第二部 2.光と闇  -永遠の闇の国の物語-

とん、とん、とん…
 何かが服に当たる気配を感じて、泥沼のような眠りから目を覚ました光太郎は一瞬、何が起こっているのか理解できずに眩暈を残す重い頭に腕を上げようとたが、身体が激しく痛んで悲鳴を上げてしまった。

『光太郎!?良かった、目ぇ覚ましたんだな!!』

『俺たちもう、お前が死んでるんじゃねぇかって心配で心配で…』

 鼻声だったり涙声だったり、漸く自分の身の上に起きたことを思い出した光太郎は、そんな風に心配して声をかけてくる魔物たちに気付いて、少しでも動かせば悲鳴を上げる身体を引き摺るようにして壁際まで移動すると、凭れながら深い溜め息をついた。それまでにかかった時間がカタツムリでも這うような速度だったとしても、光太郎がただ生きていてくれたそれだけでも、魔物たちは安堵して泣いていた。

「大丈夫だよ…」

 散々悲鳴を上げた咽喉は潰れたのか、掠れた声がすすり泣く魔物の声に紛れて消えてしまう。
 痛む上半身を起こしたとき、パラパラと零れたパン屑を見て、あの優しい魔物たちは光太郎が傷付かないように最大限考慮していたんだなぁと感じて、満身創痍でボロボロになってしまった少年は小さくはにかんだ。

(大丈夫だ…俺はまだ生きてる)

 感覚すらなくなってしまっている両足の付け根に、べっとりとこびり付いた血液と精液が乾いていて、それだけでも気持ち悪かったが態々見たいとも思わないし、何よりもまだその部分に触れる勇気がなかった。

「ホントに大丈夫だから…心配ないよ」

 痛む身体を庇いながら息を吸い込んだ光太郎が、なんとか先程よりも鮮明に声を出すと、泣いていた魔物たちが鉄格子に縋りついた。できれば今すぐこんな細い格子など打ち破って助け出してやりたいのに…どう言う訳か、この牢獄に入れられたときから魔物たちは実力を出せないでいるのだ。
 なんと言うか、魔力を吸い取られているような。
 それは錯覚なのかもしれなかったが、それでも全力が出せないことは致命的だった。

『助けられなくてごめんな。お前は身体を張って俺たちの命を救ってくれたんだ…この恩は、たとえ死んだって忘れやしない』

『俺もだ!』

『俺だって、光太郎のためなら何だってするからな!』

 オーンオーンと声を上げて泣く魔物たちの真摯な誓いに、光太郎は怯みそうになっていた心を叱咤して小さく笑った。
 どうして自分が。
 なぜ自分だけが…
 身体中が痛むたびに叫び出したい言葉だったが、咽喉元までせり上がっていたその言葉を飲み込んだのは、この世界に導かれて何も知らない自分を、まるで家族のように受け入れてくれた魔物たちが、そうして自分のことのように光太郎の痛みを感じながら自分のことのように泣いていくれている姿を見た瞬間、こうなることもまた何かの運命に違いないと思えたからだ。
 それは、何か辛いことがあった時に歯を食い縛りながら自分に言い聞かせてきた言葉だった。
 身体は鉛でも飲み込んだように重いし、下肢はまるで別人のものように制御できず、そのくせ痛みだけは最大限に身体の芯を貫くから図らずも舌打ちが漏れてしまう。

「…はぁ、死んではないけど。でもまだ、動くのは無理みたいだ」

 人間の目では見分けられない暗闇の向こうで何かが動く気配がして、人間よりも数倍長けている視覚でぐったりと壁に凭れている光太郎の姿をハッキリと見分けている魔物が低く呻いた。

『当たり前だろが!絶対に動くなよ?今度、アイツらが来たら隙をついて人質を捕る!』

『そうだ、バッシュ!それがいい。それで、光太郎の看病をさせよう』

 そうだそうだと頷き合う魔物の声を聞いていると、どこか緊張に張り詰めていた糸がプツンと切れたような、言いようのない安堵感を覚えて光太郎はクスクスッと笑ったが、それだけでも身体に響いて眉根を寄せてしまう。息も出来ないぐらいの痛みなど生まれて初めてだったから、恐らくボーッと頭が鈍くなっているのは熱でも出てきたのだろう。

「駄目だよ…そんなことしたら、バッシュたちが危ない」

『馬鹿だな!そうでもしないと、今度こそアイツらに殺されちまうぞッ』

 心配そうに紡がれる言葉は、この狭い牢屋内でたった一人、首輪に繋がれ両手を縛られたままの不安に怯える身体にゆっくりと浸透して、熱を持つ身体に壁の冷たさが心地好いようにその言葉は心にも安堵感として広がっていった。

「俺が泣いたこと…内緒にしてくれる?」

『…あのなぁ』

 一瞬、言葉を飲み込んだバッシュだったが、それでも呆れたように溜め息をついた。

「あははは…ッ!イテテテ…」

 それがおかしくて光太郎は声を上げて笑ったが、すぐに身体に響いて顔を顰めたまま蹲った。

『大丈夫か!?』

 ガシャンッと鉄格子を鳴らしながらバッシュと仲間の魔物が焦ったように心配すると、光太郎は我が身を抱き締めながら痛みをやり過ごして大丈夫だと呟いた。その声音はいつもの精彩を欠いていて、弱々しく頼りなげで儚かった。ともすれば掴んでいる生命の手綱さえも、ちょっとしたことで手放してしまいそうな危うささえ感じて、バッシュたちは光太郎が必死で陽気に振舞おうとしている健気な心根を知って奥歯を噛み締めた。
 助けたかった。
 その小さな身体で、ましてや同じ同族である人間に犯されて、心を手放さない光太郎の強さに彼らは感謝すらしていた。
 身体が受けたダメージは想像すらも出来ないだろう、だが、その心も同じぐらい激しいダメージを受けているに違いない。

「…このこと、シューにはその…言わないで欲しいんだ」

 生きて帰れることを信じている言葉に、バッシュはもちろんだと頷いた。
 恐らく今、光太郎を突き動かしている情熱は、シューの元にみんなで帰ろうと言う決意なのだろう。

「よかった。シューはああ見えても優しいから、きっと後悔すると思うんだ」

『心配するな、光太郎。誇り高き魔族はその辱めを生涯忘れない。たとえ何らかの事情で今回のことがその…シュー様の耳に入ったとしても、あのお方は必ずや復讐してくれる。もちろん、俺たちもだ!』

「…それじゃ駄目なんだよ」

『何故だ?』

 魔物たちが驚いたように顔を見合わせて、それからぐったりと壁に凭れている光太郎を食い入るように見詰めた。拒絶も出来ないまま無理矢理身体を開かされて、抵抗する小さな器官に捻じ込まれるようにして犯された身体は未だに悲鳴を上げているのだろう。辛そうに溜め息をついた光太郎は、汚水の溜まる床を見詰めていた。

「血を血で洗うのは駄目だ…とか、そんなことじゃなくてね。これは…はぁ、俺のエゴなんだと思う」

『?』

「シューに、危険なことはして欲しくないんだよ。本当は、こんな、無意味な争いなんかなくなればいいって…思ってたりするから。バッシュたちにしてみたら…とんでもないって思うかもしれないけど」

 言っている意味が判らないというように蜥蜴の顔をしたバッシュは、傍らにいる犬面をした魔物と顔を見合わせた。だが、その犬面の魔物も理解できなかったのか、困惑したように首を左右に振っている。
 その気配を感じた光太郎は、魔物たちが困惑しても仕方がないと思って小さく自嘲的に笑った。

(判りっこないよ…俺も、犯されて初めて気づいたんだ)

 心の中で呟いた独白は、熱に浮かされたようにボーっとする頭の中にエコーがかったように響いた。

(俺は…シューのことが好きだ。だから、あの人に会うまでは絶対死ねないって…本当はずっと考えていた)

 そんなに自分はいいヤツじゃないと、無条件で信頼を寄せてくれる魔物たちの気持ちを思って唇を噛み締める。
 シューに、ただ、あの獅子の頭部を持つあの魔物に、会いたいのだ。
 誰かの為に命を張るなどと言う正義感だとかそんな大義名分の為じゃない、ただ、自分の心に素直に従っているだけの、我侭でしかない。その思いを、勘違いして素直に信頼してくれる魔物たちの気持ちに、光太郎の心は酷く痛んで申し訳なくて眉を寄せてしまう。
 ただ、シューが好き…
 その思いは、いつだったか、この世界に導かれて間もない頃、初めてシューと出逢っ時からきっと感じていた気持ちだった。
 危険なことをして欲しくない、と望みながらその半面で、早く助けに来て欲しいと思う。
 そうして、我武者羅にその胸に飛び込みたいとすら思っているのだ。
 そのくせ、この醜く汚されてしまった身体を見られたくないとも思う…人間の持つ、底知れない欲と言うものは計り知れず、気付けばいつも我が身に最適な道を選んでいる。
 ともすれば魔物たちの信念こそ、もしかすると純粋で一途なのかもしれない。

(俺は…俺は醜いよ。こうしてる間にも、頭の中はシューのことでいっぱいだし。逢いたいって思ってる…)

 いったい、何人の男に抱かれたのかすら覚えていない穢された身体を、少しでも動けば激痛が走ると言うのに、光太郎はのろのろと腕を上げて抱き締めるようにして瞼を閉じた。
 魔の国の夜明けは暗く、同時に彼らは眠りにつく。
 シューの部屋は魔将軍だと言うのに狭く、それはもともと彼の性格が広さを疎む傾向があったせいで、だがそれを知らない光太郎は初めての夜を一緒のベッドで過ごすことにドキドキしていたことを思い出したのだ。
 普段は眠りが浅いのか、シューは光太郎が動けばすぐにうっすらと瞼を開いて煩そうに丸い耳を振って牙を剥いていた。狭いベッドで気付かないように動けと言うシューの方がどうかしているのだが、それでも光太郎はクスクス笑いながら、仏頂面で背中を向けてしまった獅子面の魔物に抱きついて初めての夜を過ごしたものだ。

(シューに会いたいよ…)

 ポツリと、呟くように漏れた思考に、光太郎は自嘲的な笑みを浮かべた。
 ごく自然に逢いたいと思えるなんて…それはきっと、魔の国があまりに平和で幸せだったから。
 だが恐らく、多くの魔物たちが無条件で受け入れてくれたからこそ、その『幸せ』を手に入れることが出来たのだろう。
 あのシューでさえ、仕方なさそうな困ったような、あの複雑そうな表情を浮かべながらも受け入れてくれたのだから…

「逢いたい逢いたいばっか言ってて何もしないんだ。俺だって頑張らないとッ」

 呟いた言葉に気付いたバッシュたちが、唐突に黙り込んでしまった光太郎の調子が悪いのかと、ハラハラしていただけに少しホッとしたような吐息を零していた。
 その気配に気付いて、光太郎は閉じていた瞼を開いて暗闇の中で微かに何かが動いている場所に目線を向けた。
 犯されたことに絶望して独りの殻に閉じ篭っている光太郎を心配しながら恐らく、一睡もしていないだろう魔物たちに気付いたのだ。
 傷付き疲れているのは自分だけではないのに…魔物たちは、戦場から捕まってきたのだから、恐らく生死の境を彷徨っていた者たちだって少なくはないはずだ。なのに、光太郎は自分ばかりが酷い目に遭って一番可哀相なんだとか思い込んで、くよくよしていたことが恥ずかしくなっていた。
 ふと、握り締めていた掌を開いたらポロポロになってしまったパン屑が零れ落ちた。
 一体どれぐらい気を失っていたのか判らないけれど、パン屑の数が1日以上を物語っていた。その間、この優しい魔物たちは一睡もせずに、自分たちが食べることもせずにパンを千切っては投げ、投げてはまた千切っていたんだろう。その地道な行為に、そのぬくもりに、光太郎はますます自分が情けなくなって居た堪れない気持ちになってしまった。
 だが、それすらも凌駕するほど、この冷たくて寒々しい牢獄の中でたった独りぼっちのはずなのに、格子を挟んだ向こうにいる仲間の優しさが愛しかった。
 今はまだ、すぐに復活するには心が状況に追いついていないから無理かもしれないが、それでも確りしなくてはと光太郎は唇を噛み締めた。
 何が危険なことをして欲しくないだ。
 いつだって、危険は当たり前のように転がっているのだから、それに蹴躓かせるのも回避するのも自分次第ではないか。

「バッシュ!やっぱ、一矢報いなきゃ気が済まないね!…ッッ、俺、頑張って復活して、こんな目に遭わせた連中を片っ端から殴ってやるッ」

 そこまで言うのにたとえ数十分掛かっていたとしても、バッシュを筆頭にした魔物たちは顔を見合わせて、次いでホッとしたようにニヤッと笑うと鉄格子に噛り付いた。

『そうこなくっちゃな!』

『殴るんじゃねーぞ。ぶん殴れ!』

『殴るどころか同じ目に遭わせてやろーぜ!』

 口々に同意する仲間に、光太郎は痛む身体に呻きながらも、嬉しそうに笑っていた。

「同じ目に遭わせるのはちょっと…キモイよ」

『任せろ!俺たちならだいじょーぶ』

『グハッ!俺はヤだぞッ』

『文句言うな、楽しもうじゃねーか♪』

 悪乗りした連中がニヤニヤ声で言い合うのを聞いて、光太郎はクスクスと笑った。
 身体は果てしなく痛むし、汚されてしまった事実を思えば滅入ってしまいがちになるがそれでも、この仲間といればどうしてか、何もかもが上手く行きそうな気がしてきて仕方がないのだ。

『…その、光太郎。本当に大丈夫か?』

 不意に蜥蜴の親分のようなバッシュが鉄格子を掴んだままで低く問い掛けてくる。
 その背後で魔物たちも、心配そうに身じろいでいるようだ。

「うん…まだちょっと身体は辛いけど。大丈夫だよ」

 そうかと呟いたバッシュは、それから思い詰めたように俯いた。

『俺が…俺がいたのに、ごめんな』

「ええ?何を言ってるんだよ、バッシュ!ここに君たちがいてくれてるから、俺は頑張れるんだ。その…君たちこそ大丈夫?」

 えへへと笑った後、少し不安そうに問い掛ける光太郎に魔物たちは安心させるように『大丈夫に決まっている』と優しい嘘を吐いた。「そう」と呟いてホッとする、容易く騙されてしまう光太郎のお人好しさに魔物たちは、やっぱり光太郎を好きだとじんわり思っていた。人間など考えるにも値しない存在だったはずなのに…
 ふと、感情を読み取ることの出来ない表情をして、バッシュは鉄格子を掴む掌に力を込めた。

『今度こそ、俺が守るから。お前を死なせたりはしないから』

「バッシュ…」

 光太郎は、その痛みを、まるで自分のことのように受け止めて光太郎を慮ってくれるバッシュの、そしてその背後で同じように頷いている魔物たちの気配を感じて泣きたくなるほど嬉しく思っていた。
 ああ、そうだ。
 大丈夫、自分にはこの『仲間』がいるじゃないか。
 シューのことしか、いや、自分自身のことしか考えてもいないこんな身勝手な人間を、家族のように慕って愛してくれている『仲間』がいたのに…そして、その仲間たちは無情な仕打ちで傷付いてしまっていると言うのに、何もしなくていいなんてどの口が言ったんだと光太郎は自身の吐き出してしまった言葉を恨めしく思っていた。
 だが、そんな言葉よりも光太郎の身体を心配してくれていた魔物の存在に、光太郎は自らの思いを悔い改めて決意したのだ。

「…バッシュ、それからみんな。本当にありがとう」

 彼らといれば何もかもが上手く行くような気がする…そんな思いを、どうか魔物たちも感じてくれていたらいいのに…そんな存在になれたらいいのに。

『なんだよ、改まって。俺たちの方こそお前に助けられたんだぜ?礼を言うのは俺たちのほうだ。ありがとう、光太郎』

『そうだぜ、光太郎』

 頷き合う魔物たちの礼を言う声を聞いて、光太郎はクスクスと笑った。

「じゃあ、みんな一緒だね」

 きっと、思っていることも一緒だ。

『そんなこと、当たり前だろ?』

『ヘンな奴だなー、光太郎』

「…そうだね」

 光太郎は傷付いて疲れ果てているに違いない魔物たちが、それでも陽気に笑っている声を聞いて自分も頑張らねばと思った。ただ、ただ嬉しくて…そうして光太郎も笑うのだ。
 恐らく、ふと光太郎は心のどこかで感じていた。
 恐らく、これが『仲間』と言うものなのだろうと…

Ψ

 沈黙の主は頭巾を目深に被ってその表情を隠していたが、居並ぶ彼の家臣たちは渋面で立ち尽くす主人に注視していた。

「なるほど。北の砦は落ちたか…恐らく、シューだろうな?」

「ハッ」

 傍らに跪くようにして控えていた騎士が呼応すると、主はふと、口許に小さな笑みを浮かべて小首を傾げて見せた。
 どうやら端から見当はつけていたのか、然程驚いた様子も、困惑した気配すらも漂わせない。だからこそ、居並ぶ彼の家臣たちの疲れた心に不安の翳りを落とすのだが…彼はそれすらもどうでもいいことのように気に留めた様子はない。

「まあ、よかろう。あれもそれほど抜けた男ではないからな。早々に居城に引き揚げたんじゃないのか?」

 的を得た主の言葉に、控えている、彼の影のようにつき従う忠実な部下は言葉もなく項垂れてしまった。引き留めておくにはあまりにも強大な存在は、やはり必死で張り巡らせた包囲網を易々と突き破って引き返してしまった。

「いずれにせよ、時間は稼げたと言うワケだ。無駄なイタチごっこに過ぎないんだがな、こうでもしなければ奴らの勢いを止めることも侭ならん。我らにも体勢を持ち直す時間は必要だ」

 尤もな主の言葉に、家臣たちは言葉もなく目線を落とした。
 今は、攻め入るほどの力もない。
 悔しいことに、ラスタラン軍は先の戦で壊滅的とまでは言わないまでも、大きなダメージを食らっていたのだ。
 恐らく、沈黙の主の目論見が通るならば、彼の策略を凌駕するような策士が現れなければ、暫くはこのまま睨めっこ状態が続くだろう。彼の企みは、その間に傷付いた兵士たちや疲弊して戦えない者、国を守る女子供、年老いた者たちの休息をとることだったのだ。
 漆黒の外套と頭巾で全てを覆って隠してしまっている彼らの主は、だが、居並ぶ家臣の面々が疲弊して項垂れてしまっていると言うのに、まるで疲れを知らないとでも言うかのように威風堂々たる佇まいは少しの乱れも見せていない。
 それが家臣の、そしてこの国で生きる全ての民たちに勇気や希望と言ったものを与え続けていた。この曇天に覆われてしまい、すでに太陽すらも姿を隠してしまった暗黒の世界に光があるのだとしたらそれは、沈黙の主を除いては他にいないだろうと脇に控えた忠実な部下はソッと顔を上げて主の顔を盗み見た。
 真っ直ぐに見つめるのは、何れその手に取り戻すはずの彼の故郷だろうか…
 ふと、跪いた彼がそんなことを考えていた時だった、重厚な天蓋を軽く押し開くようにして入ってきた伝令が、バルコニーから外を眺めている主に跪きながら口を開いたのだ。

「畏れながら、主!第二の砦より取り急ぎの報告でございます」

「…なんだ?」

 振り返ることもなく呟くように漏れた声音に畏まった伝令は、片膝をつくと「ハハッ」と頭を垂れてセスから預かってきた内容を報告した。

「セス隊長が風変わりな人間を捕らえましてございます」

「風変わりな人間だと?」

 ふと、目深に被った漆黒の頭巾を微かに揺らして、沈黙の主は肩越しにチラリと振り返った。
 さほど興味を示しているわけではないのだろうが、報告にしてはあまりに素っ頓狂で馬鹿馬鹿しい、それこそ風変わりな台詞に眉を顰めたのだ。

「どう言うことだ」

 軽く溜め息を吐きながら外に視線を戻した沈黙の主は、腕を組んで首を微かに左右に振った。
 また、新たな厄介ごとでなければいいんだがな…得てして沈黙の主の懸念が的中するかどうかは風のみぞ知るところだが、こめかみに痛みを覚えたラスタランの王はそっと眉間に皺を寄せて伝令の言葉を待った。

「ハッ…魔族と共にある者だと」

「魔族だと?フンッ、馬鹿なことを」

 この世界に生きる全ての人間が憎む魔物と、共に生きる人間など存在するわけがない。
 沈黙の主が何を馬鹿なと鼻先で笑ったとしても、この世界で生きる者全てが同じ行動を起こしていたに違いない。ラスタランの王が取った行動は、それだけ自然でなんらおかしなことなど何もなかった。
 そう、敢えて言うならば、困惑した面持ちで報告を述べている伝令こそ、自分で言っておきながら信じられないと言った表情をしているぐらい、彼の方がどうかしているのだ。
 この世界では。

「いいえ、主!その者は確かに魔族と共にありました。信じられないことに、魔物どもを庇う一面すらありました」

 この目で確かに見ているはずなのに、伝令の兵士は自らが口にした言葉を考えあぐねて困惑し、戸惑ったように視線を石造りの床に落としてしまった。

「…畏れながら。捨て置くにはどうかと」

 ふと、傍らで控えていた騎士が低いが、よく通る声音で控えめに進言すると、そんな彼をチラリと見下ろした沈黙の主は、暫く何事かを考えているようだったが、それでもまだ信じ難そうに首を左右に振りながら吐き捨てるように言ったのだ。

「…ふん。ならばこの俺が、その風変わりな人間とやらをこの目で見てやろうではないか」

「主!」

 脇に控えていた謙虚な騎士がハッとしたように顔を上げるが、こうと決めてしまうと頑として意思を変えない主の性格を誰よりも知っているせいで、眉をソッと顰めて頭巾の奥で見え隠れするいっそ凶悪なほど強い光を放つ双眸を盗み見た。
 後方で主の一挙一動をハラハラしたように見守る重臣たちの視線にも、どこ吹く風の沈黙の主は腕を組んだままでバルコニーから見渡せる暗い暗い、曇天に覆われてしまった本来ならば緑成す大地を睨み据えている。

「第二の砦にいると言ったな…今夜発つぞ」

「いけませんッ」

 いつもなら頭を垂れる忠実な彼の部下は、片膝をついた姿勢のままで悠然と立っている王を見上げていた。気に食わねば斬り捨てるだけの激情を持つ沈黙の主はそんな騎士をチラリと見下ろして、漆黒の頭巾の奥の凶悪な双眸を一瞬ギラッと光らせてから、まるで獰猛な肉食獣が獲物に襲い掛かるその一瞬、気配を潜めた時のようにうっそりと口許に笑みを浮かべるのだ。

「何が悪い?魔物どもに媚び諂うような人間がいるということは、何れ我らの士気にも何らかの形で関わってくるだろう。災いの種は芽吹く前に一掃せねばなるまい。今のこの時だ、いや、だからこそなのかもしれん。今夜発つ」

 腕を解いた沈黙の主は腰に手を当てると、いっそ堂々と宣言でもするかのように言い放った。
 愚かではない主のこと、何か考えがあるに違いないのだろうが…それでも、影のように寄り添ってきた騎士は頭から顔をスッポリと覆っている鉄兜に隠れた眉をソッと寄せている。

「主…」

「あらゆるえぐい手を使って我らを追い詰めてきたように、今度は俺たちから追い詰められる気分はどんなものだろうな?苦渋を舐めるだろうその顔を拝むことができないのは残念だが、さて魔王よ。今度はどんな手でくるんだ?」

 いっそ、楽しんでいるようにも見える沈黙の主は、頭巾で隠れてはいるがその口許を笑みに歪めながら眼下の荒涼たる領土を見下ろしている。

「主、しかし…」

 控えめな口調ではあるが憤然と主の強行を止めようとする騎士の言葉に、沈黙の主は咽喉の奥でくくく…っと笑うのだ。そうして、騎士からしか見えない頭巾の奥の双眸がチカリと瞬いて、控える家臣を目線だけで見下ろした。
 この時でも重鎮と呼ばれている面々は成す術もなく、年若い王の言動をハラハラしたように見守っている。

「要は物の考えようさ。魔物に懐いた人間と言うのも興味深いが、それを受け入れている魔物の行動も大いに興味深い…そうは思わないか?」

 指先で軽く頭を突くような仕種をする沈黙の主の言葉に、僅かに眉を寄せる騎士を除いては、居並ぶ面々がハッとしたように居住まいを正した。
 彼らが崇拝する王が何を言わんとしているのか、その時になって漸く気付いた一同は、畏れ多いとばかりに一斉に頭を垂れるのだ。

「なるほど、仰る通りでございます」

「いや、さすがは主」

「感服致しまする」

 感服されても困るんだがなぁ…と言外に言いたそうな表情を頭巾に隠して、やれやれと肩越しに後方を盗み見る沈黙の主は、控えたままで真摯に彼を見上げている対の双眸に気付いて肩を竦めた。

「まだ、何か言いたいことでもあるのか。ユリウス」

 溜め息すら零れそうな主の顔を見上げたまま、ユリウスと呼ばれた騎士は形こそ畏れ多いと恐縮したものの、意志の強い双眸はけして逸らさない。

「とんでもございません、主よ。しかしながら、貴方様が第二の砦に赴かれることもありますまい。僭越ながら、私めが向かいたく存じます」

「それはダメだね」

 まるで我が侭な子供が駄々を捏ねるような物言いで、ニヤッと笑う主を見上げて騎士ユリウスは一瞬困惑したように眉を顰めた。

「魔王の手に因る者ならば、どんなことをしてでも俺が見なくては意味がない…判らない、お前じゃないだろう」

「…」

 騎士は一瞬言葉を失くしたが、それでも主の安否を気遣う表情を鉄仮面の奥にひっそりと隠したままで、噛み締めるようにして進言するのだ。

「…判りました、主。ですかどうか、私もお供致しますぞ」

 それだけは譲れないと、主を気遣う忠実な家臣を見下ろして、沈黙の主はやれやれと溜め息をついた。

「お前の頑固さには敵わない。好きにするといい」

 あっさりと降参する主の態度に、後方に控えていた老齢な家臣たちが密やかに笑った。
 この戦乱の火蓋が切って落とされたあの日から、主に付き従う甲冑の騎士ユリウスの主を、ひいては国を思う意志の強さは誰も敵わないのだ。その意思は岩よりもダイアモンドよりも固く、時に頑なな沈黙の主ですら閉口するほどだった。
 問題は、的を得ているだけに誰も反論できないのだ。こと、国と主のことになると頑固で仕方がない。誰もがそんな彼のことを知っているから、好ましい思いで主とその忠実な家臣を見守っている。
 魔天に煌く星すらもない空に、時折雷鳴が響き渡る。
 世界がゆっくりと、数多の思惑を乗せて動いていた。

Ψ

「ふ…ッ…くぅ」
 松明の明かりが揺れる地下牢で、どこか押し殺したような切なげな溜め息が零れている。
 たとえ闇の中にあってもその艶姿は全てを見通してしまう魔物の目には明らかで、だからこそ声を洩らしている人物は頬を染めながらハラハラと涙を零してしまう。
 どうか見ないで欲しい…声にならない願いを、彼を家族のように大切に思っている魔物たちは心が張り裂けてしまうほど良く判っていたから、耳を押さえて蹲っている。
 そうでもしないと、なぜか力の出ない自分たちでは助けてやることも出来ないし、ましてや騒いでしまえば彼をさらに痛めつける結果になってしまうだろうから。
 唇を噛み締めて瞼を閉じているしかない。
 こんな最大限の屈辱を、未だ嘗て味わったことのない魔物たちは唇を噛み締めている。
 悔しい、腹の底から悔しいと思いながら…

「うぅ~…ッ、…ぁ、…ひぃ」

 微かな悲鳴が上がって、貪欲に貪る男の欲望で内部を掻き回された光太郎はクラクラと眩暈がしていた。もう、何度目になるだろう…
 夜毎訪れる男の人数は最初の時に比べて頻度も回数も多くなっていたが、一度に相手をする人数は少なくなっていた。その理由が、思った以上に具合の好い捕虜を早々に壊してしまいたくないと言う兵士たちの身勝手な願望で、クジ引きで順番を決めている…なんてことを、光太郎や囚われの魔物たちが知るはずもない。
 大きくグラインドする腰の動きにまだまだ追いつけないでいる光太郎は、自分を追い詰めて、奈落の底に叩き落す相手であるはずの兵士の背中に細い腕を回してしがみ付きながら、懸命にその荒いうねりを遣り過ごそうと歯を食い縛っている。
 滾る欲望で柔らかな内壁をごりごりと擦り上げられると、咽び泣くような微かな悲鳴が口許から零れ落ちる。その声が、どれほど兵士の欲望に火を点けて、限界まで煽っているか気付けるほど光太郎に余裕はない。

「ッ!…ぁあ、…も、やだ、…や!…ヒッ」

 鍛えられた身体に包まれるようにして抱きすくめられたまま、片足の膝の裏を掴まれてあられもない姿で抱かれている光太郎は、結合部から時折響く湿った粘着質の音に目元を染めて、生理的な涙が頬を伝っていた。
 松明の明かりで壁に踊る二匹の獣の影は、牢屋の隅で縮こまっている魔物たちと、こうして日毎夜毎性交に耽る人間たちと、一体どちらが魔に属するものなのか判らなくしていた。
 ドロドロに溶け出す脳味噌ではもう、羞恥心すら見失ってしまいそうな光太郎は、影が躍る岩肌を震える瞼を押し広げて見詰めながら、快楽に押し流されまいと懸命に考えていた。

「っあ!…ん…やぁ」

 意識せずに締め付けてはやわやわと蠕動する内部の刺激に、兵士は昂ぶった欲望の先端でぐりぐりと前立腺が隠れている部分を乱暴に擦りあげる。そのダイレクトな刺激に一瞬脳裏がスパークするような錯覚を覚えて、まるで溺れている人が藁にも縋るような思いで光太郎は湿った音を響かせて腰を打ち付けてくる兵士の背中に回した腕に力を込めた。
 甘えたような切ない溜め息に似た声を洩らすと、求められていると勘違いした兵士たちは、いつもそうすることですぐに欲望を吐き出してくれた。
 そうすると、思ったよりも早く終わってくれて、長い夜に終止符を打つことが出来るのだ。
 顔すらも知らない今日の兵士もそうだったのか、一瞬ギュッと華奢な光太郎の背中に回した腕に力を込めて自分の身体に押し付けるようにして抱き締めた後、唐突に石造りの床に乱暴に押し倒してぐぷっ…と粘着質な音を立てて淫らに蠢く内壁の名残りを惜しみながら欲望を引き抜くと、未だ達することもできずにひくんっと震える小さな陰茎に凶悪な鈴口から滾る白濁を叩き付けるのだ。

「…ッ」

「ひぁ!…やだぁ!…んくッ…ん…ふ」

 強かに熱い、青臭い白濁に下半身を汚されて、その熱に怯えたように震える光太郎の下腹部も熱の衝動で反射的にびしゃっと白濁を吐き出してしまった。震える先端に、それでもまだ軽く扱いて最後の残滓までも搾り出そうとしているような兵士の、その陰茎からは粘る精液がボタボタと零れて穢していく。もう、どちらのものか判らない白濁に腹を濡らしたまま、光太郎は弛緩した足を抱え上げられたままの格好で荒く息を吐いている。

(嫌だ嫌だ嫌だ!…いつか、きっといつか殴るんだ!)

 頬を朱に染めて涙を零す光太郎の表情に、また激しい劣情に襲われた兵士は堪らないとばかりに乱暴に光太郎の顎を引っ掴むと、強制的に施された快楽の余韻に震えるその唇に噛み付くような口付けをする。
 嫌だと厭う光太郎の必死の抵抗も、戦場を駆け抜けて鍛えられている男には蚊が止まったほどでもないのか、肉厚の舌でむりやり歯列を割り開くと、奥で怯えている舌に乱暴に絡めるようにして深い口付けを施されて、光太郎は目尻から生理的なものではない涙を零して眉を寄せた。

(嫌なのに…せめてキスはして欲しくないのに)

 そんなこと、どんなに願っても叶わないことは知っているけれど…
 酒臭さとタバコの匂いがして吐き出したい衝動に駆られるのに、熱を放ってもまだ衰えない劣情を持て余す欲望が腿に触れてしまうと、身体をブルッと震わせて瞼を閉じるしかない。
 毎夜、乱暴に抉じ開けられる小さな器官は悲鳴を上げて、口付けられながら怯える光太郎の蕾は掻き回されて腹の中で温まって泡立つ残滓をこぷっ…とだらしなく零していた。が、よく見るとその残滓には赤いものが混じっている。
 無骨な男たちは光太郎を同じ人間だとは思ってもいないのか、満足な前戯すらもせずに、きつい双眸で睨みつけてくる、そのくせ怯えているに違いない彼を組み敷いて潤いの少ない蕾に捻じ込むのだ。
 悲鳴が咽喉で引っかかって苦しそうに喘ぐ姿にすら興奮を覚えるのか、下卑た笑みを浮かべて腰を振る兵士を、対面する牢屋の鉄格子を掴んで唯一目を背けない魔物が1人、食い入るように眼に焼き付けていた。
 ギリギリと奥歯が軋む音がして、鋭い爪がブツリと自らの皮膚を突き破ろうとも、魔物は目を逸らさずに惨劇を見守っている。

「くッ…っとに、好い顔をするよなぁ、お前。最初に見たときから、お前はイケると思ってたんだ」

 声音がニヤニヤと笑っていて、ぐちゅぐちゅと口腔内を犯していた舌を引き抜くとペロリと唇を舐めて囁くように言う兵士を、唇を唾液で濡らしたままの光太郎が眉を寄せて軽く睨むと、その艶っぽい表情に兵士はまた悦んだ。
 自分の何が男たちを悦ばせているのか判らない光太郎は、悔しくて奥歯を噛み締めてしまう。

「ここも随分と開発されたよなぁ…最初の頃はひぃひぃ言うばかりで、少しも好くなかったけどよ。今じゃこう、しっとりと絡み付いてきて…う、思い出しただけでイキそうだぜ」

「…ッ!も、終わったんだから戻れよッ」

 抵抗できるほど体力の残っていない光太郎は、せめても反撃するつもりで睨みながら言い放った。
 片足を抱え上げられたままの無様な姿で、悪戯でもするように指先で残滓を零す蕾をくちゅっと弄ばれている現状ではその凄味も凄味にはならないのだが…それでも必死の光太郎を、たった今まで散々嬲っていた兵士は可愛いヤツだと思っているようだった。
「何を言ってやがる。お前は俺たちの可愛い男娼ちゃんなんだからな、俺たちがいいって言うまでは大人しくしてないと…なぁ?」
 何らかの意思を込めてぐちゅ…と蕾に指先を減り込ませて笑う兵士の唇が耳元に寄せられると、頬を朱に染めた光太郎は嫌そうに瞼を閉じながら唇を噛み締めた。

「わ…かってるよ!だから、反抗なんかしないじゃないか」

 投げ捨てるように呟く少年の顔を盗み見ながら、北叟笑む兵士はベロリとその耳を舐め上げた。

「…ッ」

「判ってねーなぁ。お前がそんな風に反抗的な態度を取るんだったら、手始めにあそこで睨んでる魔物でも殺っちまうか?」

「やめろよ!」

 ハハハッと声を上げて笑う兵士を、組み敷かれたままでも慌てて留めようとする光太郎の顎を掴んで、男はその翳りを秘めない真っ直ぐな双眸を覗き込んでいた。
 散々慰み者にしたはずの少年の双眸から、生気が消えることはない。
 もう、何人もセスに犯された男娼たちを見てきたが、光太郎ほど我を忘れていないのはいっそ賞賛すらしたいほど天晴れだと思っていたのだ。
 ここに送り込まれてくる者然り、戦場に従軍する者も然り、男娼と呼ばれる少年たちは、何も最初からその職に就いていたわけではない。沈黙の主が見立てた少年たちが、何の訓練も受けぬまま【男娼】として送り込まれてくるのだから…逃亡しようとした者や、自ら命を絶った者も少なくはない。
 どの少年を見ても、一様に瞳に生気がなく、ただ生きた人形のようだと兵士は密かに思っていた。
 今、セスが寵愛する男娼は別として、の話だが。

「その目付き、忘れるんじゃねーぞ」

「?」

 覆い被さるようにして覗き込んでくる兵士の顔を、光太郎は訝しそうに眉を寄せたまま怪訝そうに見上げている。
 確かに、初めはただの人間の少年としてしか見ていなかった。
 だが、皆で輪姦したあの日、どうせセスからは死なない程度なら何をしてもいいと捕虜にはお許しが出ていたのだから、きっともう廃人になるだろうと高を括っていた。
 なのに、数日寝込んでいただけで、体力を取り戻した少年は少しも怯むことなく自分を睨みつけてきた。
 抱かれている間も嫌そうにしてはいるが、【仲間を殺すぞ】のキーワードが彼を雁字搦めにしているせいか、少年はあからさまに嫌そうな顔をしてはいるが逃げ出すようなことも、精神を手放すようなこともしていない。
 それが、兵士には不思議で仕方なかった。

「お前は…」

「??」

 顎を掴んでいた手を頬に滑らせて、兵士が何かを言いかけるのを光太郎が不思議そうに小首を傾げるのと、対面の鉄格子を握り締めて怒りに震えていた魔物、バッシュがハッとするのはほぼ同時だった。
 そう、湿って陰気な地下牢に重い軍靴の音を響かせながら姿を現した大男が、鉄格子に軽く凭れながら気のない様子で全裸で抱き合っている2人を見下ろしたのだ。

「せ、セス隊長!このようなところにお出ましとは…」

 光太郎を抱き締めていた男がギクッとして慌てたように身体を起こすと、さっと跪くようにして控えた。
 その展開に追いつけない光太郎も、何やら只ならぬ雰囲気に、とばっちりを食らうのも面白くないと思いながらノロノロと身体を起こして大男を見上げた。

「あ!」

 松明が浮かび上がらせている男の顔を見た瞬間、光太郎は声を上げて、それからハッとしたように慌てて口を噤んだ。
 そう、その顔は忘れもしない、光太郎とティターニアを捕縛した張本人だったのだ。

「よう」

 控えた兵士に言ったのでは勿論ないのだろう、セスは冷めた双眸をして全裸で蹲るようにして身体を起こしている光太郎を見下ろして肩を上げて見せた。

「コイツを男娼にしたんだってなぁ…砦中の噂が、四方や俺の耳に届かない、などとまさか思ってたんじゃねーだろうな?」

 ああ?とでも言うように胡乱な目付きでニヤッと笑うセスに睨まれて、光太郎の前であれほど不遜な態度を取っていた兵士は見る影もないほど怯え、恐縮したように縮こまっている。
 その態度で、セスの実力が外見と相応しているのだろうと、対面の牢屋の中から様子を窺っているバッシュはひっそりと観察していた。

「は、ハハッ!申し訳ありません、これは…」

「別に男娼にするのはいいんだぜ。だが、お前たちも相当行き詰ってたんだなぁ。こんな魔族と仲良しこよしのゲテモノを抱くんだ。なんだ、抱き心地でもいいのか?」

「いえ、セス隊長には物足りないかもしれませんが…」

 ふと、腕を組んで鉄格子に凭れている隊長を見上げた兵士の僅かに反発するような意味を含んだ言葉に、セスの片眉がピクリと震えた。それを見逃さなかった兵士はしまった!と思ったが、既に後の祭りだ。今夜は処罰があるんだろうと震え上がる気持ちを叱咤しながら項垂れてしまった。
 と。

「ゲテモノとか言うなよな!俺や魔物たちを捕虜にしたくせに、こんな扱いしかできないお前の方がゲテモノじゃないか!」

 もちろん、抱かれた名残りを漂わせている光太郎が腹立たしそうに言ったのだが、思わず兵士と対面の牢屋にいるバッシュは吐きそうになっていた。
 兵士がこれほど怯えているのだ、ましてや目の前の人物こそ、最初の日に散々拷問した相手ではないか。

(光太郎!どうかしてるぞッ)

 心の中の悲鳴のような呟きを、まさかセスへ届いたと言うわけでもないだろうが、人間の隊長は組んでいた腕をゆっくりと解いて格子を掴むと、へたり込んだまま見上げてくる少年をマジマジと睨みつけた。その目付きに微かに怯みはしたものの、それでも光太郎は殴られてもいいからと、溜まっている鬱憤にムカムカしたようにセスを見上げている。

「…へぇ、お前面白いな。男娼扱いされてるっつーのに、凹んでねーな?」

「はぁ?そりゃあ、男としてはムカツクけど。仲間の命を考えたら、こんなの屁!でもないねッ」

 つーんと外方向く光太郎の言葉に兵士は驚き、そして鉄格子の向こうにいる魔物たちは感動したように双眸をウルウルさせている。

「く、くっくっく…そーか、屁でもねーのか。捕まえたときはムシャクシャしてたが、落ち着いてみればお前、なかなか見られるじゃねーか。魔物どもと馴れ合うのなんざ冗談なんだろ?まあ、笑えねージョークだがな」

「うっさいなー!男を相手にヘンなこと考えてるような連中に比べたら魔物たちの方がいいに決まってる」

 少なからずは凹んでいるのだが、それでも表に出さずにフンッと意地を張る光太郎をマジマジと眺めていたセスは何事かを考えているようだったが、その鋭い双眸がチカッと瞬いて、それに逸早く気付いた兵士が拙いと顔色を曇らせた。
 セスの双眸がチカリと瞬くとき、大概、対峙した者にとって非常に良くないことが起こる。

「お前たちなんかより100万倍マシだよ!悔しかったら捕虜たちにちゃんとしたご飯や綺麗なシーツぐらいくれたらどうだッ」

 ゆっくりとした足取りで牢獄の中に入ってきた威圧感のある男を睨み上げながら、光太郎は口をへの字に曲げて言い募った。

(シューに比べたらこんなヤツ、どうってことないや)

「なんだと?」

「聞こえなかったのか?シーツとかちゃんとしたご飯を寄越せって言ったんだよ」

「魔物にか?笑わせるな」

 冷酷な声音で言い放ったセスは、まるで無造作に腰に下げていた剣の柄を握って抜刀すると、松明の明かりを受けて凶悪なほどギラつく刃に一瞬怯む光太郎を見下ろして、まるで楽しそうに残酷そうに笑ったのだ。

(ヤバイ)

 光太郎を除いた誰もがそう思った時だった。
 セスが問答無用で斬り捨てようとしたその時、不意に対面の鉄格子をガシャンガシャン揺らしてバッシュが叫んでいた。

『おい!セス隊長とやら!!その剣を納めろッ』

 その声音に、不意に兇悪な思いに囚われていたセスの双眸に生気が戻り、ふと対面の牢屋に放り込まれている魔物を目にして呆気に取られたような顔をした。次いで、何が可笑しいのか咽喉の奥で笑いながら松明を引っ掴むと、激しく炎を揺らして対面する牢屋内を照らしたのだ。

「どこのどいつかと思いきや、これはこれは…まさか魔軍の大隊長さまだとはね。お噂はかねがね聞いてるぜ」 

『そいつはどーも。あんたの噂も聞いてるよ。まあ、そんなこたどうでもいい。光太郎には手を出すな』

 光太郎はキョトンッとしてニヤッと笑う蜥蜴の親玉のようなバッシュと、ガッシリした体躯の持ち主であるセスを交互に見比べて首を傾げていた。
 知り合いなんだろうかと、未だ自らの危機を何とか脱せたと言うことにまるで気付いていない光太郎が首を傾げる横で、セスは片方の眉を器用に上げて肩を竦めて見せるのだ。

「大隊長さまともあろう者がこうも簡単に捕虜になるとはな…で、そのお前が人間を庇っているのか?いつから人間に尾を振るようになったんだ??」

 クックックッと馬鹿にしたように笑うセスに、後方で事の成り行きを見守っていた魔物たちが腹立たしそうに吼えるのを、大隊長と言う地位にあるバッシュが軽く制すると、彼は人間の隊長を睨みつけながらニヤッと笑ったのだ。

『…その人は特別な人だ。種族なんざ関係ない』

「特別だと?」

 俄かに興味を示したのか、キョトンッとして座り込んでいる光太郎を無視したところで、セスとバッシュの目に見えない攻防戦が繰り広げられている。ともすれば火花だって見えたかもしれないが。

『そうだ、とても特別な人だ。殺せば必ず後悔するぞ』

 なんとでも言えというように飄々としているバッシュはしかし、縛られた両手で鉄格子を掴みながらセスに向かってニヤッと笑ったのだ。

「後悔だと?ふん、魔物らしい小賢しい台詞じゃねーか。じゃあ、殺してみるか」

 剣の腹で肩を叩いていたセスは、小馬鹿にしたようにそんなことを言って、それから牢獄の方を振り返った。情事の名残りが色濃い少年は、確かにともすればハッとするほど色香を漂わせてはいるが、それも一瞬のことで、どこにでもいる少年でしかない。
 ただ、窮地に陥って尚、その双眸の色を失わない豪胆さは確かに何かありそうで…

「…いや、待てよ」

「?」

 誰にともなく呟いた台詞に光太郎が小首を傾げるが、そんな小動物のような仕種に冷酷で残虐を好むセスの中の何かが引っ掛かった。殺すのも面白いかもしれない…いやだが。

「魔軍の誇る大隊長が捕虜になるだと?全く信じられんな」

 その台詞に、どうやら自らの思惑がセスの中で芽吹いたことを知って、バッシュはニヤリと嗤った。その心情は吹き荒れるブリザードがやっと経過していった後のような安堵感で、心底ホッとしているのだったが勿論表には出さない。
 ポーカーフェイスの得意な蜥蜴顔は便利でいい。

「なるほど…あのごった返した戦場にあって、俺がコイツを捕らえたのを見ていたんだな。そしてわざと捕虜になったと言うわけか」

「ええ!?」

 鉄格子を掴むようにして立っている蜥蜴の大将のようなバッシュを振り返るセスの台詞に、へたり込むようにして蹲っていた光太郎が驚いたような声を上げた。
 バッシュが将軍職の下にあたる地位の持ち主だと言うことも初めて知ったのだが、光太郎が捕まったのを見てわざと捕虜になったと言う事実の方が何よりも衝撃を与えたのだ。

「そんな、バッシュ。どうして…?」

 逃げられていたのに、どうしてバッシュ?
 下半身に力の入らない光太郎が腕の力だけで、松明が照らす魔物たちの牢屋の方を向くと、そこで心配そうに立ち尽くしている蜥蜴面のバッシュを見上げた。
 見慣れた蜥蜴の親分は、ともすれば冷酷そうにも見える縦割れの瞳を持つ双眸を優しく細めるだけで何も言おうとはしない。

「バッシュ…」

『俺が守ってやるって言っただろ?光太郎は特別な人だから』

 最後は相乗効果を狙って付け加えた台詞だった。
 ただバッシュは、不安そうな困惑したような、哀しい目をした光太郎を励ましてやりたいだけだったのだが、セスはどうやらそうは取っていなかったらしい。

「なるほどなるほど。大隊長が守り、副将シンナの愛馬に乗っていた…と言うことは、どうやらお前の話は嘘ではないようだな」

「あ!」

『!』

 華奢な首に重く下がった首輪を外して、あっと言う間に光太郎は大男の肩に担ぎ上げられてしまった。不意の出来事に事態を飲み込めていない光太郎はだが、ジタバタしながらセスの髪を引っ張った。

「大人しくしやがれ!叩き落すぞッ」

「俺だけここから出すつもりなんだろ!?そんなの嫌だ!そんなことしたら…舌を噛んで死んでやる!!」

 満更嘘ではないと言いたげな光太郎の鬼気迫る言動に、セスは不機嫌そうに眉を寄せて首を左右に振った。この調子では、叩き落すと脅せばそうすればいいとでも言い返してくるんだろう。やれやれと溜め息を吐きながら、少年の無防備な尻を片手でワシッと掴んだ。

「ッ!」

 とろり…と、先ほどまで欲望を咥え込んでいた蕾が残滓を零して、光太郎の腿に伝い落ちた。
 それはとても扇情的ではあったが、そんな行為で怯むほど、今の光太郎は平静ではいられない。

「クッソー!何するんだよッ、みんなも一緒じゃないと絶対に出ないからな!叩き落すなり殺すなり、どうとでもすればいいんだ!!」

 言い出したら聞かない子供のような仕種で暴れる光太郎は、セスの髪を引っ張ったり背中を叩いたりして精一杯抵抗している。性的な意味で黙らせるには、まだ光太郎は幼すぎるようだと知ったセスは、仕方なく髪を引っ張られながら魔物たちが叩き込まれている牢屋を振り返った。

「魔物が一緒じゃないと夜も眠れんのか!…ったく、魔族の中ではそれなりに地位でもあるんだろう。高貴な方のために侍従を1匹つけてやる。好きなのを選べ」

「セス隊長!」

 それまで項垂れるようにして俯いていた兵士が、慌てたようにハッと顔を上げて隊長の顔を見上げた。多くは語らないが、その目付きは魔物を砦内に放すのは危険ではないかと訴えているようだ。

「ふん、この砦から逃れられると思っているのか?」

 そんな兵士を気のない素振りでチラッと見下ろしたセスの言動に、兵士はそれはそうかもしれないが…と、それでも不安は隠し切れない表情で何か言いたそうだ。

(…やはり、この砦には何かあるようだな)

 バッシュは事の成り行きを固唾を飲んで見守っていたが、それでも、セスと兵士の会話の中で、幽閉されてから自分たちの力が半分も出ない不可思議の謎が、どうやらこの砦にあるらしいと薄々感じてはいたが思ったとおりだったのかと、蜥蜴らしい尻尾を軽く振っている。

「嫌だ!誰か1人なんてどうかしてる!みんなと出たいッ」

「…いい加減にしろよ、小僧。このまま皆殺しにしてもいいんだぞ」

「…!」

 思うよりもずっと低い声音で我慢の限界を報せるセスの、自分を抱えている腕の力がやんわりと加わったのに気付いて、光太郎は口を噤んだ。殺されてしまったら、元も子もないのだ。
 漸く大人しくなった光太郎に、セスはウンザリしたような溜め息をついて首を左右に振っている。
 底知れぬ怒りが沸々と浸透してくるが、それでも、手に入れたどうやら魔族のアキレスともなり得そうな少年を殺すわけにもいかず、侭ならない思いに随分と優しくなったもんだと自らの行動に、兵士に言われずともどうかしていると思っていた。

『光太郎!バッシュを連れて行けッ』

 不意に魔物の中から声が上がって、固唾を飲んでいた魔物たちがハッとして頷いている。名指しされた当のバッシュは、鉄格子を掴んだままで、肩に担がれて身じろいでいる光太郎を凝視している。
 どうするだろうと、少し不安そうだ。

「でも…!」

『俺たちは大丈夫だから』

『ああ、約束しただろ?』

 必ず生き残って、みんなでここから出る。
 暗に示された【約束】に、振り返ることも出来ない光太郎は唇を噛んだ。
 できれば、みんなで一緒にここを出たいのに…それは無謀な願いなのだろうか。
 背を向けたままで逡巡している光太郎の軽い身体を担いだままで、セスは不意に、クククッと咽喉の奥で笑った。その態度に、光太郎は更にムカムカしていたが、もしかしたらここから出た方が何か酷いことになるかもしれないと一抹の不安も覚えた。
 セスの、その態度が光太郎を不安にするのだ。

「涙ぐましくなる仲間愛だな。そんなもんが、お前たちにあればの話だが」

「煩いよ!…バッシュ、俺と来てくれる?」

 セスの腹を膝蹴りしてもいまいち効いていない事実にムカッとして、でも、酷いことになるかも知れないが…と、不安そうに唇を噛んだ光太郎のその返事に、バッシュは漸くホッとしたように張り詰めていた息を吐き出した。
 光太郎が「嫌だ」と言い出すのではないかとハラハラしていたのだ。
 彼に「嫌だ」と言って欲しくなかった。

『もちろんだ』

 その返事に、光太郎もやっとホッとして微かに緊張を解いた。
 独りぼっちで行くのは、やはり怖かったのだろう。

「ありがとう」

 小さく呟いた声音のか細さに、セスは新たな発見をして一瞬だが目を丸くした。
 自分には真っ向から刃向かってくるくせに、たとえそこに誰がいようとも、仲間に見せるその素直な怯えは、絶対的な信頼の証でもあるのだろう。
 魔物に寄せる信頼…それがセスにはどうしても理解できるものではなかった。
 そして、自分たちが魔物を憎んでいるように、同じように最大限に人間を憎んでいるはずの魔物どもが、その人間であるはずの少年を受け入れて、その人間のために命を投げ出してもいいとさえ言っているのだ。
 その関係を理解する気など毛頭ないし、理解してやる気も勿論ない。
 ただ、魔物どもがこれほどまでに守ろうとしている少年の存在が、一体なんであるのか、あまりにも軽い少年の腰に回した腕に微かに力を込めてセスは思う。
 間もなく、放った伝令は沈黙の主の許に辿り着くだろう。
 その間、どうやら退屈しないですみそうだと第二の砦を支配している男は嗤った。

第二部 1.嵐の夜  -永遠の闇の国の物語-

 北の砦を落としたシューは、それでも何か引っかかるものを感じていた。
 だが、その思考を阻むかのように光太郎の安否が気になって、その確信に至るまでにいきつかないでいる。

(なんだ、この違和感は…)

 大切に育ててきたソーズの仇を討ち、尚且つ、魔王のお心を悩ます北の砦の攻撃すらも食い止めたと言うのに…いったい何がシューの魔獣の心をこれほどまでに悩ませているのだろう。
 獅子面の将軍の不機嫌そうな顔色を窺いながら、北の砦の掃除を始めている魔物たちは、時折、あの元気な少年の笑顔を捜して手を止めている。魔物の誰もが、魔軍にコソリと忍び込んだ命知らずの少年の存在に気付いていたのだ。
 掃除に託けて将軍の部屋を覗けば、外に出して欲しいと口数多く強請る少年の姿を一目でも見ることができるのではないかと思う気持ちを抱きながら訪れた魔物たちも、その姿がないことにひっそりと眉を寄せて残念そうに戻っていく。連中の後ろ姿を見送っていたシューは、それでもどうすることもできない歯痒さに苛々しながら、大きなテーブルにある地図を見下ろして思案していた。
 目が行くのはなぜか第二の砦で、できれば生きていて欲しいと願いながら、それでも将軍としてまずはやらねばならないことがあると、泣き濡れたシンナの強い表情を思い浮かべると、思い直したように周辺に視線を這わせるのだった。
 彼とゼィの良き左腕は、今恐らく、この時でさえ鬱蒼と茂る森を駆け抜けているのだろう。
 そこまで考えてハッとすると、目頭を押さえてドッカリと椅子に腰掛けてしまった。
 何を考えても、何をしていても、思い出されるのはこんな風体のシューをも怖れない無敵の笑顔。
 ムゥッとした顔で唇を尖らせながら、それでも、申し訳なさそうに眉を寄せて小さく微笑んだ光太郎。

[この戦争が終わって城に帰ったら、もうシューは自由だ]

 その言葉が唐突に頭の中で木霊して、不意にシューはクワッと黄金色の双眸を見開いた。
 石造りの天井を睨みつけていたシューの双眸が、ふと、悔しそうに歪んでしまう。

『お前…また馬鹿なことを考えちまったんだろ?だから言っただろうが…お前の思い付きはいつだって迷惑以外の何ものでもねぇってな』

 突然の喪失感は、ソーズを失ったときに嫌と言うほど味わった。両の腕にズシリと乗った亡骸は、徐々に温もりをなくして冷たくなっていった。元気だった温かな頬の生気は失せて、青白い相貌が瘴気を孕んだ風に冷えていって涙すら凍りつかせてしまいそうだった。
 魂の重みを亡くした身体はまるで壊れた人形のように、意味もなく重くて、どうしてここに魂だけが空っぽなんだろうかとシューは驚くほど冷静に首を傾げたものだ。
 ああ、だが。
 あんな思いはもう二度としたくない。
 シューは唐突に目の前からいなくなった光太郎の、あの重みを思い出して片手で双眸を覆ってしまった。

(だが…)

 シューはふと思った。

(まだ、アイツは死んだってワケじゃねぇ…大丈夫だ、驚くほど運だけは良さそうなヤツだからな)

 双眸を開いて俯いたシューは、両手を開いてその掌をジッと見詰めた。
 大きくてごつくて、太い指を持つ強い掌は光太郎が嬉しそうに握ってきたし、横に張った肩には小猿のように上ってくる人間の重みを覚えている。
 そうだ、アイツは驚くほど運の良いヤツだ。
 シューは自分に言い聞かせるように呟いて、それからふと、広げた地図を見た。立ち上がって、もう一度両手で端を押さえながら、シューはこの周辺を描き出した地図を食い入るように見詰めていた。
 そして…唐突にハッとしたのだ。

『そうか、そうだったのか』

 不意に地図を見下ろしていたシューは、指先でどこかを辿ってまた別の場所を指差して、そこから辿るように指先を動かして…それから徐にグッと地図を握り締めた。

『コイツぁ…しまった!』

 顔を上げたシューは、慌てたように伝令を呼びつけた。
 猛然と鬣を逆立てた獅子面の将軍の、咆哮のような指示に怯えたように首を竦めていた有翼の魔物は、その内容に耳を傾けて驚愕したように目を見開くと慌てて北の砦を飛び出していった。

『野郎ども!引き揚げるぞ!!来た時の二倍の速さで引き揚げだッ!!!』

 咆哮のような雄叫びを聞いて、休んでいた魔兵も掃除に取り掛かっていた魔物も、砦の点検をしていた者も何もかもが、飛び上がるようにして慌てたように中庭に集まり始めた。
 シューの突然の指令に驚いたように各部隊の隊長が詰め掛けると、獅子面の魔将軍は素早くマントを肩の留め金に留めながら手早く指示を繰り返している。

『シュー将軍!これは何事ですか!?』

 各部隊の隊長の一人が怪訝そうに眉を寄せると、獅子面の魔将軍は睨み据えるようにして言い放ったのだ。

『国家の大事と言うヤツさ』

 冗談とも本気とも取れない口調のシューに、だが、部隊長は怯むことなく更に口を開いた。

『…国家の大事も重要ですが、未だシンナ副将はお戻りではありません』

 ピタリと、遽しく伝令を飛ばしたり帰城の準備をしていたシューの、その敏捷な動作が唐突に止まる。
 ふと、脇に控えていた配下の魔物が、その強靭な体躯から溢れ出した殺気のような怒りのオーラを感じてビクッと竦みあがった。だが、それでもやはり、部隊長が怯むことはない。

『…宜しいのですか?』

 部隊長の、城に残っている小憎らしい仲間によく似たその冷静な口調に、シューは口惜しそうに舌打ちしたが、今この状況で無駄に言い合っている時間はないのだ。フーッと溜め息を吐いて一瞬天井を見上げたシューは、だがすぐに首を左右に振ったのだ。

『構わん、ラウル。だが、お前はここに残るんだ』

 普段はぼんやりと牢屋番を勤めながらシンナと談笑しているラウルは、戦となれば部隊長としての辣腕を振るう魔兵の中でも優秀な戦士なのだ。
 彼は何か言いたそうに口を開きかけたが、シューの拒絶の意味を知っているからこそ、やはりラウルも悔しそうに唇を噛んで俯いてしまった。

『…は!』

 彼の反論を重々承知しているシューにしても、今すぐ第二の砦に攻め込みたい気持ちだった。だが、事は彼をスムーズに動かしてはくれないのだ。
 それが人間どもが実しやかに呟く『運命』と言うものであるのなら…

(俺は城に戻る。人間如きが1人どうなろうと…俺の知ったことじゃねぇ)

 心にもないことを、まるで自分自身に言い聞かせでもするかのように思い込んで、そして、シューは忌々しく舌打ちしたのだ。まるで人間から漂う腐敗臭のようなあの嫌な匂いが鼻先を掠めたような気がして、シューは乱暴に首を左右に振った。

『アイツに出逢っちまってから、まるでどうかしてる。俺はこんなヤツじゃなかったはずだ』

 独り言のように呟いて威嚇するように牙を剥いたシューは、漆黒の外套を荒々しく翻して居並ぶ部隊長たちを見渡した。
 不安の色などありはしない。
 人間どもと一戦交えて落とす命ならば、犬死だけはしないようにと覚悟を決めた戦士たちがそこには居る。
 だが、その誰もが、のこのこと潜り込んで来てしまった人間の安否を気にして、浮かない顔で魔将軍を凝視しているのだ。そのご判断で、間違いはないのかと…

『シンナは出来過ぎるほどできた戦士だ。アイツこそ将軍に相応しいんだがな。副将の方が気が楽だと言いやがる…アイツなら、きっと取り戻してくるだろうよ。嘗てそうだったようにな』

 誰に呟くともなく言うシューの言葉に、居並ぶ部隊長や魔兵たちはお互いで目線を交えると、耳を伏せるようにしてソッと俯いた。判っているのだが、人間も侮れない。
 それすらも判っているシューは、そうして沈みがちになる連中の気勢を殺がないように声高に咆哮したのだ。

『いい加減にしやがれ、お前ら!!事は急ぐと言ってるだろーがッ!!引き揚げるぞッッ』

 砦内に響き渡るシューの怒声に震え上がった魔兵たちは、取るものも取り敢えず帰城の準備に動き出したのだ。
 鼻息も荒くその様子を窺っていたシューに、部隊長の1人が慌てたように進言する。

『夜半過ぎの行動は、魔の森においては危険を伴います!』

 遽しく複数の部隊に残留を言い渡していたシューは、そんなまだ新米のような部隊長を見詰めて肩を竦めると、困ったような仕種をして頷いたのだ。

『だが、そうも言っている余裕がねーのさ』

 顔を見合わせた部隊長は、いつもは、冷静沈着からは程遠いにしても、飄々と事を成し遂げてしまうシューのその只ならぬ気配を感じて、いつもよりも一層機敏な行動で指示通りに動き始めた。
 その一連の動作をみていたシューは、それから強い表情をして一瞬だけ放り投げた地図を見下ろしたが、長靴の踵を打ちつけながら大広間を横切ってその場から立ち去ったのだった。

Ψ

 ふと、彼方で一瞬、天を貫くような哀しい悲鳴が響き渡り、稲光が切り裂くように雲を貫いて降り注ぐ。
 この大陸は太陽が顔を隠してからもう随分と長い時が経ち、その暗い翳りに慣れすぎたせいで、既に太陽の恵みの何たるかを忘れてしまったかのように呆気なく、諸刃の刃のような脆さで礎を築いている。
 魔王の指先が僅かに動くだけで、空は色を変え、声なく生者が地に平伏してその尊い命を散らしていた。
 世界は常に、魔王のたなごころの上で踊り、憐れな悲鳴を上げて可憐な歌声を奏でている。
 そんな風に、世界は全てが暗黒の大気を纏っていた。
 また、恐ろしくもそれが当然のことであって、人間たちでさえ既に、自らがどこから来て何を目的として生きているのかさえ見失っていたのだから、魔王が支配した歴史の深さはすぐに拭い去ることなど不可能だった。
 ふと、玉座で微睡んでいた魔王の、その紫紺の双眸が僅かに開いて、そして瞼がピクリと痙攣した。
 酷薄そうな薄い唇が笑みを象り、魔王は頬杖を付いたままで誰もいない玉座の間をチラリと見た。
 心が。
 そう、冷徹な魔王の、血も通わぬ凍り付いた心が温もりを感じ、彼は繊細そうな指先を億劫そうに持ち上げると、時を紡ぐことをしなくなって、もうどれほど経つのか彼自身でさえも覚えていない心の在り処に触れながら、魔王はうそ寒い微笑を浮かべていた。

『そうか、其方』

 呟きは吹雪のように冷たくて、もしここに衛兵が詰めていたとしたら、彼らは一瞬にして凍り付いてもう二度とその両眼で世界を見詰めることはできなかっただろう。
 トクン…ッと、それはまるで、可憐な乙女が流した涙のような儚さで、魔王の胸元に隠された凍て付いて絶望してしまった心臓が脈打った瞬間だった。
 だが、それはまるで幻ででもあったかのように一瞬の出来事で、彼の胸元は夜の静寂のような静謐に支配され、既に時を刻むことはなかった。
 一瞬、取り戻したと思ったぬくもりは、まるで広げた両指の隙間から零れ落ちてしまった砂のように、二度と掬い上げることはできない場所まで散ってしまった…そんな錯覚に、魔王は目蓋を閉じた。
 美しかった。
 森は生命に満ち溢れて、たくさんの生き物が当然のように共存し、まるで夢のように幸福な日々が続くのだと思っていた。諍いなど知ることもない動物たちが祝福して、森の中で、彼は種族の違いはあったが美しい娘との甘やかで素晴らしく光り輝く黄金の日々を送っていた。
 瑞々しく麗しい翠の中で、座っている娘の漆黒の髪が緩やかに大地を覆い、見上げてくる晴れた夜空のように煌く双眸を、もう長いこと目にしてはいなかったが、彼の記憶は忘れてなどいなかった。
 冷たい掌を伸ばせば、幸せそうに微笑んで、迎え入れる温かな頬が泣きたくなるほど愛おしかった。
 この終わりない愛が、娘と彼を包み込んで、世界は薔薇色に輝いていたのだと信じていた。
 想いは虚しく、嘗て愛した娘がその腕に戻ってくることなどもうないと、諦めていたはずの微かな希望が、まるで悪戯のように魔王の胸を掠めて消えていく。

(終わらないものなどありはしない)

 閉じていた震える目蓋を押し開くと、魔王は思慮深い面持ちをして世界を見据える紫紺の双眸で、人間の少年と魔物たちが結託して綺麗にしてしまった玉座の間を見渡したのだ。
 明るい少年はこの魔城に在っても、まるで意に介した様子もなく溶け込んでいた。
 あれほど憎んでいた人間であるはずの少年は、その存在を、人間と言う生き物に恨みを持っているはずの魔物たちの心でさえいともあっさりと懐柔してしまい、まるで最初からずっと一緒だったような錯覚さえ覚えさせながら植えつけて行ったのだ。
 植えつけて、行ってしまったのだ。

『…だが、生きるも死ぬも其方次第。私にすれば、どちらでも良いこと』

 魔王はゆっくりと微笑んだ。
 目蓋を閉じて視てしまった光景は、純白の白馬に跨った【魔王の贄】が捕獲されてしまうところ。
 自ら手を下さぬとも、人間は存外愚かな生き物である。
 自分たちの欲望のためにその血塗られた両手で罪を犯すが良い。
 二度と後戻りのできない自らが犯した罪を罰として、それぞれの命で贖うがいい。
 魔王はゆっくりと微笑んだ。
 その相貌は、凍えるほど美しかった。

Ψ

 いつも通り投げ捨てられた食事でなんとか腹を満たした光太郎は、それでもブツブツと文句を言いながら汚水が溜まる地下牢の床に直接ゴロリと横になった。
 暗闇と言うのは時間感覚を麻痺させるのか、もう何日そのような生活に身をおいているのか判らなくなっていた。

「だいたいさー、なんだよこの待遇は!もう~魔城の方がもっと良かった…って、俺も魔物みたいに愚痴っぽくなってるな」

 背中を丸くして、蹲るようにして横になっていた光太郎は愚痴っぽい自分に気付いてクスクスと笑っていた。
 と。
 不意に階段の辺りがざわざわして、松明を持った数人の下級兵士たちが光太郎同様に、なにやら悪態を吐きながら降りてきたようだった。

「?」

 キョトンッとして上体を起こして覗いていた光太郎の牢屋の前で立ち止まった連中は、やれやれと首を左右に振りながら魔物たちが眠る牢屋を松明で照らしている。

「見ろよ、この連中」

「ぐへぇ…これじゃあ、また使い物にならんな」

 ハァッと、仕方なさそうに溜め息を吐いた兵士が、唐突に悔しそうに地団太を踏んだのだ。

「ったくよ!!どーして俺たち下級兵士に宛がわれる男娼ってな、あんなガバガバばっかなんだろうな!?見てくれもとっくに薹が立ちまくってるしよぉ…はぁ、やってられっかよ」

 ガンッと鉄格子を蹴られて、光太郎は何事かとビクッとしたが、内部にいる魔物どもからは不平があがっただけだった。
 そんな魔物たちに「うるせー!」と威嚇した兵士に、屯して来ていた他の兵が仕方なさそうにポンポンッと肩を叩いて宥めようとするのだ。

「まあ、仕方ねぇだろ?上等な男娼ちゃんはセス将軍が使い物にならなくなるまで犯るんだぜ?その使用済みが俺たちに回ってくるんだから、マトモな男娼なんて期待すんなって」

「…なんつーか、ディハール族でも捕まってくれりゃあいいんだがなぁ」

「あ、そりゃムリムリ。捕まったところで高潔なディハールの一族は、男だろうが女だろうが辱めを受けるぐらいならつって自決するらしいからな」

 がっくりして鉄格子をもう一度腹立ち紛れに蹴り上げた兵士たちの会話を聞いていた光太郎は、一体何の話をしているのだろうかと首を傾げていた。
 長い戦になる場合、足手纏いになる女を連れてはいけない。そうなると、軍にはそれぞれ性欲処理として男娼が配給されてくる。長い戦いで昂ぶった感情は凶悪な闘争本能として男の身体には蓄積され、まるで精神の崩壊を意味するように爆発してしまうことがある。そうさせないためにも、賢い沈黙の主はそう言った欲望の処理をさせる者を選別して、各砦や軍隊に送り込んでいた。
 それが男娼である。
 その存在を知るよしもない光太郎としては、何がそんなに腹立たしいのだろうかと、却ってこんな環境の良くないところに放り込まれている自分たちの方がメチャクチャ腹立たしいんだがと思いながら、ムッとして事の成り行きを見守っていた。

「あーあ、なんかこうまともな…ん?」

 不意に、悪態ばかりを吐いている松明を持っていた兵士が階上に戻ろうと振り返ったとき、その光がサッと光太郎を照らし出した。

「なんだ、こんな所にもう一匹捕まってるじゃねーか」

「ん?ああ、ソイツは何でも魔物と馴れ合っている人間らしいぞ。セス将軍が主に差し出すから殺さないようにしとけって言ってたからな…」

「へえー、人間ねぇ」

 鉄格子を掴むようにして、上体だけを起こしてキョトンッと見上げてくる光太郎を見下ろしていた兵士は、不意にその顔に残虐そうな翳りを見せてニヤッと笑ったのだ。

「おい、鍵を寄越せよ」

 鉄格子を掴んで覗いていた兵士に、牢屋番が肩を竦めながら鍵の束を差し出すと、兵士は引っ手繰るようにしてそれを受け取って乱暴にガチャガチャと鉄でできた滑りの悪い扉を押し開けた。ギギギ…ッと軋む音を響かせて入ってきた兵士たちに、ワケが判らない光太郎はそれでも何か、また殴られるんじゃないだろうかと身体を強張らせながら警戒するように後退った。
 首に首輪を嵌められて壁に繋がれ、両手は痣ができるほど縛り上げられていては反抗しようにもその術もなく、仕方なく、光太郎は観念して壁に背中を張り付けながら眉を寄せて兵士たちを見上げたのだ。
 その観念した様子は無性に庇護欲をそそられながらも、メチャクチャに破壊してしまいたいと思う嗜虐欲すらも駆り立てる等と言うことに、もちろん光太郎が気付くはずはない。

「…なぁ、コイツでどうだ?」

 意味ありげに松明を持った兵士が言うと、のそのそと入り込んできた数人の兵士たちが肩を竦めてみせる。だが、彼らの顔を見ても満更…と言うわけでもなさそうだ。

「まだチビだが…顔も悪くねぇ」

「黒髪ってのが不気味だけどよ…まあ、支障ってほどでもねーしな」

「ようは、締まりの問題だろ?」

 口々に言う仲間の悪態に、松明を持った兵士がピシャリと言った。

「??」

 何を言われているのかその時になっても理解できないでいる光太郎は、訝しそうに眉を寄せながら小首を傾げていた。
 その時だった。
 不意にガシャンッと鉄格子を激しく揺らして、対面の牢屋から魔物たちの低い怒声が響き渡ったのだ。

『光太郎をその薄汚ねぇ手で触んじゃねーぞ…ッ』

 グルルルゥ…ッと、咽喉の奥から搾り出すような低い声で吼える魔物どもに、一瞬だが恐れをなした仲間に舌打ちした兵士は、不意に首を傾げている光太郎の腕を掴んで捻り上げる。

「痛ッ!」

 それでなくても極限まで腕を縛られていて痛んでいると言うのに、そのあまりに無体な扱いに光太郎が悲鳴のような声を上げてしまうと、それまで威嚇するように吼えていた魔物たちが途端に大人しくなってしまった。自分たちが暴れれば、それだけ光太郎を傷つけてしまうと思ったのだろう。
 もちろん兵士たちはそんな魔物どもの態度を見逃すはずもなく、松明を持っていた兵士がニヤリと笑いながら痛みと困惑で眉を寄せている光太郎の頬をベロッと舐め上げたのだ。

「そーだ、大人しくしてろよ。じゃないと、コイツがどうなっても知らんぞ?」

 クックックッと咽喉の奥で笑う兵士を魔物たちはギリギリと奥歯を食い縛りながら睨みつけているその気配を感じて、光太郎は自分が置かれている立場に唐突に気付いたのだ。
 だがそれは、あくまでも自分に危害を加えると脅して魔物たちを抑え付けようとしている…と言った認識でしかないのだが…彼がその身の上に起こることを想像して理解するには、知識も乏しく、何よりも平和すぎた。

「ち、ちょっと待てよ!俺を盾に魔物たちを黙らせるなんて卑怯じゃないか?!」

 腕を縛られた格好で首に首輪を嵌められた姿では様にならないが、それでも光太郎は自分の頬を掴む兵士を睨みつけながら嫌々するように首を振ったが、そんな姿を食い入るように覗き込んでいた兵士は仲間に松明を押し付けて強気の双眸で睨んでくる少年の顎を掴む手に力を込める。

「…ッ!」

 痛みに顔を歪めると、兵士は何やら面白そうにニヤニヤと笑ってそんな光太郎に口付けるのだ。

「!?」

 何が起こったのか理解できずにギョッとする光太郎と、ズボンに手を掛けて引き剥がす男を見下ろしていた松明を渡された兵士は、仲間と顔を見合わせて下卑た笑みを浮かべながら肩を竦めると、面倒臭そうに壁に掛けられた鉄製の容器に松明を入れた。
 不意に牢屋内全体が明るくなって、酒臭い舌で口腔内を弄られていてもなおこの状況を理解できないでいた光太郎も、ハッと我に返ってねっとりと絡みついてくる舌を噛んだのだ。

「…くっ!」

「…な、何すんだ!?俺、男なんだぞ!」

 男が男にキスをするなんて、それだけでも有り得ない状況だと言うのに、光太郎は頬を強かに殴られて床に突っ伏すと伸し掛かってくる男の行動に頭が混乱してしまった。
 まるで金槌にでも殴られたような強烈なショックを受けたのは、汚れたシャツの裾から忍び込んでくる男の節くれ立った指先が乳首を捏ね回す感触を感じたときで、その時になって漸く、この状況が非常にヤバイ事になっているのではないかと認識するようになっていた。
 頭を強烈にぶつけたときの様な眩暈を起こしながら、光太郎は鼻息も荒く伸し掛かってくる男の後方にいる兵士たちが下卑た笑みを浮かべて野次りながらも、だが、確実に欲情した表情をしていることに気付いてゾッとしたのだ。
 女の代わりにされようとしているのか…そんな途方もなく常識外れた考えが頭に浮かんで、光太郎は一気に血の気が引く思いがした。いや、そもそも男である自分をどうやって女の代わりにできると言うのだ?
 どうでもいいことばかりが脳内にグルグルと渦巻くくせに明確な答えはひとつも浮かび上がってこない間に、気付けば下着ごと脱がされた素足が無造作に抱え上げられている。
 殆ど、そう、殆ど無意識だった。

「ぅぐッ!!」

 抵抗しない少年に気を緩めていたのか、はたまた目先の裸体に欲情して他の事に気が回らなかったのか、どちらにしても男は不幸なことに滾りきった下半身を思い切り蹴り上げられたのだ。
 下腹部を押さえて蹲る男に仲間の兵士たちは下卑た笑いを浮かべたが、果敢にも蹴りをお見舞いした光太郎は蒼褪めてそんな凶悪な男たちから遠ざかろうと後退っていた。
 だが、後退る光太郎の足を掴んだ下腹部を押さえていた男は、その双眸に強烈な怒りを浮かべ、嗜虐心を燃え滾らせて怯える少年を難なく押し倒したのだ。

「おいおい、壊さないでくれよ。後が詰まってんだ」

「少しぐらい抵抗されねーと燃えねーよなぁ」

 そうして馬鹿みたいにゲラゲラと笑い声が暗い地下室に響き渡って、怒りに歯を食い縛っていたバッシュがガシャンッと壊さん勢いで鉄格子を掴んで咆哮したのだ。

『貴様ら!光太郎を放せッ!!放しやがれッ、こん畜生!!』

 その剣幕にはさすがに兵士たちもビビッたが、光太郎を捩じ伏せるようにしてその嫌がる頬に舌を這わせていた男は、何か面白いことでも思い付いたようにニヤッと笑って、それから、それでも頑なに拒絶する双眸で睨みつけてくるその神秘的な黒い瞳を覗き込みながら耳元に唇を寄せて囁いたのだ。

「抵抗してもいいがな、お前が暴れれば必ず1匹、大事なお友達の魔物を殺してやる」

 その瞬間、押し退けようと必死で暴れていた光太郎はビクッと肩を揺らして、それから心配そうな、なんとも言えない表情をして明かりの届く仲間の牢屋を押し倒されたままで見詰めるのだ。

『ダメだ、光太郎!諦めるなッ!畜生、俺たちのことは気にするんじゃないッ!!そんな人数に犯られたらお前…』

 鉄格子に噛り付くようにして見詰めてくるバッシュと、その後ろにいる魔物たちも懸命に光太郎を見詰めながら首を左右に振っている。その姿は、お願いだから諦めるなと全身で物語っているし、そのためなら自分たちの命など惜しくはないのだと伝えていた。
 地下室に篭もる湿って淀んだ空気を微かに震わせるようにして、光太郎は両足を抱え上げられながら目を閉じた。

(そうだ、俺は諦めたりなんかしちゃいない。失っていい命なんかないんだ)

 少し、ほんの少し我慢していればすぐに終わる。何が起こるのかなんてことは判らなかったが、それでも光太郎はせめて見ないように目蓋をギュッと閉じてやり過ごそうとしていた。
 何者にも触れられたこともない、まして人目に晒したことなどあるはずもない秘密の蕾が松明の明かりの元で露呈されて、羞恥に頬を染めながらも光太郎が暴れることはない。その姿を目にして、バッシュは激しく鉄格子を殴りつけていた。

『畜生…ッ!』

 呻くように吐き出されたその言葉は、これから起こる凄惨な宴の顛末をまるで見てきたかのように痛恨の悲鳴のようだった。

「…う」

 魔物を仲間だと言う不思議な少年の蕾に下卑た男どもの視線が集中して、未開発の少年が持つ清らかな素肌は彼らの欲望に油を注ぐように火をつけたのだ。そして、穢れを知らない蕾に這わされた舌の滑りに眉を寄せた光太郎は、襞の一枚一枚を丁寧に舐められて、身の毛のよだつような思いに唇を噛んでいた。まさかそんなところを舐められるとは思ってもいなかった分だけ、信じられない思いでさっきから頭を殴られっ放しのような錯覚を感じていた。

「あ!?…や、嫌だッ」

 グイッと左右に割り開かれた双丘の奥に窄まる蕾に更に舌を挿し入れられて、男女の機微にすら触れたこともない光太郎は、その未知の感触に背筋を粟立たせて嫌がった。

「嫌だと?じゃあ、お前の大事なお友達の首が飛ぶだけだな」

 萎えて縮こまっている光太郎の華奢な欲望をグイッと引っ張るようにしてベロリと舐め上げながら男が嫌な目付きをして笑うと、仲間の兵士がわざとらしく腰に佩いた鞘からギラつく剣を引き抜いて見せる。その相乗効果が光太郎に「魔物たちが自分のせいで殺される」と言う脅迫概念を実しやかに植えつけるのだった。
 そうなってしまってはもう、バッシュたちの声など光太郎の耳には届かなくなっていた。
 早く、早くこんなことは終わってしまえばいいのに…
 震える目蓋を閉じて観念しようとした当にその時だった。

「…く!もう、我慢できねぇッ」

 不意に男が呻くように呟いて、繋がれて腕を拘束されている光太郎の唯一自由な両足を掴んで押し開くと、寛げた前から隆々と屹立した欲望を何の準備もできていない蕾に強引に突っ込んだのだ。

「…!!!!~ぐッ、ぅあ…ッッ」

 声が出ただけでも天晴れだったが、咽喉の奥に引っ掛かった声はそれ以上出ることも引っ込むこともできずに、奇妙に拉げて息をすることすらできなくなっている。見開かれた双眸の縁からは堪えきれない涙がじわりと浮き上がり、光太郎の身体などお構いなしで闇雲に突き上げる腰の律動に追いつけずにガクガクと揺す振られる振動でボロボロと頬を伝って零れ落ちていた。

「や、…ぅ…ひぃ……ッ」

 力なく、欲情だけで突き入れられた凶悪なまでに猛々しい屹立に激しく責め立てられながら、半ば意識が朦朧としている光太郎の足が壊れた人形の足のようにブラブラと揺れている。痛みにメチャクチャに暴れたいのに、拘束されたままではそれも叶わず、血の気の失せた頬に涙だけがボロボロと零れ落ちている。ただ微かに呻く声の反応に、男は気を失いそうになっている光太郎の頬を叩いて正気を取り戻させては、激しく律動して苦痛に歪む顔を覗き込んでニヤニヤと笑っていた。

「…ッぁ……グギ…ぃあぁ…」

 無理矢理開かされた小さな蕾は悲鳴を上げるようにぶつりと鈍い音をさせて、そして不意にぎこちなかった男の動きが幾分かスムーズになった。汚水に濡れた地面にポタポタ…ッと何かが零れて、魔物たちの鋭敏な嗅覚にそれが儚い破瓜の血であることを教えていた。

『…くそぅ…畜生ッ!殺してやる、お前たち殺してやるからなッ!!』

 今すぐ出て行って人間どもを皆殺しにしてやりたかったが鉄格子がそれを阻んで、バッシュは掌に爪が食い込んで皮膚を破って鮮血が零れてしまうほどきつく拳を握り締めたまま憎々しげに何度も鉄格子を殴っていた。唇を噛み締めるバッシュが、そしてその仲間である魔物たちは、せめて、今起こっている現実を光太郎と共有し、そしてその目に焼き付けて必ずや復讐を成し遂げようと血の涙を零しながら食い入るように睨み据えていた。
 自分たちの命と引き換えに身体を差し出した光太郎にしてやれることは、魔物たちにとっては復讐への誓いだけだった。

「…なんだ、コイツ、ガキのクセにやけに色っぽいな」

「ああ…うん、まぁ、なあ?」

 仲間たちがモジモジしながら、虚ろな双眸で天井を見ながら揺すられている光太郎を見下ろして呟くと、額に汗を浮かべた男が感極まったように激しく腰を叩きつけながら、荒い息を吐いてペロッと舌なめずりをした。

「味はいいぜ。おいおい、お口が寂しそうじゃねーか。誰か突っ込んでやれよ」

「へへへ…」

 下卑た笑いを浮かべながら兵士たちは、久し振りに味わう極上のご馳走に蟻が群がるようにして貪りついたのだ。
 痛みと現実離れした状況に頭が追いつかずに虚ろだった光太郎は、半開きだった口腔にムッとする欲望を捻じ込まれて漸くハッと我に返って、慌てて吐き出そうとして更に奥にグッと押し込まれてしまった。

「…んッ!…んぐッ…ふ……ッ!」

 目尻から涙を零しながら含まされた太い屹立に、それでも光太郎はノロノロとではあったが舌を這わせて愛撫を始めたのだ。早く終わるように早く終わるように、まるで念仏でも唱えるかのように繰り返し思いながら舌を這わせていると、ビクビクと脈打つ欲望はそんなたどたどしい愛撫にも新鮮な快楽を感じたのか、兵士は微かに呻きながら苦しそうに眉を寄せる光太郎の口腔を充分に堪能している。
 苦しさに眉を寄せながら何も考えないようにしていても、突き入れられる腰の動きに蕾がビリッと悲鳴を上げて、犯されている事実を叩きつけられては光太郎は現実に戻っていた。
 そうして、最も奥深い部分に溶岩のように熱い飛沫が叩きつけられて、痛みを残しながら最初の男が腰を引き抜いた。すると、血と白濁が混ざった桃色の液体が閉じない窄まりからどろりと零れて肌を汚したが、すぐに次の男が伸し掛かってきてそれを「嫌だ」と思うことさえ許されなかった。
 最初の男の吐精で随分と滑りが良くなった蕾の収斂に快楽を追うように無造作に突き込まれた欲望は、最初の男に比べて鋭角的で、痛みはダイレクトに脳天を突き抜けていく。
 眉を寄せたところで口中から唐突に引き抜かれた欲望を追うように這わせていた舌に唾液が糸を引き、その展開に追いつかない光太郎が溜め息をついた瞬間、その顔にビシャッと熱い白濁が飛び散った。
 どろりとした液体が頬や鼻筋から零れ落ちて鎖骨を濡らし、青臭い匂いに眉を寄せる光太郎のその扇情的な表情に腰を突き進めている男が荒々しく息を吐きながら白濁を掬って乳首に擦り付けた。

「…く、コイツ、ホントにいいな!」

 乳首の刺激にキュッと蕾が窄まる感触をダイレクトに欲望に感じた男が、光太郎の華奢な身体に覆い被さりながら吐き出すように言うとまだまだ欲望の尽きない男たちが興奮したようにゲラゲラと笑っている。

「ああ、サイコーの玩具だぜ」

「下手な男娼よりずっと好い」

 下卑た話題で盛り上がる男の下で、この長く果てない責め苦が早く終わることばかり考えながら、だが、とうとう光太郎は3人目の精液を身体の奥に感じたのとほぼ同時に、その意識を深い闇の底へと手離していた。

8.闇を流離う漂白の者  -永遠の闇の国の物語-

 北の砦はそれでも頑強な警護を誇っているようだった。だが、さすがに先の戦で激戦を繰り広げただけあって、兵士たちの体力も消耗しているのか、砦自体は殊の外あっさりと開門してしまっていた。
 だが、そこからが人間の粘り強さの本領発揮である。
 開門と同時に飛び出してきた幾本もの矢の雨は、左右を囲むようにして配置されていた敵兵たちの白兵に傷付いている魔物の軍勢を幾許か削り取って、その場に阿鼻叫喚の地獄絵図を展開した。その屍を乗り越えるようにして前進する歩兵の頭上からは岩や石、そして矢が次々と降り注いでくる。
 馬を駆る将軍は飛んでくる矢を血溝がクッキリと浮かび上がる魔剣で薙ぎ払うと、返す手で襲い来る敵の兵士の首を跳ね飛ばした。漆黒の巨大な馬に血飛沫が飛び散り、シューはそれすらも意に介さないようにギラつく双眸で純白の馬の姿を探している。
 既に血飛沫で所々赤く染まったシンナの愛馬は嘶きながら立ち上がると、斬り付けてきた兵士の上に強靭な前足を振り下ろしてドカリと蹴倒す。シンナは両手に持った刀身の細いレイピアを華麗に操りながら、襲い掛かってくる兵士を片足で蹴り上げてレイピアで突き刺した。

『ねえン!光太郎ン?』

 まずは足許を狙う白兵戦の鉄則通りに馬の足を狙って斬り込んでくる敵兵の、その頭を軽やかな足裁きで蹴り上げたシンナが、怯えて純白の馬の鬣を握り締めている光太郎に尋ねてきた。

「な、なに?」

 ヒュッと飛んでくる矢を身を乗り出したシンナがレイピアで払い落として、命辛々、光太郎が首を傾げると頷きながら質問する。

『どうしてシューに、自由になれるなんて言ったのン?』

「ああ…ウワッ!あ、あれか」

 同じく馬に乗った敵兵の攻撃に首を竦める光太郎の頭上を、シンナのレイピアが凄まじい速さで旋回すると敵兵の首がポロリと落ちて、頭を失った身体が微かに傾ぐとドサリッと重い音を立てて落ちてしまった。噴出した鮮血に吃驚した主を失った馬が驚いたように嘶いて前足を高く掲げる。

「ゼインに出てくる前にお願いしたんだよ」

『えン?』

「シューを俺の世話役から解任してくれって。ここに潜り込むつもりだったから、迷惑をかけたくなくて。でも、大丈夫。もう、シューは今でも自由の身なんだ」

 だから怒られないよと困ったように笑う光太郎に、シンナはそんなことだったのかと溜め息を吐いた。

『でもン、戻ったらもうシューといられないわねン』

「あ!!そっかッ」

 今頃そのことに気付いたのか、光太郎は困ったぞと言うように頭を抱え込んでしまった。そんな光太郎をクスクス笑いながら、シンナは斬り付けてくる敵兵を馬上で鮮やかにレイピアの露にする。

『んもうン!キリがないわねンッ。光太郎、ティターニアはお利口さんだからきっと、振り落とさずに敵の中を掻い潜って逃げ続けてくれると思うのよねン…』

 両足だけで愛馬を操りながら、二刀流のシンナが馬上から襲ってきた鈍く光る剣の切っ先をかわして、2本のレイピアで馬上から叩き落すと純白の愛馬ティターニアが踏み付ける。そうして戦いながら呟いた言葉の意味を探るように、初めて目の当たりにした合戦の激しさに恐れをなして蒼褪める光太郎は、ゴクリッと息を飲んで眉を寄せると困ったように笑うのだ。

「白兵戦に行くのかい?」

『ごめんねン。あたしはもともと地上戦向きなのよン』

 すまなさそうに眉を顰めるシンナの頬は、先ほど避けたはずの切っ先で傷付き鮮血が流れていた。だが、血に飢えた魔軍の副将と謳われるシンナは、そのようなことは意に介した風もなく、喋りながらも敵将の首を取ろうと勇ましく斬りかかってくる人間の兵士をレイピアで刺し殺した。
 引き抜いた細い刃につられるように鮮血が噴出して、シンナは頭から真っ赤な血をベットリと被ってしまった。その光景に光太郎は怯んだが、だがすぐに見渡す限りの入り乱れて戦っている全ての者がそうであることに気付いて、今更ながらゾッとしてしまったのだ。

『グワッ!!』

 すぐ間近で声が上がって、ハッとした時にはよく城で回廊の掃除をしていると、ニコニコ笑いながら声をかけてくれた衛兵が片腕を切り飛ばされて真っ赤な血を噴出しながら倒れ込んでいた。

『チッ!』

 切り殺している敵に気を取られていた隙に、敵兵から狙われていた光太郎を守ろうと、飛び出した魔兵が切り殺されたことに気付いたシンナは舌打ちすると、愛馬を駆り立ててできるだけ戦況の厳しくない…そのようなところは殆どなかったが、そんな場所を選んで走り抜けた。
 光太郎はたった今倒れ込んで死んでしまった魔物の顔が頭から離れず、とんでもない場所についてきてしまったと後悔するよりも、皆の足を引っ張っている事実を見せ付けられて何も出来ないことの悔しさに唇を噛んだ。

「シンナ!行ってくれ。俺は大丈夫だから!」

『本当ン?じゃあ、行くわねン!』

「気をつけて!!」

 怒号の飛び交う戦場では声を張り上げても僅かしか聞こえないが、最後の言葉は確りとシンナにも届いたのか、勇猛果敢なる小柄なディハールの副将はウィンクしてレイピアを光太郎に持たせると、シュッと飛び出した鉤爪を両手に馬上から飛び降りて戦場に踊り込んだ。
 もともと地上戦に向いているシンナの活躍はすぐさま戦況を有利にするほどで、光太郎の目にもハッキリと、シューが自信を見せたように砦の陥落は明らかになろうとしていた。

「さて、ここでぼんやりしてても殺されちゃうね。ティターニアだっけ?取り敢えず、逃げよう!」

 ヒヒヒーンッと前足を上げてその言葉に応えた純白の駿馬が、颯爽と走り出そうとした当にその時だった。

「!?」

 シンナが離れるのを待っていたかのように、木々の間から躍り出てきた何者かがティターニアと光太郎に紐をかけて、豪腕でその場に引き摺り倒してしまったのだ。ブルルルッと嘶くと耳を伏せて歯を剥くティターニアの威嚇にも怯まず、豪腕の持ち主は馬に結わえた綱を握りながら、この戦場にあっても堂々とした態度で尻上がりの口笛を吹いたのだ。

「なんだ、シンナを捕まえたかと思ったら…ん?人間か!?」

「…!」

 ティターニア共々引き倒されてしまった光太郎は、縄に絡め取られているせいだとは言え受け身の術も知らないばかりに、強かに地面に身体を打ち付けてしまい、息も絶え絶えに何が起こったのか理解しようと顔を上げて、その言葉に震え上がったのだ。声も出せずに痛みに呻いている光太郎を、真上から見下ろしていた豪腕を持った大男は暫く考え込んでいたが、フンッと鼻を鳴らして蒼褪めて身動きの取れない身体をヒョイッと肩に担ぎ上げた。

「魔物と行動を共にしてるってこた、こんな形をしてても魔物なんだろう。まあ、いい。この戦もどうやら俺たちの負けは決まったらしいからな。他の捕虜どもも連れて引き上げるとしよう」

「セス隊長!」

「おう!今行くぞ。もう1匹珍しい捕虜を捕まえたからな、一足先に砦に戻るぞ」

(と、砦…?あ!シンナが言ってた第二の砦だ…そっか、やっぱり落とされてたのか)

 人間たちの遣り取りを痛みの走る背中を歯を食い縛りながら堪えて聞いていた光太郎は、どうにか得たその情報をシューに知らせたくて仕方がなかった。目線だけで落としてしまったレイピアを探しながら、漸く動かせるようになった身体で脱出を試みると、豪腕の男は確かに力も強いらしく、そんな抵抗などものともせずに、却って小煩いハエ程度にでも思ったのか手にしていた縄でとうとう足までも縛られてしまったのだ。

「は、離せ!!」

「離せだと?フン、見てくれも充分人間に見えるが、どんな魔術を使いやがったんだ?」

 馬引きの戦車の荷台に投げ出された光太郎は、グイッと顎を掴まれて上向かされると、暗い森の中を縫うようにして進む戦車の上で、木々を背にした男の顔を間近で見ることができた。

「お、俺は人間だよ!でも…ッ」

 男の明るい翡翠色の双眸が憎々しげに揺らいだかと思うと、ハエでも払うような軽い仕種で頬を殴られた。

「…あッ…ッ」

 口内が切れて唇の端から血を流して蹲る光太郎を見て、男は鼻先で馬鹿にしたように笑うのだ。

「魔物に加担するヤツが人間だと?笑わせるな。今度何か言ったらぶっ殺すからな」

 強ち嘘とも思えない冷ややかで冷酷な、この世界に来て初めて見る底冷えのする殺気を感じて、それまでシューやゼィが見せていた殺気が、本当はただ単に光太郎を脅かす程度で全開ではなかったのだと、この時になって初めて知ったのだ。

「…うう、シュー」

 囁くように呟いた名前までは聞こえなかったのか、男はゆっくりと、まるで踏み締めめるようにして光太郎の身体に足をかけると、忌々しそうに吐き捨てた。

「チッ!奪い返したと思ったらまた奪われちまった。だが、まあいい。沈黙の主の仰ったように、北の砦を餌にすれば、南の砦はがら空きだ。ふん!無能なる魔物どもが…はーはっはっは!」

 ハッとして、光太郎は自分を踏みつけている尊大な男を見上げた。
 まさか…まさか!

「それじゃあ、この北の砦の襲撃は罠だったのか!?」

 ジロリと、呻くように声を上げる光太郎を見下ろした男は、忌々しそうに華奢な身体を踏みつける足に強かに力を込めながらニヤリと笑った。

「だったらどうだって言うんだ?陽動作戦なんざ、魔物どもにとってもお手の物だろう?」

「そんな…!ダメだ、ダメだ!!シュー!!シンナ!!これは嘘だ!早く、早く城に帰らないと!はや…グッ!!」

「騒ぐんじゃねぇ!!この裏切り者がッ」

 ドカッと鈍い音を立てて腹を蹴られた光太郎は、身体をくの字に折り曲げて激しく咽た。
 口の周りを吐瀉物で汚しながらも、それでも光太郎は這うようにして戦車から飛び降りようとして、すんでのところで男の大きな掌にサラサラの黒髪を掴まれてしまう。
 乱暴に引き上げられて、光太郎は傷みに霞む目を凝らしながら呻いた。

「おいおい、どこに行こうってんだ?生意気な捕虜だな…ふん!まあ、砦に戻ってからたっぷりと尋問してやるがな」

「…うう…し、シュー…ッ」

 光太郎の切迫した吐き出すような微かな声は、戦場に渦巻く怒号に掻き消され、戦場で光太郎の姿を懸命に捜しているシューの思いもよらぬところで連れ去られてしまったのだ。

Ψ

 何かを感じたシューは焦ったように累々と死体に埋もれる戦場を見渡した。
 どこを捜しても、今更になってシューは、光太郎とシンナを乗せたティターニアの姿がないことに気付いたのだ。
 戦況はどうやら魔軍の圧勝で終わったようだが、戦場に潜り込んで来たあの勇ましい少年はどこにいる。シューの鋭い金色に輝く双眸が戦場を見渡してみても、舞い上がる土埃や血飛沫の中では、どこにもあの優しい黒髪を見つけ出すことが出来ない。

『…』

 早鐘がうつように心臓が高鳴るこの予感は、いつもシューに最悪の事態を予言していた。

『シュー!!』

 不意に絶叫のような声がして、漆黒の愛馬に跨っていたシューはハッとしたように声のした方を振り返った。振り返って、ギクッとするのだ。

『し、シンナ…どうしてお前が…』

 ここにいるんだと、吐き出されそうになった語尾を掻き消すようにして、シンナが必死の形相で縋りつくようにして暗黒の馬に噛り付くとそんなシューを見上げた。その双眸は真っ赤に濡れて、珍しいことに泣いているではないか。
 その顔が、余計にシューの嫌な予感を煽り立てる。

『ごめんなさいン!あたしが悪かったのン!!光太郎が、光太郎を乗せたティターニアがいなくなっちゃったのン!!』

『なんだと!?』

『し、死体もないから…きっとン…』

 鳴り響く早鐘はおさまることを知らないかのように、シューの耳の近くで何かが激しくドクドクと脈打っている。一気に頭に血が昇って、それが逆流するように激しく流れる自分の血潮の音だと気付いたのは、反射的に愛馬の首を第二の砦に向けてしまったときだった。
 その手綱を握り締めて引き留めるシンナに気付いて、シューはハッと我に返った。

『シュー、お願いン。貴方は城に戻ってン!光太郎は、必ずあたしが連れ戻すからン!!』

『…ダメだ…』

 ポツリと呟いた言葉に、泣きながらシンナはシューを見上げた。

『アイツは、俺じゃねぇとダメだと言ったんだ。だから、こんな所まで追ってきやがった…』

『ダメよン!シューは城に戻らないとン!!貴方は忘れないで、将軍なのよン!?』

『シンナ…』

 シューは真っ赤な双眸をして泣くシンナを見下ろして、それから徐に森の向こうにある第二の砦の方角を見詰めていた。シンナはどうか、シューが思い留まってくれることを願っていた。

『…捕虜になった魔物のその後を俺は知らんが。シンナ、光太郎は人間だ。奴らも無碍にはしねぇと思うが、頼む』

 不意に、獅子面のポーカーフェイスで感情を読み取らせないシューの言葉に、それでもシンナはホッとしたように息を吐いた。それから、シンナは大きく頷くと、必ず連れて戻ることを約束するのだ。

『任せておいてン!これはあたしのせいだもの、必ず光太郎を助け出してみせるわン!』

 傷付いて、いたるところから血を流しているシンナの、その痛々しい姿に申し訳なく思いながらも、シューは愛馬の手綱を握り締めた。
 どうか、無事でいてくれ。
 まるで、居もしない神とやらに縋りそうになって、シューは鼻先で笑った。

(そうだ、俺は魔物なんだ。人間如きがどうなろうと知ったことじゃねぇ…)

 光太郎だってそう言ったではないか。
 自分に言い聞かせるように呟いて、まるで野兎のような敏捷な素早さで戦場を走り去っていくシンナのか細い背中を見送りながら、シンナよりももっと儚い存在である光太郎を思い出して荒々しく舌打ちした。

『よし!砦は落ちた!!今夜は残務処理だ、ここに泊まるぞーッ!!』

 咆哮するように勝利宣言をするシューの言葉に、魔軍から一斉に歓喜の雄叫びが上がった。絶望する人間どもを見下ろして、シューは吐き捨てるように命じるのである。

『生き残った残兵は皆殺しにしろッ』

 それまで戦場にあっても捕虜として生け捕ることを提言してきたシューの、その残酷な宣言にある者は眉を寄せ、ある者はホッとしたように胸を撫で下ろしていた。なんにせよ、魔軍を束ねる将軍が甘いことでは全体の指揮に乱れが出がちだが、不思議と今までのシューにそれはあまり見られなかった。
 だが…今のシューは違っていた。
 どう言った理由でかは判らなかったが、シューは怒りに打ち震えているのだ。
 付き従う護衛の兵が怯えて立ち竦んでしまうほど、シューは怒っていた。
 自分でも侭ならないこの怒りを、どうして散らせばいいのか、もう手当たり次第に周囲の者に殴りかかるか、或いは全てのものを破壊し尽くすか…手始めに、皆殺しにするといい。
 光太郎がこの場所にいたらどんな顔をするのか…想像して、あまりに馬鹿らしくて舌打ちする。

(どんな顔でもいいから早く戻ってきやがれッ!勝手に俺の前から姿を消すなんてこた、許してねーぞッ)

 いつも傍にあったものが唐突になくなってしまう、開いた掌から零れ落ちる砂のように儚い存在に、その喪失感はたとえようもなくシューを不安にした。
 両手を真っ赤な血に染めて、その砂が零れ落ちないならそれでもいいと思う。
 戦場の血生臭い淀んだ空気を一掃するかのように、風が走り抜けていく。
 開いた大きな掌を見下ろしていたシューは、自分は何を考えているのかと、忌々しく歯噛みして開いていた掌を握り締めた。伸びていた爪が深々と皮膚を破って突き刺さろうとも、シューはその痛みすら感じなかった。
 漆黒の外套が風を孕んで、主を思って微かに嘶く漆黒の馬が静かに大地を踏み締める。その佇まいが、あまりにも寂しくて、残兵狩りに駆り出された魔物たちが一瞬驚いて立ち止まってしまう。
 呆気なく落とした砦の違和感を全身で感じながら、どうして自分は、こんな風に何も考えられないでいるのだろうかと、シューは風の舞い上がる魔天を見上げて眉根を寄せた。
 何かしなくては…と、気ばかりが焦るのに何も手につかない。
 これでは駄目だと自分に言い聞かせて、主を思う愛馬の首を擦ったシューは、その腹を蹴って走り出した。手綱を握り締めながら、大地を駆ける馬蹄の重い音を響かせ、自らの鬣を靡かせて荒れ果てた北の砦に入場するのだった。

Ψ

 第二の砦は、北の砦よりも僅かに頑強に造られているようだった。
 囚われた他の魔物たちと同じく地下牢に叩き込まれた光太郎は、だが、彼だけ仲間を裏切ったにせよ人間だと言うことで別に引き離されてしまった。

「イタタタ…」

 散々殴る蹴るされて、もう光太郎の顔は見るも無残に腫れ上がってまるで別人のようだ。それでも、縛られた両手で頬を擦りながら壁に凭れて座ると、自分が叩き込まれた地下牢を見渡して少し笑ってしまった。
 地下牢に通風孔を造ったときは、まさか自分も叩き込まれるとは思っていなかっただけに、人間はちゃんと捕虜のことを考えているのだろうかとぼんやり考えていた。

『おーい、光太郎?大丈夫か??』

 真正面の牢に入れられている何匹かの魔物が、縛られた両手で鉄格子を掴みながら傷付いて倒れている光太郎を案じて声をかけてきたのだ。恐らく、人間だったばかりに自分たちよりも酷いことをされたに違いないと、魔物たちは案じていたのか、その声は少し不安そうに揺れている。

「うん…みんなは?」

『ヘーキだ、ヘーキ。こんなのシュー様のシゴキに比べたら全然痛くも痒くもねぇ』

 ハハハッと笑ってうう…っと呻き声に変わるのを聞くと、どうやら彼らも半端なく殴られているようだ。
 薄暗い牢屋の中では外が夜なのか昼なのかも判らず、何よりも他の魔物たちの顔も見分けることができない。時折隅っこの方でキキキッと何かが鳴いて、それが拳ほどもある鼠だなどとは、気付くことすら出来ない有様だ。

『腹減ったなー、飯ぐらい持って来いってんだ!』

「アハハハ…テテッ。あんまり騒いでたらまた殴られるよ、バッシュ』

 声で誰かという事はすぐに判っていたが、その名を呼ぶことで相手はかなり驚いたようだ。

『おお!俺だって判ったのか??さすがだなー、光太郎は』

 バッシュの、蜥蜴の親分のような顔からは到底想像が出来ないほど、彼は陽気だ。目付きが異常に悪いから、恐らくどの魔物よりもかなり多めに殴られているのだろう、彼の顔も変わっていなければいいんだがと、光太郎はソッと心配していた。

「ここも落とされちゃってたね」

『まあな。でも大丈夫だ、シュー様たちはもう気付いておられる。そのうち、助けに来てくれるさ』

 暢気な会話を続けていると、バッシュの背後で同じように頷く声がちらほらと聞こえる。どうやらみんな、しこたま殴られて気絶でもしていたようだ。

「あ!…イテテテッ。そうだ、忘れてた!北の砦は囮だったんだ!!南の砦を落とすために…ッ」

『そう言ってたなー。俺も殴られながら聞いたよ。でもな、今の俺たちは何もできないんだ』

「そうか…」

 俯いた光太郎は、首に掛けられた首輪から伸びた重い鎖がジャラッと鳴って、壁に繋がっているのを目で追いながらあーあと溜め息を吐いた。ご丁寧に両手まで縛られていては、逃げ出すことも侭ならないだろう。

「じゃあ、できる限り生き延びないとね。助けに来てくれたときに、手伝えるもんね」

『アッハッハ…いッッ…はぁ。そうだな!』

 いちいち痛みを噛み殺しながらの会話は、思った以上に辛くて滑稽で、だが笑ってもまた痛むだけだから光太郎もバッシュがしたのと同じように溜め息を吐いた。
 痛みが酷くなったのか、言葉から呻きに変わってきたバッシュに「休んでなよ」と声を掛けて、光太郎は漸く慣れてきた目で水滴の滴る石造りの天井を見上げていた。
 戦の状況は恐らく、あの人間たちが言っていたように本当に囮だったとすれば、梃子摺りながらも圧勝したに違いない。それからシューの軍勢は北の砦の内情を立て直すために何日か泊り込みで処理するのだから、足留めされることは容易に想像できる。

(ホントだ。シューが言うように、沈黙の主って人は抜け目がないなぁ)

 軍の半分を使用したとしても、それでも城にはゼィたちが残っている。かと言って、そこから更に半分を南の砦に差し向けたとしても…そこまで考えて光太郎は胸の辺りがドキドキするのを感じて縛られた腕を押し付けた。
 大丈夫なんだろうか、本当に。
 だが、バッシュが言うように、今ここにいる自分では何も出来ないのだ。考えてヤキモキしたとしても、またそれがここにいる人間たちに伝わって、とばっちりで魔物たちが殴られるのは絶対に嫌だ。そう考えて、光太郎は頭を左右に振った。
 あんまり激しく頭を振ったせいで、殴られていた後遺症なのか視界がグラグラして吐きそうになってしまった。

「…何やってんだろ、俺」

 光太郎が思わずガックリしそうになったちょうどその時、俄かに階段の辺りが賑やかになって、乱暴な足取りでドカドカと松明の明かりを持った兵士が降りてきた。
 そう、逃げられないと信じているのだろう、この地下牢には見張りすらいないのだ。

「おら、飯だぞ」

 鉄格子には食器を入れることができるように隙間が設けられていて、だが、だからと言ってそこからどうにか逃げようなどと言うことはできないようになっている。
 隙間から何かがポンポンッと投げ込まれて、反射的に光太郎は顔を上げてしまった。
 なぜならそれは、パンらしき固形の物体が無造作に放り込まれ、次いでドロリとした何かがバケツから汲み出されて牢屋内の床にビシャッと撒かれたからだ。

「こ、これは…?」

 思わず声を出してしまうと、バケツを抱えた兵士はウンザリしたような顔付きをして面倒臭そうに松明の明かりを鉄格子に近付けると、反射的に目を閉じてしまう光太郎の顔を覗き込んだ。

「あ?なんだ、お前か。飯に決まってるだろ、バーカ」

 ガシャンッと鉄格子をバケツから取り出した柄杓のようなもので殴りつけると、フンッと鼻で息を吐き出してから兵士はこんなところには一分でもいたくないとでも言いたそうに、サッサと立ち去ろうとした。その後ろ姿に、ガチッと壁に繋がった鎖で首を圧迫されながらも、光太郎は縛られた両手を精一杯伸ばして鉄格子を掴むと大声で呼び止めた。ガチャガチャと鉄格子を揺らすオマケまでつけて。

「スプーンは?食器にも入ってないよ!?これじゃあ、食べることもできないじゃないかッ!どうやって食べろって言うんだよ!!」

「ああ~?」

 胡乱な目付きで戻ってきた兵士は、鉄格子を握っている光太郎の指先を思い切り柄杓で叩きつけて、呻くその顔を冷ややかに見下ろした。

「這い蹲って喰えばいいだろーが」

「そ、そんな…!」

 叩かれた指先を口許に当てながら睨み上げる光太郎の、その反抗的な態度に苛々したらしい兵士は、対面にある魔物たちの牢を松明の明かりでバッと照らした。

「コイツらのようにな!」

「!」

 松明の明かりで唐突に明るくなったとは言え、もともと夜も昼も同じぐらいに見えている魔物にしてみたら別に気にもならない程度の明かりの変化だったのか、気に留めた様子もなく這い蹲って悪態を吐きながら撒き散らされたスープの残骸のようなものを啜っていた。
 その光景は光太郎には衝撃的で、痛みなど忘れてしまった震える指先で鉄格子を掴むと、目を見開いて食い入るように捕らえられた魔物たちを見詰めている。そんな光太郎の態度に、魔物の行動ぐらいで何を驚いているんだとでも思ったのか、兵士は肩を竦めるとブツブツと悪態を吐きながら明かりと共に立ち去ってしまった。

「…こんなのは酷い」

 真っ暗になった地下牢でポツリと呟いた声が響くと、口許を縛られた腕で拭っているらしいバッシュが声をかけてきた。

『人間なんざこんなモンさ。飯は不味くても喰っておかないとな、光太郎と約束しただろ?』

「…え?」

 呆然と呟く光太郎に、バッシュは何やらモゾモゾしながら肩を竦めるような気配をした。首を傾げる光太郎のへたり込んだ膝の辺りに、シュッと飛んできた何かがポトリと落ちた。

『光太郎は喰ってないんだろ?もうダメだと思うからさ、そいつを喰っときな』

 闇に慣れていない目では直接見ることができないから、光太郎は手探りで膝の上にある何かを拾い上げて手触りで確認した。

「これ…」

 それは地下牢の床に落ちてしまったパンだった。
 それも、汚水を吸った部分は綺麗に取られているようで、もう固くなり始めているスカスカのパンだったが、光太郎は嬉しくて泣きながら頬張って噛み砕いた。

「ありがとう」

 ヒックヒックとしゃくり上げながら礼を言う声を聞いて、人間よりも鋭敏な聴覚の持ち主たちは驚いたように顔を見合わせると、何やらモソモソとし始めた。そして、縛られた手でパンを持ったまま涙を拭う俯いた光太郎の膝の上に、ポンポンッと次々とパンが放られてくる。

『泣くほど美味かったのか?そりゃ、よかった。俺の分もやるよ』

『俺も俺も』

 汚水を吸った部分がどれも切り取られていて不恰好だったが、光太郎はそのどれもが美味しいと感じていた。放られてくる度に「ありがとう」と呟く声がして、魔物たちはちょっと嬉しそうに顔を見合わせてニヤリと笑うのだ。
 バッシュもこそばゆいような嬉しさを感じながら、鉄格子を縛られた両手で掴むと口先を突き出した。

『できる限り生き延びるって約束しただろ?頑張らないとな』

 へたり込んで俯いたまま涙を拭っていた光太郎は、ハッとしたように顔を上げた。
 周囲はまだ真っ暗で、なかなか泣き濡れた目は視覚を取り戻してはくれないが、それでも微かにぼんやり見えるバッシュらしき魔物のいる辺りに目を凝らしている。そうして向かいの牢を見詰めていた光太郎は、次いで、膝の上に転がる幾つかのパンをジッと見下ろして、グッと両拳を握り締めたのだ。
 魔物たちの生への執着は恐らく、人間よりも純粋な本能なのだろう。そうしてそれは、時に驚くほどの勇気や元気を与えてくれるのだ。
 光太郎はその逞しい根性を感じながら、投げ捨てられた食べ物を食べられないと言ってメソメソしている自分が堪らなく恥ずかしくなった。
 シンナは言ったではないか。

[たとえ手当てする相手が敵将だったとしても、どうして早く善くなるようにそれを甘受しようとしないのン?どうしてアンタたちには早く善くなって、全快した身体でここを抜け出して、家族の為に仇を討とうとする気迫ってものがないのよン!]

 それは生きるための、生き残るために必要な鉄則のようなものなのだろう。
 今は貶められて辛くても、いつか必ず明るい未来はあるはずだ。
 それは、もうずっと、光太郎が胸の中で信じ続けてきたことではないか。

「そうだ、生き延びないといけないのに!ごめん、俺どうかしてた。モリモリ食べて元気にならないとッ」

 ゴシゴシと涙に濡れる双眸を腕で拭って、今はみんながくれたスカスカのパンを頬張りながらムグムグと噛み締めて宣言する光太郎に、バッシュが嬉しそうに口笛を吹いた。

『お?やっといつもの調子を取り戻したみたいだな。光太郎はそうでなくっちゃな』

 暫く一緒に暮らしてきた魔物たちに自分がどんな風に見られているのかなど気にもしていなかったが、こうしてホッとされているところを見ると、彼らは彼らなりに光太郎を観察して気遣っていたのだなと妙に感動してしまった。

『もう、泣くなよ?じゃないと、シュー様に嫌われちまうぜ』

 バッシュが鉄格子から離れながら呟くと、光太郎はパンを食べながら首を傾げて見せた。

「え?シューは泣く人は嫌いなのかい?」

『嫌いだとかそう言う問題じゃないと思うんだが…まあ、でもたぶんそうだと思う。嘗てシュー様がソーズを育てているときに仰っていたんだが、男は一生の間で3回しか泣いてはダメなんだそうだ。1回目は生まれたときで、2回目は魂を分かち合うとき。3回目は家族の死に臨んだときなんだってよ。メソメソしていたら捨てるって仰っていたからな』

「そ、そうなんだ。判った。俺、シューに捨てられたくないから泣かないように頑張るよ」

 ヒョイッと振り返った蜥蜴の親分にシューの男気臭い信念のようなものを教えられて、光太郎は息を飲みながら頷いた。そう言えば自分は、シューの前でも良く泣いていたような気がする。

「俺、絶対に泣かないようにする!!…だから、みんなお願い。今日泣いたことは内緒にしてくれないかなぁ…?」

 縛られた両手を拝むようにして合わせた光太郎が、上目遣いでよく見えない対面の牢屋の中の住人たちにお願いすると、聴覚も視覚も鋭敏な魔物たちはそれぞれ思い思いに顔を見合わせると、次いで大爆笑するのだった。
 殴られて始まった捕虜の生活はどうやら思う以上に厳しいものがありそうだが、それでもと、光太郎は爆笑している仲間をムゥッと膨れっ面で睨みながらも思うのだ。
 仲間がいるのなら大丈夫だ。
 腹を抱えて笑っている魔物たちを見詰めながら、ムッとしていた光太郎もすぐにプッと吹き出して、釣られるように一緒に笑ってしまった。
 月が漸く中空にかかろうとしている森の中にある第二の砦の地下牢で、魔物と人間の笑い声は、暫く響き渡っていた。

7.鬨を告げる魔獣の者  -永遠の闇の国の物語-

 俄かに遽しくなった城内で、光太郎は甲冑に身を固めた魔兵や、いつもなら暢気な顔をして書物に噛り付いている魔導師たちの緊迫した表情を見ながら、何か大変なことが起こっているのに違いないと感じていた。その只ならぬ気配は、城全体を覆う殺気のような怒りがまるで、具現化したように魔物たちを突き動かしているのだろうか。

「ねえ、どうしたんだい?」

 声を掛けても忙しなく甲冑をガチャガチャと鳴らして行き来する魔兵たちは取り合ってくれず、かと言って、物凄い形相の神官たちには声を掛けることさえ憚られる様な気がするから、仕方なくシューを探すことにした。
 とは言っても、いつもは『俺はお前の世話係だからな。本来なら便所の中まで着いて行かなきゃならんのだが、俺が嫌だからそれだけは勘弁してやらぁ』とワケの判らない屁理屈を言っては、べったりと一緒にいることが少なくなかったから、こうして長く離れているとそれでなくても不安になるのだ。だが今、そのシューが見当たらない。
 光太郎は胸元を押さえながら長い回廊を渡って、上に続く螺旋の階段を上り、見張りがサボる空中庭園になっている高台に辿り着いた。
 まるで外の世界が嘘のように木々だけは茂る庭園の中を歩いて、光太郎はまさかこんな所にシューはいないだろうと思いながらも、彼の大きな身体を捜してキョロキョロしていた。
 と。
 不意にガサリと木の枝を揺らして覗いた空間に、偶然お目当ての大きな背中を見つけてパッと表情を明るくした光太郎は、魔の森を見渡せる高台になっている東屋で、太陽すらも出ていない薄暗い空を見上げているシューに声を掛けようとした。声を掛けようとして、ギクッとした。
 石造りの床に直接腰を下ろして胡坐をかいているシューの膝の上に、何かが横たわっていて、まるで蝋人形のように蒼褪めた腕がブランッと垂れていたからだ。
 シューの背中が、その時になって漸く光太郎は初めて、悲しみに暮れているのを悟ったのだ。
 肩が微かに震えているのは、魔天を仰ぐシューが、もしかして泣いているのかもしれない。
 声を掛けようかどうしようか躊躇っていると、ふと、シューが何事かを呟いているのが耳に入った。

『…ソーズ、お前。どうして魔兵になろうなんて思ったんだ。お前みてぇに優しいヤツは、こんな風に死ぬしかねーんだぞ?』

 呟きは瘴気を孕んだ風に揺れて、どこか虚ろに響いている。

『こんなのは俺だけで充分だったのに…畜生ッ、お前は森で大人しく暮らしてる方がお似合いだったんだ』

 まるで怒りをどこかに置き忘れでもしたかのように、シューの声音は穏やかで、慈しむように冷たくなってしまっている亡骸の上に降り注いでいた。その声は、光太郎がこの永遠の闇の国に来て初めて聞いた、シューの情け深い声音だった。

『お前は馬鹿なヤツだ。馬鹿なヤツだからこそ、なあ、ソーズ。俺はお前を誇りに思うんだろうなぁ』

 不意にシューは外套に包まれた、今はもう息もしていない、まるで壊れた人形のようにぐったりとしているソーズの身体を抱き起こして、その胸元に獅子面を押し付けた。傷だらけで死んでしまったソーズの痛々しい亡骸を、シューは嫌がることもなく抱き締めて、そして声を上げて泣いたのだ。
 身体中を震わせるような、ビリビリと大気を振動させるその凄まじい音声の慟哭は、だからこそ、城を取り巻く悲しみにより一層拍車を掛けて深々と浸透していくのだろう。
 光太郎はとうとう声を掛けることも、その場から立ち去ることもできずに木々に隠れるようにして座り込んでしまった。キュッと唇を噛み締めて、シューと背中合わせになるように膝を抱えて座った光太郎は、いつ果てるともなく続く慟哭を聞いていた。

(シューは…もし、もし俺が死んでも、こんな風に泣いてくれるのかな?)

 誰か、とても大事な人を亡くしてしまったのだろうシューを背に感じながら、それは浅ましい考えだったのかもしれない。
 空気を震わせるようにして伝わってくるシューの哀しみはあまりに痛々しすぎて、それだけに、失った者への愛情の深さを感じずにはいられなかった。

(…馬鹿だな、俺。シューが俺なんかのために泣いてくれるはずもないのに)

 自嘲的に笑って、光太郎は立ち上がると、振り返りもせずにまるで逃げるようにしてその場から立ち去った。
 空中庭園には、暫くシューの慟哭が響いていた。
 空に雷光が閃くように、悲しみも一瞬で消えてなくなればいいのに…

Ψ

 長い回廊を甲冑の魔兵たちが行き交うのを、壁に凭れている光太郎は呆然と見詰めていた。
 遽しく戦の準備に取り掛かる者、城に残って警備を固める者、白兵戦に備える者…などなど、今までに見たことがないほど真剣な表情をした魔物たちが、思い思いの準備の為に忙しなく行き交っている。その中で、まるで取り残されたようにポツンッと佇んでいる光太郎は、この時ほど自分の非力さを思い知ることはなかった。

「みんなが忙しい時に…俺って掃除とかそんなことしか出来ないなんて」

 ハァッと溜め息を吐いていると、ふと傍らに人の気配がして顔を上げた。

『掃除ができるだけでも凄いわよン?』

 ニッコリと強い双眸で笑って、雪白の甲冑に身を包んだシンナが腰に片手を当てて立っていた。
 いつもはシンプルすぎるほどシンプルで大胆な衣装を気軽に身に纏っているシンナだったが、さすがに魔軍の武将たる悠然とした態度で、重々しくもあるが覆うところは少ない甲冑に身を包んだ姿はそれでも勇ましく見える。

「…ねえ、シンナ。やっぱりその、戦いが始まるの?」

 恐る恐る尋ねる光太郎に、シンナはそれまで浮かべていた笑みを引っ込めると、キュッと唇を引き締めて真摯な双眸で光太郎を見詰めて頷いた。

『そうねン。北の砦が落とされちゃったから、たぶんラスタラン地方に近い第二の砦も落とされてると思うのよねン。だから奪還しに向かうのよン』

 口調こそ気楽なものの、その戦いはそれほど容易なものではないことを物語っている双眸が、不安に揺れる表情をした光太郎を映し出している。

「そっか」

 溜め息のように呟いた光太郎の顔をジッと見詰めていたシンナは、殊の外キッパリとした口調で言い切った。

『シューも出陣するわよン』

「え?シューも??」

 吃驚したように顔を上げる光太郎に、純白の兜を目深に被っているシンナの双眸が一瞬だったが細められて、それからふと伏せられた。それは言ってはいけないとシューに口止めされていたのだ。

「シューも戦に行っちゃうのかい!?」

 動揺したように目を見開いた光太郎は、唐突にこの世界にたった独りで放り出されるような錯覚を感じて、縋るようにシンナの手を掴んでいた。
 いつも影のように傍にいたシューの不在。
 それはあまりにも突然のことで、順応力があるはずの光太郎でも、不安で仕方ないのだ。
 ましてや、シューの慟哭を聞いた後となれば尚更である。

『仕方ないわン。シューはあんな感じだけど、れっきとした将軍なのよン』

(そうだ、シューは将軍だったんだ…)

 魔物たちの部隊は少し変わっていて、なぜか将軍が二人いるのだ。
 もともと、普通ならば一人で務めるはずの将軍職を、魔王は二人の魔物に与えていた。
 その経緯や意味合いなどを知らない光太郎にとってそれは、理不尽なことのように思えて仕方なかった。

「じゃあ、シューは俺の世話係なんだから!俺も着いて行ってもいいんだよね?」

 目線を上げたシンナは困ったように笑って、真剣に見詰めてくる光太郎の額を徐に指先で弾いた。

「イタッ!」

『ダ・メ・よン。決まってるじゃないン。そんなことしたらシューがお冠だわン』

 クスクスと笑って腕を組むシンナに、光太郎は俯いて弾かれた額を擦りながら床を見ていたが、思い切って顔を上げると縋るようにその手を取って握り締めた。

「お願いシンナ!無茶なお願いだってのは判ってるけど、俺も連れて行って!」

 どうしてそう思ったのか、光太郎には判らなかった。
 ただ、どうしても、シューの傍にいたかったのだ。
 悲しみに打ちひしがれて背中を丸めていたシューを、そのまま戦場に出すことに不安を覚えたのかもしれない。
 いや、実際はそうじゃない。
 シューに置いて行かれる恐怖で、じわじわと取り残される孤独感が足許から這い上がってきて立ち眩みのような眩暈を覚えたせいだろう。
 その思いを知ってか知らずか、だがシンナはニッコリ笑って握られている両手を振り払った。

『今回は幾らなんでもダメよン。異世界から来た光太郎にとって、戦場はとても過酷な場所だわン。魔王様も今度ばかりはお許しを出さないから、直々に伺ってもダメよン』

「シンナ~」

 情けなく眉を寄せる光太郎を見詰めながら、そのくせ、シンナは張り詰めた胸元をソッと押さえながら微笑んだ。からかうように、悪戯っぽい微笑は、光太郎など歯牙にもかけていないのだと言われているようで人間の少年は項垂れるかしない。

(ダメだって言いながら、どうして秘密を洩らしちゃったのかしらン…)

 シンナはガックリと肩を落としている光太郎に微笑みながら、ふと床に視線を落としてその微笑を自嘲的なものに変えた。

(本当は残して行くのが怖いからに決まってるわン。どうか、ねえどうか…)

 ふと目線を上げたシンナは、どうしようと眉を寄せて俯いている光太郎の、そのサラサラの黒髪を忘れないように見詰めながら内心で呟いていた。

(儀式が行われないようにン…あたしが戻るまでは…いいえ、本当は連れて行きたいのよン)

 チラッと上目遣いでシンナを見た光太郎は、複雑な表情で自分を見つめる魔軍の副将のその表情を見て、少しドキッとしたような不思議そうな顔で首を傾げた。
 シンナはそんな光太郎に小さく笑って、首を左右に振るのだ。

『どちらにしてもン。これから忙しいから、きっとシューも光太郎の相手は出来ないと思うわよン』

 普段着の上から兜、肩当、胸当などの装備をしただけの、身軽さに変わりのない甲冑を着込んでいる魔軍の副将は、それだけを言い放つと光太郎の前から立ち去った。
 その後ろ姿は毅然としていて、これから命懸けで戦うことになる戦場に赴く一人の戦士としての気高さが漂っていた。シンナの後ろ姿を見送っていた光太郎は、唐突に情けなくなって唇を噛み締めるのだ。

「あんな風に、死ぬことを覚悟した人たちでも気を引き締めて行く戦場に、連れて行ってくれなんて俺…また、シューに怒られちゃうなぁ。良く考えもせずにベラベラ喋るなって…」

 呆れたようにムッとしているシューの獅子面を思い出して、光太郎はふと小さく笑ったが、すぐにしょんぼりと眉尻を下げてしまう。

「でも、独りはやっぱり寂しいよぉ…」

 思わず泣きそうになってしまう光太郎の眼前を、一匹の魔物が遽しそうにガチャガチャと甲冑を鳴らして巻紙に顔を突っ伏すように覗き込みながら歩いている。その姿に覚えのあった光太郎が、思わず声をかけてしまった。

「バッシュ!」

『あーん?』

 ジロリと暗雲を背負っているように胡乱でジトついた怖い双眸で睨みつけてきた甲冑の魔物、バッシュは呼び止めた者が光太郎であることに気付いてパッと表情を和らげた…とは言っても、もともと二足歩行の蜥蜴の親分のような魔物である、普通にしていてもその目付きは充分悪い。

『おや、光太郎じゃねーかい?あんた、またヒマそうだな』

 けっして悪気があるわけではないのだが、魔物と言うのは皆が皆、相当口が悪いのだ。しかもそれに本人たちが気付いていないから尚更性質が悪くもあるが、既にこの国に来て随分長い時間を共に過ごしている光太郎にしてみたら、もう慣れてしまったので別に気になることでもなかった。

「バッシュもその、戦争に行くのかい?」

 不安そうな、その身を案じるような表情で尋ねられて、バッシュは悪い目付きをますます悪くしながらニヤッと笑って肩を竦めた。

『心配してくれるのか?へーえ!そりゃスゲーな。俺には初めての経験だぞ』 

 どうやら本当は嬉しかったのか、バッシュは照れたように長い爪を有する指先で頭を掻きながらも上機嫌だ。

「そりゃ、心配だよ。俺、戦争とか知らないからさ。現場がどうなってるかとか判らなくて喋るのは良くないと思うんだけど…バッシュ、死なないでね。生きて、ちゃんと帰って来るんだよ?」

『うひゃー!そう言うこっぱずかしいことは言ってくれるなよ。照れるじゃん』

 ウハハハッと笑いながらバッシュが手にした巻物を弄びながら、爬虫類独特の尻尾を左右に振って照れている姿を見て、光太郎は困ったように笑ってしまった。
 こんな風に陽気な魔物たちが、戦場で血を流して戦うのだ。
 それは人間も同じことで…だが、一体何の為に戦っているのだろう?
 気の良い魔物たちのその尊い命すら犠牲にして、それは全て人間も同じことなのに、一体何を求めて戦い続けるのだろうか。名誉のため?平和のため?

(それともただの欲のため…?)

 光太郎は唇を噛んだ。
 その時になって初めて、今から戦いが始まるのだと言う緊張感が襲い掛かってきたのだ。

『まあ、任せとけよ。俺はもう、10回以上も戦場を駆け回ってんだ。そう容易く死んだりしねぇよ。お前みたいなひよっ子と一緒にするんじゃないぞ?』

 カッカッカッと笑う蜥蜴の親分ことバッシュの聞き慣れた悪態に、光太郎は不安を隠せない双眸をしたままで「そうだね」と呟いて頷いた。そのサラサラの黒髪を、鋭い爪を有した大きな爬虫類らしい鱗に覆われた掌でポンポンッと軽く叩きながら、バッシュは縦割れの瞳孔をキュッと絞りながらニヤニヤと笑うのだ。

『だからこそ、ひよっ子のお前は大人しく城で待ってろよ。シュー様もそれを望んでいらっしゃるし、城で待っててくれる存在がいるっつーのは心強いからなぁ』

「…うん、判った。バッシュも待ってるよ」

『うを!?おおお、俺はいいよぅ。俺は、ここに仲間がいるだけで絶対に帰ってこようって思うからな』

 ニッコリと表情豊かに笑うバッシュのその蜥蜴の顔を、ジッと見上げていた光太郎は、その純粋な思いが羨ましくて仕方なかった。信じあえる仲間がいること、それが、それこそが恐らくここに住んでいる魔物たちが持っている優しさの源なのだろう。

「仲間になりたいなぁ…」

 心の底から羨ましく思いながら呟いた台詞を耳聡く聞きつけた、ちょうど戦の準備に追われてガッチャガッチャと甲冑を鳴らしながら走ってきていたブランが駆け足状態で止まって、そんなバッシュと光太郎を交互に見た。

『参戦しようって言うのかい?ははは、光太郎には無理っすよ』

『そう言ってるけどねぇ』

 牛面の魔物が大仰に笑うと、蜥蜴の親分は困ったように腕を組んで片手で顎に触れている。だがその表情は、ピクピクと笑いを噛み殺しているようだ。

「ひっどいなー!これでも、少し。ほんのチョビッとは役に立つと思うけどなぁ」

 ムッと唇を尖らせて眉を寄せる光太郎に、バッシュとブランが顔を見合わせると、堪え切れなくなった二匹の魔物は突発的に噴出してしまう。

『はーはっはっ!チョビッとなんか役立ってもお前、戦場じゃ何の役にも立たないぞ?』

『隠れてるのがオチなら参戦なんか、しなくていいならしねー方がいいっすよ』

 バッシュの足許に軽く蹴りを入れた光太郎がムムッとしたままで、駆け足状態のブランに意地悪く言ってやるのだ。

「急いでるのに俺なんかに付き合ってていいのかな~?」

『うっわ!ヤベっすわ。んじゃ、アッシはこれで!』

 シュタッと片手を上げて慌てて走り出したブランの後ろ姿を見送りながら、そうか、ブランも行ってしまうのかと少し寂しい気持ちを抱えてしまった。その傍らで、蜥蜴を二足歩行にしてそのまま大きくしたような風体のバッシュも、慌てたように巻物を掴んだままで光太郎に別れを告げて立ち去ってしまう。
 そうすると唐突に独りぼっちになってしまったような気がして、光太郎は溜め息をついた。

「シンナにここにいるからなんて言っておいて、自分が落ち込んでたらどうしようもないや…そうか、そうだよな。そうすればシューに迷惑がかからない。なんだ俺ってば、あったまいいな♪」

 ホクホクしたように微笑んで、俄然ヤル気が出てしまった光太郎はグッと両拳を握り締めて決意を固くしたのだった…と、不意にその決意も固く自らに宣言する光太郎のサラサラの黒髪を、唐突にグワシッと大きな掌が掴んできて飛び上がるほど吃驚した。

『俺に迷惑がかからないだと?オメーがすることで俺に迷惑がかからなかったことなんか、ただの一度でもあったかよ?いいか、迷惑がかからなくするってのなら何もしないこった!』

 ワシワシと髪の毛をグチャグチャに掻き回されて、光太郎はグラングランしながらその大きな掌を掴んで真上にある顔を見上げた。見上げて、もうずっと一緒にいるのに、僅かだったにも拘らずもうずっと長く会っていなかったような気分になってしまう獅子面を見て、心の底から嬉しそうに笑った。

「シューだ♪」

『あ?俺だったらなんだよ』

 相変わらずムッツリとした膨れ面のライオンヘッドの魔物の、掌の脅威から抜け出した光太郎は振り返って、一瞬だけ声を詰まらせてしまった。
 そこに悠然と立っていたのは、漆黒の鎧を身に纏ったまるで一分の隙も窺えない魔将軍その人だったからだ。
 魔城全体に漂う戦の雰囲気は、本当はどこか遠くの出来事のように感じていた光太郎にとって、今まさに唯一無二のシューの出で立ちでもって確実なものへと変わってしまった。

「…シュー」

 黒光りする鎧はズシリと重厚感があって、確かにシューの存在を間違うことのない魔物の将軍であることを印象付けるほど、ある意味では似合っていた。翻る黒地のマントも、腕当てを弄って調整しているシューの態度も、今までのどこか飄々とした暢気さなど窺わせもせずに、戦に赴く戦士の雰囲気を漂わせている。
 戦争が始まるのだと、突然目が覚めた時のようにハッと感じた。

「シュー…」

 不安そうに眉を寄せて見上げてくる光太郎の心許無い双眸は、置いて行ってしまうことに一抹の不安を、シンナが感じたようになぜかシューも感じていた。いや、そうではない何か。
 喪失してしまうような…奇妙な予感めいた思い。

『そんな顔してるんじゃねーぞ?別にいつもあるいざこざにすぎねぇんだ。今は沈黙の主もいねぇってことだしな、すぐに戻れるだろうよ』

 見上げないと顔を見ることもできないほどの身長差がある魔物と人間の少年は、暫し無言で見詰め合っていたが、最初に堪えられなくなったのはやはりシューの方だった。

「すぐに戻ってこれるのか?…そか、良かった」

 ホッとしたように息を吐いて、それからニコッと笑う光太郎に、シューはやれやれと首を左右に振った。

「そーだ、シュー!今回は早く戻れるんでしょ?だったら、俺も連れて行ってよ!足手纏いにならないように頑張るから!ね?ね?」

『ダメだね』

 光太郎の願いは呆気に取られるほどあっさりと却下されてしまった。
 その即答に二の句が告げられないでいる光太郎に、シューはフンッと鼻で息を吐き出してから外方向いて、それから驚くことにすぐにでも判ってしまうに決まっているような嘘を吐いた。

『俺は行かねーのに、どうしてお前が行きたがるんだよ?世話役だからな、俺はまたもや留守番だ』

「…」

 その言葉で、光太郎はハッと気付いたのだ。
 そうか、シューが行くことは光太郎には内緒なのだと。シンナはああ見えてもコッソリと教えてくれたのだろう。

「…また、ゼィとシンナが行くのかい?」

『まあ、そうだろうな』

 実際はなんとも歯切れが悪く頷くシューに、この嘘つきと光太郎は内心でムッと膨れっ面をしているものの、表面的には仕方なさそうに笑うのだ。

「そか、無事でいてくれたらいいね」

『…まあな』

 見るからに出陣体勢であるシューの出で立ちを、異世界から来た光太郎には判らないと思っているのだろう、シューは居心地が悪そうに嘘を吐きながら鼻の横をポリポリと掻いた。それでも、漆黒の双眸に見詰められるのは辛いのか、何を言うわけでもなく、シューは『それじゃあな』と呟くようにモグモグ言って片手を振りながら立ち去ってしまった。
 本当は、見上げてくる黒髪の少年に、きちんと出陣することを告げたかったのだが…案の定、予想した通り着いて来たがったので先手必勝で嘘を吐くことにしたのだ。

『し、仕方ねーな。うん、仕方ねぇ。あんな寂しそうなツラしやがって!…ったく、シンナといい俺といい、全くどうにかしちまってるな。正気なのはゼィだけだぜ』

 大きな巨体を覆うような着慣れた黒の鎧は、主の機嫌の悪さを知ってか知らずか、物静かに鈍く光っている。ブツブツと悪態を垂れるシューの、その後ろ姿を見送りながら、人間の少年は世話役を見習って一つの悪巧みを決行することにした。

Ψ

 整然と並んだ部隊を引き連れて、その日遅くに早朝を目指して城を発ったシューの一行は、軽く一山越えて陣形を保ちつつ北の砦付近に野営を張っていた。早朝はまだ遠く、思ったよりも早く計画していた場所に陣を構えたシューは、ムッツリと口を噤んで椅子に腰を下ろしたままで腕を組んでいた。

『不機嫌そうねン』

 シンナの言葉にシューはジロリと黄金色の双眸で睨み付けたが、副将はそんな不機嫌丸出しの将軍など怖くもないのか、フンッと鼻を鳴らして肩を竦めて見せるのだ。
 シューの不機嫌の理由を、シンナは何となく判っていた。
 恐らく、出陣の際の見送りに光太郎がいなかったからだろう。
 吐いてしまった嘘がバレたと思っているシューは、恐らくこの戦は圧勝で終わることを確信しているからいいのだが、城に戻ったときの光太郎の始末が大変だなぁと頭を痛めているに違いない。
 そんな矢先にシンナから何か言われても、シューとしては答える気もなければ答えたくもない心境なのだ。どうせ、シンナのことだ、興味本位でからかってくるに決まっている。

『用事があるんだけどン…いいかしらン?シュー将軍ン』

『…はぁ、なんだよ?』

 頬杖をついてコップを置いたらいっぱいいっぱいになってしまう小さな卓に、顎杖をついているシューが面倒臭そうにジロリと見た。将軍ともあろうものが何たる態度かと憤然とするべき場面であるが、シンナは肩を竦めるだけで溜め息も吐かず、腕を組んだまま天幕の外を横柄な仕種で示した。

『ちょっとねぇン、大変なものを見つけましたよン』

『…偵察か?』

『だったら良かったんだけどン』

 肩を竦めるシンナに一抹の不安を覚えたシューは、『どうするのン?』と目付きだけで尋ねてくる副将に『見せてみろ』と合図を送った。やれやれと溜め息を吐いたシンナは大股で天幕の入り口まで行くと、垂れている幕を僅かに開けて外にいる何者かに合図した。それからスタスタと歩いてくると、外方向いて知らん顔である。

『?』

 訝しそうに下唇を突き出す獅子面の将軍はそんなシンナから、コソリと天幕に入ってきた人物を見て腰が抜けるほど魂消たのだった。ついていた顎杖はそのままで、これ以上はないぐらい円らな瞳を見開いたシューが、ポカンと開けた口からエクトプラズムでも吐き出しそうな感じで言葉を吐いていた。

『おおおおおお、おま、お前、ななな!?ど、これは…いや、落ち着け俺。これはどう言うことだ?』

 ジロリと睨む相手が違うシューの態度に、シンナは『知らないわよン』とムッとしたが、何も言わずにフンッと外方向くだけだ。
 シンナでは埒が明かないと踏んだのか、嫌々そうに仕方なく、シューがこの世で初めて腰が抜けるほど魂消た相手を胡乱な目付きで睨んで問い質すことにした。

『どうしてここにいるんだ、光太郎?』

「えーっと、えへへ。戦に参加したんだよ」

 悪びれた風もなく頭を掻いて、重々しそうに甲冑を着込んでいる光太郎が笑うと、額に血管を浮かせたシューがバンッと小さな卓を壊してしまいそうな勢いで叩いて、外にいる兵を震え上がらせた。
 ビクッと首を竦めた光太郎は、怒りに拳を握り締めているシューを上目遣いで見詰めながら、唇を尖らせてブツブツと言い訳を試みる。

「だって、シューが嘘つくから悪いんじゃないか。俺はシューの傍にいたいし、シューは俺の世話係なんだから一緒にいても当然だ…と思ったから」

 語尾が小声になったのは、シューの只ならぬ殺気を感じて首を竦めたからだ。

『お前、それとこれとは別だろうがよ!俺たちはこれから命懸けで戦うんだぞ!?甘っちょろい連中を相手にするってワケじゃねぇんだッ。下手すりゃ死ぬかもしれねーんだ、魔王になんて言えばいいんだよ!!』

 グワーッと一気に捲くし立てるシューの剣幕に、光太郎はビクビクしながらも「それは判ってるけど…」とモゴモゴと反論しながら唇を突き出している。

『いいや、お前は何にも判っちゃいねーんだ!クソッ、ここまで来ちまったら引き返すってわけにもいかねーし、どうしたもんか…いや、だいたいなんでお前は俺が出陣するって判ったんだよ!?ギリギリまで黙ってたんだぞ!?』

「えーっとそれは…」

 そんなシューと光太郎の遣り取りを傍らで見ていたシンナが、唐突にえへへへっと笑って頭を掻いた。

『シュー、ごめんなさいン。実はあたしがバラしちゃったン♪』

 グハッと思わず吐きそうなほどポカーンと顎が外れるぐらい口を開いて、目玉が飛び出しそうなぐらい目を見開いたシューは、椅子から乗り出すようにしていた身体を落ち着けようと改めて腰掛け、コホンッと咳払いなどしてみる。

『えへ、バラしちゃった♪』

 シューが困ったように眉を寄せて笑うと、舌を出して可愛らしくコツンッと頭を叩くようなふりをした。呆気にとられたシンナと光太郎が顔を見合わせた瞬間、当にその瞬間だった。

『…だと、このクソ副将軍がぁ!!!!!』

 小さな卓を引っ繰り返しながら叫んだシューの怒声が天幕を貫くようにして、夜のしじまに響き渡ったのは言うまでもない。
 ガミガミギャーギャーと真夜中近くまでお説教の続く天幕で、八の字のように情けなく眉尻を下げた光太郎が上目遣いに見上げながら、唇を突き出して言い募ってみる。

「シンナのせいじゃないよ。シューが嘘吐くのがいけないんだ」

『…嘘を吐かなかったらテメーが着いて来るんだろうが』

「もう、来ちゃったもんね」

 ヘヘーンッと胸を張る光太郎に、呆れ果てたように目をむくシューは、肩を震わせながらまたもや1時間ばかりの説教が続くのだが、当の秘密をバラした張本人であるシンナはと言えば、神妙に俯いている光太郎の傍ら、シューの為に誂えられたソファー式のベッドに長々と延びて高鼾である。
 絶対にこの戦が終わったら一度シンナは絞めておくべきだと心に固く決意して、シューは苛々したように小さな卓に顎杖をついて溜め息を吐いた。激しい剣幕が粗方終わったのを確認してから、光太郎は少しずつ怒りのオーラを陽炎のように立ち昇らせている、頭から湯気を出して怒っているシューの傍に近寄りながら訊ねるのだ。

「えーっと、今回はでも、うん。俺が悪かったと思う。でも、シンナのせいじゃないよ、俺は自分でちゃんと考えて、どうしてもシューの傍にいたかったから黙って着いて来ちゃったんだ。だから悪いのは俺なんだ」

『当たり前だ!…ったく、どうしてそんなに俺の傍にいてーんだよ?城にいるほうが安全だろうによ。ゼィやシンナが戦に出ても着いて行きたがるのか??』

 呆れ果てたように聞いてくるシューに、光太郎は小さく笑って首を左右に振った。

「ううん、シューだったから。俺、やっぱりシューがいないとダメなんだよ」

『…この馬鹿野郎が。はぁ、魔王になんて言うかな~』

「その点は大丈夫」

 ニッコリ笑う光太郎がいつの間にか傍に来ていて、それでもそんなことには然して気も留めていないシューは、やれやれと仕方なさそうに肩を竦めてそんな少年を見下ろした。

『どういう意味だ?』

「えっへっへー♪…えーっと。あのね、シュー」

 モジモジしたように俯いている光太郎に、大方また何か企みでもしているんだろうとますますこめかみの辺りが痛くなったシューは、それでも一応律儀に応えてやるのだ。

『なんだよ?』

「…もし、もし俺が死んだら、シューは泣いてくれる?」

 不意に獅子面を覗き込むようにして、キラキラと明り取りの蝋燭の炎を反射しながら煌く漆黒の双眸に見詰められ、シューは一瞬ギクッとした。なぜそんな風に思ったのかは判らなかったが、一瞬、その目に射竦められてしまったかのように心臓が萎縮した…ような錯覚を感じてしまったのだ。
 そんな馬鹿げた気の迷いを振り払うように、真摯に見詰めてくる少年の気持ちを思い遣ってやる余裕もなく、シューは大袈裟に片手を振って大声で言い放った。

『馬鹿らしい!どうして俺が人間なんかが死んだぐらいで泣かなきゃならんのだ』

「…そっか、そうだよね。シューは魔物だから当たり前だよね」

 ちょっと笑って俯いた光太郎に、シューは自分の揺らぐ気持ちの意味が判らなくて、却ってムカムカしながらそんな光太郎の顎を掴んで上向かせた。そうして、その泣き出してしまいそうな双眸を見つけた瞬間、シューはドキッとした。その大きな瞳から、今にも大粒の涙が盛り上がって、そのまま頬に零れ落ちてしまうんじゃないかとなぜかハラハラしてしまうシューに、光太郎は困ったように微笑んだ。

「シュー、ごめん」

『…フンッ!馬鹿らしいことばっかり言ってねぇで、少しは反省しやがれッ!』

 そうして、まるで感じたことのない胸の動揺を払拭しようとでもするかのように、シューはガミガミと怒り散らした。でも光太郎は、なぜかそれほど怖くないなと思いながら、シューに内緒でコソリと欠伸をするのだった。
 そしてその日の早朝、とうとう一睡もできないでいたシューが目の下に仲良く熊を飼い馴らしているその顔を、光太郎が恐る恐ると覗き込んだ。昨夜遅くまでこってりと絞られはしたものの、結局、あの後すぐにもう来てしまったものは仕方がないと言って同罪であるシンナの傍から離れないことを条件に許したのだった。

『いいか、一歩でもシンナから離れたら俺が殺してやるからな』

 ニッコリ笑う精神状態がちょっとヤバくなっているシューの発言に、光太郎がうんうんと蒼褪めたままで大人しく頷いていると、ふと背後から声がかかった。

『あれ?嘘、まさか光太郎かよ!?』

 その声はもちろん聞いたことがあって、光太郎は振り返ると困ったように笑いながらその名を呼んだ。

「や、やあ、バッシュ」

『これは!?へ??シュー様、大丈夫なんですかい?』

 光太郎に何か言うのではなく、やはりと言うべきか、蜥蜴の親分が甲冑を着ているようなバッシュは獅子面の将軍に困惑したような視線を向けるのだ。

『仕方ねぇ、こればっかりは俺の責任だ。光太郎のことは気にせずに確り殺してくれればそれでいいからな!』

『は、はい』

 バッシュはそれでも心配そうに光太郎に振り返り、内心では何かあったら助けてやらねばと決めていた。そんな雰囲気がシューには伝わって、この無鉄砲が服を着ているような光太郎の、その行動力が今回ばかりは裏目に出ないことを腹の底から願っていた。

『やれやれ、とんだヤツの世話役なんぞになっちまったな』

 間もなく奇襲攻撃の時を迎える陣は既に整然と並んでいて、朝日を背にして立ち向かう馬上の人になっているシューは、眼前に居並ぶ白兵部隊の歩兵たちを見渡しながら溜め息を吐いた。
 さすがに将軍と同じ馬に乗るわけにはいかず、もちろんそれは、将軍たる者はいつもその首を狙われる立場にあるから誰の馬よりも危険になるからで、仕方なくシンナの前に乗ることになった光太郎はふと、暗い表情をしてそんなシューを見詰めた。
 いつもなら切り込みに先陣を切って突っ走るシンナだが、今日は秘密を洩らした責任を取って光太郎を全面的に護ることを約束したのだ。

「…大丈夫だよ。この戦争が終わって城に帰ったら、もうシューは自由だ」

『なんだと?』

 光太郎が小さく笑うと、その瞬間、なぜかシューは言い様のない不安に駆られた。
 唐突に何を言い出したのかと目を瞠るシューに、不意に傍らにいた伝令から時を知らせる合図が届いた。どういう意味なのか聞かずにはいられないと言うのに、シューは将軍である。その合図を無視して作戦を失敗させるわけにはいかなかった。

(まあ、城に帰ってこってり絞ってもいいか…)

 不安そうに笑う光太郎の言動に動揺してしまっている心の内を押し殺して、シューは安易にそんな風に考えていた。そう、それは、当然のように来るはずの未来だったからだ。

『さぁーッて、いっちょ派手にやってやろーぜ!』

『弔い合戦だ!』

『うおぉぉぉーーー!!!』

 シューの言葉を合図に鬨の声を上げて、魔軍の群れが怒涛のように北の砦目指して雪崩れ込んで行く。
 もう何度目かになる、人間対魔物の合戦が今、火蓋を切って落とした。

6.牙城の侵入者  -永遠の闇の国の物語-

 ブツブツと悪態を吐きながら大股で謁見の間に足を踏み入れたシューは、その憤懣遣るかたなさそうな見るからに不機嫌が具現化したかのようなその姿に、衛兵はギクッとして慌てて玉座の間に続く緞帳を引き上げた。
 それでも一応は魔王を拝顔するのだから、一旦は落ち着きを取り戻そうと深呼吸してはみたものの、どうも腹の虫が収まらない。と言うよりは寧ろ、何か仕出かしてやしないかとハラハラしているのだ。
 引き上げられた緞帳から顔を覗かせたシューは、玉座の間の有様に一瞬立ち竦んでしまった。
 それもその筈…

『おお、シューか。よう参ったな』

 魔族を統べる尊き象徴である魔王が、床に散乱している書物を拾い上げながらゆったりと微笑んでいるのだ。その空いている方の手には確りとハタキが握られている。

『ままま、魔王!いったいこれは…』

 何の騒ぎですかと問い質そうとするその金色の双眸に、ふと、奥の部屋から顔すらも見えないほど書物を抱えてフラフラしながら出てきた何かが写って、動揺したまま立ち竦んでしまった。

『何を慌てているのだ、シューよ。ご覧、無駄な書物がこれほどに出て参ったぞ。始末せねばと思っていたのだが…有り難いことだ』

 そう言って魔王は機嫌良さそうに必要な本と不要な本の仕分けをして、深く被っている埃をハタキで払い落としている。壮麗な衣装に身を包んだ威圧感漂うはずの魔王は、埃に頬を汚しながら穏やかな微笑すら浮かべているのだから、シューは全身にビッシリと汗を掻いてしまった。
 ダラダラとこめかみから汗を噴出すシューに、バサバサッと重い書籍や書物を落とすようにして下ろした光太郎が、その時になって漸く埃の中から咳をしながら声をかけてきた。

「あ、シューだ♪良かった良かった、手伝ってよ!」

 ニッコリと笑う屈託のない、その顔を一発でいいから殴らせてくれと言いたくなる無邪気な笑顔を見て、一気に脱力してしまいそうになったシューは慌てて気を取り直すと魔王の手からハタキを奪い取った。

『魔王!このような仕事は俺たちがするもんです。どうぞ、お召し替えされてお寛ぎください!』

『私は構わんのだがな…』

 キョトンッとした魔王はしかし、ふふふっと酷薄そうな薄い唇に笑みを浮かべると、必死の形相をするシューと、彼の忠実な衛兵たちの慌てふためく姿を見て大人しく従うことにしたようだ。
 本来なら斬首されてもおかしくない進言を口にして、ダラダラとこめかみから汗を噴出しながら蒼褪めたままで魔王を見送ったシューは、キョトンッとしている人間の少年の首根っこを引っ掴んで吠え立てた。

『~お前はッ!!どうしてこう、次から次へと問題を起こしやがるんだッ』

「イタタタ!って、別にただ掃除してるだけだろッ」

『その掃除の仕方が問題大有りなんだろーが!相手は魔王なんだぞ!?』

 シューの激怒する意味を判りかねている光太郎は、ムッと唇を尖らせて拳をグーにして獅子面魔将軍の脇腹に軽いパンチをお見舞いした。

「仕方ないだろ?ゼインは自分から手伝うって言ったんだ!」

『なんだと!?』

 素っ頓狂な声を上げるシューが玉座の間の掃除を手伝っている衛兵を睨むと、いらなくなった書籍や書物を片付けていた魔物の1人が、仲間から押し遣られるようにして嫌々仏頂面の将軍の前に平伏した。

『は、はい、あの…光太郎さまがお越しになられてからその、部屋中を掃き出されまして…魔王様はニコニコされておられたんですが突然手伝われると仰いまして…』

 歯切れの悪い言い訳のような説明に、シューは合点がいったのか、首根っこを引っ掴んだ少年を無造作にヒョイッと持ち上げた。苦しそうに眉を顰めた光太郎が唇を尖らせて暴れると、その顔を覗き込みながらシューは言った。

『あのなぁ、お前…大方また魔王の周りをチョコマカと掃いてたんだろう?魂胆丸みえだっつの!』

「…えへへへ。バレたか」

 思わずニヤッと笑ってしまって、頭を掻きながらごめんねと謝る光太郎に、シューは脱力したように溜め息を吐きながら首を左右に振ったのだ。

『まあ、お咎め無しだったからいいようなものの…頼むから俺の寿命を縮めないでくれ』

「シューは大袈裟だよ~」

 アハハハッと屈託なく笑う光太郎を恨みがましい目付きで睨み付けながら、シューは引っ掴んでいた手をパッと離して胡乱な目付きで片手を振ってオドオドしている衛兵たちを散らすと、床に散乱した書物を拾い上げるために屈み込んだ。その傍らにドシッと落ちてしまった光太郎は「アイタタタ…」と呟きながらシューの傍らに座り込んだ。

『そうやって考えなしに何でも言ってるんじゃねーぞ?シンナに何を言ったのか知らねーが、喋る前にまず物事を考えろ』

「…え?シンナがどうかしたの」

 少し驚いたようにライオンヘッドを見上げる光太郎に、シューは顔の角度を変えずに金色の鋭い瞳でジロリと見下ろして唇の端を捲りあげた。

『アイツがおかしくなるのは何時ものことだから気にする必要はねぇけどよ…それに、アイツにはゼィがいるからな。だがまあ、時には口にしてはいけねぇことだってあるワケだ』

「ええ?シンナとゼィは付き合ってるの?」

 話の論点がずれてきているのだが、それでもシューは辛抱強く首を左右に振って見せた。そのシューの態度に判らなくなった光太郎が眉を顰めると、仕方なさそうに獅子面の魔物は説明してやることにする。

『その付き合いってのがどういう意味かは知らんが、まあ確かにゼィとシンナは長い付き合いだからな。しかもお互い将軍と副将と言う間柄だ、自然と求め合ってもおかしくはねーってワケだ。だが、2人はそれ以上の関係じゃねぇが、俺なんかよりも親しいワケだから、シンナがおかしくなってもゼィがどうにかするだろう』

 シューは率直にこそ言わなかったが、ただ単にゼィとシンナは長い付き合いから身体を求め合っているに過ぎないと言っているのだ。そこには【愛】や【恋しい】と言う感情は、シューの言葉から感じられることはなかった。

「そっか…でもそれは、少し寂しいね」

 僅かに俯いた光太郎は内心で、ああそうか、と漸く判ったような気がした。
 シンナが寂しそうな表情をするのは、もしかしたら、彼女は心の底からゼィを愛しているのかもしれない。だけど、だからこそ、長い付き合いが邪魔をして素直に愛を告白できないでいるんだろう。もしかしたらゼィは、ゼィの方が彼女をなんとも思っていないのだとしたら、それは、誰よりも傍にいるからこそ苦しくて、悲しい想いなんだろうなと光太郎は唇を噛んだ。
 恋の何たるかなどと言うことは判らないが、それでも大好きな人に告白できない気持ちは痛いほど良く判る。片思いなら何度だってした光太郎だ。

(結局いつも振られてるけど…)

 恋は何度でもできるけど、でも、シンナの胸の奥深いところに蹲っている想いが愛だとしたら、容易く忘れられるはずもないし、あんなに近くにいる2人だからすぐに諦められるものでもないだろう。だからシンナは、寂しさを胸いっぱいに抱えながら、全てを捧げて我慢しているのかな…
 俯いている光太郎を何かを思いながら見下ろしているシューに、人間の少年は「ん?」と首を傾げてから、唐突にハッと気付いたようで慌てて顔を上げた。

「シンナがおかしくなったのか!?」

『誰にも言うなよ』

 今更吃驚したように漆黒の双眸を見開く光太郎を既に慣れてしまったシューはジロリと間近で睨んで、コクコクと大きく頷いて身体をにじり寄せてくる小さな少年に念を押して口を開いた。

『事もあろうにシンナのヤツは、魔王の悲願をぶち壊すような発言をしやがったのさ』

「ええ!?それって大変なことじゃ…」

『物凄く大変なことなんだ。誰かに聞かれでもしたら、シンナの首はその日のうちに飛んじまう』

 その台詞に恐れをなしたのか、光太郎は口を噤んで俯いてしまった。
 サラサラの黒髪は、禍々しいほど美しい鈍い光を放つ魔王のそれとは違い、生気に溢れた優しい匂いがして、シューにとって密かに気に入っている部位だった。その黒髪を揺らして俯いた少年を、暫くジッと見下ろしていたシューはしかし、仕方なさそうに軽く溜め息を吐いて散乱する書物を片付けにかかった。

『なんにせよ、シンナのヤツは破天荒で知られる魔軍の副将だ。自分の言葉には常に行使力が働くことぐらいは重々承知しての発言なんだ。お前が落ち込む必要はねぇよ』

 ゆっくりと顔を上げて上目遣いにシューを見上げる光太郎を、ライオンヘッドの魔物は自慢の鬣を揺らして牙を覗かせながら、噛み付く振りをしてみせた。

『だがな、注意は必要だ!お前は危なっかしくて肝が冷える』

「…シューがいるから大丈夫だよ」

 ニコッと笑う光太郎に、事の重大さを果たして本当に認識しているのだろうかと、一抹どころじゃない不安を感じてシューが耳を伏せていると、あっけらかんと笑う人間の少年はそれでも心配そうに首を傾げている。

「きっと俺、シンナに悪いこと言っちゃったんだろうなぁ…あとでちゃんと、謝っとかないと」

 ふと、シューはそんな光太郎を見下ろした。
 手にした古い書物たちはどれも埃を被っていて、長い年月を無駄に書庫の中で眠っていたことを物語っているようだ。その歴史ある一つ一つの書物を、大事そうに埃を払いながら見詰めている光太郎の横顔は、シンナに対する申し訳なさに霞んではいるが生命の輝きをキラキラと放っている。
 それは、もう随分昔に忘れ去っていた、人間の持つぬくもりだった。

『…』

 魔物に対して素直に謝ろうとする世にも珍しい人間…シンナは言っていた。
 果たして光太郎を、本当に【魔王の贄】にしてしまってもいいのかと、投げ掛けられた疑問が再び脳裏に甦ってきたのだ。
 分厚い書籍を軽々と持ち上げて顎の辺りに背表紙を当てながら考え込んでいる獅子面の魔物に気付いた光太郎は、神妙な面持ちのシューを真下からジーッと覗き込んだ。
 首筋まで覆うような立派な鬣は褐色で、突き出した鼻筋にムッと引き締まった口は確かにライオンそのもので…ジーッと見ていても見飽きないその顔の下にある、筋肉に覆われた立派な体躯は人間そのものなのだから不思議だなぁと光太郎は考えていた。
 だが、シューのそんな獅子面が、なぜかとても好きだと思ってしまう自分もまた、不思議だなと思って小さく笑ってしまう…と、そのライオンの顔の中で唯一、邪悪な魔に支配された魔物であることを証明するような鋭くも凶悪な光を宿した黄金色の双眸がジロリと見下ろしてきた。

『なんだよ?』

「えへへへ。シューって可愛い顔してるよね」

『グハッ!な、な…ッ!?』

 生まれて初めて言われた言葉に思わず噴出しそうになってしまったシューは、二の句が告げられずに黄金色の双眸を白黒させて、このとんでもないことを平気で喋ってしまう厄介な人間の少年をマジマジと見た。

「俺ね、シュー大好きだよ」

 太陽に似た花がポンッと開花したような、柔らかな笑顔を浮かべる光太郎が何気なく言ったその言葉に、不意にシューは、ムッと不機嫌そうな顔をして立ち上がった。

「あれ?シュー??」

 何も言わずに重そうな分厚い本をヒョイッと抱えて立ち去ろうとするその後ろ姿を、書物を両手いっぱいに抱えて立ち上がった光太郎が慌てて追いかけた。

「怒ったのか?だったら、ごめん!でも、ホントなんだよ…?あ、でも!別にシューの顔が可愛いから好きとかじゃなくて、シューのこと、全部好きだって思ってるから!だから、別に嫌がらせとかで言ってるんじゃないんだ。シューにしてみたら馬鹿にしてるのかって思っちゃうかもしれないんだけど、俺、上手く表現できないんだけど。最初に会ったときは凄い怖いって思ってたんだよね。でも、一緒にいる間にシューって、言われたら嫌かもしれないけど…本当に優しかったし、良い魔物なんだなって思うようになったんだ。だから、大丈夫!うん、ちゃんとシューを見て好きになったから…」

 両手に抱えた書物を落とさないように気をつけながら一生懸命説明する光太郎の目の前で、不意にシューが立ち止まった。その広い背中に気付かないまま思い切りぶつかった光太郎は、鼻先を押さえながら涙目で振り返らない獅子面の魔物を見上げた。

「シュー?」

『全く…これだから俺は人間ってヤツが気に喰わねぇんだよ。その時の感情だけでベラベラ喋りやがって…俺を好きだと?俺の全てを好きになっただと?』

 殺気のような怒りのオーラが蜃気楼のようにゆらりと立ち昇って、肌をビリビリと焼くような振動にビクッとする光太郎を獅子面の凶悪な魔物が振り返った。その黄金色の双眸に射竦められて、力が抜けた光太郎の腕から書物がバサバサと床に落ちてしまった。

「あ…」

 思わず条件反射で…と言うよりも、その射抜かれるような強い双眸から逃げ出そうとするかのように、落ちてしまった書物を拾おうと屈み込みかけた光太郎の腕を、力強い大きな掌がガッチリと掴んで乱暴に引っ張った。

「痛ッ」

『俺を見ろよ、ええ?俺を見て俺を好きになったんだろ?俺は魔物だ。お前が何を勝手に考えていようと、俺は人間を憎んでいる魔物なんだぜ。ほら、俺の目を確り見るんだ。これでもお前は、俺をまだ好きだなんて安っぽい言葉を吐きやがるのか?』

 光太郎は、地獄の底から噴出すような凶暴性を孕んだ双眸に見据えられて、じっとりと背筋を濡らす汗を感じていた。それは感じたこともない恐怖で、直感的に殺されると思うほどだった。

『光太郎、物事はちゃんと考えて口にしろと言っただろ。何かを言うときは、責任を持ちやがれ。ここはお前の住んでいたようなお綺麗な場所じゃねぇんだ。言葉一つ間違えても命取りになるんだぜ』

 それはシューの、最大限の優しさだった。

『魔物の世界ではなんでも一つしかねーんだ。【好き】と言う言葉は即ち【愛している】と言う意味になって、互いの命を別ち合う、お前たち人間の言葉で言えば【婚姻】を意味するのさ。だから、人間の感覚でシンナやゼィに【好き】なんて言うんじゃねーぞ』

 威嚇するように牙を剥いたシューは、それでも噴出すような殺気と怒りを唐突に引っ込めると、軽い溜め息を吐いてやれやれと首を左右に振った。左右に振ったが、先ほどから視線も逸らさずに食い入るように自分を見つめる漆黒の双眸に気付いてギクッとした。

『な、なんだよ』

 恐る恐る聞き返してしまうシューの丸い耳が、微かに震えているのは気のせいではない。

「…ちゃんと、責任を持てばいいんだよね?」

『なぬ!?』

「俺は、シューが大好きだよ。シューの傍にいて幸せだし、シューのお日様のような匂いも大好きなんだ…あ!またすぐ睨む。睨んでもいいよ。そりゃ、ちょっとは怖かったけどでも、ジッと見てたらやっぱりシューなんだ。どんな怖い顔してても、やっぱりシューはシューなんだ。仕方ないよ」

 呆れたようにポカンッと見下ろしたシューはしかし、ガックリと項垂れて、まるで脱力したように掴んでいた腕を離すと片手で顔を覆った。

『そりゃ、お前。雛鳥のすり込みってヤツじゃねーか。もう、勘弁してくれ。俺は行くぞ』

 何か言うのも疲れたのか、勝手にしろとばかりに突き放したシューは、もう問答無用でズカズカと重い書籍を軽々と小脇に抱えて立ち去った。その後ろ姿を見送った光太郎は、掴まれた痕の残る腕を見下ろして、それから頬を微かに染めながら双眸を閉じると、ソッとその部分に唇を寄せた。
 力強い掌に掴まれて引き寄せられたとき、なぜか突然ドキッとした。それに追い討ちをかけたように睨まれて、確かに身体は竦んだのに、どうしてその金色の双眸から目が離せなかったのだろう…
 シューのことが好きだ。
 ソッと口に出して、それから唐突に心臓が跳ねる感覚を覚えて戸惑った。

「んー、これってなんだろ?心臓が凄いドキドキする…苦し」

 ドキドキする胸元を押さえながら眉を寄せる光太郎は、その感情がどこから来るものなのか判らなくて不安になった。こんな感じは初めてで、どうしたら良くなるのかも判らなくて息苦しくて仕方がない。

「う~、だって!ちゃんと好きって言わないと気持ちって伝わらないじゃないか。シューには凄く感謝してるんだから、キチンと気持ちを伝えないと。人間的にって…そもそも魔物の考え方がおかしいんだよ!「好き」の意味が一つしかないなんてどうかしてるよッ。じゃあ、どんな風に感謝するの?すっごい良い人だって思ったら大好きだなって思うじゃないか!俺はシンナも好きだよ。んー、でもやっぱりシューが大好きだけど…なんか、考えるのやめた。もう、ワケが判んなくなってきた。はぁ、疲れた」

 一頻り一人で弁解だの愚痴だの屁理屈だのをグチグチと言っていた光太郎は、唐突に眉を寄せて、それから疲れたように項垂れてしまった。自分で言っているうちに、感情そのものがこんがらがってしまったのだ。

「シンナに聞いてみようかな…あ、ダメだ。シンナに聞いちゃダメなんだ。ん~、どうしようかなぁ」

 書物を拾って両手に抱え直しながら釈然としないままで、それでも漸く光太郎はシューの後を追うことにした。
 ガックリ項垂れた背中は、この国に来て初めて、疲れきっているようだった。

Ψ

 それから何日かが過ぎて、結局、光太郎が弾き出した結論はシューに付き纏えばいいのだと言うことだった。
 あれやこれやと聞いてみても、獅子面の魔物はウンザリしたような顔をするだけで、明確な答えと言うものは全く教えてなどくれない。それでも根気良く着いて回っていると、シューの方が煙たがって逃げ出してしまう有様だ。

「ひっどいなー。これじゃあ、なんにも判らないよ」

 ブツブツと珍しく悪態を吐きながら床を磨いていると、不意に向こうから神官風の魔物を従えたゼィが歩いてきていた。その手には幾つかの巻物らしきものを持っていて、その表情は些か沈んでいるようにも見える。

『…よって、人間どもの勢力が高まっている模様でございます』

『厄介なことよ。大方、【魔王の贄】の出現に我らの気が漫ろになったことも要因の一つであろうな』

 立ち止まったゼィが巻物を開いて見ると、そこには何やら気に障る内容でも書かれているのか、溜め息を吐いて首を振って巻物を放り投げると腕を組んだ。神官風の魔物は慌てたようにその巻物を受け取ると、冷や汗を額に浮かべて焦ったように言い募っている。

『彼の国は隣国を巻き込んで肥大化してきているようでございますが、付け焼刃の王であるせいか統率はいまいちのようでございます。攻め入るならば、内偵を放って…』

『ふん!だから其方は愚かだと言うのだッ』

『は、はは!?』

 ジロリと睨みつけてから、不機嫌そうに額に血管を浮かべて歩き出したゼィを慌てたように軍師らしき魔物が追い縋るが…ふと、不機嫌のオーラをバリバリと漂わせる胡乱な目付きのゼィと、しゃがみ込んで床を磨きながらポカンッと見上げていた光太郎の目がバチッと合ってしまった。
 光太郎が内心で「ひえぇぇ」と泡食っていることなど露知らぬゼィは、それまでの不機嫌そうな声音とは打って変わった穏やかな調子で声をかけてきた。

『おお、光太郎ではあるまいか?』

「や、やあ、ゼィ。なんだか大変そうだね」

『ふん!役立たずの軍師に手を焼いておるだけのこと、光太郎はまた掃除か?』

 役立たずと言われてガックリと項垂れる魔物を追い払って、ゼィは大股で光太郎に近付くとその傍らに座り込んだ。胡坐を掻いて腕を組むと、不機嫌そうに眉間に皺を寄せている。

「うん、そう。最近、随分と綺麗になったと思わないかい?」

 光太郎が雑巾を片手にニッコリ笑うと、それまで不機嫌そうに眉間に皺を寄せていたゼィは、ふと、頬を緩めていつもの無表情に戻った。

『うむ、城の者どもも噂をしておるようだ。光太郎が来てから城が明るくなったとな』

「…いいことがどうかなんて判らないけど、俺ができることなんてこれぐらいだから」

 エヘヘヘッと、少し自信がなさそうに笑う光太郎にゼィはキリリッと整った眉を跳ね上げて驚いたような表情をして見せた。

『はて?光太郎らしくもないではないか。常に自信に満ち溢れ、己が行動に躊躇いのない光太郎はどこに参ったのだ?…む、シューが見当たらぬようだが?』

 今気付いたかのように、【魔王の贄】の世話役としていつも影のように寄り添っている獅子面将軍の姿がないことに首を傾げながら、ゼィはキョロキョロと辺りを見渡した。それでも、シューに用事があるわけではないからなのか、どうでもよさそうに肩を竦めて見せた。

『大方、また何処ぞの陰から覗いてでもおるのだろう』

「えーっと、その。違うんだ。ちょっと、怒らせちゃって…」

 困ったような、不安そうな顔で笑う光太郎を見下ろして、ゼィが無表情で首を傾げて見せる。

『怒る?あのシューがか??はてさて、光太郎が現れてから珍奇なことばかり起こるようだな』

「俺が来る前はシューはこんなに怒らなかったのかい?」

 どうでも良さそうに呟くゼィの深い紫色の双眸を驚いたように見上げた光太郎が首を傾げると、青紫の髪を持つ思慮深い面立ちをした優美な美しさを持った魔物は下唇を突き出すようにしてどうでも良さそうに口を開いた。

『怒るというよりも寧ろ、相手をしてはいなかった。飄々としておったからな』

「そうなんだ…シューは、俺には怒るんだね。嫌われてるのかな…」

『む?人間を気に食わぬは我ら魔族の性のようなもの。が、シューは然程光太郎を嫌っているようには見えなかったぞ』

 しょんぼりと肩を落としてしまう少年を見下ろして、どう言った気分の変化が起こったのか、ゼィは僅かに眉を寄せて気を遣ったのだ。ここにシューが、或いはシンナがいてその姿を見ようものなら、驚きに卒倒してその場にぶっ倒れていたかもしれない。それだけ、そのゼィの人間に対する気遣いなど皆無に等しい行為だったのだ。

「えーっと…ちょっとゼィに聞いてもいいかな?」

 俯いていた光太郎はジーッと床を見詰めていたが、不意に顔を上げてボーッと石造りで文様を施された豪華なアンティーク調の天井付近を見上げているゼィに声をかけると、先ほどまで額に血管を浮かべて不機嫌のオーラを無造作に出していた魔物は今ではその気配すらも感じさせずに何事かと首を傾げた。

『何か?』

「ゼィたち魔物にとって言葉の意味って一つしかないんでしょ?」

『…ああ、それは特別な言葉のことであろうな。それならばそうだろう』

 光太郎の言葉に首を傾げていたゼィは、大方の予想をつけて頷いた。

「たとえば、たとえばだよゼィ。もし、俺がシンナやゼィやシューを【好き】だとするだろ?その場合の魔物たちの表現ってどうするんだ?」

『そんなことはシューに聞くが良い…と言いたいところだが、あの朴念仁ではそう上手くもゆかぬのであろうな。好意を持ったのであれば長らく傍におることだろう。言葉にしろ、態度にしろ、我ら魔族にはその表現はないに等しいのだ』

「でもそれだと」

 シューに予め聞いていた同じ言葉に眉を寄せながら、光太郎はやっぱり納得できないように唇を突き出して反論を試みた。

「ないに等しいって言うけど、それじゃあ少しぐらいはあるってことじゃないの?俺はそれが知りたいんだ」

『ならば身体を重ねればすむこと。表現とはまさにそれではあるまいか?』

 極平然と、まるで当たり前のことのようにあっさりと言い切ったゼィに、光太郎は吃驚したように目を白黒させて次いで、慌てたように顔を真っ赤にした。

「で、でもそれって…じゃあ、【愛してる】のときはどうするの?」

『それは、魂を分かち合うのだ』

「え?」

 不意に耳慣れない言葉を聞いて首を傾げる光太郎に、ゼィは気が落ち着いたのか、ゆっくりと立ち上がりながらキョトンッとしている人間の少年を見下ろした。

『人間には耳慣れぬ言葉であろうな。俗に言う【婚姻】というものだ』

「…あー、ああ!そっか、魔族にも結婚って言うのはあるんだね」

『結婚と申すかどうかは判らぬが…』

 呟きながら頷いたゼィは、そのまま話を切り上げて立ち去ろうとした。その後ろ姿に、光太郎は思わずと言った感じで声をかけてしまった。

「あ、ゼィ!」

『…ん?』

 不意に足を止めたゼィが振り返った。
 青紫の髪と深い紫の瞳、高い鼻梁に酷薄そうな薄い唇は、禍々しくもあるが優雅な美しさが際立って、この古風な長い回廊に佇んでいるとまるでお伽噺から抜け出してきた精霊か何かのようだ。
 さらりとした髪が頬に揺れ落ちて、ゼィは不思議そうな顔をしている。
 シンナが愛している人は、確かに魔族の中に在っても際立つ美しさと威風堂々とした威圧感があった。

「えーっと、その…ごめん、なんでもないんだ」

 えへへへっと笑って誤魔化すと、ゼィは訝しそうに眉を寄せはしたが、フッと軽く笑って立ち去ってしまった。その後ろ姿を、頬を引き攣らせて笑いながら片手を振って見送っていた光太郎は、ガックリと床に両手をついて項垂れてしまう。

「さ、さすがに言えないよ!だって人の恋路を邪魔するヤツは馬に蹴られて死んじまえって、ばーちゃんが教えてくれたんだ。なんとか、俺で手伝うことができたらいいのに…恋愛経験が丸っきりないこんな俺だと、こう言うときはまるで役立たずなんだよなぁ…」

 木製のバケツにたっぷり入った水の中で雑巾を洗いながら光太郎が溜め息を吐くその傍らを、何も知らない見張りの仕事あがりの魔物や、書物庫から戻ろうとしている魔導師、闇の神殿に参拝途中の神官などが、小さな人間がせっせと床磨きをしている微笑ましい光景に目を留めては噂しながら行き交っていた。

『全く…光太郎が来てからこの城は明るくなった』

『うむうむ、嫌がる仕事も喜んで引き受けてくれるしなぁ…全く、人間にしておくには勿体無いほど素晴らしい少年だ』

『城全体が綺麗になってきたのぅ…もうずっと、この城に居てくれればいいんじゃが』

『城だけでなく、殺伐とした我らの気分も明るくなったぞ』

『この城にずっと留まってくれればなぁ…』

『我らと共に居て欲しいなぁ…』

 柱の影から案の定、コソリと様子を窺っている胡乱な目付きのライオンヘッドの魔物のその鋭敏な聴覚にも、噂話は余すところなく漏れ聞こえていた。背後に暗雲を背負いながら、そんな冗談言うなよと、シンナとほぼ同じぐらい大それたことを口走る魔物どもにウンザリしたような顔をして、それでもシューは、汚れてくすんでいたはずの鏡面のようになっている床に顔を近付けて、ちょっと小首を傾げながらゴシゴシと磨いている光太郎を見詰めていた。

『そんな冗談言うなよ…』

 もう一度呟いてみて、シューは溜め息を吐いた。

『クッソ!俺の方が冗談言うなの心境だなッ』

 柱を背にしてへたり込むようにしゃがみ込んだシューは、膝の間に両腕を投げ出して、やれやれと項垂れてしまった。顔を出せば忽ち光太郎に見つかって、世間知らずの人間のしかも小僧如きに「好きだ、好きだ」と連呼される羽目になる。
 それだけは避けたいからこそ、こうしてゼィから鼻先で笑いながら言われたように、何処ぞの柱の陰に潜んで覗き見しているのだ。

『…何してんだろうな、俺』

 盛大な溜め息で回廊を歩いていたバッグスブルグズがビクッとしたように立ち止まって、よせばいいのに恐る恐るそんな不機嫌の固まりになっているシューに声をかけてしまった。

『シューの旦那じゃねーか?こんなところで何してるんだ??』

『…うるせーぞ、バッグスブルグズ!俺の名を呼ぶんじゃねぇ!!』

 もうヤケクソになったようにバッグスブルグズの足を払って見事に転ばしたシューは、その馬面の魔物の首に腕をかけて寝技に持ち込んだ。この数日で溜まりに溜まったストレス発散に、バッグスブルグズが餌食になってしまった。

『しゅ、シュー様??』

 驚いたように闇の神官が恐る恐る立ち止まって口許を押さえながら覗き込むと、バッグスブルグズが大きな腕をバシバシッと叩きながら『ギブギブ』と呻いている。
 そんな騒ぎに気付いた光太郎が立ち上がって人だかりに首を突っ込むと、思わぬ光景にプッと吹き出してしまう。

「何してるんだよ、シュー」

 ケラケラ笑う光太郎に気付いたシューは、どうしたのか、ますますいきり立ったように馬面魔物の首を締め上げてしまう。白目を剥いて泡を吹きかけたバッグスブルグズに気付いた神官たちが、その時になって漸く慌てたようにシューを止めに入った。

「わわ!?ダメだよ、シュー!!」

『うるせー!人間はすっこんでろッ』

『つーか、グハッ!手を…手を…はなし…ぐへぇ』

『シュー様!お止めくださいませ~』

 騒然とする回廊で、光太郎も慌ててそんなシューを止めるのだったが、さすがは魔将軍である。全く意に介したようになく、日頃の恨みも込めてバッグスブルグズの首を締め上げるのだった。
 哀れバッグスブルグズ、ご愁傷様である。

Ψ

 魔王の眼前に控えたシューと、そしてゼィとシンナが神妙な面持ちでその言葉を待っていた。
 魔軍を率いる武将の顔ぶれをゆっくりと見渡した魔王は、玉座にゆったりと凭れながら腹の上で両手を祈るように組んだ。不貞腐れている約一名を除いて、魔将軍どもは真剣そのものの表情をしている。

『…儀式を執り行えと申すのか?』

 魔王の声音は吹雪のように冷たいが、室内の温度を幾分か凍りつけた後、まるで何が可笑しいのか、魔王はさも面白そうにクックックッと咽喉の奥で嗤った。そのゾッとするような哄笑はあまりに突発的で、一瞬怯んだ忠実な配下にこの世の全てを統べるべく誕生した王は片手を無造作に振ったのだ。

『下らん』

『魔王、お言葉ですが時は充分満ちております…』

 ゼィが物静かに口を開くと、シンナがそんな将軍をジロリと睨んだ。
 唯一、この玉座の間に姿を現したときから不機嫌そうに眉を寄せているシンナをチラリと見下ろして、魔王は尊大な態度で頬杖を付いた。

『ならば理由とやらを申してみよ』

 端から取り合う気など毛頭ないのか、絶対的な力を誰よりも欲していたはずの魔王のその、中途半端な態度にシューが苛々したように口を開いたのだ。

『畏れながら魔王、彼の者が来てからの我が城の緊張は、まるで砂糖菓子のように脆くなっております。この虚をいつ何時人間どもが狙ってくるか判りません』

『ふむ、なるほど。だが、どうも私の、以前にも増して結束が強まったという思いは気のせいであるのかな?』

 間髪入れずに尊大な仕種で見下ろしてくる魔王が言うと、シューは『そんなまさか…』とブツブツ悪態を吐きながら唇を尖らせた。だが、ゼィは違っていた。
 冷静に事態を把握する冷徹な魔将軍であるが故に、ゼィは静かながらも存在感のある声音で魔王に進言するのだ。

『結束が強まるは良きことですが、魔王よ。人間どもも小賢しく、少なからず力を蓄え始めております。このまま捨て置くは賢明なるご判断とは申し上げられません。どうぞ、【魔王の贄】をお召しくださいませ』

 頭を垂れるゼィを見下ろして、魔王は紫紺の双眸を細めると、やれやれと溜め息を吐いた。
 何れはこうして進言に来るだろうと予想はしていたものの、魔王としても、確かに限りなく続く常しえの力を我が手に入れて人間どもを一掃し、この世界の全てを手に入れたいとは常々思っていた。

(だが…)

 魔王は頬杖を付いたままで目線を伏せた。

(はたして儀式を行ってよいものか?)

 誰にともなく呟いて、そしてそれは、自身の内心に渦巻くべっとりと張り付いた疑念に問い掛けているようだった。
 どうも二の足を踏んでしまう魔王のその態度に、シューもゼィも内心では苛々していたが、聡明なる彼らの王が、ましてや判断を誤るはずがないと信じていた。
 困ったものだと溜め息をついた魔王が、ふと、ムスッと唇を尖らせて一言も喋らないシンナに気付いて首を傾げた。いつもなら真っ先に口を開いて、居並ぶ将軍どもを押し退けるようにして自らの主張を貫くこの小さな副将が、どうしたことか、一言も口を開こうとしないのだ。
 魔王は興味を惹かれてシンナを見下ろした。

『時にシンナよ、其方の意見も聞いてみよう』

『あたしはン…』

 口を開きかけて、一瞬、戸惑ったように視線を彷徨わせたシンナは、首を左右に振って不機嫌そうに項垂れてしまった。それでも、魔王の双眸が揺らぐことのないのを知ってか知らずか、シンナは顔を上げると片膝をついた騎士の礼をとって魔王を見上げるのだった。

『畏れながら魔王ン!あたしは光太郎を、いえ、【魔王の贄】の儀式を行うことを取り止めて頂きたく思いますン』

 一瞬ザワッと玉座の間の空気が揺らいで、護りを固める衛兵も、居並ぶ重臣たちも、何よりもゼィとシューが驚いたように目を瞠ってそんなシンナに注視した。だが小柄な副将はそのような視線は意に介さず、真摯に魔王を見据えて次々と発言するのだ。

『光太郎が来てからこの城は賑やかになりましたン。その態度がこの城の護りを砂糖菓子のように脆くしているなどと、あたしは思いませんン。城の者は優しさを知り、もっと、みんなを護ろうと頑張っていますン。それを評価されるのであれば、あたしは【魔王の贄】の儀式を執り行うことを反対致しますン!』

『シンナ!』

 思わずゼィが副将たるシンナの腕を掴むのと、シューがそんな一触即発の青紫の髪を持つ将軍の腕を掴むのはほぼ同時だった。

『こんな場所でやめろや、ゼィ』

 魔王が冷ややかな相貌で見下ろしている、ましてやここは玉座の間なのだ。
 シンナは自らの発言にけして誤りなどあるはずがない、と言う確信でも得ているのか、真摯な双眸でゼィを通り越した先に鎮座ます魔王を見詰めている。ゼィは突発的なシンナの叛乱に、彼にしては珍しく動揺してでもいるかのように深い紫の双眸を細めていた。

『…なるほど』

 微かに口許に微笑を浮かべた魔王が何事かに思いを巡らすかのように紫紺の双眸を閉じると、居並ぶ彼の忠実な部下たちは息を呑んでことの成り行きを見守っているようだ。
 特にゼィは、シンナの強硬な態度に腹を立てかねない勢いで、しかし、不届き者として重い重罰が下るのではないかと内心気が気ではなかった。
 シューは、獅子面からはその思いなど想像のできないクールな表情で、内心に吹き荒れるハリケーンのような心の葛藤に、背筋はダラダラと冷たい汗を掻いている。

(厄介なことにならなきゃいいんだが…)

 人知れず溜め息を吐く獅子面の魔物のことなどお構いなしに、永遠の闇の国きっての破天荒なならず者は憤然とした表情で魔王を見据えていた。その横顔が、どこかで見たことがあるような気がして、シューがゾッとしたかどうかは本人のみぞ知るところである。

『なるほど』

 何かに思いを巡らせていた魔王は内なる声にもう一度頷くと、ゆっくりと魔眼とも怖れられる紫紺の双眸を開いて畏まる二匹の魔物と、強い双眸で睨んでくる一人のディハール族を見渡した。
 それぞれの葛藤に揺れる心を持つシューとゼィを、シンナはだが、一度として見ようとしない。それは恐らく、振り返ってしまって彼らの絶望する瞳を見てしまったらその決心が揺らいでしまうし、何より、この重大ごとに彼らを巻き込むわけにはいかず、その責任は一身に自分にあるのだと魔王に宣言しているからだった。
 シンナは強い。
 それはゼィもシューも認めていた。
 だからこそ、この重大な時期に謀反ともとれる言動で重要な存在であるシンナを失いたくはないのだ。
 魔王もそのことは重々承知のはずである。
 シューは見上げた。
 彼らが絶対と仰ぐ、君主たる永遠の闇の国の魔王を。
 何か言おうと口を開きかけた魔王の見事な柳眉が一瞬ピクリと動いて、その瞬間、魔将軍たちと副将はすぐにその気配を感じて玉座の間から謁見の間へと続く間仕切りの緞帳が垂れる入り口を振り返っている。既に臨戦態勢に入っているシンナの握った拳を覆うように、いつの間にか腕輪から鋭い鉤爪が飛び出していたし、ゼィは腰に佩いた禍々しい気配を発する妖剣の柄に手を掛け、シューは拳を握ってボキッと指を鳴らしている。
 魔王は何事もなかったかのような飄々とした表情をして、緞帳が遽しく引き上がるのを見つめていた。

『お、お話中失礼致します!』

 滑り込むようにして片膝を付きながら、魔王と彼を護る3人の将の眼前で殺気を垂れ流しながら傷付いた魔兵が頭を垂れた。その瞬間激しく咳き込んで、玉座の綺麗になった床に血反吐が飛び散った。

『何事だ!?』

 たった今まで戦っていた様子をまざまざと窺わせる魔兵の満身創痍の身体には、既に余命幾許もないことが濃厚に張り付いていた。そのベットリと疲労の色が窺える顔を覗き込んだシューが、慌てたようにグラリッと傾ぐ身体を支えてやりながら声をかける。

『ラスタランの生き残りどもが…グッ!…北の砦を落としましたッ!!』

 肩で荒い息を繰り返しながら、畏れ多くも将軍に身体を支えられた魔兵は、信愛するシューと魔王を見上げて息も絶え絶えに報告する。本来、それが彼の役目だったのだろう、伝令として早馬を駆けて城に戻ってきたのだろうが、傷付いた身体は更に低級魔物どもに襲われたのか鮮血があらゆる部位から吹き零れている。
 特に酷い肩の辺りを押さえてやりながら、それでもシューは、呼吸に合わせて吹き出る血液を掌に受けて、彼がもう間もないことを感じていた。シンナもシューと同様にその傷口を覗き込んで、声もなく首を左右に振る。

『なんだと!北の砦が!?』

 ゼィが一瞬目を見開いて呟いたが、悔しそうに歯噛みしながら魔王を振り仰いだ。
 その深い紫の双眸には、煮え滾るように人間に対する憎悪の焔が燃え上がっていた。

『由々しき事態でありますれば魔王よ、挙兵させて頂きたい!』

 すぐにでも飛び出していって一矢報いてやりたいものを…日頃は冷静沈着なゼィが歯噛みするのも仕方がない。
 伝令として危機を掻い潜ってきたその魔兵は、シューが拾ってきた魔物で、子供の時分から育て上げた養い子だったのだ。

『攻め入るならば…ッ、い、今こそ…で、ございます』

『喋らないでン…』

 伝令としての役目でそれは有り得ないと知りながら、それでもシンナはシューの大きな震える掌の上にソッと自らの手を重ねると、呟かずにはいられなかったのだ。

『グッ…今はまだ…ッ、…沈黙の…主が不在で…ございますッ』

 息も絶え絶えに言葉を区切りながら報告する魔兵を見下ろして、魔王が悠然と立ち上がった。噴霧のように殺気が垂れ込める玉座の間に、彼の冷ややかな、威圧感のある声音が響き渡った。

『シューよ、其方に命じる。北の砦を奪い返して参れ』

『…は、仰せのままに』

 ビクビクッと痙攣し始めた身体を支えてやりながら、シューは感情の窺えない声音で頭を垂れると享受した。
 その時ばかりは沈黙の主に一矢報いてやろうと牙を磨ぐゼィも自分を出せとは反論せずに、その悲しいまでの怒りを知る旧知の友であるからこそ何も言わずに頭を垂れるのだ。
 そうして魔王は、片膝を付いて頭を垂れている二人の魔将軍を見下ろすと、いっそ呆気にとられるほどのあっさりとした口調で、この世でもっとも残酷なことを命じるのだった。

『ゼィよ。伝令として見事な働きを見せたシューの部下であるソーズに、常しえの国ラルシーダへの引導を渡してやるのだ』

『…くっ、はは!』

 片膝を付いていたゼィは一瞬歯噛みすると、そのまま立ち上がってシューの眼前まで歩いていった。シューの腕の中では既に息も絶え絶えの、それなのに急所が逸らされているばかりに死ねないでいるソーズが、霞む眼差しで最愛の養い親とゼィを交互に見詰めている。
 その視線は、いっそ潔く、覚悟を決めてもいるようだ。
 ゆっくりとシューが冷たい床にソーズを横たえると、ゼィが腰に佩いた妖剣の柄を握り締めて鞘から引き抜いた。

『ソーズよ』

 シューが囁くように呟くと、視線を彷徨わせていたソーズが咳き込んで、もう見えなくなりつつある目を凝らしながら声の主を探そうとしている。

『先にラルシーダで酒でも呑んで待っててくれや』

『…はい、シュー様』

 掠れた声で、もう意識も朦朧としているのに、それでもソーズは微笑んだ。
 その顔を目に焼き付けるように食い入るように養い子の最期を看取るシューの眼前で、ゼィは握り締めた妖剣を振り上げて言葉を紡いだ。

『…ソーズよ、常しえの平安の宴の席に、賓客として参るが良い』

『ゼィ様、あ、りがとうございま──…』

 ソーズの胸元にゼィの妖剣が吸い込まれるようにして突き立った瞬間、最後の言葉はまるで空気と共に魂が抜け出したかのように細く響いた。
 硬い骨を砕く音がして、それでもソーズは痛みを感じることもなく事切れた。
 シューは、もうこの世ではない世界を見詰めているソーズの双眸をその大きな手からでは想像も出来ないほど繊細な仕種で閉じさせてやると、魔王の指示で集まってきた衛兵を払い除け、彼は血塗れで横たわる養い子の身体にゼィの外套を奪って巻き付け、物も言わずに肩に担ぎ上げて玉座の間を後にした。
 その後ろ姿を見送っていたゼィの握り締めた拳に、ソッと、華奢なシンナの掌が触れた。
 まるでそれだけがこの世界に在るぬくもりのような気がして、ゼィは無言でシンナの温かな掌を握り返していた。

(いったいいつになったら、この無益な争いに終止符が打たれるのか…)

 それは誰しもが心の中で思いながらも、けして口にできないでいる言葉だった。
 魔王が【贄】を手に入れればその争いも終わるのかもしれない…だが、とシンナは思っていた。
 ゼィの大きな掌を握り締めながら、シンナは唇を噛んだ。
 魔王はそんな二人の武将を見詰めながら、ゆったりと口許に微笑を浮かべた。
 今や世界は、彼の掌の上でゆっくりと、微かに軋みながら回転を始めたのだ。

5.哀しみを抱く者  -永遠の闇の国の物語-

 城の騒ぎに朝早く駆けつけたシューは、箒を掲げて掃除宣言している人間の少年を見つけて蒼褪めた。
 激しく部屋のドアを叩かれて、もしやと思いベッドの傍らを見ると昨夜安らかな寝息を立てていた光太郎の姿がないと見るや、嫌な予感に駆り立てられていたものの、案の定を目の前にしてしまっては蒼褪める他にない。ましてや彼は低血圧だ。

「あ、シュー♪ちょうど良かった、俺、これからこの城を掃除しようと思うんだよね…」

『掃除だと!?』

 人を舐めてるのかと聞きたくなるシューと、そんな光太郎を交互に見遣っていたゼィが、不機嫌そうに眉を寄せている。

『なんともはやシューよ、この数日の騒ぎといい此度の騒ぎといい…どう言う躾をしておるのだ?』

「躾って!…失礼だなー」

 ムゥッと唇を尖らせる光太郎を真上から冷ややかに見下ろしているゼィに、シューはガックリと肩を落としながら項垂れてしまう。そんなシューを見上げていた光太郎は、眉を寄せながらブチブチと悪態を吐き始めた。

「大体シューにしてもゼィにしても、室内の汚れとか無頓着すぎるんだよ。そもそも、それはシューやゼィだけじゃないね、魔族全体が汚れって物に頓着がなさすぎるってことだよ。だから食堂でもあんなに汚してても誰も気付かないでそのまんまにしているし…掃除する人の立場になって考えてみたら、それがどれだけ大変なことなのかってのが良く判ると思うんだよね。だから、ハイ♪シューとゼィも手伝ってよね」

『な、なんだ、コヤツは!?何を言って!?むっ、どうして私は今箒を持っておるのだ!?』

 悪態を吐きながら最終的には自分の都合よく考えた結果を弾き出したのか、光太郎は満足したように無邪気に笑って、呆気に取られているゼィがハッと気付いた時にはニッコリ笑った光太郎から箒を押し付けられている始末だった。そんな遣り取りを耳を伏せるようにして遠くを見る目付きのシューに、青紫の髪を持つ禍々しいほど美しい青年は普段の冷静沈着さからは想像もつかないほど動揺したような目付きで訴えている。

『まあ、流れに身を任せるのが無難ってとこかな…どうせ、もう魔王のお許しも受けているだろうし…ははは』

 あの、泣く子も黙るゼィすらも手玉に取る人間の少年に、半ば既に廃人化しそうになっているシューが力なく渇いた笑いを浮かべると、光太郎が嬉しそうに頷いた。

「ゼインはそれはいいことだって誉めてくれたよ。んで、どうせなら日頃掃除を怠っている魔物どもも手伝わせなさいって言ってた。自分たちが住んでいるお城だもんね。ああ、そうそう。少しはゼインも手伝うけど、玉座の間も宜しくって言ってたよ。結構気さくな人だよね、魔王さまって♪」

『!!』

 ゼィが眉間に皺を寄せたままで驚愕していると、シューがその傍らで旧知の友の肩に腕を回して慰めるようにポンポンッと軽く叩いた。軽く叩いて、ニッコリ笑っている屈託のない人間の少年を指差しながら。

『まあ、光太郎ってのはこう言うヤツだ』

 諦めろと、その口調は物語っている。

「取り敢えず、俺はこの長い回廊を掃いてから拭き掃除するけど、シューとかゼィは強そうだから外に行って花でも摘んできてよ」

『花だと!?』

 ゼィが思い切り呆気に取られたように光太郎を見下ろしたが、信じられないとでも言いたそうにシューを見遣った。どうもこれは、お世話係のシューの責任だけと言うのではなさそうだ。
 朝早く目覚めたゼィがシンナを探して散歩がてらに回廊を歩いていると、数本の箒を抱えた光太郎にバッタリと出くわしたのだ。夜明けだと言うのに暗い城内には松明の明かりが燈り、漆黒の外套を纏っているゼィの存在に、当初光太郎は少し戸惑っているようだった。
 青紫の髪と禍々しいほど美しいその無表情の顔を食い入るように見詰めていた光太郎は、ハッと思い出したのか、箒を抱え直しながらニコッとそんな美しい魔物に笑いかけたのだ。

「そっか、ゼィだったね。おはよう!」

 気さくに、ゼィすらも一瞬呆気に取られるほどあっさりと、恐れ気もなく人間の少年は挨拶してきた。それも、こんな暗黒の支配する鬱陶しいほど重苦しく閉ざされた闇の国で、あっけらかんとするほど陽気な朝の挨拶を…
 ちょっと驚いて目を微かに瞠ったゼィに気付かない光太郎は、早速、魔王から借りた掃除道具を見せながら掃除宣言を始めたのだ。

「今日からこのお城の掃除を始めるから、ゼヒ!手伝ってもらいます♪」

『…断わる』

 何を言っているんだと怪訝そうに眉を寄せたゼィが、あからさまに嫌そうに即答で断わると、やはりあからさまにムッとした光太郎が唇を尖らせて言った。

「自分たちが住んでいるお城なんだよ?そりゃあ、誰かに任せてれば楽なんだろうけど…でも、その任された人が辛くなって止めちゃったらどうするんだよ?そしたらそれはその人のせいにするのかい?そんなのおかしいと思うよ。いや、絶対におかしい。自分たちが暮らしている場所で、自分たちが汚してるんだったら自分たちで掃除しないと!それに、たとえその汚れとかゴミが自分のじゃなくても、一緒に暮らしてるんだったら誰かのゴミも自分のゴミだって思って掃除しないとドンドン汚れていっちゃうんだよ。我関せずなんてかっこ悪いよ!だから、ハイ♪」

 機関銃のような喋りに圧倒されたゼィが目を白黒させていると、勝手に納得した光太郎がニッコリ笑ってそんな普段は冷静沈着を絵に描いたような魔将軍に箒を押し付けたのだ。
 さすがに感情なんかないんじゃないかとシューが心配するゼィも、最大限の怒りを露にした表情、つまりムッとして眉を寄せながら手渡された箒をつき返したのだ。

『悪いが、私は掃除になど興味はない。人間を一掃することに忙しいのでね。そう言う下らぬ行為は、中級の魔物どもにでもさせておけば良かろうよ』

「だーかーらー!!」

 押し付けられた箒を押し返しながら更に食いつこうとする光太郎に、周囲の空気をビリッと感電させるような、静かな怒りを滾らせるゼィに見張りにうろついていた衛兵がビクッとして大慌てでシューを叩き起こしに行ったのだ。そしてその現場に来たシューの第一声が冒頭のようなものである。
 結局、言い包められたゼィは渡された箒を見下ろしていたが、胡乱な目付きで立派な鬣を靡かせる獅子面の知己を睨みながら言った。

『説明してやるが良い。この国のどこを探せば花があるのか』

『うーむ…なあ、光太郎。花がどうして必要なんだ?』

 脛でも蹴飛ばしてやりたい心境なのだろうが、普段からあまり感情を窺わせることのないゼィは、それでもシューに対してだけはそれなりの表情は作って見せている。そんなゼィの声に出さない苛立たしさを全身で感じながらも、シューはふと、でもどうして光太郎がいきなり花が欲しいなどと言い出したのか不思議に思って、ゼィの嫌味を受ける形でキョトンとしている少年に聞いたのだ。

「え?だってほら、このお城の色んな所に花瓶が置いてあるじゃないか。あそこに花とか飾ったら、こんな風に暗い城内でも少しは明るくなるんじゃないかなって思ったんだけど…」

 その瞬間、ゼィが思わずと言った感じで噴出してしまった。
 とは言っても、本当にプッと鼻先で笑っただけで爆笑と言うほどのことではないのだが、シューにしてみたらそれでも充分、この旧くからの親友が腹の底から面白がっているのだと理解して、いっそ気持ち悪そうに呆気に取られている。

『なるほど、花瓶か。歴代の人間の王どもが死守しようとした宝器を、野草を生ける花瓶とは…シューよ、どうもこの人間は面白いな』

 ああ、なんだそっちの方かと一安心したシューはしかし、肩を竦めながらムッとしたように鼻先で笑うゼィを睨んでいる光太郎に、金色の双眸で見下ろしながら説明した。

『アレを花瓶だと思っても仕方ねぇが、この国には花は咲いてねぇ…つーか、咲かねーんだ』

「え?どうして?」

 首を傾げる光太郎に、シューはどう説明しようかと逡巡しているようだったが、手の中の箒の柄を弄んでいたゼィがなんでもないことのようにあっさりと言った。

『魔の森の瘴気は花を殺す。そのような場所に花は咲かぬと言うことだ』

 歯に絹を着せぬ物言いに、いつものことながら肩を竦めたシューは、それでもその言葉でこの見掛けよりも随分と繊細な心の持ち主である光太郎が、多少なりとでも傷付いてしまっただろうと思ってチラッと見下ろした。神妙な顔付きで眉を寄せていた光太郎は、小さな溜め息を吐いて首を左右に振ったのだ。

「それじゃ、この城は凄く殺風景な場所にあるんだね。じゃあ、尚更城内ぐらいは綺麗にしておかないと!んじゃ、シューもゼィも頼んだよ!」

 高等と呼ばれ、魔王すらも一目置く何者にも屈しない力を持った実力者2人を捕まえて、箒を押し付けた光太郎は片手を振って頼むとそのまま脱兎の如く駆け出して行ってしまった。

『…挫けない奴だな』

 ゼィがいっそ呆れたように呟いたが、シューは言葉もなく肩を竦めるだけだった。だが2人とも、律儀に掴んでいる箒を見下ろしてから不意に顔を見合わせると、取り敢えず、と言った感じでどちらからともなく掃除を始めるのだった。
 その一方で、遠くの方でバッグスブルグズの悲鳴のような声が響き渡っていた。

『掃除なんかしたかねーよー!!イテッ!イテッ!!判った!判りました!!喜んで掃除すりゃいいんだろッ!ひーッッ』

 どうやら仲間に殴られたらしいバッグスブルグズの悲鳴に被さるようにして、遠くの方でも誰かが何か悪態を吐いて殴られているようだった。

『…全く、挫けない奴だ』

 ボソッとゼィが蒼褪めて呟くと、シューが可笑しそうに噴出して頷いた。

『魔物が味方してるんだ、仕方ねーよ。まあ、お前もシンナに殴られなくて良かったな』

『なんだと?シンナまでもがあの人間に心酔しておると言うのか?むむ、侮れぬな』

『ま、そう言うこった』

 肩を竦めるライオンヘッドの魔物に、この世ならざる美しい、魔物と呼ぶには先端の尖った耳しか見受けられない青年は、両手で箒の柄を掴んだままやれやれと首を左右に振って回廊の隅に積もる埃を掃き出した。
 そんな様子を回廊を行き交う魔導師や闇の神官どもがビクビクして窺っていることなど、将軍職に就きながらヘンなところで抜けているシューもゼィも気付かなかった。

Ψ

『今度は掃除なのン?光太郎って次から次へとクルクル働くのねン』

「いつも手伝ってくれてありがとう。シンナには迷惑かけちゃうね…」

『あらン!』

 埃の被った宝器を回廊の床に直接腰を下ろして拭きながら、少し遠くの方で掃き掃除をしている光太郎にシンナは心外そうにわざとらしく頬を膨らませて見せた。

『いっつも退屈なのよねン。だから、あたし光太郎がこんな風にイロイロとすることを見つけてくれると嬉しくって仕方がないのン♪』

 だから感謝してるわ、と勝気な相貌で微笑むシンナに、光太郎はエヘヘヘと笑って見せた。
 同じぐらいの年齢だからなのか、それともただ単に興味があるだけなのか、それでもシンナはよく光太郎の相手をしてくれる。今朝も暇を持て余してゼィの寝所から抜け出してきたシンナは、稀に雲間から微かに姿を現す太陽の、窓から微かに射し込む光を受けながら掃き掃除をしている光太郎に気付いて声をかけたのだ。

「ここに住んでいる魔物はみんな、いい人たちばかりだね。俺、魔物ってもっと、凄く悪いヤツで怖くて…んー、条件反射で殺してもいいんだとばかり思ってた」

『あはははン♪条件反射で殺せるほど魔物は弱くはないわよン』

「違うんだ、えーっと…俺のいた世界にRPGって言うゲームがあるんだよ」

『ふぅん?げーむン?』

 宝器の埃を落として磨き上げながら、耳にしたことのない言葉をワクワクして聞いているシンナに、光太郎は塵取りで掃いたゴミを取りながら頷いた。

「そこには、こんな闇の国みたいな世界があって、俺たちは”勇者”になって魔王と戦うんだよ。それでね、自分たちの技力とか上げるために経験値ってのがあって、魔物を倒して手に入れていくんだけど…だから、出会った魔物とは条件反射に戦っちゃうんだよ。もちろん、仮想空間の中でなんだけど」

『んーン?なんだか難しい話ねン。ゼィだったら判るかもしれないけど、あたしはお馬鹿だからン。でも凄いじゃないン!魔王様と戦うんでしょン?』

「いや、実際には戦わないよ。だから俺は弱いよ」

 あはははと情けなく笑って見せる光太郎に、シンナは雑巾を手にしたままで訝しそうに腕を組んで首を傾げた。胡坐をかいたままの姿勢では、革紐で留めただけのシンプルな腰布の再度にあるスリットから突き出した素足を包むオーバーニソックスが、前掛けのようになっている腰布で隠れていて、素肌の股から膝しか覗いていない。

『実際に戦うんじゃないのン?んー、なんだかますます難しい話になってきたわねン』

「いや、凄く簡単だよ。俺、喧嘩に弱いから、バーチャルリアリティの世界だけで踏ん反り返ってるってこと」

『つまり、魔導師の使う幻術の世界でだけってことなのかしらン?』

「あ、そうそう!そんな感じ!!シンナってば、凄いッ」

『あらン』

 テレテレと頭を掻きながら笑うシンナは、照れ隠しに雑巾で有り得ないほど綺麗に宝器を磨き上げてしまった。塵取りで掃き取ったゴミを麻袋に入れながら、光太郎はやれやれと溜め息を吐いてシンナの傍らに腰を下ろして窓から覗く曇天の空を見上げた。

『光太郎はいっつも元気ねン。でも、たまに悲しそうな顔をするけど…どうしてン?聞いちゃってもいいのならだけどン』

 そんな光太郎を傍らから見詰めていたシンナは、股に挟んだ宝器に肘を付いて頬杖しながら悪戯っぽい目付きで覗き込むと小首を傾げて尋ねてみる。もちろん、返答など期待していなかった。
 それほど彼と親しいと言うわけではないのだから、ましてや自分は人間を惨殺してきた仇とも言える立場なのだ。信頼を得ることなど不可能に近いのだから…

「俺ん家…両親が離婚したんだよね。もともと一人っ子だったし、両親はどちらも俺を引き取りたくなかったからマンションを買ってくれて、一人で自活しなさいって言われたんだ。別にそれは嫌じゃなかったんだけど、仕方ないことだし…だから俺ね、料理が得意なんだ」

『りこん…って言うのは心が離れてしまうことねン?』

「うん」

 まさか、こんな自分にスラスラと心に抱えた哀しみを話してくれるなんて…通常ならけして有り得ないだろう突然の告白に、シンナは吃驚して目を白黒させたが、それでも、抱えていた宝器を床の上に置いて、それからソッと光太郎の傍らに尻でにじり寄って肩を並べて座った。
 一緒に見上げた空は、暗雲が垂れ込めて時折遠くの方で雷鳴が響き渡っている。
 けして見飽きることはないが、それでも、いつか青い空が見たいと思う。

『それは辛いわねン。あたし、うまいこと言える性格じゃないんだけど…ねえン?あたしもね、両親に捨てられた口なのよン』

「シンナ?」

 振り返ると、シンナはちょっと眉を寄せて、それでも意志の強い双眸は笑みに揺れて大きな壁を乗り越えてきた者が持つ力強さがあった。
 ほんの少し心が寄り添ったような気がして、シンナは光太郎の肩に頬を寄せて見上げるとウィンクした。

『いつかあたしにも、その美味しい料理を食べさせてねン』

「…うん。でも、俺ね。そんなに悲しそうな顔をしていたのかなって吃驚するぐらい、ホントにそんなに辛くないんだ。昔はずっと辛かったんだけど、なんて言うか、プラス思考なのかもしれない」

『光太郎の性格、あたしは好きよン』

 両膝を抱え込んでニコッと笑うシンナに、そうかなーと光太郎はエヘヘヘッと笑って頭を掻くと照れ隠しをした。

『どうして、辛くなくなったのン?』

 小首を傾げるようにして可愛らしく聞いてくるシンナに、光太郎は「うん」と頷いてそれからちょっと照れたように頬を赤くして俯いた。でも、何かを感じたように窓から覗く魔天を見上げて口を開いた。魔天に希望などはない、だが、闇を貫く雷の光は、心に何かを訴えてくるようだった。

「俺ね、考えたんだ。最初は父さんの会社が倒産して家を引っ越したとき。すっごく寂しくて不安で、幼馴染みたちとも離れ離れになるから悲しかった。でも、次に行った学校で、俺、初めて生徒会長になったんだ。みんなが推薦してくれて、みんな凄い喜んでくれた。本当は転校したばかりで不安だったけど、みんなが笑ってくれるんだよね。途端に何かが弾けたような気がしたんだ。俺、この学校に必要とされていたんだって。だから、父さんの会社が潰れたときは凄い怖かったけど、その後は順調だったし、だからきっと、俺はここにくるために転校することになったんだって考えたんだ。だから、両親が離婚したのも、俺が一人で自活を始めたのも、きっと何か意味があるんだろうって思った。だから、辛くはないんだって…きっと、思い込みなんだろうけど」

 エヘヘッと笑ったら、シンナが少しだけ吃驚したような表情をしてそれからソッと悲しげに眉を寄せた。でもそれは、強い意志を持っている光太郎に失礼ではないのだろうかと考えたのか、シンナは笑みを浮かべようとして失敗した。そんな複雑な表情をするシンナを見て、光太郎はキョトンとする。

「ホントだよ、シンナ?そう思ってたらほら、こうしてシューやシンナと出逢えた!俺、よく判らないけど。この闇の国で俺は今、【魔王の贄】として必要とされているんだって思う。絶対に何か意味があるから俺はここに呼ばれたんだって信じてるよ。だから本当に辛くないんだ。それどころか、こんなにシューやシンナや、あとね、怖い怖いと思っていたんだけど意外と優しかったゼィに出逢えて、心の底から嬉しいんだ。俺、独りだったから…この闇の国に来れてよかった。まるで大きな家族の中にいるみたいで凄く幸せだよ」

 光太郎がニコッと笑うと、シンナは途端に顔をクシャクシャにしてしまった。吃驚した光太郎が慌ててその顔を覗き込もうとした瞬間だった、それよりも早くシンナが光太郎に抱きついたのだ。

「ど、どうしたの…?」

 あわあわと慌てふためく光太郎に、シンナは激しく首を左右に振って何も言おうとはしない。だから、光太郎にはその真意が読み取れなくて、ただ単純に、自分がこんな暗い話をしてしまったからシンナが同情してくれたんだろうと思うことにした。
 捕虜たちが言うほどには、シンナは怖い女の子じゃない。
 大変な作業だって快く引き受けてくれるし、掃除だって自分から買って出るような優しい人だ。
 こんな風に華奢な肩を震わせながら、涙を流してくれる、そんな人なのだ。
 抱きついているシンナからはふわりと石鹸の甘く清潔そうな優しい香りがした。抱き締められることに慣れていない光太郎は、ドキドキドキドキしながら、大人しくジッとしてその香りに包まれる心地好さを感じていた。

『ごめんねン』

 不意に顔を上げたシンナが泣き腫らした瞳をして光太郎を見詰めた。その可憐な表情に、光太郎はドキリとしたけれど、その瞳の奥にある哀しみを見つけてハッとした。
 光太郎から身体を離したシンナは照れ臭そうに笑ったが、不意にその嘘っぽい笑みを消して、磨かれた床に視線を落としてしまった。

「シンナ…」

 もしかしたらシンナの心の奥にも、こんな風に哀しみを抱えている傷が眠っているのかもしれない。その傷の痛みが共鳴して、シンナは泣いてしまったのではないか…
 光太郎はそんなことを考えて、どうしてあんなことを話してしまったのだろうかと自分を責めた。

『違うのン。そうじゃない、だから視線を逸らさないでン』

 不意に華奢な両掌で頬を包まれて、いつの間にか俯いてしまっていた光太郎は悲しそうに眉を寄せるシンナに内心を読み取られてしまったと反省した。

「シンナ、あの…ごめん。俺、無神経な話しをしちゃって…」

『ううん、違うのよン…あのね、光太郎ン』

 肩を並べるようにして石造りの回廊の床に直接ぺたりと座り込んでいる2人は、お互いの存在がどこか遠くで繋がっているような、奇妙な親近感を覚えたかのようにポツポツと言葉を交わしていた。

『この城には、誰もが何かしらの哀しみを抱えて集まって来ているのン。あたしもそうだし、シューもゼィも、みんなそうなのン。でもね、あたしはずっと思っていたのン。哀しみは独りで抱えるにはとても重くて、押し潰されそうになってしまうけれど、寄り添い合えばきっと大丈夫なんだってン…でも、哀しみはやっぱり独りで抱えなくちゃいけないって思ってたン』

 呟くようにして語るシンナを見詰めていた光太郎は、何を言ったらいいのか判らなかったが、それでも、精一杯の気持ちを込めて言うのだ。

「シンナ。たぶんきっと、俺は君の悲しみの半分だって抱えてあげる事なんかできないと思うけど…でも、俺はここにいるから。だから、独りぼっちだなんて思わないで」

 ハッとしたように顔を上げたシンナは、柄にもなく真剣な表情をしている光太郎を見詰めていた。見詰めたままで、嬉しそうに微笑んだ。その、刺青の這う頬に涙を零しながら。

『…でも、あたし判ったのよン。やっと今、判ったのン。この城に来て良かったってン。そして、光太郎ン。貴方に逢えて本当に良かったって心の底から思うわン。いつかきっと、シューも気付くわねン…ありがとう、光太郎ン』

 シンナがニッコリと笑った。
 その笑顔には、もうどこにも迷いなどないと言うような、自信に溢れた眩い笑顔だった。
 光太郎も、なぜかその笑顔を見ていたら、これでいいのかもしれないと思えるようになっていた。

『さってとン!いつまでもサボってちゃみんなに悪いわねン。掃除しましょン!』

 軽くウィンクされて、光太郎は笑った。
 まるで、もうずっと見ることがないと思っていた太陽が、一瞬だけ花開いたような、鮮烈な印象を残す笑顔だった。シンナはその笑顔を見て、この人間の少年がこの闇の城に居てくれて本当に良かったと心の底から感謝していた。
 そうして元気に笑うシンナの心に、光太郎が読み取ることの出来ない心の奥深い場所に、新たな棘が深々と突き刺さり疵を作ってしまった。
 シンナは笑った。
 透き通るほど、透明な笑顔で…

Ψ

 長い回廊をトボトボと歩いてくる人影に気付いたシューは、どこの魔物が掃除を押し付けられて嫌々歩いているのかと、その泣きっ面でも拝んでやろうと箒の柄に顎を乗せて顔を上げたが、その人物に気付いて金色の双眸をパチクリと見開いた。

『なんだ、シンナじゃねぇか。どうした?時化たツラしやがって』

 唇の端を捲るようにして嗤うシューを見上げたシンナは、その空色の瞳を曇らせて無言のままで呆然としている。今までそんな仕種など皆無に等しいほど見たことのないシューにしてみたら、すわ何事かと、突然舞い込みそうな珍事にやや腰が退きかけた。
 とは言っても旧い知り合いの只ならぬ様子に、シューは箒の柄の先端部分に顎を乗っけたままで、身体をブラブラと揺らしながら泣き出しそうな表情をしている少女のように小柄なシンナを見詰めた。

『どーした?黙ってちゃ判らんだろう。ゼィとの痴話喧嘩か?』

 それなら犬も喰わんが俺も喰わんと言ってカッカッカッと嗤うシューを、いつもなら『そんなんじゃない』と言って単純に激怒して回し蹴りを仕掛けてくるはずのシンナが、溜め息を吐て力なく首を左右に振ったのだ。

(こりゃ、いよいよ何かあったか?)

 驚いたように目を瞠ったシューは、麻袋にいっぱいになったゴミを持って捨てに行ったまままだ戻ってこないゼィに助けを求めたい心境でいっぱいいっぱいになりながらも、か細い肩を落としてシュンッと俯いてしまっているシンナの表情を見て顎を上げるとその顔を覗きこんだ。

『どうしたっつーんだよ?お前らしくもねーなぁ』

『あたしらしいン?ねえ、あたしってどんななのン?』

『はぁ!?』

 突然突拍子もないことを言われて、それこそ素っ頓狂な声を上げたシューに、シンナはちょっと笑って、そして笑ったまままるで表情が強張ってしまったように固まってしまった。

『あたしは、ねえン?どんな顔してるのン??光太郎を【魔王の贄】にしようとしている今のあたしはン!?』

『ち、ちょっと待てよ、おい?どうしたってんだ、ええ?』

 胸倉を掴むようにして迫ってくる可愛らしい顔は泣き腫らしたように目の縁が赤くなっているし、今もジワッと盛り上がった涙が大きな空色の瞳から零れようとしている。
 一体何があったと言うのだ?

『シュー!ねえ、どうしようン。あたし…あたしは…光太郎を【魔王の贄】にしたくないのンッ!』

 そう言って顔をクシャクシャにしたシンナは、縋るようにシューの広い胸元に額を押し当てて声を殺して泣いた。噛み締めるようにして漏れる嗚咽に、たった今耳にしてしまった衝撃の告白に、脳味噌まで筋肉じゃないのかとゼィにからかわれる脳内は混乱して容易く答えなど出てこようはずもない。
 ただハッキリしているのは、ここにゼィが居なくて本当に良かったということだ。
 もしここにゼィが居ようものなら、それこそ目にも耳にもしたくない壮絶な痴話喧嘩が勃発してしまうだろう。
 これほど正反対の性格の2人が、ベッドを共にする仲だと言うことが、今もってしてもシューには信じられないでいる。だが、今はそんなことに知恵を絞っている場合ではない。

『な、なんだって?シンナ、お前正気か?それはつまり…』

『そうよン!あたしは絶対的な力を漸く手に入れようとされてる魔王の、その悲願を断たせるようなことを言っているのよン!!』

 シンナが歪めた顔を上げて言い放った。
 その瞬間、シューの大きな掌が軽く…とは言ってもしたたかな強さで頬を叩いた。

『確りしろよ、シンナ。そんな畏れ多いことは二度と口にするんじゃねぇ』

 曲がりなりにもゼィの副将である立場なのだ、どこで、誰が聞いているとも限らぬこんな公の場で、滅多に口にしてはならないと諌めるシューを、シンナは悔しそうに見上げている。

『いいえン!きっとあたしはまた、同じことを口にしてしまうのよン。そうして、いつかそれは、シュー。きっと貴方も感じてしまうと思うわン』

『シンナ?』

 その強い意志を秘めた空色の双眸を見据えて、シューは怪訝そうに眉間に皺を寄せた。
 何を馬鹿なことを…と、呟きかけて、シューは不意にシンナが離れる気配を感じた。
 いつも、遠い昔にこの周辺の野にいたウサギのように跳ね回ってきゃんきゃんっと騒いでいる元気だけが取り得のようなシンナが、暗い回廊の、壁に掛けられた松明の炎にその影を躍らせながら暗い表情で見詰めてくる。

『光太郎を【魔王の贄】にしてしまってホントにいいのかしらン?そう思ったことは、本当にただの一度もないのン?』

『有り得ん』

 不意に背後で声がして、答える前にシューは声の主を振り返った。
 そこにはゴミを廃棄して空っぽになった麻袋を手にした、禍々しいほど美しい青年が不機嫌そうに眉を寄せて立っていた。

『ゼィ…貴方も掃除に参加していたのン?恐るべき光太郎の力ねン』

 それまで暗い表情をしていたシンナが、不意に浮かべた微笑は驚くほど温かかった。
 大股で歩み寄ってきたゼィは微笑んでいるシンナの、武器を隠した腕輪の嵌った華奢な腕を掴んで引き寄せた。その力があまりに強かったせいか、シンナは一瞬顔を顰めて、よろけるようにして不機嫌そうな魔物の胸元に凭れかかってしまう。

『何を戯けたことを言っておるのだ、シンナ。あの人間に毒されでもしたか?』

『毒されるン?ふふふ…そうかもしれないわねン』

『む?』

 ゼィの胸元に頬を寄せたシンナは一瞬だけ目蓋を閉じて、それから思い直したようにガバッと顔を上げて不機嫌そうなゼィを見上げた。

『冗談よン、ジョーダンン!だって、ゼィまで仲間に加えることができるなんて、魔軍に迎え入れたいって思うじゃないン』

 あたしは副将なのよと言ってカッカッカッと笑うシンナを、ゼィとシューは呆気に取られたように顔を見合わせて、それから呆れたように見下ろした。
 この小さな仲間は一体どうしたと言うのだ?

『冗談よン、ふふふ。ごめんなさいン。忘れてン』

 そう言って、シンナは片手を振って立ち去ろうとした。
 だが、その小さな後ろ姿を見た途端、不意にシューの中に只ならぬ焦燥感が襲い掛かってきた。

『シンナ!』

 突然、咆哮のような声を上げて華奢な腕を掴んだシューを、ゼィはもとより、驚いたようにシンナが見上げた。思った以上の力強さに眉を寄せながら、シンナはシューの獅子面にある金色の双眸をジッと見据えている。
 言い知れぬ雰囲気が2人を包んで、まるで蚊帳の外に弾き出されたかのようなゼィが訝しそうに眉を寄せて腕を組んだ。シンナもシューもゼィも旧知の友だ、それぞれが互いを思い合ってもおかしくはないのだから、たとえベッドを共にする間柄とは言え、命を分かち合っているわけではないから口を出せずにゼィは黙しているのだ。

『いや、スマン。俺は…ったく、俺もどうかしてるようだぜ。気にしないでくれ』

 手の離して、自分が何をしようとしていたのか理解できないでいるシューに、シンナは小さく笑って見せた。
 『いいのよ』と言っているのか、小さな切欠を生み出したことに満足した微笑なのか…

『そうだ、シンナ。お前、光太郎を見なかったか?アイツ、ちょろちょろしやがって!世話役としてはこんなに離れているワケにはいかねーんでな』

『あらン、そう言えばン。確か、玉座の間をヤッツケに行って来るって言ってたわねン』

『玉座の間だと?クソッ、また厄介なことになってなきゃいいが』

 クスクスとシンナが笑って、シューはゼィに断わってその場を後にすることにした。
 なんにせよ、ゼィはいつものことながら朝からシンナを捜していたのだ。
 恐らくあのシンナの台詞は、昨夜また、ゼィと何かで揉めあって情緒が不安定になっていたからなのだろうと勝手に思い込むことにしたようだ。
 遠い昔からの友は、気付けばいつの間にか、身体を求め合って寂しさを共有するようになっているようだった。そのくせシンナは、どこか釈然としないものを抱え込んでいるのか、たまにこうしてシューに会ってはおかしなことを口走ったりするのだ。

(アイツらのことだ、どうせその内またシックリいくようになるんだろう)

 いつものように、いつもの会話で。
 それが当たり前だと思っているシューの、だがその心の内に舞い込んだ一滴の雫が、思いもよらぬところで波紋を作り小さな漣を起こしていた。シューの与り知らぬところで回り出した運命の歯車の、そのか細い音はだが、とうとう彼の鋭敏な聴覚に響くことはなかった。

4.暁を往く者  -永遠の闇の国の物語-

 この闇に閉ざされた国にも朝は来るし、日もまた沈む。そんな朝も明けやらぬ薄霞にけぶるように魔の森が一瞬の眠りにつこうとする時刻に、地下牢のある場所から派手な音がしていた。まるで爆薬の詰まった何かが破裂でもしたかのような音に、その地下牢の住人たちである人間の捕虜と魔物の見張り兵は飛び起きた。
 居眠りにウトウトしていた魔物の兵は、飛び上がって何事かと槍を両手で掴んで周囲を見渡す、と。

『これは、シュー将軍!』

 驚いた牛面の魔物は鼻息も荒く恭しく畏まったが、突貫工事に付け焼刃で参戦しているなんちゃって大工たちは仏頂面でそんなブランを制するのだった。

『朝っぱらからすまんな』

『めめ、滅相もございません…が、何をしているんですかい?』

 同じように工具を持って走り回っている光太郎がそんな2人に気付いて、ニコッと笑うのだ。

「通風孔を空けるんだよ!そうしたらここもそんなにジメジメしないし、床が滑ることもないよ」

 上機嫌で滑りそうになる床を恐る恐る歩きながら、光太郎は鉄格子の嵌っている牢屋の中を覗き込んで何やら声をかけているようだ。そんな小さな人間の後ろ姿を見遣りながら、シューは諦めたように溜め息を吐いたが、ブランはちょっと驚いたように目を瞠るのだった。

『通風孔ですかい!?こりゃ、俺たちは思いつきもしやせんでした!』

『迷惑この上ねぇよ』

 シューがガックリしたように道具を持って歩き出そうとすると、ブランはとんでもないと言いたそうに慌てて槍を放り出すと、シューの手からツルハシのような道具を恭しく奪い取ると首を左右に振って否定するのだ。

『と、とんでもありやせんよ、シュー将軍。アッシはここに配属されて長いんですが、もう何度も足を滑らせて骨折は数えきれねぇほどでやす!通風孔を作って床が滑らんとなれば、喜んでお手伝いさせて頂きやす!!』

 それだけ言うとピュッと機敏に動いて作業を手伝おうとするブランを見ながら、両手でツルハシを持った形のまま呆気に取られて呆然と固まっているシューの背後で、思わずと言った雰囲気で笑い出す者がいた。

『…ああ、シンナかよ』

『何をしてるのン?こんな朝っぱらからビックリしたわン』

 相変わらずシンプルかつ大胆な衣装を身を纏っているシンナは、腰に手を当ててクスクスと笑っている。恐らくあの派手な破壊音を聞きつけてきたのだろう、そんなシンナの背後の階段には驚いたように寝起きの魔物たちが詰め掛けている。恐らくは扉まで続いているだろう気配のする階上をチラッと見ただけで、シューはウンザリしたような表情を禁じえなかった。
 ああ、また悪態だらけか…

『見ての通り、あの人間の小僧が通風孔を作るとか言い出しておっぱじめやがったのさ』

『あらン?通風孔をつくるのン。そう、それは素敵なことじゃないン』

『素敵だと?』

 また1人、なにやら頓珍漢なことを言い出しそうな仲間を見つめて、シューは哀れっぽい目付きをして肩を落としてしまった。

『ここはジメジメしていて嫌だったのン。きっといつか、こんな環境だと病とかで死人が出ると思っていたぐらいよン』

 良いことだわと、シンナは感心したように道具を持ってブランを交えて人間の捕虜たちと笑いながら話している光太郎を見つめた。それから、腕に嵌めている武器の隠れた腕輪を外しながらシューに言うのだ。

『面白そうねン。あたしも手伝うわン』

『…あー、そりゃ助かるよ…いや、ホントにマジで』

 ガックリしたまま、壁に立てかけていた道具に手を伸ばそうとすると、そんな嬉々としたシンナの背後から顔を覗かせた馬面の魔物と視線がバッチリ合ってムカッとした。どうもその馬面の顔を見ていると、シューはなぜか無条件で腹立たしくなるのだ。

『…なんだよ、バッグスブルグズ。文句なら後で聞いてやらぁ。俺は今、猛烈に機嫌が悪いんだ。殴られたくなかったら大人しく…』

『わわ!な、殴ったりすんじゃねーぞッ!!俺は手伝いに来たんだからなッッ』

 慌てたようにシンナの背後に隠れようとして、その大きな馬面では到底隠れきれていないと言うのに、それでもバッグスブルグズは必死で殴られないようにしながら言い募るのだ。そんな態度に怪訝そうに顔を顰めたシューは、訝しそうに片目を眇めて馬面の魔物を睨み付けた。

『なんで、オメーが手伝うんだよ』

 それでなくてもムカツクってのにこのヤロー、と、その目は大いに物語っているし、もちろんそれに気付いているバッグスブルグズは歯を剥いて耳を伏せた。

『俺もここに配属されちまってんだよ!5回も自慢の俊足を折られたんだ、通風孔ッつーのはありがてーんだよ!!』

 それを聞いて今度はシューが呆気に取られる方だった。
 よくよく見渡せば、ここに何らかの事情、つまりその時の見張りの当番になっている魔物とカードゲームで時間を潰したり、他愛ないお喋りに来たりして被害を被った魔物たちも話を聞いてボチボチと手を貸そうと集まってきているようだ。
 知らない間にこの地下牢は一種の魔物たちの社交場となり、その一員にいつの間にか人間の捕虜たちも加わっていると言う事実に気付いたのだ。

『ふふふン。シューは知らなかったのねン。ここにはあたしもコッソリ来てるのよン』

『なんだと?』

 シンナがクスクスと笑いながらそんなことを言うから、ますますシューは呆気に取られてしまうのだ。

『お前たちはここに何をしに来てんだよ?』

 ここは何を目的とした場所ですか?…と、思わず聞きたくなってしまったシューだったが、よくよく見渡せば、悪態を吐いているのは自分だけで、他の魔物たちは陽気に光太郎と会話を楽しみながら手際良く指定された場所に穴を開けている。

『あらン、もちろん見張りに決まってるじゃないン!』

 ふふんと笑ってシンナはバッグスブルグズをその場に残したままで、楽しそうに作業をしている光太郎たちの輪の中に入って行った。
 取り残されたバッグスブルグズはそんなシンナとツルハシを持って眉間を寄せているシューを交互に見遣りながら、バチッとライオンヘッドの魔物と視線が合ってしまい居心地が悪くてニヤッと歯を剥いて笑って見せた。

『クソッ!手伝うんならサッサと光太郎のところに行きやがれッ』

『ヒデーッ!!』

 尻を蹴られて飛び上がったバッグスブルグズは、目尻に涙を浮かべながら脱兎の如く光太郎のいる場所まで行きかけて派手に転んだ。
 そんな後姿を憤然と睨み付けていたシューはしかし、案外、それほど腹立たしく思っていたわけではなかった。
 なぜならそれは、あんな風にボーッと見えて、意外とあの人間の少年は魔物たちの動向を観察していたのだ。それも悪い方向ではなく、恐らく些細な疑問からだったのだろう。

〔どうして、魔物たちは足を引き摺っているんだろう?〕

 長いこと城の中を探検していた少年は、ある一定の魔物たちが片足を引き摺りながら行動しているのを見て、もうずっと疑問に思っていたのだろう。その原因を突き止めようと探検に更に拍車をかけていたのに違いない。だが、人間の、しかも曰くある【魔王の贄】ともなれば、忍び込める範囲は決まっていただろう。

(そうかアイツ、それで俺に城の中を案内させたんだな)

 もちろん、捕虜になっている人間たちの体調も気にしているんだろうが、せっかくここに来ている魔物たちがいるのなら、せめて安全に行動できるようにとイロイロと考えての行動だったのだろう。

『ったく、仕方ねぇヤツだぜ』

 やれやれと溜め息を吐いたシューは、仕方なさそうに首を左右に振って輪になっている中心にいる光太郎の場所まで歩いていった。
 驚くことに、その足取りはそれほど重くはなかった。

Ψ

 不機嫌そうなシューに、それでも内心では申し訳なく思いながら光太郎はブランと話しているライオンヘッドの魔物をその場に残して、驚いたように鉄格子に両手を出してブラブラさせているウォルサムの所まで行った。途中滑りそうになってヒヤッとしたが、それも今だけだと自分に言い聞かせて恐る恐るの足取りで近付いていった。

「何をおっぱじめたんだ!?」

 目を白黒させたウォルサムとその仲間たちに、光太郎はニコッと笑って事の成り行きを簡単に説明した。

「通風孔を空けるんだよ。そうしたら、風通しが良くなって身体に悪くないと思うし、ここに来ている魔物たちが足を折ることもなくなるんじゃないかって思ったんだ」

 遣っ付けの作業着に身を包んだ光太郎を上から下までマジマジと見ていたウォルサムは、何か信じられないものでも見ているような目付きをして肩を竦めて見せた。

「通風孔だって?よくそんな、突拍子もないこと思いついたな」

「まーね。でも、シューも手伝ってくれるから、そんなに時間はかからないと思うけど…煩くても気にしないでよ」

「いや、大いに気になるが…」

 呆れたように言ったウォルサムにアハハハッと笑う光太郎を訝しそうに眺めていた彼はしかし、周囲を見渡しながら驚いたように眉を跳ね上げて鉄格子を叩いて見せた。

「驚いたな!魔物が総出で手伝ってんのか?こんな地下牢如きに??」

「あれ?本当だ。でも、ウォルサムたちには判らないかもしれないけど、魔物たちの中にも意外にいいヤツもいるんだよ」

 柔らかく笑って言う光太郎を一瞬だけ怖い目付きで睨んだウォルサムだったが、ちょっと怯んでいる光太郎の双眸に気づいて大きく溜め息を吐いて項垂れてしまった。

「いや、判っちゃいるんだよ。でも、それを認めてしまうと俺たちは、いったい何のために…」

「だってほら、ここを綺麗にしたらスッキリした気分でカードゲームもできるだろ?それで、ウォルサムたちにも手伝って貰いたいんだ」

 ウォルサムの言葉を遮るようにして口を挟んだ光太郎に、茶髪の人間の兵士はちょっと瞬きをしてそんな少年の漆黒の双眸を見つめた。
 光太郎は今度は怯まずにニッコリ笑うと、手に持っていた数本のデッキブラシを鉄格子の隙間から無理やり押し込みながら頷いて見せたのだ。

「これで中を綺麗に掃除してよ。その間に俺たちは通風孔を作る」

「…一日の突貫工事でどうにかなる代物じゃないだろ?」

「まあ、気を長く持って頑張るよ」

 ニッコリと笑った少年を、呆れたように見下ろしていたウォルサムは、足許の隙間から押し込まれたデッキブラシを取り上げると、肩を竦めながら背後で興味津々の表情で見守っている仲間の捕虜たちにも手渡した。

「よっしゃ、城の床磨きだと思って俺たちも頑張ろーぜ!」

 ウォルサムの合図で頷いた捕虜たちは、各々で受け取ったデッキブラシを肩に担いで、床に散らばるゴミやシーツ、散乱するカードを片付けながら少しずつ牢屋内を掃除し始めたのだ。そんな彼らの行動を満足そうに見つめている光太郎に、背後からブランが慌てたように声をかけてきた。

『光太郎さん!アッシも良ければ手伝わせてくだせぃ』

「ありがとう。それじゃあ、一緒に通風孔作りを手伝ってくれるかな?」

『お安い御用でさ』

 嬉しそうに頷くブランに、光太郎は魔王から借り受けたこの城の見取り図を広げて、通風孔作りに参加する魔物たちを集めてから説明を始めた。それでも、専門的な知識がない光太郎を支援するように、この城造りに参加した経験のある魔物が一緒になって説明したおかげで、案外スムーズに手筈が整って作業が始まった。

『ねえねえン。あたしもお仲間に入れてよン♪』

 シンナがウキウキしたように軽い足取りで輪の中に入ってくると、光太郎は驚いたようにポカンッと口を開けて小柄な少女を見つめた。

「シンナ!君も手伝ってくれるのかい?」

『もちろんよン♪あたしは何をしたらいいのかしらン?』

「ええっと、それじゃあ…」

 小柄な少女とは言え魔軍の副将であることをシューから聞いていた光太郎は、そんな願ってもない申し出を快く受け入れて、城造りに参加したバッシュと言う蜥蜴面の魔物と相談して彼女にも作業に参加してもらうことにした。

「この調子だと1日で終わるかもね」

 嬉しそうに額に汗して笑う光太郎を、バッシュは肩を竦めながら首を左右に振って殊の外あっさりと否定した。

『城の仕事もある連中だからな。中休憩を取って、それから仕事に戻って、夜に作業を再開したとしても2日はかかる工程だと俺は思うぞ』

「あう、やっぱそうかな?」

 ガックリと大袈裟に項垂れる光太郎に、作業をこなしている見たことのない魔物が背中をバシンと派手に叩いてくれながら大いに笑ってそんな光太郎を慰めた。

『心配すんなって!とっかかれば最後まで遣り通すのが俺たちだ、まあ大船に乗ったつもりで見てろって!』

「アイタタタ…ありがとう」

 ニコッと笑う光太郎のお礼に被さるようにして、大量に出てくる石の塊や砂利などを詰めた袋を肩に下げて外に運び出している魔物の1人が、呆れたように溜め息を吐きながらそんな魔物に言い放つのだ。

『毎日昼飯時に限って見張りをサボッてるお前が言うなよ、お前が』

『うわ、ヒデー言われようだな、おい』

 そんな2人の会話にドッと笑いが起きて、光太郎もケタケタと一緒に笑った。
 気付けば捕虜の連中も肩を揺らしながら吹き出している。
 城の仕事をサボるのは人間も魔物も同じなのだろう。

『中休みにはサボるけどよ、それ以外はハッスルするぜ俺ぁよう!』

 そんな言い訳がまた笑いに火をつけて、作業は案外楽しくスムーズに進んでいた。
 身体の小さい光太郎がツルハシを振り回したところで、ガタイも大きく力もある魔物に敵うわけもなく、足手纏いにならないように床磨きに専念するようにしたらしい。言い出しっぺだが、自分の分相応は弁えているようだ。
 同じように身体の小さいシンナはそれでも光太郎よりは遥かに力強いのか、石だの砂利だのが詰まった麻袋を難なく両肩に担ぎ上げて滑り易いはずの床を駆けて階段を登って外に運び出している。

『全く、お前の行動は突拍子もねーけどよ、連中が喜んでるところを見れば強ち的外れってワケじゃねーんだろうな』

 絶対に認めたくはないだろうに、それでもシューは感心したようにデッキブラシで床を磨いている光太郎の傍らまで行くと、腕を組んで周囲を見渡しながら呟いたのだ。

「あ、シュー!うんうん、みんな凄く手伝ってくれるんだ!俺も凄い嬉しい」

 傍らに来た仏頂面のライオンヘッドに気付いた光太郎が、ニッコリと笑ってデッキブラシを両手で掴んだまま、談笑している作業中の魔物を見渡しながら頷いた。

「さっき、シンナも来てくれたよ」

『人間どもにも手伝わせてるのか』

 シューは驚いたように目を瞠ったが、肩を竦めて呆れたように光太郎を見下ろした。

『なかなかやるじゃねぇか』

 鼻先で笑うように鼻に皺を寄せてみるが、光太郎はそんな嫌味を素直に受け止めて照れたようにエヘヘと笑っている。

「ちゃんと、納得してくれたんだよ」

『…そうか、そりゃスゲーな』

 嫌味も通じない天下の光太郎だと思い知ったのか、シューは呆れたように天を仰いで、それから何も言わずに俯きながら溜め息を吐いた。

「?」

 そんなシューを光太郎は不思議そうに見上げていた。

Ψ

 作業は思ったよりも捗らず、それから数日経って漸くどうやら通風孔らしきものが完成した。
 外からの作業がまるで出来ないと言う難点を何とかクリアして、出来上がった通風孔はそれなりの形はしているものの、なんとも不恰好ではあるが及第点の代物だった。
 通風孔のおかげで風通しが良くなったのか、それまであまりにもジメジメして黴臭く、滑り易かった床は今では磨き上げられて光沢を放つほどだし、清潔な白いシーツを与えられた地下牢は、それまでの陰惨なイメージを払拭できるほど部屋になっている。

『これじゃあ、却って城内の方が汚らしく見えるな』

 カード遊びに興じている捕虜と見張りの兵、交代番であるブランと暢気に話をしているシンナたちを腕を組んで憤懣やるかたなそうに鼻息も荒く見渡している獅子面の将軍がぼやいていると、そんな魔物を見上げていた人間の少年が神妙な顔付きをして頷くのだ。

「うん、俺もそう思う。玉座の間にも蜘蛛の巣が張ってるんだ。埃っぽくて息苦しいよね…」

 不意にハッとしたシューは自分よりも遥かに身体の小さな少年を見下ろして、慌てふためくようにその顔を覗き込む。

『おい、お前また何か余計なこと考えてんじゃねぇだろうな!?』

 もう、勘弁してくれよぉ~と、思わず泣きを入れそうになる自分よりは数倍身体の大きな獅子面の魔物の鼻先を見据えて、光太郎はムゥッとしたように唇を尖らせた。

「余計なことってなんだよ。俺は一般論を言ってるだけだよ」

 ツンッと外方向く光太郎を、シューは胡乱な目付きでジロリと睨み付けながら上体を屈めてその額に大きな獅子面を突きつけて悪態を吐いた。

『その余計なことで3日間も拘束された俺に一般論ですか??』

「あ、えへへ。ごめん」

 その迫力に気圧された、と言うわけではない光太郎は、思い当たることがあまりにも多すぎてバツが悪そうに笑って誤魔化すのだ。

『お前なぁ~』

 思わずジトッと睨んでしまったシューに相変わらず光太郎がエヘヘと笑っていると、俄かに牢屋の方が賑やかになって、ただ単に様子を見に来ていた光太郎とシューは顔を見合わせてから、不毛な言い合いに区切りをつけて捕虜が収監されている牢屋の鉄格子まで歩み寄った。

『どうしたんだ?』

『あ、シュー将軍!どうにも捕虜の1人が具合が悪いようでして…』

 それまで一緒にカードゲームをしていた見張り兵が、カードを投げ出して仲間の具合を確認しているウォルサムを指し示しながら動揺したように説明した。

『具合?』

「あ、そう言えば!捕虜の人で怪我している人がいたね」

 シューの大きな身体の背後から様子を窺っていた光太郎が、思い出したようにハッとして仏頂面の魔物を見上げて鎧の裾から覗く服の切れ端を引っ張った。
 だが、よくよく考えたら『人間など病になっても構わん』と言い切るような魔物である、手当てしてあげようと提案したところで容易く却下されるのは目に見えているだろう。光太郎は仏頂面のままで見下ろしてくるシューの獅子面をムゥッとしたままで見上げていたが、すぐに手を離して見張り兵に掴みかかったのだ。
 見張り兵でも光太郎よりは体格が遥かに良い。良いのだが、やはり【魔王の贄】である光太郎を無碍にすることなど到底出来ない見張り兵は、恐縮しまくって敬礼するのだ。

「ラウル!牢屋の鍵を貸してくれよ」

『は!…はは!?か、鍵ですかい?』

 光太郎の要求に困惑したような顔をした見張り兵であるラウルは、怯えたような動揺したような表情をして魔将軍であるシューを振り返った。その意思を仰ごうとしているのだ。
 そんな2人の行動を見守っていたシューは、やれやれと溜め息を吐きながら首を左右に振って光太郎の首根っこを引っ掴むと、言い聞かせるように投げ槍に言った。

『いい加減にしておけ、光太郎。たとえお前でも、牢屋番の大役である鍵を奪ってどうするつもりだよ、ああ?』

「そんな言い方しなくてもいいだろ?奪う気なんかないよ、ちょっと貸して欲しいだけ」

『ダメだね』

 フンッと鼻で息を吐き出して聞く耳を持とうとしないシューに、光太郎はムゥッと頬を膨らませて、首根っこを掴まれた格好のままバタバタと暴れてみる。

「判ったよ!どーせまたゼインのお許しを貰わないといけないんだろ?シューにはそんな凄い権限なんてないもんねッ」

 ベーッと舌を出して悪態を吐く光太郎を、シューは無表情のままで怒りながら頬を引き攣らせて見下ろした。

『…なんだと、この野郎』

「どーせ、シューなんてゼインからいちいちお許しを貰わないとなぁーんにも出来ないんだろ?いいよ、別に。俺は何度だってお許しを貰いに行くもんね」

 フンッと外方向く光太郎に、思ったよりも随分と単純なシューは、自慢のタテガミを逆立てて怒りを露にする。と、奇を衒ったかのように光太郎が間髪入れずに振り返って、猛然と鼻息を荒くする獅子面に鼻先がくっ付くぐらい顔を寄せてニコッと笑うのだ。

「あ、それともシューは将軍様だから、シューの権限で俺に鍵を与えてくれるの?」

『…畜生ッ、ラウル!鍵を貸してやれッ』

 可愛く小首を傾げて信頼を寄せるようにキラキラした漆黒の双眸で見つめられてしまっては、なぜかシューはそれ以上悪態を吐く気にもなれなくて、苛々と歯噛みをしながらラウルに命じたのだ。

「わーい♪ありがとう、シュー」

 大喜びの光太郎の首根っこから手を離したシューだったが、ドッと来た疲れにウンザリしたような顔をしていると、背後の見張り兵用の小部屋の中から押し殺した笑い声を聞き付けてムッとしたように振り返った。

『チッ!またお前かよ、シンナ』

『あらン。偶然よン、偶然ン』

 足を組んで安っぽい木のテーブルに頬杖をついているシンナが、クスクスと笑いながらウィンクしてくる。そんなシンナとシューの間で、ブランが半分怯えたように額に汗を浮かべて2人の顔を見比べている。背後では、呆気に取られたような、いいのかな?と不安そうな表情をするラウルが腰に下げた鍵束から牢屋の鍵を光太郎に渡しながらシューを見上げている。

『最近は沈黙の主の部隊と遣り合うこともないじゃないン?もう、退屈で退屈でン』

 肩を竦めて大袈裟に溜め息を吐くシンナに、シューは暇そうでいいなとでも言いたそうな胡乱な表情をして睨んでいたが、背後で礼を言って受け取った鍵で鉄格子の扉を開ける光太郎に気付いて振り返った。
 どうせ人間の捕虜がたかだか30人ぐらいで束になってかかって来たとしても、シンナはもとより、シュー独りいれば叛逆して脱獄しようものなら一瞬で累々たる死体の山をこの地下牢に築くのも朝飯前だろう。だから脱獄などは気にも留めていないのだが、問題は大切な【魔王の贄】の存在である。
 どれほど自分の身がこの闇の国で重宝されているのか、そんなことには少しも気付いていない光太郎に、その重要性に気付きまくっている捕虜どもが危害を加えないと言う保障はない。
 ただその気懸かりだけで、シューは光太郎と捕虜たちの動向を見守っているのだ。

「大丈夫?ずっと気になっていたんだ」

 光太郎が屈み込むようにして横たわっている捕虜の傍らに座り込むと、ウォルサムが困惑したようにそんな光太郎に呟いている。

「包帯がここに来た当時のままなんだ。たぶん、菌にでもやられたんじゃないかと…」

 額に手を当てて熱を測る光太郎の傍らで、捕虜たちは光太郎を捕らえてどうかにかしようなどと言う気配などこれっぽっちも見せず、ただ不安そうに仲間の顔を覗きこんでいる。こんな異国の地で、顔見知りはたったの30人しかいないのだ、その中の1人でもいなくなってしまうなど…彼らには考えられないでいた。

「うん、包帯が血液で汚れてる。ちょっと化膿してるみたいだね」

 光太郎が腕に巻き付けられている汚れた包帯を解きながら呟くと、ウォルサムが意を決したように立ち上がって、一瞬シューたちの間に緊張が走った。

「シューの旦那。頼むから新しい包帯をくれないか?」

 それが人に物を頼む態度か?とでも言ってやりたいぐらいだったが、そんなことをして土下座でもすればいいのかと話がそっちの方向に向かって、現実に土下座でもさせようものなら光太郎からなんと言われるか…そっちを考えただけでもシューの背筋には冷たいものが走って、ウンザリしたように肩を竦めるのだ。

『ブラン、包帯を…ん?』

「何をするんだ!?」

 背後が俄かに騒がしくなっても、光太郎は発熱して苦しそうにしている捕虜に、飲み水に浸したタオルを絞って額に押し当ててやった。こんな場合はどうしたらいいんだろうと悩んでいると、周囲で一瞬ハッとした気配がして光太郎は振り返った、振り返って驚いた。

「シンナ…」

『診せてご覧なさいなン』

 シンプル且つ大胆な衣装を身に纏ったシンナが、華奢な腰に片手を当てて立っていたのだ。光太郎がホッとしたその時、不意に捕虜たちが殺気立って身構えたのだ。

「え?え?どうしたんだい…?」

 ワケが判らなくて困惑する光太郎の前で、シンナはそんな捕虜たちを冷ややかな目で見詰めるだけで何も言おうとはしなかった。先に口を開いたのは捕虜の方だった。

「し、シンナ副将!この悪魔めッ、俺たちの仲間を今度はどうしようって言うんだ!?」

 呆れたように肩を竦めるシンナの前で、光太郎が慌てたようにそんな連中を見渡して口を開いた。

「何を言ってるんだよ?シンナがこんなところで何をするって言うんだよ?」

「光太郎!ソイツは悪魔みたいに俺たちを殺そうとしたんだぞ!シューがいなかったら、悔しいが俺たちは皆殺しだったッ」

 それじゃあ…と、光太郎がこの傷を負わせたのはシンナだったのかと目を瞠って振り返ると、シンナはちょっと不機嫌そうに眉を寄せて、可愛い顔を曇らせながら唇を尖らせたのだ。

「なんだ!それじゃあ、話は早いじゃないか。シンナが傷付けたのならシンナが面倒見ないと」

「はぁ!?」

 何を言い出したんだとウォルサムを始め、捕虜一同が眉を跳ね上げて驚く前で、光太郎は立ち上がると自分と同じぐらいの背丈の少女の腕を掴んで傍らに一緒に座り込んだのだ。

「どうかな、シンナ?俺じゃ、傷とか判らないんだ」

 呆気に取られていたシンナはしかし、真剣に化膿して膿んでしまっている傷口を痛々しそうに、心配そうに覗き込みながら尋ねてくる光太郎に、ちょっと嬉しそうに笑って頷いた。

『どれどれン?ん、これだと、あの薬が効きそうねン』

 腰に巻いたベルトに下がる小さなポーチから練薬の詰まった小さな鉄製の缶を取り出すと、刺青が隈なく肌に這う指先でもってその傷口に触れようとしたその時だった。

「…ッ、…うぅ…お、れに触るな!」

 発熱と痛みで意識も朦朧としているに違いないのに、人間の捕虜はシンナの手を振り払うようにして身体を曲げて拒絶したのだ。光太郎が「そんなこと言ってる場合じゃない」と捕虜の肩に手をかけようとしたまさにその時だった。

『いい加減にしなさいン!だから人間は愚かでディハール族は見捨てたのよン!たとえ手当てする相手が敵将だったとしても、どうして早く善くなるようにそれを甘受しないのン?どうしてアンタたちには早く善くなって、全快した身体でここを抜け出して、家族の為に仇を討とうとする気迫ってものがないかしらねン!そんな安っぽいプライドなんて捨てなさいン!!』

 思い切り背中を叩かれて、痛みと熱に朦朧としている捕虜はそれでも、呆気に取られたようにシンナを振り返っていた。もちろん、その場にいた見張り兵もウォルサムも捕虜たちもシューも光太郎もみんなが、呆気に取られたようにそんなシンナと傷付いて倒れている捕虜を見ていた。

『早く腕を出しなさいン!それともあたしに力尽くで腕を引っ張って欲しいのン!?』

 シンナの剣幕に捕虜は慌てたように腕を差し出して、それからとうとう眩暈を起こしたのか、クラクラしたように気を失ってしまった。

『ほら、見なさいン。余計に自分を苦しめて何が楽しいのかしらン?人間てヘンな生き物ねン!』

 元はディハール族も人間だったのだが、魔物になってしまって長い年月が過ぎたせいか、それとも生まれた時から既に身体中に刺青を彫られて魔力を注ぎ込まれているせいなのか、シンナには自分が人間だったと言う概念がないようだ。

「シンナの言うとおりだよ。敵でもこうして手当てしてくれようとしてるんだから、それを受け入れて早く元気にならないと!シンナの場合は、手当てしてあげないといけないんだけどね」

『いやン!痛いところを突かないでン♪』

 逸早く我に返った光太郎が納得しながら頷くと、薬を塗り終わって包帯を巻いているシンナの傍らから覗き込みながら呟いて語尾をおどけたように言えば、シンナがケラケラと笑いながらそれに応えた。
 呆気に取られていたウォルサムはしかし、ちょっと俯きながら信じられないように呟くのだ。

「どこの世界に、敵将が捕虜の手当てをするって言うんだよ…」

『シンナだってそんなヤツじゃないぜ。人間は死ねってのがアイツの信条だからな』

 呆れたように双眸を細めた、腕を組んだシューがそう言うと、ウォルサムが弾かれたように顔を上げてそんなライオンヘッドの魔将軍を見上げたのだ。

「なぜだ?」

『なぜだと?』

 シューはそんな茶髪の人間をジロリと視線だけで見下ろすと、ニヤッと嗤って唇の端を釣り上げるのだ。

『大方、光太郎のおかげだろうよ。お前たち捕虜は、どんな理由であれ光太郎を粗末にしないほうがいいんじゃねぇか?俺たち魔物が食い殺したいと思っても、あのチビがそれを止めればヤル気なんか一気に萎えちまう。それは特別な存在だからってワケじゃねぇ。光太郎にはそんな力があるからな』

「…」

 フンッと鼻で息を吐いて笑い合う光太郎とシンナに視線を移すシューを見上げていたウォルサムは、思わずと言った感じで呟いていた。

「そうか…まるでグラーシュカ様だ」

「おお…そうだ、グラーシュカ様だ」

 その呟きを耳聡く聞きつけていた捕虜の1人が頷くと、そこにいた人間たちはずっと気になっていた何かの答えを見つけて口々にそれを口にした。

「光太郎はグラーシュカ様に似ているんだ」

 誰かが言えば。

「異世界から導かれて来たんだろ?光太郎こそ、俺たちのグラーシュカ様だ」

 誰かが言う。
 そうして、そんな背後の気配など我関せずでシンナと薬草について講義している光太郎を、シューは見詰めながらやれやれとタテガミに埋もれてしまいそうな耳を伏せるのだった。

『なるほどねぇ、愛と美と戦女神のグラーシュカね。光太郎はどう見ても男なんだがな』

「そんな性別なんか関係あるかよ。アンタが言ったんだろ?光太郎を大事にしろってな」

 ウォルサムが敬うような敬愛の双眸で光太郎を見詰めている姿を見下ろしながら、シューは違った意味で背筋を流れる冷たいものを感じた。
 人間の考える情愛は、時として魔族では考えられないほど深い場合もある。
 光太郎を神格化して、そんなつもりではなかったシューは不安になって荒々しく息を吐いた。

『フンッ!その戦女神グラーシュカの化身は俺たち魔族に微笑んでいるんだ。残念だったな』

 吐き捨てるようにそう言って、シューはズカズカと歩いて行くと、シンナの薬草に対する豊富な知識に瞠目している光太郎を背後からむんずと腰に手を回してヒョイッと小脇に抱え上げると、無言のまま牢屋を後にした。

「あれ?シュー、どうしたんだい?」

 何も知らない光太郎が目を丸くしながらもニコッと無邪気に笑って見上げてくると、シューは凶悪な表情をしてそんな人間の少年を見下ろした。

『誰でも彼でも愛想を振りまいてるんじゃねぇ!』

「ええ!?」

 一方的な言い草にワケが判らない光太郎がビックリしていると、クスクス笑いながら牢屋から出てきたシンナがポーチに薬を仕舞いながら掴まれている光太郎の顔を覗きこんだ。

『シューは光太郎を誰かに取られそうでヤキモキしてるのよン』

「ええ~♪」

 嬉しそうに笑う光太郎とそれに応えて微笑むシンナを見下ろしながら、シューはガックリと項垂れて首を力なく左右に振ったのだ。

『頼む、そんなつもりじゃねぇんだ…』

 もう勘弁して、と言いたそうに力なく尾を振るシューを、今度こそ本当に何事かと驚いた光太郎が見上げている。その後ろ姿を、ウォルサムは閉ざされた鉄格子を両手で掴みながら閉鎖された空間から熱心に見詰め続けていた。

(グラーシュカ様は暁を往く戦女神…柔和な笑みが愛と美を象徴し、掲げた剣が諍いを象徴する)

 ウォルサムは溜め息を吐いた。

(我らが崇める女神がなぜ、魔族の許に…?)

 乱暴に小脇に抱えられている光太郎が、優しそうな笑みを浮かべて強面のライオンヘッドの魔物を見上げている。その表情は、嘗てウォルサムに「シューしかいないから」と言って悲しそうな表情をして見せた光太郎の、絶対的な信頼を寄せた顔だった。
 シンナが何か言ってシューが項垂れると、弾かれたように陽気な声を上げて笑う光太郎が、ライオンヘッドの魔物から軽く小突かれて頭を抱えている。
 その光景は、恐らくウォルサムがこの魔城に囚われてから初めて見た、いや、この世に生を受けてから初めて見た、魔物と心を通わせている人間の姿だった。

3.囚われし大地の者  -永遠の闇の国の物語-

 シューと行動を共にし始めた光太郎は、あれほど探検し尽くしていたと思っていた城内が、実は思った以上に広かったことを知ったのだった。
 さて、これからどうするか?の問いに、光太郎は元気よく、この城の中で自分の知らない場所を見せてほしいと懇願した。その答えに、シューは些か困惑したように獅子面を顰めて見せたが、それでも退屈凌ぎにはなるだろうと頷いて、歩き出しながらついでのようにこの世界の事についても大まかに語り始めたのだ。

『この世界には多数の国々が在った。在った、と言うからには既にもうないワケだが、それは大きな戦が起こったからだ』

「戦(いくさ)って戦争だね。それはやっぱり魔族対人間ってこと?」

 光太郎の質問に、シューは彼をチラッと見下ろしてから頷きながら先を続ける。

『魔族はそれまで定住の国を持たなかったんだ。みんな、それぞれバラバラに森の中で暮らしていたんだぜ。今の状況からじゃ考えられねーだろ?』

「そうだったんだ。うん、今はみんな一緒に住んでいるみたいだからね」

 光太郎が頷きながら応えると、シューは肩を竦めながら先を続けた。

『ある日、今の魔王がお出ましになってから、俺たちには秩序と言うものができてな。部族たちで寄り集まって部隊を編成して、そして城を築き、ここに移り住んでみんなで暮らし始めた』

 遠い昔を思い出すように耳を伏せて双眸を細めるシューを、光太郎は無言のままで見上げながら静かに聞いている。

『城が築かれたときには既に人間との戦は始まっていたし、思った以上に簡単に次々と国を落とせた。だがそれは、魔王の強大な力があったからこそなんだ。さもなきゃ、俺たちの様な雑魚が束になっても、簡単に屈するような国々だったワケじゃねぇからな』

 獅子の頭部を持つ屈強な体躯の持ち主であるシューを、光太郎は上から下まで繁々と眺めながら、シュー1人でも100人ぐらいは倒せてしまうんじゃないかと思っていたが、それは口に出しては言わなかった。

『だがな、そんなひ弱な人間どもの中にも、魔王に対抗するべく力を持ったヤツがいたのさ』

「ホントに?」

 そんな強い人がこの世界にもいるのかと、光太郎は驚いたように目を瞠ってシューを見上げた。ライオンヘッドの魔物は、無邪気に驚いてみせる人間の少年を、複雑な表情をして見下ろすのだ。

『沈黙の主と呼ばれる、元はラスタラン国の王太子だった男だ。辣腕の持ち主でな、敵将ながら天晴れだと誉めてやりたいぐらいさ』

「沈黙の主…って言ったら、さっきシンナが怒っていた人のことかな?」

『そうだ。ゼィとシンナは魔王の命を受けて沈黙の主討伐に行くんだが、これがいつも空振りで終わっちまう。まあ、だからこそ沈黙の主の力の凄まじさが判るってもんだがな』

 光太郎はそんな風に話すシューをふと見上げて、そのライオンヘッドの横顔をじっと見つめた。そんな光太郎の仕種に気付いたのか、シューは訝しそうに眉間に皺を寄せてみせると、苛立たしげに牙を剥いた。

『なんだよ?』

「え?あ、ううん。ちょっと、シューってもしかしたら、沈黙の主を気に入ってるのかなって…」

『なんだと?』

 不意に凶悪な顔をして凄むように顔を覗きこまれた光太郎は、途端にビクッとして首を竦めながら両目をギュッと閉じて詫びを入れる。

「わわ!ごめんッ、ごめんなさい!…そんな、真剣に怒らなくってもいいだろ?ちょっとそんな気がしただけなのに~」

 それでもすぐにムゥッと眉を寄せ、目と鼻の先に鼻面を押し付けるようにして覗き込んでくる円らな瞳を見つめ返しながら、光太郎は下唇を突き出して抗議した。そんな光太郎の態度にますますムムム…ッと腹を立てる、本来なら泣く子も黙る魔族が挙って褒め称える獣人族の雄姿を持つシューは、鼻面に皺を寄せて威嚇していたが急に馬鹿らしくなったのか、肩を竦めて上体を起こすのだ。

『気に入ってるワケじゃねぇが…まあ、確かに認めてるって言やぁ認めてるのかもしれんがなぁ…』

 ブツブツと悪態を吐く獅子面の魔物を見上げて、光太郎は納得したように頷くのだ。

「きっとシューは、力のある人は敵味方の区別なくきちんと認められる人なんだね」

 ニコッと笑って、感心したように何気なく口にしたその言葉に、シューは唐突にムッとした顔をして鼻息も荒く何も言わずにズカズカと歩き出してしまった。それに困ったのは光太郎で、突然機嫌が悪くなったシューの後を追い駆けながら、慌てたようにその顔を覗き込もうとして必死だ。

「もう!何でシューってばいつもそうカッカしてるんだよ?そんなんじゃ何にも話せないよッ」

『お前はイチイチうるせーんだ。黙ってついて来ればいいじゃねぇか』

「黙ってるなんて嫌だよ。せっかくシューがいるのに…黙ってるなんてのは話す人がいない時だけでいいんだよ。って言うか、そもそも話せる相手がいるのに話さないなんて言うのは根暗じゃないかな?俺、そう言うの苦手だからたぶんきっと、凄く話すと思うよ。そう言うの嫌だって言ったらシューと一緒にいられないじゃないか。そう言う場合はシューが我慢しなくっちゃダメなんだよ」
 全く、自分勝手な屁理屈を捏ねて獅子の頭部を持つ魔物の腕を確りと掴んで一緒に歩きながらブチブチと話し続ける光太郎を、シューは呆気に取られたような顔で見下ろすと、次いでうんざりしたように肩を落としてしまう。

「そもそも、シューはちょっと怒りっぽすぎるんだよ。些細なことなんだから『アハハハ』って笑って聞き流してくれればいいのにさ。そりゃ、俺だってちょっと言いすぎる時だってあるかもしれないよ?そう言うときにこそ、シューのそのご自慢の怒りっぽさを披露して怒ってくれればいいんじゃないか。そしたら俺だってこんなに悩んだりとか、シューだって血管切れそうな顔しなくってもいいのにさ~」

 饒舌な光太郎の話に肩を落としていたシューは、半ばウンザリしたようにその頭を小突いた。

『判った判った!うるせーヤツだ。そら、ここにお前の仲間がいるぞ』

「アイタタタ…仲間?」

 小突かれた頭を擦りながら涙目で指し示された扉を見て、光太郎は怪訝そうに眉を寄せてシューを見上げた。自分と同じように、この異世界に引っ張り込まれてしまった人がいるんだろうか…
 その期待と不安が入り混じる感情を、シューは殊の外あっさりと否定した。

『人間の捕虜だ。ちょっと前、俺が戦に出たときに捕まえたんだが…人間同士、仲間じゃねぇのか?』

「え?あ、うん。そりゃ仲間だけど…」

 仲間と言われればどうしても元いた世界の住人たちを思い出してしまう。それは致し方のないことなのだが、シューには通じなかったのか、それこそライオン面が怪訝そうに顔を顰めて首を傾げている。
 それでもシューは肩を竦めるだけでそれ以上は追求せずに、いや、追及してまたもや延々と喋り続けられては敵わないと思ったのだろう、扉を開けて階下に続く階段に促した。

『足許が滑る時があるからな、ひ弱な人間は気をつけろよ』

 ニヤニヤと笑って先を行くシューの腕を掴んだままで、ひ弱と言われてしまった人間である光太郎はムッとしたままで、それでも思った以上に滑り易い石段を踏み締めるようにして黙々と降りることにした。口を開けるほど余裕がないのだ。

 漸く安定した石畳に降り立った光太郎は、松明の明かりにぼんやりと浮かぶ狭い室内を見渡した。室内とは言っても、石造りの廊下を挟んで左手に見張りの兵士の詰め所のような部屋があり、右手に鉄格子の嵌った大きな牢屋が陣取っているのだ。左右にその部屋があり、降り立った場所は廊下に続く石畳である。

『えーい、喧しい!!黙って寝てろや、人間がッ!!』

 唐突に響く怒号に被さるようにして何かで鉄格子を激しく叩く音がしたかと思うと、今度は人間らしき声が哀れっぽく響いてきた。

「いーじゃねーかよぉ、カードぐらい!ここじゃヒマでヒマで仕方ねーんだよ」

『カードだと!?この間はボードゲームを寄越せと言ったじゃねーか!あれはどうしたんだ、ええ?』

「ボードゲームは飽いたに決まってんだろ?いったい何時の話をしてんだよ!なぁ、頼むよ~」

 光太郎は目を白黒させながらシューを見上げるが、シューは肩を竦めているだけで、口許に薄ら笑いを浮かべて一部始終を観察する気でいるようだ。
 その場所からは実によく、状況が見渡せてしまうのだ。
 牛面の青い皮膚を持つ魔物が長い槍でガツンガツンと格子を叩けば、格子にだらりと腕を出した茶髪の人間が怯える様子も見せずに懇願している。その背後で、負傷もしているのか、包帯を額に巻いている兵士や、腕を釣っている兵士が思い思いの姿で自由に寛いでいた。ただ、カードをする仲間はその茶髪を後押しするように囃し立てて援護しているようだが。

『カードか…ムムゥ、ちょっと待ってろや』

「いえーい!話が判るじゃねーか♪」

『うるせー!!』

 どうやら話がついたのか、囚われの身である茶髪の兵士は背後で援護していた仲間たちと手を叩きながら勝利を喜んでいるし、牛面の魔物はノソノソと見張り兵の詰め所らしき部屋に戻ろうとしていた。が、不意にシューたちの存在に気付いて驚いたように敬礼したのだ。

『これは、シュー将軍!』

「シューだと!?」

 魔物の語尾に被さるようにして叫んだ牢屋に囚われている人間の兵士、特にあの茶髪の兵士がガシャンッと格子を掴んで顔をへばり付かせるようにしてこちらを見ている。

『黙らんか!この無礼者どもめが!!』

『まあ、そう気色ばむな、ブラン。人間どもの調子はどうだ?』

 畏まりながらもギャアギャアと喚き散らす人間の兵士を黙らせようと、持っていた槍で格子をガシャンガシャンと叩いて威嚇する青い牛面の魔物を、シューは宥めるように片手を挙げて制した。

『はは!心身ともに健康体でありまっす』

 見事に畏まる魔物に、光太郎がついつい噴き出してしまう。

「なんだ!?また人間を捕まえてきたのか??今度は子供か!卑怯だぞ、シュー!」

 茶髪の兵士が憎々しげにシューを見据えて怒鳴るが、そんな怒声などどこ吹く風なのか、ライオンヘッドの魔物はそんな兵士を無視して光太郎に声をかけた。

『ご覧の通り、ここが捕虜を入れてある牢だ。棲み難いが、仕方ねぇな』

「うん、ジメジメしてるね。でも、中を見たらそんなに酷い状況じゃないし…あれは、もしかしたらベノムの作ったパンじゃないかな?」

『そうだ』

 頷く獅子面の魔物とやたら親しそうに話す光太郎を、茶髪の兵士は両手で格子を掴んだまま動転した表情で、見比べるようにして瞠目している。

「ベノムの美味しいご飯が食べられるし、これで白いシーツがあれば、もう少し過ごし易いんじゃないかな?」

『シーツですかい?はは!調べてみまっすぜ』

 牛面の魔物が敬礼して畏まると、愈々茶髪の兵士は信じられないものでも見るような目付きをして格子に額を押し当てて睨み付けてきた。

「ど、どう言うことだ!?」

『どうってこたないさ』

 肩を竦めてニヤリと笑うシューと、キョトンとそんなシューを見上げている黒髪の少年を見比べて、茶髪の兵士は混乱した頭を落ち着かせようとでもするかのように光太郎に凄んだ。

「お前は人間でありながらどうして、魔物に加担しているんだ!?」

 そう取られても不思議ではないように、光太郎のシューに対する懐きようは傍から見ても明らかなものであった。だが、それが全く悪いことなどとは思ってもいない光太郎にしてみたら、どうしてそんな風に凄まじい目付きで睨まれているのか判らなくて怯えてしまった。

「ど、どうしてって…俺は魔物しか知らないから」

 それは全く素直な感想だったが、茶髪の兵士は呆気に取られるだけで、何か言おうとして失敗しているようだった。そんな2人の遣り取りを、腕を組んでニヤニヤと眺めていたシューが、とうとう堪り兼ねて噴き出してしまう。

『まあ、それぐらいにしておけよ、ウォルサム。コイツは実際、この世界の人間と触れ合ったことがねーんだから、お前たちよりも俺たちに親近感を持ったとしても仕方ねぇのさ』

「この世界の人間?…ってことはなんだ?あの、異世界から人間を召喚していると言う噂は本当だったのか!?」

 まさに青天の霹靂といった様子で格子を握り締めて動揺しているウォルサムと呼ばれた茶髪の兵士に、シューは肩を竦めるだけで否定も肯定もしなかった。その態度が、ますますウォルサムの猜疑心に翳りを植え付ける。

『どうした、ウォルサム。今すぐにでも沈黙の主の許に飛んで帰りてぇってツラだな、おい?』

 シューが意地悪く唇の端をニヤッと捲り上げて笑うと、格子を掴んだ格好で唇を噛み締めているウォルサムは食い入るように獅子の頭部を持つ魔物の傍らで怯える黒髪の少年を見据えていた。
 何も言えずにいるウォルサムをそのままに、シューはもう一度肩を竦めると、どうしたら良いのか判らないといった表情で立ち竦んでいる光太郎を促した。

『さて、そろそろ次に案内してやる』

 そんなシューを見上げた光太郎は、それから静かに鉄格子越しにウォルサムの前まで歩いていった。だが、それに対してシューは何か言おうとはしなかった。

「あの…俺、この世界に来て初めて人間を見たんだけど…えっと、よく判らないんだけど、今の俺にはシューしかいないから、魔物に加担するとか人間を裏切ってるとか、そう言うこと考えられないんだ。ごめんなさい」

 ペコリと頭を下げる律儀な少年に、ウォルサムはまたもや面食らったような顔をして見下ろしていたが、溜め息を吐いて首を左右に振った。

「悪いことは言わん。魔物に加担しても泣きを見るのはお前だ」

「…」

 シューは違う、そんな魔物じゃない…などと言い募ったとしても、目の前にいる人間の兵士には少しも通じないだろうと、光太郎には判っていた。
 長い間の確執は、そう容易く解れて柔和になるものではない。

(そんなこと、よく判ってる)

 唇を噛み締めた光太郎はでも、いつか、この頑なな心を持っている兵士に、少しでもシューやベノムのように、優しい心を持っている魔物が少なくとも2人はいるんだと言うことを教えてあげたかった。

「…人間も」

 ポツリと呟いた光太郎に、シューとウォルサム、そして先ほどから不思議そうに畏まりながらも状況を見守っているブランが注目した。ほんの少し眉を寄せた光太郎が、ウォルサムの碧い双眸を覗き込みながら口を開いた。

「やっぱり人間も魔物を捕虜にするとこんな風にしてるのかな?」

 大概、光太郎が見てきた戦争などでは、捕虜にされた人たちは過酷な拷問を受けたり、些末で汚らしい場所に打ち込まれたりしているものだが…咄嗟に、この環境はどちらも一緒なんだろうかと言う疑問が浮かび上がってきたのだ。
 怪訝そうな顔をしたウォルサムは、ちょっと考えてから、首を傾げながら後方を振り返って、事の成り行きを息を呑むようにして見守っていた仲間たちに問いかける。

「おい、捕虜にした魔物を知ってるヤツっているか?」

 顔を見合わせた仲間たちは1人ずつ首を左右に振った。
 それも仕方のないことで、肩を竦めたウォルサムは見上げている優しそうな漆黒の双眸を見下ろして下唇を突き出した。

「悪いな、俺達は一介の兵士に過ぎないんだ。一度の戦で重傷を負わなければ、すぐに次の戦に駆り出されちまう。そうすると、戦ごとに捕らえた魔物をどうしているのかなんてのは見ることも知ることも出来ないんだ」

『そう、そして俺は役に立たない捕虜を掴まえて来たって大目玉だ』

 シューが肩を竦めると、ウォルサムはムッとしたように眉を寄せて舌を出した。

「悪かったな」

『ふんっ』

 大概の兵士たちは戦場で死ぬのだが、この30人近くいる捕虜たちは部隊でシューを集中攻撃して生き残った連中だった。要は目を暗ますための捨て駒だったのだが、無駄な殺生を好まない、魔物としては珍しい性格のシューのおかげでこうして捕虜として監禁されていると言うわけだ。

「まあ、どうせ今の俺たちには何を言っても説得力はないからな。アンタ、なんて名前だ?」

 鉄格子の向こうから、それでも腹立たしいのだろう、眉を寄せたウォルサムが見下ろしてきて光太郎は何も言えずに息を呑んでいた。そんな様子を見ていたシューが、やれやれとでも言いたそうに首を左右に振って代わりに応えてやった。

『そんな風に凄むなよ。光太郎は魔物じゃねぇんだ。そんな目付きにゃ免疫がねぇ』

「…光太郎って言うのか。ん?なんだ、どこかで聞いたことある名前だな?」

 首を傾げるウォルサムに、光太郎はふとシンナの台詞を思い出していた。
 シンナもやはり、自分の名前に聞き覚えがあるとシューに言っていた。
 この世界で、いったいどこに光太郎と似たような名前の人物がいるのだろう、その人物はいったいどんな人なのだろうかと、そこまで考えて光太郎はそっと俯いた。どうせ、この城から出ることなど出来ない自分が、そんなことを考えても仕方がないと判断したのか、その考えを頭から追い出すことにしたようだ。

「まあ、いい。光太郎、アンタの行末が平安であることを祈ってるよ」

「…ありがとう」

 一種の儀礼的な別れの挨拶に過ぎない言葉なのだが、光太郎はなぜか、その言葉をとても気に入った。
 はにかむようにして笑いながら礼を言う光太郎を、何か不思議なものでも見るような目付きをして困惑したウォルサムは、腕を組んで立っているシューに疲れたような視線を移して肩を竦めて見せるのだ。

「もしかしたらシューの旦那、アンタ、えれぇ厄介者を押し付けられたのかもしれないな」

 振り返ってニコッと笑う光太郎を、シューは無言のままで見下ろしていたが、溜め息を吐いてジロッとウォルサムを睨み付けた。牙を剥いた威嚇はどこか愛嬌があって、それがシューなりの照れ隠しなのだと言うことを知っているものは案外少なかったりする。

『余計なお世話だ』

 思っていたのとは違う、裏腹の反応を見せる珍しいシューの態度に、ウォルサムはちょっと呆気に取られてしまった。いつもは鼻先で笑うか、魔物らしく些細なことで激情するかのどちらかだったのだが、今回の反応はそのどちらでもない。
 ニコッと笑いかけた少年の笑顔に絆されたような、そんな自分を見られてしまったという思いに駆られた照れ隠しの表情…照れ隠し?

(照れているとでも言うのか?この魔物が?)

 冗談じゃない。
 戦場で鬼神の如く次々と人間狩りをするこの凶悪な魔物が、人間の、しかも少年の笑顔に絆されて照れるだと?
 そこまで考えて、自分の恐ろしい妄想にウォルサムは眩暈がした。

「シュー、さっき言ってたカードはあげるの?」

 ふと光太郎が首を傾げながら尋ねると、シューは肩を竦めてブランを顎で指し示した。

『ブラン次第だな』

『はっ!シーツも用意してみまっすぜ』

 牛面の魔物が陽気そうに笑って敬礼すると、光太郎はホッとしたような表情をした。
 そして思うのだ、この城の魔物たちは少なからず魔物と言うには疑わしいほど、優しさを持っているものが少なくないと。そして彼らはそれに、実のところ少しも気付いていないのだろう。
 だからきっと、誰も言わないだろうと思う言葉を、光太郎はブランにプレゼントした。

「ありがとう、ブラン」

『へ?アッシは命令に従ってるだけですぜ?』

 驚いたように槍を両手で握り締めてヲタヲタする牛面の魔物に、光太郎はそれでもいいんだと笑ってみせた。その自然な会話を聞いていたウォルサムは、奇妙な違和感を覚えたのだ。
 人間である自分と会話したときの少年の、あの困惑したような怯えた眼差し…本来ならあれは、あの目付きは、人間にではなく魔物に向けられるべきものではないのか?
 促されて、驚きながらも嬉しそうに笑うブランと困惑して眉を寄せる囚われの兵士たちに「さようなら」と手を振る光太郎と、そんな人間の少年を仕方なさそうに見つめている獅子面の魔物を心ならずも見送ったウォルサムが、この牢獄に囚われて初めて感じた違和感だった。

Ψ

「地下牢ってのはポピュラーだけど、そこに入れられた人たちはきっといつか、病気になると思うんだけどな…」

 ジーッと前を行くシューの大きな背中を見つめながら、光太郎は地下牢を後にしてからもうずっと、ブツブツとそんなことを呟いていた。もちろん、シューに聞こえよがしに、だ。

「怪我もしてるみたいだったし、衛生的には良くないと思うよ?ほら、だってもし感染症とか伝染病とか流行ったりしたら、この城に住む魔物たちにもうつったりして大変なことになるんじゃないかな!…とかね、考えてみたりして…エヘヘヘ」

 ギロッと睨まれてビクッとした光太郎は、流石にそれ以上は強気に言えず、語尾は誤魔化すように笑って見せた。が、それでもやはり、あんなに湿ってジメジメした場所では治りかけた傷でも悪化してしまうのではないかと、囚われた兵士達の身体が気懸かりで大股で歩くシューの腕を掴みながら小走りでその顔を覗きこんだ。

「なあ、シュー!牢屋を移してくれ…とかそんな大きなことは言わないけど、せめて過ごし易く通風孔とか掘ってあげるとかできないのかな?あの湿気はやっぱり、風通しが悪いからだと思うんだけど…」

『病になっても構わん』

 いっそキッパリ言われてしまって、光太郎は言葉もなく立ち竦んでしまった。
 その台詞は、『人間など』病になっても構わない、とシューはハッキリ宣言したのだろう。
 確かにシューは人間嫌いだ。
 忘れていたが、つい数時間前までシューは嫌なものでも見るような目付きで光太郎を見ていた。どう言った心境の変化でなのか、今でこそシューはちゃんと光太郎の話を聞いて応えているが、彼は人間を毛嫌う魔の心を持った魔物なのだ。

「…ふんだ」

 いつの間にか立ち止まっていた光太郎に気付いて、肩越しに振り返るシューを軽く睨んだ黒い双眸を持つ少年が唇をへの字にしている。怖くないぞと自分に言い聞かせて、睨んでくるシューの金色の双眸に気圧されそうになる心を叱咤しながら、光太郎は堂々と宣言した。

「いいよ、どーせシューに言っても無駄だって思ってたんだ!こうなったらゼインに直接頼んでみる。城の外に出なければ、どこを歩き回ったっていいんだろ?」

『お前、それとこれとは…』

 違うと言い掛けた語尾が終わらぬうちに、フフンッと胸を張って笑っていた光太郎は脱兎の如く走り出していた。

『…って、おい、ちょ!待ちやがれッ!』

 慌てたのはシューで、城内に響き渡るような堂々たる宣言に、驚いたように振り返る魔物や魔導師、思わず裾を踏みつけて転ぶ闇の神官たちがドカドカッと走って追い駆ける獅子面の魔物を驚いたように見送っていた。

Ψ

『ほう…通風孔と?』

 魔王が大半を過ごす玉座の間には、憤然とした憤りを持つ光太郎と、呆れ果てて言葉もなくムッツリと黙り込んでいるシューがいた。片膝をついて頭を垂れるシューに頭を押さえつけるようにして平伏させられていた光太郎は、魔王の静かな、しかし意思ある深い声音に大きく頷くと、大きな腕を振り払うようにして顔を上げたのだ。

「そう!城内なら勝手に出歩いてもいいんでしょ?だったら、少しぐらい城内を工作してもいいんじゃないかな…と思いました!」

 シューにジロリッと睨まれて、その視線を気にせずにはいられない光太郎は、ムッとしてそんな魔物をチラチラと見ながらも一応言葉を正して発言する。
 そんな2人の遣り取りをどこか楽しそうに小さく笑って、魔王は腹の上で両手を組むとゆったりと背もたれに凭れて頷いた。

『なるほど、地下牢に通風孔か。だが、独りでは年月もかかろう』

「俺、工作とか結構得意なんだッ…なんです。えっと、道具とか貸してくれたら頑張れると思います!」

 いちいちシューの視線を気にしながらそれでも確り意思を伝えてくる光太郎を、魔王ゼインは暫し紫紺の双眸でジッと見つめていたが、ドキドキしたように視線を逸らさずに強い双眸で見つめると言うよりも睨み返すと言った方が良いような目付きで光太郎は見つめ返した。

『シューも承知しているのか?』

 その目付きに意思の固さを見たのか、この世ならざる美しき相貌に柔和な笑みを浮かべてライオンヘッドの魔物を促した。

『俺は…はあ、まあ。一応は』

 懇願するような、取って喰うぞとでも言いたそうにジーッと見つめてくる直向きな漆黒の双眸に、刃向かえない意志の強さを見て取ったシューも、仕方なさそうに歯切れも悪く頷いてしまう。

『よかろう。だが、この件で何かあるとすれば、その全責任はシューが負うものとする』

『はっ』

「ええ!?」

 別に気にした風もなく頭を垂れるシューと、柔和な笑みを浮かべている魔王ゼインを見比べながら、光太郎は驚いたように思わず立ち上がってシューに腕を引っ張られてしまった。

「どうしてシューが責任を取るんだ!?話を持ち出しのは俺なのにッ!」

『こら、光太郎。魔王に対する口が過ぎるぞッ。まあ、手柄を取りたい気持ちも判らんでもないが、何かあってもお前じゃあなぁ…』

「はぁ!?手柄ってなんのこと?何かあっても言いだしっぺの俺が責任を取ればいいじゃないか!シューは勝手に俺が巻き込んだだけなんだ、このことが失敗してもし、たとえば捕虜を逃がしたとしてもシューに罪はないよ!」

 慌ててシューを庇うようにして前に身を乗り出しながら、光太郎は非情な魔王ゼインの言い付けに真っ向から刃向かおうとして睨み付けた。その態度に一番ビックリしたのはシューで、目を白黒させながら困ったように光太郎の腕を掴んで座らせようとしたが、強情な人間の少年は思うように言うことを聞いてくれない。
 せっかく意見を聞き入れてくれた魔王が気分を害しでもしたら、嫌々参加した自分の面子も丸つぶれなら、何よりもこれまで頑張った光太郎の苦労も水の泡ではないか。
 ハラハラするシューの前で、魔王ゼインは殊の外上機嫌でニコリと笑った。

『なるほど、其方。シューに責任を負わせたくはないのだな。だが、行動を起こすという事は何かしらの犠牲を覚悟して行わねばならぬもの。其方が失敗すればシューが問われることになる。せいぜい、2人で身命を賭して臨むのだな』

 その言葉で、シューと光太郎はそれぞれの疑問の答えが出た。
 シューは光太郎が頑なに拒んだのは手柄を独り占めしたいと思ったからではなく、ただ単に巻き込んでしまったシューに責任を負わせたくないと言う責任感の表れだったと知り、光太郎は魔王の意図するところがシューに責任を負わせることで中途半端な気持ちで臨んではいけないことなのだと教えられたのだと知った。
 そして何より、同時に2人が顔を見合わせたのは、シューに責任が移ることで嫌でも獅子面の魔物が手伝わざるを得ないと言うことになったのだ。
 シューが『俺も手伝わないといけないのか…』とガックリしている傍らで、腹を決めた光太郎が頷きながら魔王を見据えて言い放ったのだ。

「…判りました。絶対に成功させて、シューは俺が守ってみせる」

『グハッ!』

 思わず咽て咳き込みそうになったシューだったが、魔王ゼインが思うよりも穏やかな表情で『そう願うとしよう』と呟いた以上は何も言えなくなった、が、それでも納得できずに鬣に隠れそうな耳を伏せて人間の小さな少年を見下ろした。

「早速、今日からでも取り掛かりたいから、道具を借ります」

『うむ、好きにするが良い』

 活き活きと目標を持った光太郎が立ち上がると、ゼインは肘掛に頬杖をついてゆったりと頷いた。
 こうして、この闇の国の住人となった光太郎の最初の仕事が、一部の魔物、シューの憤懣やるかたない憤りを無視して決まったのだった。
 異世界から導いてきたまだ幼い少年は、その見掛けとは裏腹に、一人前の強い意思を持っているのだろう。
 魔王は、目の前で自分よりも遥かに身体の大きな魔物を、必死で守ろうとしている人間の少年の心を見透かすことができずに、内心で僅かに瞠目していた。
 もしやこの少年は、【魔王の贄】としてだけではなく、何か秘められた力を持っているのではないか…ふと、微かな風のような予感が魔王の心を掠め、頬杖をついたままで、ゼインは眼前でガッツポーズをしてライオンヘッドの魔物を困らせている少年を食い入るようにして見つめていた。

『暁を往く者…か』

 囁くように呟いた魔王の独り言は、不思議と周囲の者には聞こえない。

『なるほど、面白い』

 深紅の口唇を凶悪な笑みに歪めて嗤う魔王に気付かない光太郎とシューは、深々と敬礼して玉座の間を後にするのだった。
 立ち上がった魔王はゆったりとした足取りでバルコニーに出ると、時折遠くの方で暗雲を貫くようにして閃く雷光に、その紫紺の双眸を細めて己が領地を見下ろした。
 遥かに広がる魔の森には、未だに餌食を求めて彷徨う獰猛な低級魔物どもの、耳を劈くような悲鳴が響き渡っている。安らぎなど一片も与えられることのない永遠の闇の国の、終わらない物語の歯車がゆっくりと動き出す。
 魔王は微笑んだ。
 終わらないものなどありはしないと。
 魔天を貫くように雷鳴が響き渡った。

2.魔天を仰ぐ者  -永遠の闇の国の物語-

 シューが光太郎に振り回されているちょうどその時、ゼィは魔王の間へと足を踏み入れていた。
 広間にはハッとした気配がさざめき、慌てたように衛兵が頭を垂れて玉座に続く重く垂れた天蓋を引き上げた。魔王の座する玉座の間は、外の景色が見えるようにと不思議なことに片方の壁がバルコニーになっている。魔王は自らの力を信じているのか、外敵の侵入など考えてもいないようだ。
 そんな無謀な玉座の間に姿を現した青紫の髪を持つゼィは、バサッと外套を払い除けて片膝をつくと、気だるげに玉座に鎮座ました絶対的君主である魔王を見上げた。

『ご苦労だった、ゼィよ。戦果は聞かずともよい』

『クッ、申し訳ありませぬ』

 口惜しそうに歯噛みして頭を垂れる片腕に、魔王は紫紺の双眸を閉じて口許に艶やかな笑みを浮かべる。

『良い、ゼィ。私は至宝を手に入れた。沈黙の主もこれまでよ』

 不意に紫紺に燃える双眸をカッと見開いて、魔王は立ち上がった。その姿はこの世界を暗黒に陥れた者の持つ絶対的な威風があり、ゼィはドライアイスのように床を伝ってくる目に見えない不可視の魔力に圧倒されて畏まった。

『先程シューに会いました。彼の者の肩に、何やら物珍しき飾りを見つけましたが…彼の者こそ王の【贄】ではありますまいか』

『うむ。幾度か召喚はしたものの、何れも誤算であった。此度こそはどうやら至宝であったようだ』

 満足そうにゆったりと笑う魔王のその自信に、ゼィは少しホッとしたような表情をした。
 片手に剣を持ち、幾度も相見えはしたがここぞと言うところでいつも逃げられてしまう人間どもが王と奉る【沈黙の主】を、ゼィはいつかその剣の露にしてくれようと歯噛みをして挑んではいるが悉く不発に終わっている。
 それが、あの人間の少年が魔王に勝利を齎せてくれるのだ。
 人間と言う忌まわしき傀儡に閉じ込められているあの魂を、早く王は開放してその手に入れてしまえばよいのに…と、ゼィは内心で思いながらも何も言わずに頭を垂れた。

『しかし、其方。一足遅かったようだな。あの少年はシューを気に入ったようだ』

『…シューを』

 それは僅かなりとも口惜しいことであった。
 腹の底から憎んでいる人間を滅ぼす役目を胎内に宿したあの人間が、絶望の淵で滅んでいく同胞の姿を目にするその瞬間を、味わってみたいと思っていたことを、どうやらこの魔王は逸早く知っていたようだ。

『いずれにせよ、シューも苦労を買った。其方が溜飲を下げるのはこれからでも遅くはあるまい』

 魔王の言わんとする言葉の真意を、知らないゼィではない。
 暫く逡巡した後、ゼィはしかし、何も言わずに頭を垂れた。

『麗しきラスタランの都が陥落して幾月か…沈黙の主よ』

 魔王はゆったりとした足取りでバルコニーに出ると、暗雲を貫く雷光を見つめて口許を歪めながら微笑んだ。熱い血潮の流れるものが見れば、忽ちその血は凍りつき、命あるものはその灯火を自ら吹き消してしまうだろう微笑は、だからこそ美しかった。

『其方が守る暁は手に入れた。さて、どうしたものかな?』

 漆黒の闇より生まれし魔王を仰ぎながら、ゼィは不意に、内心が震えるのを感じた。
 魔王の放つ瘴気は、時として魔族にはあまりにも強すぎることがある。
 それだけに、ゼィは確信していた。
 シューが振り回されていたあの少年こそ、この世を闇に塗り替える【魔王の贄】なのだと。
 邪悪な美しさを秘めたゼィの深紅の口唇に、ゆっくりと笑みが広がった。

Ψ

 老齢のコック長は、猪の鼻を持った魔物である。
 いつも美味しそうに自分の作った料理を平らげる光太郎を、実は少なからず気に入っていた。
 なぜなら、魔物と言うのは実に食べ方が汚いし、旨そうに貪るということもない。つまりこの食堂では、いつも何かしらの小競り合いが起こっては、椅子が宙に舞うような状態が常なのだ。
 だからこそ、一緒に食事をするシューも自分の食い散らし方を恥ずかしく思っているほどだ。
 オマケに、コック長が最も気に喰わないのが悪態である。
 言うわ言うわ、コック長とその助手が毎日せっせと作る料理を前にして、悪態を吐かないのは魔王ぐらいである。それ以外の魔物たちは皆が皆、口を開けば悪態以外に何もない。感謝もなければ『旨い』の台詞もない。
 できればテーブルでも引っ繰り返してやりたい気分に陥るコック長はしかし、大方、連れて来られた華奢な人間もまた悪態でも吐くんだろうと思っていたし、悪態を一言でも言おうものなら大きな包丁でその首を飛ばしてやろうと覚悟を決めていた。
 魔王の贄とて、食事を慮るコック長には例外ではないのだ。
 コック長が包丁を片手に睨んでいると、なぜ自分が睨まれているのか判らない光太郎にしたら、目の前に出された木のボウルに入った暖かなスープに木製のスプーンを浸しながら、恐る恐る啜ったのがこの世界に来て始めて口にした食事だった。
 そしてそれが、驚くほど美味しかったのを忘れられない。
 だからこそ、コック長ベノムの作る料理が待ち遠しいのだ。
 その時、光太郎が浮かべた驚きの顔と、それからまるで暗い食堂がパッと明るくなるような笑顔、美味しいと叫んで見つめてきたあのキラキラした双眸。
 コック長ベノムが忘れられない、光太郎との初対面だった。

『フンッ、来たか坊主。今日は魚だぞ』

 木の皿に無造作に盛られた見たこともない魚の姿煮と、コンソメに似たスープの入ったボウル、少し硬めに焼かれたパンが盛られた籠、特殊なドレッシングがかけられた新鮮なサラダなどなど、次々と乱暴に置かれていく食器に目をキラキラさせた少年が嬉しそうに見つめている。
 これにはベノムも悪い気はしない。
 だが…

『なんだなんだ、ベノムよ!また一昨日と同じ魚か!?たまには旨い肉を喰わせろ』

 悪態を吐きながらもすぐにがっついているライオンヘッドのシューを、猪頭のベノムが鼻息を荒くして威嚇するように牙を剥いた。そんな様子を食器が整えられたテーブルの前で大人しく座って見ていた光太郎がケラケラと笑っている。

「肉は昨日食べたじゃないか。シューってばヘンなの」

『む?なんだと、コイツ…!』

 グワッと牙を剥くライオンヘッドの魔物にギョッとしたが、そんな肩を並べる2人の間に割り込んだベノムが巨大な包丁をドンッとテーブルに突き立ててニタリと笑った。

『うるせーぞ、シュー?何ならそのご自慢の鬣をつけたままシチューに頭を入れてやろうか??』

 物騒な台詞にベノムなら遣りかねないと思ったのか、シューはバツが悪そうに肩を竦めて食事に取り掛かった。ガツガツと実に豪快に掻き込む姿は、思わず見ていてこっちの方が腹いっぱいになりそうなものだが…光太郎は負けじと木のスプーンを持って食べ始めた。

『よく噛めよ、坊主。人間はすぐに腹を壊しちまうからな!』

 ガッハッハッと笑いながら包丁の背で肩を叩きながらベノムはさっさと厨房に姿を消してしまった。その後姿を見送っていた光太郎に、シューが口の周りをペロペロと舐めながら手元を覗き込んでいる。

「…シュー、もしかしてまだ食べたいの?」

 食事の時間で交代してきた見張りの兵が猛然と食事を掻き込んで、テーブルの上はお子様ランチでも食べ散らかしたような有様になっている。シューも同様に、まるで子供のように食べ散らかしているのだ。

『むぅ、足らんとも思うが。これ以上喰えばベノムの爺さんが喧しいからな…』

 それでもやっぱり足りていないんだろう、シューは大きなガタイで凶悪な面構えだと言うのに、まるでお預けを喰らった犬のように大人しく光太郎の皿を見ている。
 穴が開くほどジーッと見られると、その姿があまりにも可愛く見えてしまって、光太郎は思わずコッソリと噴出してしまった。可愛い、なんて言えばブッ飛ばされるだろうから、神妙な面持ちで腹を擦りながらシューを見上げる。

「ちょっとお腹いっぱいかな。残したらベノムに怒られるから、こっそりシューが食べちゃってよ」

 ニコッと笑う光太郎を、シューは暫く何かを考えているように金色の目を彷徨わせていたが、仕方なさそうな表情をした。

『それじゃ仕方ねーな!』

 嬉しそうに舌で唇をペロリと舐めたシューは、髭をピクピクと動かしながらボウルに顔を突っ込むようにして美味しいスープを飲んだ。実はシューと食事に来ると、半分がライオンヘッドの魔物の胃袋に納められてしまうのだ。それを知っているベノムは、だから光太郎の食事は普通より少し多めに盛り付けられている。
 意外にこの人間は物怖じしないし、糧を分かち合う心得を持っている。
 日頃はムスッとしているシューも、この人間と一緒にいるときは機嫌がよく見える。

「俺ね、日本にいた頃はカレーとか作ってたんだ。いつか、シューにも食べさせてあげるね、パンケーキ♪」

『ふーん、カレーとパンケーキか。旨そうだな~…よし!喰わせろ』

 ペロリと平らげたライオンヘッドは頷きながら、光太郎の鼻先に鼻面をくっ付けながらワクワクしているようだ。

「え!?いや、今は作れないよ~」

 慌てて両手を挙げると、そうなのかと、強面の魔物は残念そうな表情をした。
 シュンッとした姿は本当に可愛くて、実は元の世界では犬と猫を飼っていた光太郎は、どうしてもそんな風にされてしまうと放っておけないのだ。

「いつかきっと作るよ」

『それは楽しみだな』

 食べ物のことになるとこの魔物はやたら機嫌がよくなるようで、いつもはブスッと不機嫌そうな、表情の読み取れない顔をしているのだが、この時だけは珍しく笑うのだ。
 口許は笑っているのかどうか判断しがたいが、その目だけは細められて笑っているのだと言うことが判る。

『あらあらン。破壊の死神と怖れられるシューが見られたものじゃないわねン』

 不意に背後から声をかけられて驚いた光太郎が振り返ると、そこに立っていたのは褐色の肌にショートカットの金髪、空色の瞳を持つ全身刺青を施した少女が腰に手を当ててニヤニヤ笑っていた。

『シンナか。ゼィと一緒だったんだろ?』

『ゼィは魔王さまのところよン。もうちょっとで沈黙の主を捻り潰して遣れるところだったのにン!キーッ!!悔しいンーー!!』

 小柄な少女はだんだんと興奮したのか、語尾は既に金切り声になっている。
 なんとも負けん気の強い性格のようだ。
 全身刺青を施した体躯には、胸元を覆う白い布と、下着を隠しているだけの長い腰布、オーバーニソックスに編み上げのような靴を履いている、実に身軽なファッションの少女である。両腕に装着している奇妙な腕当ては、どうやら状況に応じて爪が飛び出す仕組みになっているようだ。

『これが魔王さまの贄なのン?ふーん、ちょっとよさそうな子じゃないン』

 ジロジロと不躾に観察していたことにハッと気付いて、光太郎が慌ててニコッと笑った。その様子を椅子に腰掛けたままで見ていたシューは、クックッと笑いながら頷いて見せた。

『面白いヤツだぜ。そして恐れ気がねぇからな。シンナもヒマなら相手してやれよ』

『いいわよン。で、名前はなんて言うのン?』

『光太郎』

 シューが短く名前を告げると、シンナはちょっと考えるような素振りをして、訝しそうに眉根を寄せた。

『光太郎ン?どこかで聞いたような名前ねン』

『まあ、あんまり気にすんな。光太郎、コイツはシンナ。身体はチビだが戦闘能力は高いぜ。侮ってると痛い目を見るから注意しとけ』

 取り残されたように2人の会話を聞いていた光太郎は、急に話を振られてビックリしたような顔をしたが、それでも小生意気そうな双眸で可憐にウィンクなどされてしまうと思わず緊張していた頬が緩んでしまう。

「よろしく、シンナ」

『よろしくねン♪今度、ヒマだったら体術を教えてあげるわねン!強さは魔力じゃどうにもならないわン、身体で勝負するのよンッ』

 グッと拳を握って見せると、シンナの華奢な腕に装着された腕当てから爪が飛び出して、それを突き出すようにして振り回す。最後は何もない場所に蹴りを食らわせて、優雅にクルンッと回って構えると、目を白黒させていた光太郎は思わずパチパチと手を叩いてしまった。

「す、すごい!」

『あらン?いやだン、誉めてるのン?どうしようン、あたしそんなつもりじゃなかったのにン』

 テレテレと照れながら構えを解くと、手の甲を覆っていた爪がシュッと元に戻って、シンナは赤くなった頬を両手で覆ってしまった。

『やだやだン!もう、行くわねン!恥ずかしいわン』

 小柄な身体の少女はそそくさと走り去ってしまう。熱くなった頬に両手を当てたままで、そんな仕種は元いた世界の同年代の少女よりも女の子らしい。

「彼女も、やっぱり魔物なのかい?」

 シンナの後姿を見送りながら光太郎が尋ねると、シューは立ち上がりながら肩を竦めて見せる。

『ああ、だが元はディハール族だったんだがな。ディハール族は魔王に忠誠を誓い、身体に刺青を入れることで魔力を持つ魔物になっちまったのさ』

「そうなんだ…」

『シンナは魔力で変化するからな、見た目に騙されれば彼の世逝きさ』

「そ、そうなんだ」

 思わず、自分と同い年ぐらいにしか見えない少女があんな凄い技を繰り出すなんて、もしかしたら自分にも体得できるかも…などと安易に考えていただけに、シューの言葉に光太郎は自分の思い上がりに盛大に照れてしまった。

『さて、腹も膨れたことだし。そろそろ戻るぞ』

「う、うん。じゃあ、ベノム!また明日♪」

 片手を振りながら笑って挨拶をする光太郎に、厨房から顔だけ覗かせたコック長は早く行けと言わんとばかりに包丁を振って追っ払う。
 そんなベノムをケラケラ笑いながら、光太郎は満足そうに歩いて行くシューの後を追って走り出した。

Ψ

 暗い闇に覆われた世界は冷たく、沈黙の主は荒廃した居城で頬杖をついている。

「主よ」

 傍らに付き従う彼の部下は、そのフードの奥に隠された思い詰めた表情を見つめながら、低い声でその名を呼んだ。が、彼は虚空を睨みつけたままで言葉を発そうとはしない。

「主よ」

「今回の戦、どうもおかしくなかったか?」

 今一度の呼びかけに、沈黙の主はついていた頬杖を解くと、両腕を祈るように組んで背もたれに凭れた。

「と、申しますと…」

「魔軍だ。もう一押しで確かに我が軍は壊滅状態だった。だが、深追いをして来なかった…と言うよりも、何かに慌てたようにして退き返して行った」

 おかしいと、あの時の状況を思い出していたのだ。
 魔軍率いるゼィ将軍はもとより、先陣を切って飛び出してくる血気盛んな副将シンナが、その手にある爪を鮮血に染めながらも、ハッとしたように後方を振り返って慌てたように退き返したのは明らかにおかしい。戦場の修羅姫と呼んで怖れている、飛び散った血で双眸を真っ赤にして犬歯を覗かせてニヤリと笑うと次々と襲い来るあの魔物が、半ば蒼褪めたようにして慌てて退き返したのだ。

「戦好きの女は容赦がない。だが、シンナは退き返した。俺の目の前でだ!!」

 ザッと立ち上がった沈黙の主の鎧は、先の戦でベットリと付着した血痕もそのままで、鈍い銀色に光っている。
 彼の治めるラスタランの都は、突如現れた魔物の軍団に成す術もなく陥落させられてしまった。
 緑豊かで、豊富な水が湧き、鳥が歌い何もかもが美しい都だった。当時はまだ、彼の父も母も生きていて、こんな悪夢が訪れるなど夢にも思っていなかった。
 美しい庭園で永遠を誓った存在も、その庭園すらも、今はもう水を湛えなくなった壊れかけた噴水を残すだけで荒れ放題だ。
 沈黙の主は声もなく戸惑っている彼の配下に小さく頷いて、最近酷くなる頭痛にこめかみを擦りながら想い出の残る庭園へと赴いた。
 ここだけは死守したかった。
 だができなくて、生き残った人々を集めて部隊を編成しながら、なんとか武力になったところでこの荒廃した都を取り戻したのだ。その時には既に、美しい都は姿を消して、繁栄していた影もないほど壊滅的に破壊されていた。

(だが…)

 主は、いつもそこに座っていたひとを想いだしながら、壊れた噴水の縁まで歩いていった。
 魔物の中にも美を解するものがあったのか、それともこの庭園だけは見逃してしまったのか…城下や城は殆ど破壊されていたと言うのに、庭園だけはある程度姿を留めていた。
 土の剥き出した地面に落ちている玻璃の杯に手を伸ばし、音もなく崩れ去るその砕ける残骸を握り締め、沈黙の主はグッと唇を噛み締めた。

(美を解するものがあるだと?冗談にしてもおぞましいな)

 だが解せないのは、やはりあのシンナの態度。
 魔に屈したディハールの娘は血に飢えた狼のように、その牙を剥いて沈黙の主の軍を追い詰めてきた。その背後にいるゼィ将軍は沈着冷静で、烈火の如き副将を実に良く使ってえぐい戦法で攻め込んでくるのだが、今回は後半から明らかに陣形が乱れていた。
 それは即ち、ゼィ将軍の心の乱れを物語っているに違いない。

(何が乱した?百戦錬磨の兵のその強靭な精神を?)

 陣形の乱れに乗じて反撃できればよかったのだが、生憎と既に自軍の兵士達も疲れ果てていた。口惜しいことに、一矢なりとも報いることができたのなら…

(焦りは禁物だな。何れにせよ、あの様子では当分攻め入ってくることもないだろう。今が休息の時なのかもしれん)

 すぐにでも反撃に出たい心境ではあったが、そこが魔物どもが沈黙の主と怖れて侮らないところである。
 ゼィ将軍も感心するような、その落ち着いた冷静な部分は、魔族にも匹敵するほどである。
 嘗ては美しかった庭は、手入れなどする余裕もない国情では致し方ないほど荒れ果てている。近隣諸国も、魔族に寝返った地域を除けば殆どが壊滅状態だ。
 壊滅状態となった国々から生き延びた人々を集めて統率するその能力は、魔王すらも一目置いている。それだけの力がある沈黙の主は、その胸の内に燃え上がる憎しみを隠して、いつか、そういつか必ず…

(魔族は必ず叩き潰す)

 魔に支配された時から垂れ込める暗雲に消されてしまった空を、魔天を睨みつけながらギリッと奥歯を噛み締めていたが、フードの奥に燃え上がる双眸を隠すと、沈黙の主は外套を翻して庭園を後にした。
 嘗て愛したひとが眠る庭園は、ひっそりと沈黙の主の頑なな背中を見送った。

1.導かれし者  -永遠の闇の国の物語-

その世界は悪の力に支配されていた。

 暗黒の空には薄紫の霧が立ち込め、暗雲は当たり前のように陽光煌く太陽を隠していた。
 木々は立ち枯れ、鳥は悲鳴のような絶叫をあげ、小動物は息を潜めて怯え暮らす、鵺が支配する森。
 その森を抜けた霧深い湖の傍ら、蔦絡まる不気味な城壁を晒すその城こそが、この世界を闇に変え、絶対的なる悪の権力を司る魔王の住まう居城である。
 魔王は漆黒の外套に身を包み、華奢な意匠を施した額飾りで留めた艶やかな黒髪は、世界の不安を塗りこめて、より一層美しく輝きを放っているかのようだった。高い鼻梁に、紡げば虚構と甘美な嘘だけが言の葉となる唇は薄く、ただ、憎悪が渦巻く煌く瞳だけが、彼が確かに生ある者の証の如く紫紺に輝いている。
 バルコニーから吹き込む瘴気の風に、緩やかに長い黒髪を揺らし、魔王は満足したかのように世界の全てを見通す眼力でもって、己が領土を見渡していた。
 その足許で、憎々しげに魔王を見上げる少年が、唇を噛み締めて座り込んでいる。
 魔王よりも明るい自然な黒髪は、人間の持つ生気に溢れて見た目よりもふわりと軽く、少年らしい意志の強そうな黒い瞳も、未だ希望を捨てずに煌いていた。
 彼の名は光太郎。
 この世界に本来在るべき者ではなく、己が力を増力するために魔王の力で持って異世界より誘われた贄である。

『何を睨む?其方の世界に関わることでもあるまい。この世のことなど、其方が案ずるに及ばぬこと』

 魔王は生あるものが見れば忽ちにその命の灯火を吹き消されてしまうだろう微笑を浮かべながら、氷のように冷たい声音で座り込んでいる光太郎を一瞥することも無く呟いた。

「もう関わっているのに気にするなって?そんなの無理だ。取り敢えずここはどこなんだよ…ッ」

 キッと、怖いもの知らずな人間は、意志の強そうな瞳をキラキラと煌かせて、魔王が喜ぶ向こうっ気の強い口調で遣り返す。遣り返したものの、近付こうとして、首に嵌められた首輪から繋がる鎖にその動きは封じられてしまった。

『何、其方が逃げ出さぬなら態々鎖になど繋がぬのだがな…』

 逃げ出せるなどとは思ってもいない魔王の、その白々しい台詞に光太郎はムッと唇を尖らせた。
 初めて召喚されたとき、光太郎は夏休みに入ったばかりで夜更かしをして、牛柄のお気に入りパジャマのままだった。きっとこれは夢なんだろう、寝る前にハマッていたネトゲのせいなんだろうと自分に言い聞かせていたが、それが見当違いだと判ったのは夜の闇に溶け込みそうなほど静かな、この世の者ならざる美しい魔王の相貌から紡がれた氷の言葉だった。

『ようこそ、我が永遠の闇の国へ…』

 ゾッとした。
 身体中の毛穴と言う毛穴が一気に開いて、嫌な汗がびっしりと背中を濡らす。
 逆らえない力のようなものを感じて、たかが中学生の彼に刃向かえるほどの勇気などあるはずもなかった。
 だがしかし、元来から向こうっ気の強い光太郎のこと、ワケの判らないまま軟禁されて黙っているわけもなく、さっさと部屋を抜け出して探検さながら城内を徘徊して回ったのだ。
 魔王の居城には、彼の配下の魔物が警備をしていて、そんな人間の小僧などはあっと言う間に捕まってしまい彼らの主の元に引っ張り出されてしまう。そんなことを数回繰り返すうちに、王でありながら随分と寛大だった魔王は、そんな彼の首に自分で外すことの出来ない首輪を嵌めてしまったのだ。
 それからはこうして、彼の足許に座り込む日々が続いている。
 徘徊していて気付いたことは、かなり広い城であることと静けさ。魔物は至る所で警備をしているのに、賑やかさといったものがまるでない。そして、魔物は位が高くなるにつれて人型に近くなっていくということ。
 よほど魔力が強いのか、魔王は美しさこそ人間離れしているが、確かに人間らしい姿をしている。

『…何を考えている?』

 ポツリと、バルコニーから下界を見下ろしていた魔王が呟くと、光太郎はハッとして、自分がボーッと美しい横顔に魅入りながら考え事をしていたことに気付いてバツが悪そうに眉を顰めた。

「この鎖が外れたらなーとか、ここはどこなんだろうなーとか、あんたの名前はなんて言うんだろうなーとかイロイロ」

 不意に魔王の酷薄そうな口許に微笑が浮かぶ。
 彼の影のように付き従う腹心の配下が、ムッとした様に小生意気な少年を睨みつけた。
 さすがにそれには光太郎もビクッとしてしまう。

『恐れながら魔王、少々口の過ぎる贄でありますれば早々に儀式を済まされては如何かと…』

 腹心の、より人型に近い魔物が憤懣やるかたなさそうに腕を組んでムッツリと口を噤んだ。
 なぜならそれは、魔王の機嫌が思ったよりも良かったからだ。

『私は気にならんよ、シュー。この私を前に恐れ気もない人間など却って珍しいではないか。儀式などいつでもできよう。今暫くは楽しむとしよう』

 シューと呼ばれた腹心の魔物は、多少苛々したように眉根を寄せてはいたものの、魔王の言葉が絶対なのか片膝をついて頭を垂れた。

『仰せのままに…』

 そんな二人の遣り取りを黙って眺めていた光太郎は、今もってもこれが本当に夢じゃないのかと無言のままで頬を抓ってみた。

「イテテテ…」

 どうやら夢じゃなさそうだと、生理的に浮かんだ涙をそのままに溜め息を吐いていると、そんな自分をいつの間にかじっと見つめている紫紺の瞳に気付いてドキッとした。
 それでなくても人で在らざる者の持つ眼光だ、思わず心臓が飛び上がってドキドキしたとしても光太郎が悪いわけではない。だが、光太郎はもちろん気付いているはずもない。魔王がその気になれば、彼の心臓が飛び上がる前に一睨みで凍えさせ、その動きを停止させてしまえることになど…
 不意に音もなく近付いてきた長身の魔王は、長い黒髪をサラサラと肩から零しながら腰を屈め、長い兇器のような爪を有する繊細そうな指先でパチンと首輪の留め具を外してやった。

『多少は懲りたであろう。城内は自由に出歩いても良いが、城外にはけして出るでないぞ。飢えた魔物は見境がないからな。其方の臓腑など忽ち食い荒らされるだろうよ』

 やっと自由になった首の辺りを触りながらホッと溜め息を吐いていた光太郎は、そんな魔王の言葉にギョッとして顔を上げた。思ったより間近にある紫紺の双眸にドキッとする光太郎に、満更冗談でもない強い光をその双眸に宿した魔王が身体を起こすついでに少年の腕を掴んで立ち上がらせながら更に言葉を継ぐのだった。

『ここは常しえの闇に支配された名もなき世界。私はこの世界を統べる魔王ゼインだ、光太郎よ』

 魔王、ゼイン…

「ふーん?じゃあ、俺はあんたのことをゼインって呼んだらいいのか?」

『貴様…ッ!!』

 これにはさすがにシューも立腹したのか、思わず腰に挿した奇妙な形の鞘から抜刀して光太郎に斬りかかりそうになった…が、魔王が軽く片手を上げただけで、思わず目を閉じて頭を抱え込む光太郎の頭上に振り下ろされかかったカトラス剣がピタリと留まる。
 思わずギュッと閉じていた目を恐る恐る開いた光太郎は、腕をぶるぶると震えさせて、額にびっしりと汗を浮かべた恐ろしい形相のシューを驚いたように見上げた。

『シュー、気は落ち着いたか?』

『お…許しを…』

 上げていた手を下ろすと、魔王よりも大きな身体をした魔物であるシューはドサリとその場に倒れ込むと、ゼェゼェと荒く息を繰り返した。

『光太郎よ。私のことは好きに呼ぶといい。其方のこれからの世話は、そうだな。シュー、お前に頼むとしよう』

「ええー!?」

 思わずギョッとしたのは光太郎ばかりではない、荒い息を肩で繰り返すシュー自身も片膝をついて畏まりながらも信じられないと言いたげに双眸を見開いている。

『王よ、それは…』

 魔王は人ならざる妖艶な微笑を浮かべて、それこそ驚くほどニッコリと笑って言うのだ。

『人間嫌いは重々承知している。私の大切な贄なれば、其方以外に預ける気にはならぬからな。頼んだぞ』

『うぅ…』

 シューはガックリと項垂れながらも、声にならない声で渋々と承知した。
 こうして、光太郎とシューの奇妙な関係が始まるのであった。

Ψ

「なーなー、やっぱホラ、この世界にも人間ているんだろ?その人たちは今、何をしてるんだ?勇者とかいるのかな?」

 なぜか光太郎は、最初ほどシューに対する恐怖感を感じなくなっていた。
 と言うのも、さすがにこの世界を暗黒に叩き落した魔王と四六時中一緒にいたのだから、それ以上の恐怖などありはしないし、既に恐怖と言うものに麻痺していたのかもしれない。
 そんな光太郎は元気真っ盛りの中学生だ。
 身体の大きなシューは身体こそ人間みたいで二足歩行だが、見た目はライオンのような風貌である。いや、頭はライオンそのものであると言っても過言ではない。ただ、ライオンと違うのはタテガミの中から突き出した2本の角と、鎧から見える鞣革のような褐色の肌が人のそれと同じであることだ。その、鎧を押し上げるように筋肉の盛り上がった肩からヒョイッと顔を覗かせて、大きなシューによじ登ろうとしている光太郎の質問を、魔王の信任厚い腹心の魔物は眉を寄せて不機嫌そうに鼻息を荒くしている。

『人間はいる。勇者など俺は知らん』

 苛々しながらも、最大の忠誠を誓っている魔王からの直々のお達しである『贄の世話』を忠実にこなすために、そんな小煩い光太郎にも辛抱強く相手をしている。
 シューの涙ぐましい努力を、仲間の魔物たちがソッと同情していた。

「そっかー。勇者とかいたらゼインが大変なんだな…でも、俺は人間だし。なぁ、シュー。俺は”贄”って呼ばれてるけど、贄ってどんな意味があるんだ?何をするんだ?」

 鎧に覆われた肩に顎を乗せて、噛り付くように片足は片腕に、片手で首にしがみ付きながらとんでもない姿で尋ねる光太郎に、シューはうんざりしたようにそんな小猿じみた少年を乗っけたままでズカズカと長い回廊を大股で歩きながら肩を竦める。

『それは魔王に聞くといい。俺が答えられる問題じゃねぇ』

「…そっか。ごめん、シュー」

 気を悪くした魔王の腹心の、その端からの態度に今更ながら気付いたように光太郎はしょんぼりとして項垂れてしまう。
 暫く無言のままで長い回廊を行くシューと光太郎だったが、同じく忙しなさそうに回廊を行く1人の魔物がそんな2人に気付いて声をかけてきた。

『シューではあるまいか?』

 誰何の声に驚きもせずに、ましてや光太郎と言う人間を肩に乗せたままで振り返るシューに、気圧されることもなく腕を組んだ魔物、と言うには語弊がありそうな姿形は全く人間のなりをしたスラリと長身で、シューに比べると華奢な魔物は何やら物珍しいものでも見付けて楽しそうな表情をしている。
 光太郎はその魔物がシューと、或いはそれ以上の力を秘めている魔物であることに何となく気付いていた。何故ならそれは、シューに比べるならば遥かに人間らしく、また魔王の存在に近しい気配を持っていたからだ。

『おお、矢張りシューであったか。何やら珍しい飾りをつけておるようだが…何処より連れ参ったのだ?』

『ゼィじゃねぇか。西の都はどうだったんだ?』

 お互い勝手に質問しながら、そのくせ意思の疎通は見事なものだ。
 光太郎はそんなチグハグな魔物の会話に耳を傾けながらも、交互に見比べては首を傾げている。

『相見えはしたがしくじった。この私がな、腹立たしきことよ』

『王の計らいで授かった贄だ』

 返答もやはり互いに行うのは、どうやら彼らのくせらしい。

『魔王の贄だと?ほほう!彼の地より馳せ参じたが、どうやら刻限には間に合わなかったと言うことか。これはまた口惜しい』

『良ければくれてやりたいところだが、生憎と王の命令じゃ仕方ねぇ。お前がしくじったってことは、相手は沈黙の主だったと言うことかい?』

 ゼィと呼ばれた青紫の風変わりな色合いの髪を持つ、思慮深い面立ちの青年は、そのくせ忌々しそうに「チッ」と舌打ちした。

『此度こそは捻り潰してくれたものを!人間は幾許か小賢しく出来ているらしい』

『沈黙の主じゃ仕方ねぇな。相手が悪かったと王に報告しとけや』

『そう致そうかな、ふん。シューもせいぜい人間の世話を小まめにすることだ』

 はははっと笑って手を振るゼィは、一方的に会話を打ち切って立ち去ってしまった。
 優雅な身のこなしにシューとまるで相反する魔物であるゼィに目を奪われていた光太郎は、荒々しい鼻息と共に歩き出したシューのタテガミの中からちょこんと覗く耳を引っ張って首を傾げた。

「今の人は誰?シューより人間っぽく見えたけど…シューよりも怖そうだった」

『俺より怖いぞ。だからヤツの前では決して”人間っぽい”なんて言わないこったな』

 ギロリと睨んでニヤッと笑うシューに、光太郎はちょっと考えてからブルブルッと身体を震わせてシューの耳から手を離すと、肩の飾り物のように大人しくした。

『高等魔族に有り勝ちのアンチ人間なゼィと言う魔物さ。俺と同じく魔王の左腕だと謳われている将軍で、怒らせると何処にいてもソイツを八つ裂きにしちまう怖いヤツだ。あれでお前の世話がしたいなどとほざいているんだから、魔王も他の連中も目を白黒させたって仕方ねぇんだよ』

 他人事ではあるのだが、まさしく他人事だとでも言わんばかりに肩を竦めたシューに対して、光太郎はそうなのかと頷いてそれから徐に首を傾げる。

「そう言えば、ずっと気になっていたんだけど…シューたちに俺が人間だってことはバレてるんだよな」

『…』

 不意にピタリと立ち止まった魔物は、呆れているのか怒っているのか、恐らく前者の気持ちで肩に乗っかる珍妙な生き物を睨み付けた。

『お前は俺たち魔族をバカにしてるのか?あのな、光太郎。俺だって人間は嫌いだ。何を考えてるのかも判らんし、同族を裏切ってもへの河童みてーな連中には吐き気だってする。そう言う連中は臭いで判るんだ。くせー臭いがプンプンする』

「匂い?ふーん、匂いかー」

 そう言って徐に自分の腕に鼻を擦り付けてスンスンと匂いを嗅いでみる光太郎に、シューは肩を竦めて首を左右に振ると溜め息を吐きながら歩き出した。

『大方お前たち人間には判らねーよ。特にお前みたいな能天気な人間には月が100万回昇ったって気付きゃしねー』

 悪態を吐く魔物に、それでも光太郎はニコッと笑って見せた。

「魔族は人間が嫌いなんだなー…でもそうか。それでもシューは俺と一緒にいてくれるんだよな?だったら俺、あんまり寂しくないや」

 唐突な光太郎の台詞に面食らったかのように一瞬前のめりになったシューは、慌てて体勢を持ち直すと、今度こそ本当に呆れたような目でニコニコと笑っている小さな人間を見つめてしまった。

『…人間は魔物を怖がるんだがなぁ。なんと言うかお前は、ちょっと変わった人間のようだ』

「へ?そうかな。んーと、それは多分俺に順応力があるからだと思うよ。この間さ、友達と山にキャンプに行ったんだけど、これが傑作で!案の定と言うか、俺たち見事に道に迷っちゃってさー。山ムカデとか蛇とかいて、それでも冒険だーとか言って華麗に下山して見せたよ。でももう少しで行方不明とかなるところだったんだけど、サバイバル状態に順応していたんだと思わないか?」

 ある意味では自慢しているようにも聞こえる話をペラペラとしながらも、いや待てよと思い直したのか、後半は少し不安そうに眉を寄せて尋ねる口調に変わった光太郎を、最早珍妙な生き物以外の何ものでもないと判断したのか、シューは今度こそ関わり合いにならんぞと意志を固めて吐き捨てるのだった。

『…何を言ってるのか全く判らん』

Ψ

 シューに案内された部屋は、当初軟禁されていた魔王の部屋に比べると段違いに狭く調度品も安っぽいものになっていた。どちらかと言うと、元の世界で住んでいた部屋を洋風にしたような感じである。
 いや、もしかしたらパソコンなどがあったのだから、自分の部屋の方が豪華なのかもしれない…と、光太郎がそんな思いに駆られているその時、シューが荒々しく鼻息を吐き出して腕を組んで言ったのだ。

『さて、どうしたものかな?』

 こうして瘴気によって厚いベールを掛けられてさえいなければ、南に面した窓からは心地の良い日差しが射し込んだだろうに違いない部屋は、王城の南に位置する尖塔にあった。そこは魔物の居住区になっているのか、並ばれた部屋の各々に、それぞれ魔物が生活している気配がある。
 魔王の居城を隈なく探索した光太郎は、その構造を熟知とまではいかなくとも良く知ることができていた。だがここが何処で、どんな場所であるのかと言う事までは判るのだが、何を行うための場所…と言う事は未だに判らないでいる。
 ただ、そろそろ地下にある調理室では今夜の食事の用意が出来ていることだけは確信していた。
 既に肩から強引に半ば叩き落されていた光太郎は、グーと腹を鳴らしながらちょっと照れ臭そうにシューを見上げて腹を擦っている。
 腕を組んで思案に暮れていたライオンヘッドの魔物は、自分を見上げている恐れ気のない風変わりな人間を、それはそれは奇異の眼差しで見下ろしたことは言うまでもない。

『そうか、腹が減ったのか…まずは飯の調達だな』

「うんうん♪あ、それからシュー。俺、ずーっと不思議に思ってたんだけど、シューたちもやっぱりご飯は食べるんだな。でもやっぱアレなのかな。食材はやっぱその、えーっと…捕まえた人間をその、うーんと、調理したりとかその…」

 小躍りしそうなほど喜んでシューの申し出を受け入れた光太郎だったが、やはり後半から何か不安を感じたのか、それともずっと抱えていた不安だったのか、陽気な性格には珍しく眉を寄せて小首を傾げている。
 その仕種を黙って見ていたシューは、ムクムクと湧き起こる悪戯心を抑え切れなかった。

『まあ、そうだろう。今夜、調理室にいるベノムに聞いてみるといい。案外ヤツは、魔族には珍しく人間好きなヤツだからなぁ…』

 クックックと笑うシューに恐れをなした光太郎は、調理室で何でも話を聞いてくれたり、昔話を聞かせてくれたりする年老いたベノムと言う名の調理長を思い出して、あんなにいい魔物が!と思いながらも怯えて震える自分に気付いて嫌になった。
 その魔物の料理を口にしてしまっていた自分が、その時になって物凄く浅ましく、先ほど言ったシューの言葉を思い出して死にたくなってしまうのだ。

[同族を裏切ってもへの河童みてーな連中]

 それはまさしく自分に言われた言葉だったのだと、今更ながら気付いて、光太郎は大きな目に涙をいっぱいに溜めてそれをボタボタと零しながら泣いてしまった。

『うお!?なんだ、いったいどうしたって言うんだ!?』

 まさか泣かれるとは思っていなかったシューは、能天気であっけらかんとしてる光太郎の、その突然の涙に恐れをなしてしまった。それも号泣と言うのではなく、俯いたままボタボタと涙を零しながら「どうしよう、どうしよう」と呟いている姿は滑稽と言うよりも、何とかしてやらないと本当にどうにかなってしまいそうな危機感さえ漂っていた。
 さすがに慌てたシューは、それでも意地悪く尋ねるのだ。

『その涙はなんだ?喰らった人間に対する懺悔の気持ちか?それとも喰らった自分を哀れんでいるのか?』

「判らないよ!両方かもしれないけど、でも今、俺、すげー生きたいと思ってる。人間を食べるなんて信じられない、うッ…でもそんな、ベノムがそんなこと…でも魔物には仕方ないことで…ッ…ぅ…どうしたらッ…俺は…」

 頭を抱え込んで座ってしまった光太郎を、シューは先程とは少し違う視線で見下ろしていた。
 人間は同族を裏切ってもへの河童で、ましてや魔物の身の上の心配などしない、冷酷を絵に描いたような【沈黙の主】のような偽善者だろうと思っていた。
 しかし、今目の前に居る小さな人間は、自分は生きたいと純粋に訴え、偽善的な気持ちもあるし信頼していた魔物の裏切りを信じられずに泣いてもいる。その姿は、不思議なことに、この長い年月を生きてきたシューにとっては当に初めて目にする体験だった。

(魔物を信頼している人間だと?)

『…クッ。ゼィの前じゃ言えねー台詞だぜ、全く』

 どうしよう…と震えながら俯いて座り込んでいる光太郎の傍らに立ったシューは、小さな人間の脇腹を抱えてまるで荷物か何かのようにヒョイッと肩に担ぎ上げてしまった。ぶらんっと両手と両足を投げ出すようにしてなすがままになっている光太郎は、虚ろな目をして床を見つめている。

「俺、ご飯要らない。食べなくても大丈夫だから…うん」

 まるで言い訳のようにブツブツと呟く光太郎に、シューは溜め息をつきながら、まさかこの能天気な人間がここまで繊細に物を考えるとは思ってもいなかったとでも言いたそうな、心外そうな表情で鼻息を荒々しく吐き出した。

『俺たち魔物も人間も、喰うモノはみんな一緒だ。人間なんか喰えるかって。それでなくてもくせーのに、その肉を口にするのかと思うとゾッとするぜ。そんなモンを喰えるのは低級な魔物ぐらいだ。森ならいざ知らず、この城にそんな低級魔物はお呼びじゃねーよ』

 心底嫌そうに眉を寄せるシューに、それまでカタカタと震えていた光太郎の、虚ろな双眸に俄かに生気の光が戻ってきた。

「…ってことは、魔物も普通にご飯を食べるってこと?」

 シューの肩の上でバッと顔を上げた光太郎に、シューはフンッと鼻を鳴らして外方向いた。

『当たり前だろーが。お前本気で魔族をバカにしてるだろ?』

「ううん、そんなことないよ!そうか、魔物でもやっぱり普通の食事なんだ。良かったー、俺人間を食べてなくて。そんなことしてたらもう、本当に生きていく自信がないもんなぁ…ってことは、ベノムはやっぱり普通に俺と会話してくれる良い魔物だったんだ」

 嬉しそうにシューの肩の上で喜ぶ光太郎を、ライオンヘッドの魔物は複雑そうな気分で黙り込んでいた。

(…良い魔物ってお前)

 なんと返事をするべきなのか…それすらも疲れたようにシューはガックリと項垂れたくなる気持ちを引き締めて部屋を出た。肩の上では鼻歌でも歌い出しそうな上機嫌の光太郎の腹が、主の代わりにグーグーと大合唱している。
 現金なものだが、今時の中学生を知らないシューにとって、それは当に青天の霹靂の出来事だったことは言うまでもない。

『シューじゃねーかよ。暫く見ない間に人間を飼い馴らしてんのかい?』

『バッグスブルグズ、お前は呼んじゃいねーよ』

 フンッと鼻を鳴らすシューに、馬面の魔物は肩に担がれている光太郎の顔をニヤニヤと笑いながら覗き込んできた。その馬面に、光太郎が屈託なくニコッと笑いかけるから、シューとしては面白くない。
 バッグスブルグズを追い払うようにシッシと手を振りながら、光太郎から遠ざけようと身体を捻るシューに、馬面の魔物はニヤニヤ笑いを顔面いっぱいに広げながら、何か面白いものでも見つけたような表情で今度はシューの顔を覗き込んだ。

『お呼びじゃねーとはひでーな。チビの人間を連れてどこに行こうって言うんだ?ええ、御大将さまよ』

『バッグスブルグズ、その馬面をペシャンコにされたくなかったらとっとと立ち去ることだ。判ったか?』

 シューは本当にこのバッグスブルグズと言う魔物が苦手なのか、褐色の鞣革のような皮膚に覆われた隆々の筋肉質な腕に産毛を逆立てて、不機嫌そうに威嚇でもするかのように唇の端を捲り上げている。どうやらシューの天敵のようだと見て取った光太郎は、大人しく口を噤んで事の成り行きを興味深そうに見守った。

『お前さんの行動は逐一判ってんだ。大方余程大事な人間なんだろうなぁ。お前さんが肩に担ぎ上げてるところを見れば一目瞭然だぜ』

 不意にシューの眦がギリッと釣り上がった。

 その全身から立ち昇る陽炎は、まるでドライアイスに水をかけたときに出る煙のように、静かにしかし確実に噴出す怒りのオーラのようであった。

 その気配にバッグスブルグズはブルブルッと身震いし、光太郎は肌を焼くようなチリチリとした感触に背筋が凍るような、あの魔王を見たときに感じた嫌な汗が背中に滲み出て首を竦めてしまう。

『おお、おっかねぇなぁ!はいはい、俺は潔く退散することにしますよッ!』

 さすがにシューの凶悪なほどの機嫌の悪さに気付いたのか、バッグスブルグズは両手を降参したように挙げて愛想笑いを浮かべながら後退さると、そのままヒョイッと駆け足で姿を消してしまった。
 思ったよりも小心者の魔物のようだ。
 しかし、たとえ小心者でない魔物だったとしても今のシューには誰もが怯えてしまうだろう。その気持ちは今の光太郎にも充分良く判る。
 だが、バッグスブルグズが立ち去ると同時に消えた怒りの後は、光太郎が良く知るシューの気配が戻ってきて光太郎は俄かにホッとした。

『チッ!いちいちと目障りな野郎だ。魔王の命が出れば一瞬で捻り殺してやるんだがなぁ』

 そんな物騒なことを言ってズカズカと歩き出したシューに、肩の上からバッグスブルグズの消えた回廊を見送っていた光太郎が、燃え上がるような鬣をグイグイと引っ張りながら笑った。

「魔物ってホントに色んなヤツがいるんだなぁ。人間もそうだけど、よく考えたら俺たちって良く似てるな!シューはそう思わないか?」

『思うか』

 即答はしかし、然程苛ついた様子もなくて、調子に乗った光太郎はまたしてもペラペラと話し出す。

「俺が住んでいた世界だと、こんな風にRPG的な世界観だと必ず同じ台詞が出るんだよなぁ。”どうして魔物と人間は争わずに暮らせないのでしょうか”とかね。それはやっぱり価値観の違いだと思うんだけど、どうかな?人間同士だって価値観の違いで戦争とかするんだよ?ましてや考え方が違う魔物と仲良くしようなんて言うのは、やっぱり人間の方がまずは人間同士で仲良くしてお手本を見せないといけないんじゃないかって俺は思うけど。シューはそう思わない?」

 古びた石造りの階段を、壁に掛けられた松明の明かりを頼りに、いや、そもそも夜目には慣れている魔物は敏捷な足取りで下っている。普通の人間よりも、そして下級の魔物よりも、高等であるが故に全てに於いて秀でているシューにとって、城内は目を瞑っていてもスイスイと行動することができるのだろう。

『人間同士は無駄にベタベタしていると俺は思うがなぁ…そのくせ平気で裏切ることができる。そこが俺たち魔族には判らないところだ』

「魔族って裏切らないのか!?」

 驚いたように尋ねる光太郎に、シューはちょっとムッとした様な顔をして唇を尖らせた。
 光太郎が暮らしていた世界の常識では【魔】と名がつくモノに良いものなどいないし、ましてや魔の根源たる【魔族】でありながら裏切りと言う行為を平気でしていないと言うのは、それこそありえない状況ではないのだろうか?
 光太郎が驚いたとしても、それは仕方のないことである。

『全くない!…などと清廉潔白なことは言わん。そりゃあ、裏切るヤツもいれば寝返るヤツだっているさ。だが、魔族は掟を決めてそれを取り締まっている。余程悪行をこなしたヤツなら話は別だがな』

「んー、どう言うこと?」

 首を傾げる光太郎に、シューは肩を竦めながら言葉を続けた。

『悪行をこなした連中はそれなりの位がつくのさ。位と言うのがまた厄介な話なんだが、俺たち魔物はそれぞれに魔力と言うものを生まれながらにして持っている。その強さは外見に反比例して備わっているからな、ゼィのように弱っちそうに見えても力は強いぞ。まあ、アイツも俺も昔は相当悪さをしていたからなぁ…』

「シューは悪い魔物だったのか」

 光太郎が笑ってそう言うと、頭部がライオンそのものの魔物はその時になって初めてプッと吹き出した。

『光太郎は本当にヘンなヤツだな。人間から見れば魔物はみんな悪いんだろーがよ?』

 どの世界でもやはり人間は魔物を毛嫌いして、魔物は人間を毛嫌いしているのだろう。そこは光太郎には判らない歴史の流れと言うものがあるのだから、それ以上は何も言わないでいたが、こうして触れ合ってみると、然程魔物が悪さをする…とは思えず、それどころか案外親しみ易い気のよい連中だと言うことに気付けるのになぁ…と思っていた。
 ヤンキーと呼ばれる不良少年達が、意外と良い性格をしていて優しかったりすることを悪友を見ていて知っている光太郎は、いつかこの世界の【人間】が【魔物】の優しさに気付けるとしたら、もう少し平和な世界が訪れるんだろうと思った。
 でもそれは【人間】だけの努力じゃどうにもならないことで、【魔族】も共存の道を歩むことを真剣に考えて歩み寄れればの話なのだが…恐らくそうしたことが無理だったからこそ、この世界の空は暗いのだろうと光太郎は内心で小さな溜め息をついていた。

「でも、悪い魔物だったシューは今は良い魔物になってるってことなんだろ?」

 ニコッと笑う光太郎に、シューは呆れたような困ったような表情をしながら、やれやれと耳を伏せて首を左右に振った。
 閉じた瞼の裏の鋭い双眸を見たとき、光太郎だって最初からシューに懐けたわけじゃない。
 【魔王の贄】と言う存在で特別視される状況に於いて初めて、シューと関わりを持つことができたのだ。もしこれがこの世界の普通の住人として出会っていたのであれば、シューは当たり前のように光太郎を殺すだろうし、光太郎も当たり前のようにシューに戦いを挑むか逃げ出すかのどちらかだったに違いない。
 長年培われてきた習慣を拭い去ってなお歩み寄ることなど、社会のことに疎い光太郎でも知っている、歴史問題でざわめく日中の関係となんら変わりはないのだろう。
 いつか判り合える時が来たときこそ、本当の平和に辿り着けるのかもしれない。

(難しいんだろうな。シューだって、ホントは俺のこと迷惑だって思ってるにちがいないんだから…)

 人間などに関わる事など、本意では決してないのだろう。
 魔王の命令でなければ、それこそ、バッグスブルグズのように八つ裂きにされているのかもしれない。

(それでも)

 光太郎はふと思う。

(シューしか頼れる人はいないんだ。殺されてもいいから傍にいたいって思うことは、ヘンなのかな?)

 無造作に担いでいるシューのともすれば愛嬌のある横顔をチラリと見た光太郎は、子供のように下唇を突き出してフイッと視線を逸らしてしまう。なんだか、とんでもなく恥ずかしいことを考えてしまったのではないかと思ってバツが悪くなったのだ。

『良い魔物かどうかなんてこた、そんなものが果たしてこの世に存在しているのかどうかを問うようなもんだな。そんなこた俺には判らねぇってのが返事さ』

 律儀に答えてから、そんな自分がおかしかったのか、肩を竦めたシューがヘッヘッと鼻先で笑った。
 そんなシューに、光太郎は大きく頷いてまるで宣言するように言ったのだ。

「じゃあ、シューは良い魔物なんだよ。俺はそう思うよ」

 照れ隠しついでにエヘヘと笑って見せると、シューは何やら不機嫌そうに鼻を鳴らしてフンッと外方向いてしまう。
 そんなシューに首を傾げる光太郎を見向きもせずに、ライオンヘッドの魔物はわざとらしくズカズカと乱暴に石造りの階段を足早に下りて、小さな人間の身体を大きくバウンドさせてしまった。

「わッ、うッ、わ!」

『魔物が良いヤツなんて言われて喜べるかよ』

 そんなシューのそれが、実は照れ隠しなんだと言うことに、光太郎が気付くのはもう少し先のことになる。
 腹の虫が大合唱を始めだす頃、シューと光太郎は魔王の居城の名料理長ご自慢の食事が並ぶ食堂に辿り着いていた。