第二部 6.陰の中の光  -永遠の闇の国の物語-

 漆黒の騎士、ユリウスに宛がわれた部屋はセスの塒よりも幾らか狭かったが、それでもこんなご時勢ではそれなりに豪奢なものだった。その点に全く気付いていない光太郎は、まるで閉じ込めるようにして外から鍵をかけて出て行ってしまった、この部屋の今の主の顔を胡乱な気分で思い浮かべながら唇を噛んでいた。
 ベッドから降りてウロウロと室内を歩き回ったところで充分な考えなど思いつきもしないが、それでも何かしていないと居ても立ってもいられない、そんな焦燥感に襲われている。
 今、この部屋の外で沈黙の主とセス、そして漆黒の騎士であるユリウスが何を話しているのか…知りたい。
 その純粋な思いが、何より、その話し合いの結果がどれほど甚大なダメージを魔物たちに与えてしまうのか、考えるだけで胃の辺りがキリキリと痛み出すのだ。

「…なんとかしなくっちゃなぁ。せっかく敵陣の真っ只中に入り込めたんだ、少しでも何か情報を盗んでから闇の国に帰らないと。何よりも、こんなところに閉じ込められてるってのも冗談じゃないし」

 元来から向こうっ気の強い光太郎のこと、こんな場所でジッとしているような性格ではない。
 窓は相変わらずビル3階分は高い位置にあるし、先ほどから何度も試してはいるものの、一向に開く気配もない扉にはうんざりして思わず蹴りを入れてしまって、思わぬ痛みに蹲りそうになって溜め息を吐いてしまった。

「はぁ…何やってんだろ、俺」

 思わずガックリと肩を落として寝ることもなかったベッドにへたり込んでしまう。
 抱き締めてきていたユリウスが、ポカンッとしている光太郎の柔らかな唇にキスした丁度その時、外からノックされて「主のお呼びです」と声をかけられた途端、それまでの甘い雰囲気など何処吹く風で、暗黒の騎士は言葉もなく立ち上がると出て行ってしまったのだ。
 光太郎に声を掛けることもなく、厳しい、まるで何かを強烈に呪ってでもいるかのような火傷の舐める相貌を鉄化面の裏に隠しながら…ユリウスは行ってしまった。
 その後ろ姿が何故か不穏に感じてしまって、光太郎は追い縋るように扉に近付いたものの、ピシャリと目の前で閉じてしまった重厚な扉は、カチリと外から鍵の掛かる冷たい音を響かせていた。

「こんな砦の中で、俺が何処に逃げるって言うんだよ!?…ホント、アイツって変わったヤツだ…って、あれ?そう言えば俺、アイツの名前を聞いてないや」

 サメザメと悲観に暮れて腹立たしそうにブチブチと悪態を吐いていた光太郎は、パチクリと目を見開いて、それから唐突に上体を起こして首を傾げてしまう。
 よくよく考えれば、沈黙の主だと勘違いしていたままで結局、光太郎はユリウスの名前すら聞いてはいなかったのだ。あまりに多くのことが起こりすぎて、そんな大事なことを忘れてしまっていた。
 驚くほど無残な火傷の痕は、あの黒甲冑の騎士が言うほど醜い…と気になるよりも寧ろ、そのあまりの痛々しさに正直光太郎は言葉が出なかった。
 憎々しげに自分を見下ろした紅蓮の双眸が怖くなかった…と言えば嘘になるし、全身に広がった炎の苦痛に死ぬよりも酷い体験をしたに違いない彼の、全身を纏うあの狂気のような殺気からは逃げ出したかった。
 それでも。
 ふと、光太郎はベッドの縁に腰掛けたままで目線を伏せた。
 それでも、全身で拒絶しているはずのユリウスの、そのルビーのように澄んでいる紅蓮の双眸の奥に、見え隠れしていたあの光が、頼りなげな寂しさだったとしたら、それが自分の思い違いでないのだとしたら、光太郎は放ってはおけなかった。
 自分はそんなに出来た人間じゃない、できれば、ユリウスから逃げ出してシューの元に少しでも早く帰りたいとすら思っている。

「…偽善、ってヤツなのかな」

 それでも、あの白髪と紅蓮の双眸を持つ悪鬼のように世界中を憎んでいるようなあの黒騎士の瞳に見詰められてしまうと、逃げ出しそうになる足が勝手に止まってしまうのだ。
 立ち止まって、せめて自分ぐらいは踏み止まって、どんどん闇に堕ちていきそうなあの漆黒の騎士の腕を、確りと掴んでいてやらなければ…そんな思いが、光太郎の怯みそうになる膝を奮い立たせていた。
 どうすることも出来ない、侭ならない思いに溜め息を吐いたその時だった。

『光太郎!おい、ここに居るのか!?』

「バッシュ!?」

 聞き慣れた声にハッと顔を上げた少年は、転がるようにしてベッドから降りると慌てて重厚な扉が口を閉ざす、この部屋の唯一の出入り口に走り寄っていた。

「バッシュだろ!?ここにいるよ!」

 慌ててドンドンッと両手で扉を叩くと、向こう側からケルトの声が「やっぱりここだった!」と、ちょっと嬉しそうに響いている。

「ケルトも居るのか?よかった、みんな無事だったんだね」

 別にあの黒騎士が何かすると言うわけではなかったのだが、それでも元気そうな皆の声を聞けば、光太郎はホッと息を吐いてしまう。

「ここだよ、ホラやっぱり!早く早く、早く開けてあげてくださいッ」

「んも~、判ってるよ。そんな、せっつかないで欲しいね」

 プリプリしたようなアリスの声も聞こえて、一緒に彼も来てくれたのかとホッとしたのも束の間、ハタと彼と致してしまった性行為を思い出した光太郎は顔を真っ赤にしてしまった。

『だー!!ゴチャゴチャうるせーなッ。叩き壊せばいーだろーがッッ』

「あん!もう、ちょっと短気すぎッ。魔物は引っ込んでてよね!」

『なんだと、この人間が!!』

「もーう!!光太郎さんが待ってるんだから早くしてよーッッ」

 ギャアギャアと扉の外で言い合うアリスとバッシュと、それらの仲裁をきっとビクビクしてるに違いないと言うのに、一番幼いケルトがしているのだから、光太郎は思わず苦笑してしまった。
 待っててくれる人がいる…その思いが、じんわりと胸の奥に広がって、光太郎は自分と彼らを隔てている扉にソッと手を当てると、幸せそうに笑って瞼を閉じた。
 きっと、バッシュが『待っていてくれる人がいると勇気付けられる』って言うのは、こう言うことなのだろうと、今更ながら思っていた。

「もう!ホントに煩い連中なんだからッッ…っと、ホラ、黙ってても鍵なんだから開くに決まってるじゃない」

 不貞腐れたアリスの言葉に被さるようにして、重々しい扉から軽快に響くカチャリッと鍵の開く音に、光太郎がホッとするのも束の間、乱暴に開いた先から飛び込んで来た小さな身体と鱗と甲冑に覆われた大きな身体に人間の少年は埋もれてしまっていた。

『光太郎~、良かった俺、お前が黒騎士に喰われたんじゃないかって心配で心配で!』

「ずっと捜していました!ボク、ボク…ぅえーん」

 ギュウギュウと抱き締められて呆気に取られていた光太郎は、それでも自分の身を何よりも、ましてや我が身よりも心配してくれているバッシュやケルトの優しさにじんわりと嬉しさがこみ上げて、そんな長時間離れていたわけでもないのにもう随分と長いこと、彼らに会っていなかったような気がして大きな背中と小さな背中に両腕を回して静かに瞼を閉じていた。

「ありがとう、心配かけてごめん」

 抱き付かれた勢いで思い切り床に尻餅をついてしまった格好で抱き締めている光太郎を、オンオンと泣いている蜥蜴の親分と蜂蜜色の髪を持つ小さな少年の後ろから腕を組んで呆れた顔をするアリスが肩を竦めて見せるのだ。

「大袈裟なんだから~。でもね、こーゆうこと見付かったら、たぶんきっと処刑だね」

「ええ!?」

 アリスにも御礼をしようと顔を上げた光太郎は、その物騒な台詞にギョッと目を見開いて信じられないとでも言うように首を左右に振って見せた。

「冗談でも脅しでもないよ~。そんなの面倒臭いし?僕が言うワケないでしょ。あの黒騎士って言うのは沈黙の主さまの右腕、つまり戦場で皆殺しのナントカって言われてるぐらい怖いひとなの。そのお気に入りを脱走させちゃうんだもん、バッシュもケルトも、モチロン僕だって処刑ぐらいされると思うけど?」

「ま、マジで!?」

「マジマジ、大マジ♪」

 キャハッと笑うアリスに、殺されそうなのに何がそんなに楽しいんだよ!?と、光太郎がアワアワと面食らいながら蒼褪めていると、双眸を真っ赤にしたままで上半身を起こしたバッシュがガオッと吼えるようにしてそんな光太郎に食って掛かったのだ。

『殺されることなんか怖くねぇよ!!俺は、光太郎を助けるって決めたんだからなッ』

「ぼ、ボクも!こんなところで一生を終えるのなら、光太郎さんのお役に立ちたかったんですッッ」

 ケルトまでもが小さな身体を起こしてポロポロと水晶のような涙をマシュマロのように柔らかそうな頬に零しながら、光太郎の身を案じて恐怖を乗り越えてここに来たのだと訴えるのだ。
 驚きと嬉しさと不安の綯い交ぜした複雑な表情で眉を顰める光太郎に、アリスは呆れを通り越して「感動的じゃない」と悪態を吐きながらも肩を竦めて苦笑した。そんな彼でさえ、無謀を冒して彼らに加担しているのだから、その口調とは裏腹の優しさが垣間見えてしまうのは仕方がないことだ。

「…バッシュ、ケルト、それからアリスも。こんな俺の為にありがとう」

 掛け値なしで呟くように礼を言う光太郎のその素直な謝辞に、どこかこそばゆいような表情をする魔物と幼い少年がはにかむ背後で、仏頂面で唇を尖らせるアリスがフンッと外方向いてしまう。その耳元が、雪白の頬と同じぐらい真っ赤に染まっていることに気付かない、それほど無神経ではない光太郎は有り難さと嬉しさに思わず泣いてしまいそうになっていた。

『…さて、これからどうするかな?』

 漸く本当に光太郎が無事なのだと理解したバッシュが、本来の魔族の大隊長としての顔を覗かせて立ち上がると、その腕に支えられるようにして同じように立ち上がった光太郎は深刻な表情をして頷いた。

「ここに、沈黙の主が来てるみたいだから…懸念してたような、南の砦への攻撃はまだ始まっていないんじゃないかな?」

「ご名答」

 アリスが思わずと言ったように口笛を吹いてから、この何の取り得もなさそうなただの少年の思わぬ洞察力に感服しながらも、アリスも綺麗に整った眉を顰めて可憐な唇を尖らせた。

「わざわざあの黒騎士まで引き連れてだから…光太郎のこと、結構気にしてたみたいだね~」

「え?…何故だろ??」

 思わずドキッとしたようにアリスを見ると、彼は肩を竦めながら首を左右に振って返した。

「知らないよ。セス様も詳しいことはたとえ閨でも漏らしてくれないしさぁ…どちらにしても、ここにずっといるってのも拙いんじゃない?」

『だな。ついさっき、酷い剣幕であの不気味な暗黒騎士が出て行ったばっかりだが、いつ戻ってくるか判らないし…取り敢えず、あのふざけた後宮とやらに一旦戻らないか?』

「うん、賛成」

「俺もだ」

「ボ、ボクも!」

 話を聞いているだけでなんの案も出せずにオロオロしていたケルトが賛同すると、アリスは呆れたように軽く溜め息を吐くし、いつからそんなに仲良くなったのか、バッシュは蜂蜜色の髪に鱗に覆われた掌を置いて無表情で乱暴に掻き回すし、そんな姿を見詰めながら光太郎は、嬉しくてクスクスと笑っていた。
 こうして、難攻不落…と言うワケでもない黒騎士ユリウスの部屋からの大脱走劇は、そのままこの砦の今の主であるセスが後宮と呼ぶ砦の中心に位置する部屋へと持ち越されることになったのだ。

Ψ

 深い森の中を、馬の足で3日は掛かる第二の砦へ赴く行程を、シンナは野兎のような敏捷さで只管走っていた。時折、深い森の古木に凭れては、顎を伝う汗を片手で乱暴に拭いながら、その空を閉じ込めたような透明な瞳で前方を、行く手にあるはずの第二の砦を睨みつけていた。
 光太郎は、自分は白兵戦に向いているから行ってもいいかと聞いたとき、あんな戦場の最中で、聞けば戦すら知らない平和な世界から来た少年は、ほんの一瞬、寂しそうによく晴れた夜空のような双眸を揺らめかせただけで、それでも力強く頷いてくれた。

「気をつけて」

 と、戦場に躍り出るシンナに彼は言った。
 誰も、家族ですら特出した能力のあるシンナを疎ましく思い、満月の夜に闇の国の深い森に幼い子供を捨てたのだ。その時ですら誰も、「気をつけて」などと、その身を案じる言葉など与えてはくれなかった。
 母ですら、何かおぞましいものでも見るような目付きで、早く低級魔物に喰われてしまえばいいと呪ったぐらいなのに…あの少年は。

(光太郎はあたしに笑い掛けてくれたン)

 ハァハァと荒く肩で息をしながら古木に片手を付いて咽喉元を押さえるシンナは、ふと、雑草の茂る足許に目線を落とした。
 小さな花が、まるでその頼りなげな存在を精一杯主張しようとでも言うように、草の中に埋まるようにして健気に咲いていた。
 薄紅の小さな花は、押し合い圧し合いの雑草の中でその存在すらも消えてしまいそうなほど頼りなかったが、それでも懸命に生きている。私を見てね、と、咲き誇っている。
 誰の為でもないこの人生が、もしかして、自分が思うほどに必要があるのだとしたら、それはきっと光太郎が生きて一緒に過ごす時間の中にこそ光り輝くんじゃないだろうか。
 シンナは風に揺れる可憐な花を見下ろして、一瞬だが、その強さが光太郎に重なったような気がした。

「花を見て、光太郎と思うなんてどうかしてるわン」

 花を見下ろしたままでクスッと笑うと、思い直したように双眸を閉じて考えていた。

(そうよン。この命が誰の役にも立たないものだったとしても、光太郎は、光太郎だけはきちんとあたしの存在を見詰めていてくれるン。そう思えるから、あたしは生きていけるン)

 ああ、だから。
 ふと、シンナは俯いたままで可憐な花を見下ろして思う。

(あたしはこんなにも光太郎を、【魔王の贄】にしたくないと思っていたのねン)

 誰でもない、あのゼィですら理解できない深い闇の発端を、どこか遠くの世界から無理矢理連れて来られてしまったあの少年は、容易く見出してしまった。そのことを、恐らく光太郎自身は気付いてもいないのだろうが、彼の言葉がどれほどシンナを救ったか。

「俺はここにいるから。だからきっと、独りぼっちだなんて思わないでね」

 他の誰かが言えば、いや、言ってくれる人など誰もいないのに…だからこそシンナにとって光太郎が掛け値なしの優しさでくれたその言葉は、唯一無二の宝物となっていた。

(何れ、きっと気付くわン。ゼィも魔王様も…そして、シュー。あなたもン)

 手離せない心の拠り所は、あの血臭と砂埃の舞う戦場で、驚くほどあっさりと消えてしまった。
 それも、全て自分の不注意で。
 このまま助けに行って、もし、最悪の事態が起こっていたとしたら…城では魔王が真の力を取り戻し世界をますます暗黒の世界へと導いてくださるに違いない。
 でも、じゃあ自分は?
 他の誰でもない、「気をつけて」と「ここにいるから、どうか独りぼっちだと思わないで」と言ってくれた、あの優しい少年を亡くしてしまった自分は?
 考えるだけで何か判らない、凄まじい熱さがカッと頭に昇ってきた。
 目の前が一瞬、真っ赤に染まったような気がしてギリギリとシンナは歯軋りしていた。

「ねぇ、光太郎ン。あなたが死んでしまったら、あたし、独りぼっちじゃないン」

 古木にギリギリと爪を立てながらシンナは、まるで心を何処かに置き忘れてきた人のように惚けた顔をして、そのくせ、その双眸だけは真っ赤にギラギラと鈍い光を放って激しい殺意を滴らせている。
 助けなきゃ…シンナはまるで何かに憑かれたように幾度となくその言葉を復唱しては、華奢な身体には似合わない咆哮を上げて走り出した。
 振り返りなどしない。
 ただ只管前を見詰めて。
 必ず魔城に、そして自分たちの許に、あの優しい光を取り戻さなくては。
 シンナは思っていた。
 人間にくれてやるわけにはいかないのだと。

Ψ

 ユリウスの部屋から大脱出に成功した光太郎一行は、取り敢えず、ケルトに与えられた小さな部屋で身体を寄せ合って作戦会議なるものをしていた。

「せっかく敵陣の真っ只中にいるんだから、逃げ出すことばかり考えてるのは良くないと思うんだよね」

 光太郎が尤もそうにそう言うと、バッシュが呆れたように蜥蜴顔を顰めている。

『逃げること以外に何かしようなんて思ってるとな、また捕まっちまうんだぜ』

「それは判るけど」

 間髪入れずに指摘されてしまえば、光太郎は敢え無くしょんぼりする他に術はない。
 とは言え、その場にいるのが光太郎とバッシュだけだったならばそのまま逃げ出す方向で話は進んでいたに違いないだろうが、ここにはケルトもいれば、何より面白いことには目のないアリスまでいるのだ。

「えー、でもぉ。光太郎の言うとおりだと思うけどなぁ。せっかくなんだし、沈黙の主さまがいらっしゃってるんだから内偵してみたらぁ??」

『お前なぁ、他人事だと思って茶化してんじゃねぇぞ!』

「おっかなーい!他人事ではあるけど、ただ単に興味本位だけで自分の地位を脅かしてまでお手伝いしようなんて思わないよーだ」

 べーッと舌を出して思い切りあっかんべーをするアリスに、無表情にしか見えない蜥蜴の親玉は頬を引き攣らせながらそれでも、どうやら笑っているようだ。
 その顔がかなり怖かったのか、ケルトが蒼褪めたままで言葉をなくしている。

「あー!もう、喧嘩するなって。取り敢えず、結論から言ってもやっぱり少しは敵情も探る必要があると思うんだよ。どこかにきっと綻びとかあると思うから、そこから逃げ出せるんじゃないかな」

「光太郎の方が絶対!バッシュより!頭いいよね~♪」

『うるせー、人間が!』

「魔物に凄まれたって怖くないもーん」

 どんなに言っても反りが合わないのか、歯軋りするバッシュとツーンッと外方向いているアリスは互いにいがみ合いながらも、それでも結局は光太郎の提案に乗っかる形となるのだった。

「沈黙の主さまたちがいるのは、たぶんこの砦でその昔、外交に使われていた謁見の間だと思うんだよねぇ」

 どこを偵察に行くかで議論となって、結局、この砦では一番古参のアリスが提案を出した。

「少人数ですから第三の間も考えられませんか?」

「あ、それも有り得るかも~。セス様って陰険だから、規定通りのことしたがらないもんね」

 あれほど嫌がらせばかりしていたアリスが、ケルトに対して極々自然に接している姿を見て、光太郎は自分がいなかった僅かの間に一体何が起こったんだろうと首を傾げてしまう。そう思ってしまえるほど、アリスはケルトに優しいし、ケルトはバッシュに懐いてて、バッシュは相変わらずアリスといがみ合うがケルトのことは気に入っているように見えるのだ。
 だが、どちらにしても光太郎にとってはアリスとバッシュのことを抜きにして言えば、とても理想的な関係図が出来上がっているような気がしてホッとしていた。

「ん~…じゃあさ、こうしよう。二手に分かれるんだよ」

 腕を組んでムーッと悩んでいた光太郎は、ポンッと右拳を左掌に打ちつけながら頷いて見せた。

『…俺は光太郎と行くからな。絶対行くからな。何が何でも行くからな。嫌だって言っても行くからな』

 思った以上の押しの強さで光太郎に抱き付いたバッシュは、同じ砦内にいながら黒騎士に掻っ攫われてしまったあの時のことを思い出して身震いすると、絶対に離れないぞとでも言うようにギューッと抱き締める腕に力を込めて言い募る。

「く、くるし…よ、ちょ、バッシュ、わかた」

 なぜかカタコトになりながらその大きな背中を軽く叩いてギブアップする光太郎を、信じられないとでも言うように首を左右に振って『もう離れないんだからなー!!』と泣き出しそうなバッシュに、アリスが呆れたように肩を竦めながら溜め息を吐いた。

「んもう、図体でかいくせに子供なんだから…って、ん?」

 ふと、呆れていたアリスが傍らを見ると、零れそうな大きな瞳の愛らしいケルトまでがその双眸にいっぱいに涙を溜めて、今にも泣きだしそうにえぐえぐと嗚咽を噛み殺しているようだ。

「え?え?なに??ケルトまで一緒に行くとか言いだ…ッ」

「ボクも!ボクも光太郎さんのお供をしたいです!」

 同じく光太郎のその身体にガバッと抱きついてこちらは本気で泣いているケルトに、アリスは一瞬言葉をなくし、それから憤りを抑えようとでもするかのようにハァァァッと溜め息を吐いて、それから困惑したようにあわあわしている光太郎に向かって陽気にニコッと笑うのだ。

「僕も光太郎くんのお供がしたいな♪」

「…って、ちょ!それじゃ二手に分かれられないじゃないかぁ!」

 慌てて光太郎が抱きつく魔物と幼い少年に成すがままにされながら思わずと言った感じで叫んでしまうと、アリスはシレッとした顔をして小指で耳など掃除している。

「えー、仕方ないじゃーん!じゃぁ、僕一人でどっちか一方に行こうか??」

「それはダメだよ!…あう~、もう仕方ないなぁ。じゃあ、みんなで行こう」

 仕方なさそうに決断する光太郎の情けなさそうな顔を覗き込みながら、アリスが呆れたように鼻先で笑った。

「最初からそうしておくべきだったと僕は思っていたよ」

「後先の忠告ありがとう」

 フフーンッと笑うだけで、ぎゅうぎゅうと抱きついてくるバッシュとケルトから救ってくれると言う気持ちはなさそうなアリスに、ちょっと意地悪な気持ちになった光太郎がそう言ってシニカルに笑うと、少女のような面立ちの少年はちょっとポカンとして面食らった顔をするのだった。
 当初の提案通りになったとは言え、幾分か効率の悪い方向で決定した隠密行動はこうして実行される運びとなった。
 夜はまだ、これからである。

第二部 5.夜に啼く漆黒の鳥  -永遠の闇の国の物語-

「趣味悪ぅ~、僕を呼んだのは自分のセックスシーンを見せるため?」

 こんな何もないはずの砦の部屋には珍しく、趣味の良い女神像の影から姿を現したアリスは呆れたように腕を組んで溜め息を吐いた。

「ククク…可愛いアリスちゃんに楽しんでもらいたいのさ」

「バカばっかり」

 ツンッと外方向くアリスに向かって、淫らに腰を蠢かしてメイド姿の光太郎を鳴かせるセスは、咽喉の奥で小気味良さそうに笑っている。
 敏感になっている襞の部分を撫で擦られて、悲鳴のような声を上げながら光太郎は、背後に立っているのだろうアリスの視線を感じて全身を真っ赤にしていた。

「い、…嫌だ!…んぁッ…リス、見るなよぉ!」

 嫌々するようにサラサラの絹糸のような黒髪のウィッグを揺らして、身じろぐ様は可憐で淫らで、だからこそ内壁の蠢きに気を良くしたセスは華奢な腰を引き寄せると太い怒張で敏感な内壁をグリグリと擦って更に光太郎を鳴かせるのだ。

「…で?僕は何をしたらいいの、セス様。このまま見てればいいの?それとも、自慰でもしてよっか??」

 どうでも良さそうに溜め息をつきながら組んでいた腕を腰に当てて、悪趣味な当主を困ったように眉を顰めて見つめている。

「ここに挿れろ」

「…!」

 瞬間、セスの長大な陰茎を含まされて、先走りがとろとろと零れる後孔の襞を捲るようにして太い指先で穿たれると、光太郎の背中がビクンッと波打って、まるで信じられないものでも見るような目付きで自分を支配している男を睨み付けた。

「じょ、冗談!ムリに…ん!…決まって…ぁ」

「アリス、挿れるんだ」

 グイッと、光太郎の必死の訴えなどまるで無視して、自らの股間部を跨いで上半身を倒しているメイドの秘部を、これでもかと言うほど捲り上げると、彼は絹を裂くような悲鳴を上げた。

「裂けちゃうじゃない」

 恐らく、待ち受けているだろう凄惨な場面など目にしたくもないアリスは、まだ始まってもいないのに噎せ返る血の匂いを感じたような気がして長い睫毛に縁取られた瞼を閉じた。

「何を言ってるんだ、アリス?コイツのケツが使い物にならなくなったからってどうなるって言うんだ。いいから、早く来い。俺は、お前を抱きたいんだ」

 荒く息を吐き出しながらニヤッと嗤うセスは、必死に抵抗して嫌がる光太郎の双丘をもみしだくようにして内部で凶悪に蠢いている自らの陰茎で突き上げた。その行為に前立腺を刺激された光太郎は、唇の端から蝋燭の明かりに煌く唾液を零しながら悦楽に身震いする。

「何を躊躇ってるんだ、アリス。見ろよ…ッ、コイツは男に抱かれて喜んでるんだ。遠慮なんかしてやるな」

「…僕を2人で犯せばいいじゃない」

 そう、セスの長大な陰茎だけで翻弄されているような光太郎だ、アリスまでその身体に受け入れてしまえば流石の光太郎でもぶっ倒れてしまうに違いない。
 その点、ふと、アリスは趣味の悪いセスを軽く睨み付けた。
 アリスは散々、セスや兵士たちの手によって酷いことをされ続けてきた。だからこそ、今ではなんでも受け入れることができるようになっているのだ。
 経験の浅い光太郎では到底無理だろう。

「お前を?そんな勿体無いことできるかよ。遊ぶには丁度いい…クッ!そんなに締め付けるなよ。ククク…玩具があるんだぜ?来いよ、アリス。すぐだ」

 無理だと知っているから、セスはわざと腰をグラインドさせながら自分を誘うんだろう。
 溜め息を吐いて、アリスは音もなく近づくと、主人とメイド姿の少年が睦みあうベッドを軋らせた。

「や、…嫌だ、…そんな、アリ…ッ!…ひぃ」

 必死に抵抗して、その顔には快楽と恐怖がベットリと張り付いていて、それでなくても嗜虐心を思い切り刺激すると言うのに…光太郎は馬鹿な子だとアリスは唇を噛んだ。

「…凄く痛いけど、我慢せずに声を出した方が楽だよ」

「?…ぅあ!?…ッア…ぃ…ひぃあぁぁぁッ!!」

 ゆっくりとその華奢な背中に伸し掛かるようにしながら呟くアリスに、一瞬、怪訝そうに視線を向けた光太郎は、それでなくてもめいいっぱい開かされて悲鳴を上げている後孔に、さらに指よりも太い陰茎を挿入されてこれ以上はないぐらい双眸を見開くと、夜のしじまを切り裂くような絶叫を上げて激痛に硬直してしまう。

「ひ…ぃ…ぅく、…ィ~~~ッ」

 その後はもう声もなくて、先走りを撒き散らしながら2本の雄が鬩ぎあう後孔の痛みは半端じゃなくて、今まで味わった苦痛の中でも群を抜いて光太郎を苦しめた。

「…ゃ、ア…ン。いい…もち、い…ッ」

 光太郎の身体を慮ればそれほど動きたくないのに、教え込まれた身体は驚くほど快楽に弱くて、モジモジと腰を揺するようにして、狭くて滑る内壁に、何よりも太くてゴツゴツした陰茎に擦り寄るとアリスは雪白の頬に朱を散らして悦んだ。

「ククク…そうだぜ、アリス。快楽を味わうんだ」

 光太郎を犯しながら快楽に頬を染めて没頭してしまう人形のようなアリスの顎を捉えると、セスは瑞々しい果物のようなアリスの口唇に唇を重ねるて、ねっとりとした舌を挿し込んで口中を思う様味わった。
 その口付けにも素直に従いながら欲望に忠実に従うアリスの可愛い仕種に満足して、その時になって漸く、セスは息も絶え絶えと言ったように、快楽さえ追えないでいる虫の息の光太郎に気付いてニヤリと嗤うのだ。

(そうだ、主が来る前に気絶でもするんだな。死にはしないんだ、気軽に意識を失っとけ。お前に目覚められてちゃ迷惑なんだよ…あのお方がもう少し早く連絡さえ寄越してりゃ、主に報せたりしなかったんだがなぁ)

 忌々しそうに舌打ちしたセスは、額にビッシリと嫌な汗を浮かべてぐったりしている光太郎の腰を掴むと、まるで腸壁を突き破ろうとでもするかのような激しさで責め立てた。

「ヒ…っ、ふ…ひ、あ…アア…ッ」

 思い出したように小さな声が上がるだけで、力も失くしてぐったりした身体はセスとアリスに犯されても力なく揺れるだけで、抵抗らしい抵抗もしてこない。だが、後孔だけは意識あるように痛みに窄まろうとしては、その瞬間を突き立てられて収斂を繰り返す。その行為がセスたちを悦ばせているなどと言うことには、もちろん意識も覚束なくなっている光太郎に気付けるはずもない。血液と精液を零す後孔を激しく蹂躙される感触に力なく悲鳴を上げるしかなかった。

(まあ、俺は楽しめるからいいんだがな)

 クククッと咽喉の奥で嗤っていると、可憐に打ち震える夢のように綺麗なアリスが、身体の下で息も絶え絶えにセスに凭れている光太郎を激しく犯しながら甘えるように、強請るように口付けをせがんで擦り寄ってくる。

「ん…んぁ、セス様…アン!…んん」

「アリス…もっとだ、アリス」

 光太郎の身体を挟むようにして、二匹の雄が互いの口唇を貪りながら甘い吐息を漏らしている。
 突き立てながらイッてしまうアリスの腰がふるふると快楽に震えて、白濁がぐぷっ…と粘着質な音を立てて零れても、それでもセスは許そうとはせずに更に深くアリスの腰を引き寄せて光太郎の後孔を貫かせた。

(も…い、やだ。…やめ…ッッ)

 声にならない悲鳴を上げる光太郎になど微塵の憐憫も見せずに、セスは愛妾の腰を抱くようにして、まるで彼を犯しているような甘美な快楽に溺れながら、いつ果てるともなく光太郎を犯し続けるのだった。

Ψ

「これが、風変わりな人間か?」

 夜半過ぎに、予定よりも早く到着した沈黙の主は目深に被った漆黒のフードはそのままに、ベッドで力なく横たわるメイド姿の少年を見下ろしていた。
 ぐったりとした顔には血の気がなく、何よりも、紺色のスカートの裾から伸びた華奢な足には、なぜか血液と精液がこびり付いている。

「ハ!折角ご足労を願ったのですが、主よ。どうも、私の誤認だったようで…」

 セスが、彼にしては珍しく恐縮したように頭を垂れている。
 感情の読み取れない無表情で意識をなくした光太郎を見下ろしていた沈黙の主は、傍らで恐縮しているセスをチラリと見遣ると、ヤレヤレと溜め息を吐いたのだ。

「単なる男好きの小僧でして…魔物と共にあるなどと言って我らを謀ったようでございます」

 セスが口から出任せの言い訳を試みると、主はどうでも良さそうに片手を上げて黙らせた。

「言い訳はいい、セス。どうも、無駄足だったようだな。戻るぞ」

 そう言ってさっさと部屋から出て行こうとする主の背中をニヤリと北叟笑んだセスが見送る傍ら、ふと、彼はベッドサイドに立っている鉄仮面の男に気付いて眉を寄せるのだ。

「…ディア」

 ふと、その仮面の向こうから呟かれた不明瞭な言葉を聞き取ることはできなかったが、彼が熱心に光太郎を見詰めていることに気付いて一抹の不安を覚える。

「ユリウス殿、何か…?」

 セスの問い掛けもまるで無視して、この不気味な鉄仮面の男は暗い仮面の向こうから光る双眸でただただ、淡々と光太郎を見下ろしているのだ。

「ユリウス!戻るぞ…何をしている?」

 一旦は部屋を出た沈黙の主は、いつも影のように寄り添っている片腕の不在に気付いたのか、戻ってくるなり突っ立っている忠実な部下を見つけて訝しそうに眉を寄せた。その声で漸くハッと我に返った鉄仮面の男は、胡散臭そうな目付きをしている主に気付いて居住まいを正した。
 取り繕う、などと言うことは一切しなかったが、それでも、鉄化面の男ユリウスは尊い沈黙の主に片膝を付く騎士の最敬礼をして、そのフードの奥に隠れた相貌を見上げると低い声音で言うのだ。

「主よ。必要ないのであればこの少年、私が貰い受けても宜しいでしょうか?」

(なんだと!?)

 表情にこそ出さなかったが、セスはギョッとしたようにユリウスを盗み見た。
 どこをどう見て光太郎の今の姿が、この朴念仁のような男の心を動かしたと言うのだ。
 散々犯されて穢された少年は、心身ともに傷付き疲れ果てたように眠っている。
 セスのユリウスに対する認識は、孤高で気高いと言うものだった。
 何処かの貴族の出身だと言う噂があるにも拘らず、そんな噂はどこ吹く風で、寡黙にして主以外の何者も目に入らないと言った風情の彼は、心底から国の復興だけを望んでいるのではないかと実しやかに囁かれていた。
 セスのように野蛮な男にしてみたら、どこか鼻をつく存在になりうるはずなのだが、どう言ったわけかセスはユリウスにだけは関わり合いたくないと思っている。
 いや寧ろ、恐らくセスにしてみたら一生認めはしないだろうが、彼はユリウスの存在に怯えていたのだ。
 不気味な鉄仮面に隠された素顔は主すらも見たことがないのではと言われていて、音もなく近付き、そして戦場にあれば凄まじい殺気に魔物どもは蹴散らされてしまう。
 皆殺し…の言葉がとてもよく似合う、不気味な黒甲冑の騎士なのだ。

(性欲なんざ、ねーんじゃねぇかと思っていたんだがなぁ…)

 思わぬ誤算にセスは内心で舌打ちしていたが、何よりも、国の頂点に立つ男が恐らくそれを拒絶するだろうと高を括っていた。

「…お前が何かに興味を示すとは珍しいな。だが、コレはもう使い物にはならんだろう。よく似た者を用意してやるぞ」

 沈黙の主がこの黒甲冑の男を大事にしていると言うあの噂は、強ち嘘でもなかったようだなと、目の前で繰り広げられる絶対的な信頼を寄せる主従関係をセスは冷ややかな眼差しでコソリと観察していた。

「いえ、主。私はこれが欲しい」

 そう呟いて、片膝を付いている黒甲冑の鉄仮面の騎士は、ふと肩越しにベッドでぐったりと横たわっている光太郎を見ているようだ。
 その熱心さに面食らったような沈黙の主は、ゆったりと腕を組むと高圧的な眼差しをしてふざけたメイド姿の少年を見下ろした。

「ふん、よかろう。身体の相性もあるだろうから今夜はここに泊まることにしよう。セス、用意をしておけ。明日の朝早く発つからな」

「あ、ハハッ!」

 その言葉を聞いて、セスはますます渋い顔になる。
 案の定、沈黙の主は穢されて投げ捨てられたような少年には一切興味を示すことはなかった。そこまではセスの思惑通りだったと言うのに…よりによって何故、影のように寄り添っているだけであるはずの主に忠実な騎士が興味を示すのだ。
 ギリッと、奥歯を噛んで盗み見た不気味な鉄仮面の騎士ユリウスは、主の言っていることをいまいち理解していなかったのか、訝しそうに首を傾げている。
 沈黙の主はそれだけを言うと、呆れたように肩を竦めてセスの部屋から出ると大広間まで堂々とした足取りで戻って行った。

「…ユリウス殿」

 希望した少年を手に入れた寡黙な鉄仮面の騎士がどの様な表情をしているのか窺い知ることは出来ないが、またしてもベッドサイドに突っ立ってウィッグの長い黒髪を持ち上げてジッと見下ろしている。その漆黒の外套を纏った背にセスが声を掛けると、彼は振り返りもせずに短く「なんだ?」と気のない返事を返してきた。
 その態度は下級の部下に対するものなのだから致し方ないことではあるが、まんまと獲物を掻っ攫われてしまったセスとしては面白くない。

「その小僧は男に抱かれることを何よりの悦びだと思っている淫乱です。どうぞ、毎夜激しく抱いてやってください」

「…それは真か?」

 はい、と軽く答えて肩を竦めたセスは、人の悪い笑みをニヤリと浮かべて顎をしゃくるようにして光太郎を指し示した。

「今日も、主がご来臨されると言っているのにこの様ですよ。恐らく、主が仰ったのは今夜、貴殿が彼を抱かれると思われたのでしょう」

「…」

 ユリウスは何を考えているのか、その思考を仮面の裏側に隠したままでムッツリと黙り込んでしまった。

(ふん、やはりお綺麗な騎士殿は薄汚れた小僧などに興味はないんだろうよ。おおかた、物珍しさで言ってみたんだろう)

 セスはニヤニヤと笑いながら、これからユリウスが「やはり、これはいらない」と言い出すのを、親切にゆっくりと待ってやることにしたようだ。

「ソイツは魔物とも寝るような奴ですぜ。確か、バッシュとか言う…ああ、魔族の大隊長の地位にある魔物ですかね。暴れていたので今は地下牢にいますが…ヤツがいないと夜も眠れないそうなんで、ソイツを引き取ってくださるのなら、あの魔物もお連れ下さい」

 矢継ぎ早の駄目押しを言って、さてどう出るかな、この戦好きの不気味な黒騎士はと、セスは半ば面白半分で様子を窺っていた。

「…なるほど。貴様が主に報告したのは強ち嘘でもないと言うことか」

「と、仰ると?」

 セスが内心でフンッと鼻先で笑うと、ユリウスは弄んでいる漆黒の黒髪をそのままに、どうやらニヤリと笑ったようだった。

「大隊長が可愛がっている小僧か…なるほど。だが、まあいい。ところで、セス」

「なんでしょう?」

 少年の黒髪のウィッグから手を離したユリウスは、その時になって漸く、彼はセスに振り返ったのだ。

「この衣装は必要ない。彼が普段着ている服装に戻して、部屋に連れてくるように」

「…ハッ」

 内心でチッと舌打ちしたセスの気持ちを、まるで見透かしたように腕を組んだ黒騎士は、仮面の向こうから意味ありげに嗤うのだ。

「案ずるな。そのバッシュとやらも、オレが連れて行ってやる」

「…!」

 不意にハッと顔を上げるセスに、ユリウスは仮面の奥の双眸を一瞬キラリと光らせて、口許にどうやら皮肉気な笑みを浮かべているのだろう、そう言い残してサッサと部屋を後にした。
 その後ろ姿を言葉もなく呆気に取られて見送っていたセスは、唐突に我に返ると、途端にムカついたようだった。

「なんだ、アイツは。とんだ猫被りじゃねーか!」

 畜生!と吐き捨てて、セスがキャビネットを蹴り上げる頃、完全に意識を失っている光太郎は辛そうな溜め息を零していた。

Ψ

 散々痛めつけられた身体は、それでも慣れてきたのか、随分と回復は早くなってきたようだ。
 セスが沈黙の主やユリウスの相手をしている間に幾らか回復していたのか、寝かされていたベッドの上でふと意識を取り戻した。
 ぼんやりする意識を必死で覚醒させながら、光太郎は背筋を貫くようにして脳天を直撃する痛みに一瞬息を呑んでから、恐る恐る身体を起こそうとしてギョッとした。
 てっきり、セスの部屋にいると思い込んでいたのだ。
 なのに、今見渡した部屋は彼の部屋よりも幾分か豪華だったし、何よりも、目の前に無言で突っ立っている黒甲冑を着た不気味な騎士を見ればギョッとしても仕方がないだろう。
 怯え…というよりも寧ろ、そのあまりにもあからさまに怪しげな格好に吃驚して声を出せないでいる、漸く上半身を起こした光太郎が目をパチクリさせていると、黒甲冑の男ユリウスはボンヤリでもしていたのか、ハッと気付いて目を覚ましている少年を見下ろした。

「目覚めたのか」

「…あんたは誰だ?」

 それでなくても衰えた体力ではダッシュで逃げ出すこともできず、光太郎は警戒しながら大きなベッドの上を後退ろうとして、ふと自分がいつもの服を着ていることに気付いた。

(あのふざけたメイド服じゃなくなってる!…よかった)

 ホッとしたのも束の間、ガチャッ…と鎧を鳴らして近付いてきた黒騎士にハッと気付いたときには、既に光太郎の顎は掴まれて上向かされている。
 意志の強さを秘めた良く晴れた夜空のような双眸を、どんな表情で見下ろしているのか、全ての感情を仮面の裏に隠してしまった男は無言で見下ろしていた。

「誰なんだよ!?やめろよ、俺に触るなッ…!」

 身体の自由が半分以上奪われている状態では凄んでみたところでお笑い種なのだが、それでも光太郎は嫌々するように首を左右に振ってユリウスの手を疎んだ。しかし、感情の読めない騎士は冷徹な力強さで持って少年の身体を慮ることもなく突き放した。

「ふん、矢張り気のせいだったな」

「…イテテッ。何が、何が気のせいなんだよ?って言うか、あんた、ホント誰なんだ??」

 ベッドの上に突き飛ばされるようにして倒れ込んだ光太郎は、それでなくても痛む身体を庇うようにして起こしながら、いったい今度は自分の身の上に何が起こったのかと苛々したように首を傾げている。この砦に来て初めて見る顔に、その時になって漸く光太郎がハッとしてポンッと左の掌に右拳を打ち付けた。

「そっか、あんたが沈黙の主なんだな!」

「…いや、オレは」

「あんたに話があるんだ!地下牢に閉じ込められている魔物を解放して欲しい。それが駄目なら、せめて綺麗なシーツとキチンとしたご飯を与えて欲しいんだッ」

 勝手に勘違いした光太郎は身体が悲鳴を上げるのも厭わずに、訝しげに立っているユリウスの胸元に縋るようにして掴み掛かりながら言ったのだ。

「魔城に囚われてる人間の兵士たちはちゃんと持て成されてるよ!そりゃあ、場所は地下牢なんだけど…でも!ちゃんと清潔なシーツと美味しいベノムのご飯と、綺麗な空気が入るように通風孔だってあるんだ。でも、ここの地下牢は最低だよ。魔物にだって感情はあるんだ。ほんの少しでもいいから、ちゃんとした場所で休ませて欲しいんだよ!」

 矢継ぎ早に言って懇願する光太郎を、黒騎士は無言で見下ろしていた。
 反応を示さない鉄仮面の騎士に、焦れた光太郎はどうして判ってくれないんだろうと困惑したように眉根を寄せて首を傾げてしまう。

「沈黙の主!俺は…ッ」

 そこまで言いかけて、光太郎は言葉を飲み込んだ。
 素早い仕種でユリウスに顎を掴まれて上向かされた先、鉄化面の向こう側から、まるで怒りを滴らせたような紅蓮の双眸が睨み据えていたからだ。

「魔物に…慈悲を与えろと?」

 腹の底から、いやまるで、地獄の底から搾り出したような低い声音で吐き捨てられて、彼の地雷原に足を踏み入れてしまったことに今更気付いた光太郎は、どうすることもできずにコクリと息を呑んだ。
 だが。

「そうだよ!慈悲とか、そんな偉そうなもんじゃなくていいんだ。ただ、ちょっとの優しさだよ。ほんのちょっとの、相手を思い遣る優しさなんだ。魔物にできるのに、どうして人間ができないんだよ!」

 それが悔しくて、同じ人間なのにどうして、魔物が持つあの泣きたくなるほど温かな優しさを持つことができないんだろう。
 光太郎はたとえここで殴られたとしても、それを訴え続けようと覚悟を決めていたのだ。

「…ふん。面白いことを言う小僧だな。己の立場と言うものを理解していないのか?」

「判るもんか!俺は俺だ、それ以上でもそれ以下でもない」

 強く顎を掴まれてその双眸を覗き込まれながらも光太郎は、負けるもんかと震え出しそうな両足を内心で叱咤して目線は逸らさない。
 その意志の強さに、ふと、ユリウスは何か面白いものでも見つけたような仕種をした。なぜならそれは、じっと覗き込んでいる、その紅蓮の双眸が一瞬細められたからだ。

「そうか、なるほど。セスの報告は矢張り間違いではなかったのだな」

「セス?」

「…貴様は、人間でありながら魔物を擁護する。その根底にあるものはなんだ?」

 なんだと聞かれても…難しいことが判るはずもなくて、光太郎は頭をフル回転させながらシックリくる言葉を探していた。その言葉を叩きつけてやって、晴れて魔物たちを解放してやるんだと意気込みながら。

「答えられないのか?所詮そんなものだ。情けなど自分の為にも、ましてや人の為にもならん」

 顎を掴んでいた手を離して息を吐いたユリウスは、仮面の奥から紅蓮の双眸で一瞬光太郎を睨んでから視線を逸らしてしまった。

「でも、情けのないヤツなんかクソ食らえだ!日本には人情って言葉があるんだぞ。あんたらには判らないだろうけどな!」

 フンッと、一方的で身勝手なことを言われてカチンときた光太郎はそう言い放つと、ベッドの上に胡坐を掻いて座りながら鉄化面の騎士を見上げた。

「どうして判ってくれないんだ!?魔物たちは、みんなちゃんと優しいのに。捕まえた人間たちを、ここにいる人間たちみたいに殺そうとしたり…その、ヘンなことしようとしたりはしなかったよ。それどころか、傷付いてる人たちの手当てまでしてたんだ!」

「煩い、小僧!」

「…ッ」

 ヒュッと咽喉が鳴って、光太郎は首を締め付けられながらベッドに押し倒されてしまった。

 突然、嵐のように襲ってきた漆黒の手甲に成す術もなく押し倒されて、それでもハッと我に返ると慌ててその手から逃げようと暴れるのだが、黒騎士の力は尋常じゃなく強かった。
 息苦しくなって顔を真っ赤にする光太郎を覗き込みながら、ユリウスはゆっくりと空いている方の手で自らの顔を覆っている仮面に手をかけたのだ。

「見るがいい。オレの顔に刻み込まれた魔物との長い確執の理由を」

「…ッぁ!」

 伸し掛かるようにしてベッドに押さえつけたままの光太郎の眼前で、ゆっくりと仮面を忌々しそうに剥ぎ取った黒騎士の素顔を見て、光太郎は言葉をなくしてしまった。
 その顔は、鮮やかな白髪に縁取られ憎しみに濡れたように光る紅蓮の双眸、高い鼻梁に酷薄そうな薄い唇…そして、その整った顔の右半分を舐めるようにして這う火傷の痕。
 唇も溶けたようにケロイド状になっていて、ともすれば目を背けたくなるほど酷い有様だった。

「この顔になってなお、このオレに魔物に優しくなれと言うのか?ふん、だが顔などどうでもいい。この傷がついたあの日、国が一夜にして滅亡する様をまざまざと見せ付けられたあの日…それをオレに忘れろとでも言うのか、貴様はッ」

 恐らく彼は、その火傷の痕から察するに、命辛々で生き延びたに違いない。
 そうしてその目で、燃え盛る自らが忠誠を誓う国が滅んでいく様を見せ付けられてしまったのか。
 顔から首に掛けて舐めるように這う火傷の痕は、そのまま身体にも延びているのだろう。
 光太郎は首を絞められて気が遠くなりながらも、鉛のように重くなる腕をノロノロと上げて、ビクッと肩を揺らす黒騎士の火傷を負った頬に、伸ばした掌をソッと当てていた。まだ、痛んでいるのかもしれないと躊躇するから、その手つきはとても優しかった。

「何をするんだ?」

 震えそうになる声を必死で冷静に保って、ユリウスは視線を逸らすこともしない見上げてくる漆黒の双眸を見詰め、それから居た堪れないように目線を伏せてしまった。
 それまでの怒りがまるで嘘のように引いて行くのは、誰もがその傷痕を見るとあからさまに嫌そうに顔を背けるか、哀れっぽい眼差しをしてから申し訳なさそうにソッと目線を逸らしていたと言うのに、光太郎は嫌がるどころか、まるで怯まずに一心に自分を見上げてくるのだ。
 少なからず、自分はこの顔に劣等感を持ってしまっていたのだなと、その時になってユリウスは認めたくはなかった心理を仕方なく受け入れて眉根を寄せた。

「…痛い?」

 訊ねられて、ユリウスは悔しそうに瞼を閉じた。

「今はもう、痛まん」

「そうか…でも、きっと。心は痛いんだよな?」

 ハッとしたように瞼を開くと、光太郎が今にも泣き出しそうな顔をしていた。
 言葉にしてしまえばどれも嘘っぽく聞こえてしまう、でも、言葉に出さなければ伝わらない想いもある。
 心を伝える為に、だから、言葉はあるのだと言うのに、人間は言葉の遣い方を驚くほど簡単に間違えてしまう。
 間違えないように、そんなことあるはずがないように、光太郎は躊躇わずに思いを言葉にしていた。
 隠さなければいけない思いもあれば、口に出さなければいけない想いもある。そんな難しいことは判らなかったが、それでも、光太郎は今心にある思いは言葉にしようと思ったのだ。

「痛くて痛くて仕方ないよな?でも、あんたは大人だから。泣くこともできないから、余計に苦しくて痛いんだよな」

 ふと呟いた光太郎の顔をマジマジと覗き込んで、ユリウスは眉間に皺を寄せて鼻先が触れ合うほど顔を寄せて言い放つのだ。
 この忌まわしい顔を見て、そろそろ我慢も限界ではないのかと。

「何を綺麗ごとを。貴様、この顔を醜いと思っているんだろう」

「醜い…とか、よく判んないよ。そんなことよりも、痛そうで辛いよ。だって俺、痛いの嫌だからな」

 眉を寄せてムッと唇を突き出した光太郎は、ユリウスの頬に触れた掌はそのままに、どうしてこの分らず屋は判ってくれないんだろうと首を傾げている。いつの間にか首を絞めていたはずのユリウスの大きな掌も光太郎の頬を捉えていて、気付けば2人ともお互いの頬に触れ合って、まるでキスをする寸前の恋人同士のようではないか。
 そんなこと、気付けるはずもない2人だが。

「今はもう痛まん、と言っただろうが」

「そうは言うけど、痛そうだよ」

 心配そうに見上げてくる瞳は不安に揺れて、一瞬、ベッドで横たわっていたときに感じたあの感覚が、もしや誤りではなかったのかとユリウスは動揺して、そして思い出していた。
 優しかった、あの漆黒の瞳を…
 今目の前にいる少年は、ベッドで力なく倒れていた少女のような儚さは微塵も感じ取れない。それどころか、忘れかけていた心の在り処を暴き出しそうなほど真摯で純粋な、その強さが眩くて…ユリウスはもしやと、儚い希望を見出しそうになっている自分に驚いていた。

「痛みはしないさ、その証拠を見せてやろう…」

 そう言って、ふと、ユリウスはきょとんとしている光太郎の唇に、自らのケロイドで右半分が引き攣れている唇を押し当てた。嫌がって逃げればそれでもいいと思っていたが、光太郎は吃驚して双眸を見開くだけで、別に逃げ出そうとはしなかった。
 もう、この国に連れ去られてきてからと言うもの、男が男にキスをしたり抱き締めたりすることに妙なところで免疫ができてしまっていたのだ。
 軽い口付けは、やがて息が上がるぐらい深いものになったが、ユリウスがそれ以上の行
為に進もうとした段階で、漸く光太郎がむずがるようにして嫌がった。

「…なぜ、嫌がるんだ?お前は男が好きで、抱かれることが好きなんだろ?」

「ハァ!?なに、言ってんだよ!!?」

 きょとんっとして首を傾げるユリウスに、光太郎はガバッと身体を起こしながら黒騎士の胸倉を掴んでグイグイッと引っ張った。

「む、無理矢理、その、エッチなことはイロイロされたけど…でも!!男が好きだとか、その、エッチが好きだとかそんなことはだなッ!」

 そこまで言って、唐突にハッとする。
 そうだ、自分はシューが好きなんだと。それもやはり男好きになってしまうんだろうか?と、光太郎が蒼褪めて頭を抱える頃には、ユリウスはどうやらセスにハメられたかとムッとしたものの、胸倉を掴んだままで考え込んでいる物怖じしない、不思議な雰囲気を持った少年を見下ろしてフッと笑った。
 独特な雰囲気を、そうあるように漂わせていたユリウスに、唯一物怖じせずに触れ合ってきたのは後にも先にもこの少年ぐらいだろう。忌まわしいこの顔を見ても、怯むどころか痛々しそうに傷を気遣ってくる人間など…ましてや魔物にだって、在り得はしないのだ。
 沈黙の主でさえ、例外ではなかった。
 ユリウスはあの忌々しい日からもうずっと、仮面に傷も、そして心すら隠して生きてきたと言うのに…
 セスにまんまと騙されはしたが、手に入れた少年は世にも得がたいものだったかもしれないと、ユリウスはもう一度、信じることにしたようだった。

「男好きではないのか、そうか。では、今からオレを好きになれ」

「はぁ?」

 首を傾げる光太郎に、自分の素顔を見ても物怖じすらせず、痛みを分かち合うように辛い表情をした掛け値なしの優しさを、人の好意を信じることに臆病になっていた頑ななユリウスが受け入れようとしているのだ。その事実にもちろん気付けるはずもない光太郎は、何を言われたんだろうとポカンッとして首を傾げてしまった。
 その間抜け面を覗き込みながら、ユリウスはクスクスと笑って柔らかな口唇に唇を押し当てるのだ。

「好きにならずとも、もう手放しはしないがな」

 懐かしい太陽の匂いがする黒髪と、晴れた夜空のような優しい双眸を持つ少年は吃驚したように目を見開いていたが、右半分に醜い火傷の痕を晒す漆黒の甲冑に身を包んだ青年はその身体を愛しそうに抱き締めた。
 とんでもないことになっちゃったんじゃないの、俺!?と、光太郎が動揺して慌てふためくのは、それから暫く後のことになる。

第二部 4.落日の遊戯  -永遠の闇の国の物語-

「うーん…ここから飛び降りるってワケには…」

「いきませんよ!」

『行くわけがねぇ!何考えてんだ!?』

「わー!」

 ビルで例えるならば丁度3階程度の高さに設置された窓から顔を覗かせていた光太郎は、不意に背後からニョッキリと伸びてきた2対の腕に絡め取られるようにして後方にスッ転んでしまった。

「いたたた…冗談だってば」

 腰を擦る光太郎は胡乱な目付きで腕を組んで見下ろしていた蜥蜴の親分バッシュと、心配そうにハラハラと口許に華奢な指先を当てて眉を顰めているケルトを見上げてバツが悪そうにエヘヘと笑っている。

『お前の冗談はハッキリ言って冗談に聞こえないから胆が冷える…って、確かシュー様に言われなかったか?』

「う!」

「さっきも木に飛び移ろうとしてたじゃないですか!落ちたらどうするんです!?仮に無事に飛び降りられたとしても、これから日が暮れて外は危ないんですよッ!!」

「うう!!」

 光太郎は300ポイントは下らないクリティカルヒットを一身に受けて、そのままガックリと石造りの床に両手をついて項垂れてしまった。その表情は今にも泣き出しそうだったが、心底からガックリしているのは、実はバッシュたちの方だと言うことに光太郎は未だに気付いていない。

「ちぇー、こんな砦なのにさ。中庭があるのにここが3階だなんて誰が信じるんだよ?冗談か何かかと思って、ちょびっと外を覗いただけじゃないか」

 唇を尖らせて逆に逆ギレで悪態を吐く光太郎を、だが、漸く本調子に戻ってくれたとバッシュはやれやれと溜め息を吐いた。
 光太郎はこうでなくてはお話にならない。
 何事も前向きに、何があってもどうにかなるさの根性で…そんな風に、周囲を気にして頑張って生きている光太郎を、魔物たちは大好きなのだから。

「ちょびっとって…さっきから窓ばかり見て、ボクたちの隙を狙っては飛び降りよう飛び降りようってしてるじゃないですか!もし落ちてしまったらと思ったら…うえーん」

 ハラハラしている未だ幼いケルトは、今にも泣き出しそうに大きな瞳に涙をいっぱいに溜めていたが、それでも小さな身体ではその衝撃の数々を受け止めるには、魔物たちほどの図太さはまだ培われてはいないようだ。
 小さな身体を丸めるようにして泣き出してしまったケルトに、ギョッとした光太郎は慌てて起き上がると床に座り込むようにしてそのあどけない顔を覗きこんだ。

「うわー、ごめん!ケルト、だから泣かないで。えーっと、えーっと…俺、好きな人がいるんだけど」

 その突然の告白に、思わずケルトが不思議そうな顔をして涙で濡れた拳の隙間からちょこんっと光太郎を見下ろした。
 その背後でバッシュが、『また始まるかもしれない…』と、僅かな期待を胸に、だが必ず起こるのだろう光太郎ワールドの顛末を見届けようと腕を組んで見守っている。

「その人がね、男は3回しか泣いたらダメだって言うんだ。そんなのホントは無理なのに…おかしいだろ?でも、そう言われてしまうと、頑張らなきゃって気持ちがこうウワーッと動くんだよね。だって、人間は魔物じゃないから、ホッとしても嬉しくても、思わず泣いてしまうから頑張らないとって…でも俺、そんなのおかしいって思うんだよね。やっぱ、城に戻ったら一度そのことについてキッチリと話し合わないといけないよね。うん、やっぱりダメだ。話し合おう」

 自分で言って、結局その台詞はケルトに言ったワケではやっぱりなかったのかと、バッシュが呆れて溜め息を吐いてしまうほど、光太郎は納得したように頷いている。その姿が面白かったのか、泣いていたはずのケルトがクスクスと笑っている。

「やっぱりおかしいよね?安心しても嬉しくても、泣いたらダメなんて。だって、人間には言葉に出来ないほどの感情ってあるんだよ。言葉が詰まって出てこなくて、苦しくて苦しくて…だから、その苦しさを和らげるために涙って零れるのに…もうね、きっと生理現象なんだよ。おしっこと一緒なのにさ、やっぱシューっておかしいよね」

 プリプリと腹を立て出した光太郎に、漸く俯いていたはずのケルトの顔は上がっていて、クスクスからケタケタと泣き声の代わりに笑い声が上がっている。その様子にやっとホッとしたように光太郎が微笑むのを『お前の方がよほどおかしい』と蒼褪めて思っていた魔物のバッシュは見逃さなかった。
 不器用な光太郎なりの冗談だったのか…いや、本気なのだろうが、ケルトが笑ったことに安心したんだろう。光太郎とはそう言う人間なのだ。
 一頻り笑っていたケルトは落ち着いたのか、にこっと花が綻ぶように笑って覗き込んでくる光太郎を見下ろした。

「ボクも、光太郎さんのお好きな方が仰るように、泣かないように頑張ります」

「うん!ここにいる間は一緒に頑張ろう」

「はい!」

 元気よく頷く人間の少年たちを、バッシュは蜥蜴面からでは到底想像もできないが、困惑したように顔を顰めて額にうっすらと汗を浮かべている。シューが光太郎に対してだけは、異常にハラハラしていた気持ちが、何となく今は判るような気がする。

「あの…シューって。もしかして光太郎さんの好きな人と言うのは、魔将軍のシューではないですよね?」

 笑っていたケルトの表情が不意に一瞬曇って、その空色の水晶玉のような大きな瞳に翳りが浮かんだ。小さいながらも元気なケルトのその表情を見ていた光太郎は、僅かに眉を寄せるのだ。
 この世界の住人がどれほど魔物を憎んでいるのか、光太郎はここに来て思い知っていた。恐らく、人間たちの住んでいるラスタランの国に行けば、ここ以上に嫌と言うほど思い知ることになるのだろう。
 でも、と光太郎は思う。

(俺からしてみたら、ここに来た方が地獄みたいな日々だった…でも、どっちが悪いのかなんて、何が悪いのかなんて俺には判らない)

 しょんぼりと眉を寄せた光太郎は、それでも自らの気持ちを偽ることはどうしてもできなくて、眉を顰めて凝視してくるケルトの強い双眸を受け止めながら微笑んだ。

「うん、そうだよ。俺は魔将軍のシューが好きなんだ」

 相手にはされていないけどねと困ったように笑ったら、ケルトは困惑したような表情を少しだけ緩めて、それから溜め息を吐いた。
 その表情も仕種も、まるで年相応の少年からは見受けられないほど大人びていて、光太郎にはそれがとても哀しかった。

(こんな砦に閉じ込められていれば仕方ないのかな…この砦、ホントむかつくよなー)

「なんとかできたらいいのに」

「え?」

「あ、いやなんでもないんだ」

 小首を傾げるケルトに慌てたように首を左右に振って取り繕うようにアハハハと笑う光太郎を、腕を組んだままで黙して見守るバッシュは内心で『また何か企んでるな』と思って溜め息を吐いていた。

「…ボクの国は魔将軍シューの手によって滅ぶところまで追い詰められていました」

 ポツリとケルトが呟いて、光太郎はソッと眉を顰めた。
 先の戦を思えば激しい激戦が繰り広げられたのだろう、シューは確かに光太郎には優しいが、魔軍を勝利に導く将軍である。大方、予想されるように容赦などはしなかったのではないか。

『…そーか、お前の国はデルアドールだな。シュー様が追い詰めた国と言えばそこしかない。ん?でも、デルアドールとラスタランは敵対していなかったか?』

「ご存知でしたか」

 ケルトはバッシュの言葉に首肯しながら小さく笑った。
 その表情はとても哀しかったが、光太郎は何も言えずに唇を噛み締めるしかなかった。
 戦争は常に何かを遺して往く。
 それはけして拭えない深い傷痕を残して…どうすることもできない、やり場のない怒りに、それでも言葉すら出ない自分のちっぽけな存在にいっそ泣きたくなっていた。

「今一歩のところで、どう言ったわけかラスタラン国が救いの手を差し伸べてくれたんだそうです。大人たちがそう言っていました。だからボクは…この国には逆らえない」

 俯いた顔に表情はなく、零れ落ちる蜂蜜色の髪が少し疲れた色を宿す頬に影を落として、幼すぎるケルトをさらに小さく見せていた。

『故郷に恩義を感じて?ガキのくせにたいした根性だな』

「ボクだって!…ホントはこんなのは嫌です。でも何もできないから…これぐらいしかできないから」

 キュッと唇を噛み締めたケルトは、この時は珍しく怯えることもなく蜥蜴の親玉のようなバッシュを軽く睨んで見上げると、その大きな空色の水晶玉のような瞳から今にも涙が零れそうだった。
 何もできなくて…その気持ちはいつも光太郎が感じているものだった。
 そうか、ケルトも同じ思いを噛み締めていたのか。

『ガキは何もしなくていいんだよ。大人しく家にいて、大人が帰ってきたら笑って抱きついてやりゃハッピーじゃねーか』

「え?」

 キョトンとしたような顔で腕を組んだまま首を傾げているバッシュを、悔しそうに俯いていたケルトは弾かれたように見上げると、呆然としたように見詰めている。
 何を言われたのか、理解できないと言いたそうな表情は、子供らしさを取り戻して戸惑う子犬のようだった。

『シュー様が、まだソーズが小さかった頃によく仰ってたからな。お前が待っててくれたらハッピーだってね。俺なんかは家族とかいないからよく判らねぇけどよ』

「あのシューが??」

 驚いたようにバッシュを見上げる光太郎に、蜥蜴の親玉のような魔物はニヤッと唇の端を捲り上げるようにして笑った。

『驚いただろ?』

「うんうん、驚いたよ」

 吃驚したように目を丸くする光太郎に気をよくしたバッシュは、腕を組み直すと上機嫌で肩を竦めて見せた。

『シュー様はソーズを大事になさっておいでだったからな』

「そうなんだ」

 その一言に、なぜか、光太郎は打ちのめされたような気がした。
 心のどこかでは判っているのだがそれでも、仄暗い嫉妬が胸の奥で燻ってしまう。
 恐らくあの空中庭園で、大事に抱えられていたあの亡骸が、シューが大事に想っていたソーズなんだろう。光太郎は口に出せない思いが咽喉許までせり上がってくるのを必死に耐えながら、そんな自分の浅ましい想いなど消えてなくなってしまえばいいのにと思っていた。
 ソーズはどんな魔物だったのだろう…自分のように、こんな風に穢れてはいなかったんだろう。
 考えれば考えるほど暗い方向に突っ走りそうで、必死で明るいことを考えようとしても失敗ばかりしている。そんな光太郎の傍らで、腕を組んだままでバッシュが呟いた。

『シュー様にとっては、血は繋がらなくても大事な家族だったからな。家族ってのはそんなモンなんだろ?』

「あの魔将軍が…」

 傍らで呆然と聞いていたケルトは俄かには信じられないとでも言うように見開いていた双眸をゆっくりと床に落として、何か言いたくて、だが言葉にできなくて首を左右に振るのだ。

『でもな、俺もシュー様には賛成なんだぜ。戦から戻って来ると待機組とかいるワケだが、やっぱこう待っててくれるヤツがいるってのは幸せだからな』

 ニヤニヤと蜥蜴顔で笑うバッシュに、光太郎は珍しく彼が饒舌になっているなと思ったが、どうやらこの魔物は【誰かが待っている】と言うことに対して深い執着があるようだ。

(そう言えば、戦の前にもバッシュは俺にそんなことを言ってたっけ)

 それは恐らく、彼が言うようにバッシュには待っててくれる家族がいないのだろう。
 シューとソーズの関係をどうやら間近で見ていたに違いないバッシュは、いつしか彼もその関係に憧れるようになっていったのだろう。
 だが、家族なんてものはすぐに手に入るようにみえて、実はその繋がりは深くて貴重で、けして容易く手に入れることのできるものではないのだ。それを思い知ったバッシュは、だからこそ、哀しくなるほどの孤独を抱き締めながら憧れて憧れて…未だに執着している。
 だから光太郎に忠告したのだろう。
 せめてお前は、シュー様のために城で待っててやれと。
 大切な者を亡くしてしまった魔獣であるシューの心は、まるで散々ハリケーンに見舞われた大地のように荒れ果ててしまっているに違いないのだから、せめてお前は…

(なのに、俺ってばのこのこ着いて来てこの様だもんなぁ…よく、バッシュに呆れられなかったと思う。感謝しなくちゃ、うん)

 今さら後悔してもどうしようもないのだが、後悔と言うよりは寧ろバッシュに対して申し訳なく思いながら決意した。その光太郎の傍らで、ケルトがしょんぼりと眉を八の字に寄せて唇を突き出している。

「ボクは、家族に男娼でもなんでもしてお国の為に頑張れって言われました。そんな風に、ボクも、誰かを待っていたかった…それだったら、もしかしたら、幸せだったかもしれないのに」

「ケルト…」

 どんな経緯でこの砦に来ることになったのか…恐らく、ケルトのいた国と沈黙の主の住まうラスタラン国は敵対していたと言うから、戦争のドサクサで幼いケルトはラスタラン兵の手に掛かってしまったのだろう。
 あの戦場で、光太郎がそうであったように。

「バッカみたーい。なに、面白くもない話をしてるのさ。脱走の相談だったらまだ面白かったのになぁ」

 何か言おうとして躊躇っているその背後から、TPOというものをまるで無視した暢気な声が呆れたようにそんなことを言ったから、バッシュは思わず身構えて、光太郎はむっとしたように眉を寄せて背後を振り返った。
 その声には聞き覚えがある。
 ムーッとして振り返った先、光太郎はその姿を見て唖然としてしまった。
 まるでどこの国の姫君が迷い込んできたのかと目を疑いたくなるほど、この寂れた砦にあっても輝きを失わない美しい少年が、吃驚している光太郎を見下ろして胡乱な目付きで溜め息を吐いている。
 ひらひらとした軽い印象の服の裾を揺らしながら、細身の身体をしっとりと覆う薄絹に包まれた少年は、幾つもの腕輪を嵌めた華奢な腕を組んで廊下で座り込んでいる光太郎とケルト、そしてその傍らで威嚇する魔物を順に見遣っている。
 さすがにバッシュには微かに怯んでいるようにも見えるが、相変わらず堂々とした態度でツンと取り澄ましている。

「…アリスか、吃驚した」

「えー?どーして吃驚するワケぇ?まさか僕を忘れちゃったとか??ひどぉーい」

 さほど傷付いてもいないくせにわざとらしく眉を顰めて大袈裟に言った後、アリスはクスクス笑いながら光太郎の陰に隠れようと身体を縮めているケルトを鼻先で笑った。

「早速、新人に取り入っちゃってるの?光太郎は挿れると可愛いけど、その他は普通だしぃ?取り入ってもどーしようもないんじゃない?あ、それとも挿れてみたいとか?」

「はぁ?何、言ってんだよ。お前こそ、そんなひらひらした服着てどこ行くんだ?まさか、それが普段着とか言うなよ?気色わる」

「なにそれ、酷ッ」

 さほど堪えてもいない光太郎に見事な柳眉は険を含んだように寄せられているが、案の定、さほど気にした風もなく音もなく歩いて来たアリスは光太郎の服を掴んで怯えたように俯いているケルトの前で腰を下ろすと、その顎を繊細そうな指先でクイッと上向かせながらクスクスと悪魔の微笑を浮かべた。

「どうしちゃったの?そんな顔してぇ…僕に挿れた時はもっと嬉しそうにしてたじゃない。あ、でもその後だったっけ?セス様の太いのでお尻が裂けちゃったのって…それでも何度も何度も突っ込まれて血塗れで…」

『うるせー人間だな。なんだお前は、淫乱予備軍か?』

「淫乱予備軍~?なにそれ。僕はホントのことしか言わないもん♪」

 クスッと鼻先で笑って蒼褪めたケルトから指先を外したアリスは立ち上がると、まるで花に惑う蝶のようにふらふらとバッシュの前まで歩いて行った。上から下まで興味深そうにジロジロと観察していたアリスは、濡れたように艶めく唇をペロリと舐めてふふふっと笑った。

「ケルトは挿れられるたびに切れちゃって、後宮総取締役としては後始末が大変なんだよねぇ」

『ふん、どんな大役かと思えば雑用係かよ』

 バッシュはアリスのとっておきの流し目も意に介した風もなく、呆れたような馬鹿にしたような蜥蜴面で肩を竦めている。

「そうだよ♪嫌になっちゃうぐらい雑用係。ケルトの後始末は大変だけどぉ…今はセス様、僕に夢中だしぃ?もう心配は要らないけどねー」

『そんなの俺の知ったことか…って、気持ち悪ぃヤツだな』

「なにそれ、酷ッ」

 光太郎に言ったのと全く同じことを言いながらも、アリスは興味津々と言った様子でバッシュをジロジロと大きな双眸で不躾に観察しているのだ。見られることに慣れていない蜥蜴の魔物は、いちいち癪に障るのか、苛々したように小柄なアリスを見下ろしている。
 だが、彼の首を締め付ける一見ただの革のベルトのようなチョーカーが、彼の実力を縛り付けて戒めているせいで、思うように力が出せないでいるのだ。こんな小煩い蝿は片手で払い飛ばしたい気分なのだが…

「決めた!魔物なんて初めてだし面白そー♪だから、今から挿れていーよ♪」

 ガバッと抱き付いたアリスに光太郎はギョッとして、ケルトは瞠目してあまりの驚きに掴んでいた服を放してしまった。抱き付かれた当の蜥蜴の親分としては、それでなくても完璧なポーカーフェイスでは何を考えているのか読み取ることは不可能だったが、少なくとも後世の為に首の骨ぐらいは圧し折ってやっていた方がアリスの為にもいいのかもしれないと思っているに違いないが定かではない。

「アリスってヘンなヤツだよなー」

 ヤレヤレと光太郎が溜め息を吐くと、抱きつかれたままでバッシュがそんな光太郎を振り返りながら頷いた。

『光太郎、俺は間違っていたよ。コイツは淫乱予備軍じゃない。バカだ、ただのバカ』

「なに、それ。ひどぉーい。せっかくこの僕が挿れてもいいよって言ってあげてるのに!」

『バカじゃない、大バカだ』

「あははは、もうバッシュ真面目な顔して冗談言わないでよ」

 とうとう光太郎が噴出してしまうと、途端にアリスはムッとしたように唇を尖らせてしまった。
 ハラハラしたように事の顛末を見守るしかないケルトとしては、どうして良いのか判らないと言いたげに眉が寄っている。

『極めて真面目だぞ、俺は』

 表情に然して変化を見せないから余計に笑えてしまう光太郎がうぷぷっと笑っていると、アリスは「失礼しちゃうなぁ」と唇を尖らせたままでプリプリと腹を立てながらもクスッと口許に笑みを浮かべた。その様子は、この砦に来て初めてケルトが目にしたアリスの態度だった。
 いつもは常に癇癪玉を持ち合わせているかのようにピリピリしていて、気付けばいつもケルトは先ほどのように虐められているし、他の子たちもその毒舌の毒牙に掛かって麻痺しているような状態だったのに、こと光太郎に関わってしまった後のアリスは牙の抜けた猫のようになってしまった。ご自慢の毒舌も光太郎やバッシュの前では色褪せてしまい、ともすれば年相応のただの少年に見えるから不思議だ。

(…光太郎さんとバッシュさんて本当に不思議な人たちだ)

 ケルトがそう思っても仕方がないほど、あのアリスが、唇を尖らせながらもクスクスと笑っているのだから。そんな笑顔を、ケルトはここに来て一度も見たことがなかった。
 どこか虚ろな表情をしているかと思ったら、小馬鹿にしたようにか、呆れたようにしか笑った顔は見たことがない。

「あーあ、魔物と犯るのも楽しいと思ったのになぁ!そーだ、僕。セス様に言われてここに来たんだっけ」

 疲れたように溜め息を吐いた後、退屈そうにアリスは嫌なことでも思い出したと言いたそうに眉を寄せると首を左右に振った。

「どこ捜してもいないんだもん。徘徊しすぎー」

「あいてッ」

 鼻先をピンッと弾かれて痛そうに眉を寄せる光太郎をクスクスと笑ってから、鼻面を押さえる少年の顔を覗きこむと軽い上目遣いでおどけたように唇を尖らせた。

「セス様が光太郎に部屋に来いってさ。沈黙の主様が夜明け前に到着なさるからー、その前に抱きたいんだって。あの人、好きものだしぃ」

「うはー、断ることは…無理か」

「そゆこと。地下牢の魔物を思うならね」

 驚くことに、アリスはどうやら何かを盾にして相手の自由を奪うと言うことを、どうやら毛嫌っているようだ。光太郎に釘を刺すように言ってはいるものの、その深い深緑色の瞳は不機嫌そうに翳っている。

「アリスってセスの取り扱いに慣れてるんだろ?」

「なに、そのどーでも良さそうな言い方」

「一緒についてきて♪」

「いやーん、何言っちゃってんの?」

 うんざりしたように項垂れてしまう光太郎を心配そうに気遣うバッシュとケルトを見比べながら、そのくせ、当の本人はいたって仕方なさそうに冗談を言うような始末だ。

「僕の見解はそこの魔物と一緒。ちょっと間違っちゃってたみたい」

「何が?」

 あーあ、またエッチなことしないといけないのかーと、バッシュやケルトを気遣いながらも、ちょっとうんざりしたように溜め息を吐いていた光太郎が首を傾げると、アリスは片手を腰に当てて片手で光太郎を指差しながらビシリと言ったのだ。

「君ってさ、きっと大物になると思うよ。うん、間違いない」

「はぁ??」

 光太郎は指差されたままで間抜けな声を出していた。

Ψ

 居心地は、正直言ってよくはない。
 寧ろ、悪い。
 アリスにせがまれても首を縦に振らなくて良かったと、光太郎は心底思いながら溜め息を吐いて自分が座っている場所を見下ろした。
 そこはこの砦を支配している男が塒にしている部屋で、連日の激戦だったらしいと言うのに、調度品は整っている。今、自分が腰掛けているベッドですら、スプリングが効いていて横になればぐっすり眠れるだろう。
 連日連夜苛まれた身体が受けたダメージは思った以上に酷かったのか、それとも風呂場で致してしまったのがいけなかったのか…いずれにしろ、主のいない部屋のベッドの上に腰掛けていると強烈な睡魔が襲ってくる。
 アリスは、セスはこんな風にひらひらした服が好きだから絶対に着るべきだと断固として言い張っていたが、別に気に入られたいワケじゃないから絶対に嫌だと言って断わったら、彼は少しだけ眉を寄せて不安そうな表情をしていた。

《じゃあ、せめて気に障るようなことをしたり、言ったりしたら駄目だからね》

 と、忠告してくれたがそんな心配必要ないのになと思っていたが、妙にそれに頷いているバッシュを見ていたらムカッとしてしまったのはなぜだろう?

「それじゃまるで、俺が誰にでも食って掛かってるみたいじゃないかー」

 待っていてもこの部屋の主が戻ってくる気配もなく、そろそろ痺れを切らしてしまった光太郎は思い切り伸びをすると、そのままふかふかのベッドにダイブしてしまった。
 自分の性格をいまいち把握できていない向こう見ずの光太郎は、軽い欠伸をしてから、久し振りに柔らかな寝具に横たわって思わずうとうとしていた。
 それがいけなかったのかもしれない。
 そうしてうとうとしていた光太郎は、気付けばいつの間にか熟睡してしまっていた。
 よほど疲れていたのか、すぐに寝息を立て始めた光太郎の今の状態では、たとえ身体中を触られても槍が飛んできても、全く気付かないだろう。
 光太郎が寝入ってしまって暫くすると、ふと、この部屋の木製のドアが少し軋んで押し開けられた。
 入ってきたのはもちろんこの部屋の主…ではなく、奇妙な衣装を片手に持って、腰に片手を当てたアリスだった。

「んもー、やっぱり寝ちゃってる。こう言うところ、ちょっと無防備だよね」

 呆れたような不機嫌そうな顔をして可愛い唇を尖らせた、天使のようにあどけない麗しさを持っているアリスは首を左右に振りながらベッドで熟睡を決め込んでいる光太郎の傍らまで歩いて行くと、途端に悪魔の微笑でニヤリと笑うのだ。

「この僕の申し出を断わるなんていい度胸だよね?うふふ、でも大丈夫だよ。僕がちゃぁーんとセス様が気に入るようにしてあ・げ・る♪」

 何も知らずに寝入ってしまっている光太郎を見下ろして、嫣然と悪魔の微笑でクスクス笑うアリスは、それから徐に眠れる子羊の服を剥ぎ取りに掛かったのだ。

Ψ

 セスは途中で捕まった策士の一人に的確な指示を与えた後、差し迫る刻限を気にしながら足早に自室に戻っていた。
 待たせているはずの下級兵士たちの慰み者は、どこにでもいる平凡そうな子供だった。
 この砦には常に男娼として子供が送り込まれてくるが、そのどれもがハッと目を引く華やかさを持っていたから、殊更あの魔物を慕う奇妙な人間の少年は平凡以外の何者でもないように思えて仕方がなかった。
 それでも…と、セスはニヤリと笑う。
 魔物どもが絹にでも包んでるんじゃないかと聞きたくなるほど大事にしている、あの、魔軍にあってしても強烈な印象を叩きつける有翼の蜥蜴面をした大隊長すらも、まるで赤子のようにあの少年の前では鳴りを潜めている。それどころか、大事な人だと言って憚らない。
 ましてや彼は、魔軍の副将シンナの愛馬ティターニアに乗っていた。

(黒髪は確かに不気味だが…あの目付きはいい。もう少し年を取れば、充分兵士としても遣えるだろう…が)

 セスは光太郎の持つ意志の強さを認めながら、戦場の血生臭い風に刻まれた皺を歪めると、うっそりと笑うのだ。

(何よりも腰に来る。奇妙なヤツだ、まるで穢れを知らないとでも言うような真っ直ぐな眼差しを持ちながら、どこか諦めたような退廃的な艶を持っている)

 それはともすれば、見る者を惹き付けて止まないかも知れないし、或いは憎しみすら抱かせてしまうかもしれない。そのアンバランスさが、彼を風にすら立ち向かえるほど強い心を持つ少年時代に留めているのかも知れないが…

(俺の場合は…後者だな。メチャクチャにしてやるのも面白い。わざわざお出で戴く主には申し訳ないが、散々遊んだ後に必要とあればあの方に引き渡しても俺に損はねぇしなぁ)

 セスはククク…と咽喉の奥で笑い、漸く辿り着いた自室の扉を勢いよく押し開いた。
 セスに抱かれる少年の殆どは男との経験…というよりも寧ろ、性行為そのものに免疫のない者たちばかりだった。だからこそ、誰もが皆、蒼褪めた相貌をして訪れるこの砦の主を、魔物でも見るような目付きで迎え入れる。
 その目付きが堪らなく好くて、ゾクゾクと身体の芯を疼かせてくれるから、セスはその瞬間が堪らなく好きだった。
 あの強い双眸を持つ少年ですら、それは恐らく例外ではないだろう。
 どの様に怯えた目付きで自分を見るのか、それを考えると今から股間部に熱が集中するのを感じていた。
 が。

「…なんてヤツだ」

 セスは見渡しても見付からない光太郎の姿を求めて寝室に行き当たり、広いベッドでぐっすりと熟睡している少年を見下ろして呆気に取られたようにポカンと口を開けてしまった。それから次いで、バツが悪そうに苛々して前髪を掻き上げたのだ。
 怯えるわけでもなく、かと言ってその雰囲気とは裏腹に諦めていると言うわけでもない暢気な態度で、光太郎は安らかにスヤスヤと眠っているのだから堪らない。
 そしてその格好。

「いや、確かに俺は好きだがな」

 そう言って、腰に両手を当てて見下ろすセスの眼前で、柔らかなメイドの衣装に身を包んだ光太郎が安らかな顔をして寝返りを打った。
 男しかいないこの砦になぜメイドの衣装があるのか…それは、男娼として働くことになったアリスが冗談半分で郷里から持参してきたものだった。彼の屋敷で働いていたメイドの衣装で、何かの役に立つかもしれないと思ったアリスの思惑通りになったのかならないのか、何れにせよ、セスの眦は下がっている。どうやら成功しているようだ。

「おら、起きろ。小僧、寝込みを襲われてーのか?」

「へ…ん?…あれ、ここは…あ!」

 小突く勢いで叩き起こされた光太郎は、寝惚け眼を擦りながら、自分がどこにいるのか認識できずに暫くぼんやりと視線を彷徨わせていたが、ふとセスの顔を見た瞬間、漸く彼の瞳に理性の光が戻ってきた。慌てたようにガバッと起き上がって、それから奇妙な感触に我が身を見下ろして更にギョッとした。

「な、なんだこれ!?」

「メイドの格好だろ?なんだ、俺を悦ばせようとでも思ってたのか。殊勝な心構えじゃねーか、ん?」

「そんなんじゃないよ!…どうしてこんな格好してるんだろ??」

 ベッドの上に起き上がった光太郎は、ご丁寧に長い漆黒のウィッグまで付けられて、勝気そうなメイドさんそのものではないか。
 さらっと絹糸のような黒髪は、その勝気そうな良く晴れた夜空のような双眸に似合っていて、確かにセスでなくても思わず萌えってしまうのは致し方ない。
 困惑した顔をして眉を寄せていた光太郎は、どうやら心当たりがあるのか、溜め息を吐きながら自分を見下ろしているセスを見上げた。
 心外ではあるが、今はこのままでいるしかないだろう。
 ここで「こんな服着てられるかー!」と言って脱ぎ捨ててしまえば、それこそセスを喜ばせるに違いない。

「こんな野暮な砦には珍しく可愛いメイドじゃねーか。ご主人様にご奉仕するんだろ?」

「…はい、ご主人さま」

 それは些細な切欠に過ぎなかったが、セスが嗾けた遊びに、光太郎はうんざりしながら乗ることにしたようだ。そもそも、またしてもエッチなことをしないといけない、とは判っていても、その切欠がいつも作れないでいるのだ。そのせいで、毎回痛い思いをしなければいけなくなるのなら、どんなに恥ずかしくても相手の思惑に乗るように見せかけながら流れを掴まなければいけないと思った。
 その浅はかな思惑すらも、百戦錬磨のセスに見抜かれていることなど知る由もなく。

「じゃあ、まずはその可愛いお口でおしゃぶりでもしてもらうかな」

「…ッ!…は、はい」

 光太郎は主をセスとしながらも、ベッドの上にちょこんと座ったままで身動ぎすらもできないでいる。散々教え込まれた身体は欲望には反応するが、屈辱的な言葉には羞恥と怒りで反応するようにできているらしい。
 反抗的な双眸で睨み上げられて、セスは図らずも背筋がゾクゾクするのを感じていた。
 今からこの、勝気な双眸を持つ恐れ気のない少年を屈服させるのだ。
 今までに見てきた少年たちよりも遥かに、どうやらセスを喜ばせてくれそうだ。

「どうした?返事ばかりで行動が伴っていないぜ。魔物どもに媚びる人間はやっぱり魔物に似て嘘吐きなのか?」

「そんなこと!…あるわけないです。すぐに、ご主人さまッ」

 半ばヤケクソのように膝立ちでにじり寄った光太郎は、目線の高さにセスの股間を捕らえて一瞬だけ逡巡したが、それでも唇を噛み締めると躊躇いながら下穿きをゆっくりとずらしたていた。
 既に硬くそそり立っているその長大な血管を浮かべる赤黒い陰茎の勢いにギョッとしたように目を見開いたが、それでもそっと手を這わせると、舌を出して舐めようとして、また躊躇うように瞼を閉じて溜め息を吐いた。
 そのあまりにも嫌そうな態度を見下ろしながら、セスはもう頂点まで昇り詰めてしまってるんではないかと思いたくなるほど背筋に競り上がってくるゾクゾク感を思う様味わっている。

(クックック…言葉ではなんと言っても、嫌なんだろうなぁ。その顔が、どれほど扇情的か思いもしないんだろうよ)

「どーした、やめたいのか?」

 クイッと、嫌そうに瞼を閉じて溜め息を吐く光太郎の顔を上向かせたセスが殊更嫌味っぽく言ってやると、メイドの姿になっている少年とも少女ともつかぬ存在はムキッと腹を立てたように薄っすらと朱色に染めた眦を釣り上げて睨み返した。

「んなわけねーだろ!…じゃなかった、そんなワケないです。ご主人さま、喜んで」

 あからさまに嫌そうなのにどこが喜んでるんだと、内心でニタニタ変態オヤジ丸出しで嗤っているセスは、それはそれはと薄ら笑いを浮かべて黒髪のウィッグを撫でてやった。
 はぁぁぁ…っと、思い切り溜め息を吐いた光太郎は観念したのか、目の前で勃ち上がっている凶悪な陰茎の濡れそぼる先端をちろりと舐めた。
 しょっぱい味が口腔内に広がって一瞬眉を顰めたが、それでも瞼を閉じて意を決したように先端をぱくんと咥えると、チュバチュバと音を立てながら吸ったり、その血管の浮く幹を舐め上げたりと、たどたどしく拙い舌戯に励んでいる。その間もまだ幼い手淫は快楽の在り処を知ることもなく、必死と形容する以外にないような荒っぽさで扱いていたが、その意に反することもなく光太郎の口許を濡らしていた透明な液体が溢れ出て指先をしとどに濡らしていった。
 透明な液体は舌を出して舐め上げる先端から溢れ出て、口許を濡らしていたそれは顎に伝うと、ボタボタとベッドのシーツに零れ落ちている。
 無心に舌を這わせるその長い黒髪が揺れ、その可憐な仕種にうっとりと目を細めるセスが不意に撫でていたウィッグを乱暴に引っ掴むと股間から顔を上げさせた。

「…ッ!」

 どんな仕組みで装着させられているのか、セスの力でも外れなかったウィッグはそのまま髪を引っ張るのと同じ痛みを与えたのか、伸ばした舌先に唾液が銀の糸を引くように陰茎から剥がされた光太郎は、それでも痛みを堪えるように片目を閉じてこの砦の、そして自らの支配者を見上げた。

「おしゃぶりは下手なようだな?何を教わってきたんだ」

「う、うう…ごめんなさい、ご主人さま」

「スカートを捲り上げて、ご主人様によく見えるように膝立ちになれ」

「…ッ」

 唾液と先走りに濡れそぼった口許を悔しそうに歪めながらも、光太郎はおずおずと紺色のオーソドックスなメイド服のスカートを掴んだ。目尻に浮かぶのは悔しさからか、それともただの生理的な涙なのか…

「ハッ!よくできたメイドじゃねーか。いい眺めだ」

「…」

 思ったとおり、光太郎の下肢に下着はなかった。
 恐らく、あの性悪な小悪魔が寝込みを襲ってこんな服を着せたのだろう。あれほど断わったのに…唇を噛み締めて、頬を朱色に染めて羞恥に恥らう光太郎はご丁寧に下着まで奪っていった小悪魔の顔を思い出していた。
 覚えてろよ…と思ったわけではないはずだ。
 漸く薄っすらと生え揃った草叢から、先ほどの行為で興奮してしまった薄桃色の陰茎がふるっと震えて勃ち上がっている。
 確かにそれは、扇情的でセスの嗜虐心を大いに煽っていた。

「ご主人様のが欲しいのか。おしゃぶりだけで感じまくってるメイドさん?」

「う…は、はい。ご主人様が欲しいです」

「…いい返事だなぁ。こいつぁ、兵士どもが夢中になるはずだ」

 え?とでも言いたそうに、羞恥に目許を染めた光太郎が泣き出しそうな表情で見返すと、その顔にまたゾクゾクと煽られたセスはククク…と咽喉の奥で嗤いながらギシッとベッドを軋ませて近付いた。ギクッとしたように後退りそうになって、それでも踏み止まった光太郎は伸ばされたセスの掌に頬を捉えられてギュッと瞼を閉じた。
 瞼を閉じる瞬間に目に入ってしまった、その凶悪なほど大きく張り詰めた凶器が、今から襲い掛かろうとしているのだと思うと泣きたくなった。
 こんなことしたいワケじゃないのに、ただ、シューの許に帰りたいだけなのに…どうして。
 何度も呟きそうになって飲み込んでいた言葉がまたしても脳内に木霊して、掴まれた頬を強引に引っ張られて思わず倒れそうになった光太郎はだが、すぐにぬるっとした感触が唇を這って躊躇いがちに口を開いていた。
 強要されて覚えた濃厚な口付けは、何度しても好きになるものではなかった。

「ん…は、ふ…んぅ…ッ」

 ピチャピチャと犬が水を飲むような音を響かせながら濃厚な口付けを交わして、小刻みに震える指で持ち上げているスカートから覗く華奢な太股の付け根で勃ち上がる陰茎に長大な赤黒い、血管を浮かび上がらせた凶悪な陰茎が摺り寄せられていた。その後方では、セスの節くれ立った剣を握る無骨な指先が、先走りを絡めてひっそりと息衝く蕾に潜り込んでいく。

「んん!…ふぁ…ッ、…ア…ん」

「…はっ、キスはうめーな。のめり込みそうだぜ、この俺がな」

 自らの手練に自信があるのか、唾液に濡れる光太郎の唇をベロッと舐めたセスはニヤリと嗤ってそんなことを呟いたが、光太郎の耳にその呟きは届いていたが意味を成してはいなかった。
 葡萄でも潰すような音を響かせて狭い肛道を探る指先に、翻弄されるように身悶える身体を引き寄せると、そのまま覆い被さるようにしてベッドへとダイブする。

「俺のはでかいからな、キレても逃げるなよ」

「あ…ひぃ…や、痛いのは…嫌だッ」

 身体を捩って逃げ出そうとする光太郎を容易く押さえ込んで、恐怖に蒼褪める光太郎の双眸を食い入るように睨み据えながらセスは、その時になって漸く本音を晒す女装の少年の足を大きく割り開いて肩へと担ぎ上げた。
 スカートから伸びたすらりとした足が恐怖に震えながら宙を蹴り、抵抗するように揺らめく腰に、そのキスの合間に弄虐されて綻んでいる花に長大な陰茎が押し当てられる。

「ひぅ!…やだよォ…怖…いやあッ…ああ!!」

 双眸を見開いて、生理的な涙が頬を伝っても気にすることも出来ない光太郎は、ぬぐぐぐ…ッと強引に花弁を散らすようにして狭い肛道に潜り込んでくるその圧倒的な圧迫感に、本能が恐怖を感じてシーツやらスカートやらを無意識に握り締めていた。

「クッ!…思ったよりも狭いな。もう少し進んだら…ちっ、切れちまえばいいんだがな」

「や!嫌だ…うぁ!…あ、あ…ひぃ」

 太いカリの部分が強引に押し開いても、誘うように収斂するくせに、思い出したように拒絶する内壁に阻まれて、なかなか思うように突き進むことができない。無理に花開かされた後孔の健気な抵抗は、だが、主の身体を傷付ける結果となっていた。

「ひ…ヒ、い…うぅ~…ッ」

 快楽よりも苦痛が押し寄せて、光太郎は我を忘れてハラハラと薄紅に染まる頬に涙を零していた。
 セスが念じたとおり、無理に突き進めば身体は悲鳴を上げて、程なくして後孔の抵抗が緩んだ…というよりも寧ろ、ピシッと儚い音を立てて切れてしまった部分から、溢れ出した鮮血の滑りを借りて動きがスムーズになったと言うべきか。
 それでも最後まで咥え込ませるまで随分と時間を要して、セスは半ば腹立たしそうに失神寸前の光太郎の頬を軽く叩いた。ハッと意識を取り戻すとズ…ッと腰を進めて、その痛みに顔を歪める様を堪能しながら根気よく挿入を続けていた。
 メイドの衣装が似合っているせいか、処女を犯しているような倒錯した気分に陥りながらもセスは、乱暴に腰を揺すって自らの長大な一物を捻じ込んでいった。

「…ふ~、全部入ったぜ。おいおい、まさか気を失ってるんじゃねーだろーな?」

 セスが本気で殴れば頬骨など砕けてしまうに違いないが、軽く叩いても真っ赤になる光太郎の頬などお構いなしに、乱暴に腰を突き上げながらも失神しかけているその頬を叩いたのだ。

「…ぅ…あ、アア…ぃ、痛…ぁ……ッ」

「クソ、面白くねーな。そーだ、お前。上に乗れや」

「…!!や、む、ムリ…ぅああ!」

 それでなくても切れて悲鳴を上げる狭い後孔を問答無用で犯されていると言うのに、こんな状態で初めての体位など無理に決まっている。だが、もちろん、光太郎など魔物ぐらいにしか思っていないセスが許してくれるはずもなく、容赦なく抱え上げられたままお互いが反転するような形でセスの身体を跨ぐことになった。

「ハハハッ!まるでそうしてると、ホントに女みたいだな。挿れられてるところこそケツだがよ」

「ひ!…や、いやだぁ…痛、いたい…指、指挿れんなよッ!…うぁ!!」

 巨大な陰茎でぴっちりと蓋をしたようにそれ以上は一分の隙もない蕾に、更に指を捻じ込んで抉じ開けようとしているセスの態度に恐怖を覚えた光太郎がその厚い胸元を拳で叩いたとしても、屁でもないと言った感じで熱心に指を蠢かしている。
 光太郎の意思に反して柔らかく蕩けた蕾はセスの先走りと鮮血に促されるようにして、無骨な兵士の指先さえも咥え込もうと貪欲にひくついていた。

「ん…んふ…ひぁ!…アア…」

「ククク…それでいい、さあ隠れてないで出て来い」

「…?」

 誰に言ってるのか判らずに眉を顰める光太郎をまるで無視して、セスは腰を蠢かしながら一頻り光太郎を鳴かせ、指先で押し広げるようにして淫蕩な娼婦のように淫らにひくつく花開いた後孔を弄虐している。

「コイツの胎内は…ッ、柔らかく吸い付いてくるぜ。ふん、もう試した後か?」

「ひぁ!…ぅんん…れに、誰に言って…?……やぁ!」

 グリッと柔らかな内壁を擦り上げられて、光太郎はあられもない嬌声を上げていた。漸く痛みの中に快楽を見出したのか、それまで緊張したように突っ張っていた腿から力が抜けたのか、がくんっと上体を倒してしまった光太郎が自らもセスの長大な陰茎に内壁を擦り付けようとでもするかのようにゆらゆらと腰を淫らに揺らめかせて喘いでいる。
 その光太郎の敏感な襞を、長大で凶悪な陰茎を捻じ込ませたままで、さらに広げるようにして指先で捲る仕種に身も世もなくメイド姿の少年は扇情的に咽び泣いた。
 その姿を、物陰からひっそりと見詰めながら誰かが、そっと唇を噛み締める。
 その気配を感じてセスが、ニヤリと人の悪い笑みを浮かべていた…

第二部 3.孤独の砦  -永遠の闇の国の物語-

 そわそわと歩き回る獅子頭の将軍を、この世ならざる美しいかんばせを持つ、同じく魔の国の将軍は腕を組んだまま、眉を顰めて観察している。かと言って、何か言うつもりは端からないようだ。
 その姿よりも、美しき魔将軍が顔にこそ出さないものの、心を痛めているのはそんなことではない。

『だー!!クソッ、何だこの睨みあいは!!』

 獅子面の魔将軍、シューは停滞してしまったラスタランと魔の国の攻防戦に苛々したように咆哮したが、美しき魔将軍、ゼィは呆れたように溜め息を吐いてそんな知己を見詰めていた。

『何より、お前の目付きが気に食わん。言いたいことがあるならさっさと言え!』

 ブスッと唇を捲り上げて威嚇するように牙を剥くシューに、ゼィはフンッと鼻先で嗤って肩を竦めた。
 あからさまな八つ当たりなのだが、古くからの友人は然して気に留めた風もない。

『致し方ない。こちらとて迂闊に動くべきではないことぐらい、知らぬ其方でもあるまい』

『うーるせーよッ!ゼィ。俺はそんなこた聞いちゃいねぇ。なんでシンナのことを聞かない?』

 内に秘めてしまうのは美しい魔将軍の悪い癖で、それを知っているシューは、ともすれば威風堂々とした立派な鬣に埋もれてしまいそうな丸みを帯びた耳を伏せるようにして、金色の双眸を細めながら古くからの友人を見た。

『シンナ?ああ…そう言えば姿が見えぬな。おおかた何処かで息でも抜いているのだろうよ』

 明らかに嘘臭いゼィの台詞に、シューはあのなぁ…と言いながら、この頑固で寂しがり屋の友人にこめかみを押さえながら溜め息を吐いた。

『…済まないと思ってるんだぜ。こんなことになっちまって。だからお前、また人間なんかに関わったらとんでもねぇって恨んでるんだろうな』

『いや…ふふふ、まさかだよ。シュー』

 その思ってもいなかった台詞に、シューは一瞬驚愕したように金色の双眸を見開いたが、次いで、すぐにゼィが何を言いたいのか理解したように胡乱な目付きになってしまった。

『楽しんでるのか?冗談じゃねーな』

 ククク…と咽喉の奥で嗤うゼィは、腕を組んだままで顎を引くと上目遣いでそんなシューを睨み付けた。
 深い紫の双眸は、それでも少しは憂いを湛えているとでも言うのか…?

『楽しんでいるだと?それこそ、まさかだよ。シュー』

 ゼィが一体何を言いたいのか判らなくなったシューは、溜め息を吐いて肩を竦めた。
 これほどまで長い間傍にいた仲だが、時にこの知己の考えていることが判らなくなってしまうことがある。恐らくそれはシンナも同じなのだろう。だからあのお転婆は、其の侭ならない想いに癇癪を起こして痴話喧嘩へと発展していくのだろうなぁと、シューはうんざりしたように考えていた。

『人間は嫌いだよ』

 ふと、目線を落として呟くようにゼィが言って、シューはチラリとそんな冷たい美貌を持つ魔将軍を見た。

『恨んでいない、憎んでいないと言えば嘘になる。もちろん、私は今でも人間は好まぬ。だが、光太郎は別ではないか』

『ゼィ?』

 人間嫌いで悪名高いゼィの、その台詞は容易に信じられる言葉ではなかった。我が耳を疑ったシューが、あれほど贄の儀式をしろと魔王に迫っていたゼィの、その嘘とも本気ともつかない言葉に眉を顰めたのだ。

『私とて、自分がどうかしてしまったのではないかと思っている。だがな、シュー。シンナが、あれが選んだのだよ。シンナが選んでしまったのなら、私はもう何も言えなくなってしまうのだ』

 お前がかよ!?…と、思わず叫びそうになってしまったシューだったが、そんな獅子面の魔将軍の間抜け面を見たゼィが、口許に微かな笑みを浮かべて首を左右に振ったので何も言えなくなってしまった。

『惚れた方の負けなのだから…即ちそう言うことだよ、シュー』

『ゼィ…おめー、やっぱりシンナのことを。じゃあ、何で無碍にするんだ?』

『無碍?』

 何を言い出すんだとでも言うように、ゼィはムッとした顔をした。

『私を無碍にしているのはシンナの方だ。これほどまでに心を砕いていると言うのに、あれはまるで私を無視している。そうして、とうとう人間などを追って行ってしまった!』

『いや、だからそれは俺のせいで…』

『お前が言い出したのだぞ、シュー。シンナは私よりもあの人間を取ったのだ。ふん!それほどまでに特別なのだよ光太郎と言う人間は。だから私に何が言える?教えて貰いたいものだな』

 冷たい、無表情のその奥で、これほどまでに熱い激情を隠していたのかと瞠目するシューに、怒りの治まらないゼィはムカムカしているように腕を組んだままで唇を噛んだ。

『シンナは一度とて私を省みただろうか?あれこそ、私のことなど…ッ』

 不意にゼィが言葉を飲み込んで、シューはハッとしたように冷たい美貌の魔将軍を見た。

『ゼィ?そう言えばお前、顔色が悪いな。大丈夫なのか…?』

 大きな掌でゼィの冷たい頬を掴んで上向かせたシューに、冷酷だと謳われる魔将軍は悔しそうに眉を寄せて言い募るのだ。

『少し疲れたのかもしれん。だが、其方のその半分でも、シンナが私を想ってくれればいいのだがな』

『…済まんな、ゼィ。俺にはその気持ちが判らねぇ』

『なんだと、シュー?』

 獅子面将軍の大きな掌を厭いながら振り払ったゼィは、少し蒼褪めた相貌でニヤリと嗤うのだ。

『これは面白いな。お前には判るはずだよ。それが今でないのなら、何れ間もなくだろうよ』

 はぁ?と眉間に皺を寄せる獅子の顔を見て、ゼィはふふふと笑って首を左右に振った。
 昔ながらの友人の鈍感さに、ゼィは改めて親しみが込み上げてきたのだ。
 ああ、その半分でも…ゼィはそこまで考えて首を左右に振った。
 シンナが鈍感ならそれでもいい、なのにあのディハールの戦士は、鋭すぎるぐらい鋭い鋭敏な感性を持ちながら、まるでゼィを無視しているとしか思えないような行動を起こすのだ。
 それが判らない…ゼィは唇を噛み締めた。
 何度身体を重ねても、繋ぎとめておけない自由の翼を持つシンナ。

『惚れた方の負け…か。致し方あるまいなぁ』

 やれやれと先端の尖った長い耳をへにょっと垂らしたゼィが、認めてしまったのは自分なのだからと仕方なさそうに溜め息を吐くのを、やっぱりシューは良く判らないと言うように首を傾げている。

『さて、はねっかえりの副将と、好奇心旺盛な魔王の贄が戻るまで、今暫し城を護っていようではないか』

 困惑して首を傾げている長身の獅子面将軍の背中を思い切り叩いたゼィの台詞に、グヘッと思わず呻いてしまったシューはニヤニヤと笑っている冷酷で美しい魔将軍を呆れたように見詰めてしまう。

『怒ってんだな、お前』

『当たり前だ。私を無視して勝手な行動を取るシンナが悪い。戻ってきたならば、説教をしてやらねばならん』

 フンッと外方向いていたゼィが、ニヤ~ッと笑いながら少し上にある獅子面将軍の顔を目線だけで見上げるのだ。

『もちろん、無鉄砲な贄もだがな』

 ふふふっと嗤うゼィに、今更ながらシューは感謝していた。
 こう言う会話で、ゼィはゼィなりに、シューの不安な気持ちを和らげようとしているのだ。
 それが判っているからこそ、思う以上に冷たくはないゼィを気に入って、こうして長らく傍にいた。

『…お手柔らかに』

 だから殊更、なんでもないことのようにシューは肩を竦めた。
 心の奥深いところで渦巻く不安など、有りはしないとでも言うように。
 同じように不安を抱え込んでいるに違いないゼィと、全てを分かち合うように。
 そうしながら、シューとゼィはこの闇の世界で生きてきたのだ。

Ψ

 ぴちゃん…ぴちゃん。
 広い石造りの浴室に水滴の跳ねる音が響き渡って、光太郎は湯気の中でぼんやりと天井を見上げていた。
 あの後、牢屋から出されたバッシュの首に華奢な意匠の鉄のチョーカーのようなものを嵌めたセスが、肩に光太郎を担いだまま蜥蜴の親分のような魔兵を引き連れて地下牢を後にすると、光太郎をこの部屋に投げ込んでからバッシュと共に姿を消してしまった。
 何が起こったのか目を白黒させる全裸の少年は、湯気の濛々とするその場所が浴室であることに気付いて、下半身の不快感を洗い流そうと、ワケの判らないままひたひたと歩いて浴槽の縁まで行くと、座り込んで木桶で熱い湯を汲み出して被った。

「…どうしたらいいんだろ」

 バッシュまで連れて行かれて、いきなり独りぼっちになってしまった不安に、唐突に光太郎は立ち上がると慌てたようにして扉に近付いた。もしかしたらセスは、バッシュをどうにかしようとしているのではないだろうか…いきなり湧き上がった不安に、それでなくてもあの蜥蜴の親分のような魔兵は大隊長と言う地位にあるのだ、セスの残酷な拷問を受けているかもしれない。
 不安にかられて把手を引っ掴むと同時に、光太郎が力を入れる前に扉が押し開かれてしまった。

「わわわ!?」

「うわ!?…って、何してるのさッ」

 片手に柔らかそうなタオルや服やら、身体を洗う道具なんかを持った光太郎とほぼ同い年ぐらいの少年が、思わず尻餅をついてしまった光太郎を見下ろして呆れたような顔をしていた。
 柔らかそうな栗色の髪をした少年は、少しきつい印象を与える美少年だ。
 浴室のぬくもりで、白い頬は仄かに色付いて、ともすればその年齢には似合わない色気のようなものまで漂わせている。だが、そんな機微に疎い光太郎にしてみたら、とても可愛らしい子だなと言う印象しかないが。

「セス様に言われて来たんだけど、何?新しい男娼くんなワケ?」

 少年は倒れている光太郎の腕を掴んで起こすのを手伝ってやると、テキパキと手にしていた服やタオルを脇に置かれた籠に投げ込んで、何やら怪しい道具の入った籠を片手に片膝を付いて屈み込むと、浴槽の湯加減を見ながら振り返って小首を傾げる。
 その双眸は、確かに性格はきつそうだが光太郎に対する敵意のようなものは見受けられない。

「えっと…よく判らないんだけど」

 男娼の真似事のようなことはしていたのだが、正確にそうなのかと言われると答えはノーだ。
 だから、この見知らぬ少年にどのような自己紹介をしたらいいのか光太郎には判らなかった。

「えー?判らなくてこの砦に来たの??ふーん、ヘンなの。ま、いっか。僕には関係ないもんね」

 短パンに生成りのタンクトップのような上着を着ただけで、極めて質素な出で立ちの少年はだが、ハッとするほど品があると光太郎は瞠目してしまった。

「あー、でも。それもちょっと違うかなぁ。この僕がいるってのにセス様ったら、また男娼をお召しになるんだもん。ムカツイちゃうよね。それが…君みたいな子だし」

 ヘラのようなものを取り出したり、何やら奇妙な液体の入った小瓶を取り出したりしながら唇を尖らせる少年に、光太郎は手持ち無沙汰で突っ立っていたが、恐る恐る近寄るとその傍らにペタリと座り込んで小首を傾げるのだ。

「えっと、俺。男娼になるの?」

「え?なんで、それを僕に聞くの?!なんだか、ヘンな子だね。あれ?もしかして君かな、魔族と一緒に捕まった捕虜で、下級兵士たちの慰み者になってる人間って」

「あ、うん。それ、俺だ」

 噂になっている可哀相なはずの人間の子に対する意識が、光太郎を見て少し変わった少年は困惑したように眉を寄せた。

「嘘でしょ?魔族と一緒にいたなんて。どーせ、あの性欲バカたちがなんやかんや理由をつけて、何処からか連れてこられちゃったんでしょ?」

「え?ううん、違うよ。俺、魔族とずっと一緒にいたんだ。闇の国に戻りたいんだけど…捕まってしまって」

 唇を噛み締めて俯く少年を、ふんわりと柔らかい栗色の髪を持つ、大きな双眸の少年はその瞳をこれ以上はないぐらい大きく見開いて、信じられないとでも言うように首を左右に振ったのだ。

「え、え??なに言っちゃってるの??闇の国に戻りたいって…君、人間なんでしょ??」

 両手で困惑したように頬を押さえる少年に、光太郎は小首を傾げながら頷いた。
 何をそんなに驚いているんだろうと、光太郎こそ不思議そうな顔をしている。

「人間だけど?あ、君には判らないかもね。俺、魔族とずっと一緒にいたから、魔物たちといた方がいいんだ」

 こんなことを言えば、あのセスや兵士たちのように、奇妙なものでも見るような目付きをされて気味悪がられるんだろうと、光太郎は判っていたがそれでも言わずにはいられなかった。
 バッシュも誰もいないこんな所で、たとえ同じ人間の少年と一緒にいたとしても、なんだろうか、この落ち着かない不安感は…
 まるでもう、光太郎は人間と言うよりは寧ろ、魔族に一番近い存在になりつつあったのか、人間といてもホッとできないのだ。
 そんな様子を感じ取っているのかいないのか、少年は大きな双眸でジッと、心許無さそうに俯いて、まるで迷子になってしまった子犬のように心細そうな困惑の表情で俯いている光太郎を見詰めていた。
 が…

「ふーん、そうなんだ。でも残念だね、ここから逃げ出すなんて、たぶん無理だし」

 少年は別に気味悪がるでも、侮蔑するような目付きをするでもなく、どうでも良さそうな態度でそう言うと、スポンジに石鹸を滑らせて泡立て始めた。

「あれ?君は変な顔しないんだね。ここに来てから、俺が魔物と一緒にいたいって言うとみんな酷い顔したり笑ったり、殴ったりされたからさー」

 ブーッと唇を突き出すようにして悪態をつく光太郎を、栗色の髪の少年はクスクスと笑いながらその腕を取って洗い始めた。

「そりゃ、仕方ないよ。みんな魔物が嫌いだしぃ」

「うん、それはもう判ったんだけど…って、俺、自分で洗うよ」

 頷きながら、取られた腕を引っ込めようとする光太郎の動きをニッコリ笑って封じ込めた少年は、鼻歌でも歌いだしそうなウットリした綺麗な顔で笑っている。

「これは僕のお仕事なの。城から男娼になる子が送られてくるでしょ?そうしたら、こうして僕が身体を清めてあげて、いつでもセス様が抱けるように肛門の始末とかするんだよ」

「う、うえぇぇ?!そ、そんなことされなくても自分で…」

「あははは♪自分で肛門の中まで洗えないでしょ?はい、背中洗うよ」

 こここ!?と、光太郎が酷く慌てていると、少年はお構いなしに背中を洗い、それから後ろから抱き締めるようにして光太郎の前を洗い出した。その悪戯なスポンジは、柔らかな感触で、まだ幼い陰茎までも捕らえてしまう。

「ひゃ!…ッ、…んん」

 やわやわと揉みこむようにして陰茎から冷たい石造りの床にコロンと転がる二つの果実まで洗う少年の手管に、光太郎は成す術もなく顔を真っ赤にして膝頭をあわせて抵抗しようとした。

「だーめ!ちゃんと洗っとかないと…うーんと、えい!」

 ニコッと笑った少年がモジモジと身体を丸める光太郎の背中を押して、前のめりに押し倒すと、ギョッとする光太郎に伸し掛かりながらふふふっと笑うのだ。

「後ろも洗わないと…って、あれ?なに、さっきまで何か咥えてた??」

「や!…嫌だってッ、離せよ!…ッ」

 スポンジで華奢な陰茎を弄びながら、ソープの滑りを借りて窄まっている可憐な蕾にほっそりした指先を潜り込ませようとしていた少年は、光太郎の胎内が柔らかく潤んで、とろりとした液体が溢れているのに気付いて小首を傾げた。
 その言葉に、羞恥に頬を染めた光太郎はギュッと双眸を閉じて激しく首を左右に振る。
 そう、たった今まで兵士の慰み者になっていたのだ、そのときのことを思い出して、彼の貞淑な蕾は淫蕩に溺れた娼婦のように艶かしく収斂した。

「あー、そっか。下級兵士の男娼にされちゃってたんだよね?それでこうなのか。うーん…でも、君って経験少ないでしょー」

「あ、当たり前だよ!こ…んん!指抜けってッ!こんなの、…ここに来て初めてだッ!」

 くちゅくちゅと指を二本に増やして掻き回すその淫靡な指遣いに、光太郎は湯気のぬくもりとは違う別の熱で頬を火照らせながら、嫌々するように首を左右に振って両手で抵抗しようとしている。

(なんでもない、普通の子っぽいのになー♪)

「やっぱりーふふ。ねぇねぇ」

 身体を押し付けるようにして少年は覆い被さって、その耳元に薄紅色の艶やかな唇を押し当てて囁くと、光太郎は目元を染めながら潤んだ双眸で首を傾げた。

「なに…?」

「挿れてみていい?」

「なな!?…それって…」

 目を白黒させる光太郎に、少年はクスクスと淫蕩に蕩けた蜜のような微笑を浮かべて、光太郎をドキドキさせた。淫らな指先は相変わらず胎内で蠢くし、スポンジとソープの滑りで陰茎はふるふると可憐に震えている。
 眩暈のような快楽の中でも、光太郎は唇を噛み締めて涙目で訴えた。

「い、嫌だぞ!俺、本当はこんな…って!ゆ、指を抜けってばッ」

「えー、嫌~。だってココ、くちゅくちゅしてて柔らかくて、何か食べたいよって吸い付いてくるもん」

「そんな!…んッ」

 切なげに悶える光太郎の媚態にペロリと紅い舌で唇を舐めた少年は、光太郎を鳴かせていた指を引き抜くと、同じように淫らに頬を染めながらズボンの前を寛げて、勃ち上がった陰茎を取り出して物欲しげに収斂を繰り返す蕾に見せ付けるようにして擦り付けた。
 くちゅくちゅと淫らな粘着質の音を響かせるカウパー液の滲み出る陰茎の硬い感触に、光太郎の背筋が波立った。無理矢理時間をかけて覚え込まされた蕾は、頭で考えるよりも素直に欲しいと訴えている。

「あんな連中に犯されるのってどうだった?僕ってさぁ、ホラ可愛いでしょ?だからセス様、離してくれないんだよね♪抓み食いとかしてみたいけど、バレちゃったら怖いしぃ。だからねー、こうして男娼くんたちと遊んでるんだ♪いつもは挿れさせるんだよね、だってその方が面白いでしょ?男に挿れる味を覚えさせて、セス様に犯されるんだよ?それで頭がイっちゃう子もいるけど、嵌っちゃう子もいるんだよねぇ。ま、どっちの子も見てて楽しいけどぉ…でも、どうしてかな?君には突っ込んで見たいって思っちゃった」

 キャハッと、まるで他人事みたいに呟いて、いや確かに他人事ではあるのだが、光太郎は信じられないとでも言いたげな表情をして悪趣味な少年を肩越しに見上げた。だが、うっとりするほど綺麗な顔で微笑まれてしまって、どうしていいのか判らなくなった。
 くちゅん、くちゅ…と、淫らな音を出して蕾の皺を伸ばすように擦り付けられる陰茎に、またしても始まった光太郎の華奢な陰茎に施すスポンジとソープの弄虐に、もう自分が何をしているのか、何をされているのか茹ってしまった脳味噌では考えられない。

「や…あぁ、ん…ふ…んん」

 気持ち良さそうにうっとりとする光太郎は、この砦に来て初めて受ける、痛いだけではないセックスに幼い身体は驚くほど素直に蕩けてゆく。

「うそ!いや~、可愛い♪」

 切なげに喘ぐ光太郎の、熱で微かに色付いた乳首を空いている方の手で捏ねくりながら、その年齢からでは考えられないほど淫らな表情をした少年は、嬉しそうに甘い声を漏らす組み敷いた少年の首筋に痕が残らないように吸い付いた。

「あ…あぅん!…ん、…ア!…ぅぅ…ン」

 光太郎は気付いていなかったが、蕾を捕らえて擦り付けられているはずの陰茎に、自ら厭らしく腰を揺らめかせて擦り付けていたのだ。

「ふふ…もう、いつ挿れちゃっても平気だよね♪」

 楽しそうに少年が呟くと、光太郎はワケも判らずに頷いていた。
 うんうん、早く。
 ねえ、早く入れて。
 言葉には出ていなかったが、甘えるような仕種が少年を欲しいと訴えている。
 そんな気持ち、光太郎はここに来るまで知らなかった。暴かれていくような気持ちと、早くこの熱を散らして欲しいと思う気持ちとが幼い身体で鬩ぎあって、もう、どうにかなってしまいそうだ。

「ねえ、挿れてって言って?アリスのおちんちん、挿れてって言って♪」

 くちゅくちゅと蕾を先端で弄りながら、はち切れんばかりに勃ち上がって、精嚢から送られてきた精液でいっぱいになった先端部分が、もう限界だとばかりにパクパクしている鈴口を爪先で引っ掻きながら囁くと、光太郎は開けっ放して閉じることを忘れてしまった唇の端から唾液を零しながら耐えられないとでも言いたそうに首を左右に振った。

「ねえ、言わないと…このまんまだよ」

 クスッと少年が笑う。
 自分も毎夜、セスにそうして弄虐されているのだが、彼の気持ちが少し判ったような気がして嬉しくなった。
 こと、今まで見たどんな男娼よりも、光太郎は可愛いと思ったのだ。
 パッと見たときはどこにでもいそうな少年だったのに、一皮向けば、驚くほど淫らで清廉で、そのアンバランスさが堪らなく愛らしかった。恐らく、彼の勘に狂いがなければ、きっと自分の立場を脅かすのはこの少年かもしれないと、天使のようにあどけない愛らしさを持つ淫靡な少年、アリスは考えていた。

「ハ…うぅ…、ア…あァ…ッ」

 握り拳を作って石造りの床に両手を這わせた光太郎は、まるで犬のように四つん這いにされたまま腰を高く持ち上げられて、それでも判らずに溜め息を零している。
 ぽたぽた…っと、唾液が床に零れ落ちる。

「言わないの?言わないと…このままやめちゃうよ?」

「あ!…や、嫌だッ…ぉ願い、…やめな…ッ」

「じゃあ、言って」

 クスクスと笑う天使の微笑を浮かべる悪魔に、光太郎はハラハラと泣きながら首を緩く左右に振るのだ。

「リス…の、ん…ちんを…」

「えー、やだぁ。聞こえなーい」

「…はぁ、…んッ」

 涙目で唇を噛み締めたのは、先端部分の括れをぐにぐにと揉み込まれたからだ。

「アリス…の、…お…ちんち…挿れて…」

 溜め息のような甘い声に、アリスは満足したようにニッコリと天使の微笑を浮かべると、それまで忙しなく可憐に打ち震える蕾を擦っていた陰茎をずぶっと音を立てて挿し込んだ。挿入は突発的で、驚くほど呆気なかった。
 だが、硬く撓る鞭のような先端部分で、ごりごりと柔らかな内壁を擦り上げられると、それだけで光太郎は達ってしまいそうになった。だが無論、この天使の顔をした
 小悪魔がそう簡単に許してくれるはずもなく、すぐさま陰茎の根元を押さえ込んで射精を堰き止めてしまう。

「あ!?…んで、それじゃ…ひゃぁ!」

 達けない…と呟きかけたとき、不意にアリスの陰茎が光太郎の精嚢の裏に当たる部分、前立腺が隠れている部分をグリグリと突き上げたのだ。

「あ、ココが好いんだ♪…ッ。あ、すご!ぬるぬるして狭くて熱くて…すごーい!気持ちいい♪」

 アリスはまるで、食べたことのないお菓子を前にしてはしゃいでいる子供のように笑いながら、貪欲に身体の下で切なげに震えるしなやかな肢体を味わった。

「も…達きたい、イかせて…ッ!」

 メチャクチャな気分を味わいながら、押し寄せてくる快楽の波に飲み込まれそうになって、光太郎は不安に駆られたようにぎこちなく哀願した。だが、アリスは知っていて知らない素振りで、それどころか、不意に膝頭に腕を差し込むと、よいしょと抱え上げるようにして光太郎を自分の膝の上に座らせたのだ。

「ひゃぁぁ!…あ、…ヤ…いやぁ…」

 涙を飛び散らせて嫌々と頭を左右に振る光太郎の、その漆黒の髪に唇を寄せたアリスは、嬉しそうにニコニコと笑った。
 重力に従ってグッと下がってきた重みに、結合部がぶじゅっと音を立てて先走りを蕾から吐き出していた。それで余計に繋がりが深くなって、光太郎はあられもない声を上げて鳴いた。
 大股を開かされて身体を揺すられながら、気付けば根元から手が離れたおかげで光太郎の華奢な陰茎は溜まりに溜まっていた白濁を間欠泉のようにして突き上げられる衝撃で噴き零している。

「いやーん、やらしい♪ねぇねぇ、気持ちい~い?」

「ん…うん、…もち、い…もっと、…アリス、もっと…」

 自分ではもう何を言ってるのか判ってもいない光太郎の、その切ない哀願に、不意にそれまでお茶らけたように快楽を追っていたアリスが、切羽詰ったように息を詰めた。

「ん、僕も。気持ちいい。でもね、もイクよ?」

「いや!…まだ、もっと…もっと」

 貪欲に貪るように腰を擦り付けてくる光太郎の求めに、アリスは驚いたように瞠目していた。ペロリと舌なめずりをしながら、アリスはそれでも可笑しそうにケラケラと笑うのだ。

「もっとって…じゃあ、今夜セス様に抱いて貰いなよ♪僕はもう、大満足だしぃ。セス様もそのおつもりみたいだしぃ」

 そう言いながら、アリスは光太郎のことなどお構いなしにガンガンと突き上げて、切なそうに身震いするその胎内に思い切りぶちまけていた。身体の奥深い部分にマグマのような熱を持つ精液を注ぎ込まれて、最後の残滓までも注ぎ込もうとするようなアリスの動きに、陰茎で胎内を掻き回される刺激に光太郎もびゅくんっと白濁を飛び散らせていた。

「ぅあッ!あ…ア…んん…ん」

 腰を揺するようにして擦り付けてくる貪欲さに、アリスは肩で息をしながら快楽に震えている光太郎の身体を抱き締めてクスクスと笑った。

「気持ちよかった♪ねね、またこんな風に遊ぼうね」

「あ…んー…」

 同じように肩で息をする光太郎は、とろんとした双眸で天井を見詰めながら、どう答えたらいいんだろうと思考の纏まらない頭で考えていた。

「あ!」

 そんな光太郎をまたしても背後から押し倒すように床に這わせて、まだ収斂を繰り返してヒクつく蕾からアリスはぐぷっと粘着質な音をさせて陰茎を引き抜いた。ごぷ…と、アリスの形を覚えていた蕾はすぐには閉じずに、彼の放った白濁をとろりと零している。

「うわー、君の胎内って真っ赤!それにセーエキが零れてすごいエッチ♪ヒクヒクしてる、まだ食べたそう…セス様のは大きいからきっと食べ応えあると思うよ、よかったね♪」

 クスクス笑われても、それが何を言ってるのか、ボーっとした頭では考えられない。
 冷たい石造りの床に頬を押し付けるようにして腰を掲げた姿態で弛緩している光太郎に伸し掛かりながら、アリスは柔らかな唇を光太郎の半開きの唇に押し付けて囁いた。

「僕、アリスって言うの。ねね、君は?」

「…あー…光太郎」

「そっか、光太郎って言うんだ♪じゃ、胎内の始末しよっか」

「へあ?」

 ぼんやりと目線だけでアリスを見た光太郎の、その双眸がギョッとしたように見開かれたときには、彼の繊細そうな指先が、たった今自らが吐き出した白濁を絡め取っていた。
 まだ快楽の余韻で収斂する蕾をさらに蹂躙されて、そして、アリスが持ってきていた道具箱にあるヘラのようなもので掻き出される時には、既に光太郎は何度目かの精を放って失神したように意識を手離していた。

Ψ

 ハッと気付いた時には見知らぬ部屋に寝かされていた。
 天蓋付きのベッドはやけにゴージャスで、ピンクの薄絹がさらさらと風に揺れて、女の子だったら夢見心地で目覚めるような空間だった。が、光太郎は男の子だ。

「なな!?えーっと…」

 ガバッと起き上がってはみたものの、眩暈に襲われてクラクラとへたり込んでしまった。頭を押さえてここはどこだろうと顔を上げると、神妙な面持ちをした蜥蜴の親分、バッシュがそんな光太郎を覗き込んでいた。

『よかった、気が付いたんだな。光太郎、風呂場で逆上せたって聞いてよ…』
「へ?逆上せって…あ!」

 ハッとして真っ赤になったまま俯く光太郎を、バッシュは訝しそうな表情をして首を傾げている。
 思えば、アリスとか名乗った少年にいいように弄ばれて、今でも蕾が何かを咥え込んでいるような錯覚がして真っ赤になったのだ。
 それにしてもあの少年は、一体何者だったのか…

『大丈夫か?』

 手の甲は鱗に覆われているものの、掌は人間の持つ柔らかさがあって、その柔らかな掌で額を包んでくれるバッシュに、真っ赤になったままで光太郎はニコッと慌てて笑ったのだ。

「う、うん。大丈夫だよ…ところで、ここってどこなんだろう?」

『あ?ああ、なんか後宮なんだってさ。一国の城でもあるまいし、あのセスとか言う隊長は国王にでもなったつもりかねぇ?こんな砦で後宮もクソもないんだが…光太郎の他に10人ほどの男娼がいるらしいぜ』

「そうなんだ」

 漸く落ち着いてきた気分に溜め息を吐いて、光太郎は改めて部屋の中を見渡した。
 調度品はそんなになかったが、室内自体は整っていて綺麗だった。
 殺風景ではあるが、誰かがこの部屋を毎日掃除でもしているんだろうか?

『さっき、セスの奴が来やがってな。夜明け前に主がお出ましするそうだぜ』

「え?主って…沈黙の主のことかな?」

『そうだ。はぁ…ジャが出るかヘビが出るかってなもんだが、参ったよな。畜生!このクソッタレなチョーカーが外せたらいいんだが』

 ベッドサイドに腰掛けた有翼の魔物は、首にピッタリと嵌った鉄のような金属の輪を苛々したように引っ張っている。どうやらそれは、何らかの魔法か何かが施されているのか、本来バッシュたちが持っている魔力を発揮できないように抑えこんでいるようだ。

『そうすりゃ、お前1人ぐらい抱えて逃げ出せるんだけど…』

「いや、それはダメだよ。見つかったらバッシュが殺される。それなら、なんとか堂々と逃げ出せる方法を見つけようよ」

『堂々とねぇ…』

 突拍子もない光太郎の申し出に、バッシュは呆れたように肩を竦めてしまう。

「時間なら、夜明け前までまだたっぷりあるじゃないか。頑張ろうよ、バッシュ」

 ニコッと笑って陽気にウィンクする光太郎を、バッシュは呆れたようにポカンッとしていたが、気を取り直して頷いた。

『…ああ、まあそうだなー』

「みんなも待ってると思うし…じゃあ、まずは偵察だよ!」

『…って、お前さっきまでへたばってたのに、大丈夫なのか?』

 グッと拳を握って宣言するように言った光太郎は、まだフラフラするものの、気合いでそれを吹き飛ばしてベッドから降りるとバッシュを振り返った。

「こんなの屁!でもないね。それよりも、あの地下牢で待ってるみんなの方がもっと辛いんだ。バッシュには付き合わせて悪いけど、頑張ろう」

 幾分か大人びた雰囲気を醸し出す様になった光太郎を、双眸を細めて見詰めていたバッシュは、やれやれと溜め息を吐きながら首を左右に振るのだ。大人びた…とは言っても、まだまだあどけなさを残す発想は子供そのもので、だが、だからこそバッシュはそんな光太郎が大好きだった。

『だな。まずはこの部屋から出られるかが問題なんだけどよ…』

 ふと、バッシュは扉付近に何かの気配を感じて、「どうかしたの?」と首を傾げて問い掛けてくる光太郎に片手で制するような仕種をしてから、人間よりも優れいている聴覚でもって気配を窺っている。

(2…3…いや、それ以上だな。なんだ、この気配は?)

 耳を欹てるバッシュの傍まで寄ると、不安に揺れる双眸でそんな蜥蜴の親分を見上げる光太郎は、こんな時だったがやっと見知った顔に会えてホッとしていた。
 バッシュがいれば何とかなる、相変わらずそんな思いが光太郎にはあるようだ。
 そんな光太郎には気付かないバッシュは、様子を窺うような仕種を見せるくせに、まるで襲い掛かろうという、本来生き物の持っている殺気すらないその奇妙な気配に眉を顰めている。
 ハッキリ言って、気色が悪いのだ。

『様子を窺っていてもどうにもならないな。向こうから来ないならこっちから行ってやらぁ』

「ば、バッシュ?」

 ズカズカと大股で部屋を横切る元来から待つことを信条としていない好戦的なバッシュの後を着いて、光太郎も慌ててその背中を追いかけた。
 不意に把手に手をかけたバッシュは、開くかどうか判らなかったが物は試しだとばかりに内側に引いたのだ。

「きゃー!」

「いやーん!」

 扉は思ったよりもすんなりと開いて、それに釣られるようにしてドタドタと何かが部屋に雪崩れ込んできた。

『なんだ、コイツらは?!』

 訝しそうに眉間に皺を寄せるバッシュの声で、雪崩れ込んだ何か、数人の少年たちが「いたーい!」と打ち付けた場所を擦りながら身体を起こすと、顔を上げて今度は別の声を上げた。

「きゃー!!」

「魔物だーッ!!」

 明らかに黄色かった声が悲鳴に変わって、ワラワラと逃げ惑う少年たちに、バッシュは呆気に取られたような不機嫌そうな顔をして絶句している。こんな場合、どうしたらいいんだと彼の服を掴んでソッと後ろから覗いている光太郎を見下ろしてパクパクと口を開いているが声が出ない。
 バッシュにしては珍しく、驚いているようだ。

「あれ?後宮の子たちかな??」

「わーん、食べられてしまいますぅ…あれ?あなた、もしかして人間??」

 頭を押さえて泣き出していた、光太郎よりも随分と幼い少年が、独り取り残されて途方に暮れたように観念していたが、光太郎の声に気付いて恐る恐る顔を上げてキョトンとした。

「うん、俺は光太郎って言うんだ。こっちはバッシュって言う魔物なんだけど、大丈夫。彼は人間を食べたりはしないよ」

「ほ、ホント?本当に食べない?」

 くすんくすんと泣いている少年は、ビクビクと怯えながら蜥蜴の親分のようなバッシュを見上げている。それでなくても目付きの悪さは擢んでているバッシュのこと、初めて見る魔物にしては兇悪すぎたが、自分と少しも変わらない人間の少年が親しげに寄り添っているのを見ると、腰を抜かしていた少年も恐る恐るではあるが身体の緊張を解き始めたようだ。

『お前を喰うぐらいなら木の皮でも喰ってる方がマシだ』

 フンッと外方向くバッシュにビクッとする少年を見て、光太郎は困ったように眉を寄せてそんな蜥蜴の親分を見上げるのだ。

「もうー、どーしてバッシュはそんなこと言うかなぁ?またこの子、怯えちゃったじゃないか」

『知るか』

 人間なんか知ったことかと外方向いてツーンとしているバッシュに、やれやれと肩を竦めて苦笑した光太郎は、どうしたらいいのか判らないと言った感じでバッシュと光太郎を交互に見比べている少年にニコッと笑いかけた。

「ごめんね、そんなに悪い魔物じゃないんだけど。人間を見ると条件反射で意地悪になるんだよ。でも、大丈夫食べたりしないから」

 柔らかく笑いかけられて、バッシュは怖いけど、光太郎は気になる少年はビクビクしながらも瞼を擦って涙を拭った。

「う、うん。えっと、こんにちは。ボク、ケルトって言います」

 へたり込むようにして座ったままでぺこんと頭を下げる少年ケルトに、光太郎はニッコリ笑って「よろしく」と言いながら腰の抜けている少年の腕を掴んで立ち上がらせてやった。

「どうして怖いのに、こんな所に来たんだい?」

 不思議そうに光太郎が小首を傾げると、ケルトはバッシュを気にしながらモジモジと俯いてしまう。
 そのウジウジした態度にバッシュは苛々したが、その気配を敏感に感じ取った少年は声を詰まらせて怯えてしまった。

「もー、バッシュってば~!!」

 ムキィと怒ってバッシュを部屋に押し込んだ光太郎は、ヒクヒックと今にも泣き出しそうな少年に怖がらないでねと言って笑いかけた。

「もう、大丈夫だよ。バッシュってば参っちゃうね、あははは」

 何とか取り繕おうとする光太郎に、怯えたようなケルトは同じ人間だと言う安堵感からピッタリとくっ付いてきた。

「みんなが!あの、みんなが珍しい人がいるから見に行こうって。ボク、来たくなかったのに」

(そうだろうなぁ…バッシュであれだけ怖がってるんだ、シューに会ったら卒倒するかも)

 ピタッとくっ付いてふにゃぁと泣き出しそうなケルトは、どう見てもまだ10歳そこそこのあどけない少年だ。こんな子供が、まさか男娼なんてことは…あるんだろうなと、光太郎は暗い気持ちになっていた。
 この年齢になっている自分でさえも、男に犯された経験は暗い陰になって心の奥深いところに根付いている、ましてやこんなあどけなさを残す子供なのだ…この子は、こんなところにいても凹んでいたりしないのだろうか。
 不憫で仕方ない心の葛藤を押し殺して、そんなはずはないと知っている光太郎は小さく笑って頷いていた。

「大丈夫だよ」

 何が?とか聞かれてしまうと困るのだが、思わず呟いてしまった言葉に、ケルトはキョトンッとして小首を傾げた。それから、泣きそうな表情のままで愛らしくコクリと頷いた。

「はい、ここに来てよかったと思います。光太郎さんと…あの、バッシュさんに逢えました。バッシュさんは魔物ですけど、怖くありませんでした。良かった…です」

 ヒックとしゃくり上げたのは、扉の隙間からジーッと見詰めてくる縦割れの凶暴そうな双眸に気付いたからだったのだが、扉の向こうのバッシュがフンッと鼻を鳴らして『子供のクセにおべんちゃらなんて言うな』と言ったのを聞いて、ケルトは怯えながらもキョトンッとしてしまった。今まで、どんなに怯えていても確りしろだとか、男の子なんだからと言って毅然とするように言われてきていたケルトは、そんなバッシュの飾らない言葉に目を丸くしたのだ。

「あー、もう。バッシュのことは、この際気にしないで…」

「いいえ!バッシュさんに言われて、ボク良かったです。いつも男の子だから我慢しなさいって言われてきました。確りしたことを言いなさいって…でも、バッシュさんは言うなって言ってくれました…ボク、ボク、ホントは怖いです」

 ふにゃっと顔を歪めたケルトは、シクシクと泣きながら光太郎に抱きついた。
 何かを我慢していたように泣くケルトの肩を優しく抱き締めてやりながら、光太郎はそうか、バッシュでも良いことを言うんだなぁと感心してしまった。
 少し酷いようだが、今見直してしまったと言った感じだが、当のバッシュは扉の向こう側で『ガキなんだから怖くて当たり前だろーが』と、何でそんな当たり前なことも判らないんだ、これだからは人間どもはと憤懣遣るかたなさそうに腕を組んで鼻で息を吐き出している。

「ごめんね、バッシュはああ見えても良い魔物なんだよ」

 泣きじゃくるケルトにオロオロしたように慰めようとする光太郎を、少年はポロポロ泣きながら鼻を啜って頷いた。

「バッシュさんは怖いですけど、ボクは大丈夫です。だから出て来てください」

「ホントに?だったら…えーっと、バッシュ?」

『別に取って喰うってワケじゃねーのに、どうして人間は見た目だけで魔物を毛嫌うんだろうな?そんな風にされると、どうも思ってない時でも殺して遣りたくなるぜ』

「バッシュ!」

 穏やかじゃないことを言いながら姿を現すバッシュに、矢張りケルトは怯えたが、それでも精一杯頑張ってニコッと泣き笑いのような顔をした。

「あの、光太郎さんとバッシュさんは初めてこちらに来たんですよね?ボク、よかったらこの後宮をご案内します」

「え、いいの?」

 光太郎が驚いたように眉を上げると、はにかんだようにニコッと笑ったケルトは頷いて、それからビクッとしたようにバッシュを見上げた。よく見ると、矢張り蒼褪めている。

 バッシュは面白くなさそうに舌打ちしたが、それでも慣れてくれなんて思ってもいないからもう気にもしていない。

「はい。ボクもまだここに来て3ヶ月ほどですけど、少しは知っていますから」

 柔らかく笑うケルトは、サラサラの金髪で、空色の大きな瞳がキラキラしていてとても可愛らしい少年だ。まだ、漸く10歳になったばかりぐらいの少年を、光太郎の背後から見下ろしていたバッシュは、こんな年端も行かぬ子供までも慰み者にしているのかと、人間どもの持つ限りない欲望に吐き気さえ覚えていた。

「そっか、それじゃあ助かるな。じゃあ、色々教えて貰おうよバッシュ」

『ああ…』

 頷く魔物に、ケルトはまだ慣れていないように怯えた双眸で見上げていたが、自分と同じ人間であるはずの光太郎が、困惑しながらもニコッと笑いながらバッシュを見上げて、まるで信頼を寄せきった無防備な表情で接しているのを見ている間に、少しずつ心の蟠りのようなものが解きほぐれていくのを感じていた。そうしてジーッと根気よくムスッとして睨み返してくるバッシュを見ているうちに、漸くその凶暴そうな目付きに慣れてきたようだった。そうして慣れてくるとバッシュと言う魔物は、大人が言うほど凶悪で残虐的な生き物ではないように思えた。
 この極悪な環境下で信じられるものなど何もない砦で、初めて出会ったはずなのに、ケルトは太陽に似た花が咲き誇るように笑う光太郎を、どうしても疑えなくなっていることにも気付いていた。だからこそ、その彼がこれほどまでに信頼しているバッシュと言う魔物が、ここにいる大人たちよりも随分と信用できるのではないかと思い始めていた。
 ならば、まずは自分が馴染まなければ…ケルトはそれでも恐ろしさに震える心を叱咤して、バッシュを見上げると、朝の静けさの中で咲き綻ぶ花のように微笑みかけていた。
 そんな風に人間に笑いかけられたのは光太郎だけだったから、バッシュは呆気に取られたような、困惑したような顔をしてポカンと見下ろしてしまった。
 バッシュのその態度にケルトもキョトンとしたが、次いで、思った以上に怖くない魔物にやっとパァッと表情を明るくしたのだ。

「ボク、いろいろ教えますよ!ここに来てずっと1人でしたから、光太郎さんやバッシュさんに逢えて本当に良かった!宜しくお願いしますッ」

 ペコンッと頭を下げて宜しくされてしまった光太郎とバッシュだったが、光太郎は嬉しそうに宜しくされて、バッシュは困惑したように何を宜しくされているんだろうと首を傾げてしまった。だが、そんな2人のことにもお構いなしで、やっと打ち解けられたケルトはニコニコ笑っている。もともとは明るい少年だったのだろうと思った光太郎は、矢張り彼も、1人で心許無かったのだろうと思うと、こんな小さな身体でたった独りこんな場所に連れてこられて、どんなに心細かっただろうとそっと眉を寄せて唇を噛んでしまう。
 年の離れた可愛い弟ができたような気分になった光太郎と、厄介なものを背負い込んでしまったと思ったバッシュの腕を取ったケルトは、嬉しそうにニコニコと笑っている。

「ボク、頑張ります!」

 ふっくらした頬があどけない少年は、恐怖心から漸く解放された安堵感で、本来持っている陽気さを垣間見せてニコッと微笑んだ。光太郎とはまた違う柔らかで優しい微笑みに、魔物は子供には罪はないからなぁと、光太郎の傍にいることを許してやる気になっていた。
 しかし、矢張り厄介者を背負い込んでしまったと言う思いは消えない。
 人間は信用できないからなと、年端も行かぬ子供に警戒心を抜くことはなかった。
 そんなバッシュを見ながら、光太郎が「そんなに考えてると鱗が禿げてしまうよ」と思っているかどうかは別としても、後宮での光太郎とバッシュの短い生活は、こうして始まったのだった。

第二部 2.光と闇  -永遠の闇の国の物語-

とん、とん、とん…
 何かが服に当たる気配を感じて、泥沼のような眠りから目を覚ました光太郎は一瞬、何が起こっているのか理解できずに眩暈を残す重い頭に腕を上げようとたが、身体が激しく痛んで悲鳴を上げてしまった。

『光太郎!?良かった、目ぇ覚ましたんだな!!』

『俺たちもう、お前が死んでるんじゃねぇかって心配で心配で…』

 鼻声だったり涙声だったり、漸く自分の身の上に起きたことを思い出した光太郎は、そんな風に心配して声をかけてくる魔物たちに気付いて、少しでも動かせば悲鳴を上げる身体を引き摺るようにして壁際まで移動すると、凭れながら深い溜め息をついた。それまでにかかった時間がカタツムリでも這うような速度だったとしても、光太郎がただ生きていてくれたそれだけでも、魔物たちは安堵して泣いていた。

「大丈夫だよ…」

 散々悲鳴を上げた咽喉は潰れたのか、掠れた声がすすり泣く魔物の声に紛れて消えてしまう。
 痛む上半身を起こしたとき、パラパラと零れたパン屑を見て、あの優しい魔物たちは光太郎が傷付かないように最大限考慮していたんだなぁと感じて、満身創痍でボロボロになってしまった少年は小さくはにかんだ。

(大丈夫だ…俺はまだ生きてる)

 感覚すらなくなってしまっている両足の付け根に、べっとりとこびり付いた血液と精液が乾いていて、それだけでも気持ち悪かったが態々見たいとも思わないし、何よりもまだその部分に触れる勇気がなかった。

「ホントに大丈夫だから…心配ないよ」

 痛む身体を庇いながら息を吸い込んだ光太郎が、なんとか先程よりも鮮明に声を出すと、泣いていた魔物たちが鉄格子に縋りついた。できれば今すぐこんな細い格子など打ち破って助け出してやりたいのに…どう言う訳か、この牢獄に入れられたときから魔物たちは実力を出せないでいるのだ。
 なんと言うか、魔力を吸い取られているような。
 それは錯覚なのかもしれなかったが、それでも全力が出せないことは致命的だった。

『助けられなくてごめんな。お前は身体を張って俺たちの命を救ってくれたんだ…この恩は、たとえ死んだって忘れやしない』

『俺もだ!』

『俺だって、光太郎のためなら何だってするからな!』

 オーンオーンと声を上げて泣く魔物たちの真摯な誓いに、光太郎は怯みそうになっていた心を叱咤して小さく笑った。
 どうして自分が。
 なぜ自分だけが…
 身体中が痛むたびに叫び出したい言葉だったが、咽喉元までせり上がっていたその言葉を飲み込んだのは、この世界に導かれて何も知らない自分を、まるで家族のように受け入れてくれた魔物たちが、そうして自分のことのように光太郎の痛みを感じながら自分のことのように泣いていくれている姿を見た瞬間、こうなることもまた何かの運命に違いないと思えたからだ。
 それは、何か辛いことがあった時に歯を食い縛りながら自分に言い聞かせてきた言葉だった。
 身体は鉛でも飲み込んだように重いし、下肢はまるで別人のものように制御できず、そのくせ痛みだけは最大限に身体の芯を貫くから図らずも舌打ちが漏れてしまう。

「…はぁ、死んではないけど。でもまだ、動くのは無理みたいだ」

 人間の目では見分けられない暗闇の向こうで何かが動く気配がして、人間よりも数倍長けている視覚でぐったりと壁に凭れている光太郎の姿をハッキリと見分けている魔物が低く呻いた。

『当たり前だろが!絶対に動くなよ?今度、アイツらが来たら隙をついて人質を捕る!』

『そうだ、バッシュ!それがいい。それで、光太郎の看病をさせよう』

 そうだそうだと頷き合う魔物の声を聞いていると、どこか緊張に張り詰めていた糸がプツンと切れたような、言いようのない安堵感を覚えて光太郎はクスクスッと笑ったが、それだけでも身体に響いて眉根を寄せてしまう。息も出来ないぐらいの痛みなど生まれて初めてだったから、恐らくボーッと頭が鈍くなっているのは熱でも出てきたのだろう。

「駄目だよ…そんなことしたら、バッシュたちが危ない」

『馬鹿だな!そうでもしないと、今度こそアイツらに殺されちまうぞッ』

 心配そうに紡がれる言葉は、この狭い牢屋内でたった一人、首輪に繋がれ両手を縛られたままの不安に怯える身体にゆっくりと浸透して、熱を持つ身体に壁の冷たさが心地好いようにその言葉は心にも安堵感として広がっていった。

「俺が泣いたこと…内緒にしてくれる?」

『…あのなぁ』

 一瞬、言葉を飲み込んだバッシュだったが、それでも呆れたように溜め息をついた。

「あははは…ッ!イテテテ…」

 それがおかしくて光太郎は声を上げて笑ったが、すぐに身体に響いて顔を顰めたまま蹲った。

『大丈夫か!?』

 ガシャンッと鉄格子を鳴らしながらバッシュと仲間の魔物が焦ったように心配すると、光太郎は我が身を抱き締めながら痛みをやり過ごして大丈夫だと呟いた。その声音はいつもの精彩を欠いていて、弱々しく頼りなげで儚かった。ともすれば掴んでいる生命の手綱さえも、ちょっとしたことで手放してしまいそうな危うささえ感じて、バッシュたちは光太郎が必死で陽気に振舞おうとしている健気な心根を知って奥歯を噛み締めた。
 助けたかった。
 その小さな身体で、ましてや同じ同族である人間に犯されて、心を手放さない光太郎の強さに彼らは感謝すらしていた。
 身体が受けたダメージは想像すらも出来ないだろう、だが、その心も同じぐらい激しいダメージを受けているに違いない。

「…このこと、シューにはその…言わないで欲しいんだ」

 生きて帰れることを信じている言葉に、バッシュはもちろんだと頷いた。
 恐らく今、光太郎を突き動かしている情熱は、シューの元にみんなで帰ろうと言う決意なのだろう。

「よかった。シューはああ見えても優しいから、きっと後悔すると思うんだ」

『心配するな、光太郎。誇り高き魔族はその辱めを生涯忘れない。たとえ何らかの事情で今回のことがその…シュー様の耳に入ったとしても、あのお方は必ずや復讐してくれる。もちろん、俺たちもだ!』

「…それじゃ駄目なんだよ」

『何故だ?』

 魔物たちが驚いたように顔を見合わせて、それからぐったりと壁に凭れている光太郎を食い入るように見詰めた。拒絶も出来ないまま無理矢理身体を開かされて、抵抗する小さな器官に捻じ込まれるようにして犯された身体は未だに悲鳴を上げているのだろう。辛そうに溜め息をついた光太郎は、汚水の溜まる床を見詰めていた。

「血を血で洗うのは駄目だ…とか、そんなことじゃなくてね。これは…はぁ、俺のエゴなんだと思う」

『?』

「シューに、危険なことはして欲しくないんだよ。本当は、こんな、無意味な争いなんかなくなればいいって…思ってたりするから。バッシュたちにしてみたら…とんでもないって思うかもしれないけど」

 言っている意味が判らないというように蜥蜴の顔をしたバッシュは、傍らにいる犬面をした魔物と顔を見合わせた。だが、その犬面の魔物も理解できなかったのか、困惑したように首を左右に振っている。
 その気配を感じた光太郎は、魔物たちが困惑しても仕方がないと思って小さく自嘲的に笑った。

(判りっこないよ…俺も、犯されて初めて気づいたんだ)

 心の中で呟いた独白は、熱に浮かされたようにボーっとする頭の中にエコーがかったように響いた。

(俺は…シューのことが好きだ。だから、あの人に会うまでは絶対死ねないって…本当はずっと考えていた)

 そんなに自分はいいヤツじゃないと、無条件で信頼を寄せてくれる魔物たちの気持ちを思って唇を噛み締める。
 シューに、ただ、あの獅子の頭部を持つあの魔物に、会いたいのだ。
 誰かの為に命を張るなどと言う正義感だとかそんな大義名分の為じゃない、ただ、自分の心に素直に従っているだけの、我侭でしかない。その思いを、勘違いして素直に信頼してくれる魔物たちの気持ちに、光太郎の心は酷く痛んで申し訳なくて眉を寄せてしまう。
 ただ、シューが好き…
 その思いは、いつだったか、この世界に導かれて間もない頃、初めてシューと出逢っ時からきっと感じていた気持ちだった。
 危険なことをして欲しくない、と望みながらその半面で、早く助けに来て欲しいと思う。
 そうして、我武者羅にその胸に飛び込みたいとすら思っているのだ。
 そのくせ、この醜く汚されてしまった身体を見られたくないとも思う…人間の持つ、底知れない欲と言うものは計り知れず、気付けばいつも我が身に最適な道を選んでいる。
 ともすれば魔物たちの信念こそ、もしかすると純粋で一途なのかもしれない。

(俺は…俺は醜いよ。こうしてる間にも、頭の中はシューのことでいっぱいだし。逢いたいって思ってる…)

 いったい、何人の男に抱かれたのかすら覚えていない穢された身体を、少しでも動けば激痛が走ると言うのに、光太郎はのろのろと腕を上げて抱き締めるようにして瞼を閉じた。
 魔の国の夜明けは暗く、同時に彼らは眠りにつく。
 シューの部屋は魔将軍だと言うのに狭く、それはもともと彼の性格が広さを疎む傾向があったせいで、だがそれを知らない光太郎は初めての夜を一緒のベッドで過ごすことにドキドキしていたことを思い出したのだ。
 普段は眠りが浅いのか、シューは光太郎が動けばすぐにうっすらと瞼を開いて煩そうに丸い耳を振って牙を剥いていた。狭いベッドで気付かないように動けと言うシューの方がどうかしているのだが、それでも光太郎はクスクス笑いながら、仏頂面で背中を向けてしまった獅子面の魔物に抱きついて初めての夜を過ごしたものだ。

(シューに会いたいよ…)

 ポツリと、呟くように漏れた思考に、光太郎は自嘲的な笑みを浮かべた。
 ごく自然に逢いたいと思えるなんて…それはきっと、魔の国があまりに平和で幸せだったから。
 だが恐らく、多くの魔物たちが無条件で受け入れてくれたからこそ、その『幸せ』を手に入れることが出来たのだろう。
 あのシューでさえ、仕方なさそうな困ったような、あの複雑そうな表情を浮かべながらも受け入れてくれたのだから…

「逢いたい逢いたいばっか言ってて何もしないんだ。俺だって頑張らないとッ」

 呟いた言葉に気付いたバッシュたちが、唐突に黙り込んでしまった光太郎の調子が悪いのかと、ハラハラしていただけに少しホッとしたような吐息を零していた。
 その気配に気付いて、光太郎は閉じていた瞼を開いて暗闇の中で微かに何かが動いている場所に目線を向けた。
 犯されたことに絶望して独りの殻に閉じ篭っている光太郎を心配しながら恐らく、一睡もしていないだろう魔物たちに気付いたのだ。
 傷付き疲れているのは自分だけではないのに…魔物たちは、戦場から捕まってきたのだから、恐らく生死の境を彷徨っていた者たちだって少なくはないはずだ。なのに、光太郎は自分ばかりが酷い目に遭って一番可哀相なんだとか思い込んで、くよくよしていたことが恥ずかしくなっていた。
 ふと、握り締めていた掌を開いたらポロポロになってしまったパン屑が零れ落ちた。
 一体どれぐらい気を失っていたのか判らないけれど、パン屑の数が1日以上を物語っていた。その間、この優しい魔物たちは一睡もせずに、自分たちが食べることもせずにパンを千切っては投げ、投げてはまた千切っていたんだろう。その地道な行為に、そのぬくもりに、光太郎はますます自分が情けなくなって居た堪れない気持ちになってしまった。
 だが、それすらも凌駕するほど、この冷たくて寒々しい牢獄の中でたった独りぼっちのはずなのに、格子を挟んだ向こうにいる仲間の優しさが愛しかった。
 今はまだ、すぐに復活するには心が状況に追いついていないから無理かもしれないが、それでも確りしなくてはと光太郎は唇を噛み締めた。
 何が危険なことをして欲しくないだ。
 いつだって、危険は当たり前のように転がっているのだから、それに蹴躓かせるのも回避するのも自分次第ではないか。

「バッシュ!やっぱ、一矢報いなきゃ気が済まないね!…ッッ、俺、頑張って復活して、こんな目に遭わせた連中を片っ端から殴ってやるッ」

 そこまで言うのにたとえ数十分掛かっていたとしても、バッシュを筆頭にした魔物たちは顔を見合わせて、次いでホッとしたようにニヤッと笑うと鉄格子に噛り付いた。

『そうこなくっちゃな!』

『殴るんじゃねーぞ。ぶん殴れ!』

『殴るどころか同じ目に遭わせてやろーぜ!』

 口々に同意する仲間に、光太郎は痛む身体に呻きながらも、嬉しそうに笑っていた。

「同じ目に遭わせるのはちょっと…キモイよ」

『任せろ!俺たちならだいじょーぶ』

『グハッ!俺はヤだぞッ』

『文句言うな、楽しもうじゃねーか♪』

 悪乗りした連中がニヤニヤ声で言い合うのを聞いて、光太郎はクスクスと笑った。
 身体は果てしなく痛むし、汚されてしまった事実を思えば滅入ってしまいがちになるがそれでも、この仲間といればどうしてか、何もかもが上手く行きそうな気がしてきて仕方がないのだ。

『…その、光太郎。本当に大丈夫か?』

 不意に蜥蜴の親分のようなバッシュが鉄格子を掴んだままで低く問い掛けてくる。
 その背後で魔物たちも、心配そうに身じろいでいるようだ。

「うん…まだちょっと身体は辛いけど。大丈夫だよ」

 そうかと呟いたバッシュは、それから思い詰めたように俯いた。

『俺が…俺がいたのに、ごめんな』

「ええ?何を言ってるんだよ、バッシュ!ここに君たちがいてくれてるから、俺は頑張れるんだ。その…君たちこそ大丈夫?」

 えへへと笑った後、少し不安そうに問い掛ける光太郎に魔物たちは安心させるように『大丈夫に決まっている』と優しい嘘を吐いた。「そう」と呟いてホッとする、容易く騙されてしまう光太郎のお人好しさに魔物たちは、やっぱり光太郎を好きだとじんわり思っていた。人間など考えるにも値しない存在だったはずなのに…
 ふと、感情を読み取ることの出来ない表情をして、バッシュは鉄格子を掴む掌に力を込めた。

『今度こそ、俺が守るから。お前を死なせたりはしないから』

「バッシュ…」

 光太郎は、その痛みを、まるで自分のことのように受け止めて光太郎を慮ってくれるバッシュの、そしてその背後で同じように頷いている魔物たちの気配を感じて泣きたくなるほど嬉しく思っていた。
 ああ、そうだ。
 大丈夫、自分にはこの『仲間』がいるじゃないか。
 シューのことしか、いや、自分自身のことしか考えてもいないこんな身勝手な人間を、家族のように慕って愛してくれている『仲間』がいたのに…そして、その仲間たちは無情な仕打ちで傷付いてしまっていると言うのに、何もしなくていいなんてどの口が言ったんだと光太郎は自身の吐き出してしまった言葉を恨めしく思っていた。
 だが、そんな言葉よりも光太郎の身体を心配してくれていた魔物の存在に、光太郎は自らの思いを悔い改めて決意したのだ。

「…バッシュ、それからみんな。本当にありがとう」

 彼らといれば何もかもが上手く行くような気がする…そんな思いを、どうか魔物たちも感じてくれていたらいいのに…そんな存在になれたらいいのに。

『なんだよ、改まって。俺たちの方こそお前に助けられたんだぜ?礼を言うのは俺たちのほうだ。ありがとう、光太郎』

『そうだぜ、光太郎』

 頷き合う魔物たちの礼を言う声を聞いて、光太郎はクスクスと笑った。

「じゃあ、みんな一緒だね」

 きっと、思っていることも一緒だ。

『そんなこと、当たり前だろ?』

『ヘンな奴だなー、光太郎』

「…そうだね」

 光太郎は傷付いて疲れ果てているに違いない魔物たちが、それでも陽気に笑っている声を聞いて自分も頑張らねばと思った。ただ、ただ嬉しくて…そうして光太郎も笑うのだ。
 恐らく、ふと光太郎は心のどこかで感じていた。
 恐らく、これが『仲間』と言うものなのだろうと…

Ψ

 沈黙の主は頭巾を目深に被ってその表情を隠していたが、居並ぶ彼の家臣たちは渋面で立ち尽くす主人に注視していた。

「なるほど。北の砦は落ちたか…恐らく、シューだろうな?」

「ハッ」

 傍らに跪くようにして控えていた騎士が呼応すると、主はふと、口許に小さな笑みを浮かべて小首を傾げて見せた。
 どうやら端から見当はつけていたのか、然程驚いた様子も、困惑した気配すらも漂わせない。だからこそ、居並ぶ彼の家臣たちの疲れた心に不安の翳りを落とすのだが…彼はそれすらもどうでもいいことのように気に留めた様子はない。

「まあ、よかろう。あれもそれほど抜けた男ではないからな。早々に居城に引き揚げたんじゃないのか?」

 的を得た主の言葉に、控えている、彼の影のようにつき従う忠実な部下は言葉もなく項垂れてしまった。引き留めておくにはあまりにも強大な存在は、やはり必死で張り巡らせた包囲網を易々と突き破って引き返してしまった。

「いずれにせよ、時間は稼げたと言うワケだ。無駄なイタチごっこに過ぎないんだがな、こうでもしなければ奴らの勢いを止めることも侭ならん。我らにも体勢を持ち直す時間は必要だ」

 尤もな主の言葉に、家臣たちは言葉もなく目線を落とした。
 今は、攻め入るほどの力もない。
 悔しいことに、ラスタラン軍は先の戦で壊滅的とまでは言わないまでも、大きなダメージを食らっていたのだ。
 恐らく、沈黙の主の目論見が通るならば、彼の策略を凌駕するような策士が現れなければ、暫くはこのまま睨めっこ状態が続くだろう。彼の企みは、その間に傷付いた兵士たちや疲弊して戦えない者、国を守る女子供、年老いた者たちの休息をとることだったのだ。
 漆黒の外套と頭巾で全てを覆って隠してしまっている彼らの主は、だが、居並ぶ家臣の面々が疲弊して項垂れてしまっていると言うのに、まるで疲れを知らないとでも言うかのように威風堂々たる佇まいは少しの乱れも見せていない。
 それが家臣の、そしてこの国で生きる全ての民たちに勇気や希望と言ったものを与え続けていた。この曇天に覆われてしまい、すでに太陽すらも姿を隠してしまった暗黒の世界に光があるのだとしたらそれは、沈黙の主を除いては他にいないだろうと脇に控えた忠実な部下はソッと顔を上げて主の顔を盗み見た。
 真っ直ぐに見つめるのは、何れその手に取り戻すはずの彼の故郷だろうか…
 ふと、跪いた彼がそんなことを考えていた時だった、重厚な天蓋を軽く押し開くようにして入ってきた伝令が、バルコニーから外を眺めている主に跪きながら口を開いたのだ。

「畏れながら、主!第二の砦より取り急ぎの報告でございます」

「…なんだ?」

 振り返ることもなく呟くように漏れた声音に畏まった伝令は、片膝をつくと「ハハッ」と頭を垂れてセスから預かってきた内容を報告した。

「セス隊長が風変わりな人間を捕らえましてございます」

「風変わりな人間だと?」

 ふと、目深に被った漆黒の頭巾を微かに揺らして、沈黙の主は肩越しにチラリと振り返った。
 さほど興味を示しているわけではないのだろうが、報告にしてはあまりに素っ頓狂で馬鹿馬鹿しい、それこそ風変わりな台詞に眉を顰めたのだ。

「どう言うことだ」

 軽く溜め息を吐きながら外に視線を戻した沈黙の主は、腕を組んで首を微かに左右に振った。
 また、新たな厄介ごとでなければいいんだがな…得てして沈黙の主の懸念が的中するかどうかは風のみぞ知るところだが、こめかみに痛みを覚えたラスタランの王はそっと眉間に皺を寄せて伝令の言葉を待った。

「ハッ…魔族と共にある者だと」

「魔族だと?フンッ、馬鹿なことを」

 この世界に生きる全ての人間が憎む魔物と、共に生きる人間など存在するわけがない。
 沈黙の主が何を馬鹿なと鼻先で笑ったとしても、この世界で生きる者全てが同じ行動を起こしていたに違いない。ラスタランの王が取った行動は、それだけ自然でなんらおかしなことなど何もなかった。
 そう、敢えて言うならば、困惑した面持ちで報告を述べている伝令こそ、自分で言っておきながら信じられないと言った表情をしているぐらい、彼の方がどうかしているのだ。
 この世界では。

「いいえ、主!その者は確かに魔族と共にありました。信じられないことに、魔物どもを庇う一面すらありました」

 この目で確かに見ているはずなのに、伝令の兵士は自らが口にした言葉を考えあぐねて困惑し、戸惑ったように視線を石造りの床に落としてしまった。

「…畏れながら。捨て置くにはどうかと」

 ふと、傍らで控えていた騎士が低いが、よく通る声音で控えめに進言すると、そんな彼をチラリと見下ろした沈黙の主は、暫く何事かを考えているようだったが、それでもまだ信じ難そうに首を左右に振りながら吐き捨てるように言ったのだ。

「…ふん。ならばこの俺が、その風変わりな人間とやらをこの目で見てやろうではないか」

「主!」

 脇に控えていた謙虚な騎士がハッとしたように顔を上げるが、こうと決めてしまうと頑として意思を変えない主の性格を誰よりも知っているせいで、眉をソッと顰めて頭巾の奥で見え隠れするいっそ凶悪なほど強い光を放つ双眸を盗み見た。
 後方で主の一挙一動をハラハラしたように見守る重臣たちの視線にも、どこ吹く風の沈黙の主は腕を組んだままでバルコニーから見渡せる暗い暗い、曇天に覆われてしまった本来ならば緑成す大地を睨み据えている。

「第二の砦にいると言ったな…今夜発つぞ」

「いけませんッ」

 いつもなら頭を垂れる忠実な彼の部下は、片膝をついた姿勢のままで悠然と立っている王を見上げていた。気に食わねば斬り捨てるだけの激情を持つ沈黙の主はそんな騎士をチラリと見下ろして、漆黒の頭巾の奥の凶悪な双眸を一瞬ギラッと光らせてから、まるで獰猛な肉食獣が獲物に襲い掛かるその一瞬、気配を潜めた時のようにうっそりと口許に笑みを浮かべるのだ。

「何が悪い?魔物どもに媚び諂うような人間がいるということは、何れ我らの士気にも何らかの形で関わってくるだろう。災いの種は芽吹く前に一掃せねばなるまい。今のこの時だ、いや、だからこそなのかもしれん。今夜発つ」

 腕を解いた沈黙の主は腰に手を当てると、いっそ堂々と宣言でもするかのように言い放った。
 愚かではない主のこと、何か考えがあるに違いないのだろうが…それでも、影のように寄り添ってきた騎士は頭から顔をスッポリと覆っている鉄兜に隠れた眉をソッと寄せている。

「主…」

「あらゆるえぐい手を使って我らを追い詰めてきたように、今度は俺たちから追い詰められる気分はどんなものだろうな?苦渋を舐めるだろうその顔を拝むことができないのは残念だが、さて魔王よ。今度はどんな手でくるんだ?」

 いっそ、楽しんでいるようにも見える沈黙の主は、頭巾で隠れてはいるがその口許を笑みに歪めながら眼下の荒涼たる領土を見下ろしている。

「主、しかし…」

 控えめな口調ではあるが憤然と主の強行を止めようとする騎士の言葉に、沈黙の主は咽喉の奥でくくく…っと笑うのだ。そうして、騎士からしか見えない頭巾の奥の双眸がチカリと瞬いて、控える家臣を目線だけで見下ろした。
 この時でも重鎮と呼ばれている面々は成す術もなく、年若い王の言動をハラハラしたように見守っている。

「要は物の考えようさ。魔物に懐いた人間と言うのも興味深いが、それを受け入れている魔物の行動も大いに興味深い…そうは思わないか?」

 指先で軽く頭を突くような仕種をする沈黙の主の言葉に、僅かに眉を寄せる騎士を除いては、居並ぶ面々がハッとしたように居住まいを正した。
 彼らが崇拝する王が何を言わんとしているのか、その時になって漸く気付いた一同は、畏れ多いとばかりに一斉に頭を垂れるのだ。

「なるほど、仰る通りでございます」

「いや、さすがは主」

「感服致しまする」

 感服されても困るんだがなぁ…と言外に言いたそうな表情を頭巾に隠して、やれやれと肩越しに後方を盗み見る沈黙の主は、控えたままで真摯に彼を見上げている対の双眸に気付いて肩を竦めた。

「まだ、何か言いたいことでもあるのか。ユリウス」

 溜め息すら零れそうな主の顔を見上げたまま、ユリウスと呼ばれた騎士は形こそ畏れ多いと恐縮したものの、意志の強い双眸はけして逸らさない。

「とんでもございません、主よ。しかしながら、貴方様が第二の砦に赴かれることもありますまい。僭越ながら、私めが向かいたく存じます」

「それはダメだね」

 まるで我が侭な子供が駄々を捏ねるような物言いで、ニヤッと笑う主を見上げて騎士ユリウスは一瞬困惑したように眉を顰めた。

「魔王の手に因る者ならば、どんなことをしてでも俺が見なくては意味がない…判らない、お前じゃないだろう」

「…」

 騎士は一瞬言葉を失くしたが、それでも主の安否を気遣う表情を鉄仮面の奥にひっそりと隠したままで、噛み締めるようにして進言するのだ。

「…判りました、主。ですかどうか、私もお供致しますぞ」

 それだけは譲れないと、主を気遣う忠実な家臣を見下ろして、沈黙の主はやれやれと溜め息をついた。

「お前の頑固さには敵わない。好きにするといい」

 あっさりと降参する主の態度に、後方に控えていた老齢な家臣たちが密やかに笑った。
 この戦乱の火蓋が切って落とされたあの日から、主に付き従う甲冑の騎士ユリウスの主を、ひいては国を思う意志の強さは誰も敵わないのだ。その意思は岩よりもダイアモンドよりも固く、時に頑なな沈黙の主ですら閉口するほどだった。
 問題は、的を得ているだけに誰も反論できないのだ。こと、国と主のことになると頑固で仕方がない。誰もがそんな彼のことを知っているから、好ましい思いで主とその忠実な家臣を見守っている。
 魔天に煌く星すらもない空に、時折雷鳴が響き渡る。
 世界がゆっくりと、数多の思惑を乗せて動いていた。

Ψ

「ふ…ッ…くぅ」
 松明の明かりが揺れる地下牢で、どこか押し殺したような切なげな溜め息が零れている。
 たとえ闇の中にあってもその艶姿は全てを見通してしまう魔物の目には明らかで、だからこそ声を洩らしている人物は頬を染めながらハラハラと涙を零してしまう。
 どうか見ないで欲しい…声にならない願いを、彼を家族のように大切に思っている魔物たちは心が張り裂けてしまうほど良く判っていたから、耳を押さえて蹲っている。
 そうでもしないと、なぜか力の出ない自分たちでは助けてやることも出来ないし、ましてや騒いでしまえば彼をさらに痛めつける結果になってしまうだろうから。
 唇を噛み締めて瞼を閉じているしかない。
 こんな最大限の屈辱を、未だ嘗て味わったことのない魔物たちは唇を噛み締めている。
 悔しい、腹の底から悔しいと思いながら…

「うぅ~…ッ、…ぁ、…ひぃ」

 微かな悲鳴が上がって、貪欲に貪る男の欲望で内部を掻き回された光太郎はクラクラと眩暈がしていた。もう、何度目になるだろう…
 夜毎訪れる男の人数は最初の時に比べて頻度も回数も多くなっていたが、一度に相手をする人数は少なくなっていた。その理由が、思った以上に具合の好い捕虜を早々に壊してしまいたくないと言う兵士たちの身勝手な願望で、クジ引きで順番を決めている…なんてことを、光太郎や囚われの魔物たちが知るはずもない。
 大きくグラインドする腰の動きにまだまだ追いつけないでいる光太郎は、自分を追い詰めて、奈落の底に叩き落す相手であるはずの兵士の背中に細い腕を回してしがみ付きながら、懸命にその荒いうねりを遣り過ごそうと歯を食い縛っている。
 滾る欲望で柔らかな内壁をごりごりと擦り上げられると、咽び泣くような微かな悲鳴が口許から零れ落ちる。その声が、どれほど兵士の欲望に火を点けて、限界まで煽っているか気付けるほど光太郎に余裕はない。

「ッ!…ぁあ、…も、やだ、…や!…ヒッ」

 鍛えられた身体に包まれるようにして抱きすくめられたまま、片足の膝の裏を掴まれてあられもない姿で抱かれている光太郎は、結合部から時折響く湿った粘着質の音に目元を染めて、生理的な涙が頬を伝っていた。
 松明の明かりで壁に踊る二匹の獣の影は、牢屋の隅で縮こまっている魔物たちと、こうして日毎夜毎性交に耽る人間たちと、一体どちらが魔に属するものなのか判らなくしていた。
 ドロドロに溶け出す脳味噌ではもう、羞恥心すら見失ってしまいそうな光太郎は、影が躍る岩肌を震える瞼を押し広げて見詰めながら、快楽に押し流されまいと懸命に考えていた。

「っあ!…ん…やぁ」

 意識せずに締め付けてはやわやわと蠕動する内部の刺激に、兵士は昂ぶった欲望の先端でぐりぐりと前立腺が隠れている部分を乱暴に擦りあげる。そのダイレクトな刺激に一瞬脳裏がスパークするような錯覚を覚えて、まるで溺れている人が藁にも縋るような思いで光太郎は湿った音を響かせて腰を打ち付けてくる兵士の背中に回した腕に力を込めた。
 甘えたような切ない溜め息に似た声を洩らすと、求められていると勘違いした兵士たちは、いつもそうすることですぐに欲望を吐き出してくれた。
 そうすると、思ったよりも早く終わってくれて、長い夜に終止符を打つことが出来るのだ。
 顔すらも知らない今日の兵士もそうだったのか、一瞬ギュッと華奢な光太郎の背中に回した腕に力を込めて自分の身体に押し付けるようにして抱き締めた後、唐突に石造りの床に乱暴に押し倒してぐぷっ…と粘着質な音を立てて淫らに蠢く内壁の名残りを惜しみながら欲望を引き抜くと、未だ達することもできずにひくんっと震える小さな陰茎に凶悪な鈴口から滾る白濁を叩き付けるのだ。

「…ッ」

「ひぁ!…やだぁ!…んくッ…ん…ふ」

 強かに熱い、青臭い白濁に下半身を汚されて、その熱に怯えたように震える光太郎の下腹部も熱の衝動で反射的にびしゃっと白濁を吐き出してしまった。震える先端に、それでもまだ軽く扱いて最後の残滓までも搾り出そうとしているような兵士の、その陰茎からは粘る精液がボタボタと零れて穢していく。もう、どちらのものか判らない白濁に腹を濡らしたまま、光太郎は弛緩した足を抱え上げられたままの格好で荒く息を吐いている。

(嫌だ嫌だ嫌だ!…いつか、きっといつか殴るんだ!)

 頬を朱に染めて涙を零す光太郎の表情に、また激しい劣情に襲われた兵士は堪らないとばかりに乱暴に光太郎の顎を引っ掴むと、強制的に施された快楽の余韻に震えるその唇に噛み付くような口付けをする。
 嫌だと厭う光太郎の必死の抵抗も、戦場を駆け抜けて鍛えられている男には蚊が止まったほどでもないのか、肉厚の舌でむりやり歯列を割り開くと、奥で怯えている舌に乱暴に絡めるようにして深い口付けを施されて、光太郎は目尻から生理的なものではない涙を零して眉を寄せた。

(嫌なのに…せめてキスはして欲しくないのに)

 そんなこと、どんなに願っても叶わないことは知っているけれど…
 酒臭さとタバコの匂いがして吐き出したい衝動に駆られるのに、熱を放ってもまだ衰えない劣情を持て余す欲望が腿に触れてしまうと、身体をブルッと震わせて瞼を閉じるしかない。
 毎夜、乱暴に抉じ開けられる小さな器官は悲鳴を上げて、口付けられながら怯える光太郎の蕾は掻き回されて腹の中で温まって泡立つ残滓をこぷっ…とだらしなく零していた。が、よく見るとその残滓には赤いものが混じっている。
 無骨な男たちは光太郎を同じ人間だとは思ってもいないのか、満足な前戯すらもせずに、きつい双眸で睨みつけてくる、そのくせ怯えているに違いない彼を組み敷いて潤いの少ない蕾に捻じ込むのだ。
 悲鳴が咽喉で引っかかって苦しそうに喘ぐ姿にすら興奮を覚えるのか、下卑た笑みを浮かべて腰を振る兵士を、対面する牢屋の鉄格子を掴んで唯一目を背けない魔物が1人、食い入るように眼に焼き付けていた。
 ギリギリと奥歯が軋む音がして、鋭い爪がブツリと自らの皮膚を突き破ろうとも、魔物は目を逸らさずに惨劇を見守っている。

「くッ…っとに、好い顔をするよなぁ、お前。最初に見たときから、お前はイケると思ってたんだ」

 声音がニヤニヤと笑っていて、ぐちゅぐちゅと口腔内を犯していた舌を引き抜くとペロリと唇を舐めて囁くように言う兵士を、唇を唾液で濡らしたままの光太郎が眉を寄せて軽く睨むと、その艶っぽい表情に兵士はまた悦んだ。
 自分の何が男たちを悦ばせているのか判らない光太郎は、悔しくて奥歯を噛み締めてしまう。

「ここも随分と開発されたよなぁ…最初の頃はひぃひぃ言うばかりで、少しも好くなかったけどよ。今じゃこう、しっとりと絡み付いてきて…う、思い出しただけでイキそうだぜ」

「…ッ!も、終わったんだから戻れよッ」

 抵抗できるほど体力の残っていない光太郎は、せめても反撃するつもりで睨みながら言い放った。
 片足を抱え上げられたままの無様な姿で、悪戯でもするように指先で残滓を零す蕾をくちゅっと弄ばれている現状ではその凄味も凄味にはならないのだが…それでも必死の光太郎を、たった今まで散々嬲っていた兵士は可愛いヤツだと思っているようだった。
「何を言ってやがる。お前は俺たちの可愛い男娼ちゃんなんだからな、俺たちがいいって言うまでは大人しくしてないと…なぁ?」
 何らかの意思を込めてぐちゅ…と蕾に指先を減り込ませて笑う兵士の唇が耳元に寄せられると、頬を朱に染めた光太郎は嫌そうに瞼を閉じながら唇を噛み締めた。

「わ…かってるよ!だから、反抗なんかしないじゃないか」

 投げ捨てるように呟く少年の顔を盗み見ながら、北叟笑む兵士はベロリとその耳を舐め上げた。

「…ッ」

「判ってねーなぁ。お前がそんな風に反抗的な態度を取るんだったら、手始めにあそこで睨んでる魔物でも殺っちまうか?」

「やめろよ!」

 ハハハッと声を上げて笑う兵士を、組み敷かれたままでも慌てて留めようとする光太郎の顎を掴んで、男はその翳りを秘めない真っ直ぐな双眸を覗き込んでいた。
 散々慰み者にしたはずの少年の双眸から、生気が消えることはない。
 もう、何人もセスに犯された男娼たちを見てきたが、光太郎ほど我を忘れていないのはいっそ賞賛すらしたいほど天晴れだと思っていたのだ。
 ここに送り込まれてくる者然り、戦場に従軍する者も然り、男娼と呼ばれる少年たちは、何も最初からその職に就いていたわけではない。沈黙の主が見立てた少年たちが、何の訓練も受けぬまま【男娼】として送り込まれてくるのだから…逃亡しようとした者や、自ら命を絶った者も少なくはない。
 どの少年を見ても、一様に瞳に生気がなく、ただ生きた人形のようだと兵士は密かに思っていた。
 今、セスが寵愛する男娼は別として、の話だが。

「その目付き、忘れるんじゃねーぞ」

「?」

 覆い被さるようにして覗き込んでくる兵士の顔を、光太郎は訝しそうに眉を寄せたまま怪訝そうに見上げている。
 確かに、初めはただの人間の少年としてしか見ていなかった。
 だが、皆で輪姦したあの日、どうせセスからは死なない程度なら何をしてもいいと捕虜にはお許しが出ていたのだから、きっともう廃人になるだろうと高を括っていた。
 なのに、数日寝込んでいただけで、体力を取り戻した少年は少しも怯むことなく自分を睨みつけてきた。
 抱かれている間も嫌そうにしてはいるが、【仲間を殺すぞ】のキーワードが彼を雁字搦めにしているせいか、少年はあからさまに嫌そうな顔をしてはいるが逃げ出すようなことも、精神を手放すようなこともしていない。
 それが、兵士には不思議で仕方なかった。

「お前は…」

「??」

 顎を掴んでいた手を頬に滑らせて、兵士が何かを言いかけるのを光太郎が不思議そうに小首を傾げるのと、対面の鉄格子を握り締めて怒りに震えていた魔物、バッシュがハッとするのはほぼ同時だった。
 そう、湿って陰気な地下牢に重い軍靴の音を響かせながら姿を現した大男が、鉄格子に軽く凭れながら気のない様子で全裸で抱き合っている2人を見下ろしたのだ。

「せ、セス隊長!このようなところにお出ましとは…」

 光太郎を抱き締めていた男がギクッとして慌てたように身体を起こすと、さっと跪くようにして控えた。
 その展開に追いつけない光太郎も、何やら只ならぬ雰囲気に、とばっちりを食らうのも面白くないと思いながらノロノロと身体を起こして大男を見上げた。

「あ!」

 松明が浮かび上がらせている男の顔を見た瞬間、光太郎は声を上げて、それからハッとしたように慌てて口を噤んだ。
 そう、その顔は忘れもしない、光太郎とティターニアを捕縛した張本人だったのだ。

「よう」

 控えた兵士に言ったのでは勿論ないのだろう、セスは冷めた双眸をして全裸で蹲るようにして身体を起こしている光太郎を見下ろして肩を上げて見せた。

「コイツを男娼にしたんだってなぁ…砦中の噂が、四方や俺の耳に届かない、などとまさか思ってたんじゃねーだろうな?」

 ああ?とでも言うように胡乱な目付きでニヤッと笑うセスに睨まれて、光太郎の前であれほど不遜な態度を取っていた兵士は見る影もないほど怯え、恐縮したように縮こまっている。
 その態度で、セスの実力が外見と相応しているのだろうと、対面の牢屋の中から様子を窺っているバッシュはひっそりと観察していた。

「は、ハハッ!申し訳ありません、これは…」

「別に男娼にするのはいいんだぜ。だが、お前たちも相当行き詰ってたんだなぁ。こんな魔族と仲良しこよしのゲテモノを抱くんだ。なんだ、抱き心地でもいいのか?」

「いえ、セス隊長には物足りないかもしれませんが…」

 ふと、腕を組んで鉄格子に凭れている隊長を見上げた兵士の僅かに反発するような意味を含んだ言葉に、セスの片眉がピクリと震えた。それを見逃さなかった兵士はしまった!と思ったが、既に後の祭りだ。今夜は処罰があるんだろうと震え上がる気持ちを叱咤しながら項垂れてしまった。
 と。

「ゲテモノとか言うなよな!俺や魔物たちを捕虜にしたくせに、こんな扱いしかできないお前の方がゲテモノじゃないか!」

 もちろん、抱かれた名残りを漂わせている光太郎が腹立たしそうに言ったのだが、思わず兵士と対面の牢屋にいるバッシュは吐きそうになっていた。
 兵士がこれほど怯えているのだ、ましてや目の前の人物こそ、最初の日に散々拷問した相手ではないか。

(光太郎!どうかしてるぞッ)

 心の中の悲鳴のような呟きを、まさかセスへ届いたと言うわけでもないだろうが、人間の隊長は組んでいた腕をゆっくりと解いて格子を掴むと、へたり込んだまま見上げてくる少年をマジマジと睨みつけた。その目付きに微かに怯みはしたものの、それでも光太郎は殴られてもいいからと、溜まっている鬱憤にムカムカしたようにセスを見上げている。

「…へぇ、お前面白いな。男娼扱いされてるっつーのに、凹んでねーな?」

「はぁ?そりゃあ、男としてはムカツクけど。仲間の命を考えたら、こんなの屁!でもないねッ」

 つーんと外方向く光太郎の言葉に兵士は驚き、そして鉄格子の向こうにいる魔物たちは感動したように双眸をウルウルさせている。

「く、くっくっく…そーか、屁でもねーのか。捕まえたときはムシャクシャしてたが、落ち着いてみればお前、なかなか見られるじゃねーか。魔物どもと馴れ合うのなんざ冗談なんだろ?まあ、笑えねージョークだがな」

「うっさいなー!男を相手にヘンなこと考えてるような連中に比べたら魔物たちの方がいいに決まってる」

 少なからずは凹んでいるのだが、それでも表に出さずにフンッと意地を張る光太郎をマジマジと眺めていたセスは何事かを考えているようだったが、その鋭い双眸がチカッと瞬いて、それに逸早く気付いた兵士が拙いと顔色を曇らせた。
 セスの双眸がチカリと瞬くとき、大概、対峙した者にとって非常に良くないことが起こる。

「お前たちなんかより100万倍マシだよ!悔しかったら捕虜たちにちゃんとしたご飯や綺麗なシーツぐらいくれたらどうだッ」

 ゆっくりとした足取りで牢獄の中に入ってきた威圧感のある男を睨み上げながら、光太郎は口をへの字に曲げて言い募った。

(シューに比べたらこんなヤツ、どうってことないや)

「なんだと?」

「聞こえなかったのか?シーツとかちゃんとしたご飯を寄越せって言ったんだよ」

「魔物にか?笑わせるな」

 冷酷な声音で言い放ったセスは、まるで無造作に腰に下げていた剣の柄を握って抜刀すると、松明の明かりを受けて凶悪なほどギラつく刃に一瞬怯む光太郎を見下ろして、まるで楽しそうに残酷そうに笑ったのだ。

(ヤバイ)

 光太郎を除いた誰もがそう思った時だった。
 セスが問答無用で斬り捨てようとしたその時、不意に対面の鉄格子をガシャンガシャン揺らしてバッシュが叫んでいた。

『おい!セス隊長とやら!!その剣を納めろッ』

 その声音に、不意に兇悪な思いに囚われていたセスの双眸に生気が戻り、ふと対面の牢屋に放り込まれている魔物を目にして呆気に取られたような顔をした。次いで、何が可笑しいのか咽喉の奥で笑いながら松明を引っ掴むと、激しく炎を揺らして対面する牢屋内を照らしたのだ。

「どこのどいつかと思いきや、これはこれは…まさか魔軍の大隊長さまだとはね。お噂はかねがね聞いてるぜ」 

『そいつはどーも。あんたの噂も聞いてるよ。まあ、そんなこたどうでもいい。光太郎には手を出すな』

 光太郎はキョトンッとしてニヤッと笑う蜥蜴の親玉のようなバッシュと、ガッシリした体躯の持ち主であるセスを交互に見比べて首を傾げていた。
 知り合いなんだろうかと、未だ自らの危機を何とか脱せたと言うことにまるで気付いていない光太郎が首を傾げる横で、セスは片方の眉を器用に上げて肩を竦めて見せるのだ。

「大隊長さまともあろう者がこうも簡単に捕虜になるとはな…で、そのお前が人間を庇っているのか?いつから人間に尾を振るようになったんだ??」

 クックックッと馬鹿にしたように笑うセスに、後方で事の成り行きを見守っていた魔物たちが腹立たしそうに吼えるのを、大隊長と言う地位にあるバッシュが軽く制すると、彼は人間の隊長を睨みつけながらニヤッと笑ったのだ。

『…その人は特別な人だ。種族なんざ関係ない』

「特別だと?」

 俄かに興味を示したのか、キョトンッとして座り込んでいる光太郎を無視したところで、セスとバッシュの目に見えない攻防戦が繰り広げられている。ともすれば火花だって見えたかもしれないが。

『そうだ、とても特別な人だ。殺せば必ず後悔するぞ』

 なんとでも言えというように飄々としているバッシュはしかし、縛られた両手で鉄格子を掴みながらセスに向かってニヤッと笑ったのだ。

「後悔だと?ふん、魔物らしい小賢しい台詞じゃねーか。じゃあ、殺してみるか」

 剣の腹で肩を叩いていたセスは、小馬鹿にしたようにそんなことを言って、それから牢獄の方を振り返った。情事の名残りが色濃い少年は、確かにともすればハッとするほど色香を漂わせてはいるが、それも一瞬のことで、どこにでもいる少年でしかない。
 ただ、窮地に陥って尚、その双眸の色を失わない豪胆さは確かに何かありそうで…

「…いや、待てよ」

「?」

 誰にともなく呟いた台詞に光太郎が小首を傾げるが、そんな小動物のような仕種に冷酷で残虐を好むセスの中の何かが引っ掛かった。殺すのも面白いかもしれない…いやだが。

「魔軍の誇る大隊長が捕虜になるだと?全く信じられんな」

 その台詞に、どうやら自らの思惑がセスの中で芽吹いたことを知って、バッシュはニヤリと嗤った。その心情は吹き荒れるブリザードがやっと経過していった後のような安堵感で、心底ホッとしているのだったが勿論表には出さない。
 ポーカーフェイスの得意な蜥蜴顔は便利でいい。

「なるほど…あのごった返した戦場にあって、俺がコイツを捕らえたのを見ていたんだな。そしてわざと捕虜になったと言うわけか」

「ええ!?」

 鉄格子を掴むようにして立っている蜥蜴の大将のようなバッシュを振り返るセスの台詞に、へたり込むようにして蹲っていた光太郎が驚いたような声を上げた。
 バッシュが将軍職の下にあたる地位の持ち主だと言うことも初めて知ったのだが、光太郎が捕まったのを見てわざと捕虜になったと言う事実の方が何よりも衝撃を与えたのだ。

「そんな、バッシュ。どうして…?」

 逃げられていたのに、どうしてバッシュ?
 下半身に力の入らない光太郎が腕の力だけで、松明が照らす魔物たちの牢屋の方を向くと、そこで心配そうに立ち尽くしている蜥蜴面のバッシュを見上げた。
 見慣れた蜥蜴の親分は、ともすれば冷酷そうにも見える縦割れの瞳を持つ双眸を優しく細めるだけで何も言おうとはしない。

「バッシュ…」

『俺が守ってやるって言っただろ?光太郎は特別な人だから』

 最後は相乗効果を狙って付け加えた台詞だった。
 ただバッシュは、不安そうな困惑したような、哀しい目をした光太郎を励ましてやりたいだけだったのだが、セスはどうやらそうは取っていなかったらしい。

「なるほどなるほど。大隊長が守り、副将シンナの愛馬に乗っていた…と言うことは、どうやらお前の話は嘘ではないようだな」

「あ!」

『!』

 華奢な首に重く下がった首輪を外して、あっと言う間に光太郎は大男の肩に担ぎ上げられてしまった。不意の出来事に事態を飲み込めていない光太郎はだが、ジタバタしながらセスの髪を引っ張った。

「大人しくしやがれ!叩き落すぞッ」

「俺だけここから出すつもりなんだろ!?そんなの嫌だ!そんなことしたら…舌を噛んで死んでやる!!」

 満更嘘ではないと言いたげな光太郎の鬼気迫る言動に、セスは不機嫌そうに眉を寄せて首を左右に振った。この調子では、叩き落すと脅せばそうすればいいとでも言い返してくるんだろう。やれやれと溜め息を吐きながら、少年の無防備な尻を片手でワシッと掴んだ。

「ッ!」

 とろり…と、先ほどまで欲望を咥え込んでいた蕾が残滓を零して、光太郎の腿に伝い落ちた。
 それはとても扇情的ではあったが、そんな行為で怯むほど、今の光太郎は平静ではいられない。

「クッソー!何するんだよッ、みんなも一緒じゃないと絶対に出ないからな!叩き落すなり殺すなり、どうとでもすればいいんだ!!」

 言い出したら聞かない子供のような仕種で暴れる光太郎は、セスの髪を引っ張ったり背中を叩いたりして精一杯抵抗している。性的な意味で黙らせるには、まだ光太郎は幼すぎるようだと知ったセスは、仕方なく髪を引っ張られながら魔物たちが叩き込まれている牢屋を振り返った。

「魔物が一緒じゃないと夜も眠れんのか!…ったく、魔族の中ではそれなりに地位でもあるんだろう。高貴な方のために侍従を1匹つけてやる。好きなのを選べ」

「セス隊長!」

 それまで項垂れるようにして俯いていた兵士が、慌てたようにハッと顔を上げて隊長の顔を見上げた。多くは語らないが、その目付きは魔物を砦内に放すのは危険ではないかと訴えているようだ。

「ふん、この砦から逃れられると思っているのか?」

 そんな兵士を気のない素振りでチラッと見下ろしたセスの言動に、兵士はそれはそうかもしれないが…と、それでも不安は隠し切れない表情で何か言いたそうだ。

(…やはり、この砦には何かあるようだな)

 バッシュは事の成り行きを固唾を飲んで見守っていたが、それでも、セスと兵士の会話の中で、幽閉されてから自分たちの力が半分も出ない不可思議の謎が、どうやらこの砦にあるらしいと薄々感じてはいたが思ったとおりだったのかと、蜥蜴らしい尻尾を軽く振っている。

「嫌だ!誰か1人なんてどうかしてる!みんなと出たいッ」

「…いい加減にしろよ、小僧。このまま皆殺しにしてもいいんだぞ」

「…!」

 思うよりもずっと低い声音で我慢の限界を報せるセスの、自分を抱えている腕の力がやんわりと加わったのに気付いて、光太郎は口を噤んだ。殺されてしまったら、元も子もないのだ。
 漸く大人しくなった光太郎に、セスはウンザリしたような溜め息をついて首を左右に振っている。
 底知れぬ怒りが沸々と浸透してくるが、それでも、手に入れたどうやら魔族のアキレスともなり得そうな少年を殺すわけにもいかず、侭ならない思いに随分と優しくなったもんだと自らの行動に、兵士に言われずともどうかしていると思っていた。

『光太郎!バッシュを連れて行けッ』

 不意に魔物の中から声が上がって、固唾を飲んでいた魔物たちがハッとして頷いている。名指しされた当のバッシュは、鉄格子を掴んだままで、肩に担がれて身じろいでいる光太郎を凝視している。
 どうするだろうと、少し不安そうだ。

「でも…!」

『俺たちは大丈夫だから』

『ああ、約束しただろ?』

 必ず生き残って、みんなでここから出る。
 暗に示された【約束】に、振り返ることも出来ない光太郎は唇を噛んだ。
 できれば、みんなで一緒にここを出たいのに…それは無謀な願いなのだろうか。
 背を向けたままで逡巡している光太郎の軽い身体を担いだままで、セスは不意に、クククッと咽喉の奥で笑った。その態度に、光太郎は更にムカムカしていたが、もしかしたらここから出た方が何か酷いことになるかもしれないと一抹の不安も覚えた。
 セスの、その態度が光太郎を不安にするのだ。

「涙ぐましくなる仲間愛だな。そんなもんが、お前たちにあればの話だが」

「煩いよ!…バッシュ、俺と来てくれる?」

 セスの腹を膝蹴りしてもいまいち効いていない事実にムカッとして、でも、酷いことになるかも知れないが…と、不安そうに唇を噛んだ光太郎のその返事に、バッシュは漸くホッとしたように張り詰めていた息を吐き出した。
 光太郎が「嫌だ」と言い出すのではないかとハラハラしていたのだ。
 彼に「嫌だ」と言って欲しくなかった。

『もちろんだ』

 その返事に、光太郎もやっとホッとして微かに緊張を解いた。
 独りぼっちで行くのは、やはり怖かったのだろう。

「ありがとう」

 小さく呟いた声音のか細さに、セスは新たな発見をして一瞬だが目を丸くした。
 自分には真っ向から刃向かってくるくせに、たとえそこに誰がいようとも、仲間に見せるその素直な怯えは、絶対的な信頼の証でもあるのだろう。
 魔物に寄せる信頼…それがセスにはどうしても理解できるものではなかった。
 そして、自分たちが魔物を憎んでいるように、同じように最大限に人間を憎んでいるはずの魔物どもが、その人間であるはずの少年を受け入れて、その人間のために命を投げ出してもいいとさえ言っているのだ。
 その関係を理解する気など毛頭ないし、理解してやる気も勿論ない。
 ただ、魔物どもがこれほどまでに守ろうとしている少年の存在が、一体なんであるのか、あまりにも軽い少年の腰に回した腕に微かに力を込めてセスは思う。
 間もなく、放った伝令は沈黙の主の許に辿り着くだろう。
 その間、どうやら退屈しないですみそうだと第二の砦を支配している男は嗤った。

第二部 1.嵐の夜  -永遠の闇の国の物語-

 北の砦を落としたシューは、それでも何か引っかかるものを感じていた。
 だが、その思考を阻むかのように光太郎の安否が気になって、その確信に至るまでにいきつかないでいる。

(なんだ、この違和感は…)

 大切に育ててきたソーズの仇を討ち、尚且つ、魔王のお心を悩ます北の砦の攻撃すらも食い止めたと言うのに…いったい何がシューの魔獣の心をこれほどまでに悩ませているのだろう。
 獅子面の将軍の不機嫌そうな顔色を窺いながら、北の砦の掃除を始めている魔物たちは、時折、あの元気な少年の笑顔を捜して手を止めている。魔物の誰もが、魔軍にコソリと忍び込んだ命知らずの少年の存在に気付いていたのだ。
 掃除に託けて将軍の部屋を覗けば、外に出して欲しいと口数多く強請る少年の姿を一目でも見ることができるのではないかと思う気持ちを抱きながら訪れた魔物たちも、その姿がないことにひっそりと眉を寄せて残念そうに戻っていく。連中の後ろ姿を見送っていたシューは、それでもどうすることもできない歯痒さに苛々しながら、大きなテーブルにある地図を見下ろして思案していた。
 目が行くのはなぜか第二の砦で、できれば生きていて欲しいと願いながら、それでも将軍としてまずはやらねばならないことがあると、泣き濡れたシンナの強い表情を思い浮かべると、思い直したように周辺に視線を這わせるのだった。
 彼とゼィの良き左腕は、今恐らく、この時でさえ鬱蒼と茂る森を駆け抜けているのだろう。
 そこまで考えてハッとすると、目頭を押さえてドッカリと椅子に腰掛けてしまった。
 何を考えても、何をしていても、思い出されるのはこんな風体のシューをも怖れない無敵の笑顔。
 ムゥッとした顔で唇を尖らせながら、それでも、申し訳なさそうに眉を寄せて小さく微笑んだ光太郎。

[この戦争が終わって城に帰ったら、もうシューは自由だ]

 その言葉が唐突に頭の中で木霊して、不意にシューはクワッと黄金色の双眸を見開いた。
 石造りの天井を睨みつけていたシューの双眸が、ふと、悔しそうに歪んでしまう。

『お前…また馬鹿なことを考えちまったんだろ?だから言っただろうが…お前の思い付きはいつだって迷惑以外の何ものでもねぇってな』

 突然の喪失感は、ソーズを失ったときに嫌と言うほど味わった。両の腕にズシリと乗った亡骸は、徐々に温もりをなくして冷たくなっていった。元気だった温かな頬の生気は失せて、青白い相貌が瘴気を孕んだ風に冷えていって涙すら凍りつかせてしまいそうだった。
 魂の重みを亡くした身体はまるで壊れた人形のように、意味もなく重くて、どうしてここに魂だけが空っぽなんだろうかとシューは驚くほど冷静に首を傾げたものだ。
 ああ、だが。
 あんな思いはもう二度としたくない。
 シューは唐突に目の前からいなくなった光太郎の、あの重みを思い出して片手で双眸を覆ってしまった。

(だが…)

 シューはふと思った。

(まだ、アイツは死んだってワケじゃねぇ…大丈夫だ、驚くほど運だけは良さそうなヤツだからな)

 双眸を開いて俯いたシューは、両手を開いてその掌をジッと見詰めた。
 大きくてごつくて、太い指を持つ強い掌は光太郎が嬉しそうに握ってきたし、横に張った肩には小猿のように上ってくる人間の重みを覚えている。
 そうだ、アイツは驚くほど運の良いヤツだ。
 シューは自分に言い聞かせるように呟いて、それからふと、広げた地図を見た。立ち上がって、もう一度両手で端を押さえながら、シューはこの周辺を描き出した地図を食い入るように見詰めていた。
 そして…唐突にハッとしたのだ。

『そうか、そうだったのか』

 不意に地図を見下ろしていたシューは、指先でどこかを辿ってまた別の場所を指差して、そこから辿るように指先を動かして…それから徐にグッと地図を握り締めた。

『コイツぁ…しまった!』

 顔を上げたシューは、慌てたように伝令を呼びつけた。
 猛然と鬣を逆立てた獅子面の将軍の、咆哮のような指示に怯えたように首を竦めていた有翼の魔物は、その内容に耳を傾けて驚愕したように目を見開くと慌てて北の砦を飛び出していった。

『野郎ども!引き揚げるぞ!!来た時の二倍の速さで引き揚げだッ!!!』

 咆哮のような雄叫びを聞いて、休んでいた魔兵も掃除に取り掛かっていた魔物も、砦の点検をしていた者も何もかもが、飛び上がるようにして慌てたように中庭に集まり始めた。
 シューの突然の指令に驚いたように各部隊の隊長が詰め掛けると、獅子面の魔将軍は素早くマントを肩の留め金に留めながら手早く指示を繰り返している。

『シュー将軍!これは何事ですか!?』

 各部隊の隊長の一人が怪訝そうに眉を寄せると、獅子面の魔将軍は睨み据えるようにして言い放ったのだ。

『国家の大事と言うヤツさ』

 冗談とも本気とも取れない口調のシューに、だが、部隊長は怯むことなく更に口を開いた。

『…国家の大事も重要ですが、未だシンナ副将はお戻りではありません』

 ピタリと、遽しく伝令を飛ばしたり帰城の準備をしていたシューの、その敏捷な動作が唐突に止まる。
 ふと、脇に控えていた配下の魔物が、その強靭な体躯から溢れ出した殺気のような怒りのオーラを感じてビクッと竦みあがった。だが、それでもやはり、部隊長が怯むことはない。

『…宜しいのですか?』

 部隊長の、城に残っている小憎らしい仲間によく似たその冷静な口調に、シューは口惜しそうに舌打ちしたが、今この状況で無駄に言い合っている時間はないのだ。フーッと溜め息を吐いて一瞬天井を見上げたシューは、だがすぐに首を左右に振ったのだ。

『構わん、ラウル。だが、お前はここに残るんだ』

 普段はぼんやりと牢屋番を勤めながらシンナと談笑しているラウルは、戦となれば部隊長としての辣腕を振るう魔兵の中でも優秀な戦士なのだ。
 彼は何か言いたそうに口を開きかけたが、シューの拒絶の意味を知っているからこそ、やはりラウルも悔しそうに唇を噛んで俯いてしまった。

『…は!』

 彼の反論を重々承知しているシューにしても、今すぐ第二の砦に攻め込みたい気持ちだった。だが、事は彼をスムーズに動かしてはくれないのだ。
 それが人間どもが実しやかに呟く『運命』と言うものであるのなら…

(俺は城に戻る。人間如きが1人どうなろうと…俺の知ったことじゃねぇ)

 心にもないことを、まるで自分自身に言い聞かせでもするかのように思い込んで、そして、シューは忌々しく舌打ちしたのだ。まるで人間から漂う腐敗臭のようなあの嫌な匂いが鼻先を掠めたような気がして、シューは乱暴に首を左右に振った。

『アイツに出逢っちまってから、まるでどうかしてる。俺はこんなヤツじゃなかったはずだ』

 独り言のように呟いて威嚇するように牙を剥いたシューは、漆黒の外套を荒々しく翻して居並ぶ部隊長たちを見渡した。
 不安の色などありはしない。
 人間どもと一戦交えて落とす命ならば、犬死だけはしないようにと覚悟を決めた戦士たちがそこには居る。
 だが、その誰もが、のこのこと潜り込んで来てしまった人間の安否を気にして、浮かない顔で魔将軍を凝視しているのだ。そのご判断で、間違いはないのかと…

『シンナは出来過ぎるほどできた戦士だ。アイツこそ将軍に相応しいんだがな。副将の方が気が楽だと言いやがる…アイツなら、きっと取り戻してくるだろうよ。嘗てそうだったようにな』

 誰に呟くともなく言うシューの言葉に、居並ぶ部隊長や魔兵たちはお互いで目線を交えると、耳を伏せるようにしてソッと俯いた。判っているのだが、人間も侮れない。
 それすらも判っているシューは、そうして沈みがちになる連中の気勢を殺がないように声高に咆哮したのだ。

『いい加減にしやがれ、お前ら!!事は急ぐと言ってるだろーがッ!!引き揚げるぞッッ』

 砦内に響き渡るシューの怒声に震え上がった魔兵たちは、取るものも取り敢えず帰城の準備に動き出したのだ。
 鼻息も荒くその様子を窺っていたシューに、部隊長の1人が慌てたように進言する。

『夜半過ぎの行動は、魔の森においては危険を伴います!』

 遽しく複数の部隊に残留を言い渡していたシューは、そんなまだ新米のような部隊長を見詰めて肩を竦めると、困ったような仕種をして頷いたのだ。

『だが、そうも言っている余裕がねーのさ』

 顔を見合わせた部隊長は、いつもは、冷静沈着からは程遠いにしても、飄々と事を成し遂げてしまうシューのその只ならぬ気配を感じて、いつもよりも一層機敏な行動で指示通りに動き始めた。
 その一連の動作をみていたシューは、それから強い表情をして一瞬だけ放り投げた地図を見下ろしたが、長靴の踵を打ちつけながら大広間を横切ってその場から立ち去ったのだった。

Ψ

 ふと、彼方で一瞬、天を貫くような哀しい悲鳴が響き渡り、稲光が切り裂くように雲を貫いて降り注ぐ。
 この大陸は太陽が顔を隠してからもう随分と長い時が経ち、その暗い翳りに慣れすぎたせいで、既に太陽の恵みの何たるかを忘れてしまったかのように呆気なく、諸刃の刃のような脆さで礎を築いている。
 魔王の指先が僅かに動くだけで、空は色を変え、声なく生者が地に平伏してその尊い命を散らしていた。
 世界は常に、魔王のたなごころの上で踊り、憐れな悲鳴を上げて可憐な歌声を奏でている。
 そんな風に、世界は全てが暗黒の大気を纏っていた。
 また、恐ろしくもそれが当然のことであって、人間たちでさえ既に、自らがどこから来て何を目的として生きているのかさえ見失っていたのだから、魔王が支配した歴史の深さはすぐに拭い去ることなど不可能だった。
 ふと、玉座で微睡んでいた魔王の、その紫紺の双眸が僅かに開いて、そして瞼がピクリと痙攣した。
 酷薄そうな薄い唇が笑みを象り、魔王は頬杖を付いたままで誰もいない玉座の間をチラリと見た。
 心が。
 そう、冷徹な魔王の、血も通わぬ凍り付いた心が温もりを感じ、彼は繊細そうな指先を億劫そうに持ち上げると、時を紡ぐことをしなくなって、もうどれほど経つのか彼自身でさえも覚えていない心の在り処に触れながら、魔王はうそ寒い微笑を浮かべていた。

『そうか、其方』

 呟きは吹雪のように冷たくて、もしここに衛兵が詰めていたとしたら、彼らは一瞬にして凍り付いてもう二度とその両眼で世界を見詰めることはできなかっただろう。
 トクン…ッと、それはまるで、可憐な乙女が流した涙のような儚さで、魔王の胸元に隠された凍て付いて絶望してしまった心臓が脈打った瞬間だった。
 だが、それはまるで幻ででもあったかのように一瞬の出来事で、彼の胸元は夜の静寂のような静謐に支配され、既に時を刻むことはなかった。
 一瞬、取り戻したと思ったぬくもりは、まるで広げた両指の隙間から零れ落ちてしまった砂のように、二度と掬い上げることはできない場所まで散ってしまった…そんな錯覚に、魔王は目蓋を閉じた。
 美しかった。
 森は生命に満ち溢れて、たくさんの生き物が当然のように共存し、まるで夢のように幸福な日々が続くのだと思っていた。諍いなど知ることもない動物たちが祝福して、森の中で、彼は種族の違いはあったが美しい娘との甘やかで素晴らしく光り輝く黄金の日々を送っていた。
 瑞々しく麗しい翠の中で、座っている娘の漆黒の髪が緩やかに大地を覆い、見上げてくる晴れた夜空のように煌く双眸を、もう長いこと目にしてはいなかったが、彼の記憶は忘れてなどいなかった。
 冷たい掌を伸ばせば、幸せそうに微笑んで、迎え入れる温かな頬が泣きたくなるほど愛おしかった。
 この終わりない愛が、娘と彼を包み込んで、世界は薔薇色に輝いていたのだと信じていた。
 想いは虚しく、嘗て愛した娘がその腕に戻ってくることなどもうないと、諦めていたはずの微かな希望が、まるで悪戯のように魔王の胸を掠めて消えていく。

(終わらないものなどありはしない)

 閉じていた震える目蓋を押し開くと、魔王は思慮深い面持ちをして世界を見据える紫紺の双眸で、人間の少年と魔物たちが結託して綺麗にしてしまった玉座の間を見渡したのだ。
 明るい少年はこの魔城に在っても、まるで意に介した様子もなく溶け込んでいた。
 あれほど憎んでいた人間であるはずの少年は、その存在を、人間と言う生き物に恨みを持っているはずの魔物たちの心でさえいともあっさりと懐柔してしまい、まるで最初からずっと一緒だったような錯覚さえ覚えさせながら植えつけて行ったのだ。
 植えつけて、行ってしまったのだ。

『…だが、生きるも死ぬも其方次第。私にすれば、どちらでも良いこと』

 魔王はゆっくりと微笑んだ。
 目蓋を閉じて視てしまった光景は、純白の白馬に跨った【魔王の贄】が捕獲されてしまうところ。
 自ら手を下さぬとも、人間は存外愚かな生き物である。
 自分たちの欲望のためにその血塗られた両手で罪を犯すが良い。
 二度と後戻りのできない自らが犯した罪を罰として、それぞれの命で贖うがいい。
 魔王はゆっくりと微笑んだ。
 その相貌は、凍えるほど美しかった。

Ψ

 いつも通り投げ捨てられた食事でなんとか腹を満たした光太郎は、それでもブツブツと文句を言いながら汚水が溜まる地下牢の床に直接ゴロリと横になった。
 暗闇と言うのは時間感覚を麻痺させるのか、もう何日そのような生活に身をおいているのか判らなくなっていた。

「だいたいさー、なんだよこの待遇は!もう~魔城の方がもっと良かった…って、俺も魔物みたいに愚痴っぽくなってるな」

 背中を丸くして、蹲るようにして横になっていた光太郎は愚痴っぽい自分に気付いてクスクスと笑っていた。
 と。
 不意に階段の辺りがざわざわして、松明を持った数人の下級兵士たちが光太郎同様に、なにやら悪態を吐きながら降りてきたようだった。

「?」

 キョトンッとして上体を起こして覗いていた光太郎の牢屋の前で立ち止まった連中は、やれやれと首を左右に振りながら魔物たちが眠る牢屋を松明で照らしている。

「見ろよ、この連中」

「ぐへぇ…これじゃあ、また使い物にならんな」

 ハァッと、仕方なさそうに溜め息を吐いた兵士が、唐突に悔しそうに地団太を踏んだのだ。

「ったくよ!!どーして俺たち下級兵士に宛がわれる男娼ってな、あんなガバガバばっかなんだろうな!?見てくれもとっくに薹が立ちまくってるしよぉ…はぁ、やってられっかよ」

 ガンッと鉄格子を蹴られて、光太郎は何事かとビクッとしたが、内部にいる魔物どもからは不平があがっただけだった。
 そんな魔物たちに「うるせー!」と威嚇した兵士に、屯して来ていた他の兵が仕方なさそうにポンポンッと肩を叩いて宥めようとするのだ。

「まあ、仕方ねぇだろ?上等な男娼ちゃんはセス将軍が使い物にならなくなるまで犯るんだぜ?その使用済みが俺たちに回ってくるんだから、マトモな男娼なんて期待すんなって」

「…なんつーか、ディハール族でも捕まってくれりゃあいいんだがなぁ」

「あ、そりゃムリムリ。捕まったところで高潔なディハールの一族は、男だろうが女だろうが辱めを受けるぐらいならつって自決するらしいからな」

 がっくりして鉄格子をもう一度腹立ち紛れに蹴り上げた兵士たちの会話を聞いていた光太郎は、一体何の話をしているのだろうかと首を傾げていた。
 長い戦になる場合、足手纏いになる女を連れてはいけない。そうなると、軍にはそれぞれ性欲処理として男娼が配給されてくる。長い戦いで昂ぶった感情は凶悪な闘争本能として男の身体には蓄積され、まるで精神の崩壊を意味するように爆発してしまうことがある。そうさせないためにも、賢い沈黙の主はそう言った欲望の処理をさせる者を選別して、各砦や軍隊に送り込んでいた。
 それが男娼である。
 その存在を知るよしもない光太郎としては、何がそんなに腹立たしいのだろうかと、却ってこんな環境の良くないところに放り込まれている自分たちの方がメチャクチャ腹立たしいんだがと思いながら、ムッとして事の成り行きを見守っていた。

「あーあ、なんかこうまともな…ん?」

 不意に、悪態ばかりを吐いている松明を持っていた兵士が階上に戻ろうと振り返ったとき、その光がサッと光太郎を照らし出した。

「なんだ、こんな所にもう一匹捕まってるじゃねーか」

「ん?ああ、ソイツは何でも魔物と馴れ合っている人間らしいぞ。セス将軍が主に差し出すから殺さないようにしとけって言ってたからな…」

「へえー、人間ねぇ」

 鉄格子を掴むようにして、上体だけを起こしてキョトンッと見上げてくる光太郎を見下ろしていた兵士は、不意にその顔に残虐そうな翳りを見せてニヤッと笑ったのだ。

「おい、鍵を寄越せよ」

 鉄格子を掴んで覗いていた兵士に、牢屋番が肩を竦めながら鍵の束を差し出すと、兵士は引っ手繰るようにしてそれを受け取って乱暴にガチャガチャと鉄でできた滑りの悪い扉を押し開けた。ギギギ…ッと軋む音を響かせて入ってきた兵士たちに、ワケが判らない光太郎はそれでも何か、また殴られるんじゃないだろうかと身体を強張らせながら警戒するように後退った。
 首に首輪を嵌められて壁に繋がれ、両手は痣ができるほど縛り上げられていては反抗しようにもその術もなく、仕方なく、光太郎は観念して壁に背中を張り付けながら眉を寄せて兵士たちを見上げたのだ。
 その観念した様子は無性に庇護欲をそそられながらも、メチャクチャに破壊してしまいたいと思う嗜虐欲すらも駆り立てる等と言うことに、もちろん光太郎が気付くはずはない。

「…なぁ、コイツでどうだ?」

 意味ありげに松明を持った兵士が言うと、のそのそと入り込んできた数人の兵士たちが肩を竦めてみせる。だが、彼らの顔を見ても満更…と言うわけでもなさそうだ。

「まだチビだが…顔も悪くねぇ」

「黒髪ってのが不気味だけどよ…まあ、支障ってほどでもねーしな」

「ようは、締まりの問題だろ?」

 口々に言う仲間の悪態に、松明を持った兵士がピシャリと言った。

「??」

 何を言われているのかその時になっても理解できないでいる光太郎は、訝しそうに眉を寄せながら小首を傾げていた。
 その時だった。
 不意にガシャンッと鉄格子を激しく揺らして、対面の牢屋から魔物たちの低い怒声が響き渡ったのだ。

『光太郎をその薄汚ねぇ手で触んじゃねーぞ…ッ』

 グルルルゥ…ッと、咽喉の奥から搾り出すような低い声で吼える魔物どもに、一瞬だが恐れをなした仲間に舌打ちした兵士は、不意に首を傾げている光太郎の腕を掴んで捻り上げる。

「痛ッ!」

 それでなくても極限まで腕を縛られていて痛んでいると言うのに、そのあまりに無体な扱いに光太郎が悲鳴のような声を上げてしまうと、それまで威嚇するように吼えていた魔物たちが途端に大人しくなってしまった。自分たちが暴れれば、それだけ光太郎を傷つけてしまうと思ったのだろう。
 もちろん兵士たちはそんな魔物どもの態度を見逃すはずもなく、松明を持っていた兵士がニヤリと笑いながら痛みと困惑で眉を寄せている光太郎の頬をベロッと舐め上げたのだ。

「そーだ、大人しくしてろよ。じゃないと、コイツがどうなっても知らんぞ?」

 クックックッと咽喉の奥で笑う兵士を魔物たちはギリギリと奥歯を食い縛りながら睨みつけているその気配を感じて、光太郎は自分が置かれている立場に唐突に気付いたのだ。
 だがそれは、あくまでも自分に危害を加えると脅して魔物たちを抑え付けようとしている…と言った認識でしかないのだが…彼がその身の上に起こることを想像して理解するには、知識も乏しく、何よりも平和すぎた。

「ち、ちょっと待てよ!俺を盾に魔物たちを黙らせるなんて卑怯じゃないか?!」

 腕を縛られた格好で首に首輪を嵌められた姿では様にならないが、それでも光太郎は自分の頬を掴む兵士を睨みつけながら嫌々するように首を振ったが、そんな姿を食い入るように覗き込んでいた兵士は仲間に松明を押し付けて強気の双眸で睨んでくる少年の顎を掴む手に力を込める。

「…ッ!」

 痛みに顔を歪めると、兵士は何やら面白そうにニヤニヤと笑ってそんな光太郎に口付けるのだ。

「!?」

 何が起こったのか理解できずにギョッとする光太郎と、ズボンに手を掛けて引き剥がす男を見下ろしていた松明を渡された兵士は、仲間と顔を見合わせて下卑た笑みを浮かべながら肩を竦めると、面倒臭そうに壁に掛けられた鉄製の容器に松明を入れた。
 不意に牢屋内全体が明るくなって、酒臭い舌で口腔内を弄られていてもなおこの状況を理解できないでいた光太郎も、ハッと我に返ってねっとりと絡みついてくる舌を噛んだのだ。

「…くっ!」

「…な、何すんだ!?俺、男なんだぞ!」

 男が男にキスをするなんて、それだけでも有り得ない状況だと言うのに、光太郎は頬を強かに殴られて床に突っ伏すと伸し掛かってくる男の行動に頭が混乱してしまった。
 まるで金槌にでも殴られたような強烈なショックを受けたのは、汚れたシャツの裾から忍び込んでくる男の節くれ立った指先が乳首を捏ね回す感触を感じたときで、その時になって漸く、この状況が非常にヤバイ事になっているのではないかと認識するようになっていた。
 頭を強烈にぶつけたときの様な眩暈を起こしながら、光太郎は鼻息も荒く伸し掛かってくる男の後方にいる兵士たちが下卑た笑みを浮かべて野次りながらも、だが、確実に欲情した表情をしていることに気付いてゾッとしたのだ。
 女の代わりにされようとしているのか…そんな途方もなく常識外れた考えが頭に浮かんで、光太郎は一気に血の気が引く思いがした。いや、そもそも男である自分をどうやって女の代わりにできると言うのだ?
 どうでもいいことばかりが脳内にグルグルと渦巻くくせに明確な答えはひとつも浮かび上がってこない間に、気付けば下着ごと脱がされた素足が無造作に抱え上げられている。
 殆ど、そう、殆ど無意識だった。

「ぅぐッ!!」

 抵抗しない少年に気を緩めていたのか、はたまた目先の裸体に欲情して他の事に気が回らなかったのか、どちらにしても男は不幸なことに滾りきった下半身を思い切り蹴り上げられたのだ。
 下腹部を押さえて蹲る男に仲間の兵士たちは下卑た笑いを浮かべたが、果敢にも蹴りをお見舞いした光太郎は蒼褪めてそんな凶悪な男たちから遠ざかろうと後退っていた。
 だが、後退る光太郎の足を掴んだ下腹部を押さえていた男は、その双眸に強烈な怒りを浮かべ、嗜虐心を燃え滾らせて怯える少年を難なく押し倒したのだ。

「おいおい、壊さないでくれよ。後が詰まってんだ」

「少しぐらい抵抗されねーと燃えねーよなぁ」

 そうして馬鹿みたいにゲラゲラと笑い声が暗い地下室に響き渡って、怒りに歯を食い縛っていたバッシュがガシャンッと壊さん勢いで鉄格子を掴んで咆哮したのだ。

『貴様ら!光太郎を放せッ!!放しやがれッ、こん畜生!!』

 その剣幕にはさすがに兵士たちもビビッたが、光太郎を捩じ伏せるようにしてその嫌がる頬に舌を這わせていた男は、何か面白いことでも思い付いたようにニヤッと笑って、それから、それでも頑なに拒絶する双眸で睨みつけてくるその神秘的な黒い瞳を覗き込みながら耳元に唇を寄せて囁いたのだ。

「抵抗してもいいがな、お前が暴れれば必ず1匹、大事なお友達の魔物を殺してやる」

 その瞬間、押し退けようと必死で暴れていた光太郎はビクッと肩を揺らして、それから心配そうな、なんとも言えない表情をして明かりの届く仲間の牢屋を押し倒されたままで見詰めるのだ。

『ダメだ、光太郎!諦めるなッ!畜生、俺たちのことは気にするんじゃないッ!!そんな人数に犯られたらお前…』

 鉄格子に噛り付くようにして見詰めてくるバッシュと、その後ろにいる魔物たちも懸命に光太郎を見詰めながら首を左右に振っている。その姿は、お願いだから諦めるなと全身で物語っているし、そのためなら自分たちの命など惜しくはないのだと伝えていた。
 地下室に篭もる湿って淀んだ空気を微かに震わせるようにして、光太郎は両足を抱え上げられながら目を閉じた。

(そうだ、俺は諦めたりなんかしちゃいない。失っていい命なんかないんだ)

 少し、ほんの少し我慢していればすぐに終わる。何が起こるのかなんてことは判らなかったが、それでも光太郎はせめて見ないように目蓋をギュッと閉じてやり過ごそうとしていた。
 何者にも触れられたこともない、まして人目に晒したことなどあるはずもない秘密の蕾が松明の明かりの元で露呈されて、羞恥に頬を染めながらも光太郎が暴れることはない。その姿を目にして、バッシュは激しく鉄格子を殴りつけていた。

『畜生…ッ!』

 呻くように吐き出されたその言葉は、これから起こる凄惨な宴の顛末をまるで見てきたかのように痛恨の悲鳴のようだった。

「…う」

 魔物を仲間だと言う不思議な少年の蕾に下卑た男どもの視線が集中して、未開発の少年が持つ清らかな素肌は彼らの欲望に油を注ぐように火をつけたのだ。そして、穢れを知らない蕾に這わされた舌の滑りに眉を寄せた光太郎は、襞の一枚一枚を丁寧に舐められて、身の毛のよだつような思いに唇を噛んでいた。まさかそんなところを舐められるとは思ってもいなかった分だけ、信じられない思いでさっきから頭を殴られっ放しのような錯覚を感じていた。

「あ!?…や、嫌だッ」

 グイッと左右に割り開かれた双丘の奥に窄まる蕾に更に舌を挿し入れられて、男女の機微にすら触れたこともない光太郎は、その未知の感触に背筋を粟立たせて嫌がった。

「嫌だと?じゃあ、お前の大事なお友達の首が飛ぶだけだな」

 萎えて縮こまっている光太郎の華奢な欲望をグイッと引っ張るようにしてベロリと舐め上げながら男が嫌な目付きをして笑うと、仲間の兵士がわざとらしく腰に佩いた鞘からギラつく剣を引き抜いて見せる。その相乗効果が光太郎に「魔物たちが自分のせいで殺される」と言う脅迫概念を実しやかに植えつけるのだった。
 そうなってしまってはもう、バッシュたちの声など光太郎の耳には届かなくなっていた。
 早く、早くこんなことは終わってしまえばいいのに…
 震える目蓋を閉じて観念しようとした当にその時だった。

「…く!もう、我慢できねぇッ」

 不意に男が呻くように呟いて、繋がれて腕を拘束されている光太郎の唯一自由な両足を掴んで押し開くと、寛げた前から隆々と屹立した欲望を何の準備もできていない蕾に強引に突っ込んだのだ。

「…!!!!~ぐッ、ぅあ…ッッ」

 声が出ただけでも天晴れだったが、咽喉の奥に引っ掛かった声はそれ以上出ることも引っ込むこともできずに、奇妙に拉げて息をすることすらできなくなっている。見開かれた双眸の縁からは堪えきれない涙がじわりと浮き上がり、光太郎の身体などお構いなしで闇雲に突き上げる腰の律動に追いつけずにガクガクと揺す振られる振動でボロボロと頬を伝って零れ落ちていた。

「や、…ぅ…ひぃ……ッ」

 力なく、欲情だけで突き入れられた凶悪なまでに猛々しい屹立に激しく責め立てられながら、半ば意識が朦朧としている光太郎の足が壊れた人形の足のようにブラブラと揺れている。痛みにメチャクチャに暴れたいのに、拘束されたままではそれも叶わず、血の気の失せた頬に涙だけがボロボロと零れ落ちている。ただ微かに呻く声の反応に、男は気を失いそうになっている光太郎の頬を叩いて正気を取り戻させては、激しく律動して苦痛に歪む顔を覗き込んでニヤニヤと笑っていた。

「…ッぁ……グギ…ぃあぁ…」

 無理矢理開かされた小さな蕾は悲鳴を上げるようにぶつりと鈍い音をさせて、そして不意にぎこちなかった男の動きが幾分かスムーズになった。汚水に濡れた地面にポタポタ…ッと何かが零れて、魔物たちの鋭敏な嗅覚にそれが儚い破瓜の血であることを教えていた。

『…くそぅ…畜生ッ!殺してやる、お前たち殺してやるからなッ!!』

 今すぐ出て行って人間どもを皆殺しにしてやりたかったが鉄格子がそれを阻んで、バッシュは掌に爪が食い込んで皮膚を破って鮮血が零れてしまうほどきつく拳を握り締めたまま憎々しげに何度も鉄格子を殴っていた。唇を噛み締めるバッシュが、そしてその仲間である魔物たちは、せめて、今起こっている現実を光太郎と共有し、そしてその目に焼き付けて必ずや復讐を成し遂げようと血の涙を零しながら食い入るように睨み据えていた。
 自分たちの命と引き換えに身体を差し出した光太郎にしてやれることは、魔物たちにとっては復讐への誓いだけだった。

「…なんだ、コイツ、ガキのクセにやけに色っぽいな」

「ああ…うん、まぁ、なあ?」

 仲間たちがモジモジしながら、虚ろな双眸で天井を見ながら揺すられている光太郎を見下ろして呟くと、額に汗を浮かべた男が感極まったように激しく腰を叩きつけながら、荒い息を吐いてペロッと舌なめずりをした。

「味はいいぜ。おいおい、お口が寂しそうじゃねーか。誰か突っ込んでやれよ」

「へへへ…」

 下卑た笑いを浮かべながら兵士たちは、久し振りに味わう極上のご馳走に蟻が群がるようにして貪りついたのだ。
 痛みと現実離れした状況に頭が追いつかずに虚ろだった光太郎は、半開きだった口腔にムッとする欲望を捻じ込まれて漸くハッと我に返って、慌てて吐き出そうとして更に奥にグッと押し込まれてしまった。

「…んッ!…んぐッ…ふ……ッ!」

 目尻から涙を零しながら含まされた太い屹立に、それでも光太郎はノロノロとではあったが舌を這わせて愛撫を始めたのだ。早く終わるように早く終わるように、まるで念仏でも唱えるかのように繰り返し思いながら舌を這わせていると、ビクビクと脈打つ欲望はそんなたどたどしい愛撫にも新鮮な快楽を感じたのか、兵士は微かに呻きながら苦しそうに眉を寄せる光太郎の口腔を充分に堪能している。
 苦しさに眉を寄せながら何も考えないようにしていても、突き入れられる腰の動きに蕾がビリッと悲鳴を上げて、犯されている事実を叩きつけられては光太郎は現実に戻っていた。
 そうして、最も奥深い部分に溶岩のように熱い飛沫が叩きつけられて、痛みを残しながら最初の男が腰を引き抜いた。すると、血と白濁が混ざった桃色の液体が閉じない窄まりからどろりと零れて肌を汚したが、すぐに次の男が伸し掛かってきてそれを「嫌だ」と思うことさえ許されなかった。
 最初の男の吐精で随分と滑りが良くなった蕾の収斂に快楽を追うように無造作に突き込まれた欲望は、最初の男に比べて鋭角的で、痛みはダイレクトに脳天を突き抜けていく。
 眉を寄せたところで口中から唐突に引き抜かれた欲望を追うように這わせていた舌に唾液が糸を引き、その展開に追いつかない光太郎が溜め息をついた瞬間、その顔にビシャッと熱い白濁が飛び散った。
 どろりとした液体が頬や鼻筋から零れ落ちて鎖骨を濡らし、青臭い匂いに眉を寄せる光太郎のその扇情的な表情に腰を突き進めている男が荒々しく息を吐きながら白濁を掬って乳首に擦り付けた。

「…く、コイツ、ホントにいいな!」

 乳首の刺激にキュッと蕾が窄まる感触をダイレクトに欲望に感じた男が、光太郎の華奢な身体に覆い被さりながら吐き出すように言うとまだまだ欲望の尽きない男たちが興奮したようにゲラゲラと笑っている。

「ああ、サイコーの玩具だぜ」

「下手な男娼よりずっと好い」

 下卑た話題で盛り上がる男の下で、この長く果てない責め苦が早く終わることばかり考えながら、だが、とうとう光太郎は3人目の精液を身体の奥に感じたのとほぼ同時に、その意識を深い闇の底へと手離していた。

8.闇を流離う漂白の者  -永遠の闇の国の物語-

 北の砦はそれでも頑強な警護を誇っているようだった。だが、さすがに先の戦で激戦を繰り広げただけあって、兵士たちの体力も消耗しているのか、砦自体は殊の外あっさりと開門してしまっていた。
 だが、そこからが人間の粘り強さの本領発揮である。
 開門と同時に飛び出してきた幾本もの矢の雨は、左右を囲むようにして配置されていた敵兵たちの白兵に傷付いている魔物の軍勢を幾許か削り取って、その場に阿鼻叫喚の地獄絵図を展開した。その屍を乗り越えるようにして前進する歩兵の頭上からは岩や石、そして矢が次々と降り注いでくる。
 馬を駆る将軍は飛んでくる矢を血溝がクッキリと浮かび上がる魔剣で薙ぎ払うと、返す手で襲い来る敵の兵士の首を跳ね飛ばした。漆黒の巨大な馬に血飛沫が飛び散り、シューはそれすらも意に介さないようにギラつく双眸で純白の馬の姿を探している。
 既に血飛沫で所々赤く染まったシンナの愛馬は嘶きながら立ち上がると、斬り付けてきた兵士の上に強靭な前足を振り下ろしてドカリと蹴倒す。シンナは両手に持った刀身の細いレイピアを華麗に操りながら、襲い掛かってくる兵士を片足で蹴り上げてレイピアで突き刺した。

『ねえン!光太郎ン?』

 まずは足許を狙う白兵戦の鉄則通りに馬の足を狙って斬り込んでくる敵兵の、その頭を軽やかな足裁きで蹴り上げたシンナが、怯えて純白の馬の鬣を握り締めている光太郎に尋ねてきた。

「な、なに?」

 ヒュッと飛んでくる矢を身を乗り出したシンナがレイピアで払い落として、命辛々、光太郎が首を傾げると頷きながら質問する。

『どうしてシューに、自由になれるなんて言ったのン?』

「ああ…ウワッ!あ、あれか」

 同じく馬に乗った敵兵の攻撃に首を竦める光太郎の頭上を、シンナのレイピアが凄まじい速さで旋回すると敵兵の首がポロリと落ちて、頭を失った身体が微かに傾ぐとドサリッと重い音を立てて落ちてしまった。噴出した鮮血に吃驚した主を失った馬が驚いたように嘶いて前足を高く掲げる。

「ゼインに出てくる前にお願いしたんだよ」

『えン?』

「シューを俺の世話役から解任してくれって。ここに潜り込むつもりだったから、迷惑をかけたくなくて。でも、大丈夫。もう、シューは今でも自由の身なんだ」

 だから怒られないよと困ったように笑う光太郎に、シンナはそんなことだったのかと溜め息を吐いた。

『でもン、戻ったらもうシューといられないわねン』

「あ!!そっかッ」

 今頃そのことに気付いたのか、光太郎は困ったぞと言うように頭を抱え込んでしまった。そんな光太郎をクスクス笑いながら、シンナは斬り付けてくる敵兵を馬上で鮮やかにレイピアの露にする。

『んもうン!キリがないわねンッ。光太郎、ティターニアはお利口さんだからきっと、振り落とさずに敵の中を掻い潜って逃げ続けてくれると思うのよねン…』

 両足だけで愛馬を操りながら、二刀流のシンナが馬上から襲ってきた鈍く光る剣の切っ先をかわして、2本のレイピアで馬上から叩き落すと純白の愛馬ティターニアが踏み付ける。そうして戦いながら呟いた言葉の意味を探るように、初めて目の当たりにした合戦の激しさに恐れをなして蒼褪める光太郎は、ゴクリッと息を飲んで眉を寄せると困ったように笑うのだ。

「白兵戦に行くのかい?」

『ごめんねン。あたしはもともと地上戦向きなのよン』

 すまなさそうに眉を顰めるシンナの頬は、先ほど避けたはずの切っ先で傷付き鮮血が流れていた。だが、血に飢えた魔軍の副将と謳われるシンナは、そのようなことは意に介した風もなく、喋りながらも敵将の首を取ろうと勇ましく斬りかかってくる人間の兵士をレイピアで刺し殺した。
 引き抜いた細い刃につられるように鮮血が噴出して、シンナは頭から真っ赤な血をベットリと被ってしまった。その光景に光太郎は怯んだが、だがすぐに見渡す限りの入り乱れて戦っている全ての者がそうであることに気付いて、今更ながらゾッとしてしまったのだ。

『グワッ!!』

 すぐ間近で声が上がって、ハッとした時にはよく城で回廊の掃除をしていると、ニコニコ笑いながら声をかけてくれた衛兵が片腕を切り飛ばされて真っ赤な血を噴出しながら倒れ込んでいた。

『チッ!』

 切り殺している敵に気を取られていた隙に、敵兵から狙われていた光太郎を守ろうと、飛び出した魔兵が切り殺されたことに気付いたシンナは舌打ちすると、愛馬を駆り立ててできるだけ戦況の厳しくない…そのようなところは殆どなかったが、そんな場所を選んで走り抜けた。
 光太郎はたった今倒れ込んで死んでしまった魔物の顔が頭から離れず、とんでもない場所についてきてしまったと後悔するよりも、皆の足を引っ張っている事実を見せ付けられて何も出来ないことの悔しさに唇を噛んだ。

「シンナ!行ってくれ。俺は大丈夫だから!」

『本当ン?じゃあ、行くわねン!』

「気をつけて!!」

 怒号の飛び交う戦場では声を張り上げても僅かしか聞こえないが、最後の言葉は確りとシンナにも届いたのか、勇猛果敢なる小柄なディハールの副将はウィンクしてレイピアを光太郎に持たせると、シュッと飛び出した鉤爪を両手に馬上から飛び降りて戦場に踊り込んだ。
 もともと地上戦に向いているシンナの活躍はすぐさま戦況を有利にするほどで、光太郎の目にもハッキリと、シューが自信を見せたように砦の陥落は明らかになろうとしていた。

「さて、ここでぼんやりしてても殺されちゃうね。ティターニアだっけ?取り敢えず、逃げよう!」

 ヒヒヒーンッと前足を上げてその言葉に応えた純白の駿馬が、颯爽と走り出そうとした当にその時だった。

「!?」

 シンナが離れるのを待っていたかのように、木々の間から躍り出てきた何者かがティターニアと光太郎に紐をかけて、豪腕でその場に引き摺り倒してしまったのだ。ブルルルッと嘶くと耳を伏せて歯を剥くティターニアの威嚇にも怯まず、豪腕の持ち主は馬に結わえた綱を握りながら、この戦場にあっても堂々とした態度で尻上がりの口笛を吹いたのだ。

「なんだ、シンナを捕まえたかと思ったら…ん?人間か!?」

「…!」

 ティターニア共々引き倒されてしまった光太郎は、縄に絡め取られているせいだとは言え受け身の術も知らないばかりに、強かに地面に身体を打ち付けてしまい、息も絶え絶えに何が起こったのか理解しようと顔を上げて、その言葉に震え上がったのだ。声も出せずに痛みに呻いている光太郎を、真上から見下ろしていた豪腕を持った大男は暫く考え込んでいたが、フンッと鼻を鳴らして蒼褪めて身動きの取れない身体をヒョイッと肩に担ぎ上げた。

「魔物と行動を共にしてるってこた、こんな形をしてても魔物なんだろう。まあ、いい。この戦もどうやら俺たちの負けは決まったらしいからな。他の捕虜どもも連れて引き上げるとしよう」

「セス隊長!」

「おう!今行くぞ。もう1匹珍しい捕虜を捕まえたからな、一足先に砦に戻るぞ」

(と、砦…?あ!シンナが言ってた第二の砦だ…そっか、やっぱり落とされてたのか)

 人間たちの遣り取りを痛みの走る背中を歯を食い縛りながら堪えて聞いていた光太郎は、どうにか得たその情報をシューに知らせたくて仕方がなかった。目線だけで落としてしまったレイピアを探しながら、漸く動かせるようになった身体で脱出を試みると、豪腕の男は確かに力も強いらしく、そんな抵抗などものともせずに、却って小煩いハエ程度にでも思ったのか手にしていた縄でとうとう足までも縛られてしまったのだ。

「は、離せ!!」

「離せだと?フン、見てくれも充分人間に見えるが、どんな魔術を使いやがったんだ?」

 馬引きの戦車の荷台に投げ出された光太郎は、グイッと顎を掴まれて上向かされると、暗い森の中を縫うようにして進む戦車の上で、木々を背にした男の顔を間近で見ることができた。

「お、俺は人間だよ!でも…ッ」

 男の明るい翡翠色の双眸が憎々しげに揺らいだかと思うと、ハエでも払うような軽い仕種で頬を殴られた。

「…あッ…ッ」

 口内が切れて唇の端から血を流して蹲る光太郎を見て、男は鼻先で馬鹿にしたように笑うのだ。

「魔物に加担するヤツが人間だと?笑わせるな。今度何か言ったらぶっ殺すからな」

 強ち嘘とも思えない冷ややかで冷酷な、この世界に来て初めて見る底冷えのする殺気を感じて、それまでシューやゼィが見せていた殺気が、本当はただ単に光太郎を脅かす程度で全開ではなかったのだと、この時になって初めて知ったのだ。

「…うう、シュー」

 囁くように呟いた名前までは聞こえなかったのか、男はゆっくりと、まるで踏み締めめるようにして光太郎の身体に足をかけると、忌々しそうに吐き捨てた。

「チッ!奪い返したと思ったらまた奪われちまった。だが、まあいい。沈黙の主の仰ったように、北の砦を餌にすれば、南の砦はがら空きだ。ふん!無能なる魔物どもが…はーはっはっは!」

 ハッとして、光太郎は自分を踏みつけている尊大な男を見上げた。
 まさか…まさか!

「それじゃあ、この北の砦の襲撃は罠だったのか!?」

 ジロリと、呻くように声を上げる光太郎を見下ろした男は、忌々しそうに華奢な身体を踏みつける足に強かに力を込めながらニヤリと笑った。

「だったらどうだって言うんだ?陽動作戦なんざ、魔物どもにとってもお手の物だろう?」

「そんな…!ダメだ、ダメだ!!シュー!!シンナ!!これは嘘だ!早く、早く城に帰らないと!はや…グッ!!」

「騒ぐんじゃねぇ!!この裏切り者がッ」

 ドカッと鈍い音を立てて腹を蹴られた光太郎は、身体をくの字に折り曲げて激しく咽た。
 口の周りを吐瀉物で汚しながらも、それでも光太郎は這うようにして戦車から飛び降りようとして、すんでのところで男の大きな掌にサラサラの黒髪を掴まれてしまう。
 乱暴に引き上げられて、光太郎は傷みに霞む目を凝らしながら呻いた。

「おいおい、どこに行こうってんだ?生意気な捕虜だな…ふん!まあ、砦に戻ってからたっぷりと尋問してやるがな」

「…うう…し、シュー…ッ」

 光太郎の切迫した吐き出すような微かな声は、戦場に渦巻く怒号に掻き消され、戦場で光太郎の姿を懸命に捜しているシューの思いもよらぬところで連れ去られてしまったのだ。

Ψ

 何かを感じたシューは焦ったように累々と死体に埋もれる戦場を見渡した。
 どこを捜しても、今更になってシューは、光太郎とシンナを乗せたティターニアの姿がないことに気付いたのだ。
 戦況はどうやら魔軍の圧勝で終わったようだが、戦場に潜り込んで来たあの勇ましい少年はどこにいる。シューの鋭い金色に輝く双眸が戦場を見渡してみても、舞い上がる土埃や血飛沫の中では、どこにもあの優しい黒髪を見つけ出すことが出来ない。

『…』

 早鐘がうつように心臓が高鳴るこの予感は、いつもシューに最悪の事態を予言していた。

『シュー!!』

 不意に絶叫のような声がして、漆黒の愛馬に跨っていたシューはハッとしたように声のした方を振り返った。振り返って、ギクッとするのだ。

『し、シンナ…どうしてお前が…』

 ここにいるんだと、吐き出されそうになった語尾を掻き消すようにして、シンナが必死の形相で縋りつくようにして暗黒の馬に噛り付くとそんなシューを見上げた。その双眸は真っ赤に濡れて、珍しいことに泣いているではないか。
 その顔が、余計にシューの嫌な予感を煽り立てる。

『ごめんなさいン!あたしが悪かったのン!!光太郎が、光太郎を乗せたティターニアがいなくなっちゃったのン!!』

『なんだと!?』

『し、死体もないから…きっとン…』

 鳴り響く早鐘はおさまることを知らないかのように、シューの耳の近くで何かが激しくドクドクと脈打っている。一気に頭に血が昇って、それが逆流するように激しく流れる自分の血潮の音だと気付いたのは、反射的に愛馬の首を第二の砦に向けてしまったときだった。
 その手綱を握り締めて引き留めるシンナに気付いて、シューはハッと我に返った。

『シュー、お願いン。貴方は城に戻ってン!光太郎は、必ずあたしが連れ戻すからン!!』

『…ダメだ…』

 ポツリと呟いた言葉に、泣きながらシンナはシューを見上げた。

『アイツは、俺じゃねぇとダメだと言ったんだ。だから、こんな所まで追ってきやがった…』

『ダメよン!シューは城に戻らないとン!!貴方は忘れないで、将軍なのよン!?』

『シンナ…』

 シューは真っ赤な双眸をして泣くシンナを見下ろして、それから徐に森の向こうにある第二の砦の方角を見詰めていた。シンナはどうか、シューが思い留まってくれることを願っていた。

『…捕虜になった魔物のその後を俺は知らんが。シンナ、光太郎は人間だ。奴らも無碍にはしねぇと思うが、頼む』

 不意に、獅子面のポーカーフェイスで感情を読み取らせないシューの言葉に、それでもシンナはホッとしたように息を吐いた。それから、シンナは大きく頷くと、必ず連れて戻ることを約束するのだ。

『任せておいてン!これはあたしのせいだもの、必ず光太郎を助け出してみせるわン!』

 傷付いて、いたるところから血を流しているシンナの、その痛々しい姿に申し訳なく思いながらも、シューは愛馬の手綱を握り締めた。
 どうか、無事でいてくれ。
 まるで、居もしない神とやらに縋りそうになって、シューは鼻先で笑った。

(そうだ、俺は魔物なんだ。人間如きがどうなろうと知ったことじゃねぇ…)

 光太郎だってそう言ったではないか。
 自分に言い聞かせるように呟いて、まるで野兎のような敏捷な素早さで戦場を走り去っていくシンナのか細い背中を見送りながら、シンナよりももっと儚い存在である光太郎を思い出して荒々しく舌打ちした。

『よし!砦は落ちた!!今夜は残務処理だ、ここに泊まるぞーッ!!』

 咆哮するように勝利宣言をするシューの言葉に、魔軍から一斉に歓喜の雄叫びが上がった。絶望する人間どもを見下ろして、シューは吐き捨てるように命じるのである。

『生き残った残兵は皆殺しにしろッ』

 それまで戦場にあっても捕虜として生け捕ることを提言してきたシューの、その残酷な宣言にある者は眉を寄せ、ある者はホッとしたように胸を撫で下ろしていた。なんにせよ、魔軍を束ねる将軍が甘いことでは全体の指揮に乱れが出がちだが、不思議と今までのシューにそれはあまり見られなかった。
 だが…今のシューは違っていた。
 どう言った理由でかは判らなかったが、シューは怒りに打ち震えているのだ。
 付き従う護衛の兵が怯えて立ち竦んでしまうほど、シューは怒っていた。
 自分でも侭ならないこの怒りを、どうして散らせばいいのか、もう手当たり次第に周囲の者に殴りかかるか、或いは全てのものを破壊し尽くすか…手始めに、皆殺しにするといい。
 光太郎がこの場所にいたらどんな顔をするのか…想像して、あまりに馬鹿らしくて舌打ちする。

(どんな顔でもいいから早く戻ってきやがれッ!勝手に俺の前から姿を消すなんてこた、許してねーぞッ)

 いつも傍にあったものが唐突になくなってしまう、開いた掌から零れ落ちる砂のように儚い存在に、その喪失感はたとえようもなくシューを不安にした。
 両手を真っ赤な血に染めて、その砂が零れ落ちないならそれでもいいと思う。
 戦場の血生臭い淀んだ空気を一掃するかのように、風が走り抜けていく。
 開いた大きな掌を見下ろしていたシューは、自分は何を考えているのかと、忌々しく歯噛みして開いていた掌を握り締めた。伸びていた爪が深々と皮膚を破って突き刺さろうとも、シューはその痛みすら感じなかった。
 漆黒の外套が風を孕んで、主を思って微かに嘶く漆黒の馬が静かに大地を踏み締める。その佇まいが、あまりにも寂しくて、残兵狩りに駆り出された魔物たちが一瞬驚いて立ち止まってしまう。
 呆気なく落とした砦の違和感を全身で感じながら、どうして自分は、こんな風に何も考えられないでいるのだろうかと、シューは風の舞い上がる魔天を見上げて眉根を寄せた。
 何かしなくては…と、気ばかりが焦るのに何も手につかない。
 これでは駄目だと自分に言い聞かせて、主を思う愛馬の首を擦ったシューは、その腹を蹴って走り出した。手綱を握り締めながら、大地を駆ける馬蹄の重い音を響かせ、自らの鬣を靡かせて荒れ果てた北の砦に入場するのだった。

Ψ

 第二の砦は、北の砦よりも僅かに頑強に造られているようだった。
 囚われた他の魔物たちと同じく地下牢に叩き込まれた光太郎は、だが、彼だけ仲間を裏切ったにせよ人間だと言うことで別に引き離されてしまった。

「イタタタ…」

 散々殴る蹴るされて、もう光太郎の顔は見るも無残に腫れ上がってまるで別人のようだ。それでも、縛られた両手で頬を擦りながら壁に凭れて座ると、自分が叩き込まれた地下牢を見渡して少し笑ってしまった。
 地下牢に通風孔を造ったときは、まさか自分も叩き込まれるとは思っていなかっただけに、人間はちゃんと捕虜のことを考えているのだろうかとぼんやり考えていた。

『おーい、光太郎?大丈夫か??』

 真正面の牢に入れられている何匹かの魔物が、縛られた両手で鉄格子を掴みながら傷付いて倒れている光太郎を案じて声をかけてきたのだ。恐らく、人間だったばかりに自分たちよりも酷いことをされたに違いないと、魔物たちは案じていたのか、その声は少し不安そうに揺れている。

「うん…みんなは?」

『ヘーキだ、ヘーキ。こんなのシュー様のシゴキに比べたら全然痛くも痒くもねぇ』

 ハハハッと笑ってうう…っと呻き声に変わるのを聞くと、どうやら彼らも半端なく殴られているようだ。
 薄暗い牢屋の中では外が夜なのか昼なのかも判らず、何よりも他の魔物たちの顔も見分けることができない。時折隅っこの方でキキキッと何かが鳴いて、それが拳ほどもある鼠だなどとは、気付くことすら出来ない有様だ。

『腹減ったなー、飯ぐらい持って来いってんだ!』

「アハハハ…テテッ。あんまり騒いでたらまた殴られるよ、バッシュ』

 声で誰かという事はすぐに判っていたが、その名を呼ぶことで相手はかなり驚いたようだ。

『おお!俺だって判ったのか??さすがだなー、光太郎は』

 バッシュの、蜥蜴の親分のような顔からは到底想像が出来ないほど、彼は陽気だ。目付きが異常に悪いから、恐らくどの魔物よりもかなり多めに殴られているのだろう、彼の顔も変わっていなければいいんだがと、光太郎はソッと心配していた。

「ここも落とされちゃってたね」

『まあな。でも大丈夫だ、シュー様たちはもう気付いておられる。そのうち、助けに来てくれるさ』

 暢気な会話を続けていると、バッシュの背後で同じように頷く声がちらほらと聞こえる。どうやらみんな、しこたま殴られて気絶でもしていたようだ。

「あ!…イテテテッ。そうだ、忘れてた!北の砦は囮だったんだ!!南の砦を落とすために…ッ」

『そう言ってたなー。俺も殴られながら聞いたよ。でもな、今の俺たちは何もできないんだ』

「そうか…」

 俯いた光太郎は、首に掛けられた首輪から伸びた重い鎖がジャラッと鳴って、壁に繋がっているのを目で追いながらあーあと溜め息を吐いた。ご丁寧に両手まで縛られていては、逃げ出すことも侭ならないだろう。

「じゃあ、できる限り生き延びないとね。助けに来てくれたときに、手伝えるもんね」

『アッハッハ…いッッ…はぁ。そうだな!』

 いちいち痛みを噛み殺しながらの会話は、思った以上に辛くて滑稽で、だが笑ってもまた痛むだけだから光太郎もバッシュがしたのと同じように溜め息を吐いた。
 痛みが酷くなったのか、言葉から呻きに変わってきたバッシュに「休んでなよ」と声を掛けて、光太郎は漸く慣れてきた目で水滴の滴る石造りの天井を見上げていた。
 戦の状況は恐らく、あの人間たちが言っていたように本当に囮だったとすれば、梃子摺りながらも圧勝したに違いない。それからシューの軍勢は北の砦の内情を立て直すために何日か泊り込みで処理するのだから、足留めされることは容易に想像できる。

(ホントだ。シューが言うように、沈黙の主って人は抜け目がないなぁ)

 軍の半分を使用したとしても、それでも城にはゼィたちが残っている。かと言って、そこから更に半分を南の砦に差し向けたとしても…そこまで考えて光太郎は胸の辺りがドキドキするのを感じて縛られた腕を押し付けた。
 大丈夫なんだろうか、本当に。
 だが、バッシュが言うように、今ここにいる自分では何も出来ないのだ。考えてヤキモキしたとしても、またそれがここにいる人間たちに伝わって、とばっちりで魔物たちが殴られるのは絶対に嫌だ。そう考えて、光太郎は頭を左右に振った。
 あんまり激しく頭を振ったせいで、殴られていた後遺症なのか視界がグラグラして吐きそうになってしまった。

「…何やってんだろ、俺」

 光太郎が思わずガックリしそうになったちょうどその時、俄かに階段の辺りが賑やかになって、乱暴な足取りでドカドカと松明の明かりを持った兵士が降りてきた。
 そう、逃げられないと信じているのだろう、この地下牢には見張りすらいないのだ。

「おら、飯だぞ」

 鉄格子には食器を入れることができるように隙間が設けられていて、だが、だからと言ってそこからどうにか逃げようなどと言うことはできないようになっている。
 隙間から何かがポンポンッと投げ込まれて、反射的に光太郎は顔を上げてしまった。
 なぜならそれは、パンらしき固形の物体が無造作に放り込まれ、次いでドロリとした何かがバケツから汲み出されて牢屋内の床にビシャッと撒かれたからだ。

「こ、これは…?」

 思わず声を出してしまうと、バケツを抱えた兵士はウンザリしたような顔付きをして面倒臭そうに松明の明かりを鉄格子に近付けると、反射的に目を閉じてしまう光太郎の顔を覗き込んだ。

「あ?なんだ、お前か。飯に決まってるだろ、バーカ」

 ガシャンッと鉄格子をバケツから取り出した柄杓のようなもので殴りつけると、フンッと鼻で息を吐き出してから兵士はこんなところには一分でもいたくないとでも言いたそうに、サッサと立ち去ろうとした。その後ろ姿に、ガチッと壁に繋がった鎖で首を圧迫されながらも、光太郎は縛られた両手を精一杯伸ばして鉄格子を掴むと大声で呼び止めた。ガチャガチャと鉄格子を揺らすオマケまでつけて。

「スプーンは?食器にも入ってないよ!?これじゃあ、食べることもできないじゃないかッ!どうやって食べろって言うんだよ!!」

「ああ~?」

 胡乱な目付きで戻ってきた兵士は、鉄格子を握っている光太郎の指先を思い切り柄杓で叩きつけて、呻くその顔を冷ややかに見下ろした。

「這い蹲って喰えばいいだろーが」

「そ、そんな…!」

 叩かれた指先を口許に当てながら睨み上げる光太郎の、その反抗的な態度に苛々したらしい兵士は、対面にある魔物たちの牢を松明の明かりでバッと照らした。

「コイツらのようにな!」

「!」

 松明の明かりで唐突に明るくなったとは言え、もともと夜も昼も同じぐらいに見えている魔物にしてみたら別に気にもならない程度の明かりの変化だったのか、気に留めた様子もなく這い蹲って悪態を吐きながら撒き散らされたスープの残骸のようなものを啜っていた。
 その光景は光太郎には衝撃的で、痛みなど忘れてしまった震える指先で鉄格子を掴むと、目を見開いて食い入るように捕らえられた魔物たちを見詰めている。そんな光太郎の態度に、魔物の行動ぐらいで何を驚いているんだとでも思ったのか、兵士は肩を竦めるとブツブツと悪態を吐きながら明かりと共に立ち去ってしまった。

「…こんなのは酷い」

 真っ暗になった地下牢でポツリと呟いた声が響くと、口許を縛られた腕で拭っているらしいバッシュが声をかけてきた。

『人間なんざこんなモンさ。飯は不味くても喰っておかないとな、光太郎と約束しただろ?』

「…え?」

 呆然と呟く光太郎に、バッシュは何やらモゾモゾしながら肩を竦めるような気配をした。首を傾げる光太郎のへたり込んだ膝の辺りに、シュッと飛んできた何かがポトリと落ちた。

『光太郎は喰ってないんだろ?もうダメだと思うからさ、そいつを喰っときな』

 闇に慣れていない目では直接見ることができないから、光太郎は手探りで膝の上にある何かを拾い上げて手触りで確認した。

「これ…」

 それは地下牢の床に落ちてしまったパンだった。
 それも、汚水を吸った部分は綺麗に取られているようで、もう固くなり始めているスカスカのパンだったが、光太郎は嬉しくて泣きながら頬張って噛み砕いた。

「ありがとう」

 ヒックヒックとしゃくり上げながら礼を言う声を聞いて、人間よりも鋭敏な聴覚の持ち主たちは驚いたように顔を見合わせると、何やらモソモソとし始めた。そして、縛られた手でパンを持ったまま涙を拭う俯いた光太郎の膝の上に、ポンポンッと次々とパンが放られてくる。

『泣くほど美味かったのか?そりゃ、よかった。俺の分もやるよ』

『俺も俺も』

 汚水を吸った部分がどれも切り取られていて不恰好だったが、光太郎はそのどれもが美味しいと感じていた。放られてくる度に「ありがとう」と呟く声がして、魔物たちはちょっと嬉しそうに顔を見合わせてニヤリと笑うのだ。
 バッシュもこそばゆいような嬉しさを感じながら、鉄格子を縛られた両手で掴むと口先を突き出した。

『できる限り生き延びるって約束しただろ?頑張らないとな』

 へたり込んで俯いたまま涙を拭っていた光太郎は、ハッとしたように顔を上げた。
 周囲はまだ真っ暗で、なかなか泣き濡れた目は視覚を取り戻してはくれないが、それでも微かにぼんやり見えるバッシュらしき魔物のいる辺りに目を凝らしている。そうして向かいの牢を見詰めていた光太郎は、次いで、膝の上に転がる幾つかのパンをジッと見下ろして、グッと両拳を握り締めたのだ。
 魔物たちの生への執着は恐らく、人間よりも純粋な本能なのだろう。そうしてそれは、時に驚くほどの勇気や元気を与えてくれるのだ。
 光太郎はその逞しい根性を感じながら、投げ捨てられた食べ物を食べられないと言ってメソメソしている自分が堪らなく恥ずかしくなった。
 シンナは言ったではないか。

[たとえ手当てする相手が敵将だったとしても、どうして早く善くなるようにそれを甘受しようとしないのン?どうしてアンタたちには早く善くなって、全快した身体でここを抜け出して、家族の為に仇を討とうとする気迫ってものがないのよン!]

 それは生きるための、生き残るために必要な鉄則のようなものなのだろう。
 今は貶められて辛くても、いつか必ず明るい未来はあるはずだ。
 それは、もうずっと、光太郎が胸の中で信じ続けてきたことではないか。

「そうだ、生き延びないといけないのに!ごめん、俺どうかしてた。モリモリ食べて元気にならないとッ」

 ゴシゴシと涙に濡れる双眸を腕で拭って、今はみんながくれたスカスカのパンを頬張りながらムグムグと噛み締めて宣言する光太郎に、バッシュが嬉しそうに口笛を吹いた。

『お?やっといつもの調子を取り戻したみたいだな。光太郎はそうでなくっちゃな』

 暫く一緒に暮らしてきた魔物たちに自分がどんな風に見られているのかなど気にもしていなかったが、こうしてホッとされているところを見ると、彼らは彼らなりに光太郎を観察して気遣っていたのだなと妙に感動してしまった。

『もう、泣くなよ?じゃないと、シュー様に嫌われちまうぜ』

 バッシュが鉄格子から離れながら呟くと、光太郎はパンを食べながら首を傾げて見せた。

「え?シューは泣く人は嫌いなのかい?」

『嫌いだとかそう言う問題じゃないと思うんだが…まあ、でもたぶんそうだと思う。嘗てシュー様がソーズを育てているときに仰っていたんだが、男は一生の間で3回しか泣いてはダメなんだそうだ。1回目は生まれたときで、2回目は魂を分かち合うとき。3回目は家族の死に臨んだときなんだってよ。メソメソしていたら捨てるって仰っていたからな』

「そ、そうなんだ。判った。俺、シューに捨てられたくないから泣かないように頑張るよ」

 ヒョイッと振り返った蜥蜴の親分にシューの男気臭い信念のようなものを教えられて、光太郎は息を飲みながら頷いた。そう言えば自分は、シューの前でも良く泣いていたような気がする。

「俺、絶対に泣かないようにする!!…だから、みんなお願い。今日泣いたことは内緒にしてくれないかなぁ…?」

 縛られた両手を拝むようにして合わせた光太郎が、上目遣いでよく見えない対面の牢屋の中の住人たちにお願いすると、聴覚も視覚も鋭敏な魔物たちはそれぞれ思い思いに顔を見合わせると、次いで大爆笑するのだった。
 殴られて始まった捕虜の生活はどうやら思う以上に厳しいものがありそうだが、それでもと、光太郎は爆笑している仲間をムゥッと膨れっ面で睨みながらも思うのだ。
 仲間がいるのなら大丈夫だ。
 腹を抱えて笑っている魔物たちを見詰めながら、ムッとしていた光太郎もすぐにプッと吹き出して、釣られるように一緒に笑ってしまった。
 月が漸く中空にかかろうとしている森の中にある第二の砦の地下牢で、魔物と人間の笑い声は、暫く響き渡っていた。

7.鬨を告げる魔獣の者  -永遠の闇の国の物語-

 俄かに遽しくなった城内で、光太郎は甲冑に身を固めた魔兵や、いつもなら暢気な顔をして書物に噛り付いている魔導師たちの緊迫した表情を見ながら、何か大変なことが起こっているのに違いないと感じていた。その只ならぬ気配は、城全体を覆う殺気のような怒りがまるで、具現化したように魔物たちを突き動かしているのだろうか。

「ねえ、どうしたんだい?」

 声を掛けても忙しなく甲冑をガチャガチャと鳴らして行き来する魔兵たちは取り合ってくれず、かと言って、物凄い形相の神官たちには声を掛けることさえ憚られる様な気がするから、仕方なくシューを探すことにした。
 とは言っても、いつもは『俺はお前の世話係だからな。本来なら便所の中まで着いて行かなきゃならんのだが、俺が嫌だからそれだけは勘弁してやらぁ』とワケの判らない屁理屈を言っては、べったりと一緒にいることが少なくなかったから、こうして長く離れているとそれでなくても不安になるのだ。だが今、そのシューが見当たらない。
 光太郎は胸元を押さえながら長い回廊を渡って、上に続く螺旋の階段を上り、見張りがサボる空中庭園になっている高台に辿り着いた。
 まるで外の世界が嘘のように木々だけは茂る庭園の中を歩いて、光太郎はまさかこんな所にシューはいないだろうと思いながらも、彼の大きな身体を捜してキョロキョロしていた。
 と。
 不意にガサリと木の枝を揺らして覗いた空間に、偶然お目当ての大きな背中を見つけてパッと表情を明るくした光太郎は、魔の森を見渡せる高台になっている東屋で、太陽すらも出ていない薄暗い空を見上げているシューに声を掛けようとした。声を掛けようとして、ギクッとした。
 石造りの床に直接腰を下ろして胡坐をかいているシューの膝の上に、何かが横たわっていて、まるで蝋人形のように蒼褪めた腕がブランッと垂れていたからだ。
 シューの背中が、その時になって漸く光太郎は初めて、悲しみに暮れているのを悟ったのだ。
 肩が微かに震えているのは、魔天を仰ぐシューが、もしかして泣いているのかもしれない。
 声を掛けようかどうしようか躊躇っていると、ふと、シューが何事かを呟いているのが耳に入った。

『…ソーズ、お前。どうして魔兵になろうなんて思ったんだ。お前みてぇに優しいヤツは、こんな風に死ぬしかねーんだぞ?』

 呟きは瘴気を孕んだ風に揺れて、どこか虚ろに響いている。

『こんなのは俺だけで充分だったのに…畜生ッ、お前は森で大人しく暮らしてる方がお似合いだったんだ』

 まるで怒りをどこかに置き忘れでもしたかのように、シューの声音は穏やかで、慈しむように冷たくなってしまっている亡骸の上に降り注いでいた。その声は、光太郎がこの永遠の闇の国に来て初めて聞いた、シューの情け深い声音だった。

『お前は馬鹿なヤツだ。馬鹿なヤツだからこそ、なあ、ソーズ。俺はお前を誇りに思うんだろうなぁ』

 不意にシューは外套に包まれた、今はもう息もしていない、まるで壊れた人形のようにぐったりとしているソーズの身体を抱き起こして、その胸元に獅子面を押し付けた。傷だらけで死んでしまったソーズの痛々しい亡骸を、シューは嫌がることもなく抱き締めて、そして声を上げて泣いたのだ。
 身体中を震わせるような、ビリビリと大気を振動させるその凄まじい音声の慟哭は、だからこそ、城を取り巻く悲しみにより一層拍車を掛けて深々と浸透していくのだろう。
 光太郎はとうとう声を掛けることも、その場から立ち去ることもできずに木々に隠れるようにして座り込んでしまった。キュッと唇を噛み締めて、シューと背中合わせになるように膝を抱えて座った光太郎は、いつ果てるともなく続く慟哭を聞いていた。

(シューは…もし、もし俺が死んでも、こんな風に泣いてくれるのかな?)

 誰か、とても大事な人を亡くしてしまったのだろうシューを背に感じながら、それは浅ましい考えだったのかもしれない。
 空気を震わせるようにして伝わってくるシューの哀しみはあまりに痛々しすぎて、それだけに、失った者への愛情の深さを感じずにはいられなかった。

(…馬鹿だな、俺。シューが俺なんかのために泣いてくれるはずもないのに)

 自嘲的に笑って、光太郎は立ち上がると、振り返りもせずにまるで逃げるようにしてその場から立ち去った。
 空中庭園には、暫くシューの慟哭が響いていた。
 空に雷光が閃くように、悲しみも一瞬で消えてなくなればいいのに…

Ψ

 長い回廊を甲冑の魔兵たちが行き交うのを、壁に凭れている光太郎は呆然と見詰めていた。
 遽しく戦の準備に取り掛かる者、城に残って警備を固める者、白兵戦に備える者…などなど、今までに見たことがないほど真剣な表情をした魔物たちが、思い思いの準備の為に忙しなく行き交っている。その中で、まるで取り残されたようにポツンッと佇んでいる光太郎は、この時ほど自分の非力さを思い知ることはなかった。

「みんなが忙しい時に…俺って掃除とかそんなことしか出来ないなんて」

 ハァッと溜め息を吐いていると、ふと傍らに人の気配がして顔を上げた。

『掃除ができるだけでも凄いわよン?』

 ニッコリと強い双眸で笑って、雪白の甲冑に身を包んだシンナが腰に片手を当てて立っていた。
 いつもはシンプルすぎるほどシンプルで大胆な衣装を気軽に身に纏っているシンナだったが、さすがに魔軍の武将たる悠然とした態度で、重々しくもあるが覆うところは少ない甲冑に身を包んだ姿はそれでも勇ましく見える。

「…ねえ、シンナ。やっぱりその、戦いが始まるの?」

 恐る恐る尋ねる光太郎に、シンナはそれまで浮かべていた笑みを引っ込めると、キュッと唇を引き締めて真摯な双眸で光太郎を見詰めて頷いた。

『そうねン。北の砦が落とされちゃったから、たぶんラスタラン地方に近い第二の砦も落とされてると思うのよねン。だから奪還しに向かうのよン』

 口調こそ気楽なものの、その戦いはそれほど容易なものではないことを物語っている双眸が、不安に揺れる表情をした光太郎を映し出している。

「そっか」

 溜め息のように呟いた光太郎の顔をジッと見詰めていたシンナは、殊の外キッパリとした口調で言い切った。

『シューも出陣するわよン』

「え?シューも??」

 吃驚したように顔を上げる光太郎に、純白の兜を目深に被っているシンナの双眸が一瞬だったが細められて、それからふと伏せられた。それは言ってはいけないとシューに口止めされていたのだ。

「シューも戦に行っちゃうのかい!?」

 動揺したように目を見開いた光太郎は、唐突にこの世界にたった独りで放り出されるような錯覚を感じて、縋るようにシンナの手を掴んでいた。
 いつも影のように傍にいたシューの不在。
 それはあまりにも突然のことで、順応力があるはずの光太郎でも、不安で仕方ないのだ。
 ましてや、シューの慟哭を聞いた後となれば尚更である。

『仕方ないわン。シューはあんな感じだけど、れっきとした将軍なのよン』

(そうだ、シューは将軍だったんだ…)

 魔物たちの部隊は少し変わっていて、なぜか将軍が二人いるのだ。
 もともと、普通ならば一人で務めるはずの将軍職を、魔王は二人の魔物に与えていた。
 その経緯や意味合いなどを知らない光太郎にとってそれは、理不尽なことのように思えて仕方なかった。

「じゃあ、シューは俺の世話係なんだから!俺も着いて行ってもいいんだよね?」

 目線を上げたシンナは困ったように笑って、真剣に見詰めてくる光太郎の額を徐に指先で弾いた。

「イタッ!」

『ダ・メ・よン。決まってるじゃないン。そんなことしたらシューがお冠だわン』

 クスクスと笑って腕を組むシンナに、光太郎は俯いて弾かれた額を擦りながら床を見ていたが、思い切って顔を上げると縋るようにその手を取って握り締めた。

「お願いシンナ!無茶なお願いだってのは判ってるけど、俺も連れて行って!」

 どうしてそう思ったのか、光太郎には判らなかった。
 ただ、どうしても、シューの傍にいたかったのだ。
 悲しみに打ちひしがれて背中を丸めていたシューを、そのまま戦場に出すことに不安を覚えたのかもしれない。
 いや、実際はそうじゃない。
 シューに置いて行かれる恐怖で、じわじわと取り残される孤独感が足許から這い上がってきて立ち眩みのような眩暈を覚えたせいだろう。
 その思いを知ってか知らずか、だがシンナはニッコリ笑って握られている両手を振り払った。

『今回は幾らなんでもダメよン。異世界から来た光太郎にとって、戦場はとても過酷な場所だわン。魔王様も今度ばかりはお許しを出さないから、直々に伺ってもダメよン』

「シンナ~」

 情けなく眉を寄せる光太郎を見詰めながら、そのくせ、シンナは張り詰めた胸元をソッと押さえながら微笑んだ。からかうように、悪戯っぽい微笑は、光太郎など歯牙にもかけていないのだと言われているようで人間の少年は項垂れるかしない。

(ダメだって言いながら、どうして秘密を洩らしちゃったのかしらン…)

 シンナはガックリと肩を落としている光太郎に微笑みながら、ふと床に視線を落としてその微笑を自嘲的なものに変えた。

(本当は残して行くのが怖いからに決まってるわン。どうか、ねえどうか…)

 ふと目線を上げたシンナは、どうしようと眉を寄せて俯いている光太郎の、そのサラサラの黒髪を忘れないように見詰めながら内心で呟いていた。

(儀式が行われないようにン…あたしが戻るまでは…いいえ、本当は連れて行きたいのよン)

 チラッと上目遣いでシンナを見た光太郎は、複雑な表情で自分を見つめる魔軍の副将のその表情を見て、少しドキッとしたような不思議そうな顔で首を傾げた。
 シンナはそんな光太郎に小さく笑って、首を左右に振るのだ。

『どちらにしてもン。これから忙しいから、きっとシューも光太郎の相手は出来ないと思うわよン』

 普段着の上から兜、肩当、胸当などの装備をしただけの、身軽さに変わりのない甲冑を着込んでいる魔軍の副将は、それだけを言い放つと光太郎の前から立ち去った。
 その後ろ姿は毅然としていて、これから命懸けで戦うことになる戦場に赴く一人の戦士としての気高さが漂っていた。シンナの後ろ姿を見送っていた光太郎は、唐突に情けなくなって唇を噛み締めるのだ。

「あんな風に、死ぬことを覚悟した人たちでも気を引き締めて行く戦場に、連れて行ってくれなんて俺…また、シューに怒られちゃうなぁ。良く考えもせずにベラベラ喋るなって…」

 呆れたようにムッとしているシューの獅子面を思い出して、光太郎はふと小さく笑ったが、すぐにしょんぼりと眉尻を下げてしまう。

「でも、独りはやっぱり寂しいよぉ…」

 思わず泣きそうになってしまう光太郎の眼前を、一匹の魔物が遽しそうにガチャガチャと甲冑を鳴らして巻紙に顔を突っ伏すように覗き込みながら歩いている。その姿に覚えのあった光太郎が、思わず声をかけてしまった。

「バッシュ!」

『あーん?』

 ジロリと暗雲を背負っているように胡乱でジトついた怖い双眸で睨みつけてきた甲冑の魔物、バッシュは呼び止めた者が光太郎であることに気付いてパッと表情を和らげた…とは言っても、もともと二足歩行の蜥蜴の親分のような魔物である、普通にしていてもその目付きは充分悪い。

『おや、光太郎じゃねーかい?あんた、またヒマそうだな』

 けっして悪気があるわけではないのだが、魔物と言うのは皆が皆、相当口が悪いのだ。しかもそれに本人たちが気付いていないから尚更性質が悪くもあるが、既にこの国に来て随分長い時間を共に過ごしている光太郎にしてみたら、もう慣れてしまったので別に気になることでもなかった。

「バッシュもその、戦争に行くのかい?」

 不安そうな、その身を案じるような表情で尋ねられて、バッシュは悪い目付きをますます悪くしながらニヤッと笑って肩を竦めた。

『心配してくれるのか?へーえ!そりゃスゲーな。俺には初めての経験だぞ』 

 どうやら本当は嬉しかったのか、バッシュは照れたように長い爪を有する指先で頭を掻きながらも上機嫌だ。

「そりゃ、心配だよ。俺、戦争とか知らないからさ。現場がどうなってるかとか判らなくて喋るのは良くないと思うんだけど…バッシュ、死なないでね。生きて、ちゃんと帰って来るんだよ?」

『うひゃー!そう言うこっぱずかしいことは言ってくれるなよ。照れるじゃん』

 ウハハハッと笑いながらバッシュが手にした巻物を弄びながら、爬虫類独特の尻尾を左右に振って照れている姿を見て、光太郎は困ったように笑ってしまった。
 こんな風に陽気な魔物たちが、戦場で血を流して戦うのだ。
 それは人間も同じことで…だが、一体何の為に戦っているのだろう?
 気の良い魔物たちのその尊い命すら犠牲にして、それは全て人間も同じことなのに、一体何を求めて戦い続けるのだろうか。名誉のため?平和のため?

(それともただの欲のため…?)

 光太郎は唇を噛んだ。
 その時になって初めて、今から戦いが始まるのだと言う緊張感が襲い掛かってきたのだ。

『まあ、任せとけよ。俺はもう、10回以上も戦場を駆け回ってんだ。そう容易く死んだりしねぇよ。お前みたいなひよっ子と一緒にするんじゃないぞ?』

 カッカッカッと笑う蜥蜴の親分ことバッシュの聞き慣れた悪態に、光太郎は不安を隠せない双眸をしたままで「そうだね」と呟いて頷いた。そのサラサラの黒髪を、鋭い爪を有した大きな爬虫類らしい鱗に覆われた掌でポンポンッと軽く叩きながら、バッシュは縦割れの瞳孔をキュッと絞りながらニヤニヤと笑うのだ。

『だからこそ、ひよっ子のお前は大人しく城で待ってろよ。シュー様もそれを望んでいらっしゃるし、城で待っててくれる存在がいるっつーのは心強いからなぁ』

「…うん、判った。バッシュも待ってるよ」

『うを!?おおお、俺はいいよぅ。俺は、ここに仲間がいるだけで絶対に帰ってこようって思うからな』

 ニッコリと表情豊かに笑うバッシュのその蜥蜴の顔を、ジッと見上げていた光太郎は、その純粋な思いが羨ましくて仕方なかった。信じあえる仲間がいること、それが、それこそが恐らくここに住んでいる魔物たちが持っている優しさの源なのだろう。

「仲間になりたいなぁ…」

 心の底から羨ましく思いながら呟いた台詞を耳聡く聞きつけた、ちょうど戦の準備に追われてガッチャガッチャと甲冑を鳴らしながら走ってきていたブランが駆け足状態で止まって、そんなバッシュと光太郎を交互に見た。

『参戦しようって言うのかい?ははは、光太郎には無理っすよ』

『そう言ってるけどねぇ』

 牛面の魔物が大仰に笑うと、蜥蜴の親分は困ったように腕を組んで片手で顎に触れている。だがその表情は、ピクピクと笑いを噛み殺しているようだ。

「ひっどいなー!これでも、少し。ほんのチョビッとは役に立つと思うけどなぁ」

 ムッと唇を尖らせて眉を寄せる光太郎に、バッシュとブランが顔を見合わせると、堪え切れなくなった二匹の魔物は突発的に噴出してしまう。

『はーはっはっ!チョビッとなんか役立ってもお前、戦場じゃ何の役にも立たないぞ?』

『隠れてるのがオチなら参戦なんか、しなくていいならしねー方がいいっすよ』

 バッシュの足許に軽く蹴りを入れた光太郎がムムッとしたままで、駆け足状態のブランに意地悪く言ってやるのだ。

「急いでるのに俺なんかに付き合ってていいのかな~?」

『うっわ!ヤベっすわ。んじゃ、アッシはこれで!』

 シュタッと片手を上げて慌てて走り出したブランの後ろ姿を見送りながら、そうか、ブランも行ってしまうのかと少し寂しい気持ちを抱えてしまった。その傍らで、蜥蜴を二足歩行にしてそのまま大きくしたような風体のバッシュも、慌てたように巻物を掴んだままで光太郎に別れを告げて立ち去ってしまう。
 そうすると唐突に独りぼっちになってしまったような気がして、光太郎は溜め息をついた。

「シンナにここにいるからなんて言っておいて、自分が落ち込んでたらどうしようもないや…そうか、そうだよな。そうすればシューに迷惑がかからない。なんだ俺ってば、あったまいいな♪」

 ホクホクしたように微笑んで、俄然ヤル気が出てしまった光太郎はグッと両拳を握り締めて決意を固くしたのだった…と、不意にその決意も固く自らに宣言する光太郎のサラサラの黒髪を、唐突にグワシッと大きな掌が掴んできて飛び上がるほど吃驚した。

『俺に迷惑がかからないだと?オメーがすることで俺に迷惑がかからなかったことなんか、ただの一度でもあったかよ?いいか、迷惑がかからなくするってのなら何もしないこった!』

 ワシワシと髪の毛をグチャグチャに掻き回されて、光太郎はグラングランしながらその大きな掌を掴んで真上にある顔を見上げた。見上げて、もうずっと一緒にいるのに、僅かだったにも拘らずもうずっと長く会っていなかったような気分になってしまう獅子面を見て、心の底から嬉しそうに笑った。

「シューだ♪」

『あ?俺だったらなんだよ』

 相変わらずムッツリとした膨れ面のライオンヘッドの魔物の、掌の脅威から抜け出した光太郎は振り返って、一瞬だけ声を詰まらせてしまった。
 そこに悠然と立っていたのは、漆黒の鎧を身に纏ったまるで一分の隙も窺えない魔将軍その人だったからだ。
 魔城全体に漂う戦の雰囲気は、本当はどこか遠くの出来事のように感じていた光太郎にとって、今まさに唯一無二のシューの出で立ちでもって確実なものへと変わってしまった。

「…シュー」

 黒光りする鎧はズシリと重厚感があって、確かにシューの存在を間違うことのない魔物の将軍であることを印象付けるほど、ある意味では似合っていた。翻る黒地のマントも、腕当てを弄って調整しているシューの態度も、今までのどこか飄々とした暢気さなど窺わせもせずに、戦に赴く戦士の雰囲気を漂わせている。
 戦争が始まるのだと、突然目が覚めた時のようにハッと感じた。

「シュー…」

 不安そうに眉を寄せて見上げてくる光太郎の心許無い双眸は、置いて行ってしまうことに一抹の不安を、シンナが感じたようになぜかシューも感じていた。いや、そうではない何か。
 喪失してしまうような…奇妙な予感めいた思い。

『そんな顔してるんじゃねーぞ?別にいつもあるいざこざにすぎねぇんだ。今は沈黙の主もいねぇってことだしな、すぐに戻れるだろうよ』

 見上げないと顔を見ることもできないほどの身長差がある魔物と人間の少年は、暫し無言で見詰め合っていたが、最初に堪えられなくなったのはやはりシューの方だった。

「すぐに戻ってこれるのか?…そか、良かった」

 ホッとしたように息を吐いて、それからニコッと笑う光太郎に、シューはやれやれと首を左右に振った。

「そーだ、シュー!今回は早く戻れるんでしょ?だったら、俺も連れて行ってよ!足手纏いにならないように頑張るから!ね?ね?」

『ダメだね』

 光太郎の願いは呆気に取られるほどあっさりと却下されてしまった。
 その即答に二の句が告げられないでいる光太郎に、シューはフンッと鼻で息を吐き出してから外方向いて、それから驚くことにすぐにでも判ってしまうに決まっているような嘘を吐いた。

『俺は行かねーのに、どうしてお前が行きたがるんだよ?世話役だからな、俺はまたもや留守番だ』

「…」

 その言葉で、光太郎はハッと気付いたのだ。
 そうか、シューが行くことは光太郎には内緒なのだと。シンナはああ見えてもコッソリと教えてくれたのだろう。

「…また、ゼィとシンナが行くのかい?」

『まあ、そうだろうな』

 実際はなんとも歯切れが悪く頷くシューに、この嘘つきと光太郎は内心でムッと膨れっ面をしているものの、表面的には仕方なさそうに笑うのだ。

「そか、無事でいてくれたらいいね」

『…まあな』

 見るからに出陣体勢であるシューの出で立ちを、異世界から来た光太郎には判らないと思っているのだろう、シューは居心地が悪そうに嘘を吐きながら鼻の横をポリポリと掻いた。それでも、漆黒の双眸に見詰められるのは辛いのか、何を言うわけでもなく、シューは『それじゃあな』と呟くようにモグモグ言って片手を振りながら立ち去ってしまった。
 本当は、見上げてくる黒髪の少年に、きちんと出陣することを告げたかったのだが…案の定、予想した通り着いて来たがったので先手必勝で嘘を吐くことにしたのだ。

『し、仕方ねーな。うん、仕方ねぇ。あんな寂しそうなツラしやがって!…ったく、シンナといい俺といい、全くどうにかしちまってるな。正気なのはゼィだけだぜ』

 大きな巨体を覆うような着慣れた黒の鎧は、主の機嫌の悪さを知ってか知らずか、物静かに鈍く光っている。ブツブツと悪態を垂れるシューの、その後ろ姿を見送りながら、人間の少年は世話役を見習って一つの悪巧みを決行することにした。

Ψ

 整然と並んだ部隊を引き連れて、その日遅くに早朝を目指して城を発ったシューの一行は、軽く一山越えて陣形を保ちつつ北の砦付近に野営を張っていた。早朝はまだ遠く、思ったよりも早く計画していた場所に陣を構えたシューは、ムッツリと口を噤んで椅子に腰を下ろしたままで腕を組んでいた。

『不機嫌そうねン』

 シンナの言葉にシューはジロリと黄金色の双眸で睨み付けたが、副将はそんな不機嫌丸出しの将軍など怖くもないのか、フンッと鼻を鳴らして肩を竦めて見せるのだ。
 シューの不機嫌の理由を、シンナは何となく判っていた。
 恐らく、出陣の際の見送りに光太郎がいなかったからだろう。
 吐いてしまった嘘がバレたと思っているシューは、恐らくこの戦は圧勝で終わることを確信しているからいいのだが、城に戻ったときの光太郎の始末が大変だなぁと頭を痛めているに違いない。
 そんな矢先にシンナから何か言われても、シューとしては答える気もなければ答えたくもない心境なのだ。どうせ、シンナのことだ、興味本位でからかってくるに決まっている。

『用事があるんだけどン…いいかしらン?シュー将軍ン』

『…はぁ、なんだよ?』

 頬杖をついてコップを置いたらいっぱいいっぱいになってしまう小さな卓に、顎杖をついているシューが面倒臭そうにジロリと見た。将軍ともあろうものが何たる態度かと憤然とするべき場面であるが、シンナは肩を竦めるだけで溜め息も吐かず、腕を組んだまま天幕の外を横柄な仕種で示した。

『ちょっとねぇン、大変なものを見つけましたよン』

『…偵察か?』

『だったら良かったんだけどン』

 肩を竦めるシンナに一抹の不安を覚えたシューは、『どうするのン?』と目付きだけで尋ねてくる副将に『見せてみろ』と合図を送った。やれやれと溜め息を吐いたシンナは大股で天幕の入り口まで行くと、垂れている幕を僅かに開けて外にいる何者かに合図した。それからスタスタと歩いてくると、外方向いて知らん顔である。

『?』

 訝しそうに下唇を突き出す獅子面の将軍はそんなシンナから、コソリと天幕に入ってきた人物を見て腰が抜けるほど魂消たのだった。ついていた顎杖はそのままで、これ以上はないぐらい円らな瞳を見開いたシューが、ポカンと開けた口からエクトプラズムでも吐き出しそうな感じで言葉を吐いていた。

『おおおおおお、おま、お前、ななな!?ど、これは…いや、落ち着け俺。これはどう言うことだ?』

 ジロリと睨む相手が違うシューの態度に、シンナは『知らないわよン』とムッとしたが、何も言わずにフンッと外方向くだけだ。
 シンナでは埒が明かないと踏んだのか、嫌々そうに仕方なく、シューがこの世で初めて腰が抜けるほど魂消た相手を胡乱な目付きで睨んで問い質すことにした。

『どうしてここにいるんだ、光太郎?』

「えーっと、えへへ。戦に参加したんだよ」

 悪びれた風もなく頭を掻いて、重々しそうに甲冑を着込んでいる光太郎が笑うと、額に血管を浮かせたシューがバンッと小さな卓を壊してしまいそうな勢いで叩いて、外にいる兵を震え上がらせた。
 ビクッと首を竦めた光太郎は、怒りに拳を握り締めているシューを上目遣いで見詰めながら、唇を尖らせてブツブツと言い訳を試みる。

「だって、シューが嘘つくから悪いんじゃないか。俺はシューの傍にいたいし、シューは俺の世話係なんだから一緒にいても当然だ…と思ったから」

 語尾が小声になったのは、シューの只ならぬ殺気を感じて首を竦めたからだ。

『お前、それとこれとは別だろうがよ!俺たちはこれから命懸けで戦うんだぞ!?甘っちょろい連中を相手にするってワケじゃねぇんだッ。下手すりゃ死ぬかもしれねーんだ、魔王になんて言えばいいんだよ!!』

 グワーッと一気に捲くし立てるシューの剣幕に、光太郎はビクビクしながらも「それは判ってるけど…」とモゴモゴと反論しながら唇を突き出している。

『いいや、お前は何にも判っちゃいねーんだ!クソッ、ここまで来ちまったら引き返すってわけにもいかねーし、どうしたもんか…いや、だいたいなんでお前は俺が出陣するって判ったんだよ!?ギリギリまで黙ってたんだぞ!?』

「えーっとそれは…」

 そんなシューと光太郎の遣り取りを傍らで見ていたシンナが、唐突にえへへへっと笑って頭を掻いた。

『シュー、ごめんなさいン。実はあたしがバラしちゃったン♪』

 グハッと思わず吐きそうなほどポカーンと顎が外れるぐらい口を開いて、目玉が飛び出しそうなぐらい目を見開いたシューは、椅子から乗り出すようにしていた身体を落ち着けようと改めて腰掛け、コホンッと咳払いなどしてみる。

『えへ、バラしちゃった♪』

 シューが困ったように眉を寄せて笑うと、舌を出して可愛らしくコツンッと頭を叩くようなふりをした。呆気にとられたシンナと光太郎が顔を見合わせた瞬間、当にその瞬間だった。

『…だと、このクソ副将軍がぁ!!!!!』

 小さな卓を引っ繰り返しながら叫んだシューの怒声が天幕を貫くようにして、夜のしじまに響き渡ったのは言うまでもない。
 ガミガミギャーギャーと真夜中近くまでお説教の続く天幕で、八の字のように情けなく眉尻を下げた光太郎が上目遣いに見上げながら、唇を突き出して言い募ってみる。

「シンナのせいじゃないよ。シューが嘘吐くのがいけないんだ」

『…嘘を吐かなかったらテメーが着いて来るんだろうが』

「もう、来ちゃったもんね」

 ヘヘーンッと胸を張る光太郎に、呆れ果てたように目をむくシューは、肩を震わせながらまたもや1時間ばかりの説教が続くのだが、当の秘密をバラした張本人であるシンナはと言えば、神妙に俯いている光太郎の傍ら、シューの為に誂えられたソファー式のベッドに長々と延びて高鼾である。
 絶対にこの戦が終わったら一度シンナは絞めておくべきだと心に固く決意して、シューは苛々したように小さな卓に顎杖をついて溜め息を吐いた。激しい剣幕が粗方終わったのを確認してから、光太郎は少しずつ怒りのオーラを陽炎のように立ち昇らせている、頭から湯気を出して怒っているシューの傍に近寄りながら訊ねるのだ。

「えーっと、今回はでも、うん。俺が悪かったと思う。でも、シンナのせいじゃないよ、俺は自分でちゃんと考えて、どうしてもシューの傍にいたかったから黙って着いて来ちゃったんだ。だから悪いのは俺なんだ」

『当たり前だ!…ったく、どうしてそんなに俺の傍にいてーんだよ?城にいるほうが安全だろうによ。ゼィやシンナが戦に出ても着いて行きたがるのか??』

 呆れ果てたように聞いてくるシューに、光太郎は小さく笑って首を左右に振った。

「ううん、シューだったから。俺、やっぱりシューがいないとダメなんだよ」

『…この馬鹿野郎が。はぁ、魔王になんて言うかな~』

「その点は大丈夫」

 ニッコリ笑う光太郎がいつの間にか傍に来ていて、それでもそんなことには然して気も留めていないシューは、やれやれと仕方なさそうに肩を竦めてそんな少年を見下ろした。

『どういう意味だ?』

「えっへっへー♪…えーっと。あのね、シュー」

 モジモジしたように俯いている光太郎に、大方また何か企みでもしているんだろうとますますこめかみの辺りが痛くなったシューは、それでも一応律儀に応えてやるのだ。

『なんだよ?』

「…もし、もし俺が死んだら、シューは泣いてくれる?」

 不意に獅子面を覗き込むようにして、キラキラと明り取りの蝋燭の炎を反射しながら煌く漆黒の双眸に見詰められ、シューは一瞬ギクッとした。なぜそんな風に思ったのかは判らなかったが、一瞬、その目に射竦められてしまったかのように心臓が萎縮した…ような錯覚を感じてしまったのだ。
 そんな馬鹿げた気の迷いを振り払うように、真摯に見詰めてくる少年の気持ちを思い遣ってやる余裕もなく、シューは大袈裟に片手を振って大声で言い放った。

『馬鹿らしい!どうして俺が人間なんかが死んだぐらいで泣かなきゃならんのだ』

「…そっか、そうだよね。シューは魔物だから当たり前だよね」

 ちょっと笑って俯いた光太郎に、シューは自分の揺らぐ気持ちの意味が判らなくて、却ってムカムカしながらそんな光太郎の顎を掴んで上向かせた。そうして、その泣き出してしまいそうな双眸を見つけた瞬間、シューはドキッとした。その大きな瞳から、今にも大粒の涙が盛り上がって、そのまま頬に零れ落ちてしまうんじゃないかとなぜかハラハラしてしまうシューに、光太郎は困ったように微笑んだ。

「シュー、ごめん」

『…フンッ!馬鹿らしいことばっかり言ってねぇで、少しは反省しやがれッ!』

 そうして、まるで感じたことのない胸の動揺を払拭しようとでもするかのように、シューはガミガミと怒り散らした。でも光太郎は、なぜかそれほど怖くないなと思いながら、シューに内緒でコソリと欠伸をするのだった。
 そしてその日の早朝、とうとう一睡もできないでいたシューが目の下に仲良く熊を飼い馴らしているその顔を、光太郎が恐る恐ると覗き込んだ。昨夜遅くまでこってりと絞られはしたものの、結局、あの後すぐにもう来てしまったものは仕方がないと言って同罪であるシンナの傍から離れないことを条件に許したのだった。

『いいか、一歩でもシンナから離れたら俺が殺してやるからな』

 ニッコリ笑う精神状態がちょっとヤバくなっているシューの発言に、光太郎がうんうんと蒼褪めたままで大人しく頷いていると、ふと背後から声がかかった。

『あれ?嘘、まさか光太郎かよ!?』

 その声はもちろん聞いたことがあって、光太郎は振り返ると困ったように笑いながらその名を呼んだ。

「や、やあ、バッシュ」

『これは!?へ??シュー様、大丈夫なんですかい?』

 光太郎に何か言うのではなく、やはりと言うべきか、蜥蜴の親分が甲冑を着ているようなバッシュは獅子面の将軍に困惑したような視線を向けるのだ。

『仕方ねぇ、こればっかりは俺の責任だ。光太郎のことは気にせずに確り殺してくれればそれでいいからな!』

『は、はい』

 バッシュはそれでも心配そうに光太郎に振り返り、内心では何かあったら助けてやらねばと決めていた。そんな雰囲気がシューには伝わって、この無鉄砲が服を着ているような光太郎の、その行動力が今回ばかりは裏目に出ないことを腹の底から願っていた。

『やれやれ、とんだヤツの世話役なんぞになっちまったな』

 間もなく奇襲攻撃の時を迎える陣は既に整然と並んでいて、朝日を背にして立ち向かう馬上の人になっているシューは、眼前に居並ぶ白兵部隊の歩兵たちを見渡しながら溜め息を吐いた。
 さすがに将軍と同じ馬に乗るわけにはいかず、もちろんそれは、将軍たる者はいつもその首を狙われる立場にあるから誰の馬よりも危険になるからで、仕方なくシンナの前に乗ることになった光太郎はふと、暗い表情をしてそんなシューを見詰めた。
 いつもなら切り込みに先陣を切って突っ走るシンナだが、今日は秘密を洩らした責任を取って光太郎を全面的に護ることを約束したのだ。

「…大丈夫だよ。この戦争が終わって城に帰ったら、もうシューは自由だ」

『なんだと?』

 光太郎が小さく笑うと、その瞬間、なぜかシューは言い様のない不安に駆られた。
 唐突に何を言い出したのかと目を瞠るシューに、不意に傍らにいた伝令から時を知らせる合図が届いた。どういう意味なのか聞かずにはいられないと言うのに、シューは将軍である。その合図を無視して作戦を失敗させるわけにはいかなかった。

(まあ、城に帰ってこってり絞ってもいいか…)

 不安そうに笑う光太郎の言動に動揺してしまっている心の内を押し殺して、シューは安易にそんな風に考えていた。そう、それは、当然のように来るはずの未来だったからだ。

『さぁーッて、いっちょ派手にやってやろーぜ!』

『弔い合戦だ!』

『うおぉぉぉーーー!!!』

 シューの言葉を合図に鬨の声を上げて、魔軍の群れが怒涛のように北の砦目指して雪崩れ込んで行く。
 もう何度目かになる、人間対魔物の合戦が今、火蓋を切って落とした。

6.牙城の侵入者  -永遠の闇の国の物語-

 ブツブツと悪態を吐きながら大股で謁見の間に足を踏み入れたシューは、その憤懣遣るかたなさそうな見るからに不機嫌が具現化したかのようなその姿に、衛兵はギクッとして慌てて玉座の間に続く緞帳を引き上げた。
 それでも一応は魔王を拝顔するのだから、一旦は落ち着きを取り戻そうと深呼吸してはみたものの、どうも腹の虫が収まらない。と言うよりは寧ろ、何か仕出かしてやしないかとハラハラしているのだ。
 引き上げられた緞帳から顔を覗かせたシューは、玉座の間の有様に一瞬立ち竦んでしまった。
 それもその筈…

『おお、シューか。よう参ったな』

 魔族を統べる尊き象徴である魔王が、床に散乱している書物を拾い上げながらゆったりと微笑んでいるのだ。その空いている方の手には確りとハタキが握られている。

『ままま、魔王!いったいこれは…』

 何の騒ぎですかと問い質そうとするその金色の双眸に、ふと、奥の部屋から顔すらも見えないほど書物を抱えてフラフラしながら出てきた何かが写って、動揺したまま立ち竦んでしまった。

『何を慌てているのだ、シューよ。ご覧、無駄な書物がこれほどに出て参ったぞ。始末せねばと思っていたのだが…有り難いことだ』

 そう言って魔王は機嫌良さそうに必要な本と不要な本の仕分けをして、深く被っている埃をハタキで払い落としている。壮麗な衣装に身を包んだ威圧感漂うはずの魔王は、埃に頬を汚しながら穏やかな微笑すら浮かべているのだから、シューは全身にビッシリと汗を掻いてしまった。
 ダラダラとこめかみから汗を噴出すシューに、バサバサッと重い書籍や書物を落とすようにして下ろした光太郎が、その時になって漸く埃の中から咳をしながら声をかけてきた。

「あ、シューだ♪良かった良かった、手伝ってよ!」

 ニッコリと笑う屈託のない、その顔を一発でいいから殴らせてくれと言いたくなる無邪気な笑顔を見て、一気に脱力してしまいそうになったシューは慌てて気を取り直すと魔王の手からハタキを奪い取った。

『魔王!このような仕事は俺たちがするもんです。どうぞ、お召し替えされてお寛ぎください!』

『私は構わんのだがな…』

 キョトンッとした魔王はしかし、ふふふっと酷薄そうな薄い唇に笑みを浮かべると、必死の形相をするシューと、彼の忠実な衛兵たちの慌てふためく姿を見て大人しく従うことにしたようだ。
 本来なら斬首されてもおかしくない進言を口にして、ダラダラとこめかみから汗を噴出しながら蒼褪めたままで魔王を見送ったシューは、キョトンッとしている人間の少年の首根っこを引っ掴んで吠え立てた。

『~お前はッ!!どうしてこう、次から次へと問題を起こしやがるんだッ』

「イタタタ!って、別にただ掃除してるだけだろッ」

『その掃除の仕方が問題大有りなんだろーが!相手は魔王なんだぞ!?』

 シューの激怒する意味を判りかねている光太郎は、ムッと唇を尖らせて拳をグーにして獅子面魔将軍の脇腹に軽いパンチをお見舞いした。

「仕方ないだろ?ゼインは自分から手伝うって言ったんだ!」

『なんだと!?』

 素っ頓狂な声を上げるシューが玉座の間の掃除を手伝っている衛兵を睨むと、いらなくなった書籍や書物を片付けていた魔物の1人が、仲間から押し遣られるようにして嫌々仏頂面の将軍の前に平伏した。

『は、はい、あの…光太郎さまがお越しになられてからその、部屋中を掃き出されまして…魔王様はニコニコされておられたんですが突然手伝われると仰いまして…』

 歯切れの悪い言い訳のような説明に、シューは合点がいったのか、首根っこを引っ掴んだ少年を無造作にヒョイッと持ち上げた。苦しそうに眉を顰めた光太郎が唇を尖らせて暴れると、その顔を覗き込みながらシューは言った。

『あのなぁ、お前…大方また魔王の周りをチョコマカと掃いてたんだろう?魂胆丸みえだっつの!』

「…えへへへ。バレたか」

 思わずニヤッと笑ってしまって、頭を掻きながらごめんねと謝る光太郎に、シューは脱力したように溜め息を吐きながら首を左右に振ったのだ。

『まあ、お咎め無しだったからいいようなものの…頼むから俺の寿命を縮めないでくれ』

「シューは大袈裟だよ~」

 アハハハッと屈託なく笑う光太郎を恨みがましい目付きで睨み付けながら、シューは引っ掴んでいた手をパッと離して胡乱な目付きで片手を振ってオドオドしている衛兵たちを散らすと、床に散乱した書物を拾い上げるために屈み込んだ。その傍らにドシッと落ちてしまった光太郎は「アイタタタ…」と呟きながらシューの傍らに座り込んだ。

『そうやって考えなしに何でも言ってるんじゃねーぞ?シンナに何を言ったのか知らねーが、喋る前にまず物事を考えろ』

「…え?シンナがどうかしたの」

 少し驚いたようにライオンヘッドを見上げる光太郎に、シューは顔の角度を変えずに金色の鋭い瞳でジロリと見下ろして唇の端を捲りあげた。

『アイツがおかしくなるのは何時ものことだから気にする必要はねぇけどよ…それに、アイツにはゼィがいるからな。だがまあ、時には口にしてはいけねぇことだってあるワケだ』

「ええ?シンナとゼィは付き合ってるの?」

 話の論点がずれてきているのだが、それでもシューは辛抱強く首を左右に振って見せた。そのシューの態度に判らなくなった光太郎が眉を顰めると、仕方なさそうに獅子面の魔物は説明してやることにする。

『その付き合いってのがどういう意味かは知らんが、まあ確かにゼィとシンナは長い付き合いだからな。しかもお互い将軍と副将と言う間柄だ、自然と求め合ってもおかしくはねーってワケだ。だが、2人はそれ以上の関係じゃねぇが、俺なんかよりも親しいワケだから、シンナがおかしくなってもゼィがどうにかするだろう』

 シューは率直にこそ言わなかったが、ただ単にゼィとシンナは長い付き合いから身体を求め合っているに過ぎないと言っているのだ。そこには【愛】や【恋しい】と言う感情は、シューの言葉から感じられることはなかった。

「そっか…でもそれは、少し寂しいね」

 僅かに俯いた光太郎は内心で、ああそうか、と漸く判ったような気がした。
 シンナが寂しそうな表情をするのは、もしかしたら、彼女は心の底からゼィを愛しているのかもしれない。だけど、だからこそ、長い付き合いが邪魔をして素直に愛を告白できないでいるんだろう。もしかしたらゼィは、ゼィの方が彼女をなんとも思っていないのだとしたら、それは、誰よりも傍にいるからこそ苦しくて、悲しい想いなんだろうなと光太郎は唇を噛んだ。
 恋の何たるかなどと言うことは判らないが、それでも大好きな人に告白できない気持ちは痛いほど良く判る。片思いなら何度だってした光太郎だ。

(結局いつも振られてるけど…)

 恋は何度でもできるけど、でも、シンナの胸の奥深いところに蹲っている想いが愛だとしたら、容易く忘れられるはずもないし、あんなに近くにいる2人だからすぐに諦められるものでもないだろう。だからシンナは、寂しさを胸いっぱいに抱えながら、全てを捧げて我慢しているのかな…
 俯いている光太郎を何かを思いながら見下ろしているシューに、人間の少年は「ん?」と首を傾げてから、唐突にハッと気付いたようで慌てて顔を上げた。

「シンナがおかしくなったのか!?」

『誰にも言うなよ』

 今更吃驚したように漆黒の双眸を見開く光太郎を既に慣れてしまったシューはジロリと間近で睨んで、コクコクと大きく頷いて身体をにじり寄せてくる小さな少年に念を押して口を開いた。

『事もあろうにシンナのヤツは、魔王の悲願をぶち壊すような発言をしやがったのさ』

「ええ!?それって大変なことじゃ…」

『物凄く大変なことなんだ。誰かに聞かれでもしたら、シンナの首はその日のうちに飛んじまう』

 その台詞に恐れをなしたのか、光太郎は口を噤んで俯いてしまった。
 サラサラの黒髪は、禍々しいほど美しい鈍い光を放つ魔王のそれとは違い、生気に溢れた優しい匂いがして、シューにとって密かに気に入っている部位だった。その黒髪を揺らして俯いた少年を、暫くジッと見下ろしていたシューはしかし、仕方なさそうに軽く溜め息を吐いて散乱する書物を片付けにかかった。

『なんにせよ、シンナのヤツは破天荒で知られる魔軍の副将だ。自分の言葉には常に行使力が働くことぐらいは重々承知しての発言なんだ。お前が落ち込む必要はねぇよ』

 ゆっくりと顔を上げて上目遣いにシューを見上げる光太郎を、ライオンヘッドの魔物は自慢の鬣を揺らして牙を覗かせながら、噛み付く振りをしてみせた。

『だがな、注意は必要だ!お前は危なっかしくて肝が冷える』

「…シューがいるから大丈夫だよ」

 ニコッと笑う光太郎に、事の重大さを果たして本当に認識しているのだろうかと、一抹どころじゃない不安を感じてシューが耳を伏せていると、あっけらかんと笑う人間の少年はそれでも心配そうに首を傾げている。

「きっと俺、シンナに悪いこと言っちゃったんだろうなぁ…あとでちゃんと、謝っとかないと」

 ふと、シューはそんな光太郎を見下ろした。
 手にした古い書物たちはどれも埃を被っていて、長い年月を無駄に書庫の中で眠っていたことを物語っているようだ。その歴史ある一つ一つの書物を、大事そうに埃を払いながら見詰めている光太郎の横顔は、シンナに対する申し訳なさに霞んではいるが生命の輝きをキラキラと放っている。
 それは、もう随分昔に忘れ去っていた、人間の持つぬくもりだった。

『…』

 魔物に対して素直に謝ろうとする世にも珍しい人間…シンナは言っていた。
 果たして光太郎を、本当に【魔王の贄】にしてしまってもいいのかと、投げ掛けられた疑問が再び脳裏に甦ってきたのだ。
 分厚い書籍を軽々と持ち上げて顎の辺りに背表紙を当てながら考え込んでいる獅子面の魔物に気付いた光太郎は、神妙な面持ちのシューを真下からジーッと覗き込んだ。
 首筋まで覆うような立派な鬣は褐色で、突き出した鼻筋にムッと引き締まった口は確かにライオンそのもので…ジーッと見ていても見飽きないその顔の下にある、筋肉に覆われた立派な体躯は人間そのものなのだから不思議だなぁと光太郎は考えていた。
 だが、シューのそんな獅子面が、なぜかとても好きだと思ってしまう自分もまた、不思議だなと思って小さく笑ってしまう…と、そのライオンの顔の中で唯一、邪悪な魔に支配された魔物であることを証明するような鋭くも凶悪な光を宿した黄金色の双眸がジロリと見下ろしてきた。

『なんだよ?』

「えへへへ。シューって可愛い顔してるよね」

『グハッ!な、な…ッ!?』

 生まれて初めて言われた言葉に思わず噴出しそうになってしまったシューは、二の句が告げられずに黄金色の双眸を白黒させて、このとんでもないことを平気で喋ってしまう厄介な人間の少年をマジマジと見た。

「俺ね、シュー大好きだよ」

 太陽に似た花がポンッと開花したような、柔らかな笑顔を浮かべる光太郎が何気なく言ったその言葉に、不意にシューは、ムッと不機嫌そうな顔をして立ち上がった。

「あれ?シュー??」

 何も言わずに重そうな分厚い本をヒョイッと抱えて立ち去ろうとするその後ろ姿を、書物を両手いっぱいに抱えて立ち上がった光太郎が慌てて追いかけた。

「怒ったのか?だったら、ごめん!でも、ホントなんだよ…?あ、でも!別にシューの顔が可愛いから好きとかじゃなくて、シューのこと、全部好きだって思ってるから!だから、別に嫌がらせとかで言ってるんじゃないんだ。シューにしてみたら馬鹿にしてるのかって思っちゃうかもしれないんだけど、俺、上手く表現できないんだけど。最初に会ったときは凄い怖いって思ってたんだよね。でも、一緒にいる間にシューって、言われたら嫌かもしれないけど…本当に優しかったし、良い魔物なんだなって思うようになったんだ。だから、大丈夫!うん、ちゃんとシューを見て好きになったから…」

 両手に抱えた書物を落とさないように気をつけながら一生懸命説明する光太郎の目の前で、不意にシューが立ち止まった。その広い背中に気付かないまま思い切りぶつかった光太郎は、鼻先を押さえながら涙目で振り返らない獅子面の魔物を見上げた。

「シュー?」

『全く…これだから俺は人間ってヤツが気に喰わねぇんだよ。その時の感情だけでベラベラ喋りやがって…俺を好きだと?俺の全てを好きになっただと?』

 殺気のような怒りのオーラが蜃気楼のようにゆらりと立ち昇って、肌をビリビリと焼くような振動にビクッとする光太郎を獅子面の凶悪な魔物が振り返った。その黄金色の双眸に射竦められて、力が抜けた光太郎の腕から書物がバサバサと床に落ちてしまった。

「あ…」

 思わず条件反射で…と言うよりも、その射抜かれるような強い双眸から逃げ出そうとするかのように、落ちてしまった書物を拾おうと屈み込みかけた光太郎の腕を、力強い大きな掌がガッチリと掴んで乱暴に引っ張った。

「痛ッ」

『俺を見ろよ、ええ?俺を見て俺を好きになったんだろ?俺は魔物だ。お前が何を勝手に考えていようと、俺は人間を憎んでいる魔物なんだぜ。ほら、俺の目を確り見るんだ。これでもお前は、俺をまだ好きだなんて安っぽい言葉を吐きやがるのか?』

 光太郎は、地獄の底から噴出すような凶暴性を孕んだ双眸に見据えられて、じっとりと背筋を濡らす汗を感じていた。それは感じたこともない恐怖で、直感的に殺されると思うほどだった。

『光太郎、物事はちゃんと考えて口にしろと言っただろ。何かを言うときは、責任を持ちやがれ。ここはお前の住んでいたようなお綺麗な場所じゃねぇんだ。言葉一つ間違えても命取りになるんだぜ』

 それはシューの、最大限の優しさだった。

『魔物の世界ではなんでも一つしかねーんだ。【好き】と言う言葉は即ち【愛している】と言う意味になって、互いの命を別ち合う、お前たち人間の言葉で言えば【婚姻】を意味するのさ。だから、人間の感覚でシンナやゼィに【好き】なんて言うんじゃねーぞ』

 威嚇するように牙を剥いたシューは、それでも噴出すような殺気と怒りを唐突に引っ込めると、軽い溜め息を吐いてやれやれと首を左右に振った。左右に振ったが、先ほどから視線も逸らさずに食い入るように自分を見つめる漆黒の双眸に気付いてギクッとした。

『な、なんだよ』

 恐る恐る聞き返してしまうシューの丸い耳が、微かに震えているのは気のせいではない。

「…ちゃんと、責任を持てばいいんだよね?」

『なぬ!?』

「俺は、シューが大好きだよ。シューの傍にいて幸せだし、シューのお日様のような匂いも大好きなんだ…あ!またすぐ睨む。睨んでもいいよ。そりゃ、ちょっとは怖かったけどでも、ジッと見てたらやっぱりシューなんだ。どんな怖い顔してても、やっぱりシューはシューなんだ。仕方ないよ」

 呆れたようにポカンッと見下ろしたシューはしかし、ガックリと項垂れて、まるで脱力したように掴んでいた腕を離すと片手で顔を覆った。

『そりゃ、お前。雛鳥のすり込みってヤツじゃねーか。もう、勘弁してくれ。俺は行くぞ』

 何か言うのも疲れたのか、勝手にしろとばかりに突き放したシューは、もう問答無用でズカズカと重い書籍を軽々と小脇に抱えて立ち去った。その後ろ姿を見送った光太郎は、掴まれた痕の残る腕を見下ろして、それから頬を微かに染めながら双眸を閉じると、ソッとその部分に唇を寄せた。
 力強い掌に掴まれて引き寄せられたとき、なぜか突然ドキッとした。それに追い討ちをかけたように睨まれて、確かに身体は竦んだのに、どうしてその金色の双眸から目が離せなかったのだろう…
 シューのことが好きだ。
 ソッと口に出して、それから唐突に心臓が跳ねる感覚を覚えて戸惑った。

「んー、これってなんだろ?心臓が凄いドキドキする…苦し」

 ドキドキする胸元を押さえながら眉を寄せる光太郎は、その感情がどこから来るものなのか判らなくて不安になった。こんな感じは初めてで、どうしたら良くなるのかも判らなくて息苦しくて仕方がない。

「う~、だって!ちゃんと好きって言わないと気持ちって伝わらないじゃないか。シューには凄く感謝してるんだから、キチンと気持ちを伝えないと。人間的にって…そもそも魔物の考え方がおかしいんだよ!「好き」の意味が一つしかないなんてどうかしてるよッ。じゃあ、どんな風に感謝するの?すっごい良い人だって思ったら大好きだなって思うじゃないか!俺はシンナも好きだよ。んー、でもやっぱりシューが大好きだけど…なんか、考えるのやめた。もう、ワケが判んなくなってきた。はぁ、疲れた」

 一頻り一人で弁解だの愚痴だの屁理屈だのをグチグチと言っていた光太郎は、唐突に眉を寄せて、それから疲れたように項垂れてしまった。自分で言っているうちに、感情そのものがこんがらがってしまったのだ。

「シンナに聞いてみようかな…あ、ダメだ。シンナに聞いちゃダメなんだ。ん~、どうしようかなぁ」

 書物を拾って両手に抱え直しながら釈然としないままで、それでも漸く光太郎はシューの後を追うことにした。
 ガックリ項垂れた背中は、この国に来て初めて、疲れきっているようだった。

Ψ

 それから何日かが過ぎて、結局、光太郎が弾き出した結論はシューに付き纏えばいいのだと言うことだった。
 あれやこれやと聞いてみても、獅子面の魔物はウンザリしたような顔をするだけで、明確な答えと言うものは全く教えてなどくれない。それでも根気良く着いて回っていると、シューの方が煙たがって逃げ出してしまう有様だ。

「ひっどいなー。これじゃあ、なんにも判らないよ」

 ブツブツと珍しく悪態を吐きながら床を磨いていると、不意に向こうから神官風の魔物を従えたゼィが歩いてきていた。その手には幾つかの巻物らしきものを持っていて、その表情は些か沈んでいるようにも見える。

『…よって、人間どもの勢力が高まっている模様でございます』

『厄介なことよ。大方、【魔王の贄】の出現に我らの気が漫ろになったことも要因の一つであろうな』

 立ち止まったゼィが巻物を開いて見ると、そこには何やら気に障る内容でも書かれているのか、溜め息を吐いて首を振って巻物を放り投げると腕を組んだ。神官風の魔物は慌てたようにその巻物を受け取ると、冷や汗を額に浮かべて焦ったように言い募っている。

『彼の国は隣国を巻き込んで肥大化してきているようでございますが、付け焼刃の王であるせいか統率はいまいちのようでございます。攻め入るならば、内偵を放って…』

『ふん!だから其方は愚かだと言うのだッ』

『は、はは!?』

 ジロリと睨みつけてから、不機嫌そうに額に血管を浮かべて歩き出したゼィを慌てたように軍師らしき魔物が追い縋るが…ふと、不機嫌のオーラをバリバリと漂わせる胡乱な目付きのゼィと、しゃがみ込んで床を磨きながらポカンッと見上げていた光太郎の目がバチッと合ってしまった。
 光太郎が内心で「ひえぇぇ」と泡食っていることなど露知らぬゼィは、それまでの不機嫌そうな声音とは打って変わった穏やかな調子で声をかけてきた。

『おお、光太郎ではあるまいか?』

「や、やあ、ゼィ。なんだか大変そうだね」

『ふん!役立たずの軍師に手を焼いておるだけのこと、光太郎はまた掃除か?』

 役立たずと言われてガックリと項垂れる魔物を追い払って、ゼィは大股で光太郎に近付くとその傍らに座り込んだ。胡坐を掻いて腕を組むと、不機嫌そうに眉間に皺を寄せている。

「うん、そう。最近、随分と綺麗になったと思わないかい?」

 光太郎が雑巾を片手にニッコリ笑うと、それまで不機嫌そうに眉間に皺を寄せていたゼィは、ふと、頬を緩めていつもの無表情に戻った。

『うむ、城の者どもも噂をしておるようだ。光太郎が来てから城が明るくなったとな』

「…いいことがどうかなんて判らないけど、俺ができることなんてこれぐらいだから」

 エヘヘヘッと、少し自信がなさそうに笑う光太郎にゼィはキリリッと整った眉を跳ね上げて驚いたような表情をして見せた。

『はて?光太郎らしくもないではないか。常に自信に満ち溢れ、己が行動に躊躇いのない光太郎はどこに参ったのだ?…む、シューが見当たらぬようだが?』

 今気付いたかのように、【魔王の贄】の世話役としていつも影のように寄り添っている獅子面将軍の姿がないことに首を傾げながら、ゼィはキョロキョロと辺りを見渡した。それでも、シューに用事があるわけではないからなのか、どうでもよさそうに肩を竦めて見せた。

『大方、また何処ぞの陰から覗いてでもおるのだろう』

「えーっと、その。違うんだ。ちょっと、怒らせちゃって…」

 困ったような、不安そうな顔で笑う光太郎を見下ろして、ゼィが無表情で首を傾げて見せる。

『怒る?あのシューがか??はてさて、光太郎が現れてから珍奇なことばかり起こるようだな』

「俺が来る前はシューはこんなに怒らなかったのかい?」

 どうでも良さそうに呟くゼィの深い紫色の双眸を驚いたように見上げた光太郎が首を傾げると、青紫の髪を持つ思慮深い面立ちをした優美な美しさを持った魔物は下唇を突き出すようにしてどうでも良さそうに口を開いた。

『怒るというよりも寧ろ、相手をしてはいなかった。飄々としておったからな』

「そうなんだ…シューは、俺には怒るんだね。嫌われてるのかな…」

『む?人間を気に食わぬは我ら魔族の性のようなもの。が、シューは然程光太郎を嫌っているようには見えなかったぞ』

 しょんぼりと肩を落としてしまう少年を見下ろして、どう言った気分の変化が起こったのか、ゼィは僅かに眉を寄せて気を遣ったのだ。ここにシューが、或いはシンナがいてその姿を見ようものなら、驚きに卒倒してその場にぶっ倒れていたかもしれない。それだけ、そのゼィの人間に対する気遣いなど皆無に等しい行為だったのだ。

「えーっと…ちょっとゼィに聞いてもいいかな?」

 俯いていた光太郎はジーッと床を見詰めていたが、不意に顔を上げてボーッと石造りで文様を施された豪華なアンティーク調の天井付近を見上げているゼィに声をかけると、先ほどまで額に血管を浮かべて不機嫌のオーラを無造作に出していた魔物は今ではその気配すらも感じさせずに何事かと首を傾げた。

『何か?』

「ゼィたち魔物にとって言葉の意味って一つしかないんでしょ?」

『…ああ、それは特別な言葉のことであろうな。それならばそうだろう』

 光太郎の言葉に首を傾げていたゼィは、大方の予想をつけて頷いた。

「たとえば、たとえばだよゼィ。もし、俺がシンナやゼィやシューを【好き】だとするだろ?その場合の魔物たちの表現ってどうするんだ?」

『そんなことはシューに聞くが良い…と言いたいところだが、あの朴念仁ではそう上手くもゆかぬのであろうな。好意を持ったのであれば長らく傍におることだろう。言葉にしろ、態度にしろ、我ら魔族にはその表現はないに等しいのだ』

「でもそれだと」

 シューに予め聞いていた同じ言葉に眉を寄せながら、光太郎はやっぱり納得できないように唇を突き出して反論を試みた。

「ないに等しいって言うけど、それじゃあ少しぐらいはあるってことじゃないの?俺はそれが知りたいんだ」

『ならば身体を重ねればすむこと。表現とはまさにそれではあるまいか?』

 極平然と、まるで当たり前のことのようにあっさりと言い切ったゼィに、光太郎は吃驚したように目を白黒させて次いで、慌てたように顔を真っ赤にした。

「で、でもそれって…じゃあ、【愛してる】のときはどうするの?」

『それは、魂を分かち合うのだ』

「え?」

 不意に耳慣れない言葉を聞いて首を傾げる光太郎に、ゼィは気が落ち着いたのか、ゆっくりと立ち上がりながらキョトンッとしている人間の少年を見下ろした。

『人間には耳慣れぬ言葉であろうな。俗に言う【婚姻】というものだ』

「…あー、ああ!そっか、魔族にも結婚って言うのはあるんだね」

『結婚と申すかどうかは判らぬが…』

 呟きながら頷いたゼィは、そのまま話を切り上げて立ち去ろうとした。その後ろ姿に、光太郎は思わずと言った感じで声をかけてしまった。

「あ、ゼィ!」

『…ん?』

 不意に足を止めたゼィが振り返った。
 青紫の髪と深い紫の瞳、高い鼻梁に酷薄そうな薄い唇は、禍々しくもあるが優雅な美しさが際立って、この古風な長い回廊に佇んでいるとまるでお伽噺から抜け出してきた精霊か何かのようだ。
 さらりとした髪が頬に揺れ落ちて、ゼィは不思議そうな顔をしている。
 シンナが愛している人は、確かに魔族の中に在っても際立つ美しさと威風堂々とした威圧感があった。

「えーっと、その…ごめん、なんでもないんだ」

 えへへへっと笑って誤魔化すと、ゼィは訝しそうに眉を寄せはしたが、フッと軽く笑って立ち去ってしまった。その後ろ姿を、頬を引き攣らせて笑いながら片手を振って見送っていた光太郎は、ガックリと床に両手をついて項垂れてしまう。

「さ、さすがに言えないよ!だって人の恋路を邪魔するヤツは馬に蹴られて死んじまえって、ばーちゃんが教えてくれたんだ。なんとか、俺で手伝うことができたらいいのに…恋愛経験が丸っきりないこんな俺だと、こう言うときはまるで役立たずなんだよなぁ…」

 木製のバケツにたっぷり入った水の中で雑巾を洗いながら光太郎が溜め息を吐くその傍らを、何も知らない見張りの仕事あがりの魔物や、書物庫から戻ろうとしている魔導師、闇の神殿に参拝途中の神官などが、小さな人間がせっせと床磨きをしている微笑ましい光景に目を留めては噂しながら行き交っていた。

『全く…光太郎が来てからこの城は明るくなった』

『うむうむ、嫌がる仕事も喜んで引き受けてくれるしなぁ…全く、人間にしておくには勿体無いほど素晴らしい少年だ』

『城全体が綺麗になってきたのぅ…もうずっと、この城に居てくれればいいんじゃが』

『城だけでなく、殺伐とした我らの気分も明るくなったぞ』

『この城にずっと留まってくれればなぁ…』

『我らと共に居て欲しいなぁ…』

 柱の影から案の定、コソリと様子を窺っている胡乱な目付きのライオンヘッドの魔物のその鋭敏な聴覚にも、噂話は余すところなく漏れ聞こえていた。背後に暗雲を背負いながら、そんな冗談言うなよと、シンナとほぼ同じぐらい大それたことを口走る魔物どもにウンザリしたような顔をして、それでもシューは、汚れてくすんでいたはずの鏡面のようになっている床に顔を近付けて、ちょっと小首を傾げながらゴシゴシと磨いている光太郎を見詰めていた。

『そんな冗談言うなよ…』

 もう一度呟いてみて、シューは溜め息を吐いた。

『クッソ!俺の方が冗談言うなの心境だなッ』

 柱を背にしてへたり込むようにしゃがみ込んだシューは、膝の間に両腕を投げ出して、やれやれと項垂れてしまった。顔を出せば忽ち光太郎に見つかって、世間知らずの人間のしかも小僧如きに「好きだ、好きだ」と連呼される羽目になる。
 それだけは避けたいからこそ、こうしてゼィから鼻先で笑いながら言われたように、何処ぞの柱の陰に潜んで覗き見しているのだ。

『…何してんだろうな、俺』

 盛大な溜め息で回廊を歩いていたバッグスブルグズがビクッとしたように立ち止まって、よせばいいのに恐る恐るそんな不機嫌の固まりになっているシューに声をかけてしまった。

『シューの旦那じゃねーか?こんなところで何してるんだ??』

『…うるせーぞ、バッグスブルグズ!俺の名を呼ぶんじゃねぇ!!』

 もうヤケクソになったようにバッグスブルグズの足を払って見事に転ばしたシューは、その馬面の魔物の首に腕をかけて寝技に持ち込んだ。この数日で溜まりに溜まったストレス発散に、バッグスブルグズが餌食になってしまった。

『しゅ、シュー様??』

 驚いたように闇の神官が恐る恐る立ち止まって口許を押さえながら覗き込むと、バッグスブルグズが大きな腕をバシバシッと叩きながら『ギブギブ』と呻いている。
 そんな騒ぎに気付いた光太郎が立ち上がって人だかりに首を突っ込むと、思わぬ光景にプッと吹き出してしまう。

「何してるんだよ、シュー」

 ケラケラ笑う光太郎に気付いたシューは、どうしたのか、ますますいきり立ったように馬面魔物の首を締め上げてしまう。白目を剥いて泡を吹きかけたバッグスブルグズに気付いた神官たちが、その時になって漸く慌てたようにシューを止めに入った。

「わわ!?ダメだよ、シュー!!」

『うるせー!人間はすっこんでろッ』

『つーか、グハッ!手を…手を…はなし…ぐへぇ』

『シュー様!お止めくださいませ~』

 騒然とする回廊で、光太郎も慌ててそんなシューを止めるのだったが、さすがは魔将軍である。全く意に介したようになく、日頃の恨みも込めてバッグスブルグズの首を締め上げるのだった。
 哀れバッグスブルグズ、ご愁傷様である。

Ψ

 魔王の眼前に控えたシューと、そしてゼィとシンナが神妙な面持ちでその言葉を待っていた。
 魔軍を率いる武将の顔ぶれをゆっくりと見渡した魔王は、玉座にゆったりと凭れながら腹の上で両手を祈るように組んだ。不貞腐れている約一名を除いて、魔将軍どもは真剣そのものの表情をしている。

『…儀式を執り行えと申すのか?』

 魔王の声音は吹雪のように冷たいが、室内の温度を幾分か凍りつけた後、まるで何が可笑しいのか、魔王はさも面白そうにクックックッと咽喉の奥で嗤った。そのゾッとするような哄笑はあまりに突発的で、一瞬怯んだ忠実な配下にこの世の全てを統べるべく誕生した王は片手を無造作に振ったのだ。

『下らん』

『魔王、お言葉ですが時は充分満ちております…』

 ゼィが物静かに口を開くと、シンナがそんな将軍をジロリと睨んだ。
 唯一、この玉座の間に姿を現したときから不機嫌そうに眉を寄せているシンナをチラリと見下ろして、魔王は尊大な態度で頬杖を付いた。

『ならば理由とやらを申してみよ』

 端から取り合う気など毛頭ないのか、絶対的な力を誰よりも欲していたはずの魔王のその、中途半端な態度にシューが苛々したように口を開いたのだ。

『畏れながら魔王、彼の者が来てからの我が城の緊張は、まるで砂糖菓子のように脆くなっております。この虚をいつ何時人間どもが狙ってくるか判りません』

『ふむ、なるほど。だが、どうも私の、以前にも増して結束が強まったという思いは気のせいであるのかな?』

 間髪入れずに尊大な仕種で見下ろしてくる魔王が言うと、シューは『そんなまさか…』とブツブツ悪態を吐きながら唇を尖らせた。だが、ゼィは違っていた。
 冷静に事態を把握する冷徹な魔将軍であるが故に、ゼィは静かながらも存在感のある声音で魔王に進言するのだ。

『結束が強まるは良きことですが、魔王よ。人間どもも小賢しく、少なからず力を蓄え始めております。このまま捨て置くは賢明なるご判断とは申し上げられません。どうぞ、【魔王の贄】をお召しくださいませ』

 頭を垂れるゼィを見下ろして、魔王は紫紺の双眸を細めると、やれやれと溜め息を吐いた。
 何れはこうして進言に来るだろうと予想はしていたものの、魔王としても、確かに限りなく続く常しえの力を我が手に入れて人間どもを一掃し、この世界の全てを手に入れたいとは常々思っていた。

(だが…)

 魔王は頬杖を付いたままで目線を伏せた。

(はたして儀式を行ってよいものか?)

 誰にともなく呟いて、そしてそれは、自身の内心に渦巻くべっとりと張り付いた疑念に問い掛けているようだった。
 どうも二の足を踏んでしまう魔王のその態度に、シューもゼィも内心では苛々していたが、聡明なる彼らの王が、ましてや判断を誤るはずがないと信じていた。
 困ったものだと溜め息をついた魔王が、ふと、ムスッと唇を尖らせて一言も喋らないシンナに気付いて首を傾げた。いつもなら真っ先に口を開いて、居並ぶ将軍どもを押し退けるようにして自らの主張を貫くこの小さな副将が、どうしたことか、一言も口を開こうとしないのだ。
 魔王は興味を惹かれてシンナを見下ろした。

『時にシンナよ、其方の意見も聞いてみよう』

『あたしはン…』

 口を開きかけて、一瞬、戸惑ったように視線を彷徨わせたシンナは、首を左右に振って不機嫌そうに項垂れてしまった。それでも、魔王の双眸が揺らぐことのないのを知ってか知らずか、シンナは顔を上げると片膝をついた騎士の礼をとって魔王を見上げるのだった。

『畏れながら魔王ン!あたしは光太郎を、いえ、【魔王の贄】の儀式を行うことを取り止めて頂きたく思いますン』

 一瞬ザワッと玉座の間の空気が揺らいで、護りを固める衛兵も、居並ぶ重臣たちも、何よりもゼィとシューが驚いたように目を瞠ってそんなシンナに注視した。だが小柄な副将はそのような視線は意に介さず、真摯に魔王を見据えて次々と発言するのだ。

『光太郎が来てからこの城は賑やかになりましたン。その態度がこの城の護りを砂糖菓子のように脆くしているなどと、あたしは思いませんン。城の者は優しさを知り、もっと、みんなを護ろうと頑張っていますン。それを評価されるのであれば、あたしは【魔王の贄】の儀式を執り行うことを反対致しますン!』

『シンナ!』

 思わずゼィが副将たるシンナの腕を掴むのと、シューがそんな一触即発の青紫の髪を持つ将軍の腕を掴むのはほぼ同時だった。

『こんな場所でやめろや、ゼィ』

 魔王が冷ややかな相貌で見下ろしている、ましてやここは玉座の間なのだ。
 シンナは自らの発言にけして誤りなどあるはずがない、と言う確信でも得ているのか、真摯な双眸でゼィを通り越した先に鎮座ます魔王を見詰めている。ゼィは突発的なシンナの叛乱に、彼にしては珍しく動揺してでもいるかのように深い紫の双眸を細めていた。

『…なるほど』

 微かに口許に微笑を浮かべた魔王が何事かに思いを巡らすかのように紫紺の双眸を閉じると、居並ぶ彼の忠実な部下たちは息を呑んでことの成り行きを見守っているようだ。
 特にゼィは、シンナの強硬な態度に腹を立てかねない勢いで、しかし、不届き者として重い重罰が下るのではないかと内心気が気ではなかった。
 シューは、獅子面からはその思いなど想像のできないクールな表情で、内心に吹き荒れるハリケーンのような心の葛藤に、背筋はダラダラと冷たい汗を掻いている。

(厄介なことにならなきゃいいんだが…)

 人知れず溜め息を吐く獅子面の魔物のことなどお構いなしに、永遠の闇の国きっての破天荒なならず者は憤然とした表情で魔王を見据えていた。その横顔が、どこかで見たことがあるような気がして、シューがゾッとしたかどうかは本人のみぞ知るところである。

『なるほど』

 何かに思いを巡らせていた魔王は内なる声にもう一度頷くと、ゆっくりと魔眼とも怖れられる紫紺の双眸を開いて畏まる二匹の魔物と、強い双眸で睨んでくる一人のディハール族を見渡した。
 それぞれの葛藤に揺れる心を持つシューとゼィを、シンナはだが、一度として見ようとしない。それは恐らく、振り返ってしまって彼らの絶望する瞳を見てしまったらその決心が揺らいでしまうし、何より、この重大ごとに彼らを巻き込むわけにはいかず、その責任は一身に自分にあるのだと魔王に宣言しているからだった。
 シンナは強い。
 それはゼィもシューも認めていた。
 だからこそ、この重大な時期に謀反ともとれる言動で重要な存在であるシンナを失いたくはないのだ。
 魔王もそのことは重々承知のはずである。
 シューは見上げた。
 彼らが絶対と仰ぐ、君主たる永遠の闇の国の魔王を。
 何か言おうと口を開きかけた魔王の見事な柳眉が一瞬ピクリと動いて、その瞬間、魔将軍たちと副将はすぐにその気配を感じて玉座の間から謁見の間へと続く間仕切りの緞帳が垂れる入り口を振り返っている。既に臨戦態勢に入っているシンナの握った拳を覆うように、いつの間にか腕輪から鋭い鉤爪が飛び出していたし、ゼィは腰に佩いた禍々しい気配を発する妖剣の柄に手を掛け、シューは拳を握ってボキッと指を鳴らしている。
 魔王は何事もなかったかのような飄々とした表情をして、緞帳が遽しく引き上がるのを見つめていた。

『お、お話中失礼致します!』

 滑り込むようにして片膝を付きながら、魔王と彼を護る3人の将の眼前で殺気を垂れ流しながら傷付いた魔兵が頭を垂れた。その瞬間激しく咳き込んで、玉座の綺麗になった床に血反吐が飛び散った。

『何事だ!?』

 たった今まで戦っていた様子をまざまざと窺わせる魔兵の満身創痍の身体には、既に余命幾許もないことが濃厚に張り付いていた。そのベットリと疲労の色が窺える顔を覗き込んだシューが、慌てたようにグラリッと傾ぐ身体を支えてやりながら声をかける。

『ラスタランの生き残りどもが…グッ!…北の砦を落としましたッ!!』

 肩で荒い息を繰り返しながら、畏れ多くも将軍に身体を支えられた魔兵は、信愛するシューと魔王を見上げて息も絶え絶えに報告する。本来、それが彼の役目だったのだろう、伝令として早馬を駆けて城に戻ってきたのだろうが、傷付いた身体は更に低級魔物どもに襲われたのか鮮血があらゆる部位から吹き零れている。
 特に酷い肩の辺りを押さえてやりながら、それでもシューは、呼吸に合わせて吹き出る血液を掌に受けて、彼がもう間もないことを感じていた。シンナもシューと同様にその傷口を覗き込んで、声もなく首を左右に振る。

『なんだと!北の砦が!?』

 ゼィが一瞬目を見開いて呟いたが、悔しそうに歯噛みしながら魔王を振り仰いだ。
 その深い紫の双眸には、煮え滾るように人間に対する憎悪の焔が燃え上がっていた。

『由々しき事態でありますれば魔王よ、挙兵させて頂きたい!』

 すぐにでも飛び出していって一矢報いてやりたいものを…日頃は冷静沈着なゼィが歯噛みするのも仕方がない。
 伝令として危機を掻い潜ってきたその魔兵は、シューが拾ってきた魔物で、子供の時分から育て上げた養い子だったのだ。

『攻め入るならば…ッ、い、今こそ…で、ございます』

『喋らないでン…』

 伝令としての役目でそれは有り得ないと知りながら、それでもシンナはシューの大きな震える掌の上にソッと自らの手を重ねると、呟かずにはいられなかったのだ。

『グッ…今はまだ…ッ、…沈黙の…主が不在で…ございますッ』

 息も絶え絶えに言葉を区切りながら報告する魔兵を見下ろして、魔王が悠然と立ち上がった。噴霧のように殺気が垂れ込める玉座の間に、彼の冷ややかな、威圧感のある声音が響き渡った。

『シューよ、其方に命じる。北の砦を奪い返して参れ』

『…は、仰せのままに』

 ビクビクッと痙攣し始めた身体を支えてやりながら、シューは感情の窺えない声音で頭を垂れると享受した。
 その時ばかりは沈黙の主に一矢報いてやろうと牙を磨ぐゼィも自分を出せとは反論せずに、その悲しいまでの怒りを知る旧知の友であるからこそ何も言わずに頭を垂れるのだ。
 そうして魔王は、片膝を付いて頭を垂れている二人の魔将軍を見下ろすと、いっそ呆気にとられるほどのあっさりとした口調で、この世でもっとも残酷なことを命じるのだった。

『ゼィよ。伝令として見事な働きを見せたシューの部下であるソーズに、常しえの国ラルシーダへの引導を渡してやるのだ』

『…くっ、はは!』

 片膝を付いていたゼィは一瞬歯噛みすると、そのまま立ち上がってシューの眼前まで歩いていった。シューの腕の中では既に息も絶え絶えの、それなのに急所が逸らされているばかりに死ねないでいるソーズが、霞む眼差しで最愛の養い親とゼィを交互に見詰めている。
 その視線は、いっそ潔く、覚悟を決めてもいるようだ。
 ゆっくりとシューが冷たい床にソーズを横たえると、ゼィが腰に佩いた妖剣の柄を握り締めて鞘から引き抜いた。

『ソーズよ』

 シューが囁くように呟くと、視線を彷徨わせていたソーズが咳き込んで、もう見えなくなりつつある目を凝らしながら声の主を探そうとしている。

『先にラルシーダで酒でも呑んで待っててくれや』

『…はい、シュー様』

 掠れた声で、もう意識も朦朧としているのに、それでもソーズは微笑んだ。
 その顔を目に焼き付けるように食い入るように養い子の最期を看取るシューの眼前で、ゼィは握り締めた妖剣を振り上げて言葉を紡いだ。

『…ソーズよ、常しえの平安の宴の席に、賓客として参るが良い』

『ゼィ様、あ、りがとうございま──…』

 ソーズの胸元にゼィの妖剣が吸い込まれるようにして突き立った瞬間、最後の言葉はまるで空気と共に魂が抜け出したかのように細く響いた。
 硬い骨を砕く音がして、それでもソーズは痛みを感じることもなく事切れた。
 シューは、もうこの世ではない世界を見詰めているソーズの双眸をその大きな手からでは想像も出来ないほど繊細な仕種で閉じさせてやると、魔王の指示で集まってきた衛兵を払い除け、彼は血塗れで横たわる養い子の身体にゼィの外套を奪って巻き付け、物も言わずに肩に担ぎ上げて玉座の間を後にした。
 その後ろ姿を見送っていたゼィの握り締めた拳に、ソッと、華奢なシンナの掌が触れた。
 まるでそれだけがこの世界に在るぬくもりのような気がして、ゼィは無言でシンナの温かな掌を握り返していた。

(いったいいつになったら、この無益な争いに終止符が打たれるのか…)

 それは誰しもが心の中で思いながらも、けして口にできないでいる言葉だった。
 魔王が【贄】を手に入れればその争いも終わるのかもしれない…だが、とシンナは思っていた。
 ゼィの大きな掌を握り締めながら、シンナは唇を噛んだ。
 魔王はそんな二人の武将を見詰めながら、ゆったりと口許に微笑を浮かべた。
 今や世界は、彼の掌の上でゆっくりと、微かに軋みながら回転を始めたのだ。

5.哀しみを抱く者  -永遠の闇の国の物語-

 城の騒ぎに朝早く駆けつけたシューは、箒を掲げて掃除宣言している人間の少年を見つけて蒼褪めた。
 激しく部屋のドアを叩かれて、もしやと思いベッドの傍らを見ると昨夜安らかな寝息を立てていた光太郎の姿がないと見るや、嫌な予感に駆り立てられていたものの、案の定を目の前にしてしまっては蒼褪める他にない。ましてや彼は低血圧だ。

「あ、シュー♪ちょうど良かった、俺、これからこの城を掃除しようと思うんだよね…」

『掃除だと!?』

 人を舐めてるのかと聞きたくなるシューと、そんな光太郎を交互に見遣っていたゼィが、不機嫌そうに眉を寄せている。

『なんともはやシューよ、この数日の騒ぎといい此度の騒ぎといい…どう言う躾をしておるのだ?』

「躾って!…失礼だなー」

 ムゥッと唇を尖らせる光太郎を真上から冷ややかに見下ろしているゼィに、シューはガックリと肩を落としながら項垂れてしまう。そんなシューを見上げていた光太郎は、眉を寄せながらブチブチと悪態を吐き始めた。

「大体シューにしてもゼィにしても、室内の汚れとか無頓着すぎるんだよ。そもそも、それはシューやゼィだけじゃないね、魔族全体が汚れって物に頓着がなさすぎるってことだよ。だから食堂でもあんなに汚してても誰も気付かないでそのまんまにしているし…掃除する人の立場になって考えてみたら、それがどれだけ大変なことなのかってのが良く判ると思うんだよね。だから、ハイ♪シューとゼィも手伝ってよね」

『な、なんだ、コヤツは!?何を言って!?むっ、どうして私は今箒を持っておるのだ!?』

 悪態を吐きながら最終的には自分の都合よく考えた結果を弾き出したのか、光太郎は満足したように無邪気に笑って、呆気に取られているゼィがハッと気付いた時にはニッコリ笑った光太郎から箒を押し付けられている始末だった。そんな遣り取りを耳を伏せるようにして遠くを見る目付きのシューに、青紫の髪を持つ禍々しいほど美しい青年は普段の冷静沈着さからは想像もつかないほど動揺したような目付きで訴えている。

『まあ、流れに身を任せるのが無難ってとこかな…どうせ、もう魔王のお許しも受けているだろうし…ははは』

 あの、泣く子も黙るゼィすらも手玉に取る人間の少年に、半ば既に廃人化しそうになっているシューが力なく渇いた笑いを浮かべると、光太郎が嬉しそうに頷いた。

「ゼインはそれはいいことだって誉めてくれたよ。んで、どうせなら日頃掃除を怠っている魔物どもも手伝わせなさいって言ってた。自分たちが住んでいるお城だもんね。ああ、そうそう。少しはゼインも手伝うけど、玉座の間も宜しくって言ってたよ。結構気さくな人だよね、魔王さまって♪」

『!!』

 ゼィが眉間に皺を寄せたままで驚愕していると、シューがその傍らで旧知の友の肩に腕を回して慰めるようにポンポンッと軽く叩いた。軽く叩いて、ニッコリ笑っている屈託のない人間の少年を指差しながら。

『まあ、光太郎ってのはこう言うヤツだ』

 諦めろと、その口調は物語っている。

「取り敢えず、俺はこの長い回廊を掃いてから拭き掃除するけど、シューとかゼィは強そうだから外に行って花でも摘んできてよ」

『花だと!?』

 ゼィが思い切り呆気に取られたように光太郎を見下ろしたが、信じられないとでも言いたそうにシューを見遣った。どうもこれは、お世話係のシューの責任だけと言うのではなさそうだ。
 朝早く目覚めたゼィがシンナを探して散歩がてらに回廊を歩いていると、数本の箒を抱えた光太郎にバッタリと出くわしたのだ。夜明けだと言うのに暗い城内には松明の明かりが燈り、漆黒の外套を纏っているゼィの存在に、当初光太郎は少し戸惑っているようだった。
 青紫の髪と禍々しいほど美しいその無表情の顔を食い入るように見詰めていた光太郎は、ハッと思い出したのか、箒を抱え直しながらニコッとそんな美しい魔物に笑いかけたのだ。

「そっか、ゼィだったね。おはよう!」

 気さくに、ゼィすらも一瞬呆気に取られるほどあっさりと、恐れ気もなく人間の少年は挨拶してきた。それも、こんな暗黒の支配する鬱陶しいほど重苦しく閉ざされた闇の国で、あっけらかんとするほど陽気な朝の挨拶を…
 ちょっと驚いて目を微かに瞠ったゼィに気付かない光太郎は、早速、魔王から借りた掃除道具を見せながら掃除宣言を始めたのだ。

「今日からこのお城の掃除を始めるから、ゼヒ!手伝ってもらいます♪」

『…断わる』

 何を言っているんだと怪訝そうに眉を寄せたゼィが、あからさまに嫌そうに即答で断わると、やはりあからさまにムッとした光太郎が唇を尖らせて言った。

「自分たちが住んでいるお城なんだよ?そりゃあ、誰かに任せてれば楽なんだろうけど…でも、その任された人が辛くなって止めちゃったらどうするんだよ?そしたらそれはその人のせいにするのかい?そんなのおかしいと思うよ。いや、絶対におかしい。自分たちが暮らしている場所で、自分たちが汚してるんだったら自分たちで掃除しないと!それに、たとえその汚れとかゴミが自分のじゃなくても、一緒に暮らしてるんだったら誰かのゴミも自分のゴミだって思って掃除しないとドンドン汚れていっちゃうんだよ。我関せずなんてかっこ悪いよ!だから、ハイ♪」

 機関銃のような喋りに圧倒されたゼィが目を白黒させていると、勝手に納得した光太郎がニッコリ笑ってそんな普段は冷静沈着を絵に描いたような魔将軍に箒を押し付けたのだ。
 さすがに感情なんかないんじゃないかとシューが心配するゼィも、最大限の怒りを露にした表情、つまりムッとして眉を寄せながら手渡された箒をつき返したのだ。

『悪いが、私は掃除になど興味はない。人間を一掃することに忙しいのでね。そう言う下らぬ行為は、中級の魔物どもにでもさせておけば良かろうよ』

「だーかーらー!!」

 押し付けられた箒を押し返しながら更に食いつこうとする光太郎に、周囲の空気をビリッと感電させるような、静かな怒りを滾らせるゼィに見張りにうろついていた衛兵がビクッとして大慌てでシューを叩き起こしに行ったのだ。そしてその現場に来たシューの第一声が冒頭のようなものである。
 結局、言い包められたゼィは渡された箒を見下ろしていたが、胡乱な目付きで立派な鬣を靡かせる獅子面の知己を睨みながら言った。

『説明してやるが良い。この国のどこを探せば花があるのか』

『うーむ…なあ、光太郎。花がどうして必要なんだ?』

 脛でも蹴飛ばしてやりたい心境なのだろうが、普段からあまり感情を窺わせることのないゼィは、それでもシューに対してだけはそれなりの表情は作って見せている。そんなゼィの声に出さない苛立たしさを全身で感じながらも、シューはふと、でもどうして光太郎がいきなり花が欲しいなどと言い出したのか不思議に思って、ゼィの嫌味を受ける形でキョトンとしている少年に聞いたのだ。

「え?だってほら、このお城の色んな所に花瓶が置いてあるじゃないか。あそこに花とか飾ったら、こんな風に暗い城内でも少しは明るくなるんじゃないかなって思ったんだけど…」

 その瞬間、ゼィが思わずと言った感じで噴出してしまった。
 とは言っても、本当にプッと鼻先で笑っただけで爆笑と言うほどのことではないのだが、シューにしてみたらそれでも充分、この旧くからの親友が腹の底から面白がっているのだと理解して、いっそ気持ち悪そうに呆気に取られている。

『なるほど、花瓶か。歴代の人間の王どもが死守しようとした宝器を、野草を生ける花瓶とは…シューよ、どうもこの人間は面白いな』

 ああ、なんだそっちの方かと一安心したシューはしかし、肩を竦めながらムッとしたように鼻先で笑うゼィを睨んでいる光太郎に、金色の双眸で見下ろしながら説明した。

『アレを花瓶だと思っても仕方ねぇが、この国には花は咲いてねぇ…つーか、咲かねーんだ』

「え?どうして?」

 首を傾げる光太郎に、シューはどう説明しようかと逡巡しているようだったが、手の中の箒の柄を弄んでいたゼィがなんでもないことのようにあっさりと言った。

『魔の森の瘴気は花を殺す。そのような場所に花は咲かぬと言うことだ』

 歯に絹を着せぬ物言いに、いつものことながら肩を竦めたシューは、それでもその言葉でこの見掛けよりも随分と繊細な心の持ち主である光太郎が、多少なりとでも傷付いてしまっただろうと思ってチラッと見下ろした。神妙な顔付きで眉を寄せていた光太郎は、小さな溜め息を吐いて首を左右に振ったのだ。

「それじゃ、この城は凄く殺風景な場所にあるんだね。じゃあ、尚更城内ぐらいは綺麗にしておかないと!んじゃ、シューもゼィも頼んだよ!」

 高等と呼ばれ、魔王すらも一目置く何者にも屈しない力を持った実力者2人を捕まえて、箒を押し付けた光太郎は片手を振って頼むとそのまま脱兎の如く駆け出して行ってしまった。

『…挫けない奴だな』

 ゼィがいっそ呆れたように呟いたが、シューは言葉もなく肩を竦めるだけだった。だが2人とも、律儀に掴んでいる箒を見下ろしてから不意に顔を見合わせると、取り敢えず、と言った感じでどちらからともなく掃除を始めるのだった。
 その一方で、遠くの方でバッグスブルグズの悲鳴のような声が響き渡っていた。

『掃除なんかしたかねーよー!!イテッ!イテッ!!判った!判りました!!喜んで掃除すりゃいいんだろッ!ひーッッ』

 どうやら仲間に殴られたらしいバッグスブルグズの悲鳴に被さるようにして、遠くの方でも誰かが何か悪態を吐いて殴られているようだった。

『…全く、挫けない奴だ』

 ボソッとゼィが蒼褪めて呟くと、シューが可笑しそうに噴出して頷いた。

『魔物が味方してるんだ、仕方ねーよ。まあ、お前もシンナに殴られなくて良かったな』

『なんだと?シンナまでもがあの人間に心酔しておると言うのか?むむ、侮れぬな』

『ま、そう言うこった』

 肩を竦めるライオンヘッドの魔物に、この世ならざる美しい、魔物と呼ぶには先端の尖った耳しか見受けられない青年は、両手で箒の柄を掴んだままやれやれと首を左右に振って回廊の隅に積もる埃を掃き出した。
 そんな様子を回廊を行き交う魔導師や闇の神官どもがビクビクして窺っていることなど、将軍職に就きながらヘンなところで抜けているシューもゼィも気付かなかった。

Ψ

『今度は掃除なのン?光太郎って次から次へとクルクル働くのねン』

「いつも手伝ってくれてありがとう。シンナには迷惑かけちゃうね…」

『あらン!』

 埃の被った宝器を回廊の床に直接腰を下ろして拭きながら、少し遠くの方で掃き掃除をしている光太郎にシンナは心外そうにわざとらしく頬を膨らませて見せた。

『いっつも退屈なのよねン。だから、あたし光太郎がこんな風にイロイロとすることを見つけてくれると嬉しくって仕方がないのン♪』

 だから感謝してるわ、と勝気な相貌で微笑むシンナに、光太郎はエヘヘヘと笑って見せた。
 同じぐらいの年齢だからなのか、それともただ単に興味があるだけなのか、それでもシンナはよく光太郎の相手をしてくれる。今朝も暇を持て余してゼィの寝所から抜け出してきたシンナは、稀に雲間から微かに姿を現す太陽の、窓から微かに射し込む光を受けながら掃き掃除をしている光太郎に気付いて声をかけたのだ。

「ここに住んでいる魔物はみんな、いい人たちばかりだね。俺、魔物ってもっと、凄く悪いヤツで怖くて…んー、条件反射で殺してもいいんだとばかり思ってた」

『あはははン♪条件反射で殺せるほど魔物は弱くはないわよン』

「違うんだ、えーっと…俺のいた世界にRPGって言うゲームがあるんだよ」

『ふぅん?げーむン?』

 宝器の埃を落として磨き上げながら、耳にしたことのない言葉をワクワクして聞いているシンナに、光太郎は塵取りで掃いたゴミを取りながら頷いた。

「そこには、こんな闇の国みたいな世界があって、俺たちは”勇者”になって魔王と戦うんだよ。それでね、自分たちの技力とか上げるために経験値ってのがあって、魔物を倒して手に入れていくんだけど…だから、出会った魔物とは条件反射に戦っちゃうんだよ。もちろん、仮想空間の中でなんだけど」

『んーン?なんだか難しい話ねン。ゼィだったら判るかもしれないけど、あたしはお馬鹿だからン。でも凄いじゃないン!魔王様と戦うんでしょン?』

「いや、実際には戦わないよ。だから俺は弱いよ」

 あはははと情けなく笑って見せる光太郎に、シンナは雑巾を手にしたままで訝しそうに腕を組んで首を傾げた。胡坐をかいたままの姿勢では、革紐で留めただけのシンプルな腰布の再度にあるスリットから突き出した素足を包むオーバーニソックスが、前掛けのようになっている腰布で隠れていて、素肌の股から膝しか覗いていない。

『実際に戦うんじゃないのン?んー、なんだかますます難しい話になってきたわねン』

「いや、凄く簡単だよ。俺、喧嘩に弱いから、バーチャルリアリティの世界だけで踏ん反り返ってるってこと」

『つまり、魔導師の使う幻術の世界でだけってことなのかしらン?』

「あ、そうそう!そんな感じ!!シンナってば、凄いッ」

『あらン』

 テレテレと頭を掻きながら笑うシンナは、照れ隠しに雑巾で有り得ないほど綺麗に宝器を磨き上げてしまった。塵取りで掃き取ったゴミを麻袋に入れながら、光太郎はやれやれと溜め息を吐いてシンナの傍らに腰を下ろして窓から覗く曇天の空を見上げた。

『光太郎はいっつも元気ねン。でも、たまに悲しそうな顔をするけど…どうしてン?聞いちゃってもいいのならだけどン』

 そんな光太郎を傍らから見詰めていたシンナは、股に挟んだ宝器に肘を付いて頬杖しながら悪戯っぽい目付きで覗き込むと小首を傾げて尋ねてみる。もちろん、返答など期待していなかった。
 それほど彼と親しいと言うわけではないのだから、ましてや自分は人間を惨殺してきた仇とも言える立場なのだ。信頼を得ることなど不可能に近いのだから…

「俺ん家…両親が離婚したんだよね。もともと一人っ子だったし、両親はどちらも俺を引き取りたくなかったからマンションを買ってくれて、一人で自活しなさいって言われたんだ。別にそれは嫌じゃなかったんだけど、仕方ないことだし…だから俺ね、料理が得意なんだ」

『りこん…って言うのは心が離れてしまうことねン?』

「うん」

 まさか、こんな自分にスラスラと心に抱えた哀しみを話してくれるなんて…通常ならけして有り得ないだろう突然の告白に、シンナは吃驚して目を白黒させたが、それでも、抱えていた宝器を床の上に置いて、それからソッと光太郎の傍らに尻でにじり寄って肩を並べて座った。
 一緒に見上げた空は、暗雲が垂れ込めて時折遠くの方で雷鳴が響き渡っている。
 けして見飽きることはないが、それでも、いつか青い空が見たいと思う。

『それは辛いわねン。あたし、うまいこと言える性格じゃないんだけど…ねえン?あたしもね、両親に捨てられた口なのよン』

「シンナ?」

 振り返ると、シンナはちょっと眉を寄せて、それでも意志の強い双眸は笑みに揺れて大きな壁を乗り越えてきた者が持つ力強さがあった。
 ほんの少し心が寄り添ったような気がして、シンナは光太郎の肩に頬を寄せて見上げるとウィンクした。

『いつかあたしにも、その美味しい料理を食べさせてねン』

「…うん。でも、俺ね。そんなに悲しそうな顔をしていたのかなって吃驚するぐらい、ホントにそんなに辛くないんだ。昔はずっと辛かったんだけど、なんて言うか、プラス思考なのかもしれない」

『光太郎の性格、あたしは好きよン』

 両膝を抱え込んでニコッと笑うシンナに、そうかなーと光太郎はエヘヘヘッと笑って頭を掻くと照れ隠しをした。

『どうして、辛くなくなったのン?』

 小首を傾げるようにして可愛らしく聞いてくるシンナに、光太郎は「うん」と頷いてそれからちょっと照れたように頬を赤くして俯いた。でも、何かを感じたように窓から覗く魔天を見上げて口を開いた。魔天に希望などはない、だが、闇を貫く雷の光は、心に何かを訴えてくるようだった。

「俺ね、考えたんだ。最初は父さんの会社が倒産して家を引っ越したとき。すっごく寂しくて不安で、幼馴染みたちとも離れ離れになるから悲しかった。でも、次に行った学校で、俺、初めて生徒会長になったんだ。みんなが推薦してくれて、みんな凄い喜んでくれた。本当は転校したばかりで不安だったけど、みんなが笑ってくれるんだよね。途端に何かが弾けたような気がしたんだ。俺、この学校に必要とされていたんだって。だから、父さんの会社が潰れたときは凄い怖かったけど、その後は順調だったし、だからきっと、俺はここにくるために転校することになったんだって考えたんだ。だから、両親が離婚したのも、俺が一人で自活を始めたのも、きっと何か意味があるんだろうって思った。だから、辛くはないんだって…きっと、思い込みなんだろうけど」

 エヘヘッと笑ったら、シンナが少しだけ吃驚したような表情をしてそれからソッと悲しげに眉を寄せた。でもそれは、強い意志を持っている光太郎に失礼ではないのだろうかと考えたのか、シンナは笑みを浮かべようとして失敗した。そんな複雑な表情をするシンナを見て、光太郎はキョトンとする。

「ホントだよ、シンナ?そう思ってたらほら、こうしてシューやシンナと出逢えた!俺、よく判らないけど。この闇の国で俺は今、【魔王の贄】として必要とされているんだって思う。絶対に何か意味があるから俺はここに呼ばれたんだって信じてるよ。だから本当に辛くないんだ。それどころか、こんなにシューやシンナや、あとね、怖い怖いと思っていたんだけど意外と優しかったゼィに出逢えて、心の底から嬉しいんだ。俺、独りだったから…この闇の国に来れてよかった。まるで大きな家族の中にいるみたいで凄く幸せだよ」

 光太郎がニコッと笑うと、シンナは途端に顔をクシャクシャにしてしまった。吃驚した光太郎が慌ててその顔を覗き込もうとした瞬間だった、それよりも早くシンナが光太郎に抱きついたのだ。

「ど、どうしたの…?」

 あわあわと慌てふためく光太郎に、シンナは激しく首を左右に振って何も言おうとはしない。だから、光太郎にはその真意が読み取れなくて、ただ単純に、自分がこんな暗い話をしてしまったからシンナが同情してくれたんだろうと思うことにした。
 捕虜たちが言うほどには、シンナは怖い女の子じゃない。
 大変な作業だって快く引き受けてくれるし、掃除だって自分から買って出るような優しい人だ。
 こんな風に華奢な肩を震わせながら、涙を流してくれる、そんな人なのだ。
 抱きついているシンナからはふわりと石鹸の甘く清潔そうな優しい香りがした。抱き締められることに慣れていない光太郎は、ドキドキドキドキしながら、大人しくジッとしてその香りに包まれる心地好さを感じていた。

『ごめんねン』

 不意に顔を上げたシンナが泣き腫らした瞳をして光太郎を見詰めた。その可憐な表情に、光太郎はドキリとしたけれど、その瞳の奥にある哀しみを見つけてハッとした。
 光太郎から身体を離したシンナは照れ臭そうに笑ったが、不意にその嘘っぽい笑みを消して、磨かれた床に視線を落としてしまった。

「シンナ…」

 もしかしたらシンナの心の奥にも、こんな風に哀しみを抱えている傷が眠っているのかもしれない。その傷の痛みが共鳴して、シンナは泣いてしまったのではないか…
 光太郎はそんなことを考えて、どうしてあんなことを話してしまったのだろうかと自分を責めた。

『違うのン。そうじゃない、だから視線を逸らさないでン』

 不意に華奢な両掌で頬を包まれて、いつの間にか俯いてしまっていた光太郎は悲しそうに眉を寄せるシンナに内心を読み取られてしまったと反省した。

「シンナ、あの…ごめん。俺、無神経な話しをしちゃって…」

『ううん、違うのよン…あのね、光太郎ン』

 肩を並べるようにして石造りの回廊の床に直接ぺたりと座り込んでいる2人は、お互いの存在がどこか遠くで繋がっているような、奇妙な親近感を覚えたかのようにポツポツと言葉を交わしていた。

『この城には、誰もが何かしらの哀しみを抱えて集まって来ているのン。あたしもそうだし、シューもゼィも、みんなそうなのン。でもね、あたしはずっと思っていたのン。哀しみは独りで抱えるにはとても重くて、押し潰されそうになってしまうけれど、寄り添い合えばきっと大丈夫なんだってン…でも、哀しみはやっぱり独りで抱えなくちゃいけないって思ってたン』

 呟くようにして語るシンナを見詰めていた光太郎は、何を言ったらいいのか判らなかったが、それでも、精一杯の気持ちを込めて言うのだ。

「シンナ。たぶんきっと、俺は君の悲しみの半分だって抱えてあげる事なんかできないと思うけど…でも、俺はここにいるから。だから、独りぼっちだなんて思わないで」

 ハッとしたように顔を上げたシンナは、柄にもなく真剣な表情をしている光太郎を見詰めていた。見詰めたままで、嬉しそうに微笑んだ。その、刺青の這う頬に涙を零しながら。

『…でも、あたし判ったのよン。やっと今、判ったのン。この城に来て良かったってン。そして、光太郎ン。貴方に逢えて本当に良かったって心の底から思うわン。いつかきっと、シューも気付くわねン…ありがとう、光太郎ン』

 シンナがニッコリと笑った。
 その笑顔には、もうどこにも迷いなどないと言うような、自信に溢れた眩い笑顔だった。
 光太郎も、なぜかその笑顔を見ていたら、これでいいのかもしれないと思えるようになっていた。

『さってとン!いつまでもサボってちゃみんなに悪いわねン。掃除しましょン!』

 軽くウィンクされて、光太郎は笑った。
 まるで、もうずっと見ることがないと思っていた太陽が、一瞬だけ花開いたような、鮮烈な印象を残す笑顔だった。シンナはその笑顔を見て、この人間の少年がこの闇の城に居てくれて本当に良かったと心の底から感謝していた。
 そうして元気に笑うシンナの心に、光太郎が読み取ることの出来ない心の奥深い場所に、新たな棘が深々と突き刺さり疵を作ってしまった。
 シンナは笑った。
 透き通るほど、透明な笑顔で…

Ψ

 長い回廊をトボトボと歩いてくる人影に気付いたシューは、どこの魔物が掃除を押し付けられて嫌々歩いているのかと、その泣きっ面でも拝んでやろうと箒の柄に顎を乗せて顔を上げたが、その人物に気付いて金色の双眸をパチクリと見開いた。

『なんだ、シンナじゃねぇか。どうした?時化たツラしやがって』

 唇の端を捲るようにして嗤うシューを見上げたシンナは、その空色の瞳を曇らせて無言のままで呆然としている。今までそんな仕種など皆無に等しいほど見たことのないシューにしてみたら、すわ何事かと、突然舞い込みそうな珍事にやや腰が退きかけた。
 とは言っても旧い知り合いの只ならぬ様子に、シューは箒の柄の先端部分に顎を乗っけたままで、身体をブラブラと揺らしながら泣き出しそうな表情をしている少女のように小柄なシンナを見詰めた。

『どーした?黙ってちゃ判らんだろう。ゼィとの痴話喧嘩か?』

 それなら犬も喰わんが俺も喰わんと言ってカッカッカッと嗤うシューを、いつもなら『そんなんじゃない』と言って単純に激怒して回し蹴りを仕掛けてくるはずのシンナが、溜め息を吐て力なく首を左右に振ったのだ。

(こりゃ、いよいよ何かあったか?)

 驚いたように目を瞠ったシューは、麻袋にいっぱいになったゴミを持って捨てに行ったまままだ戻ってこないゼィに助けを求めたい心境でいっぱいいっぱいになりながらも、か細い肩を落としてシュンッと俯いてしまっているシンナの表情を見て顎を上げるとその顔を覗きこんだ。

『どうしたっつーんだよ?お前らしくもねーなぁ』

『あたしらしいン?ねえ、あたしってどんななのン?』

『はぁ!?』

 突然突拍子もないことを言われて、それこそ素っ頓狂な声を上げたシューに、シンナはちょっと笑って、そして笑ったまままるで表情が強張ってしまったように固まってしまった。

『あたしは、ねえン?どんな顔してるのン??光太郎を【魔王の贄】にしようとしている今のあたしはン!?』

『ち、ちょっと待てよ、おい?どうしたってんだ、ええ?』

 胸倉を掴むようにして迫ってくる可愛らしい顔は泣き腫らしたように目の縁が赤くなっているし、今もジワッと盛り上がった涙が大きな空色の瞳から零れようとしている。
 一体何があったと言うのだ?

『シュー!ねえ、どうしようン。あたし…あたしは…光太郎を【魔王の贄】にしたくないのンッ!』

 そう言って顔をクシャクシャにしたシンナは、縋るようにシューの広い胸元に額を押し当てて声を殺して泣いた。噛み締めるようにして漏れる嗚咽に、たった今耳にしてしまった衝撃の告白に、脳味噌まで筋肉じゃないのかとゼィにからかわれる脳内は混乱して容易く答えなど出てこようはずもない。
 ただハッキリしているのは、ここにゼィが居なくて本当に良かったということだ。
 もしここにゼィが居ようものなら、それこそ目にも耳にもしたくない壮絶な痴話喧嘩が勃発してしまうだろう。
 これほど正反対の性格の2人が、ベッドを共にする仲だと言うことが、今もってしてもシューには信じられないでいる。だが、今はそんなことに知恵を絞っている場合ではない。

『な、なんだって?シンナ、お前正気か?それはつまり…』

『そうよン!あたしは絶対的な力を漸く手に入れようとされてる魔王の、その悲願を断たせるようなことを言っているのよン!!』

 シンナが歪めた顔を上げて言い放った。
 その瞬間、シューの大きな掌が軽く…とは言ってもしたたかな強さで頬を叩いた。

『確りしろよ、シンナ。そんな畏れ多いことは二度と口にするんじゃねぇ』

 曲がりなりにもゼィの副将である立場なのだ、どこで、誰が聞いているとも限らぬこんな公の場で、滅多に口にしてはならないと諌めるシューを、シンナは悔しそうに見上げている。

『いいえン!きっとあたしはまた、同じことを口にしてしまうのよン。そうして、いつかそれは、シュー。きっと貴方も感じてしまうと思うわン』

『シンナ?』

 その強い意志を秘めた空色の双眸を見据えて、シューは怪訝そうに眉間に皺を寄せた。
 何を馬鹿なことを…と、呟きかけて、シューは不意にシンナが離れる気配を感じた。
 いつも、遠い昔にこの周辺の野にいたウサギのように跳ね回ってきゃんきゃんっと騒いでいる元気だけが取り得のようなシンナが、暗い回廊の、壁に掛けられた松明の炎にその影を躍らせながら暗い表情で見詰めてくる。

『光太郎を【魔王の贄】にしてしまってホントにいいのかしらン?そう思ったことは、本当にただの一度もないのン?』

『有り得ん』

 不意に背後で声がして、答える前にシューは声の主を振り返った。
 そこにはゴミを廃棄して空っぽになった麻袋を手にした、禍々しいほど美しい青年が不機嫌そうに眉を寄せて立っていた。

『ゼィ…貴方も掃除に参加していたのン?恐るべき光太郎の力ねン』

 それまで暗い表情をしていたシンナが、不意に浮かべた微笑は驚くほど温かかった。
 大股で歩み寄ってきたゼィは微笑んでいるシンナの、武器を隠した腕輪の嵌った華奢な腕を掴んで引き寄せた。その力があまりに強かったせいか、シンナは一瞬顔を顰めて、よろけるようにして不機嫌そうな魔物の胸元に凭れかかってしまう。

『何を戯けたことを言っておるのだ、シンナ。あの人間に毒されでもしたか?』

『毒されるン?ふふふ…そうかもしれないわねン』

『む?』

 ゼィの胸元に頬を寄せたシンナは一瞬だけ目蓋を閉じて、それから思い直したようにガバッと顔を上げて不機嫌そうなゼィを見上げた。

『冗談よン、ジョーダンン!だって、ゼィまで仲間に加えることができるなんて、魔軍に迎え入れたいって思うじゃないン』

 あたしは副将なのよと言ってカッカッカッと笑うシンナを、ゼィとシューは呆気に取られたように顔を見合わせて、それから呆れたように見下ろした。
 この小さな仲間は一体どうしたと言うのだ?

『冗談よン、ふふふ。ごめんなさいン。忘れてン』

 そう言って、シンナは片手を振って立ち去ろうとした。
 だが、その小さな後ろ姿を見た途端、不意にシューの中に只ならぬ焦燥感が襲い掛かってきた。

『シンナ!』

 突然、咆哮のような声を上げて華奢な腕を掴んだシューを、ゼィはもとより、驚いたようにシンナが見上げた。思った以上の力強さに眉を寄せながら、シンナはシューの獅子面にある金色の双眸をジッと見据えている。
 言い知れぬ雰囲気が2人を包んで、まるで蚊帳の外に弾き出されたかのようなゼィが訝しそうに眉を寄せて腕を組んだ。シンナもシューもゼィも旧知の友だ、それぞれが互いを思い合ってもおかしくはないのだから、たとえベッドを共にする間柄とは言え、命を分かち合っているわけではないから口を出せずにゼィは黙しているのだ。

『いや、スマン。俺は…ったく、俺もどうかしてるようだぜ。気にしないでくれ』

 手の離して、自分が何をしようとしていたのか理解できないでいるシューに、シンナは小さく笑って見せた。
 『いいのよ』と言っているのか、小さな切欠を生み出したことに満足した微笑なのか…

『そうだ、シンナ。お前、光太郎を見なかったか?アイツ、ちょろちょろしやがって!世話役としてはこんなに離れているワケにはいかねーんでな』

『あらン、そう言えばン。確か、玉座の間をヤッツケに行って来るって言ってたわねン』

『玉座の間だと?クソッ、また厄介なことになってなきゃいいが』

 クスクスとシンナが笑って、シューはゼィに断わってその場を後にすることにした。
 なんにせよ、ゼィはいつものことながら朝からシンナを捜していたのだ。
 恐らくあのシンナの台詞は、昨夜また、ゼィと何かで揉めあって情緒が不安定になっていたからなのだろうと勝手に思い込むことにしたようだ。
 遠い昔からの友は、気付けばいつの間にか、身体を求め合って寂しさを共有するようになっているようだった。そのくせシンナは、どこか釈然としないものを抱え込んでいるのか、たまにこうしてシューに会ってはおかしなことを口走ったりするのだ。

(アイツらのことだ、どうせその内またシックリいくようになるんだろう)

 いつものように、いつもの会話で。
 それが当たり前だと思っているシューの、だがその心の内に舞い込んだ一滴の雫が、思いもよらぬところで波紋を作り小さな漣を起こしていた。シューの与り知らぬところで回り出した運命の歯車の、そのか細い音はだが、とうとう彼の鋭敏な聴覚に響くことはなかった。