死人返り 17  -死人遊戯-

 僕は白い砂浜で、寄せては返す波を見詰めながら、膝を抱えて座っていた。
 あの後、翠祈の指示通りに人間の姿になった死霊鬼と国安、それから僕は来た時と同じように船に乗って波埜神寄島を後にしたんだけど、その頃は既に空が白んでいたし、村人が起きていないとも限らないからと、途中で死霊鬼である楠鬼が僕を抱えて海に飛び込んで、国安は一人で浜辺に戻ることになった。
 僕は泳ぎは苦手ではなかったけど、山登りや歩き回ったせいで、思い切り足が攣りそうになって、楠鬼が支えてくれながら反対側の浜辺に泳ぎ着いたんだ。
 イロイロとあってヘトヘトだった国安と楠鬼は、今は国安の実家で休んでる。何かを悟っているような国安のお母さんが、恭しく2人を家の中に招き入れてしまったから、僕は、この島に来たばかりの頃のことを思い出していた…って、そんな前の話じゃないのにね。
 思い出すと、僅か数時間の出来事だったんだけど、僕にはもっともっと長く感じてしまっていた。
 この島に来たばかりの頃、国安は村の人から『壱太さま』と呼ばれていた。国安自身、両親に聞けば『時が来れば判る』と曖昧に誤魔化したって言ってたけど…その『時』って言うのが、きっとこの日だったんだろうと思うよ。
 国安は凄い力を持っていたって言うお壱さんの生まれ変わりだったから、いつか、紫紺の槍を受け継がねばならない人だったから、村の人たちは国安を大事に育てていたんだと思う。
 でも、今の波埜神寄島を見ると、最初の頃の禍々しさが嘘みたいに、淀んでいた空気も澄み渡って、どんよりしていた空も真夏らしくピーカンで気持ち良いぐらい晴れ渡っているんだ。
 だから、村の人たちには何が起こったのか、薄っすらと気付いているんじゃないかな。
 国安がもう『御霊送り』はしなくていい、と、ただ一言いっただけなのに、これだけ長く連綿と受け継がれてきた風習を、村長さんはいともあっさりと聞き入れたんだから。
 それに、突然合流したと言って連れて来た友人の男に対する彼らの態度は、畏怖と恐怖心と、安堵のような奇妙な表情をして受け入れてしまったんだ。僕と匡太郎のときはあからさまに警戒していたのに…だから、僕の計り知れないところで、何かが終焉したんだなと思えた。
 国安もそうだったのか、ホッとしたように息を吐いたけど、安心したように楠鬼を見上げていた。その顔は…同じ学科の美紀ちゃんが泣いてしまうね。
 それでも仕方ないのか。
 今の国安の顔を見ていたら、美紀ちゃんが可哀想だとか、口が裂けても言えないもの。
 それから、紫魂の槍はどうしたかと言うと、国安はもうこの村に紫魂の槍は必要ないからと、この先、もしかしたら僕たちにこそ必要になるときが来るかもしれないからって、僕に持っていて欲しいと言ったんだ。それで、今はあるところに隠してる。帰るときに、持って帰るつもりだ。
 村の人たちには、紫魂の槍の在り処どころか、その槍の存在自体、国安は知らないふりを決め込むことにしたようだった。誰も何も言わないから、このままきっと、永遠にこの村で紫魂の槍の存在は消えてしまうんだろうなぁと思うよ。
 そうして知らない人の、僕なんかの手に渡ってしまって…でも、だからこそ、これで本当に国安の一族も、そしてこの島の人たちも、縛り付けていた過去の因縁のような呪縛から解放されるんだろうね。
 国安は、翠祈が戻ってくるまで僕にも休むように言ったけど…って、それは翠祈がそうしろって最後に波埜神寄島で別れる時にしつこく言っていたからなんだけど、僕は眠って翠祈を待つ気にはなれなかった。
 だから、こうして真っ白な砂浜で膝を抱えて海を見詰めているんだ。
 もう、何時間ぐらいそうしていたのか…そうしたら、波頭に見え隠れする薄茶色の何かが見えて、僕は砂を振り払うのももどかしかったんだけど、慌てて立ち上がって額に両手を翳して遠くを、その茶色の何かが近付いてくるその場所を見たんだ。
 翠祈が言ったように、元に戻った姿は匡太郎で、何処にも翠祈の面影はないんだけど…滴る水滴はそのままで、海の中からザブザブと海水を蹴るようにして上がって来た匡太郎は全裸だったから、僕は慌てて小脇に服を抱えるようにして、両手で持っていたバスタオルを広げながら走り寄っていた。

「お帰り…えーっと?」

「匡太郎だよ、光太郎」

 ずぶ濡れの弟は僕からバスタオルを受け取って、髪の水滴を幾分か取った後、そのまま首に掛けて、僕から服を受け取りながら、なんだかバツが悪そうな顔をしてニッと笑ったんだ。
 その顔は確かに匡太郎で、なんだか、弟と会うのも久し振りのような気がして、僕は思わずニコッと笑ってしまっていた。

「匡太郎!お帰りッ」

 改めて言い直す僕の顔を、匡太郎は一瞬だけど、眩しそうに色素の薄い双眸を細めて見詰めていたけど、途端にちょっと不機嫌になって唇を尖らせると、素肌にジーンズを穿いてTシャツを着たんだ。
 ど、どうしたんだろう?

「翠祈と居てから、光太郎は変わったんだな」

「ええ?そんなことないよ、たった数時間しかいなかったのに…ところで、今、翠祈はどうしてるの?」

「心配?」

 匡太郎は顎を伝う水滴を、Tシャツの下から引き摺り出したバスタオルに吸い込ませながら、意味深な目付きで見下ろしてきてそんなことを言うから、意味もなく僕はドキッとしてしまった。

「そ、そりゃ、あのまんまで別れたんだから、心配じゃないって言えば嘘になるよ」

 それに僕は、お前のことだって心配してたんだからな!…と、ムッとしたように唇を尖らせたら、匡太郎は、翠祈だと絶対に見せない明るい顔で楽しそうに笑ったんだ。

「そっか、俺のことも心配してくれたんだね」

「当たり前だよ、こんなワケが判らなくて…そもそも、翠祈が匡太郎を甦らせたのなら、今回の旅行は全く意味がなかったってことになるじゃないかッ」

 そうなんだ、僕は匡太郎と翠祈が入れ替わってから、聞きたいことがたくさんあった。
 匡太郎は翠祈のことを秘密にしていたから、僕はこの生き返った現象に、何かの役に立つんじゃないかってこの神寄憑島に来たって言うのに、荒神の翠祈が甦らせたのならここに来た意味がないよ!
 『憑黄泉伝説』も死霊鬼のことだったし…はぁ、ホント、僕たちは何をしに来たんだろ。

「意味がないことはないよ。俺だって、翠祈が何者かは知らなかったんだ。ただ、必死に生きたくってさ。このまま死ぬなんて冗談じゃない!…って思ってたら、黒い靄みたいなのが近付いてきて、それが犬みたいな形になったから、俺は我武者羅に掴んでいたんだよ、その足を」

「それが、翠祈だったのか…」

「うん」

 匡太郎は至極真面目に頷いて、ちょっと話そうかと、僕が腰掛けていた場所に腰を下ろしたから、僕もそれに倣って真っ白い砂浜にもう一度座ったんだ。

「翠祈から、お前はもうダメだって言われて。なんだか判らないんだけど、よくないモノに殺されたからもう人間ではどうすることもできないから、黙ってくたばれとか言ったんだぜ、あいつ」

 酷いよなと呟いて、匡太郎は溜め息を吐いた。
 偶に見せていたあの大人びた表情は、翠祈を憑依させて、何か得体の知れないものに殺された恐怖を押し隠していたから、そんな表情になっていたのかもしれない。
 これは匡太郎が抱えていた秘密なんだ。

「最初は犬が喋るかよってビビッたけど、それどころじゃなかったし、もしかしたら神の化身とか…その時の俺は必死で、なんでもいいから縋りつきたかったんだよ。だから、なんでもするから助けてくれって言ったら…翠祈は、じゃあ、自分にその身体を寄越せって言ったんだ。慰める時に両手が欲しいからって、なんだか良く判らないことを言ってたんだけど、俺、それを承諾するしかなかったから頷いたんだ」

 だって、あんな感じで別れたままってのは嫌だったんだ…と呟いた匡太郎は、疲れたような顔をして僕の肩に頭を預けてきた。

「逢いたかったんだ、兄貴に…こんな俺って軽蔑する?」

 不安そうな上目遣いで見上げられて、僕は苦笑するしかない。
 僕にとって翠祈は、あの山で出逢った唯一の友人だった黒い犬だった。そして、手離してしまった最愛の弟が…どんな姿ででも、帰って来てくれたことを、軽蔑するなんて冗談じゃないよ。
 それどころか、僕は大いに歓迎だってしてみせるんだから。
 …確かに、昔の僕なら、そこまでして生きたかったのかと、気持ち悪いって言って、匡太郎を傷付けていたと思う。

「軽蔑なんかするワケないだろ?帰ってきてくれて有難う」

 照れ臭かったから、満面の笑みってのはできなかったけど、ちょっと笑って見下ろしたら、匡太郎はピーカンの夏の青空が似合うような笑顔を見せてくれた。
 釣られたように僕も笑って、それから、心からホッとしていた。
 どんな形でもいいから、弟を僕に返してくれた翠祈…君にも、心からお礼を言うよ。

「今は翠祈が寝てるからいいけど。思念は翠祈の方が強いんだ。だから、入れ替わるのも翠祈次第なんだよ。選択間違ったかな~って、今は後悔してる」

 ブツブツ悪態を吐く弟がおかしくって、僕は声をたてて笑ってしまった。
 そんな僕を見上げて笑っていた匡太郎は、ふと、一瞬だけ目蓋を閉じてしまった。

「覚えてろよ、匡太郎。後で酷いからな」

 半分眠っているんじゃないかってほど寝惚け声で呟いたら、匡太郎はハッとしたように目を覚まして、途端に眉を寄せてしまうんだ。

「うーん…やっぱ、選択を間違ったよなぁ」

 そんな風に真剣に眉を寄せて悩んでる姿もおかしかったけれど、一瞬でも、翠祈らしい言葉が聞けて、僕は漸く本当に安心して、心から笑うことができたんだ。
 よくないモノに殺されたと言う、匡太郎が翠祈から聞いたって言う言葉はとても気になったんだけど、翠祈がいる限り匡太郎は僕の傍にいるんだから、この旅行は確かに良かったのかもしれない。
 青い青い、何処までも澄んでいる空を見上げて、一抹の不安は心の奥に隠したまま、僕はそれでも全てを感謝して受け入れたいと思っていた。
 どんより暗かった僕の心は、波埜神寄島に渦巻いていた思念のように一掃されて、晴れやかだった。
 僕はもう、この心をけして忘れたりはしない。

-了-

死人返り 16  -死人遊戯-

 沙夜ちゃんは口許から大量の血液を零しながら咳き込んでいたけど、ふと、悲しそうな、寂しそうな表情をして、死霊鬼に抱き留められている国安を見ているみたいだった。
 国安は、死霊鬼の着物の袖の辺りを握り締めて、止め処もなく泣きながら、そんな幼い少女の無残な姿を食い入るように見詰めている。止めることのできない自分の不甲斐なさ、幼い妹に、どうしてそんなことまでさせてしまったのか…まるで、その顔は自分自身を呪ってでもいるかのようで、僕は兄弟想いで優しい国安が痛ましくて仕方なかった。

「す、翠祈…」

 既に狼人間のような姿になっている荒神の一族だと言う翠祈を見上げたら、長い鼻先で向こう側は見えないんだけど、見える方の真っ赤な瞳で僕をギロリと見下ろしてきた。

《本当に人間はおめでたいな。そらみろ、言ったとーりだっただろ?人間はそうと言われればなんでも信じてしまうんだ。コイツは国安の妹の魂だと言えば、そう思うのさ。だが、実際は違う》

 翠祈の言葉を聞いて、沙夜ちゃんの目がチカリと光った…と思ったのは僕の思い込みだったのか。
 いや、違う。
 キッと肩越しに翠祈を睨み付けた沙夜ちゃんは、肋骨を圧し折って突き出ている狼人間の剛毛の腕をグッと掴むと、禍々しいほど鋭利に伸びている爪が食い込んで、その腕からボタボタと鮮血が零れるに任せながら捩じ切ろうとし始めたんだ。

《コイツは死霊鬼に成り損なった男の魂を喰らった悪霊にすぎん。その悪霊には、嘗て喰らった男が愛していた女の記憶だけが残っちまったから、代々壱太の一族にとり憑いていたってワケさ》

『ちがッ!この想いが嘘だなんてッ!そんなのは違うッ!!お前なんかに何が判るのよッ、離せッッッ、離せぇぇぇぇッッッ!!!』

 暴れてもがく度に胸元から血飛沫が飛び散って、鋭い爪で翠祈の腕を掻き毟るようにして捻りながら、それでも沙夜ちゃんは必死の顔で泣き叫んでいた。
 数百年も抱えていた恋心が…偽りだったなんて、思い込みだったなんて。

『お壱を愛したのは私だもん!ねぇ?そうだよね、お壱。お壱も私を愛してるよね??ねぇ、そう言ってよ、そう言ってよぉぉぉぉッ!』

 差し伸べるか細い腕を、国安はただ見詰めることしかできなかった。
 確かにそれは、沙夜ちゃんなんだけど、それでもその想いは、沙夜ちゃんの内で蹲る悪霊の想いではないから、だから、国安は駆け出したいのを必死に耐えて涙を零していた。

『そんな、こんなに胸が苦しいのに…こんなに長い間、想い続けたのに…これが全て嘘だなんてッ、嘘だったなんてッッッ!!』

 血涙を溢れさせて嘆く小さな身体を、翠祈は心臓を掴んでいない方の腕でその腰をそっと抱き締めてやった。その行為に、僕は驚いて目を見開き、それは死霊鬼も国安も同じだったようで、小さく息を呑むような気配がしただけで何もできなかった。

《お前は人間と同じぐらいバカだ。そんな、過去の妄執に囚われた男を喰ったばかりに、輪廻の戒めに囚われちまって。ただのちっぽけな悪霊だったのに》

『私は…ああ、どうして…』

 沙夜ちゃんは、ううん、沙夜ちゃんだったはずの悪霊は、抱き締める腕を今はもう凶悪な爪はなくなってしまった手で縋るように掴みながら、剛毛の咽喉許に後頭部を押し付けるようにして閉じた目蓋からポロポロと真っ赤な涙を零して泣いている。
 全ては巫女の恋心から発した呪いのようなものだったのかもしれない。
 そんな、翠祈の言った遠い昔の色恋沙汰に巻き込まれた悪霊こそ、本当はこの島での一番の被害者だったんじゃないかな。
 紫魂の槍を掴んでへたり込んでいる僕を片目で見下ろした翠祈は、それから、幾筋もの血管が伸びる、まだ完全に身体から引き離されていない脈打つ心臓を翳しながら、低い声で呟いていた。

《引導を渡してやれ、光太郎。二度と、こんな馬鹿げたことに巻き込まれねぇよーにな》

『うぅ…私は、私は?お、壱?誰…なんだった…の?』

 虚ろな瞳で、まるで壊れた人形のように繰り返す意味のない言葉に、僕は何故か、泣いてしまっていた。それはとても物悲しくて、こんな方法でしか、この悪霊なんだけど、小さな魂を救う方法がないことが切なくて仕方なかった。

「…光太郎、俺からも頼むよ。沙夜を…救ってやってくれ」

 優しい国安の涙声に僕は肩越しに振り返って、友人が流す涙の重さに目蓋を閉じて、それから僕は決意して目蓋を開くと、紫魂の槍を握り締めた。

《心臓を狙え》

 翠祈が指し示すように掌にある小さな小さな臓器に、僕は泣きながら槍の先端部分を突き刺した。
 抵抗もせずにぼんやりと僕を見詰めていた沙夜ちゃんは、その瞬間カッと双眸を見開いて、壮絶な断末魔の声を上げると同時に、その口から一気に黒い靄のようなものが凄まじい速度で吐き出されて空に吸い込まれて逝った。
 沙夜ちゃんの亡骸は、ふと、驚愕に見開かれていた双眸にひと時生気が戻って、口許から血を零しながら揺らいだ双眸で、懐かしい兄の顔を見つけたようだった。

「…おにいちゃん?」

「さ、沙夜…」

 国安が小さな妹の許に駆け寄ろうとするのを、今度は死霊鬼も留めなかった。
 よろよろと白装束で近付く兄に、既に翠祈は腕を引き抜いていたから、その胸元は無残に穴が開き、折れて砕けた肋骨が覗いてはいたけど、同じような白装束なのに血液で真っ赤に染まった着物はそのままで、か細い華奢な腕を伸ばして抱き付こうとしたみたいだった。

「おにいちゃん、帰ってきたん?」

「ああ、沙夜に逢いに帰ってきたんだよ」

 そっか…と呟いて頼りなくニコッと笑う少女に、国安はボロボロと大粒の涙を零していた。

「じゃあ、またうんと、遊べるねぇ」

「ああ、たくさん遊べるよ」

 悪霊にとり憑かれていた記憶はすっかり消えてしまったんだろう、沙夜ちゃんは嬉しそうに笑ってから、それからちょっと苦しそうに大きな深呼吸をひとつすると、そのまま目蓋を閉じて、二度と開くことはなかった。
 ボロボロと涙を零して目蓋を閉じた国安が抱き締める腕の中で、沙夜ちゃんの身体はさらさらと崩れ始めていた。本来なら、もうその原型を留めることは不可能だったんだけど、翠祈の目玉を悪霊が食べていたおかげで、最後の一瞬だけ、沙夜ちゃんはもとの可愛い国安の妹に戻れたんだと思う。
 あんまり悲しくて、僕は声もなく泣いてしまっていた。
 盂蘭盆会の日に、国安は逢いたがっていた最愛の妹との邂逅を終えたんだ。
 でもそれは、一生涯で、ただ一度の奇跡のような邂逅だった。
 だからもう二度と、国安が沙夜ちゃんに逢うことはない…ううん、もう逢ってはダメなんだよ。
 安らかに眠るような沙夜ちゃんの顔を魂に刻みつけるように、目蓋を開いた国安は、そうして消えていく姿を最後まで見詰め続けていた。

◇ ◆ ◇

《見逃してくれ?冗談も大概にしろよ、光太郎》

「だって…」

 腕を組む、2メートルは超えてるんじゃないかって言う巨体を見上げながら、僕は紫魂の槍を杖代わりにして立ち上がると唇を尖らせていた。

《だってもクソもねぇ。アレを見ろ、ヤツは死霊鬼なんだぞ》

「うん、判ってるよ」

 沙夜ちゃんの消えてしまった腕を開いて、ぼんやりと真っ白な月を見上げる国安を、背後から悲しそうに愛しそうに抱き締める死霊鬼をチラッと見て、うん、やっぱり今の国安には彼がいないとダメなような気がする。だから僕は、ムッとしているような狼面の翠祈を見上げたんだ…って、身体こそ人間っぽいけど、全部剛毛が覆ってるんだから、ホント、今の翠祈は完全に狼人間だよ。

「でも、なんとかできないのかな?また、ここに封印するとか」

《それは無理だ》

 にべも無く言い捨てる翠祈に、僕がムッとして睨み付けると、大きな耳を伏せるようにして翠祈は外方向いてしまう。

《あんたなぁ…オレをちゃんと見てるか?これは紫魂の槍の力で封印が解けている証なんだよ。一度解いてしまった封印は二度と元に戻せねぇ。つまり、同じ封印はできないってことだ。判ったか、この間抜けッ》

 それでも根負けしたのか、渋々と説明する翠祈に、僕は腕を組んでちょっと考えたんだけど…そうだ、同じ封印がダメなら違う封印をすればいいんじゃないか!

《ダメだ。その場合は別の三種の神器が必要になる。この島はもう、紫魂の槍では封印できねんだって》

 僕の考えなんかお見通しの翠祈が長い鼻先を左右に振って否定するから、僕はますます眉を寄せるしかなかった。

《…オレとしては、封印が解けてくれたおかげで復活できたからいいんだけどな》

 ボソッと呟いた狼人間を怪訝な顔で見上げた僕は、翠祈の顔を見上げて、それから唐突にハッとしたんだ。
 そうだ!翠祈は酷い怪我を負っていたんだ。
 腹に穴が開いて、死霊鬼の爪でも傷付けられて…何より、あの真っ赤な瞳が綺麗な目が、目玉が…あの沙夜ちゃんに憑いていた悪霊に食べられてしまったんだ!!

「翠祈!け、怪我は!?痛いんじゃないかッ?!出血多量とかで死んだりしたらダメなんだからなッッ」

 僕は泣きそうになりながら、翠祈の剛毛が覆う身体のあちこちを丹念に調べながら、口喧しく喋っていた…だって、そうでもしていないと、あの惨劇を目の当たりにしたんだから、翠祈がいなくなったらと思うだけで気が遠くなりそうなんだ。

《うるせーな!別にあんなモン大したことじゃねーよッ》

 フンッと鼻で息を吐き出す翠祈は、僕があちこち触るのを嫌がるように身体を捩ったんだ。
 そう…だよな。
 こんなことに生き返ったばかりの弟を巻き込んで、ましてや、憑依している翠祈まで利用して…何がしたかったのかよく判らないこんな僕に、翠祈が触って欲しいワケはないんだ。
 唐突に、僕は気付いてしまった。
 僕は何時も自分勝手に生きていたんだと思う。なんでもできるからって、僕だって両親と同じように、煩いことは全部弟に押し付けて、彼が死んでしまったらその弟を恨んで、今度は両親の期待が自分に向くんじゃないかと怯えて勝手に大学に逃げてしまったんだ。
 こんな、ずるくて身勝手な僕を、誰が受け入れてくれるって言うんだ…
 伸ばしていた掌を拳に握って、僕は泣きそうになる心を叱咤するみたいに唇を噛み締めた。

《…ったく、また下降的思考に突入しやがった!違う、オレはこんな化け物みたいな姿を、あんたには見られたくないんだよッ》 

 ギリギリと悔しそうに歯噛みする翠祈は、兇器のような爪があるって言うのに、バリバリと後ろ頭を掻きながら腰に手を当てて、忌々しそうに吐き捨てたんだ。

《見ろ!オレの身体の何処に穴が開いてる?目玉だって元通りだッ!どーだ、判ったか、この間抜けッ》

 乱暴なくせに、爪で傷付けないように慎重に僕の腕を引っ掴んで腹の部分に触れさせると、僕の顔を大きな狼面で覗き込んできた翠祈は、爪の先で目の下を引っ張って、既に再生している目玉を見せつけたんだ。

《まだ収まりはわりぃけどな!オレの再生速度は並じゃない。気持ちわりぃだろーが、クソッタレ!》

 目玉をぐるんと動かしながら、それでも吐き捨てるように言って、翠祈は僕の腕を突っ撥ねるようにして投げ出したんだ。僕は、その事実に…なんて言うのかな、信じられなくて、思わずそんな翠祈の身体に飛びついてしまっていた。

《うお?!》

 驚いた翠祈を無視して、僕は、彼の身体から確かに伸びていた沙夜ちゃんの腕があった部分を、念入りに調べていたんだけど、その部分は、確かに傷痕を残しながらも、もう随分前に受けた傷のように既に完治していて、ただ傷痕が残っているに過ぎなかったんだ。
 きっと、この傷痕も消えてしまうんだろう。
 そうか、消えてしまうんだ。

「…よ、かった。翠祈、死なないんだな?良かった…」

 僕は随分と頭上にある翠祈の狼の頬に両手を添えて、ギョッとする彼の顔を引き寄せたんだ。
 思い切り屈み込むような体勢になってしまったからか、しゃがみ込んだ翠祈のその顔を、僕はどうしても確認しておかないと。さっきは突発的なことだったから、良く見なかったけど…ああ、本当だ。

「目玉もちゃんとある。よかった、ちゃんと見えるんだよね?」

《…泣きっ面の間抜けの顔なら良く見える》

 なんだよ、それは…って、あはははって笑う僕は、それからポロポロと涙を零していることに気付いたんだ。
 ああ、よかった。
 一時はどうなることかと思って心配で死にそうだったけど、翠祈が元に戻ってくれてよかった。
 僕は翠祈の長い鼻面に、ホッと安心して頬を摺り寄せていた。
 翠祈は、今度は振り払うようなことはしなかったし、あの時の真っ黒い大きな犬みたいに、やっぱり大人しくじっと僕を見詰めながら、様子を窺っているみたいだった。
 でも僕は、そんなこと気にならなかった。
 翠祈が無事でいてくれたのなら、もうそれでいいんだ。

「取り込み中悪いんだけどさ」

《なんだよ》

 僕の腰に鋭い爪が邪魔そうに指先を当てるようにして支えている翠祈が、迷惑そうな顔をしてギロッと睨み付ける先には、漸く惚けていた魂が戻ってきたように、いつもの性格に戻っている国安が立っていた。

「国安!」

 僕が喜んで振り返ると、なんとなくなんだけど、翠祈はチッと舌打ちしたみたいだった。

「…俺さぁ、考えたんだよな。楠鬼をその紫魂の槍で浄化するのも、ここに封印するのも、やっぱり嫌だと思う」

『…』

 立ち上がった国安の影のように寄り添う死霊鬼は、嬉しいのか、でもそれは自然の摂理が許してくれないからと、諦めてしまっているのか…複雑な表情をして見下ろしていた。

《あのなぁ、嫌だっつっても、もう決まってることなんだよ。それは誰にも覆せねーんだ》

 のっそりと立ち上がって腕を組む狼人間をひたと睨み据えて、国安はそれでも下唇を尖らせるような子供っぽい仕種をして言い募ったんだ。

「楠鬼は、沙夜に憑いていたあの悪霊がお壱の魂が手に入らないからって殺すのを、ずっと助けようとして、死霊鬼になってくれたんだ。今度は俺が助ける番なんだよ。だからさ、お前が匡太郎くんを生き返らせたんだろ?だったら、コイツだって人間っぽくできないのかよ??」

《…~ッッ》

 両手を広げて頭を掻き毟りたいみたいな衝動に駆られた翠祈は、身体を左右に揺すってから、なんとか落ち着きを取り戻して、広げていた両手を拳に握って笑ったみたいだった。

《無理だね。いや、無理じゃないにしても嫌だね》

「なんでだよ?!」

「どうしてだい?!」

 思わず同時に口が開いてしまった僕が見上げると、《ブルータス、お前もか》みたいなことをブツブツと呟いた翠祈は、うんざりしたように死霊鬼を長い爪先で指し示した。

《黙ってねぇで、お前が説明しろよ。何百年も生きてる死霊鬼さんよ》

 思わず唸りそうになる翠祈に話を振られた死霊鬼は、物言いたげな真っ黒の双眸を細めて、それから俯いてしまった。

『無理なのだよ、壱太』

 呟きは溜め息みたいで、国安は不安そうにそんな楠鬼を見上げてしまう。

『私は長く存在し過ぎた。今の私を人間と同等の姿に変えるだけでも、その山犬は山神に因る罰を受けるだろう。それでなくても、人間の子を甦らせただけでも、いや、山を降りた時点で山犬は多大な罰を背負ってしまっているのだから』

 それは少なからず…違う、僕の胸に大きな衝撃を与えたんだ。
 翠祈は罰を背負っている?そうまでして…弟を、匡太郎を甦らせたと言うのか?
 そう言えば、死霊鬼は裏切った人間の子…とも言っていた。あれは、いったいどう言う意味なんだろう。
 あの、あたたかい手を覚えている…と、翠祈が言った言葉は、僕に向けてなんだと、本当は自惚れている僕は思い込んでいた。でも、もしかしたら、翠祈を山から降りる決意をさせたのは、本当は匡太郎だったんじゃないのかな。
 匡太郎は僕なんかよりも遥かに優しいから、いつか翠祈は、匡太郎に助けられたとかで、ずっと恩義に感じていたのかもしれない。
 僕は翠祈に助けられてばかりだったから…もしかしたら、僕は翠祈を裏切った人間側かもしれない…こんな性格だし…そうだよね、僕のワケないよね。
 山神の罰を背負ってまで、翠祈は匡太郎を甦らせてくれたのに…こんなことで悲しむのは筋違いだと思う。

「翠祈、罰を背負ったって…」

 キュッと唇を噛み締めたけど、でも、それはどうしても聞きたかった。
 だけど、翠祈はそんな僕の言葉を頭から無視したんだ。

《この野郎、死霊鬼め。そんな話じゃねーだろ?あんたを野放しにして、誰がその始末をするんだ?オレはご免だね。ソイツは死霊鬼なんだから魂、死体、もしくは生きた人間の生気を吸わなきゃ存在を維持できねーんだぞ》

 そうか、死霊鬼が言いたがらないのは、自分が忌まわしい鬼だから、そんな本性を国安には知られたくないんだ。
 死霊鬼にとって本当に、国安は大切な人なんだろうなぁ。
 男同士とか、鬼と人間だとか、本当は不気味なことなのかもしれないけど、今の僕はいっそ、それが羨ましいとさえ思っていた。そんな感情が僕にもあるなんて驚きだったけど、でも、僕はできればこの2人の応援をしたかった。

「生きた人間の生気って…それは俺のじゃダメなのか?」

『壱太、お前は何を…』

 国安が言うと、死霊鬼はハッとしたような顔をして、それはダメだと食い下がるように国安の顔を覗き込んでいた。
 でも、優しくて家族想いの国安はちょっと頑固なところがあるから、そんな死霊鬼を完全に無視して荒神である、狼人間の姿を見詰めていた。

《…そう言うと思ったぜ。クソ、厄介だよな》

 ブツブツと呟いて、翠祈は、唐突に治ったばかりの右目に爪を突き立てて、僕が悲鳴を上げるのも厭わずに目玉を引き摺りだしたんだ。

《そら、死霊鬼。くれてやる。コイツを喰えば、見掛けだけは人間になれるだろうよ。だが、コントロールを失えばもとの死霊鬼の姿に戻っちまう。しかし、コントロールすれば人間の見掛けに戻れる。要は精神の問題だ、判ったか?》

 死霊鬼は信じられないものでも見るように双眸を見開いて、国安を腕に抱き締めながら、首を左右に振っていた。
 何故と、どうしてが渦巻いているってそんな感じだった。

『山犬よ…貴様、何故』

 ピンッと指先を弾くようにして目玉を放り投げた翠祈は、慌てたように片手で掴む死霊鬼に、右目から血の涙を零しながら吐き捨てるように言ったんだ。

《オレは荒神だ!…仕方ねぇ。オレにも傍にいたいと想う気持ちは判る》

 そんなロマンチストじゃないのにな、とうんざりしたように吐き捨てる翠祈は、それから徐にくるりと背中を向けてしまったんだ。

《それを喰ったら人間の見掛けにはなるだろうよ。そうしたら、お前たちは先に島に戻ってろ。オレは暫く、この姿から戻れねぇからな》

 沙夜ちゃんを永遠に亡くしてしまった国安は、幸せそうに今夜手に入れた大切な人を見上げていた。その国安を、片手に翠祈の目玉を握り締めている死霊鬼が、幸福そうに、でも、一抹の不安を抱えたように見下ろしている。
 これからきっと、前途多難な人生かもしれないけど、それでも僕は、2人を心から羨ましいと思っていた。
 僕は、弟と翠祈を同時に失ってしまったら…どうなってしまうんだろう。
 寂しくて…背中を向けている翠祈の物言わぬ拒絶に成す術も無く、僕は波埜神寄島に吹き渡る清廉な風に前髪を躍らせていた。

死人返り 15  -死人遊戯-

「翠祈!」

 僕は半ば泣いていたんだと思う、でも、そんなことにも気付けないぐらい、禍々しく笑う沙夜ちゃんの顔から目が離せなかった。翠祈の腹から伸びた血塗れの腕は恐ろしい力で紫魂の槍の柄を握り締めてるのに、もう片方の腕は、見たくはなかったのに、ああ…死霊鬼の爪で抉られた脇腹に指を突っ込んで握り締めてるんだ。
 誰の名前よりも、目の前で苦悶に歪んだ顔で僕を見下ろす翠祈の名前を呼ぶ以外に、こんな情けない僕ができることは何一つなかった。
 僕がもう少し強ければ、こんなことで腰を抜かさないほどに強ければ、沙夜ちゃんを振り払うことだってできるはずなのに、翠祈を救ってあげることだってできるはずなのに…顔を歪めて、どれほどの苦痛を耐え忍んでいるのか、その想像を絶する痛みに成す術もなく見詰めるしかない僕に、翠祈はふと、頬の緊張を緩めて笑ったりするんだ。

「なんだ、あんたでもちゃんと、誰かを心配できるんじゃないか」

「なに、言ってるんだよ…翠祈、痛いだろ?どうしようッ」

 ふと、見慣れた優しい表情に泣きたくなった次の瞬間、翠祈の顔は苦悶に歪んで、ガクッとその場に片膝をつくようにして倒れ込んでしまったんだ。それじゃ、語弊がある。翠祈は倒れこんだんじゃない、座り込んだって言う方が正しいような姿勢を取っている。
 そうすると、小柄な沙夜ちゃんのちょうど顔の辺りに翠祈の頭が来るんだけど、その時の沙夜ちゃんの顔は般若よりも恐ろしい、壮絶な化け物のような顔をして嗤っていたんだ。

『やっぱり、お兄さんはやってくれたね』

 沙夜ちゃんの声はとても冷静で、今このとき、大の大人の男に苦悶の表情をさせながら、僕の腕から紫魂の槍を奪い取ろうとしている様には到底思えないほど、落ち着いているように見えた。

「さ、沙夜ちゃん…」

『そんな顔をしないで、お兄さん。だって、私じゃこの場所の封印を解くことはできなかったもの。この島にいる死霊鬼を殺す為に、何度も何度も生まれ変わったのに、その度にソイツに殺されちゃってたのよ。でもね、封印さえ解ければ私の勝ちなの。あとはその紫魂の槍で突きさえすれば、死霊鬼は消滅するわ。だって仕方ないじゃない。死霊鬼は私のお兄ちゃんの…ううん、お壱の魂を欲しがってるんだもん。下賎の流人如きの分際で。だから、ちゃんと葬ってあげるのよ』

 ニコッとやわらかく微笑む沙夜ちゃんの台詞に、僕は声もなく震えることしかできなかった。その言っている意味を理解しようとするんだけど、何がなんだか判らなくて、僕は大学でなんの勉強をしてきたんだよ!

「…ッ、なる…ほど。ここにも…巫女の妄執に囚われた…ッ、憐れな魂がいたッ…て、ワケか」

 途切れ途切れに喘ぐように、額に脂汗をビッシリと浮かべている翠祈が、口許から一筋の鮮血を零しながらニヤリと嗤った。まだ、その余裕があるのなら…と、弱虫の僕はホッとして翠祈を見たんだけど、それは沙夜ちゃんの気に障ったようだった。

『うふふ。荒神の山犬のくせに大した口をきくのね。知ってる?山犬は山神のペットで、そして、その力の源となる大切な食べ物なのよ』

「ッッ!」

 優しげに笑って翠祈の顔を覗き込むようにした沙夜ちゃんは、そう言うとペロリと真っ赤な舌で唇を舐めて、それから徐に爪が残す傷痕を抉っていた血塗れの指を引き抜くと、痛みに顔を歪める翠祈の…嫌だ、僕はこれ以上見たくない。
 思わず瞑りそうになる双眸を叱咤して、それでも僕は、この惨劇を見なくてはならないんだ。匡太郎を見殺しにして、今またこの場所でも、翠祈にだけ痛みを与えたままで僕は逃げるのか?
 嫌だ、そんなことは嫌だ。
 …血に塗れた指先で翠祈の右の目蓋を無理に捲ると、その隙間に指を挿し込み、沙夜ちゃんは彼の綺麗な紅蓮色の瞳を持つ目玉を…容赦なくグッと掴んで引きずり出したんだ!

「…ッッ!」

 唇を噛み締めた翠祈はそれでも声を上げずに、視神経を引き千切られて目玉を失くした眼窩がへこむ場所を目蓋の裏に隠して、忌々しそうに右の閉じた目から血の涙を零しながら低く呻いた。

『ありがとう、お兄さん。こうして、私の為に山犬まで連れて来てくれて感謝してるわ。数百年も復讐を遂げたかったのに…死霊鬼ったら強いんだもの。漸く、純粋なお壱の魂を持ってお兄ちゃんが生まれてきたのに、また死霊鬼にくれてやるなんて冗談じゃないでしょ?山犬の目玉は珍味なのよ。舌にとっても甘露で力が漲るわ』

 言っていることは酷く凄惨だし、引きずり出した目玉を、思う以上に長い舌の上に落としてピュルッと口腔に隠してしまう行為だって、とても残酷で仕方ないのに、それでも沙夜ちゃんはまるで年頃の少女のようにおかしそうに笑って目玉を租借するんだ。
 そのアンバランスな雰囲気が、だから余計に僕の恐怖心を煽って、でも、紫魂の槍だけは絶対に離さないと唇を噛み締める僕を、彼女はケタケタと笑っているみたいだった。

「さ、沙夜…お前」

 その時、まるで絶句したように口を開けないでいた国安が、懸命に彼を護ろうと禍々しい沙夜ちゃんを睨み据える死霊鬼の腕の中で、信じられないものを見るような、信じたくないような、なんとも言えない痛ましい表情をしてポツリと呟いた。

『お兄ちゃんまでそんな顔をしないで。だって、沙夜はお兄ちゃんのお嫁さんになるのよ?なのに、お兄ちゃんは私を残して東京の学校に行ってしまった。まるであの頃と一緒。私のお嫁さんになるはずだったのに、お壱は私じゃなくて、死霊鬼を選ぼうとしたのよ』

 指先に滴る翠祈の鮮血を長い舌で舐め取ると、口を血で真っ赤に汚しながら、沙夜ちゃんは慈悲深い優しげな眼差しで国安を見詰めながら囁くようにして言うんだ。

『でも私、絶対に許さなかったの。だって、相手は下賎な流人で、お壱は大切な紫魂の槍の護り手である高潔な神官の一族だったのに…不釣合いもいいところよ。あなたは一族の私と結婚するべきだったの』

 小さな歪みが、何かを狂わせ、こんな風に悲しい輪廻に雁字搦めに縛り付けた切欠は、そんな単純なことだったの?

「…沙夜、でも巫女は。きっと、誰も愛せなかったんだよ」

『…』

 そうだ、国安が何を言いたいのか、僕には判るような気がした。
 村の掟に雁字搦めに縛られてしまった巫女であるお壱は、その凶悪な定めに押し潰されそうで、自分のことだけで精一杯だったに違いない。それはきっと、匡太郎と同じ境遇だったんだと思う。
 なんでもできて、できて当たり前だと両親や親族に期待されて…でも、匡太郎は真夜中を過ぎても机に向かって、何時も少し寝不足の顔で笑っていた。
 僕が頼りないから、せめて、僕のぶんも両親が喜ぶように。
 そうして、僕が両親から疎まれないように、過剰な期待が向かわないように…まだ、ほんの子供だったのに、そんな風にして、匡太郎は僕を守ってくれていた。
 巫女も、人一倍の努力をして、そんな辛い思いを兄弟にさせないように、その地位を保つのに必死過ぎて何も見えなくなっていたんじゃないかな。恋愛感情なんて持つこともできなくて…でも、国安、それは違うと思うんだ。

「…そうじゃないよ、国安。巫女は、お壱さんは愛してしまったんだよ。ほんの少し、自分に厳しくしていたはずの心が緩んで、楠鬼を愛してしまったんだ」

 僕は、右の目から血の涙を零して、額にビッシリと汗を浮かべている翠祈の、浅い息を吐く痛々しい蒼白の顔を、ポロポロ泣きながら見詰めて呟いていた。
 翠祈は残っている紅蓮のひとつの目だけで、あの時の大きな黒い犬がそうしたように、そんな僕をじっと見詰めていた。

「僕の大事な弟が…そうしたように。お壱さんにとってあんまり楠鬼が大切だったから、誰かの、たとえば悪い人の手から護ろうと、他のどの島でもなく、この島に彼を封印してしまったんじゃないのかな」

 それはもしかしたら、命懸けだったのかもしれない。
 そんな遠い昔の話を、僕が判るはずもないんだけど…でも、何故か今はそう思えるんだ。
 この波埜神寄島に死霊鬼である楠鬼を封印したことこそが、お壱さんの愛の証だったんだと思う。
 他のどの島でもない、いつも自分が見詰めることのできる島…そんな近くに、彼を封印してしまったのは、離れたくないと思った素直な女心だったんじゃないのかなぁ。

「お、にいちゃんもッ…言うじゃ、ねーかッ」

 翠祈が、片目しかないのに、やんわりと細めて笑ってくれた。
 うん、気付いたんだ。
 僕の弟も、目の前にいる、この荒神も…自分には厳しいくせに、大切だって想ってくれている僕には、ほんの少しでも心を緩めてしまうから…お前たちを見ていて、鈍感で鈍い僕でも気付いてしまったんだよ。

『そんなの有り得ない!』

 不意に、金切り声のような、悲鳴みたいな声を上げて沙夜ちゃんが叫んだ。
 両目からは血のような真っ赤な涙を零しながら、充血して淀んだ双眸を見開いて、信じられないと唾液を飛ばして叫ぶ沙夜ちゃんを、国安はよろりと立ち上がって、憐れな妹の魂に近付こうとした。でも、その行く手を死霊鬼が阻み、恨めしげな真っ黒の双眸で泣き叫ぶ沙夜ちゃんに言い放ったんだ。

『そう思って、貴様は何度でもお壱を殺し、それを私のせいにして恨んできたッ』

 そんな身勝手な魂こそ、死霊鬼のような鬼に成り果ててしまったのかな。
 僕はほんの一瞬、沙夜ちゃんの腕の力が緩んだ隙を突いて、掴んでいた紫魂の槍を思い切り引っ張ると、そのまま後ろに後退って身体を離した。
 そんな僕にハッと気付いた小夜ちゃんは、忌々しそうに顔を歪めて、もう虫の息になりつつある獲物に興味を失くしたように打ち捨てて、力が漲ると言ったように、奇妙なオーラのようなものを揺らめかせて、壮絶な無表情で僕を睨み据えながら言ったんだ。

『だって、お壱の魂は何度も言うんだもん。私を愛してないって。死霊鬼だけを心から愛してるって。そんなのデタラメなの。死霊鬼に騙されて、お壱は頭がおかしくなってるの。だから、私が助けないとダメだもん。そうじゃないと、ダメなんだもん』

 まるで子供のように…実際、沙夜ちゃんの身体は子供なんだけど、あれほど冷静に笑っていた沙夜ちゃんは、駄々を捏ねる子供のようにブツブツと呟いて、両目からは真っ赤な涙を幾筋も零して無表情に近付いてきた。
 尻で後退りながら、それでも、翠祈が「離すな」と言ったんだから、僕のこの命がたとえ亡くなったとしても、僕はこの槍を手放すつもりなんかなかった。
 その壮絶な恨みの波動には国安は勿論、あの死霊鬼ですら立ち竦んで、翠祈の血で力を得た沙夜ちゃんに立ち向かうことなんかできないでいるんだから…僕がどんなに頑張っても、この槍は奪われてしまうんだ。そんなのは嫌なのに…僕に、ああ、僕にもっと力があったら。
 血塗れの指先を伸ばして、僕から紫魂の槍を奪い返そうとする沙夜ちゃんに、ギュッと目蓋を閉じて槍を抱き締めるようにして身体を縮こまらせた僕に、いつまでたっても考えていたような衝撃はこなかった。
 ハッと息を呑むような気配がして、何かがポタリッと僕の頭に落ちるから、僕は恐る恐る目蓋を開いて真上を見上げていた。
 唯一、開けた場所に立つ建物の篝火は何時の間にか炎が消え、闇夜に真っ白に浮かび上がる月明かりが全てを照らし出していた。
 大きく見開いた沙夜ちゃんの血走った赤涙を流す双眸、その胸から、魂なんだから実体なんか無いはずなのに、突き出した剛毛に覆われた腕と鋭い爪を有する手が掴み取っているのは、まだ鼓動にあわせて鮮血を拭き零す心臓だった。

《だから、言っただろ?オレは荒神だ。確かに山神の餌だが、そのぶん、生命力は計り知れねーんだよ。オマケにだ、山神以外でオレの血肉を喰らったヤツは人間に近い姿になっちまうのさ》

 真っ黒い剛毛から突き出す先端の尖った耳は、人間のあるべき位置より随分と上で、長い鼻先も犬のように髭が生えていて、犬歯をむく刃のような歯が並ぶ口許からペロリと舐め上げる真っ赤な長い舌、ふさふさの襟巻きみたいに胸元を覆う飾り毛、そして…2メートルはあろうかと言う巨体、その全てが狼のような人間のような…たぶん、心臓を引き抜いて沙夜ちゃんの身体を持ち上げているのは、狼人間そのものだと思った。

死人返り 14  -死人遊戯-

「壱太はその部屋なんだな?後は任せたぞッ」

 思わず竦み上がった僕とは正反対に、嬉しそうに立ち上がった翠祈は、犬歯を覗かせてニヤッと笑いながら死霊鬼に言っているのか、それとも僕に言ってるのか、どちらとも取れるような取れないような口調で言って、いきなり館の裏庭に飛び降りたんだ!

「まま、任せたって…僕が国安を助ければいいの?!」

 そんな判りきったことを聞きながらも僕は、決心して紫魂の槍を握り締めながら、それでも動く死体に囲まれた翠祈のいる庭に飛び降りていた。

『己…小賢しき人間ども』

「残念でした。オレは荒神だぜ、死霊鬼さん」

 僕の行く手を遮ろうとする死霊鬼に、兵士の頭を思い切りぶん投げて意識を逸らしてくれる、ほぼ壊滅状態にまで叩きのめした兵士を踏みしめて、ニヤニヤ笑う翠祈を、死霊鬼は微かに驚いたような表情をして、眉を顰めて睨んだみたいだった…と言うのも、必死だった僕はそこまで確認できなかったんだ。

『なんだと?荒神とは…貴様、物の怪の身でありながら、何故、人に加担するのだ』

「オレの勝手だ。光太郎!さっさと行けッ」

 ぶわっと真っ白の髪が逆立って、思い切り口が裂けてギザギザの牙を覗かせながら浮き上がる死霊鬼と対峙する翠祈は、立ち竦みそうになる僕を叱咤するように叫んでから、兵士が握っていた役に立たない日本刀を掴んで、後から後からうじゃうじゃと湧いてくる動く死体を切り倒すんだ。
 返り血…と呼ぶのもおぞましい粘着質のどす黒い異臭を放つ液体を浴びて、それでも翠祈は、挑むように死霊鬼を視野から離さない。
 僕は竦みそうになる足に力を入れて、紫魂の槍を握り締めながら国安が突き飛ばされた部屋に走り出していた。出鱈目に振り回す紫魂の槍に恐れをなす兵士たちを追い払うことはできたけど、死霊鬼は、鬼と呼ぶに相応しい耳まで裂けた口にギザギザの刃のような歯、今や真っ赤に濡れたように光る双眸、両手にはナイフのような爪が閃いている、その凄まじい形相で僕の行く手に立ちはだかったんだ!

『人間の子よ…貴様、何故、アレを私から奪おうとする』

「お、お前はもう何百年も前に死んでるんだッ。く、国安は今を生きてるんだよ!生きる時代が違うのに…ッ」

『戯言を』

 腕を伸ばしただけで、僕の身体は不自然に宙に浮いて、ハッとした時には圧倒的な力で首を締め上げられていた。

「光太郎!ちッ、死霊鬼!お前の相手はオレだッ」

『痴れ者』

 長い兇器みたいな爪を持つ片手を振っただけで、あれほど強いはずの翠祈が、目に見えない不可視の風圧を受けたように日本刀を握る両手を交差させて受け止めているみたいだった。

『物の怪如きが言うてくれる』

「物の怪、物の怪言ってんじゃねぇ!光太郎といいあんたといい、オレをなんだと思ってんだ!畜生がッ」

 吹き荒ぶ風に、翠祈はギリッと奥歯を噛み締めて押し返しながら、苛々したようにそんなことを言った。
 指先をクイッと上に動かすだけで僕の首はギリギリと万力で絞められるような激痛と圧迫が増し、片手を横に振るだけで、翠祈を襲う風はますます強くなる。もう、死霊鬼が自由に操っていた動く死体たちは木っ端微塵に飛び散ってしまっている。
 涙目で紫魂の槍を握り締めた時、ふと、槍全体がボウッと青紫の光を帯び、遠くなりそうな意識の中で僕は、死霊鬼の驚愕の声を聞いたような気がした。

『貴様!もしや、その槍は…ッ』

 その次の瞬間には咽喉の圧迫が取れて、有り得ないことなんだけど、持ち上げられていた身体が地面にドサッと落とされたんだ。強かに背中を打っているから思わず息ができなかったけど、それでも、あの凄まじい圧迫と激痛から開放された咽喉は、新鮮な空気を貪ろうと焦るあまり噎せて、咳き込んでしまった。

「なるほど。紫魂の槍にはもうひとつ使い道があるんだな」

 翠祈の冷やかな声音が響き渡った。
 僕は、鼻水と涙でぐちゃぐちゃになった顔で、激しく咳き込みながら片目を開いて翠祈を見たんだ。
 だって、その声は…今まで、匡太郎の声で話していたってのに、翠祈の声は、僕が聞いたこともない、いや違う、もう随分と昔、僕が小さい頃に聞いた声だったから。

「すい、き…ッ」

 仄かに煌く紫魂の槍を握り締めたままで見詰める先、漆黒の髪を逆立てて、やや釣り上がり気味の切れ長な鋭い真っ赤な目をした見たこともない男が、牙をむいてニヤッと笑って立っていたんだ。
 匡太郎とは似ても似つかない邪悪な顔立ちに、ああ、もしかしたらこれが翠祈の本当の姿なんじゃないかな…と、朦朧とする意識の中で思っていた。

『そうか、紫魂の槍を…貴様、何者だ?』

 旋風のような風を纏って前髪を掻き揚げる翠祈は、ニヤニヤと笑いながらジーンズのポケットに素っ気無く片手を突っ込んで立っていた。窮屈な場所から開放された喜びに、これ以上はないほど喜んでいるのが、淀んだ大気を震わせて伝わってくる。

「さっきから言ってるじゃねーか!オレは荒神だッ」

 それでも、やっぱり翠祈は翠祈なんだ。
 死霊鬼に誰何されて、ガックリしそうになった黒髪の翠祈は苛々したように吐き捨てて、それから日本刀を握っていたはずの両手を上向きに掲げたんだ。そうすると、その両手の上にボウッと青白い炎の玉が浮かび上がった。

「反撃開始だぜ?」

『ぬぅッ!』

 宣戦布告した翠祈が両手に持っている光の玉を投げつけると、死霊鬼は長い凶悪な爪を持つ両手でそれを弾くように振り払った。でも、炎の玉は空中で霧散すると、まるで大気の粒子を吸収したように再び集まって、長い槍のように細長くなると、死霊鬼に向かって襲い掛かっていた。
 死霊鬼は間一髪でそれを避けたんだけど、そうすると、前はがら空きになるんだから、隙を見逃さない翠祈が瞬時に移動して、ハッと漆黒の目を見開く死霊鬼にニヤッと笑ったんだ。

「オレは荒神だ、ちゃんと覚えとけよ?このクソッタレッ!」

 言うなり、翠祈の後ろに引いて反動をつけていた拳がその頬に思い切りクリティカルヒットした!
 僕はもう、だいぶ意識がハッキリしていたし、翠祈の変貌ぶりに目を白黒させていたんだけど、思わず倒れたままで、紫魂の槍を握ったまま両手で拳を握り締めてしまっていた。
 凄い凄い!翠祈、凄いッ!!
 咽喉がゼィゼィと喘ぐから言葉が出せないんだけど、僕はそれでもめいいっぱいの賞賛を翠祈に送っていた。
 流石に死霊鬼は腐敗した動く死体たちとは違って、首がもげたり頭が飛んだり、頬骨を砕いたりはしなかったんだけど、強かな衝撃はあったんだろう、口許から真っ赤な血を零しながら翠祈を突き飛ばし、フラフラと身体をよろけさせた。
 それでも、すぐにギッと睨み付けると、爪のはずなのに、金属的な音をガチガチと響かせて、凶悪な爪を構えて身構えたんだ。

「死霊鬼如きが荒神であるこのオレに敵うと、本気で思ってんのかよ?」

 神様なんだぜと、呆れたように嫣然と嗤う翠祈は、ジーンズとシャツって言う、匡太郎の服装には不似合いな邪悪さを持っていた。でも、どうして翠祈は、匡太郎じゃなくなったんだろう。
 匡太郎はどこに行ったんだろう…

『何故だ…荒神とは山神の下僕である山犬の物の怪ではないか。何故、山におらぬ?ましてや貴様を裏切った人間どもの子の為に、禁を冒してまで私と諍うのか』

 山犬の…物の怪?
 翠祈を裏切った人間の子…って、それは僕のことなの?
 死霊鬼は油断なく翠祈の様子を窺いながら、忌々しそうに吐き捨てた。
 僕は何がなんだか判らずに息苦しさに喘ぎながら、忌々しそうな顔をして下唇を突き出すような子供っぽい仕種の翠祈を見詰めていたんだ。

「そりゃもう、遠い昔の昔話だ。オレはあの、あたたかい手を忘れちゃいねーよ」

 でも翠祈は、顎を引いて、少し上目遣いに死霊鬼を見ると、犬歯を覗かせて嗤っている。
 纏う気配はどれも凶悪で凶暴そうだと言うのに、それでも僕は、翠祈がそうしてその場に立って、死霊鬼と対峙してくれている事実はとても心強いと思うことにして、今は考えずにおこうと思ったんだ。

『…ならば、貴様ならば、判るのではないか?』

 この想いが…声にならない死霊鬼の言霊が、何故か僕には聞こえたような気がした。

「ああ、判る。だが、それはダメだ。壱太は壱太であって、お前が恋焦がれる巫女じゃねぇ」

 それは翠祈も同じだったのか、それまでニヤニヤ嗤っていた口許を、不意にキュッと引き締めて、今までのおちゃらけっぷりからは想像もできないほど真摯な相貌をして死霊鬼を見詰めているようだった。
 僕には判らない長い時間を生きる2人には通じるものがあるのかもしれない、けど、僕にはそれは判らなかった。でも、翠祈が何を言いたいのか、それだけは、そんな僕にも判るような気がした。
 だってそれは、僕も感じていたことだから…誰かの身代わりに国安を連れ去ったのだとしたら、それはその人じゃなくて、それは国安なんだよ。巫女…に流人が恋をしていたことは初めて知ったけど、でも、それなら尚更、その人はもういないのに。
 もう、随分と昔に、いなくなってしまったのに。

『私はアレの魂を求めていた。今この手に戻ってきたあの清らかな魂が、現の身に宿ったとて、それはアレに代わりない』

「それは違うよッ」

 不意に、死霊鬼と翠祈が僕を見た。
 思わず、声に出してしまっていた思いに、僕は一瞬気圧されたけど、それでも、死霊鬼に間違って欲しくないと思っていた。僕と同じような、あんな過ちは犯してほしくないんだ。

「…たとえ誰かの生まれ変わりでも、国安は国安なんだ。他の誰でもない、国安なんだ!そうじゃないと…今ここにいる国安の心はどうなってしまうんだい?巫女の想いばかり優先して、じゃあ国安の心は?見向きもせずに、見捨てるなんて…そんなのは悲しいよ」

 そうだ、僕だって、誰かの身代わりで愛されたいなんて思わない。
 それに、誰かの身代わりとして愛することだってできないよ…
 だから、弟を失った両親が、執着するように僕を求めた時、僕は逃げるように家を出てしまった。だって、僕は僕なのに…たとえ弟を殺してしまった僕でも、やっぱり、小さい頃から僕を見て欲しかった。
 ポロポロと泣いてしまう僕に、死霊鬼は怪訝そうに眉を顰めたけど、翠祈は仕方なさそうに頬の緊張を緩めたみたいだった。

「光太郎の言うとおりだぜ。たとえ輪廻が存在したとしても、それは魂であって、本人ではない。現世を生きる魂は、国安壱太と言う人格を形成している。もう、あんたの巫女じゃねーんだよ」

 その言葉が、死霊鬼の何に触れたのか、それまで間合いを取るように身構えていた死霊鬼は、凶悪な面構えから、ふと、耳まで裂けていたはずの口が元に戻ってしまった。

『だが、それでは…私が鬼になった意味がない』

「それでもさ。凄まじい執念は賞賛に値するよ。だが、もう巫女はいない。あんただってそれは、とっくの昔に気付いていたはずだ」

 凶悪な爪ですら、今では元の長さに戻ってしまった。
 まるでホロホロと、執念と憎悪の殻が剥がれ落ちるように、死霊鬼の身体は最初に見た姿に戻ろうとしている。
 これだけの執念だったのに、でも、本当は死霊鬼が一番、この島から解放されたがっていたのではないかと僕は思っていた。
 いや、違う…死霊鬼が一番、巫女の死を認めていなかったんだ。

『…』

「あんたが必要とした巫女はもういないんだ。それはあんたが、壱太を抱いた時に気付いた筈だ」

 翠祈は淡々と呟いた。
 死霊鬼は無言で俯いているようだった。
 それなのに、不意に僕の身体はとてつもない悪寒に襲われてゾクッとしてしまった。

『…だが、それでも私にはアレの魂が必要なのだ!』

 叫ぶように言った途端、憎悪の権化のような姿になった死霊鬼は、長い爪で翠祈に襲い掛かった。一瞬でも油断してしまっていたのか、翠祈は僅かに避けきれず、その爪を肩と脇腹に受けてしまったようだった。思わず悲鳴を上げそうになった僕の目の前で、翠祈は唇を噛み締めるようにして言った。

《お前はバカだ。本当は何が必要なのか、お前は判っているはずなのに。そんなことも忘れ去って、過去の妄執に囚われもがき足掻いても報われず、巫女の思惑に堕ちるのか?》

 牙をむいて、真っ赤な紅蓮の双眸で睨みながら、口許から鮮血を滴らせる翠祈は、貫く指先はそのままで、両手を持ち上げると死霊鬼の頭を掴んで、それでもゆっくりと、しわがれたような、この世の者ではないような声で囁いていた。

《オレは気は長くない。死ね》

 翠祈は、驚愕に真っ黒な双眸を見開く死霊鬼に引導を与えようと、その両手にグッと力を込めようとした。でも、翠祈はその手を止めてしまったんだ。
 だって…

「や、めてくれ…頼む。ソイツは悪くないんだ」

 よろけるようにして、なんとか重い障子を引き摺り開けた国安が、縁側によろよろと姿を現した時、死霊鬼が、たった今殺されかかっていたはずだと言うのに、死霊鬼は全ての意識を国安に向けてしまったんだ。それは全身を無防備にするのと同じなんだから、あっと言う間に翠祈に殺されてしまったとしても仕方ないのに、それなのに、心配だったのは国安のことばかりだった。
 ああ、翠祈の言うとおりだと、僕も思うよ。

『来るな、お前は来るな…ッ』

 伸ばした指の爪はすぐに元の長さに戻っているし、顔も元のままだった。国安には、怨念に満ちた自分の浅ましい本性は見て欲しくないのかな。

「悪いのは、俺たちの一族なんだ…どうか、楠鬼を許してくれ」

 クスキと呼ばれた死霊鬼は、よろけて倒れそうになる国安の許に駆け寄ろうと、翠祈の存在など忘れてしまったかのように、真摯で必死な真っ黒の双眸で見詰めている。

「何も知らない楠鬼をこんな島に閉じ込めて、そのくせ…俺の先祖は楠鬼に束の間の愛を教えてしまった」

 本当はそんな気はなかったのに…と、国安はポロポロと泣きながら、助けるように抱き留めた死霊鬼の、血に染まる胸元に頬を寄せたようだった。

「巫女は…、この島から誰よりも逃げ出したかった巫女は、流れ着いた流人だった楠鬼を外の世界を見るためだけに利用して…愛することを教えたんだ。でも、巫女の愛は本気じゃなかった、その事実に気付いた楠鬼は死霊鬼になってしまったんだ。それでも、楠鬼は俺たち一族を恨むこともせずに、ただ、静かに巫女の生まれ変わりを信じて待ち続けていた。だから…悪いのは俺なんだ。楠鬼に殺されるなら、仕方ないよ」

 溜め息のように呟いた国安に、死霊鬼は、静かに涙を零しながら目蓋を閉じて首を左右に振っている。
 恐らく、恨みから酷く傷付けてしまった国安の身体は、思う以上のダメージを受けているんだと思う。なのに、死霊鬼は、翠祈が予想したように気付いてしまっていたんだ。
 何が必要で、何が大切なのか。

『私は…巫女の魂を待っていたのではない。私を心から受け入れてくれる壱太の魂だ』

「楠鬼…」

 泣きながら国安の額に額を寄せるようにして呟く死霊鬼に、僕は唐突にハッとして翠祈を見た。だって、翠祈は死霊鬼を殺そうとしたんだ、僕は翠祈を止めておかないと…振り返った先、翠祈は、漆黒の髪に真っ赤な双眸の、大きな犬歯を覗かせてニヤッと嗤っている翠祈は、穏やかな表情で見守っているみたいだった。
 ああ、そうか。
 殺す気なら、もうとっくの昔に両手に力を入れていたに違いない。でも翠祈は、そうはせずに、振り払われるままに身体を離していた。
 口許から血を零しながら、本当は痛いに違いないのに、それでも翠祈は、らしくもなく、満足そうに笑ってるんだから、おかしいね。

「翠祈…」

 どうしよう?と、僕が眉を寄せて首を傾げたら、翠祈は肩を竦めて両手を挙げて降参のポーズをしてから仕方なさそうに笑うと、そのガッシリとした腕を伸ばしてへたり込んでいる僕を引き起こそうとしてくれた。だから僕は、取り敢えず、2人が落ち着くのを待とうと思って、差し伸べられた腕を掴んで翠祈を見たんだ。
 翠祈を見て、僕は驚愕に双眸をこれ以上はないほど見開いて凍り付いてしまった。
 だって、翠祈の腹を貫いて、白くて華奢な血塗れの白い手が伸びて、僕が握る紫魂の槍を握り締めていたんだ。

「う…ッ、グ…は…ッッ」

 噛み締めた口許から鮮血が零れて、翠祈は額に脂汗をビッシリと浮かべながら僕の手を離すと、伸びている華奢でか細い腕を両手で掴んで呻いたんだ。

「す、翠祈!」

「こ…の、チクショッ……ゆ、だんしたッ」

 まるで苦悶に顔を歪める翠祈を嘲笑うかのように、華奢で白い腕はグリグリと蠢きながら紫魂の槍を僕からもぎ取ろうとしている。

「離すな!」

 翠祈の声が悲鳴のように響いて、僕は泣きながら凄まじい力で奪おうとする小さな腕から、紫魂の槍を護ろうとしていた。
 その僕の目に映ったのは、翠祈の腰を掴みながら、ニタリ…ッと嗤う沙夜ちゃんの顔だった。

死人返り 13  -死人遊戯-

「最初からワンちゃんならワンちゃんだって言ってくれてたらよかったのに!荒神とか翠祈とか言うから思い出せなかったんだッ」

 道なき道、獣道をブツブツと唇を尖らせて悪態を吐きながら、確りと前を行く弟の服を掴んで歩いている僕に、弟の身体に憑依している翠祈がうんざりしたように肩を竦めたみたいだった。

「…オレはあんたに翠祈だと名乗ったじゃねーか。なんでワンちゃんで思い出せて、翠祈で忘れてんだよ。舐めてんのか、この間抜けがッ」

「ほら、また間抜けって言った。翠祈こそ、僕は光太郎なんだから、そろそろ覚えてくれてもいいじゃないか」

「ふん!間抜けに間抜けと言って何が悪い」

 相変わらずの憎まれ口なんだけど、以前ほどの邪険さはなくなったような気がする…のは、僕の勝手な思い込みかもしれないけどね。
 僕は現金なんだけど、翠祈があの日のワンちゃんだと判ってから、もう全てがこれで万事大丈夫のような気がして、なんでもどんと来い!な気分になってしまっていた。
 動く死体とか、水蒸気のような霊魂だとか、通常じゃ絶対に信じたくないものがうじゃうじゃいるんだけど、喋る犬ってだけでもヘンだったのに、死に掛けた弟の身体に憑依して復活させてしまった翠祈がいるんだ、なんとかなるんじゃないかと信じたくなってしまっても仕方ないと思う。

「でも、ワンちゃんがいてくれるなら、なんだかもう大丈夫って気がしてきた」

「…ワンちゃんじゃねぇ、翠祈だッ!」

「!」

 振り向き様に拳が飛んできて、ギョッとした僕は思わず目を閉じてしまったんだけど、耳のすぐ傍で何か固いものが拉げるような、砕ける音がして、青褪めたまま僕は恐る恐る目を開いて横を見てしまった。
 見なければ良かったんだけど、見なければ良かったんだけど…そんな音が顔のすぐ横でしたんだ、見ないワケにはいかないじゃないかッ!

「!!」

 顎から頬に向けて砕かれた顔面を晒し、もう腐ってしまって原型も留めていない目玉だとか、何だか良く判らない粘着質な液体をボタボタと零しながら、もう少しで僕に襲い掛かろうとしていた動く死体が、ゆらゆらと左右に揺れて、そのまま崩れるようにして地面に倒れてしまったんだ。
 それでも、僅かに伸ばそうとした強張った腕で僕の足を掴もうとするから、僕は…ギュッと目を瞑って両手で持った紫魂の槍を、その髪なのかなんなのか、もう判らなくなってしまったグズグズの頭に突き立てた。

「ギ…ギャァァァァッッ!!」

 耳を劈くような凄まじい断末魔は、でも、翠祈に言わせると長い責め苦から解放されて、漸く魂を安寧に導く最後の試練だから、彼らは喜んでそれを受け入れるだろうって説明してくれていた。だけど僕は、やっぱりこの最後の断末魔に慣れない。
 蒸発するように身体がなくなってしまった、あの動く死体のあった場所を青褪めたままで見下ろしている僕に、翠祈は尻上りの口笛を吹いて、呆然としていた気持ちをハッと我に返らせてくれた。

「やればできるじゃん、お兄ちゃん。これからはもっと期待してるぜ」

 ニヤッと笑って、ペロリと真っ赤な舌で下唇を舐める翠祈に、僕はどんな顔をしたらいいのか判らなくてヘンな泣き笑いみたいな顔をしてしまった。
 そんな感じで不慣れな山道を歩いていた僕たちは、どうにか館の裏手、こんなに近付いても大丈夫なのかなと心配したくなってしまうような場所を見つけて、草の茂みに姿を隠して偵察することにした。

「すげーな。流石、数百年も生きていると抜け目ねぇと言うかなんと言うか…裏手まで兵士でびっちりだ」

「う、うん」

 何を見ているのか、いや、見るための目すらもうないと言うのに、虚ろな空洞を晒す眼窩でぼんやりと何かを見ているような動く死体…翠祈はそれを兵士って言うけど、彼らは均衡が保てないのか、良く判らないんだけど左右にふらふら揺れながら、片手に日本刀を携えてその場所に立ち尽くしている。そんな兵士が裏手に8体はいて、その気になれば、前を警備している兵士も駆けつけるのだから、数十体とは戦わなくちゃいけないことになる。
 それは、ちょっと、たぶん…無理があるんじゃないかな。

「す、翠祈…作戦とか考えてる…よね?」

「作戦?はぁ??んなの行き当たりばったりに決まってんだろ」

 小馬鹿にしたように笑っているような翠祈を、やっぱり…と、思わず悲愴感に駆られて見上げた僕は…見なきゃ良かったって凄く後悔してしまった。
 だって、翠祈のヤツ…嬉しそうな、ワクワクしてるような顔をして犬歯の覗く口許から真っ赤な舌を出して、チロチロと下唇を舐めていたんだ。その禍々しいような、邪悪そうな表情が篝火の灯りでボウッと浮かび上がっているから、下手なB級ホラーよりも何万倍も怖いよ!

「飛び込むとか、突撃だとか…まさかそんな…」

「し!」

 思わず滝涙で両手を祈るように組んで言い募ろうとする僕の頭を押さえて、翠祈がさらに身体を低くしたから、僕はハッとして眼下にある時代を物語る恐ろしげな館を見下ろしていた。
 古くてボロボロのはずなのに、障子も何もかも、まるで今日入れ替えたような新しさが、どれもこれもが嘘で、何かとんでもないものに巻き込まれているような錯覚すら覚えさせる、腹の底からゾワゾワする落ち着かない館の、その障子がサッと開いた。
 真っ白な死装束に腰までもある白髪、蒼白の肌は既にもう魂はこの世から離れてしまっているはずなのに、まだ未練を残しているような、この世のものとは思えない不気味さで、その双眸は真っ黒だった。
 本当に、真っ黒なんだ。
 白目が全くなくて、眼球の全てが黒目になっているような…目の錯覚なんかじゃないと思う。
 もう、生気のない唇は紫で、生ある者の風貌じゃないことぐらい僕にだって判る。

「ヤツが死霊鬼だ」

 翠祈が聞き取れないほど小さな声で呟いたから、なんとなくそうじゃないかなと思っていた僕は、国安を連れ去ってしまったのは絶対にコイツだと確信できた。
 死霊鬼は口許に薄ら笑いを浮かべて、その真っ黒な双眸はどこを見ているのか判らない。
 でも…

「?!」

 何処かに行こうとしている大柄な死霊鬼の傍らから、血の気の失せた腕が幻みたいに伸びて、縋るように掴もうとした。その腕を、死霊鬼はやんわりと掴んで引き寄せたみたいだった。
 同じように死装束のような真っ白の着物、沙夜ちゃんが着ていたような白い着物を着ている国安は虚ろな顔をしたままで、死霊鬼に抱き留められていた。
 まだ、死んでないとホッとする僕の目は、それから衝撃的な光景を目の当たりにしてしまったんだ。
 国安の着物の胸は大きく肌蹴ていて、無数の鬱血した痕が散らばっていたし、乱れた裾から覗く、やっぱり血の気の失せた足には赤味を帯びた白濁とした何かが筋のように滴っている。
 どうか、と、まるで懇願するような国安の蒼白の頬に篝火の炎を反射して、光の筋が伝っている。
 死霊鬼の着物をギュッと掴む腕には、嫌悪だとか憎々しさだとか、反発する気持ちはないように見えて…僕は驚いていた。
 国安の身に何が起こったのか、僕には判らないけど、何か酷いことをされたと言うことは良く判る。そうじゃないと、あれだけ優しくて明るい国安が、あんな呆けた顔をして泣いているはずはないもの。

「翠祈、国安を助けないと…ッ」

「…あー、戦うのは別に構わないんだけどよ。あの様子だと、このままソッとして置くのが武士の情けだと思うんだがなぁ」

「なんだよ、その武士の情けってッ」

 あんなに悲しそうに泣いている国安と、この世の者ならざる出で立ちの死霊鬼をこのままにしておくほうがいいって言うのか?
 そんなの、いいワケないじゃないか!
 思わず飛び出しそうになる僕の身体を片手で難なく引き留めた翠祈は、やれやれと心底から呆れたような顔をして僕を見下ろしてきたんだ。

「男女…ってワケじゃねーけど。恋愛の機微に疎いにも程があんだろ。そんなんだから、匡太郎が犯すこともできずに指を咥えてないといけなくなるんだよ」

「何を言ってるか判んないよ」

 眉を顰めて怪訝そうに見上げる僕を、翠祈は一瞬だけジッと見詰めてから、やれやれと溜め息を吐きながら後ろ頭をバリバリ掻いて、館の方に目線を落としてしまった。

「あんなに穏やかな死霊鬼をオレは見たことがねーよ。死霊鬼ってのは怨念の塊なんだ。常に荒れ狂ってるのが当たり前だってのによ。漸く、手に入れたい魂を見つけて、できればこのまま永遠にでも生き続けたいんだろうけどなぁ…だが、光太郎の言うとおりだ。何事も、このままでいい筈はない」

 何かを決意したように、翠祈の双眸が、何故だろう?邪悪に細められたように思うのは、僕の気のせいだったのか…
 首を傾げそうになったその時だった。
 ふと、ハッとしたように真っ黒の双眸を見開いた死霊鬼は、目蓋を閉じて泣いている国安の頬に唇を落としていたのに、その国安を部屋の中に突き飛ばすと、慌てたように障子を閉めて向き直ったんだ。その時の表情を、僕はきっと、この先ずっと忘れることはできないと思う。
 それだけ禍々しく、邪悪で、この世にある、ありとあらゆる憎悪を全て集めて塗りたくったような、そんな顔をしてこちらを睨みつけたんだ。
 そう、死霊鬼は、どこを見てるか判らないと思っていたその真っ黒な双眸で、恨めしげに僕たちのほうを睨みつけていた。

死人返り 12  -死人遊戯-

 暗い道なき道を突き進む僕たちの行く手には、永遠に続くんじゃないかってぐらい真っ暗な森が何処までも続いていた。
 そろそろ、何かの兆しでもあればいいのに…って、そうじゃない。もう、あんな動く死体を見たいワケじゃないんだけど、これから先はうじゃうじゃいるって聞いているから、それは覚悟しなくちゃいけないんだよな。
 うう、オカルト物は本当に苦手なのに、どうしてこんなことになってしまったんだろう。
 そうだ、これは全部僕が悪いんだ。
 何でも卒なくこなして、誰からも愛される弟に嫉妬して、邪険に振り解いてしまったあの指先…もう一度握れるのなら、僕は何度だって握るし、どんなことだってしてみせる。
 そう決心して、この波埜神寄島に来たのに…弱音を吐くんだからどうしようもない。
 僕は駄目なヤツなんだ。

「くっれーな!さっきからどんより雲を背負ってんじゃねーよ。んなことしてたら、知ってるか?死霊鬼に魂を喰われた連中はそんな陰気さが大好物なんだぜ。うじゃうじゃ出てくるんじゃねーのか??」

 だって、そんなこと言ったって…僕は今更気付いてしまったんだ。
 もし、匡太郎を救ったら、翠祈、お前はどうなってしまうんだい?
 僕は…確かに弟も大切だ。でも、こうして何の見返りもなく手助けしてくれる翠祈を、もしかしたら、見殺しにしてしまうんじゃないかって不安で仕方ない、なんて、コイツに言っても笑われるだけなんだろうけど。
 うんざりしたように肩越しに振り返る翠祈がペロリと真っ赤な舌で下唇を舐めるその仕種を、下唇を突き出して胡乱な目付きで見上げる僕を、彼は大袈裟に溜め息を吐いて肩なんか竦めるんだ。
 でも、そこで僕はまたしても唐突にハッとしてしまうんだ。
 僕は、人のことなんか気にする性格じゃなかった。
 僕はとても冷たい人間で、いつも、陽気で明るくて誰にでも好かれる匡太郎に醜い嫉妬ばかりして、全部上出来の弟が悪いと思い込んで生きてきたような、最低な人間だった。はずなのに、こんな嫌味ばっかで、でも、確実に僕の願いを聞き届けてくれている翠祈を、匡太郎から優しさを取ったらこんな感じかなぁ…と、思えてしまう荒神を心配しているなんて。
 僕を知る人が見たら、きっとビックリしてしまうだろうな。

「…あの」

 思わず前を行く翠祈の服を掴んだから、頭をバリバリと掻いていた荒ぶる神様は、「なんだよ」と胡散臭そうな目付きをして見下ろしてきた。
 僕は、何を言おうとしたんだろう。
 翠祈、匡太郎の謎が解けてしまったら、お前はどうなるの?
 そんなこと、本気で聞こうとしたのかな。
 剣呑とした、匡太郎では今まで見たこともない冷やかな双眸は、まるで虫けらでも見るような翠祈の標準装備の目つきだから、もう慣れてしまった。
 慣れちゃったから、僕はその目を見詰め返して頭を振ることしかできない。

「ごめん、なんでもない」

「?」

 ああ?ヘンなヤツだなー、とでも思ったんだろうな、翠祈は肩を竦めるとそれ以上は何も言わなかった。
 でも、僕は…やっぱり、匡太郎も翠祈も心配だ。
 この島に来てからあまりに多くのことが起こりすぎたから、僕の頭は許容範囲を大幅に超えて、何が何だか判らなくなってしまったのかもしれない。
 僕はこんな性格じゃない…でも、ほんの少しでも、こんな性格が変われるのなら、僕は変わってみたいと思ってる。

「翠祈、やっぱりさ…ッ」

 服を掴んだ手はそのままで、紫魂の槍を杖替わりに歩いていた僕は、やっぱり意を決して口を開き掛けたんだけど、前方を睨みつけたままでサッと身を翻して僕の口を塞ぐと素早くしゃがみ込んでしまった翠祈に目を白黒させてしまった。
 な、何が起こったんだ?!

「見ろよ。御大将さまの御殿だ」

 ニヤッと嗤う翠祈の双眸は、スゥッと細められていて、これから始まるかもしれない阿鼻叫喚の地獄絵図を楽しみにしている…なんて顔をしてるんだ!
 それでなくてもオカルト物が大の苦手の僕なのに、翠祈のその顔付きにだって思わずガクガクブルブルしそうなのに、うぅ~、僕、本当に大丈夫かな。
 両手を祈るように組んで、情けないんだけど、思わず滝涙を零しそうな僕は翠祈の傍らで恐る恐る草の茂みからその先を覗いた。
 覗いて、思わず上がりそうになる悲鳴を必死で飲み込んだ。
 そんな僕を、翠祈は片方の眉を器用に上げて、やればできるなぐらいの気安さで鼻先で笑うんだから…酷いんだけど、今の僕は言い返す気力もない。
 だって…
 草の茂みから先は一段低くなっていて、さらに坂道のように続く窪地にあるその建物は、年代を物語る古さで、篝火の炎が作り出す陰影にゆらゆらと不気味に浮かび上がっていた。
 その周辺を、もう、形すら留めていない死体や蒸気のような靄、人間の形を留めていても腐り果てた皮膚が垂れる手に握り締めた日本刀は、どれも炎の光を受けて凶悪にギラギラと鈍く光っているんだ。

「すす…翠祈!どうしよう、武器とか持ってるよッッ」

 思わず片腕で翠祈の腕を掴んだ僕は、今見てしまった、信じられない光景に思わずどもりながら訴えたんだけど、荒ぶる神様である翠祈は、殊更気にした様子もなくニヤッと笑うんだ。
 どーして笑えるんだよ、こんな状況なのに!

「おもしれーじゃねーか。日本刀なんざ振り回してチャンバラごっこでも始めますか?数百年ぶりに腕が鳴るぜ」

 そんな犬歯が匡太郎にあったかな?と首を傾げる僕の前で、なんだか、ゾクゾクしてるような顔付きでニィッと犬歯を覗かせて嗤う翠祈の、その壮絶な表情に、目の前の不気味な死体が蠢く屋敷との相乗効果で、いよいよ僕は頭がクラクラしてきた。
 いや、倒れちゃダメだ。
 それどころじゃないんだから…自分に言い聞かせても、ペロリ…っと真っ赤な舌で下唇を舐める翠祈に、青褪めた顔をしたままで僕は口を開いていた。

「うん、期待してるから」

 今の僕に言えることなんかそれぐらいしかない。

 そんな僕に、翠祈は呆れたような顔をして見下ろしてくるんだけど…だってさ、翠祈みたいに荒神なんて言う存在だと、少々の不思議現象でもなんでもどんとこいで、平気でやってのけちゃいそうな雰囲気があるじゃないか。でも、僕は違うんだ、上出来の弟に嫉妬して、その弟を死なせちゃうぐらいには情けない人間でしかないんだから…
 言い募る僕の頭を抱えるようにして口を片手で塞ぎながら、翠祈は片時も陰惨で禍々しい雰囲気の渦巻く古びた館から目を逸らさずに、低い声でボソボソと呟いたんだ。

「あんたなぁ~、なんの為に壱太の妹に紫魂の槍を貰ったんだ?そりゃ、なんだ。ただの飾りの棒っきれかよ?」

 何もかも飲み込んで、人の恐怖ですら好物とでも言わんとばかりの、ゆっくりと襲い掛かる前の猛獣のような顔からは、どうしても想像できない軽口で僕を諌める翠祈に…うぅ~、判ってるんだよ。判ってるんだけど、一度自覚してしまった恐怖ってのはどうしても拭い去れるものじゃないし、それに、どう考えても槍と日本刀じゃ分が悪いのはこっちじゃないか?!

「それでなくても、剣道とかしたことがないんだ。ちゃんと戦えるか、不安に思っても仕方ないじゃないか」

 塞がれた口からじゃくぐもった声しか出せないけど、それでも必死に抵抗してみる。
 肩に凭れさせている紫魂の槍は物言わぬ影のようにひっそりとしていて、絶対に、勝てる自信がないって言い切れる自分が悲しくなってしまうよ。

「紫魂の槍とただの日本刀じゃ天と地よりも差があるって言っといてやるよ。さて、こんなところでグズグズ言ってても埒があかねーな」

 そう言うなり立ち上がった翠祈に腕を掴まれて、必然的に一緒に立ち上がらなくちゃいけなくなった僕なんだけど、もう、草の汁とか…言いたくはないんだけど、死人たちから付着したなんとも言えない異臭を放つ腐った体液だとかが付いてしまったスニーカーで、蹴るようにして歩き出す翠祈に連れられてワケも判らずに歩き出してしまった。

「ちょ、何処に行くんだよ?!」

「決まってんだろ?こんな時化た場所に時化たツラしたあんたといたって面白くもおかしくもねぇ。あの館の裏手に回るんだ。それで、入り込めそうな隙を見つけるのさ。判ったか?この間抜け」

 振り返りもせずに、真っ直ぐに前を見詰めたままで、グングン進む翠祈に腕を掴まれて、行き着く先に何が待っているのかは判らないけど…ひとつだけ、今の僕に判ることがある。
 それは、翠祈がいれば、やっぱり大丈夫なんじゃないかと言うこと。
 他力本願なこと考えているかもしれないんだけど、それでも、こうして匡太郎の面立ちをした、でも全く似ても似つかない雰囲気を纏った、強い腕の持ち主には不安の欠片もないんだ。
 その強い心が掴まれた腕から流れ込んでくるみたいで、僕は、何故かホッと安心してしまっていた。
 たとえ動く死人が居ても、魂だけになって無念に彷徨う幽霊がいたとしても…なんだか、翠祈なら鼻先で笑って、その全てを蹴散らしてくれそうな気がする。実際に鉢合わせすれば、本当にその現場を見ることになると思うんだけど、だから僕は、この翠祈と言う名の荒神を信じていた。

◇ ◆ ◇

 こんな風に強い腕に掴まれて真っ暗な山の中を歩いていると、不意に思い出す記憶がある。
 それは遠い昔、僕がまだ幼い時、家族で行ったキャンプ場の真夜中のトイレで、道に迷ってしまって遭難しそうになったときの記憶。
 あれはただの思い込みの幻だ…って、思い出す度に自嘲してたんだけど、どうしたんだろう?今日の僕はやけにリアルにあの時の記憶を思い出しているんだ。
 ハァハァと慣れない山道で上がってしまう息のリズムが、静かな闇に妙に響いて、僕の鼓膜を刺激しているから、ちょうどこんな風に途方に暮れて歩いていたあの日を思い出してしまうのかもしれない。
 とぼとぼと泣きながら歩く僕の前に、一匹の大きな真っ黒い犬がいた。
 その目は真っ赤で、僕は泣きながら腰が抜けてしまって、近付いてくる野犬から逃げることもできずに嫌々するように首を左右に振るので精一杯だった。
 声も出せない、そんな恐怖に、脆い幼い心はとっくの昔に限界だったのに…犬が。

『なに、泣いてんだよ。この間抜け』

 と言ったんだ。
 そう、その犬は喋ったんだ。
 常識的に…幼い僕にだって判ってた筈なのに、犬が喋るはずないって…でも、幼い僕はその素っ気無い無感情な声に救われて、あんなに怖くて仕方なかった大きな黒い犬に必死で抱きつきながらわーわー泣いてしまった。
 怖かった怖かった、そればかりが頭の中をグルグル回って、でも、犬はそんな僕を疎ましがって振り払う…なんてことはしなかった。仕方なさそうな、どうでもよさそうな、そんな無頓着さでしがみ付いてくる幼い人間の心が静まるまで、じっと待っていてくれた。

『来い、お前を人間どもの許に帰してやる。時化たツラしたガキのお守りなんざ、オレの趣味じゃねーんだがな。仕方ねぇ。泣かれるのはもっとうんざりだ』

 ブツブツと悪態を吐く、まるで山に棲む鬼か何かみたいに真っ黒で大きくて不気味な犬なのに、僕はホッと安心してしまって、この犬と一緒にいれば何も怖くない…とか、本気で信じ込んでしまっていたんだよな。
 何か、不思議な生き物であることは確かだったんだろうけど、それでもその犬は、僕が不安に落ち込んではしないかと、ピンッと尖った黒い耳を伏せるようにして、やんわりとした表情…ってのもヘンな話なんだけど、強面からは想像できない、ただの気を許している犬みたいな真っ赤な目をして僕の様子を伺っていた。
 子供心に僕は、この犬はそんなに邪悪な悪い犬じゃないと思っていた。そんな悪い犬なら、今頃僕は、犬のお腹の中にいるはずだもの…と、やわらかくてふかふかしている、でも剛毛な犬の背中を確り掴んで考えていたのを覚えている。
 グズグズ泣いている僕を叱咤しながら、山の麓を目指す黒い犬の背中は、僕を励ましてくれていた。

「ワンちゃん、ありがとう」

 だから僕は、グズグズ鼻を啜りながら、いつも母さんからちゃんと有難うって言えないといけないと教わっていたから、両親と弟の許に帰してくれようとしているその黒い犬に、心を込めて感謝の言葉を言ったんだ。
 すると犬は、ふとゆったり歩いていた足を止めて、不思議そうに見下ろす僕を大きな顔で見上げてきた。

『…ワンちゃんかよ。ちッ。礼なんざ言われる筋合いじゃねぇーよ』

「あのね、お母さんが。ちゃんとお礼を言いなさいっていうんだ」

『へー』

 どうでもいいことのように呟くのに犬は、その場にどっかりと腰を下ろして、何故か歩き出そうとしなかったんだ。だけど僕は、それをちっともおかしいことだとかは思わなくて、この大きな黒い犬は、そうか、僕の話を聞こうとしてくれてるんだとか…都合よく考えちゃったんだよなぁ。
 思い出したら、僕はなんてお目出度いんだろう。
 犬は、もしかしたらただ単に、ワンちゃんって呼ばれたことに腹を立てただけかもしれないって言うのに。

「でも、僕ね。ありがとうって言葉好きなんだ。だって、ありがとうって言ったら、みんな笑ってくれるんだよ。だから僕、嬉しくなるんだ」

 そう言ってニコッと笑ったら、大きな犬は鼻をピスピスさせて、真っ赤な…猫じゃないのにガラス玉みたいな目を細めて見上げてきた。

「だから、ワンちゃんもありがとう。すごく怖かったけど、ワンちゃんが一緒にいてくれるから、僕は何も怖くないよ」

 そう言って、僕はあたたかな大きな犬の身体を抱き締めていた。
 犬は身動ぐことも、厭うことも、振り払うこともせずに、抱かれることに甘んじているみたいだった。だから調子に乗ってしまった僕は身体を離すと、その犬の頭を撫でながら、額と額を摺り寄せながらそのガラス玉みたいな双眸を覗き込んだ。

「ワンちゃん、ありがとう」

 ニコッとそのままもう一度笑ったら、犬はちょっと呆れたような顔をしながらも、僕の顔をべろんっと長い舌で舐めたんだ。
 擽ったくて声を立てて笑っても、犬はじっと僕の顔を見ていた。
 あの犬が、そのとき何を感じて、何を思ったのか僕には判らない。
 でも僕は、その瞬間から、あの犬を好きになって、できればずっと一緒にいたいと思っていた。
 別れの時はあっと言う間に訪れてしまったけれど、でも、もっと傍に居たいと言って愚図る僕を、犬は頭で背中をグイグイ押しながら、約束どおり家族の許に帰してくれたんだっけ。
 あの頃はまだ弟に嫉妬することもなかったし、両親にも愛されていたから、家族の顔を見て一気に我慢していたものが溢れ出しちゃって、どうしたワケか、僕はすっかり犬の記憶をなくしてしまったんだ。
 あの黒くて大きな犬が、その後どうなったのか僕には判らない。
 ただ、いつもあの犬を思い出す度に寂しさが込み上げていた。
 もう、逢えないんだろうけど…あの犬に、また逢えたら…
 ふと、僕は忘れていた記憶を思い出して、こめかみの辺りに人差し指をあてて「ん?」と眉を寄せていた。
 ワンちゃんワンちゃんと言っていた僕に、黒い犬は苛々したように何か言った。
 あれ?何を言ったんだったっけ??

『ワンちゃんじゃねぇ!オレは…だ。何度言ったら判るんだ、この間抜けッ』

 なんだったろう?
 犬の声が頭の中に木霊するのに、肝心の部分が思い出せないなんて。
 なんだか、奥歯に物が挟まっているみたいな苛立たしさに眉を潜めたその時だった…不意に、頭の中にある、ガラスみたいなものでできているような何かが、パンッと音を立てて割れたような錯覚がした。錯覚がして何度か瞬きをしたら、あれほど思い出せなかった言葉が頭の中に鮮やかに甦ってきたんだ。
 そうだ、あの犬が言ったのは…

「…あれは」

 ポツリと呟いたら、翠祈は怪訝そうに一瞬肩越しに僕を見たみたいだったけど、ちょっと先は真っ暗な闇だから確認するのも苦労してしまう。
 だから、その背中を見詰めて、僕は呟いていた。
 片手に持つ、紫魂の槍の柄を握り締めて…僕の記憶違いじゃないのなら…もしかして。

「ワンちゃんは、お前だったんだね。翠祈」

 ふと、翠祈の歩調が緩まり、唐突にピタリと止まってしまった。

「は?ワンちゃんだと??何を言ってんだ」

 そう言いながらも、いつもなら小馬鹿にしたような目で僕を見下ろしてからかうくせに、翠祈はそうはしなかった。断固として前を向いたまま、頑なに素知らぬふりを決め込もうとしているんだ。

「ワンちゃんこそ、何度も僕は光太郎だよって言っても、絶対に間抜けって…そう呼び続けていたよね」

 懐かしくて、嬉しくて…あれほど逢いたいと思っていたあの犬は、そうか、翠祈がとり憑いて生かされていたただの犬だったんだ。でも、僕にとっては掛け替えのない、幸せな時間をくれた犬。

「翠祈は知ってるかい?僕、お前のおかげで動物を凄く好きになったんだ。だから、独りぼっちでも辛くなかったよ」

 両親の愛は、いつしかなんでもこなせる弟に期待を込めて向けられてしまって、僕はなんでも中途半端な凡人だったから、家の中でも外でも、いつも疎外感を感じていた。
 でもその度に、僕は色んな動物に励まされて、癒されて…こうして、生きることができたんだと思う。

「何も怖くなかったんだよ」

 ふと、翠祈は溜め息を吐いたみたいだった。
 匡太郎の持つやわらかな色素の薄い髪を掻き揚げるようにして、後ろ頭をバリバリ掻きながら、不貞腐れたように足許を見詰める翠祈は、それから唸るような声を出したんだ。

「…~ったく。オレはワンちゃんじゃねぇ。翠祈だって何度言ったら判るんだ、この間抜け」

 うん、この台詞だ。
 怖くて怖くて、情けないけど、死ぬほど怖かったあの山の中で、黒いあの大きな犬だけが僕の味方で、僕の傍から離れずに、ずっと一緒にいてくれた。失っていた記憶は時間が過ぎる毎に、少しずつ思い出していたから、嫌なことだとか、逃げ出したいことがある度に、僕は自分に言い聞かせていた。
 大丈夫、僕には黒い大きな犬がいる、って。
 だから、何も怖くないって思っていた。

「あの山を降りてからのあんたは、見るに耐えない変貌を遂げやがって。こんな根暗になりやがってさ、どれだけオレが…いや、なんでもねーよ。そんなのは昔話だ。今は壱太の件が優先なんだろ?」

 大きな溜め息をひとつ零してから、翠祈は漸く僕に振り返ってくれた。振り返って、ギョッとしたみたいだった。
 だって、僕は嬉しかったんだ。
 弟も死んで、生き返って、何がなんだか判らないまま、不安ばかりが襲っていて縋るものもなくて、僕はどうしていいのか判らなかった。こんな時に、あのワンちゃんが…いや、翠祈は戻ってきてくれたんだ。
 僕が手離してしまった、一番の友達は、まるであの頃のままの口の悪さで、今僕の目の前にいる。
 それが、堪らなく嬉しかった。
 だから、僕はあの頃のようにニコッと笑ったまま、ポロポロと泣いていた。

「翠祈、戻ってきてくれてありがとう」

 ビックリしたような顔をしていた翠祈は、それから、途端にムッとしたような顔をしたんだ。
そんな顔のまま、腕を伸ばして僕の後ろ頭を乱暴に掴むと、その胸に僕の泣き顔を押し付けてしまった。
 心臓の音は聞こえないけど…普通の人よりも体温も随分と低いんだけど、あの頃のワンちゃんのような温かさだった。
 もう、離れたくないよと言って、僕はギュッと服を掴んでポロポロと泣いていた。
 翠祈はあの時の真っ黒い大きな犬みたいに、何も言わずに、暫くそうして抱き締めてくれていたんだ。

死人返り 11  -死人遊戯-

 歩いても歩いても、同じようなところをぐるぐる回っているんじゃないかと錯覚してしまいそうな真っ暗な森の中で、僕はとうとう沙夜ちゃんから貰った槍を杖にして翠祈の後を追っていた。
 でも翠祈のヤツは、既にへたばっている僕なんかまるで無視して、疲れなんか感じてないんじゃないかって思うほど飄々としているんだから…いったいどんな身体をしてるんだろう?
 一息吐こうと空を見上げても、鬱蒼と生い茂る木々の間からだと星がチラチラと見えるぐらいで、船上から見たあの星空を見ることはできなかった。
 ああ、でも…あの時はこんな風に、この旅で匡太郎の秘密を知ることになるなんて思ってもいなかった。
 死人が甦るってだけでも、ホントは冗談だろ?って笑って逃げ出したいくらいなのに…はぁ、こんなこと考えても仕方ないか。
 僕はもう一度槍を杖代わりにして、それでもジッと待ってくれている翠祈の傍まで追いつこうとした。追い付こうとして、背後から聞き慣れない音がすることに気付いて振り向いてしまったんだ。
 ズッ、ズッ…と、何か重そうなものを引き摺るような音?
 だって!あんまりに色んなことが起こり過ぎたし、翠祈が目と鼻先にいたもんだからついつい、気を緩めていたってのは認めるけど、そんな立て続けに何かが起こるなんて思う方がどうかしているよ!!
 僕が振り返った先には…でも、別に何もなかった。
 なんだ、本当はバリバリに緊張しているせいで、きっと幻聴を聞いちゃったんだな…そう思って、僕は翠祈に振り返ろうとして何気なく下を見てしまった。
 そう、下を見てしまったんだ。
 ソレは、なんて言うか…ゴワゴワになった長い髪を引き摺りながらうつ伏せに倒れたままで、奇妙に捩れた腕の関節をぎこちなく動かしながら、地面を這うようにして近付いてきていたんだ。
 声も出ずに、口を開いたままで目を見開きながら呆然と立ち尽くしてしまった。
 だって僕に、いったい何ができたって言うんだ?
 地面に顔を擦り付けるようにして這って来るソレは、なまじ顔が見えない分だけ余計に恐ろしくて、土色と言うか、なんだか変な色に腐食してしまっている肌を持つ指先は黒くなっていて、1本1本の指にちゃんと爪がついているものなんてなかった。
 そんな風に冷静に観察できるのは…いや、こんな状況が僕にとって冷静だって言ってしまってもいいのだろうか。
 不意にガクガクッと膝が笑って、気付いたら僕は背後に倒れるようにしてへたり込んでしまっていた。

「あ。ああ…うわぁぁぁぁ!!」

 思わず叫んだ口許はすかさず大きな掌に覆われて、悲鳴はその掌に吸い込まれてしまった。それでも僕の絶叫に驚いた夜目の利かない鳥が、バッと飛び立って、下半身を引き摺るようにして近付いてきていたソレの動きがピタリと止まる。
 ギギギ…ッと、絶対にどうかしてる骨の軋む音を響かせながら、ソレが顔を上げようとして、僕はへたり込んだままで翠祈である匡太郎の身体にしがみ付いてしまった。
 逃げてるって思われても、僕はソレを見たくなかった。
 だって、なんだか見てはいけないもののような気がしてしまったんだ。
 それは翠祈だってそうだったんだけど…

「だぁ…れ…ヒュー…いる…の?」

 気管が潰れているのか、それとも拉げてしまっているのか、耳を覆いたくなるようなおぞましい声音で囁くように、そのくせ搾り出すような気味の悪い声が響いて、僕はますます匡太郎の胸に顔を押し付けてしまった。でも、すぐにその顔は引き剥がされて、気付いたら匡太郎の姿をしている翠祈が、なんとも言えない冷ややかな表情をしたままで、ソレの頭を思い切り蹴り飛ばしたんだ。
 悲鳴を上げる瞬間なんてなかったと思うぐらい、呆気なく蹴り飛ばされた頭は重い音を立ててゴロゴロと転がって行った。
 既に腐敗してしまった血液は吹き上がることもなく、ドロリ…ッとレバーのようなブヨブヨの何かが出てきたぐらいで、後は蠢く虫が這い出てきたぐらいだった。それを見ただけでも吐き気がするのに、翠祈は不貞腐れたようにジーパンのポケットに両手を突っ込んで、まるで近所にジュースでも買いに行くみたいな気安さでスタスタと歩いて行くと、長い髪が絡みつく頭を踏み潰してしまったんだ。
 それでも僕は、全身をビッショリと汗で濡らしたまま、何も言えずに目を見開いて凝視しているだけで、もうそれ以外の行動を起こせないでいたから、翠祈がスニーカーの踵についた何か得体の知れない物体を近くの石に擦り付けて落としていても膝が笑って立ち上がることさえ出来ないでいた。

「…ん?なんだ、このぐらいのことでもう萎えてんのか?確りしてくれよ、お兄ちゃん。先はまだまだ長いんだぜ?この次、死霊鬼に喰われた死体を見かけたら、今みたいに頭を蹴り飛ばしてやれ。それができないなら、その槍で頭を切り離してやれば起き上がることはもうないぜ。まあ、いつもオレが一緒にいるってワケじゃねーからなぁ」

「ええ!?…や、それは嫌だ。こんなところで僕を1人にする気なのか!?」

 恥も外聞もなく翠祈に縋り付いて、こんな所に1人で取り残されるぐらいならと、僕は思い切り哀願してしまった。でも、そのおかげで萎えていた足腰が立つようになって、それはそれでちょっとホッとしたんだけど…

「あれれ?お兄ちゃんはオレを助けてくれるんじゃなかったのかい?…おっと、それは匡太郎の方だったな。まあ、いいや。仕方ねーな、判ったよ。オレが守ってやるから引っ付くな」

 鬱陶しそうに眉を顰めてペロリと下唇を舐める、顔はまるで匡太郎のくせに!僕をウンザリしたように遠ざけながら翠祈は肩を竦めて座り込んでいる僕の腕を掴んで、信じられない力強さで持ち上げてくれた。その表現もちょっと嫌だけど、それでも何とか立ち上がれた僕を見た翠祈が、片方の唇の端を吊り上げて意地悪そうな笑みを浮かべると腕を組んで顔を覗きこんできた。

「それで?どうして欲しいんだ、お兄ちゃん。おテテでも繋いで欲しいワケ?」

 ムッと眉を寄せて、それでも近くで夜目も利かないくせに鳥なんかが飛び出したりするもんだから、僕は思わずまたしても悲鳴を上げて翠祈の魂を持つ匡太郎に抱き付いてしまった。

「わーお。抱き締めてて欲しいのか?」

 ニヤニヤ笑いながら言ってるってのがすぐに判ったんだけど、それでも怯えてしまっている僕はそんな翠祈から離れることもできないでいる。
 …こんなのは、ダメだ。
 そうだ、僕は今度こそ匡太郎の為に何かしようって決めたんじゃないか!こんなところでヘバッていたら、いつもの僕に逆戻りだ!!
 自分自身を叱咤して、僕は自分から匡太郎の胸元から顔を引き離したんだ。
 オヤッとしたように眉を上げる翠祈を無視して、僕は小刻みに震えながらギュッと眉を寄せて槍を掴み直した。そうだ、動く死体を見かけたら頭を切り離せばいいんだ。そしたら、もう動かなくなる。
 動かなくするには頭を切り離す…
 何かの呪文みたいにブツブツ言いながら僕が蒼褪めた顔をしたままで翠祈を見上げると、匡太郎の顔のままでヤツは尻上がりの口笛なんか吹いてみせるんだ!

「頑張るつもりですね、お兄ちゃん。まあ、無理してるのは見え見えだけどな…」

「煩いよ!いいから早く先に行こうッ」

 槍を振り回すようにして促す僕を翠祈はニヤーッと笑いながら見ていたけど、肩を竦めてそれ以上は藪を突くつもりはないらしく、さっき起こったことをまるで忘れてでもいるかのように普通に、本当に極普通にサッサと歩き出したんだ。
 僕はと言えば、どんな些細な小さな音にでもビクビクしながら、沙夜ちゃんに貰った槍を後生大事に両手で掴んで、歩き難い山道を翠祈の後を追って必死で歩き続けた。

◇ ◆ ◇

 山道は僕の想像なんか遥かに凌駕するぐらい険しくて、本当にこのまま歩き続けて沙夜ちゃんが言った『化け物の屋敷』なんかあるんだろうか…そんな風に僕が考え始めていたその時、不意に翠祈の足が止まった。
 訝しく思って眉を寄せていたら、ゆらりと立つ人影を翠祈がジッと見据えているのに気付いたんだ。
 青白い人影や、もう、遠い昔に腐敗してしまった誰かの亡骸や、悲しげな人魂…こんな夏の絶好のシチュエーションに、ただお化け屋敷で見せられたのなら半分興味本位で怖がるだけだけど、今はできるなら拝みたくなかった光景だと思う。
 半泣きで翠祈を見上げた時にはもうそこに姿はなくて、まるで敏捷で獰猛な猫科の野生の動物みたいな素早さで、翠祈は揺らいで立つ、生前は人間だったに違いないその亡骸の顎の辺りに拳を打ち付けていた。鈍い音がして、ゴリッと嫌な音を響かせた首が、思ったよりも脆く転げ落ちて、所在なさそうに身体が揺らぐと背後に倒れ込んでしまった。でも翠祈は、倒れてしまった死体にはもう興味を全くなくしてしまったようで、いや、そうじゃない。最初から行く手を阻む死体なんかには興味がないんだ。だから、顎を殴った後に横から襲い掛かってきた死体をすぐに蹴り倒して、表情もなくその頭を踏み潰すことができるんだろう…
 僕は槍を掴んだまま、さっき決意したこともスッカリ忘れてしまって、ヘタヘタとその場に座り込んでしまった。
 だってこの状況を、どうやって飲み込めばいいって言うんだ?
 不意に背後で気配がして、ハッとした時には遅かった。

「…ヒゥッ!…ッ」

 もう下半身は既に腐ってどこに行ったのか判らない、上半身だけの姿になった以前は人間だったモノが、枯れ木のように細い両手で僕の首を締め上げたんだ!
 ムッとする腐敗臭だけじゃなくて、恐るべき力強さで締め上げられる息苦しさに僕は生理的な涙を零しながら、それでも、掴んだ槍を逆手に構えて首を締め上げている腐乱したその頭部に突き刺したんだ。死体は一瞬何が起こったのか判らないと言ったような表情をして力を緩めたから、僕はその隙に逃げ出して槍の柄を掴むと思い切り横に振ってその首を?ぎ取った。
 もう、怖がっている場合じゃないんだ!!

「ギャァァァァァ…ッ」

 槍で貫かれた頭が凶悪な表情をして断末魔を上げると、驚くことに、まるで水分が蒸発してしまうかのように頭部はあっと言う間に消えてしまった。
 取り残された上半身は苦しそうにもがいていたけど、今度こそ本当に事切れてしまったのか、力なく倒れて、その亡骸はグズグズと燻って、まるで地面に吸い込まれるようにして溶けてしまったんだ。
 な、なんだったんだろう…
 翠祈が倒した死体は腐敗臭を撒き散らしながら亡骸を晒しているって言うのに、どうしてあの死体は消えてしまったんだろう?
 その時だった、尻上がりの口笛が静まり返った森に響いて、ドキッとした僕が振り返ったら翠祈が腕を組んだままでニヤニヤ笑っていたんだ。

「よく頑張ったじゃねーか。半ベソは大目に見て賞賛してやるよ」

 ムカッ。

「これは、首を絞められたから…ッ」

「へたり込んでるけどな」

 上半身を屈めるようにして屈み込んできた翠祈は、顔を覗き込んできながらそんなことを言うから、僕は二の句を告げられずにムッとするしかなかった。
 うー、ワラワラいた死霊鬼に魂を喰われてしまった動く死体を一体を除いて全部倒してくれた翠祈に比べたら、そりゃあ僕が倒した一体なんかは片腹痛い程度なんだろうけど…僕にしてみたらそれは凄い成長なんだぞ!…とか、翠祈に言ったところでまた、あの意地悪そうな顔でニヤニヤ笑うに決まってるんだ。
 あれ、でも…

「翠祈、ちょっと聞いてもいいかな?」

 初めての経験で強がっていても、やっぱりカタカタと震える指先の震えを止めることができずに、僕が少し上にある翠祈の顔を見上げて首を傾げたら、あんな風に冷酷な表情だってできる匡太郎の顔でニヤニヤ笑いながら眉をヒョイッと上げて見せたんだ。

「なんだ?」

「死霊鬼って…確か死体を食べるんだろ?でも、沙夜ちゃんは魂を食べられたって言ってたけど…」

「ああ…」

 なんだ、そんな下らないことかとでも思ったのか、翠祈は下唇をペロリと舐めると、肩を竦めて遣る瀬無いほどどうでもよさそうに説明してくれたんだ。
 クソー!

「死霊鬼と言う鬼は、食う死体と使役する死体を分けて使うんだ。迷惑なことに、あんたと違って狡賢いからな。人間ってのは死んでも49日間は魂がこの世に留まって死体の傍にあるのさ。もちろん荼毘にふされてもそんなワケだから、死霊鬼はその年の一番新しい死体を寄越させるんだろ?中には死んだばっかりの死体もあるからな、そんな連中の魂を喰らっては自在に動かせる兵隊にしていたんだろうよ。誰も足を踏み入れることもなく、連綿と受け継がれてきた風習だ。大方、使役されている死体はウジャウジャいるんじゃねーか?…魂を喰って永遠に地上に留める、実に恐ろしきは人の怨念ってヤツさ」

 いちいち気に障るような嫌味を言いながら説明してくれる翠祈を、キッと睨み付けながらそれでもなるほどと頷いた。でも、よくよく考えてみると首を傾げてしまうぞ?

「あれ、でもそうすると幽霊とかはいないってこと?」

 僕が首を傾げながら聞いてみると、翠祈は「はぁ?」とでも言いたそうな顔をしてから、それでもできる限り辛抱強く答えてくれたんだ…って、どうしてそんなにいちいち面倒臭そうにするかな~

「つまりだ、この間抜け。言わなかったか?49日間は魂は死体の傍にある。つまり49日を過ぎた後は悪霊になるヤツもいれば、あんたらが俗に言う幽霊ってのになるヤツもいる。運が良ければ逝くべき場所に逝けるヤツもいるワケだが、49日を過ぎた後は本人の意思に因るところとなるんだろ」

 ああ、そうなのかと漸く納得できた僕が頷いていると、翠祈は呆れたように溜め息を吐いて首筋を掻いている。翠祈が呆れるほど僕ってのは使い物にならないヤツ言いたいのか、この悪霊もどきの神様は。
 僕はムゥッとしながらも、もう1つどうしても気になっていたことがあったから、面倒臭いついでに教えて貰おうと思った。ふん。

「そっか、動いている死体が魂を食べられたからってことは判ったよ…あと、さっき倒した死体なんだけど。どうしたんだろう?煙みたいに消えてしまったんだけど」

「はは!そりゃ、当たり前だろ?何を言ってるんだ、あんたは。紫魂の槍に貫かれた亡者だ、漸く解放されてあの世に行けたってワケだろ」

「紫魂の槍?」

 僕が驚いたように目をパチクリさせると、翠祈は呆気に取られたような表情をしてマジマジと僕の顔を覗き込んでいたけど、ちょっと呆れたような顔で周囲を見渡した後、自分自身に何かを言い聞かせて、それに納得したのか、意味も判らずに呆然としている僕の前に本格的に腰を下ろして、見慣れた匡太郎の表情をして話し出したんだ。

「まず始めにだ。あんたは民俗学とやらのお偉い勉強をしていたけど、こう言ったオカルトには全く興味がなかったってワケだな?いや、いい。何も言わないでくれ。オカルトなんて言うのもどうかしてると思うがな、まあいいさ。死霊鬼のことはなんとなく判っただろ?じゃあ、国安の妹がくれた槍について話そう」

 何か言おうと口を開こうとする度に軽く睨まれて、僕は仕方なくムッツリと口を閉じた貝みたいに大人しく話を聞いておくことにした。
 だって、もし今回の件で匡太郎のことが判らなかったら、僕はずっと、匡太郎のために、そして自分自身のためにこの旅を続けて行くことになると思うから、オカルトがすっごい苦手だけど、ここは黙って聞いておいた方が賢い選択だと思う。うん、きっとそうだ。
 オカルトや心霊話を苦手に思ってたら、匡太郎や翠祈とこの先共存なんてできないと思う…

「あんたの持っているその槍は『紫魂の槍』と呼ばれる、神代の三種の神器の1つだ」

「え?だって三種の神器ってのは『八咫鏡(ヤタノカガミ)』と『草薙の剣』と『八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)』じゃなかったっけ?」

「それはあんたたち人間が勝手に定めたモノだろ?オレはそんなモン、聞いたこともないね。オレが神代の時代から伝え聞いた三種の神器ってのは、その槍と、『暁の御鏡』と『蒼の鈴』だ。こんなところに『紫魂の槍』が隠されてるなんて思いもしなかったがな…どうやら国安の家系は代々その槍を護る役目にあったようだな。あの時見せた家系図を覚えているか?」

 あの洞窟で見せてもらった、あの家系図なら覚えてる。
 僕は頷いて、いちいち説明するのも面倒くせぇと思っているのか、ちょっとウンザリしているような翠祈に話の続きを促した。

「俗に言う近親婚だった国安の家系は、この槍を長い年月守り抜かなければならなかったから、自然とそう言う形になっちまったんだろう。まあ、そんなこたどうでもいいんだが。ちょうど流人、今回暴れてやがる死霊鬼だな。ソイツが流れ着いた時にいた巫女が一番力が強かったんだろう。その紫魂の槍で死霊鬼をこの島に封じ込めた。つまり、紫魂の槍には浄化と封印の力があるんだ」

 ああ、そうか。
 それでなくても空腹と疲労で弱っていた流人は、この島に閉じ込められた時には既に虫の息だったのかもしれない。死んだ後に、彼が鬼になったことを、巫女だった国安の先祖はすぐに気付いてこの島に封印してしまった…って、きっとそう言うことなんだろうな。

「たぶん、あんたの考えていることは粗方当たってると思うぜ」

 僕の思考を読み取ったかのように、翠祈が顔を覗き込んできながらニヤッと笑った。
 真っ赤な舌でペロリと下唇を舐めて、何やら企んでいそうな笑みを浮かべる翠祈を、僕はちょっと嫌な予感を感じて眉を寄せたんだ。

「な、なんだよ、その目付きは。そりゃ、ちょっとは流人の人にも同情とかしちゃったけど…」

「構わんさ。人間なんて生き物はみんなそうだ。自分より劣っているものを見ては可哀相だと思って見下げながら優越感を感じる。いや、それは違うな」

 そう言って立てた人差し指を左右に振りながら、翠祈は尤もそうな顔付きをして先を続けるんだ。

「自分より劣っているものを見つけては、自分はまだ大丈夫だと言い聞かせるために可哀相だと思っている自分を装いながら、見下げてるんだよな」

「…翠祈、ずっと思ってたんだけど。根性捻くれてるよ?」

「普通、面と向かって言うかよ」

 率直な気持ちを直球で投げつけてしまった僕に、それでも翠祈は、別になんとでも言えとでも思っているんだろう、気に留めた風なんかこれっぽっちも見せずにニヤッと笑った。

「まあ、そう言うワケで。恐らくこの島の死霊鬼を退治するには、今後その槍が重要になってくると思うぜ。どうやら国安を連れて行きたがってるってこた、あの世に行く準備はできてるんだろう。さ、チャッチャと片付けちまおうぜ」

 そう言って話を切り上げた翠祈は立ち上がると、漸く落ち着きを取り戻した僕の指先を掴んでグイッと引き起こしてくれた。
 僕は面倒臭そうに歩き出した翠祈の後ろ姿を追い駆けながら、死霊鬼を退治して、国安を見つけ出したその先に、どうか匡太郎を救う術が見つかりますようにと祈っていた。
 そして、祈りながら…どうしてだろう、翠祈のことを考えていたんだ。
 匡太郎を救えたら、なんだかんだと言いながらも僕の起こす行動に付き合ってくれるこの翠祈は、いったいどうなってしまうんだろう。
 その時になって初めて、僕の心に不安が走った。
 まるで見透かすように、森を渡る生温い風が吹き去っていった。

死人返り 10  -死人遊戯-

 もと来た道を戻りながら、僕は必死で祈っていた。
 国安の妹の言った言葉が頭の中をグルグルと回って、それが何を意味しているのかなんてことは、頭の疎い僕じゃ判らないけど、それでも、なぜか国安が無事でありますようにと願っていたんだ。
 獣道を下った先に祠があって、僕はホッとした。
 たぶん、何事もないんだと思う。
 だってほら、社はあんなに明るくて…明るい、明るすぎないか?

「き、匡太郎!」

 僕が思わず弟の名を呼びながら翠祈を振り返ると、社を睨みつけるようにして立っていた弟の顔をした荒神は忌々しそうに舌打ちした。

「どうやら火がついてるようだな、面倒くせぇ。おおかた、国安の妹が死んだってのも不審火に因るものなんだろ?」

 僕に尋ねるようにチラリと見下ろしてきた翠祈の双眸は、どこかつまらなさそうな、虫けらでも見るような冷たいものだった。それが彼の癖なのか、僕には判らないけれど、そんなことを気にしている余裕なんか今はない。

「は、早く行かないとッ」

「無駄だ」

 不意に歩調を緩めた翠祈は、それから何かの気配を探るように周囲に耳を欹てて視線をぐるりと巡らせた。
 僕には何のことか判らないし、もし社で生きながら焼かれているのかもしれない国安を、そんなゾッとする想像に取り憑かれてしまう脳裏を首を激しく横に振って追い出しながら、僕は今も助けを求めているかもしれない親友の為に、サッサと歩き出す翠祈の腕を掴んで引き止めた。

「無駄ってどうして?そんなこと判らないじゃないか!翠祈にはどうでもいいことでも、僕にとっては大切な友人なんだッ。翠祈が行くって言うなら勝手に行ってもいいよ!僕は1人でも国安を助けに行くんだからッ!」

 掴んでいた腕を振り払って、感情が昂ぶってしまった僕は、こんなヤツを少しでも信用しようなんて思った自分の浅はかさを凄く後悔した。
 それで走り出そうとした僕の首根っこを引っ掴んだ翠祈は、慢性の偏頭痛でも抱えている人のように、こめかみを押さえながら睨み付けてきたんだ。

「あのな、お前はオレの話を何にも聞いちゃいなかったんだな?オレは言っただろ、この島には鬼が住んでいると」

「う、うん。それは聞いたけど…って、翠祈は僕にそんなに詳しく説明してくれてないじゃないかッ」

 もう、あんまり睨まれても負けなくなってくれた僕の心臓は、それでもバクバクしながらそんな翠祈の双眸を見据えて僕も言い返した。
 ちょっとキョトンとした翠祈の表情は、よく見慣れた匡太郎のそれで、僕は思わず懐かしくなってしまって泣きそうになった。もうこのまま、この翠祈ってヤツが弟の身体を乗っ取ってしまうんだろうか…ってそんなことを考えたら寂しくて仕方なくなったんだ。
 でも、僕のそんな気持ちには一向にお構い無しの翠祈は、僕の首根っこを引っ掴んだままで暫し考え込んでいたけど、説明するのも本当は面倒臭いって言いたそうな顔をして手を離して口を開いたんだ。

「この島に住んでいる死霊鬼ってのは死体を喰らう鬼なんだよ。だが、死霊鬼は怨念の塊みたいなヤツだからな、怨念となった魂の憎しみの在り処が死霊鬼に判れば、死体を喰らわずともその根源の生気を吸い続ければ生きていける。つまり、煉獄の炎に焼かれるような苦しみを味わいながら、死霊鬼の恨みの元はしっかり生かされ続けるのさ。これがまあ、俗に言う子々孫々まで恨むっつー成れの果てだな。あの文献を読む限りじゃ、死霊鬼の怨念は壱太の先祖にあるらしい。と言うことは、死霊鬼がそう容易く壱太を殺すはずがないだろう?もう、用のない社は必要ないのさ。これで判ったか、この間抜け」

 肩を竦める翠祈に、僕は鈍い頭をフル回転させながら考えてみた。
 つまり、壱太の先祖が犯した罪を、壱太の命で贖おうとしてるってことだよね…?

「そんなのダメだ!翠祈、どうしたらいいの!?」

 僕は思わず間抜け発言は無視して、翠祈の胸倉を掴むようにしてその顔を覗き込むと、弟の顔を持つ全く別人の翠祈は、そんな僕を見下ろしながら溜め息をついた。

「捜すしかねぇんじゃねーか?」

 至極当然な回答だけど、こんな広い島の中をどうやって捜せって言うんだよ!?
 僕は泣き出しそうになって…ああ、こんなときでもこの僕は、なんて役に立たないダメなヤツなんだろう。ずっと影ながら助けてくれた国安を助けてあげることもできず、弟の謎を究明することだって、良く考えたらまるで他人任せでここまで来たんじゃないか。
 僕は…

「落ち込むのはいいが、オレはサッサと蹴りをつけたいんでね。置いて行くけど知らねーぞ」

 どんどんドツボにはまっていく僕を、いつものように虫けらでも見るような目つきで見下ろしたあと、翠祈はウンザリしたように下唇を真っ赤な舌でペロリと舐めて歩き出した。

「あ、あ…ちょ、ちょっと待ってよ!僕も行くよッ」

 慌ててその後を追い駆けたら…

「あれ、ついて来るんですか?勇ましく壱太くんを1人で助けに行くんじゃないんですか?」

 なんて、笑い出したいのを堪えているような双眸をした翠祈は、フフンッと鼻先で笑ってからそんな嫌味なことを言ってさっさと歩き出してしまう。ムゥッと頬を膨らませて睨んでも、もちろん気にもしていない翠祈にいったい、どんな効力が出るかは判らないけど、その時の僕はそうしないと気が済まなかったんだ。

「…まあ、あの。今年の『御霊送り』ってヤツか?それの為に選ばれていた死体が動いていた時点で、ちょっとヤバイ事になったかなーとは思ったんだけどな」

 クックックッと楽しそうに笑いながら下唇を舐める翠祈を、見上げていた僕はちょっとゾッとしてしまったけど、それよりもそんな時から判っていたのならもっと早く言ってくれれば良かったのにと悪態を吐いた。そしたら翠祈は、馬鹿にしたような目付きでそんな僕を見下ろすと、肩を竦めて鼻先で笑ったんだ。

「文献読まなけりゃ、オレの存在ですら疑ってたヤツがよくそんな口が叩けるな」

「あれは!…あれは不可抗力だよ。死んだ弟が生き返ったってだけでもビックリしてるのに、突然別の人物がその身体の中に共存してるなんて聞いたら、誰だって信じられないって思うに決まってるよ」

「へぇ、そんなもんかよ?まあ、いいがな。しかし、こうも手掛かりがねぇと打つ手がねーな…特徴的な氣でも掴めれば話は別なんだが」

 出鱈目に山の中に分け入ってるだけなのかと思っていたら、どうも翠祈は、確たる自信を持って突き進んでいたようだった。でも、その思いに翳りが見えたのか、ピタリと足を止めた翠祈は周囲を見渡し、それから木々の隙間から覗く星空を仰いでいる。

「氣?」

「ここは淀んでいるからな、長い歴史が培った凶悪な気配がプンプンしてる。その中から死霊鬼の氣を掴もうなんざ、砂漠の砂の中から1ミリ前後の砂粒を見つけようってなモンだ。ムリムリ」

 ふざけてるのか真剣なのか、いまいち読み取れない表情で溜め息を吐く翠祈の傍らで、困ったなと眉を寄せた僕がふと視線を彷徨わせた先に、つい先程見掛けた白い着物が森の中をふわりと走って行った。

「す、翠祈!」

「ん?幽霊でも見たか?」

「うん、幽霊を見た!こっちだよッ」

 頷いて走り出す僕に呆気に取られたような顔をした翠祈は、それでも下唇をペロリと舐めると、仕方なさそうに後を追って走ってついて来ているようだった。
 でも今の僕にはそんなことよりも、目の端にふわりふわりと、まるで僕たちを誘うように見え隠れする真っ白な着物から目が離せないでいたんだ。
 国安の、あの寂しそうな目をした妹が着ていた純白の着物。
 こんな淀んだ島の雰囲気の中にあってもそれは、まるで穢れることなく凛としていた。
 なんにでも首を突っ込みたがる長兄を心配して出てきてしまったんだろう、国安の妹は、彼女のできることをしてくれようとしているに違いないんだ。僕はその合図を見逃すわけにはいかない。
 彼女は確かに言ったのに。

(お兄ちゃんだけは絶対に来てはいけない島なの…ここに棲みついているアイツは)

 アイツは死霊鬼で、国安の魂を食い物にしようとしていたんだよね?
 早く気付いてあげられたらよかったのに…僕が、国安をこんなことに巻き込んでしまった。

『ううん、それは違うよ。お兄さんは導かれただけ…』

「え?」

 思わず立ち止まってしまった僕の後ろで、ゆっくりと歩調を緩めた翠祈がぼんやりと浮かぶ少女の魂を見つめていたが、何も言わずに肩を竦めて見せた。

『この島に棲みつく死霊鬼は、解放されたがっているの…私ではダメだった。アイツはお兄ちゃんの魂を欲しがっているから…』

 思わず傍らに並んだ翠祈を見上げると、彼はまるで何もかも悟っているような顔をして、そのくせ、それらには全く興味がないんだがなぁと言いたそうなうんざりした顔をしている。

「100年以上も前の色恋沙汰に、オレたちを巻き込むなと言ってやれ」

 邪悪な笑みを浮かべて言い放つ翠祈に、不意にビクッとした沙夜ちゃんの魂は、それでも何かを感じたのかその場から動かないままで頭を下げたんだ。

『私には見えないけれど、そこにお兄さん以外の誰かがいるのね?だったらお願い、私にも見えないような人だもの。貴方ならきっとお兄ちゃんを助けることができると思うわ。お願いだからお兄ちゃんを助けて…』

 悲痛な叫びのようなか細い声で呟く少女を、でも無視した翠祈は少し屈むようにして僕の耳元に唇を寄せながらニヤニヤと笑ったんだ。

「お前よりもオレを頼りにしてるみたいだぜ?残念だな」

「煩いよ!そんなことはどうだっていいんだ。どうせ僕にできることなんてそんなにないって判ってるから、沙夜ちゃんの願いを聞いてあげてよ」

 ムッとしてその顔を覗き込みながら言うと、翠祈はどうしようかな?っとでも言いたそうに視線を彷徨わせてから、下唇をペロリと舐めてニッと笑ったんだ。

「お願いとあらば仕方がねーな。その代わり、オレは匡太郎とは違って見返りを戴くからな」

「ええ!?み、見返り?そんなの僕…」

 持ってないよと言いそうになって、鼻先で笑っている翠祈から鼻の頭を指先で弾かれてしまった。
 意地の悪そうな微笑を浮かべて…って、あれ?からかわれただけなのかな??
 釈然としない気持ちでムッとしながら翠祈を見上げていると、彼はそんな僕をやっぱりまるで無視して、腕を組んで沙夜ちゃんの魂に言ったんだ。

「壱太はどこにいるんだ?」

 その瞬間、沙夜ちゃんの顔は忌まわしいものでも見たような、腹立たしいような、なんとも言えない恐ろしい顔をしてスゥッと音もなく森の奥深くを指差した。

『化け物の屋敷にいるの。死霊鬼に魂を喰われてしまった、動く死体がたくさんいるから注意してね』

「うん、判った」

 本当はちっとも判っていないし、あんな国安の友達の姉さんみたいな死体がたくさんいるところなんか、足が竦んで行く気なんか全くしないのに、それでも僕は頷いていた。
 だって沙夜ちゃんは、そんな恐ろしい形相に成り果てていても、涙をぽろぽろ零していたから…そんな風に、死んでしまってもなお君を哀しませてしまったのは、誰でもないこの僕だから。
 国安を引っ張り込んでしまったのはこの僕だから、そうだ、翠祈にばかり頼っていちゃダメなんだ。
 事の発端は僕が起こしてしまったんだから、最後まで僕がやり遂げないと…
 そんな僕の心の内が判ったかのように、不意に翠祈が声もなく嗤ったんだ。
 さもおかしそうに、ニヤニヤと。

「な、なんだよ」

 ムッとして言ったら。

「別に?だがまあ、あんまり無茶はするんじゃねーぞ。オレが迷惑だからな」

 ニヤッと嗤って嫌味を言って、そんな風に茶化しながら、僕の気持ちを静めてくれてるんだろうか…?
 僕が思っているよりも本当は、この翠祈は優しい人なのかもしれない。
 だって、神様なんだものね。

「ホント、マジで頼んますわ。できればあの船の中で、終わるまでくたばっててくれた方がありがてーんだけどな」

 心底嫌そうに呟いた翠祈が、盛大に溜め息なんか吐いてくれるから…
 僕は笑顔で前言撤回。
 少しでも優しいなんて思った僕が馬鹿だった!
 ええいッ、今度こそ本当に翠祈なんかに頼らずに自分で何とかしてやるんだ!
 ムッとして両拳を握り締めていると、ぼんやりと立ち竦んでいる沙夜ちゃんの魂が目に映って僕はハッとしてしまった。ど、どうしよう、恥ずかしいところを見られちゃったな。
 こんな連中だと頼りないって、沙夜ちゃんが思っていなければいいんだけど…
 そんな風に思っていたら、沙夜ちゃんが、あの恐ろしいまでに歪んだ形相を浮かべていた沙夜ちゃんが、不意に元通りの柔らかな表情に戻ってフッと微笑んだんだ。
 あんなに憎しみに歪んでいたあの形相が…

『お兄さん達になら安心してお願いできるね…ありがとう。もう、私には時間がないから…』

 呟いて消えそうになる沙夜ちゃんの魂は、それでも不意にその場からスゥッと音もなく動いて僕に近付いてくると、抱き締めるようにして擦り抜けて行ってしまった。
 何か言おうと口を開きかけた瞬間、不意に掌に何かがあることに気付いて改めて両手を見たら、耳元で沙夜ちゃんの掠れかけた声が呟いた。

『もう、私が持っていても意味がないから…お兄さんにあげるね……』

 翠祈が僕の手を覗き込んで、からかうような尻上がりの口笛を吹いた。

「よかったな、いいもの貰ったじゃねーか」

 ニッコリと笑ったような沙夜ちゃんの魂は、いつもはスッと消えてしまうのに、空に吸い込まれるようにしてこの森から、ううん、この島から…いや、この世の全てからとうとうその気配を消してしまった。

「国安にせめて一目でも逢わせてあげたかったのに…」

 僕が、沙夜ちゃんから貰った忘れ形見をジッと見下ろして呟いたら、翠祈は双眸の上で片手を翳すようにして星空を見上げながら軽い口調で言ったんだ。

「見られて嬉しい姿がどんなモンか、まずは考えてから口を開くんだな。この間抜け」

「う?わ、判ってるってば!煩いな、翠祈はッ」

 匡太郎の姿をした風変わりな荒神と言う名の神さまは、クックックッと意地悪そうに咽喉の奥で笑ってから、きっと、凄く怖いことが待ち受けているに違いない山奥の、村人達が長い時をかけても忘れられないでいる化け物の住処へと歩き出したんだ。
 飄々と、まるで怖れるべきものなどこの世にはないと言った感じで…
 翠祈をこんなことに巻き込んでしまったのも、やっぱり僕のせいなんだと思う。
 でも、翠祈はあんなに嫌味だとか、意地の悪いことしか言わなくても、それで僕を責めたことは…驚くことに一度もないんだ。
 それは匡太郎の心なのか、翠祈の心なのか…

「翠祈、待ってよ!」

 僕は沙夜ちゃんから貰った奇妙な槍の柄を握り締めて、翠祈の後を追い駆けた。

死人返り 9  -死人遊戯-

「あ、アラガミ?」

 僕が呆然として呟くと、荒神だと名乗った匡太郎は上体を起こしながら腕を組んでフンッと鼻先で笑った。

「あんたたち人間はなんて言うんだ?悪霊?怨霊…か?まあ、なんにせよどれも人間が勝手に創りだした呼び名なんだがな」

 荒神は酷く素っ気無く言い放つと、腕を解いて呆気に取られてどんな顔をしていいのか判らないでいる僕の腕を掴むと、半ば強引に引っ張り上げたんだ!
 生き返った匡太郎は力が強くなったとは思っていたんだけど、なんと言うか、その倍以上は荒神の方が力強いような気がするのは僕の気のせいなのかな…?
 グイッと引っ張り起こされて、それでもよろけてしまうのは首を締められたせいだろうけど…酸素不足になってしまったのかな。もう、何がどうなったのか、考えるのが辛いんだ。
 ふらついて、そのまま荒神の…ううん、匡太郎に凭れるようにして身体を預けた僕を、どんな顔をして見下ろしているのかなんて気にもならなかった。
 そんなことよりも僕は、地面に打ち捨てられたようにして転がっている遺体が気になって凝視していたんだ。
 この遺体は…国安の幼馴染みの姉さんだろう。
 島に来る時の連絡船の中で、国安は彼にしては珍しく神妙な表情をして僕たちに打明けた。

『今年の御霊は幼馴染みの姉貴でさ。惚れた男に捨てられて、そのショックで流産した挙句精神をやっちまってな。狂ったままで自殺したんだ』

 首を吊ってと国安は言っていた。
 僕の首を憎々しげに締め付けてきたか細い腕の女は、首が奇妙な感じに伸びて曲がっていた。
 あれは…あれはきっと首を吊って死んでしまった人の姿だ。
 カタカタと震えながら匡太郎に縋りつく僕の肩を、無言のままで弟は抱き寄せてくれた。
 死んでしまっているとは言え、確かに実体として存在する匡太郎も彼女と同じだと言うのに、安心して小刻みに震える唇を噛み締めて落ち着くことができた。
 でも、この身体には2人の匡太郎がいて…違う、1つの身体に2人の人物が共存しているって言うんだ。凡才でしかないこの僕が、どうしてこんな異常な事態をすんなりと飲み込めるだなんて思ってしまえるのだろう、この荒神と言う僕の知らない人格は。
 死体が勝手に動いてる事実は、匡太郎の存在でなんとなく、大幅に譲歩して信じてみる気にはなったけど…

「オレは悪霊だとか、そんな類かもしれないし違うかもしれない。それを決めるのはあんたなんだぜ、光太郎」

「…」

 僕が震える瞼を押し開きながら匡太郎の瞳を見上げると、その強い光を宿した双眸は澄んでいて、初めて見る表情に戸惑ってしまった。

「ぼ、僕は…」

 言いかけた言葉がなんだったのか…腐敗臭の漂うこの場所で、僕の脳味噌は酔っ払った時のようにハッキリとしない。僕は…?
 僕は何を言おうとしたのだろう。

「まあ、今はそんなことよりも壱太のヤツを見つけて、この島から出る方法を考えないとな」

「え?」

 もう、思考能力の追いつかない僕が訝しく眉を寄せて見上げても、匡太郎の顔をした荒神は、弟とは似ても似つかないような邪悪な顔をして笑ったんだ。

「とんでもない島に迷い込んじまったぜ、全く」

 肩を竦める荒神に抱き締められるようにされている事実に気付かないまま、僕はキョトンとして、馬鹿みたいに惚けたままでそんな大人の顔をした匡太郎を見上げていた。
 匡太郎は荒神なのか、荒神がもともと匡太郎なのか…僕にとって重要なのは、こんな島よりもそのことなのに。

「文献を幾つか覗いたんだけどよ、どれもこれも1つの話題ばかりだ。まあいい、来いよ。あんたにも見せてやる」

 面倒臭そうにそう言い放った荒神は、竦んで怯えてしまっている僕の腕を引っ張って歩き出したんだけど…懐中電灯をどこかに忘れてきたのか、明かりのない山道は少し先はもう闇で、そんな中を真っ直ぐに進んでいる匡太郎が、確かに人間ではないのかもしれないと思っていた。
 見上げても、薄ぼんやりと見える横顔は酷く大人びていて、僕の知らないもう1つの匡太郎の顔がある。心許無い不安を抱き締めながら、僕はそんな匡太郎に導かれるままに山道を進んでいた。
 …昔、僕はこんな経験をしたことがあるような気がする。
 あれは、なんだったんだろう?
 もう、随分と前の話だから、どんな経緯でそうなったのかとかは覚えていないんだけど…確か僕は、こんな風に夜の山で遭難したことがあった。その時は夏で、キャンプに行っていて、トイレだと言って起きた小さな弟について山道に入ったのはいいんだけど…僕は、なぜか僕だけが道に迷っちゃったんだよな。
 弟はお兄ちゃんがいなくなったって言って、泣いて両親の許に帰っていたらしいんだけど、僕は、翌日ケロッとした顔をしてテントに戻ってきていたらしい。
 その間の記憶がとても曖昧で、どうやってテントに戻ったのか、実はあんまり覚えていなかった。
 両親も捜索にあたってくれた人たちも、みんながその不思議を聞いてきたけど、何も覚えていない僕は不安で泣いてしまったんだ。
 でも。
 でも、こんな風に誰かに腕を掴まれて導かれていると、無性にあの山を思い出す。
 正確にはあの山での出来事を…
 僕は誰かに導かれていた。
 あの時も、僕は確かに誰かと一緒に暗くて先の見えない、まるで迷路みたいな山道を、柔らかな感触に導かれて山の中を彷徨っていたんだ。
 あの感触が…いったいなんだったのか、未だに思い出せない。
 あれは、あの感触は…

「匡太郎…?」

 思わず呟いて、ハッとした。
 聞いてどうなるものでもないのに…僕は、なぜかあの時の柔らかな感触は、この荒神なのではないかなんて、馬鹿みたいに考えてしまっていた。
 でも、匡太郎の内に入り込んでしまっている…悪霊になるのかな?荒神は振り返りもせずにズンズンと険しい山道を事も無げに突き進んでいく。天晴れなほど堂々としたその後ろ姿には却って安心すら覚えてしまうから…全く僕ってヤツは。
 そうして強引に腕を引っ張られながら辿り着いた先は、深淵…ではなくて、蝋燭の明かりらしきものの揺らめく炎で内部が明るくなっている洞窟が口を開いていた。

「匡太郎がここに火を灯したのかい?」

「いいや、アイツじゃない。もともと、この島に着いた時に入れ替わってたしな」

「ええ!?」

 てっきり、匡太郎はこの祠で何か性質の悪いモノにとり憑かれてしまったんだろうとばかり思っていた僕は、思わず目を見開いてそんな平然としている荒神を見上げたんだ。彼は、そんな風に驚く僕を尻目にさらに洞窟の奥に僕を導いた。

「驚くのはまだ早いぜ。この島には鬼が棲みついてるんだよ。憑黄泉伝説?はは、そんな話があるのかよ?全く笑わせてくれるな、人間てのは。この島に棲みついたのは神でも仏でもない、ただの死霊鬼と呼ばれる鬼さ」

 肩を竦める匡太郎に僕はなんだか、まるでよくできた冗談でも聞かされたような気がして、思わず吹き出してしまったんだ。

「鬼なんてこの世にはいないよ」

 怖いのは人間だって…お前、言ってたじゃないか。
 僕が心霊番組で怯えていた時に、まるで馬鹿にしたように鼻先で笑いながら、匡太郎は確かにそんなことを口にした。その匡太郎の顔で、鬼なんて言われてもいまいち信じることなんてできないのは仕方ないと思うんだけど…

「そうだな。もともとは人間が持つ欲が生み出した幻にすぎない。だが、一度実体を持ってしまった欲と言う願望は手がつけられない鬼になるんだ。もう、あんまり遠い昔すぎて、人間は忘れちまってるかもしれねーけどな」

 匡太郎の顔をした荒神は、別に怒るでもなく、ましてや気分を悪くしたような素振りを見せるでもなく肩を竦めるだけで、洞窟の奥、高く積み上げられている葛篭のような箱の蓋を持ち上げて中を覗き込んだんだ。
 でも、そんな風に平然とした顔で言われてしまうと、なんだか、あまりにも馬鹿げている御伽噺のような話でも、不思議と信じてしまいそうになるのは…きっと、死んだはずの匡太郎が生きていたこと、その身体には匡太郎のほかに荒神と言う憑依霊がとり憑いていること、死んでいた国安の友達の姉さんが動いていたこと、そしてあの少女の幽霊…そんな出来事が一度に起こってしまったから頭が追いつかなくって、もうなんでも信じてしまいたい気分になっているだけなんだと自分に言い聞かせてみたりした。
 でも、やっぱりちょっと、まるで雲を掴むような話には眉が寄ってしまう。

「…ええっと、それってやっぱり平安時代にあった陰陽師だとか、そう言った類の話なのかな?」

 理解していない仕種が馬鹿にしたとでも思ったのか、ムッとしたように葛篭から顔を上げた荒神は、ペロリと紅い舌先で唇を舐めると、小馬鹿にしたような意地悪そうな顔をしてフンッと鼻先で笑ったんだ。

「さてね?そもそも人間なんてのは、どうとでもなっちまう生き物さ。これは鬼火でございます、と言われて蝋燭を指差されてもそうなのかと信じるだろうし、違うと言われればそう信じる。そのくせ、個性のない生き物のくせに、ヘンなところでは意固地になっちまうってのも人間らしき所以ってヤツだ。だから言ってるだろ?全てはあんた次第だってな」

 まるで取り合ってくれてるようで、その実は冷静に突き放しているような物言いにはやっぱり、温厚だって勘違いされがちな気弱なこの僕でも、ちょっとムッとしてしまう。

「純粋に判らないんだけどな!なんでも知ってる荒神と違って、僕はただの平凡な人間だからね!」

 腰に手を当ててムッとしたまま眉を寄せて唇を尖らせると、荒神のヤツはちょっとポカンとして、それから何がおかしかったのかクックックッと咽喉の奥で笑うんだ。もう、ますますムカツクんだけど!

「平凡ねぇ…非凡なのは生き返った弟の方であって、あんたってワケじゃねーもんな。まあ、いいさ。ちなみにだ、平凡な光太郎くん。オレは確かに荒神の一族ではあるが名前までそうってワケじゃない。翠祈と言う。覚えとけ」

「スイキ?」

 荒神は頷くでもなくそれに応えるでもなく、結局僕と、僕の質問をまるで無視して文献を幾つか取り出したんだ。
 …でも、ハッキリ言って全く良く判らない。
 説明もないし、こうなったからこの現状を受け入れろなんて…荒神である翠祈の方がまるで人間みたいなことをしてるじゃないか。
 それまで、本当にただ怖いだけでビクビクしていたんだけど、僕は少し強い気持ちで翠祈と向き合うことができるような気になったんだ。だって、あんまりにも彼が人間っぽいし、怖いと思うのは匡太郎の顔をして匡太郎とは全く違う性格だってだけで…
 どんな人なのか、判らないことが恐怖ってだけだった。それは今も変わりはないんだけど…

「どう言うことなのか、ちゃんと説明してくれないと判らないよ」

 幾つかの文献を選んでいた翠祈は顔を上げると、困惑したように眉を寄せてる僕を暫くじっと見つめてきた。その、匡太郎の色素の薄い茶色がかった瞳が一瞬だったけど、エメラルドのようにキラリと光って僕はドキッとしてしまう。

「それは…まあ、そうかもしれん。だが、そう言うことはオレじゃない。匡太郎に聞くといい。コイツはコイツで、オレに何か言われるんじゃねぇかってハラハラしてるみてーだからな」

 クックックッと、楽しそうに意地悪く笑った翠祈は、たぶん、学術的には結構重要だと思えるほど古い、手にしていた文献を事も無げにポンッと軽く放ってきたんだ。僕は慌ててそれを両手で受け止めた。

「だ、大事に扱わないと!」

「義理堅いヤツだ」

 肩を竦める翠祈に僕はムッとして、こんなヤツが匡太郎の人格であるはずがない!…と、心の底からそう思えた。兄である僕が見間違えるはずなんかない、コイツは確かに、匡太郎じゃない。

「こんな性格で悪かったね!って、これ…」

 フンッと鼻で息をついて、僕は投げ渡された文献に目を落とした。視線を落として、眉が寄った。
 黴臭い本特有の独特な匂いが鼻を突いたけど、そこには幾つかの何某かの文様や図式、草書体で綴られた文章が並んでいた。

「家系図さ」

 翠祈は腕を組むと、眉を寄せている僕を見てペロリと下唇を舐めたんだ。

「うん。この家系図によると、国安家の一族って言うのは…」

 言葉にしてしまうには憚られる、現代の日本では禁忌の…

「ちょうど今から数百年前、神寄憑島に島流しの途中にでも遭難したんだろう、流れ者が漂着したようだな。ここに住んでいた国安の先祖は、その流れ者を『憑黄泉』と呼んでこの島、つまりこの波埜神寄島に歓迎した…ってのはあくまでも表向きの言い訳で、その流れ者をこの島に閉じ込めたんだろう。喰うものもない流人がこんな寂れた島でどうなったのか、想像しなくても判るだろ?」

 翠祈は岩肌を晒す壁に凭れて腕を組みながら、息を飲んで文献を凝視する僕を見つめながらどうでもいいことのようにそう言った。でも、確かに翠祈にしてみたら、こんな小さな島に細々と息衝いている村で数百年も前に起こった出来事が脈々と受け継がれていることなんかどうでもいいことなんだろうけど…僕にとってこの文献の内容は、とても重要なことなんだ。
 国安の先祖は…そうだったのか。
 だからあの小さな妹は、悲しい魂だけになっても兄の身の上を心配したんだろう。
 急がないと!

「匡太郎…じゃなかった、翠祈!僕の力になってくれないかい?」

 翠祈が何者かなんて、今の僕には理解なんかとてもできていない。
 そもそも、荒神ってのがどんな存在なのかってことも、もう全然判らない。だったら、僕は…
 いつだって悪い方向ばかりに考えていた。
 匡太郎はそんな僕を、何が楽しくて生きているのか判らないと首を傾げていた…それぐらい、僕は楽しく生きてきた思い出なんてない。いつも悪い方向にばかり考えて、ハラハラしながら生きていくのが辛いと思っていたんだ。
 だから、一度ぐらいは信じてみたり、いい方向に考えてみてもいいんじゃないかって思う。
 僕は、匡太郎の姿をした目の前のとても不思議な存在を、僕なりの強い眼差しでたぶん必死に見詰めていた。
 そんな僕を、祠に吹き込んでくる温い風にさらりとした前髪を揺らして見詰め返していた翠祈は、口許にゾッとするほどクリアな微笑を浮かべて、ペロリと紅い舌先で下唇を舐めたんだ。

「そうこなくっちゃ、お兄様。いつだって運が味方してるなんて思わないこった」

 文献なんかを真剣に信じるつもりなんかなかったけど、目の前の翠祈と、あの動く死体、そして少女の物悲しげな魂を見てしまった僕は、信じるなと言われて信じないでいられるほど心臓にそんな剛毛は生えていない。
 なるほど、翠祈の言う通り。
 全ては僕次第なんだ。
 人間らしく生きなくちゃと思う。

死人返り 8  -死人遊戯-

 重い音を立ててゴトリと木製の古めかしい棺桶が社の床に置かれた。
 古い建物はどこか黴臭くて、閉鎖された島の憂鬱さを浮き彫りにして象徴しているような社だった。でも、社と言うには神社っぽくもお寺っぽくもなくて…なんて言うのかな?なんだか祭壇のように思えてしまうのは僕の勝手な妄想なのかもしれないけど…と言うのも、僕たちが来るずっと前から、確か一ヶ月ぐらい前だって言ってたような気がするんだけど…そんな前から村の人たちはこの『御霊送り』の準備をしていたらしいんだ。
 篝火が左右にずらっと並んでゆらりと揺れる山の道を歩いて行くと、やっぱり、まるで電気なんか全くない、昔に戻ったかのような古びた建物が炎に照らされて木とか雑草が鬱蒼と生い茂る山の麓にポツンと建っている。そんな光景はどこか物寂しげで忘れ去られているようで…そのくせ存在感があるもんだから恐怖心を嫌でも煽り立ててくれるからたまらない。
 なんてことを考えている間にも、匡太郎と国安は一息つきながら次の段階を話し合っている。
 そんな時でもやっぱり僕は蚊帳の外で、なんだかとても疎外感を感じてしまって…と言うよりも、いったいここにいる僕の価値ってなんなんだろうと悩んでしまうよ。

「これは、古いんだがこの島の地図だ。俺が知る限りだと、この社の裏の道を…今じゃもう、獣道になってるんだけどな。そこを真っ直ぐに行けばすぐに祠に出るはずなんだ」

「はずってのが心配なんだけどな」

 ムスッとして無理やり会話に参加する僕を、国安は呆れたように見たけど、匡太郎はちょっと困ったような顔をして小さく笑った。
 …ほら、まただ。
 また、匡太郎はとても大人っぽい表情をしてる。
 つい最近まで僕が知っていた匡太郎の顔は、照れ臭そうにはにかむような子供っぽい笑顔だったのに…いつから、匡太郎はこんな風に僕の知らない顔をするヤツになってしまったんだろう。
 成長ってこう言うことなのかな?
 だったら少し、寂しいな。
 一抹の不安のようなものを感じて唇をソッと噛む僕に気付かないまま、匡太郎は国安に肩を竦めて見せた。

「どちらにしろ。時間までに戻れないようなら行くのは断念するよ。それでいいよな、光太郎?」

「え?あ、うん」

 素直に頷く僕にクスッと笑った匡太郎は、一瞬だけ、なんとなく冷めた双眸で木製の棺桶を一瞥したようだったけど、それはあくまでも一瞬のことだったから果たして本当に見たんだかどうだかはハッキリしない。でもまさか、あの優しい匡太郎がそんな表情をするワケないよね。
 ヘンな錯覚は匡太郎に失礼だと思ったから、僕はその思いを振り払うように首を左右に振った。

「何してるんだよ、光太郎?行くぞ」

 訝しそうに眉を寄せた匡太郎に促されて、僕は社の倉庫がある場所に向かう国安に別れを告げてから弟の後を追いかけた。
 足が速いから困るんだよな!

「匡太郎、待ってよ」

 慌てて腕を掴むと、匡太郎は少し不機嫌そうな表情をしてそんな僕を見下ろしてきた。
 あれ?気のせいかな、顔色が悪いような気がするんだけど…

「匡太郎?」

「なんでもない」

 僕の表情で何かを感じ取ったのか、勘の良い匡太郎は肩を竦めて笑うと、殊更なんでもないような仕種をして肩を並べてきたんだ。
 山登りなんてするつもりじゃなかったから軽装だったけど…スニーカーだけはいつも土堀のバイトの時に使っているモノだから比較的歩きやすくてよかった。もしかしたら、匡太郎のヤツは履き慣れない靴で足が痛くなったのかな?

「靴擦れとかできたんじゃないのかい?」

 月明かりさえも届かない山の奥、明かりと言えば匡太郎が持っている懐中電灯ぐらいだったから、必然的に僕は弟の腕を掴んでいないと歩くことすら覚束無いってことになる。だから縋るようにしてその腕を掴みながら、僕は匡太郎の顔を覗き込んでいた。
 さっきまで社の明かりで見えていたはずの匡太郎の顔が、懐中電灯の明かりに微かに浮かび上がっていて、さっきまでのようにハッキリとは判らなかったんだけど…まるで別人のような横顔に、僕は思わずドキッとしてしまった。

「大丈夫だよ」

 でも、そう言って笑った匡太郎はやっぱり元のままの匡太郎で…怖い怖いと思っている僕の心が見せた幻だったんだろうか。

「そっか」

 思わず、たぶんホッとした気分も手伝ってか、掴んでいた腕に力を込めて呟いたら、匡太郎のヤツは訝しそうに肩を竦めたけどそれ以上は何も言わなかった。
 暫く進んでいたら、国安が言っていた文献が保管されている【山の祠】らしき場所が見えてきた。
 鬱蒼と生い茂る木々がぬるい風に揺れてカサカサと音を立てるだけでも震え上がるのに、あんな、あんな真っ暗な口をポッカリと開けている洞窟に入んなくちゃいけないのかなぁ…
 怯えてしまう僕の足が意気地もなく震えて止まりがちになると、匡太郎は暫く思案しているようだったけど、洞窟を見て僕を見て、決意したように言ったんだ。

「光太郎はここにいるといいよ。オレが行って来るから…」

「ええ!?」

 それでなくても怖くて仕方ないってのに、こんな所に置いていかれるなんてハッキリ言って絶対に嫌だ!…でも、あそこに入って行くのも怖いし…うう、どうしよう。
 情けないくらいにカタカタと震えてしまう僕を、なんだか少し困ったように見下ろす匡太郎は別に平然とした顔をしてるってのに、僕はなんて不甲斐ない兄貴なんだろう。
 そんなことを考えていたら情けなくなって、ギュッと掴んでいた弟の腕から手を離したんだ。すると、途端に心細くなってしまうのは恐怖心のせいで、唇を噛んでその怖さと言った情けない気持ちを追い出しながら頷いた。

「わ、判ったよ。僕がいても、たぶんどうせ足手纏いにしかならないから…」

「すぐ戻ってくる」

 置いていくことに急に不安になったのか、匡太郎は心配そうに怯える僕を見下ろしていたけど、刻一刻と近付いてくる約束の時間に意を決したように行ってしまった。

「気をつけて!」

 そう言った僕の声はもちろん聞こえてるはずだけど、匡太郎は一度も振り返ることなく行ってしまったんだ。…たぶんきっと、優しい匡太郎は振り返ってしまったらやっぱり僕を連れて行きたくなってしまう気持ちになるんだろうなと思った。
 そうして、いつだって足を引っ張ってしまう僕は、とうとう最愛の弟をこの世に引き止めてしまった原因になっているのかもしれない。そう思うと、やっぱり凄く悲しくなって、怖いと言う気持ちよりもその切なさの方が居た堪れなくなるほど辛かった。
 僕は山道の傍らにしゃがみ込んで、ちょうど体育座りをするようにして腰を下ろすと膝を抱えて空を見上げた。
 満天の星空が見えていた空は、幾重にも伸びた木の枝で遮られてしまって殆ど見えなくなっている。辺りは薄暗いと言うよりも真っ暗で、見えるものはと言えばほんの目と鼻の先ぐらいの周囲ぐらいだったけど、それでも見えないよりも随分と安心できるし落ち着いてもきた。
 そうしたら、やっぱりますますこうしてここにいることが居た堪れなくなってしまったんだ。
 だって僕が、弟のために始めたはずの謎解きの旅が、こんな風に重要な場所に来ているにも関わらず、その弟に解決させようとしてるんだから…僕ってヤツは。
 鼻の奥が急にツキンとして、盛り上がりそうになる涙を慌てて擦っていたら、不意に後ろの茂みがガサリと音を立てて動いたもんだから、僕はドキリとして飛び上がりそうになった。
 でも、そこに人影が見えたから…もしかしたら、国安かも知れない。
 きっと、お目当てだった文献や資料が見つからなくて、仕方なく僕たちを追って来たんだろう。
 声をかけてくれればいいのに…

「国安か?今さ、その。匡太郎が見に行ってくれてるんだ」

 そりゃあ、恥ずかしかったけど本当にことだし、僕は立ち上がってジーンズについた土を払いながらそんな風に声をかけていた。だけど、国安だと思う人影はちっとも反応がなくて、よくよく目を凝らしてみたら左右にゆらゆら揺れているようにも見えたから…僕は思わず幽霊だと思って、情けないけど腰を抜かしてしまった。
 でも、まさかそんなはずがなくて、きっと笑われてしまうかもしれないけど、僕がてっきり幽霊だと勘違いしたその人影は、ちゃんとした実体を持っている人間だったんだ。
 慌てふためいて逃げ出そうとしていた僕は、その人影がゆらりと近付いてきて目視できる範囲まで来た時にはだいぶん余裕が出てきていた。
 その人は少女だったから。
 どうして、こんな所にいるのか判らないけど、その子はちょっと悲しそうな顔をして近付いてきた。

「お兄さん、大丈夫?」

 色の白い少女は真っ白の着物を着ていて、それが闇の中にボウッと浮き上がるから一瞬幽霊だと見間違えてしまったんだと思う。そんな僕の顔も蒼白になっていたのか、彼女は心配そうに小首を傾げていた。

「う、うん、平気だよ。えっと君は…?」

「あたしね、沙夜って言うの。どうしてお兄さんはこの時間にこんな島に来たの?こんなところにいるの?ねえ、今日がなんの日か知らないの?」

「え、ええっと…」

 矢継ぎ早の質問に僕は少し狼狽えながら、その子の必死の表情を見下ろしていたけど、どこかで聞いたことがあるその名前に引っ掛かっていた。そして、その誰かの面影によく似た顔立ちの少女を見つめていたら、よく知っている顔を思い出して…名前も一緒に思い出したんだ。
 国安沙夜。
 国安の死んでしまった2番目の妹…!

「き、君は国安の…!?」

 僕が思わず怯えたように言ったら、彼女の小さな顔が一瞬曇って眉がそっと顰められた。

「え?お兄ちゃんを知ってるの?じゃあ、まさか今年の渡し守って…」

 彼女のボウッと浮かび上がる華奢で可憐な面立ちが、不意に泣き出してしまいそうな表情になって、唇を噛み締めて俯いてしまった。

「あのね、お兄さん」

 僕は、でも。
 あんなに怖いと思っていたはずの幽霊かもしれないその、国安の妹らしき少女を別に怖いとは思っていないことに気付いて少し驚いてしまった。普段通りに接することができるのは、きっと幽霊と言えば額とか口許から血を流しながら恨めしそうな顔をしているって言う、あの定番を予想していたものだから、こんな風に普通の姿で立たれていると、怖がるってことはたぶんどんな人でもできないと思うよ。
 彼女は華奢な眉を寄せて、心配そうな、悲しそうな表情をしたままで僕の顔を覗き込んできたんだ。

「お兄ちゃんを連れて、早くこの島から出て行って!ここは、お兄ちゃんが、お兄ちゃんだけは絶対に来てはいけない島なの…ここに棲みついてるアイツは…」

 そこまで言った時、不意にハッとしたように大きな双眸を見開いた彼女は、それから辛そうに瞼を閉じてまるで闇に溶け込むように消えてしまいながら小さく、か細く呟いたんだ。

「お兄さんも逃げて。ごめんなさい、あたしにはどうすることもできない…」

 風に吹き消されてしまいそうなほどか細い呟きが消えるか消えないかのそんな瀬戸際、不意に冷やりとした冷たい感触が首筋に触れて、ハッとして振り返ろうとした時には既に遅かった。
 突然、凄まじい力で咽喉を締め付けられたんだ!

「うっ!…ッ、ぐぅ…ッ!!」

 ギリギリと引き締められていく冷たい棒のような束が、人間が持つ指先だと知ったのは、苦しさに喘ぐ僕の耳元に途切れがちに聞こえてくる人間の声だった。

「…やしい、悔しいのよ。私を…捨てて、あんな…あんな女と…ああ、悔しいぃ…」

 ゼエゼエと苦しげに喘ぎながら呟く呼気が、なんだかとんでもなく臭くて、それはまるで、腐った魚か何かの腐敗臭のような臭いだった。

「私も…妊娠してたのに…おろして…子供、ああ、悲しい、ああ、悔しい…」

 繰り返される恨みの言葉は恐ろしいし、締め付けられる指の力も半端じゃなくて、何度か気を失いそうになったけど、首を圧迫して握り潰されるような痛みと苦しさは尋常じゃないダメージで失神どころの話じゃないんだ。意識も失えず、それなのにジリジリと絞め殺される恐怖を味わいながらバタバタと暴れてみてもビクともしない女の力に、僕は恥ずかしいとか、そんなことを考えている余裕もなく泣き叫んでいた…んだと思う。
 実際はどんな風になっていたのかは判らないけれど。
 ただただ、苦しくて。
 辛くて、このまま死ぬんじゃないかって恐怖に泣き出してしまいたかった。
 強制的に浮かび上がる涙が頬を伝っている感触で、僕は薄れがちになる意識を感じながら、ああこのまま死んでしまうのかもしれないと思っていたんだ。

「…この野郎」

 不意に低い声がしたかと思うと、急に咽喉からあんなにギリギリと締め付けていた女の細くて信じられないほど力強かった指先が外れると、途端に流れ込んでくる新鮮な空気を貪るように吸い込みながら、あんまり慌てたせいか激しく噎せて咳き込みながら倒れ込んだ僕は首を押さえて蹲るようにして背後を振り返っていた。
 そこで見た光景は…ああ、あんな恐ろしい光景は、もう二度と見たくないと思う。
 首を締められたショックと、その場で繰り広げられている光景の凄惨さに、僕なんかの細い神経は耐えられなかった。
 憎悪に満ちた禍々しい顔で笑う匡太郎が、それでなくても奇妙な方向に捩れている女の首をさらに握り締めながら立っているその光景…嘘なんだって思った。
 僕は悪い夢を見ているんだ。
 ああ、誰か。
 これは嘘なんだって、悪い冗談なんだって言って僕を起こしてよ。
 首を押さえたままで僕は、何時の間にか意識を手離していた。

◇ ◆ ◇

 それでも、女の甲高い断末魔の悲鳴にすぐにハッと意識を取り戻した僕は、匡太郎がギリギリと女の首を握り潰そうとしている姿に少なからずショックを受けてへたり込んでしまっていたんだけど、慌てて首を押さえながら止めるように叫んでいた。

「きょ、匡太郎!殺す気か!?」

 掠れる声が情けないけど、声が出たことに少しホッともした。

「…殺す?バカなヤツだな、あんたは。見てみろよ、コイツはとっくの昔に死んでるじゃねーか」

 まるで匡太郎とは思えない粗暴な口調でそう言って、禍々しくニヤリと笑う弟はペロリと舌で乾く唇を舐めながらゴキッと鈍い音を立てて、とうとう女の首を圧し折ってしまったんだ。思わず目を覆いたくなる凄惨な光景…息苦しさで酷く咳き込みながらガタガタと震える僕の足許に、女の恐怖と恨みと悲しみをべったりと張り付かせた頭がゴトリと重い音を立てて転がってきた。
 血液が噴出すこともなく、鈍い音を立てて転がる女の千切れた首許から流れ出る血液は、どろりと粘っていてどす黒くて、既に腐敗が進んでいるらしく、ムッとする異臭はぬるい風が淀むこの場所にジワジワと広がっていた。女の身体は幾度か小刻みに揺れてから、主をなくして途方に暮れたようにドサリとその場に倒れ込んでしまう。
 恐ろしかった、恐ろしくてガタガタと震えながら見上げた匡太郎の双眸は、まるで別人のように爛々と輝いていて、何が楽しいのか、ニヤニヤと笑いながら転がっていた女の頭に片足を乗せてそんな僕を見下ろしてきたんだ。

「何を怯えてるんだ?コイツはあんたを殺そうとしたんだぜ。当然、始末するのが礼儀だろ?」

 底意地の悪そうな酷く冷徹な双眸で見下ろしてくる匡太郎を、いや、こんなヤツは僕の知っているあの優しい弟であるはずがない。僕は無言のままでそんな匡太郎の姿をした誰かを見上げて睨みつけてやったんだ。

「…なんだよ、その目は。気に食わねーな、その目付きは。助けてもらったくせに礼も言えねーのかよ、あんたは」

「…お、お前は誰だ!?」

 僕の誰何に、匡太郎は女の頭に足を乗せたままでフンッと鼻先で笑ったんだ!

「ご覧の通り、あんたの弟の佐伯匡太郎だろ?」

「違う!」

 思い切りキッパリと否定してやると、匡太郎は一瞬も怯まずに、まるでなんて言うか…あの、社で見せた、あの一瞬虫けらでも見るような冷めた双眸をして見下ろしてきたんだ。
 ま、負けるもんか!
 語尾が震えてる辺りでかなり負けてるんだけど、僕はそれでもまだ苦しくて喘ぎながら匡太郎に言ったんだ。

「な、亡くなった人の頭から足をどかすんだ。冒涜するんじゃないッ」

 僕がそう言うと、匡太郎は一瞬キョトンとして、次いでまるで馬鹿にしたように笑い出したんだ!
 腹を抱えて笑うって言う表現があるのなら、まさにその通りの仕種でゲラゲラと笑う匡太郎は、僕を馬鹿にしてるんだろう。頭から足をどかす気はサラサラないようだった。

「な、何がおかしいんだよ!?」

 僕は悔しくて…いや、違う。そんなんじゃない。何がどうなってしまったのか判らなくて、頭は思い切り混乱しているって言うのに、それでも小馬鹿にしたように見下ろしてくる匡太郎に何があったのか知りたくて食い下がったんだ。
 まさか、あの祠で何かがあったって言うんじゃないだろうな…そんなの、嫌だ。
 匡太郎は、匡太郎はどうなったんだ!?

「これが笑わずにいられるかよ。あんた、ほんッとーにおめでたいな。殺されかかったってのに、その殺そうとしたヤツの亡骸を心配をしてやるんだからな!」

 語気を荒げた匡太郎は、そのまま問答無用で女の頭に乗せた足に力を込めたんだ。
 ミシミシ…ッと骨が軋む音がして、小さくバキッと何かが砕ける音が聞こえた。
 けして気持ちいい音なんかじゃなくて、僕はよろよろと立ち上がると慌ててそんな匡太郎の愚行を止めさせようとしたんだ。

「匡太郎、いけない!今度は何をする気なんだよ!?もう、もういいじゃないか…」

「うるせーな。祠如きで腰を抜かすような女々しいヤツは引っ込んでな」

 とめようとする僕を軽い仕種で難なく払い除けた匡太郎は、制止の甲斐もなく無残にも女の頭を踏み割ってしまったんだ。
 グシャッ…と言うような、なんとも言えない不気味な音を響かせて砕け散った頭からは、腐ってしまっている血液だとか脳漿が八方に飛び散ってしまった。その飛沫が匡太郎のジーンズやスニーカーを汚していた。

「あーあ、せっかくの靴を台無しにしやがって」

 悪態をつきながら、目玉だとかがデロリと飛び出して、伸び切った長い舌が出ている惨い姿になってしまった女の頭部をさして興味もなさそうに冷めた顔をして蹴り上げると、ついでのようにでろんと転がる目玉を踏み潰した。
 もう、その段階では僕は直視していることもできなくて、カタカタと震えながら目を閉じてへたり込んでしまっていた。
 ついさっきまで女の頭部を玩具にしていた足で土と砂利を踏みしめながら近付いてきた匡太郎は、両目をきつく閉じて震えている僕の前で屈み込むと、顎に手をかけてグイッと引き上げたんだ。必然的に上向かされた僕は、それでも目を開けて、あの禍々しいほど邪悪な顔をした匡太郎を見る勇気がなくて逃げるように瞼を閉じていた。

「チッ」

 小さな舌打ちが聞こえて、憎々しげに僕の顎を掴んでいた手を離した匡太郎が身体を起こす気配がして、僕はソッと瞼を押し開いた。

「あんたはいつもそうだな。自分だけお綺麗な顔してさ。まあ、だからオレはあんたが嫌いなんだ」

 吐き捨てるように言った匡太郎の色素の薄い髪をぬるい風が吹き上げて、腐敗臭に眉を寄せる姿はとても大人びていて匡太郎であるのに、まるで別人のような印象を叩きつけてくる。それが悲しくて、僕はへたり込んだままでそんな弟を見上げていた。

「匡太郎…僕のこと、やっぱり嫌いだったんだね」

 現状を理解したら、そんなことを気にしてる場合じゃないことぐらい僕にだって判ったけど、でも、あんなに大好きだと言って懐いてきていた弟の真実の声をとうとう聞いてしまって、僕だって少なからずは動揺していたんだ。
 溜め息をついて項垂れてしまう僕に、ソイツは腕を組んでニヤニヤと笑った。

「いいや、その言葉には語弊がある。匡太郎はあんたが大好きだよ。犯して殺して喰っちまいたいぐらいには、愛してるだろうよ。もともと匡太郎という人間は邪悪で凶暴なヤツだったからさ。よくもまあ、こんな何も知りませんってな顔してるお健全な兄貴の傍にあんなに長くいながら、さっさと犯ることもできなかったって不思議に思ってるんだぜ」

 そう言って笑う匡太郎を、僕はとうとう、生き返ったせいで頭がどうかしちゃったんじゃないかと心配になって眉を寄せてしまった。それとも、もともと匡太郎には二重人格の傾向があったんだろうか?どちらにしても、この状況があんまり有り難くないってことはよく判る。

「こう言ってもまだ、オレが匡太郎じゃないんだと判らないのか?まあ、匡太郎を見ようともしなかったあんたには判らないだろうよ」

 痛いところを鋭利なナイフのような言葉で抉るように切り付けながら、匡太郎のもう1人の人格が僕を汚いものでも見るような目つきをして双眸を細めて睨みつけてくる。

「オレはコイツと契約したのさ。コイツは生き返ることを望み、オレは…人間の身体を手に入れることを望んだ。お互い理想的な取引相手だったってワケさ」

 自分の望みを口にすることを言い淀んだソイツは、一瞬だけ躊躇したようだったけど、それでもそれはどうでもいいことのようにフンッと鼻先で笑いながらそんなことを口にしたんだ。

「な、何を言ってるんだか…もう、全然判らないよ!どうしちゃったんだよ、匡太郎!?」

「…匡太郎は死んだんだよ」

 ポツリと呟かれて、僕はズキンと胸が痛むのを感じた。
 生きている時は、両親に愛されている弟は鬱陶しい以外の何者でもないと思っていたのに…こんな風に言われてしまうと僕は…

「そして、ヤツはオレに願った。なんでも言うことをきくから、どうか生き返らせてくれ。自分をあんたの傍に置かせてくれ…ってな。とんだ執念で、このオレでも退きそうになっちまったよ。俗に言う、ストーカーってヤツだ」

「匡太郎のことを馬鹿にするな!!」

 ムッとして、お茶らけたように僕たちを馬鹿にする、匡太郎に腹が立った。
 いいや、コイツが匡太郎じゃないってのなら、なんだか知らないけど、こんなヤツにイロイロ言われる筋合いなんかこれっぽっちだってないってことじゃないか!
 ムカムカして睨みつけていると、ソイツは組んでいた腕を腰に宛がいながら片目を閉じて笑っている。

「匡太郎をバカにするな…ね。いい感じで兄貴面じゃねーか。死んでくれりゃ御の字だと思っていたあんたがな」

「僕はッ…!」

 そこまで言いかけて、僕は何を口走ろうとしていたんだろう。
 死んでくれたら嬉しい…?そんなこと、願わなかったって言ったら、きっと嘘になる。
 そうだよ、この卑しい僕は両親に愛されて友達がたくさんいる、学校でも人気者の匡太郎に嫉妬して、死んでしまえと思ったことだって、少なからずはあったさ。それはあくまでも言葉のあやで…なんて、言い訳するあたりがダメなんだろうけど。言い訳するってことは、半分以上は本気だったのかもしれない。

「おいおい、まさか本気でそんなこと考えていたのかよ?冗談のつもりだったんだけどな。こりゃあ、匡太郎が泣いてるだろうよ」

「え?」

 僕は弾かれたように顔を上げた。
 てっきり、コイツの性格が出ている時は匡太郎は意識の中で眠っているんだとばかり思い込んでいたから、今の会話が全部匡太郎に聞こえていたってことは…
 匡太郎の姿をした別の誰かなのか、それとも、二重人格が生み出した別の性格なのか…僕にはどちらだか判りもしないけど、ソイツはクックックッとさも楽しそうに咽喉の奥で笑って、ペロリと下唇を舐めたんだ。

「ふん、まさか匡太郎は二重人格で、もう一方の善人な匡太郎はおねんね中だとでも思ってたのか?そんな安っぽいふざけたオカルトもどきなんかと一緒にしてくれるなよ。オレは匡太郎でもなければ、人間でもねぇ…」

 溜め込むようにいったん言葉を切ったソイツは、不安に眉を寄せる僕の傍まで近付いてくると、上体を屈めて覗き込むように顔を近付けて、それこそ悪魔のように捻くれた底意地の悪そうな笑みを浮かべてハッキリと宣言したんだ。

「荒神さ」

 僕が呆気に取られたのは言うまでもないと思う。