深い渓谷に、誰がどの様な業をもってして創り上げたのか判らない、人々の記憶よりも古い時代からその姿を留めている石造りの巨大な橋は、小さなロジン村を遠い時代の彼方より見守ってきたのだろう。
賑やかな村は石橋のおかげで世界に広く知られているのだが、その分、旅人の往来も激しく、なかなか村内はピリピリとした緊張感も漂っているようだ。
まるで毎日が祭りの時のように賑やかで、露天商の声音も高らかに青い空に響き渡っている。旅のついでに店を広げる行商人の姿もあり、それほど住民数の多くないはずの村は、だがなかなか活気に満ち溢れていてデュアルのような人間には比較的過ごし易い空間のようだった。
「機嫌がよさそうだな」
鼻歌交じりでご機嫌の旅芸人の後ろ姿に、アークでも1、2位を争う大国の王宮騎士団の団長とは思えない、草臥れた旅人の出で立ちをしたリジュが呆れたように苦笑している。
「そりゃあね、お祭りはいつだって好きだよ。ウキウキするじゃない?あれ、お堅い団長さんはお祭りとかは好きじゃないの~?」
クスクスと笑いながらまるでステップでも踏み出しそうな仕種の、腹に一物も二物もありそうな企み顔のデュアルの双眸はひと波瀾含んだ輝きを秘めてにやりと揺らいでいる。
余計なことを言うんじゃなかったとでも言いたそうなバツの悪い顔をして、シッシッと片手を振るリジュに、デュアルは良く晴れた陽光を金髪に反射させながら空を仰いで頭を掻く。
「んー、でもこれってお祭りとかじゃないんだよね~?こう言う雰囲気は嫌いじゃないけど、毎日がこんなカンジだと疲れちゃうだろうね」
そう言われてみればと、不意に周囲を見渡したリジュは、賑やかで明るい町中の反面、暗い影のように疲れた表情をしている村人に気付いて少し驚いた。
暢気にぶらぶらと散策しているだけではなく、この奇妙な出で立ちのただの道化師のような男の観察眼は、毎度の事ながら平伏されるものがあるとつくづく感心して先を行くデュアルの背中を見つめていた。
「だがそれが生きていく上での糧であるならば、致し方あるまい」
不意に背後から声音がして、リジュは驚いたように足を止めた。そんなリジュに気付いたデュアルも歩調を止めて振り返ると、相変わらずの涼しい顔には少しの動揺もなかったが、内心では眉を寄せていた。
「いや、これは失礼。お二方の会話に聞き耳を立てるつもりはなかったのですが…これは失礼した」
言い回しほどには年を重ねてはいないのか、フード付きの外套に身を包んだ旅人の足許は、長い旅を物語る編み上げの靴が砂利で汚れていた。
「今しがたこの村に着きましてね。お二方もそうですかな?」
(話し相手が欲しくて声をかけた…ってワケじゃないんだろうねぇ)
それほどあからさまに見ていたつもりもないのだが、どうも、自分が思う以上にこの旅人は一癖ありそうだ、ここは1つ無視していようと考えていると、お人好しのリジュが愛想良く答えている。
本来のその役割は無愛想なリジュではなく、陽気が売りの自分であるはずなのだからどうしたことかとあからさまに驚いていたが、リジュはどこ吹く風と言った感じでそんなデュアルを無視している。
「いや、他愛のない話ですよ。気にされますな」
デュアルのおかげで多少なりとも建前を覚えた実直で無骨なリジュは、違和感を覚えながらも、出来得る限り不審な人物とはこれ以上関わらないように努め、その結果軽く流して立ち去ろうとデュアルを促そうとしたのだった…が、相手は何に興味を示したのか、そんな風変わりな二人連れの旅人を引き留めたりするのだ。
「このまま旅立たれるのかな?」
「? いや、明日発とうと思っているが…」
あちゃ、この馬鹿…とデュアルが思ったのかどうかは定かでないが、お人好しのリジュをチラッと見て肩を竦めると溜め息を吐く。
「名立たる方とお見受けしましたが、宜しかったらそこの酒場で旅の話など聞かせてはもらえますまいか?」
(こちらからしても不審人物だと思うぐらいなんだから、向こうだって不審なヤツって思うワケでしょ。まあね、それはよしとして。さて、団長さんどうするかな)
「いや、実はまだ宿を取っていないのでね。これから探さねばならないんだ」
「おお、それならご安心を。その酒場の上が宿屋でして。私も取っているので融通も利くでしょう」
水を得た魚のように生き生きと話す旅人の不可思議なほどの執拗さに、デュアルが漸くムッとした顔をしたが、リジュはその一言でホッとしたような顔をしたから旅道化の珍しい気概が逸れてしまった。
「おお、そうですか!それは助かる、なぁ?」
嬉々として振り返ると、デュアルが額に血管を浮かべてニッコリと微笑んでいる。
「いやぁ、ホントに助かるねぇ」
だが、やはりどこか抜けているリジュはそんなデュアルの真意などまるで気付いているような様子もなく、風変わりな旅道化は珍しく肩を落とすのだった。
「おお、まだ名乗ってもいませんでしたな。私はルシード、両眼を傷めておりますれば頭巾のままにて失礼致す」
リジュは素直にその台詞を間に受けているようだったが、デュアルはそうでもなさそうである。だが、奇妙な縁で旅を供にすることになったこの、本来なら一生涯を王宮で、ともすればガルハとの戦が起こるのなら王宮騎士団の団長として毅然と戦に赴いただろう、この実直でお人好しで少し間抜けな男を気に入っていた。だからこそ、こんな退屈な旅に出ることを了承したのである。
仕方ないなぁと肩を竦めたものの、さて団長がこの状況を今度こそ掻い潜ってくれるんだろうかとワクワク期待したように腕を組んでニヤニヤ高みの見物である。
既に腹を立てる気力を失ってしまっていたデュアルとしては、この状況を楽しむことにしたのだ。もちろん、そっちの方が楽で何より自分が楽しい。
「名、ああ、俺の名は…」
リジュ・ストックは世界に名立たるコウエリフェル王宮騎士団団長の名前である。
その名を辺境とは言え、旅人の行き交うこのような村で口にすれば、確かに最初は嘘だと笑われて終わるだろう。それならそれで構わないが、噂とは困ったもので、根も葉もない嘘も誠のように吹聴されてしまう。そんなことがガルハにでも知れてしまえば、すわ何事かといらぬ波風を立たせてしまうではないか。
そんなことはけして起こしてはいけない、自分を信用して任せて戴いた皇子に合わす顔がなくなってしまう。リジュは決意した。
「俺の名はヴィラ、こいつは…」
さて困った。
自分の名はどうにかなったとしても、彼には腕を組んで意地悪そうにニヤニヤと笑っている、良くも悪くも目立ってしまう相棒がいるのだ。
今も俺はやったぞと内心で拳を握っているだろうリジュが、自分の存在にハッと気付いて困惑したように眉を寄せている状況を楽しんでいるかもしれない…いや、確実に楽しんでいるだろう相棒が。
「ボーンて言うんだ。どうぞ、よろしく」
ニッコリ笑って漸く助け舟を出したデュアルに、リジュがもちろん胡乱な目付きをしたことは言うまでもないが、フード被りの男、ルシードは然して気にした様子もなく僅かに覗く口許に笑みを浮かべた。
「旅の道中、これは良い出会いができた」
どうもデュアルが好きになれないルシードが、軽い挨拶のように腕を差し出して、リジュが反射的に握手をしていた。
その時、デュアルは見逃さなかった。
外套の袖から覗いた彼の腕にある痣、それはまるで何かに焼かれたような酷い火傷の痕のようにも見えたのだが…そんなさり気ないデュアルの視線に逸早く気付いたのか、ルシードはサッと腕を引っ込めて何食わぬ顔で彼らを酒場の方に促した。
(やれやれ、レセフト国に着くのはいつになることやら…でも)
時間に余裕のない旅ではない。
できれば退屈じゃないことに越したことはないのだから、本当はもっと凄いことが起こってくれてもいいとさえ考えているなんてことは、リジュには秘密である。
言えばこの実直で無骨な騎士は湯気を出して怒りかねない、それを見るのも悪くはないのだが今はそれどころじゃないだろう。
(ま、いーや。なんか、これは面白いことになりそうだもんねぇ~♪)
内心でワクワクしながら、顔はいつも通りの飄々とした表情を崩さずに、今度はリジュの背中を追って歩き出したデュアルに、初めて上出来の嘘をついた王宮騎士団の団長は、それでも些かの不安を抱いていた。
なぜか、決まっている。
この日頃はお喋りな男が、特に今日などは上機嫌なのにあまりにも静かだからだ。
何かあるのか…いや、確実にあるんだろう。
何もない平和な旅路を期待しながらも、ガックリと肩を落とすリジュの気持ちなど我関せずに、デュアルはニヤニヤと笑いながら歩いている。
ロジン村の空は、リジュの心よりも遥かに驚くほど澄み渡っていた。
しかし、デュアルが期待してワクワクしていたような出来事は全く起こらず、滞りなく談話をしただけで思ったよりもスムーズに宿も取れた。だから、本来なら2人は機嫌良くなるはずなのに、なぜか風変わりな旅道化がリジュの腰掛けているベッド、つまりリジュの為のベッドに胡座を掻いて座ったままで不機嫌になっていることに、彼が眉を寄せて首を傾げたとしても仕方がない。
風変わりと言えばこのロジン村で出会ったあのルシードも、彼らの旅の目的などには触れず、ただ石橋を越えた先にあるクロパラ村には世にも珍しい香木があると言う話しをしただけだったのだ。
「このような時勢に旅も危ういものがありましょう。この村の石橋を越えた先にあるクロパラ村には、魔物をも寄せ付けぬと言う香木があると言われています。私もそれを求めて旅をしているのですが、急ぐ旅でないのなら貴方がたも寄ってみると宜しい」
最後にそう言って席を立ったルシードに別れを告げて、部屋に戻ったは良いがデュアルが不機嫌になったのはそれからだった、が、そのくせ今度は上機嫌でベッドに腰掛けてきたリジュの肩に腕を回しながらパクパクと酒場からもらってきたサンドに食いついている。
酒には強いのか、あれほどハイピッチで杯を干していたにも関わらず、ほろ酔い気分といった感じで別に酒に呑まれているという雰囲気ではない。
「団長さん、良くあんな機転の利いた名前が思いついたね。あれは何?誰かの名前?」
ケラケラと笑いながら顔を覗きこまれて、あれだけ飲んだり食ったりしたにも関わらず、どこにまだそのサンドが入るのかと呆れたような顔をしていたリジュはしかし、それでも苦笑しながら首を左右に振るのだった。
「ヴィラは弟の名前だ」
「弟?ああ、そっか。団長さんって弟がいたんだったねぇ」
日頃は口の重い無骨で物静かなリジュだったが、長い旅の間に、それでなくても胡散臭くて本当は信頼などまるで求めることなどできない正体不明のこの道化師に、だがなぜか、コウエリフェルの王宮騎士団の団長ともあろうリジュはポツポツと自分のことを話していたのだ。
「城から戻ることがなかなかできなくてな、弟には苦労ばかりかけている」
「んー、弟なんていないから良く判んないけどねぇ…ヴィラは団長さんが大好きだよ♪」
「…」
思わず呆気に取られたようにポカンと見返したリジュに、ちょっとムッとしたように唇を尖らせたデュアルはツンと外方向いてゴロンとリジュのベッドに寝転んだ。
「そんなこと言うなんておかしいと思うんでしょ?まあね、酔っちゃってるかもね」
「いや、純粋に驚いているだけだ」
「純粋ってのが引っ掛かるけど…まあ、いいや。チビの頃に家を出てから家族なんていないもの。その点で言えば団長さんが羨ましいなって思うよ」
これまた呆気に取られる言葉にリジュがますます眼を丸くすると、デュアルはムッとしたように頬杖を付いて上体を起こした。
リジュにしてみたら、この長い旅の中であっても自分よりも口が重く、己のことを口にすることのないデュアルの唐突な告白に驚いていたのだ。
「なんですか、その眼は」
「あ?ああ、いやすまん。別におかしいとは思わないんだがな、お前がそんな台詞を吐くとは思えなかったからまた驚いてるだけなんだ」
フォローになってないんですがと思いながらも、デュアルは後頭部で両手を組んでゴロンと仰向けになりながら、年を重ねた天井の染みを見つめて唇を尖らせた。
だが、内心では自分でも驚いているのだ。
長い付き合いが余計な感情を生み出しているのかもしれない、それはある意味、クラウンで生きる自分には不要の長物に過ぎないのだ。そんな感情を持ってはいけない、持ってはいけないと判ってはいるのだが不思議とリジュはそんな思い込みさえ忘れさせてくれる。
それは、忘れられない少女と同じで…
「リジュは何にでも一生懸命なんだね。こんな下らない任務も、悪態もつかないしさ…そう言うこと、判らないからねー」
「いや、十分腹立たしいがな」
「おお!?団長さんにしては珍しい発言!すごーい」
思わず飛び起きて大袈裟に驚いた振りをしてから、ケラケラと笑いながらもう一度ベッドに倒れ込んだ。倒れ込んで、腹を抱えて笑っている。
「…俺だって別に何も感じない機械仕掛けとは違うぞ。ただ、任務は必ずしも遂行してこそ価値があるのだ」
フンッと鼻を鳴らして外方向く子供じみた仕種をして腕を組むリジュに、デュアルはやっぱりこのコウエリフェルの王宮騎士団なんかには勿体無い竜騎士を気に入っている自分に気付いた。
「ホントにそう思うワケ?」
他人様のベッドで思うが侭の縦横無尽ぶりに、然程腹を立てている風でもないリジュは、むぅーっと下唇を突き出してデュアルがそうしたように天井を仰いでみた。
答えなど有りはしないのだが…
「俺の意志など…いや、どうかな。価値でも思わんことにはこんな任務にいつまでも関わっていたいなどとは思えないだろうからな、そう思い込んでるだけかもしれんぞ」
うん、と、1人で考えて1人で納得したように頷いているリジュを横目に、デュアルは気のない返事をして欠伸をした。話を振りながら、既にその内容に興味を失ってしまったようだ。
(全く、自分勝手なヤツだな)
既にウトウトしているデュアルを肩越しに憮然として睨んでいたリジュはしかし、不意にあの奇妙な旅人の言った言葉を思い出していた。
「香木か…竜使いには関係ないかもしれんが、持っていて損もないだろう」
「あっれぇ!?団長さん、あんな話信じてるの?」
それまで相手にもしようとせずに眠そうにしていたデュアルは唐突にガバッと起き上がって眼を丸くすると、呆れたように眉を上げて盛大な欠伸をしながら首を左右に振るのだった。
「ただの噂話だよ。それに、旅の目的は香木じゃないでしょ」
「むぅ?どうせ旅の途中で立ち寄る村じゃないか。息抜きにもなる」
唐突にポカンとしたデュアルは、呆れたように目を寄せて瞼を閉じた。瞼を閉じてバタンッと本来ならリジュのベッドに仰向けに倒れ込んだ。
(なんだ…団長さんってばただの世間知らずだったのか)
そう思って片手で両目を覆うとクスクスと喉の奥で笑い始めた。
(なーんだ、だから面白いのか~♪)
いつもならこんな面白い話に乗るのは自分で、リジュはそれを止める役割であるはずなのに…まさかこんなところで団長さんが納得してくれるとは思っていなかったので、嬉しい誤算である。
「なんだ?呆れたと思ったら笑うのか?本当に変なヤツだな、お前は」
(ヘンなのは団長さんも一緒♪でもそれは言わないけどね)
内心で呟いて、デュアルは笑いながら横になったままでフフンと胸を張った。
「良く言われるんだ~」
「威張れることか?…ったく」
呆れたように肩を竦めて首を左右に振るリジュをニヤニヤと見つめながら、デュアルは内心で企てるような笑みを浮かべて考えていた。
(香木の件は団長さんのひろぉ~い心のおかげで、言い出さなくても行けることになったし、それはいい。さてさて、問題はあの謎の旅人さんだねぇ…)
デュアルが下の酒場でくすねてきたサンドを訝しげにジロジロと観察して口に放り込むと、中々の味に眉を寄せたままで頷いているリジュの傍らで、自分こそ謎多い旅道化はルシードの目深に被ったフードの奥の微笑を思い出してワクワクした。
「…ん?そう言えば、なぜお前まで偽名を名乗る必要があったんだ?」
不意に思い出したように口を開くリジュに、思わず起き上がってしまったデュアルはポカンとしたようにマジマジと仏頂面の竜騎士を見つめてしまった。
「起きたり寝たりと忙しないヤツだな」
天下のクラウンは泣く子も黙る旅道化の一行、確かに泣いている子供でも笑い出す陽気さがある、が、本来の性質はそんな表向きのものとは少し違う。いや、大いに違う。
世に名立たる暗殺集団があるとすれば、まずその筆頭に掲げられるのは『CROWN』の輝かしき名前だろう。クラウンのデュアルと言えば誰もが知っている、お互いに有名人同士なのだと言うことを、この朴訥とした武人に今更ながら説明しなくてはいけないのかと、デュアルは気が遠くなるのを感じていた。
「もー!!団長さん、ぶっ殺すよ」
駄々を捏ねる子供のように唇を尖らせたデュアルは、付き合いきれないとでも言いたげにゴロンと横になって背中を向けてしまった。
物騒な台詞にリジュがポカンとしたのは言うまでもない。
「…なるほど、噂に違わずたいしたお方だ」
酒場に残されていたルシードは既にその場を後にして、往来の激しい高い石橋から眼下に広がる深い渓谷を見下ろしている。
「しかし、はて?見覚えのない顔もあった」
谷から吹き上げる風がフードの中で冷徹に煌く双眸を僅かに歪ませた。
ソッと欄干に手を添えて、外套の袂から覗く腕に醜く残る痣に気付いて静かに袖を引き下ろした。
「どうやら、思った以上に世界はあの方の掌の上で踊ってはくれぬと言うわけか…」
クックックッと喉の奥で楽しそうに笑ったルシードは、袂から掴み出した妙なる芳香を放つ木片を谷底に投げ落とした。木片はハラハラと夕暮れの谷に音もなく落ちていったが、それを見ていた名もなき旅人が残念そうな顔をしていたが何も言わずに立ち去った。
出で立ちは旅の行商人と言った風情で、どうやらあの木片の正体を僅かながら気付いていたのだろう。
「欲しければどうぞクロパラ村へ。旅人は多ければ多いほうが良かろうよ」
クックックッと笑いながら、リジュとデュアルに泊まると言ったはずの村を後にして、まるで風のようにルシードは石橋すらも後にするのだった。