第一話 花嫁に選ばれた男 2  -鬼哭の杜-

 高い日差しが少し傾斜してきた庭には、竹箒を持った、こんな純和風の田舎の村には恐ろしく不似合いの黒スーツを着た男が、寡黙そうな真一文字の唇を引き締めて黙々と広過ぎる庭を掃いている。
 子供の頃、暗い影にはいつも何かが蹲っているような、見たこともない何かが潜んでいるような気がして怖かった。特に田舎の祖母の家に夏休みに訪れた時なんかは、どこか黴臭い部屋の片隅にはきっと何かが棲みついているに違いないとか思ったもんだ。
 そんな祖母の家を思い起こすような広い日本家屋はだだっ広くて、不意にあの頃の記憶を思い出して無意識のうちに背筋がゾッとしてしまった。

「これは…眞琴様。そちらの方はもしや…」

 寡黙そうな黒スーツの男は忙しなく掃いている手を休めて、低いくせに良く通る声音で控え目に話し掛けてきた。

「そうですわよ、桂。粗相のないようにね」

 桂、と呼ばれた男は伏し目がちの切れ長の目で探るように俺を見て、恭しく頭を垂れて呟くように言った。

「遠路遥々とお疲れ様でございました」

「蒼牙さんはいらっしゃいますの?」

 眞琴さんが礼儀正しく挨拶する桂の言葉を遮って尋ねても、この寡黙そうな男は怪訝そうな顔もせずに、もちろん不愉快そうな顔も、と言うか、表情そのものがまるでないような無表情で応えている。

「本日は全ての日程をお休みされて、今はごゆるりと自室にて休まれております」

「そう、安心しましたわ。いつもまるで風のように姿をお隠しあそばすから、またどこぞに行かれたのかと心配しておりましたのよ」

 コロコロと鈴が転がるような笑い声を上げる眞琴さんとただ黙って立っている黒尽くめの男、2人の会話があまりにも空々しくて、どうしてだろう俺は、どこかうそ寒さを覚えていた。
 ここから、この場所から一刻も早く立ち去りたいと思うなんて…どうかしてる。
 たぶんきっと、この暑さがいけないんだろう。
 こんなに、こめかみから流れる汗が頬を伝って顎から零れ落ちてるってのに、気温にまるで左右されることがないような、2人の和服姿と黒尽くめのスーツ姿があまりにもアンバランスで、まるでそこだけが別世界のような違和感を覚えてしまったせいなんだろう。

「お待ちかねの花嫁様ですものね、早くお連れしないと怒られてしまいますわ」

 クスクスと、真っ赤な唇を嫣然とした笑みの形に歪めた眞琴さんは、傍らから俺の荷物を持ってくれた桂が控え目に数歩下がるのを見つめながら、そのくせどこか不満そうな表情を浮かべて俺を促しながら歩き出した。
 肩のところでキチンと摘み揃えられた緑がかった綺麗な黒髪は、流行の髪型と違って凛とした潔さのようなものがあった。確かに俺も、友人どもからウザがられるような癖のない黒髪だけど、まるで夜の闇のような眞琴さんの髪の色とはハッキリと違っているなと思ったんだ。
 男と女の違いなのか、生活習慣の違いなのか…いずれにせよ俺も彼女も、髪を染める行為を嫌ってる点では意見が合いそうだなーとか、殆ど空ろにそんなどうでもいいことを考えていた。
 これから会う、蒼牙と言う名の呉高木のご当主が、果たしてどんな男なのか俺は知らないし、想像すらもできないでいる。
 でもきっと、いつかどこかで会っていたんだろう。
 相手は俺を知っていた。
 俺はヤツに何かしたんだろうか…何かして、金持ちに良くある好奇心、もしくは恨みのようなもので俺に何らかの仕返しをしてやろうと考えたんじゃないのかな。
 さもなきゃこんな、莫大な借金をチャラにしてまでも俺を花嫁にしようなんて下らないことを考え出したりしないだろう。男としては最大の侮辱だしな。
 花嫁なんて、今更ながらだけど、やっぱどうかしてるとしか考えられん。
 まあ、そんな侮辱的な名目で俺を縛りつけようと考えているような男のことだ、陰気でくらーいヤツに違いないだろうよ。祖父に犯され、血の繋がらない養父に犯されながら、やっぱり血の繋がらない、ましてや養父が連れ込んだ愛人との不気味な生活環境なんだ、異常な精神状態からおかしな性格になってたって仕方ねぇんだろうけどな。
 それを理解して判ってやれるほど俺だって出来た人間なんかじゃないんだ、今は怒りとかそんなものよりも、この先どうして生活していけばいいのか、そのことを考える方が慢性的な頭痛に拍車をかけて嫌気がさしてくるってもんだ。
 ああ、帰りたい…なんて思ったら、母さんはまた泣くんだろうか。
 呉高木の家には数年に一度は来たことがあるし、先々代の顔も知っていた。
 ただ、ここ数年は忙しくて親父たちについてここを訪れることはなかったし、気付けば何時の間にか当主が2人も代わっている始末だ。だからと言って、ずっと現当主がいなかったってワケではけしてないし、俺はきっと一度は会っているはずだ。
 思い出せないのはソイツが大人しい子だったのか、はたまた遠い分家如きの息子などには会わせてくれなかったのか、どちらにしても俺には呉高木蒼牙の記憶はない。
 でも、どうして蒼牙は俺のことを知っているんだろう。
 何処で会った?
 俺はお前に何をした?
 俺の預かり知らないところで、1人の人間の感情が動いているってのはどうも気持ちのいいもんじゃねーな。しかも、その理由や原因を俺は知らないときてる。
 正直、ただのとばっちりなんじゃないかと考えている辺りは、俺もまだまだってことなんだろうけどな。

「蒼牙さん?いらっしゃいますの?」

 良く磨かれた長い廊下を歩いて、一番奥まったところにあるのがこの館の当主たる呉高木蒼牙その人の部屋なんだろう。
 眞琴さんの声にビクッとして、俺は唐突に物思いに耽っていた思考回路が醒めるのを感じた。
 そうだ、この異様な佇まいに翻弄されて怯えてたけど、良く考えてみれば本人に直接、直談判してみればいいんじゃねーか。話してみて、理解してもらえれば晴れて家に帰れるってワケだし、まさか自分の勘違いからこんなことを仕出かしたからって、今更借金チャラはありませんでしたなんか言うワケもないだろうしな。なんせ相手は超が付く大金持ちなんだ、たかが数百万なんか痛くも痒くもないだろうよ。
 そう、たかが数百万なんかな…
 だんだん暗くなる思考回路を叱咤して、俺は覚悟を決めて呉高木蒼牙に真正面から挑むことを腹に決めて居住まいを正した…んだけど、どうも眞琴さんの様子がおかしい。
 どうしたって言うんだ?

「蒼牙さん?…おかしいですわね、返事がありませんわ」

「って、中で倒れてるんじゃないのか?!」

 思わず語尾が強くなったのは、予め腹を括っていたせいで力が入り過ぎてしまったからだ。
 でも、眞琴さんはそんな俺なんか気にした風もなく、溜め息を吐いて首を左右に振ったんだ。

「いけませんわ、蒼牙さんたら。今日は大切な花嫁様がいらっしゃる日だと言うのに、またどこぞへと行かれてしまったのだわ」

 どこぞにって…どこかに行ったってことか?

「致し方ありませんわね。光太郎さん、申し訳ありませんが、本日のご挨拶は夜になりそうですわ。その間はどうぞ、ごゆっくりなすって」

 そう言って眞琴さんは俺を促して立ち上がると、広い屋敷の中にある別室に案内してくれた。案内してくれただけで、それ以上は用もないとばかりにさっさと立ち去ってしまった。
 取り残された俺は…さて、どうするかな?

「楡崎様、お荷物はこちらに置いて宜しいですか?」

 不意に背後から声をかけられ、その時になって漸く俺は、そこに桂が立っていることに気付いた。
 うわ、この人は気配もしないのか??
 …いや、違うな。都会の毒気に晒されて、無意識のうちに無視していたんだろう。そうでも思い込まないと、バクバクする心臓を落ち着けることができない。

「あ、ああ。重いのに、ごめん」

 慌てて受け取ろうとすると、桂は酷く優雅な仕種で俺の手を止めると、無表情の面をしたまま首を微かに左右に振って見せたんだ。

「とんでもございません、楡崎様。お心遣い痛み入ります」

 荷物を部屋の隅に置いた桂は深々と頭を下げると、寡黙な仕種で立っている。
 えーっと、こう言う場合はどうしたらいいんだ?
 チップか??

「えーっと、ありがとう桂さん。それから…」

 財布はバッグに入ったまんまだったから、俺が荷物に近付こうとしたその時、桂はバリトンの耳に心地よい声音で言うんだ。

「楡崎様。蒼牙様は気紛れな方ではございますが、どうぞ末永くお傍に居られてくださいませ」

「へ?…あ、ああ、うん。できるだけ努力はするよ」

 そんな風に畏まって言われてしまうと、実はこれから直談判するんです、とはさすがに言えなくなっちまった。それに、汗一つ掻いていない桂の無表情が、ほんの少し、たまたまジッと見ていたから気付いただけなんだけど、ホッとしたような表情をしたからだ。
 桂はそれだけが言いたかったのか、頭を深々と下げるとそのまま部屋を後にしようとした。

「?」

 しようとして、ふと立ち止まると、俺に向かって恐らく営業用なんだろう笑顔を浮かべて言った。

「楡崎様。蒼牙様がお戻りになられるまで、どうですか?裏山でも散策なさっては。この暑さではそのお召し物では辛いでしょうから、浴衣を用意致しております」

 そう言って部屋にある大きな箪笥から淡い緑色の浴衣を出したんだけど、その浴衣は簡単に帯で結べばいいだけだったから、礼を言って受け取った。
 そうだな、こんな暑さだ。浴衣でも着て涼んでるってのも悪くないな。

「ありがとう…って、なんだ、もういないのか」

 音もなく立ち去るってのは、それも洗練された執事としての嗜みってヤツなんだろうか? まあ、何はともあれ、取り敢えず着替えることにしよう。

 浴衣ってのは服と違って至るところがスースーしてて、おかげ様であの頭が痛くなるような暑さは感じなくなっていた。できればシャワーでも浴びてから着替えたかったんだけど、そこまで図々しくはなれないよな。
 こんな田舎の村だとコンビニもないし、ましてや携帯は圏外になってる。アプリでもして遊ぼうかとも思ったけど、今はそんな気分でもなかった。
 ホントは裏山なんか何が楽しくて行くんだとか思っていたけど、こりゃあもう、裏山しか時間潰すところはないよなぁ。
 うんざりするぐらい歩いて来たってのに、また歩くのかよ。
 俺らしくブツブツと悪態を吐きながら歩き出した裏庭は、それでも裏山に続く道を歩いている間にそんな悪態は吹っ飛んでいた。
 いつも目にする緑なんかよりも遥かに青々とした緑は射し込む光にキラキラと光っている。
 へぇ、こんなところを歩いていると気分が静まってくるな…ああ、そうか。
 桂のヤツは俺が苛々しているのを感じていたんだな、だから裏山に行けなんて言ったんだろう。
 こんな田舎に来て、それでなくても暮らして行けるのか凄く不安だって言うのに、俺はいったいどうしたらいいんだろう?
 不意に弾んでいた足取りは重くなって、俺はトボトボと歩きながら道端の小石を蹴った。
 履き慣れていない下駄で蹴ったのがいけなかったのか、小石は俺が意図した場所とは全く違う方向に転がって行って、それを目で追っていたらふと、草叢に転がった小石の先に白い花が群生しているのを見つけたんだ。
 よく見たら先端が薄紫に染まっていて、完全な純白ってワケではないらしい。
 近付いて、蛇とかいたら嫌だなぁと思いながらも、俺は誘惑に勝てずに草叢を越えて群生している花の中に入って行ったんだ。入って行ったと言っても、花の丈は短いし、花も小さくて群生していなかったら見落としちまうところだった。

「…綺麗だなぁ」

 今日は色々とあった。
 色々とありすぎてまだ頭が混乱してる。
 ちょうど座りやすい場所を見つけて、俺はそのまま地面に腰を下ろしてから木の幹に凭れた。木々の間から覗く太陽はまだ高くて、ジリジリと肌を焼く感触にクラリと眩暈がした。
 まるで現実の世界から切り離されたような村は閉鎖的で、こんな村でやっていけるんだろうか…桂にはああ言ったけど、そんなの無理だ!やっぱり無理だ!
 でも、逃げ出せない。
 この村からどうやって逃げ出せばいいんだ?親父の借金を残して?
 借金取りは母さんをも苦しめるってのにか?

「クソッ!」

 髪の中に両手を突っ込んでグシャグシャに掻き回して、どうしようもない現実に頭がどうかなりそうだった。
 浴衣でも暑い。
 なんなんだ、このクソ暑さは。
 この暑さが俺の思考回路を狂わせているんだ。

「畜生、俺にどうしろって言うんだよ!?花嫁だって?笑わせるな!俺のどこを見たら子供を生める可愛い女に見えたんだ!?」

 ザッと立ち上がって思い切り喚き散らした俺は、頭を掻き毟りながら更に喚きたてて、それも気が済まなくて拳をブルブル振るわせるほど握り締めながら地団駄踏んだ。

「だいたいなんで男が花嫁になれるんだ!?戸籍はどうするんだよ??どーせ養子なんだから、最初から養子にくれって言えばいいだろッ!?クッソーッ、何が御当主だ!何が親父の借金だー!!!」

 肩でハアハアと息をしながらそれでもまだ苛々していたのに、地面で踏み躙られた白い花を見つけたら急に気分が萎えてしまった。

「ああ。ごめんな、ごめんな。せっかく綺麗に咲いていたのになぁ」

 しゃがみ込んで散ってしまった花を集めていたら、何かもう、全部どうでもいいことのように思えてきた。

「…はぁ、バカらし」

 そんな地団駄踏んで事が解決するなら、最初から踏みまくってダンスだって華麗に披露してらぁ…そうはいかないのが人生ってモンだ。
 こんな姿誰かに見られたらメチャクチャ恥ずかしかったな、ハハハ。
 …って、誰よお前!?
 立ち上がって思わず軽く笑って両手をお手上げ状態にしていた俺は、木の幹に凭れながら腕を組んでいる男に気付いてギョッとしちまった。

「ん?もう終わったのか。なかなか面白い見世物だったぞ」

「ど、ど、どど…」

「暑さで頭をやられたのか?」

「喧しい!」

 どうやら一部始終を見ていたらしい男は怪訝そうに眉を寄せて首を傾げたが、誰もいないと思い込んで恥ずかしい事をしていた俺としては、照れ隠しの意味でも叫ばざるを得なかったんだ。
 どこから現れたんだとか、あの恥ずかしい姿をどの辺りから見ていたんだとか、色々と聞きたいことがあったのに動揺の方が大きくて言葉に出来ない。
 それに一瞬、ギクッとしたのも影響してる。
 木の幹に凭れていた男は、青銀と言うのか、若いくせに青っぽい白髪だったから、てっきりこの山にいるって言う鬼でも出てきたのかとビビッちまったんだ。
 でも、バカらし。
 そんな鬼なんかこの時代にいるかっての。ああ言うのは、大方昔の人が外国人を怖れて『鬼』って呼んでいたに過ぎないんだからさ。
 肩を竦めていると、男はゆっくりと身体を起こして俺の傍まで歩いて来た。
 その足取りはゆったりしているし、背が高くて体格が良いもんだから着流しは妙に決まっているし、そりゃあ申し分ない男前だ。肌は日焼けしているのか褐色で、釣り上がり気味の
目が意地悪そうに見えるのはあからさまに俺の嫉妬心からの産物なんだろうか?
 何も言えずに見上げていると…ってのも、身長差が5センチはあるんで、目の高さがちょうど見上げる形になるってワケだ。いったい、何を食ったらそんなにデカくなれるんだ。そんなことはどうでもいいんだが、そうして見上げたら、不意に男の腕が伸びてあっと言う間に顎を掴まれてしまった。

「なにすんだ?!」

 ムッとして睨みつけると、男は何やら面白いものでも見るような目付きをしてジロジロと不躾に観察してきやがるから、ガッチリ掴んでいる掌から逃れようと首を振ったにも拘らず、その腕はどうしても離れてくれない。

「思った通り、向こうっ気の強い性格のようだな。身体もなかなか頑丈にできているようだ。なるほど、どうやって肉体を鍛えた?」

 興味深そうに聞いてくるそんなふざけた質問には答えてやる気も起こらなくて、俺は下唇を突き出すようにして悪態を吐いた。どうせさっき、恥ずかしいシーンは見られちまったんだ、この際俺の性格がどうだこうだってのは関係ない。

「余計なお世話だろ?それよりもお前は誰だよ」

 質問を返されるとは思っていなかったのか、この不遜な男はやっと俺の顎から手を離すと、まるで人を小バカにしたように顎を少し上げるようにして見下ろしてきたんだ。

「これは失礼。俺はアンタが騒いでいた、話題のご当主さ」

 …は?
 話題のご当主って…だってお前、呉高木のご当主は誰もが惹かれちまうぐらいの妖艶な美少年だって…思ってたぞ??
 いや確かにそれは俺の思い込みだけど、でも、祖父と先代に犯されてたって手紙に書いてあったし、誰が、どんな気を起こせば、このガタいのいい色黒の青みがかった白髪のあんちゃんを抱こうなんて気が起こるんだ!?
 いや、待て。
 俺を花嫁にしようなんて考えるぐらいだから、コイツでもありってことなのか?
 おいおい、俺の軽い脳味噌じゃ話が繋がらないぞ!

「当主って…は?お前が?当主??」

「そう、俺が当主だ」

 ニヤッと犬歯を覗かせるようにして笑う青白髪の男は、この暑さでどうかしたのか、いやそれとも俺自身がどうかして聞き間違えているのか、御歳17才の呉高木家現当主、呉高木蒼牙高校2年生だと名乗っている。
 寝言は寝てから言ってください。
 と言えれば大したモンだったが、あんぐり口を開けてパクパクしてしまったのは、予想もしていなかった展開に完全に脳味噌が追いついていなかったからだ。

「やっと来たな。待ち草臥れていたんだぜ?」

 そう言って、呆気に取られている俺の腰に腕を回すと、蒼牙と名乗った男は俺の顎に再び手をかけて上向かせると、そのままキスしてきたんだ。
 そう、キス…ッて、うを!?じじじじ、冗談じゃねーぞ!!

「やめろッ!この野郎ッ、見て判んないのか??俺は男だぞ!?」

「そんなことは百も承知だ。自分の花嫁に夫となる者が口付けて何が悪い?」

 至極当然そうに主張されて、それもそうかと納得しそうになった単純な俺は、問題はそこじゃない!と必死になってその腕から逃れようとしたが、やっぱガタいの違いなのか、そう易々とは離してくれそうにない。

「煩いヤツだ」

 青みがかった黒目をした蒼牙は、問答無用とばかりに唇を塞いでくる。嫌だと拒絶してもお構い無しで、結局俺は唇と唇を合わせるだけの軽いキスじゃなくて、肉厚の舌に歯列を割られ頭がクラクラするような濃厚な口付けをされちまったんだ。

「…ッ…ぅあ、…はぁ」

 唇が離れたときには無意識で甘い溜め息を零してしまい、ハッと我に返って忽ち羞恥心で顔が真っ赤になってしまう。それこそ猿並にまっかっかだ。
 俺の濡れてる唇に舌を伸ばそうとする蒼牙の行為を、慌てて俺は掴んでいた着流しの胸元を離してヤツの口を両手で塞いでやった。
 これ以上弄られてたまるかってんだ!

「バッ、これ以上何かしたら本気で抵抗するからな!!」

 ビックリしたように目を丸くした蒼牙は、それでもフッと双眸を細めて少し笑い、俺の手の上から手を重ねるようにして掌に口付けてきた。
 うひゃぁー…なんだこりゃ!?
 慌てて手を離すと、蒼牙はそんな俺の手を掴んで唇を寄せながらニヤッと笑って顔を覗き込んでくる。

「本気の抵抗か、それも面白い。だが忘れるな、アンタは俺の花嫁なんだからな」

 お前はバカか?…と、思わず耳を疑いたくなるような台詞を吐く呉高木蒼牙と、それがファーストセッションだった。

「まあ、抵抗してみるといい。当分は退屈せずにすみそうだ」

 ニヤッと嬉しそうに笑ったりするから、俺はその鼻面を殴ってやりたくなった。

第一話 花嫁に選ばれた男 1  -鬼哭の杜-

 呉高木の本家には『龍の子』と言われる子供がいるらしい。
 先々代当主の一人娘、桜姫と書いて『サクラヒメ』と読むとても綺麗な娘が、妖怪と交わってできた子供なんだそうだ。
 本来、この呉高木家は代々こう言う風習があったらしく、特に誰も気にせず、婿として迎え入れた分家の五島谷の長男も平然とその子を次期当主に決めていたってんだから、山間に位置する旧家が仕切る閉鎖的な村ってのは不思議なもんだ。
 浮気してできた子が現当主に迎えられる、つまり浮気してもOKってことなんだからな。
 妖怪なんて、そんな屁理屈が通るのは閉鎖的な村だけさ。
 鄙びた道とも言えない道を、俺を乗せたバスはガタゴトと進んでいる。
 文明社会から見捨てられたような牧歌的な光景が広がる、そのものズバリの『田舎』の景色に、俺はこめかみが痛み出すのを感じていた。
 だが、事はそんな簡単なことじゃない。
 この呉高木の次期当主は、出産した母親が狂ったせいで長らく祖父と生活を共にしていたらしい。
 その祖父と言うのが頂けない爺さんだったらしく、母譲りの綺麗な顔をしているらしい孫を、手篭めにしていたんだそうだ。
 とは言え、倫理がある常識人な俺としては、どうも納得のいかないその行為も、閉鎖的な村だからか、歓迎して受け入れられていた…ってことは、その子は村公認で祖父の愛人だったってワケか。
 ん?男の子だったよな、確か??
 桜姫と結婚した五島谷家の長男も、最初から狂人だった妻に関心なんか示すはずもなく、2人の愛人を連れ込みあまつさえ養女にしたくせに、尚且つ『龍の子』と呼ばれる自分の息子を犯していたんだそうだ。血は繋がっていないとは言え、ゾッとしない話だ。
 なんにしても、理解し難い村の風習に俺が馴染めるとか、打ち解けられるかとか、そんなことは問題じゃない。俺は何が何でも、その村に解け込めないといけないんだ。 こんな予備知識までご丁寧に記された手紙を、知らないうちに握り締めていたことに気付いて、仕方ない溜め息を零しながら手の力を緩めるともう一度、5日前に届いた手紙の内容に目を通した。
 ささやかな時候の挨拶のあと、綴られた達筆な文面は、相も変わらず俺なんかには解読できそうもないものだった。これを解読したのはつまり俺の親父で、倒れかけたテメーの会社を建て直すのに、家族と相談もせずに本家である呉高木に多額の借金をしやがった、この事態を引き起こした張本人だ。
 返せる当てなんかまるでないくせに、いったい何に一縷の望みを託したって言うんだ?
 もちろん返済期限なんかとっくの昔に過ぎていたし、過ぎていなくても返せる当てなんかありもしない、オマケに頼みだった会社はこの不景気で倒産ときた。首でも括ってこの世とおさらばでもするか…ってな矢先だったワケだ。この奇妙な手紙が届いたのは。
 本家の秘密を洗い浚い記した文面、そして、親父が着目した重要な内容…借金返済の代わりに、分家である楡崎の1人息子を養子として差し出すこと。
 つまり、楡崎光太郎、俺だ。
 俺を養子にすれば借金はチャラ、その上、結婚よろしく結納金などと言うものもくれるってんだから、俺ん家のクソ親父が差し出さないはずもない。

『別に死ぬってワケじゃないんだ。盆暮れ正月ぐらいは会えるさ。気負わずに行ってこい』

 門出の親父の台詞だと言えば、俺のこめかみがジンジンからズキズキに変わってきたって言っても別におかしなこたないだろう?
 養子に出される息子へ言う台詞か、バカ親父。
 どんな婀娜っぽい色白の妖艶な息子…ってのもヘンな言い方だけど、が居座ってるのか。
 先々代はもう亡くなったってことだし、龍のように気高くも冷徹な息子と、血の繋がらない狸親父、その愛人であり『龍の子』の義姉が2人、お手伝いが山ほど、そして有無を言わせぬ総資産…妖怪ならぬ、化け物屋敷の養子になるってことは恐れ戦くよりも前に震え上がって帰りたい心境だぜ。
 何度目かの溜め息が俺の口から零れ落ちた。
 養子なんてのは体のいい口実で、その裏側に隠されてる真実を、俺は出発前に親父に暴露されていた。嫌がって逃げ出しても、とっくの昔に『結納金』を使い果たしていた我が家だ。俺なんかじゃ見たこともない資産を持つ本家の連中が、逃亡する俺を見つけ出せないなんてことはないし、そんな親父が俺を庇って悠然と守ってくれる…なんてこた、富士山が噴火するぐらい有り得ない。
 そりゃ、俺だって男だ。
 必死で、我武者羅に、何がなんでも抵抗したさ。
 抵抗したんだけども、泣くお袋が『許してくれ』と言って、土下座なんかするもんだから…俺は一世一代の親孝行を決行したってワケだ。
 あくまでも親父の為じゃない。
 親父なんかの為じゃない。
 一応言っておく。
 お袋に別れを言って飛び乗った電車、俺を、本家の現当主の花嫁として受け入れようって言うふざけてるとしか言いようがない鄙びた村に導いてくれる、電車に乗ること5時間。
 ありがとうよと別れを告げてバスに揺られること4時間…バス停から歩くこと2時間の距離にあった閉鎖的な村。
 大きな荷物を抱えている俺の方が却って異様な姿に見える。
 まるで時代遅れの農村の家は藁葺屋根があったり、未だに釜戸で炊事をしているとしか言いようのない煙が上がっているし、暖を取るのは薪ってことか…?
 オマケにコソコソと人の気配がするにも拘らず、まるで人気がないのにはわけがある。
 そう、村の連中は物見遊山なくせに家の中にいて、立て付けの悪そうな戸の向こうから覗いているんだ。でも声をかけるのは怖い、都会から来た変なヤツとは目を合わせるのも嫌
ってわけか…
 思い切り文明社会から抜け出してきた俺としては、こんな、ネットもコンビニもテレビもない、あまつさえ臆病で奇妙な連帯感のある住民のいる村の様子を見渡しながら、ゴクリと息を呑んでしまった。
 電気すらないんじゃないか?
 本当に俺、こんな辺境の地でやっていけるんだろうか…

「光太郎さん?あなた、楡崎の光太郎さん?」

 不意に声をかけられて、そんな風に疎外された気分にどっぷりと浸っていた俺としては、少し驚きながら背後を振り返った。振り返って、あまりの時代遅れな光景にクラリと眩暈がしてしまった。
 いや、鈴のようにコロコロと可憐に響く声音と、それを口にした女性の面立ちは確かに絶品だと思うし、ヘンに毒気された都会の女どもに比べれはそんな格好なんかどうでもいいとは思う、思うけど、そんな明治時代にでもタイムスリップしたような格好は頂けん!頂けんと言うか、俺の思考回路が追いつかない。
 キチンと眉の上でつみ揃えられた前髪に、カールした揉み上げ、刈り上げられた襟足はどう見ても一昔前の髪型だし、日傘を持つ上品そうな手首が覗く袖は着物じゃないか。
 真っ赤な唇が笑みを浮かべ、キリリと弧を描いた見事な柳眉の下で、油断なく俺を観察する切れ長の綺麗な双眸…これが噂の呉高木家の愛人兼義姉ってワケか。
 そう言えば、迎えに来るって書いてたっけ。

「どうなすったの?あたくしの顔に何か?」

 怪訝そうな素振りを見せながらも、妖しいほど妖艶に微笑む彼女は、どうも俺を端から楡崎光太郎だと認識していたようだ。当たり前か、こんな辺鄙な田舎に大荷物抱えた人間なんて、旅行客だって有り得ない。住み着くために嫌々来た、本家の客人だとハッキリ判るに決まってる。

「いえ、ども。楡崎光太郎です」

 ペコと頭を下げると、日傘に和服姿の似合う彼女は、コロコロと小気味よく笑って軽く会釈した。

「どうぞお見知りおきを。あたくしは眞琴、呉高木眞琴ですわ。ご当主がお待ちですのよ、ご案内しますからおいでなすって」

 楚々とした風情で俺の脇を通り過ぎた彼女は、肩越しにチラリと振り返ってニッと笑う。 その微笑は確かに綺麗だし、男ならクラリと来るだろう。
 でも、なんと言うか。
 背筋が無意味にゾクリとする。
 なんだろう?意識していないところがゾクリとした。
 ふと、見渡してみれば何の変哲もなさそうなこの村だって、あちらこちらがどこか微妙にヘンだ。
 だいいち、この文明社会にこんな取り残されたような辺鄙な村が実在するってのもおかしな話だ。
 まるでそう、狐にでも抓まれたような気がする。

「こちらですわよ。光太郎さん?」

 鈴が転がるような涼やかな声音に呼ばれて、俺は不意に浮かんでいた馬鹿らしい考えを振り払った。
 どのみち、どんなに御託を並べ立てたところで俺は、この辺鄙な村で生涯を終えないといけないわけだ。まあ、もしも俺よりも先にご当主さまがお亡くなりあそばせば話は別なんだろうけど…
 でも、それだって淡い希望にしか過ぎない。
 なぜなら、この畦道をまっすぐに行ったところにある、あの小高い場所に居住まいを構え
た純和風の邸宅で俺を待ってるだろうご当主は、俺よりも若いってんだから希望なんか有
り得ないだろ。
 俺はご当主の魅惑的な義姉の後姿を追いながら、人知れずに溜め息を零していた。

「ふふふ」

 不意に含み笑うような気配がして、俺は先を行く眞琴さんをみた。

「おかしな場所だと思ってなさるんでしょう?」

「はあ、まあ…」

 曖昧な返事は、ズバリ胸中を見抜かれたような気がして居心地が悪かったからだ。
 しかし、突然何を言い出すんだ?
 いや、それともやっぱり、この人もここがおかしな場所だって思ってるんだろうか…

「確かに余所から来た人には珍しい村だと思うわ。だからほら、あたくしちゃんとお手紙に書いてあったでしょう?」

 それを聞いてギョッとした。
 あの手紙の送り主がまさか、この可憐そうに見える時代錯誤な着物がお似合いの、この美人だったなんて!!

「嘘だとお思いなすったのでしょう?強ち全てが嘘と言うわけではありませんのよ」

 日傘をクルクルと回しながら、眞琴さんは砂利の多い畦道を慎重に進んでいるようだ。そのくせ、足許に転がる石を草履の爪先でコツンと蹴った。
 コロコロと転がった石はすぐ脇の田んぼの横にある溝に落ちてしまった。

「光太郎さん、あのお屋敷は妖怪が巣食うお屋敷ですのよ。可愛らしい花嫁様がいつまで耐えられるのか…あたくしたち姉妹は楽しみにしていますの」

 クククッと笑って肩越しにチラリと振り返る眞琴さんの、その表情はどこか虚ろで薄ら寒いような感じがしたのは…たぶんきっと、気のせいだ。
 そう思いたい。

「…じゃあ、強ち嘘じゃないと言うのなら、眞琴さんともう1人のお義姉さんはその…」

 何を言いたかったのか、俺の口は勝手にそんなことを言うくせに、その先が続かなくて口篭ってしまった。

「愛人かとお尋ねになりたいの?そうですわよ、手紙の通りですわ」

 コロコロと一風変わって陽気に笑った眞琴さんは、着物の袖で口許を隠しながら俺の方を向くと、綺麗な双眸を細めて小首を傾げる。

「そうそう、あたくし手紙にちゃんと書いていなかったことがありますの」

「え?」

 キラリと光る瞳の色が一瞬、黒ではないように思えたのは日差しのせいか、俺の目の錯覚なのか…どちらにしたってこの村は、いや、この村も眞琴さんも雰囲気も何もかもおかしい。
 どうかしてる。
 暑い日差しに頭をやられた俺が一番どうかしてるのか、クラクラする頭の痛みを我慢しながら、目を細めて綺麗な小顔の眞琴さんを凝視していた。

「呉高木と楡崎と言うのはねぇ…」

「眞琴さん」

 言いかけた形の良い唇の動きが止まったのは、不意に彼女の背後から掛かった声のせいだったんだと思う。眞琴さんは居心地の悪そうな顔をして、綺麗な柳眉を顰めながら背後を振り返った。

「伊織お義姉さま」

 確かに眞琴さんは楚々とした美人だったが、伊織と呼ばれた2人目の呉高木家の養女は、ゴージャスな美女だった。豊満な肉体を包むワンピースはやっぱりどこか古いデザインだとは思う、思うけど、それに気付けないぐらい彼女の容姿はハッと人目を引いている。
 腕を組んで煙管から紫煙を燻らせている派手な美人は、下唇を噛んで俯き加減になっている眞琴さんをチラッと胡乱に睨みつけてから、俺を見遣ると繁々と下から上を舐めるように観察してきたんだ。
 眞琴さんよりは下世話な雰囲気の女性だ。
 でも、なぜだろう俺は、そんな伊織さんを見てなんとなくホッとしていたんだ。

「眞琴さんはお喋りが好きなようねぇ。まあ、いいわ。早く母屋にお出でなさいな。ご当主とお義父さまがお待ちよ」

 フンッと鼻先で小馬鹿にしたように笑ってから、スッと無表情になった伊織さんは肩に羽織ったカーディガンの裾を揺らしながらさっさと屋敷の中に消えてしまった。
 面白くなさそうな表情は俺に対してなのか、お喋りな義妹に対する当て付けなのか…どちらにしろ、どうもこの2人は馬が合っていないらしい。
 当たり前か、お互い睨み合いの愛人関係にあるんだし。
 なんか、初っ端からとんでもない無言の攻防戦を目の当たりにしてしまったような気がしてガックリと疲れてしまった。
 俺はやっぱり、とんでもないところに嫁いで来ちまったようだ。

「あの方が呉高木家の最初のご養女である伊織お義姉さま。目敏く口喧しいひとではありますが、放っておけば然程害にはなりませんことよ」

 とは言うものの、それまで柔和だった眞琴さんの表情には俄かに厳しい色が見えている、ってことはなるほど、彼女にとって伊織さんは天敵なんだろう。

「さあ、光太郎さん。こちらですわ」

 そう言って大層な門構えを潜った眞琴さんが向こうから俺を手招いた。

「ご当主がお待ちですわよ」

 まるで現実の世界とあやふやの世界との区切りのような門構えを見上げながら、俺は額に浮かぶ汗も気にすることなくゴクリと息を呑んでいた。
 立派な門構え…まるで魔界に続く暗い迷路の入り口のようにポッカリと虚ろに招く奇妙な門、その向こうで、色の真っ白な美人がニタリと笑って手招いている。
 これは本当に現実なんだろうか、それとも俺は、あの電車の中で悪い夢に魘されてるだけなんじゃないだろうか…祈るような思いで両眼を閉じていた。
 俺は、いったいどうなるんだろう…

4  -愚者は真夜中に笑う-

『ご主人、どうかオレを殺してください』

 ゆるやかな肩より少し長いウェーブの黒髪から突き出した2本の捩じれた角と、紅蓮に燃える真摯な双眸、上半身裸の肌は褐色で、女が見ればすぐに参ってしまう美丈夫は完璧な傑作であるはずだった。
 その可愛い使い魔の言葉に、手にした書物を取り落しそうになってルシフェルは訝しそうに美しい柳眉を顰めた。

『なんだって?』

『オレは、ご主人の戒めを破って人間と交わりました。死ぬべきです』

『…』

 ルシフェルが使役する使い魔であるインキュバスもサキュバスも、どこかユルい考え方をするせいか、時々彼らの主は酷く動揺することがある。
 長い美しい漆黒の髪を有する頭をバリバリと掻きながら、大悪魔たるルシフェルは呆れたように言い放つのだ。

『何を言ってんだ。お前たちの役目は人間と寝ることだろ?そんなことでいちいち殺してたら、オレは幾つ使い魔を作らなきゃならんのだ。馬鹿馬鹿しいッ』

『違うんです!ご主人、オレは人間の男と寝ました』

『はぁ?!』

 そこで漸く、どうして夢魔の中でも特に可愛がっているエルロイが、日頃にはない真摯な双眸で妙に恐縮して凹んでいるのか理解した。
 仲間の夢魔たちがハラハラしたように見守る中で、嘘を吐けば済むものを、エルロイは何らかの理由でそうはせず、ご主人に断罪してもらう道を選んでいるようなのだ。

『まあ、別にいいんじゃない?誰と寝ようと構わんよ。それよりもオレは今忙しいんだ。用件がそれだけなら失せてくれ』

 可愛いとは言え大悪魔にとってみればただの使い魔に過ぎないのだから、やれやれと溜め息を吐きながら片手を振るが、エルロイは容易に引き下がるつもりはないらしい。

『そうじゃないんです!オレは…ッ』

『失せろ!そうじゃなければ、お前が望むように使い魔の資格を剥奪して殺すぞッ』

 エルロイの背後では怯えて竦んでいる仲間の夢魔たちがいると言うのに、件の紅蓮の双眸を持つインキュバスは、その言葉を待っていたように、わざと不興を買って、どうやら死にたがっているようだ。
 そうであるのなら…大悪魔であるルシフェルには特段の執着心などありはしない。その専売特許は海を統べる王のモノである。だからこそ彼は無情の面持ちで哀れな使い魔を見詰め、そして片手を挙げてエルロイの望む死の断罪を施そうとしたその時、不意に頭上に真っ白な大海蛇が巨体をくねらせて姿を現した。

『うっわ!ルゥってば使い魔を殺そうとしてんのか?!なんだ、その悪魔みたいな態度ッ!!超コエーッッ』

 ガタガタと震える巨体が青褪めたように見下ろすと、驚愕の眼差しで見上げたルシフェルは、次いで、呆れたように溜め息を吐いたみたいだった。

『レヴィか。なんだよ他人んちのことにまで首を突っ込むんじゃねーよ』

 首を左右に振ると、違った意味で苛々するルシフェルは手にした書物を束にして紐で括りながら肩を竦めて、どうでも良さそうに吐き捨てた。

『これが見過ごせるかよってなぁ?ところでエルロイ、なんだって人間の男と寝たりしたんだ?お前はさぁ、曲がりなりにもインキュバスだろ。何も男と寝るこたねーんじゃねーのか?』

 美人なんて引く手数多だろーにと牙の生えた獰猛そうな面構えの大海蛇が見下ろしてくる興味深そうな金色の双眸を見上げて、突然の闖入者はいつものことなのか、ユルい思考の持ち主である夢魔は驚いた素振りもなく一生懸命に訴える。

『里舘光太郎って言うんです。1年前に橋の上で自殺しようとしていたんですけど思い留まって…それからずっと見守っていました』

『ふーん。それで?』

 それでそれで?とまるで犬が尻尾を振って待ち兼ねているかのように興味深そうな黄金色の双眸で先を促すレヴィアタンの趣味の悪さに、ルシフェルはうんざりしているようだが、こうなれば面倒臭いこともこの海の支配者に押し付けてしまおうと企むことにしたようだ。

『切っ掛けが欲しくて猫に化けてチャンスを作り、それから彼を抱きました…でも、オレはインキュバスだから、このまま抱き続けたら光太郎を殺してしまいます』

『ああ、なるほど。そう言うことね』

 中空で巨体をうねらす海の覇者はフムフムと頷いて、小さな使い魔が心の中に抱えているあたたかな想いに爬虫類を思わせる面構えのポーカーフェイスでは窺い知ることはできないが、どうやらニヤニヤしているようだ。

『でも、オレはずっと抱き続けたいんです。しかし、そうすれば光太郎は死んでしまう。そんなのは堪えられない…だったら、オレが死ぬ方がいいんです』

 インキュバスやサキュバスの特殊な能力は人間の持つ生気を媒介に成立するもので、ルシフェルからの使命で対象者の夢に潜り込んでは、その生気を少し吸い取って行為に及びインキュバスは相手を受胎させ、サキュバスは必要な精液を採取する。
 受胎させるためではない行為は全てインキュバスであるエルロイの精液を相手の胎内に留めるため、悪くすれば悪魔の気に中てられてその寿命は遥かに短くなるのではないか…エルロイにはそれが心配で仕方ないのだろう。

『バーカ』

 それを聞いて思わずと言った感じでレヴィアタンは言い放った。

『え?』

 キョトンとするエルロイに、高位の大悪魔であり海を統べる覇者は巨体をうねらせながら不機嫌そうにブツブツと言う。

『あのさぁ、エルロイ。どうしてお前が死ぬんだよ?人間なんか僅かな時間を生きるだけなんだ、遅かれ早かれお前を遺して逝っちまうんだぞ』

『…でも、その僅かな時間でも傍に居たいんです。たくさん泣かせてしまって、泣かせたくなかった。でも、オレの存在はアイツを泣かせてしまうから』

 レヴィアタンのその言葉に、その尤もな言葉に、それでもエルロイは途方に暮れたように俯いて、ずっと泣かせっ放しの寂しそうな人間の顔を思い浮かべて呟いた。

『お前、その人間を愛しているのか?』

 不意に書物の整理に勤しんでいたルシフェルが彼らの会話に割入って、そして少し不思議そうに聞いたのだ。

『判りません。オレはバカで悪魔だから…アイツから好きって言われた時は凄く嬉しくて、胸の奥に衝撃が走ったのに、今となってはそれが何だったのかもよく判らないんです』

 裸の胸の、人間であれば心臓がある部分に片手を添えて、エルロイは自我の想いであるはずなのに、よく判らないと言う不気味な感覚に眉を顰めた。
 或いはもしこの感覚が何であるのか判っていれば、きっとあの時、あの人間をあんなに泣かせることもなかっただろうに…

『…そうか。その部分はルゥの不手際だな。よし、よく判った。そんな不手際をするルゥだと失敗する可能性が大だからさ。オレが禁呪を使ってやるよ』

『レヴィアタン!』

 凶暴だなんだと人間は勿論、悪魔からすら恐れられている海の覇者にして偉大な大悪魔がやたら乗り気で頷くと、そのくせ人間にも使い魔にも優しいことを知る魔界の支配者は勝手なことをするんじゃないと制するように厳しく不機嫌そうにその名を呼んだ。

『うるせー、黙れルゥ。ただし、オレは禁呪が苦手だ。ヘンな具合になっても大目に見ろよ』

 だが、元来から何ものにも縛られることなく自由に生きる海の王者は、魔界の支配者の言葉など馬耳東風、どこ吹く風と相手もせずに小さな使い魔を見下ろしてウィンクなどして見せる。

『レヴィアタン様、有難うございます!』

 ホッとしたようにパッと笑うインキュバスの姿に、ルシフェルは頭を抱え、そしてレヴィアタンは長い詠唱を口にする。

『あ、しまった。失敗したわ』

 詠唱が終わり、あちゃーと言いたそうにレヴィアタンが舌を出す。
 何言ってんだとギョッとするルシフェルの眼前で、だが、エルロイの姿に変化は何も見受けられない。
 ああ、失敗してしまったのかと落胆するエルロイに、魔界の支配者であり、彼の主人はやれやれと溜め息を吐いたみたいだった。

『何も失敗などしていないさ。ただ、お前がもうオレの使い魔ではなく、レヴィアタンの使い魔になったってだけのことだ』

『え?』

『そうそう、インキュバスの能力は抑えたからさ。お前はただの猫にも人型にもなれるオレ様専用の戦闘使い魔になっちまったんだ』

 うはははっと笑う海の覇者をポカンッと見上げる夢魔であったはずのエルロイに、ルシフェルは仕方なさそうに吐息して、それから手にした書類を机に投げ出しながら肩を竦めた。

『とは言え、そこはさすがレヴィと言ってやるさ。今は禁呪で抑えているがインキュバスの能力もちゃんと残してある。いつでもオレの元に戻ることができるんだ。安心して今の主人の命を受けるがいい。だがもう、お前は軽々しく死を口にするんじゃないぞ』

『ルシフェル様…』

 泣き出しそうな顔で見つめてくる可愛い使い魔に、仕方なさそうに苦笑するルシフェルも、やはり魔物に慕われるだけのことはあり、その面倒見の良さにレヴィは嬉しそうに頷いたようだった。

『さあ、エルロイ。最初のお前のお遣いだ。里舘光太郎の命が尽きるその瞬間まで、お前はその人間の傍に在り、その生涯を【愛して】見守ってやるがいい』

 大悪魔レヴィアタンの威厳ある声音が終わると同時に、エルロイの姿は硫黄の匂いのする煙の中に消えてしまった。
 有難うございます…と聞こえたような気がしなくもないが、『よかったよー』と抱き合って喜ぶエルロイの仲間のインキュバスとサキュバスに苦笑しながら、レヴィアタンは仏頂面のルシフェルを見下ろした。

『お前さぁ、損な性格だよな』

『…うるせー』

 恐らくこの魔界の支配者、サタンの別称も持つ、同じ悪魔とは思えないほど美しい何もかも完璧なルシフェルのことだ、古くからの友人がここに来ることも何もかも計算のうちで、そうして当の自分は憎まれ役を買いながら飄々としたツラで物事を丸く収めてしまったのだろう。
 大事にしている使い魔を邪険にあしらうことで、思う以上に気の優しい海の王者はその強力な力を貸すだろう。そうすれば、人間になど憐憫の感情も持ち合わせていない大悪魔のルシフェルが持たない、愛する心をあの小さな夢魔は手に入れることができるんだろう。

『まあ、だからこそお前がこの魔界を治める王様なんだよ』

『ふん』

 旧友がケラケラと笑い、照れ隠しのように不貞腐れた魔界の王は外方向いた。
 穏やかな午後の、魔界での一幕である。

 大学にもバイトにも行く気になれない平日の午後、結局俺は万年床の上でゴロゴロしながら時間を無駄に食い潰していた。
 こんな風に心が痛いのは一年前のあの時以来かなぁ…でも、今回はもっと性質が悪い。
 あの時のことは忘れることができたけど…今回はどうも無理みたいだ。
 身体を重ねたせいなのかな?口付けたせいなのかな?
 最初からちゃんとただ興味があるだけって言っていた、あの紅蓮の双眸に揺らめく切なくなるほど激しい感情の光を見てしまったからなのかな…とか考えても全く解決なんかしない。
 ひとつ判ることがあるとすれば、俺なんかちっぽけな人間はあっさり捨てられて、そして忘れることもできずに喪失感に呆然としてるってだけだ。
 3日間で鮮烈な印象を残したまま、俺の心を掻っ攫った憎い夢魔への悪態をブツブツ言ったってはじまらない…そう、もう何もかも終わっていて始まりなんかあるワケがないんだ。
 こんな想いも、いつか忘れるんだろうか。
 人間は移ろい易い心を持っているから、時間はかかるかもしれないけど、忘れることができるんだろうか。
 ポロッと頬に涙が零れて、今日はもう駄目だなぁ、バイトも休もうかなぁと考えて片手で両目を覆ったところで…

『なんだ、だらしないヤツだな。一日中寝てるつもりなのか?』

 不意に声が聞こえて、この幻聴はなんだろう?俺は白昼夢でも見ているんだろうか。
 【彼】と逢えるのは夜の闇の中、眠りに落ちた時から。
 今はまだ陽も高い午後の昼下がり、そんなはずはないって頭じゃ判っているんだけど、震える腕を退かすのに随分と勇気がいったし、声の主がそれ以上何も言わないからやっぱり幻聴だったんじゃないかって諦めもしたけど、それでも俺は腕を退かして目を見開いた。
 肩より少し長いゆるやかなウェーブの黒髪から突き出している捩じれた角、男らしい端整な異国の顔立ちに意志の強さを物語る紅蓮の双眸、上半身は褐色の素肌で異国風のズボンを穿いて…って、まるでアラビアンナイトのような出で立ちで、繁々と物珍しそうに室内を見渡している【彼】は腰に手を添えて何でもないことのように立っている。
 思わずガバッと起き上がって、狭い部屋の中だと言うのに、俺はポカンッとしてそんな信じられない、夜の闇の中で別れてしまった薄情な悪魔を見上げていた。

『人間て言うのはこんな狭いところが好きなんだな。それに、あんまりいいモン喰ってなさそうだし。これじゃいつか身体を壊しちまう…って!なな、なんだよッ?!』

 エルロイは吃驚したように声を跳ね上げたけど、俺はそんなことお構いなしで、どんな奇跡が起こったのかよく判らないんだけど、それでも消えてしまわないうちに掴まえないと…そんな気持ちが先立ってしまって、慌てて立ち上がるとそのまま薄情な悪魔の身体をめいいっぱい抱き締めたんだ。
 どうして此処に居るの?飽きたんじゃないの?俺は捨てられたんだろ…って、いろいろと言いたことはたくさんあるのに、言葉にできなかった。それよりもこのぬくもりが本物であればあるほど、不安で不安で仕方なくて、両手に触れる肌の感触を確かめるみたいに抱き締めて、俺は泣いていた。

『なんだかなー…初めはあんなに嫌がってたくせに、どんな心境の変化なんだ?』

 ブッスーと膨れツラでもしてんのか、この夢みたいに不思議な存在である夢魔は俺を抱き返すこともしてくれず、自分の両手を腰に添えてブツブツと悪態を吐いているみたいだ。
 でも、それでもいいよ。

「…俺には興味がなくなったんじゃなかったのか?それともまた退屈になったのかよ」

 グスッと鼻を啜って、エルロイの肩に頬を寄せながら質問には答えずに呟いたら、ヤツはちょっと考えているような仕種をしたみたいだった。
 だって、俺はちゃんと「好き」だって告白してるのに、心境の変化なんて酷いことを言うお前になんか答えてやるもんか。
 そんなことよりも…どんな気紛れなんだろう、今度は。

『お前の身体に興味があるって言ったらさ、ご主人が許可をくれたんだ。これからは夢の中じゃなくてこうして実体を持つこともできるようになったんだぜ』

 ああ、なんだ…俺の身体だけが目当てってワケなんだ。
 でも、まあいいや。
 エルロイを使役している何処かの偉い悪魔の粋な計らいなんだって思うことにしよう。
 失ってしまうよりも、随分と辛くないって思えるから。
 キスなんて甘ったるいことはしてもらえないけど、俺は嬉しくて、どうしてこんなに涙腺が弱いんだってジタバタしたくなるぐらい、ポロポロ頬に涙を零しながら仏頂面のエルロイを抱き締めていた。
 その間、不思議で仕方ない存在の悪魔であるエルロイは、やっぱり抱き締めてもくれずに…でも、俺の気がすむまでずっとこの両腕で抱き締めることを許してくれたみたいだった。
 きっとこの恋は報われないと思うけど、俺はそれでもやっぱりエルロイのことを好きなんだと思うよ。
 真夜中の住人だって言うのに、まるで真夏の太陽みたいに衝撃的で情熱的なエルロイが好きなんだ。

「うわッ、本当に甦ったんだな」

 駐車場の大きな木の根元のあの黒猫を埋めていたはずの場所、こんもりと土が盛り上がっているはずの部分が内側から掘り起こされているみたいに穴が開いていた。
 残っているのは土だらけのタオルぐらい。

『うわってのはひでぇ』

 しゃがみ込んで穴の周りの土を戻している俺の傍らで、黒猫は俺の腿の辺りに片方の前足を乗せて『にゃあ』と不服を言いやがる。

「そりゃ、うわッぐらいは言うだろ。昨日埋めたと思ったら復活とかするんだからなぁ…」

 でも、ふと俺を見上げるガラス玉みたいに綺麗な金色の双眸を見下ろして、俺は嬉しくて思わずニコッと笑ってしまった。そうすると黒猫のエルロイは途端に不機嫌そうに双眸を細めると、『うにゃーん』と悪態を吐く。

『お前、何やら笑って誤魔化そうとしているだろ?』

「何を言ってるんだか…ただ、でも、生き返ってくれてよかったって思ってるんだよ」

 それは俺の素直な気持ちだった。
 でも、俺のことなんかこれっぽっちも好きでもなきゃ嫌いでもないエルロイにしたら、『ふーん』ぐらいなんだろうけどね。

「大家さんにも了解もらったし、エルロイは今日から俺んちの猫だからな。大家さんってさ、意外と話の判る人だったんだ。もっと早く話しておけばよかったなぁ」

 あはははっと笑っていたら、黒猫が俺のジーンズの腿部分に片方の前足を掛けて、それからもう一方の前足で肩辺りに触れてきた。
 ん?と思って見下ろしたら、そんな俺の唇に黒猫は『うにゃ』っと一声啼いてキスしてきたんだ。
 吃驚して顔を真っ赤にしていたら、夜の闇のように黒い猫は太陽よりも強烈な金色の双眸を細めて、それからふふんっと笑うんだ。

『まあ、これからヨロシクってな』

 ああ、なんだ挨拶なのか。

 それじゃあ、俺も飛び切りのキスをお返ししなくちゃな。

「これから宜しく」

 ヒョイッと両脇に手を差し込んで抱き上げると『うにゃ?!』と慌てる黒猫の口許に、うちゅっと口付けたら、なんだか耳を伏せてしまって、尻尾も身体もだらーんとなったから、どうやら俺の方が一本取ったみたいだ。
 こうして、黒猫(悪魔)のエルロイと人間(平凡)の俺の物語は始まるワケなんだけど、俺の一方通行の恋の行方は、どうやら波乱に満ちていて、叶うことはないんだろう…でもいつか、いつかこの恋心がお前に届くのなら、その時俺は、きっと太陽のような悪魔を愛しているんだと思うよ。

■□■□■
このお話はレヴィが瀬戸内くんと出逢うずっと前のお話ッス。
なので、件の海の王様はまだ本体の姿で暢気にルシフェルんとこの城荒らしをしている最中ってことになるッスよw
でも今回の禁呪を使用したことで灰色猫の作り方を学んでたりしまッス(*´▽`*)ウヘヘヘ
光太郎って名前も意識の何処かに残ったんでしょうね。それはどうでもいいんスけど(←!!!)

3  -愚者は真夜中に笑う-

 今日も相変わらずバイトが時間通りに終わらず、先輩の車に乗っけてもらって、それから1時間の道程をやれやれと疲れた身体を引き摺るようにして歩いていた。

(あ、そうだ。この辺りで黒猫に出逢ったんだっけ?)

 アイツ元気かなぁ~、今日はチータラはないけど、カニカマならあるんだけど。
 あの猫がいないか塀の上を見上げてみたけどいなかった。
 周囲を見渡すんだけど、丑三つ時の午前2時過ぎでは人気もないし、あんなに夜の闇がよく似合う、あの黒い猫もいないみたいだった。
 不意に不安になって…どうして猫ぐらいでそんなに不安になるのかよく判らないんだけど、嫌な予感ってヤツは、嫌だと思えば思うほど実によく当たりやがるから、俺は焦燥感に駆られるようにしてあの風変わりな人懐こい、夜の闇の中でもとても綺麗な黒猫を探していた。
 探して、探して…そして俺はとうとう見つけたんだ。
 電信柱の影で蹲るようにして死んでいる黒い猫を。
 自動車にでも撥ねられたのか、悪いモノでも喰っちまったのか、それとも悪い人間に酷いことをされたのか…頭の中をグルグルと纏まらない考えばかりが渦巻いていたんだけど、俺は無言で屈みこむと鞄からタオルを取り出して、もう冷たくなって魂を何処か遠いところに手離してしまった黒い猫の身体を包んでやって抱え上げた。
 きっと怒られるかもしれないけれど、なんだか傍に置いておいてやりたい気がして、アパートの駐車場の傍にある大きな木の根元に埋めてやった。
 名前なんか知らない木の根元だけど、大学卒業してもここに住む予定だからいいよな?
 ポロッと頬を零れ落ちる涙は、小さな生き物に届けばいいお別れの涙だ。
 掘り起こされたばかりの土の匂いを嗅ぎながら、これから自然に還るあの物静かで優しい黒い猫を思えば、最初は酷いことしたなぁって悪い記憶が甦ってしまう。
 初めから懐いていたのに俺は邪険にして、でもそれでも変わらず俺の傍に居てくれようとした黒い猫、もっと大家さんに相談して飼えるように掛け合えばよかった。
 俺と暮らしていればこんな悲しいことにはならなかったはずなのに…

「はぁ…泣いてても仕方ないか」

 グスッと鼻を啜って、俺は袖で涙を拭いながら立ち上がると、判らないようにコソッと置いたカニカマの所で手を合わせてアパートの部屋に戻った。
 バイト帰りにお出迎えしてくれるあの猫はもういないんだなぁと思うと、柄にもなく感傷なんか沸き起こるけど、それはそれで、俺はあの猫を本当に気に入っていたんだなぁと再認識した。
 洗面台で手を洗ってからそのまま風呂に入って、それから倒れ込むようにして狭い部屋を占める万年床にダイブする。
 今日は嬉しかったりガッカリしたり大変な一日だったよな、せめて夢ぐらいは幸せであればいいなぁ…

 ウトウトとしていてふと目覚めると、自分ちにこんな豪華なベッドとかあったっけ?
 やわらかな羽毛?の枕が幾つも重なっていて、肌触りのいい掛布団とスプリングの効いているベッドは豪華な天蓋付きだ…なんだ、ここは?
 ふと、上半身を起こして見てみれば、ベッド以外は漆黒の闇ばかりがただただ広がっていて…そこで俺はハッと気付いちまったんだ。
 あの夢だ!
 泡食ってバタバタと起き上がろうとしたら、そんな俺の腕を褐色の腕が掴んで引き留めた。

『なんだよ?何処に行くんだよ』

「やっぱりお前か」

 でも。

「エルロイ…生きていたんだな?あの黒い猫ってお前だったんだろ。死んでしまってさ、もう逢えないかと思った」

 上半身だけ起こした形で引き留められている腕はそのままで、俺の隣で大型のネコ科の肉食獣みたいに頭を片手で支えて寝そべっている夢魔のエルロイの頬に伸ばした掌で触れてみた。
 抱かれている時も感じたんだけど、夢の中だと言うのにエルロイの存在はとてもリアルで、その体温すら感じられるんだからスゲーよなぁ。
 よかった、コイツが生きてて…そう思ったら嬉しくて、あんな酷い事されたってのに憎めない俺はもうどうかしてしまっているんだろう。

『…お前はヘンなヤツだなぁ?アレだけ邪険にしたくせに死んだら泣くのか??全くよく判らんよ』

 ゆるやかなウェーブの黒髪も捩じれた角も、褐色の肌に鋭い紅蓮色の瞳…どうやら俺の産物ではないらしい夢魔のエルロイは本当に不思議そうに目を瞠って俺を見上げている。

「そうかなぁ…誰だって、心を許したヤツが死ぬのは哀しいと思うんだけど」

 そんなに不思議がるほどのことなんだろうか?

「そもそも、蹴った時の方がどうかしてたんだしさ」

 唇を尖らせて眉根を寄せたら、エルロイはふと、伸び上がるようにして、それから俺の腕を引き寄せながらキスなんかするから、そのままやわらかなベッドに倒れ込んでしまった。

「??」

『まあいいさ。今夜でお前と遊ぶのも最後だし、いつも女たちに使っている場所を用意してやったんだからじっくり楽しもうぜ』

 頬に蟀谷に口付けていたエルロイがニッと鋭い犬歯を覗かせて陽気に笑うから、俺は呆然としたようにそんな悪気のなさそうな夢魔を見上げていた。

「…え、今夜で最後なのか?」

 どうして、そんな言葉が口を滑り落ちたのか。
 別にこんな不毛な行為は…と言うか、こんな夢なんか見る必要ないじゃないか。俺はゲイじゃないんだから。
 でも、たった3日間だったけどエルロイの存在は強烈で、その存在がふと消えてしまうと思うと、心にポカッと穴が開いたような気持ちになっていたんだ。

『ああ、オレにも仕事があるからな。随分、女のところに行ってないんで仲間にどやされてるのさ。それに、男の身体についてもよく判ったし、何より楽しかったからもういいんだ』

 ズキリッと胸が痛んだ。
 ああ、そうだよな。悪魔なんか気紛れで人間を誘惑して、楽しんだらポイだもんな。  命を取られないだけまだマシなのかなぁ…
 そんなことを考えている間にもエルロイは俺の身体に触れてきて、その時はもう彼がその気にならなくても俺の身体は充分反応するようになっていた。現金なもので、昨日の甘ったるいセックスに俺の身体は何かを許してしまったのか、ヤツの指先も舌も喜んで受け入れているみたいだ。
 でも何故だろう、心が追いついてくれない。
 エルロイは悪魔で、みんなが言うように甘い仕草で俺を唆し、何もかも攫って行ってしまうんだろう。
 鎖骨や胸元にキスをして、それから既にはち切れんばかりに勃起しているその部分をサラッと無視したエルロイは、まるで悪戯みたいにその周りばかりきつく吸うから、俺は思わずその綺麗な黒髪に指を絡めて喘いでいた。
 こんな風に心の中は恐慌状態だって言うのに、愛撫を施されれば身体は素直に反応するんだから、男ってのは本当に悲しいぐらい即物的だ。
 含んでくれない意地悪な悪魔の捩じれた角に触れたら、ヤツは仕方なさそうにペロリと舐めてくれる。
 堪え性のない俺がビクンッと身体を震わせたら、エルロイはまたしても吃驚した顔をして俺を見上げてきた。
 そんな顔で俺を見んなよ。

「…だって、気持ちよかったんだ。仕方ないだろ」

 真っ赤になって目線を逸らしたら、ヤツは何を思ったのか、ニヤニヤと笑いながらキスしてきたんだ。

『早いな~?連日ヤッてて溜まってないはずだろ。何故なんだ?』

「だから…気持ちよかったんだよ」

 こんなこと言わせるなよ、恥ずかしいなぁ。

『ふーん…じゃあ、オレも早く気持ちよくなろうかな』

 前戯だとか愛撫だとかそんなモノしなくても、夢魔の力だとすぐに挿入できるそうなんだけど…エルロイの場合は、挿れた後に愛撫するのが好みらしい、と言うのも昨夜身を持って知ったことなんだけど。

「んッ」

 それでもやっぱり最初は痛い。
 狭い器官を抉じ開けるようにして先端が入ってくる時は、何かに縋らないと痛みで泣きそうになるけど…最後の夜は、ちゃんと両手でエルロイの背中に腕を回せるようになっているから、俺は初めてこの綺麗で不思議な夢魔に抱き付いてその衝撃を遣り過ごしていた。
 痛みに滲む目許の涙を唇で掬って、それからエルロイはうっとりと気持ち良さそうな、とても蠱惑的な顔をして俺を見下ろしてきた。

『お前の胎内は最高だよ。胎内に入る度にそう思う。なあ、ちゃんとオレを感じてるか?』

 奥まで貫かれて喘ぐ俺はコクコクと頷いたけど、何が気に喰わないのか、夢魔は突然不機嫌そうに激しく腰を入れてくるから、俺は痛みと、昨日覚えた快感の在り処を激しく責め立てられて身も世もなく泣きたくなった。

「うぁ!あッ…あ!…ひッ」

 堪らずに抱き着くと引き剥がされて、それから激しく濃厚なキスをされてクラクラしてしまう。

『最後なんだしさ。オレの名前を呼べよ』

 ああ、またそれだ。
 昨夜も最中に散々呼ばされたってのに、どうしてそんなに名前を呼んで欲しいんだろう。俺の…俺の名前は読んでもくれないのに。

「え、エルロイ…」

 好きだとかそんな言葉、絶対に言えない。
 俺の胎内にいる男はこれが最後だと言って、【別れ】について少しの感慨もないみたいだ。それなのに、俺だけが馬鹿みたいに薄情な夢魔に未練を残して、心までも持って行かれそうになっているなんて。
 知らずにポロッと涙が零れて、そうして、熱に浮かされた人みたいに虚ろだったかもしれないけど、哀しい眼差しのまま、どこか焦っているような奇妙な表情をする男らしい端整な顔を見詰めていた。

『どうしてそんな顔をするんだ?気持ちよくないのか??』

「気持ち…ッ、いいよ…ゥッ」

 熱に浮かされて笑ってはいるけど、揺すられる度に涙が頬に零れているみたいだから、ああ、俺は本当にエルロイから離れたくないんだなぁ。そんなこと、この薄情な夢魔には判りっこないんだろうけどさと確信めいた感じで思っていた。
 お互いの腹には俺が何度も放った白濁としたモノが飛び散って、それが一層、ねちゃねちゃと淫猥な音を立てながら、より深く交わっていることを物語るんだけど、だからこそ余計に俺に喪失感を植え付けるみたいだ。
 掻き抱くように後ろ頭に腕を添えてキスしながら、片足をこれ以上はないぐらい抱え上げられて、激しい動きで腰を打ち付けられると快感に嘆くように翻弄される俺の胎内にエルロイは灼熱のように熱い奔流を注ぎ込んだ。
 荒い息を吐き出して泣く俺の胸元に頬を寄せて抱き付いていたエルロイは、ふと不機嫌そうに上体を起こして、ムッツリとした顔付きで俺を覗き込んでくるんだよ。

『なぜ泣くんだ?』

 純粋なのか姑息なのか、よく判らない夢魔と言うこの男は、本気で何故俺が泣いているのかよく判らないと言う表情で、男前の双眸を細めて顔を曇らせている。

「…悲しいからだよ」

 俺はそんな風に薄情にはなれないし、こんな形でも身体を繋げてしまった相手に、快楽の虜になったから…とかそんな感情だったらもう少し楽だったんだろうけど、心の奥深いところがほっこりとあたたかくなる気持ちを知ってしまって、唐突に一方的な別れを切り出されれば泣きたくもなるさ。

『え?なぜ悲しいんだ?』

 お前のように俺は遊びで男と寝れるほど図太くないし、抱き締めた身体から仄かに香るあの柑橘類のような爽やかな体臭も、イく寸前に見せるあの男らしい双眸も、口付けてくれる少しかさついた唇も、何もかも忘れることなんかできるワケがない。

「それは…俺が」

 興味本位の遊びだったって告白されているのに、俺はいったい何を言おうとしているんだろう。
 こんな、妄想の産物であるはずの、夢魔とか言うふざけた男に。

「お前のこと、好きだからだよ」

 ポロポロと気付けば泣いてばかりだけど、別れなんてこんなモンなんだ。
 いつも好きになると必ず離れなければいけなくなるのは、俺に運があるとかないとかじゃなくて、相手も好きになってくれてるんじゃないかって期待して、俺が勘違いばかりするからなんだろう。

『何を言ってるんだ?好きなら抱かれれば嬉しいだろ。どうして泣くんだよ?』

 お前がいなくなるから…溜め息のように呟いたら、どうやらエルロイのヤツは呆気に取られたみたいだった。

『オレはさ、悪魔だから愛するってことがよく判らないんだ。だから、お前に好かれてもオレは応えられない』

「俺のこと嫌い?嫌いならそう言ってくれたら忘れられると思うんだけど」

 覗き込む紅蓮の双眸を見上げながら、俺はポロポロと泣きながら苦笑して呟いた。
 嘘でも本気でもどっちでもいいから、嫌いって言って欲しい。
 そうしたら、また諦めることができるから。

『嫌いでも好きでもないさ。オレには判らないって言っているだろう?お前の胎内に挿れるのは楽しかったし、良い退屈凌ぎにはなったと思っている』

 殴れたら少しはスッキリしたんだろうか。
 でも、俺はそうすることができなかった。だってさ、きっと悪魔のエルロイには人間の持つ気持ちとか本当に判らないんだと思うから。

「そっか…」

 何とも言えない複雑な表情で見下ろす不機嫌そうなエルロイの頬に手を添えて、それじゃあと言って、俺は最後のキスを強請ってみた。
 そう言うとエルロイは少しホッとしたようで、長い睫毛が縁取る瞼に紅蓮の双眸を隠して、最後の深い口付けをくれた。
 でも俺は、やっぱりポロポロ零れる涙を引っ込めることができなかった。
 さようなら、俺の恋心。

 チチチ…ッと、鳥の声がするおんぼろアパートの一室、万年床の上で起き上がって涙を零しながらぼんやりと布団を掴んでいた。
 ああ、こんな時こそ忘れさせてくれればいいのに…悪魔はなんて悪戯で薄情なんだろう。
 たった3日間の邂逅だったって言うのに、俺はなんだか一生分の涙を流したみたいだったし、心をもぎ取られたような痛みをこれから長いこと抱えて行くんだろうなぁと覚悟もしたみたいだった。
 気紛れな夢魔が戯れに遊んだだけだよって言ってくれたのにさ、心までガッツリ持って行かれちまうなんて、俺って馬鹿だよなぁ…

「はぁ…」

 万年床の上で体育座りみたいにして膝を抱えた俺は、その上に頬を乗せて溜め息を吐くと、忘れたくても忘れられない、あの熱い情熱を物語るような紅蓮の双眸を思い出していた。
 すごく悪魔らしくってさ、思わず笑っちゃうぐらいカッコよかったなぁ。
 3日間で身体に叩き込まれたのは淫靡な快楽だけじゃなかった…エルロイって言うとても不思議な悪魔のたくさんの仕種と切ない表情、それと彼に対する俺の恋心…とか。
 恋ってヤツはすごいなぁ…あんな風に妙な感じで因縁を吹っ掛けられただけだったってのにさ、ましてやその、れ、レイプ紛いに抱かれたって言うのに惚れてしまうなんて、昔の俺だったら絶対に考えられなかった。
 なのに、あのエルロイや黒猫に触れて、俺の心はすっかり柔軟になっていて、抱かれている間じゅう、もしかして愛されてるんじゃないかとか勘違いして恋をしてしまうなんて…

「…あ、そうか。エルロイはこのことを言っていたんだ」

 泣きながらキスされた時、俺の胎内に入った時、愛されてるって感じたって言ってた。
 でも、悪魔は人間と違うから、俺みたいに勘違いして好きになることはないんだな…エルロイが人間だったら、俺はもう少し頑張れたのに。
 もう、捜しても見つけることなんかできないんだから、頑張ることもできやしない。
 悪魔なんて何処を捜せばいいんだよ、ヘンな魔術本で召喚とかするのか?そんなの、違うヘンな悪魔が出てきたらどうするんだよ。

「あーあ。本当に完全にフられたんだなぁ…とか言って、相手もされていなかったのに、馬鹿だなぁ、俺」

 天井を見上げて頬を伝う涙はそのままで、消えてしまった悪魔に恨み言すら言えずに、俺は暫くそうして、部屋の中で蹲って泣いていた。

2  -愚者は真夜中に笑う-

 目覚めの悪い朝に違和感を感じながらも、大学生の身としては勉学に勤しむ必要もあるワケだから、身体の不調をやり過ごしてアパートを出た。
 初夏の涼しい風と眩しい太陽、突き抜けるような空…と、どれをとってみてもウキウキするような季節だと言うのに、どうして俺の気持ちは冴えないんだろう。
 そんなこた充分判ってるさ、俺は道すがら、蹴ってしまった猫の安否を気にしていたんだ。
 講義の間でさえ気になったし、いつもなら馬鹿笑いをする仲間内での猥談にもうわの空で、いったい俺はどうしちまったんだろう?ただの猫なのに…
 昨日は遅くまで有難うってことで、バイトも定時で上がらせてもらえたし、俺は夕飯をコンビニで調達してからあの夜の闇みたいに綺麗な黒猫がいないかと歩きながら捜していた。

『にゃあ』

 ふと、暗い気持ちで電柱の影なんかを捜索している俺の耳に甘えたような声が聞こえて、ハッと顔を上げたら塀の上で寝そべっていたのか、んーっと伸びをした黒猫が欠伸をしながら塀の上から降ってきた…んだけど、昨日蹴られたせいか、距離を取って少し警戒しているみたいだ。

「お前ッ!…よかった大丈夫だったんだな??朝いなかったから、どうかなっちまったんじゃないかってスゲー心配してたんだよ。良かったよー」

 元来猫好きな俺としては、警戒されているにも拘らず、それでも黒猫が高い塀の上から身軽にヒョイッと降りて来たところを見て盛大に安堵してしまっていた。

「あ、そうだ!ほらほら、コンビニで買ったチータラだけどお前喰うだろ?昨日のお詫びな」

 俺は屈みながら手に持っていたビニール袋からさっき買ったばかりのチータラの袋を取り出して、本当は野良猫に餌をやるのも拙ければ、チータラなんて塩分の強い食い物をやるのも拙いんだけどさ、それでも無事な姿を見せてくれた黒猫になんかあげたくて仕方がなかったんだよ。
 猫は『うにゃぁ?』と不審そうな声を出したものの、でっかい金色の瞳で俺を見上げたまま、恐る恐る近寄ってきて、それから俺の手許にあるチータラの匂いを嗅ぐと、ゴロゴロと咽喉を鳴らしながらパクンと咥えてアグアグと喰い始めた。
 そのピンッと尖っている両耳の間の部分や、柔らかな被毛に覆われたなだらかな背中を撫でながら、あの時はどうしてあんなことをしてしまったんだろうと俺がしんみりと反省していたら、チータラを喰い終わって満足そうにペロペロと口許を舐める猫が顔を上げて、それから懐いたみたいに屈んでいる俺の足許に擦り寄ってきた。
 そう言えば、この闇に溶けてしまいそうな綺麗な黒猫は、最初から俺にその身体を摺り寄せて懐いているみたいだった。
 首輪がないからきっと何処かの飼い猫が捨てられてしまったんだろうな。そうじゃないと、こんな綺麗な野良猫はいないだろ。

「ごめんな、飼ってやりたいんだけどさ。俺んちアパートで飼えないんだよ」

 見上げてくる黒猫に申し訳なさそうに笑って、俺はその小さな頭にぴょこんっと立っている耳を押し潰すようにしながら、やわらかく艶やかなその頭を撫でながら言った。その言葉を、猫はどう感じたのか、『にゃあ』と一声啼いてからふいっと踵を返して闇に消えるみたいにして何処かに行ってしまった。
 その後ろ姿を見送っていて、俺はふと焦燥感を感じたが、それ以上に奇妙な既視感を感じていた。
 あれ?いつかこんなことがあったんじゃなかったっけ??
 何処かの橋の上で俺…確か今みたいに黒猫に…後ろ姿が。
 そこまで考えて、俺は首を傾げたものの、首を左右に振って余計なことを考えるのはやめることにしたんだ。だってさ、結局何にも思い出せないんだし仕方ないよ。

 昭和の時代にでも建てられたんじゃないかと思えるほどおんぼろのアパート(これなら猫の一匹ぐらい飼ってもいいんじゃないかって思えるけど)に戻った俺は、それでもバストイレ付の好条件は捨て難いから、溜め息を吐きながらも鉄製の階段を上がって自室に辿り着いた。
 今日は講義もバイトもスムーズで、何しろあの黒猫がどこも痛めていないようでホッとした。
 ちょっと浮かれた気持ちでシャワーを浴びてから、レポートを書く気にもなれずに、そのまま上機嫌で万年床にダイブして枕を抱えて瞼を閉じた。
 今日はいい夢を見られるんじゃないのか?とかニヤニヤ思いながらウトウトしていたら、不意に腕に違和感を感じてぼんやりと目を覚ました。
 腕を上に引っ張られる形で吊るされて、オマケに全裸。見渡す限りの漆黒の闇…ってこれ?!
 そこで俺は漸く完全に覚醒して…とは言っても夢の中なんだが、昨夜の夢の内容を思い出して真っ青になってしまった。
 そうだ、どうしてあんな強烈な夢を忘れていたって言うんだ!!?俺は、想像とは言え自分で作り出したなんかよく判らん、悪魔のコスプレをしたヘンなヤツに、その、思い切り、その、お、犯されちまったんだった!
 夢とは言え、どんだけリアルなんだと信じられなかったけど、なんだ、またあの夢を見ているのか?!
 それなら、早く目覚めないと、早く…

『なんだ、今日はやけに可愛らしいことをしてくれたじゃないか。少しは反省したのか?』

 ぎゃあ!やっぱりこの声だッ。

「なな、なんでまたお前が夢に出てくるんだよ?!俺、そんな変態趣味は持っていなかったと思うんだけど…今度は罪悪感とかないから!消えてくれていいからッ!!」

 背後から聞こえるニヤニヤ笑っているみたいな声に総毛だって、慌てて背後を振り返ろうとしたんだけど、今回はガッチリ固定されているみたいで振り返ることはできないようだ。だから余計怖くて、俺は暴れながら言い募ったって言うのに。

『別にオレはお前の罪悪感が見せている幻なんかじゃないぜ?オレは夢魔のインキュバスでエルロイって言うんだ。お前は里舘光太郎だろ?』

「え…?どうして俺の名前を、って!そうかこれは夢なんだ。名前ぐらい知ってて当たり前か。つーか夢魔ってなんだ??インキュバスって???」

 俺そう言う中二病ちっくなことに疎いのに、よくこんな夢を見てるな。
 背後から淡々と話しかけられるのは正直全く気分は良くないが、見なくても、きっと昨夜の真っ赤な目をしたゆるやかなウェーブの黒髪の頭に捩じれた角の生えている、褐色の肌の悪魔もどきが上半身裸で立ってるんだろうってことは容易に想像がつく。

「!」

 ふと、ほんの気紛れみたいにエルロイって名乗ったどうやら夢魔?ってヤツらしいソイツは、鋭い爪を持つ指先で俺の首筋を撫で、それから後ろ髪に触れたみたいだった。
 その瞬間、昨夜も感じた怖気みたいなものが背筋を舐めるように這い上がって、それから、やっぱり俺は勃起していた。

「ええぇぇぇ…??!」

 もう何がなんだか判らなくって素っ頓狂な声を上げると、背後でプッと吹き出す気配がして、それからやんわりと俺を抱きすくめたりしたんだけど…さっきの怖気みたいなものも快感も少しも感じなかったから、それで俺はちょっとホッとして首と腹に巻きついているエルロイの褐色の腕を見下ろしていた。

『これで判っただろ?オレがその気になればお前を天国にでも地獄にでも落としてやれるんだぜ。昨夜は酷くしたから、今夜は思い切り可愛がってやるよ』

「…いいッ、いらんッ!いりません。俺のことなんか放っておいてくださいッ」

『そんなつれないこと言うなよ。オレは男は初めてだったからもっと男の身体を知りたいんだ…それに』

 その腕から逃れようと暴れる俺なんか平気で抱き締めて、こめかみや頬、首筋にキスをしながらにんまり笑ったんだろうエルロイは言ったんだ。

『お前の胎内はすごく良かった。すごく狭くてぬるぬるしてて…女もいいけど、絡みつく感じがまた全然違うんだ。なんて言うか即物的でそれでいて愛されてるんだなって感じた』

 全部お前の妄想です。
 青褪めて引き攣っていたからか、喉の奥に引っ掛かった声が出てこなくて、俺はぶんぶんと首を左右に振っていた。

『オレは悪魔だから愛するとかよく判らないんだよ。でも、お前がオレに突っ込まれて泣きながらキスした時は、なんて言うかやわらかくて、これが愛されてるってことなのかって思ったよ』

 いやいやいやッ、犯されているのに愛してるっておかしいでしょ?!おかしい表現でしょ、それはッ!

「うぁ!」

 必死で否定しようとしている俺の腹を、胸元を、エルロイの掌が探るように蠢いて、忘れていた快感がずんっと身体の芯を貫いたみたいで、俺はバカみたいな声を出してしまっていた。

「や!嫌だ…あッ、あ!…いや、ぅあ…ッッ」

 背後から俺の膨らみもない胸や肉付きの悪い腰を探りながら首筋を舐めて、褐色の腕はゆるゆると俺の下腹部まで到達すると、勃起しているそれを確かめるように掌に包み込むから、俺は耳まで真っ赤になって気弱に首を左右に振ってしまった。

『嫌なんて言うなよ。ほら、よくしてやるから』

 ねっとりと執拗に弄られて、俺の先端からは早く早くと強請るように先走りが滲んでいるんだけど、鈴口にぐにっと指を押し当てられただけで―――…

「ぅんッ、ひ…ッ」

 悲鳴のような声が上がったと同時に、俺は吐精していた。
 その快感たるや相当なもので、自分でヤるよりもはるかに気持ちよかった。
 ぶるぶる震える敏感な身体を撫で回されて…ああ、これ以上触られたらおかしくなりそうだ。

『いっぱい出たな?なんだ、溜まっていたのか。でも、な?気持ちいいだろ。オレ、こう言うのが得意なんだ。女だったらご主人の命令以外ではヤれないんだが、お前は男だから、そしてオレはサキュバスじゃないから自由にできるのさ』

 暢気な口調で陽気にそう言ってべっとりと俺の精液を掌に受け止めているエルロイは、胸が苦しくて死にそうな俺なんかまるで無視して、『これじゃあ傷付くもんな』とかなんとか言った後、荒い息を繰り返す俺の背中にしっとりと裸の胸をよせて、そして白濁したモノに汚した指先を…あんなに鋭い爪があったその指先を、俺の唯一男を受け入れるあの狭い器官に潜り込ませたんだ。

「!」

 そうなるんだろうなって判ってはいたけど、あれだけの激痛にノックダウンさせられそうになったってのに、今日のその部分はまるで女みたいにしっとりとヤツの指先を含んで、それから強請るように絡みついているみたいだ。
 ああ…なんだろう、この腹の底がむず痒いような感覚は。

「ぅ…ふ……ァ…あ」

 淫靡な湿った音を、無限にも思える暗黒の空間に響かせて、抑えきれない声が、誰の声だよって喚き散らしたくなるぐらい淫らな声を上げて、俺は手許を拘束する鎖を縋るように掴んでいた。
 そうじゃなかったら膝から力が抜けて、そのまま倒れそうになる。

『…うん。指に感じてるみたいだな。はぁ、胎内を触ってるだけでオレも感じてるよ。なんだろう?この感覚は』

 エルロイは不思議そうに呟いて、それから俺を拘束している鎖がジャラジャラと音を響かせて落ちてくるのと同時に、俺は引力に逆らえずにそのまま前のめりに倒れてしまった。
 指を突っ込まれて掻き回される腰だけを高く掲げて、両腕を拘束されている上半身はさほど硬くない床に倒れ込んでしまった。

「ア!…ぁぁ…ッ」

 いつの間にか増やしていた指を乱暴に引き抜いて俺を喘がせると、エルロイは不意に俺に伸し掛かりながら耳元で荒い息を吐ついて囁いた。
 その声はとても淫靡で、それだけで俺はイッちまいそうになった。

『女とヤッてもあんまり感じなかったのに。お前が男だからかな?まあいい、お前の胎内を楽しませてくれ』

 ず…ッと、音を伴うような感覚で、不意に血管の浮かんだ灼熱の棍棒みたいなソレが、俺の胎内を切り開くようにして入り込んできた。昨日はあんなに痛かったのに、そのむず痒いような速度に焦れて生理的に浮かんでいる涙がポロッと頬を零れ落ちた。
 こんなはずじゃないのに、こんな行為は嫌なのに…
 拘束された両腕を延ばして、何かに縋ろうと、いや何に縋りつけるんだこんな状態で。

「あ、あ、ぅ…んッ、……ぅあッ」

 涙を零す俺に伸し掛かったままで強弱をつけて腰を揺らめかすエルロイは、背後から首筋や涙に濡れる頬に口付けながら荒い息を吐いて嬉しそうだ。

『ああ、やっぱりだ。お前の胎内は熱くて…すごく感じるよ』

 勃起して痛々しいほど涙を零す俺の股間に指を這わせて、首を激しく左右に振っているのにエルロイは許してくれなくて、俺はすぐに吐精してビクビクと蹂躙されているはずの狭い器官に力が入ってしまう。
 そうするとエルロイは気持ち良さそうに吐息して、その息が首筋にかかるだけでまた勃起する…なんか酷く発情しているみたいで本当は恥ずかしいのに、それだってすごい感じてるんだから俺って馬鹿だよな。

「あ…ぁあ…ル、ロイ……どうして、こんな…ぅあッ、……ッ」

『え?オレの名前を呼んだのか??え、こんな時に?どうしてだ…?』

 開けっ放しの口許から唾液が零れる俺の口の中に指を突っ込んで、口腔まで蹂躙したいようなエルロイの指が離れたほんの一瞬、自分が何を言いたいのかも判らない熱に浮かされて呟くように言っただけなのに、俺の胎内を充分堪能していたヤツはそれこそこんな時だってのに吃驚したように声を上げたんだ。
 なんか、感じまくって発情しまくってんのは俺一人じゃないかって思えるよ、トホホホ。

「ッ!」

 不意に胎内に入ったままだって言うのにぐるっと向きを変えられて喘がされたけど…って、俺そんな細身じゃないはずなのに、この悪魔みたいな…いや、夢魔なんだから悪魔なのかな…コイツはどれだけ力強いって言うんだ。
 拘束された両腕を一掴みにして、馬鹿みたいに惚けた顔で頬を上気させている俺の双眸を、エルロイは目尻を欲情の色に染めているものの、やたら闇の似合わないキョトンとした紅蓮の双眸で覗き込みながら不思議そうに呟いた。

『オレの名前を呼ぶなんて信じられない。大概の女はオレのご主人に許しを請うのに。やっぱり、それはお前が男だからなのか??』

 ああ、なんて顔をしてるんだろう。
 どうしてコイツはこんなに綺麗なのに、こんなすっ呆けたことを言っているんだ。

「?…に、言って??だって…ッ、お前が俺を抱いているのに、知らないヤツの名前なんか呼べないよ…ッッ」

 尻に深々と穿たれているモノはお前自身じゃないか、何を言ってるんだろう。
 ゆるやかな波打つ綺麗な漆黒の髪に捩じれた角、褐色の肌に端正に整った顔の中で情熱的に揺らぐ紅蓮の瞳を持つ、たいそう不思議な存在のエルロイは、それはそれは不思議そうな顔をしていた。

「んぁ!…あ、あ…も、ダメッ」

 そんな顔をしたままで俺を揺するから、俺は両手を拘束された不自由な体のままで、もう数えきれないほどの高まりに導かれてしまう。

『オレの名前を呼んでみろよ。オレの名前を呼びながらイけよ』

 何か憑かれたように何度もそう言うエルロイの声を聴いて、俺は仰け反るようにして身体を硬直させながら、ハラハラと涙を零して彼の名前を呼んでいた。

「あ!…える、ろい……アァッ…ぅあッ…え、エルロイ!」

 もう何度目か判らない吐精の瞬間、エルロイは驚いたみたいに吃驚した顔をしたけど、それでも俺の胎内に彼の奔流が叩きつけられて、なんだか俺は、どうしてそう思ったのかよく判らないんだけど、とてもとても嬉しかったんだ。

 チチチ…ッと鳥の声がする。
 俺はぼんやりと万年床の上に起き上がって布団を掴んでいた。

「…んー…」

 ボリボリと頭を掻きながら朝の陽射しの挿し込む狭い部屋の中で、俺はなんだか夢を見ていたようなのに、その内容が思い出せずに綺麗さっぱり忘れているみたいだ。
 なんか、前もこんなことがあったような気がするんだけど…

「ん?な…まえ??えーと…何だっけ?」

 なんだか思い出しそうで思い出せない焦れったさに、苛々していたものの、でも心は妙にスッキリして気分は爽快だし、きっといい夢を見たに違いない。

「まあいいか、なんか今日は気分もいいし♪」

 胸の奥があったかいこの感覚は…なんだか馬鹿みたいだけど、まるで恋でもしているみたいだ。そんなこっぱずかしい夢でも見てしまったのかな。
 でも、それならそれでいいや。
 もう、あんな悲しい恋はしたくない。せめて夢の中だけでも幸福で幸せな恋ができるのなら、きっとそれは幸せなことなんだと思う。
 俺は起き上がると伸びをして、それから欠伸なんかしながらバスルームに向かった。

1  -愚者は真夜中に笑う-

 その日の俺はかなりムシャクシャしていた。
 バイトがなかなか終わらなくて焦っていたってのに、結局終電を逃しちまって、たまたま近くまで行くって言う先輩の車に乗っけてもらったまでは良かったけど、降りた場所はアパートから1時間も歩かなきゃならないわで、ホントに踏んだり蹴ったりだった。
 その上、提出しないといけないレポートは明後日までなんて悪夢に、できれば誰か引っ叩いて起してくれねーかなとか思ってしまった。
 急ぎ足で誰もが眠る丑三つ時、2時を少し回った人通りの全くない寂しい道を歩いている、そんな凶暴な思いを抱えた俺の足許に、突然塀の上から降って来た真っ黒い猫が『にゃあ』と啼いて擦り寄って着たりするから…

「うるせーんだよッ」

『ぎゃんッ』

 俺は思わず蹴飛ばしてしまっていた。
 日頃はこんな凶悪な気持ちなんて持つこともないし、ましてや擦り寄ってくる野良猫を蹴飛ばすなんてことは絶対しなかったって言うのに、その日の俺は本当にどうかしていたんだと思う。
 闇夜に紛れてしまうほど黒い猫は蹴飛ばされて、道路の上をスライディングしたものの、ゆっくりと起き上がるとよたよたと俺の傍まで近寄ってきて、黄金色の大きな瞳で見上げると、やっぱり『にゃあ』と啼いたんだ。

「~~ッ」

 その怒ってもいないし、ましてや恨んでもいないような綺麗な瞳を見て、その時になって漸く自分が仕出かしちまった事の重大さに気付いたんだけれども、強情で素直じゃない俺は謝ってやることも怪我を心配してやることも忘れて、そのままそんな黒猫を無視して足早にアパートまで歩いて行った。
 にゃーんにゃーんと啼いて呼ぶ猫のことなんか無視して、とうとう振り返ってもやらなかった。
 きっと、痛かったに違いないだろうに…

 おんぼろアパートに着いて古い鉄製の階段を駆け上がって、嫌な気分だったってのに、自分のせいでますます嫌気がさしていた俺は、乱暴に鍵を開けて部屋に転がり込むと、こんなアパートでも風呂付を選んでいて良かったんだが、シャワーもそこそこに万年床に潜り込んで眠ることにした。
 バイトの疲れに加えて1時間近くも歩いたせいか、その時の俺は草臥れていたんだと思う。あんな嫌なことをしたんだから緊張して感情が昂っていてもちっともおかしくないし、それで眠れなくなるんだろうと思い込んでいたってのに、よほど疲れちまっていたんだろうなぁ、俺は程なくして深い眠りについたみたいだった。
 ウトウトしていて、ふと腕に違和感を感じで目が覚めたはずなのに、辺りは見渡す限りの漆黒で、気付けば俺はどうやら全裸で吊るされているようだ。

「???!」

 細い鎖のようなのに力いっぱい引っ張ってもビクともしないし、何より、この完全な闇はどう言うことなんだ?!
 …ああ、そうか。俺は夢を見ているんだ。
 どんな悪夢に魘されるんだとうんざりしていたら、不意に背後に人の気配がして、俺は咄嗟に自分が全裸であることに気付いて赤面したものの、これは俺の夢んだからきっと綺麗なお姉ちゃんが魅力全開で登場していつもみたいに派手にエッチなことをするんだろうと思った。
 いつものエッチな夢にしては珍しいシチュエーションだな。

『よくも蹴ってくれたな』

 不意に野郎の声がして、俺は思わず「え?」と声を出して振り返ってしまった。
 そこに立っていたのは鼻の頭に皺を寄せて下唇を突き出した、真っ赤に滴るような紅い虹彩を持つ褐色の肌の、ゆるやかなウェーブが肩を覆う漆黒の髪と、それを突き出して覗く捩じれた角を持つ、どうやら外見は悪魔みたいな野郎が、豪く不機嫌そうに腕を組んでいたんだ。
 呆気に取られて目を瞠る俺に、ヤツは黒髪を掻き揚げながら不機嫌そうに言いやがった。

『夜道に独りじゃ不用心だからってほんの気紛れで懐いてやろうと思ったのに、なんだお前は。ひ弱な猫を蹴るなんて上等な根性をしてるじゃないか』

 苛々としている感じはビンビン伝わってくるのに、この俺の夢の産物であるはずの悪魔みたいな男は、態度のワリには冷静な口調でブツブツと悪態を吐いている。

「…猫には、悪かったと思ってるんだ」

 それでも痛いところを突かれた為か、罪悪感に苛まれていたせいか、俺はモゴモゴと口籠るように言い訳を試みてしまったんだ。

『悪かっただって?そんな綺麗事で許されるとでも思っているのか?』

 禍々しいほど真っ赤な紅蓮の双眸で俺を睨み据えるソイツは、いや、この際悪魔と呼んでも間違いじゃない出で立ちの…と言うのも、上半身は裸なんだけど、下半身はジーンズみたいなズボンを穿いているから角だけで一概に悪魔と呼ぶのもどうなんだろう?そんなコスプレでもしてるキャラを登場させるぐらい、俺の脳内は何かに汚染でもされてるんだろうか。

「朝にでも様子を見に行こうと思って…」

『遅いんだよ。何もかも遅い。蹴り所が悪くて死んでいるとは思わないのかよ?』

 腕を組んで下唇を突き出すようにして責め立ててくるこの悪魔みたいなヤツは、きっと俺が作り出した罪悪感が具現化した姿なんだろう。
 甘ちゃんな俺のことだから、きっと天使のように綺麗なお姉ちゃんが現れて、俺の罪を判り易く説いてくれて、そして苛まれている俺を優しく抱きしめて慰めてくれて、それからエッチに突入!…な夢かと思ったら、どうやら俺は、責め立てる相手を悪魔に見立てるほど、今回のことを後悔しているんだな。
 よかった、まだ真面な心ってヤツが残ってたんだ。

「それは…」

『ふん!大方、考えてもいなかったんだろうよ。オレはインキュバスだから本来なら人間の女しか相手をしないんだが、今夜は特別だ。蹴られたお礼をしてやるよッ』

「え?…ッ」

 両手を吊り上げられたままの不安定な状態の俺に、悪魔みたいな野郎が鋭く尖った爪を有した指先を持つ腕を伸ばしてきて、無防備な裸の胸元を触れた瞬間だった。
 ゾクリッと背筋に奇妙な怖気が這い上がって、次いで、信じられないことに興奮して勃起してしまっていたんだ。
 な、なんなんだ、これ?!
 ただ、ゆるやかに触れられているだけだって言うのに、脳天がスパークしてそれだけでイッてしまいそうなほどガチガチに俺の逸物は勃起して、先走りの雫が震えるみたいに盛り上がっている。
 頭ではこんなのはおかしいと判っているのに、身体はゾクゾクして、もっとソイツに触って欲しいと望んでいるみたいだ。自分では意識していないってのに俺は頬を染めながら欲情に濡れた双眸で縋るように、ムスッとしている俺とは対照的な不機嫌そうな表情の悪魔みたいな男に救いを求めるように見詰めてしまっていた。

『どうだ、誘惑を拒否できないだろう?女なら優しく大切に抱いてやるところだが、お前には愛撫だってしてやるかよ』

 言うが早いか、ヤツは吊るされている俺の身体を反転させて、背中から覆い被さるようにして抱き締めてきたんだ。それだけでもう、イきそうになったのに、すぐに俺の口からは悲鳴のような叫び声が漏れていた。

「ッ…い、いてッ!いた…やめ…いーーーッッ」

 ぎちっ…と、視覚を伴うような音が聞こえた気がした。
 血管の浮かび上がった灼熱の鉄の棒を、何かやわらかいオブラートで包んだような、ぬらりとしたその先端が、本来なら排泄行為にしか使うことなんてないだろうって場所にグイグイと押し付けられて、そしてあろうことか潜り込もうとしやがってるんだ!
 我慢ならない痛みに全身で拒絶してるって言うのに、鋭く尖った爪を持つ指先で、じっとりと汗が滲む額に張り付く鬱陶しいぐらい真っ黒の髪を掻き揚げられたら、ほんの少し欲情に意識が逸らされてホッとした…のもつかの間、その瞬間を狙い定めたみたいにグイッと窄まりを突き破るようにして灼熱の杭をねじ込んできやがった。

「あ!ッッ…い、ひぃッッ!!」

 もう、悲鳴しか口から出てこない。
 こんな悪夢があるんだろうか…俺はそのまま意識を手離して目覚めたいのに、俺をこんな極限の激痛と恐怖に叩き落としてくれている男は、そうすることを拒むようにするすると脇腹から腹を指先で辿り、苦痛と快楽に俺を喘がせる。
 いっそ、殺してくれたいいのに…
 ブツ…ッと、何かが切れたような破れたような音が、いや実際は音なんかしていなかったかもしれないけど、俺には感覚的に胎内で音が響いたように感じたんだけど、ポタポタッと足許に鮮血が零れて、長大でガチガチに硬くてゴツゴツしたモノがスムーズに潜り込んだから、ああ、きっと切れてしまったんだ。
 口に出すのも悍ましい、その器官が。
 同時に襲ってくる激痛にのたうつこともできなくて、俺の全身から力が抜けたみたいだった。
 その俺の身体を片手とアレで支えながら悪魔みたいなヤツが鼻で息を吐き出す気配がした。

『ふん、自分が痛めつけられれば弱音を吐くのか?だがまあ、男もなかなか悪くないって新境地を発見させてくれたんだ。今回はこれで許してやるよ』

 耳元で甘ったるく囁かれて、あれ?コイツってこんな声だったっけ?
 もっと不機嫌そうで苛々していたみたいな…ああ、もう怒っていないのか。
 ズッ、ズル…ッと引き抜かれては内臓を全部持っていかれるような違和感に吐き気がして、挿し込まれる瞬間には痛みに唇を噛み切りたくなって目尻から涙を零していると、よく判らないインキュ…バス?と名乗ったソイツは、俺の耳元で気持ち良さそうに溜め息を吐いている。
 俺の狭くて小さい器官は切れているとは言えまだぎゅうぎゅうみたいで、喰い千切らんばかりになっているんじゃないかって思うのに、インキュバスはちっとも辛そうじゃないから…なんだよ、この不公平さは。

「ヒッ…あ、い、いぁ…ッ、……ぅ」

 涙をぽろぽろ頬に零して声にならない悲鳴を上げる俺を見ているのかいないのか、何故か紅蓮色の視線を感じたような気がしたけど、今の俺はそれどころじゃない。
 この世で感じたこともない痛みを感じさせられているって言うのに、気絶することもできなくて、その痛みで目覚めることもできず、じっとりと全身に脂汗を滲ませて、ひたすら胎内の男が出て行ってくれるのを待っているって言うこの状況で、ヤツは俺の肩口に咬みついて気持ち良さそうにしてるんだから泣きたくなる。

『ああ、なんだ凄くイイな。まさかこのオレが感じるとはね。よし、もうお前もイけ』

 俺の血液とヤツの先走りで卑猥な音と腰を打ち付ける音が混ざり合って、聴覚でも犯されながら涙を流していると、そんなことを呟きながらインキュバスは背後から俺の頭を押さえるようにして振り向かせて、牙のある唇で口付けてきた。
 痛みに引き攣れる舌に舌を絡めてきて、噎せ返るような男の色気が媚薬みたいに俺の脳内を麻痺させながら、深く深く口付けてくるから、俺は泣きながらその舌を受け入れていた。
 次の瞬間には鋭い爪を持つ指先で萎えて縮こまっている俺自身を掴み、根元からねっとりと扱かれて、それだけだと言うのに、そんな単純な行為だと言うのに痛みも苦痛も何もかも一瞬で忘れて、得も言えぬ激しい快感には目がチカチカすると頭の天辺で何かがスパークしたようで、俺は一瞬でイッてしまっていた。
 その衝動とほぼ同時に俺の胎内にインキュバスが吐精して、噴き上がったマグマのような熱を持つ体液が最奥に注がれたようだった。
 何か言われたような気がしたけど、それで漸く、俺は悪夢の中で意識を手離すことができたんだ。
 やっと、悪夢が終焉を迎えたみたいだった。

 チチチ…ッと鳥の鳴き声が聞こえて、俺は上半身を起こした万年床の上でぼんやりと布団を掴んでいた。
 なんだかガチガチに緊張したみたいな身体は強張っているのか、若干息も荒いような気がするし、何やらぐっしょりと汗ばんでいる気もしていたから、昨日はバイトも忙しかったし1時間も歩きまくって心身ともに疲れたんだなぁと実感したよ。
 何か夢を見ていたみたいなんだけど思い出せない。
 うーん…俺は夢の内容を忘れることはあっても、大概その断片は記憶しているんだけどさ、今回は何故かサッパリと忘れてしまっているみたいなんだ。
 とは言え、本能の部分が思い出さない方がいいと言っている感じがするから、たぶんいい夢じゃなかったんだろうな。
 俺は溜め息を吐いて起き上がると伸びをしたんだけど、その瞬間、何故かズキリッとあらぬ部分が痛んで飛び上がってしまった…けど、それは何かの名残りみたいなものだったのか、恐る恐る歩いてバスルームに向かったけど、その時はもう痛くなかった。
 なんだったんだ。
 俺は大学に行くための準備をしながら、予測不能の事態に不安を感じていた。

第二部 22  -悪魔の樹-

 海王レヴィアタンが治める海は何事もないように凪いでいて、俺は遠い昔に家族で行った沖縄の海を思い出していた。
 あれだけの突風が吹き荒んでいた石橋を渡り切り、それから岩だらけで地獄なんじゃないかと疑いたくなる岩場を抜けた先、まるで南国の海が太陽の光を反射させてキラキラと水面を輝かせていたんだ。

「うゎー…綺麗だー」

 思わず間抜けな口調で呟いたものの、石橋を渡ったところで降ろしてくれ歩かせてくれと言って暴れる俺を、白い悪魔は残念そうな仕方なさそうな表情をして、それでも希望通り降ろしてくれたから、自分の足で歩いて殺伐とした岩だらけの道を抜けたところでこの絶景だ。
 ビックリしたって罰なんか当たらないだろ?

『なんだ、今日は海の機嫌が良さそうだな』

 腕を組んでおやっと言った感じで白い整った綺麗な眉を跳ね上げた大悪魔に、薄汚れてるんじゃないのか?と聞きたくなるくすんだ灰色の猫が物珍しそうに猫手で口許に触れながら頷いている。

『いつもは北の海も逃げ出すほど荒れておられるのに…ご主人、機嫌が良いのかい?』

『オレか?』

 俺のことなんかまるで無視した一匹の小さな猫と、その飼い主…って言い方が正しいかは別として、灰色猫のご主人である白い大悪魔レヴィアタンは腰に手を添えて首を傾げている。その仕種から、どうやらいつもはこんなに穏やかでも凪いでもいないんだなーってのが判った。
 断崖絶壁のように突き出している部分に突っ立っているからなのか、時折、気持ち程度に吹いてくる風は、強い陽射しの南国に唯一の救いのような清涼とした心地良さで、そう言えば俺、魔界に来てから季節感を感じたことなんかなかったなぁ。
 あれから随分と時間が経ってしまったように感じるけど、向こうはまだ夏なのかな。
 あんまり色んなことが有り過ぎたし、気付けば目まぐるしく環境が変わっていたから、こんな風にゆっくりと景色を眺めることもしてなかったんだ。
 でも、そう言えばベヒモスのところは穏やかだったっけ。
 あのお茶目なナリをしたお人好しのカバは、今でも元気でいるのかな。

『海は即ちご主人そのものだよ。ご主人がご機嫌なら海もご機嫌だ』

 灰色猫が何を当たり前なことを、とでも言いたそうな口調で『うにゃーん』と呟けば。

『ああ…』

 そんなモンなのかと自分の領土であるくせにレヴィアタンは気のない感じで灰色猫に返事をしていたんだけど…

「わぁ?!」

 思わず素っ頓狂な声を上げてしまったのは、懐かしいカバだのなんだのに思いを馳せて、海をぼんやりと眺めていた俺にいきなりレヴィアタンのヤツが抱き着いてきたからだッ。  な、なんなんだよ、いったい。

『どうしたんだ?ボーッとしてさ。オレの領土に見惚れてるのか?』

 嬉しそうな声なんか出しちゃってさ。
 ニヤニヤと意地悪そうに笑いながら覗き込んでくる黄金色の綺麗な双眸は、いつも以上の上機嫌で、そんな瞳に見つめられてそんな仕草をされて、図らずも胸がドキドキしていることは絶対コイツには内緒にしてやるんだ。

「ああ、とっても綺麗だよなッ!沖縄の海にいるみたいだ♪」

 でも、素直な気持ちはちゃんと伝えてやる。
 だって、ここは本当に母さんと最後に旅行した沖縄の海に似ているんだから…

『オキナワ?ふーん、中間地にある場所なのか?』

 俺の色気もクソもない鬱陶しいぐらい黒い髪が海風に揺れるのを、まるで風に嫉妬でもしているように頬を寄せて押さえつけて、レヴィアタンは機嫌が良さそうに聞いてきた。

「うん。まだ母さんが生きていた頃に旅行で行った場所なんだ。小さな島みたいな県なんだけど、人の好さそうなひとたちがたくさん居て昼間の海はそりゃあとても綺麗なんだけど、夜はもっと綺麗だったよ。満天の星空と月明かりがとても綺麗な砂浜に静かな海があって…俺、すごく好きな場所になってた」

 夢見るように思い出すあの美しい南国の島は、今もそのままゆるやかな時間が流れているんだろうか…

「いつか、レヴィアタンと一緒に行きたいなぁ」

 よほど俺は幸せそうな顔をしていたのか、レヴィアタンは大悪魔のくせにきょとんとした顔をしていたが、それでも今まで見たどの顔よりも穏やかな表情を浮かべてにんまりと笑っているんだ。

『そうか。それはとても美しくて穏やかな島なんだろう。オレも見てみたいな』

 白い悪魔は俺の頭に頬を寄せたままで、自分が統べる領地を、今はとても穏やかに凪いでいる海を見詰めたままで、心からそう思っているのか、まるで俺の意思を正確に感じ取ったように呟いたんだ。
 穏やかな海を見ていて、ふと俺は、ベヒモスの言ったレヴィの嫉妬の始まりについて思い出していた。
 どうして、レヴィは海が嫌いなんだろう。
 荒れ狂う海も、穏やかな海も、何もかもがこんなに綺麗で奥深くて、人間では到底敵わない神秘的な領域だってのに、支配者であるレヴィアタンは仕方なく統治しているなんて海が可哀想だよなぁ。

「…なぁ、レヴィアタン。どうしてお前は海が嫌いなんだ?」

 俺の頭に頬を寄せ自分が統べている領地を改めて見詰め返しているようだったレヴィアタンは、俺の問い掛けにちょっと驚いたような表情をして顔を上げると、それから徐に顔を覗き込んできたんだ。
 う、なんか俺、ヘンなこととか言ったっけ?

『どうしてそんなことを聞くんだ?』

 どうしてって…

「だってさ、そりゃあ大地も神秘的で素晴らしいことがたくさんあるだろうとは思うんだけど、でも、海だって捨てたモンじゃないと思うんだ。綺麗さも残酷さも全部一抱えにして黙ってそこに居てくれる大事な存在なのに、その海を統治しているレヴィアタンが嫌っているなんて、海が可哀想だって思ったんだよ」

 不思議な表情を浮かべて覗き込んでくる黄金色の双眸を見詰めて、俺はできるだけ自分の気持ちが伝わっていればいいのにと思いながらそう言った。
 ザザンッ…と、眼下に広がる凪いだ海が、ほんの少し漣を作り出したみたいだった。

『海が可哀想か…お兄さんが言いそうな台詞だねぇ』

 ご主人であるレヴィアタンと俺のラブラブ(?)な時間の時は、忠実な使い魔である灰色猫は見て見ぬふりで黙って傍らに控えているんだけど、たまに思い出したように合いの手を入れてくるのは、自らのご主人が何を言ったらいいのか判らないと言った困惑した表情を浮かべて突っ立っちまったからなんだろう。
 灰色猫の合いの手で漸く我に返ったのか、レヴィアタンはコホンッと咳払いをして唇を尖らせて俺を見下ろしてきた。

『別に海を嫌っているわけじゃないさ』

「でも、一週間も暴れたんだろ?」

 間髪入れずに言い返したら、レヴィアタンは『うッ』と言葉を詰まらせて、それからバツが悪そうに真っ白な髪を掻き揚げて溜め息を吐いた。

『お喋りなベヒモスめ…まあ、いいか。確かにオレは自分が統べるのが大地じゃなかったことに腹を立てて暴れたけれど、でもだからと言って海が嫌いだったってワケじゃないぜ』

「え?」

 だって、レヴィアタンは大地をこよなく愛していたから、海に追いやられたって言って怒って暴れたんだろ?だったら、やっぱり海が嫌いだってことじゃないのか??
 俺の疑問は充分承知しているのか、やれやれと溜め息を吐いたレヴィアタンは、その眼差しを漣を立てる海に向けて、暫く何かを考えているようだったけど話してくれる気になったみたいだった。

『どうしてオレが大地に執着したかと言うとさ。いずれその地に人間が誕生するって知ってたからなんだよ』

「ええ?」

 え、しか言ってないけど、確かに思わずえ?って言いたくなってしまった。
 どこまで悪魔って物知りなんだろう。
 やっぱり、悪魔に不可能のないレヴィだからの成せる業なんだろうか。

『オレの特技の一つに未来を夢見ることができるってのがあるんだ。勿論、自分のことはよくわからないし、それは細やかな事でもあるワケなんだが、その時は人間の誕生を知る夢を見たんだ』

 す、すげー!どこら辺が細やかなんだろう…悪魔の細やかがいまいちちょっと判らなくなってきた。

『オレは別に大地や海がどうこうってワケじゃなかったんだよ。オレはさ、こう見えても人間って生き物が好きなんだよ』

 それは唐突な告白だったから、俺は思わず言葉も出せずにポカンッとそんなレヴィアタンを見詰めてしまった。随分と間抜け面だったんだろうけど、レヴィアタンはちょっと困ったような表情をしてそんな俺を見下ろすと苦笑して、それから溜め息を吐くみたいに言ったんだ。

『人間の持つ健気さも悍ましさも我儘も身勝手も、何もかもがオレたち悪魔にしてみたらたった一瞬の時間しか生きないくせにやたら一生懸命でさ、そんな想いがとても儚くて、だからこそオレはそれらを見ることが好きだった。夢で見たその気持ちが強くて、オレはそんな人間が生きる大地に憧れて…そうだな、きっとアレは憧れの気持ちだったに違いない。大地を手に入れれば、いつだって人間を見ることができるって思ったんだろう』

 海から吹き上げてきた風に真っ白な髪がパッと舞い上がって、人間にはない綺麗に整った横顔を見せて海の遠くを見詰める白い悪魔に、俺は言葉もなくついつい見惚れてしまった。
 そんな遠い昔から、レヴィアタンは人間を見続けていたんだなぁ。
 だからこそ、何処かの偉い人がレヴィアタンを世界の支えに決めてしまったのかなって思うよ。
 レヴィアタンは大地に憧れた…って言っているけど、本当はそうじゃないんじゃないかな。海の神様のなれの果てだって言う大悪魔ではあるんだけど、本当はレヴィアタンは人間に憧れていたんじゃないのかな。

『でもさ、気付いたら海を統治しても人間の世界を覗けるんだよ。バカみたいに暴れて損したって今は思ってる。なんせ、お前が海を好きって言うんだ。今は海を統治していて良かったって思ってるんだぜ』

 ニヤッと笑って俺を見下ろしてくるレヴィアタンに、海を統べる大悪魔に、俺はなんだか嬉しくってニッコリ笑ってその腕に抱き着いてしまった。

「うん、俺は海が大好きだよ!ベヒモスも言ってたけど、人間は殆どのひとが海を好きなんだよ。だから、この広い海を治めているレヴィアタンのことをきっと人間は大好きだと思うよ。だから、何処かに居るエライ人はレヴィアタンを海の王様にしたんだろうな。レヴィが海の王様でよかった」

 うん、心からそう思う。
 ルシフェルを見ていて悪魔は少なからず人間のことが好きなんだろうなって思うことはあったけど、それは気紛れな興味本位ってヤツで、レヴィアタンほど人間を好きでいてくれる悪魔なんて絶対に何処にもいないと思うんだ。
 レヴィアタンだからこそ海を支配して、その心の均衡が世界を支える礎になっているんだって、今なら素直に信じるができる。
 そんなこと、きっとレヴィアタンにしかできないと思うから。

『そうかな…オレがこのまま海を治めていても本当にいいのかな』

 ビックリしたように俺を見下ろしていたレヴィアタンはちょっと苦笑して、それからふとそんなことを呟くと、海からの風に真っ白な髪を弄ばれながら、ここではない何処か遠くに想いを馳せるように海の彼方を見詰めたみたいだった。
 不意に哀しげな横顔を見せられて、正直俺はドキッとしていた。
 俺様で傲岸不遜で横柄で傲慢で嘘吐きで乱暴で最強の白い大悪魔なくせに、どうしてそんな風に心許無い頼りなげな、哀しい顔をするんだろう。
 あの威風堂々とした態度はどうしたんだよ。
 何か言わないと、何か言って、この白い悪魔をここに留めて護らないと。
 どうしてそんなことを思ったのかよく判らなかったけど、確かに俺はそんなことを考えて、焦ったように抱き締める腕に力を込めていた。
 そんな俺の仕草で不意にレヴィアタンが気付いたみたいで、瞬きをした白い悪魔が俺を見下ろして、何か口を開こうとした時。

『何を仰ってるんだい、ご主人。この海をご主人以外の誰が治められるって言うんだ。さあ、風も出てきたし、お兄さんの身体に障ると悪い。とっとと城に戻ろうよ』

 腕を組んで何を馬鹿なことをとでも言いたそうな不機嫌な灰色猫にキッパリと言い切られ、レヴィアタンは面食らったみたいな顔をしたけど、俺もその通りだとムッとしてそんなとぼけた白い悪魔に言ってやった。

「そうだよ!レヴィアタンは傲岸不遜で横柄で傲慢で嘘吐きで乱暴で最強の白い悪魔なんだから、お前以外にこの人間にとってとても重要な海を任せられるヤツなんかいないよッ!!」

 思わずの力説に、『なんだその悪しざまな言われようは…』とちょっと絶句したレヴィアタンは、すぐにバツが悪そうな顔をして片腕に俺をぶら下げたままで頭を掻きながらやれやれと溜め息を吐いたみたいだ。

『なんとなく感傷に浸ってみたんだが、オレの恋人と使い魔は全然オレに優しくない』

 唇を尖らせて悪態を吐くレヴィアタンに、『んなことは知ったことじゃありません』とでも言いたそうな薄汚れているように見える灰色の猫に促されて、俺たちは白い悪魔の城に戻ることになったんだけど…でも俺は、やっぱりレヴィには弱音を吐いて欲しくないと身勝手な人間らしく思ってしまった。
 だってそうだろ?
 世界最強の無敵のレヴィアタンがこの海を、そして世界を護ってくれているんだ。それ以外の悪魔なんか考えることなんてできないよ。
 悪魔と言えば何もかも真っ黒なはずなのに、何もかも正反対の真っ白な大悪魔様はふと俺を見下ろして、それから悪態も吐かずになんだか嬉しそうに笑っている。
 その顔を見て、俺は漸く随分と悩んで揺れ動いていた気持ちに踏ん切りをつけて、決心することができたんだ。
 リリスと言う王妃様のいるこの海の王様の、愛人になろうって。
 人間をそんなに好きでいてくれるこの大悪魔の心の均衡を俺で保つことができるのなら、レヴィアタンが言ったようにたった一瞬の時間の中に過ぎないんだけど、レヴィアタンの愛人になるのも辛くない。
 その代り、いつかきっとリリスを愛して、そして俺を愛して欲しい。
 俺がいなくなっても哀しまないように、ちゃんと、自分の恋心を理解できるように、長い時間をきっと共に過ごして来たに違いないリリスへの愛を自覚できるように。
 レヴィアタンが哀しまないのなら、きっと俺は傷付いたりしない。
 いつかリリスとも話をしよう。
 何故だか判らないけれど、彼女なら判ってくれるような気がするんだ。
 なあ、レヴィ…それが俺の、愛の証だ。

第二部 21  -悪魔の樹-

 恋をしよう…と望んでから、最初の間は、レヴィアタンは俺を片時も離そうとしなかったんだけど、何処にも行かないと判ると、漸く、独りになる時間をくれるようになった。
 俺はあの日から、毎晩、レヴィアタンと白の部屋で遅くまで語り明かして、戯れにキスをしては、クスクスと笑いあって、穏やかで優しい時間を過ごしていたんだ。もしかしたらこのまま、本当にレヴィアタンと恋をして、幸せに暮らせるんじゃないか…とか、身勝手なことを考え始めていた矢先、やっぱり運命ってのは何処までも残酷で、そして、当たり前のことなんだけど、現実と言うものを叩きつけてくれた。
 それは、リリスの存在。
 彼女はそれほど俺たちのことを構っているようではなかったけれど、ふとしたときに、俺と一緒にいるレヴィアタンを呼び、彼は至極当然と言った感じで、俺を置き去りにして彼女の許に行ってしまう。そうすると、一晩でも二晩でも、長い時には一週間も逢わないこともあって、俺は独りの時間をハラハラと零れ落ちる花びらを見上げたまま、何時間もそうしてぼんやりとレヴィアタンの帰りを待つんだ。
 そんなある日、やっぱりリリスに呼ばれたまま、何日も部屋に戻って来ないレヴィアタンを待ちながら、手持ち無沙汰に天井を見上げていたら、木製の扉が申し訳なさそうに開いて、まさかあの傲慢不遜の白い悪魔がそんな登場の仕方をするはずもないから、誰だろうと訝しんで視線を天井から戻したら、そこには薄汚れた灰色の猫が、やたら荒んだツラをして俺をのっそりと見詰めていた。

「灰色猫…」

 少しやつれたように見えるのは目の錯覚なんかじゃないと思う。

『お兄さん…まだ、灰色猫はそこに行ってはダメなのかい?』

 木製の扉を猫手で掴んだまま、まるで途方に暮れたように二本足で立ち尽くしている灰色の猫は、そうは言ったものの、どうしたらいいのか判らないと言った複雑な表情をして、透明感のある澄んだ黄金色の双眸で俺を見たんだけど、すぐに視線を落としてまうんだ。
 その姿が儚いし、何よりも痛ましくて、俺はどれほどこの優しい使い魔を傷付けてしまったんだろうと、ズキリと胸が痛むのを感じていた。

「…とんでもないよ、灰色猫。俺が悪かったんだ。灰色猫は何時だって俺の為に猫力を尽くして頑張ってくれていたのに。俺の身勝手な我が儘で、どれほど灰色猫を傷付けてしまったんだろう。ごめんな」

 そう言いながらベッドから降り立って、慌てて灰色猫のところに行こうとしたんだけど、それよりも早く薄汚れた印象しかない灰色の猫は二本足でダッシュで走ってくると、嬉しそうに『にゃあ』と鳴いて飛びついて来たんだ。

『お兄さん!やっと許してくれるんだね』

「許すも許さないもないよ。どうでもいいことだったのに、俺は灰色猫を疑ってしまったんだ」

 飛びついてきた小さな身体を抱き締めたら、心に染み入るようなぬくもりが両腕に広がって、やっぱり、どんなに酷い仕打ちを受けたとしても、きっと俺は、灰色猫だけは嫌いにはなれないんだろうなぁと確信した。

「それなのに、灰色猫はそんな俺を見捨てずにいてくれたんだ。有難う」

 ギュッと抱き締めたら、灰色の小さな猫はわざと苦しそうなふりをしたけれど、それはこの、レヴィアタンの風変わりな使い魔が見せる照れ隠しなんだ。

『…お兄さん。ここは魔界にも匹敵するとても危険な場所だよ。礼なんて口にしてはダメだ。灰色猫はご主人からお兄さんをくれぐれもと頼まれているからね。これはただの命令に従っているだけのことだよ』

 なんてグダグダと言いながらも、灰色猫は嬉しそうにゴロゴロと咽喉を鳴らしている。
 尤もらしいことなんだけど、そんな態度で言われてもお前、可愛いだけで耳になんか入らないよ。
 リリスの許に行ってしまった浮気な恋人の帰りを、今か今かと待ち続けるような真似もどうかしてるなぁと思っていた矢先に灰色猫が来てくれたんだ。俺は嬉しくて仕方なかったし、この機会に謝れたこと、感謝できたことでちょっと気分が晴れやかになった。

「灰色猫が居れば安心だよな」

 うん、と頷くと、何やら良くない気配でも感じ取ったのか、灰色猫は俺の腕の中から顔を上げて『にゃあ』と鳴いた。

『何やら良くない予感がするよ。お兄さんは何を企んでるんだい?』

「企むってほどのことでもないよ。その、一緒にその辺をぶらつかないか?」

 俺の申し出に、灰色猫は大きな目をくるりとさせて、それから仕方なさそうに小さく笑ったみたいだ。
 レヴィアタンの剛健な使い魔どもの中でも極めて珍しい灰色猫は、そんな風に仕方なさそうに笑っては、たかが人間でしかない俺の願いをなんとしてでも聞いてくれようとする。そんな灰色猫に絶望して、信じられなくなっていた俺はどうかしているよ。
 それもこれもあの、薄情な白い悪魔のせいなんだ。

「こんな部屋に閉じ篭ってるのもどうかしてるしさ、この城の主はまだ当分は戻って来ないみたいだし。灰色猫が居れば安心だから、ちょっと探検でもしないか?」

 俺のお誘いを、灰色猫は勿論だとでも言うように双眸を細めて『にゃあ』と鳴いてくれた。
 そうして、俺たちは白の部屋を抜け出して…って別に閉じ込められているワケでもないんだけど、レヴィアタンが支配する心の領域を探検にすることにした。

 俺が知っているレヴィはのほほんっとしていて、どこら辺が大悪魔なんだと、本当に疑っちまうぐらいお人好しそうな気の優しいヤツだって思っていた。その思いは今でも変わることはないんだけど、灰色猫と旅をするレヴィアタンの心の領域は、ルシフェルが言っていたように薄汚れた雰囲気だし、陰惨としていて殺伐とした、凡そレヴィからでは窺い知ることもできないほどの不気味さが漂っていた。
 大悪魔だと言わしめる所以のような、レヴィアタンが使役する屈強そうな使い魔たちが行き交う城の中では、それこそ、俺や灰色猫は浮きに浮きまくっているものの、それなりに地位を与えられているのか、そんな凶悪で凶暴そうで、頑強な体躯を有している悪魔のような使い魔たちは、俺のことはジロリと見るくせに、灰色猫には慌てたように視線を逸らすんだ。
 この小さな猫の何処にそんな迫力が隠れているんだろう。
 思わず呆気に取られたように、傍らを二足歩行でテクテクと歩いている、御伽噺から抜け出してきたような人語を操る不思議な猫を見下ろしてしまった。
 俺の服の裾を猫手で掴んで、嬉しそうに口許に笑みを浮かべている灰色猫は、ふと、そんな俺の視線に気付いて、ピンッと張っている髭を微かに震わせた。

『どうかしたのかい、お兄さん。もう、疲れたかい?』

 小首を傾げる灰色猫に、こんな陰気で、殺伐とした殺気が渦巻く薄暗い城内の中にいるってのに、俺はなんだか楽しくなって、「なんでもない」と首を左右に振って見せた。
 レヴィアタンのいない白の部屋はとても寂しくて、何処か寒いような気がするから、あの部屋に戻っても嫌なことばかり考えているか、眠るぐらいしかすることがないんだ。もう、戻るなんて冗談じゃない。

「いや、なんつーか。やっぱ灰色猫は最強だなぁって」

『猫が最強なのかい?面白いことを言うねぇ』

 やっと傍にいることができると、全身で喜びを物語っている灰色猫は、今後は一瞬たりとも傍から離れるものかと思っているみたいで、俺の服の裾を放す気は全然ないみたいだ。別にそれが嫌かと言うと、実はそうでもない。
 たまに歩き難いかな…とは思うものの、絶妙のタイミングでヒョイッと避けてくれるから、邪魔になることもないし、何より、灰色猫の存在はどんな場所にいてもホッとできるんだ。だから、俺のほうこそ、離れたいなんて思わない。

「レヴィアタンの居城ってのは広いんだなぁ。天井も凄く高いし…つーか、悪魔の城なのにステンドグラスとかあるんだな」

 城だってのに、まるで教会のような巨大で見事なステンドグラスがあって、年代モノの価値のある代物なんだろうけど、俺にはそれが判らないから綺麗だなぁと見上げることぐらいしかできない。ステンドグラスは確かに綺麗なんだけど、こうも寂れたような、所々が壊れかけてるような、荒涼とした城ではせっかくのステンドグラスも台無しみたいだ。

『何を言ってるんだい、お兄さん。ステンドグラスは天使よりも悪魔により良く似合うんだよ』

 本気なのか嘘なのか、よく判らない表情をして見上げた灰色猫は鼻先でクスッと笑った。

「そうなのか?」

 美術系に全く疎い俺は首を傾げると、一見、荒れ果てたようにしか見えない石造りの城の中、荘厳とした雰囲気で彩るステンドグラスをもう一度見上げて、そう言われてみれば、城内はこんなに荒んでいるのに、ステンドグラスは一欠けらも壊れていないんだから、これはこれで綺麗なのかと、全く自己主張の欠片もなく納得してしまう俺がいる。

『ご主人はね、心をどこかに置き忘れてきたんだろうねぇ。だから、悪魔が大切にするべき心の領域ですら荒んで、こんな風に荒れ果てて…これは即ちご主人の心を忠実に表しているんだよ』

「そうなんだ…あの薄情な白い悪魔は、いったい何処に心を置き忘れてきたんだろうな?俺がただの人間じゃなきゃ、見つけ出してやるのにな」

 あはははっと笑って灰色猫を見下ろしたら、薄汚れた灰色の猫は、心の奥底まで見透かしてしまいそうなほど透明度の高い、水晶玉みたいな黄金色の双眸をやわらかく細めて笑っているから、ちょっとキョトンッとしてしまった。

「な、なんだよ?」

『…お兄さんはただの人間でいいんだよ。特別なモノになってしまったら、今度はお兄さんが、その綺麗な心を忘れてしまうからね』

「は?」

 呆気に取られて首を傾げる俺に、灰色猫は『うにゃ』っと笑って、なんでもねってのとでも言いたげに首を左右に振りやがるから、思わず抱き上げて身体をぶらんぶらんさせてしまいそうになった。
 ヤバイヤバイ、薄汚れた猫のように見えても、コイツはれっきとした大悪魔の使い魔なんだから、そんな、沽券に関わることをしちゃいかんだろ。

「ま、いっか。それにしたって、海王レヴィアタン様の居城はとんでもないことになってるんだな…あ、そーだ。確か、何処かに海があるんだよな?領域を繋げてるとか言ってたから、灰色猫!海を見に行こうよ」

 ポンッと拳で掌を叩いて名案を思いついたってのに、灰色猫は不意にゆったりとしていた歩調を止めて、その反動で思わず後ろにすっ転びそうになった俺は、怪訝そうな目付きをして小さな猫を見下ろしたんだ。

『ダメだよ、お兄さん。今はご主人が不在だから。海が見たいのなら、ご主人に見せて貰うべきだ』

 その領域には立ち入り禁止だと、言外に灰色猫が言っているような気がしたら、俺は反論せずに残念そうに眉を八の字みたいに寄せるしかない。

「仕方ないか。灰色猫に無理を言っても悪いしな。今度、レヴィアタンが戻ったらお強請りしてみるよ」

 ニカッと笑ってウィンクしたら、灰色猫は聞き分けの良い俺を見上げて、それはそれは胡散臭そうなツラをしやがったんだ。
 おい、こら。なんだ、その目付きは。

『聞き分けの良いお兄さんて言うのは…不気味だ』

 思い切り動揺したようにピンッと尖っている耳を伏せる灰色猫に、できれば蹴りでもくれてやろうかと口をへの字にした時、背後でクスクスと笑う声がして、俺たちはハッと振り返っていた。

『ただ今戻りましたのよ、灰色猫。今頃、レヴィアタン様は光太郎様を捜していらっしゃることでしょうね。お前が連れ出したと知れば、激怒なさりますわよ』

 見事なアルカイックスマイルを浮かべている高級なビスクドールのように品のある、古風なゴスロリ調のドレスに身を包んだリリスが冷やかな口調で言うと、灰色猫は不機嫌そうにムッとして大きな黄金色の双眸を細めてしまった。
 クスクスと笑いながら、その双眸は全く笑わずに俺を見上げてくるリリス…そりゃ、そんな目付きをされても仕方ないよな。きっと、リリスだってレヴィアタンを愛しているに違いないんだから、最愛の伴侶が人間の、それも見てくれも平凡な男のガキに現を抜かしてるんじゃ、奥さんとしては腹立たしくて仕方ないと思う。俺がリリスの立場だってそうなんだから、彼女を責めることはできないよ。

「いいんだよ。俺が誘って散歩してるんだ。灰色猫は何も悪くないよ」

 年の頃は10歳ぐらいの美少女は、灰色猫を庇おうとする俺を、桜桃のような唇に薄笑いを浮かべて双眸をすぅっと細めながら見詰めてきた。

『あら、そうでしたの?それでは、レヴィアタン様は灰色猫をお叱りにはなりませんわね。ところで…先ほど、何を強請ると仰っていらしたの?』

 思わずそれは…と答えそうになる俺の前に、スッと身体を割り込ませた灰色猫は、自分よりも背の高い、気品のあるリリスの顔を確りと見上げたままでハッキリと言い切ったんだ。

『リリス様には関係のないことでございますよ。これはお兄さんとご主人の問題です。口を挟まれては、それこそご主人の気に障るのではないですか』

 綺麗な面立ちは時に禍々しいほど醜くなると言うけど、この時のリリスの表情はまさにそれだった。
 思わず絶句する俺の前で、リリスは冷徹な双眸をグッと細めて、見事な柳眉も歪んで、まるで残忍そうな顔付きをしてキッと灰色猫を睨み据えたんだ。
 それにも怯まずに、灰色猫はフンッと鼻を鳴らしている。
 なんだ、この一触即発は。

「ち、ちょっと待ってくれよ。喧嘩とかするなよ…」

 弱虫毛虫の小心者の人間としては、かたや海王であり大悪魔レヴィアタンの妻である少女と、かたや屈強そうな悪魔も逃げ出す大悪魔レヴィアタンの使い魔が殺気を漲らせて睨み合いなんかしているんだ、怯えながら止めるしかないだろ。
 冷や汗を噴出している俺を双方とも胡乱な目付きで振り返って、やっぱり同時に口を開いてくれた。

『あら、喧嘩などしていませんわよ』

『喧嘩なんかするワケないよ、お兄さん』

 これは立派な果し合いだ…とか言うんじゃないだろうなと、ヒヤヒヤしていたら、先に切り上げたのはリリスのほうだった。

『あら?レヴィアタン様が呼んでいらっしゃるわ。わたくしはもう行きます…今度、お暇でしたらお話をなさいませんか?無論、灰色猫は呼びませんが』

 チラリと冷酷そうな双眸で灰色猫を見たリリスは、それでも確りと俺の顔を見上げてそんな誘いを口にするんだけど…俺としては、灰色猫がいないこんな陰気で物悲しい場所にはいたくないから、それを丁重に断った。
 すると、灰色猫は何故か、フンッと鼻で息を吐き出して…って、お前、どれほどリリスを嫌ってるんだよと、そのあからさまな態度に呆れてしまうと言うか、またしてもハラハラとしてしまった。
 頼むから、人間の心臓なんてひ弱なんだから、これ以上ヒヤヒヤさせないでくれよ。
 ガックリとへたり込みそうになる俺の前で、ひっそりと微笑んだリリスは、漆黒の闇に溶け込みながらポツリと言ったんだ。

『そうですか。しかし、何れ貴方は…きっとわたくしとお話をしますわよ』

 謎めいた微笑を残して、夢のように綺麗な美少女は闇の中に溶けてしまった。
 さ、流石は大悪魔レヴィアタンの妻だと豪語するだけはある。
 思わずガックリと肩を落としそうになったんだけど、初めて目の当たりにしたリリスの存在に、バクバクする胸の辺りを掴んで溜め息を吐いた。
 凄みも一流なら、あの残忍そうな酷薄そうな表情は殺気すら漲らせて、灰色猫じゃなかったら裸足で逃げ出していたと思う。猫一匹殺すことなんか造作もないんだぞ、と威嚇してるみたいで、俺は思わず灰色猫を抱き上げて、そのままダッシュで逃げ出したかったってのが本音だ。
 でも、そんなリリスの、あの意味深な台詞と謎めいた微笑。
 一抹の不安が胸に残ったけれど、俺は、灰色猫を見下ろして首を傾げるぐらいしかできなかった。
 俺を見上げた灰色猫の、何処か不安そうな表情が、暫く目に焼きついていた。

 城の散策にもそろそろ飽いて、そうだ、城の前に広がっていた白い花が咲き乱れる花畑に行こうと、乗り気じゃない灰色猫の腕を引っ張って歩き出したところで、俺は何かに思い切り鼻面をぶつけてしまった。
 そりゃ、確かに前をよく見ていなかった俺も悪い、悪いとは思うけど廊下の真ん中で突っ立てるヤツはもっと悪い!
 誰だ、こん畜生?!

『何処に行っていたんだ?!』

 思い切り睨んでやろうと、忘れかけていた鼻っ柱の強さ全開で見上げようとした矢先、鼻腔を擽る甘い桃のような、嗅ぎ慣れた匂いにハッとして顔を上げたら、髪も眉も睫毛ですら真っ白な、綺麗な面立ちの悪魔が不機嫌そうに眉を寄せて立っていた。
 腕とか組んで、本気で怒ってるのか?
 だって、お前…

「あれ?リリスを呼んだんじゃなかったのか??」

 赤くなった鼻先を擦りながら首を傾げたら、レヴィアタンはムッとしたままでそんな俺の腕を掴んで、それから、赤くなっている鼻先をペロッと舐めてきたんだ!

「おわわわッ?!」

 思わず素っ頓狂な声を出したら、それで漸く気が済んだのか、白い大悪魔様は満足そうにニヤリと笑ってくださった。なんなんだよ。

『リリスはどうでもいい。何をしてたんだ?』

 俺の顔を覗き込んで、嬉しそうに笑うレヴィアタンを見てしまえば、なんだよお前はと思っていた気持ちも萎えちまって、灰色猫に呆れられるんだけど、長い時間捨てられていたワリには呆気なく許せる気持ちになるってのは、やっぱさ、惚れた弱みってヤツだ。
 結局、惚れた方が負けなのか。
 そんなこと考えたら、早くレヴィをメロメロにしてみたいなぁ。
 まぁ、今の俺じゃリリスには到底敵わないだろーけどさ、ふん。

「城の中を散歩してたんだよ、灰色猫を誘ってさ。怖い使い魔ばっかの人外魔境だと独りじゃおっかないし」

『散歩だと?城を歩きたいんだったら、どうしてオレに言わないんだ。何処へだって連れて行ってやるぞ。何処に行きたいんだ??』

 そりゃぁ、城の外に出て、俺が暮らしていた人間の世界に行きたいけど、そんなことを言ってしまったら、漸く恋をする気になっているレヴィアタンの逆鱗に触れちまうだろうから、俺は冗談でもそんなことは言わない。

「そうだなぁ…ここと繋がってるって言う、海を見たいな」

『なんだ、そんなことか』

 そう言った途端、レヴィアタンはヒョイッと俺を横抱きに抱きあげて、ギョッとする俺が掴んでいた灰色猫の腕を離させると、ヤツはさっさと宙に!空中に浮きやがったんだっ。

『灰色猫、お前もついて来い』

『承知しているよ、ご主人』

 にゃあっと可愛く鳴いて同じく浮かぶ灰色猫にヒョイッと眉を上げたレヴィアタンは、フンッと鼻先で笑って、それから、呆気に取られている腕の中の俺を見下ろすと、雪白の頬を染めて嬉しそうにニカッと笑いながら俺の頬にキスしてきたんだ。

『オレの領土が気になるんだろ?そうかそうか。それは良い傾向だ』

「…は?」

 海を見たいって言っただけで、別に俺、レヴィアタンが支配している領土とか全然興味ないんだけど…とは、流石に喜んでいる大悪魔様を前にしては言えない。言えたとしても、言えないだろ、この場合。

『お前はオレと恋をするって言ったよな?』

 嬉しそうにニヤニヤと笑っているレヴィアタンに、何か、ちょっと不気味なものを感じながら、俺は訝しそうに眉を顰めて「うん」と頷いていた。

「ああ、恋をしてるよ」

『だったら、早く愛に変えてくれよ。待ち遠しいんだ』

「はぁ??」

 今日のレヴィアタンはどうしたんだろう?
 俺の頬に口付けながら、レヴィアタンはそんなことを言うんだ。
 リリスを愛してるくせに、愛を知らないくせに、物珍しさだけで俺を傍に置こうとか簡単に考えたくせに、この大悪魔様は何を言ってるんだ。

「俺が愛に変えても、レヴィアタンが愛を知らなかったら、何も変わらないじゃないか」

『それなんだよなー』

 俺を抱き締めたまま宙に浮いていたレヴィアタンは、それからゆっくりと上昇して、ステンドグラスが囲む高い天井付近まで来ると、今度はそのままスィーッと前進して、階段も廊下も何もないのに、中央に外に向かってバルコニーがあるみたいなんだけど、その前が僅かに広くなっている場所に着地したんだ。

『光太郎に愛して欲しいのに、オレがそれを知らなければ、愛されてるのかどうかも判らないんだよな。じっくり恋をするしかないのか』

 不満そうにブツブツと悪態を吐きながら、呆れる俺を抱き上げたままで、レヴィアタンは自然とガラスの扉が開くと同時に外に出たんだ。
 広がる海を予想したのに、そこには長い空中回廊があって、レヴィアタンはスタスタとお供に灰色猫を従えて、下を見ればゾッとするほど高い場所にある石造りの橋を渡るんだ…けど、確かに宙に浮くこともできるレヴィアタンは平気かもしれないけど、ただの人間としては、手すりも左右を囲む柵もない場所をスタスタ歩かれてしまうと、腹の底の辺りがズンズンして、生きた心地がしない。
 時折突風が含んだけど、確かにレヴィアタンはビクともしない。ビクともしないけど、マントのようなコートのような漆黒の外套が大きな音を立てて翻ったりするから、俺は慌てて胸元をギュッと掴んでいた。

『この胸の奥があたたかいのは恋ってヤツじゃないかと思うんだ。何処にいても、何をしていても、お前はちゃんと眠っているのかとか、食事は摂っているかとか…気になって気になって、刃向かう悪魔どもを殺してる最中でも気になって仕方ないんだ。これはやっぱり、恋だと思うぞ』

 ククク…ッと、邪悪な顔をして笑いながらも、レヴィアタンは切なそうに溜め息を吐いた。
 …そうか、今までふらりと何処かに行っていたのは、何か悪巧みを企てていた悪魔を殺しに行っていたのか。
 浮気だとか、リリスと愛し合ってるのかとか…そんなこと考えて凹んでいた俺としては、勘違いで良かったんだろうけど、どれほどレヴィアタンが血に餓えた悪魔かってのが判ってちょっと青褪めた。
 確かに、レヴィではないんだなぁ。
 レヴィじゃなくて、邪悪を絵に描いたように恐ろしい大悪魔であるはずのレヴィアタンなんだけど、胸の中に湧き起こる奇妙な衝動だとか、ドキドキだとか、相手の行動に一喜一憂することだとか…それから、切なさの意味が判らずに、邪悪なツラして笑っているくせに途方に暮れたような、そんな可愛い顔もするから、それでも俺は、やっぱりレヴィアタンのことも好きなんだなと思う。
 これは、レヴィにもレヴィアタンにも内緒の俺の心だ。

『任せとけよ、恋はもうすぐ、ちゃんと理解してやるからな』

 大悪魔として生れ落ちた時から、きっと負けず嫌いだったんだろうなぁ。
 真っ白な髪を突風に遊ばせて、肩に垂らした飾り髪もパタパタと風に遊ばれてるのに、レヴィアタンは大自然にも逆らうような叛逆心を胸の内に秘めたまま、他愛のない恋を勝ち取ることに心を傾けて、そうして満ち足りたような、満足そうな顔をして笑っている。
 俺の恋心はとっくに手に入れてるのに、それに気付かずに…必死に、自分の中に眠っている恋心を探してるんだなぁ。
 その姿が、俺には眩しくて、それからスゲー…可愛かったんだ。
 だから思わず、プッと笑ったとしても仕方ないと思うぞ。

『む!笑ったな…ふん、そうやって余裕をこいてるとな、今にオレに愛されて大変なことになるんだぞ』

 レヴィアタンは子供みたいにムッとしたみたいだったけど、それでもすぐに偉そうなツラをして俺を抱き上げている腕に力を込めたんだ。

「大変な…って、何か起こるのか?!」

 それは拙い。
 そう言えば、ルシフェルが言ってたな。レヴィアタンの心は世界に繋がっているから、白い悪魔の気持ち次第で、俺たちが住む世界はどうにでもなるんだ!
 そ、それはいかんぞ、マジで。
 と言うことはだ、レヴィアタンは恋とか愛を知ってしまったらダメなんじゃないか?だから、エライ人がミカエルとか言う天使を遣ってレヴィアタンの中にある俺の記憶を消させたのか?!そうなのか!!?
 頭をグルグルさせる俺が半泣きで見上げると、それこそ大変なことが起こってしまったみたいな顔をしたレヴィアタンはでも、すぐに先端の尖っている耳をへにょっと垂れて、呆れたように下唇を突き出して顎を上げたんだ。

『天変地異…とかじゃないぞ。一応、言っておくけどな。そんなことじゃない、大変なことだ』

「だから、大変なことってなんだよ?!」

『…内緒だ』

 ニヤリと犬歯をむいて嗤う大悪魔のツラを見上げたまま、俺が青褪めないはずはない。
 あわわわと、泡食っている俺とニヤニヤ嗤っているレヴィアタンの背後で、はぁ…っと溜め息を吐いた灰色猫が『にゃあ』と鳴いた。

『取り敢えず、お兄さんが想像しているようなことではないよ。ご主人の大変なことって言うのは…』

『言ったらお前でも殺すからな』

 即座にジロッと睨むレヴィアタンに、灰色猫はビクッとして首を竦めたけど、あんまり心配している俺のことを慮って、控え目な口調で言ってくれた。

『ご主人の大変なことって言うのは、非常に簡単なことだよ』

「簡単…?」

 なんだ、そりゃ?
 思わず眉を顰めて首を傾げる俺に、主に忠実な使い魔に満足したのか、レヴィアタンはニカッと笑って頷くと、足取りも軽く、奈落のように深い場所に架かっている石橋をスタスタと渡るんだから、頭の片隅には引っ掛かるものの、考えることもできずに俺は慌ててレヴィアタンに抱き付いていた。

第二部 20  -悪魔の樹-

 俺をお姫様抱っこしたままで暫くそうして、俺からの頬へのキスを受け入れていたレヴィアタンは、ちょっと嬉しそうに照れ笑いをして、それからゆっくりと歩き出した。

「?…何処に行くんだ??」

 予告もなしに歩き出したレヴィアタンに、俺は思わずその首に噛り付くようにして両腕を回してしまったけど、ヤツは大して気に留めた風もなく長い足でスタスタと回廊を闊歩しているんだ。

『何処って、白の部屋だ』

「白の部屋?…ってなんだ??」

 ここはレヴィアタンの心の領域で、俺が知る場所ではないんだから、名称を言われたって判るかってんだ。
 呆れたように溜め息を吐いたその時だった。

『レヴィアタン様。お話は終わりましたの?』

 ふと、凛とした声音が響いて、それまで誰に呼び止められたって止まることもなさそうなほど、我が道を歩いていたレヴィアタンは、その声を聞いた途端にピタリと足を止めてしまった。

『リリス』

 レヴィアタンが、まるでレヴィが浮かべるようなもの静かな表情で微笑むと、ゴスロリ御用達みたいな暗黒色のドレスに身を包んだ人形みたいに整った、綺麗な面立ちの美少女は口許に笑みを浮かべてちょこんっと頭を下げた。

『リリス、今夜は白の部屋に居るからな。お前の身に何かあっては一大事だから、お前は紅蓮の部屋に入っていろよ?』

『畏まりましたわ、レヴィアタン様』

『絶対だぞ。オレにとって、お前の不在は何よりの苦痛だ。判っているな?』

『勿論ですわ』

 …そんな会話を、レヴィアタンは不安そうな表情で、リリスはうっとりと幸せそうな表情で交わしてやがる。それを、俺はただぼんやりと聞き流すしかないのか…と言ったら、勿論、そんなワケはない。
 だから俺は、慌ててレヴィアタンの腕から逃れるようにして降りようとしながら、そのジャラジャラと宝石だとかが飾る胸元を手で突っ張りながら言ったんだ。

「いや、俺は独りで大丈夫だ。だから、レヴィアタンはリリスと一緒に…」

『はぁ?何を言ってるんだ。お前がいるのに、どうしてオレがリリスと一緒にいないといけないんだ?』

 慌てる俺の語尾に被さるようにして、レヴィアタンは訝しそうな、不機嫌そうな口調で唇を尖らせるから、俺は困惑してリリスを見下ろしたんだけど、綺麗な面立ちにアルカイックスマイルを浮かべている美少女は、なんでもないことのように瞬きをするだけだ。

「でも…レヴィアタンは言ったじゃないか。リリスが不在だと何より苦痛だって」

『そりゃ、そうは言ったが。お前が傍にいないのも苦痛だ』

 釈然としない様子で唇を尖らせるレヴィアタンに、やばい、コイツはまた何か勘違いをしてると、俺が思ったとしても仕方ないだろ。
 そんな風に俺を大切そうに言ってくれても、それはリリスよりは比重は軽いと思うんだ。
 ただ、レヴィアタンの場合は妙なところで嫉妬するから、俺が独りでも大丈夫だと言ったことに、何か疑っているんだと思う。
 それはやっぱり、色々と言っても、ルシフェルの存在を疑いっ放しなんだろうなぁ。

「でも…」

 目の前に薄い微笑を浮かべる、この場合は海の王の奥さんなんだから王妃さまとでも言うのか、彼女がいるのに、何時までも甘えたようにレヴィアタンの胸の中にいるのは嫌なんだ。
 俺にだってプライドってのがあるんだぞ。
 愛人なんて冗談じゃないんだから、幾らレヴィアタンが疑ったとしても、俺はどうしてもこの離れ難い腕の中から抜け出さないといけないんだ。
 あれやこれやと画策する俺に、レヴィアタンは愈々頭に来たのか、苛々したように逃げ出そうとする身体をギュッと抱き締めやがったんだ。

『…お気遣いは結構ですのよ。わたくしのことはご心配なく』

 そう言ってひっそりと微笑んだ美少女は、まるで闇に溶けるようにして姿を消してしまった。
 後には静まり返った回廊と、気配を窺っていたけど、何故か満足したように頷くレヴィアタンと、動揺して困惑したように眉を寄せている俺が残されたんだ。

『よし、リリスは紅蓮の部屋に篭ったな。あそこなら安全なんだ。何時だってアイツのことは意識するようにしているんだが、偶に途切れる時がある。そんな時はああして、紅蓮の部屋に篭らせるのさ。ここには忠誠心の欠片もない使い魔が五万といるからな』

 唇の端を捲るようにして、レヴィアタンは邪悪な顔をしてニヤッと笑ったけど、俺はその顔を無表情に見上げるので精一杯だった。
 だってさ、そうじゃなかったら今にも涙が盛り上がって、それからポロポロと堰を切ったように頬に零してしまいそうだったから…リリスを想うレヴィアタンの心は知っているけど、やっぱり目の前で、あからさまに愛を語られるのは正直、辛いんだ。
 レヴィアタンは愛を知らないと俺に言ったけど、地獄の業火で焼かれなかったからそれは真実なんだろうけど、でも、レヴィアタンは気付いていないだけなんだ。
 何時か、俺を好きだと言ってくれたその感情を本当に理解した時、レヴィアタンはリリスの存在に気付き、今まで以上に彼女を愛するに決まってる。
 その時でも俺がいたとしたら…俺はどうするだろう。
 何ができるんだろう…それを考えると、胸が張り裂けそうなほど辛い。
 俺、やっぱりこのまま、元の人間の世界に帰った方が幸せじゃないかと思うんだ。
 レヴィも、ルシフェルも、灰色猫も、魔界も…何もかも、今までのことは俺こそ全て忘れて、何も知らない時に戻って、極平凡に何時も通りの暮らしを取り戻せば、俺は幸せになると思う。
 本当にそうか?と聞かれると、ハッキリ言って、それは判らない。
 でも、それでも、こんな風にリリスのことで嬉しそうに笑うレヴィの顔を見たくない。
 レヴィの微笑みは何時だって俺に向いていて欲しかった…それは今となっては儚い希望でしかないんだけど、俺はそれでも必死にそれを願い、叶わないことを知っているから、自嘲して俯くことぐらいしかできない。
 そうして、俺は下唇を噛み締めた。

『少し触ったら、お前が嬉しそうに笑って…だから、オレはどんどん大胆になって、お前にキスするのが楽しくて嬉しくて、初めて幸せだと感じたんだ』

 天井の辺りからハラハラと零れ落ちる薄桃色の花びらが散る純白のベッドに俺を下ろしながら、レヴィアタンは照れたように笑ってそんなことをポツリと呟いた。
 白の部屋…と呼んだ場所は、気絶した最初の日に入れられていた、あの真っ白な部屋だった。

「そうだったんだ」

 俺を見下ろす古風な漆黒の衣装に身を包んでいる白い髪の悪魔を見上げて頷くと、ヤツは暫く何も言わず、見上げる俺をジッと見下ろしていた。
 あんまり見詰められることに慣れていない俺は…って、レヴィの時は、ジッと見詰められても嬉しいと言うか、恥ずかしいとか思ったこともないのに、どうしてだろう?同じ顔で同じ声だって言うのに、レヴィアタンのキリリとした男らしい透明感のある黄金色の双眸に見詰められると、所在無い気持ちになって、ふと、迷子になった子供みたいに不安で、それから、落ち着かずにギクシャクと目線を逸らしてしまうんだ。

『それなのに、お前は急にオレから離れて人間の世界に戻ると言いやがる。話を聞けば、魔界には愛した悪魔を追って来たって言うじゃないか。スゲー、頭が熱くなって、そのふざけた悪魔は何処のどいつだって苛々したけど…それよりも、お前がボロボロ泣くのが許せなくて、そんな、馬鹿な悪魔の為に泣くぐらいなら、どうしてオレの為に泣かないんだって思ってな』

 目線を逸らして俯いてしまう俺の顎を掴んで、無骨な仕種ではあるんだけど、レヴィアタンとしてはとても優しい手付きで上向かせたりする。
 だから俺は、ちょっとムッとした顔をして、俺の顔を静かに見詰めている見慣れているはずなのに、まるで知らない悪魔の顔を見上げて唇を尖らせたんだ。

「俺はレヴィアタンのためだけに泣いてたんだ!」

『オレを追って魔界に来たってことなのか?お前のことを、オレは知らないんだ…その、名前もな』

 レヴィアタンはハッとしたように一瞬目を瞠ってから、バツが悪そうな顔をして、それから申し訳なさそうに歯切れが悪くそんなことを呟いた。
 そんなふざけたことを抜かしながらも俺から目を逸らさない白い悪魔に、俺は思い切りポカーンッとして、それから情けなくて、泣きたい気持ちでハァと溜め息を吐いた。

「ガーン…今のはちょっとショックだ。俺、瀬戸内光太郎、光太郎だよ。レヴィアタン」

 実際にすげーショックだったけど、それでも、心の何処かでは、ああそうか、コイツは同じ顔と声をしていても、レヴィではないんだって判っていたから、まるで初対面の相手にそうするように、俺は確りとレヴィアタンの双眸を見詰めて自己紹介をした。

『光太郎って言うのか♪そうかそうか…って、あれ?光太郎??オレはその名前を何処かで…』

 途端にパッと嬉しそうに、まるで子供みたいにニカッと笑って頷いたレヴィアタンは、でもすぐにソッと眉根を寄せて、何かを思い出そうとするように首を傾げたんだけど…

『何処だっけ?忘れたな』

「ぶ!」

 あっけらかんと諦めやがったから、俺は期待していたぶん、思い切り脱力して吹き出してしまった。

『どうしたんだ?』

 俺の顎を掴んだままで首を傾げるレヴィアタンに、俺は殆ど涙目で。

「なんでもないよッ」

 と悪態を吐いてやった。そうすると、レヴィアタンは不機嫌そうに眉根をさらに寄せて、俺の顎から手を離すと、ベッドに押し倒すようにして覆い被さって来ると唇を尖らせるんだ。

『なんでもないこともないだろ?光太郎、怒ってるじゃねーか。なんだよ、言えよ』

「なんでもないって言ってるだろ?最初に逢った日に、ちゃんと名乗ってたのにな、俺」

 レヴィアタンにベッドに押さえ付けられてしまった俺は、諦めたように溜め息を吐いて、豪華な宝石なんかがジャラジャラしている胸元を、軽く押し返そうと掌を当てて恨めしげに睨んでやった。

『ゲ、そうだったのか。いや、それはスマン』

「…もう、いいよ。でも、今度は忘れないでくれよ」

 本気ですまなさそうに謝るから、俺は、そんな白い悪魔が可愛いなぁと思って、仕方なく苦笑したんだ。
 すると、レヴィアタンは、ちょっとムッとしたように頷くんだ。

『ああ、忘れたりするもんか』

 そう言って、薄情なくせに、思い切り俺のことなんか忘れてるくせに、ベッドを軋らせて、レヴィアタンは白い睫毛の縁取る目蓋を閉じてソッとやわらかく口付けてくる。
 甘い言葉には絶対に騙されないと、ちゃんと理解しているし、レヴィアタンには最愛のリリスがいることも判っている。
 でも俺は…それでも、大好きなレヴィのぬくもりが忘れられなくて、ぎこちなく口付けてくる温かい唇に応えていた。
 押し返そうと当てていた掌の力を抜いて、それから、俺は目蓋を閉じると、縋るようにレヴィアタンの背中に両腕を回したんだ。
 貪欲に貪るキスは、何故だろう?2人とも、まるで今まで水を与えられなかった砂漠の旅人みたいに、お互いの存在に餓えてでもいたかのように、抱き締めあって、湿った音を響かせながら、長い長いキスを愉しんだ。
 だって俺、ずっと、レヴィに焦がれていたんだよ。
 もうずっと、逢いたくて逢いたくて、思い出して欲しくて…望まないアスタロトとの、そのえっちも、ルシフェルとのキスでも、どんなものでも癒されることのない心の渇望は、只管レヴィだけを求め続けていたんだ。たとえそれが、レヴィアタンだったとしても、俺は白い悪魔がくれる全てを受け入れたかった。
 ハラハラと零れ落ちる甘い匂いに頭はクラクラするんだけど、それが匂いのせいなのか、それとも、大好きなレヴィの甘いキスに酔わされてるだけなのか、どちらにしても、溺れる人のように縋りつく俺の上着を性急な仕種でたくし上げ、外気に震える素肌に軌跡を残すみたいに指先を滑らせていく。

「…ん」

 小さく吐息を吐くと、レヴィアタンは含みきれずに口許から零してしまった唾液を舌先で舐め取って、涙の雫を結ぶ目許にキスをした。

『オレは…お前を待っていたんだな』

 ふと呟いたレヴィアタンの言葉に、震える目蓋を開いて見上げた俺を、白い悪魔はまるで悪魔らしくない、俺があんなに望んでいたレヴィの優しい双眸で見下ろしていた。
 これはレヴィじゃないって判ってるのに、それなのに、どうしてこんなに泣けてくるんだろう。
 抱いて欲しいと、望んでしまうんだろう。
 レヴィは最初からいなかったのに。
 レヴィはレヴィアタンと言う悪魔の仮初めの姿で、どんなに望んでも、もうこの両腕の中に戻ってくることはないのに…今、目の前にいるこの悪魔は、俺の知らない大悪魔なのに、俺はどうしても彼に抱いて欲しいと望んでしまうんだ。

「れ、レヴィ…」

 俺は恐る恐るその名を呼んだ。
 レヴィアタンは特に気にした様子もなく静かに笑って、それから、まるで許しを請うような仕種で目蓋を閉じると、俺の首筋に唇を落とした。
 どんな悪魔に触れられても辛いだけだったのに、まるで雷に打たれたような、電流に触れたように全身が痺れて、俺はビクンッと身体を震わせていた。

「…ぁ…ッ」

 声なんか出すつもりじゃなかった。
 でも、レヴィアタンが辿る指先は、どれも記憶に残る甘美な軌跡で、まるで俺の全てを知り尽くしているみたいに、白い悪魔は俺の快楽のポイントを確実に弾き出していった。
 唇で、指先で…それから熱く滑る舌先で、俺でさえ知らないような快楽の部位を見つけ出して、まるで一度描いた地図を辿るような正確さで、レヴィアタンは俺を狂わせていく。
 快楽に目許を染めて、俺は何時の間にか全裸に近い姿になって、どうしても揺らめいてしまう腰を止めることもできずに、強請るようにレヴィアタンの腰に腰を摺り寄せると言う恥ずかしい姿まで晒してしまったんだ。
 後で思い出せば赤面モノの甘い声も、箍が外れたように口から零れ落ちてしまう。

「や、…あ、あぅ……それは、ダ!…んぅ~ッッ」

 レヴィアタンの熱い口腔に、遂に張り詰めたようにして痛いほど勃起している陰茎が捕らえられてしまって、俺はどうしていいのか判らなくて首を左右に振りながら、我武者羅にレヴィアタンの白い頭髪を掴んでいた。
 それだけでイキそうなのに、レヴィアタンはそれを許さず、根元はガッチリ掴んでままで追い詰めるみたいに鈴口に滲む粘る涙を啜り、滑る舌先で弱い場所ばかりを攻めてくるから、俺は声も出せずに、勿論、イクことすらできずにビクビクと身体を震わせてしまうんだ。
 もう少しであられもない声を上げそうになって、俺は涙をボロボロ零しながら、両手で口を覆って首を左右に振っていた。
 不意にべとべとに濡れそぼった陰茎から唇を離したレヴィアタンは、まるで悪魔のように…って、実際は悪魔の中の悪魔なんだけど、蠱惑的な笑みを口許に浮かべ、濡れた唇をペロリと真っ赤な舌で舐めながら、伸び上がるようにして俺の胸元に頬を寄せると、とても愉しげにクククッと嗤うんだ。
 喘ぐように大きく息を吐く俺は、甘い匂いと快楽に酔い痴れて、まるで惚けたようにそんな綺麗なレヴィアタンの顔を頬に朱を散らして見詰めていた。

『オレを、愛してると言え。そうすれば、イカせてやる』

 レヴィアタンはまるで絶対的な口調でそんな馬鹿みたいなことを言い放って、唆すように双眸を細めて見詰めているから…俺は蕩けてしまいそうな顔をしてヒッソリと呟いた。

「あ、愛してる…レヴィ」

 そんな簡単なことで、俺を許してくれるのか?
 だったら俺は、何度でも…

『レヴィアタンだ、光太郎。ちゃんと、レヴィアタンを愛してると言うんだ。お前の口で』

 執拗に言い募るレヴィアタンの声に、ハラハラと落ちてくる媚薬のように甘ったるい匂いに、酔い痴れている俺の思考回路はとても妖しくて、揺れる腰を止めることもできずに、うっとりと呟いたんだ。

「レヴィアタンを、俺は愛してるよ……ひぁ?!」

 呟いた瞬間、レヴィアタンは満足したようにニヤッと嗤って、それから唐突に唾液と先走りで濡れそぼっている肛門に指を突き入れたんだ!その瞬間、脳天を貫くような快感が背骨を駆け上がって、俺は思い切りビュクッと白濁とした粘る精液を撒き散らしていた。

「んぁ…ぁ、う…ん、んん……」

 長らく性行為から遠退いていたせいか、射精は長く続いて、俺は鈴口から間欠泉みたいに精液を拭き零すたび度に腰を揺すっていた。その間も、レヴィアタンは長い指先で、俺の胎内にある秘められた箇所を執拗に探っているみたいで、でも、ちょうど、睾丸の裏あたりにある、しこりのような部位を指先で突かれた瞬間、あれだけ感じていたと言うのに、一瞬、気が遠くなりそうになって、俺はさらに精液が漏れるような感触に泣き出しそうになっていた。

「や、嫌だ…も、あ!…ッ……ひ」

 嫌々するように頭を振っていたら、頬を摺り寄せていたレヴィアタンは、不意に俺の乳首をベロリと舐めて、それから口に含むと、滑る口腔内で舌先で転がすように弄ぶから、俺は気がおかしくなりそうになってしまった。
 こんな行為を、俺はレヴィとしたことがない。
 レヴィとのエッチは、とても優しくて、何時も俺を労わってくれて…そして、愛されていると実感できていた。でも、これはなんと言うか、快楽に突き落とされて、怖くて怖くて、縋るものはもうレヴィアタンしかいないから、無我夢中で救いを求めるしかない…まるで愛し合うと言うよりも、淫靡な暴力で従わされてるみたいだ。
 逆らえない、絶対的な力に屈服してしまうような…こんなエッチを、俺は知らないし、知らないから怖かった。
 不意に、ガタガタと震え出した俺に気付いたのか、レヴィアタンは含んでいた乳首から唇を離して、不思議そうな顔をして俺を覗き込んできた。
 この悪魔は、愛する心を持っていないから、エッチもただの支配する道具でしかないのかもしれない。
 そんなのは嫌だ、たとえレヴィアタンが悪魔だからと言って、快楽で支配されるのなんか絶対に嫌だ。
 ただ、俺は愛して欲しいだけなのに…

『どうしたんだ?なぜ、泣いてる??』

 どう見ても、悦楽に酔い痴れて泣いているのではないと、確り確認したレヴィアタンは、不意に俺の後腔にある指先を蠢かして、快楽に酔えば泣かなくなるとでも思っているみたいに、唆して突き落とそうとでもするように刺激してくる。でもそれは却って俺を追い詰めるだけで、震えながら泣く俺は唇を噛み締めて…その時になって漸く、レヴィアタンは事態の深刻さに気付いたみたいだった。
 エッチの最中で相手に泣かれたことなんかないのか、唇を噛み切って泣いている俺に、慌てて後腔に挿入していた指を引き抜いて、レヴィアタンは腕の中に俺を抱き締めたんだ。

「う…ひぃ…っく。ひ…うっ…うぅ……ッ」

 声も出せずに泣きじゃくる俺に驚いて、それから、オロオロしたように抱き締めてくるレヴィアタンの胸の鼓動は少し早かったけど、その音を聞いている間に、俺の中の絶望感のようなものがほんの少しだけど、薄れてきたような気がしていた。

『お前は…光太郎は、本当はオレのことが嫌いなのか?』

 どうして、この大悪魔の脳みそはすぐにそう言う結論を弾き出すのか良く判らないんだけど、俺は泣きじゃくりながらレヴィアタンに抱きついて、激しく首を左右に振ったんだ。

『では、何故…オレとセックスするのが嫌なのか?』

 エッチの最中で逃げ出されたんだから、そう考えるのは仕方ないよな。
 それは少なからず、レヴィアタンの沽券を傷付けたのは確かだと思う。
 でも、俺は謝らない。

「こ…なの、ヘンだ。…ひ…っく。だって、まるで、…うぅ……俺、俺のほうこそ、ひっ…く…っ…あ、愛されてない、…ッ」

 泣いているからうまく言葉に出せないけど、でも、伝えたいことは言えたと思う。
 もっと、もっと愛されたいよ、レヴィ。
 前みたいに優しく愛おしそうに抱いて欲しい。
 そうすれば俺、男同士なんて負い目にも感じずに、こんな愛もあるんだなぁと、あっけらかんとお前を愛せるのに。
 これじゃまるで、愛欲に溺れて、それがないと生きていけない…それこそ、レヴィアタンの性奴隷じゃないか。
 愛も心もない、ただの性奴隷だ。
 レヴィアタンは先端の尖った耳を萎えたように垂らして、呆気に取られたようにポカンッと覗き込んできた。
 胸元に顔を埋める、俺の涙と鼻水でグチャグチャになった顔を顎を掴んで上げさせて、そんな俺を繁々と眺めていたレヴィアタンは、継いで、少し逡巡したように初めて目線を泳がせて、それから耳は垂れたままで困った顔をしながら俺の額にキスしてきたんだ。
 それから目蓋に、頬に、唇にキスをして…口許に笑みを浮かべながら俺を抱き締めてゴロンッと横になってしまった。

「…ッ、う…っく……ッ」

 嗚咽がなかなか引っ込まなくて、俺は涙で歪む視界の中、綺麗な黄金色の双眸を見ようとして何度も瞬きを繰り返した。そんな俺の汗で張り付いた前髪を掻き揚げて、頬を濡らす涙をそのままの指先で拭っているレヴィアタンは、やれやれと溜め息を吐いたみたいだ。

『そうか…オレが悪いんだな。人間の奴隷を好奇心で抱いた時、奴らは悦んでもっととせがんできたんだ。だから、こうすれば、光太郎は気持ちがいいんだろうと思った』

 俺は首を左右に振った。
 でも、聡い大悪魔は、俺が何を言いたいのか、もう気付いているみたいだ。

『だがそうだな、それもすぐに飽きて捨てたが、ソイツは他の悪魔にも慰み者にされていた。それを悦んで、だから、アイツは性奴隷になったんだ。これは快楽でお前を従わせようとしているのに違いないんだろう』

 だが、とレヴィアタンは溜め息を吐いた。

『オレはこの方法しか知らない。快楽の虜にして、お前を縛り付けることでしか、オレは光太郎を傍に置けないんだ』

 それはまるで、悲痛な叫びみたいだった。
 俺が喜ぶだろうと思って、たくさんの快楽を与えてくれるレヴィアタンは、確かに俺を愛してくれているんだろう。でも、愛し合うってことは、もっとお互いを求め合うものなんだ。
 こんな風に一方的に快楽ばかりを与えて、俺が覚えるのはレヴィアタンじゃない、悦楽に溺れる肉欲ばかりだ。
 それを伝えたくて、俺はゴシゴシと拳に握った片手で涙を拭って、まだ嗚咽の残るままで言ったんだ。

「じゃ、じゃあ…まず今夜は、一緒に…ひ…っく、…抱きあって、寝よう」

 お互いで抱き締めあって、ぬくもりを感じて、それから…安心して眠ろうよ、レヴィ。

「き、キス…も、たくさん、ッ…しよう」

 啄ばむようなキスを幾つもして、やわらかな気持ちを共有して、自然とお互いを求めてみようよ。
 最初に戻って、恋をしようよ。
 愛してくれるのはそれからでも構わないから…レヴィ、どうか、もう一度最初から恋をしよう。
 俺たちは早急に求め合い過ぎたんだ、だから、お互いをあまりに知らなさ過ぎて、戸惑って、絶望して、勘違いして、立ち竦んで…大事な何かを見落としてしまったんだろう。
 たとえレヴィアタンの心の中にリリスと言う愛が居座っていても、俺は、できるだけそれすらもひっくるめて、ちゃんとお前を愛せるように頑張るから、だから、最初は恋をしようよ。

「レヴィアタン…恋を、しよう」

 レヴィアタンの金色の双眸を見詰めたままで、俺は必死でそう言っていた。
 この心が届くなら、レヴィに聞いてもらいたい。
 お前ともう一度、恋をしたい。

『オレと恋をするのか?』

 何故か、怒り出すかと思っていたレヴィアタンは、白磁の頬にほんのりと朱を散らして、嬉しそうにニッと笑ったりするから…俺も嬉しくなって、エヘヘッと笑ったんだ。

「うん。恋をするんだ。胸が高鳴ってドキドキしてさ…夜も眠れなくなるんだぜ?」

 なんとか、漸くまともに言葉が出せるようになって言うと、レヴィアタンは嬉しそうに笑った。
 何がそんなに楽しいんだと聞きたくなるぐらい、悪魔の中の悪魔であるはずの、不可能はない白い悪魔は嬉しそうに笑っているんだ。

『そうか…お前はオレと恋をするんだな』

「うん」

 するんじゃないよ、レヴィ。
 もう、恋をしてるんだよ。
 愛を知らないと言った白い悪魔は、まるで満ち足りたような表情をして、ソッと俺を抱き締めて安堵したみたいに目蓋を閉じた。
 それは羽毛のような柔らかさで、その時、俺はこの城に来て初めて、レヴィアタンに愛されていると感じていた。
 その抱擁は、それほどあたたかくて、優しくて、俺には重要だった。
 レヴィアタンの背中に腕を回して、俺もそれに精一杯応えていた。
 愛しいと物語る腕のぬくもりが、レヴィアタンから伝わって、俺は改めて、レヴィに恋をしてしまった。

第二部 19  -悪魔の樹-

 軽くウィンクして立ち去ろうとしたルシフェルはふと振り返ると、俺に『オレには理由は判らないけど、灰色猫は許してやれよ』と言って、片手を振りながらレヴィアタンの居城を後にしてしまった。
 なんの問題も解決したワケじゃないけど、それでも俺の心は少しでも気分が晴れたし、なかなか降ろしてくれないレヴィアタンを見上げたら、ヤツはバツが悪そうな顔をして目線を逸らすけど、俺がニコッと笑ったら、ハッとしたように振り向いて、それから暫くジーッと見詰めていた。

「…なんだよ?」

 あんまりマジマジと見られるから、訝しそうに眉を潜めた俺が首を傾げると、レヴィアタンはムッツリと不機嫌そうに唇を尖らせやがった。

『…この城に来て、やっと笑ったなと思ったんだ』

「…」

 ああ、そうか。
 俺、初日からイキナリ衝撃を受けまくって、ここに来て笑うことも忘れていたんだ。
 妻帯者を好きになるなんか、なんつーか、信じられない気分だったし…何より、レヴィに裏切られたことが信じられなくて、それから、許せなかったんだ。
 それで苛々してたし…でも、違うな。
 愛はたったひとつだとか…そんなの、有り得るはずもないのに、そんな安っぽい言葉を馬鹿みたいに信じていた自分が滑稽で哀れで、本当に腹立たしかったのは自分自身だったんだと思う。
 誰でもない、俺自身を許せなかった。
 悪魔だったのに、甘い言葉を鵜呑みにして…俺って馬鹿だよなぁ。
 これだけ男前のレヴィアタンなのに、彼女とか、奥さんとかいないはずがないのにさ。
 他にも五万と彼女とかいて当たり前なのに、俺が何よりも傷付いたのは、この広い城の中で、レヴィアタンの伴侶はたった一人しかいなかったんだ。
 誰に聞いても、レヴィアタンに一番近いのはリリスで、彼女以外には誰もいないと言っていた。 その事実に俺は傷付いて、それから独りで泣いた。
 たった独り、心から愛した人がいて、そんな人がいるのに…でも、よく考えてみたら、俺の一生なんかレヴィアタンたちにしてみたら瞬きの間に違いないんだろう。だったら、ほんのささやかな楽しみだったのかもしれない。
 だから、レヴィは魔界での暮らしを一言も言わなかったし、俺が魔界に着いていくことを拒んだんだと思う。
 ほんの僅かな間の、ちょっとしたお遊びだったのか。
 はは、また馬鹿みたいにドツボにハマッてんな俺!

『ベヒモスのところでは太陽みたいに楽しそうに笑ってやがったのに…どうして、ここじゃ笑わないんだってムシャクシャしたんだよッ』

 ブツブツと悪態を吐くレヴィアタンを、俺は悲しくなった面持ちで見上げていた。
 だってそれは、俺はまだリリスの存在を知らなかったから。
 お前にキスされたり、頬擦りされたり、抱き締められることが本当に嬉しくて、幸せで仕方なかったんだ。これがレヴィだったらって思いもしたけど、この優しい甘い匂いが記憶に残ってるから、それだけでも嬉しかったんだよ。

『だからその…悪かったな。殴ったりして。オレのこと、嫌いになっちまってるだろうけど、オレは悪魔の中でも一番凶暴なんだよ。手が早くて、使い魔も何匹も殺っちまうんだけど…でも、お前にはちゃんと手加減してたんだぞ?これでも、気遣ってたんだ!』

 レヴィアタンにしてみたら、最大限の譲歩だったんだと思う。
 人間如きに大悪魔様が頭を下げるなんて…いや、実際には下げたりしていないけど、謝ることだって大譲歩だと思っても当然だと思う。人間なんてゴミ屑みたいにしか考えていない連中なんだ。
 だから俺はニッコリ笑うと、リリスを想うレヴィアタンの姿を目蓋の裏に隠して、白い悪魔の頬に両手を添えると、そのまま懐かしい、少しカサツイた唇に唇を重ねていた。
 吃驚するレヴィアタンに、目蓋を開いて、それから俺は小さく笑った。
 何度でも、お前が望むのなら何度でも笑ってやるよ。

「俺、レヴィアタンを嫌ったりしていないよ。だって、俺が愛した悪魔は、レヴィ、お前だから」

 ポロッと涙が零れた。
 ニッコリ笑ったままで、俺はポロポロと頬に幾つも涙の雫を零して、俺は胸の内をその言葉に託して心を吐露していた。
 きっと、この大悪魔は信じてはくれないだろうけど、それでもいいんだ。
 この想いだけは伝えないと…ルシフェルも言ってたじゃないか。
 せめて、その想いとやらを遂げてみせろってさ。
 遂げることなんかはできないだろうけど、伝えることはきっとできる。
 リリスと生きていく長い時間の中で、どうか、この邂逅を忘れないでくれ。何時か、ふとした瞬間でもいいから、俺がいたことを思い出して、少しでいいから懐かしんでくれ。
 それだけで、俺の心の奥でひっそりと蹲っている恋心が、少しでも報われると思うんだ。

『なんだと?オレを愛していたと言うのか??しかし、お前は人間だし、オレはお前に逢った記憶すらない…何を言ってるんだ』

 それは、レヴィアタンにとっても寝耳に水だったに違いないけど、お前はただ、忘れてるだけなんだよ。俺と過ごした僅かな日々だとか、俺の身体に残した幾つもの愛情の証だとか…全部、綺麗サッパリ忘れてるに過ぎないんだ。
 でも、俺が嘘を吐いて、ルシフェルと何かを企んでると思い込んでいるだろうけど、それでもいい。
 それでもいいから、俺を確りと見ていてくれ。

「嘘じゃないよ…俺、あの魔城で初めてレヴィアタンを見た日から、もうずっと恋焦がれていたんだ。レヴィに逢いたくて逢いたくて仕方なかった。だから、レヴィアタンの奴隷になれたときは凄く嬉しかったんだ、本当だぜ?」

 半分は本当だし、半分は願望だったけど、あの魔城で久し振りにレヴィに逢った時のことを思い出したら、それこそドキドキと胸が高鳴るから、聞こえちまうんじゃないかって、慌てて胸を押さえて顔を真っ赤にしてニコッと笑ったんだ。
 あの日の俺は、こんなことがあるとか全然判らなくて、レヴィに逢えただけで凄く嬉しかった。その気持ちを思い出したら、自然と顔が綻んでいた。
 そんな俺を、レヴィアタンは何か言いたそうに開きかけた口を閉ざして、眩しそうに双眸を細めて見下ろしていた。

「その後は…すぐにヴィーニーと交換されちゃったけどな」

 トホホホッと頭を掻いたら、レヴィアタンはすぐにムッとしたように顔を顰めて、それから、抱き締めている俺の身体をもっと引き寄せて、真っ白な睫毛が縁取る目蓋を閉じると、ルシフェルがそうしたように頬に頬を寄せて、腹立たしそうにコソリと呟いたんだ。

『アレは最大の不覚だったと今も後悔しているんだ。長かったけれど、漸く辿り着けたような気がする』

 レヴィアタンが何を言おうとしているのか判らなくて、俺はあの甘い匂いに包まれて、うっとしりしながらその声に耳を傾けていた。
 どんな内容でも、たとえそれがリリスのことでも、今の俺にはどれも優しく聞こえたに違いない。
 だってさ、今、レヴィアタンがこんなに近くにいるんだ。
 腕を伸ばせば抱き締めることも、キスをすることもできる距離に、あの白い悪魔の真っ白の髪と眉毛、スッキリした鼻筋に、男らしく引き結ばれた唇まであって、それだけで、凄く幸せな気分になれる俺は、安上がりな高校生なんだよ。畜生。

『オレも…そうだな、オレも一目惚れだったんだろう』

「それは嘘だ。だって、俺のことなんか一度も見なかったじゃないか」

 ムッとして唇を尖らせたら、レヴィアタンのヤツは照れたみたいに真っ白な頬に朱を散らして、俺の額に自分の額を擦り付けてきたんだ。

『馬鹿だな!嘘を吐けば、オレは地獄の業火で焼かれるんだ。まぁ、黙って聞いてろよ。大悪魔が人間に告るなんて、大事件なんだぞ』

「そうなのか?じゃぁ、その光栄に浴して黙ってるよ」

 間近にあるレヴィアタンの顔を見詰めるだけでドキドキしてるなんて内緒にして、俺も頬を赤くしてクスクスと笑った。
 大悪魔のレヴィアタン様が何を告白してくれるのか、楽しみだからこれ以上は何も言わずに聞いておくことにしよう。

『改まると居心地が悪いもんだな…まぁ、その。お前がオレに手料理を進めた時だよ』

「食い物か…」

 やっぱり白い蜥蜴に餌付けしておいてよかったとか、俺が密かに拳を握り締めていると、レヴィアタンはどうもそうじゃなかったらしく、コホンッと咳払いなんかしやがった。

『違う。お前の顔だ』

「へ?」

『お前が、オレに向かって笑った顔だ。あの顔を見たとき、手離したモノの価値に気付いて後悔した。その後に、お前を取り戻そうと、誰の所有物になったのか捜し回っていた矢先に…お前の主人はルゥだと言うじゃないか。オレは思い切り凹んだよ。勝ち目もないし、何より、どうしてオレが手に入れたいものは何時も別の悪魔の所有物なんだって腹立たしかった』

 それだって、最初は自分の手の中にあったのに…と、レヴィアタンは悔しそうに吐き捨てた。
 俺としては、あんまり驚きすぎて、どんな顔をしたらいいのか判らなかった。
 俺が凹んで悲しんでいた時に、レヴィアタンは俺を取り戻そうと躍起になってくれていたって言うのか?それがもし本当だとしたら、俺は、リリスの存在を判っているのに、俺はあんまり嬉しくて、もうこのまま死んでもいいかもしれないとさえ思ってしまった。

『ベヒモスは生きた人間は食わない。だから、混沌の森にお前を隠すことにしたんだ。暫くは、ルゥの目を誤魔化すこともできるだろうと思ってな。ベヒモスとの遣り取りは…お前に本心を知られたくないと思った、悪魔の照れ隠しだ。ベヒモスもそれに気付いたんだろう。あんなこと言いやがって…ッ。あの森でお前を眺めている日々は楽しかった。太陽みたいにコロコロよく笑って、だから、オレのお前への想いは募る一方だったってワケだ』

 …そうか、ベヒモスも役者だったワケだ。気付いてたんなら、早く言ってくれよ!
 あんな、慰め方をされたら、本当にレヴィに捨てられたって思っても仕方ないじゃないか!!
 はぁ…そうか、レヴィアタンは俺をもうずっと、好きだって想ってくれていたんだ。
 コイツなりに画策して、俺を手に入れようとしてくれてたんだな…それで、どうしてもダメだったから、とうとうこの領域まで連れ去ってくれたんだ。
 俺はまた、いや、今度は嬉しくてポロッと泣いてしまった。
 レヴィアタンはギョッとしたみたいだったけど、俺が泣きながら嬉しそうに笑っている顔を見て、ちょっとホッとしたような表情をして頬を摺り寄せてきた。

『お前は笑っている方がいい。泣かれると、どうすればいいのか判らないんだ。誰かを、その、な?愛したことがないんだよ、オレは。だから、優しくすることも判らない』

 それはレヴィの本心なんだと思う。
 じゃなければ、ルシフェルとの契約どおり、今頃レヴィアタンは地獄の炎に包まれているはずだから。
 でも、それだと話がおかしくなる。
 リリスは奥さんなのに、彼女を愛していないと言うのか?愛することが判らないまま、リリスを妻にして、長い時間をずっと一緒に過ごしているのか?…そんなことは、有り得ない。
 あの笑みは、確かに信じあって、心を許した相手にだけ向ける、愛情の表情だった。

『湯治の泉にいるルゥを見かけて、取り敢えず、まずは話し合いで譲って貰えるように頼むことにしたんだよ。で、話が纏まらなければ、別の方法をだな…ッ』

 レヴィアタンの顔が俄かに曇って、ハッとしたら、俺には熱は感じられなかったのに、レヴィアタンの腕が青い炎に包まれていたんだ。ビッシリと額に脂汗が滲んで、その苦しみ方は半端じゃないみたいだけど、でも、けして俺を取り落としもせず、尚且つ、絶対に口を割ろうともしないレヴィアタンに、俺は思わずプッと噴出しちまった。
 酷いヤツだと思うだろうけど、そうまでして隠したがっていることを、俺はとっくの昔に知っているんだ。なんか、レヴィアタンが可愛く見えるんだよ。

「違うだろ?レヴィアタンは端っから喧嘩を吹っ掛けるつもりで斬り付けたんだろ??」

 思わず上目遣いで見ながら、ウプププと笑ったら、ちょっと拍子抜けしたような白い悪魔は先端の尖った耳を項垂れたように垂れたけど、すぐにバツが悪そうに唇を尖らせたんだ。
 そんな仕種も凄く可愛いよ。

『なんだ、知ってたのか。ま、そうだよな。あのルゥが口にしないはずがないか。オレたち悪魔に話し合いなんてないからな。欲しいものは交換か、力尽くで奪い取るしかないんだ。ルゥの場合は、見守り続けている魂より他に欲しいものなんて何もないようなヤツだから、そんなヤツがアスタロトと何かで交換してまでも手に入れたお前を、絶対に手放すはずがないと思ったんだ。だから、まぁ、その…先手必勝ってこといで斬り付けて攻撃したワケだ』

 真実を話し出すと、レヴィアタンの腕を焼いていた青い炎は一瞬で消えてしまった。そうすると、傷も綺麗に癒えるから、地獄の業火ってのは怖いもんだなと思う。
 この大悪魔ですら成す術もなく、燃えているしかないんだから…
 でもそうか、そんな事情だったんだ。
 ルシフェルがそのことをどう思っているか、話してしまったら、またレヴィアタンは呆気に取られちまうんだろうなぁ。

「でも、斬り付けるのは穏やかじゃないよな。ルシフェルが死んだらどうするんだ??」

 眉を顰めて心配そうに見上げたのは、旧知の友を死なせてしまえば、心に深い闇を…ルシフェルが言ったことが本当なら、あんなに綺麗な一面の白い花畑を創造できる心があるはずなのに、レヴィアタンの心を投影した居城は、とても陰気で殺伐とした雰囲気が充満している。と言うことはだ、レヴィアタンの心には、俺なんかじゃ計り知ることのできない深い闇が蹲っているんだ。
 その闇に、さらに闇を重ねて、どこまで堕ちようってんだよ、馬鹿なヤツだ。

『ルゥは死んだりしないさ。オレもそうだぜ。身動きが取れなくなればソイツの負け、だから、ソイツの持ち物は勝者のものになるってワケ』

「なるほど…物騒だけど、命までは奪わないんだからいいのか。それが悪魔の遣り方なら仕方ないな」

 溜め息を吐いたら、ちょっとだけ、レヴィアタンは不機嫌そうに、何もかも見透かしてしまいそうな透明感のある黄金色の瞳で俺を覗き込んできた。
 う、ドキッとするじゃねーか!

『なんだよ、やっぱルゥが心配なんだな。オレを想ってるようなことを言って、本当は、やっぱりルゥが好きなんじゃないのか?!』

 どうしてそう言う結論に達するのか、やっぱり大悪魔様の心の中までは窺い知ることはできないけど、俺は呆れたように溜め息を吐いて言い返してやった。

「ルシフェルを死なせてしまったら、アイツは友達なんだろ?レヴィが寂しくなると思っただけだよ。それでお前、ちゃんと立ち直れるのかな…ってさ、悪魔の遣り方とか知らなかったし」

 まぁ、少なからず、あのお人好しの悪魔がいなくなるのは、俺自身だって寂しいとは思うけどな。

『…へー、じゃあオレのことを考えて、ってワケだな?』

「はぁ?そんなこと、当たり前だろ」

 レヴィアタンは何を言ってるんだと眉を顰めたら、白い悪魔は、なんと言うか、凄く綺麗な顔立ちをしているくせに、ガキ大将みたいな憎めないツラをしてニヤッと笑ったんだ。

『そうかそうか、じゃぁ、いいんだ』

 そう言って、俺の頬に思い切り頬擦りしてくるから吃驚して、また俺は目を瞠るしかない。
 7つの大罪の嫉妬を司る悪魔は、俺には理解不能の感情を持ち合わせてるみたいだ。
 愛を知らないと言った大悪魔は、少しずつ、俺に興味を持って、何時か俺が目の前からいなくなるときまでに愛を覚えたら、リリスが傍に居るんだから寂しくないだろうなと思う。
 愛を知るために、レヴィアタンが俺を選んだのなら…俺は、甘んじてそれを受け入れるしかない。
 優しいレヴィを心から愛しているけど、あれは【悪魔の樹】が見せた幻影だったとしたら、大悪魔であるレヴィアタンこそが真実なのだから、俺はこれからゆっくりともう一度、あの夢のように幸福な日々を築いていくしかないんだ。
 嬉しそうに笑って頬擦りをしてくるレヴィアタンに、俺は目蓋を閉じると、その白磁のような頬に口付けた。
 愛しているよ、と、言葉にできない想いを込めて。
 何時か、この想いが凍てついたレヴィアタンの心に届くように…