俺が泣き止むのを待っていたルシフェルは、それから、不意に城内に響き渡るような大音声で薄情な白い悪魔を呼ばわった。
思わずキーンッと耳鳴りのする頭を抱えて目を白黒させる俺にはお構いなしに、ルシフェルは綺麗な顔を壮絶に歪めて、影になっている場所、その暗黒を睨み据えている。
その一言だけで、ルシフェルは他には何も言わなかったけど、それでも、今までに見たこともないぐらいには激しく怒っているみたいなんだ。
どうして、ルシフェルも灰色猫も、こんなにも俺のことを想ってくれているのに、絶対に吐いてはいけない嘘を吐くんだろう。
レヴィには俺がいないとダメだとか言って、本当は最愛のリリスがいるんだから、今の俺が、アイツの役に立つはずがないじゃないか。
世界がおかしくなったのは、リリスと些細な喧嘩でもして、それがレヴィアタンの心に障っただけなんじゃないのか?
『…黙って入り込んだワリには、堂々とした態度だな?』
ムスッと不機嫌そうに腕を組んだ白い悪魔が、ルシフェルが睨み据えていた暗闇からのっそりと姿を現した。何時からそこにいたのか、一部始終を見られていたのかとハッとした俺がレヴィアタンを見ると、そんな俺の、ささやかに怯えた表情を見て、一瞬だけど、眉を潜めた白い悪魔は、それから忌々しそうに舌打ちなんかするんだ。
『あ・た・り・ま・え・だ、この野郎。コレはオレのモノだと言った筈だぞ?お前が勝手にベヒモスのところに置きやがったから、仕方なく預けていたってのに、今度はこれかよ?なんてことをしてくれたんだ』
わざとらしく区切った言い方は、どうも挑発しているようにも聞こえるんだけど…ハラハラしたように胸元を掴んでルシフェルを見上げると、ヤツはそんな俺なんか気にした様子もなく、見事な柳眉を顰めてフンッと鼻なんか鳴らしやがるんだ。
あわわわ、それでなくても散々この目で見てきたんだ。凶暴で冷淡なレヴィアタンのことだから、きっと馬鹿にするなって怒り出すぞ!
血を見る…と、俺が息を飲んだときだった。
『別に黙って連れ出したワケじゃないさ。中間地に帰ると言ったから、中間地に連れて来てやっただけだろ?』
俺の心配は大きく的を外して、殊の外冷静にフンッと外方向くレヴィアタンが素っ気無く言うと、ルシフェルは『へー、そうかい』と言ってから、わざとらしく白い悪魔の冷静さにポカンと呆気に取られていた俺の頬に頬を寄せながらニヤッと笑ったんだ。
『じゃぁ、ご主人が迎えに来たんだ。連れて帰ってもいいんだよな?』
『…』
あんなにどうでもよさそうに素っ気無かったくせに、ルシフェルがそう言うと、レヴィアタンはバッと振り返って、それから燃えるような激しい目付きをして、旧知の友であるはずの傲慢な悪魔を睨み据えたんだ。
そんなものは蚊でも止まったぐらいにしか感じなかったのか、ルシフェルは素知らぬ顔をして俺の唇にチュッと音を立ててキスをすると、クスクスと、けして双眸は笑っていないってのに、薄笑いなんか浮かべるんだ!正直、超怖ぇぇぇ!!
なんか、物言わぬ攻防とでも言うのか、目に見えない不可視の火花が炸裂しているように感じるのは俺だけじゃないはずだ!
『待たせちまったな。じゃ、帰ろうか?』
「る、ルシフェル…?」
あっさりとそんなことを言ってくれるルシフェルの間近にある端正な顔を、俺は殆ど無意識に見上げていた。
こんな寂しい場所から、俺、本当に帰れるんだろうか。
我慢して今日までここにいたんだけど…もう、リリスと仲良くしているレヴィアタンを見たくないんだ。
大事にしていた想い出までも破壊されたみたいで心が引き千切れてしまいそうだったけど、それでも、俺の中にあるレヴィへの恋心は消えてくれないから、ここにいるのはとても辛い。
だから、俺は救いを求めるような眼差しをしていたんだと思う。
ルシフェルの名前を呼んだ瞬間、俺たちの背後にあった幾つものシャンデリアが音を立ててガシャンガシャンッと崩れ落ち始めたんだ!
とても豪華な品々で、ハッとした時には、回廊の端に飾られている綺麗な絵画が彫られた壷までが弾け飛んで、俺は思わず首を竦めてしまった。
『誰が連れ出していいって言ったんだ?』
暗黒の冷気…とでも言うのか、今まで感じたこともないほどの殺意のようなオーラを感じて、俺は思わずゴクリと息を呑んでいた。
な、なな…レヴィアタンはどうしたんだろう。
『…なんだと?』
対をなす、魔界の実力者たちは、お互いの力量を知っているのだろうに、それでも、一歩も退かずに睨み合いを続けている。
『ここはオレの領域だ。たとえ、ルゥの所有物でも、オレの領域に入ったのなら、主の許しがなければ出て行けないことは承知済みのはずだろ?』
『あー、判ってるぜ?だから、連れて帰るってちゃんと報告してるだろ?』
俺を抱きあげたままで肩を竦めるルシフェルに、レヴィアタンは酷く極悪な面構えをしてニヤッと笑ったんだ。
『ダメだね。そんな態度じゃな。どうしても連れて帰るって言うのなら…ルゥの大事な魂とやらを寄越せ』
たぶん、最初から狙いはルシフェルの掛け替えのない宝物だったんだろう。
その事実に、俺の心は今更ながら傷付いて、涙の代わりに溜め息が零れていた。
俺はただの囮にすぎなかったってワケだ。
『!』
その魂の所有者が俺であることを、実はレヴィアタンは知らないんだ。
まさか、そんな条件を出すとは思ってもいなかったルシフェルは、一瞬言葉を飲み込んだが、次いで、不意にその目線を落としてしまった。
その目線は、ひっそりと俺を見詰めている。
判ってるんだ、そんな眼差しで見なくても。
ルシフェルは傲慢で尊大な大悪魔のクセに、どうしたワケか、俺を気に入ってくれている。だから、今の言葉に誰よりも俺が傷付いている事実に、やっぱり誰よりも先に気付いてくれたんだと思う。
『…判った、オレの大切な魂をくれてやる。その代わり、お前は今後一切、その魂の持ち主に嘘は吐くな』
「!」
ルシフェルの申し出に、驚いたように目を瞠る俺が口を開く前に、腕を組んで胡散臭そうなツラをするレヴィアタンが口を開いていた。
『なんだと?ソイツを連れ出す条件に、さらにお前が条件をつけるのか?』
『そーだよ。オレが大事に見守っている魂は、コイツだからな』
そう言って、俺を軽々と抱き上げているルシフェルは、その両腕を差し出すようにしてレヴィアタンに掲げて見せたんだ!
俺は思わずギョッとして、慌てたようにルシフェルの顔を見た。
『?!』
でも、同じように驚いたツラをするレヴィアタンが、唖然として掲げられている俺を、金色の双眸で見詰めてきた。
『判ったか。あと、ムカついてもコイツを殴るんじゃねーぞ。今度、少しでも頬が、いや身体のどの部分でも、殴られているのを目にしたら、今度こそお前の心が崩壊しようがどうしようが、ここで一戦交えてやる!』
一瞬だけ、名残惜しそうに俺を見たルシフェルは、それから呆気に取られているレヴィアタンの、ジャラジャラと宝石やらなんやらが飾る胸元に、俺の身体を押し付けやがったんだ。
勿論、冗談じゃないと思っているレヴィアタンが俺を抱きとめてくれるワケもないから、ルシフェルが腕を離したと同時に、襲ってくるだろう痛みを覚悟して俺はギュッと目蓋を閉じていた…けど、その衝撃は訪れなかった。
それどころか、焦ったツラをしているレヴィアタンの顔が間近にあって、却って違った意味で俺の心臓は高鳴ってしまった。
こんな状況なのに、高鳴る俺の心臓って…いや、もうちょっと自重しろよ、俺。
「る、ルシフェル!…お前まで俺を騙すのかよ」
胸を高鳴らせている場合ではないんだ。
ここに置いて行かれるなんて予想外だったから、俺は、リリスに微笑むレヴィアタンの顔ばかり思い出して、腕に抱き止めて貰っておきながら、嫌だと暴れて、スッと身体を離したルシフェルを恨めしそうに睨んでやった。
そうすると、傲慢な悪魔はらしくもなく爽やかな笑みをニッコリ浮かべて言いやがったんだ。
『誰もお前を連れ出してやる…なんて約束はしてないぜ?そもそも、お前が選んでここに来たんだろ。だったら、最後まで、その想いとやらを遂げてみせろよ』
それは…リリスがいるのに無理に決まってるじゃねーか。あれは、まだレヴィアタンに伴侶がいるなんて知らなかったから、俺はきっと、レヴィを愛し続けると豪語できたんだ。
酷いよ、ルシフェル。
誰か他に想い人がいる相手に、自分の想いを遂げるなんて…俺はそんな酷いことはできない。きっと誰かが傷付くし、そして、それ以上に、自分自身が傷付くに決まっている。
あの深い愛に満ちている2人の間に、どうして、人間の俺が介入できるって言うんだ。
ここから、どうか、連れ出して欲しい…
『せめてレヴィアタンに聞いてみろよ。ソイツはたった今、オレと契約を結んだんだ。二度と、お前に嘘は言わないし、殴ることもしないんだぜ?』
ルシフェルは腕を組んだままニヤニヤと笑った。
その台詞に、何か言いたそうな表情で俺を見下ろしていたレヴィアタンは、ハッと我に返って、それからバツの悪そうなツラをしてギッとルシフェルを睨んだみたいだったけど…それでも、俺を抱きとめてくれた腕の力は抜かなかった。
どうやら、磨かれた床に激突しなくてもすみそうだ。
ホッと息を吐いたと同時に、そう言えば…レヴィアタンは、一方的とは言え、契約したんだ。いや、違うな。一方的じゃない、レヴィアタンが進んで契約を持ち出したんだから、この場合は、非は我侭な白い悪魔にあると思うぞ。うん。
俺が、傲慢で尊大で、誰の言うことにも耳を貸さないほど唯我独尊的な大悪魔だと言うのに、心を傾けて大事にしていた魂だと知ったレヴィアタンは、旧知の友を睨みながらも、少し動揺しているようだった。
『…オレは、冗談のつもりだったんだ。何千年も前から、お前が嬉しそうに話していた魂を見たいと、そう思っただけなんだ』
それは、あれほど我侭なレヴィアタンからは想像できない台詞だった。
本気で喧嘩をしても、何があっても、やっぱりレヴィアタンにとってルシフェルは好敵手であり、大事な親友なんだろう。
動揺したように、愕然としたような表情で自分を見詰める黄金色の双眸を見詰め返して、ルシフェルはそれでもクスッと笑ったみたいだ。
何ものにも替え難い宝だと…ルシフェルはレヴィアタンに語っていたそうだ。
その宝を、まさかこんな風に、いともアッサリと自分に寄越すとは思っていなかったのか、だから余計に動揺して、どうしたらいいのか判らないと、その気持ちが手に取るように良く判った。
『じゃぁ、破棄するか?それで、光太郎もオレに返せるのか??』
『!』
ハッとしたように、レヴィアタンは反射的に俺を抱き締めた。
あれほど、機嫌が悪ければ殴ったり、気に食わなかったら突き放していたくせに、まるで俺のことを…手離せないと言ってるみたいじゃないか。
そんなのはズルイんだぞ。
今更、僅かでも俺を喜ばせようとか…思ってるワケはないんだけど、それでも俺は喜んで、そして酷く傷付くんだ。
リリスがいるのに…その傍らに俺を置くつもりなのか?
俺は、古い考え方かもしれないけど、一夫一婦制を重んじてるんだぞ。
誰か他の人がいるのに、ソイツに寄り添えるほど、俺の心臓には毛は生えてないんだぜ。
『嘘はダメだぞ、レヴィ。オレが大事にしている魂を手離せないだろうと踏んで、交換条件に出したつもりなんだろうが…お生憎さまだな。オレにとってその魂は全てで、その魂が悲しむことをオレが望むと思うのか?冗談じゃない。そんな姿を見るぐらいならくれてやるよ』
ルシフェルの俺の中にある魂を想う気持ちは、愛だとか恋だとかを超越していて、何よりも最優先だと前に言っていたことを思い出した。それなら、どうして…ここにいることをこんなに嫌がっている俺を残して行くんだと、前の俺ならそう思ったに違いない。
でも、それは違う。
ルシフェルは契約を持ちかけたレヴィアタンを巧く利用して、俺が有利になる契約を結んでしまったんだ。破棄することもできるんだろうけど、何故か、レヴィアタンはそれに頷かなかった。
『だから、オレに代わって、ちゃんと大事にしてやってくれよ。オレが見守り続けた魂なんだ。お前なんかの薄汚れた心の領域に置いて行くのは忍びないんだがな』
最後は本気で嫌そうに言い放ったルシフェルだったけど、レヴィアタンはそれには何も言わなかった。
それよりも、自分とルシフェルが求めたモノが一緒で、今ではそれが自分の手許にあることに、静かに驚いているみたいなんだ。
『…別にオレは、お前の大事にしている魂が欲しかったワケじゃない。オレは…オレは、その、コイツを気に入ったんだよ』
まるで語尾は消え入るような掠れた声で呟いて、それから、まるで高血圧のひとみたいに、レヴィアタンは急に牙をむいて怒鳴ったんだ。
『ああ、そーだよ!ルシフェルの言うとおりだッ。オレはお前の大事な魂なんか、これっぽっちも興味はない。ただオレは…コイツが欲しいんだ!』
「!」
悔しそうに歯噛みしているレヴィアタンを見上げて、俺の双眸は咳を切ったみたいにポロポロと涙を零してしまった。
その声も、表情も、髪の色も何もかも…全部レヴィなんだけど、心だけがレヴィアタンと言う海の魔物で、俺のことを知らない大悪魔のはずなのに、まるでレヴィみたいに俺を欲しいと言ってくれた。
たとえ、心の中にリリスと言う大切な存在を隠していたとしても、今だけは、俺は素直に嬉しいと思って泣けて泣けて仕方なかった。
でも、いつか…俺はリリスよりも先に、お前の前から去る日がくると思う。
レヴィに誓った永遠なんか、本当は俺のほうこそ嘘だったんだけど…それでも、この目蓋が閉じて、もう二度と目覚めないその時まで、きっと、俺はレヴィとレヴィアタンを忘れないと思う。
その次の器に魂が入ったとしても、それはもう今の俺ではないから、俺に永遠なんてないんだけど…それでもレヴィ、瀬戸内光太郎で在り続ける間は、精一杯、お前を忘れずに愛し続けるからな。
たとえお前が、リリスを愛するその片手間で、俺を気に掛けてくれているだけでもいいんだ。
俺はきっと、忘れないから。
『あーあ、畜生。人間に告る日がくるとはなぁ…まぁ、その人間はオレのことを毛嫌ってんだけどな!』
フンッと外方向くレヴィアタンに、ルシフェルはクスクスと笑った。
毛嫌っているヤツが、嬉しくて泣いたりするかよ…って俺も思うんだけど、それでも何も言えずに鼻を啜ってしまう。
『殴ってたんだろ?そりゃ、嫌われて当然だ。これからは精一杯、大事にしてやれよ』
『オレの愛情表現は暴力だ!…どうやって大事にしたらいいのか、判らねーよ』
冗談めかして言って、それは照れ隠しだったのか、知ってるくせに聞くんじゃねぇと言いたそうにルシフェルに噛み付いたけど、そんなもの、蚊が止まったほどには…って、ルシフェルはどれほどレヴィアタンを歯牙にもかけず、あしらってんだと呆れてしまった。それでも、2人は旧知の友で、それはこれからも永遠に続くんだろうなぁと思ったら、ちょっと羨ましかった。
そして俺は、やっぱりリリスが羨ましいなぁと思うんだ。
どうして俺は、人間だったんだろう。
リリスよりも先にレヴィに、レヴィアタンに逢っていたら、もう少し、この運命は変わっていたかもしれないのに…俺は悪態を吐きあう2人を交互に見詰めながら、諦めたように溜め息を吐いていた。