第二部 8  -悪魔の樹-

 その後の俺と言ったら、振り返ったらきっと後悔するに違いないってのに、やたら浮かれてはしゃぎまくっていた…って、いや勿論。
 ここは薄ら寒い殺気のような、どこか落ち着かない気配が漂う魔界なのだから、はしゃぐと言っても声を上げて笑うとか、転がり回るとか、んな場違いな行動を起こしてるワケじゃないんだぜ?
 いや、俺だって命ぐらいは惜しいよ。
 ヘラヘラ笑ってる…ってのが、正しい表現かもしれんな。
 それこそ、今は俺のご主人になっているルシフェルでさえ、ポカンッと、呆気にとられたような間抜け面をするぐらいなんだから、その顔のしまりのなさは余程だったんだろう。

『顔が溶けそうだな、おい』

「気持ち悪ぃ発言するな…つっても、全然気にならないけどな~♪」

『…ぐは、気持ち悪ッ』

 俺の浮かれぽんちに、ルシフェルはやれやれと溜め息を吐くものの、それでも何処かホッとしたように笑う辺り、この(レヴィにとってもだけど)悪友は、見た目以上に極悪…ってワケでもないんだろう。
 まぁ、そりゃそうか。
 俺やレヴィのために、悪魔なのに、無罪放免で俺たち人間が暮らす世界に戻ってたって言うのに、わざわざうんざりする魔界に帰ってきてくれたんだからな。
 本当なら、感謝するべきところなのに、俺も大概、恩知らずだって反省してしまうよ。
 でも、顔は笑っちゃうんだよなぁ…いや、ホント。
 友達甲斐のないヤツでスマン、篠沢。

『まぁさぁ、つれない顔して、寂しそうに俯いてばかりいられるよりは、オレとしてはこっちの光太郎の方が随分とマシに思えるからいいんだけどさ』

 瞼を閉じてバフンッと幾つも積まれている、豪奢なクッションに背中からダイブしたルシフェルは、頭の下で両手を組んで機嫌が良さそうだ。
 やっぱ、眉間に皺を寄せてムッツリ黙り込んでばかりいたから、そんな俺を見るよりは、鬱陶しくなくて気が楽にでもなったんだろうな。

「ところどでさ、篠沢。そろそろ、出発してもいいんじゃないのか!?」

 機嫌が良さそうなルシフェルに、俺はベッドに飛び乗って、頭の下で腕を組んでグーグー眠りそうな綺麗な顔を覗き込んでせがんでみた。
 もう、何度となく繰り返しているんだけど、やっぱり、ルシフェルは機嫌が良さそうにキッパリと宣言した。

『まだダメだ』

「…またかよ。もう、その返事は聞き飽きたんだけどよ」

 ムッとして、ジトッと睨み据えても、さすが魔界に君臨する泣く子も黙る堕天使様は、全く意に介した風もなく素知らぬふりで寝たふりなんかしやがるんだ。
 そうなると、傲慢が服を着てるような頑固な悪魔は何が何でも、梃子でも動こうとしないから厄介だ。
 だから俺は、仕方なく溜め息を吐いて、もう暫くだけ幸せの余韻を噛み締めておくことにした。

 それから暫くして、俺はまた、ルシフェルが城を留守にするからと、くれぐれも目立つことはするなと言い付けられて残った魔城で、灰色猫も、最近は忙しそうで相手してくれないし、またふらふらと城内を歩き回ることにしたんだ。
 この魔城ってのはヘンなところで、常に空間が移動してるとか何だとかで、この間行けたはずの食堂に辿り着くことができなくなってるから、まるで迷路、目的地まで延々と探し回らないといけない。
 ルシフェルの部屋に戻るときは、それでも便利なんだよな。
 俺のご主人になってるから、アイツの部屋に戻りたいと願えば、自然と目の前に扉が出てくるんだ。そこがたとえ、廊下の真ん中でも平然と。
 疲れたなー、もう歩きたくねーな、ルシフェルの部屋って何処だったっけ?…とか、そんなことを考えていたら、いきなり目の前にデーンッと現れたりするから、思い切り鼻っ面をぶつけてしまった嫌な思い出がある。
 だから、最近はちゃんと立ち止まって、一呼吸おいてから、部屋よ現れろ!…とか、カッコ付けて言ってみたりする。
 今はまだ、出てきたばかりだから部屋はいらないけどな。
 ふらふら歩いていたら、ふと、目の前に天使が悪戯に人間に化けました…ってな面をした、品の良い顔立ちのヴィーニーが足音もなく近付いてきた。
 たぶん、滑るように歩くとか、優雅だとか、そんな形容詞が良く似合う美少年なんて、うげーな呼ばれ方をする綺麗なヴィーニーは、俺になんか目もくれずに真っ直ぐに前を向いたまま通り過ぎていく。

 おい、ちょっと待てよ!レヴィは何処にいるんだ!?…腕を掴んで引き止めて、捲くし立てられたんだったら俺も天晴れなんだろうけど、近寄り難い品のようなものを撒き散らすヴィーニーを、引き止めて悪態を吐くなんて芸当は、一般市民の俺には到底できない芸当だと、トホホな心境で見送るしか術がない。
 駄目なヤツだなぁ、俺って。
 でも、ふと俺は思うんだ。
 あんなに綺麗な、なんでもそつなくこなせる完璧なヴィーニーでも、やっぱり、何か罪を犯してこの魔界に堕ちてしまったんだな…でもなんか、ヘンな気分だ。
 きっと、向こうの世界で生きていれば、誰からでもちやほやされるに違いないのに、どんな罪でヴィーニーはこの魔界にいるんだろう。
 魔界…ってのも、ヘンな言い方だよなぁ。
 肌寒いような、常に鳥肌が立つようなこの感覚は、たぶん、恐怖だとか殺気だとかが渦巻いているせいだと思うんだけど、それよりも、深い深い…俺たちなんかじゃ想像もできないほど凶悪な何かが潜んでいるような、魔城の窓から覗くこの惨憺たる景色は、どこをどう見ても、立派な地獄に見える。
 こんなところにレヴィはいて、そして、ここで世界の果てを見ていたんだなぁ。
 通り過ぎるヴィーニーの身体からは、嗅ぎ覚えのある、忘れることなんかできるワケがない甘ったるい、あの桃に似た芳香が漂っていた。
 できればいつまででも嗅いでいたいその匂いが、今は吐き気を覚えるほど嫌なものに感じてしまう。
 その匂いが、ヴィーニーだけじゃない、俺以外の他の誰かから漂うことが、こんなに気分の悪いものだったなんて…そんな風に考えてしまう自分の浅ましさみたいなものを見せ付けられたような気がして、地獄の奥深い陰険さにムカついただけなのかもしれないけど。
 ヴィーニーをやり過ごして俯いていたんだけど、もしかしたら、あのままヴィーニーの後を追えば、もう一度白い悪魔に逢えるんじゃないかとか…そこまで考えて苦笑してしまう。
 逢ったって、どうせレヴィは俺のことを覚えてはいないし、お気に入りのヴィーニーにコソコソくっ付いている俺なんか、小煩いハエぐらいにしか思わないような目で見られるのも癪じゃねーか。
 やめた、ヴィーニーを追おうなんて、何馬鹿なこと考えてるんだよ。
 …太陽が眩しくて、見上げれば、変な話なんだけど、青空の下で真っ白な髪をした悪魔が嬉しそうに笑うから、その声を聞けるから、それら全てが当然のことで、まるで当たり前だなんてどうして考えていたんだろう。
 悪魔なのに、悪魔の癖に人間みたいに優しくて、ちっとも悪魔らしくない、そんなレヴィが好きだった。
 陰険で嘘吐きで、凶暴そのもので冷酷無情だなんて、いったい誰が言ったんだ?
 俺が知っているレヴィアタンと言う悪魔は、揺ぎ無い自信を持っている威風堂々とした、海の王者だ。
 津波を起こすこともなく、悪魔に不可能のない、優しさを持っていた。
 でも、たとえば、それら全てが悪魔の樹が成しえたことだったとしたら…俺はどうするんだろう?
 本当は無情な悪魔で、俺なんか、虫けらぐらいにしか思っていないような、酷い(本来はそれが当たり前なんだろうけど)悪魔だったら…それでも俺は、レヴィを好きなんだと思う。
 与えられた優しさを、忘れてしまうには、あまりに鮮烈で強烈な印象だ。
 忘れられやしない。

「ご主人さま」

 きっと、思い切りニッコリと微笑んだに違いない声音で、ヴィーニーの弾んだ声がした。
 思わず振り返りそうになるのを必死で耐えて、耳に届くだろう、あの聞き慣れた声を待ち焦がれていた。
 そんな自分の姿は滑稽で、できれば消えてしまいたい衝動にも駆られたのに、それができないほど俺はその声を…いや、声の持ち主を待ち焦がれているんだ。

『…』

 それでも、待ち望む声は聞こえなくて、ふと、肩越しに振り返ったら、それでも白い悪魔は冷徹な眼差しでヴィーニーを尊大に見下ろしていた。
 そのふてぶてしい態度は、ヴィーニーなんかどうなっても構やしないとでも言いたげで、あんなに上機嫌だったはずなのに、その目付きはもう、興味の失せた人形でも見るような声を出すのも億劫だとでも言いたげな、侮蔑の態度だったと思う。
 その180度豹変した、お前どうしちゃったの!?と、思わず聞かずにはいられないような態度の変化に、それでもヴィーニーは弾んだ声で自らのご主人に擦り寄ったんだ…胸はズキリと痛むはずなんだけど、そんなことを考えるよりも早く、レヴィは煩いハエでも払うように、絡み付いてきた華奢な腕を振り払った。

『馴れ馴れしくするな。下賎の輩は性質が悪い』

 不機嫌そうに振り払った腕は、そんなに大したようには見えなかったのに、ヴィーニーは派手にすっ転んで、一瞬、何が起こったのか判らない顔をした。それでも、動揺したようにレヴィを見上げたんだけど、心の芯まで冷え込むようなブリザードを纏う白い悪魔の声音に、凍りついたように身動きできずにいるようだった。

『レヴィアタン様、如何なさいましたの?』

 ふと、そんなレヴィの背後から声を掛けるヤツがいて、どうしていいのか判らないまま、呆気に取られたように事の成り行きを見守るしかない俺の目の前で、レヴィは冷徹な黄金の双眸で、やっぱりどうでもよさそうに声の主を見ることもせずに吐き捨てた。

『アスタロトと交換した奴隷だが、もう飽きた。欲しければやるぞ』

『えぇ?本当??』

 声の持ち主は、やたら胸元を強調する古風な深紅のドレスを着て、豊かに結い上げた漆黒の髪が気だるげに解れて頬にかかる、退廃的な美貌の女だった。
 レヴィと並べば完璧な対になるほど、整った顔立ちの女は…って、どうして悪魔ってこんなに美形が多いんだ?…なんか知らねーけど、非常に腹立たしいんだが。

『でもねぇ、アスタロトの奴隷でしょ?あたしはいらない。彼女に返してあげればいいわ』

『物好きなベルフェゴールがいらないとはな』

 フンッと鼻先で笑いながらも、けして相手を見ようとしないのは…もしかしたら、ルシフェルよりも、本当はレヴィの方が傲慢なんじゃないかと疑ってしまう。
 いや、その前に、どうしてアスタロトが【彼女】なんだ!?
 今のこの状況で、驚く部分が微妙に間違っているような気もしなくもないんだけど、緩やかな濃紺の巻き毛の、あのチャランポランそうで怠惰な、それから、寂しげな悪魔が女だって言うのか!?…うぅ、信じられん。 だって、俺はアイツに散々お、犯されたんだぞ。
 身体で思い知ったって言うのに…

『あらぁ?ルシフェル様の奴隷ちゃんじゃない』

 思わずガックリしそうになる俺に、退廃的で気だるげな美人がゆったりと声を掛けてきた…んだけど、俺はこんな綺麗な悪魔のおねぇちゃんは知らないし、でも、(気持ち的には冗談じゃないんだけど)ルシフェルの奴隷になったことには間違いないから、仕方なく!ご主人のために笑って愛想良くすることにした。

「こ、こんにちは」

 思わずはにかんだら、女悪魔は気だるそうなのにニコッと笑い返してきた。
 思わず、ほやんっとなる笑い方に、悪魔なんだけど、このおねぇちゃんは害がなさそうな気がした。
 いや、あくまで気がしただけであって、悪魔なんだから害がないワケないことは十分、アスタロトで承知しているから警戒は怠らない。魔界で覚えた護身術だ。

『…なんだと?』

 ふと、そんな美人な悪魔とヘラッと笑い合っている俺の耳に、氷点下よりももっと冷たい、心臓が凍り付いちまいそうな声が滑り込んできて、意味もなくビクッとしてしまった。

『ルシフェルの奴隷だと?』

 軟なハートでは到底、太刀打ちなんかできない魔界の実力者の凄味に、思わず青褪める俺なんか無視して、手許で弄んでいた漆黒の羽根の扇で口許を隠しながら、女悪魔は殊更のんびりと答えてレヴィを苛々させたようだ。
 スゲーな、悪魔のねーちゃん。

『あらぁ、レヴィアタン様は知らなかったの?この子はルシフェル様の奴隷で、一番のお気に入りだそうですわよ』

『まさか!』

 レヴィの即答に、どうやら真剣にそんなはずはないと思い込んでいる様子が伺えて、俺は怪訝そうに眉を寄せてしまった。
 どうして、こんなに全否定するんだ??
 だって、悪魔なんて連中は、常に奴隷を侍らせてるんだから、俺みたいな奴隷の1人や2人…って、そうか。悪魔のねーちゃんが【お気に入り】なんて言ったからビビッたのか。まぁ、そりゃそうだよな。俺みたいな何処にでもいそうな人間がお気に入りじゃ、あの幻みたいに綺麗なルシフェルに失礼だよな。
 そう言ってしまうと、俺を愛していると言ってくれるレヴィの立場もなんだかな…ってことにはなるんだろうけど、この白い悪魔と俺の悪友であるルシフェルの為にも、ここは俺が大人になるべきだ。うん。
 レヴィの氷の美貌に怯んでる場合じゃない。

「とんでもありません」

 えーっと…確か。

「ベルフェゴール様、俺はルシフェル様のお気に入りなんかじゃないです」

 名前、間違ってないよな?
 さっき、レヴィは確かに、この悪魔のねーちゃんのことをベルフェゴールって呼んでたからな。

『うふふ。謙虚な奴隷ちゃんねぇ』

 ホッ、どうやら、名前は間違ってなかったみたいだ。

『…そんな、馬鹿な。ルシフェルが』

 レヴィは雷に打たれでもしたように、黄金の双眸を見開いて俺を睨み付けるから、どれだけ憎まれてるんだと、あらぬ疑いを自分自身に持っちまうじゃねーか。
 コイツの、この目だけはどうしても好きになれない…と、今、気付いた。

『そうですわねぇ。奴隷を1人もお召しになったことがないあのルシフェル様が、お気に入りとまで呼ばれて、寝所を共にされているんですもの。驚いてしまいますわ』

 どうやら、全く悪気はないんだろう。
 まるで世間話でもするかのように、って事実、悪魔のねーちゃんにとってはただの世間話に過ぎなかったのに、どうもそうではなさそうなレヴィの態度に俺がビビたって仕方ない。
 だって、相手は俺を完全に忘れてる魔界の実力者で海の王者なんだ。

『そんな話は聞いてないッ』

 別にレヴィが聞いてなくても、そんなのルシフェルの勝手じゃねーのかと、思わず突っ込みを入れたくなる俺の前で、白い悪魔は綺麗な顔に似合わずかなり怒っている様子で踵を返したんだ。

『あらぁ…ルシフェル様のところに行かれますの?では、この奴隷は如何致しますの?』

 踵を返すついでに、どうしてか、レヴィはガシッと俺の腕を掴みやがるから、引き摺られるようにして連行される俺に言ったのか、はたまた湯気が出るほど怒り狂っている白い悪魔の背中に言ったのか、恐らく後者に決まってるんだろうけど、情けないほど泣き出しそうな顔をしているヴィーニーの前で、気だるげに扇を弄んでいる中世の貴婦人…ってのは言い過ぎの美貌のユルイ女悪魔にレヴィは短く吐き捨てたんだ。
 勿論、振り返りもしないで。

『くれてやる!』

『あら、まぁ』

 心底困ったように眉根を寄せる悪魔のねーちゃんと、気の毒なヴィーニーには悪いんだけど、もしかして、今一番危機なのはズバリ俺じゃないのか!?
 どうして俺が怒られなきゃならないんだ、心外だぞ!
 と、捲くし立てられたら俺も天晴れなモンだけど、やっぱりしがない普通の高校生は、青褪めたままで引き摺られる羽目になるんだろう。
 うぅ、俺、どうなるんだ…ッ!?

第二部 7  -悪魔の樹-

 魔の森に赴くのは、俺の身体が完全に回復してからにしようと、ルシフェルが自室のベッドに俺を放り投げながら提案したから、俺は暫くこの魔城で過ごさなければいけなくなった。
 とは言え、身体の方は2日で元気を取り戻したんだけど、心配性のルシフェルと灰色猫がそれを信じてくれなくて、結局、未だに魔城にいるってワケだ。
 何もすることもなくて手持ち無沙汰でブラブラしていたら、何時の間にか誰もいない食堂に来ていたらしく(迷ったなんて絶対に言わないんだけどな)、シンッと静まり返った厨房を覗いてみたんだけど、やっぱり誰もいなかった。
 誰もいないんだから断る必要もないよなと、自分で勝手に解釈して、俺は我が物顔で厨房内を勝手に見回っていたんだけど…あれ?ここの食材って俺たちの世界で使ってるのとソックリじゃないか。
 ジャガイモに似た野菜に、何の肉か判らないけど牛肉らしい肉、調味料も何でもござれ…って、これならアイツが好きな肉ジャガだってできるな~

「そうだ、どうせレヴィには食ってもらえないだろうけど…世話になってるルシフェルや灰色猫に俺特製の肉ジャガでもプレゼントするか!」

 今の俺にできることと言ったら…これぐらいだもんなぁ。
 それでも久し振りに包丁を握って調理支度を始めると、何故かウキウキしてしまって、ああ俺ってホントに主夫だよなぁ…と、思わず情けなくてトホホホッと笑っちまった。
 心の奥深い部分では…いや、違うな。
 頭では判っているんだ、いますぐにでも飛び出して行って、レヴィの記憶を取り戻すことができるって言う【約束の花】を取りに行きたい。
 でも、と、俺の頭の中で別の声が逸る気持ちに抑制をかけてくる。
 ホントウニソンナハナハソンザイスルノカ?
 …自信なんかこれっぽっちもなかった。
 灰色猫が、ルシフェルが、アスタロトが言うから、信じてみようと思っているだけだ。
 きっと、俺のこんな部分が、ルシフェルに言わせれば『悪魔に身包み剥がされる性格』ってヤツなんだろうな…それでも、何かに縋っていないと、今の俺は満足に立っていることすらできないんじゃないかって思うほど、草臥れていた。
 ヴィーニーと睦まじく姿を消す白い悪魔の背中を見詰めた時、ハンマーで頭を殴られたような衝撃があって、それ以来、なんだかあやふやな水の中を呆然と歩いているような、奇妙な違和感が纏わりついて離れてくれない。
 それが、今の俺の心境だったから、せめて大好きな料理でストレス発散しよう…って思うのは、やっぱり普通の男子高校生としてはおかしなことだよなぁ。
 ムムム…ッと、包丁とジャガイモを握り締めて眉根を寄せていたんだけど…あんまり馬鹿らしいんで、俺は適当な皮むき器も見つからないことだし、仕方なく、手にした良く磨かれて鋭く光る包丁を使うことにしたんだ。

「肉ジャガ肉ジャガ…ジャガジャガジャガ♪」

 適当に作った鼻歌なんか歌って、思い切りリラックスしていたもんだから、俺は気付かなかった。
 厨房の入り口に佇む影のように静かな存在に…
 別に、気配を感じたとか、そんなつもりはなかったんだけど、なんとなく振り返った先に、物言わぬ影のようにヒッソリと立っていたらしいソイツは、フンッと鼻で息を吐き出してから、うっそりと凭れかかっていた壁から身体を起こすと、組んでいた片方の腕を腰に当てて軽く睨むようにして俺を見返したりするから吃驚した。

『こんなところでアスタロトの奴隷が何をしているんだ?』

 聞き覚えのある…いや、聞き慣れ過ぎていて、そのくせ、今はとても懐かしい声音に俺は、思わず泣き出しそうになってしまって、慌てて俯きながら首を左右に振って見せた。

「も、申し訳ありません!勝手に厨房に入ってしまって…ただ、ルシ…主人に食事をご用意しようと思いまして」

『食事だと?』

 ゆっくりと腕を組んで小馬鹿にしたように、丸い木の椅子に座って途中まで剥いたジャガイモと包丁を握り締めている俺を見下ろしていた白い悪魔は、もう一度鼻先で笑ってから、やっぱり馬鹿にしたように肩を竦めて見せたんだ。
 どんなに馬鹿にされても、どんなに皮肉を言われたとしても、やっぱり俺は、そこにそうして佇んでいる古風な中世の貴族のような出で立ちをしている白い悪魔の、肩に一房だけある飾り髪も、ジャラジャラの装飾品も何もかも、全てを愛しいと思ってしまうんだなぁ…
 その事実に、眩暈がした。
 眩暈がして、それから、途方に暮れてしまった。
 ああ、どれだけ俺、この白い悪魔を好きなんだろう。

『人間如きが作る瑣末なモノを、四方やアスタロトが口にするとは思っていないんだろ?』

「い、いいえ。アスタロト様にお持ちするんじゃありません…」

『なんだと?オレはお前を、アスタロトに渡したはずだが??』

 そこには事情があるんだよ…って、いつもの俺ならかるーく噛み付いてやるところなんだろうけど、悪魔としての威厳を取り戻しているレヴィには、けして逆らってはいけないと、灰色猫から拝み倒すようにして約束させられたから、仕方なく忠実にその誓いを守ってるってワケだ。
 オマケに、ルシフェルにまで睨まれてるんだ、反抗なんかできるかよ。

「…えっと、それは。あ、そうだ。どうですか、レヴィアタン様。結構、俺の作る料理は美味いんですよ。一度、召し上がってみませんか?」

 ニコッと、精一杯の愛嬌を振りまくつもりで笑って見上げたら、懐かしい白い睫毛に縁取られた黄金の双眸が一瞬、僅かに一瞬ではあったんだけど、らしくもなく、動揺したように揺れたように見えたのは、俺の都合のいい錯覚だったんだろうか。
 レヴィはうんざりしたように眉間に皺を寄せていたけど、それでも溜め息を吐いみたいだった。

『人間如きの瑣末な代物を口にするなど、甚だ不愉快なんだがな。お前の主人とやらが口にするとなれば、少しばかりは期待できるんだろうよ』

「レヴィアタン様、美味しいですよ。是非、召し上がって下さい」

 それが何を意味しているのか判らなかったから、俺が失礼は承知で丸椅子に腰掛けたままで不機嫌そうな白い悪魔を見上げて精一杯食い下がると、レヴィはツンッと外方向いて言い放ったんだ。

『仕方ない。そこまで言うのなら、毒味をしてやろう』

 どうやらそれは、単なる照れ隠しだったようだ。
 思わず、俺はクスッと笑ってしまった。
 大悪魔様のご悪友にして、海を統べる絶対的統治者であるリヴァイアサンの知られざる側面を見たようで、俺が嬉しそうに笑っていたら、白い悪魔はほんのちょっとだけど、面食らったような顔をしたみたいだった。

「判りました。では、超特急で作りますね♪味の保障は任せてください」

 クスクスと笑ってジャガイモの皮むきに取り掛かる俺に、腕を組んでいたレヴィはバツが悪そうな顔をしたんだけど、それでも、やれやれと腕を解いて厨房に設置されている、恐らくは人間の奴隷たちが賄い食でも食べる場所なんだろう、粗末な木製の椅子を引き出して腰掛けると、油とかで汚れているテーブルに頬杖なんかついたんだ。

『超特急で作らなくてもいい。オレは味に煩いんだ。十分、心して作るんだな。時間なら、まだまだある』

「…はい」

 でも、アンタはヴィーニーと大切な時間を過ごすんじゃないのか…とか、そんな憎まれ口を叩きたくなったんだけど、ふと、顔を上げたら、俺の調理風景を楽しそうに眺めていたあの頃のレヴィのように、テーブルに頬杖を付いて俺を見つめてくる白い悪魔を見た瞬間、俺は思わず泣きそうになっていた。
 だから慌てて俯いたんだけど、レヴィは気付いてはいないようだ。
 そんな風に、口許に薄っすらと笑みを浮かべてお前、俺が料理するところを楽しそうに見ていたんだぞ。なぁ?少しも思い出せないのか??
 あんな風に幸せだった日々を、本当にすっかり忘れてしまったのか?
 なぁ、レヴィ…そんなに、俺たちが過ごした時間は呆気なかったのかな…
 頬をポロッと涙が零れた。
 一番、考えたくないことを、こんな風にレヴィと穏やかに過ごす時の流れの中で考えてしまうと、両手で抱き締めているはずのものが、呆気なく指の隙間から零れ落ちてしまいそうで、緩んだ涙腺をとめることができなかった。
 一粒、ポロリと零れてしまうと、次から次からポロポロ涙が零れて、胸の奥が痛くなって、俺は初めて、切ないと言う気持ちを感じていた。
 滲む手許に必死に集中していると、ふと、溜め息が聞こえてドキッとした。
 見られないように俯いていたはずなのに…

『オレに喰わせるのがそんなに辛いのか?』

 全く的外れだよ、レヴィ。
 どうして、不遜な海の君主はこんなに鈍感な野郎なんだ!

「とんでもありません、レヴィアタン様!ちょっと、目に沁みて…」

『…ふん。そう言うことにしてやってもいいんだが、お前の新しい主はアスタロトより酷いのか?』

 服の袖で慌てて涙を拭いながら、ジャガイモもどきの皮むきを再開しようとした俺は、ちょっとだけハッとしたようにレヴィを見返して、不機嫌そうな、そのどうでもよさそうな黄金の双眸と目があった途端、弾かれたように俯いてしまった。
 まぁ、そうだよな。
 まさか、記憶をなくしているレヴィが、俺の心配なんかしてくれるはずないよな。

「そ…うでもありません。とても、お優しい方です」

 ルシフェルなんかを誉めるのも癪だったけど、いや、めいいっぱい世話になってるんだから癪とか言ってられないんだけど、俺は冴えない灰色の猫を思い出して呟いていた。
 その返答に興味があるのかないのか、レヴィは『フンッ』と鼻を鳴らしただけでそれ以上は何も言わなかった。
 本当はもう少し煮込んで味をしみこませたかったんだけど、さすがに時間は有り余っているかもしれないレヴィをこれ以上待たせるのも気が引けたから、俺はできたての肉ジャガを木製のボゥルによそって恭しく待ち兼ねているレヴィの前に箸と一緒に置いたんだ。
 スゲーよな、魔界。箸とかあるんだぜ、信じられるかよ。
 レヴィは、驚くことに、嬉しそうに頬を緩めてちょっと匂いを嗅ぐと、キチンと両手を合わせて『いただきます』なんて言ってくれるから、思わず、お前絶対記憶を取り戻してるだろ!?んで、俺をからかってるんだろ!…と詰め寄りたくなったんだけど、白い悪魔は唐突にハッとしたようで、自分が何をしたのか良く判らないような顔をして怪訝そうに首を傾げるから、やっぱりそれは、俺の心が願っただけで現実にはありえないことだったんだなと思った。

『うん、旨い』

 口にして、レヴィの第一声はそれだった。
 初めて肉ジャガを口にした時のレヴィは、『ご主人さま!これ、凄く美味しいですね』と、ちょっと興奮したように黄金の双眸をキラキラさせて俺を見た。その光景を、俺は全部覚えてる。
 こんな風に、何かの品評会に嫌々参加しているような、頬杖を付いたままで『旨い』なんか言うヤツじゃなかったし、そんな風に言われても少しも嬉しくなかった。
 それでも…

「有難うございます」

 と、素直に口が開いたのは、やっぱり、レヴィが美味しいと思ってくれているのは、とても嬉しかったんだ。
 だから思わず、エヘヘヘッとはにかんでいたら、つまんなさそうに頬杖を付いて肉ジャガをつついていたレヴィは、呆れたように、器用に箸の先で俺を指しながら言ったんだ。

『まぁ、見てくれは悪いが喰えないワケじゃないから、及第点だ』

 そんな憎まれ口を叩いてから、ボゥルの半分を平らげて、レヴィは満足したように立ち上がった。
 これで…また暫くお別れなんだろうなぁ、と思ったら、やっぱり切なくて、ヴィーニーの許に帰ってしまう白い悪魔を引き止めたかった。
 でも、今の俺にはもう、そんなレヴィを引き止める術とか何もないんだ。
 ヴィーニーと愛し合う姿を目の当たりにしないだけ、まだマシなのかもしれないんだけど。
 はぁ…と溜め息を吐きながら、立ち去るレヴィの背中に頭を下げていたんだけど、物も言わずに立ち去ろうとしていた白い悪魔は、ふと立ち止まって、それからついでのように肩越しに振り返ったんだ。

「…?」

 顔を上げて不思議そうに首を傾げていたら、何かを考えるように目線を逸らしていたレヴィはそれから、口角を微かに吊り上げて、どうやらニヤリと笑ったようだった。

『また作るなら、気が向けば毒見してやる。今度は別なモノを作れよ』

 暗に、次も作れと言ってくれてるような気がして、もう一度ここで、レヴィに逢えるんだと嬉しくなった俺はスッゲー嬉しくて、思わず笑って何度も頷いてしまった。

「勿論です、レヴィアタン様!次も必ず美味しい食事を作りますねッ」

 思わず両方の拳を握ってのガッツポーズで宣言すると、フンッと鼻先で笑ったレヴィは、まるで仮面でも被るようにスッと冷徹な顔付きに戻って、今度こそ本当に振り返りもせずに立ち去ってしまった。
 ……。
 ほんの僅かな逢瀬だったけど、レヴィのいなくなった空間は肌寒いような寂しさが残り香のように漂っていたけど、俺は自分の身体を抱き締めながら、それでも、久し振りに嗅いだ白い悪魔の桃のような甘いあの匂いに包まれて幸せを感じていた。
 なんでもない、気紛れなレヴィらしい演出だったんだけど、俺は嬉しかった。
 この薄ら寒い魔界で、記憶を失くしてしまっているレヴィとこんな風に、会話できるとか思っていなかったから本当に嬉しかったんだ。
 俺は、どうしてだろう?
 意味もなくレヴィに、キスしたいと思っていた。

第二部 6  -悪魔の樹-

「ん…ぅあ……ヒ…んく……ッ…ぁッ」

 もう、どれぐらい時間が経ったのか、既に時間の感覚は完全に失せていると言うのに、長時間甚振られている後腔の感覚は一向に鈍らず、それどころか、異常なほど研ぎ澄まされた快感に、大きく割り開かれて、肩に担ぐようにして折り曲げられた足だけが、無情な悪魔が動く度に頼りなく虚空を蹴り上げるぐらいだ。

『君…ホントに可愛いわ。レヴィアタンには勿体無いぐらい』

 クスクスと、耳元で囁かれる甘い、優しい声音は、ずっと聞き続けていたせいか、それだけで妖しい気持ちに背筋がゾクゾクする。

「んぅ…ぅあ!……あ、も、…やめ……ッ」

 囁きと同時に耳元を舐められて、その熱い感触にも敏感に反応したら、またクスッと笑われて、今度は耳朶を甘く噛まれてしまう。

『やめないでってこと?光太郎ってば、結構大胆だよね』

「んな…ワケ…ない!……ァスタロ、トが、……タフ…ぅあ!」

 思い切り突き上げられて、思わず逃げ出しそうになる肩を掴まれると、上体を倒しているアスタロトに力強く引き戻されて、思うより深い部分まで抉られた俺はまた切なげに鳴いてしまった。 
 コイツ…ホント、なんて絶倫なんだ!?
 あれからとうとう、一回も抜かずにそのまま、延々と犯られ続けてるんだ。
 冗談じゃねーよ!
 もう、俺の尻の中はアスタロトが吐き出した精液で溢れ返ってるから、この体力無限の絶倫馬鹿悪魔が欲望を抜き差しする度に、グチュグチュッと厭らしい湿った音がして、含み切れなくなっている大量の白濁がブジュッとヘンな音を立てて吹き零れて内股を汚しているのがありありと判るから、自然と眉が寄ってしまう。

『絶倫ってコト~?あれぇ、光太郎は知らないんだ??悪魔にはねぇ、果てるって言葉はないの。可愛い子がアンアンお強請りすれば、永遠にだってご奉仕できちゃうんだから♪』

「ぐ…は!…ッ、そ、れじゃ…俺……ッッ…死ぬッ!!」

 いや、マジでホントに死ぬから、だからもうやめてくれよ~
 真剣に泣きが入る俺なんか端から無視して、アスタロトは愉しげにクスクスと笑って啄ばむようにキスしてくるんだ。
 ああ、でも…悪魔に果てはないのか。
 と言うことは、レヴィは俺とのセックスを、それほど愉しいとは思っていなかったんだなぁ…う、こんな時なのに俺、思い切り泣きたくなった。
 本当はアスタロトなんかじゃなくて、レヴィに心行くまで抱いて欲しかったのに。
 そんなこと考えてたら、不意に本当に泣きたくなった。
 俺、いつからこんなに女々しくなったんだろう。

「んぁ!…ヒ……ッ」

 アスタロトの激しい突き上げに、思考が中断されて、俺はもうグチャグチャに乱れてしまっているシーツをギュッと掴むと、与えられる衝撃に堪えようと唇を噛み締めてしまう。

『アタシと寝てるのに何を考えてるの?ねぇ、レヴィアタンのコト??…今頃、ヴィーニーと一緒に眠ってるかもしれない、あの薄情な悪魔のことを考えてるのか』

 馬鹿だね…と、囁くようにして呟くと、震える瞼を押し開いて、ムッと眉を寄せる涙目の俺を見下ろしてアスタロトはちょっとだけ切なそうにクスッと、綺麗な唇を笑みに象った。
 馬鹿みたいだ。
 俺じゃなくて、言った本人が傷付いてるんじゃ、そんなの意地悪でもなんでもないんだぞ。

「バ、カなのは、お前だ」

 半分以上、呆れるぐらい掠れた声で囁けば、アスタロトは静かにクスッと笑った。

『…あのね、光太郎に良いことを教えてあげる。アタシに優しい貴方だもの。お礼をしないとな』

 悪魔がお礼?
 これ以上何か要求されても、俺の身体はガタガタだぞ。
 おいおい…と、こんな状況なのに馬鹿げたことを考える俺なんか無視して、アスタロトは激しく攻めたてるのをやめ、やけに優しく抱き締めたりするから…却って怯えてしまう。
 悪魔が優しいときなんて、きっと碌なモンじゃない。

『悪魔にはね…』

 怯えている俺の気配は感じているはずなのに、アスタロトはやんわり抱き締めたままで静かに囁くようにして言った。

『自制心とか、我慢…なんて言葉がないワケよ。殺したければ殺すし、唆したり、貶めたり、やりたい放題が、云わば悪魔の悪魔たる所以ってヤツでさ』

「…だ、から?」

 それがどうしたんだと、そろそろ抜いて欲しいと切実に望む俺を無視して、アスタロトは淡々と言葉を続ける。

『だから?…ったく、ねぇ。判らないのか?悪魔はこんな風に、犯したい時に好きなだけ犯るんだぜ。それなのに、レヴィアタンは別だった。何故だと思う?』

 何故って…んな、こんなあられもない格好して、急所を責められ続けている今の俺に、正常に思考回路が作動してるから質問した…とか言ったら張り倒すぞ、的な目付きで睨んだら、そんな色っぽい目付きで睨まれても堪えませんと鼻先で笑われて、思い切り項垂れる俺を、やっぱり無視してアスタロトは言ったんだ。

『愛しすぎて壊してしまわないように…そんな心配をしてしまうほど、レヴィアタンにとって君の存在は大きいってコトだよ』

「…え?」

『まぁ、実に信じられないことではあるんだけどね。第一階級の悪魔なのに、どうして、人間の君なんかをそれほどまでに大切に思っていたんだろう?魔界の七不思議のひとつだ』

 本当に、信じられないと言いたそうに、こんな状況ではあるんだけど、俺を散々犯して痛めつけている悪魔は、まるで疲れた表情も見せずに心底不思議そうに呟いた。
 そんなこと、俺に言われたって、俺だって判んねーよ。
 ただ、灰色猫がくれた(正確には100円で買った)悪魔の樹から、たまたま産まれたのがレヴィだったんだ。俺が、約束を破ったばっかりに、レヴィは本来の悪魔の本性を隠してしまって、あんな風に、俺を只管愛してくれる白い悪魔になってしまった。
 それは、俺にとっては嬉しいことだったはずなのに、今となっては、本性であるあのレヴィに愛されてるヴィーニーが羨ましくて仕方ないなんて、魔界の七不思議とまで言わしめているアスタロトには、口が裂けたって言えやしないんだろうけど…
 それでも、愛して欲しいと思ってしまう。
 気が狂いそうなほど苦しいけど、これが、アスタロトがレヴィだったら、きっとどんなに酷いことをされても嬉しいと思って、許してしまえるのに。
 大事にしてくれるのも嬉しいけど、レヴィが納得するまで抱いて欲しいと思っても仕方ないじゃないか…いや、違う。そうじゃない。
 俺は我侭で欲張りだから、きっと、悪魔の本性を曝け出している今のレヴィにも、愛されたいと思ってしまったんだ。

『それはオレの専売特許だぜ、光太郎』

 思わず泣きそうになっている俺に、まるで冷ややかな声が冷水のように響き渡った。
 ギョッとして双眸を見開いて声のした方に顔を向けようとしたまさにその時、ほぼ同時に、いきなり部屋のドアが外側から思い切り開け放たれたから、超絶絶倫お惚け悪魔は驚いたように上体を起こして俺を喘がせた。
 どうも、この部屋の周囲には何らかの結界?のようなものでも施していたのか、全く無防備だったらしいアスタロトは、慌てたように意識を集中しているようだ。
 でも、抜いてはくれないのな。
 トホホ…ッと思いながら、それでも突然の闖入者が、もしやレヴィではと淡い期待を胸に、ズカズカと歩いて天蓋のすぐ傍まで来た人影に希望を抱いて視線を注いだ…んだけど、シャッと天蓋を引き裂くようにして開けたのは、誰でもない、よく知る顔で…

「し、篠沢…?」

 長らくの性行為でトロンッと、それに泣きそうだったから、今にも溶け出しそうな目付きをして見詰めているに違いないその視線の先に立っていたのは、やっぱりと言うか、声が違っていたから薄々は判っていたんだけど、淡い期待を見事に打ち砕いてくれたのは、壮絶な美しさに思い切り険を含んだ形相の、悪友の名で呼ぶよりも、堕天使の名で呼ぶ方が断然相応しい、気品ある顔立ちと威風堂々とした出で立ちの、傲慢が服を着ているような明らかに不機嫌そうな顔をした悪魔だった。

『あらぁ?どうしてルシフェルがアタシの部屋に来たの??』

 怒りの形相でサッと、両足を掴まれるようにして抱え上げられた腰の最奥に深々とアスタロトを咥え込んで、もう、どちらのものか判らない体液で俺の陰茎も腹も腿も、何処も彼処も白濁で汚れた姿を目線で辿ったルシフェルは、どうしたワケか、怒りで肩を震わせながら、それはそれは壮絶にニコッと笑ったんだ。
 ひぇぇぇ…美形の悪魔が凄んだように笑うとスゲーこえぇぇ!!
 それでなくても激しく落ち込んでいる俺が、まるで追い討ちをかけるようなその冷徹な気配で一気に冷水を浴びせられたような恐怖心に青褪めていると、少し怯んだようなアスタロトが小首を傾げて俺の脚を肩から下ろしたんだ。

『ん~?どうして、ルシフェルは怒ってるのかしら??』

『ははは、違った。強欲の専売特許はアモンだったな。あんまり頭にきてたから思わず間違えちまったよ。ところでアスタロト。スマン、殴らせてくれ』

『へ?何を言ってるんだ??』

 額に血管を浮かべたルシフェルが、顔こそ笑っているくせに完全に激怒している様子で指の関節を鳴らしたんだけど、流石に状況を飲み込めていないアスタロトがムッと眉を寄せて反論すると、漸くハッと我に返った大悪魔だと恐れられているはずの傲慢な悪魔は、思い直したように溜め息を吐いた。

『いや、そーだな。意味もなく殴り殺されてもアスタロトが哀れだな。スマン。オレでさえレヴィに遠慮して手を出さなかったのに、たかが第二階級の悪魔なんかにホイホイ犯られやがって、今度は遠慮なんかしてやらねーからな…とか思ってたら、頭に血が昇ってさぁ。思わず、アスタロトを殺すところだったよ、あっはっは』

 エヘッと笑って舌を出すと、思い切り物騒な台詞をアッサリ口にしたルシフェルは、ギョッとしているアスタロトをヒョイッとどかして、乱暴に引き抜かれた衝撃で眉を寄せて溜め息を吐く俺を、なんとも複雑そうな表情をして見下ろしてきた。

『あーあ、光太郎。悪魔を甘く見てたら嬲り殺されるんだぜ~』

 やれやれと溜め息を吐いて、ルシフェルは篠沢らしい口調でそんなことを言うと、全裸で起き上がることもできないほどぐったりしている俺の背中と、膝の裏に腕を差し込んで、優しく抱き上げてくれたんだ。

「し、篠沢…あの」

『言い訳はレヴィの記憶が戻る時までに考えておけよ。オレは、灰色猫に呼ばれて来ただけだし』

「灰色猫!そう言えば、アイツは何処に…」

 思わずジャラジャラと宝飾品に飾られた胸元を掴んで見上げると、よく晴れた夜空よりももっと澄んだ漆黒の双眸で見下ろして、それから…唐突にキスしてきたんだ。

「ん!?…んぅ、…ッざわ……やめッ」

『ったく、ホトホト悪魔に好かれるヤツだよな、お前って…で?アスタロトは良くて、オレがキスするのはダメなのかよ??』

 ムスッとするルシフェルに、今はそんなこと関係ないだろと言いたいのに、それでなくても長時間責め苛まれていた身体は思うように力も入らないし、怒鳴るだけの気力もない俺が恨めしげに睨み付けると、今まで見た悪魔の中では最高に綺麗な顔のルシフェルはニコッと笑って、俺の濡れた唇をペロッと真っ赤な舌で舐めやがったんだ。

『…ねぇ、そろそろ理由を教えて欲しいんだけど?』

 セックスを邪魔されて思い切り不機嫌そうに、既に衣服を身に着けているアスタロトが腕を組んで唇を尖らせて言うと、俺を抱きかかえているルシフェルが肩越しに振り返って、肩を竦めるとニヤッと笑ったんだ。

『まあ、簡単な話。オレも恋敵ってヤツさ』

「はぁ!?』

 思わずアスタロトとハモッてしまったんだけど、ルシフェルはクックック…ッと笑ってから、『冗談だ』と、全く笑えない真顔でフンッと傲慢そうな眼差しで言い放ったから、俺は余計に目をパチクリさせてしまった。
 コイツって…

『灰色猫から、レヴィの記憶がないこと、光太郎がアスタロトに犯されてることを聞いてさ。まぁ、駆け付けたってワケだ』

『ああ、そっか。ルシフェルはレヴィアタンと仲良かったもんね』

 半信半疑、まさか悪魔が知り合いの為だけに駆け付けるワケがないと知っているアスタロトは、いまいち信じられないと言ったように眉を顰めはしたものの、それでも頷いて見せた。

『そう言うこと。それこそ、悪友のためなら一肌脱がなきゃいけねーだろ?』

 ルシフェルが最もそうにニヤッと笑うと、アスタロトは呆れたように肩を竦めて見せた。

『第一階級の悪魔たちに惚れられてる光太郎にも興味あるけどぉ、あのレヴィアタンの記憶を失くさせた犯人ってのも気になるところだよな~』

『じゃ、協力しろよ。お前もさ』

 何かを企んでいるような表情でルシフェルがニヤッと笑うと、何か不吉なものでも感じたのか、アスタロトはうんざりしたように頬を引き攣らせた。
 いや、アスタロトじゃなくても、やっぱりこのシーンでは誰もが頬を引き攣らせてると思うぞ。
 現に、大悪魔として名高いルシフェルの、その酷薄そうな冷ややかな微笑を見ていると、胸の奥がざわめいて、何かとんでもないことを垣間見そうな嫌な予感がするから、ついつい目線を逸らしたくなってしまう、でも、蛇に睨まれた蛙と一緒だから目線なんか逸らせるはずもない、諦めて頬を引き攣らせるぐらいの抵抗しかできない…とまあ、そんな感じだな。

『…何をするつもり?』

『あれ?お前が光太郎に教えたんだろ。城から少し行ったところにある魔の森の、その開けた丘の上に建つ魔女の館、そこに棲む陰険な魔女から【約束の花】を奪い取る…まぁ、こんな筋書きじゃなかったか?』

 ルシフェルはまるで俺たちの会話を最初から聞いていた、とでも言わんとばかりの口調で、知った風にニヤリッと笑ったんだけど、その存在に少なからず気付いていたのか、アスタロトは肩を竦めて、どうやら本調子を取り戻したようだった。
 ん?いや、でも待てよ。

「篠沢、その計画はちょっと違うぞ。だって、丘の上に咲く【約束の花】だ。魔女なんていないよ」

 尤もそうに頷いてエヘンッと胸を張ると、俺を見下ろすこの世のものとはとても思えないほど完璧な相対を持つ双眸は、ハッキリと呆れた色を見せて眉をヒョイッと上げやがったんだ。

「む、なんだよ、その表情は」

 明らかに馬鹿にしてるだろ。

『…あのなぁ、光太郎。もうね、ホントにお前って悪魔に騙されて身包み剥がされた挙句、骨の髄まで犯されて、そのまま悪魔に囲われちまう性格だよなぁ』

「…なんだよ、そのあからさまに馬鹿にした回りくどい言い方は」

 俺がムッとしてルシフェルを睨んでやると、ヤツは思わずと言った感じでプッと笑って、何処から出したのか判らない真っ白のシーツを全裸の俺の上にふわりと掛けやがったんだ。
 どうも、話を逸らそうとしてるんじゃないだろうな??
 むむむ…ッと、眉根を寄せていると、ルシフェルのヤツはクスクス笑って、俺の色気もクソもない黒い髪に頬を摺り寄せてきた。

『やっぱりさぁ…お前、可愛いんだよ。前に灰色猫にお前を襲うようにお願いされた時は興味本位だったけど、今はバッチリ本気モードって知ってた?』

「はぁ?」

『嫌だ!あの地獄の大悪魔たるルシフェル様が人間の、それもこんなフツーの男の子にマジになってるだと??信じらんなーい!』

 アスタロトの黄色い声なんかまるで無視して、ルシフェルは、あれほど怖いと思っていた研ぎ澄まされた美貌の中で、凛然と煌く双眸を信じられないことにやわらかく細めて、綺麗な唇を頬に寄せてきたんだ。

『レヴィが惚けてる間に、さっさとお前を貰っちまおうかな?』

「い・や・だって言ってんだろ!?俺は、レヴィ以外のヤツを好きになったりしないッ」

『…とか言って、アスタロトには易々と抱かせてたくせにさぁ』

「うッ!!!」

 図星をさされちまったワケだが、アレには事情があるんだ。
 記憶を取り戻すことができるかもしれない情報を得るためなら、レヴィの為なら、俺のこんな身体ぐらい幾らだって差し出してみせらぁ!!
 ムキーッと顔を真っ赤にして言い返そうと思ったんだけど…よくよく見上げてみれば、ムッとしたように、らしくもない子供っぽい仕種で唇を尖らせているルシフェルの顔を見た途端、必死の言い訳がなんだか馬鹿らしくなっちまって…そんな風に、よく知っている篠沢の雰囲気を出されてしまうから、思わず、ホッとして笑っちまったじゃねーか。
 お前がここに来てくれて、良かったって思う。

『ふん!光太郎はいつも余裕だよな。この大悪魔ルシフェルさまをヤキモキさせるのなんか、お前だけなんだぞ』

「それは、まあ。光栄ってことでいいのかな?」

『知らねーよ』

 フンッと外方向くルシフェルの子供っぽい仕種に、アスタロトが背後で目を真ん丸くしていたんだけど、それを見るよりも先に、足許で「にゃあ」と声がして、俺は純白のシーツに埋もれながらもハッとして、慌てて足許で蹲るようにして座っている灰色の猫を見たんだ。

「灰色猫!お前、何処に行って…」

『お兄さん、元気そうで良かった。でも、当分は歩けそうもないね』

 灰色猫はあの、お洒落な貴公子然とした格好はしていなくて、ただの猫の姿で俺を見上げてくれた…んだけど、猫の顔だからなんとも言えないんだが、その表情は何処か疲れているように見えるぞ?

「灰色猫…お前」

『光太郎は灰色猫に感謝するべきだ』

 何を言おうとしていたのか、今となっては判らない言い掛けた言葉を遮るようにして、ルシフェルが俺を抱き上げたままの姿で静かに言ったんだ。

「え?」

 意味が判らなくて首を傾げていると、何か言いたそうに黄金色の双眸を細める灰色猫を見下ろしたくせに、ルシフェルは傲慢そうに顎をクイッと上げて、シレッと言い放った。

『お前は何も知らなさ過ぎる。この魔界において、情報収集は身命を削る思いなんだぜ?それを、わざわざ人間界にまで降りてきて俺を呼んだすぐ後に、【約束の花】の情報を掻き集めていたんだ。それこそ、今の灰色猫の方がヘトヘトなんじゃねーのか?』

「…灰色猫」

 ルシフェルの台詞で、俺はなんとも言えない…嬉しいような、悲しいような、こそばゆいような…そんな気持ちで、あんまりにも小さすぎる灰色猫の顔を見下ろしていた。
 ああ、そうか。
 それでお前、そんなに疲れた顔をしていたんだな。

『嫌だなぁ、お兄さん。これは全てご主人の為にしていること。使い魔の仕事ですよ』

 クスッと、灰色の、それこそ草臥れている猫は小さく笑って、俺に心配をかけないように十分配慮した声音でそんなことを言ったんだけど、そんなの、嘘に決まっている。
 なぜなら、レヴィは俺を、アスタロトにやると言ったんだ。それも、ヴィーニーとか言う、お気に入りの奴隷と交換で。
 それを知っている灰色猫なんだから、本当ならわざわざルシフェルを呼ぶ必要も、【約束の花】の情報を嗅ぎ回ることもなかったはずだ。
 灰色猫は、馬鹿だ。
 すげー、馬鹿だ。

「…ありがとう」

 それでも、俺の口から漏れたのは、そんな在り来たりな言葉だった。
 悔しいなぁ、もっと、この気持ちを灰色猫に伝えられたらいいのに…

『やめなよ、お兄さん。お礼なんて、言われるガラじゃないよ』

 ほんの少し、照れ臭そうに笑った灰色猫の、そのヒゲがピンピンの頬の辺りに落ちる影が、何処か草臥れているような気がして、俺の心臓はズキリと痛んだ。

『…素直に礼を受け入れておくことだ。人間なんか冗談じゃないんだろうが、それでも、光太郎だけは特別なんだろ?』

 ルシフェルに促されて、灰色猫は一瞬、キョトンッとしたような大きな瞳で俺を見上げたんだけど、やっぱり、少しだけ照れ臭そうな顔をしてクスッと笑った。

『…ん~、どうでもいいんだけど。光太郎って何者なの??』

『どうでもいいんなら聞くな』

 ツーンッと高級な猫のように取り澄ました顔で外方向くルシフェルに、アスタロトが内心で『この野郎…』と思ったことは間違いないんだろうけど、それでも、すっ呆けた悪魔は素知らぬ顔で、食い下がるんだよな。

『レヴィアタンの想い人…ってだけで、貴方たちはそこまで肩入れするのか?判らないな』

『…レヴィの想い人だからこそ肩入れするのさ。第二階級の悪魔如きでは、その理由など判りはしないんだろうな』

 俺を抱き上げたままで、肩越しに振り返ったルシフェルはそれだけを言うと、灰色猫を促してサッサと部屋を後にしてしまったんだけど…『第二階級の悪魔』と蔑まれたワリにはそれほど傷付いた様子でもないアスタロトは、何処か割り切れない思いでもあるのか、腕を組んだまま顎の辺りを人差し指で擽りながら、訝しげにソッと見事な柳眉を細めたようだった。
 それを確認することもできずに俺は、颯爽と歩くルシフェルに抱えられると言うあまりにも目立つ姿のままで、何も言えずに唇を噛んでいた。
 【約束の花】が本当にあるのなら、見つけ出してどうか…レヴィの記憶を取り戻したい。
 それが俺の、揺ぎ無い願いだった。

第二部 5  -悪魔の樹-

 アスタロトに導かれるままに、曲がりくねった回廊を進む俺たちの後を、灰色猫は無言でついてきていた。なぜ、灰色猫がついてくるのか、不審に思ったアスタロトが眉を顰めて尋ねてみても、小さな猫は大きな金色の瞳で俺を見上げるだけで、派手な悪魔の問い掛けには答えない。
 それでも、別に気を悪くもしていないアスタロトは、大きな扉の前で立ち止まると、うっふんと色っぽい眼差しで灰色猫を見下ろすと、俺の頬に頬擦りしながら蠱惑的に笑いやがった。

『ついてくるのは構わないんだけどぉ…ねぇ、ベッドの中まで覗くつもり?』

『…アスタロト様、レヴィアタン様はああ仰いましたが、どうかその奴隷だけはお許しを…』

 灰色猫らしくない弱々しい声音に、ベッドの中と言う単語が脳内をグルグルしている俺は気付かなかったんだけど、アスタロトは訝しそうに綺麗に整えている見事な柳眉をソッと細めたんだ。

『…灰色猫タン。君、どうしたの?やけにこの子にご執心ね』

『どうか、アスタロト様』

 取り澄ました表情であるはずの猫は、まるで切迫したように胸元で小さな両前足を拝むように合わせて、必死に怠惰な生活を好んでいそうなチャンランポランっぽいお惚け悪魔を見上げている。

『理由を聞かないと…考えることもできないじゃない?何か、あるんじゃないのか??』

 灰色猫はその台詞に、チラッとだけ俺を見たけど、俯くように目線を一瞬落としてから、思い切ったように顔を上げて頷いた。

『お兄さんは、レヴィアタン様のご主人さまなのですよ』

『…はぁ?』

 そりゃ、その反応は頷ける。
 『冗談を言うにも、もうちょっと面白いのじゃないとね~』とでも言いたそうに、灰色猫らしからぬ茶目っ気たっぷりの冗談だとでも思ったのか、アスタロトは肩を竦めて呆れたように溜め息を吐くと、腕の中で息を呑むようにして事の成り行きを見守っている俺を見下ろして、仕方なさそうに頬にやわらかくキスしてきた。

『人間がレヴィアタンのご主人って設定、見たい気もするけど、本人の前で言ってはダメだよ。アタシ、灰色猫タンってチョーお気に入りなんだから。死んで欲しくはないワケよ』

『冗談でも嘘でもありません。お兄さんとご主人は【悪魔の樹】の契約で結ばれた主従関係にあるのです』

『悪魔の樹!?…嘘ん、それなら信じちゃうけど。えー、君、それホントなの??』

 ヒョイッと、切れ長のクセに程よく垂れた、憎めない目付きで覗き込まれて、俺は動揺を隠さないまま頷いて、それから目線を伏せてしまった。
 たとえそれが本当のことであっても、今のレヴィには、俺のことなんか何一つ判りはしないんだ。

『ふぅ~ん。でも、さっきはケロッと手放してたじゃない。レヴィアタンは魔界一、嫉妬深い悪魔なのよ?そんなに大事なご主人を、そう容易く手放すのかしら??』

『それは…』

 言い淀む灰色猫の語尾を攫うようにして、ムゥッと唇を尖らせているアスタロトの顔を見上げながら口を開いていた。

「レヴィには、どう言ったワケか俺の記憶がないんだ」

『え?』

 唇を噛み締める俺を見下ろしていたアスタロトは、何かを考え込むように顔を上げて小首を傾げていたけど、何か合点がいったのか、頷きながら灰色猫と俺を交互に見ながら言ったんだ。

『なるほど~。つまり、レヴィアタンは何かの影響で記憶を失くしたワケで、彼を心配してわざわざご主人様が魔界に乗り込んできた~ってワケね』

『そう言うことなのです』

 神妙な目付きで見上げる灰色猫に、アスタロトは興味深そうに笑って、それから俺の頬にまたしてもキスしてきたんだ!
 俺はレヴィのご主人さまなのに、アスタロトはそんなこと、ちっとも気にした様子もなく、呆気に取られている灰色猫の前で、俺の灰色のローブを弄り始めたんだ。

「なな、何を…ッ!?」

『何を…って、ご主人が奴隷の身体を触って何が悪いの?』

「はぁ!?」

 いったい、何を聞いていたんだ、この能天気クルクルちゃらんぽらん悪魔は!
 俺はレヴィアタン、海王リヴァイアサンのご主人なんだぞ!?どうして、アスタロトの奴隷なんかにならないといけないんだ!!
 顔を真っ赤にして激怒してしまう俺の傍らで、困惑したような表情をする灰色猫に、レヴィと同じように古風な衣装に、それこそ女でもそんなにはつけていないだろうって思えるほどのアクセサリーをジャラジャラつけているアスタロトは、濃紺の巻き髪を掻き揚げながら事も無げに笑った。

『あらぁ?だって、件のレヴィアタンがアタシにこの子を奴隷としてくれたのよ。たとえ、記憶のないレヴィの判断とは言っても、言動には行使力が働くんだ。アタシだってヴィーニーを手放して、結構痛手があるんだから権利ぐらいはあるわよ』

『アスタロト様!』

 うふふんっと、上機嫌で笑いながら、灰色ローブに包まれている俺の身体を触り散らすアスタロトに、灰色猫はポカンッと一瞬、呆れたように呆気に取られていたけど、ハッと我に返ると、思い切り脱力したように溜め息を吐いた。

『…ご主人が記憶を取り戻したとして、その後どうなっても知りませんよ』

『いやん、怖い♪でも、こっちはヴィーニーを貸してるんだから、味見ぐらいするわよーだ』

 クスクスと笑って、それほどレヴィアタンを恐れてはいないアスタロトは、それだけ言うと俺を抱えたままで大きな扉から室内に滑るようにして入ると、そのまま灰色猫の鼻先でドアをバタンッと締めてしまった。
 灰色猫はまだ何かを言っているようだったけど、室内に入ると同時に問答無用で口付けてきたアスタロトに、俺は目を白黒させながら濃厚なキスに頭をクラクラさせて、腰に力が入らない恐怖に何かに縋り付きたくて、気付いたらアスタロトの背中に腕を回して抱き付いていた。
 歯列を割って潜り込んできた肉厚の舌は、まるで俺を翻弄するように逃げる舌を追い駆けて、気付けば身体ごと絡め取るような激しさで絡みつくと、軽く吸ったり、悪戯に噛んだり…思うさま、俺を味わっているようだ。

「ぅ……ん、ァ……ハ…ッ」

 息も絶え絶えのようにキスに翻弄される俺の、灰色ローブを思い切り捲り上げて、その下に隠れているTシャツとジーンズに一瞬、気を取られた隙に、俺は慌ててアスタロトの唇から逃れようと、背中に回していた腕を突っ張るようにして顔を背けてやった。

『レヴィアタンのご主人だって?ふふ、可愛いご主人さまだね』

「く…ぅんッ!……ふ、ざけ…るなッ」

 逃げ出そうとする身体はすぐに押さえつけられて、乱暴に睨み据えると、アスタロトは愉しそうにクスクスと笑って、捕らえた俺の身体を抱き上げて、そのまま豪奢な天蓋付きのベッドに放り投げたんだ!

「ぅわ!…わ、わわ…ッッ」

 スプリングが良く効いているせいで、反動で跳ねてしまう俺の身体に、可笑しそうにベッドに上がってきたアスタロトが覆い被さってきた。
 うう、どうもコイツは、このおネェ系悪魔は、どうやら本気で俺を抱くつもりのようだ。

「や、嫌だ!…やめ…」

『ううん、辞めないのよ♪だって、君ってさぁ、アタシの好みにドンピシャなんだもん』

 うわぁぁ…嫌なヤツの好みにドンピシャしちまったよ。
 キスしてこようとする唇から、なんとか逃れようと顔を背ける俺に、焦れもしないアスタロトは嬉しそうにクスクスと笑って耳の穴をベロリと舐めると、そのまま耳朶をパクンッと甘噛みなんかしやがったんだ!

「ん!」

 思わず、耳を塞ぎたくなるような声を出してしまって、真っ赤になった俺が唇を噛み締めて、ギュッと双眸を閉じていると、アスタロトは忍ぶようにクスクスと笑うから、俺の羞恥心は余計に煽られてしまう。
 クソッ、なんとか、なんとか逃げ出さないと…

『ねぇ、名前教えてよ?別に契約するワケじゃないんだし、名前ぐらいいいだろ』

「…」

 誰がお前なんかに、そんな意味を含んだ目付きで睨みつけたら、垂れ目の憎めない綺麗な顔をした悪魔は、ウフンッと蠱惑的な笑みに揺れる紫の双眸で覗き込んでくる。
 その目を見詰めてしまったら…流されそうになる心を叱咤するつもりで唇を噛んだら、ギリッと強い力で唇を噛み切るつもりだったのに、すぐにアスタロトに止められてしまった。

『なんてことする人間だろうね?そんなに、アタシに名前を知られるのが嫌?それとも、抱かれること??』

「どっちもだ」

 ベッドに押さえ付けられたままで見上げるアスタロトは、どう言う仕組みになっているのか、天蓋からハラハラと散る花びらを緩やかな濃紺の巻き髪で受け止めながら、ちょっと悲しそうに笑うんだ。
 どんな時でも、よく笑う悪魔だと思う。

『酷い~…どうせ、レヴィアタンだって今頃はヴィーニーを抱いているのよ?』

「うッ」

 痛恨の一撃宜しく、思い切り嫌なことを思い出させる台詞に、俺は唐突に現実を叩きつけられたような気がして項垂れてしまった。
 が、だからと言ってだ!してやったり顔で北叟笑むアスタロトの思い通りになるかと言うと、もちろん、んなワケはない。
 どっちにしても、レヴィ以外のヤツに抱かれるなんて冗談じゃない!

「は、離せ!」

『あらん。なんだ、もうちょっと傷付くかと思ったのに…でも、まあいいわ。アタシに名前を教えて大人しく抱かれるんなら、レヴィアタンの記憶に関していいことを教えてあげるんだけどな~』

「え!ま、マジ??」

『マジマジ♪』

 俺を力任せに組み敷いて、その気十分で下半身を摺り寄せてくるアスタロトの胡散臭い笑顔を見上げながら、俺は果たしてこの悪魔の言葉を信じていいものかどうか首を傾げてしまう。
 悪魔は嘘吐きだから…でも、信じられる悪魔も、確かにいるんだけど。

「…光太郎」

 ポソッと呟いたら、よく聞こえなかったのか、アスタロトは眉を顰めながら、それこそ鼻先が触れ合うぐらい顔を近付けて、まるでキスする寸前のような奇妙なシチュエーションで『よく聞こえないよ』と囁いた。
 だから、今度はもう少しハッキリと。

「光太郎。俺の名前は光太郎だ…でも、抱かれるかどうかは、お前の情報次第だな」

『…悪魔と取引しようなんて、アタシの光太郎は可愛らしいね』

 アスタロトは気分を良くしたのか、俺の額に口付けてから、その唇で俺の瞼、頬、首筋にチュッチュッと湿ったような音をたててキスしながら、淡々と話し始めたんだ。
 どうも、抱かない、なんてことは一切考えていないんだろうな…俺、レヴィの記憶のためなら、とか、自分の気持ちを隠しながらアスタロトに抱かれてみようとか、思ってる自分に驚いた。
 あの時のレヴィの姿が目に焼きついていて、そのせいで、脳内が焼き切れるほど…嫉妬してる。
 この感情はレヴィの専売特許のはずなのに、俺は性感帯を爪弾くように唇で暴いていくアスタロトのキスに軽く息を吐きながら、諦めたように花びらが降り注ぐ天蓋の天辺を見上げていた。

『レヴィアタンの記憶を取り戻すためにはね…この城から少し行ったところに魔の森があるのよ。その森には開けた丘があって、その丘に一輪だけ咲く、【約束の花】があるんだ』

「んぁ…ふ……ぅん…は…な…ッ?」

 アスタロトの指先が辿る端から服が消え失せて、気付けば全裸になっていた俺の胸元の肌よりも少し色素の薄い乳首をペロリと舐めて、俺を喘がせたアスタロトは、大人しくなってしまった自らの奴隷に気を良くしたのか、それとも退屈だと思ったのか、どちらにしても、その悪戯な指先は遠慮も躊躇いのなく俺の股間に伸ばされた。

「あ!…んッ」

 ハッと目を見開いてアスタロトを見る。
 ヤツは、クスクスと悪戯っぽく笑いながら、俺の顎に口付けてゆっくりと形作る陰茎に指先を這わせたんだ。
 そこは、きっと、まだレヴィしか触れたことがない。
 そんなこと、脳内で意識するよりも先に、身体が抵抗を示していた。
 嫌だ!…と、逃げ出そうとする身体は難なく無情な悪魔の下敷きになって、先走りがたらたらと漏れ始めた陰茎に、我が物顔で纏わりつく指先が怖かった。

『ふふ…やらしい声だね。アタシ、光太郎とどうしてもセックスしてみたいから、ちゃんとお話してあげるわよ。どこまで話したかな?そうそう、【約束の花】だ』

 アスタロトはそれでなくても暢気な喋り方をする男で、コトの最中だってのに、まるで涼しげな笑顔で俺を翻弄しようとしている。それに負けないように、必死でアスタロトの口から紡ぎ出される言葉に耳を傾けていた。
 その間にも、悪戯な悪魔の指先は煽るように先走りに滑る先端を指先でグリグリと弄っては、ビクンッと震える腿の辺りを空いている方の熱い掌で撫で上げたりするから…俺、顔を真っ赤にしたままで、どんな顔してりゃいいんだよ!?

『その花は満月の夜にだけ花開くから、願いを込めて摘むんだよ。そうしてそれを、上手にレヴィアタンに煎じて飲ませてあげるの。そうすれば、レヴィアタンの記憶はきっと、蘇ると思うわ』

 淫靡な笑みを口許に浮かべたアスタロトの濡れた唇が、気付けばキスを強請っているから、俺は震える瞼を閉じて濃厚な口付けを受け入れた。
 陰茎を思うさま弄られて、それでなくてもレヴィが教え込んだ身体は、たとえそれがレヴィではなくても、やっぱり素直に反応して、俺に自己嫌悪を植え付けていく。でも、それ以上に、俺は胎内でムクリと首を擡げる凶悪な劣情に身悶えして、まだ衣服すら乱していないアスタロトの下半身に、自らの下半身を摺り寄せてしまうと言う痴態を演じてしまった。
 ああ、穴があったら入りたい!

『男を誘う術を誰に習った?ああ、レヴィアタンね。彼、とっても上手でしょ??』

「ふ…んん……ッ、や、ああ…」

 ゆっくりと根元から先端部分にかけて、揉み拉くようにして陰茎の皮を剥いたり窄めたりして思うさま扱いてくれるんだけど、それだけでもイッてしまいそうになる俺の、ビクンッと痙攣しては爪先を突っ張る片足を持ち上げて、アスタロトは漸く興奮したように吐息を吐いて、震える腿に口付けた。

『ねぇ、もう挿れてもいい?アタシ、早く君を犯してみたい』

 明け透けな物言いに目許に朱を散らした俺は、強烈な快感に虚ろになる双眸で、期待に揺れる情熱的な紫の双眸を見据えて唇を噛んだんだ。

「そんなこと、普通、聞くかよ…ッ」

『あは♪それもそうだね。心の準備はオッケーってワケ?』

 今更…心の準備もクソもないような、両の足首を掴まれて大きく割り広げられている、こんなあられもない姿で「準備するまで、待って♪」なんて、この俺が本当に言えるとでも思ってんのか、この惚けた悪魔は!
 その軽口を叩くのほほんとしてそうな悪魔を睨み据えたら、それとほぼ同時に、まるで灼熱の杭をオブラートで包んだような、なんとも言えない感触の先端部分がぬる…っと、弄られもせずに既にヒクついている、どうやら淫乱な窄まりに押し当てられて、俺は思わず息を呑んでしまった。

「あ…あ……や、嫌だッ」

 条件反射で両手を突っ張るようにしてアスタロトの身体を押しやりながら、今まさに、唯一男が男と繋がるために使われる器官に、悪魔の逞しい屹立が潜り込もうとヌルヌルする先端で入り口を擦っている様をまざまざと見せ付けられて、思わず悲痛な声が漏れてしまう。
 信じられない目で見詰めながら、気付けば朱に染まる頬にポロポロと、どうして泣いているんだかまるで見当もつかないんだけど、零れる雫をアスタロトが唇で拭ってくれる。

『うふふふ…怖いの?』

「ちが…ぅぅ…や、やっぱり、それだけは…嫌…だッ」

 お願いだから、これ以上は…だって、俺の全てはレヴィのモノで、生涯、レヴィしか愛さないって約束したのに…どうして、俺はのこのことこんな得体の知れない悪魔に抱かれようと、身を任せようとしちまってるんだ!?

『あら…なぁに?情報だけ聞いて、後はお預けってワケ??それはちょっと、悪魔にも劣るんじゃないのか』

 アスタロトがのほほんと笑う。
 その顔が、やっぱり悪魔だ、凄みがあって震え上がってしまう。
 それでも、俺はカタカタと震えながら、ポロポロと涙を零して首を左右に振っていた。

「ちが…そうじゃッ、ないんだけど……俺、レヴィを…」

 やっぱりさぁ、裏切りたくないんだ。
 やわらかくキスする白い悪魔の、あの優しい包み込むような眼差しを…その瞳に見詰められるだけで、あの桃のようないい匂いに包まれるだけで、あんなに幸せで幸福だった。その白い悪魔が愛してくれるこの身体を、傲慢な我侭かもしれないんだけど、俺は大事にしたいと思ってしまったんだ。

『挿れちゃえば、楽なのよ。大丈夫、レヴィアタンを呑みこめる君だものね♪』

 それなのに、無慈悲な悪魔は一瞬呆れたような顔をしただけで、ペロリと唇の端を舐めながら、抜け抜けとそんなことを言いやがった。

『怖いんでしょ?』

「だ!……んなこと、言ってな…んぅッッ!……ひぃっ」

 思わず睨みつけようとした矢先、先端部分がグニッと潜り込んできて、俺は思わずめいいっぱいに双眸を見開いてしまった。
 見開いた目尻から涙が一滴零れると、嬉しそうにアスタロトが唇で拭ってしまう。

『レヴィアタンを裏切りたくないって?判ってるんだけどさぁ…ほら?彼だって今、ヴィーニーと愛し合ってるワケだしぃ』

 ああ、どうしてこんなことになっちまったんだろう。
 俺は、ただ、レヴィを…レヴィにもう一度逢いたくて…でも、レヴィは今、他の誰かに愛を囁いてるのに。
 アスタロトは心の深いところを抉るような口調で、ニヤニヤと平気で囁いてくる。
 これがホントの悪魔の囁きってヤツだな…とか思ったら、こんな状況なのに俺、馬鹿みたいに両手を組んで顔を隠しながら笑っていた。

『…光太郎?』

 なんでも余裕のアスタロトでさえ、一瞬訝しそうに眉を寄せるぐらいだ。今の俺は、十分、ちょっとヤバイ人になってるんだと思う。それでもいい、いや、だからこそ、いいのかもしれない。
 ポロポロ、ポロポロ…涙が零れる。
 こんなに悲しいのに、こんなに悲しいのなら、いっそ、何もかも俺の方が忘れてしまいたい。

「ち、くしょう!クソ…ッ!よし、挿れろよ、アスタロト!おう、望むところだ、コンチクショーッ」

 両足を抱えられたままで泣きじゃくるのも癪だったし、何より、同じ場所にいて、違う誰かを喜んでレヴィが抱いているのかと思うと、その意地だけで吐き捨てたような気がする。
 そう考えていないと、俺自身、あんまり滑稽で馬鹿で、哀れなんだと思う。

『ホント?嬉しい』

 嬉しげにエヘへッと笑うアスタロトの本当に嬉しそうな顔を見たら、ふと、こんなに綺麗で、望むものならなんでも手に入りそうな、のほほんとしてるクセに品のある悪魔は、俺の何処をそんなに気に入ったって言うんだろうと首を傾げたくなった。
 レヴィにはない、何処か思い詰めたような寂しげな紫の双眸を見詰めていたら、こんな時なのに、灰色猫の言葉が脳裏に響いていた。

[魔界はとても、寂しいところだからね]

 どんな寂しさを持っているんだろう…アスタロトも、そして、この魔界にいる悪魔たちは。 人間なんかじゃ計り知ることのできない寂しさの中で、ぬくもりを求めるようにして、人間の奴隷を傍に置くのか?
 …そっか、そうだよな。
 悪魔はけして人間を好きにはならないし、人間も悪魔を憎む…灰色猫の言っていたことって、本当はこの現実を言葉にしていただけなんだ。
 今だけ、許されるように…俺は悪魔を憎まないでおこうと思う。レヴィもアスタロトも、悪魔として当然のことをしているんだし、要求した者への見返りは当たり前なんだと思う。
 それを求めない灰色猫は、だから、本当はアイツこそこの魔界には不似合いな使い魔だ。
 寂しさとか、やり場のない怒りだとか…そんなものがどす黒く渦巻くこの魔界の中で、俺は寂しそうに笑う白い悪魔の幻を追うようにして両腕を伸ばしていた。
 縋りつくようにして首筋に抱きつく俺に、アスタロトはちょっと驚いたようだったけど、そんな俺の背中に、思うよりも逞しい腕を差し込んで、少し腰を浮かすようにさせてからゆっくりと自身を、アスタロトの先走りで滑る窄まりに押し当てて、そのままグッと潜り込ませてきた。

「!……ッ…ぅ」

 痛みは…やっぱりあるけど、狭い俺の後腔にゆっくりと巨大な灼熱の欲望を捩じ込んだアスタロトは、そのままギュウッと抱き締めてきたから、ちょっとビックリした。
 クラクラ眩暈がするほどの快感は、レヴィが心行くまで教え込んでくれたことだけど、このセックスはなんて言うか…ちょっとだけ、切なくて寂しいなぁと思う。
 だから、俺は我侭を言う何も知らない処女のように、「どうにかして欲しい」と言ってせがむんだ。
 だって、こうでもしないと、このままアスタロトの持つ寂しさに飲み込まれてしまいそうで、それが怖くて腰に力を込めていた。

『…ッ!なんだ、十分その気だったんじゃない』

「あ!」

 ずる…っと、まるで視覚できるような音を立てて腰を引いたアスタロトは、それから、ベッドを軋らせるほど激しく貫いてくるから、俺は馬鹿みたいに、壊れた人形のように「あ」を連発してしまった。
 言葉にできない、そんな恐怖に、思わず逃げ出しそうになる俺の腰を掴んで、アスタロトは強い力で引き戻すと、まるで逃げる隙なんか与えてもくれない。

「…くふぅん!……ク…ぁ、ぁあ……ッ」

 胎内でふっくらと膨らんでいる部分に、巨大な灼熱の先端がゴリゴリと押し当てられて、俺は傷みと快楽の綯い交ぜした快感に陶然として、強請られるままに口付けを交わしていた。
 離れていくアスタロトの舌に絡んだ銀色の糸が、キスを追う俺の舌とを結んで、嬉しそうな悪魔の顔がとても淫らで、突き上げられる腰の動きに反応して、胎内で燃え上がる快楽の火にさらに油を注いでくれるから堪らない。

『ふふふ…感じやすいんだね。レヴィアタンはどうして、こんなに可愛い君を忘れてしまったんだろう…』

 グイッと奥まで突き上げるようにして上体を倒すと、汗に張り付いた俺の前髪を掻き揚げながら、アスタロトは何故か、見事な柳眉をソッと細めて、綺麗な紫色の双眸を瞼の裏に隠したままで額にキスしてくれる。
 縋るものはもう、こんな風に攻め立ててくるアスタロトしかいないから、俺は生理的な涙が浮かぶ双眸を閉じて惚けた悪魔の背中に腕を回していた。
 身体の、もっと奥深くまで貪欲に飲み込みたくて、知らずに腰を揺らしていたらしい俺の身体の隅々までを丁寧に、まるで地図でも描き出すような仕種で快感の在り処を暴き出そうと、繊細な指先が辿る傍からゾクゾクと腰を貫く悦楽にヒクつく窄まりにキュッと力が入ってしまう。
 それを狙うようにアスタロトが思う様貫いてくるから、俺は既にはちきれんばかりに陰茎を勃起させて、先端からだらだらと先走りを吹き零しながら、「もっともっと…」と身悶える。

『ああ…どうしよう。アタシは君を忘れられなくなりそう』

 こめかみから零れた汗が頬を伝って顎から零れ落ちると、そんなささやかな感触にすら震えるほど感じてしまう俺には、アスタロトが何を言っているのか、何が言いたいのか、もうよく判らなかった。
 それよりも、もっともっと奥まで、思い切り大きな灼熱の棍棒で、俺の最奥を貫いて抉って…思う様堪能してくれたらいいのに。
 そうしたら、今だけは、悲しい記憶を忘れていられる。
 俺は、縋るようにアスタロトにしがみ付いて、許されはしないんだろうけど、愛に似たような言葉を囁いていたと思う。
 抱き締めているこの存在が、どうしてだろう、全く姿も形も違うと言うのに、俺に白い悪魔を錯覚させる。
 あの、包み込むようなムッとする桃に似た甘い陶然とする匂いすらないのに…どうして…
 そんな俺を掻き抱くように抱き締めたアスタロトの欲望の在り処が一瞬、大きく膨らんだ気配がして、訪れるだろう熱い飛沫の衝撃に堪えようと瞼を閉じた。
 閉じた瞼からポロリ…ッと零れ落ちたのは、大好きな人への悲しい溜め息に似た、涙。

第二部 4  -悪魔の樹-

『この城内は亜空間になっていてね、実に6万人以上の悪魔や人間の奴隷どもが生活しているんだよ』

 その、想像を遥かに超えた桁に、一瞬、我が身を疑ってみたものの、貴公子然としてツンッと顎を上げている灰色猫の自信に満ちた表情を見ていると、どうも強ち嘘ではないんだと信じられた。
 悪魔を信じるってのもどうかしてるんだけど、灰色猫は使い魔だし、こんな胡散臭い場所で唯一信じられるヤツと言えば、唯一、人間のお願いを聞いて白い悪魔に導いてくれるお人好しな灰色猫しかいないだろ。
 悪魔だろうが人間だろうが関係ない。
 今は、レヴィに導いてくれる灰色猫だけが、信用できる。
 取り澄ました猫の表情をして悠々と先を歩く灰色猫の小さな背中を追いながら、俺は人間界(?)から抱えてきたリュックを大事そうに胸元でギュッと抱き締めたまま、長い回廊を忙しなく行き交う、凡そ人間とは到底思えない、二足歩行の化け物に度肝を抜かれながら見守っていた。
 中には、牛のような頭部を持つ奇妙な肌の色をした悪魔らしい悪魔にその華奢な腕を引っ張られて、泣きながら歩いている人間の少年もいて、その姿に呆然と足を止めてしまった俺を心配したのか、その小さな肉球からでは想像できない、思う以上の力強さで腕を引かれて俺はハッとした。

『お兄さん、よくお聞き。立ち止まってはダメだよ。何を見ても、何を聞いても、お兄さんが思い描くのはご主人のことだけでいいんだから』

 金色の双眸を細めるようにして言ってから、灰色猫はまたしてもツンッと取り澄ました表情で歩き出すから、俺は既に背中を向けている灰色猫に頷きながら、改めてリュックを抱え直すと歩き出した。
 あの少年は、いったい何処につれて行かれるんだろう?
 灰色猫は、魔界にいる人間は、悪業を背負って後悔ばかりしている人間の奴隷だけだと言っていたから、あんなに幼い少年でも、何か悪いことをして、いまさらそれを後悔しているんだろうなぁ…子供なのに、悪魔って連中は容赦がないんだな。
 ちょっと理不尽にムッとしていたら、不意に灰色猫が足を止めたから、俺はその小さな身体に蹴躓かないように慌てて足を止めて、そのまま灰色フードに顔を隠したまま、まさかいきなり正体がバレたんじゃないかとか、そんなあらぬ心配に心臓をバクバク言わせながら、何事が起こったのかと耳を欹てていた。

『これは…アスタロト様。御機嫌よう』

 灰色猫は豪く畏まって、まるで貴族がするように、腹の前に手を当てて、片手を広げながら優雅にお辞儀をすると、長い尻尾がピンッピンッと左右に揺れた。
 緊張しているのか、それとも、とても仲が良くて懐いているのか…猫の行動って傍で見ていても良く判らないんだよな。

『あらぁ…灰色猫タンじゃん。今日はどうしたの?ご主人はいないワケ??』

『はい。ご覧の通り、灰色猫の傍にはいませんが、ご主人は今、城内におられますよ』

 灰色猫がニッと笑った気配がして、聞き覚えのあるようなないような、アスタロトと呼ばれたどうやら悪魔は、呆れたように肩を竦めたようだった。

『別にねぇ、レヴィアタンに会いたいワケじゃないけど。もうね、随分と会っていないのよ。どうしてる、彼?元気なワケ??』

『頗るお元気です』

『そのワリにはねぇ、巨体が城を壊したって噂も聞かないのよ。どう言うコト?彼はホントに城内にいるワケ??』

 会いたいワケではないんだろうけど、どうもこのアスタロトと呼ばれた悪魔は、レヴィの消息ぐらいは知りたいんだろうなぁ。やけに食い下がる悪魔に、内心では何を考えているのかサッパリ読み取れない灰色猫が、優雅にクスッと笑ったんだ。

『おられますよ。お会いになれば宜しいのに。アスタロト様でしたらすぐにでもお会いできるのではありませんか?』

『う~…ん、嫌なのよね。彼、嫉妬深いから』

 まるでおネエちゃん言葉なんだけど、その声音は明らかに男のもので、どうやらこのアスタロトと言う悪魔は、レヴィに会いたいんだけど、会ってしまうと嫉妬深いからウザイ…と言いたいんだろうなぁ、怠惰な口調が何処か面倒臭そうだ。

『!』

 一瞬、灰色猫がハッとしたような気配がして、その顔を上げたんだと気付いた時には遅かった。

 怠惰な素振りで面倒臭そうに話していたはずのアスタロトが、何時の間にか俺の目の前に立っていて、灰色猫が妨害するよりも素早い仕種でサッと、俺は灰色のフードを背に払われてしまったんだ!

「!」

 ギョッと目を見開いて顔を上げたら、ニヤニヤ、楽しげに笑う目許の黒子がセクシーな、やたら垂れ目の派手な兄ちゃんが腰に手を当てて、これまた派手な格好で立っていた。

 悪魔に顔を見られてはいけない、そう灰色猫に言われていたから、俺は慌てて顔を伏せようとして、伸ばされた繊細そうな人差し指の指先一本で、顎をグイッと上げられてしまった。
 こうなったらもう、俯くことなんかできやしねぇ!
 たった指先一本で動きを封じられてしまった俺は、慌てて灰色猫を目線だけで見下ろしたんだけど、猫はソッと怪訝そうに表情を曇らせているようだった。

『あらぁ…小生意気そうな顔をした人間ね。どうしたのコレ?レヴィアタンへのお土産ってワケ??』

『それは…灰色猫の奴隷です』

 灰色猫はなんとか意識を自分に逸らそうとでもするように、俺とアスタロトの間に割って入って、その小さな肉球で派手な悪魔の身体を押し遣ろうとしたんだ。

『ふぅん?そんなに大事な奴隷なら、アタシに預けるべきなのよ。それよりも、ご主人に渡すべきではないのか??』

 あれほど強い力を持っている灰色猫でも、この悪魔の世界では所詮やっぱり猫でしかないのか、アスタロトはビクともせずに、興味深そうにマジマジと俺の顔を覗き込んできた。
 言葉が出ないのは、予め灰色猫が何かを施しているせいなのか、それとも、この派手でチャランポランそうな格好をしているくせに、夥しい殺気のような、チリチリと肌を焼く威圧感を垂れ流すアスタロトの気配のせいなのか、よく判らないんだけど、俺は全く口を動かせないでいた。

『仰るとおりで。この奴隷はレヴィアタン様に献上するつもりです』

『ふふふ…やっぱりぃ、そうじゃなくっちゃね!じゃあ、近いうちにアタシに回ってくるってコト?』

『それは…』

 不貞腐れたように表情を硬くしている灰色猫が、押し遣られるようにして身体を離してしまったから、俺は不安でいっぱいになりながらアスタロトの派手な顔を見上げていた。
 どうしよう、悪魔に顔を見られるなって言われてたのに、これじゃばっちりガン見されてんじゃねーか。
 うう、ドン臭いヤツで悪かったな!
 誰にともなく悪態を吐いていたら、上機嫌で鼻歌を歌いながら、いきなりアスタロトがキスしてきやがったんだ!!

「なな、な…に、すん…だーーーーーッッ!」

 搾り出すように声に出して怒鳴った俺は、漸く動けるようになった身体で思い切り両手を突っ張ったんだけど、俺の唇を塞いで思い切り濃厚なキスをしていたアスタロトは、微かに濡れた唇をペロリと真っ赤な舌で舐めてから、嬉しそうにニコッと笑った。
 な、なんなんだ。

『あっは!元気がいいねぇ。きっと調教のし甲斐があると思うんだ。レヴィアタンに早く渡すように言っておかなくっちゃ』

 アスタロトは平然とそんなことを言ったんだけど…おい、ちょっと待て。
 今、【調教】って言わなかったか!?

「は、灰色猫、今…」

『小生意気な目付きが可愛いから、たっぷり調教してあげるわよぉ』

 そう言って、灰色猫に救いを求めようとする俺のことなんかお構いなしで、派手な悪魔は覆い被さるようにして俺の息でも止めるつもりなのか、噛み付くように口付けてから、肉厚の舌で口腔を蹂躙すると、まだ満足できないとでも言うように、角度を変えてより深く口付けてきた。
 思わず、腰砕け状態に陥りそうになった俺が、闇雲にその背中に腕を回して抱き付いた時だった、不意に一陣の風が吹き抜けるようにして、アスタロトがハッとしたように顔を上げたんだけど、俺はと言えば、それでなくてもレヴィに教え込まれた身体が反応して、肩で息をしながら派手な悪魔に支えられていないと立ってもいられない状態だった。
 それでも、顔だけは動かして何が起こったんだろうと、虚ろな目線で風の行き着いた先を確認したら、ハッと目を瞠ってしまう。
 そこには、不機嫌が服を着ているんじゃないかと思えるほど、忌々しそうに眉根を寄せた白い悪魔が、腕を組んで突っ立っていたんだ!
 れ、レヴィ…ああ、俺、お前に会いたくて…
 泣きそうになりながら、ともすれば会えないんじゃないかと思っていた最愛の人の登場に、俺は安堵して微笑みながらアスタロトを振り払おうとしたんだ。
 きっと、本当は記憶とかあって、みんなで俺をからかったに違いない。
 だって、レヴィはきっと今、嫉妬して駆け付けてくれたんだから…
 でも、そんな淡い期待に胸を躍らせる俺の希望を、粉々に打ち砕いたのは、他の誰でもないレヴィだった。

『…オレはどうして、ここに来たんだ?』

 ふと、あれほど忌々しそうに俺たちを睨んでいたくせに、レヴィは、この白い綺麗な悪魔は、古風な衣装に身を包んだ貴公子のような出で立ちで、僅かに白い眉を顰めて、困惑したように自分の行動に戸惑っているようだった。
 どうして自分が、ここに駆け付けたのか判らない…その表情は何よりも饒舌にそう物語っている。
 鈍感な俺にだって判る、レヴィは嘘なんか吐いていない。
 本当に、何故自分が此処に、息せき切って駆け付けてきたのか、まるで判っていないようだ。

『あらぁ!レヴィアタンなの??気配がなかったらちっとも判らなかったよ。凄いわね~、レヴィアタンが人型になってるなんて!アタシ、てっきり貴方は大海蛇の姿のままかと思ってたんだよね』

『アスタロト?いや、何故こんな姿になっているのか判らないんだ。ただ、どうしてもこの姿でなくてはならないような…ん?なんだ、灰色猫もいたのか』

『ご主人、お元気そうで何より』

 冷徹な光を宿す冷たい金色の双眸は、一度も俺を見ようとしない。
 それどころか、レヴィには俺自身が、まるで見えていないかのようなんだ。
 けして認めたくはないんだけど、どうも、レヴィは俺をただの人間の奴隷ぐらいにしか思っていないようで、興味すらないようだ。
 思わず頭が真っ白になってしまって、自分の名前が呼ばれたことにすら気付かないと言う有様で、灰色猫だけが心配そうに、ソッと顔を顰めた。

『そうそう!灰色猫タンがねぇ、人間の奴隷を連れて来たんだって。レヴィアタンさぁ、この奴隷をどうする?』

『奴隷?ふん、下らんな。腹を空かせたヘビモスへの手土産にでもするか』

『やだ、勿体無い!』

 灰色猫が何か言うよりも先に、アスタロトが俺をギュウッと抱き締めながら、腹立たしそうに言い返していた。でも、そのどの言葉も俺には届かなくて、今は呆然と成り行きを見守るしかない。

『じゃあねぇ、この子とアタシの奴隷。交換しない?どれでもいいんだけど~、悪い条件じゃないと思うぜ??』

 アスタロトはニヤニヤと笑って片目を閉じて見せたんだけど、レヴィはあまり乗り気ではないようだった。
 と言うか、レヴィは人間の奴隷そのものに、あまり魅力を感じていないみたいなんだ。

『ふん…じゃあ、そうだな。ヴィーニーとなら交換してやってもいい』

 腕を組んで、あまり面白くもなさそうに言うくせに、どこか金色の双眸には悪戯っぽい光がチラチラ瞬いていて、俺は…ああ、レヴィってこんな表情もするんだなぁと、こんな時なのに馬鹿みたいに考えていた。
 どの表情も、初めて見る、レヴィの素顔だ。

『ヴィーニー!…嘘ん、あの子はアタシの一番のお気に入りじゃないッ』

『嫌なら別にいいんだぜ。灰色猫、ソイツを連れて…』

 レヴィはニヤニヤ笑うと腕を組みながら指先で飾り髪を弄ぶと、アスタロトの苦悩に満ちた表情をたっぷりと愉しんでいるようだった。
 やっぱり、レヴィは生粋の悪魔なんだ。
 俺と一緒にいる時の、あの穏やかさは微塵もなくて、狡猾に取引を交わす様は、見ていて嫌な気分になるほど鮮やかで、吐き気がした。
 でも、これが悪魔たる所以で、だからこそレヴィは、俺に魔界に来て欲しくなかったんじゃないかなと、今なら少し判るような気がしていた。
 レヴィは連れ去られることを怯えていたんじゃないよ、灰色猫。
 自分の、真実の姿を見られること、そのせいで俺がレヴィを嫌ってしまうかもしれない…そんな、悲しいぐらいの憶測で、魔界に来させないようにしていたんだ。

『ああ、もう!判ったわよ。ヴィーニーをあげる。その代わり、この子はアタシの好きにしてもいいんだな?』

『…へぇ?お前がヴィーニーを手放してまでも手に入れたい奴隷ね。どんな魅力があるのか知らんが、オレには関係ない。煮るなり焼くなり好きにすればいい』

 追い詰められて唇を噛んでいたアスタロトが、それでも思い切ったように宣言すると、肩を竦めたレヴィが完全に興味を失くしたように首を左右に振って、どうでもよさそうに言い放った。

『じゃあ、ヴィーニー!おいで、今日からレヴィアタンがご主人様よ』

 渋々と言った感じで手放す決意を固めたんだろう…って言うか、そんなに大事な奴隷なら、俺のことなんか放っておいて断ってくれればいいのに。
 俺がアスタロトの腕に抱かれたままで不貞腐れたように唇を尖らせていたら、ソッと、灰色猫の小さな猫手がギュッと、ローブの裾を掴んできた。ハッとして見下ろしたら、灰色猫は困惑したような金色の双眸で俺を見上げていて、それでも、一緒に傍にいてくれる意思が伝わってきたような気がして、ソッと眉を顰めて見せた。
 大丈夫だと、言えたら天晴れなんだけど…ごめんな、灰色猫。
 俺、自分が思う以上に弱虫みたいだ。

「はい、ご主人さま」

 ふと、凛とした声が響いて、ハッと目線を上げると、ヴィーニーと呼ばれた人間の奴隷が足音もなく近付いてくると、彼は自信に満ちた表情で笑ってアスタロトを見上げた。
 その顔は、外国人らしい彫りの深さで、どちらかと言えば、並々ならぬ美形なんだけど、どこか抜けてそうなお惚け野郎の雰囲気を持つアスタロトより、キリリとした貴公子のような出で立ちの、白い悪魔のレヴィとの方がお似合いだと思えた。
 少年は、たとえば、天使が悪戯に人間に化けたような、どこか品のある勝気そうな表情の育ちの良さそうなハンサムだった。
 う、思い切り俺、負けてないか??
 所詮は薄い印象の日本人面なんだ、そんな品のある外国人の顔に勝てるはずがない。
 思わず項垂れそうになった目の前で、さらに追い討ちをかけるような光景が繰り広げられて、できれば俺、そのまま卒倒したかった。
 白い悪魔のレヴィは、嬉しそうに片手を伸ばして裏地が鮮紅色の外套を翻すと、まるで恭しくヴィーニーの華奢な手を取って、その甲にキスしたんだ。
 まるで映画のワンシーンみたいに様になる光景に、俺が目を見開いて愕然としているのをどう受け取ったのか、アスタロトが肩を竦めながら首を左右に振った。

『レヴィアタンはあの子をずっと気に入っていたのよ。いつも『くれくれ』って煩かったんだけど…これで彼も満足だろうよ。ただ、レヴィアタンは大嘘吐きで悪戯好きだから、ああして自尊心を擽ってから、奈落に突き落とすんだろうね。ま、もう手放してしまった奴隷がどうなろうと、アタシは興味はないけど』

 ご主人さまと言うよりも寧ろ、彼の美しさに惑った貴族が、その美を賞賛して心酔している…そんな風に見える光景に、アスタロトが鼻先で笑う。

『ふふふ…きっと、彼のアマデウスは役不足だと思うけどね』

 アマデウス?
 そんな名前の悪魔がいるのかな…どちらにしても俺は、それがたとえ嘘だとしても、見ていたくはなかった。
 そんな風に、人間を持ち上げて、そしてお前は奈落に突き落としていたんだ。
 その光景が鮮やかに俺に重なるような気がした…違うのかもしれないけど、その金色の冷たい双眸を見ても、俺の時に見せる、あの情熱に濡れた光は微塵もないから、俺の時とは違うのかもしれないけど、それでも、胸の辺りをギュッと掴まれたような嫌な気分に陥ったのは確かだ。

「…レヴィは、レヴィアタンは彼が好きなのかな?」

『ん~?そうね、お気に入りであることは確かよ。さ、そんな下らないことはどうでもいいわ。アマデウスごっこの好きなレヴィアタンなんか放っておいて、君はアタシの部屋においで』

 可愛がってあげるからね、と、アスタロトは抱き締めている俺の顔を覗き込むと、うっとりするほど綺麗に笑って小首を傾げてきた。
 見るからに上機嫌のレヴィとはにかむように嬉しそうなヴィーニーを見ていたくなかった俺は、心配そうに見上げてくる灰色猫に困惑の眼差しを向けながら、それでも、諦めたように頷いていた。
 口付けをせがむヴィーニーの頬に、俺なんか眼中にないレヴィが微笑んで、優しくキスする場面なんか、それこそ一生見たくなんかなかった。
 色気もクソもない俺の黒髪に、濃紺色の緩やかな長い巻き髪を肩から零したアスタロトが、嬉しそうにニッコリ笑って頬擦りする。
 どうやら俺は、ワケが判らないままアスタロトと呼ばれる悪魔の奴隷になってしまったようだ。
 けど…これからどうなるんだ、俺??

第二部 3  -悪魔の樹-

 ションボリして夕飯の支度をしても、上の空でご飯を零す俺を、茜と父親は呆気に取られたように見ていたようなんだけど、そんなことすらも、その時の俺は気になっていなかった。
 茜に言わせると、大事にしていた白蜥蜴と可愛がっていた灰色の猫が同時に消えたから、ペットロスにでも陥ってるんだろうと、人の気も知らないで父親にくっちゃべってやがった。それだけなら、俺だって傷心に打ちひしがれたままで軽やかに無視したに違いない。
 でも、父親の一言がいけなかった。

「まあまあ、光ちゃん。白い蜥蜴なんて珍しいけど、同じような蜥蜴と猫を飼ってあげるから、そんなに落ち込まないで笑顔笑顔♪」

 悪気なんかない。
 うん、よく判るんだけどな、親父。
 ごめん、殴らせて♪

「グハッ!痛い、痛いよッ、光ちゃん!!」

「うるせー!クソ親父ッ!!レヴィも灰色猫も、同じヤツなんか二度といないんだ。だから、大切なんじゃねーかッッ」

 思わずポロリ…ッと涙が零れて、俺から拳骨を喰らった父親はハッとしたような顔をして、それから申し訳なさそうにシュンッと眉を八の字にして俯いてしまったけど、大人しく蚊帳の外で飯を食っていた茜は、ヤレヤレと首を左右に振った。
 何時の頃からか動物アレルギーの治った弟は、それでも、未だに動物が嫌いらしくて、本当に清々した顔をしているんだけど、それでも俺が泣くのはそれ以上に嫌なのか、箸を置いてガタンッと椅子を蹴るようにして立ち上がったんだ。

「あのバウンサーは白くて目立つから、何処かの保健所に拉致られてるに決まってる。まずは保健所に行くべきだろ?」

 夏休みの一日を返上しても、一緒に保健所に行ってくれると、この仏頂面の弟は腕を組んで態度で示してくれた。そんな茜を見上げたら、弟はバツが悪そうな顔をして外方向いたけど、父親が殴られた頭を庇いながら嬉しそうに目尻に皺なんか寄せやがった。
 今泣いたカラスがもう笑ってんじゃねぇ!お前は子供かッ!!

「ん~、愛すべき兄弟愛!お父さん、嬉しいよ」

 思いっきり脱力して、できればその口を縫い止めてやりたい、と思っても仕方ないと思う。
 茜だって、思わずと言った感じの呆れ顔で、そんな父親を見下ろしていた。
 その時。

「にゃあ」

 猫の鳴き声にハッとして、俺は茜の足許を見下ろしていた。
 そこには、薄汚れているような灰色の猫が、いつもはまん丸で可愛いはずの瞳孔を、キュッと引き絞った細い瞳をして、金色の双眸で俺を見詰めている。
 その表情に、不意に、またしても競り上がってくる不安感に、吐き気がした。

「あ、良かったじゃん。灰色猫が戻ってきたぜ」

 俺の抜群のネーミングセンスの悪さは今更だから、『灰色猫』と名付けて可愛がるからと言った時の父親と茜の顔は、白蜥蜴に続いての胡散臭い生き物登場に溜め息を吐いていたけど…今ではスッカリ、家族の一員のように想ってくれているのが、その安堵した表情でよく判る。
 俺の我侭も、何もかも、全てをひっくるめて愛してくれる家族がいることが、最大の幸福なんだと言うことを、いつか母さんが言っていた。
 その気持ちが、今なら少し判るような気がするよ。
 俺に泣かれるのが嫌な茜も、灰色の、けして可愛いとは言い難いふてぶてしい顔付きをした灰色猫を抱き上げて、ご主人にもう心配かけるなよと、笑いながら窘めてくれている。安堵した表情は少なからず、茜も灰色猫を心配していたに違いないんだ。
 何処から入り込んだのかとか、そんなことは気にせずに、戻ってきた猫の頭に頬を摺り寄せる茜に、灰色猫は照れ臭そうに「にゃあ」と鳴いている。
 でも、その表情は何処か硬くて、チラリと俺を見る目付きは、何か言いたそうに細められている。
 一抹の不安は、今や大きなうねりとなって、俺の心を平常に保たせてはくれないようだ。

「よかった!灰色猫にオヤツを買ってるんだ。テーブルはこのままでいいから先に部屋に戻ってるよ」

 あからさまにわざとらしいかなぁとは思ったけど、その時の俺には、そんなことはどうでも良かった。
 灰色猫も俺の意思を汲んでくれたのか、居心地の良さそうな茜の腕の中で身じろいで、それから難なく擦り抜けると俺の足許に身体を摺り寄せてきた。

「やっぱ、ご主人が一番なんだな~。ま、俺は光太郎が泣かないんなら別にいいんだけどさ」

 ちょっとぐらいは名残惜しそうに唇を尖らせてそんな可愛らしいことを言う茜に、抱き上げた灰色猫と俺は顔を見合わせてこっそりニヤッと笑ったけど、のほほんとテレビを点けた父親にも、伸びをして浴室に行こうとする茜にも気付かれなかった。
 そんな2人をリビングに残して、俺は階段を一段抜かしで一目散に部屋に駆け上がっていた。
 そんなに猫のご帰宅が嬉しいのかと、茜は驚いたような顔をしていたけど、それすらも無視した俺が部屋に飛び込むのと、俺の腕からすっぽ抜けるようにして飛び出した灰色猫が空中で一回転して人型になるのはほぼ同時だった。

「灰色猫!れ、レヴィは??」

 真っ先に聞きたかった質問に、いつもは胡散臭いニヤニヤ笑いを浮かべているはずの占い師は、僅かに表情を曇らせているのか(と、言うのも顔の半分以上を灰色のフードで隠しているから、口許の動きだけで表情を読まないといけないから骨が折れるんだ)、ニヤニヤ笑いの引っ込んだ口許は、微かに強張ったように引き結ばれていた。
 いったい、何が…

「レヴィはもしかして…」

 最悪の答えが脳裏に閃いて、思わず泣きそうになりながら、俺は目の前が真っ暗になるような錯覚を感じていた。でも、そんな俺に、慌てたように灰色猫が首を左右に振って、その思いを払拭させてくれたんだけど…

『そんな、甚だしい問題ではないよ。いや、そうなのかもしれないけれど…お兄さん、どうか、落ち着いて聞いて欲しい』

「…」

 ゴクッと息を呑んだ。
 双眸を灰色フードの奥に隠してしまっている灰色猫の、その微妙な変化では、これが本気なのか、ただ単に悪魔の使い魔らしく、俺を騙しているだけなのか…どうか、後者であって欲しいと言う俺の願いは、悲しいかな、木っ端微塵に打ち砕かれた。

『ご主人、レヴィアタン様は…どうも、記憶を失くされてるようなんだ』

「…え?」

 俄かには、何を言われたのか理解できなくて、俺は眉を顰めて首を傾げてしまった。
 驚くのも無理はない…とでも思ったのか、やれやれと首を左右に振った灰色猫は、俺のベッドに腰を下ろすと疲れたような溜め息を零した。

『実際、信じられなかったんだけどねぇ。いつも通りの記憶はあるのに、まるでスッポリ、お兄さんの記憶だけが消えちゃったみたいなんだよ』

 灰色猫の台詞に、それでもどうやら、レヴィが元気でいることに変わりはないようだと一安心したんだけど、それでも、ムクムクと沸き起こるのはちょっとした激怒。

「…なんだよ、それ」

 ムスッと、眉間に皺を寄せて唇を突き出すと、俺の怒りのオーラを感じ取ったのか、灰色猫は首を竦めるようなフリをしながら、困惑したような声を出すから、どうやらこの話は嘘でも冗談でもないんだと、判ってはいるんだけど、漸く俺の脳が受け入れたようだった。

『最初は冗談だろ?って思ったんだけどねぇ…この灰色猫がお兄さんの許に戻られないんですか?って聞いたらさぁ、ご主人、なんて言ったと思う??』

 想像もできなくて首を左右に振ったら、灰色猫は溜め息を吐いたんだ。

『何を言ってるんだ、灰色猫?光太郎ってのは誰だ??』

 一言一句、聞いた通りを、まるでレヴィがそこにいて喋っているかのように、ソックリな声音で言ったから、俺はビックリして双眸を見開いてしまった。
 でも、それは悪魔の使い魔である灰色猫が、わざと声真似をしているだけだと知って、やっぱり、これは嘘でも夢でもないんだと唇を噛み締めてしまった。

「どうして…俺の記憶だけ失くなったんだろう?」

 灰色猫は『さぁ?』と首を傾げたけれど、思い直したように顔を上げて俺を見上げた。
 フードの奥の、見えないはずの双眸がチカッと光ったような気がしたのは、たぶんきっと、思い過ごしなんだろうけど。

『どちらにしても、このままだとご主人はもう二度と、こちらの世界には帰って来ないよ』

「そんなのは嫌だ!悪魔の…【悪魔の樹】の契約はどうなってるんだよ!?」

 俺を白い悪魔と結び付けてくれる最後の砦であるはずの、【悪魔の樹】の契約の効力だけが、今の俺の縋るものであり、頼れる味方だった。
 離れてしまえばもう二度と出会えないことぐらい、馬鹿な俺の脳みそだって理解してる。

『うーん…難しいねぇ。あの契約はあくまでも悪魔が理解していなくては成り立たないんだ。こんな風になるとは思っていなかったから…兎も角も、ご主人がお兄さんの記憶を取り戻してくれないことには、【悪魔の樹】の契約はドローだよ』

「そんな…!」

 思わず、弾かれたように灰色猫を見詰めたら、いつもはにんまり笑っている灰色フード男は、酷薄そうな薄い唇を引き結んで、まるで居た堪れないような仕種で俯いてしまうから、灰色猫のせいじゃない、そんなこと、百も承知だと言うのに俺は…まるで詰め寄るようにして灰色猫の、その柔らかなローブの胸元を引っ掴んでいた。

「どうすれば!?…なぁ、どうすればレヴィは帰ってくるんだ??俺は、いったいどうすれば…ッ」
 このままだと、レヴィはもう、二度とこの場所に帰って来ることはない。
 毎朝、『おはよう』と呟くようにして、白蜥蜴の姿でキスして起こしてくれることも、情熱的に抱き締めて、何度でも狂おしいほど愛している事実を教えてくれることも、そして、傍に居て、何もかも包み込んでくれるような、全てを許してくれているような、あのあたたかな、優しい、愛しい金色の眼差しも…もう、見ることができない。
 できなくなると言うのか?
 もう、あの白い悪魔に逢えないと、そう言うのか?
 そんなのは嫌だ!

「灰色猫!俺を魔界に連れて行けッ」

 殆ど、命令口調だった。
 それすらも気に止める余裕もない俺の、その突然の豹変振りにギョッとしているような灰色猫は、少し動揺したように首を竦めやがるから、本気で殴りそうになった。

『そ、それはいけない。言わなかったかい?お兄さん。魔界は異質なものを遠ざけてしまう場所なんだ』

「それはもう聞いた。でも、今の俺は異質じゃない。だって、レヴィは俺を愛してないッ」

『そ、それは…』

 魔界に行ったからと言って、いったい何ができるかとか…俺には判らない。
 ただ、逢いたかった。
 もう一度だけでいいから、あの白い悪魔の、金色の瞳を見たかった。
 冷徹でも、俺の知らない色をした瞳でも、なんでもいいから、もう一度だけ、逢いたいんだ。
 ああ、どうか。
 もう一度でいいから、レヴィに逢わせてくれ。

『お兄さん…』

 気付いたら俺は、強い双眸で睨み付けていた筈なのに、視界はぼやけて滲んでいた。
 思うよりも弱気な心が、ポロポロと涙を頬に降らせていたんだ。
 震える指先に、もう力なんか入っちゃいないから、いつだって灰色猫は逃げ出すことだってできたのに…灰色猫はそうしなかった。
 震える肩をそのままに、声を出すことも忘れて泣いている俺の肩を抱いて、ほんの少しだけ思い詰めた口調で囁くように呟いた。
 ポロリと、思わずと言った感じで零れ落ちた言葉に、俺はハッとしたように灰色猫の顔を覗き込んでいた。
 真摯に口許を引き締めた灰色猫は、まるで心を知っている猫のような仕種で、とても優しげに、にんまり笑ったんだ。

『連れて行ってあげるよ、お兄さん。でも気をおつけ。魔界はとても寂しいところだからね』

 今から友達のところに泊りがけで遊びに言ってくると宣言したら、部屋で音楽を聴いていた茜と、風呂上りにビールを飲んでいた父親が愕然とした顔をして、リュックサックを引っ掴んでいる俺を振り返って、さらに目を丸くした。
 止められても行くつもりだったけど、やけに切迫した俺の表情に気付いたのか、父親は口に含んでいたビールをゴクンッと咽喉を鳴らして飲み込みながら、それはそれで動揺したように瞬きを繰り返しながら頷いたんだ。

「べ、別に構やしないけど…どうしたんだい?こんな時間に」

「さっき、携帯に電話があって、キャンプに行くんだと。だから、一緒に行ってもいいだろ??」

「誰と行くんだよ」

 早いところ話を切り上げたかったのに、不貞腐れたように腕を組んで壁に凭れている茜が、怪訝そうな目付きをしてそんなことを言うから…う、思い付きで言っちまったから、誰にするか考えてもいなかった。
 電話で確認されたら嘘だってバレるし、そうすれば止められるのは必至だ…ああ、困った!どうしよう…

「し、篠沢だよ!」

 これも口から出任せだったんだけど、何故か、自然と口が動いていた。

「なんだ、篠沢さんか。で、灰色猫も連れて行くのか?」

 腕の中で素知らぬ体で欠伸なんかしている灰色猫は、「にゃあ」と鳴いて双眸を細めるから、そんな猫を見下ろしながら俺は頷いていた。

「ふーん、じゃあ、俺たちの飯はどうなるワケ??」

 そんなの、もういい年なんだから自分たちで作れよな!…と言えれば、きっと今の俺はいないんだろうと思うけど、仕方ないから冷凍庫に入っているレンジでチン!のレトルトでも食ってて貰うことにした。
 それで、珍しく簡単に引き下がった茜さえどうにかなれば、父親は俺の行動にはとやかく口出ししたりしないから一安心だ。

「じゃあ、気を付けてね」

 そう言った父親に頷いて、俺がリビングから飛び出そうとしたその時、父親が低い声で言ったんだ。

「とても寂しい場所だけど、無事に帰ってくるんだよ」

「え?」

 ギクッとして振り返ったら、父親はキョトンッとして、自分が何を言ったのかよく判っていないようだった。俺は首を傾げながらも、慌てて靴を引っ掛けるとそのまま玄関を飛び出して表に出ようとして…そのまま、濛々とする硫黄臭い煙に撒かれたように包まれたんだけど、気付けばとても寂しそうな細い道に落っこちていた。
 そう、玄関から飛び出すと同時に、そのまま、まるで奈落の底にでも落ちていくような錯覚に囚われるほど、真っ暗な闇の中に硫黄臭い煙と共に落ちてしまったんだ!

「なな…ッ!?」

『ご覧、お兄さん。ここはもう、魔界の入り口だよ』

 そう言って「にゃあ」と鳴いた灰色猫は腕から飛び降りると、細い道にへたり込んでいる俺に、猫の姿のまま、厳しい表情で自分の背後を振り返った。
 そのレヴィに良く似た金色の視線を追って行き着いた先には、まるで、暗黒のお伽噺から抜け出たような、漆黒の空に真っ赤な月が浮かぶ空の下、怪鳥が飛び交う排他的な雰囲気を持つ、薄気味の悪い城が蒼然と突っ立っていた。
 息を呑む音でさえ凍りつくような、心の奥底まで震え上がる殺気が満ち溢れた世界には、引き攣れるような痛みだけが支配している、そんな錯覚すら感じて、俺は気付いたら自分自身を抱き締めていた。

『よくお聞き、お兄さん。此処はぬくもりのある人間の来るべき場所ではないんだよ。此処は悪魔の支配する世界。この場所に来る人間は、悪業を背負って後悔ばかりしている、奴隷だけ』

 灰色猫は、身の竦むような恐怖が渦巻く大気に恐れ戦いている、口では大層なことを言っていた俺のヘタれた腰に擦り寄りながら、それでも、一緒にいることを決意してくれた眼差しで言ったんだ。

『だから、お兄さんはこの灰色猫が連れて来た、新しい奴隷ってことになるから。できる限り、ご主人に会うまでは、どの悪魔にも顔を見られたり、興味を抱かれてはダメだよ』

「わ、判った…って、うわ!?」

 灰色猫の小さな猫手がチョイッと動いた瞬間、俺の真上から何かが降ってきて、気付いたら俺も灰色猫のように灰色フード付きのローブを着ていた。
 Tシャツにジーンズの上から灰色のローブなんて…普通なら暑苦しいんだけど、どう言う仕組みになっているのか、それほど暑くはなかった…と言うか、暑さも寒さも感じない、そんな、何処か気持ちの悪い奇妙な空間だったから、それほど気にはならなかったんだ。

『このローブは人間の本心を隠してくれる。ご主人を想うお兄さんの心を、少しでも他の悪魔に知られないようにね』

「ありがとう、灰色猫」

 灰色猫がいてくれてよかったと思う。
 レヴィに出会う為の切欠を作ってくれたのも、レヴィと信じあえる心ってヤツを教えてくれたのも、この小さな灰色の猫のおかげだったんだから。
 俺は灰色猫がそうしていたように、灰色のフードをできるだけ目深に被って、擦り寄ってくる小さな猫のやわらかな頭部を、ピンッと尖った耳を押し潰すようにして感謝の気持ちをめいいっぱい込めて撫でていた。
 猫は気持ち良さそうにうっとりと目を細めると、「にゃあ」と鳴いて俺を見上げてきた。

『お礼なんて言ってはダメだ。きっと、お兄さんはこの灰色猫を恨むだろうからね』

「そんなこと」

 あるワケないと確信した双眸で見下ろしても、灰色猫は、こんな荒んだ場所にいると言うのに、何処か飄々としていて、のほほんとしたように金色の双眸を細めるだけだ。

『さあ、覚悟はできたかい?』

 気を取り直したようにコホンッと咳払いをして、よっこらしょっとおっさんみたいな掛け声で立ち上がった灰色猫は…って!灰色猫、お前、お前…ッッ!!

「二足歩行してる!!」

『当たり前でショーが。普段は占い師の姿で行動するんですがね、占い師姿で人間を連れていると、それだけで奴隷を調達してきたって思われて、余計な注目を集めるんだよ。それならば、本性で一緒に行動していた方が、下っ端悪魔と戯れている、ぐらいにしか思われないからね。簡単に言えば、カムフラージュだよ』

「はぁ…なるほど」

 灰色猫がのんびりと二足歩行できることにも驚いたけど、歩き出すと同時に短毛種特有の滑らかそうな毛皮の上から、赤と黒のベルベットのベストが現れて、その足にはエナメル質っぽいパンツ、そして靴まで履いてるんだ!!
 …なんつーか、まるで猫の貴公子みたいだ。
 これで羽飾りのついた、つばの広い帽子かシルクハットとか被ると、やっぱ立派に猫の貴族っぽくみえる。とても、灰色の薄汚れた野良猫には見えないよ。
 今まで、薄汚れた灰色の野良猫、って勝手な印象を持っててごめん。

「灰色猫って立派に猫の貴族だったんだなー。って、あ、そうか。やっぱりリヴァイアサンの使い魔となると、きちんと身嗜みを整えていないと、他の悪魔に馬鹿にされるからとか?」

『まあ、間違ってはいないけどね。ただ、灰色猫の趣味ですよ、お兄さん』

 チラッと撫で肩越しに振り返って、ニヤリと金色の双眸を細める灰色猫の、その台詞で遠からず外れてはいないんだろうなぁと思えた。
 漸く、ヘタれていた腰が落ち着いたから、俺は促されるままに立ち上がって、軽く伸びをしながら眼前に悠然と構えている巨大な、暗黒の城を睨み据えていた。
 いったい、何人の悪魔が居住しているのか、皆目見当もつかないんだけど、それでも怯んでばかりいるワケにもいかない。
 俺は決意したんだ。
 もう一度、レヴィに逢いたい。
 レヴィに逢って…冷たく突き放されるかもしれないけど、思い出させるチャンスぐらいは作りたいじゃないか。
 どうして、俺だけの記憶を忘れてしまったのかは判らないけど、俺は…それでも、レヴィに逢いたい。
 ただ、単純に逢いたいと願う気持ちが、今の俺の原動力になってるんだと思う。
 それを知っているから、灰色猫は俺を導いてくれるんだろう。
 何が待ち構えているかは判らないけど、ひとつだけ確かなことは、その先にきっと、レヴィがいるってことだ。
 立ち尽くす白い悪魔に逢えたら…俺は、なんて言えるんだろう。
 何を言うんだろう。
 俺は決意して歩き出した足に、力を込めた。

第二部 2  -悪魔の樹-

『寂しそうだねぇ、お兄さん』

 その声で、ハッと我に返ったら、足許で薄汚れたような灰色の猫が「にゃあ」と鳴いて擦り寄ってきた。
 いつも、寂しい時には一緒にいてくれる灰色猫がいたから、きっと俺は寂しさを紛らわせることができたんだろう。

「ちょっとな。いつもベッタリいるヤツがいないんだ。そりゃ、少しぐらいは寂しいさ」

『別に言い訳なんか聞いてないよ』

 クスクスッと、猫のクセに妙に知ったように鼻先で笑うから、俺はクソーッと思ってそんな猫を抱き上げてやるんだ。

「そもそもだ、どうしてレヴィは俺を魔界に行かせたがらないんだよ!?」

 完全に八つ当たりなんだけど、それでも聞かずにはいられないじゃないか。
 そもそも、魔界があることを俺が知ったのは、この灰色猫のおかげなんだからな。
 なんだってレクチャーしてくれるんだ、最後まで面倒見てくれよなー…って、ちょっと情けないけど聞かぬは一生の恥!って、ばあちゃんが言ってたんだから間違いない。
 さあ、遠慮せずに教えてくれ。

『魔界って言うところはね、以前にも言ったと思うけど、そりゃあ厄介なところなのさ。お兄さんのようなへな猪口人間がヘナヘナ行ったら、すぐに悪魔たちに取って食われるからねぇ、ご主人は気が気じゃないからお連れしないんだよ』

「なんだよ、それ」

 そりゃぁ、俺は確かにレヴィや灰色猫のような悪魔じゃないから、へな猪口ヘナヘナ人間かもしれない。だからって、そんな簡単に取って食われたりしないさ!!
 つーか、泣く子も黙るリヴァイアサンがいるのに、どうして簡単に取って食われるんだよ?

「レヴィが一緒なら大丈夫なんじゃないのか??」

『それが、そうでもなくてね』

 灰色猫は俺の腕の中に具合良くおさまると、やれやれと息を吐きながら、まるで心の奥底までも覗き見ることができるんじゃないかって思うほど綺麗な金色の双眸で見上げてきた。

『魔界には色んな掟やルールがあるんだよ。それはこの人間どもが暮らす世界にもあるよね?それが言わば1つの秩序となって、魔界はたゆたう時の中で静かに時間を刻んでいるんだ。だから、異質な物質は排除されてしまう』

「それが、俺ってこと?はぁ??なんか、良く判らないよ」

 何時もより小難しく、偉そうにツンツンの髭をピンピン震わせて話す灰色猫の、得意そうな顔を覗き込みながら首を傾げたら、灰色猫は金色の双眸を細めると、短毛種特有の滑らかな頭部で顎の辺りに擦り寄ってきたんだ。

『お兄さんはさぁ、ご主人の心から愛する人なワケでしょ?』

「…う、うん。…その、たぶん…」

 顔を真っ赤にして口の中でモゴモゴ言っていたら、灰色猫は呆れたように双眸を細めると、大きな口をパカッと開いて欠伸なんかしやがった。
 灰色猫じゃなかったら殴りたかった。

『まあ、お兄さんの自信の有無はこの際無視して。つまりね、悪魔は人間を愛さないんだよ』

「…え?」

 眉を顰めると、灰色猫はクルリンッとした可愛い目をして俺を見上げてきた。
 そんな小馬鹿にした態度も、気にならない。
 それは、どう言う意味なんだろう…?

『そして、人間も悪魔を愛さない。悪魔と人間は相容れない関係でしかないんだ。でも、悪魔は人間に恋焦がれているし、人間も悪魔の魅力に恋してる。だけど、けして平行線になれない関係だから、悪魔は人間を陥れるし、人間は悪魔を憎むワケ』

 灰色猫は、猫にしてはやけに穏やかな表情をして、淡々と話している。
 まるで万華鏡みたいにクルクル変わる表情が、今日は何処か静かで、レヴィのいなくなった部屋をより閑散とさせていたから、知らずに俺はギュッとそんな灰色猫を抱き締めていた。

『だから、人間を愛する悪魔と悪魔を愛する人間なんて、魔界に存在してはいけない関係なんだよ。だから、ご主人はお兄さんを魔界にけして連れて行かないんだ。連れて行ってしまえば、異質な物質として、他の悪魔たちがお兄さんを唆して、何処か遠い場所へ連れ去ってしまうからね』

「神隠しみたいなもんか?」

 俺の台詞に灰色猫は『なにそれ』と言って、プッと噴出したんだけど、ペロペロと退屈そうに前足を舐めると耳や耳の後ろをセッセと拭い始めたんだ。

『まあ、似たようなもんかな?でも、ちょっと違うのは…お兄さんが無事ではいられないってことだね。だって、彼らは悪魔であって、神ではないんだよ』

 それは尤もだったから、俺は自分がどんな悲惨な目に遭うのか、その時になって漸く、灰色猫やレヴィが何を言いたかったのか判ったような気がして身震いしてしまった。

「取り敢えず、レヴィの帰りを大人しく待つことにするよ」

『それが賢明な判断だね』

 灰色猫は前足をペロリと舐めて、心地良さそうに双眸を細めると、にんまり笑って頷いた。
 その顔を青褪めたままで見下ろして、俺は半分以上引き攣ってたに違いないだろうけど、ニコッと笑って見下ろしていた。
 レヴィ、早く帰ってきてくれよ。

 でも、レヴィはすぐには帰って来なかった。
 と、言うか。
 もう、1週間以上も経っているのに、レヴィはまだ帰って来ないんだ。

「あれ?最近、あの鬱陶しい白蜥蜴がいないんだな」

 なんて、茜に言われると殴りたくなるほど、俺の今の心理状態は最悪だった。
 何故、レヴィは帰って来ないんだろう?
 魔界で何かあったのか…でも、それにしては灰色猫が大人しくしているし、もしかしたら、甚大な被害を及ぼすからと、レヴィがあれほど懸念していた兄弟が、何かとんでもない問題を起こしていて、その後始末に今まで掛かっていたりするんだろうか?
 うん、きっとそうだろうな。
 そんな風に思い込んでいられるのも最初の4日目までで、さすがにそれ以上になると、やっぱり居ても立ってもいられなくなって、俺は暢気に昼寝をかましている灰色猫の首根っこを引っ掴んで無理矢理起こしたんだ。

『アイテテテ…!酷いなぁ、お兄さん。もうちょっとマシな起こし方ってのがあるでショーがッ』

「灰色猫!どうして、レヴィは帰ってこないんだよ!?もう、一週間以上も経ってるんだぞ??」

 脇の下に両手を差し込んで持ち上げれば、何処まで伸びるんだと疑いたくなるほどダランッと両足をたらした灰色猫は、一瞬だけどキョトンとしたけど、胡乱な目付きのままでクックックッと嫌な笑い方をしやがった。

『ああ、ご主人が心配なんだね』

「あったりまえだろーが!心配して悪いかよ!?」

 ムキッと腹を立てていると、灰色猫は悪魔のような顔をして(まあ、実際は使い魔なんだけど)欠伸をしたけど、それでもムッツリした顔でのんびりと言ったんだ。

『そうだね、いつもなら何を差し置いてもサクッと帰ってくるのに…こんなのはご主人らしくない。よし、ちょっと魔界に戻ってみるよ』

 灰色猫はどう言った仕組みかは判らないけど、あれほど確りと掴んでいたと言うのに、スルリと俺の腕から抜け出ると、軽やかにフローリングの床に降り立ったんだ。
 その時にはもう、灰色の薄汚れたようなフード付きのローブを着た、口許に怪しげな薄ら笑いを浮かべている胡散臭い占い師の姿になっていた。

「…あのさ」

 とっとと魔界に行こうと煙を身に纏った灰色猫の腕を慌てて掴んで、俺は引き留めながら、ニヤニヤと薄ら笑っている灰色猫の、良く見えないフードの中を覗き込んで言ったんだ。

『?』

 口許の笑みはそのままだけど、不思議そうに小首を傾げる灰色猫、どうかお前まで…

「お前まで…消えてしまうなよ」

 何故そんなことを思ったのか良く判らないんだけど、このまま、灰色猫まで戻って来なかったらと思うと…レヴィに繋がる全てから隔離されるような気がして、不安で仕方ないんだ。
 俺とレヴィの繋がりなんて、こんな風に儚くて、脆いものなのかと現実を叩きつけられたような気がしたから、だから、余計に不安で寂しかった。

『…お兄さん』

 灰色猫は一瞬だったけど、息を呑むような仕種をして、それからまた、口許にお馴染みのにんまり笑いを浮かべて首を左右に振ったんだ。

『心配性のお兄さん。ご主人の情報を引っ提げて、無事にこの灰色猫が戻った暁には、鰹節がたっぷりのあったかいご飯を用意しておくれね』

 そんな風におどけてくれる灰色猫の、何処にそんな自信があるのか、そう言ってクスクスと笑った胡散臭い占い師はフワリと、少しだけ硫黄の匂いのする煙に包まれて消えてしまった。
 ああ…そう言えば。
 レヴィが初めて俺の部屋に誕生した時も、まるで消火器でもぶちまけたようにモウモウと煙が溢れ返っていたっけ?
 と言うことはだ、あの種からレヴィは生まれたんじゃなくて、あの種が魔界とこの世界を結んだ、1つの道だったんだな…とか、硫黄の匂いが微かに残る部屋の中で、俺は呆然とベッドに腰掛けてそんなどうでもいいことばかり考えていた。
 灰色猫は、どれぐらいで戻ってくるんだろう?

 結局、やっぱり灰色猫もすぐには帰って来なかった。
 こうなってしまっては、もしかしたら、実は何もかもあの白い悪魔が仕組んだお芝居で、そろそろ潮時だとでも思って、都合よく理由をつけて戻っただけなんじゃないか…とか、そんなことを考えて途方もなく落ち込みながら、それでも日常生活は毎秒100キロの速さで背後に喰らいついているんだと思い知らされるように、夕飯の買い物にトボトボと出掛けることにした。
 腹を空かせた大きな子供が、家には2人もいるんだ。
 打ちひしがれてばかりはいられないけど…それでも、この日常の生活のおかげで、俺はあまり腐らずに済んでいた。
 何時もの商店街で特売のチラシを握り締めながら、キョロキョロとお目当ての食材を探していると、不意にドンッと背中に何かがぶつかってきたから…すわ!もしやスリじゃねーだろうな!?と、今月の生活費を預かる財布を握り締めて振り返ったら、そこには…

「ふぅん、君がセトウチコウタロウね」

 ふくよかな胸が押し上げるようなブレザーと、細いウエストに引っ掛かるような短いスカート姿の、ふんわり巻き髪が小顔を包み込んでいる少女は、細い腰に片手を当てて、勝気そうな双眸を細めて見上げていたから…コイツ、誰だろう?
 どうして、俺の名前を知っているんだ??
 目許にはセクシーな黒子があって、どう見ても、噂にも話題にも出てくるに違いない、とても可愛くて綺麗な子なんだけど…全く見覚えがない。
 ただ、この制服は確か、隣町のお嬢様学校だって言われている女子高のモノだけど。
 クラスメイトがあの女子高の子と付き合っていたから、制服だけは覚えているんだけど、しがない俺の高校如きじゃなかなか会うチャンスもないから、別に知らなくても仕方ないのか。

「えーっと…誰?」

 失礼なヤツだとは思うけど、顔も名前も知らないんだ、こんなつっけんどんな聞き方になっても仕方ないと俺は思う。うん、勝手にそう思う。
 でも、彼女は気分を害しているようでもなく、小馬鹿にしたようにクスッと鼻先で笑ったんだ。

「誰でもいいのよ。貴方、悪魔が憑いてるわよ」

「え!?」

 ギクッとした。
 いやまさか、レヴィのことを言ってるなんて思ってもいないし、何か、性質の悪い冗談か何かだろうぐらいにしか思わなかったんだけど…彼女の、少しだけ色素の薄い勝気な瞳が、何かを探るように細められたりするから、俺はヘンに動揺してしまって目線を泳がせてしまった。
 こんな、顔も知らないようなヤツの台詞に簡単に動揺するなんて…とか、思うだろ?
 実際は、そんなことに動揺したんじゃないんだ。
 誰かが、たとえばこの胡散臭い女子高生だったとしても、まだ俺に、悪魔が憑いていると言ってくれたんだ。
 ほんの少し、胸の奥でずっと燻っていた不安のようなものが、ゆっくりと溶けたような…そんな安堵。

「強ち、満更でもないようね。人間如きが第一階級の悪魔を手懐けるなんて、やるじゃない」

 名前も名乗らないような失礼な女子高生は、フンッと鼻先で笑うと、すぐにニヤリと笑いやがったんだ。
 あう、こんな往来で悪魔の談議なんて冗談じゃないよな。
 顔馴染みの八百屋のおばちゃんが、あからさまに怪訝そうな顔をしてるから、俺はコホンッと咳払いして軽くあしらってやるつもりだったんだ。

「何を言ってんだ?この暑さだ、熱中症とかかからないように気を付けろよ」

 じゃーなと片手を振って立ち去りかける俺を慌てたように追い駆けてくると、ふんわり巻き毛の女子高生は、なんだか、見ているだけで嫌な気分になるような笑みを、その綺麗な唇に浮かべていた。

「随分と落ち着いてるじゃない。アンタにレヴィアタンは勿体無いのよ」

「…え?」

 ふと、見下ろした先の彼女の顔は、まるで妖艶な熟女のようにしっとりとした雰囲気を漂わせていて、俺は思わず我が目を疑って瞬きを繰り返してしまう。
 そうすると彼女は、そんな俺の隙をついて、いきなり、そうまるで嵐のように唐突に、いきなり胸倉を掴んでグイッと、それはそれは凄まじい力で引き寄せると、問答無用でキスしてきた!

「ななな…ッッ!?」

「…ふん、キスぐらいで動揺しないでよね」

 呆気に取られている俺や、道行く買い物客たちが驚いたように目を瞠っているのに、彼女は全く動じた様子も見せずに、まるで勝ち誇ったかのようにフフンッと笑いやがったんだ。
 なな、なんなんだ!?

「アンタの中にあるレヴィアタンの記憶は貰ったわ。これでお仕舞い。結局、人間如きが第一階級の悪魔の愛を得ようなんて、100万年早いってことよ」

 彼女は不意に、憎々しげに俺を睨むと、フンッと胡乱な目付きで一瞥してから外方向くようにして行ってしまったんだけど…いったい、何が起こったんだ??
 あのお嬢様学校の女子高生は、レヴィの記憶を貰ったとか言いやがったけど…そもそも、どうしてレヴィのことを、彼女は知っていたんだろう。
 有名なお嬢学校はカトリックだと彼女持ちのクラスメートが言ってたから、もしかしたら、彼女はエクソシストだったんじゃないだろうな?
 それだと、もしかしたら…俺は目を付けられたのかもしれないから、レヴィが危険かもしれない。
 俺は、実際に第三者として聞いていたら、おかしな会話だと思われるに違いないんだけど、それでも俺は、胸に微かに巻き起こった旋風に、ソッと眉を顰めて俯いていた。
 レヴィも、灰色猫も帰って来ない。
 ここで俺は、待っているのに。
 どうして、2人とも帰って来ないんだろう?
 それとも…もう、帰って来ないのかな?
 ここにはエクソシストとかいて、危険だし…
 帰って来ない方がいいのか?
 でも、俺は。
 俺は、ここに、いるのに…

第二部 1  -悪魔の樹-

 今日は朝から茜は友達の家に遊びに行って今日は帰らないし、父親はついさっき、夜勤の為に出勤したばっかりだ…と、言うことはだ、目の前で嬉しそうにニコニコ笑っている、この世のモノとは到底思えないほど綺麗な白い悪魔の思惑通り、今日一日は2人っきりになるってワケだ。
 生涯の愛を誓ってしまった身としては、最愛の旦那様に得意の手製料理を振舞うべく、キッチンに篭ってウンウン唸っているんだけど、実際の関係は、どうも俺が旦那様で白い悪魔が貞淑なメイドって感じだ…って、自分で言っておきながら何なんだけど、アキバ系が泣いて喜ぶような萌え要素がまるでない、キリリとキツイ双眸をしている白い悪魔に、嬉しそうに『ご主人さま』なんて呼ばれてみろよ、一気に萌え上がった心も萎えるからな。
 本来ならきっと、この白い悪魔…リヴァイアサンのレヴィこそが『ご主人さま』と呼ばれて、多くの使い魔たちが平伏す光景がお似合いだってのに、レヴィは全く似合わないニコニコ笑いを浮かべて、何が楽しいんだか、大人しくキッチンにあるテーブルの椅子に行儀良く座ってるんだ。
 ジャラジャラと鬱陶しいぐらい飾り立てた宝飾品を除けば、古風な外套に古風な衣装を身に纏っている姿は、悪魔の貴公子と言われれば頷けてしまうぐらい、とてもよく似合っている。
 最近、レヴィの白い悪魔姿を見ることが少なくなっていたから…惚れた弱みとしては、久し振りに見る白い悪魔の端整な横顔に、ドキドキと胸を高鳴らせて、頬を染めても誰からも文句は言われないと思うぞ。
 茜や父さんがいる時はいつも白蜥蜴の姿をしているから、久し振りに見る白い睫毛も、金色の双眸も、何もかもが新鮮で、ジッと見詰められてしまうと照れ臭くて思わず笑うしかない。
 そんな時は決まって、レヴィも嬉しそうにはにかむから、なんだか、こっちの方が心があったかくなってさ、レヴィのことをもっともっと好きになってしまうんだ。
 そんなこと、この白い悪魔はちっとも感じちゃいないんだろうけど…
 でも、この白い悪魔は、驚くことに、俺の手料理が甚くお気に入りなのか、どんな姿の時でも嬉しそうにペロリと平らげてくれる。
 だいたい、悪魔って何を食うんだか皆目検討もつかなかったんだけど…前に聞いた時は、なんか、大気にある純粋なモノが食事だとか何とか言ってたから、きっと空気を吸ってることが食事なんだろう、植物みたいなヤツだなーって、単純に思っていたんだけど、実際は俺が用意したモノならなんでもペロリと平らげてくれたんだ。
 それも飛び切り嬉しそうに…そんな風にされてしまうと、それでなくてもレヴィを好きな俺としては、腕によりをかけて頑張らないとって思っても、やっぱり仕方ないと思うんだよなぁ。
 そのあまりの食いっぷりに、一度、茜のヤツから食卓にでんっと鎮座ましてる白蜥蜴をうんざりしたように見ながら言われたことがある。

「光太郎さぁ、食卓にまでトカゲを置くなんかどうかしてるよ。食事が不味くな…ウギャァ!」

 結局、腹立たしそうなレヴィに指を食い付かれて今は黙ってしまったんだけど、それでも茜は今でも忌々しそうに白蜥蜴を睨みながら食事をしている…んだけど、スマン、茜。
 それでも俺は、白蜥蜴を食卓の上に乗せておきたいんだ。
 父親も茜も、誰も食事を褒めてくれないし、結構残すようになった最近、レヴィだけは嬉しそうに金色の双眸を細めながら、美味しそうに皿に盛られた料理を平らげてくれるんだよ。
その姿を見ていると、心の奥底からあたたかい気持ちがじんわりと広がってきて、また頑張ろうって気持ちになれるから、だから俺は、レヴィを食卓の上に乗せているんだ。
 そんなこと、きっと父親たちは気付きもしないんだろうけど…
 まあ、白い悪魔の姿で肉ジャガを頬張るのはどうかしてると呆れちまうけどな。
 レヴィは、俺の作る肉ジャガがお気に入りなんだそうだ。
 端整な横顔で、頬にかかる白い髪はそのままで、長い白い睫毛に縁取られた綺麗な金色の双眸を嬉しそうに細めながら、中世から抜け出してきたような貴公子然とした風貌で、思い切り肉ジャガを食ってる姿は、なんつーか、信じられないモノでも見ているような、なんとも不思議な気分になった。
 オマケにだ、その箸遣いの器用なことと言ったら、もしかしたら、そんじょそこらの高校生よりは上手かもしれない…見掛けが外国人なだけに、日本人顔負けでバリバリ箸を使われてしまうと…俺が複雑な顔をしてもそれこそ本当に仕方ないと思うぞ。

『ご主人さま!今日の肉ジャガも美味いです♪』

 まだ母さんが生きていた時に座っていた場所に腰を下ろしている白い悪魔は、ニコニコと上機嫌で笑いながらそんなことを言うから、俺は照れを隠すように唇を尖らせて「当たり前だ」って呟くんだよな。
 そうすると、レヴィは嬉しそうに笑うから…そんな、他愛ない会話にも俺は、凄く幸せだと思ってしまうんだ。
 だから、ドンッとわざと大きな音を立てて、味噌汁とご飯のお代わりなんかをテーブルに置いてしまう。
 それすらも白い悪魔は、嬉しそうに平らげてくれるから。
 それが凄く嬉しくて…

『ご主人さま』

 腹をたっぷり満たしたレヴィは、ニコニコと悪魔のクセに屈託のない笑みを浮かべると、身体ごと俺の方を向いて『おいでおいで』と片手で手招いたりするから、食器の後片付けをしていた俺は水道の水を止めると、エプロンで両手を拭いながら近付いて、遠慮も躊躇いもなくその膝に横座りするように腰を下ろすとひんやりする指先よりも冷たい青褪めた頬に掌を押し当てた。

「レヴィ…」

 どうせ、今夜は誰もいないんだから、思い切り、俺はこの、この世ならざる美しい白い悪魔の甘ったるい桃のような芳香に包まれたまま、やっぱり甘ったるい唇に口付けを強請って唇を寄せるんだ。

『ああ…貴方はとても淫らにオレを誘うんですね』

 飛び切り嬉しそうに笑って、綺麗な真珠の歯の隙間から伸ばした舌先で、まだ覚えたばかりのキスしかできない幼い俺の舌を絡め取ると、上手に口中に誘って、腰掛けたままの腰が砕けるほど甘ったるくて濃厚な、深い深いキスをしてくれる。
 息の上がる俺は夢中になって、そんな情熱的な白い悪魔の首筋に両腕を回して唇を押し付けると、腰に回す腕に力を込めてくれるレヴィがテーブルの上に押し倒すようにして覆い被さりながら思うさま、俺の口腔を蹂躙して体内の性感帯に熾き火のような快楽を点していく。

「ん…ふぅ……ぅあ…ンン……ッ」

 砂糖菓子にさらに粉砂糖を塗したよりももっと甘い声で甘えるように吐息を吐けば、レヴィは呼気すらも乱さずに、蛍光灯の光を反射させる唾液の糸で舌と舌を結んで、そのまま俺の頬をペロリと舐めるから、そんな些細な行為にも、欲望を植え付けられた身体はビクンッと反応してしまう。

『ご主人さま…今夜はキスだけでは止まりません』

 チュッチュッと、頬や閉じてしまっている瞼、ほんのり染めてしまった目尻に覚悟を促すキスの雨を降らせながら、欲望の滲む声音で囁かれて、身体も心もすっかりレヴィのモノになっている俺は、快楽の虜にした白い悪魔だと言うのに、何もかも信じ込んでうっとりと笑うんだ。

「…俺だって、レヴィにいっぱい、えっちしてもらいたいよ」

 伸ばした腕に力を込めて、色気も誘う方法すらあまりよく知らない幼稚な俺の台詞に、レヴィは静かに桃のような甘ったるい芳香に良く似た蠱惑的な微笑を浮かべて、欲望に滾る金色の双眸を細めると、襲い掛かる前の獰猛な野生の肉食獣のような表情には、期待にゾクゾクと震えちまう。
 どうやって嬲ろうか…そんな暗喩を匂わせる悪魔の微笑で(…って、実際にレヴィは悪魔なんだけど)、白い悪魔は寝巻き代わりのジャージのズボンを下着ごとグイッと引き下ろしてしまう。そうるすと、既に半勃ち状態の俺の息子が外気に晒されてフルフルと震えて、レヴィの古風な衣装に擦れるから、それだけでもイッてしまいそうになる。
 それを見逃さない意地悪な白い悪魔は、俺の根元をゆっくり掴んで、そのくせ人差し指でグニグニと尿道口を刺激したりするから、俺はあられもない素っ頓狂な声を上げてしまう。

「ひゃ…ッぅん!」

 ジャージが足首で蟠っているし、捲れたエプロンに隠されないまま露出された性器に絡まる長くて繊細な指先の戯れが、蛍光灯の下で晒される図は、きっととても厭らしくて、耳朶を打つくちゅ、ぬちゅ…っと湿った音がさらに俺を煽るように追い詰めていく。
 頬を真っ赤に染めて、それでも従順に快楽に溺れる自らの主人を、いったいどんな顔をして見下ろしているんだろうと、俺は羞恥に悶えそうになりながらも、ソッと震える瞼を押し開いて見上げれば、男らしいキリリッとした白い睫毛に縁取られた金色の双眸は、欲望に濡れて微かに赤く光っているようで、野生の雄の匂いにギクリとする前に、期待に胸躍らせるんだから大概、俺もどうかしちまったんだろうなぁ。
 いや、それだけ…俺はレヴィが好きなんだろう。

「…ふぁ……ぁ、んぅ…ヒ……れ、レヴィッ」

 長い指先が、溢れ出る先走りに滑る陰茎からゆっくりと蜜を掬い取って、そのまま無防備な後腔へと潜り込んでくる。僅かに引き攣れるように痛んだけど、俺の肛門はまるで貪欲にレヴィの指先を求めて淫らに収斂するから、どれほど俺が興奮しているのか、もうすっかりレヴィにはバレてるんだろうなぁ…うう、恥ずかしい。
 最初はあれほど激痛を感じていたってのに、今では、白い悪魔のレヴィが俺を抱きかかえるようにしてひっそりと息衝く窄まりに長い指先を潜り込ませて悪戯をしながら、首筋から胸元の飾りまでわざと音を立ててチュッチュッと口付けたりするから、そのムッとする甘い桃のような芳香とレヴィの体温にクラクラして…このまま思い切り貫いて欲しい…なんて願ってしまうようになるなんて思いもしなかった。
 そんな自分が存在するなんて…考えてもいなかったってのに、俺はレヴィの背中に回した腕でギュウッと服を掴みながら、顔を真っ赤にして綺麗な白髪から覗く先端の尖った耳にソッと口付けた。

『…ッ!…』

 レヴィの性感帯はその耳なのか、ちょっと擽ったそうにクスッと笑ったようだった。そう感じたのは、ちょうどペロリと舐めていた乳首にフッと、あたたかな吐息が触れたから…その感触に、またしても俺は切なげな溜め息を吐いて、悪戯されている先端から堪え切れない液体がトロリ…ッと溢れていた。
 う、墓穴を掘っちまった。
 顔を真っ赤にして白い髪に頬を寄せると、悪魔は心得たウットリするほど淫らで妖艶な笑みを、その真っ赤に濡れ光る口許に浮かべて、レヴィは後腔に収めていた指先をわざと乱暴に引き抜いて俺を喘がせると、俺の脱力している片方の腿を抱え上げたんだ。
 ヒクンと収斂するその熱く疼く部位に、灼熱の鉄の棍棒をまるでオブラートか何かで包んだような、何か凶悪な気配を醸す杭に擦られて…俺はハッと生理的な涙に濡れる双眸を見開いた。

『…ご主人さま、堪らなく貴方が愛しいです。このまま全て、今すぐにでも貴方をオレのものにしたい。いや、そうじゃない。モノじゃないんです、ご主人さま。貴方をオレの一部にしたいんだ』

「…ぅ…ぁ……そ、れ。どゆ…ことだ?」

 湿った淫らな音を響かせてヌチュヌチュと窄まりを擦られながら、それでなくてもレヴィの桃のように甘ったるい体臭にクラクラしているって言うのに、その得も言えぬ快楽に眉を顰めながら俺は不思議そうな顔をして、こんなコトの最中だってのに、真摯な双眸で見下ろしてくるレヴィを見詰めたんだ。
 いつ、潜り込まれてもおかしくない状況が、俺の中の被虐心を余計に煽って、上ずる吐息を噛み締めるようにして耐えながら、ポロポロと涙を零して見詰めていると、目許を朱色に染めた妖艶な眼差しのレヴィは、俺がこの世界中で誰よりも愛している白い悪魔は、クスッと小さく笑って、頬に零れる涙をその酷薄そうな薄い唇で掬ってくれる。

『オレの一部ですよ、ご主人さま。そうすれば、貴方はもう、他の誰のものにもならないでしょう?ここに他の誰かを迎え入れることもなければ、心をくれてやることもできない。全て、オレになるんだから』

 まるですぐにでもそうして、レヴィのなかに取り込まれてしまうような錯覚に震えながら、俺は嬉しそうに笑っていた。

「ああ、じゃあ俺を…ン…ッ……ぅ、あ…お、前の…一部に…」

 して、と囁く前に、嫉妬深いレヴィは俺の背中に腕を差し込むと、抱え上げるようにしてユックリと後腔にその先端をぬぷ…っと沈めてきたんだ。

「あ!…ぅん……あ、ア…んー」

 その虫が這うようなもどかしい感触に、そっと眉を顰めて、それから何故か、ほんのちょっと嬉しくて…くふんと笑うと、ほんの一筋、こめかみから一滴の汗を零すレヴィが満足そうに笑って荒い息を吐く俺の唇を、優しく啄ばむようにキスしてくれた。

『勿論です、ご主人さま。貴方が嫌だと言えば、オレはその咽喉を食い千切って、すぐにでもオレの中に取り入れて差し上げますよ』  

 優しい仕種とは裏腹の物騒な台詞でも、俺はそのレヴィ特有の嫉妬深い一言一言がいちいち嬉しくて、胎内に全て収まる白い悪魔が愛おしくて…何もかも飲み込んで、身体の一部にしたいのは本当は俺の方なんだと自覚する。
 そんなこと、もうとっくの昔に気付いてるんだろう白い悪魔は、甘い桃のような芳香を散らしながら、嬉しくて泣いている俺の目尻の涙を唇で拭ってくれるんだ。
 心の底から、こんな風に誰かを愛せるなんて、思ってもいなかった。
 愛って言うのはもっと漠然としたもので、だからきっと、最初は恋をするもんなんだろうなぁと思っていたのに…レヴィとは、何故か最初から愛し合っていたような気がする、のは、もしかしたら気のせいなのかもしれないけど、でも、俺はその気持ちを信じたいと思っていた。
 激情のまま揺すられる身体はきっと、明日には軽い筋肉痛を訴えるのかもしれないけど、心は凄く幸せで幸福だろうと思う。
 レヴィを、この白い悪魔を、俺は心から愛している。

 結局、昨夜はキッチンで1回、ベッドで2回もヤッてしまって、翌朝は爽快な目覚め…ってワケにもいかず、朝日に白い髪が眩しい、白い睫毛に縁取られた双眸を瞼の裏に隠した悪魔に抱き付きながら、ヘトヘトの身体を横たえて目を閉じていた。
 茜は当分帰ってこないし、父親も10時を回らないと帰って来ない、となれば俺は、レヴィとの甘い蜜月を優しい光の中で堪能するしかないワケだ。
 嬉しくて口許がエヘラ…ッと笑っていたとしても、それはそれで大歓迎ってヤツだ。
 ふと、瞼を開いて、俺はドキッとした。
 てっきり、白い睫毛に縁取られた瞼の裏に、その綺麗な金色の双眸を隠してしまっているとばかり思っていたから、俺を優しく抱き締めている白い悪魔が目を覚まして、ジッと俺の寝顔を見ていたなんて、なんてこっぱずかしいんだ。

「お、おはよう」

 思わずエヘへッと笑ったら、静かな微笑を湛えていたレヴィは、それはそれは嬉しそうにニコッと笑って、ギュウッと俺を抱き締めながらやわらかいキスを頬に落としてくれた。

『おはようございます、ご主人さま』

 相変わらず仰々しい朝の挨拶にももう慣れた俺は、そんなレヴィのキスの雨が擽ったくて、でも嬉しいから好きなようにさせてやるんだ。
 とか、偉そうに言ってるけども、正直な話、レヴィの人間よりも(って言うか、俺がマジマジと見たのはレヴィだけだからなんとも言えないんだけど)大きなアレが、朝の生理的現象のせいでやや硬度を増して腿の辺りに触れてるから、そんな余裕はないんだけど。
 もう、何度もレヴィを迎え入れたし、キスだって何度もした。
 こうして、狭いシングルのベッドで抱き合って眠るのも、数え切れないほどだと言うのに、俺はやっぱり抱かれた翌日の、この朝の生理現象に馴染めないでいる。
 レヴィに言わせれば、『目が覚めて目の前に愛するご主人さまがいるのに、勃起しない男は失格なのです』ってことらしい、良く判んねーよ。
 またしても、相変わらず真っ赤になっている俺に、レヴィのヤツはクスクスと笑って覆い被さってくると、頭の両側に肘をついて、俺の髪を優しく弄びながら深いキスをしてくれるんだ。燃え上がるような金色の双眸を細めて覗き込みながら、酷薄そうな薄い唇が笑みを象って、朝日の中であんまり艶かしいからドキッとする俺は、それでも、その逞しい背中に両腕を回して「もっと、もっと…」とキスをせがむ。
 いつからこんな風に、甘ったれたヤツになっちまったのか…それはきっと、砂糖菓子よりも何よりも、俺に対して甘すぎるレヴィのせいだと思うぞ。
 キスに煽られるままにレヴィの逞しい情熱を胎内に受け入れると、昨夜、この白い悪魔が残した所有の証のような白濁がぬるく掻き混ぜられて、思わず眉を顰めたら、ぐちゅ…っと湿った水音を狭い室内に響かせて、肛門からトロリ…ッと零れてしまう。

『…ご主人さま』

 ふと、呼ばれて震える瞼を押し開いて見上げると、思わずドキッとするほど真摯な眼差しのレヴィがそんな俺を見下ろしながら、少し切なげに眉根を寄せて囁くんだ。

『オレを愛してくれていますか?』

 朝の清廉なひと時、いつも必ず聞いてくる質問。
 コトの最中で熱に煽られるだけ煽られて、本当はそれどころじゃないって言うのに、どうしてだろう?レヴィにそんな顔をされてしまうと、俺は居ても立っても居られなくて、その着痩せするタイプなんだろう、思う以上に逞しい身体に抱き付いて何度も頷いた。
 それもやっぱり、毎朝のことで。

「愛しているよ、レヴィ」

 何がそんなに不安なのか、極平凡な高校生でしかない俺には、悩める悪魔の気持ちなんかこれっぽっちも判らない。それがどうしても悔しいんだけど、気の遠くなるほどの時間を生きてきたに違いないレヴィの、その心の奥に蹲るものがなんなのか、たかだか17年しか生きていない人間なんかが理解するには、身の程知らずだって笑われるに決まってる。
 それでも俺は、この悩める白い悪魔の心に蹲る何かから、必死に守ってあげたくて背中に回した腕に渾身の力を込めてみる。
 いまいち、効いていないんだろうけど、それでもレヴィは俺のそんな態度に毎朝、どこかホッとしたように安心して、思うさま突き上げて、散々俺を鳴かせてくれるんだ。
 嬉しそうにいつもニコニコ笑っているレヴィ。
 俺が差し出すものは、何一つ疑わずに全て受け入れてしまうから…悪魔なのに、人間を騙して貶めて散々酷い目に遭わせて、絶望に打ちひしがれるその姿を見て大笑いするはずの悪魔なのに、俺は凄く嬉しくて、悪魔であるはずのレヴィにずっと、恋焦がれていくんだと思う。
 レヴィはずるいよ。
 俺がこんなに恥かしげもなく愛してるって思っているのに、その心を毎朝確かめてくるんだから。
 寝惚け眼を擦りながら、白い蜥蜴にキスして頷く朝もあるし。
 レヴィ、なぁ、何がそんなに不安なんだよ?
 聞きたくて、でも紙一重で何かが拒絶するような気配に、どうしても問い質す勇気もなくて、臆病な俺は1人で唇を突き出して拗ねるしかない。

『ご主人さま?』

 そんな俺に、決まって朝っぱらから盛ってくれた白い悪魔は悪気もなく首を傾げて覗き込んでくるから、唇を尖らせたままで俺は「なんでもないよ!」と、不機嫌そうに突っ撥ねちまうんだよなぁ。
 でも、そんなことでは挫けない、悪魔に不可能はないレヴィはややムッとしたようにキリリとした眉根を寄せて、背後から抱きすくめてくるんだ。

『なんでもない…と言う表情ではありませんね。何かオレに隠している。何を隠しているんです?』

 嫉妬深いレヴィは、もしやまた誰かを想っているのでは…と、以前、悪友だと思っていたけど本当は大魔王ルシフェルだった友人とのコトを思い出したのか、ムムムッと薄い唇を引き結んで胡乱な目付きで覗き込んでくるから…それだけで俺は、思わず噴出しちまうんだ。

「何も隠してないさ、レヴィ。ああ、でもそうだなぁ…たとえば今夜はチンジャオロースーと玉子焼きの異色のコラボレーションだ!とか、イロイロと企んではいるから、もしかしたらそのことを疑ってるのか?だったら俺は、素知らぬ顔で知らんぷりしてないとなぁ~」

 ニヤニヤ笑ってそんなことを言ってみると、思う以上に嫉妬深いレヴィのヤツは疑い深そうに眉を寄せたまま、探る目付きで胡乱な気配を漂わせながら覗き込んでくるから、俺の腹はますます引っ繰り返りそうなほどの爆笑に引き攣れて、とうとう横隔膜の辺りが痛み出してくる。
 そんなに笑わせないでくれよ。
 ケタケタ笑う俺に、不思議そうにムッとしたままで首を傾げていたレヴィはでも、愛するご主人さまが朝っぱらから嬉しそうに笑う姿に気を良くしたのか、疑い深そうな眼差しはそのままで、そのくせクスクスと笑っている俺の頬にソッと唇を落としてくれたんだ。

「レヴィ…」

 何時の間にかあの見慣れた古風な衣装に身を包んでしまった白い悪魔に、嬉しくてその名前を呼ぶ俺はもちろん全裸で、それはとても不公平に見えるんだけど、レヴィはそうして、自分の裏地が鮮紅色の漆黒の外套で幸せそうに笑っている俺を包み込むのが何よりも好きらしくて、セックスの後はいつもこうして背後から外套に包んで項や頭にキスしてくる。
 その擽ったい行為が、密かに俺が気に入ってるなんてこと、この悪魔は気付いているんだろうか…って、もちろん気付いているんだろうなぁ。だって、悪魔に不可能はないし、心の奥深いところまで、きっとレヴィにはお見通しなんだろう。
 背後を振り返りながらキスを強請ろうとした丁度その時、不意に呼び鈴が鳴って、俺は思わず痛む腰を庇うことも忘れてガバッと起き上がっちまったんだ!
 父親は10時にならないと帰らないし、茜は友達の家に行ったら夜中まで帰って来ないはずなのに…まさか、気紛れに帰ってきたとか!?いや、思う以上に早く仕事が終わって、父さんが帰ってきたんじゃないだろうな!!?
 はわわわ…こんな男と抱き合って眠ってる姿を父親に見られでもしたら…たぶんきっと、明日には精神病院に厄介になってんじゃないのか、俺!
 思い切り動揺して頭をグルグルさせてへたり込んでいる俺の傍らで、ギシ…ッと狭いシングルのベッドを軋らせて起き上がったレヴィは、先端の尖った大きな長い耳を欹てて気配を感じているようだったけど、ヒョイッと映画俳優のように片方の眉を上げて俺を見下ろしてきたんだ。

『ご主人さま、弟君でもお父上でもないようです。オレが代わりに出てみますね』

 繊細そうな長い凶器のような爪を有した指先で自分を指差してニコッと笑うレヴィに、そうか…茜でも父親でもないのかとホッと安心した俺は、それでもまさか、こんな白い貴公子然とした悪魔に客の対応を任せられるはずもないから、脱ぎ散らかしていたジャージを拾いながら慌てて首を左右に振ったんだけど、レヴィは殊の外強い口調で断りやがったんだ。
 何だって言うんだ??

『そのような…蠱惑的なお姿のご主人さまを、何処の馬の骨とも判らぬ輩に見せるつもりなど毛頭ありません。それなら、オレが出た方が何万倍もマシです!』

 言い切るレヴィの、ツラに似合わない子供っぽい台詞に、俺は思わずクスクスと笑ってしまい、不機嫌そうな胡乱な目付きの白い悪魔には逆らえそうもないから、有り難くその好意を受け入れることにした。

「ありがとう、レヴィ。宜しく頼むよ」

『はい、ご主人さま♪』

 現金なもので、レヴィのヤツは嬉しそうにパッと表情を綻ばせやがったんだ。その仕種が可愛いなんて、俺は絶対に、口が避けても言ってやらないけどな。

『では、暫し待っていてくださいね』

 レヴィはベッドを軋らせて降りると、そんなことを言いながら歩き出したんだけど…一歩足が出ると、漆黒の外套は翻って漆黒のシャツに変化し、もう一歩足が出ると、革らしい物質でできた靴を履いていた足は裸足になってズボンはジーンズに変化した、そして、もう一歩足を踏み出すと、その真っ白の髪と真っ白の睫毛は黒くなって、先端の尖った耳は見覚えのある丸みを帯びたんだ。
 部屋を出るころには、レヴィはどうやら、立派な【人間】になっていた。
 もちろん、その上に頗るが付く【美形の】だけどな。
 うう…ホントに、悪魔って便利なヤツだよなぁ…と、妙に感心してしまった。
 暫く玄関先で遣り取りがあったけど、俺が心配するようなことは何もなくて…って、たとえば茜たちじゃないにしても、学校の友達とか、近所のおばちゃん、果ては親戚だったらどうしよう…とか、悩んでたんだけど、そのどれでもなかったみたいだ。
 室内に戻ってくるなり、まるでドライアイスに水をかけたら噴き出るような煙を一瞬だけ纏ったレヴィの身体は、すぐに元の白い悪魔に戻って、その両手で抱えた洗剤の山に困惑したような顔をして俺を見詰めてきたんだ。

『なんなんでしょうね?何やら、この悪魔のオレに契約などを要求してきたので、キッパリと断ったらこんなモノをくれました。契約はいらないから受け取ってくれとのことですが…ご主人さまは嬉しいですか?』

 小首を傾げる白い悪魔の、その仕種があんまり可愛くて可笑しかったから、俺は思わず噴出してベッドの上に転がった。
 レヴィは『はて?』とでも言いたそうに眉を顰めて、更に訝しそうにするから、俺のツボに見事にクリーンヒットだ。

「それはきっと新聞のセールスマンだったんだよ。契約もせずに洗剤を貰ったんだ、そりゃあ、俺は嬉しいよ」

『せーるすまん…ですか?』

 人間界のことを熟知していそうで全く今の状況を知らないレヴィの知識は、どうも15世紀だとか、そんな気の遠くなるような昔で止まっているようだ。だから、セールスマンだとかそんな、俺には普通の事柄でも、レヴィには良く判らないんだよ。

「ああ、新聞…いつも朝、父さんが読んでいるだろ?あの新聞を取るように勧誘している人だとか、その他にも、なんちゃら還元水とか売りに来るヤツもいるんだけど、そう言う、訪問販売をする連中のことをセールスマンって言うんだよ。そう言う連中は追い返すのが正しいんだ」

『そうなんですか。では、今回は正しい行いをしたのですね?それに、ご主人さまも喜んでくださったようなので、良く判りました。なんだかオレ、ひとつ賢くなったような気がします♪』

 エヘッと笑うレヴィの、悪魔だと言うのに憎めない笑顔に、どうしてこの悪魔はこんなに素直で可愛いんだろうと身悶えそうになるけど、その気持ちをグッと堪えて、俺はニコッと笑い返すんだ。
 悪魔のクセに良い行いをしたがるレヴィのこの性格は、やっぱり、あの『悪魔の樹』の契約が何らかの影響を及ぼしているんだろうか…
 『悪魔の樹』の契約は、レヴィの使い魔である灰色猫が凶暴な主人に愛する者を与える為に用意した儀式の一種らしいんだけど、詳しいことはあまりよく判らない。チンコに似たグロテスクな木に、水以外の液体を与えてしまったせいで、性格が逆転して登場してしまったレヴィ…でも、俺はそんな白い悪魔のレヴィが大好きなんだ。
 たまたま目にしたゲームのジャケットを見て、白い悪魔に姿を変えて俺の前に現れた悪魔の名はレヴィアタンと言って、あの有名なリヴァイアサンだった。
 そんな凶暴そうには全然見えないレヴィは、『悪魔の樹』の契約のせいなんだけど…俺は、心から灰色猫に感謝していた。
 だって…
 灰色猫の機転の良さで、今こうして、レヴィとの甘い生活を恙無く過ごせているんだ。
 あのヘンな契約がなかったら、今頃俺はレヴィに殺されていただろうし、こうして幸せな気分なんか味わえなかったに違いない。

「レヴィはそのままでも賢いよ」

『いいえ、オレは愚かです。ご主人さまが喜ぶようなことを、ほんの少しでも多く知ることができるのなら、貪欲に学んでいこうと思っているのですよ』

 それは、この人間が住む世界で生きていくことを決めたらしいレヴィの、何らかの決意の宣言だったのかもしれない。
 そんな風に想ってくれているのだから、俺だって悪い気はしないさ。
 それどころか、スゲー嬉しい…

「じゃあ、俺も。レヴィが喜ぶようなことを、少しでも多く知るように頑張るよ」

 パジャマ代わりのジャージを着込んだままでニコッと笑えば、ホエッと脱力したような笑みを浮かべたレヴィは、唐突にハッとして、慌てたようにコホンッと咳払いした。
 青褪めた頬がほんのり赤いのは、どうも照れてるんだろう。 

『オレには、ご主人さまが傍にいてくれることこそが、何よりの至上の喜びなのです』

 そんな嬉しいことを言ったら、思わず抱き付いて、キスしたくなっちゃうじゃないか!

「レヴィ…」

 嬉しくて伸ばした指先で、その冷たい青褪めた頬に触れようとした時だった、いつもはレヴィとイチャイチャしている時には気を遣っているのか、それともレヴィの嫉妬深い怒りに恐れをなしているせいなのか…どちらにしても絶対に姿を見せない、この家の新しい住人、パッと見は薄汚れているようなくすんだ灰色の猫が、少し開いている扉から顔を覗かせて「にゃあ」と鳴いたんだ。

『どうした?灰色猫』

 両手に洗剤を持っている間抜けな姿の主を見上げて、思わず言葉を詰まらせてしまった灰色の猫は、それでも気を取り直したようにコホンッと咳払いをしてちょこんと座り込んだ。

『ご主人。今日からお兄さんたちの通っているガッコウが夏休みになるそうで…』

『ああ、そうだな。で、それがどうしたんだ??』

 勿論、だからこそ茜もお出かけの真っ最中だし、夏休みになったことを逸早く告げた時、レヴィは嬉しそうに笑って『では、どこか遠くに行きましょう』と言ってくれたんだ。
 何処までも遠く…レヴィと2人きりで旅行ができるなんて、夢みたいで嬉しかった。
 レヴィもそうだったのか、だからこそ、そんなことはとっくの昔に知っているわ、とでも言いたそうな、折角俺との甘い一時を邪魔しやがってとでも思っているように、胡乱な目付きで不機嫌そうに首を傾げてみせるから、灰色の猫は一瞬息を呑むようにして首を竦めたけど、気を取り直したようにピンピンの髭をピクピクッと動かして頷いたんだ。

『さっき、ルシフェル様のお遣いが来て、レヴィアタン様にも一度魔界の方にお戻りくださいって言ってましたよ。折角の夏休みだってのに…ねぇ?』

 灰色猫は些かうんざりしたように溜め息を吐いて首を左右に振ったんだけど、レヴィはキリリとした眉を僅かに顰めて『はて?』と首を傾げたようだった。
 そう言えば篠沢のヤツ、何となく不貞腐れたような顔付きで、同級生の女子たちのお誘いを断っていたな…確か故郷に帰るんだとか何とか、そんなことを言ってたっけ?
 俺が首を傾げながら、最終日の時の篠沢…本当は悪魔のルシフェルなんだけど、ヤツの仏頂面を思い出していたら、レヴィが金色の双眸を細めて灰色猫を見下ろした。

『どう言うことだ?魔界に戻るも戻らないも、オレの自由ではないか』

『そりゃそうなんですけどね…』

 灰色猫は、恐らくレヴィがそう言うだろうと予想はしていたのか、なだらかな肩を竦めるようにして首を左右に振ったんだ。

『豪く切迫してましたよ。どうも、魔界であのお方が大暴れでも始めたんじゃないですか?』

 その台詞で、レヴィはバツの悪そうな顔をして唇を突き出したんだ。
 それはそんな、子供っぽい仕種ではなく、心の底から憎々しそうな、金色の双眸には燃え上がる紅蓮の焔がチラチラと燃え盛っているようで、真正面から見たらきっと俺は卒倒してたんじゃないかなと思う。
 そんな眼差しでふと目線を落としたレヴィは、それでも思い切るように一瞬だけ双眸を閉じると、吹っ切るようにして開いた何時も通りの金色の双眸で俺を振り返った。

『ご主人さま、所要ができましたので、私は少し故郷に戻らせて頂きます』

 振り返ったレヴィは、それでも、俺と目線を合わせないようにしているのか、微妙に視線を逸らして素っ気無く言ったんだ。
 なんなんだよ、いったい?

「どうしてお前が戻るんだよ。あのお方って誰だよ??」

『ご主人さま…』

 ほんの少し、困惑したように俺を見詰めるレヴィは、何か言いたそうだけど、それを言ってしまうにはまだ心の準備ができていないんだとでも言いたそうな、あやふやな目付きで目線を伏せてしまう。
 それまで、あんなに揺るがなかった金色の双眸の、目に見える動揺に、不意に俺の胸の奥にムクリ…ッと、何か黒い蟠りが生まれたような気がした。
 それが、どす黒い煙に包まれた不安だと気付いたのは、胸苦しさに眉を顰めた時だった。
 どうして俺、不安なんか感じているんだろう?

『私には兄弟がいるのですよ。その者は地上を支配する悪魔で、癇癪を起こしては大地に並々ならぬ甚大な被害を齎す厄介な者なのです。対である私の言うことしか、彼は聞こうとしない。なので、私が戻らなければならないのです』

 でも、俺の不安を逸早く感じ取ったのか、やっぱり悪魔に不可能のないレヴィは、困ったように苦笑しながらキチンと説明をしてくれたんだ。
 そうか…って、レヴィには兄弟がいたのか!
 悪魔って…兄弟とかいないって思ってたんだけどなぁ。

「そっか、それなら仕方ないな。じゃあ、気を付けて」

『はい、ご主人さま。ほんの僅かな間のことです。寂しいのですが、暫し待っていてください』

 その台詞は、そっくりそのまま、レヴィの気持ちなんだと思う。
 洗剤の箱を傍らの机の上に置いたレヴィは、真っ白の髪に飾り髪を肩に垂らして、キリリとした眉の下、寂しげに揺れる金色の双眸が切なそうで、そのくせ、裏地が鮮紅色の古めかしい外套に胸元にはジャラジャラと色とりどりの宝飾品が揺れる、そんな古風な衣装に身を包んで確りと立ち尽くす姿には、威風堂々とした気品のような威圧感が漂っている。
 俺が愛している白い悪魔は、ほんの少しの別れでも、そんな風に悲しんでくれるんだ。
 でも、俺を想えば想うほど、別れ難くなってしまうから、そうして心を押し隠すように威圧感で孤独の心をオブラートのように包んで、魔界の実力者然として無関心を装うんだろう。
 以前にも一度、学校がある俺を残して魔界に戻らなければならない時、そんな風に突き放すようにして姿を消したことがあった。

『では、失礼』

 優雅に一礼してから煙と共に姿を隠そうとしたレヴィの、そのジャラジャラと装飾品が揺れる胸倉を引っ掴んで、俺は慌てて消えそうになる白い悪魔を掴まえたんだ。

『ご主人さま?!』

 何時もは仕方なく見送っていた俺の、その突然の反応に嬉しいやら驚くやらで、目を白黒させているレヴィが首を傾げて見せる。その姿は、既に腰の辺りまで消えているんだけど…

「レヴィ!俺、今日から夏休みだし、一緒に遠くに行こうって言ってただろ?その、一緒に魔界に行きたいんだ。ダメかな?」

 エヘッと、照れ臭くて頭を掻きながら申し出てみたんだけど、レヴィは一瞬、それはそれは嬉しそうに頬を染めて愛しそうに俺を見詰めてくれたんだけど、それでもすぐに、悪魔所以のような冷たい表情をして、今までにない厳しい口調で突き放してきたんだ。

『いけません、ご主人さま。魔界にはお連れするつもりはありません』

「レヴィ?」

『良い子で待っていてください。ほんの僅かなことです。すぐに戻って参ります』

 そう言って、有無も言わせない強い力で、胸倉を掴んでいた俺の腕を引き剥がすと、そのまま容赦なく引き寄せて、そうしてキスしてくれた。
 なんだろう、冷たい扱いのはずなのに、俺は凄く嬉しいなんて感じているんだ。
 どうかしているんだろうけど、白い悪魔の柔らかな唇が、手放したくないんだけど…と名残惜しそうに口中を蹂躙する肉厚の舌に翻弄されて、堪らずに吐息を漏らしてしまう俺に、レヴィは寂しそうに笑った。
 離れ難いのはレヴィだって一緒なのに、この優しい白い悪魔に、俺はまたしても甘えてしまっていた。

「ごめん、レヴィ。言ってみただけなんだ」

『いいえ、ご主人さま。申し訳ありません』

 寂しそうに笑って、レヴィはもう一度、俺の頬に口付けると、今度こそ本当に煙の中に姿を隠してしまった。そうなると、もう何処を捜しても、この世界にレヴィは存在しないんだ。
 唐突に独りぼっちになったような気がして、自分で自分を抱き締めるように腕を掴んでみたけど、何処か心にポッカリと穴でも開いたみたいに寂しくて…それで、レヴィが毎朝俺に『愛しているか?』と聞いてしまうほど不安な時ってのは、きっとこんな気持ちになっているんだろうなぁと思った。
 いや、もしかしたら完全に的外れなことなのかもしれないけど…
 俺は溜め息を吐いていた。
 レヴィがいなくなった部屋は、何処か寒々しくて、精彩に欠けたように静かだった。

6  -悪魔の樹-

落下に怯える俺の耳に篠崎の声音で『灰色猫、貸し1ね』と聞こえたような気がしたけど、今はそれどころじゃねぇ!!

「うひぇあぁぁぁーッッ!!…って、あれ?」

 思わず風圧を感じてレヴィに抱き付きながら素っ頓狂な悲鳴を上げたんだけども…あれ?落ちていく感じが全くしないぞ。

『大丈夫ですよ、ご主人さま』

 事も無げなレヴィの台詞に、眼を白黒させたままで俺は、軽く笑っているレヴィの肩越しにルシフェルが暢気に片手を振ってから、やれやれと室内に姿を消すのを見上げていた。
 そう、見上げていたんだ。

「ここ、これはど、どう言うことだ!?」

『簡単なことですよ。私は悪魔ですから、不可能などありません』

 ニィーッと笑って混乱している俺の顔を覗き込んできた性悪そうな白い悪魔に、ムッとして唇を突き出せば、啄ばむようにキスをされてしまう。
 う、案外恥ずかしいぞ。

『寒いですね。この季節はまだ、上空は凍えてしまうでしょう』

 いや、この季節じゃなくても上空は寒いと思うんだけど…そんな突っ込みは取り敢えず後回しにして、レヴィが労わるように優しく裏地が赤の、古風な漆黒の外套で包んでくれたりするから、俺はいったいどんな顔をすりゃいいんだよ?

「えっと、その。ありがとう」

 モジモジとレヴィの胸元辺りのジャラジャラアクセサリーを見詰めながら、柄にもなく礼なんか言ってみると、やっぱりレヴィは「はて?」とでも言いたそうに首を傾げやがるから、俺はクスクスと笑うしかない。

『礼を言われるようなことはまだしていませんよ、ご主人さま』

 相変わらずレヴィらしい返答に、俺は吹き上げてくるはずの冷たい風から完全に護られたまま、このぬくもりに礼を言わなければ罰が当たるんだぞとか内心で呟きながら、悪魔のクセに恩を売ることをすっかり忘れている白い悪魔が愛しくて仕方なかった。

『ご主人さま、如何でしょう?私の真実の名もお教えしましたし、これから海まで行ってみませんか』

「へ?海??」

『そうです』

 超絶…なんて言葉があるけど、ゲームのキャラクターから容姿を真似したと言う白い悪魔は、白いだけで、他は全然似てないよ、と突っ込みたいぐらい美形の顔立ちでニッコリと笑う。
 高い鼻梁も、酷薄そうな薄い唇も、髪も眉毛も睫毛もどれも真っ白で、心の奥底まで見抜いてしまうんじゃないかと思わせる金色の綺麗な双眸も…どれもこの世ならざる美しさで、俺は初めて、この世界には泣きたくなるほど綺麗な生き物がいるんだなぁと思っていた。
 長い耳が唯一、人間ではない事を物語っているけれど、それさえも気にならないほど、レヴィの存在は俺の中で大きくなっている。
 そんなこと、コイツは少しも気付いちゃいないんだろうけどな。

『私の真実の姿を見てください。もしそれで…貴方がどうしても嫌だと言われるのなら、私はご主人さまの前から姿を消しましょう』

「嫌だ!どんな姿だってレヴィはレヴィだ!!姿なんか消すなッ」

 即答に、そんな返事が返ってくるなんて予想もしていなかったのか、いや或いは、僅かでも期待していたから期待通りの返事に吃驚しただけなのか…どちらにしてもレヴィは、どちらとも取れる表情をしながら、嬉しそうにギュウッと抱き締めてきた。

『そんな嬉しい事を言われますと…このまま連れ去ってしまいそうになります』

 ほえっと、俺がとても好きなうっとりした笑みを浮かべて、色気もクソもない黒い髪にグリグリと頬を押し付けてくるレヴィに思わず苦笑したんだけど、この白い悪魔が、連れ去ってしまいたいと言うのなら、俺はこのまま何処までだってついて行きたいと思っちまうじゃないか。

『この世界がご主人さまの棲み処でないのなら、どんなにか良かったのですがね…しかし、この世界だからこそ、こうしてご主人さまを偽りなく存在させてくれたのなら、私は感謝しなくてはいけません』

 今なら平気でラブラブビィームだって撃てるんじゃないかってくらい、悪魔に不可能のないレヴィは、どうしてくれようとでも言いたそうに溜め息なんか吐きやがるから、俺は嬉しくてそのジャラジャラとネックレスだとかペンダントだとか、宝飾品が鏤められた胸元に頬を擦り寄せながら照れ隠しするしかない。

『ご主人、こんな空の上でイチャイチャしてたら未確認飛行物体だとか言われて、バッチリ朝刊の一面を飾っちゃいますよ』

 ふと、上空から聞き覚えのある声がして、懐いていたレヴィの甘い匂いのする胸元から顔を上げた俺は、ギョッとしたように目を見開いてしまった。

「灰色フード男!!」

 どうしてアンタがここに…って言うか、どうしてアンタまで同じように空に浮いてるんだ!?
 ギョッとしている俺を余所に、掴み所がないとでも思っていたのか、そんな俺がラブラブと抱き締めてくる感触に有頂天になっているらしかったレヴィは、ムッとしたように眉を寄せて、主よりも高い場所で暢気にフヨフヨ浮いている灰色のローブ姿の男を見上げたようだ。

『灰色猫、今回は手柄だったと誉めてやる。だが、調子に乗るな』

『ひえ!はいはい、判ってますってご主人』

 まあ、誉められたからいいんだけどとでも言うように、大きめな口にニィッと笑みを刻む、それはそれは不気味な占い師に首を傾げる俺に気付いたのか、灰色フード男は肩を竦めてニタニタと笑っているようだ。

『よかったね、お兄さん』

「灰色フード男、アンタは何者だったんだ?」

 胡散臭い占い師はチラッと、どうやら自らの主ででもあるのか、レヴィのご機嫌を窺っているようだったけど、それこそ俺と相思相愛になれたと信じている(いや実際はそうなんだけどなー…う、照れるぜ)、超!ご機嫌の白い悪魔は何も言わずに瞬きをした。
 それを合図のように受け止めた灰色フード男は、やっぱり肩を竦めながらニヤニヤと笑っている。

『レヴィアタン様の使い魔だよ、お兄さん。名前は灰色猫、これからも宜しく♪』

 そう言って、ニヤニヤ笑いの胡散臭い占い師は、上空でクルンッと回転でもするようにして一匹の灰色の猫に姿を変えると、にゃーんっと可愛らしく鳴いたりした。

「使い魔…そうだったんだ」

 あの町角で見掛けた灰色の猫、俺にニヤッと笑って名前を聞くことを最後まで促していたあの猫が…やっぱり胡散臭い灰色フード男だったんだな。
 なんだか、コイツにはイロイロと世話になっちゃったよなぁ…

『では、ご主人さま。海に参りましょう。灰色猫もついて来い』

 感慨深そうに灰色の猫を見上げる俺に焦れたのか、それとも自分でもそう言ったように嫉妬したのか、レヴィが不機嫌そうに顎をしゃくるようにして促すと、灰色の猫は「にゃーん」と鳴いて、嫉妬深いご主人さまに懐くように肩に張り付いてしまった。

「うん、レヴィが行くのなら何処へでも」

 以前、同じことをレヴィに言われた時、予想通りの返事に独占欲が満たされて嬉しかった。
 同じように、俺を独占してくれればなんて、こっぱずかしいことを考えてるってことは内緒だ。
 レヴィの首筋に頬を擦り寄せたら、途端にパッと嬉しそうな顔をした現金な白い悪魔は、ゴロゴロと懐く俺の髪に頬を擦り寄せながら、まるで一陣の風のように俺を遠い海へと連れ去ったんだ。
 このまま…レヴィが行きたいという全ての場所に、ついて行けたらいいのに。

「結局、【悪魔の樹】に色んなことしちゃったんだけどさ。強いしかっこいいレヴィが生まれたんだけど、アレって別に深い意味とかなかったのか?」

 周辺に漁船や客船などの船がないかどうか、また、彼が支配するのは全ての海だから、近隣の長と呼ばれるものたちにご挨拶しているレヴィの不在中に、護衛…ってのもヘンな言い方だけど、俺にお供させられている灰色猫にずっと気になっていたことを聞いてみた。

『へ?大ありだよ、お兄さん。何を言ってるんですか』

「え?」

 俺の首筋に襟巻き宜しく、ダラリと懐いている灰色猫は、欠伸を噛み殺しながら暢気に「にゃーん」と鳴いた。

『だから、レヴィアタン様と主従関係が築けたんでショーが』

「んん?どう言うことだ??」

 訝しそうに首を傾げてしまう俺に、灰色猫はちゃんと説明しないと判らないよなとでも思ったのか、改めてコホンと咳払いなんかした。そのくせ、俺の首筋でダレている姿勢はちっとも変えないのな。

『まあ、簡単に言いますとね。ご主人の性格ってのはもともとかなり凶暴でさ、高圧的だし、まあ…凡そ従順に主に従うような性格じゃないワケね。つーか、主とか持つようなそんな低い身分でもないしね』

 それは、なんとなくルシフェルや灰色猫との遣り取りでも判ったような気がする。

『愛しいひとを見つけても、そんな性格だから、心から愛する前に殺してしまうワケだよ』

「ぬな!?」

 ギョッとする俺の頬に、短毛種らしい滑らかな頭部を擦り寄せながら、灰色猫はニヤッと笑うんだ。
 驚いたって仕方ないだろ、あんなに、愛しそうに抱き締めて、穏やかに傍にいてくれるレヴィがそんなに激情的だなんて思えない。確かに、本人も『嫉妬深い』とは言っていたけど、それにだって限度ってのはあると思うし…

『そこに登場しますのがこの灰色猫でありますよ、お兄さん。魔界にいても退屈で仕方ないから、人間界に遊びに行きたいと仰られたのを利用、もとい、その願いを叶えるためにもどうせなら、心からご主人を愛してくれる人を捜して差し上げよう。んで、その性格から殺してしまわないように【悪魔の樹】を利用したワケだ』

「悪魔の樹…」

 イロイロ世話になったあのグロテスクな樹にも、重要な意味があったんだと思う。

『そう、【悪魔の樹】の契約の効力は絶大で、ご主人や、ましてやルシフェル様だって破ることなんかできないほど強力な戒めでもって、こちら側の世界の者、つまりお兄さんを護ることにしたんだ。でも、それだけだと威圧的なご主人を前に、お兄さんは逃げ出してしまうと思ったから、ちょっとした小細工をしたワケだね』

 ゴロゴロと咽喉を鳴らしながら、うっとりと肩で休んでいる灰色猫は、その金色の双眸をスゥッと細めて、飛び切り上等な秘密を漏らそうとでもしているような表情をしたんだ。

『悪魔の樹には別にしなくてもいいことを、お兄さんにさせたワケ』

「…それってまさか」

 話の流れからみても、きっとアレだ、あの恥ずかしい行為のことを仄めかしているに違いない。
 うう、思い出せば顔が茹でタコよりも真っ赤っかだぜ、こん畜生!

『たぶん、推察通りだと思うよ。召喚者の精液や唾液を与えることで、呼び出される悪魔はその性格が逆転してしまう。つまり、気の弱い淫魔だったら気が強くなるワケだし、絶大な力を誇るレヴィアタン様のような魔神だったら、子猫のように従順になる。案の定、お兄さんは言いつけ通り根元を擦って、悪魔の樹が分泌する誘惑の樹液の誘いに負けてしまった。それを知った時はヒャッホウ!って叫びたかったよ』

 満足そうに双眸を細める灰色猫の咽喉を擽ってやりながら、俺は感心しているのか、それとも脱力しているのか、なんとも言えない表情をして呆然としていたに違いない。

「…はぁ、そうだったのか。でも、よくそんな条件の悪い【悪魔の樹】の契約にレヴィが納得したな」

『ご主人は…』

 そこで一旦言葉を切ったレヴィの使い魔は、今頃は海の底で悠々と泳いでいるに違いない、この辺りの海を支配している長と挨拶をしているのだろう白い悪魔、自らのご主人を思い浮かべでもしたのか、ゴロゴロ咽喉を鳴らしたままでニヤッと笑ったんだ。

『最初は胡散臭そうだったけど、それでも、自らの力に自信を持ってる方だからね。気に食わなければ契約の破棄などいつでもできる…なんて、思い込んでいたようだよ。まあ、そう仕向けたんだけどさ』

 恐るべし、灰色猫!

「…もしかして、最強なのはお前なんじゃないか?灰色猫」

『にゃははは♪そんなワケないよ、お兄さん。最強なのは、お兄さんさ』

「そりゃあ、まぁ、レヴィのご主人さまだからそうかもしれないけど」

 プッと唇を尖らせたら、灰色猫はツンっと尖がっている両耳を僅かに伏せながら、判ってないなぁとでも言いたそうにチッチッチッと舌を鳴らした。

『違うね。お兄さんはご主人のハートを射止めたから最強なんだよ。その辺は、賭けだったワケだし、すんなりご主人がお兄さんを気に入るなんて思ってはいなかったんだけど、まぁ良かった』

「グハッ!無責任だなッ」

『悪魔の使い魔に責任なんてないよ』

 気持ち良さそうにゴロゴロ咽喉を鳴らす灰色猫は、欠伸なんかしながらニヤニヤ笑っている。

『ああ、でも…一時はどうなることかと思ったけど、ホントに良かったよ。まさか、ルシフェル様まで協力してくれるとは思わなかったんだけどね』

「…へ?」

 今、なんて言ったんだ?
 ルシフェルが協力…って、この話はいったい何時から実行されてるんだ?!

『まあ、お兄さんが驚くのも無理はないんだけど…実は、お兄さんに目を付けたのは10年前なんだよ』

「なな、何ぃ!!?」

『初めて人間界に降りた時、知識とかないワケじゃない?だから、気軽に車に撥ね飛ばされたんだけど』

 グハッ!なんて壮絶だったんだ、灰色猫…やっぱ、お前は最強だよ。
 呆れたようにそんなことを考えていたら、のんびりと伸びをして肩から降りてきて、ヘンな話、上空でレヴィの漆黒の外套に身体を包みながら胡坐を掻いている俺の膝の上にちょこんと座った灰色猫は、「にゃーん」と鳴きながら小首を傾げた。

『こんな薄汚れた灰色の猫なんか、人間には興味ないでショ。つーか、誰も見向きもしないから、こりゃあ骨が折れるなぁとか、ホントに背骨が折れてるのに暢気に考えていたら…』

 そこでちょっと区切って、それから、遠い昔を思い出すように金色の双眸を細めて俺を見詰めてくる灰色猫は、思うほどお茶らけたヤツでもないんだろう。
 この猫は、そんな昔から俺を見ていたのか。

『お兄さんが現れたんだよね。車道の脇に撥ね飛ばされて、それこそ虫の息だったんだけど。ま、使い魔なんだから死にはしないってのに、それでもその、お人好しの人間は大きな目に涙をいっぱい浮かべて、優しい手を伸ばして労わるように抱き上げてくれた。その人間はさ、優しげな家族と一緒にわざわざ動物病院まで運ぶなんてバカなことまでしてくれちゃったワケよ』

 口調こそ憎らしいけど、でもその目は、本当なら禍々しいと表現するべきその双眸は、穏やかに澄んでいて、まるでビー玉のように綺麗だった。

『コイツにしようって思ったね。それから、ずっと他の人間も捜すには捜したけど、いないんだよ。まあ、最初が強烈な出会いだったから、もうお兄さんを忘れるなんて事はできなかったんだって思うけどさ』

 その言葉に偽りなんかないんだろう…どうして、悪魔のレヴィにしろ、使い魔の灰色猫にしろ、こんなに魔物らしくない目付きをするんだろうか。
 悪魔って言うのは…まるで人間をバカにしたように唆して、意地悪く殺したりするんじゃなかったのか?
 俺の中の悪魔の概念を根底から覆すようなことを、灰色猫はあっさりと白状してくれた。

『できれば、母親を助けてあげたかったけど、所詮使い魔の力なんて高が知れてるからさ。泣いているお兄さんを慰めることもできなかったなぁ』

 ああ、思い出したよ。
 あの日、どんなに祈り願っても戻ってこなかった母さんに絶望した夜明けに、俺の傍らでニャァと鳴いた猫。
 病院なのに、何処から紛れ込んできたのか…薄汚れた灰色の猫は、物悲しそうに「にゃぁ」と鳴いていた。

「あれも、お前だったんだな…」

『うん、そう。それで、母親が死んでも健気に生きているお兄さんのために、どうやって悪魔の樹を渡し、どうやってご主人と相思相愛にさせるか…悩んでいたら、たまたまお兄さんと同じ学校にルシフェル様がいらっしゃってね。ヒマだから学生気分を満喫中♪とか仰ってたんで、満喫ついでにお力を貸してくださいと頼んでみたんだよ。そしたらビンゴ!超乗り気で手伝って下さったんだ』

 ぐはっ!…あの、篠沢なら遣りかねないな。
 そう言われてみたら、母さんが死んだぐらいの時から篠沢が話し掛けてきたんだっけ?
 俺たちの間には共通の話題とかないし、それこそ、学年でも目立つ篠沢の何が俺を気に入らせたのか、あの時はよく判らなくて考え込んだりもしていたけど…そっか、最初から仕組まれていたと思えば納得できるな。

『あ、今ちょっと落ち込んだでショ?でも、そのおかげでレヴィアタン様と知り合えたんだから、何かを得るには失う事も知らなければいけないんだよ』

「わ、判ってるよ。ちょっと、やっぱりかー…ってショックを受けただけだ。でも、今回はすぐに復活できたけど」

 フンッと唇を尖らせると、灰色猫はちょっとホッとしたような顔をして、それから嬉しそうに

「にゃぁ」と鳴きながらふにふにの猫きゅうが可愛い小さな掌で俺の腕に触れてきた。

『成長したね、それはいいことだ。でも、まさかルシフェル様があそこまでするとは思っていなかったから、ちょっと焦ったけどね…って、お兄さん?』

「ありがとう、灰色猫。やっぱり俺、お前には随分と世話になってたんだなぁ」

 心を込めて…できれば、少しでもこの気持ちが伝わるならいいんだけど。

『や、やめなよ。そんなこと言うのは!ただ使い魔として、ご主人の命令に従っただけさ』

 急にギョッとしたような顔をした灰色の猫は、どうしたワケか俯きながらピンッと立っている耳を腕で撫でるようにして身繕いを始めると、やっぱりピンピンの髭を微かに震わせている。

「うん、でもありがとう」

 使い魔なんて大層な肩書きだけど、こうして見ると、ただの小さな灰色の猫でしかないのに、そのなだらかな肩には余りあるほど重い指名を受けて降り立ったこの世界が、どんなに酷くて大変だったか…考えれば知らずに涙が出そうになる。
 よく覚えていないんだけど、あの頃はまだ元気だった母さんと父さんがいて、2歳下の弟は動物アレルギーがあるから動物も飼えないと言ってはしょぼくれていた俺を、2人は2人なりに努力して毎週末に動物園に行ったり、デパートの生物店に連れて行ってくれたりしていたんだよな。
 ああ、そんな温かな気持ちも忘れていた。
 母さんの代わりばかりしてうんざりだとか思っていた近頃は、ドロドロの醜い気持ちばかりが先走っていて俺、きっと嫌なヤツに成り下がっていたんだと思う。
 あんなにキラキラ輝いていた日々は、確かにあったのに。
 その何時かの日に、出会っていた事実を覚えていなくても、そんな俺を慕ってくれている灰色猫に、この申し訳ない気持ちと、あの優しさに満ち溢れていた幸福だった頃を思い出させてくれたことを感謝する心がどうか、この小さな灰色の猫に伝わりますように。

『どうか、幸せにおなり。でも、照れ臭いなぁ…』

『何が照れ臭いんだ、灰色猫』

 ずごごごご…っと、まるで地獄の底から甦った亡者か何かのように凶悪な顔付きをしたレヴィが、照れ臭そうにニヤッと笑っている灰色猫と、咽喉の辺りをワシャワシャしている俺の間に割り込むようにして、額に血管を浮かべながらニタリ…っと笑ってやがる。

『げ、ご主人』

 ギクッとしたように首を竦める灰色猫をヨシヨシと撫でながら、俺はそんなレヴィに飛び切り上等な笑顔をニコッと浮かべて、小首を傾げて見せた。

「あ、レヴィ。もう、用事は済んだのか?」

『ご主人さま…はい、この近辺も恙無いようでした。船影も見られませんので、私の真実の姿をお見せするには絶好の場所だと思われます』

 思いっきり脱力したように間抜けな顔でヘラッと笑ったレヴィは、ハッと我に却って、それから徐に姿勢を正すとコホンッと咳払いしながら神妙な顔で頷いた。

『ご主人、顔がにやけてますよ』

『煩い』

「!?…ぎゃぁぁぁぁ!!」

 俺の腕の中に落ち着いている灰色の猫をヒョイッと掻っ攫って、ガクンッとそれまで保っていた重力が一気に襲い掛かってきたようにスッコーンッと落ちていく俺が絶叫を上げていると、すぐ真下に待機していた肩に灰色猫を乗せたレヴィがストンッとすぐに両腕で受け止めてくれる。
 な、なんだったんだ、今のは…

『嫉妬だよ』

 レヴィの肩から頭にかけて懐いている灰色の猫が、至極当然そうに「にゃあ」と鳴くと、レヴィは腹立たしそうに頷いた。
 こうして見るとどっちが主人なのか判らなくなるんだけど…これもやっぱり、【悪魔の樹】の契約ってのが影響してるのかな。

『ご主人さま、人間が勝手に決めたことではありますが、7つの大罪と言うのをご存知ですか?』

「えーっと、確かブラッド・ピットが主演していた映画であったな。傲慢・嫉妬・憤怒・怠惰・強欲…えーっと、後は食欲と色欲だっけ?」

『大正解です、さすがはご主人さま』

 嬉しそうにニコッと笑うレヴィがチュッと頬にキスしてくれて、くすぐったくて笑っていたら、灰色猫に呆れたように肩を竦めながらもニヤッと笑われてしまった。

『レヴィアタンは【嫉妬】を司るそうですよ。人間にしては小賢しいですが、当たっていると言わざるを得ませんね。それほど、私は嫉妬深いのです』

「使い魔にも妬いちゃうのか?」

 俺の質問にも、レヴィは生真面目に頷いた。
 それは何より、これから共に生きる為には重大な事ででもあるかのように、白い悪魔は神妙な目付きで俺の出方をみているようだ。

「バッカだなー…灰色猫だってレヴィを好きなのに、そんな灰色猫なんだから、俺が気に入ったって仕方ないだろ?」

『なぬ!?そんなこと言ってないよッ』

 焦ったような灰色猫を無視してニコッと笑ったら、それでも…と、レヴィは切なそうに真っ白の眉を寄せてシュンッとしてしまう。

『貴方が他の誰かを想う時、私の心は嫉妬で燃え上がってしまうのです』

「それじゃあ、心が幾つあっても足らなくなっちゃうな。つーか、お前。それじゃあ、俺が誰彼なく好意を寄せてるって疑ってるってことじゃないか!」

 頬や首筋にキスしてくるレヴィの甘ったるい愛撫に流されそうになっていた俺は、ハタと気付いて、お姫様抱っことやらをやらかされながらもレヴィの青褪めた頬を両手でバシンッと掴むと、その金色の双眸を覗き込んで威嚇するように歯を剥いてやったんだ。
 そうだ、どう考えても疑ってるとしか言いようがない!

『そ、それは…でも、気に入るという事は好きだってことじゃないですか。ひいてはそれは、愛へと繋がる感情で…!』

 バカなヤツには胸倉を引っ掴んで、それから、キスしてやるしかない。
 気に入ったぐらいで、こんなこと、お前以外の誰にできるって言うんだよ。

「キスしたいとか、エッチしたいとか…そう思うのはレヴィだけだ。灰色猫や篠沢にそんな感情を持ったことはない。茜にだって、そんなこと思ったこたねーよ!ホントは悪魔なんだから、俺の心とか見抜いちまってんだろーが!性格悪いぞ!!」

 ムキッと癇癪みたいに怒ってやると、レヴィは俺の真実の声に満足したように青褪めた頬を染めて、嬉しそうにうっとりと微笑みながら抱き締めると、頭に頬を擦り寄せてくる。
 どんな単純な感情でも、レヴィには千の言葉よりもきっと、大事なんだろうな。

『私の真実の姿を見られても同じことを仰って戴ければ、きっと、私は天にも昇るほど幸福な気持ちを感じる事ができるのでしょうね』

「おう!すぐに感じさせてやるから、とっとと真実の姿を見せてみろよ」

 胸元を掴んで、額にキスしてくるレヴィの甘い匂いに翻弄されながらも俺は、こうなりゃ槍でも鉄砲でも持ってきやがれ!なメタメタな気分で怒鳴っていた。
 でも勿論、大船に乗ったつもりになっててもいいんだぜ、レヴィ。
 どんなお前でもきっと、俺は嫌いになんてなれないんだから…

『ご主人さま、愛しています』

「!…お、俺も…ッ」

 ささやかな秘密のように囁いて、そんな初めての告白に俺は動揺したように自分だってと頷こうとしたら、そんな綺麗な微笑を浮かべるレヴィから突き放されてしまったんだ! 

「!!」

 ハッとした時には風の抵抗を全身で感じながらも、あの日、悪魔の樹から誕生した時のように眩い閃光を放ちながらレヴィの身体は、上空でみるみる巨大化していったんだ。それは、姿はもう人間のものじゃなくて、巨大な蛇のような…或いは海竜そのもののようで、凶悪に大きく開けた口には禍々しい牙が幾つもあって、口許には消えない炎が渦を巻いている。きっと、伝説にある通りに胃液が外気に触れて炎になっているんだろう。頭部には大きな角が2本配し、その周辺に一回り小さな夥しい突起物がある。
 禍々しい金色の双眸をニタリと細めて、凶悪な海の王者は長い真っ白な体躯をくねらせるようにしてけたたましい水飛沫を上げて海中に巨体を没したんだけど…これじゃあ、津波か地震でも起こるんじゃないのか!?

「れ、レヴィ!」

 両手を差し出して、水面から凶悪そうな禍々しい顔を覗かせる、海を支配する壮大な幻想から抜け出してきたような誇り高い海の王者リヴァイアサンの上に、まっ逆さまに落下する俺を、レヴィはどんな思いで見つめているんだろう。

《ご主人さま、オレを恐れますか?》

「んなワケない!すっげーカッコイイよ♪レヴィ、ずっとそのまんまでもいいぐらいなのにーッッ」

 凄まじい風圧と重力に大声を出しても聞こえないんじゃないかと焦ったけど、俺の思いはきちんとレヴィに届いていたようで、俺はそのまま嬉しそうに笑ってリヴァイアサンの顔の上に落下したんだ。
 炎は鳴りを潜めていて、硬い鱗に覆われているはずのレヴィの輝く純白の顔には薄青と薄緑の溶け合ったような透明なヒレがついていて、それがやわらかな絨毯のように俺を受け止めてくれた。
 きっと、レヴィがそうなるように顔を動かしたんだろうけど、白い海の王者は嬉しそうに、本来なら凶悪そのものの面構えなんだけど、その時ばかりは俺でも判るほど嬉しそうに笑っているようだった。

《ご、ご主人さま!こんなにも愛しいです》

「俺も、レヴィのこと、心の奥底から愛しいよ」

 柔らかなレヴィの繊毛らしきものを必死で掴みながら、青と緑のグラデーションが月明かりにとても綺麗なヒレに頬を擦り寄せて、俺は海王と謳われるリヴァイアサンに永遠の誓いのような愛の告白をした。

「お前にきっと、ついて行くから。レヴィの望むところに連れて行ってくれ」

 たとえそれが地獄でも、きっと俺は喜んでついて行くと思う。
 レヴィがいるのなら怖くない。
 レヴィのいなくなった世界で生きるよりも、たとえ地獄の業火に焼かれるような苦痛を味わわなければいけないとしても、俺はきっとレヴィについて行く。
 この、伝説の海の王者である、リヴァイアサンについて行くんだ。

『ご主人さま…では、どうぞ。私たちの家に帰りましょう』

 嬉しそうに顔を擦り寄せていた巨大な海の支配者であるリヴァイアサンは、まるでポンッと音が聞こえそうなほどアッサリと、もとの綺麗な白い悪魔に戻って俺を抱き締めてくれた。
 ゆっくりと浮上しながら擦り寄せ合った額と額を離して、頬を寄せ合うとキスして、お互い何故こんなにも必死なんだろうと思うほど、情熱的で蠱惑的な口付けを求め合っていた。
 それは確かな感触で俺たちを包み込んで、そして、昇る朝陽の中で呟いていた。

『愛しています、ご主人さま。これからもどうぞ、私と共に在り続けて下さい』

「愛しているよ、レヴィ。俺をずっと、離さないでくれ」

 喜んで…呟いてレヴィは、純白の朝陽の中で、誓うようにキスしてくれた。
 これからもきっと俺は、この白い悪魔に魅了され続けて、そして。
 ずっと愛していくんだと思う。
 相思相愛を夢見るように、うっとりと目蓋を閉じて、レヴィのキスに心を委ねた。

 悪魔の樹から誕生してしまった不幸な悪魔は、創生の時代から求め続けていた心の欠片を、もう随分と永いこと見失っていた最後の欠片を、こうして見つけ出す事ができた。
 多少の不便はあったとしても、彼は生涯、人間界の移ろいゆく光の中で、愛しい者と時間を共有し続ける事になる。
 【悪魔の樹】の呪縛は…そう、永遠なのだ。

* * * * *

「ところで、地震とか津波は大丈夫だったのか?」

『勿論です、ご主人さま。悪魔に不可能はありません』

「なるほど、悪魔って便利だな♪」

『はい♪ずっとお傍においてくださいねv』

「当り前だ」

『♪』

 数千メートル上空での他愛ない会話。
 聞いていた灰色猫は『ご馳走様』と言って、ラブラブのご主人ズを前に、それはそれは幸せそうに「にゃあ」と鳴くと、柔らかい猫手で両目を覆うのだった。

5  -悪魔の樹-

 灰色フード男は笑顔で立ち去る俺を暫く名残惜しそうに見送っていたけど、結局、声も掛けずにそのままそれっきりになった。
 トボトボ…ッと、それでなくても昨夜の酷い行為に身体は悲鳴を上げていたけど、それでもやっぱり、心は寂しさがいっぱいで、切なく痛んでいた。
 俺は…あの白い悪魔に何をしたんだろう?
 入念な復讐は、俺の心に蕩かすほど甘ったるい匂いと優しさをくれて、そのくせ、最終的には「さようなら」をするよりももっと手酷くお別れをしやがった。
 裏切る…と言う言葉が脳裏を掠めた時、唐突に俺は、切なそうな金色の双眸を思い出した。

【篠沢はお前なんかよりずっと大切なんだ】

 そう言った時に見せた、レヴィのあの裏切られた時に見せるような絶望的な眼差し。
 気付いていたんだけど、観衆の目を気にしたふりをして、本当はどう取り繕ったらいいのか判らなくて見て見ぬふりをしてしまった。
 レヴィはきっと、それにも気付いていたに違いない。
 俺は…酷いヤツだ。
 それでも、擦り寄るようにして甘えてくる白い悪魔が堪らなく愛しくて、俺はその悪魔の優しさにすっかり高を括って、甘えていたのは俺の方だったのに…レヴィと一緒にいる時が一番幸せだったと思う。
 あのぬくもりを…できればもう一度この腕に抱き締めたかった。

「レヴィが大好きなのに…」

「は?誰がなんだって??」

「!!」

 ギョッとして振り返ったら、不思議そうな顔でキョトンとしている篠沢が立っていて、大遅刻覚悟で歩いていた俺はパクパクと驚きに言葉が出ない状況でぶっ魂消ていた。

「なんだよー、面白い顔をしやがってさぁ。あ、何お前ズル遅刻狙ってるワケ?」

「ズル遅刻ってなんだよ」

 思わず脱力しちまいそうな台詞に、溜め息を吐きながらガックリしていたら、学生カバン代わりのスポーツバックを肩に提げた篠沢は、ニヤニヤ笑って肩を竦めたんだ。

「ズル休みまではいかない、遅刻野郎のことだな」

「なんだよそれ。つーか、お前こそズル遅刻なんじゃねーの?」

「あ?バレました??実はズル休み決定のはずが、瀬戸内くんとお約束していたことを思い出しちゃってね。学校に行きましょうと思い立った次第ですよ」

 つーことは、俺のことを完全に忘れていたら学校に来る予定はなかったってことか?

「まあ、それならそれで学校帰りに寄るだけだがなー」

「そうか、その手があったか。俺様としたことがなんたる迂闊…ん?もしかして、瀬戸内ってば泣いてないか??」

 ギクッとした。
 相変わらず洞察力の鋭い篠沢は、目尻に浮かんでいた涙に気付いたのか、俺がギョッとする間もなく、伸ばした指先で目元を拭ったりなんかしてくれたんだ。
 ぐはっ!底抜けに恥ずかしいぞッッ。

「バババ…バッカだな!そんな、泣いてるワケないだろ??」

 思わず顔を真っ赤にしてその手を軽く振り払うと、篠沢は暫く何かを考えているように目線を彷徨わせたんだけども、突然ニッコリ笑って俺の腕なんかを掴みやがったんだ。

「うを!?」

「ふふん♪この際、仲良くズル休みに徹しまして、早速俺んちにレッツゴーしませうよ」

 ヘンな乗り気の篠沢の陽気さに助けられる形になったのか、腕を引っ張られながら強引に連れ去られていた俺は、なんとなく少しだけ笑えたんだ。
 ああ、やっぱり篠沢がいてくれてよかった。
 レヴィはここにはいないけど。
 もう、どこにもいないんだろうけど…

 篠沢の家は…豪華なワンルームマンションだ。
 両親が共働きで家にいないことをいいことに、この悪賢い悪友は、駄々を捏ねて独り暮らしアンドワンルームマンションを手に入れたらしい。
 中学からの長い付き合いだって言うのに俺は、よく考えてみたら篠沢のことをそれほど理解していなかったんだなぁ…と、今更ながら気付いていた。
 なんとなく、席が隣同士になって、お互い共通の話題とかないのに、何故か驚くほど気が合った。
 母さんが死んでからは目まぐるしく生活が一転して、高校生らしいことなんてたぶん、これっぽっちもしていやしないと思うんだけど、それでもどこかで高校生活を満喫しながら腐らずにすんだのは、この篠沢のおかげだったと言っても過言じゃないだろうなぁ、やっぱり。
 だからこそ、レヴィに言われた言葉にカチンときて、取り返しのつかないことをしてしまった。
 篠沢はそれでもただの友達で、レヴィは…俺が育てた悪魔の樹から生まれた、俺だけを見詰めてくれるたった1人の悪魔だから。
 たとえばどうしようもなく切なくて、寂しさをたくさん抱えていたとしよう。
 その時、篠沢ならたくさんの級友が誘えばそっちに行っちまう。それは当り前の事だけど、それでも俺は、その事実に少しでも傷付くんだと思う。
 でもレヴィは…あの白い悪魔なら、きっと寂しがる俺をソッと抱き締めて、綺麗な真っ白の睫毛が縁取る目蓋に金色の双眸を隠しながら、落ち着くまでそうして頬を頭に寄せて黙ったままで傍にいてくれるんだろう。
 その悪魔を手離してしまったのは俺だし、その考え自体も甘ったるい妄想にすぎないんだけど。
 微かに溜め息を吐いていたら、篠沢が缶ジュースを持ってキッチンから姿を現した。

「なんだ、コップにも入れてくれないんだなー」

 女子に人気の篠沢でも、こんなズボラちゃんなワケか。

「お前ほど機転が利かなくて悪かったな!飲めるだけ有り難いと思え」

「なんだよ、そりゃあ」

 やれやれと首を左右に振って、俺は遠慮もせずにコーラの缶を手に取ると、カシュッと小気味よい音を立ててプルを引いて開けると、憂さ晴らしのようにゴクゴクと凶悪に弾ける炭酸を咽喉の奥に流し込んだ。
 たとえ咽たとしても、それで少しは気が晴れるだろうとか、バカみたいな事を考えながら。

「お!豪快な飲みっぷりじゃん。完全な男飲みってヤツだな♪…つーかさぁ、やっぱ瀬戸内、なんかあったんじゃないの?」

「え!?」

 案の定と言うか、思い切り咽て涙目になっていた俺がギクッとして顔を上げたら、ファンタの缶を気だるそうに弄んでいる篠沢が意味ありげな流し目で見詰めてきやがったから…うう、なんて答えよう。
 それでなくても洞察力の鋭い篠沢の事だ、俺がとやかく言い募ったところできっと、アッサリと見抜いちまうに決まってる。
 でも、それでも俺は、誰にもレヴィの事は言いたくない。
 あれがもし幻だったのだとしても、レヴィを知っているのは俺だけなんだから、このささやかな幸福を、誰かに分け与えられるほど俺は出来たヤツじゃないんだ。

「目尻が腫れてる…思いっ切り泣いたとか?」

「えーっと、つまりだな…」

 あからさまに動揺してオタオタと言い募ろうとする俺よ!
 いったいどれだけ隠し事が出来ないんだよー

「…あのペンパルが帰ったとか?」

「へ?…あ、そう、そうなんだ!いきなり帰りやがったからさぁ、ちょっと寂しくて…」

 それだけのことで泣けるほどセンチメンタルじゃない俺なんだけど、まさかそれを篠沢が信じてくれるなんてこれっぽっちも思っちゃいなかったってのに、悪友は冷えたファンタの缶をフローリングの床に置きながら溜め息を吐いたんだ。

「じゃないかって思ったんだよな」

「へ?」

 いや、確かに人間に化けていたレヴィは綺麗でハンサムだったけど、外見上は男だし…悪魔って確か両性具有って聞いたことがあったけど、でもレヴィは立派に男だった。それはこの身体でもって実証済みだからな、間違いないって…って、何を言ってるんだ俺!
 アワアワしている俺に、篠沢はその女子どもが黄色い声を上げるほど整った顔に冷やかな表情を浮かべて、脇に置いていた雑誌を差し出してきた。
 怪訝に思いながらも、ずっと読みたかった約束の雑誌だったし、何より条件反射で受け取ろうと差し出した腕を掴まれて、俺は。

「??」

 一瞬のことだったから思考回路はまともに動かないし、掴まれた腕を強引に引き寄せられて、前のめりに倒れそうになった俺を空いている方の腕で支えながら篠沢は、思いつめた表情のままでキスしてきた。
 そう、キスしてきたんだ。
 パニックするにも真っ白になっちまっている俺は、呆然と口付ける篠沢を凝視してしまう。

「中学からずっと目を付けてたってのにさぁ…あんな虫が付くなんて思いも寄らなかったよ。まさか、もう犯っちまったってんじゃないだろうな?」

 苛立たしそうに歯噛みする篠沢に、その時になって漸くこの間抜けな俺は、ハッと我に返ったんだ。

「な、何するんだよ!?は、離せよッ」

「離せ?」

 そう言って、整った顔立ちの篠沢は、ほの暗い笑みを口許に張り付かせたままで、腰に回した腕にグッと力を入れやがったから、俺は手にしていたコーラの缶を投げ出しながら悪友に抱き締められてしまった。
 不意に、あれほどレヴィに抱き締められてもキスされても、そんな気持ちはこれっぽっちも湧かなかったって言うのに、篠沢の腕が腰に回っている、そんな些細なことでゾワッと背筋を這い上がるような悪寒に身震いしてしまうし、吐き気だってする。

「やめろ!嫌だッ、離せよッッ!!」

 思わず渾身の力で突き放したら、俺がそんなに暴れると思っていなかったのか、隙を突かれて僅かに腕の力が緩んだ隙に後退りはしたものの、身体が訴える不調は俺が思う以上に深刻だったのか、そのままダッシュで逃げ出せるほど回復はしていなかった。
 だから、尻餅をついたような形でフローリングに両腕を付いて、ジリジリと後退りながら篠沢を睨み付けた。
 自分の両腕を暫くぼんやりと見詰めていた篠沢は、それから不意に、ククク…ッと、鳩尾の辺りがゾワゾワするほど嫌な笑みを浮かべたままで上目遣いに俺を見据えてきたんだ。
 うう、やっぱ美人の凄味は超こえぇぇ!!
 それでも怯むわけにもいかないし、俺はゴクッと息を飲みながら思わず縋るように言ってしまう。

「な、何だよ。そんな真剣な顔してさ。これって悪いジョークなんだろ?俺、男だし…その、見て判るよな?な?」

 頼むから、お願いだから悪いジョークだって鼻先で笑ってくれよ。
 ああ、でも。
 願い事なんて叶わない、そんなこと、もうとっくの昔に知っていた筈なのに。

「冗談?それこそ悪い冗談だよ、光太郎。俺さぁ、言っただろ?ずっとお前を狙ってたんだって。お袋さんが死んでから、雰囲気とかガラッと変わって、お前エロくなったんだよ。自分じゃ気付かなかったか?」

「は、はぁ??」

 思わず眉間に皺が寄るようなことをサラリと言ってのける篠沢に、ムッとして首を傾げれば、今まで見たこともないほど凶悪な面構えをした悪友は目蓋を閉じると首を左右に振って鼻先で笑うんだ。

「組み敷いてさぁ、ヒィヒィ言わせてみたいんだよな。つーか、もうヒィヒィ言ったって風情だけどさ」

 ギクッとした。
 そりゃあ、長い付き合いなんだ。
 いつもの腹を立てた俺なら、サッサと篠沢を殴ってからこんなクソッタレな部屋からはとっととおさらばしてるってのに、へたり込んで身動きが取れない俺を見れば、何が起こったのか、たぶん百戦錬磨だと噂されている篠沢になら今の身体的状況はモロバレなのかもしれない。
 ゆらりと立ち上がる、その雰囲気に気圧されて、俺は息を飲むようにして思い切り後退るけど、背中はすぐに壁についちまって、絶望的な目付きのままで篠沢を見上げていた。

「…んな、誘うような目付きをするなよ」

 いちいち癪に障る物言いだったけど、そんなことよりも俺は、まさか篠沢が本気で俺を犯そうとしているのかと思ったら、立ち眩みのような眩暈を感じてしまう。

「相手はアイツか?ふん、たかが人間如きに獲物を掻っ攫われるなんてさぁ、俺もどうかしちまったよ」

 自嘲的に笑った篠沢は、追い詰められて青褪める俺を事も無げにヒョイッと抱え上げると、ギョッとして暴れようとする俺の行動をいとも容易く封じ込めながら、ニヤニヤと笑って大股で寝室まで行くと大きなベッドに放り出しやがったんだ。

「うッ!」

 たぶん、上等なベッドなんだろうけど、それでも傷付いている俺の身体にその衝撃はきつかった。
 息も絶え絶えになりながら逃げようとしてシーツを掴んだところで、鼻歌混じりの篠沢に両腕を思い切り後ろで縛られてしまった。縛られて、学ランを思い切り剥ぎ取られて縛られた腕に蟠るその感触に恐れをなした俺は愈々恐怖心を駆り立てられながら、信じられないものでもみるような目付きをして、きっと背後の篠沢を見ていたに違いない。
 その視線に気付いた悪友は、背後から俺を抱き締めながらクスクスと綺麗に笑いやがるんだ。

「酷くされたんだろ?大丈夫だ、俺は気持ちよくしてやるからな」

「い、嫌だ!篠沢…まッ!んぐぅ…ッ」

 最後まで言えなかったのは、趣味の悪い笑みを口許に張り付かせて、手に入れた玩具をどうやって壊してやろうとかと企む子供のような嫌な目付きをした篠沢に、何かで猿轡を噛まされたからだ。

「んほふぁぁ、まへー!まへっはらー!!」

「何言ってんだか判んねーよ、大人しくしろよ。ほら」

 そう言って冷たく笑った篠沢にドンッと突き飛ばされて、俺は腕を縛られているから肩からベッドに倒れこんでしまった。
 いててて…それでなくても身体が痛いってのに、篠沢の野郎ぉ~
 ムキィッと、恐怖よりも腹立たしくなって上半身を起そうとしたその矢先、鼻歌なんか歌いやがる篠沢は、嬉々として俺の学生ズボンを下着ごと剥ぎ取りにかかったんだ。
 ウワッ!?それは、マジでヤバイ!!
 それでなくても尻だけを高く掲げたような中途半端な体勢だって言うのに…それに、下着を剥ぎ取られたらバレてしまう。
 俺の下半身に起こっている状態に、気付かれちまう。
 羞恥と恐怖に思い切り暴れようとしても、少し汗ばんだ篠沢の腕でベッドに縫い付けられてしまった俺は、冷やりとした外気を、本来なら人前ではけして触れるはずのない場所に感じてギュッと目蓋を閉じてしまった。
 尻を両手で鷲掴んでグイッと押し開きながら、篠沢はマジマジと俺のその部分を凝視しているようだ。
 果てしない羞恥に、ともすれば泣き出しそうになりながらも俺は、必死で、有り得るワケもないと言うのに、必死で…レヴィに助けを求めていた。
 もしかしたら…そんな儚い願望を打ち砕くようにして、ヒクヒクと熱を持って脈打つその部分に、篠沢の熱い息を感じて背中がビクンッと跳ねてしまう。

「へー、これは酷いな。ちょっと切れてるし…強姦でもされたのか?って、そうか。話せないんだよな」

 クスクス…ッと笑って、篠沢はこれ以上はないぐらい押し開いている尻の中央、腫れぼったく熱を持った肛門をぬるい熱を持つ軟体動物のような錯覚を思わせる舌先でベロリッと舐めやがったんだ!

「!!」

 ビクッとして、それから嫌だと頭を振っても、篠沢の執拗な舌戯は止まらないし、その度に引き攣れるような痛みが全身を犯していくようで、心がバラバラになるような錯覚がした。
 信頼していたはずの親友。
 レヴィの、切なそうな眼差し。
 【悪友】と【親友】を履き違えていた俺を、心配そうに見詰めていた、悪魔のクセに穏やかなあの眼差し…

「…ヴィ」

 猿轡を噛まされている状況では言葉らしい言葉にもならないけど、俺は、もう見捨てられてしまっていると言うのに、愛しい悪魔の名を呼んでいた。
 逃げ出せない絶望の中に降り注ぐ、やわらかな免罪符のようなその名を。
 ぴちゃぴちゃ…と、厭らしく響く湿った音に、ガンガン痛む頭には快楽はなくて、淫らに這い回る陰茎への愛撫さえも吐き気しか催さない。
 舌先に促されるようにしてズルッと押し込まれる篠沢の長い人差し指の無情な動きには、高く掲げている尻がゆらゆらと拒絶するように揺らめいていた。

「…ッ、吸い付いてくるようだ。光太郎の中、熱くて真っ赤で、誘うように厭らしいよ」

 粘りつくような声音には鳥肌しか立たないと言うのに、何処か切羽詰ったような篠沢はその時になって漸く、戒めていた猿轡を外してくれたんだ。
 胸を喘がせるように大きく息を吸い込んだ俺が、思い切り悪態をつくよりも先に、篠沢は俺の首を信じられないほど曲げて噛み付くようにしてキスしてきた。
 舌と舌をぶつけ合うようにして絡めて、肛門に差し込んだ指を淫猥に蠢かしながら、陶酔しているような篠沢の濃厚なキスに俺は吐き気さえ感じている。
 入れられるんだろうか…それは嫌だな。
 諦めたように目尻から涙を零しながら、俺は一秒だって感じることもなく、篠沢の口付けを放心したように受け入れていたんだけど…ふと、思い切り捲り上げたシャツが隠してくれない乳首を厭らしく捏ね繰りながら、口内を思う様蹂躙するように吸い付いて蠢くように這い回る舌の動きがピタリと止んだんだ。

「…?」

 訝しげに眉を寄せる俺の目の前で、篠沢の双眸が有り得ないほど見開いている。
 な、何が起こったんだ!?

「…う、ぐ…グゥアッ!…うわぁぁぁッッ!!」

 ドンッと突き飛ばされて前のめりに倒れながら俺は、信じられないものを目撃してしまった。
 それは…双眸を見開いて額に血管を浮かべた篠沢の、両手で覆っている口許からシュウシュウ…ッと白っぽい煙が出ていた。まるで、硫酸か何かで焼いたように、室内にはムッとする悪臭が立ち込めて、俺は吐き気を催すよりも先にいったい何が起こったんだと、身体の向きを変えながら瞠目していた。
 な、なんなんだ、いったい!?

「グゥアアアア…ッ」

 指先にまで引っ付いた溶ける皮膚を信じられないように見詰める篠沢の皮膚は、口許から頬、頬から顔全体をドロドロと溶かしながら、皮膚の張り付いた指先までも溶け始めていた。

「し、篠沢…ッ」

 壁にこれ以上はないぐらい背中を押し付けながら、目の前で繰り広げられている惨劇に、為す術もなく俺は、ああ、俺は…息を飲んで名前を呼ぶ事ぐらいしかできないでいる。
 ああ、どうしよう!!?

「…ぐぅ…うう…んの、野郎…貴様、悪魔と契約してやがるな!?』

 ドロドロに溶けていく皮膚の下から、ずるり…と、何か見たくないものが滑り落ちたような気がして目を逸らしたかったんだけど、愕然と見据える篠沢の足元に、滑り落ちたそれは艶めくほど綺麗な漆黒の髪だった。そして、溶け切った皮膚がボタボタとフローリングの床を汚していくその最中に憤然と立ち尽くしたその姿は…俺が見たこともない鋭い眼光を忌々しそうに放っている、夢のように綺麗な男だった。

「し、篠沢?」

『可愛い面しやがって!そのくせ、悪魔と契るなんて強かなヤツだな?』

 フンッと鼻先で笑う篠沢は、それまで見てきた見慣れた篠沢の姿はどこにもなくて、腹立たしそうに憤然と怒っている傲慢そうに腕を組んだ、艶めくビロードのような漆黒のローブに身を包んだ、チャラチャラとレヴィと同じように宝石を鏤めている男は、忌々しそうに俺の元に音もない素早さで近付くと、痛む身体を庇う隙さえも与えずにグイッと顎を掴んできやがったんだ。
 クソッ!腕さえ自由ならこんなヤツ…ッ!!
 悔しくてギッと睨み据えたつもりなのに、いまいち効いていないようだ。

『貴様、【悪魔の樹】の契約を交わしているんだろ?相手はどんな悪魔だ。大方、淫魔にでも魅入られたか??そんな雑魚、このオレが消してやる。だから、契約を破棄するんだ。そして…』

 艶やかな黒髪に、青褪めたように白い額には華奢な意匠を施した額飾りをしていて、嫌味ったらしくうっとりと笑う表情は、ゾッとするほど綺麗だ。
 【悪魔の樹】の契約を知っているなんて…コイツは、この篠沢の皮を被っていたコイツは、いったい何者なんだ!?

『お前はオレのものになれ』

「…い、嫌だ!離せッ、離せよこん畜生!!」

 喚くようにして拒絶する俺に、額に血管を浮かべた見たこともない、この世のものとも思えないほど綺麗な顔をした男は頬を引き攣らせて笑うと、煩く喚く俺の口を封じようとでもするように口付けようとしやがるから…

「や、嫌だ!レヴィ!レヴィ、助けてくれ!!」

 こんな得体の知れないヤツのモノになるぐらいなら、どうか、今すぐレヴィ、お願いだから俺を殺してくれ!

『…レヴィだと?』

 そんな名の悪魔がいたかと、口付けようとしていた得体の知れない男はソッと眉を寄せたが、ふと、背後から伸びてきた何かによって俺から引き剥がされたんだ。

「…ッ」

『何者だ!?』

 音もなく、気配もなく忍び寄ったのか、何者かに対して思い切り敵意を剥き出しにしていた男をサラッと無視したソイツは…その、見覚えがあり過ぎて、もうずっと忘れられなかった古風な衣装を身に纏ったその…あまりにも冷やかな金色の眼差しに無表情に見下ろされて俺は、今にも泣き出しそうに眉を寄せてしまった。
 ああ、こんな見っとも無い姿を見て、お前、また俺を嫌いになるんだろうな。
 でも、でも俺、それでもやっぱりお前には見詰めていて欲しいよ。

『…』

 何か言おうかどうしようか迷っているのか、傲慢不遜に立ち尽くしていた古風な衣装の白い悪魔は片膝を付いて身を屈めるから、俺は何か言われる前に渾身の力を込めて体当たりしていたんだ。

『!』

「レヴィ!俺、お前の忠告を無視してこんな風になってしまったけど、あんなヤツに犯されるぐらいなら死んだ方がマシだ!だから、今ここで俺を殺してくれ。償えるとは思わないけど、俺の命でいいならあげるからッ!だから、だから…それ以上俺を嫌いにならないでくれ」

 腕を縛られたままじゃ抱き締める事もできないけど、それでも俺は、縋るようにその胸元に額を押し付けながらボロボロと泣いていた。
 泣きじゃくる俺を見下ろして、白い悪魔は何を考えているのか、見上げる勇気すらなくて俺は、嫌われている事実に気付く前に早く、早く…もう、これ以上は耐えられないんだ。
 ふと、頭上で溜め息が零れたようで、やっと、この悪魔が願いを叶えてくれるんだと目蓋を閉じた。
 僅か17年だったけど、色んな経験ができてよかった。
 向こうに逝けば母さんは、きっと怒るんだろうけど、それを笑顔で受けながら俺は、きっとこの長い責め苦から解き放たれるならそれでもいいと考えるんだろう…そんなこと、思ってたってのに、白い悪魔のレヴィは予想もしない行動に出たんだ。
 それは…

『全く、貴方と言う人は。私がどんな気持ちで見守っていたと思うんですか』

「れ、レヴィ?」

 やれやれと、呆れたように溜め息を吐いて抱き締めるようにして背中に回した腕で戒める腕の縄を解いたレヴィは、それからホッとしたように本格的にギュウッと俺を抱き締めてくれた。
 な、何がなんだか…

『何を勘違いされたのか知りませんが、私は最初から貴方を嫌ってなどいません。あの時言った言葉に偽りなどないのです。貴方を初めて見た時から、私はご主人さまを愛していますよ。ただ、悪友などと言う存在に夢中になるご主人さまには腹立たしくて仕方ありませんでしたがねッ』

「だって、レヴィ…だって」

 言葉にならなくてポロポロ涙を零してしまう俺は、縛られたままで無理な体勢ばかり強いられていたせいか、痺れるように震える腕を伸ばしてレヴィの、白い悪魔の背中に腕を回していた。振り払われないか凄く心配だったけど、それでも俺は、縋りつきたくて、もうレヴィを離したくなくて力いっぱい抱き締めていた。

『ご主人さまには実践で【悪友】と呼ばれる者の実態を把握してもらわないことには、どうやら一生、その【悪友】とやらに振り回されるような気がしましてね。荒療治ではありましたが突き放したんです。オレは…ご主人さまを嫌った事など一度もありません。それどころか、嫉妬にこの身を焼き焦がしたいほどでした。貴方はオレを呼んでくれた、それだけで充分なはずなのですが、オレは悪魔です。貪欲なほど貴方を求めている。だから、オレはご主人さまにオレ以外の何者をも想ってなど欲しくはない』

 キッパリと宣言するレヴィに、俺は抱き付いたままでその顔を見上げていた。

「じゃあ、ずっと俺のことを見ていてくれたのか?俺のこと、嫌いになったからじゃなくて
…?」

『当り前ですッ。まんまとルゥの手に陥落して…そりゃあ、確かにルゥは美しいです。オレなんかよりも遥かに綺麗だ。到底、太刀打ちなんかできやしない事は判っているんです。でも、オレだって実力では負けませんッ』

 レヴィが、正直何を言っているのか判らなかった。
 訝しくて眉を寄せる俺をギュッと抱き締めたレヴィは、背後で事の成り行きを緩慢そうに眺めながら腕を組んで呆れたように溜め息を吐いている男を振り返ったんだ。

『そう言う事だ、ルゥ。悪いがアンタにこの人をくれてやるつもりはない』

『…と言うか、お前は誰だ?どうしてオレの名を知っている??気配だけはオレと互角のようだが…見知らぬ貌だ』

 フンッと、忌々しそうに鼻に皺を寄せる綺麗な男は、確かにその言葉通りレヴィの実力を認めているのか、何か手を出してこようとはせずに、ただただ、まるでドライアイスが水に濡れて噴出す煙のような殺気を滾らせながら憎々しげにレヴィを睨み据えている。
 馴れ馴れしく俺の名を呼ぶなと、その声音は物語っているようだ。

『オレが判らないだと?長い付き合いなのに酷いな、ルシフェル』

『…?ああ、なるほど!そうか、そう言うことね。気配まで綺麗に消してレヴィか、考えたな。これからオレもそう呼ぼう。とは言え…その様はなんだ?』

 ムッとしたように唇を尖らせるレヴィを見れば、どうやら知り合いのようでホッとした…って、ん?待てよ。今、ルシフェルとか言わなかったか?

『【悪魔の樹】の契約の際に、たまたま見た姿を真似ただけだ。真実の姿でここに来れば、忽ちこんなちっぽけな国は沈んじまう。そんなことも判らないとは呆れたな』

『言ってくれるじゃないか』

 ニヤニヤと笑う長い黒髪を優雅に揺らして腕を組んだルシフェルは(つーか、まさかホントに大魔王ルシフェルなのか!?)、綺麗な漆黒の双眸を薄らと細めて、肩を竦めながら笑うんだ。

『で?誰の物真似だ』

『さあ?確か、デビルメイクライとか言うゲームのダンテとか言ったかな??』

 ぐは!…思わず噴出してしまったのは、じゃあ、ああやって悪魔の樹を育てていた俺の知らないところで、気体にでもなっていたレヴィのヤツは俺の部屋の中を悠々自適に詮索でもしていたって言うのか?
 そのタイトルのゲームは、俺の部屋にしかないんだ。

『なるほどなるほど。大方、瀬戸内の趣味だろうからなそれは…レヴィ、お前なら仕方ないなぁ』

 それで、レヴィは何もかもが真っ白なんだ。
 顔立ちこそはちょっと違うけど…って、そうだよな、ダンテが実写に磨きをかけたって感じなら、こんな風に綺麗になるんだろうか?

『手を引くか?ルゥ』

 突き刺すように金色の双眸で射抜くレヴィに、その眼差しを真っ向から受け止めたルシフェルは…いや、たぶん。やっぱり篠沢の皮を被っていたこの、ルシフェルなんて言う有り得ない名前の胡散臭い男も、やっぱり悪魔なんだろう。
 レヴィの氷点下よりも更に凍りつきそうな冷やかな眼差しを真っ向から受けても、怯むどころか、傲慢に顎を上げて見下ろしている。そんな余裕さえ窺わせるルシフェルは、苛立たしそうに見事な柳眉をクッと顰めてニヤッと笑うんだ。

『それはどうかな?【悪魔の樹】の契約を交わしてはいても、瀬戸内はお前の真実の名を知らない。いつでも破棄できる状態だよなぁ?』

 ギョッとしてレヴィの男らしい横顔を見上げたら、唐突に不安になって、俺はますますこの白い悪魔の背中に回した腕にギュウッと力を込めたんだ。
 嫌だ、レヴィと契約を破棄するなんて。
 そんなのは絶対に嫌だ。
 何時の間にか巻き込まれていた【悪魔の樹】の契約かもしれないけど、それでも俺は、今はそのことに感謝している。なのに、この時になってどうして、破棄できるなんて知ってしまったんだろう。
 ああ、それで。
 ふと、俺は灰色フード男が言っていた3つ目の大事な約束を思い出していた。

【それから、3番目は尤も重要な『悪魔の名前を知ること』】

 そう、言っていたのに…俺は灰色フード男に「真実の名前を知らなくてよかった」とか、大層なことを言っちまったんだけど、うう、今は後悔しているよ。

「レヴィ、俺はお前の名前を知りたいよ。こんな思いはもう二度としたくない。俺は、我が侭だから、きっと死んだ後でもお前には俺だけを想っていて欲しい…なんて思ってるんだぜ」

『…誰よりも、私のことを一番に考えてくださいますか?』

「当り前だ!俺、俺はレヴィが好きだよ」

 人間なんか嘘吐きかもしれないけど、なぁレヴィ、地獄の業火に焼かれてもいいから、悪魔のお前とずっと一緒にいたいって心底から思ってるんだ。
 この心を、見せてあげられたらいいのに…

『永遠に?私はとても嫉妬深いんです、ご主人さま。これから先も、きっと些細な事で貴方を縛り付けるに違いありません。だからこそ、私はご主人さまに真実の名を言わなかった。本当は、真っ先に教えて差し上げたかったのに』

 少し冷やりとする掌で、涙腺でもぶっ壊れたのかと不安になるほどポロポロ泣いている俺の頬を掴んだレヴィは、真っ白の睫毛が縁取る目蓋に綺麗な金色の瞳を隠して、それから震えるようにソッと濡れた目尻に口付けてくれた。
 ああ、永遠だ。
 俺の意識がなくなるその瞬間でも、きっと俺は、お前を想い続けるんだろう。
 目蓋を閉じて、そのやわらかなキスを誓いのように受け止めながら、俺は小さく笑って頷いていた。

「レヴィが好きだよ。永遠だ」

『ご主人さま…!』

 震える目蓋を開いたレヴィが、嬉しそうに頬の緊張を緩めると、そのまま唇に掠めるだけのキスをくれた。
 痺れるように誰かを好きになるなんて、思いもしなかった。
 たとえ相手が悪魔だったとしても、きっと俺は後悔なんかしないだろう。

『…それにしても、レヴィの言葉遣いはなんだ。キモイ』

 ブツブツ蚊帳の外で悪態を吐いているルシフェルなんか、たぶんこの時の俺たちは気にもしていなかった。自分たちの甘ったるい、確かにレヴィは桃のような芳香がして甘ったるくはあるんだけど、2人だけの世界にどっぷりと浸っていたから仕方ないんだけどさ。

『私の真実の名は…レヴィアタンと申します』

「…レヴィア、たん?」

『ぶっ』

 思わずと言った感じで噴出してしまったルシフェルは、額に血管を浮かべたレヴィに壮絶に睨まれてしまって、『悪かった、スマン。続けてくれ』と、傲慢が服を着て歩いてるんじゃないかってな尊大な態度にしては、片手を挙げて素直に謝ってるのは不気味だったりする。
 でも、そうは感じなかったのか、レヴィのヤツは不機嫌そうに俺を抱き締めながら唇を尖らせるんだ。

『ヘンな発音で言わないでください、ご主人さま。レヴィアタンです。そうですね、ご主人さまたち人間に馴染み深い名前で言えば、リヴァイアサンです』

「り、リヴァイアサン!?」

 素直にギョッとしてしまった。
 だ、だって、海の魔物だって恐れられている、それもサタンと互角とも言われるFFでも梃子摺ったあのリヴァイアサンだって言うのか??

『驚きましたか?それともその…嫌いになりましたか?』

 しょんぼりとしたように、あの見慣れた表情で不安そうに覗き込んでくる金色の双眸を見詰めて、俺は思わずニコッと笑っていた。

「なんだ、それで白蜥蜴だったんだな。驚いただけだ。レヴィ、凄いな!リヴァイアサンなんてカッコイイよ♪」

 心から賞賛する俺に、ルシフェルは肩を竦めたんだけど、レヴィのヤツは、その、けして揺るがないはずの金色の双眸をウルウルと潤ませて、いきなりグワシッと抱き締めてきやがったんだ!

「く、苦し…って、どうしたんだよ、レヴィ??」

『ご主人さま!嘘でも嬉しいです!!もう、ずっと不安で仕方ありませんでした。オレは醜い海の魔物で、確かにルシフェルのように美しくもなければ気品もありません、ましてやオレは凶暴で冷酷無情ときているから、ご主人さまはきっと呆れ果ててしまうに決まっています』

 どう捻じくれたらそんな答えになるのか判らないんだけど、別に、確かに俺はルシフェルは地球上でも最高に綺麗で男にしておくには勿体無いぐらい妖艶だと思う。でも、だからって好きかと言われれば、それほどでもない。だって、傲慢そうで…それこそ、レヴィの百万倍は凶暴そうだもんな。

「嘘でも嬉しい…なんて失礼だなー。つーか、そんな得体の知れないヤツのモノになるぐらいなら、死んだ方がマシだって俺は言ったはずだけど?」

『くそー、マジで酷いよな!瀬戸内は』

 相変わらず篠沢っぽい口調でブーたれるルシフェルにも呆れるけど、エグエグと思わず泣いてしまっている男前にはもっと呆れ果てるぞ、マジで。

「それに嘘じゃないよ。せっかく男前なリヴァイアサンのクセして、メソメソ泣くな!これからはご主人さまの言葉は絶対なんだからな!!」

『ぅあ、は、ハイ!』

 吃驚したように目をパチクリさせるレヴィの綺麗な顔を覗き込みながら、漸く、自分らしさを取り戻した俺はニヤッと笑ったんだ。

「よし、それでよし。レヴィ、大好きだ」

 そう言ってギュッと抱き締めれば、目を白黒させていたレヴィは少しホッとしたように小さく微笑んで、それからあんなに望んでいた優しい両腕でやんわりと抱き締めてくれたんだ。

『ご主人さま…オレもです♪』

 上機嫌でラブラブになっちまった俺たち2人を、最初から最後まで蚊帳の外を決め込んでたくせにチャチャを入れていたルシフェルが、盛大な溜め息を吐きながら苛々したように腰に手を当てて睨み付けてくる。

『…どーでもいーんだけどよ。ハッピーエンドはご馳走様だから、そろそろ出て行ってくれねーかなぁ?』

 真冬の吹雪よりも凍りつきそうなほどおっかない気配を漂わせるルシフェル、たぶん、レヴィにとっては後者の意味になる【悪友】にハッと我に返ったようなレヴィは、バツの悪そうな顔をして肩と一緒に首まで竦めてしまう。

『あ、ヤベ。ここルシフェルの家だったな』

 そんな間抜けな事まで言って、やっぱり大悪魔と恐れられているルシフェルは怖いのか。

「じゃあ、帰ろうか。俺たちの家に」

 思い切り着乱れてしまっていた学生服をせっせと整えてくれる健気なレヴィに笑いかけると、白い悪魔は一瞬、それはそれは嬉しそうに花が咲き誇るように破顔してくれた。

『はい、ご主人さま』

 そんなくすぐったい返事にテレテレしていたら、呆れたような溜め息を吐いていたルシフェルが、肩を竦めながら仕方なさそうに腕を組んだ。

『…よかったな、瀬戸内』

「え?」

 レヴィの力強い腕に護られたままで顔を上げると、壮絶なほど綺麗なくせに、何処か懐かしい篠沢の相貌をチラチラと垣間見せているルシフェルは、クスッと笑って軽く顎を上げたりする。

『さあ、もう行けよ。目障りだ♪』

 そう言って、ルシフェルはレヴィと俺を、高層マンションの最上階だと言うのに、窓から軽く
放り出しやがったんだ!!