Act.23  -Vandal Affection-

  階上 にしてみたら狭くなっている通路は、それでも俺たち三人が歩くには幾分か広いと
思うくらいの幅はあった。
 その通路の脇には整然と等間隔で細かく各研究施設の部署名がプレートに書かれて貼り付けられている。

「通路が広いだけに、この静けさだと自分の鼓動が聞こえてきそうだぜ」

 須藤がそう言いながら口角を釣り上げての、あのお決まりの苦笑を浮かべて慎重に先に進む。
 見通しが良い分だけ、逆にそこが落とし穴になるっていうこともある。
 そう、ここには先に進むか、それとも退くかの二つに一つの選択しかない場所なんだ。そして、そんな場所に俺たちはいるんだ…

「こんなに静かだと、ゾンビの類はいないようようだな」

「安心はできないだろ?あのカマキリのバケモノだって、こんな風に静かな場所にいたんだ」

 俺たちの後ろを話を聞きながら歩いていた桜木が急に足を止めた。

「ん?どうした、桜木?」

 俺が彼女の方を振り返ると、桜木はしきりに耳をそばだてて何かを聞き取ろうと必死のようだった。

「おい、どうした?」

 須藤の呼びかけにも、桜木は唇に指を当てて俺たちに黙るよう仕種で促しながら動きを制してくる。どうしたって言うんだ?
 その桜木の動作は明らかに何かを感じ取っているようで、俺たちは顔を見合わせるとすぐに黙り込んだ。その気になれば、もう息を潜めることだって身に付けちまっていた。
 あんまり、ありがたくなんかねぇけど…

「何か…音がしてるの…あっ!また!!」

 桜木はその音が聞こえる度に、 微 かに声を上げては俺たちに判って欲しそうにしていたんだけど…残念だが俺にはさっぱり何も聞こえてこないんだ。それはどうやら須藤にも同じことだったようで、困惑したような表情でヤツは俺を見て 微 かに肩を竦めた。
 桜木の空耳だと半信半疑で耳をそばだててみると…んっ?この音は…??
 タタタッ…タタッ!
 今度はハッキリと聞こえた。
 俺と須藤はその音が人間の走ってくる足音だと判ると息を呑んだ。もちろん、桜木だって同じだろう。
 そして俺たちは音のしてくる方向を見つめる…はたして、トラが出るか蛇がでるかだ。
  斜 め前にある研究室のドアの向こう、確実に近づいてくる音…
 俺たちはなけなしの武器を構えて、荒く脈打つ鼓動を必死で押さえ込みながらゴクリと息を飲んだ。
 ドンッ!!ドンッ!!
 突然の発砲の音に、ビクッとした桜木が思わず耳を押さえて小さく悲鳴を上げる。
 チッ、何度も聞いてるとはいえ、さすがにその恐ろしさは本能がしっかりと覚えてるってワケだ。
 そして、唐突に、馬鹿なほど唐突に俺はある事に気付いた。
 待てよ、誰かが必死でこっちに向かって走ってくる。そして続けざまに聞こえてくる銃声。
その意味する人間の今の状況は?
 そりゃ、お前。一つしかねーじゃねぇか!
 その瞬間だった。
 俺たちの斜め前方のドアが勢いよく吹き飛ぶように開けられたんだ!
 そこから一人の、白衣の研究員らしき人間が転がりながら飛び出してきた!

「やっべ!みんな、伏せろっ!!」

 とっさに俺は動物的直感っていうヤツか、なんだか判らねぇけどその男の次の行動をまるで予測したかのように、須藤と桜木を庇ばうようにして床に伏せたんだ!
 ガシャン!!
 明らかに俺たちに向けられた銃弾は俺と須藤の頭上をかすめると、天井で煌々と照らしているライトの一つに当たりそのガラス片を俺たちに撒き散らしてきたけど、かまうもんか!
 やられたらやり返すまでだ、でなきゃこっちが殺されちまう!!

「クソッタレ!!」

 そう叫ぶと体からキラキラと光りながら落ちるガラスの破片を落としながら立ち上がった俺は、手にしていたマシンガンの銃口をそいつの面にめがけて向けてやった…が、引き金を引くまでにはいかなかった。なぜなら男は俺たちの姿を確認すると「生きてる人間か!?」と言って、その銃口を俺たちとは全く違う正反対の方向に向けて撃ち始めたからだ。
 とにかく、今まで会ったこの施設の生存者はいない。いや、正確には一人だけいることはいる。俺が出逢った、たった一人だけ知っているあの変態野郎の存在なんだけどよ、そいつは数に入れないことにした。なぜって?もう、死んでるかも知れないし…あんまり思い出したくないからだ。まあ、死んでるなんてこた、今までだって飄々と生き残ってるぐらいなんだから、恐らく絶対にないと思うけど…

「とにかく 援護 してくれ!!」

 俺たちは 兎にも角にも 話しは後回しだと言うように、その男の脇につくと一斉に銃を構えたが、男が発砲する先には何もいない。
 拍子抜けした俺が思わず困惑したように研究員をチラッと見た。それだって、一応、前方への注意は 怠 らないように心掛けながら。それでも声は上ずっていると思う。

「な…何に向けて撃ってるんだよ!?」

「今に判る!」

 そう言うと、奴はポケットに手を突っ込んで 手榴弾 の小型版みたいな物を取り出したんだ。
 ピンッ!
 安全装置を外す音がしてピンは宙に舞うと、閑散と、奇妙に静まり返る通路にいっそ心地好い音を立ててそれが床に落ちる頃には、本体は男の手を放れて前方の通路へカラカランッと音を響かせながら転がって行った。

「伏せろ!」

 一連の動作はまるで映画のワンシーンのようなスローモーションに思えたけど、これは現実で、目の前で展開されている悲しい事実なんだと思い知らせる鋭い声が、男の口から洩れた時には俺たちはもう思い思いの仕種で頭を庇うようにして伏せていた。
 そしてその言葉と俺たちが伏せたのとほぼ同時に、前方の通路で小規模だが確実な爆発が起こり、後には何かが 引っ繰り返 って 痙攣 を繰り返していた。ムッとする硝煙の匂いと、何か肉が焦げるような異臭が鼻をついて、俺は 顰 めながら上げた顔で前方を確認しようとした…けど、残念だがここからじゃソイツの姿が焦げていて良く見えなかった。ブスブス…ッと、不気味な煙が吹き上がっている。
 まあ、百歩譲って 敢 えて言うのなら、それはきっと『カメレオン』っぽいってことだろうか?
 トカゲ…?うーん…

「お前は誰だ?」

 俺がそんなことに頭を 遣 っている時、不意に 尤 も冷静な須藤が伏せた床に上半身だけを起こして、同じような仕種をしている男の頭に銃口を押し付けて言ったんだ。

「……さすがに、この階層まで来ただけの事はある」

 そう言って男は手にしていた銃を床に置くと、そこから慎重に離れながら胸の位置に両手を上げて、敵意丸出しの須藤に自分には敵意が無いと言うことを態度で示してみせた。

「俺の名は 新倉 と言う。ここのしがないサラリーマンエンジニアだよ」

「…新倉?日本人なのか?どうなってるんだ!」

 須藤はワケが判らないと言いたそうな表情で俺を見たけど、俺にだって判るかよ。
 ソイツのあからさまに怪しい態度にも引っ掛かるけど、残念ながら、今はコイツの話を聞くしか他に手はねぇだろう。
 チラッと須藤を見ると、奴は諦めたように銃口を下ろして首を左右に振った。
 俺たちは這っていた床から起き上がると、新倉が置き去りにした短銃を拾い上げながらヤツを振り返ったんだ。

「で?新倉さん。なんだってあんたはこんな所にいるんだ?」

「俺は紫貴電工から派遣されたしがないエンジニアだ。施設のコンピュータのメンテナンスで来ていたんだが…まあ、ご覧の通りってわけだ」

 そう言うと、男が唐突に懐に手を突っ込んだもんだから、疑い深い須藤は 躊躇 わずに銃口を向けた。ちょっと、さすがにビクッとしたんだろう、新倉は名刺入れを取り出すと、片手を胸の前で上げながらそれを左右に振ってみせた。日本人特有の名刺交換ってやつか?
 残念ながら俺たちは学生で、サラリーマンじゃねぇからソイツは必要ないんだよ。

「動くな!お前、何だかうさんくせーんだよ!」

 須藤が不機嫌そうに鼻に皺を寄せて構えていた短銃を構え直すのを見ると、新倉は額にうっすらと浮かんでいた汗を軽く拭いながら、その名刺入れを引っ込めて肩を竦めてみせた。

「とにかく、俺たちの探している生存者じゃねーんだ。放っておく方がいいだろ? 足手纏 いにだってになりかねないからな」

 ここに来て二人目の生存者。
 ったく、なんだってここで生き残ってる連中ってのはこんなに 胡散臭 いんだろうな。
 まあ、こんな状況の施設だ、生き残ってる方が不思議なぐらいなんだから、そうとう肝の座った奴しか生き残れねぇんだろうけど。
 そんな事を考えながら言った俺の提案に、須藤は舌打ちしながら賛成したようだった…が、俺らの仲間の一人がやはりと言うか、セオリー通りに裏切ってくれるんだよな。

「こんなところにいて、よく無事でしたね。大丈夫ですか?」

 つーか、お前の頭は大丈夫かよ、桜木。
 それまで黙って事の成り行きを見守っていた桜木が、いきなりその「新倉」と名乗る怪しい男に近づきやがったんだ!桜木にしては初めての生存者にホッとしたんだろう。その気持ちは判るし、同感だってしてやれるさ。だが、俺はそれでかなり痛い目にあったんだ。あんな思い、女の子にはさせられない。
 俺と同じことを思った…ワケじゃもちろんない須藤がそんな桜木を引き戻して、男との間合いを取った。

「何を考えてるんだ、桜木。今、出会ったばかりで、どんなとこから来てるのかも判らない人間に簡単に近づくんじゃない!」

 そうだ。あんなことならまだ生きていけるからいいかもしれねぇけど、もしコイツに何かしらの菌がついていたりしたらどうするんだ!?
 今回ばっかりは須藤の言うことを聞いてくれよな。

「わ、判ってるわよ!…でも、どうやってこんな施設の中で生き残れたのか、紫貴電工ってなんなのか知りたいじゃない」

 桜木は予想以上の猛反撃をしてくる。
 いや、その台詞にはもちろん同感だったけど…

「いや、それだって駄目だ。お前の指摘するように、この男がエンジニアだって言うのにどうして短銃だの 手榴弾 だのを持ってるのかって事が引っ掛かるんだよ。俺にはこいつが言葉通りの人間とは思えないんだ。桜木は好奇心が 旺盛 すぎるよ、もう少し現実的に物事を考えるべきだと思うね」

 さすが、須藤って感じだ。桜木の言動に怯むどころかあっさり切り返しやがった。
 須藤はいつも以上のポーカーフェイスを気取っていたけど、ムッとしている桜木の顔を溜め息をつきながら見下ろしている。

「どちらにしたって、俺たちに紫貴電工なんて会社は関係ないんだよ。そりゃ、この施設を作った会社かもしれないから気にはなるけど…まあ、当分就職活動はお預けだと思うし、気にしない方がいい」

 俺が肩を竦めて言うと、桜木はちょっとバツが悪そうな表情をして小さく笑って見せたし、須藤は呆れたように肩を竦めた。そして俺たちの目の前の男はあからさまに噴き出したんだ。

「…っと、失礼。こんな状況下でも、なかなかのハイセンスなジョークだと思ってね」

 須藤に 胡乱 な目付きで 睨 まれた新倉は、苦笑しながら首を左右に振った。

「君たちはここから先に進むんだろう?だったら、少なくともこの施設の知識を多少でも持っている俺を同行させた方がいいんじゃないのか?」

 もっともらしくそう言って、尊大な態度で腕を組むのを須藤は憎々しげに見ていたが、俺をチラッと見て眉を上げてみせた。
 どうする?…とまあ、そんなことを聞いてるんだろう。
 俺に意見を求めて欲しくはないけど、仕方ねぇ。

「どうして俺たちについて来たいんだよ?逃げるなら 地上 に行けばいいだろ」

 俺の台詞に新倉は肩を竦めて見せて、それから 徐 に組んでいた腕を解くと首を左右に振ったんだ。

「実は…さっきので最後だったんだよ。パイナップル」

「パイナップル?…ねぇ、須藤くん。やっぱりちょっと、この人ってヘンね。関わらない方がいいみたい。ごめん、今回はあたしの負け…」

 …ってなことを須藤に耳打ちする桜木に、笑っていいのかどんな顔をすりゃいいのか、困惑したような表情で参ったように彼女を見下ろしている。
 俺は思わず笑っちまいそうになったが、新倉を前にそれほど心を許すわけにもいかない。

「最後の手榴弾だったってワケか。じゃあ、今度あんな目には見えない化け物がいたら…最悪だな」

 やだ、パイナップルって手榴弾のことだったの?…と、桜木が口許を押さえて恥ずかしそうに舌を出した。須藤が頭痛でもしているようにこめかみを押さえている。それらをまるで無視して、新倉は俺を見据えながら頷いたんだ。

「と言うワケだ。それで、見れば君たちは多少なりとも武器を携帯しているようだからね。単身、こんな安っぽい短銃一つで地上に戻るぐらいなら、君たちに同行させて欲しいんだよ」

 思ったよりも真剣な表情で言うそのエンジニアを、別に俺たちは信じたわけじゃない。
 ただ、本当に久し振りに出会った人間を、見殺しにするのが嫌だったんだ。
 須藤もそれには納得したようで、渋々と言った感じで頷いた。
 ただし、と言ってヤツはきっちりと釘を刺したんだけどな。

「少しでもおかしな真似をしやがったら、俺は 躊躇 わずに引き金を引くからな」

 そのゾッとしない台詞に新倉は苦笑し、桜木は呆れたようだった。
 俺は…ずいぶん過激になったもんだと、妙に感心したもんだ。
 そうして、手にしていた口径のけっこう大きい短銃とは呼べないような銃を返してやりながら、俺たちは新しい仲間を加えて歩き出していた。

Act.22  -Vandal Affection-

 ブルーゾーン。
 どうやらここは幾つかの研究室が集合しているフロアのようだ。
 これがあと1、2階は続いてるんだろうな。
 そんなことを考えながら、俺たちは 階上 で見たのと、あまり変わらない白い壁が左右に続く通路を慎重に進んでいた。壁のほぼ中央に青いラインが走っている。これでフロアを見分けてるんだろう。

「ここはなんだろうな?」

 少しだけドアが開いている研究室を銃口で指し示した須藤が俺に振り返ったが、その誘うように開いたドアに入ろうって言うのか?須藤もちょっと警戒心がねぇんじゃねーか?
 俺が呆れたように肩を竦めて見せると、須藤は片方の口角の端を吊り上げて嫌味ったらしく笑うと顎をしゃくって内部に入ることを勧めてきやがるから、お前が入れと歯をむいてやる。

「なんにせよ、好奇心は満たしておこうぜ。こう言う研究施設ってのは案外、危険物を取り扱っていたりするから銃器を揃えていたりするんだ」

「あら!だったら入りましょうよ。あたしたちって、殆ど武器がないじゃない」

 俺たちの会話を聞いていた桜木が 躊躇 わずにドアを開いて、俺は思い切り焦った。
 そうだ。確かに桜木の言うように武器が少ない。
 それでこんなあからさまに怪しい研究室に踏み込んで、ワケの判らん化け物が襲ってきたらどうするんだ!?と、言うよりもお前、いつから武器の少なさに気付いたんだ?黙っていたはずなんだけど…
 俺がマシンガンの銃口を向けながら桜木の身体を後方に押しやって前面に出ると、傍らに並んできた須藤を胡乱な目付きで睨んでやった。
 俺じゃねーよ、と眉を上げて目配せしてくる須藤に、おおかた、桜木の奴は純粋に武器の少なさを口にしたに過ぎないんだろうと思うことにした。
 確かに、俺がマシンガン、須藤があの変態野郎が寄越した短銃、そして桜木が持っている須藤に俺が渡していた短銃…数えたって3つしかないんだぜ?…本当のことを言えば、弾がないって話なんだけどな。

「きゃぁッ!」

 俺と須藤に続いて入ってきた桜木が口許を両手で覆って小さな悲鳴をあげた。
 そりゃそうだ、俺だって思わず絶句して立ち止まっちまったぐらいだからな。

「なんてこった…こりゃあ、実験体か?」

 銃口を下ろして室内を見渡した須藤に釣られるように俺はその、壁に設置された陳列棚のようなものにビッチリと並ばれた試験管を見渡していた。
 大小合わせて500匹以上はいるんじゃないかって思うほどの蜘蛛に、桜木は気味が悪そうに眉を寄せてはいたが、案外平気そうな足取りで俺たちよりも早くそれに近付いていったんだ。
 おいおい…って、そうか。あんな化け物ばかり見てきたんだ、今さら蜘蛛ぐらいなんだって言うんだ。襲い掛かってこられたらコトだけどさ、結局はこんな試験管に押し込まれてて身動きもできねぇ連中に怯えてたら身体がもたねーっての。桜木も、多少の嫌悪感を感じながらそう思ったんだろう。

「ほとんど…死んじゃってるみたいね」

 桜木の言うように、ほとんど、いや、全部が8本の足を上向きにして萎んだまま 引っ繰り返ってる。世話をする奴もいなくなって何年たつのか判らないが、こんな試験管の中に閉じ込められて生きていたらソイツは化け物───…

「あ!この子、まだ生きてる!」

 桜木が膨大な試験管の中から見つけた、たった一つの小さなビーカーのような試験管に入った少し大き目の梅干大の 蜘蛛 が一匹、身体を引きずるようにして試験管の中を這い回っている。
 試験管の表面には派手な黄色と黒に着色されたラベルが貼られていて、もうあまりよくは読めなくなっているが、何か書いているようだ。

「廃棄処分?可哀相に。人間って、どうしてこんなに罪もない生き物に悪さして殺せちゃうのかな…」

 悲しそうに眉を寄せた桜木は、躊躇わずにゴム製の蓋を押し開けようとして、慌てた須藤にそれを遮られてしまった。

「ば、バカ!お前、この蜘蛛が何か知ってるのか!?」

 驚くほどすごい剣幕で怒鳴る須藤に俺と桜木は目を白黒させながら顔を見合わせて、それから 青褪 めている須藤の顔を見返した。

「大きさこそ実験で小さくなってるが、これは正真正銘のタランチュラって言う猛毒の蜘蛛だぞ!お前らも知ってるだろ!」

 それを聞いて俺はゾッとした。
 実物こそ見たことはなかったが、そうか、これがかの有名な毒蜘蛛の王者なのか。
 桜木は暫くビーカーの形をした試験管の中に蹲っている蜘蛛を目の高さまで持ち上げて見ていたが、口許に小さな笑みを浮かべて俺たちが止めるよりも早くゴムの蓋を開けると掌にソイツを出しちまったんだ。

「桜木!」

 俺と須藤はほぼ同時に叫んでいた。
 けど、桜木の奴は意に介した風もなく、その掌に乗った蜘蛛を目の高さまで持ち上げてニッコリと笑うんだ。

「大丈夫よ。もうこの子、襲おうなんて気力もないわ」

 小さな、それでも少し大きめの梅干ぐらいには大きな特徴的な赤い剛毛に覆われた蜘蛛
は、桜木の言うように襲いかかろうという気は失せているようだった。

「あら?右目の2つを怪我してるじゃない」

「どうせ死ぬんだ。放っておけよ」

 須藤は面倒臭そうに言ったが、桜木は聞く耳を持たない。こう言うとき、この桜木って奴は本当に気が強くなるんだ。観念したように掌に蹲る蜘蛛に、桜木は囁くように呟いた。

「大丈夫?こんなにたくさんの仲間を失わせてしまって、ごめんね。でもせめて、あなたは生き残ってね」

 そう言って身体を屈めるようにして腰を落とした桜木は、掌を床の上に置いて蜘蛛を放そうとした。
 蜘蛛は暫くそんな桜木をジッと見つめていたが、何かを理解したのか、赤毛に覆われた背中を向けると体を引きずるようにして冷たいリノリウムの床に降りた。
 床の上にジッと立ち止まっている蜘蛛は、6個になってしまった目で桜木を見ているようだ。

「きっと生き延びるのよ、クモちゃん」

 気が抜けてしまうような呼び名に俺と須藤は思わずその場で転びそうになったが、蜘蛛は理解したのか、もう立ち止まることもなくズルズルと身体を引きずって薄暗い部屋から出て行ってしまった。

「ったく、これが死にかけていたから良かったんだぞ!アレは猛毒なんだ。しかもあの大きさだったら象ぐらいは易々と殺しちまうだろう。もう二度と勝手な真似はしないでくれ!」

 須藤が酷い剣幕で叱責すると、バツが悪そうに眉を寄せた桜木は立ち上がりながら首を竦めるんだ。

「ごめん…」

 珍しく、しおらしい態度で頭を下げる桜木は、それでも少しだけ悲しそうな顔をしていた。

「桜木?」

 俺が首を傾げると、彼女は、肩を竦めて部屋の探索に入った須藤から視線を外して振り返った。

「あたし…きっといいことなんてしていないのよ。あのクモちゃん、きっとすぐに死んでしまう。このビーカーの中に入っていても、外に出ても同じことなの。でも、外に出ることはもっと残酷だったような気がするんだ。須藤くんの言いたいことも判るのよ…あたしは偽善者だね」

 桜木は少しだけ泣いているようだった。
 何かに捕食されて死ぬ道と、ビーカーの中で無意味に死んでいく道…ああ、でもな桜木。
 お前があの 蜘蛛 に与えた試練の道は確かに辛くてヤバイかもしれない、それでも充分な可能性を秘めているんだぜ。
 悲しむ必要なんてないんだ。

「こんな薄暗い部屋のビーカーの中で意味もなく死ぬよりも、可能性にかけて突き進む…今の俺たちと同じじゃねーか。あの 蜘蛛 も、運が良けりゃ生き残ることができるんだ。桜木は可能性を与えてやったんだろ?落ち込んでたら、あのクモちゃんだってやる気をなくしちまうぜ?」

 ニッと笑って肩を叩いてやると、桜木は 漸 く少し表情を明るくした。須藤は馬鹿にしたように呆れた顔をしていたが、肩を竦めるだけでそれ以上は彼女を責めるようなことは何も言おうとしなかった。

「桜木はいい女だよ」

「え?」

 俺の台詞に彼女は少し 怪訝 そうに眉を 顰 めたが、俺はニッコリ笑うと頷いて見せたんだ。

「こんな状況下でも必死に生き残ってる奴を助けてやろうって思えるんだからな。俺や須藤だったら無視して行っちまってる。 蜘蛛 はここでなす術もなく死んでただろう。桜木はいい女だよ」

「…そうかな?」

 クスッと笑って、それから小さな声で『ありがとう』と呟いた。

「あの蜘蛛がオスだったら惚れてるんじゃないか?」

 冗談めかして言った須藤に、俺が笑いながら肩を竦めて見せると、桜木も落ち込むことをやめて、いつも通り可愛く笑った。
 他愛のないことだったけど、それでも俺たちは少しだけ救われた気がしたんだ。
 あの蜘蛛のように、俺たちもしぶとく生き残ろう。
 そして。
 さあ、次は人間を、仲間を助け出すんだ。

Act.21  -Vandal Affection-

 暫くして、俺はヤツの返り血をぼろぼろのシャツで拭くと、コンテナからゆっくりと降りた。既に須藤も桜木もレールのあるフロアに下りていて、俺が来るのを待っている。

「須藤、危なかったな……」

 俺の肩を軽くポンと叩くと、須藤はニッと笑う。

「ああ、もう正直駄目だと思ったんだがな。だけど、桜木のおかげさ、良くあんな機転がきいたな?」

「えっ、あっ、知らないうちにスイッチに手が行ってたの」

 そう言って今は無くなってしまったコンテナのあった場所を指差した。

「いや、そうじゃなくてさ。あの台車の操作の事だけど…」

 桜木は不思議そうな顔をして首を左右に振る。
 その仕草は“私じゃないわよ”と言った感じだった…
 じゃあ、誰がやったんだ?
 その時、頭上から声がした。

『当構内はこれよりオートメーションによる運搬作業を行います。線路内に侵入している工員は速やかに退避してください。繰り返します、当構内は…』

「なるほどね、運が良かった…それにしても、ヤツはどこへ召されちまったんだろうな?」

 須藤は 既 に先ほどの事態を忘れたかのようにおちゃらけて言った。そうしているうちに、貨物用エレベーターが到着すると、綺麗に並んでいた台車が順序良くゆっくり構内に入ってきた。俺たちはそれをよけながら、一段上の工員用通路に退避した。

「さて、次に進むとしましょうか?」

 須藤は“おっと、いけない”と、落としていたハンドガンを拾いにもう一度戻って行く。

「貴重な武器なんだから大事にしとかないと…」

 俺の言葉に須藤が肩をすくめながら、悪びれた様子もなくニヤッと笑って俺を見た。

「ああ、“もしもの時は馬鹿な事は考えずに使うんだぞ”だろ?」

「判ってるなら最初から拾っとけよ、バーカ」

 一段下で肩を竦めていた須藤は“よっ”とオッさんのような掛け声でこちらに上がって来たんで、俺は奴の肩を軽く突いてやった。それで二人で笑っていると、そんな俺たちを後ろで見ていた桜木も先ほどの緊張感から漸く開放されたのか、小さく噴き出している。
 まぁ、何はともあれ大切な仲間が欠ける事なく今回も無事に危険をやり過ごせて良かったと思う。
 いや、本当に良かったよ。

「なぁ、ところで俺たちって何であのカマキリとバトルしたわけ?」

 俺は注意深く先に進みながら、さっきから考えてもどうしても答えの出ない疑問を口にしたんだ。その言葉に、須藤のヤツが桜木を 挟 んだ背後で肩を竦めた気配がした。
 本当はさ、どうでも良いような事なんだけど、気が抜けたせいかみんなでそんなことを考え込んでいたんだ。
 音に敏感だったヤツのこと、本来なら大きな音を立てさえしなければあっさりと遣り過ごせたはずだ。なのに俺たちは必死でやりあった。

「う~んと。博士たちを捜し出して帰る時って大人数じゃない?あんなのいたら大変だし…だから、やっつけた!…でいいんじゃないかしら?」

 桜木の意見が一番もっともらしいが、なんか違うような気もしなくもないよな。

「少なからずも動揺してたってことかな。俺たち…」

「馬鹿だな!原因は桜木にあるんだぜ?」

 唐突に背後からの須藤の言葉に小首を傾げて振り返った桜木の鼻先を軽くつまむと、片方の口角を釣り上げて笑ったんだ。
 桜木はぶぅ!と顔を 顰 めて須藤を 睨 むが、ヤツは気にもせずに言葉を続ける。

「桜木が“ヤッホー”って言っただろ?あのカマキリくんは音に凄い敏感で、しかもその位置を正確に割り出せる能力を持っていたんだ。これはあくまでも俺の推測なんだが、暗闇に暗躍する生き物にとって、目より耳や皮膚に伝わる振動、つまり音や動きの方が敏感になるんだろう」

 そこまで言うと、首を振って須藤の手から逃れた桜木は、意地悪そうに須藤の鼻に人差し指を押し当てると鼻先を押し上げながら言った。

「あーら、じゃ、あたしが襲われなかったってのはヘンな話じゃないの?」

 須藤は豚の鼻でカッコをつけながら両手を肩のところまで上げると、“判ってないなー”とでも言わんとばかりに首を左右に振っている。

「何故かって?『木霊』だよ。桜木を救ったのはあそこの反響が『木霊』を生んで、その音に奴は惑わされたんだ。だから、俺たちの居る場所は判っていても、桜木がその場所から移動したって奴は思ったのさ。動揺したのはつまり、カマキリくんの方だったってワケだ。だが、もしあそこで俺たちが奴を無視していたとしても、俺たちの脇をゴキ野郎が通っただけで本当はいちころだったんだぜ」

 なるほど!
 それであのカマキリの化け物は俺たちを見下ろしながら首を傾げていたってわけだ。
 ここにあの音の主はいるのだろうか…ってな。だが…

「なぜ、いちころなんだ?」

「ヤツが俺たちの存在に既に気付いていたからさ」

「えっと…」

「判らないのか?物音はしないが、あの鋭敏な皮膚は俺たちの息遣いで何かいることには気づいていた。その脇を大きな音を立てた生き物が通ったらどうする?」

「あ!」

 俺と桜木は思わず顔を見合わせて、興奮したように須藤を見た。ヤツは仕方ないヤツらだとでも言うように肩を竦めて見せるけど…
 なるほど!そう言うワケだったんだ。
 さすがだな、須藤!
 奥歯に詰まっていたものがスッキリと取れた気がして、俺は満足した。桜木のヤツはいまいちムッとしているようだったけど、どうもコイツらにはなぜだか判らないが、対抗心みたいなものが芽生えているらしい。
 こんな時だって言うのに…何を考えてるんだかな、コイツらは。
 でもま、須藤のヤツは全く相手にしていないみたいなんだけど…桜木のヤツは。
 もしかしたら須藤のことが好きなのかもしれない。
 こんな状況じゃなけりゃお互いの事をもっとよく知って、もしかしたらなかなかお似合いの二人にだってなれたかもしれないだろうに。いや、考えるのはもうよそう。
 これが現実なんだ。
 生きて日本に帰られたら、そんな希望はまるで当たり前のようにあるはずだ。
 俺たちはそれだけを目標に、生きる為に突き進んでいるんだ。
 逃げることも突き進むことも、全ては生きていくことに 繋 がっていることをこのサバイバルの状況下で俺たちは学んでいた。後ろばかり振り返って何もできないでいるよりも、死ぬことに怯えながら先に進んでいくことの方が 随分 と難しいことだって、このコンカトスで知ったんだ。だけど、必ず実行すれば何とかできることも確かだった。
 ここに来る前まで、あんな化け物たちを次々と倒せるなんて思ってもみなかった。まるでゲームや映画の世界のようで、でも現実は全く違ったんだ。恐怖を煽る音楽なんかない。
そんなものでもあれば少しぐらいは気分だって晴れるのに。
 まるで研ぎ澄まされたように静まり返る周囲には生き物の息を潜めた気配だとか、建物に入ると自分の心臓の音と 息遣 いしか聞こえないんだぜ。気が狂いそうになる。
 恐怖なんか、つま先から這い上がってきて脳天に達するのなんかすぐだった。
 混乱もするし、妙に苛々するんだ。
 でも、ヘンなところが冷めていて、そう言う部分が恐怖心に 摩り替 わっていくからさらに怖い。
 怖い。
 もう、無条件で怖いんだ。
 映画やゲームのようにじわりじわりと這い寄ってきて急に襲いかかるような恐怖心じゃない、それだってどこかに「自分は安全だ」と思う安心感みたいなのがあるから恐怖心と言う感情をゆっくり味わうことができるだけだ。でも現実は違う、最初っから怖いんだ。目の前に化け物が 唐突 に現れると、まず始めに息を飲む。でも、すぐに心底から湧き上がるような恐怖心が身体を突き動かす。頭で考えるよりも先に、そう言う現象が起こる。
 それはもう無条件の、条件反射だ。
 これはもちろん俺が体験したことで、須藤や桜木がそうかと言うと判らないんだけどな。
 須藤は動揺したりもしているようだけど、けっこう冷静に判断してるみたいだし…桜木にいたっては 殆 ど放心状態が続いてるみたいだ。ああ、その点で言えば桜木と俺には共通点があるな。
 なんにせよ、頭で考えるよりも身体の方が先に動くのは一緒だってことだ。
 頭脳の方面は須藤に任せればいい。
 俺たちは、きっと3人ともベストパートナーだと思う。
 よくぞ生き残ってくれたって感謝してる。
 もうダメだと諦めかけても桜木の天然ボケに救われたり、考えても答えが出ない時はあっさりと須藤が答えてくれる…じゃあ、俺は?
 俺は、なんの役に立ってるんだろう…?

「…なんにせよ。嗅覚が発達していなかったことには感謝しないとな。だいたいの確率で、
闇でしか生きられない連中ってのは嗅覚が発達してるもんなんだ。ここにいたあのカマキリくんはどうも失敗作だったようだな」

 桜木の背後で余裕ができたのか、須藤が呟くように言った。

「嗅覚…?」

 そうか、これから先には嗅覚に敏感な生き物だって開発されてるかもしれないんだ。

「ソイツに狙われたら最後だな。この武器の少なさじゃ…頭脳戦も運も、さすがに匂いには負けるだろう」

「まあな。だが、方法がないってワケでもない」

 須藤は小さく笑っているようだった。

 その時のこともちゃんと考えてるようだ、こんな状況下、須藤の優秀な頭脳はあらゆる可能性を弾き出して計算してるんだろう。心強いことだ。

「どう言う方法なの?」

「まあ、その時になったら教えるよ」

「ケチね」

 桜木が肩を竦める気配がして俺は笑った。
 けっこう重い鉄の扉の取っ手に手を掛けて、俺は後方にいる二人を振り返った。
 焦燥感と疲労に覆われている桜木と、緊張感にいつもよりも強張った表情の須藤。
 俺は…なんの役に立ってるのかなんて判らねぇ。
 考えたってしかたないなら、今は俺ができることに集中するしかないんだろう。
 息を飲むように顔を見合わせた須藤と桜木は俺の手許を見て、それから目線を俺の顔に向けると小さく頷く。

「じゃあ、行くぞ」

 俺は思い切り良く、何かを吹っ切るように扉を開いた。
 階下に続く階段の踊り場になっているそこから、溢れるように光が俺たちの目を細めさせる。
 さあ、薄暗いトンネルに別れを告げて、おおかた怪しげな研究でもしていたんだろう、俺たちは標識にあったブルーゾーン、地下16階に踏み込むことにしたんだ。

Act.20  -Vandal Affection-

 その生き物は大きな 鎌 を持っていて俺たちの方を凝視していた。
 どうも、 既 に奴の 射程圏内 にいるらしい…
 マズイ…なんてもんじゃないだろう。

「ど、ど、どうする?」

「どう、って…、どう、するって…」

  固唾 を飲む俺たちの前で、桜木は震えて動けないでいた。
 奴は、目の前の三つの獲物を品定めでもしているように、首を傾げるような仕草をしながらジッと俺たちを見ている。
 だが、その時間がやたらに長くて、俺は生きた心地がしなかった。
 どうしようもない絶望感の中で、必死に生き延びる方法を考えていたんだ。
 何か良い方法…良い方法は…
 ガターンッ!!
 不意に大きな音がして、俺たちはビクッとしたが、それが大きなチャンスを生んでくれたんだ!!
 ダスダスダスッ!!
 その音の方向には俺たちが未だに見た事もない巨大な、その名前からでは目の前の大きさを容易く想像できないごく身近にいる昆虫…黒光りの羽根を油っぽいヌルつく光に反射させているアレ…つまり、ゴキブリがいた。そう、ヤツこそがその音を立てた張本人だったんだ。ただし、フットボールを三回りは大くしたようなゴキブリだが。
 化け物はキーキーと泣き声を上げてそいつに飛び掛ると、その鎌を無造作に振り下ろした。
 ドシュッ!!ドシュッ!!
 薄暗いドーム型のトンネル通路に響き渡る不気味な破壊音。
 そして黒い影が動くたびに、グシャッ、グシャッと奇妙な音が上がる。
 その音はまるで俺たちが次にそうなるのだと見せつけるように、ゆっくりゆっくりとかみ締めている口許から漏れ聞こえていた。

「今がチャンスだろう、奴はきっとこちらに気付いていなかったんだ」

「そんな…馬鹿なことってあるの?」

 桜木は震えながらコソッと須藤に言った。そんな桜木と考えを巡らせている俺の肩を促すように軽く掴んだ須藤は、近くのコンテナに身を隠そうと顎で指し示したから、俺たちはそれに頷いてコンテナの陰にこそこそと姿を隠すことにした。

「とにかく、桜木に今回は頑張ってもらわないとな。佐鳥はあの腕だ、動かすのは無理だろう。それをしくじっちまうと俺たちだってただじゃすまないからな」

「すまん、みんな。腕が…って言い訳なんかしたくねーんだけど…うッ、痛ぅ!!」

 そう言って俺は立ちあがろうとしたが、腕の激痛は 既 に限界に達していたらしい。
 ああ、クソッ!あの麻薬もどきの薬が切れかけてるんだ。

「あっ!無理しないほうがいいよ、佐鳥くん。大丈夫!こう見えてもあたし、やる時はやるッス!!だから…ね、佐鳥くん。本当に無理なんかしちゃダメだからねッ」

 青褪めた表情をしてるくせに、両手でガッツポーズを作って無理に笑いかける彼女に、俺は判ってると頷いた。少し笑って見せると、彼女はホッとしたように震える手で俺の腕を労わるように触れてきたんだ。
 ああ、こん畜生ッ!こんな時に化膿なんかしやがってッ…この腕さえ何ともなければ、あんなに怯えてる桜木を頼るなんてことしなくてもすんだのにな。俺ってヤツは…
 そう考えて舌打ちしていると、桜木がそんな俺の考えを察したのか、ちょっとムッとしたように唇を尖らせて小声で言ってきたんだ。

「ねえ、佐鳥くん。あたしたちって仲間なんでしょ?やっぱりあたしなんか、須藤くんよりもずっと頼りないとは思うよ。でもね、もっとあたしを信じてッ」

 それまで、やっぱ俺は男だし、女の子に頼ることなんてできないと、こんな時なのにヘンなプライドとか持って意地を張っちまってる心を見透かされたんだろう、桜木は泣き出しそうな顔をしながらそんなことを言ったんだ。
 そうか…今は桜木よりも俺の方が頼りないぐらいなんだ。こんな時まで男だって言うプライドを持って、意固地になって足を引っ張るワケにはいかないってのが正直な話だ。
 俺は今更ながら目から 鱗 が落ちる思いで、怖いんだろうに、必死に強がっている桜木に礼を言った。

「そうだな、桜木。ごめんな。それから、ありがとう」

「佐鳥くん!」

 桜木が嬉しそうに笑っていると、どこに行っていたのか、銃を構えた須藤が身を隠しながら戻ってきた。
 どうやらヤツのことを観察していたようだ。

「奴は…ここに生息しているゴキブリのバケモノが主食なんだろう。ソイツを追い回していたんだが、奴の行動には少し変なところがあるようだぞ」

 須藤はそう言って、人差し指と中指の先を自分の瞳に向けて話を続けた。

「奴は目が見えていないらしい。幸い、動いたとしても、音がしている時にだけしか反応しないようだ…だけどな」

 須藤はそこで口を噤んだ。

「“だけど…”って、何?」

 桜木はそれまで俺の腕の様子を診ていたが、不安そうに須藤の方を見て首を傾げた。

「だがな、奴はスゲーんだぜ。音を聞けばかなりの確立でターゲットをヒットしている。と言うことは、囮になれる時間が極端に短くなってしまうってことだ」

 須藤の話を聞いていた俺は、その言葉の何かに引っかかった。

「す、須藤…お前、まさか…」

 須藤は 僅 かに目を伏せると、片方の口角を小さく釣り上げた。奴らしい、いつもの笑い方だ。

「まぁ、お前が考えているようなことはきっと起こらないだろうと信じてはいるけどな。最悪の場合も考えておかないといかんだろう?」

 目線を上げてこっちを見ている須藤には自信があるようだったが、先ほどの奴のハンティングを目の当たりにすれば、全力で走ったところで奴の刃が須藤を捕らえるのにさほど時間はかからないだろう。だとすれば、須藤がどんな方法を考えているのかいまいちよく判らないんだが、今回は桜木とのタイミングとコンビネーションが重要視されてくるんだろう。
 須藤が桜木の方を向くと手招きして呼んだ。

「なぁ…桜木」

 その言葉に小刻みに身体を震わせた桜木が、須藤を見て頷くと、まるで意を決したように立ちあがった。音を立てないように須藤の傍に近付いて行くんだ。その眼差しは決意に満ちていたけど、薄暗い闇の中ではその輝きもくすんでいるように見えた。

「さて、ここからの脱出方法を考えようか?」

「うん…須藤くん」

 須藤と桜木がこそこそと話し合いを始めたんで、せめて俺は須藤たちが気を散らせないように辺りの様子を見張っていようとしたんだ。
 ふいに態勢を変え様として、傷を負っている方の腕をコンテナに当てちまった!
 俺は腕から脳天に走り抜ける痛みに歯を食いしばると、顔を上げて声を漏らすのを耐えた。ついでに滲んでくる涙もな!クソッ!
 その時、上を向いていた俺の視界に『ある物』が飛び込んできた。

「問題は…どうやってアイツを仕留めるかってことなんだよな」

「う~ん、銃でバンバンッて殺せないかしら?」

 そんな話を聞きながら、俺は銃を撃つ真似をする桜木と渋い顔の須藤の傍に這うようにして近寄って行った。

「銃でなんてきっと無理さ。あの速さといい、音に対する洞察力にしても尋常じゃない。それに、あいつには面白い習性があるようだな…そこを使うんだよ」

 俺はニッと笑うと、掻い摘んでだが、しかし要点を絞った一通りの説明を二人にした。

「なるほど…その担当は桜木でもいいな。で、俺が引き付けられるだけ引き付けておけば、後はうまくいくように祈るだけってことか?」

「そう言うことだ。さっすが秀才さまは完璧でいらっしゃる」

 それなりの流れを須藤は理解したらしく、ニッと笑う。俺のお決まりの嫌味にも、やっぱり奴らしい片方の口角を釣り上げるお決まりの笑いで応えてくれた。
 さあ、いよいよ一発勝負の準備に入るぜ。
 俺は予め須藤が持っていた、口径の少し大きめなハンドガンの予備であるマガジンを手渡した。

「極力使わないようにしないとな」

 須藤はニヤッと笑う。

「もしもの時は馬鹿なことは考えずに使うんだぞ」

 その肩口を拳で軽く小突きながら、俺はそう言って笑って見せた。
 今の俺には冗談さえも、冗談にならないように思えたんだ。
 それでも精一杯強がってみせる。それが、今の俺にできる激励だから…
 クソの役にも立たねぇ、 微々 たるもんだけどさ。

「…ったく、怪我人の癖に」

 肩を竦めた須藤は銃をジーンズの尻に差し込むと、黙って目的のポイントに向かって歩き始めた。
 桜木の方は近くの壁に張り付いた鉄の 梯子 をよじ登り始めていた。幸いスニーカーだったので、音を出す心配はなかったが、少し怯えているらしい桜木の姿の方が心配だった。
 そして、俺は今あるだけの弾薬と武器をコンテナの上に並べると、あのバケモノに気付かれない様に静かに息を潜めたんだ。
 できることなら俺の出番はないほうがいい。
 俺の出番は即、最悪の状態を意味してしまうんだから……頼んだぜ、桜木。
 俺はそう念じるように祈って、コンテナの上で寝そべるとマシンガンを構えた。
 多分、俺のこの腕じゃ須藤を逃がす為の時間稼ぎすらも出来ないだろうけど…

『それじゃ、準備はいいか?』

 須藤は右手を振ると、上の階に上がっている桜木に合図を送った。
 桜木が頷くと、俺には目配せをする。
 緊張した空気が俺たちの間に漂っている。
 心臓の音がバカみたいにデカくて、これじゃあ外に聞こえて、あの化け物に悟られるんじゃないかと冷や冷やした。
 バケモノは巨大ゴキブリの動きをじっと待っているようだった。須藤は一段下がっているレールの引かれたその線路内に進入すると、目を閉じて深呼吸と伸びをしながら、リラックスするように何度か音を出さないように“トントン”と垂直に飛んでいた。
 そんな須藤を、俺はゴクリと 固唾 を飲んで見守る。きっと、桜木も同じだったに違いない。
 桜木も自分が大事なポジションを任されていると言う責任感を理解しているのか、俺同様に須藤の動きから目を 逸 らしてはいない。

「じゃ、行きますか…」

 そう言って須藤が尻に差していた銃に手を掛けた時だった。
 ガタンッ!ゴトト、ガサガサッ……
 須藤の斜め後方から大きな音が上がったんだ!

「しまった!ゴキブリの奴か!?」

 そう舌打ちする須藤の脇を蟷螂の化け物は猛スピードで走り抜ける。
 そのスピードで起きた風が須藤の前髪を揺らした。
 そして、奴の広げた羽根の先が須藤の頬をかすると、その頬に一筋の血が伝っていた。
 須藤は驚愕に目を丸くして、俺のほうに手を振ったんだ。
 その合図は失敗を意味していた…
 だが、ゴキブリを逃がした奴は、須藤の音を覚えていたらしく、すぐさま須藤の方に向き直ってしまった。
 ゴクリッ……
 須藤は 固唾 を飲んだ。緊張したその雰囲気は離れた所にいる俺たちの場所まで届いてくる。

「チッ、しくじっちまったか…」

 須藤はそう言うと手にしていた銃を尻に差そうとして、あのバカ、床に落としやがったんだ!
 その瞬間が桜木にとっても俺にとっても、そして当の本人である須藤にとっても恐ろしく長く感じられたに違いない。だが、現実ってのは無情にも最悪な状態へ導いて行くもんなんだ。
 そう、今、この時みたいにな!
 落ちた銃はレールの鉄の部分に当たると、いっそ気持ち良いぐらいの金属音を立てて奴を挑発した。

「須藤っー!!」

 そう叫んで俺が立ちあがる。

「キャーッ!須藤くーんッ!!」

 桜木も同時に悲鳴を上げていた。
 すると、須藤の奴はいきなり思いがけない行動に出た。何と奴の懐に突っ込むと股下に潜り込もうとしたんだ!
 そうして奴をやり過ごそうとする須藤を、だが化け物は簡単には見逃してはくれなかった。
 接近しすぎていたせいか、奴の脚に僅かだが須藤の肩が触れてしまったんだ。
 すぐさま、態勢を取り戻した奴は、獲物である須藤の横っ腹に鎌の背をたたき込んできた!!

「グハッ!!」

 須藤はその勢いのまま壁に叩きつけられると、苦しそうな顔で奴を睨んだ。
 奴が須藤の腹にその鎌を叩き込もうと突進した、次の瞬間…
 ドシャッ!!
 突然、天井から落ちてきたコンテナに突っ込んだ蟷螂野郎は、強かに頭を打ち付けるとフラフラとその場に倒れてしまった。
 一瞬の出来事に思わず目を見開いていた俺は、上のコントロール室で震えている桜木を見上げた。彼女が思わず触れたスイッチが運良く須藤を救ったんだ!
 ナイス!桜木!!
 だが、そのコンテナに奴は頭を打ち付けただけで、絶命したわけではなかったようだ。すぐさま起きあがると、落下したコンテナの上によじ登り、その鎌を振り上げて奮起の咆哮を上げると仁王立ちになる。

「ジ・エンドにしちゃ、はやくないか…?」

 須藤はそう呟いて、覚悟を決めたように目を閉じた。
 奴が今にも須藤に飛びかかろうとした瞬間…
 ピィコーン、ピコーン!
 警告ランプと警報が鳴り出すと、辺りは黄色い回転ランプに照らされた。
 そうしていきなり奴の横、数メートル先に止まっていた台車が奴に向かって動き始めたんだ。

「キィー!!」

 奴は大きな音を立てるその獲物に期待を膨らませているのか、大ぶりに 鎌 を振り上げると、須藤を無視して突っ込んでくる台車の天板に二本の 鎌 を突き刺したんだ。
 それは深々と刺さり、不意に奴は、それが今までに無い“ヤバイ”獲物だと気がついたようだった。
 だけどな、それに気付くのが遅すぎなんだよ…

「ナイスだ、そのまま逝っちまいな!」

 須藤は喘ぐように脇腹を掴んでよろけながら立ち上がると、自分の方を見て必死に鎌を抜こうとジタバタしている化け物の姿を悠々と眺め、片方の口角を釣り上げてニヤッと笑うと付け加えたんだ。

「ほらほら、もう後がないぜ。カマキリちゃんよ!!」

 そう言って指差した先には、ついさっき桜木が落下させていたコンテナが台車の来るのを待っていた。
 本来なら台車の上に乗る荷物だが、レールの上に直接落下したせいで、そのコンテナが台車の進行方向を遮る形になって存在を強調している。

「ギィー!ギギィー!!」

 バケモノは全ての力を脚に込めて必死に鎌を抜こうとしていたが、たとえ抜けたとしても、きっと逃げる時間はなかったに違いない。
 ギィギャーギィーッ!!!!
 何かを引き裂くような鋭い叫び声を上げて奴の身体が押しつぶされると、辺りに緑色をした体液が飛び散った。

「キャッ!!」

 桜木は頭上からその光景を目の当たりにしてしまい、目を痃り耳を押さえてその場にしゃがみこんでしまったようだ。
 悲痛な断末魔は長く低く尾を引き、それでなくても反響しやすいトンネル状の通路に暫くは篭っていた。
 俺は奴の返り血というか、体液を真横で浴びたまま、コンテナと残骸が奥の貨物用エレベーターへ押し出されていくのを、ただ茫然と見送っていた。

Act.19  -Vandal Affection-

「やっほーーーーーーッ!」
 唐突に響き渡った、山の上なんかで聞けば頂上だー!と一緒になって叫んでるだろうほのぼのとした絶叫に、俺たちはギョッとして桜木を振り返った。

「な!?」

「ど、どうしたんだよ、桜木!」

 彼女はやけにスッキリしたような顔をして、 度肝 を抜かれてる俺たちにニコッと笑ったんだ。

「ああ、スッキリした」

「化け物に気付かれたらどうするんだ!」

 俺は桜木が狂ったんじゃないかと思った。
 慌てたように須藤は素早く様子を窺おうとキョロキョロと周囲を見渡している。

「だ、大丈夫かよ、桜木ぃ…」

 ちょっと情けなくその名前を呼ぶと、桜木はムッとしたように眉を寄せるんだ。

「あら、あたしは平気よ。別に狂ったりなんかしてないから安心して。だって、こんなに広いし、声だって反響してるのよ?叫びたくなるのが人間の悲しい性だと思わない?」

「…って、お前。ここにはゾンビだっているんだぞ!何を考えてるんだ!?」

「あら!こんなに広いのよ?いざとなったらそのレールの方に逃げたっていいじゃない!」

「…お前、強くなったなぁ」

 俺が奇妙に感心して桜木に呟いたその時だった、周囲を見渡していた須藤のヤツが何かに気づいたように顔を上げて歩き出したんだ。

「って、おい。どこに行くんだよ、須藤!」

「あ、やっぱりだ。見ろよ、佐鳥!これ、絶版になってるグレッグスの雑誌だぜ!」

 ここに勤務してたヤツの置き土産なんだろうその古ぼけた雑誌を、何かのコントロールパネルらしい台座から持ち上げた須藤のヤツは、嬉々とした表情をして表紙に積もっている埃を片手で払っている。
 ああ、もう…!

「雑誌も絶叫もここから脱出してからにしろ!もっと状況をお願いだから 把握 してくれよ!」

「グレッグスの雑誌は時価で売買されてるんだぜ~?1980年代ものなんて言ったらお前…」

「ヤッホーって叫んだらスッキリするのよ、佐鳥くん。佐鳥くんも試したらいいのに」

 ああ!コイツらどうしたって言うんだ!?
 俺は何か悪い夢でも見てるんだろうか!?

「ちぇッ。まあ、いいや。この本は俺のものだからな」

 そう言って、背負っていた銀の袋に雑誌を 捻 じ込んだ須藤は何事もなかったかのように行こうぜと俺たちを促してきた。
 はぁ、なんか疲れた…
 サッサと歩き出す須藤に追いつこうと歩き出した俺は、深々と溜め息をついて首を左右に振る。
 まあ、多少ぐらいはこんな風に気を抜くのもいいのかもしれない。
 俺がそんなことを考えていると、桜木のヤツが後ろ手に組んで仏頂面になりまくってんだろう俺の顔を覗き込んできた。クスクスと悪戯っぽく笑っている。

「佐鳥くん。そんなに緊張ばっかりしてたら、身体がもたないよ?少しぐらいは羽目を外してもいいんじゃないかって思うのね。だってこんな状況だもの、あたしたちが確りしないとどこかで待ってくれてるみんなが不安になると思うの」

 …桜木が何が言いたくてあんなことを急にしたのか、この時になって漸く俺は理解したんだ。ああ、そうか。張り詰めすぎる緊張の糸ってのはすぐにプッツリ切れてしまうからな。
 そうだな、ああ、その通りだと思うよ、桜木。
 それにしたって唐突すぎるんだよ、お前らは!
 やれやれと溜め息をもう一度ついて、肩を竦めながら須藤に追いつくそんな俺の後を、桜木はクスクスと笑いながら追ってきた。
 さっきと同じように俺を先頭に桜木と須藤という形で先をめざすことにした。

 唐突だけど、俺の右手はやけに震えていた。
 こんな状態だと、銃もうまく握れねぇんだけど、どうしたって言うんだ?
 俺が震える自分の腕を見下ろしていると、須藤が背後から肩越しにその腕を覗き込んできた。俺の後ろを歩いていたのは桜木だったはずなのに…どうしたんだ?

「お前の腕、ちょっとおかしいな。見せてみろ」

「だ、大丈夫だって!ちょっと、怯えてんだよ」

 俺は須藤の腕を振り払おうとして、ヤツがギョッとした顔をしたのに気付いた。

「なんだ、これ!お前、熱くなってるじゃないか!それに、ヤバイな。膿んできてる」

 須藤は俺のボロボロになっているシャツの袖を引き上げると、ゾンビに 齧られた腕を見て舌打ちした。そこは微かに傷口が盛り上がっていて、奇妙な色に変色していたんだ。

「熱で震えていたんだ。お前、よく我慢できたな。これだと、かなり痛んだはずだぞ!?」

「え?…あ、いや。別にそんなに痛まないけど…」

「そんなはずはないって!チッ、参ったな。手当てしないと…」

 俺は慌てたんだ。
 こんなところで治療なんかできるはずもないし、それを須藤も感じてるんだろう。掴んだ腕を離そうとしないくせに、難色を示した表情は背後の桜木を振り返っている。

「桜木、ナイフを持ってるだろ。貸してくれ」

「あ、うん。はい。…ねえ、佐鳥くんは大丈夫なの?」

 桜木の不安そうな声が背後から聞こえるが、須藤は肩を竦めるだけで、その表情は少しも変わらない。う…そんなに酷かったのか?
 なんで気付かなかったんだろう、俺。

「薬だろうな。お前が渡されたあの薬は、一種の麻薬のような効果もあったんだろう。だが、お前の使用方法が拙かったせいで化膿したんだ。使い様によれば、コイツは凄い薬だぞ」

 暗いなぁ…と呟いて、須藤はジーンズのポケットからライターを取り出した。それで、桜木から受け取ったサヴァイバルナイフを焼いている。
 何をしてるんだ…?

「でもま、その薬に感謝しないとな。これから起こる激痛にも耐えられるだろう」

「激痛!?な、何をすんだよ!」

「何って…その傷口を切り取るんだよ。幸いなことに薬は手に入れてるからな。ま、俺を信じて大船に乗ったつもりでいろよ」

 ニコッと笑う須藤の表情に狂気は感じられなかったが、それでも俺の顔は 青褪 めたし、須藤の背後では桜木が小さな悲鳴を上げてる。俺だって嫌だ!なんで傷口を削がなきゃならんのだ!?

「す、須藤!薬があるのならそれでなんとかならないのか!?」

「ムリだ。これだけ化膿してたらヤバイことになる。放っておけない」

「うー…クソッ!」

 俺は、生き残らなきゃいけないんだ。博士たちを助けて、須藤と桜木と一緒に日本に帰る。絶対にだ!うう、こんなところで腕を 化膿 させてるわけにはいかねーんだよな。クソッ!

「わ、判ったよ。畜生ッ!すっぱりとやっちゃってくれッ!」

 須藤は何も言わずに無言で頷いて、俺をその場に座るように促した。その指示に従って腰を下ろすと、須藤も片膝をついて唇を噛み締めている俺の前に座った。

「桜木、タオルとかあるかな?」

 不安そうに眉を寄せて、心配そうに覗き込んでいた桜木は須藤にそう言われると、ハッとしたように背負っていた銀色の袋から医務室にあった清潔…かどうかは判らないけど、白いタオルを取り出して手渡した。須藤は受け取ったそれを無造作に俺の口の中に突っ込んだんだ!

「ふぁにふぃやぐぁるっ!」

 言葉にならない抗議の声を上げても、須藤のヤツはまるで無視して桜木にもう1枚要求した。素直に手渡すそれを受け取って、今度は立てている自分の膝の上に置いて俺の腕を片手で固定した。

「桜木、確かリュックの中に小型のオイルランプとカップが入ってると思うんだ。それで湯を沸かしておいてくれ」

「う、うん…」

 桜木は心配そうな、不安そうな顔で俺を見ていたが、すぐに言われた通りにリュックからランプとカップを取り出して飲み水を注ぐと沸かし始めた。
 小さなオイルランプの揺らめきに浮かび上がる真っ赤に焼けついていたナイフは、少し黒ずんだようだったけど、元に近い色には戻っていた。消毒を施した鈍い光を放つナイフがゆっくりと皮膚に食い込んでくる。
 俺はギュッと両目を閉じて、口に入っているタオルを思いきり噛み締めた。

「ぐうううううぅぅぅッッ!!!」

 身体がぶるぶる震える。麻薬のような薬の効果は確かにすごいけど、だからって痛くないわけじゃないんだ。すごい、マジで死ぬかと思う激痛が腕から、心臓や脳天を直撃してくる。息が絶え絶えになって、全身の毛穴が開き切って嫌な汗が噴き出してきた。

「さ、佐鳥くん…」

 見ていられないのか、鮮血と奇妙な色の液体を噴き出して削ぎ取られていく肉片が、びしゃりっと音を立てて床に落ちると、桜木は小さな悲鳴を上げて口許を覆った。激痛と汗で目を薄っすらとしか開けていられないけど俺はぼんやりと、真剣な表情で歯を食い縛りながら俺の肉を削ぎ落とす須藤の顔と、青褪めて、それでも現実を受け入れようと必死で目を逸らさない桜木の二人を見ていた。
 切った腕を沸かした湯をかけて消毒したタオルで素早く止血した須藤は傍らに下ろしていた銀の袋から必要なものを取り出した。チューブに入った薬と、包帯と、そしてガーゼ。

「こ、こんなことならさ、あン時に一緒に手当てしてもらっときゃ良かったかな」

 口に入っていたタオルを引き抜いて、ははは…と笑いにもならない乾いた声で冗談めかして言うと、須藤はヤツらしい口角を釣り上げた笑いを浮かべただけで何も言わずに包帯を巻いてくれた。
 痛みはまだだいぶんあるが、ここにある薬にはどれも麻薬的な成分が含まれているんだろう。そのうち痛みも薄れていった。
 ああ、それで足もすぐに動かせるほど回復したんだ。
 すげぇな、ここの薬。

「…根本的なところじゃただの錯覚にしか過ぎないんだよな。過剰に使うとさっきみたいなことにならんとも限らん」

 須藤はまるで俺の心を見透かしたように呟いて、よっこらっしょと、まるでおっさんのように起ち上がった。酷く 憔悴 している顔は、なぜか俺よりも疲れているみたいだ。

「すまんな、須藤。それでなくても神経使ってんのに…」

「あぁ?お前がそんな 殊勝 なことを言うとはな。こう言った危機に直面した状況ってのは人を丸くするんだなぁ」

 須藤のヤツは意地悪く笑って薬なんかを銀のリュックに仕舞い込みながら肩を竦めるから、俺は思わず眉を寄せて中指を立ててやった。

「言って損したぜ!」

「よし!元気があるようで何よりだ。先に進もう」

 軽く笑いながら立ち上がった須藤に頷いて俺が立ち上がると、ヤツはちょっと真剣な表情をして俺を見ていた。言おうかどうしようか逡巡しているようだったけど、結局須藤は肩を竦めて俺を睨みながら言ったんだ。

「だけどな、佐鳥。どんな状況であれ、我が身のことなんだからこう言うことは悪化する前にちゃんと言ってくれよ?それでなくても命の危機に晒されてんだ。迂闊な行動は即命取りだと思って、気をつけて行動しようぜ」

「わ、判ってるって。今回は俺にも免疫がなかったんだから大目に見てくれよ~」

 慌てて言い訳する俺にやれやれと溜め息をついた須藤が仕方なさそうに笑いかけたその時、桜木が怯えたような小さな悲鳴を上げたんだ。

「なんだよ、今度はゴキブリの死体でも踏んだのか?」

 俺と須藤が呆れたように桜木を振り返った。
 振り返って、凍り付いた…んだろうな。
 息と言葉を飲んで、自分の背後を凝視したままで 後退 ざる桜木の肩に触れながら、目の前の物体を見上げていた。
 背後で、やっぱり同じように須藤が息を飲んでいる。
 なんだ、これは。生き物なのか…?
 ああ、生き物だ。
 俺はこの原型を知っている。
 草の影で人の姿に怯えていた、あの小さな生き物。
 螳螂だ。

Act.18  -Vandal Affection-

 蒸し暑さとかは不思議となかった。
 やっぱりこの通路にも換気設備がバッチリなんだろう。そうでもなけりゃ死んでるのか。そっか。
 馬鹿みたいなことを考えて苦笑してしまう。
 人が一人か二人通ったらいっぱいになる幅の通路を几帳面に一列になって進みながら、俺たちは少し喋っていた。黙ってることに、やっぱりウンザリしていたって言うのも事実だったし。

「あたしの妹って、あたしと違って気が強いのよね。こんな時、妹だったら…って思ったら、キャーキャー言ってるだけの自分がちょっと情けなくなっちゃったの」

「桜木の妹って言ったら、確か美沙ちゃんだったっけ?一度だけ大学にも来たことあるよな」

「うん。あの時、ほら、確か佐鳥くんと須藤くんに食って掛かってたじゃない?あたしもう、恥ずかしくって…」

 クスクスと笑っていたその声が不意に小さくなって、唐突に桜木は黙り込んだ。それからすぐに、ポツリと呟くように言うんだ。

「でも、あの時はまさかこんなことになるなんて、思ってもなかったな…」

 桜木の、もう汚れてしまった頬に長い睫毛が影を落とす。
 …それはたぶんきっと、みんなが思っていたに違いない台詞だったと思う。
 どうしてこんなことに…とか、出発前はこんなことになるなんて考えてもなかった…とかな。あの炎の前で膝を抱えながら、やっぱり俺や宮原も同じようなことを言っていた。ああ、あの時は桜木は気を失っていたんだっけ。
  羨ましいヤツだなぁ…とか思ったっけなぁ。
 あれから時間が経った。そうだよな、たぶん、もう二、三日は経ってると思うんだ。
 この地下に潜ってから時間の感覚が思いきり狂ってる。
 自分たちの足音だけが響いていた。桜木がハイヒールとか穿いてたりしたらカツンカツンって音がするんだろうけど、ザッザッザッ…と、三足分のスニーカーの音だ。
 ジャングルを舐めきっとるとジジィ博士はカンカンになってたけどよ、いちばん足に 馴染んだ靴の方が 歩き易いんだからいいじゃんって思っていた。でもホントは、博士が何を言いたかったのか、後の方になって理解できたんだけどな。
 迷彩服とまでは言わないが、厚手の服を着ていないと大変なことになるんだよ。
 たとえば、カ、とかな。蚊だぜ、蚊。
 ジーパン生地すらも突き刺して血を啜ろうって言う兵が、ジャングルには実際に存在するんだ。嘘だと思うだろ?これが本当なんだよ、俺だってもう少しでヤられるところだったんだからな。そうすると、大きく腫れ上がって熱が出る。腫れは一週間近くも続いて長いこと苦しめられるんだ。俺じゃないけど、藤堂のヤツがヤられてちまって。暫くは身動きもできなかったけど、ヤツは根性でこの遺跡に入って行った…アイツ、大丈夫かな。
 それと、いちばんポピュラーなのが、やっぱ毒蛇でしょう。
 足許でいちばん気をつけないといけないのが、そいつらだ。上からも落ちて来るし、足許に身を潜めてる連中もいるからな。
 ヒルにも悩んだっけ。
 なんか、思い出したらとんでもねぇ場所に来ちまってるよな、俺たち。そこから抜けて遺跡の下にある施設に入ったんだけどさ、そこには今度はゾンビ研究員だとか人間を喰う化け物花とかがいるんだから。どうなってるんだよ、ここは。
 溜め息を吐いたら、桜木は首を左右に振った。

「ごめんね。ツマラナイこと言っちゃった」

 ぺロッと舌を出すと、桜木は努めて明るく笑った。こいつもムリしてるなと思う。
 ああ、このトンネル染みた薄暗い通路はどこまで続いてるんだろう…

 薄暗いトンネルの中をゆっくりと進んで行く。
 ここは地下だから、たぶん土地自体はたくさん余ってるんだろう。トンネルも長いし、レールも果てしなく続いてるように感じる。けど、たぶん、それもこの薄暗さのせいなんだろう。
 みんな無言だった。
 馬鹿みたいに何か喋っていたいんだけど、それもなんか疲れた。
 溜め息をついた時、不意に須藤の奴が俺の腕を掴んで後ろに引っ張りやがったんだ!

「な、なんだよ、須藤!」

「お前、気が付かなかったのか?」

「佐鳥くん…」

 薄暗い中で奇妙な顔付きをした須藤の顔が、思ったよりも近距離で俺を見返していた。その変な目付きと桜木の悲しそうな顔を交互に見て、それでも俺はコイツらの言いたいことが理解できなかったんだ。

「なんだよ、どうしたって言うんだ!?」

 俺は立ち止まって、苛々と二人を振り返った。
 須藤は俺の腕を掴んだままで、その手を目の高さまで持ち上げたんだ。
 震えてる、俺の腕を。

「お前さ。本当は怖いんじゃないのか?大丈夫か?」

「なに言ってやがる!そんなもん…」

 俺は腕を振り払うと不安そうな桜木と須藤の顔を交互に見て、それから徐に腕を組んで胸を張ってやった。

「怖いに決まってんだろ!?」

 二人は呆気に取られたような表情をポカンッと浮かべたが、それを無視して俺はヤレヤレと首を左右に振って歩き出した。

「でも、怖い怖いとも言ってられねーじゃねぇか。まずは先に進んで、全部終って気が抜けたら思い切り泣く!うん、そう考えてたら大丈夫だ。…たぶんな」

「曖昧な奴だなぁ」

 須藤が呆れたように笑うが、俺は肩を竦めて自分の震える腕を見下ろした。
 開いて、ギュッと握り締める。

「震えたって仕方ねぇけど、こればっかりは自然現象だから仕方ないよ。見逃してくれ」

「…佐鳥くん」

「行こうか」

 ポツリと言って、俺たちはまたあてもなく歩き出した。
 なんか思い切りトーンダウンしてるよな、俺たち。たぶん、この薄暗さが俺たちの気を滅入らせてるんだ。

「キャッ!」

「どうしたッ!?」

 桜木の小さな悲鳴に微かな金属音を響かせて銃を構えながら振り返った俺たちに、彼女は青褪めた表情をして首を左右に振った。足元を指差して、口許を覆っている。
 気分が悪そうだ。
 俺は彼女の足許を見下ろして眉を寄せた。
 ネズミの死体を踏みつけた桜木の汚れてるスニーカーが、恐る恐ると引き上げられる。桜木にとってショックなことでも、もう死体を嫌というほど見てきた俺と須藤は顔を見合わせて彼女の肩を軽く叩いた。

「気を付けろよ、桜木。こんなネズミよりもっと凄いのが出てくるかもな」

「やだ!怖いこと言わないでッ」

 須藤の言葉に桜木が真剣に嫌そうな声を出したが…

「…元気いいよなぁ、お前ら」

 俺は溜め息をついて首を振った。

「お?佐鳥も馬鹿にしてるな。実際、何が出てくるか判らんだろう」

「こんな状況だぜ?いまさら、あのゾンビ野郎の他に何が出てくるって言うんだよ?ま、もう何が出てきても驚きゃしねぇけどな!」

 投げやりに言って歩き出す俺に、背後で肩を竦める須藤の気配を感じた。桜木はちょっと笑ったようだった。
 俺たちは、たぶん、気を抜いていたんだと思うんだ。
 下手に張り詰めていた糸が、非常事態という状況に慣れてきたのかもしれない。
 人間て言うのはこう、妙なところで自信てものが出てくるんだ。特にこの時の俺たちなんかは、いや、桜木は別にしても、だいぶ銃を撃つことにも慣れてきていたしゾンビの姿にも慣れていたんだ。命の極限に立たされると、冗談でも見栄でもなく、人間は不思議なほど強くなる。
 その反対に、飽きれるほど弱くなることもある。無様に腰を抜かして逃げ出したくなることとか…
 そう言う時ってのは、極限を超えた時。
 やっぱり、絶対的な死を目の前にすれば逃げ出したくもなるさ。生きることができる可能性がありさえすれば、生きることにしがみ付くことだってできるだろうけど、何もない、お手上げ状態だったらもう逃げ出すしかねぇだろ?それは卑怯なこととかじゃなくて、当たり前のことじゃないかって思うんだ。
 俺の腕がこうして震えてるのは、これはもう自然現象でしかないのさ。目に見えないものに対しての恐怖かな?俺は案外、臆病者だから。須藤たちには内緒だけど、もうバレてるだろうな。
 幸いなことに、俺たちはあることにも気付いていたんだ。
 あのゾンビ研究員が近付いて来たり、傍にいるときにはひとつの法則がある。
 それは、臭い。
 そう、あの死臭のような腐った臭いさ。腐臭って言うんだろう。
 だから、きっと気を抜いていた。
 長くて薄暗いトンネルのような回廊。
 思考能力や方向感覚を狂わせるには十分な閉鎖的密室は、俺たちに誤った考えを植え付けるのにも十分だった。そうだ、ゾンビなら大丈夫。
 臭いで判るからな。
 じゃあ…それ以外のものだったら?
 俺たちを守ってくれるはずの唯一の武器は、既に底が見えている。桜木に渡している銃なんかは、もう弾が残り10発もないはずだ。
 護身用…とも言えない、ただの気休め。
 でも俺たちは気にしなかった。
 逃げればいい、安易にそんなことも考えていたっけ。
 だから、俺たちは…気付かなかったんだ。
 自分たちの背後に、すぐそこにまで迫っていた。
 不気味なその影に───…

Act.17  -Vandal Affection-

 先に進んでいると、不意に背後から誰かの足音が聞こえて俺は反射的に身構えていた。
ここに来て、覚えたくもないのに自然と身に付いた癖に舌打ちしながら、いつでも撃てるようにマシンガンを構えて角を曲がってくる奴らを狙っていた。
 と。

「きゃあ!さ、佐鳥くん…?」

「わっ!桜木、なんでお前ここに…須藤も?」

 ちょっと呆気に取られちまった。
 角を曲がって姿を現したのは、銀の袋を背負って片手に銃を握り締めた桜木と須藤だったんだ。
 眉毛の消えかけた桜木の顔はけっこう怖いものがあったが、それでもホッとしたように笑ってる姿は女の子らしい桜木だった。間違いない。

「取り敢えず銃口を下ろしてくれよ」

「あ、ああ。悪ぃ」

 俺は構えていたマシンガンの銃口を下ろすと、すっかり出発の準備を整えている須藤と桜木を交互に見遣って眉を寄せる。

「でも、どうしてここに…」

「桜木がさ」

 肩を竦めた須藤がチラッと桜木を見て口を開いた。

「目が覚めた時にお前がいないって言って、自分も行くってきかなかったんだよ。あそこにジッとしてても仕方ないってお前も言ってただろ?で、この際だから俺たちも、ってワケでお前を追って来たんだ」

「なるほど。そうか」

 桜木は照れ臭そうに白い頬をピンク色に染めてモジモジとしたが、そうだった。コイツはあのキャンプ地で俺をたった一人で行かせたと言って腹を立てて追ってきたんだっけ。あそこにいるのが嫌だった、とは言ってたけど、女の子がそんなことで俺を追ってくるか?とちょっと面食らったけどな。
 あの雰囲気は確かに嫌でも、いつ化け物が襲って来るか判らない暗闇のジャングルを抜けてこの遺跡に来たことは、ある意味天晴れだと思ったのが俺の本心さ。

「佐鳥くん、また一人で行ったって言うじゃない。あたし心配で…もう!これからはぜっっったいに一緒に行動しようよ!せっかく三人でいるんだから…ッ」

 思いっきり貯めて吐き出すように言った桜木の真剣な大きな双眸を見返して、俺はその勢いに押されたように頷いた。うう、もしかしてコイツって強くねぇか?

「ふう。良かった。じゃあ、先に進みましょう!」

 桜木はホッとしたようにそう言うと、短銃を片手にニコッと笑った。

 撃てるかって言うとそうじゃないんだろうに、コイツなりの必死の意思表示なんだろう。足手纏いにならないように…きっと、俺が桜木を足手纏いだと思ったから置いて行くんだろうと、勘違いしてるな。仕方ねーヤツだ、そんなことねぇのに。
 だが、桜木に銃を持たせておくのもいいだろう。この先、俺は桜木を守ることができるかどうか怪しいからな。

「よし、じゃあ進もう」

 俺もマシンガンを構えた。須藤も頷いて短銃を握り締める。
 桜木は、少し青褪めた顔をして息を飲んだ。息を飲んで、短銃を握り締めた。
 握り締めた短銃を見つめながら、頼れるものはもう、自分自身しかいないと言い聞かせてるようだ。
 そう、そう思った方がいい。
 俺は桜木の肩を励ますように叩くと、先頭に立って歩き出した。

「コイツは凄いな。なんなんだ?」

 須藤が全てを見渡そうとするようにぐるりと身体を回して、薄暗いトンネルのような巨大な通路を見渡して言った。言った声が反響してるからまた凄い。桜木も俺の服を不安そうに握りながらキョロキョロと見渡している。
 どかんっとバカでかい通路のクセに、人が通れる道は極めて細い。
 なぜならその道の脇に何かが通るんだろうレールが敷かれているからで、たぶん、このトンネルのような大通路の役目は、殆どそのレールの為のものなんだろう。
 階下に下りる階段を見つけた俺たちは、その時になって漸く自分たちが今、どこにいるのかを知ったんだ。
 ここは地下15階、ちょうどこの施設の中間部分に当るらしい。
 非常階段のその傍らに標識みたいなものがあって、色分けしていた施設の名称も書いてあった。オレンジは研究員の住居兼簡単な研究施設、緑が植物研究所、赤が危険な研究をしている区域なんだろう、注意と書いてある。そして青が研究施設だ。なんの施設かは知らないが、この15階から下が青で、その5階下から赤の区域になっている。
 すごい判りやすいな、この標識。でも非常口とか、そんなものは書いてあるけど詳しくはないから武器庫とかは判らないんだ。ちぇっ、親切にそこまで書いててくれよな。
 須藤は相変わらず大きなトンネルのような通路にある、人一人が漸く通れる狭い通路の傍らにある奇妙なレールを興味深そうに眺めている。薄ぼんやりと照らす足許の電灯と、高い天井に等間隔で点いている電灯によってある程度明るくはなっていた。でもトンネルみたいなもんだから、照明はそれほど明るくはないんだ。

「佐鳥、見てみろよ、これ。何か大きな物がこのレールを通って行くようだ。でも、いったいどこに行くんだ?」

「さあな。巨大なものって言うのは確かだろ」

「薄暗くてよく判らんが、上から来たのが…あちらに流れて下に行くのか…?」

 ブツブツと何かを呟いている須藤を、俺と桜木は顔を見合わせていたが、俺は肩を竦めると腕を組んだ。こんな薄暗いトンネルもどきからは一秒だって早く退散したいってのに、須藤のヤツは何かを調べてるようなんだ。早くしろよな。

「…そうか!エレベーターだ!貨物か何かの大きなエレベーターがここを通って行くんだ」

「エレベーター?エレベーターなら血塗れのが…っと、ごめん。地下1階にあったじゃねぇかよ」

 顔色が一瞬変わった桜木を気遣って言う俺に、須藤はニヤリと笑って振り返った。

「そうさ。小さい、この施設用のエレベーターなら確かにどの階にもあった。だがこれは貨物用の大きなエレベーター用の通路だ。しかし、どの階にもこんな大きなエレベーターが止まる場所はなかった。と言うことはつまり、この貨物用エレベーターはこの施設が出す何らかのものをこれを使って地上に運び出していたんじゃないのか?たとえば、研究成果をどこかに運ぶ時とかな」

「なるほど!ってことは、どこかにこの貨物用のエレベーターに乗れる場所があって、ソイツは直通で地上に通じてるってことだな!」

「お見事。正解だ!」

 俺たちは俄かに色めきたってバカみたいに喜んだ。
 当たり前だ!やった、これで脱出方法はなんとか確保できそうだ。まだ完全じゃないにしても、何らかの脱出方法を探しておかないと、闇雲に下に降りたって地上に戻れないと意味がないだろう?
 そう言うことで、実は博士たちを捜す一方で俺たちはこの施設の脱出方法も考えていたんだ。
 あの変態野郎は確かに言った。
 間もなく助けが来るだろうと。
 今が何日の何時かなんてもう時間感覚の狂った俺には判らねぇ。俺のダイバーウォッチはとっくの昔に壊れちまってるし、須藤はどこかに落としたらしい。桜木はあの化け物に弾き飛ばされてどこに行ったのか判らない…ってワケで、虚しいことに俺たちは時間の流れから確実に孤立しちまってるんだ。不安じゃないと言えば嘘になる。
 アイツの言った救助隊がそこにいない俺たちに気付いてここまで来たとしても、あの化け物にやられちまったら意味がねーんだ。しかも、見つからなくて帰られても熱い。
 どちらにしても辛いことには変わりないから、そのことは考えないようにしていたんだけど…
 希望の光が見えてきたぞ。
 俺たちは疲労しきった顔に歓喜の表情を浮かべて頷き合うと、漸く下に向かう気になったんだ。
 さあ、次は博士たちとその乗り場を見つけるんだ。
 行くぜ!

Act.16  -Vandal Affection-

「…ろう、光太郎ってば!寝るなよ、こら」

 懐かしい声が聞こえたような気がして、俺はふと目を開いた。

「ようやく起きたか。また倉岳教授が睨んでたらしいぞ」

 ハッとして顔を上げると、そこには怪訝そうな表情をした御前崎が立っている。ちょっとまて、俺は今、コンカトス半島にある遺跡の地下にあった研究施設の医務室に…

「なに、寝言いってんだよ。ちゃんと目を覚ませよ?」

 ガバッと起き上がってキョロキョロと周囲を見渡していると、御前崎はいつものように奴らしく呆れたような溜め息を吐いて首を左右に振るんだ。

「なんて顔をしてるんだ。ここはどこかって?お前さぁ、やっぱコンカトスに行くの、もうやめた方がいいんじゃねぇの?ここは講堂だろ」

 肩を竦めた御前崎が呆れた目をして周囲を見渡す。それを追うように俺も辺りを見渡した。
 教科書を持った学生たちがゾロゾロと俺の背後にある出入り口めざして帰ろうとしているし、何人かの見知った顔は帰り支度をしていた。なんだ、そうか。アレは全部夢だったんだ。
 やけにリアルだったけど、うわー、やったなおい。
 夢だったんだよ!全部、夢!
 ああ、良かったなぁ。
 桜木も、死んだはずの栗田もちゃんと生きてるじゃねぇか!みんないるよ、本当に良かった!
 机に突っ伏して、その木の感触に頬摺りをしながら泣きそうなほど喜んでいる俺の肩を、帰り支度をしていた栗田が掴んで声をかけてきた。

「佐鳥、ちょっと起きてみろよ。面白いもんが見られるぜ!」

 面白いもの?
 やけに嬉々とした栗田の声に、今度の寮祭に来るタレントのポスターでも貼り出してるんだろうと思った。お前も御前崎もホントにミーハーだよな。
 そんなことよりもさ、俺、面白い夢を見てたんだ。すっげぇリアルで、気持ち悪かったけどよ…
 そうして笑いながら顔を上げると、鼻の部分から額のあたりにぽっかりとどす黒く焼け焦げたような虚ろな空洞を晒した栗田の顔があった。嫌な臭いが鼻先を掠める。
 息を飲むよりも先に、その苦痛に歪んでいた唇が捲れあがり、どうやら苦しげに笑ってるようだ。

「面白いだろ?他にもたくさんいるぜ。お前も仲間になれよ…」

 栗田の背後に辻崎や死んだレンジャーの生々しい死に顔が胡乱な目付きで俺を見ている。
 肩を掴んだ手に力が込められた。

「うわぁあああああッ!!!」

 唐突に叫んで起き上がった俺は、震える両手を見下ろしていたが、そのまま嫌な汗でびっしょりに濡れた額に張り付いている前髪を乱暴に掻き揚げた。

「佐鳥、大丈夫か?!」

 疲れきっていたのだろう、泣き疲れた桜木は医務室の埃臭いベッドに蹲るようにして眠っていた。須藤は銀色の袋に必要になるかもしれない医薬品を、できる限り最小限に詰め込めるように思案しているようだったが、驚いたように俺を振り返った顔が曇っている。
 ああ、夢だったのか。
 それほど長く寝ていたわけじゃないんだろう、須藤の顔を見ればそれが判る。
 酷い悪夢だった。心の奥底じゃ、本当はみんなを助けたりするよりも、今すぐ帰りたくて仕方がないんだろう。それをまざまざと思い知らされたような気がして、俺は顔を顰めて首を振った。
 帰りたい気持ちを、死んだ連中から見透かされたような気がしたんだ。
 俺は、偽善者だ。
 そんなことはとうに判ってた。
 でも、何かを考えて、それを目標にしていないと生き抜く自信がなくなるような気がするんだ。
 片手で顔を覆う俺を訝しそうに見ていた須藤は肩を竦めると、また自分の役割に没頭することにしたようだ。コイツも何かしていないと落ち着かないんだろう。当たり前か、こんな非常事態に落ち着けるヤツがいたら見てみたいもんだ。握手だって求めるかもしれねぇ。
 そんな下らないことを考えて、あんまり馬鹿らしくて溜め息を吐く俺の隣りのベッドで桜木の身体がときおりピクンッと跳ねて、コイツも悪夢に魘されてるんだろうと思った。こんな場所で、安穏とした夢なんか見られるわけがねぇ。

「俺さ、ちょっとこのフロアを見てくるよ」

 気を取りなおした俺は腕で額に浮かんだ嫌な汗を拭って、ベッドから下りるとマシンガンを片手に須藤に振り返ってそう言った。

「何を言ってるんだ!マシンガンの弾も、もうないんだぞ?」

「だからって、ここにずっと居座るわけにもいかねぇだろ。もしかしたら武器庫みたいなものがあるかもしれないし…なんせあんな化け物を研究してるようなところだからな。ちょっと行って来るよ」

 俺は何か言いたそうな須藤の前を通りすぎて部屋を後にした。鍵は…かからないけど。
 この施設は不思議なことに、電子ロックがイカれてるのか鍵がかかっていない。あの時の変態野郎のように手動で鍵をかけないとかからないんだ。でも、運が悪いことに俺たちは鍵のかけ方を知らなかった。だから、どちらにしてもあの医務室が本当に安全かと言うと、そうでもない。我が身は結局、自分たちで守らないといけないってワケさ。
 まあ、須藤がいれば大丈夫だろう。でもコイツ、時々逃げ足が速くなるからなぁ…
 俺は一抹の不安を抱えながらも廊下に出るとマシンガンを構えなおし、さて、どちらに行こうかなと思案した。
 取り敢えず右手奥に向かってまっすぐに行ってみることにして、歩き出した。誰かに会うかもしれないし、化け物がいるかもしれない。よほど誰かが襲われたり自分が襲われない限りは弾を使うつもりはない。俺だって馬鹿じゃないんだぜ、須藤。走って逃げることだって考えてるって。
 そう思いながら一つ一つのドアを確認するように開いて、どこも似たり寄ったりの部屋だなと呟いて俺は奥へ奥へと進んで行った。廊下を突き当たって、もう何もないかと諦めたその時だったんだ。
 俺は奇妙な光景を目の当たりにした。
 あのゾンビ研究員が俺の気配にも気付かずに、いや、端から奴らは人の気配にはいまいち無頓着なところがあったけど、そんなことよりもさらに熱心に何かをしてるんだ。
 一人、二人…四人はいる。
 まあ、もう少し弾はあるからこれぐらいの人数ならどうってことないけど…君子危うきに近寄らず、だ。放っておいたほうがよさそうだな…そう思って踵を返そうとしたその時だった。
 俺の目が嫌なものを捉えた。
 床に跪いた研究員らしき連中が廊下の中心で一心不乱に何かをしている。
 その、足許に。
 リノリウムの床に流れてるもう何度も見た鮮血は───…人間の血だ。

 思わずマシンガンを取り落としそうになった俺の気配に漸く気付いたのか、醜く崩れてしまって頭皮も僅かにしか残っていない不気味な表情のゾンビが立ち上がって襲いかかってくる。
 むやみやたらに撃つと囲まれてる奴に当たる危険性もあるから、俺はソイツらを充分に引き付けて正確に狙った。銃口が火を吹くと、程なくして連中はバタバタと倒れ、腐った血液だとか奇妙な液体を撒き散らして倒れてしまった。足で蹴っても起きあがらないか確かめてみたが、全員、どうやらくたばってくれたようだ。
 ホッと息を吐いて、俺は慌てて床に倒れ込んでいる人物のところに行った。行って床に片膝をついて身体を屈めた俺は、思わず目を背けたくなった。
 食い荒らされた片腕は肘から手首のちょうど中間部分ぐらいから食い千切られて、ピンクの筋肉と真っ赤な血液で奇妙な色に染まった骨を晒している。骨はへし折れてギザギザだ。足はもっと酷かった。喰う部分が多かったのか、それとも少なかったのか、腿の辺りは服ごと食い千切られて鮮血がドクドクと溢れてリノリウムの床を濡らしていた。俺のように脹脛もやられていて、その姿は俺よりももっと悲惨だ。ほとんど肉がなかったんだ。所々に皮膚を突き破って奇妙に捩くれた骨が突き出て、顔は齧られて血塗れだ。皮膚がはげて、下の筋肉が見えている。今の状況を説明しろと言われたら、身体半分が理科室なんかに置いてある、あの人体標本のようになっているとでも言えば理解してもらえるだろうか。
 もう死んでるだろうと諦めて立ち上がりかけた俺は、男の残っている片手に握り締められた何かが震えていることに気付いて、まだ生きてるんだと思ったら、考えもせずに彼の身体を通路の端に寄せて壁に凭れさせてやった。
 苦しそうにヒューヒューと息を洩らし、咽喉も食い破られていることを知った。
 どちらにしても、もう無理だろう。くそっ、なんてこった!
 唐突に脹脛が痛んだ気がしたが、俺はそれを無視した。でも、激痛は知っている。
 たぶん、きっとそんなもんじゃないだろうなと思う。いったいどれほどの痛みがこの男を襲っているんだろう。殺して…やらないとだめだろうか…俺の、この手で?
 その激痛の切れ端を知ってるから、俺は唇を噛み締めた。血の味がしたけど、気にならない。
 俺は神様なんかじゃないから、その信じられない激痛から解放してやるには引き金を引く野蛮な方法しか知らないんだ。でも、震える指が巧い具合に引き金にかかってくれない。
 と。
 強靭な精神力で、男は俺を見た。
 片目は完全に露出していて、生きていることだって不思議だと言うのに、男は確かに俺を見た。
 血塗れの迷彩服はレンジャーのものだ。

「もしかしたらお前、タユ、なのか?」

 恐る恐る、絶対にそうであって欲しくないと願いながら問い掛ける俺に、片手をなんとか持ち上げようとしている。手に握ったものを手渡したいんだろう。
 俺はそれを受け取った。
 それは血塗れの手紙で、まだ封筒に入れていないから書き掛けだったのかもしれない。
 内容はほとんど読み取れなかったが、故郷に残してきた恋人と喧嘩でもしたんだろう、言い訳が暫く続いてそして結婚を仄めかすことが書いてあった。
 自分がこの仕事から戻ったとき、まだ怒っているのなら扉に鍵を掛けて寝ていてくれ。もし、もう怒っていないのなら、笑ってプロポーズを受け入れて抱き締めてくれと書いてある。
 未来を信じていた手紙に、俺は泣きそうになった。
 誰が、誰のせいでこんなことになっちまったんだろう。

「さ…ゴフッ…ヒュー…さ…ら…ヒュー……あい…して…ゴフッ…わた…し…てく…」

 俺を見ていた男は、もはや涙腺なんかグチャグチャで泣くことすらできない状態で、それでも伝えようとし、そして間違えずに伝わってくる思いは悲しくて悲しくて…でも、俺は泣けなかった。なぜかなんて判らねぇけど。
 そうして、男は何時の間にか事切れていた。
 漸く、解放されたんだ。いっそ死なせてくれと叫ばなかった男の洩らした最後の台詞に、それでも撃たなくて良かったと思った。
 最後の思いは確かに受け取った。
 俺は、この手紙とあんたのドッグタグを必ず持って帰るよ。
 約束だ。
 引き金に掛け損なっていた強張る指を伸ばして、俺はガクリッと項垂れて、もう虚空しか見ていない男の首からタグを外して名前を確認した。
 クリストファー=ディキンス。
 こんな時に言う台詞じゃないんだろうけど、良かった。タユじゃない。
 ここまで来たけど、タユの死体はまだ見つかっていないんだ。アイツは、もしかしたら凄く強いんじゃねぇのか?
 確か、あのおっさんレンジャーは仲間からディキンスと呼ばれていたような気がする。そうか、あんたもここまで来て弾が尽きたんだな。取り落としていたサヴァイバルナイフを見て、それがどれほど役に立たなかったのかと言う事実にゾッとした。弾がなかったら、この先に行くのは無理ってことだ。その先に、タユはいるんだろうか。アイツだって弾はもう尽きてるはずなのに…
 死に物狂いで武器庫を捜さないと…俺は焦燥感に駆り立てられるようにして奥に続く通路を進んでいた。

Act.15  -Vandal Affection-

 桜木はガタガタと震えていた。
 化け物に襲われたショックがまだ抜けていないんだろう。それに、よくよく見ると、あれほどキッチリと化粧をしていた顔も涙と鼻水でグチャグチャだ。

「さ、さ…とり、くん。あた、し…ごめんなさい。疲れたの…どこか、やす…めないかな?」

 歯の根が噛み合わないほどガチガチと震えていて、両手で薄手のシャツを着た自分の身体を抱き締めるようにして、桜木は縋るような目付きで俺を見ながら申し訳なさそうにそう言ったんだ。
 馬鹿だな…そんな目をしなくてもいいのに。

「ああ、判ってる。もう少し待ってろよ。この階を降りたら、部屋があるかもしれないから…」

 ここら辺はさっき須藤と覗いたが、奇妙な実験台が整然と並ぶ研究室だけだったから、桜木を休ませてやれるような部屋を探さないと…まさか階上に戻るってのは冗談じゃねーから、桜木には悪いけど前進するしかないんだ。

「う…うん。わかった」

 うう、可哀相に。
 俺たち男の体力で考えたら駄目なんだよな。桜木は小さくて細っこくて、強く握れば壊れちまいそうな女の子なんだ。真っ先に守ってやらないといけないのに…ごめんな。
 俺のTシャツは血とゾンビ研究員たちの脳漿とかそんなもんが飛び散って汚れてるし破れてるしで駄目だったけど、Tシャツの上から薄手の木綿シャツを羽織っていた須藤がその上着を桜木にかけてやった。
 別に寒いわけじゃないだろうけど、それで少しは落着けるといいなと、須藤も同じようなことを考えたんだろう。
 震える桜木を連れて階下に降りた俺たちは、油断なく周囲を見渡して前進した。

「気を付けろよ、佐鳥。この異様な静けさは、きっと何か待ちうけてるだろうからな…」

 言われなくても判ってる。
 ゾンビ研究員も姿を潜めてるってことは、何かいるんだろうなぁ。俺の野生の勘のようなものもそれを警戒してるみたいだ。

「何か…って、何かしら?あんな花の化け物なんて、あた、あたしはもう嫌よ」

「俺だってもう嫌さ。取り敢えず慎重に行こう」

 怯えたように身体を竦める桜木に苦笑して肩を竦めて見せたが、俺は敢えて物資の乏しさは口にしなかった。無駄に怖がらせて体力を使わせるワケにもいかないしな。須藤もそれを判っているように、口許に苦笑を貼りつかせて肩を竦めただけだった。

「離れてろよ」

 俺はそう言うと、手近なドアのノブに手をかけて、思いきり引き開けたと同時にマシンガンを構えた。でも、発砲はしない。無駄に弾を使うわけにはいかないんだ。

「…おい、ここは」

 俺は内部から襲ってくる者の気配がないことを確認すると、構えていたマシンガンの銃口を下ろして室内に入って周囲を見渡した。

「やったぞ、佐鳥!ここはきっと、この施設の医務室みたいなところだ」

 背後から続いて入って来た須藤が嬉しそうに俺の肩を叩くと、桜木がホッとしたような溜め息を吐いた。恐る恐ると言った感じで、須藤と一緒に入って来たんだろう。

「ああ、良かった。さあ、須藤。悪いが桜木に怪我がないか診てやってくれ。ありがたいことに、ここは医薬品にだけは事欠かないみたいだからな」

 室内を見渡しながら笑ってそう言うと、身体を屈めて何かをゴソゴソと探っていた須藤が尻上がりの口笛を吹いて俺を振り仰いだ。

「見てみろよ、佐鳥。食料にだって事欠かないみたいだぜ」

 ニッと口角を釣り上げた須藤の両手には、この医務室に常備していたものなんだろう、非常食の詰まった銀色の袋が握られていた。乾パンだとか、そんな缶詰物だろうか。
 途端に俺の素直な胃袋は食い物を求めてグゥッと虚しく不平を零す。
 キョトンッとした桜木は、唐突にプッと噴き出した。
 この緊迫した時に、俺の胃袋が洩らした不平は拍子抜けするほど間抜けな音だったんだ。

「き、昨日から何も食ってないんだ。笑うなよ」

 シドロモドロに弁解しても、いったん笑い出した桜木は釣られた須藤とケタケタ笑い続ける。
 安堵感から、緊張が解けたんだろう。束の間でもいい、少し息抜きをしないとな。
 俺も苦笑して肩を竦めると、広い室内に並んでいるベッドの1つにマシンガンを投げ出して腰掛けた。やっと、少し落ち着ける。

「よし、桜木。ちょっと椅子に腰掛けろよ」

 漸く笑い終えてくださった須藤は桜木を手近にあった椅子に腰掛けさせると、彼女の身体を思いきり触りまくった!な、何やってるんだよ!?
 俺はギョッとしたように目を見開いたが、腕を持ち上げられた桜木が僅かに顔を顰めると、須藤は彼女から離れて医薬品の並んでいる棚に近付いた。

「肩を少し痛めてるみたいだ。変な形で釣り上げられた時に痛めたんだろう。少し冷やせばすぐに直るよ」

 だから安心しろよ、と言って湿布の入った袋を取り出した須藤が振り返ると、桜木はホッとしたように笑った…なんだ、触診してたのか。そっか、俺が頼んだんだよな。
 うー、腹が減りすぎてヘンなこと妄想しちまった。
 すまん、須藤!
 俺が思いきりベッドに倒れ込むと、桜木と須藤がちょっと噴き出した。
 きっと顔を見合わせて、俺の奇行を笑ったんだろう。
 ああ、疲れた…ちょっと眠いかな。
 グゥ!
 いや、それどころじゃねぇ!食いモンだ食いモン!
 俺はやおら起き上がると、銀の袋までダッシュした!
 須藤と桜木が笑い転げたことは言うまでもない。

 俺の腹鳴り事件で桜木のショックは少し癒えたのか、震えはおさまったようで、俺たちは輪を描くようにして銀の袋を中心に床に直に座って久し振りの飯を食った。
 バイト以上に身体を動かした後で丸一日以上飯を食ってなかったんだ、その乾ききった乾パンの旨かったこと!俺は生きてて良かったと思った。
 そして何よりも、空腹よりも耐えられなかった凄まじい欲求を、俺はようやく満足させることができた。
 それは、水。
 銀の袋の中には飲み水も入っていて、ペットボトルが三本あるにも関わらず、俺たちは貪るようにして一本を回し飲みしたんだ。残りは持って行こうと決めたから。今度はどこで食料が調達できるか判らないからな。

「桜木はどうやってここまで来たんだ?」

 一息ついた俺が水で濡れた口許を拭いながら訊くと、彼女は途端に顔を曇らせて涙ぐんだ。

「うぉ!?お、俺、なんか悪ぃこと言っちまったか!?」

 焦って須藤を見たが、ヤツは訝しそうに下唇を突き出しただけで何も言わず、肩を竦めて首を左右に振った。

「ううん、何でもないの。ごめんね、佐鳥くん。あたし、自分の身勝手な行動にうんざりしていたの」

「身勝手な行動って…ここに来たことか?そりゃあ、良かったんだぞ。あそこにあのままいたら、須藤の話じゃ全滅だったらしいからな」

 俺が慰めるつもりでそう言うと、桜木は弾かれたように顔を上げて須藤を振り返りヤツが眉を寄せて軽く頷くのを見て、信じられないと言うように首を左右に振ってそれから徐に両手で顔を覆って俯いてしまった。

「あ、あたしが悪いの!レンジャーの人を連れ出してしまったから!きっと、その後で…」

「どう言うことなんだよ?泣いてたら判らないだろ」

 須藤が声をかけると、桜木はもう化粧もすっかり落ちてしまった素顔でしゃくりあげながら、俺と須藤を交互に見ながらポツリポツリと語った。

「あたし…目が覚めたらみんな怖い顔してて、話を聞いたら佐鳥くんがたった一人で遺跡に行ったって言うじゃない。あんな怖いことがあったのに、たった一人なんて…それで、あたしは佐鳥くんを追うって言ったの!みんな止めたけど、あたし、本当はあそこにジッとしてるのが怖かったの。何かしていたかった…そしたら、レンジャーの人が一人ついて来てくれて、それでそれで…」

 桜木はそこまで言うと、また泣き出してしまった。
 俺と同じ気持ちだったんだな。あの重苦しい雰囲気に、女の子だと押し潰されちまいそうだったんだろう。俺、気持ちわかるよ。
 震える肩を恐る恐る抱きながら、俺はその細っこい肩を軽く叩いてやった。
 細くて華奢で、凄く頼りない。
 こんな女の子が俺なんかを追って、あの真っ暗な密林を抜けて遺跡の、この施設までどんな思いで来たんだろう。
 そう思ったら、自然と腕が動いていたんだ。
 桜木は堰を切ったように泣きじゃくりながら俺の胸元に頭を擦り付けてきた。初めての経験で、どうしたらいいのか判らなくて須藤を見ると、ヤツは慰めてやれよとでも言うように顎をしゃくる。
 俺はそうして、震える桜木の肩を片腕で抱きしめてやりながら、ジッとアイボリーの床を見つめていた。
 いったいどれぐらい進んだら、俺たちの出口は見えるんだろう。

Act.14  -Vandal Affection-

「全く!どうしてこう、ゾロゾロと出てくるんだッ」

 須藤は舌打ちすると、苦々しく呟いて俺が渡した新しい短銃のマガジンを入れ替えようとしている。

「そろそろ弾も切れてきてる!ここはどこら辺なんだ?」

 俺も肩で息をしながら額の汗を拭った。
 階下の通路を博士たちを捜しながら歩き回っていた俺たちは、物資の乏しさに気付いて眉を顰めた。ヤバイな、このままだともう幾らも持たないんじゃねぇのか。

「あれから、もう随分と降りてきたっていうのに…いったい何階まであるんだ!?この施設は」

 須藤は苛々したようにガチンッと金属音を響かせてマガジンを完全に挿し込むと、一息ついて通路の角から顔を覗かせながら吐き捨てるように言った。
 俺たちの命運も、もう間もなくと言うことか。

「おい、佐鳥。研究員がいないぞ」

 須藤の言っている研究員と言うのはゾンビのことで、おかしいな、さっきはあれほど襲い掛かってきてたって言うのに…

「何か…あるんじゃねぇのか?」

 俺たちは恐る恐る角を曲がると、電灯が煌煌と照らし出す白い壁が圧迫感さえ感じさせる通路に立った。シン…ッと奇妙な静けさが唐突に支配して、俺は須藤と顔を見合わせる。

「なんかこう、甘ったるい匂いがしないか?」

 不意に鼻をひくつかせていた須藤が首を傾げたから、さっきからクラリ…とする匂いが鼻先を擽っていた俺も頷いて周囲を見渡した。匂いの発信地は…

「あそこだ」

 俺はマシンガンを片手に、前方にある大きな一対の白い扉を指差した。

「誘われてるみたいだな。弾の方も心配だし、ここは避けた方がいいんじゃないのか、佐鳥」

「いや、誘われてるにしろなんにしろ、行ってみた方がいい。誘ってるってことはつまり、誰か誘われた奴がいるかも知れねぇだろ?」

 まあ、そりゃそうだけど…と、些か不満げに気乗りしていない様子で呟いた須藤はそれでも諦めたように肩を竦めると、さっさと歩き出す俺の後を追って仕方なさそうに首を左右に振ってついて来た。

「う…」

 ムアッとする甘ったるい匂いに思わず鼻を押さえる俺の後ろで、須藤が驚愕したような声を上げた。

「さ、桜木!?」

「何だって!?」

 俺は須藤の言葉に反射的に前方を見た。最初に視界に飛び込んできたものは大きな花だった。その花から俺の視線はゆっくりと上へとあがって行く。
 そこには、蔦に両手と両足を絡め取られて、失神すらもできずにガタガタと震えながら双眸を大きく見開いて、ボタボタと涙を流している桜木がぶら下がっていた。

「さ、佐鳥くん…」

 恐怖に見開いた双眸で、まるで何か恐ろしいものでも見るようにゆっくりと顔を上げた桜木は、いつもキチンと化粧を施している顔を涙と鼻水でグチャグチャにしている。ピンクの可愛かった口紅は半ば落ちて、マスカラの溶けた目の縁は真っ黒だ。
 通常時ならどうしたんだよ、と言って笑うこともできたけど、桜木の恐怖心が手に取るように判るから、俺は咽喉仏を上下させて息を飲んだ。

「桜木…お前生きてたのか」

 後になって考えたら、そんなどうでもいいことを呟いちまったと後悔した言葉に、桜木は何か言おうと開きかけた口を、奇妙な花の化け物が茎を揺らしたから息を飲んで閉じてしまった。

「さ、佐鳥くん、助けて…」

 花が食虫植物になったようで、その大きさは世界最大と謳われるラフレシアなんかを遥かに凌いでると言い切れる。
 けっこう広い研究室いっぱいに腕を広げた悪魔は、花弁の中心から甘い蜜を吹き零しながら、ぬらぬらと俺を誘うように桜木の身体を弄んでいた。

「参ったな、なんなんだ!?あの化け物はッ」

 須藤は舌打ちして短銃を構えたが、俺は慌ててそれを制した。

「待てよ、須藤!桜木に当たっちまうだろ!?」

「じゃあ、放っておけって言うのかッ!」

 須藤が俺の腕を振り払うようにして怒鳴り返すと、忌々しそうに巨大な花の化け物を睨み据えた。
 俺だって桜木を助けてやりたい、でも、この化け物がどんな奴か知らないと…撃ち所が悪くて桜木に当たるか、失敗して化け物にあの蔦で桜木の身体を真っ二つにされないとも限らない。
 ゆらゆらと動く蔦が奇妙な動きを見せる。
 まるで意志を持った触手のように、その蔦はゆらりゆらりと近付いてくる。

「佐鳥!?」

 腰から引き抜いたサヴァイバルナイフで触手を切りつけて、俺は切り込むように桜木の傍まで走って行った。そうさ、撃つなら至近距離がいい。
 弾が桜木にも当たらない。
 だが、花の化け物は意外と賢かったらしく、脇から伸ばした触手で俺を薙ぎ払いやがったんだ!

「うわっ!」

 寸前で避けたものの、バランスを崩した俺は無様に尻からこけてしまう。そこを狙ったかのように触手が伸びてきたが、乾いた音が室内に響き渡って硝煙の匂いがした。

「俺を忘れてもらっちゃ困るな」

 構えている手許の短銃から微かな煙が上がり、須藤は狙いを定めて眇めていた片目を開くと口角をクッと釣り上げた。

「す、須藤」

 触手は一部を引き千切られたらしく、伸ばしていた茎を慌てて引っ込めると桜木の身体を締め上げた。

「キャアァッ!」

「桜木!」

 なんてこった!コイツは今までの化け物とは違って、何をどうすれば目の前にいる人間が苦痛を味わって戦闘意欲をなくすかってことを心得ているんだ!
 俺と須藤は為す術もなく、ただ呆然と化け物を睨み据えていた。
 何かないだろうか…俺はない知恵を絞って頭をフル回転させ周囲を見渡した。
 須藤も何かを考えているようで、忙しなく状況を判断しようとしているようだ。

(落着け、落着くんだ!!)

 そう思いながら俺はふと、ある事に気が付いた。慌ててその事を須藤に耳打ちすると、奴はハッとしたような表情をして俺を見たが、すぐに口角をグッと釣り上げてニッと笑った。

「じゃ、そう言うことだ!頼むぜ、須藤!!」

「ああ、お前もしくじるなよ!」

 俺と須藤はその化け物の脇に同時に飛び込んでいた。俺は左に、須藤は右!
 俺たちの動きに化け物は一瞬うろたえたようだった。
 その行動は予想通りで、俺はヤツの植物には無い反応を期待していたんだ。
 ヤツはまんまと俺の策に乗っかってきた。走り出しが一瞬早かった須藤に乗せられた化け物は、完全に奴の方へ気が行っちまっていたようだ。須藤には悪いが最高のオトリ作戦は成功した。
 その間に俺はどうしていたかと言うと、一目散にヤツの脇にあった扉を体当たりで開けてその部屋に転がり込んでいた。良かった、心配していたような鍵はかかっていなかった。
 すぐさまその音に、実際は振動だろうけど、気付いたのか須藤の相手をやめると一気にその触手は俺のいる部屋になだれ込んできた。
 だが、その触手は俺の手前で動きを止めた。
 そうか、やっぱり思った通りだったんだ。

「そうだよな、これがお前の弱点なんだよな!」

 そう言って俺は赤いバルブに手をかけた。そう、このバルブこそコイツが存在できる環境を生み出していたんだ。ここは全てが実験の為に用意された最適な環境下だから、バランスが崩れればあっさりその『楽園』としての役割も失ってしまうんだろう。
 俺がここに跳び込んだ理由を言えば、この研究室に入った瞬間、まるで亜熱帯のようなジメっとした室内の状況を見逃してはいなかったってワケさ。そしてあの室内を見渡していた時に目に飛び込んできたもの、それがこの部屋の扉にあるプレートに書かれていた文字。
 そこに書かれていた文字、それは『スチーム室』。

「さぁ、どうする?桜木を離すか、それとも、お前が体験したこともないような極寒を味わってみるか?」

 その言葉に少しヤツは考えているようだった。しかし、ちょっとの間があった後に何かがドサリと落ちる音がすると、部屋の外で須藤が桜木の名を呼ぶ声が聞こえた。
 どうやら、化け物のヤツは俺の言葉を理解したようだ。

「思った以上に賢かったみたいなだな…」

 だが、俺は一気にそのバルブを閉めようとした。化け物に義理立てする必要なんかないからなッ!
 もちろんそれは、ヤツにとっても同じことだった。
 俺の全身はすぐさま蔦に絡め取られ、骨が軋むようなその締め付けは尋常じゃなかった。

「うぐぅっ!!」

 だが、運が良かったのか腕に巻き付かれていなかったおかげで、バルブを握った手はそのままだ。俺は苦しさのあまりに無我夢中でそのバルブを回していた。
 そう、蒸気を止める方へ。
 骨が軋むほどの締め付けがピークに達し、俺の意識が飛びそうになったときだ。
 不意に足許にヒンヤリとした空気が流れ込んできて、次第にその締め付けが緩んでいった。

「ゲハッ!ゴホッ!ゴホッ!」

 束縛が解かれた俺の身体は力無く床に倒れ込んだ。その床には今までのジメジメした湿気は無く、逆にうっすらと白いものが貼りついていた。
 その、白いものは…霜だ。
 俺は全身を襲う寒気にここの環境の変化を悟った。どうやら今閉めたバルブがこの研究室の温度調整をしていたものだったようだ。
 実はそうじゃないかと思っていたんだよな。核心は無かったけど、温室の温度調節に温泉の蒸気を用いているという話を、以前聞いた事があったからな。

「ううっ…さみぃ…」

 俺が先ほどの締め付けにやられた体を引き摺るようにその部屋を後にすると、寒さと激しい疲労に襲われていた須藤たちが重い足取りで近付いてきた。

「ど…どうなっちまったんだ?」

「……」

 桜木は白い息を吐きながら、須藤の肩を借りて立つのがやっとと言う顔でこちらを見ているが、その身体はガタガタと震えていた。

「このままここに居たら凍えちまうぜ…」

 そう言って化け物から弾かれた時に放りだしていたマシンガンを拾うと、俺は甘い匂いで獲物を狙う、賢いがとても原始的だった化け物の方を見上げた。
 そこには今までの事がまるで嘘だったように、巨大な植物が氷付けになっていた。
 あれほど獲物を狙っていた蔦にはもう勢いもなく、自分が分泌した液でできた氷柱が何本も垂れてその動きを止めているように見える。

「ここはもうすぐ、冷蔵庫のようになるんだろうな」

 須藤はそう言うと俺の肩を叩いた。そんな須藤と二人でぐったりした桜木を連れ出しながら、俺たちはその重い扉を閉じた。たぶん、もう二度と開くことはないだろうけど。
 そう、切実に願いながら…