第一章.特訓!19  -遠くをめざして旅をしよう-

 レセフト王国に赴く道すがら、リジュとデュアルの一行は巨大な橋の袂にあるロジン村で休んでいた。
 深い渓谷に、誰がどの様な業をもってして創り上げたのか判らない、人々の記憶よりも古い時代からその姿を留めている石造りの巨大な橋は、小さなロジン村を遠い時代の彼方より見守ってきたのだろう。
 賑やかな村は石橋のおかげで世界に広く知られているのだが、その分、旅人の往来も激しく、なかなか村内はピリピリとした緊張感も漂っているようだ。
 まるで毎日が祭りの時のように賑やかで、露天商の声音も高らかに青い空に響き渡っている。旅のついでに店を広げる行商人の姿もあり、それほど住民数の多くないはずの村は、だがなかなか活気に満ち溢れていてデュアルのような人間には比較的過ごし易い空間のようだった。

「機嫌がよさそうだな」

 鼻歌交じりでご機嫌の旅芸人の後ろ姿に、アークでも1、2位を争う大国の王宮騎士団の団長とは思えない、草臥れた旅人の出で立ちをしたリジュが呆れたように苦笑している。

「そりゃあね、お祭りはいつだって好きだよ。ウキウキするじゃない?あれ、お堅い団長さんはお祭りとかは好きじゃないの~?」

 クスクスと笑いながらまるでステップでも踏み出しそうな仕種の、腹に一物も二物もありそうな企み顔のデュアルの双眸はひと波瀾含んだ輝きを秘めてにやりと揺らいでいる。
 余計なことを言うんじゃなかったとでも言いたそうなバツの悪い顔をして、シッシッと片手を振るリジュに、デュアルは良く晴れた陽光を金髪に反射させながら空を仰いで頭を掻く。

「んー、でもこれってお祭りとかじゃないんだよね~?こう言う雰囲気は嫌いじゃないけど、毎日がこんなカンジだと疲れちゃうだろうね」

 そう言われてみればと、不意に周囲を見渡したリジュは、賑やかで明るい町中の反面、暗い影のように疲れた表情をしている村人に気付いて少し驚いた。
 暢気にぶらぶらと散策しているだけではなく、この奇妙な出で立ちのただの道化師のような男の観察眼は、毎度の事ながら平伏されるものがあるとつくづく感心して先を行くデュアルの背中を見つめていた。

「だがそれが生きていく上での糧であるならば、致し方あるまい」

 不意に背後から声音がして、リジュは驚いたように足を止めた。そんなリジュに気付いたデュアルも歩調を止めて振り返ると、相変わらずの涼しい顔には少しの動揺もなかったが、内心では眉を寄せていた。

「いや、これは失礼。お二方の会話に聞き耳を立てるつもりはなかったのですが…これは失礼した」

 言い回しほどには年を重ねてはいないのか、フード付きの外套に身を包んだ旅人の足許は、長い旅を物語る編み上げの靴が砂利で汚れていた。

「今しがたこの村に着きましてね。お二方もそうですかな?」

(話し相手が欲しくて声をかけた…ってワケじゃないんだろうねぇ)

 それほどあからさまに見ていたつもりもないのだが、どうも、自分が思う以上にこの旅人は一癖ありそうだ、ここは1つ無視していようと考えていると、お人好しのリジュが愛想良く答えている。
 本来のその役割は無愛想なリジュではなく、陽気が売りの自分であるはずなのだからどうしたことかとあからさまに驚いていたが、リジュはどこ吹く風と言った感じでそんなデュアルを無視している。

「いや、他愛のない話ですよ。気にされますな」

 デュアルのおかげで多少なりとも建前を覚えた実直で無骨なリジュは、違和感を覚えながらも、出来得る限り不審な人物とはこれ以上関わらないように努め、その結果軽く流して立ち去ろうとデュアルを促そうとしたのだった…が、相手は何に興味を示したのか、そんな風変わりな二人連れの旅人を引き留めたりするのだ。

「このまま旅立たれるのかな?」

「? いや、明日発とうと思っているが…」

 あちゃ、この馬鹿…とデュアルが思ったのかどうかは定かでないが、お人好しのリジュをチラッと見て肩を竦めると溜め息を吐く。

「名立たる方とお見受けしましたが、宜しかったらそこの酒場で旅の話など聞かせてはもらえますまいか?」

(こちらからしても不審人物だと思うぐらいなんだから、向こうだって不審なヤツって思うワケでしょ。まあね、それはよしとして。さて、団長さんどうするかな)

「いや、実はまだ宿を取っていないのでね。これから探さねばならないんだ」

「おお、それならご安心を。その酒場の上が宿屋でして。私も取っているので融通も利くでしょう」

 水を得た魚のように生き生きと話す旅人の不可思議なほどの執拗さに、デュアルが漸くムッとした顔をしたが、リジュはその一言でホッとしたような顔をしたから旅道化の珍しい気概が逸れてしまった。

「おお、そうですか!それは助かる、なぁ?」

 嬉々として振り返ると、デュアルが額に血管を浮かべてニッコリと微笑んでいる。

「いやぁ、ホントに助かるねぇ」

 だが、やはりどこか抜けているリジュはそんなデュアルの真意などまるで気付いているような様子もなく、風変わりな旅道化は珍しく肩を落とすのだった。

「おお、まだ名乗ってもいませんでしたな。私はルシード、両眼を傷めておりますれば頭巾のままにて失礼致す」

 リジュは素直にその台詞を間に受けているようだったが、デュアルはそうでもなさそうである。だが、奇妙な縁で旅を供にすることになったこの、本来なら一生涯を王宮で、ともすればガルハとの戦が起こるのなら王宮騎士団の団長として毅然と戦に赴いただろう、この実直でお人好しで少し間抜けな男を気に入っていた。だからこそ、こんな退屈な旅に出ることを了承したのである。
 仕方ないなぁと肩を竦めたものの、さて団長がこの状況を今度こそ掻い潜ってくれるんだろうかとワクワク期待したように腕を組んでニヤニヤ高みの見物である。
 既に腹を立てる気力を失ってしまっていたデュアルとしては、この状況を楽しむことにしたのだ。もちろん、そっちの方が楽で何より自分が楽しい。

「名、ああ、俺の名は…」

 リジュ・ストックは世界に名立たるコウエリフェル王宮騎士団団長の名前である。
 その名を辺境とは言え、旅人の行き交うこのような村で口にすれば、確かに最初は嘘だと笑われて終わるだろう。それならそれで構わないが、噂とは困ったもので、根も葉もない嘘も誠のように吹聴されてしまう。そんなことがガルハにでも知れてしまえば、すわ何事かといらぬ波風を立たせてしまうではないか。
 そんなことはけして起こしてはいけない、自分を信用して任せて戴いた皇子に合わす顔がなくなってしまう。リジュは決意した。

「俺の名はヴィラ、こいつは…」

 さて困った。
 自分の名はどうにかなったとしても、彼には腕を組んで意地悪そうにニヤニヤと笑っている、良くも悪くも目立ってしまう相棒がいるのだ。
 今も俺はやったぞと内心で拳を握っているだろうリジュが、自分の存在にハッと気付いて困惑したように眉を寄せている状況を楽しんでいるかもしれない…いや、確実に楽しんでいるだろう相棒が。

「ボーンて言うんだ。どうぞ、よろしく」

 ニッコリ笑って漸く助け舟を出したデュアルに、リジュがもちろん胡乱な目付きをしたことは言うまでもないが、フード被りの男、ルシードは然して気にした様子もなく僅かに覗く口許に笑みを浮かべた。

「旅の道中、これは良い出会いができた」

 どうもデュアルが好きになれないルシードが、軽い挨拶のように腕を差し出して、リジュが反射的に握手をしていた。
 その時、デュアルは見逃さなかった。
 外套の袖から覗いた彼の腕にある痣、それはまるで何かに焼かれたような酷い火傷の痕のようにも見えたのだが…そんなさり気ないデュアルの視線に逸早く気付いたのか、ルシードはサッと腕を引っ込めて何食わぬ顔で彼らを酒場の方に促した。

(やれやれ、レセフト国に着くのはいつになることやら…でも)

 時間に余裕のない旅ではない。
 できれば退屈じゃないことに越したことはないのだから、本当はもっと凄いことが起こってくれてもいいとさえ考えているなんてことは、リジュには秘密である。
 言えばこの実直で無骨な騎士は湯気を出して怒りかねない、それを見るのも悪くはないのだが今はそれどころじゃないだろう。

(ま、いーや。なんか、これは面白いことになりそうだもんねぇ~♪)

 内心でワクワクしながら、顔はいつも通りの飄々とした表情を崩さずに、今度はリジュの背中を追って歩き出したデュアルに、初めて上出来の嘘をついた王宮騎士団の団長は、それでも些かの不安を抱いていた。
 なぜか、決まっている。
 この日頃はお喋りな男が、特に今日などは上機嫌なのにあまりにも静かだからだ。
 何かあるのか…いや、確実にあるんだろう。
 何もない平和な旅路を期待しながらも、ガックリと肩を落とすリジュの気持ちなど我関せずに、デュアルはニヤニヤと笑いながら歩いている。
 ロジン村の空は、リジュの心よりも遥かに驚くほど澄み渡っていた。

 しかし、デュアルが期待してワクワクしていたような出来事は全く起こらず、滞りなく談話をしただけで思ったよりもスムーズに宿も取れた。だから、本来なら2人は機嫌良くなるはずなのに、なぜか風変わりな旅道化がリジュの腰掛けているベッド、つまりリジュの為のベッドに胡座を掻いて座ったままで不機嫌になっていることに、彼が眉を寄せて首を傾げたとしても仕方がない。
 風変わりと言えばこのロジン村で出会ったあのルシードも、彼らの旅の目的などには触れず、ただ石橋を越えた先にあるクロパラ村には世にも珍しい香木があると言う話しをしただけだったのだ。

「このような時勢に旅も危ういものがありましょう。この村の石橋を越えた先にあるクロパラ村には、魔物をも寄せ付けぬと言う香木があると言われています。私もそれを求めて旅をしているのですが、急ぐ旅でないのなら貴方がたも寄ってみると宜しい」

 最後にそう言って席を立ったルシードに別れを告げて、部屋に戻ったは良いがデュアルが不機嫌になったのはそれからだった、が、そのくせ今度は上機嫌でベッドに腰掛けてきたリジュの肩に腕を回しながらパクパクと酒場からもらってきたサンドに食いついている。
 酒には強いのか、あれほどハイピッチで杯を干していたにも関わらず、ほろ酔い気分といった感じで別に酒に呑まれているという雰囲気ではない。

「団長さん、良くあんな機転の利いた名前が思いついたね。あれは何?誰かの名前?」

 ケラケラと笑いながら顔を覗きこまれて、あれだけ飲んだり食ったりしたにも関わらず、どこにまだそのサンドが入るのかと呆れたような顔をしていたリジュはしかし、それでも苦笑しながら首を左右に振るのだった。

「ヴィラは弟の名前だ」

「弟?ああ、そっか。団長さんって弟がいたんだったねぇ」

 日頃は口の重い無骨で物静かなリジュだったが、長い旅の間に、それでなくても胡散臭くて本当は信頼などまるで求めることなどできない正体不明のこの道化師に、だがなぜか、コウエリフェルの王宮騎士団の団長ともあろうリジュはポツポツと自分のことを話していたのだ。

「城から戻ることがなかなかできなくてな、弟には苦労ばかりかけている」

「んー、弟なんていないから良く判んないけどねぇ…ヴィラは団長さんが大好きだよ♪」

「…」

 思わず呆気に取られたようにポカンと見返したリジュに、ちょっとムッとしたように唇を尖らせたデュアルはツンと外方向いてゴロンとリジュのベッドに寝転んだ。

「そんなこと言うなんておかしいと思うんでしょ?まあね、酔っちゃってるかもね」

「いや、純粋に驚いているだけだ」

「純粋ってのが引っ掛かるけど…まあ、いいや。チビの頃に家を出てから家族なんていないもの。その点で言えば団長さんが羨ましいなって思うよ」

 これまた呆気に取られる言葉にリジュがますます眼を丸くすると、デュアルはムッとしたように頬杖を付いて上体を起こした。
 リジュにしてみたら、この長い旅の中であっても自分よりも口が重く、己のことを口にすることのないデュアルの唐突な告白に驚いていたのだ。

「なんですか、その眼は」

「あ?ああ、いやすまん。別におかしいとは思わないんだがな、お前がそんな台詞を吐くとは思えなかったからまた驚いてるだけなんだ」

 フォローになってないんですがと思いながらも、デュアルは後頭部で両手を組んでゴロンと仰向けになりながら、年を重ねた天井の染みを見つめて唇を尖らせた。
 だが、内心では自分でも驚いているのだ。
 長い付き合いが余計な感情を生み出しているのかもしれない、それはある意味、クラウンで生きる自分には不要の長物に過ぎないのだ。そんな感情を持ってはいけない、持ってはいけないと判ってはいるのだが不思議とリジュはそんな思い込みさえ忘れさせてくれる。
 それは、忘れられない少女と同じで…

「リジュは何にでも一生懸命なんだね。こんな下らない任務も、悪態もつかないしさ…そう言うこと、判らないからねー」

「いや、十分腹立たしいがな」

「おお!?団長さんにしては珍しい発言!すごーい」

 思わず飛び起きて大袈裟に驚いた振りをしてから、ケラケラと笑いながらもう一度ベッドに倒れ込んだ。倒れ込んで、腹を抱えて笑っている。

「…俺だって別に何も感じない機械仕掛けとは違うぞ。ただ、任務は必ずしも遂行してこそ価値があるのだ」

 フンッと鼻を鳴らして外方向く子供じみた仕種をして腕を組むリジュに、デュアルはやっぱりこのコウエリフェルの王宮騎士団なんかには勿体無い竜騎士を気に入っている自分に気付いた。

「ホントにそう思うワケ?」

 他人様のベッドで思うが侭の縦横無尽ぶりに、然程腹を立てている風でもないリジュは、むぅーっと下唇を突き出してデュアルがそうしたように天井を仰いでみた。
 答えなど有りはしないのだが…

「俺の意志など…いや、どうかな。価値でも思わんことにはこんな任務にいつまでも関わっていたいなどとは思えないだろうからな、そう思い込んでるだけかもしれんぞ」

 うん、と、1人で考えて1人で納得したように頷いているリジュを横目に、デュアルは気のない返事をして欠伸をした。話を振りながら、既にその内容に興味を失ってしまったようだ。

(全く、自分勝手なヤツだな)

 既にウトウトしているデュアルを肩越しに憮然として睨んでいたリジュはしかし、不意にあの奇妙な旅人の言った言葉を思い出していた。

「香木か…竜使いには関係ないかもしれんが、持っていて損もないだろう」

「あっれぇ!?団長さん、あんな話信じてるの?」

 それまで相手にもしようとせずに眠そうにしていたデュアルは唐突にガバッと起き上がって眼を丸くすると、呆れたように眉を上げて盛大な欠伸をしながら首を左右に振るのだった。

「ただの噂話だよ。それに、旅の目的は香木じゃないでしょ」

「むぅ?どうせ旅の途中で立ち寄る村じゃないか。息抜きにもなる」

 唐突にポカンとしたデュアルは、呆れたように目を寄せて瞼を閉じた。瞼を閉じてバタンッと本来ならリジュのベッドに仰向けに倒れ込んだ。

(なんだ…団長さんってばただの世間知らずだったのか)

 そう思って片手で両目を覆うとクスクスと喉の奥で笑い始めた。

(なーんだ、だから面白いのか~♪)

 いつもならこんな面白い話に乗るのは自分で、リジュはそれを止める役割であるはずなのに…まさかこんなところで団長さんが納得してくれるとは思っていなかったので、嬉しい誤算である。

「なんだ?呆れたと思ったら笑うのか?本当に変なヤツだな、お前は」

(ヘンなのは団長さんも一緒♪でもそれは言わないけどね)

 内心で呟いて、デュアルは笑いながら横になったままでフフンと胸を張った。

「良く言われるんだ~」

「威張れることか?…ったく」

 呆れたように肩を竦めて首を左右に振るリジュをニヤニヤと見つめながら、デュアルは内心で企てるような笑みを浮かべて考えていた。

(香木の件は団長さんのひろぉ~い心のおかげで、言い出さなくても行けることになったし、それはいい。さてさて、問題はあの謎の旅人さんだねぇ…)

 デュアルが下の酒場でくすねてきたサンドを訝しげにジロジロと観察して口に放り込むと、中々の味に眉を寄せたままで頷いているリジュの傍らで、自分こそ謎多い旅道化はルシードの目深に被ったフードの奥の微笑を思い出してワクワクした。

「…ん?そう言えば、なぜお前まで偽名を名乗る必要があったんだ?」

 不意に思い出したように口を開くリジュに、思わず起き上がってしまったデュアルはポカンとしたようにマジマジと仏頂面の竜騎士を見つめてしまった。

「起きたり寝たりと忙しないヤツだな」

 天下のクラウンは泣く子も黙る旅道化の一行、確かに泣いている子供でも笑い出す陽気さがある、が、本来の性質はそんな表向きのものとは少し違う。いや、大いに違う。
 世に名立たる暗殺集団があるとすれば、まずその筆頭に掲げられるのは『CROWN』の輝かしき名前だろう。クラウンのデュアルと言えば誰もが知っている、お互いに有名人同士なのだと言うことを、この朴訥とした武人に今更ながら説明しなくてはいけないのかと、デュアルは気が遠くなるのを感じていた。

「もー!!団長さん、ぶっ殺すよ」

 駄々を捏ねる子供のように唇を尖らせたデュアルは、付き合いきれないとでも言いたげにゴロンと横になって背中を向けてしまった。
 物騒な台詞にリジュがポカンとしたのは言うまでもない。

「…なるほど、噂に違わずたいしたお方だ」

 酒場に残されていたルシードは既にその場を後にして、往来の激しい高い石橋から眼下に広がる深い渓谷を見下ろしている。

「しかし、はて?見覚えのない顔もあった」

 谷から吹き上げる風がフードの中で冷徹に煌く双眸を僅かに歪ませた。
 ソッと欄干に手を添えて、外套の袂から覗く腕に醜く残る痣に気付いて静かに袖を引き下ろした。

「どうやら、思った以上に世界はあの方の掌の上で踊ってはくれぬと言うわけか…」

 クックックッと喉の奥で楽しそうに笑ったルシードは、袂から掴み出した妙なる芳香を放つ木片を谷底に投げ落とした。木片はハラハラと夕暮れの谷に音もなく落ちていったが、それを見ていた名もなき旅人が残念そうな顔をしていたが何も言わずに立ち去った。
 出で立ちは旅の行商人と言った風情で、どうやらあの木片の正体を僅かながら気付いていたのだろう。

「欲しければどうぞクロパラ村へ。旅人は多ければ多いほうが良かろうよ」

 クックックッと笑いながら、リジュとデュアルに泊まると言ったはずの村を後にして、まるで風のようにルシードは石橋すらも後にするのだった。

第一章.特訓!18  -遠くをめざして旅をしよう-

 海よりの風を受けて、明るい色の髪を潮風に揺らしながら照りつける陽光の下で彰は重い銅剣を振るっていた。荒削りな血溝が陽光を照り返してギラつくが、そんなことはお構いなしだ。
 下っ端も下っ端、未だに剣技も教えてくれないレッシュに業を煮やした彰は、船底にある倉庫を徘徊して漸く見つけ出した安っぽい銅剣を持って一人で練習することにしたのだ。
 昼下がりの甲板は、自分たち以上に強い海賊のいない平和な海を、ぼんやりと遠見鏡で眺めているヒースが物見遊山でそんな彰をからかう以外に人影は疎らだ。

「飽きないねぇ、アキラは」

 見張りと言っても別にする仕事なんかないくせに、だからと言って暇を持て余していても彰の剣の相手に付き合ってくれるということもない。恐らくはあのレッシュのことだ、彰の剣の相手をすればその次は俺だと思えvとか言っているのだろう。

(…あの野郎)

 額に汗しながら、暇な時は剣を振るう。それだって見様見真似なんだから、バットでスイングしているようなレベルだ。

「そんなイヤミ言うヒマがあるんなら、俺に付き合ってくれよ」

 肩で息をしながら横目で睨むと、ヒースはわざとらしく肩を竦めて見せるものの、どうやらその場から立ち去るつもりはないらしい。

「やだね。お前の相手をしたらお頭の相手もしなきならねぇ、俺だって命は惜しい」

 やっぱりな…と彰は思ったとおりの反応に悔しさを通り越して呆れていた。

(何を考えてんだろ、アイツ)

 肩を竦めて、もう一度重い銅剣で練習を始めると、何が楽しいのかヒースが海から吹く風に猫のように目を細めてまどろみながらその様子を眺めている。最近、『女神の涙号』の甲板でよく見かける光景である。
 重たい剣を振ってばかりいても筋肉痛になるぐらいで、練習にはさほどなっていないことぐらいは嫌でも判る。ヒースに言われなくても我ながらよく飽きないもんだと感心していた。
 ただ、何かしていないと居ても立ってもいられなくて、ただただ我武者羅に剣を振るっているのだ。
 不可思議な出来事は好きだったし、こんな貴重な体験、恐らくはもう二度とできないだろう。
 ここに光太郎が一緒にいれば、きっと別にこんなに必死にならなくて、それなりに今の状況を楽しんでいたに違いない。彰は湧き起こる焦燥感と苛立ちを、吐き出すこともできずに奥歯を噛み締めて腹の底に捻じ込んだ。
 光太郎に会いたい。
 元気な姿が見たい。
 アイツが笑ったあのホッとする笑顔が見たい…
 一緒に来ていないかもしれない…そんな思いは念頭にも起こらなかった。
 それはまるで、光太郎が感じているのと同じように、生れ落ちた時間まで一緒の、双子のような幼馴染みだから伝わる以心伝心のようなものなのか。彰は確信にも近い思いで、この世界に光太郎が居ることを感じていた。

(俺が行くまで、絶対に死ぬんじゃないぞ)

 願いにも似た思いで剣を振るっていた彰は、ふと、のほほんと海風に髪をザンバラに揺らしながら惚けているヒースに、いつも聞こうと思って聞けないでいる質問をしてみることにした。
 どうせこうして素振りをしていても、明日の朝には後悔する羽目になるんだ、それならばもっと有り余って苛々するこの無駄な時間を有意義に遣うのも悪くない。そう考えて、それこそこんな無駄な体力の消耗を彰はさっさと手放すことにした。

「ちょっといいかな、ヒース」

 肩で息をしながら顎に滴る汗を腕で拭う彰に声をかけられて、まどろんでいたヒースは欠伸をしながら横目でチラッと様子を伺ってきた。

「お頭に叱られねぇことならちょっといいぜ」

 どんな返事だと思いながらも、彰は溜め息をついてヒースが頬杖をついている縁まで歩いていき、どっかりと両足を投げ出して腰を下ろすと首を傾げて気を取り直したように尋ねることにした。

「あのさぁ、ヒースは何かとよくしてくれるんだけど、他のみんなはどうしてあんなにソッケナいんだろう?」

「そりゃあ、お前。お前がお頭のお気に入りだからに決まってんだろ」

 何だそんなことかとでも言いたそうに、ヒースは遠見鏡で肩を叩きながら呆れたようにチラリと彰を見下ろしてそう言った。相変わらず猫のように目は細めているから、あまり真剣には取り合っていないのだろう。

「…はぁ、そんな理由かよ」

「そんな理由ってな。お前には判らねぇだろうけど、あの人は本当に恐ろしい人なんだぜ?今でこそ平和ボケしてるけどよ、そりゃあお前、炎豪のレッシュって言やぁ泣く子も黙って震え上がるんだぞ」

「ふーん」

 いつもダラダラと長椅子に寝そべっているだけが取り柄の牙のないライオンのようなあの男が、ここに居並ぶ屈強な男たちを統括できているってだけでも驚きなのに、その上に震え上がらせているのだから信じられない。

「そしてチビるんだ!」

「…なんだよソレ」

 確信に満ちた思いでグッと遠見鏡を握り締めるヒースに、とうとう彰はプッと噴出してしまう。
 軽いジョークは、この船に乗っている連中がみな心得ている退屈の潰し方なんだろう。遠目からチラチラと無関心そうな風体で眺める癖に、本当は興味津々の船員たちは、話してみれば案外付き合いやすい連中が多い。海賊と言う割には、気の知れた酒飲み仲間がただ集まっていると言う印象しか彰は感じなかった。
 目の前にいるヒースだってそうだ。
 頬にざっくりと走る刀傷さえなければ、酒場に屯しているちょっと悪いヤツぐらいにしか思えないだろう。

(…でも)

 彰はしかし、キュッと腹を引き締めてソッと笑っているヒースを盗み見た。
 間違いなく彼らは壮大な海を股に駆けて暴れる海賊なんだろう。
 ちょっとした身のこなしも、実戦で培われた殺気のようなものを孕んでいる。ウカウカしていたら彰など、恐らく秒殺でこの世に立ってはいないだろう。そう思わせる凄みのようなものがあった。
 それはレッシュにも言えることで、傍にいる時は実のところ、緊張のしっ放しだった。
 こうして下っ端海賊になって、少しでも傍から離れられるとホッとしている自分がいることに気づく。
 認めたくはないが、彰は確実にレッシュに怯えていた。
 太い二の腕が腰に絡むと、腰骨なんか砕かれてしまうんじゃないかとハラハラしていた。そんなこと、けして表面上には出してやらなかったが、ダラダラしているくせに抜け目の無いレッシュのことだ。恐らく気付いていてわざとそうしていたんだろう。そう思うと、知っていながらからかわれていた自分の立場に自尊心が傷つけられて思わず唇を噛み締めると。

(絶対にこんなオンボロ船から脱出してやるんだ!!)

 熱く決意してしまう。
 物思いにふける自分をじっと観察しているヒースに気付いて、ハッとした彰は、照れ隠しのつもりでへへへと笑った。ヒースは変なヤツだなーとでも思っているのだろう、肩を竦めるだけだ。
 そう言えば、彰は長らくこの船にいるが、レッシュについて『海賊のお頭』と言うこと以外は何も知らないと言うことに今更ながらにふと気付いた。

「海上を震え上がらせる海賊の王様なのかい?」

 ぼんやりと遠くに霞んで見える島を眺めながら頬杖を付いているヒースに気を取り直して尋ねると、彼は肩を竦めながら頷いて見せ、暇を持て余した体でポツポツと語り出した。

「お頭って人はよ、今ではもう珍しい種族の出身なんだけどな。別に地位だとかそんなモンを持ってるってワケじゃねぇ。ただ俺たちが純粋にあの人の人柄だとか、強さに惹かれて集まったんだ。そう言う荒くれた連中がお頭を慕ってただ集まったっつーだけで、いつの間にか世間の連中はそんなお頭や俺たちを海賊だと呼ぶようになって恐れ始めたってワケさ」

「…現に悪さしてんだろ?」

 ご名答、と笑って頷くヒースに、彰はほんの少しだがレッシュを見直してやってもいいかと思うようになっていた。別に、ただの好奇心かもしれないし、あんな怠け者のライオンのことを尊敬するように親しみを込めた瞳をして語るヒースの、その気持ちをほんの少し、感じてみたいと思っただけなのかもしれない。
 レッシュは悪党だし、隙さえあればちょっかいを出してきて、気を抜けば頬にキスをしてくるような変態だ。
 何が楽しくて自分なんかの相手をしているのか判らないが、あんなに恐ろしくて本能が逃げろとがなり立てているはずのレッシュからは、不思議なことに悪意を感じない。またそれが厄介だとは思うのだが、怯えて腹を立てているくせにそれを憎めないでいる自分の感情の方がもっと厄介だな…と彰は苦笑していた。

「珍しい種族かぁ…そう言えば、あの強気なお姫様もレッシュのこと、【スレイブ族】とか言ってたっけ」

「ああ、パイムルレイールも随分と珍しい種族だけどな。あの種族の場合は国がきちんとあって王様とかいるんだがなぁ、スレイブ族は山間民族の末裔のような存在で、だがもう殆どは息絶えてるような貴重な戦闘部族なのさ」

 ポツリと呟いた独り言に応えるように頷いたヒースの言葉に、異世界に本当は興味津々の様子の彰はそれでも不思議そうに、波間を漂うカモメを見下ろして鼻先で笑う海賊の手下を見上げるのだ。

「山間民族?ってことは、レッシュは山に強い部族だったのかい?それが海にいるのかぁ…ヘンなの」

 はははっと突然笑い出したヒースに驚いたように目を見張る彰に、彼は肩を竦めてくるりと甲板の方を向くと縁に背中を預けて腕を組んだ。

「少数民族なんてのはみんなそんなモンさ。俺だってお頭ほどじゃねぇが、やっぱり山間で暮らしていた民族の出なんだぜ?でも今はこうして海の男だ。運命なんてのはな、てめぇで見つけて掴むモンだと俺は思ってるぞ」

「そっか」

 彰は、普通に高校を出て、大学に行ったり社会に出たり、それは全て自分の手で掴んで自分で一人前になった証だと思っていたし、それは全ての人間が平等に持っている権利だと思っていた。だが、どこかに甘えを持っていて、何かあっても親がいる、親に頼ればいいなんて甘えを確かに持って生活することが当たり前になっている世界で生きていたのだ。
 何もない無から、レッシュはたった一人でこの世界を創り上げたんだろうか?
 海賊だと震え上がらせて、レッシュはこんな途方もなく広い海に出て、孤独に癒されでもしているのだろうか…そこまで考えて、彰は首を左右に振った。

(何を馬鹿なこと考えてるんだろ。孤独に癒される?海の上にいて俺、ヘンにロマンチックになっちまったのかな)

 見渡す限りの海原に、救いを求めて伸ばした腕を掴んでくれるものなど何もない。
 あるのは己自身。
 レッシュの不遜なまでに豪胆なあの自信は、長い年月をかけてこの海が育んだものなのだろうか。
 逃げ出す前に、ほんのちょっと、レッシュについて観察してみるのも悪くないかななどと、温室育ちの彰が安易に考えたとしても悪いことではない。仕方のないことなのだ。

(どこか…確かウルフラインだっけ?そこに寄航した隙に逃げ出すんだ。その航海の間、無駄に腕力つけたってたかが知れてる。レッシュの身辺を探って隙を見つければ、案外あっさりと抜け出せるかもな。おお、俺ってば頭いいじゃん!)

 教師たちが挙って褒め称えた世紀の頭脳の持ち主は、どうしたことか、こと神秘的なものに対してだけはその能力を十二分に発揮できない性質を持っているようだ。そこが、光太郎が愛すべき彰の彰たる所以なのかもしれないが。

「まあ、暫くすりゃお頭も本当の王様になるんだろうがな」

「え?」

 ポツリと呟いたヒースの何気ない独り言に、彰は気付いてそんな暇を持て余した見張り役を見上げた。
 ヒースはあまりの暇さに凝った肩を遠見鏡で叩きながら、何でもないことのように言ったのだ。

「見てて判らねぇか?あのパイムルレイールのお姫さんだよ。ありゃあ、絶対にお頭に惚れてるぜ。じゃなきゃ、どうしてこんなムサい男所帯の船に乗るなんて言い出すかよ」

「お姫様が言い出したのかい?」

「ああ、お頭は近くの港で降ろすって言ったんだけどなー。海賊が戦利品を手放してもいいのか?国に帰ったら言い触らすぞと脅しやがってなぁ。じゃあどうしろって言うんだとお頭が聞いたら、あのお姫さん、別嬪な顔でにっこり笑って賓客扱いで国まで送ってちょうだいときた」

 この船で賓客扱いだぞ!?と、やたら『賓客』の部分を強調して言うヒースに、ふと、彰は眉を寄せて穿った考えを躊躇いながら口にした。

「えっとその、国まで送らせて捕まえるなんてことは…」

「有り得るし、有り得ねぇかもな」

 即答ははぐらかすようなニュアンスで、わざとらしく明るいものだった。
 ヒースもそこのところは懸念しているのだろうか、いや、どうもそうではないようだ。

「お頭は間違いなく捕まるだろうよ。もともとパイムルレイールとスレイブは縁故関係にあるようだからな。一つの種族から袂を分かれたのがこの二つの種族なんだよ。まあ、簡単に言やぁ根っこのところが一緒ってことだな。パイムルレイールの王さんは第五皇女に手を焼いていて、さっさと嫁がせたがっているなんて噂は港に寄りゃぁ嫌でも耳に入るからなぁ…まあ、そう言うこった」

 肩を竦めるヒースに、彰はなんだそうなのか…とどこか拍子抜けしたような気がしていた。
 何もウルフラインで逃げ出さなくても、下手をすればパイムルレイールの国、バイオルガン国で易々と逃げ出せるのではないだろうかと考えたのだ。レッシュとて、進退窮まるその時に、まさか彰のことまで考える余裕などないだろう。

(…なんだ、俺。馬鹿みたいじゃん。ヤキモキしてさ!結局レッシュは、バイオルガンまで退屈凌ぎに俺を乗せたに違いないんだろうし…)

 シュメラ姫はバイオルガン国の第五皇女で、地位も身分もあって武力もある。
 それに比べたら自分などは…たかが知れている高校生だ。
 いやそれ以前に、何の役にも立たないが付く高校生だが…
 不意に胸の辺りがツキンと傷んで、彰は身に覚えのない痛みに首を傾げた。
 筋肉痛が悪化したのか…今日は最悪だなと思いながら見上げた空はどこまでも澄んでいて、スモッグに淀んだ見慣れたあの空ではなかった。もう一度、できるなら光太郎と見上げたいスモッグの空。しかし、できればこのどこまでも澄んだ空を一緒に見上げたいと思う。
 胸の痛みは僅かなもので、すぐに彰は忘れてしまったが、その痛みは小さな棘を心の奥深い所に残してしまった。その事実を知ることなく彰は、この広い空の下のどこかで、或いは泣いているかもしれない幼馴染みの安否を気遣っていた。
 風が、少年の不安と胸の痛みを擽りながら、船上にある数多の思いを飲み込んで旋風している。
 やがてそれは大きな竜巻となって海上を荒れ狂うかもしれない予感に、船長室の奥で紅の獅子がひやりと背筋を撫でる風にくしゃみをしていた。
 海は静かで、どこまでも穏やかだった。

第一章.特訓!17  -遠くをめざして旅をしよう-

 中空に真珠色の月が浮かび、大気は冴え冴えと澄んでいる。
 四方を森に囲まれているその湖は、人に知られることもなくひっそりと存在を隠していた。
 と。
 不意に孤独の森に物悲しげな音色が響く。
 異種族の民が奏でるシュラーンを爪弾きながら、湖の脇に据えられた天然の玉座のような岩に腰を下ろした少年は、瞼を閉じて月夜にまるで歌うように指を躍らせていた。
 湖は澄んでいて、あまりにも清らかである為に生物の姿はなかった。
 切ない旋律が湖面を揺らすと、透明度の高い湖の底に揺蕩うように横たわる青年の瞼が水の揺らめきに反するようにピクリと戦慄いた。
 ふと、少年は閉じた瞼を開き、滴るような鮮紅色の双眸で青白く浮かぶ月を見上げて銀に煌くシュラーンの弦を掻き鳴らす。調べはまるで目に見える風のような厳かさで少年を取り巻くと、何事もなかったかのように森の奥に消えていった。
 ぴしゃん…
 水面が揺れて、何もかも覆い尽くすかのように何枚もの色とりどりの異国の布を幾重にも頭部に巻きつけた少年は、深紅の双眸を閉じると闇夜に溶けてしまいそうなひっそりと切ない旋律を滑る指先で奏でながら何かを待っているようだった。

「ごらん」

 不意に背後で声がして、少年は虚ろな深紅の視線を背後から伸びた指が指し示す先に彷徨わせているようだったが、声の主は気にした様子もないようだ。

「儂のめしいた双眸では認めることもできまいよ」

 少年の声にしては嫌にしゃがれた、ゾッとするような陰鬱な響きを宿した声音に怯むこともなく、声の主はシトシトと真の闇にはあまりにも清らかな雫を零しながら中空に留まる真珠色の月を見上げていた。

「のう、主。魔族の権力は相変らず揺るぐこともあるまい」

 しゃがれた声の少年は、爪弾くシュラーンの音色には程遠い奇怪な声を上げて小さく笑った。

「真実を映し出す鏡の傍ら、深紅の星が吉兆を予言する…だがしかし、それが果たして我ら魔族にとっての吉兆と出るか否かは気まぐれな風次第」

 冷たい微笑を薄い唇の端に浮かべた主のその澄んだ、しかしそのもの自体に魔力でも宿っているかのような冷やかな声は、温かな血が流れる者が耳にしたのならたちまち魅了され、破滅へと溺れて逝くだろう。

「巷に溢れる竜使い光臨の噂ぐらいは知っている。だがね、我が師よ。まさかそれが真実であるなんてことを本気で信じているわけではない。おおかた、何処ぞの低級魔導師が異世界より召喚した素性の知れぬ輩を竜使いに祭り上げたんだろうよ。人智の浅はかさを物笑いに目覚めてやっただけのこと」

 頭部を布で覆い隠した盲目の少年は、虚ろな深紅に濡れ光る双眸で声の場所を追うように、何時の間にか傍らに立つ青年を見上げているようだった。
 月が零した涙のように流れ落ちる銀の髪は、先ほどまで冷たい湖の底に横たわっていたとは思えないほど、主に忠実な夜の大気の力でもって、刹那のうちに風を孕む軽やかさを取り戻していた。漆黒の衣装に鏤める金銀の財宝さえも見劣りしてしまうほど高貴な顔立ちはしかし、どこか禍々しく、傍にあれば落ち着かなくなってしまうだろう。そして、魔族の証しである先端の尖った細長く伸びた耳には、静かに射し込む淡い真珠色の月の光に鈍く輝く三日月型の耳飾が揺れている。
 陰を宿した鋭い双眸は、月の傍らに密やかに瞬く小さな希望の光を鼻先で笑っているようだった。

「竜使いは死んだ」

 いっそキッパリと言い放ったにも関わらず、どこか漫ろな物言いに、少年は吐息しながらシュラーンの弦に指先を滑らせた。

「…だが、我らの与り知らぬところで運命の歯車とは廻るもの。其方の時がそうであったように」

「竜使いは魔族の主たる貴様が殺したではないか。何を怖れることがある?」

 間髪いれずに少年がしゃがれた声で呟くと、何か言いたげに口を開きかけた青年はしかし、淡々とした禍々しいほど美しい横顔は無感動で、彼が今何を考えているのか計り知ることはできなかった。

「ファタルの聡明な使いは愚かではない。何やら愚挙の匂いもする。どうやら城に戻らねばなるまいよ」

 少年の光を失ったはずの双眸がチカリと瞬いた。
 それはまるで月の傍らでひっそりと姿を隠している赤い星のように。

「予言の星が現れたとなると、悠長に眠っているわけにもいくまい。この手で殺したはずの竜使い、されど僅かな情けが命取りにならないとも限らん。ブルーランドに戻る」

 銀糸のような髪がふわりと舞い上がり、青年は当然のように岩に腰掛けてシュラーンを大事に胸に抱えた少年を漆黒の外套の内側に隠してしまった。

「風が運ぶ吉凶の匂い、優雅に舞う白い鳥…」

 大きな漆黒の鷲禽に姿を変えた青年が森を飛び立ち遥かな大地へと飛んでいく。
 残された森には風に乗ってシュラーンの爪弾く切なく儚い旋律が、物悲しげな歌を掻き消している。
 孤独の森に沈黙が戻っていた。

「そもそもさー、なんかヘンな話だよねぇ?予言の竜使い様があの地下都市に姿を現すって言ったのはファルちゃんなんだよ。なのに、今更になってそれが違うとか言っちゃったりしてさー…結局、じゃあどこに現れるのさ?」

 真剣な双眸で睨まれても、やはり同じく気落ちしているリジュに相手をしてやれるほどの気力はない。
 脱力したようにトボトボと歩いているリジュの肩に豪快に腕を回した派手なピエロを、道行く旅人が物珍しそうに見ているからと言って、良識あるコウエリフェルの王宮竜騎士団の団長は振り払うほどの体力も残っていないようだ。

「どこ行く~?うーん、もういっそのことガルハにでも行ってみようか?」

「どうしてガルハに行く必要があるんだ?」

 はぁ、と溜め息をついて、漸く少し気力を取り戻したようなリジュはデュアルの腕を振り払いながら胡乱な目付きでふざけたピエロの顔を軽く睨んだ。
 それでもやはり、どこか眠ってでもいるように見えるのは否めない。

「なんとなくかな~?竜騎士の流れを汲む一族もいるしさぁ、もうね、こうなったら直接聞いてみるとかってどう?…なんかやたらとワケが判らなくなってるね!」

「…」

 ブスンとしたままで口を開かないリジュに、デュアルは結局、やっぱり面白くもなさそうに盛大な欠伸を洩らした。

「まあ、俺たちは結局、国に踊らされているんだろう」

 ポツリと呟く意外なリジュの台詞に、噛み殺すこともしない欠伸を途中で止めてしまったデュアルは、驚いたように竜騎士団の団長の顔を凝視した。

「なんだ、その目は。お前がいつも言っている台詞じゃないか。俺が言うと驚くのか?」

「や、そりゃ驚くでしょうよ。あの実直堅固の鎧を着て歩いているようなリジュ団長が、まさかそんな台詞を口にするなんて…今日はちゃんと晴れるのかなぁ?」

 おどけたように肩を竦めるデュアルはしかし、それでも楽しそうにニコッと子供のように笑っている。
 そうか、とリジュは呆れるほど破天荒な旅道化を、自分がそれほど嫌いになっていない理由を思い当たって内心で頷いていた。
 どこか憎めないのは、デュアルがあまりにも開放的な性格で、辛辣なくせにその辛辣さがどこか子供じみた素直さがあるからなのだろう。
 嫌いだと嘯く王宮の人間どもの大半は、彼の素直な開けっ広げの性格を疎ましく思いながらも、本当はどこかに羨望があったからではないのか?人間と言う生物は見栄で生きているようなものだ、デュアルの奔放な行動や言動は、良識ある者ならば誰しもが世間を憚り口にできない…いや、してはいけないことだと認識しているから、遠ざけようと無意識に背を向けようとしているに過ぎないのだろう。そのくせ、その良識が世界の全てなのだと諦めて、奔放に生きる者を妬み陰口を言っては自己満足しているのか…ふと、そこまで考え込んで、リジュは自分もそれまではそんな人間だったんだなと改めて思い直した。
 不思議と、始めはあんなに嫌だった得体の知れない道化との旅を、今の自分はどこか楽しんでいることに気付く。そうすると、なぜだか今までの自分が滑稽にすら思えてしまうのはどうしてだろう。

「…恐らく、馬鹿らしく思うからだ」

「へ?」

 自分の心中の台詞に自分で答えて、リジュの自問自答に首を傾げるデュアルに向かって団長は事も無げに言った。

「お前といると真面目ぶるのが馬鹿らしく思うと言ってるんだ」

「え?何それ、ひっどいな~」

 子供のように唇を突き出すデュアルをフンッと鼻であしらって、ウルフラインの首都を出たリジュは何時の間にか夜の明けた蒼穹の空を見上げていた。

「そうだな。俺もどこをうろつけばいいのか皆目見当もつかん。カタ族でも捜して彷徨うか…」

「そんな、気の遠くなるような途方もないことは、お願いだから計画しないでよ」

 間髪入れずに眉を顰めるデュアルに冗談だと肩を竦めて、リジュは軽く溜め息をついた。

「取り敢えずだ、レセフト王国のコウ家でも尋ねてみるか」

 こんな闇雲の状況でぶらぶらと彷徨うにはアークは広すぎる、半ば投げ遣りに言ったリジュの言葉に派手なピエロの眉間の皺が思ったよりも深くなった。

「コウ家?ああ、あの七賢者の血筋だって謳われているお偉い魔導師さまのいらっしゃる国か。でも、あの国はエル・ディパソに匹敵するぐらいの宗教国家だし、どこよりも余所者を嫌う種族だよ?大丈夫なのかな」

 日頃はそんな気弱なことなど口にしないデュアルの予想外の台詞に、リジュは肩を竦めて首を左右に振るのだった。

「コウ家には俺の姉が嫁いでいる。その縁を頼っていくしかないだろ」

「うっわ。お偉かったんだね、団長さんって」

「馬鹿にしてるだろ?」

「べっつに~」

 明らかに馬鹿にしているように見えるのだが、結局はリジュの言うように何かを頼って行動しないことには、この広い世界で砂漠に落ちた一粒の砂を見つけ出せと言うような無茶な要求に応えることなどできないだろう。皆目見当がつかないのならば、竜使いに所縁のある竜騎士の家系であるコウ家の住まう王国に見当をつけてみるのも悪くはないだろう。
 もともと、馬鹿らしいほど壮大な要求を突き付けられてしまったのだ、何をしても過ぎると言う言葉はないだろう。何をしても足りなさ過ぎると言う言葉はあってもだ。

「コウエリフェルの竜騎士団の団長さんが尋ねたとなると…この時期だし、すわ何事!?って思われないかな?」

「…やけに慎重だな。お前らしくもない」

「らしくないって?別にね、いいんだけどさ。大事になると面倒臭いワケ。それでなくてもクラウンの連中にも振り回されてるのに、国家の陰謀なんかに巻き込まれるのは真剣にご免だって思ってるだけだよ」

 デュアルが腰に両腕を当てて悪態をつくと、リジュはなるほど、そうかと納得したようだ。
 しかし、だからと言ってそれを受け入れてまた思い悩むのもご免じゃないかと呟くと、デュアルはうんざりしたように双肩を落としてしまう。

「どちらにしてもお前は、既に殿下に申し付けられたあの時点で国家の陰謀に巻き込まれているんだ。今更、そんなことで嘆くなんてのはやはりお前らしくないと俺は思うぞ」

 リジュがこの時ばかりはしてやったりのしたり顔でニヤッと笑うと、デュアルはムッとしたように唇を尖らせたが口応えをする気にはなれないようだった。つまり、デュアル自身もリジュの言う通り、やはりあの時に断っておけばよかったと後悔しているのだろう。

「でもね。やっぱ断るのは良くなかったと思うワケ。あの時断ってしまったら、団長さんは独りぼっちじゃない。旅は道連れ世は情け…ってね♪2人で行けば危険な道中もあら不思議、とっても楽しくなりますとさ」

 おどけたようにそう言って、デュアルは実直なリジュの肩に大袈裟に腕を回して機嫌よく鼻歌なんかを披露して見せた。
 ウルフラインの首都から郊外に出る舗装された街道は、旅路を急ぐ旅人の通り道にもなっていて案外賑やかだ。そんな場所で男2人で肩を組んで歩くのも奇妙に目立つし、ハッキリ言って見っとも無い。夜と言うなら酔っているですまされても、ましてや今は明け方だ。いつも通り、リジュは陽気なピエロの腕を振り払いながら、そんな道中にも慣れてきている自分にゾッとしていた。
 コウエリフェルきっての大神官であり王宮魔導師にも見放されてしまったリジュとデュアルの一行は、宛てのない旅路を一縷の望みを賭けてレセフト王国に向けて旅立つことにしたのだった。

第一章.特訓!16  -遠くをめざして旅をしよう-

 巨木の根元に溜め息をついて腰をおろすルウィンに、光太郎とルビアは顔を見合わせて首を傾げていた。酷く疲れたような相貌には疲労が張り付いていて、心配になった光太郎はその傍らにルビアを抱き締めたままでしゃがみ込むと、綺麗な横顔を覗き込んだ。

「ルウィン?どしたの」

 ひょいと顔を覗き込まれて、心配そうな漆黒の瞳を見つけたルウィンは、小さな溜め息を零して首を左右に振ると苦笑する。その見慣れた苦笑にも覇気がなく、何事かを考えているようで上の空の返事だった。

「いや、別に」

 ルビアと顔を見合わせた光太郎は、ちょっとだけ困ったような顔をしたが小さく苦笑すると、銀の前髪を鬱陶しそうに掻き揚げるルウィンに言うのだ。

「あのね。ルウィンの【いや、別に】は何かあるんだって、ルビア言ってた。だから、何かあった。僕にも、何かあったよ」

 自分を指差してニコッと笑う光太郎に、ルウィンは驚いたような、ギョッとした表情をして反対に顔を覗き込んで訝しげに問い質した。

「何かあったって…何があったんだ?」

 自分のいなかった間に何かあったのだろうか…砂漠のバザーは得てして素行の悪い連中が多いときている。ルビアがいるとは言え、残して行ったのは失敗だっただろうかと、ルウィンが一抹の後悔を覚えていると…

「いや、別に♪」

 ニコッと笑う光太郎に、なんだ冗談か…と彼が小さく溜め息をつくと、それまで黙って2人のほのぼのちっくな会話に耳を傾けていたルビアが、光太郎の腕の中で呆れたようにぼやいたのだ。

《ルーちゃんって光ちゃんには優しいのね!…ま、そんなことはどうでもいいの。何かはあったのね》

「…ハイハイ、オレはルビアには冷たいですよ。で?何があったんだ」

 うざったそうに軽くあしらって、ルウィンは胡乱な声音であからさまに不機嫌そうに呟いた。
 するとルビアは、軽い溜め息をついて首を左右に振るのだ。

《ルーちゃんってば、最近すっごく小慣れてきてしまったのね。おっもしろくないの~》

「いや、お前とは一度、ジックリと話し合う余地があると、オレは常々考えてるんだけどな。ルビア?」

《おーいに結構なのね、ルーちゃん》

 額に血管を浮かべてニコッと笑うルウィンに、ルビアも負けじとニコッと微笑み返した。沈黙の攻防戦を理解できない光太郎は、この2人ってホントに仲良しだよな~と全く違う方向の解釈をしながらニコニコ笑って口を開いた。

「銃を持ったえっれーハクイねーちゃんと話したよ」

「…」

《…》

 途端にルウィンとルビアの攻防戦は鎮火して、そんなことよりも、光太郎の口にした言葉に2人は二の句が告げられないでいるようだ。

「?」

 そんな2人の突然の豹変振りに、光太郎は唐突にハッとした。

(やっばい!俺、なんかマズイことでも言っちゃったのかな?でもでも!確かに隣りにいたおっちゃんはそんなこと言ってたんだ!あう、失敗だったかな~)

「ええっと!その、あの…」

 慌てて弁解をしようと試みる光太郎はしかし、やはり語彙の少なさに言葉が詰まってしまう。

「いや、だいたい判った。で?なんだったんだ、ルビア?」

 全く判ってくれなかったのかとガックリする光太郎の腕の中で、ルビアがツンと外方向きながら投げ槍に返事を寄越した。

《銃魔使いなの》

「ああ」

 なんだ、そんなことかとルウィンが気のない返事をして巨木の根元に凭れるのを、光太郎は小首を傾げて見つめていた。
 銃魔使いと言えば、こんなバザーに一人や二人いてもおかしくはないし、見るからに風変わりな旅人を見つければ商売っ気を出すのも仕方がない。彼らは懸賞金目当てのシビアな賞金稼ぎと違って、実に好奇心の旺盛な連中が集まっているのだ。

「その銃魔使いがどうしたって?」

 チラッと、光太郎なのかルビアなのか、どちらともつかない調子で尋ねるルウィンに、小さな紅い飛竜は答えてやるつもりなどないらしく外方向いたままで知らん顔だ。

「ええっと、紙くれたよ。白い、真ん中に“薔薇姫”書いてる。横に印…えっと」

 光太郎が説明しようとするのをルウィンは止めなかったし、それよりも先を聞こうと促しすらしたのだ。もともと、彼は光太郎が言葉を覚えようとする努力を買っていたし、それに付き合うことにも覚悟はしていたのだから、当たり前といえば当たり前の反応なのだが。
 気のない素振りのルウィンにどう説明しようかと思案していた光太郎は、それでも、何某かの興味を持った彼に事の顛末をうまく説明しようとして失敗していた。

「えっと、その…印…」

 チラッとルビアに助けを求めても、この紅いルビーのような飛竜は相手にもしてくれないのだ。いつもなら助け舟を出してくれるのだが、言葉覚えのゲームを始めた時から、ルビアはルビアなりに、教えてやりたくなる衝動をグッと堪えながら知らん顔を決め込むようになってしまった。
 とうとう光太郎は、助け舟が出ないと知って、紙片を掌に乗せるような仕種をすると、その揃えた指の付け根の辺りに唇を押し付ける、そんなジェスチュアをして見せたのだ。
 ナイス、光ちゃん!…と、ルビアが内心でグッと拳を握り締めて前後に振ったことなど、当たり前だが気付きもせずに、ジッと見下ろしてくる青紫の神秘的な双眸を見上げながら光太郎は首を傾げてみせた。

「印?…ってのは、キスマークのことか?」

「うん」

 身体を起こして、唇を窄めるとチュッと音を鳴らすルウィンの仕種にパッと表情を綻ばせた光太郎は頷いて、俺はやったよと言いたそうにルビアを抱き締める腕に僅かだが力を加えたのだった。

「なるほど。レスポンスカードをもらったんだな」

「レスポンスカード?」

 光太郎が首を傾げると、後頭部で腕を組んで巨木の幹に凭れかかりながらルウィンは頷いて見せた。

「ああ、銃魔使いが良く使う連絡手段だ。オレたちのように妖精を使えるほどには発展していないギルドだからな。高額を稼ぐ銃魔使いたちは魔法効果の高いレスポンスカードを使っているのさ。銃魔使い特有のそのカードは息を吹きかけた人物が主となり、その命じた主の許に名前が書かれた人物はどこにいても引き戻されてしまうと言う結構便利な代物なんだが、いかんせん、仕事中は引き戻せない、無効効力が発動してしまからな。持っていても、ここぞという時には役に立たないかもしれないだろう。まあ、レスポンスカードは高額の品だ。それを使用できるってことは、レベルの高い銃魔使いだったんだろうよ。で?そのカードはどこにあるんだ」

 聞き返されて、光太郎は思わず言葉を詰まらせてしまった。
 素直な性格はなんにしても裏目に出てしまうから、全くもって嘘はつけない。
 素知らぬ振りをしながらもほんの僅かにルビアを見てしまったその瞬間を、もちろん、目聡いルウィンが見逃すはずがない。

『あ!』

 ニッコリ笑って光太郎の腕から小さな飛竜を奪い取ってしまった。

「で、そのレスポンスカードはどこですか?教えてくださいなvルビアちゃん」

 あからさまに不気味な丁寧語で尋ねるルウィンにビクビクする光太郎の前で、ルビアは人を食ったような仏頂面でヘンッと鼻を鳴らして下顎を突き出した。

《破っちゃったの!ルーちゃんがいるのに、銃魔使いのレスポンスカードなんて必要あっりまっせんのね!!》

「お前ってヤツは!それをもらったのはコータローなんだろーがよ?」

《光ちゃんにはもーっとひっつようないの!》

 あくまで言い張るルビアをムゥッと睨み据えているルウィンに、光太郎はクイクイと服の裾を引っ張って慌てて割り込んだのだ。

「ルウィン、これ。ルビア悪くないよ?必要ない、ホント」

 俺はルウィンがいれば別に他の誰かに何かをお願いする必要なんかないんだと、やはりルビアと同じような強い意思を含んだ双眸で覗き込んでくる黒い瞳を見返しながら、ルウィンは仕方なさそうに溜め息をついて不貞腐れている紅い小さな飛竜を解放すると、光太郎の手にある小さな紙片の切れ端を引っ手繰った。

「ふん。どうやら特殊な術法を仕掛けてあるようだな。コータロー以外のヤツが使用したとしても、単なる紙切れだろうよ」

 ルウィンはその紙切れを、さして興味もなさそうに光太郎のポケットに押し込んだ。

「?」

「せっかくもらったんだ。持っておけよ」

 やれやれと疲れた表情を浮かべながら胡座に頬杖をついて顎をしゃくるルウィンに、光太郎は護り粉と一緒にクチャクチャで押し込まれた紙を見下ろしていたが、うんと頷いてポンポンとポケットを叩いた。

《ところで、ルーちゃん。服は見つかったの?》

 深紅の飛竜はまるで何事もなかったかのように翼を羽ばたかせながら目の前まで舞い降りると、不機嫌そうな相棒の顔を覗き込んだ。

「いや、残念ながら。まあ、代用品は手に入れたからな。暫くはそれで対応しておくさ」

 ふーんと気のない返事をするルビアを見つめていたルウィンは、唐突にその小さな身体を引っ掴んで、光太郎とルビアを驚かせた。

〔ルビア、話がある〕

 耳慣れない言葉に首を傾げる光太郎を横目に、ルビアが表情を険しくして訝しそうに口を開いた。
 声は出ないが、あくまでも仕種に拘る飛竜なのだ。

《ガルハ語なのね、何かあったの?》

(ガルハ語?…って、それは聞かれてはいけない話なのかな)

 今、光太郎が必死に習得しようとしている共通語とは別に、この広いアークには幾つかの言語があって、ルウィンの故郷の言葉は遠くエルフの流れを汲むせいか、かなり難しいガルハ語だと、以前ルビアが教えてくれたことがある。その言語を使用して話すとなると、自分に聞かれたくない話なのか、それとも他人に聞かれたくない話かのどちらかだろう。

(きっと、仕事の話なんだな)

 恐らく後者だろうと推測した光太郎は、大人しくルウィンの傍らに座り込んで、ルビアが洩らす思念の声に耳を傾けることにした。賞金稼ぎと言う、耳慣れない職業にはあらゆる秘密がある。だからルウィンも、何かしら大切な話の時にはこうして光太郎に理解のできない言葉で話すこともあるだろうと、ルビアはそうも言っていた。

〔どうやら、国に帰らなければならなくなったんだ〕

《ええ!?だ、だってウルフラインに行くって言ったのね…》

〔そうだったんだが、予定はあくまで未定だ。父上がどうも一芝居打ってるらしくてな、放って置いても厄介なことにならんとも限らんし…オレの進退に関わることなんでね、しかたない〕

 ルウィンの腕の中で思案するように深いエメラルドの双眸を細めていたルビアは、銀の前髪が風に揺れる綺麗な顔立ちをしたガルハ国の皇子を見つめていた。
 困ったもんだと皮肉げに笑うルウィンの表情と、困惑しているルビアの表情は光太郎を不安にさせるには充分だった。オマケに事の成り行きがわからないのだから、その不安は余計に大きなものになっているに違いない。ソッと眉を寄せる光太郎に気付かないまま、ルウィンは話を続けた。

〔取り敢えず、コータローのことなんだ〕

 自分の名前が出てきたことにドキッとして、光太郎は唇を噛んだ。
 自分のことがまた、この綺麗な賞金稼ぎを困らせているんだろうかと、申し訳なく思いながらその横顔を見上げていた。

〔オレは…ガルハには連れて行こうと思っているが…王城にいれるつもりはない〕

《身分を明かすつもりもないのね》

 間髪入れずに口を挟むルビアに肩を竦めると、その時になって漸く、不安そうに眉を寄せて自分を見上げている光太郎に気付いた。思ったよりも柔らかい黒髪は、暑い地方には恵みの風を受けてさらさらと揺れている。心配そうな、不安そうな…複雑な感情を秘めた双眸がキラキラと太陽の光に輝いていた。意志の強そうな双眸は、それでも案外脆くもあるのだと言うことを、知らないルウィンではない。
 困ったように苦笑して、彼は光太郎の黒髪に手を伸ばした。

「そんな心配そうな顔をするなよ。別に置いて行ったりはしないさ」

 え?と、不思議そうな顔をした光太郎は堪り兼ねて口を開いた。

「どこ行く?」

(確か、ウルフラインって国に行くって言ってたはずだけど…)

 心中で呟きながら首を傾げる光太郎の髪をクシャッと掻き混ぜて、ルウィンは困惑の表情を浮かべている小さな飛竜を見た。

〔仕方ないさ。オレがガルハの皇子だとしても、コータローには何の関係もないからな。いや寧ろ…〕

 呟きかけて、ルウィンは口を噤んだ。
 【竜使い】を初めて拾った晩も、焚き火の前でルウィンはこんな表情をした。
 そうしてあの村で光太郎を怒鳴ったときも、そんな表情をしていた。
 何も言うなと、厳しい表情をしながら、どこか辛そうな…
 ルビアは何か言いかけていた仕種をしていたが、不意に黙り込んでしまった。
 だからこそ、光太郎はその雰囲気を読み取れなくてハラハラしてしまうのだ。

〔コータローは知り合いに預けるよ。暫くは国を空けられないかもしれないし…まあ、こんな時のことも考えて、端からそのつもりではいたんだが〕

《言い訳にしては長ったらしいの。ルーちゃんは意地っ張りだから…でも、仕方ないのね》

 フンッと鼻を鳴らしたルビアはしかし、仕方なさそうに溜め息をついた。

《で、それをどう、光ちゃんに説明するの?》

「そりゃあ、お前の役目だ。ルビア」

《ええ!?ズルイのね!!》

 思わず目をむくルビアを尻目に、ルウィンは喚く小さな飛竜を放り出すと、困惑した表情で見守っている光太郎を促して小さく笑いながら立ち上がった。

「取り敢えず、座っていてもしかたない。必要なものがあるから、行くぞ」

 顎をしゃくって促すルウィンに、とうとうワケが判らないままで頷いた光太郎は、腹を立てて飛んでいるルビアを捕まえて抱き締めると、その後を追って歩き出した。
 何が起こるのかなんて判らなかったが、ルウィンを信じるのだと決めた自分の言葉に責任を持って、不安に駆られながらトボトボと足を進めていた。

 ルウィンが目指そうとしていた場所は、市場の中央を離れた、ガラクタ市が立ち並ぶそれこそ闇市のような野蛮な雰囲気のある区域だった。
 実はまさにこの区域こそが、この町外れのバザーの醍醐味のような場所で、他では滅多にお目にかかれないようなレアなアイテムをゲットすることだって不可能ではない。ただ、あまりに粗野な連中が屯しているため、普通ではけして立ち入ることのできない危険区域でもあるのだが…賞金稼ぎがそんなことで泣き言を言っていてはお話にならないこともまた、確かなのだ。

『る、ルビア~。ここってなんか、ヤバそうじゃない?』

《ヤバイのね。だって、人身売買もしているような連中もいるの。光ちゃん、ルーちゃんから離れたら売られてしまうのね!》

 先ほどまでの不安もどこへやら、違った意味でビクビクしている光太郎はルビアに脅されて慌てたようにルウィンの腕に抱きついた。

「歩き難い」

 一言、素っ気無く言って腕を無下に振り払うルウィンに、もう慣れている光太郎はしつこくその腕に抱きつこうとしていたが、不意に何かに目を留めて思わず立ち止まってしまった。

《光ちゃん?》

 片手で抱き締められているルビアが怪訝そうに声を掛けると、光太郎はゴソゴソと道具の入っていない反対のポケットを探って何かを取り出していた。
 それは、ルウィンが何かの時の為だと言って渡していた金貨だった。合わせて5ギールあるが、果たして光太郎が目にしたものが手に入る金額だろうか。
 この世界は有り難いことに十進法が用いられているおかげで、光太郎でもそれほど苦もなく買い物が出来るようになっていた。その事実を知ったルウィンが、仕事でいない間の留守番時に腹が減ったり咽喉が渇けば、何か買うといいと言って渡していた金貨なのだ。

《何か買うのね?》

『うん。ほら、ルビア。アレってルウィンが耳にしてるピアスの色違いだよ』

 光太郎が指差した先にあったのは、ボロの布が広げられた粗末な露店で、日除けさえ侭ならないような砂地に腰を降ろした老婆が、どうやらその店の店主のようだった。
 その店とも言えないただの布っ切れの上に、雑然と並べられている装飾品はどれもどこか禍々しい雰囲気があるものの細工は見事で、足を留めている者も数人はいるようだ。その禍々しい装飾品の中で、なぜか1つだけ清楚な煌きを宿したピアスが片方だけ並べられていた。
 光太郎が指差したのは丁度その品で、青い石がキラリと太陽の光を反射している。
 まるで対のようなピアスは、離れてしまった片方を待ち続けているかのようにひっそりと佇んでいた。

《5ギールじゃとてもムリなのね。諦めて早く行くの》

 もちろん、ルビアにもこの市場の決まりはよく判っている。
 目利きも自分なら値切るのも自分なのだ。だが、光太郎の侭ならない言語では、安いものでも高く吹っ掛けられるのがオチだと言うこともまた、抗えない事実なのだと判っていたから敢えて止めるしかない。我が侭で利かん気のルビアでも、光太郎には甘々だったりする。
 自分が交渉しても構わなかったが、それでは光太郎の特訓にはならないだろうと思い直したルビアは、心を鬼にして断腸の思いで引き止めたのだ。

『うーん、残念だな~』

 あーあ、と残念そうに溜め息をつく光太郎の腕の中でルビアが下顎を突き出すような仕種で急かしていると、人込みの中にあっても目立つ黒髪の少年は、小さな溜め息を零して少し先で待っている、自分の不在に気付いた銀髪の賞金稼ぎの許に足を踏み出した。
 と。

『わぁ!』

 人込みの中で目立つのは何も光太郎に限ってではない。彼を拾って面倒を見ている銀髪の青年、先端の尖った耳を有する異形の種族である美麗な賞金稼ぎも頗る目立つ存在だ。だからなのか、光太郎は真っ直ぐに彼を見詰めていたに違いない。
 さもなければどうして、物見遊山で野蛮な区域に立ち入っている、金持ちの道楽息子とぶつかってしまうのだろう。

「痛い!いたーい!!何するんだッ、下賎の者が!ボクはロシディーヌ家の子息だぞ!?」

「ご、ごめんひゃい」

 ジャラジャラと、これでもかと言うほど飾り立てている男の胸板に思い切り鼻をぶつけてしまった光太郎は、うっすらと涙を浮かべながら鼻先を押さえて頭を下げた。

《光ちゃんが謝る必要がどこにあると言うの!?悪いのはそっちなのね!》

 光太郎の腕の中からいきり立つルビアが抗議に口を開くと、初めはビックリしていた男も、元来こんなバザーに来ているだけあって珍しいものに目がないのか、ルビアと、その稀有なる飛竜を抱き締めている光太郎を物珍しそうに交互に見遣っていたが、何を思ったのかパチンッと指先を鳴らして嬉しそうに高らかに言い放ったのだ。

「うん、ボクはこれを気に入った!屋敷に連れて帰るぞ」

《は!?何を言ってるの、バカなのね》

 ルビアが呆れたように、馬鹿にしたような溜め息をついていると、いきなりの事の展開に追いつけないでいる光太郎の腕が道楽息子を護衛するようにぴったりとついて来ていた男が捩じ上げたのだ。

『う、いたたたた…ッ!』

《光ちゃん!!》

「へーえ!言葉が違うのか、ん?これの飼い主はどこにいるんだ?」

 目尻に涙を浮かべる光太郎の顎を掴んで楽しげにキョロキョロと周囲を見渡す道楽息子の腕が、唐突に脇からぬっと伸びてきた掌に攫われてしまう。

「な、何者だ!?」

「失礼。ソイツらはオレの連れでね。生憎と奴隷じゃないんで飼い主はいないんだ…と言うことで、離してくれないか?」

 やれやれと溜め息をつくルウィンが掴んでいた腕を離しながらそう言うと、目の前に立っている夢のように綺麗な存在に目を白黒させていた男はなぜか顔を赤らめながらいきなり喚きだしたのだ。

「ぼぼ、このボクに!?め、命令するのか!?ボクはロシディーヌ家の独り息子なんだぞ!」

 賞金稼ぎを生業としながらも行く末は一国を担う皇子としては、近所の村の領主の息子に威厳を振り翳されても困るだけで有り難くはない。
 はいはいと簡単にあしらって引き下がる手合いじゃないのは十も承知だが、だからと言って光太郎とルビアを飼われても大変困ってしまう。いや、別に飼ってくれるのなら生活費の困難な現段階では非常に有り難いのだが…もちろん、そんなことを言うワケにはいかない。

「ロシディーヌ家が素晴らしい家系だと言うことはよく判った。だが、残念ながらそうだと言ってオレたちに何か関係があるワケではない。ってことで、離してくれ」

 腕を組んで面倒臭そうに言うルウィンの態度に、蝶よ花よと可愛がられて育った温室育ちの放蕩息子が黙って引き下がるわけがない。自分も全く同じような生い立ちであるから、ルウィンにはだいたい次の行動も予測できていた。

「ば、馬鹿にしたな!?くそうッ!!おい、お前たち!!何をボサッとしているんだッ、用心棒らしくこんなヤツはこてんぱんにしてしまえ!」

 光太郎の腕を捻じ上げていた男はさっさと掴んでいた手を離すと、大柄の体躯から滲み出すように殺気をちらつかせて指を鳴らしながら近付いてきた。
 次の瞬間だった。
 思わず目を見張って口許を覆った光太郎の前で、ルウィンの美しい銀髪がパッと虚空に舞い上がると、鈍い、骨を砕くような重い音を響かせた男の拳が力任せに彼の頬を殴りつけていた。

(ルウィンが死ぬ!)

 叫びそうになった声は声にならなくて、咽喉の奥で引っかかったまま出てこようともしない。そんなもどかしさを味わいながら、光太郎は倒れてしまうだろうルウィンの許に駆け寄ろうとして、何時の間にか腕から抜け出していたルビアの小さな手で引き止められてしまう。襟首を掴んでパタパタと飛んでいるルビアの、どこにそんな力が潜んでいるのかと言えば、それはやはり曲がりなりにも飛竜なのだから当たり前と言えば当たり前のことなのだが。

「ルビア!離してッ。ルウィン、死んでしまう!!」

《ルーちゃんは死なないのね》

「…え?」

 ルビアを見ながらジタバタと暴れていた光太郎は、突然、物騒な出で立ちの男が息を飲む気配を感じてルウィンを振り返った。

「…ったく」

 呟きは微かだったが光太郎の耳には届いていた。投げ遣りな、面倒臭そうな舌打ち。
 通常の人間なら、あれほど鈍くて重い音を出す拳を頬に喰らえば、脳震盪ぐらいは余裕で起こしてぶっ倒れてしまうだろう。だが、ルウィンは倒れるどころか、揺らぐこともなく両足の力で踏みとどまっていたのだ。
 光太郎がホッとしているのも束の間、驚愕に目を見開いた金持ちの坊ちゃんの目の前でヒュッと、風を切る音がしたかと思うと、あっという間に荒くれ者の胸倉が掴み上げられた。

「用心棒ってこた、お前、賞金稼ぎだな?あんな蚊の止まったような拳で殴りやがって!賞金稼ぎ、舐めてんじゃねぇぞ!!」

 そう言った途端、銀髪の賞金稼ぎの拳がストレートで顔面に減り込んだ!ルウィンよりもタッパもウェイトも2倍はあろうかと言う巨漢の男が、まるで木の葉のように傾ぐのを、だが、ルウィンは許そうとしなかった。
 後方に倒れようとする男の胸倉を力任せに引き寄せるなり、2発目が顔面を強打する。

「ひ、ひぃぃぃ…も、もう勘弁、カンベンしてくれぇええ!!」

 懇願するように哀れな悲鳴を上げる男を覗き込みながら、ルウィンはチッと舌打ちをして、口に溜まった血液混じりの唾液を吐き捨てた。

「いまいち効いてねぇようだな。賞金稼ぎと言うからには覚悟してんだろーがよ?まさか、2、3発殴られてはい、終了。とか思ってんじゃねーだろうな!?用心棒の仕事を受けたんなら命懸けで雇い主を護るんじゃねーのかよ!ああ!?」

 言っている間にも既に拳が風を切り、男の顔から鈍い音がする。徹底的に叩きのめさなければ賞金稼ぎ同士のタイマン勝負にケリはつかない。そうしている間に、彼の雇い主がもう止めてくれと懇願すれば、話はそれで終了となるのだ。だが、大概の場合、雇い主もおいそれとは『止めてくれ』とは言わないのが、この世界のルールである。
 止めろと言って止められてしまったら、次は自分なのだ。
 既に泡を噴いて白目をむく男の胸倉をなおも引き戻そうとした時、ルウィンの腕に縋りつく何かがあった。

「る、ルウィン…もう、やめる。このひと、もう戦うしない」

 おどおどしながら、それでも懸命に腕に縋り付いて自分を見上げてくる光太郎の瞳を見下ろして、ルウィンは胸倉を掴んでいた腕を殊の外あっさりと離してしまった。まるで殴ることにとり憑かれているかのように執着していた獲物は、既に失神して起き上がってくる気配もない。

「で?ロシディーヌ家のお坊ちゃま。オレはまあ、中途半端にだがアンタの雇った用心棒に勝ったワケだ。オレの連れは返してもらっていいんだな?」

 ゆらり…と、暑い地方特有の陽炎のような殺気を滲ませて見下ろす銀髪の賞金稼ぎに、道楽息子は声にならない悲鳴を上げている。

「ひ、ひぃぃぃ…」

 既にへたり込んで腰を抜かしていた道楽息子は、乾いた砂利が敷き詰められている道路に水溜りを作りながらブンブンと首を縦に振っていた。声も出せない情けない姿は、笑うよりも、いっそ悲愴ささえ感じてしまう。
 自分がもし同じ立場だったら、間違いなく彼のように腰を抜かしていただろうとそこまで考えていたが、不機嫌そうにフンッと鼻を鳴らして歩き出すルウィンにハッと気付いて、光太郎は慌ててその後を追いかけた。
 正直、何が起こったのか未だにとろい脳細胞は理解においついていない。

「…なんだよ。オレが怖くなったかよ?」

 ニッと、意地悪そうな笑みを浮かべたルウィンに見下ろされて光太郎は、その腕を抱き締めながら眉をそっと寄せていた。
 これで嫌われるなら、それもいいのかもしれないとルウィンはひっそり思っていた。
 懐かれたままで預けてしまうのは、縋るような目をされたら置いて行けなくなってしまうとも思っていたからだ。
 嫌われるなら、しかたない。これも何かの運命なのだろうと溜め息をついたとき、光太郎が困惑の面持ちのままでギュゥッと腕を抱き締めてきた。

「僕、何か起こった。わからない。考える、疲れた」

 はぁーっと長く息を吐いて緊張していた身体から力を抜いた光太郎は、呆気に取られたように見下ろしてくるルウィンに向かってニコッと微笑みかけたのだ。

「でも、よかた。悪者退治した。ルウィンえらい!えーっと…怖くないよ?」

 そう言えば、唐突にルウィンの言った台詞に気付いて光太郎は首を傾げてしまった。
 それでなくても初めて見る実践の喧嘩に度肝を抜かれて緊張していたのに、どうしてそれが怖いに繋がるのだろうかと考えながら、光太郎はまたしても徐にハッとするのだ。

「ルウィン!頬、痛い!?」

「はあ?あ、いや別に。構わなくていい」

 触れてこようとする指先を払い除けながら、ルウィンは切れた口中に溜まる血液混じりの唾液をペッと吐き出した。
 喧嘩に無敵はない。
 殴れば殴り返される、殴られた場所は痛いのだ。
 だが賞金稼ぎと言う職業に就いた以上、それは日常茶飯事のことで、これぐらいの傷で大騒ぎしていたら命が幾つあっても足らないだろう。だが、そのことを異世界から迷い込んできた光太郎がもちろん知っているはずもなく、不安そうに、心配そうにハラハラしている姿はどこか胸の奥がくすぐったくなってしまい、ルウィンは奇妙な感覚に眉を寄せてしまう。

(…なんだ、この感じは?)

『ルビア~、ルウィン痛いだろうね?あいつ、物凄く殴ってきたから!!』

《ルーちゃんはその2倍、ううん、5倍は返してると思うからいいのね》

 あの状況を見れば、ルウィンの頬ぐらいの傷は可愛いものだろう。
 あの用心棒、再起不能になってなければいいのね…と、ルビアが相手の心配をしたとしても仕方のないことだった。

「ここだ」

 ルウィンの服の裾を掴んで頭に深紅の飛竜を張り付かせた光太郎は、立ち止まった彼が指し示す店を見てアッと声を上げてしまった。
 その店先に無造作に置かれていたその物体は…ハンドルこそ奇妙な形だったが、明らかに元いた世界で極簡単に見慣れているものだったのだ。

「こ、これ…」

 光太郎があんぐりしたままでルウィンを見上げると、その反応を訝しく思いながら眉を寄せた銀髪の青年は、転がったドラム缶に腰掛けてナイフでハムのような物を切って直に食べている仏頂面の髭面に声をかけた。

「店は開けてるのか?」

「ご覧の通りさ…って、おー!すげぇな、その顔!」

「まあね」

 見ても判らない返事とともに、ルウィンの頬の傷をビックリしている男に光太郎がポカンとしていると、自分の都合の良いほうに受け止めたルウィンは肩を竦めながら店先に無造作に放置されている1台のバイクの前に行った。
 そう、光太郎が唖然として凝視していた物体は、銀の車体が美しい1台のバイクだったのだ。

「…コイツは、カスタムリペア(改造修理)はしてあるのか?」

「んー?ああ、それね」

 ボサボサの長髪を鬱陶しいそうに掻き揚げながら、男はナイフと食べかけのハムを投げ捨てて立ち上がると、ポケットに両手を突っ込んでぶらぶらと近付いてきた。
 喋るのも億劫だと言いたげにいちいち溜め息をついて、彼は銀と黒のコントラストが美しい、流線型のフォルムを持つ風変わりなバイクの座席部分をポンポンと叩いてチラリとルウィンを見た。
 身形で値段を決めようと企んでいるようにも見える。

「とんだ旧時代の遺物だよ。今頃こんなモンを欲しがるヤツなんざいねーだろうと踏んでたんだがなぁ…」

「ほら!あたしの勝ちじゃない」

 少し大きなテントの入り口から飛び出してきた小さな少女が腰に手を当てて、胸を張ってフフンッと鼻先で笑うと男を見上げた。

「チッ!はいはい、ほらよ」

 忌々しく舌打ちした男はポケットから数枚の金貨を取り出して少女に手渡した。ウェストに工具の入ったポーチを装着して、顔はオイルで汚れている少女はニッと勝ち誇ったように笑っていたが、黙って事の成り行きを見守っているルウィンの一行に気付くと慌てたように愛想笑いを浮かべて居住まいを正した。

「いらっしゃい。その子を気に入ってくれたの?ありがとう!旧時代の産物だから、無駄に魔力を食うのよね。今の時代、そんなに強い魔力を持った魔導師もいないし…ま、いてもこんな古臭い乗り物は使わないでしょ?だから、弟に必要ないって言われちゃったんだけど。あたしがね、どうしても生き返らせてみたくって…」

 ペラペラとよく喋る少女の口から飛び出した色んな言葉よりも、店先で遣る瀬無いほど適当に店番をしている青年が、この少女の弟だと言う事実の方に驚いている光太郎を無視して、ルウィンは同じ質問を繰り返した。

「カスタムリペア済みってことか?」

「そーね、砂漠地帯を46週間走り続けても大丈夫だと思うわ。よかったら、試してみて?」

 クスッと笑った少女が肩を竦めると、ルウィンはしゃがみ込んで車体を丁寧に調べているようだった。元いた世界でもそれほど…と言うか、全く興味のなかった乗り物の詳しいことなど理解できない光太郎は、それよりも、この世界にそんな乗り物があったのかと純粋に驚いて観察している。

「あの」

 光太郎が声を掛けると、ルビアと少女がほぼ同時に光太郎を見た。

「えっと。食べる、なに?」

「食べる?ああ、燃料のこと?」

「うん」

 頷く光太郎に、少女は腕を組んで物珍しそうに彼を見ていたが、クスッと笑って口を開いた。

「魔力よ。それも膨大な。一昔前には科学と術学の見事な融合だ!…とかって持て囃されたんだけどねぇ。今じゃ、無駄に魔力を食うガラクタだって言われてるのよ。失礼こいちゃうわよね!」

 ケラケラと豪快に笑う少女を呆気に取られたように見ている光太郎たちの前で、ボサボサの髪をした男がルウィンに肩を竦めていた。

「ま、姉貴がリペアしてっから、ポンコツよりはマシだと思うぜ。5000ギールでどうだ?」

「5000か…悪くないな。それでいい」

 珍しく値切ることをしなかったのは、その値段が妥当よりも幾分か下回っていたからだ。
 ガラクタ屋の姉弟としては余程の物好きでない限りはけして売れることのないだろう商品を置いておくよりも、カスタムリペア代を差し引いてもお釣りがくるぐらいの値段で売りつけられれば御の字だし、ルウィンにしてみたら歩きやカークーよりも早い乗り物が予想していた値段よりも遥かに低い価格で手に入れば助かる…そう言った相互利益が合致したことで、交渉はスムーズに成立した。

「あら!アンタの連れが買ってくれたみたいね。ありがとう」

 少女が嬉しそうに頬を上気させてウキウキと礼を言うと、なんだか嬉しくなってしまった光太郎もニコニコ笑ってそれに応えていた。

「あ、ねね。あたしたち姉弟は旅の商人なのよね。どこかでまた会ったら、声を掛けてよ。お安くしとくから!」

 少女にどーんっと背中を叩かれて、光太郎はよろけながら判ったと頷いた。コロコロとよく笑う少女は、見ていて楽しくなってしまう。この商売がよほど好きなんだろうと、光太郎は感じていた。

《パワフルなのね》

 ルビアが呆れたように呟くのを聞いて少女は高らかに笑っていたが、テントの奥で何かがピーッと機械音を響かせたのにギクッと飛び上がって慌てたようにテントに戻ろうとした。しかし、不意に思い止まったようにルビアと光太郎を振り返ると、オイルで汚れた頬を拭いながらウィンクしてみせたのだ。

「あたしはファンデリカ・ルシーナで、弟はトランディサール・ルシーナよ。ファニーとリックって言えばこの世界じゃけっこう有名なんだから、覚えておいてね!」

 そう言い残してピュッとテントの内に戻ってしまったファニーを呆気に取られたように見守っていたルビアと光太郎の背後で、交渉が成立して支払いと改造された部分や取り扱いの説明を済ませたルウィンが不思議そうに首を傾げてそんな2人に声をかけた。

「何してるんだ?行くぞ」

「あ、はい!」

 異世界に落ちてきて色んなものを見てきた光太郎だったが、今回ほど驚いたものは初めてだった。
 なぜならそれは、幻想から抜け出してきたエルフのように美しいルウィンが、無機質な銀と黒のコントラストが美しい流線型のフォルムをしているバイクを押していると言う姿は…やはり、光太郎でなくても驚くし違和感を覚えても仕方がない。

「なんだ?何を笑ってるんだよ。ヘンなヤツだな」

 本日の収穫品を肩に下げ、大収穫品を押しながら呆れたように肩を竦めて苦笑するルウィンに、光太郎はニコニコと笑って服の裾を掴んでいた。
 色々なことがあったが、光太郎にしてみたらルウィンが頬を腫らしていること以外には、命に関わるような重大事件が起きなかっただけよかったと思っていた。
 何か重要なことを忘れて幸せそうに笑っている光太郎だったが、その傍らでルウィンとルビアは複雑な思いを抱えていた。
 素直に喜ぶこの少年を。
 彼らは手離さなければいけないのだ。
 暑い地方に吹く風が銀の髪を舞い上げて、それを不安そうにルビアは見上げていた。

第一章.特訓!15  -遠くをめざして旅をしよう-

 光太郎は突然の出来事に目を白黒させながら周囲を見渡していた。
 ルウィンが唐突に「町外れのバザーに行こう」と言い出したのが事の切欠で、どんな場所か知らない彼にとって連れられてきたその場所は、今までに見たことがないほど賑わっている大きな都市のような場所だった。

『わーわーッ、凄い!ルビア、見て!踊り子さんだよ!!』

 野宿が主だった旅の道すがら、寄った街は街と言ってもそこそこ大きいと言うだけで、これほどの人手ではなかったから、光太郎は目に入る肌も露な踊り子や剣術を披露するために巨大な刀剣を持ち歩く旅人に見とれてはワアワアと騒いでいる。
 町外れのバザーは口煩い役所の目の届かない、よく言えば旅のバザーだが、悪く言ったらまるで無法地帯、何でもござれの悪徳バザーだったりするのだ。そのため、法を掻い潜ったあらゆる商品が出回っているから、貴重品や珍品目当ての旅人には有難い市場だった。旅人だけではなく、最近ではこのバザーを追った【おっかけ】なる者もいる始末で、合法的に法を犯していたりする。
 その分、値段も目玉が飛び出るほど高いものから、どうしてこれがこの値段なんだ…?と、疑問に思うほど安いものまでが取り扱われていて、得をするのも損をするのも買い手側の目利き次第と言うことになる。
 ルウィンがなぜこのバザーを選んだのか、彼にはお目当ての商品があった。
 もう、随分と草臥れてしまった光太郎のカタ族の衣装を買い換えてやりたかったのだ。以前立ち寄った時に無理矢理押し付けられてしまったカタ族の衣装だったが、思わぬ所で役に立った。どこででも手に入るという品物ではない、もしかしたら…と思ったルウィンは人でごった返すバザーに渋々来ることにしたのだ。

『はぁ~、凄いねぇ。どこからこんなに人が溢れてくるんだろう?あ、でも。ここだったら彰がいるかも…』

「手を離すなって!」

 思わずフラフラと人込みに紛れてしまいそうになった光太郎は手を引っ張られてハッとした。
 様々な人種が行き交うバザーの中央で、光太郎ほど目立つ旅人はいないのだが、逸れたら捜すだけでも骨折りなのだからいつも通り服の裾を掴んでいてもらっていた方が行動がしやすい。しかし、こんな時に限ってなぜか光太郎はフラフラとしたがるのだ。困ったもんだとルウィンが眉を寄せていると…

「ご、ごめちゃい!」

 申し訳なさそうにカタコトで謝ってくるから怒るに怒れない、全く本当に困ったものである。仕方なくルウィンは苦笑してポンッと頭を軽く叩いた。

「アキラを捜すんだろ?判ってるって。だがまずは服だ!」

 怒鳴らないと互いの声が聞こえないほど露店主たちの掛け声は威勢が良い。それに倣うように道行く旅人も、交渉する客も負けじと声を張り上げて果敢に値切っている。活気付いたバザーは、少年の心をワクワクさせても仕方のないことだ。

「服!うん、服!」

 頷いて、逸れてしまったら絶対に迷子になることが判っているから、光太郎は必死でルウィンの服の裾を掴んでいた。ルビアは人込みにうんざりしたように光太郎の頭にしがみ付いている。
 不意に掴んでいるルウィンの黄色い中国の民族衣装のような服の裾が解れているのに気付いて、光太郎はひっそりと眉を寄せた。よくよく見てみると、他の旅人と同じように…いや、それ以上にルウィンの服は草臥れているように見える。自分と旅をしている間に余計な心配をかけるものだから、必要以上に行動しなければならない彼の、その行動量に比例するようにボロボロになっているのだ。

(服…俺の服よりもルウィンの服を買わないと。でも、この人はきっと自分よりも俺のコトを考えてくれてるんだろうなぁ)

 ふと見上げると、風に揺れる銀髪から覗く先端の尖った右耳に下がる、三日月型の銀の耳飾りが揺れていた。それはキラキラと陽光を反射していてとても綺麗で、動きにあわせて揺れている。スイングするのは、耳朶で銀の台座にルビーのような紅玉が収まっているピアスで止めているからだろうか?
 彼が唯一身に付けている装飾品だ。
 他の旅人をコッソリと盗み見ると、指輪をしたりピアスをしたりと…結構装飾品を身につけている人が少なくない、と言うか、殆どの人々が何らかの装飾品を身に付けている。ルウィンの場合は極端に少ない方だ。

『それはやっぱり、俺がいるせいかなぁ…』

《何がなのね?》

 思わず呟いた独り言に頭上から声をかけられて、ハッとした光太郎は何でもないよ…と言いかけて思い直した。

『ねえ、ルビア。ほら、他の人って結構指輪とかしてるよね?ルウィンの装飾品って言ったら、右耳のあの赤い宝石から下がってる銀の月のピアスぐらいでしょ。買えないのはやっぱり俺のせいかなぁ…』

《何かと思ったら…そんなことなのね。ルウィンは女の子じゃないのだから宝石なんて興味がないの》

『そうじゃなくて…』

 装飾品を身につけることがこの世界のお洒落なら、ルウィンはハッキリ言ってダサダサだと言えるだろう。何も知らない自分がくっついて回るせいで、ルウィンが不自由をしているのだとしたら…それは凄く嫌なことだし、とても悲しいことである。何とか改善できる方法は…そこまで考えて、たった1つしかない解決方法にぶち当たった光太郎は溜め息をついた。

(俺が離れる…ってことしかないもんなぁ。あう、泣きそう)

 鼻の奥がツンとして、グスッと鼻を鳴らすと、唐突にルビアが頭上から語りかけてくる。 

《あの耳飾りをすることもホントは嫌がってるのに、それ以上何かつけろって言ったらブチ切れるのね。ルーちゃんは短気で怒りんぼーだから》

「…何の話をしてるんだよ」

 ルウィンは呆れたように肩を竦めながら装飾品や衣類を売っている区画に漸く辿り着いて周囲を見渡したが、ここでもやはり旅人が所狭しと行き来をしていてなかなか先に進むことができない。
 暫く思案していたが、一向に人が減る気配もない。
 もちろん、3日間はぶっ通しでバザーが開かれるのだ、夜になれば幾らか人手も減るのだろうが、夜半は何かと物騒だし、昼でヘトヘトになっている光太郎たちを連れて歩くのもどうかと思う。何より、早めに出立したいと言う思いもあった。

「よし!オレが買ってくるから、お前たちは目立つ所にいろ…そうだなぁ、あの大きな木の下がいい。あそこで待ってろよ?」

 頷いた光太郎とルビアを見下ろして、一抹の不安を感じたルウィンは小さな飛竜を抱き締める少年を食い入るように見下ろして頷いた。

「オレが戻ってくるまで【アキラ】を捜すのは絶対にダメだからな。もし約束を破ったら…そうだな、ぶった斬る」

《ほら、短気で怒りんぼーなのね》

「約束守る。うん、ホント」

 胡乱な目付きで睨むルビアをギュッと抱き締めてコクコクと頷く光太郎に、本気だからなとやはり物騒な一言を付け加えてからルウィンは人込みに消えてしまった。それでも背が高いから暫くは銀髪を目で追うことができたが、店の付近でヒョイッといなくなってしまった。
 すると、途端に光太郎はポツンと独りぼっちになってしまったような気がして、心細くなってギュッと両手に力を入れてしまう。

《く、苦しいのね》

『あ!ご、ごめん!!』

 そうか、ルビアがいるんだと気付いてホッとした。
 ルウィンが見えなくなったり、傍からいなくなるともうダメで、なぜか酷く不安になる。
 この世界に落ちてきた時から、もうずっとルウィンと一緒にいるせいか、彼がいなくなると捨てられた小犬のように不安で心細くてすぐにでも追いかけたくなってしまう。今だってそうだ。
 ここにルビアがいてくれなかったら、今頃自分は、待ってろと言われても追いかけていただろう。
 そんな自分がとても恥ずかしいけれど、この広い世界で、オマケに何も知らないこんな異世界でどこかにいるかもしれない彰を捜したくても、迷子になって悪ければ死んでしまうのが関の山だろう。自分は父のような天才的な冒険家というわけではないし、それほどの勇気もない。
 ルウィンと不思議な運命で出会って、光太郎は、なぜか自然と彼を受け入れていた。
 綺麗だからとか、強いからだとか…少しは打算的な考えもなかったわけじゃないけれど、右も左も判らない自分を連れて歩くことがどれほど迷惑になっているか良く判るし、それを甘受して面倒を見てくれる彼を信用しないでいられるはずもなかった。
 一種の刷り込みのような現象だったかもしれないし、違うかもしれない。
 それでも、光太郎はどちらでもいいんだと思っている。
 ルウィンのお供になろうと決めたのは、他の誰でもない、自分だったのだから。
 迷惑のかけついでなんだし、こうなったらとことんまでルウィンにお世話になろうと決めていたのだ。
 こんな中途半端な自分の面倒を見てくれるルウィンは、もしかしたら、案外どこか彰に似ているのかもしれない。クールな双眸も綺麗な顔立ちも全く違うのだが、雰囲気が、とても良く彰に似ていた。

(あ、そっか。ルウィンって彰に似てるんだ。あ、なんだ、そっかー。彰って何かあると決まって俺を連れ回してくれるんだよなぁ。で、父さんがいつもいないから、泊りがけでキャンプしたり…俺、だから父さんがいなくてもちっとも寂しくなんかなかった。彰がいれば寂しくなんかなかったんだ。だからきっと、こうしてルウィンと一緒にいられるから、俺は寂しくないし怖くもないんだろう。この見知らぬ異世界でも生きていけるんだって思う。彰…どうしてるかな?ちゃんとご飯とか食べてるかな?悪いヤツに捕まっていないかな…)

 様々なことを考えていた光太郎は不意に彰の顔を思い出して、唐突に居ても立ってもいられなくなった。

《光ちゃん。いつもは仏のルビアさまだけれど、今回はダメなのね。ここから離れてしまったら危険なの》

 不意に見透かすような大きなエメラルド色の澄んだ瞳で見上げられて、光太郎はドキッとした。大木の下は暑さを避けた旅人達の溜まり場になっていたが、光太郎とルビアが座るにはちょうど良い場所を見つけて確保していた。

『ご、ごめん』

 素直に謝る光太郎にニコッとルビアが笑ったちょうどその時、傍らで休息を取っていた際立つ美人が立ち上がった。
 長いストレートの黒髪は腰までもあって、豊かな胸にむっちりとした形の良い尻、褐色の肌は異国の匂いを漂わせていて、釣り上がり気味の細いサファイアの双眸と高い鼻梁、濡れたような薔薇色の唇がなんとも妖艶で艶かしい彼女は彼らを見下ろしてクスッと笑った。

《なんなのね?》

 ルビアが不信げに彼女を見上げると、すらりとした長身の美女はクスクスと笑いながら光太郎を見下ろしてジックリと眺めている。

「どこから来たなりか?」

 奇妙な調子で尋ねられて、光太郎はキョトンとした。でもすぐにハッと気付いて、ルウィンとの約束を思い出していた。

【魔の森のことは忘れちまえ。そして、誰にも言うんじゃない】

 脳裏を過ぎる彼の言葉に知らず頷いて、光太郎は誤魔化すように笑って首を左右に振った。

「聞くしない。言葉、ちょっと」

「言葉が判らないなりか?異国から来たなりね。誰かと逸れたなりか?」

「えーっと…」

 カタコトで答えながら矢継ぎ早の質問にあたふたしている光太郎の胸元から、ナイスバディの美女を見上げたルビアが鼻先にシワを寄せて威嚇するように口をパカッと開いた。

《ヒトにモノを尋ねる時はまず自分から名乗るべきなの。でも、ルビアたちには余計なお世話なのね!》

『る、ルビア…』

 ツンと外方向くルビアにムッとしたような美女は腰に片手を当てると、奇妙な二人連れの旅人を興味深く観察しているようだった。だがその僅かな時間で、光太郎もその風変わりな美女を繁々と観察した。
 美貌もさるものながら、彼女のむっちりとした太腿のベルトに下がったホルスターから覗く二丁の拳銃も大層な代物のようである。
 奇妙な文様が浮かぶグリップのところだけが覗いていたが、銃身はやや短いようだ。

「なんなりか、あちきの銃魔(ガンマ)が興味深いなりか?」

 ニコッと笑った美女はそう言って太腿のホルスターから拳銃を引き抜くと、やはり短い銃身の引き金の部分に指先を引っ掛けてクルクルと回した。

「あちきはバラキ。銃魔使い(ガンマツカイ)なりね。お前を気に入ったなり。何か困ったことがあったら賞金稼ぎよりも格安で依頼を引き受けてやるなり。いつでも声をかけるがいいなりね」

 そう言って構えた銃を光太郎に向けると発砲したのだ!

『わ!?』

 思わずルビアを庇うようにして身を縮めた光太郎に、バラキと名乗った妖艶な美女は声を立てて笑いながら立ち去ってしまった。

『な、なんだったんだろ…ん?』

《きー!ムカツクなりね!って、言葉がうつちゃったのねッ》

 光太郎の腕の中でジタバタしていたルビアはしかし、ひらひらと舞い降りてきた何かを拾っている少年の手許を覗き込んだ。
 それは一枚の紙片で、【薔薇姫】と綺麗な文字で書かれた横にキスマークがついていた。

《銃魔使いと言って、魔法の詰め込まれた銃弾を撃ち出す道具が使える魔法使いなの。賞金稼ぎよりもレベルは低いけれど、同じようにギルドがあって、ちゃんとした職業なのね》

『ふーん…って、ああ!?』

 光太郎の手から紙片を奪ったルビアは、興味がなさそうにそれをチラッと見下ろしただけで、怒りをぶつけるようにバリバリに破り捨ててしまったのだ。

『い、いいのかなぁ…?』

《いいのね!ルーちゃんがいるのに、銃魔使いなんて必要ないの!》

 その紙片に息を吹きかけると、どこにいても紙片に書かれた名前の持ち主が駆けつけてくる効果のある貴重な代物であることを、光太郎は知らなかった。バラバラになった紙片を舞い上げて、暑い地方に吹く恵みの風が吹きすぎて行った。

「なかなかないもんだなぁ…」

 ルウィンはカタ族特有の民族衣装を探して数件目の露店に立ち寄っていた。

「お兄さん!そこの綺麗なお兄さんっ!ご覧よ、綺麗な服が揃っているよ」

 威勢良く声をかけられたものの、あるものと言えば確かに珍しい物ばかりだったが、肝心のカタ族の衣装は見当たらなかった。

「何かお探しかの?」

 立派な顎鬚を蓄えた老人に声をかけられて、ルウィンは頷いてその露店の前に立つと無造作に並べられている衣装に視線を向けて溜め息をついた。

「カタ族の衣装が必要なんだが、こちらでは扱っているかな?」

「カタ族とな!これはまた珍しい物を…似たような服でよければこれなんかどうじゃね?」

 地面に直接敷いたカーペットの上に広げた商品の中から取り出した水色の衣装は、確かにカタ族の着るものによく似てはいたが、明らかに何か胡散臭かった。
 このバザーでもう一つ、目利きを問われるものがある。
 それは何かと言うと、ずばり、曰く物かどうかということだ。

「それは水の精霊が纏っていた水衣と言ってな、妖精がカタに卸していたものらしいぞ」

 らしい…と言う辺りがかなり胡散臭かったが、実しやかに説明する老人が差し出した衣装は確かに軽く、特殊な織り方で仕上げられていたし、手触りに独特の違和感が感じられた。こういった場合の多くは、やはり何かしらの秘術が織り込まれていると相場は決まっている。
 問題は…

「幾らだ?」

「おお、気に入ったかね。大負けに負けて、5000ギールでどうじゃ?」

「冗談!高すぎる」

 興味がなさそうに即答してから衣装を返そうとするルウィンの腕を掴んで、老人はさらに指を3本立てて見せた。

「3000ギールでどうじゃね?ん?1500ギールでもいいぞ」

 どうしてそんなに値引くんだ…と、いつもなら値引き交渉に喜んで臨むはずのルウィンは、明らかに胡散臭そうな老人を冷やかに見据えて、水衣をひらひらと振ってみせた。

「…こう言う市場でバイヤーが値引く条件その1は、何か曰くがあるからだろ」

 うっ、と言葉を詰まらせた老人はしかし、訝しげに眉を寄せる銀髪の青年に仕方なさそうに渋々と頷いてみせた。

「カタの衣装に似ていると言う理由だけで、誰も欲しがらんのじゃよ。竜使いが現れると言う予言が噂されてから、誰もカタ族に触れる物を欲しがらんのじゃ。ワシは妖精やエルフから卸した商品を扱っておるからのう、どうしても関連付けられて商売上がったりじゃよ。これなんかほれ、本当に良い品なんじゃがなぁ…」

 確かに、今のルウィンならば咽喉から手が出るほど欲しい品ばかりだ…

「よし、じゃあこれを纏めて5000ギールでどうだ?どうせ余っちまうんなら、売っておいた方が得だと思うけどな」

「ごご、5000っぽっちじゃと!?それこそ冗談ではないぞ、お若いの。これなんぞは10000ギールでも安い品なんじゃぞ、それを5000などと、いや、4着を纏めて5000…」

「売れなくて残れば40000ギールの損失だな。で、どんどん古くなって仕舞いに150かそこらでエルフから叩かれるんじゃないのか?だったら今のうちに売っておくってのも手だと思うぜ?」

 ニコッと笑う美形の青年に、ブツブツと悪態をついていた老人は暫く苦渋に満ちた表情をしていたが、渋々と言った感じで頷いた。思わぬ所で思わぬ買い物をしたと、ルウィンがホクホクしていると、傍らで買い物をしていた男が不意にそんなルウィンに気付いて声をかけてきた。

「お前さん、ハイレーン族かい?」

「…ああ」

 それが何か?とでも言うように訝しむルウィンに、彼は料金を支払って品物を受け取りながら驚いたような表情をした。

「こいつは驚いたな。故郷に帰らなくていいのかい?いや、余計なお世話なんだがなー」

「…は?」

 ギルドに貯めていた貯金を殆どおろしてきていたルウィンは、それでも安く買えた衣装代を引いてもまだ余りある巾着の口を縛って懐に仕舞うと、今夜は宿屋だと考えながら男の顔を見返した。

「は?って…知らないのか?とうとう、ハイレーン族の若き皇子が立太子の式典を催すそうじゃないか。放蕩だ何だと言われていても、やはり一国の皇子様だ。国を一番に考えておられるんだよ」

「…」

 話し好きの旅人は衣装を受け取ったルウィンにニコッと笑ったが、彼の代わりにそれまで渋い顔をしていた老人がパッと表情を変えて頷いてみせた。

「おお、そうじゃ!ここで3日を過ごした後、バザーはガルハ国に移るんじゃよ。大国ガルハの皇子が立太子とご婚儀を同時に挙げると言うことで、あの国は大層賑わってるそうじゃからなぁ」

「…ち、ちょっと待ってくれ。立太子?婚儀?どう言うことだ?」

 下手に動揺しても不信がられるとは判っているが、聞き慣れているようで全く免疫のない言葉をこうも矢継ぎ早に聞かされたのでは、さすがに心臓に毛の生えているルウィンだとて平然と聞いていられるはずがない。

「なんだ、ハイレーン族のくせに巷を賑わせている噂を本当に知らないのかよ?」

「長らく人のいる街に行ってなかったんでね。噂も聞かなかったよ」

 雪白の頬を引き攣らせて笑うルウィンに、そうか、旅人だからなぁと軽く言った男は頷くと事のあらましを説明してくれた。

「ハイレーンの若き皇子様はなんか知らんが、15歳の元服式で皇位継承権を拒否して以来、未だに継承されていないらしい。だから正当なる皇太子殿下でありながら、未だに皇太子じゃないんだよ。もちろん、それは知ってるよな?で、その皇子様がいよいよ皇位継承権を受けて正式な皇太子殿下になられるってワケさ。それもご正妃を決めるご婚儀を控えてって噂なんだ。皇帝陛下が触れを出して、我こそは!と思っている美姫や美女をそれこそ世界中から集めているらしいし…強ち嘘っぱちの噂でもないらしいんだ。後宮じゃもう、新たな皇太子殿下のために各国の王族の姫君や貴族の姫君が我先にってお輿入れしているそうだからなぁ。いいよなぁ、一国の皇子ともなると世界中の美女の中から飛び切り綺麗な女を選べるんだから!…って、おい、どこ行くんだ?」

 信じられない噂を耳にしたルウィンは、軽く礼を言ってその場から立ち去ろうとした。

「なんでも、皇帝陛下が病床に倒れたらしくて、皇子も仕方なかったんだろう。一国の皇子ともなれば自由の利かない身の上だからなぁ」

 目の前にいる、件のガルハ国第一皇子の性格を全くよく理解していない人間の青年は、尤もらしくそう言うと、気の毒そうに自由奔放なはずの放蕩皇子の身の上を慮って頷いている。聞き捨てならないのは最初の台詞だ。

「…陛下が倒れただって?」

 ピタリと足を止めたルウィンが振り返ると、男は肩を竦めて頷いた。双眸を細めて見ても怯むだけで、嘘だと言うわけではなさそうだ。

(そんなバカな…父上の御世はまだ続くはず)

 母譲りの先見で見た未来は未だ父の健在を物語っていたはずなのに…出来すぎた話の裏にはきっと何かあるはずだ。こんな旅先のバザーにまで聞こえるように、国家の大事を吹聴する国はない。皇帝陛下の病状は、常に一部の者に留めおかれて密やかに行動を起こすものだ。なるほど、いよいよ業を煮やした父王が最終手段に訴えたのだろう。

(なんにせよ、帰るなりいきなり見知らぬ女に引き合わせられて、「お前の妃だ」なんて言われるのもたまらんし。これは…一度城に戻らないといけないようだな)

 踵を返したルウィンはさて、光太郎をどうしたものかと考えながら大木の根元を目指した。
 指先で何かを地面に書いてはルビアと笑いあう少年、ウルフラインに連れて行ってやると約束したのだが…どんな顔をするんだろうか?
 置いていくわけにはいかないが、連れて行くわけにもいかないだろう。
 なぜかルウィンは、光太郎に自分がガルハ帝国の次代後継者だと言うことを言い出せないでいた。
 それは恐らく…彼が【竜使い】で、自分が【竜騎士】の末裔だからだろう。
 【竜騎士】の末裔のみに伝わる伝承。
 それはルビアさえも知らない秘伝で…ガルハ国ではバーバレーン家、コウエリフェル国ではジュレイン家、レセフト国ではコウ家のみに受け継がれてきた伝承である。
 この巡り合わせも皮肉なもので…竜使いである光太郎を【殺すため】に存在する竜騎士の末裔であるルウィン、いや、ガルハ国のアスティア=シェア=バーバレーン。
 殺すために連れまわしているのか…考えあぐねても出てこない答えに翻弄しながら、旅を続ける自分たち。
 どこを目指しているのか…なんのために?
 たとえ国に連れ帰ったとしても彼が【竜使い】だとばれても困る。そちらの方が大問題になるだろう。
 王家の問題ともなれば【眠れぬ森】からあの方が御出座しする…とすればやはり、連れ帰るわけにはいかない。
 占者の目を騙せたとしても、恐らく母であり兄である、あの方の目だけは騙せない。
 木陰から自分の姿を認めたのだろう、ニコッと笑ってルビアを抱き締めて立ち上がる光太郎を眩しそうに見つめ返したルウィンは、これからどうしようかと頭を痛めていた。
 暑い地方を潤す吹きすぎる風が、一枚の紙片を舞わせてルウィンの足許に落としていった。

第一章.特訓!14  -遠くをめざして旅をしよう-

 仲間に弄ばれて…もとい、戻ってくるよう諭されて、それを言い包めて戻ってきたデュアルを待っていたのは、眠ってるの?と聞きたくなるほど細い目をしたリジュの深刻な眼差しだった。

「最初っから言えばいいのにさ。これだからレジスタンスは手に負えないねぇ」

 全くもって興味のなさそうな口調で欠伸を噛み殺すふざけたピエロに、コウエリフェルの王宮竜騎士団の団長であるリジュはこめかみに痛みを感じながら溜め息をついた。
 深刻な表情をしたリジュはその手にレジスタンスから届けられたと見受けられる書状のような物を持っていて、これからすぐに地下にある彼らのアジトに来るように…と書かれた文章に困り果てていたのだ。どんな時でも旅道化と行動を共にしなくてはならないリジュは、彼の不在に慌てていた…ちょうどそこに件の道化師がご帰還召されたと言うわけだ。
 宿屋を出る時には月は中空から幾分か傾いでいたし、家に灯る明かりも少なかったことから、今が真夜中であることは嫌でも判る。そんな夜半過ぎに、彼らは汚水が垂れ流しになっている地下道を松明の明かりだけを頼りに進んでいた。

「何があるんだろうねぇ?」

 水滴が天井から落ちて脇を流れる汚水に跳ねる音が響いて、反響する壁に手をつきながら松明を翳して進むリジュは、先ほどからうるさいぐらいに良く喋るピエロを胡乱な目付きで振り返った。

「なんでも、珍しい客が来るんだそうだ。俺たちに会いたいと言っているらしい」

 口調はきわめて冷静。
 リジュはいつの間にかデュアルに免疫力をつけていたらしい。

「お客さん?」

 目を丸くするピエロに肩を竦めたリジュは歩行を再開する。

「ねーねー、それってやっぱコウエリフェルのお役人さんかなぁ?それとも、全く予想外の人物だったり?まあ、いずれにしろここにいるってことがバレてるってのは確かだねー」

 続けざまに口を開いて言いたいことだけを言ったデュアルは肩を竦めると、気のない口笛なんかを吹きながら竜騎士団の団長の後を追った。
 始めの頃、まだ小さかった【紅の牙】と名乗るレジスタンスたちのアジトは、下水の流れ込む地下水路の、遠い昔にここを建設した人々が使っていたのだろう、朽ちた仮眠所を使用していた。それを増築したり改築したりと、長い時間をかけてどんどん拡張していった為に、ウルフラインの裏の顔のように何時の間にか地下都市として構築されていた。
 リジュが松明の明かりを人目につきにくい場所にある壁に取り付けられた鉄製の火消し具に押し込むと、デュアルは訝しげな顔をしたが、納得がいったのか何も言わなかった。
 リジュが灯火を消したのはそこからが地下都市の入り口となっていたからだ。
 都市の入り口、瑣末な鉄組みの梯子を下に降りると、いきなり開けた広場に出る。そこが中央通りになっていて、八方に道が別れていた。
 皮肉なことに、彼らの主である【紅の牙】の頭領カインのいる館は、ウルフライン城の地下の真下になっていた。

「こんなに人がいるのに、どうしてウルフライン王は取り締まろうとしないんだろうね?」

 デュアルが物珍しそうにキョロキョロと辺りを見渡しながら気のない調子で訝ると、先を進んでいたリジュが肩を竦めてそれに答えた。

「彼らも丸っきりバカと言うわけではない。ダミーや囮の扉に騙されて、何人もの兵士が命を落としたらしい。探索の手は当の昔に諦めたのだろう」

「ふーん。たかが子供の集まり。されど子供の集まりねぇ…痛いしっぺ返しが来なきゃいいけど」

 さほど心配もしていないくせに、面白そうにそう言うとデュアルはもう一度欠伸を噛み殺した。
 デュアルはリジュに伴われなければこの場所を知ることはなかったのだ。リジュ自身でさえ書状を見なければこの場所を知ることはなかっただろう。自分たちが通されたあの場所が、本来はダミーの部屋であることに、ここに来て初めて気付いたといった具合だ。
 漆黒の闇をともす松明の明かりが、まるでモグラにでもなったような錯覚を起こすあの暗い通路を抜けた町を、まるで真昼のように明るくしていた。明り取りの空気は常に供給される仕組みになっているのか、大きな機械仕掛けの扇風機のような物が天井で回っていて、デュアルは初めて見る巨大な物体に目を丸くこそしたがあまり興味はないようだった。
 町は広かった。
 普通の町と言っても過言ではない広大さに、ピエロはここに来ればもうちょっと儲けられるかもね、と道化師団【クラウン】の総帥の顔を思い出して小さく笑った。
 上の町とは裏腹に、おかしなことに、地下都市の連中の顔は明るかった。そこかしこで呼び込みの威勢のいい掛け声がしたかと思うと、子供たちがハシャギながら駆けて行く。どこにでもある町の風景だが、ウルフラインの首都アセンハラでは既に見なくなってから久しい光景である。
 …と言うよりもむしろ、この時間帯に子供が無邪気に走り回っているのは大問題なのだが。そう言ってしまうと、四六時中何かしらの露店が建ち並んでいること自体が、この町の異様さを物語っているとも言える。まるで眠らない町だ。
 夜半をもう随分と過ぎていると言うのに暗夜の町の住人たちは誰もが元気だった。長らく日の光を浴びていないと判るのは、透けるように白い肌をしていると言うだけで、それだって地上に仕出しに行くのだろう露店の主などにいたっては、太陽に見事に焼けている。年老いた者、まだ幼い子供を除けば、皆が皆健康的な肌を持っている。
 八方の別れた一番端の露店の建ち並ぶ通路を人込みを避けながら進むと暫くして、リジュは一軒の3階建ての家の前で立ち止まった。ゆっくりと後方から追いついたデュアルが腰に手を当てると、大層な門構えの屋敷を見上げて眉をヒョイッと上げて見せる。

「ここなの?なんとまぁ、随分とご立派なことで…」

「いや、この屋敷を入って中庭に行く。そこにある井戸に入ってさらに真っ直ぐ進む…らしい」

「らしい…って。はぁ、まだ歩かなきゃならないの?もう、ヘトヘトだよ~」

 なんか、帰りたくなって来たんですけども…とブツブツ悪態を吐きながら首を左右に振ってガックシと項垂れたデュアルを促して、苦笑したリジュは大きな扉に下がるノッカーを勢い良くガツンガツンと鳴らしてから問答無用でドアを開けて入り込んでしまった。

「団長さん…結構アクティブになったじゃん。惚れ直しそうよ」

 趣味の悪い冗談を言って腐るデュアルを無視して、やけに無用心な屋敷へと潜入した。
 屋敷の内部は思ったほど広くはなく、正面にある階段の左右にはファタルの御使いだと称される有翼の女神像が建立されていた。

「ふーん、趣味だけは良さげだねぇ」

 そう言ってデュアルが女神像に触れた。

「あ!このバカ…ッ」

 リジュがハッとした時には既に遅く、ゴウッ…と風を切って飛んできた鋭利な鎌がデュアルに直撃した!…が、陽気なピエロは一瞬早く跳躍していて、その左右にゴウンゴウンと揺れる鎌の上に面倒臭そうに座って頬杖などをついていた。

「やっぱ、趣味がいいね。このお屋敷」

「降りて来い。行くぞ」

 小さく息をついてから気を取り直したリジュはそう言うと、既にスタスタと歩き出していた。

「あ、待ってよ~」

 大鎌の上からヒョイッと飛び降りたデュアルはサッサと中庭を目指すリジュを追いかけて、その後、あの大鎌はまた元の位置に戻る仕組みになっているのか確認したかったのだが、止む無く諦めて奇妙なエントランスを後にした。

 随分と進んだ一行が漸くカインの居住区であるアジトに辿り着いた時には、デュアルは眠気も頂点に来ていたのか、胡乱な淀んだ双眸で暗い室内を見渡した。石造りの室内は寒々としていて、地下都市にあるような活気は見受けられなかった。裏寂れた場所は彼らのボスの根城と呼ぶにはあまりにもお粗末で、墓場と呼んだほうがお似合いの陰気臭さだった。
 だが、上階にあるウルフライン城が給水として引いている井戸があって、地下水脈が豊富なことを物語るように石で囲んだ貯水場は並々と清らかな水を湛えている。
 つまり、ここはちょうど調理場の下に位置するらしい。
 剥き出しの岩に背を預けるようにして腕を組むリジュは、先刻、最初ここに来た時に道案内をしていた少女に言い渡されて瞑目して時間を過ごしていた。その間も、客人とは何者なのか、どう言った用件なのかと言った疑問をあれこれと推理しているようだ。
 一方、デュアルはそんな風に静かに待つことほど退屈なものはないと考えている彼らしく、ブラブラと歩き回っていたが所詮狭い地下室のようなものだ。すぐにやることがなくなって貯水場の岩に凭れながら欠伸を噛み殺した。
 昨夜から殆ど寝ていないのはリジュも一緒だが、忍耐力のとことんないお気楽極楽の旅道化としては、このままクラウンに帰ったほうが追っ手がかかって楽しいかもしれないと、そんな物騒なことを考えていた。
 と。
 何かの気配を感じてリジュを見たが、彼は何も感じなかったのか、相変わらず瞑目して何事かを考えているようだった。訝しみながら首を傾げていたデュアルが何度目かの欠伸をしながらふと、貯水池に目線を落とした時だった。不意に彼の行動が止まって、欠伸を仕掛けたままでジッと池を見下ろしている。

「…?」

 唐突に賑やかだったピエロが大人しくなったことに異変を感じたのか、リジュは双眸を開くと興味津々と言った感じで池を覗き込む派手な衣装を見つけて声をかけた。

「どうした…」

「ねえ、団長さん。人間が浮いてくるよ」

「は?何をバカなことを…」

 言いかけて、デュアルの傍らまで来て池を覗き込んだリジュもやはり、唐突に動きを止めて、食い入るように池を凝視してしまった。
 水面がゆらりと揺れる。
 深淵のように深い…わけがないはずの貯水池の遥か下方から、純白のローブをユラリと漂わせた何者かが浮き上がって来ようとしていたのだ。始め小さかったその姿はグングンと大きくなると、身体中から水滴を滴らせて水面に浮き上がり、不意に驚愕に目を見開いているリジュと訝しそうに眉を寄せるデュアルの目の前で水面に立ち上がったのだ。
 まるで平然とした足取りで水面を優雅に渡りきったその時には、既に純白のローブを滴らせていた水滴はものの見事に消えていた。まるで何もなかったかのように音もなく岩場から舞い降りた優雅な人物は、目深にフードを被ったままで彼らを無視して奥に続く通路をゆっくりと歩いていたが、闖入者の来訪を知ったのか、奥から姿を現わした『紅の牙』の頭領に気付くとその場で立ち止まった。

「これはようこそ。コウエリフェルの」

「無駄口は結構です。用件は手短に」

 凛と澄んだ声音はこのような陰気地味た暗い地下洞窟のような場所ではなく、気品溢れる地上の静謐とした神殿にこそ似つかわしいとリジュが思ったとき、不意に黙り込んでいたデュアルがあっけらかんと口を開いたのだ。

「あれぇ?その声はファルちゃんじゃない?」

 ファルと名指しされた純白のローブの人物は一瞬、僅かに肩を揺らしたように見えたが、フードの裾から覗く形の良い綺麗な口許が小さく笑みを象るのをカインは見逃さなかった。

「…わたくしの声を覚えておいでだとは。さすがデュアルさまと言っておきましょう」

 まるで地下の瘴気にやられるのを疎んでいるように、この綺麗な客人は常に純白のローブを着て、フードの下にそのかんばせを隠していた。下賎の輩に見せる為にある顔ではないとでも言うような客人の態度にはムッとすることもあるカインだが、正規軍と唯一戦える強国の主が遣わした高貴な使者である。その態度を咎めて諍うわけにはいかないのだ。
 その高貴な使者が、今日はこともあろうか、滅多に見せない花のかんばせを惜し気もなく瘴気の元に晒したのだ。カインが驚かないはずがない。

「やっぱり~。ファルちゃん、元気そうだねぇ」

「これは…ファルレシアさま」

 慌てたように片膝を付く古式に則った騎士の礼をしながら驚いたような呆気に取られた表情をするリジュに、フードを肩に払ったコウエリフェル国最高神官であるファルレシア=ストーンは、腰までもある豊かな流れ落ちる蜂蜜の滝のような黄金の絹糸を模した髪を惜し気もなく晒し、奇跡が彫刻を人間に戻したかのような整った女神の顔立ちでゆったりと、神々しく微笑んだ。

「団長さまもご健在で何よりでございます。どうぞ、面を上げてくださいませ」

 雪白の額に揺れる涙型の水晶が下がる額飾りは大神官の証であり、それはとてもよく、この女神とも見紛うばかりの美しいファルレシアに似合っていた。
 春の陽光のように穏やかな笑みを絶やさない口許は、天然色素が淡い桜色で、一目見た者の心を奪わざるを得ない麗しさだった。彼を見たさに毎日信者がバラシャティ神殿に詰め掛けるほどなのだ。この朴訥としたリジュですら、あまりの神々しさに畏怖を感じ、近寄りがたい存在だと認識し尊敬しているほどだった。

「ファルレシアさまがなぜこの様な所に…?」

「決まってるでしょ?ウルフラインへの内通者だよ」

 一概には信じられない事態にリジュが動転しても仕方ないのだが、あっさりと秘密をバラす普段通りで怯みもしないデュアルにファルレシアはクスクスと笑った。
 どうなっているんだと聞きたいのはリジュばかりでなくカインもだった。まるで取り残されたように事の成り行きを見守る彼の前で、デュアルは腰に手を当てて呆れたような溜め息をついた。

「随分と信用されていないんだねぇ。あのセイラン皇子が大事~にしているファルちゃんを偵察に寄越すなんてさー」

「信用していないはずなどありません」

 よく晴れた空を切り取って水晶に閉じ込めて凍らせたような双眸を僅かに細めて、ファルレシアは不機嫌そうに唇を突き出してフンッと外方向く旅道化を見つめて言葉を続けた。

「あのお方はそれだけ【竜使い】さまの御出座しを心から望んでおいでなのです」

「竜使いねぇ…ふーん」

 殺してしまえと嘯く皇子の、あのニヤけた甘い顔を思い出しながら、デュアルは舌を出して胸焼けを回避しようとした。

「それで?どんな御用を仰せつかって参られたの?」

 わざとらしく丁寧そうに、丁寧ではなくあくまで丁寧そうに尋ねるデュアルに、ファルレシアは双眸を閉じてクスクスと笑う。

「此度は殿下の御言い付けで参ったのではありません。わたくしが個人的に、デュアルさまと団長さまに無駄をして欲しくないから参ったのでございます」

「…と言うことはまさか」

 デュアルが嫌そうな顔をして傍らに立つリジュを見たのと、眠っているように細い目を訝しそうにさらに細めているリジュが目線を合わせたのはほぼ同時だった。
 派手なピエロが溜め息をつく。

「竜使いさまはどうやらこちらには御出でにならないご様子です。旅路を改められませ」

 ニッコリと微笑んだファルレシアの痛恨の一言は彼らの無駄な徒労を慰めてもくれなかった。
 結局、デュアルとリジュは振り出しに戻ることになった。
 いずれまたの再見を勝手に誓って、彼らは呆気に取られている『紅の牙』の頭領に別れを告げるとサッサと地下都市を後にしたのだった。

「…どう言うことだ?」

 彼らの去った地下洞窟で、貯水池の岩に腰掛けて水面に片足を浸すファルレシアに、困惑した面持ちでカインが口を開いた。

「聞いたままですよ」

 長い黄金の髪が冷たい地下水を湛える池に零れ落ちて、松明の明かりをきらきらと反射していた。

「アンタはここに舞い降りるだろう竜使いを狙って来てたんだろうがよ」

 素っ気無い態度にムッとしながら唇を尖らせると、長い髪を煩わしそうに肩に払うファルレシアは冷やかにそんな幼いレジスタンスのボスを見遣って微笑んだ。

「時が延びたと言うだけです。いずれこちらに参られることでしょう」

 ふと、本来なら見えることなどけしてない頭上の井戸の入り口を振り仰いで、ファルレシアは囁くように呟いた。

「…なぜ、それをヤツらに教えなかったんだ?」

「…さて?」

 クスッと微笑んだファルレシアは不意に水が滴る白く艶かしい足を水面から引き上げると、足を組むようにして岩場に座りなおした。麗しいコウエリフェルの大神官は、同時に邪悪な面も持ち合わせている、創造主が創りたもうた最高傑作の【人間】だった。

「さあ、よくできた貴方にはご褒美が必要です…」

 うっとりと微笑む神官の表情に吸い込まれるようにして、カインはその足許にフラフラと赴くと跪き、レジスタンスを束ねる屈強なる彼らの頭領は、何かに惑うようにその高貴で淫らな白い足に口唇を寄せた。
 ゴツゴツとした岩を背中に感じながら、覆い被さってくる若い肉体に両腕を這わせて、ファルレシアは天上で灯りを燈すウルフラインの井戸を睨みつけていた。

第一章.特訓!13  -遠くをめざして旅をしよう-

 潮風を受けて帆を張る美しい海賊船、その名も【女神の涙号】は闇夜に白い波頭を蹴立てて快走していた。
 宵も幾分か過ぎ、しっとりと肌に馴染む潮風を受けて、どうしたことか、その夜の晩餐は甲板でしようと、海賊船の美しい名とは裏腹の豪胆な彼らの主が突発的に言い出して、急場の食卓が手下たちの手引きで恙無く用意されることになった。
 そんな甲板で、海賊どもの主であるレッシュ=ノート=バートンは傍らに美しい異国の姫を侍らせてデッキチェアに長々と寝そべっていた。ウェストに回された逞しい腕を意識することもなく、鳥人族という稀有な種族が治めるバイオルガン国の第5皇女シュメラは退屈そうに玻璃の杯を弄びながら、レッシュに気だるげに身体を預けて唇を突き出している。
 そして、そんな風に怠惰な時間を過ごす彼らの前に、肩で息をしながら両手に持っていた食器を仮設のテーブルに投げ出すようにドンッと置いた下っ端海賊、そう、御崎彰がムッとした顔で立ちはだかった…からと言ってそれがどうしたと言われそうだが、現にそんな目付きでシュメラは見ていたが、レッシュは呑気に欠伸を噛み殺しながら肩を竦めた。

「どうした?」

 海賊の一員としてまずは下っ端の仕事、給仕に勤しむよう言いつけられた彰は「別に」と不貞腐れてそう言ったが、傍らにお目付けとしてついて回っているヒースがそんなチビ海賊の頭をグーで殴った。

『イテッ!』

 涙目で睨みながら頭を両手で抱える彰に、レッシュはプッと笑ってテーブルの上にある肉を抓んで口に放った。

「レッシュ、あんたに頼みがある!」

 数日前、不意に真摯な双眸をした彰が言った台詞を思い出して、レッシュはまた愉快になった。
 真剣な目付きをして何を言い出すのかと思ったら、この何処か遠くから来た異世界の旅人は、自分を海賊にしてくれと言い出したのだ。モチロン、デッキチェアに長く寝そべっていたレッシュは飲みかけていた酒を噴き出し、傍らを通りかけていたヒースはスッ転び、炎豪と恐れられる海賊のお頭の傍らに座っていたシュメラは目を丸くした。遠くの方で仲間の海賊たちはハラハラと結構気に入っている彰に天誅が下らないことを祈っていた。
 海賊…と言うのはあくまでも仮のことで、本当は剣の扱い方を教えてくれと言い出した彰の表情は、どう見ても真剣そのもので、俄かに笑いがこみ上げてきたレッシュたちは、すぐに腹を抱えて大笑いしたのだ。

「な、なんで笑う!?俺、ヘンなこと言ったか!?」

 ムッとした彰に、レッシュは「いやいや…」と頭を左右に振って何か言おうとしたが、それよりも早くシュメラが口を開いていた。

「あんた、馬鹿じゃないの?そんな生っちろい腕で何ができるって言うのよ。そこらの女よりもひ弱そうじゃない」

 そう言って鼻先で笑う。
 辛辣な台詞もシュメラならではで、これで反撃した海賊の連中の何人かは鼻っ柱を事実上へし折られた。
 スレイブに並ぶ戦闘部族のパイムルレイールの第5皇女である、並み居る海賊などよりもはるかに腕は立つ。それをヒースに聞いていた彰は、綺麗な顔に小生意気そうな表情を浮かべているシュメラをムッとしたように見たが、今はそれどころではないのだ。

「俺に剣の使い方を教えてくれ」

 もう一度同じことを言った彰に、まだ判らないの?とでも言いたそうに鼻先で笑って肩を竦めるシュメラの頭を軽く押しやって、レッシュはクックッと笑いながら不貞腐れたように唇を尖らせている少年を真っ向から凝視した。

「いいだろう。しかし、この船で剣技を学ぶと言うことは即ち海賊になる、と言うことだ。その辺はもちろん、心得ているんだよな?」

「え?…わ、かった」

 少しギョッとしたように一瞬怯んだ彰はしかし、それでも決意したようにクッと唇を噛み締めてレッシュの灰色の隻眼を睨みつけた。大した度胸だと感心しながらも、笑い出したいのを必死で堪えている根性の悪い海賊のボスは、どこまで持つのか、その度胸を買ってみるのも悪くないと考えた。

「よかろう。じゃあ、まずは下っ端から頑張るんだな。剣技は俺が見て、いいだろうと合格点が出た時に教えてやる。下働きにせいぜい励むといい」

 クックッと笑うレッシュを呆れたように見上げていたシュメラはしかし、肩を竦めると大きなパッチリとした蒼い双眸を挑発的に細めてクスッと笑った。

「その時は私が教えてあげるわ。いいわよね、レッシュ?」

 厄介なことになりそうだな…とは思うものの、なぜシュメラがそこまで彰を目の敵にするのかいまいちよく判らなかったが、パイムルレイールの誉れ高いシュメラに扱かれるなら腕も上達するだろうと曖昧に返事を濁した。そんなことよりも、なぜ彰が突然、剣技を学びたいなどと言い出したのか、そのことの方が気になっていた。
 ブツブツと悪態をつきながらヒースに促されて立ち去る彰の後姿を見送りながら、レッシュは今更ながら【ファタルの竜使い】と呼ばれる異世界人の不可思議さに惹かれていた。
 なぜこんなにも惹かれるのか…炎豪の海賊には理解し難い感情が渦巻いている。
 闇夜に吹く海よりの風は、なぜか焦燥感を駆り立てて、心許無い不安感を募らせる。そんな意味不明の感情を紛らわせるように、不思議そうな顔をするシュメラを無視して玻璃の杯を満たす酒を豪快に呷った。

 【疾風】と呼ばれる海賊ゲイルの船には医者やコックも乗っていた。
 その事実に驚きながらも、彰は必死で仰せ付かった皿洗いに奮闘している。
 バイトで皿洗いをしたことはあるものの、こんな風に豪快な汚れ物を洗ったのは初めてだ。どんな食べ方をしているんだと首を傾げたくなった。

「おい、シア。そっちが済んだら飯を食え」

「う、うぃッス!」

 ゴシゴシと皿を磨き上げていた彰は、ボロの椅子に腰掛けて奇妙な巻き物を読みながら葉巻を咥えたオヤジが、自分の向かいにある椅子を顎で示しながら睨み据えてくると元気よく頷いて、さらに気合いを入れて皿洗いに精を出した。
 シア…と言うのは、彼の故郷の古い言葉で【辿り着いたもの】と言う意味があるらしい。彰と言う発音を呼べないでいた老齢のコックは、咳き込むようにして彼のことをシアと呼んだのだ。
 以来、彰もそう呼ばれることをそれほど嫌だとは思ってはいなかった。
 甲板掃除も洗濯も見張りもどれも骨が折れるし、皿洗いほどきつい重労働もないのだが、彰はここにいる間がどんな時よりも好きだった。
 老齢なコックは寡黙で口数は少ないし、極めて厳つい顔をしている。取っ付き難いことこの上ないと言った感じに船員たちも結構恐れているようで、飯時以外は顔を覗かせる者は皆無に等しかった。それも、恐らくは独特な地方の暮らしをしてきたコックが言葉をうまく操れないことに端を発しているのだろうが、唯一例外である彰はお構いなしに食堂によく顔を覗かせている。
 そして決まって皿洗いの任を仰せ付かるのだ。

「よっし、終わり!…さて、ご飯♪」

 喜び勇んでコックの前の席を陣取ると、口当たりのさっぱりした飲み物を飲んだ。
 老コックの作る料理はどれも逸品で、ことさら肉じゃがと言ったらおふくろの味そのものだ。【お袋の味】は万国共通のように、異世界でも共通のようだと彰は酷く感心していた。
 無愛想で朴訥としたコックはニコリともしないが、レッシュが一人で平らげる逸品料理を、わざわざ彰のために分けて取って置いてくれたりする。それを彼が気付いたのは、下っ端海賊になって2日目のことだった。
 その場所がなんであるのか、まだゲイルに落ちてきたばかりの頃、彰は船内を隈なく探検…もとい、散策していた時に突然「皿洗いをしろッ」と怒鳴られたのが彼と年老いたコックとの出会いだった。
 すぐにヒースに見つかってレッシュの足元に戻されてしまったが、それ以来、いつか厨房に忍び込んでやろうと思っていた。美味しい匂いが鼻腔を擽り、ほんの束の間、料理上手だった光太郎を思い出せるからだ。

「飯を食ったら戻っていいぞ」

 単発の言葉でしかコミュニケーションが取れないコックに頷きながら、彰は木製のボウルにたっぷりと入っている肉じゃがもどきに同じく木製のスプーンを突っ込んで首を傾げた。

「いつも読んでる、本?なに、それ?」

「あん?これか?これはな、ワシの故郷の伝承が書いてある物語だ」

「物語ってことは…小説?」

 あむあむとほんのり甘いジャガイモもどきに舌鼓を打って、最高に至福のときを味わいながら首を傾げる彰に、コックは白髪の混じるモジャモジャの眉をヒョイッと上げて手にした巻き物に視線を落とした。

「小説か…それは違うぞ。これは偉大なるスー=イー=アが書いたブルーオーブ伝説だ」

 なぜか彰とは良く喋るコックは、いつものことながら故郷の偉大なる賢者を称えながら、彰が気になって仕方がない単語を口にする。

「ブルーオーブ?」

「うむ。今は亡きブルーランド国の秘宝だ」

 木のスプーンを弄びながら、彰は恐る恐る、しかしそうとは気取られないように素知らぬ顔でさらに尋ねてみたが、老コックはそれ以上詳しいことは教えてくれない。
 チェッと舌打ちして木のボウルを両手で掴むと、最後のスープを勢いよく咽喉に流し込んだ。味わって食べるためにある逸品料理は、海賊どもにかかると散々なモノになる…と、老コックが嘆いているかどうかは謎だが、少なからず頭を抱える理由にはなるだろう。
 彰が剣術を習おうと思ったのにはわけがあった。
 この船はいずれ陸地に停泊するのだということを、下っ端海賊の連中が実しやかに噂していたのだ。それも緑豊かな商業の町らしい。中立国ということもあって内乱が勃発している厄介な国だが、寄航するには物資の供給にちょうどいいのだと老コックも言っていた。
 その港で…脱走する。
 その為にも、剣術は必ず必要だろうと思ったのだ。
 人目の多い港でまさか、剣を揮って捕まえるようなことはないだろうが…チャンスは僅かに一回きり。それを逃してしまえばどこに連れて行かれるのか判ったもんじゃない。
 美味しい飲料水に唇を湿らせながら、彰はこの静かな場所で考えていた。
 港に着いて脱走に成功したら、まずはこの世界の地図を手に入れよう。そうして、いなくなってしまった最愛の幼馴染みを救出して、神秘の秘宝だと呼ばれるブルーオーブを見つけ出すのだ。
 自分のように、ワケが判らないまでもなんとかまともそうな船に拾われたのならまだしも、もしヘンな連中に捕まっていたらどうしよう…
 彰を悩ませている最大の原因はそれだった。
 一見、酷く頼りなさそうに見えるが性格はバリバリ世界一の冒険野郎だった父親の血を見事に受け継いでいるせいか、言い出したらきかないところもある。そのくせ、寂しがり屋で涙脆いところがあって、泣いていなければいいのだが。
 必ず助け出してやる。
 そして、元の世界に戻るためのキーになっているだろう、神秘の秘宝を一緒に見つけ出そう。
 それは気が遠くなりそうな冒険かもしれないし、光太郎を見つけ出すことだって酷く困難な旅になるかもしれない。だが、何も考えずに行動するよりも、希望がある方がずいぶんと気楽になれる。
 きっと光太郎はこの世界の何処かにいる。
 長い付き合いの幼馴染みの勘だ、そんなに容易く間違うはずがない。
 自分と同じように、唯一、この世界で元の世界を知るただ独りの仲間…彰は光太郎がいれば強くなれる。
 そんな風に考えていた。
 光太郎と一緒に元の世界に戻ろう、そのためにはきっといつか、ブルーオーブと呼ばれる神秘の秘宝が必要となってくるはずだ。

 彰がここを訪れる理由は、美味しい料理と老コックの零れ話。
 そして…
 賢い彰がここを訪れる本当の理由は、どこかにあると言われる神秘の秘宝の僅かな情報。
 どこかにあったと言われる大国ブルーランドの国宝で、どんな姿をしているのか、それがなんであるのか、実は全くと言っていいほど謎に満ちた神秘の秘宝ブルーオーブ。
 もしかしたら…その秘宝を手に入れれば元の世界に戻れるのでは?
 彰が期待したとしても、無理のない話だった。

第一章.特訓!12  -遠くをめざして旅をしよう-

 根気良く説明を続けたルウィンが勝利したのはそれから暫く後のことで、片言の共通語と懸命に戦っていた光太郎が既にダウンしてベッドに大の字になって倒れ込んでいるその傍らで、小さな深紅の飛竜はパカッと大きく口を開いて欠伸をしている。
 光太郎が安らかな寝息を立て始めた頃に、ハイレーンの若い賞金稼ぎも壁に背を預けて、片膝を抱えながら双眸を閉じて息を潜めていた。
 中空に月が集う頃にはこの小さな村の住人は既に眠りの中で、星のざわめきさえも聞こえてきそうな夜のしじまにカークーの微かな息遣いが虫の音に混じって時折洩れ聞こえてくる。
 ルウィンの鋭敏な聴覚はそれら全てを正確に捕らえ、自然の紡ぐささやかな物音すらも何気なく聞いているほどだ。彼らの種族は魔と交わることによって得たものも少なくはないが、その分、それによって大切なものを見失ってしまったことも、また事実であった。
 夜の闇は永らくの友であり、また憎むべき仇でもある。
 双眸を閉じたルウィンが何事を思い、その静かな夜更けに思考を巡らせているのか、彼の小さな相棒には理解することができないでいた。
 小さな深紅の飛竜は傍らで寝息を立てる少年を起こさないようにと、左右のベッドに挟まれた床に静かに舞い降りてペタリと腰を降ろすと、その心の奥底までも見抜いてしまいそうなエメラルドの大きな双眸で、黒髪の少年の背中越しに見える窓から覗く月を見上げていた。
 月の前を雲が通り過ぎようとして、影絵のように浮かび上がる村や牧場に一瞬、天然のストロボが点滅すると、ふと、ルウィンの神秘的な青紫の双眸が姿を現して月を睨みつけた。

「来た」

 形の良い唇が微かに動いて低音のフレーズを紡ぐと、小さな飛竜はこの時を待っていたのだと言わんばかりの素早さでスクッと立ち上がって頷いてみせる。

《驚いたのね。こんな小さな村にシーギーが現れるなんて、何かの間違いなの。それを確かめるのね!》

 呟くように言った飛竜の傍らに降り立った長身の青年は、鞘に銀色の鎖が何かを封じ込めようとでもするかのように巻き付いた剣を片手で掴んで腰に下げながら、そんなルビアを見下ろした。

「お前はここにいてコータローを見張ってろ」

《…は?何を言ってるのね、ルーちゃん。護っていろの間違いなのね》

「いいや」

 ルウィンは人の悪い笑みをニヤリと浮かべると鬱陶しそうに銀色の前髪を掻き上げながら、肩を竦めて寝息を立てる光太郎を見下ろした。

「言葉どおりさ。どーせコイツのことだ、なんでも見たがって、目が覚めたら来たがるだろうからな。身動きしないように見張ってろ」

《…ふーん。先手必勝ってワケなのね》

 ルビアが呆れたように溜め息をつくと、ルウィンは肩を竦めて笑うだけで、何も言わずに部屋から出て行ってしまった。
 その長身の後姿を見送りながら。

《でもその約束が守られるかどうかは、約束できないのね…》

 ルビアが呟くように洩らしたその背後で、ガバッと起き上がった光太郎が口許を拭いながらキョロキョロと辺りを見回した。

『や、ヤバイよ!眠っちゃってた!!…って、あれ?ルビア、ルウィンは?…もしかして』

《その〝もしかして〟が正しいのね。ルーちゃんはシーギー退治に出掛けてしまったの》

『ええーッ!?…ってことは、足手纏いだから俺は置いてけぼりってこと~?』

 ガクッとベッドの上で両手を突いて項垂れる光太郎に、ひらりっと宙に舞い上がったルビアは《そう言うことなのね》と言って頷きながら彼の目の前に舞い降りた。

『…ねえ、ルビア。今から追いかけたら、やっぱりルウィンは怒るかな?』

 顔を伏せたままで恐る恐る尋ねる光太郎に、ルビアは無害な小動物のようにキュピンと大きなエメラルドの双眸を輝かせて覗き込むと、勿体ぶって大きく頷いてみせる。

『そんなー』

 伏せていた顔をガバッと上げて、今にも泣き出しそうな仕種でウルウルと涙ぐむ光太郎の縋るようなその眼差しに、あっさりと降参して白旗を振るルビアに約束を反故にしたことによるルウィンへの謝罪の気持ちなど微塵もない。

《…でも、ルビアがいなかったらピンチかもしれないのね》

 エメラルドの双眸で覗き込みながら小悪魔のように唆して追い討ちをかけるルビアに、まんまと騙された光太郎はハッとその瞳を食い入るように見つめていたが、ギュッと両目を閉じると、それから決意したように双眸を開いた。

『やっぱり追いかける!うん!ルウィンに何かあった後じゃ、絶対に後悔してしまうと思うから。だったら、ルウィンに怒られた方が絶対にいいに決まってる!』

 俺が怒られるから…そう言って膝立ちでグッと拳を握り締める光太郎が宣言するように言うと、ルビアはシメシメ…と思いながら尻尾をゆっくりと振ってにっこりと微笑んだ。
 結局、怒られる羽目になるのは二人なのだが、迂闊なルビアはしてやったりの顔で光太郎と共に部屋を後にするのだった。

 そんな迂闊なルビアの思惑になどちっとも気付いていないルウィンは、風が運ぶ、自然臭とは違う何か嫌な匂いに眉を寄せた。
 おおかた、シーギーの鋭い爪に殺られたカークーの断末魔が風に乗って瘴気を撒き散らしているのだろう。ルウィンは風に前髪を揺らして、中空にある月を見上げた。
 夜の農道は蛇が出そうで怖い…が、それをルウィンが恐れるかと言うともちろんそんなはずがあるわけもなく、スタスタと呑気に歩いて気配のある場所まで赴いている。そんなルウィンがさほど慌てた様子がないのには理由があった。
 シーギーは狩りをするとその場で喰らう習性があり、それは賞金稼ぎであるならば誰もが知っていることだ。しかし、月夜のシーギーは特に凶暴性を増していて、なんにせよ何かを犠牲に、この場合はカークーを一羽でも犠牲にしておかないと賞金稼ぎと言えども身体の保障はないのだ。あくまでも、身体の保障であるが。

「ま、賞金稼ぎに保障もクソもないけどな…ん?」

 月光の下で砂利を蹴りながら歩くルウィンが唐突に立ち止まると、同時に何かが、その鼻先を掠めてドサリッと重い音を立てて農道に転がった。途端にムッとする死臭が鼻腔を掠め、うんざりしたように眉を寄せるルウィンは腰に下げた銀鎖の剣を鞘ごと抜いて片手に持った。次の瞬間、安っぽい牧場の木の柵を飛び越えて、凶悪な何かが月光の元にその姿を現した。
 低い、地を這うような唸り声が夜陰のしじまを切り裂いた。

「こりゃ、驚いた!本当にシーギーかよ。ちッ、安っぽい獲物だな」

 舌打ちして、今現在生きて行くために必要なのは即ち金で、その金になる魔物を金としてしか見ることができない荒んだルウィンは、片手に持った銀鎖の剣をくるりと回転させて柄と先端を親指で掌に挟むように持ち、両方の4本の指をキチンと揃えて前方に突き出した。
 月明かりの下、魔物は巨大な鎌を持つ両腕を振り上げて、真っ赤な複眼を血塗れたようにギラつかせながら、奇妙な構えのルウィンが真一文字に持っている銀鎖の剣をクルクルと回しながら何事かを呟き、その足許に素早く文様を描く様を、シーギーはこの突然現れた小さな獲物が何を始めたのだろうかと不思議そうに見下ろして首を傾げるような仕種をしていたが、すぐに真新しい、それも極上の獲物に歓喜の雄叫びを上げて対の鎌をガチガチと鳴り響かせた。ちょうどその時、ルウィンは足許に奇妙な文様を描き終え、小さく息をついてニコッと笑っていた。

「…風園を統べる沈黙の主よ!」

 瞬間、ゴウッと凄まじい風が舞い上がり、魔物は得体の知れない突風に戸惑ったように一歩後退した。

「彼の者は謳われし者。蒼古の館に棲まう嘆きの静謐を司り、永らく語らう者よ!その永劫の導で眼前に巣食う闇を吹き消せ!」

 詠唱に併せるようにルウィンを取り巻いて風が舞い上がり、怯んでいたシーギーが襲いかかろうと鎌爪を振り上げたが、金切り声を上げて立ち往生してしまう。ルウィンが描いた足許の文様は発光して魔法陣を創り上げ、風に石が孕むと襲いかかるシーギーを食い止める、術者を護る為の一種の防護壁のようなものを完成させていた。

「お前にはこれぐらいで充分だ。よっしゃ、銀鎖の剣!一丁お手並み拝見!!」

 ニッコリ笑っていたルウィンは途端に凶暴そうにニヤリッと笑うと、暗闇に光り輝く魔法陣の中央に片手に持ち替えた銀の鎖が巻きつく刀剣を鞘ごと力任せに突き立てた!
 その瞬間―――…
 その剣を中心に大地から光と風が混ざり合った突風が襲いかかる。突風は魔物の身体を包み込むと、眩い光で戒めた。苦痛の絶叫を上げる魔物を尻目に、次の行動を予測して地面に突き立てた剣を引き抜きながらも、終わったな…とルウィンは思っていた。シーギーのレベルならば、この程度の術法で充分なはずだった。

「ッ!?」

 不意に一瞬、月が雲の裏側に隠れた時だった。本来ならば木っ端微塵に砕け散って然るべきシーギーが、風の名残を孕んでゆらりと立っていたのだ。ザシュッ…と、ルウィンの反応が一瞬でも遅れていたらその身体を貫いたはずの鋭い鎌爪が地面に突き刺さる。気配を察したルウィンは反射的に後方に跳んで、地面に片膝をついて目の前の魔物を呆気に取られたように見ていた。

「なんてこった。マジかよ!?ったく、オレもとんだお人好しだぜ…ちッ!クソッ、仕方ねーな!」

 忌々しく舌打ちして立ち上がったルウィンは、身体中からブスブスと煙を燻らせて地面に突き刺さる鎌爪を引き抜くと咆哮を上げる魔物を睨み据えながら、銀の鎖が戒めのように巻き付いた鞘から僅かに発光している刀身を引き抜いて構えた。
 と。

『か、カマキリのお化けだよ、ルビア!』

《こんなシーギーは初めて見るのね!》

 後方から上がった2つの声にギョッとしたルウィンは恐る恐る先端の尖った耳を上下させて、絶対に確認しなくてはいけないと判っているのだが、振り返ることを躊躇ってしまった。

『す、凄く大きいよ、ルビア!どうしよう、ルウィンが危ないよッ』

 実際、ルビア自身も初めて見る魔物に動揺していたせいか、光太郎に返事を返せないでいた。
 こんな武器で大丈夫かな!?と、不安そうな異世界の言葉にルビアの動揺の思念が被さって、嫌でもルウィンは振り返らなければならなくなった。その隙がルウィンを窮地に追いやるかもしれない…などと言うことは、長年傍にいたルビアにはどうでもいいことなのだ。
 ルウィンに隙が生じることなどあるはずがないことを、長いこと傍にいたルビアがもちろん知らないわけがない。長年培われてきたルビアとルウィンの信頼のようなものだろう。

「おーまーえーらーなぁ…」

 身構えたままで振り返ったその先には、パタパタと飛んでいる深紅のちび竜と、農夫の誰かが腕力を鍛える為に気紛れで作ったのだろう、玩具のような銅剣を構えた光太郎が立っていてルウィンは軽い眩暈を覚えた。
 へっぴり腰では玩具の銅剣すらまともに扱えないだろう。

「ルビア!オレは見張っていろと言ったはずだ」

 鋭い鎌爪がルウィンに襲い掛かって光太郎はアッと息を呑んだが、銀髪の賞金稼ぎは耳障りな金属音を響かせてそれを受け止めた。

《えー…っと、注意はしたのね》

 ウソだな…と、ルウィンは確信しながら素早い術法の言葉を呟いた。
 ギシャァアアア…ッ!!と、凄まじい絶叫を上げて魔物が複眼を押さえてのた打ち回ると、ルウィンはさらに剣の先で虚空に魔法陣を描く。

「る、ルウィン!戦うする、僕も!」

 本当は恐ろしくて足を竦ませているくせに、光太郎は重いばかりで役に立たない銅剣を構えて威嚇している。足がガクガク震えているのは恐ろしさの為なのか、重さの為なのか…健気なその姿は傍らで呑気に飛んでいる深紅のちび竜にこそ見習わせたいものなのだが、そこまで考えていたらルウィンは思わず笑いたくなってしまった。

「その件は後だ。言い訳をきっちり聞いてやるから覚悟してろ。クソッ!…大気に連なる古記の主よ!」

 ルウィンの言葉に反応したように、中空に浮かび上がる魔法陣がボウッと白い炎を吹き上げた。
 虚空に浮かび上がった魔法陣はホロホロと燃えながら青白い光を放つと、突然周囲に巻き起こった風に氷の刃が交ざる。ルウィンはスッと構えた剣で燃え上がる魔法陣の中心部を刺し貫いた。

「今こそ真実を償う時が来た。出でよ!我が道標となれ!!」

 剣を取り巻いていた白い炎が一瞬黒く燃え上がり、ルウィンを取り巻いていた氷風が意思あるもののように魔物に襲いかかった。
 ギシャァアアアア…ッと村中に響き渡るような断末魔の悲鳴を上げた魔物は、全身を凍りつかせると途端にバラバラと崩れてその場で融けると、地面にそのまま吸収されてしまった。

「終了!」

 ヒュウ…ッと冷たい風が村を吹きすぎると、ルウィンは白い炎の名残を留めた剣を一振りして払うと、落ちていた銀鎖の巻きつく鞘を拾いながら銀の前髪がハラハラと零れる額に血管を浮かべて振り返った。と、呆然と一連の出来事を呆気に取られたように見ていた光太郎は、ハッと我に返ってバタバタと怒れるルウィンに駆け寄った。

「ルウィン!大丈夫!?傷は?どこか!?」

 興奮しているのか、文法がてんでバラバラではあるものの何を言いたいのかは理解できたし、心配そうに覗き込んでくるその黒い双眸を見ていると、ルウィンには怒る気が失せてしまった。彼は彼なりに恐ろしかっただろうに、必死で心配する姿はいっそ健気だ。

(今回はその健気な心意気に免じて許してやろう…が!)

 ムッとした仏頂面で見下ろしていたルウィンは、その胡乱な目付きのまま素知らぬ顔でパタパタと背中の翼を羽ばたかせているちび竜を睨んだ。

「ルビア…」

《ルーちゃん!》

 地獄の業火に焼かれた亡者のような低い唸り声に被さるようにして、ルビアが慌てたように思念の声で語りかける。

《あんなシーギーは初めて見たのね!トーンシェリルで倒れないシーギーはいないの》

 不安そうな面持ちで周囲を旋回する小さな飛竜を、凶暴そうな視線のままでジロリと横目で睨みながらルウィンは溜め息をついた。

「暗黒の瘴気がこんな村にまで垂れ流しになってるんだろう。今夜のシーギーは強かった」

《ハイ・ブラッヂスクラスのルーちゃんのトーンシェリルも効かないし、デアデュラジオも効かないなんてヘンなの!リーブルに弱いシーギーが!》

 まんまと話をはぐらかしたものの、しかしそれは、先ほど駆けつけたときから感じていた違和感であり、疑問でもあった。

「まあ、簡単に言えば〝レゼル・リアナ〟の出現で世界の均衡が崩れてきている…と言う、あのエセ予言者たちの言い分が正しい…ってことだろ」

『???』

 ポンポンと耳慣れない言葉ばかりが飛び交う会話に、必死でヒアリングしながら彼らを交互に見ている光太郎から役に立たなかった重い銅剣を受け取りながら、ルウィンは肩を竦めて見せた。

「案外、竜使いってのは魔族たちの魔力を強める存在なのかもしれないな。それを制御するのが神竜…?そうすると文献とはえらい違いになるワケなんだが、まあ、これはオレの考えでしかないんだけど。日頃姿を見せないスライムと言い、さっきのシーギーだ。厄介なことにならなきゃいいんだが…」

 月明かりを背にして見下ろしてくるルウィンの物言いたげな双眸に、光太郎は頬を真っ赤にして小首を傾げている。それでなくても人間にはない美しさを持つルウィンに見つめられているのだ、ただの極平凡な高校生である光太郎が動揺しないわけがない。

『?』

 首を傾げる光太郎の頭を小さく苦笑しながらルウィンはポンポンと軽く叩いて、思いつめたような面持ちのちび飛竜の首をムンズッと掴むと目の高さまで持ち上げて、驚くルビアの顔を覗き込みながら意地悪く双眸を細めた。

「さて、そんなこたどうでもいい。取り敢えずお前たちには話がある。まずは部屋に戻って、それからだな」

 荒削りの血溝が彫られた銅剣の腹でポンポンと肩を叩きながら悪魔のように笑うルウィンから、ルビアが必死で逃げ出そうとしたことは言うまでもないが、首を傾げたままで話の見えない光太郎が困惑のし通しだったことも、もちろん言うまでもなかった。

 こってり絞られた翌日、ムッツリとしたルビアとヘコんでいる光太郎を引き連れたルウィンは、どんより暗雲を漂わせている背後の2人を前にニコニコ笑っている賞金稼ぎに困惑した面持ちの村長ラーディと対面していた。既に旅支度は整っていて、長居は無用だと判断したルウィンが早朝の出立を希望したのだ。

「…そうでしたか。竜使いの出現で村の付近にも凶暴な魔物が出没するようになりましてな」

 村長は持病の頭痛が再発でもしたのか、こめかみを軽く押さえて懐から丸薬を取り出すと口に放り込んで苦笑した。

「竜使いなんか死んじゃえ!」

《竜使いさまになんてこと言うのね!》

 村長の背後から顔を覗かせた少年は顔を真っ赤にして怒鳴ったものの、ルビアの剣幕にギョッとして泣き出しそうな顔をして後ろに隠れてしまった。

「これこれ、ゾル」

「ルビア!」

 ルウィンと村長がそれぞれを窘めると、少年はモジモジと村長の背後で泣いているようだったが、光太郎に抱き締められているルビアはムッとして口先を尖らせると、ブツブツ言いながら外方向いて光太郎の腕に頬杖を突いた。

「…ったく、子供じゃないだろ」

 結婚までしてるくせに…とルウィンが呆れたのは言うまでもないが、村長は可愛い孫の柔らかな頭髪を撫でてやりながら、光太郎に抱き締められている大切な村を救ってくれた賞金稼ぎのお供に頭を下げた。

「この通りですじゃ。どうか、許してやってくだされ。この子の両親は街に行く途中で魔物に襲われてしもうてな…とうとう帰ってこんかった。言葉が悪いのは大目に見てやってくだされ」

 しんみりと話すラーディに、光太郎は眉を寄せて悲しそうな顔をしたが、ルビアは《だからってどうして竜使いさまが関係あるのね》とブツブツとまだ悪態をついている。悪態は吐いているがそれ以上は何も言わないところを見ると、よほどルウィンに喰らった4時間説教が痛かったのだろう。

(レゼル・リアナ?…またその単語だ。そう言えば、確か初めて会ったときもルウィンがそんな単語を言ってなかったっけ?)

 光太郎は聞き覚えのある単語に眉を顰めて首を傾げた。

「ああ、このちび竜は気にしないでくれ。それよりも村長殿、ひとつ尋ねたいことがあるんだが…」

 改まった…いや、本来のルウィンらしい口調で尋ねると、村長は長衣の裾を握る孫の頭部から手を離して頷いた。

「なんですかの?」

「ここら一帯を治めているのは北の領主殿と聞いたんだが、ヴィール王国の次代後継者では?」

「…さようですじゃ」

 村長の言葉尻は暗かった。なるほど、やはりあの噂は本当だったのかと、ルウィンは村長や居並ぶ村人の反応で大体を予想した。

「我が国ヴィールはもう駄目ですじゃ。〝カルーズ・エア〟に竜使いが現れると諸外国の占者が予言してからと言うもの、有力な各国が挙って干渉しましてな。それでなくとも病弱であられる国王陛下が病に伏せられてから、王位継承者である北の領主皇太子殿下はコウエリフェルに骨抜きにされておりまして…我が村がたとえ貧困に喘ごうと、〝レゼル・リアナ〟探索の費用として用立てねばならぬ為に重税の軽減の見込みもありませぬよ」

 村人たちが顔を見合わせては溜め息をつく。
 どこの国も大変な今日だが、このヴィールは噂ほどには衰えてなどいないはずだった。

(重税の軽減か…北の領主は見た感じ賢い男のようだったけどな)

 まだルウィンが国からノコノコと逃亡していない10代の頃、彼は一度ヴィール王国の皇太子である北の領主に会ったことがあった。

(生意気なヤツだったから確か自慢の髪を切ったんだっけ?あ、思い出した。ヤツはバカな男だったな、そう言えば…と言うよりも今問題なのは、会うのは避けた方が得策ってことだ)

 今はまだ立太子していないとは言え、本来ならば立派に皇太子としての身分を持つはずのルウィンは、それでも事実上の強国ガルハ帝国の皇太子として対等に接しなければならない自分を、年下と言うだけで馬鹿にした態度をとったので、冗談半分の剣技の披露で北の領主のご自慢の長髪をバッサリと切り落としてやったのだ。その際、エヘッと笑って誤魔化しはしたが、かなり根に持っているとアンカーのモースが噂していたのを思い出した。

「いずれにせよ、コウエリフェルが干渉し続ける限りは、このヴィールに平和は訪れますまいよ」

 村長の溜め息に村人たちが全員で大きく首肯した。

「…ルウィン」

 不意にクイクイと服の裾を引っ張られて、ルウィンは傍らから見上げてくる光太郎を見下ろした。

「なんだ?」

 ルビアも首を傾げていると、光太郎は先ほどから飛び交う単語に首を傾げながらルウィンに質問した。

「カルーズ・エア…場所。初めて会う?」

 瞬間、ルウィンとルビアがギョッとしたように目線を交えた。

「グレイド・ボウ。融ける、服…レゼル・リアナ…」

 自分を指差しながらもどかしそうに話してはいるが、初めて会ったときの話ができそうな予感に光太郎は少し嬉しかった。超特急でここまで来たものの、そう言えば一度もルウィンたちと初めて会ったときのことを話していないことに気付いたのだ。

「黙れ!」

 突然、話を中断するように怒鳴られて、光太郎はビクッとした。いったい何が起こったのか、光太郎は一瞬、ワケが判らなくて身体を竦ませてしまった。

「ワケの判んねーことを言うな!お前の調子っぱずれたカタコトに付き合うのはもう、うんざりだッ」

 続けざまに言うルウィンを見上げたまま、光太郎は硬直してしまった…と言うか、その場にいた全員が、その美しい賞金稼ぎの恫喝に怖れをなして震え上がった。あのルビアまでもが、だ。

「ご…ごめんちゃい」

 服の裾を掴む手が震えていたが、離そうとはしない光太郎はビクビクしながら口を開いた。だが、それがまた思うように言葉にならなくて、泣きたくなった。

(ああ、どうしよう。またルウィンを怒らせちゃったよ…俺の言葉、本当は凄く聞き取りづらいに違いないのに…どうしよう、ごめんもまともに言えないなんて)

 ウルウルと今にも泣き出しそうな顔で俯く光太郎を暫く見下ろしていたルウィンに、村長がビクビクしながら詫びを入れた。

「も、申し訳なかった。いや、私どもが出過ぎたことを口にしたばっかりに、言葉を覚えようとしている彼には物珍しかったんですじゃろう。そう怒らんでください」

「ああ、いや別に…」

 ルウィンはハッとしたように我に返ったが、目を閉じると、スッと開いて村長に賞金稼ぎ特有の儀礼的な礼をした。

「任務終了の証を頂きたい。夜明け前には出立したいからな」

 霧の濃い村にはまだ朝日はなく、村長は慌てたように懐から出した書状をルウィンに手渡し、後金の小袋は拳で唇を押さえて泣き出さないように必死で頑張っている光太郎の胸元で、ハラハラしたように収まっているルビアに手渡した。

「風よ、疾くゆけ」

 人差し指と中指で挟んだ書状をフイッと一振りして空に投げると、鱗粉のような光の粉を振り撒きながら、どこからか現れた一人の妖精が空中でその書状を華奢で小さな両手でキャッチした。結んでいた革紐を自らの腰に巻きつけて、虹色の透明な羽を羽ばたかせると、可憐な容姿の妖精は悪戯っ子のように笑いながらルウィンにペコリと頭を下げて忙しくなく飛んで行ってしまった。
 その動作を見物していた村人たちは、初めて見る妖精の姿に感嘆の溜め息をこぼしていたが、ふと気付くと、件の賞金稼ぎは泣き出しそうな少年と心配そうな飛竜のお供を連れて、既に旅路に戻っていた。

「ああ、仲良くしてくれるといいんだが…」

 不安な面持ちで村長始め村人たちは固唾を飲んで見送っていた。

 ジメジメと落ち込んでいる光太郎は怒られたショックもあるのだろうが、このまま嫌われてしまったらどうしようかと不安を噛み締めて項垂れたまま、ルウィンの服から手を離そうとしないでいた。黙々と歩いていたルウィンは、自分よりも先を飛んでいるルビアが胡乱な目付きで小さな両手を組んで真正面からこちらを睨んでいるせいもあってか、いよいよバツが悪くなって口を開いた。

「判ったよ!ハイハイ、オレが悪かったです!」

《光ちゃんに謝るのね》

 そう言われて歩調を止めたルウィンは、俯いたまま足を止めた光太郎の柔らかそうな黒髪を見下ろした。ルウィンの気配に気付いて恐る恐る顔を上げた光太郎の、その双眸には涙がたまっていて、でも、絶対に泣かないぞと決意している表情は、申し訳なさそうに眉が垂れて情けなかった。
 その顔があんまり憐れで、ルウィンはあの場をやり過ごす為とは言え、ちょっと言い過ぎたかなと内心ではかなり反省している。

「えっと、まあその…」

 ルウィンが口を開くと、涙ぐんでいる光太郎は無理したようにニコッと笑ってごめんなさいと頭を下げた。

「言葉、カタコト。もう、言うしない」

「ああ、いや、そう言うワケじゃないんだ…」

 いっそのこと、お前は〝竜使い〟と呼ばれるファタルの遣いで、各国が挙って狙っている至宝の存在なのだと言ってしまおうか…と、ルウィンは葛藤に苛まされた。万が一教え聞かせたとしても、このポヤッとしている少年がどれほど理解できるのか、或いは、言ってしまって、下手な不安を覚えさせるのは今後に何か影響はしないだろうかと、ルウィンの懸念は答えをノーだと訴えている。

「…魔の森は、確かに初めてオレたちが出会った場所だ。スライムも見たよな?あの時お前、怖がってたもんな」

 クスッと小さく笑うと、光太郎は小首を傾げて聞いている。

「だが、そのことは忘れちまえ」

《ルーちゃん?》

 驚いたようにパタパタと飛んできたルビアを片手で払いのけて、ルウィンはキョトンとしている光太郎を見下ろたまま、今までにないほど真摯な双眸をした。
 光太郎はドキッとして頬を赤らめたものの、その発言が何を意味しているのか、必死で理解しようと耳を傾けた。

「そして誰にも言うな…魔の森なんか覚えていなくてもいい。スライムも、レゼル・リアナもだ。お前は謎の多いカタ族の出身で、道に迷ったところをオレに拾われた。行く場所がなく、オレが養っている。それでいいじゃないか」

「言う、しないがいいですか?でも、喋る、楽しい。いいですか?」

「もちろんだ。オレはまあ、お前のカタコトの言葉はけっこう好きだし…」

 ちょっとムッとしたように唇を尖らせるルウィンの、その雪白の頬が僅かに朱色に染まっているのは、どうやら珍しく照れているのだろう。ルビアはいまいち納得できていないものの、光太郎は昨夜の延長線で腹を立てているルウィンの剣幕が、魔の森と言うキーワードで爆発させてしまったのだと理解していた。
 ルウィンがいれば大概のことは全てうまくいく。何より、光太郎は少しでも長くこの銀髪の風変わりな賞金稼ぎの傍にいたいと思っていた。その人が困るのなら、自分が黙っていればいい。
 光太郎は納得して大きく頷くのだ。

「僕も、ルウィン大好き!喋る、楽しいッ」

「…へ?」

 ガバッと抱きついて現金な光太郎はホッとしたように笑った。抱きつかれたルウィンは先端の尖った耳を照れ臭そうに上下させて見下ろしていたが、ルビアがジーッと見つめているのに気がついてハッとしたように我に返った。

「わ、判ったからさっさと行くぞ!そら、ルビアもチャキチャキと先に進め!」

 慌てたように抱きつく光太郎を振り払って歩き出すルウィンの後を、ルビアの呆れたような呟きが追いかける。

《ルーちゃん、素直じゃないのね》

「余計なお世話だ。ほっといてくれ」

 初めて出会ったとき、炎の前にいたルウィンはとても綺麗で、そして寂しそうだった。
 世界から切り取られているのは迷子の自分の方なのに、そこにそうして座っているルウィンの方が、まるで孤独で独りぼっちのように思えたのはなぜなのだろう?…光太郎はそうして、何気なく彼と行動を共にしている間に、彼が持つ不器用な優しさに気付くようになっていた。仏頂面で無愛想なルウィンの傍にいるのはとても楽しいし、初めて見たものに雛鳥が懐いてしまうように、光太郎が絶対的にルウィンを信頼するようになるのにそれほど時間はかからなかった。
 何が起こっても、この人についていこう。

(たぶんきっと、その言葉は言っちゃいけないんだ。ルウィンがそれでいいと言うなら、俺だってそれでいい)

 きっと迷惑だろうに…それでも、律儀に世話を焼いてくれる飄々としたルウィンを、信頼してついていくんだと決めたのは自分なのだ。
 光太郎はグッと両手の拳を握り締めた。
 ふんっと鼻を鳴らして外方向くルウィンと、クスクス笑っているルビアを見比べていた光太郎だったが、さっさと歩き出す銀髪の風変わりな賞金稼ぎのその後ろ姿を追いかけて、彼について行くんだと改めて決心したのだった。

第一章.特訓!11  -遠くをめざして旅をしよう-

 村長の家の一室を割り当てられたルウィンの一行は、月が中天に差し掛かる真夜中を目安に、それまでは休んでいることにした。

「月はまる。きらきらは星」

《そうそう》

 窓の近くのベッドを陣取った光太郎とルビアが窓辺に二人仲良く並んで両手で頬杖をつきながらそんな会話を交わしては笑いあっているのを横目に、ルウィンは対面のベッドに腰掛けて膝を組むと、片手で頬杖をつきながら財布代わりの黄色い布袋と睨めっこをしている。
 食い扶持が一人増えたとは言え、本来、ルビアは主力であったワケではなく、結局はルウィン一人の稼ぎでルビアを養っていたことになる。と言うことはだ、光太郎が増えたと言う時点でダイレクトに彼ら一行の台所事情は苦しくなったと言っても過言ではない。

「ルウィン。星、まだない」

「はいはい。星はもう少し夜にならないと出ませんよーって、それどころじゃねぇんだ。大人しくルビアと話してろ」

《ルーちゃん、酷いのね!》

 お座成りの受け答えに牙をむくルビアに気のない素振りで肩を竦めただけで、ルウィンは真剣に節約しないとな…と考えていた。
 銀の頭髪が蝋燭の燈すオレンジの光を反射して、きらきらと煌いている。時折、開け放たれた窓から吹き込むやわらかな風が、溜め息を吐くルウィンの不機嫌な青紫の双眸に触れてしまいそうな銀の前髪を揺らしているその様子は、この世界に来て初めて出会ったときから光太郎を惹きつけてやまない一瞬だったりするのだ。
 案の定、光太郎はボウッとそんな幻想的なルウィンを見つめている。
 難しい表情をして、ともすれば無口なハンサムを思わせるハイレーンの若者は、実は口を開くとけっこう毒のある性格だということが判る。事実光太郎もそれにはもう気付いていたが、美しいものには棘がある、を地でいっているルウィンを不思議とそれほど嫌いにはなれなかった。
 柔らかい言葉で酷いことを言う人だって存在するのだから、キツイ言葉で酷いことを言われた方がいっそスッキリする…はずはないが、それでもどこかルウィンの言葉には憎めない響きがあった。

(うーん。やっぱりハンサムだからなのかな?カッコイイ人って得してるよな、ぜったい)

「なんだよ?」

『え!?』

 思わず見惚れていた恥ずかしさも手伝っているが、何よりも心の声を聞きとがめられたような錯覚に落ちた光太郎は、慌てて首を左右に振った。ご丁寧に両手もぶんぶんと振っている。

『な、なんでもないよ!ルウィンがハンサムだから得してるとか、そんなこと絶対に考えていないから!ハンサムだってのは認めるけど、だからって得してるなんてことはホントに考えていないんだよ!マジでッ…て、ルビア。そこで呆れてないで助けてよー』

 傍らで呆れたように見上げている小さな飛竜を抱き締めながら光太郎が困惑した声で悲鳴を上げても、彼の言葉を完全とまでは理解していないルウィンにしてみたら、いつものように足手纏いが二人で仲良くじゃれあっているようにしかとれない。

「…変なヤツ」

 ボソッと呟いて、前金として村長から手渡されている1枚の紙幣と数十枚のコイン、そして傍らに広げていた残金をまとめて布袋に仕舞いこみながら、ルウィンはもう一度小さく溜め息を吐いた。

『やや、やっぱり怒っちゃった!?あう~、もう!俺ってばいっつもこれだもんなー!ルウィンを怒らせてばっかだよ』

 うるうると本気の涙混じりでルビアに八つ当たりをする光太郎を、それでももう慣れているのか、小さな深紅の飛竜は成されるがままで気にした様子はない。もちろん、黙っていれば美貌のハイレーンの青年も、やはり彼を気にかけるどころか、歯牙にも引っ掛けていないと言う有り様だ。
 光太郎はルビアの良き話し相手であり、ルビアは光太郎の良き玩具なのである。
 そして光太郎とルビアはルウィンにとって良き退屈凌ぎである。と言うことはつまり、知らない間に彼らの間には立派な黄金の三角関係らしきものが成立しているようだ。
 なんにせよ、本人たちはそのことに全くと言っていいほど気付いていないのだが。
 ベッドサイドに立て掛けられている、ルウィンが常に腰に下げている銀の鎖が巻きついた、華奢な意匠が細工されている鞘が風に揺れる蝋燭の明かりを反射してきらきらと輝いていた。鞘から漏れ出る白金の仄かな発光はまるで、柄から先端までをすっぽりと覆うように煌いている。

『…』

 光太郎は漸くじっくりと観察ができる奇妙な剣をマジマジと見つめ、そして欠伸をしてベッドに横たわるルウィンのチャイナカラーの中華服のような、その風変わりな衣装をしげしげと観察した。
 光太郎は以前からどうしても聞きたいことがあった。
 聞こうと思っていても、なかなかそのチャンスに恵まれなかった質問を、敢えて口にしようと決心した。

『ルウィン、あの…』

「ん?」

 先端の尖った耳がぴくりと動いて、うとうとしていたルウィンが眠そうな半目でちらりと視線を向けてきたから、光太郎は改めてルビアとルウィンの涙の結晶でもある片言の共通語でたどたどしく質問を試みた。

「ハイレーン。賞金稼ぎ。判る、できない」

「…判るができない?ってことは理解できないってことだろ?ハイレーンと賞金稼ぎねぇ…ルビア、説明してやれよ」

 鬱陶しそうに片手を振って光太郎の脇に大人しくちょこんと座っている飛竜に話を振ると、ルビアは知らん顔をして無視を決め込んだ。大好きな光太郎が言葉を覚えながら、この世界を少しでも理解しようとしているのに、簡単な方法で教えたのでは意味がないと思ったのだ。
 ルウィンにとっては単なる拷問なのだが…

「…ったく。判ったよ」

 ムッとしたように眉を顰めたルウィンはしかし、反動を利用して起き上がると面倒臭そうに頭を掻きながら床に両足を下ろして腰掛け、仕方なさそうに説明を始めるのだった。
 究極の世界説明はこんな具合で始まった。

「だーかーらー!賞金稼ぎにはランクがあるんだよ。ランク分けはコイツ…この剣で確認できるようになっているんだ」

「ちゅるぎ?」

「そう、これだ」

 頭を抱え込みたい衝動と必死で戦いながらルウィンは銀鎖の絡まる鞘から引き抜いた微かに発光している剣を持ち上げると、床に直接腰を下ろして首を傾げている光太郎にそれを見せながら根気良く説明していた。その光太郎の傍らで同じくちょこんと座り込んでいるルビアは、大きく欠伸をしながらウトウトと光太郎に凭れかかって眠りそうだ。

「この鞘に銀色の鎖が巻き付いてるだろ?これは銀鎖の剣と言って、ランクSを示す証なんだよ。この他に赤=ランクA、青=ランクB、黒=ランクC、緑=ランクD、オレンジ=ランクE、白金=ランクF…まであるんだけどな、この場合はランクが若い順の方が上位だってことになる。銀=ランクSはこのランク外として分けられているんだ。ランクAになった連中が昇給試験を特別に受けてランクSになるってワケ。この【ランク】ってのは主に賞金稼ぎでも上の連中が使うんだけど、D以下の連中は【クラス】で呼ぶんだそうだ。剣の意味はこんなカンジかな?まあ、このプレートを見せても判るんだけど、外にぶら下げてるワケにもいかないからこんな剣を持たせるんだろう」

 服の内側のポケットから銀色のプレートを取り出して手遊びしながら独り言のように呟いていると、なんとか早口の共通語を理解しようと眉を寄せて考え込んでいた光太郎は、少しずつ飲み込んだように頷いた。

「ちゅるぎ、は持つものですか?」

「は?…だいたい、オレの記憶が正しければ剣は手に持つものだろうな。腰に下げてもいいと思うぞ」

『???…えーっと、そうじゃなくて。持たされるってことは、自分の意志で持つワケじゃなくて…あれ?俺、何が言いたいんだろう??』

 自分の言いたいことが判らなくなって混乱した光太郎が首を傾げていると、ルビアがクスクスと寝たふりをしながら笑っているが、ルウィンがそれに気付くことはない。

「どうしたんだ?」

 訝しそうに眉を寄せるルウィンに、光太郎は手振り身振りで説明を促している。

『だから、えーっと…剣を、持たされてるってことは、ルウィンの武器は、別にあるの?…ってことだよな、うん』

「???意味が判らんぞ」

 根気良く先端の尖った異形の耳を欹てながら一言一句区切る物の言い方で話す言葉を聞いていたルウィンは、小さな溜め息をついて肩を竦めた。不思議と日本語をずいぶんと理解できるようになっていたルウィンとは言え、やはりニュアンスから違った意味に取れたりもするのだろう。完全、とまではいかないがお手上げ状態であるのは確かなようだ。

「ルウィン。武器、一つ。それはちゅるぎですか?他、ないですか?」

「…ああ。この剣は武器ではなく証明のようなモンで、武器は別にあるのかって聞きたいんだな?そうか、説明の仕方が悪かったな」

 ボキャブラリーの少なさからたどたどしく拾い上げた言葉の羅列で首を傾げて見せる光太郎に、漸く理解したルウィンは腕を組んで頷いた。

「武器にもなってただろ?ほら、お前に着替えをしろって言って、グレイド・ボウに襲われた時に武器として使ってたじゃないか。コイツには様々な仕掛けがあるんだぜ。まあそれは、これからまた見ていくことになるだろうがな」

 ニッと笑うルウィンに光太郎も頷きながら微笑んだ。それはとても楽しみだ…と、この時光太郎が思っていたかどうかは定かではないが、ルウィンの台詞の幾らかは理解していることは確かなようだ。

「さて、次はハイレーン族についてだ」

 案外根気強いルウィンは、賞金稼ぎと言う特殊な職業に心奪われていて、既にそのことは忘れているような光太郎が訊ねたもうひとつの課題に取り組むことにした。
 光太郎は晴れた夜空のような双眸の中に、満天の星を煌かせながら、ルウィンのくれるお楽しみ箱の中身を期待して見上げていた。
 窓辺から漸く最初の星が輝くのを見上げながら、深紅の小さな飛竜は心の奥深いところまでも覗き込めそうなほど深い新緑の双眸を瞬かせて、小首を傾げている光太郎に奮闘しているルウィンの姿を微笑ましく感じ、そう思えることの平和な時間を愛しいと思っていた。

第一章.特訓!10  -遠くをめざして旅をしよう-

「コレ、凄く美味しいよ。団長さんは食べない?」

「煩い」

 この会話は随分と前から初めは一方的に交わされていた。
 いい加減ウンザリしたリジュが細い目に怒りを込めて背後のピエロを振り返ると、彼、陽気でふざけた派手な衣装に身体を包んだ道化師デュアルがバーガーのようなものに食い付きながら首を傾げた。

「なんで?」

「…よく、この雑踏の中で物を食いながら歩けるもんだ」

 半ば呆れたように頭を抱えるリジュに憮然としたデュアルは、片手に持った紙のコップに注がれている琥珀色の飲み物で咽喉を潤しながら唇を尖らせた。

「朝ご飯もお昼も抜きだったんだよ?腹が減っては戦はできませんー。まずは腹ごしらえですよーだ」

 子供のように言い返すデュアルにリジュは、だからまずは宿屋を探しに地下から地上に戻ったんだろうと言い返したかったが、低レベルな言い合いを続ける気力もなくて溜め息を吐いて首を左右に振った。

「ねえねえ!団長さんって。今日のウルフラインはまるでお祭りみたいに賑やかだねぇ?」

「ああ。竜使いが現れて神竜が目覚めるとかで、城では連日連夜大盤振る舞いの宴が開かれていて、街もその影響で祭りを催しているそうだ」

 子供たちが嬉しそうに人込みを掻き分けて走り抜ける後姿を目で追いながら、デュアルは自分で誘った話題のくせにいまいち気乗りしない口調でふぅ~んと応えた。
 大通りなのにこう人が多いと狭く感じる通路は、両脇に犇く露天の明かりが夕暮れ時にも関らず道行く人の顔を鮮明に浮かび上がらせる。多種族の入り混じる貿易の国ウルフラインの首都は、街の中央に運河の流れる水と森の都としても有名である。

「どうしたんだ?お祭り好きの陽気なピエロ…と言うのがお前さんのキャッチコピーじゃなかったのか?」

 急に大人しくなったデュアルの態度に不信感を抱きながらも苦笑するリジュに、食べ掛けのバーガーもどきを口許に当てていたピエロは、前を行く団長に追い付いてそれを押し付けることにした。

「ハイ、あげる」

「!?…いらんッ」

 突き返そうとするとスルリと逃げ出した陽気なピエロは浮かない顔をして舌を出す。

「先に宿を見つけててよ。後から行くし。じゃあね」

「あ!おいッ!単独行動はご法度だぞッ…と言って聞く奴でもあるまい。やれやれ」

 リジュは片手にバーガーもどきを持ったままで雑踏に消える派手な衣装を暫く見送った後、すぐに行動を起こして自らも雑踏に姿を消してしまった。
 その頃デュアルは、陽気なお祭り気分に旅人も街の住人も浮かれる大通りを浮かない足取りで不機嫌そうに進んでいた。リジュとの旅は思ったよりも楽しいし、何よりも面倒臭い【退屈】がない。
 デュアルはリジュを気に入っていた。
 だからこそ、自らの厄介事で彼を悩ませるのは尤も嫌う【退屈】よりも面白くないと思ったのだ。
 大通りから逸れた薄暗い裏路地は、魔導師になれない魔法使いが妖しい実験から生み出した幻覚剤でラリッた連中や、地下に潜ることを許されていない娼婦が所在無さそうにブラブラと立っている。昼間でも、裕福な連中がこんな裏寂れた路地に入ってくることもなく、気紛れに入り込んだとしても多額の金で買われた娼婦は二度とこの場所に戻ってくることはない。喜ぶべきか悲しむべきか、どんな顔をしたらいいのか判らないと言った感じで俯く彼女たちの脇を通り抜けて、夕暮れに薄明かりを燈す風に揺らめく蝋燭の光の中で、デュアルは不貞腐れたように立ち止まった。

「いるんでしょー?出て来なよ」

 気のない様子で闇に問えば…

「やあ、デュアル」

「お久しぶり」

「見つかっちゃった~♪」

「デューさま!」

 口々に思い思いの言葉でもって己の存在をアピールして姿を現した道化の連中に、デュアルはウンザリしたように腰に片手を当てて唇を噛んだ。

「アウブルまで来るなんて…総出ってのは趣味が悪いんじゃない?」

 砂利の転がる裏路地の狭い通路に、4人の道化はいとも優雅な風情で立っている。デュアルはまるで親しそうに話しかけて、そして途方に暮れているようにも見えた。

「そうではございませんのよ、デューさま。ジェソ団長が甚くご立腹でございますのよ」

 アウブルと呼ばれた桜色の道化の衣装に身を包んだ長身の美丈夫は、そんなデュアルに応えるように口を開きながらも、蝶を模した目許を覆 うだけの仮面の奥から冷えた金色の双眸で、まるで叱られた子供のように唇を尖らせている派手な道化を見つめているようだ。
 感情さえも読み取らせない、仮面にはそんな意味も含まれているのだろうか…

「帰っちゃえよう!クラウンに帰っちゃえよーう!」

 緑の衣装の道化がやはり蝶を模した仮面の奥から口調とは裏腹の冷静な金の双眸で見つめながらそう言うと、デュアルは 煩 そうに眉根を寄せて首を左右に振った。子供染みた口調でありながら、緑の道化はおどけたような素振りさえもせずに静かに佇んでいる。
 デュアルにはそれが鬱陶しかった。

「帰らないよ、アララハラルト。ジェソ団長にそう伝えて」

 緑の衣装の道化の表情が烈火のごとく曇ったが、口を開く前に赤の衣装を身につけたやはり目許を覆う仮面の道化が前に出た。

「ダメだよ、デュアル。ジェソ様はすぐに戻れと仰っておいでだ」

「戻らない。パッカーキーストが幾ら言っても戻らない」

「コレは言い出すと聞かない。手の焼ける団員だとジェソ団長も仰っておいで。誰の指図?」

 黙って腕を組んだままで脇に控え、事の成り行きを見守っていた青の衣装に顔全体を覆う仮面をつけた道化が口を開くと、まるでその場一帯に電流でも流れたかのように皆が一斉 に口を閉ざしてしまった。
 ただ独り、まるでカヤの外を決め込んだ様にデュアルが仏頂面で立っている。

「コウエリフェルの皇子さま。ジェソ団長が言ったんだよ、彼の言うことを聞きなさいってさ。もういいでしょ?ブリューインディスト」

 その青の道化には弱いのか、デュアルはソワソワしたように腰に当てた手で前髪を掻き揚げた。掻き揚げて、小さく舌打ちする。
 残りの3人はどうでも良くても、ブリューインディストが苦手なデュアルだ。額に浮かんだ嫌な汗は図らずも背中にも浮かんでいて、早くここから立ち去りたいと柄にもなく願っていた。

「アレは一筋縄ではいかない。手の焼ける皇太子殿下だとジェソ団長も仰っておいで。仕方ない」

 呟くように言って、仮面の奥の銀色の瞳で見つめながら何時の間にか眼前まで移動していたブリューインディストは、音もなく伸ばした指先で派手な衣装の道化の顎に手をかけて、ともすれば俯き勝ちになるデュアルの顔を上げさせた。

「任務終了時には速やかに帰団すること。ジェソ団長が寂しがっておいで」

「判ってるって、ブリューインディスト。それを承知で入団したんだもの。今更逃げ出したりはしない」

「もちろん」

 ブリューインディストがまるで滲むように闇に溶け出すと、残りの連中もさっさと闇に帰ろうとした。ただ独り残して…だが。

「デューさま。必ずお戻りになってくださいましよ?アウブルはデューさまと共にある為だけに存在してるのでございますから」

「うん。大丈夫だよ、アウブル。早くお帰り。今度はキミが叱られてしまうから」

 デュアルが跪くように平伏すアウブルの頬に触れながら呟くと、彼はその手に頬擦りをしながらうっとりと双眸を細めた。

「デューさま、愛しいお方。アウブルの身も心も、全身に流れるこの血潮でさえ全てはデューさまのものでございますのよ。きっと、お忘れにならないで下さいましね」

「…うん」

 鳥肌を立てながら頷くデュアルの手の甲に口付けを残して闇に消えたアウブルを最後に見送って、周囲から凶悪な気配が完全に消えてしまったことを確認したデュアルは崩れるように膝立ちになると、ガックリと両手を地面につけて肩で大きく息をした。

「もう、ホント!嫌になるったらッ!クラウンの連中はどうしてこう、小煩い奴らばかりなんだろう!?」

 突発的に上がった怒声に 訝 しそうに眉を寄せる娼婦や中毒者たちを無視して、デュアルは 汚 らしい路地の上に 胡座 をかいて座り込むと片手で頬杖を突いた。

「アウブルはキモイし、ブリューインディストはやたら得体が知れないんだもん。全く…疲れるったら」

 顔全体を覆うその仮面の下が、いったいどんな素顔なのかデュアルも見たことはない。
 不気味な雰囲気を 醸 し出すブリューインディストはともすればあのコウエリフェルのセイラン皇子よりも得体が知れないのかもしれない。
 デュアルの入団している【クラウン】の、彼らはまだほんの一部でしかないのだが。
 まだ知らない見知らぬ団員が後何人いるかなんてのは知ったことではないが、どうか今暫くは放っておいて欲しい…と思うデュアルだった。
 賑やかな表通りのとある宿屋で漸く空室を確保できた奇跡を起こす男リジュの待つその場所まで、デュアルがヘトヘトになった重い足を引き摺って行くのはもう少し後のことになる。