Act.33  -Vandal Affection-

 階上に行く階段は閉鎖されていて、仕方なくタユは俺を担いだままで階下に進む階段を駆け下りた。
 何階まで下ったのかもう判らないけど、あの爆発音が遠ざかって、荒く息を吐くタユもどうやらここまで降りれば暫くは安心だと判断したのか、注意深く周囲の様子を伺いながら白い壁の続く、もう見慣れたリノリウムの床が敷き詰められた廊下に出ると、どれも似たような白い扉の一つを用心深く開いてみた。
 どこにいたって安全なんかありはしないだろうと思うんだけどよ、タユにしてみたら、ゾンビ研究員の方がヘタな化け物よりもいいと判断したんだろう。
 そこは研究員の居住区だったのか、簡素なベッドなんかが置かれている、随分とよく見てきたあの質素な部屋と一緒だった。

「やれやれ。ここで少し休憩でもするか」

 室内を見渡して化け物がいないことを確認したタユはそう言うと、肩に担いでいた俺を埃の被ったベッドのシーツの上に無造作に放り投げるようにして降ろしてくれた…と言うか、投げ出したって方が性格だと思う。クソッ!

「あたッ、いててて…」

 案の定、スプリングなんか効いてないもんだから、衝撃がそのまま身体に伝わって痛いのなんのって…畜生、タユは結構酷いヤツだ。

「やい、この野郎…って。タユ?何をしてるんだ」

 文句の一つでも言ってやろうと上半身を起こした俺の目の前で、長身のタユは灰色のロッカーを開いて内部を吟味している…何をしてるんだ?
 でも、正直。タユがどんなに酷いヤツであっても、やっぱりちょっとどころか、かなりホッとした。
 ホッとしたら気が抜けたのか、俺は埃っぽいベッドの上にうつ伏せにへたり込んで両目を閉じたんだ。
 色んなことがあった。
 いつも顔を合わせていた友達は… 殆 ど死んだ。俺の目の前で死んだヤツもいる。
 何かして、何もできなくて…泣くことすらできなくて俺は、その場所にいることからも逃げ出すように生きている仲間を見捨てて遺跡に飛び込んで行ったんだ。無謀だし、馬鹿みたいなことだって判っていた。でも、何かしていたかったんだ…レンジャーのおっさんたちもみんな、遺跡の中か、この施設の早い場所で全員死んでいた。言葉も出なくて、自分だけ生きていることの罪悪感だとか仲間を見捨てた自分への怒りだとか。
 ああ、でも。
 仲間を救い出すとか言いながらも俺は、そうだ、仲間を見捨てて逃げ出したんじゃねぇか!
 仲間を救い出す?…本気で俺は、そんなことを考えていたんだろうか…いいや、そんなことじゃねぇ。
 俺は。
 情けないぐらい弱いこの俺は。
 自分の心を満足させるって言う自己満足だけで、ドッグタグを回収してたんじゃねーか…
 ん?そう言えばアレはどうしたんだっけ?
 あ、そっか。さっきの場所にズボンを置いてきたまんまだ。
 もう、取戻しにも行けないだろうしなぁ…ん?
 そこまで考えたところで、俺は 唐突 に、今の自分の格好を思い出してガバッと飛び起きちまったんだッ。
 そそそ、そうだ、俺はフィリップのヤツにその、ご、強姦されてて下半身スッポンポンのままだった!
 思わず耳まで真っ赤になってタユを振り返ったら、ヤツは無表情な顔をして俺を見ながら、ニヤッと笑って片手を上げて見せた。その手にあるのは、どうやらここの研究員の誰かが 穿いていたんだろう少し古ぼけたジーンズだった。
 そうか、それを見つけるためにロッカーを探っていたのか…

「この野郎が、なんだって?」

「いや、その。えっと…」

 意地悪く笑いながらベッドに腰掛けたタユは、それでもやっぱり疲れているのか、小さな溜め息をつきながら唇の端を吊り上げた。 精悍 な表情と逞しい体躯は、やっぱ他のレンジャー連中とはちょっと違うんだよなぁ…
 そんなことを考えていたら、タユは腕をきつく縛り上げていた紐をコンバットナイフで切ってくれたんだ。
 これで自由だ。
 ホッと息を吐いて擦れた傷跡の残る手首を見下ろしていたら、ギシッとベッドを軋らせたタユのヤツが上体を傾けてへたり込んでいる俺の顔を覗き込んできたんだ。

「な、なんだよ」

 思わずギクッとして後ろに退いたらすぐに壁に背中が当たって、クソッ、こんな狭いベッドの上じゃ逃げ場だってあるもんかよ。

「その状態で大丈夫なのか?」

「…え?」

 そう言って息がかかるぐらい顔を近付けてきたタユの言っている意味は判らないし、ヤツの精悍な顔つきの中にある、鋭い双眸に蛇に睨まれたカエルのように 射竦められたようになってしまってるしで、俺は心臓ばかりをバクバク言わせて仰け反って首を傾げるぐらいしかできなかった。
 鼻先でフンッと笑ったタユは逞しい腕を伸ばすと大きな掌で、破れかけたT-シャツの裾から剥き出しになっている俺の腿に触れてきたんだ。

「…ッ」

 タユが触れた部分からまるでビリッと電流でも流れたような感触がして、俺はビクッとして間近にあるヤツの顔をマジマジと見つめてしまった。
 何が起こったのか、この時になっても俺はよく判らなかった。
 だから、不安になって縋るようにタユを見つめたんだ。

「た、タユ…」

「…そんな、縋るような目で見ないでくれよ。その気がなくてもその気になっちまいそうだ」

 腿に当てていた掌を離すと、タユは苦笑しながらその腕を俺の頬に持ち上げて包み込むように触れてきた。

「そんな状態だとまとも走ることもできないだろうって思ったんだけどなぁ…抜かなくて平気か?」

「…って、まさか。だ!大丈夫に決まってんだろ!?」

 タユの言いたい意味をこの時になって漸く理解した俺は、思わずフィリップとか、あの変態野郎を思い出して大袈裟に仰け反ってしまったんだ。

「た、タユもソッチ系の人かよ!?」

「はぁ?オレはなぁ…足手纏いに付き合っていられるほどヒマじゃないんだよ。ま、大丈夫ってのなら別にいいんだけどな」

 呆れたように鼻先で笑ったタユはベッドから立ち上がると、片手に持っていたジーンズを投げて寄越しやがったんだ。

「そらよ、ソイツでも穿いとけ。サイズについては対応しかねるんで自分でなんとかするんだな」

 慌てて穿いたジーンズは裾の部分を俺の手首の紐を切ったコンバットナイフで適当な長さに切っていたけど、それは思った以上に身体の大きかったヤツの所有物だったのか、それともこれが外国人体型ってヤツなのか、俺にはブカブカでせっかく切ってくれた裾も少し捲くり上げておかないといけなかった。それでもなんとか穿けないこともなかったけど…この素肌にジーンズってのは初めての経験で、どこか居心地が悪くてモジモジしていると、タユは自分の腰にしていたベルトを引き抜いてそれを差し出してきたんだ。

「ここの研究員はカジュアルがお好みだったようだ。ま、なんにせよその趣味のお陰でジーンズが手に入ったからよしとしておこう。あれこれと文句を言う訳にもいかないだろうしな…とは言っても、そのウェストはアンタには大きすぎるみたいだ」

「さ、サンキュー」

 礼を言って受け取ると俺はそれで腰の部分を締めるんじゃなくて縛りながら、話題も変えたかったし、タユに今までどうしていたのか聞いてみようと思ったんだ。

「タユさ、今までどこにいたんだ?」

「そんなことよりも、どうしてアンタがここにいるんだよ」

 聞いたつもりが聞き返されて、なるほど、やっぱタユの奴も俺がこんなところにいることに、タユがここにいることに俺が驚いた以上には驚いていたんだろう。

「俺は…仲間を、博士や女史を助けようと思って」

「なるほど。それでベースキャンプにいなかったのか」

 納得したように頷くタユに、俺は慌ててその腕を掴んでヤツの顔を見上げたんだ。

「タユ!お前、キャンプに戻ったのか!?」

「まーね」

 短く言って外方向くタユの腕を掴んだままで、俺は唐突に心臓が早鐘を打つような錯覚に陥った。聞きたい、聞きたいけど、なんだかそれは聞いてはいけないことのような気がする。でも不安が、胃の辺りからせり上がってくるように緊張して、全身が冷たくなったような気がした。

「…連中は。あそこに残ってた奴らは、その、無事だったか?」

 ドクドクと、馬鹿みたいに早く鳴り響く心臓の音が耳のすぐ傍で聞こえて、俺は懸命に不安になる気持ちを押し殺しながら両手を握り締めてタユの返事を待っていた。

「無事だったら、オレはここにいない」

 極めて端的な返事は、多くを語ることもなく俺に絶望を告げていた。
 現実ってのはいつもそうだと思う。いい方向に行ってくれているようでも、よくよくは常に悪い方向ばかりを指し示していたりするもんなんだ。だからこそ、こんな非常事態の時にはそのなかに転がっている良いことだけを考えながら、突き進むことになるんだけど…それにだってやっぱり、限界ってのはあるワケで。
 そっか…やっぱりあの後、あの大毒蛇は戻ってきたんだろう。
 判ってた、判っていたつもりだったけど…やっぱり、胸が抉られるぐらいに辛い。
 俺が残して…いや、置き去りにしてきた仲間は、そうか、須藤が言っていたようにみんな死んでいたのか。
 ああ、なんだそうか、みんな死んでいたんだ…
 仏頂面のタユが不機嫌そうにどっかりともう一度ベッドに腰掛けて、その逞しい腕を伸ばして乱暴に肩を抱いてくれるまで気付かなかった。
 ポロポロと、乾いた頬を 零 れる涙に。
 泣くなんて思わなかった。色んなことが一気に起こりすぎて、感情が微妙に麻痺していたのかもしれないけど、それでも俺は泣くなんて思わなかったんだ。
 きっと、タユのせいだ。
 コイツの存在が俺の涙腺を壊したんだ。
 だったら、責任を取ってもらわないと…なんて、自分勝手に思い込みながら羞恥とか照れだとか、そんなものを忘れてタユの胸元に額を押し付けながら、俺は暫く声もなく泣いていた。暫く泣いていて、底意地の悪そうなタユは、それでも顔を上げた時には外方向いたままで何も言わなかった。
 その時になって唐突に、仲間の死は、タユも同じだったことに気付いてハッとしたけど、彼は別に気にした様子もなかった。いや、気にすることをやめていたんだろうと思う。そんなことを考えていたら、この先まで生きている自信すらなくなっちまうんだ。
 泣いちまった俺は…クソッ、なんて弱いヤツだろう。

「ごめん」

 謝ったら、タユはワシワシと俺の頭を掴むようにして撫でただけで何も言わなかった。

「…でも、どうしてキャンプまで戻ったってのに、わざわざまた遺跡の中に戻って来たりしたんだ?」

 目尻を拭いながら首を傾げる俺の疑問に、タユは肩を竦めてニッと笑ったんだ。

「一目見て、アンタがいないと思ったからさ」

「…は?」

「判んない?オレはアンタを捜してここまで来たんだぜ」

 タユが意地悪く笑ったけど、俺にはその意味が判らなかった。
 俺がいなかったから遺跡に来たのか?

「わざわざなんで遺跡なんだよ?他のところにいるかもしれないじゃないか」

 半信半疑で眉を寄せると、俺の関心が別の方にあると思ったのか、タユは何か拍子抜けしたような顔をして肩を竦めやがったんだ。

「アンタ、夜中に遺跡に連れて行ったとき、凄く嬉しそうだっただろ。これはもう、何かあったとなると真っ先に遺跡の中に入るんじゃないかって思ったのさ。仲間もいるワケだし…ま、ビンゴだったけど」

「…はぁ、タユって凄いヤツなんだなぁ」

 俺が掛け値なしで感心していると、タユの奴は呆れたように息を吐いて首を左右に振っていた。

「あれ?でも、どうして俺がいないからってわざわざ追いかけてきたんだ?タユだって見たんだろ、あの化け物みたいな研究員のなれの果てを…」

「見た…まあ、だからとでも言うべきかな」

「?」

 眉を寄せると、タユは腰に挿していたハンドガンを取り出してマガジンを取り出すと、その中身を確認して手持ちの武器を確かめながら俺の方を見下ろしてきた。褐色の肌に光る双眸は野生の猛獣みたいにワイルドなハンサムだと思う。うーん…コイツ、やっぱ普通にモテるんだろうなぁ。いや、こう言う状況下だったらもっとモテるのか。
 俺が女だったら惚れてるだろうと思うよ。
 だって、こんな状況下の中でもタユには余裕すら感じるから…
 まあ、タユにしてみても俺が女じゃなかったことがNGだったんじゃねぇかな。ははは。

「アンタら学生に何ができるって言うんだ?まあ、ここでアンタと出会った時は、この施設の中にどんなカミカゼが吹いたんだってぶったまげたけどな」

 生きてることに驚いたって?
 …そっか、俺だってよくここまで生き残れたと驚いてるんだ。地元でレンジャーをしているタユにしてみたら、やっぱ俺がこの階層まで生き残っていることが奇跡みたいに不思議なことなんだろう。日本と言う安全な場所でぬくぬくと育ってきた俺が生き残ってること自体が、野生動物とかと渡り合ってきたタユにしたら、そりゃあ凄い神風でも吹きまくったんだろうと思っても仕方ないか。
 ああでも、そっか。もっとタユの奴を驚かせてやることがあったんだ。

「俺だけじゃないんだぜ?須藤と桜木も…」

 そこまで言って、唐突に俺はあんぐりと口を開いた間抜け面をしてしまった。
 両目をめいいっぱい見開いて…
 想像を絶する得体の知れない生き物をこの施設で見たとき以上の衝撃が、俺の体内を駆け巡って容易に声すらもでなかった。人間、こう言う究極の時ってのは本気で声が出なくなるんだな。

「へえ?ヨシアキとヒトミもいるのか。で、どこにいるんだ?」

 タユが気軽にコンバットナイフの曇りを上着の裾で拭いながら聞いてきて、俺はパクパクと酸欠の金魚みたいに息継ぎをして、徐にゴクンと酸素を飲み込んだ。

「す、須藤と桜木は…」

「ああ…?真っ青な顔してどうしたんだよ」

 俺は怪訝そうな表情で見下ろしてくるタユに詰め寄るようにして立ち上がった。

「フィリップのヤツに捕まったままなんだ。どっかの部屋に閉じ込められてる」

 俺の異変を察したタユは腰のベルトにコンバットナイフを突っ込んで、手持ちの武器を全身のいたるところに器用に隠した軽装で立ち上がりながらヒョイッと眉を上げたんだ。

「そこに…確かあいつ、ペットがいるとかなんとか」

「やってくれるね、あのおっさん」

 タユが額にキラリと光る汗を浮かべたままで、それはそれは爽やかな笑顔を見せてそう言った。
 頬が完全に引き攣っていたことは、この際見なかったことにしよう。

Act.32  -Vandal Affection-

 暗闇に陥りかけた意識を引き戻すように頬を張られて、俺は刺すような痛みにハッと我に返った。
 目の前には相変わらず、煌々と白熱灯が眩しいぐらいに照らす埃っぽい室内には似合いのフィリップの顔があって、俺を興味深そうにマジマジと覗き込んでいた。

「やっとお目覚めかい、子猫ちゃん?」

 クラクラする頭に響く耳障りな金切り声に、俺は…そうか、意識を失いかけていたんだ。
 とんだ悪夢に逆戻りだ、クソッ!
 頬を張られたせいでグラグラと回る視界の中、フィリップの汚い顔を見据えて睨み付ける俺を、さっきまでとは違った表情で見下ろしてくるヤツの…その目付きはなんだか違うように見えるのは気のせいだろうか?

「なんだ、お前…けっこういい匂いがするなぁ。ムラムラするよ、足も身体も適度に筋肉がついてるようだし。締まりもよさそうだしなぁ、ええぇ?」

 ニヤニヤ笑いやがって…気持ち悪ぃーんだよ!
 不意に、腿にカサついた肌の感触がして、この馬鹿な俺は、その時になって漸くフィリップに片方の足を持ち上げられてることに気付いたんだ。

「や、…やめろッ!」

 ハッとして、信じられないものでも見るようにフィリップを見返すと、ヤツはやたらニヤニヤ笑って、視線だけでT-シャツを肌蹴させられた下半身を見下ろすから、俺は釣られたようにその視線を追って自分たちの身体が密着している部分を見下ろしてしまったんだ。

「…ッ!」

 いつの間に下ろしたのか、発情期の高校生でも真っ青なほど勃ち上がっているその部分を見せつけるようにして、俺自身と、その奥まった部分に隠されてる場所にこれ見よがしに擦り付けてくるから…濡れて湿った感触に思わず吐き気がした。
 確かに、散々指先で尻を穿たれて蹂躙されていたせいで俺だって先走りぐらいは流してるけど、そんなモン、比べられないぐらいダラダラと垂れ流すフィリップのソレが、俺自身を淫らに濡らしていて白熱灯の光をグロテスクに反射させたりするから…
 すっげぇ、気持ち悪い!!
 ベタベタする先っぽを抱えあげた足の中央、まあ、俺の尻の部分に塗り込めるようにグリグリと擦りつけながら、フィリップのヤツは空いている方の掌で俺の尻の肉を揉みしだきながら恍惚とした顔をしてハアハアと生臭い息を荒く吐き出している。伸びている無精髭が俺の頬を掠めて痛いし、その痛みが、あの変態野郎から受けた屈辱的な行為を思い出させるから、悔しいけど恐怖心に震え上がっちまう。
 でも、アイツは…
 アイツはもっといい匂いがして、それで、それで…
 コイツなんかよりも凄まじい殺気のような、狂気があった!

「…ぉ、願いだから!や、めてくれ…ッ」

 嫌々するように首を左右に振って抵抗しようと身体を捩ると、宛がわれていたベタベタの先っぽがぬるんっともぐり込みそうになって、俺は小さな悲鳴を上げて竦みあがってしまった。

「くっくっく…お前ぇ、誘ってんのかぁ!?自分から擦り寄ってきたり、忙しいヤツだなぁ、おい?ボクのは大きいからなぁ…慣らさないと切れちまうぞぉ」

 ヒッヒッヒッと咽喉の奥から漏れるような奇妙な笑い声を上げて、俺の首筋にねっとりと舌を這わせて吸い付いてくる。
 得体の知れない生き物が這うような錯覚に俺が身震いすると、いい気になったフィリップは更に執拗に舐めまわしてきやがるから、ジン…っと、沁みるような疼痛に眉が寄っちまう。その吸い付かれている部分からジワジワと熱が広がって奇妙な感触に下腹部がソワソワとしてきた。

「お前…思ったよりも柔らかい肌をしてるんだなぁ…体毛も少ないし、きめ細かくて吸い付いてくるようだぞぉ。胎内はどうなってるんだろうなぁ…熱くてぇ、きもちいいだろうなぁ」

 どうやら自分の持っているファンタジーの世界にどっぷりと浸り込んでいるらしいフィリップの、その虚ろな双眸に欲情を感じた俺はゾッとして鳥肌を立てながら、この馬鹿はいったい何を考えているんだと寒気がした。でも、男の身体ってのはどうしてこんなに素直なんだか…促される快楽に素直に反応した股間部は熱く勃ち上がっていて、これじゃ嫌だって否定しても誰かに見られたら悦んでるんだと勘違いされちまうんじゃねぇのか!?うう…こんなに嫌なのに、どうして反応なんかするんだよ、俺!

「…ん、…ッ…んぅ…ッ」

 フィリップの灼熱で肛門を擦られながらやわやわとアレの先端を握られると、押し殺した声が嫌でも漏れてしまって、却ってこの変態を喜ばせちしまうって判ってんのに…俺ってヤツは。

「そろそろいいかなぁ…?お前の穴ぁ、ぐちゅぐちゅして、ヒクつきだしたからなぁ」

「や!…嫌だ、それは嫌だ!!」

 俺は与えられる快楽にどっぷりと浸かりながら、それでも明確な意思を持ったフィリップのソレがグイッと押し付けられた瞬間、ハッと我に返ってめちゃくちゃに抵抗したんだ!
 嫌だ、もうあんな苦痛は嫌だ!あんな屈辱的な…

「…お前さぁ、もしかして男に抱かれたことがあるんじゃないのかぁ?」

 不意に突拍子もないことを言われて、俺は思わず暴れるのも忘れてポカンとフィリップを見上げてしまった。
 たぶん、この施設がどうしてこんな状況になったのかは判らないが、当時、まだ最盛期だった頃は、この男もこんな風に狂うこともなく、エリート街道をまっしぐらに驀進していたに違いない…まあ、その反動でこんな風に狂ってしまったんだろうけど。生気の欠けたボサボサの髪、生彩のない虚ろな双眸…そのくせ、獲物を捕らえる凶暴な肉食獣のように油断なく罠にかかった俺を品定めしている、その狂った双眸の中に秘められてる感情は…なんだ?

「…挿れるとなると暴れやがってぇ。その気になってるくせに暴れるのはぁ…犯された経験があるからだろぉ!?」

 決まってる、狂気だけだ!
 もういい加減、いい年だってのにこの野郎は…クソッ、どうしたらいいんだ!
 突拍子もなく調子っぱずれた金きり声で叫んだフィリップは、顔を歪めている俺の顎を力一杯引っ掴むと、唇をべろりと舐めてニヤニヤと笑いやがった。
 どうしてそんな、根拠のない仮定を断定的に言っちまえるんだ、コイツは。

「ヒーッヒッヒッヒ!いいねぇ、怯えながら抱かれてみろよぉ!犯されたヤツってのはぁ、始めは怯えてるくせにぃ、その気になった途端すぐに腰を振るそうだからなぁ…手っ取り早くて処女を犯るよりはいいんだぁ!!」

 グイッと力を入れて…あっ、と思った瞬間に灼熱の杭が、問答無用で先端を俺の胎内に潜り込ませてきやがった。

「…ッ、う…ッ」

 ほぼ反射的に、俺は縛り上げられた両手に力を込めて吊り下げている紐を力一杯握り締めていた。
 アイツに、何度犯られたのかは覚えていないけど、俺のその部分は、男を銜えこんだ時の記憶をさほど忘れてくれてはいないようだ。
 しっとりと絡み付いて、そのくせ、拒絶するように内壁を収縮させるもんだから、痛みがチリッとこめかみを焼いて歯を食いしばってしまう。
 ずる…っと、どんなに拒絶しても並じゃない先走りに濡れた先端は易々と潜り込んできて、はぁと息をつく俺の呼吸にあわせるようにして虫が這うような速度で進んでくるから、たまらずに首を左右に振るとフィリップのヤツはそんな俺の頬を捉えて口付けてきた。

「…ッ!」

 肉厚の舌で歯列を舐めて、割開くように突付いても俺が応じないでいると、胎内でゆるゆると動く灼熱の杭をグイッと押し込んできて悲鳴を上げさせ、口腔内に舌を潜り込ませてきた。縦横無尽に口内を舐めまわすフィリップの舌は、引っ込んで縮こまっている俺の舌を引きずり出してムリヤリ絡めて濃厚なキスを繰り返す。溢れる唾液を飲み下しても、含みきれない分は唇の端から零れて顎から胸元を濡らしていた。
 一度、男に抱かれた身体はすぐにフィリップを受け入れて、思ったよりもヤツが酷くしないせいか、それほど出血もせずに、だからこそ俺に自責を嫌と言うほど思い知らせる。
 こんなことなら…アイツみたいに酷くしてくれた方がいい。
 散々めちゃくちゃにされて、嫌と言うほど痛みを感じれば…コイツを殺してやろうと憎むことだってできるのに…これじゃあ、俺はどうしたらいいのか判らなくなる。

「ヒッ!…ぅあッ…ッ、あぅ!…んぅ、…ッ…ふ、い、いや…ッ…だッ!」

 フィリップの口付けに応えながら腰を摺り寄せる浅ましい自分の姿に泣きたくなって、気付いたら生理的な嫌悪の涙を零していた。
 助けて欲しい…誰か!
 こんなのは嫌だ!…誰か、俺を助けてくれよ…
 お願いだから…誰か…
 ガツンッ!
 不意に、剥き出しになっているダクトの中央部で派手な音がして、一心不乱に腰を蠢かしてハアハアと荒い息を繰り返していたフィリップがギクッとしたように頭上を振り仰いだ。腰の動きが止まってくれても、まだ止まったことに気付いていない括約筋は収縮を繰り返していたけど、俺もそんなことになんか構っていられなかった。
 この施設に来て俺が知った教訓は、どんな時にだって物音がすればそれは化け物がいる証拠で…と、どうやら俺を犯しているこの変態もそれだけは理解しているようだ。

「な、なんの音だぁ!?…畜生!いつもこうだッ!ボクばかりがッ、くそう!殺してやる、殺してやる!キヒヒヒ…ッ」

「…ッ」

 ズルッと、俺の胎内から長大な灼熱の杭を無造作に引き抜いたフィリップは喚くように叫ぶと、投げ散らかしている銃やコンバットナイフを手当たり次第に引っ掴んで頭上を振り仰ぎながらワケの判らないことを喚き散らしている。
 そうしている間にもダクトを這いずるソレはガツンガツンと金属音を響かせながら、速度を速めて移動しているようだった。ダクトはこの部屋をグルッと一周すると、下を向いている出口が扉の傍らに設置されていて、恐らくその場所から出てくるんだろうと思う。
 うう、フィリップじゃあダメだ!…とか思っても、コイツはずっと逃げ続けてきたヤツだ。大丈夫なのかもしれないけど…不安だ。
 自分を支えている紐、と言うか腕に体重をかけて肩で息をして散々蹂躙されてクタクタの身体を休ませながら、ダクトを這う得体の知れない化け物に意識を集中させていると、フィリップのヤツは俺の前に立ちはだかるように背を向けて銃を構えた。下半身丸出しで白衣ってのも笑えるけど、今はそんなこと言ってる場合じゃねぇ!
 そうだ、そんなことを言ったり休んでる場合じゃないんだ!

「フィ、フィリップ!これを解いてくれ!早くッ」

 ジタバタと暴れながら腕の紐を解こうとする俺を肩越しに見たフィリップは、その目に狂気の色を浮かべてニヤニヤと笑いやがった。

「い・や・だ・ね!そうやって逃げる気なんだろぉ!?そうはさせるかぁ!ボクの大事なおもちゃ…こんなフザケタ場所に閉じ込められて、やっと見つけたおもちゃ…」

 ブツブツと呟きながら口の端から泡を吹くフィリップは、この異常事態に対応できるほど精神が正常ではない。そんなこた判ってる!判ってるんだけど…クソッタレ!

「何言ってるんだ!?得体の知れない化け物なんだぞ!お前が、お前たちが創った化け物なんだろうが!どれだけ強いか…」

「うるさい!」

 フィリップは唾の泡を飛ばして喚くと、振り向き様に俺の頬を左手に持っていたコンバットナイフの柄で殴りやがったんだ。

「…グッ!」

「ぎゃあぎゃあ喚きやがって!ボクたちがあの化け物を創っただとぉ!?ボ、この、ボクがぁあの化け、バケモノをぉ!?この野郎ぉ!お前、お前たちはいつもそうだぁッ!抱いてやると言えば喚きやがってぇ!!散々その気にさせて…ちくしょおぉぉ!!!こんなボクだけこんな場所でぇ…ッ」

 鼻血がボタボタッと薄汚れた床に零れ落ちて、この野郎…力いっぱい殴りやがって!
 クラクラする脳裏にはフラッシュバックするように大毒蛇にやられてる栗田が浮かんでいて、なんだってんだ、いったい!?あの恐怖をなんで今さら思い出しちまうんだ!
 グイッと顎を掴まれて上向かされると、霞む目の前にフィリップの狂ったような、奇妙な表情をした顔が見えて…ああ、きっと俺はここでこの狂った男と死ぬんだろうと思った。
 あれほど生きようと思っていた俺の脳裏に、この時になって初めて芽生えた絶望感は…
 メキッ!ギギギッ…
 そんな絶望に半ば諦めている時だった。
 狂っているせいか、俺ばかりに執着するフィリップの背後の方でダクトが奇妙な形に 弛 んで、バキッ!と嫌な音を立てて中央部が欠損すると、何かがダクトの残骸と一緒に落ちてきた!

「…くっ!」

 まずい、まずいまずいまずいまずいまずい…!!
 クソッ!何を弱気になってたんだよ、俺!
 こんなヤツと心中なんてごめんだ!

「畜生、フィリップ!背後だ!撃てぇッッッ!」

「うるせぇっつってんだろうがぁぁぁ!!」

 轟音が室内に響いて、口許から泡を撒き散らしながら俺めがけてコンバットナイフを振りかざそうとするフィリップのその手から鈍い光を放つナイフが弾け飛ぶと、ヤツは悲鳴を上げてその場に蹲ってしまった。
 な、何が起こったんだ…
 ピュッと尻上がりの口笛が響いて、俺は呆気にとられたように床に着地してゆっくりと立ち上がるソイツを呆然と見つめていた。

「おやおや。お楽しみのところを邪魔しちまったかい?」

 日に焼けた褐色の肌と短く刈った黒い髪、目付きの悪さは人並み以上だってのに、なぜか好青年に思えていたのは屈託のなさそうな笑顔と白い歯で…それがニヤリ笑いに変わると、やっぱりただの悪党に見えるソイツ。
 俺の目の前に奇跡のように現れたソイツは。
 俺があんなに捜していた…そうだ、俺はずっと信じていた。
 ずっと、生きてるって信じていたんだ。

「タユ!」

 思わず叫ぶようにその名前を呼ぶと、タユは床でのた打ち回っているフィリップに長靴の靴音を重く響かせて近付きながら、手にした短銃を腰のベルトに挿して怪訝そうに俺の方に視線を向けてきた。
 変態野郎に拷問されてるような知り合いはいねーよとでも言いたそうに、不貞腐れた表情をして俺の顔を確認したタユは、一瞬だけど驚いたように目を見開いて、それから床で喚くフィリップを見下ろしたあと呆れたように腕を組んで顔を上げた。

「なんだ、この変態野郎と拷問ごっこでもして遊んでたのかい?確か、アンタはコータローだ」

「へ?あ、いや。ソイツにその…」

「背後だ、撃て!…とかなんとか言ってなかったか?」

 小馬鹿にしたように意地悪く笑われて、う…ッと声を詰まらせて俯く俺を観察していたタユに、床でのたうちながらジリジリと投げ出していた短銃に手を伸ばしていたフィリップが、けたたましく笑いながら立ち上がるとその銃口を向けたんだ!

「ひゃぁっはっはっは!!死ね死ね!みんな死んじまえぇぇッッッ!!!!」

「た、タユ!」

 俺は叫んだけど…タユのヤツは酷くクールな顔をして、フィリップが引き金を引くよりも早く銃口から火を噴かせていた。

「うるせーよ、おっさん。貴重な銃弾を無駄にさせやがって」

 タユはうざったそうに舌打ちした。

「ぎゃぁあああ!!」

 銃弾はフィリップの腕と足を撃ち抜いていて、放って置いたら失血死するんじゃねーのか?
 驚いて見ていたら、軽く溜め息をついたタユが重い靴音を響かせて近付いてくると、ギチギチに巻き付いたザイルのような紐を腰に挿していたコンバットナイフで切ってくれた。

「ありがとう、タユ…って、うわ!?」

 自由になった…とは言っても、なぜか切り落としたのは天井から伸びて俺の腕を繋ぎ止めていた紐だけで、両手を戒めている紐は切ってくれずに、それどころかタユのヤツはそんな俺を抱え上げたんだ。

「よ…っと」

「な!?あ、歩ける!歩けるったら、タユ!」

 足をばたつかせてもタユのヤツは下ろしてくれず、それどころかあの切れ長の鋭い目で俺の顔を覗き込んできてフンッと鼻先で笑いやがったんだ。

「大人しくオレについてくるか、それともここに残るか…選ばせてやるから早くしろ」

「え?…っと。ついていく、モチロンついていくけど…」

 だって、お前を捜していたんだ。
 絶対に生きてるって信じていたから。
 お前を見つけ出したら…全てがうまくいく。
 冗談みたいな希望が、ずっと俺を動かしていたんだ。

「タユ、ところでお前…なんで英語を喋ってるんだ?」

 抱き上げられていることに少なからず抵抗は覚えるものの、どうやら降ろしてくれそうな気配もないから諦めて我慢することにして、俺はさっきからどうしても納得できない質問をしてみることにした。

「へ?…ああ、いやまあ。その…生まれがアリゾナだからなー」

「ええ?だってお前、地元のレンジャーだって紹介されてたじゃないか…」

 俺の台詞に、鋭い突っ込みだなーとでも言いたそうな表情をして視線をそらすタユに、俺はワケが判らなくて眉を寄せたが、不意にブルブルと震える手で何かを白衣のポケットから掴み出したフィリップの姿に気付いて声を上げてしまった。

「タユ!フィリップのヤツが…」

「あぁ?」

 俺を両腕で抱えたままで振り返ったタユと俺の目の前で、フィリップのヤツは恨めしそうな、常軌を逸した真っ赤に充血した目をして憎々しげに俺を、そう、タユではなく俺を睨み据えたんだ。
 ぶるぶる震える手に握り締めていたのは赤いカプセルで…

「ぐ、ぐぅ~ッ!ふ、ふざけやがってぇぇ!ボクを、このボクを馬鹿にしやがってぇ…見て、みてろよぉおぉお!こ、このHR-9さえあればぁぁ」

「HR-9?」

 タユの眉がピクリと動いたけど…それよりも今、ヤツはなんて言った?
 『HR-9』と言わなかったか?
 アレは、あの時、あの変態野郎が燃やしてしまったあの紙切れにも『HR-9』と書いていた。それは細菌だとか遺伝子だとか、そんなモンのコードネームだとばかり思っていたのに…
 ガリッ…と、音が聞こえたような気がした。
 でもそれは錯覚に過ぎなくて、ただ単にフィリップが毒々しい赤色のカプセルを口に含んで飲み下しただけだった。

「はぁっはっはっはッ!!これで、これでボクは最強だぁ~!見てろぉぉ…」

 ぐっと腕を突っ張らせて上半身を起こすフィリップにタユは警戒したように鋭い双眸を眇めて見据えているようだったが…俺が心配するようなことは何も起こらなかった。

「どうやら、その薬は失敗作だったようだな」

 タユが鼻先で笑いながら呟いて、俺は本当にそうだろうかと思った。
 何か、何か不吉なことが起こるんじゃないかって…今までの経験が気を抜くなと警鐘を鳴らしているような気がして仕方なかったんだ。しかし、どうやらそれはタユも同じだったようで、余裕の表情を浮かべながらも、その双眸は油断なくフィリップの動向を観察しているようだった。

「…!?し、失敗作だとぉ!?そ、そんな馬鹿な…クソ!何もかもボクを馬鹿にしやがって!このボクをッ!ボクばかりが貧乏くじを引くんだ!!し、死んぢゃえ、みんな死んぢゃえばいいんだぁぁ」

 両手を髪に突っ込んで掻き毟りながら口許から泡を飛ばして喚き散らすフィリップには、なけなしに縋り付いていた理性が完全に滑り落ちちまったようで、どうやら完璧に意識を消失してしまったようだ。狂ったように頭を振り乱すそんなフィリップを、タユはただ無言で見詰めていたが、何も言わずに一瞬だけ目を閉じた。

「行くぞ」

 呟いて、踵を返そうとしたまさにその時…不意にポトリと、何かが蹲ってしまったフィリップの上に落ちてきた。こんな場所だ、もう何が起こったって平気なんだけど、それが蠍だってのには正直ビビッてしまった。
 こんなモノが平然とあちらこちらにいるってのかよ…とか、本当はそんなことはどうでも良かったんだけど…本当の意味で俺が目を瞠ったのは、フィリップが突然断末魔のような悲鳴を上げた途端、その大人の拳を2つ合わせたぐらいの大きさの蠍がグチャリと溶け出したんだ。
 タユと俺は思わず顔を見合わせて、目の前で展開している奇妙な光景に釘付けになってしまった。

「な、なんだってんだ、いったい…」

「ひぃぃぃッ!!あ、熱い、身体が熱いぃ!た、助けてくれぇぇッ!身体が熱いぃぃ~ッ」

 息を飲むタユが思わず洩らした言葉に被さるように叫んだフィリップは、全身を掻き毟るようにして身体を抱き締めながら床の上を転げ回って足掻いていたが、そのフィリップの身体もまるで溶け出した溶岩のように指先からドロリ…ッと溶け始めたんだ!
 そうして、俺たちの目の前でフィリップはどろどろと溶けながら…蠍と…

「ゆ、融合してるってのか!?」

 俺の思いを信じられないと言った口調でタユが代弁してくれた。
 そうだ、今まさに目の前で、フィリップと蠍が融合しようとしていたんだ。

「こいつぁ、ヤバイことになりそうだな…」

 呟いて、タユは不意に俺を肩に担ぐようにして片手を空けると、床に落ちていた幾つかの武器を掴んで踵を返し、その部屋の出口である扉の鍵を手にした銃で弾き飛ばすと、その扉を足で蹴破るようにして飛び出したんだ。

「た、タユ!?」

 大の男、それもタユに比べれば確かにヒョロッちぃかもしれないけど、それでも標準よりは逞しいはずの俺の身体を担いでるくせに、タユの走る速度は結構速くて、俺は肩の上で揺られながら無言で走る精悍な横顔を必死で見ようとした。

「HRなんたらが、どうも失敗作だったとして。それを飲んだあの男は蠍と融合しようとしている。こんな施設だ、もう何が起こっても驚きゃしないが…あんな状況をポカンと見てるほど余裕はなさそうなんでね。逃げるが勝ちってワケさ」

 凄い速さで壁が流れて行って、幾つかの角を曲がりながら、幸いなことにそれまでにゾンビ化した研究員と鉢合わせにはならなかったけど、背後で何かが爆発するような音が聞こえて、俺はビクッとして前を見た。タユから見たら後方になるんだけど。
 何かがあの部屋の中で暴れたんだろうか…?
 こんな所まで聞こえるほどの音を立てて、あれからだいぶ走ったってのに。
 フィリップに何が起こっているんだ?
 『HR-9』ってのは、いったいなんだってんだ!?
 グルグルグルグル、まるで凄い速さで流れていく壁のように、俺の頭の中で奇妙に溶け出したフィリップと蠍が何度も現れては消えていく。
 何がなんだか…もう本当は何も判らない俺は、ただ不安で、無意識に縛られた腕でタユに縋り付いていた。
 タユがいる。
 なぜだろう?
 ただそれだけのことなのに、あんなことが起こった後だと言うのに俺は、酷く安心している自分が不思議で仕方なかった。

Act.31  -Vandal Affection-

 奇妙な違和感がある。
 それがなんであるのか、とか、そんなことは判らないんだけど…この違和感はなんなんだ?
 あのジャングルで感じていたのと…そう大差ないような気もするんだけど。
 俺は薄ぼんやりと天井のライトが照らす長い回廊をマシンガンを構えたままで歩いていた。
 左右にはくすんだ白い壁が続き、こんなところにいるとどうかなっちまいそうな気がしてくる。いったい、この広い施設で何があったって言うんだ?
 奇妙と言えば施設が地下にあるってこともかなり奇妙だ。
 でもそうか、地上にこんな目立つ施設を建築しようものなら世界中の注目を浴びるぐらいには、高いビルになるんだろう。そうすると嫌でも人目につくワケだから危険な研究はできない、ってことは、ここではかなり危険な研究をしていたことだけは間違いないってことか。
 あんなに追って来ていた研究員もなりを潜めていて、全くの静寂が支配している。
 化け物が、どこに潜んで獲物を待ち受けているのか…考えただけでもゾッとする。
 身震いして、俺は唯一の武器であるマシンガンを構え直すと、その金属的な音を聞いて少しだけ安心した。銃弾は、もう殆どない。
 こんな状況下で、どうして須藤たちと離れてしまったんだろう…
 考えたって仕方ないんだけど、あんな数の化け物と化した研究員を相手にたった三人で何ができるって言うんだよ。せいぜい、殺されちまうのがオチってもんだ。
 一人でなら逃げ切れる自信があった。
 でも三人じゃ、どうしたってダメな時もある。
 須藤だってそれを感じたんだろう、アイツは頭がいいから、きっと桜木を助けて階下に行ってくれる。
 きっと会える。
 …なんてな。
 そんなこた、身勝手な願いってもんだ。
 こればっかりは…判るわけねーよ。
 アイツだってこんなわけの判らん状況下で、 臨機応変 に対処できるってだけでも凄いことなのに、桜木って言う 足手纏 いを抱えて化け物の 巣窟 を潜り抜けて階下に来いってのも…
 俺も凄いことを頼んじまったと、 今更 ながら後悔してるってのも本音だ。
 足手纏いなんて言ったら…桜木は頬を真っ赤にして怒るんだろうな。
 …俺は、アイツらを助けたいと思いながら、本当は自分が楽な道を勝手に選んじまったんじゃないのか?
 それこそ、自分の性格のゾッとする部分がいきなり浮き彫りにされたようで、俺は心臓が早鐘 を打つような早さでがなり立てる音を耳元で聞いていた。冷や汗が浮かぶ、嫌な気分だ。
 壁に手をついて緊張感と、また別の意味でも浮かび上がる汗を空いている方の手で拭っていると、唐突に壁にポッカリと空間が開いて、俺はまたしても汗を拭ってる態勢のままその空間に倒れこんだんだ!

「な、なんだって言うんだよ!?」

 態勢を崩して倒れ込んだもんだから、強かに肩を打ち据えて眉をギュッと顰めた俺は、痛めた肩を庇うようにして起き上がりながら毒づいていた。
 薄暗い回廊はいよいよ足元が見えるか見えないかと言った感じだ。周囲の埃臭さでここが長いこと使われていないことが判る。
 なんてこった、またワケの判らん場所に迷い込んだってことかよ…
 もう、手当たり次第に壁を触りまくるか、それともどこにも触れないで進むべきか…
 どちらにしろ、元いた場所に戻ることはできそうもないようだ。
  畜生 …どうも、なんか、おかしんだよな。
 どうしてこう、隠し扉みたいなモンがあるんだ?
 俺は目を凝らさないと見渡せない周囲の様子を窺いながら一歩ずつ進んでいると、どうやらここが広い部屋、と言うか、広い研究室のようなところだと判った。
 …どうも俺は、この部屋に導かれていたらしい。どこを見渡しても広いこの研究室には扉らしいものがないんだ。
 『隠し研究室』…そんな言葉が脳裏を過ったその時。

「ッ!?」

  唐突 に首筋に鋭くて熱い痛みを感じて前のめりに倒れ込んでしまった。首筋を押さえながら俺は、痛みに 霞 む目を 歪 めながら背後の何かの気配に振り返ったんだ。
 振り返ったその先、薄暗い闇の中で 微 かに 煌 く光を見たような気がする。
 あれは…眼鏡か?
 ああ…クソッ。俺ってヤツは、またあの変態野郎に捕まったってことかよ…
 それからすぐに、意識は深い闇に落ちていった。

「くっくっく…」

 男の、やけに 粘 りつくような、 咽喉 の奥に 絡 んだような 哄笑 が響いて、俺はふと、深い意識の 混濁 から目覚めた。

「…?」

 周囲は薄暗く、良く目を 凝 らしてでさえ辺りの様子を窺うことは困難だった。
 ここは…どこだ?
 身動きしようとして、不意に腕の自由が利かないことに気付いた俺は、ハッと我に返ったように本格的に 覚醒 した。
 そうだ!須藤たちとわかれて俺は、別の道に進んでいた。それから変な隠し研究室のようなところに迷い込んで…ん?迷い込んだ?
 ギチッと手首に食い込む 縄 の感触に、俺は我に返った。
 なんだって言うんだ!?
 腕の自由を取り戻そうと 躍起 になって暴れたけど、 縛 り方が複雑なのか、前に回された両腕はビクともしなくて余計に縄が食い込んできやがる。
 ふと、デジャヴュのようなものを感じて、俺は 眩暈 がした。
 そうだ、あの変態野郎に捕まった時も確か両手を縛られていたような…今度は柔らかいベッドじゃなくて冷たいタイルの床の上だけどな!
 変態野郎…そうか、またアイツに捕まったんだ!

「くくく…暴れろ、暴れろ!その方が楽しめるってもんだ」

  下卑 た笑いに 紛 れた英語のイントネーションで、俺を捕まえた野郎がアイツじゃないって事が判った。判って驚きはしたものの、だからどうにかなるってワケでもないし…
 どうやら最悪の事態のようだって言うのに、俺の恐怖に 麻痺 した 脳味噌 は思うような答えを弾き出してくれない。

「お前は誰だ!?」

 前で縛られているから噛み切ろうとした俺はそれが無駄な努力だと判っても必死で止めなかった。噛んでも噛みきれない…いったいどんな材質で出来た縄なんだ!?まるで何でも御座れって施設だな!
 闇に漸く慣れてきた両目を細めながら、俺は必死に声のする方向に怒鳴っていた。

「ボクが誰だか知りたいのかぁ?その前に、キミに紹介したい人たちがいるんだけどねぇ」

 キヒキヒと奇妙な笑い声を上げる男の薄気味悪さに嫌悪感を感じながら、俺はふと須藤と桜木、それから生息の確認ができていない連中のことを思い出した。

「だ、誰か、俺の他に誰かここにいるのかよ!?」

「いるよぉ!」

 研究室の無機質な壁に反響した思ったよりも大きな声が、耳を覆いたくなるような金切り声になって俺は思わず眉を顰めてしまった。

「なんだぁ…?その顔は!反抗的なヤロウだ!!」

 まずい!機嫌を損ねちまったら誰かが危ない。モチロン、俺も危ない。
 せめて誰が捕まってんのかだけでも聞かないと…

「悪かった!頼む、お願いだからソイツの名前だけでも教えてくれよ」

 懇願するように頼み込むと、男はヘラヘラと笑って洟を啜った。

「おいおい、マジかよ?他人の心配をする前に自分の事を考えたらどうだぁ?」

 どこかラリったような口調に背筋の冷えを感じながら、俺はコイツがまともな精神状態じゃないことを知ってますます竦みあがりそうになった。
 なんとか意識をその誰かから俺に集中させたくて、腕の戒めを解こうとさらに神経を研ぎ澄ましながらも、俺はこの施設で初めて出会った、あの生きた人間だったアイツとはまた違う狂気の匂いがする口調の、その見知らぬ男に声を掛け続けることにしたんだ。

「な、なぁ。アンタ、誰だよ?ここに来て二人目の生存者だし、せめて名前ぐらいは教えてくれたっていいだろう?」

「ひっひっひ…名前ねぇ。可愛い事を言うじゃねぇーか。ボクはフィリップ。さあ答えたんだ。今度はお前の番だろ?」

 ジャリ…ッと砂を踏み締めるような音を響かせたソイツが近付いてくるのを感じて、俺はできるだけ遠ざかろうと尻で後退さろうとした。けど、背中はすぐに冷たい壁に当たって、逃げ場所が後方にないことを教えてくれた。教えてもらったってあんまり有り難くはないけどな。
 できるだけ神経を 逆撫 でないようにしながら…それが 媚 びるように聞こえたのか、フィリップは俺の顎に伸ばした指先で頬を擽るような仕種をした。カサついた指先はゾッとするほど気持ち悪い。震え上がりそうになる嫌悪感を抑え付けながら、俺は唇を噛み締めて抵抗はしなかった。

「どうしたぁ? 怯 えて声も出ねぇって感じだなぁ?ええ、おい」

 擽っていた手で強く顎を掴まれて、俺は咄嗟の行為に苦しさを感じて僅かだが喘いでしまう。

「…ッ、こう、光太郎だ」

「コータロー?へえぇ、奇妙な名前だなぁ、おい?あの女を犯ろうかどうしようか悩んだんだけどよぉ、それじゃぁスタンダード過ぎて面白味がねぇだろぉ?だから、お前にしたってワケさ」

 生臭い息が顔に吐きかけられて、すぐそこに得体の知れない男がいるんだと判った。
 お、女?ってことは、桜木か三浦女史ってことか!?須藤か博士がいるのかもしれねぇ、この状況をまずはなんとかしないと…
 クソッ!でも腕を縛られてるんじゃ、何も反撃できねーよ!…ん?腕?
 そうか、よし。いちかばちかだか勝負してみるか。腕がダメなら…

「足だ!」

 不安定な場所での足技はかなり高度なテクが必要だが、そんなことを考えてるヒマなんかねぇっての! 勢 い任せの成り行き次第ってヤツさッ。
 だけど…

「甘ぇ、甘ぇ!甘ぇっつーんだよ、このバカが!」

 言うなり男、フィリップとか言うソイツは勢いだけで繰り出した俺の蹴りを、まるで見えているかのように簡単に受け止めて足首を掴み直すと、そのまま床に 引き摺り倒しやがったんだ!

「クッ!」

 後頭部を強かに強打した俺が痛みに一瞬怯んだ隙に、どうやらしゃがみこんでいたソイツは立ち上がると、癇に障るけたたましい声を張り上げて笑いやがった。

「活きがイイねぇ!犯りがいがあるってもんだ!」

 ゾッとするような事を言ってのけたフィリップに俺が青褪めた視線を向けると、まるで本気で楽しんでやがるヤツは小馬鹿にしたように声を引き 攣 らせて笑い続ける。

「イッツショーゥタイム!」

 どこか調子っぱずれのその声と同時に明かりが付いて、眩しさに目を細めた 途端 だった、前で縛られていた腕がグンッと勢いよく上に引っ張られて、俺はそのまま釣り上げられてしまった。

「!?」

 驚きに愕然とする俺の目の前で、フィリップは鋭利なコンバットナイフをちらつかせながらニヤニヤと寒気すら覚えるような目付きで俺を見ていた。片手にコンバットナイフ、片手には暗闇でも通常通りに見えるって言う、暗夜スコープらしき物を持っている。肩口まである艶のない茶色の髪は乱れ放題で、白かったはずの白衣は埃や得体の知れない液体で汚れきっていた。鼻を突いているのは汗だとか、そんな饐えた臭いだ。
 蛇のような滑った質感のある目付きに吐き気を覚えながら、コイツの出で立ちがあまりにもあの男に似ていなくて驚いてしまった。まるで正反対だ、いったいどう言うことなんだ!?

「誰かを抱くなんて久し振りだからなぁ、 手加減 なんかしてやらねーぞ!」

 ひっひっひ…と、何がそんなに可笑しいのか、狂ったような哄笑にいい加減ゾッとした俺は、よせばいいのにフィリップを睨みつけて鼻先で笑ってやった。

「いい様じゃねーかよ!男を抱くなんてな。この施設で働かされてたんだろ?案外、お前らも国の実験体だって思われてたんじゃねーのか?お前らの好きなマウスは雄同士でゲージに入れてると堪らずに犯り出すって言うからな。動物だって見られてもしかた…ッ」

 言葉は途切れて、頬に熱い痛みを感じて眉を寄せた。パッと広がる血の味に口の中は切ったんだろうと思う。クソッ!

「立派にモノを言う口を持ってるじゃねーか。ええ?可愛がってやろうかとも思ったけどよぉ、お前はダメだ。お前はひぃひぃ言わせてやる!」

 そんな風に子供地味た口調で言ったフィリップのヤツは、突然、その鋭利なコンバットナイフで俺のジーパンを切り裂きやがったんだ!器用なのかそうでないのか、下着ごと切ったようだが俺の皮膚には傷がついていなかった。
 両手を頭上で縛り上げられて吊るされた状態で、既にボロになっているT-シャツだけで、下半身裸って言うのは恥かしいし不安にもなる。だから俺は、恥も外聞もなく女みたいに内股になって近寄ってくるフィリップを牽制したんだ。

「こっちにくんな!この変態野郎ッ!!」

 どうしてこの施設で生き残ってる連中ってのはこう、男を…しかもこの俺を抱きたがるんだ!?何か呪われてるんじゃねぇだろうな、俺!

「そんな格好で威嚇しても男を煽るだけって判らねーのかぁ?くっくっく」

 ボロのT-シャツで漸く覆うだけの下半身に手を伸ばされて、俺は思い切り腰を引きながらその手から逃れようと試みる。

「あんたが言った他の連中はどうしてるんだよ!?」

 逃げる口実ってのもあるんだが、正直こんな姿を誰かに見られたくないって気持ちも充分すぎるぐらいにあった。だが、強引なフィリップはわざと尻に手を回して双丘の肉を揉みしだくようにしながら太股を触ってきて、俺は鳥肌を立てながら逃げようと身体を揺すった。そんな姿を見て喜ぶ変態フィリップは捕まえている連中の事なんか 微塵 も考えていないとでも言うような仕種をしやがる。
 アイツら…本当に大丈夫なんだろうか?
 いや、他人事じゃないんだけどね、マジで。
 現時点で一番ヤバイのはきっと俺だろう。

「ヒッ」

 思わず声が出たのは、太い指がなんの前触れもなく尻の中に突っ込まれたからだ! 第一間接までギュウギュウと詰めこまれて、胃が競りあがるような 圧迫 を感じながら渋々と飲み込んだ指先は断りもなく内部で動き出した。
 引っ掻くような突付くような…奇妙な感触に吐き気がする。

「こんな時まで他の連中のことを気にするなんて、コータローはお人好しだなぁ…まあ、いいや。その心意気に免じて教えてやるよ、他の連中はボクの可愛いペットと仲良くあっちの部屋にいるんだ」

 子供染みた口調であっちと言われても何処か判らねぇじゃねーかよ!
 ひひひ…と甲高い声で小気味良さそうに笑うフィリップに、俺は尻にヤツの指を咥え込んだままと言う恥ずかしい格好で、それでも間近にある顔に威嚇して歯をむいてやった。

「何をするつもりなんだ!?いいかてめぇ!仲間に何かしやがったら絶対にただじゃおかねぇからなッ」

 俺の剣幕を間近で見ていたフィリップは、呆気に取られた風でもなく、ゲラゲラとさも可笑しそうに笑って俺の腰を抱き寄せながら尻に突っ込んでる指を動かしやがる。うう、気持ち悪ぃ!!

「こんな状況でボクに何ができるんだぁ?可愛いあの女の子を犯すよりもやっぱりキミの方が面白かった!なんてボクは頭がいいんだ!キミがボクにできること」

 ヒィヒィ耳元で生臭い息を吐きかけながら笑うフィリップは、異常に大きく 膨 らませた前を俺の太腿に摺り寄せながら、とうとう指1本を無理矢理捻じ込ませた尻の中を引っ掻くようにして内部から押し広げるような仕種で蹂躙するから、俺は胃がせり上がるような息苦しさと苦痛の綯い交ぜした奇妙な感覚に堪らずギュッと眉を寄せて唇を噛んじまう。
 時折触れる前立腺に指先が引っ掛かって、俺は精液の漏れるような奇妙な感覚に鳥肌を立てた。

「決まってる!ココを遣ってボクを喜ばせるコトさ!!!」

 グリッと、わざと乱暴にしこりの様にあるその部分を思い切り引っ掻いて、大声で笑う狂ったような哄笑を聞きながら、俺は自分が痛いぐらいに勃っていることに気付いていた。
 ああ、なんてこった。
 俺は感じてるんだ。あの変態野郎の時のように無理に感じさせられてるんじゃなくて、グリグリと刺激された前立腺の甘い誘惑に、俺の本能が自分から 陥落 しようとしてる。
 嫌だ!
 嫌なんだ…
 俺は目尻に浮く生理的な涙を堪えながら、嫌々する様に首を左右に思いきり振って、この地獄のような痛みと快楽から逃げ出したかった。
 可愛い女の子…桜木のことか。
 ああ、桜木、俺はどうにかなっちまいそうだ。須藤とお前、きっと助け出そうと思ってるのに…どうして。
 どうしてこんなことになっちまうんだろう…この施設は狂ってる。
 それとも、狂ってるのはこの俺なんだろうか…?
 逃げ出したいと思いながら俺は、どうしてこんな時なのに…思い出しちまうんだろう?
 須藤でも桜木でもない…あの男のことを。
 どうして俺は…
 フィリップの狂ったような哄笑を耳元で聞きながら、俺はキツイ刺激に堪え切れなくなった意識が遠ざかるのを感じていた。
 遠ざかる意識の中で感じた柑橘系のあのいい匂い…でも今、俺の鼻先を掠めるのは饐えった異臭で。
 そんなはずはないのに、けしてそんなことはないのに…どうしてか俺は、あの男に抱かれている錯覚に陥っていた。

Act.30  -Vandal Affection-

 暫 く俺たちは呆然とその場に突っ立っていた。
 こんなところにいたって、時間の無駄だってのは良く判っている。でもなぜか、名残惜しい何かが後ろ髪を 引っ掴 んでいて、ここから立ち去れずにマゴマゴしているんだ。

「ここにいたって何も始まらん。どうやら一階上に投げ出されたみたいだ。さて、どうする?」

 傍らで手持ち 無沙汰 に突っ立っている須藤のヤツが、腕を組んで顎をしゃくりながら俺をチラッと見て首を傾げている。どうする…って俺に聞かれてもな。このままここから飛び降りるってのも気が引けるし…ってか、こんなところからダイブできるほど俺の心臓はそれほどタフじゃないって。

「取り敢えず、だ。まずはこの階を調べてみよう。おおかた、どこかに非常階段でもあるだろうし」

「佐鳥くん」

 不意に桜木の小さな声がして、俺と須藤が声のした方に振り返ると彼女は柵から離れた場所にある白い扉の前に立っていた。

「見て?ここ、ここが開くよ。他にも開きそうだけど…ちょっと遠いみたいだから」

 案外、桜木の方が実は結構タフなのかもな。
 俺と須藤は顔を見合わせると、肩を竦めながらちょっと呆れてしまった。
 小さく笑って、そうだな。
 桜木の気持ちを考えたら今は何も考えずに先に進む方がいいんだろう。

「須藤、行くぞ」

「…OK」

 頷いて、俺は桜木を脇に寄せるとマシンガンを構えた。
 銃弾なんてもう数える気にもならなかったけど、だからっていちいち文句を言うヤツはもういない。ここがどう言う状況の場所かってのは、もう十分把握できてるからだ…とか言ってるけど、実際はなんにも判っちゃいないんだ。
 なんせ、初めて手に入れた重要文書を得体の知れない変態野郎に燃やされちまうし、やたら逃げまくるばかりでこれまでの場所で何か発見していたとしてもかなりの確立で見落としている予感がする。いや、確信とでも言うか…
 まあ、だから今は慎重なんだけど。
 白い扉はどうやら鍵が壊れているオートロックなのか、少し突いただけで向こう側に開きそうだ。
 この施設(遺跡?)は 椎名文太郎 が発見するよりも以前に、恐らく遺跡をカモフラージュにしたこの施設内で、何かの実験中に事故か何かが起こったんだろうな。施設内をウロつく化け物地味た研究員も、ここは地下で、光合成もしないで生きている 羊歯植物を元にして作られたような得体の知れない植物も、突然馬鹿でかくなっていたあの蜘蛛も…なんにしたってこの施設に存在する全てがおかしい。
 どんな研究をしていたんだ?
 まさか、何かのウィルスとかで感染してあんなになっちまったんじゃないだろうな。
 だとしたら俺たちは…って、俺はバカか?
 感染してたらとっくの昔に俺たちだってあの研究員みたいになってるって。ったく、これだから大学の連中に『脳味噌筋肉野郎』って陰口を言われるんだ。
 そう、ウィルスだったら何らかの形で俺たちも感染しているだろう。そしたら、黒ずんだ肌で、皮膚は裂けて…でも傷口は膿んで弾けた筋肉組織を覗かせながら痛みすらも感じていない様子で迫ってくるあのゾンビの様になっちまってるのか…

「佐鳥?」

 ゾクッとしたら、突然行動を止めてしまった俺を 訝 しげに見ている須藤に肩を掴まれて唐突にハッと我に返ったんだ。

「いや、なんでもない」

 そう言ってもいまいち納得していない顔の須藤は、それでも片頬を上げる独特の皮肉げな笑い方をしてふんっと鼻を鳴らしやがった。

「ボーっとしてるってこた、お前。まさか腹が減った、なんて言うんじゃないだろうな?」

 医務室での一件を思い出して思わずブスくれた俺は、気を取り直して白い扉を押し開いた。
 扉の向こう側は…チッ。
 もう見慣れてしまった白い壁に覆われた回廊だ。青い色のくすんだリノリウムに、汚れてしまったスニーカーが足跡をつける。埃の積もった床にはその他に足跡が無く、閉鎖されてからの時間の流れを物語るような 静寂 に支配されていた。
 ほんの少しでも何か行動の 痕跡 でも残っていれば… 或 いは何か掴めたのかもしれないんだけど。結局はここでも大した収穫なんて得られないんだろうと俺が溜め息をつきかけたその時、唐突に少し離れたところにある左斜め前の扉が激しく内側から押し開けられたんだ!

「!?」

 俺は背後から入ってこようとしていた須藤と桜木を突き飛ばしてマシンガンを構えた。

「佐鳥!?」

 須藤の驚いたような声が上がるけど、今の俺にはそんなモンに構っているヒマはなかった。
 なんてこった!
 それでなくても残量がたかが知れてる武器しか持ち合わせてねぇってのに!
 不気味な 唸 り声を上げて姿を現したボロボロの研究員たちは、ある者は足首が奇妙に捩れたまま骨を晒して近づいてくるし、ある者は脇腹から内臓を垂らして近付いて来る。虚ろに空洞を晒す眼窩は奇妙な液体がこびり付いていて…クソッ!

「須藤!…お前の銃弾の数は!?」

「ああ?…数十発ってとこだ!」

「佐鳥くん!?どうしたって言うの!?ねえ!」

 俺が立ち塞がるようにして扉を覆っているせいで内部の状況を理解できていない桜木は喚いているけど、逸早く状況を察した須藤がマガジンを確認したのかどうか、取り敢えず答えを寄越してきた。

「…そうか。そなれなら大丈夫だな」

「佐鳥!?」

 俺はそう呟くと、徐に開いている扉に手を掛けて力いっぱいその扉を閉じたんだ!

「さ、佐鳥!どうしたって言うんだ!?」

 くぐもった悲鳴のような声が聞こえて、それでも俺は、その扉を開けるわけにはいかなかった。

「それだけ銃弾があれば大丈夫だ!できることなら、地下でまた会おうぜッ!!」

「佐鳥!」

「佐鳥くん!」

 ドンドンッと扉を叩く音が聞こえたけど、俺はイカれちまった電子ロックの下にある手動でもできるロックを下ろして鍵を閉めた。うまくいけば別の場所から抜け出すことだってできるだろう、だけど今は、ここで三人とも死ぬわけにはいかねーんだ。
 賢い須藤のことなら判ってくれるだろう。
 今度会うとき、会えたら。
 桜木はまた 愚痴 ってくれるかな…
 少し笑って、俺は扉から俺を目掛けて襲いかかってくる半端じゃない数の研究員たちを睨み据 えた。数少ない銃弾しかなかったけど、研究員たちとは違う方向に走り出しながら威嚇発砲して奴らの意識を俺に引き付けたんだ。
 案の定、こちらで何が起こってるのか気付いたのか、扉を叩く音がすぐに止まって気配がなくなったようだ。獲物を見失った研究員たちが 一斉 に方向転換すると走っている俺を追って来やがったから、それがなんとなく理解できた。凄まじいスピード…ってワケじゃないから、難なく振り切ることができる。だが、前方から新手が来たりなんかするともうダメで、だからこそ前方にも注意を払いながら進むしかない。
 それでも進むしかない。
 肩で息をしながら両サイドにある白い扉を押したり引いたりしてみるが閉まっていて、なるほど、この階で壊れていたオートロックはあそこだけだったのか…ってこた、須藤たちは。
 ヤバ…くはねぇだろう。
 アイツのことだ、出られないと知れば残り少ないとは言え的確にロックの部分を撃ち壊すだろう。
 研究員たちは俺を追って来てたから、もうあの場所にはいないだろうし…銃声で方向は教えたつもりだから、馬鹿じゃなきゃ俺の後を追って来ようなんてこたしねーだろう。
 はぁ、疲れた。
 走り回ってヘトヘトになった俺は、どこか遠くで銃声がしやしないかとハラハラしながら薄汚れた白い 壁 に背中を凭れて休むことにしたんだ…けど、壁だとばっかり思っていた場所はどうやら扉だったらしく、俺は唐突に開いた空間に背中から 敢え無 くダイブしちまった!

「おわ!?」

 転がるようにして入り込んだ俺の目の前で、扉は音もなく無情に閉まる。

「…ててて、なんだって言うんだよ?」

 強かに打ちつけた後頭部を擦りながら上半身を起こして周囲を見渡すと、そこは回廊になっていて、どこかの通路に出てきたようだ。
 須藤たちとは反対の壁に凭れていたってこた…あの一帯には部屋になっているスペースと、その更に奥に通路と部屋があるんだな。二重構造ってワケか。
 薄ぼんやりと明るい通路はどれも同じなのか、一辺倒で壁が白い。青いリノリウムだけが階層ごとに違うようだ。

「ここから下に行く階段なんてあるのかよ…?」

 虚しく呟いてはみたものの、だからってこのままここでじっとしてるワケにもいかなくて、俺は溜め息をついてマシンガンを構え直した。
 ヘビが出るにしろジャが出るにしろ、一先ずはここからの脱出を考えよう。
 下に行って須藤たちと会うのはそれからだ。
 アイツら…無事でいてくれよ。
 俺はそう願いながら歩き出した。

Act.29  -Vandal Affection-

「あっ!」

 突然、張り詰めた空気を無視して、俺たちの背後で桜木が大声を上げた。
 その声にビクッとした俺と須藤は慌てて声のした方に振り向いた。
 突然、俺たち三人の目の前に大きな一匹の赤味がかった黒い蜘蛛の顔が現れやがったんだ。

「おッわ!!」

 とっさに俺と須藤は跳ねるようにその場から 退 くと、水の溜まる床に背中から倒れこんだ。すぐに手にしていた銃を大蜘蛛に向けて構える。
 前門の虎後門の狼って状況に、それでなくても張り詰めていた神経の糸が音を立ててプッツリと切れちまうんじゃないかと言いたくなる。目の前に迫った謎の化け物の前に今度は大蜘蛛かよ!?
 全くツイてないぜ、俺たち!
 ヤツを相手にする前にコイツで弾がなくなる…ってこた、ここでエンドってことか?
 うう…冗談じゃねぇ!
 相手の攻撃が来ることに備えていた俺たちにとってその数秒の出来事は、異常なくらいに長く思えていた。
 たが、その時間は〝感じた〟のではなく、実際に流れている時間そのものだったんだ。
 気が付けば桜木がその前に立ってこちらを見ていた。
 焦った顔で、何かを口にしたらしい。
 張り詰めた精神の糸がそれでなくても細くなっていた俺の思考に、漸く桜木の声が耳に届いた。

「やめてっ!!」

 彼女の思いがけない行動に俺と須藤が戸惑っていると、真横のシャッターが二度目の衝撃で口を開けた。
 その亀裂から今までに見た中でも一番凶暴そうな化け物の頭が現われると、この狭い空間に進入しようと必死になっている様子で激しく体当たりを繰り返してゲートを壊そうとしていた。

「ど、どうするよ?マジで。最悪じゃねぇかよ…って、な、何だ!?」

 突発的な出来事に立ち竦む俺たちの足元を、どうしたことか、その大蜘蛛がすくい上げたんだ。

「おわッ!?」

「わッ!」

「きゃあッ!?」

 思い思いに声を上げながら放り投げられて宙を舞う俺たちの身体を、まるで器用に自分の背中の上に落とした大蜘蛛は、八本の足をめいいっぱいにふんばっていた。
 まるで何か、精一杯に力を溜めているような仕種で…

「この傷…もしかしてあなた、やっぱりあの時のクモちゃんなの?」

 大蜘蛛の複眼から背中に続く深い傷を見つめながら、不意に桜木が呟くようにそう言った。
 その言葉を聞くか聞かないかの一瞬後、大蜘蛛は八本の足にため込んでいた力を一気に爆発させたかのような瞬発力で、その巨体を宙に舞い上げていた。
 跳ね上がった蜘蛛は上階にあった手摺りに器用に足を引っ掻けると、俺たちをその内側通路へと放り投げたんだ。

「待って!待ってクモちゃん、あなた、どうして…」

 一瞬、桜木の言葉に 躊躇 したような蜘蛛は動きを止めて、彼女の顔をその複眼で確認するように見ているようだった。
 あの蜘蛛は桜木の顔を忘れていなかったんだろう。
 どう言った理由でかは知らないが、身体は以前見た何十倍も大きくなっていたが、あの赤味がかった黒い体毛に覆われていても、複眼から背中にかけて伸びた傷痕が桜木にあのときの蜘蛛を思い出させたんだろう。だが、そんなモノよりも桜木には自分に向けられた、あの悪意の欠片すら見付けることのできない静かな光を称える瞳に気付いたのかもしれない。いずれにせよ、あの緊張の中でもコイツがあの時の蜘蛛であって、自分たちの為に何がしかの好意を寄せているってことを桜木は理解したんだ。

『ギギ、キシャア!!』

 唐突に扉を体当たりでぶち破ったソイツが水の 奔流 と共に、たった今まで俺たちのいた空間に踊り込んでくると鎌首を持ち上げてきたんだ。
 なんて大きさだ!
 大蜘蛛の背後、まるで新たに現れた獲物を前に嬉しそうに鎌首を振るソイツの、その大きく裂けた口は醜悪そのもので、細く切れ長の目は魚介類には似つかわしくないものだった。
 身体は黒くぬめり気を帯び、その顔には醜悪な表情が、魚介類のクセに!凶悪な表情を浮かべて俺たちと蜘蛛を 値踏 みするかのように交互に見てやがる。

「これがプラント11なのか!?」

 須藤が叫んだ瞬間、そいつは俺たちのいる場所目掛けて思いっきり牙をむいて来たんだ!

「おわッ!!」

 俺たちは桜木を庇いながら横に 避 けた。
 鉄でできた床は音を立てて俺たちを受けとめるが、その衝撃は通常のコンクリートに叩きつけられるのと変わりがないくらいの衝撃があった。
 倒れた瞬間にプラント11が自分の尻尾で床を叩き上げたからだった。
 蜘蛛がプラント11の行動を見て手すりを素早く器用に這うと、ヤツの気を反対に引いたんだ。

「クモちゃん!!いけないッ、あなたじゃ勝てっこないわ!」

 桜木が悲痛そうに叫んだ。
 だが大蜘蛛は 威嚇 するように二本の足を大きく振り上げて、プラント11に挑みかかったんだ。
 桜木には大蜘蛛が何をしようとしているのか伝わっていたんだろうか。
 プラント11はニヤリッとその知能の高さを示すような表情を見せると、一気に手摺りに張り付いた蜘蛛へ向かって牙をむいて襲いかかる。
 だが、次の瞬間。
 大蜘蛛はプラント11の牙を避けると、首筋を這いながら階下へ降りて行った。

「ダメよ!クモちゃん!!あなた水に弱いじゃないッ」

 どうする事もできない俺のシャツを桜木は掴むと、まるで子供のように泣きじゃくりながら何度も繰り返し叫んだ。
 今まで俺たちのいたアクアリウム・エリアの最終地点で大蜘蛛とプラント11が対峙していた。それはパッと見るとタランチュラの化け物とアナゴの化け物同士がいがみ合っている感じだったが、その大きさのせいか殺気がビリビリと肌を刺してくる。
 一瞬の隙を突いてプラント11が蜘蛛の全身を身体で絡みとって縛り上げはじめた。
 ミチミチ…ッと嫌な音をさせて八本の足が力なく 痙攣 を繰り返す。

「いやぁッ!!クモちゃんが!!クモちゃんが…!」

 限界まで身体を乗り出している桜木は、今にも蜘蛛の元へ飛んでいきそうなくらい激しく暴れだした。そんな桜木に大蜘蛛はまるで「来るな」とでも言うように、痙攣とは明らかに違う確かな動きで何度もこちらに向かって足を上下に動かしていた。
 アイツの複眼が泣きじゃくる桜木の顔を幾つも映し出している。
 お前はいったい、何を感じているんだ?
 青白いプラズマが走って大蜘蛛の身体には数万ボルトの電気が流れていた。
 その度に激しく身動きのできない身体を痙攣させる。
 プラント11の発電能力は、並みの電気を起こす生物の比ではなかったんだ。本来は身を守るものや獲物を仕留める為の能力だが、実験室で見た装置用のバッテリー役として改良されたプラント11の発電能力は遥かに通常の能力を 凌駕 している。
 その事はさっき読んだ書類に補足書きされていたからもう知っているさ。
 そう思っているうちに蜘蛛が絶命した。
 その事をゆっくりと確認したプラント11がこちらに視線を向ける。
 この状況は…正直、ヤバイ!!
 プラント11はゆっくりと蜘蛛から離れながら悠々と身体をほどき、次の獲物の捕獲の為にこちらへ鎌首を持ち上げて様子を窺っている。
 次の獲物は…もちろん俺たちに決まってるじゃねぇか!
 絶望感の中で微かだが何かがプラント11の足元で動いた気がした。
 大蜘蛛の身体に何かしらの変化が起きているんだろうか。
 幸いなことに、それに気付いたのはどうやら俺だけのようだ。
 そう言えば…あの時。
 俺は〝【プラント】と【コード】で呼ばれる種では全く違う能力を持って生まれてくる〟と、【実験用動物に関する取り扱い注意書】を、桜木が蜘蛛にかまっている時にチラッと読んだ気がする。
 そう思い出しているうちに蜘蛛の大きさがひとまわり小ぶりになると、先ほどのダメージが嘘のようにすくっと八本の足で立ち上がっていた。
 俺は大蜘蛛がプラント11と異なる一面を見せてくれることを内心で期待していたのか?
 いやそれは…願いだったはずだ。

「キャアァァァ!!」

 桜木の悲鳴が上がると、その複眼を冷たく光らせた大蜘蛛は水面を 蹴 ってプラント11の背中に張り付いた。
 それに気づいたプラント11は身体をよじって先ほど仕留めた蜘蛛が駆け上がってきている事に気付くと、牙をむいて大蜘蛛に襲いかかって行った。
 【プラント】と【コード】の違いが激しく衝突する場面だ。

『蜘蛛が【コード】で呼ばれ、他の実験動物が【プラント】と呼ばれている違い。それは過酷な環境下でも完全な戦闘能力を保持し続けて勝利条件を得る能力であり、相手に真の恐怖を与える 完璧 な完全体の事をいうのだ。つまり、【コード】が持つ特殊能力から生まれ出る〝絶対〟という名の【闘争本能】である』

 今なら俺でもその意味が判る気がする。
 研究員たちが何を言いたかったのか…
 プラント11はすぐさま同じように大蜘蛛をからめ取った。
 そして同じように電気攻撃を仕掛ける…だが、大蜘蛛は先ほどのような痙攣を見せずに身体をモゴモゴと動かしているだけだった。締め付けがさらに進んでも、身体がへしゃげだそうとも、固唾を飲む俺たちの目の前でヤツは死を恐れることもなくその視線には殺気を浮かべていた。
 だが一瞬、桜木の方をジッと見つめた大蜘蛛は、今までに見せた事の無い凶悪な牙を剥き出して一気にプラント11の背中にカジリついたんだ!
 俺は知っていた。きっと須藤も同じだっただろう。
 大蜘蛛は【コード】…つまり生物兵器で、その能力は世界を震撼させる程の毒に関するスペシャリストだと言うことを。
 そして…ああ、お前。桜木にその牙を見られたくはなかったんだろうな。

「…あの蜘蛛をどうして逃がすことに賛成しなかったのかと言う本当の理由。それはこれから判るはずだ」

 須藤は身体の大きさに変化を起こした大蜘蛛を見ながら呟くように言った。

「〝毒の種類を自分の身体の変化で変えることができる〟って資料に書いてあった。だが、その能力にはある条件が伴っているんだ…」

 俺たちの視界には大蜘蛛に背中を噛まれながらも、必死に蜘蛛を絞り上げながら暴れるプラント11の姿があった。
 そんな姿を見ながら俺たちは固唾を飲んでその状況を見つめていたんだ。

「その条件は…」

 須藤の言葉がそこまで出た時に、『ギャッ!!』と叫び声を上げて慌てて大蜘蛛を放り出すプラント11の姿があった。
 だが、身体が見る見る浅黒く変色しながら、硬直を始める筋肉に逆らえず徐々にまっすぐになって水の中に沈んでしまった。

「クモちゃん…」

 桜木の視線の先には大蜘蛛がプカリと水面に仰向きで浮んでいる姿があった。
 呆然とした視線のままの桜木だったが、 徐 にハッと我に返ると慌てたように須藤の腕を引っ張って言ったんだ。

「ねぇ、須藤くん!クモちゃんはまだ生きてるよね?」

 動かない蜘蛛を見つめながら、瞳に涙を一杯に溜めて須藤に尋ねる桜木の姿は、真実を拒むような仕草でヤツを困らせていた。

「…」

 須藤は言葉なく 外方向 く。
 須藤は教えてくれないんだと思ったのか、桜木は俺の胸の中に飛び込んでくると、俺たちを助けた大蜘蛛の名前を何度も呼んでいた。

「桜木…」

 俺はどうしたら良いのか判らないまま、ただ無言で桜木が泣き止むまでそうしているしかなかった。
 暫くして、桜木はまるで真実を受けとめることを拒否したかのように、唐突に自分の両耳を塞ぐと絶叫するような大声で泣きながら蹲ってしまった。

「クモちゃんーーーッ!お願い…ああ、お願いだから嘘だって言って!」

「桜木!」

 俺は堪え切れなくなって彼女の両腕を掴むと引っ張り上げたんだ。

「いや!離して、佐鳥くん!!強く生きてねって、頑張るんだよって約束したじゃない!辛いかもしれないけど、きっと生き抜こうねって…なのに、なのに死んじゃうなんて!そんなの許さないんだからッ!!」

「桜木!」

 パンッ!…と、乾いた音が周囲の白い壁に反響して、それまで泣き 喚 いていた桜木がプッツリと糸が切れたように無言になった。大きな双眸をもっと大きく見開いて俺を見上げてくる。
 だらんっと垂れていた、もう今は汚れてしまった腕が操り人形みたいに持ち上がって叩かれた頬に触れている。

「しっかりしろよ、桜木!!なんの為にあの蜘蛛が身体を張ったんだ!?お前を狂わせるためか?違うだろ!アイツは桜木が〝頑張るんだ〟って教えたことを忠実に守っていたじゃねぇか!アイツは、アイツは…一番大事なものを守るために頑張ったんだろうがよ…ッ」

 なんとも言いようのない、遣る瀬無い気分で目線を伏せた俺を、桜木がどんな思いで見ていたかなんて判らない。ただ、大きく見開かれた目からプカリと浮かんだ大粒の涙は、汚れてしまった頬をゆっくりと滑り落ちて、音もなく床に零れてしまった。

「…クモちゃん…」

 本来なら桜色で綺麗な桜木の、それでもやっぱり綺麗な唇から零れ落ちた 儚 い呟きに、まるで応えるかのように水面に浮かぶ蜘蛛の身体が…
 パシャ…ン。
 静かな音を立てて、まるで桜の 花弁 のような 塵 になって、水面いっぱいに広がって浮かんだんだ。
 その光景は気味が悪い…なんてとても思える状況じゃなくて、なんて言うか。
 凄く、ああそうだな。
 凄く綺麗だった。

「桜木…あの蜘蛛は今までにない、最高の体験をしたんだよ。生物兵器としてこの世に生を受け、だがその役目さえ果たせないまま無意味に死のうとしていた自分を助けてくれた、その人間を自分の恐ろしくて 忌 わしい能力で救うことができたんだ。これ以上の経験なんてきっと、俺たちにだってできやしないさ。だからあの蜘蛛は、幸せだったんだ」

 ガクッとくず折れるようにへたり込んだ桜木の肩に触れながら、須藤にしては珍しく穏やかな口調でそう言った。
 須藤も感じたんだな。
 あの蜘蛛が 垣間見 せた一瞬の想い。
 蜘蛛にしてはやけにカッコイイ、あの静かで情熱的な眼差しを…

「良かったな、桜木。ハンサムな奴に惚れられてさ」

 同じ男として、賞賛できるよ。
 蜘蛛、お前…人間よりも人間らしかったな。

「だからほら、笑ってやれよ。アイツが惚れたイイ女の最高の笑顔で見送ってやれ」

「…佐鳥くん、須藤くん」

 桜木の呆然としていた双眸に理性の光が戻って、小さく瞬きをすると、ほんの微かに彼女は微笑んだ。

「クモちゃんは…きっと綺麗なところに逝けるよね?もうこんな場所じゃなくて、きっと、今度生まれてくる時はちゃんと幸せになれるよね?」

「当たり前だろ?惚れた女がいるんだ、今度生まれてくる時は飛びきりイイ男になって戻ってくるに決まってんじゃん!」

 俺が 軽口 を叩くようにそう言って、笑いながらその肩を手加減しながら 叩 いてやると、桜木は不意に笑った。
 まるで何かを吹っ切ろうとするように、笑っていた。
 笑いながら、ポロポロと零れる涙は綺麗だった。
 振り返りながら、あの蜘蛛は桜木を見ていた。
 大蜘蛛になっても、桜木だけを一心に見つめていた。
 忘れないように。
 忘れないでいて欲しいように…
 だから、なあ桜木。

「クモちゃん、あたしきっと。あなたを忘れないから」

 さようなら…
 溜め息のように零れた言葉を聞き届けた蜘蛛の桜色の 残骸 は、その想いをまるで 遂げられたんだと、そして桜木の心を見届けられたんだと、ホッと安心したのか、満足したように水面の底に沈んでいった。
 こんな生死をかけた場所で、たった一瞬の 邂逅 だったけれど、俺たちは世にも得難いものを手に入れることに成功したんじゃないだろうか?
 須藤と目線が合って首を傾げると、ヤツはなんとも言い難い複雑な表情をして笑いながら、小さく肩を竦めてみせた。
 幸せか?と聞かれて、簡単に答えられるヤツなんていないだろう。
 でも、あの蜘蛛は。
 幸せか?と聞かれて、きっと今なら素直に頷くに決まってら。
 さあ、今度は俺たちの番だろ?
 幸せか?と聞かれて、その通りだと頷けるように、博士たちを助け出して日本に帰ろう。
 そうすることが、今の俺たちの幸せなんだ。

 なあ、蜘蛛。
 お前、忘れられなかったんだよな?
 あの、掌のぬくもりを。
 無条件で与えられた優しさを。
 「生きてね」と掛けられた、無償の言葉を。
 そして、直向きに向けられた。
 あの優しい眼差しを…

Act.28  -Vandal Affection-

「佐鳥、桜木…無事か?」

 漸く我に返ったのか、逸早く須藤が荒い息を吐きながら立ち上がると、俺たちを見下ろしながら声を掛けてきた。まるでそれが 暗礁 に乗り上げちまった船みたいにピクリともしない俺と桜木を動かすタンカーの音のように響いて、漸く俺たちも時間を取り戻すことに成功したんだ。

「ああ…まあ、なんとか」

「さ、佐鳥くん。ありがとう…」

 自分の置かれている状況に気付いた桜木は、恥らうように目線を伏せながら俺の上から身体を起こしたものの、立ち上がることはできなかったようで浸水した床にへたり込んでしまっている。

「取り敢えずは…ってとこだな。まあいい。暗いがこの部屋について調べてみよう」

 手探りで立ち上がった俺は、そう言えば…と思い出して尻のポケットに突っ込んでいたペンライトを取り出した。水だとか衝撃だとかで壊れていなきゃいいんだが…

「佐鳥、お前いいモノ持ってるな」

 幾度か確かめるためにカチカチと付けたライトはいいカンジで光を 点 し、その僅かな明かりを眩しそうに目を細める須藤が口角を釣り上げるような嫌味な笑いを口許に張り付けてそう言った。
 …まあ、確かめるのにわざわざ須藤の顔を照らす俺も俺なんだが。

「…明かり」

 薄暗い室内に点る僅かな明かりはそれだけで安心できるのか、桜木がホッとしたように溜め息を吐くのが気配で感じ取れた。

「よし、それじゃあ調べてみようぜ」

 俺は須藤にそう言うと、一先ず天井を照らしてみた。照らしてみて、愕然とした。

「キャッ!」

「!?」

 どう言った仕組みでそうなっているのかは判らないけれど、突然パッと明るいライトが点灯して真上から照らしてきたんだ!
 思わずペンライトを取り落としそうになった俺は慌ててソレを尻ポケットに 捻じ込む と、ライトの眩しさに慣れない目を半ば覆うように片手を翳してそれでも天井を見上げた。
 その時になって漸く俺たちは天井が吹き抜けになっていることに気付いたんだ。
 吹き抜け?…ってのは、なんでだ?なんで、吹き抜けである必要があるんだ?
 俺は疑問に思ったが、思っただけでそれを須藤に聞こうとは思わなかった。なぜなら、今はそんな時じゃないし、それを知ったからってここから出る手段にその答えがどれぐらい役に立つんだなんて聞かれても、単純に答えられないと思ったからだ。
 俺は 一旦 その考えを振り払って、取り敢えず状況を 把握しようと須藤とその場でグルッと回って室内を見渡してみた。
 部屋は真四角だったけど、そこは一時的な避難所なのかなんなのか良く判らない造りで、逃げるとするなら真上の階にある側面通路に向かって這い上がるしか他に手段はなさそうだ。

「行き止まり…ってワケか。参ったな」

 すぐに俺から離れて四方を囲む壁を入念に調べていた須藤が、どうやら脱出できるようなハッチだの 通風孔 のような 類 は見当たらなかったのか、渋い顔で戻って来ながらそう呟いた。動揺を 滅多 に見せるような男じゃないが、今度ばかりは万事休すと言ったところか。

「どうする?これ以上は進めそうにない…」

 よろけながら立ち上がる桜木に手を貸してやりながら須藤が俺に言うし、桜木も不安そうに見てるからな、おいそれと万事休すだな!…とは口が裂けたって言えるもんかよ。
 ああ、判ってるさ!
 何か、何か考えないとな…
 俺は鬱陶しく張り付いている前髪を 掻き揚げ ながら、腰に片手を当ててもう一度吹き抜けを振り仰いだ。
 照り付けてくるライト。
 逃げる道はズバリ!そこしかないってワケか。
 …だけど、それにだって問題がある。
 俺や須藤ならなんとかなるかもしれない。だけど、桜木には無理だ。
 それでなくてもたった今まで精神的な面でも肉体的な面でも恐怖を味わっていたんだ、女の子の体力なんか高が知れてる。そりゃ、女を舐めるな!…とか言って頑張れる子だっているに違いない。だけど、現実問題として局面に立たせられれば失神の一つだってしかねないんだ。
 これまでの桜木は良く頑張ったと思う。キャーキャー喚いて失神ばっかりするような子じゃなかったし、今だって本当は泣き出したいに決まっているのに、そうはせずに確りした態度を見せている…でも、やっぱり彼女は女の子なんだ。
 ましてやこの高さだ。カタカタ震えている足じゃ無理だ。
 男の俺だって悲鳴を上げたい。
 はぁ…どうしたものか。

「佐鳥…」

 眉間に 皺 を刻んで悩む俺の考えを見抜いたのか、それともやっぱり同じことを考えていたのか…須藤が煮えきらずに渋い顔をする俺に声をかけたその時だった。
 どこかの…いや、恐らくはすぐ近くの防水用シャッターが恐ろしい轟音と共に吹っ飛んだようだった。

「キャアッ!!」

 桜木が頭を抱えてへたり込むその背後のシャッターが…あの他のものに比べると少しは頑丈そうなシャッターが奇妙な形で 歪 みやがったから、須藤はすぐさまへたり込んでいる桜木の腕を掴んで強引に立ち上がらせると俺の傍まで転がるようにして走ってきた。

「どうやら、素直には逃がしてくれないみたいだな!」

「全く!いよいよ、奴さんのお出ましってか?」

 焦りの 滲 む須藤の言葉に、俺は、軽口を叩くつもりで失敗した言葉を苦く噛み潰した。
 須藤の焦りが良く判る。こんな状況だ、できることなら…そうであって欲しくないと願っていた。
 僅かに入った亀裂の 隙間、その間から、爬虫類の持つあの独特の瞳をした目が内部の様子を窺うようにギロリッと動いて、覗いてるのが見えた一瞬後、そこから水が一気に流れ込み始めた!
 だだだだ…と嫌な音を立てて流れ込む水のおかげで水位は上昇するし、得体の知れない化け物と、こんなせまっ苦しい室内で遣り合うのかと思うと…正直生きた心地なんかするもんじゃねぇ!
 俺たちは、怯える桜木にも 叱咤 しながらあるだけの武器を手当たり次第に構えてその時を待つしかなかったんだ。
 既にゲートはほぼ半壊状態で、入りこむ水の量が、俺たちがそれほど長くはここに立っていることができないと物語っている。
 実際、浸水だけならその力を借りて2階に駆け込む…って策もあった。
 ああ、押し寄せてるのが水だけ、ならな。
 水嵩は増える一方で、もう膝ぐらいまでには到達しようとしている。
 今までの度重なる死闘で体力と精神力を消耗しきっているこの俺たちに、いったいどんな攻撃を仕掛けてくるかも判らない化け物を相手に何ができるって言うんだよ!?
 笑いたくなったり、泣きたくなったり…精神状態は即ち最悪で、極限まで研ぎ澄まされてヘトヘトに 摺り切 れた脳味噌はとっくに注意力を失っていて、手に構えたこの武器が果たして相手に通用するのかと言う事実にさえ考えが回らないと言った状況なんだ。
 それはたぶん、須藤も桜木も一緒だったと思う。
 ここで死ぬんだろうか。
 ここまで来て…仲間の一人も助けることができないまま、俺を信じてついて来たコイツらさえも道連れにして…?
 俺は…俺は…

「心配するなよ、佐鳥。ここまで来れたんだ、きっと生き残ることはできる!下手なことでくよくよと無い脳味噌を遣うぐらいなら、今、この状況を打開していくことだけを考えようぜ!」

「そうだよ、佐鳥くん…」

 まるで、俺の考えていることを見透かしたように、 或 いは覚悟しているかのように、須藤と桜木が小さく笑っている。
 その顔には疲労と焦燥感みたいなものがベッタリとクマのように張り付いてるって言うのに…
 そうだ。
 どんな状況下だって、一度だって諦めたりしなかったじゃないか!
 たとえ、ああ、たとえここが俺たちのエンド地点だとしても、最後の最後まで人間らしく無駄に 足掻 いてみるってのも悪くねぇよな?
 俺は、きっと疲労とかでおんなじ顔をしているに違いねぇけど、須藤たちを振り返って頷いて見せた。
 死ぬかもしれない。
 ああ、今度こそ本当にな。
 水死も化け物に食い殺されるのも同じぐらい辛いだろうけど、何もせずに死ねるかってんだ。

「やれるところまでイッチョ、やって差し上げようぜ!」

「望むところさ」

「あ、あたしも!」

 俺の、自分的にはなんだかな…と言いたくなる決意の言葉に同調した須藤が頷いて片方の口角を釣り上げる、あの嫌味な笑いを口許に刻むと桜木も慌てて頷いた。
 不安で怖いんだろうに…
 俺たちは、水嵩の増す冷たい室内で、その今となっては薄っぺらい防水シャッターの向こうで獲物を食らおうと、今か今かと待ち構えている化け物と 対峙 するその瞬間を待っていた。
 その一瞬が、俺たちの最後だとしても。
 希望は忘れない。

Act.27  -Vandal Affection-

 「何かしらアレ?」

 最初に桜木が正面のガラス越しに見える実験室を指差した。その中央に設置された何かの装置を見た須藤がそれに反応したんだ。

「こりゃ、すごいな。こんなものがこんな場所にあるなんて驚きだ」

 須藤がその装置を見て思わず…と言った感じに声を漏らす。
 どうして須藤が初めて見るその装置の事を“こんなもの”と言って驚きの声を漏らしたのかは疑問だったけど、何も知らない連中の中で俺や桜木よりも物知りな須藤が何か知っているのならそれでもいいと思って口には出さなかった。
 と言うか、あの謎の雑誌【グレッグス】にでも何か書いてあったんだろうと思っただけで、敢えて何か言おうなんて思いもしなかったってのが本音だ。
 その装置をよくよく見ると、先端部分に注射針のようなものがあり、全体の感じからして何かの発射装置を思わせていた。

「何を実験していたんだ?」

 俺は手近にあった書類を手にすると、目を通してみた…けど、結局、須藤の奴に【脳味噌筋肉】と言われている俺のことだ、全く全然、これっぽっちも意味が判らなかったから須藤にソイツを渡して 判り易く 説明してもらうことにしたんだ。

 ふん、「聞くは一瞬の恥、聞かぬは一生の恥」だ!呆れたような蔑んだような目付きをされても構うもんか。要は理解できるように訳してもらえればこっちのもんだろ?
 開き直った俺に須藤の奴は肩を竦めただけで何も言わず、取り敢えず本人も興味深かったんだろう、書類に目線を落とした。
 書類にはこう書かれていた。

『レーザー装置取り扱い方法:

 この装置は高圧電流から高粒子レーザーの発生を起こすもので、あくまで試験的に製作された装置である。よって、実用的な目的についての使用は確認されていない為、下記の注意点に留意した上で試験作業にあたって欲しい。

1.高圧電流の発生に 伴 う注意:

 全てのエネルギーはプラント11の発電能力からエネルギー供給するシステムになっているが、プラント11の生命レベルがパネルに表示される為、そちらに注意しながら実験する必要がある。

2.発射後の再発射について:

 再度発射させるには 充填 時間を必ず伴う。これは数分間の冷却時間を与える事によって、100%の出力を維持する上では重要なことなのでくれぐれも注意すること。冷却時間を与えないで発射するような事は、本体ばかりではなく負荷電流によるプラント11の生命にも大きな影響を与える事に成りかねない。

3.標的について:

 指定された物以外への発射を禁ずる。』

 その紙面にはこの他に何かの記号なんかが書いてあったが、特に今の俺たちには関係ないだろうと須藤が言った。

「とにかく、この装置はレーザー砲開発の為に作られたテスト機だと思う。今の段階で俺たちが注意したいのはこの装置ではなく、このプラント11っていう厄介な物がいる点だろうな。まぁ、今までのことを考えて予想しても、プラント11が生き物で、ここのどこかにソイツがいると言うことは確かだろうよ」

 何枚かある書類へ一枚ずつ慎重に目を通していた須藤は、渋い顔をしてそんな風に言った。なんにせよ、またしても変な生き物に右往左往させられるかもしれないってことだな。
 ったく、面倒臭ぇなぁ…
 現時点で新倉の見せた幻影で消費した弾薬を 踏 まえて考えても、とても大物の化け物に遭遇して応戦できる 程 の銃弾は残っちゃいない。そりゃ、大きいって言っても子犬サイズなら何とかなるかも知れないだろうけど、ここのスケールで物を言えばそんな夢みたいなことは口が裂けても言わないでおこう。ヘタな希望すらも 見出 せないような場所なんだ。
 そんな風に悩んでいる時、ガラス越しの俺の視線にその装置が飛び込んで来た。

「コイツって動かせるんじゃねぇのか?もし、取り外せるんだったら新しい武器になりそうだと思わねーか?」

 その言葉に桜木の顔がパッと明るくなって手を叩いて俺の意見に共感を示した。
 新しい強力な武器の入手を喜んでいる俺たちの方をチラッと見た須藤は鼻で笑うと、呆れた口調で俺と桜木の頭を丸めた書類でポンポンと叩きやがった。
 なんだって言うんだ!?

「お二人さん、コイツが一体何キロあると思ってるんだ?パッと見ても三人じゃとても抱えられるような代物じゃないってことぐらいは理解してるんだろ?それに現段階で『実用性を確認していない』ってことは使用してもそんなに 威力 がないのか、 或 いは全く使用できないってことなんじゃないのかな。さらに加えて言うのなら、エネルギー面の関係上、試験室以外での使用はできないって風に感じられることも注意書きに書いてなかったか?」

 そう言われて俺たちは顔を見合わせると、二人揃って仲良くシュンッと肩を落としてしまった。
 ちぇ!

「それならせめて装置を動かしてモノは験し…ってのをしてみようぜ!」

 そうでもしないと諦めもつかないし…使用できなければ俺も桜木も諦めることだってできるしな!

「そうだな。幸い標的がセットされているし、ギリギリまで実験を行っていたように見えるから準備は整っているようだが…これを動かすなんてことは俺でもできないぞ」

 顎に片手を当てながら言う須藤の脇から間髪入れずに口を挟む。

「なぁ、須藤。ここまでお膳立てされていながら実験を見ないってのはソンじゃねぇのかな?」

 少し強引だが俺はそう言うと、須藤を押しのけて手前にある端末の電源を入れてみた。モニタに通電されるとシステムが起動を始めて、操作プログラムにオート・ログインされる。ここの管理システムに接続された端末はすぐさまこの装置のデータにアクセスを開始するんだろうな。 暫 くすると操作画面を表示させるモニタの端末が次の命令を待っていた。

「動かせるのか?」

  殊の外 不安そうに言う須藤の肩を叩きながら俺は余裕の顔で笑って見せた。須藤よりも遥かにオツムの悪い俺だったとしても、こんなもんは要は時の運と勘がモノを言うんだって。

「あのなぁ、須藤。こんなモンはな、ある程度の“知識”と“勘”があれば動かせるって。勝負は時の運任せ…っと。あとはこうやって…こう、で、そら!起動を始めてるぜ」

 俺の言葉通りに装置は細かい振動を始めると、各部にエネルギーを充填させ始めた様子だった。

“エネルギーゲージを調節してください”

 表示されたメッセージを手近にあるマニュアルで調べたが、的確な数値を入力しろと書いてあるだけで、その値について詳しい記述は記載されていなかった。 一旦、研究員の実験報告書をあさって読んでみたが、どの数値が該当するのかすら判らない俺たちが見つけ出せるはずもない。
 結局、途方に暮れた俺たちの取る行動なんて限られてる。
 まあ、つまりだ。
 須藤と相談して適当な数字を入力してみることにしたってワケだ。

「…おいおい。本気でそんな数字を入力するのか?」

「何を入力しても同じなら、どうってこたねぇだろ?」

 俺たちの 遣り取り を不安そうに黙って聞いていた桜木が、肩を竦める俺を少し呆れ顔をしながら苦笑いしてみせたけど、当の須藤はなんとも 言い難い 表情で腕を組んでいる。
 装置は微妙な振動を繰り返してはいるものの、レーザーを発射する気配もない。
 入力値に問題があるのか?

「何か足りないんじゃないのかな?」

 困惑したように眉を寄せる桜木が不安そうに呟く 傍 らで、須藤が手にした書類とモニタを交互に見ながら口を開いた。

「ん?そう言えばプラント11からの電力供給はしたのか?」

 須藤が指先でモニタにある『プラント11:0%』という表示を指した。

「プラント11?ああ、そうか…プラント11っと。このボタンかな?」

 俺は 操作盤 にある、プラント11と記載されたボタンを押してみた。
 エネルギーゲージが急激に上昇する様子がモニタに表示されると、振動が小刻みから連続的なものへと変わっていった。
 どうやら、いよいよ装置の準備が整った様だ。

 「起動…してるのか?」

 「起動って言うんじゃなくて、ヤバイのかも……」

 振動は 既 にピークに達して、その動きにあわせて機体を止めるボルトがだんだんと緩むのがはっきりと見えている。
 “ガタガタ”と音を立ててレーザーの 矛先 がゆっくりと標的からズレ始めた。 既 に発射準備が完了してレーザー砲の先に青白い光が集中しているのが判る。
 …その先には。
 俺たちがいる。

「って、おい。ま、まさか…」

 俺のセリフが言い終わる前に針の先端へ青白い光が集まるのがピークに達していた。
 【発射準備完了】の文字がモニタに表示されると、いきなり俺たちの間を通ってレーザー光線が走り抜ける。
 まだ発射指示も出していないって言うのに、なんて無茶苦茶なシステムなんだよ!!
 頭を抱えて床に伏せる俺たちには何事もなかったようだったが、ゆっくりと頭を持ち上げた桜木が心配そうに俺と須藤の顔を見ながら言った。

「レーザー光線は…どこに当たったのかな?」

 そう言われれば発射されたレーザー光の行き先はどこになってるんだ?
 “試験用の標的以外は撃つな”とは書いてあったが、他の対象物に照射しちまった今となっては手遅れだろうな。

「さぁな、とにかく俺たちには当たっちゃいないんだから良いんじゃないのか?」

  安堵 の溜め息をつく俺に須藤が起き上がり、レーザーの軌跡を追いながら言った。

「問題は威力だよな。どんな風に物体に当たるかって…」

 そこまで言って須藤の動きが止まる。

「いや、対象物にだって問題がありそうだぞ」

 先ほどのレーザーの発射で室内の機器に異常が現われたのか、部屋のドアが開きっぱなしになっていた。
 そこから見えるレーザー光の標的になったものは…

「やべぇ!!」

 須藤が声を上げたと同時に、大きな水槽のガラスが一点を中心にして〝ビシッ〟とヒビが入ったんだ!!
 大きな力を均等に分散させて強度を保っている水槽の一枚ガラス。
 レーザー光線の威力はさほど強いものではない様子だったが、このガラスの最大の弱点である“一点に集中した力”は逃すことができない。つまり、水槽のガラスにレーザーのような特定の部分に集中して力が加わると、均整が取れずに割れてしまう。そして、ヒビはだんだんと水槽のガラス全体へと広がっていって…

「おいおい、冗談だろ?」

 須藤は奴にしては珍しく動揺しているように、 引き攣った 笑いを頬に刻みながらそう言うと、慌てて手にしていた書類を投げ出して俺と桜木の手を掴んで通路に飛び出したんだ。

「いいか、良く聞け!!水圧にガラスが負ければ、ここのフロアは流れ込む水に埋め尽くされてしまう。そうなれば俺たちはお終いだ!!」

 焦る須藤の言葉、それと亀裂から染み出した水が俺たちを【究極の危険】の中にいることを思い知らせていた。何時しか、俺たちの背筋には極度の緊張から噴出した汗がグッショリとシャツを濡らして張り付いてくる。
 まるで追い討ちをかけるように既に床には糸のように噴き出す水の滝が何本も現われていて、俺たちの行き先を遮っている様子に額の汗がこめかみから頬に流れて顎から落ちた。

「死ぬ気で走れ!!」

 須藤が一瞬硬直した俺たちの意識を引き戻すように叫んだ。

【動けない】

 まるで強張ったように言うことをきかない足に 叱咤 しながら、嫌な汗を拭うことも忘れて俺は呆然と立ち竦む桜木の腕を引っ掴んで走り出した。

【動けない】

 そんなんじゃ、このまま死んでしまうだけじゃねーかッ!!
 ヒビの入ったガラスの隙間から流れ出る水の量は薄っすらと床を満たし始める。
 ガラスが割れれば俺たちは一気にその水に飲み込まれてしまうだろう。
 危機感だけがズッシリと重い俺たちの足を前へ、前へと突き動かしていた。

「…このままで階層下に進めるかな?」

 走りながら俺が先頭の須藤に声を掛けと、須藤は振り向く余裕もないのか、それとも振り向きたくない現実が差し迫っているのか…どちらにしても今の俺たちにはそんなことを気にしてる余裕なんかなかった。だから須藤は、俺としては必死だった質問をあっさりと切り捨てるような即答を返してきた。

「そんなことは助かってから考えればいい!!」

 全く尤もな意見だ。
 これだけの水が下の階に流れ込むんだぞ?全く、何を考えてるんだ俺は。

「もう、佐鳥くんってば!!この水槽に【発電能力を持ったプラント11】っていう化物が入っているんだったら、そんな悠長なことは言ってられないでしょ!!」

 漸く現実に順応した桜木も必死の形相でそう叫びながら、全力で床を蹴って先に進んでいる。
 そうだった。
 なんて迂闊なんだ、俺!そんなことを考える前に、ソイツがこの通路に出てきたら大変な事になるじゃないか!!
 クソッ!どうなってるんだ、この通路は!?いったいどこまで続いてるんだ!
 とにかく今は、迫り来る水の恐怖に全力で走るしか術がないってのが現実問題。
 何時の間にか奥深くに入り込んでいた俺たちは無鉄砲にこのフロアの長い通路をありったけの力で 疾走 した。その俺たちの影は、床の水に足を取られながら何度も転がりそうな状況で走り続けている。 滑稽 で、まるで憐れな操り人形みたいな有り様に情けなくなる。
 既に床の水が脛にまで達しはじめたし、このままじゃ、じきに歩く事すら困難になるな…
 そんな不安を余所に後ろの方で水槽に激しく何かが当たる音と共に、ガラスの割れる音が響いてきた!!

「まさか、水槽を割りやがったんじゃねーだろうな!?」

 そう叫ぶ俺たちを照らす通路のライトが蛍光ライトから、いきなり赤いランプに切り替わるとストロボが光り始めた。

『耐圧ガラスに異常を感知しました!!これより当フロアのゲートを閉じる作業を行います。耐圧・・・』

 アナウンスが頭上を流れ、黄色の回転灯がけたたましく回り始める。

「ガラスが割れたんだ!!急げ、水が押し寄せてくるぞ!!!」

 突然の出来事に動揺する俺や桜木のシャツを引っ張って須藤が叫ぶ!!

「あ、あれっ!!」

 シャツを引っ張られながら桜木の指差す後方には、大量の水が 津波 のように押し寄せて来ているのがハッキリと見えた。

「冗談じゃねーぜ!!」

 水槽に貯水されていた大量の水が勢いを得て、行き場の無い通路を俺たちの方へと押し寄せて来ている。
 もう、ダメだ!!とみんなが思った瞬間だった。
 通路を遮るように降りたシャッターが水の流れを最小限に食い止める。
 完全な防水とまではいかなかったが、このフロアをたっぷり浸水させる水を一時的に塞き止めることはできたようだ。

「どうやら、緊急避難対策用のゲートが閉じ始めているようだな」

「ゲートが閉じるって事は、これで安心できるってことなの?」

「ああ、きっと緊急時のセキュリティが働いているようだから、少しは時間稼ぎができそうだ」

 桜木と須藤が会話している間にもそのゲートが一枚、また一枚と閉じていく…
 ってことはもしかして、このままだと俺たちはゲート同士に挟まれて身動きができなくなるんじゃないのか?
 …ってことは、おい。

「時間稼ぎなんて問題じゃねぇだろ?おいおい、どんどんシャッターが閉じてきてるぞッ!」

 その言葉に反応する前に、俺たち三人はまたしても駆け出していた。
 もしも扉に挟まれてしまえばこの逃げ場の無い通路で孤立されてしまう。
 それどころか仕切りが水圧で破られてしまえばそれだけでアウトだ。

「とにかく、この通路の最後まで走って行こう!!」

 もちろん、それ以外の方法があるわけではなかったから、その言葉に俺と桜木は頷くしかなかったんだ。
 ガァンッ!
 突然、後方で凄まじい轟音がした。
 今度はなんだって言うんだ!?
 走っていた俺たちは思わずつんのめりそうになりながら思わず振り返ると、カタカタと細かな振動に揺れる後方のシャッターが奇妙な具合に 歪 んでいるのが見えた。

「ありゃ、なんだ!?」

 思わず口をついて出た言葉に応えるヤツはいない。当たり前だ、こんな風にシャッターが歪むってことは、どこかに凄まじい力が加わって、何かがへしゃげた衝撃に因るものだってことが何となく理解できたからだ。

「これは…ヤバイぞ!佐鳥、桜木!いままで以上に全力で、それこそ死に物狂いで走るんだッ!!!」

 叫ぶように言った須藤の声に被さるようにして何かが遠くでガァンッとシャッターにぶち当たる音がした。振り返ることもできずに走り出した俺たちの後方で閉まりかけていたシャッターが勢いよく下りてきて、水飛沫を飛び散らせた。
 走る。
 衝撃音が追いかけてくる。
 シャッターが次々と閉まっていく。
 それでも防ぎきらない水が足元に縺れてうまい具合に走れないから、俺たちは命からがらで次々と迫ってくるシャッターと水から逃げ続けた。
 と。

「出口だ!」

 前を走る須藤の希望に満ちた声を聞きながら、俺はホッとして後一息を飲み込んで必死に走った。
 そして、最後のシャッターを潜り抜けたその時だった。

「きゃあッ!」

「!」

 なんてこった! 
 後方から追いかけて来る桜木が、水に足を取られて転んじまったんだ!

「桜木!」

「いやぁ!死にたくないッ!!」

 転んだ桜木は半狂乱になって自分の背中めがけて滑り落ちてくる他のものよりも頑丈なシャッターを肩越しに見上げながら、もがきながら必死で逃げようとしている。でも、半狂乱になって落ち着きを完全に見失った桜木にとってそれは、泳げない人が 闇雲 に何かを 掴 もうとするように、無駄な動きだけで一歩だって前に進めないし起き上がることさえできないでいる。

「さ、佐鳥くん!助けてぇッ!!」

 迫り来るシャッターの重い音。
 現実に目の前に迫っている鉄。
 蒼白よりも白くなった桜木の顔。
 絶望に見開かれた双眸―――…

「桜木!!!」

 背後で須藤の絶望したような絶叫が聞えた。
 取り乱した友人の声さえも耳元で鳴り響く耳鳴りに聞こえているのか、聞こえていないのかさえ定かじゃない一瞬。
 俺は条件反射で腕を伸ばしていた。
 桜木を押し潰そうと迫ってくる重いシャッターの轟音、どこかで何かがぶち当たる凄まじい音。
 時間がない!
 ああ、だけど…俺が伸ばした腕は、腕は桜木を掴み損ねる…わけがなかった!
 当たり前じゃねーか!!
 両手が触れたと思った瞬間に桜木の両腕に掛けた腕を思い切り引き寄せた。桜木の白くて細い両足が寸前で引き抜かれた場所に勢いよくシャッターが音を立て落ちてきた!
 ガァンッと何かがぶち当たる音が飲み込まれるようにして消えていく。
 重い鉄の扉は、驚愕だとか、安堵だとか、そんなものすらも感じないし思い出せないでいる俺の目の前で何事もなかったかのように佇んでいる。見開かれた両目だけが、何が起こったのかを物語っているみたいだった。
 静かになった薄暗い室内で息遣いだけが響き渡る。
 俺たち三人は無言で、未だに助かった事実を確認することもできずに座り込んでいた。

Act.26  -Vandal Affection-

 物資を探そうと歩き回る俺たちの前に現れたのは、馴染みになった白い扉だった。でも、それが今まで見てきた部屋の扉とは明らかに異なって…なんだか奇妙な違和感があるって思うのは俺だけだろうか?
 そんなことを考えていたら、須藤の奴が用心しながらその扉に近付いて行ったんだ。

「気を付けてね、須藤くん…」

 新倉の件も生々しく記憶に残っている桜木にしてみたら、なんだって気を付ける対象に入ったんだろう。良しにしろ悪しにしろ、あの結果は桜木には良い結果になったことは確かだ。ちょっと抜けすぎてるからな、コイツ。
 生き残るって 概念 がまるでないんじゃないかって思えるほどには、本当にお間抜けだし…

「佐鳥!」

 不意に鋭く呼ばれて、俺は扉に近付いていた須藤を見た。

「どうしたんだ、須藤?」

「コイツはどうも、簡易のエレベータの様だぞ」

「エレベータ?」

 俺と桜木は顔を見合わせると、脇に身を寄せた須藤の傍らに行ってなんのプレートもパネルもない扉を見て、さらに首を傾げた。
 コレのどこがエレベータなんだ?

「ホラ、ここをこうして、こうすると…」

 須藤が取っ手の下に設置されていた奇妙な数字の並ぶ電卓のようなモノに触れると、扉は音もなくスライドして開いた。その内部は以前見たエレベータのものとは違って明らかに狭いし、階数を示すパネルもなく、本当に質素な作りのエレベータだった。

「こんなモンだと数階しか行き来はできないだろうなぁ」

 須藤が内部を見渡すようにして入る背後から一緒に乗り込んでみると、大人3人と僅かなスペースでもう一杯一杯ってカンジだ。

「どこまで続いているのかな?」

 桜木が不安そうに呟くから、俺は 取り敢えず 二、三階下まで行ってみようと提案した。

「二、三階下ねぇ。続いてれば、の話だがな」

 内部にもある、やっぱり電卓のようなモノに何かを打ち込んでいると、扉は音もなくスライドして閉まり、軽い重力を感じて、エレベータが下降し出したことが判った。

「ねえ、須藤くん。どうして操作方法が判ったの?」

 狭い室内で無言でいるのも息苦しくなったのか、相変わらずゆっくりと下降する密室の中で桜木は素直に首を傾げて見せる。

「テキトーってワケじゃないさ。こう言う操作には一連の法則のようなものがあってな、それを順に試してみたんだ。で、二、三回試していたら…」

「ビンゴだった…ってワケだな?」

 俺が口を 挟 むと須藤はその通りだと頷いて見せた。

「で、その法則通り試したらエレベータも動き出してくれましたとさ」

「さっすが秀才さまは完璧でいらっしゃる」

 嫌味ったらしく言う俺の横では桜木がちょっと 噴出 して、須藤はムッとしたように口を尖らせたけど、それでもフフンと胸を張るようにしてニッと笑った。

「グレッグスさまさまってことさ。旧いが役に立つ本だ。お前も体力ばかり 養 ってないでそう言う、為になる本を読んで、少しは頭を使った方がいいぞ。だから脳味噌筋肉だと言われるんだ」

「お前にな…」

 恨めしく 睨 んでいると、エレベータはやはりカクンッと重力を感じさせてゆっくりと動きを止めた。

「さてさて、何が待っていることやら…」

 半ば 諦 めたように皮肉を言う須藤と、それに同感だと頷く俺たちの前でエレベータの扉は音もなく静かにスライドして開いた。
 未知の恐怖がきっと、待ち構えてるんだろう。
 武器がありますように。
 祈るように願っていた。

 エレベータを降りた俺達は、“アクアルーム”と書かれたプレートの貼り付けられているドアを押し開いて足を踏み入れた。そのフロアは巨大な水槽が側面にある他は特に目新しいものは無いんだけど、アクアリウムさながらの雰囲気に俺たちは少しだが心が落ち着いたような気がした。
 本当はけっこう、その圧倒的な迫力に 気圧 されてたってのも事実なんだけどな。
 まあ、流石にこれだけの設備になるとよほどの事がない限りは、この厚いガラスを破ってまで化け物が登場するという事はなさそうだし、そんな 安堵感 も俺たちの心を落ち着けるには充分だったんだろう。

 「ここは何をしている所なんだ?」

 そんなことを考えていた俺に、須藤は大きなガラスで造られた水槽に両手の側面を押し当てると両目の 端 に 覆 いを作るようにして外の光をシャットアウトするように、その苔の発生で薄暗くなった内部を覗き込みながら言った。
 他にも小さな水槽がいくつか壁に嵌め込まれるように点在していたが、その中に入れられているタコやカニに似た、奇妙な姿をした生き物も俺たちを襲ってくるようには見えなかった。どちらかと言うとのんびりと、まるで外界のことなんか気にとめた風もなくいたって平和に過ごしてるようだ。
 だけど、そんな中でも須藤の興味を引くものがあったみたいだ。
 その水槽は他と例外なく苔にびっしりと覆われていて、ただ一つの例外があるとすれば、それはその大きさだ。きっと、このフロアでも最大を誇ってるんだろう。
 圧倒的に大きい。

「ここの生き物たちの姿から察してもマトモな奴は入っていないだろう。この大きさの水槽から考えて…まあ、敵にはしたくない大きさだな」

 須藤は口角を吊り上げると、縁起でもないことを言いやがる。
 それでなくても武器も少ないって言うのに、冗談でもそんな台詞は聞きたくない。

「あたしだったら、こっちの生き物だけでも“勘弁して!”って思うけどな」

 桜木は小さい方の水槽で優雅に泳いでいるタコのような生き物を指して無気味そうに言った。
 俺はそんな二人の会話を聞きながら、電力を極力省エネしてるのか、水槽に射し込む僅かな明かりと天井にあるほの暗い明かりを頼りに整然と並ぶ水槽群を見渡していた。すると、その脇に小ぢんまりと設置してある【観察操作室】と書かれたドアを見つけたんだ。

 【観察操作室】という部屋の名前から考えてみると、これはあくまで俺の推測なんだけど、どうも【観察】という事から、ここのフロア内で飼育している生き物たちの状態なんかをこの部屋で見ることができるんだろう。まあ、まずは間違いないだろうな…よし。

「…ん?そうなると【操作】ってのは何だ?」

「 水質維持装置 とかなんとか言う機械の操作でもしてるんじゃないのか?」

 何となく口から 洩 れた独り言を桜木と話していた須藤が 耳聡 く聞きつけたのか、腰に片手を当てながら振り返ると面倒臭そうにそんなことを言った。誰もお前には聞いてねーよ。
 と言うか、なんで操作でそこまで判ってしまうんだ、お前って。そうか、もしかしたら逸早くこのドアを見つけてたのかもしれねぇな…恐るべし、須藤。
 だが、そうか。ここがこのフロアの中枢になる部屋なんだろう。
 ってことは、この部屋に入ることができれば何かしらの 手懸 りだとか、 或 いは武器のようなものを手に入れることだってできるんじゃないのか?

「おいおい、まさかこの部屋に入ろうってんじゃないだろうな!?」

 思いついて思わずガッツポーズをしてしまう俺の腕を 掴 んだ須藤は、慌てたように押し留めながら言ったんだ。
 あり?なんでバレたんだろう。きっと、ドアを見ていたのがいけないんだろうな。
 まあ、そんなことはどうだっていい。

「何か重大な手懸りがあるかも知れねぇだろ?」

 ドアは、この研究施設が何がしかの事故か何かで 既 に危機レベルを超えている状態だったんだろう、避難用にセキュリティは全てロックを外しているようだったから、俺たちが入室する上では特に困ることはなさそうだ。

「でも…だからって思いつきで行動しちゃうってのはよくないと思うよ、佐鳥くん」

 桜木も不安そうな顔で俺を見ながら、“中に入ることには反対よ”という意思表示をする。
 そんなことを言っても、この先危険だからと 回避 ばかりしていて本当に危険になったとき、武器もないこんな状況下だと 悪戯 に死ぬことを受け入れるしかない状態に陥ることは簡単に想像できる。だからこそ、今、怪しいところは 片っ端 から見て回った方がいいんだ。武器だって手に入るかもしれないじゃないか。
 そんな風に話し合った結果、俺の説得に根負けした二人が渋々賛成すると言う形で部屋の中へ足を踏み入れることになった。
 なんにせよ、俺たちの進むべき方向なんて限られているんだ。
 今は、今だけは。
  勘 だけを頼りに進むしかない。
 俺たちは息を飲みながら、その部屋のドアに手をかけた。

Act.25  -Vandal Affection-

 博士たちを助けようと思って何も考えずにあのジャングルに飛び込んだんだ。
 思えば、何も考えずにあの大学を受けたんだったな。ただ、なんとなく考古学に興味があって、それを生涯の仕事にできたらいいなとか考えて両親に相談した。父さんは男は大志を抱けと言って賛成してくれたんだけど、母さんは違っていた。厳しい表情をして、遠い外国に行くと言うことは死ぬ覚悟で行きなさいと、やけに 時代錯誤 な口調で言ってたっけ?あれはきっと、心配してくれたんだろうな。母さんなりの、優しさだったんだ。
 思えば、俺の人生ってのはそんなもんだったな。考えなしに突き進んで、その先には何があるんだろう…?
 …何もないかもしれないし、あるかもしれない。
 ここまで来てしまったんだ、いまさらそんなこと考えたってどうにもならないってのに。
 何かあるのか?たとえば…残酷な死とか?
 そこまで考えて、俺は慌てて頭を左右に振った。
 どうして、生き残るって言う思想が思い浮かばないんだよ、俺…それはきっと、あの新倉の置かれていた状況が頭から離れないからだろう。あんな、化け物に操られて、死んでいても死んだことすらもしかしたら、アイツは気付いていなかったんじゃねぇのかな。
 獲物が、たとえば俺たちみたいに迷い込んじまった現地の人だとか、そんな餌を狩るために繰り返し見せる新倉の最後の幻影。その度に、もしかしたらアイツは、同じ痛みと恐怖を何度も何度も、終わることなく繰り返し見ていたのだとすればそれは…
 軽い眩暈がする。

「佐鳥」

 不意に須藤が声をかけてきて、俺は慌ててヤバイ回想から現実に戻った。

「なんだ、須藤」

「お前さ、実際はどうして気付いたんだ?」

「え?ああ、アレか。いや、本当はあの銃だよ」

「銃?」

 隣で聞いていた桜木が不思議そうに首を傾げた。どうやら、彼女も気にはなっていたようだ。

「そうだ。あの口径、たぶん、俺たちのなんかよりもはるかに大きかっただろ?なのにさ、新倉のヤツ。片手で支えたぐらいで、まるで平然と撃ってたんだよ。しかも、俺たちの方をチラチラと見る余裕さえあった。おかしいだろ?俺でさえ、コイツを使いこなすのにけっこう時間がかかったんだぜ。しかも、未だに腕が痺れる」

 片手で持っているマシンガンを上げて、肩を竦めて見せると須藤は 漸 く納得したように頷いた。
 それ以外にも違和感はあった。ただ、それがなんであるか判らないから、 敢 えて言う必要もないだろうと思って俺は口を 噤 んだんだ。

「それにしたって、奇妙な施設だよな。いったい何を研究していたんだ」

 須藤が等間隔に並んだ電灯に浮かび上がる、閑散とした白い壁に囲まれた通路を見渡しながら肩を竦めると、桜木も不安そうに眉を顰めた。
 俺たちはみんな、本当はこの胡散臭くて不気味な施設に疑問を持っていたんだ。ただ、それを口にしてしまうと、取り返しのつかない何か深い穴に落ちこんでしまうような気がして、言葉にすることを躊躇っていた。
 だから俺は…敢えてその不安を口にすることにした。
 現状じゃぁさ、もう取り返しのつかない事態には陥ってるんだ。いまさら黙ってたって、悪い方向にしか進まないかもしれないからな。

「…俺さ。以前、ほら変なヤツに会ったって言っただろ?」

 須藤と桜木は俺を振り返ったが、桜木の方は訝しそうな表情をしている。
 そっか、桜木は知らないんだったな。

「ああ、なんか前に言ってた酷そうでいいヤツだろ?救急セットだなんだと置いてったって言う…この銃とそのマシンガンもそうだな」

 須藤が頷いて促そうとすると、驚いたように須藤を見上げた桜木が慌てて割り込んできた。

「だ、誰なの?その変な人って」

 俺が彼女を見ると桜木はハッとしたように 口篭 もって、恥ずかしそうに照れてしまった。コイツも変なヤツだよなぁ。自分のいない時の話しなら知りたくても仕方ないだろう、ましてやこんな状況だったらなおさらなのにさ。

「コイツだ!…とは言えないんだよな。名前すら知らないんだ。ただ、嫌なヤツだったってことは確かで…」

「そう」

 桜木はその答えじゃ不満そうで、って、まあ俺でもそんな答えじゃ理解はできないだろうからその反応は納得なんだけど。

「男だよ、桜木。謎の男ってヤツだ」

「男の人なの…?そう」

 ホッとしたように須藤の台詞に頷いた桜木は何となく明るくなったような気がする。
 …なんだ、男か女かってのが気になったのか。
 って、ん?なんでそんなところが気になるんだ?

「で、ソイツがどうしたって?」

 須藤が促すように首を傾げたから、俺は頷いてそれに応えた。

「ああ、ソイツから焼き捨てられたこの施設の研究員が書いたらしい報告書みたいなものなんだけどさ。それに確か、 紫貴電工 とか書いてたような気がするんだ」

「そこら辺、もっとハッキリ覚えてるか?」

「ええっと…なんか、ラット事件とかなんとか。遺伝子の研究をしていたみたいだ。アレ?細菌って書いてたっけ?」

「要するに、よく覚えていないんだな?」

 呆れたように片手を挙げて俺を制した須藤は、なんとなく頭が痛そうだ。すまん、そう言う、物覚えは苦手なんだよ。

「えへへ…そうみたいだ」

 頭を掻いて笑ったら、須藤は呆れたように肩を竦めた。それを脇で見ていた桜木がクスクスと笑っている。
 まさか言えないよな、その焼き捨てられた後にあんなことがあったなんて…とか言って、まあそれも関係があるかもしれないけど、本当に物覚えは苦手なんだよ。英語だけは考古学に密接に関係してるから死に物狂いで覚えたんだけど、紋章だっていまいち覚えてないってのに…興味のある 象形文字 だってよく判らないし…あう、なんか落ち込んできたぞ、俺。

「その資料があればなぁ…どうも、ソイツはかなり重要な文書だったのかもしれないぞ」

「いやまあ、その通りかもしれないな。研究の報告みたいだったからさ」

 まあ、大方の予想通り俺がしでかしたことはきっと最大のミスだって判ってる。かと言って、それを認められるだけには、まだ大人になりきれてないんだよなぁ、俺。
 唇を尖らせると、須藤のヤツは仕方ない奴だなぁとでも言いたそうに溜め息をつきやがった。
 ああでも、やっぱり須藤には見せておいたほうが良かったんだろうなぁ…
 ガックシと項垂れる俺に、須藤はこめかみを押さえて首を左右に振ったんだ。

「全くだぞ、佐鳥。研究内容について書いていたみたいだからな。まあ、たとえば遺伝子だとか細菌だとか…ラット事件ってのもあったな。それは、門外不出じゃないのか?こう言う施設だとさ」

 ええ、全くあなたの仰る通りでございますよ、須藤さま。
 …と、そこまで考えて俺はハッとした。

「あ、それで焼き捨てたのか、アイツ!」

「その謎の男はここの研究員だったんだろうな。きっと、 証拠隠滅 したのさ。だが… 隠滅 せざるを得ない内容ってのはなんだ?」

「きっと、すごく大切な情報だったんじゃないのかしら?」

 あう、桜木まで一緒になってそんなこと言うなよ。覚えもせずに焼き捨てられた俺の立場って…

「あ、ごめんなさい!そんなつもりじゃなくって、あたし…」

「いいよ、桜木。別に俺、気にしてないし」

 慌てる桜木に乾いた笑いを浮かべて暗雲を背負う俺に、須藤は腕を組んでズバッと言いやがった。

「いや、気にしとけよ佐鳥。これからこの施設を調べるための 切欠 になるかもしれない重要な情報を全く覚えてもいないんだぞ?だったら、先が思いやられるだろう」

「ったく、相変わらず嫌なヤツだな!須藤はよ!」

 ムッとして言い返したとき、不意に見慣れない単語があったことを思い出して俺は須藤と桜木を交互に見た。

「どうした?」

 まだ文句があるか?とでも言いたそうに腕を組んでいる須藤に、俺は首を左右に振って思い出したことを口にしたんだ。

「変な単語があったんだよな。何かの暗号かもしれないんだけど…」

 須藤は桜木と顔を見合わせると、怪訝そうに眉を寄せる俺を訝しそうに首を傾げた見た。

「単語?」

「ああ、確か…【HR-9】だったと思う」

「エイチアール・ナイン?」

 不思議そうに首を傾げて聞き返してくる桜木に頷いて、俺はそれがなんであるかは判らないんだと言うことを説明した。

「HR-9が何かの細菌の暗号だとか、遺伝子の名前とか…そう言うことはいまいち覚えてないんだよなぁ。その単語だけは珍しかったから覚えていたんだ」

「まあ、なんにせよ。その単語だけじゃ雲をつかむような話だ。だが頭の 隅 には覚えておこう。この施設の謎を解く 切欠 にはなるかもしれないしな」

 そう言って、この話はいったん切り上げられた。
 どちらにしろ、今は銃弾が必要だということに気付いたんだ。物資の乏しさがこの研究施設の秘密なんかよりも、何倍も重要に決まってる。
 俺もそれには気付いていたし、桜木も須藤も納得したようだ。
 まずは物資を探そう。
 この施設の謎はその後だ。

Act.24  -Vandal Affection-

 痛ッ!な、何だ?
 通路を進んでいた俺は、 唐突 な痛みにビクッとして腕を掴んだ。
 腕には嫌な思い出があるからな、慌てて掴んだ腕を目の高さまで持ってきて見てみると、腕には 擦り傷 があって、うっすらと血が浮かんできていた。それはまるで、そうだカッターかなんか、ナイフのようなものでスーッと切ったようだった。その後からタラリと血が浮かんでる、そんな感じだ。

「佐鳥くん?…え?あ、キャッ!」

 俺の様子に不思議そうな顔をして近付いてきた桜木が 唐突 にビックリしたような声を上げると、慌てたように見た自分の手の甲に 擦り傷 がついていることに気付いて首を傾げている。

「!?」

 須藤はとっさに何かを感じたように頬を押さえると、その頬にもうっすらと傷がついていた。
 まるでカマイタチみたいだ。
 いったい、なんだって言うんだ…?
 ドンッ!!
 激しい音と共に新倉の立つ後ろのドアが内側から 蹴破 られると、そこからゾンビの群れが突然現れやがった!
 しかも数がハンパじゃねぇ!!

「う、うわぁ!!」

 思わず手にしていた口径の大きなハンドガンでソイツらに発砲しながら声を上げ、新倉はゾンビの腕からうまく逃げ延びると、俺たちの傍に走りこんで来た。

「そう言えばゾンビの群れにも追われていたんだ!」

 な、なんだと!?

「そういうことはもっと早く言えっつーの!!」

「いやぁ!!もう、ゾンビなんて嫌い!」

「取り敢えず逃げろッ!」

 須藤、桜木、そして俺はそう叫ぶと一気に後ろへ方向転換する。
 来た道を戻るなんて冗談じゃなかったけど、その後はもう猛ダッシュで来た道を戻る事にしたんだ。
 それ以外に逃げ道がないかったからだ。
  既 に俺たちの居た場所には十人位のゾンビがウジャウジャと幅を利かせながら、こちらに向かって来ている。弾だってもうそんなにねぇのに、とんだ拾い者だったぜ!
 と、俺が舌打ちしてそんなことを考えていたまさにその時だった!

『緊急警報!この通路内にてレベル23の薬物検知センサーに該当する薬物反応を感知しました。この通路は事態の深刻化を回避するため閉鎖されます!緊急警報!…』

 おい、待てよ。いったい何を感知したって言うんだ、こんな時にッ!!
 あと一歩で出口だってのに次々にシャッターが下ろされちまったんだ!
 ドンドン!!
 俺たちはそのシャッターを破れないかと必死で体当たりとかしてみたが、大体が何かの防御壁用に作られている物だ、いくら人数が多くたってそう簡単に破れるはずがないことぐらい、間抜けな俺たちにだって判っていたさ。でも、何かしないと気が…
 クソッ!

「チッ!須藤、もう応戦するしか道がねぇ!」

 そう言うなり俺はゾンビに向かって発砲したんだ。
 もちろん、ゾンビたちはその通路に降りたシャッターで分散されたおかげで俺たちはわずかな数のゾンビとのバトルですみそうだったが…
 それは今までのお話。
 今回ばかりは 奴 さんたち、何がどうしたワケか力が入ってて結構しぶといんだ。
 ドサドサと音を立てて倒れるゾンビの群れ、普通ならそれでお終いなんだけど、今回は映画並にしぶとく立ち上がってくるんだよ。
 ああ、クソッ!誰だよ、こんな連中を作ったのは!?

「佐鳥、出来るだけ弾は温存…って、できるわけねぇかこんな状況じゃ!!」

 いつもは冷静な須藤も、今回ばかりはその手ごわさに弾の事など考えていられないと言った感じで、手にしているハンドガンで応戦している。桜木も 同じく口径の小さい銃だったが、須藤のフォローに入る姿は弱々しいがそれなりに様にはなっていた。
 …つったって、それにも限界がある。
 あの銃には、もう殆ど弾が入っていなかったんだ。案の定、そう思ったときにはガチィンッと撃鉄が虚しく音を響かせていた。

「ああ!弾がなくなっちゃったわ!!」

 桜木の声が悲痛に響いて、俺は彼女の腕を掴むと背後に庇いながら新倉を見た。 ヤツは片手を支えるように掴んで口径の大きな銃口から発砲している。
 なんだ…何かおかしい。
 新倉のあの口径の銃、そして俺たちの攻撃、いつもならあっさり召されてくれる奴らの様子がおかしいんだよ。そのことに須藤は気付かないんだろうか?

「変だな?後ろの奴らがゲートを壊したのか?数が減らないぞ!!」

 最前線に立っている須藤が近づくゾンビたちに押され始めると、俺たちは自然と後ろに後退することを余儀なくされてしまう。

「変だよ、何だか本物のゾンビみたい!!」

 桜木はワケのわからないことを言いながら後ろに下がる…その後ろにはシャッターがあって、彼女はギクリッとしたようだった。

「いやん、もう、どうなってるの!?」

 シュッ!
 桜木の悲鳴のような声と同時に、俺が彼女を気にかけようとした瞬間、腕に走る痛みに顔を顰 めてしまう。

「イタッ、またこの傷か!何なんだよ、一体!?」

 俺はそう言いながらゾンビをかわして反撃するが、 依然 増えつづけるゾンビの数に正直、既 に弾薬が底をつきかけていたんだ。

「佐鳥、もう弾がないぞ!仕方ないな……別の逃げ道を探そう!!」

 俺は自分がこんなにも緊張しているって時に、何かが一つ欠けている気がし始めていたんだ。
 なんだろう…?なんなんだろう、この気分は。
 こんな、クソッ!ゾンビに囲まれてるって時に!?

「ぐあっ!」

「きゃぁ!!」

 須藤、桜木が次々に声を上げる度にその体に傷が出来るんだ。

「痛ッ!」

 俺は顔を歪めた。だが、もうそんな傷を気にしてるヒマはねぇ!
 真剣に活路を探す須藤。俺の背後からでも必死に須藤のフォローを言葉で続けている桜木。
 そして、そんな須藤たちを横目で見ながら発砲を続けている新倉。
 そんな時だった…
 まるで無音の世界に飛び込んじまったような…さらにスローモーションで動いてでもいるかのような錯覚の中、ここに来て培われた『生きる事への執念』ってヤツがこの状況下でとても重大なことに気付かせてくれたんだ!!
 俺は迫り来るゾンビをかわしながら背後に庇っていた桜木をその場に残して、新倉に近付いた。そして、驚いたように目を見開く無言の新倉の腕を掴んだんだ。
 途端に切り傷がつかない。
 やっぱりな。

「どうしたんだ、佐鳥?」

「どうしたの佐鳥くん……何か変?」

 そんな二人の言葉にようやく新倉も事態に気が付いたらしいが……遅せーんだよ!
 俺はゾンビに抱きつかれながら、思いっきりマシンガンの柄で新倉の横顔を殴りつけた!

「ぅぐッ!?」

 新倉は吹っ飛んで、後ろのシャッターに思いっきり転がりながらぶつかった。

「佐鳥くん!?危ないッ!!」

「佐鳥!!」

 須藤たちはまだ、俺が知った【現実】に気付いていない様子で、俺にまとわりつくゾンビを必死に剥がそうとしていた。
 だが俺は腕を組むと、不敵にニヤッと笑って見せる。ゾンビが俺の頬の肉を食い千切り、ふくらはぎの肉が削がれても、俺が顔色さえ変えずに悠々と立っている姿を見た桜木は口に手を当てて驚きに声も出せない様子でいた。
 きっと、俺が狂っちまったんだろう…と思っているんだ。
 まあ、そう思われても仕方ないけどな。

「さ、桜木…足元!」

 しかし、そんな桜木も須藤の声にハッとして下を向くと、足に激しく噛み付くゾンビがやはり俺と同じように自分に襲い掛かっているのを見て悲鳴をあげた。

「す、須藤くんこそ……首、首ぃ!!」

 須藤は首をゾンビにかじられていたが本人は気付いていなかったらしく、桜木の声で慌てて振り払ったんだ。
 だが二人とも平気な顔の癖にお互いの姿を見てはパニックに陥っていた。
 俺は気づいたんだよ。
 撃っても、蹴飛ばしても何度だって立ち上がるそのゾンビたちの秘密に。
 思いっきりマシンガンから伸びた柄で新倉の顎を砕かんばかりに殴りつけた!
 人間の顎とは異なる変な感触がしたが、ゴキッという音は間違いなくソレを砕く音に違いなかったようだが…

「ふがぁ!ふがぁ!」

 砕かれた顎を必死に押さえながらもヨロヨロと立ち上がろうとする新倉へ、俺はマシンガンでトドメだとばかりに滅多撃ちにしたんだ。
 叫びながら、それでも唐突に無言になっていた新倉。
 通路内に凄まじい叫び声ともいえない奇声が上がると、そいつは壁一杯に 夥 しい肉片を血液と一緒に壁にぶちまけながら、肉の塊にグチャグチャになっちまっていた…

「どうして、こんな酷いこと…」

「はぁ?桜木、お前が見ているのは新倉とか言う男の死体なのか?」

 桜木は口許を押さえながら流れ出る真っ赤な血の中に、新倉の 残骸 を認めてキッ!と青褪 めた顔のまま睨んで叫ぶ。

「何を言ってるの佐鳥くん!?人殺しだよ!新倉さんは何もしてないのに佐鳥くんが…!」

 俺はそんな桜木を強引に立ち上がらせると、両頬を軽く叩いた。

「しっかりしろよ、桜木!!お前にはそいつが人間に見えてるのかよ!」

 その言葉に少し桜木は戸惑っていたようだったが、ぼんやりその新倉に焦点を合わせていくと…

「…ひっ!」

 桜木は俺が囚われていた幻覚と同じものからようやく目覚めたようだった。

「こいつは一体…どうなってるんだ?」

 須藤も自分が幻覚に囚われていた事を知ったようだ。
 桜木は相変わらず床にしゃがみ込んだまま、呆然と「新倉」と名乗った男の正体を見つめて嗚咽しているだけだった。
 俺たちは原型が何であるのか解らなくなってしまった物体から虫の羽らしき残骸物に歩み寄った。

 須藤たちはようやく何かの分泌液が薄れてきたのか、俺が現実に戻った時のように現実の景色と幻覚の景色がリフレインしはじめてきたようだ。
 そこにはゾンビなどの影は一切なくて、しかも狭いように見えたこの通路もその倍はあったんだ。だけど、違うところは白い壁がこの化け物の分泌液に汚され”巣”のように白い糸を張り巡らされていたと言う事と、無駄に消費した弾丸が壁に虚しい穴を空けているだけだった。

「こいつ一匹に俺たちは踊らされていたっていうのか?」

 須藤は憤りを押さえきれずに、その床に散らばる「自称、新倉」を蹴飛ばすと、覚束ないぼっーとした頭で現実を取り戻そうと必死に首を左右に振って、意識の混濁から覚めようとしているようだった。

「…それにしても佐鳥、よく気が付いたな。こんな最悪な状態で、しかも相手はまるで人間と変わりがなかったってのに」

「ああ、その事か。実は、須藤の行動で俺は気がついたんだ」

 まだ頭がモヤモヤしているのだろう、須藤は左右に首を振ってはこの状況が飲み込めていないという顔をして俺をみていたが、その言葉に目を丸くした。

「俺?俺が何かしたのか?」

「いや、実際には足元のコイツが俺たちにした事なんだけどな。お前、ゾンビと随分離れてたのにすッ転んでケガしただろ?なんで敵との間隔が広いのに何もないところから俺たちを攻撃できるんだ?」

 そこまで言うと、勘の良い須藤は何かを悟ったようだった。

「実際はどんな仕組みになっているのかは解んないけどな、どうやらこの掠り傷がポイントらしい」

「掠り傷?これのことか?」

 須藤が腕や頬についた小さな傷を指して言った。

「たぶんな。このバケモノは俺たちに傷をつけることで幻覚を見せていたんだろう」

「判った。それは理解できた。だがな佐鳥、全員が同じ幻覚をみるってところは納得がいかない。それはどう説明するんだよ?」

 それを聞いて、俺は唇を少し噛んだ。
 いちばん考えたくもない答えを、今ここで、この場で口にしなきゃならないことに抵抗を覚えたんだ。

「あくまでこれは俺の憶測なんだけどさ、コイツ、本当は人間だったんじゃないかって思うんだ」

「あぁ?」

 須藤は 訝 しそうに眉を寄せて俺を見たし、桜木もへたり込んでいた床から漸く身体を起こすと、不気味そうに肉の塊になってしまった物体を見下ろして首を傾げながら俺を見上げてきた。

「いや、正確には人間だった、てことだけど。コイツは人間に寄生する…虫かなぁ?まあ、そんなもんだと思うんだ。新倉は実在した人間だったんじゃねぇかな。新倉はこの得体のしれない虫に寄生されたことによって生き延びていたんだよ。いや、もしかしたら脳みそだけ生きてたのかも…まあ、今となってはもう判らないことなんだけどさ。それで、こいつが目にするものが脳に伝わると、それを共有している体内か、全部か…寄生していたコイツに直接伝わって、何らかの作用で分泌した液を、背骨の付け根辺りから出ていた触角…だと思うんだけど、それで俺たちを傷つけることによって注入して共通の幻覚を見せていた。って、そんな感じじゃねぇのかなぁ」

「ああ、なんか、だんだん判ってきたぜ」

 須藤はそう言うと、ヤツらしく口角を釣り上げて笑った。

「新倉の緊張と興奮を連続的に味わっている脳は、それとは別の外部から起こる未知の刺激によって、今までに経験した記憶を引き出されたんだろう。それが寄生虫に伝わってその記憶を幻覚に変えてしまうような得体のしれない何らかの分泌液を出す…つまりあの幻覚は、新倉が味わった現実だったんだろう」

 あるいは身体を乗っ取られる直前に見た、人間としての最後の光景…

「…ひでぇことしやがるな」

 須藤が、あの冷静で人のことなんかそれほど構っちゃいない須藤でも、ポツリと遣る瀬無さそうに呟いた。肩を竦めて名刺入れを引っ込めたあの一連の動作も、いや、扉を破って出てきたあの瞬間から、俺たちは新倉の記憶と言う幻覚に囚われていたんだろう。

「人間を何だと思ってるのよ。ねぇ、佐鳥くん、須藤くん。あたしたち、きっと生き残って博士たちを助け出しましょうね!それで、こんな所を作った連中に中指立てて『FACK YOU!』って言ってやるの!」

 桜木は頬に 零 れる涙をそのままにして、中指を立ててニコッと、強い笑顔を浮かべてそう言った。
 俺と須藤は顔を見合わせると、力強く頷いて桜木の震えてる背中を軽く叩いてやったんだ。
 俺たちは強くなった。そう思う。
 でもさすがに、今回はちょっと参ったかな。
 俺たちは惨劇の通路を後にして歩き出した。そして、そのとき同時にきっと思っていたと思う。
 この施設のことを知りたいと。
 なぜだか知らないんだが、少なくとも確実に俺はそう思っていた。