッめろよ!何すんだ?!」

『…』

 そんな態度を取られるとも思っていなかったのか、完全に油断していたレヴィアタンの腕から逃げ出した俺が荒く息を吐いて濡れた口許を片手で拭いながらキッと睨んだら、大悪魔は一瞬、ちょっとポカンッとしたように俺を見た。
 そんな目付きをして、それから徐に、それまで俺の顎を捕らえていたはずの掌を見下ろしたんだ。
 暫くそうしていたくせに、不意にレヴィアタンは、ムッとしたように顔を顰めやがった。

『オレに逆らうのか?』

「お前はもう、俺のご主人様じゃない。俺のご主人は…ベヒモスだ」

 間髪入れずにこの理不尽野郎に悪態を吐いてやるつもりだったのに、ふと、俺の語尾は頼りなく小さくなっちまった。
 最初にキスをしてから、レヴィアタンは少し変わったような気がする。
 ジッと俺を見ているかと思ったら、今みたいに戯れに口付けてくる。そのキスに、ついつい俺は何もかも許してしまって、甘い桃のような匂いに包まれて幸福を感じていた。
 抱き締めてくるレヴィの背中に腕を回すと、その実感が幸せだった。
 キスをせずに抱き締めるだけの時もあって、その時はほんのちょっぴりなんだけど、レヴィアタンも機嫌が良さそうに笑って俺の頬に頬を摺り寄せてきた。
 嗅ぎ慣れた甘い匂いが嬉しくて、俺はレヴィアタンに思い切り抱き付いていた。
 だからこそ、レヴィアタンは今回の俺の態度に驚いたし、ムカついたんだろう。
 レヴィとは違う甘くて優しい時間に溺れてしまえたら、俺はもっと、違った意味でも諦めることができて、このレヴィアタンでもいいと思ったに違いない。
 でも、駄目なんだ。
 お前には何も判らないだろうな。
 俺にとって、どれほどレヴィが大事で、ささやかな幸せだったかってこと。

『なるほどね。ルシフェルの気配がしたからな…お前の主人はベヒモスじゃない。ルゥなんだろ!』

 イラッとしているのは、その冷やかな無表情からでも読み取れた。
 レヴィアタンは本気で怒ると、まるでスッと仮面でもつけたような無表情になるんだ。
 何故か、レヴィアタンはルシフェルのことになると完全に腹を立てるんだよな。あの完璧な悪友が、俺なんかに夢中になっている…と、レヴィアタンのヤツは本気で思い込んでるんだ!
 それが、許せないんだろう。
 拙い、また向こうの世界に影響が出る。
 駄目なんだって判ってるんだけど、だからって、俺はどうしても今、レヴィアタンのご機嫌
取りとかできる心境じゃない。

「ルシフェルじゃないし、ベヒモスでもない。俺には心に決めてるヤツがいるんだ。ソイツに逢いたくて逢いたくて…ここに来たんだよ」

 本当は、こんな話はするべきじゃないんだってこと、俺はよく判っているつもりだ。
 でも、どうしても、聞いて欲しかったんだ。
 心から、お前のこと大好きだよってさ。

『…へえ?アスタロトか?!』

 思わずブッと噴出しそうになった俺は、そう言えばそんなヤツもいたっけなぁと、そんな薄情なことを考えながらちょっと苦笑して、レヴィアタンを上目遣いに見詰めながら首を左右に振った。
 いるんだけどなぁ、目の前に。

『違うのか?どんなヤツだ、お前が心に決めた悪魔と言うのは』

「それは…」

 お前だよ!…って言えたら楽なのに。
 こんなこと考えてるから、ルシフェルにレヴィに逢うなって言われたんだろうなぁ。
 海の魔物レヴィアタンの心の均衡は世界を支配しているから…

『オレは大悪魔だ。知らない悪魔はいねーんだよ。名前を言え。魔界なんかに人間を捨て去ったヤツのツラを拝んでやる』

 馬鹿にしたように鼻先で笑うレヴィアタンに、俺は何も言えずに、ただヒッソリと苦笑してるしかない。
 だって、言えるわけないよな。
 その豪語してる大悪魔さまだよ、なんてさ。

『…お前を捨てた悪魔に取り成してやってもいいんだぞ?大概の悪魔はオレを無視できねーからな』

 フンッと鼻を鳴らしながらも、やたら食い下がるレヴィアタンの魂胆なんか、本当は見え見えなんだよ。
 そうやって俺が信用して教えたら、その悪魔に何か悪さでもするんだろ?

「いいんだ。何らかの事情で、ソイツは俺を迎えに来れないんだよ。だったら、この場所でソイツを待ち続けるのが、俺の愛だ」

 冗談のつもりで、いや、半分以上は本気でそんな恥ずかしい台詞を笑いながら言ったのに、ふと、レヴィアタンの額にビシッと血管が浮いたみたいだった。
 表情こそ変わらないってのにさ、何が気に障ったのか、レヴィアタンは無表情のままで怒っているんだ。 

『…人間の分際で、大した口をきくじゃないか。捨てた悪魔を待ち続けるのか?』

「捨てられた…とは限らないだろ?何か事情があるんだよ、たとえば…たとえば、記憶をなくしてしまったとか…」

 万感の思いで口にした途端、レヴィアタンは酷く腹立たしそうに腕を組むと、馬鹿にした
感じで顎を上げて俺を目線だけで見下ろしてきやがった。

『悪魔は薄情で嘘吐きなんだよ。んな事情なんかあるかよ。お前はソイツに捨てられたんだ。ノコノコと魔界まで来て性奴隷になった人間を、いいザマだって笑ってるに決まってんだろ…ッ!』

 そこまで言って、それは聞き慣れた悪態だったけど、俺の心臓は貫かれたように痛んだ、だからレヴィアタンは、涙を零した俺にギョッとして語尾を引っ込めたんだと思う。
 俺は馬鹿なんだ。
 これはレヴィじゃない、レヴィが言ったワケじゃないって判ってるのに、レヴィの声でそんなことを言われてしまったから、まるでそう思ってるんだと言われたみたいで心臓が握り潰されたように痛かった。
 レヴィを疑ったことなんかこれっぽっちもないけど、悪魔の言葉は冷たすぎるよ。

『な、泣くほどのことか?おい、泣くな!泣くなってッ』

 ポロポロ、ポロポロ…頬に零れ落ちる涙の雫をとめることなんかできそうもないから、俺が諦めたように唇を噛んで俯くと、焦れたような、焦ったようなレヴィアタンが腕を掴んで、それから、何を思ったのかいきなり抱き締めてきたんだ。
 愛しいあの甘い匂いに包まれながら、それでも突き付けられた現実はあまりにも残酷で、この腕ですらレヴィではないんだと思ったら悲しくて居た堪れなくて、もう放っておいてくれ。

「わ…かってる、俺が馬鹿だから…ずっと、信じて…それだってもう、どうでもいいのに。放してくれ、もう放っておいてくれ!気紛れに俺の相手なんかするなよッ!」

 思い切りレヴィアタンの身体をドンッと突き放して、俺はボロボロ涙を零しながらそう叫ぶと、そのまま森の中に向かって走り出していた。
 振り返れば大好きなレヴィの面差しを持つ白い悪魔がいて、どんな思い付きの悪戯だったのか、少しでも優しいふりをしてくれる。でもそれは、冷酷な悪魔が見せる残酷な幻にすぎないってこと、ちゃんと俺は知っているんだ。
 レヴィじゃないのに、どうして俺、レヴィアタンに期待なんかしてしまったんだろう。
 同じ顔で、同じ双眸をして、紡ぎ出す言葉は全く違う悪態ばかりで…恋しい、レヴィが凄く恋しいよ。
 俺はもう、どうにかなってしまいそうだ。
 逃げるようにして走り込んだ森の中で、俺は泣きながらトボトボと歩いていた。
 そんな俺の行く手を遮っている捻じ曲がった歪な枝たちは、申し訳なさそうなほどひっそりと離れていって、道を空けてくれていた。
 有難うと呟こうとした瞬間、まるで突風に攫われるような錯覚を感じるほど唐突に、激しい何かに抱き竦められて、アッと言う間に空の高いところまで連れ去られてしまった。
 思わず泣いていたのも忘れるぐらい驚愕に呆気に取られている俺の耳元に、憤懣遣るかたないとでも言いたそうな、怒気を孕んだ声が聞こえた。

『オレが、何時、何処でお前の相手をしようと、オレの勝手だ。人間如きが指図するんじゃねぇーよッ』

 それがどれほど理不尽なことなのか理解しようともしないから、だから、大悪魔のクセに7つの大罪に入れられちまうんだよ。
 レヴィアタンには心ってモノが理解できないんだ。

「あー、そーだよ!俺はただの人間だ。何処にでもいる、平凡な人間だよッ。そんなの、お前に言われなくても判ってる。特別なんて思ってない、だから、愛されなくても仕方ないんだ…」

 寒さを感じさせない外套にスッポリと俺を包み込んでいるその宝飾品がジャラジャラと飾り立てている胸元を、駄々を捏ねる子供みたいに拳で殴っても、レヴィアタンには蚊が止まったほどにも、痛みなんて感じてないだろう。それでも、ここから落ちて死んだって構うもんかとか、半ばヤケッパチに叫んで泣きながら暴れる俺を、大悪魔様はどんな顔で見てるんだろう…と、チラッと考えていたら、片手で抱き締めるようにして俺の動きを封じ込めたまま、もう片方の手で俺の顎を引っ掴んで上向かせやがった。
 自分の顔を見ろ、とでも言わんとばかりの態度に、俺の中の反発心がムクリと起き上がって、知らず、薄情な悪魔を睨んでいた。

「・・・ッ!」

『そんなにその悪魔を愛していたのか?ソイツこそ、戯れに、気紛れにお前の相手をしただけじゃねーか!オレは違うッ』

 そう言ってレヴィアタンは、ハッと息を呑むような顔をした。
 涙腺が壊れちまって、ボロボロ泣いている俺は、その言葉に一瞬胸の奥は熱くなったけど、でも、もう都合のいい幻聴とか聞きたくないんだと、首を左右に振って目蓋を閉じてしまった。

『…そうだ、オレは違う。どうして、そんな簡単なことに気付かなかったんだ』

 独り言みたいに呟いて、レヴィアタンはニッと、満足したように笑ったみたいだった。
 掴んだ手で俯きそうになる俺の顔を上げて、目蓋を閉じたまま泣いている頬に口付けて、目蓋にキスして、それからまるで、震えるようにレヴィアタンは俺の唇に口唇を重ねてきた。
 涙でしょっぱいキスは、この魔界に来て初めて、俺に本当のあたたかさをくれた。
 そのキスだけで、俺はもう、縋るようにして心の奥に大切に仕舞っていた想いを捨て去る決心ができた。
 俺はレヴィを…もう、諦めよう。 
 もう、ここにも、何処にもレヴィはいないんだ。
 長い時間を待ち続けても、レヴィアタンは思い出すこともなければ、解決の糸口なんかこれっぽっちも見付からなかった。あの魔女の話は、落ち込む俺を見兼ねたルシフェルの、優しい嘘だったに違いない。
 そうじゃなければ、どうして、何時まで経っても魔の森に赴こうとしないんだ。
 それが判って、そして、レヴィアタンの態度に傷付いて、もう、俺の心はヘトヘトで疲れ切ってしまってるんだ。
 このキスが最後だ。
 心から愛して、大好きな悪魔であるはずの、知らない悪魔の…さよならのキス。
 俺はレヴィアタンに抱き竦められて、口付けを受け入れながら、その事実に眩暈を覚え、そうして受け入れるしかないと諦めてしまった。

第二部 14  -悪魔の樹-

 暫く目を閉じていたルシフェルは、それでもすぐにパチッと目を覚まして身体を起こすと、うんざりしたようにブスッと膨れっ面をしたんだ。
 まぁ、どんな顔をしたって、魔界でも最強だと謳われる美貌に遜色はないんだけどさ。

『そーだ、忘れるところだった。南の神々にツラを貸せと言われていたんだっけ』

 溜め息を吐きながら俺を立ち上がらせた傲慢な大悪魔様は、それからやれやれと首を左右に振りながら自分も木製の椅子から重い腰を上げたんだ。

『南の神々…?』

 ふと、カバ面のベヒモスが訝しそう…に見える顔付きで問い返すと、ルシフェルは肩を竦めながら頷いた。

『レヴィの心の均衡の変化が、世界中に影響を及ぼしているんだ。真夏であるはずの日本列島が雨に濡れ、雨季に恵まれるインドが旱魃の被害にやられてる…となれば、神々も黙っているワケにはいかないんだろ』

 え?それはいったいどう言う…
 長らく向こうを留守にしているから、日本の状況とかまるで判らなかった。
 真夏なのに雨が降り続いてるのか?
 茜や父さんはどうしてるだろう…
 俺はドキリとする胸を押さえて、冷たい美貌のルシフェルの思い切りうんざりしている顔を見上げると、事の真意を見極めようとしたんだけど…俺なんかが何か判るはずもないんだよな。
 仕方なく、ベヒモスたちの会話にハラハラしながら耳を傾けているしかないってワケだ。

『…なるほど。とは言え、そもそもの事の発端は神と天使の責任じゃねーか。どうしてお前さんが呼ばれる羽目になったんだ』

『連中の常套手段は知ってるだろ?んで、悪魔が呼ばれるワケだが、レヴィに一番近い兄弟悪魔は混沌の森からお出ましにならない…となれば、そのトバッチリを受けるのは何時だってオレじゃねーか。今更だ、ベヒモス』

 肩を竦めるルシフェルの胡乱な目付きに睨まれたとしても、無害なカバの悪魔はケロッとしたモンで、暫く何事かを考えているように小さな目を細めていたんだけど、凄まじく嫌そうな顔付きをして吐き出すみたいに言った。

『なるほど。大方、神の御大将様はどこぞに雲隠れして、天使は自慢の魅力で逃げ切ったか』

『そーなんじゃねーのか?んで、引き篭もりの兄弟悪魔に代わって、なんでもこなす大親友の悪魔様がご指名されたってワケだ。面倒臭ぇ』 

 心底嫌そうに美麗な顔を顰めるルシフェルに、珍しくベヒモスは、申し訳なさそうな声音を出した。

『すまんな』

 その表情も、いつもは飄々としているってのに、何処か和らいでいるように見える。だからなのか、ルシフェルはそれ以上は悪態らしい悪態も、嫌味らしい嫌味も言わずに、どうでも良さそうな顔をしたんだ。

『その台詞は是非ともレヴィから聞きたいもんだな。全てが終わった暁には』

 ただ、そんな憎まれ口はついでのように言ったんだけどさ。

『あ、そーだ。光太郎』

「へ?」

 突然名前を呼ばれて、俺は間抜けな声で応じてしまったんだけど、ルシフェルのヤツはそんなこと気にも留めた様子もなく、ちょっとムスッとした顔で言ったんだ。

『オレか灰色猫が戻るまで、魔界から出ようとか思うなよ』

 思うなよ…ってなぁ。

「はぁ?何を言ってんだよ。俺が1人で魔界から出られるワケがないだろ」

 呆れたように眉を潜めたら、ルシフェルのヤツは『そうか、こう言う言い方もあるか』とかなんとか、ワケの判らないことを呟いた後、まぁ、どうでもいいんだけど…みたいな感じで頭を掻きながら言いやがるワケだ。

『じゃぁ、これならどうだ?オレか灰色猫が戻るまで、白い悪魔に近付こうとか思うなよ』

 絶対近付くだろうと確信を持った言い草で指なんかさされて言われちまうと、受けて立ちたい気分にはなるんだけど、見慣れた悪友の見慣れない表情には、満更、その忠告が冗談ではないことが良く判った。

「…どうして、レヴィに近付いたら悪いんだよ」

 それでも反発心がムクムクと沸き起こって…つーか、この森に棲み付いた白い蜥蜴に逢えないなんて、そりゃ、レヴィを愛してる俺には酷なことだと、ムッと下唇を突き出すようにしてルシフェルを睨んだら、ヤツはそれこそ、うんざりしたように顔を顰めやがったんだ。
 なんだよ、ベヒモスの時とえれー違いじゃねーか。

『あのなぁ…お前はこの全世界の情勢をまるで判っちゃいない人間だから仕方ないとしてもだ。アイツの心の均衡が世界を支えているんだ。今のアイツの心は、まるで波に揺れる木の葉みたいにちっぽけになっちまってんだよ。些細な波にも転覆しかねない…だから、神や天使に付け入る隙を与えるようなザマになるんだ』

 ルシフェルはそう言って、何処か悔しそうな顔をして目線を伏せてしまった。
 それは、旧知の仲だからこそ浮かべられる表情なんだろうけど…俺、こんな時なのに、まるでレヴィの癖が移っちまったみたいに、その、嫉妬なんかしてしまった。
 俺はレヴィのことを何も知らない。
 ルシフェルのように、アイツの何もかもを知っていることもないし、助けてやることもできないんだ。

『お前の存在がレヴィに影響を与えているのは嫌でも判る。これ以上続けば、レヴィも世界もどうなるか…』

「…俺の存在が全部ダメにしちまうんだな」

 ルシフェルの言葉尻に被せるようにして、俺はそう呟いていた。
 もうこれ以上、そんな話は聞きたくなかったし、その話を聞いてしまうと、こうしてここに居ることの意味がなくなってしまうんじゃないか…いや違う、こうしてここに居てしまったことで、世界がおかしくなって、何より、レヴィがおかしくなっていると認めてしまうことになるんじゃないかと、不安になったんだ。

『いや、そんなことはないんだ。オレが言いたいのは…』

「ごめん、ルシフェル。俺は、きっと自分のことしか考えていなかったんだ。レヴィのこととか、本当は何も考えてなかったんだ」

 唇を噛み締めたら、ルシフェルは一瞬遣る瀬無さそうな顔をしたんだけど、不意に腹立たしそうにムッとした顔をしやがった。

『ああ、そーだよ!全部お前が悪い。お前がレヴィを好きになったのが、そもそもの間違いなんだ』

『ルシフェル…』

 ベヒモスが何か言いたそうにその名を呼んでも、ルシフェルは聞く耳を持とうとは思ってもいないみたいだ。それどころか、俺の両腕を掴んで、そのあまりにも整っていて却って怖い綺麗な顔で睨み据えてくるんだから、普通の高校生で太刀打ちなんかできるはずがない。
 別に…甘い言葉が欲しかったワケじゃない。ただ、お前のせいではないよと、言って欲しかっただけなんだ。
 それも十分、甘ちゃんな考えか。

『千年以上の永い時間の中でずっと見守ってやってたのに、よりによって自分から災厄に近付くなんかどうかしてるんだよ!』

「ええ??」

 青褪めたままでルシフェルを見上げながらも、その言葉にギョッとする俺に、傲慢な大悪魔は、それからすぐに切なそうな顔をしてしまった。

『さっさと手に入れちまえば良かったんだ。でも、手に入れるとかそんなこと、どうでもいいほど、オレはこの魂が大事だったんだよ』

 誰に言うでもなく呟いたルシフェルの、その心の奥深いところでも見透かしてしまいそうな漆黒の双眸は、俺を通り越した何かを真摯に見詰めているみたいだった。

『灰色猫からレヴィの相手がお前だと教えられた時の、オレの動揺が判るかよ?愛だとかそんなモン、全部超越しちまった感情で、オレはお前を見守ってたんだぞ』

 話の成り行きがヘンな方向に進んでるのは俺にもよく判ったんだけど、その台詞を聞いて、俺は漸く、なぜルシフェルがあの高校に居たのか判ったような気がする。
 話し始めたのは灰色猫がお願いしたって言うあの時からなんだけど、それ以前から、ルシフェルである篠沢と俺は保育園からずっと一緒だったんだ。
 いつも同じクラスだったことも、今となっては不思議じゃなかったんだなと思う。
 何故だかずっと不思議に思っていたんだけど、篠沢とは随分前から知り合いのような気がして仕方なかったんだ。
 不思議だったんだよ、なぜ灰色猫がお願いする前からルシフェルともあろう大悪魔が、あんな普通の高校にいたのか。
 ああ、そうだったのか…ルシフェルは俺を見守ってくれていたのか。

「ルシフェル…」

 困惑したように眉を潜めたら、大悪魔は、その時になって漸くハッとしたように我に返ったみたいだった。
 それでも、もう口にしてしまったんだからと、どこか開き直ったヤケッパチの表情をしてフンッと鼻で息を吐き出しやがる。

『これで判ったかよ。オレ様の想いはレヴィのいる海よりも深くて、ベヒモスが総べる大地よりも寛大なんだぜ』

 それから、俺が嫌がることなんか百も承知で、ルシフェルは掴んでいた腕を引き寄せると、そのまま俺を抱き締めたんだ。

『だが、まぁね』

 例の調子でニヤッと笑っているんだろう、ルシフェルはフフンッとしたように言った。

『言っただろ?オレの想いは愛だとか恋だとか、そんなモンは遥かに凌駕しちまってるんだ。だから、お前がこのまま永遠でもレヴィと共に在るとしても、それはそれでいいんだぜ』

「…へ?」

 驚いたように抱きすくめられたままで眉を跳ね上げたら、ベヒモスのヤツがやれやれとでも言うようにカバ面を左右に振る気配がした。
 普通、悪魔は執念深いモンだと思う。
 特にこんな大悪魔なら、他の悪魔に取られるぐらいなら…って、俺を殺してもおかしくないんじゃないのか。だってさ、信じられないんだけど、ルシフェルのヤツは千年以上も前から、ずっと俺を見守っていたんだ。そんな執着心があるのに、どうして俺の心がレヴィに向かってしまっても許せるんだろう。

『じゃなかったらさ。オレ、お前が色んなヤツと恋をして愛し合ってる姿なんか見守っていられるかよ』

 ウハハハッと笑うルシフェルに、そう言われてみればそうだなと、単純に考えてしまったんだけどそれでも俺は釈然としないまま、大人しくルシフェルに抱き締められていた。
 なんだか判らないんだけど、レヴィのあの情熱的な抱擁とは違う、ルシフェルの腕にはホッと安心できる優しさがあるんだ。恋に狂うレヴィとの抱擁とは違って、近親者…親だとか兄弟だとか、そんなひとが寄せてくれる無償の愛のようなあたたかさがルシフェルの腕にはあるんだ…って、俺、何を思ってるんだろ。

『ただ、見守っていたかったんだ。あんまり純粋すぎて、綺麗な魂が消失するその瞬間まで、見ていたかったんだ。まさか、そんな純粋な魂がレヴィアタンと愛し合うなんか思ってもいなかったけどよ』

「俺は…純粋じゃねーよ」

 現に、ルシフェルに嫉妬もしたし、レヴィに関してはヤキモキのし通しなんだ。
 あの天使みたいに綺麗なヴィーニーにも、俺は醜い嫉妬をしていた。
 その思いが伝わったのか、俺を抱き締めたままでルシフェルのヤツはクスッと笑ったんだ。
 なんだ、そんなことかよ…と、その気配が物語っている。

『嫉妬はレヴィアタンの専売特許じゃねーか。一緒にいて、そんな気になっただけさ…なんつってな。人間なんだ、嫉妬もすれば憎むことだってある。純粋ってのは、そんなんじゃねーんだよ。でもまぁ、人間であるお前は知らなくてもいいんだけどな』

 俺から身体を離したルシフェルは、まるで慈しむような、そんなツラでずっと、俺を見守ってくれていたんだなぁ…と思うと、胸の奥深いところが温かくなるような気がした。

『レヴィの愛でもっと大きくなれよ。でも、今はまだダメだ。お前を受け止めるには、アイツは何も理解していないからな。だから、オレは南の神々の許に話し合いに行くんだ。ベヒモス!』

 俺から身体を完全に離してしまったルシフェルは、そう言ってからカバ面で暢気にお座りをしているベヒモスに声を掛けた。
 カバ面の悪魔は『なんだよ』とでも言いたそうに、そんな傲慢が服を着ているはずの大悪魔を見遣るんだ。

『ここらに結界でも何でも張って、白い蜥蜴を追い出しちまえ』

 ニヤッと笑うルシフェルに、ベヒモスは肩を竦めるだけで何も言わなかった。
 そんな態度に、『ま、好きにするといいさ』とでも思っているんだろう、ルシフェルはニヤニヤ笑ったままでウィンクなんかすると、俺たちに向かって『アディオス!』と投げキスなんかして、そのまま空間に滲むようにして、溶け込むように姿を消してしまったんだ。
 その姿を見送って、取り残されたようにポツンッと突っ立っている俺に、盛大な溜め息を吐いたベヒモスが物静かに声を掛けてきた。

『…そんなワケだが。結界でも張るか?』

「そんなの、俺には判らないよ。でもさ、レヴィの心の均衡が世界を支えてるんだっけ?だったらさ、ここから追い出しちまったほうがヤバイんじゃねーのか?」

『ご名答』

 判りきってたんだろうな、ベヒモスのヤツはそう言うと、大きな口をパカッと開いて…どうやら欠伸をしやがったらしい。

『じゃあ、オレは寝るからよ。お前は好きにしてればいい』

 それは暗にレヴィに逢えと言ってるんだろうか…あれほど、ルシフェルが止めたのに?
 ま、そんなワケないよな、と自分に言い聞かせていたら、ゴロンッと横になったベヒモスが閉じていた片目をちょこっと開けて、ジロリと俺を見たんだ。

『悪魔と言ってもレヴィは母なる海を司る神の成れの果てなんだ。アイツが暴れれば天変地異が起こる。お前が傍にいる間はそんなこた起こらなかった。今、お前は何処に居るんだ?』

 こんな所に居て、何をしてる?…と、その胡乱な小さな目は物語っている。
 だからと言って、今の現状を聞いてしまった俺に、いったい何ができるって言うんだ。
 グズグズしてしまう俺に、目蓋を閉じてしまったカバは、それでもポツポツと話し始めたんだ。

『ルシフェルのヤツが秘密を打ち明けたからなぁ…ここらでオレもひとつ、レヴィの秘密…と言うほどのモノでもねーんだが。ヤツの嫉妬深さについて話してやろう』

「本当か?」

 レヴィについてなら、何でも知りたい。
 数千年以上生きているレヴィの全てを知るには、俺には時間が足らないだろうけど…それでも、レヴィのことは知っておきたいんだ。

『生れ落ちたオレたち兄弟は大地を任せられることになったんだが、2人の巨体では大地が海に沈むと考えた神々が、オレたちを大地と海に分けたんだ。レヴィはてっきり自分が大地を受け継ぐものだとばかり思っていたからな、海を任された時は酷く驚いてそして激怒したよ。暴れて暴れて、一週間も暴れたが、その決定は覆されることはなかった。それからだな、レヴィの嫉妬心が強くなったのは』

「レヴィは…どうしてそんなに大地を欲しがったんだろう」

 首を傾げると、ベヒモスは口許の端を捲るようにしてフフフッと笑ったみたいだった。

『自分が望むものは全て他の悪魔が手にしてしまったんだ。大悪魔にとっては最大の屈辱だったんだろう。だから、アイツは今でも嫉妬心の塊さ』

「んー…答えになってないよ、ベヒモス。どうして、レヴィは大地を欲しがったんだ?」

 ゴロリと寝返りを打つカバの巨体を見詰めていたら、大地にそれほど執着も見せていないようなベヒモスは、丸くて平らな手(?)で尻の辺りを掻いている。

『レヴィは誰よりも執着心が強いヤツでな。生れ落ちた大地をこよなく愛していたんだ。どうして、ベヒモスは大地に残るのに、自分は海に追いやられるんだと。その嫉妬の始まりはオレだったんだろう』

 愛しい兄弟だけど、その兄弟に一番嫉妬してるってワケか。
 だから、他の兄弟は7つの大罪にその名を挙げられなかったのに、よりによってレヴィだけが挙げられる羽目になったのは、そんな理由だったのか。
 馬鹿だよなぁ、レヴィは。

「俺にはよく判らないけど、俺は海も好きだけどな」

『人間は海が好きだな。みんなそうだ。今ではもう、レヴィも諦めてしまってはいるけれど、それでも、時々は嫉妬しに来るんだ』

 そう言って、ベヒモスは愉快そうに笑うんだ。

「悪魔って単純じゃないんだなぁ。もっとさ、臨機応変さを持てばいいのに」

 俺が溜め息を吐きながら木製の椅子に腰掛けて頬杖をつくと、カバ面の悪魔は身体を揺すって笑っていたくせに、いきなり鼾なんか掻きやがるから…この寝つきの良さはレヴィに通じるものがあるから、やっぱりコイツ等は兄弟なんだなと思ってしまう。

『まぁ、レヴィに嫉妬心があったおかげで、お前たち人間が住む世界ができたと言っても過言じゃねーんだけどよ』

「へ?」

 眠ってるものだとばかり思っていたベヒモスの台詞に、ギョッとした俺が間抜けな声を出すと、カバの悪魔は横になったままで言うんだ。

『アイツが7日間暴れたおかげで、お前たちの住んでいるあの世界は天変地異のオンパレードになって、生き物の住める環境ができたんだぜ。俗に言う創世記ってヤツさ』

 そんなことを言ってから、『なんつってな』と笑うベヒモスの態度に、どこまでが本当なんだか疑っちまっても仕方ないと思うぞ。
 ったく、これだから悪魔は信用できないとか言われるんだよ、俺たち人間に。
 まぁ、ベヒモスにとってはそんなことすらどうでもいいことなんだろうけどな。
 俺は溜め息を吐いて、曲がりくねった奇妙な枝が重なり合うようにして腕を広げる空を見上げた。
 答えなんか何処にもないんだけど、何かを求めるようにして見上げた空には、珍しい鳥が一声鳴いて、何処か遠くに飛んで行ってしまった。

第二部 13  -悪魔の樹-

「は?」

 いや、悪魔がこれだけわっさり居るんだから、天使がいてもおかしくはないんだけど…でも、どうして天使がレヴィの記憶を奪ったりしたんだ?

『性悪のミカエルってヤツがいてな。レヴィに惚れ抜いてるんだが、何処で噂を聞いたのか、アイツがお前にメロメロだってのを知ったらしく、怒り狂って何らかの方法で記憶を消した…ってのがだいたいの真相だ』

「は、はぁ?」

 コーヒーカップをテーブルのソーサーに戻して、ルシフェルはこの時初めて、眉根を寄せて心底嫌そうな顔をしたんだ。

『北の神々を騙して…おおかた、それだけが理由じゃないんだろうけど。それは、人間である光太郎には関係ないことだからヨシとして、神がミカエルを利用したってワケだ』

 この傲慢が服を着ているような悪魔が心底嫌がっているぐらいだから、その天使は本当にいい性格をしているんだろうなぁと思う。

「なんか、よく判らなくなってきた」

『それも仕方ない。人間には理解し難いことだ。ルシフェル、もっと判り易く話してやれよ』

 混乱している俺が頭でも抱えそうに見えたのか、ベヒモスは、ないくせに、肩なんかどこにもないくせに竦めるような仕種をして面長い顔を振ったんだ。
 頭の悪い人間で悪かったな。
 独りで腐ってると、ルシフェルは鼻にしわを寄せて真珠色の歯をむいた。
 まぁ、どんな顔でも様になるからいいんだけど。

『つまりだ、大天使ミカエルは利用されたんだよ。大方、神と呼ばれるヤツに命じられてレヴィの中のお前の記憶を消したんだろうな。アイツに大悪魔の記憶を消すような力はないしな。小憎らしい人間の記憶など消し去りたいミカエルにしてみれば渡りに船だったワケだ。だが…何故、神はよりによってレヴィが大事にしているお前の記憶を消させたんだろう?』

 唯一、その部分が判らないんだと、語尾はまるで独り言のように呟くルシフェルに、ベヒモスと灰色猫は顔を見合わせた。
 俺はと言うと、どんな顔をしたらいいのか判らなくて唇を尖らせるしかなかった。
 だいたい、そりゃな、確かに俺なんかよりも神々しいに決まっているミカエルのほうが、遥かに大悪魔のレヴィアタンにはお似合いだと思う。
 それでも。
 俺はキュッと唇を噛み締めた。
 だからと言って、勝手にアイツの中にある俺の記憶を消すってのは許せない。
 神だって…冗談じゃないとは思うけど、そんなヤツがいるんなら、どうして俺から大事なレヴィを奪おうとするんだよ。
 神様なんだろ?
 そんなの、人でなしだと思う。
 …あ、神なんだから人じゃないか。

『…何を考えてんのかだいたい判るけど、突っ込んでやんねーからな』

 俺の傍らの椅子に座って頬杖をついているルシフェル…悪友の篠沢は冷ややかな目付きで俺を見て、フンッと鼻先で笑いやがる。

『まぁ、何を考えてるのかなんてこた、闇に生きるオレたちには判らなくても当然だが、だからってオレたちの運命を勝手に弄られるのは気持ちのいいもんじゃねーよなぁ?』

 長くて綺麗な髪を掻き揚げるようにして不敵に笑うルシフェルに、ベヒモスは何を考えているのかよく判らない小さな瞳で大悪魔を見下ろした。

『気に食わんな。レヴィの記憶なんざどうでもいいが…悪かった。オレが悪かったからそんな目で睨むな』

 ベヒモスは胡乱な目付きでジトッと大きなカバ面を見上げる俺に、心底嫌そうに長い顔を左右に振って言ったんだ。

『なんだ、ベヒモス。アンタも光太郎には弱いんだな。レヴィと兄弟だ、嗜好が似てんのか?』

 呆れたようにニヤッと笑うルシフェルが言った言葉に、ベヒモスは更に嫌そうな顔をした。
 あんまり感情の読めない表情しか浮かべないベヒモスにしては、今日は比較的、ころころとよく感情が表に出てる方だと思う。
 …嫌な顔ってのには引っ掛かるけどな。

『神の介入は気に食わん。それを、恐らく北の神々は気付いていないのだろう』

 ベヒモスが呟くように言うと、ご名答とでも言うように、ルシフェルが疲れたように頷いた。
 ああ、そうだ。
 ルシフェルのヤツ、なんだか凄く草臥れてるみたいなんだよなぁ。
 どうしたんだ?

『それはとても気になりますね。灰色猫が、ちょっと探りに行ってきます』

 それまで黙って成り行きを見守っていた灰色猫が、スクッと立ち上がると、まるで滲むように揺らいだかと思うとボワンッとドライアイスみたいな煙を噴出させて、気付いたら灰色の小汚い猫がちまっと座っていた。

『ルシフェル様が動かれますと、四方の神々も黙ってはおられますまい。この灰色猫でしたら、幾らでも探れます』

『ああ、そうだな。行ってくれ。それでなくてもミカエルのヤツをひっ捕まえようとしたら、この様だ。北の神々には聖戦を吹っ掛けられるは、西の神々には説教喰らうわ。全くいいことがひとつもない』

 頷いた灰色猫がペコンッと頭を下げて風を切るような音を残してその場から消えると、憤懣遣るかたなさそうにせっかく綺麗な下唇を突き出して、忌々しそうにルシフェルのヤツは袖を捲り上げて腕を見せてきた。
 その思うよりもガッシリしている腕には鋭い爪で抉ったような傷跡が3本走っている。

「うわ、酷い…」

『酷いんだよ!あの野郎ども、容赦を知らねーからな!!背中にもあるんだぞ。聖戦で受けた聖痕はなかなか治らないんだ。仕方ないから湯治をしてたら、今度はレヴィのヤツが襲い掛かってきやがってッ』

「へ?レヴィが??」

 ポカンッとすると、ベヒモスはクックックッと声を出さずに笑って、お茶をパカッと開いた口に流し込んだ。

『お前を寄越せと言いやがったんだ』

「え?」

 ドキッと胸が高鳴って、期待なんかしてもダメだと判っているんだけど、それでもレヴィが俺を寄越せと言ったその真相を聞きたかった。
 また、傷付くのかもしれないけど、それでも、俺の心はレヴィの他愛ない言葉を求めているんだ。

『…なんだよ、嬉しそうな顔しやがってさ。ふん、ま、その顔を見れたんだ。入浴中に襲われた甲斐はあったってワケだ』

「う、ごめん」

 そうだ、喜んでばかりもいられないか。
 ルシフェルが草臥れた顔をしているのは、神様たちと戦ったからなんだ。
 あんな酷い傷を受けて養生してるところを、そんな理由で襲われたんだ。そりゃ、ルシフェルでなくても怒るよな。

『お前が謝るこたない。この恨みはレヴィの記憶が戻ってから、思う様晴らさせてもらうから気にするな』

 綺麗な顔でニッコリと笑うルシフェルは、笑ってるんだけど湯気が出るほど怒ってるのがよく判るから、悪いんだけど。ここはレヴィにその責任は取って貰うことにした。
 たぶん、仏頂面で風呂に入ってるところを、後ろから襲われたんだろうなぁ…ん?襲われた??

「…って、もしかして。殴られたとか??」

『斬りつけられたんだよ。殴るなんて可愛いことすると思うか、あの嫉妬深い悪魔が』

 どれだけ腹を立ててるのか、未知数の怒りは笑いしか生まないのか、額に血管を浮かべたルシフェルはアハハハッと笑ったけど、次いで、すぐに下唇を突き出して頬杖をついたんだ。

「いや、ホント、ごめん」

 なんか、誰か謝ってやらないと、ルシフェルが可哀想な気がしてきたぞ。

『それで?大方お前のことだ、もちろん反撃したんだろうな?』

 黙って聞いていたベヒモスがニヤニヤ笑って(いるように見える顔をして)そう言うと、ルシフェルはキッとそんなカバ面の悪魔を睨み付けると、当たり前だとでも言わんとばかりにフンッと鼻で息を吐き出して拳を握って見せたんだ。

『武器がなかったからな。仕方ないから殴り返してやって、ちゃんとやるかよと言ってやった』

 一瞬、ちょっとガックリしそうになったら、ルシフェルに胡乱な目付きで睨まれてしまった。

『記憶のないアイツのモノになって嬉しいのかよ。ああ、そーですか。じゃあ、今からでもくれてやるって言ってやるよ』

「いや、そんなつもりじゃ…」

 思わず言い訳する俺に、何をされても構わないんならオレは知らないからなと言う表情をされたら、流石にそれ以上は何も言えなくなってしまう。

『惨劇が見えるな』

 ボソッとベヒモスが言うと、バリバリと頭を掻いたルシフェルは苛々したように言い返す。

『そーだよ。湯治の泉を破壊する寸前で止められたんだッ。あの野郎、さっさと海に還りやがったから、そこでもまたオレが怒られたんだぞ。んで、後始末までする羽目になったんだ!!なんだよオレ、どれだけトバッチリ食うんだよッ』

「ルシフェル、ホント、ごめん」

 なんか、ホント、謝ってやらないと…

『謝るんならここに座れ』

 下唇を突き出すようにしてムッとしているルシフェルにキッと睨まれて、膝の上を指してそんなこと言われると…

「は?嫌だよ」

 思わず言ってしまうじゃないか。

『どれだけオレがお前たちのせいで…』

「う、はいはい」

 ベヒモスもいるから嫌だったんだけど、仕方ないから座ってやったら、ルシフェルのヤツは人の悪い笑みをニヤッと浮かべながら『そうじゃないだろ?普通座れって言ったら跨ぐんだよ』とか言いやがるから、できれば一発殴ってやりたいと思ったんだけど、でも、俺たちの為に尽力を尽くしてくれているコイツにそれはあんまりだと自分に言い聞かせて、嫌々向かい合うようにして座ると。

『はぁ、草臥れた』

 俺の両腕を掴むと、ギョッとする俺の胸元の辺りに額を摺り寄せるようにして長い溜め息を吐いたんだ。
 その姿は、どうやら本当に草臥れてるみたいだった。
 そうだよな、姿を消していた間ずっと、神様たちと戦ったり喧嘩したり、その権現であるはずのレヴィにまで襲われてたんだ、ルシフェルじゃなかったら草臥れすぎて死んでるんじゃないか。

「…大丈夫か?」

『大丈夫じゃねーよ!いいか、よく聞け。このオレ様が何が悲しくて北の神々と聖戦するわ西の神々に説教されるわ、ましてやクソレヴィなんかに襲われなきゃならなくなったと思うんだ?それもこれも全部!お前が悪いんだぞッ』

 キッと上目遣いで睨まれてしまって、そのせいもあるんだけど、その言葉の意味が判らなくてドキッとしてしまった。

「え?!」

 お、俺が悪いって…どう言うことだ??

『ったく、何にも知らねーんだから、人間ってのは』

 上目遣いで睨んでいた目線を、草臥れたように伏せて、ルシフェルは仕方なさそうに溜め息を吐いた。

『それでも、憎めないから見守るんだろうがよ』

 ベヒモスが我関せずだったくせにポツリと呟いて、沈下しないルシフェルの怒りに油を注ぐ。
 やめ、頼むから、ヘンなこと言って煽るなよ~

『あー、そーだよ!だいたい、隙がありすぎるんだ、お前には。誰にでもキスされやがって…だから、大事な記憶すら奪われてしまうんだ』

 指を突きつけるようにして悪態を吐くルシフェルに、キス…と聞いてレヴィを思い出して顔を赤らめはしたものの、ハッと目を見開いた。
 キスだって?

『心当たりがあるって面だな?』

 ベヒモスの問いかけに、無意識に頷いていた。

「まさか、あの時の…」

 隣町にある女子高の制服を着た、あの…

『思い出したか、バカめ。そーだよ、その女がミカエルだ』

 やれやれと溜め息を吐くルシフェルに、あんなキスのせいで大切なものを失くしてしまった俺は自分の不甲斐なさに唇を噛み締めて、ヘトヘトになるまで原因の究明に走り回ってくれた悪魔に素直に謝っていた。

「…ごめん」

『お、素直じゃん。人間はそうでないとな。ところでさ、知ってるか?』

「?」

 機嫌よくパッと表情を明るくしたルシフェルは、次いで、訝しそうに首を傾げる俺の顔を覗き込みながらニヤッと笑ったんだ。

『悪魔ってのは草臥れると、もの凄くセックスしたくなるんだぜ』

「なぬ!?」

 ギョッとして思わず浮き上がろうとする俺の腰をガッチリ掴んだルシフェルのヤツは、更に上機嫌そうにニヤニヤと笑いやがるんだ!

『ここに、ちょーど手頃な尻があるワケだ』

 腰を掴んでいた両手をそのまま僅かに浮いている尻にまわして、ギュッと掴まれたりするから俺は素っ頓狂な声を上げてしまった。

「ななな…何言ってるんだよ。おま、そんな面でそんなこと言ってくれるなよッ」

『どんな面で言おうがオレの勝手だ!…が、まぁね』

 ニヤッと笑っていたルシフェルはでも、尻を掴んでいた手を離して俺を抱き締めてきたんだ。

『今回は止めといてやる。レヴィの執着は嫌になるぐらいよく知ってるし。癇癪起こされてもたまったもんじゃねーからな。だから、今回はこうしてろ』

 そう言って、心底ヘトヘトなんだろう、俺の肩に頬を寄せるようにして凭れると、目蓋を閉じたんだ。

「…え?」

 呆気に取られてポカンとしたけど、ルシフェルはそのままの姿勢でもう一度言った。

『オレはメチャクチャ草臥れてるんだ。だから、このままこうしてろ』

「?…判った」

 長い溜め息を吐いて目蓋を閉じているルシフェルに肩を貸したまま、俺は優しい悪友の背中に腕を回して抱き締めたんだ。
 できれば、少しでも疲れを癒せたらとか、思うんだけど、人間の俺にはそんな特異な力とかないから、抱き締めるので精一杯だ。
 ありがとう、ルシフェル。
 口は悪いんだけど、本当は大悪魔のくせにいいヤツなんだよな、ルシフェルって。
 もし、レヴィより先にあっていたら、もしかしたら…今まで考えたこともなかったんだけど、俺はコイツのことを好きになってたんじゃないかなぁと思う。
 恥ずかしいし、すぐからかいやがるから、コイツには言ってやらないけどな。
 長い髪が柔らかな風に揺れて、スゥスゥと規則正しい寝息が聞こえてきた。
 余程草臥れていたんだろう、ルシフェルは眠ってしまったようだった。

『悪魔は情が深いんだ。だから、未練も残せば執着もする』

「え?」

『黙れ、ベヒモス』

 眠ってるとばかり思っていたルシフェルが目蓋を閉じたままで言うから、俺はギョッとしたんだけど、ベヒモスはクックックッと咽喉の奥で笑って、もうそれ以上は何も言わなかった。
 訝しがる俺を無視して、ルシフェルは今度こそ本当に眠り込んでしまった。
 静かな森に、漸く安息のひと時が訪れたんだ。

第二部 12  -悪魔の樹-

 俺がニヤニヤ笑いながら水桶を抱えて戻ると、灰色猫はあからさまにニヤニヤ笑いながら不気味そうな顔をしていた。
 なんだ、その面は。
 でも、今の俺はそんな灰色猫の態度だって許せちゃうぐらい寛大なんだぜ。
 へっへっへー

『気持ち悪い。不気味だ。ヘンだ。おかしい』

 そうはいかなかったのはベヒモスで、灰色猫ほど我慢強くないカバ野郎は、やわらかな草の上で寝そべっていたくせに、のそりと顔だけを起こして胡散臭そうに言いやがった。

「なんとでも言ってくれ♪」

 それでも上機嫌で桶から飲み水用に貯水している水瓶に、程よく冷えている、こんな魔界でマジかよと言わざるを得ないほど澄んだ清水をうつしていると、やれやれと身体を起こしたベヒモスが、やっぱり胡散臭そうな表情で俺を見ている。

『おおかた、小悪魔どもにはめられたか』

「…まぁ、それはそれでも許す」

 ヘッヘッヘ…と、笑いながらウィンクなんかしてやると、驚いたことに、あれほど物憂げな表情しか浮かべないはずなのに、ベヒモスは面食らったように小さな目を見開いた。
 カバ面にしては珍しいこともあるもんだと、俺の方が却って呆気に取られていたら、途端に、不機嫌そうにムッツリと黙り込んでしまう。どうも、カバはカバなりに考えているんだな。
 こう言うところは、本当に兄弟なんだなぁ…レヴィに良く似ていると思うよ。

『…レヴィか。そうか、アイツが何かしたんだろうな?』

「俺の喜ぶ理由なんかそれしかないだろ?」

『ふん』

 カバ面がもし人間だったとしたら、いや、人間みたいな顔立ちだったら、きっと唇を突き出してるんだろうなぁとか、そんな姿が想像できる表情を器用に浮かべて、ベヒモスは呆れたように鼻息で返事する。

『ご主人が記憶を取り戻した…?』

 いや、そんなまさか。
 灰色猫は端から信じちゃいないくせに、それでも、一抹の期待なんかして俺を見詰めてくるから、その疑わしそうな鼻先を指で弾いて両頬を引っ張ってやった。
 いや、そこまでやる必要はないと思うんだけど、なんかムカついた。

『ひひゃいよ、おにいひゃん』

「痛いように態とやってるんだ」

『そりゃ、痛い』

 ベヒモスがニコリともせずに言って、その腹が活火山の下で燻るマグマのように、ゴギュルワーッと奇妙な爆裂音を響かせてくれると、俺は暢気にくっちゃべってるヒマはないと判断した。
 ベヒモスの場合、レヴィと違って、スゲー大喰らいなんだ。
 オマケに腹を空かすと不機嫌…なんてものじゃないぐらい、地獄の悪魔そのものの形相で暴れる。
 ここら辺はさすが兄弟、良く似てるよな。
 レヴィが執着心で暴れるように、ベヒモスは食事への執着で暴れるんだけど、その部分がなかったら、お前ホントに悪魔かよってほど大人しい。大人しいせいか、この森に棲む動物たちは、大小の区別なくどれもベヒモスに絶対的な信頼を寄せているんだから、不思議だよな。
 悪魔なのにさ。
 でもこのカバの親分は肉や魚がまるでダメで、最初、それを知らなかった俺の料理を一口食って、いきなり、ホントにイキナリ、肉の塊を俺にプッと吹き飛ばしてきたんだ。
 そりゃ、ビックリしたのなんのって、続けざまに2、3個もプップッと飛ばされて、それで初めて、ベヒモスは肉が嫌いなんだと知ったし、同じ行為で魚も嫌いなんだと判った。
 完全な菜食主義者なんだぜ、信じられるかよ。
 でも、そんな目を丸くしている俺に、『お前は食っとけよ。人間は動物性たんぱく質も取らないと死ぬからな』と、至極真面目に言うもんだから、呆気に取られるよりも、思わず噴出したね。
 それに、ベヒモスの胃袋の謎だよな。
 この【混沌の森】に来てから、驚くことばっかりだよ。
 たとえば、ベヒモスは悪魔なのに穏やかで物憂げなカバだし、オマケにちんまりとした可愛い家に住んでいて、寝るのは外の草の上なんだぜ。それで、その胃袋はその巨体に似つかわしくなく、小さいんだ。
 成人男性の1日に摂取したほうがよい数値のカロリー分を1日3回口にする…大食らいのくせにそれだけで満足してるんだから、俺が驚いてもおかしくはないよな。
 大食らいってもっとたらふく食べるようなイメージだったんだけど…いや、3日分のカロリーを1日で摂取するってのは人間で考えればエライことだけど、巨体の悪魔がそれだけで大食らいって。
 しかもそれで、地獄の底から響いているんじゃないかと誰もが疑う派手な腹の虫も満足するんだから、ホント、悪魔ってのは名前だけなんだと思う。
 きっと、カバの進化系なんだよ、ベヒモスって。

『む、なんだその目付きは。何やら、オレを侮ってんなッ』

 何処からか、まるで魔法みたいに出してくる食材を使ってその日の食事の用意をするんだけど、今日は珍しく米なんか出してくれたから、俺特製のカレー(もちろん野菜たっぷり)を作ったんだけど、肉は食わないけど調味料としてはOKなベヒモスは嬉しそうに小さな目を細めていたんだけど、俺の思考をまるで読んだかのようにジロッと睨んできたんだ。

「侮る…ってまぁ、そうかもな。だって、ベヒモスって全然悪魔らしくないし」

『失敬なヤツだ』

 フンフンッと腹立たしそうに鼻から息を吐き出すくせに、それでも食べることは止めないベヒモスに灰色猫はニヤニヤ笑っている。

『ベヒモス様はさ、悪魔の中でも特別なお方なんだよ、お兄さん。最強と謳われるレヴィアタン様と対となられるお方なのだけど、凶暴性は全てご主人が取ってしまったんだろうね』

 俺特製のカレーにご満悦はベヒモスだけじゃなくて、灰色猫も、猫のくせに全く猫舌じゃなくて嬉しそうに頬張っていた。

『なんだ、その言われようは。オレが悪魔じゃおかしいってか?散々だ!』

 プリプリ腹を立てているのに、全く腹を立てているように見えない物憂げなカバの顔に、俺は思わず笑ってしまった。

『そもそも、俺が悪魔らしくないなんて戯言はどーでもいい。お前が機嫌よく帰って来たことの方が気になってるんだぜ?何があった。小悪魔の仕業か?』

 食卓を囲んでこんな言われようを聞くと、どうも、親父に詮索されてるみたいで嫌な気分になる。
 まぁ、目の前のカバの巨体を見なければ…ってのが絶対条件なんだけど。

『お兄さん、ここはベヒモス様の領域ではあるけど、小悪魔は狡賢い。気をお付け』

 スプーンを持ったままで心配そうに言われて、これじゃますます、なんだか家にいるみたいじゃないか。

「わ、判ってるよ。それに、アレが小悪魔の仕業がどうかは判らないけど。ただちょっと、その…」

 まさか言えるワケないよな。
 レヴィがキスしてくれたんだ…なんて、レヴィの兄弟にどんな面して言えるんだよ。
 心配性の灰色猫と同じぐらい、普段は気にしていても自由にさせてくれているこの心配性の悪魔は、本当はとても兄弟思いのいいヤツなんだと思う。
 レヴィが大事にしてくれていた俺の安否を、きっと心配してくれてるに違いない。
 アイツが記憶を取り戻すまで見守っていてくれるんだろう…だから、あの我侭し放題の最強の海の悪魔も、ベヒモスには一目置いて、よく懐いているんだろうなぁ。

『本当にレヴィか?』

 モゴモゴと煮え切らずに顔を真っ赤にしている俺を、暫く物憂げな小さい瞳で見詰めていたベヒモスは、やれやれと長いカバ面を左右に振って、鼻から息を吐き出しながら俺たちよりはかなりでかいスプーンでカレーを掬って口に運びながら呟いた。

『それなら、小悪魔の仕業ではないだろーな?』

『そうですねぇ。小悪魔如きでは大悪魔の姿を真似ることは不可能です』

 灰色猫が同意するように頷くと、得意そうにベヒモスが食後のコーヒーをカパッと開いた口に流し込んで、チラリと俺を見た。

『何をされた?その様子では乱暴されたワケではないようだが』

 その言い方はちょっと…っと、俺は耳まで赤くして見返したけど、よく考えたら乱暴ってのにもイロイロと意味があるワケで…う、そうすると俺、思い切り恥ずかしいこと考えたんじゃないか。

『煮詰まってるだろーからな。押し倒すぐらいはやらかすと思うが、レヴィの場合はそれじゃ抑えがきかん。となれば、一気に犯るのが礼儀だ』

 悪魔として、とベヒモスが尤もらしく言いやがるから、赤面して恥ずかしがっている俺の立場って…

『でも、その様子だとご主人に犯された…ってワケじゃなさそうだねぇ』

 灰色猫まで!

「な、何なんだよ、お前らは!」

 俺がキスでこれだけ舞い上がってるってのに、どれだけ邪なんだ、お前らは!
 …って、ああ、そうか。悪魔なんだし、これだって可愛い方か。

『なんだ、お前たち。まだ、光太郎に言ってなかったのか?』

 思い切りしょぼーんと肩を落とす俺を無視して話に花を咲かせようとしたベヒモスと灰色猫の会話に、張りのある、威風堂々とした声が割って入ったんだ。
 よく響く声は聞き覚えがある、ずっと待っていたその声は…

「ルシフェル!」

『なんだかな…ベヒモスに懐いちまってさー。飯か!飯で釣ったんだな』

 呆れたように溜め息を吐いたベヒモスにニヤニヤ笑っていた傲慢の権化のような悪魔、ルシフェルは綺麗な指先でカレーの残りを掬って口に運んだ。

『うん、旨い。やっぱ、光太郎のカレーは最高だな』

 エヘッと笑うルシフェルの、ジャラジャラと宝飾品が飾る胸元を思い切り締め上げた俺は、半泣きでガクガクと揺すってやったんだけど、やっぱ大悪魔様には全く効いちゃいない。

「お前なぁ~!!何処行ってたんだよ?!ずっと待ってたんだぞッ」

 出発だ出発!
 早く、早く魔の森に行かないとッ!

『いやぁ、悪い悪い』

 全く悪気なんかない顔でシレッと言いやがるクソ悪魔の掴みどころのなさに、ギリギリと歯噛みした俺が言葉も出せずに憤怒していると。

『悪かったって。ん?それとも何か、オレがいなくて寂しかったのか?それなら、そうってハッキリ言えよ。可愛いなぁ~、んー』

 憤懣遣るかたなくジリジリしてる俺の頬を、ひやりとする冷たい掌で包み込んだかと思うと、そのままうちゅっとキ、キスなんかしやがったんだ!

「~…!!んの、クソ悪魔ッ!!」

『なんつって。ん?でも待てよ』

 唇を離して悪態を吐くと同時に殴ろうとする俺を片手一本、いや、指先一本で封じやがってルシフェルのヤツは、唇をペロリと舐めて綺麗な柳眉を顰めたんだ。

『…なんだ、光太郎。レヴィとキスしたのか』

「ぎゃー!」

 胸倉を掴んだままで顔を真っ赤にする俺なんかお構いなく、絶世に美しさを誇る美貌の悪魔は大いに笑ってくれた。

『うははは。おっもしれーのな!顔が真っ赤だぞ、おい。この魔界で恥ずかしがるのって光太郎ぐらいなんじゃね?チョーうける』

「何処のギャル嬢だよ、お前わッッ」

 あまりに頭にきすぎたのか、怒りを通り越した俺がガックリと項垂れてしまうと、漸く満足したルシフェルはそんな俺をさっさと手放して、ベヒモスに言ったんだ。

『連中め、コソ~ッとあざといことしてたぜ』

『北の神々との聖戦でか?』

『ああ』

 長い髪を面倒臭そうにガシガシと掻きながら、ルシフェルは草臥れたように古めかしい木製のテーブルと対になっている木の椅子にどっかりと腰を下ろしてしまった。
 ハッとするほど綺麗な顔立ちには不似合いな口調だけど、頬に落ちた影が疲弊していることを物語るようで、俺はこの時になって初めて、ルシフェルがヘトヘトに疲れていることを知ったんだ。

『神々まで欺くなんてやることがきたねぇーんだよなぁ。だがまぁ、それも仕方ないのか。アイツらが崇める神はたった一人で、異国の神は滅んでしまえが信条だからな』

『…ふん。悪魔がこれほどいれば、神も同じだろうに。奴等の考えることはオレには判らん』

 ベヒモスとルシフェルの会話に聞き入ったままで口を開かない灰色猫は、やはり使い魔らしく、神妙な面持ちで高位の悪魔の一挙一動を見入っている。

『犯人が判ったぜ』

 ふと、唐突にルシフェルがニヤッと笑って俺を見た。

「え?」

 ドキッとして、胸の辺りをギュッと掴んだら、そんな俺をじっと見詰めていた傲慢な大悪魔は、鼻先で小さく笑って、妖艶で蠱惑的な口許を綻ばせたんだ。

『聞きたいって面だな。だが、お前が悪い。もっと早くオレとキスしてたらもっと早くに判ったんだぜ』

「はぁ?」

 何を言ってるんだと首を傾げると、ルシフェルはちょっと我に返ったような表情をした。

『あ、そーか。そう言えばキスしたな。でもオレ、頭にきてたから気付かなかったんだ。悪い』

 エヘッと笑うルシフェルの何が悪いのか、いや、問答無用でキスする癖は確かに極悪だけど、それでも全く話が見えない俺は眉根を寄せてジトッと見据えてやった。

「何を言ってるんだよ?ワケ判んねーんだけどさ」

『レヴィの記憶を奪ったヤツだよ』

 犯人?
 犯人って…

「だ、誰だよ!?ソイツはっっ」

 思わず身を乗り出すと、ルシフェルはクスクス笑って、俺のコーヒーカップを奪うと優雅に口なんかつけやがるから…何をもったいぶってるんだと瞬間湯沸し器みたいに頭から湯気が出そうになった。

『天使さ』

 唐突に答えをくれて、俺は一瞬呆気に取られてしまった。

第二部 11  -悪魔の樹-

 ベヒモスと灰色猫との優雅な午後のお茶会なんかしていたばっかりに、俺は今日の水汲みをうっかり忘れてしまっていた。
 もう少しで夕暮れ時で、そうなると、幾らベヒモスの圏内にいるからと言っても、やはり迷い込む悪戯好きの小悪魔にちょっかいを出されるだろうと、灰色猫は夕暮れの仕事を嫌がった。
 それでも、何か気晴らしがしたいからと、心配する灰色猫を押し切って木桶を持って近くの小川に向かったんだ。ベヒモスはそんな俺と灰色猫を見ていたが、物憂げなカバ面を左右に振って、灰色猫に『好きにさせておけ』と言ったきり、なんとその場に寝転んじまったんだ。
 どこまで自由なんだ、ベヒモスって。
 そんな連中を放っておいて、俺が小川に辿り着いた時には、既に太陽は随分と傾いていたのか、黄金色の光が射し込んでいた。
 ホント、異空間だよなぁ…こんな太陽、この鬱陶しい木の枝の向こうにあるワケないのに、きっと、悪魔に不可能のないレヴィの兄弟なんだから、やっぱり悪魔に不可能のないベヒモスの成せる業なんだろうなぁ。
 俺が溜め息を吐いて木桶を冷たい水に漬けた時だった。

『つまらんことに精を出すんだな』

 不機嫌そうな声音は頭上から降ってきて、見上げたら、白い大きな蜥蜴が寝そべっていた枝に、白い綺麗な悪魔が横になっていた。
 肘を付いて仏頂面のままで、白い悪魔は胡乱な目付きで俺を見下ろしている。

「今夜の夕飯の用意に必要だからな、勝手だろ」

 最早、俺を捨て去った悪魔なんかに敬語なんか使うかよ、と、最初から決めてたから、本当なら無視のところなんだけど、そこはやっぱり、愛しいレヴィの声は聞きたいとか思うじゃないか。
 素っ気無く返事を返してやったら、それが意外だったのか、ちょっと眉を跳ね上げたレヴィアタンは、それでも途端に苛々したように険悪な色を浮かべる金色の双眸で俺を睨み据えてきた。
 う、負けるな俺。

『なんだ、その口の利き方は。オレを誰だと思ってるんだ』

「性格の悪い悪魔だろ?」

『なんだと』

 ブリザードみたいに冷ややかになった気配にヒヤリとしながらも、それでも、やっぱり負けるな俺と自分に言い聞かせて、水でたっぷりになった木桶をヨイショッと抱えて、無視を決め込んで歩き出すと、その反応に、人間如きが!…と、本気で腹でも立てたのか、白い悪魔はゆらりと立ち上がって、不機嫌のオーラを完全に纏いながら俺と同じ大地に悠然と降り立ったんだ。
 それこそ、まるで重さを感じさせないぐらい音もなく。
 こうなったら、たぶん、俺の分は悪いと思う。
 それでも、負けるもんかと歯を食いしばって、立ち塞がる白い悪魔の険悪で端麗な顔を見上げてやった。

「退けよ」

『退け?このオレに、人間如きが言うじゃないか』

 自分の実力に自信を持っているヤツが見せる、鼻をつく嫌な笑みを浮かべながら、レヴィはゆっくりと腕を伸ばして、蛇に睨まれた蛙みたいに、何故か竦んでいる俺の顎を掴むと値踏みするようにじろじろと不躾に眺め回すんだ。
 そうだな、敢えて言うなら、何かの品評会に出展された作品を、この価格で購入しても損はないかな…とか、そんな目付きだ。
 それが嫌で振り払おうとしたけど、まるで電流に触れたみたいに痺れて、竦みあがっている俺は、声を出すことも、ましてや口を開くこともできなくなっている。
 ずるいぞ、レヴィ!
 きっと、これは何かの魔法とかそんな類のものに違いない。
 クッソー!以前の俺なら、確かにそんなことしなくても黙って話だって聞いただろうけど、今は違う。今は…裏切られたことが悲しくて、俺以上に、他の誰かを想うレヴィに絶望してしまっているから、俺はきっとこの白い悪魔の思い通りにはならないだろう。
 だから、レヴィはこんな卑怯な手を使うんだ。
 …たかが人間だと、侮ってるくせに。

『お前は…以前から思っていたんだが、どうしてそんな目をしてオレを見るんだ?』

 そんな目ってどんな目だよ。
 …たとえば、そう、たとえば?
 悲しいような寂しいような?
 情けないような辛いような?
 それとも…愛しいような、そんな目付きか?
 決まってるだろ、俺、やっぱり、お前が好きだもん。
 レヴィを見てしまうと、やっぱり愛しくて愛しくて、忘れ去られている現実を叩きつけられて、それが死にたくなるほど悲しくて、寂しくて、情けないんだけど、胸が張り裂けるほど辛いから、だから、こんな目付きになるんだよ。
 口が開かなくて良かった。
 そうじゃなかったら俺、この場で想いの全てをぶちまけていたと思う。
 口を噤んだままで自分を睨む小賢しい人間の姿が、レヴィにはどう映ったんだろう。
 それまで、地獄の底にいればそうなるだろう、ぐらいには陰惨な目付きで俺を睨み据えていた金色の瞳が、今はその気配を潜めて、不思議そうな色に揺れている。

『お前は変わっている。ベヒモスも、ルゥも、灰色猫も、アスタロトもだ。お前に関わった奴等は全ておかしくなった。人間如き…と侮ったが、お前はいったい何者なんだ』

 ふと、重く圧し掛かるようにして口を覆っていた何かの圧力から開放されて、俺は取り敢えず新鮮な空気を貪ると、次いで、感情の読めない無表情の白い悪魔を睨み付けたんだ。

「俺は、俺だよ。瀬戸内光太郎。どこにでもいる普通の高校生だ」

『どこにでもいる人間…それは判っている。だが、どうしてオレを…いや、オレは何を言おうとしているんだ』

 ハッと我に返ったように金色の双眸を瞬かせたレヴィは、それでも一瞬、何かを考えるように視線を彷徨わせていたんだけど、彷徨っていた虚ろな金色の瞳は唐突に俺の顔の上で止まった。
 一瞬躊躇って、それでも、レヴィは口を開いた。

『どうして、お前はオレを捜しているんだ』

「は?」

『お前はずっとオレを呼び続けてるじゃないか。お前は誰だ』

 それはどこか痛いような、苦しいような表情だった。
 その顔を見て、俺はやっぱり泣きたくなった。
 もしかしたら、そう、これは俺の勝手な妄想なんだけど、もしかしたら。
 レヴィもやっぱり苦しんでるんだろうか。
 頭のどこか隅のほうで、忘れてしまった小さな人間の存在を、思い出そうとしてさ。なぁ、お前も苦しんでいるのかよ?

「…俺は、レヴィアタンを呼んだりはしていないよ」

 そうだ、俺はレヴィを呼んでいる。
 もうずっと、心の奥深いところから、お前の名前ばかり叫び続けているよ、レヴィ。
 お前は一度だって、振り返ってはくれないけど。

『…そうだな。違う、声が。懐かしい声が聞こえる。だが、ああ、そうだ。それはオレを呼んでいるワケじゃない。それはとてもあたたかいと言うのに』

 レヴィアタンは悔しそうに唇を引き結んだ。
 悔しそうに唇を引き結んで、それから、苛立たしそうに俺を見下ろした。

『お前は何なんだ?!ベヒモスを手懐け、灰色猫さえも傍を離れない。アイツはオレの使い魔だ。オレが呼んでも応えもせず、捜してみればここにいるじゃねーか!』

 身に覚えのありすぎる言い掛かりなんだけど、話せば長くなるし、記憶のないレヴィに何か言ったところで到底信じてくれるはずもない。
 だから、子供みたいに、悔しそうに唇を尖らせているレヴィアタンに答えてやることなんかできるワケがない。

『…ルシフェルはお前の何なんだ。契約したのか?』

 黙り込んでいたら、ポツリとレヴィアタンが言ったんだ。
 俺は、目線を上げて黄金の双眸を見詰めた。
 その時はもう、怒りとかそんな感情はなくて、ただ、寂しさと切なさしかなかった。

『あの傲慢の代名詞みたいな悪魔が、どうしてお前を懐に入れて、隠そうとしていたんだ?』

「ルシフェルが俺を隠したりはしないよ」

 レヴィアタンはどんな経緯でそうなっているのか、普通の人間である俺が知るはずもないんだけど、ルシフェルにとても執着している。それが判るから、俺は素っ気無く答えていた。
 でも、レヴィアタンはその答えでは満足しなかった。

『いや、したさ。あの野郎…オレが返せと言っても頑として拒否しやがる。かと言って、契約しているワケでもなさそうじゃねーか。怪しいんだよ』

 ムスッと唇を尖らせたレヴィアタンは、顎を掴んだままで器用に人差し指を移動すると、引き結んでいる俺の唇に触れてきた。

『言わないんだな。お前もルシフェルも。ましてや、ベヒモスですら、何も言いやがらねぇ』

 更に腹立たしそうに呟くレヴィアタンは、こんな時なのにどうしてだろう?
 まるで子供みたいで、俺は思わず頬が緩むのを抑えられなかった。
 やっぱ、憎めないよなぁ。
 俺、つくづくレヴィを愛してるんだなぁ。

『…また、その目かよ。畜生ッ。お前は何なんだ、誰なんだよ?!』

「だからさぁ、何度も言ってるだろ?俺は俺!レヴィがなんと言おうと俺は俺なんだ」

 そこまで言って…ヤバイ。
 案の定、俺の心配どおり、レヴィアタンのヤツはキョトンとしてから、すぐに疑わしそうな目付きをしやがったんだ。

『やはり、お前はオレを知っているんだな』

「なんのことだよ?お前は変わった悪魔なんだな。人間の、ましてや奴隷なんかに興味を持つなんて。それはやっぱり…」

 ルシフェルが絡んでるからだろ…ってさ、言い返すつもりで唇を尖らせたんだけど、開いた口からそれ以上の言葉は出てこなかった。
 だって、レヴィアタンのヤツ、まるで捨てられた猛獣みたいな顔をしやがったから。
 くそ、そんな顔されると、意地悪なんか言えなくなっちまうだろ。

「レヴィアタンこそ、どうしてそんなに俺に興味があるんだよ?」

『…』

 つくづく、レヴィを愛してしまっている俺だから、途方に暮れたような白い悪魔を追い詰めることもできずに(いや、俺なんかが海の帝王を追い詰めるなんか夢のまた夢なんだけど)、仕方なく笑ってしまった。
 俺の笑顔をハッとしたように見下ろしたレヴィアタンは、それでも、やっぱりどこか痛いような顔をしたままで首を左右に振ったんだ。
 やけに今日は素直じゃないか。
 まるで、レヴィに戻ったみたいで、ほんの少しなんだけど、俺は嬉しかった。

『…お前なんかにレヴィと呼ばれて、オレはどうかしている』

 独りで考えて、思ったことを口にするレヴィアタンが何を考えているのかは判らなかったけど、悔しそうに伏せた長い白の睫毛が縁取る目蓋に、やっぱり白い前髪が零れ落ちた。
 暫く見ない間に、レヴィの髪は伸びて、どこかボサボサになっている。肩に垂らしたひと房の飾り毛も、所在なさそうに揺れていた。 
 あれだけ光り輝いていた海の魔王は、どうしてこんなに、疲れ果てたような遣る瀬無い雰囲気になってしまったんだろう。
 レヴィ…俺を思い出してくれよ。
 ほんの少しでいいんだ、俺が傍にいることを許してくれよ。

「ところで、俺はいつまでこうしていないといけないんだ?そろそろ、腹を空かせたベヒモスが暴れだすと思うんだけどな」

 もう少しで、レヴィに詰め寄りそうになって、俺はそれを皮肉で隠した。
 いや、詰め寄って、それで思い出してくれるのなら、俺は何度だって詰め寄ってるさ。
 それができないのは、よく判らないんだけど、この魔界には【均衡】って呼ばれる秩序のようなものがあって、その担い手の1人であるレヴィアタンの思考、もしくは感情とかが暴走すると、その【均衡】が保てなくなってしまうんだそうだ。
 だから、早く魔女の森に咲く花を見つけない限り、危険を冒してまでレヴィアタンの記憶を呼び戻そうとしてはダメなんだ。
 だから、俺は唇を噛み締めて、ここに来て、もう嫌なほど繰り返している言葉を口にしたんだ。

「だから、俺はもう行くから。手、離してくれ」

 もう、行くから。
 お前が見ることがないように、何処か、遠くに。

『…』

 レヴィアタンは、何故か、不機嫌そうに俺を見下ろしたまま、顎を掴んでいる手を離してはくれない。
 そのぬくもりも、甘い、まるで桃のような匂いも、俺はもっともっと嗅いでいたいし、触れていて欲しい。
 でも、それは却って俺を苦しめるんだから、こんなことはさっさと終わった方がいい。今日は、きっと、何かの悪戯で幸せな気分を味わえたんだから、だから、早く終わってしまえ。
 こんな、残酷な幸せは消えてしまえ。

「…レヴィアタンはさ、俺のこと、嫌いなんだろ?」

 聞きたくないけど、こう言えば、きっとレヴィアタンはいつもの冷酷なアイツに戻ってくれる。
 そうして、あの冷ややかな、二度と忘れることなんかできやしない、虫けらでも見るようなあの黄金の双眸に戻って、甘ったるい幸せに喜んでいる俺を奈落の底に突き落としてくれればいいんだ。
 そしたら俺は、また、花を見つけるまで待てるんだから。
 なのに、白い悪魔はそうしてはくれなかった。

『…嫌いかだと?そんなこと』

 言葉を切るレヴィアタンの、その先、『当たり前だろ』の言葉を聞きたくなくて、いや、せめてレヴィの顔で言って欲しくないから、俺は諦めたように目蓋を閉じた。
 この白い悪魔は、どれほど俺を傷付けるんだろう。
 それだけ、本当は、レヴィの一途な想いに自惚れていた俺の、傲慢な態度への罰のような気がして仕方なかった。
 溜め息を吐く俺の唇に、ふと、やわらかくて甘い匂いのする何かが触れてきた。

「?!」

 口付けは突然で、俺は何も言えずに呆然と、レヴィアタンのくれる優しいキスを受けていた。
 随分と触れていなかった唇の柔らかさに、俺は目蓋を閉じた。
 ああ、どうか。
 これは夢ではありませんように。

『…判るわけねーだろ』

 ブスッとむくれたレヴィアタンは、唇を離すなりそんな憎まれ口を呟いた。
 自分が何をしたのか、今更驚いているようで、そんな自分の態度に更に腹立たしさを覚えたのか、苛立たしげに俺を突き放した白い悪魔は、うんざりしたように片手で双眸を覆ってから首を左右に振って、不意に何事もなかったかのように浮き上がると、例の枝の上に舞い上がってしまった。
 勝手にキスされて怒られてる俺って…っと、まさかそんなこと考えるワケもないんだけど、それでも呆気に取られたように見上げる俺の視線の先には、自分の腕に顎を乗せて不貞腐れたように見下ろしてくる大きな白い蜥蜴が寝そべっていた。
 俺はそんな白い蜥蜴を見上げて思わず笑ってしまった。
 ああ、レヴィ。
 これはいったい、どんな魔法なんだ?

第二部 10  -悪魔の樹-

 どれぐらいそうしていたんだろう。
 鼻を啜りながら拳で両目を擦った俺が顔を上げると、カバの悪魔は、やっぱりそうして、俺が泣き出した時の格好のままでどっしりと座っていた。

『気は済んだかよ?』

 飄々とした小さな瞳は、何を考えてるのか窺わせない素っ気無さで、そのくせ、その存在はここは魔界だと言うのにあたたかかった。

「…ああ、ありがとう」

『やめとけ。オレは有り難がられることなんざ、これっぽっちもしちゃいない。ただ、身内の撒いた種に頭を悩ませてるだけだ』

 やれやれと、のーんとしたカバ面を面倒臭そうに左右に振って、ベヒモスは肩でも竦めそうな雰囲気だ。
 そう言えば…信じられないことなんだけど、このカバとリヴァイアサンであるレヴィはどうも家族らしい。会話を聞いててそう思ったんだけど…よし、悩んでも仕方ない。
 この際だ、聞いてみよう。

「あのさぁ、ベヒモスとレヴィってその…親子なのか?」

『グハッ!』

 思わずと言った感じで、ベヒモスの口許がぷるるっと震えた。
 どうやら、心底嫌なことを言われてしまったらしく、カバ面からじゃ読み取ることなんか不可能なポーカーフェイスを驚いて見上げる俺を、身震いしながらカバの悪魔は困惑したように見下ろしてきた。

『どうしてそうなる。なぜ、親子なんだ』

「いやぁ~、なんつーか。レヴィが振り回されてるし…それに、アイツが大事にしてるみたいだったから」

 面食らったんだろう、カバ面で呆気に取られていたベヒモスは、やっぱりやれやれと長い顔を左右に振ると溜め息なんか吐きやがった。

『オレとレヴィは兄弟なのさ。どちらが先に生まれたか…に関しては、未だに決着は着いちゃいないんだがな。少なくとも、他の悪魔たちとは違って、オレたちは血肉を分けた兄弟なんだ』

 ああ、それで。
 あの傲慢不遜が服を着てるようなレヴィが、唯一、対等に話したり聞いたりしてるんだなぁ。
 他の悪魔(もちろん人間はそれ以下だから俺のことは論外として)を見る時のあの目は、
たぶん、アイツがレヴィに戻ったとしても、俺は忘れることなんかできないだろうと思う。
 冷ややかで、たとえそれが高位らしい悪魔だったとしても、まるで虫けらでも見るような、凄まじい侮蔑の目付きは、生きているこっちが何の罪もないってのに酷く恥じ入りたくなるぐらい、どれだけ卑しいんだろう俺、と悩んで自殺するぐらいは強烈で残酷なんだ。
 その目付きを、ベヒモスにだけはしないからな。
 あ、あとルシフェルもか。
 何故か…レヴィにとってはルシフェルも特別な存在なんだよな。
 ベヒモスにしてもルシフェルにしても、ましてやリヴァイアサンだって、伝説上とは言え、あまりにも有名な悪魔たちだ…そうなんだよな、レヴィは特別な存在なんだ。
 ルシフェルもベヒモスも、アイツが大事にしているのは特別な存在ばっかりだ。
 それなのに、どうして俺がその仲間に入れるなんて、そんな奢った考えを持ってしまったんだろう。
 俺なんて、ただのちっぽけな人間に過ぎないって言うのに。
 俺、レヴィにあんな目付きで見られても、仕方ないんだって、今なら素直に思えるような気がしてきた。
 はぁ…ちょっと凹んだ。

 それからの俺は、ベヒモスとこんな感じで過ごすことになったワケなんだけど、魔界にしてはこの鬱蒼と不気味な樹が生い茂る陰鬱な森は、住み易いんだから不思議だ。
 驚くことに、動物なんかいないだろうとか高を括ってる俺の前で、嘲笑うかのようにベヒモスの背中で休む鳥や、足許で転げ回って遊ぶ小動物を見てしまうと、大分、魔界の見方が変わってきちまった。
 そんな俺がこんな森で何をしているかと言うと、小さなベヒモスの家で掃除や家事と言った、人間界でしていることとなんら変わらない生活を送っていたりする。
 こんな家にベヒモスのヤツ、どうやって入るんだと疑わしくなるぐらい、森の中の小さな家は、苔生していて、それなりに雰囲気のある可愛らしさだ。まぁ、カバ面の悪魔のくせに憎めないベヒモスを見た後じゃ、うん、似合ってるなぁ…としか思えない俺が居るんだから違和感なんかあるワケないんだけどな。
 大きさとか関係ないんだよ。
 魔界では空間がおかしくなっているらしくて、どんなに小さく見えても、中は東京ドームより広かったりする。だからこそ、あの魔城に数千以上の悪魔が犇めき合いもせずに同居できてるんだから、今更驚くはずもないワケだ。
 この暮らしもそんなに嫌なワケじゃないんだが、ルシフェルのヤツは何処に行ってるのか、サッパリ姿を見せないとなると…まだ戻ってきてないんだろうし、大人しく待つしかない。
 でも、最近の俺の考え方は当初より随分と変わってきたように思う。
 今は…なんて言うのかな。
 もう、レヴィアタンの記憶は戻らなくてもいいんじゃないかとか、思ってる。
 ここが、アイツが生きるべき世界なのに、俺なんか、ちっぽけな人間の傍にいて、その輝くような…ってのもヘンな話なんだけど、自信とかプライドとか、レヴィの特別な何かを霞ませてしまうんじゃないかとか、考え出したら溜め息しか出てこない。
 最初の頃みたいにベヒモスは俺を気にかけない…と言うか、気にしてはくれているんだけど、必要以上にベタベタしてくれないから、こんな魔界に居るってのに俺は、充実した日々を過ごしていたりする。
 ただ、寂しい。
 無性に寂しい。
 何がこんなに寂しいのか判らないんだけど、心の奥がポッカリ空いてしまったような、その隙間にピューピュー風が吹き込んできて寒いような、そんな、物悲しい寂しさが唐突に襲ってくることがある。
 だからって、それをベヒモスに訴えたところで、何も始まりはしないから、俺は仕方なく溜め息ばかり吐いてしまうんだ。
 そんな時、ずっと姿を見せなかった灰色猫が、木々の隙間をすり抜けて飛び出してきた時には、忘れかけていた警戒心を呼び戻してしまったりした。
 そりゃ、そうだろ。
 いきなり、気配もなく飛びつかれれば誰だって女の子みたいに声ぐらい上げちまうよ。

『よかった、お兄さん!消えてしまったのかと心配したよ』

「は、灰色猫!?お前、どうして…」

 『どうしてじゃないよ…』と、俺に飛びついたままでブツブツ悪態をついた灰色猫は、どうやら、この魔界中を飛び回って捜してくれていたらしい。
 どうりで、よく見ると草臥れているわけだ。
 草臥れるまで俺を捜し続けてくれた灰色猫に、レヴィのヤツ、一言も言ってくれもしなかったんだなと、何だかムカついてしまったんだけど、俺も他人のことを言えたワケじゃないから、素直に謝ることにした。
 謝られても気の済まなかった灰色猫は、不安そうな面持ちをしたままで、自分が忙しなく動き回ったせいで隙を作ってしまったからと酷く後悔していて…って、そこまで灰色猫が落ち込む必要はないような気もするんだけど、悪いのは勝手に城から追放させたレヴィなんだけどなぁと、俺が思ったとしても、灰色猫のヤツは全く意に介してもくれず、もう二度と俺の傍から離れないと宣言した。
 宣言したんだから、俺とベヒモスと小動物たちの生活に、新たに灰色猫が加わることになって、現在に至るってワケだ。

『まさかベヒモス様のお傍に居るとは思わなかったよ』

 心底そう思っているんだろう、空を覆うぐらい伸び放題の木々の何処にあるのか知らない陽射しが射し込む場所に、お誂え向きに置かれた木のテーブルと対になった椅子に腰掛けて、灰色猫は俺が煎れたお茶を旨そうに啜っている。
 猫のくせに猫舌じゃない灰色猫の今の姿は、勿論、灰色フードを目深に被ったあの怪しい占い師だ。
 じゃなきゃ、どんな猫手でソーサーとカップなんか持てるよ。
 いや、持てるヤツがいる。
 あの大きな平たい前足のどこで抓んでいるんだか、ベヒモスのヤツは例の如くどっかりと座ったままで、俺の煎れたお茶を、カパッと開いた口に流し込んで、あの小さい目をうっとりと細めている。
 どうやら、お茶が気に入ったようなんだけど…灰色猫よりもツワモノだと、俺がゴクリと咽喉を鳴らしたことは言うまでもない。

『灯台下暗しだねぇ』

 膝の上で持っているソーサーにカップを置きながら、灰色猫はやれやれと溜め息を吐いた。

『仕方ない。あのバカゾーが捨てて行ったんだからな。まぁ、だがオレとしてはメッケもんだったんだぜ。これで、なかなか飯も旨ければ、この茶も旨いんだ。拾いモンさ』

 カバ面はご機嫌で、呆れている灰色猫に自慢した。
 まぁ、コイツら悪魔にしてみたら、人間は奴隷だし、いい奴隷を手に入れればそれなりに自慢もし合うんだろうけど…う、ちょっと俺、今の発言ってば卑屈じゃねーか?

『レヴィアタン様が愛されている方ですからねぇ』

「…そんなんじゃない」

 それまで黙って、ポカポカ陽気にのんびりしながら話を聞いていた俺がつっけんどんに口を開いたもんだから、灰色猫のヤツはおやっと、いつもはニヤニヤ笑っている口許をちょっと尖らせたりした。
 ベヒモスは感情を窺わせない小さな目で俺を見る。
 う、そんなに注目されるとは思っていなかったんだけど…ま、いいか。
 どーせ、本当のことだ。

「アイツなんてスッカリ俺のことなんか忘れちゃってさ、今頃、アスタロトに貰ったヴィーニーとか言う奴隷と仲良くしてるんじゃねーのかッ」

 フンッと鼻を鳴らして茶を飲んだら、そんな俺のささやかなヤキモチに、灰色猫とベヒモスは顔を見合わせると、胡散臭い占い師は困惑したようにニヤニヤ笑って言うんだ。

『それはそうかもしれないけどねぇ…じゃぁ、どうしてあの白い蜥蜴は枝の上からこっちを睨んでるんだい?』

 それは、知ってる。
 数日前、灰色猫と合流して暫くしてから、この【混沌の森】に一匹の白い大きな蜥蜴が棲みついたんだ。
 いつも、金色の胡乱な目付きで、洗濯したり水汲みしたりしている俺の姿を、木の枝に長く伸びながら見下ろしていた。気付いているんだけど、無視してるってワケだ。

「知るかよ。俺の知り合いに白い蜥蜴なんかいねーもん。おおかた、ベヒモスの客じゃないのか?」

 フンッと外方向く素直じゃない俺だけど、素直になんかなれねーよ。
 ただ、あの白い蜥蜴は、俺が自分の部下と兄弟の信頼を勝ち得て、その傍にいることに只管嫉妬してるだけなんだから、喜んで浮かれるほど、俺の想いはそんなに簡単じゃないんだぜ。
 と、言っておく。

『知らんなぁ?オレの客じゃない…ってことは、そうだ。お前だよ、お前!灰色猫の知り合いだぜ。間違いない』

 どんだけ、嬉しそうなんだよベヒモス。
 振られた灰色猫は、さすがにご主人なワケなんだから無碍にもできず、かと言って、この森の住人からこれだけ華麗に無視されているんだから、自分だけ相手をするわけにもいかなかったんだろう。
 暫く考えた末に…

『…迷子の、蜥蜴だね』

 逃げた。
 その方向をできるだけ見ないようにする…そんな灰色猫を見ていたら、なんつーか、憐れな中間管理職の父さんを思い出しちまったじゃねーか。
 はぁ、そう言えば、父さんと茜は元気かな。
 もう、夏休みとかとっくの昔に終わってるだろうなぁ…それで、俺なんか行方不明だから、警察とか動員して山狩りされてたりして。
 あ、もしかしたら、その事態を収拾するためにルシフェルは留守にしてんのかな、なんつって、そんな殊勝な悪友じゃねっての。いや、そうかもしれないけど。
 溜め息を吐いたら、灰色猫が顔を向けた。
 フードの奥の目は見えないけど、どうも、かなり心配してくれているようだ。

「…俺さぁ、灰色猫を好きになればよかった」

『はぁ!?何言ってんのさ。そんなこと、冗談でも言ってはダメだよ』

 そうじゃないと、猫は殺されるよと、満更でもない調子で呟くから、それはアイツが記憶を取り戻したらの話だと俺は素っ気無く言い返してやった。

「そうしたら、灰色猫は俺を忘れないし、いつだって俺のことを気にかけてくれるじゃないか」

『だってそれは…』

「判ってるよ」

 灰色猫が言い訳めいて呟こうとした言葉を遮った。
 判ってるよ、ご主人に頼まれてるから俺を気にかけてるだけなんてことはさ。それでも、ちょっと感傷に浸ってみたいだけなんだよ。
 そんな俺の気持ちを読み取っているのかどうなのか、小さな瞳で俺たちの会話を見守っていたベヒモスは、やれやれとカバ面を左右に振って、小器用に抓んでいるカップを差し出してきた。

『灰色猫を困らせるな』

「ぶー!判ってるってッ」

 差し出されたカップにお茶を注いでやりながらぶーたれて唇を尖らせると、灰色猫はホッとしたように胸を撫で下ろした。

「じゃぁ、そーだなー」

『オレは…選ばねーだろうなぁ。当ててやる。ルシフェルだろ』

「言うと思ったワケか」

 どこまでお見通しなんだ…とか思って、ははは、違うか。
 俺が知ってる悪魔なんてこれぐらいだ、あとはアスタロトとか、でもアイツにはいい思い出がないんだよなぁ。

『やめとけ。ルシフェルは』

「…?別に、本気じゃないぞ」

 俺が肩を竦めてカップに口を付けながらベヒモスを見ると、ヤツは、物憂げな顔をして…って、カバはいつでも物憂げな顔をしてるから、実際はどんな感情を浮かべてるのかいまいち判らないんだけど。

『冗談でもやめとけ』

「傲慢が服を着てるアイツを好きになったりしないさ」

 なんだよ、神妙な顔して、冗談なのに。
 話の腰を折られたような気がしたから、俺が勝手にこの話を終了しようとしたのに、カバ面の悪魔はそれを許してはくれなかった。

『お前が軽い気持ちでレヴィの記憶云々を言うのは構わんが、悪魔は違う。執着もすれば、未練も残すんだ』

「…?」

『…』

 正直、ベヒモスが何を言いたいのか判らなかった。
 数千年も生きている悪魔の感情を、たかが17年かそこらしか生きていない俺に、どうして判るって言うんだよ。

『いずれ判るさ。レヴィがいったい何に、それだけ嫉妬して怒り狂っているのか』

 いずれ…本当に判るんだろうか。
 俺は掌の中で冷めてしまった茶を満たすカップを見下ろした。
 ゆらゆら揺れる琥珀色の液体に、捨てられた子供みたいに、不安そうな顔をした俺が揺らいでいた。

第二部 9  -悪魔の樹-

 引き摺られながら俺が最後に見た光景は(…って、この言い方はおかしいな。正確には違うけど)、困惑した面持ちのねーちゃん悪魔が見下ろす先、絶望したようにへたり込むヴィーニーの姿だった。
 不謹慎なようだけど、その姿は、なんて言うか…希望を永遠になくしてしまった天使が、呪うこともできずに絶望しているような、悲愴感たっぷりで思わず庇護せずにはいられない姿だった。にも拘らず、その姿には目もくれないレヴィも、うんざりしたような迷惑そうな顔付きのねーちゃん悪魔も、さすがと言うか、魔界らしいとでも言うべきか、悪魔たる所以の残酷さを垣間見たような気がしていた。
 背筋が凍りつくような寒気は、きっと、この悪魔たちが、完璧に人間を馬鹿にして、愛情なんてこれっぽっちも持ち合わせていないように感じるからかもしれない。
 ささやかな想いさえ、この殺伐とした世界では足枷にもなれば、取るに足らない安っぽい感情でしかないんだろう。
 だからこそ、俺は心底から身震いしてしまう。
 レヴィの怒りは俺のための嫉妬じゃない。それは明らかに良く判る。
 これは、レヴィの大切な悪友であるルシフェルが、彼の与り知らぬところで、アスタロトから自分が貰い受けたはずの奴隷を譲り受けていた…と言う、その事実に、俺に対して嫉妬しているんだ。
 だから、もしかすると…考えたくはないんだが、たぶん俺は、今回は殺されるのかもしれない。
 レヴィの怒りは底知れないようで、引き摺っている俺の存在すら、もしかしたらその怒りで忘れてしまっているんじゃないかと疑いたくなるほどだった。
 アワアワしてる俺は、それでも何かこの状況を打破できる得策はないものかとない知恵を搾り出していたんだけど…そこで、大変なことを思い出しちまった。
 ああ、そうだ。
 確か、ルシフェルのヤツ、暫く城を留守にするって言ってなかったか!?
 と、言うことはつまり、暫くルシフェルがいない→レヴィの怒りは延々と続く…
 最悪のパターンじゃねーか!!
 さらにアワアワしていた俺は、それでも、城内を怒りのオーラを撒き散らして歩いてるもんだから、格下の魔物が怯えて立ち竦んでいるのに見向きもしない、怒りに任せて手当たり次第歩き回っている、このどうしようもない白い悪魔にその事実を伝える覚悟を決めた。
 無闇矢鱈に城を壊し回っても(事実、レヴィは邪魔なものはなんでも手当たり次第に壊しまくった)、反感を喰らうだけ馬鹿らしいじゃねーか!

「れ、レヴィアタン様!お待ちくださいッ」

『…』

 でも、全然聞かねーのな。
 ちらりと振り返ることもしない。
 まぁ、こんだけ怒ってるんだ、誰の言葉も入らないんだろうけど…さっきも、顔見知りらしい悪魔が『止まれ!』とか『やめてくれ!』とかなんとか、必死で懇願していたにも拘らず、やっぱり大事そうにしていた何かをぶっ壊しちまった。
 人間如きの、しかも、自分の大事な友人を奪いやがった下賎な人間なんかの言葉が、耳に入ったところで脳にまで達することはないだろうなぁ…はぁ、どうしよう。
 ちょうど、そんなことを考えて思い切り凹んだところで、不意に、本当に唐突に、レヴィが足を止めたんだ。
 怒り狂う海の覇王は、額に血管なんか浮かべて、憤懣遣るかたなさそうな金色の瞳で前方を睨み据えたまま言ったんだ。

『なんだ』

 たった、一言。
 それだって、地獄から甦った悪魔が纏う殺気だとか、不穏な気配を濃厚に秘めたブリザードよりも氷点下の声だったから、確かに竦んで咽喉の辺りで言葉が凍り付いちまったような気はする。
 それでも、せっかくレヴィが聞いてくれてるんだから、このチャンスを逃す手はないぞ。
 頑張れ、俺!

「れ、レヴィアタン様。有難うございます。あの、今日はルシ…ご主人様はおりません」

 ルシフェル…と言おうとした瞬間、それこそ焼き殺すとでも言わんばかりの形相で睨み付けられたら、やっぱり言葉を選んだって仕方ねーだろ!?ひぃぃぃ…おっかねぇ。

『いない?』

 短い言葉だけなんだけど、それでも、会話が続くのは奇跡と言っても過言じゃねーぞ。

「はい、今日はご用で出掛けられております」

 行き先は勿論知らないし、用かどうかも判らん。
 でも、いないことは確かだ。
 それを聞いて、あれほど怒り狂っていたのに、ふと、レヴィの背中から怒りの気配が消えたような気がした。
 いや、あくまでも気がしただけなんだから、未だに沸々と怒りの炎が胸の中で煮え滾っているかもしれない。しれないけど、今は知ったこっちゃない。
 取り敢えず、レヴィの怒りが冷めたのなら、それはそれで、俺にとっては命の期限が少し長引いたんだ。
 良かった良かった。
 いや、良くないだろ!
 レヴィは何かを考えているように、俺の手を握ったまま、前方を睨み据えていた。
 いつの間にか、掴んでいたはずの腕は、掌に変わっていて、変な話、俺たちはお互いで手を繋いでいるような格好になっていたんだ。
 久し振りに繋いだレヴィの手は、悪魔だと言うのに温かくて、安心できた。
 悪魔としてのレヴィに逢ったとき、こんなに冷たくなれるんだと竦み上がったんだけどなぁ…やっぱり、コイツの手はホッとするほど温かい。
 傍らにいるこの白い悪魔が、どうして、レヴィじゃないんだろう。
 どうして、レヴィアタンなんだろう。
 レヴィだったら、俺はどんなに嬉しいか…そんなこと、コイツは考えもしないんだろうけどなぁ。

『なるほど、ルゥのヤツはいないのか。だったら、城中を捜しても仕方ない』

 漸く納得したのか、それまでオブラートみたいに殺意を纏っていたレヴィの身体から、拍子抜けするほどあっさりと不穏な気配は消え去った。

 いったい、何にそんなに腹を立てていたんだよ!?…と、思わず突っ込みを入れそうになるぐらいにな。

『じゃあ、お前』

 肩から一房、飾り髪を垂らしている不遜な顔付きの白い悪魔は、冴え冴えとした金色の双眸で俺を見下ろすと、不貞腐れてでもいるように唇を尖らせた。

「?」

 訝しんで見上げると、じゃらじゃらと宝飾品で胸元を飾り立てた漆黒の外套に身を包んでいる白い悪魔は、奇妙なことに、手を繋いだままで言ったんだ。

『独りぼっちじゃないか』

「…え?」

 正直、ビックリした。
 まさか、あれだけ怒っていたレヴィが、俺のことを考えているとか信じられなかったんだ。

『魔界に来てまだ間がないんだろ?この世界は混沌とした闇で、至るところに落とし穴がある。人間の奴隷が独りでいれば、あっと言う間に消えてしまうだろう』

 淡々とした声音はどうでもよさそうで、それでも、何処かに憐憫めいたものを含んでいる。
 このままここに独りでいれば、俺はたぶん、レヴィの言うようにあっと言う間に消えてしまうんだろう。
 それだけ、俺と言う存在はちっぽけで、レヴィの中からもあっと言う間に消えたんだ。
 そう考えたらとても辛くて、レヴィの顔を見ていられなくなった俺が顔を伏せると、白い悪魔はちょっと苛々したように俺の顎を掴んで上向かせたんだ。

『だから、アイツが戻ってくるまでオレが面倒を見ててやる』

「ええ!?」

 さらにビックリして、気付いたら俺、「え」しか言ってねーじゃねーか。
 いや、そんなことよりも、俺にとっては勿論、ウハハな状況なわけなんだけど、それでもこの180度の方向転換には頭が追い付いてくれない。
 目を見開いてビックリする俺に、途端に、レヴィは不機嫌になって握っていた手を振り払ったんだ。

『ご主人以外のヤツに面倒を見られたくないんならそれでもいいさ!オレには関係ないッ』

 まさか…そんなこと。
 あるわけないじゃないか…
 俺は振り払われたはずの手で、あれだけ悪魔のレヴィアタンに怯えていたって言うのに、レヴィのあたたかな掌を両手で包んで泣いていた。

『?』

 ギョッとするような気配がしたけど、俺は嬉しくて…どんな気紛れでもいい、たとえこれが悪魔特有の意地悪だとしても、俺は嬉しかった。
 レヴィとほんの少しでもいいから、できるだけ長く一緒にいたい。
 ルシフェルがこのまま帰ってこなくてもいいか…なんつって、勿論、あのレヴィを心から愛してる俺がそんなことを考えるワケはないんだけどさ、それでも、この嬉しいハプニングは素直に喜べた。

「有難うございます、レヴィ…アタン様」

『…』

 レヴィは何処か、バツが悪そうな顔をして外方向いちまったけど、俺は嬉しくて嬉しくて…何度も「有難う」って言ったんだ。
 一緒にいさせてくれて、有難う…

「あわわわ…れ、レヴィアタン様!こ、ここは何処ですか!!?」

 そりゃあ、俺が憐れな声を出したって仕方ない。
 甘やかな桃の匂いに包まれてるのは嬉しいんだけど、背中に回した両手でギュッと掴んでいないと、思い切り落っこちてしまいそうになっているこの状況じゃぁ、とてもじゃないがレヴィを実感するのなんか無理だ。

『ふん!魔城より遥か西にある、混沌の森だ』

「こ、コントンの森?」

 上空で優雅に立っているレヴィは、外套の裾をはためかせながらニヤッと笑って眼下の、鬱蒼と捩れた枝が幾重にも覆う、殺伐とした気配が漂う不気味な森を見下ろしている。
 あの後、レヴィは有難うと呟く俺をヒョイッと小脇に抱えたかと思ったら、あっと言う間に城外の、それも空の上に連れ出したんだ…んで、今のこの状況なワケなんだけど、どうしてこんなところに来てしまったんだろう。
 恐々と見下ろす俺に、何が嬉しいのか、ニヤニヤ悪質に笑うレヴィに、俺は一抹の不安を感じていた。
 でも、こんな時に限って灰色猫はいないんだ。

「魔の森じゃなくて、混沌の森ですか…?」

 恐怖をできるだけ押し殺して、俺は疑問を白い悪魔に投げ掛けた。
 つーか、なんか喋っていないとマジで怖いぞ。
 あの時は、レヴィがギュッと抱き締めてくれていたから、空の上でも安心だったけど…今は違う。
 レヴィは両手を離しているし、俺がしがみ付いていないと落っこちてしまうんだ。
 腕がぶるぶる震えて…コイツ、たぶんきっと、わざとだと思う。
 思わず胡乱な目付きで見上げたんだけど、俺のことなんかお構いなしで、『ハァ?』と言いたそうな顔をして鼻先で笑った。

『魔の森だと?魔女が好む森なんかに用はない』

 魔女?…ってことは、やっぱりアスタロトの言葉は本当だったんだ。
 できれば、魔の森に連れて行ってくれればよかったのに。
 トホホ…ッと、思わず項垂れてしまう俺に対して、レヴィはどうでもよさそうに肩なんか竦めてくれるから…って、おい、ちょっと待て。

「そ、その…混沌の森にどうして俺を?」

 敬語なんか使ってられるか。
 そうだよ、どうしてこんな不気味で陰惨な雰囲気がぷんぷん漂う、明らかに凶悪そうな場所に俺が来なくちゃいけないんだ?!
 恐る恐るレヴィを見上げたら、白い悪魔は氷のように冷たい表情をしてくれると、シレッと言いやがったんだ。

『ちょうど手頃な土産が手に入ったんだ。ベヒモスの顔を見に来て何が悪い』

「て、手土産ってお前…!」

 ギョッとした次の瞬間、レヴィのヤツは背中に回していた俺の腕を掴んでニッコリ笑うと、それこそ悪魔のような無情さでその手を離しやがったんだ!!

「ちっくしょー!!騙したなッッ、覚えてろー!!」

 …って、おいおい、どこの捨て台詞だよってな台詞を吐き捨てて、真っ逆さまに落ちていく俺を、レヴィのヤツは殊更愉快そうにゲラゲラと笑って見下ろしてやがる!
 やっぱ、悪魔だ。
 アイツは俺の知ってるレヴィなんかじゃない!レヴィアタンって言う悪魔だ!!!!!
 落ちる俺を避けるように、それまで幾重にも折り重なっていたはずの捩れて歪な形をした枝が次々に離れていって、俺は傷付くことなく地面に激突…

「!!」

 …したはずなんだけど、激しい衝撃の後、ギュッと閉じていた目を開いたら、俺は奇妙な生き物に受け止められていた。
 それは、なんと言うか、こんな陰惨で不吉で、凡そ悪いことの代名詞みたいな森の中で、どうしてこんなヤツがいるんだと疑いたくなるほど、可愛いカバだった。
 いや、簡単に言えばってことなんだけど、そりゃ、鼻の上(?)にある角は禍々しいのかもしれないけど…でも、やっぱり可愛いと思う。
 サイとは違って、カバ面に角があるんだよ。
 カバは俺を受け止めた背中から地面に下ろすと、あの、何を考えてるのかよく判らない小さな目で繁々と俺を眺めている。

「あ、ありがとう…」

 のーんっとした雰囲気のカバ面は『ふん』と息を吐き出してから、どうでもよさそうにやれやれと嘆息すると俺の横にドッシンと座った…そう、座りやがったんだ!!
 片足を前に出して、片足は立膝じゃなくて、曲げてる、んで、前足でちゃんと支えてるんだから驚くよな。
 ビーグルとか、ラブラドールとか、よくこんな座り方したと思う。
 …うう、可愛い。

『レヴィアタンは性根が悪い。お前さんをあの高さから落とすなんて、正気の沙汰じゃねーよなぁ?』

「げ、喋るのか!?」

 思わず、本当に思わずだったんだけど、まさか喋るとか思わなくて…それも口が悪いし、フガフガ言いそうな印象なんだけどなー

『なんだよ、「げ」ってのはよー。そりゃあ、オレだって悪魔の端くれだし?喋りもすれば笑いもするさ』

 そう言って、カバは歯を見せてニッと笑う。
 その仕種がまた可笑しくて、俺は思わずうぷぷぷ…って笑っちまったんだ。
 するとカバは、笑うようにむいていた歯を引っ込めると、また『ふん』と鼻を鳴らしたんだ。

『オレはさ、お前さんを知ってるぜ』

「へ?」

『レヴィが嬉しそうに話してた「ご主人」だろ?』

 目許に浮かんだ涙を拭っていた俺は、その言葉にハッとして、カバの悪魔を見上げていた。
 今、なんて…?
 ここにいる悪魔は誰も俺とレヴィのことを知らなかった。
 だからきっと、レヴィは人間がご主人なんて言い出せないでいたから、俺のことは黙っていたんだろうって思っていた。だから、こんな風に、あの頃の俺たちを知る悪魔がいてくれて、俺は素直に嬉しかった。
 だからたぶん、こんな風に縋るような目をしてしまったんだ。

「お、俺のこと、知ってるのか?」

『ああ。お前さんが今、何を考えているのかも判るぜ。だが、それは違う。アイツはそんなに器用じゃない、自分が大切にしているモノは隠したがるんだよ。オレみたいになー』

 ふと、上空の空さえも覆っている捩れて絡み合うような枝が広がる空を見上げたカバの魔物は…そうか、コイツにとって(信じられないことに)此処は安穏とした住処なんだろう。
 だから、護ろうとするように森を覆う奇怪な木々が枝を広げて外敵の侵入を防いでいるんだ。
 あれ?そう言えば、俺も空から落っこちてきた外敵なのに、枝が離れてくれたお陰で傷を負わなくて済んだよな。
、俺が首を傾げている傍らで、ヤレヤレとカバの悪魔が溜め息を吐いたその時、不意に、
捩れた枝を掻き分けて苛々しているような白い悪魔が姿を現したから、カバの魔物は座ったままで、それでなくても小さな目を精一杯見開いて、呆気に取られているようだった。

『なんだ、お前のその姿は』

『煩い!よく判らんのだが、気付いたらこの姿が定着してたんだッ』

 余程、本当は嫌なのか、白い髪に金の双眸を持つ美形の悪魔は、鼻に皺を寄せてカバの悪魔に悪態を吐いた。

『と言うか、どうして人間と馴れ合ってるんだ!?コイツはベヒモスの飯に持ってきたんだぞッ』

 やっぱり騙してたのか。
 流石は悪魔と言うかなんと言うか、ホント、記憶が戻ったら覚えてろよ。
 ムッと眉を寄せる俺を無視して、カバの悪魔はシレッとした様子で言い返した。

『レヴィの大事なモノを喰えるわけがないだろーが。後で騒がれちゃオレが迷惑だ』

 後半は本当に迷惑そうにうんざりした表情(…は良く判らないんだけど)のカバの悪魔に、白い悪魔は怪訝そうに眉を顰めて、ベヒモスは何を言っているんだとでも言いたげな不機嫌そうな顔をして下唇を突き出した。
 あちゃ、ヤバイ。
 そうか、このカバの悪魔はレヴィが俺のことをスッカリ忘れてるなんてこと、知らないんじゃねーのか!?

『何を言ってるんだ、ベヒモス。どうしてオレがコイツを大事に思ったりするんだ??人間など喰ってしまえばそれで終わりじゃないか』

 フンッと鼻を鳴らして不機嫌そうなレヴィに、カバの悪魔、ベヒモスは全く相手にしていないような鷹揚な仕種で大きなカバ面を左右に振ってみせた。

『忘れてるだけさ。いや、忘れようとしているだけじゃねーか。思い出せばもう、手離せなくなる。ただ、それが怖いだけなのさ』

「…え?」

 カバを見上げた。
 でも、静かな光を湛えるその小さな瞳は何も語ってくれないから、俺は恐る恐る、立ち尽くしているような白い悪魔を見上げたんだ。
 でも、やっぱり、レヴィアタンは何を言われているのか判然としない様子で、訝しそうに眉を寄せているだけなんだよなぁ。
 カバの見込み違いじゃねーのか?

『全く、長らくこんな鬱陶しい森にいて脳みそが腐ったんじゃないのか?オレは人間を大事だと思ったことなんか一度だってない』

 腕を組んで小馬鹿にしたように言い放つレヴィアタンの台詞には流石に傷付くけど、それでも泣き笑いしそうな俺なんか端から無視で、ベヒモスは疲れたように溜め息を吐いて言い返した。

『判った判った!それでは、オレにコイツをくれるんだろ?貰ってやるから魔城なり自分の棲み処なりに帰ればいい』

『…喰わないのか?』

『喰う、喰わんはオレの勝手だ。四方や、今更契約を無視するワケではあるまいな?』

『するワケないだろ。馬鹿馬鹿しい!』

 そう言うなり、レヴィアタンは宝飾品がジャラジャラ胸元を飾る漆黒の外套の裾を翻して、ヒョイッと宙に舞い上がったんだ。
 置いて行かれる…と、不安になって後を追いそうになったんだけど、話の成り行きでは俺はここに捨てられたみたいだし、今の白い悪魔には、俺は不要な存在のように思えたから、だから俺は、両手で拳を握って、これ以上はない強い力で握り締めて、捩れた枝に消えてしまう白い悪魔の後姿を見送っていた。
 枝の陰に消えようとしてるレヴィアタンの顔は、一瞬だったけど、不思議そうな困惑したような表情をしていたんだけど…やっぱり、枝の海に消えてしまった。
 そう、消えてしまった。
 俺をこんな寂しい森に残したまま、アイツは嘘を吐いて、俺を城から追い出したんだ。
 でも…

『ああ、馬鹿な人間だ。そんな風に、声も出さずに泣くなんて…声を出さなけりゃ、あの薄情な悪魔にだって聞こえやしねーのになぁ』

 俺は俯いてボロボロ泣いていた。
 でも、俺が本当に辛いのは置いていかれたことでも、城を追放されたことでもない。
 俺が本当に悲しいのは…そうまでして、ルシフェルから俺を遠ざけようとしている、レヴィアタンの本心を知ってしまったから。
 だから、悲しくて悲しくて…俺は立ち尽くしたまま泣いてしまった。
 可愛いカバの悪魔は、俺の気が済むまで、そうして泣き続ける俺の傍らにどっしりと座ったままで、ずっと傍にいてくれた。