第一話 花嫁に選ばれた男 12  -鬼哭の杜-

 暫くぼんやりと日本庭園から月を見上げていた俺だったけど、いつまでもぐだぐだとここにいても仕方ない。意を決して、俺は歩き出していた。
 もちろん、母屋じゃない。離れだ。
 蒼牙がいつも仕事に遣っている仕事部屋で、最近はそうでもないけど、最初の頃はその部屋から出てこないこともあったりして、ほんの1日ぐらい俺は自由だった。
 あの頃は蒼牙の不在なんかへの河童で、一秒だって戻ってくるなって真剣に願っていたってのに…俺は。
 どうしてこんなに、アイツがいないと思うと心許無くて戸惑ってしまうんだろう。
 どうしてこんなに、寂しいんだろう。
 夏の夜の月明かりはよく晴れている証拠のように、俺の影をクッキリと白い砂の上に描き出している。
 月光と陰のコントラストの中をサクサクと足音を忍ばせて近付けば、母屋から少し離れた先にある蒼牙の仕事部屋は、月明かりに浮かび上がるようにして古い家屋が威風堂々とした面構えで佇んでいた。
 きっと、蒼牙は今、俺がここに立っていることにだって気付いているんだろう。
 アイツには何か、よく判らないんだけど勘が鋭いところがあるから、どんなに足音を忍ばせてもシレッと気付いてることが多いからドキッとするんだよな。
 だから、コソコソと近付いていくつもりなんか毛頭ない。
 爆弾娘がワケの判らんことを言ってたけど、男は度胸だ!
 俺は庭の砂を蹴散らすようにしてズカズカと蒼牙がいると判る部屋の前まで行くと、わざと乱暴にスニーカーを脱ぎ散らかして、縁側に上がるとその手でスパーンッと裁きを下す水戸のご老公が引き連れる助さん格さん宜しく障子を開け放ってやったんだ。
 蒼牙は俺に背中を向けるようにして文机に向かってキーを叩いていた。
 まるで過去と現代の融合はどこかアンバランスで、そのあやふやさを暴き出しているような蒼牙の背中の潔さは、見ているこっちが切なくなってくる。
 着流しで胡坐を掻いて、送られてくるメールの数は半端じゃないのか、常に受信ありの電子音が鳴り響いている。手際よく、あらゆるものを片付けている蒼牙は、エクセルで立ち上げている報告書らしきものを睨みつけながら、ついでのように言ったんだ。

「何をしに来た?」

「お構いなく、眠りに来ただけだから」

 眠った形跡なんかこれっぽっちもない、桂が丁寧にメイキングしている布団は太陽の匂いがした。
 俺は背中を向けたままで忙しなくキーを叩く蒼牙に軽く言って、本来ならコイツが眠るはずの整えられた布団の上を捲ってやれやれと腰を下ろしながら軽く言ってやった。
 すると、一瞬だけど、手の動きを止めた蒼牙が微かな溜め息を吐いて、パチパチとキーを叩くのを再開したようだ。

「俺はアンタに、自室で休めと言ったはずだ」

「は?そんなこと言ったっけか??俺は『ゆっくり休め』としか聞いちゃいないけどな」

 パチパチパ…また手が止まる。
 暫く何かを考えて、どうやらニヤニヤ笑っている俺の思惑通り、漸く自分の失態に気付いたのか、蒼牙は胡乱な目付きを隠さないまま肩越しに振り返ったんだ。
 その目付きの…空恐ろしいことと言ったらなかった。

「屁理屈は覚えたようだな。それで、ここに来て説教でも垂れるのか?」

「いや、俺さ頭悪いから。そんなつもりはないよ」

 肩を竦めてなんでもないことのようにそう言ったら、蒼牙は参ったとでも言いたげに頭を抱えるようにして文机に頬杖をついた。
 やけに疲れているように見えるのは…そうだよな、俺や繭葵なんかより、人の死に直接関わった蒼牙の方が、今夜は眠れないぐらい草臥れているに違いないってのに。
 蒼牙はバカだ。

「ただ、自分の旦那さまがどんな仕事をしてるんだろうなぁと思ってさ。俺だってこう見えても、サラリーマンだったんだぜ?仕事内容に興味ぐらいはある。まあ、平社員だったけど」

 努めて軽めの口調で言ってやると、蒼牙は頭を抱えるようにして頬杖をついたまま、呆れたように溜め息を吐いた。

「下手な嘘がうまいんだな。それで?」

 聞いてやるよとでも言うように肩を竦める蒼牙に、俺はゆっくりと膝でにじり寄るようにして近付くと、不機嫌そうに見下ろしてくる間近の蒼牙の顔を見上げたんだ。

「そうだなー…それから、意地っ張りな俺の旦那さまにお休みのキスでもしようかなってね」

「…!」

 蒼牙は頬杖をついたままで酷く驚いているようだった。
 そりゃ、そうだよな。
 今まで、散々嫌がって逃げていた俺が、不機嫌そうな蒼牙の唇に苦笑しながら口付けたりするんだから。
 瞼を閉じて、すこしかさついた唇、もう馴染んでしまって覚えてしまった蒼牙とのキスは、どんなに濃厚なセックスをしたって得られない、なんだかホッとするような快感がある。
 口に出して言ってしまえばあまりにも陳腐だけど、それでも俺は、蒼牙とのキスだけは魂を分かち合って対になれるのならそれでもいい…なんて、ワケの判らないことまで考えてしまえるほど好きだった。
 戯れに触れ合うだけだったキスは、なんとも言えない複雑な表情をした蒼牙の意思1つで、深くなるも浅くなるも決まってしまうんだけど…蒼牙は、暫く逡巡した後、思い切るように瞼を閉じて、甘えるようにキスを強請っている俺を抱き締めてきた。
 そのまま、肉厚の舌が歯列を割って、俺がそうして欲しいと願っていた激しい口付けをくれたんだ。
 舌と舌が絡み合って、吸い付いて離れて、また吸い付いて…魂までも吸い尽くしてしまいたいようなキスをする俺を、蒼牙は荒い息を吐きながら愛しそうに、深い深い深淵の底まで一緒にダイブするような、クラクラする口付けをくれるから、背中に回した腕に力を込めて、まるで溺れている人みたいに必死にしがみ付いていた。
 蒼牙、お前は独りぼっちじゃないよ。
 俺がここにいる、だから、なぁ…
 そんなに意地を張るなよ。
 こんな夜中に俺たちは二人きりで、まるで互いを庇いあうようにして抱き合って、溺れてもいいキスさえできるんだから…だから、蒼牙。
 泣いていいから。
 俺が、ちゃんと確り受け止めるから。
 だから、泣いていいんだ。

「…ッ」

 まるで俺の願いが通じたかのように、蒼牙は俺との深いキスを一瞬でも長く続けようとするように抱き締めながら、声を殺して泣いているようだった。
 背中に回した腕に力を込めて、どうか、どこかに行ってしまわないように。
 俺は気付かないふりをして蒼牙にキスをした。
 自分でも驚くほど、それは深くて濃厚で優しくて…そして、愛しかった。

 翌日、結局あの後、俺たちは何をするでもなく同じ布団で寝たわけなんだが…
 いつもは俺を抱き枕だと勘違いしているんじゃないかって腹立たしく思うほど抱き付いて眠る蒼牙を、その日の朝は、俺が抱き締めていたんだ。
 珍しく蒼牙は、今まで寝ていなかったとでも言うようにぐっすりと熟睡していて、揺すっても叩いても起きそうもなかったから、俺は寝起きでボーッとしながらもクスクスと小さく笑ってしがみ付くようにして眠っている美丈夫の顔を覗き込んでいた。
 目許が僅かに赤いのは…気のせいなんかじゃない、きっと昨夜泣いたせいだ。
 うん、少しでも泣いた方がいいんだ。
 鬱憤ってな溜め込むよりもだな、泣いたり喚いたり、みっともないことをしてだって晴らしちまうのがいいに決まってる。現に俺はいつだってそうだ。
 大声出して喚いてみたり、派手に泣いたりとかな…蒼牙の立場だと難しいんだろうけど、だから俺がいるんだ。俺の前でだけ泣けばいい。
 ん?でも、そう考えるとなんだか俺、ちょっと得してる気がするなぁ~
 あの泣く子も黙る呉高木蒼牙の泣き顔を世界でたった一人、この俺様だけが拝めるんだぜ?そいつは凄いなー…なんつって。
 朝の清廉とした日差しが障子を透かして入り込んできて、蒼牙の幻想的な青白髪をキラキラと光らせている。よくよく見ると、白髪だとばかり思っていたんだけど、少し輝いて見えるから…うーん、でもやっぱこれって青白髪だよなぁ。
 なんて、そんなどうでもいいことばかり考えている間に、ピクリッと青白髪の睫毛が震えて…って、そうか、蒼牙って睫毛も眉毛も青白髪なんだな。ゆっくり、顔を見ることもなかったから気付かなかった。
 そんな1人で「すげーな、おい」とか思っているなんて露知らずの蒼牙が、ふと、瞼の裏に隠れていた青味がかった黒い双眸を開いたんだ。

「…おはよう」

 まるで秘密を囁くように呟けば、蒼牙の腕が伸びて、上半身を起して覗き込んでいた俺は気付いたら後頭部にあてた手で引き寄せられるようにしてキスしていた。

「…ふん、なんだか照れ臭いな」

 鼻の頭をちょっぴり赤くした蒼牙が、ムスッと不機嫌そうに俺の顔を覗き込みながら、それでも俺がニコニコ笑っていたら気後れでもしたのか、仕方なさそうな苦笑を浮かべてもう一度キスしてきたんだ。

「朝日の中のアンタは綺麗だな…俺の花嫁になる覚悟はできたのか?」

「…当り前だろ?もともと、俺は蒼牙の花嫁になるために来たんだ。いまさらお前が嫌がったって居座ってやるからな」

 フンッと鼻を鳴らして知らん顔したら、蒼牙のヤツは偉く吃驚したように目を瞠ってマジマジとそんな俺を覗き込んできやがったけど、それでも俺は、慌てたりとか言い換えたりとかはしてやらなかった。
 本気だから仕方ない。

「たとえ、蒼牙が愛人を作ったって俺は文句は言わない…でも、これだけはお願いだから約束してくれ。何人愛人を作っても構わないから、男は俺だけにして欲しい。愛してくれとか言わないから、だから…ッ」

 驚いた。
 まだ言いたいことが山ほどあるのに、覚悟はこんなものじゃないのに、すげー勇気がいるってのに上半身を起していた蒼牙は、俺の言葉の半ばでいきなり抱き締めてきたんだ。
 不安で、どうしようもなく不安で、こんな寂しい山間の鄙びた村で、余所者は俺だけだから、それでもこの見知らぬ土地に骨を埋めようってんだから、不安になったってしょうがないだろ?なぁ、蒼牙…
 俺は泣きじゃくるようにして、抱き締めてくれる蒼牙の首に腕を回しながら抱きついていた。
 頼れるものも、信じられるものも、愛しいと想うものも…それは全部、蒼牙になるんだ。
 俺の世界はきっと、蒼牙になるんだから…だから、お願いだから蒼牙、他の誰でもない男は、男だけは俺だけにして欲しい。
 子供のために女を何人侍らせてもいいから、俺のところに来てくれなくなっても構わないから、だからどうか、男は俺だけにして…

「…人殺しの嫁になるのか?」

 本気でなれるのか?…と、俺を抱き締めたままでそんな下らないことを言いやがるから、俺はますます腕に力を込めて抱き付きながら言ったんだ。
 お前があの時、彼の咽喉を切り裂いてやらなかったら、彼はずっと地獄の苦しみを味わったままで生き長らえさせられるんだ。どんなに酷くて残酷か、激痛にのた打ち回るその姿をずっと見詰め続けてきたお前だから、あの瞬間に怯むこともなく苦しまずに逝かせてやったんだろう?
 俺は気付きもしなかった。
 そういう形でも、人を救っているんだってことに。
 安楽死すらできない、苦しみの淵に立つ哀れな魂。
 どんなに強烈な反動が返ってくるか知りながらも抱き締めることのできるお前だから、俺は腹を括ることができたんだ。
 もう、躊躇ったりしないからな。

「こんなの、嘘や冗談で言えるかよ!もう決めたんだ。俺は呉高木蒼牙の花嫁になる」

「…夢みたいだ」

 ポツリ…と、蒼牙が信じられないことを呟いた。
 思わず、呆気に取られてポカンッとしてしまいそうになった俺に、でもすぐに蒼牙はいつもの蒼牙に戻って傲慢不遜に言いやがったんだ!なんだ、ちょっと可愛いかなとか思って損したぜ。

「アンタにその覚悟ができたのなら、俺が妾を娶る必要なんかないだろ?アンタ、本当に頭悪いな」

「悪かったな!天才さまよッ」

 抱きついたままで悪態を吐く俺に、蒼牙のヤツはクスッと笑ったようだった。
 その顔が見たくて身体を起したら、蒼牙はそれでも俺を抱き締めるようにしたままで…そこらへん、まだ俺を離そうって気はないらしいんだけど、まあ俺も望むところだ!って感じだし別に構わずに見上げたら、俺の顔を見下ろして笑ってるんだ。
 思わず、その男らしい笑みを湛えた顔にドキッとしてしまった。

「恐らく俺は、アンタを永劫に離さないだろう。それでも、俺について来るんだぞ」

「…ああ、お前についていくよ。蒼牙」

 何が起こっても、この先に何が待ち構えていても…それでも俺は、きっとこの先もずっと、蒼牙の傍らにあり続けると思う。
 そう、夢の中のチビ蒼牙と約束したんだ。
 何よりも俺は、俺だけを見詰め続けるこの青白髪の鬼に、心を攫われてしまったんだから。
 初めてお前と会ったあの山の中で、幹に凭れた姿にドキッとしたのは、何も本気で鬼だと思ったからってだけじゃないんだぜ?
 蒼牙…きっと俺は。
 あの瞬間から恋に落ちていたんだ。
 嘗て、お前がそうだったように。
 俺たちは、清廉と昇る朝日の中で、逸早くではあるんだけど、気の早い誓いのようなキスを交わした。

第一話 花嫁に選ばれた男 11  -鬼哭の杜-

 月明かりに浮かび上がる純和風の家ほど怖いものはない。
 何故そう思うのか、俺には判らないけど、今目の前の状況を説明しろと言われればそんな答えしか浮かんでこない。まあ、今の心境がなんてこたない日本家屋に凄味を感じてしまってるだけなのかもしれないけどな。
 俺は溜め息を吐いてもう歩き慣れてしまった山道を下ると、特別に蒼牙の部屋に面した庭に続く抜け道から屋敷に戻ってきた。
 そう言えば繭葵のヤツはちゃんと戻れたんだろうな?確か、この家って夜は和風の厳つい木の門を閉めるんじゃなかったっけ。
 でも、繭葵のことだ。
 大方、子兎みたいにまたちょこちょこと秘密の抜け道でも見つけてるに決まってる。
 俺と違ってアイツは結構しっかりしてるからなぁ…まあ、問題は繭葵が推察したとおり、つまり『俺』ってワケだ。
 これから、あの血塗れの舞台で壮絶な笑みを浮かべて立っていた、あの鬼と対面しなくちゃいけない。
 ふと見上げたよく晴れた夜空に、下弦の月はどこか物寂しそうにぽっかりと浮いていて、その月を見上げていたら、どうして蒼牙はあんなことを仕出かしてしまったんだろうと不思議で仕方なかった。
 確かに、初対面はやっぱり蒼牙は鬼の出で立ちだったし、ただちょっとおかしいと言えば俺が巫女装束だったってだけなんだけど…それでも、あの時も、それからあの山で出逢った時だってお前、そんな恐ろしげな顔なんかちっともしなかったじゃないか。呉高木の当主と言う重圧にいつも凛と顔を上げていて、俺なんかじゃ到底、敵いっこないって思うほど、シッカリと未来を見据えた大人びたヤツだったじゃないか。
 ああ…でも、もしかしたら。
 その呉高木の伝統として何らかの事情で受け継がれてきた儀式だとしたら?
 蒼牙は何よりも呉高木を大切に思っているようだったし、まだたった17歳なのに、圧し掛かる責任を受けて立っちまったんだとしたら…それは果たして、本当に蒼牙だけの責任になるんだろうか。
 あんな子供に全てを任せて、安穏と胡坐を掻いている俺たち大人が、どうして平然としていられるんだ。
 だから俺は、さっき繭葵に「警察には…」って言われた時、ギクッとしちまったんだ。
 どうかしてるのかもしれないけど、警察には届け出たくなかった。
 俺はまだ、蒼牙のことを何も判っちゃいないし、この全てを蒼牙の肩にぶっつけて、それで平然と普通の暮らしに戻ることなんてできないと思ったんだ。
 もしかしたら、あの禁域に入るだけでも殺すと脅した蒼牙のことだ、今回の神聖な『弦月の儀』を穢した咎だとか何とか言って、俺も殺されるかもしれない。
 そう考えるだけで、鳩尾の辺りに何か冷たいものがヒヤリと落ちたような気がした。
 それでも、話を聞こう。
 蒼牙一人が抱えるにはあまりに事態は大き過ぎると思うし、そして何よりも、誰か一人ぐらいはアイツに「お前が悪いんじゃないよ」って大人がちゃんと伝えてやらないと。
 蒼牙はまだ子供なんだ。
 本来なら、両親の保護下で大事に大事に守られてるはずなのに…呉高木と言う大きな何か、得体の知れないものをその双肩に背負いながら、それでも毅然と立っていないといけない蒼牙の、その心は一体どこにあるんだろう?
 アイツの屈託なく子供らしく笑う顔を、俺は今まで見たことがあったかな。
 蒼牙を『鬼』に変えたのは一体誰だ?
 無頓着に放棄した身勝手な大人たち…なんだろうなぁ、やっぱり。
 俺はもう一度溜め息を吐くと、月明かりに照らされた庭を通り抜けて、明かりもついていない蒼牙の部屋に面した広縁に靴を脱いで上がった。
 上がったまでは良かったんだけど、さすがにやっぱり障子を開けるまでの勇気がない。
 俺の不在を、蒼牙はどう感じたんだろう。
 今、この部屋の中で、お前は何をしてるんだ?
 向かっ腹を立てて胡坐でも掻いて布団の上に座ってるのか?
 それとも…俺の不在に少しホッとしてたりするのか?
 疑問ばかりがグルグルと脳内を循環するくせに、これと言った答えは出てきちゃくれない。それどころか、実際は部屋に入りたくないもう一人の俺が、きっと往生際悪く偽善的に考え込んでいるフリをしてるんだろう。
 これじゃ、ダメだ。
 俺は意を決してへたり込んでしまっていた良く磨かれた廊下に立ち上がると、主を隠し込んでいるに違いない障子をスパーンッと思い切り小気味よく開け放ってやった。
 さあ、ジャでも蛇でも何でも来いだ!

「…?」

 勢い込んでいたくせにやたらあっさりと、その出鼻を挫かれてしまった俺はへたへたとよろけながら無人の室内に入り込んで、キチンと整えられている布団の上に座り込んでしまった。
 蒼牙はいなかった。
 俺を捜しに行ったとか?…いや、そんなはずはないな。それだったら、もっとこの屋敷が賑やかになってる。
 こんな風に静まり返ってるってのは、屋敷の中では今は何も問題が起こってないってことだ。
 じゃあ、蒼牙はどうしたんだ…

「あ!」

 そこで唐突に思い出したのは、食事の後、月を見る為に庭に出た時に桂に言われた言葉だった。

『蒼牙様は今夜、仕事部屋に篭もられるそうです』

 そうだ、蒼牙は今夜いないんだった。
 なんだ俺、あれだけ意気込んでたくせに、ホントはメチャクチャ緊張してたんだな~
 そのまま布団に倒れ込みながらハァ…ッと溜め息を吐いていたら、極度の緊張を強いられた俺の軟弱な脳細胞は、その太陽の匂いがする布団についウトウトとしてしまった。
 ここ最近、先輩の件だとか、花嫁の件だとか、弦月の事件だとか…あまりにもイロイロと起こりすぎてしまったせいで、それでなくても頭を使うのが苦手な俺なのに、よく今日まで持
ち堪えてると我ながら感心してるくらいなんだぜ。
 イロイロ…ホントに良く起こったもんだ。
 ウトウトと浅い眠りに沈みながら、それでも俺は考えていた。

(この村に来てから常識の範疇を超えたことばかり起こってる。そんな最中にいて、蒼牙は何を思ってるんだろう…)

 俺はふと、奇妙な夢を見た。
 暗い山の中、ともすればそれは裏山だったのかもしれないけど、とても珍しい青みがかった白髪の子供がトボトボと歩いていた。その手には、俺と蒼牙が初めて出逢ったあの場所に咲いていた、小さな白い花が握られていた。

(誰かにあげようとしたのかな)

 あれ、どうして俺、そんなこと思ったんだろう?
 不意に脳内に浮かんだ言葉に俺自身首を傾げていると、ふと、小さな男の子は立ち止まるとハッとしたように顔を上げて俺を見たようだった。

『こんな所で何してるんだ?お前は誰だ??』

 ちびでも相変わらず高圧的なものの言い方をするクソガキに、ムッとする俺はそのガキっぽさを必死で抑えながらたぶん、ニコッと笑いかけた。

『その花、綺麗だね』

 クソガキの質問には答えずに変態さん宜しくそう言ってやると、不思議な青い白髪の子供は自分の手の中にある花を、まるで今更気付いたとでも言うようにジッと見下ろしてから差し出してきたんだ。

『欲しいならやる。千切ってしまうのは可哀相だったんだけど、母様に差し上げようと思ったんだ。でも今日はお加減が悪いから…捨ててしまうのも可哀相だから、お前にやる』

 不貞腐れたように唇を尖らせるまだ本当に幼い子供は、年の頃、4つか5つぐらいで、そのくせ口調はまるで大人びていて…ああ、こんな時からお前、そんなに意地を張って生きてたんだなぁ。
 まだ、こんなに小さいのに。
 小さな手に握られていた花は、それでも瑞々しく咲き誇っている。
 この小ささで、花を『可哀相だ』と言えることができるお前は、なんだ、ちっとも鬼なんかじゃないじゃないか。
 差し出された花を『ありがとう』と言って受け取ったら、小さな青白髪の蒼牙は、不思議そうな顔をして俺を見上げてきた。

『お前は、この山に棲む精霊妃か?』

『…は?』

『なんだ、違うのか?この山は鬼哭の杜って言って、太古からの亡者たちが棲み付いてるんだ。ソイツらを管理してるのが呉高木家で、精霊妃と言うのは、亡者たちを統べる龍の花嫁のことだ』

 そんなご大層なものは知りませんし、全く違うと思います。
 第一、花嫁って言うんだからその人はきっと女性だと思いますよ、常識的に言ったら。
 だいたい、男の俺を花嫁に迎えようってのはな、やいちび蒼牙!ちょっと大きくなったお前ぐらいなんだぞ。
 思わず大人顔負けのクソガキにハハハ…と乾いた笑いを浮かべていたら、ちび蒼牙は『そうか、違うのか』と呟いて少しだけ俯いてしまった。

『…精霊妃ってひとに、何かお願いがあったのかい?』

 その姿があんまりしょんぼりしてるから、俺が声を掛けたら、小さな蒼牙はちょっとムッとして首を左右に振りかけたけど、まるで思い直したように俺を見上げてきた。
 相変わらず、今の蒼牙を思わせるような強い意志を秘めた、その青みを帯びた双眸には思わずドキッとしてしまう。こんなチビにドキッとする俺もなんだかな、ってとこだけど。

『母様の…お身体を直して欲しい。そして、母様の願いを叶えて欲しいんだ。もうずっと、山の神様にお願いしてるのに、ちっとも叶えてくれない。心優しい精霊妃なら叶えてくれるって思ったんだ』

 小さな蒼牙は、今のあの小憎たらしいほど世の中の酸いも甘いも知り尽くしてますってな見慣れた顔と違って、いや、子供なんだから見慣れてるわけはないんだけど、その一生懸命な表情に俺は思わず小さな蒼牙を抱き締めてしまっていた。

『どうしたんだ??』

 不思議そうに首を傾げるチビ蒼牙に、ひとこと『ごめん』と謝りながらも、それでも俺はそ
の身体から腕を離すことができないでいた。
 そうだ、お前。
 こんなに小さいのに、この頃にはもう、お袋さんは心を病んでお前のことが判ったり判らなかったりを繰り返すようになっていたんだよな?
 眞琴さんに聞いていた話を思い出したら切なくて、蒼牙の根性が捻くれてしまった大概の要因は、やっぱり大人にあるんだろうなぁと思っていた。

『ごめん、蒼牙。大人はみんな、お前に冷たすぎるんだよな。だからお前、あんなに大人びて、子供らしさを忘れてしまったんだ』

『…ぼくの名前を知ってるのか?』

 キョトンッとする、俺が見たこともない子供らしい表情の蒼牙の顔を覗き込んで、ああ、この時代が、お前にとってはきっと凄く辛かったに違いないけど、もう少し続けばよかったのに。それでもお袋さんは生きていたし、お前は花を摘む心のゆとりがあったのに。
 全部が切なすぎて、俺は気付いたらハラハラと涙を零していた。

『蒼牙。お母さんのことは俺にはどうしようもないけど、でも、できるだけ俺が一緒にいてやるからな。今は無理だけど、遠い未来に必ず、俺はお前の傍から離れないよ。だからこれだけは信じていてくれ、この世界中の全てがお前を見放してなんかいないから』

『…よく判らないけど、お前がぼくの傍にいてくれるのか?』

 ふと、俯きがちでどこか大人びた顔をしていたチビの蒼牙が、ほんのり頬を染めて嬉しそうな顔をしたのが俺の見間違いじゃないのなら、どれほどこの小さな身体は孤独や寂しさを知っているんだろうかと、自分の安穏とした子供時代と比較しても更に泣きたくなるだけだ。
 それでもお前は、花を摘んで心を病んでしまった母親を気遣うだけの優しさを持っている。
 それはきっと、矛盾なく、今の蒼牙の心の中にもあるんだろう。

『今は無理だけど、桂さんがいるから寂しくないだろ?』

『…うん、桂は大好きだ』

『そっか、よかった。じゃあもう少し、あともう少し大きくなったら、俺を見付けだしてくれ。俺は馬鹿だから、お前が見付けてくれないとここに来れないんだよ。もし見付けてくれたら、その時はもう、お前の傍から離れたりはしないからな』

 どうしてそんなことを言ったのかよく判らないけど、どうせこれは俺の都合のいい夢なんだから、せめて寂しそうに俯いている小さな蒼牙を励ましてやりたかったんだと思う。

『それ…ホント?』

 まるで子供のように、いや実際には夢の中の蒼牙は立派に子供なんだけど、子供らしいあどけない仕種で首を傾げながら不安そうに聞いてきた。

『ホントに、ホント?』

『ああ、約束だよ。忘れるんじゃないぞ』

 やわらかな青白髪が覆う小さな頭に掌を置いて、優しく撫でてやると小さな蒼牙は一瞬、本当に一瞬だったけど、極上の幸せそうな、子供らしい笑顔を見せてくれた。

『うん、忘れない』

 せめて、大人である俺ぐらいはお前を裏切ったりしないよ、蒼牙。
 だからどうか、花を労わるその優しさは忘れないでくれ。

 ふと、目が覚めたら枕が濡れていた。
 ああ、俺泣いてしまったのか。
 自分に都合のいい夢だったけど、やたらリアルで、あれがもしホントの蒼牙だったとしたら、俺はきっとアイツの上辺ばかりを見ていて何ひとつ気付いてやることもしていなかったんだなぁと、少し自嘲してしまった。
 大人だなんだと嘯きながら、一番、自分らしく生きていたはずの蒼牙を身近に感じたような気がして、俺は横になったままで小さく笑っていた。
 抱き締めた身体は驚くほど小さくて頼りなげで、掴んでいてやらないと壊れてしまうんじゃないかって思うぐらい、たくさんの感情を抱え込んでいるみたいだった。
 想像上の蒼牙だったけど、もしアイツが、夢の通りの子供時代だったとしたら俺は、蒼牙を見直してしまうかもしれない。
 村を思い、当主としての地位に甘えないあの蒼牙が、たくさんの感情をただ身体の内に隠してるだけで、ちゃんと人間らしく笑えるんだと思えば、俺はこの先ずっと、アイツの傍にいてやりたいとさえ思っていた。そんな感情の変化が自分でもすげー驚きなんだけど、幼さと大人と言う境界線上で揺らいでいるアイツをしっかりと、もう一度この腕に抱き締めてやれたらいいのにって…夢に感化されて豪くロマンチックになっちまってるな、俺。
 あんなのはただの夢なのに。
 人殺しの蒼牙をどうするかって言う、根本的に頭を痛ませる現実がかもん!と指先を振って挑発してくれてるってのに…はぁ、どうするかな。
 枕元に置いてある時計を見たらまだ午前3時で、どうやら一時間も寝ていなかったようだ。
 おかげで身体が酷くだるくて、倦怠感がガッチリと羽交い絞めにしてきてるみたいに腕を上げるのも億劫だ。
 辺りはまだ夜明け前で暗くて、このまま目を閉じていたらもう一眠りできるんじゃないかと思っていた矢先、静まり返っている空間に何かを踏み締めるような音を聞いたような気がした。

(あれ?もしかして、また小手鞠たちが来たのかな)

 ふと上半身を起こした俺は、ちょっとした好奇心も手伝って、障子を少し開けて庭にいるだろう小手鞠たちの様子を窺おうとした、窺おうとして、ドキッとしてしまう。
 そこに、月明かりに幻想的な庭に佇んでいたのは、不思議な青みを帯びた青白髪の蒼牙だったからだ。
 腕を組んで、静かに下弦の月を見上げている。
 その横顔は夢の中の小さな蒼牙と違い、大人びて、もう誰の手助けだっていらないんじゃないかって思えるほど毅然として、そして凛としていた。
 蒼牙…その手を血に染めて、手に入れようとしたのはなんだったんだ?
 盗み見ていることを知っているのかもしれないし、もしかしたら全く気付いていないのかもしれないけど、それでも俺はこのままただ呆然と月を見上げる蒼牙を見ているのもどうかしてると思って、意を決したようにソッと障子を開いて広縁に出ると、靴を履いて庭に降りたんだ。 その時ですら蒼牙が俺を見ることはなかったけど、同じように肩を並べて半月を見上げる俺に、引き締まっていた蒼牙の口許がほんの僅かに緊張を解いたのが見て取れた。

「目が覚めたのか?」

「おかげさまでね、庭に闖入者がいたからなー」

 俺を見ようともしないで話し掛けてくる蒼牙に、ああ、もしかしたらやっぱりコイツは、あの場所に俺がいたことに気付いていたんじゃないかって思ってしまった。
 その閃きは十中八九当たってると思う。

「月が綺麗だな」

 呟けば、蒼牙のヤツは少しだけ眉を上げてから、その口許に笑みを浮かべながら「そうだな」と頷いた。

「弦月の儀は済んだのか?」

「…見ての通りさ」

 あらゆる意味合いに取れる返事の仕方をしてから、蒼牙は仕方なさそうに肩を竦めて見せた。

「…俺を殺さないのか?」

 ポツリと呟いたら、その時になって漸く、蒼牙は俺を見た。
 その眼差しには何の感情も浮かんでいないくて、見詰め合ったままで弱気の俺は、言ってしまった言葉を取り消すことも出来ずに内心でどうしようとアワアワと七転八倒していた。まさか、そんな内情が判ったとか言うんじゃないだろうけど、蒼牙のヤツはもう一度肩を竦めてから、ゆったりと腕を組んで半月を見上げて言ったんだ。

「呉高木の神事は神聖だ。だが、これから花嫁になり、生涯を俺の傍らで過ごすアンタをどうして殺さないといけないんだ?」

「…」

 その言葉になんと言ったらいいのか判らなくて、いや違うな、ホントは聞きたいことが山ほどあったんだ。
 先輩たちはあの後どうなったんだ?
 どうして、人を殺めてしまったんだ…
 何か言いたいのに、さっきはあれほどスラスラと言葉が出てたって言うのに、重要な部分になると咽喉の奥に何か錘でも押し込まれちまったみたいに言葉が出てこない。

「…聞かないのか?」

 クスッと笑った気配がして、俯きがちになっていた俺が顔を上げると、下弦の月をバックに蒼牙が笑いながら俺を見下ろしている。
 その目が、どうしてだろう、まるで取り残された子供みたいに寂しげに揺れているような気がして、俺は居ても立ってもいられなくなっていた。
 思わず組んでいる蒼牙の腕を掴んで、不思議そうな顔をするヤツを、あの夢とダブってしまっているその顔を覗き込んで俺は言ったんだ。

「悪いのは蒼牙じゃない。こんな辺鄙な場所で、過去の因習に囚われてる大人たちが悪いんだ!」

 少しだけど、呆気に取られたような驚いたような顔をする蒼牙に、それでも俺は言わずにはいられなかった。
 人殺しだと、罵られるって思っていたんだろうその顔は、ほんのちょっと、ともすれば見落としてしまいそうなほどほんの僅かだったけど、ホッとしたように安堵を浮かべているようだった。
 お前にそんな顔をさせるのは、出来損ないの大人たちなんだ。
 まだたった17歳なのに、本当なら高校に通って、友達と試験の結果に一喜一憂しながらバイトの話とか、もしかしたら隣りの女の子の話とかで盛り上がってたってちっともおかしかないんだぞ。
 こんな辺鄙な村で、孤独ばかり抱えて、呉高木と言う重圧に耐えながら未来を見据える、そんな顔をする年齢じゃないんだ。

「蒼牙!一緒に警察に行こう。一から遣り直して、今度こそお前らしい人生を生きるんだ!」

 警察に行ってしまって、もう一度更正できるかどうかなんて判らないけど、でも、蒼牙ならきっと遣り直せる。それだけの強い意思を持っているんだから…

「警察?」

 ふと、蒼牙は笑ったようだった。

「駐在さえ認めない、起こってもいない事件に日本の司法が動くとでも思っているのか?アンタはお目出度いな」

「でも、あの子は…」

「高柳の息子は長らく癌を患っていた。今日、明日の命だったのさ。だから、医師の診断では『病死』だ」

 何もかもが、今日の為にお膳立てさせられていたような奇妙な違和感に、目の前が思わずぐにゃりと拉げてしまったような気がして、俺は蒼牙の腕を掴んだままで蒼褪めていた。

「長いこと延命に金をかけてきたが、それも限界だった。できれば助けてやりたかったんだが、今の医学では末期の悪性腫瘍は治らない」

 どこか言い訳でもしてるように呟いた蒼牙に、それで俺はますます、さっき感じた違和感が確固たるものになったような気がしたんだ。

「この日の為に、生き長らえさせたって言うのか?」

「…家族がそれを望んだ。俺が口を出す範囲の問題じゃない」

「どうして!」

 どうしてお前はそんなに冷静でいられるんだ!?
 ひと、一人の命をその手にかけて、病気だったからいいのか??
 悔しかった、ほんの少しでも蒼牙の気持ちを信じてみようと思っていた矢先に、こんな風に自分の為だけに人の命すらも利用しようとする蒼牙の気持ちが、判らなくなっていた。

「俺には理解できない。この村はどうなってるんだ?蒼牙、お前は一体何者なんだ!?」

 思わず掴んでいた腕に力を込めて、引き寄せるようにしてその顔を覗き込めば、屈託さもあどけなさの微塵もない冷めた双眸で俺を見詰め返した蒼牙は、唇の端をシニカルに捲りあげたんだ。

「俺は、俺だ。アンタが理解しようがしまいがそんなことはどうでもいい。アンタは俺の妻としてこの屋敷にいればいいんだ」

「俺の感情なんかお構いなしなんだな。呉高木家は人の命すらも自由にできる神にでもなったつもりなのか?」

 辛辣に言い放ったら、蒼牙のヤツは肩を竦めながら呆れたように笑いやがるから余計に俺の神経を逆なでしやがるんだ、畜生!

「…この世に神などいやしないさ」

 ふと、ポツリと呟いた蒼牙を、ギリギリと奥歯を噛み締めて睨みつけていた俺は、その人を喰ったような小生意気そうな顔が一瞬、物言いたげな表情に変わった気がして激しく憤っていた激情が消沈してしまった。
 神などいない、蒼牙の呟きには心情が篭もっていて、激しく責め立てたところで答えなんかきっと見付かりっこないってこと、俺だって充分よく承知してるはずなのに…
 俺は、蒼牙を大人として裏切らないって覚悟を決めていたじゃないか。

「いるとすればそれは、人の皮を被った化け物だ」

 毅然と言い放った蒼牙は、掴んでいる俺の腕を離させると、食い入るように、きっと泣き出しそうな顔をしているに違いない俺を見詰めてから、何かを思い切るように溜め息を吐いたんだ。

「もう、寝ろ。今日は何かと心身に負担をかけただろう。できるならゆっくり休め」

 そう言って、蒼牙は俺を振り返りもしないで離れに向かって歩き出した。
 その背中を呼び止めて、もう一度話がしたいと思ったけど、それを絶対的に拒絶する蒼牙の背中は言葉を掛ける隙すら与えてはくれなかった。
 そうしてまた、お前はたった独りで孤独を、永遠に拭い去れない罪を罰として心の奥深い場所に抱え込むんだろうな。生まれてから、いったいどれほどこんなことが起こっていたんだ?
 実の祖父と義父に抱かれていた過去すらも、お前は胸の奥に秘めて語ろうともしない。
 誰にも言わないし、誰も聞いてくれないと思ってるんだろ?
 俺は。
 蒼牙の立ち去った後の庭に佇みながら、両の拳が白くなるほど握り締めていた。
 俺は…
 夢の中で幼いお前に約束したんだ。
 きっと。
 お前を独りぼっちになんかしない。
 その腕を今度こそ、離したりはしない。

第一話 花嫁に選ばれた男 10  -鬼哭の杜-

 夕食に食いっぱぐれることなく主屋に戻った俺たちは、夕食までの時間をブラブラとして過ごしていたんだ。途中で高遠先輩にばったり会ったけど、気まずいのか、どちらも目を合わせずに通り過ぎようとして、擦れ違いざまに先輩から「このオカマがッ」と小さく吐き捨てられた時は正直少しショックだったけど、ムキィと腹を立てて牙をむこうとする繭葵の口許を押さえて、俺はサッサとその場を後にした。

「どうして黙ったままで逃げるんだい!?」

 向かっ腹を立てている繭葵が凄まじい形相で振り返るから、俺は肩を竦めて息を吐いたんだ。

「まあ、一般常識で考えれば仕方ないだろ?」

「ふん!判ったような顔してさ。それじゃ、蒼牙様だって馬鹿にされても仕方ないって、君はそう言うのかい?」

 繭葵が詰め寄るようにして俺を見上げてくる。
 言いたいことがよく判るから、俺は仕方なさそうに目を伏せた。

「そんなこと言っちゃいないさ。ただ、先輩は明日にはもう帰るんだ。こんなところで事を荒立てたって、却って蒼牙に迷惑をかけるだけだろ。今夜は大事な神事があるワケだし」

 な?っと目線を上げると、繭葵は納得がいかないとでも言いたそうな悔しそうな顔をして、高遠先輩が立ち去った方向に向かって思いっきりあっかんべーと舌を出したんだ。
 まるで子供みたいな仕種をした繭葵は、それでも憤懣やるかたないのか、俺に振り返ると。

「なんだよ、大人ぶっちゃってさ!臭いものには蓋をしろって?そう言う、事勿れ主義だから小雛に付け入られるんだよ!」

 俺の鼻面にビシィッと指先を突きつけてくる。
 う。
 なんだよ、繭葵のヤツ…

「話を…聞いてたのか?」

「ううん、別に。なんとなく、そうかなーって」

 思わずガックリしそうになった俺は、もういいから、飯に行こうぜと言ってプリプリと腹を立てている繭葵を促して広間に向かった。飯と聞くとこの、驚くほど好き嫌いのない健康優良不良爆弾娘は、コロッと今まで険悪だったムードを払拭すように機嫌がよくなるから…コイツってホント。
 広間に入って繭葵と顔を見合わせたのは、上座に蒼牙が面倒臭そうに胡坐を掻いて座っていたからだ。
 注目されることはとっくの昔に慣れているのか、気怠そうに片手で扇を弄びながら、肘掛に頬杖をついて立て膝で座っている蒼牙は、浴衣の裾から素足を覗かせていて、ガラにもなく俺はドキッとしてしまった。
 巫女装束の時もそう思ったけど、蒼牙は確かに綺麗だと思う。
 ただ綺麗ってだけじゃなくて、なんと言うか、危うさが常に漂っているような、傍にいて腕を掴んでいてやらないとどこかに行ってしまいそうな、そんな物憂げな雰囲気がある。
 まあ、どう言ったってよく判りゃしないんだけどなー

「光太郎くん!…蒼牙様、どうしているんだ?弦月の儀はどうしたんだろう。あ!まさかもう、終わったとか!?」

 メチャクチャ動揺する繭葵に、俺はいつもの席に繭葵と一緒に腰を下ろしながらコソッと耳打ちしたんだ。

「バッカだなぁ。飯時にいなかったらすぐに弦月の儀の時間帯が俺たちや先輩たちにバレちまうだろ?だから、食事とか風呂には入ると思うぞ。たぶん、ホントに弦月の儀が行われるのは…真夜中じゃないかな」

「…そうか、弦月の儀。つまり、呉高木家の神事は月に左右されるんだったね。月が真上に来る真夜中…そう考えれば合点がいくね。光太郎くん、あったまいーじゃん!」

 お前のことだ、俺の脳味噌なんかスカスカで、聞いた端から耳やら鼻の穴から零れ落ちてるとでも思ってやがってたんだろ。俺だってこう見えても、イロイロ考えてるんだぞ。
 繭葵は相変わらず失礼なヤツだなー
 そんなことを考えながらチラッと蒼牙を見たら、ヤツは扇で遊びながらこちらをジッと見詰めていた。
 だから、俺がドキンッとして顔を真っ赤にしたとしても何も問題はないと思うし、そんな俺を蒼牙がニッと笑う方がおかしいんじゃないかと思うんだけど。
 いつもは人目なんか憚りもせずにこっぱずかしい台詞をガンガン並べ立てるくせに、今日の蒼牙は殊の外静かだった。
 俺の大嫌いな魚料理に黙々と舌鼓を打っているし、半分以上残してる俺に対しても別に身体を気遣うようなこともなかった。まるで別人みたいだと思って眉を寄せながら庭に出ると、空にポッカリと下弦の月が浮かんでいる。月齢20歳、旧暦名だと二十一夜になる半月、今夜、何が起こるんだろう?
 弦月の儀とは、いったいどう言うものなんだろう。
 別に、それほど気にもしていなかった呉高木の神事が、唐突に気になりだしてしまったのは、それはたぶん、俺の中の本心が花嫁になることを受け入れてしまった証で、そして、小雛の言葉のせいなんだろうと思う。
 何より、桂の話では普通の朔の礼、つまり婚礼では『弦月の儀』は執り行われないんだそうだ。蒼牙のお袋さんで、桜姫のときも『弦月の奉納祭』しか執り行われなかったらしい。特別な時にだけ執り行われる神事は、呉高木家の歴史では遠い昔に、一度あったのを最後に現在までは誰も行っていない。昔は比較的よく執り行われていたらしいんだけど、現代に入ってすっかり鳴りを潜めていた『弦月の儀』を、蒼牙はどうして執り行おうなんて思ったんだろう…まあ、俺なんかが考えたって判るもんじゃないんだろうけどな。

「楡崎様。夜風はお身体に障ります。どうぞ、屋敷にお戻りくださいませ」

「桂さん。うん、でもさ。月が綺麗なんだよ」

 俺の身体を案じてくれる、蒼牙の影のように付き従う桂に振り返りながら、天空にポッカリと浮いている半月を指差しながら小さく笑った。すると桂は縁側に正座したままでハッとしたような顔をしたけど、すぐにもとのポーカーフェイスに戻って微かに頷いたんだ。

「月は時に人を惑わせてしまいます。楡崎様のお姿がお隠れあそばせば、蒼牙様がお気に病みますのでどうか、屋敷にお戻りくださいませ」

 そうか、今夜は大事な神事があるもんな。
 それでなくても大切な神事があって神経がピリピリしているときに、俺がウロウロしてたら気になって仕方ないんだろう。桂は表情こそ変えないけど、心配そうなその気配を、迷惑そうだと思い込むのは天邪鬼な俺の悪いクセだ。

「あー、はいはい。判りました、戻りますよ」

 桂が幾分かホッとしたような表情を見せたから、どうしてそんなに心配するんだと首を傾げてしまう。
 まあ、昨日逃亡としたときも、夜はヤバイと蒼牙も心配していたから、こんな妖怪でも徘徊してそうな村なら何が起こっても不思議じゃないんだろうがな。
 小手鞠の正体を知ってしまえば、素直に桂の言うことを聞くほうが賢明だとは思う。
 あ、それとも。
 昨夜俺が逃亡したから、また逃げ出すんじゃないかって心配してるのかな?拙いことをしちまったなぁとは思うけど、あの時はああするしかなかったんだ。それに!そもそも蒼牙が悪いんだ!勘違いするようなこと───…そう言えば。

「そうだ、今日の蒼牙はちょっとヘンじゃなかったか?桂さん、アイツ。本当に蒼牙だったのか??」

 首を傾げる俺に、はて?と言いたそうな顔をした桂は、ああ…と思い至ったのか、畏まって正座したまま首を左右に小さく振って答えてくれた。

「奉納祭を終えてから神事を執り行うまでは、嫁御さまと言葉を交わすのは禁じられているそうでございます。なので、蒼牙様は楡崎様がお食事を召し上がっておられなかったのを大層心配してお出ででしたが、お言葉に出来ないと悔しがっておられました」

「そうだったのか!…なんか、神事ってイロイロあって大変なんだなぁ」

「世にも得難い嫁御さまを娶られますので、それは致し方ない試練でございます。蒼牙様は喜んで臨まれてお出でだと思いますよ」

 蒼牙が言わなきゃ桂が言ってくれるこっぱずかしい台詞に、俺は頬が熱くなるのを感じながら困ったように苦笑してしまった。

「楡崎様。蒼牙様からの言伝でございます。今宵は仕事部屋に篭もられるそうですので、お先にお休みになってくださいとのことです」

「え?ああ、そっか。はい、判りました」

 俺が素直に頷くと、桂は小さな微笑を口許に浮かべて深々と頭を下げたんだ。
 この人のこう言うところって、なかなか慣れないんだけど、その微かに見せるようになった微笑は、案外お気に入りだったりするんだ。
 もっと笑ってくれたらもっと親しみ易くなれるのに、でもそれは、ポーカーフェイスが専売特許の桂としては、執事の鑑のような彼には無理なことなんだろうなぁとは思うから、無理強いはしたくないけどな。
 広間はお手伝いさんたちが片付けを始めていたし、不機嫌のオーラを漂わせていた高遠先輩は時折ギロッと蒼牙を睨んでいたけど頭から無視されて、さらに湯気でも出そうなほど腹を立てて民俗学研究部の仲間を引き連れて早々に部屋に引き揚げてしまっていたし、伊織さんも眞琴さんもさっさと部屋に戻ってしまったようだった。残されているのはお手伝いさんと、俺が食べ残してしまった魚を物欲しそうに見ていたら、見兼ねたお手伝いさんが台所にあったらしいお菓子をくれるのを喜んで戴いている繭葵ぐらいか…

「大概、食い意地が張ってるよな」

「うっさいね。魚を半分以上も残す光太郎くんには言われたかないね」

 フンッと外方向いてムシャムシャと饅頭を頬張る繭葵に、なんだと、この野郎と睨んでいると、クスクスと笑う声がして振り返ったら、手を止めてしまっていたお手伝いさんたちが慌てたように作業を再開するから、俺は肩を竦めながら意地汚い繭葵を指差して言ったんだ。

「コイツに餌付けしたら駄目だよ。懐かれるからな」

「えー、いーじゃん。いつも食後のお菓子は貰ってるもんね♪」

 繭葵が反論するように言うと、引っ込み思案なのか、それとも俺と口をきいてはいけないとでも思い込んでいるのか、お手伝いさんたちは顔を見合わせると、恐る恐ると言った感じで口を開いた。

「はい。繭葵様にはいつも、残り物で申し訳ないのですがお菓子を差し上げています。ですが、迷惑ではありません」

「え?そうなんだ。じゃあ、俺にも頂戴よ」

 エヘッと繭葵を見習って笑ってみると、妖怪娘は「むむ!?ボクの専売特許を取ったね!父さんだって取ったことないのに!!」と、どこかで聞いたことがありそうな台詞を言いやがるから、お手伝いさんたちは肩を寄せ合うようにしてクスクスと笑ったんだ。

「私たちのくわっしゃるもんで宜しければ、ようけありますから、嫁様もどうぞたべなっしてください」

 この村の方言なのか、蒼牙たちが標準語で話しているせいで少しも気付かなかったけど、聞きなれない言葉で話す彼女はニコニコ笑いながらエプロンのポケットから紙に包んだ饅頭を取り出して両手に包み込むようにして俺に差し出してきたから、俺は礼を言ってそれを受け取った。

「ありがとう。丁度甘いものが欲しかったら嬉しいなぁ」

 笑いながら早速口にすると、どうもそれは手作りのようで、合成甘味料の使われていない自然の甘さは、ほろほろと口の中で溶けていく。一言で言うなら、正直旨い!
 さすが、繭葵。食い意地が張っている分、旨いものは見逃さないと言うことか。

「旨いなー、これ。繭葵が内緒で餌付けされてるワケだ」

「む!人聞き悪いこと言うじゃないか。どーせ、光太郎くんもその味を覚えたらメロリンになるんだからねー」

「もうなってます」

「うは♪」

 俺たちの会話を聞いていたお手伝いのお姉ちゃんたちはクスクス笑ってるし、俺に饅頭をくれた子も嬉しそうに頬を染めながらニコッと笑った。

「それは私が作りましたけ、毎日ようけあります。嫁様にも差し上げます」

「ホント?いえー、やったぜ♪」

 そう言って親指を立てながら繭葵を見下ろすと、ヤツは胡乱な目付きで俺を見上げながら、クッソーッと言いたそうに歯を剥いていたけど、すぐにニシシシッと笑いやがったんだ。

「ね?食後に部屋にすぐ戻るんじゃなくて、ここにいたらこんな美味しいデザートに有りつけるんだよ♪新発見におっどろきだね!」

「だなー」

 そんな遣り取りをお手伝いさんたちは互いの顔を見て笑いながら、そろそろ部屋の片付けに取り掛かったから、俺たちは邪魔にならないようにお礼を言って広間を後にした。

「じゃあ、真夜中…そうだね、でもやっぱり確実に神事を見たいから、11時半に集合しようよ」

「ああ。一風呂浴びて、散歩がてら小手鞠たちのところに行ってみるよ」

「コテマリ?」

「ああ、あの地蔵さん…」

 そうか、繭葵は知らないのか。
 そりゃあ、そうだな。この民俗学のことしか頭にない爆弾娘に小手鞠たちの正体でもバレようものなら…うわ、想像しただけで鳥肌が立っちまった。

「地蔵がコテマリって名前なのかい?」

「…いや、ごめん。間違えた」

「んー?なーんか、怪しいなぁ。光太郎くん、ボクに何か隠してない?」

「いや?別になんにも」

 空惚けて知らん顔すると、繭葵は回り込むようにして俺の顔を見ようとしていたけど、どうしても外方向くもんだから悔しかったのか、「とお!」と言って向こう脛をまたしても蹴りやがったんだ!

「いってー!!」

「そりゃ、痛いよ。痛いように蹴ったんだ。だがまあ、今回の件は光太郎くんの痛がる顔を見られたから許すけど、この繭葵ちゃんに隠し事なんてナッシンよ!」

 お前はどこの何様だよ、くそぅ。

「じゃあ、11時半に絶対だからね!」

「はいはい、必ず行くよ」

 じゃないと、お前1人で行かせたら絶対!何か良からぬことが起こるって嫌でも予感がヒシヒシしてるもんな。絶対について行かないと、いや、ついて来るなって言われてもついて行きたい気分だぞ。
 最初は嫌だったんだけど、繭葵を1人ってのも怖いしなぁ。
 知ってて知らないふりなんて、やっぱり俺にはできないから。
 それじゃあね、と言ってから、繭葵はまるで野兎のような敏捷さでサッサと何処かに消えてしまった。
 アイツ、いつもどこに行ってるんだ?
 なんにせよ、ここは妖怪も住まう奇妙な屋敷だ。
 繭葵が調べたいことなんか山ほどあるんだろう。
 厄介なことにならなきゃいいんだが、とか思いながらも、何処かでワクワクと楽しんでいる自分がいることもまた事実だから…俺は、仕方なく溜め息を吐くんだ。
 俺も大概、野次馬だよなってさ。

 小手鞠たちがジーッと俺を見上げている。
 屈みこんで自分の腿に頬杖を付きながら見下ろす小手鞠たちは、小さな石の身体を寄せ合うようにしてニコニコと笑っている。でもよく見ると、その笑顔が困惑してるのか、月明かりの下だと劇画ちっくで不気味だ…

「今夜は喋ったらダメなんだぞ。繭葵のヤツが来るからな。そうしたらお前たち、あの妖怪娘に石の髄までしゃぶり尽くされて、学会で発表されたら一生見世物扱いだ」

『うぬ、嫁御よぉ』

『儂らを見世物にできる者など誰もおらんのじゃぁ』

『その妖怪娘とやらをのぉ』

『儂らが喰ろうてしまうぞぉ』

『ふぉっふぉっふぉ』

「だから、笑い事じゃないんだって」

 一部で聞き捨てならない台詞に眉を寄せながら、付いていた頬杖を解いて溜め息を吐いて立ち上がると、やっぱり小手鞠たちはジーッと笑顔で俺を見上げてくる。

『時にのぉ』

『嫁御よ』

 やれやれと眉を寄せながら、繭葵が来るまでになんとかこの判らんちんの小手鞠たちを言い包めようと企んでいる俺は、にこにこ…と言うか、困惑したような劇画顔でニタリと笑っている地蔵の群れを見下ろしていた。

「な、なんだよ?」

『こんな夜更けに散歩かのぉ?』

『桂の姿が見当たらんがのぉ』

 ギクッとした。
 そうか、昨夜も俺は逃亡して小手鞠たちに心配かけたんだった。
 あの時は頭が痛くなるほど泣いて、泣いて泣いて…もう、何もかもどうにでもなれって思ってたら、小手鞠がぴょんぴょん飛び跳ねながら上から降りてきたんだっけ。
 それで俺を取り囲んだんだ。
 何があったんだって、泣いてる俺を随分と心配してくれて…困ったな、また、小手鞠たちに心配かけてしまうんだなぁ。

『じゃがまぁ、今夜は泣いておらんのぉ』

 良かった良かったと言いたそうに顔を見合わせて笑う小手鞠たちに、俺は申し訳なく思いながら苦笑していた。何か言おうと口を開きかけた時だった、慌てたような足音が響いてその瞬間、小手鞠たちはまるで地蔵なんじゃないか!?と疑いたくなるほどコチンッと硬くなって、そのままムッツリと黙り込んでしまった。
 思わず突きたくなったが、肩で息をしながら大袈裟にゼィゼィ言ってる繭葵を見下ろしたら、小手鞠たちにちょっかいを出す気なんか失せてしまっていた。

「ご、ごめ!出掛けにさぁ…はぁ、疲れた。伊織さんから呼び止められちゃって。全力疾走で走ってきたよ」

「お前なぁ、そこまで飛ばさなくてもまだ充分、時間はあるはずだろ?」

 そう言って見上げた空には、下弦の月がポッカリと頂点に来ることもなく浮かんでいる。
 その姿は清廉な光に輝きながら、まるで無頓着に、俺たちなんか本当にちっぽけな存在だなぁと思わせるほど、淡々と浮かんでいるからちょっと哀しくなった。
 欲望の多い人間は、その高みに近付くことすら出来ないんだなぁ。
 月に降り立った宇宙飛行士は、その実態すらあやふやなんだから、人間は今一歩で立ち止まってしまうからいけないんだろう。

「…で、そうなるんだよ。ボクの狙いだとね」

「あ?あー、ごめん!聞いてなかった」

「グハッ!やっぱりそうじゃないかって思ったんだよね!なんか上の空っぽかったし、最近どうしたんだい?ボーッとしてることが多いみたいだけどさぁ」

「いや、なんでもないよ」

 そうは言ったが、良く考えるとホントにボーッとすることが多くなったような気がする。
 きっと、この村がいけないんだ。俺を花嫁として本気で迎えるなんて…誰か、誰かが反対してくれれば、今頃その傍らに寄り添っているのは小雛だったのに。
 あ、そっか。
 直哉は反対したってのになぁ。
 唇を噛んだら、呆れたように繭葵が溜め息を吐きながら見上げてきた。

「また下らないこと考えてるんだね。でも、今夜はもう相手にしないからね!今日は待ちに待った『弦月の儀』だよ!!ほら、ボサッとしてないでついて来るッ」

 ボグッと、何やら鈍い音を立てて背中を殴ってきた繭葵に、俺は思い切り咳き込みながら涙の霞む目であの健康優良問題児を睨み付けながら、サッサと山の中を掻き分けて入っていく唯我独尊娘の後を慌てて追ったんだ。
 その背後でふと、小さな声が聞こえたような気がした。

『嫁御が弦月の儀に向かう』

『なんたることか…いや』

『或いは罪深い龍の子』

『侮れぬ龍の子』

『致し方あるまい、見守るのじゃ』

 呟きは突風に吹き消されて、俺の空耳でしかなかったのかもしれない。
 いや、そんなことよりも、早いところ繭葵に追いつかないと。
 俺は暗闇の中、繭葵が持参した懐中電灯の明かりを頼りに奥へ、さらに深い山の奥へと、まるで永遠にぽっかりと開いている無限の闇の中に飲み込まれるような錯覚がして、思わず身震いしてしまった。

「ふふーん♪今から震えてたら吃驚することが起こったときに腰を抜かしてしまうよ」

「ふ、ふん!これは武者震いだ」

「へー、そう言うことにしといてやるよ♪」

 どうだかねーと言いたそうにニヤニヤと双眸を細める繭葵に、本当だってばと言い訳しながら、俺はひょっこりと毒蛇でも顔を出してくるんじゃないかと冷や冷やしながら歩いていた。
 ふと、躊躇いもなく真っ直ぐに進んでいた繭葵が、そのまま歩きながらポツリと口を開いたんだ。

「光太郎くん。今回は巻き込んでしまってごめん」

「へ?なんだよ、突然。急にしおらしくなったらビビッて腰抜かしちまうぞ♪」

 唐突な繭葵の声音の低さに、ふと、何か嫌な響きを感じたような気がして殊更俺は、明るく振舞ったんだと思う。
 繭葵はそんな俺に溜め息を吐いたけど、それでも毅然と前を見据えたままで言ったんだ。

「光太郎くんは何も知らないのに…ボクはきっと、蒼牙様に殺されてしまうね」

「な、何言ってんだよ?そんな、改まるなよ」

 繭葵の声音は低かったし、その言葉はとても慎重だった。
 こんな山の中でそんな物騒なこと言ってくれるなよ…と、俺が思わずにはいられないってのに繭葵のヤツは、それでも黙ろうとはしないんだ。それならいっそ、もっと楽しい話をして欲しい。

「あのね、光太郎くん。この山は通称、『鬼哭の杜』って言われてるんだ」

「山なのに、杜なのか?」

「うん、だってここは巨大な神社だからね」

 神妙に頷いて小さく笑う繭葵に、自分のボキャブラリーのなさにバツが悪く思いながら、俺はもう黙って彼女の話しに耳を傾けることにした。
 繭葵は少し言葉を詰まらせて、眉間に皺を寄せながら首を傾げている。

「その意味がどんなものなのか、ボクには判らないんだけど…『鬼哭』と言われるぐらいなんだから、何だか凄惨なイメージって浮かばないかい?」

 そう訊ねられても単純な俺の脳味噌だと、周囲を見渡しても、毒蛇だとか薮蚊とかさえ気にしないんでよければ、それほど陰鬱なイメージを感じることはできなかった。

「いや、言葉だけならそうかもしれないけど。俺はこの山は好きだけどな」

「好き嫌いの問題じゃないってば。うもー、ちゃんと言葉の意味判ってんのかい?」

 失礼なヤツだな!…と、俺は肩を並べて道とも言えない獣道を、ああスニーカーを履いてきていて本当に良かった!と心底思いながら、草木を揺らしてムッツリすると、繭葵のヤツは仕方なさそうに鼻先で笑いやがったんだ。
 とことん、失礼なヤツだ。

「この村は驚くことばかりだよ。ちょっと話せば親しみ易い人ばかりなのに、核心に触れた話しをすると途端に擦り抜けて行くんだ。まるで、そうだね。まるで、余所者には用はないって言われてるようで悔しいよ。その点で言うなら、光太郎くんはもう呉高木のお嫁さんだから、もしかしたらこんなことしなくても蒼牙様が弦月の儀について説明してくれたかもしれないのに。ごめん」

 繭葵は一気にそこまで話すと、申し訳なさそうに、まるで溜め息みたいに語尾を呟いたんだ。

「謝るなよ!ハッハ、最初からヘンな出会いなんだしさ。俺たち、どーせ悪さして見付かるのは運命共同体なんだぜ?グチグチ思い悩むのは繭葵らしくねーよ」

 そう言って軽くその背中を叩いてやると、繭葵はちょっとキョトンッとして、それからどこか痛そうな、ムスッとした顔をして俯いてしまったんだ。
 うわ、俺ヘンなこと言っちまったかな?
 慌てて弁解しようと言葉を探していたら、繭葵のヤツは子供みたいに唇を尖らせると、俺の背中を、俺が叩いた3倍にして殴り返してきやがったんだ!グヘェ!!

「イッテーなもぅ!お前は手よりも先に口は出せないのかよ!?」

「こう言う性格なんだ、仕方ないでショ?光太郎くんって凄い親しみ易いって思ってたんだ。話せば話すほど魅力的だし。強ち、ボクが朝に言ったことは嘘でもないんだよ」

 ん?朝に言ったことって…あの、俺を好きだとかなんだとか言う話か?
 また、コイツ特有の冗談が始まった。

「ボクは光太郎くんが好きだよ。でもそれは、友人としてなんだ。だって君は…」

「俺は?」

 いつもだ、いつもここで話が途切れてしまう。
 あの時もそうだった。
 繭葵が何か言いかけたとき、眞琴さんがさらりと止めてしまった。
 でも、いまは期待なんかしちゃいない。
 どうせ繭葵のことだ、だって光太郎くんは蒼牙様のお嫁さんだもんねーとかなんとか、そんなことでも言い出すんだろうと高を括っていたから。

「君は、欧くんにソックリだからね♪もうね、あの子も抜けてて困るんだよ。大事な資料とか平気で忘れてくるし、ボクがいないと今日からでも生きていけないんじゃないかって思ってさ。お人好しでどんなことにも心を砕いて…絶対、振り込め詐欺に引っ掛かるタイプだよ」

 ハァッと溜め息を吐いて頭を左右に振る悩める繭葵には悪いが、俺はその話題になっている欧ってヤツが可哀相になっていた。
 コイツといれば振り回されっぱなしなんだ、そりゃあ、随分とお人好しなんだろうなって思うよ。
 繭葵と一緒に行動ができてるぐらいなんだからな。

「…そんなに心配してるのに、欧ってヤツは置いてきぼりか?」

 ニヤニヤ笑ったら、繭葵のヤツはムーッと下唇を突き出すようにして俺の顔を見上げてきたんだ。

「ボクは曲がりなりにも花嫁候補だったんだよ?男である欧くんを連れて来るワケにいかないじゃないか。欧くんはついて来たがっていたんだけどね」

 その口調は、どうやら繭葵もついて来て欲しかったようだ。
 それでなんとなく、本当は繭葵のヤツは『生涯独身宣言!』なんて馬鹿なこと言ってたけど、その欧と言うヤツに惚れてるんじゃないだろうかと…勝手に妄想してしまった。
 そうして考えると、この勝気そうな瞳をした、真っ暗な闇が支配する山の中で、やけに物騒な『鬼哭』なんて発言する豪胆振りを窺わせはしているとしてもだな!…やっぱ、女の子なんだなぁと思ってしまう。
 よく見れば身体も小さくて、肩も驚くほど細いし…そんなことを俺が考えていたら、繭葵のヤツは軽く息を吐き出してフイッと視線を外してしまったのだ。

「くっそー、ここにアイツがいたら、光太郎くんを抱えさせてもっと早く進めるんだけどなぁ」

 ああ、利用してるだけなのか。
 そうか、少しでも繭葵に女らしさを求めちゃいけなかったのか。
 頑張れ、俺。
 ひっそりと笑いながら拳を握ったら、不意に足を止めた繭葵に思わずぶつかりそうになって俺は慌てて謝ろうとして、問題娘に「シッ!」と片手で制されてしまった。
 小さな身体ではあるがそのぶん小回りが利いて、フットワークのよさはぴか一だ。

「どうやら、本番には間に合ったみたいだね」

 そう言ってニヤリと笑った繭葵に倣って腰を屈めようとして、ふと、繭葵が草や木の影に隠れながら睨むようにして見詰めている先を見て驚いた。
 そこには、夕方に見た巫女装束とは違う、まるで平安時代の着物とでも言えばいいのか、真っ白なのに銀糸で彩られた着物は月明かりの下で幻想的だった。なのに、その顔をスッポリ覆ってしまった白頭(しろがしら)…まあ、能とかで蓬髪に般若の面(おもて)の、良くある赤い髪じゃなくて白髪バージョンのことなんだけど、専門用語は繭葵が興味深そうに教えてくれた。
 その目付きは爛々としていて、なんだか訊ねるのが申し訳なく思ってしまう。
 だってさ、すげー楽しそうなんだ。
 俺にしてみたら、こんな真夜中、篝火と月明かりだけで観客もいない舞台で舞を舞うなんかどうかしてると思うんだけどなぁ…

「違うよ、光太郎くん。あそこには、この村の龍神が舞い降りてるんだよ。だから、誰にも見せてはいけない能楽なんだ」

「へ?」

 コソコソと覗き見している身の上としては極力聞こえないようにひそひそと話してくる繭葵に、俺は眉を顰めながらその顔をチラッと見た。あそこのどこに、そんなご大層なヘビもどきがいるってんだ?

「祝言能にしてはヘンだね。高砂でもないし、あれは…岩船?それとも…春日龍神かな。どちらにしても、あの能楽の演目、ボクはまったく見たことがない。ってことは、あれが代々呉高木家に伝わる曲目なんだね」

「そ、そうなのか?」

 ポンポンッと聞き慣れない名前が次々と出て俺が戸惑っているからって、脳味噌がスカスカなんて笑うなよ?どうせ、今の繭葵の台詞を聞いてるヤツがいたとして、その半分だって理解してないんじゃないかって思うしな。

「曲目は『鬼哭の杜』。そんなの初めて聞くよ」

「あれ?その名前って…この山のことだよな」

「うん、たぶんそう。シテは蒼牙様だよね、やっぱり」

「シテ?」

「主人公のこと」

 軽く答える繭葵にそうかと頷いて能を舞う蒼牙に目線を移したとき、どうしたんだろう、俺はゾクッとしていた。
 蓬髪に埋まるように見える鬼の面をつけた蒼牙と、こんな草叢に身を潜めてビクビクしながら見ている俺の目が、まさか合うなんてことは…起こり得ないだろう。
 そんな有り得ない錯覚に冷や汗を浮かべた俺は、きっとアレだ、コンサートなんかで歌手と目が合うって言うあの現象だ。
 そうに決まってる。
 自分に言い聞かせるようにして気を落ち着かせた俺は、あの鬼の面の向こうからこんな所まで見えるわけがないんだと思い込んだ。
 だってさ、面に開いている視界のための穴って、驚くほど小さいんだそうだ。
 恐る恐る真剣に見ている繭葵に聞いたら、上の空でそう教えてくれた。

「そうか…流れはきっとあの舞が…」

 ブツブツと呟きながら眺めている繭葵を見ていると、どうやら、この『弦月の儀』は繭葵にとっては本当に興味深くて、どうしても見ずにはいられないぐらい魅力的なものだったんだろう。
 んー…この民俗学に於いては自分こそが神だとでも思っている唯我独尊問題児が、まるで知らない演目を蒼牙が舞っているんだ。そりゃあ、見たくて仕方なかったんだろうな。
 鬼哭の杜…か。
 それにしたって、ゾッとしない曲目だな。
 亡者の嘆き哀しむ声って意味だったよな、確か。
 亡者の嘆き哀しむ声のする杜…ってのも、なんか嫌な通称だなぁ。
 俺はこの山は好きなのに、こんなに清々しくて清廉とした静けさを持つ綺麗な場所なのにな。どうして呉高木の連中はこんな綺麗な場所で、そんな寂しい演目を舞うんだろう?

「…あ!子供が出てきたよ。ふーん、在り来たりといえば在り来たりなんだけど。時の帝が治める朝廷で叛乱が起こった。そこにいた近衛府の武士が、命辛々逃げ出して山村に下る。そこで鬼に間違われ斬り殺されたことを怨んで、とうとう怨念の塊に成り果てた武士が、村人たちを山中で惨殺していく。でもある時、村の娘が許しを請うんだけど。その時鬼になった武士は娘の胎にいた子を差し出せ、その子供の血を差し出せばなんでも一つ願いを叶えてやる。たとえば、村を救う…とか。そんな内容みたいだね。で、今、子供が元服を迎える年になったんだよ」

「…やっぱ、こう。お祝いの能なんだから、最後はその子供に助けられて、武士は救われる!…とかじゃなさそうだな、あの雰囲気は。うわ、俺見たくないなー」

 繭葵の長ったらしい説明をそれでも俺は興味深く聞いてたけど、僅かでもこの凄惨そうな演目に希望でもありやしないかと期待してみていたんだけど、怯えたような寂しそうな、そのくせ、覚悟すら決めているような気丈な眼差しをした少年が舞いながらシテ柱、えっと大きな舞台の向かって左奥にある柱の辺りに座り込んでしまったのを確認したら、どうも俺の考えは浅はかだったと思い知らされてしまった。

「なに、ホントに殺されるわけでもないのにヘンな顔してるんだい?光太郎くんがそんなに
感化され易いなんて───…ッ!」

「ッッ!!!」

 お互い、悲鳴を上げなかったのは天晴れだと思う。
 それもそのはずだ、気付けば俺たちは互いの口を押さえ合っていたんだ。
 悲鳴が息と一緒にコクンと咽喉の奥に嚥下されたとしても、俺たちは目の前の凄惨な光景から目が離せないでいた。
 覚悟を決めたように瞼を閉じた少年の頚にスラリとした、真珠色の月の光を反射させる綺麗な人殺しのための道具、刀が押し当てられていた。それで、演技なんだから終了じゃないのかよ!?って、思わず喚き散らしたくなったのは、蒼牙が躊躇いもせずに少年の頚をその刃で切り裂いたからだ!
 咽喉がパックリ割れて、鮮血が吹き零れた。
 頚動脈が断絶されて、止め処なく溢れる血液は蒼牙の真っ白な蓬髪と白い着物を真っ赤に染め上げていく。それでも蒼牙は何事もなかったかのように舞って、娘役の眞琴さんが至極当然のように、悲しげな女性の面をつけて舞いながら登場すると、その吹き零れる血を壷に受けて着物の袂で涙を拭うような仕種をしながらゆっくりと橋掛かりを渡って鏡の間に引っ込んでしまった。
 バクバクと心臓が飛び出しそうなほど動揺している俺がハッと繭葵を見ると、さすがに蒼褪めた彼女は額にビッシリと嫌な汗を浮かべたままで食い入るように舞台を睨んでいる。
 渇いてしまうんだろう唇を、何度も何度も舐めていた。
 きっと、今の俺もそうだ。

「冗談…だよな?」

「演技だって…信じたいね」

 少年の身体から生命の名残りのように流れ落ちていた血液でべったりと着物を真っ赤に汚したまま、彼はふらふらと何度か上半身を揺らして、それからガクリッと倒れ込んだんだ。ジクジクと板張りの床に染み渡るようにして流れて行く少年の生きた証は、まるで無情な鬼そのままのように、蒼牙は踏み締めて少年の周囲で扇を翳して舞っている。
 あまりに無頓着で、無関心な冷たい月のような姿は鬼の役としては上出来なんだろうが、見ている俺にとっては心臓がつぶされるような思いだった。
 そうして般若の形相で舞を演じていた蒼牙に、ふと、最後の名残りのようにガクガクと震える指先を伸ばした少年が、ヤツを見上げて何かを呟いたとき、蒼牙は微かに頷くような仕種をしていた。それにホッとしたような少年がガクリと倒れると、蒼牙は躊躇いもせずにその背中に留めでも差すように刀を突き立てたんだ!
 信じられない。
 ああ、とても信じられることじゃない。
 目の前が真っ赤になったような気がして、何か、これは遠い世界で起こっている非現実的な嘘なんじゃないかって…
 だって蒼牙が、人を…それも年端も行かない子供を…

「う、うわぁぁぁッ!ひ、人殺しだぁぁぁッッ!!」

「キャーッ!」

 俺たちとは反対の茂みに隠れていたのか、高遠先輩とあれは…確か香織とか言う先輩の連れだ。
 腰を抜かしたようにしてヘタれる彼女の腕を掴んで立たせながら、先輩は猛然と山の中に走って行った。その後ろ姿を…あれは、桂じゃないか!
 内容は知らないとか言いやがって!!
 桂が腰に差した鞘から抜刀でもする勢いで飛び出そうとしたが、ふと、鬼の面をゆっくりと外した蒼牙がまるで光の加減のせいなのか、それとも篝火を反射して?どちらにしても、まるで金色に見える双眸を細めながらニヤリと笑ったんだ。

「捨て置け、桂。今宵は『弦月の儀』、鬼哭の杜の亡者どもが魂までも喰らってしまうだろうよ」

「ですが、蒼牙様…」

「ククク…物見遊山の鼠などどうでもいい。愛しい妻に、滞りなく神事が終わったと報告をしてやらねばな」

「…出過ぎた真似を致しました。申し訳ありません、蒼牙様。光太郎様がお待ちでございます」

 桂が恭しく地面に直接膝を付きながら頭を垂れると、面と血塗れの刀を持った蒼牙は何がそんなに可笑しいのか、咽喉の奥でクククッと笑いながらゆっくりと背中を向けたんだ。

「高柳の息子の葬儀もしてやるんだぞ」

「畏まりました」

 平伏したままで桂が言うと、蒼牙はそれっきり振り返りもせずに仮設の舞台の橋掛かりを渡って鏡の間に姿を消してしまった。

「…た、大変だよ!光太郎くん、戻らないと」

「あ、ああ…判ってる」

 それでも膝が笑って思うように立ち上がれない、それは繭葵もそうだったのか、どれほど豪胆な気性の持ち主だとしても、繭葵も女の子なんだ。堂々とした殺人現場を見て気丈でいられるはずがない。
 ここは男の俺が確りしないと!
 笑い出す膝を叱咤しながら立ち上がった俺は、最後にチラッと舞台を肩越しに振り返ったけど、やっぱりあれが夢じゃないことを叩きつけるように、桂が事切れてぐったりとした少年を抱え上げて連れ出すと、他の呉高木の重鎮どもが舞台に飛び散ってしまった夥しい血痕を清め出していた。
 桂に抱えられた少年の、力をなくしてぶらぶらと揺れている血の気の失せた腕が、何故か脳裏に焼き付いて離れなかった。

「警察に…言うべきかな?」

 なんとか立ち上がってコソコソと山を降りる道すがら、繭葵がポツンッと呟いた。

「先輩たちが言うだろうから…明日には警察も来るさ」

「そっかな…さっき、蒼牙様が仰ってた言葉」

 覚えてる?と、眼差しだけで聞いてくる繭葵に、俺は息を呑みながら頷いた。
 もう慣れてしまっているはずの山道にそんなに息苦しくなるはずはない…から、きっとこれは、まだ動揺が収まっていないんだろう。

「鬼哭の杜の亡者ども…って、あれか?」

「うん。まさか、冗談だよね?」

 民俗学の中枢を担う期待の新星が、何を弱気な口調で言ってるんだよ!…って、励ましてやれたらよかったんだろうけど、ここは妖怪も棲みついてる奇妙な山だ。
 何が出てもおかしかないとは思うけど…それでも、一概には信じられない。

「なんとも言えないけど…取り敢えず、今夜は寝よう」

「う、うん。でも…光太郎くんは感情が顔に出易いから。蒼牙様に悟られないように気をつけるんだよ?」

「あ、ああ。任せとけ!」

 どこをどう歩いて下山したのかは判らないけど、俺たちは互いの顔を見合わせて必ず明日の朝日を見ようと約束し合った。どうしてそんなことしたのかは判らないけど、できれば、2人ともきっと、離れ難かったんだと思う。
 あんな場面を見せ付けられて、俺が平常で蒼牙の胸に抱かれて眠る…なんて器用なこと、きっとできないだろうと繭葵は心配しているんだろう。俺としては、トラウマにもなり兼ねないショックを受けたに違いない繭葵を、独りぼっちにするのが忍びなかったんだ。
 俺の空元気に一瞬困惑したような顔付きをした繭葵はしかし、それでも仕方なさそうに首を左右に振って溜め息を吐いたんだ。

「今夜はなんだかヘトヘトだね。眠れるかどうか判らないけど、眠れるんだったら、グッスリ眠ろう」

「あ、ああ。お前、大丈夫か?」

「なっ、に言ってんだよ、もう。ボクは光太郎くんの方が心配だよ。蒼牙様と夜明けまで一緒なんだからね?もうね、眠れるんなら寝る。それか、蒼牙様が来る前に寝たフリでもかましちゃえよ!」

 ウィンクされて、任しとけと反撃してやると、繭葵は少しホッとしたように溜め息を吐いて、それから名残惜しそうに別れたんだ。
 トボトボと歩いて行く繭葵の小さな背中を見送ってから、まだ動揺から立ち直れていない俺はそれでも、グッと拳を握り締めながら息を飲んでいた。
 きっと、大丈夫だ。
 そんな、途方もないことを考えながら、俺は鬼の寝室を目指すと震え出しそうになる両足を叱咤して歩き出していた。

第一話 花嫁に選ばれた男 9  -鬼哭の杜-

 『弦月の儀』を執り行うと言うことは、つまり『弦月の奉納祭』があるってワケで、俺たちのように遠い親戚にしかならない連中は『弦月の儀』にはお呼びじゃないそうだ。
 昨夜から異常に機嫌の良い桂が、本日の予定を事細かに説明してくれたが、肝心の『弦月の儀』についてはこれっぽっちも教えてくれない。だから、それとなくおねだりしてみたら、桂自身もその内容がどんなものであるのかは知らないとのことだった。
 うーん、怪しい。
 ムムムッと桂を睨んだところで、ポーカーフェイスが専売特許の桂にとってはどこ吹く風で、仕方なく俺は彼から聞き出すのを諦めることにした。
 裏山、まあ、龍刃山にでも散歩に行って、途中で小手鞠たちに会ったら昨日の礼でも言っておくかなーとか思いながら部屋を出ようとする浴衣姿の俺に、桂はやっぱり無表情のままで言ったんだ。

「蒼牙様にお尋ねになれば、或いは教えて頂けるかもしれません」

「うーん…今朝も試みたけど、怖い顔してダメだ!って切り捨てられちまったよ」

 トホホ…ッと眉を寄せる俺に、桂さんはソッと申し訳なさそうに眉を寄せて言った。

「漸く楡崎様がお心を開かれたのでもしやとは思ったのですが…申し訳ございません、浅はかな考えでございました」

 深深と頭を下げる桂に、俺は思いきり慌てて顔を起こしてくださいと言っていた。
 そんな、朝っぱらからこっぱずかしいこと言わないでくれよ~
 それでなくても今朝だって、目が覚めたら蒼牙のヤツがジーッと顔を覗き込んでいて吃驚したってのに。
 それも開口一番で。

「いつまで見ていても見飽きないな、アンタの顔は。一日だって見ていられる、愛しいからな」

 と、そんなふざけたことを言って俺を真っ赤にさせたんだ。
 耳まで赤くなっていたら、クソ意地の悪い蒼牙のヤツは、クスクスと笑ってそんな俺にキスをしてきた。啄ばむだけの、柔らかいキス。
 それはきっと、俺があの時、照れ臭いとか言いながら嬉しそうな顔をしたからだと思う。
 そう言うところは驚くほど素直なヤツだからなぁ…
 やれやれと溜め息を吐いていたら、無表情のままで桂がジッと見上げてきているのに気付いてハッと我に返った俺は、取り繕うように乾いた笑い声を出していた。

「…蒼牙様に愛されて、どうぞ、健やかなお子様をお授け下さいませ」

 ふと、桂が呟くようにそんな、おいおい勘弁してくれよ的な発言なんかするから、俺はますます顔を真っ赤にして俯かなきゃならなくなっちまった。
 子供なんて…本気で考えてるワケじゃないんだろうけど、それでも村人たちや、一族の願いは蒼牙の子供なんだよなぁと、あれほど馬鹿らしいと考えていたことを今は真剣に考えている自分が現金つーか、なんつーか、穴があったら入りたい気分かな。

「その、そ、それじゃあ、桂さん。俺、ちょっと朝飯まで裏山散策してくるよ」

「はい、お気を付けてお行きくださいませ。ご用がございましたら、いつでもお呼びください」

 一瞬、口許に笑みを浮かべたように見えたんだけど、確認しようとした矢先に、既に桂は頭を下げていた。
 蒼牙にしろ桂にしろ、なんか様子がおかしい。
 俺はなぁ、好きになる努力をするって言ったんだ、そりゃ、今度の晦の儀は覚悟は一応決めてるけど…
 いざその場にきたら、俺はちゃんと蒼牙を受け入れることが出来るんだろうか、なんて、この村に来てからあまりにも色々と起こりすぎたせいか、いや、この村自体がちょっとおかしいのか、俺の脳内細胞もちょっとずつおかしくなっているような気がしてならない。
 蒼牙を受け入れるってことはだな、あの場所に…ひー、俺ってば何を考えてるんだ!?

「光太郎くーん♪」

 派手に赤面してアタオタしている俺の腰に、いきなり背後から誰かがドシーンッと体当たりしてきて、そのまま腕を絡めやがったんだ。
 この村でこんな風に朝からハイテンションの高気圧娘は1人しかない…妖怪娘の繭葵だ。

「な、なんだよ、繭葵」

「んん?あれれ??今日は蒼牙様に抱かれてないね」

「グハッ!!」

 思わず、背後からひょこっと顔を覗かせて眉を寄せている繭葵の顔面を、許されることならぶん殴るところだった。

「なな、何言ってるんだ!?」

「えー、だってさぁ。君、昨夜逃亡したんでショ?」

 う!
 ギクッとして首を竦めそうになった俺に、繭葵のヤツは意地悪そうにニヤニヤ笑いながらんーっと顔を覗き込んできやがる。
 なんでコイツはこんなに耳聡いんだ!?どこかにスパイでも飼ってるんじゃねーだろうな。
 そう思わずにはいられないほど、この繭葵と言う妖怪娘は俺の行動の一部始終を熟知してやがる。もしかして、コイツが時々口にしている『同人誌』とかってのに、何やら俺たちのことを書くんじゃないだろうなぁ。
 侮れないから怖いんだよな。もういっそのこと、民俗学なんか辞めてレポーターとかジャーナリストになればいいのにな、コイツ。
 いや、待てよ。
 コイツがここまで知ってるってことはもしや…

「そそ、それは…」

「あー、みんな知ってるかって思ってるんでショ?たぶんね、知ってると思うけど。蒼牙様の想いが実ったってことも周知することになったと思うよ」

「なんでだ!?」

 愕然として聞き返す俺に、繭葵は腰に回していた腕を解くと、呆れたように肩を竦めて溜め息を吐いたんだ。

「そりゃあ、蒼牙様のあの態度を見ていたら誰だって気付くよー。ボクなんか、え!?誰コイツ!!?とか、真剣思っちゃったからね。いつも通りの顔をされてるけど、鼻歌でも歌い出しそうだもんね~♪」

 蒼牙の野郎…!

「ねね?それで、ちゃんと話せたの?キスは上手にできた??」

 どうして話しがそっちに…と考えて、そう言われてみたら、繭葵のヤツは昨日の夜もそんなことを言ってなかったかな。唐突に思い出して、このニヤニヤ笑いながらも、どこかホッとしているような妖怪娘が少なからず俺のことを考えて気を遣ってくれていたんだなぁと、なんだかちょっとだけ嬉しくなった。
 そんなことはたぶん、口が裂けても本人の前では言えないだろうけど。

「話しは…したな。まあ、そのえっと…」

 言葉を濁す俺に、繭葵はパッと表情を綻ばせると、朝の清々しい雰囲気に良く似合う笑顔を浮かべて俺に抱き着いてきたんだ。

「よかった!うん、ホントに良かったね!」

「…どうせ、お前。婚儀で浮かれている蒼牙に付け入って蔵開き狙ってるんだろ」

 あまりの浮かれ気味に、俺はコイツは~っと胡乱な目付きで見下ろしながら、ヤレヤレと溜め息を吐いた。それでも、もう覚悟は決めているつもりだ。なんだかんだ言ってもたぶん、俺は蒼牙を好きだと思う。
 結婚…なんて考えてもいなかったけど、あの6歳も年下のくせに妙に大人びた年齢詐称の鬼っ子蒼牙が、そんな風に嬉しそうにしているのなら、可愛いじゃないか。期待に応えてやっても悪かないかな…とか。

「でも、協力してやるよ」

 思ってしまう、俺もどうかしてるとは思うけどな。
 困ったように苦笑しながらそんな冗談を言うと、繭葵はムゥッと唇を尖らせながら俺から離れて腰に片手を当ててビシィッと指先を突き付けてきた。

「そんな情けは無用だね!このボクを誰だと思ってるんだい?民俗学会期待の新星!大木田繭葵様だよ!!ボクの辞書に不可能はなーいッ」

「判った判った、俺が悪かった」

 朝っぱらから嫌になるぐらいのハイテンションで宣言されても、思わず退いてしまう俺が悪いわけじゃないと思うぞ。
 だけど、この村にいる殆どの人が、凡そ低血圧なんて知らないんじゃないかってぐらい元気に早起きだ。蒼牙にしたってケロッと目を覚ますし…いや、アイツの場合は寝付きも頗るいいんだけどな。
 眞琴さんも伊織さんも、朝からばっちりメイクを決めてるしなぁ…
 陰気だ陰気だと思っていたけど、よく見りゃ、元気な村じゃないか。
 朝早くから農作業に勤しむ姿なんか…東京じゃ絶対に見られない風景だもんな。

「どーせ、光太郎くんも蒼牙様好きなくせに、意地っ張りなんだから。まあ、蒼牙様のあの表情を見れば、全部上手くいったんだってことは判るけどね。それでもボクは、ハラハラしてしまったよ」

 全く違うことを考えている俺の前で、ああ、良かったぁとで言いたそうにホッと苦笑する繭葵に、いったいどうしてコイツは、こんなに俺と蒼牙をくっ付けたがるんだろうと不思議になった。
 不思議に思ってそのまま直球で聞いてみたら、繭葵のヤツはキョトンッとして、それからすぐにケラケラと笑ったんだ。

「そりゃあ、ボクが光太郎くんを好きだからだよ!」

「はぁ!?」

 ギョッとして目を見開くと、繭葵は驚くほどニコニコして、突拍子もない愛の告白とやらをらかしてくれやがった。

「初めて見た時からビビビッときたもんね。ボク、絶対にこの人を手に入れてやろうって思ったんだけどさ。光太郎くん、驚くほど蒼牙様しか見ていなかったから」

 そそ、それは、いや、なんだって言うんだ!?
 俺が口をパクパクさせていると、繭葵はクスクスと勝気そうな大きな目を細めて笑いながら、嬉しそうに言ったんだ。

「ボクね、好きな人には幸せになってもらいたいんだよ。だから、蒼牙様とくっ付いてくれて良かったなぁって思うんだー」

 エヘへッと笑う繭葵に、でも…と、俺はそんなこと言ってどうなるってワケでもなかったんだけど、それでも言わずにはいられなかった。

「それだとお前は?お前の幸せはどうなるんだ?」

 尋ねる俺の顔をマジマジと見詰めていた繭葵は、それから困ったように眉を寄せて俯きながら笑う。その顔に、ほんの少しだけど、弾けるほど明るい、向日葵みたいな繭葵の顔に陰が差したんだ。
 拙いことを言ってしまったと唇を噛んだところで、一度吐き出してしまった言葉は消しゴムでゴシゴシ消せるってワケでもないから、俺は責任を持たないといけない。
 でも、繭葵は…

「ったくもう、相変わらず他人のことばっかり考えるんだから。それならどうするんだい?蒼牙様を諦めてボクと結婚してくれるの?…違うでショ。そうじゃないんだよ、こう言う時はありがとって言うんだ」

「え?」

 吃驚して、この小さな妹みたいな繭葵を見下ろしていたら、彼女はウシシッと笑って人の悪そうな目付きで俺を見上げてきたんだ。

「まあ、友人として好きってことだから。友達が好きな人と結婚できて幸せそうにしてる姿を見るのは大好物だよ♪」

「…ん?ってことはなんだ、俺のことをその、そう言う意味で好きってワケじゃ…」

「あったりまえじゃーん!そんな、蒼牙様に殺されるようなこと言うワケないでショ?それにボク、民俗学一筋だもんね~」

 弾けるようにゲラゲラと笑って、繭葵のヤツは力いっぱい俺の背中を殴りやがったんだ。
 思わず咳き込んでゲホゲホッと咽る俺に、繭葵はふふーんっと笑いながら腕を組んで見上げてくると、小憎たらしく言いやがるからぶん殴ってやりたくなった。

「そもそも君はさ、何度も言うようだけど他人のことを考え過ぎるよね。そんなだと、ボクはまた心配になってしまうよ。小雛に蒼牙様を攫われちゃうんじゃないか、ってね」

「そんなこと…」

 あるわけねーだろと言いそうになったら、繭葵はフーッと長く溜め息を吐いて、困惑したように綺麗に整えた眉をソッと顰めながら囁くように言ったんだ。

「蒼牙様だって若いんだよ?それに、呉高木は平気でお妾さんを貰っちゃうような家なんだし。安心してたら横からあ!っと言う間に攫われてしまうかもしれないんだ、気をつけなくちゃー」

 誰も聞いちゃいないってのに、声を低くする繭葵の言葉に、唐突に俺はドキッとしてしまった。
 そうだ、すっかり安心していたけど、そうして俺が安心していられたのは蒼牙が揺るぎ無く俺を愛してくれているって言う、そんな不確かな確信だけだった。
 そうだ俺…桂たちが言うように、元気な子供だって生めないって言うのに…結婚なんか。
 つい、黙り込んでしまう俺に繭葵は慌てたように、そんな俺の腕を掴んで顔を覗き込んできたんだ。

「だから!他人のことなんか気にしなくっていいって言ってるんだからね!蒼牙様は本当に光太郎くんを好きなんだし、他の人を不幸にしてまで俺は…なんて考えないでよねってことだよ。光太郎くんの味方である繭葵ちゃんが一緒だし、絶対に大丈夫って言い切れちゃうんだけど。光太郎くんがあやふやな態度だと、ボクが心配しちゃうんだよ」

 すっかり、俺のことをお人好しだと思いこんでいる繭葵に、俺はどんな顔をしたらいいのか判らなくなってしまった。だって、俺が考えているのはそんなことじゃない。
 もっと、もっと暗くて淀んだ…嫉妬だから。

「大丈夫だ。俺はそんなにお人好しじゃないって」

 クスッと笑って見下ろしたら、繭葵はホントかな?っとでも言いたそうに眉を寄せて、それでもやれやれとでも言うように肩を竦めやがったんだ。

「ちょっと脅し過ぎちゃったかな?でも、気を引き締めていないとここは海千山千、どんな化け物が眠っているか判らないからね。ボクは光太郎くんに、本当に幸せになって欲しいんだ」

「アンタが心配しなくても俺がいる」

 不意に声を掛けられて、途端に繭葵はギクッとしたように首を竦めて、それからエヘへッと誤魔化すように笑いながら背後を振り返った。
 ちょうど、俺からも死角になる場所に青白髪の蒼牙が腕を組んで不機嫌そうに立っていたんだ。

「蒼牙様!」

「…蒼牙」

 チラッと、それでも勝気な双眸で見詰める、全く怯む気配もないニコニコ笑っている繭葵を見下ろした蒼牙は、それから不機嫌そうにジトッと俺を睨み付けたんだ。
 繭葵と話したことに腹を立てているのか、さして反論もしなかった俺に腹を立てているのか、どちらにしろ今の蒼牙は、繭葵が言うほど鼻歌でも歌い出しそうなほどご機嫌と言うわけではなさそうだ。

「ったく、目を離せば何を話しているんだ。繭葵、晦の儀まで花嫁は気が立つんだろ?静かにしていろ」

「ぅはーい!…でもさぁ、蒼牙様。お妾さんとか貰って、ボクの光太郎くんを悲しませないでよね」

「当たり前だ。そもそも、お前のものではない」

 …と言うか、俺は俺のものだけどな。
 ムスッとして見下ろす蒼牙に、ムッとした繭葵も唇を尖らせて反論している。
 あの蒼牙が、ともすれば煩いと言って斬り捨ててしまいそうな短気も起こさずに、繭葵にはほぼ対等に話をしてやっている。
 もしかしたら蒼牙は、俺がいなければ、本当は繭葵と一緒になってたってちっともおかしくないんだよな…
 そうか、妾か。
 忘れてた、あの狸親父ですら2人も妾がいるんだ。
 蒼牙だって…

「むー!んじゃ、光太郎くん!ボクはもう行くね…あ、そーだ!今夜の弦月の奉納祭。一緒に行こうね♪」

「うん、判った」

 俺が頷くと、繭葵は嬉しそうに笑って手を振ったが、蒼牙はムッとしたようにそんな俺を見下ろしてくる。
 蒼牙の目付きは気になるけど、それ以上に俺は、繭葵が言った言葉が頭を占めていた。
 涼しげなスカートをひらひらさせて行ってしまった繭葵を見送っていたら、不意に、蒼牙のヤツが俺の腕を掴んでグイッと引き寄せたんだ。

「アンタは誰を見てるんだ?」

 その目付きは、俺がここにいるのに!…とでも、怒っているように見える。

「蒼牙に決まってるだろ?」

 ちょっと笑ったら、蒼牙のヤツは何とも言えない顔つきをして、困ったような、ムッとしたような、ヤツにしては珍しくまるで照れてでもいるかのように、その鋭い、男らしい双眸で覗き込んできたんだ。

「違うね。アンタは今、繭葵を見てたじゃないか」

「そりゃ、見送るぐらいはするさ。繭葵はああ見えても…なんか、お前たちは忘れてるようだけど、花嫁候補だろ?仲良くしないとな」

「花嫁候補だと?誰がだ。俺の花嫁はアンタしかいない。判らないなら、今すぐその身体に教えてやってもいいんだぞ」

 う!それはちょっと…思わず引き攣って笑ってしまった俺に、蒼牙のヤツは眉を寄せて、まるで子供っぽい仕種で俺の額に自分の額をコツンッとぶつけながら唇を尖らせた。

「アンタはやっぱり何も判っちゃいないんだ。俺がどれほど光太郎と言う人間を愛してるか…どう言えば、アンタは信じてくれるんだろうな?」

「信じてるよ」

 言葉に出せば呆れるぐらいアッサリとしているのに、言い出すまでが思い悩んでしまう難しい言葉を呟きながら、俺は不貞腐れている蒼牙の頬を確かめるように触れて、それから安心したように笑った。
 どうしたって言うんだ、俺は。
 こんな6歳も年下の男に惚れてるなんて、どうかしてる。
 でも、どうかしてるとは思っていない俺もいる。
 ただ、好きになったのが6歳年下の男で、蒼牙だったってだけだ…なんて、古臭いドラマの常套句みたいな馬鹿な台詞で、納めてしまうにはあんまり強烈な想い。
 心が痛くなる。
 事実は拭えない真実だからだ。

「だったらいいんだがな。光太郎はどこか掴み所がない。指の隙間からするりと抜けて、何処かに行ってしまうんじゃないかと不安で仕方ないよ」

「その台詞、そっくりお前に返してやる。昔ばなしから抜け出してきた鬼っ子のくせに」

「?」

 俺の言葉の意味が判らなかったのか、蒼牙はキョトンッとしてそんな俺を見下ろしてきた。その仕種があんまり可愛かったから、俺は笑いながら蒼牙の胸元に頬を寄せてその背中に腕を回していた。
 結構、積極的だったとは思うのに、蒼牙のヤツが何もしてこないから…いや、何かして欲しいってワケじゃないけど、ああクソ!そうだよ、本当は抱き締めて欲しいとは思ったさ。怪訝に思って眉を寄せながら顔を上げたら、蒼牙のヤツは…なんと言うか、薄っすらと頬を染めて、照れ臭そうに、嬉しそうに破顔して俺を見下ろしていたんだ。
 ドキッとした俺がこの場合は離れるべきなのかどうするべきなのか、メチャクチャ悩んでいると、蒼牙は、ヤツにして驚くほど柔らかく、恐る恐ると言った様子で戸惑っている俺を抱き締めてきた。

「アンタから抱き着いてくるなんて初めてだな。壊してしまいそうで怖いよ」

 どうして壊してしまうなんて発想になるのか判らなかったけど、俺は蒼牙に抱き締められたままで瞼を閉じた。
 まあ、いいや。
 微かに震えるようにして抱き締めてくる蒼牙がお妾さんを何人も迎えたって、俺は結局男なんだから、子供を必要とする呉高木家では仕方ないんだって、諦めてしまえば丸く収まることじゃないか。
 俺にしてはかなり譲歩してるんだ、そのぶん、いつかコイツには言ってやろうと思う。
 よくも俺に、お前を好きにさせやがったな!…ってね。
 そうしたら蒼牙のヤツが、フフンッとした顔をして、やっぱりアンタは俺を好きなのか…とか言ったとしても、その時はニッコリ笑ってぶん殴ってやる。
 この時俺は、この村に来て初めて当主と言う立場にいるはずの蒼牙の、子供のように一途で純粋な本心を知ることができたような気がしたんだ。
 俺は蒼牙を…好きなんだと思う。

 夕暮れ時の山道には先を急ぐ村人たちが、一日の仕事を終えて、それでも活き活きとしたように夜の挨拶を交わしながら歩いている。
 こんな閉鎖的な小さな村には、夏祭りだからって夜店もなくて、子供たちは退屈なんじゃないかなぁとは思うけど、それでも楽しそうに笑いながら登山道を走っていた。
 ともすればノスタルジックな懐かしさが胸に去来するような光景に、低いとは言え立派な山なんだから、登山用にジーンズにTシャツ、スニーカーと言う出で立ちの俺がボーッと突っ立っていると、突然背中に誰かが突進してきたんだ。

「グハッ!!」

 今日はしょっちゅう背中を痛めてるなぁと思いながら、胡乱な目付きで振り返ると、大方繭葵のヤツがわざとぶつかってきたんだろうと思いきり険悪な目で見たって言うのに、目線がやや高すぎたのか、そのまま下に向けると…村の子供だった。
 俺のあまりにも凶悪な目付きに怯えたように言葉をなくしているクソガキ、もとい、村の子供に、俺は慌ててニコッと笑ったんだ。

「走ると危ないけど、転ばないように気を付けて思いっきり走れよ」

 軽く言ったら子供はパッと明るい表情になって、大きく頷きながら俺を見上げてきた。

「呉高木のお嫁様!おめでとうございます!」

「なな!?」

 笑って手を振ると走って羨ましそうな顔をしている仲間の元に戻って行く子供の後ろ姿を見送りながら、思わず仰け反りそうになってしまう俺に、道をボチボチと歩いていたバアちゃんが気付いたのか、皺に埋もれてしまった顔に憎めない笑みを浮かべて恭しく頭を下げたんだ。

「おお、呉高木の嫁様。この度はおめでとうございますじゃ」

「は、はぁ…」

 なんと応えたらいいものか…今まで遠巻きにしか見ていなかった村人たちが、とても親しげに声をかけてくる。その誰もが、「呉高木の嫁様、おめでとうございます」と誰にも憚らずに口にするから、この人たちに世間で言うところの常識ってものはないんだろうか…?
 でも、蒼牙が神なんだから、ヤツが俺を花嫁にすると言えば、それが即ち常識になってしまうんだろうか?

「光太郎くん!…おっと、今日はダメだね」

「は?何がだよ、繭葵」

 後から声をかけてきた繭葵は、ジーンズの短パンに虫刺されを用心した長袖のシャツ、オーバーニーソックス、それから運動靴を履いている。
 いつもはこんなの山じゃないねと言って、可愛い女の子らしい服装をしてるって言うのに、今日の繭葵は俄然やる気を出したハンターの目付きをしている…ってお前、もしかして、何
か企んでるんじゃないだろうな?

「今日は呉高木家の朔の礼の神事の1つだから、ちゃんと光太郎くんのことをお嫁様って言わないといけないんだよ。今日で、本当にお嫁さんになるようなものだからね」

「ええ!?そうなのか??だって、晦の儀ってのが…」

「あははは♪それはだから、今日選ばれた花嫁に子篭りさせる為の神事でショ?今日のはこの人が現当主、蒼牙様のお嫁さんですよって言うお披露目の行事みたいなものだよ」

「そ、そうだったのか…知らなかった」

 知らなさすぎだよと大らかに笑う繭葵の傍を、物珍しそうに通り過ぎる村人が俺に気付くと、厳ついおっさんも柔和な笑みを浮かべて頭を下げて行くんだ。

 「呉高木のお嫁様、おめでとうございます」って言いながらな。

「うわぁ…じゃあ、先輩たちにバレるってワケじゃねーか!それで蒼牙のヤツ、あっさり承諾したんだな。あの野郎~ッ」

 ムキィッと歯噛みする俺に、繭葵のヤツはウシシシッと笑いながら口許に手を当てて笑いやがる。

「なんだよ?」

 ジロリと睨んだら、繭葵のヤツはふふーんっと笑って山道をゆっくりと歩き出した。

「きっとね、弦月の儀はこの村を守るって言う龍神様にご報告する神事じゃないかって、ボクは睨んでるんだよね。確かめたいって思うけど…きっと、同じことを君の先輩も考えてると思うよ」

 そう言った繭葵のヤツが、驚くほど冷ややかな、怖い目付きをして俺を振り返るとその背後を睨み付けたんだ。
 ん?っと思って振り返ろうとした矢先、唐突に背後から伸びてきた腕で肩を抱き寄せられてしまったんだ!
 だ、誰だ!?
 慌てて振り返った先に…

「よお、楡崎!」

 げげ、先輩!…うわぁ、どんな顔して挨拶したらいいんだよ?
 朝とか昼は、低血圧な連中らしくコソリとも起きてこなかったくせに、今は睡眠も足りて活き活きとしたように笑ってやがる。うう、どんな嫌味を言われるか。
 或いは蔑まれるか…考えただけで吐き気がしそうだ。

「驚いたぜ!まさかお前が呉高木の花嫁だったとはなぁ…どうなんだよ?毎晩犯ってんのか??年下の男に抱かれるなんて冗談じゃ…」

「煩いな!君に関係ないでショ?下品な人だなー」

 ムッとしたように繭葵が俺に絡まっている高遠先輩の腕を引き剥がしながら、軽く睨みつけて舌を出した。その小さな身体のどこにそんな力があるのか、俺が驚いていると、ムカムカしてそうな繭葵はフンッと鼻先で息を吐き出した。

「な、なんだとこの野郎!信じられるかよッ、俺の可愛い後輩がホモなんてな!!」

「ムッ!聞き捨てならない台詞だね。恋愛に偏見でも持ってんのかい?今時珍しいほど古臭い考え方だなぁ!人間が人間と愛し合うのにカタチとかあるワケ?そんなんじゃ、いつまで経っても新発見とか望めないね。恋愛でも、民俗学でも」

「なんだと、コイツ!楡崎も楡崎なら呉高木の当主も当主だ!どうかしちまってる、気持ち悪いッ!!そんなヤツを庇っているお前なんかにとやかく言われる筋合いはだなぁ…ッ!」

 先輩の台詞がそこで途絶えてしまった。
 なぜならそれは、俺が繭葵に対して振り上げた先輩の腕を掴んだからだ。

「先輩、それぐらいにしてください」

「ッ!…触るな、気持ち悪いッ」

 さっきまであんたが触ってたじゃねーか…とか、理不尽なことを言われながら腕を振り払われても、俺は溜め息を吐いて先輩を見上げたんだ。
 そりゃ、傷付いてないって言えば嘘になるけど、それでも、繭葵じゃないが、誰かを好きになることに条件なんかないと思うんだ。
 口汚く罵られるならそれでもいい、だが、蒼牙の悪口は言うんじゃねぇ。
 お前に何が判るんだ。
 この村の人たちが一心に信じている当主を、口汚く罵れるほど真っ当な人でもないでしょーが。

「俺のことをとやかく言うのは構いません。でも、蒼牙のことはけして言わないで下さい。貴方には理解できないこともあるんです。理解しろとは言いません、だが、理解してくれとも言いません。先輩のことをとやかく言わないんだ、俺たちのことも放っておいてください。先輩の目的は奉納祭なんだろ?奉納祭をご覧になって帰ってください!」

 いつもは先輩に引っ張られるようにして何も言えずに言うことを聞いていた俺…いや、あの当時は先輩がウザくて、他の連中も何も言わずに愛想笑いで軽く付き合っていた。生真面目ってのもなかなか鼻につくもんで、それが自己中な人なら尚更だ。
 今だって、何も言えずに振り回していたはずの俺の反撃に、驚いたように目を見開いている。
 自分がこれだけ言えば、俺が思い留まるとでも思ったんだろう。
 過ごしてきた時間が、もう違うって事にも気付かずに。

「お、お前…ッ」

「はーい、はいはいはい!高遠くんの負けぇ。それぐらいにしといたら?」

 思わずズイッと近付いてこようとした先輩を、まるで踏み止まらせるようにして、いつからそこにいたのか相変わらずナイスバディの由美子が鼻先でクスッと笑って、豊満な胸元を押し上げるようにして腕を組むと俺をチラッと見たんだ。

「相手がキミじゃ、勝ち目ないもんねぇ。あーん、仕方ないわ。あたしは神事でも楽しもっとぉ」

 残念そうに溜め息を吐いて、大袈裟に両腕を上げて伸びをしたら、由美子はサッサと高遠先輩の腕を掴んで立ち去ろうとした。…んだけど、先輩がそれを拒んだ。

「何を言ってやがんだ。お前は楡崎のことを知らないからそんな風に軽く流せるんだろうけどなぁ、コイツは…」

 先輩だってあれからの俺の生活なんか知らないじゃないッスか、どこから自分の発言に対してそれほどの自信が出てくるのか知りたいんですけど…

「うっさいなー。あたしはさぁ、恋愛なんてそこのお嬢ちゃんと一緒で、楽しければそれでいいのぉ!好きになったら仕方ないじゃん。ったく、高遠くんは昔っからナンセンスよね。昭和初期の大和撫子でもお嫁さんにしたらいいのよ。この時代に処女でも捜してね。そのうち、犯罪者名簿に名前が載ったりしないでよね!」

「ゆ、由美子!」

 由美子が高遠先輩の腕を振り払うようにして腹立たしそうに怒鳴ると、繭葵のヤツが「お、由美子ってば話せるじゃん」と言いたそうな顔付きをして、その通りだよばーかと、火に油を注ぐような発言をさらっとぶちかまそうとする繭葵の口を俺は片手で塞いで厄介の火種を寸前で止めてやった。

「むごごごごー!!」

 なんかやたら怒ってるけど、この際無視だ。

「で?部の部長がどうすんのよ。神事も見ないで昔の後輩の世話でも焼いとくのぉ?あたしはどっちでもいいわよ…でも」

 ふと、由美子は目付きだけは笑ってないくせに、鼻先でクスッともう一度笑いながら、グロスで濡れたように光っている唇を尖らせた。

「まるで、ここのご当主様。えっと、蒼牙ちゃんだっけ?彼に嫉妬してるみたいじゃん。あたしから見たら高遠くんも変わりなく見えるわよ。だったら、気持ち悪いのかしらね?」

 どうでもいいけどね、と吐き捨ててから、俺と繭葵に「じゃあね」とウィンクして豊満なバディを相変わらずくねらせるようにして行ってしまった。
 その、いつもよりも厳重に長袖のシャツを着て、スリムなジーンズを履いている由美子の後ろ姿を見送っていると、不意に高遠先輩が動揺したようにどもりながら何かゴチャゴチャと言ってから、腹立たしそうにどかどかと砂利を蹴って昇って行った。

「なんだったんだ…」

「…ウシシシ」

「…な、なんだよ?」

 唐突に口許から手が離れていた繭葵が、ニヤニヤと笑いながら高遠先輩の後ろ姿を見送っているから、そのあまりに邪悪な表情にゾッとした俺が青褪めて見下ろすと、「失礼だなー」とブツブツ言いながら、俺にヘッドロック紛いなことをされたままで腰に手を当てたのだ。

「あのクソ高遠のおかげでさ、光太郎くんの本心を垣間見てしまった♪蒼牙様に知らせなくっちゃー」

 お前はいつから蒼牙の手先になったんだ…と言うか、クソ高遠って…最早、お前の中では俺の先輩だと言う認識は綺麗さっぱり消えちまったんだな。
 ま、俺も一緒なんだけど。
 あんなこと、自分が言えるなんて思いもしなかった。
 先輩は、なんかウザいと言うよりも、反論できない威圧感みたいなものがあったから大人しく言うことを聞いてきたのになぁ…言い返せるなんて、まあ、これも蒼牙効果なんだろうけど。

「俺たちのことには口出すな…だって。ウシシシ!奉納舞の準備をされている蒼牙様が聞いたら、きっと舞に力が入って今夜は綺麗になるだろうなぁ」

 ウハハハと笑う繭葵に、俺はなんとなく嫌な予感がして、ヘッドロックをかまされても平然としているこの要注意爆裂娘にコソッと言ったんだ。

「蒼牙には言うなよ?じゃないと、高遠先輩がどうかされるかもしれないだろ」

「どうかって、どうされるんだよ?うもー、どうして蒼牙様が喜ぶようなこと言わせてくれないんだよ~。繭葵ちゃんはストレスで死んじゃうかも」

「ストレスで死ぬ前に俺の方が参っちまうよ」

 ウルウルと、口許を覆ってわざとらしく泣き真似なんかするから、お前はたぶん、殺したって死にやしねーよと呆れて繭葵から手を離した。

「光太郎くんがくたばったら大変だから、ボクは諦めるけどね。でも、一連の事情はもう、蒼牙様にはバレてるかもね~」

「え!?なんでだ??」

「バッカだねー、光太郎くん!ここは奉納祭に向かう村人たちが行き交ってるんだよ?誰かが伝えるに決まってるじゃん。君は呉高木のお嫁様なんだからね♪喧嘩ともなれば御身が危ういってさー、少なくとも桂さんにはバレてると思うけど」

 クスクスと笑う繭葵に、うわ!それじゃ大変じゃねーかと、俺は慌てふためいて登山道を昇りはじめた。
 こんなところでグズグズしてる閑はねーぞ!
 そんな俺の後ろ姿に肩を竦めた繭葵はでも、ニッシッシと笑いながら兎のような身軽さでついて来たんだけど、その時の俺は気遣ってやることもできなかった。
 だって、蒼牙ってヤツは、『神堂』と呼ばれる禁域に立ち入るだけで、本気で俺を殺すと言ってのけるようなヤツなんだ。
 先輩に何か遭ったら、先輩はいけ好かなくてもあの優しいお袋さんが悲しんでしまう。
 俺は、「呉高木の嫁様、おめでとうございます」と、ほぼ同じように登山している村人全員から挨拶されて、それに愛想良くニコニコ笑って応えながら山頂の舞の舞台になる神社を目指したんだ。

 弦月の奉納祭は宵宮で、夕暮れに行われる神事なんだそうだ。だから終わるのは17時過ぎぐらいかな…ってことで、もうすぐ始まりそうなのに俺は、慌てたように桂を捜していた。そんな俺の後ろからちょこちょこ着いて来ながら、俺を不安に陥れた張本人はのんびりと笑いながら言いやがる。

「もう、ムリだってば。桂さんは蒼牙様のお付きで宮の控え室にいるんだからね。まあ、光太郎くんなら入れろって言えば、喜んでお手伝いさんたちも入れてくれるだろうけど…神事が遅れちゃうよねぇ」

「判ってるよ、こん畜生!…もうな、一番見易いところを探してるんだ」

 とか、嘘を吐いてみてもバレてるんだろうけど。
 やっぱり判っていたのか、繭葵はぷぷぷ…っと笑いながら俺と繭葵はブラブラと見易い場所を捜すことにしたんだ。
 どうか、龍神様!高遠先輩が無事でありますように、とか柄にもなく願ってみたりしながら。
 奉納舞まで暫く時間が残っていたのか、手持ち無沙汰でもあったから俺はそう言えば…と、繭葵に首を傾げながら聞いてみた。

「そう言えば、繭葵さ。昼間はどこに姿消してたんだ?桂さんが水饅頭をご馳走してくれるって言うから捜したんだけどさ、お前、いなかっただろ」

「うは!水饅頭!!くっそー、食いっぱぐれちゃったよ!!」

 食い意地の張っている繭葵のヤツは悔しそうに地団太を踏んだけど、俺が呆れながらお前の分は取ってるよと言ったら、途端に機嫌を直してニコニコし始めるから…
 コイツって。

「ウッシッシ♪神堂を探していたのだよ、光太郎くん。賢明な君ならもう判ったと思うけど、夕食後に5体の地蔵さんがある場所、知ってるよね?そこに集合♪」

 口許に手を当てて、ニヤッと笑いながら俺を見上げたんだ。

「…って、はぁ!?もしかして弦月の儀を見に行くつもりか?」

 思わず声を潜める俺に、繭葵のヤツはニヤニヤ笑いながら大きく頷くんだ。

「あったりまえでショ?この繭葵ちゃんが何の為にこんな山奥のクソ田舎に来たと思ってるんだい。全ての祭りを見るためじゃないかぁ~♪」

 両手を祈るようにして組んで双眸をキラキラさせる繭葵は、もう俺の知っている繭葵じゃなくて、一般で言うところの変態さんに成り果てていた。
 そりゃあ、俺だって蒼牙とエッチしたりして変態さんの仲間入りだけども、繭葵はS級の変態さんだと思うぞ。ヤヲイ発言に始まって、民俗学では禁忌を冒そうとしてるんだからなぁ…はぁ。

「禁域に入り込んだらお前、殺すって蒼牙に脅されてるんだぞ」

「ふっふーん!脅しは所詮脅しでショ?脅すってことは何かが確実に隠されてるんだよ。綺麗なものには棘がある…って言う、アレと一緒さ!」

 ビシッと指先を突き付けられて、俺は思いきり呆れ果ててしまった。
 真剣を無造作にアッサリと扱う蒼牙のあの、なんとも言い難い気迫のようなものをお前は見てないからそんなこと言えるんだよ。

「いいよ、別に。そんな顔しなくても。光太郎くん、来ないならボク1人でも行くから」

 ツーンッと外方向いてから、繭葵は履きふるしているスニーカーで地面に転がる小さな石を蹴った。そんなお前、身体は小さいくせに言うこととやることと考えることと度胸だけは一丁前だな。
 こんな女の子を1人で行かせてしまったら、たぶん、一生後悔すると思う…はぁ。

「判ったよ!行きますよ、行きます。行けばいいんだろッ?」

 半ばヤケクソで言った俺が繭葵を見下ろすと、彼女は地面をつま先で弄りながらニッシッシと笑ってしてやったりのツラをして俺を見上げた。

「女は度胸、男は愛嬌♪」

 言葉の遣い方、あからさまに間違ってるぞ。
 俺が溜め息を吐いたのは言うまでもない。
 はぁ…

 そんな俺と繭葵の恐ろしい悪巧みが終了した時、もう村人たちも殆ど到着していて、人込みの中に伊織さんの姿を見つけたけど声を掛けられるような雰囲気じゃなかったから、取り敢えず無視することにしたんだ。
 山の上の神社はそろそろ日が落ちて星がポツポツと瞬きだしている。篝火が揺らめく荘厳な雰囲気はどこか空恐ろしくて、静まり返った村人たちの顔が見分けられないのが、余計恐怖心を煽りまくってくれる。
 十三夜祭りの時以来の光景だけど、あの時は昼だったからこんなに恐ろしかった記憶はないぞ。

「やっぱ夜店とかはないんだなー」

 ずっと思っていたことを口にしたら、繭葵が肩を竦めながらそれに答えてくれた。

「こんな山奥の村だよ?的屋さんも来ないんだよ」

 ああ、やっぱりそっかと思っていたら急に腕を引っ張られて、思わず転ぶところだったぞ!
 ムキッとして振り向いたら、ワクワクしている繭葵が高台を指差している。

「たぶん、あそこじゃないかな♪」

 村人にとっても久し振りの、つまり呉木家の当主が花嫁を迎える為に催される祭りだから楽しみにしていたのか、その高台の前ではワイワイと賑やかに集まって何か話していた。その一員になるべく俺と繭葵が行ってみると、楽しそうに何かを話していた村人は俺たちの姿を認めて吃驚したようだった。

「あンれ、呉高木のお嫁さまじゃ」

「ほお~、驚いたのう。別嬪さんじゃのう」

 ニコニコと人の良さそうなジィちゃんやバアちゃんが俺たちの顔を見上げながら話し掛けてきて、繭葵もニコニコ笑いながら俺を見上げてくる。確かに、山道を登ってくるときからずっと「お嫁様」とか「嫁様」と言われ続けてるから違和感も感じない俺もどうかしてるけど、それでも1人ぐらいは繭葵だって言うヤツがいてもおかしくないと思ったんだ。
 だってなぁ、繭葵だって花嫁候補なんだぞ。
 それに、別嬪さんとか言ってるんだし、きっと繭葵だと思っていた。
 そりゃあだって、誰が見ても繭葵のほうを花嫁だと思うだろう?
 それが正しいんだから、そんな顔したらダメだぞ。

「今宵の奉納舞は呉高木の嫁さまを村人たちとご神体に報告するためのもんじゃて」

「お嫁さまがいらっしゃらな意味がなかろうなぁ」

「今宵は蒼牙様も気合を入れて舞いなさる」

「さぁーさ、嫁さま。前へ出なされ」

 そう言ってジイちゃんたちは俺の腕を引っ掴むと、グイグイッと引っ張りながら最前列に連れて行こうとする。うを!?ち、ちょっと待ってくれよ、嫁さま…って、やっぱ俺なのかよ!?
 当然そうにエヘッと笑っている繭葵は、神事に隠された秘密とらやのことでも考えているのか、上の空で頬を紅潮させて…何を興奮してんだよ!?お前はッッ!
 農作業で鍛えている腕に掴まれて強引に前に引き出されてしまうと、集まった村人たちの視線を一身に受けてしまって、なんとも居た堪れない気分に陥ってしまう。それなのに、俺の横に並んできた繭葵のヤツはワクワク以上に興奮したように目をキラキラさせている。

「やっぱり、お嫁様の傍にいると役得だね♪」

「あのなー、お前はいつも俺を利用することしか…ッ!?」

 ポンッと、唐突に鼓の音が響き渡って、ハッと気付いたらそれまで俺を見つけてワイワイ騒いでいた村人たちが水を打ったように静まり返っていた。横笛の音が響くと、奥から姿を現した両手に扇を持った巫女が摺り足で登場したんだ。
 その顔を見て思わず声をなくしてしまう。
 打ち響く雅楽の音色に優雅に舞う巫女は、綺麗に化粧していても見間違えたりしない、キリリとした双眸のその美しい巫女は…蒼牙だ。
 俺はきっと、今夜の奉納舞はあの時のように、蒼牙は鬼の装束で舞うんだろうと思っていた。まさかこんな風に、巫女装束で踊るとは思ってもいなかった。巫女の衣装を身に纏って優雅に静かにそのくせ気迫満点の舞いは、思わず息を呑んで惹き付けられてしまった。それは繭葵もそうだったのか、それまであんなに大層なこと言って強気だった爆弾娘が、まるで憑かれたように食い入るように見入っている。
 一瞬の間を取って舞う蒼牙のヤツは、チラッと俺を見てから、それから神にその身を奉げる巫女のような清廉な表情をして、鼓や笛の音にあわせて優雅に舞う。その雰囲気に飲み込まれてしまうと、もう何も言えなくなってしまうし、行動すらも制限されてしまうような気分になるから…不思議な、不思議な時間だ。
 篝火に揺れ動く影が同じように舞を舞って、まるで光と影が交叉するような不思議な世界を垣間見たような気がした。
 それはまるで、神や精霊たちと対話しているような一瞬───…
 そうして俺は、暫く呆然と蒼牙が生み出すその世界に浸ってしまっていた。
 なんだろう…この胸の奥がざわめくような、懐かしい気持ちは。
 強烈な郷愁に涙さえ出そうになったときだった、不意に繭葵に腕を掴まれて、俺は唐突に現実の世界に舞い戻ったんだ。

「大丈夫?ボーッとしてたけど…」

「へ?あ、ああ。なんでもない…たぶん」

 ハッとして胸の辺りを掴んで俯いたら、繭葵はちょっと眉を寄せて俺の顔を覗き込んできた。

「たぶんてどう言う意味?全く…でも、なんかアッと言う間に奉納舞終わっちゃったね」

「アッと言う間だったか?俺にはそう感じなかったけど…」

 なんだか身体がドッと疲れたような気がして仕方ないけど、繭葵は言葉のようにケロッとしているから、どうやら長い時間に感じたのは俺だけだったようだ。

「でも、ちょっと儲けたって感じだよね♪蒼牙様の巫女さん姿が拝めたもんね~」

 ウキウキして上機嫌の繭葵に「そうかぁ?」と眉を寄せた俺は、それでも唐突にあることを思い出して首を傾げてしまった。

「そう言えば、眞琴さんは舞わなかったな」

「あー、それね。ボクもヘンだなって思ったけど…どうも、当主と巫子が踊るのは『弦月の儀』の神事のほうだったんだね」

「あ、そっちか」

「蒼牙様が巫女装束を着ていたってことは…これはあくまでもボクの想像なんだけど、弦月の儀のほうでは眞琴さんは白拍子の姿なんだろうねぇ」

 奉納舞が終わると全てが終了したのか、村人たちは『今回の奉納舞はいつにも増してよかった』とそれぞれが嬉しそうに笑って呟き合っては、それから俺たちに頭を下げながら下山を始めていた。

「みーたーいー!もう、ホント!!見たいよね?ね?弦月の儀ッ」

 ムキーッと興奮したようにヒソヒソと話してくる繭葵の言葉が聞こえたのか、帰ろうとしていたジイちゃんが立ち止まって俺たちを振り返ったんだ。

「娘さん、悪いこたぁ言わねぇがなぁ…弦月の儀は禁域で行われるだ。立ち入れば命だって保証はないで」

「…ええ?それってホントのことだったのかい??」

「当たり前だぁ。呉高木家の極一部のモンだけが入れる場所だで。いくらお嫁さまでもやめておいたほうがええ」

「は、はぁ…」

 それは確かに蒼牙があの迫力で言ったように、村人たちの間にも浸透していってるのか、その表情は固くて先ほどの柔和さがまるでない。それに気付いたのは俺ばかりでもないらしく、繭葵も少し青褪めてチラッと俺を見た後、やっぱりどうしようと考えているようだ。
 そーだ、思い直すなら今だ!

「蒼牙様が大事にしている花嫁である光太郎くんの命すら危ぶむってことは、やっぱボクの考えに間違いはないね!これはますます、今夜の弦月の儀が楽しみだねぇ」

 どうしてコイツはこんなに思い込んだら捻じ曲がって一直線なんだろう…いや、そうか。コイツは、コイツも唯我独尊なんだろう。この呉高木家に関係する連中はどうしてこう、自分勝手で我が侭なんだろう。
 ん?そう言えば親父も身勝手なヤツだったっけ。母さんは耐え忍ぶような性格で…そう
か、俺は母さんの性格を受け継いだんだろうな。
 だから亭主が蒼牙なのか…ハッ!?何言ってるんだ、俺。

「夕食後に5体の地蔵さんの前だからね!宜しく♪」

 バンッと背中を叩かれて、俺はそれでも嫌々頷いていた。
 どっちにしても繭葵を1人で行かせるわけにはいかないし、何か危なそうだったら助けないと…
 たぶんきっと、蒼牙は怒るんだろうけど。

「あ、そう言えば!ちょっと伊織さんに話があるんだった。ここで、ちょっと待っててくれる?一緒に下山しようよ。どーせ、蒼牙様は弦月の儀があるから一緒には戻れないと思うし?」

「あー、いいよ。じゃ、待ってるから急げよ」

「うは!ありがと♪」

 そう言ってから、繭葵は退屈そうにカーディガンを羽織りなおしている伊織さんのところまで、脱兎の如く走って行った。
 いや、誰もそこまで急げとは言ってないだろ?
 繭葵のヤツはもともとそう言う性格なのか、結構伊織さんと話していても落ち着きなくそわそわして話している。でも、伊織さんもそんな繭葵を嫌ってはいないのか、ちょっと笑いながら言葉数少なに聞いてるようだ。
 そんな風に伊織さんと話す繭葵を待っていたら、不意に、まだ祭りの余韻を味わう傍ら、宵の涼風に涼んでいる残った村人が、いや、ここにいた全ての人間のハッとしたような気配がして、それからザワッとざわめいたから俺は不思議そうに首を傾げた。と、唐突に背後から抱き締められてビクッとしてしまった。
 鼻先を擽るようなお香のいい匂いにハッとしたら、頭上にお雛様のような冠を付けた漆黒の長いカツラを被った巫女装束の蒼牙が、俺の顎を掴むと上向かせやがったんだ。

「そ、蒼牙!」

 そりゃ、吃驚するだろ、普通。
 綺麗に化粧した蒼牙は舞を終えて、着替えもせずに出てきたと言った風情なんだから、その顔は驚くほど綺麗だった。

「ちゃんと舞を見ていたか?アンタはボーッとしているようだったからな」

「ああ、見てたよ!すげー、綺麗だったッ」

 パチパチと、あの朝、蒼牙の朝稽古を見たときのように手を叩いて興奮したように俺が笑うと、蒼牙はニコッと笑って嬉しそうに頷いたんだ。

「じゃあ、いいんだ」

 なんだ、そんなことが心配だったのか。
 ヘンなヤツだなーと思いながら、俺は抱き締めて離そうとしない蒼牙に首を傾げたんだ。

「これから、弦月の儀か?」

「ナイショだ」

 クスッと笑う蒼牙が、どうしても綺麗な巫女さんにしか見えなくて、俺がギクシャクと目線を外しながらそうかとかなんとか言ってたら、不意にヤツは、人目なんか一向に気にしていないとでも言うように上向かせたままでキスしてきたんだ。
 うぎゃー。
 お雛様みたいな冠をつけている蒼牙の、その長い黒髪がサラサラと零れ落ちて、たぶんそんなに周りの人には見えなかったと思うけど、思わずギュッと閉じてしまった目を、蒼牙の触れていただけの唇が離れると同時にソッと開いたら、思ったよりも近くにあの綺麗な顔があった。

「紅がついてしまったな。アンタの方が似合う」

 口紅が似合うとか言われても嬉しくないんだけど、思わず拭いそうになったら、その手を蒼牙に掴まれてしまった。

「拭わなくていい。綺麗だ」

「だからな、蒼牙。何度も言うようだがその言葉をそっくり返してやるって。お前の方が綺麗だよ」

「当然だ。綺麗だから舞っているんだ」

 そんな馬鹿なと目を瞠ったら、蒼牙のヤツが楽しげにハハハッと笑った。

「冗談だ」

 なんだ、冗談かと、一瞬思いきり本気にしてしまった俺はバツが悪くてムッとしてしまう。そんな俺の唇にもう一度口付けたとき、不意に、脇に控えていたんだろう桂さんの低い声がした。

「蒼牙様、お召し替えを致しませんと…」

「ああ、すぐ行く。では光太郎、道中気を付けて戻るんだぞ。夜の闇は魅惑的だからな」

 名残惜しそうに俺から離れた蒼牙はそう言って、巫女装束のくせにやたら男臭い表情で笑うと、そのまま桂を従えて堂々と神社の方に戻って行ってしまった。
 残された俺はと言うと、まだ伊織さんとの話しが終わらない繭葵が何か言いたそうにニヤニヤ笑ってちらちらこちらを見ているし、気のない素振りで伊織さんには見られるし、たまたま居合せた高遠先輩には気持ち悪そうな目付きで見られるし、涼を求めて残っていた村人たちからは微笑ましそうな目付きで見られると言う、4重苦に苛まれていた。
 いくらなんでも遣り逃げはやめてくれ。
 できたら本人に言いたかった。

「…光太郎さん」

 不意に声を掛けられて、慌てて唇を拭っていた俺が振り返ると、こんな山には不似合いなんだけど、それを上回ってとてもよく似合うワンピースを着た小雛が立っていた。宵闇に篝火が揺れて、まだそんなに暗くなってはいなかったんだけど、ちょうど逢魔が時のような薄暗さで、だから小雛の表情はよく見えなくて、でも確かにそこに立っていたのは小雛だった。

「や、やあ、小雛」

 どんな顔をしたらいいんだと悩んでしまうのは、小雛の恋心を知っているから、たった今、その想い人とキスしてしまった俺としては居た堪れない。

「私、ちょっとお話があるんですけれど、お時間宜しいでしょうか?」

 嫌に改まった小雛は、それでも俯いたままだ。
 そうか、そりゃあ、あんな風にキスしてしまった場面を見せ付けてしまったもんなぁ…悪いことしたと思う。
 蒼牙は罪なヤツだ。
 繭葵を見ると、まだまだ話は続いているようだし、どうせすることもない俺は、小雛の憎まれ口ぐらいは聞かないといけないだろうと思ったから頷いていた。

「ああ、いいよ」

 ホッと息を吐くと、小雛は暫く逡巡していたが、思いきったように口を開いたんだ。

「光太郎さんは本気で蒼牙様とご結婚されるのですか?」

「え?」

 ドキッとした。
 そうして、そんな風に驚いている自分に、俺は、俺の中にはまだ迷いがあるのかと目線を伏せてしまう。そんなはずないって思ってるんだけど、どうしても引っ掛かってしまう、たったひとつの蟠り。

「私は…反対です」

「小雛…」

 そりゃ、当たり前だよな。
 なんと言っても、チビの頃からもうずっと、蒼牙しか見ずに生きてきた小雛が、こんなポッと現れた俺なんかに、しかも男なんかに大事な人が持って行かれそうなんだ、反対されて当たり前だ。
 繭葵、俺じゃない。
 ホントに蒼牙を掻っ攫われたのは、他の誰でもない、たぶん小雛だったと思う。

「だって、光太郎さんは子供を産めないじゃないですか」

「うん」

「私は産めます」

 その時初めて、漸く小雛が顔を上げたんだ。
 その顔は、どこか切なくて、痛々しかった。
 俺は男なのに、子供を産めて蒼牙に寄り添って、幸せの道を歩むのは小雛だったのに…彼女から永遠に蒼牙を奪おうとしているんだ。
 いや、この呉高木の血脈を途絶えさせようとしている…それは、俺の中にずっと根付いていた蟠りで、誰も言ってくれなかったら、どこかで大丈夫なのかなとか、馬鹿みたいに思い込んでしまっていた。

「晦の儀の時に、私と入れ替わって戴けないでしょうか?花嫁は光太郎さんでも構いません。でも、あの方の御子を私にください」

 小雛は泣き出しそうな顔をして必死だった。
 そんな顔、一度だって俺はしたことがあっただろうか…

「晦の儀の時に隠れる場所は、直哉小父様が用意してくれています」

 ポツリと、小雛が呟いた。

「私は蒼牙様を愛しています」

 溜め息のように呟いて、そして、小雛の大きな瞳からポロリと一粒、涙が零れた。
 こんな風に女の子を泣かせてはダメだと母さんが言っていた。まさか、1人の男を取り合うような形で女の子を泣かせることになるなんて思ってもいなかった俺は、なんか突然叫び出したくなって頭を抱え込んでしまった。
 ああ、クソ!なんで俺がこんなことで悩まなけりゃいけないんだ。
 ましてやこんな可憐な女の子を泣かせてまで,本当に俺は蒼牙と結婚したいのか?
 先輩が言うように、やっぱり俺はおかしいのかもしれない…
 またしても地団太を踏みたくなっていたが、小雛はそんな俺の態度をどう勘違いしたのか、ちょっと困ったように眉を寄せて俯いてしまったんだ。

「ごめんなさい。私、でしゃばってしまいました」

 そんな、一大決心をして話していたくせに、ハラハラ泣いているくせに、諦めたりするなよ。
 小雛は、俺の持っていない大切なものをちゃんと、持っているんだからさ。

「小雛!…俺はやっぱり蒼牙の花嫁は小雛か繭葵だって思ってるよ」

 小さな嘘を吐いた。
 蒼牙のことは、好きだけど。

「光太郎さん…」

 小雛は困惑したような、まだ信じられないとでも言うような心許無さそうな表情をして、俺を上目遣いで見上げてきた。
 愛しているのか判らないんだ。
 だから、こんな中途半端な想いのままで、俺は小雛を傷付けて、蒼牙を縛り付けられるはずもない。

「晦の儀までに考えておくよ」

 女々しい俺はすぐに断定的な返事ができずに、諦めたように呟いたら、小雛が俺の両手を掴むとソッと握り締めてきた。
 小雛の掌はとても柔らかくて、そして小さかった。守ってあげたくなるはずの彼女から守られているような錯覚を感じて、俺は途方に暮れたように苦笑してしまう。
 この村に来てから俺は、どこか女々しくなっている。花嫁なんて言われて、女扱いばかりされているせいなのかもしれないけど、このままこんな生活が続けばいつか性根まで女っぽくなっちまうんじゃないかと思ったらゾッとしてしまった。
 ハァッと溜め息を吐いた途端、背後から何かが高い声で嫌味ったらしく叫びやがったんだ。

「あっれー!?なーんか、怪しい現場を目撃しちゃったぞ!」

 もちろん、こんなことを言うのはついさっきまで伊織さんとくっちゃべっていた爆弾娘、繭葵に間違いない。

「何が怪しいんだよ。小雛はお前と違って俺のことを気遣ってくれてたんだよ」

 ツーンッと外方向いて言ってやると、繭葵は「なんだとぅッ!」っと言いながら向こう脛を蹴り飛ばしてくれた!いってーッッ!!
 思わず小雛から両手を離して脛を押さえていると、目を白黒させていた小雛がクスクス笑って、それからちょこんっと頭を下げたんだ。

「では、繭葵さん。それから光太郎さん、これで失礼します…光太郎さん、どうぞ、よくお考え下さい」

 切実な双眸で俺を一瞬切なそうに見詰めてから、小雛はもう一度頭を下げて踵を返してしまった。主屋の方に歩いて行く小雛の後ろ姿を、片手をまるで庇のように目の上に翳してムムッと眺めていた繭葵は、それから不審げな目付きをして俺を睨んできたんだ。

「な、なんだよ?」

 ムッとしながらも、なんだか悪さを見られた子供のような気分になってしまった俺が唇を尖らせると、腰に手を当てたまま繭葵のヤツはジロジロと不躾に見回しながら俺の周りを一周している。

「なんかねー、怪しいんだぁ。小雛と何を話してたんだい?考えてくれとか言っちゃってぇ…さては!小雛に告られたとか!?」

「んなワケない」

「うははは♪やっぱり当たり前だよね」

 なんだよ、そのあっさりとした肯定は。
 なんか、良く考えたらお前も大概俺に失礼なヤツだよなぁ。

「まあ、いいけどね。どうせ光太郎くんや小雛如きが何かしたって、蒼牙様には適わないだろうしさ」

「そりゃ、どう言う意味だよ?」

 ムゥッと眉を寄せてニッシッシッシと笑っている繭葵の小憎たらしい顔を覗き込んだら、彼女は小悪魔みたいにふふんっと笑ってそんな俺の鼻先を指で弾きやがったんだ。

「光太郎くんも小雛もどっか抜けてるもんね♪」

「…悪かったな、間抜けで」

「そこまで酷くは言ってないよ♪」

 言ったも同じだろうがよ、と鼻先を押さえてムスッとしていたが、繭葵のヤツが唐突に俺の腕を掴むと腕時計を覗き込んで慌てふためいた。

「やっば、やっべーッスよ!晩御飯に間に合わないッ」

「…繭葵さぁ、伊織さんと何を話してたんだよ?」

「ウッシッシ♪」

 慌てて、まるで小動物みたいに敏捷な仕種で小走りに歩き出した活発な繭葵のヤツは、ピタリと足を止めると、口許に手を当ててニヤッと笑いながら振り返った。

「神堂のことに決まってるでショ?ん、まあ。でも伊織さんもよく知らないんだってさぁ。呉高木家の神事だってのに誰も知らないなんてヘンだよねぇ?…まあ、いっか。さっき言ったこと忘れてないよね♪」

「…やっぱり、行くんだな?」

「あったりまえじゃん!」

「…お前さ、急がないと夕飯も食いっぱぐれるぞ」

 うはははっと笑う繭葵に頭を抱えたくなっていた俺が呆れたようにそう言うと、夕飯目当てで慌てたように山道を駆け下りる爆裂娘の後を追いながら、ふと、空を見上げた。
 煌く小さな星たちに囲まれて、月がぽっかりと浮いている。
 俺はどうしたらいいんだろう。
 まるで立ち竦んだように、答えが見つからなくてそっと眉を寄せた。
 答えのない問題なんかあるワケがないのに、その答えが見当たらない。
 月も、この村の人たちが信じている龍神も、あの可愛い呉高木の護り手である小手鞠たちも、まるで何もかもが答えを教えてくれない。
 暗中模索の手探りに疲れた俺は、溜め息を吐いてトボトボと山道を降りて行った。

第一話 花嫁に選ばれた男 8  -鬼哭の杜-

 いつまでもボンヤリと月を眺めているわけにもいかず、俺は溜め息を吐いて首を左右に振ると、仕方なく蒼牙の部屋に向かったんだ。できるなら、もしかしたら、俺はこのまま逃げ出したいとさえ思っていたのかもしれないけど…
 そもそも、俺はなんで蒼牙の部屋に行こうとしているんだろう…?
 ああ、そっか。
 俺は親父の借金の形でここにいるから、この家の当主の機嫌を損ねるわけにはいかないのか。
 なんだろう、この虚しさは。
 頭では判っているのに、胸の辺りが酷く苦しい。
 息苦しくて、忌々しく舌打ちしたら、もっと自分が惨めになったみたいで悔しかった。
 俯き加減にトボトボと歩いている間に、広いとは言え、所詮家の中の話だ。すぐに蒼牙の部屋がある場所まで辿りついた、顔を上げて、不意にギクッとしたんだ。

「…蒼牙」

 そこには、腕を組んで月を見上げて突っ立っている、不思議な青みを帯びた青白髪の美丈夫がいた。
 いつだったか、コイツを見たときに思ったんだよなぁ。
 山に棲んでいる鬼ってのは、ともすれば蒼牙のような男だったんじゃないだろうかってさ。
 こんな月明かりの下だと、まるで幻想的で、儚い想いに命まで散らしてしまったあの巫女が、惑ったとしても仕方ないし、きっと止めることなんか誰にもできなかったと思う。
 俺自身、この綺麗な龍の子に惑いそうになっていた。
 蒼牙のヤツが、そんな俺にゆっくりと目線を移して、月の光よりも冷たい眼差しで俺を見るまではな。

「何をしに来たんだ?」

 皮肉気な顔をして、蒼牙のヤツは微動だにもせずに鼻先で笑いやがる。
 なんだよ、その言い方は。

「別に、ここは俺の部屋だからな」

 お前に逢いに来たんじゃねーよ、俺は眠りに来たんだ、とか、ついつい、繭葵に言われたこともスッカリ忘れちまって、憎まれ口を叩いてしまった。叩いてしまって、内心で「しまった」と、自分自身に舌打ちしたけど後の祭りなんだろうな。

「…ふん、ならばぐっすり眠るといい」

 そう言って、蒼牙のヤツは瞼を閉じるともう一度鋭い眼光で俺を睨み据えて、まるで何事もなかったかのようにその場を立ち去ろうとしやがったんだ。
 そんな行動を取るとか思ってもいなかったから、俺は慌てて脇を通り過ぎようとする蒼牙の着物の袖を掴んでしまった。
 引き止めて、何を言うつもりなんだ。

「どこ、行くんだよ?」

 そんな在り来たりな台詞しか出てこなかったけど、それでも俺は、このまま蒼牙がどこかに行ってしまうんじゃないかと言う、この村で蒼牙こそ神だと言うのに、そんな有り得ないことを考えて動揺してしまったんだ。
 慌てて腕を掴んだ俺が見上げると、月明かりを受けてぼんやりと輝いている青白髪の蒼牙は、ふと、何とも言えない複雑な表情をして見下ろしてきた。
 何か言いたくて、でもできない、そんなもどかしさが伝わってくるような複雑な双眸で…

「今夜は仕事部屋で寝る。アンタには関係ないんだろ?」

 そんな小憎らしいことを言って、蒼牙のヤツは掴んでいる俺の腕を振り払ったんだ。

「待てよ!どうして俺に関係ないんだ!?」

 蒼牙が何に腹を立てているのか、俺はもう気付いていた。
 口ほどにも俺が呉高木家の花嫁になることを望んでいるわけじゃないって、蒼牙のことを疑っているんだって、そう思ってるんじゃないかな。
 そりゃ、俺だって男なんだ。
 そんな話、できればご免被りたいってずっと思っていたさ。
 でも、蒼牙に抱かれるたびに、どこかでこれじゃダメだって思っていた。
 溺れてしまいそうで、冗談じゃないんだよ。
 6歳も年下の男に抱かれて、惹かれてしまったなんて誰に言える!?
 いや、別に言わなくてもいいんだけど、俺の中で変わらずに蹲っている常識だとか世間体ってヤツが警鐘を鳴らして、この村にいたらダメだって言うんだ。
 お前はただの、借金の形で、この村を統べる当主のストレスを発散するためだけに買われた、憐れなただの男なんだぞと言われてるようで…そんなこた、俺だって判ってら。
 お前が、心を許した途端に掌を返すことだって、本当は判っているんだよ。
 お前といるのは楽しかったから、いつまでも気付かないフリをしていたんだけど…それも限界かなぁ。 

「俺はお前の、その、花嫁なんだろ?奥さんを置いて、どこで寝るんだよ?」

「…ッ」

 一瞬、一瞬だったけど、蒼牙がちょっと哀しそうに見えたんだ。
 慌てて見詰め返したら、途端に力いっぱい顎を掴まれて、痛みに眉を寄せる俺の顔を憎々しげに睨み付けながら、今まで聞いたことのない低い声音で蒼牙のヤツは囁くようにして凄みやがった。

「花嫁だと?いい加減、俺を馬鹿にするのも大概にしろ。アンタは花嫁になる気なんか、端からなかった。父親の作った借金の肩代わりに、仕方なく俺に抱かれてるだけなんだろ?アンタは…これっぽっちも、俺の事など考えちゃいないのさ」

 それだけ言って、蒼牙はマジマジと睨むようにして俺の顔を見詰めていた。
 どこか痛いような、寂しそうな顔をして…どうしたんだよ、いつものあの不遜な態度は?
 俺がそんなことを思っていると、蒼牙はすぐに腕を離して、それから何かを吹っ切るようにして吐き捨てたんだ。

「明日、実家に帰れ。俺は留めやしない」

 ほらみろ、やっぱりそうだったんじゃないか。
 頭の奥で、誰かがそんなことを言った。
 それはたぶん、間違えることなく俺なんだろうけど。

「…お前こそ、俺なんか本当はどうでもよかったんだろ?」

 掴まれていた顎がじんと痛んで、俺は途方に暮れたように目線を伏せてしまった。
 頭がガンガン痛くなって、耳の辺りがボウッとしていた。
 俺が何を言っているのか理解できないとでも言いたそうな顔付きをした蒼牙に、その時になって漸く、沸々と湧き上がってきた怒りに奥歯を噛み締めながらその顔を睨みつけたんだ。
 ふざけるな。

「どうせ、ああそうだよ!俺なんか借金の形で、からかって遊ぶには丁度良かったんだよな!?」

「…何を言ってるんだ?」

 うるせーよ!どうせ、最初からそのつもりだったんだろ。
 もう間もなく、弦月の儀が執り行われるから、本当は小雛か繭葵だって決めてたくせに、面白半分で俺をからかっていたんだろーが!
 頭が何かで押さえつけられるような、握り潰されそうな痛みに何もかもが煩くて、許せなくて俺は見境なく叫んでいた。

「俺はもうお役ご免だもんな!ストレス解消できたかよ、ご当主様?婚儀の日に、俺なんかがいちゃ、そりゃ目障りだよなぁ!?」

「光太郎?アンタ、何を言って───…」

 いきなり怒鳴り出した俺に怪訝そうな顔をした蒼牙は、訝しそうに眉を寄せながら俺の頬に触れてこようとしたんだ。だから、俺はその手を叩き落した。
 それは殆ど無意識だったんだけど、呆気に取られたように、吃驚したように一瞬目を見開いた蒼牙は、それから途端に腹立たしそうに俺の頬を強引に引っ掴んだんだ。
 いつもなら、この威圧感のある男に情けないことに怯えてしまって、何もせずに黙って事の成り行きを見守っていたけど、今の俺は違う。
 ブチ切れてるからな。

「何を言ってるか判らんぞ!?」

「判らない?ふざけるな!図星を刺されりゃ誰だって腹が立つよなぁ!お前に言われなくてもこんな村、今すぐにでも出て行ってやる!俺はもう、お前の花嫁じゃないからなッ」

 強い力で掴んでいる蒼牙の手を無理矢理引き剥がして、俺は、蒼牙の顔なんかもう見たくなかったからそのまま裸足で庭に降りると、何かを怒鳴っている蒼牙を無視して脱兎の如く走り出したんだ。
 足には自信がある。
 それだけは、蒼牙にだって負けやしない。
 見られたくなかったんだ、バカみたいにボロボロ泣いてる姿なんか。
 自分の思っていた、怖れていたことを突きつけられたような気がして、俺は月明かりの下を泣きながら走っていた。もう、涙で目の前なんかぼやけちまって、どこをどう走ってるのかも判らなくなっていたけどそれでも走って走って、思い切りこけてしまって漸く俺の足は止まっていた。

「…イテテテ…ッ、ふ…くそ、…う~」

 強かに地面に擦り付けてしまった膝小僧からは血が出ていたけど、そんなものが痛くて泣いてるんじゃない。どうしてなのか判らないけど、胸が苦しくて、胸の奥に突き抜けるような痛みが走って、鼻の奥がツキンツキン痛んで涙がジワッと盛り上がってくるんだ。
 止めようもなくて子供みたいに拳で拭いながら、声を出して泣く俺は、知らないうちに龍刃山の登山道を裸足で歩いていた。

「ふぅ…くッ、…はぁ…どして、俺…ひッく…こんなとこ歩いてんだろ?」

 バカみたいにボンヤリ見上げた空には、無情の光を投げ掛ける、何もかも知り尽くしたような月が浮かんでいた。
 ふざけるな、バーカ。
 そうやって、騙された馬鹿な男を笑ってるんだろ。
 なぁ…蒼牙。
 今頃、屋敷じゃせいせいしたように、明日の弦月の儀の用意でもしてるんだろ。今夜は小雛と寝るのか…それとも繭葵とかな。
 俺なんか、最初からからかって馬鹿にして…そうだよ、繭葵。
 先輩は何も悪くない、笑われるようなことをしてるのは俺なんだ。
 …様ぁねーよな、これが本来のかたちだって言うのにさ。
 俺は、何を信じていたんだ?

「は、…なよめ、とか…ふ…ッ、言いやがって!…うぅ…借金のッ…形には丁度いい…ぅくッ…結末じゃねーか」

 バカみたいだ、バカみたいだ。
 こんなに泣いて…どうしたんだよ、俺。
 こんなに、蒼牙を信じていたのか?
 こんなに、胸が張り裂けそうなほど…アイツを信じていたのか?
 あんなに、信じるなって言ったじゃないか。
 この想いはまやかしなんだから、鬼が巫女に託した、あの清廉とした心とは違うのに。
 俺は何を期待していたんだ。

「ふ…うぅ…ッ」

 泣いても泣いても、頭が痛くなるぐらい泣いても、答えなんか判りきっているのに、それでも俺は、今日を限りに全てを忘れるつもりで泣いていた。
 早朝のバスで帰ろう。
 あんなに望んでいた結末なんだから、楡崎光太郎!綺麗サッパリ忘れて帰ろうな。
 だから、今だけは泣こう。
 だってこれは、失恋なんだから。
 俺はあの巫女のように、潔くもなければ、儚くもない。
 だから大丈夫だ、明日も明後日もきっと、普通の顔をして生きていけるはずだ。

『嫁御かのぉ?』

『おお。嫁御じゃ、嫁御じゃ』

『こんな夜更けにどうしたことか』

『儂らの大切な嫁御が』

『泣いておるではないか』

 ふと、耳に流れ込んできた心がほっこりするような声に、俺はしゃくり上げながら足許を見下ろした。
 普通の地蔵よりも小さい石の塊が、滲む目の前でモゴモゴと動いていて、ああ小手鞠かと思い至った。そうしたら、余計に哀しくなって、俺はその場にしゃがみ込んで地蔵さんたちに話しかけたんだ。

「う…ひぃ…ッく。…めんな、小手鞠たち…俺、…うぅ~…そ、がの…花嫁じゃ、ない…ッ……だ」

 優しい口調で『嫁後嫁御』と言ってくれる小手鞠たちの一体の、その小さな石の身体を見境もなく抱き締めながらそう言ってしまえばもっと泣いてしまうと言うのに、それでも明日にはいなくなってしまうのだから、小雛か、繭葵のためにも訂正しておかなければと思ったんだ。

『何を言うておるのじゃ?』

『うぬ、ぬしだけ抱かれとるのぉ』

『なんと!嫁御殿は怪我をしておるぞ!!』

『それに、裸足ではあるまいか!?』

『なな…何をしておるのかッ、龍の子めはッッ』

「違う…ッ」

 しゃくり上げながら首を左右に振る俺を、それでも小手鞠たちは労わるように口々に言いながら、そのくせ忌々しそうに蒼牙を罵っている。
 違うんだ、これは当然の結果なんだ。
 アイツの大切な場所を踏み躙って、許されるなんて思ってしまった俺の罪なんだ。

「最初…から、俺は…ッ、花嫁なんかじゃなかったから…ふぅ…ッ、明日、帰るよ…」

 ひんやりと冷たい小手鞠の石の身体を抱き締めていたら、ゆっくりゆっくり落ち着いてきて、それでもその台詞を口にする時にはやっぱり、胸の辺りが突き刺さるように痛かった。
 俺、心臓に持病でもあったかな…なんてな。

『ぬぬぅ…龍の子め!!』

『儂らの嫁御を泣かせおってッ』

『桂はどうしたのじゃ!!』

『儂らの大事な嫁御をッ』

『最早、龍の子には渡さぬッ』

 口々に喧しく話す小手鞠の話を聞いていると、これだけ、小手鞠たちのほんの少しでも、蒼牙が俺を想ってくれたらなぁ…とか、そんな有り得ないことを考えたら笑いたくなった。
 もう、手に入らないものだってのにな。
 泣き過ぎたせいで頭が痛くなって、俺は真っ暗な山道だって言うのに、まるで見えているかのように小手鞠たちの影に隠れるようにして横になったんだ。

「ご、めん。小手鞠たち…ッ、明日には…いなくなるから…ここで、ちょっと…ぅ、寝かせて欲しいんだ…ッ」

 誰かと一緒に寝ている蒼牙がいる同じ屋敷の中で寝たくなんかない、これは俺の我が侭だったけど、なぜかこの山にいる時から俺は、恐怖心なんかこれっぽっちもなかった。
 小手鞠たちが傍にいてくれるからかもしれないけど…俺の涙声で、どこか調子っぱずれて奇妙に跳ね上がる話し方でもしんみり聞いていた小手鞠たちは、身体を丸めるようにして横たわる俺を取り囲むようにして何者からでも護ろうとしてくれているようだった。
 それが嬉しくて、俺は「ありがとう」と呟きながら、安心したように瞼を閉じたんだ。
 明日はきっと、瞼がこれ以上はないぐらい腫れてるんだろうなぁ…とか、思いながら。

 ふと、人の話し声が聞こえたような気がして意識が覚醒した。
 きっと、俺のことを心配して小手鞠たちが何か話しているんだろうと思ったけど、それにしては声が遠くにあるように感じてしまうのは気のせいなのか?
 ふと、目覚めると、周囲はまだ暗くて、瞼を閉じてからそれほど時間が経っていないんじゃないかと思わせるのは、傾いていた月が真上に来ていたからだ。
 瞼を開いて前を見たら、月明かりに煌く鱗がチラチラと見えていて、思わず俺が飛び起きそうになったその時…

「返して欲しい。それは俺の花嫁だ!」

 耳元で聞こえたんじゃないかと疑いたくなるほど大きな声が聞こえて、ビクッとしながらも俺は慌てて上半身を起こしてしまった。
 その声に、聞き覚えがあったからだ。
 いや、忘れられるはずなんかないんだけどな…

「…蒼牙」

 思わず呟いたら、散々、俺を捜し回ったのか、肩で息をしながら何やら不気味な鱗に覆われた巨体を睨みつけている青白髪の、まるで山に棲む鬼が具現化したらこうもあろうってな、相変わらず神秘的で男前の蒼牙が立っていた。
 思わず呟いた声にハッとしたように、蒼牙は俺の姿を認めると、ホッとしたように溜め息を吐いている。
 バカだな!こんなどうでもいい相手を、呉高木家の当主ともあろう男がこんな夜中に捜さなくてもいいんだよ!!…それとも、タクシーでも呼んでくれたのかな。
 そんなことを考えていたら、またジワッと涙が盛り上がってきて、気付いたらポロポロと泣いていた。
 そんな俺を、蒼牙のヤツは息を呑んだようにして見詰めてくる。

『嫁御を泣かしおったな、龍の子!』

『理由など聞かぬ』

『嫁御は最早渡さぬ』

『己が塒に帰るが良い!』

『龍の神に差し出すのじゃッ』

「断わる!それは俺の、俺だけの妻だ…」

 ハッと見上げた頭上に、うねる首を5本も乗っけた、まるで龍のような姿をした何者か…いや、声だけを聞けば小手鞠たちの頑なな言葉に怯んででもいるのか、蒼牙は俺に近寄ってこようともしない。
 そんな風に俺を嫌うのなら、もう捜しになんて来なければいいんだ。
 いや…もしかしたら、この龍の化け物に怯えてるのか?
 それならそれで、頷けてしまうんだけど。
 その姿はまるで、八岐大蛇そのもののようだった。
 いや、首は5本しかないけどな。
 でも、声だけを聞けば大好きな小手鞠たちの声だったから…ああ、あの地蔵さんは龍神の化身だったのかと、この現状だとどうでもいいことを考えていた。
 いや、けしてどうでもいいことはないんだけど、今の俺の脳味噌だと、もうそこまで考えるだけの力が残っていないって言うか…でも。
 そんなことでも考えていないと、考えたくないもない事柄ばかり、次から次へと脳裏に浮かんできて後から後から涙が零れちまうんだ。

「蒼牙…小手鞠たちの言うとおりだ。俺はもう、お前の許には戻らない。俺は…明日帰るから」

 漸く落ち着いた声だったけど、泣きすぎたせいか少し掠れていた。
 ハラハラと涙が零れるのを拭うのも忘れて、俺は内心でもう帰ってくれ!と叫びながら、それでも静かに落ち着いて蒼牙を見上げていた。
 コイツよりも6歳も年上なんだぞ、少しは落ち着いたところだってみせたいよ。
 未練がましいとか…思われたくないからな。
 ヘンなプライドなんだけど、それでも、お前には最後に見せるプライドだ。

「…ッ」

 まるで息を呑むようにして俺を見下ろしてきた蒼牙に、何を今更そんなに驚いているんだよと、できれば言ってやりたかった。

「お前の言うとおりだよ。俺はずっと帰りたかったんだ。それで、いいじゃねぇか」

 溜め息のように呟くと、不意に、蒼牙はその眼光に思わぬ力を込めて俺を、そして小手鞠たちを睨みつけたんだ。

「アンタは俺にふざけるなと言った。その言葉、そっくりそのまま返してやるッ」

「…どうして?」

 俺はもう、お前の言ってる意味が判んねーよ。
 俺のことは、いらなくなったんじゃないのか?どうしてこんなことするんだ、もう放っておいてくれればいいのに!

『龍の子よッ』

「なんだ!小手鞠どもッ」

 忌々しそうに見上げる蒼牙の只ならぬ怒りに、それでも怯むことなく、その昔ばなしから抜け出してきたような龍たちは俺の前に立ちはだかるようにして、長い首をうねらせながら蒼牙を睨み返しているようだ。

『龍の神は嫁御を気に入った』

『心音の優しい嫁御』

『この村で独りぼっちは憐れじゃのう』

『儂らが慈しんで育てよう』

「ダメだ!何度も言わせるな、それは俺のものだッッ」

 ビシッと、空気が炸裂するような音を立てて緊張した大気が揺れると、蒼牙はまるでどこか痛いような表情をして俺を見つめてきたんだ。

「来い、光太郎。アンタは俺の花嫁だ!」

 そう言って、堂々と立っている蒼牙は片腕を差し伸べてきた。
 その手を取りたかった。
 どうせ、意思の弱い俺のことだ。本当は、その腕を取って蒼牙に言って貰いたかった。
 でもそんなこと、俺の見る馬鹿な夢だ。
 顎からボタボタと涙を零しながら、瞼を閉じた俺は力なく首を左右に振った。

「どうあっても、俺の許には戻らないというのか?」

 念を押すように呟く蒼牙は、差し伸べていた掌をこれでもかと言うほど思い切り拳に握り締めたんだ。
 もう、涙腺がぶっ壊れたんじゃないかってぐらい涙を零している俺は顔を上げると、真摯に見詰めてくる青白髪の綺麗な、これ以上はないってぐらい腹を立てている蒼牙を見上げていた。
 弱気になる俺の心を、どうかもう、これ以上掻き回さないでくれ。
 そんな俺の返事をじっと待ちながら、それでも蒼牙は、不意に小さく息を吐いたんだ。

「…あの日。この山のあの場所で眠っていたアンタは、俺を見るなり【鬼だ!】って言ったんだ」

 蒼牙は握り締めていた拳をチラッと見て、仕方なさそうに下ろしてしまった。

「…へ?」

 唐突に蒼牙のヤツが、何を話し出したのか判らなかった。
 この山のあの場所って…それは、初めて俺が本当は蒼牙に逢った時で、この絶望的な関係を作った切欠になったあの日のことを言っているのか?

「そりゃあ、あの時は神事の最中だったからな、俺もそれなりの格好をしていたが…ショックだった」

「嘘だろ!?だってお前…」

 そんな風に全く見えんし、そんなことでショックを受ける柔な性格じゃないだろーが!
 それぐらい、心臓に毛が生えてるんじゃないかってぐらい、お前は飄々としてるじゃないか。

「相変わらず、失礼なヤツだな。面と向かってそんな事を言われたのは、アンタが初めてだったんだ。真剣に俺を鬼だと信じていたのか、アンタは硬直したように動けなくなっていて…」

 そ、そんなことがあったっけ?
 あ、でもなんか、そう言われるとそんな気がしてきた。
 それで、俺の中の鬼のイメージが蒼牙なのか…?

「それから…俺はアンタを騙してキスをした」

「…!?」

 ギョッとして目を見開くと、照れたように頬を朱に染めた蒼牙は、言い難そうに先を続けたんだ。

「震えるアンタに口付けた時、一瞬で、俺はアンタに恋をしていた。俺のものになれと言ったら、自分は男だと断わった。構わない、アンタが俺のものになるのなら、家族には永劫の幸福をくれてやると言ったら、アンタは暫く考えて仕方なさそうに笑ったんだ」

 どうして急に、蒼牙がそんな話をし出したのか、その時になって漸く気付いたんだ。
 いや、あの時の記憶を思い出した…と言った方が早いのかもしれないけどな。

「お前が俺を愛してくれるなら、俺もお前を好きになる。努力する。その代わり、高校を卒業するまで待ってくれ…って、俺はそう言ったんだよな」

「思い出したのか?」

 ホッとしたように、蒼牙は呟くようにそう言った。
 そうだ、俺は確かにあの日、蒼牙が大切な場所だと言ったあの場所で、慣れない着物とか着てヘトヘトになって木に凭れて眠ってしまったんだ。
 人の気配がして、歩く足音だったっけ…まあ、そんなものが聞こえて、俺の出番かなとか思いながら目を開けたらそこに、青い髪をした男が立っていた。
 けして派手ではない着物だったけど、とてもよく似合ってて、ひっそりと立ち尽くしている不思議な青い髪の男を見た途端に俺は、思ったことをそのまま口にしていたんだ。

 「鬼だ!」ってね。

 そしたらその鬼は、首を傾げて、それからニヤッと笑いやがった。

「ここは聖なる場所、殺されたくなければ目を瞑れ」

「…そう言ったと思う」

 俺が確信を持てずに頷くと、蒼牙は「そうなんだ」と言って、それからふと、あれほど強い眼差しを伏せたんだ。

「アンタは震えていた。俺の言うことを素直に信じ込んで、本気で俺を鬼などと思っていたんだ。最初は腹立たしくて虐めてやろうと思ったのさ。どうしてやろうか…そう思っていた時に、ほんの気紛れだった」

 気紛れで、男にキスをできるお前って…
 溜め息を吐きそうになった俺の前で、蒼牙のヤツがちょっと自嘲的に笑ったんだ。

「震えるアンタにキスをして、唇に頬に…そんなつもりなんかなかったのに、キスをしてしまってから止まらなくなっていた。アンタはあの日、まんまと俺の心を掻っ攫ったままで逃げたんだ」

「!?…どうしてそうなるんだよ?」

 ムッとして眉を寄せると、その時になって漸く目線を上げた蒼牙は、慈しむように、愛しそうに俺を見詰めてきた。もちろん、そんな目付きをされれば意思の弱い俺なんか、ついついよろけてしまっても仕方ない。
 うん、仕方ない。

「アンタは当時、17だった。だからずっと待ってたんだぜ?いつになったら戻ってくるのか…でも、戻っては来なかった。だから俺は、最終手段に訴えたってワケさ」

「それが、親父の莫大な借金ってワケか」

「ご名答」

 クスッと笑って、蒼牙は仕方なさそうに溜め息を吐いたんだ。
「まさか、それが。こんな結果を生むなどとは思っていなかった…俺も浅はかだった。すぐにでも、アンタを欲しかったからな」

「!」

 そんな直接的な表現を言われてしまうと、毎晩俺を抱いていた蒼牙の切ない指先の甘さを思い出して、さっきまであれほど泣いていたってのに現金なもので、俺は顔を真っ赤にしてしまった。

「あの日の約束を思い出したのなら、俺の手を取るべきじゃないのか?アンタは俺に言っただろ。愛してくれるなら、自分も好きになるだろうと」

 そう言って、蒼牙は絶対的な、あの揺ぎ無い自信を持って俺に向かって腕を差し伸べたんだ。
 そりゃ、あの時は…親父がもう、既に借金ばっかりしてて、返す当てなんかなかったからヤケクソでそんなことを承諾したんだと思う。
 あれから驚くほどイロイロとあって、この村で出逢った、あの夢みたいに綺麗な鬼のことなんかすっかり忘れていたんだ。
 だってあの鬼が…巫女すらも突き放したあの鬼が、小雛の代理ってだけの取り得もない普通の俺なんかを、まさか本気で愛してくれるなんか思っていもいなかったから。
 愛されるなんて、思いもしなかったから。

「…努力するって言ったんだ。でも、お前が俺を突き放したんじゃないか」

 あの鬼みたいに。

「だから、何を言ってるんだ?俺はもうずっと、アンタを愛していた。約束は守っていたぞ。それを言うなら、アンタこそ約束を破ったんじゃないのか?」

「…う」

 思わず言葉を飲み込んでしまった俺に、荒々しく溜め息を吐いた蒼牙はもう、問答無用で近付いてくると腕を掴んで立ち上がらせるなり抱き締めてきたんだ。 

「アンタが、光太郎が屋敷から飛び出したとき、どれほど俺がその身を案じたかアンタに判るか?この俺が、心臓が潰れるかと思った」

 掻き抱くようにしてギュッと力いっぱい抱き締めてくる蒼牙はホーッと長く息を吐き出して、その表情は思い切り安堵していたんだろうとその顔を見なくても判った。

「夜の闇は時に人間には厳しくさえあるんだ。小手鞠が護っていなかったらと思うと、ゾッとする」

「心配して、捜してくれたのか?」

 躊躇いがちに聞いたら、後ろ頭に当てていた手でグッと更に強く押し付けられて、ちょっと俺、苦しいんだけど…な。

「当たり前だ。見失ったときは我を忘れそうになっていたよ。だが、よかった。小手鞠が報せてくれたんでね」

 ホッと、もう一度息を吐く蒼牙の台詞で、俺はハッとあの八岐大蛇もどきを捜したんだけど、その時にはもう、小手鞠たちは小さな地蔵に戻っていて、ニコニコニコニコ、ただただ笑っているように見えた。
 蒼牙と小手鞠に護られて…俺は、蒼牙の肩に頬を寄せながら信じてみようかとか、思い始めていた。
 この鮮烈で強烈な温もりを、蒼牙が手離そうとしないのと同じように、俺も恐る恐る躊躇いがちにその背に腕を回していたんだ。

「光太郎…?」

 そんな従順な仕種に驚いたのか、それとも安心したのか、蒼牙は腰に回した腕と頭に添えている手に力を入れながら、何の取り得もない俺の黒い髪に頬を寄せてきた。
 俺のこと、本気で好きなのか?
 そんなの、嘘だろ?

「蒼牙、俺…俺も、お前を好きかもしれない」

 ポロッと、また一しずく涙を頬に零しながらもう少し強く抱き締めたら、蒼牙のヤツがムッとしたように呟いたんだ。

「かもしれない?曖昧な言い方だな…まあ、今はいい。そのうち、俺じゃないともうダメだと言わせてやるから覚悟しておけ」

 フンッと笑う蒼牙の、その蒼牙らしい台詞に俺は泣きながら笑っていた。
 こんな6歳も年下の男に、惚れちまうなんてどうかしてるけど、でも、もしかしたら俺も、あの小さな花が咲き誇っていたあの場所で、初めて目にした鬼に、とっくの昔に心を奪われていたのかもしれない。
 そんなこと、悔しいから教えてはやらないけど。
 俺は蒼牙を…好きなのかもしれない。
 まだ、そんなところだ。
 それで、いいと思う。

「その、な?俺、1人で歩けるけど…」

 突発的に至極当たり前だと言わんばかりに抱き上げてきた仏頂面の蒼牙に、俺は引き攣った笑みを浮かべながら必死に抵抗してみた。
 ムッとしている蒼牙はそんな俺をチラリと見て、それから腹立たしそうに言いやがったんだ。

「裸足で歩いて帰るのか?冗談じゃない、よく見れば膝も傷付いているじゃないか。俺は自分自身にうんざりしている」

「蒼牙…?」

 キョトンッとして見上げたら、蒼牙のヤツは苛々したように歯噛みして、俺を抱き上げたままでちょこんと肩を並べて立っているちっちゃな地蔵さんたちを見下ろした。

「では、小手鞠。騒がせたな」

『ふん!嫁御を貰い損ねたわ』

『二度はないと思うのじゃな』

『嫁御の涙はもう見とうないのぉ』

『いつでも貰い受けてやるわい』

『嫁御を気遣って戻るが良い』

「そうすることにしよう。だが、まあ…アンタらが光太郎を嫁にすることは永遠にないだろうがな」

 ハハハッと、珍しく声を立てて笑う蒼牙に、小手鞠たちは不機嫌そうにブーブーと何か悪態を吐いているようだったが、柔和な笑みを浮かべる地蔵さん顔で抱き上げられている俺の方を全員で見上げているような仕種に俺は首を傾げて見せた。
 ああ、そうだ。

「ありがとう、小手鞠たち。その、迷惑かけちゃったな…」

 はにかんで、そう言えば、恥ずかしい場面をあまりにもたくさん見せてしまった小手鞠たちに、顔を真っ赤にしながら俺は感謝の言葉を述べたんだ。

『なに、案ずるに及ばんよ』

『うむうむ。儂らは呉高木の護り手』

『嫁御は既に呉高木の者』

『誰が認めぬでも儂らが認めた』

 いつもは五人が五人、思い思いに口を開いてはワイワイ騒ぐ小手鞠の、一番端に居るほっこり笑っている地蔵さんだけが無口に俺を見上げている。

「どうしたんだ?小手鞠…えーっと、E?」

「小手鞠E?なんだ、それは」

 RPGの敵キャラみたいな呼び方をして悪かったんだけど、ボキャブラリーの少ない俺にはそれが精一杯なんだって。
 ムッとして真上にある、何故かとても機嫌の良さそうな、そのくせムーッとしている蒼牙の顔を見上げて眉を寄せていると、ふと、小手鞠Eは何やら言い難そうにモジモジしているようだ。

『儂らの本性を見てしまったのぅ、嫁御よ』

 あ、そう言えば。
 俺が頷くと、唐突に小手鞠たちはこれ以上はないぐらい肩を寄せ合ってなんと言うかその、怯えているようだったんだ。
 どうしたんだ、小手鞠たちは?

「…見たけど、それがどうしたんだ?」

「…ぷ」

 思わず、と言った感じで蒼牙が噴出した。
 噴出した、とは言ってもこの年齢詐称青白髪の鬼っ子野郎は、咽喉の奥でクックックッと笑うぐらいでそれほど爆笑ってのはしないから、馬鹿にされてるんだとばかり思ってしまっても仕方ないだろ。

「なんだよ、なんで笑うんだよ」

 ムッとして見上げる俺を、月明かりを背に受けて、輝くような青い白髪を持つ蒼牙はふと甘く滲むような微笑を浮かべている。男らしい口許が笑みを浮かべ、キリリとした眉の下の不思議な青みを帯びた双眸も細められているからドキッとしても、ホント仕方ない。
 お前への恋心を覚えてしまった俺に、それは反則だと思うぞ。

「理由は小手鞠どもに聞いてみろ」

 ムーッとしながらも真っ赤になっている俺の、色気もない髪に唇を寄せながら蒼牙のヤツがそんなことを言うと、小手鞠たちがギクッとしたように身体を寄せ合っている。
 どうした、地蔵さんたち!

『あの姿を見て、村の外から参った嫁御は怯えぬのか?』

『儂らは地蔵ではないのじゃ』

『儂らは龍の神の使い』

『この村を護る秘めたるもの』

『蛟なのじゃ』

「ミズチ…?いや、俺はよく判んないけどな。なんか、特撮の怪獣みたいで格好よかったぞ」

 ニコッと笑ったら、蛟だと名乗った小手鞠たちは、互いの顔を見合わせながらどうも驚いたような、嬉しそうな仕種でピョンピョンッと飛び跳ね出したんだ。

『龍の子よ!』

「なんだ、小手鞠ども」

 蒼牙が閃くような、ハッとする会心の笑みを浮かべて問い返していた。

『嫁御を無碍にするなッ』

『嫁御を常しえに護れッ』

『嫁御を大事にするんじゃぞ』

 それぞれの言葉を聞きながら、蒼牙のヤツはフフンッと笑ったままで当たり前だとその表情は物語っていたけど、言葉には出さなかった。
 そして…

『嫁御を…愛してやるのじゃ』

 まるで諭すような、どこか愛嬌があった小手鞠にしては珍しく、低く深みのある声音で最後の地蔵さんがポツリと呟いた。

「無論、そのつもりだ」

 頷く蒼牙に一安心したのか、小手鞠たちは『では気をつけてのー』と口々に言いながら、ぴょんこらぴょんこら山の中に消えて行った。
 いったい、どこに行っちまったんだ?
 そんなことを考えて、ふと顔を上げたら、思ったよりも明るい月明かりの中で、まるで昔ばなしから抜け出てきたような幻想的な青白髪の蒼牙が、不思議な青みを帯びた双眸を細めながら見下ろしてきていたのに気付いたんだ。

「な、なんだよ?」

 思わずドキッとして首を傾げると、蒼牙はフッと笑いながら、無言のまま顔を近付けてきて…それから、柔らかく口付けてきたんだ。

「…ん」

 俺はそんな優しい、まるで小鳥が啄ばむようなキスに思わずクスクスと笑ってしまった。
 なんだろうな、この幸せな気分は。
 くすぐったいような、照れ臭いような…

「なんだか、照れ臭いな…」

 俺が思わず呟いたら、蒼牙はそうか?とでも言いたそうな表情をして、啄ばむようなキスを唇から頬、それから涙にまだ濡れている瞼、そして額へと移しながら俺をケタケタ笑わせたんだ。

「やっと笑ったな」

「は?」

「もう、泣くな。お前が泣くと、俺はどうしていいのか判らなくなる」

 そんな、まるで殺し文句みたいなこと言うなよ、泣かせた張本人がよー
 それこそ照れ照れしながら俺は、モジモジして蒼牙の着物の胸元をグイッと掴んだんだ。

「俺は、別に意味もなく泣いてたわけじゃない。お前が、もう俺はいらないみたいな態度を取ったから…」

「そんな態度は取っていない!」

 突然、ムッとしたように怒鳴った蒼牙は、いつもの調子でも取り戻してくれたのかとヤレヤレと半泣きしそうになっていた俺の顔を覗き込むと、いつもの蒼牙らしくもなくニヤッと笑ったんだ。

「だが、よく判ったよ。要は俺に捨てられたくなかったと言うワケだな?」

「グハッ!」

 なな、なんでそう言う方向になるんだ!?いや、待て俺!
 もしかしたら、そんな風に聞こえるような言い方をしちまったってことか!?
 蒼褪めて俯いてしまう俺の髪に唇を寄せながら、蒼牙のヤツは機嫌が良さそうに呟いたんだ。

「アンタを、もうずっと欲しいと思っていたんだ。要らない、なんて捨てられるほど、俺はまだ大人じゃない」

 抱き上げたままで疲れすらも知らないかのような蒼牙は、そんな砂でも吐きそうな台詞をしゃあしゃあと言って、さらに強く俺を抱き締めやがるから、俺はどんな顔をしたらいいのか判らなくなる。

「大人になったら捨てるのかよ?」

 ムッとしてそんなことを言ったら、蒼牙はハハハ…と、また声を立てて笑った。

「アンタにだけは、俺は永遠に大人にはなれないだろう?色んな意味でな…まあ、たとえ物分りのよい大人になったとしても、光太郎を手放すつもりはない」

 いやまあ、それはそうなんだけどなー…なんか、いまいち言い包められたような気がして俺は、フンッと外方向いてやった。

「あー…要らなくなったらすぐに言ってくれ。いつでも出て行くからな」

 悔し紛れに、いやホントは、照れ隠しにそんな憎まれ口を言ってみただけなんだけど、思いの外怒らなかった蒼牙は口許にキリリとした笑みを浮かべて力強く言ったんだ。

「光太郎がその台詞を聞くことは、たとえアンタが死んだ後でもないだろうよ」

 そんな、嬉しいこと…ハッ!?何を言いそうになったんだ、俺は!!

「明日は愈々、弦月の儀だ。それから晦まで一週間。光太郎が欲しいよ…」

 ワタワタと慌てている俺の耳元に、まるで切羽詰ったような蒼牙の男らしい声が囁かれた。その声に、俺は何故か背筋がゾクゾクしたんだ。
 寒いとか、怖いとかそんなものじゃなくて…たぶん、感じたんだと思う。
 顔を真っ赤にした俺は、そんなバカみたいな顔を見られたくなくて、蒼牙の胸元に隠れるようにして着物の襟を掴んで顔を埋めてしまった。う、耳まで赤いような気がする。

「顔を…見せてくれ。光太郎の顔が見えないのは寂しい」

 ふと、蒼牙はそんなことを言って俺の髪に唇を寄せてきた。
 俺は…どんな顔をすりゃいいんだよ!?と、自問自答しながらも蒼牙の胸元から顔を上げて、その切ないような表情をしている蒼牙を見上げたんだ。
 キスされる。
 そう思ったけど、不思議と嫌な気分はしなかった。
 それどころか、どこかで蒼牙の唇を待っている自分がいるのには驚いた。
 あの、少しカサついた唇が、戯れるように遊んでいた先ほどのキスとは大きく違って、深く深く、魂まで交じり合うような深い口付けをくれるのを待っている。そんな自分が浅ましいとも思うし、気恥ずかしいし、何もかも全てに驚いた。
 そんな自分がいるとは…本当に驚きだ。

「光太郎、ずっと言わなかったが、それでアンタを不安にさせていたのならすまなかった」

「なに、言ってんだよ。俺は別に不安なんか…」

 キスをする寸前で、ポツリと蒼牙が呟いたから、俺は照れ隠しに唇を突き出してブツブツいい訳なんかしてみた。結局、もしかしたら、不安がってたって取られても仕方ないのかもしれないけどな。

「愛している」

 呟いて、俺が驚いたように何か言おうと開きかけた口に、蒼牙は噛み付くようにキスしてきたんだ。

「…んッ!」

 ずるいぞ、蒼牙!
 自分ばかり言いたいことを言って、俺にだって言わせろー!!…と、思ったけど、ああそうか。
 コイツはさっきの話を気にしてるんだな。
 好きかもしれない…そんな意地を張った台詞を。
 いや、だからと言って蒼牙に面と向かって同じようなことを言えるかといったら…たぶん、答えはノーだ。

「そ…がッ!ま、…んぅ…ア…ん、んん…ッ」

「…ッ…」

 深く、深く…まるで何もかも吸い込んで、互いの唾液が交じり合うように、そのまま魂すらも交じり合おうとするような…そんなキスに、俺はクラクラしていた。酸欠状態に陥るような、一瞬の酩酊感…そのくせ、もっともっととせがむ俺がいる。
 蒼牙の首に腕を巻きつけるようにして抱き付きながら、蒼牙がそう思うように、俺だって蒼牙の全てを飲み込んでしまいたいと思っていた。
 もっともっと…蒼牙が望むのなら、もっと。

「ん…んぁ…ふ…ッ」

 蒼牙、ああ、俺はお前のこと…

「蒼牙様?」

 ふと、激しいキスに溺れてしまいそうになっている俺の背中に、まるで冷水でも浴びせるような低く、よく通る声音が蒼牙の名を呼んで、俺は思わず目を見開いてしまった。
 ぎゃあ!離せ、離せ蒼牙!!

「んぅ…ッ!!」

 慌てて離れようとする俺を器用に押さえつけながら思う様口腔内を蹂躙した蒼牙は、俺は誰だよと顔を覆いたくなるような甘い溜め息を吐いてしまう俺の唇を舐めながら低く応えたんだ。

「…桂か」

 俺を思う様味わって唇を舐める舌を呆然としている俺の口腔内にもう一度挿し込んだかと思うと、そこに桂がいると言うのにさらに深い口付けで俺の舌を弄ぶと、漸く満足して唇を離す蒼牙の舌を追うように、乱れてしまっていた俺が無意識に伸ばした舌には唾液が月明かりに銀色の光を反射させて…って、マジですげー恥ずかしいんだが!! 
 あわわわ…

「楡崎様はご無事でしたでしょうか?」

「目を放した隙に傷付けてしまった。口惜しいことだ。足を痛めている」

 低い声で蒼牙が説明すると、桂は一瞬眉を顰めてから、相変わらずのポーカーフェイスで膝を付いたままあの魅力的な低い声で言ったんだ。

「それはいけません。化膿すると大変ですので、どうぞお屋敷にお戻りくださいませ」

「ああ、そのつもりだ」

 いや、だから。
 いつからそこにいたんだ、桂!?
 俺が顔を真っ赤に、いや、キスの余韻もあるんだろうけど…いやいや、取り敢えず顔を真っ赤にしたままで畏まっている桂を見下ろしたら、彼は俺に一瞬目線を移すと、ふと、嬉しそうに口許に笑みを浮かべたんだ。それは、ともすれば見落としてしまいそうなほど一瞬だったんだけど…
 そうだ、思い出した。
 桂は蒼牙の花嫁は俺しかいないと、無表情で熱っぽく語っちゃうような、ちょっとアレな人だった。
 一瞬で消えてしまったあの嬉しそうな笑みを見ると、どうやら早い段階からここにいたのであろう桂は、蒼牙を受け入れてしまいそうな俺に満足しているんだ。
 影もなく神出鬼没で現れてしまう桂、恐るべし!…だ。
 うわー、もう明日からどんな顔して桂に会おうかと、思わずメソメソ泣き出しそうになっている俺をまだまだ平気で抱え上げている蒼牙のヤツは、それこそ嬉しそうにニコッと笑って桂に言ったんだ。

「大事な身体だからな。桂、薬を用意しておいてくれ」

「畏まりました。お熱が出るかもしれません、氷嚢も用意致しておきます」

「ああ、何か栄養になるものも必要だな。血が出たようだ」

「…それは、いけませんね」

 そんな、勝手なことを勝手に言い合っている蒼牙と桂に、俺は立ち眩みのような眩暈を覚えてしまった。
 どんな重症なんだよ、俺は!?

「いや、そんなに必要ないって。ただの掠り傷だ」

「それを決めるのは俺だ。アンタは大事な花嫁なんだからな…俺が護ってやる」

 そう言ってペロリと唇を舐めてくる蒼牙に真っ赤になる俺を、ヤツは満足したように覗き込んで額にキスしてきた。そんな、蒼褪めている俺を無視すれば、桂ヴィジョンでは仲睦まじい当主とその花嫁の姿に大変ご満悦ではないのかと思えるほど、寡黙な執事は無表情で喜んでいるようだ。
 まるで某法律系の番組に出演している弁護士みたいな人だなーと思いながら、俺はとうとう調子に乗ってチュッチュッと戯れるようなキスをする蒼牙の顔を引き剥がそうとして悪戦苦闘した。

「では、蒼牙様。私は先に失礼致します。道中、お気を付けてお戻りくださいませ」

 ここは蒼牙の庭なのだから、そんな心配はしてやる必要ないんだけど、流石は執事の鑑のような桂は「キスすんな!」「なぜだ?」と言って無用な攻防戦を繰り広げている俺たちに頭を下げると、サッサと山を降りたようだった。
 まあ、たぶん。
 折角仲睦まじくなってくれた当主とその花嫁を、そっとしておいてやろうと言う、何とも恐ろしい気を遣ってくれたのかもしれないけど…勘弁してくれ、桂。
 そんな桂を見送った後、啄ばむような優しいキスの雨を頭髪に降らせている蒼牙の衿を引っ張って、俺はそろそろ眠くなったことを伝えたんだ。

「もう、家に帰ろう。俺、クタクタだ」

 お前だって本当は、随分と草臥れてるだろうに、さっきから俺を抱き上げたままで突っ立っているんだ。もう、下ろしてくれたらいいのに…そんなことを考えていたら、蒼牙がそうだなと殊の外あっさりと頷いて、そのまま下山を始めたんだ。
 うお、こんな所まで昇ってきていたのかと吃驚したけど、それでも俺は、無言のまま蒼牙に抱かれていた。こう言うとヘンな感じに聞こえてしまうけど、口が裂けても言えないじゃないか。
 お姫様抱っこしてもらってるなんてな。
 ハァ…と溜め息を吐く俺に、迷うことなく、いや、こんな月明かりだけを頼りだって言うのにスタスタと歩いている蒼牙が、前を向いたままで何でもないことのように言ったんだ。

「疲れたのならこのまま眠るといい」

「いや、でもお前が…」

「構わん」

 重いだろう…と気を遣おうとしたのに一方的にそう言われちまって、そうすると俺の素直な脳味噌は、蒼牙の言葉どおりサッサと瞼を重くしやがった。いや、俺の脳味噌!ちょっと待て、呆気なさ過ぎないか?
 無駄に足掻いて抵抗しても、強烈な睡魔は許してくれるはずもない。
 なんにせよ、真夜中なワケで、睡眠を無駄に貪る俺はウツラウツラと舟を漕ぎ始めてしまった。
 蒼牙の身体のぬくもりに包まれて、その少し早めの心音を聞いていると、まるで揺り籠の中にいるような錯覚を覚えて、俺の根性のない瞼はゆっくりと閉じてしまう。
 今日はイロイロあったなぁ…とか、そんなどうでもいいことを思いながら瞼を閉じると。

「早く俺を好きになるんだぞ」

 そう言って、誰かが半開きの口許に何かを押し当ててきた。
 少しかさついたその柔らかな感触に、俺は夢でも見ているように小さく笑ってしまった。
 明日は弦月の儀だ。
 明日も晴れるといいな…

第一話 花嫁に選ばれた男 7  -鬼哭の杜-

 蒼牙が言ったように、大学生の一行は思ったよりも朝早く到着したようだった。
 俺はと言えば、昨夜は早めに就寝できたおかげか、翌朝はスッキリした気分で目が覚めて蒼牙と一緒に朝稽古と言うものを見学していた。いつもは身体がだるくてなかなか目が覚めないんだけど…こうしてみると、夜の営みってのはキツイものがあるんだなぁ。
 正座したままで「はぁ…」と爺さんみたいに溜め息を吐いていたら、帯刀した白装束で姿を現した蒼牙に思わず目を奪われてしまった。
 うわー…それでなくてもこんな重厚な雰囲気の道場が敷地内にあるってだけでも驚きなのに、腰がちゃんと据わっているから姿勢もピシッとしてて、帯刀しているその姿も立派に様になっている。こう言うのは一朝一夕でどうにかなるもんじゃない、たぶん、蒼牙のヤツは幼い頃から鍛えてきたんだろうな。
 祭壇の設けられている前に組太刀する相手である桂が既に剣を構えて立っている、その前に進んだ蒼牙は腰を落として…立膝をした座り姿勢で構えている。
 まるで対のように凛とした、張り詰めた空気が道場内に浸透していって、合図を出す役の師範ですらその気迫に飲み込まれているみたいだ。

「始め!」

 ゴクッと息を飲んだ瞬間、意を決したような師範の声がして、射し込む朝陽にギラギラと刃を光らせた真剣でもって、桂は蒼牙に斬り込んでいったんだ!
 ハッとして目を瞠った瞬間だった。
 ビュッと、凄い速度で鞘から抜き去るとダンッ!と踏み出すようにして本身の刀でビシッと桂の腕の辺りを斬り付けた!…ように見えたのはその気迫のせいだったんだろう。現に蒼牙はすんでのところで止めて、次の型も見事な動作で黙々とこなしていく。その全てが一つの清廉とした静けさの中で行われ、ただただ俺は、その場で行われている行動の全てを型として受け止めることができず、まるで何か…そう、魂の遣り取りを垣間見たような気がしていた。
 なぜ、そんなことを考えてしまったんだろう…んー、やっぱり真剣を遣うからかな?
 よく、判らねーや。
 でも、どうやったらあの重い真剣をあんな風に軽々と扱ってしまえるんだろう。
 まるでそうだ、身体の一部のように極自然な動作は、それが全部型通りだってことは判ってるのに、あまりにも荘厳で綺麗だ。
 幾つかそう言った遣り取りを行った後、師範のおっちゃんの「そこまで!」の掛け声で静かなる攻防が終了すると、蒼牙は腰に巻いた白い帯に挟んだ鞘にまるで時代劇の侍みたいな動作をしてカチンッと真剣を納めた。
 スクッと立ち上がった汗一つ掻いていない蒼牙の双眸は清々しくて、恭しく頭を下げる桂に何かを言うと、大股で道場内を横切って、入り口の辺りで正座してボケーッと見ていた俺のところまで来たんだ。

「スッゲーな!!スゲーよ、俺手に汗握っちゃったよ♪」

 両手でパチパチと拍手喝采してやると、当の蒼牙は面食らったような顔をしていたが、呆れたように笑って俺の腕を掴んだんだ。

「居合道を知っているか?」

「へ?あ、いやその…格闘技は苦手でさ」

 促されるままに立ち上がりながら笑って応える俺に、蒼牙のヤツは「だろうな」とでも言うような目付きをして顎を少し上げると、小馬鹿にしたような目付きで見下ろしてきやがった。
 う、日本男児が全員、武道に長けてるなんて今時ナンセンスだぞ!
 とは言っても、さすがにたったあれだけの時間正座したぐらいで、足を痺れさせるのはどうかと思うけどな…あう。
 痺れは軽い方だったからおかげさんで立ち上がることはできたけど、すぐに歩き出すことは不可能みたいで、それに気付いた蒼牙が困ったように眉を寄せて仕方なさそうにプッと噴き出しやがったんだ。畜生!

「たとえ大罪人に直面するとも、刀を抜くな、抜かすな、斬るな、斬らすな、殺すな、殺されるな、話して懇切に説法し善人に導くべし、万一従わずば是非もなく、袈裟打ちかけて成仏せしめよ…居合道の始祖が受けた神託の言葉だ」

「ふ、ふーん??」

 なんだよ、あからさまにその馬鹿にした目は。
 そんなの聞いて「ほお、そうか」とか、どこかのジェントルマンみたいな振る舞いがこの俺にできるとでも思ってんのか?

「…居合とは人に斬られず人斬らず、只受け止めて平らかに勝つ。つまり居合とは「人殺しの術」ではなく、心を鍛えると言うことだな。どーだ、アンタみたいにのほほんとしているヤツには丁度良い鍛錬かも知れんぞ」

「…それは、脳味噌スカスカの俺に居合をしろってことか?」

「別に。それにアンタはそれほど馬鹿じゃないだろ」

 肩を竦めてからニッコリ笑う、明らかに人を見下した態度の蒼牙に、クッソー!今朝はいいもの見せてもらっていい気分になってたって言うのに、一気に興醒めしちまっただろうが!
 ムッスーと腹を立てていたけど、クックックッと笑っている蒼牙を見上げて俺は、ふと先ほど感じた違和感を思い出して首を傾げたんだ。

「居合道ってのは…人を殺さない剣術なんだろ?どうしてだろうな、俺にはさっきの稽古が命の遣り取りみたいに見えたんだ。それって殺し合いに見えたってことだよなぁ」

 うーん…っと悩んでいると、蒼牙はへぇっと驚いたように眉を上げていたが、フッと笑ってその疑問の答えを言ってくれた。

「気迫だよ」

「へ?」

「気迫で殺しあってるのさ」

 それでも納得いかないぞ。
 殺さない居合道で殺し合う?

「一般の居合道では考えられないだろうが、俺はそうしている。叱られはするがな」

「蒼牙でも叱られるのか!?」

 いや、と言うか。
 叱る相手に感情をぶつけない辺り、なんにしても武道ってのは凄いなぁ。
 ふん!と鼻先で笑ってから蒼牙のヤツは、肩を竦めながらそう言えばと、思い出したように頷いたんだ。

「刀を仕舞ってくる。ここにいろ」

「判った」

 大人しく頷いて笑ったら、蒼牙は腰から引き抜いた鞘を掴んだまま、毅然とした態度でスタスタと古武道場を後にした。確かに、繭葵が素敵だと言ったように、そのキリッと伸ばされた背筋と青白髪は少しアンバランスだが、でもそれすらも寛容に受け止められるだけの魅力が蒼牙にはあると思う。
 よし、足もだいぶ良くなったなと思っていたら、桂が俺の脇に控え目に待機しているのに気付いた。
 …この人は本当に、空気みたいな人だな。

「桂さんも居合いをしていたんだね」

「はい」

 ちょっとビビりながら話し掛けたら、やっぱり寡黙な人らしく、言葉数少なに頷いて桂はまた貝のようにムッツリと口を噤んでしまった。

「蒼牙の腕はいい方なのかな?」

「左様ですとも。現在の宗主は直哉様でございます。しかし本来ならば、蒼牙様こそ免許皆伝を受けてもおかしくはないのですが、そうされていないのはご自身に未だ迷いがあるからなのでしょう」

「…迷い」

 あの不遜大魔神の蒼牙のどこに、そんな迷いがあるって言うんだ?
 すぐに人を馬鹿にしたような目付きで上から見下ろしてくるあの傲慢な態度は、どこをどう見ても迷いに悩める武道少年なんてツラじゃないだろう。
 俄かには信じられないような話しだが、それでもなんとなく理解できたのは、きっとさっき蒼牙が言った台詞が引っ掛かったからだ。
 人を殺す為ではない剣術で、気迫とは言え内面に蹲る精神で殺し合いをしているその行為は、心を鍛えるべき居合道にあってはその精神を真っ向から否定しているようなものだと思う。どうして蒼牙がそんなことを思うようになったのか俺は知らないけど、桂さんが言うことが本当なら、たぶんそう思うようになった原因が蒼牙の悩みなんだろう。
 その双肩に呉高木一族とこのささやかな村の未来を担って立つには、あんな見てくれでも蒼牙はまだ、本当は子供なんだ。たまに酷く大人びた顔をして溜め息を吐いている姿なんか見てしまうと、近所のガキを思い出しても通じるところがあまりに少ないのに気付いて吃驚した。
 蒼牙はいったい、産まれてからこれまで、どれぐらい年相応の生活をしていたんだろう。
 ふと、あれほど嫌いだと思っていた蒼牙に対する一種の偏見のようなものが薄らいで、俺はその向こうにひっそりと佇んでいる本当の蒼牙を見てみたいという気持ちに駆られてしまった。
 当主として生きている蒼牙も確かに蒼牙なんだろうけど、年相応に普通に笑って、インターネットにハマッたりスキーしたり話題のゲームの話しに盛り上がったり、お洒落に気を遣うところとかも見てみたいよ。
 そんな仏頂面ばかりで、笑えばやたら大人びていて小生意気で、服だっていつも着流し姿でお前、いったい何が楽しいんだって聞きたくなっちまう。
 さっきみたいに胴着なんか着られてしまうと思わずドキッとしてしまうけどな…ハッ!?俺何言ってるんだろう。
 さっきから赤くなったり青くなったりしている俺の百面相を、桂はやっぱり表情も変えずに無言のままで盗み見ている。
 いかん、これじゃちょっとアレな人になってしまう。
 俺はコホンッと軽く咳払いして、戻ってくる蒼牙を待つことにした。

 真剣を仕舞って戻ってきた蒼牙はやっぱり白装束のままで、俺を促して母家に戻りながらうんざりしたように眉を寄せて言った。

「もうお客人が到着したようだ。アンタや繭葵たちと違って賑やかで疲れるな」

「へー!もう会ったのか?」

「挨拶されたよ…美人だったぞ」

 着物は風呂に入ってから着替えるんだと聞きもしないのにいちいち説明した蒼牙は、小憎たらしい顔でニッと笑って、どうでもよさそうな情報までわざわざ付け加えてくれた。そこまでされたら俺だって、それにニッコリ笑いながら応対してやるしかないだろ?

「そっかぁ。じゃあ、会うのが楽しみだ♪」

 その途端、蒼牙のヤツはムッとしたようなツラをして「どの口で言ってるんだ」と、自分からふった話題のくせに俺の腕を掴むと、引き寄せながらジロリと睨みつけてきやがった。その視線は確かに震えあがるほどおっかなかったが、でも、そうやって素直に感情を剥き出しにする辺りはまだまだ子供だなと笑ってしまった。それが余計に蒼牙の気に障ったのか、ヤツはますますムッとしたようでケラケラ笑っている俺の顔を覗き込んでいたが、不意にソッと触れるだけのキスをしてきたんだ。
 あんまり唐突のことだったから吃驚したけど、それでも啄ばむようなキスは気持ちが良くて、俺はうっとりと瞼を閉じてそれを受け入れようとした。
 その時、不意に蒼牙が俺から離れると、驚くほど厳しい無表情をしてツイッと前を睨み付けたんだ。そこにはワイワイと騒がしい一団が近付いてきていて、蒼牙がそうして離れなかったら、バッチリと男同士のキスシーンを見られてしまったなと、危機一髪のニアミスを回避できて俺はホッと胸を撫で下ろした。

「呉高木さん!先ほどは満足な挨拶もできなくて…ん?」

 賑やかで華やかな一団の中の男が1人、蒼牙の存在に気付いたのか、いそいそと一団を離れて近付いてくると内心ではうんざりしている蒼牙の腕を掴んで挨拶しようとした。だが、その目が、傍らで立っている俺を捉えた瞬間、ギョッとしたように見開かれたんだ。

「あれ!?お前、楡崎じゃないか??」

「へ?あ、ああー!!高遠先輩じゃないッスか」

「はっはっはー!お前、元気にしてたかよ?」

 その声に聞き覚えがあった俺は一瞬眉を寄せたけど、すぐに高校の時の先輩だと気付いて声を上げてしまった。

「お知り合いですか?」

 初めて村の外の人間と対面する蒼牙を見た俺の感想としては、ズバリ!猫被ってんじゃねーぞッッ!!だった。

「高校の時の後輩ですよ」

 俺が何か言おうと口を開きかけても先輩が先に言ってしまう、そうそう、この人もまた蒼牙と違った意味で俺様な人だったっけ。
 思わず苦笑しそうになった俺をチラッと上の方から見やがってから、蒼牙は思い切り営業だと判るスマイルを浮かべて丁寧に言ったんだ。

「そうですか。何もない村で心許無いでしょうが、彼もまだこの村に来て間がありませんが知り合いがいれば心強いでしょう。ごゆっくりして行ってください」

「は、はぁ。ありがとうございます♪」

 俺に先に行ってると言い残して、蒼牙はそのままさっさと行ってしまった。でもたぶん、あの後ろ姿は怒っているんじゃないかと思う。いや、なんで怒られなきゃいかんのかは謎だが。
 ハァッと溜め息を吐いていたら急にガシッとヘッドロックをかまされて、俺はアワアワしながら先輩の腕を叩いていた。

「お前、いつから呉高木の家にいるんだよ!?ここってスッゲー金持ちなんだぞ!」

「い、いつって…3日前ですけど。先輩は何をしに来たんです?」

 腕を緩めてくれた先輩はそれでも俺の頭を抱え込んだまま、根が豪快な人だけに、ガッハッハッと大いに笑いながら答えてくれた。頼むから、まずは手を離してください。

「俺たちは大学の民俗学研究部でよ。今度、この村で何年かぶりの祭りがあるって聞いたから夏休みを利用して見に来たってワケだ」

「由美子でーす」

「香織でーす」

「望月です」

 頭を抱えられたままの情けない姿の俺に、美人系の由美子と可愛い系の香織が次々と挨拶して、それから最後に冴えない野郎がヌッと覗き込んできて片手を上げるから、俺は苦笑しながらいちいちそれに応えながら先輩の腕をさらに強く叩いた。

「あれ?でも高遠先輩。大学って…」

「ん?俺は大学院に進んだんだよ」

 あ、なるほどと、やっと開放してもらって頷いていると、由美子が真っ赤に塗りたくった唇をニッと笑みに象って俺に擦り寄ってきた。

「ねね!あの綺麗な呉高木のご当主様?もちろん、独身なんでしょ?」

 興味津々なのはもちろん、不思議な髪の色さえ気にしなければいたってハンサムの代名詞になりうる蒼牙のことなんだろう。先輩は始まったよとでも言いたそうに片手で顔を覆っているし、香織と望月は顔を見合わせて肩を竦めながら苦笑している。

「えーっと…なんか、今度結婚するみたいだけど」

「ええ!?」

 オマケにヤツはああ見えても、若干17歳だぞ…っと、これは今の世の中じゃ別に年齢差なんかはどうでもいいことか。
 ちょっと何よそれぇとムーッと綺麗な顔を歪める由美子に、お前は何をしにここに来たんだと言いたそうな顔つきをする高遠先輩が溜め息を吐いていると、都会派美人の大学生は肩に下げていた荷物を投げ出して、豊満なバディを惜しげもなく晒すピチピチのタンクトップにホットパンツ姿で抱き付いてきたんだ。

「わわ!?」

「ちょっとさー、結構キミご当主様と仲良さそうじゃない?あたしを紹介しちゃってよぉ」

「おーい、やめろよ由美子。こう見えても楡崎は奥手なんだからな」

「あらん?じゃあ、胸を押し付けちゃおっかなぁ♪」

「ひええぇぇ~」

 柔らかい乳房を押し付けられると、それでなくても暫く女っけのなかった俺としては、免疫がなくて顔が真っ赤になってしまった。それがまた面白いのか、由美子は甲高い声で笑いながらギュウギュウと抱き付いてくるから堪らん!勘弁してくれよ~

「ムム!光太郎くんの危機発見!ちょっと君たち、蒼牙様の光太郎くんに手を出すとボクが承知しないよ!!」

 グハッ!

 お前は何を堂々と晒してんだッ。

「あ、蒼牙の花嫁候補」

 それでも話しを逸らそうと由美子に抱き付かれたままであっさり言ったら、豊満バディの都会派美人は真っ赤な口紅を塗りたくった唇を尖らせて、物事の諸悪の権現である繭葵を振り返った。
 可愛いフリルのついた緑のキャミソールを重ね着したジーパン姿の繭葵は、胸を張るようにして仁王立ちしながら腰に手を当てて、不躾にビシィッと指差している。決まってる自分のポーズに満足しているのか、フフーン!と満足そうだ。
 お前も何をしにこの村に来てるんだ。
 思わずガックリ肩を落としそうになる俺をサッサと放り出して、由美子は豊満な胸を押し上げるようにして腕を組むと、ジロジロと品定めでもするかのような嫌な目付きで繭葵を見ている。

「うっそぉ!?こんなお子様がご当主様のお好みなのぉ??」

「ムー?何を言ってるんだい。どーしてボクが蒼牙様の好みになるワケ?蒼牙様の好みは光…ングググッ」

 これ以上何か危険発言をされて窮地に立たされるのはご免被りたいからな、大人しくなってもらう為に繭葵の口を手で覆って愛想笑いした。

「違うよ、違う。コイツは花嫁候補の1人で、もう1人、蒼牙に打ってつけのご令嬢が候補でいるんだ」

「ご令嬢ぉ~?あーん、それじゃ無理かぁ」

 最初からお前は無理だろと、高遠先輩もそこにいた全員がそう思っていたけど、当の本人である由美子だけは本当にイケルと思っていたようだ。勘弁してくれ。
 いやそりゃあ、俺に比べればお前のほうが全然イケてると思うけど、小雛や繭葵に比べたら…都会に毒され過ぎて俺でさえ食傷気味になりそうだぞ。

「さーて、冗談はそれぐらいにして!今夜から明日の祭りまでお世話になる呉高木家にきちんと挨拶に行くぞ」

「ええぇ~、冗談って何よそれぇ」

 本気だったの!?
 思わずポカーンッと呆れてしまう俺と繭葵に、香織と望月は苦虫でも噛み潰したような苦りきった表情で顔を見合わせてから、仕方なさそうに笑って肩を竦めたんだ。

「だってね、由美子は本気で過疎地のお金持ちをGETして玉の輿に乗るんだーって言ってたもん」

「バカ!…としか言いようがないね」

「…ちょっと、望月ぃ!バカって誰のことよ?まさか、あたしなんて言わないわよねぇ??このミスキャンパスにして秀才の由美子さまに一度も勝てないあんたがね!」

 フンッと鼻で笑う取り澄ました由美子がナイスバディををくねらすようにして歩いて行くと、望月は肩を竦めながらやれやれと溜め息を吐いた。
 同じように高遠先輩と顔を見合わせた香織も肩を竦めて諦めたように溜め息を吐くと、仕方ないと言いたそうに投げ出している荷物を掴んで彼女の後を追い始める。その後ろ姿を見ながら軽く溜め息を吐いた高遠先輩が、やっぱりポカーンッとしている俺たちに気付いて困ったように笑ったんだ。

「由美子は気位の高いヤツでさ。でも話してみると案外面白いんだ。まあその、適当に付き合ってやってくれ」

「…先輩も、お疲れ様ッスね」

 苦笑して大柄な山男のような高遠先輩を見上げると、彼は「まあな」と決まり悪そうに呟いて笑った。

「でもお前とこんなところで会うなんてなぁ」

「うち、呉高木家の分家なんですよ。んで、今回お祭りがあるから先輩たちと一緒で、見学に来たんです」

 ニッコリ笑いながらも、横で俺たちの会話を黙って聞いている爆弾娘が何か言い出しはしないかと内心バクバクしていると、先輩は、いやもちろん、この人はそんなに悪い人じゃないから全く他意はないんだろうけど言ってくれたんだ。

「そうかそうか。アレから一度も会ってないだろ?金の無心に来たお前を無碍に追い返しちまってさぁ…かなり後悔したんだぜ。んで、親父さんの借金は返せそうなのか?」

 ははは…そうか、そう言えばそんなこともあったっけ。とか、忘れられもしないくせに忘れたようなふりを演じていた俺は、軽く笑いながら頷いた。

「おかげさまで。あの時は無礼をスミマセンでした」

 でもまさか言えない。
 呉高木家当主の花嫁になることを条件に、借金全額チャラになったなんてな…

「お前こそ大学に行くべきだったのにな、残念だなぁ」

 心底残念そうに項垂れる先輩には悪いけど、もうその話題には触れて欲しくないんだが…でも仕方ないか、恥を偲んで頭を下げに行ったのは俺なんだ。そうか、6歳も年下の男に抱かれることを条件に借金の返済をしたこの俺だ、もう今更恥の1つも2つもないよなぁ。
 溜め息を吐いていたら、不意に傍らで俺たちを見上げて話しを聞いていた繭葵がズバッと言ったんだ。

「心にもないこと言っちゃダメだよ。どーせ男気出して『金の貸し借りはお互いの為にならん』とか言ったんでショ?だったら、そんな泣き言を蒸し返しちゃダメだ」

 爆弾娘の明け透けな発言に、高遠先輩はまるで面食らったようだった。それは俺も同じことで、でもどうしたんだろう?俺は、なんか胸の辺りがスカッとした気になっていた。

「本気で光太郎くんを思っているのなら、自分の進む道を見つけている今の光太郎くんを応援するべきだよ。昔のことなんて蒸し返しちゃダメだ」

 フンッと胸を張る繭葵を見下ろして、それでも先輩は気に障ったのか「お前には関係ない、失礼なヤツだな」と言って腹立たしそうに行ってしまった。もともと、繭葵が言うように男気が強い性格で、俺様な部分があるもんだから自分より年下の、ましてや女の子から諌められたとあっては面子が立たなかったんだろう。

「うっわー…ごめん。光太郎くんの先輩なのにボク、余計なこと言っちゃったねぇ。謝ってくるよ」

 思わず噴き出しそうになっていたら繭葵のヤツがそんなことを言うもんだから、俺は大らかに笑いながらその腕を掴んで止めたんだ。失敗しちゃったなーと言いたそうな、強気の繭葵にしては珍しく困惑した顔で俺を見上げてくるから、その眉を八の字にした顔を見下ろして肩を竦めて見せた。

「いいよ、別に。あの人は昔からああだし。それに…ホントはスカッとしたからな」

 バチンッとウィンクなんてしたことないくせに片目を閉じて見せると、そんな不恰好な俺の姿が面白かったのか、繭葵はすぐに元気を取り戻して頷いたんだ。

「よかった。ボクもああ言うヤツは大嫌いだ。したり顔で先輩面しやがって、そのくせいざと言う時にはちっとも役に立たないんだから!いっそのこと目の前から消えて欲しいよね」

「コラコラ、それは言い過ぎだろ」

「あ、やっぱそう?ウシシシ」

 身に覚えでもあるんだろう、繭葵のヤツは本当に憎たらしそうに言ったけど、すぐにいつもの顔でニシシシッと笑うから、本気なのか嘘なのかよく判らんな。

「でもさー、あの関係図?ボクの見解としては由美子=女王様で、香織=お付きの侍女、んで望月が傍観者。あのムカツク先輩が由美子崇拝者ってとこかな」

「はぁ?どこをどう見たらそんな風に思えるんだ??…つーか、なんでお前がアイツらの名前を知ってるんだよ」

 怪訝そうに眉を寄せて見下ろす俺から、繭葵はあまりにも不自然に目線を逸らして口笛なんか吹きやがるから…おい、まさか。

「最初っからいましたもの♪蒼牙様とのキスシーン見ちゃったぁ」

 エヘへへッと笑う繭葵に、俺が真っ赤になって口をパクパクさせていると、さすが爆弾爆裂娘!ニャハッと笑いながら自分の頭を小突きながら言ったのだ。

「うはっ!マンガなんて描きません♪」

 …誰か有害なコイツの息の根を止めてやってください。

「…と言うわけで、弦月の儀にご招待するわけにはいきません」

 俄かに賑やかになった夕食の席で、限られた一部の一族しか参列できない弦月の神事について蒼牙は簡単に説明していた。できるだけ蒼牙に近付きたい由美子だったけど、そこは格式ある呉高木家のこと、一線というものはちゃんと引いている。
 繭葵は呆れたようにそんな由美子たちを見ていたけど、たぶん内心は穏やかじゃないに決まってる。
 民俗学こそ生涯の伴侶だ!と言いやがる繭葵にとって、呉高木家の蔵の中には垂涎のお宝が眠りまくっているんだそうだ。それを見るためだけに、こんな茶番劇に乗って来てやったようなものなのに、それをワケも判らない連中から横取りされるとなると学者魂に火でもついてるんじゃないかな。

「残念だな~、今回の見物は『弦月の儀』だったのに」

 高遠先輩が残念そうに眉を寄せると由美子を除いた一行も、少しだけ沈んでしまったようだ。
 いやだけど、あの山男みたいな先輩が…民俗学ねぇ。信じられん!
 俺は味噌汁の入った椀を持って軽く口を付けながら、高遠先輩と蒼牙の遣り取りをコソリと見ていた。いつもは不遜が服を着て歩いているような呉高木家の生ける神が、驚くことに、客人相手では吃驚するぐらい態度を豹変させてるんだからこれも信じられないよなー…

「神事は見世物ではありませんことよ」

 不意にそれまで黙って事の成り行きを見つめていた眞琴さんが、薄ら寒くなるような微笑を口許に張り付けて物静かに窘めると、男どもはその美貌に声をなくし、由美子は明らかな敵意をむき出しにして睨み付け、香織はその威圧感に言葉を出せなくなったようだった。

「…奉納祭をご覧になられるといい。神事と変わりなく、奉納の舞いが楽しめましょう」

 蒼牙が明らかに猫を被った営業スマイルでニコリと笑うと、ワタワタと気を取り直した先輩たちはそれでも仕方なさそうに愛想笑いを浮かべている。

「…ふん!奉納祭だって拝めるだけ有り難いと思って欲しいよね。ボクなんか花嫁候補になって初めて、奉納祭にお呼ばれしたんだよ」

 プリプリと腹立たしそうにガツガツと飯を掻き込む繭葵は、おいおい、そんな腹を立てて食ってると消化に悪くて太っちまうぞ。そんな俺の心配なんか余所に、繭葵はバリバリッとタクアンの漬物に噛り付いている。
 町のファミレスなんかに比べると純和風の食卓は口に合わないのか、由美子と香織はあまり箸も付けずに話しを聞くだけで、結局最後まで残したままだった。
 まあ、俺も魚は苦手だから人のことは言えないんだけどな…
 腹を満たした一行は、次は旅館並みに広い温泉に目を付けたのか、礼もそこそこにガヤガヤと賑やかに立ち去ってしまった。漸くいつもの静けさを取り戻した広間で、肩にカーディガンを羽織った伊織さんが綺麗な柳眉をグッと寄せて、煙管で煙草を吹かしながら立ちあがった。

「ああ言う、煩い連中は好みじゃないわね。蒼牙さんも変わられた方だこと」

 フーッと煙を吐き出してから、伊織さんは見下したように蒼牙を見るとフンッと鼻を鳴らして立ち去ってしまった。そんな畏れ多い態度にも、とうの蒼牙はそ知らぬ顔だ。

「でも、そうだね。どうして蒼牙様はお客人なんて招いたんだろ?」

 繭葵も不思議そうに眉を寄せたが、面倒臭そうな顔をして席を立つ蒼牙に直接聞けるわけもなく、仕方なさそうに肩を竦めている。
 蒼牙が立ち去ろうとしたその時、不意に広間の障子が開いて高遠先輩がヒョイッと顔を覗かせた。人数が少なくなった部屋には蒼牙と繭葵と眞琴さんと小雛と俺しかいない、だから人捜しなんか簡単だったんだろう、キョロキョロと見渡してすぐにお目当ての相手を見つけると、先輩らしい大きな声で言ったんだ。

「おお!いたいた、楡崎。せっかく会えたんだ、昔話も積もるだろうから今夜は俺たちと過ごさないか?」

 そう言うことは普通、当主である蒼牙が言うもんじゃないのか?

 この人は~っと思いながらも、先輩の押しの強さには昔から敵わない俺としては、まさかいつも蒼牙と寝てるから一緒はちょっと…とか言って断れないし、困ったなぁと思いながらチラッと蒼牙を見るとヤツは感情を窺わせない無表情の顔で「自分で決めろ」とでも言っているようだ。
 ああ、そっか。
 なんか知らないけど、俺、蒼牙を怒らせてるんだっけ。
 あーあと溜め息を吐いていたら、残していた俺の魚を突付いていた繭葵がムッとした顔をして、そんな無神経の塊のような先輩に言い放ったんだ。

「また昔話?ほんっと懲りない人だね、君もッ。今の光太郎くんのこともよく知らないくせに、無礼にも程がある!光太郎くんは君たちとは過ごさないよッ」

 ビシッと指を突き付けて言い放った繭葵を、高遠先輩はムカッとしたように睨み付けていたけど、この人もそんなことぐらいで負ける柔な人じゃない。
 案の定、華奢で小柄な繭葵を見下ろして、小馬鹿にしたように鼻先で笑っている。

「お前こそ無礼にも程があるんじゃないのか?悪いが、楡崎とは長い付き合いなんでね。昨日今日知り合った程度のお前さんにとやかく言われる筋合いはないね」

「…!」

 繭葵のヤツのへこむ所なんか初めて見た俺としては、先輩が言うように長い付き合いであるはずの高遠先輩よりも、へこんで唇を噛んでいる繭葵を援護してやりたくなっていた。
 どうしてだろう、先輩には借金の件は別としても、長いこと世話になっていたって言うのに…
 そこまで考えてハッとしたときには、俺の腕は先輩の大きくてゴツい手に乱暴に引っ掴まれていた。

「…ッ」

 そうだ、忘れてた。
 この人は柔道もしてたんだっけ。

「さーて、積もる話もあるしなぁ?余計な邪魔が入ったけど今夜は夜通し昔ばなし!に花を咲かせような」

 アイタタタと掴まれた腕に眉を顰めていると、高遠先輩は俺の事情なんかまるで無視して勝手なことを言っている。ホント、この人も子供みたいな人だからなぁ…
 わざと昔ばなしの件で強調するように語気を強めてから、ムムムゥ…と唇を尖らせて睨む繭葵を鼻先で笑って強引に引き摺られそうになって俺は焦っちまった。

「ちょ、先輩。スミマセンが俺は…」

 アンタといるより蒼牙といた方がいいんだ…とか、もちろん口が裂けても言えないんだけど、気分的はそんな方向に向いているから、何とかこの我が道を行く先輩の頑丈な腕から抜け出そうとするけど、やっぱ有段者の先輩の力に敵うはずもない。
 畜生、どうしてこう、腕に自信のあるヤツってのは我が侭で尊大なんだ!
 ったく、人をなんだと思ってるんだ。

「あ」

 広間から連れ出されそうになっている俺の背後で繭葵の小さな声がして、どうしたんだと、こんな状況でも振り返ろうとした俺の真後ろから、唐突にヌッと伸びた腕が先輩の腕を掴んで引き止めたんだ。
 俺でさえなす術もなく引き摺られてるだけだってのに、ただ掴んでいるようにしか見えないってのに、先輩はその腕に引き止められてしまった。

「蒼牙…」

 思わず少し上にあるこの館の、いや、この村の絶対権力者の顔を見上げて呟いていた。
 飄々としているようにしか見えないのだが、明らかに、その少し青味がかった双眸が怒りに揺れている。

「失礼、高遠さん。彼は私の客人で、大事な私の家庭教師なんですよ。これから少し勉強がありますので宜しいかな?」

「…あ、いやそうでしたか!いやぁ、すみません。なんだ、楡崎。そうならそうって言えよな!はははッ、いやこれは失礼しました。じゃあ、俺はこれで」

「ええ、ごゆっくり寛がれてください」

 先輩が大慌てで両手を放すと、蒼牙がニッコリと笑って掴んでいた腕を放した。
 さすがはご当主!当に鶴の一声で高遠先輩はサッサと引き揚げて行ってしまった。
 思った以上に強い力で掴まれていたのか、まだ掴まれていたところがヒリヒリする。
 くそー、ホントにあの先輩は馬鹿力なんだからなー
 先輩の後ろ姿を見送った後、俺は蒼牙を見上げて笑いながら礼を言った。

「ありがとうな、蒼牙。助かったよ」

「…」

 礼を言って、凍り付いてしまった。
 目線だけで見下ろしてきた蒼牙の双眸が、これ以上はないぐらい冷たく冴え冴えとしていたんだ。
 うお!?怒ってる、メチャクチャ怒ってるぞ!!
 いや、だからって俺に怒られても困るんだが…何か言い訳をしようと考えあぐねていると蒼牙のヤツは、荒々しく息を吐いてから、俺の胸倉を引っ掴んで顔を覗きこんできたんだ。

「アンタはどうして俺に助けを求めないんだ。アンタのこの口は飾りなのか?こんな調子だと、俺はアンタを一人にはしておけない。これがどう言う意味だかもちろん、判るだろうな?」

「わわ、判る。もちろんだとも!これからは気をつけるから、だから…」

「ふん、どうだかな」

 あからさまに疑わしそうな目付きで見下ろした蒼牙は、不意に、なんとも言えない複雑な表情をして動揺して慌てふためく俺をジッと見詰めてきた。
 あう、モチロンだとか言ったけど、結局どう言う意味だか脳味噌があんまり詰まっていないせいでサッパリ判らんかったってこと、やっぱバレてるんだろうか。
 ドギマギして固唾を呑んでそんな蒼牙を見詰め返すと、ヤツは遣る瀬無さそうな、じれったそうな表情をしてから吐き捨てるように言いやがったんだ。

「アンタは…俺を信用していないからな」

「…へ?」

 思っていたのとは見当外れな蒼牙の言葉に一瞬キョトンとしてしまった俺を見下ろして、それから掴んでいた胸倉を離して、この館の当主である青白髪の男はフイッと目線を外してそのまま部屋から出て行ってしまったんだ。

「おい、ちょ、待てよ蒼牙ッ!」

「光太郎くん」

 慌てて追いかけようとする俺の腕を掴んで、それまで黙って見守っていた繭葵のヤツが、ヤツにしては珍しく静かな声で呼び止めたんだ。
 なんだよ、俺は今忙しいんだ。

「蒼牙様、ほんっとーに!光太郎くんのこと好きなんだねぇ。歯痒いんだねぇ。うーん、でもその気持ちちょっと判っちゃうなぁ」

「はぁ?お前、何を言ってるんだよ」

 それでなくても妖怪なのに、ますます磨きが掛かるぞ。

「はぁ…なんか蒼牙様に同情したくなっちゃったよ」

「何を言ってんだか判んねーぞ、繭葵。俺は行かないと…」

「行ってどうするんだい?」

 唐突に突き放すように険を含んだ声音で言われて、一瞬、呆気に取られてしまった俺はポカンと整った眉を顰めている繭葵を見下ろしていた。

「行って、ちゃんとキスできるのかい?そう言うこと、何も考えてないでショ」

「なな、なんでキ、キスなんてしなきゃならないんだ!?」

 お前、ホントに頭、どうかしたんじゃねーだろうな?
 真っ赤になって慌てふためく俺をジットリと睨んでいた繭葵は、ヤレヤレと首を左右に振って、思い切り長い溜め息なんか吐いてくれた。

「鈍感なんだよね。でも、そこが可愛いから何も言えないんだけど。言えないから辛いんだし、あーあ!蒼牙様の恋は前途多難だねぇ。でも、蒼牙様ならきっと「だからこそ落とし甲斐もある。愛とはそう言うものさ」とか言ってくれちゃうんだろうけどねぇ。光太郎くんがもう少し敏感だったら、もうちょっと蒼牙様も気楽になれるんだろうけど」

「…??何を言ってるんだ」

 首を傾げる俺を胡乱な目付きで睨んでから、繭葵はムキィッと鼻に皺を寄せながら「とぉ!」と言って俺の脹脛を蹴りやがったんだ!

「なにするんだよ!!」

「今のは蒼牙様の痛みってヤツだい!もう少し頭冷やしてよぉーッく考えてから、蒼牙様の部屋に行くんだよ!いい!?ボクは光太郎くんの味方なんだからね!蒼牙様なんてもっと、キミの味方なんだよ。忘れちゃダメなんだからねッ」

 いまいち、繭葵の言っていることが判らなかった。そのくせ、頭のどこかではその言葉の意味も、蒼牙が言いたかったことも、全部何となく判っているような気がした。
 ただそれを理解するにはどうしても、俺の中の何かが引き留めているような気がしたんだ。
 一様には信じられない思い…ああ、だから蒼牙は「俺を信用していない」なんてことを言ったのか。
 アイツは馬鹿だ。
 いや、アイツよりも大人の癖に、いや、大人だからこそ妙な常識だとかが邪魔をして、その先に佇んでいるはずの蒼牙を見つけ出せないでいるんだろう。
 不機嫌そうなくせに、どこか心配そうな顔をする繭葵と別れて、蒼牙の部屋に続く庭に面した長い廊下をボンヤリと歩きながら俺は、まるで無頓着に全てを照らす優しい月明かりを見上げていた。
 護るような優しい眼差しを信じてしまえるほど俺は、お目出度いヤツじゃない。
 そう考えてしまうのが意固地なのかもしれないが、俺の脳裏にベットリと張り付いてしまっている固定概念がそれを許してくれないんだ。
 忘れたくても忘れられない、俺の中に渦巻くものを、そんなに簡単に捨てられるわけがないじゃないか。
 だってなあ、そうだろ蒼牙。
 俺は、借金の形だもんな…
 大事な場所を踏み躙った、これは俺に与えた最高の罰なんだろう?
 見上げた満天の星の中に蹲るようにして、どこかで見たことがある、もうずっと昔に思い出せもしないんだが、優しい月が寂しそうに輝いていた。
 俺は溜め息を吐いて、輝く月を見上げていた。

第一話 花嫁に選ばれた男 6  -鬼哭の杜-

 『望月の儀』と言うのは、十五夜の日に行われる神事の一種で、この呉高木家は代々月齢を遣って神事を執り行っているらしい。月齢…と言っても独特なモノらしく、俺にはよく判らないんだけど巫女の神託?のようなもので決められた月齢を初めに、それぞれの神事を順々に執り行うんだそうだ。
 話は戻るけど、そんなワケで『望月の儀』が花嫁を選出する為の神事で、特別に行われる『弦月の儀』と言うのは本家の限られた一族しかその内容は知らないらしく、『晦の儀』と言うのがまあ、俗に一般で言うところの初夜らしい。
 そして新月である『朔の礼』が婚礼の行事のことだそうだ。

「げげ!?ってことは何か、呉高木の方針だと婚礼の前に初夜をするのか!?」

「うん、そーらしいね」

「そーらしいって、お前…」

 暢気に広縁に腰掛けて足をブラブラさせながらジュースを飲んでいた繭葵は、大したことでもなさそうにケロッとした顔で笑いやがった。

「えーっと、ちょっと待てよ。じゃあ、晦の夜に花嫁を選ぶってワケか?」

「うーん…それはちょっと違うね。晦の夜に花嫁候補、まあボクたちの場合だと3人を当主が抱くんだよ。その中で身篭った人が花嫁になるんだけど、婚礼のお式では気に入った娘を正妻にするんだってさ」

「…現代の日本じゃ果てしなく信じられん話しだが、つまり、たとえ正妻になっても子供を身篭ったヤツが別人だったらソイツが正妻になるってことか?」

 カランッと、小気味良い音を立てて勝ち割り氷がグラスの中で転がって、麦茶の体積を少しばかり増やしたようだった。
 ミーンミーンッと蝉時雨が降り注いで、田舎の夏はどこか懐かしい匂いがする。

「あれ?言い方がおかしかったかな。だから、身篭った娘が正妻になるってことは、当主は正妻にするつもりの娘しか抱かないってことでショ?どっちにしても、ボクたちの場合だと正妻は光太郎くんしかいないってことだけど♪」

 突き抜けるような蒼い空に入道雲が白い姿を見せて、遠い翠なす山々をまるで覆っているようだ。そんなのんびりとした光景にまるで似つかわしくない溜め息を吐いて、俺は思わず項垂れそうになってしまった。

「まあねー、助平な当主なら全員抱いて愛人にするんだろうけど~」

 ニヤニヤ笑いながら平然と言いやがる繭葵に頭を抱えそうになった俺はだが、気を取り直して口を開いた。

「んー…まあ、じゃあこうだな?普通と違うのは婚礼の夜が初夜じゃないってだけか」

「あー、そうそう!それだよ、光太郎くんってばあったまいいじゃーん♪」

 喜べない誉め方でありがとうよ。
 何にでも当り散らしたい気分の今だと、思わずジトッとした目付きになりそうで、別に繭葵は何にも悪かないんだから無節操な自分が恥ずかしくなって頭を掻いてしまう。

「はぁー…世の中にまだ、こんな村があるなんてなぁ」

「ん?それはちと、聞き捨てならない発言だね」

 繭葵は眉を寄せてキョトンッとしている俺を睨むようにして覗き込んできた。

「な、なんだよ?」

「あのねぇ、光太郎くん。キミは知らないだろうと思うけど、日本の各地にはこんな風に、文明から隔離されたような閉鎖的な村は結構多くあるんだよ~?ここを離れた後、ボクが今度行きたいのは神寄憑島なんだよねぇ。あそこには御霊送りって言う儀式があるんだってさ。面白そうだよね~♪」

 ワクワクしたように大きな瞳をキラキラさせながら話す繭葵の内容に、ハッキリ言って興味もない俺としては「そーですかい」程度で聞き流してしまった。
 今、俺にとって大事なことは、どうやら神事の一部始終は粗方判ったものの、やっぱどうしても逃げ出すわけにはいかないのかと言うことだったからな。
 広縁に胡座を掻いて座っていると、冷えて水滴のついたグラスからカランッと小気味良い音を立てて氷を口に流し込む繭葵が、ガリガリと噛み下しながらその目付きを獲物を見据えたハンターのようにギラギラさせて興奮気味に言ったんだ。

「あうぅ~!!龍刃山の中腹にある、あの神堂に入ってみたいよね!?『弦月の儀』って何をするんだろ?う~気になるッ!!」

「別に気にならねーけどな。どうせ、呉高木の神事なんざ碌なことしないって」

「そうかな?なんか、鳩尾の辺りがゾワゾワするんだよね。これって絶対何かある証拠なんだけど…」

 確信でもあるかのようにニヤリと笑う繭葵を、ああそうか、コイツも妖怪の一種だったんだと思いながら俺は溜め息を吐いた。
 自分のグラスの氷を食い尽くしてしまった繭葵は、手持ち無沙汰に足をぶらつかせて、そのくせどうでもいいような顔をして下唇を突き出して見せる。

「あーあ、見たいなぁ。巫子さんの舞」

「巫女さんの舞?」

「なんだ、そー言うことも知らないのか。自分が嫁ぐ村の情報ぐらいはリサーチしておくべきだゾ~♪」

 嫁ぐ気なんかさらさらなかったんでねと、俺が意地を張って軽く睨むと、繭葵は肩を竦めながら「はいはい」と言って笑いやがる。くそー、現に養子になるつもりで来ただけだい。
 まあ、養子も一緒のことか。

「どーせ、光太郎くん。今、巫子って言ったら女の付く巫女さんだと思ったんでショ?呉高木家の巫子は違うからね。男も女も指す巫子なんだよ」

「へえー、知らなかった」

「ふっふーん♪そう言うことはホント、ボクに聞くべきだよ!」

 ピンクのチェニック姿で胸を張る繭葵は確かに女の子らしいけど、どうしてこう、口調はボーイッシュなんだろうなぁ。小雛みたいに楚々とすりゃあいいのによー まあ、そんなこたぁ俺に言われる筋合いはないんだろうけどな。
 ああ、じゃあ月齢を決めるのも『巫女』じゃなくて『巫子』さんね、ふーん。

「蒼牙の婚礼ではその『弦月の儀』が特別に執り行われるんだろ?じゃあ、誰が舞うんだ?」

「へ?そりゃモチロン、眞琴さんでショ」

「眞琴さん?」

 キョトンとしていた繭葵はそれから、思い出したようにハッとした。
 それから嬉々として俺を振り返ると、嬉しそうにガシッと俺の両手を掴んでブンブンッと振り回す。
 うを!?コイツ、意外と力が強いぞ!

「そーだ、忘れてた!もう、どーしてこんな大事なこと忘れちゃうかな、ボク!弦月の儀の時って、奉納祭が同時に行われるんだよね。弦月の儀自体はいつ行われるか一部の一族しか知らないからボクは知らないんだけど、でも折角だから奉納祭ぐらい見に行こうよ♪」

 腕を振り回されて顔を顰めている俺を楽しそうに誘う繭葵の申し出に、どうせ暇人の俺はそうだなーと頷いていた。

「弦月の儀と時間をずらしてるみたいなんだよね。だって、奉納の舞も巫子と当主が舞うんだから♪」

「へー、蒼牙も舞うのか」

「うん、ってゆーかさぁ。十三夜祭りの時も蒼牙様、舞ってたでショ」

 十三夜祭り…って、へ?アイツ、いつ舞ったって言うんだ??
 ああ、そっか。
 あれからもう何年も経ってるんだ、あの後、きっと俺の知らない時間の中で、当主になった時にでも舞ったんだろう。
 確か、あの祭りは鬼と巫女の悲恋を物語った昔話なんだけど、その鬼と巫女の魂を慰めるとかで決められた月の一番最初の新月から数えて13日目、つまり十三夜に奉納の舞いを踊るんだよな。

「ふーん、アイツも当主だからな。なんでもできなきゃ駄目なんだろう」

「はぁ?何言っちゃってるんだよ。もうずっと、十三夜祭りは蒼牙様が踊ってるんだよ」

「…マジで?」

 うんっと頷く繭葵のキョトンッとしている表情に嘘を吐いているような感じは見えないし…ってことはじゃあ、あの17の夏に一緒に舞を舞ったのが蒼牙だったのか?
 そう言われて思い出してみれば、目許に幼さを残していたけど、キリッとしたあの双眸もキュッと引き結んだ意志の強そうな唇も、蒼牙と言われればそんな気がしなくもない。だがもし、俺と明らかに同じ年に見えたあの少年が蒼牙だったとすれば、うわー、なんだ俺、6歳も年下のヤツにビビッてたってことかよ。
 ガックリと項垂れる俺に、繭葵は水滴が結露した俺のグラスに入っている氷を問答無用で奪い取って、やっぱりガリガリ食いながら思い出したように噴き出したんだ。

「そーそー!そう言えば。今から6年前だったかなぁ?光太郎くん、巫女さんになってたでショ?」

 その古傷を抉り出すな。

「おっかしかったー♪たどたどしい舞いだし思わず転びそうになったりとか、そしたら蒼牙様がさり気なくフォローするんだよね。いつもは知らんぷりの蒼牙様にしては珍しいなーと思ってたけど、小雛の代打が男の人で可哀想だなって思ったんじゃないかな」

「俺、小雛の代打だったのか」

 そうだったのか、知らなかったな。

「うん。通常は許嫁が巫女さんの役をするんだけどね…初のお披露目の場だってのに、小雛のヤツ階段から落ちて足を折っちゃったんだって」

「嘘ん!」

「嘘じゃないよ。あの祭りに小雛も参加してたけど、やっぱちょっと悲しそうだったなー…でも、それで光太郎くんは見初められちゃったワケだし、こうして花嫁候補になってるワケだから、案外あの十三夜祭りはこうなる暗示としての予言だったんじゃないのかな♪」

 頼む、繭葵。
 寝言は寝てから言ってくれ。
 ニコニコ笑っている繭葵には悪いけど、やっぱり俺は、あの日死んでも巫女役なんか引き受けるんじゃなかったと唇を噛み締めた。
 小雛は笑ってた。
 でも、それはとても悲しげな微笑だった。

「光太郎くんさー、小雛に悪いことしたなって思ってるでショ?」

「え?あ、まあ、そだな」

 いきなり図星をさされてムッと眉間に皺を寄せながら頷くと、繭葵は「甘チャンだなー」と言って呆れたような顔をした。繭葵から奪い返した氷が溶けて薄くなった麦茶を飲んでいると、彼女は両足を伸ばして突っ掛けた下駄をブラブラさせながら、なんでもないことのようにポツリと呟いたんだ。

「蒼牙様とセックスして気持ちいいんでショ?」

「ブホッ!!」

 思い切り噎せて麦茶を吐き出してしまった俺に、繭葵はあからさまに嫌そうな顔をして、ポケットからハンカチを取り出すと背中を丸めて咳き込んでいる俺に投げつけたんだ。

「きったないなー!別に愛し合う2人がセックスすることなんて当たり前じゃない」

 唇を尖らせる繭葵に、まだ咳き込んではいたけど彼女のハンカチで口許を押さえながらも胡乱な目付きで睨みつけて冗談じゃねぇと思った。
 だから、寝言は寝てから言えって!

「あ、愛だと!?どこをどう見たら俺たちが愛し合ってるように見えるんだ!!?」

「え?なんだ、違うのか。でも、こっそり見ちゃったんだよねー♪お風呂場から蒼牙様にお姫様抱っこされて出てくるとこ」

「ななな…ッ」

 アワアワしていると、繭葵のヤツはクックックッと何やら企んでいそうな顔付きで笑うと、さも知ったような顔をしてシャアシャアと言いやがるのだ。

「うは!安心した顔しちゃってぇ♪もう、なんて言うの?こうヤヲイ魂に火が点くってゆーか、ヒッヒッヒ…コホン!すっかり信頼しきった顔だったよ。2人はもう、戸籍上はまだでも、確り心のなかでは結びついてるんだなぁって思いました♪」

 ウッシッシと笑う繭葵の頚椎を真剣に叩き折ってやろうかと考えなくもなかったけど、それよりも俺は、そんな風に第三者から見られていたのかと言う事実のほうに竦んでしまっていた。

「だからきっと、蒼牙様とのセックス気持ちいいでショ?女の子も男の子も一緒だよ。本当に心から愛している人とするセックスは蕩けるように気持ちいいに決まってる。だからね、小雛にも、もちろんボクにも気兼ねなんかする必要はないんだよ♪ボクなんて更に早く結婚式も見ちゃいたいぐらいなのだ~♪」

 他人事だと思いやがって、いやまあ、繭葵にしてみたら確かに他人事なんだろうけど、ウキウキしたように話すその横顔は、まるで小雛とは正反対の喜びに満ちた活き活きとした表情が綺麗だった。
 そうか、本当に繭葵は蒼牙のことをなんとも思っちゃいないんだな。

「そんな風にいつも他人のこと気にしてたら、本当に大事なものを失くしてしまうよ。なんだか光太郎くんって、いつも自分を我慢してるみたい。少しは我が侭言ってもいいと思うんだけどな♪んで、早く結婚するんだよ!その慶びに心が緩んでいる蒼牙様に付け入って、蔵開きさせちゃうんだからさぁ…ヒヒヒ」

 クックックッと笑う、あまりにも邪悪な繭葵のその表情の急激な変化に、女って恐ろしい生き物だとつくづく思い知りながら、俺は広縁からまっすぐに開けた展望を眺めていた。
 どこまでも続く青い空のその遠くに、この胸の動悸の答えがあるんだとでも言うように…
 繭葵は言った。
 屈託も他意も見受けられない純粋な瞳をして。
 他人の事を気にしていたら、本当に大事なものを見失ってしまう?
 大事なもの?まさか、蒼牙が??
 嫌よ嫌よも好きのうち…なんだか嫌なフレーズが脳裏を渦巻いて、俺はブルブルッと首を振って恐ろしい妄想から逃げ出そうとした。
 俺が蒼牙を好きなはずないじゃないか、だって俺は、親父の借金の身代わりで花嫁になったんだ。
 ああ、そっか。
 俺は親父の借金の身代わりだったんだ。
 違うよ、繭葵。
 俺は遠い昔、蒼牙が大事にしていた場所に知らないとは言え無断で入っちまって、あの傍若無人で天上天下唯我独尊野郎から仕返しとして惨めな女の代用として扱われてるに過ぎないんだ。繭葵の言ってるのは幻想にすぎない、俺は借金がなくて大事な場所を荒らさなかったら見向きもされないただのヤローだ。
 蒼牙は俺を誰にも見せたくないと言った。
 だけど男同士なんだぜ?誰だってそんなこたぁ、とんでもない悪い冗談だと笑い飛ばすに決まってる。そうじゃなかったら…そう、俺のような立場の人間にしてみたら、それこそ最大級の屈辱的な言葉だ。
 それは、抗うことも出来ない俺に向けての、雁字搦めにするための嘘だ。
 現に蒼牙は、俺に「愛している」と言ったことはない。
 アイツだって、戯れに遊んでいる人間にそこまでおべんちゃらを言うつもりなんてないんだろう。蒼牙はそんなことしなくても、誰もが崇めて崇拝する立場なんだからな…
 十三夜祭りで見初められたんじゃない。
 十三夜祭りで、取り返しのつかないことをしたんだろう。
 それがなんだったのか思い出せないで瞼を閉じたら、小気味良い音を響かせながら氷を口に含んだ繭葵はガリガリ噛んで底抜けに明るい声で人の気も知らずに言い放った。

「弦月の奉納祭、楽しみだねぇ!きっと一緒に見に行こう♪」

 俺がドツボになる種を植え付けておいてお前ってヤツぁ…
 ガリガリ氷を噛みながらニコニコ笑う繭葵を見つめていたら、なんとなく心の中にあった蟠りが少しずつ消えていくような気がした。そうして俺は、漸くこの時になって初めて、自分がここに来た理由を思い出したんだ。

 シーンッと静まり返った夕食の席で、俺はどんな面をしていいのか判らず、食器が触れ合
う微かな音だけが響く広間で居心地悪く味噌汁を啜っていた。
 う~、こうなるともう、どこに飯が入っていってるのか判らん。
 もともと小人数の家族だったけど、その分、地声の大きい我が家は常に会話で溢れ返っていた。まあ、親父のヤツは金銭面にだらしなくて、そう言った話題は敢えて避けてたから借金があそこまで膨らんでることに気付かなかったんだけどな。
 そんな風に会話に慣れている俺としては、こんな葬式か通夜かと聞きたくなるほど静まり返った食事の席ってのにはどうしても慣れることができなくて、知らず箸の運びも遅くなっていたんだろう。

「あっれー?光太郎くんってば、もう食べないんだ。体調悪いとか?」

 相変わらず静寂をぶち破る暢気な声を上げて、俺の横に座って悩みもなさそうな顔してパクパク白いご飯を口に運んでいた繭葵が、静けさにストレスを感じている俺の手元を覗き込んでそんなこと言いやがったから箸を取り落としそうになっちまった。

「いや、そんなんじゃねーけど…」

 ムゥッと眉を寄せて心配そうにしている繭葵に曖昧に返事をしていると、上座でキチンと正座をして飯を食っていた蒼牙のヤツが心持ち顔を上げて怪訝そうに俺を見つめてきたんだ。

「大丈夫なのか?」

「もちろん、元気に決まってる」

 俄かに注目されて、そう言うことに慣れていない俺が早く切り上げようと素っ気無く言ったら、ホントかな?とでも言いたそうな顔をした蒼牙のヤツが、軽く溜め息を吐きながら言ったんだ。

「大事な身体だ、用心しろ」

「わ、判った」

 頷くと、蒼牙の視線が外れてくれて、それに倣うように皆の視線も思い思いに散ってくれたから俺は心底からホッとした。いや、沈黙が心地よいなんて思うのは、この妖怪屋敷ぐらいだろう。

「ウシシシ!蒼牙様が大丈夫かだってさ!大事にされちゃってるねぃ♪」

 諸悪の権化がニヤニヤしながら俺を覗き込んできたから、たぶん、誰も見ていなかったらその鼻面に拳を減り込ませるぐらいのことはしていたと思う。そう思わせる何かが確実にある!この繭葵ってヤツには。
 それぞれに配されている膳の下で、醜い攻防を繰り広げている俺と繭葵になんか気付きもしない連中は、黙々とやっぱり飯を胃袋に収めている。
 コイツら、これで本当に飯が旨いと思ってんのかな…
 初めて顔を突き合わせて飯を食うことになったんだけど、最初は、それぞれにお膳があることに吃驚した。それでなくても歴代の当主の遺影がズラリと並んで睨み付けてくる広間で居心地悪いってのに、まるで無表情で取り澄ました顔の連中と雁首並べるってのは三流のホラー映画より怖いかもしれない。
 これから先、一生こんな不味い飯を食わなきゃいけないのかと思うと、なんだか腹が一杯になっちまって箸が進まないのは仕方がないと思うぞ。
 繭葵との攻防で何とか勝った俺が溜め息を吐いていると、不意に箸を置いた蒼牙が一同を見渡した。ヤツらはどうも、黙々と飯を食いながらも当主である蒼牙の動向を備に観察しているのか、その一瞬の仕種で俺と暢気な繭葵を除いた全員が、静かに箸を置いて当主に注目したんだ。
 パクパク飯を食っていた繭葵が慌てたように箸を置いて口をモグモグさせる横で、俺も焦ってまだ半分以上残っている魚の皿に箸を置いた。いや、実は魚は苦手なんだよね。
 食欲不審の理由はそれかよ!?とか言われたくないから、繭葵には内緒なんだがな。
 一同が注目したのを確認した蒼牙は、実に面倒臭そうに口を開いたんだ。

「突然で悪いが、明後日の弦月の奉納祭を見学したいと言う一行が明日早くに来るらしい。大学関連の連中だそうだが、適当で構わん。あしらってくれ」

 尊大なモノの言い方だが、それでも居並んだ一同は軽い目礼をして頷いたようだった。ただ、たった1人だけはあからさまに不機嫌そうだが…

「繭葵、注目されるぞ」

 コソッと言ってみると、繭葵のヤツは腹立たしそうに、それでも嫌な注目のされ方は性格上合わないのか、やっぱりコソコソと話してくる。

「だってさー、大学生って言ったらボクと同じ民俗学の人たちだと思うよ。この村は宝の宝庫でボクが最初に目をつけたのに、横取りされそうで嫌だなぁ…クソッ、欧くんたちを連れて来ておけば良かった」

 ブチブチ悪態を垂れる繭葵のヤツは、そうか、なんかを狙ってるとか言ってたからなぁ。

「確か、蔵開きだっけ?それを狙ってるんだろ」

「そーそー!蔵開きって言うのはね、その家に代々伝わる家宝のようなものを、初めて大衆の目に晒すことを言うんだよ。だから、誰も見たことのないお宝が拝めるってワケ♪」

「…でも、そんな予定はないんだろ?」

「ぐふぅ!そんな、現実を叩きつけること言っちゃダメだよ。でもね、絶対ボクのこの力で蔵開きさせて見せる!!」

 …お前のその執着心でだろ。
 思わず退きそうになった繭葵の台詞に項垂れそうになったとき、ふと、上座に座る蒼牙と目が合ってしまったんだ。
 ドキッとしていたら、ヤツは心持ち顎を上げて「ふん」とでも言うように視線を逸らしてしまった。
 どうもあの、キリリとした眼差しに見つめられてしまうと、蛇に竦んだ蛙のように金縛りになってしまって、胸の動悸が激しくなって目を逸らせなくなってしまう。
 多分それは、ヤツの威圧感のようなものに気圧されてしまうからなんだろう。
 …でも、俺ならまだしも、あんな風にアイツが視線を逸らしたことはないんだけど。
 うーん、こりゃ天変地異でも来るか?

「だから、早く蒼牙様と祝言を挙げてねん♪」

 ウヘヘヘッと人の気も知らないで笑いやがる繭葵に、出来れば俺は言ってやりたかった。 お前、少しは他人に気を遣え、ってな!
 蒼牙の態度も気になるし、明日から来ると言う民俗学か何か知らないけど、その関連の大学生連中もかなり気になっちまう。
 …男でありながら男に嫁ぐ俺のことを知ったら、その連中もさぞかし痛快な表情を見せてくれるんだろう。畜生ッ!
 蒼牙のヤツはどうするんだろう。
 小雛や繭葵のことは尋ねられたとしてもキチンと答えることはできると思うけど、問題は俺だろうなぁ…まさか男の俺を堂々と『花嫁候補だ』とか言わないだろうし、となると答えは1つか。
 たぶん、養子か、或いは夏休みに遊びに来ている親戚です、とでも言っておけばいいんだろう。
 仕方ないなぁ、気は進まないけど、今夜蒼牙に聞いてみるか。
 味気もしない、いや、たぶんそんじょそこらのレストランなんかよりも数倍は旨いはずの日本料理を、俺は黙々と腹に収めて、そして今日、何度目かの溜め息を吐いた。

 キチンと整えられた布団の上で、寝巻き代わりに用意されていた浴衣を着た風呂上りの俺は正座したままで、一番風呂をすませて離れで仕事をしている蒼牙の帰宅を待っていた。
 学校には行っていないようで、蒼牙のヤツはほぼ四六時中と言っていいほど離れに篭って仕事をしているらしい。それは伊織さんが煙管で煙草の煙を燻らせながら、退屈そうに教えてくれた。
 朝稽古で疲れた身体を風呂で癒した後、朝食を採って離れに行く。そこで当主としての仕事を終えると、今度は呉高木光陰流のお弟子さんたちに居合を教え、少し遅めの昼食を採る。それから、蒼牙が受け持っている呉高木の会社の仕事をやっぱり離れでこなして、
それから夕食で風呂に入ってまた就寝まで離れで仕事…凄まじいバイタリティーで淡々と仕事をこなす蒼牙の姿が目に浮かぶようで、アイツが俺にチョッカイ出してからバタンキューで眠る理由がなんとなく判ったような気がした。
 大人の俺でさえ、そんな量の仕事を任されたら裸足で逃げ出したくなる。なのに、アイツはまだ17歳だと言うのに、大人の仲間入りをして、大人よりも大量の仕事をしているんだ。
 …いや、そもそも。
 そこまで疲れてるんなら俺にチョッカイをださなければいいんだ。
 アイツのそう言うところが、俺には到底理解できないところなんだけど。
 ムーッと考え込んでいると、廊下を歩く堂々とした足音を聞いて俄かに緊張してしまった。蒼牙の歩き方は独特で、あんな風に、躊躇いもなく威風堂々とした歩き方をするヤツを俺は知らない。
 だから、この村に来て一番始めに覚えた音は、この蒼牙の歩く足音だ。
 音もなく障子が開くと、俺は月光を浴びて立つ青白髪の不思議な髪を持つ当主を見上げた。それでなくても電気もないし、こんな古い行燈の明かりぐらいじゃ蒼牙の顔が漸く判るぐらいで、これだったら行燈を消して月明かりでもいいんじゃないかと思った。
 蒼牙は俺を見下ろすと、それから何も言わずにズカズカと室内に入ってきて俺の傍らにドッカリ胡座を掻いて座ると軽く溜め息を吐いた。
 近付いて良く見ると、やっぱり少し疲れてるんだろうなぁ。
 着流し姿の青白髪の男は、少し草臥れた様子で頬杖をつくと、桂が用意してくれていた水差しを引っ掴んでそのまま乱暴に飲んだんだ。

「…お疲れさん」

 その様子を見ていたら思わずそう言ってしまって、ジロッと睨まれて浮かべていた笑いが引き攣ってしまった。コイツはどうしてこう、いちいち俺を睨むんだろうな。
 途端にムッとして睨み返すと、蒼牙のヤツは大人びたツラをして鼻先でフッと笑うと、水差しを乱暴に投げてそのまま俺を布団に押し倒した。
 うわ、ちょ、ちょい待ち!

「ま、待ってくれよ、蒼牙!今夜はちょっと、その、話しがあるんだけど…」

「ふん!俺もだ」

 頬から首筋に唇を這わせながら、わざとらしくチュッと音を立てて口付ける蒼牙も、そんな俺の困惑した表情を上目遣いで見上げると不機嫌そうにキスしてきた。

「…ん」

 蒼牙の体重をゆっくりと受け止めながら、その胸元に押し返すつもりじゃなく添えるだけに手を置き、瞼を閉じて自分から口を開いて肉厚の舌を迎え入れると、蒼牙が驚いたように目を見開いたから、なんとなくしてやったりと思ってしまう。
 俺の突然の態度の変化に、それでも不信感を拭い去れないのか、蒼牙は中途半端にキスを切り上げて額を擦りつけるようにして俺の双眸を覗き込んできたんだ。

「どう言った心境の変化だ?」

「どうって…こうすることが俺の本来の姿なんだろ?」

 頬に口付けられても嫌がらずに目を閉じたら、勝手が違い過ぎたのか、蒼牙は薄気味悪そうな表情をしてゴロンッと俺の上から退くと横になってしまった。目を開いて蒼牙を見ようとした俺を抱き締めて、ヤツはなんとも言えないツラをして額にキスしてきた。

「繭葵に何か吹き込まれたな」

 だからその断定的なものの言い方はやめてくれ。
 子供のくせに、育った環境のせいとは言え不遜で小憎たらしいぞ。

「別に、繭葵は関係ないよ」

「嘘だな、そのわりにはやけに親しいじゃないか」

 素っ気無く言ったらムスッとした目付きで覗き込まれてしまって、悔しいけど軽くビビッた俺はブツブツと悪態を吐いた。だってなー、親しいって、そんなの一緒に暮らしてるんだから世間話ぐらいするだろ?特に俺なんかは、呉高木家のことなんてそんなに詳しく知らないし…

「呉高木家についてレクチャーしてもらってたんだ」

「呉高木についてだと?だったらどうして、この俺に聞かない。俺は当主なんだぞ」

 ますますムムッとする蒼牙に、その子供っぽいツラに思わず頬が緩んでしまって、俺は困ったように眉を寄せて笑ってしまった。

「だってよー、お前って何か聞こうにもすぐこんな風にチョッカイ出してくるだろ?エッチの方のレクチャーはしてもらえるけど、呉高木家とか、俺の知らないことについては野放しじゃねーか」

 クスクス笑っていたら、蒼牙のヤツはそんな俺をジッと見つめていたけど、やっと思い当たる部分を認めてくれたのか、照れ臭そうな不機嫌面で俺を抱き締めたんだ。

「ふん!…で?今夜の話しってのはなんだ」

 おお、俺の話しを聞いてくれる気になったのか。
 これはラッキーだなぁと思いながら、俺は蒼牙の胸元に額を摺り寄せながら口を開いた。

「明日、大学生たちが来るんだろ?その、俺はまさか花嫁候補ですとか言えないからさ。夏休みに遊びに来ている親戚だって紹介してくれよ」

「なぜだ?」

 なぜだとか聞き返すなよ。
 そんな返事が返ってくるとは思っていなかったから、俺は慌てて蒼牙の顔を見ようと頭を上げようとして、大きな掌に押さえつけられてしまった。蒼牙の胸に顔を押し付けるような形になって…うう、ちょっと苦しいんですけど。

「アンタは俺の花嫁候補じゃない。俺の妻だろ?なぜ、遊びに来た親戚などと紹介しなければいけないんだ」

「…この大馬鹿野郎。そりゃあ、呉高木家では日常茶飯事のことかもしれないけど、一般人に男が妻ですなんか言ってみろ。それこそワイドショーのカッコウの餌食にだってなりかねないんだぞ。ましてやこんな閉鎖的な村だ、一気に注目浴びて明日から大スターだ、嫌な意味で。お前は良くても俺は嫌だ…呉高木の当主ともあろう蒼牙様は、いたいけな花嫁のお願いも聞いちゃくれないのか?」

 蒼牙の胸元に顔を押し付けられたままでも、俺はモガモガと反論してやった。そりゃあ、繭葵が言うように反抗できない威圧感があるヤツだけれども!こればかりは一歩だって引き下がれない、男の沽券ってヤツだ。
 蒼牙はそれでも暫く考えているようだったが、花嫁…なんて口が裂けても言いたくなかった俺が必死に甘える姿に仕方ないと思ったのか、やれやれと溜め息を吐いて俺の色気のない黒髪に唇を寄せてきたんだ。

「仕方ない、今回だけはそうするとしよう。だが、今回だけだぞ。俺は別に、ワイドショーの餌食になろうと構わん。裏でいくらでも手は打てる」

「あ、悪党かよ…」

 呆れたように俺が呟くと、蒼牙のヤツはクスッと笑って「そうかもな」と言って抱き締めてきた。
 その腕が心地いいなんて思うのは、心のどこかでケジメをつけたから余裕が出てきたのかもしれない。
 そっか、簡単に考えればいいんだ。
 そうすれば、この腕に抱き締められるのも苦痛じゃない。
 それは酷く、簡単なこと。

「んで?蒼牙の話しってのはなんだ」

「いや、もういい」

「はぁ?いいのか、ヘンなヤツだな」

 頬を寄せながら呟いたら、顎を掴まれて上向かされた。お互い横になったままのだらしない格好だけど、2人だったら恥ずかしくないよなぁとか思っていたら、すぐに少しかさついた唇が降りてきた。
 触れ合うだけのキスをして、それから少しずつ馴染んで、深く深く…溶け合うみたいに濃厚なキスになって、俺がうっとりと瞼を閉じた時だった。
 ゴトッ!!
 何か重い物が落ちたような物音に、俺よりも先に蒼牙が起き上がって耳を欹てる。
 この呉高木家の敷地内には、お手伝いさんや庭師とか、色んな人が共同で住んでいるんだけど、この蒼牙の部屋がある奥の間に面した庭には誰も近付けないようになっているのに…なんの音だったんだ?
 驚いて起き上がろうとする俺を制して、蒼牙は音もなく立ちあがると、その無礼者の顔でも拝んでやろうと思ったのか、唐突に障子を開け放ったんだ!
 おま、お前…相手が銃とかナイフだとか持ってる泥棒だったらどうするんだよ!?
 この命知らずが~ッと、ムキになって起き上がろうとした俺の目の前の庭に、昼間見かけたあの可愛い地蔵たちがちょこんっと佇んでいたんだ。それも、山盛りの夏野菜と山葡萄、木苺や野苺なんかの果物も一緒に。

「…あれ?昼間の地蔵さんたちがなんでここに??」

「…小手鞠(コテマリ)どもか。なんの用だ」

「は?」

 突然の来訪者がただの地蔵で、しかも誰がこんな悪戯をしたんだとてっきり怒鳴るもんだとばかり思っていた俺は、困ったように眉を寄せて腕を組む蒼牙の言葉に首を傾げてしまった。
 おいちょっと、何を言ってるんですか??

『儂らは龍の子に用はないのじゃ』

『嫁御殿にのぉ、お礼を言いに来たんじゃぁ』

『見てみよ、綺麗になったじゃろう?』

『あの忌々しい草もなくなりよったわ』

『干菓子がのう、美味しゅうてのう』

 それぞれがホクホクしたようにふんわり笑った表情のままで語り出すから、俺は思わず青褪めて絶句してしまった。ななな…いや、待て。
 この声は…聞いたことがある。

「俺の嫁に?…光太郎、アンタ小手鞠どもに何をしたんだ」

「な、何って…えーっと、草を毟って本体を磨いて、それからお水と干菓子をお供えしたけど」

 呆れたように俺の話しを聞いていた蒼牙は、眉をヒョイッと上げると庭先でひっそりと佇んでいる5体の地蔵を見下ろして、仕方なさそうに呟いたんだ。

「それで礼と言うワケか…どこの畑から盗んできたんだ?」

『失敬な輩じゃ!!』

 左端にいた地蔵さんがニッコリ笑顔のままで怒鳴ると、残りの4体の地蔵さんたちも先を競うようにして口々に蒼牙を罵った。その光景を、確かに信じられない光景なんだけど、驚いて絶句して見ているよりも、いつ短気な俺様野郎の蒼牙がぶち切れて1体残らず石ころにしちまうんじゃないかとハラハラする方が先だった。

『礼がてらの祝儀じゃぞ!』

『そのような不吉なものは持って来ぬわ!』

『これらは龍神の賜り物じゃぞ!』

『有り難く受け取れぃ!』

 まるでにほん昔ばなしのナレーターをしていた爺さんの声のような、ほんわりした口調でわーわーと話している地蔵さんは、一見すれば薄気味悪いけど、こうして慣れてくると見ていて楽しくなるのは俺だけなんだろうか?

「判った判った!煩い奴らだッ。龍刃山の作物は呉高木家のものであると同時に、古からの護り手である小手鞠、アンタたちのものでもある。喜んで戴こう」

『判っておりながら言う奴よ』

『おお、嫁御殿がおるぞ』

『蒼牙などどうでも良いわ』

『嫁御殿、嫁御殿』

『月明かりに美しいのぅ』

 小手鞠たちは呆れた挙句に困惑している蒼牙をまるで無視して、俺の方に身軽にピョンッと飛び跳ねるようにして向くと、口々にわいわいと話し掛けてくる。誰に応えていいものやら判らない俺は、仕方なくハハハッと笑って曖昧に濁していた。
 あ、でも。

「今夜はどうもありがとう。どうせ俺、暇人だからさ。これからはこんなことしなくてもいいよ」

 ニコッと笑ったら、地蔵さんたちは驚いたように飛び跳ねて、それからお互いの石でできた身体を寄せ合いながらしみじみと呟いている。

『良い嫁御殿じゃなぁ』

『龍の子には勿体無いのう』

 なぬ?ッと俄かに不機嫌そうに眉を寄せる蒼牙など、やっぱりまだ無視しっぱなしで、小手鞠たちは溜め息を吐いている。

『今夜は良い月明かりじゃて』

『さて、そろそろ退散するとしようかのぉ』

 身体を寄せ合うようにして話していた小手鞠たちは、来た時と同じように勝手に整列すると、ピョンピョンッと飛び跳ねるようにして元来た道を戻り始めた。一番後方にいた地蔵さんが飛び跳ねると同時にくるっとこちらを向いて。

『嫁御殿をあまり無理させるでないぞ』

 そう言ってまたくるっと向き直ってピョンピョンッと飛び跳ねながら、庭から出て行ってしまった。
 …なんだったんだ、今の。
 その時になって漸く、この非現実的な状態に気付いた俺は青褪めながら畳の目に視線を落としていた。
 まるで狐にでも抓まれた気分だ。

「…ったく、煩い連中だ」

 極平然と腕を組んで広縁に佇んでいる蒼牙を見上げたら、月明かりの下、着流しを着ている青白髪のキリリとした横顔が余計に幻想的で、もしかしたら山にいたと言う噂の鬼が具現化するとしたら、きっとこんな風に美しい男だったんじゃないかと思った。
 だから巫女は恋をして、身分違いの想いに儚く散ってしまったんだろう。
 ボケッと見惚れていた俺に気付いた蒼牙は、小さく溜め息を吐いて「風邪を引くぞ」と言いながら座り込んでいる俺の肩を掴んだ。

「蒼牙、今の地蔵さんってのは…」

「龍刃山、ひいては我が呉高木家を代々見守っている護り手である小手鞠どもだ。日頃はただの地蔵だが、たまにああして道に迷った旅人などを導いたり、親切にしてくれた者に対して礼をしたりするのさ」

「それって、もしかして…」

 部屋に戻って障子を閉めている蒼牙に向かって、恐る恐る引き攣った笑顔で首を傾げると…

「知られたところで、笠地蔵と言う昔話があるだろう?あの一種だ」

 やっぱりか!
 しかも、一種ってのはなんだ!?一種ってのは!!
 そんなに笠地蔵は日本中に増殖してるのか。
 思わずガックリと布団に両手をついて項垂れていると、そんな俺を引き寄せながら蒼牙のヤツが疲れたように溜め息を吐いたんだ。

「蒼牙?」

 不思議に思って顔を上げたら、蒼牙はなんとも言えない複雑な表情をしてそんな俺を見つめ返してきた。

「アンタ、夕食の時も顔色が悪かったな。俺はアンタに無理をさせているんだろうよ」

 …ん?あー、なるほど。
 さっき地蔵さんに言われたことを、珍しくも気に病んでいるのか。
 へー、コイツでもこんな可愛いところがあるんだなぁ…そりゃ、毎晩悪戯されて喘がされて、寝るのも夜明け前なら起きるのも早朝なんだぞ。家にいた頃はそれこそ、不摂生を絵に描いたような生活を送っていたからな。かと言って、無駄に睡眠はとるタイプだから…寝不足なんだろう。
 でも、面白いからもうちょっと黙っていようっと。

「だが、アンタを見ていると無性にキスしたくなる。それはアンタが俺を誘っているからさ」

 そう言ってクスッと笑った蒼牙は、何を言いやがんだとムッとして睨む俺の手を掴むと、その甲に口付けながら呟いた。

「それは強ち嘘ではないんだぜ?今夜だって抱きたい気分なんだがな。小手鞠は呉高木の護り手。その小手鞠どもが無理をさせるなと言ったんだ。それは即ち忠告でもある」

「…ふーん、お前でも誰かの忠告とか聞くんだな。吃驚した」

 素直に驚いていると、蒼牙のヤツは「こいつめ」とでも言いたそうに俺を引き寄せて抱き締めると、色気もない黒髪に口付けながらクスッと笑ったんだ。
 蒼牙のヤツ、今夜は良く笑うなぁ。なんだかそれが嬉しくて、俺は蒼牙の腕の中で安心していたんだ。もう、別に抱かれてもいいか…とか、そんな恐ろしいことまで考えながら。

「なぁ、今夜はもう休まないか?…だってさ、お前も顔色悪いぞ」

 そのくせ、蒼牙の疲れているような表情を見上げたら、やっぱりできることならこのまま休ませてやった方がいいんじゃないかと思っちまった。どーせ、言うことなんか聞いちゃくれないだろうけど、それでも首の辺りを揉んでくる蒼牙の仕種を素直に受け入れていると、幻想的な青白髪を持つ呉高木の当主は溜め息を吐きながら俺を道連れにして布団にダイブしやがったんだ!
 やっぱ、聞いちゃくれねーのな。
 蒼牙の胸元に覆い被さるようにして倒れ込んだ俺が、あーあと溜め息を吐いていると、背中を撫でる優しい仕種の腕に抱き締められた。

「アンタも眠れ。ぐっすりとな。明日は賑やかな連中が来て、一段と疲れるだろうよ」

「ゲッ、そうだった」

 ぐはー、それは嫌だなぁと眉を寄せる俺をクックックッと笑う蒼牙の胸元に頬を寄せたら、規則正しい胸の鼓動が聞こえて暫くその音を聞いていた。
 思った以上に、もしかしたらこの場所は、心地よいのかもしれない。
 借金も何もなかったら…ふと脳裏を過った言葉を振り払うように、俺は着流しの胸元をギュッと掴んでそのまま瞼を閉じたんだ。

第一話 花嫁に選ばれた男 5  -鬼哭の杜-

 蒼牙は寝付きがいいせいなのか、どうやら頗る目覚めもいいらしい。
 ふと、目覚めた俺が、抱き締めるようにして眠っていた蒼牙の姿がないことに気付いて、漸く安堵して本当の眠りを貪ろうとした当にその時だった。
 よく晴れているのか、燦々と降り注ぐ朝日を背に跪いている人影が、障子の向こうから声をかけてきたから思わず飛び起きちまった。

「楡崎様、お目覚めでございますか?蒼牙様より言伝をお預かり致しておりますが…」

「か、桂さん!う、うん、判った。判ったけど、ちょっと待ってて貰えるかな!?」

 それでなくても昨夜の名残が濃厚なこの状態を、絶対に桂にだけは見られたくない。あの無表情の顔で花嫁はこの俺だけだと言ってしまえるような人だ、こんな状態を見たらもしかしたら…内心でニヤリとするんじゃないか!?
 そんな、俺の知らないところでほくそ笑まれるなんて絶対に嫌だぞ。
 いや、それよりもだ!何よりもこの、下半身をべっとり濡らしたアレが渇いて張り付いてるところなんか…死んだって、誰にも見られたくねぇ!!

「…?楡崎様。どうぞ、湯殿のご用意もできております。宜しかったらまずは、汗を流されては如何でしょうか?」

 ちょっと考えて思い当たったのか、アワアワと焦って浴衣で下半身を拭ったり、布団をバタバタさせている俺のことなんか相変わらずお構いなしで、桂のヤツは音もなく障子を開けて入って来やがったんだ!

「か、桂さん!いや、これはその…」

「寝所の片付けは私の役目でございます」

 キッパリと言い切られてそれは判ったんだが…その、あんまりジロジロ見ないで欲しい。
 寝乱れた布団はグチャグチャだし、シワシワになった浴衣に隠された下半身はその、朝の生理現象から見せられないような状態でモジモジと膝頭を擦り合わせてしまう。まるで視姦するようにジーッと見られてしまうと、それでなくても見詰められることに慣れていない俺としては、恥ずかしさでますます居た堪れない状態に陥ってしまうんだ。
 相変わらず、墓穴を掘りやすいタイプだなーと、暢気に考えている余裕もないってのに、桂はふと、思い付いたように腰を上げかけた。

「…蒼牙様をお呼び致しましょう」

「うっわー!!それは、それだけは勘弁ッッ」

 慌てて桂の腕を縋るようにして掴んで引き止めると、今にも泣きそうな顔でブンブンッと首を左右に振ってしまった。

「…ですが、そのままではお辛いのではないでしょうか?」

 ソッと眉を顰めて必死の俺を見下ろしてくる桂に、いや、この状況自体がかなり辛いんだが!!と叫びたい気持ちを押さえ込みながら、俺はブンブンッとさらに激しく首を左右に振って言い募った。

「だぁいじょうぶ!大丈夫だから!!ち、ちょっと、先に風呂に行ってきますッ」

 あはははっとできるだけさり気なく、いや、メチャメチャ不自然な前屈みで立ち上がった俺を見上げた桂は、ムーッと納得いかないような表情をしていたけど、漸く俺の気持ちに気付いてくれたのかそれとも根負けしたのか、どちらにしても「では、後ほど…」と呟いて寝室の後片付けを始めてくれたんだ。
 何とか地獄の寝室から逃げ延びた俺はよく磨かれた長い廊下を歩きながら、ふと、気付いた。
 あれ?さっき確か、桂は蒼牙からの伝言を預かってるとか言ってなかったか?
 …まあ、いいや。なんか考えるのも、朝っぱらから疲れちまった。

「光太郎くん」

 ガックリしながら廊下を歩いていると、不意に呼び止められて、俺は嫌々振り返ってしまう。
 中庭に立っていたのは確か…そうだ、花嫁候補の1人、大木田繭葵だ。都会的な大学生のイメージはそのままで、ジーパンにピンクの可愛いチュニックを着て腕を組んでニヤニヤ笑っている。

「昨夜は楽しんだみたいだね~♪いいよ、隠さなくても。ボクね、こう見えてもヤヲイって好きだし…」

 は?ヤヲイ…?
 眉を寄せて首を傾げる俺を、繭葵はその可愛い顔からは想像もできないほどゲラゲラと笑いやがったんだ。
 なんなんだ、このガサツなヤツは。

「ここには花嫁候補で来たワケでショ?正直、冗談は人を見て言ってろ!…って思ってたんだけど。貴方がいるって聞いたから来たんだよん♪」

 豊満とも言える胸を押し上げるようにして腕を組んでいた繭葵は、ニヤニヤと勝気そうな目付きをして俺を上目遣いで見上げてきた。

「は?俺を知ってるのか??」

「あったりまえじゃーん!楡崎って言ったら…」

「繭葵さん」

 不意に凛とした声が響いて、繭葵はドキッとしたように首を竦めてしまった。
 その反応は俺にもお馴染みのもので、それこそ悪いことなんか何もしていないって言うのに口から心臓が飛び出そうなほど驚いて、いつの間に来ていたのか、足音もなく近付く眞琴さんに振り返ったんだ。

「あ、…その。おはよう、眞琴さん」

「おはようございます、光太郎さん。繭葵さん?お食事の用意が整っていますわよ。早くお行きになって」

 俺にニコッと微笑みかけた眞琴さんは、どうしてこう、朝日も眩くて爽やかな朝だって言うのに真夜中のような、退廃的な雰囲気を醸し出すんだろう。

「はいはい!判ったよ。ちゃんと行くし、今は光太郎くんと話してるんだよね!」

 この眞琴さんの退廃的な、翳りのある凄みと言うのは女には効かないのか、繭葵は腰に手を当ててフンッと鼻で息を吐き出しながら唇を尖らせている。

「あら、まあ。光太郎さんはそれどころではないとお見受けいたしますけれど…」

 着物の袂で口許を覆いながら、コロコロと鈴が転がるように笑う眞琴さんは俺が真っ赤になるような台詞を平然と言ってのけてくれた。うう、この家にいる連中は全員、俺と蒼牙の関係を知っているんだろうなぁ…やっぱり。
 ますます落ち込みそうになる俺を見ていた眞琴さんは、不意に少しだけキツイ眼差しをして繭葵を見ると、「では、後ほど…」と言って姿を現した時と同じぐらいに足音もなく立ち去ってしまった。
 ドッと疲れが出て、もう少しで廊下に両手を着いて座り込んでしまうところだった。

「おっかないよねー!ボク、あの眞琴さんって苦手。でも、お目付け役にって蒼牙様に言われちゃったら反対できないもんねぇ…はぁ」

 やれやれと首を左右に振るこの繭葵でも、やっぱり蒼牙は怖いのか、綺麗に整っている眉を大袈裟に八の字に歪めて項垂れてしまっている。その気持ち、ちょっとだけど判るぞ。
 なんか、気が合いそうなヤツだなー
 表情もコロコロ変わって明るいし、ああ、なんかここに来て初めて人間らしい人間に会ったような気がする…

「ま、いーや!取り敢えず、あんな呉高木のおっちゃんの説明じゃ、自己紹介にもならなかったじゃん?改めまして♪ボクは大木田繭葵、民俗学を研究しているのだ」

 エッヘンと胸を張って威張る繭葵の、見た目よりも随分と子供っぽい仕種に、俺は思わずプッと噴出しちまった。やっぱコイツ、スゲー可愛いな。
 だからホラ、蒼牙は繭葵を嫁にすればいいんだ。そうしたら、この辺鄙な田舎も明るくなるだろうに…子供も産めるしな。

「ボクねぇ、ホントはずっとこの村に居座りたいんだけど…あ、でも心配はナッシンよ?ボクは蒼牙様の花嫁になるつもりは全然!ないからね~♪」

「いや、そのつもりになってくれよ~」

 朗らかに『花嫁失格』宣言なんかしないでくれ。
 そんなの、俺がしたいくらいなのに…

「へ?光太郎くん、花嫁様になりたくないの??うっわー、それって勿体無いよ!だって、蒼牙様って性格はちょっとアレだけど、外見はバリかっこいいし、何よりお金持ちじゃーん♪女の子の憧れだよぉ」

 うへへへーと笑う繭葵に、俺は思わず項垂れそうになりながら、「それじゃ、お前が花嫁になればいいだろ」と言ってやった。すると繭葵のヤツは、俄かに嫌そうに眉を寄せて、冗談じゃないとビシッと人差し指を突き立てて天空を指し示したのだ。

「ボクは生涯独身宣言!なんてったって民俗学の研究に没頭したいからね♪だから、この繭葵ちゃんにドーンと任せなさいッ。小雛に負けないように応援するから♪」

「…普通は小雛の応援をするんじゃねーのか?」

「ノンノン♪繭葵ちゃんは楡崎光太郎くんの味方です」

 ウッシッシと拳で口許を隠して嬉しそうに笑う繭葵を見詰め、俺は力なく肩を落としながら聞いてみた。
 だいたい、何となく意味が判ったような気がするし…

「やっぱそれは、ヤヲイが好きだからなのか?」

「うは♪小説なんて書きません!」

 …母さん、ここにも妖怪がいました。

 なんだかとても嫌な雰囲気を漂わせる不気味な繭葵と分かれてから俺は、ガックリと肩を落として檜造りの豪華な風呂場に足を向けていた。
 名門の温泉旅館でも通りそうなほど、ここはどこの大浴場ですか?と聞きたくなる脱衣所で、もう皺くちゃで次は着れないだろうなと思いながら脱ぎ捨てた浴衣を竹籠に放り込んで、俺はゴワゴワしている下半身を取り敢えずなみなみと満たされている湯で洗い流した。
 簡単に身体を洗って広すぎて却って寂しすぎる浴槽に浸かって、壁に凭れるようにして溜め息を吐いた俺は、ふと繭葵と眞琴さんの遣り取りを思い出して考えてみた。

『楡崎って言ったら…』

『繭葵さん』

 眞琴さんはけして多くを語ろうとはしなかったけど、一睨みで射竦められた繭葵が言おうとしていた言葉の先はなんだったんだろう?
 うーん…まあ、考えて答えを出せるほど俺の脳味噌は優秀じゃないしな。後でコッソリと繭葵に聞けばいい。
 温泉の成分を含んだ心地好い朝風呂で心身の疲れを朝っぱらから贅沢に解しながら、俺はそれでも、あまりの心地好さにうとうとしていた。考えることが子供の頃から苦手だったし、どうせ、楡崎の家系なんかたかが知れているんだ、大方本家とは縁故がないとかそんなことなんだろう。
 まあ、やっと分家…と言うような間柄だってのは母さんにも聞いていたからな。そんな、今更驚くこともないんだから…繭葵には先手を打って言った方がいいのかもしれん。
 そんなことを考えながらフーッと溜め息を吐いていると、不意にガラリッと横開きの脱衣所に続くドアが開いた。
 うを!?もしかしてここって混浴!!?
 ビクッとして思わず溺れそうになった俺の前には、鍛え抜かれた肉体を惜しげもなく晒して、つまり隠す行為は一切なしのナチュラルボディの蒼牙が不機嫌そうなツラをして立ってやがったんだ!

「ななな…ッ!?」

「なんだ、アンタか。言い付けは伝わっていたようだな」

 清廉な朝陽が射し込む浴室の靄の中で光りを反射した不思議な青い白髪がキラキラと光っていて、蒼牙は不意に機嫌良さそうにニコッと笑った。その笑顔は、俺が今まで見た中でも飛び切り上等で、思わず溺れそうになっていた俺は羞恥心も忘れて見蕩れてしまった。
 確かに、繭葵が言うように蒼牙はバリかっこいいんだろう。

「い、言い付け…?あ、そう言えば桂さんが蒼牙に頼まれたことがあるって…」

「ん?聞いてなかったのか。ふん、まあいい」

 別に気分を害したわけでもなさそうに呟いた蒼牙は、平然と浴槽に入ってきて、その時になって俺は漸く我に返ると慌ててバシャバシャと水飛沫を上げながら入れ替わるように出て行こうとしたんだ。
 その腕を掴んだ蒼牙が、ニヤッと、あの上等の笑みを引っ込めて意地悪そうに笑いやがった。

「おい、どこへ行く?もちろん、一緒に入るんだ」

「はぁ!?…馬鹿だろ!お前、絶対おかしいだろッ」

 まあ、男の俺に昨夜散々なことをしてくれた蒼牙のことだ、こんな朝っぱらからでもこんな風に引き寄せながら、清々しい朝陽をマトモに拝めないようなキスをしてもどうってこたないんだろうけど。

「…ふッ…んぅ……ん、んーーーッ!!」

 それでなくても熱い湯に逆上せそうになっていた俺は、昨夜の名残のような濃厚なキスに溺れかけて、慌ててその端正な顔を引き剥がそうとした。でも、都会育ちの俺の力なんかどうってことないのか、確かにさっき目にした朝陽の中の蒼牙の肉体は引き締まって、無駄のない筋肉に覆われていた。毎日裏山散策でもしているのか、そうなると俺のなんちゃって腕力なんか平気で捩じ伏せられるよなぁ…ハッ!諦めるな、俺!!

「…ッ、んッ…め、やめろッ」

「やめない」

 ペロッと俺の唾液に濡れた唇を舐めながら、蒼牙は機嫌が良さそうにもがく俺の身体を抱き寄せる。
 そうはさせるかと、慌てて膝立ちになる俺の腰を掴んで引き寄せると、蒼牙はその整った唇を俺の胸元に寄せてきたんだ。ウワッ!…ちょっとそこは、拙い。

「~ッに!やってんだッ!!やーめーろーッ」

 ふっつりと立ち上がっている乳首に舌先を這わせて、それでなくても朝の生理現象に困ってしまっている俺としては、蒼牙の青い白髪を引っ掴んで引き剥がそうとする指先に力も入らない。

「…んんッ…」

 思わず涙ぐんで痺れるような快感に耐え忍ぶと、カリッと甘噛みされて、引き剥がすはずの蒼牙の頭を抱きかかえてしまう。やめてくれ、の言葉が悲鳴みたいな喘ぎになって、咄嗟にキュッと唇を噛み締めたら蒼牙のヤツがフッと笑った気配がする。
 クッソー!いつか絶対に殴るからなッ。
 双丘の窪みでひっそりと息衝く堅く窄まった蕾が、胸元に施される愛撫に微かに震えて、まるで湯に溶けるようにして力が抜けて僅かに綻んでくると、蒼牙は悪戯でも仕掛けるように肉襞を撫でやがったんだ!

「…ッあ!…ヒ…な、何を…!?」

 それまで散々煽られていた俺の意識が急に冷水でも浴びせられたようにハッキリと覚めて、蒼褪めたように蒼牙を見下ろすと、わざとらしくペロリと乳首を舐め上げた青白髪のご当主は、とても邪悪そうな笑みを浮かべて言ってくれました。

「晦までにはまだ時間はある。だが、慣らした方が俺の具合はいい」

 お前のためですか!?

「や、嫌だッ!!」

 慌てて引き剥がそうとしても、双丘を割られて人差し指の腹で窄まっている蕾を押し開くようにして撫でられると、居心地の悪い奇妙な落ち着かない感じに晒されて、不安になって却って蒼牙の頭に抱きついてしまうという悪循環をやらかしてしまった。そうすると、ヤツは満足そうに目蓋を閉じると味わうように乳首に吸い付いてくる。
 そうされるだけで腰が萎えそうなほど感じてしまう俺は、思わず尻を突き出すような形になって、戯れている蒼牙の指先に蕾を押し付けてしまう。

「…や、…嫌…い…だ」

 涙ぐんで蒼牙の髪に唇を押し付けながらどうしていいのか判らない俺がうわ言のように呟けば、不思議な青い白髪の持ち主は胸元に吸い付くようなキスの痕を散らして、貞淑に震える蕾の襞を確かめるように指先で辿っていく。

「やめ…怖……ッや…ッ」

 いつか指先が潜り込んでくるかもしれない…そんな恐怖に膝がガクガク震えて、俺は縋りつくようにして蒼牙に抱きついていた。
 ピチャンッと、天井から滴った水滴が敏感になっている俺の背筋を濡らして、ビクッと意識が逸れた瞬間だった。
 不意にグッと、揉み解されて柔らかく綻んでいた蕾に、蒼牙の男らしい太い指先が潜り込んできたんだ!

「ひぁ!?…グッ……痛ッ」

 妙に跳ね上がる声を上げて目を見開いた俺は、それから、節くれ立った指先がグイッと潜り込む、その強烈な圧迫感に思い切り目を閉じて唇を噛み締めた。思わず生理的に浮いた涙が零れて、ぽろっと蒼牙の頬を濡らしたようだった。

「…ん?指1本でもはじめはキツイか?」

「~…ッ!!あ…たり前だ…ろッッ!!」

 お前が一度犯られてみればいいんだよ!!

「…ぅあ…あ、んん……ッ」

 それじゃあ、とばかりに蒼牙は今度、はち切れんばかりに勃ち上がったまま放っておかれた俺の息子を掴むと、熱すぎる湯の中で先走りを零す先端をにちゅっと揉み込んだ。

「思った通り、感度はいい」

 満足そうにそんなことを呟いて、蒼牙は快楽に震える俺自身を握り込むとゆるゆると扱き出して、その快感を貪る俺の意識がソコから離れた瞬間、ヤツはもう少しグググ…ッと蕾に指を捻じ込んできた。

「痛ッ…このヤ…クソッ!指を抜ッ……」

「ふん?これ以上は狭いな。そうか、今夜はオイルを遣ってやる」

「…あ、アホゥ……ッ…」

 俺の言葉に怒っているわけでもないくせに、蒼牙のヤツは半分も含みきれていない指先を蠢かして何かを探っているようだったけど、結局、お目当ての何かが見つからなかったのか、軽い溜め息を吐きながら勃ち上がった欲望を揉み解すようにして扱いたんだ。
 その緩慢な仕種と断続的な痛みに身体を丸めるようにして倒れそうになった俺は、蒼牙の耳元に唇を寄せて切ない溜め息を零してしまった。たぶん、正気に戻ったら羞恥心で身悶えしまくるんだろうけど、その時の俺にはそんなことを考える余裕すらなかったんだ。
 ビクビクッと身体を震わせて抱き締めると、青白髪の当主はツンッと反り上がった乳首をねっとりとした舌先で舐めながら欲望の先端を揉むようにして尿道口に爪を引っ掛けやがる。

「ひぁッ!!…うあ…ぁ……くぅ…ッ」

 その圧倒的な快楽の波に攫われるような錯覚を感じて、俺は溺れる人のように無我夢中で蒼牙に抱き着いていた。蒼牙は挿入していた指を引き抜いて俺を喘がせると、腰を抱き締めるようにして白濁を吐き出す欲望を乱暴に扱いて最後の一滴まで搾り出してくれた。
 ねっとりとした舌先で歯列を割り開かれて…ああ、そうか、キスされてるのか。
 温泉の熱と快楽の余韻で一気に逆上せてしまった俺は、ガックリと蒼牙の膝の上に座り込んでしまい、貪られるままに濃厚な口付けを交わしてしまった。
 不意に下半身に灼熱のナニかが触れて、息子同士が挨拶すると言う居た堪れない状況に、それでも熱に浮かされた俺の思考回路は支離滅裂で、自分でも、もう何を言っているのかよく判らない。

「…ッ、お前…辛くないのか?」

「ん?」

「だって…イッてないだろ」

 俺の言っている意味を理解したのか、一瞬キョトンとした蒼牙はフッと笑って、ボーッとしている俺をぎゅぅっと抱きしめてきた。もう、あんまり気持ち良くってさ。されるが侭よ。

「晦の夜は思う存分抱くつもりだ、気にするな」

「ふーん…ツゴモリ?…そか」

 ちゃぷんっと、垂れ流しの湯量は豊富なのか、あれだけ暴れても常に湯はなみなみと満たされていたから、俺は半分出ている蒼牙の肩に頬を寄せて瞼を閉じた。
 ああ、気持ちいいなぁ…

「…背中を流させるだけのつもりだったが、これは思わぬ誤算だな」

「へぁ?」

 間抜けな声を上げる俺の耳元に唇を寄せて、蒼牙のヤツは楽しそうにクスクスと笑った。

「いや、嬉しい誤算だったな。だが、本来、花嫁と言うのはこうであるべきなんだ。アンタはおかしいよ」

 …俺がおかしいんじゃない、お前のその思考回路が奇妙に捩れて、他の人よりも性格が裏返ってるんだよ。
 まあ、こんな風に6歳も年下の男にいいように弄られて、喘ぎながらイッてるような俺だって確かに蒼牙が言うようにおかしいんだろうけどな。

「俺がおかしいように蒼牙だっておかしい。俺を花嫁なんて言いやがるし…はぁ」

 うとうとしていたら、不意に身体から滝のように湯を落として蒼牙が立ち上がった。
 ハッと気付いた時には既に腕に抱えられていて、唐突に羞恥心を覚えた俺は思い切り暴れてしまった。

「下ろせ!この馬鹿ッ」

「顔が真っ赤だ。上がるぞ」

 ガッシリした腕にガッチリと抱き上げられている状態じゃ、俺のなんちゃって体力が湯上りの気だるい疲れに適うはずもなく、思い切り頬を膨らませたままブスッと不機嫌面で仕方なく大人しくすることにした。チェ!もっと筋肉つけとくんだったッ。
 当主たる者は常に傍若無人でなければいけないのか、蒼牙はいつも問答無用だ。
 やめてくれとか、離せと言っても俺の言うことなんか聞いた試しが一度もない。
 まあ、当たり前か。
 コイツは大財閥の呉高木家の当主なんだ。

「桂、光太郎の分の朝食は俺の部屋に用意しろ」

「畏まりました」

 いつの間にそこにいたのか、ギョッとする俺なんかに目もくれずに桂は恭しく頭を下げて忠実に蒼牙の指示に従った。
 いや、ちょっと待て。
 初めての朝食に遅れるのもどうかしてるけど、列席しないってのは拙いんじゃないか?

「いや!俺もちゃんとみんなと一緒に食べるよ」

 桂から受け取った浴衣を器用に俺の上にかけながら蒼牙のヤツは、ムッとしたような顔をして容赦なく睨み据えてきた。その青味がかった双眸に睨みつけられると、条件反射で怯えてしまうのは何が原因なんだろうな、畜生!

「朝食の席で倒れるつもりか?部屋で休め」

「~あのなぁ…」

 頭ごなしの命令口調にムッとしたら、6歳も年下の男に怯えているのもどうかしてると思って、俺はその顔を覗き込みながら前髪から雫が滴る蒼牙の双眸を睨み返したんだ。

「桂!光太郎の着物を用意して朝食の準備を済ませろ」

「畏まりました」

 濡れている蒼牙の身体を大きなバスタオルで拭いて浴衣を着付けてしまった桂は、ビシッと言い付けられると、もう一度恭しく頭を下げて音もなく立ち上がり、そのまま「失礼します」と静かにその場から立ち去ってしまった。

「…あのな、俺の存在が恥ずかしいんならもうこんなことは止めにして、とっとと俺を家に帰したらどうだ?」

 盛大な溜め息を吐きながら首を左右に振ってそう言った俺を、蒼牙は呆れたような、小馬鹿にしたような目付きで見下ろしてくるとフンッと鼻先で笑いやがったんだ。

「俺がアンタの存在を恥ずかしがっているだと?面白いことを言うな」

「違うのかよ?」

 年下のくせにいちいち癪に障るモノの言い方をする蒼牙にムッとすると、ヤツは何がおかしいのかクックックッと笑い、それから思いきり爆笑しやがったんだ。

「な、なんだよ!?」

「本気でそんなことを思っているのか?謙虚な花嫁だな。愛されているとは考えないのか?」

「はぁ?愛…って、冗談だろ??」

 何を言いやがるんだ、このアンポンタンは。
 どこの世界に6歳も年下の野郎に「愛されてるから朝食の席には列席しなくてもいいのね♪」なんて考えるお目出度い馬鹿がいるってんだ?…まあ、花嫁候補として迎えられている小雛や、堂々と生涯独身宣言したあのお目出度い妖怪が心の変化を見せるのであれば、繭葵なら考えられないこともないけどなぁ。
 第一、男にそれを要求すること事態、やっぱ蒼牙の方がどうかしてる。

「俺はアンタを誰にも見せたくない。できれば俺の部屋に閉じ込めておきたいぐらいだ。だが、当主の妻は常に家を守り、村を守る存在でなければならない。村人にも当然愛されて然るべき存在だからな、苦渋の思いで出歩くことを許しているんだぞ」

 朝陽を受けながら真摯な双眸で見下ろしてくる蒼牙の瞳に見つめられて、図らずもドキッと胸を高鳴らせてしまった俺っていったい…顔を真っ赤にしてギクシャクと目線を逸らすと、
俺は唇を尖らせてブツブツと話しを逸らすことにしたんだ。
 いや、そうじゃないととんでもない方向に話しが向かいそうで、地雷原に無謀に踏み込むつもりなんか毛頭ないからな、賢明な判断だったと思うぞ。

「だいたい、こんな朝っぱらか何してたんだよ?」

「ん?朝稽古さ」

「稽古?」

 肩を竦めた蒼牙は、浴衣を掛けられただけでスッポンポンの俺を両腕で抱えたまま、さっさと脱衣所を後にして廊下を大股でズカズカと歩きながら説明してくれた。

「真剣で常に精神を鍛えている。まあ、古武道なんだが…神道呉高木光陰流ってのは知らないだろうな」

 乗っけから否定的だなぁ…まあ、知らないけど。

「へえ…って、なんだそれ?」

「ふん。居合道なんだが、明日にでも見せてやろう」

「へ?ホントか??」

 思いもよらない申し出に、正直ちょっと嬉しくなってしまった。
 居合い道ってなんだ?真剣…って言ってたし、剣道みたいなもんかな。
 ワクワクして蒼牙を見上げると、朝陽を浴びて青い白髪がキラキラしている呉高木家の当主は、男らしいキリリとした口許をキュッと釣り上げて微笑んだ。

「早起きしろよ」

「う、努力する」

 その為にも夜はチョッカイ出すんじゃないぞと軽く睨んだら、蒼牙は声を上げて笑いながらそれについては何も言わなかった。
 いや、ちょっと待て。
 返事がないってことは、今夜もやっぱり犯られるってことなのか??
 ぐはっ!勘弁してくれ…

「…出歩くことは構わんが」

 不意に蒼牙に言われて、トーンが低くなった声の慎重さに気付いて、顔を真っ赤にしてドキドキしていた俺は訝しく眉を寄せてその顔を見上げた。

「裏山の中腹にある神堂には近付くな。あれはこの村の禁域だからな…当主である俺を除いては、『弦月(ユミハリ)の儀』の時にのみ巫子しか出入りはできない」

「ふーん、そっか。よし、判った」

 素直に頷く俺をチラッと見下ろした蒼牙は、ホントにコイツ判ってんのかな?とでも言いたそうな顔をして僅かに眉を寄せたけど、口許に笑みを浮かべたまま恐ろしいことをサラリと言ってのけたんだ。

「立ち入れば命はないと思えよ」

 …家に帰らせてください。
 どうしてこう、この村と言いこの呉高木家と言い、なんか胡散臭いんだろうな。でも、蒼牙から言われてしまうと繭葵じゃないが、どうしても反抗できないような威圧感があるからビビッちまうのは仕方ない。
 禁域とされている神堂に立ち入ったら、なんかホントに殺されそうな気がして、俺は乾いた笑い声を上げながらウンウンッと首を縦に振ったんだ。
 蒼牙はそんな俺を見下ろしていたけど、フンッと鼻先で笑って肩を竦めるだけでそれ以上は何も言わなかった。
 だからこそ。
 「命はない」発言が殊更本気に思えて、俺は腹の底から神堂には近付かないと誓ったのだった。

 結局、朝飯は問答無用で蒼牙の部屋で食う羽目になったんだが、それでも一息吐いたら逆上せも治まったのか、俺はまた暑くなりそうな空を見上げて裏山を登ることにしてみた。
 どうしてこう、俺は押しに弱いんだろうなぁ…
 深々と溜め息を吐いていたらふと話し声が聞こえて、俺はキョロキョロと辺りを見渡してみた。
 いや、でも人影は見当たらない。
 はぁ、当たり前か。
 ここは呉高木家のご当主の山で、村人が簡単に立ち入ることなんかできないんだ。
 そもそも、この山自体が1つの巨大な神社のようなもので、神山として崇められてるんだよな。頂にはご神体があって、本格的な神社は確か天辺にあるんじゃなかったかな。
 これは眞琴さんが教えてくれた情報で、中腹には池があるんだが、その近くに今日教えてもらった神堂があるってことか。
 蒼牙は確か『弦月の儀』の時には巫子と当主が入って、それ以外の時は当主である蒼牙しか立ち入ることができない場所って言ってたしなぁ…繭葵は民俗学を研究しているって言ってたから、さぞかし入りたくてウズウズしてるんじゃないか?

『…御は男衆並みの体格だそうじゃ』

『大きいのか。そうか、子が楽しみじゃのう』

 ニヤニヤ笑いながら歩いていると、唐突にまたボソボソと話し声が聞こえてビクッとした。
 …いや、心霊現象とかそんなに苦手とは思っていなかったけど、こうして何かの声を聞いてしまうと、俺じゃなくてもビビるんじゃないか?
 こんな村で妖怪じみた連中が棲んでいるんだ、何が出てきてもおかしかないんだろうけど…
 風が、今更になってザワザワと青々している翠の葉っぱを揺らしたりするから、それまで清々しく思えていた風景が一変しておどろおどろしくなったと思うのは俺の気のせいじゃないはずだ。
 真っ青になりながら頭上を仰ぐ俺は、出来るならこのまま立ち去ったほうがいいんじゃないかとさえ思えてきた。

『見てくれはどうなのかのぉ』

『儂は見てくれよりも心根が知りたいのぅ』

 様々な声を渦巻くようにして風が吹き上げていくのを、殆ど蒼白になった顔でどんな表情をしたらいいのか判らなくなっていた俺は、膝頭が笑い出しそうになるのを必死で堪えていた。
 いや、そんなこと堪える前に逃げろ、俺!
 ダッシュか?いや、ここは突然襲い掛かられるのも嫌だからな、忍び足で逃げるべきか?いやいや、やっぱ普通に何事もなかったかのように元来た道を歩いてだな…とか、突っ立ったままでグルグルと脳内をフル回転させて考えていたら、ん?何かあるぞ。
 整備されていない山道の砂利を蹴りながら歩いていくと、茫々に伸び放題の草に埋もれるようにして小さな地蔵が5体並んで立っていた。誰も拝む人がいないのか、呉高木家の住人たちは既に忘れてしまっているのか…どちらにしても、草ぐらいは刈ってやるべきだ。
 それから、先に行ったところにある小川で水を汲んで…うん、掃除してやろう。

「よう、地蔵さん。呉高木の連中も酷いよなぁ、地蔵があるんなら掃除ぐらいしてやれよ!ってな」

 ヘッヘッヘッと笑いながら草をブチブチ引き抜きながら、誰に言うともなく呟いて、いや、俺自身の不平をブチブチ愚痴っている間に、案外早く片付いちまった。

「おお、なんだ。スゲー可愛い地蔵さんだな」

 草の中から姿を現した小さな地蔵たちは、仲良く並んでまるで微笑んでいるような表情が刻まれている。その笑顔に似合うように、綺麗になった山道は元の清々しさを取り戻したような気がする。

「あとで水を汲んできてやるな。遠慮するなって、どーせ俺はヒマなんだ」

 立ち上がって伸びをしていたら、おおそうだ。

「忘れてた。桂さんがお菓子をくれたんだ。干菓子って言う京都の品なんだってさ。俺、甘いの苦手だからお供えするよ」

 5人分にしては少ないかもしれないけど、お昼前に腹が減ったら召し上がってくれって言って手渡された程度だからなぁ…まあ、いいか。
 桜色の和紙に包まれた小さな花を模した干菓子を供えてしゃがみ込んだ俺は、パンパンッと両手を打って深々と頭を下げて祈った。
 どうか、今夜こそは蒼牙の魔の手から逃れて安眠できますように、と。

「さてっと。水を汲みに行って、ちょっと磨いてやるかな」

 よっこらしょッとまるでジジィのような掛け声を反動にして立ち上がると、フワッと、ジリジリと暑くなり始めた山中にあっては珍しく涼しい風が吹いてきた。いや、山の天気は変り易いって言うし…普通なのかな。
 まあ、いいやと思い直して歩き出す俺の背後で、何か声がしたような気がした。

『あれが嫁御かのぉ』

『龍の子の嫁御じゃ』

『なんとまあ、男衆のようじゃ』

『心根はおなごよりもやわらかいのぉ』

『龍の子の嫁御は、心根も良く美しいのぉ』

 ザァ…ッと風が吹いて、何か言っているはずの声は掻き消されてしまった。いや、もしかしたら声なんか最初からしていなくて、俺の空耳だったのかもしれない。
 うん、きっと空耳なんだろう。
 振り返って聞き耳を立ててみたけど、結局その後は静まり返った山中に清らかで清々しい鳥の声が高く澄んで聞こえるだけで、声らしい声なんか何も聞こえやしない。まあ、こんな場所に来て23年間の全てを否定しろと言われ、尚且つ今までで起こらなかった珍事が立て続けに起こりまくったんだ、空耳の一つや二つや三つや四つぐらい聞こえたって…ははは、仕方ない。
 さて、地蔵さんたちに水でも汲んでくるか。
 俺ぐらいは、この忘れ去られた地蔵たちの世話をしてやろう。
 どーせ、俺は暇人なんだ。
 歩いていてハタと気付いた。
 あ、そうか。バケツとか持ってこないと
 仕方なく振り返って戻ろうとした時、山の中に人影を見たような気がして目を擦ったら、淡い桜色の着物を着た腰までも長い艶やかな黒髪の女の人が山中に向かって歩いて行った。そっちに行ったら道に迷うじゃないかと心配になったけど、まあ、この山にいるってことは呉高木の家の者なんだろうなと安直に思って俺は、元来た道を引き返そうとした。引き返そうとして、山道の真ん中に小雛が立っているのに気付いたんだ。

「…こんにちは」

 小雛はちょっと恥ずかしそうに俯いて、モジモジしながらはにかんでいる。
 大きな瞳は瞑れば音がしそうな長い睫毛に縁取られていて、上目遣いに見上げられればどんな男も思わず凄まじい庇護欲にそそられるだろうと思う。現に俺もそうだし、蒼牙のヤツが小雛に見向きもしないところが…ああ、アイツって本当に変態なんだなぁとつくづく思い知ってしまう。
 いや別に、ホモが変態ってワケじゃないんだが、俺の許容範囲を越えているってだけさ。

「こんにちは。散歩かい?」

「ええ、光太郎さんも?」

 男と話すことに免疫がないのか、小雛はモジモジしながら後ろ手に組んでニコッと笑っているけど、どこか今にも逃げ出したいような雰囲気があるからな。
 そんな無理して話し掛けることもないだろうに、そう言う努力は花婿候補の蒼牙に対してするべきだと思うぞ。

「俺は、ちょっと裏山探検かな」

 へへへッと笑って頭を掻いたら、小雛はクスクスと笑って少し緊張を解いたようだった。でも、すぐに山の中で何か物音がするとビクッとして、まるで警戒心の強い小動物のように身体を硬くしちまうんだ。たぶん、こんな山に来たことがないんだろう。
 蝶よ花よってな感じの、温室育ちのご令嬢ってヤツじゃねーのかな?
 蒼牙のように俺様至上主義の不遜大魔王には、確かに俺や繭葵のようなヤツじゃなくて、こう言った従順そうな小雛が良く似合うと思うんだけどなぁ…まあ、エッチの点で言えば、まだ本番はされていないけど相性は合うのかもしれないけど…ハッ!?何を言っちゃってんの、俺!!
 ヤベーと真剣に考え込んで項垂れてしまった俺に、小雛は不思議そうな表情をして小首を傾げている。どうかしたのかなと、その可憐な表情が困惑している。

「探検と仰っても、その格好では大変じゃありませんか?龍刃山(リュウジンヤマ)は標高は低いですが、矢張り山は山なので…」

 浴衣姿の俺が疲れているのだと思ったのか、小雛は困ったように笑いながら控え目にだけど忠告してくれた。
 さすがに直哉が当主のために見立てた娘たちだ。ちょっと変わっている繭葵にしても、この小雛にしても、特別に綺麗で上品だし、可愛くて女の子らしい。
 ああ、だから頼むよ、蒼牙。
 この2人のどっちかと結婚してくれって言う、やっぱ直哉が正しいんだと思うよ。
 花嫁はこの2人のどちらかが最適だって。

「それが、案外そうでもないんだよね。小雛の方がそんな格好じゃ辛いんじゃないのか?」

 ピンクハウスの可愛いワンピースを着ている小雛は、夏にしてはちょっと暑苦しくも感じるけど、真っ白な肌が太陽の光で透き通ってて却って爽やかに感じるからいいのか。
 小雛はちょっと頬を赤くして、モジモジしたように俯いてしまった。

「私は大丈夫です。でも、その…光太郎さんは、蒼牙様の愛を受けてらっしゃるから…」

「グハッ!!」

 あ、そうか。
 小雛も俺と蒼牙の関係は知ってるんだよな!?
 うっわー、なんかまともに小雛の顔が見れなくなっちまった。つまり彼女は、俺が蒼牙と朝っぱらから致してしまったことを、たぶん、伊織さんから聞いていたんだろう。それなのに、山ん中で平然と散策してりゃ身体の具合を心配されても仕方ねーのか。
 ああ、なんかガックリと落ち込んじまいそうだ。

「…私、ずっと蒼牙様の許嫁だったんです。だから、12歳の時に破談するまで、もうずっと蒼牙様のことしか考えていませんでした」

 スカートを掴んでモジモジと手遊びしながら俯いて語る小雛は、やっぱり何か言いたかったんだろう。それでも、俺なんかに気を遣いながら言葉を選んで、おまけに笑ってやがる。

「今までもそうでした。これは何かの間違いなんだろうと思っていたんですが…こうして光太郎さんにお会いしたら、本当のことだったんだと理解しました」

 蒼牙は酷いヤツだ。

「いや、小雛。俺は違うんだ、そうじゃない…」

 小雛は少し上目遣いに見上げてきたけど、長い睫毛が縁取る綺麗な瞳を瞬かせてニコッと小さく笑ったんだ。

「私、晦の儀までいますけど、どうぞ仲良くしてくださいね」

 それだけ言うと、ペコリと頭を下げてから小雛は小走りで行ってしまった。
 何か言おうと開きかけた口を言葉と一緒に噤んでしまって、俺はぼんやりと突っ立ったままで動き出すことができないでいた。
 俺は違う?
 そうじゃない?
 どうしてそんなことが言えるんだ?
 俺は。
 俺は…蒼牙と肌を重ねている俺は?
 蒼牙が与えてくれる快楽に、嫌だと拒みながらもすぐに陥落して溺れてしまうくせに。
 蒼牙に、知らずにもっと…と強請る浅ましいこの俺の、いったい何がそうじゃないんだ。
 あまりにも色んなことが一気に起こり過ぎて、頭がグルグルしてもう何も考えることができない。蒼牙のことをどう思っているのかとか、自分の置かれている今の状況を把握することだとか…そんなこと、できれば全部、投げ出せたらこんなに悩まなくてすむんだけどなぁ。

「はぁ…考えたって仕方ねぇ。確か晦の儀まで15日あるんだったよな。その間に…どうするか考えよう」

 この村から逃げ出して借金苦に苦しむ母さんの顔を見に帰るのか、23年間生きてきた全てを否定して、心もない年下の男に抱かれながら生涯を終えるのか…
 俺は溜め息を吐いた。
 山の中に拭く涼やかな風が、俺の溜め息を吸い上げて空に舞い上がっていった。

第一話 花嫁に選ばれた男 4  -鬼哭の杜-

 ふと、蒸し暑さで目が覚めたら、いつの間にか桂の背中で眠ってしまっていたのか、気付
けばそこは最初に通された俺の部屋だった。
 純和風造りの平屋の家は、天井を渡る梁がその家の古さを物語っているようだ。
 そうか、この家は既に100年以上も歴史を見詰めてきたんだな…そんな中で、俺みたいに男でありながら花嫁として迎えられたヤツを何人見てきたんだろ?…はは、また俺の空っぽな脳味噌が夢でも見てるよーだ。
 そんなヤツ、多分後にも先にも俺ぐらいしかいないって。
 ハーッと長い溜め息を吐いて片手で両目を覆っていた俺は、こんな風に寝ていてもどうしようもないと思い、仕方なく起き上がることにした。上半身を漸く起こしたところで、不意に外が賑やかなことに気付いて俺は首を傾げてしまう。
 なんなんだ?
 浴衣のままで寝てしまったせいか、皺だらけになった裾を引っ張りながら立ち上がろうとして、障子に畏まって座っている誰かの人影に気付いてギクッとしてしまう。いつからそこにいたのか、もしかして俺が寝ている間ずっとそこにいたのか、アワアワしながら身支度を整えていると、不意に障子の向こうから俺の気配に気付いた誰かが低い声音で声をかけてきた。

「楡崎様、お目覚めでございますか?」

「あ、なんだ…桂さんか。ああ、今起きたんだけど迷惑かけちゃって…」

 慌てて取り繕おうとする俺の言い訳なんか聞く耳を持たない様子で「構いません」と呟いて、桂は微かに頭を下げながら言ったんだ。

「楡崎様、御当主様並びに先代様、花嫁候補の皆様方がお待ちでございます。どうぞ、枕元に用意致しましたお召し物に着替えられてお出ましくださいませ」

「へ?…ああ、はいはい。これね」

 俺は上体を起こしたままで桂に指示された枕元にある、木製のケース、ほら良く旅館なんかで浴衣が入ってるヤツがあるだろ?丁度それぐらいの大きさの箱に整えられている服…と言うか、着物を掴んで絶句した。
 どこからどう見ても、これって女物じゃないか!?
 白を基調にした薄紅色の花が散る着物は、こんな蒸し暑い夜に綺麗なお姉さんでも着てくれればサッと汗も引いて、絶好の納涼になるってモンだが…これを着た俺を想像したことがあるのかよ、桂さんよぉ。

「…あからさまに女物ですが?俺、こんなの着て人前には出られないぞ」

 ガックリ肩を落としてその場で項垂れてしまう俺の姿なんかお構いなしで、桂はちょっと息を飲むようにして沈黙していたが、その間に言葉でも探していたんだろう酷く落ち着いた低い声で言いやがったのだ。

「とんでもございません、楡崎様。そのお召し物は蒼牙様がご自分で糸と反物を選ばれた、京の最高級の品物でございます。必ずや楡崎様にお似合いになることと思われます」

 ははは…どうもこの家に住んでいる連中の俺に対する脳内変換は、どうやらイコール女ってことらしい。
 手当たり次第にぶん殴るぞ、この野郎。
 どこの世の中に京都で最高級品のお着物なの?嬉しいわ!と言って飛び付く野郎がいるってんだ?いるんなら今すぐ俺の目の前に連れて来やがれ!教え諭して聞き分けがないなら張り倒してやるからよッ…いかん、あまりにも突飛な会話で壊れるところだった

「蒼牙様がお待ち致しておりますので、どうぞ楡崎様…」

「あー、はいはい。すぐに行くから、桂さんは先に行っててよ」

 何か言いたそうな雰囲気だったが、そうでもしないと俺が一生この部屋から出てきそうにないとでも思ったのか、桂は僅かの間悩んでるようだったけど軽く一礼して立ち去った。
 よしよし。
 この家の連中、ことに桂に至っては俺の意見なんか無視するようにとでも教え込まれてるのか、絶対に俺が嫌がることでも蒼牙がそうしろと言えば強制的に執行するんだろう。今だってそのまま頑固に居座っていたら問答無用で入って来て、無理矢理にでもこの恐ろしい着物を着せられていたと思う。
 俺は半分以上蒼褪めながら、親指と人差し指で綺麗な着物を摘み上げると盛大な溜め息を吐いた。
 フンッ!誰が大人しく蒼牙の選んだ着物なんか着るかってんだッ!
 ガックリ落ち込んでいた俺は俄かにムッと眉を寄せて顔を上げると、部屋の片隅に置かれている大きなFILAのボストンバッグからジーンズとTシャツを取り出して握り締めた。

「俺に女装させようって魂胆が気に喰わん。その辺は羞恥心っつーのをあの生意気小僧も持ってるってワケだ…嫌われようとしているこの俺様が、どうして言う通りに行動すると思うんだ?あの大馬鹿野郎がッ」

 フフンッと鼻先で笑いながら俺は、この村では神でもあるご当主の言いつけを思い切り破ると言う愚挙に出たのだ。
 いや、こう言う男としてのプライドを賭けた行為を愚挙と言ってしまえるこの村の方が、現代に生きる俺にとっては全く信じられないんだがな…
 浴衣を脱いでいつもの着慣れたよれたジーンズに着古したTシャツと言う、いや、私的とは言えお披露目と言うフォーマルの場に行くには確かに常識外れの格好をして、反発心も満々に障子をスパーンッと開け放ってやった。
 そこには従順な桂の姿は予想に反して見当たらず、ちゃんと言うことを聞いてくれたのかとちょっと驚きながら俺は、一度深呼吸をしてなぜか動悸が激しくなる胸元を押さえながらキッとヤツらのいる部屋がある方角を睨み付けた。
 純和風の日本庭園を見渡せる長い廊下を進んで右手に曲がり、もう少し進んで左手にある障子を開ければ蒼牙たちが集まっている広間だ。案の定、もう明かりが燈されていて、人影が障子に蝋燭の明かりで揺らぎながら映っている。
 障子に指で穴でも開けて中を覗いて見るかなぁ…そんな風に弱気になる心を奮い立たせようともう一度深呼吸をした当にその時だった。それまでざわついていた室内が一瞬で静まり返り、俺があれ?っと首を傾げていると、中で誰かの動く気配がして障子の脇まで移動してきたソイツの声が静まり返った室内に響いた。

「楡崎様のお出ましてございます」

 いや、ちょっと待ってくれ。まだ心の準備が…とか、内心で慌てふためく俺の気持ちなんかお構いなしで、向こう側で、ちょうど俺の右手側に跪いている桂がサッと障子を引き開けたんだ。
 部屋で顔を並べていた連中の視線が突き刺さるように注目したけど、俺はその雰囲気に一瞬だけ怯んだものの、軽く咳払いをしてズカズカと足を踏み入れた。頭を下げていた桂は顔を上げると、俺の出で立ちに微かに眉を寄せたが、このお目出度い場所で何か言えるはずもなく、黙ったままチラッとだけ上座に座る当主の様子を窺ったようだ。
 フンッ、もともと嫌われようと思ってるんだ。どうしてこの俺がコイツらの顔色なんか窺わなきゃいけないんだよ。
 室内に入った俺の眼前に広がっている光景を簡単に説明するなら、いや、できれば一分だってこんなところには居たくないんだが、そう思わせる雰囲気を持った連中を見渡して、まあ説明するならば一段高くなっている上座に蒼牙を配し、その下段から俺の目の前に一族の連中が雁首を揃えて座っていると言うワケだ。
 上段で退屈そうに胡座を掻いている蒼牙により近い場所に座っている男が、恐らく後藤谷家の長男であり、先代当主の呉高木直哉なんだろう。ソイツはまるで、小馬鹿にでもしたような顔付きで俺をチラリと見たが何も言わなかった。その次に座っているのが義姉の伊織さんで、俺の姿を見るなりニッと笑った。その隣に座っている眞琴さんはと言えば、俺をチラッと見ただけで口許に微笑を浮かべた無表情のままでその顔付きに変化はなかった。
 その次に座っているのは俺がまだ見たことのない、それでも一族の者なんだろう、厳しい表情をしたヤツらが呆気にとられたような顔をして俺を見ている。 それから、よくある田舎の有力者特有の陰口を囁きあいながら、ムスッとした顔をして俺を睨みやがる。
 クソッ!怯むな俺!!
 さて、どこに座ればいいんだと見渡したら、蒼牙の眼前に畏まるようにして座っている2人の美人を見つけてしまった。
 1人はまだ少女のようで、もう1人は見るからに都会の大学生と言った感じの取り澄ました美人だ。
 ふーん、どうやらこの子たちが本当の!花嫁候補ってワケか。

「…楡崎様、どうぞ繭葵様の隣へ」

 俺の背後に畏まった桂がざわめく室内でも凛と響く声で促して、俺は繭葵と呼ばれた都会の大学生っぽい美人の隣にやれやれと胡座を掻いて腰を下ろした。桂はちょっと困ったような顔をしていたけど、その顔を見てなんでこんなに良心の呵責を感じるんだと額に僅かに汗を浮かべながら蒼牙を見ると…うっ、なんで俺睨まれてるんだ?
 やっぱ、この態度はいけなかったのか??
 …と言うことは、よしよし、これで俺のイメージは100%まで下がったな。 これでいいと、口を真一文字に結んでそんなご当主を見据えていると、肘掛けに頬杖をついて面倒臭そうに扇子で扇いでいた着流し姿のままの蒼牙は、フンッと苛立たしそうに鼻で息を吐き出すと、ピシャリと手持ち無沙汰に扇いでいた扇子を閉じて身体を起こしたんだ。
 俺にも腹を立てているけど、何よりこんな席を設けられたことに一番腹を立てているんだと、なぜかその態度が物語っているように思えたのは俺だけじゃないはずだ。現に、ヤツがこの後口にした言葉でそれが如実に暗示されていたからな。

「これで面子は揃ったわけだな、直哉?」

 先代当主を捕まえて呼び捨てと言うのもいただけない態度だったが、名指しされた当のご本人が別段気にした様子もないから俺がとやかく言える筋合いじゃないんだが…だけど一瞬、2人の間にビリッと電気のような火花が散ったような気がして、おわ!マジこえーと思ってしまったのは事実だ。
 少なからず蒼牙の怒りはこの義父にも向けられているんだろう。

「その通りにございますな、当主。では、簡単ながら儂がご紹介いたしましょう。当主より向かって左手に居られますのが呉高木小雛(クレタカギコヒナ)様であります。先々代当主の弟君、源次郎様のお孫様になります。その隣にいらっしゃるのが大木田繭葵(オオキダマユキ)様であります。呉高木に一番近い分家の娘様になりますな…さて」

 不意に直哉が俺の顔を見た。
 一瞬、ゾクッとするほど冷たい双眸で俺を睨んだ後、さもとってつけたかのように困惑した顔をして蒼牙を見たが、件の当主はこちらの居心地が悪くなるほど俺の顔をジッと見詰めたままで、扇子を振って直哉の言葉を遮ったんだ。

「下らん紹介などいらん。なるほど、遠路遥々ようこそお出でくださった。どうぞゆるりとして行かれよ…と言いたいところだが、生憎と何もない村だ。満足な持て成しもできないのでね、早々にお帰り下さるのが賢明だろう」

「当主!」

 直哉が低いが威圧感のある声音で諌めようとしたが、そんな声にはもう慣れ切っているのか、蒼牙はフンッと鼻を鳴らしただけで話はそれだけだとでも言わんとばかりに立ち上がった。

「余計な気遣いなど無用の長物だ。いい加減、観念したらどうだ?」

 キリリッと整った口角の端を吊り上げて笑う蒼牙の表情は、見るものを一瞬で震え上がらせる、なんと言うか、凄味のようなものがあった。17歳です、なんて言われてもすぐには頷けない奇妙な大人びた雰囲気があって、それまでこの場で絶対に『花嫁候補なんかじゃねぇ!!』と訴える意気込みできていた俺の、そのなけなしの意気込みなんかその顔を見ただけで一気に萎えてしまった。
 だが、直哉はそうじゃなかった。
 相変わらず飄々とした表情はしていても、キリッとした顔立ちには先代当主の威圧感のようなものが漂っていて、剣呑としたオーラは隠されることもなく垂れ流しだ。きちんと正座したままで当主に向き直った直哉は、ハッキリとした口調で宣言したんだ。

「お言葉ながら、当主よ。既に望月(モチヅキ)の儀は執り行われた。当主が望むと望まざると、花嫁候補は晦(ツゴモリ)の儀まで候補に変わりない。努々お忘れなきよう」

 瞬間、蒼牙の顔に怒りのような激しい感情がハッキリと浮かんだ。
 だが怯まない直哉に舌打ちしたが、すぐにもとの人を喰ったような冷ややかな表情をして、呉高木の当主は吐き捨てるように言った。

「勝手にするがいい。話はそれだけか?…伊織!眞琴!」

「なんですの?蒼牙さん」

 唐突に名前を呼ばれた伊織さんと眞琴さんは、それでも全く意に介した風もなく自然に応えている。その態度は、まるで生まれた時からそうであったように、蒼牙の一言一句に忠実に従う侍女のようでもあるから…なんか、ヘンな感じだよなー 義父の愛人で義姉なんて言う立場にあるのに、その実、蒼牙の前では侍女のように忠実なんだから…態度はまるで素っ気無いんだけど。まあ、命令され慣れているってことなのかな。

「小雛と繭葵を鄭重に持て成してやれ」

「判りましたわ。ねえ、眞琴さん?」

「承知いたしましたわ」

 素っ気無い蒼牙の指示に、伊織さんと眞琴さんはまるで共同戦線を張っているかのように顔を見合わせると、妖艶な微笑を浮かべてクスクスと笑いあった。その態度がまたゾッとするから見ていられないんだけど、俺はソッと事の成り行きを窺っている他の花嫁候補、つまり呉高木小雛と大木田繭葵の2人を盗み見た。
 小雛の方はご令嬢とでも呼べそうな可憐な顔立ちをした美少女で、その花のかんばせに不安そうな色を浮かべて俯いていた。その傍らにいる繭葵はと言うと、さも退屈そうに欠伸を噛み殺しながら不貞腐れているようだったが、好奇心で見ている俺の目線に気付いたのかバチッと視線が合ってしまってギクッとした。
 繭葵は何か興味深そうな目付きで俺を繁々と見ていたが、不意に取るに足らないとでも思ったのかニヤッと笑ってそのまま視線を外してしまった。
 いや、そりゃあな。花嫁候補だと言われて都会からこんな鄙びた田舎に来て、その花婿である当主に邪険にされて驚いたのは良く判る。しかも、しかもだ!その花嫁候補の列の中に、どこからどう見ても立派な男である俺がいたんだ、興味深そうを通り越して気味が悪そうな目付きで見られたんじゃなくて良かったけど…いや、興味深そうな目付きだって充分、萎える。
 ただ、その最後の意味深な笑いはちょっと気になったけどな。

「さて」

 不意に、堂々とした声音が室内に響いて、俺がハッとした時には蒼牙は既に俺の前に立っていた。
 慌てて何か言おうとした時には俺の腕は掴まれていたし、ムスッとした不機嫌そうな目付きが何か言おうとする俺の口に重い蓋を被せやがった。いかん、これじゃ負けちまう。

「アンタはどうして俺が用意した着物を着ていないんだ?」

 その瞬間だった、不意に強い視線に刺されるような錯覚を感じて、俺は睨み据えてくる蒼牙から視線を逸らして周囲を見渡してしまった。だが、俺とは違った意味でその場にいた連中も動揺したように囁き合いながら顔を見合わせている。
 どうやら、蒼牙が俺に贈り物をしたことに不満を持ったらしい。
 当たり前か。
 コイツは見たこともない金額の資産を抱えている生きた金塊みたいなものなんだ、誰だってその関心は欲しいに決まっている。そりゃあ、俺だってただの養子とかなら喜んで応じたかもしれないけど…花嫁だぞ?勘弁してください。
 でも、俺を見ているヤツは誰もいないのか。
 あの視線はなんだったんだ?気のせいかな…

「どうしてって…アレをこの俺に着ろと言うお前の精神を疑ったからだろ?」

 それでも不機嫌そうに俺の腕を掴んでいた蒼牙から、グイッと視線を逸らすなとでも言わんとばかりに顎を引っ掴まれて嫌でも間近にヤツの顔と睨めっこしなければいけない状況になると、もう周囲の視線なんか気にしている暇もなくて、俺は言葉を選ぶようなフリをしてストレートに言ってやった。

「当主に何たる口の利き方!」

「無礼な!!」

 口々に言っては俺を睨みつけてくる親戚連中に、俺が何か言い返すよりも先に蒼牙がゆっくりと振り返ったんだ。
 その、恐らく冬に吹雪く嵐よりも凍えてしまいそうな双眸に見据えられて、当主としての地位だけでなく、この呉高木蒼牙と言う人間が持っている気質そのものに怯えたように、居並ぶ一族たちは一様にバツの悪そうな顔をしている。
 大の大人を震え上がらせる蒼牙の強烈な威圧感に、俺、果たして真っ向から勝負できるかな…
 そんな風に萎えた心に追い討ちをかけるかのように、蒼牙は外見とは裏腹の日本男児らしいキリッとした口許に上辺だけの笑みを浮かべて、俺を引き寄せながら一族の重鎮たちに言い放ったのだ。

「まあ、そう目くじらを立てないでくれ。これでも可愛い俺の花嫁なんだ。ああ、紹介し忘れていたな」

 チラッと見下ろしてきた蒼牙に言いようのない不安を感じて、俺は蒼褪めながら「ちょ、ちょっと待ってくれよ…」と遮ろうとしたけど、そこはモチロン、我が道を行く不遜の塊野郎が俺なんかの言うことなんぞ聞いてくれるはずもない。

「これは俺の子を産む大事な花嫁だ。楡崎光太郎と言う。この村に来てまだ間がない。何かと不便で困ることもあるだろうから皆で助けてやって欲しい」

 あはははー…って笑うしかねぇ心境の俺を誰が責められるって言うんだ?
 俺は男で、だから子供なんか産めないんだがな…頼む蒼牙、目を覚ましてくれ。

「なんと!…それでは直哉さんのお連れした娘御たちはどうなるのだ?」

「いずれも劣らぬ娘御ばかりだが…」

「いやだが、楡崎と言ったぞ」

「なんにせよ、晦が応えてくれよう」

「いやいやしかし、当主がああ言っておられるのだ。何も晦を頼らずとも、当主の寵愛が傾けば自ずと答えも出ようものよ」

「なるほどなるほど!ならば我らもでき得る限り、光太郎殿の手助けを致さねばな」

「元気な跡継ぎを産んでもらわねばならんからなぁ、はっはっは」

「おお、そうだ。承知した、当主よ」

 それぞれが好き勝手なことを言ってくれてるけど…はぁ!?認めるのかよッ!?

 ち、ちょっと、ホント、なんだこれは!?

「ああ、よろしく頼む」

 上機嫌でニッコリ笑う蒼牙と、居並ぶ機嫌の良い一族の重鎮、そして置いていかれている俺と花嫁候補たち…いや、その花嫁候補の連中すらも、繭葵にしたって初めから決まってるならわざわざこんな田舎に呼びつけないでよねとでも言いたそうな呆れた顔をしているし、小雛は蒼褪めたまま仕方なさそうに俯いちまってる。
 ええ!?何、お前たちまで認めちゃってるのッ!!??

「こ、これは!?はぁ??俺、男なんだぞッ!?」

 それまで沈黙で事の成り行きを見守っていた俺としては、一族の誰かが猛然と反対してくれるだろうと信じていた。だって蒼牙は呉高木一族のご当主で、その子供が次代を担うんだぞ?どんな酔狂で蒼牙が俺なんかを選んだのかはよく判らないが、どんな大金持ちの馬鹿息子でも、男の俺を花嫁にするつもりだなんて言ってみろ、親戚中がひっくり返るような大騒ぎになる…って、俺が確信していてもおかしかないだろ?なあ、おかしくないよな?…なんだ、俺。なんか自信がなくなってきたぞ。

「おかしなことを言う花嫁様だな」

「ははは、緊張されておるのだよ」

 一族の連中は俺の内心の悲鳴なんかお構いなしで…ああ、そうか。
 忘れてた、ここにいる連中は俺の感情なんか無視で上等!だったな。はは…は…

「では皆の者、夜分にご足労すまなかった。俺は部屋に戻る。桂、後は頼んだぞ」

「畏まりました、蒼牙様」

 そう言って、着流しのままの蒼牙は何がなんだか判らなくなって真っ白になっている俺の腕を掴んで問答無用で立ち上がらせると、そのまま部屋を後にしようとした。
 その背中に、凛とした声が響く。

「お待ちなすって、蒼牙さん。光太郎さんのお部屋はあちらですわよ」

 凛とした声の持ち主は見ないでも判る、そう、眞琴さんだ。
 真っ赤な紅を差した綺麗な唇に笑みを浮かべ、ピシッと背筋を伸ばして正座した眞琴さんは膝の上できちんと両手を揃えている。その姿は日本人形が座っているようで、そのくせ、妙に生々しい微笑がゾッとするほど整っていて背筋に冷たいものが走る。でも、蒼牙のヤツはそうでもないのか、平然としたツラをして眞琴さんを見ると、それからチラッと畏まっている桂を見下ろした。

「…光太郎の部屋は俺と同室だ。当たり前だろ?」

「畏まりました」

 桂はすぐに恭しく平伏したが、それを聞いた瞬間、花嫁候補の小雛が悲しげな目をして俺たちを見たんだ。その時になって初めて俺は、小雛の顔を真正面から見ることができた。気が弱いのか、さっきから俯いてばかりいた可憐な少女は、悲しそうな目をした綺麗な顔立ちをしている。
 蒼牙のヤツ…花嫁は小雛にすればいいのに。

「まあ!同衾なさるの?それでは一族の慣習を…」

 眞琴さんが口許にうそ寒い微笑を湛えたままで、その笑みとは裏腹の笑っていない双眸が俺たちを見詰めながら言い募るのを、蒼牙がハッキリとした口調で遮った。

「抱かなければすむことだろ?毎朝桂が確認することだ、慣習に背いてはいない」

「それでしたら構いませんが…」

 クスクスと眞琴さんが笑うと、伊織さんがどうでも良さそうな顔をして肩を竦めた。 直哉は表情こそ変えてはいなかったが、そのくせその目付きに憎々しげな気配をオーラのように孕んで俺を睨みつけている。
 なんなんだ、この連中は。
 俺の腕を掴んでいる蒼牙を筆頭に、みんな頭がイカレちまってるのか?
 俺は男なんだ!俺は男…もしかして、この村は何かおかしくて、この村に入ったと同時に女にでも見えるようになったとか…?
 何を馬鹿なこと言ってるんだろう、確りしてくれよ楡崎光太郎!
 俺の腕を掴んで歩き出す蒼牙の背中を見詰めながら、俺は慢性的な頭痛を感じて眩暈がした。

「なぁ、俺はやっぱり男なんだよな。お前が言うような子供なんか産めないし、やっぱ花嫁ならもっとこう、俺なんかと違って可愛い安産型の…ほら、小雛ちゃんとかいいんじゃないか?」

 ほぼ強制的に腕を引っ張られながら歩いている俺は、何とかこの危機的状況を回避しようと必死に言い募っていた。それを蒼牙が聞いているのかいないのかなんてことは今の俺には関係ない。取り敢えず、この頓珍漢な蒼牙に思いとどまって貰わなけりゃいけないんだ!…ああ、そうか。それだったら聞いてないといけないのか。
 一人で喋っては内心で溜め息を吐いている俺なんかまるで無視して、蒼牙のヤツは無言のままで自分の部屋である奥座敷に連れて来たんだ。それから、障子の扉を引き開けると既に寝床の用意が整っているその場所に、俺を突き倒したんだ。
 こここ、この展開は…ッ!!
 夕方のことを思い出して、仰向けに突き倒された俺は慌てて体勢を整えると、尻でいざるようにしながら蒼牙からできるだけ遠ざかろうとした。そんな俺を見下ろしていたこの家の当主は、後ろ手で障子を閉めながらその口許にニッと嫌な笑みを浮かべたんだ。

「ま、待て!さっき、眞琴さんが言ってたじゃないか!それにお前はなんて答えた?な、だからほら、やっぱこう言うのは拙いって…」

「フンッ、要は挿れなければいいってだけのことさ」

 そんなゾッとするようなことを言って、蒼牙はゆっくりと俺の前に屈み込むようにして片膝をついた。
 それこそ、ガクガクブルブルしながら見上げている俺を、何が面白いのか、蒼牙はクックックッと笑っていたけど、不意にムッとした顔をして俺の顎を掴んだんだ。掴んだ手は強くて、俺は無意識のうちに眉を寄せてしまった。

「何が気に喰わないんだ?アンタは俺の気に入った着物を着て、俺の傍にいればいいんだ。そんな簡単なことがなぜできない?」

「…お、前は馬鹿か?俺は男なんだ!女装なんか趣味じゃねぇッ」

 ギッと睨みつけたら、蒼牙はそんな俺の顔をマジマジと見詰めてきた。まるで、自分に反論するヤツがいるのかとでも言いたげな、そんな吃驚した表情だったんだと思う。

「女の着物が嫌なのか?」

「そんな簡単なことじゃないけど…いや、そもそも何もかもが嫌なんだ!」

「なんだと?」

 どうして睨まれるんだろうな。
 嫌に決まってるだろ、花嫁なんだぞ??
 そりゃあ、小雛や繭葵や、いや世間一般に女と名のつく生き物なら誰だって喜んでお前の花嫁になるだろうけど、俺は何度も言うように男なんだ!花嫁なんつー概念もないし、普通に結婚して女を愛して、生涯は平凡なモンだろうって思っていたのに…
 男に嫁ぐだと?
 俺が生きてきた23年間を全て否定して、この村で男に囲われて生きていけって言ってるんだぞ?

「俺にだって人権はあるんだ!そりゃあ、蒼牙はこの村の掟であり神だろうよ。でも俺は違う。こんな村で生まれたワケでもないし、何より俺は男なんだ!…そんな簡単なこと、どうして気付いてくれないんだって俺の方が聞きたいぐらいだよ」

 思わず泣きそうになったけど、蒼牙があまりにもポカンッとしたから言っている自分の方が滑稽で、なんとも馬鹿らしく思ってしまった。

「俺は…ッ」

 それでも何とか言い募ろうと開きかけた口を、少しカサつく蒼牙の唇が塞いできた。
 まるで、そう、もう煩いから黙れとでも言うように。

「やめッ!…んぅ…ま、だ、話が!!」

 何とか唇をもぎ離して続けようとする俺の言葉を舌先で奪いながら、蒼牙は覆い被さるようにして圧し掛かるとさらに深い深い口付けを施してくる。
 内側を這う舌先の動きに翻弄されながら、気付けば俺の舌も蒼牙の肉厚の舌に絡めとられてもう言葉すらも吸われてしまいそうだ。
 どこでこんなキスを覚えてきたのか…そこまで考えて、唐突に思い出した。
 そうか、蒼牙は子供の頃から義父や祖父とこう言う行為をしていたんだ。嫌でも叩き込まれたその時の感情は、こうして俺を征服しながら、それは至極当然のことなんだろう。
 含みきれない唾液が唇の端から零れ落ちて、俺は何をしているんだ?

「…ん…ふ」

 チキチキチキ…ッとジーンズのファスナーを音を立てて引き下ろしながら、シャツの裾から忍び込ませた指先で俺の乳首を捕らえると抓んだり弾いたりして嬲り始めた。プッツリと膨らんだ胸の突起を押し潰すようにして擦られる、その刺激がゾクゾクと背筋を震わせて、蒼牙が引き下ろそうとするジーンズの中でトランクスに収まっているモノが震えながら涙を零す。
 その瞬間ギクッとして、俺は必死でジーンズにかかった蒼牙の腕を振り払おうと、唇を塞がれたままで嫌々するように首を振りながら暴れたんだ。でも蒼牙は、そんな俺の反抗的な態度に苛立たしさを感じたのか、小さく舌打ちすると乱暴に俺の腰を抱き上げてジーンズを無理矢理引き下ろしやがった!
 それと同時にトランクスまで引き下ろされて、涙を零して打ち震える俺の息子が露呈されてしまう。

「…フンッ、口では抗うようなことを言ってみても、身体はやけに素直じゃないか」

「…ッ…るせッ」

 涙目で睨み付けながら上ずった息を吐くと、蒼牙はなんとも意地が悪そうに犬歯を覗かせてニヤリと笑いやがった。
 クッ!なんてヤツだ!

「昼間もそうだったな。本気で抵抗すると言いながら、最後は腰を摺り寄せていた…」

「…ッッ!るせーっつってんだろッ!…ヒッ…さわ…んなッ」

 ダイレクトに勃ち上がった息子を擦り上げられて、ビクッと震えた身体を縮めるようにしてその手淫から逃れようとする俺を、蒼牙の身体が押さえつけて思うように身動きが取れない。そのくせ、器用に動く指先が俺の息子をいいように弄んで、中指と親指で輪を作って扱かれてしまうと、もうその快感を覚えている身体から知らずに力が抜けてしまう。

「…ゃ、やだ!!やめ…ひぃ!」

 厭らしい音を立てて扱かれる雄の喜びに震える俺を、蒼牙はやっと手に入れた面白い玩具を壊さないようにと、この不遜を具現化したような男にしては珍しい態度でもって、最も屈辱的な方法で俺を屈服させようと企んでいるようだ。

「聞け。お前の零す淫液が俺の指を濡らして誘うように淫らな音を立てている。これでも俺を拒絶するのか?」

 わざと音を立てて扱く蒼牙を信じられないものでも見るような目付きで見上げた俺を、呉高木のご当主はニヤッと笑いながら見下ろして、グチュグチュと先走りを零す尿道口を人差し指で引っ掻いた。

「バッ!…あうッ…ヒ…な、これは…なんだ!?」

 動転して伸ばした指先は、現在俺を責め苛んでいる当の本人、呉高木蒼牙の胸元に行き当たり、堕ちてしまいそうな錯覚にその張本人である蒼牙に縋り付いてしまった。

「快楽に素直に溺れるといい。俺もセックスは好きだ。唯一、飽きない遊びだからな…」

 ふと、俺に少しかさついた唇を落としながら、蒼牙は感情の窺えない表情をした。
 ねっとりとした舌先に再び翻弄されながら、それでも俺は、この若干17歳の少年の心が読めなくて動揺してしまう。

「…ん!…フッ…ん…」

 口付けと言うにはあまりに濃厚なキスをしながら、蒼牙は俺の息子をそれこそこれでもかと言うほど弄り倒してくれる。そのくせ、あとちょっとでイきかけると意地悪するように根元を押さえちまうから、気持ちの上では何度だってイッてるのに身体は一滴も零せずにいる。そんな責め苦に追い討ちをかけるように、蒼牙の低い声音が厭らしく耳元を掠め、もう何がなんだか判らない状況に叩き落されて俺は泣きながら蒼牙に抱き付いていた。

「お願いだから!…も…ん、…イ、イかせて…くれッ」

 最初に言われたように、俺は身も世もなく泣きながら腰を摺り寄せていたけど、当の蒼牙は肩で荒々しく息を吐きながら男らしいキリリと釣り上がった双眸を細めて額に張り付く青みがかった白髪を掻き上げている。

「イかせてやってもいいが、それだと俺は面白くない。そうだな…」

 掻き上げた掌で熱に浮かされた俺の頬を包み込むと、太い親指で乱暴に半開きの唇を擦ってきた。

「咥えさせるのも面白そうだが、まあそれは後にとっておこう。挿れるギリギリのところを擦ってやる」

 クックッと悪人面で笑った蒼牙が、正直もう何を言ってるのか良く判らなかった。
 吐き出すべき部分を握って堰き止められている苦痛ってのは尋常じゃなくて、ダムが放流できずに貯水量を上回って決壊する…あの感じがまざまざと想像できたら狂いそうになった。

「な…んでも、い…から、はや、く…して…ッ」

「ふん、いい子だな。祝言までには自分から挿てくれと強請るぐらいには開発してやろう」

 俺の耳元に唇を寄せて囁きながら、もうそれだけでもイきそうになっているのに蒼牙のヤツは根元を握る指の力を抜いてくれずに、空いている方の手で器用にジーンズを脱がてしまうと、俺の腿を抱え上げるようにして腰を摺り寄せてきたんだ。
 着流しの肌蹴た前から狙いを定めるかのように、蒼牙の灼熱の砲台がゆっくりと露にされたひっそりと息衝く貞淑な蕾へと押し付けられた。ふるふると震えるその部分は、まだ花開かされていないから、余計に固くしっかりと窄んでいる。俺の先走りがたらたらと濡らしている蕾に、蒼牙の先端がまるでノックでもするかのように突いてきて、そのなんとも言えない刺激だけでも俺の身体はビクッと怯えたように竦んでしまった。
 そんな俺を宥めるように背中を擦ってくれていた蒼牙は、ふと、何を思ったのか俺の身体を反転させて腹這いにしたんだ。

「うん、矢張りこちらの方が具合がいいな」

「…へあ?…」

 ヘロヘロになりながら頬を枕に押し付けるようにしている俺に圧し掛かりながら、蒼牙は俺の腰を浮かせるようにして持ち上げると、ゆっくりと自らの灼熱の杭を震える蕾に押し付けて皺を伸ばすようにして擦り始めたんだ。その刺激は、今までに感じたことがない奇妙で鮮烈で、そして厭らしかった。
 頬を上気させて涙ぐむ俺の顔を覗き込みながら、判りきっているくせに蒼牙は頬に口付けながら囁くんだ。

「気持ちいいのか?」

 両目をギュッと閉じて首を左右に激しく振っても、いやもちろん、激しく振ったつもりなんだけど、実際には数センチ動いたぐらいの反抗的な態度に、まるで今すぐにでも挿れてしまうぞと言わんとばかりにグググ…ッと灼熱を押し付けられて、どうしても俺の口から『感じている』と言わせたい蒼牙の思惑にまんまと陥落してしまった俺は、切なく息を吐きながら微かに頷いてしまった。

「…きもち、いい…」

「イかせて欲しいか?」

 うんうんと何度も頷いて、男らしい蒼牙の痛いほどの眼差しを感じると、俺はポロポロと涙を頬に零しながら吐き出すように言ったんだ。
 もう、そのことしか頭の中に渦巻いていないから…
 しかも蒼牙に、両の尻たぶで挟まっている灼熱を揉みしだくように掴まれてしまうと、尚更その感情は膨れ上がる一方だ。

「い、イかせてくれ、蒼牙…も、俺…死にそう…」

「…ふん、はじめからそう言えばいいんだ」

 満足そうに呟いた蒼牙は俺を横抱きにすると片足を抱え上げるようにして股を開かせて、グイッと太くて硬い灼熱の杭で濡れそぼっている蕾を擦り上げながら並んだ果実を押し上げてくる。その潜り込まれてしまうかもしれないスリリングな感触に怯えながらも思い切り感じている俺の両手を掴んで、蒼牙のヤツは俺自身に息子を握らせたんだ。

「…あ?…ッ」

「当主に手扱きさせる気か?自分で扱いて、そのイく顔を俺に見せるんだ」

「~…ッ!大概ッ…やっぱヘン、タイだよ、お…前ッ」

 涙目で睨む俺に、額に汗を浮かべた蒼牙はその時、ここに来て初めて見る笑顔を浮かべたんだ。
 こんな状況でドキッと胸を高鳴らせている俺もどうかしているけど、こんな状況で会心の笑みを浮かべている蒼牙もどうかしていると思う。

「イきたくないのか?」

 クスクスと耳元で笑われて…

「うひ~」

 その息遣いだけでもイッちまいそうな俺としては、もうどうにでもなれ!と吐き捨てるような勢いで自分自身を扱き始めたんだ。その動きに合わせるように俺の濡れた蕾を厭らしい音を立てて擦る蒼牙の灼熱が速度を増して、襞に引っかかる先端の感触にブルッと震えながら濃厚で濃い白濁を吐き出すと、びくんびくんと痙攣する身体を抱き締めながら蒼牙は食い入るように俺の顔を見ていた。
 コイツ、本気で俺のイく顔をみるつもりだったのか!

「ッあ…はぁ…ぁ…ん…ん」

 涙を零しながら長く堰き止められていた苦痛から解放された余韻で震える俺の首筋に、まるで噛り付くようにキスをした蒼牙に抱えられるようにして長い溜め息を吐くと、首筋の快感に最後の一滴まで震える先端から吐き出してしまう。

「どーだ、俺とのセックスも満更嫌じゃないだろう?」

 ニヤニヤ笑いながら目尻の涙を唇で掬う蒼牙に囁かれて、こんな風に思い切り乱れてしまった俺としては、今更否定することもできないし、ましてや「良かったv」なんて言えるはずもないし…何も言えずに羞恥で顔を真っ赤にして布団を睨みつけていた。

「…まあ、いい。必ずアンタは俺のものになるんだ。せいぜい、今は抵抗するんだな」

 クックックッと咽喉の奥で笑った蒼牙は脱力してヘバッている俺の上に圧し掛かると、そのまま口付けながら布団を引き揚げやがった。ま、まさか…このまま寝るとか言うんじゃねーだろうな!?

「お、ちょ!蒼牙!!お前このまま寝るのかよ!!?」

「ん~?煩いヤツだな。疲れれば寝るだろうが」

 いや、ちょっと待て。
 そう言えば気持ちよ過ぎて気付かなかったけど、お前は?お前はイッてないんじゃないのか?
 それなのに寝るのか??
 …いや、蒼牙がイくってことは俺の想像を遥かに凌駕するナニをしなきゃいけないってことになるワケだから、イかないならイかないでいてくれた方が、俺にとっては助かることなんだろうな、やっぱり。
 そんなことよりも!俺のこの両手はどうすればいいんだよ!?

「煩いヤツだ!そこら辺で拭けばいいだろーがッ」

 覆い被さるようにして眠ろうとしていた蒼牙は寝付きが良いのか、もう半目になりながら苛々したようにシーツで俺の両手をゴシゴシと拭ってしまった。これで文句はないだろうと、この上ない底冷えのする目付きでジロッと睨んだ後、蒼牙は俺を抱きしめるようにして眠ってしまった。
 これぞ当にアンビリーバボー。
 翌日、桂に惨状を目撃されてしまった俺が、羞恥に身悶えるのはそれから間もなくのことだった。

第一話 花嫁に選ばれた男 3  -鬼哭の杜-

 呉高木蒼牙との初対面を唐突にしてしまった俺は、できれば関わり合いたくないタイプだと瞬時に悟ってしまっていた。でも、蒼牙の方はそうじゃなかったらしく、上機嫌で鼻歌なんか口ずさみながら俺の手を取って山の中を気侭に散歩している…そう!俺たちはあのまま別れたんじゃなくて、半ば強引に腕を掴まれて勝手に散歩に付き合わされてるんだ!!
 ブスッと思い切り不機嫌なツラをしてるってのに、それとは対照的に蒼牙の表情は極めて明るい。
 思い切りノロノロと歩いている…ってワケじゃない。山道に草履はやっぱちょっと辛くてさ、歩き慣れている蒼牙の速度に追い付けるわけもないし、引っ張られてるに任せているってのもどうかしてるのかもしれないけど。

「見ろ」

 不意に立ち止まった蒼牙に声をかけられて、俺はもうちょっとですっ転ぶところだった。
 しかもコイツ、ちょっとだとかなんだとか、声をかける前の予備みたいな言動は全くなくて、唐突に「見ろ」だからな。なんて言う横柄さなんだ!
 これもやっぱり、本家の当主ともなると我侭放題ってことなのか?いや、ますますムカツクなコイツ。
 立ち止まると同時に腕を引っ張られたおかげであわや転びそうになったところを、蒼牙の広い背中に鼻をぶつけながら受け止められる形で助かった俺は、こちらを振り返りもしない本家の御当主様の横顔をムゥッと眉を寄せて睨んでやった。

「綺麗なところだろ?」

 俺の気分や感情なんかはまるで無視して言うだけ言った蒼牙にますますムカツキながら、それでも指差された場所を見てビックリしてしまった。
 明らかに人工物だと判るのは架けられた石造りの小さな橋だけで、横たわる清流は眩しい緑と苔生した岩肌を覗かせる岩に囲まれて滾々と水を湛えて流れている。今までムカツイてばかりいて気付かなかったけど、もう随分と夕暮れになった日差しはそれでもまだ高くて、キラキラと葉に夕日を反射させながら、奥入瀬の清流をコンパクトにしたような小川が涼しげに流れている様子は、それだけでも涼しい気分になるんだけど、実際にあんなに掻いていた汗はサッと引いてしまった。
 ああ、本当だ。

「綺麗だ…」

「雨量の多い梅雨時はここには来られないがな、この時期は一番の清涼スポットさ」

 言うだけ言うと、もうちょっとこの場所で涼んでいたい俺の気持ちなんかお構いなしに、蒼牙は俺の腕を引っ張ってそのまままた歩き出してしまったんだ。
 いやもう、俺帰りたいんだけど…
 流石に当初、俺だってギャアギャアと反発したんだけど、コイツはどう言った強靭な神経の持ち主なのか、いやたぶん、心臓に剛毛でも生えているんだろう、我が道を行く精神でもって俺の言い分なんかまるで聞きもせずに今に至っているというワケだ。
 だから俺がガックリと項垂れて、最早反論もできないでいる状況でも仕方ないって判って貰えるはずだ。
 全く、なんてヤツだ。
 ブツブツ呟きながら腕を引かれるままに歩いていると、また唐突にピタリと足が止まって、相変わらずグイッと腕を引っ張られて転びそうになる。
 その背中に何度目か鼻をぶつけて、コイツいつか絶対ぶん殴ってやると決意を固めて睨み付けようとしたけど、まさかこっちを見下ろしてるなんて思ってもいなかったから不覚にもドキッとしてしまった。
 夕暮れの日差しを背にした表情は上手く読み取れないが、その光の加減によっては青っぽく見える意志の強そうな意地悪そうな黒い双眸だけはハッキリと見えるから、余計に弱気な心臓が跳ね上がっちまったんだろう。

「な、なんだよ?」

 それでも意地になってムッとした顔をしたままで睨み付けたら、蒼牙はちょっと頬の緊張を緩めたようで、なんだ、コイツも少しは緊張とか人間らしい感情を持っていたのか。

「覚えてもいないんだろうな、この場所で俺たちが出会ったことを」

「へ、そうだったか?」

 不意に思ってもいなかった台詞を言われて、俺は左手にある小さな白い花が絨毯のように敷き詰められた空間を見ながら首を傾げてしまった。いや、ハッキリ言ってスッカリ忘れちまってたからな。

「…俺には大事な場所だったんだ。そこにアンタが来たのさ」

 なるほど、蒼牙にとって大切な場所を、当時の俺はズカズカと踏み込んで荒らしちまった。それにムカツイて今回のような嫌がらせを始めたってワケか。
 なるほど、それで合点がいったぞ。

「よし判った。俺が悪かった!だからもう、こんな悪ふざけは止めにして俺を家に帰らせてくれないか?」

 この通り、頭は何度だって下げてやる。
 まだ子供の頃のことなんだから、これぐらいで許してくれよ…って、自分よりも年下の男にプライド捨てて頭下げてるんだから、いい加減許してくれねーかな?
 頭を上げた後、恐る恐る蒼牙の顔を見上げたら、ヤツはまるで17歳には見えないほど大人っぽい表情をしてシニカルに笑ってやがるんだ。
 う、なんだ?

「矢張り覚えてないんだな。まあ、それでも構わんが…」

「覚えてないって?俺は…わわ!?」

 そりゃ確かに綺麗サッパリ何も覚えちゃいないが、それよりもどうして俺は今、蒼牙に突き飛ばされてあの白い小さな花が可憐に敷き詰められた場所に背中から仰向けに倒れなきゃいかんのだ!?

「イテッ!」

 フワッと白い花弁を散らして咲き誇る花を押し潰しながら、抵抗する間もなく俺が倒れ込むと、思った以上の素早い動作で蒼牙はそんな俺に覆い被さってきたんだ。

「あわわわ…」

「ふん、面白いヤツだ。さあ、本気の抵抗とやらを見せてみろ。さもないと今日、この場所でアンタの純潔を奪うことになるぞ」

 それでなくてもどんな顔をしていいのか判らない俺は、両手を顔の横で押さえ付けるようにして組み敷かれた状態で、そんな恐ろしい台詞を吐かれてしまってますますどうしていいのか判らなくて、酸欠の金魚みたいに口をパクパクさせてしまう。
 いや、もちろん。
 こんなのは性質の悪い冗談だよ…な?
 恐らく、とんでもない形相で真上にある蒼牙の青味がかった不思議な瞳を見詰めながら、蒼褪めた俺は動き辛い首を必死で左右に振っていた。
 蒼牙はそんな俺の双眸を覗き込んで、眉を上げると同時に肩を竦めながら言いやがる。

「そんな哀れそうな目をするな。抵抗とやらを見てみたいだけかもしれないんだぜ?そら、必死で逃げてみな」

「ちょちょッ…ちょっと待て!お前はッ!なんでそ…んなことッ…ばっか、…言うんだ!?」

 首筋に顔を埋めてキスしながら鎖骨に舌を這わせる蒼牙の悪戯を避けながら、必死で暴れる俺の声は変な風に跳ね上がったり、舌が縺れたり、自分自身ちゃんと言葉になっているのか判らないほど動揺して抵抗しまくった。でも、蒼牙にしてみたらそんな都会育ちの抵抗はどこ吹く風なのか、思う以上に強い力で捩じ伏せながら暴れる俺の口を少しかさついた唇で塞いできたんだ!

「…んぅ!…ッ」

 乱暴に歯列を割り開いて口付けながら、蒼牙の指先は実に巧みに浴衣の胸元から忍び込んで、何が面白いのか俺の乳首を抓んできたんだ。口が自由に使えるんだったら、今頃俺はふき出して信じられないものでも見るような目付きで蒼牙を見ていたに違いない。
 いや、現時点では両目をこれ以上はないぐらいに見開いて、その間近にありすぎて霞んでいる蒼牙の顔を両目を見開いて凝視してはいるが…
 おい、お前。
 一体何をしてるんだ!?

「んー!んー!んー!」

 口唇を塞がれたままで自由になった片手で胸を悪戯する腕を引き剥がそうと試みるが、そうかその前に、まずはこの気持ち悪いぐらい蠢いている舌を口から引き抜かないとダメなんだ。
 そう考えて、どちらにしろ無謀な行為だったんだろうけど、俺は胸元の掌をそのままに、
蒼牙の額に自由になっている片手を当てて引き剥がそうとした、が!これが易々とは離れてくれなくて…と言うか、蒼牙がその気でもならない限り、どうもこの他人の口腔内を我が物顔で這い回っている舌を引き抜くことは到底出来そうもない。
 さあ、困ったぞ。
 巧みな舌先が俺の舌に絡み付いては軽く吸われ、それでなくても酸欠でクラクラする頭は熱を持ったようにボゥッとしてしまう。ああ、いかん。このままでは思考回路が停止して、あのおぞましい台詞の通り俺の貞操が奪われちまう。

「…ゃ、めろッ!この変態!!」

 漸く渾身の力を込めて唇をもぎ離した俺は、諦めずに顔中にキスを落とす若干17歳とはとても思えない呉高木蒼牙の顔を簸た睨みに睨みつけて声を上げていた。
 もう殆ど条件反射だったと思う。
 男にキスされて胸を這い回る掌に乳首を擦られたりして、それでなくても猛烈な羞恥心に苛まされてるんだ。何か言ってないとどうにかなりそうだ。

「変態だと?ふん、面白いことを言うな。じゃあこうしたら、アンタはなんと言うんだ?」

 顔を起こした蒼牙はふと小憎たらしい笑みを浮かべて、いきなり俺のトランクスを引き下ろしやがったんだ!

「!?」

 呆気に取られていると半勃ちになっている俺の息子を扱き始めるから、思わずクラクラと眩暈がした。これはたぶん、きっと暑さなんかのせいじゃない。そんなに弱い性格だとは思っていなかったんだが、どうも俺は、この非常事態に思考回路が追いついていけそうにないようだ。
 そんな風に戸惑っている間に、男ってのはかなり悲しい生き物で、本能に従って立ち上がった息子はもっと激しい刺激を強請るように先走りの涙をボロボロと零し始めた。
 ああ、お願いだから勘弁してくれ。
 こんなのは悪い夢だと言って、誰か俺の頬を引っ叩いて目を覚まさせてくれないかな…?
 そんな馬鹿らしいことを考えているもんだから、集中力が疎かになって蒼牙の手淫に喜ぶ息子がますます涙を零す羽目になっちまう。

「…ッ、ぁ…やめ、そう…が!…やめて、くれ!」

 最近、自分で弄るのも忘れていた俺の息子は、他人から与えられる初めての快楽に歓喜して、易々とその手に堕ちていく。ダメだと知りながら甘美な快感は、俺の思考回路の奥にある本能をドロリと溶かしてしまって、悲鳴のような声を上げながらも腰は強請るようにはしたなく動いている。
 なんだ、これは…俺はどうなっちまったんだ!?

「ここをこんなにして止めて欲しいのか?肛門までぐっしょり濡れてるぜ?」

 ピンッと指先で弾かれただけでもイキそうなのに、そんな風に耳元で囁かれて尻の穴に指先を咥えさせられたりしたら俺は…俺は。
 羞恥心で顔が真っ赤になるじゃねーか!

「んなことッ…す…から!…ヘ…ッタイ…なんじゃねーか!!」

 顔を真っ赤にして快楽の波に押し流されないように必死に理性に縋り付きながら蒼牙を睨んでいると、呉高木の現当主様はニヤッと形の良い口角を釣り上げて笑うと、有無も言わせずに俺の片足を抱え上げやがったんだ。

「うひ~」

 そんなあられもない姿にされて、なんで俺がこんな目に遭わなきゃいかんのだと思わず泣きそうになってしまったが、蒼牙の次の行動で一気に頭から冷水を浴びせられたように浮かされていた熱が足許まで下がってしまう。
 思わず目を見開いて蒼牙の、あの珍しい青みがかった黒い双眸を覗き込みながらその表情に答えを探そうとする俺を、呉高木の当主は何が可笑しいのか咽喉の奥で笑いながら覆い被さってきたんだ。
 その瞬間、本来なら出す行為にしか使用しない小さな窄まった器官に押し当てられていた、熱い鉄の棒を柔らかなゴムか何かで包んだような物体の先端がグッと押し入ってきた。
 全てを咥え込むには狭すぎて、先走りの滑りだけではどうしようもない太い杭の衝撃に、ギチギチと悲鳴を上げる小さな器官の痛みはダイレクトに脳天を貫いてくる。

「…ッ!ぅあ!…あ、ああッ」

 やめてくれ!と叫びたくても声にならない悲鳴を飲み込んで、生理的に浮き上がる涙を頬に零しながら、噴出す汗に全身ぐっしょりと濡れていく錯覚を感じて俺は、思わず蒼牙の着流しの胸元を掴み掛かっていた。
 できたら殴らせてくれ。

「…んの野郎!な、に考えてんだッ!抜け!早く、抜けよッ」

 痛みのせいか、額に嫌な汗がビッシリと浮かんで、尻に同じ男の逸物の先端部分を咥え込んでいるなんとも情けない姿だったが、そんなこと気にしている余裕なんかあるか!
 蒼牙の方も激しい俺の締め付けに、それ以上進むこともできずにどうやら躊躇しているようだ。
 判ったから、抜け。

「抜け?ここまで来た男が素直にはい、そうですかと言って抜くとでも思っているのか?お目出度いヤツだな」

 お前にだけは言われたくない。

「ぁ!…ひぃ」

 ほんの少し腰を押し進められて、俺はか細い悲鳴を上げてしまう。
 こんな凶悪な圧迫感を全て飲み込まされたら、多分俺の尻は裂けちまうだろう。そんな恐怖心が余計に俺を駆り立てて、締め上げるはずの胸元を掴んだ拳は力なく開いて、それでも必死にその身体を押し遣ろうと格闘している。
 肩に担ぎ上げられた足とは反対の足首を掴まれて、もうどんな格好をしているのかもどんな体勢になっているのかも判らない俺は、半分以上泣きながら蒼牙の胸元をメチャメチャに叩いていた。
 23にもなる大の男が、17歳の男に組み敷かれて泣いている図なんてのは…大事な場所を荒らしたヤツへの制裁にしてはスマートで滑稽で、楽しいじゃねーか。こん畜生ッ!

「…ぅ、…あぅ!…あぁッ…ひッ」

 強引に身体を押し進めてくる蒼牙のその気迫にとうとう根負けした俺は、襲ってくるだろう激しい痛みを予想して諦めたように歯を食い縛った。息子なんか萎えちまって、縮こまっている。
 先端を咥えさせられただけでこの痛みなんだ、その先を予想しただけでも…気絶しそうだ。
 悲惨な気持ちなんかまるで無視したお構い無しの、問答無用でグググ…ッと、蒼牙の持つ凶悪な灼熱の兇器が俺の胎内に潜り込もうと狭い器官を切り裂きながら押し入って来ようとしたまさにその時だった。俺と蒼牙の荒々しい息遣いと鳥の声、山に吹く風の音しかしない空間に、俺を救う低い声が静かに響き渡ったんだ。

「蒼牙様、お止めください」

 山に静かに響いた声音はこんな姿の俺たちを見ても、全く動揺すらしていないように淡々としている。それでも蒼牙には何か感じるところがあったのか、小さく舌打ちして上体を起こした。俺の胎内に少しだけ納まっている先端は、親切にも引き抜こうとしてはくれないがな。
クソッ!

「桂か。見て判らないのか?俺はお楽しみの最中だ」

 苦しそうに喘ぐ俺をチラッと一瞥しただけで、それでも顔色一つ変えようとしない黒スーツを着こなしている桂は、目蓋を伏せるようにして目礼してそんな蒼牙に毅然とした声音で言った。

「蒼牙様、まだ祝言を挙げてはおられません。どうぞ、楡崎様をお放しくださいませ」

「嫌だね。これは俺の花嫁だ。好きなときに純潔を奪って何が悪い?」

「どうぞ、蒼牙様。楡崎様をお放しくださいませ。祝言を挙げられる前に純潔を奪われた者は花嫁になる資格をも失ってしまわれます。花嫁候補はまだ2人もいらっしゃいます。楡崎様を妾とされるのなら何も申し上げませんが。ご判断を、蒼牙様」

 ニヤッと笑って血の気の失せた俺の手を掴んで唇を寄せる蒼牙に、桂は無表情のままで言葉を重ねる。その態度が気に喰わないのか、蒼牙はまるで駄々っ子のように唇を尖らせた。

「2人の花嫁候補など俺は知らん。花嫁は光太郎だけでいいと言っただろうが」

「蒼牙様」

 低い声音は独裁者の魂をも震え上がらせるのか、一瞬そんな錯覚をした俺の目の前で、蒼牙は派手に舌打ちしてわざと乱暴に俺の胎内から灼熱の兇器を引き抜いたんだ。

「…ぁうッ」

 ビリッと痛みが走って思わず声を上げる俺を見下ろした蒼牙は、わざわざこの山道を俺たちを追ってきてくれたのか、それとも監視でもしていたのか、いずれにせよ目の前にひっそりと佇んでいる桂に向かって素っ気無く言い放った。

「光太郎を介抱してやれ。俺は先に戻っている」

「畏まりました、蒼牙様」

 それでも然程怒っているようには見えない様子で立ち上がった蒼牙は、軽く身支度を整えてから恭しく頭を垂れる桂と、だらしなく浴衣の胸元と裾を肌蹴た、まさに犯されそうになった姿で呆然としている俺を無視してサッサと歩いて行ってしまった。
 呆気に取られて見送る俺の傍らに、音もなく近付いてきた桂はニコリともせずに。

「では楡崎様。肛門の手当てを致しましょう」

 悶絶死してしまいそうな台詞をさらりと言って、俺の片足を掴んだりするからぶっ倒れそうになっちまった。
 主が主なら従者も従者だ。
 波乱の幕開けは、蒼褪めた俺の悲鳴から始まった。

 結局、治療らしい治療なんかせずに、と言うか、治療らしい治療なんかさせてやらずに、って言うか結局は未遂で終わったんだから本当は何事もなかったんだけど、それでも挿入されそうになったと言う衝撃で足が萎えてしまった俺は恥ずかしくも桂におんぶしてもらって山を下りることになったんだ。

「桂さん、すみません…」

 蚊の鳴くような、消え入りそうな声で詫びを入れると、この暑さで黒スーツなのに額に汗も掻かずに涼やかな相貌をした桂は、なんでもないことのように首を左右に振って背中で縮こまる俺を元気付けてくれたんだと思う。いや、何も言ってくれないから判らないんだけどな。
 ペラペラと何かを喋られても、今は嫌な気分になるだけだからそれはそれでいいんだけど。

「…花嫁候補は俺以外にもいるんですね」

 それでも、俺にとっては願ってもないことだったから、どうしてもそのことだけは聞いておこうと背中越しに桂に言ってみた。寡黙な男だから必要なこと以外は主に忠実で喋らないかもしれないけど、聞いておく価値はあるはずだ。喋ってくれればの話なんだがな。

「先々代の弟君のお孫様と、楡崎様のように分家の方がいらっしゃいます。私は楡崎様のお世話をするお役目を申し付かっておりますので、どうぞ、ご不満などございましたらお申し付けくださいませ」

「不満なんてないけど…強いて言えば、家に帰りたいかな」

 はははっと笑ってみたけど、それに対する桂の返事なんか期待していなかった。どうせ、何か言ったところでこの人は、ただ黙っている壁のように聞き流すんだろうから。

「私は蒼牙様の花嫁は、御当主自らがお選びになった楡崎様を置いて他にはいないと確信致しております。数多の思惑を抱えたご息女様方はお持て成し致しますが、あくまでもお客様でございます。この屋敷の奥方様は楡崎様でございますので、どうぞ、毅然とした態度でいらっしゃってくださいませ…申し訳ございません。差し出がましいことを申し上げてしまいました、どうぞお聞き流しくださいませ」

 驚くことに、桂は黙ってはいなかった。
 それどころか、蒼牙の花嫁は俺しかいないなんて言う恐ろしい発言を熱っぽく語ってくれたりするから、なまじ顔が見えない分、この人にも感情らしいものがあるのかとホッとしつつも、やっぱり屋敷の部屋で感じたように畏まって言われてしまうと今更、そのご息女様たちと喜んで代わっても構いませんが?とか言えなくなってしまう。

「…でも、一体誰が花嫁を決めるんだ?」

「蒼牙様ご本人でございます」

 思わず桂の背中で気を失いそうになった俺は、しっかりしろ!と自分を叱咤して気を取り直した。
 蒼牙本人って…じゃあ、花嫁候補なんか要らないんじゃ…
 そもそも蒼牙は、ほぼ無理矢理わざわざ楡崎の家から男である俺を花嫁候補に仕立て上げたんだ、さっきも俺だけでいいとか言ってたし、恐ろしいことに結果なんか目に見えてるんじゃないのか?
 いやでも待てよ、そうは言っても本当の本命は祖父の弟の孫娘とかで、俺は嫌がらせにその女の子たちの間に恥を掻かせるためだけに呼び寄せた、と言われてもおかしくないからなぁ…うーん。

「蒼牙…様はその、変わってるな。俺は男なのに花嫁にするだとか…」

「変わってなどおられませんよ。蒼牙様は、貴方様が十三夜祭りの巫女装束をお召しになっている姿を見て想いを寄せられたのでございます」

 十三夜祭りか、そう言えば昔、この村の行事だとかで誰かが倒れて代打したことがあったっけ?女の服なんか着たくないと駄々を捏ねて、親父に拳骨食らって耳を引っ張って連れてこられたんだったな。
 はぁ、思い出したくもない昔話だ。
 確か十三夜祭りは巫女と鬼の悲恋を物語る踊りを踊るんだ。
 なんか内容とか良く判らんし、殆ど遣っ付けで踊ったんだけど蒼牙はどこにいたんだ?
 まあ、大方お偉い御当主だ、上座とかに座って高見の見物でも決め込んでいたんだろう。

「はぁ…もしかしたら桂さんたちにとってはなんでもないことなのかもしれないけど、男である俺にとっては今回の件は、充分過ぎるぐらい度肝を抜かれたんだよね」

 どうせ、単なる愚痴ですよ。
 そんなの言ったところで、もうここまできたら諦めるしかないんだろうけど…恥を掻いて終わるんなら、まあ話は別だけどさ。
 あんな、あんな行為を本気でしたいなんて蒼牙が思っていると考えるぐらいなら、男のクセにノコノコとこんなところまで来て花嫁面するなんて恥ずかしいヤツだ、とでも言われてサッサと追い出された方がまだ100万倍もマシってもんだ。
 充分すぎるぐらい興奮していた蒼牙の灼熱の兇器が、グリッと潜り込んできた瞬間のあの感触を思い出してゾッとしちまった。
 まだヒリヒリと痛む小さな器官がその感触を思い出したのか、ひくんと震えて窄まった。
 あわわ、何を考えているんだ俺よ!

「正直、私も驚きました」

 不意に、この村で桂に出会って初めて、この人が笑う声を聞いた。
 表情までは見えなかったけど、それでも、微かには笑っていただろうと思う。
 次の瞬間にはもう元の桂に戻っていて、「申し訳ありません」と耳に心地好いあの低い声で呟いたんだ。
 俺はなぜかもっとこの人と話していたいと思って、いや、多分こんなところで散々酷い目に遭って、唯一助けてくれた桂を親のように慕う心が芽生えていたって言った方がしっくり来る感情で、肩の力を抜いて話しかけたんだ。
 それに、誰かと話していた方が、心に焼き付いちまった衝撃が少しでも楽になるような気もするしな。
 俺、こんな女々しいヤツじゃなかったんだけどなぁ…

「桂さんでも驚くんだな」

 俺が別に気にしていないように軽く笑って聞いたからか、自分の発言に感情を害していないと察知した桂は、幾分かホッとしたようにポツポツと話してくれた。
 それは、あんな風に蒼牙の花嫁は俺しかいない!と熱っぽく語るんじゃなくて、淡々と、それでもただの世間話のような気安さで、本来寡黙な人なんだろうと思わせるような口の重たさで、でも聞いていて嫌じゃない会話だったと思う。

「ご幼少の砌よりお世話させて頂いていた蒼牙様が、12歳になられたばかりのある日、先々代に仰られました。花嫁を見つけたと」

 12歳でいきなり花嫁を見つけたとか言われた爺ちゃんは、一体どんな思いで孫の顔を見たんだろうな…

「先々代は驚かれたようでしたが、本家の後継者とあれば御自分の伴侶を見つけるのは当たり前のことだと、大変喜んでおられました」

 ああ、そうか。やっぱ喜ぶのがこの村じゃ普通なのか。
 普通の生活をしている俺たちみたいな一般ピープルだと、12歳で結婚だなんだと言っていたら早すぎるとか言って拳骨の一発ぐらいお見舞いされるんだろうけどな。いや、今は違うな。幼稚園児ですら将来を約束し合う世の中だ、その点で言ったら蒼牙は最先端だったと言うワケか。ふーん。

「そのお相手をお尋ねになったところ、楡崎家の光太郎様だと仰られて、さすがに先々代もお言葉がありませんでした。畏れ多くも、この私めも同席を許されておりましたのでその場にいたのでございますが、驚いてしまいました」

 遠い日を懐かしむように呟いた桂さんに、俺はそりゃあ爺ちゃんもぶっ魂消て寿命が10年は縮まっただろうなと言いそうになって、慌てて言葉を飲み込んだ。
 この村は呉高木家こそ神なんだ、下手なこと言ったら殺されるかもしれない。

「後日先々代はこう仰られておりました。寿命が十年は縮まってしまったと」

 それを聞いて思わず俺は吹き出しちまった。
 そっか、蒼牙の爺ちゃんも俺と同じようなことを考えちまったってワケか。
 まあ、当たり前と言えば当たり前なんだろうけど。

「それで、よく先々代が許したな」

「はい。蒼牙様のご意思は強く、その分、その意思表示として先々代とお約束された文武両道をお貫きになられました。そうされますと先々代も頑なに拒むわけにもゆかれず、ご承知致したのでございます」

「認めちゃったのか!?…まるでアンビリバボーな話だ」

 言葉とは裏腹にガックリ項垂れそうになる俺に、桂はふと、それでなくても低い声をもっと潜めて、まるで眉間に皺でも寄せている表情が浮かんできそうな声音で言葉を続けたんだ。

「ですが、先代の直哉様がご反対されまして、蒼牙様の花嫁候補にと先々代の弟君のお孫様と分家の大木田家のご息女様とのお話を進めてしまわれたのでございます。それにご立腹された蒼牙様が、早々に楡崎家へ養子縁組を申し出られたのでございます」

 なるほど、グッジョブ狸親父!…ってことかな?
 俺が溜め息を吐いてそうだったのかと呟くと、何を勘違いしたのか、桂は「とんでもございません」と、いきなり静かではあるが強い口調で言い返してきたんだ。

「蒼牙様の花嫁様は楡崎様以外にはおられません。どうぞ、弱気になられずに凛といらっしゃってくださいませ」

「いや、そう言う意味じゃないんだけどね…」

 それ以上話すとまた、蒼牙の花嫁は云々と話がヤバイ方向に続きそうだったから、俺はそれを曖昧に受け流して黙ることにした。だってこの桂と言う人は、黙っていても別に気にならない空気のような人だからな。
 ただ、悶々と考えていたんだ。
 狸親父が招待する息女たちがどんな女で、どういう風にしたらソイツらに蒼牙を押し付けることができるのか…だってさ、あんな話を聞いたからには、どうしても俺はこの呉高木家の嫁にならないといけなくなりそうじゃないか?
 そんなのは嫌だ。
 俺は男なんだ。
 養子ならまだしも、花嫁として迎えられ、蒼牙と毎晩あんなコトをしないといけなくなるんだぞ。
 花嫁とはそう言う意味だ。
 俺は桂の背中に負われると言う恥ずかしい格好のままで、下唇を噛み締めて考えていた。