4.暁を往く者  -永遠の闇の国の物語-

 この闇に閉ざされた国にも朝は来るし、日もまた沈む。そんな朝も明けやらぬ薄霞にけぶるように魔の森が一瞬の眠りにつこうとする時刻に、地下牢のある場所から派手な音がしていた。まるで爆薬の詰まった何かが破裂でもしたかのような音に、その地下牢の住人たちである人間の捕虜と魔物の見張り兵は飛び起きた。
 居眠りにウトウトしていた魔物の兵は、飛び上がって何事かと槍を両手で掴んで周囲を見渡す、と。

『これは、シュー将軍!』

 驚いた牛面の魔物は鼻息も荒く恭しく畏まったが、突貫工事に付け焼刃で参戦しているなんちゃって大工たちは仏頂面でそんなブランを制するのだった。

『朝っぱらからすまんな』

『めめ、滅相もございません…が、何をしているんですかい?』

 同じように工具を持って走り回っている光太郎がそんな2人に気付いて、ニコッと笑うのだ。

「通風孔を空けるんだよ!そうしたらここもそんなにジメジメしないし、床が滑ることもないよ」

 上機嫌で滑りそうになる床を恐る恐る歩きながら、光太郎は鉄格子の嵌っている牢屋の中を覗き込んで何やら声をかけているようだ。そんな小さな人間の後ろ姿を見遣りながら、シューは諦めたように溜め息を吐いたが、ブランはちょっと驚いたように目を瞠るのだった。

『通風孔ですかい!?こりゃ、俺たちは思いつきもしやせんでした!』

『迷惑この上ねぇよ』

 シューがガックリしたように道具を持って歩き出そうとすると、ブランはとんでもないと言いたそうに慌てて槍を放り出すと、シューの手からツルハシのような道具を恭しく奪い取ると首を左右に振って否定するのだ。

『と、とんでもありやせんよ、シュー将軍。アッシはここに配属されて長いんですが、もう何度も足を滑らせて骨折は数えきれねぇほどでやす!通風孔を作って床が滑らんとなれば、喜んでお手伝いさせて頂きやす!!』

 それだけ言うとピュッと機敏に動いて作業を手伝おうとするブランを見ながら、両手でツルハシを持った形のまま呆気に取られて呆然と固まっているシューの背後で、思わずと言った雰囲気で笑い出す者がいた。

『…ああ、シンナかよ』

『何をしてるのン?こんな朝っぱらからビックリしたわン』

 相変わらずシンプルかつ大胆な衣装を身を纏っているシンナは、腰に手を当ててクスクスと笑っている。恐らくあの派手な破壊音を聞きつけてきたのだろう、そんなシンナの背後の階段には驚いたように寝起きの魔物たちが詰め掛けている。恐らくは扉まで続いているだろう気配のする階上をチラッと見ただけで、シューはウンザリしたような表情を禁じえなかった。
 ああ、また悪態だらけか…

『見ての通り、あの人間の小僧が通風孔を作るとか言い出しておっぱじめやがったのさ』

『あらン?通風孔をつくるのン。そう、それは素敵なことじゃないン』

『素敵だと?』

 また1人、なにやら頓珍漢なことを言い出しそうな仲間を見つめて、シューは哀れっぽい目付きをして肩を落としてしまった。

『ここはジメジメしていて嫌だったのン。きっといつか、こんな環境だと病とかで死人が出ると思っていたぐらいよン』

 良いことだわと、シンナは感心したように道具を持ってブランを交えて人間の捕虜たちと笑いながら話している光太郎を見つめた。それから、腕に嵌めている武器の隠れた腕輪を外しながらシューに言うのだ。

『面白そうねン。あたしも手伝うわン』

『…あー、そりゃ助かるよ…いや、ホントにマジで』

 ガックリしたまま、壁に立てかけていた道具に手を伸ばそうとすると、そんな嬉々としたシンナの背後から顔を覗かせた馬面の魔物と視線がバッチリ合ってムカッとした。どうもその馬面の顔を見ていると、シューはなぜか無条件で腹立たしくなるのだ。

『…なんだよ、バッグスブルグズ。文句なら後で聞いてやらぁ。俺は今、猛烈に機嫌が悪いんだ。殴られたくなかったら大人しく…』

『わわ!な、殴ったりすんじゃねーぞッ!!俺は手伝いに来たんだからなッッ』

 慌てたようにシンナの背後に隠れようとして、その大きな馬面では到底隠れきれていないと言うのに、それでもバッグスブルグズは必死で殴られないようにしながら言い募るのだ。そんな態度に怪訝そうに顔を顰めたシューは、訝しそうに片目を眇めて馬面の魔物を睨み付けた。

『なんで、オメーが手伝うんだよ』

 それでなくてもムカツクってのにこのヤロー、と、その目は大いに物語っているし、もちろんそれに気付いているバッグスブルグズは歯を剥いて耳を伏せた。

『俺もここに配属されちまってんだよ!5回も自慢の俊足を折られたんだ、通風孔ッつーのはありがてーんだよ!!』

 それを聞いて今度はシューが呆気に取られる方だった。
 よくよく見渡せば、ここに何らかの事情、つまりその時の見張りの当番になっている魔物とカードゲームで時間を潰したり、他愛ないお喋りに来たりして被害を被った魔物たちも話を聞いてボチボチと手を貸そうと集まってきているようだ。
 知らない間にこの地下牢は一種の魔物たちの社交場となり、その一員にいつの間にか人間の捕虜たちも加わっていると言う事実に気付いたのだ。

『ふふふン。シューは知らなかったのねン。ここにはあたしもコッソリ来てるのよン』

『なんだと?』

 シンナがクスクスと笑いながらそんなことを言うから、ますますシューは呆気に取られてしまうのだ。

『お前たちはここに何をしに来てんだよ?』

 ここは何を目的とした場所ですか?…と、思わず聞きたくなってしまったシューだったが、よくよく見渡せば、悪態を吐いているのは自分だけで、他の魔物たちは陽気に光太郎と会話を楽しみながら手際良く指定された場所に穴を開けている。

『あらン、もちろん見張りに決まってるじゃないン!』

 ふふんと笑ってシンナはバッグスブルグズをその場に残したままで、楽しそうに作業をしている光太郎たちの輪の中に入って行った。
 取り残されたバッグスブルグズはそんなシンナとツルハシを持って眉間を寄せているシューを交互に見遣りながら、バチッとライオンヘッドの魔物と視線が合ってしまい居心地が悪くてニヤッと歯を剥いて笑って見せた。

『クソッ!手伝うんならサッサと光太郎のところに行きやがれッ』

『ヒデーッ!!』

 尻を蹴られて飛び上がったバッグスブルグズは、目尻に涙を浮かべながら脱兎の如く光太郎のいる場所まで行きかけて派手に転んだ。
 そんな後姿を憤然と睨み付けていたシューはしかし、案外、それほど腹立たしく思っていたわけではなかった。
 なぜならそれは、あんな風にボーッと見えて、意外とあの人間の少年は魔物たちの動向を観察していたのだ。それも悪い方向ではなく、恐らく些細な疑問からだったのだろう。

〔どうして、魔物たちは足を引き摺っているんだろう?〕

 長いこと城の中を探検していた少年は、ある一定の魔物たちが片足を引き摺りながら行動しているのを見て、もうずっと疑問に思っていたのだろう。その原因を突き止めようと探検に更に拍車をかけていたのに違いない。だが、人間の、しかも曰くある【魔王の贄】ともなれば、忍び込める範囲は決まっていただろう。

(そうかアイツ、それで俺に城の中を案内させたんだな)

 もちろん、捕虜になっている人間たちの体調も気にしているんだろうが、せっかくここに来ている魔物たちがいるのなら、せめて安全に行動できるようにとイロイロと考えての行動だったのだろう。

『ったく、仕方ねぇヤツだぜ』

 やれやれと溜め息を吐いたシューは、仕方なさそうに首を左右に振って輪になっている中心にいる光太郎の場所まで歩いていった。
 驚くことに、その足取りはそれほど重くはなかった。

Ψ

 不機嫌そうなシューに、それでも内心では申し訳なく思いながら光太郎はブランと話しているライオンヘッドの魔物をその場に残して、驚いたように鉄格子に両手を出してブラブラさせているウォルサムの所まで行った。途中滑りそうになってヒヤッとしたが、それも今だけだと自分に言い聞かせて恐る恐るの足取りで近付いていった。

「何をおっぱじめたんだ!?」

 目を白黒させたウォルサムとその仲間たちに、光太郎はニコッと笑って事の成り行きを簡単に説明した。

「通風孔を空けるんだよ。そうしたら、風通しが良くなって身体に悪くないと思うし、ここに来ている魔物たちが足を折ることもなくなるんじゃないかって思ったんだ」

 遣っ付けの作業着に身を包んだ光太郎を上から下までマジマジと見ていたウォルサムは、何か信じられないものでも見ているような目付きをして肩を竦めて見せた。

「通風孔だって?よくそんな、突拍子もないこと思いついたな」

「まーね。でも、シューも手伝ってくれるから、そんなに時間はかからないと思うけど…煩くても気にしないでよ」

「いや、大いに気になるが…」

 呆れたように言ったウォルサムにアハハハッと笑う光太郎を訝しそうに眺めていた彼はしかし、周囲を見渡しながら驚いたように眉を跳ね上げて鉄格子を叩いて見せた。

「驚いたな!魔物が総出で手伝ってんのか?こんな地下牢如きに??」

「あれ?本当だ。でも、ウォルサムたちには判らないかもしれないけど、魔物たちの中にも意外にいいヤツもいるんだよ」

 柔らかく笑って言う光太郎を一瞬だけ怖い目付きで睨んだウォルサムだったが、ちょっと怯んでいる光太郎の双眸に気づいて大きく溜め息を吐いて項垂れてしまった。

「いや、判っちゃいるんだよ。でも、それを認めてしまうと俺たちは、いったい何のために…」

「だってほら、ここを綺麗にしたらスッキリした気分でカードゲームもできるだろ?それで、ウォルサムたちにも手伝って貰いたいんだ」

 ウォルサムの言葉を遮るようにして口を挟んだ光太郎に、茶髪の人間の兵士はちょっと瞬きをしてそんな少年の漆黒の双眸を見つめた。
 光太郎は今度は怯まずにニッコリ笑うと、手に持っていた数本のデッキブラシを鉄格子の隙間から無理やり押し込みながら頷いて見せたのだ。

「これで中を綺麗に掃除してよ。その間に俺たちは通風孔を作る」

「…一日の突貫工事でどうにかなる代物じゃないだろ?」

「まあ、気を長く持って頑張るよ」

 ニッコリと笑った少年を、呆れたように見下ろしていたウォルサムは、足許の隙間から押し込まれたデッキブラシを取り上げると、肩を竦めながら背後で興味津々の表情で見守っている仲間の捕虜たちにも手渡した。

「よっしゃ、城の床磨きだと思って俺たちも頑張ろーぜ!」

 ウォルサムの合図で頷いた捕虜たちは、各々で受け取ったデッキブラシを肩に担いで、床に散らばるゴミやシーツ、散乱するカードを片付けながら少しずつ牢屋内を掃除し始めたのだ。そんな彼らの行動を満足そうに見つめている光太郎に、背後からブランが慌てたように声をかけてきた。

『光太郎さん!アッシも良ければ手伝わせてくだせぃ』

「ありがとう。それじゃあ、一緒に通風孔作りを手伝ってくれるかな?」

『お安い御用でさ』

 嬉しそうに頷くブランに、光太郎は魔王から借り受けたこの城の見取り図を広げて、通風孔作りに参加する魔物たちを集めてから説明を始めた。それでも、専門的な知識がない光太郎を支援するように、この城造りに参加した経験のある魔物が一緒になって説明したおかげで、案外スムーズに手筈が整って作業が始まった。

『ねえねえン。あたしもお仲間に入れてよン♪』

 シンナがウキウキしたように軽い足取りで輪の中に入ってくると、光太郎は驚いたようにポカンッと口を開けて小柄な少女を見つめた。

「シンナ!君も手伝ってくれるのかい?」

『もちろんよン♪あたしは何をしたらいいのかしらン?』

「ええっと、それじゃあ…」

 小柄な少女とは言え魔軍の副将であることをシューから聞いていた光太郎は、そんな願ってもない申し出を快く受け入れて、城造りに参加したバッシュと言う蜥蜴面の魔物と相談して彼女にも作業に参加してもらうことにした。

「この調子だと1日で終わるかもね」

 嬉しそうに額に汗して笑う光太郎を、バッシュは肩を竦めながら首を左右に振って殊の外あっさりと否定した。

『城の仕事もある連中だからな。中休憩を取って、それから仕事に戻って、夜に作業を再開したとしても2日はかかる工程だと俺は思うぞ』

「あう、やっぱそうかな?」

 ガックリと大袈裟に項垂れる光太郎に、作業をこなしている見たことのない魔物が背中をバシンと派手に叩いてくれながら大いに笑ってそんな光太郎を慰めた。

『心配すんなって!とっかかれば最後まで遣り通すのが俺たちだ、まあ大船に乗ったつもりで見てろって!』

「アイタタタ…ありがとう」

 ニコッと笑う光太郎のお礼に被さるようにして、大量に出てくる石の塊や砂利などを詰めた袋を肩に下げて外に運び出している魔物の1人が、呆れたように溜め息を吐きながらそんな魔物に言い放つのだ。

『毎日昼飯時に限って見張りをサボッてるお前が言うなよ、お前が』

『うわ、ヒデー言われようだな、おい』

 そんな2人の会話にドッと笑いが起きて、光太郎もケタケタと一緒に笑った。
 気付けば捕虜の連中も肩を揺らしながら吹き出している。
 城の仕事をサボるのは人間も魔物も同じなのだろう。

『中休みにはサボるけどよ、それ以外はハッスルするぜ俺ぁよう!』

 そんな言い訳がまた笑いに火をつけて、作業は案外楽しくスムーズに進んでいた。
 身体の小さい光太郎がツルハシを振り回したところで、ガタイも大きく力もある魔物に敵うわけもなく、足手纏いにならないように床磨きに専念するようにしたらしい。言い出しっぺだが、自分の分相応は弁えているようだ。
 同じように身体の小さいシンナはそれでも光太郎よりは遥かに力強いのか、石だの砂利だのが詰まった麻袋を難なく両肩に担ぎ上げて滑り易いはずの床を駆けて階段を登って外に運び出している。

『全く、お前の行動は突拍子もねーけどよ、連中が喜んでるところを見れば強ち的外れってワケじゃねーんだろうな』

 絶対に認めたくはないだろうに、それでもシューは感心したようにデッキブラシで床を磨いている光太郎の傍らまで行くと、腕を組んで周囲を見渡しながら呟いたのだ。

「あ、シュー!うんうん、みんな凄く手伝ってくれるんだ!俺も凄い嬉しい」

 傍らに来た仏頂面のライオンヘッドに気付いた光太郎が、ニッコリと笑ってデッキブラシを両手で掴んだまま、談笑している作業中の魔物を見渡しながら頷いた。

「さっき、シンナも来てくれたよ」

『人間どもにも手伝わせてるのか』

 シューは驚いたように目を瞠ったが、肩を竦めて呆れたように光太郎を見下ろした。

『なかなかやるじゃねぇか』

 鼻先で笑うように鼻に皺を寄せてみるが、光太郎はそんな嫌味を素直に受け止めて照れたようにエヘヘと笑っている。

「ちゃんと、納得してくれたんだよ」

『…そうか、そりゃスゲーな』

 嫌味も通じない天下の光太郎だと思い知ったのか、シューは呆れたように天を仰いで、それから何も言わずに俯きながら溜め息を吐いた。

「?」

 そんなシューを光太郎は不思議そうに見上げていた。

Ψ

 作業は思ったよりも捗らず、それから数日経って漸くどうやら通風孔らしきものが完成した。
 外からの作業がまるで出来ないと言う難点を何とかクリアして、出来上がった通風孔はそれなりの形はしているものの、なんとも不恰好ではあるが及第点の代物だった。
 通風孔のおかげで風通しが良くなったのか、それまであまりにもジメジメして黴臭く、滑り易かった床は今では磨き上げられて光沢を放つほどだし、清潔な白いシーツを与えられた地下牢は、それまでの陰惨なイメージを払拭できるほど部屋になっている。

『これじゃあ、却って城内の方が汚らしく見えるな』

 カード遊びに興じている捕虜と見張りの兵、交代番であるブランと暢気に話をしているシンナたちを腕を組んで憤懣やるかたなそうに鼻息も荒く見渡している獅子面の将軍がぼやいていると、そんな魔物を見上げていた人間の少年が神妙な顔付きをして頷くのだ。

「うん、俺もそう思う。玉座の間にも蜘蛛の巣が張ってるんだ。埃っぽくて息苦しいよね…」

 不意にハッとしたシューは自分よりも遥かに身体の小さな少年を見下ろして、慌てふためくようにその顔を覗き込む。

『おい、お前また何か余計なこと考えてんじゃねぇだろうな!?』

 もう、勘弁してくれよぉ~と、思わず泣きを入れそうになる自分よりは数倍身体の大きな獅子面の魔物の鼻先を見据えて、光太郎はムゥッとしたように唇を尖らせた。

「余計なことってなんだよ。俺は一般論を言ってるだけだよ」

 ツンッと外方向く光太郎を、シューは胡乱な目付きでジロリと睨み付けながら上体を屈めてその額に大きな獅子面を突きつけて悪態を吐いた。

『その余計なことで3日間も拘束された俺に一般論ですか??』

「あ、えへへ。ごめん」

 その迫力に気圧された、と言うわけではない光太郎は、思い当たることがあまりにも多すぎてバツが悪そうに笑って誤魔化すのだ。

『お前なぁ~』

 思わずジトッと睨んでしまったシューに相変わらず光太郎がエヘヘと笑っていると、俄かに牢屋の方が賑やかになって、ただ単に様子を見に来ていた光太郎とシューは顔を見合わせてから、不毛な言い合いに区切りをつけて捕虜が収監されている牢屋の鉄格子まで歩み寄った。

『どうしたんだ?』

『あ、シュー将軍!どうにも捕虜の1人が具合が悪いようでして…』

 それまで一緒にカードゲームをしていた見張り兵が、カードを投げ出して仲間の具合を確認しているウォルサムを指し示しながら動揺したように説明した。

『具合?』

「あ、そう言えば!捕虜の人で怪我している人がいたね」

 シューの大きな身体の背後から様子を窺っていた光太郎が、思い出したようにハッとして仏頂面の魔物を見上げて鎧の裾から覗く服の切れ端を引っ張った。
 だが、よくよく考えたら『人間など病になっても構わん』と言い切るような魔物である、手当てしてあげようと提案したところで容易く却下されるのは目に見えているだろう。光太郎は仏頂面のままで見下ろしてくるシューの獅子面をムゥッとしたままで見上げていたが、すぐに手を離して見張り兵に掴みかかったのだ。
 見張り兵でも光太郎よりは体格が遥かに良い。良いのだが、やはり【魔王の贄】である光太郎を無碍にすることなど到底出来ない見張り兵は、恐縮しまくって敬礼するのだ。

「ラウル!牢屋の鍵を貸してくれよ」

『は!…はは!?か、鍵ですかい?』

 光太郎の要求に困惑したような顔をした見張り兵であるラウルは、怯えたような動揺したような表情をして魔将軍であるシューを振り返った。その意思を仰ごうとしているのだ。
 そんな2人の行動を見守っていたシューは、やれやれと溜め息を吐きながら首を左右に振って光太郎の首根っこを引っ掴むと、言い聞かせるように投げ槍に言った。

『いい加減にしておけ、光太郎。たとえお前でも、牢屋番の大役である鍵を奪ってどうするつもりだよ、ああ?』

「そんな言い方しなくてもいいだろ?奪う気なんかないよ、ちょっと貸して欲しいだけ」

『ダメだね』

 フンッと鼻で息を吐き出して聞く耳を持とうとしないシューに、光太郎はムゥッと頬を膨らませて、首根っこを掴まれた格好のままバタバタと暴れてみる。

「判ったよ!どーせまたゼインのお許しを貰わないといけないんだろ?シューにはそんな凄い権限なんてないもんねッ」

 ベーッと舌を出して悪態を吐く光太郎を、シューは無表情のままで怒りながら頬を引き攣らせて見下ろした。

『…なんだと、この野郎』

「どーせ、シューなんてゼインからいちいちお許しを貰わないとなぁーんにも出来ないんだろ?いいよ、別に。俺は何度だってお許しを貰いに行くもんね」

 フンッと外方向く光太郎に、思ったよりも随分と単純なシューは、自慢のタテガミを逆立てて怒りを露にする。と、奇を衒ったかのように光太郎が間髪入れずに振り返って、猛然と鼻息を荒くする獅子面に鼻先がくっ付くぐらい顔を寄せてニコッと笑うのだ。

「あ、それともシューは将軍様だから、シューの権限で俺に鍵を与えてくれるの?」

『…畜生ッ、ラウル!鍵を貸してやれッ』

 可愛く小首を傾げて信頼を寄せるようにキラキラした漆黒の双眸で見つめられてしまっては、なぜかシューはそれ以上悪態を吐く気にもなれなくて、苛々と歯噛みをしながらラウルに命じたのだ。

「わーい♪ありがとう、シュー」

 大喜びの光太郎の首根っこから手を離したシューだったが、ドッと来た疲れにウンザリしたような顔をしていると、背後の見張り兵用の小部屋の中から押し殺した笑い声を聞き付けてムッとしたように振り返った。

『チッ!またお前かよ、シンナ』

『あらン。偶然よン、偶然ン』

 足を組んで安っぽい木のテーブルに頬杖をついているシンナが、クスクスと笑いながらウィンクしてくる。そんなシンナとシューの間で、ブランが半分怯えたように額に汗を浮かべて2人の顔を見比べている。背後では、呆気に取られたような、いいのかな?と不安そうな表情をするラウルが腰に下げた鍵束から牢屋の鍵を光太郎に渡しながらシューを見上げている。

『最近は沈黙の主の部隊と遣り合うこともないじゃないン?もう、退屈で退屈でン』

 肩を竦めて大袈裟に溜め息を吐くシンナに、シューは暇そうでいいなとでも言いたそうな胡乱な表情をして睨んでいたが、背後で礼を言って受け取った鍵で鉄格子の扉を開ける光太郎に気付いて振り返った。
 どうせ人間の捕虜がたかだか30人ぐらいで束になってかかって来たとしても、シンナはもとより、シュー独りいれば叛逆して脱獄しようものなら一瞬で累々たる死体の山をこの地下牢に築くのも朝飯前だろう。だから脱獄などは気にも留めていないのだが、問題は大切な【魔王の贄】の存在である。
 どれほど自分の身がこの闇の国で重宝されているのか、そんなことには少しも気付いていない光太郎に、その重要性に気付きまくっている捕虜どもが危害を加えないと言う保障はない。
 ただその気懸かりだけで、シューは光太郎と捕虜たちの動向を見守っているのだ。

「大丈夫?ずっと気になっていたんだ」

 光太郎が屈み込むようにして横たわっている捕虜の傍らに座り込むと、ウォルサムが困惑したようにそんな光太郎に呟いている。

「包帯がここに来た当時のままなんだ。たぶん、菌にでもやられたんじゃないかと…」

 額に手を当てて熱を測る光太郎の傍らで、捕虜たちは光太郎を捕らえてどうかにかしようなどと言う気配などこれっぽっちも見せず、ただ不安そうに仲間の顔を覗きこんでいる。こんな異国の地で、顔見知りはたったの30人しかいないのだ、その中の1人でもいなくなってしまうなど…彼らには考えられないでいた。

「うん、包帯が血液で汚れてる。ちょっと化膿してるみたいだね」

 光太郎が腕に巻き付けられている汚れた包帯を解きながら呟くと、ウォルサムが意を決したように立ち上がって、一瞬シューたちの間に緊張が走った。

「シューの旦那。頼むから新しい包帯をくれないか?」

 それが人に物を頼む態度か?とでも言ってやりたいぐらいだったが、そんなことをして土下座でもすればいいのかと話がそっちの方向に向かって、現実に土下座でもさせようものなら光太郎からなんと言われるか…そっちを考えただけでもシューの背筋には冷たいものが走って、ウンザリしたように肩を竦めるのだ。

『ブラン、包帯を…ん?』

「何をするんだ!?」

 背後が俄かに騒がしくなっても、光太郎は発熱して苦しそうにしている捕虜に、飲み水に浸したタオルを絞って額に押し当ててやった。こんな場合はどうしたらいいんだろうと悩んでいると、周囲で一瞬ハッとした気配がして光太郎は振り返った、振り返って驚いた。

「シンナ…」

『診せてご覧なさいなン』

 シンプル且つ大胆な衣装を身に纏ったシンナが、華奢な腰に片手を当てて立っていたのだ。光太郎がホッとしたその時、不意に捕虜たちが殺気立って身構えたのだ。

「え?え?どうしたんだい…?」

 ワケが判らなくて困惑する光太郎の前で、シンナはそんな捕虜たちを冷ややかな目で見詰めるだけで何も言おうとはしなかった。先に口を開いたのは捕虜の方だった。

「し、シンナ副将!この悪魔めッ、俺たちの仲間を今度はどうしようって言うんだ!?」

 呆れたように肩を竦めるシンナの前で、光太郎が慌てたようにそんな連中を見渡して口を開いた。

「何を言ってるんだよ?シンナがこんなところで何をするって言うんだよ?」

「光太郎!ソイツは悪魔みたいに俺たちを殺そうとしたんだぞ!シューがいなかったら、悔しいが俺たちは皆殺しだったッ」

 それじゃあ…と、光太郎がこの傷を負わせたのはシンナだったのかと目を瞠って振り返ると、シンナはちょっと不機嫌そうに眉を寄せて、可愛い顔を曇らせながら唇を尖らせたのだ。

「なんだ!それじゃあ、話は早いじゃないか。シンナが傷付けたのならシンナが面倒見ないと」

「はぁ!?」

 何を言い出したんだとウォルサムを始め、捕虜一同が眉を跳ね上げて驚く前で、光太郎は立ち上がると自分と同じぐらいの背丈の少女の腕を掴んで傍らに一緒に座り込んだのだ。

「どうかな、シンナ?俺じゃ、傷とか判らないんだ」

 呆気に取られていたシンナはしかし、真剣に化膿して膿んでしまっている傷口を痛々しそうに、心配そうに覗き込みながら尋ねてくる光太郎に、ちょっと嬉しそうに笑って頷いた。

『どれどれン?ん、これだと、あの薬が効きそうねン』

 腰に巻いたベルトに下がる小さなポーチから練薬の詰まった小さな鉄製の缶を取り出すと、刺青が隈なく肌に這う指先でもってその傷口に触れようとしたその時だった。

「…ッ、…うぅ…お、れに触るな!」

 発熱と痛みで意識も朦朧としているに違いないのに、人間の捕虜はシンナの手を振り払うようにして身体を曲げて拒絶したのだ。光太郎が「そんなこと言ってる場合じゃない」と捕虜の肩に手をかけようとしたまさにその時だった。

『いい加減にしなさいン!だから人間は愚かでディハール族は見捨てたのよン!たとえ手当てする相手が敵将だったとしても、どうして早く善くなるようにそれを甘受しないのン?どうしてアンタたちには早く善くなって、全快した身体でここを抜け出して、家族の為に仇を討とうとする気迫ってものがないかしらねン!そんな安っぽいプライドなんて捨てなさいン!!』

 思い切り背中を叩かれて、痛みと熱に朦朧としている捕虜はそれでも、呆気に取られたようにシンナを振り返っていた。もちろん、その場にいた見張り兵もウォルサムも捕虜たちもシューも光太郎もみんなが、呆気に取られたようにそんなシンナと傷付いて倒れている捕虜を見ていた。

『早く腕を出しなさいン!それともあたしに力尽くで腕を引っ張って欲しいのン!?』

 シンナの剣幕に捕虜は慌てたように腕を差し出して、それからとうとう眩暈を起こしたのか、クラクラしたように気を失ってしまった。

『ほら、見なさいン。余計に自分を苦しめて何が楽しいのかしらン?人間てヘンな生き物ねン!』

 元はディハール族も人間だったのだが、魔物になってしまって長い年月が過ぎたせいか、それとも生まれた時から既に身体中に刺青を彫られて魔力を注ぎ込まれているせいなのか、シンナには自分が人間だったと言う概念がないようだ。

「シンナの言うとおりだよ。敵でもこうして手当てしてくれようとしてるんだから、それを受け入れて早く元気にならないと!シンナの場合は、手当てしてあげないといけないんだけどね」

『いやン!痛いところを突かないでン♪』

 逸早く我に返った光太郎が納得しながら頷くと、薬を塗り終わって包帯を巻いているシンナの傍らから覗き込みながら呟いて語尾をおどけたように言えば、シンナがケラケラと笑いながらそれに応えた。
 呆気に取られていたウォルサムはしかし、ちょっと俯きながら信じられないように呟くのだ。

「どこの世界に、敵将が捕虜の手当てをするって言うんだよ…」

『シンナだってそんなヤツじゃないぜ。人間は死ねってのがアイツの信条だからな』

 呆れたように双眸を細めた、腕を組んだシューがそう言うと、ウォルサムが弾かれたように顔を上げてそんなライオンヘッドの魔将軍を見上げたのだ。

「なぜだ?」

『なぜだと?』

 シューはそんな茶髪の人間をジロリと視線だけで見下ろすと、ニヤッと嗤って唇の端を釣り上げるのだ。

『大方、光太郎のおかげだろうよ。お前たち捕虜は、どんな理由であれ光太郎を粗末にしないほうがいいんじゃねぇか?俺たち魔物が食い殺したいと思っても、あのチビがそれを止めればヤル気なんか一気に萎えちまう。それは特別な存在だからってワケじゃねぇ。光太郎にはそんな力があるからな』

「…」

 フンッと鼻で息を吐いて笑い合う光太郎とシンナに視線を移すシューを見上げていたウォルサムは、思わずと言った感じで呟いていた。

「そうか…まるでグラーシュカ様だ」

「おお…そうだ、グラーシュカ様だ」

 その呟きを耳聡く聞きつけていた捕虜の1人が頷くと、そこにいた人間たちはずっと気になっていた何かの答えを見つけて口々にそれを口にした。

「光太郎はグラーシュカ様に似ているんだ」

 誰かが言えば。

「異世界から導かれて来たんだろ?光太郎こそ、俺たちのグラーシュカ様だ」

 誰かが言う。
 そうして、そんな背後の気配など我関せずでシンナと薬草について講義している光太郎を、シューは見詰めながらやれやれとタテガミに埋もれてしまいそうな耳を伏せるのだった。

『なるほどねぇ、愛と美と戦女神のグラーシュカね。光太郎はどう見ても男なんだがな』

「そんな性別なんか関係あるかよ。アンタが言ったんだろ?光太郎を大事にしろってな」

 ウォルサムが敬うような敬愛の双眸で光太郎を見詰めている姿を見下ろしながら、シューは違った意味で背筋を流れる冷たいものを感じた。
 人間の考える情愛は、時として魔族では考えられないほど深い場合もある。
 光太郎を神格化して、そんなつもりではなかったシューは不安になって荒々しく息を吐いた。

『フンッ!その戦女神グラーシュカの化身は俺たち魔族に微笑んでいるんだ。残念だったな』

 吐き捨てるようにそう言って、シューはズカズカと歩いて行くと、シンナの薬草に対する豊富な知識に瞠目している光太郎を背後からむんずと腰に手を回してヒョイッと小脇に抱え上げると、無言のまま牢屋を後にした。

「あれ?シュー、どうしたんだい?」

 何も知らない光太郎が目を丸くしながらもニコッと無邪気に笑って見上げてくると、シューは凶悪な表情をしてそんな人間の少年を見下ろした。

『誰でも彼でも愛想を振りまいてるんじゃねぇ!』

「ええ!?」

 一方的な言い草にワケが判らない光太郎がビックリしていると、クスクス笑いながら牢屋から出てきたシンナがポーチに薬を仕舞いながら掴まれている光太郎の顔を覗きこんだ。

『シューは光太郎を誰かに取られそうでヤキモキしてるのよン』

「ええ~♪」

 嬉しそうに笑う光太郎とそれに応えて微笑むシンナを見下ろしながら、シューはガックリと項垂れて首を力なく左右に振ったのだ。

『頼む、そんなつもりじゃねぇんだ…』

 もう勘弁して、と言いたそうに力なく尾を振るシューを、今度こそ本当に何事かと驚いた光太郎が見上げている。その後ろ姿を、ウォルサムは閉ざされた鉄格子を両手で掴みながら閉鎖された空間から熱心に見詰め続けていた。

(グラーシュカ様は暁を往く戦女神…柔和な笑みが愛と美を象徴し、掲げた剣が諍いを象徴する)

 ウォルサムは溜め息を吐いた。

(我らが崇める女神がなぜ、魔族の許に…?)

 乱暴に小脇に抱えられている光太郎が、優しそうな笑みを浮かべて強面のライオンヘッドの魔物を見上げている。その表情は、嘗てウォルサムに「シューしかいないから」と言って悲しそうな表情をして見せた光太郎の、絶対的な信頼を寄せた顔だった。
 シンナが何か言ってシューが項垂れると、弾かれたように陽気な声を上げて笑う光太郎が、ライオンヘッドの魔物から軽く小突かれて頭を抱えている。
 その光景は、恐らくウォルサムがこの魔城に囚われてから初めて見た、いや、この世に生を受けてから初めて見た、魔物と心を通わせている人間の姿だった。

3.囚われし大地の者  -永遠の闇の国の物語-

 シューと行動を共にし始めた光太郎は、あれほど探検し尽くしていたと思っていた城内が、実は思った以上に広かったことを知ったのだった。
 さて、これからどうするか?の問いに、光太郎は元気よく、この城の中で自分の知らない場所を見せてほしいと懇願した。その答えに、シューは些か困惑したように獅子面を顰めて見せたが、それでも退屈凌ぎにはなるだろうと頷いて、歩き出しながらついでのようにこの世界の事についても大まかに語り始めたのだ。

『この世界には多数の国々が在った。在った、と言うからには既にもうないワケだが、それは大きな戦が起こったからだ』

「戦(いくさ)って戦争だね。それはやっぱり魔族対人間ってこと?」

 光太郎の質問に、シューは彼をチラッと見下ろしてから頷きながら先を続ける。

『魔族はそれまで定住の国を持たなかったんだ。みんな、それぞれバラバラに森の中で暮らしていたんだぜ。今の状況からじゃ考えられねーだろ?』

「そうだったんだ。うん、今はみんな一緒に住んでいるみたいだからね」

 光太郎が頷きながら応えると、シューは肩を竦めながら先を続けた。

『ある日、今の魔王がお出ましになってから、俺たちには秩序と言うものができてな。部族たちで寄り集まって部隊を編成して、そして城を築き、ここに移り住んでみんなで暮らし始めた』

 遠い昔を思い出すように耳を伏せて双眸を細めるシューを、光太郎は無言のままで見上げながら静かに聞いている。

『城が築かれたときには既に人間との戦は始まっていたし、思った以上に簡単に次々と国を落とせた。だがそれは、魔王の強大な力があったからこそなんだ。さもなきゃ、俺たちの様な雑魚が束になっても、簡単に屈するような国々だったワケじゃねぇからな』

 獅子の頭部を持つ屈強な体躯の持ち主であるシューを、光太郎は上から下まで繁々と眺めながら、シュー1人でも100人ぐらいは倒せてしまうんじゃないかと思っていたが、それは口に出しては言わなかった。

『だがな、そんなひ弱な人間どもの中にも、魔王に対抗するべく力を持ったヤツがいたのさ』

「ホントに?」

 そんな強い人がこの世界にもいるのかと、光太郎は驚いたように目を瞠ってシューを見上げた。ライオンヘッドの魔物は、無邪気に驚いてみせる人間の少年を、複雑な表情をして見下ろすのだ。

『沈黙の主と呼ばれる、元はラスタラン国の王太子だった男だ。辣腕の持ち主でな、敵将ながら天晴れだと誉めてやりたいぐらいさ』

「沈黙の主…って言ったら、さっきシンナが怒っていた人のことかな?」

『そうだ。ゼィとシンナは魔王の命を受けて沈黙の主討伐に行くんだが、これがいつも空振りで終わっちまう。まあ、だからこそ沈黙の主の力の凄まじさが判るってもんだがな』

 光太郎はそんな風に話すシューをふと見上げて、そのライオンヘッドの横顔をじっと見つめた。そんな光太郎の仕種に気付いたのか、シューは訝しそうに眉間に皺を寄せてみせると、苛立たしげに牙を剥いた。

『なんだよ?』

「え?あ、ううん。ちょっと、シューってもしかしたら、沈黙の主を気に入ってるのかなって…」

『なんだと?』

 不意に凶悪な顔をして凄むように顔を覗きこまれた光太郎は、途端にビクッとして首を竦めながら両目をギュッと閉じて詫びを入れる。

「わわ!ごめんッ、ごめんなさい!…そんな、真剣に怒らなくってもいいだろ?ちょっとそんな気がしただけなのに~」

 それでもすぐにムゥッと眉を寄せ、目と鼻の先に鼻面を押し付けるようにして覗き込んでくる円らな瞳を見つめ返しながら、光太郎は下唇を突き出して抗議した。そんな光太郎の態度にますますムムム…ッと腹を立てる、本来なら泣く子も黙る魔族が挙って褒め称える獣人族の雄姿を持つシューは、鼻面に皺を寄せて威嚇していたが急に馬鹿らしくなったのか、肩を竦めて上体を起こすのだ。

『気に入ってるワケじゃねぇが…まあ、確かに認めてるって言やぁ認めてるのかもしれんがなぁ…』

 ブツブツと悪態を吐く獅子面の魔物を見上げて、光太郎は納得したように頷くのだ。

「きっとシューは、力のある人は敵味方の区別なくきちんと認められる人なんだね」

 ニコッと笑って、感心したように何気なく口にしたその言葉に、シューは唐突にムッとした顔をして鼻息も荒く何も言わずにズカズカと歩き出してしまった。それに困ったのは光太郎で、突然機嫌が悪くなったシューの後を追い駆けながら、慌てたようにその顔を覗き込もうとして必死だ。

「もう!何でシューってばいつもそうカッカしてるんだよ?そんなんじゃ何にも話せないよッ」

『お前はイチイチうるせーんだ。黙ってついて来ればいいじゃねぇか』

「黙ってるなんて嫌だよ。せっかくシューがいるのに…黙ってるなんてのは話す人がいない時だけでいいんだよ。って言うか、そもそも話せる相手がいるのに話さないなんて言うのは根暗じゃないかな?俺、そう言うの苦手だからたぶんきっと、凄く話すと思うよ。そう言うの嫌だって言ったらシューと一緒にいられないじゃないか。そう言う場合はシューが我慢しなくっちゃダメなんだよ」
 全く、自分勝手な屁理屈を捏ねて獅子の頭部を持つ魔物の腕を確りと掴んで一緒に歩きながらブチブチと話し続ける光太郎を、シューは呆気に取られたような顔で見下ろすと、次いでうんざりしたように肩を落としてしまう。

「そもそも、シューはちょっと怒りっぽすぎるんだよ。些細なことなんだから『アハハハ』って笑って聞き流してくれればいいのにさ。そりゃ、俺だってちょっと言いすぎる時だってあるかもしれないよ?そう言うときにこそ、シューのそのご自慢の怒りっぽさを披露して怒ってくれればいいんじゃないか。そしたら俺だってこんなに悩んだりとか、シューだって血管切れそうな顔しなくってもいいのにさ~」

 饒舌な光太郎の話に肩を落としていたシューは、半ばウンザリしたようにその頭を小突いた。

『判った判った!うるせーヤツだ。そら、ここにお前の仲間がいるぞ』

「アイタタタ…仲間?」

 小突かれた頭を擦りながら涙目で指し示された扉を見て、光太郎は怪訝そうに眉を寄せてシューを見上げた。自分と同じように、この異世界に引っ張り込まれてしまった人がいるんだろうか…
 その期待と不安が入り混じる感情を、シューは殊の外あっさりと否定した。

『人間の捕虜だ。ちょっと前、俺が戦に出たときに捕まえたんだが…人間同士、仲間じゃねぇのか?』

「え?あ、うん。そりゃ仲間だけど…」

 仲間と言われればどうしても元いた世界の住人たちを思い出してしまう。それは致し方のないことなのだが、シューには通じなかったのか、それこそライオン面が怪訝そうに顔を顰めて首を傾げている。
 それでもシューは肩を竦めるだけでそれ以上は追求せずに、いや、追及してまたもや延々と喋り続けられては敵わないと思ったのだろう、扉を開けて階下に続く階段に促した。

『足許が滑る時があるからな、ひ弱な人間は気をつけろよ』

 ニヤニヤと笑って先を行くシューの腕を掴んだままで、ひ弱と言われてしまった人間である光太郎はムッとしたままで、それでも思った以上に滑り易い石段を踏み締めるようにして黙々と降りることにした。口を開けるほど余裕がないのだ。

 漸く安定した石畳に降り立った光太郎は、松明の明かりにぼんやりと浮かぶ狭い室内を見渡した。室内とは言っても、石造りの廊下を挟んで左手に見張りの兵士の詰め所のような部屋があり、右手に鉄格子の嵌った大きな牢屋が陣取っているのだ。左右にその部屋があり、降り立った場所は廊下に続く石畳である。

『えーい、喧しい!!黙って寝てろや、人間がッ!!』

 唐突に響く怒号に被さるようにして何かで鉄格子を激しく叩く音がしたかと思うと、今度は人間らしき声が哀れっぽく響いてきた。

「いーじゃねーかよぉ、カードぐらい!ここじゃヒマでヒマで仕方ねーんだよ」

『カードだと!?この間はボードゲームを寄越せと言ったじゃねーか!あれはどうしたんだ、ええ?』

「ボードゲームは飽いたに決まってんだろ?いったい何時の話をしてんだよ!なぁ、頼むよ~」

 光太郎は目を白黒させながらシューを見上げるが、シューは肩を竦めているだけで、口許に薄ら笑いを浮かべて一部始終を観察する気でいるようだ。
 その場所からは実によく、状況が見渡せてしまうのだ。
 牛面の青い皮膚を持つ魔物が長い槍でガツンガツンと格子を叩けば、格子にだらりと腕を出した茶髪の人間が怯える様子も見せずに懇願している。その背後で、負傷もしているのか、包帯を額に巻いている兵士や、腕を釣っている兵士が思い思いの姿で自由に寛いでいた。ただ、カードをする仲間はその茶髪を後押しするように囃し立てて援護しているようだが。

『カードか…ムムゥ、ちょっと待ってろや』

「いえーい!話が判るじゃねーか♪」

『うるせー!!』

 どうやら話がついたのか、囚われの身である茶髪の兵士は背後で援護していた仲間たちと手を叩きながら勝利を喜んでいるし、牛面の魔物はノソノソと見張り兵の詰め所らしき部屋に戻ろうとしていた。が、不意にシューたちの存在に気付いて驚いたように敬礼したのだ。

『これは、シュー将軍!』

「シューだと!?」

 魔物の語尾に被さるようにして叫んだ牢屋に囚われている人間の兵士、特にあの茶髪の兵士がガシャンッと格子を掴んで顔をへばり付かせるようにしてこちらを見ている。

『黙らんか!この無礼者どもめが!!』

『まあ、そう気色ばむな、ブラン。人間どもの調子はどうだ?』

 畏まりながらもギャアギャアと喚き散らす人間の兵士を黙らせようと、持っていた槍で格子をガシャンガシャンと叩いて威嚇する青い牛面の魔物を、シューは宥めるように片手を挙げて制した。

『はは!心身ともに健康体でありまっす』

 見事に畏まる魔物に、光太郎がついつい噴き出してしまう。

「なんだ!?また人間を捕まえてきたのか??今度は子供か!卑怯だぞ、シュー!」

 茶髪の兵士が憎々しげにシューを見据えて怒鳴るが、そんな怒声などどこ吹く風なのか、ライオンヘッドの魔物はそんな兵士を無視して光太郎に声をかけた。

『ご覧の通り、ここが捕虜を入れてある牢だ。棲み難いが、仕方ねぇな』

「うん、ジメジメしてるね。でも、中を見たらそんなに酷い状況じゃないし…あれは、もしかしたらベノムの作ったパンじゃないかな?」

『そうだ』

 頷く獅子面の魔物とやたら親しそうに話す光太郎を、茶髪の兵士は両手で格子を掴んだまま動転した表情で、見比べるようにして瞠目している。

「ベノムの美味しいご飯が食べられるし、これで白いシーツがあれば、もう少し過ごし易いんじゃないかな?」

『シーツですかい?はは!調べてみまっすぜ』

 牛面の魔物が敬礼して畏まると、愈々茶髪の兵士は信じられないものでも見るような目付きをして格子に額を押し当てて睨み付けてきた。

「ど、どう言うことだ!?」

『どうってこたないさ』

 肩を竦めてニヤリと笑うシューと、キョトンとそんなシューを見上げている黒髪の少年を見比べて、茶髪の兵士は混乱した頭を落ち着かせようとでもするかのように光太郎に凄んだ。

「お前は人間でありながらどうして、魔物に加担しているんだ!?」

 そう取られても不思議ではないように、光太郎のシューに対する懐きようは傍から見ても明らかなものであった。だが、それが全く悪いことなどとは思ってもいない光太郎にしてみたら、どうしてそんな風に凄まじい目付きで睨まれているのか判らなくて怯えてしまった。

「ど、どうしてって…俺は魔物しか知らないから」

 それは全く素直な感想だったが、茶髪の兵士は呆気に取られるだけで、何か言おうとして失敗しているようだった。そんな2人の遣り取りを、腕を組んでニヤニヤと眺めていたシューが、とうとう堪り兼ねて噴き出してしまう。

『まあ、それぐらいにしておけよ、ウォルサム。コイツは実際、この世界の人間と触れ合ったことがねーんだから、お前たちよりも俺たちに親近感を持ったとしても仕方ねぇのさ』

「この世界の人間?…ってことはなんだ?あの、異世界から人間を召喚していると言う噂は本当だったのか!?」

 まさに青天の霹靂といった様子で格子を握り締めて動揺しているウォルサムと呼ばれた茶髪の兵士に、シューは肩を竦めるだけで否定も肯定もしなかった。その態度が、ますますウォルサムの猜疑心に翳りを植え付ける。

『どうした、ウォルサム。今すぐにでも沈黙の主の許に飛んで帰りてぇってツラだな、おい?』

 シューが意地悪く唇の端をニヤッと捲り上げて笑うと、格子を掴んだ格好で唇を噛み締めているウォルサムは食い入るように獅子の頭部を持つ魔物の傍らで怯える黒髪の少年を見据えていた。
 何も言えずにいるウォルサムをそのままに、シューはもう一度肩を竦めると、どうしたら良いのか判らないといった表情で立ち竦んでいる光太郎を促した。

『さて、そろそろ次に案内してやる』

 そんなシューを見上げた光太郎は、それから静かに鉄格子越しにウォルサムの前まで歩いていった。だが、それに対してシューは何か言おうとはしなかった。

「あの…俺、この世界に来て初めて人間を見たんだけど…えっと、よく判らないんだけど、今の俺にはシューしかいないから、魔物に加担するとか人間を裏切ってるとか、そう言うこと考えられないんだ。ごめんなさい」

 ペコリと頭を下げる律儀な少年に、ウォルサムはまたもや面食らったような顔をして見下ろしていたが、溜め息を吐いて首を左右に振った。

「悪いことは言わん。魔物に加担しても泣きを見るのはお前だ」

「…」

 シューは違う、そんな魔物じゃない…などと言い募ったとしても、目の前にいる人間の兵士には少しも通じないだろうと、光太郎には判っていた。
 長い間の確執は、そう容易く解れて柔和になるものではない。

(そんなこと、よく判ってる)

 唇を噛み締めた光太郎はでも、いつか、この頑なな心を持っている兵士に、少しでもシューやベノムのように、優しい心を持っている魔物が少なくとも2人はいるんだと言うことを教えてあげたかった。

「…人間も」

 ポツリと呟いた光太郎に、シューとウォルサム、そして先ほどから不思議そうに畏まりながらも状況を見守っているブランが注目した。ほんの少し眉を寄せた光太郎が、ウォルサムの碧い双眸を覗き込みながら口を開いた。

「やっぱり人間も魔物を捕虜にするとこんな風にしてるのかな?」

 大概、光太郎が見てきた戦争などでは、捕虜にされた人たちは過酷な拷問を受けたり、些末で汚らしい場所に打ち込まれたりしているものだが…咄嗟に、この環境はどちらも一緒なんだろうかと言う疑問が浮かび上がってきたのだ。
 怪訝そうな顔をしたウォルサムは、ちょっと考えてから、首を傾げながら後方を振り返って、事の成り行きを息を呑むようにして見守っていた仲間たちに問いかける。

「おい、捕虜にした魔物を知ってるヤツっているか?」

 顔を見合わせた仲間たちは1人ずつ首を左右に振った。
 それも仕方のないことで、肩を竦めたウォルサムは見上げている優しそうな漆黒の双眸を見下ろして下唇を突き出した。

「悪いな、俺達は一介の兵士に過ぎないんだ。一度の戦で重傷を負わなければ、すぐに次の戦に駆り出されちまう。そうすると、戦ごとに捕らえた魔物をどうしているのかなんてのは見ることも知ることも出来ないんだ」

『そう、そして俺は役に立たない捕虜を掴まえて来たって大目玉だ』

 シューが肩を竦めると、ウォルサムはムッとしたように眉を寄せて舌を出した。

「悪かったな」

『ふんっ』

 大概の兵士たちは戦場で死ぬのだが、この30人近くいる捕虜たちは部隊でシューを集中攻撃して生き残った連中だった。要は目を暗ますための捨て駒だったのだが、無駄な殺生を好まない、魔物としては珍しい性格のシューのおかげでこうして捕虜として監禁されていると言うわけだ。

「まあ、どうせ今の俺たちには何を言っても説得力はないからな。アンタ、なんて名前だ?」

 鉄格子の向こうから、それでも腹立たしいのだろう、眉を寄せたウォルサムが見下ろしてきて光太郎は何も言えずに息を呑んでいた。そんな様子を見ていたシューが、やれやれとでも言いたそうに首を左右に振って代わりに応えてやった。

『そんな風に凄むなよ。光太郎は魔物じゃねぇんだ。そんな目付きにゃ免疫がねぇ』

「…光太郎って言うのか。ん?なんだ、どこかで聞いたことある名前だな?」

 首を傾げるウォルサムに、光太郎はふとシンナの台詞を思い出していた。
 シンナもやはり、自分の名前に聞き覚えがあるとシューに言っていた。
 この世界で、いったいどこに光太郎と似たような名前の人物がいるのだろう、その人物はいったいどんな人なのだろうかと、そこまで考えて光太郎はそっと俯いた。どうせ、この城から出ることなど出来ない自分が、そんなことを考えても仕方がないと判断したのか、その考えを頭から追い出すことにしたようだ。

「まあ、いい。光太郎、アンタの行末が平安であることを祈ってるよ」

「…ありがとう」

 一種の儀礼的な別れの挨拶に過ぎない言葉なのだが、光太郎はなぜか、その言葉をとても気に入った。
 はにかむようにして笑いながら礼を言う光太郎を、何か不思議なものでも見るような目付きをして困惑したウォルサムは、腕を組んで立っているシューに疲れたような視線を移して肩を竦めて見せるのだ。

「もしかしたらシューの旦那、アンタ、えれぇ厄介者を押し付けられたのかもしれないな」

 振り返ってニコッと笑う光太郎を、シューは無言のままで見下ろしていたが、溜め息を吐いてジロッとウォルサムを睨み付けた。牙を剥いた威嚇はどこか愛嬌があって、それがシューなりの照れ隠しなのだと言うことを知っているものは案外少なかったりする。

『余計なお世話だ』

 思っていたのとは違う、裏腹の反応を見せる珍しいシューの態度に、ウォルサムはちょっと呆気に取られてしまった。いつもは鼻先で笑うか、魔物らしく些細なことで激情するかのどちらかだったのだが、今回の反応はそのどちらでもない。
 ニコッと笑いかけた少年の笑顔に絆されたような、そんな自分を見られてしまったという思いに駆られた照れ隠しの表情…照れ隠し?

(照れているとでも言うのか?この魔物が?)

 冗談じゃない。
 戦場で鬼神の如く次々と人間狩りをするこの凶悪な魔物が、人間の、しかも少年の笑顔に絆されて照れるだと?
 そこまで考えて、自分の恐ろしい妄想にウォルサムは眩暈がした。

「シュー、さっき言ってたカードはあげるの?」

 ふと光太郎が首を傾げながら尋ねると、シューは肩を竦めてブランを顎で指し示した。

『ブラン次第だな』

『はっ!シーツも用意してみまっすぜ』

 牛面の魔物が陽気そうに笑って敬礼すると、光太郎はホッとしたような表情をした。
 そして思うのだ、この城の魔物たちは少なからず魔物と言うには疑わしいほど、優しさを持っているものが少なくないと。そして彼らはそれに、実のところ少しも気付いていないのだろう。
 だからきっと、誰も言わないだろうと思う言葉を、光太郎はブランにプレゼントした。

「ありがとう、ブラン」

『へ?アッシは命令に従ってるだけですぜ?』

 驚いたように槍を両手で握り締めてヲタヲタする牛面の魔物に、光太郎はそれでもいいんだと笑ってみせた。その自然な会話を聞いていたウォルサムは、奇妙な違和感を覚えたのだ。
 人間である自分と会話したときの少年の、あの困惑したような怯えた眼差し…本来ならあれは、あの目付きは、人間にではなく魔物に向けられるべきものではないのか?
 促されて、驚きながらも嬉しそうに笑うブランと困惑して眉を寄せる囚われの兵士たちに「さようなら」と手を振る光太郎と、そんな人間の少年を仕方なさそうに見つめている獅子面の魔物を心ならずも見送ったウォルサムが、この牢獄に囚われて初めて感じた違和感だった。

Ψ

「地下牢ってのはポピュラーだけど、そこに入れられた人たちはきっといつか、病気になると思うんだけどな…」

 ジーッと前を行くシューの大きな背中を見つめながら、光太郎は地下牢を後にしてからもうずっと、ブツブツとそんなことを呟いていた。もちろん、シューに聞こえよがしに、だ。

「怪我もしてるみたいだったし、衛生的には良くないと思うよ?ほら、だってもし感染症とか伝染病とか流行ったりしたら、この城に住む魔物たちにもうつったりして大変なことになるんじゃないかな!…とかね、考えてみたりして…エヘヘヘ」

 ギロッと睨まれてビクッとした光太郎は、流石にそれ以上は強気に言えず、語尾は誤魔化すように笑って見せた。が、それでもやはり、あんなに湿ってジメジメした場所では治りかけた傷でも悪化してしまうのではないかと、囚われた兵士達の身体が気懸かりで大股で歩くシューの腕を掴みながら小走りでその顔を覗きこんだ。

「なあ、シュー!牢屋を移してくれ…とかそんな大きなことは言わないけど、せめて過ごし易く通風孔とか掘ってあげるとかできないのかな?あの湿気はやっぱり、風通しが悪いからだと思うんだけど…」

『病になっても構わん』

 いっそキッパリ言われてしまって、光太郎は言葉もなく立ち竦んでしまった。
 その台詞は、『人間など』病になっても構わない、とシューはハッキリ宣言したのだろう。
 確かにシューは人間嫌いだ。
 忘れていたが、つい数時間前までシューは嫌なものでも見るような目付きで光太郎を見ていた。どう言った心境の変化でなのか、今でこそシューはちゃんと光太郎の話を聞いて応えているが、彼は人間を毛嫌う魔の心を持った魔物なのだ。

「…ふんだ」

 いつの間にか立ち止まっていた光太郎に気付いて、肩越しに振り返るシューを軽く睨んだ黒い双眸を持つ少年が唇をへの字にしている。怖くないぞと自分に言い聞かせて、睨んでくるシューの金色の双眸に気圧されそうになる心を叱咤しながら、光太郎は堂々と宣言した。

「いいよ、どーせシューに言っても無駄だって思ってたんだ!こうなったらゼインに直接頼んでみる。城の外に出なければ、どこを歩き回ったっていいんだろ?」

『お前、それとこれとは…』

 違うと言い掛けた語尾が終わらぬうちに、フフンッと胸を張って笑っていた光太郎は脱兎の如く走り出していた。

『…って、おい、ちょ!待ちやがれッ!』

 慌てたのはシューで、城内に響き渡るような堂々たる宣言に、驚いたように振り返る魔物や魔導師、思わず裾を踏みつけて転ぶ闇の神官たちがドカドカッと走って追い駆ける獅子面の魔物を驚いたように見送っていた。

Ψ

『ほう…通風孔と?』

 魔王が大半を過ごす玉座の間には、憤然とした憤りを持つ光太郎と、呆れ果てて言葉もなくムッツリと黙り込んでいるシューがいた。片膝をついて頭を垂れるシューに頭を押さえつけるようにして平伏させられていた光太郎は、魔王の静かな、しかし意思ある深い声音に大きく頷くと、大きな腕を振り払うようにして顔を上げたのだ。

「そう!城内なら勝手に出歩いてもいいんでしょ?だったら、少しぐらい城内を工作してもいいんじゃないかな…と思いました!」

 シューにジロリッと睨まれて、その視線を気にせずにはいられない光太郎は、ムッとしてそんな魔物をチラチラと見ながらも一応言葉を正して発言する。
 そんな2人の遣り取りをどこか楽しそうに小さく笑って、魔王は腹の上で両手を組むとゆったりと背もたれに凭れて頷いた。

『なるほど、地下牢に通風孔か。だが、独りでは年月もかかろう』

「俺、工作とか結構得意なんだッ…なんです。えっと、道具とか貸してくれたら頑張れると思います!」

 いちいちシューの視線を気にしながらそれでも確り意思を伝えてくる光太郎を、魔王ゼインは暫し紫紺の双眸でジッと見つめていたが、ドキドキしたように視線を逸らさずに強い双眸で見つめると言うよりも睨み返すと言った方が良いような目付きで光太郎は見つめ返した。

『シューも承知しているのか?』

 その目付きに意思の固さを見たのか、この世ならざる美しき相貌に柔和な笑みを浮かべてライオンヘッドの魔物を促した。

『俺は…はあ、まあ。一応は』

 懇願するような、取って喰うぞとでも言いたそうにジーッと見つめてくる直向きな漆黒の双眸に、刃向かえない意志の強さを見て取ったシューも、仕方なさそうに歯切れも悪く頷いてしまう。

『よかろう。だが、この件で何かあるとすれば、その全責任はシューが負うものとする』

『はっ』

「ええ!?」

 別に気にした風もなく頭を垂れるシューと、柔和な笑みを浮かべている魔王ゼインを見比べながら、光太郎は驚いたように思わず立ち上がってシューに腕を引っ張られてしまった。

「どうしてシューが責任を取るんだ!?話を持ち出しのは俺なのにッ!」

『こら、光太郎。魔王に対する口が過ぎるぞッ。まあ、手柄を取りたい気持ちも判らんでもないが、何かあってもお前じゃあなぁ…』

「はぁ!?手柄ってなんのこと?何かあっても言いだしっぺの俺が責任を取ればいいじゃないか!シューは勝手に俺が巻き込んだだけなんだ、このことが失敗してもし、たとえば捕虜を逃がしたとしてもシューに罪はないよ!」

 慌ててシューを庇うようにして前に身を乗り出しながら、光太郎は非情な魔王ゼインの言い付けに真っ向から刃向かおうとして睨み付けた。その態度に一番ビックリしたのはシューで、目を白黒させながら困ったように光太郎の腕を掴んで座らせようとしたが、強情な人間の少年は思うように言うことを聞いてくれない。
 せっかく意見を聞き入れてくれた魔王が気分を害しでもしたら、嫌々参加した自分の面子も丸つぶれなら、何よりもこれまで頑張った光太郎の苦労も水の泡ではないか。
 ハラハラするシューの前で、魔王ゼインは殊の外上機嫌でニコリと笑った。

『なるほど、其方。シューに責任を負わせたくはないのだな。だが、行動を起こすという事は何かしらの犠牲を覚悟して行わねばならぬもの。其方が失敗すればシューが問われることになる。せいぜい、2人で身命を賭して臨むのだな』

 その言葉で、シューと光太郎はそれぞれの疑問の答えが出た。
 シューは光太郎が頑なに拒んだのは手柄を独り占めしたいと思ったからではなく、ただ単に巻き込んでしまったシューに責任を負わせたくないと言う責任感の表れだったと知り、光太郎は魔王の意図するところがシューに責任を負わせることで中途半端な気持ちで臨んではいけないことなのだと教えられたのだと知った。
 そして何より、同時に2人が顔を見合わせたのは、シューに責任が移ることで嫌でも獅子面の魔物が手伝わざるを得ないと言うことになったのだ。
 シューが『俺も手伝わないといけないのか…』とガックリしている傍らで、腹を決めた光太郎が頷きながら魔王を見据えて言い放ったのだ。

「…判りました。絶対に成功させて、シューは俺が守ってみせる」

『グハッ!』

 思わず咽て咳き込みそうになったシューだったが、魔王ゼインが思うよりも穏やかな表情で『そう願うとしよう』と呟いた以上は何も言えなくなった、が、それでも納得できずに鬣に隠れそうな耳を伏せて人間の小さな少年を見下ろした。

「早速、今日からでも取り掛かりたいから、道具を借ります」

『うむ、好きにするが良い』

 活き活きと目標を持った光太郎が立ち上がると、ゼインは肘掛に頬杖をついてゆったりと頷いた。
 こうして、この闇の国の住人となった光太郎の最初の仕事が、一部の魔物、シューの憤懣やるかたない憤りを無視して決まったのだった。
 異世界から導いてきたまだ幼い少年は、その見掛けとは裏腹に、一人前の強い意思を持っているのだろう。
 魔王は、目の前で自分よりも遥かに身体の大きな魔物を、必死で守ろうとしている人間の少年の心を見透かすことができずに、内心で僅かに瞠目していた。
 もしやこの少年は、【魔王の贄】としてだけではなく、何か秘められた力を持っているのではないか…ふと、微かな風のような予感が魔王の心を掠め、頬杖をついたままで、ゼインは眼前でガッツポーズをしてライオンヘッドの魔物を困らせている少年を食い入るようにして見つめていた。

『暁を往く者…か』

 囁くように呟いた魔王の独り言は、不思議と周囲の者には聞こえない。

『なるほど、面白い』

 深紅の口唇を凶悪な笑みに歪めて嗤う魔王に気付かない光太郎とシューは、深々と敬礼して玉座の間を後にするのだった。
 立ち上がった魔王はゆったりとした足取りでバルコニーに出ると、時折遠くの方で暗雲を貫くようにして閃く雷光に、その紫紺の双眸を細めて己が領地を見下ろした。
 遥かに広がる魔の森には、未だに餌食を求めて彷徨う獰猛な低級魔物どもの、耳を劈くような悲鳴が響き渡っている。安らぎなど一片も与えられることのない永遠の闇の国の、終わらない物語の歯車がゆっくりと動き出す。
 魔王は微笑んだ。
 終わらないものなどありはしないと。
 魔天を貫くように雷鳴が響き渡った。

2.魔天を仰ぐ者  -永遠の闇の国の物語-

 シューが光太郎に振り回されているちょうどその時、ゼィは魔王の間へと足を踏み入れていた。
 広間にはハッとした気配がさざめき、慌てたように衛兵が頭を垂れて玉座に続く重く垂れた天蓋を引き上げた。魔王の座する玉座の間は、外の景色が見えるようにと不思議なことに片方の壁がバルコニーになっている。魔王は自らの力を信じているのか、外敵の侵入など考えてもいないようだ。
 そんな無謀な玉座の間に姿を現した青紫の髪を持つゼィは、バサッと外套を払い除けて片膝をつくと、気だるげに玉座に鎮座ました絶対的君主である魔王を見上げた。

『ご苦労だった、ゼィよ。戦果は聞かずともよい』

『クッ、申し訳ありませぬ』

 口惜しそうに歯噛みして頭を垂れる片腕に、魔王は紫紺の双眸を閉じて口許に艶やかな笑みを浮かべる。

『良い、ゼィ。私は至宝を手に入れた。沈黙の主もこれまでよ』

 不意に紫紺に燃える双眸をカッと見開いて、魔王は立ち上がった。その姿はこの世界を暗黒に陥れた者の持つ絶対的な威風があり、ゼィはドライアイスのように床を伝ってくる目に見えない不可視の魔力に圧倒されて畏まった。

『先程シューに会いました。彼の者の肩に、何やら物珍しき飾りを見つけましたが…彼の者こそ王の【贄】ではありますまいか』

『うむ。幾度か召喚はしたものの、何れも誤算であった。此度こそはどうやら至宝であったようだ』

 満足そうにゆったりと笑う魔王のその自信に、ゼィは少しホッとしたような表情をした。
 片手に剣を持ち、幾度も相見えはしたがここぞと言うところでいつも逃げられてしまう人間どもが王と奉る【沈黙の主】を、ゼィはいつかその剣の露にしてくれようと歯噛みをして挑んではいるが悉く不発に終わっている。
 それが、あの人間の少年が魔王に勝利を齎せてくれるのだ。
 人間と言う忌まわしき傀儡に閉じ込められているあの魂を、早く王は開放してその手に入れてしまえばよいのに…と、ゼィは内心で思いながらも何も言わずに頭を垂れた。

『しかし、其方。一足遅かったようだな。あの少年はシューを気に入ったようだ』

『…シューを』

 それは僅かなりとも口惜しいことであった。
 腹の底から憎んでいる人間を滅ぼす役目を胎内に宿したあの人間が、絶望の淵で滅んでいく同胞の姿を目にするその瞬間を、味わってみたいと思っていたことを、どうやらこの魔王は逸早く知っていたようだ。

『いずれにせよ、シューも苦労を買った。其方が溜飲を下げるのはこれからでも遅くはあるまい』

 魔王の言わんとする言葉の真意を、知らないゼィではない。
 暫く逡巡した後、ゼィはしかし、何も言わずに頭を垂れた。

『麗しきラスタランの都が陥落して幾月か…沈黙の主よ』

 魔王はゆったりとした足取りでバルコニーに出ると、暗雲を貫く雷光を見つめて口許を歪めながら微笑んだ。熱い血潮の流れるものが見れば、忽ちその血は凍りつき、命あるものはその灯火を自ら吹き消してしまうだろう微笑は、だからこそ美しかった。

『其方が守る暁は手に入れた。さて、どうしたものかな?』

 漆黒の闇より生まれし魔王を仰ぎながら、ゼィは不意に、内心が震えるのを感じた。
 魔王の放つ瘴気は、時として魔族にはあまりにも強すぎることがある。
 それだけに、ゼィは確信していた。
 シューが振り回されていたあの少年こそ、この世を闇に塗り替える【魔王の贄】なのだと。
 邪悪な美しさを秘めたゼィの深紅の口唇に、ゆっくりと笑みが広がった。

Ψ

 老齢のコック長は、猪の鼻を持った魔物である。
 いつも美味しそうに自分の作った料理を平らげる光太郎を、実は少なからず気に入っていた。
 なぜなら、魔物と言うのは実に食べ方が汚いし、旨そうに貪るということもない。つまりこの食堂では、いつも何かしらの小競り合いが起こっては、椅子が宙に舞うような状態が常なのだ。
 だからこそ、一緒に食事をするシューも自分の食い散らし方を恥ずかしく思っているほどだ。
 オマケに、コック長が最も気に喰わないのが悪態である。
 言うわ言うわ、コック長とその助手が毎日せっせと作る料理を前にして、悪態を吐かないのは魔王ぐらいである。それ以外の魔物たちは皆が皆、口を開けば悪態以外に何もない。感謝もなければ『旨い』の台詞もない。
 できればテーブルでも引っ繰り返してやりたい気分に陥るコック長はしかし、大方、連れて来られた華奢な人間もまた悪態でも吐くんだろうと思っていたし、悪態を一言でも言おうものなら大きな包丁でその首を飛ばしてやろうと覚悟を決めていた。
 魔王の贄とて、食事を慮るコック長には例外ではないのだ。
 コック長が包丁を片手に睨んでいると、なぜ自分が睨まれているのか判らない光太郎にしたら、目の前に出された木のボウルに入った暖かなスープに木製のスプーンを浸しながら、恐る恐る啜ったのがこの世界に来て始めて口にした食事だった。
 そしてそれが、驚くほど美味しかったのを忘れられない。
 だからこそ、コック長ベノムの作る料理が待ち遠しいのだ。
 その時、光太郎が浮かべた驚きの顔と、それからまるで暗い食堂がパッと明るくなるような笑顔、美味しいと叫んで見つめてきたあのキラキラした双眸。
 コック長ベノムが忘れられない、光太郎との初対面だった。

『フンッ、来たか坊主。今日は魚だぞ』

 木の皿に無造作に盛られた見たこともない魚の姿煮と、コンソメに似たスープの入ったボウル、少し硬めに焼かれたパンが盛られた籠、特殊なドレッシングがかけられた新鮮なサラダなどなど、次々と乱暴に置かれていく食器に目をキラキラさせた少年が嬉しそうに見つめている。
 これにはベノムも悪い気はしない。
 だが…

『なんだなんだ、ベノムよ!また一昨日と同じ魚か!?たまには旨い肉を喰わせろ』

 悪態を吐きながらもすぐにがっついているライオンヘッドのシューを、猪頭のベノムが鼻息を荒くして威嚇するように牙を剥いた。そんな様子を食器が整えられたテーブルの前で大人しく座って見ていた光太郎がケラケラと笑っている。

「肉は昨日食べたじゃないか。シューってばヘンなの」

『む?なんだと、コイツ…!』

 グワッと牙を剥くライオンヘッドの魔物にギョッとしたが、そんな肩を並べる2人の間に割り込んだベノムが巨大な包丁をドンッとテーブルに突き立ててニタリと笑った。

『うるせーぞ、シュー?何ならそのご自慢の鬣をつけたままシチューに頭を入れてやろうか??』

 物騒な台詞にベノムなら遣りかねないと思ったのか、シューはバツが悪そうに肩を竦めて食事に取り掛かった。ガツガツと実に豪快に掻き込む姿は、思わず見ていてこっちの方が腹いっぱいになりそうなものだが…光太郎は負けじと木のスプーンを持って食べ始めた。

『よく噛めよ、坊主。人間はすぐに腹を壊しちまうからな!』

 ガッハッハッと笑いながら包丁の背で肩を叩きながらベノムはさっさと厨房に姿を消してしまった。その後姿を見送っていた光太郎に、シューが口の周りをペロペロと舐めながら手元を覗き込んでいる。

「…シュー、もしかしてまだ食べたいの?」

 食事の時間で交代してきた見張りの兵が猛然と食事を掻き込んで、テーブルの上はお子様ランチでも食べ散らかしたような有様になっている。シューも同様に、まるで子供のように食べ散らかしているのだ。

『むぅ、足らんとも思うが。これ以上喰えばベノムの爺さんが喧しいからな…』

 それでもやっぱり足りていないんだろう、シューは大きなガタイで凶悪な面構えだと言うのに、まるでお預けを喰らった犬のように大人しく光太郎の皿を見ている。
 穴が開くほどジーッと見られると、その姿があまりにも可愛く見えてしまって、光太郎は思わずコッソリと噴出してしまった。可愛い、なんて言えばブッ飛ばされるだろうから、神妙な面持ちで腹を擦りながらシューを見上げる。

「ちょっとお腹いっぱいかな。残したらベノムに怒られるから、こっそりシューが食べちゃってよ」

 ニコッと笑う光太郎を、シューは暫く何かを考えているように金色の目を彷徨わせていたが、仕方なさそうな表情をした。

『それじゃ仕方ねーな!』

 嬉しそうに舌で唇をペロリと舐めたシューは、髭をピクピクと動かしながらボウルに顔を突っ込むようにして美味しいスープを飲んだ。実はシューと食事に来ると、半分がライオンヘッドの魔物の胃袋に納められてしまうのだ。それを知っているベノムは、だから光太郎の食事は普通より少し多めに盛り付けられている。
 意外にこの人間は物怖じしないし、糧を分かち合う心得を持っている。
 日頃はムスッとしているシューも、この人間と一緒にいるときは機嫌がよく見える。

「俺ね、日本にいた頃はカレーとか作ってたんだ。いつか、シューにも食べさせてあげるね、パンケーキ♪」

『ふーん、カレーとパンケーキか。旨そうだな~…よし!喰わせろ』

 ペロリと平らげたライオンヘッドは頷きながら、光太郎の鼻先に鼻面をくっ付けながらワクワクしているようだ。

「え!?いや、今は作れないよ~」

 慌てて両手を挙げると、そうなのかと、強面の魔物は残念そうな表情をした。
 シュンッとした姿は本当に可愛くて、実は元の世界では犬と猫を飼っていた光太郎は、どうしてもそんな風にされてしまうと放っておけないのだ。

「いつかきっと作るよ」

『それは楽しみだな』

 食べ物のことになるとこの魔物はやたら機嫌がよくなるようで、いつもはブスッと不機嫌そうな、表情の読み取れない顔をしているのだが、この時だけは珍しく笑うのだ。
 口許は笑っているのかどうか判断しがたいが、その目だけは細められて笑っているのだと言うことが判る。

『あらあらン。破壊の死神と怖れられるシューが見られたものじゃないわねン』

 不意に背後から声をかけられて驚いた光太郎が振り返ると、そこに立っていたのは褐色の肌にショートカットの金髪、空色の瞳を持つ全身刺青を施した少女が腰に手を当ててニヤニヤ笑っていた。

『シンナか。ゼィと一緒だったんだろ?』

『ゼィは魔王さまのところよン。もうちょっとで沈黙の主を捻り潰して遣れるところだったのにン!キーッ!!悔しいンーー!!』

 小柄な少女はだんだんと興奮したのか、語尾は既に金切り声になっている。
 なんとも負けん気の強い性格のようだ。
 全身刺青を施した体躯には、胸元を覆う白い布と、下着を隠しているだけの長い腰布、オーバーニソックスに編み上げのような靴を履いている、実に身軽なファッションの少女である。両腕に装着している奇妙な腕当ては、どうやら状況に応じて爪が飛び出す仕組みになっているようだ。

『これが魔王さまの贄なのン?ふーん、ちょっとよさそうな子じゃないン』

 ジロジロと不躾に観察していたことにハッと気付いて、光太郎が慌ててニコッと笑った。その様子を椅子に腰掛けたままで見ていたシューは、クックッと笑いながら頷いて見せた。

『面白いヤツだぜ。そして恐れ気がねぇからな。シンナもヒマなら相手してやれよ』

『いいわよン。で、名前はなんて言うのン?』

『光太郎』

 シューが短く名前を告げると、シンナはちょっと考えるような素振りをして、訝しそうに眉根を寄せた。

『光太郎ン?どこかで聞いたような名前ねン』

『まあ、あんまり気にすんな。光太郎、コイツはシンナ。身体はチビだが戦闘能力は高いぜ。侮ってると痛い目を見るから注意しとけ』

 取り残されたように2人の会話を聞いていた光太郎は、急に話を振られてビックリしたような顔をしたが、それでも小生意気そうな双眸で可憐にウィンクなどされてしまうと思わず緊張していた頬が緩んでしまう。

「よろしく、シンナ」

『よろしくねン♪今度、ヒマだったら体術を教えてあげるわねン!強さは魔力じゃどうにもならないわン、身体で勝負するのよンッ』

 グッと拳を握って見せると、シンナの華奢な腕に装着された腕当てから爪が飛び出して、それを突き出すようにして振り回す。最後は何もない場所に蹴りを食らわせて、優雅にクルンッと回って構えると、目を白黒させていた光太郎は思わずパチパチと手を叩いてしまった。

「す、すごい!」

『あらン?いやだン、誉めてるのン?どうしようン、あたしそんなつもりじゃなかったのにン』

 テレテレと照れながら構えを解くと、手の甲を覆っていた爪がシュッと元に戻って、シンナは赤くなった頬を両手で覆ってしまった。

『やだやだン!もう、行くわねン!恥ずかしいわン』

 小柄な身体の少女はそそくさと走り去ってしまう。熱くなった頬に両手を当てたままで、そんな仕種は元いた世界の同年代の少女よりも女の子らしい。

「彼女も、やっぱり魔物なのかい?」

 シンナの後姿を見送りながら光太郎が尋ねると、シューは立ち上がりながら肩を竦めて見せる。

『ああ、だが元はディハール族だったんだがな。ディハール族は魔王に忠誠を誓い、身体に刺青を入れることで魔力を持つ魔物になっちまったのさ』

「そうなんだ…」

『シンナは魔力で変化するからな、見た目に騙されれば彼の世逝きさ』

「そ、そうなんだ」

 思わず、自分と同い年ぐらいにしか見えない少女があんな凄い技を繰り出すなんて、もしかしたら自分にも体得できるかも…などと安易に考えていただけに、シューの言葉に光太郎は自分の思い上がりに盛大に照れてしまった。

『さて、腹も膨れたことだし。そろそろ戻るぞ』

「う、うん。じゃあ、ベノム!また明日♪」

 片手を振りながら笑って挨拶をする光太郎に、厨房から顔だけ覗かせたコック長は早く行けと言わんとばかりに包丁を振って追っ払う。
 そんなベノムをケラケラ笑いながら、光太郎は満足そうに歩いて行くシューの後を追って走り出した。

Ψ

 暗い闇に覆われた世界は冷たく、沈黙の主は荒廃した居城で頬杖をついている。

「主よ」

 傍らに付き従う彼の部下は、そのフードの奥に隠された思い詰めた表情を見つめながら、低い声でその名を呼んだ。が、彼は虚空を睨みつけたままで言葉を発そうとはしない。

「主よ」

「今回の戦、どうもおかしくなかったか?」

 今一度の呼びかけに、沈黙の主はついていた頬杖を解くと、両腕を祈るように組んで背もたれに凭れた。

「と、申しますと…」

「魔軍だ。もう一押しで確かに我が軍は壊滅状態だった。だが、深追いをして来なかった…と言うよりも、何かに慌てたようにして退き返して行った」

 おかしいと、あの時の状況を思い出していたのだ。
 魔軍率いるゼィ将軍はもとより、先陣を切って飛び出してくる血気盛んな副将シンナが、その手にある爪を鮮血に染めながらも、ハッとしたように後方を振り返って慌てたように退き返したのは明らかにおかしい。戦場の修羅姫と呼んで怖れている、飛び散った血で双眸を真っ赤にして犬歯を覗かせてニヤリと笑うと次々と襲い来るあの魔物が、半ば蒼褪めたようにして慌てて退き返したのだ。

「戦好きの女は容赦がない。だが、シンナは退き返した。俺の目の前でだ!!」

 ザッと立ち上がった沈黙の主の鎧は、先の戦でベットリと付着した血痕もそのままで、鈍い銀色に光っている。
 彼の治めるラスタランの都は、突如現れた魔物の軍団に成す術もなく陥落させられてしまった。
 緑豊かで、豊富な水が湧き、鳥が歌い何もかもが美しい都だった。当時はまだ、彼の父も母も生きていて、こんな悪夢が訪れるなど夢にも思っていなかった。
 美しい庭園で永遠を誓った存在も、その庭園すらも、今はもう水を湛えなくなった壊れかけた噴水を残すだけで荒れ放題だ。
 沈黙の主は声もなく戸惑っている彼の配下に小さく頷いて、最近酷くなる頭痛にこめかみを擦りながら想い出の残る庭園へと赴いた。
 ここだけは死守したかった。
 だができなくて、生き残った人々を集めて部隊を編成しながら、なんとか武力になったところでこの荒廃した都を取り戻したのだ。その時には既に、美しい都は姿を消して、繁栄していた影もないほど壊滅的に破壊されていた。

(だが…)

 主は、いつもそこに座っていたひとを想いだしながら、壊れた噴水の縁まで歩いていった。
 魔物の中にも美を解するものがあったのか、それともこの庭園だけは見逃してしまったのか…城下や城は殆ど破壊されていたと言うのに、庭園だけはある程度姿を留めていた。
 土の剥き出した地面に落ちている玻璃の杯に手を伸ばし、音もなく崩れ去るその砕ける残骸を握り締め、沈黙の主はグッと唇を噛み締めた。

(美を解するものがあるだと?冗談にしてもおぞましいな)

 だが解せないのは、やはりあのシンナの態度。
 魔に屈したディハールの娘は血に飢えた狼のように、その牙を剥いて沈黙の主の軍を追い詰めてきた。その背後にいるゼィ将軍は沈着冷静で、烈火の如き副将を実に良く使ってえぐい戦法で攻め込んでくるのだが、今回は後半から明らかに陣形が乱れていた。
 それは即ち、ゼィ将軍の心の乱れを物語っているに違いない。

(何が乱した?百戦錬磨の兵のその強靭な精神を?)

 陣形の乱れに乗じて反撃できればよかったのだが、生憎と既に自軍の兵士達も疲れ果てていた。口惜しいことに、一矢なりとも報いることができたのなら…

(焦りは禁物だな。何れにせよ、あの様子では当分攻め入ってくることもないだろう。今が休息の時なのかもしれん)

 すぐにでも反撃に出たい心境ではあったが、そこが魔物どもが沈黙の主と怖れて侮らないところである。
 ゼィ将軍も感心するような、その落ち着いた冷静な部分は、魔族にも匹敵するほどである。
 嘗ては美しかった庭は、手入れなどする余裕もない国情では致し方ないほど荒れ果てている。近隣諸国も、魔族に寝返った地域を除けば殆どが壊滅状態だ。
 壊滅状態となった国々から生き延びた人々を集めて統率するその能力は、魔王すらも一目置いている。それだけの力がある沈黙の主は、その胸の内に燃え上がる憎しみを隠して、いつか、そういつか必ず…

(魔族は必ず叩き潰す)

 魔に支配された時から垂れ込める暗雲に消されてしまった空を、魔天を睨みつけながらギリッと奥歯を噛み締めていたが、フードの奥に燃え上がる双眸を隠すと、沈黙の主は外套を翻して庭園を後にした。
 嘗て愛したひとが眠る庭園は、ひっそりと沈黙の主の頑なな背中を見送った。

1.導かれし者  -永遠の闇の国の物語-

その世界は悪の力に支配されていた。

 暗黒の空には薄紫の霧が立ち込め、暗雲は当たり前のように陽光煌く太陽を隠していた。
 木々は立ち枯れ、鳥は悲鳴のような絶叫をあげ、小動物は息を潜めて怯え暮らす、鵺が支配する森。
 その森を抜けた霧深い湖の傍ら、蔦絡まる不気味な城壁を晒すその城こそが、この世界を闇に変え、絶対的なる悪の権力を司る魔王の住まう居城である。
 魔王は漆黒の外套に身を包み、華奢な意匠を施した額飾りで留めた艶やかな黒髪は、世界の不安を塗りこめて、より一層美しく輝きを放っているかのようだった。高い鼻梁に、紡げば虚構と甘美な嘘だけが言の葉となる唇は薄く、ただ、憎悪が渦巻く煌く瞳だけが、彼が確かに生ある者の証の如く紫紺に輝いている。
 バルコニーから吹き込む瘴気の風に、緩やかに長い黒髪を揺らし、魔王は満足したかのように世界の全てを見通す眼力でもって、己が領土を見渡していた。
 その足許で、憎々しげに魔王を見上げる少年が、唇を噛み締めて座り込んでいる。
 魔王よりも明るい自然な黒髪は、人間の持つ生気に溢れて見た目よりもふわりと軽く、少年らしい意志の強そうな黒い瞳も、未だ希望を捨てずに煌いていた。
 彼の名は光太郎。
 この世界に本来在るべき者ではなく、己が力を増力するために魔王の力で持って異世界より誘われた贄である。

『何を睨む?其方の世界に関わることでもあるまい。この世のことなど、其方が案ずるに及ばぬこと』

 魔王は生あるものが見れば忽ちにその命の灯火を吹き消されてしまうだろう微笑を浮かべながら、氷のように冷たい声音で座り込んでいる光太郎を一瞥することも無く呟いた。

「もう関わっているのに気にするなって?そんなの無理だ。取り敢えずここはどこなんだよ…ッ」

 キッと、怖いもの知らずな人間は、意志の強そうな瞳をキラキラと煌かせて、魔王が喜ぶ向こうっ気の強い口調で遣り返す。遣り返したものの、近付こうとして、首に嵌められた首輪から繋がる鎖にその動きは封じられてしまった。

『何、其方が逃げ出さぬなら態々鎖になど繋がぬのだがな…』

 逃げ出せるなどとは思ってもいない魔王の、その白々しい台詞に光太郎はムッと唇を尖らせた。
 初めて召喚されたとき、光太郎は夏休みに入ったばかりで夜更かしをして、牛柄のお気に入りパジャマのままだった。きっとこれは夢なんだろう、寝る前にハマッていたネトゲのせいなんだろうと自分に言い聞かせていたが、それが見当違いだと判ったのは夜の闇に溶け込みそうなほど静かな、この世の者ならざる美しい魔王の相貌から紡がれた氷の言葉だった。

『ようこそ、我が永遠の闇の国へ…』

 ゾッとした。
 身体中の毛穴と言う毛穴が一気に開いて、嫌な汗がびっしりと背中を濡らす。
 逆らえない力のようなものを感じて、たかが中学生の彼に刃向かえるほどの勇気などあるはずもなかった。
 だがしかし、元来から向こうっ気の強い光太郎のこと、ワケの判らないまま軟禁されて黙っているわけもなく、さっさと部屋を抜け出して探検さながら城内を徘徊して回ったのだ。
 魔王の居城には、彼の配下の魔物が警備をしていて、そんな人間の小僧などはあっと言う間に捕まってしまい彼らの主の元に引っ張り出されてしまう。そんなことを数回繰り返すうちに、王でありながら随分と寛大だった魔王は、そんな彼の首に自分で外すことの出来ない首輪を嵌めてしまったのだ。
 それからはこうして、彼の足許に座り込む日々が続いている。
 徘徊していて気付いたことは、かなり広い城であることと静けさ。魔物は至る所で警備をしているのに、賑やかさといったものがまるでない。そして、魔物は位が高くなるにつれて人型に近くなっていくということ。
 よほど魔力が強いのか、魔王は美しさこそ人間離れしているが、確かに人間らしい姿をしている。

『…何を考えている?』

 ポツリと、バルコニーから下界を見下ろしていた魔王が呟くと、光太郎はハッとして、自分がボーッと美しい横顔に魅入りながら考え事をしていたことに気付いてバツが悪そうに眉を顰めた。

「この鎖が外れたらなーとか、ここはどこなんだろうなーとか、あんたの名前はなんて言うんだろうなーとかイロイロ」

 不意に魔王の酷薄そうな口許に微笑が浮かぶ。
 彼の影のように付き従う腹心の配下が、ムッとした様に小生意気な少年を睨みつけた。
 さすがにそれには光太郎もビクッとしてしまう。

『恐れながら魔王、少々口の過ぎる贄でありますれば早々に儀式を済まされては如何かと…』

 腹心の、より人型に近い魔物が憤懣やるかたなさそうに腕を組んでムッツリと口を噤んだ。
 なぜならそれは、魔王の機嫌が思ったよりも良かったからだ。

『私は気にならんよ、シュー。この私を前に恐れ気もない人間など却って珍しいではないか。儀式などいつでもできよう。今暫くは楽しむとしよう』

 シューと呼ばれた腹心の魔物は、多少苛々したように眉根を寄せてはいたものの、魔王の言葉が絶対なのか片膝をついて頭を垂れた。

『仰せのままに…』

 そんな二人の遣り取りを黙って眺めていた光太郎は、今もってもこれが本当に夢じゃないのかと無言のままで頬を抓ってみた。

「イテテテ…」

 どうやら夢じゃなさそうだと、生理的に浮かんだ涙をそのままに溜め息を吐いていると、そんな自分をいつの間にかじっと見つめている紫紺の瞳に気付いてドキッとした。
 それでなくても人で在らざる者の持つ眼光だ、思わず心臓が飛び上がってドキドキしたとしても光太郎が悪いわけではない。だが、光太郎はもちろん気付いているはずもない。魔王がその気になれば、彼の心臓が飛び上がる前に一睨みで凍えさせ、その動きを停止させてしまえることになど…
 不意に音もなく近付いてきた長身の魔王は、長い黒髪をサラサラと肩から零しながら腰を屈め、長い兇器のような爪を有する繊細そうな指先でパチンと首輪の留め具を外してやった。

『多少は懲りたであろう。城内は自由に出歩いても良いが、城外にはけして出るでないぞ。飢えた魔物は見境がないからな。其方の臓腑など忽ち食い荒らされるだろうよ』

 やっと自由になった首の辺りを触りながらホッと溜め息を吐いていた光太郎は、そんな魔王の言葉にギョッとして顔を上げた。思ったより間近にある紫紺の双眸にドキッとする光太郎に、満更冗談でもない強い光をその双眸に宿した魔王が身体を起こすついでに少年の腕を掴んで立ち上がらせながら更に言葉を継ぐのだった。

『ここは常しえの闇に支配された名もなき世界。私はこの世界を統べる魔王ゼインだ、光太郎よ』

 魔王、ゼイン…

「ふーん?じゃあ、俺はあんたのことをゼインって呼んだらいいのか?」

『貴様…ッ!!』

 これにはさすがにシューも立腹したのか、思わず腰に挿した奇妙な形の鞘から抜刀して光太郎に斬りかかりそうになった…が、魔王が軽く片手を上げただけで、思わず目を閉じて頭を抱え込む光太郎の頭上に振り下ろされかかったカトラス剣がピタリと留まる。
 思わずギュッと閉じていた目を恐る恐る開いた光太郎は、腕をぶるぶると震えさせて、額にびっしりと汗を浮かべた恐ろしい形相のシューを驚いたように見上げた。

『シュー、気は落ち着いたか?』

『お…許しを…』

 上げていた手を下ろすと、魔王よりも大きな身体をした魔物であるシューはドサリとその場に倒れ込むと、ゼェゼェと荒く息を繰り返した。

『光太郎よ。私のことは好きに呼ぶといい。其方のこれからの世話は、そうだな。シュー、お前に頼むとしよう』

「ええー!?」

 思わずギョッとしたのは光太郎ばかりではない、荒い息を肩で繰り返すシュー自身も片膝をついて畏まりながらも信じられないと言いたげに双眸を見開いている。

『王よ、それは…』

 魔王は人ならざる妖艶な微笑を浮かべて、それこそ驚くほどニッコリと笑って言うのだ。

『人間嫌いは重々承知している。私の大切な贄なれば、其方以外に預ける気にはならぬからな。頼んだぞ』

『うぅ…』

 シューはガックリと項垂れながらも、声にならない声で渋々と承知した。
 こうして、光太郎とシューの奇妙な関係が始まるのであった。

Ψ

「なーなー、やっぱホラ、この世界にも人間ているんだろ?その人たちは今、何をしてるんだ?勇者とかいるのかな?」

 なぜか光太郎は、最初ほどシューに対する恐怖感を感じなくなっていた。
 と言うのも、さすがにこの世界を暗黒に叩き落した魔王と四六時中一緒にいたのだから、それ以上の恐怖などありはしないし、既に恐怖と言うものに麻痺していたのかもしれない。
 そんな光太郎は元気真っ盛りの中学生だ。
 身体の大きなシューは身体こそ人間みたいで二足歩行だが、見た目はライオンのような風貌である。いや、頭はライオンそのものであると言っても過言ではない。ただ、ライオンと違うのはタテガミの中から突き出した2本の角と、鎧から見える鞣革のような褐色の肌が人のそれと同じであることだ。その、鎧を押し上げるように筋肉の盛り上がった肩からヒョイッと顔を覗かせて、大きなシューによじ登ろうとしている光太郎の質問を、魔王の信任厚い腹心の魔物は眉を寄せて不機嫌そうに鼻息を荒くしている。

『人間はいる。勇者など俺は知らん』

 苛々しながらも、最大の忠誠を誓っている魔王からの直々のお達しである『贄の世話』を忠実にこなすために、そんな小煩い光太郎にも辛抱強く相手をしている。
 シューの涙ぐましい努力を、仲間の魔物たちがソッと同情していた。

「そっかー。勇者とかいたらゼインが大変なんだな…でも、俺は人間だし。なぁ、シュー。俺は”贄”って呼ばれてるけど、贄ってどんな意味があるんだ?何をするんだ?」

 鎧に覆われた肩に顎を乗せて、噛り付くように片足は片腕に、片手で首にしがみ付きながらとんでもない姿で尋ねる光太郎に、シューはうんざりしたようにそんな小猿じみた少年を乗っけたままでズカズカと長い回廊を大股で歩きながら肩を竦める。

『それは魔王に聞くといい。俺が答えられる問題じゃねぇ』

「…そっか。ごめん、シュー」

 気を悪くした魔王の腹心の、その端からの態度に今更ながら気付いたように光太郎はしょんぼりとして項垂れてしまう。
 暫く無言のままで長い回廊を行くシューと光太郎だったが、同じく忙しなさそうに回廊を行く1人の魔物がそんな2人に気付いて声をかけてきた。

『シューではあるまいか?』

 誰何の声に驚きもせずに、ましてや光太郎と言う人間を肩に乗せたままで振り返るシューに、気圧されることもなく腕を組んだ魔物、と言うには語弊がありそうな姿形は全く人間のなりをしたスラリと長身で、シューに比べると華奢な魔物は何やら物珍しいものでも見付けて楽しそうな表情をしている。
 光太郎はその魔物がシューと、或いはそれ以上の力を秘めている魔物であることに何となく気付いていた。何故ならそれは、シューに比べるならば遥かに人間らしく、また魔王の存在に近しい気配を持っていたからだ。

『おお、矢張りシューであったか。何やら珍しい飾りをつけておるようだが…何処より連れ参ったのだ?』

『ゼィじゃねぇか。西の都はどうだったんだ?』

 お互い勝手に質問しながら、そのくせ意思の疎通は見事なものだ。
 光太郎はそんなチグハグな魔物の会話に耳を傾けながらも、交互に見比べては首を傾げている。

『相見えはしたがしくじった。この私がな、腹立たしきことよ』

『王の計らいで授かった贄だ』

 返答もやはり互いに行うのは、どうやら彼らのくせらしい。

『魔王の贄だと?ほほう!彼の地より馳せ参じたが、どうやら刻限には間に合わなかったと言うことか。これはまた口惜しい』

『良ければくれてやりたいところだが、生憎と王の命令じゃ仕方ねぇ。お前がしくじったってことは、相手は沈黙の主だったと言うことかい?』

 ゼィと呼ばれた青紫の風変わりな色合いの髪を持つ、思慮深い面立ちの青年は、そのくせ忌々しそうに「チッ」と舌打ちした。

『此度こそは捻り潰してくれたものを!人間は幾許か小賢しく出来ているらしい』

『沈黙の主じゃ仕方ねぇな。相手が悪かったと王に報告しとけや』

『そう致そうかな、ふん。シューもせいぜい人間の世話を小まめにすることだ』

 はははっと笑って手を振るゼィは、一方的に会話を打ち切って立ち去ってしまった。
 優雅な身のこなしにシューとまるで相反する魔物であるゼィに目を奪われていた光太郎は、荒々しい鼻息と共に歩き出したシューのタテガミの中からちょこんと覗く耳を引っ張って首を傾げた。

「今の人は誰?シューより人間っぽく見えたけど…シューよりも怖そうだった」

『俺より怖いぞ。だからヤツの前では決して”人間っぽい”なんて言わないこったな』

 ギロリと睨んでニヤッと笑うシューに、光太郎はちょっと考えてからブルブルッと身体を震わせてシューの耳から手を離すと、肩の飾り物のように大人しくした。

『高等魔族に有り勝ちのアンチ人間なゼィと言う魔物さ。俺と同じく魔王の左腕だと謳われている将軍で、怒らせると何処にいてもソイツを八つ裂きにしちまう怖いヤツだ。あれでお前の世話がしたいなどとほざいているんだから、魔王も他の連中も目を白黒させたって仕方ねぇんだよ』

 他人事ではあるのだが、まさしく他人事だとでも言わんばかりに肩を竦めたシューに対して、光太郎はそうなのかと頷いてそれから徐に首を傾げる。

「そう言えば、ずっと気になっていたんだけど…シューたちに俺が人間だってことはバレてるんだよな」

『…』

 不意にピタリと立ち止まった魔物は、呆れているのか怒っているのか、恐らく前者の気持ちで肩に乗っかる珍妙な生き物を睨み付けた。

『お前は俺たち魔族をバカにしてるのか?あのな、光太郎。俺だって人間は嫌いだ。何を考えてるのかも判らんし、同族を裏切ってもへの河童みてーな連中には吐き気だってする。そう言う連中は臭いで判るんだ。くせー臭いがプンプンする』

「匂い?ふーん、匂いかー」

 そう言って徐に自分の腕に鼻を擦り付けてスンスンと匂いを嗅いでみる光太郎に、シューは肩を竦めて首を左右に振ると溜め息を吐きながら歩き出した。

『大方お前たち人間には判らねーよ。特にお前みたいな能天気な人間には月が100万回昇ったって気付きゃしねー』

 悪態を吐く魔物に、それでも光太郎はニコッと笑って見せた。

「魔族は人間が嫌いなんだなー…でもそうか。それでもシューは俺と一緒にいてくれるんだよな?だったら俺、あんまり寂しくないや」

 唐突な光太郎の台詞に面食らったかのように一瞬前のめりになったシューは、慌てて体勢を持ち直すと、今度こそ本当に呆れたような目でニコニコと笑っている小さな人間を見つめてしまった。

『…人間は魔物を怖がるんだがなぁ。なんと言うかお前は、ちょっと変わった人間のようだ』

「へ?そうかな。んーと、それは多分俺に順応力があるからだと思うよ。この間さ、友達と山にキャンプに行ったんだけど、これが傑作で!案の定と言うか、俺たち見事に道に迷っちゃってさー。山ムカデとか蛇とかいて、それでも冒険だーとか言って華麗に下山して見せたよ。でももう少しで行方不明とかなるところだったんだけど、サバイバル状態に順応していたんだと思わないか?」

 ある意味では自慢しているようにも聞こえる話をペラペラとしながらも、いや待てよと思い直したのか、後半は少し不安そうに眉を寄せて尋ねる口調に変わった光太郎を、最早珍妙な生き物以外の何ものでもないと判断したのか、シューは今度こそ関わり合いにならんぞと意志を固めて吐き捨てるのだった。

『…何を言ってるのか全く判らん』

Ψ

 シューに案内された部屋は、当初軟禁されていた魔王の部屋に比べると段違いに狭く調度品も安っぽいものになっていた。どちらかと言うと、元の世界で住んでいた部屋を洋風にしたような感じである。
 いや、もしかしたらパソコンなどがあったのだから、自分の部屋の方が豪華なのかもしれない…と、光太郎がそんな思いに駆られているその時、シューが荒々しく鼻息を吐き出して腕を組んで言ったのだ。

『さて、どうしたものかな?』

 こうして瘴気によって厚いベールを掛けられてさえいなければ、南に面した窓からは心地の良い日差しが射し込んだだろうに違いない部屋は、王城の南に位置する尖塔にあった。そこは魔物の居住区になっているのか、並ばれた部屋の各々に、それぞれ魔物が生活している気配がある。
 魔王の居城を隈なく探索した光太郎は、その構造を熟知とまではいかなくとも良く知ることができていた。だがここが何処で、どんな場所であるのかと言う事までは判るのだが、何を行うための場所…と言う事は未だに判らないでいる。
 ただ、そろそろ地下にある調理室では今夜の食事の用意が出来ていることだけは確信していた。
 既に肩から強引に半ば叩き落されていた光太郎は、グーと腹を鳴らしながらちょっと照れ臭そうにシューを見上げて腹を擦っている。
 腕を組んで思案に暮れていたライオンヘッドの魔物は、自分を見上げている恐れ気のない風変わりな人間を、それはそれは奇異の眼差しで見下ろしたことは言うまでもない。

『そうか、腹が減ったのか…まずは飯の調達だな』

「うんうん♪あ、それからシュー。俺、ずーっと不思議に思ってたんだけど、シューたちもやっぱりご飯は食べるんだな。でもやっぱアレなのかな。食材はやっぱその、えーっと…捕まえた人間をその、うーんと、調理したりとかその…」

 小躍りしそうなほど喜んでシューの申し出を受け入れた光太郎だったが、やはり後半から何か不安を感じたのか、それともずっと抱えていた不安だったのか、陽気な性格には珍しく眉を寄せて小首を傾げている。
 その仕種を黙って見ていたシューは、ムクムクと湧き起こる悪戯心を抑え切れなかった。

『まあ、そうだろう。今夜、調理室にいるベノムに聞いてみるといい。案外ヤツは、魔族には珍しく人間好きなヤツだからなぁ…』

 クックックと笑うシューに恐れをなした光太郎は、調理室で何でも話を聞いてくれたり、昔話を聞かせてくれたりする年老いたベノムと言う名の調理長を思い出して、あんなにいい魔物が!と思いながらも怯えて震える自分に気付いて嫌になった。
 その魔物の料理を口にしてしまっていた自分が、その時になって物凄く浅ましく、先ほど言ったシューの言葉を思い出して死にたくなってしまうのだ。

[同族を裏切ってもへの河童みてーな連中]

 それはまさしく自分に言われた言葉だったのだと、今更ながら気付いて、光太郎は大きな目に涙をいっぱいに溜めてそれをボタボタと零しながら泣いてしまった。

『うお!?なんだ、いったいどうしたって言うんだ!?』

 まさか泣かれるとは思っていなかったシューは、能天気であっけらかんとしてる光太郎の、その突然の涙に恐れをなしてしまった。それも号泣と言うのではなく、俯いたままボタボタと涙を零しながら「どうしよう、どうしよう」と呟いている姿は滑稽と言うよりも、何とかしてやらないと本当にどうにかなってしまいそうな危機感さえ漂っていた。
 さすがに慌てたシューは、それでも意地悪く尋ねるのだ。

『その涙はなんだ?喰らった人間に対する懺悔の気持ちか?それとも喰らった自分を哀れんでいるのか?』

「判らないよ!両方かもしれないけど、でも今、俺、すげー生きたいと思ってる。人間を食べるなんて信じられない、うッ…でもそんな、ベノムがそんなこと…でも魔物には仕方ないことで…ッ…ぅ…どうしたらッ…俺は…」

 頭を抱え込んで座ってしまった光太郎を、シューは先程とは少し違う視線で見下ろしていた。
 人間は同族を裏切ってもへの河童で、ましてや魔物の身の上の心配などしない、冷酷を絵に描いたような【沈黙の主】のような偽善者だろうと思っていた。
 しかし、今目の前に居る小さな人間は、自分は生きたいと純粋に訴え、偽善的な気持ちもあるし信頼していた魔物の裏切りを信じられずに泣いてもいる。その姿は、不思議なことに、この長い年月を生きてきたシューにとっては当に初めて目にする体験だった。

(魔物を信頼している人間だと?)

『…クッ。ゼィの前じゃ言えねー台詞だぜ、全く』

 どうしよう…と震えながら俯いて座り込んでいる光太郎の傍らに立ったシューは、小さな人間の脇腹を抱えてまるで荷物か何かのようにヒョイッと肩に担ぎ上げてしまった。ぶらんっと両手と両足を投げ出すようにしてなすがままになっている光太郎は、虚ろな目をして床を見つめている。

「俺、ご飯要らない。食べなくても大丈夫だから…うん」

 まるで言い訳のようにブツブツと呟く光太郎に、シューは溜め息をつきながら、まさかこの能天気な人間がここまで繊細に物を考えるとは思ってもいなかったとでも言いたそうな、心外そうな表情で鼻息を荒々しく吐き出した。

『俺たち魔物も人間も、喰うモノはみんな一緒だ。人間なんか喰えるかって。それでなくてもくせーのに、その肉を口にするのかと思うとゾッとするぜ。そんなモンを喰えるのは低級な魔物ぐらいだ。森ならいざ知らず、この城にそんな低級魔物はお呼びじゃねーよ』

 心底嫌そうに眉を寄せるシューに、それまでカタカタと震えていた光太郎の、虚ろな双眸に俄かに生気の光が戻ってきた。

「…ってことは、魔物も普通にご飯を食べるってこと?」

 シューの肩の上でバッと顔を上げた光太郎に、シューはフンッと鼻を鳴らして外方向いた。

『当たり前だろーが。お前本気で魔族をバカにしてるだろ?』

「ううん、そんなことないよ!そうか、魔物でもやっぱり普通の食事なんだ。良かったー、俺人間を食べてなくて。そんなことしてたらもう、本当に生きていく自信がないもんなぁ…ってことは、ベノムはやっぱり普通に俺と会話してくれる良い魔物だったんだ」

 嬉しそうにシューの肩の上で喜ぶ光太郎を、ライオンヘッドの魔物は複雑そうな気分で黙り込んでいた。

(…良い魔物ってお前)

 なんと返事をするべきなのか…それすらも疲れたようにシューはガックリと項垂れたくなる気持ちを引き締めて部屋を出た。肩の上では鼻歌でも歌い出しそうな上機嫌の光太郎の腹が、主の代わりにグーグーと大合唱している。
 現金なものだが、今時の中学生を知らないシューにとって、それは当に青天の霹靂の出来事だったことは言うまでもない。

『シューじゃねーかよ。暫く見ない間に人間を飼い馴らしてんのかい?』

『バッグスブルグズ、お前は呼んじゃいねーよ』

 フンッと鼻を鳴らすシューに、馬面の魔物は肩に担がれている光太郎の顔をニヤニヤと笑いながら覗き込んできた。その馬面に、光太郎が屈託なくニコッと笑いかけるから、シューとしては面白くない。
 バッグスブルグズを追い払うようにシッシと手を振りながら、光太郎から遠ざけようと身体を捻るシューに、馬面の魔物はニヤニヤ笑いを顔面いっぱいに広げながら、何か面白いものでも見つけたような表情で今度はシューの顔を覗き込んだ。

『お呼びじゃねーとはひでーな。チビの人間を連れてどこに行こうって言うんだ?ええ、御大将さまよ』

『バッグスブルグズ、その馬面をペシャンコにされたくなかったらとっとと立ち去ることだ。判ったか?』

 シューは本当にこのバッグスブルグズと言う魔物が苦手なのか、褐色の鞣革のような皮膚に覆われた隆々の筋肉質な腕に産毛を逆立てて、不機嫌そうに威嚇でもするかのように唇の端を捲り上げている。どうやらシューの天敵のようだと見て取った光太郎は、大人しく口を噤んで事の成り行きを興味深そうに見守った。

『お前さんの行動は逐一判ってんだ。大方余程大事な人間なんだろうなぁ。お前さんが肩に担ぎ上げてるところを見れば一目瞭然だぜ』

 不意にシューの眦がギリッと釣り上がった。

 その全身から立ち昇る陽炎は、まるでドライアイスに水をかけたときに出る煙のように、静かにしかし確実に噴出す怒りのオーラのようであった。

 その気配にバッグスブルグズはブルブルッと身震いし、光太郎は肌を焼くようなチリチリとした感触に背筋が凍るような、あの魔王を見たときに感じた嫌な汗が背中に滲み出て首を竦めてしまう。

『おお、おっかねぇなぁ!はいはい、俺は潔く退散することにしますよッ!』

 さすがにシューの凶悪なほどの機嫌の悪さに気付いたのか、バッグスブルグズは両手を降参したように挙げて愛想笑いを浮かべながら後退さると、そのままヒョイッと駆け足で姿を消してしまった。
 思ったよりも小心者の魔物のようだ。
 しかし、たとえ小心者でない魔物だったとしても今のシューには誰もが怯えてしまうだろう。その気持ちは今の光太郎にも充分良く判る。
 だが、バッグスブルグズが立ち去ると同時に消えた怒りの後は、光太郎が良く知るシューの気配が戻ってきて光太郎は俄かにホッとした。

『チッ!いちいちと目障りな野郎だ。魔王の命が出れば一瞬で捻り殺してやるんだがなぁ』

 そんな物騒なことを言ってズカズカと歩き出したシューに、肩の上からバッグスブルグズの消えた回廊を見送っていた光太郎が、燃え上がるような鬣をグイグイと引っ張りながら笑った。

「魔物ってホントに色んなヤツがいるんだなぁ。人間もそうだけど、よく考えたら俺たちって良く似てるな!シューはそう思わないか?」

『思うか』

 即答はしかし、然程苛ついた様子もなくて、調子に乗った光太郎はまたしてもペラペラと話し出す。

「俺が住んでいた世界だと、こんな風にRPG的な世界観だと必ず同じ台詞が出るんだよなぁ。”どうして魔物と人間は争わずに暮らせないのでしょうか”とかね。それはやっぱり価値観の違いだと思うんだけど、どうかな?人間同士だって価値観の違いで戦争とかするんだよ?ましてや考え方が違う魔物と仲良くしようなんて言うのは、やっぱり人間の方がまずは人間同士で仲良くしてお手本を見せないといけないんじゃないかって俺は思うけど。シューはそう思わない?」

 古びた石造りの階段を、壁に掛けられた松明の明かりを頼りに、いや、そもそも夜目には慣れている魔物は敏捷な足取りで下っている。普通の人間よりも、そして下級の魔物よりも、高等であるが故に全てに於いて秀でているシューにとって、城内は目を瞑っていてもスイスイと行動することができるのだろう。

『人間同士は無駄にベタベタしていると俺は思うがなぁ…そのくせ平気で裏切ることができる。そこが俺たち魔族には判らないところだ』

「魔族って裏切らないのか!?」

 驚いたように尋ねる光太郎に、シューはちょっとムッとした様な顔をして唇を尖らせた。
 光太郎が暮らしていた世界の常識では【魔】と名がつくモノに良いものなどいないし、ましてや魔の根源たる【魔族】でありながら裏切りと言う行為を平気でしていないと言うのは、それこそありえない状況ではないのだろうか?
 光太郎が驚いたとしても、それは仕方のないことである。

『全くない!…などと清廉潔白なことは言わん。そりゃあ、裏切るヤツもいれば寝返るヤツだっているさ。だが、魔族は掟を決めてそれを取り締まっている。余程悪行をこなしたヤツなら話は別だがな』

「んー、どう言うこと?」

 首を傾げる光太郎に、シューは肩を竦めながら言葉を続けた。

『悪行をこなした連中はそれなりの位がつくのさ。位と言うのがまた厄介な話なんだが、俺たち魔物はそれぞれに魔力と言うものを生まれながらにして持っている。その強さは外見に反比例して備わっているからな、ゼィのように弱っちそうに見えても力は強いぞ。まあ、アイツも俺も昔は相当悪さをしていたからなぁ…』

「シューは悪い魔物だったのか」

 光太郎が笑ってそう言うと、頭部がライオンそのものの魔物はその時になって初めてプッと吹き出した。

『光太郎は本当にヘンなヤツだな。人間から見れば魔物はみんな悪いんだろーがよ?』

 どの世界でもやはり人間は魔物を毛嫌いして、魔物は人間を毛嫌いしているのだろう。そこは光太郎には判らない歴史の流れと言うものがあるのだから、それ以上は何も言わないでいたが、こうして触れ合ってみると、然程魔物が悪さをする…とは思えず、それどころか案外親しみ易い気のよい連中だと言うことに気付けるのになぁ…と思っていた。
 ヤンキーと呼ばれる不良少年達が、意外と良い性格をしていて優しかったりすることを悪友を見ていて知っている光太郎は、いつかこの世界の【人間】が【魔物】の優しさに気付けるとしたら、もう少し平和な世界が訪れるんだろうと思った。
 でもそれは【人間】だけの努力じゃどうにもならないことで、【魔族】も共存の道を歩むことを真剣に考えて歩み寄れればの話なのだが…恐らくそうしたことが無理だったからこそ、この世界の空は暗いのだろうと光太郎は内心で小さな溜め息をついていた。

「でも、悪い魔物だったシューは今は良い魔物になってるってことなんだろ?」

 ニコッと笑う光太郎に、シューは呆れたような困ったような表情をしながら、やれやれと耳を伏せて首を左右に振った。
 閉じた瞼の裏の鋭い双眸を見たとき、光太郎だって最初からシューに懐けたわけじゃない。
 【魔王の贄】と言う存在で特別視される状況に於いて初めて、シューと関わりを持つことができたのだ。もしこれがこの世界の普通の住人として出会っていたのであれば、シューは当たり前のように光太郎を殺すだろうし、光太郎も当たり前のようにシューに戦いを挑むか逃げ出すかのどちらかだったに違いない。
 長年培われてきた習慣を拭い去ってなお歩み寄ることなど、社会のことに疎い光太郎でも知っている、歴史問題でざわめく日中の関係となんら変わりはないのだろう。
 いつか判り合える時が来たときこそ、本当の平和に辿り着けるのかもしれない。

(難しいんだろうな。シューだって、ホントは俺のこと迷惑だって思ってるにちがいないんだから…)

 人間などに関わる事など、本意では決してないのだろう。
 魔王の命令でなければ、それこそ、バッグスブルグズのように八つ裂きにされているのかもしれない。

(それでも)

 光太郎はふと思う。

(シューしか頼れる人はいないんだ。殺されてもいいから傍にいたいって思うことは、ヘンなのかな?)

 無造作に担いでいるシューのともすれば愛嬌のある横顔をチラリと見た光太郎は、子供のように下唇を突き出してフイッと視線を逸らしてしまう。なんだか、とんでもなく恥ずかしいことを考えてしまったのではないかと思ってバツが悪くなったのだ。

『良い魔物かどうかなんてこた、そんなものが果たしてこの世に存在しているのかどうかを問うようなもんだな。そんなこた俺には判らねぇってのが返事さ』

 律儀に答えてから、そんな自分がおかしかったのか、肩を竦めたシューがヘッヘッと鼻先で笑った。
 そんなシューに、光太郎は大きく頷いてまるで宣言するように言ったのだ。

「じゃあ、シューは良い魔物なんだよ。俺はそう思うよ」

 照れ隠しついでにエヘヘと笑って見せると、シューは何やら不機嫌そうに鼻を鳴らしてフンッと外方向いてしまう。
 そんなシューに首を傾げる光太郎を見向きもせずに、ライオンヘッドの魔物はわざとらしくズカズカと乱暴に石造りの階段を足早に下りて、小さな人間の身体を大きくバウンドさせてしまった。

「わッ、うッ、わ!」

『魔物が良いヤツなんて言われて喜べるかよ』

 そんなシューのそれが、実は照れ隠しなんだと言うことに、光太郎が気付くのはもう少し先のことになる。
 腹の虫が大合唱を始めだす頃、シューと光太郎は魔王の居城の名料理長ご自慢の食事が並ぶ食堂に辿り着いていた。

第一章.特訓!25  -遠くをめざして旅をしよう-

「ガルハ帝国で立太子の儀式が執り行われるだって?」

 デッキチェアに長々と寝そべる獰猛そうな肉食獣を思わせるレッシュの台詞に、耳を欹てる彰はデッキブラシを杖代わりに振り返った。

「へい。物見鳥が言うには、同時に賞金稼ぎの選抜大会も行われるらしいですぜ」

「へー、ルウィン野郎め。とうとう年貢を納めるときがきたか」

 クックックッと楽しげに笑うレッシュの態度から、口にされたルウィンと言う人物とは少なからず交流があることは窺われる。しかし、憎まれ口のわりにはそれほど快く思っていないことはないのだろう。
 ヒースの肩で羽根を休めている物見鳥…美しいエメラルドの羽根と長い尾を持つ見たこともない鳥を暫く物珍しそうに見詰めた後、彰は興味深そうにレッシュに視線を戻し、その視線をそっくり朝焼けの太陽のような髪を持つ獅子のような男に絡め取られて吃驚したように目を見開いた。 

「好奇心丸出しだーってツラして可愛いヤツだな」

「ぶっ!」

 頬杖をついたまま、ニヤニヤと隻眼を細めて海賊見習いの少年を眺めて冗談のように言うレッシュに、彰は思わず噴出して、それから、呆れたように肩を竦めるのだ。

「物見鳥?綺麗だなーと思っただけだ」

「ふん?海の上だと情報も少ねーからな。渡り鳥に聞いてもいいんだが、それだと偏った情報になっちまうだろ?その為に、世界中に物見鳥を飛ばしてるってワケだ」

 渡り鳥に聞くと言うのも不思議な表現だが…と、彰は思ったものの、パイムルレイールと言う空を飛べる種族もいるぐらいなのだ。鳥の言葉を操れる人間がいても少しもおかしくはない世界だろうと納得していたから、敢えてそれは無視を決め込んだ。

「ガルハってどこだ?」

「あん?気になるのか。そーかそーか。じゃあ、まずはそのデッキブラシをヒースに預けてここに来い」

 レッシュは面白そうな表情をしてデッキチェアの、寝そべっている自分の腹の前の空いた場所をポンポンッと叩いてから手招きをする。
 今は眠りについている件の鳥人の皇女ならば喜んで座っている場所だが、デッキブラシに体重を預けている彰は胡乱な目付きをしてレッシュを睨んだ。

「どうして話を聞くのに、レッシュの傍に行かないといけないんだ?」

 そりゃそうだと、ヒースもお頭の性質の悪いジョークにヤレヤレと内心で溜め息を吐いたものの、一度これだと言い出したら聞かない暴れん坊である、ヒースは肩を竦めながらやはり内心で彰にご愁傷様だと呟いていた。
 しかし、彰がこの泣く子も黙る『女神の涙』号に乗船してからと言うもの、レッシュの関心は常に彰にあるから、船内はこの上ない平穏な日々を保っている。
 レッシュの気紛れで鼻を圧し折られる連中もいなければ、寝起きが魔物のように悪いレッシュの毒牙にかかって前歯を折る連中もいなくなった…と言うのも、彰が起こしに行くようになってから、レッシュは魔物のような仏頂面はするものの、飼い慣らされたライオンか何かのように大人しく起きるようになったのだ。おかげで、彰が前歯を失くすことはないようだ。たとえ、世界中が畏怖する竜使いだとしても、今のヒースたちにしてみればこれ以上はないファタルの御使い様様である。

「どうしてだと?そんなの決まってるだろ、俺が来いと言ってんだ」

「…暴君だ」

 それ以外に言葉が思い付かない彰は、ムスッと唇を尖らせて悪態を吐いた。
 それはそれで十分、レッシュを満足させているのだが、それでも今は邪魔をするシュメラもいないのだから、思う様、彰をからかいたくてウズウズしているレッシュはさらに追い討ちをかけるようにポンポンッと自分の腹の前の空いた場所を叩いてウィンクする。

「ほら、来いよ?じゃねーと、お前の知りたい話は何もしてやらんぞ」

「…」

 彰はムッツリと唇を尖らせたまま、ヒースに乱暴にデッキブラシを預けた。
 その様子を見て、レッシュは素直に自分の言うことに従おうとする彰の態度が嬉しかったのか、隻眼を細めてニヤニヤと笑っている。
 兎に角、レッシュは彰が素直に従うとこの上なく嬉しそうにするのだ。
 それがヒースに一抹の不安を植えつける。
 いや、彰の教育係であるヒースだけではない。この『疾風』の意味を持つゲイルのメンバーの副船長を筆頭に誰もが、性質の悪いジョークだと思い込んでいるレッシュの彰に対する態度が、もしや本気だったとしたら…と一抹の不安を抱えているのだ。
 オマケに、それならそれでも別に構わないとさえ思い始めているのだから、自分たちで自分たちの頭を悩ませていると言うことに気付きもしない。
 このまま、彰がレッシュの傍にいるのなら、パイムルレイールの皇女が傍にいるよりも遥かに自分たちには有益だと考えているのだ。
 しかし、世界が欲する竜使いである彰が、このままずっとこの船に在る、はずなどないと言うことを、また、知らない彼らでもないのだが…
 ワクワクしているレッシュに眉根を寄せてムッとしている彰は、不意にニヤッと笑った。

「別にいーよ。俺、コック長にお話ししてもらう♪」

 お頭の休憩命令が出たのだ、どうして素直にレッシュの傍に行かなくてはいけないのか。
 もちろん、彰はウキウキした気分で踵を返そうとしたが、思わず呆気に取られていたレッシュが、ハッと我に返ってその細い背中に鋭く声を掛けた。
 そうでもしなければ、彰はすぐにでもコック長である、あの寡黙なネロの許に飛んで行ったに違いない。
 レッシュは何故か、それが面白くなかった。

「こらこら、待て!誰が食堂に行けと言った。ここに来いと言ったんだぞ」

「…」

 確かに、このゲイルではレッシュの言葉が全てであり、たとえ創造主が降臨したとしても、やはり、レッシュの意思に従わなければならないのだ。
 見習い海賊如きでは、それは絶対的な命令でもある。
 ムッと唇を尖らせて振り返る彰は、暫し逡巡して、それから諦めたように溜め息を吐いてからトボトボとレッシュの傍に行き、仕方なさそうに腰を下ろした。

「どんだけ嫌そうなんだ、お前は」

 当たり前のように腰に太い腕を回すレッシュの腹に背中を預けて、こうなってしまうと、彰はもう大人しくレッシュに身体を預けてしまうのだ。
 それは、一番最初にレッシュが彰に教え込んでいた行為で、その為、レッシュの傍に行ってしまうと彰はすぐに警戒心を解いてしまう。
 それすらも可愛いと思っているのだから…ヒースはうんざりしたような、彰、ご愁傷様の表情をして物見鳥を空に帰すと、青い顔をしたままで船の舳先に行ってしまった。

「嫌なモンは嫌なんだから仕方ないだろ」

 寄り添うように座っているくせに、可愛くないことを口にしてプイッと外方向く竜使いの顔を覗き込むようにして、それでもレッシュは隻眼でニヤニヤと嬉しそうだ。

「だが、話は聞きたい。そうだろ?」

「うー…まぁ、うん」

 ガックリしたように頷く彰の腹の辺りに背後から抱き締めるように回している腕に、彰は無意識でソッと手を置く。それは嫌だからと拒絶する意味ではなく、何か、心の拠り所を求めているような、それは自然と不安を持つ彰が覚えた行為のようだ。

「ネロに懐いてるみたいだが…」

 思わずと言った感じで口を開いたレッシュを、彰は訝しそうに眉を寄せて見下ろした。
 真っ青な空には雲ひとつなく、ピーカンの太陽を受けて生まれつき色素の薄い髪がキラキラと輝いて、きょとんとした表情が影になる顔を見上げたまま、レッシュは隻眼を眩しそうに細めたが、それ以上は何も言わずに首を左右に振った。

「まぁ、いい。ガルハだったな?あの国は竜騎士の流れを汲むハイレーン族が支配しているんだが…ハイレーンってのは、もともとはエルフと同じ種族だったのが魔族の介入で袂を分かれたんだよ。その一族の現在の皇子が、いい年をしてるくせに立太子もせずに放浪の旅をしやがってんのさ」

「へー。放浪の旅って…なんか、スゲー皇子さまだ」

 思わずと言った感じで彰が噴出すと、レッシュはやれやれと言いたげな顔付きをして溜め息を吐いた。

「まぁ、彼の国では笑ってもいられんだろうがな。なんせ、たった独りの皇子が賞金稼ぎなんかしてるんだぜ。海賊となんら変わりねーんだし、皇帝は頭を痛めてるだろうよ」

「賞金稼ぎ?…なんと言うか、ホントにハジケた皇子さまなんだな」

 そこまで聞いて、彰は心の底から呆れてしまった。
 どんな経緯があるのかは判らないのだから、あまり酷いことも言えないのだが、一国を担うべく生まれたはずの皇子が、国を省みずに海賊と同じようなヤクザな仕事をしながら放浪の旅をしているのだ。自分たちが生まれ育った世界では考えられない要人の行動に、彰は呆れを通り越して、一種の感動すら覚えていた。
 それだけハジケた皇子ならば、庶民の気持ちを理解する心を持ち合わせているのではないだろうか。

「現皇帝が存命の間は何でもする、ってのが、ルウィンの考えなんだってよ」

「ハジケた皇子さまの名前はルウィンって言うのか」

 彰が興味を示したように呟くと、レッシュは海よりの風に真っ赤な髪を弄ばせて、どうでもよさそうに首を左右に振る。

「正確には違う。賞金稼ぎには通り名ってのがあってな。ルウィンは通り名だ。本名はアスティア…なんて優しい名前をしているくせに、やることは守銭奴で、名は体を現していないヤツさ」

「へー…王族なのに守銭奴って、面白そうな人だな。俺、逢ってみたいなぁ」

 放浪しながら世界を旅している存在なのだから、恐らく、この船の住人たちよりも物事を理解しているのではないか…もしかすると、何処かで泣いているかもしれない兄弟のような少年の居場所を、或いは知っているかもしれない。
 ウルフラインの国に寄港した際に逃げ出したら、真っ先にその人を捜してみようかと思い、彰は諦めたように自嘲的に微笑んだ。
 容姿も何も判らない相手を、どうやって捜せると言うのだ。
 日頃はダレたライオンのようなレッシュは、直感力…と言うか、非常に勘の良いところがある。根掘り葉掘り、そのルウィンと言う賞金稼ぎのことを聞けば、ヘンな疑いを持って、漸く自由になった行動を見張られかねないのだ。

「アイツは世界中を旅しているからな。何時か会うこともあるだろうが、今は立太子するんで国に帰っているのか。あの国は今は立太子の式典から、ハイレーン族の賞金稼ぎのギルドが選抜大会を行うとやらで、随分と賑わってるんだろうな…お前がウルフラインの神竜と逢うのが遅くなってもいいってんなら、ガルハに寄り道してやってもいいんだぜ?」

「ホントか?!…あ、でも。また何か条件があるんだろ??」

 ワクワクと双眸を輝かせて自分を見詰めていた顔にパッと嬉しそうな微笑を浮かべた彰だったが、すぐに笑顔を引っ込めると、胡散臭そうな目付きをしてジトッとレッシュを見下ろした。
 それほど自分は彰に不信感を与えるような真似をしてきたのかと、今更、下唇を尖らせて面食らったレッシュは、空いている方の手で隻眼の目を覆った。

「…そうだな。今夜から俺の横で寝るんなら考えてやる」

 だが、ついつい口が滑ってしまうのは、拗ねたように眉を寄せる彰の顔が可愛いからだ。
 覆っているはずの指の隙間から盗み見れば、彰は困惑したように眉を寄せはしたものの、暫く逡巡して、仕方なさそうに頷いたのだ!

「判った。ガルハとか興味あるし。そのひとにも逢ってみたい。この世界のこと、少しでも知りたいからな」

 ムスッと不貞腐れる彰の腰を唐突に引き寄せて、レッシュは倒れそうになる彰の背中に顔を寄せた。
 あたたかな温もりを何故か必要だと思うようになって、気付けば手離し難い想いに駆られることもある。
 何時か、ウルフラインに行けば確実に手離さなければならない温もりなのに、どうしてこんなにも焦燥感に駆られてしまうのか。何時から自分は、温もりを必要とし始めたのか…
 レッシュは何も言わなかった。
 たとえば、どうしてそこまで彰がルウィンに興味を示したのか、気にならないと言えば嘘になるが、好奇心に双眸をキラキラと煌かせているのを見れば、自ずと答えは判るような気がしたし、何より、手離し難い衝動に駆られている自分は、ウルフラインまでの道のりを、ほんの少しでも遅れさせようと画策しているのだから、彰の行動を訝るよりも、自分自身の行動に瞠目しなくてはいけないのだ。
 レッシュは目蓋を閉じたまま想う。
 ある日、天から降ってきた少年は世界の運命を変える存在であったはずなのに…まるでその手始めだとでも言わんばかりに、炎豪だ、海の死神だと恐れられるゲイルの頭領の心すら変えて、気紛れな海のような底知れぬ穏やかさで興味も何もかもを掻っ攫ってしまった。
 恐怖と畏怖、そして偉大な実力を持ったファタルの御使いは飛び切りの美姫か、山のような大男だと信じて疑っていなかったと言うのに…振ってきた少年は何処にでもいる平凡な、レッシュにだけは警戒心丸出しで威嚇するくせに、些細なことで好奇心に双眸をキラキラさせて、胸の奥に久しく忘れていた少年の心を思い出せた非凡な存在だったのだ。
 手離せるか?と自分に問う。
 心の奥深いところで『否』と言う声を聞く。
 ウルフラインに連れて行くと約束した竜使いを、手離せずにいる自分のままならない心に戸惑って、立ち竦んだまま身動きも取れないレッシュは、傍らの温もりに縋るように両腕で抱き締めていた。
 少年はあまりに小さくて儚くて、力強く抱けば壊れてしまいそうなほど華奢だったが、それは彼が190センチはありそうな長身で体躯のガッシリした海賊だからだと、彰は鼻に皺を寄せて悪態を吐くだろう。
 それが楽しくて…やはり、心の声は『否』だと言う。
 海よりも冷やかで冷徹なはずの海賊の頭領は、燃え上がる情熱の焔に苦しんで、突然の出来事で目を白黒させて、不思議そうに小首を傾げる彰を抱き締め続けていた。
 海を渡る風が彰とレッシュの身体を一瞬包んで、そして何事もなかったかのように吹き過ぎていった。

第一章.特訓!24  -遠くをめざして旅をしよう-

「ルウィン、酷い。ウソツく」

「別に嘘なんか吐いちゃいないさ。現に、モースが魔物だなんて一言も言っていないぞ、オレは」

 それはそうなんだけどもと、光太郎はカウンターに腰掛けたままでムッツリと俯いてしまった。
 そんな様子を見詰めていた緑の魔物…と、光太郎が勘違いしたラドン族のモースは、ニコニコと憎めない笑みを浮かべたままで、冷えたアルシュのジュースをカウンターに置いた。
 カランッと氷が小気味良い音を立ててグラスを冷やしている。

「まぁまぁ、そんなに喧嘩しないで下さい。せっかく、仲が宜しいのに」

「うっ!…べ、別にオレは仲なんかよくしていないぞ」

 ムスッと怒るルウィンに、モースはさらにニコニコと微笑んだ。

「僕、仲良くする。ルウィンのこと、好き。うん」

 物珍しげにアルシェの満たされたよく冷えているグラスを興味深そうに見詰めていた光太郎は、今ではもう、ちっとも怖くないラドン族のお喋り好きなモースを見上げてニコッと笑った。
 屈託のない笑みは、モースの心を温かくしているようだ。
 それでなくても、外見とは裏腹の人の好いモースである。彼が光太郎を気に入るのは当たり前のことではあったが、まさかモースに仲良しなどと言われるとは思ってもいなかったルウィンは、照れ臭さ半分の不機嫌さでクスコの酒が満たされたグラスを引っ掴むとバツが悪そうに呷るのだ。

「あははは、これは素直な方ですね。こう言っては失礼ですが、ルウィンさまのお連れさまだと言うのにお可愛らしいですね」

「オレの連れだと可愛い輩はいないってのか?」

 自分で言っておきながらルウィンは、ふと、首を傾げたが更にバツが悪そうに、苦虫でも噛み潰した顔をするから、話の展開に追いつけない光太郎は少し動揺したようにオズオズと不機嫌な銀髪の賞金稼ぎの顔色を伺ってしまう。
 それが更に拍車をかけるのだが、気付けない光太郎の屈託のなさにルウィンはつんっと先端の尖っている長い耳を伏せて、同じく眉まで八の字にしてやれやれと溜め息を吐くしかない。
 ルウィンの連れで、正真正銘に可愛い存在など、モースが言うように居た例などないのだから。

「わたしはラドン族のモースと申します。この酒場、『アンカー』で給仕の仕事をしています」

 そんなルウィンを爽やかに無視して、モースは物珍しいお供を細い目を更に細めてニコニコ笑いながら丁寧な自己紹介をした。
 光太郎はどんな顔をしたらいいのか判らずに、取り敢えず、水滴の浮いたグラスを掴んで咽喉を潤しながらルウィンの横顔を見上げていたが、モースの満面の笑みにニコッと頬の緊張を緩めると、たどたどしい共通語で答えた。

「僕は…えーっと、カタ族です。そして、コータロー、言う」

「コータローさまですか!珍しいお名前ですね。でも、カタ族ならそんな名前があったとしても、けして不思議ではありませんね」

 カウンターの向こう側で忙しなく酒やジュースの準備をするモースが、幾度か反芻して頷きながら、自分を指差して一生懸命に自己紹介している光太郎に微笑んだ。
 自分の言葉が少しずつではあるが通じているのだと安心した光太郎は、ホッとしたように笑う。
 そして、すっかり安心しきった様子で、傍らで呆れたように眉をヒョイッと上げて微かに首を傾げたような仕種をしたルウィンを見上げるのだ。

「ルウィン、よかた。僕の言葉、通じるね」

「そうだな。もう、不自由はしないな」

「うん」

 頷く光太郎の、罪のない漆黒の髪を見下ろしながら、ルウィンは青紫の神秘的な双眸を、何か眩しいものでも見た人のように細めてしまった。

「?」

 不思議そうに光太郎が首を傾げた丁度その時、やたらハイテンションな音声が響き渡って、驚いたなんちゃってカタ族の少年はビクッとしたように首を竦めたが、銀髪の賞金稼ぎは慣れてでもいるのか、いや、光太郎がよくよく見渡してみれば、その音声に驚いている者など誰もいない、ましてや、待っていましたとばかりに様々な種族の人々が嬉しそうな顔をしているのだ。

(な、なんなんだろ??)

「あっらぁ~、ルウィンさまじゃないのぉ。お元気でしたぁ??」

 うっふんと、大柄な体躯をビチビチのボディコンで装備した、やたらゴツイおねぇさんは、何やら野太い声で叫ぶようにそう言うと、憎めない垂れ目の下の泣き黒子のセクシーさに光太郎が声も出せないほどぶっ魂消ていることはさらっと無視で、不機嫌そうな銀髪の賞金稼ぎに思い切りタックルするのだ。

「…まあな」

 そうなることは予め判っていたのか、同じように先端の尖った耳を有する、どうやらルウィンと同じ種族であるらしい強烈なゴツイおねぇさんを首に噛り付かせ、テカテカのグロスが塗りたくった唇でぶちゅぶちゅと頬にキスの歓迎を受けながら、銀髪の賞金稼ぎは不機嫌そうに呟いた。

(でも、けして嫌がりはしないんだな)

 不機嫌そうではあるけれど、もう慣れているのか、それとも、ルビアがルーちゃんと呼ぶことに対する違和感のなさと同じなのか…いずれにしても、ルウィンは嫌がることなく受け入れているのだ。

(普通なら、これだけ美形の人だと、変なことされたとか、嫌なこと言われてるって思って口もきかないと思うんだけどなぁ…)

 アルシュのジュースを飲みながら光太郎は、まるで全てが当たり前で、自然なことだとでも言わんばかりに雪白の頬にベッタリと熱烈なルージュの痕を残したままで肩を竦めるルウィンを見上げていた。

「ルウィン。うん、最強」

「…は?」

 嫌そうに頬を拭うでもなく、ゴツイおねぇちゃんの熱烈な歓迎をそのままで、酒の入ったグラスを傾けるルウィンに、慌てたようにモースが綺麗な布でその頬を拭うのも、やはりルウィンは、当たり前のことのように受け止めている。
 恐らく、目の前で繰り広げられている一連の出来事は、彼がすっかり馴染んでしまうぐらいには、日常茶飯事で起こりえることなのかもしれない。

(それなら納得できる…ってことで、ルウィンは最強だよ)

 納得だと頷いてる光太郎を、不思議そうに見下ろすルウィンの傍らで、漸く思いの丈を込めた歓迎が終わったのか、口許に笑みを浮かべたままのゴツイおねぇちゃんが嬉しそうにそんな少年の身体を思い切り抱き締めた。

『うわぁ!』

 問答無用で抱き締められてしまって、嫌がって逃げるどころか、どう対応していいか判らずに硬直してしまった光太郎は、ああそうか、と思うのだ。
 きっと、ルウィンも硬直してるんじゃなかろーかと。
 まさか、そんなはずはないのだろうが、肩を竦めるルウィンに、ビチビチボディコンのゴツイおねぇちゃんがウィンクする。

「可愛いお連れさんね。ルウィンさまの新しいお小姓さん?」

「ぶっ」

 思わずと言った感じで噴出すルウィンのテーブルに腰掛けた深紅の飛竜が、面白そうにその顔を覗き込んでいるのは愛嬌だろう。

「違う、僕は…コータロー」

 お小姓の意味などこれっぽっちも判らなかったが、明らかにルウィンの態度と面白がっているルビアの様子から、どうやらあまり宜しくない発言なのだろうと受け止めた光太郎は、抱き締められたままでブンブンッと首を左右に振って否定した。

「あらん~、違うのねぇ。じゃあ、コータローちゃんはなぁに??」

「カタ族」

 頷きながら応えると、ボディコンのパッツンパッツンなおねぇちゃんはニヤッと口許に笑みを浮かべたままでルウィンを凝視していたけれど、すぐに身体を離して不吉だと噂される黒髪と黒目のカタ族を名乗る少年を見下ろした。

「あたしはキティよ、コータローちゃん。この酒場『アンカー』の女!主人よ。あなた、気に入ったわ♪」

 女に微妙な力加減を感じ取ったものの、思い切りゴツイ頬で頬擦りされてしまうと、綺麗に処理しているはずなのにそれでも消しきれない男臭さにか、それまで緊張していた肩の力が抜けて、ああなんだ、ここの店主さんなのかと光太郎はあからさまにホッとしたようだった。

《ホッとするのはヘンだと思うの》

 鋭いルビアの突込みではあるが、今の光太郎にはもちろん通用しない。

「ドンちゃん、キティ、会うが楽しみでした」

 ニコッと笑って、その時になって漸く、ルビアは光太郎がホッとした理由が判ったのだ。

《なんなのね、てっきり気に入られてホッとしたのかと思っちゃったのね》

 つまらなさそうに元から尖っている口先をさらに尖らせるようにして呟くルビアに、不吉だとされる漆黒の髪と瞳を持つカタ族の少年を大切そうに抱えた、ガルハ帝国の首都ラングールの中心部に位置する無国籍の酒場『アンカー』の店主にして、元王宮近衛隊の隊長であったドン・バロモアはニヤリと笑ってグロスの塗りたくられた厚めの唇を窄めた。

〔ルウィン様がこの少年をこのバーにお連れになったと言うことは、それなりに何か理由があるのですね?〕

 不意に、口調を改めてガルハ特有の言語で語るバロモアをルウィンは見遣った。

「…」

 言うべきなのか、それともいっそ、このまま連れ去ってしまうべきなのか…拾った異世界の少年は、長く傍に在れば在るほど、離れがたい何か不思議な力を持っているようだった。
 バロモアに促されても即答できない自分に驚くと同時に、意味深な眼差しで心の内側までも見透かしてしまいそうな旧い付き合いの師匠に、その全てがばれてしまわないかと不安にもなる。

(どうかしている、不安になるなんて…)

 仄暗い店内に燈るオレンジの蝋燭の明かりは、ルウィンの頬に暗い影を落とした。

「?」

 バロモアに抱き付かれたままで不思議そうに見詰めてくる光太郎の、そのきょとんっとした漆黒の瞳を見つけて、この国の第一皇子は自らの立場を思い出したようだった。

〔すまないが、バロモア〕

 同じくガルハ特有の言語で語るルウィンを見上げて、光太郎の眉がソッと寄った。
 この言語が飛び出す度に、何故か、自分を拾ってくれた銀髪の賞金稼ぎは何か言いたそうな、もどかしい表情をしたままで口を噤んでしまう。
 何か言いたくて、言えなくて…

(それがなんなのか、俺は凄く知りたいのに)

 一抹の不安がまたしても胸を過ぎった。
 思わず唇を噛む光太郎に気付くことなく、ルウィンの問いかけに、バロモアはふと神妙な顔をした。
 それが余計に、光太郎を不安にさせていた。

〔暫く、コイツを預かってくれないか?〕

〔暫く…と申しますと、皇子、もしやまた城を空けられるおつもりですか?〕

 まさかその部分を指摘されるとは思わなかったのか、思わず呆気にとられそうになったルウィンだったが、気を取り直したように咳払いをして眉間に皺を寄せた。

〔当たり前だ、用事が済めばとっとと出て行くさ。父上の治世が続く限り、オレが国に留まる必要はない。オレは、多くをこの目に焼き付けて、この国をさらに発展させなきゃならないんでね〕

 悪戯っぽく苦笑するルウィンを見詰めて、そうして、バロモアは小さく溜め息を吐いた。

〔…皇子、あなたはそうして、御身の宿命を受け入れる旅を続けられるのですね〕

〔それは関係ないさ〕

 さらにクスッと笑うルウィンに、どうしてと、バロモアは考える。
 この美しく気高い、そして下世話さをも併せ持つこの国の国民の誰もが愛する皇子に、運命はこれほどまでに過酷な試練を与えるのだろうか…と。

〔それなのにあなたは、さらにこの少年の運命さえも背負おうとしているのですか〕

 呆れたような、なんとも言えない表情で見詰めてくるバロモアに、ルウィンはやれやれと言いたそうに、長くピンッと立っている先端の尖った長い耳を伏せて、大人しく『アンカー』のママに抱かれている光太郎を見下ろした。

〔仕方ないさ。拾ってしまったんだ、最後まで面倒をみないとな〕

 それでも、僅かに覗く嬉しそうな表情に、バロモアはおや?と眉を顰めた。
 ルウィンのそんな表情は、彼が子供の頃から剣の師範をしていた自分が、初めて見る表情だった。

〔…判りました。ご安心ください〕

 バロモアはニッコリと笑って快く承諾した。
 どうせなら、この国が何よりも大切に考えている第一皇子のたっての願いだし、何より、火吹き竜と恐れられた彼にこんなやわらかな表情をさせる、不吉の象徴でしかない筈のカタ族の少年を傍で見守りたいと思ったのだ。

「すまないな、キティ」

「あらぁ、ルウィンさま♪この子ったら可愛らしいから、客受けバッチリですわよ」

 うふふふ…ッと不気味に笑うバロモアを光太郎が不安そうに見上げると、その仕種にルビアが顔を顰めた。

《光ちゃんはダンサーには向いてないのね!》

『ダンサー!!?』

 ルビアのとんでもない発言に、素っ頓狂な声を上げた光太郎は、あわあわと慌てふためきながら首を左右に振って、今にも泣き出しそうな表情でルウィンに両腕を差し出した。

「ダメ、僕…踊るしない。ルウィン、ごめんちゃい。置くしない、連れて行く」

 一抹の不安…それは、置いて行かれるのではないかと言うこと。
 光太郎が何よりも心配していたのは、この場所に、いや、何処でも、ルウィンのいない場所に置いて行かれることだった。
 だから、必死にごめんなさいと謝るのだ。

「何を謝ってるんだ?馬鹿だな、仕事が入ってるんでね。その間、バロモアに面倒を見て貰うように頼んだのさ。別にダンサーにするなんて言っちゃいないだろ?」

「でも!…ルウィン、戻ってこないかもしれない。僕、心配。連れて行くッ」

(何か悪いことをしたんだったら謝るから、だから、お願いだから置いて行くなんて言わないでくれよッ)

 日本語で言えないもどかしさに、どう話せばルウィンが理解してくれるのか、それが判らなくて光太郎は頭を掻き毟りたい衝動に駆られるのだ。
 もしかしたら、もうこのまま会えなかったらどうしよう。
 光太郎の頭は、傍目からでも判るほどグルグルしていたから、ルウィンは驚いたように眉を跳ね上げて、それからバロモアに腕を放すように促して光太郎を解放させた。
 不意に抱き付いてくるその行動を、ルウィンは予め予測していたのか、驚いた風でもなくやれやれと溜め息を吐く。

「別に、迎えに来ないとは言っていないだろ?一仕事終えたら、ちゃんと迎えに来てやるさ。キティにそれほど迷惑もかけられないからな」

「ルウィン、仕事危険。ダメ、僕も行くッ」

 光太郎が何より心配しているのは、置いて行かれること。
 何故なら、ルウィンの仕事がどれほど危険で、そして、命懸けであるかを知っているからだ。

「…ああ、お前。別にダンサーになるのが嫌なわけじゃないんだな」

(いや、十分、それも嫌だ!)

 突然、ルウィンが何を言い出したんだろうかと、光太郎はあわあわしながら銀髪の賞金稼ぎを見上げていた。
 ルウィンはクスッと笑った。

「オレは泣く子も黙る銀鎖の賞金稼ぎなんだぜ?ちょっとした仕事ぐらいで死ぬか。ただ、今回は時間がかかるからバロモアにお前を頼むんだ」

「…でも」

 それならどうして、ルウィンはあんな表情をしていたんだ?
 それならどうして、共通語で話してくれないんだ?
 どうして…俺は共通語を上達できないんだろう。

「でも…」

 言葉が出ずに俯いてしまった光太郎をルビアが心配そうに見詰め、それから、意を決したように背中の翼を羽ばたかせて舞い上がった。

《大丈夫なのね!光ちゃんの傍にはちゃーんと、このルビアさまが一緒にいるのね♪》

「ルビア…?」

 ふと、眉根を寄せるルウィンに、ルビアはツンッと外方向きながら、光太郎の漆黒のやわらかい髪に舞い降りた。

《それなら大丈夫なのね。ルウィンがちゃんと戻ってくるって思えるの》

「でも、ルビアいない。ルウィン危険です」

《このルビアさまが行かなくてもいいって言ってるのね。大丈夫ってことなの》

 ふふーんっと頭の上で胸を張るルビアの言葉を聞いて、漸く、混乱していた光太郎の頭が落ち着いてきたようだった。

「うん、ルビアの言うとおりだね」

「オレの言葉は信じないくせにルビアは信じるのか」

 ちょっとムッとするルウィンに、光太郎はエヘヘヘッと笑って見上げた。

「だってルウィン、無理するから。ルビア言う、大丈夫」

 なんだよそれは、と、子供のように唇を尖らせるルウィンに、光太郎は嬉しそうに笑った。
 ルビアと待つのなら銀髪の賞金稼ぎを待つことができる、それは、言外に彼の身を案じている黒髪の少年の精一杯の譲歩なのだろう。

(これは、なんだか面白くなりそうだな)

 バロモアは腕を組んで、そんな奇妙な3人連れを見遣った。
 あの、何に関しても無頓着で無関心だった皇子のこんな姿は初めて見るし、その姿をさせる少年は、絶対的に皇子を信頼している。少しでも傍を離れると、不安で仕方ないのだろう。
 その精神安定に、ウルフラインの皇太子がいる…と言うのは。

(どうのような構図がこの短い期間で築き上げられているんだ?)

 前にルウィンがこの酒場を訪れたときは、草臥れた装束に身を包んだ姿は今と同じだが、全く雰囲気は違っていた。
 無関心で無頓着で、傍らにウルフラインの皇太子がいることすら気付かないような、此処ではない何処か遠くを見詰めているような、掴みどころのない雰囲気だったのだ。
 それなのに、今のルウィンはどうだろう。
 ささやかなことに腹を立て、だが、その行為を喜んでいる。
 国民が愛している皇子は、その愛される要素をさらに深めているではないか。
 何が皇子を変えたのか…バロモアはその秘密を知りたいと思うようになっていた。

第一章.特訓!23  -遠くをめざして旅をしよう-

 広大な自然に突発的に現れた整然とした町並み…遠くに見える白亜の城は、晴天から降り注ぐ陽光に煌き、本来持つ要塞としてのイメージを払拭していた。
 光太郎がトルンから見た、大パノラマのガルハ帝国首都ラングールは、煌く城を中心に石造りの壮大な街並みを築いた、自然と共に共生している…まさにお伽噺から抜け出てきたような荘厳にしてどこか懐かしい街だった。

「…」

 ポカンッと口を開けたままでキョトキョトしている光太郎に、ルウィンは快調にかっ飛ばしながらニヤニヤ笑っている。
 今まで見てきた小規模な町を想像していた光太郎が、『街』と言うものを見てどれほど驚いているだろうかと、今すぐその顔が見られないのが残念だとさえ思っている。

「どーだ、凄いだろ?」

 すっ飛んでいく周りの風景と同じように風に千切れ飛ぶ言葉に慌てたようにその背中にしがみ付きながら、光太郎はうんうんと思い切り頷いて大声で叫んだ。

「すっげー!!まるでRPGの世界、いるようッ」

「アールピージィ?そりゃまた、よくワケの判らんことを」

 ルウィンは思わずと言った感じで噴出しながら、軽く前輪を浮かせて更に速度を増せば、光太郎とルウィンの間でヒーッと悲鳴を上げるルビアがヒョコンッと頭を覗かせて喚き散らした。

《飛ばしすぎなのね!いっくらお家が恋しいからって子供っぽいのねッ》

「うるせー!別にオレは家が恋しくて飛ばしてるわけじゃないッ」

《じゃあ、なんなのね!?》

 背後で悪態を吐くルビアにルウィンは、普段は掛けないのだが、かっ飛ばすときにだけは着用するゴーグルの奥でニヤニヤと笑っている。
 銀の髪が切れそうなほど吹き付けてくる風に飛び散るように舞い、それが綺麗だと思うのは賞金稼ぎを生業としているハイレーン族の青年の背中に守られている光太郎ぐらいで、件のルビアは苛々と押し潰されていた。

「そりゃあ、もちろん!」

 そこで一旦バウンドした車体に振り落とされないようにハンドルを握り直したルウィンは、にやぁっと笑って猛然と吹き付けてくる風に挑むようにトルンに魔力を注ぎ込んだ。

「光太郎にもっとRPGとやらの世界に浸ってもらう為だろッ?」

「ええー!?」

 いきなり名前が飛び出て吃驚する光太郎を他所に、ルビアは《それなら仕方ないのね~》と納得してしまっている。それにも驚く光太郎だが、彼は知らなさ過ぎるのだ。
 ルビアが過保護すぎるほど大事にしていると言うことに。

「もっとって…街凄い??」

 語彙に乏しい光太郎が必死に尋ねると、ルウィンは速度はそのままで肩を竦めている。

「さぁな。見てからのお楽しみでしょ」

 そんな2人の会話をムッツリしながらも聞いていたルビアはふと思うのだ。
 最近のルウィンには感情がある、と。
 別にまるっきり感情がなかったわけではないのだが、このハイレーン族の高貴なる王族の血を色濃く受け継いでいるルウィンと言う通り名の賞金稼ぎは、どこか飄々としていて何事にも関心を示さない無関心な男だった。
 それが光太郎を弥が上にも養うようになってからと言うもの、無関心であり続けることができなくなったのか、そもそも本当はこれが本来のルウィンの性格だったのか、今の彼は光太郎と付き合っている間に饒舌にもなった。
 ちょっとした冗談も言えば、根気良く言葉覚えに付き合うような面倒見のよさがうかがえる一面すらあるのだから、ルビアが嬉しそうにふふふっと笑っても仕方がない。

「なんだ?思い出し笑いなんかして気持ち悪いぞ」

《んふふふ♪だって、ルーちゃんがいい感じなのね》

「はぁ?」

 相変わらずワケの判らない相棒である深紅のチビ飛竜の思惑など与り知らぬルウィンは、どうでもよさそうに肩を竦めて一路ガルハの首都、ラングールを目指すのだった。

 すっ飛ばしたおかげで夕暮れ前にラングールに無事到着した一行は、取り敢えず今夜の宿を決める為にトルンを引きながら徒歩で大通りに入った。
 本来ならトルンに乗っていても別に気になるほど狭い道ではなく、下手をすれば光太郎がいた世界の4車線ある車道をゆうに超える広さがあるのだが、今は何か祭りでもあるのか所狭しと露店が軒を連ね人込みも半端ではない。

「ルウィン、お祭りする?」

「…ああ、この国の皇子が結婚するんだとよ」

「ええ!!?」

 ルウィンの台詞に驚いたように声を上げたのは、深紅のふんわりふわふわのクルクル巻き毛をツインテールに結んで、それだけが爬虫類の名残を思わせる縦割れの瞳孔を持つエメラルドの瞳を大きく見開いた少女の口から発せられていた。

「?」

 迷子にならないようにと光太郎はルウィンの服を、ルビアは光太郎の服を掴んでゾロゾロついて歩いていたのだが、その飛竜族の皇太子にして賞金稼ぎ見習いは吃驚したように目をまん丸に見開いている。
 そんな目付きに凝視されて、居心地が悪そうにトルンを引くルウィンは不機嫌そうに外方向いている。

「皇子さま、ケコンする?よかたね」

 ニコッと、状況を良く掴めていない光太郎が笑いながらルウィンを見上げると、これ以上はないほど眉を寄せてうんざりしているルウィンがそんな自分を複雑そうな目付きで見下ろしていることに気付いてドキッとしてしまう。
 でも、よくよく見れば、彼の先端の尖った長い耳はへにょりと垂れてしまっている。
 どうやら『参った』の気持ちのようだ。

「おっどろいたの!だから、ガルハに戻るって言ったのねッ」

 ムスッとしたように眉を寄せて鼻に皺を寄せる美少女に、銀髪の賞金稼ぎはフンッと鼻を鳴らして外方向く。

「あー、そうだよ。こんなことでもなきゃ、オレは国には戻ってこないからな」

「…あ!」

 その台詞だけで、小さな頃から常に一緒にいた幼馴染のようなルビアは気付いたのだ。

「あー、なるほどなのね。早く言ってくれればいいの」

「言ってどうかにかなる問題かよ。やれやれだ」

 うんざりしたようにトルンを引きながら人込みを掻き分けるように進む銀髪の賞金稼ぎと、あの王様もよくやるなぁと思っているような美少女を交互に見ていた光太郎が、ポツンと疑問を投げかけた。

「…どして、ガルハ皇子さまのケコンでルウィン戻る?」

「え!?」

 思わずギョッとしたように自分を見上げる漆黒の双眸を見下ろしたルウィンは、微かに動揺したように目線を泳がせてから、どう言う対応をするんだろうと楽しみそうにワクワクしているルビアの目の前でニコッと笑ったのだ。

「そりゃあ、お前!オレがガルハの皇子と知り合いだからさッ」

「なぬ!?」

 思わずギョッとするルビアの足を軽く蹴って問答無用で話を進めるルウィンに、光太郎は驚いたように眉を跳ね上げたのだ。

「ルウィン、すごいね!皇子さま知り合い?」

「あ、あー、そうなんだ!賞金稼ぎでもランクSになると特別でさ。王族とも良く顔を合わせることが多いんだ。オレなんか優秀だから、引っ張りだこで参っちゃうね!あっはははー」

(ゲロばれなのね)

 いやぁ参ったなぁと片手で頭を掻きながらしどろもどろで下手糞な作り笑いをするルウィンを信じられないものでも見るような目付きで凝視しながら、ルウィンがガルハ帝国の皇位継承者である皇子だと光太郎に内緒にしているだけに、ルビアが内心でハラハラしながら見詰めていると…パチパチと瞬きをした光太郎はちょっと考えるように小首を傾げたが、それでもニコッと太陽に似た花が咲くような笑みを浮かべて頷いたのだ。

「やっぱ、ルウィンはすごいね!」

「え!?ばれないの!!?」

「そこ、煩いよッ」

 ルウィンが天然で嬉しそうな顔をする光太郎に突っ込みを入れるルビアの頭を軽く殴ると、光太郎はニヘッと笑ったままで不思議そうだ。

「じゃあ、ルウィンは皇子さま会う?僕も会える?」

「…お前は会えないよ」

 ワタワタと慌てふためいていたルウィンはだが、ふと神秘的な青紫の双眸を伏せて微かに俯くと、少し伸びた銀色の前髪に表情は隠れてしまう。

「そっか。RPG、滅多に王様に会えない。無理しない」

 素直に頷いた、妙なところで理解力のある光太郎を呆気に取られたように見下ろしたルウィンが内心で、「グッジョブ、RPG!」と思ったかどうかは別として、そんな2人を見詰めていたルビアが少しだけホッとしたように肩を竦めた。

(ホントは目の前にいるのね、光ちゃん。もう会っちゃってるの。…ルウィンも言っちゃえばいいのね。ヘンなの)

 別に隠すほどのことでもないだろうにと肩を竦めるルビアの傍らで、トルンを引きながらルウィンが顎をしゃくるようにして光太郎を見下ろした。

「その代わり、オレの知り合いに会わせてやるよ。酒場を経営しているんだが、宿屋も兼ねているからな。今夜の宿はそこにする」

「ドンちゃんのところなのね?嬉しいの!久し振りに会うのね♪」

「そうだな、キティから国に戻ったら立ち寄ってくれと言われていたんだが…なかなかチャンスがなかったから今回は助かるよ」

 パッと嬉しそうな顔をするルビアに肩を竦めたルウィンが少し嬉しそうに笑うと、どうやらその「ドンちゃん」と「キティ」はルウィンとルビアの親しい知り合いだと光太郎は認識した。
 ルウィンたちの知り合いに、この世界に来て初めて会う興奮に光太郎の中から既に「皇子」と言うキーワードは消えていた。

「ドンちゃん、キティ。会うが楽しみ♪」

「あっは♪光ちゃん、違うのね」

「え?」

 キョトンとする光太郎をルウィンもクスクスと笑っている。
 ウッキウキしているルビアといつもより少し楽しげなルウィンのその姿を見ると、よほど、その2人は近しい人に違いないと言うのに、何が違うんだろうと光太郎は首を傾げてしまう。

「ドンちゃんもキティも一緒なの♪愛称なのね」

『あ、そうなんだ!なんだ、俺てっきり違う人の話をしてるのかと思った』

 ホッとした安心感からか、光太郎は思わず日本語で話してしまってハッと口許を押さえてキョロキョロと周囲を注意深く見渡した。

「別に、ニホンゴだっけ?いいぞ、喋っても。お前は逸れカタ族だからな」

「なんなのね、それ」

 呆れたようにルビアが銀髪の賞金稼ぎを見上げると、彼はフフーンッと胸を張るように口許に笑みを浮かべて言うのだ。

「それに、少しだがニホンゴとやらも判るようになったしな。語源が全く違うから難しかったけど、最初は『そうだ』…いや、これは違うな。こうだ、『そうなのか』って言ったんだろ?」

「…る、ルウィン!ホンット、すごい!!」

「え?え?当たっていたの??うっわ!ルビアも吃驚なのねッ」

「ふふん♪」

 今までただ単に判らないと言って放っていたわけではなく、ルウィンは根気良く言葉覚えに付き合いながら、光太郎の世界の言葉も吸収していたのだ。
 さすが、好奇心で城を抜け出して、世界の不思議の全てを知ろうと貪欲に旅を続けているだけのことはあると、ルビアは驚きを通り越して感心してしまった

「伊達に聞いてるだけじゃないんだぜ?光太郎に言葉を教えながらオレも覚えていたのさ。まだある。『ルウィン、あれは花。色がたくさん、キレイ』だろ?それから『これは石、小さな石』だ」

 実際にトルンを引きながら片手で露店の店先に並んだ色とりどりの花を指差して見せると、次は大通りにある砂利を指差しながら的確に言うから、光太郎はますます目を丸くしてしまう。なぜならそれは、光太郎よりも発音が完璧だからだ。
 そのうちルウィンは、もしかしたら日本語すらマスターし、自在に操ってしまうのではないか。

「…ルウィン、日本来れる。すごい」

「お、そうか?じゃあ、いつか行けたらいいな♪」

 あはははと、珍しく声を出して笑うルウィンに、光太郎は本当に感動したようにその雪白の綺麗な顔を見上げていた。
 上機嫌でふふんっとトルンを引いているルウィンから目線を逸らせば、確かに彼が産まれて育った街であるだけに、同じ種族の人が道を行き交っている。先端の尖った耳と雪白の肌、綺麗な人もいれば浅黒い肌にガッチリとした体格の人もいて…だが、その人々の中に在っても、出で立ちこそ長い旅に草臥れた衣装だったが、独特な異彩を放っているように見えるのは光太郎の目の錯覚ではないはずだ。
 もしや、世界中を旅していると言っていたのだから、この異世界アークの言語の全て習得して、それでもなお、もっともっとと知識を蓄えようとしているように思えるルウィンは、同じ種族の中でもひょっとしたら秀でた方なのではないかと光太郎は納得した。

(きっと、彰と一緒なんだ。彰も語学力が高いって先生が誉めてたからな)

「ルウィン!えーっと…頭たくさん!すごいッ」

「…ははは、オレはお前の共通語の方がある意味凄いと思うけどなぁ」

 たまに何を言ってるのかさっぱり判らないこともあるが、やはりもとの姿に戻ったルビアとだけ通用する会話をされるのも気持ちのよいものではなかったし、何より、この不思議な人間が大事そうに使う母国語と言うものに興味を示したのだ。

「異世界の言葉も面白い。発音が不思議だ」

「それはホーゲン。仕方ない」

「ホーゲン?へぇ、何れ日本語をマスターしたら、今度はホーゲンでも覚えるかな?」

「今度は僕、センセイ?」

 エヘヘヘと笑う光太郎に、ルウィンはそうだなと頷いた。

(すげー、ホントにルウィンて人は凄いなぁ。俺でも共通語に四苦八苦してるってのに、この人ってホントはどんな人なんだろう?)

 さすがに最高クラスの賞金稼ぎだなぁと光太郎が感心していると、彼の服の裾を掴んでいた美少女がクスクスッと笑って服を引っ張るのだ。

「ルビア、なに?」

「面白いことを考えたの。ヘンなホーゲンを教えるのね。それでルビアが竜に戻ったら意味を教えてもらうの。一緒に笑ってしまうのね!うっぷぷぷ」

「あ、それいいね」

 コソコソと2人で囁きあって声を殺して笑う光太郎とルビアを、全て筒抜けで聞こえてるんですけども…と、ルウィンが先端の尖った長い耳をへにょっと垂らして呆れたように笑っていると、前方に見慣れた看板が見えて、彼は悪巧みしている相棒どもの頭を軽く小突いて注意を促した。

「そら、着いたぞ。バー【アンカー】だ」

「アンカー…」

 軽く小突かれた頭を撫でながら見詰めた先には、派手なネオンも装飾もない、木製の扉にロゴの入った看板が軽く揺れていて、そろそろ暗くなってきたせいでたった今、店内から出てきた緑色の物体が、手にしたシェードがついていない火付け用のランプから下がったランタンに炎を燈すところだった。

『ま!!魔物ッッ!!ルウィン!街に魔物がッッ』

「…さすがに早口で何を言ってるのか判らんが、モースを見て驚いてるってこたよく判る。と言うことは、魔物がいるって言ってるんだな?」

「落ち着くしない!魔物、おそう。怖い!!」

 思わず抱き付いてぎゃあぎゃあと喚く光太郎の傍らから、走り出したルビアがクルンッと人込みの中で一回転して飛竜の姿に戻ると、嬉しそうに緑色の物体に抱きついたのだ。

「る、ルビア!?ああ、どしよ」

 グルグルなっている光太郎を観察するのも大変面白くもあるが、このままでは大変なことまで口走りそうだと思って、ルウィンは恐慌状態に陥っている光太郎を片手に掴んだままで道の端に避け、トルンをその場に停めると慌てふためく光太郎を抱え上げて緑色の人物のところまでスタスタと歩いて行った。

「わわ!?え?え?もしかして、る、ルビアさま!!?」

 ちょうど、ルウィンがやれやれと溜め息を吐きながらパニック状態の光太郎を小脇に抱えて歩いてくる途中で、思い切りドーンッとぶつかった小さな飛竜に抱き付かれてガサリとした緑色の皮膚を持つ、頭頂部にひと房だけある毛らしきものを華奢な意匠の施された髪留めで1つに纏めた、腰布だけの出で立ちの魔物らしき生き物が驚いたように声を上げている。

「よう、モース。元気にしていたか?」

「へ?あ、ああ!ルウィンさまぁ~!!」

 思わずと言った感じで細い両目を更に細めたモースと呼ばれた緑色の生き物の、嬉しそうな甲高い声に光太郎はビクッと身体を竦めたが、それでも親しげに話しているルビアとルウィンを見ているうちに、どうやら彼が魔物ではないとやっと理解したようだ。

「お元気でおられましたか?キャサリンさまが大層心配されておいででしたッ。ああ、でもご無事で何よりです!ささ、早く店内へ」

「悪いな」

 ルウィンが親しそうに話をしているのだから、まさか彼が人を襲う魔物などではないはずだと、光太郎は深紅のチビ飛竜を抱きとめてニコニコ笑っているモースを見上げながら、ハラハラしたようにジーッと観察している。
 と。

「おや?これはお可愛らしいお連れさまですね」

「!!」

 ヒョイッと、腰を屈めたモースにゴロゴロと懐くルビアを抱き締めたままで細い目を更に細めてニコニコ笑いかけられると、怯えて竦んだ光太郎はそれでも、恐る恐る引き攣ったままでニコッと笑うのだ。

「こ、こにちは」

「おお!これはカタコトでご挨拶ですか。本当にお可愛らしいお連れさまですね♪ささ、立ち話もなんですし、ルウィンさまもルビアさまも、そしてカタコトの可愛らしいお連れさまもお入り下さい」

 微かに震えながらも頷いていた光太郎はふと、人の悪い笑みを浮かべながら自分を見下ろしているルウィンに気付いて眉を顰めた。

「だいじょぶ。もう、怖がるしない」

「だと、いいんだがな」

 語尾に力を込めながらこれ以上はないぐらいの邪悪な笑みをニヤァッと浮かべるルウィンの凄味に、今度は完全に度肝を抜かれてしまった光太郎はヒクッ…と、咽喉に言葉を詰まらせて目を見開いたまま何も言えなくなってしまった。
 光太郎がそんな恐慌状態に陥ってることなど露とも知らぬルビアとモースは、久し振りの再会にお互い嬉しそうに積もる話をボチボチしながら店内へと姿を消した。
 その後を追って、嫌々と首を左右に振って儚い抵抗をする光太郎を小脇に抱えたままで、えらく楽しげにククク…ッと笑うルウィンは未知なる木製の扉を押し開いて、このガルハ帝国で尤も混沌とした場所に足を踏み入れたのだった。

第一章.特訓!22  -遠くをめざして旅をしよう-

「へっくしょいッ…とくらぁ…風邪でも引いちまったかぁ?」

 盛大なクシャミをしたレッシュは鼻を啜りながら間抜けな調子で呟いた。だがそれを笑う者などここにはいない。
 いや、恐らくこの果てない海原のどこか遠くにもいやしないだろう。
 そう思いながら、彰は甲板で気持ち良さそうに長椅子に横たわる獰猛そうな肉食獣を横目で盗み見ていた。そんな彰の本日のお勤めは『甲板掃除』である。
 平凡な高校生だった彰にとって、甲板をデッキブラシで磨いていくのは容易なものではなかった。おかげで毎晩筋肉痛に魘されながら、今では殆ど寝不足状態である。
 フワーッと吐き出したい欠伸を噛み殺しながら比較的真剣にゴシゴシと床磨きに励む彰のそんな後ろ姿を、いつも船長室でダラダラしているくせに珍しく今日は甲板で休んでいるレッシュが面白そうに眺めていた。
 暫く見ない間に、どうやら彰はこの海賊船『女神の涙号』の乗員である疾風のメンバーと親しくなっているようだ。つい先ほども、レッシュがいることを知らない下っ端が気安く声を掛けては、馬鹿話に一頻り花を咲かせて、余った菓子を手渡してから立ち去っていった。
 そうして今も、気軽に「お疲れさん」と声を掛けたヒースが頭領のお出ましに驚いたように眉を上げて、遠見鏡で肩を叩きながらニヤニヤと笑っている。

「お頭、どうしたんでやす?パイムルレイールのお姫さんに追い出されでもしたんでやすか?」

「うるせー、ヒース」

 軽く流して欠伸をすると、彰は掴んでいるデッキブラシを杖代わりに、小休止を取りながらそんなレッシュとヒースを見比べている。

「なんだよ?」

 レッシュがそんな彰に気付いて、目尻に浮かんだ涙を拭いながら顎をしゃくって問えば、その傲慢な態度にムッとしたように眉を寄せた少年はフンッと鼻を鳴らした。

「別になにも!」

 外方向く小生意気な下っ端に、それでもレッシュはクスクスと笑っている。
 日頃それほど寛大ではないレッシュだったが、こと、彰に関しては随分と甘くなると…遠見鏡で口許を軽く叩いていたヒースはコソリとそんなことを考えていた。

「あー、そうだ。アキラ、お前これから俺を起こす係りに昇格な」

「…はぁ??」

 何を言い出すんだと目を見張る彰に、レッシュが何か言うよりも早く、ヒースがその背中をバシンッと叩いて祝福してくれた。そう、海賊たちが喜んだり祝福したり、お祝いする時は必ず手が出るのだ。

「良かったじゃねーか!一人前まであと一歩だ。おめでとさん」

「へ?そうなのか??」

 キョトンとする彰にレッシュは思わず腹を抱えて笑いそうになった。
 いや、勿論昇格と言えば昇格なのだが、何も知らない彰が眉を顰めながら動揺している姿はどこか初心で可愛らしくもある。ヒースにしてみたら、寝起きが魔物のように悪いレッシュを叩き起こす係りなのだ、良くて青痣、悪くて前歯を折るぐらいで終わればいいんだが…と、心の中では合掌しながら、それでもこの『疾風』のメンバーなら誰でも一度は通った試練の道に、チャレンジできるだけでも有り難いのだと彰の無事を祈りながら祝福していた。

「なに?朝起こしに行けばいいのか?」

「そーだな。だが忘れるんじゃねぇぞ。俺は目覚めはいい方だからな」

 何かを暗喩する物言いに、アークに来て間もない彰が理解できるわけもなく、いや、これだけまともに会話しているだけでも驚異的なのだから、その点は人が悪いのはレッシュなのだ。

「ふーん…判った」

 ちょっとはにかんで頷く彰は、どうやらそれでも嬉しいようだった。
 ここに来てもう随分になるが、未だに下っ端扱いだったのだ。どんな内容にせよ、昇格できることは正直に言って嬉しかった。まるで解けなかった問題がいきなりスラスラ解けるような、なんとも言えない達成感のようなものが沸き起こったのだろう。

「俺、頑張るよ」

 あんまり彰が嬉しそうに笑うから、不意にその場にいた大人たちは自分たちが蒔いた種にバツが悪そうに視線を逸らしてしまう。
 よぉし、一人前まで後一歩だと両拳を握り締めた彰が、今夜でもその嬉しい報告を、まるで父親のように寡黙に自分の話を聞いてくれる、あの老コックに報告しようとウキウキしていた。

「が、ガンバレよ」

「?…なんだよ、ヒース。汗掻いてるけど??」

 ギクッとしたヒースは、嫌な汗の浮かぶ額を拭いながらなんでもないんだと首を振って、それから物も言わずに持ち場に戻ってしまった。その背中が、「すまん!アキラ。取り敢えず、逝って来い!」と物語っているかどうかは定かではないが、彰はキョトンとして首を傾げてしまった。

「なんだ、ヒースのヤツ。ヘンなの」

 呆れたように肩を竦めた彰が看板掃除を再開するのを、獰猛な肉食獣のように隻眼を細めて眺めているレッシュは、木桶に満たされた水の中に薄汚れたモップを突っ込むと、引き出す反動で派手に木桶をこかしてしまった彰が、慌てて拭こうとしてスッ転ぶのを、それこそ複雑な表情をして笑っていた。

(まるで道化だな)

 デッキチェアに長々と寝そべったレッシュが思わず笑ってしまうと、水浸しのモップを頭から被ってしまった彰は、途端にムッとしたように顔を上げてそんな海賊の頭領を睨み付けた。

「わ、笑ってんじゃねーよ!船室行っとけッ」

「誰に向かってそんな口を利いてるんだ、アキラ。竜使いでも容赦なく犯すぞ」

「!!」

 冗談だと判っているから余計腹立たしくなる彰は、「畜生ッ!」とブチブチ悪態を吐きながら頭からモップを引き剥がすと空っぽになった木桶に叩き込んだ。
 髪も瑣末な服も、何もかも水浸しになってしまった彰は、良く晴れた青空にぽっかり浮かぶ太陽を見上げるようにして額に張り付く前髪を、水飛沫を飛ばしながら掻き揚げた。
 それはまるで無頓着に良く晴れていて、見上げていた彰は不意に泣きたくなっていた。
 そんなに感傷的な性格じゃなかったはずなのに…異世界に吹く風が彼を涙もろくしているのかもしれない。彰は、太陽の匂いを嗅ぐと必ず思い出すものがあった。
 それは、光太郎の髪の匂い。
 いつも日向の匂いがしていて、自分が何処に連れ回しても嬉しそうについて来てくれていた。本当は迷惑だろうに、仕方なさそうに笑いながらも、最後は一緒になって盛り上がるから、心の底から彰は光太郎を大事に思っている。
 テントで一緒に電池式のランタンの明かりを頼りに、ワクワクしながらオカルト本を読んでいたとき、ウトウトしていた光太郎が寝入ってしまって、想像以上に柔らかい髪はいつもお日様の匂いがしていた。

(アイツ…大丈夫かな。語学力とか乏しいからなぁ、困ってなきゃいいんだけど)

 モップの柄を握り締めながら心配そうに溜め息を吐いた時だった、ふと、自分の背後に気配がしてハッと振り返えろうとした時には彰はレッシュに腕を掴まれていた。

「なにすんだよ!」

「ボーッとしやがって。なんだ、またもとの世界を恋しがってるのか?」

「アンタに関係ないだろ?」

 両手を掴まれたまま身動きできない彰は、背中に覆い被さるようにして自分の顔を覗き込んでくる大男に苛々したように声を荒立てた。いつもはそれで終わるのに、今日のレッシュは昨日の酒でも抜けていないのか、やたらしつこく絡んでくる。

「関係あるさ、おお!大いにな」

「ワケわかんね」

「お前は、この世界に落ちてきた竜使い様じゃねぇか。俺の願いを叶えてくれよ」 

 腕の自由も足の自由も奪われてしまった彰は、耳元で囁かれて、背筋がゾクッとするのを感じた。何か、とても嫌な予感がしたのだ。彰の嫌な予感は、本当に嫌になるぐらい良く当たる…と、学校帰りに光太郎が笑っていた。
 懐かしい顔を思い出していたら、レッシュがふと、彰の肩に顔を埋めるような仕種をした。

「どうか、竜使い。俺の願いを叶えてくれ…」

 その声が何故か、とても寂しいような気がして、からかいやがってと腹を立てていた彰は肩口にある燃え上がるように真っ赤な髪を訝しそうに見詰めていた。

「…俺は、竜使いじゃない。そんなの知らないってもう何度も言った」

「いいや、お前はファタルの遣わした竜使いだ。俺が拾ったんだ、間違いねぇよ」

 掴んだ腕ごと抱き締めてくるレッシュの仕種は、驚くほど優しくて、彰は少なからず目を瞠っていた。
 どうしたんだろうか、この凶暴なはずの猛獣は、昨夜何か、コック長の作った料理以外に落ちたものでも拾って食べて、腹でも壊しているんじゃないかと彰が怪訝そうに眉を寄せていると、レッシュがニヤニヤと笑ったのだ。

「お願いだ竜使い。今夜は俺のベッドでお休みください」

「~アンタはぁ!そうやって俺をからかってばっかだ」

 むかつくなーと溜め息を吐くと、レッシュは腹立たしそうな彰の頬に派手な音を立てて口付けると、大らかに笑いながら目を白黒させている彰を解放してやった。

「じゃー、アキラ。甲板掃除は後回しにして、さっさと水でも浴びて来い。臭くて敵わんぞ」

「む!臭いんなら抱きついてくるな、へんたいレッシュ!」

 いつもながらの悪態を吐いて歯をむく彰に声を立てて笑いながら船室に姿を消すレッシュの後ろ姿を見送ってから、彼は何やら違和感を感じてソッと眉を潜めていた。
 この船を、そしてこの広大な海を支配する海賊の頭領は、まるで何かに怯えでもしているかのように彰を抱きしめてきた。その腕には躊躇いもなく、却って驚くほど素直で必死だったように思うことが自分の間違いでないのなら、レッシュは何かに縋りたいほど叶えたいものがあるんだろうか。
 あれほど自分は『竜使い』と呼ばれるものではない、と何度も言っているのに、自分の審美眼を信じて疑っていないのか、傲慢で我が道一直線のレッシュに妥協など求める方がどうかしているのだが、それでも唇を噛み締めてしまうのは彰が特別な存在じゃないと判り切っているからだ。
 この世界が呼んだのは、恐らく、どこか違う場所に落ちてしまったに違いないあの双子のような幼馴染みなのだろう。

(俺は巻き込まれたに過ぎないんだろうけど…それなのに、レッシュは俺を『竜使い』って言う。そりゃあ、勇者に憧れないこともないけど。そもそも、『竜使い』ってなんなんだ??)

 この船に降って来たときから、この船の住人たちはすんなりと彰を『竜使い』と言って受け入れてくれた。それは言葉を覚えることに役に立ったが、彰の胸にずっと疑問としても蟠っていた。

(そうだ。今夜、ネロに訊いてみよう)

 料理の仕度を手伝えと言って、通常の海賊の仕事をさせてくれない老齢のコック長は、それでも今は誰も利こうとはしない昔ばなしをポツポツと語ってくれて、彰にとっては丁度良い息が抜ける場所なのだ。
 風向きが変わったような気がして、ふと鼻先を掠めた異臭に眉を寄せた彰は、レッシュが言っていたことも強ち嘘ではないようだと認識して、慌てて隻眼の頭領を追うようにして船室に姿を消してしまった。
 凪いでいる海上を凄まじい豪風が駆け抜けて、渡り鳥が怯えたいように啼いている。
 甲板で海上を見張るヒースは、ふとそんな海鳥たちを見上げて僅かに眉を寄せた。
 どうか何事もないように…柄にもなく海の神に頭を垂れたヒースは気付かない。
 鳥たちのざわめきを。
 哀しい予言を。
 鳥たちの声を理解できるはずの隻眼の頭領を船室に隠した『女神の涙号』は、白波を蹴りたてるようにして一路ウルフラインを目指して疾走していた。

第一章.特訓!21  -遠くをめざして旅をしよう-

 砂漠地帯を抜けて漸く緑深い森の中を縦断する、現代社会のようには舗装されていない砂利道の石を跳ね上げながらルウィンたち一行を乗せたトルンは疾走していた。ルウィンの余りある魔力を糧に、長い間放置されていたトルンにしてみれば久し振りの長旅なのだ。気持ち、どこか嬉しそうに陽光を銀の車体に反射させている。

「このままいけば、2日後にはガルハに入れるな」

 漆黒のコートの裾をはためかせながら、背中に必死でしがみ付いている光太郎に言ったのか、或いはルウィンの背中と光太郎の身体に挟まれて押し潰されそうになっている苦しそうな顔をした深紅の飛竜に言ったのか、はたまた誰に言ったでもなくただ呟いただけなのか、ルウィンは突き刺すように流れる風に銀髪を舞い上げながらさらに魔力を注ぎ込んだ。

 歓喜の咆哮を上げたトルンがさらに速度を上げようとしたその時…

「クッ!」

 ルウィンが反射的に魔力を弱めてブレーキをかけると、砂利を跳ね上げながら後輪を振ったトルンがなんとか静止した。その突然の衝撃に目を白黒させていた光太郎が恐る恐る顔を上げると、苛立たしそうに片足をついて車体を支えるルウィンが眉を顰めている。神秘的な青紫の双眸で睨み付ける先には、蠢く何かを引き連れた下卑た笑みを浮かべる薄汚い男が立っていたのだ。

「…」

 ルウィンが無言で見詰めていると、男はどこか拉げたような、咳き込むような奇妙な声を上げて笑った。

「そんな旧式のカラクリに乗った連中を、簡単に通すわけにはいかねぇなぁ」

 もうすぐ死にそうだったルビアがピョコンッと顔を出すとムッとしたように、金切り声のような耳に不快感しか与えない声に被さるようにして怒鳴ったのだ。

《煩いのね!どーしてルビアたちがいちいち断って通らなきゃならないの!?》

 それでなくても不機嫌だったのか、ルビアの剣幕に一瞬怯んだ魔物の群れに、ルウィンはやれやれと溜め息を吐いた。
 だがすぐに態勢を持ち直した魔物たちは、そのリーダー格らしい薄汚い男がキヒキヒと笑いながら舐め上げるように風変わりな旅人を、自分たちの獲物を品定めしているようだ。

「ここを通るには俺たちの許しが必要なのさぁ…ヒヒヒ」

《魔物の盗賊なんてムカつくのね!》

 ムカッと牙をむくルビアをハラハラしたように抱き締めている光太郎は、困惑しながらルウィンを見上げた。その横顔は、双眸を細めて少し顎を上げる、まるで小馬鹿にでもしているかのような仕種をしている。その表情を見た光太郎は、そうか、ルウィンなら大丈夫かもしれないと安直に考えてしまった。

「金目のモノを置いていけばぁ…そうだな、許してやってもいいぜぇ」

 ニヤニヤと笑う下卑た薄汚い男が言い終えた瞬間、不意にトルンが凄まじい咆哮を上げた。
 ドッドッドッと腹に響くような音を立てて身震いするトルンに跨ったまま、その時になって漸くニヤッと笑ったルウィンが口を開いた。

「生憎と貧乏なモンでね。金目のモノと言えばコイツぐらいかな」

「ケッ!そんな旧式のガラクタなんかにゃ用はねぇ!お前の耳にしているピアスを寄越しやがれッ」

 それはルウィンにしてみれば自らを縛る王家の証で、できればくれてやってもいいのだが、流石にこれからガルハに帰るのに無くしましたでは済まされないだろう。ましてや、言い訳など考えるだけでもうんざりする。何より、王家の証を外せないようにと聡明な母が施した、母譲りの強い魔力を制御する為のピアスでもあるのだ。だがもちろん、魔物にくれてやるモノなどたとえあったとしてもないのだが。

「嫌だね」

 いっそハッキリと言ってニッと笑うルウィンのその、どこか馬鹿にしたような口調に魔物の群れはいきり立ったようだ。

《挑発しちゃってどうするのね?》

「お前ってヤツは…自分のことは棚に上げるんだな」

 背後の声に呆れたように肩を竦めるルウィンに、ルビアは当然だとでも言わんばかりにツンッと外方向く。そのいつもながらの遣り取りに、どうやら心配することはなさそうだと判断した光太郎は詰めていた息を吐き出した。

「畜生!やっちまうぞッ」

 薄汚れた男の合図で、それまで蠢いていたオークなどの魔物たちが一斉に咆哮を上げた。まるでそれを合図にでもしたかのように、左右の森の中から身を潜めていたすばしっこい魔物が次々と襲い掛かってきたが、予め気配を感じて予測していたルウィンは腰に履いた銀の鎖が巻きついた鞘から剣を引き抜いて薙ぎ払うように斬りつけた。
 ぼうっと発光する妖剣に切り裂かれた腹部はグズグズと焼かれたように燻って、断末魔を上げる魔物に長い責め苦を強いるのだ。その光景を見て怯んでいた魔物どもを、閃くようにして飛んできた撓る鞭が急き立てる。

「ふん、魔物使いか」

 襲ってきた魔物を薙ぎ払っても刃毀れ1つ、ましてや返り血すら浴びていない銀鎖の妖剣の血溝がハッキリしている腹で肩を叩きながら、ルウィンはやる気がなさそうに誰に言うともなく呟いた。

「ケケケ…俺様をただの魔物使いと思うなよ」

 一瞬、濁った目玉が赤く光って、ルウィンがハッと気付いた時には遅かった。

『え!?わぁっ!!』

《光ちゃん!》

 魔物使いが撓る鞭で思いきり地面を打ちつけた瞬間、一瞬気を取られたルウィンの背後で声を上げた光太郎の姿が忽然と消えてしまったのだ。腰にしがみ付いていた感触が消えて、焦ったように顔を上げた先に魔物使いが操る、まるで生き物のような鞭に絡めとられた光太郎が半べそで謝っていた。

「ルウィン、ごめちゃい」

《何やってるのね!ルーちゃん、早く助けるの!!》

 呆気に取られて目をみはっていると、先端の尖った耳を引っ張りながら急き立てるルビアによって漸く気を取り直したルウィンは溜め息を吐いた。その仕種で、また迷惑をかけてしまう自分が情けなくて、光太郎は唇を噛み締めてしまった。
 強くなりたい、そう思った瞬間。

『あぅッ!』

 ギリッと締め付けられて全身の骨が折れるような錯覚に、光太郎は悲鳴を上げてしまった。
 ムッとしたルウィンはハンドルから片手を引き抜いて上体を起こすと、ふと、ギャーギャーと喚くルビアをまるで無視して銀鎖の妖剣をビュッと振って何もない中空を指し示した。

《んもう!何をやってるのねッ》

 その訳の判らない行動に苛々したルビアが頭に噛り付くようにして耳を引っ張っても、ルウィンは微動だに動かない。それどころか、却って不適にニヤッと笑うのだ。

「まあ、これでお互い様と言うことかな?」

「くぅッ!」

 何もない中空を指し示していると言うだけなのに、魔物使いは悔しそうに歯噛みしたのだ。
 そう、ルウィンが指し示しているその場所に、世にも珍しい姿を消せる魔物がルウィンの妖剣の切っ先に捕らえられて身動きできずにいたのだ。怯えたように声にならない声でキィキィと主に鳴いている。

「ち、畜生ッ!ソイツを殺せばコイツがどうなっても知らんぞ!!」

 金切り声を上げて喚き散らす魔物使いに、ルウィンは待ってましたとばかりにニヤッと笑って言うのだ。

「殺したければ殺せばいい。その後、どうなっても知らんがな」

 微妙に語尾のニュアンスを低くするルウィンの意図するところが読めたらしく、魔物使いはキィキィと喚き散らしながらも、苛立たしそうに親指の爪を齧りながら注意深くルウィンの様子を窺っている。だが諦めたのか、魔物使いは濁った滑るような双眸でルウィンを見据えながら、苛立たしそうに高い声で喚いたのだ。

「判ったよ!離してやる…」

 そう言って語尾を切って締め上げていた光太郎の身体から鞭を緩めると、小柄な少年はホッとしたように慌ててトルンに跨る銀髪の賞金稼ぎの許に走り出そうとした。その様子を見ていたルウィンがハッと目を見開いた瞬間、風を切った撓る鞭が凶器となってその背中に襲い掛かったのだ。

《光ちゃん!》

 ルビアが悲鳴を上げた瞬間、鋭い鞭の先端で服を裂かれて、その上皮膚まで切り裂かれた光太郎はヒュッと息を飲んで、それから声もなく倒れ込んでしまった。薄い水色の上着がジワジワと滲み出した鮮血に染まっていく。
 鞭の先は、さしずめ鋭利な刃物のように鋭かった。

「ひゃぁーはっはっは!この馬鹿どもがッ!!プリントなんか腐るほどいるわ!ソイツを殺したけりゃ殺せばいいんだ。その代わり、俺はこの生意気な人間を殺してやる!!」

 ヒッヒッヒッと笑いながら撓る鞭を振り上げた瞬間、それまで黙って倒れたまま痛みの為に息もできずに蹲っている光太郎を食い入るように見詰めていたルウィンの、その結んでいた唇がゆっくりと開いた。

「なんだと?」

 低い、ともすれば聞き逃してしまいそうな…いや、だがけして聞き逃せない圧倒的な威圧感で零れ落ちた言葉の殺気に、魔物使いは怯んで上手い具合に鞭を振るうことができなかった。あと、もう一撃でも打たれてしまえば、恐らく光太郎の軟な背骨はへし折れていたに違いない。

《光ちゃん!》

 ルビアが両手で口を押さえながら、それでもその大きなエメラルドの瞳に涙を一杯に浮かべて両手を差し出して飛び出そうとした瞬間、その足を掴まれて、そのままグイッと無造作に振り払われてしまった。

《ルーちゃん?…ッ!》

 風に揺れる鬱陶しく伸びた前髪の隙間から、まるで怒りがそのまま噴き出したかのような紅蓮に濡れ光った双眸が、じっとりと魔物使いとその背後でニタニタ笑っている魔物どもを捕らえている。まるで雷にでも打たれたような衝撃で固まってしまった魔物たちの前に、ゆっくりとトルンから降り立ったルウィンが片手に妖剣を掴んでゆらりと立ちはだかった。
 投げ出されてあわや地面に叩きつけられそうになったルビアは空中でくるんっと回転すると、ハッとしたように陽炎のような殺気を漂わせて立つルウィンの背中を見詰めて震えてしまった。

(ヤバイのね!)

 慌てたルビアは低く飛んで揺らぐように立つルウィンの脇を弾丸のような素早さで擦り抜けると、痛みで半ば失神している光太郎の水色の服を掴んでサッと木陰に隠れてしまった。もちろん、魔物たちにそんなことを気付けるほどの余裕もない。

「殺すだと?お前たちが?…ッ」

 低く呟いて俯いたルウィンの双眸と、その表情が見えなくなる。
 何か、言いようのない恐怖が襲ってきたが、それでも魔物使いは怯える魔物どもを鞭を振るって叱咤するのだ。

「何をしてるんだ!この能無しどもがッ!!やっちまえ!やっちまえぇッ!!」

 鞭の恐怖を何よりも知っている魔物たちは、気が狂いそうになる怯えから抜け出そうとでもするかのように咆哮して、ゆらりと立っている長身の青年に襲い掛かったのだ。
 震える肩が、恐怖しているのか…?
 一斉に飛び掛った魔物でルウィンの姿が消えてしまうと、魔物使いは注意深くその様子を窺っていたが、咆哮を上げて襲う魔物に手出しもできないようでいる口ほどにもない青年にホッとしたように、ニヤッと笑って脂汗が滲む額を拭った。

「ケッ!驚かせやがって。せいぜい、魔物どもの腹を満たしてやるんだなッ」

 腕を掴んで引き千切っているのか、ルウィンの2倍はありそうな魔物がモゴモゴと蠢いている。悲鳴を上げない獲物に興醒めはするものの、どんな有様になるのか見るのはとても楽しい。あの、憎らしいほど綺麗で生意気なヤツが死ねば、今度はあの人間だ。飛竜もいた。
 人間と飛竜は美味しく俺が戴いてやろう…そんなことを考えていた時だった。不意にモゴモゴと蠢いていた魔物の身体が弾け飛んだのだ。

「!」

 ギョッとして目を見開いた先に、妖剣を肩に担いで倒れ込んでいる魔物の頭を容赦無く踏みつけたルウィンが肩を振るわせながら立っていた。

「こ、これは…どど、どう言う…ッ」

 言葉にならず、かと言って喚くこともできないでいる魔物使いの前で、漸くルウィンが声を出したのだ。

「…クックック…ふ、はーっはっはぁ!バッカじゃねぇのか。お前たち雑魚がこの俺を殺すだと?」

 まるで雰囲気がガラリと変わって、木陰に避難していたルビアがアチャッとでも言いたそうに両手で目を隠すと、痛みに漸く慣れた光太郎が息も絶え絶えにそんな様子を覗き込んだ。

『あれ…ルビア、ルウィンの様子がおかしいよ?』

《シッ!喋っちゃダメなのッ。見つかっちゃうのね》

『え?』

 ワケが判らずに眉を寄せる光太郎の耳に、突然引き裂かれるような断末魔が響き渡った。
 それは、対の瞳を紅蓮に染め上げたルウィンがニヤッと笑いながら足蹴にしていた魔物の頭を踏み潰したからだ。

『!』

 怯えたように、でも、どこか信じられないものでも見ているような気持ちになって、光太郎はその光景から目が離せないでいる。
 興味の失せた魔物の身体を蹴り飛ばして、漆黒の外套に身を包んだルウィンは、まるで死神のようにぼうっと発光する妖剣を肩に担いだままで一歩、また一歩と怯えて竦む魔物使いに近付いた。

「寝言はあの世に逝ってから愚痴るもんだぜ?」

 怯えて声も出ない魔物使いを、それでも主と信じているのか、魔物が咆哮しながら襲いかかったが、ルウィンは容赦無くその身体を一刀両断した。ブシュウッと噴き出す返り血を浴びながらも、それでもルウィンは嫣然と嗤うのだ。そのくせ、手にある銀鎖の剣には一滴の血痕も付着していない。

「そーらかかって来いよ?雑魚どもが」

 そう言って差し出した片手を上向きにクイクイと手前に振って挑発するようにニヤッと笑ったルウィンの顔には、愉悦のようなべっとりとした狂気が張りついている。その顔を見て光太郎は理由もなくゾッとした。
 チャキッと柄を握り直したルウィンは、歩くことももどかしそうに、まるで血に飢えた強暴な肉食獣の敏捷さで走り出していた。その素早い動作に追いつけない魔物たちは、自分たちの身体の半分もない銀髪の青年にまるで踊るような仕種で悉く斬り倒されてしまう。しかし、もともとが殺戮を好む魔物たちだ、それでも自我を思い出したのか、咆哮を上げると応戦してくる。その反応が、よりルウィンの狂気を深いものにしているなど、命懸けの戦いでは気付きもしない。
 声を上げて嗤いながら襲いかかってくる魔物を斬ったその手を返して、後方の魔物の腹に妖剣を突き立てると、軽くジャンプして前に現れる魔物の頭部を蹴り飛ばした。鈍い音がして千切れ飛んだ頭が地面に転がると、ルウィンは楽しそうに笑ってその頭を魔物使いに、まるでサッカーでもしているように蹴って寄越したのだ。

「う、うわぁあぁぁぁ!!」

 呆気に取られていた両手に飛んできた断末魔の形相の頭を投げ出した魔物使いが、もう何もかもを捨てて滅茶苦茶に逃げ出そうとすると、追いついたルウィンが声を上げて笑いながら吐き捨てるのだ。

「はっはぁ!甘ぇーんだよ」

「ヒッ!?…ッ!!」

 耳元で聞いた低い声に一瞬ビクッと身体を竦ませた魔物使いは、そして唐突に鈍い衝撃が背後から身体を襲ったことに気付いたが、それでも何が起こったのかすぐには理解できないでいた。
 ただ、自分の胸から突き出た血塗れの雪白の腕が、身体から無数の血管を伸ばしながらドクドクと脈打つ何かをゆっくりと掴んでずるりと引き抜くその感触に呆然と突っ立ていることしかできなかった。
 ブツブツと、血管が千切れる音がダイレクトに鼓膜に響いた。

「ひ、ヒィ…ひ・ひ、ぎぃやぁあぁぁッッ…ッ!」

「煩い」

 呟いて、心臓を引き抜いたルウィンは銀鎖の妖剣を振って断末魔を上げる魔物使いの首を跳ね飛ばしてしまった。噴き上げる返り血を浴びて、だらりと垂れた掌に脈打つ力が弱くなった心臓を握ったままで、ルウィンは妖剣を愛しそうにべろりと舐めた。そして狂ったように笑っている。

「ルウィン!」

 不意によろけながら立ち上がった光太郎が、ルビアが止めるのも聞かずによろよろと木陰から出てそんなルウィンに近付いていく。真摯な双眸を受け止める虚ろな紅蓮の瞳は、俄かに新たな獲物を見つけて禍々しいほど邪悪に細められた。

「はっはっはぁ!なんだよ、小僧?」

 よろよろと近付いてくる弱った獲物に、ルウィンは声を上げて笑いながら無造作に血を欲しがる妖剣を突き出した。
 ヒュッと咽喉が鳴って、薄皮一枚のところで止まった発光する切っ先を恐々と見下ろした光太郎は、それでもニヤッと笑うルウィンを困ったように眉を寄せて見上げたのだ。

「ルウィン、だいじょぶ?」

「大丈夫じゃねーのはお前の方だろ、ああ?ククク…それとも、死にたいってか?」

 小首を傾げる仕種をする少年にニヤッと笑って無造作に妖剣を振り上げるルウィンを見上げたままで、光太郎は少し考え込んでいる様だったが眉を寄せると首を左右に振ったのだ。

「嫌だ」

 一瞬、ちょっと眉を寄せた紅蓮の双眸を持つルウィンは、ぺろりと返り血を浴びて濡れている唇を舐めながら馬鹿にしたような目付きで見下ろしてきた。

「だって、死ぬするとルウィンと旅できなくなる。それは、嫌」

 尤らしく言って一人で頷いた光太郎は、妖剣を振り上げたままで止まっている、血塗れで佇むルウィンに向かって小さく笑ったのだ。

「ルウィンと旅したい。ずっと一緒、いたい」

「下らねーな」

 素っ気無く呟いて、ルウィンは煩わしいものでも追い払うかのように妖剣を振り下ろした。ルビアがもうダメだと両目をギュッと閉じて両手で顔を覆う。
 助けに行きたいけれど、ルビアはその殺気に凍りついて身動きができなかったのだ。
 風を切る音がしたが、鈍い、あの骨を断つ音が聞こえなくて、ルビアは恐る恐る凄惨になってしまった砂利道の様子を窺った。

「ルウィン…?」

 光太郎の首の皮一枚のところで、またしても妖剣の切っ先が止まっている。
 呆然と立ち尽くすルウィンの顔を覗き込みたいのに、光太郎は銀鎖の剣が邪魔して動くことができなかった。だからせめて、その名を口にしたのだが…

「…あれ?」

 不意にルウィンの口から驚くほど気の抜けた声が漏れて、既に神秘的な青紫の双眸に戻っている彼は一瞬だけ困惑したような顔をしたが、素早く状況を飲み込んだらしく、光太郎の首筋から銀鎖の剣を引っ込めた。

「オレはどうしたんだ?…頭が熱くなって…耳元で煩いぐらい脈打つ音がして…それから、何かがブツって切れたんだよな」

 ふと、額に伸ばした掌に、未だに握られている冷たくなった肉隗に気付いて、眉を寄せたルウィンは憎々しげにそれを捨ててしまった。

「それから記憶がない…と言うことは、ルビア。オレはキレたのか?」

《うん、ぶち切れてたのね》

 漸く動けるようになったルビアが茂みから飛び出すと、小さな飛竜と光太郎を見比べていたルウィンが脱力したようにガックリと項垂れてしまう。

「あー畜生!それで血の匂いがするのか」

 思いきり不満そうにポタポタと、未だに浴びた血液の雫を零す前髪を掻き揚げながら、気持ちが悪そうにルウィンの眉間に皺が寄った。その様子を見て、漸く光太郎はルウィンがもとのルウィンに戻ったと感じたのか、嬉しそうに抱き着こうとしたのだ…が。

「わーい!ルウィンだ…ぶっ!」

 片手で頭を掴まれて、ルウィンの腕のリーチぐらい近付けなかった。

「抱き着くな。オレは汚れてるからな」

 その言葉で、ルウィンが全身に血を浴びていることに気付いて、光太郎の眉が寄った。さすがに今回はきつかったのだろうと、ルウィンは溜め息を吐きながら掴んでいた手を離した。

「せっかく買った服。残念」

 言うことはそれだけかなのか?とルウィンがちょっと面食らって、だが、光太郎らしい返答にルウィンはなぜか、少しホッとしたように笑っていた。

「ルウィン、傷ない?だいじょぶ?」

 心配そうに見上げてくる黒い瞳に、ルウィンはちょっと驚いて、それから小さく苦笑した。

「オレよりも光太郎、お前の傷は大丈夫なのか?」

「へ?」

 キョトンッとした光太郎は、それから徐に背中がジクジクと疼いていることに気付いて、それから改めて鋭い痛みを感じたのだ。

『アイタタタ!!…うぅ、気付かせて欲しくなかった』

 あうあうと痛がって情けなく呟く光太郎に、ルビアが少しだけホッとしたように溜め息を吐いた。

《痛くて当たり前なのね!もう、無茶するの》

 痛みすら忘れてしまうほどルウィンを心配していた光太郎の頭に、ふと、掌を乗せてそのサラサラの髪を撫でた。その手に気付いた光太郎が顔を上げると、ちょっと心配そうな表情をしたルウィンが首を微かに傾げて見せる。

「痛むか?」

「ちょっと。でも、ちょっとだいじょぶ」

 本当はかなり痛むくせに、額に脂汗を浮かべながら光太郎はニコッと笑った。その陽光を反射させる汗に気付かないはずもないルウィンは、少し苦笑してトルンへと戻った。背中の痛みで思うように歩けない光太郎は、足を引き摺るようにしてそんなルウィンの後を追おうとするが。

「お前はそこにいろ」

 肩越しに振り返って制止され、光太郎は困惑したように眉を寄せたが、だがホッとしたようにそのまま地面にへたり込んでしまった。
 ルウィンは魔物の血をたっぷりと吸収して重くなった外套を脱ぐとトルンの座席に引っ掛け、その手で掛けてあった荷袋を掴んだ。内部を軽く探ってお目当てのものを見つけたのか、それを掴んでへたり込む光太郎の許まで戻ってきたのだ。
 片膝をついて屈みこんだルウィンの顔を、痛みで朦朧とする眼差しで見上げる光太郎は、その男らしい綺麗な顔立ちにあの時感じた狂気を重ねようとして失敗した。
 バシャバシャッと水筒の水で掌を洗ったルウィンは、手にしていた練薬を掬うと水色の上着を捲り上げて無残に走る血の滲んだ蚯蚓腫れに静かに塗った。だが、恐ろしくその薬は傷に染みる。

『!!!!!※△×!』

《なに言ってるのか判らないのね》

 声にならない声を上げて思わず砂利の敷き詰められた地面を拳で殴っていると、ルウィンが呆れたように溜め息を吐いてその手を掴みながら口を開いた。

「今度は手にも傷を作るつもりか?」

「あう…でも痛い。浸かる」

「浸かる?」

 またしても解読不明の言葉を言って、半泣きで見上げてくる光太郎を見下ろしながら、ルウィンは眉を寄せて首を捻っていた。

「薬、浸かる。すごく痛い」

「…ああ、なるほど」

 頷くルウィンに、同じく合点がいったルビアが口をパカリと開けて言うのだ。

《染みるのね》

「うん」

 涙目で頷く光太郎にちょっと噴き出したルウィンは、酷いなぁと抗議する漆黒の双眸を無視して立ち上がった。だがその顔は、思った以上に曇っている。

「?」

 首を傾げていると、腕を組んだルウィンがそろそろ乾いて張り付いてくる血糊にうんざりしたような顔をして、前髪を掻き揚げた。まるでディップでも塗りつけているかのように、見事な銀髪は微かに色付いて後へと張りついた。気持ちオールバックになったルウィンの相貌を日の光の下で初めてマジマジと見た光太郎は、いつも前髪の隙間から覗くだけの神秘的な青紫の双眸が、どれほど強い意志を秘めて輝いていたのかと言うことを知ったのだった。
 そして、思うよりも随分と、ルウィンは男らしい顔立ちをしていた。ふとすれば女性とも見紛う美しさは、その銀髪が彼の輪郭を淡く暈していたからこその成せる業だったのだろう。

「さて、どうしたものかな?このまま順調に行けばガルハまで2日の行程だったんだが…まさかこの姿で国には戻れないだろう」

 肩を竦めるルウィンにハッとした光太郎は、見惚れていたことに気付かれないうちに照れ隠しのようにエヘへと笑う。その姿をジッと見守っていたルビアには、どうしていつも光太郎がルウィンに見惚れるたびに照れているのか、そのことが判らないでいた。

《この近くに湖があるのね》

「そうか?じゃあ、まずは水浴びをするべきだな。臭くて適わん」

 べっとりと染みついた鉄錆のような金臭い匂いに生臭さの混ざったような、なんとも形容のし難い腐臭にうんざりしたルウィンが頷くと、光太郎はパタパタと羽根を動かしながら一定の場所に浮いている深紅の飛竜を見上げて首を傾げている。

《なんなのね?》

 不思議そうに見上げてくる光太郎に、ルビアが気付いて首を傾げると、少年は眉を顰めて疑問を口にするのだ。

『ルビア、どうして湖のある場所が判ったの?ここに来たことがあるのかい』

《まっさかなの!光ちゃんやルーちゃんには判らないかもしれないけれど、ルビアたち飛竜族は自然の声が聞こえるのね》

『ほ、ホント!?』

《本当なの》

 ニコッと笑うルビアに驚いたような顔をした光太郎は、それでも表情をパッと明るくして興奮したように両の拳を握ってワクワクと口を開いた。

『スゲー!ルビア、凄いよ!!』

《ふふーんなの♪》

 小さな飛竜がやはり小さなその鳩胸を張ってふふんと威張ると、感嘆する光太郎が尊敬の眼差しでそんなルビアを見上げている。その一種異様な光景に思わず呆気に取られていたルウィンだったが、もともと感応術に優れている飛竜族だ、その流れは自然の仕組みと深い関わりがあるんだろうぐらいにしか考えてもいなかった。光太郎のように、ましてや目を輝かせるようなことではないだろうと思っていたのだ。

『わー、彰にも教えてあげたいな~。きっと、ルビアに絶対会いたがると思うんだ』

 オカルト好きの幼馴染みは、超常現象も然るものながら、想像上の生き物の存在を徹底的に容認しきっている。人間が生きていて、どうして架空だと言う生き物が生きていないなどと言えるのか?それが彰の持論であった。

《その時はこんにちはって、ちゃんと挨拶するのね》

 ニッコリ笑う飛竜に微笑み返す光太郎たちの会話が、どうやら一段落したことを感じ取ったのか、腕を組んでいたルウィンはその手を解いて上体を屈めながらへたり込む少年の身体を掬い上げるようにしてヒョイッと抱き上げてしまった。

『わわわ!?』

「歩けるのか?だったら下ろしてやるが…」

 その背中だとまだムリだろ?と、その神秘的な双眸が物語っている。
 思うよりもずっと近くにルウィンの顔があって、今までずっと一定の距離でしか見ることのできなかったその神秘的な青紫の双眸を目の当たりにして、光太郎はなぜか赤面してしまう。
 訝しそうに眉を寄せるルウィンに光太郎は慌ててうんうんと頷くと、それでもやはり痛む背中を抱えてはまだ歩けないと認めているのか、大人しく甘えることにした。
 心臓の音がバクバクして、どうかルウィンに聞こえませんようにと祈りながらギュッと閉じた目を、ふと開いた光太郎はよくよく考えて、どうせならせっかくなのだからその整った面立ちを十分堪能しようじゃないかとちゃっかり思ったようだ。
 眉を上げて小首を少し傾げながら小さく笑ったルウィンが、あの狂ったように笑いながら次々と惨殺していった人物と同じ人などとは、光太郎には到底思えないでいた。
 何よりも、ルウィンの腕は確りしていて、不安など微塵も感じなかったのだ。

 ルビアの案内でトルンに光太郎を乗せたまま、鈍い銀の光を放つ車体を押しながら道なき道を進む彼らの前に、程なくして澄んだ水を湛える湖が姿を現した。
 光太郎は別に血を浴びたわけではなかったし、ルウィンに手渡された予備として購入していた草色の衣装に着替えれば済むだけだったが、そうもいかないルウィンは血を吸って重くなった外套を片手にそのままざぶざぶと湖に入っていった。

『ルウィン、どうして服を脱がないんだろう?』

《どうしてって、服も洗っちゃおうと一石二鳥なの》

 ああ…と頷きかかって、それでもやっぱり納得がいかない光太郎は首を傾げながら腕に抱いたルビアの顔を覗き込んだ。

『でも、乾かす時には脱ぐんでしょ?』

《あったりまえなのね!湖の中で洗いながら脱いじゃうの》

『はぁ…でも、なんか悪いね。俺の服は予備を買ってくれてるのに、ルウィンはあれ一着なんてさー』

 しょぼーんと眉を寄せて溜め息を吐く光太郎に、ルビアは嬉しそうにクスクスと笑っている。その顔をムーッとしたように覗き込んだ光太郎に、ルビアは少年の腕を両手で掴みながらブラブラと足を振って振り仰いだ。

《光ちゃんはルーちゃんのこと好きなのね》

『うん』

 光太郎がニコッと笑って頷いたら、遠くの方でルウィンが思わず転びそうになって、胡乱な目付きをして背後を振り返っている。恐らく、「ルビアのヤツ、また余計なこと言ってやがるな」とでも思っているのだろう。ルビアの感応術は、少し離れた人にも聞こえてしまう…わけではないのだが、ルウィンたちハイレーン族の鋭敏な聴覚には届いてしまうのだろう。

《普通の人は、ルーちゃんのトランスモードを見てしまうと思いきり退いちゃうの》

『トランスモード?それってなに?』

 首を傾げる光太郎に、ルビアは頷きながら説明した。

《ルーちゃんのあれはトランスモード中なのね》

 言外に先ほどのことを言っているのだと気付いた光太郎は、そうだったのかと感心したように頷いた。

『なんか、アクション系のゲームみたいだね』

 何かのゲームで、確かそんな言葉を聞いたことがあるような気がした光太郎が笑いながら言うと、ゲームと言う単語がよく判らないルビアは小首を傾げながら先を続ける。

《?よく判らないけれど、ルビアはそう言ってるの。もともと、ルーちゃんはバーサーカーなのね》

『え?ってことは…あれ?でも、確かバーサーカーって自分の血を見たら自我を忘れるんじゃなかったっけ?それってゲームの受け売りなんだけど…ルウィンは自分の血を見てもバザーの時は変化が無かったよ』

 光太郎の素朴な疑問にルビアは頷きながら、それから説明を続けた。

《ルウィンの場合は、自分の血がキーワードじゃないのね。キーワードは怒りなの》

『え?』

 光太郎が首を傾げると、見上げていた顔を正面に戻して、キラキラと光る水面で気持ち良さそうに水浴びをしているルウィンを見詰めながらルビアは口を開く。

《極限に怒りが達した時、ルーちゃんはあんな風に、ちょっとおかしくなっちゃうのね。でも、その間は痛みとか致命傷とかが全部キャンセルされるから、ほぼ不死身なの》

 キャンセルと言うのは語弊があるのだが、事実、傷の治癒が通常の100倍はあるのだから斬り付けられると同時に治るような感じで、恐らくルビアが説明したかったのはそのことだったのだろう。

『そうなんだ!』

《なんなのね、その嬉しそうな顔は。喜んでばかりもいられないの。ルーちゃんはああなってしまうと見境がなくなるから、取り敢えず生きて動いているものはなんでも殺しちゃうのね》

 嬉しそうに笑って頷く光太郎に、ルビアは呆れたように溜め息を吐きながら、問題はそんなことじゃないんだと唇を尖らせた。

《性格も180度変わっちゃうから厄介なの。もともと、ルーちゃんって自分のことにも容姿のことにも、もちろん、生きることにも無頓着な人なのだけれど、トランスモード中のルーちゃんは全く別人で、殺すと言う行為に凄まじい執着を持っているのね。性格もおバカになるし…そもそも、バーサーカーは怒りの塊だから、怒りに支配されてしまうと前後の見境がなくなって、情け容赦がない殺し屋になっちゃうの!》

 何とも気になる台詞をさり気なく言って、小さくて短い人差し指を左右に振って説明するルビアに、光太郎はうーむと眉を寄せながら下唇を突き出して呟いた。

『うーん…それは困るね』

《おーいに困るのね!で、本人は正気に戻ったときにはその時のことを綺麗さっぱりに忘れちゃってるの。でも、あんなことは珍しいの。動いて目の前にいる光ちゃんを、ルーちゃんは殺さなかったから!正気に戻るのって動くものがなくなってからだから、ルビアはいつも木陰に隠れて待っているの》

 新鮮な驚きに表情を緩めて見上げてくる小さな飛竜を見下ろしながら、光太郎は驚いたように眉を上げて小首を傾げて見せた。

『そうだったのか。でも、俺。ホントはそんなに怖くなかったんだ。ただ…』

《ただ?ただ、どうしたと言うの?》

 魂の深層まで見透かしてしまいそうなほど澄んでいるエメラルドの綺麗な双眸を見下ろしながら、光太郎はどう説明していいのか判らなくて苦笑しながら自分なりに答えてみる。

『ルウィンがどこかに行ってしまうんじゃないかって思って…そっちの方が怖かったんだ』

《ルーちゃんはどこにも行かないのね》

 ルビアが判らないと言いたそうに首を傾げて見上げてくるのを見下ろしながら、光太郎は照れたように少し笑ってそんな小さな飛竜をギュッと抱き締めるのだ。
 ぬくもりがじんわりと染み入ってきて、光太郎はなぜか凄くホッとする。

『うん、そうなんだけど…えへへ、俺っておかしいのかな?』

 照れ隠しついでに呟く光太郎に、ルビアは《光ちゃん、おかしーの》とケラケラ笑っている。その憎めない小さな飛竜を抱き締めながら、面倒臭そうに湖で魔物の血液を洗い流しているルウィンを見詰めて、光太郎はふと不安に駆られていた。

(でもあの時、俺は確かに感じたんだ。ルウィンの心が、どこか遠くに行ってしまうような…掴んで引き戻さないとって真剣に考えてしまったら、身体が自然に動いていた。どうしてだって聞かれても、たぶん説明なんてできないんだけど…)

 どうしてそう思ったのか、今にして思えば光太郎には十分な説明ができないことに思い至って、首を左右に振った。紅蓮の双眸を憎々しげに歪めながら自分を見下ろしてきた狂戦士を見ていたら、胸が締め付けられそうなほど、どうしてだろう、悲しくなっていた。だから、ルウィンの正気に戻った顔にあの悲しい狂戦士の顔を重ねようとしたけれど、どうしても食い違ってしまって失敗したのだ。

「ルウィンどうして、バーサーカーになったのかな…」

 それは素朴な疑問だったが、青空を見上げながら呟いた言葉にルビアが不思議そうに見上げてきた。何か言おうと口を開きかけた時、濡れた前髪を掻き揚げながら戻ってきたルウィンが片手に持っていた荷袋を地面に置きながら、何でもないことのようにそれに答える方が先だった。

「銀鎖の剣を持っているからさ」

「え?」

 光太郎が驚いたように顔を正面に戻すと、仕方なく着古した衣装を着用しているルウィンが肩を竦めて木の枝に漆黒の衣装を引っ掛けながら先を続ける。

「賞金稼ぎにランクがあるのは教えただろ?特になぜ、ランクSの賞金稼ぎがこの世に少ないのか、それは手にする魔剣に秘密があるからさ」

 肩越しに振り返ってニッと笑うルウィンに、光太郎はルビアを胸に抱えたままで立ち上がると、その傍らまで歩いて行って首を傾げて見せた。

「どの剣にも、それなりの力があるワケなんだが。こと、銀鎖の剣に関して言えば、魔族が鍛えた妖剣として有名だからな。常に血を求めてさ迷う妖剣は持ち手の魔力にも感化され易い。オマケに魔剣は倒した生き物の血を啜るから、魔剣の方が力をつけて持ち手の魂を喰らい尽くしちまうのさ」

「ルウィン!それはとても危険ッ」

 木の枝に洗った衣装を引っ掛けたあと、地面に放置していた銀鎖の絡まる鞘に収まった剣を掴み上げ、ルウィンは鎖をベルトに掛けながら光太郎を見下ろすと頬の緊張を緩めて肩を竦めて見せたのだ。

「まあ、だからそれだけランクSの賞金稼ぎはいないってことだ」

「持つするのダメだ。ルウィン、賞金稼ぎやめる!」

 光太郎の言葉に一瞬キョトンとしたルウィンは、どうやらツボに入ったのか、プッと噴き出してしまった。その横顔を、真剣なのに!とムッと眉を寄せる光太郎が覗き込むと、ルウィンは悪い悪いと片手を振りながら腕を組んで木の幹に凭れた。

「辞めるのは簡単だがな。ここに辿り着くまでにオレも結構苦労したんだぜ?」

 その言葉に、一概にすぐ辞めろと、ルウィンの過ごしてきた時間を知らない光太郎が安直に言えるものではないと知っているから、言葉の詰まった光太郎はうーんうーんっと悩んでしまう。

《安い代償ではないけれど、でも、ルーちゃんはそれでも気持ちが強い方だからそんなにいつもキレるワケではないのね》

 黙って成り行きを見詰めていたルビアが、光太郎の腕に頬杖をつきながら助け舟を出した。もちろん、ルビアのことである。乗った瞬間に沈まないとは限らないが。

「…でも、魂食べられる」

「オレの場合は、魂を差し出す代わりに精神を手放したのさ。その方が自制心が強ければ崩壊は免れるからな」

 意外と頭がいいんだぜ?と、冗談半分でニヤッと笑うルウィンにルビアが呆れたような溜め息を吐いた。

「ルウィン、バーサーカーになる。辛くない?」

 光太郎が首を傾げて見上げると、その顰めた眉の下の漆黒の双眸を見下ろしながら、ルウィンは思いもよらなかった台詞に眉を顰めてうーんっと考え込んだようだ。

「…考えたことはないな。魔剣に乗っ取られている間は意識がないからなぁ…ただ」

 そこで言葉を切ったルウィンは、不思議そうに小首を傾げる光太郎に視線を移した後、心底嫌そうな顔をして吐き捨てた。

「その後がいけない。あの血生臭い匂いにはうんざりだ」

《もともと、消滅系の攻撃しか好きじゃないのね》

 尤らしく言うルビアにそうだなと呟いてルウィンが肩を竦めて見せると、それで光太郎はハッとしたのだ。そう言われてみると、これまでの戦いではどれを見ても死体は全て消滅していたように思う。それに、あんな風に血飛沫が飛び散ることもなかった。先ほどの戦闘で光太郎が覚えた違和感は、ズバリそれだったのだ。
 そうだったのかと考え込むようにして俯いてしまった光太郎を見詰めながら、唐突にルウィンは少し顎を上げるようにしてポツリと呟いた。

「オレのことが怖いんじゃないのか?」

「え?」

 ふと見上げると、神秘的な青紫の双眸とかち合って、光太郎は不思議そうに首を傾げて見せた。なぜルウィンがいきなりそんなことを言ったのか、他のことに気を取られている光太郎には別に問題ではないように思えるのだが。

「いつキレるかってビクビクするんじゃないかと思ってね」

 口許に笑みを浮かべるルウィンの他意のない正直な気持ちに、光太郎はニコッと笑って思い切り首を左右に振ったのだ。勿論、そんなはずはない。

「ルウィン、キレたら判るよ。その時は逃げる♪」

「…賢い判断だ」

 屈託なく笑う顔を見下ろして、やはり何故か少しホッとしたルウィンは、よくできましたとその返答に花丸を与えるのだった。その様子を見ていたルビアは、思ったよりも物怖じしない光太郎のあっけらかんな性格に感謝しながら、その時になって漸くホッと張り詰めていた息を吐き出していた。
 ルビアはルウィンを好きだったし、空から落ちてきた光太郎のことも大好きだ。
 たくさんの厄介事を抱え込んでいるルウィンは、その容姿とは裏腹に、苦労の絶えない人生を歩んでいる。それは勿論、自分が望んで敢えて歩き出した荊の道ではあるけれど、たった独りで歩かせるにはあまりに辛過ぎてルビアは放っておけなかった。
 ルウィンがめざすその遠くに、何があるのかルビアは知らない。
 ただ、遠くを。さらに遠くをめざして旅を続けるルウィンのその存在が、いつか突然消えてしまうのではないかと不安で仕方なかったのだ。

《あ…》

「?」

 そこまで考えて、ルビアは漸く光太郎が話していた言葉の意味が理解できたような気がした。
 光太郎自身、恐らくその気持ちの深層部分までは理解していないにしても、彼は本能でルウィンの持つ危うさを感じ取ったのだろう。紙一重で揺れ動くルウィンの精神は、それでもルビアが見てきた限りでは揺るぎなく思えた。
 だが、それもどこまで持つのか…ルビアでさえ言えなかった真正面からの否定の言葉に、ルウィンはどんな思いを感じて光太郎を見つめたのだろう。
 自分の容姿は勿論のこと、他人にも何事にも、ましてや生きることにさえ無頓着で関心を示さないルウィンが、ルビアが駄々を捏ねて拾った人間の、この世を滅ぼすかもしれない『竜使い』を気に掛けている姿には小さな深紅の飛竜も驚いていた。
 或いは竜騎士としての使命から?
 まさか、とルビアはひっそりと言葉を飲み込んだ。
 面倒臭そうなルウィンがまさか、そんなことの為に旅を共にしているわけではないと、ルビアには確信めいた自信があった。
 約束は、神竜の許に光太郎を連れて行くこと…
 だがルビアは、あれほど望んだはずの光太郎を神竜に逢わせることを、何故か今は躊躇っていた。
 光太郎はもしかしたら、神竜に逢うことよりも、こうしてルウィンの傍で旅を続ける方が幸せなのではないかと、そこまで考えてルビアはギュッと大きな双眸を閉じてしまった。
 飛竜族でありながら、けして思ってはいけないことなのだから。
 何れにせよ、このままガルハに行って光太郎を手放してしまって、それでルウィンは大丈夫なのだろうか。今はそのことだけが心配で仕方ない。無論、ルウィンに言えるはずもないのだが…

「ルウィン。膝の裏に何かあったよ」

 黙り込んでしまったルビアに気付かずに他愛のない会話を交わしていた光太郎が、ふと、この間水浴びの際に見たルウィンの右足の膝の裏にあった痣を思い出して尋ねていた。
 奇妙な紋様は、何かの形に似ていたような気がする。

「ん?ああ、生まれつきの痣でね。目立たないから気にしてはいないんだが…お前は気になるのか?」

 クスッと笑って聞き返されてしまうと、身体的なものに対する指摘はよくないのだとハッと思い出した光太郎は、慌てて首をブンブンッと横に振って謝った。

「ち、違うよ!ごめんなたい。そんなつもりじゃ…」

 じゃあどう言うつもりだと聞かれても返答に苦しむだけだが、ルウィンはあたふたと慌てる光太郎に眉をヒョイッと上げて不思議そうに首を傾げている。

「ヘンなヤツだな。何をそんなに申し訳なさそうな顔をしているんだ?ただの痣じゃないか」

「えーっと…」

 確かに、ルビアが言うようにルウィンは頓着しないことが多いようだ。
 恐らくそれは、本人に限ってのことではないだろう。
 だから、そんなルウィンがどうして自分の面倒を見てくれるのか、有り難くないなどと言うことはけして言わないが、それでも不思議で仕方なかった。
 ヘンなヤツだと笑うルウィンを見上げて、いつものルウィンにホッとした光太郎は釣られたようにエヘへと笑った。それでもやはり緊張はしていたのか、剣を揮えば向かうところ敵なしのルウィンの手を無意味に掴んで、嬉しそうに握手する。
 お帰りなさいと、冗談ではない精一杯の気持ちを込めて。
 手を握られたルウィンにしてみればそんな意味不明の行動に眉を寄せながらも、だが彼は嫌がりもせずにしたいようにさせることにしたようだ。
 そうして笑う光太郎の頭には、既にルウィンの膝の裏にある痣のことはどうやら微塵も残ってはいないようだった。

第一章.特訓!20  -遠くをめざして旅をしよう-

「そもそも、この手の乗り物と言うのは無駄に魔力を食う。だから、格安で手に入るだろうと思ったのさ。ぶっ通しでガルハまで持てばいいだろうと思っていたんだが、まあ、カスタムリペア分は儲けたってことかな」

 森の中を吹きすぎる風に銀の髪を揺らしながら、ルウィンはそんなことを口にしていた。

《だったら別にトルンでなくてもヴィープルでも良かったのね》

 口先を尖らせるようにして言い募るルビアに、銀髪の賞金稼ぎは肩を竦めて小さく笑っている。

「ヴィープルは金が掛かるだろう?」

《守銭奴なのね》

「何とでも言え」

 魔力なら有り余っているからなと笑うルウィンと納得していないような表情を浮かべるルビアを交互に見比べながら、光太郎は聞きなれない単語を理解しようと勤めているようだ。

「トルンとヴィープルが判らないって顔だな」

 長時間かっ飛ばしたにも関わらず、物言わぬ機械仕掛けの乗り物は自分の働きに満足でもしているかのように、森の木々の隙間から差し込む陽光を銀の車体に反射させている。
 一行は、ガルハに続く道すがらの森の中で休憩していた。
 まるで熱砂の砂漠の唯一のオアシスのような森の中には、大きな湖が滔々と清らかな水を湛えている。

「うん。トルン、ヴィープル?判らない」

「トルンと言うのはな、そこにいる魔力喰いの機械仕掛けのことだ。ヴィープルと言うのは四足歩行の生き物だ。なかなか頑丈な体躯を持っていて、足も速い。だが如何せん利用料が高いのが旅人には痛いところだな」

「生き物?」

 首を傾げる光太郎を困ったなーとでも言いたそうに見下ろしていたルウィンは、肩を竦めて頷くだけだった。

「そうだ。まあ、そうとしか言いようがないのさ。実物がいたら、今度見せてやるよ」

「ホント?わーい、やった♪」

 嬉しそうに笑う光太郎に、思わずいつもはピンと立っている先端の尖った長い耳がくてりと下がってしまう。光太郎はなんと言うか、どうもルウィンの、いや、生きる者全ての頑なな心を解きほぐすような笑顔を浮かべる時がある。
 これが竜使いの持つ魅力なのだろうか?

《ルーちゃんは本当に光ちゃんには優しいのね》

 勝手にそんなことを考えていたルウィンの脳内に、不満タラタラのルビアの声音が響いた。

「うん、ルウィン優しい」

 余計なお世話だと言ってやる前に、光太郎が頷いてニコッと笑うから、最近ルウィンは小生意気な小さな紅い飛竜を嗜めることができなくなっていた。だがまあ、何事もあまり関心を抱かないハイレーン族の銀髪の賞金稼ぎにしてみたら、そんなことはどうでも良いのだろう。

《ちょっと聞きましたのね?今の健気~な光ちゃんの台詞!ルビアは感動なの》

 わざとらしく大袈裟に身振り手振りで表現する飛竜を無視して、ルウィンは集めてきた枯れ木で焚き火を起こしながら光太郎に言った。

「カークーは知ってるよな?最終的にトルンが手に入らなければソイツを考えていたんだが、如何せん奴等の足は遅い。カークーでの旅路ならガルハまで何日もかかっただろうよ」

「カークー、キーウィみたいな鳥。足が遅い?」

「そうだ」

 頷くルウィンの傍らに腰を下ろしていた光太郎は、焚き火が起こす炎を見つめながら首を傾げていた。

(キーウィみたいな姿でダチョウみたいに大きいから、共通点として足は速いって思ってたのにな~うーん、違ってたのか)

 ちょっと残念でガックリしていると、ルビアが欠伸をしながら光太郎の腕に舞い降りた。

《トルンはとっても便利なのね。魔力があるルーちゃんには持って来いの乗り物なの》

「うん、トルン凄い。ハイキガス出ない。自然が嬉しい」

「ハイキガス?」

 傍らで聞いていたルウィンは首を傾げたが、元いた世界の言葉なんだろうと勝手に理解してそれ以上追及することはなかった。

「トルンどこで生まれる?ガルハ?」

 これから赴こうとしている国の名前を口にしたものの、自分が今何処にいるのかさえ未だ理解できていない光太郎としては、できればこの会話を切っ掛けにこれから行くはずのガルハについて少しでも学べればいいと、そう思ったのだ。

《ガルハ…って言いたいところだけど違うのね。ガルハは確かに大きな軍事国家ではあるけれど、それは優れた魔剣士が多いからなの。魔剣士と言うのは魔法と剣技に長けている騎士のことなのね。もともと機械仕掛けを研究していたのは、すっごく遠い昔、世界中に散らばっていた【七賢者】と呼ばれる賢者の一人が創ったディアノスと言う国なのね》

「ディアノス?」

《そう。今はホントに七賢者の末裔なの?と疑いたくなるほど魔力とは無縁のゼノギア家が治めているのね》

「賢者、魔法スゴイに魔法使えない?面白いね」

 暢気に笑う光太郎の傍らで2人の会話を黙って聞いていた胡坐をかいて座っているルウィンは、呆れたように肩を竦めて枯れ木を1本炎の中に投げ入れた。

《今は確か、シャンテと言う女王様が治めているはずなの》

「女王様?ふーん、僕は他の国も見たい。でも、ガルハ行く、それが先」

 ね?っと小首を傾げて同意を促す光太郎に、小さな深紅の飛竜はこくりと頷いて短い指を1本だけ立てて左右に振って見せた。

《ガルハも凄い国なのね。光ちゃんが見たらぶっ魂消るの》

「ビックリする。ホント?」

《ホントーなのね!首都のラングールを見たら、その凄さに膝がガクガクして奥歯がガチガチするのね!》

「…」

 ルビアの台詞に本気で怯えたような光太郎は、青い顔をして無意識のうちにルウィンに擦り寄っていた。
 捨てられた子犬のような目で思わず振り仰いだルウィンの顔は、言わずとも明らかなように、大袈裟なルビアの言動に呆れ果てて、いつもはピンッと尖っている長い耳も下がっていた。

「奥歯がガチガチするほどには殺気立ってはいないがな、お前が目にした村にしてみればその繁栄に目を見張るくらいはするだろうよ」

「バザーよりも賑やか?」

「バザーか、はは。まあ見てからのお楽しみだ」

 ワクワクと好奇心旺盛な表情をして覗き込んでくる光太郎の顔を見下ろして、ルウィンは軽く笑いながら肩を竦めて見せた。
 よく晴れた透き通るような青空に見たこともない鳥が羽ばたいていくのを、ルウィンは遠くに眺めながら不意に思い立ったように立ち上がった。

「?」

 不思議そうにそんなルウィンを見上げる光太郎とルビアに、銀髪の賞金稼ぎは微かに吹く風に前髪を揺らしながら素っ気無く言うのだ。

「火も熾したことだし、お前たちこっちに来い」

 集めてきた枯れ木に短い術法を唱えて焚き火を熾していたルウィンに、長い旅の疲れを癒すように腰を下ろしていたルビアが口を開いたのだ。それに対するルウィンの回答が冒頭のようなものである。
 漸く火を熾して一息つけるはずだったのに、ホッと腰を下ろしていた光太郎は不思議そうな顔をして首を傾げながら立ち上がった。すると、同じようにチビ飛竜も舞い上がって黒髪の上に落ち着くのだ。

「ルウィン、どこ行く?」

 首を傾げながら長身のハイレーン族である銀髪の青年の後を追う光太郎に、彼は肩を竦めながら少し奥にある湖まで2人を導いた。

『うわー!綺麗だなぁ…ここ、すっごい綺麗!えーっと、ニブール、ルテナ』

「光る、月?」

『ナール』

「光る、月、面?…光り輝く月面?」

「みたい」

 ニッコリ笑って頷く光太郎の腕には、いつの間にか深紅の飛竜が抱えられていた。
 大きなエメラルド色の瞳には好奇心と不信感が綯い交ぜした、僅かな戸惑いが浮かんでいる。

「何をする気だと言う質問には見ての通りだと答えておこう。さ、さっさと服を脱いで飛び込め」

「ええ!?」

《やっぱりなのね…》

 ギョッとする光太郎と溜め息を吐くルビアを尻目に、言い出したルウィンがさっさと先に服を脱ぎ捨て始めた。

『わーわー!どうしよう、ルビア?』

《脱ぐしかないのね》

 それは見れば判るけど…と混乱した頭では判っているような判ってないような曖昧な気分だったが、目の前で既に全裸になってしまったルウィンが平気そうな顔をして湖に入って行くのを見ていると、居ても立ってもいられない心細さを覚えてしまう。

《脱ぐっきゃないのね!ルビアも行くの、光ちゃんも早くなのね》

 ハッとした時にはルビアは既に腕から擦り抜けるとクルンっと宙で一回転して人型に変身し、覆う場所の少ない衣服を惜し気もなく脱ぎ始めたのだ。それに感化されたのか勇気を持ったのか、恥ずかしさも多分にあるものの、気を取り直して衣装を脱ぎ始める光太郎だった。
 スィーッと泳ぐように湖の少し深いところを目指していたルウィンはしかし、腰が隠れるほどのところで立ち止まると自分に倣って派手な水飛沫を上げて飛び込んだ2人を呆れたように振り返る。

「つべた~いのね!」

「はっっクシュ!」

 賑やかにワイワイしている2人はどう見ても年の離れた兄妹ぐらいに見えるが…ん?兄妹??

「わわ!?ルビア、女の子!?」

 鼻水が出そうになっていた鼻を押さえていた光太郎は、ハッとしたように傍らで楽しそうに我が身を抱きしめる様にして震えているルビアに気付いてギョッとした…が、よくよく見ればなんのことはない、やはり普通に少年の姿をしている。
 だがあくまでも少女姿に気合を入れているのか、一見すれば女の子と見間違っても仕方ないのだ。
 しかし、ルビアがそうする理由を未だに光太郎は判らないでいる。

「それがどーしたのね?うっふんなのvあ、ルーちゃん待って~ん」

「こっち来んな、バカ飛竜」

 バシャンと飛沫を上げて水を引っ掛けるルウィンに、頭から水を被ってしまったルビアはムッとしたように下唇を突き出して腹を立てた。

「ひっどいのね!せっかくルビア様がサービスしてあげると言うのに!!」

「…いらんわい」

 呆れたように肩を竦めてしれっと言い放つルウィンに、ますますいきり立つルビアの背後で、光太郎が情けない声を上げていた。

「ルビア、どーしていつも女の子風なの~??」

 参ったと言うように両手で両目を覆って尋ねる光太郎に、腰に手を当ててムスッとしていた深紅の長い髪を水面に漂わせた少女もどきは、スィーっと泳いで行って光太郎に抱きついた。

「男所帯は辛気臭いのね!雑草の中に花があれば綺麗なの~」

「わー!」

 バシャバシャと水飛沫を上げてじゃれ合う2人を呆れたように見ていたルウィンは、やれやれと溜め息を吐いて手にしていた石鹸を泡立て始めた。

「光ちゃんもパッと見は女の子みたいに華奢なのね♪万が一の時は変装するといいのv」

「ふぇ?」

「お金がなくなったら身体で!稼ぐのね♪」

「ええー!?」

「踊り子踊り子♪」

 冷たい水飛沫を跳ね上げてはしゃぐ2人の姿は、真っ青な空に浮かぶ太陽の光を反射してキラキラと輝いてとても健康的だ。それだけに話している内容の酷さにルウィンがこめかみを押さえそうになったとしても、誰も文句は言えないだろう。

「下らん冗談はいいから埃を流せ」

 ポンッと放られた石鹸をタイミングよくキャッチしたルビアを見て、ここに来て漸く光太郎はルウィンが湖に自分達を誘った彼の思惑を知ったのだった。

(そっか、砂漠で埃だらけだったもんな。汗も流したかったし…ルウィンって案外気が利くんだよなぁ)

 泡立てた泡でもあもあと頭を覆ってしまって四苦八苦しているルビアの傍らで、光太郎は均整の取れた裸体を惜しげもなく晒して水浴びをしているルウィンの、その姿をぼんやりと見つめていた。
 頬に微かな傷を残しているが、身体中はその比ではない。
 傷だらけと言えば嘘になるかもしれないが、致命傷になりかねないような大きな傷もあれば、刺し傷も刀傷も至るところについている。なまじ筋肉質なせいで、痛々しさがないのが、却って彼を百戦錬磨を誇る賞金稼ぎであることを物語っているようだ。
 気持ちよさそうにふーっと息を吐きながら水を浴びるルウィンは、そんな傷さえなければどこか、気品さえ漂う優雅さがある。物語から抜け出してきたエルフのような神々しさがありながらも、彼が死闘を潜り抜けてきた存在であることを物語るのは、やはりその、意志の強さを秘めた未来を見据える青紫の双眸に隠された闘志のせいなのだろうか…

(俺のいた世界だったら、こんな仕事をしなくても、ルウィンならモデルとかにもなれたのにな…)

 外見を気にするだけでつけている筋肉とは違い、生き抜くために必要に応じてついている筋肉と言うものは否応なく美しかった。どこか空々しさを匂わせる見掛け倒しのムキムキとは違い、洗練された肉体はそのものが1つの芸術のようでその存在はまるで神秘的だった。
 男なら一度は憧れる完璧な肉体が目の前にいる。
 バシャバシャと水を顔に叩きつけるようにして洗っていたルウィンが、不意にその手を止めて、前髪からポタポタと水滴を零しながら訝しそうに眉を寄せると、ボーッと見蕩れている光太郎を見た。

「どうした、そこで溺れているチビ竜を助けないのか?」

 久し振りに息抜きができたのか、ルウィンもどこか気の抜けた調子で肩を竦め滴り落ちる水滴を空に散らしながら前髪を掻き揚げると、光太郎は慌てて我に返って傍らで半分溺れているルビアを助けることにした。

「わわ!?ルビア、だいじょぶ??」

「ひー、助けて欲しいのね!」

 長い髪が災いしたのか、ルビアが本気で溺れていると知って、光太郎はついつい美しいハイレーン族のルウィンに見蕩れてしまったことを反省した。

「くっくっく。このオレ様の美しさに見蕩れるのもいいが、ちゃっちゃと身体を洗っとけよ?」

 片手を腰に当てて意地悪そうに笑うルウィンの満更嘘とも言えないお茶目な(?)ジョークに、光太郎と命辛々で生還を果たしたルビアは顔を見合わせると思わず噴出してしまった。

「う、あからさまに笑うなよ。なんだ、これは。冗談のつもりが笑われるとやたら気恥ずかしくなるぞ?」

 雪白とも言える白い頬は殴られただけではない赤さを持っていて、それが不機嫌そうに眉を寄せて唇を突き出すルウィンを、腕を組んでいてもどこか子供っぽい仕種に見せていた。それが余計に光太郎とルビアのツボに入った。

「ちっ」

 不機嫌そうな、バツが悪そうな表情をしたルウィンは肩を竦めると、それでもクスッと笑ってスィーッと泳ぎだしてしまう。

「バツが悪いハイレーン族はちょっと深みまで退散するとしよう」

 グッバイと片手を振って潜ってしまったルウィンに慌てたようにザブザブと歩き出す光太郎を、ルビアが慌てたように止めた。それもそのはず、その先は少々の泳ぎの達人でも閉口するようなポイントがあるのだ。

『だってルビア!ルウィンが行っちゃったよ?』

「言葉がわかんないのね。んもう、仕方ないの!」

 そう言って水の中に潜ったルビアが飛び上がった時には、既にその身体は元のルビーのような美しい深紅の飛竜に戻っていた。

《ルーちゃんの行ったポイントには、おっきなお魚がいるのね。別に深追いをするお魚ではないけれど、泳ぐ練習にはもってこいなの》

『じゃあ、俺だって練習したいよ』

 ムッと唇を尖らせて反論する光太郎に、ルビアはちょっと困ったように小首を傾げてみせる。

《光ちゃんは人間なのね。そりゃあ、ルーちゃんには止められているけれど、光ちゃんは竜使い様かもしれないの。でも、人間であることには間違いないと思うの。そんな光ちゃんが、魔魚の追跡から逃れられるとは到底思えないのね》

 しかも相手は、竜使いの出現から均衡の崩れた魔力の増大で、その力は計り知れなくなっている。冗談が冗談にならなくて、照れ隠しに泳ぎに行ったわけではないルウィンは、実はその目で魔物たちの動向を観察しようとしていたのだ。

『魔魚…ってことは、もしかして魔物!?』

《もしかしなくても魔物なのね。足手纏いになっちゃうの》

 肩を竦めるルビアに、ブルブルッと震えて見せた光太郎は、慌てたようにその深紅の身体を裸の胸に抱きしめながらそそくさと湖を後にするのだった。

 そんな2人の気配を背後に感じたルウィンは小さく苦笑すると、息を大きく吸い込んで深みまで潜って行った。
 そもそもこの湖はひょうたん型になっていて、ちょうど光太郎が怯えたようにルビアを抱えて上がった岸からは見えない構造になっている。生い茂った木々が水面に浮かぶルウィンの姿を隠してしまうのだ。
 水面に突き出た大きな岩のある場所に、この湖の番人は深い眠りについている。
 10代の頃から城を抜け出してはこの湖に泳ぎの練習に来ていたルウィンにしてみたら、湖の番人とは既に10年来の付き合いである。ルウィンの『ちょっとそこまで』は、実に3日がかりの小旅行を意味していたりすることは城の者にも内緒だった。

《タオ老、起きているか?》

 水底に眠っているはずの怪魚の寝床に向かって、ルウィンは思念の声で語りかけた。
 均衡の崩れた世界に渦巻く魔力の波動は、水底にいてさえもルウィンの肌を貫く鋭敏さを持っている。この波動を、いにしえよりその営みを見据えて生き続けている老怪魚〝タオ〟が感じていないはずがない。
 どうか無事であるように…何事にも関心を示さないルウィンにしてみれば、光太郎のときと同じように、この怪魚に砕く心根は常に柔らかかった。
 遠い岸辺でその思念の声を感じたルビアが、《あッ》と声を上げて光太郎から不思議そうに覗き込まれていたちょうどその時、ルウィンが下唇を噛み締めると同時に水底の影がゆらりと動いた。
 湖に降り注ぐ陽光の煌きが銀髪に反射して、暗い水底から彼の姿を認めるのは容易いことだったのだろう、巨大な何ものかは大きな影を揺らして凄まじい速度で襲い掛かってきた。ルウィンの見極めが一瞬早く、それを避けなかったら鋭い牙で引き裂かれていただろう。

《元気そうで何より…と言いたいところだが、挨拶にしては物騒じゃないか?》

{喧しいわ、この若造ッ!!暫く顔を見らんと思ったが何をしておった!!}

 余程起こされたことに立腹しているのか、はたまた久し振りに会った愛弟子の来訪を歓迎しているのか、どうやら後者であるらしい大音声を張り上げて、ルウィンの眼前を悠々と泳いでいる。
 その健在の姿にルウィンが微かにホッとした気配を波紋で受け止めて、堂々たる巨大な姿を晒した怪魚は訝しげに口許に延びた長い鞭のように撓る髭をゆらゆらと動かしながら小さな目を眇めている。

{なーんじゃ、その顔つきは!?儂の健在に不満でもあると言うのか??フンッ!!}

 巨大な鯰のような姿でありながら、泳ぐ速度は敏捷なのか、外敵に見つかり易い大きさにも拘らず彼の肉体には自然にできた傷以外はない。それが誇らしいのか、巨大鯰の怪魚は瑞々しい裸体を晒すハイレーンの青年の前で悠々と泳いでみせる。その姿は、数年前に見た時と少しも変わっていないことに、ルウィンの口許に微かな笑みが浮かんだ。

《そうか、それならいいんだ》

{むぅ!?…なんじゃ、気味が悪いのう!!貴様らしくもなくやけに萎れておるではないかッ!!}

《タオ老…まあちょっと、話でもしないか?》

 暫く考え込んでいたルウィンはそう言うと、タオが着いてきているか確認もせずに水面に向かって浮上した。そして、彼がこの怪魚と対話する時にいつも座っている、あの突き出た岩に登って胡坐を掻くと水面に大きな波紋を描きながら半端ではない巨大魚がザバッと巨大な顔を覗かせたのだった。

{さてどうした、若造!?}

「淀みを感じないか?」

 水面を覗き込むようにして語り掛けるルウィンの端正な顔を見上げて、鯰顔をした怪魚は{ふむ}と頷くような仕種を見せて、ニィッと開いた口からギザギザに尖った牙を覗かせて見せた。

{フンッ!!竜使いとやらが現れてから、暗黒の瘴気が垂れ流しになっていると魔物どもが騒いでおるが…貴様の心配事とはそんなことか!!}

「そんな事かってな…爺さん。まあいいさ、あんたに影響がないならそれでいいんだ」

 相変らずの豪胆ぶりを見てひと安心だったのか、ルウィンが頷きながら呟くと、タオ老は暫く何事かを考えているような素振りを見せていたが…

{若造!!貴様、竜使いの出現に戸惑いでもしたんかのう!?}

「なぬ?」

 思わず耳慣れない台詞に眉を寄せるルウィンを、鯰の親分は良く見ないと判らない、長い付き合いのルウィンですら見落としてしまいそうなニヤリ笑いをして尾鰭で水面を叩いてみせる。
 大音声は森を通り越えて砂漠地帯にまで響き渡りそうだが、実際はそうではなかった。彼の思念の声はルウィンの頭の中でのみ響き渡っている。なので、たとえルウィンの思念の声をルビアに聞かれたとしても、タオ老の思念までは聞こえていない。だからこそ彼は、たった1人でこの湖の主に会いに来たのである。

{貴様、漸く立太子するそうではないか!!森の魔物どもが騒いでおるぞ!![ハイレーンの若い皇子が嫁を娶って国を治める、この森までも支配しに来るぞ]…となぁ!!}

 強国ガルハは隣国コウエリフェルとの長い戦をしている。
 今でこそ冷戦状態ではあるが、些細なことでもすぐに戦が勃発してしまうほど、2国の間の諍いの歴史は長かった。
 恐らく魔物どもが噂しているのは、新たな皇太子を迎える国はますます繁栄を誇り、皇帝は何れその勢いに乗って戦を始めるだろうと予言しているのだ。

「コウエリフェルのセイラン皇子が妻を娶る。その噂は流れないのか?」

 嫌気が差したように肩を竦めて溜め息を吐く若きハイレーン族の、ガルハ帝国を治めるバーバレーン家の皇子殿下のその様子に、タオ老は愉快そうに小さな目を細めた。

{コウエリフェルの若造のことか!?アレの立太子は既に済んでおるでなぁ!!対立国で、しかも強国ガルハの皇子の立太子ともなれば話は別じゃ!!知らぬ貴様でもあるまい!}

 面倒臭いなぁと思ったかどうかは別としても、後頭部をバリバリと掻きながら厳しい表情で暫く地面をジッと見据えていたルウィンはしかし、諦めたように溜め息をついて肩を竦めるのだった。

「オレは嫁を娶る気もなければ立太子する気もない。根も葉もない嘘を父上が流しているだけだ」

{ハッ!!貴様、面白いことを言うのぅ!!皇帝の言動は即ち事実ではあるまいか!?}

 転げるようにして笑っているのか、鯰の親分は水の中で優雅に踊っているようだ。

「何とでも言ってくれ。当の本人の与り知らぬ発言なんか、誰が認めてもオレが認めん!」

 フンッと鼻で息を吐いて外方向くルウィンを、転げるのを止めたタオ老は暫し見つめた後、気のない調子で思念の言葉を紡いだ。

{勇ましきハイレーンの皇子よ!!あの国を何れ治めるは貴様しかおるまい!!いい加減に駄々を捏ねずに立太子して、陛下を安心させてやるんじゃな!!それが孝行と言うものよ!!}

 呆気に取られたようにポカンとしたルウィンだったが、すぐに神妙な顔つきをして俯いた。
 誰かに言われるでもなく、それは重々承知していることだった。
 彼の美しい兄上は、既に将軍職を退き、ましてや立太子など永遠に望めない身体になっている。強国ガルハに在って、唯一国を背負える皇子は、もうルウィンしかいないのだ。
 立太子すれば、自ずと将軍職に就き、何れ魔物が噂するようにコウエリフェルとの長い戦を始めることだろう。
 些細な切っ掛けとは、たとえばそれが、ルウィンの立太子だったとしても過言ではないのだから。

{時に若造!貴様が連れている小僧、なかなか面白いではないか!!}

 神妙な面持ちのルウィンをそれ以上苛めるつもりはないのか、この湖を古くから守っている主は重苦しい雰囲気を払拭でもするかのように水面を激しく尾鰭で打ち立てながらそう言った。

「光太郎のことか…そうだな。タオ老にはアイツがどんな風に視える?」

 先見の術には長けていても、その者の本質を見抜けるほどには母の魔力を譲り受けていないルウィンとしては、今回この湖に立ち寄ったのはタオ老に光太郎を視て欲しかったからなのかもしれない。ましてやズシリと胸に響く老の台詞に怯んでいる身としては、話題を変えるのは有り難かった。

{織り成す色じゃ!!光は影を求め、影は光を求むる!綾なす色に惑わされぬようにのう!!フェッフェッフェッ!!}

「色??」

 時にこの鯰の親分はルウィンですらも理解し得ないことを言葉にする時がある。
 だがそれは、確実に今後のルウィンには必要なはずの言葉であって、遠い未来にその場に来て、タオ老の言っていたのはこう言うことだったのかと思うことがよくあったものだ。だが些かまだ若すぎるルウィンには、そのどれもをその場で理解することができないでいた。

{二対の色は混じりあい1つの色と成す!!求むるなれば離れよ!!}

 鯰の大将は大きな尾鰭でバシャンッと水面を叩くと、胡坐を掻くハイレーンの青年を見据えるように小さな瞳を瞬きしてニヤッとギザギザの刃のような歯をむいた。

「…織り成す色。二対の色か…アンタにはアイツの正体が視えているんだろうな」

{さてなぁ!!}

 バシャンバシャンッと勢い良く泳いで見せるタオ老に、ルウィンは仕方なさそうに笑って見せた。

(いずれにせよ、どうやらオレと光太郎が離れることは運命らしいな…)

{さて、若造!!貴様の下らん話とはそんなものか!?}

 その台詞は、タオ老がそろそろ退席を望む時に口にする言葉だった。

「ああ、悪かったな」

{フンッ!!今度は100年後にでも会いに来い!!}

「それはもう来るなってことかよ」

 呆れたように首を傾げるルウィンの眼下で、傍らを鮫ほどの大きさの魚が泳ぐのを小さな目で捉えた鯨ほどもある鯰の親分は、あっと言う間にバクリと一口で平らげてしまった。相変らずの健啖家ぶりを眼下に認めて、ルウィンはそれでも、なぜ自分が普通に笑えないでいるんだろかと吹き上げる風に前髪を揺らしながら吸い込まれそうな青空を見上げていた。

 バシャバシャと湖の冷たい水を蹴散らすようにして上がってきたルウィンを待っていたのは、薄水色の流れるような衣装を身に纏った小柄な少女だった。
 水の精霊の祝福を受けた衣装はスッポリと身体を包み、お揃いのベールが全体を覆って宛ら湖の精霊が現れたのだろうかと、ルウィンが一瞬錯覚したかどうかは本人のみぞ知るところだが、軽い溜め息を吐いて光太郎の頭部からベールを引っ手繰った。

「ルウィン、おかえり!お話、すんだ?」

 胸元に深紅の飛竜を抱えていれば、それが湖の精霊でないことは一目瞭然であるとは言うまでもない。  
 全裸で歩く青年の後を陽気に追いかけて行く光太郎をルビアは見上げながら、思念の声でルウィンに話しかけた。

《タオ老元気だったの?思念の声が聞こえたのね》

 ルウィンの、と付け加えた説明に、銀髪の青年はやっぱりコイツかと思いながら頷いて見せた。

「相変らずだったよ。あの爺さんを縛る魔力など、もうこの世にはないんじゃないか?」

 辛辣な嫌味を言うルウィンの態度に、これは何かあったんだなと感じ取ったルビアは、彼が焚き火のある場所まで来て買った服に着替えるところを無言で見守ることにする。ルウィンとルビアの会話で何やら只ならぬ気配を感じた光太郎も、話し出したいのをグッと堪えてルビアともども大人しく待っていることにしたようだ。

「…なんだ、お前たちは」

 漆黒の衣装を纏ったルウィンはベルトが幾つもついている風変わりな外套を掴みながら、岩のように押し黙っている飛竜と少年を訝しそうに交互に見比べながら首を傾げてみせた。

《不機嫌そうなのね。とばっちりはご勘弁なの》

 煌くような深紅になった紅い飛竜は、対照的な薄水色の衣装の胸に抱えられながら尖った口をパカッと開いて見せた。

「不機嫌?オレが?…冗談だろ。別になんでもないさ」

「ルウィン、だいじょぶ?」

 不安そうに見上げてくる漆黒の双眸を見下ろして、自分がそんなに不機嫌そうな顔をしていたのかと正直驚きながら、ルウィンは首を左右に振って見せる。

「そんな顔するなよ」

「う?」

 クシャッと黒髪を掻き回されて、光太郎はホッとしたように顰めていた眉を緩めた。
 そんな2人の動作を見ていたルビアは、光太郎の腕に掛けている小さな両手で頬杖をつくと、肩を竦めて溜め息をついた。

《タオ老が元気だったのならそれでいいのね。問題は何を話したのかと言うことなの》

 いつもなら、お前には関係ないとピシャリと言われて口を噤む。これがお決まりのパターンだったはずなのに、今日のルウィンは少し違っていた。

〔ガルハに戻る。ただそれだけのことだ〕

「!」

 ガルハ語の会話に、光太郎はルビアを抱きしめたままで見守っている。それはルウィンが仕事の話をしているか、重要な話をしているときの言葉だから光太郎は素直に黙っているのだ。そんな光太郎を見下ろしながら、ルウィンは少し寂しそうな顔をした。

「?」

《それだけのことでガルハ語を使うの?》

 ルビアの台詞に、ルウィンは小さく首を左右に振った。

「ガルハに戻る、ただそれだけのことなのにな。気が引けるのは、オレが…いや、どうかしてる。さあ、もう行くぞ」

 振り切るように砂を蹴って火を消すと、ルウィンは背後を振り返りもせずにトルンの許まで行った。その、いっそキッパリと断ち切ろうとするルウィンの心を、ルビアは慮って口を開けないでいた。ただただ、その背中を見つめていることしかできないでいる。
 そんなルビアとルウィンの沈黙の対話に、光太郎はなぜか、不意に大きな不安を感じて小さな飛竜の身体をギュッと抱き締めてしまった。

(なんだろう…今まではあんまり考えてなかったのに。どうしたんだろう、この気持ちは…)

 奇妙な形をした筒状のハンドルに腕を入れて、血圧の下がるような軽い眩暈を覚えながら、ルウィンは魔力を吸い取られる感じに相変わらず嫌気が差したような顔をしていたが、正面を見据えるように睨み付けてから自らの魔力を全開で放出した。その瞬間、一気に生気を取り戻した銀の車体を持つトルンは、走れる喜びを体現するかのような咆哮を上げて身震いするのだった。
 呆然と突っ立っている光太郎に気付いたルウィンは、怪訝そうに小首を傾げながら顎をしゃくってみせる。
 不安そうな表情をしていた光太郎はちょっと俯いて、それから顔を上げるとニコッと笑って慌てたように走って行くとルウィンの背後の座席に飛び乗った。

「どうしたんだ?」

 ちょっと驚いたようにルウィンが言うのと、同じように驚いたように見上げるルビアを交互に見ながら、光太郎は殊の外なんでもないようにニッコリと笑って見せたのだ。

「別に何も♪ガルハ行くの、すごい楽しみ」

 ルウィンは肩を竦めただけで何も言わずに、爆音を立てて走り出すことにした。
 ルビアは不思議そうな顔をしていたが、結局、ギュッとルウィンの背中に抱きついている光太郎の顔を見ることができずに大人しく目を閉じた。
 光太郎はルウィンの背中に頬を寄せながら、先程までの明るい表情とは打って変わった神妙な面持ちで、キュッと唇を噛み締めながら流れて行く壮大な自然を見つめていた。