4  -悪魔の樹-

 俺の肩にちょこんっと乗っかっている小さな白い蜥蜴は、不思議そうに茶碗を洗っている俺の手許を覗き込んでいる。
 大きな金色の瞳がキョトキョトと、それでなくても実体は頗るカッコイイから、こんな風に白い蜥蜴になっているレヴィは可愛くて仕方ない。爬虫類って滑ってそうだけど、レヴィはイグアナの子供とでも言うような出で立ちで、触ればガサリとしているから、蜥蜴でも気持ち悪いとは思わない。

「もうちょっと待っててくれよ。これを洗ったら終わりだからさ」

《…ご主人さまはどうして皿を洗うのですか?年長であるのですから、弟君に命じれば宜しいのに》

 キョトンッと小首を傾げて俺の頬のところに頭を擦り付けてくる白い蜥蜴の、その尤もな疑問に俺は苦く笑いながら肩を竦めて見せた。

「ん~、頼んでも断るような弟だからな。命令して言うことなんか聞かないよ」

 濡れた手で布巾を掴んで、最後に洗った茶碗を拭いていると、レヴィはむ~っと考えているようだったけど、鱗に覆われているザラザラの掌でペタリと俺の頬に触れながら小首を傾げている。

《なんなら、ご主人さま。私が聞き分けの良い人間にしましょうか?》

「ここ、断る」

 屈託もないようなくるりんっとした金色の瞳で俺を覗き込んでくる白い蜥蜴の、確かに俺を思ってくれる気持ちから出た言葉なんだろうけど、青褪めながら丁重にお断りする俺にレヴィは残念そうに《そうですか》と呟いた。
 いや、白蜥蜴とは言ってもれっきとした悪魔なんだ、【お願い】すればニッコリ笑ってロボトミー手術でもした患者のように素直になってくれるだろう。
 ごめん、怖いからやめてください。

「…光太郎さぁ」

 不意に背後から声を掛けられてビクゥッとした俺は、慌ててキッチンの出入り口に呆れたように腕を組んで立っている茜に振り返った。

「な、なんだよ?」

「よく、そんな爬虫類を肩に乗っけてられるよなぁ。気持ち悪くね?」

「へ?いや、別に…」

 なまじ、悪魔の囁きのように耳元で唆す茜の従順計画を聞かれてしまったかと、バツが悪い思いに駆られていただけに、肩透かしのような弟の台詞には呆気に取られてしまった。

「俺にはさ、平気で威嚇するんだぜ?絶対!レヴィよりもバウンサーの方が似合うって」

「はぁ??」

 ワケの判らない悪態を吐きながら、身体を屈めるようにして胡乱な目付きで肩に乗っている白い蜥蜴を睨みつける茜に、白い悪魔はムスッとしているようだけど、それでも何も言わずに俺の首筋に身体を寄せて背を丸めているようだ。

「ネーミングセンスの悪い光太郎が【レヴィ】なんていい名前付けたじゃん。なに?篠沢さんにでも付けてもらったとか??」

 身体を起した茜のヤツは、ニヤニヤ笑いながらムッとした俺の顔を覗き込んできたけど、んなワケねーっての!と、あからさまに物語る俺の仏頂面に肩を竦めて、それからまるで、ついでのようにチュッと音を立てて尖らせる俺の唇にキスなんかしてきやがった。

「…あのなぁ、茜…ッ!?」

「いってーーーッッ!!この、クソ蜥蜴ッ」

 相変わらず、レヴィの熱いキッスを頬に受けた茜は思い切り痛そうに噛まれた場所を押さえて蹲ってしまったから、俺は呆れたように笑いながら首を傾げて見せたんだ。

「毎回毎回、レヴィに噛まれるのにヘンなことするからだ」

「…ってぇ、畜生。昔はさぁ、茜、茜って言ってさ。光太郎の方がキスしてきてたのに、なんだよ、イキナリ用心棒とか飼いやがるし」

《!!》

 ギョッとしたようにパカッと口を開けた白蜥蜴は、そのまま俺の顔を見上げてきた。
 いや、なんでそんなに驚いてるんだよ、レヴィ。

「アレは、お前が喜ぶからただのスキンシップだろ?」

 現に、頬っぺたや額にキスしてやると、どんなに愚図って泣いていても、すぐに嬉しそうに喜んでご機嫌になってたんだよな。
 だから、それが癖になっていて、中学1年の時に反抗期で父親と遣り合った後に悔し泣きしていた茜の頬にキスしちまって、その時はアレだけ嫌がっていたってのに、それからこんな風にキスばかりしてくる。
 だけどなぁ、お前の場合は必ず口にするから嫌なんだよ。

「そもそも、俺がしてたのは頬っぺたや額だったじゃないか。口にするのなんかヘンなんだろ??」

 お前がそう言ったんだぞ。

「んー、あの時はちょっとね。でも、今はそれが嬉しいんだからさせろよな」

「はぁ…ヘンなヤツに磨きをかけてるなよ、茜」

「キスでヘン?じゃあ、犯すとどう言われるんだろ。変態とか??」

 クスクスと笑いながら、真っ赤になってしまった頬を晒して男前の顔立ちをしている茜のヤツは、あんぐりしている白蜥蜴を追い払って、そのまま俺を抱き締めてきたんだ。
 いつからこんなに成長したのか、茜のヤツは記憶していたよりも随分と逞しく育ったと思う。

「何を懐いてんだ、茜?」

「懐いてないって♪このまま押し倒そうと思ってるだけ」

 そう言ってもう後ろがない俺は、そのままシンクに身体を押し付けられるようにして茜にキスされてしまった。

「んぅ!…ん…んぁ…フ……んん」

 肉厚の舌が歯列を舐めて、途端に、あの時嗅いだ桃のような甘ったるい匂いを思い出だしてしまった俺は、トロンッと腰砕けにでもなりそうな顔付きで、逞しい茜の背中に腕を回しながら口付けの深さに酔いそうになっちまって…

《ご主人さま!何をなさっておいでですッ》

 脳内に響いたレヴィの苛立たしそうな思念にハッと我に返るのと、どうやら思い切りやわらかい脹脛に食いつかれたんだろう茜が、悲痛な絶叫を上げてダイニングの床に転がるのはほぼ同時だった。

「え、えっと!だ、大丈夫か!?茜??」

 やっべ!思わず弟に流されるところだった!!

 俺の濡れたように光る唇に親指を這わせて、激痛に顔を歪めたままで床の上で威嚇している白蜥蜴を睨んだ茜は、それから心配している俺の顔を覗き込んで笑いやがったんだ。

「クッソー!白蜥蜴の飼い主は光太郎なんだから、絶対にこの責任は取ってもらうからなッ」

「金ならない!スマンッ」

 損害賠償を訴えられたらレヴィとお別れか!?
 それは嫌だ、素直に謝ろうとする俺の後頭部を掴んだ茜は、グイッと力を込めながら犬歯を覗かせてニヤッと笑いやがったんだ。

「もちろん、金なんかいらないよ。決まってる!ペットの不始末は身体で払ってもらわないとなッ」

 どこのエロ親父だよ、茜!
 俺は脱力しながら、痛みで額に汗する弟の身体から手を離していた。
 哀れ茜、床へ背中からダイブである。

「だから、アレは弾みだって」

《貴方は弾みで誰とでもキスするんですかッ》

 胡乱な目付きで肩に乗っかっている白蜥蜴が睨みつけてくるのを、半ばうんざりしながら溜め息を吐いて受話器を持ち上げると、耳元に聞き慣れた悪友の声がした。
 茜は篠沢から電話がかかってきたのを知らせようとして、まあ、あんなことになっちまったので、篠沢のヤツは結構待たされたと思うんだけど…別に気に留めた様子もなく上機嫌だ。
 後でキッチリ説明でも求めているような白蜥蜴の執拗な視線から逃げるようにして、俺は待たされていたに違いない友人に勤めて陽気に応えたていた。

「篠沢?ごめんごめん、待たせちまって…」

“いいって別に。んでさ、今日言ってた本だけど…”

 あー、そう言えば。
 商店街で会った時に、いつか見せてくれるって言ってたモデルガンの雑誌が戻って来たって言ってたっけ?わざわざその為に電話をくれたのか…うう、持つべき者は悪友だな。

「うん、その本がどうしたんだ??」

“従兄弟のヤツが貸してくれって言ってるんだよね。だからさ、明日でもウチに来ない?”

 明日か…ああ、明日なら父親も弟もいないからいいか。

「判った、じゃあ明日学校帰りに寄るよ」

“そうしてくれ”

 んじゃなーっと言って、言いたいことだけ言うとサッサと切ってしまう、篠沢らしい対応に思わず苦笑していたら…不機嫌そうな思念が脳内に響いてきた。

《あの人間ですね?ご主人さまは…やっぱり行かれるんですか》

 そのくせ、ちょっとションボリしているのは否めない。
 だから俺は、レヴィを憎めないんだ。

「好きな本なんだよ。まあ、それを読んだらすぐ帰るから」

《私はお留守番ですか!?》

 ギョッとしたような白蜥蜴がガサリとした身体を摺り寄せながら見上げてくるから、俺は鼻の横をポリポリと掻き掻きトントンッと自室に戻るために階段を上がったんだ。

「えーっと、まぁ。篠沢のヤツ、爬虫類が苦手なんだよな」

 いや、得意ってのもスゲーけど…俺の場合は、この白蜥蜴がレヴィって判ってるから肩に乗せたり、キスしたり摺り寄られても鳥肌とか立たないんだけど、これが茜や篠沢なら、特に篠沢なら卒倒ぐらいは平気でするだろう。

「ごめん、レヴィ」

 そう言って室内に入ると、脳内にヤレヤレとでも言いたそうな、理不尽そうなレヴィの思考が流れ込んできた。そりゃあ、やっぱり怒ってるだろうなぁ。
 それとも呆れてるかな…俺、結構レヴィに酷いこと言っちゃったし。

「あのさぁ、その、レヴィ…」

『私は、ご主人さまが心配なんです』

 呟くような声が耳に直接届いて、ハッと肩に触れた時には白蜥蜴の姿はなく振り返った先に、漆黒の外套に中世の貴公子が着込んでいるような古風な衣装に身を包んだ、白髪で先端の尖った大きな耳を持つ、金色の双眸を拗ねたように光らせている白い悪魔が立っていたんだ。
 部屋は狭いし、振り返ればすぐ目の前にいる悪魔は、ちょっと寂しそうに俺に向けていた金色の視線をふと逸らして、それでも無言で抱き締めてきたりするから…俺はどんな顔をすればいいんだよ。

『貴方があの人間のところに行かれるのであれば、それは貴方が望むこと。致し方ありません。でも私は…貴方にとってはただの悪魔でしかありませんが、私にとって貴方はとても大切な方です。どうぞ、忘れないでください』

 そんなこと言って…俺は、俺の中に蹲る凶悪なものがあるなんてこと、気付きもしなかった。
 悪魔だと言うのに、抱き締めれば温もりだってあるのに、俺は抱き締めるレヴィの背中に腕を回して、誰よりも抱き心地のいい白い悪魔の胸元に頬を寄せていた。
 チャラチャラ宝石類を身に着けているのは、レヴィが魅力的な悪魔だからかもしれない。
 悪魔はそうして、人間の心を誘惑するんだろう。

(…とても大切なのは主人だからであって、俺がただの人間だったら見向きもしないくせに。本当の名前だって、俺には教えてくれない)

 あんな非道いことを言っておきながら俺は、この白い悪魔に全てを求めたくなっていた。
 レヴィの本名を知ってどうなるのかも判らないけど、ちゃんとその名前を呼びながら、俺も白い悪魔が大好きだって、ちゃんと言いたいのに。
 でも、レヴィにとってこれは、ただの契約上のなにものでもないのかもしれない。
 だってレヴィは…悪魔だもんな。

『ご主人さま、どうか私を離さないでください。貴方に捨てられてしまったら私は…』

 不安そうに白い眉根を寄せて、レヴィは俺の色気も何もない黒い髪に頬を摺り寄せながら、まるで縋るようにそんなことを言うから、だからきっと、俺は勘違いしてしまうんだろう。
 判ってるくせに。

「捨てたりするワケないだろ?俺は非道い人間だから、レヴィをきっと独り占めするんだ。俺が死ぬまで、レヴィは自由にはなれないよ」

 顔を上げると、不安そうな顔をしている白い悪魔の冷やりとする頬にソッと掌を添えたら、レヴィは金色の瞳で何かを探ろうとでもするように見下ろしてきた。俺の言葉を信じたいんだけど、人間は悪魔と同じぐらい嘘吐きだからなぁ…と思っているのか、それとも、昼に言った言葉のせいで、自分が綺麗だから傍に置いてくれてるんだろうなぁ…とでも思っているんだろう。
 どちらにしても、レヴィは少しだけ嬉しそうに頬の緊張を緩めたようだった。
 それでも、我が侭に非道いことを言う俺の言葉でも、レヴィは嬉しそうな顔をしてくれるんだ。

『ご、ご主人さま!?』

 レヴィがギョッとしても仕方ない。
 俺は、嬉しそうにしているレヴィの頬に掌を添えたままで、そのジャラジャラとアクセサリーが飾る胸元を掴んで、強引に引き寄せたからだ。引き寄せて、それから俺は…
 ゆっくりと瞼を閉じて、白い悪魔のレヴィにキスしていた。
 自分からキスしたことなんかないから、どういう風にしたらいいのかよく判らないんだけど、レヴィや茜にされるように、ちょっと驚いて開いている、真珠色の歯がとても綺麗なレヴィの口内に舌を挿し込んでみた。
 恐る恐る生温かい口内を舌先で探っていたら、すぐに肉厚の舌が絡まってきて、時折優しく吸ったり、淫らに絡み付いてきてくれる。その仕種が気持ちよくて、俺は必死でその動きにあわせようと頑張ったんだけど、結局、主導権はいつもレヴィに握られてしまう。
 仕方ないよな、恋すらも初めての人間が、きっと百戦錬磨に違いない悪魔に勝てるワケがない。
 レヴィの頬から離れてしまった手で、必死にレヴィの古風な衣装を縋るように掴もうとして、カクンッと足の力が抜けたように倒れそうになる俺に、覆い被さるように貪欲なレヴィが深い深いキスをしてくれる。

「…ふ、ぅ……んん…ッ」

『…ッ…』

 貪るようにキスしてくるレヴィは、百戦錬磨のクセに必死で、縋るように抱き締めてくるから俺は…白い悪魔に抱き付きながら、息も絶え絶えの声でキスの合間にレヴィの尖った大きな耳に囁いた。

「…えっち、しよ…」

『ご、主人さま…それは、その』

 クッソー!こんな恥ずかしい事は一度しか言いたくないんだぞ!??
 顔を真っ赤にした俺はレヴィを軽く睨んだんだけど、件の悪魔は、それこそ、思わず呆気に取られて噴出しちまいそうになるほど、動揺したような嬉しそうな、色んな感情が綯い交ぜした間抜けな表情をしやがったから、顔を真っ赤にしたままで俺はギューッとその胸に顔を押し付けながらヤケクソで言うしかなかった。

「だ、だから!…その、レヴィ…えっち、しよーぜッ」

 湯気だって出れば、頭に水の入った薬缶でも置いてくれれば沸騰だってさせてやらぁ!
 そんな覚悟の台詞だったってのに、いつまで経っても白い悪魔はウンともスンとも言いやがらないから、俺は顔を真っ赤にしたままで恐る恐るレヴィを見上げたんだ。
 白い悪魔は…なんとも言えない表情をして、俺を見下ろしていた。
 それは、嬉しいとか興奮してるとか、そんな感情じゃなくて、それどころか、どこか冷めたような冷静な双眸だったから、言った俺の方が居心地が悪くて、もしかしたらなんとも的外れな事を言ってしまったんじゃないかと胸がズキンッと痛んだ。
 レヴィに纏わりつくあの蠱惑的な芳香に酔い痴れてしまって、俺はとんでもないことを口走ってしまったんじゃないのか?…レヴィは、ただ単にあの時の行為はお互いを知るためであって、楽しいからしているワケじゃないと言わなかったか?
 そうだ、俺は凄い勘違いをしていたに違いない。

「ごめん!…レヴィ、その、今のはナシ!聞かなかったことにしてくれ。ははは…俺ってばどうかしてたんだよ!」

 胸がズキンッと痛むけど、それは我が侭ばかり言う俺を、本気でレヴィが好きだなんて思い込んでいた思い上がりへの罰だ。
 だって、レヴィは悪魔なのに…
 俺は慌てて顔を真っ赤にしたままでそう言いながら、レヴィから離れようとして、ガッチリと抱き締められている事実に気付いて首を傾げてしまった。
 だって、レヴィのヤツは今、俺の言った言葉に困惑して、それからきっと、嫌だと思ったに違いないってのに。どうしてそんなヤツを、抱き締めてくるんだよ?

「れ、レヴィ…離せよ。じょ、冗談だってば、気分を悪くしたんだったら…」

『ご主人さまは、そんな淫らな顔をして誘うんですね。きっと、弟君やあの人間にも、その淫靡な表情で誘うんでしょう』

「は?レヴィ、何を言って…ッ」

 ドンッと突き飛ばされて、身構えてもいなかった突発的な行動に、追いつかなかった俺はそのまま突き飛ばされた先にあったベッドに背中からダイブしてしまった。

「なな!?何す…んぅ!」

 覆い被さってきた悪魔は、冷めた表情をしながらも、何故か、何故そう思ったのか今でも判らないんだけど、静かに怒っているようにも見えた。
 荒々しいキスは自尊心を踏みつけるほど淫らだったけど、何故、そんなことをされるのか判らなくて目を白黒させている俺は、それでも蠱惑的で腰が砕けちまいそうなほど厭らしい気分になるレヴィの芳香に酔い痴れて、もう何をされてもいいような気持ちになっていた。
 ハッ!いかん、このままじゃいかん!!

「や、やめ…ッ!……んぁ…ッッ…れ、レヴィ…お願いだからッ」

『ご主人さま?どうして嫌がるんです。貴方は、セックスがお好きなんでしょう?』 

「ちが!…んぅ!…れ、レヴィだから!…レヴィとだから……ッ…えっちしたいのに」

 追い詰めるようなキスにポロポロと涙を零しながら首を左右に振れば、俺の様子がおかしいと思ったのか、それとも、必死に搾り出した言葉に何かを感じたのか、レヴィはキスをやめてくれた。
 濡れた真っ赤な唇から覗く舌に、俺の舌からのびた唾液が常夜灯に反射してキラリと光ったけど、レヴィはその舌先でペロリと唇を舐め、それから俺の唾液塗れの唇をペロペロと舐めたんだ。

『ご主人さまは、セックスが好きではないんですか?』

「あのな、レヴィ!俺は、誰かとえっちしたことなんかないんだ。お前がその…は、初めてだったし。それに、レヴィとだからえっちしたいって思ってるんだ。こんな気持ち、誰にも持ったこたねーよ!」

 畜生、これ以上何を言わせるんだよ。

『…それは、本当ですか?』

 一言一句、まるで区切るように、覆い被さっているレヴィが俺の両腕を脇で押さえ付けたままで覗き込んでくるから、その金色の揺るがない双眸を見据えたままで、俺はこれ以上はないってぐらい顔を真っ赤にして宣言でもするように喚いたんだ。

「あったりまえだろ!!好きな人としかえっちなんかできるかよ!!?」

『それは、私が綺麗だからですよね?』

 凄まじい力で俺を押さえ付けたままで、ションボリと白い睫毛を震わせて金色の目線を伏せる白い悪魔を、腕の自由が利くんだったらその両頬をバシンッと挟んで確りと見据えて言ってやるんだが…まあ、でもこんな事を思い込ませたのは俺の責任でもあるんだけど。

「…うん、レヴィは綺麗だ。俺なんかが傍にいても、本当にいいのかって不安になるぐらい綺麗だよ」

 ますますシュンッとしたように伏せた金色の瞳で、ふと俺を覗き込んできたレヴィは、もうそれでもいいかな…と、自分で自分に言い聞かせているように溜め息を吐いたみたいだった。

「思わず嫉妬してしまうほど、レヴィは綺麗だ。だから、俺は不安になるんだ。レヴィが本当に俺と一緒にいてくれるのか、俺を好きだって言ってくれるのか…イロイロと試してしまう。悪魔には判らないかもしれないけど、何にもできない人間って言うのは、いつだって心配で仕方ないんだ。だから、逃げられる場所を作る。お前がもし、何処かに行ってしまったら、逃げられる場所を…」

『それが、彼なんですか?』

「うん、悪友だし」

『悪友…ねぇ』

 ポツリと、レヴィが忌々しそうに呟いた。
 あれ?雰囲気がちょっと違うようなんだけど…

『ご主人さま、悪友って言葉の意味をご存知ですか?』

「へ?」

 レヴィは冷やかな眼差しで、きっと間抜けな顔をしているに違いない俺を覗き込みながら、それはそれは酷薄そうに笑うんだ。

『交友するとためにならない友人、若しくは特に仲のよい友人や遊び仲間のこと…恐らく、貴方は後者の意味で仰っているんでしょうが、あの人間は前者に値しますよ。貴方はそう言うと怒るでしょうが、私は悪魔です。人間がたとえ怒ったとしても、本当はね。怖くなどないのですよ』

「れ、レヴィ…?」

 それはもしかしたら、レヴィなりの、白い悪魔の嫉妬だったのかもしれない。
 忌々しそうに呟きながら、レヴィの冷たい指先がシャツの裾から忍び込んで、乳首をキュッと抓んだりするから、俺は思わず声を出して白い悪魔の胸元を解放された方の腕で引き寄せながら額を寄せてしまう。
 片腕は自由にならないし、レヴィの窺うような金色の双眸に見詰められたまま頬を朱に染めて、感じてしまう顔なんか見せられない…と言うか、見せたくないっての!

『ただ、貴方の乱れる様が見たい…そう思っただけなんです。悪魔は悪魔の樹から生まれると、そのまま恩義も感じずに立ち去るものです。しかし、私は貴方を見た瞬間、心が騒いで仕方なかった。貴方をこの身体の下に組み敷いて、思う様突き上げれば、どんな声で鳴くんだろうと試したくて仕方なかった』

 まるで氷のように、酷薄な笑みを浮かべる唇の隙間から、ブリザードのように凍える言葉がポロポロと落ちてくる。一瞬、凍傷にでもなったようにビクッとして、腕を解き放たれた俺は、それでもズボンを下着ごと剥ぎ取られながらも抵抗する事はできなかった。

『つまらない、私の好奇心だったのですよ』 

 抵抗できなかった。
 その言葉が、あんまり深々と胸に突き刺さっていたから。

『思った以上に貴方は素敵でした。肛門が切れて、真っ赤な血を流しながら…それでも私を受け入れようと腰を蠢かす貴方の、青褪めた顔がどれほど私を興奮させたか判りますか?』

 首筋に口付けられて、俺はその時漸く、自分が泣いていることに気付いた。
 声を出すことも忘れて、俺は泣いていた。
 そのことに、レヴィは気付いているんだろうか。

『この顔も身体も、汚らわしい人間などに触れさせたくもないと思ったのですが…貴方は存外に鈍感で、そしてあまりにも愚かでした。私は言いませんでしたか?貴方は我慢強く、そしてお人好しだ。悪魔の私を好きなどと言う』

 レヴィは呟くようにそう言うと、力が抜けている俺の片足を抱え上げて、それから腿にチュッと音を立ててキスをしたんだ。
 下腹部の全てを晒して、どんなに無防備な姿を晒しているのか、後から考えたら羞恥心で身悶えちまうって言うのに俺は、その時はそんなこと、考える余裕すらなかった。
 形すらも成さない陰茎に指先を這わせて、その凍傷しそうなほど冷やりとする指先が、まるで今のレヴィの心のようで、思い上がっていた人間に施す最後の愛撫にしては、優しすぎて泣けてくる。
 それだって、これっぽっちも感じやしないのに。

「…知ってるよ」

『え…?』

 不意に零れ落ちた言葉に、レヴィの白い眉が微かに寄った。
 涙を零して、滲む白い悪魔の顔を淡々と見詰めると、それでも俺はあられもない姿を晒しながらも怪訝そうな顔をするレヴィを見上げたんだ。
 レヴィは、きっと、悪魔だから、俺の好意を知ってから突き放すつもりでいたんだろう。
 どうして、レヴィにそこまで恨まれているのかは知らないけど、どうも俺は、いつかレヴィを怒らせたようだ。だから、この白い悪魔は手の込んだ計画を練って、俺を貶めるためにこの地上に来たんだろう。

「レヴィさ、本当は最初から、俺のこと嫌いだっただろ?」

『…』

 無言はいつだって肯定だ。
 言い訳するよりもハッキリしているから、俺は自分の予感の的中に喜ぶどころか、心臓の奥の方がズキンッと痛むのを感じていた。

「最初に俺を見下ろした時の、あの目だ。あの目は、俺を虫けらでも見るような、忌々しそうな目だった…俺、レヴィに何かしたのか?だったら、許してはくれないだろうけど、謝りたいんだ」

『何を今更…』

 レヴィは忌々しそうに唇を噛んだ。
 綺麗な真っ赤な唇に、整った歯並びが綺麗な真珠色の歯が食い込んだ。

『では、どうぞ。私に抱かれてください』

「…レヴィ」

 好きでもないのに、レヴィは俺を抱こうとしている。
 たぶんそれはきっと、凄く辛いに違いない。
 でも、大丈夫だ。
 この胸の痛みに比べたら…身体の痛みなんか我慢できる。

「…ヒ!…く…ぅ……ああッ!!」

 隣りに弟がいるはずなのに、そんなこと考える余裕すらなくて、俺は闇雲に押し入ってくるレヴィの巨大な灼熱の陰茎に翻弄されながら泣き喚いていた。
 もうやめてくれと泣き叫んでも、冷たい白い悪魔は許してくれない。
 ズル…ッと一旦、大きく引き抜かれた猛り狂った陰茎は、まるで責め苛むように悲鳴を上げる狭い器官に捩じ込まれていく。苦痛に喘ぐ肛門は、レヴィの陰茎をぴっちりと咥え込んで、切れている端からタラタラと先走りと血液の混じった体液を零している。

「いぅ…ッ……あ、ああ…い、……いたッ…ヒィ」

 自分がどんな体勢でいるのかもうメチャクチャで判らないけど、腰を高く掲げて獣のように這わされた姿は、白い悪魔の下僕にでも成り下がったような羞恥心を煽るはずなのに、シーツに頬を擦り付けながら涙を零している俺には、そんなことはどうでもよかった。
 ぬちゅ…ちゅ…ッと、室内に湿った音を響かせて、有り得ない器官に捩じ込まれた陰茎が出入りする音が耳を打って、俺は思わずシーツを噛み締めてしまった。
 細い腰はレヴィの逞しい大きな掌に掴まれて、冷たいはずなのに、その掌の感触だけが俺を現実に引き戻していた。
 これは夢、きっと悪い夢。
 そんな浅はかなことに希望を見出しては、それが全て嘘だと知るための掌…なのに、その掌が背中を滑って、一度も勃起しない俺の陰茎に絡まると、ムッとする芳香に酔い痴れるように、熱い掌がまるで愛してくれているように錯覚してしまう。

「んぁ!…ヒィ……あ!?……ッ」

 ギョッとしたのは、這わせていた俺の身体を軽々と持ち上げると、大股に開かせた足はそのままで胡坐を掻くレヴィの上に座るような形で下ろされたからだ。
 重力に逆らうことなくずるずるとレヴィの陰茎を飲み込む形になって、俺は一瞬、意識が飛びそうになってしまった。

「れ、レヴィ…あッ……ぉ願いだ、から…何か…なにか……ヒ!」

 何か言ってくれ。
 恨み言でも何でもいいから、何か言って、俺に愛されてるんだと錯覚させてくれ。
 このセックスは、痛みだけを叩きつけるだけの非情な行為なのかもしれないけど、それでも俺にとっては、愛しいお前との愛の証なんだ。
 そんなこと、照れ臭くて言えやしないんだけど…一度でも言っておけばよかった。
 俺は、レヴィが好きなんだ。
 こんな非道いことされながらも、キスを促されれば舌だって絡めるほど、俺はレヴィが好きだ。
 膝が胸までつくほど折り曲げられて、まるで性行為の為だけの道具か何かのような扱いではあったけど、ガクガクッと力が失せてしまった足を揺するほど激しく攻められて嬉しいような悲しいような…きっと、悲しいんだろうなぁ。

「…ぅッ」

『…ッ…』

 ゴプ…ッと、何度目かの吐精はゆるやかな抽挿に泡立って、胎内でぬるく掻き混ぜられているようだ。
 今、引き抜かれたらごぽごぽと嫌な音を立てて、泡立った精液がレヴィの綺麗なズボンを汚して、シーツにまで垂れ流されるんだと思うと、このまま抜かないで欲しいと思った。
 いや、そうじゃない。
 このまま抜かないで欲しい…たとえ、1ミリだって感じもせずに勃起もできないでいることは判っているんだけど、それでも抜かないで欲しい。
 抜かれてしまったらもう、何故かレヴィに会えないような気がしたからだ。
 どんな非道い仕打ちをされたとしても、俺はレヴィを憎めないし、レヴィともう一度えっちしたいと思うんだろう。
 だって俺は、この白い悪魔を見た瞬間から、恋に落ちていた。
 射精後の脱力感からなのか、それが何を意味しているのか、レヴィは背後からギュウッと
俺を抱き締めてくれた。
 抱き締めたままで何かを呟いたのに、その肝心な言葉が聞こえなかった。
 聞こえていても、もしかしたら俺には判らない国の言葉だったかもしれないけれど…
 俺はレヴィに抱き締められたままで唇にキスされながら、嬉しくて嬉しくて…頬にポロリと涙を零したまま意識を手離していた。
 このまま目なんか、醒めない方がいい。
 もうずっと、闇に閉じ込めて欲しい。

 願い事なんていつだって叶わないものさ。
 俺がそれを知ったのは、可愛がっていた犬が死んだ日で、再び思い知ったのは母さんが死んだ夜明けだった。
 お願いだから、この世界の何処かにいる偉い人、俺の願いを叶えて…
 身体はだるくて、下半身は思うように言うことを効いてはくれなかったけど、それでも日常は当り前のようにやってくるし、それに乗っかっていないと限界なんかとっくの昔に超えていたから、頭がどうにかなってしまいそうだ。
 目覚めた時、やっぱりレヴィはいなかった。
 俺を憎んでいる理由も、気持ちも、何もかも言わないままで、俺の身体に濃厚な存在感だけを残したままレヴィは何処か遠くへ行ってしまった。
 きっと、俺の手の届かない場所なんだろうなぁ。
 そう考えたら切なくて、俺は溜め息を吐きながら着替えると、カバンを抱えて階下に降りたけど、その時にはもう父親の姿も茜の姿もなくて、時計を見たら遅刻は決定だった。
 なんだか一気に独りぼっちになったような気がして、俺は、誰もいないことをいいことにダイニングの床にしゃがみ込んで泣いていた。
 膝を抱えて声を殺して、誰もいないこの場所で…レヴィのいない、この場所で。
 いつまでも泣いているワケにもいかないし、学校を休む気にもなれなかったから、俺はカバンを持ったままで家を出た。家を出ても、学校に行く気にはなれなかったんだけど…それでも通い慣れた道を足は覚えていて、トボトボと行きたくないと駄々を捏ねる心を叱咤して歩いていた。

「おや、お兄さんじゃありませんか」

 呼ばれたような気がして振り返れば、そこにはいかにも胡散臭そうな灰色のフード付きローブを着ている占い師…アイツがいたんだ!

「あ、アンタ!」

「どうしたんですか、そんな悪魔でも見たような顔をして」

 目深に被ったフードで覆った目許は見えないけど、覗いているやや大きめの口許がニヤニヤと笑っている。間違いなく、あの灰色フード男だ!

「あ、悪魔の樹なんだけど…悪魔が生まれたよ」

「おお!ちゃんと生まれたんだ。よかったね♪」

「よかったね♪…じゃない!なんだよ、あの悪魔は…」

 ふと、ジワリと涙が浮かんできて、俺は慌てて学ランの袖で乱暴に顔を擦っていた。
 泣き過ぎて、腫れてしまった目許は誤魔化しようがないから、本当は学校には行きたくなかったんだけど…

「おや?悪魔がどうかしたのかい??と言うか、何かあったことは明確みたいだねぇ」

 灰色フード男はキョトンッとしたように、今にも壊れそうな安っぽいパイプ椅子に腰掛けて、薄汚れた布を掛けただけの粗末な机に両肘を着くと指を組んで俺を見上げてくる。
 せっかく会えたんだし、もう回り逢えもしないだろうあの白い悪魔のことを、どうせ誰にも言えないんだからせめて元凶のこの灰色フード男には聞いてもらおうと思ったんだ。
 事のあらましを説明したら、「うんうん」と感情の読み取れない声音で頷きながら、灰色フード男は大きめな口許を引き結んで聞いていた。

「…というワケなんだけど、俺は悪魔に恨まれるようなことをした記憶がないんだ。アンタがあの樹をくれたんだから、あの悪魔について何か知らないか?」

「うーん…何かと言われてもねぇ。あ、そーだ。お兄さん、ところで悪魔の真実の名は聞いた?」

「え?…いや、聞かなかった」

「どうして!?」

 驚いたように声を上げる灰色フード男に、俺はショボンッとして目線を伏せてしまった。
 名前を聞くも何も、あれほど俺を憎んでいるようなレヴィが、俺なんかに本当の名前を教えてくれるはずないだろうが。悪魔にとって、本当の名前は大切なんだろうし。

「どうしてって…さっき言ったように、憎まれてるのに名前なんか聞けないよ。そもそも、名前を知ったらどうなるんだ?」

「ああ、言ってなかったかな?真実の名を知ると、その悪魔が望むと望まざると、名前を知った人間が死ぬまで悪魔は仕えなくちゃいけなくなるんだよ。だからね、ホラ、悪魔の名前を絶対に聞き出せって言ったでショーが」

 そう、だったのか。
 レヴィの本当の名前を聞いたら、レヴィはずっと俺の傍にいてくれたのか…ははは、馬鹿らしい。
 だったら俺は、永遠にレヴィの本名なんか知らなくてもいいや。

「アイツにあんなに憎まれているのに、名前なんかで縛るのはダメだ。よかった、俺はレヴィの真実の名前なんて知らなくていい」

「え!?そんな、勿体無いでショーが!…でも、お兄さんがいいって言うのならいいけど。まあ、もう悪魔もいないんだし、聞く術もないからね」

 そうなんだ、こんな口論しても仕方ない。
 もう、レヴィはいないんだ。

「んじゃ、お兄さん。もう1本、悪魔の樹があるんだけど育ててみる?」

 それは、ともすれば甘い誘惑だったのかもしれない…でも、俺は灰色フード男の掌に乗っている干乾びかけたグロテスクな樹を見下ろして、クスッと笑ったんだ。

「お兄さん?」

「いや、ごめん。でも、それはいらないよ」

「へえ?お代は特別にオマケするけどね、それでもいらない?」

 押し付けたそうに言い募る灰色フード男に、俺は今度はキッパリと断った。

「レヴィに出逢えた樹だから、すっげー魅力的なんだけどさ。でも、いらない」

「もう、二度と手に入らないかもしれなくても?」

「…もう二度と手に入らないものは失くしてしまったから。そんな思いは懲り懲りだ。だからいらない」

「レヴィが生まれるかもしれないのに?」

 ふと、灰色フード男の口許に目線を上げたら、胡散臭い占い師は大きな口をニヤニヤさせながら俺の出方を見守っているようだ。
 もう一度、レヴィに逢えるのか?
 あの古風な衣装に身を包んだ、漆黒の外套を翻して立っていた、真っ白な髪と先端の尖った大きな耳、飾り髪に色とりどりのアクセサリー…それから、いつもションボリするくせに、一度も揺らがなかった金色の双眸を持つ、あの白い悪魔に?

「逢って、また同じことの繰り返しなら…やっぱりいらないよ。俺、こんなこと言ったらアンタは笑うかもしれないけど、レヴィが好きだったんだ。アンタに悪魔の樹を押し付けられた時は、正直迷惑だって思ってたけど、今は感謝してる。ずっと礼が言いたかったんだぜ?ありがとう」

 ニコッと笑ったら、灰色フードの男は一瞬口許を引き締めて、それからちょっと俯いたようだった。

「もし、誰かがレヴィに出逢ったとして、それをアンタに報告に来たとき…その人にお願いしてレヴィに伝えて欲しいんだ」

 そんな胡散臭い占い師を見詰めたままで俺が呟くと、灰色フード男は首を傾げるような仕種をして、フードの奥に隠れている双眸が一瞬、キラッと光ったような気がしたのは気のせいだと思う。

「いいよ、伝えておく。たとえば、たとえば愛してるとか、そんなこと?」

 口許をニヤニヤさせる占い師に、俺は一瞬目線を伏せて胸がズキリと痛むのを感じながら、それでも口許に笑みを浮かべて吹っ切るように灰色フード男を見た。

「サヨナラぐらいはちゃんと言え!…ってな、伝えてくれ」

 さようならも言わずに行ってしまった薄情な悪魔の後姿を思い浮かべながら、俺は…俺は、気付いたら少しだけ泣いていた。
 それで最後なら、もっと諦めがついたのに…悪魔は非道いヤツばっかりだ。

「それじゃ、俺はもう行くよ」

 じゃーなと手を振ろうとしたら、灰色フード男にガシッと腕を掴まれてギョッとしてしまった。

「なな、なんだよ?」

「今日は、友人の家に行くのかい?」

「…は?なんで、それを知ってるんだ??って、そうか。占い師だもんな」

 俺の財布の事情だって判るんだ、それぐらい知っていてもおかしくはないか。
 腕を掴まれたままで俺は、仕方なく笑って頷いた。
 もう、レヴィもいないんだ、いつもの生活に戻ったんだから悪友と過ごすのもいつも通りだ。

「言わなくても判ると思うけど、お気に入りの雑誌を見せてもらうんだ」

「…それはきっと楽しいだろうね。でも、お気をつけ。世の中は楽しいことばかりでもないからね」

 グイッと腕を引っ張られて、見下ろした灰色フード男のフードのなか…暗がりに潜む闇のようなその中に、キラッと光ったのは縦に割れた猫のような金色の双眸、どこかで見たことがあるような、でもそんなはずはない。
 レヴィの双眸は縦には割れていなかったからな。

「ご忠告、ありがとう。それじゃあ、さよなら」

 ニコッと笑って腕を離そうとしたら、灰色フード男は名残惜しそうに一瞬きつく掴んだけ
ど、諦めたようにソッと離してしまった。
 その姿を見て、もしや…っと思う気持ちもあったけど、そんなまさか、と思う気持ちの方が勝っていて俺はもう一度、「さよなら」と呟いた。
 なぜだか、もう二度とこの灰色フード男にも会えないような気がしたからだ。
 できればもう一度、アンタに会いたいけれど…

3  -悪魔の樹-

『ご主人さま!大丈夫ですか!!?』

 慌てたようにその男、恐らく悪魔は気障ったらしい仕種で優雅に片膝をつくと、倒れてしまった俺の身体をソッと抱き起こしたんだ。

「お、おおお、おま、お前はお前は誰だ!?」

 冷たく冴えた、冬の大気のように凛とした綺麗な顔立ちのソイツは、怪訝そうに白い眉を寄せて、「はて?」と首を傾げやがったが…何をしても、いちいち様になるからなんかやたらと腹立たしいんですが。

『悪魔に決まっているじゃないですか。あなたが育ててくれた悪魔の樹から生まれた、悪魔です』

 自らを『悪魔』と名乗った悪魔は(こう言うとかなりおかしく聞こえるが、はたしてその通りだから仕方ない)、至極当然そうにキリリとした顔立ちで宣言するように言い放った。

「あ、くま?」

『ヘンなところで切らないでください。悪魔ですよ、ご主人さま』

「悪魔って…呼び難いじゃないか。名前はなんて言うんだ?」

 俺は当初、あの灰色フード男に言われた約束を綺麗サッパリ忘れていた。でも、俺を抱き起こしていた悪魔が微かに眉根を寄せたのを見た瞬間に、パッと思い出したんだ。

【悪魔は本当の名前は教えてくれないけど、それでも必ず聞き出すといいよ。方法はお任せするけどね】

 確か、あの灰色フード男はそんなことを言っていた。
 じゃあ、この悪魔とか言うヘンチクリンなヤツも【本当の名前】ってのは教えてはくれないんだろう。

『…なんとでも。ご主人さまがお呼びくだされば、即ちそれが私の名前となるでしょう』

 悪魔はやたら優雅にニコリと笑った。
 一瞬の怪訝そうな顔などまるで嘘みたいに、そのくせ、自らが名乗ることはしないんだ。
 確かに、灰色フード男の言うとおりだなぁと感心していた。
 いや、抱き起こされたまま感心しているのもどうかしてる。
 俺は真っ赤になりながら白い悪魔の腕をソッと押し遣りながら身体を退こうとして、思わぬ強い力に拒まれてギョッとしてしまった。
 それでも悪魔は、優雅にニッコリ笑っている。

「えーっと…じゃあ、ポチ」

『…ポチですか?構いませんよ、それで。では、今日から私はポチです』

「じ、冗談に決まってるだろ!?あくまでも外見上は人間なんだ、えーっと、えーっと…俺、名付けるのって苦手なんだよな。アンタの本当の名前を聞こうとは思わないけど、渾名ぐらいは教えてくれよ」

 素直にネーミングセンスの悪さを認めて見上げると、白い髪の悪魔は、真っ白な睫毛をパチパチと瞬いてから、暫く考えるような仕種をしていたけど、ふと、シニカルに笑いやがったんだ。

『そうですか。本当の名前について、何か聞いているのですね。人間にしては珍しいですね。私たち悪魔の本当の名を知りたがらないなんて』

「知ってどうなるかも判らないのに、別に知らなくてもいいよ。呼び易いように、渾名ぐらいは知りたいけど」

 やれやれと溜め息を吐いて、離してくれそうな気配もない、どうやら悪魔らしいソイツの腕に体重を預けながら見上げたら、綺麗な顔立ちの白い悪魔は口許に悪魔らしい蠱惑的な笑みを浮かべて囁くように呟いた。

『では、そうですね。ベリアルとお呼びください。ご主人さま』

「ベリアル?」

『ええ、知り合いの悪魔にベリアルと言う者がいまして。同性愛を推奨する悪魔です。私はけして興味はありませんが、今は一応男性体であり、ご主人さまを求めていますから、ヤツの名を名乗るのも面白いかもしれません』

 白い悪魔はククク…ッと、それはそれは邪悪な顔をしてニタリと笑ったけど、俺がそのあまりに綺麗な邪悪な顔に一瞬青褪めると、逸早く気付いた悪魔はバツが悪そうな顔をしてションボリしたようだった。それにハッと気付いたから俺は、ムッとして悪魔のひと房だけ伸びた宝飾に彩られた肩に下がる飾り髪をグイッと引っ張ってやったんだ。

「お前さぁ、バカだろ?」

 人間なんかにバカ呼ばわりされて、多少はムッとしてるんだろうけど、悪魔は「はて?」と首を傾げながら俺を金色の双眸で見下ろしてきた。

「どうして他の悪魔の名前なんかで呼ばないといけないんだ?お前にはお前の、個性ってのがあるんだからちゃんとお前らしい名前で呼びたいよ。そうだな、待ってろよ。俺がもっといい名前を考えてやるからな。ネーミングセンスのことはとやかく言うな」

 ヘヘヘッと笑ったら、悪魔は面食らったように驚いているようだった。
 悪魔に説教する俺ってのもどうかしてるけど、それでも、他の悪魔の名前なんかで呼べるかよ。
 本当の名前を知られたくない、悟られたくもない、と思ってるんなら、俺が何かいい名前を考えてやるしかないワケだ。それなら、ネーミングセンスとかとやかく言わず、何かいい名前を考えてやろう。
 何か、何かいい名前ってないかなぁ…?
 俺が首を捻って考え込んでいると、表情を読み取らせない無表情で俯いていた白い悪魔がポツリと言ったんだ。

『…では、ご主人さま。私のことは、レヴィとお呼びください』

「へ?レヴィ??」

『はい。私の、渾名ですよ』

 悪魔は静かに笑った。
 それは、とても綺麗な笑顔だったから、いけないとは判っているのに、俺はレヴィと名乗ったこの悪魔のことを、ほんの少しだけど、好きだなと思ってしまった。

「れ、レヴィ?何をしてるんだ??」

『何を?決まっているではありませんか。私たちは主従関係にあるワケですから、お互いの事をもっとよく知り合わなくてはいけません』

「そ、それと俺をベッドに押し倒すことと何の関係があるんだ?」

 その台詞には、白い悪魔のレヴィはニッコリ笑うだけで答えようとしない。
 だから余計に、怖いんだけど。
 渾名とは言え、名前を名乗った白い悪魔のレヴィは、俺を両腕に抱え上げたままでスクッと立ち上がると、狭い部屋ではその威圧感さえ漂わせる長身の悪魔には狭すぎるとさえ思えるベッドの上に、抱えていた俺をユックリ下ろすとそのまま圧し掛かってきたんだ。
 ギシッとベッドが軋んで、悪魔なんて何かの冗談だと思うはずの俺に、今さらながらこれは現実なんだと叩きつけられたような気がする。

「ちょ…待って」

 思わずグッと、白い悪魔であるレヴィの腕を掴んだら、その実体はあまりに確かなもので、安心させるつもりなのか唆すつもりなのか、綺麗過ぎるほど綺麗な男らしい顔で笑うレヴィには泣きたくなった。

『ご主人さま、どうぞ力を抜いて…私にお任せください』

 やわらかく口付けられて…それがファーストキスだってのに、俺は心臓をバクバクさせながら思わず瞼を閉じていた。
 ひやりと冷たい唇に触れてギクッとしたのも束の間、レヴィの情熱的な舌先が唆すように歯列を突付いて、それでなくても恥ずかしいのに俺は、知らずに口を開いていた。
 キスは濃厚で、あの、甘ったるい桃のような芳香が狭苦しい部屋一杯に広がって、思わず条件反射でトロンッとしちまった俺は、引き剥がすつもりで掴んでいた手で、もっとと、強請るようにレヴィの背中に腕を回していた。
 その事さえ気付けずに、甘いレヴィの唾液に酔い痴れる俺を、人間なんかいとも容易く掌中にできるこの白い悪魔は、いったいどんな思いでその金色の双眸で見下ろしているんだろう?
 そんなクダラナイコト、蕩ける頭で考えながら、シャツの裾から忍び込んでくる冷たい指先に理性を飛ばしてレヴィの頬に自分からキスしていた。
 俺は、きっとどうかしてる。
 レヴィが甘い、桃と思っちまうなんて!

『ご主人さま…オレ、貴方のことが好きですよ。こんな気持ちは初めてだ』

「へ?」

 ふと、レヴィがクスッと笑いながら何か言ったような気がしたけど、それはあまりに微かな呟きでしかなかったし、俺自身は教え込まれた桃のような甘い芳香に酔い痴れていてそれどころじゃなかったから、目尻を染めながらトロンッと見上げるしかない。

『大丈夫ですよ。痛いのはきっと、最初だけですから』

 冷たい指先で乳首を弄られ、男なのに乳首なんか弄られてもきっとくすぐったいぐらいで何も感じやしないのに、と高を括っていた俺は、それが全く甘ちゃんな考えであったことをレヴィに思い知らされてしまった。

「…ッ…ふ……や、嫌だ、もう、胸は……ッ」

 なにやら恐ろしいことを呟きながらクスクス笑うレヴィに嫌々するように首を振れば、白い悪魔はニタリと真っ赤な唇で笑って首筋に口付けながら寝巻き代わりのジャージのズボンを下着ごと剥ぎ取ったんだ。

「!?…レヴィ、な、何をするんだ?」

 桃の芳香が思考回路を狂わせるけど素肌に空気の冷たさを感じて、却って不安になった俺は綺麗な白い悪魔を見上げていた。

『人間界で言うところのセックスです。ご主人さま、人間と言う生き物は、身体を重ねることで信頼を得るのでしょう?私は、貴方に私を信じてもらいたいのです』

「はぁ?レヴィ、それは間違ってるよ。男同士でその、え、えっちとかはできないし、それに別にそんなことをしなくても信頼ってのは…」

『ダメです。ご主人さまはまだ幼くて、繋がりを理解していらっしゃらないだけなのです。私に全て委ねて下さい。そして、私を信頼してください』

 レヴィが切実に言い募って、それから震えるようにキスしてきた。
 そうされてしまうと、男同士のセックスなんてどうするんだろう?と訝しくは思ったものの、桃の芳香が俺を狂わせたのか、レヴィの切ない金色の双眸が思い込ませたのか、どちらにしてもこの白い悪魔が嘘を吐いているような気がしなくて強張らせていた身体の力を抜いていた。
 レヴィは悪魔なのに、俺はまんまとその罠に嵌ってしまったんだって気付いたのは、それからすぐだった。

「うあ!?…あ、…や、ヤだよ……レヴィ、は、恥ずかしい……ッ」

 真っ白な頭髪を掴んで引き剥がそうとする俺のことなんか一向に無視して、レヴィは半勃ちしていた欲望の証をペロリと真っ赤な舌で舐め上げるなり、パクンッと咥え込んだんだ。
 そんなの信じられなくて、俺はこれ以上はないってぐらい大きく両足を開かされて、その間に古風な衣装に身を包んだレヴィが居座る様を、それこそ暴れるようにして嫌がりながら抵抗したって言うのに、白い悪魔の齎す舌戯に翻弄されて、次第に指先の力は弱々しくなっていった。
 う、気持ちよすぎる!!
 レヴィは外套すらも乱していないのに、下半身丸出しで、上着も思い切り捲り上げられているあられもない姿の俺って…そう考えただけも羞恥で真っ赤になるって言うのに、熱い舌に舐め上げられて、先走りをとろりと零す鈴口を舌先でグリグリされただけでも、身体がビクンッと跳ねて、揺らめく腰をとめることもできない。
 どうしよう、怖い。
 涙目になって、どうしていいのか判らないままでガクガク震えていたら、そんな俺の姿に気付いたのか、片足の腿を掴んで陰茎に舌先を這わせて翻弄しておきながら、レヴィはゆったりと笑いやがったんだ。

『気持ちいいんですか?それとも、怖い?』

「うぇ…ヒ……ど、っちも…」

 グスグスと鼻を啜るようにして目元を染める俺を、レヴィのヤツはクスクス笑いながら陰茎の根元は掴んだままで、伸び上がるようにしてキスしてきたんだ。

『大丈夫です、心配しないでください。私は貴方の怖がるような事はしません。私が齎す快楽にどうぞ、心ゆくまで溺れてください』

「れ、レヴィ…う……ッ、…レヴィ…」

 気付いたらポロポロと頬に涙が零れていて、俺は恐怖心と気持ちよさに、そうしているのは白い悪魔のレヴィだと言うのに、縋るようにして頬に触れながらレヴィのキスを受け入れるつもりだった。
 なのにレヴィは、突然どうしたのか、冷たい唇をキュッと引き結びなり、またしても身体を戻して俺の陰茎に舌を這わせたりするから、俺はヒクッと身体を震わせて嫌々するように首を左右に振るしかなかったんだ。

「ヒッ!?…うぁ…ッ、い、痛い……レヴィ!」

 悲鳴のような声は、突然レヴィが陰茎に這わせていた舌を、その奥、更に奥にある本来なら排泄行為にしか使わない窄まりに這わせて、桃のような甘い匂いのする、もちろん味も甘いんだけど、その唾液と一緒に繊細そうな長い指先まで潜り込ませてくるから身体が波打ち際の魚みたいに跳ねてしまった。

「い、嫌だよ、レヴィ!そこは、そこは汚い…ッッ」

『汚くなど…貴方の身体は何処も甘いです』

 嘘ばっかりだ。
 レヴィの身体の方が、まるで何かの果物でできてるような甘ったるさじゃないか。

「レヴィは…嘘つきだ」

『スミマセン、私は悪魔ですから』

 尻に舌先を潜り込ませて長い指先で奥まで貫きながら、レヴィは思わず笑っちゃうようなことを言ってくれるから…ついつい、身体の力を抜いてしまったじゃないか。

「んぁ!…あ、……ヒゥ…ッ…い、イタ……ッ」

『でも、嘘ではありません。貴方は甘いです』

 身体を起して、男なのにポロポロと、未知の恐怖に涙を零す俺の頬に唇を落としながら、白い悪魔はどこか痛いように眉を寄せて綺麗な白い睫毛の縁取る瞼の裏に金色の双眸を隠すと、真っ赤な唇に笑みを刻んで俺の力の入らない両足を抱え上げたんだ。

「…レヴィ?」

『ご主人さま、どうか私を受け入れてください』

「?……~ッッッ!!」

 カッと見開いた目、涙が限界の目尻から零れ落ちて、視線の先、白い悪魔のレヴィがゆったりと冷たく微笑んでいる。
 強烈な圧迫感は内臓すらも貫いて、身体の芯に灼熱の棒を捩じ込まれて串刺しにされた錯覚に陥ったのは一瞬のことで、引き抜かれる絶望的な痛みには脳が真っ白になってしまった。
 ヌル…ッと滑るのは、レヴィの甘くて脳みそがクラクラするような芳香を漂わせる先走りのせいばかりじゃなくて、鈍い音が胎内で響いたから、きっと肛門が切れたんだと思う。
 レヴィの陰茎は、驚くほどでかい。
 それともそれは、男を胎内に受け入れたことのない俺だから、ただただ、その圧迫感と苦しさと痛みで、そんな風に思っているだけなのかな…

「…ッ……ハッ……ッッ」

『息を吐いてください、ご主人さま。そのままでは辛いですよ』

 じゃあ、抜いてくれ。
 目尻から情けなく涙を零しながら痛みに耐えてレヴィを見ると、さっき見たあの悪魔のように冷酷そうな微笑が嘘のように、白い悪魔は心配そうに真っ白な眉根を寄せている。
 ガクガクッと、まるで壊れた人形のように、レヴィの動きにあわせて力なく足が揺れているけど、抵抗しようにも力が出ないんだ。
 全くもっての無防備は、それでも、レヴィの許しを請うようなキスには蕩けてしまいそうな甘さがあった。
 ああ、どうしてだろう…俺。
 こんなに意味もなく非道いことをされているのに、俺はレヴィを憎むこともできなければ、恨むこともできない。ましてや…嫌うことさえできないでいるのは、きっと、どこかおかしいんだろう。
 こんな時なのに俺は、クスッと笑っていた。
 そんな余裕はどこにもないと言うのに。

『…ご主人さま?』

「レヴィ…」

 何か言いたくて、でも言えなくて。
 咽喉の奥で引っかかってしまった言葉は、悲鳴のようにヒューヒューと切ない呼吸音しか響かない。
 レヴィの灼熱の飛沫を胎内の奥で受け止めた瞬間、きっとコイツの精液はピンクなんだろうとか、そんなどうでもいいことを考えながら、桃のような強い芳香に包まれたまま俺は意識を手離していた。

 ふと、意識を取り戻した時には着衣もキチンとしていたし、布団もかけられていた。 ただ、性行為の名残と言えば下半身の非道い激痛と、少し身体を動かしただけでドロリ…ッと肛門から零れるレヴィの精液の感触だけだ。
 う、うわぁぁぁ…俺、レヴィと犯っちまったのか!?
 初めて会った悪魔なのに!
 人間じゃないヤツなのに!!
 いや、悪魔だからなのか…?
 起き上がるのも億劫だったけど、それでも身体を起してアワアワと泡食っていると、傍らで何かが動く気配がしてハッとした。

『ご主人さま!ああ、よかった。目覚められたんですね!?あんまり目覚められないので、私は…』

 綺麗な顔には似つかわしくないほど、うぇ…ッと眉を顰めた白い悪魔が、半べそ状態で抱き付きながら叫びやがったから堪らない。

「い、いてててッ!!だ、抱き付くなよ、大丈夫だからッ」

『あ、申し訳ありません!…無理をさせてしまいました』

 悪魔のクセに、あんまりションボリするもんだから、俺は思わず抱き締めてくるレヴィの背中に腕を回しながらクスクスと笑ってしまった。

「レヴィってヘンな悪魔だよな!人間とこんなことしたって面白くないだろうにさ」

『…面白いとかそう言うワケではないんです』

「ああ、そうだったな。お互い分かり合う為だったっけ?んじゃ、レヴィは俺のこと、少しは判ってくれたのか??」

 古風な衣装に身を包んでいるレヴィの身体はどこか冷たくて、その感触だけが、ああ、コイツは人間ではないんだなぁと思わせていた。でも、だからと言って幽霊のように実体があやふやってワケでもないし、いったいレヴィって何者なんだろう。
 本当に悪魔なのかなぁ?

『よく判りました。貴方は我慢強く、そしてお人好しだ』

「はぁ?」

 レヴィは何が楽しいのか、クスクスと笑いながら痛む身体を労わるように優しく抱き締めてくれるから、その背中に腕を回したままで、俺はこの白い悪魔に凭れながら首を傾げてしまう。

『貴方は私のことは非道い悪魔だと思っていますね?』

「悪魔に非道くないヤツなんかいるのか?レヴィはヘンなヤツだ」

 アハハハッと笑ったら、思うよりもガッシリした体躯を持っているレヴィは、そんな俺を身体が痛まないように気を遣いながらギュウッと抱き締めてきたんだ。

「くる、苦しいんだけど。どうしたんだよ、レヴィ?」

『悪魔の本質を受け入れるなんて、ご主人さまこそ変わられた方だ。そんな貴方が、ご主人さまで本当に良かったと、感慨に耽っているのです』

「…やっぱ、レヴィはヘンなヤツだ」

 ニッコニッコ笑いながら抱き締めてくる古風な衣装の白い悪魔に、俺は呆れたように笑いながらも、コソッと思うのだ。
 俺の方こそ、レヴィのような風変わりな悪魔と知り合えて良かったと。
 俺、あんまり痛くないなら、これからもレヴィとその、エッチしてもいいとさえ思う。
 なんでそんな風に思うのか良く判らないんだけど、この白い悪魔を手離したくないと思っていた。

「光太郎!…顔色が悪いみたいだけど大丈夫なのか?」

 翌日、よく晴れた休日の朝なんだけども、欲求不満を解消してきたらしい弟はツヤツヤした肌をして生き生きと俺を振り返って、それから途端に眉間に皺を寄せたんだ。
 う、そんなに顔色が悪くなってるのか?
 やっぱ、レヴィは悪魔じゃなくて幽霊で精気を吸い取られて…ひー。

《そんなワケないじゃないですか!ご主人さま、非道いです》

 思わず『るー』と泣いていそうな気弱な声で、俺の肩に乗っかっている小さな蜥蜴が舌を出している。
 どうも、蜥蜴に化けるとレヴィは俺の考えている事が【読め】るらしく、厄介なんだど、何か伝えたい時は便利だなぁと思ってしまう。

《昨夜、無理をさせてしまったので心配です》

 ションボリと蜥蜴が首筋に頭を摺り寄せてくるから、ヨシヨシとその小さな身体を撫でて「そんなことないよ」と安心させてやりながら、俺は朝帰りの弟を胡乱な目付きで睨むのだ。

「中学生が朝帰りとは戴けないな。本当に友達の家だったのか?」

「あっれ?光太郎ってば心配してくれてるの??それともヤキモチ?今日も甘い匂いがしてるな~」

 そう言ってから茜のヤツは、んーっと、父親がいないのをいいことに思い切りうちゅぅっとキスしてきやがったんだ!!

《!!》

「んんッ!?…ッ、んの、何をするんだよッッ…!?」

「いってぇぇッ!!」

 後頭部に手を当てて、ご丁寧に舌まで入れてきた俺より長身の弟、茜はギョッとしたように頬を押さえて離れたんだけど、その頬は血こそ出てはいないものの、真っ赤に腫れている。
 レヴィがガッツリ食いついたんだ。

「せ、茜??大丈夫なのか!?」

「んだよ、その蜥蜴!光太郎、蜥蜴なんか飼い出したのか??」

「へ?あ、うん。レヴィって言うんだ」

 俺は肩に乗っかって《ご主人さまに何をする!?》と、鼻息荒く怒っている小さい蜥蜴を掌に乗せて茜に見せながら頷いた。

「うっわ、すげー。コイツ、何?アルビノ??」

「あ、ああ。綺麗な白だったから…」

「噛まれないように気をつけろよ」

 指先で突付こうとして、パカッと口を開いた白い蜥蜴にビクッとしたのか、恐れをなしたような茜はやれやれとでも言いたげに肩を竦めて不機嫌そうだ。

「ちぇ!ソイツの名前、バウンサーってのにすればよかったのに」

「用心棒?どうしてだ」

 首を傾げたら、茜は不機嫌そうに肩を竦めるだけで何も言わなかった。
 そのまま朝食はいらないからと言って2階に上がってしまったんだけど…茜のヤツ、いったいどうしたっていうんだ?

《ご主人さまの弟君は、兄上に懸想していらっしゃるんですねッ》

 ムスゥッとしたように白い蜥蜴は咽喉の下を掻きながら不機嫌そうに呟いたけど、俺は「懸想?なんだそれ」と首を傾げながら夜勤で帰ってくるだろう父親の為の朝食の支度を始めたんだけど…そうか、昨日作っておいた肉ジャガがあったんだっけ?

「そーだ、レヴィ。お前は飯とか食わないのか?」

《食事ですか?私の食事は大気に含まれる純粋なものです。ですが、ご主人さまが食せと言うのならば何でも食べます》

 ゴロゴロと、そんなはずはないのに咽喉でも鳴らしているように目を細めて頬に頭を摺り寄せる白蜥蜴に、俺は肩を竦めながらエプロンをつけて首を傾げて見せた。

「人間のモノを食わせたら腹を壊すかもなぁ」

《そんなことはありません。ご主人さまが自らお作りになったもので腹を壊すなど、畏れ多いことです》

「ははは。レヴィは大袈裟だよ」

《そうでしょうか?》

 ムゥ?っと理不尽そうに首を傾げる白蜥蜴に笑っていたら、たいそう不気味そうに背後から声を掛けられてしまった。

「…光太郎、大丈夫か?」

「わわッ!?あ、なんだ茜か」

「なんだじゃねーよ。誰と話してたんだ??」

 胡散臭そうに片目を眇める茜に下から覗きこまれるようにして、俺は焦ってお玉を持ったままエプロンを握り締めてしまった。

「誰にって…レヴィに腹は空いたかって聞いてただけだ」

 アハハハッと笑ったてみたけど、どうも、かなり疑われてしまったらしい。
 んー、わざとらしすぎたかな??

「白蜥蜴なんか虫でも食わせとけばいいんじゃね?…っと、なんだよ、この蜥蜴。なんか今、一瞬だけど壮絶に睨まれたような気がする」

 そりゃ、そうだろ。
 悪魔に向かって虫を食えなんて…人間を馬鹿にしてるかもしれないってのに。 悪魔のプライドを傷付けたんだ、睨まれるぐらいはするさ。

「んじゃ、俺さ。出掛けてくる」

「…はぁ!?お前、今帰ってきたのにまた出掛けるのかッ!?」

「いーじゃん、今日は休みだし?なんか、光太郎ってばホントにお母さんだよなぁ。いつかきっと、嫁さんにするから覚悟しとけよ♪」

「断る!」

「ははは!んじゃ、行ってきまーす♪」

「あ!ちょ、コラ待て…って、行きやがった。中学生のクセになぁ」

 伸ばしたまま行き場を失った手でそのまま頭を掻きながら、やれやれと溜め息を吐いていたら、肩の上でジーッと俺を見上げていた白蜥蜴、レヴィが不思議そうに首を傾げている。

《ご主人さまは出掛けられないのですか?》

「へ?」

《弟君は楽しげに出掛けられた。ご主人さまはどこにも行かれないのですか?》

 ああ、俺は…あれ?そう言えば俺、いつからこんな風に出かけなくなったんだろう。
 確か、母さんが亡くなる前は悪友の篠沢たちとカラオケに行ったりゲーセン行ったり…それなりに楽しんでいたと思う。
 ああ、そうか。
 母さんが死んでから、高校生らしい生活とかしてないよな、俺。

「よし!じゃあ、今日は朝食の準備をしてから出掛けるかな。レヴィは行きたいところとかあるか?」

 一大決心だ。
 父親には、昼食は出前で我慢してもらおう。

《私ですか?私は、ご主人さまが行かれるのなら何処へでも》

「はは、そう言うと思った」

 白蜥蜴はそんな俺にキョトンッとしたようだったけど、それでもなぜか、嬉しそうに頭を頬に摺り寄せてくる。

《…しかし、強いて挙げるのならば》

「お?どこか行きたいところでも見つかったのか??」

 小さな蜥蜴を掴んで目の高さまで持ち上げると、金色の双眸をクルクルさせて、レヴィはパカッと口を開いて見せた。

《スーパー銭湯へ!》

「なぬ!?」

 思わずギョッとすれば、白い悪魔の化身である蜥蜴は、それこそニヤッと笑ったように無機質な双眸をスッと細めて見せたんだ。

《お身体は大丈夫ですか?》

 ソッと囁かれて、途端に俺の頬が赤くなるけど、レヴィはそれこそキョトンッとしている。
 あのなぁ…結構気恥ずかしいもんだな、俺をこんな身体にした張本人に気遣われると。
 それでも、照れ臭そうに笑ってしまう俺も俺なんだろうけど。
 ああ、でもそれで。
 スーパー銭湯なんてワケの判らないことを言い出したんだな。

「スッゲー、美形のクセにスーパー銭湯とか言うな」

《はて?容姿など関係ないではありませんか。ただ、ご主人さまのお身体が心配です》

 真摯に呟く蜥蜴ってのもヘンなもんだけど、そうして誰かに心配されるのも久し振りだったから、腹の辺りがこそばゆいような気がして思わずエヘヘッと笑ってしまった。
 今までは俺が弟や父親の心配ばかりしていたから、母さんがいなくなってから誰も俺のことなんか気にかけてもくれなかったし…だから、本当は凄く嬉しかったんだ。

「ありがとう、レヴィ」

《礼を言われるようなことはまだしていませんが?》

 はてはて?と首を傾げる目の高さの白蜥蜴に、なんでもないんだよと呟いて、それから俺はエヘヘッと照れ隠しにレヴィの身体に頬を摺り寄せてしまった。それが嬉しかったのかどうだったのか、俺には判らないんだけど、白蜥蜴は少しだけ身動ぎして身体を乗り出すように俺の頬に自分の頭を持ってこようとしているようだった。

《よく判りませんが、感謝を示すのなら唇に口付けて欲しいです》

 躊躇いも恥ずかしげもなくそんなことを抜かすレヴィに盛大に照れてムッとしたものの、キョトキョトしている小さな白い蜥蜴はそれだけでも可愛くて、俺はクスクスと笑ってしまう。

「はいはい、それじゃあ取って置きのキスを」

 そう言って、持ち上げた白蜥蜴の冷たい鱗に覆われた口許にブチュッとキスしてやった。

《では、お返しは夜の営みにて♪》

「ぐはっ!!」

 嬉しそうにてれんと垂れている尻尾を左右に振り振りの蜥蜴に思わず吐き出すのと、漸く帰宅した父親にバッチリ、蜥蜴とのキスシーンを見られてしまって身悶えるのはほぼ同時だった。
 トホホホ…

 久し振りの外出に、さすがの俺もテストの赤点なんかなんのそので、気分も軽やかにウキウキしていた。
 たとえ外が、こんな時に限って雨だったとしても、今の俺にはなんら気になるような状況じゃない。
 だって、肩に白蜥蜴を乗せている…って状況じゃぁないからな。
 じゃあ、どう言う状況なんだ?って言われれば、白髪と金眼、大きくて長い耳を隠したレヴィが、黒髪で黒い瞳の普通の人間になって俺の傍らに立っているんだ。
 道を行く女も男も、みんな例外なく振り返るのは、やっぱり悪魔が持つ独特のフェロモンのようなモノの成せる業なのか、はたまた、レヴィ特有の独特な香水のような匂いに釣られているのか、それともその、人間離れした美しさのせいなのか…たぶん、全部当て嵌まるんだろうけど、冷たい相貌で道行く人間たちを悉く無視する(今こそ本当にそれらしく見える)悪魔は、ぼんやり見蕩れている俺に気付いたのか、ニコッと屈託なく笑いかけてくるんだ。
 その気持ちがいいことと言ったらない。

「どうなさいました、ご主人さま」

「…ッ!!だから、その喋り方はNGだって」

「あ、そうでしたね。では、光太郎さん。どうしました?」

 あんまり変わらないんだけど、これが精一杯のレヴィの譲歩なら、俺だって無碍にするワケにはいかないし…でもホント、よくあんなチンコの樹から、こんな綺麗な悪魔が生まれたよなぁ。
 絶対、あの灰色フードの占い師は詐欺師だって思ってたのに…

「信じてみるモンなんだな」

「…?何をですか??」

 ポツリと呟いた台詞を耳聡く聞きつけたのか、レヴィが何か、面白そうな表情をして俺を見下ろしてきた。
 身長差が茜よりもあるモンだから、それでなくても威圧的に見えるレヴィはますます高圧的に見えてしまう。でも、それを打ち消しているのはポヤポヤとした笑顔のせいだ。
 ともすれば、酷く冷酷な、酷薄そうな面立ちにだって見える白い悪魔のレヴィは、笑うと憎めない犬歯が覗いて、それだけでも可愛いヤツだなぁと思えるから、きっと女はイチコロなんだろうと思う。

「なんでもないよ…ああ、ここだ!ここに灰色のローブを着た占い師がいたんだよ」

「…そうですか」

「悪魔の樹をくれたんだけど。ちゃんとレヴィと出逢えたって報告しようと思ったんだけどなぁ…」

「必要ありませんよ。さあ、行きましょうか」

 ふと、冷たく言い放ったレヴィはまるで、そう、まるで虫けらでも見下ろすような蔑みに満ちた双眸をして、俺が指差した灰色フード男のいた場所を一瞥しただけだった。
 そんな目付きのレヴィを何度か見たことがあったけど、いつも、どうしてか判らないけれど胸の奥がざわめいていた。どうして、そんな落ち着かない気分になるのか全く判らないんだけど…俺は、レヴィのその、悪魔らしい表情が大嫌いだった。
 ホエッと笑う、ホノボノしたレヴィが大好きだ…なんてことは、直接本人には言えないんだけど。
 恥ずかしくてなー

「ごしゅ…光太郎さんはいつもは何をしているんですか?」

 あの町角を離れて、俺たちは商店街をブラブラしていたんだけど、やっぱり道行く人たちはみんなレヴィを見ている。この町で、一番人の多い場所だと言うのに、レヴィはそれでも群を抜いて目立っていた。

「俺?俺は…夕飯の支度をしたり、弁当だとか朝食の買い物をしたり…主に家事かな」

 17歳の男子高校生には有るまじき日常生活に、トホホホ…ッと、思わず項垂れてしまう俺の気持ちなんかまるで無視して、レヴィはいつもの、悪魔のクセに見る者全てを幸せにするような穏やかな笑みを浮かべたんだ。

「そうですか。私は貴方の作る肉ジャガが大好きです」

 ほえ~っと笑うレヴィに絆されていると、今は黒い悪魔になっているレヴィはそんな俺をジックリと見詰めてくるんだ。

「な、なんだよ?今夜も肉ジャガ作ってやるよ。アレは母さんの直伝で…」

 料理を誉められるのは少なからず嬉しい。
 花の男子高校生がそんなことじゃいかんとは思うんだけど、それでも、手料理ってのはある意味格闘以外の何ものでもなくて、いつも献立に頭を悩ませては火の調整や味への追求を怠るわけにはいかない。だからこそ、誰かが口にした時に「美味しい」と言って貰えると不思議に疲れが吹っ飛んで、嬉しい気持ちになる。
 でも、最近の父親も茜も料理の感想を言ってくれなくなった。
 それがもう、当り前になっていたから…だから、レヴィに「好き」だと言われて、久し振りにこそばゆいような、面映いような気持ちになってしまったんだ。
 そこまで言ってくれるのなら、俺は張り切って作っちゃうんだぜ~♪

「私は幸せです。貴方の顔を見ているだけで幸せな気分になるのは何故でしょう?」

 悪魔のクセにそんな奇妙なことを言って笑いながら、思い切り注目を集めているこのすかぽんたんのレヴィを誰かなんとかしてください。

「そ、それは、その…俺にも判らないよ」

「そうですか。仕方ないですね」

 そう言ってニコリと笑うレヴィには内緒だ。
 俺だって、もうずっとそう思ってることは。
 俺だって、レヴィの嬉しそうな、幸せそうな顔を見ていると凄く、凄く…

「あっれぇ?瀬戸内じゃん、何してんだ??」

 綺麗なレヴィの顔を見上げていた俺の背後で誰かが呼び掛ける声…そう、見なくても判る篠沢だ。

「うげっ、篠沢」

「なんだよ、その思い切り傷付いちまう台詞は…っと、なんだ、連れがいるんだ?」

 誰だよ、この美人は…と、コソリと胡乱な篠沢の目付きが訊ねてくる。
 俺の知らないうちに、いつの間にこんな美人と知り合ったんだよと、相変わらず面食いの篠沢は、大方俺がカラオケとかの誘いを断っている原因はレヴィだと思い込んでいるに違いない。

「誰だよ、紹介しろよ」

 肘で突付かれてしまうと…俺はハタと気付く。
 いったい、なんて紹介したらいいんだ?
 まさか、チンコに似た『悪魔の樹』から生まれた白い悪魔のレヴィ…とか紹介できないし、コイツには教えようとか思っていたけど、いざそうなると、なぜか言いたくなくなってしまう。
 どうしてだろう?

「えーっと、コイツはその…」

「私は光太郎さんのペンパルでレヴィ・バレンタインと言います。日本に来ていて、光太郎さんの家に厄介になってるんですよ」

 ぬな!?

「あ、あー…そうなんだ。外国の人か、そうだよな。顔立ちが日本人と違うし、でも、日本語がお上手なんですね」

 篠沢はコロッと優等生の顔をして、ちゃっかりレヴィと握手なんか交わしてやがる。
 なんか、ムッとしていたら、篠沢はケラケラと笑ってから、まるで秘密を打ち明けるようにおどけてレヴィに言ってくれたんだ。

「でもま、レヴィさんが日本語お上手なんで信じましたよ。だって、瀬戸内に英語の理解力があるなんて到底思えないからさ。コイツってば赤点大魔王なんですよ♪」

 俺の恥を。
 うう、クッソー。

「大魔王なんですか?それは凄いですね」

 レヴィがニコニコと笑って、どうやら本気で感動しているらしいその姿を、ただの日本語がいまいち理解できていない外国人だと認識している篠沢が、拙いことを言っちゃったかなぁと頭を掻いて照れている。
 そう、照れている。
 あの、言い寄る女の子や親衛隊をモノともしない、あの篠沢が。
 すげー、恐るべしレヴィの魔力!…ってヤツかな?よく判らないんだけども。

「赤点取って凄いヤツがいるもんか。ところで篠沢はこんなところで何してんだよ?」

 ムゥッとして口を尖らせると、レヴィは訝しそうに眉を顰めたようだった。
 いったい、俺が何に対して腹を立てているのか判らない…その表情が、さらに俺に追い討ちをかけてるなんてこた、きっとレヴィには判らないんだろう。

「俺?ん~、ここに来れば瀬戸内に会えるかと思ってさぁ。ま、会えるこた会えたんだけどね。コブ付きで」

「は?」

「いんや、なんでもない。ところでさ、今日ヒマそうじゃん?これから…」

 あのなぁ、篠沢。
 見て判らないのか?俺は今、レヴィと…

「申し訳ありません、篠沢さん。光太郎さんは今日、ずぅーっと私と一緒にいてくれるんです。だからヒマじゃありません」

 ニコッと、威圧感のある笑顔で押しを強く言ったら、篠沢はギクッとしたような顔をした。
 そうだ、美人が凄むと怖いんだ。

「し、仕方ないよな。そうだよな。せっかく遠くから来てるんだし…なぁ?」

 いきなり、篠沢は俺の肩にいつもどおり腕を回すと、耳元にコソコソと話し掛けてきたんだ。

「今度、俺んちに来いよ。あの時話してた本が手に入ったから見せてやるって」

「ホントか!?うっわ、マジで嬉しいな。学校じゃなんだし、うん。今度行くように都合つけとくよ♪」

「お前さぁ、忙しいって言って中学の時から1回も俺んちに来ないだろ?たまには本ぐらい読みに来いよなー。約束だぜ?」

「そ、そうだったっけ?うん、判った。任せとけ!」

 いつも以上にベタベタするのはとっておきの秘密を打ち明けているからだ。こんな時の篠沢はホント、悪巧みをするガキっぽくて、そんな姿が女子に人気があるってことを、アイツはちゃんと計算に入れてるんだからスゲーよな。
 まあ、俺にはとうてい真似なんてできないけどよー
 「んじゃなー」と手を振って立ち去って行った篠沢の後姿を見送りながらふと、傍らで様子を窺っていたレヴィに気付いて見上げたら。

「お話は終わったんですか?」

 ニコッと笑いかけてくる。
 一瞬だが放って置いてしまって悪かったな…と思ったんだけど、レヴィのヤツはさほど気にした様子もなさそうでホッとした…その矢先だった。

「…でも、あまりあの方と関わるのは戴けませんね」

「は?」

「悪魔の勘とでも言いましょうか?」

 レヴィは申し訳なさそうに眉を寄せて肩を竦めたが、俺はちょっとムッとしてしまった。
 中学からの悪友で、確かにイロイロとアイツとの間にはあったけど、それだって一過性のモノで、今更蒸し返すような事でもないし、何より、もうずっと友人できたんだ。
 誰よりも良く知っている…その友人を、レヴィに悪く言われたような気がして、俺は傷付いた。
 そうだ、傷付いてしまったんだ。

「レヴィには関係ないだろ?お前の知らない時間ってのがあるんだ。余計な事に口を出すなよ」

 だから、口調がやけに刺々しくなっていたのは認める。
 認めるけど、だからってそんなにショックを受けたような顔をするなよ。
 眉を寄せて、寂しそうに小首を傾げるレヴィ…でも、そんな顔したって駄目なんだからな。
 よりにもよって親友とも呼べる友人を、悪く言われる筋合いとかないんだ。

「も、申し訳ありません。ですが、彼は…」

「あー、もう!聞きたくないって言ってるだろ!?なんだよ、お前。どうしてお前にそんなこと言われないといけないんだ!?」

 伸ばされた腕を邪険に振り払って、どうしてこの時の俺は、こんなに頭にきていたんだろう。
 レヴィはただ単に、悪友ってだけあって、影で悪い事をしているだろう篠沢の、もちろん俺はそんなことはとっくの昔に知り過ぎるほど知っているんだけど、知らないレヴィは注意するように忠告してくれているに過ぎないってのに…
 それが、なんだかとても嫌だった。
 俺が付き合っている友達を否定された、ひいてはそれは、俺自身を否定されたような気がしたんだ。

「…申し訳ありません、ご主人さま。どうぞ、私を捨てないでください」

 ショボンッと俯いてしまうレヴィの長い睫毛に、ゆっくりと降り頻る雨の雫が、まるで涙みたいな玉を結んでいたからドキッとしたけど…バカな俺は、そんないちいち様になるレヴィに対してさらに腹立たしく思ってしまった。
 何もかも手にしている悪魔のクセに、そうして、人間をバカにしているんだろ?
 ああ、これ以上、動くな俺の口。

「捨てる?捨てられるはずないだろ??お前は綺麗な悪魔なんだ、それだけでも優越感に浸れるしな!どーせ、それだけの価値しかねーじゃねぇかッ。そんなヤツに俺の友人の悪口なんか言われたかないね。篠沢はお前なんかよりずっと大切なんだッ」

 瞬間、レヴィは俯いていた顔を上げて、そう言った俺の顔を見詰めてきた。
 物言いたげな表情は、まるで裏切られた時に見せる絶望のようなものを含んでいたけど、俺は観衆の大注目の中にあることにハッと気付いて、レヴィを思い遣ってやる余裕をなくしていた。
 だから、フォローなんて考えもしないで、取り敢えずその場から立ち去ることを選んだんだけど…
 それでもレヴィは、あの白い綺麗な悪魔は、物静かに俺の後に大人しくついてきていた。
 この世界で、頼れる者は俺しかいない、俺だけが全てなんだとでも言いたそうに…
 レヴィの一瞬、金色に輝いた瞳は、切ない光に揺れていた。
 俺は敢えてそれを見ないふりをして、わざと苛立たしげに歩いていたんだけど、どうしてそ
んな態度を取ってしまったんだろう。
 レヴィと一緒にいる時の方が、こんなに安らげるのに。
 本当はたぶん、篠沢よりもレヴィの方が大切だと思っているのに…そんなこと、本人には言えないんだけど。

『…うぜぇな、アイツ』

 ポツリと、背後で何かを呟いたレヴィに振り返ったら、今は黒くなっているけど、白い悪魔はションボリした顔をして俯いていた。
 綺麗な眼差しを地面に落として、俺に嫌われてしまったんじゃないかとビクビクしている姿は、とても悪魔には見えないし、何より、その際立つ美しさには不似合いだった。
 そんな姿を見ていると、さっき何か言ったように感じたのは気のせいだったのか…
 俺が立ち止まると気配を感じるのか、無言のままで立ち止まるレヴィ。
 今にも泣き出しそうな綺麗な瞳は伏せたまま、ごめんなさいと態度が物語っている。
 そんな、ホントはただの八つ当たりなのに、そこまでしょ気られてしまうとなんだか物凄く

悪い事をしているような気になって、俺は誰もいないことをいいことに、コホンッと咳払いをして俯いているレヴィを下から覗き込んでやった。

「なんだよ、悪魔のクセに。そんな落ち込むようなことかよ?」

「…だって、ご主人さま。私には貴方しかいないのに。嫌われてしまったらそれで終わりなんです。そんなのは嫌です…出過ぎたことを言ってしまいました。申し訳ありません」

 ショボッと目線を伏せるレヴィの、人間らしく今風の服を着込んでいる胸倉をグイッと掴んで、何事かと視線を上げてきたその切なく揺れる瞳を見据えたままで、何故か俺は、気付いたらキスをしていたんだ。
 どうしてそんなことしたのか良く判らないんだけど、それでも俺は、瞼を閉じてキスしていた。
 触れるだけの、掠めるだけのキスだったけど、唇が離れるか離れないかのところでレヴィがちょっと驚いたように呟いた。

「…ご主人さま?」

「お、俺にも良く判らないけど!レヴィとキスしたいし、ずっと一緒にいたいって思う。誰がレヴィと離れるなんて言ったんだ!…俺は、我が侭なんだよ」

 ブスッと膨れっ面をしたら、レヴィはキョトンッとしたけど、ちょっと嬉しそうに綺麗な顔ではにかんで、恐る恐ると言った感じで抱き締めてきたんだ。
 俺だって、レヴィを好きなのに。
 嫌いになんてなるわけないじゃないか。

「私は我が侭なご主人さまも大好きです」

 ポツリと、そんな嬉しいことを言ってくれるから、俺はレヴィの背中に腕を回して、同じように抱き締めながら瞼を閉じていた。
 たぶんきっと、レヴィを嫌いになんてなれるワケがない。
 初めて俺を見下ろしたあの瞬間の、あの金色の双眸を忘れられないんだから…

『…それにしてもホント、アイツはウザイ』

 口の中だけで呟くようにレヴィが何か言ったけど、その時の俺には、この白い悪魔が何を言っているのかよく聞き取れなかったんだ。

2  -悪魔の樹-

 翌日俺は、久し振りに爽やかな目覚めってヤツで早起きして、いつもギリギリで作っていた弁当を時間内で見事クリアすると言う偉業を成し遂げてしまった。
 やればできる子なんだ、俺って。
 エプロンを握り締めて爽やかな朝陽の中、嬉しさに涙を流す俺の背後に、その不気味な影は迫っていた。
 だっらーっと半分以上やる気のなさそうな両腕が、シンクに向かっている俺の両肩に無造作に投げ出されてきたから吃驚した。

「なななッ…って、なんだ、茜(セン)かよ。兄ちゃん、吃驚しちまったじゃないか」

「朝っぱらから光太郎にこんなことするのって、俺しかいないだろ?他に誰がいるっつーんだよ。誠太郎なんか論外なのにさ」

 ぶすぅっと、寝起きの悪さを物語るように唇を尖らせているような茜は、俺の肩に懐くように顎を乗せながら父親の悪態を吐いている。うん、それは判るけど…

「なんか、今日は朝からツヤツヤしてんな?それに、すげー…いい匂いがする」

「ゲゲ!?そ、そうか??」

 思わずビクッとして肩を揺らしてしまった俺の態度に、それこそ何をしても卒なくこなす茜は、敏感に気付いたように鼻面を耳の下の首筋の辺りに摺り寄せてきやがるから…う、朝っぱらからヘンな気分になりそうだ。
 朝の生理現象も手伝ってるんだ、そろそろ離して欲しいんだけどね。

「なに、反応してんの?朝風呂した…ってワケでもなさそうだし。うーん、それにしてもいい匂いだ。えい、舐めてみよ♪」

「はぁ!?…ッ、よ、よせって!バカ弟!!」

 首筋をベロリと舐められて、妙にゾクゾクしてしまった俺は顔を真っ赤にしながら引き剥がそうとして暴れているってのに、弟は俺の抵抗なんかそよ風とでも思っているのか、興味深そうに首筋にチュッチュッとキスまでしてきやがる始末だ。

「うーん、味はしないんだな」

「あったりまえだろうが!そのクソッタレな脳みそはちゃんと動いてんのか!!?」

 キィッと悪態を吐いて背後の弟を振り返るついでに胡乱に睨みつけたら、茜は面白くないとでも言いたそうな顔をしてチェッと舌打ちなんかしやがった。

「俺にじゃれ付くヒマがあるんだったら朝飯を食ってけ!いつも僕の朝食はコーヒーで結構なんだ、とか、どこぞのジェントルマンみたいな真似ばっかりしやがって。お前は育ち盛りなんだからちゃんと飯を食って行くんだ!」

 外したエプロンを専用のフックに戻しながら、濡れた首筋を手の甲で拭いながらビシィッと食卓テーブルを指差してやると、茜はホカホカご飯に味噌汁、焼き魚に玉子焼き、ほうれん草のお浸しに昆布の佃煮と言う、何処から見ても立派な日本の朝食を目にして尻上がりの口笛なんか吹いたんだ。

「やっぱ、光太郎ってお母さん気質なのな。いつ嫁に行っても苦労はしないだろうよ」

 嬉しそうにいつもの席に腰を下ろす茜の聞き捨てならない台詞には眉が寄ったが、それよりも朝っぱらから俺を脱力させたのは実の父親の暢気なバカ発言だった。

「何を言ってるんだ、茜。光ちゃんがお嫁さんに行ったらお父さんはどうなるんだい?靴下のある場所も判らないのに」

 メソメソ泣いてんじゃねぇぇ!!

「靴下は父さんの部屋の箪笥にちゃんと仕舞ってるだろ?!一番上の右端!」

「え?ああ、そうだったのか」

 ひょこっと2階の自分の部屋を見上げる父親に思い切り溜め息を吐いていたら、行儀悪く両肘をテーブルについて味噌汁を啜っていた茜がぶっきら棒な調子で思わず萎える発言をくださいました。

「だから、嫁に行かせなければいいってワケよ。大丈夫、責任持って俺が嫁に貰うし♪」

「未成年じゃダメだけど、18になれば全然オッケーだから、お父さんも協力するね」

 そこ、同意しない。
 しかも、朝っぱらから何の話ですか。

「はいはい!どうでもいいから親父も飯を食ってくれ。片付けは帰ってからするけど、食った後の茶碗ぐらいはシンクに戻しておいてくれよ」

「ふぇ~い」

「うんうん♪」

 気のない返事の茜と至極嬉しそうな父親の陽気な返事を聞きながら、思い切り疲れてしまった俺はガックリと茜の横に腰を下ろしていた。

「あ、そーだ。今日俺、帰らないと思うんだけど。誠太郎と光太郎はどんな感じ?」

「お父さんも今日は残業だよ。もしかしたら、そのまま帰れないかもかも」

「へ?俺はいつも通りだけど…」

 焼き魚を突付いていた茜は、ちょっとムッとしたように唇を尖らせて、肩を竦めながらまたしても俺の肩に懐いてきやがるんだ。

「友達んちにさぁ、お泊りなんだけどぉ。お小遣い、ちょっぴり先取りしたいんだぁ~」

 ははーん、コイツの朝っぱらからのあの態度は、これを切り出すための予防線だったんだな。

「ダメだ!お前、そう言って先月も先取りしただろ??」

「チェッ!あと千円しかないオトートが可哀想だって思わないのかよ、おにーちゃん!」

 せ!…千円って、つい3日前に1万も渡したのに、この見てくれも脳みそもやる気なさそうな弟は、いったい何にそんなに金が必要なんだ!?

「この不良弟が!いったい何にそんなに金が必要なんだよ?」

「え~、イロイロ。ゲーセン行ったり、フラフラしたり~」

「茜には彼女でもいるんじゃないのかい?光ちゃん、可哀想だからあと5千円渡してあげなさい」

「やっり!さすがお父様、話が判る♪」

「ぐはっ!」

 家計は確かに毎月父親に報告してるし、毎日忙しなく働いている父親の稼ぎはそれほど悪くない、と言うか、このご時世では裕福な方だ。
 だからと言って、奔放に遊びまわっている弟をそんなに甘やかしてだな…って、そう言いながらもまるで甘えん坊の子犬のような上目遣いでキュゥ~ンと見上げられてしまうと、苛々しながらも溜め息を吐いて財布から5千円札を取り出す俺って…さようなら、一葉さん。

「へっへっへ~、んじゃ、ご馳走様でした!俺、学校行って来る」

「おう、行ってらっさい」

「明日は早めに帰るんですよ~」

 明らかに弟は父親に似たなと確信する俺の前で、ほんわか眉尻を垂れている父が俺を見ていることに気付いた。

「なんだよ?」

「ホントに、光ちゃんはいい子に育ってくれたと思ってね」

 そんなこと、嬉しそうに笑いながら言われても困るだろ。
 朝っぱらから、昨夜致してしまった悪戯の罪悪感も手伝ってか、俺は顔を真っ赤にしながらわざと怒ったふりをしてガチャガチャと茶碗を集めてシンクに置きに行ったんだ。
 案の定、弟は食器を下げずに行っちまったしな…くそ。

「朝っぱらかヘンなこと言ってないで、父さんもさっさと仕事に行けよ!」

 俺は、本来なら母さんが座ってたはずの椅子の背に掛けていたスポーツバックを引っ掴みながら、どこからでもバッチリ見ることができる母さんの写真を拝んで、それから父親にそう言うと慌てて玄関に突っ走った。
 時間に余裕があると思って高を括っていたら、気付いたらもうこんな時間になっていた。
 ヤバイヤバイ。

「…本当のことなのになぁ」

 父親がやれやれと溜め息を吐きながら味噌汁を啜る音が聞こえたけど、この際無視してスニーカーを履こうと玄関に行ったら、どうしたことか茜が立っていたんだ。

「あれ?お前、先に行ったんじゃないの??」

「…俺、彼女とかいないぜ」

「はぁ?」

 いきなり何を言い出すんだと首を傾げたら、中学3年でピアスをしている充分ヤンゾな茜のヤツは、小脇に薄っぺらい学生カバンを抱えたままでポケットに両手を突っ込んだ姿で、不機嫌そうな仏頂面をしていた。

「昨日の兄貴の色っぽい声に中てられてさ、欲求不満を解消しに行くだけだ」

「…!!」

 その台詞で一気に顔を真っ赤にしてしまっては、自分が何をしていたのか雄弁にゲロしてるようなもんだ。元来、あんまり嘘とか吐けない体質の俺だから、普通ならニヤッと笑ってさらりと流すモンなんだろうけど、アワアワと泡食ってしまえばますます茜の発言が真実味を増してくる。
 いかん!いかんのに…

「な、何、言ってんだよ」

「判らない?ハッキリ言ってもいいんだけど、俺、光太郎のこと好きだから。アンタのチンコ舐めてしゃぶりたいし、それから尻の穴もたっぷり舐めて俺のチ…むぐむぐ」

「こ、このバカがッッー!!朝っぱらから、そ、それも玄関先で!!な、何をくっちゃべってんだーッッ」

 シレッと事も無げに言い放つ茜の口を慌てて両手で押さえると、それでなくてもダイニングには父親もいるって言うのに、いったいこの弟は何を考えているんだ!?

「…光太郎が聞いたんじゃねーか。俺、アンタのこと兄貴なんて思ったこと一度もない。だって、光太郎はいつだって性欲の対象だったし」

「グハッ!!」

 思わず吐血でもしちまったんじゃないかと思ったほど、俺はブホッと息を吐き出してしまっていた。
 まま、まさか、昨日の声を聞かれていただけでも恥ずかしいって言うのに、こんな頭のネジがどこかに飛んで行っちゃいました、えへ♪…な会話まで言われるとは思っていなかったから、俺はどんな顔すりゃいいんだよ。
 曲がりなりにも兄貴なのに…な、何が兄貴だと思ったこともない、だ。
 あ、なんかムカムカしてきた。

「…あのなぁ、今の台詞は聞き捨てならんぞ。俺を兄貴だと思ったことないだって?いくら俺がちょっとばかり抜けてるとは言えどもな、お前より2年も長く生きてるんだぞ!その年長者を掴まえて何を言いやがるッ、お兄様と呼べ!」

 最後はちょっとエキサイトし過ぎてなんか勘違いしたこと言ってしまったけど、それでもムッとしたままで、シレッとした涼しい顔の弟の胸倉を掴んでその目を覗き込んだら、弟は…ん?なんで、マジマジと見返してくるんだ?ごめんなさいって謝らないのかよ??

「…ああ、もうホント。押し倒して犯してやりたい」

「ぬな!?お、お前ってヤツは口を開けばからかってばっかりでッ!」

「からかう?んなつもりは毛頭ございませんけど。うん、やっぱ今日は2人で学校休んで、このままベッドにゴーしよう。一日たっぷり時間をかけて、ジックリ肛門拡張してやるから…ぶはっ!」

 思い切り片掌でその顔を押し退けてやると、茜は予測もしていなかったのか、思い切りバシンッと殴られてしまってしゃがみ込んじまった。

「自業自得だ。少しは反省しろ」

 ふん!
 俺はスニーカーを履くとそのままズカズカと玄関を後にしようとして、閉じかけた扉の向こうから「本気なのにな…」なんて言う茜の言葉を聞いてしまって、ますます顔を真っ赤にしたまま憤っていた。
 いったい、なんなんだ突然。
 どこか飄々としていて、掴み所のない雲みたいな男だったのに、今朝の茜はどうかしてる。
 た、確かに昨日は1人遊びに夢中になってて、隣にいるはずの弟の存在は綺麗サッパリ忘れていた。そんなヤツ、兄貴と呼ぶのもどうかしてるのかもしれないけど、それでも、俺だって男だし人間だ。
 1人遊びぐらいするだろ!?
 …ハッ、考える部分が間違えてた!
 あーあ、あの『悪魔の樹』を持って帰ってから碌なことが起こらない。
 なんか、朝っぱらから気が滅入ってきた。
 あんなに、爽やかな目覚めだったってのにな…はぁ。
 こんな調子で、本日の瀬戸内家の一日は始まるのだった。

 学校に着くと、中学からの悪友である篠沢がニヤニヤ笑いながらお出迎えしてくださった。

「なんだよ、ムカツク」

「うっわ、なに?朝っぱらからイキナリご機嫌ナナメだね」

 不機嫌そうに唇を尖らせて悪態を吐いたってのに、八つ当たりをされた篠沢は一向に応えた様子もなく肩なんか竦めて笑っている。

「弟のヤツが朝っぱらからヘンなこと言いやがったから、一発殴ってきたんだよ」

「あー…茜くんね。ふーん」

「なんだよ?」

 こうして見れば憎たらしいほど甘いマスクの篠沢は、これでも学級委員長で文武両道なところが女子の間でも人気があったりする羨ましいヤツだ。
 その篠沢が顎に手を当てながら何か考え込んでるんだ、どうせ下らないことを悪巧みしてるんだってコトは長年の付き合いでよく判っていたのに、ついつい聞いてしまうのもいつもの俺のクセだ。

「お前さー、弟くんにメロメロだもんな。すっげーブラコンだから、殴ったこと一日中気にし続けるんだろうなぁと思ってさ」

「う」

 …そう、篠沢の言うとおり。
 俺はたった一人の弟、茜を凄く大切に思っている。
 本当はあんな風にヤンゾなんかにさせたくはないんだけど、それでも弟が楽しいのなら、まいっか、なんて思ってしまうのは、父親といい勝負いってるのかもしれない。
 その茜に「兄貴なんて思ったことない」と言われて、「押し倒して犯したい」とまで言われてしまった俺だ、そりゃあ、一日中だって不機嫌だしどっぷり落ち込みそうだ。

「昨日はテストで欠点取るし、なんか大殺界にでも突入してんじゃないのか?」

 ニヤニヤ、相変わらず笑いながら肩に腕を回されて、俺は首筋に当たる篠沢の腕に後頭部を押し付けて盛大な溜め息を吐いてやった。

「あーあ、なんかいいことないかなぁ」

「ははは!そんな、いいことが転がってりゃ誰も苦労して予習復習なんかしないだろ?」

「ぐはー、言われちまった」

 まあ、どうこう言ってもこの悪友がいれば、学校もそれほどつまらなくもないんだけどね。
 他愛のない話をしているうちに予鈴が鳴って、俺たちは自分の席について大人しく勉学に励むのだった。
 それにしても…『悪魔の樹』のことは、さすがに悪友でも篠沢には言えないよな。
 クールで超!現実主義の篠沢のことだ、話せばたぶん、上から人を冷めた目で見下ろしながら腕を組んで、一言「あほう」って言うんだろう。いや、確実に言われる。
 それでもって、俺がアレを咥えて舐めたりしゃぶったりしたって言えば、馬鹿にして「んじゃ、俺のもついでに咥えてくれよ」ってなことを平気で言いやがるに違いない。
 そう言う、嫌な性格なんだ篠沢って。
 やっぱ、アレのことは内緒にしておこう。
 まだ悪魔も生ってないし…悪魔が生ったら教えてやればいい。
 相変わらずダラダラと学校が終わり、さて、帰って米を炊いて夕食の準備をして、それから『悪魔の樹』の世話をしてやろう。いや、昨日は俺が世話をされちゃったんだけども…ぐは。

「瀬戸内!」

 スポーツバッグには律儀に教科書を仕舞いながら、帰り支度をしていた俺に背後から声を掛けてきたのは振り向かなくても判る、篠沢だ。

「なんだよ?」

「これからカラオケ行くんだけど、お前はどうする?」

「あー…俺、パス」

「またかよ!」

 知ってるくせにわざとらしく眉を寄せる悪友に、俺は鼻に皺を寄せて笑ってやった。

「悪かったな。帰ってから米を炊いて夕飯の準備だ!」

 『悪魔の樹』の世話のことはナイショで。
 こんなヤツに教えてやる必要もない。

「ちょっとぉ、瀬戸内ぃ。チョー面白くないんだけど」

 頭を掻きながらピンクのグロスにテカテカ光る、可愛い唇を尖らせた、確か晴美とか言う篠沢信者が鬱陶しそうに細い眉を寄せて睨んでくる。

「はいはい。面白くないヤツは帰るんで、お前たちは楽しんで来いよ」

 バイバイと手を振ろうとしたら、何を思ったのか篠沢が、イキナリ顎に手を当てて何か考えていたくせに俺の腕を掴みやがったんだ。

「俺も、一緒に帰ろっかな…」

「はぁ!?ちょっとぉ、冗談じゃないんですけど!」

 晴美と、その背後に控えている派手な女子と悪友の男子が残念そうな顔をするから…ほら、学年のアイドル様が意地悪なことしてるんじゃねーよ。

「お前を連れて帰ったら俺が殺される。だから、とっとと行ってくれ」

 端から行く気満々のくせに、絶対に俺に絡んでくるんだからムカツクよなー

「あ?そうかぁ??」

 ニヤニヤ笑いやがって…そうなんだよ!
 思わず軽い回し蹴りで脛を蹴ってやったら、「うお!?」とか言ってわざとらしく蹴られた足を抱えてピョンピョン飛び跳ねる篠沢を尻目に、カラオケ行く組の男子や女子が「瀬戸内、ぐはーい♪」と言うのに片手を振って、そのまま商店街を目指すことにした。

「…あ、確かこの辺に、昨日はあの怪しい占い師がいたんだっけ」

 あの壊れそうなパイプ椅子も、薄汚れたクロスを掛けただけの丸テーブルも、胡散臭い灰色のフード付きローブを着たあの占い師の姿も、もう何処にも見当たらなかったけど…それでも俺は、なぜかちょっと立ち止まってしまった。
 にゃーん。
 あの占い師が座っていた場所の脇にある路地から、不意に灰色の猫が出てきて、思わずあの占い師は本当は猫だったんじゃないかとか思ったりして、そんなワケないと誰に聞かれたワケでもないのに派手に照れてしまった。
 にゃーん。
 猫はゴロゴロと咽喉を鳴らしながら足元に擦り寄ってきて無邪気に甘えたりするから、茜の動物嫌いさえなかったら直ぐにでも拾って帰ろうと思ったんだけど、猫はその気配を察したのか、一緒には行かないよとでも言うようにフイッと気紛れに離れて行った。

「おい、猫。腹は空いてないのか?」

 ピンッと伸ばした尻尾を左右に振り振り、路地に戻ろうとする猫は、そんな俺の言葉に「んにゃ?」と振り返ったんだ。

 振り返って、金色のビー玉みたいな両目をくるんっと細めて、それからニヤッと笑った。
 笑った!?
 た、確かに今、笑ったように見えたんだけど…

『いらないよ。悪魔の樹に精液も唾液もかけちゃって。主従関係が逆転したよ。それでもいいから忘れずに、名前だけは聞くんだよ』

 まるで歌うように韻を踏んだ声が頭に響いて、ギョッとした時には灰色の猫の姿は何処にもなかった。
 幻覚でも見たのかな…
 どちらにしても馬鹿らしいことを考えていたと首を左右に振って、俺は狐に抓まれたような気分のままで頭を掻きながら商店街に向かって歩き出した。
 それにしてもアレはなんだったんだろう…あの猫が、やっぱり灰色ローブの占い師だったんだろうか。
 いや、そんなまさか。
 『悪魔の樹』を手に入れてから、俺の周りはなんだかおかしい。
 やっぱり悪魔に関わってしまったからなのか…よく判らないけど、それでも何故か俺は『悪魔の樹』を手離そうとは思わなかったんだ。

 家に帰ると怒涛のように炊事に明け暮れてから…それからハタと、そうだ、今日は父親も弟もいなかったんだと、食卓テーブルの上にホカホカの肉じゃがが盛られた皿を置いた時点で気付いた。

「しまった。今日は料理しなくて良かったんだ…はぁ、まあいいか。どーせ、父さんは帰ってくるだろうし」

 エプロンで濡れた手を軽く拭ってからそれを仕舞うと、俺は肉じゃがにラップして、それから2階の部屋に戻ったんだ。

「さて、悪魔の樹はどうなったかな?」

 ゴチャゴチャと置いていた物を1個ずつ退かしていたら、相変わらずエグクてキモイ、あられもない露骨なモノが姿を現したんだけど…あれ?

「お前、もっさり葉っぱが出てるじゃないか!」

 あのチンコの形を覆うように、目に優しい緑の葉っぱをまるでベンジャミンのように茂らせていたんだ。
 そして、思わず目がいってしまったのは…真っ白な花が、醜悪な原形の樹にはとても似つかわしくない可憐な花が、少しずつ少しずつ、花開こうとしていた。

「花だ!う、うわー、スゲースゲーッ!花が咲こうとしてるッ」

 大輪なのに、まるで白百合のように可憐に俯きがちの花は、ゆっくりゆっくり、一枚一枚を惜しむようにして開いていたんだ。
 3分なんてあまりにも短くて、ジックリ見詰めている先で、白い花はゆっくりと満開してしまった。

「う、うわー…悪魔の樹なんて恐ろしげな名前なのに、花は凄く綺麗だ。あ、この匂い…」

 頭の芯に熾き火のように燻る官能に訴えかけるように鼻腔を擽った匂いは、昨夜嗅いだ、あの桃のような甘ったるい芳香だった。
 部屋中にも充満しそうな強香に条件反射で頬を上気させてクラクラしていると、匂いの元であるはずの白いあの花が、あれほど綺麗に咲き誇っていたのにあっと言う間にシワシワと萎れて汚らしい茶色へと変色してしまった。それでも甘い桃のような匂いは部屋中に充満していたし、身体の芯が疼くように火照っていた俺は、萎んで汚い茶色になった花弁が一枚ずつ散って、その中央に大きな種が姿を現すのをぼんやりと見ていたんだ。

「あ…種だ」

 つるんっとした滑らかそうな種はぷっくりと大きくて、思わず触りたくなってしまう。
 触ればぷるるんっと震えるほど柔らかそうなイメージだったのに、本当に触ってみるとそれは思う以上に硬かった。硬い種はそれでも確りと細い枝にぶら下がっていて、この後これを、一体どうしたらいいんだろうと頭を抱えたくなった俺の鼻先で、種は一瞬だけもそ…っと動いたんだ。
 そう、動いたんだ。

「ひ、ひえぇぇぇ~ッッッ!!何かいるッ、中に何かいる!!」

 思わず座っていた椅子からずり落ちてしまった俺の声に呼応するように、最初こそ微かだった動きが、いきなり『暴れる』と表現する行動ってこんな感じなんだろうなぁと思わせるほど、激しく動き出したんだ!

「何か動いてるッ!なんだ、これ!?ど、どうしよう!ヘンなの出てきたらッッ」

 激しく動いてるってのに、『悪魔の樹』から伸びている頼りなげな細い枝は折れるどころかうまい具合に撓って、種はなかなか落ちることができないでいるようだった。
 俺はもう観念した表情で床にへたり込んで、デスクの上で妖しく蠢くように動いている種を呆気に取られたようにポカンッと見詰めていた。
 いったい、何が起こるのか。
 何が、生まれるのか。
 悪魔っていったい…
 俺がそこまで考えた時だった、やっとブツリと鈍い音を立てて千切れた枝から転がり落ちた種は、そのままコロコロとデスクの上を転がって、床にボトンッと落ちると、まるで意思でもあるかのように俺の手前まで転がってきたんだ。

「…種、よかったな。落ちられて」

 どうも落ちたかったような気配の真ん丸い種は、それから暫くは身動ぎもしなかったから、恐る恐る俺は震える指先を伸ばして、その硬い種子に触れたんだ。
 その瞬間だった。
 カッと部屋中に眩い閃光が走って、驚くことに種子からシュウシュウッと煙が噴出していたんだ!

「うっわ!やべぇッ!!火事になる!爆弾だったのか!?」

 支離滅裂なことを喋りながら片手で顔を覆った俺は、噴出す煙に気圧されたように仰け反りながらも確りと何が起こるのか目の当たりにしようと躍起になっていた。
 そして。
 漸く辺りに溢れ返っていた光が静まると、もうもうと充満した煙にゲホゲホと咳をしながら周囲を見渡したら…ギクッとした。
 ユックリと晴れてくる煙の向こうに、人影が立っていたからだ。

「だ、だだ、誰だ!?」

 思いっきりビビリまくっている俺の前に突っ立っていたのは、傲慢そうに腕を組んで、一段高いところから人を見下げるような尊大な目付きをした裏地が赤の漆黒の外套に身を包んだ、赤と黒を基調にした年代がかった衣装を着ている男が…真っ白な髪、その髪から突き出した大きな尖った耳、腹の底から突き上げるような恐怖心を煽る、それはそれは冷たい金色の双眸…どれをとっても人間なんて思えない、高い鼻梁に酷薄そうな薄い唇を真一文字に引き締めた、不機嫌そうな男が立っていたんだ。
 もちろん。
 俺はソイツの姿を認めるなり、「あははは」と陽気に笑って、それから思いっきり後ろにバッターンッと派手に倒れてしまった…ってことは、言うまでもない。

1  -悪魔の樹-

「お兄さん、そこのお兄さん」

 呼ばれたような気がして振り返れば、そこにはいかにも胡散臭そうな灰色のローブを着てフードで顔を隠した占い師らしき怪しいヤツが、覗いている口許をニヤニヤさせながら手招きなんかしている。
 う、思い切り怪しい。
 今日は試験で思うような点を弾き出せなかったから、それでなくても鬱陶しい顔でもしてたんだろうか、安っぽいパイプ椅子に腰掛けて、壊れかけたような机には薄汚れたクロスを掛けただけの、いかにも怪しい呪いで生計は立っていませんとでも言いたそうなその占い師は上機嫌で俺を手招いては「早く来いよ」と急かしているようだ。
 嫌だ、行きたくない。
 素直な感情をそのまま出せれば俺だって天晴れなんだけど、17歳にもなって自己主張できない優柔不断な性格では、内心で喚きながらも押しの強い手招きに負けてフラフラと近付いてしまった。
 ああ、馬鹿だ。

「よく来たね。ヨッシヨシ!んじゃ、そんなお兄さんにはこれをあげよう」

「…は?いらないです」

 手渡されたグロテスクなものを、俺は「うわぁぁぁ…やっぱ来るんじゃなかった」とメチャクチャ後悔している薄ら笑いを浮かべて、懇切丁寧に妖しい占い師の手に突き返して差し上げた。

「…!」

 掴んだ手が、異常に冷やりとしていてビクッとしたら、フードから僅かに覗く口許を一瞬キョトンと噤んだソイツは、途端にニヤァ~ッと笑って犬歯を覗かせたんだ。

「ほら、木枯らしが吹いててね。ここはとても寒いんだ。あと、コイツを捌かさなきゃ帰れないんだよね。ね?だから、あげるって♪」

「いや、俺、そんな趣味はないッス」

 俺たちの間で押し問答されている茶褐色のソレは…見るからに、俺の股間にもぶら下がってるヤツと同類じゃないか。そりゃ、干乾びかけてはいるけどな。
 とは言え、勿論本物じゃないのは判ってるけど、どう見てもエグイしキモイ。

「んん?なんか、勘違いしてないかい?お兄さん。これは『悪魔の樹』と言って、ちゃんと育ててやればアラ不思議、悪魔が誕生しましたとさ。と、言う世にも不思議な…って、ああ!逃げるな逃げるな!!」

「いらないッスよ、いりません。そんな胡散臭いものはそこら辺に捨ててさっさと帰ればいいじゃないですか!」

「うっわ、マジで非道いね!こんな寒空の下でガタガタ震えながら頑張ってるのに、そんな言い方はないでショーが!コイツはね、ちゃんと育ててやればキッチリ言うことを聞いてくれる、大変重宝な悪魔の奴隷が誕生する世にも得難い魔法の樹なんだよ?」

「…はいはい。じゃあ、アンタが育てればいいじゃねーか」

「…」

 フードの男は優柔不断を絵に描いたようなこの俺が、まさかここまで強情を張るとは思っていなかったのか、それまでのお茶らけた態度を改めるように口許を引き締めると、スッと冷たい人差し指を伸ばしてビシッと俺の顔を指差すと、事も無げに淡々と言い放ったんだ。

「お兄さんさぁ、今度の試験で赤点取ったら留年ケテイでショーが」

「う!なな、何故それを!?」

 的を得たような俺の反応に、フードで顔半分を見事に隠したソイツは、一瞬、鬱陶しいほど伸び放題の前髪からキラリと光る瞳で睨んでから、ニヤァッと笑って肩を竦めやがるのだ。
 そうだ、今日俺は、担任の小暮先生から「この次、欠点を取ったら残念だけど、留年だ」と言われてしまっていた。それだけに憂鬱になっちまってて、だから、こんなワケの判らん占い師なんかにとっ捕まっちまったんだろう。

「そんなのはね、占い師なら当然判るものですよ。だから、この『悪魔の樹』を持って行きなさいって。悪魔は叡智を持ってるからね、教えろと命令すれば姿を隠してでも耳元に答えを囁いてくれるよ。これは悪いことではないからね。ちょっと、他の人より近道をしているだけなのさ」

「…」

 だからと言って、ソレをポケットに入れて家に帰る気には、どうしてもなれない。
 干乾びた野郎のポコチンなんかよー…トホホ。

「帰ってから直ぐに水をあげて、そうすればちゃんと葉をつけるから」

「…へ?葉っぱが出るのか??」

「当り前でショーが。これを何だと思ってるんだ?あくまでも『樹』だよ」

 う、改めて言われると俺の方がヘンなことを妄想しているようで、却って気恥ずかしくなってしまった。

「うう…なんか、よく判んねーけど。人助けだと思って貰ってやるよ」

「うははは♪そうこなくっちゃね。んじゃ、はい」

 『悪魔の樹』、なんつー世にも胡散臭いものを成り行きと勢いだけで手に入れてしまった俺が、途方に暮れたようにその干乾びてしまってカサカサのソレを見下ろしていたら、フードの男がニヤニヤ笑いながら片手を突き出してきたんだ。

「へ?」

「毎度あり♪もちろん只じゃないでショーが、普通」

 うげ!なんか、悪徳詐欺に引っ掛かった気分だぞ。

「金を取るのかよ!?んじゃ、いらない」

「バッカだね!金を取るからいいモノなんじゃないか…そうだね、お兄さんは最後のお客さんだから、特別に100円でいいよ」

「グハッ!さらに胡散臭ぇぇッ」

 ニヤニヤ笑うフードの占い師に、それでも今更突っ返すのもどうかと思って、まあいいや、消しゴムでも買ったと思って諦めるか。
 募金だ、募金。
 そう思ってポケットから財布を取り出すと、俺んちは片親だから晩飯の用意を頼まれてて、その日の買い物をするための1万と小銭は100円玉が1個しか入っていなかった。

「お釣りがね、ないワケよ」

 伸び過ぎて鬱陶しい前髪に灰色のフード、少し大きめの口許がニヤァッと笑って胡散臭い男が肩を竦める。
 俺の所持金を知っていたのか…いや、そんなまさか。

「…アンタを信じたワケじゃないけど。これはあくまで!募金だからなッ」

「ククク、いいよ」

 咽喉の奥で笑ったソイツは、俺が突き出した100円玉を恭しく受け取ると、銀色に光る硬貨にニヤッと笑ったままでチュッとキスをしたんだ。

「毎度あり♪」

 そんな胡散臭いフード男とは、一刻も早くオサラバしたいと思っていた俺は、グロテスクでエグくてキモイ、そのなんとも言えないモノを学ランのポケットに突っ込んでから、学生カバン代わりのスポーツバックを抱え直して歩き出そうとした。
 その背中に。

「あ、そうそう。お兄さん」

 胡散臭い灰色フードの男が、ついでのようにヒョイッと声を掛けてきたんだ。

「なんだよ、まだ何かあるのか?」

「あるある、大あり」

 雰囲気通り怪しいほど軽い口調でそう言ってから、フード男は鬱陶しい前髪の隙間から、キラキラ光らせている双眸を微かに覗かせて俺を見据えているようだ。

「その樹には、水以外の液体をかけてはダメだよ」

「…は?お茶とかダメってことか??」

「そうそう。それと、唾液とか、精液とかね」

「…はぁ?」

 フード男は意味深にそんなことを言ってから、途端に陽気にウハハハッと笑いやがったんだ。

「涙もダメだよ。ただ、汗だけはなぜかいいんだけどね。あと、凄い誘惑があるかもしれないけど、それはまぁ、ほら『悪魔の樹』だし?困難を乗り越えてこそ最強の奴隷を手に入れられるってワケだから♪」

「…かけたら、どうなるんだ?」

 恐る恐る聞いたら、フード男は一瞬ニッと笑って口を噤んだけど…

「…まあ、なんとかなるよ」

 なんなんだ、その間はぁぁぁ!!

「いらん!やっぱ、こんな胡散臭いモンは返す!!」

「ナマモノですので返品不可」

 ニコッと犬歯が覗く口許を笑みに象ってから、男は凍えてしまって冷たくなった掌でポンポンッと、嫌がる俺の肩を叩いてそんなことを抜かしやがった。
 う…そう言われてしまうと、根が単純な俺は掌の中にもう一度掴んでしまったそのエグイもの、根元にはちゃんと根っこが生えてるんだけど…それがまた、なんとも…ただ、干乾びているから枝みたいに細くなっているソレを見下ろして、仕方なく溜め息を吐いた。

「判ったよ。返品はしないから、どうなるかぐらい覚悟させろよ」

「…そこまで言うなら。主従関係が逆転するってだけだ」

 コーヒーはホットだよ、と気軽に注文するような気安さで言った男の顔を、俺が青褪めてマジマジと見詰めたことは言うまでもない。

「…何日ぐらいで悪魔ができるんだ?」

 青褪めはしたものの、まだまだ半信半疑だし、もうどうでもいいやと投げ遣りな気持ちで頭を掻きながら聞いたら、男は少し考えてから頷いた。

「人にも因るけど、お兄さんの場合だと早くて2日、遅くても5日ぐらいかな?」

「そんなに早いのか!?」

「うん、花はゆっくり3分で咲いてから、10秒で枯れる。すぐに種ができて、そこから生まれるんだ」

「そ、そうなのか」

 花は3分も費やして咲くってのに、たった10秒で枯れるなんて…どうなってるんだ、この植物は。
 蝉よりも哀れじゃないか。

「悪魔は本当の名前は教えてくれないけど、それでも、必ず聞き出すといいよ。方法はお任せするけどね」

「…へ?どうしてだ」

「それは…より深い契りのためさ」

「…ワケ判らん」

 はぁっと溜め息を吐いて頭を抱え込みたくなった俺を、それまであんなにニタニタ笑っているだけだった灰色フードの男は、ふと笑みを引っ込めると、冷え切った手で口許を覆うようにしてボソボソと何かを言った。
 よく聞こえなかったけど、「最高だ」とかなんとか、そんなことを呟いていたようだ。

「はぁ…もういいや。面白い悪魔が生まれるように頑張ってみるよ」

「あ、もうひとつ忘れるところだった!」

「はぁ!?まだ何かあるのかよッ」

「うん、毎晩心を込めて…」

 そう言ってから、灰色フードの男はニィッと笑ったんだ。

「根元を扱いてやるんだよ」

「はぁ!?」

「そうすると生育が良くなるんだ。すぐに大きくなる」

「ぜ、絶対にそれをしないといけないのか??」

 思わず目玉が飛び出るほど驚いたってのに、俺に胸倉を掴まれて揺す振られている怪しいフード男は、シレッとした顔をしてなんでもないことのように頷いたんだ。

「まあ、植物を育てる時に肥料をあげるでショ?それと一緒だって思えば判り易いかな」

「…アンタ、俺をからかってるんだろ?」

 ジトッと胡乱な目付きに睨みつけてやったら、フード男は途端にムッとしたように口許を引き結んでから、ちょっと唇を尖らせた。

「からかうつもりだったら水遣りの件は教えません。あくまでも、最強の悪魔が生まれるように心から協力しているだけです」

 それまでの軽い調子なんか嘘だったかのように、灰色フード男は懇切丁寧な口調でそう言ってくれた。
 だから余計に俺が萎えちまったとしても、致し方ないと思う。

「はぁぁぁ…判ったよ。んじゃ、俺、もう行くよ」

「はいはい♪『悪魔の樹』の3つの約束を忘れないようにね。1に『水以外はやるな』で2に『根元を扱く』、それから3番目は尤も重要な『悪魔の名前を知ること』。この3つの約束は絶対に忘れないように!」

「へいへい」

 いつまでもこの寒空の下に立って、こんな下らない話ばかりしているのもどうかしてると思った俺は、やれやれと頭を振ると、後ろ手に手を振って別れを告げてから仕方なくトボトボと一路、商店街を目指すのだった。
 その時はもう、あの灰色フードの男も引き止めることはしなかったけど、もう見慣れてしまったニヤニヤ笑いを浮かべたままで「またね」と手を振っていた。
 できればもう二度と、アンタとは会いたくない。

 家に帰ってから、2歳下の弟と会社帰りでは何もしてくれない父親の為に猛烈な勢いで夕飯を作ってから、貯まりに貯まっている洗濯の山を片付けて、風呂を用意してグルグル目を回して、全てを終わらせて気付いた時には23時を大幅に過ぎていた。
 クタクタになった風呂上りでベッドに寝転がろうとして、ふと、脱ぎ散らかしていた制服のポケットから露骨なモノが転がっていて、俺は真っ赤に赤面すると「うわぁぁぁ」と叫びながら慌ててソレを拾い上げた。
 ゲーム貸せよと、勝手にズカズカ入って来る弟に!お父さん、ワイシャツの替えが何処にあるか判んないとクスンと泣きそうになって入ってくる父親に!んなモン見つかったらなんて言われるかッッ!!
 弟にいたってはシレッとした冷たい双眸で、兄貴の趣味ってそんなモンだったのかと蔑まれて、一生ヤツの奴隷になってしまう。父親はショックを受けたらそのまま気絶して、次の日には俺は病院送りになってるだろう。
 どちらにしたって、けして愉快な結果にはならない。

「…悪魔の樹かなんだか知らないけど。お前も厄介なヤツだよな。はぁ、でも俺に貰われて感謝しろよ。なんかの植物なんだろうから、ちゃんと育ててやるよ」

 とは言ったものの、母さんが死んでから植木鉢なんてお目にかかってもないし、まあ仕方がない。
 俺はみんな部屋に戻ってしまってガランとしたダイニングに行くと、もうヒビが入っていて、いつ割れてもおかしかないだろうってな大きなお椀を持って外に出ると、庭から土を掘ってお椀に入れ、それから2階の自室に戻ったんだ。
 薄暗い部屋にはデスクの電灯がほの暗く室内を照らしているだけで、そうでもしないと、こんなグロテスクなモノを抓んでせっせとお椀に植えてる姿なんて…誰にも見られたくないし、自分だって見たくない。だからわざと薄暗くしているんだけど、こっちの方が却って怪しかった。
 迂闊だ、俺!

「やれやれ、こんなモンかな?さてと、水以外は遣っちゃダメだったよな」

 デスクの上に置いた『悪魔の樹』にコップに汲んできていた水をかけてやりながら俺は、そうだ、紙かなんかに忘れないように3つの約束を書き留めておこうと思っていた。
 3つの約束なんて…なんかの映画で観た内容に似ていないこともないけど…まあ、胡散臭いフード男の言葉なんか信じるつもりはなかった。でも、それでもこんな見たこともない植物の育て方とか判らないし、少しは忠実に従ってやろうとは思う。
 はぁ、俺も厄介なモンを押し付けられちまったよな。
 でも、いつもそうなんだ。
 母さんが死んだ時も、結局、俺が家事全般をする破目になったし…家事とか、こんな晩くまでしなきゃいけないから、勉強だって追いつかない。
 いや、完全に言い訳なんだけど。
 頑張れば勉強だってできるはずなんだ、なのに俺は、この環境にどっぷり嵌ってて、「逃げ」の口実にしているに過ぎないんだ。
 だから、『悪魔の樹』なんて恐ろしい名前のものを押し付けられちまったんだろう。

「ダメダメだなぁ、俺…って、ん?」

 水をやった後に溜め息を吐いて考え込んでいる間に、どうやら『悪魔の樹』はたっぷりの水に生き返ったようにシュゥシュゥ…ッと、なんか根元から煙が出てるんですけど…

「なな、なんだ!?水だぞ!おい、水を遣ったんだぞ!!」

 どうしてこんな変化が起こるんだ!?俺は聞いてないぞ!!
 思わず椅子から仰け反っていると、煙みたいなものを撒き散らしていた『悪魔の樹』は漸く落ち着いたのか、少しは煙を纏ったままで…立派なチンコになっていた。
 ああ、くそ。
 なんだよ、俺の部屋って。
 思わず椅子に腰掛けたまま髪の中に指先を突っ込んでガックリと項垂れていたけど、いつまでも項垂れっぱなしってのもどうかしてるし、かと言って、水気を帯びて却ってぬらぬらとグロテスクになっちまったチンコを前にするってのもなぁ。
 どちらにしたって気も引ければ腰だって抜けそうだ。
 あ、そうか。
 3つの約束のもうひとつに、根元を扱くんだったっけ。
 それじゃやっぱり、立派なチンコじゃねーか。
 あの灰色フード野郎…はぁぁ…でも、この際だ。
 どーせ騙されてるんだから、こんなのただの大人の玩具だと思って触ってやろうじゃねぇか。
 いや、正直に言えば嫌だけど。物凄く、嫌だけど…好奇心の方が勝ったってのはナイショさ♪
 そーだ、どうせならじっくり観察してやろうじゃねぇか。育ててもらってるんだから、お前だって少しぐらいは我慢しろよ?…とか、喋ることもしない植物に俺ってば何を言ってるんだか。
 ぬらぬらと水気を帯びて、デスクの光を凶悪に反射させるその男の逸物と見間違えても、ちっとも全く全然おかしかないソレは、よくよく見れば確かに植物…それも硬質な皮を持つ樹だ。そもそも既に怒張しているソレは、まるで生々しく浮かんでいる血管みたいなものを巻きつけているけど、どうやらそれも木の皮が変質してできただけのモノのようだ。

「…んだ、やっぱちゃんとした樹だったのか。うわ…また俺、なんかヘンなこと考えちまってたぜ。でもなぁ、お前も悪いんだぞ。こんな見掛けチンコですってな姿しやがってさ」

 ガックリと脱力してしまって背凭れに項垂れてしまった俺は、それでも片手で真っ赤になってしまった顔を覆いながら、ムッと唇を尖らせて逸物もどきの『悪魔の樹』を胡乱に睨むと指先でピンッと弾いてやった。
 微かにふるふると震えはしたものの、それ以上の反応は何もない。

「いや、当り前だって」

 はぁ…っと、本日何度目かの溜め息を吐いてから、俺はそれならもう大丈夫だと思いながら、灰色フードの男が言っていたように根元をギュッと掴んでみた。
 なぜか、たぶん気のせいだとは思うんだけど、手の中でその、並の男よりは大きいだろうと思えるそれが、一瞬ブルッと身震いしたような気がしたんだけど…いや、まさかな。
 恐る恐る上下に扱いてみたら…思った以上に滑らかな手触りで、硬質な樹にしては少しやわらかくて、掌に吸い付いてくるような感触には思わずうっとりしてしまう。

「いかん!相手はチンコもどきのただの植物だぞ!!」

 何をうっとりしてるんだ、俺よ!!
 思わずギュッと『悪魔の樹』を掴んだままでウガーッと叫んでいたら、隣の部屋からドカッと壁を蹴る音が聞こえて、どうやら弟が「うるせーッ」と無言の抗議をしたらしい。
 言葉よりも先に足の出るヤツだからなぁ…
 スマンと片手で隣の部屋を拝んだ後、俺は手にしている『悪魔の樹』をもう一度、ズッズ…ッと扱いてみた。その手触りと、この異常な状況が相乗効果になったのか、ついつい一心不乱で扱くことに夢中になっていた。
 指先に冷やりとした液体が触れて、その時になって漸くハッと我に返った俺は、気恥ずかしさに思わず真っ赤に赤面して、耳まで真っ赤っかだ。これじゃあ、誰が見たって茹でタコじゃないか。
 トホホホ…でも、待てよ。
 なんか今、手が濡れたような気がしたんだけど…

「って!なんだ、これ!?なんか出てる…」

 俺の手をねっとりと濡らしているソレは…明らかに亀頭部分にしか思えない先端部分の、ちょっと窪んだところからプクリと浮かび上がった雫が、とろとろと俺の手の動きにあわせるようにして零れていたんだ。
 あ、なんだ。

「…これって、樹液か何かか?クッソ、灰色フード男め!こんなの聞いてないぞ」

 思わず濡れそぼってしまった手を離してティッシュか何かで拭こうとしたんだけど、フワリと鼻腔を擽った匂いがあまりに甘くて、桃みたいに爽やかだったから…だから!その、好奇心。
 うん、好奇心でちょっと、ほんのちょっと、舐めてみたいって思っちまった。
 顔を真っ赤にして、とろりと掌を濡らす『悪魔の樹』の樹液に、恐る恐る震える舌を伸ばしてペロリと舐めたそれは、一瞬ビリッと舌を痺れさせたけど、身体中に染み渡るような甘い、甘い桃の味が溢れていたんだ。
 思わずうっとりしてしまう匂いの渦と、その甘さに、俺は貪るようにして甘い樹液に濡れた指先を嘗め回していた。
 一度知ってしまうと、その味は忘れられなくて、もう掌にはどこにもついていないしで俺は、ふと『悪魔の樹』に魅入ってしまった。
 『悪魔の樹』はなんでもないように、ただヒッソリと勃起したまんまの逸物みたいにぬらぬらと、あの甘い樹液に塗れて屹立している。

「…甘い。もっと、もっと舐めてみたい…」

 思わず声が上擦っていて、それなのにどうして俺はおかしいっておもわないんだろう?
 頭がボウッと上気していて、もう、目の前にある『悪魔の樹』しか見えていないのに。
 唾液に塗れた掌を伸ばして扱けば、身震いするように『悪魔の樹』は震えて、先端の窪みからプクリと液体を溢れさせる。指先についた甘い樹液を舐めて、それから両手で扱いてさらに、もっとたくさん溢れさせて…

「…ッ……ハゥ…ん」

 別に、何が厭らしいってワケでもないのに俺は、妙に興奮していて、片手で『悪魔の樹』を扱きながら、気付いたらパジャマの裾から忍び込ませていた片手で自分の陰茎に触れていた。
 甘い『悪魔の樹』の樹液に塗れた指先で扱けば、すぐにムッとする桃の匂いが広がって、陰茎がビクンビクンッと震えていた。いつもよりも数倍感じていて、俺は知らず目尻から生理的な涙を零しながら掌に零れる樹液を舐めていた。

「ん……んふ、…ア……もち、いい…ッ」

 誰かが、もっとと要求する。
 頭の片隅で、もっと甘い樹液を啜りたいと熱望している。
 そんなのはきっと錯覚で、快楽と甘い匂いに溺れた俺が聞いた幻聴にすぎないんだろうけど…俺は、目尻を赤く染めたままで、胸の奥底から湧き上がる『悪魔の樹』の樹液を啜りたいと言う欲求のまま、口を開いて、いつもの俺なら信じられないって言うのに、その時はごく自然に『悪魔の樹』を咥えていたんだ。

「ん…ふ…んん……あま…ふ、……ッ」

 ちゅうっと先端から零れる樹液を吸って、それから零れて濡れ光る根元にも舌を這わせて、そんな行為が脳内にある快楽中枢でも刺激したのか、ビクンビクンッと震える陰茎を思う様、濡れた音を響かせて扱いていた。

「ふぁ…ッ……んぁ、はぁはぁ…あ、も、出る…ッ」

 頭も、口も、陰茎も…何もかも犯されているような錯覚を感じて、俺はむずがるように涙を零しながら『悪魔の樹』に吸い付いて、久し振りに味わう快感に自分の鈴口を人差し指で穿って、その快楽に身悶えながら一気に扱いて射精していた。
 パジャマの中、パンツともどもしとどに濡らして俺は、濃くてどろりとした精液を吐き出しながら、凶悪で厭らしく…そして、甘く誘惑する『悪魔の樹』を舐め続けていた。
 その甘ったるい匂いに、暫く痺れたように酔いながら…

「どど、どうしよう」

 ハタと我に返った俺は、自分の指を濡らすモノが『悪魔の樹』の樹液なのか、それとも自分が放ってしまった精液なのか、もうよく判らなくなってしまった両掌を見下ろしたまま、呆然と青褪めていた。
 パジャマもパンツも乾いてガビガビになり始めているし、そうすると、愈々1番目のお約束を思い切り破ってしまった事実が愕然とする俺に、嫌でも今までのことが夢でも幻でもないと思い知らせてくれる。

「思わず、思わず舐めたりしゃぶったり、精液塗れの指で扱いちまった!おい、大丈夫か!悪魔の樹ッッ…って、ん……ッ」

 思わず『悪魔の樹』の変化が気になって覗き込もうとしたら、甘ったるいあの匂いが鼻腔を擽って、またしてもトロンッと瞼が閉じそうになってしまった。

「う…い、いかん!流されるな、俺!悪魔、悪魔の樹は大丈夫なのか??」

 匂いに頭をクラクラさせながらも、デスクの上でぬらぬらと濡れ光っている『悪魔の樹』を見詰めて、濡れている以外には何の変哲も見せない植物に、思わずホッと溜め息を吐いていた。

「…な、なんだ、何もないじゃないか。よかった。あの灰色フード野郎め!嘘吐いたんだなッ」

 それとも、もしかして樹液に毒があったりして…うお!?俺、マジで即死だったんじゃ??
 そう思ったらメチャクチャ怖くなったけど、よく考えてみたら身体はピンピンしてるし、何より、一発抜いたから頭がスッキリしていたりする。
 うははは、なんか現金だなぁ、俺。
 これだと、今度のテストはバッチリいけそうな気がしてきた。結局…俺ってば欲求不満だったのか??
 顔を真っ赤にして独りで騒いでいたら、俺の目の前にいた『悪魔の樹』はゆっくり、茎の部分から細い枝を伸ばしたんだ。それは、あの血管だとばかり思っていた部分で、ゆっくりと幹から剥がれるようにして細長い枝を伸ばすと、それから小さな葉っぱがシュルシュルと開いた。

「あ、葉っぱだ…ホントだな、葉っぱが出てきた」

 そうして見ると、確かにまだまだグロテスクでエグクてキモイんだけど、ちゃんと立派な植物に見えてきたから不思議だ。

「…なんか、エッチなことに遣っちゃって悪かったなぁ。うわ、すげー俺ってば恥ずかしい。ごめんな、悪魔の樹!」

 そう言ってから、時計に気付いて、うお!?もう2時じゃないか。
 いったい、何時間遊んでたんだ!!?
 くはー、もうすげー恥ずかしいのな。
 俺は弟や父親に見つけられでもしたらコトなんで、置いてあった本を出して開いた空間に『悪魔の樹』を納めると、それからカモフラージュにイロイロとモノを置いたんだ。こうすると、面倒臭がりの弟は手を出さないし、家事全般を任せっきりの父親は見ようともしないだろう。
 横にあるものも取らないような父親なんだ、俺の部屋に来る時はワイシャツの替えがない時か、買い置きの煙草のある場所が判らないか、それから腹が減った時ぐらいだ。
 弟以外は悩むことは全くない、天晴れ陽気な我が家族ってな。
 ホント、何言ってんだろ、俺。

「さてと、悪魔の樹も仕舞ったことだし、俺も寝るか」

 早ければ2日、遅くても5日で悪魔ができるのか…なんか、絶対に嘘くせぇって完璧に思ってるんだけども、頭の何処か片隅では、できるかもしれないとか期待している俺もいるんだよな。
 どんな悪魔なんだろう?
 やっぱり、角とか生えてて、牛みたいな顔してて、蛇がうじゃうじゃ出てくるんだろうか…嫌だ。
 そんな悪魔はやっぱり嫌だ。
 できればカッコイイ悪魔がいいなぁ…でも俺、ヘンなことしちまったから、淫魔とかできたりして。
 うわぁ、精気吸い取られて干乾びて死ぬのなんて嫌だなぁ。

「悪魔の樹、お願いだからカッコイイ悪魔を作ってくれよ」

 物の影に隠れてしまったえげつない『悪魔の樹』に、俺は馬鹿みたいに両手を合わせて拝んでいた。
 神だとか仏じゃなくて、悪魔だって言うのに、俺はホントどうかしてる。
 眠い目を擦りながら、明日は晴れたらいいなぁと、ベッドに潜り込みながらぼんやりと考えていた。
 『悪魔の樹』も、早く大きくなれ。

第二部 12.予感 -永遠の闇の国の物語-

 たゆたう夢の中で幸福な気持ちを噛み締めていた光太郎は、ふと、誰かに呼ばれたような気がして振り返っていた。しかし、声の主は姿を見せず、目の前で獅子面の魔物が静かに佇んでいる。
 だから、光太郎は声の主を捜すこともせずに、目の前にいるその魔物に破顔して、抑えきれない涙をポロリとひとしずく、頬に零しながらその巨体の魔物に抱き付いていた。
 もう離れないよと呟いても、獅子面の魔物であるシューは何も言わず、光太郎を見ているようで見ていないような、なんとも言えない不思議な表情をして、それでも優しく抱き締めてくれた。
 その腕の温かさに、やっと闇の国に帰れたのだとホッとしたその時、嬉しくて嬉しくて、思わずギュッと抱き締める光太郎の耳元で、誰かが酷く怒鳴る声がする。
 その時になって漸く、光太郎は幸福な夢から目を覚まして、自分が置かれている状況を脳が把握するまでの短い間、寝惚け眼を彷徨わせて、今度こそ本当に声の主を捜すことにしたようだ。

『やっと起きたか』

「もう、殺されちゃったのかってビックリしたよ~」

 彷徨わせていた視線が漸く生気を取り戻した時、ホッとしたような安堵の声音で、光太郎を覗き込んでいる蜥蜴の大親分のような顔と、花も恥らうような天使の美貌を持つ顔を見つけて、それで光太郎はここが何処で、自分が何をしているのか脳が理解したのだった。

(なんだ…夢だったんだ。でも、そりゃそうだよな。あのシューが優しく俺を抱き締めてくれるなんて、そんなこと有り得ないんだから、気付けよ俺ってさ)

 残念そうに眉を寄せるのをどう受け取ったのか、蜥蜴の大親分のバッシュが、その完璧なポーカーフェイスでは判り辛いが、どうも困惑したような顔をして首を傾げているのだ。

『おいおい、大丈夫か?ユリウスに何かされたのか??』

「んもう!バッシュってばデリカシーがないんだからッ」

 綺麗な桜色の唇を尖らせるアリスが眉を寄せて、それから徐にバッシュの脇腹にエルボーを食らわせたのだが、このままでは彼らがヘンな誤解をしてしまうと気付いたのか、光太郎は慌てて起き上がった。

「だ、大丈夫だよ!その、なんか草臥れて眠ったみたいだ」

 エヘヘヘッと笑って頭を掻く光太郎を見ながら、アリスは綺麗な柳眉をソッと顰めると、可愛い顔を曇らせて小首を傾げて見せた。

「そうだよね~、馬で飛ばした挙句に入城早々にあのユリウスを受け入れたんだもん。疲れて眠っちゃうよね~。彼ってストイックっぽく見えるけど、アレで案外タフそうだしぃ。ところで、身体は大丈夫?」

 人差し指で桜色の唇を押さえて眉を寄せるアリスに、その時になって漸く彼が何を言いたいのか判ったのだろう、バッシュは表情を固くして、そうか、光太郎は…と、何かを悟ったように口を噤んでしまった。が、噤まれたままでは大問題なのが光太郎である。

「ああッッ、アリスッッ!何か勘違いしてるみたいだけど、俺、その、ユリウスとしてないから!!身体も大丈夫だし、ピンピンしてるよッ」

 懸念したとおり、思い切り誤解されてしまっている光太郎は、顔を真っ赤にして首を左右に振りながら、開いた両手を左右に振ってジタバタと完全否定を心掛ける。心掛けるのだが、却ってその態度が、更なる疑惑を呼んで、アリスはらしくもなく神妙な顔付きをしてバッシュを見た。

「ほら~、バッシュが余計なこと言うから光太郎が恥ずかしがってるじゃないッ」

『俺か?!』

 ギョッとしたように目をむくバッシュは、あからさまにお前のせいだろうがと言いたそうな胡乱な目付きをしたが、そんな2人に思い切り焦りまくっている光太郎は、取り敢えずベッドから飛び降りて、ピンピンしている証拠を見せようとその場で飛び跳ねた。

「ほらほら!元気だろ?!だから、ホントに大丈夫なんだってッッ」

「むー?」

『…大丈夫そうだな』

 アリスは必死の光太郎の顔を同じ目線から覗き込みながら疑い深そうに眉を寄せたけれど、元気そうに飛び跳ねている光太郎を見たバッシュは、少しホッとしたように頷いている。

「もう!ホントに大丈夫なんだよ、アリスってば…って、そう言えば、2人ともどうしたんだい?」

 ホントかなぁ~と、遂に光太郎のシャツをバッとたくし上げてしまった。

『うお?!』

 何故か思わず両手で双眸を押さえるバッシュの前で、素肌を晒す光太郎を繁々と見詰めたアリスは、それで漸くホッとしたようにニッコリ笑った。

「ホントだ。じゃ、大丈夫だねー」

「…最初からそう言ってるよ」

 思わずガックリしそうになった光太郎だが、性別はいたって健全な男の子である。素肌の胸元を見られたからと言って、赤面するような性質ではない。だから、両目を押さえてしまったバッシュの行動こそ、本当は不思議で仕方ないのだが、この際無視したアリスがクスクスと鼻先で笑うのだ。

「判ってるんだけどぉ。身体に負担があるようじゃ、あんまり話したくないと思っちゃったんだよね~。ね?バッシュ」

『…まぁな』

 着衣の乱れを直す光太郎に気付いて、漸く両手を離したバッシュが、ヤレヤレと言いたげな仏頂面で頷いているから、光太郎の眉がソッと顰められてしまう。

「何か…あったんだね」

 そんな態度をアリスとバッシュが取ると言うことは、何か起こっているのだろうと、まだ知り合って間もないと言うのに、光太郎には直感のようにそれが判った。
 だから、胸が高鳴る。
 それは不安でもあるし、微かな期待も…

「この砦に魔軍が来るんだって!」

 アリスが嬉しそうな顔をして光太郎の両手を握ると、光太郎は一瞬、自分が何を聞いたのか良く判らないように双眸を見開いたが、それでも理性の光を取り戻すと、まるで信じられないとでも言うように、いや、信じたいのに信じられない、そんなもどかしい表情をして視線を彷徨わせてしまう。

「え?え?…それ、は、その。どう言うこと?」

 両手を確りとアリスに握られたまま、信じられないと動揺したように呟く光太郎のその態度は、あまりにも多くのことが起こり過ぎて、まだ少年だと言うのにたくさんの経験を一気にしてしまったのだから、それは仕方ないとバッシュは胸が痛んだ。

『さっき、スゲー剣幕で早馬が来てな。もう、すぐそこまで魔軍の一行が迫ってるらしいんだ。その数、凡そ300ってんだから、そりゃ、沈黙の主まで居るんだから大騒動だな』

「この砦の兵士って、結界を頼りきってるから50もいないんだよね。篭城しても、せいぜい1週間ぐらいが限度だと思うし?ラスタランからのここまでの距離って、実際には3週間ぐらいはかかるから…援軍は3週間来ないってワケでしょ?だったら、勝機もあるかもしれないんだよ!」

 ブンブンッと両手を振って嬉々とするアリスと、ワクワクしているようなバッシュを虚ろに見比べていた光太郎は、その話を聞いて、漸く、その内容が脳裏に到達したようだった。

「そ、それって…闇の国から助けが来てるってこと?」

『だから、そう言ってるだろ?』

「帰れるかもしれないんだよ!光太郎♪」

 バッシュとアリスが同時に応えると、光太郎は、何故か今まで必死に踏ん張っていたはずの足許から、地面が消えてなくなるような錯覚を感じて、クラリと眩暈がしてしまった。

『おい、光太郎?!』

 思わず…と言った感じでバッシュが両手を差し出したが、倒れる寸前でハッと我に返った光太郎が、大丈夫だと呟いて、それから、なんだかまるで、夢の中にでもいるような頼りないふわふわした気持ちに、支えてくれる2人に頭を掻きながらエヘヘッと笑ってしまう。

「大丈夫、大丈夫なんだけど…俺、俺たち、ちゃんと闇の国に帰れるのかな?」

 それは切なる願い。
 夢にまで見たシューとの再会…があるのなら、いや、それがたとえシンナでもゼィでも、誰だったとしても、あの懐かしい闇の国の住人たちの許に帰ることができるのなら、それは信じられないほどの幸せだった。

「帰れるよ!大丈夫。でも、僕たちも何か作戦を考えないとね」

『ああ、それを言う為にここに来たんだ。さっき、凄い剣幕でユリウスが出て行ったからな』

「歩いてた神官を捕まえて、この部屋に入れて♪ってお願いしたら、入れてくれたんだよね~」

 バッシュとアリスが交互に喋るのを、まるで夢の中にいるように遠く聞いていた光太郎は、完全にその話を信じることができたのか、表情を引き締めて頷いたのだ。

「そっか。バッシュたちが言うのなら間違いないね。だったら、俺たちも速やかに脱出する為に作戦を練ろう…って、ところでケルトはどうしたの?」

 キュッと唇を噛み締めて呟いた光太郎は、だが、この場に小さな少年の姿がないことに今更ながら気付いて、それから困惑したように眉を寄せてしまった。

「ケルトは具合が悪いから部屋で寝かせてるよ。ほら、その時が来たら体力が勝負でしょ~?」

「あ、そっか。ケルト、大丈夫かな?」

 たとえば、2週間も時間がかかるとすれば、その間は心理戦に突入もし兼ねない。その場合、アリスが言うように体力と精神力が問われることになるだろう。何より、ここは戦場に変わるのだから、小さな身体で具合が悪いケルトでは、負担は計り知れないかもしれない。

『一応、神官が薬湯を飲ませたからな。暫く安静にしてりゃ、大丈夫だそうだ』

 バッシュが安心させるように光太郎の肩を叩くと、仲間の安否を何より気遣う、彼らが忠誠を誓っている主は(本人はそう呼ばれることを嫌がってはいるのだが)、ホッとしたように頷いた。

「それじゃ、俺たちだけで考えよう」

『ああ』

 漸く生気を取り戻したように生き生きとした表情で、良く晴れた夜空のような双眸をキラキラさせて、バッシュが嘗て魔城で目にしたあの明るさを取り戻した光太郎の、最近は翳りを見せていた瞳に勇気付けられたようにバッシュが大きく頷く傍らでアリスも楽しげに頷いて口を開くのだ。

「もっちろん♪まずは、ここじゃなくて、僕たちに宛がわれてる部屋に行こうよ。ここは落ち着かないしぃ~」

 どうせ、ラスタラン最強とも謳われる、魔軍ですら一目置く暗黒騎士は今は光太郎どころではないだろう。いつ、この部屋に戻って来るかは判らないが、恐らく当分は戻って来ないと踏んで、アリスは居心地の悪い部屋から今すぐにでも出たそうな雰囲気だ。
 憂鬱そうなアリスに、バッシュと顔を見合わせた光太郎は、それもそうだと頷くと、ユリウスの部屋から脱出することにした。

Ψ

「魔軍がこの砦に押し寄せているだと?どう言うことだ!」

 少年神官が立ち去った後、まるで入れ替わるようにして兵士が進言に来た事の次第を耳にして、烈火の如き乱暴な足取りで荒々しく両手で扉を開いて室内に足を踏み入れた暗黒騎士は、常に黙して主の傍らに在るはずだったのに、その時は砦すらも揺るがすのではないかと耳を疑うほどの大音声で激昂している。

「だ、団長殿!」

 驚いた早馬の兵士は、それでも、彼の直属の上官であるユリウスの激しい憤りを目にし、慌てて平伏しながらも事の重要さに身体の芯が引き締まるような思いに駆られてしまった。

「ユリウスか。この砦を魔軍は挙って回避したがるものを…敢えて挑むと言うことは、お前の見立てどおり、あの者はどうも魔軍にとって貴重な存在のようだな」

 砦内にある広い謁見の間は、ズラリと壁に並んだ蝋燭の灯りで真昼のような明るさだった。
 その長い緋毛氈の敷かれた上を真っ直ぐに行ったところに設置されている玉座に座した沈黙の主が、肘掛に頬杖をついて溜め息を吐きながら、猛然とした勢いで、漆黒の外套を跳ね除けるようにして大股で風を蹴るように歩いてくる暗黒騎士をチラリと見た。
 その眼前に騎士の礼に則った片膝をつく早馬の兵士は、慌てたように腰を低くしたままで傍らに退き、ユリウスにその場を明け渡した。

「…」

 忌々しそうに舌打ちするユリウスの有り得ない姿に、第二の砦に従軍していたユリウスの手の者である兵士は、頭を垂れたままで驚愕に目を見開いた。
 影のように、空気のように、物言わぬ存在として主の背後を護る暗黒騎士の、その態度は、恐らく誰の目にも明らかなように、感情も顕わに苛々しているようだ。冷静沈着を絵に描いたような、存在感こそあるものの、気配など空気のように感じさせることもなかったユリウスは、いったいどうしてしまったのかと、兵士は恐る恐る頭をを上げて、自らの直属の主である暗黒騎士を盗み見た。

 フードの奥深くにかんばせを隠してしまっている沈黙の主は、それでもクスッと笑って、そんなユリウスの気持ちを手に取るように理解しているようである。

「だが、手離す気などさらさらないんだろう?ユリウス」

「…無論。そして、この砦で主を危険に晒す気もありません」

 私情に揺れる心を抱えながらも、やはり暗黒騎士の第一は沈黙の主でラスタランの復興なのだろう、件の王はフードに隠れる目蓋を閉じて、そんな片腕にやれやれと軽い溜め息を吐いた。

「兵は神速を貴ぶ…と申します。何よりもまずは戦略を練るべきです」

 尤もな進言にも頷いて、沈黙の主は瞑目した。
 何か勝機を見ての行動か、はたまた、愚考の果ての行動か…何れにせよ、魔族がここに、彼らが大切にしている人間とは別の獲物がいることを、四方や知っての行動ではないだろうと沈黙の主は考えていた。
 しかし…ふと、フードの奥、隠れてしまいそうな双眸を開くと、茶色い髪の隙間から透けて見える漆黒の鉄仮面の奥、激昂に燃える紅蓮の双眸がひたと自分を見据えていることに気付いた。
 ご決断を…と迫るのか。
 いや、或いは…
 沈黙の主は苦笑して、そして、目線を落としてしまう。
 この砦には色褪せることもなく古の術法が張り巡らされている。その力は、魔王とて手出しできないほどではあるが、しかし、あくまでも結界は結界であって、ともすれば綻びとてあるやもしれない。
 ラスタランの城にも同じように張り巡らされた古の術法は、長らく、魔族の侵略を食い止めてくれている。しかし、兵力の差から、魔城に攻め込むにも今一歩で後退しなくてはいけなくなる。
 一進一退の攻防戦は、こうして続いている。
 今回の魔軍の侵攻は、もし、その作戦が成功することがあれば、それは即ちラスタランの命運を決めることになる。
 沈黙の主は額に嫌な汗が浮かぶのを感じていた。
 目線を戻せば、未だ変わらぬ双眸で暗黒騎士は見詰めてくる。その眦は僅かに上がり、責めるような双眸は、物言わぬ威圧感すら漂わせているのだ。

「判った。まずは斥候を出すべきだな」

「御意…主よ、この砦の兵士の掌握も必要かと」

「指揮はユリウスに一任する」

「は!」

 漸く求めていた言葉を聞いて、暗黒の騎士は一礼すると、外套を翻して来た時と同じ荒々しさで謁見の間を後にしようとして足を止めた。
 ふと、沈黙の主の眉が寄る。

「この場にディリアス殿の姿が見えませぬが…」

 兵を掌握するとなると、この砦を支配している事実上の主の不在は、抜け目ない沈黙の主の片腕の不興を買ったようだ。

「ああ、有無。ヤツは砦の結界を強固にする為、上にいるようだ」

「…なるほど。では、失礼します」

 そう言って、今度こそ本当に、荒々しい足取りで謁見の間を後にするユリウスを、沈黙の主は見送っていた。
 だが、ふと。
 沈黙の主はその背中を見送りながら、嘗てないほどの不安を感じていた。
 何がそうさせるのか、それは定かではなかったが、沈黙の主は溜め息を吐いて背凭れに背中を預けた。
 そんな沈黙の主の鎮座ます謁見の間を後にするユリウスの後を追って、早馬で報せを持参した兵士が追い縋ると、既に寡黙に戻ってしまった暗黒騎士はチラリとも目線をくれることもなく歩調も緩めない。
 あれは錯覚だったのではないか…と、兵士が自身を疑ったとしてもおかしくないほど、今のユリウスは冷静そのものである。
 無類の戦好き…と言うワケではないのだろうが、戦場を愛馬で駆け抜ける漆黒の風のようなユリウスは、戦場にあっても冷静で、無言のまま血溝をクッキリと刻む剣を片手に魔物を斬り殺す様は見ていて寒気がするほどだ。
 対峙する魔物の殆どが、その威圧感に気圧され、闘争心さえ凍りつかせて戦場の露となってしまう。
 あの、魔軍の副将であり、戦場の鬼女と恐れられるシンナでさえ、一瞬竦んだように怯え、その隙を突いたユリウスの剣にあわや腹を刺されるところだったのだから…どれほど、この物言わぬ影のような男は深い闇を身内に抱え持っているのだろうか。
 そのただならぬ威圧感とちりちりと空気を焼くような殺気に息を呑みながらも、彼の忠実な部下である兵士は暗黒騎士の指示を待っているようだ。

「…ご苦労だった。お前には悪いが、その足で斥候の任に当たってくれ。あと数名与える」

 砦内の兵士の掌握に向かうユリウスは、重く閉ざしていた口を開いて、畏まるように後をついてくる兵士に指示を出した。

「ハッ!」

 緊張していた兵士は飛び上がらんばかりに驚いたが、すぐに与えられた任務を受け、来た道を引き返すようにして戻って行った。
 誰もいなくなったひっそりとした砦内は、これから凄まじく遽しくなるだろう。
 ユリウスは戦に向ける想いとは裏腹の部分で、僅かに舌打ちし、漆黒の鉄仮面の奥で滾るように燃える紅蓮の双眸を細めていた。
 恐らく、その混乱に乗じて、彼の愛する宝は仲間の魔物どもの悪知恵を借りて、この砦から脱出を試みるに違いない。
 無垢な優しい心を持つ宝だけれど、その、魔物どもを想う心が発動すれば、姑息で、誰もが恐れる暗黒騎士である自分さえ易々と騙そうとするあざとさがあるのだから。
 この腕をすり抜けて行ってしまうのか…
 ふと、ユリウスは掌を見下ろした。
 この手は、幾人もの人間や魔物どもの血で染まっている。もしかすると、未だに滴り落ちているかもしれない…そんな幻視を見せるほど、彼は数え切れない生きものの生命を奪っていた。そんなもの、気にも留めたことのないユリウスだったが、今は寒気すら覚えて眉根を寄せる。
 この血塗られた手で、あの優しい笑みに揺れる頬に触れたとしても、あの少年はひっそりと掌を重ねてくるに違いない…だがそれは。

(憐れみなのか…)

 そこまで考えて、ちぐはぐな想いに心臓が掻き毟られるような痛みを覚えたユリウスは、見下ろしていた掌を拳に握り締めた。
 光太郎を手放してしまったら…今度こそ自分は、這い上がれない奈落の底に堕ちてしまうのか。
 まるで不可視の掌がそっと心臓を掴んだような、得も言えぬ不愉快さに色の抜けてしまった眉を顰めると、どうすることもできないもどかしさに歯噛みする思いで、ギリッと唇を噛み締めるのだった。

第二部 11.漆黒の愛 -永遠の闇の国の物語-

 ユリウスに抱き上げられたままで入城した砦内は、第二の砦とは比べられないほど豪華でありながら、何処か荘厳で静謐な静けさがあった。たとえるならばそれは、まるで神殿か何か、その類の雰囲気そのものだ。
 思わずキョロキョロと呆気に取られたように見渡す光太郎に、ユリウスは苦笑したようだったが、行く手に沈黙の主を迎え入れて更に、彼の右腕でもある暗黒騎士を招き入れようとするディリアスの姿を認めると、途端に厳しい目付きになってしまう。
 魔物は勿論のこと、人間すらも容易には信用しないそれはユリウスの悪癖ではあるのだが、件の大神官は気にした様子もなく、恭しく長いローブの袖の袂に手を隠し、頭を下げながら組んだ両腕を上げて神官の礼をした。
 寡黙な暗黒騎士は軽く頭を下げただけだったが、長い顎鬚を持つ大神官は、まるで物珍しそうにユリウスに抱き上げられている光太郎を見詰めた。その視線に気付いたのか、暗黒騎士は感情を飲み込む鉄仮面の向こうで、僅かに眉を顰めたようだった。

「早馬の報せにありました、貴殿の宝物でございますな。お待ちしておりました、奥に部屋を用意してありますれば、どうぞごゆるりとお寛ぎ下さい」

 彼が何か口を開くよりも前に、そう言って初老の大神官は恭しく頭を垂れるのだが、目敏いユリウスはその神官の双眸に、一瞬宿る好色そうな光を見逃さなかった。
 だからこそ、寡黙でストイックな暗黒騎士はこの神官を毛嫌っていた。
 神官の地位にありながら、世俗の垢に塗れたこの男を、どうしても信用できないユリウスは、ムッとしたように眉根を寄せるものの、数少ない神官の生き残りを無碍にもできず、彼は仕方なく無言で遣り過ごそうとした。
 だが…

「部屋を用意してくれてるのか?ああ、よかった。俺、馬に乗ってばかりだったから疲れてたんだよな。たぶん、あれだけ飛ばしたんだからユリウスだってきっと疲れてるに決まってるんだから、休めるのは助かるよ。有難うございます!」

 ニコッと屈託なく笑って抱き上げた少年がそう言ってしまえば、頑なな暗黒騎士と言えど、思わず頬の緊張を緩めたとしても致し方ない。

「なんと、まぁ…素晴らしい宝物でございますな」

 初老の大神官はホッホッと笑って、「そうだな」と屈託のない少年に呟く暗黒騎士に思わず…と言ったように口を開いてしまった。それでなくても、どうやらこの禍々しい騎士は自分を嫌っているようなのだから、悪態のひとつも聞けるものとばかり思っていた大神官は、その暗黒の鉄化面の向こうから、四方や嬉しげな言葉を聞けるとは思わずに驚愕してしまった。
 いや、だが勿論、その声音は低く、くぐもっているし、不機嫌そうなのには変わりはないのだが…

「そうだ。唯一無二の私の宝だ。丁重に持て成すように」

 それまではムッツリと口を噤んだまま、何も言わないのが暗黒騎士の禍々しさの所以のようであったのに、驚くことに、彼は大神官の言葉に返答を返したのだ。
 これは驚かずにはいられない。
 だが、やはり暗黒騎士はそれだけを言っただけで、その後は口を噤み、ただ、腕の中にある少年を愛しそうに鉄化面の奥から見詰め、大神官をまるで無視して宛がわれた部屋に姿を消してしまった。
 取り残されたように立ち尽くした大神官は、数年前に見た暗黒騎士の雰囲気が、こうもガラリと変わってしまったのは、やはり腕の中にあった、あの魔族と共に在ったと言う人間の影響だろうかと首を傾げていた。
 確かに、腕に在った人間の少年は不思議な雰囲気を醸していた。
 ともすれば不安そうな光が揺れる双眸をしているくせに、何処か無頓着で、そして何かを身内に孕んでいる危うさを持っていた。それなのに、少年は直向な双眸をして純粋に微笑むのだ。
 神に仕える神官よりも純粋で、またとない光のような存在であるとディリアスは確信めいたものを感じていた。
 身内に禍々しさを抱えている暗黒騎士にはこれほど似合わない存在だと言うのに、彼は少年を手離す気などさらさらないのだろう。
 しかし、何れにせよ。
 その変貌が人間と魔族の間にどのような変化を生むのか、大神官ディリアスは興味深そうに考えるのだった。

Ψ

「ベッドだー」

 ユリウスの腕から漸く解放された光太郎は、ホッとしたようにやわらくスプリングの利いたベッドに飛び乗りながら、ふかふかの枕に頬を埋めて嬉しそうだ。その様子を無言で見ていたユリウスは、だが、何も言わずに苦笑して、頭部をスッポリと覆う鉄仮面を外しながら首を左右に振った。
 色の抜けてしまった真っ白な髪と紅蓮の双眸、高い鼻梁に秀でた額、酷薄そうに見える薄い唇も何もかも、そうしていれば見蕩れてしまうほど整った異国の顔立ちをしたユリウスを、草臥れた身体をベッドに横たえたままで、光太郎は物珍しそうにじっと見詰めていた。
 彼がトラウマのように抱えているその右半分の火傷の痕を目にしたとしても、やはり寡黙で意志の強そうな暗黒騎士はカッコイイんだよなぁと光太郎は半ば閉じそうになる目蓋を必死に開けながら考えていた。
 黒甲冑を珍しく脱いだユリウスは、甲冑の下に着込んでいる黒い衣装も同じように脱ぎ捨てた。
 こちらに背を向けてはいるものの、その背中を無残に走るケロイド状の火傷の痕は痛々しくて、もう痛くないと言った彼の言葉を思い出したとしても、やはり光太郎の眉は寄ってしまう。
 何よりも、その背中には、火傷の上から無数に刀傷の痕や鏃の傷痕があるのだから…その凄惨さには思わず泣き出しそうになってしまう。

「どうした、気持ち悪いのか?」

 横顔を見せるユリウスは紅蓮の瞳を動かしただけで光太郎を見て、眉を寄せる少年を鼻先で笑いながらそんなことを呟くから、魔族に心を砕く風変わりな人間の少年は、その心根と同じようにユリウスにも心を砕いて、ムッと唇を尖らせると、彼が欲しいと思う言葉をすらすらと口にしてしまう。

「そんなんじゃないって前も言ったのにさー、ユリウスってちょっと人を疑いすぎだよ。ユリウスは痛くないって言うけど、やっぱり痛そうに見えるんだ。俺、痛いの嫌いだから」

 唇を尖らせて悪態を吐くくせに、それでも労わるように双眸を細める光太郎を見下ろして、背を向けていたユリウスは向き直ると、胸元から腰に這う火傷の痕を晒しながらベッドを軋らせて、横たわる光太郎の傍らに腕をつき、その驚いたように見上げてくる顔を見下ろした。

「もう痛まん…と、オレも言ったはずだが?」

「うん、判ってるけど、でも…」

「もう黙るんだ」

 そう言って、ユリウスは屈み込むようにして、ケロイド状に引き攣る右端の唇を歪めるように笑いながら、やわらかい光太郎の唇に口付けを落とした。
 ビックリしたように、良く晴れた夜空のような双眸を見開きはしたものの、男同士のキスに慣らされてしまっている少年は、仕方なさそうに目蓋を閉じて口付けを受け入れた。
 その経緯を僅かに耳にしただけのユリウスにしてみれば、それはユリウスの愛を、大人しく受け入れているようにしか思えない行動だった。
 だが、その先を促せば、愚図るようにして嫌がるのだから…彼にとっての光太郎は、全く稀有な存在であることに変わりはない。
 男を知る身体であることをセスの嫌味で承知しているつもりだったが、いざ、その身体に触れようとすると、まるで初心な娘のように頬を染めて嫌がる光太郎の仕種に、ユリウスは彼の身体を知る全ての生き物に対して歯軋りしたくなるほどの嫉妬を感じていた。
 自分がもう少し早く第二の砦に行っていたら…いや、何よりも、誰よりも早くその存在に気付くことができていたのなら、誰に穢されることもなく、真綿に包むようにして優しく抱き締めたものを。
 ユリウスは捕虜の扱いを知っていた。
 奴隷や年端も行かぬ少年を、戦にあっては足手纏いでしかない彼らを、男娼として戦地に送り込むことを持ちかけたのは、他ならぬユリウスだった。捕虜として捕らえた者たちを、それは魔族であれ、それに加担する人間であれ、自由にしてもよいと許したのも彼なのだ。
 だから、必然的に光太郎が何をされたのか、知らないワケではない。
 憤りと醜い嫉妬と…ワケの判らぬ衝動に突き動かされるように熱く濡れた口腔を貪るユリウスの、鍛え上げられた筋肉質の背中に縋るように抱き付いた光太郎は、溺れるひとのように夢中で無残な火傷の痕で引き攣れたような皮膚に爪を立ててしまう。
 ハッとして腕を離そうとするが、それでも窒息してしまう恐怖には到底太刀打ちできずに縋るように抱き締めるその目尻から涙が零れたとき、漸く激情に翻弄する唇と舌から解放されて、光太郎は上気した頬と潤んだ瞳のまま苦しげに喘いだ。その首筋に、ユリウスの濡れた唇を感じて、思わず恐怖に目を見開き、それでも、覚えている快感に震えるように目蓋を閉じてしまう。
 覆い被さってくるユリウスの男らしい胸板を押し戻そうにも、力強い腕に阻まれてしまうと、自分が非力な人間になってしまったような気がして悔しかったが、何故、こんなにも抵抗できないんだろうと光太郎は不思議で仕方なかった。
 嫌だと言って跳ね除けてしまえればいいのに…そうしないのは、恐らく、脳裏に一瞬浮かぶバッシュやアリス、そしてケルトの安否を気遣ってしまうからなのだろう。
 いや…恐らく、それだけではない。
 弱気な自分は、確かに痛みには弱いのだから、最初に犯された時の苦痛を思い出して身動きが取れなくなってしまう…と言うのが、抵抗できない最大の要因だった。
 目蓋を閉じて我慢すれば、挿入の痛みに耐えさえすれば、激情に翻弄されるまま時間が過ぎて、何時しか嵐のような夜が終わってくれる。第二の砦の地下牢で覚えさせられた対処方法を、知らないうちに実行してしまう自分には嫌気がさすし、メチャクチャに当り散らしたい気分にもなる。それでも生き残る為なのだから…と、当てもなく自分に言い聞かせて、光太郎は青褪めたままでユリウスの愛撫を受け入れようとした。
 だが、不意にユリウスは口付けていた鎖骨から唇を離してしまう。

「…?」

 恐る恐る目蓋を開くと、そこには自分を覗き込む紅蓮の双眸があって、光太郎は驚いたように目を瞠ってしまった。

「お前は…こう言う行為は苦手なんだな」

「え?!…違うよ、俺。い、嫌なんかじゃないよ!」

 怒られるのだとばかり、あの地下牢での出来事があまりに鮮烈で惨たらしかったばかりに、殴られるんだと竦んでしまったような、怯えた双眸で見上げたまま必死で首を左右に振る少年の双眸を見下ろして、ユリウスはだが、ケロイド状に引き攣る右唇の端を歪めるようにして笑った。

「手酷い仕打ちを受けたんだろう?」

「!」

 覗き込む紅蓮の双眸を見詰めながら、もしかしたらユリウスは…この酷薄そうな雰囲気を醸しているはずの暗黒の騎士は、性行為に怯えている自分の必死の虚栄を見破ってしまっているのではないか…それが判って、それ以上は先に進むことを躊躇っているのではないかと、光太郎は散々酷い目に遭っていると言うのに、信じようとしている自分に驚いてしまった。
 きっと、今日、この場所でユリウスに抱かれてしまうのだろうけど、せめて、心の奥深いところに傷痕を残していることを、どうか知っていてもらえるのなら、少しはマシなんだろうと光太郎は悲しそうに微笑んだ。

「俺、痛いのは嫌なんだ。ほんの少しでいいから、優しくしてくれたら我慢できるから、その…殴らないで欲しいんだ」

 殴られることを覚悟しているのか、自分でも驚くほど震えている手でユリウスの腕を掴む光太郎は、そんな情けない台詞を言いたくはなかったが、もしかしたらユリウスなら聞き届けてくれるんじゃないかと、淡い期待をして必死で言い募ってみる。
 ふと、ユリウスの紅蓮の双眸が燃え滾る業火のように光り、表情こそ変わらないのに、光太郎は背筋に冷たいものを感じて竦みあがってしまった。
 どうやら自分は、踏み込んではいけない地雷原に入り込んでしまったようだと、その瞳の色を見て逃げ出したくなっていた。
 殆ど無表情だと言うのに、まるで虫けらでも見るような、淡々とした静けさは、なまじ表情の変化がないからこそ、その残酷さが浮き彫りになったように、酷薄そうな残忍さが垣間見えて息を呑んでしまう。

「ご…ごめんなさい。余計なこと…」

 思わず掴んでいる腕に力を込めながら震えたように見上げる光太郎にハッと気付いたのか、黒髪の少年の向こう側にいる何かに…恐らく、彼を散々痛めつけたに違いない第二の砦の連中を、垣間見ていたユリウスは怯える光太郎の頬を、嘗て光太郎がそうしたように、優しくソッと包み込んでいた。

「オレは愛する者を殴る趣味はない」

 ハッキリそう言ってから、真っ白な髪を持つ紅蓮の双眸の、あれほど忌み嫌っていた醜い火傷の痕を、光太郎の前でだけは隠すこともしない暗黒騎士はフッと笑ってから、少年の上から身体を退けて、そのままその傍らに寝転んでしまった。

「そして、オレは愛する者に嫌がることを強要する気もない…お前の話を聞かせてくれ」

「…え?」

 傍らに寝転んでしまった白髪の男を、光太郎は驚いたように目を見開いていて見詰めてしまったが、不意に安堵したような嬉しそうな顔でニコッと笑った。
 その笑顔は、遠い昔に目にした太陽のように眩しくてあたたかくて、ユリウスは柄にもなく笑ってしまった。

(そうだ、その顔が見たい)

 思うだけで声には出さず、ユリウスは横になったまま頬杖をついて、嬉しそうに笑って自分を見上げてくる晴れた夜空のような双眸を見下ろしながら、口許に笑みを浮かべ伸ばした指先で漆黒の前髪に触れた。

「俺の話…?って、何を話そうかな。いろいろあるよ。俺ってさ、ここじゃない世界から来たから、珍しい話をたくさんできるんだ。えーっとたとえばね」

 敢えて魔族たちの話には触れずに、それでも楽しそうに話す光太郎の信頼した安堵した表情を見下ろしているユリウスは、それが真実の感情であることを知っているから、「そうか」と呟いて、お喋り好きな少年の愉快な話に耳を傾けることにした。

Ψ

 乗馬の経験のない光太郎は馬での移動に草臥れていたのか、はたまた、極度の緊張を強いていたのか…いずれにしても、夢中になっていたはずの話し声が途切れ途切れになって、何年振りかに笑うユリウスの胸元で何時の間にか安らかな寝息を立て始めていた。
 彼がどれほど性交渉に怯えて竦んでいたのか、痛いほどよく判ったユリウスは、信頼したように寝息を立てる少年の髪に、戦場の死神だと恐れられている彼は目蓋を閉じてその安らかな眠りを妨げないように静かに唇を落としていた。
 この腕の中の温もりが、嫌だと言うのなら抱き締めるだけでいい。
 傍にいて、困ったように笑う顔を見詰め、その唇にキスするだけでも至福ではないか。
 元来、この醜い火傷を負ってからと言うもの、ユリウスにはあまり性欲の本能がなかった。
 希に暴走しそうなほど凶悪になった場合…たとえば血臭の漂う戦場から舞い戻った時などは、引き裂くように名も知らぬ人間を抱くこともあったが、必ず最後は斬り殺していた。その衝動は、血のざわめきを鎮めるためでもあるが、何より、この醜い身体に抱かれることを拒む男や女が憎々しく、そしてそんなことに傷付いている自分自身が忌々しくて、その秘密を知る全てをこの世から抹殺したくなってしまうのだ。
 不思議と、光太郎に対してだけは、その感情は少しも沸き起こらない。それどころか、こうして醜い火傷の痕を晒していたとしても、何ら負い目を感じることも、ましてや自分を恥じることもないのだ。
 それはとても奇妙な感覚だった。
 光太郎にだけは自然と自分の姿を晒してしまう。そして、そうしている自分こそが真実で、鉄仮面に全てを隠してしまっている自分を疎ましく思うほどなのだ。
 いったい何が、自分をこうも変えてしまっているのか…ユリウスには判らなかった。
 愛…などと言う陳腐な言葉で纏めてしまえるのなら、この感情を抱く自分はどれほど気楽になれるだろうか。だが、そんな割り切った言葉が教えてくれることは、あまりにも儚くて、愚かな過ちばかりである。
 遠い昔、この髪と同じ色の髪と双眸を持つ娘がいた。
 愛と言う言葉を信じていた、まだ火傷を負ってもいなかった頃の青年は、髪の色も瞳の色も元のままで、希望に満ち溢れた笑みを浮かべて、その娘に腕を差し伸ばしていた。
 彼女は微笑みながら、そんな青年を見詰めては、ふと困惑したように小首を傾げて、それから悲しそうに俯いてその腕を掴むことはなかった。
 あの娘は、ユリウスの愛に応えることなく、彼の髪と瞳の色が変わってしまったあの遠い日に、静かに逝ってしまった。
 その心に何もかもを隠してしまって、違う誰かを見詰め続けていたあの娘を、欲しいと思っていたはずだったのに…心とは不思議なものだとユリウスは考えていた。
 あれほど欲しいと切望して、それ以来、何者にも心を動かされはしなかったはずなのに、今の彼は、魔物に心を砕く不思議な少年にこれほど固執してしまっている…それは、あの娘が同じように違う誰かに心を砕いていたから、その影響なのだろうかと、ままならない心を持て余しながら考えるユリウスはしかし、苦笑して首を左右に振ってしまう。
 あの娘がけしてしなかった行為を、この少年が与えてしまうから、自分はこの少年に執着して、そしてとうとう手離せなくなってしまったのかもしれない。
 ユリウスの心を蕩かしてしまった、あのやわらかな優しさ。
 差し伸ばされた指先のあたたかさを忘れられない。
 痛みに弱いと言って眉根を寄せた、今にも泣き出しそうな表情は、だからこそ、痛みを知る者が見せる掛け値なしの真実の心遣いだった。
 人を疑うことしか知らないこの火傷を負った醜い外見と同じく醜く荒んでしまった心で蔑むように見下せば、大抵の人間も魔物も、ましてや愛した娘ですら嫌悪するように眉を寄せ、牙をむき、背を向けるしかなかったと言うのに、そのどの行為も表情も見せることなく、痛ましいような、悲しいような、ユリウスの人間性の全てを慮る表情をして「心は痛い」のだと言って、泣くことなど、いや感情の全てなど当の昔に忘れていた自分を悲しいと言って頬に触れてきたあの掌の温もりを、恐らく、ユリウスは永遠に忘れることはないだろうと思う。
 安らかな寝息を立てて傍らで眠るのなら、それだけで十分だと、これ以上はない充足感に満たされて死神だと恐れられる男は、胸元にある暖かな温もりを今一度、確かめるように抱き締めていた。
 僅かに身動いだものの、目覚める気配はなく、何かを呟いてクスクスと笑った光太郎は、幸せそうにユリウスに応えるように抱き締め返してきた。
 そんなささやかな行為にどれほど彼が救われているのか、やはり判らない光太郎は、ユリウスの内に眠る情欲の熾火に僅かに炎を燈しはしたものの、それはか細く爆ぜて、ゆっくりとしたあたたかさに変わってしまった。
 草臥れていたのだろう、ぐっすりと眠ってしまった少年を起こさないように、その髪を、目蓋を、そして頬を辿るように唇を落としていたユリウスは、ふと、微かに木製の扉を叩く音に気付いて上体を起こした。

「誰だ?」

 誰何に、扉を叩いていた少年神官は一瞬、怯んだように怯えた気配をさせたが、外側から恭しくも慌てたように用件を述べた。

「お休みのところを申し訳ありません!沈黙の主様がユリウス様をお呼びでございます」

 束の間の安息だったが、それでも随分と英気を養えたユリウスは、その言葉に「すぐに行く」と応えて、それから、悪魔だ死神だと恐れられる暗黒騎士に怯えた少年神官の足音が遠ざかるのを聞きながら、「うーん」と寝言を言って身動ぐ少年の寝顔を見下ろしていた。
 その火傷の痕が舐める口許に微かな笑みを浮かべて、ユリウスは光太郎の顔の傍らに片手をついてベッドを軋らせると、屈み込むようにしてその唇に口付けを落とした。
 戦場の死神と恐れられる彼のその表情は、あまりに穏やかでやわらかく、見る者をハッとさせてしまうほど美しかったが、唇を半開きにして夢の世界に泳ぐ光太郎はとうとう、その事実を知ることはない。
 その寝顔を食い入るように見下ろしていたユリウスは、眠りにつく愛しい者の、今は目蓋の裏に隠されてしまったあの良く晴れた夜空のような、キラキラと煌く希望に満ちた双眸を曇らせたくないと考え、そしてその時初めて、国の為だけではなく、腕にあるこの愛しいたった独りの人間の為だけに、この世界を手に入れ、彼を苦しめる全てのものを排除した世界を築きたいと、壮大で荒唐無稽の夢を見てしまった。

第二部 10.烈火の傷痕 -永遠の闇の国の物語-

 森の中を駆け抜けていた魔軍の副将は、ふと、草の汁や泥に汚れた足を止め、刺青が這う頬に金の髪を零しながら、空色の双眸を細めて眼前に佇む砦を見上げていた。
 その砦は第二の砦として、ラスタランに程近い魔軍の治める砦であるはずだった。だが、今は狡猾な沈黙の主の指揮の下、ラスタラン側に落ちてしまった。
 更にラスタランに近い第一の砦は、忌々しい結界に護られ魔軍の手から奪われてしまっている。抜け目のない男である沈黙の主は、何よりもラスタランに近い砦を落とし、生き残っていた神官どもを総動員して、古の結界で魔軍を遠ざけてしまった。
 あの砦が手に入れば…恐らくはもう少しでも、この戦況は魔軍に有利であったはずなのに、僅かなミスで敵将に奪われてしまった。シンナは唇を噛み締める。
 その様を、ゼィとともに指を咥えて見ているしかなかった、あの壮絶な敗北感、もう二度と味わいたくはないと思っていたはずなのに…
 今目の前のこの砦にあるはずの、魔軍の太陽を、またしてもむざむざと人間に奪われてしまった。そのミスを招いてしまった自分の不甲斐なさに、シンナは頭の芯が焼け付くほどの憤りを感じていた。
 ここに、確かに光太郎はいるはずだ。
 ふと、目線を戻したシンナには確信めいた思いがあった。何故ならそれは、彼が残す気配がこの場所には充満しているからだ。
 遠い昔に人間として生きる道を捨ててしまったディハールの鋭敏な嗅覚に、光太郎が残した匂いと、そして胸が痛くなるような想いが感覚として残されているのを嗅ぎ取る力を持つシンナだからこそ、この砦に光太郎がいると確信できているのだ。
 さて、どのようにして侵入するべきか…
 小柄な少女は鬱蒼と生い茂る腰丈ほどの木々の隙間に身を潜めながら、その内部を熟知してはいても、今はどのような変貌を遂げているのかも判らない砦への侵入方法を考えていた。
 と。
 数人の衛兵らしき人間どもが、見張りがてらの散歩にでも出てきたのか、暢気なお喋りなどしながらぶらぶらと城門から出てきたではないか。

(コイツらを使わない手はないわねン)

 だが、そうは言ってもどうやって使うべきか…決まっている、誰かひとり殺して成りすませばいいのだ。
 そこまでシンナが考えてニヤッと笑った時だった。

「地下牢の魔物ども、今夜にも嬲り殺しなんだとよ」

「ああ、もう用はねーしなぁ」

「いらん食い扶持はさっさと始末しねーと、俺たちが上に喧しく言われるんだ」

 口々に忌々しげに言い合う人間たちの会話を聞いて、シンナは竦みあがってしまった。
 今、なんと言った?

(地下牢の魔物どもを嬲り殺すですってン?)

 その捕虜の中には、自分を暗い淵からなんの見返りもないのに、微笑んで救い出してくれたあの優しい光も含まれているのではないか…いや、含まれているのだろう。
 裏切り者の人間を、人間どもは許さなかったに違いない。
 どんなに辛い目に遭っているのか…想像すれば胸が痛むが、シンナはキュッと唇を噛み締めて、魔軍が築いた堅牢な城壁に小便を垂れる人間の見張り兵たちを睨んだ。
 自分の顔は既に割れているのだが、人間などは思い込みの生き物でしかない。
 シンナは慌てて血染めの白い甲冑を脱ぎ捨てると、顔を泥で汚し、それから、腿に挿していた鞘から短刀を引き抜くと、腕と脇腹を斬ったのだ。一瞬、顔を顰めはしたものの、すぐに身体中の刺青を発光させたていた。一瞬、サァッと光が渦巻いたが、立ちションに夢中な人間どもが気付くことはなかった。
 彼らが気持ちよく用を足した後、何気なく振り返ったちょうどその時、ふらふらと森から現れた人影にハッとした連中は、素早く腰に佩いた鞘から抜刀して身構えた。
 慌てたように戦闘態勢に入ろうとした小柄なディハール族の者は、それでも傷付き疲弊しているのか、肩で息をしながら脇腹を押さえ、ジリジリと後退しようとしている。
 最強と謳われるディハールの逃げ出そうとしている姿に、見張り兵たちは一瞬目線を交えたが、それからニヤッと笑ったようだった。

「おい、見ろよ。ディハールの生き残りだぞ」

「ここまでのこのこ来やがって。この砦が沈黙の主様のモノになっていると知らなかったんだな」

「おもしれーじゃねーか。捕まえようぜ」

 口々に囁きあっているその声が、傷付き疲弊したふりをしているディハール族の耳に、まさか届いているとは知る由もない、憐れな人間どもに茶色の髪を持つシンナは俯き加減にニヤッと笑った。

(そうよン、疲弊してるディハール族なんてそうそういないんだから、早くお城の中に入れてちょーだいなン)

 その相貌は確かにシンナではあるのだが、髪型と色の変化、そして瞳の色の変化で、自分たちが捕らえようとしている人物が、まさか魔軍の副将だとは思ってもいないのだろう、ニヤニヤ笑って近付いてくる見張り兵たちに、シンナは手にしていた短刀を振り翳した。

 「おっと」…とかなんとか、両手を挙げるようにして軽くかわしながら笑った人間の顔を、一瞬、忌々しそうに睨みはしたが、不意に怯えたような顔をしてシンナは『やめて』と呟いた。
 その少女らしい声に、見張り兵たちの内に渦巻く欲望に火を付けてしまったのか、なんとも嫌な目付きをしてゴクリと咽喉仏が上下に動く。

(何時見ても嫌なモンねン。でも、今は仕方がないわン…ゼィ、ごめんねン)

 胸の奥にいつでも大切に仕舞っている愛おしい顔を思い出して、しかし、シンナは強い意志を双眸に秘めて、怯えたような表情を彼らに向けるのだ。そうすれば、単純な見張り兵たちは傷付いた物珍しいディハールを捕らえるだろうし、万が一にも犯されたにしても、捕虜の行き着く先は地下牢だと決まっている。
 あの光を取り戻せるのなら、どうとでもなれる。
 シンナは3人の見張り兵と対峙しながら、白い布を血に染める脇腹を押さえて、この世界にたったひとつしかないやわらかな光を取り戻すために、大地を踏み締める足に力を込めていた。

Ψ

「お前ら、何をしている?」

 怯えるディハール族に襲い掛かろうと見張り兵たちが行動を起こしたまさにその時、低くはあったが、腹の底に響くような声音には、その場に居た誰もが金縛りにあったように動けなくなってしまった。
 魔軍の副将であるシンナですら、一瞬目を瞠ったぐらいなのだ。だが、すぐに怯えたディハールを演じて、人間どもと同じように竦んだふりをした。
 こんなところでバレてしまっては、これまでの努力が全て水の泡になってしまう。

「こ、これは…エルローゼ様」

 見張りの独りが慌てたように片膝を折り、胸に拳を当てる騎士の礼をしたが、他の2人は逃げ出そうとするディハールに剣を突き付けたままだが、恐縮しているのはよく判る。

(エルローゼ?…ってン、ふーん、コイツがあのン)

 シンナと同じような純白の甲冑に身を包みながらも、鎧すら押し上げるような豊満な胸を持つ、まるで美の女神の彫像がそのまま人間になったような、美しい女戦士は野蛮な見張りどもに一瞥をくれただけて、脇腹と腕から血を流す、ガクガクと足が震えている、今にも倒れそうなディハール族に目線を向けた。

「魔族の残党か。地下牢に入れておけ」

 呟くように言ったが、ふと、その黄金色の豊かな髪に包まれた華奢な頤を持つ顔の中、印象的な菫色の双眸が獰猛な肉食獣のように細められ、不満そうな見張り兵たちをジロリと睨むと、撓る鞭のような声音で言うのだ。

「四方や…不埒なことを考えていたワケでもあるまい。地下牢に放り込んでおけ!」

「は、はは!」

「承知致しましたッ」

 たかが女、されど女…シンナは脇腹を押さえたまま、肩で浅く息を吐きながら、魔城でも噂の女戦士の威風堂々した、男勝りの風貌に見蕩れていた。ここにシューが居れば、喝采の尻上りの口笛が響いたことだろう。
 思わず唇の端に笑みを刻みかけたシンナはだが、すぐに痛みに顔を歪めた。それは、鋭い菫色の双眸が自分を捉えた瞬間の逃げの一手…だけと言うワケではなかったのだろうが、絶妙のタイミングで目線を逸らすことに成功した。

「異なことだが、まぁいい。高潔なるディハールが自害もせずに身を晒すのも面白いじゃないか」

 ぽってりとした妖艶な唇に笑みを浮かべた麗しの女戦士は、それでもつまらなさそうに蜂蜜色の髪を掻き揚げるとさっさと砦内に消えてしまった。
 その後ろ姿を見送っていた3人の人間たちは、詰めていた溜め息を吐き出して緊張を緩めたようだった。

「やはりエルローゼ様は迫力がある」

 誰かが呟くと、声も出せずに頷く連中を見遣りながら、シンナはそれでも内心は穏やかではなかった。
 まるで女神のような麗しさを持つ、噂に違わぬ美麗な女戦士を目の当たりにして、ムシャクシャしている…と言った方が的確な表現なのか、何れにせよ、砦内に入り込むことに成功したシンナは、そんな見張り兵たちに言ったのだ。

『早いところ地下牢に入れてくれないかしらン。脇腹が痛いのよねン』

「へ?」

 思わず呆気に取られる見張り兵たちに、先ほどまで確かに怯えて竦んでいたはずの魔族の残党であるディハールは、まるで何事もなかったかのように腕を組んだまま、勝気な表情でニヤリと笑っていた。

Ψ

『…ッ!』

 首を傾げている人間どもに引っ立てられて、魔族の捕虜たちが押し込められた地下牢に投げ込まれたシンナは、後ろ手に縛られていたばかりに受身を取れなかったものの、慌ててその身体を支えるように伸ばされた魔物たちの腕によって倒れることはなかった。
 が。

『痛いわねン!もっと丁寧に扱いなさいよンッ』

 口喧しいディハールの厳しい声に怯えたように、人間の見張り兵たちは慌てて地下牢から姿を消した…と言うのも、この地下牢には魔族では第一の砦、人間たちは第五の砦と呼ぶその場所に張り巡らされた結界と同じように、魔族から力を奪う古の結界が張り巡らされているのだ。その中にあっても、元来は人間であるディハールは、特殊な刺青によって魔力を手に入れた経緯からか、その結界の効力が効いていないのだ。とすれば、最強を謳うディハールが、どうも何故かいきなり元気を取り戻しているのだから、たかが見張り兵如きでは太刀打ちできないのだから、さっさと逃げ出すことにしたのだろう。

『…ったくン、失礼しちゃうわねン』

 プリプリと腹を立てているシンナは、魔物の一匹が驚いたように目を見開いて自分をマジマジと見詰めているのに気付いた。いや、よくよく見れば、その場に居る全員が、信じられないものでも見るような目付きで凝視しているのだから、シンナが思わず噴出したとしても仕方ない。
 人間どもの曇った目は騙せても、流石に魔族たちは騙せなかったと言うことだ。

『なんてツラで見てるのよン?』

 両腕を戒めていた縄を、まるでナイフのような爪で切ってもらって、血の滲む手首を擦りながらニヤッと笑っておどけたように肩を竦めて軽口を叩くシンナの、闇の国に在って知らぬ者など居ないその声に、魔物たちの間でどよめくような歓声が上がった。

『…し、シンナ様!やっぱりシンナ様だッ』

『シンナ様ッッ』

 魔物たちは俄かに活気付いて喜んでシンナを見詰めていたが、ふと、すぐにみんなが目線を交えたのを彼らを統べる魔軍の副将が見逃すはずがない。

『なにン?どうしたのン??…ねぇ、光太郎は何処にいるのン』

 眉をソッと顰めたものの、ハッと気付いたようにシンナが周囲を見渡した。これだけの魔物の中に在っても、きっとこんな場合、誰よりも先にあの元気な人間は自分に駆け寄ってくるはずなのに…それを期待していたのに。
 期待外れは嫌な予感を呼び寄せる。

『し、シンナ様!光太郎はここにはいないでやすッ』

『もしかして…階上にいるのン?』

 切羽詰ったような仲間の声に、人間だから、光太郎はここではなく、奴隷として人間たちに扱き使われているのだろうか…そう考えただけで、シンナは目の奥が真っ赤になったような気がして、奥歯をギリッと噛み締めた。
 だが、魔軍の副将が思うほどに…物事の流れは複雑だった。

『シンナ様!こんなところに居てはダメっすよッ。光太郎はここにはいないんでやす!!』

『どうか、光太郎を助けてくださいッ!!!』

『俺たちじゃどうすることもできないんですッ!シンナ様、お願いしますッッ』

 まるで凄まじい形相をした魔物たちは、呆気に取られているシンナを鉄格子まで追い詰めるようにして詰め寄ると、まるで懇願するように口々に言い合うのだ。現実的に泣いている魔物もいて、シンナの胸に嫌な予感が浮かんでいた。

『何か…あったのねン?』

 それまで喧々囂々と言い募っていた魔物たちはふと静まると、お互いに目線を交えて、それから代表するように犬のような頭部を持つ魔物が進み出て、シンナの前に片膝を折るようにして、床に両の拳を突きながら顔を上げて言った。

『…光太郎は、その前の牢獄に入れられていました』

『…そうン』

 背後にある、今は無人の牢を肩越しに見遣って、その内部でどれほど辛く寂しい思いをしたんだろうと、想像するだけで脳みそが焼き切れそうな気がしたが、シンナはその怒りをグッと抑えて、何が起こったのか、どうしてこれほどまでに魔物たちが嘆き悲しんでいるのか、その理由を聞かねばならないと思っていた。それこそが、自分が犯してしまった過ちへの罪であり、罰なのだから…

『俺たちは尋問を受けてボコボコに殴られました…光太郎も、人間を裏切った裏切り者だと言って、酷く殴られていました』

『…ッ』

 シンナは言葉も出せずにグッと唇を噛み締めたが、頷いて、先を促すように琥珀色の双眸を向けた。

『それから…漸く、傷が癒えた晩でした』

 崇高なるディハールの一族であるシンナは、その瞬間、何故か猛烈な吐き気がして、耳の横の方でドクドクと煩いほど脈打つ音がして、目の前が真っ赤になってしまうような錯覚がした。だが、それは幻覚ではなく、確かにシンナの双眸は戦場に在るときのように、滴るような紅蓮に染め上がっていた。
 でも、そんな…いや、そんなはずはない。幾らなんでも、光太郎はまだ子供だし、何より人間なのだから私たち魔物のような扱いは受けるはずがない。
 シンナはそう思い込もうとした、思い込んで、大丈夫だと自分に言い聞かせながら笑うことに失敗した。
 その顔を、静かに涙を流している魔物たちが見詰めている。
 何時の間にか…誰もが黙り込み、そして、静かに泣いているのだ。
 魔族にはそれほどまでの悲しみはない。
 何か、大切なものを亡くす時だけに、魔族は悲しみに打ち震えて慟哭する。だが、今、目の前にいる魔物たちはどうだろう。
 声もなく、慟哭するでもなく、ただただ、どうすることもできなかった自分たちを戒めるように滔々と涙を零しているのだ。

『何が…あったのン?』

 がなり立てるように激しく脈打つ心臓の音が煩くて、噛み切れるほど唇を噛んでいるシンナは、自分の思い込みの甘さを痛いほど思い知ることになる。

『光太郎は…俺たちの大事な光太郎は、人間どもに犯されました』

 その瞬間だった。
 シンナの中の何かが弾け飛んで、茶色だった髪の色は燃えるように真っ赤になって逆立ち、その双眸も白目までが真っ赤に染め上がってしまっていた。ガシャンッと鉄格子を後ろ手に掴んで怒りを静めようとするシンナは、だが、先を促すように泣いている魔物どもを紅蓮の双眸に捉えて、刃のような牙の覗く唇を捲って、睨むように見据えた。

『光太郎は最初、必死で抵抗したんですッ。なのに、あの野郎ども…俺たちの命をたてにしやがってッ』

 そんなシンナの変貌ぶりに一瞬だけ怯んだ犬面の魔物は、それでも、この場で殺されてしまっても構わないとでも言うようにそう言って、悔しそうに地下牢の、土がむき出しの床に拳を撃ち付けて吐き出すようにして泣いていた。
 炎までも口から吐き出しそうなほど怒り狂っているシンナは、光太郎の優しさに付け入った人間どもを片っ端から血祭りに上げたいと心底思った。だが、それは、その場に居る魔物ども全ての願いでもあった。

『あの野郎ども…何人も何人も…容赦がなくて。最初、光太郎は死ぬんだと思っていたんですが、アイツは必死で我慢して生き抜いてくれました。シンナ様!どうか落ち着いてくださいッ。それでも、アイツは死にませんでした。今でもシュー様たちに逢いたいと、必死で頑張ってくれてますッッ』

 犬面の魔物は散々泣いた真っ赤な双眸を向けながら、しかし、ここで怒りに狂っても始まらないことを、既に学んでいるから、そんなことよりも大事なことがあるのだと必死でシンナの怒りを静めようとしていた。

『……そうン』

 戦闘部族であるディハールの相好は、既に怒りに打ち切れて戦闘態勢に入っているが、それでもシンナの心の何処かがホッと安心したようだった。
 どんなに汚されて、嘆き悲しむほどの辱めを受けたに違いないのに、それでも光太郎は自分たちに逢いたい…少なくとも、シューに逢いたいと、あの小さな身体で頑張っているのだろう。 

『それなら…大丈夫ン。光太郎は、きっと強いものン』

 それでも怒りの治まらないシンナの髪は逆立ち真っ赤なままだったが、掴んだ際に変形してしまった鉄格子から両手を離したシンナに、涙をグイッと腕で拭っている魔物たちは頷きながらすぐに口々に言ったのだ。

『ここの頭領の野郎が光太郎を、連れて行きやがったんですッ…しかし、その時、バッシュも一緒でして』

『バッシュ?!…あのドサクサでバッシュが来ていたのン?!』

 真っ赤だった双眸に、幾分か理性の光を取り戻したシンナが驚きに見開いた目を細めると、泣き腫らして散々計画を練っていたのか、白目を赤く充血させた魔物たちは力強く頷いた。
 大隊長のバッシュが居るのなら…シンナは幾分かホッとはしたものの、だが、この砦の地下牢に張られた結界を見る限りでは、バッシュとて自由の身…と言うワケではなさそうだ。

『ここから一緒に生きて出て、闇の国に帰ろうと…光太郎と約束したんですが、シンナ様が来て下さって本当に良かった』

 傷付いている魔物の1人が言うと、同じく腕を吊っている魔物が大きく頷いた。

『光太郎は連れて行かれる前に、俺たちのところに来たんでやんす。その時、自分は第五の砦に行く…と言ってやした!』

 出立の日に、光太郎はユリウスに頼み込んで仲間にお別れを言いに来ていた。
 その時はユリウスや護衛兵などに見守られていたので、口に出しては言えなかったが、バッシュから魔族は読唇術に優れていると聞いていたので、泣いているふりをして、光太郎は口パクで「俺たちは第五の砦に行くから」と短く伝えていたのだ。
 正体の知れない者が砦に近付いている、それが仲間なら、伝えて欲しいと考えたのだろう。そして、その光太郎の企みは、こうして実を結んだようだ。

『第五の砦ン…』

 それは人間たちがそう呼ぶ、魔族にとっては第一の砦のことだ。

『どうしてまた…光太郎はそんなところにン?』

『アッシたちも詳しくは判らねぇでやすが、あの暗黒騎士が連れて行ったんでやんす』

『暗黒騎士…?え、あの沈黙の主の片腕の…ってことはン、沈黙の主が来たと言うことなのン?!』

 魔物たちは確かに詳細なことは知らなかった。
 だが、セスに可愛い男娼を奪われた人間どもが、毎日愚痴を零しに来ていた時に、みんな同じ話をしていたことを、魔物たちは覚えていた。
 確かにセスは最初、光太郎を酷く抱いたらしいが、その後、何故か沈黙の主が来て、その時同行していた悪名高い暗黒騎士が光太郎に懸想し自分のモノにして連れ去った…らしいこと。そのことは、残念ながら別れに来た沈んだ顔をする光太郎を易々と抱き上げた態度から、魔物たちにも判っていた。
 不気味な暗黒騎士の腕の中、泣き出しそうな顔をする光太郎は最後まで自分たちを見てくれていた。だが、それを暗黒騎士は許さずに、光太郎をすっぽりと外套で隠してしまったのだ。その様子から、魔物たちは人間どもの言っていたことは、強ち嘘ではなかったのだと確信した。
 そして、その後、怒り狂ったセスが捕虜となっている自分たちを皆殺しにしようとしたのだが、またしても邪魔が入った…

『それが、あのエルローゼねン。ったく、この砦はどうなってるのン?』

 漸く、落ち着きを取り戻したシンナは全身の刺青を光らせて、剥がれていた化けの皮をもう一度被り直すと、茶髪に琥珀色の双眸と言う、ディハールに有り勝ちな風貌に戻ってから、呆気に取られたように腕を組んで唇を尖らせた。
 今の最大の問題はエルローゼだろうが、暗黒騎士はもっと厄介だろう。
 戦場で何度も対峙したが、その凄まじい殺気と気迫は、流石のシンナですら一瞬、尻込んで戦意を喪失しかかったことがあるぐらいなのだ。できれば、真っ向勝負は御免こうむりたい。
 だが、そうは問屋が卸してはくれないのだろう。
 光太郎の優しさと直向さ、そしてやわらかな心が、恐らく暗黒騎士の頑なな心までも蕩かしてしまったのか…

『罪作りねン』

 うんもう、と思わず溜め息を吐いて思い出す黒髪の少年の笑みは、シンナの心の奥深く、深淵に蹲る兇気すら穏やかに抱き締めて、何も心配いらないと包み込んでくれたのだから、人間の暗黒騎士が手離したくないと考えたとしても、それは無理もないことだとクスッと笑った。

『シンナ様…どうか、お早く光太郎を追ってくだせい!バッシュがお供にいますが、それでもラスタランに入られちまったら、バッシュの身もどうなることか…』

『どうか、シンナ様。お願いです、光太郎を、俺たちの光太郎を闇の国に取り戻してくださいッ』

 無理もないことだと笑ったが、だが勿論、こちらとて手離す気などさらさらない。
 切望するように口々に言い募る魔物たちの想いに、シンナはすぐに応えてやりたいと思っていた。自分ひとりでなら、こんな地下牢を脱出するのは何でもないことだ…だが、この人数を連れて行くとなると、問題は山のように発生するだろう。
 シンナの思いを誤ることなく受け止めた魔物たちは、すぐさま、魔物らしい明るい笑い声を上げた。

『何を悩んでお出でですか、シンナ様。あなたお独りでしたら、こんな地下牢、すぐにでも脱出できます』 

『俺たちのことは任せてくだせい!』

『光太郎は命懸けで俺たちを守ってくれた!今度は俺たちがそうする番だッ』

 そうだそうだと頷く魔物たちは、だが、その役目が自分たちにできないことは残念そうだったが、それでも命など惜しくないと、意気込んでシンナに注目した。件のシンナは顎を引いて、目線だけを上げて何事かを考えているようだったが、そんな連中に意味有りげにニヤッと笑うのだ。

『何を言ってるのよン、アンタたちはン。光太郎と約束したんでしょン?ここから生きて出るって…まぁ、一緒にってのは守れないけどねン』

 力強く笑うシンナの双眸に秘められた思惑に、魔物たちは困惑したように目線を交えて、それからソッと眉を寄せたようだった。
 光太郎にとって、魔城が、そして、シューが世界の全てだったに違いない。そんななか、見知らぬ人間に連れ去られ、ましてや行ったこともないラスタランになど、不安で不安で仕方ないだろうとシンナは唇を噛んだ。
 開いていた掌を震えるほど握り締めて、シンナは虚空を睨んでいた。
 あの輝くような笑顔は消えていないのか…それだけが唯一の希望だから、どうか待って
いて欲しいと思う。
 もう二度と、魔物たちの腕の中から出したりはしないから…魔城に閉じ込めて、もう二度と人間どもに傷付けさせたりしないから、だから、どうか…私たちが在る闇の国に戻って来てね、と、シンナは目蓋を閉じて願っていた。

第二部 9.紅蓮の焔 -永遠の闇の国の物語-

 約束の刻限が近付いて、光太郎たちの一行はゴクリと息を呑んだ。
 来た時と同じように漆黒の外套を纏っている黒騎士のユリウスを筆頭に、フードを目深に被っていて素性の判らない沈黙の主がその名の通り、沈黙して立っていた。
 馬を与えられたバッシュは幼いケルトを前に乗せると、傍らの馬にひらりと跨った、人間の支配する国で貴族の息子として育ったアリスの華麗な手綱捌きに、蜥蜴面では表情の読めないポーカーフェイスの眉をヒョイッと上げて見せた。
 彼らが逃げ出すことに懸念…するはずもないユリウスは、唯ひとり、傍にさえ在ればそれでいい、漆黒の髪を持つ少年の身体を軽々と抱き上げると、眉を寄せる光太郎は馬上の人となっていた。

(…シュー。俺、もっと遠くに行ってしまうよ)

 寂しくて、悲しくて…気付いたら鼻の奥がツンとして、泣きそうになっている自分に気付いて慌てて頭を左右に振った光太郎は、男は涙を易々と見せてはいけない、と言った獅子面の魔物の顔を思い浮かべて溜め息を吐いた。
 泣くわけにいかない。
 自分が決めたことなのだから、このまま永遠に離れることになったとしても…

(それは嫌だ。絶対に俺、あの懐かしい闇の国に戻ってみせる!)

 キュッと下唇を噛んで、強い表情で決意する光太郎を、愛馬の手綱を掴んでいるユリウスは、感情も何もかも全て吸い込んで、夥しい殺気しか纏っていない暗黒の鉄仮面の奥からひっそりと見下ろしていた。

(何を考えている。残す魔物の安否か…それとも、お前を救出すべく迫る魔物の安否か?)

 ユリウスは気付いていた。
 何もかも全て、この儚げな少年が必死で吐いた嘘など、地獄の底から甦らざるを得なかったユリウスには、造作もなく見抜ける可愛らしい嘘などお見通しだった。
 だが、それでも、腕のうちに抱いてしまったぬくもりを、今更失うつもりなどさらさらなかった。

「お前を、何者にも渡しはしない」

「…え?」

 ポツリと、自分を見下ろす鉄化面の向こう、くぐもった声音に小首を傾げて見上げてくる少年に、その直向な眼差しに、ユリウスの強張って固まってしまった心も、その殺意に揺らぐ双眸すら、ふと和んで、頬の緊張まで緩んでしまう。

「いや、気にするな」

 ふと笑うユリウスに、光太郎は不安そうに首を傾げたが、それでも小さく笑って「うん」と頷いた。

(ラスタランの都に入ってしまえば、魔物とて容易に手出しはできないだろう)

 そうすれば、ユリウスの杞憂は消えてしまう。いや、必ずしも消えると言うわけではないのだが、暫くは光太郎を手許において、崩れ去る世界の均衡と同じように、何れ手離してしまうだろう呪われたこの魂を今暫くは引き留めておけるだろう。

(だが…)

 今は容易には動けない。
 足手纏いを3人も抱え、ラスタランの希望である沈黙の主も同行する今、すぐさまラスタランの都に戻るには危険すぎるのだ。

「では、出立する」

 沈黙の主が厳かに、見送るもののいない砦を振り返ることもなく、彼は暗黒の馬に跨る最大の腹心に呟いた。
 時が来たと、光太郎はギュッと目蓋を閉じて、馬の鬣に噛り付いた。
 まだ、この場所は闇の国に近かった…漆黒の馬が嘶いて地面を掻くと、一行は初めはゆっくりと、次第に速度を増して暗黒の森を走り抜ける。
 遠くになる懐かしくて大好きなの国に、光太郎は心を引き千切られる想いで強制的に別れを告げねばならなかった。
 何度も泣きそうになって、それでも唇を噛んで心の痛みに耐えようとする健気な少年に、お供のバッシュはそっと眉を寄せていた。
 助けてやりたい、助けてやりたいのに、首を戒める忌々しい首輪が、バッシュから魔物としての魔力や力を奪い去ってしまっていた。

(流石に、オレひとりで得体の知れない沈黙の主は勿論、このユリウスとか言う男を相手するのはしんどいけどよ。光太郎を逃がすぐらいはできるのになぁ)

 力さえ戻れば…しかし、それはどうすることもできなかった。
 黙々と馬を駆る一行は、その日のうちに目指す第五の砦に到達することができた。
 砦…とは言っても、セスが護る第二の砦とは様相を大きく異ならせている。
 セスの砦が要塞とすれば、第五の砦は瀟洒な古城と言った趣だ。
 この砦の周辺には魔物を寄せ付けない結界が、高等神官たちによって張り巡らされていた。だから魔軍も怯んで襲うことはない。
 つまり、ユリウスが選んだ砦は、魔物にとっては難攻不落の難所だったのだ。
 唯一懸念されるバッシュは、今や死神にやんわりと首を掴まれているような首輪のおかげで、皮肉にも魔力も力も失っているせいか、その結界内に易々と入り込むことができた。だが、ひとたび、その首輪を外して真の力を取り戻してしまえば、結界の効力が発動し、その身体は粉微塵に吹っ飛んでしまうだろう。
 嘶く馬から降りたユリウスに抱えるようにして降ろしてもらった光太郎は、恭しく出迎えるこの砦を任されている初老の神官に、暗黒騎士と沈黙の主が何かを指示するなか、今来たばかりの道を途方に暮れたように見詰めていた。

(どこまで来てしまったんだろう)

 闇の国が支配する世界を、知っているようで、実は全然知らない、あの魔城の中が世界の全てだった光太郎には、ここが何処で、魔城との距離も、ラスタランとの距離もさっぱり判らなかった。

『光太郎、おい、大丈夫か?』

「あ、バッシュ。うん、ちょっとお尻が痛いけどね」

 アハハハッと笑ったら、蜥蜴面の魔物はホッとしたように吐息したようだ。

「なんだろね、あの人たち。すっごい飛ばしちゃって。見て、手に肉刺ができちゃった!」

 ブーッとぶーたれるように唇を尖らせた可愛らしいアリスが2人の間に割り込むようにして両手を広げると、バッシュはこの野郎とよく見ないと判らないのだが鼻に皺を寄せるたが、光太郎はビックリしたように真っ赤になっている手を覗き込んだ。

「うっわー…痛そうだな。後で手当てしてもらおうよ」

 ソッと眉を寄せる光太郎に、アリスはくすぐったいような気持ちになって、「え~、それほどでもないしぃ」と雪白の頬を染めて微笑んだ。
 具合の悪そうなケルトに気付いて、光太郎がその様子を見ようと上体を屈めたその時。

『!』

 不意にその身体は強い力で抱き上げられてしまった。

「わわ?!」

「何をしている?来るんだ」

 黒の篭手に覆われた掌で顎を掴まれ、腰を抱かれたまま驚いたように目を見開いた光太郎の双眸の先に、鉄化面の向こうに揺らめくようにして、滴る鮮血のような紅蓮の双眸が見詰め返していた。

「ゆ、ユリウス。う、うん、判った」

 素直に頷いたものの、ハタと気付いた光太郎は、紅蓮に燃えるような双眸を鉄仮面の向こうに見据えて、慌てたように口を開いた。

「ユリウス!ちょ、ちょっと待って」

「…どうした?」

 丁度目の高さまで降ろして抱え直すユリウスに、光太郎はその肩に手を添えながら首を傾げてみせた。その小動物のような仕種に、どれほど暗黒騎士の心が癒されているか、この場に居る誰しもが理解などしていないだろう。

「アリスが手を怪我しているんだ。それと、ケルトも具合が悪そうだし…できたら治療と、それから少し休みたいんだけど、ダメかな?」

「構わん。アリスとケルトは医務の神官に任せよう。魔隊長は…元気そうだがな」

 ユリウスは即答したが、チラッと鉄化面の奥から蜥蜴の親分を見ると、皮肉げな口調の語尾で笑った。

『ピンピンしてて悪かったな』

 バッシュが苛々したように腕を組んで顎を突き出すと、ユリウスは首を左右に振ってニヤッと笑ったようだ。

「そうでなくては困るだろ?お前は光太郎を護ると言う使命があるのだからな」

 バッシュはムッとしたように牙をむいたが、暗黒の騎士にとってそんなものは蚊でも止まった程度のどうでもいいことなのだ。

「では、入城するぞ」

 バタバタと砦から現れた神官の装束に身を包んだ少年たちが、ユリウスや沈黙の主、バッシュとアリスの馬を慌てたように砦の内部に設置されている厩に引き連れて行ってしまった。

(へー、この砦はまるでお城みたいなんだな)

 ユリウスに抱き上げられたまま、彼の肩に手を添えてキョロキョロと潜り抜ける砦を興味津々の眼差しで見渡す光太郎は、その造りに驚いているようだった。
 ともすれば小さな城のような建造物は、ぐるりと城壁に囲まれて、唯一の出入り口は今し方後にした城門しかないようだ。

(攻め込まれたら終わりっぽいけど…)

「この砦には結界が張ってある。易々と攻め込めまいよ」

 光太郎の考えなど見通しているのか、ドキッとしたように見詰めてくる光太郎の顔を、鉄仮面の向こうからユリウスは紅蓮の双眸を細めて見返した。
 これだけ感情が読み取れてしまう少年なのだ、苦い嘘の匂いも嗅ぎ分けたのだが…不思議と怒る気がしないのは、ソッと肩に添えられた掌のぬくもりが、心の奥底にポッカリと口を開いた、底知れぬどす黒い闇に穏やかなぬくもりを与えているからなのか。

「そ、そうなんだ。あれ?でも結界って…」

 そこまで呟いた時、前を行く沈黙の主に、先ほど出迎えた初老の神官が恭しく頭を垂れて口上を述べた。

「沈黙の主よ、よくぞご無事で参られました。伝達を受けた際には御身を案じるあまり…」

「下手な口上は良い。ディリアス、それよりも戦況はどうだ?」

 長身の沈黙の主がサッと片手を上げて疎ましげに制すると、ディリアスと呼ばれた神官はハハッと畏まって組んだ腕を上げるようにして頭を下げた。

「戦況は芳しくはありませぬが、何分、黎明の期に入りますれば、魔物どもの動向も今暫くは落ち着くかと…」

「なるほど!一進一退に変わらんと言うことか」

 低い声で唸るように呟いた沈黙の主は、フード付きの漆黒の外套の裾を翻して、うんざりしたように歩調を速めて城内に姿を消してしまった。

「ひぃ!」

「あわわわッッ?!」

 光太郎が訝しそうに眉を顰めて沈黙の主の背中を見送っていると、不意に背後から悲痛な声が上がって、驚いたようにユリウスの肩から身を乗り出すようにして少年は背後を振り返った。振り返ったその先には、普段は魔物など見たこともないのだろう、長旅に草臥れているだろう沈黙の主の腹心にして暗黒騎士の身の回りの世話にと恭しく馳せ参じた神官たちが、バッシュを見て悲鳴を上げたのだ。

「失礼しちゃうなぁ。バッシュはこう見えても、ちっともおっかなくないのにさッ」

 思わず神にその身を捧げた神官ですら頬を染めてしまうほど、愛らしく可憐なアリスが腰に手を当てて唇を尖らせると、件の蜥蜴の親分のような魔物はやれやれと溜め息を吐いた。

『お前だけだ。んなこと言うのは、絶対に!お前だけだ』

 こん畜生とバッシュが思っているのが手に取るようによく判るから、さらにアリスは増長して胸まで張って顎を突き出した。

「僕みたいなカッワイイ子に手も出せないんだから、神官さまなんて食べたりしないでショ」

『~お前なぁ』

 首を戒めるこの忌々しい首輪さえなければ、今すぐアリスなど片手で絞め殺してやるものを…と、バッシュが思っているかどうかは謎だったが、常にポーカーフェイスであるはずの蜥蜴面は、アリスを前にすると自慢の無表情も功を奏さなくなってしまう。
 歯噛みするバッシュに向かって、光太郎は思わずプッと噴出して、ケラケラと笑ってしまった。

「バカなことばっかり言ってたら、ケルトに笑われるって」

 バッシュたちの傍らで青い顔をしてはいるものの、困ったように眉を寄せている小さな少年は、そんな風に光太郎に振られてしまって、さらに困惑したような顔をしてしまう。

『…ケルトをなぁ、困らせるワケにはいかん』

 フンッと鼻を鳴らして外方向くバッシュに、アリスがムゥッと眉を寄せたその時だった。
 ふと、苦笑が漏れたのは。
 思わずバッシュたちが振り返ると、光太郎を抱き上げたままのユリウスが肩越しにチラリと見遣って、苦笑していたのだ。
 冷たい鉄仮面は一見すると紅蓮の双眸しか覗かないためか、重々しい威圧感と殺気と、人間らしい感情などは皆無で、恐ろしさしか印象を与えないのだが、今のユリウスは仕方ない連中だとでも思っているのか、鮮血の滴るような紅蓮の双眸を細めて笑っているように見えるのだ。
 だからこそ、仮面の持つ、物言わぬ威圧が今は薄らいで、バッシュたちはバカ話に花を咲かせることもできたのだろうが…

「この砦にも、そう長くは留まらん。無駄口を叩かずに部屋に行け」

 口調は然程不機嫌でもなく、あれほど魔物を憎悪し、寄らばその腰に下げた剣の露にしていたにも拘らず、その気配は鳴りを潜め、国に待つ部下が見れば驚きに卒倒するほど、暗黒の騎士は穏やかに命じたのだ。

『あー、そうだな。こんなことしてても疲れは取れねぇ。行くぞ、アリス、ケルト』

「そーだ、ケルト具合が悪いんだったっけ?神官さま、僕たちの部屋ってどこなの~?」

 漸くハッと我に返ったバッシュは、剣呑に頷いて、苛々したように言ったが、まるきり無視のアリスが具合の悪そうな青い顔をしたケルトを気遣いながら、今でも怯えている神官たちに花が綻ぶように笑って小首を傾げた。
 だいたい、こうすればどんな頑なな心の持ち主でも、頬を緩めて大概の我侭は聞いてくれる。
 アリスが取得している処世術だ。
 そんな連中を見ていた光太郎は、抑えきれないようにうぷぷぷっと笑っている。
 ビクビクと怯えている神官たちに促されて、やれやれと肩を叩くアリスと、腰を拳で叩いているバッシュ、その蜥蜴の親分の甲冑のうえから纏った外套を確り掴んでいるが具合の悪そうなケルトがぞろぞろとついて城内に入ってしまうのを、矢張り光太郎を抱えたままの暗黒騎士は見送るままで行動を起こそうとしない。
 目許に涙を浮かべて、久し振りに笑っていた光太郎は、ふと、そんなユリウスの態度を怪訝に思ったのか、訝しそうに首を傾げて見下ろした。

「!」

 思わずハッとしたのは、笑っている光太郎の顔を、ユリウスの紅蓮の双眸がじっと見詰めていたのだ。

「な、なんだよ?」

「オレに捕らえられてから、その様な顔を見るのは初めてだからな」

 ふと呟くように言われて、光太郎はキョトンッとしてしまった。

「あれ?そうかな…俺、バッシュたちといるといつも笑ってるような気がするんだけど」

 アリスが加わってからと言うもの、確かによく笑うようになったよなぁ…と光太郎は考えたが、だが、矢張り闇の国から遠いところに来てしまった不安から、いや、それ以前に、目の前に居るこの魔族にとって脅威でしかない暗黒騎士に対して警戒していないと言えば嘘になってしまう。
 だからこそ、彼の前で笑うことは殆どなかったのではないかと合点がいった。

「それは、その…仕方ないと思うんだ。俺にとっては故郷みたいに大切な場所だから。その場所から遠いところに来たのに、笑ってなんかいられないよ」

 それは尤もな理由だったし、光太郎の場合、問答無用の理不尽な強引さで連れて来られてしまったのだ。不安を感じてソッと眉を顰めたとしても、ユリウスが腹立たしく思うのは筋違いと言うものだ。
 何より、だからと言ってユリウスが腹を立てているのかと言えば、けしてそうではなかった。
 今の言葉は切々として、本心から出た本音だと逸早く気付いていたからだ。

「だが、お前は笑え」

「…」

 悲しそうに眉を顰めて見下ろす光太郎の頬に、暗黒の篭手を嵌めた手の甲を当てて、僅かに覗く紅蓮の双眸を細めたユリウスは言った。

「お前は今後、ラスタランにその身を置くことになる。オレの傍で、お前は寵姫として傍に仕えるのだ」

 ユリウスの声音は低かったが、そこには絶対的な支配を意味する腹の底が痺れるような威圧を含んでいるようだった。
 光太郎は溜め息を吐いた。

「チョウキ…ってなんだよ?アンタの言ってることって、たまに判らないんだよなぁ」

 何か重要な言葉であることは確かなのだが、その前の、ユリウスの言った「ラスタランにその身を置くことになる」の台詞に、果てしなく落ち込みそうになっていた光太郎の、それは精一杯の強がりだった。
 それが判っているのかいないのか、ユリウスは真摯な双眸をフッと緩めて、手の甲で撫でていた頬から手を離し、改めてその頤を掴んで不安に揺れる顔を覗き込んだ。

「オレの傍で笑い、その顔をオレにだけ向けておかなければならない…と言うことだ」

「んな、無茶な」

 何を言ってんだか…と、光太郎は頬の緊張をちょっと緩めて、思わずクスッと笑ってしまった。
 たとえラスタランに行っても闇の国を思う心…いや、獅子面の魔将軍であるシューを想う心はけして忘れないだろう。そんな自分がユリウスに微笑みかけない…と言うワケはないだろうが、ユリウスにだけ見せるなんて器用な芸当はできないと言うのが、率直な気持ちだ。
 たとえ、敵軍にある最強の敵だったとしても、傷付いたアリスやケルト、ましてやバッシュを気遣うこの男を、光太郎は内心では嫌いになれないでいた。
 だから、笑えと言えば笑うのだろうが、自分だけにしろと言うのは無茶な命令だと思った。

「ユリウスも面白いこと言うよなー、そんなのできるワケないだろ?」

 ケタケタと笑う光太郎を、どこか眩しそうに見詰めていたユリウスは、目蓋を閉じてフッと笑ったが、それ以上は何も言わなかった。
 仕方なく抱き上げられたままだとは言えクスクス笑う光太郎は気付かなかった。
 自分を抱えた男がその腕に力を込め、漆黒の鉄化面の奥で、滴るように濡れる紅蓮の双眸を細めて嗤ったことを。
 たとえ、光太郎が泣き喚いて懇願したとしても、ラスタランに足を踏み入れたその瞬間から、その身体も心も何もかも全てに自由など与えはしないと、仄暗く揺れる欲望と強い意志を秘めた紅蓮の双眸の奥で、チカリと瞬く不吉な光の存在に…

第二部 8.時空の木霊  -永遠の闇の国の物語-

 魔天に閃く雷光は、雨の気配さえないのに天上の怒りを具現化したように雷鳴を轟かせていた。
 耳を劈く女の悲鳴のような響きすら、此の世を統べる者にとっては何の慰めにもなっていない。
 魔王は瞼を閉じている。
 豊かな漆黒の髪が気だるげに頬に落ち、憂鬱な陰を落としていた。
 彼は夢想する。
 一度はこの手に堕ちた力の源であるはずの人間を、世界の全てを奪った者が連れ去った事実。
 だが、その無垢なる魂を、誰よりも案じている忠実な己の部下の憔悴した顔。
 魔獣と成り果ててもなお、高潔な魂の持ち主である彼は、やはり、純粋で無垢な魂に惹かれてしまうのだろうか。

『それが全ての過ちとも知らず』

 魔王の酷薄そうな薄い唇から、ふと、冷たい冷気を伴う言葉がポツリと零れる。
 瞼を閉じたまま、魔王は未だ夢想の中で旅を続ける。
 森を駆け抜ける忠誠を誓った小さな身体は、降り出している雨に濡れ、何処か虚ろな影が雷鳴に浮かび上がっては消えていく。
 瞳を真っ赤に染め上げて、降り頻る雨の雫なのか、それとも、暖かなぬくもりを持つ涙なのか、頬を濡らす雫に気付きもしない魔物の存在に、魔王は口許を歪めて微笑む。
 場面は一転して闇の中。
 魔王は夢想の中で立ち竦む。

『…なるほど』

 やはり、瞼を閉じたままの魔王の口許から、冷たいブリザードのように冷徹な声音が零れ落ちた。
 いきとし生ける者が耳にすれば、血潮が廻る熱い鼓動すらも瞬時に凍り付いてしまうほど、彼の声音は冷ややかで、そして冷淡だった。
 慣れ親しんだ闇の中、その無音の空間の中で魔王は、美しすぎる貌に微笑を浮かべた。
 奪われた無垢なる魂の白い輝きを求めて思考を巡らすも、結局、この闇の中でその手掛かりすらも消え去ってしまうのだ。
 彼を奪った者は、恐らく、魔王と同じ種族に属するものか、或いは、同等の力を秘めているのだろう。
 魔王と同等の力を秘めたる者を、彼は未だ嘗て、1人しか知らない。
 その者は、本来有るべく力の存在すらも気付かずに、淡々と闇の国で生きている…はずである。

『やはり、そうか』

 最大の脅威は取り除いたと思っていたのだが…魔王は嗤う。
 閉じていた瞼をゆっくりと開き、暗い恨みを宿した紫紺の双眸を瞬かせて、魔王は嗤う。
 そうでなければ、何もかもが色のない無意味なものに堕ちるのだから。

『沈黙の主よ、其方か』

 だからこそ…と、魔王は愉しげに嗤う。
 だからこそ、嬲り甲斐があるのだと。
 魔王は暗黒の氣を全身に纏いながら、地獄の底よりも冷たく暗澹たる殺意を孕んだ紫紺の双眸で、外界に開けたバルコニーから暗雲が覆い尽くした世界を睨み据えていた。

Ψ

 一旦、後宮に引き下がったものの、やはり何処か判然としない面持ちで眉間に皺を寄せる光太郎に気付いて、アリスが訝しげに首を傾げた。

「光太郎ってば、どうしたのさ?眉間に皺が寄ってるゾ」

 眉間を軽く指先で弾かれて、アイタッとおどけてみせた光太郎だったが、エヘヘッと笑って弾かれた場所を擦りながらも、やはり浮かない顔で一同を見渡した。
 光太郎に与えられた部屋…ではなく、漆黒騎士であるユリウスに宛がわれた部屋に揃った、魔軍の大隊長のバッシュ、元男娼で今はお付きの従者に昇格したアリスとケルトが、そんな光太郎に注目する。

「あのさ、ちょっとヘンだと思わないかい」

「え?何がですか??」

 ケルトがキョトンと小首を傾げると、アリスも訝しそうに眉を顰める。
 だが、魔軍の大隊長であるバッシュだけが、そんな光太郎に腕を組んで片目を閉じて見せた。

『やっぱ、気付いたか』

 その仕種から、どうやらバッシュは光太郎が何を言いたいのか気付いたようだった。

「え?なになに??バッシュには判っちゃったの?う~、それって超ムカツクんですけどぉ」

 『なんで俺が気付いたらお前がムカツクんだよ』と、バッシュが傍らで可愛らしい唇を尖らせている、小生意気な人間にうんざりしていると、彼らの主である光太郎が神妙な面持ちで頷いた。

「なぜ、ユリウスは俺たちに嘘を言ったんだろう」

 その台詞に、事態を飲み込めていないケルトが困惑したように眉を顰めた。
 アリスですら、物分りの良い魔獣にムカムカしながらも、やはりその台詞には困惑したように顔色を曇らせている。

『俺たちは第五の砦だとハッキリ聞いたのにな。何故、ラスタランの城に戻るなんて言ったんだろうな』

「第五の砦って、やっぱり城のことじゃないんだよね?」

 バッシュに確認するように聞くと、蜥蜴の親分のような魔物は頷いた。

「あの場に俺たちがいたことに気付いたんだから、俺たちが話の内容を聞いていたと判ってるはずなのに、何故嘘なんか言ったんだろう」

『まさか、本気であの言い訳を信じた…ってワケじゃなさそーだしな』

 バッシュがうんざりしたように笑いながら片目を瞑ると、やはり、神妙な面持ちのままで光太郎は頷いた。

「あのユリウスは、抜け目のない人だと思うんだ。だからこそ、俺はあの嘘が気になって仕方ないんだよ」

 しょんぼりと俯く光太郎に、アリスは困惑した顔のままで首を傾げた。
 それから、何かに閃いたように頤に当てていた指先で光太郎を指差すのだ。

「あの場にいた、誰かを警戒したとか?」

『はぁ?…なんだよ、あの場って言ったら胸糞悪いセスだろ?それに俺とお前とケルトに光太郎じゃねーか。警戒するも何も、みんな関係者だぞ。意味ねーだろ』

 バーカと言って頭を叩かれたアリスは、ムキッと腹を立てて思い切り魔物の尻にキックを喰らわせた。

 思わずバッシュが『イテッ』と声を出すと、してやったりのアリスがにんまり笑うその傍らで、考え込んでいたケルトがおずおずと口を開く。

「もしかしたら…本当はラスタランの城に戻ると言っておいて、やっぱり第五の砦に行くってことじゃないですか?もしかすると、その反対かもしれないですけど…」

「なるほど、撹乱するってことか。でも、どうして俺たちにそんなことするんだろう」

 ケルトの話に頷いていた光太郎は、それでも、やはり何か腑に落ちない顔をして首を傾げてしまう。

『まあ、何れにせよ。蛇が出るかジャが出るかってなモンだろ』

「そうそう。どちらにしても、何処に連れて行かれるのか判らないのは変わりないワケでショ。だったら、逃げ出すのは今しかないってことじゃない?」

 組んでいた腕を解いて腰に当てたバッシュがやれやれと呟くと、肩を竦めるアリスがそれに同意したように頷いて口を挟んだ。
 それを聞いて、光太郎は唇を噛んだ。
 その仕種に、ケルトが少し驚いたように眉を顰めるから、光太郎は慌てて不審そうな顔付きをする3人に首を振って両手を挙げた。

「いや、違うんだよ。バッシュやアリスが言ってることは尤もなんだよね。でも、今度逃げ出してるのが見付かったら命の保障がないんだ」

 それは、恐らくバッシュもアリスもケルトも、みんな三者三様、同じようなことは考えていたに違いない。だが、光太郎の心を慮って、殺されても彼をこの砦から逃がしたいと言う信念が、その言葉を言わせなかったのだ。

「俺は…死んでもシューに逢いたいって思ってる。もしかしたら、ここに向かってくれているのがシューだとしたら、俺は…やっぱり逃げ出してシューに逢いたいんだよ」

 その気持ちは痛いほど判る。
 自分たちの命を救おうとしてくれている、いや事実、男娼などと言う穢れた身分から解放してくれた光太郎の、それは唯一の弱音だから、バッシュもアリスもケルトも、言葉を失くして小さな人間の少年を見詰めていた。

「でも…俺はそれは違うと思うんだ」

 ポツリと光太郎が呟いた。
 その意味が判らなくて、首を傾げるバッシュと、顔を見合わせるアリスとケルトを、顔を上げた光太郎は見詰めながら笑って頷くのだ。

「うん、やっぱり違うよ。だってさ、ここで逃げ出したら、逢う前に殺されてしまうかもしれないだろ?それだと、今までの努力が水の泡になってしまうと思うんだ」

 ポロッと頬に一粒の雫が零れ落ちたが、それでも光太郎は泣き言を言わない。
 それは揺ぎ無い、光太郎の決意なのだ。

「捕虜は少なければ少ない方がいい。シューには、取り残されてしまうここの地下牢の魔物たちを救い出して欲しい」

 そこで漸く、バッシュはハッとした。
 恐らく、暗黒騎士であるユリウスと沈黙の主が砦を後にすれば、真っ先にセスの怒りの矛先は地下牢の囚われの魔物たちに向くだろうと言うことに、光太郎は気付いたのだ。
 あれほど、無茶をしてでも逃げ出そうとしていた光太郎が、ここにきて、いきなり逃げないと宣言したその理由を知ってしまったバッシュは、ふと目線を伏せてしまう。
 この優しさが、バッシュには不思議で仕方なかった。
 だが、だからこそ、自分の命を預けてもいいと思ったのも事実である。
 生れ落ちたときはまだ平和で、それでも、誰かのために何かをするだとか、自分の為に何かをしてくれる人だとか、そんな奇特な者は1人としていなかった。
 平和な時ですらそうだったのだから、戦況の激しい今この時に、心を砕いてくれる者などいるはずもない。
 なのに、光太郎は違うのだ。
 ただ、『仲間』の為だけに心を砕いて命すら賭けてくれる光太郎の存在は、魔物の荒んだ心に射し込むやわらかな光だった。

(おかしなもんだ。魔物に光だなんて…)

 それでも、このあたたかな光を護る為ならば、やはり自分は、今の光太郎のように心を砕くのだろう。

『第五の砦だろうがラスタランの本拠地だろうが、何処へだってついて行くさ。嫌だって言われてもな。勿論だ!』

 光太郎の心に気付いたバッシュの態度は、それでも殊の外明るく、鎧に隠した鱗に覆われた胸板をドンッと拳で叩きながらウィンクなどしてくれる。

「バッシュ…ありがとう」

 嬉しそうに笑う光太郎に、慌てたようにアリスとケルトもそれに参戦する。
 魔物の安否を気遣う習性のないアリスとケルトにとって、魔物に対する光太郎の優しさの意味を理解するには時間が必要だった。しかし、光太郎が何を決意したのかは良く理解できた2人だ、自己犠牲の精神は有り得ないとさえ思っていたのだが、今の光太郎を見ていると胸が痛くなるほど協力したくて堪らなくなる。
 だからこそ、両の拳を握って頷くのだ。

「僕だって、光太郎について行くつもりだし!」

「はい、僕も」

 何処へだって、光太郎となら怖くないと2人の眼差しが訴えている。
 3人の力強い仲間を得て、光太郎は心の底から「ありがとう」と呟いた。

Ψ

 魔物すら恐れる闇の国の魔将軍は戻らない小さな少年を想って、己が主の支配する魔城の空中庭園から眼下を見下ろして溜め息を吐いていた。
 威風堂々とした雄々しい魔将軍には似つかわしくない態度ではあったが、見回りの衛兵がその姿を見咎めたとしても、何も言わずにソッと姿を隠してしまった。
 魔物たちは誰もが魔将軍の不機嫌の理由を理解していた。
 彼らだって、少年の不在に心が塞ぎ込んでしまっているのだし、何より不安でもあった。
 この空中庭園で、彼は養い子を亡くしていた。
 あれ以来、訪れることもなかったのは、しつこく付き纏う光太郎の存在が、彼の心を癒していたからだ。
 本人がいれば、たとえ口が裂けてでもけして言うことなどないだろうが、今はその少年がいないのだ。

(あいつ、無鉄砲なヤツだからな。無茶をしていなければいいんだが…)

 何度目かの溜め息が零れたとき、同じく魔将軍の地位にある旧知の友が声を掛けた。

『また此処か。辛気臭い顔をしておるではないか。シューらしくもない』

 最近、顔色の悪い友は、何処か草臥れたような表情をして溜め息を吐いた。

『ゼィか…鬱陶しいんなら放っとけよ』

 獅子の頭部を持つ魔獣の将軍は、ギロリと、闇の国にあってもハッとするほど美しい顔をしている、底知れぬ魔力を持つ友を目線だけで見下ろした。
 腰に両手を当てて、クックックッと嗤うゼィは、仕方なさそうに首を左右に振る。

『まぁ…同じく塞ぎ込んでいる私に言われたところで、少しも応えなどするまいよ』

『…まだ、戻らないのか?』

 それは、ゼィが心から信頼を寄せている、そして愛している者を心配する傍ら、副将軍の地位にあるその者の吉報を心待ちにしているシューにとって、落胆を隠せない問い掛けだった。

『今は待つしかあるまい』

 見事な柳眉の下、キリリとした双眸で暗夜を切り裂く雷光を睨み据えるゼィを目線だけで見下ろしていたシューは、やはり同じ痛みを持つ仲間の気持ちを痛いほど感じて、無言のまま目線を戻した。
 眼下から、遠くへ。
 もしかしたら、この闇しかない世界の何処かに囚われてしまった、大事な存在の気配を感じ取ろうとでもしたのか、シューは寂しげにピンッと伸びている髭を震わせた。
 見事な鬣が吹き抜けていく風に煽られて逆立つが、雄々しい魔将軍はらしくもない表情を獅子の面に張り付かせて、そうして、遠くを眺めている。
 光太郎がいなくなってから、彼がよく浮かべるようになった表情だ。
 寂しそうな、腹立たしそうな、見る者を遣る瀬無い気持ちにさせてしまう、複雑な表情を一言で表すとするならば…

(恐らく切ないのであろうな。シューらしくもない…いや、シューだからこそ持ち得る感情なのか)

 ゼィは睨んでいた虚空からふと目線を伏せて、傍らで無言のまま遠くを見詰め続ける古くからの友人のその態度を、寂しそうにソッと目線だけで見詰めていた。
 自分でさえ、シンナの不在をこれほど不安に思っているのだ。
 傍に在れば在るほど、その不在に対する不安は色濃く形作られ、その想いに慣れ親しんでいる自分でさえも耐えられないと感じているのに、そんな感情などとうの昔に忘れてしまったシューには衝撃的で、不安で不安で居てもたっても居られないのではないかと思っていた。
 だが、シューは殊の外冷静で、淡々と日々の仕事をこなしていた。
 しかし、時折ふと、何処かにその姿を隠してしまうことにゼィは気付き、そして今日、その姿を見つけたのだ。

(シューだからこそ、耐えておるのだな)

 この場所は魔獣のシューにとって神聖な場所なのだろう。
 彼はここにいる時だけ、本来の彼の姿に戻るのだ。
 仮面のように獅子面に感情を隠す、喜怒哀楽も冗談のように浮かべて肩を竦める友は、今この時、寂しいと全身で物語っている。
 あの小さな少年は、不思議なほどシューを怖がることもなく、大好きだと憚ることもなくべったりとくっ付いていた。その存在を鬱陶しそうにしながらも、心の何処かで受け入れていたのだろう、魔獣の心の微妙な変化に、それでもゼィは口許を綻ばせた。

(それでいい。シューよ、だからこそ、我らは強くなるのだ)

 瘴気を孕んだ不吉な風に青紫の風変わりな色合いを持つ髪を遊ばせて、ゼィは目線を伏せた。
 眼下に広がる無限の闇のような魔の森は、心に開いた穴のように、ポッカリと虚ろに凄惨な姿を晒している。この広い闇の世界の何処にいても、お互いを信じる心さえあるのなら、魔物たちは生きていけるのかもしれない。
 そんな途方もない夢物語に期待しながら、諦めたように溜め息を吐くゼィは気付かなかった。
 シューの双眸が寂しがって落ち込んでいるのではないことに。
 燃え滾る憎悪と、危険な気配を孕んで、いっそ世界など破滅してしまえとまるで呪詛するように睨み付けている事実に。
 できるなら…と、シューはうっそりと歯噛みする。
 今すぐ飛び出して、光太郎を攫ってしまった愚かな人間に、もう殺してくれと叫びだすまで、いや叫んだとしても、生きることを恨めしく思うほどの苦痛を味わわせてやりたいと思っていた。
 たとえ舌を食い千切って自ら自害したとしても、その息の根は止めず、じわじわと死ぬ恐怖と苦痛を味わわせてやるものを…
 拳が震えるほど握り締めた掌から、ポタッと雫が零れ落ちる。
 魔物であったとしても、零れ落ちる赤い液体に、ゼィはとうとう気付かなかった。

第二部 7.惑う蝶の夢  -永遠の闇の国の物語-

 ゆらゆらと揺らめくオレンジの灯火が作り出す陰影に、誘われるように吸い寄せられた小さな蛾が、その翅に炎を燈してジジジ…ッと燃えながらポトリと落ちてしまった。
 その儚げな姿に双眸を細めていたユリウスは、眉間に皺を寄せて、見るからに不機嫌そうに歯軋りしているのだろう、自らの主に目線を移すと事の成り行きを今一度確認した。
 遠い昔から密談に使用されていたらしい狭い広間は、黒天鵝絨に全面の壁を覆われ、入り込むべき入り口すらも、内からも外からも見つかり難い仕様になっているようだ。なぜならそれは、この部屋のいたるところに秘密の通路が隠されてあるからに違いない。
 ユリウスはひっそりと値踏みし、殊の外落ち着いた仕種で鼻に皺を寄せたようだ。

(なるほど、これならば少々の声も外には漏れぬだろうよ)

 驚くほど厳重な設備は、現在、沈黙の主の居城となっている朽ち掛けたラスタランの城よりも上等で、戦場で魔物どもに皆殺しの番人と恐れられているユリウスは、その完全に外界から遮断するような鉄仮面の裏に感情をひっそりと隠すと、忌々しそうにニヤッと口許を歪めた。

(…何時の間にこれだけの改修をしたのか。はてさて愚問だが、この豪奢たる砦で何を企む?)

 忌々しそうに舌打ちする沈黙の主の傍ら、本来ならば影のように自分が寄り添っているはずの場所にのうのうと陣取って、さも真摯に眉を寄せているセスを見詰めながら、それでもユリウスの感情が揺れることはない。
 鉄仮面は、彼を不利にもすれば、時に絶大な効果で有利にすることもある。
 いつもながら、どこに在っても物言わぬ影のようにひっそりと佇んでいる漆黒の騎士に、絶対的な信頼を寄せる自らの家臣に、沈黙の主は目深に被ったフードの奥からキラリと光る双眸で胡乱気に呟いた。

「どう思う、ユリウス」

「…何れにせよ、城に戻るべきです」

「矢張りな…判ってはいるんだが。ったく、厄介なことだ」

 伝令の報せによれば、沈黙の主がラスタランの都をコソリと抜け出した深夜、魔物どもの動向にも変化があったようだ。どうやら、何かを求めている一団が、夜の闇に乗じて行動を起こしたらしい…その数や、誰が率いているのかまでは判らないが、猛然とこの第二の砦に迫っていると言う。

(まあ、この砦のこと。難攻不落とまでは言わずとも、暫くは持つだろうが…主を留め置くわけにもいくまい)

 どうせ、風変わりな人間を見定めてからすぐにでも出立する予定だったのだ。

 ユリウスはたとえこの砦の戦士たちを総動員したとしても、闇夜に暗躍する数も武力も想像の域を出ない敵の手によって、おめおめと沈黙の主を急場に追い込むなどとはこれっぽっちも考えることすらしなかった。
却って派手に動けばそれだけ闇に慣れている魔物に気付かれてしまうだろう、それならばいっそ、少人数で砦を離脱し、第五の砦まで一気に駆けて夜明けを待った方がいいのではないか…ユリウスの思惑は即ち実行で、こうなってしまったら彼の言葉は主の言葉になる、と言うことを、ラスタランに従軍する者たちが知らないことはない。
 もちろん、傍らで様子を伺うセスも然り…なのだが。

「ユリウス、仕方ない。お前のプランを聞こう」

「…ハッ」

 冷たい鉄仮面の奥の紅蓮の双眸を細めて頭を垂れる黒甲冑の騎士に、セスは忌々しげな視線をコソリと向けていた。
 もう間もなく、あの方がお出ましになると言うのに…どこに密偵が潜んでいたのか、早馬の伝令は驚くほどの的確さで事態を主に告げやがったのだ。
 セスにしては面白くない。

(…何が魔物だ。魔物のような低級な連中がこの砦のことに気付くはずがねぇだろーが。それに、シンナが護っていたとは言え、あんなたかがガキ1匹に、魔物が躍起になるワケねぇっての!…恐らくあのお方の手の者がこの砦に向かっておられるのだろう。チッ、万事休すってヤツだッッ)

 ユリウスの低い声音が淡々と計画を話す傍らで、セスが溜め息を吐いていた。
 何もかもが巧くいく、もちろん、そんなワケがないことを知らないセスでもない。
 これから蛻の殻になってしまった砦の中に、あの方の手の者を導きながら…はてさて、どの様な言い訳を試みようかと、セスの心はどんよりと曇っていた。

Ψ

「…」

 第三の広間は外からでは容易に出入り口を見つけ出すことのできない仕様になっているらしく、だが、それ故の隠し通路のようなものも幾つかあった。
 本来なら密談に使用されるべき場所であるのだから、何時誰が攻め込んできてもいいように、縦横無尽に逃げ出すための秘密の通路が隠されているカラクリ部屋のような場所である。
 と、光太郎はアリスに説明を受けていた。
 その存在こそ知ってはいたものの、そんな仕組みになっているなどとはこれっぽっちも知らなかったケルトは目をまん丸にして驚いて聞いている。その傍らで、魔軍の大隊長であるバッシュも興味深そうに耳を傾けていた。
 それは丁度、早馬の伝令が居合わせている沈黙の主、漆黒の黒騎士、セスに向かって伝達を伝えている最中の出来事である。
 だからこそ、ヒソヒソコソコソと話をしている3人を無視して、光太郎は秘密の通路から覗き見ることのできる室内を見渡しながら、呆然と双眸を見開いていた。

(誰かが…この砦に向かってるだって?それって…それってまさか)

 胸がドキンッと高鳴って、思わずハッと我に返ってしまう。
 誰もいなければきっと、高鳴る心臓の辺りをギュッと掴みながら、そうであって欲しいと必死に願って座り込んでしまっていただろう。
 シューであってくれたらいいのに。
 この砦に猛然と向かっているその魔物が、どうか、シューであってくれたらいいのに。
 声に出すことなど勿論できないでいる光太郎の気持ちを知っているのか、バッシュは動揺したように落ち着かない光太郎の肩を、突然乱暴にグイッと抱いて引き寄せると、色気のない黒髪に鱗に覆われた頬を寄せながらぶっきら棒に言うのだ。

『ほらな?大丈夫だって言っただろ。きっと、シュー様が迎えに来て下さるんだ』

「…そうであって欲しいって、思っちゃってるんだよね。ハハハ…危険だって判ってるのに」

 面白くもないのに態と笑う光太郎の声は何処か虚ろで、それから引き攣ったように痛々しかった。
 逢いたい想いと、逢いたくないと言う隠せない感情。
 その、まだ幼い少年の身体の中で渦巻く感情は切なくて、独りで立っているのだって本当はやっとに違いないだろうに、毅然とする光太郎の態度には何時も感心していたバッシュでも、この時だけは何も言わずに引き寄せた腕に勇気付けるようにギュッと力を込めてやった。

「…ありがとう、バッシュ。ありがとう…でも、ごめん。俺、ちょっとだけ弱くなってもいい?」

 頼りなく震えてしまう肩を隠さずに、光太郎は鱗に覆われた胸元を隠す甲冑に額を寄せると、我が身に起こってしまったあまりに悲惨なことを走馬灯のように思い出しながら、それでも、シューに逢いたい気持ちを抑えることができず、それを励ましてくれる蜥蜴の親分のようなバッシュに囁くように呟いていた。
 それは、アリスやケルト、ましてやバッシュですら今まで聞いたことのない、光太郎の偽らざる初めての弱音だった。
 この砦で暮らしてきた彼らには判らない感情で深く結びついている光太郎とバッシュの絆は、恐らくアリスやケルトが思う以上の何かがあって、だからこそ、前向きで直向な少年が両肩を震わせながらも、縋り付くように額を押し付けて震える睫毛に縁取られた瞼を閉じて願う気持ちを、魔物であるバッシュは受け止めてしまうのだろう。

『いいぜ。おう!当たり前だろ?』

「…ありがとう」

 アリスとケルトはソッと目線を交えると、光太郎が落ち着くまで静かに口を噤むことにした。
 何時もは煩いアリスも、この時はツンッと外方向きながらも、別に不機嫌そうでもなく見て見ぬ振りを決め込んでいるようだった。

「…バッシュ、俺は酷いヤツなんだ。ここは敵陣で、危険がそこらじゅうにゴロゴロしてるって言うのに、シューに逢いたいんだよ。口先では危険だから来ないでって言ってるくせに……違うんだ。本当は今すぐにでもここに来て、助けて欲しい。シューに思い切り抱きつきたい。どんなことをしてでもシューに逢いたい…そんなこと、平気で考えているんだ」

『…』

 バッシュは黙って聞いていた。
 心の奥底に渦巻いているはずのドロドロの醜い何かを、こんな小さな身体の中で必死に抑え込んでいたに違いない光太郎の、その涙ぐましい努力が、魔物である自分たち仲間を想う気持ちだと知っているから、バッシュは何も言わずにその震える肩をギュッと抱いた。

「シューに逢いたい、シューに逢いたい!俺、どうにかなってしまいそうなほど、シューが好きなんだよ」

 両手で顔を覆いながら、初めて本音で吐き出すその弱い気持ちを聞いて、バッシュは薄暗い秘密の通路の天井を見上げた。

『…バッカだなぁ、光太郎は。そんなの当たり前だろ?逢いたいから、頑張って生きるって決めたんじゃねーか。だったらさ、お前は弱くなんかないんだよ。そう言うこと、ちゃんと口に出して言ってもいいんだぜ?大丈夫、ちゃんと俺は聞いてるからな』

 顔を覆っていたはずの両手が揺らいで、信じられないように涙に濡れた双眸を開いた光太郎は、おずおずとバッシュを見上げた。
 今まで、必死に泣かないように頑張っていた光太郎は、シューの言葉を未だに信じているように、涙を堪えながら蜥蜴の親分のようなバッシュを見詰めている。その眼差しに、バッシュの心はズキリと痛んだ。

(こんな世知辛い世の中じゃなけりゃ、光太郎だって普通の子供のように陽気に笑って…こんな風に、必死に心を隠す必要なんてないってのになぁ…畜生ッ!どうして…ああ、どうして戦争なんて起きやがるんだッ)

『シュー様に逢うんだろ?ここに向かっているのがシュー様なら、敵陣なんて屁の河童さ!あの方は敵陣の中を風のように走り回ってバッサバッサ斬り倒していくんだ。危険なんか思う暇なんざあの方には一切ないに決まってんだろ。だから、シュー様だって、お前に逢いたくて仕方ないんだよ。それなのに、光太郎が逢いたくないなんて言う方が、シュー様はヘコんじまうんだぜ?』

「バッシュ…」

 蜥蜴面でニヤリッと笑うバッシュを見上げて、光太郎はポロリ…ッと頬に涙を一滴零した。
 キラリと光る涙は、まるで尊い宝石か何かのようにホロホロと頬を滑って、そして音もなく床に零れ落ちてしまった。
 一瞬、慌てたようにバッシュが掌を差し出したけれど、ほんの少しタイミングが合わずに、涙は冷たい床に吸い込まれてしまう。

「…ありがとう。俺は…バッシュと仲間になれて本当によかった。ずっと、感謝してるよ」

『うはっ!よせやいッ。俺は当然のことを言ってるだけなんだ。礼なんか言われる筋合いはないねッッ』

 盛大に照れたように首筋を掻くバッシュに、ふと、それまで黙って事の成り行きを窺っていたアリスがクスッと笑ったようだった。
 それで漸く、ハッと我に返った光太郎は、アリスとケルトが無言のままで微笑んでいるのを見て照れ臭そうにエヘへッと笑って頭を掻いている。
 とんだ醜態を晒してしまった…とは思ってもいないのだろう、少しだけ調子を取り戻した光太郎に、アリスとケルトは顔を見合わせて、次いでホッとしたように肩を竦めたり、涙ぐんだりしてそれぞれの仕種で気持ちを表現しているようだ。

「アリスやケルトにも迷惑をかけちゃったね。ごめん」

「謝ることってないし?大丈夫ならそれでいいんじゃないのぉ~??」

 なんでもないことのように肩を竦めるアリスに、彼らしいその優しさを秘めた態度に、照れ臭さが払拭された光太郎が嬉しそうにはにかんだ。

「アリス、ありがとう。もう大丈夫だよ」

 「どう致しまして」と外方向くアリスの傍らで、何も言わずに涙ぐんだまま笑っているケルトにも、光太郎は素直に礼を言った。その言葉に、吃驚したケルトは慌てて首を左右に振ると、ホッとしたように「どう致しまして」とアリスの口真似でおどけて見せた。
 優しい人たちに囲まれて、自分だけが妙に意地を張っていたんだなぁ…と、光太郎はそれまでの意固地さを少しだけ恥じたようだった。
 この想いを、どうか忘れないでいようと思う。

「…それにしても。バッシュってば見直しちゃったかもぉ」

 クスッと鼻先で笑いながら双眸を蠱惑的に細めるアリスに、バッシュは不気味そうに首を竦めて『勘弁してくれ』と呟いたようだった。

「でもぉ…早くシューに逢えるといいね、光太郎」

 心底嫌そうに首を竦める失礼な蜥蜴の親分のような魔物に唇を尖らせながらも、アリスは綺麗な深緑色の双眸を細めて囁くようにして呟いた。

「…うん。俺、絶対にもう一度、生きてシューと逢うんだ。せっかく、シューがここに助けに来てくれているんなら、俺も頑張らないとね。なんか、俄然ヤル気が出てきちゃったよ♪」

 はにかんで、いつもの調子を取り戻した光太郎が拳を握り締めるガッツポーズなどをやらかしてしまえば、呆れたようなアリスに「現金だなぁ」と笑われて、バッシュは引き攣った笑みをどうやら浮かべながらこめかみを押さえるし、ケルトは安心したようにケラケラと笑っている。
 和やかな雰囲気を取り戻した一行が落ち着きを取り戻そうとした正にその時だった、堅く口を閉ざしているはずの鉄製の扉がガタンッと凶悪な音を響かせて開いたのは。
 まるで地獄のような不吉な影は、息を飲む彼らを見据えてその深遠の闇に飲み込もうとでもするかのように、ゆったりと音もなくその一歩を踏み出したのだった。

Ψ

「…ここで何をしている?」

 それは、恐らく地獄から吹き上げてくる冷たい亡者の恨めしげな声のようでもあったし、砂漠を吹き荒れる砂嵐のように猛々しい怒りのようでもあった。 

「セス!こんなところに鼠が徘徊しているぞ。これはどう言うことだ?」

「きゃあ!」

「イタッ!」

 まるで疾風の素早さで近付いたユリウスは誰もが行動を起こす暇すら与えずに、グイッとアリスと光太郎の首根っこを引っ掴んで引き摺るようにして、慌てて入って来た青褪めるセスの前に放り出すようにして突き出した。
 ハッとしたように立ち上がったバッシュが猛然と立ち向かおうとしたその時、首のチョーカーがジクリと熱を帯びたように彼から力を吸い取ったようだった。そのお陰で、バッシュはその場にへたり込むと、悔しそうに冷たい石造りの床に両の拳を打ち付けながら漆黒の騎士を睨み付けた。

「こ、これは…」

「妾の管理もできないようでは先が思い遣られる。私の寵姫を唆した罪は万死に値するだろう」

 冷たい風のように、低い声音で淡々と見据える鉄仮面の向こうの紅蓮に滾る双眸は、光太郎が逃げ出したことに腹を立てているのか、或いは、もっと底知れぬ何かに激しい憤りを感じているのか、何れにせよユリウスの怒りは納まる気配もなかった。

「も、申し訳ありません、ユリウス殿!これは何かの…アリスっ」

 間違いであって欲しいと言う思いで吐き出しかけた台詞は、だが、悔しそうに唇を噛み締める美しい花のかんばせを持つ愛妾の姿を捉えると、怒りを通り越して青褪めてしまうセスはその名を呼ぶので精一杯のようだ。

「この狭い砦で後宮だの何だのと現を抜かす暇があるのなら、せいぜい、前線にでも出てその鈍った根性を叩き直すのだなッ」

 平身低頭するかの如く、肩膝を付いて騎士の最敬礼をするセスに向かってアリスの華奢な身体を投げ付けた。

「!」

 声もなく倒れ込む最愛の愛妾の身体を、それでもセスはハッとしたようにして受け止めようとしたが、何よりも己の保身を第一とする野心だらけの男は、差し出そうとした腕を反対に、その身体を突き放すようにして突き飛ばしたのだ。

「アリス!…クソッ!なせ!!離せよッッ」

 ユリウスに首根っこを引っ掴まれたままで思わず声を上げた光太郎は、全身全霊を込めたような胡乱な目付きで黒騎士と隊長職にある男とを交互に見据えながら、ジタバタと暴れて罵るように悪態を吐いた。

「無論、お前も罰を受けるのだ。寵姫とは言え、私は甘くないぞ」 

 ユリウスは鉄化面の向こうの紅蓮の双眸を凶悪に薄っすらと細めると、引っ掴んでいる身体をグイッと引き寄せながら、囁くようにして苦々しげに吐き捨てた。
 光太郎が望むところだと、その、本来なら逃げ出してしまいたくなる凶暴そうな瞳を見据えていると、冷たい床に突き飛ばされていたアリスが、どうやら切ってしまったのだろう口許から血を零しながらゆっくりと上半身を起こして口を開いた。

「お待ちください、ユリウス様」

 真摯な双眸は、それまで光太郎たちが目にしてきたどの表情とも違い、あまりに静かで切なくて、光太郎は嫌な予感が脳裏を掠めるのを感じていた。

「光太郎様を唆したのは確かにわたしです。だから、光太郎様は何も悪くありません。どうぞ、罰するのならばこのわたしの首で、お許しください」

 こうなることは判っていた。
 ふと、アリスの決意を秘めた表情を見た瞬間、光太郎の脳裏に先ほど彼が言った言葉が蘇ってきた。

(光太郎を逃がしちゃえば、唯じゃすまないだろうね)

 アリスは確かにそう言っていた。
 そんな覚悟を、知り合ったばかりの自分のために決め込んで、一緒にここまで付き合ってくれたのだ。
 もしかしたら、セスは、自分を寵愛しているのだから守ってくれるかもしれない…そんな浅はかな想いを、きっとアリスは考えてもいなかっただろうと、光太郎は一瞬で感じ取っていた。

「なるほど、流石はコーネリアス家の子息だな。潔い覚悟だ。その志に免じて…その首で赦してやる」

「有難うございます」

 クッとセスは唇を噛み締めたようだったが、それでも、我が身可愛さの保身では、アリスを助けてやろうなどと言う気持ちは一瞬だって持ち合わせてはいないらしく、この酷い男は最後まで愛妾を想いつつも主に忠実に従う良き家臣を演じる気でいるようだった。

『アリスッ!!』

 覚悟を決めているように瞼を閉じて項垂れるアリスに、黒騎士の無情の一刀が閃くようにして掲げられるのとバッシュの悲痛な叫びはほぼ同時だった。
 ユリウスの、腰に佩いた鞘から引き抜かれた剣にはクッキリと血溝が刻まれていて、明り取りにチラチラと燃える松明の炎が反射すると、それは禍々しさにいっそう磨きをかけてギラリと刀身を光らせた。それを真横で見ていた光太郎はゴクリと息を呑んだ。
 その人殺しの兇器は、死を覚悟したアリスの熱い血潮を今か今かと待ち望んでいるかのように一瞬揮え、それまで言葉もなく絶句していた光太郎の脳裏に熱い何かを閃かせた。

(このままだったらアリスが死んでしまうッ)

 微かにハッとしたようなユリウスはその鉄化面の向こうの顔を僅かにだが歪め、怯えたように双眸を見開くだけで何もできずに唇を震わせているケルトと忌々しそうに歯噛みしているバッシュの目の前で、無情の黒騎士は上着だけを残すようにして身じろぐとその頑強な戒めから無理矢理逃れる少年を再度捕まえるために腕を伸ばそうとした。
 その一瞬できた隙で、意を決している少年を背後に光太郎は転がるようにして立ち塞がったのだ。

「どうしてアリスが首を刎ねられないといけないんだよ!?そもそも、唆したのはアリスじゃない。この俺だ!」

 殆ど無茶苦茶ではあるのだが、それでも上半身裸のままの滑稽な姿で言い張る少年の背後で、唇を切ってしまっているアリスは、思わず泣きそうになりながらもまるで自嘲するような笑みを微かに浮かべた。

「ダメだよ、光太郎。せっかく、僕が責任を取っているんだからそんなこと言ったら…」

「煩いよ、アリス!君は黙ってろッ。だいたい、どうして俺はあんな狭い部屋の中にいないといけないんだよ!?もしかしたら、寂しくなってアンタを捜すために、たまたま通りかかったアリスに出してくれってお願いしたのかもしれないじゃないかッ!それだけで、アンタは俺たちを殺すのかよ!!」

 一瞬、シンと静まり返った秘密の通路内で、未だに名前も知らない暗黒騎士を見据える光太郎だけがムッとしたように肩で息をしている。
 捲くし立てるように言い張る光太郎のエキサイトした姿は、今まで、どんな場面にも直面してきたバッシュですら見たことがないほど、激怒していることは間違いない。

「言い訳も言い分も何も聞いてくれないのか?!そんなの、悪政を布く暴君と何も変わりないよッ。アンタ、俺に傍にいろって言ったよな?それはどう言う意味だったんだ?!殺すためなのか!それなら、悪いのは俺なんだから、アリスじゃない。アリスの首を刎ねるのなら、今ここで俺の首を刎ねればいいんだッ」

『光太郎、お前…何を言い出しやがるんだ』

 オロオロと、成す術もなく状況を見守るしかないバッシュでも、一瞬、光太郎が何を言い出したのかと思わず口を開かずにはいられなかった。シューを愛しているのに、どうしてユリウスを求めるようなことを言うのか…そこまで考えて、まるで自分を見ようとしない光太郎の姿には懸命な意思が浮かんでいて、その時に漸く色恋沙汰に鈍いバッシュにも光太郎が何をしようとしているのか理解できたようだった。

「……それは、真か?」

 どちらを指して言っているのかいまいち判断に困った光太郎だったが、自分に都合のいい方、つまり前者の方だと勝手に考えて頷いた。

「そうだよ!アリスは親切で俺を出してくれたんだ。こんな、ワケの判らないところにまた閉じ込められて、アンタもいないし…寂しくて寂しくて…泣いていたらアリスが助けてくれたんだ。彼は俺の恩人なのに、アリスを殺すなら俺は一生、アンタなんか大嫌いになってやるッ」

 ポカンッと、事の成り行きを唖然として見守っていたセスが、今まで見てきた光太郎の態度からでは到底、嘘だろと言わずにはいられないほど嘘臭い台詞に呆気に取られている傍らで、光太郎が脱ぎ捨てた上着を握り締めたままのユリウスは暫し無言で立ち尽くしていたが、微かに息を吐き出しながらポツリと呟いたのだ。

「では、何故ここに魔軍の大隊長がいるのだ?」

『そりゃあ、光太郎の希望で俺はお付きの従者になってるからな。ソイツが行くところには何処へだってついて行くさ』

 漸く調子を取り戻したバッシュがフンッと鼻を鳴らして外方向くと、アリスが溜め息を吐きながら首を左右に振ったのだ。

「ケルトは僕に脅されて、彼らのお手伝いをしただけだし?」

 ウンウンッと思い切り頭を上下させて頷く光太郎を無言で見下ろしたまま、それでもユリウスは暫く何事かを考えているようだったが、根負けしたように溜め息を吐いた。

「…それをオレに信じろと?」

「そうだよ…俺、この砦に来てやっと安心できる、信じられる人を見つけたんだ。いろんなヤツに散々酷い目に遭って、でもアンタは違ってた。俺はアンタは信じてるんだ。だから、アンタも俺を信じて欲しい」

 みんなを守るために…光太郎は必死に考えながら、一生懸命慣れない嘘を吐いていた。だが、健気で直向なその姿は、強ち嘘に見えないほど迫真に迫っている。

「それに…アンタがいないと寂しい」

 直向に見据えていた光太郎は、ふと、心の奥深いところでたゆたうあたたかな想い人への気持ちを抱き締めるように俯いて、ポツリと呟いた。
 思わずと言った感じで零れ落ちたその台詞を誰に向けて言ったのか、真相を知っているバッシュとアリスは内心で、光太郎はもしかしたら底知れぬヤツかもしれない…と思ったかどうかは定かではないが、少なくとも、拳を握り締めたことは確かだった。
 グッジョブ、光太郎!…である。

「そうか。では、オレの早合点だったんだな?」

 黒篭手に覆われた掌を伸ばして頬を包むと俯く光太郎の顔を上げながら呟くユリウスに、今にも泣き出しそうにふにゃっと眉を寄せてしまう光太郎は彼を見上げたままでコクリと素直に頷いた。

「オレを愛しているか?」

「…愛しているかどうかはまだ判らないけど、アンタのことは好きだよ」

 愛している…と言えば、ユリウスは疑っていたに違いない。だが、光太郎はユリウスが求めていた答えをすんなりと口にしたことで、彼の信用を勝ち得ることができたのだった。

「判った。今回はお前を信じよう。だが、二度とこんな紛らわしいことはするな。今より半刻ほど後に、ラスタランの城に戻る。城で今回と同じような振る舞いをすれば、敵情を探ろうとしているのではないかと嫌疑をかけられても仕方ないのだからな」

 一瞬、ギクリとする光太郎だったが、ユリウスには内緒でソッと眉を寄せていた。

(さっきは確かに、第五の砦に向かうって言ってたのに…第五の砦がラスタラン城なのか??)

 その答えが出ることはなかったが、それでもなんとか急場は凌げたのだとホッと安心した光太郎は、頬からユリウスの掌が離れると同時にその場にへたり込んでしまった。

「光太郎!大丈夫??」

「光太郎さん!」

『おい、確りしろよ!?』

 それぞれが銘々に声をかけてくれるから、光太郎は照れ臭そうにエヘヘッと笑って「大丈夫だよ」と呟いた。
 ちょっと吃驚しただけだからとおどけて見せる光太郎にホッと安心した一同の傍らで、その様子を興味深そうに見詰めていた漆黒の騎士は、人間からも魔物からも愛される…ましてや、他者を信じることなどとっくの昔に忘れていたはずの自分の心すら、ガッチリと掴んで離さない不思議な少年に近付くと、キョトンと見上げる光太郎に溜め息を吐きながら手にしていた上着を着せてやる。

「あ…」

 そう言えば上着を脱いでしまっていたんだと慌てる光太郎を尻目に、ユリウスは無言でその身体を浚うようにして抱き上げた。
 ムッとしているバッシュはしかし、ここで騒いでしまえば元の木阿弥にもなり兼ねないと、ギリッと奥歯を噛み締めながらも、殊更なんでもないことのように目線を泳がせている。

「お前は誰にでも優しいんだな」

「へ??」

 抱き上げられてキョトンッと見下ろす光太郎は、鉄化面の向こう、紅蓮に燃え立つ双眸がそれほど怒りを孕んでいないことに気付いて小首を傾げた。
 この暗黒騎士は、いったい何を言っているんだろう。
 まるで無害な小動物のようなあどけなさで見下ろしてくる光太郎に、ふと、地獄の番人だなんだと恐れられている自分に物怖じもしないその姿に、ユリウスは嬉しくなって微笑を浮かべてしまう。だが、冷徹な鉄仮面はその穏やかな気持ちすらも吸い込んで、冷たく松明の炎を反射させていた。

「だが、それでいい。オレは多くは望まない。お前が傍にいれば、それでいい」

 誰にともなく零れ落ちる呟きに、光太郎が目を丸くすると、らしくもない自分の台詞に照れたのか、ユリウスは抱き上げていた少年の身体を秘密の通路の上に下ろすと、何も言わずに踵を返そうとした。
 その後姿に、光太郎は慌てて声をかけた。

「あ、待ってよ!俺、アンタの名前を知らないんだッ」

 思わずアリスとバッシュがすっ転びそうになって、胸を撫で下ろしていたケルトですらギョッとしたような目付きをする気配すらも感じずに、光太郎は真剣そのものでピタリと足を止めてしまった漆黒の外套を纏った背中を見詰めていた。

「…名乗っていなかったか?」

「うん、聞いてない。あ、俺は光太郎って言うんだ」

 先に名乗らないと失礼だよなぁ…と、慌てて自己紹介してエヘッと笑う光太郎を、肩越しに振り返っていたユリウスは面食らったような表情をしたが、鉄化面の向こうでは誰も気付かなかった。

「……オレはユリウスだ、光太郎」

 フッと、声音が少し変化して、光太郎はユリウスと名乗ったこの黒騎士が、微かに笑ったんだと気付いた。

「そっか、じゃあユリウス。俺のお願いを聞いてくれる?」

 寵姫らしく…と言っても、その名称の意味すら知らない光太郎は、先ほどユリウスが自分に凄んできた時に言ったニュアンスから、恐らく彼のモノだと言う意味合いなのだろうと思い込んで、それならば少しの我侭ぐらい聞いて貰おうと口を開いたのだ。

「なんだ?」

 それでも黒騎士は、健気に見上げてくる最愛の所有物を見下ろして、この物怖じもしないどこか鷹揚な少年が、自分に何を強請るのかと興味深そうに頷いた。
 魔族の捕虜を逃がせとでも言うのかと、訝しげに眉を顰めて身構えていたが…

「その、アリスを俺の従者?…って言うのかな、それにして欲しいんだ」

「え?」

「それと、ケルトも」

 自分たちの名前を突然出されて吃驚する2人の前で、光太郎はニコッと笑ってユリウスを見上げた。
 どうやら、この砦では誰もが恐れていたあのセスが、平伏するほどの黒騎士なのだから、きっとこのユリウスと言う鉄化面の男はそれなりに高い地位に在るんだろうと、光太郎は確信してお強請りをしてみたのだ。
 案の定、セスはギョッとしたように一瞬目を見開いたが、寵愛している可愛い男娼を目の前で掻っ攫われるなんて冗談じゃないと思ったのか、高血圧らしくカッと頭に血を昇らせたように光太郎を睨んだが、彼が何か口を開く前に拍子抜けしているユリウスが事も無げに頷いた。

「そんなことか…構わん。魔軍の大隊長と男娼2人、それをお前が望むのなら引き受けてやる」

「ユリウス、ありがとう!」

 パァッと嬉しそうに破顔する光太郎を、一瞬だが眩しそうに双眸を細めたユリウスはしかし、微かに咳払いでもするような仕種をして、今度こそ本当に踵を返すとさっさと第三の広間に戻ってしまった。

「よかったね、アリスにケルト!」

「こ、光太郎…どうして?僕はだって……ッ」

 アリスが信じられないとでも言うように深緑色の綺麗な双眸を見開いていると、その台詞を遮るようにして野太い声が地獄の底から響くように覆い被さった。

「そうだ、こん畜生!アリスは俺の愛妾だぞ。勝手なことをされては困るッ」

 さっきは死ねと全身で物語っていたくせに、彼の命が助かれば、すぐにでも自分のモノだと主張するセスは乱暴にアリスの腕を掴んで引き寄せた。

「この淫乱が男なしで生きられると思っているのか?馬鹿馬鹿しいッ!」

 グイッと尻を掴みながら下卑た笑みを浮かべるセスに、バッシュが胸糞悪いものでも見たように鱗に覆われた鼻に皺を寄せて、グッと牙をむこうとした正にその時だった。
 ボグッ!!
 何か、筋肉に打ち付けたような鈍い音を響かせて、アリスの華奢な拳がセスの頬にクリティカルヒットしていた。

「~ざけんなッ!この変態エロジジィッッ!!光太郎のおかげでやっと本音が言えて清々するしぃー!」

 ギョッとしたのは確かにバッシュも光太郎もケルトも同じだったが、それよりも酷いショックを受けていたのは、頬の痛みなどこれっぽっちも感じていないセスだった。

「なな…何を、アリス?お前、何を言って…」

「僕が本気でアンタを愛してるとでも思ったのぉ??バッカじゃない!他の子たちがうんざりしてるから、どーせここには長い僕が代わりをしてただけだし?愛してるなんて…ゾッとすること言わないでよッッ」

 光太郎の従者に昇格したのなら、もうセスなどどうでもいい存在なのだ。
 常々、腹の底で滾らせていた思いをぶちまけると、へたり込んでしまっているセスを忌々しそうに見下ろして、その天使よりも麗しい華のかんばせに憎々しげな皺を寄せていたアリスは、まるで曇り空から太陽が覗いたような元気な笑顔をいっぱいに浮かべて、晴々とした顔で光太郎を振り返った。

「あー、スッキリした!さ、こんな鬱陶しい場所なんかにいないで、一旦後宮に戻ろうよ」

「う、うん」

 コクリと光太郎が頷こうとしたその時、苛立たしげにカッと頭に血を昇らせたセスが、ギリギリと奥歯を噛み締めながらアリスに掴みかかろうとした…が。

「セス!何をしている!?主のお呼びだ…なんだ、まだいたのか。あと半刻ほどで出立だ、準備をして部屋で待機していろ。セス!主を待たせるつもりか、急げッ」

 鉄製の扉から顔を覗かせたユリウスが苛立たしそうに声をかけて、その場にまだ光太郎たちが留まっている事に気付いたのか、はたまた、セスの愛妾を取り上げてしまった光太郎に難癖でもつけようとしている気配でも察したのか、的確に指示を出してから、暗黒騎士はゆったりとした殺気を纏いながら、まだグズグズしているこの砦の隊長を顎をしゃくるようにして冷徹な声音で呼び付けたのだ。

「う、は、ハッ!」

 忌々しそうに光太郎たちを燃え上がる双眸で見据えはしたものの、セスは暗黒騎士の消えた扉にドカドカッと荒々しい足取りで消えてしまった。その後姿に、アリスは思い切りあっかんべーっと舌を出してやった。

「あー!もうホント、スッキリした♪光太郎ってばやるじゃん」

「エヘへ♪これで、その…たぶん、アリスたちは自由になったんだよ。君たちの好きな場所に戻るべきだと思う」

 それを聞いて、バッシュは『なるほど』と頷いた。
 晴れて【男娼】などと言う忌々しい立場から離脱できたのだから、光太郎は好きな場所に行ってもいいと言っているのだ。その為に、彼は彼なりに考えて、ユリウスに恥を忍んで頼み込んだのだろう。
 照れ臭そうにはにかむ光太郎を見詰めていたアリスとケルトは顔を見合わせたが、アリスがクスッと笑ってウィンクした。

「なに、言っちゃってるワケぇ?僕たちは光太郎の従者なんでショ??一緒に行くに決まってるじゃん。闇の国でも何処へでも」

 クスクスと笑うアリスに、ケルトも破顔して嬉しそうに頷いている。
 どうせ…ラスタランの家に戻ったとしても、不名誉な立場にあった自分など、けして誰も受け入れてなどくれはしないとアリスが思うように、既にデルアドールの何処にも居場所を失くしてしまったケルトも、ここを出てしまえば独りぼっちになってしまうのだ。それならば、光太郎が心を寄せる闇の国に行くのも悪くないと思っていた。
 いや、光太郎が想いを寄せている闇の国だからこそ、行きたい…と、素直にアリスもケルトも思っていた。

『ぐはー…また厄介者を背負い込んじまったって、シュー様にどやされるな』

 蜥蜴の親分のようなバッシュがガックリと項垂れてしまうと、アリスがケラケラと笑いながら、そんな魔物の背中をバシンッと思い切り叩くのだ。

「男のクセにウジウジしない!魔将軍シューに、僕からもバッシュを叱らないで♪ってお願いしてあげるしぃ」

『う、うるせー!!お前なんかにお願いされたら、シュー様から俺が殺されるわッ』

「なにそれ、ひっどーい」

 ブゥッと唇を尖らせるアリスと、目をむいて怒るバッシュに呆れたように眉を跳ね上げていた光太郎は、傍らで自分を見上げている幼いケルトの嬉しそうな双眸に気付いて、彼はエヘヘッと笑った。

「これで闇の国も、楽しくなりそうだよ♪」

「そうなるように、頑張ります♪」

 既に心は闇の国に戻ってしまっている光太郎に、ケルトは嬉しそうに頷いている。
 何はともあれ、窮地を脱した一行の心は、見ることのなくなってしまった闇の国には似つかわしくない太陽のように輝いていた。
 暫く、第二の砦に朗らかな笑い声が響き渡っていた。