Act.13  -Vandal Affection-

 結局、あの死体の謎も判らないまま、俺は簡単な治療を終えると階下に降りることにした。
 それで今、この部屋にいるわけだが…
 恐怖のようなものが、今更になってズッシリと身体を重くしているような気さえする。
 マシンガンで穴の開いたシーツを無言で見下ろしていたら、不意に何かが聞こえたような気がした。
 もう一度良く耳を澄ますと…
 パンッ!
 ハッとした。

「銃声だ!誰かいるッ」

 俺は慌てて立ち上がると、足の痛みに一瞬怯んだものの、その密室から飛び出して音のする方向に走った。
 痛みを感じるよりも、生きている誰か…誰かに無性に逢いたかったんだ。
 幾つ目かの通路を曲がって辿り着いたその先にいたのは。

「須藤!?」

「うっ!…佐鳥!?良かった、お前生きて…」

「生きてじゃねーよ!置いて行きやがってッ」

 今しも須藤に襲いかかろうとしているゾンビ研究員を蹴り倒した俺は、問答無用でその頭部をマシンガンでふっ飛ばした。ビシャビシャッと脳漿を粘った血液と一緒に撒き散らして倒れるゾンビを一瞥して、俺は眉間に皺を寄せながら須藤を振り返った。

「どこに逃げてたんだよ?捜したんだぜ!」

「すまん…気付いたらお前がいなくて。周りにはこんな連中がウジャウジャいるじゃないか!お前を捜してここまで来たんだ」

「チッ」

 自分の恐怖心を悟られないように俺はわざと荒々しく舌打ちして、顎に伝う汗を腕で拭った。

「佐鳥?お前、顔色が悪いぞ!どこか…」

 そこまで言って須藤の開きかけた口が閉じた。
 嫌な予感がしてその視線の先を見下ろすと、ヤバイ、案の定右足の脹脛が流血している。
 厚手のジーパン生地がジットリと黒い染みになっていた。チラッと赤く見えるから、実家が医者で、医者になれと言われ続けてある程度それなりの勉強をしていた須藤にしてみたら、それが何であるかなんて一発で判ったんだと思う。

「良く見たらお前、満身創痍じゃないか!腕と、足は…ああ、こいつは酷いな」

 徐に屈み込んだ須藤は有無も言わさずにジーパンの裾を引き上げて、慣れていない手付きで巻きつけている包帯を外しながら顔を顰めて見上げてきた。

「…これはやっぱり、あいつらから?」

「まあな。いいよ、大丈夫だって」

 俺が慌てて足を引こうとしたが、須藤はやけに真剣な表情をしてそれを止めちまった。
 気恥ずかしいんだよなぁ。

「抉られてるみたいだが。参ったな、薬も何もないんじゃ…ん?そう言えばお前、この包帯とかどうしたんだよ?良く見たら銃も変わってるみたいだし、何があったんだ?」

 目敏く俺の変化に気付いた須藤は、立ち上がりながら怪訝そうに眉を寄せて俺の顔を覗き込んでくる。

「ええ!?え、えーっと、それは…」

 まさか変態男から犯らせた礼にもらいました、なんて言えねぇしな。
 でも、奴のことは言った方がいいし…どうしよう。

「こ、ここに来る途中で、変な奴に会ったんだ。ソイツはここの研究員だって言ってたけどさ、実際は何者なのか詳しくは判らないんだよ。で、なんかソイツからいきなり手刀で気絶させられて、気が付いた部屋に薬とか銃とか、まあ色々とあったってワケさ。ただ、ここの研究員の報告書みたいな書類を見つけたんだけど、何か拙い証拠なのかソイツに燃やされちまって。ま、そんなものを見たから気絶させられたんだろうけどな!」

 できるだけ端折ったけど、ほぼ半分以上は実話なので、大丈夫だろう。
 畳み掛けるように言ってわざとらしく大らかに笑う俺を、須藤は怪訝そうに片目を眇めていたが、それについては何も言わなかった。

「研究員の報告書か…こんな施設だ、拙い研究でもしていたんじゃないのか?この、奇妙な連中を見ても何となく頷けるしな」

 ボロボロの、もとは白衣だったんだろう布切れを着て、頭部を吹っ飛ばされて死んでいる研究員らしき死体を嫌そうに見下ろしていた須藤は、首を左右に振ってすぐに断ち切るように俺に向き直ると肩を竦めてみせた。

「まあ、佐鳥にしてみたらとんだ災難だっただろうが、その道具はラッキーだったよ。別に報告書なんか、今の俺たちにとってなんの役にも立たないものだからどうでもいいさ」

「あ、ああ。俺もそう思った」

 本当はとんだ…どころじゃねぇんだけどな。
 お前に、いや誰にだって絶対に言えねぇようなことをされちまった、その副産物のようなものなんだ。でも、確かに便利な一式だったから、今は目を瞑ってるだけなんだよ、須藤。

「ん?どうしたんだ、顔色が悪いな…ああ、そうだな。早いところ手当てをしよう」

 確かに傷のせいでもあるかもしれないけど、俺の顔色の悪さを勘違いした須藤はテキパキと近くの部屋に俺を促して治療に取り掛かった。

「うっ…」

 新しい血が溢れる傷口を布で抑えながら止血する須藤は、俺のポーチに入っている薬を1つずつ確かめていたが、不意に手を止めると何かをまじまじと見ている。

「なんだ?」

「…なんでこんなものが入ってるんだ?」

 訝しそうに眉を寄せた須藤は、人差し指と親指で持ち上げたオレンジのキャップで口を閉めている小さなチューブを見て首を傾げている。
 うっ!…そ、それは。

「し、消炎剤だから!きっと間違えたのかもしれないぜ」

 下手に動揺すると見透かされてしまうから、俺は必死で冷静を装いながら言った。

「間違えたって…誰が?」

「俺さ!俺に決まってるだろ!?何を言ってんだよ、須藤!」

 はっはっはと笑って思いきり背中を叩いてやると、妙に勘の良い須藤は怪訝そうな顔をしたが、別に気にした様子もなく肩を竦めてソレをポーチに戻して他の薬を取り出した。用心深くて勘の良い須藤の、容赦ない追求を免れたことに俺は心底ホッとした。
 やっぱりちょっとは動揺していたんだな。焦った。

「あんな巻き方だとすぐに取れちまうって。ガーゼも入ってたから、まあ、簡単な応急処置はできそうだ」

 ホント、やっぱりこいつは頼りになる。
 ちょっとした悪戯心がムクムクと沸き上がって、俺は丁寧に手当てをしてくれる須藤に人の悪い笑いを浮かべてニヤニヤと言った。

「お前さぁ、ゾンビが怖かったんだよな?さっきは平気みたいだったけど…大声上げて逃げてただろ?」

「…」

「うっ!いて、痛ぇってば!あいたぁ!」

 無言で染みる薬をべったりと傷口に押し当てた須藤に、俺は目から星が出るほどの痛みを感じて慌てたようにその腕を離そうとした。

「誰だって、もういい加減慣れるさ。お前と会う前も半端じゃなかったからな」

「わ、悪かった!ごめん!俺が悪かったッ」

 だが、須藤は問答無用で包帯まで巻いてしまった。
 うおおおッ、いてぇッ!凄ぇッ、いてぇ!…けど、なんかさっきよりは楽になった気がする。
 おお、足も動くぞ!

「須藤!すっげぇ楽になった!ありがとうな」

 ポーチに薬を投げ込みながら、神経質そうな表情には疲労の色を浮かべて、須藤は小さく口角を釣り上げただけだった。

「なあ、お前も階上から来たなら、見たか?」

「…犬だろ?」

 須藤は立ち上がると、疲れたように俺の横にドサッと腰を下ろして溜め息を吐きながら頷いた。

「アレって、なんか変だよな。まるで、時間をかけてゆっくりと溶かしていたような…何かの実験体が逃げだしたって思うか?」

「佐鳥はそう思わないのか?」

 反対に聞き返されて、俺は答えに困った。
 実験体のような気もするけど、でもまさか、こんな放置された施設にまだ化け物じゃない生きている実験体がどれぐらいの確立で生き残ってるか…そう考えるとすっげぇ、微妙な気がするんだ。
 実験体と言うよりも…野犬か何かだったのかな。でもそうすると、こんな階層まで犬が迷い込むってのも微妙な話だと思うんだよなぁ…だって、犬は人間よりも鋭い本能を持っているはずだ、だとしたらこんな化け物がうじゃうじゃいるところに来るんだろうか?うーん、マジで微妙だな。

「何かおかしな病気が蔓延した、ってワケでもなさそうだし。実験の失敗か、或いは自らが被験者になったのか…どちらにせよ、あの奇妙な連中を見ても判るように、少々の怪死は平気で起るんじゃないのか?」

 結局須藤にも理解しがたい状況だったらしく、俺とほぼ同じような結論をその優秀な頭脳で弾き出したようだった。

「だな」

 頷いた俺は立ち上がると、比較的動きやすくなった足を軽く動かしてみて、あまり痛みがないことを確認すると腰にポーチを装着してマシンガンを取り上げた。

「おい、まだ腕の傷…」

「ああ、これは大丈夫だ。もう、直りかけてるし。さ、先に進もうぜ」

 そうだな、と呟いて立ち上がる須藤と共に、俺たちは先に進むことにした。
 先といっても、いったいどこに続いてるのか…俺たちは闇雲に前進することにしたんだ。

Act.12  -Vandal Affection-

 目の前の化け物は触手のような蔦をゆらゆらと揺らして、死んだはずの桜木の身体を天井高くまで持ち上げて花弁を蠢かす。そのうす気味の悪い花弁は、女の性器を思わせてグロテスクだ。ぬらぬらと中心から溢れている芳しい匂いが漂う蜜は、捉えた獲物を溶かして養分に変える消化液だろう。

「さ、佐鳥くん…」

 失神できないほどの恐怖が渦巻いてるんだろう桜木は、大きく見開いた両目からボタボタと、これ以上はないぐらいの大量の涙を零して俺を見下ろしていた。
 いつもは、考古学科にあっても女らしさは忘れないわよ、と豪語していた桜木のピンクの口紅は涙と鼻水でグチャグチャで、マスカラも落ちて涙は黒くなっている。

「桜木、生きてたのか」

 後になって考えたら、そんなどうでもいいことを呟いちまったと後悔した言葉に、桜木は何か言おうと開きかけた口を、奇妙な花の化け物が茎を揺らしたことで息を飲んで閉ざしてしまった。

「さ、佐鳥くん、助けて…」

 花が食虫植物になったようで、その大きさは世界最大と謳われるラフレシアなんかを遥かに凌いでると言い切れる。
 けっこう広い研究室いっぱいに腕を広げた悪魔は、花弁の中心から甘い蜜を吹き零しながら、ぬらぬらと俺を誘うように桜木の身体を弄んでいた。

 何階まで降りてきたのか判らなかった。
 とにかく、須藤の逃げ足の速さには参ったと思っていた。
 足の痛みに気付いて少し休もうと、俺は用心深く近くにあった部屋のドアを開けると、さっきみたいに突然襲ってこられないようにマシンガンで一応室内を撃ってみることにした。
 良かった、ここは安全そうだ。
 まあ、こんな状態で安全もクソもねぇけどな。
 どんな研究員が寝泊りをしていたのか、埃臭いベッドに腰を下ろして、俺は溜め息を吐いた。
 はあ、疲れた。
 いやいや、疲れてる暇はねぇんだ!今まで見たものを整理しておこう…

 ここに来るまでの途中で、俺は奇妙な犬を見たんだ。
 正確には、犬の死体を。
 どこからか迷い込んだ野犬だったんだろうか…下半身が溶けて、もう腐敗していたけど、だらりと垂れた舌の持ち主のその驚愕の表情は犬らしく、素直な恐怖の色をべったりと貼りつけていた。
 ねとり…とした、下半身の周辺に撒き散らされた夥しい液体は、腐敗臭と 相俟ってすっげぇ臭いがその通路…いや、そのフロア一帯に漂っていて俺は思わず吐きそうになった。けど、飯を食っていない腹は胃液を上げるだけだったから、口中に苦い液が溢れてますます気分は悪くなるし空腹を訴えるようにキリキリと胃が痛んだ。
 俺も大概、根性あるよな。
 こんな腐敗臭と気味の悪ぃもんを見ても腹が減ろうとしてるんだから。やれやれだ。
 舌打ちして、犬の周辺を見渡した。

「しっかし…今まで見た死体とちょっと違うな。溶けてるし…あの大毒蛇が吐いた毒、ってワケでもなさそうだ。あれは硫酸系だった。これはまるで、何かでゆっくりと溶かしていたみたいな…実験体か何かが逃げ出したのかな」

 いやまさか、この施設はどう見ても放置されてから長い年月が経っているように思える。だからまさか、死体の状態から、ここ最近まで普通の姿で生き残っている動物がいたなんて思えなかったんだ。ただ、それなのに電力が生きていることが不思議だった。まあ、その点で考えるのならあの変態研究員が生活しているんだから何かしらのことをしていても不思議ではなくて、そう言った意味では研究用の犬がいてもおかしくはないのかとか、そんなことを考えながら鼻と口を簡易で作ったバンダナで覆った俺は立ち上がると、マシンガンを構えなおして周辺にそれ相応の研究室がないだろうかと探してみた。
 実はシーツと布は山ほどあったから、それを裂いてバンダナっぽく作ってみただけなんだ。
 菌に感染されてなきゃいいけど…まあ、大丈夫だろう。埃臭いだけで、これといったヘンな臭いはしないし。
 無味無臭の菌があることぐらい俺だって知ってるさ。でも、この辺りに漂ってる臭いは半端じゃねぇんだ。1分だっていたくないと思っちまう。けど、こんな死体を見たら俺だって興味が湧く。
 このフロアは部屋数が少なく、1つずつ慎重にドアを開けていったが、室内はどれも普通の部屋のようだった。書類が散乱するディスクと、整理の行き届いていない棚、埃が長いこと使われていないことを物語っている。

「なんだ、何もねーじゃん。あの大型犬、きっとただの野犬だったんだろう。ここに住んでたんだろう所員だってあの様なんだ、迷い込んだ犬だって怪死ぐらいするか」

 俺は部屋を出るとたぶん同じような部屋だろうと、簡素な通路に整然と並んでいる似たり寄ったりのドアを容易く開いた。
 と。

「うわぁああ!?」

 急に目の前に現れたゾンビに条件反射でマシンガンをぶっ放していた。
 しかし、どんなに運動神経が良くても、マシンガンの突発的な反動に俺の身体はまだまだ役不足だった。漸く慣れてきてたんだ、それだって完璧じゃない。
 至近距離で発砲したにも関わらず、銃弾はゾンビの頬の腐った肉を引き千切ったぐらいで、決定的な致命傷までは与えなかったようだ。
 それでも、その反動でゾンビ研究員の身体はグラリッと傾いで、重心の 逸れた勢いのまま派手にすっ転んでくれた。
 やったぜ!チャンスだ!
 ソイツに銃口を定めて引き金を引いた、その瞬間だった。

「ぐぁッ!」

 俺は右足の脹脛に感じた鋭い激痛に、恐る恐る足許を見下ろしていた。
 腐った口から突き出たギザギザの牙のような歯で、旨そうに俺の肉を齧り取った下半身のないゾンビは、腕だけで這ってきたのか縋り付くように俺の足に両腕を 絡めてもぞもぞと口を動かしている。
 思ったよりも硬い指先には殆ど肉がなく、腕の力は尋常じゃない。
 悪夢のような光景と脹脛の痛みに遠退きそうになる意識を必死で繋ぎとめながら、俺は夢中で銃口をゾンビの頭部に押し当てて狙いを定めた。痛みに霞む目じゃ、狙いが定まるかどうか…
 下手すれば自分の足を打ち抜くかも知れない…冗談じゃねぇ!
 俺の気配などまるで無視して、一心不乱に齧り付こうとするゾンビの空洞を晒す脳天に銃口が火を吹いた。

「ギャッ!」

 ゾンビは呆気なく頭部を吹っ飛ばされて、もう腐っている脳漿やどす黒い血液、腐った皮膚を飛び散らせてズルズルと床に倒れ込んでしまう。

「はあ、はあ…うッ!クソッ!」

 その場にへたり込んだ俺は急いでギザギザに裂けたジーパンを膝までたくし上げ、弾けた筋肉が真っ赤な血に濡れて柘榴のような傷口を晒す脹脛に思わず目をむいちまった。こいつは…酷ぇ…
 ハッとした。
 痛みで忘れていたが敵は一人じゃない!
 ずずず…ッと鈍い音を立てて床を這うようにして近付いてきたのは、たった今マシンガンで留めをさすはずだったゾンビ研究員だった。

「畜生ッ!」

 俺は痛まない方の足でゾンビ研究員の腐って殆ど頭髪も抜けている、頭蓋骨の露出した頭部を蹴りつけて、両手で支えたマシンガンで打ち抜いた。

「ギゥッ…」

 耳障りな声を上げてゴブ…ッとヘドロのような腐敗臭のする淀んだ体液を吐き出したゾンビ研究員は、ベシャッと奇妙な音を立てて倒れると、そのまま動かなくなった。
 頭部を床に叩きつけた拍子に、ドロッとした目玉が床に飛び散った。

「う、うわぁあああ!!」

 その凄惨な光景に、俺は思わず胃の辺りからせり上がってくるようなおぞましさを感じて、弾かれたようにもう完全に息絶えているはずのゾンビ研究員に乱射してしまった。
 ドッドッと鈍い音を立てて死んでしまっている研究員の薄汚れた白衣に穴が開いて、そこから血液だったものが腐敗臭を撒き散らしながらドロッと溢れ出してくる。
 い、いやだ。こんなのはもう嫌だッ。
 逃げ出したい衝動に駆られてへたり込んだままでいざろうとしたその瞬間、まるで俺の意識を正気に引き戻そうとでもするかのように、唐突に右足にズキリと痛みが走った。

「…ッ!」

 眉を寄せて見下ろしたら、弾けたピンク色の筋肉と鮮やかな血液がドクンッと溢れ出していた。
 ああ、そうだ。こんなところで怯えてるヒマはねぇ…
 俺は、痛む足を動かして引き攣れるような、今まで感じたことのない激痛に顔を思い切り顰めながらも、どうやら足首はちゃんと動いていることを確認した。
 良かった、腱とか筋をやっちまったってワケじゃなさそうだ。

「あうっ!」

 激痛に脂汗が滲む額にくっきりと皺を寄せて、俺はやや大きめのウェストポーチに手を突っ込んであの救急セットを手当たり次第に漁った。
 そうこうしてる間にも傷口から鮮血が溢れ出して、血の臭いが腐った臭いと交じり合って強烈な眩暈がする。

「ああ、クソッ!」

 バンダナ代わりに鼻と口を覆っていた布を剥ぎ取ると、それで脹脛を押さえ付けた。
 埃でくすんでいるものの、白かった布が見る間にジクジクと真っ赤に染まっていく。
 本当はそんなに深い傷じゃないのかもしれない。
 こんな傷、現場で働いている時には何かに引っ掛けたりしてしょっちゅうだったはずだ。
 でも、環境が俺に酷い恐怖心を与えていたんだと思う。
 何かに食い千切られる恐怖。脳裏にはフラッシュバックのように死んでいった連中の惨状がありありと浮かび上がってくる。

「死ぬもんか!死んだりなんかするもんか!」

 やけに感傷的じゃねーか!こんな傷で死ぬかっての。
 食い千切られた痛みは半端じゃねぇけど、止血さえできたらなんとかなるだろう。
 傷痕は残るだろうな…組織も皮膚もぐっちゃぐちゃだから。
 こんなところで蹲っていても仕方がない。いつゾンビ研究員が襲ってくるとも判らないんだ。
 俺は立ち上がると、足を引き摺るようにしてその場から離れながら、あの誰もいなかった部屋まで壁伝いに歩いていく。
 治療をしないと…
 奇妙な犬の死体。
 下半身がなかったゾンビ。
 不可解な粘液。
 頭の中には警鐘がガンガンと鳴り響いてるって言うのに、俺の本能は自分の傷のことばかり考えていた。
 助けると言いながら、最後はやっぱり我が身が一番可愛いんだ。
 でも、その時の俺には、そんなことすらもどうでもいいと思いながら、懸命に部屋を目指していた。
 自分を唯一守ってくれる、あの密室。
 俺の頭の中は自分のことでいっぱいだったんだ。

Act.11  -Vandal Affection-

 身体の痛みをやり過ごす為に暫く奴の自室で休んでいた俺は、ご丁寧に用意されていたウエストポーチを装着して、短銃とサヴァイバルナイフを腰に突っ込むと、マシンガンを片手に部屋から出ようとした。
 鍵が外から掛かっているらしく、内側からは開かない仕掛けになっているようだ。

「…何を考えてるんだ、あの変態。地上に戻れとか言って、ここから出られねぇようにしてるじゃねーかッ」

 アイツの不可解な行動に首を傾げながら、俺はマシンガンで鍵を壊すことにして、その反動で後ろにすっ転んでしまった。

「う…イテテ…よくよく、俺ってば腰を痛める運命なのかよ…でも、この銃はなんなんだ!?」

 ライフルで慣れたと思い込んでいた俺に、マシンガンの衝撃は凄まじかった。
 ドッドッドッと、一発撃ったつもりが、連射で発砲してその衝撃に吹っ飛ばされたのだ。
 いや、それぐらいの衝撃はあった。腕に。
 正確にはぶれた反動で蹴躓いただけなんだけど…な。

「…これぐらいの銃が必要なほど、これからの化け物は強くなってるのか…ん?これから?」

 ちょっと考えて、俺は溜め息を吐いた。

「アイツ、なんやかんや言いながら俺が下に行くって端から思ってたんじゃねーのか?何でもお見通しってワケか。やれやれ。…何者なんだ、アイツ」

 不意に、疑問が浮かび上がってきた。
 ここの研究員だと言ってたけど…それだって本当のことかどうか。こんな、化け物がウジャウジャいる密林の、もう忘れ去られたような研究施設にたった一人で暮らしているあの変態…どうやって生き残ってるんだ?
 名前すら言わなかったな…
 そこまで考えて、俺はなんとも理不尽な気分にハッと我に返って頭を左右に激しく振った。

「うー…考えても始まらん!施設の中をウロウロしてたらまた逢えるかもしれないし、その時に問い詰めてやろう!」

 今回のことは不可抗力でアイツにいいようにされてしまったが、この次はそうはいかないぜ。絶対にとっちめてやろうじゃねーか。
 博士たちの救出と、あの変態野郎を見つけ出すことが俺の目的だ。
 俄かに賑やかになった俺の目標は、これから起こることに対して怯みそうになる気持ちを奮い立たせてくれるには充分だった。
 さあ、行こう。
 俺は、立ち止まっているわけにはいかないんだ。

 ここが何階なのか判らない。
 壁にはオレンジでD-11と書かれている。

「そう言えば。非常階段のところに何かあったな」

 だが、ここがどの辺りに位置するのかも判らない。非常階段のある場所なんて通りすがりに見た程度で判るわけもないし…ま、進んでいれば何か見つけるかもしれないな。
 目の端にふわりっと白衣の裾が翻った。

(奴か!?)

 ハッとして振り返り、叫びそうになった。
 白衣=変態とは言え生きた人間、と思い込んでいた俺の目の前にいたソイツの、その半分以上崩れた頭部と腐敗臭、白衣は奇妙な液体で汚れた、ボロボロのその出で立ちに仰天したんだ。
 ああ、そうか。ここは化け物たちに支配されてたんだ!すっかり、あの変態野郎に気を取られていたから、こんな重要なことをコロッと忘れてたぜ。ったく、俺ってヤツは!

「くそっ」

 舌打ちしてマシンガンを構えた俺に、虚ろな眼窩を晒したゾンビ研究員は至近距離から両手を上げて襲いかかってきた。思った以上に鋭い、牙のような歯に腕を噛まれて顔を顰めると、マシンガンでそいつの頭をふっ飛ばしてやった。
 かなり破壊力のあるマシンガンに頭部を吹っ飛ばされたゾンビは呆気なくその場に倒れ込んだけど、ジクジクと血を滲ませる腕を掴んで俺は顔を思いきり顰めた。
 参ったな…すっげぇ痛い。
 マジで、泣きそうなぐらい。

「何かないのかよ…お?」

 結構大きめのポーチの中身を傷の痛みで苛々しながら探っていると、中から錠剤や包帯や、何かの塗り薬のようなものが出てきた。ある種の救急セットみたいだ。

「何かないか…ん?この塗り薬…【切れ痔】用?…ッ!あの野郎…」

 熱を持っていたソコがズキンッと痛んだ気がして、思わず舌打ちしてしまう。冗談じゃねぇや、誰がこんなモンッ!…投げ捨てようかと思ったけど、やめておいた。使う気にはなれないが、もしかしたら何かの時に役に立つかもしれない。消炎剤だろうし。

「他にはないのかよ!?えーっと、この塗り薬は…切り傷?これって切り傷になるのか?まあ、いいや」

 Tシャツを裂いて作った布で腕を縛って止血すると、ありがたくその塗り薬を塗りたくった。

「うぉおおおおお!染みる!マジで、染みる!」

 得体の知れない薬でも使っとかないと、血を流してウロウロしてる間に失血死するのはごめんだからな。

「さ~て、須藤を探しに行くか」

 腕はまだジンジンと痛むけど、そんなことを気にしている暇なんてなかった。
 俺は頭部を吹っ飛ばされて倒れているゾンビを暫く見下ろしていたが、立ち上がると、もう何も考えずに歩き出すことにした。ここにはそんな連中がわんさといるんだろう。
 躊躇っていたら死ぬのは自分だ。
 冗談じゃない。
 俺は生き残ってる連中を助けて、日本に帰るんだ。

 もうだいぶ腕が痺れてきていた。
 マシンガンは身体全体を痺れさせるような衝撃でゾンビの群れを薙ぎ倒していく。
 指の加減を間違えれば銃弾は思った以上に発砲されるから、俺はそれを身体で覚えていった。

「ここは凄いな。まるで集中しているみたいに研究員がいる…ここが奴らの居住区だったんだろう」

 俺は壁にもたれると一息吐いて、替えのマガジンを挿し込んだ。
 もう、何人殺したか判らない。
 日本にいたときはバイトに明け暮れる普通の苦学生だった。このコンカトス半島に来て、俺は殺人鬼になっちまった。死体を殺すことが殺人と呼べるなら…だけどさ。
 でも、俺がゾンビだと思ってる連中が、本当は生きてる人間だったらどうしよう。前に見た、あの研究員の報告書のように、何かの病気が蔓延してあんな風に身体が崩れただけだったら…?
 撃てば死ぬし…だとしたら、俺は本当に殺人鬼だ。
 自分たちが生きる為に、俺は罪のない人たちを殺してるんじゃねぇのか?
 ずっしりと重いマシンガンの重みを今更ながら感じて、俺は唐突に怖くなって激しく首を左右に振った。まるで死神の冷たい指先のように脳裏から離れない、その危うい思考をなんとか振り払おうと、俺は全く別のことを考えることにしたんだ。
 今までのことをちょっと整理しようと思う。
 このコンカトス半島に来て間もない頃、三浦女史は遺跡の頂上付近にあった紋章がおかしいと言っていた。やけに近代的で、この周辺の豪族とは明らかに違う…とも言ってたっけ。
 それはきっと、この研究施設のカモフラージュである遺跡の、目印のようなものだったんだろう。
 ここに研究施設があります。
 って感じの。でも、いったい誰に向けて、こんな印を残したんだろう。自分たちさえ判っていれば、こんな明らかに不自然な証拠を残して…俺たちのような、って言うか、三浦女史のように考古学者が見れば明らかに不審がるだろう。
 まあ、新発見だって喜んだけど。
 誘い込んだのか?いったいどんな理由で?
 うーん…
 やっぱり、考えたって判んねーや。
 俺はあっさりとその考えを手放した。
 どちらにせよ、今の俺には関係ないことだ。
 博士たちを見つけて、ここに来るって言う救助隊に助けてもらって日本に帰る。
 それが目的だ。まあ、化け物の存在も、この研究所内を走り回っている間に何か判るかもしれないし。途中でまた、あの得体の知れない邪魔者から掴んだ情報を奪われなければ、博士や須藤を見つけ出して、そうすればきっと何か判るはずだ。判ればそれでいいい、判らないならそれまでだ。
 なんにせよ、こんな研究施設とは関わりあいたくもないし長居もしたくない。できることならさっさとおサラバしたいぐらいだ。
 よし。
 整理らしい整理にはならなかったが、俺はマシンガンを構えなおして休んでいた壁から身体を起こした。
 走り出そう。
 まだ、始まったばかりじゃねーか!

Act.10  -Vandal Affection-

「うわぁぁぁッ!」

 噛み締めていた唇は切れて血が出ていた。もう、声を抑えることなんかできなかった。
 見せつけるようにゴムを装着した灼熱で俺の、男が唯一体内に男を受け入れることのできる入り口を擦り上げ、躊躇わずに挿し込んできたからだ。
 切り裂かれたんだと思った。
 冷や汗が噴き出して、全身がスッと冷たくなっていく。
 俺はけたたましく首を左右に振って、何としてでもその苦痛から逃れようと身体を摺り上げたけど、男の容赦のない腕に引き戻されて、結合はますます深まっていく。

「あ…ああっ!…ぅあッ」

 俺は挿入の衝撃でだらしなく失禁していた。
 でも、そんなことなど構ってなんかいられるかよ!

「失禁したか…成長した括約筋は初めての挿入に反発する。それは誰しも同じことだ。さほど気にする必要はない」

 こ、コイツは何を言ってやがる?
 冷静に言って腰を動かす男の、ムッとするほどの柑橘系の匂いにクラリと意識が遠退きながら、これは奴の体臭なんだろうかと馬鹿みたいなことを考えていた。

「ヒィ…ッ」

 唐突に、ぬるりっと尻の中が滑りやすくなって、男は幾分かホッとしたように詰めていた息を吐き出したようだった。
 コイツも辛いはずだ、俺は力いっぱいそこを締め付けていたから。意識しなくても、力がそこに集結してしまうんだ。悲鳴を上げて、もう嫌だと叫ぶ小さな器官は見知らぬ男の灼熱を咥え込まされて血を流している。
 無表情だった男の頬が微かに上気して、眉を僅かに寄せている。
 そのくせ、驚くほど冷静なアイスブルーの双眸が見下ろしていた。
 強姦してるくせに、どうしてこんなに冷静でいられるんだ。
 ギシギシッと、縛り上げられた両手首が悲鳴を上げて、擦られた場所からは血が滲んでるはずだと思う。

「…」

「…?ぅあッ!」

 何かを呟いた口許を見つめて眉を寄せた俺を、男は容赦なく突き上げて結局、奴が何を言ったのか判らなかった。
 意識を手放したくて、俺は許しを請うようにありったけの言葉を口にしたが、彼は煩そうに眉を寄せて口付けると、俺の声を閉じ込めてしまった。
 まるで、そこにだけ情熱があるんだと感じられる熱い舌に口腔を蹂躙されても、俺が感じることはなかった。舌はぐったりと横たわり、戯れかける奴の舌に応えることなんてできっこなかった。
 結局、奴が果てるその最後まで俺のペニスは縮こまって、とうとう勃起することはなかったんだ。

「う…」

 いったいどれぐらい犯されていたのか、気付いたときには男も、着ていた白衣も脱ぎ散らかしていたグレーのシャツも、サイドテーブルに置いていた銀縁眼鏡も消えていた。
 最後は俺も感じていたようだ。
 それでも、下肢を濡らしていたはずの体液と血液が綺麗に拭われていることに気付いて、俺は上半身を起こしながら羞恥に眉を寄せてしまう。
 ただ、役に立たなくなったゴムから漏れた白濁がまだ身体の奥に残っていることにギョッとして、俺は痛む身体を引き摺りながらベッドから滑り落ちた。

「あ…ッ!イテテ…」

 痛む部位を擦って立ちあがろうとしたが、腰は萎えていて立ちあがることなんかできない。

「くそっ!今、ゾンビとかに襲われたら確実に死ぬな…」

 悪態を吐いて周囲を見渡すと、ライフルの代わりにマシンガンが置いてあった。それに、サイドテーブルの上には銀縁眼鏡の替わりに、銃身を電灯に黒光りさせている短銃と、サヴァイバルナイフ、それぞれの弾が入ったやや大きめのウエストポーチのようなものが置かれていた。

「…ご丁寧に。こう言うことはしてくれるんだな」

 ふと、自分が滑り落ちた時に一緒に落ちたのだろう、英語の走り書きが書かれた紙片を見つけて俺はそれを手にとった。

『地上に戻れ』

 たった一言の殴り書き。

「イ・ヤ・だ・ね。何度も言わせるなっての。俺は博士たちを助けるんだ!アイツが何を考えてるかなんて判らねぇ。でも、こんなことされたからって怯むかよ」

 こんな非常時に人を犯しやがって。
 そこまで考えて、不意に自嘲してしまう。
 日本じゃ、こんなことが起こるなんて考えてもいなかった。
 男の俺が同じ男にその、ご、強姦されるなんて…
 そこまで考えて首を激しく左右に振る。
 今は忘れよう。
 犬に噛まれたその傷痕が膿んで腐ることを知りながら、犬に噛まれたと思って忘れようと思った。
 もしや、あの変態野郎が俺をその、強姦してまで引き留めようとしたぐらいだ。この施設には何かとんでもないモノが眠っているのかもしれない。
 そうだ、冗談じゃない。

「俺は今!博士や三浦女史や須藤たちを助けなくちゃいけないんだ。それで、みんなを、生き残ってるみんなを連れて日本に帰る。ここでのことは、あんたに言われなくても全部忘れてやらぁっ!」

 ああ、そうだ。こんなところには一分だっていたい訳がないし、長居だって無用だ。
 そんな場所できっと、助けを求めている仲間がいるのなら、俺はもっと先へ進まなければ…
 痛む腰を庇うようにして立ちあがり、男が残した紙切れを握り潰して唇を噛み締める。
 神経質そうな表情をした、酷く冷たい双眸の男を思い出しながら。
 でも彼はどうして、あんな風に酷いことをしながら、寂しそうだったんだろう…

Act.9  -Vandal Affection-

 揺れている錯覚がした。
 誰かの温もりを感じて、俺はホッとしていた。
 ああ、生きてる人間が傍にいるんだと思ったら、無条件で安心できたんだ。
 血と硝煙と腐った臭いばかりに慣れていた俺の鼻先に、微かな柑橘系の匂いがする。ああ、いい匂いだ。

 思わず鼻先を擦りつけると、匂いの持ち主の頬が汗臭い俺の髪に寄せられたようだった。
 誰なんだろう?
 逃げ出した須藤が戻ってきたのかな…それとも博士?いや、あの遺跡オタクがこんないい匂いをさせてるはずがない。三浦女史は、もっと女らしい匂いがする。こんな匂いがしそうなのは…早河かな?
 ふと、俺は何か柔らかい布の上に下ろされたような気がする。スプリングが利いている、これはベッドかな。そうか、あの匂いの持ち主は俺を抱き上げていたんだ。
 …ある意味、凄い怪力だな。

「何がおかしい?…変わったラットだ」

 久し振りに笑っていたのだと気付いたのは、氷よりも冷たいんじゃないかと思えるほど冷めた声が、頭上から降ってきたからだ。
 そして、俺は一挙に覚醒した。
 ハッと。そうだ、夢を見て笑ってる場合じゃない!
 俺は白衣を追っていて、ゾンビかもしれない奴に気絶させられたんだ!
 ガバッと起きあがろうとしてガクンッと身体が激しく揺れ、ベッドに引き戻されてしまった。それでよくよく見ると、頭上で両腕を縛られていた。
 な、なんなんだ、こりゃ。

「目が醒めたかね?」

 今では白衣を脱いでいて、着ているグレーのシャツの袖のボタンを外している金髪の男は俺に気付いたらしく、緩慢な動作で見下ろしてきた。
 腹の底が痺れるような、冷徹な目をした男だ。
 虚ろな双眸で虚空を見つめているゾンビよりも怖いかもしれない…

「英語は判るはずだがね、コータロー=サトリ」

「俺の名前…!?あんた、いったい何者だ?」

 なんとか外そうと暴れてみたが、どんな風に縛っているのか、それはビクともしなくて俺を焦らせた。

「暴れない方がいい。手首を無駄に傷付けるだけだ…いや、もっと酷いことになるだろうがね」

 鼻先で笑っているのに、やけに抑揚がなくて、この男はちゃんと生きているのだろうかと思った。
 ここの住人なんだろうか?それとも、俺たちみたいにどこかの大学から来た発掘隊の一員だったのだろうか?どちらにせよ、なんで俺は縛られてるんだろう。

「なあ、これを外してくれよ。あんたは誰なんだ?ここの研究員か?それとも、俺たちみたいに発掘隊として来た人なのか?」

「質問が多いようだ。まず1つに、君は暴れるだろうから手枷を外してやるわけにはいかない。2つ目の質問は前者が正解だ。そしてここは私の部屋」

 男はそう言うとゆっくりとベッドの端に腰掛けた。無気力と言うか、感情が読み取れない表情をしている。横顔は、酷く落ち着いていた。

「殺風景な部屋でね。唯一のインテリアと言えば…自家製のプラネタリウムぐらいか」

 男が、掛けていた銀縁の眼鏡を外しながら感情の窺えない双眸で上を見上げたから、俺は釣られたように天井を見上げた。

「あ…星だ」

 驚いた。
 ベッドの真上に天体が広がっていたんだ。
 漆黒の闇の中、無数の星が煌いている。いったいどうやって作ったんだろう?
 密林で見上げた、あの星空によく似てる。この男は、いったい何時からこの研究所にいて、化け物から逃げながら生きてきたんだろう。

「さて、君にはここで見たことを忘れてもらわないといけない。あの、研究員の報告書だとかね」

 ハッとしてズボンに目をやる。
 男はまるで端から知っていたかのようにそれに手を伸ばすと、ヒラリと優雅な手つきで奪い去ってしまった。

「全く、余計なものを…」

 一言だけポツリと呟いて、彼は自分のポケットから取り出したライターで火を点ける。

「あ!」

 その薄汚れた、何かしら重要な紙片にはすぐに火が燃え移って、男は興味のなさそうな素振りでそれを手放すと床に落ちる灰を見つめていた。
 アイスブルーの瞳はとても冷たくて無感情で…寂しそうだ。

「な、なんてことするんだ!だいたい、あんたは何者なんだ!?俺の名前を知ってるし…名前ぐらい言ったらどうなんだよ!」

 突然奪われてしまった情報にカッとした俺が喚くと、男の肩が僅かに揺れた。それから小刻みに揺れて、俺は突然、男が泣き出したんじゃないかと思った。
 でも、本当は違っていたんだ。
 必死で手枷を外そうともがきながら喚いている俺を、笑っていたんだ。
 抑揚もなく、酷く冷たく、無頓着に。

「くっくっく…私の名前を知りたいのか?だが生憎と、君にはここで見たことを忘れてもらわないといけない。言わなかったかね?」

 片目だけで見下ろされて、ゾッとした。
 腹の底から冷えあがるような、何か重いものを飲み込まされたような、酷く嫌な気分になる目付きだ。俺はどこかでこの目を見たことがあるような気がした。あれはどこでだっただろう…

「私の名前など、必要ないのだよ」

 最後の呟きは掠れていて、殆ど良く聞き取れなかった。
 不意に立ちあがった男にギクッとした俺の目の前で、彼は唐突にグレーのシャツを脱ぎ捨てた。

「?」

 白人特有の白さを持った背中は研究員とか言いながら、やけに筋肉質で逞しかった。着やせするタイプなのか、服の上からじゃ判らなかったけど、これなら俺一人ぐらいは抱え上げるのも無理じゃないだろう。
 でもなんで、上着を脱ぐんだ?

「君は無防備だ。何れここの最下層に行けば死ぬことになるだろう。何も見ずに、地上に戻りなさい。救援隊も間もなく来る」

 むこうを向いたままで男が呟くように言った。

「救援隊!?でも、それじゃあ博士たちを助けないと!」

 当然じゃないか!そのためにここまで来たんだ。

「聞こえなかったのか?地上に戻るのだ」

「嫌だ!俺は生き残ってる人たちを助けてから日本に帰る!」

 間髪入れずに叫ぶように言うと、男は振り向き様に俺を殴った。

「ぐっ…ッ」

「死にたいのか?ここは地上と違って生易しくない。確実に死ぬ…死にたいのか?」

 ギシッとベッドを軋らせて俺の顔の横に片手をついた男は、鼻先が擦れ合うほど近くまで顔を覗き込んで来ると、片手で頬を嫌というほど掴み上げた。すぅ…っと細めた双眸が、獲物を捕らえた時に見せた、あの大毒蛇のようにゾッとする殺意に揺らめいている。
 殺してやろうか?…の言葉を唇の形だけで刻んで、彼は苦痛に眉を寄せる俺にキスをした。
 最初、何が起こったんだろうと目を見開いていた俺には理解できなかった。たった今まで殺してやると凄んでいた奴が、まるで貪るようにキスをしてるんだ。
 男が…男である俺に?

「や…めろっ!」

「ッ」

 俺は思い切り舌を噛んでやって、ちょうどさっき殴られたときに口の中を切ってたから、血の混じった唾を吐いてやった。
 すると、男は不意に嬉しそうに微笑んだ。
 こんな時なのに、この男が初めて見せた感情のある表情に、不覚にも俺は見惚れてしまった。
 その表情が一変して冷たくなる様まで、ゆっくりと見届けるほどに。

「ヒッ…」

 思わず声が出るほど冷たくなった表情は、彼が本当に生きている人間なのだろうかと疑いたくなるほど冷え冷えとしている。その口角は笑みの形を象っているというのに…

「おもしろい。実に愉快じゃないか。ラットは活きが良いほど、細菌を植え込んでやる時の鳴き声が堪らなくてね…君はどんな声で鳴くのかな?」

「…ッ」

 俺はあらん限りの力を眼光に集結させて睨み据えたが、男にはちっとも効果がないようだった。それどころか、そんな俺の抵抗を明らかに楽しんでいるようだ。
 狂ってる。
 そう思った。この男は狂ってるんだと。
 当たり前だ、こんな狂気の沙汰じゃない場所でたった一人で生きてるんだ、どうして逃げようと考えないんだろう?コイツこそ、まるで死を望んでいるようじゃないか!

「思った通り、良い目付きだ。中に出してやってもいいが、それでは地上に戻る時が辛いだろう」

「なんの話だ!?」

 噛みつくように食って掛かると、男はズボンのポケットから小さな四角い袋を取り出して、その端っこを見せつけるように口に咥えた。
 俺は、その袋を見たことがある。
 同室だった御前崎が恋人の雪ちゃんとデートの時に、いつもいそいそと用意をしては、結局役に立てずに持って帰ってたアレだ。

「そそそそそそそそそ…そんなもん!お、俺に使うのか!?使えるわけねぇだろ!なに言ってるんだ!この、へ、変態ッ」

「なんとでも言いなさい。私は君の顔が苦痛に歪む様を見たいだけだ」

 それが変態だって言うんだ!
 口に袋を咥えたままで器用に喋る変態男は、その恐ろしい内容とは裏腹で、やけに緩慢な動作で俺の首筋に唇を落としてきた。
 ひぃいいい~、袋の端がギザギザでチクチクするよう!
 背筋がゾワゾワして嫌々するように首を左右に振ったが、男の唇から逃げることはできなかった。当たり前だ!縛られてるんだからなッ!!

「ヒッ」

 思わず声が出て、唇を噛み締めた。
 男の、驚くほど繊細そうな指先が、異臭を放っているはずのTシャツの裾から忍び込んできて、俺の胸にある飾りを撫で上げたんだ。

「い…ッ」

 そして、そこを思い切り捻り上げてくれた。千切れるかと思った。
 苦痛に眉を寄せ、冷や汗を浮かべる俺の額に口付けながら、男は奇妙に落ち着いた双眸で条件反射で涙を浮かべる俺の目を覗き込んでくる。

「…ど…して、こん…な…」

「おやおや、こんなことぐらいで根を上げるのかい?階上の化け物どもと渡り合った君が?」

 そんなこと!関係ねぇじゃねぇか…
 未知の苦痛は死ぬことよりも怖い。
 俺はこれからコイツに、いったい何をされるんだろう…?
 男の肩越しに覗く満天の星空を見上げ、俺は震える瞼をギュッと閉じた。

Act.8  -Vandal Affection-

「わぁあああああっ!!!」

 突発的に須藤が短銃を発砲した。既に腐れた皮膚に至近距離で命中した銃弾に、虚ろなゾンビの身体はグラリッと傾いで倒れたが、それでも床を這うようにして俺たちに近付いてくるその姿に、須藤は狂ったように発砲し続ける。

「バカッ!そんなに弾を使うな!」

 俺が慌ててその腕を止めると、青褪めた須藤は幾分か冷静さを取り戻したように顎を流れる汗を腕で拭いながら「すまない」と言った。ゾンビはどうやら本当に、今度こそ本当に死んだようで、もうピクリとも動かない。
 良かった…ゾンビでも死ぬんだ。
 須藤を叱咤したけど、本当は新たな発見に感謝したいぐらいだった。
 と。

「う、うわぁあ!さ、佐鳥!ゾロゾロ出てきたぞッ」

 俺の背後を指差して青褪めた須藤は咳き込むようにそう言って、躊躇わずに逃げ出した。あの逃げ足の速さが生き残るコツなんだろうな、やっぱり。
 とは言え、俺は別に暢気にそんなことを考えていた訳じゃない。振り返ってライフルを構え、銃声に気付いて駆け付けたんだろう、奇妙な唸り声を発しながら両手を上げて近付いてくるゾンビに発砲した。発砲しながら後退さるのは、一目散に逃げて前からも来た時に退路が塞がれると思ったからだ。
 三人いたそいつらの二体は殺した。あと一体もすぐに折り重なるように倒れて、ジクジクと腐ったどす黒い血液らしき液体でリノリウムの床を汚した。

「やれやれ、須藤は…どこに行っちまったんだアイツは。仕方ない、捜すか」

 空調が整っているのか、ジットリと肌を濡らしていた汗が引き、動きやすくなった俺は取り敢えず須藤の逃げた方向を追って走り出した。
 ゾンビ…になってたってことは、もうここには生きた所員はいないんだろうなぁ。
 驚くほど部屋数の少ないB1フロアを抜け、俺は危険だろうかと考えながら、エレベータのパネルを押した。暫くして、無音で開いたドアの中を見て思わず顔を背けてしまった。
 いや、もう死体はハッキリ言って見慣れたと言えば見慣れたんだ。だから、それほどショックはないはずだったけど、エレベータの床から壁一面に飛び散っている血液を見て胸が悪くなった。
 須藤じゃありませんように、と思いながらも、博士だろうか女史だろうか、それとも早河たちだろうか…そんなことが脳裏を駆け巡った。それでも俺はギュッと双眸を閉じてから、ふと開いて、首を左右に振ったんだ。
 噎せ返るような血の臭いに眩暈を覚えたのかもしれない、そんな中で、エレベータに乗って下に降りる気分にはなれなかった。死体は見慣れても、血の臭いは嗅ぎ慣れるもんじゃない。
 俺はエレベータを諦めてアナログな階段を探すことにした。
 それはすぐに見つかって、薄ぼんやりと浮かび上がらせるパネル式の電灯を頼りに下に降りた。
 何階まであるんだろう。地下30階とか言ったら筋肉痛じゃすまされないだろうなぁ…
 地下2階に降り立った俺はふと、前方の角をひらりっと白衣が翻って誰かが曲がるのが見えた。
 ゾンビか?ゾンビ…だろうな、たぶん。
 しかし、ってことはつまり、ゾンビが向こうに行ってるってことは誰か人間がいる、ってことじゃないのか?学習した俺の知能が弾き出した答えに頷いて、俺はそのゾンビの後を追うことにした。
 慌てて角を曲がると、飄々とした白衣は人物の姿を隠してまたもや次の角を裾だけ覗かせて曲がってしまう。なんか、誘われてるんじゃないだろうな…
 行きついた先はゾンビまみれで、一斉に襲いかかられるとか…それだったら、かなりヤバくないか?…本能ではそう叫んでいるものの、身体は反比例するようについて行く。
 手掛かりも何もないこんな施設の中で、あるものは何でも調べないと…それが鉄則だ。
 ズキンッと、唐突に胃が痛んだ。
 そう言えば、朝にサンドイッチを食ったっきり何も口にしていなかったことを思い出した。そのサンドイッチも吐いてしまったから、胃の中には何も残ってないんだ。

「やれやれ…俺も人間だなぁ。こんな時でも腹が減るなんて…」

 溜め息を吐いて肩を竦めたが、ひらひらと誘うように裾だけ見えていた白衣はある部屋に消えてしまった。

(まずいな…これはやっぱり、ゾンビ集団のお待ちかね体制かな)

 ゴクッと息を飲む。グレーの扉の脇にあるネームプレートは空白だ。扉には何も書かれていないし…ここはどうやら誰かの研究室のようなものらしい。

(入って…みるか)

 誰かが助けを求めているかもしれない。
 ここまで見てきた結果では生きたままにしておくと言うことはなさそうだが、それでもヘンな実験とかされてたら助けてやらないと。まあ、知能がないゾンビだと食うだけなんだろうけど…
 俺はソッとノブを回した。
 ライフルを構えながら内部を覗き込むと、比較的広い研究室であることが判った。
 続き部屋になっているのか、扉があって、白衣はどうもそこに消えたらしい。カチャリッ…と音がして、鍵が下りたことを知った俺は、もしかしてこの白衣の人物は生きた人間なんじゃないかと思った。知恵があるからだ。と言うよりはむしろ、化け物から身を護る為に鍵をかけたんじゃないだろうか?

(いや、待てよ。大蜘蛛も疑似餌もどきで人間を釣ろうと企んでたぐらいだ、知能を持ったゾンビだっているかもしれない)

 そう思って、俺は警戒心を緩めなかった。
 ソッと足音を忍ばせて内部に潜り込むと、背を低くして扉のある付近まで歩いて行った…が、目の前に散乱している書類の束を見つけて手を伸ばしていた。
 それは何かの報告書のようだった。
 全文英語でタイプされているから、どうやらこの施設はアメリカ…或いは英語圏の国のものであるらしいことが判った。現地語は判らないが、英語は理解できる。考古学じゃ必須だからな。
 なぜかと言うと、古文書なんかを翻訳しているのが殆ど英語だからだ。有名なところで言えばヒエログリフなんかも、英語で訳すことができる。まあ、そんなことから俺は英語だけは殆ど理解することができるってわけだ。

「なになに…」

 研究所員の報告書は次の通りだ。

『Code:Unbijys

生物のDNAに異物(別の遺伝子)を組み込むことによって、生物の構造や機能がどのように変わるのか、どのような突然変異が起こるかの研究に関してジャクソン博士の激しい抵抗を受ける。こうした危険性に関しては、博士の考えは承服しかねる。
1.耐病性を強めるため遺伝子組み換えをしたラットに激しいアレルギー性による発疹が偶然発生した件
2.若い研究員の飼育する爬虫類に遺伝子組み換えで生成したDNA入りの昆虫を与えたところ、同爬虫類にて通常では考えられない急速な進化を遂げた件など。

※耐病性ラット事件───1990年秋、現研究所内にて極秘裏に行われた研究上で、原因不明の筋肉の痛みや呼吸困難、咳、皮膚の発疹などの症状を研究員が訴えた。この症状は、好酸球増加・筋肉痛症候群(EMS)といい、政府研究機関はその原因究明を行い、患者たちが一様にこの実験に参加していた事によるものだと判明させた。だが、ジャクソン博士に関してだけは症状が現れず、依然、健康状態を保ち続けていた。その頃、当研究所を民間からバックアップしている政府に縁のある企業の依頼を兼ねて、新たな新種の細菌を開発している最中であったことから、誤った指示が出され、日本企業の紫貴電工のミスは後の遺伝子組み換え技術に大きな影響を与える事になった。これによって改造された細菌にHR-9を作らせ、それを抽出・精製して販売すると言う当初の計画は白紙へと戻されてしまう。HR-9の潜在能力を恐れたジャクソン博士の工作と言う噂が実しやかに囁かれているが、上層部からの圧力でこの事件は極秘のうちに立ち消えとなった。このことから遺伝子組み換えに対してジャクソン博士は強く上層部に抗議したが、予測ができない事態を引き起こさないよう努力せよと言った見解に博士の抗議は幕を閉じる事になった。人類に被害を及ぼす可能性を秘めたHR-9の開発者は、現在博士を除いて二人存在するが、彼らはまるで違う技術を独自に開発研究しているとの情報を得ただけで、この研究施設にいるのかさえ確認できてはいない。ただ、細菌同士の遺伝子組み換えでさえ、これだけ予想のできない害が出るという事にも関わらず、残りの二人の博士はHR-9の起こす複雑な組織を組み替えるという能力で未知の種を誕生させている、と言う噂が所内で広がっている。それが現実であるのか、また起こり得るのかについてはジャクソン博士はコメントしていない…』

 そこで途切れてしまった書類には続きがあるようだったが、埃や茶色い染みによって殆ど読めなくなっていた。

「…これって、俺には良く判らないけど、どうやらここで行っていた研究の事を書いてるみたいだ。須藤や博士に見せたら何か判るかもしれないな…」

 HR-9と言う名の物体が何であるか判らないが、厄介なものであることは俺にだって判る。こんなものを、ここの研究所はどうしようとしていたんだろう。
 俺はそんな事を考えながらズボンのポケットに書類を捻じ込んで立ちあがろうとした───…が、できなかった。なぜなら、何時の間に背後に回ってきたのか判らない、酷く醒めた冷たい声音が頭上から降ってきたからだ。

「おやおや…こんな所に大きなラットが逃げ出してるじゃないか」

 ビクッとして振り返った瞬間、凄まじい激痛が首筋に降って来て、俺は昏倒してしまった。
 薄れ行く意識の中で、俺は電灯に浮かび上がる金の髪と、光を反射した銀縁眼鏡の奥に煌くアイスブルーのゾッとするほど冷たい双眸をぼんやりと見ていた。

Act.7  -Vandal Affection-

 暗い回廊を突き進んでいた。
 日頃なら興味深い資料がゴロゴロと転がっている遺跡の中を、そんなものには目もくれずに、俺は一心不乱に最下層を目指して突き進んでいる。
 回廊が狭くなって急勾配を抜け、突然現れる階段を下に降りて行きながら、俺はレンジャーたちの死体を幾つも目にした。その度にいちいち立ち止まっては、肉塊になっているそいつらの首(?)らしきところにあるドッグタグを確認した。

(タユが見つからない。…あいつ、けっこう強そうだったから、生きてるかもしれないな)

 ほんの少し、希望めいた光が見えて、俺は嬉しくて小さく笑った。
 それに不意に気付いて、心底からホッとした。
 まだ、感情は生きてる。
 ドッグタグは4つに増えていた。あと、2枚。おっさんレンジャーの死体も見つかってないしな…
 タユ=キアージ。
 奴はどこか飄々とした印象があった。仲間内でも案外頼りにされているようだったし、銃の腕も良さそうだった。
 ヘンに気も利くし…いや、完全に俺の個人的見解なんだけどな!

「さて、行くか!」

 俺は弾の数を確認して、ライフルを肩に担ぎなおして立ちあがった。
 もうあと一息で最下層だ。
 なんたって、もう随分と深くまで降りてきているはずだ。息ができるのは、ここの何処からか酸素が供給されているんだろう。エジプトなんかだと密閉されていたりするけど、こと、このコンカトス半島に広く分布されている遺跡は酸素がきちんと供給される仕組みのものが多いんだ。 
 だから外部の熱気が入り込んでくるんだろう、ジメジメした暑さがもう嫌な臭いが染み込んでしまったTシャツをじっとりと汗で濡らしている。
 前髪も汗で張りついたままだ。
 そして俺は辿り着いた。最下層に。

「な、なんだこりゃあ…」

 出てきた言葉はそんなもんだった。
 遠い昔、まだ人類が言語を持ちだして間もない頃、神だと崇めていた神仏が両翼を広げ、両手を胸の前でクロスに組んで荘厳とした風情で立っている。その両脇に従うのは、彼の子供たちだ。
 なんてこった、博士も誰もいない。
 遺跡の中は気が遠くなるほど捜しまわった。奇妙な蝿のような化け物とだってやりあったし…弾だけは死んでいたレンジャーたちから手に入れていたからいいものの、もうどこを捜したらいいのか判らねーよ。
 絶望したようにその場にへたり込んだ俺の背後に、誰かが立った。その気配を感じて、俺はハッとしたように慌てて背後を振り返った。その時にはもう、ちゃんとライフルは構えている。

「佐鳥…」

「す、須藤!?」

 腰が抜けるほど驚いた俺の前で、須藤の奴は肩を激しく上下させながら、汗にびっしょりと濡れている前髪を拭いながら立っていた。

「お前どうしてここに…」

 ペンライトを当てると眩しそうに双眸を細め、生きてるんだと確認してからよくよく観察すると、その手には俺が渡した短銃がシッカリと握り締められている。こいつはこれを頼りにここまで来たって言うのか?

「佐鳥…みんなやられちまった。俺、一人で逃げ出して…」

 酷く負い目を負ったように俯いて震える須藤を見て、俺は辛くなった。仲間を見殺しにしたのか!?っと、怒鳴って殴りつけたかったけど、その気持ちは何となく判った。俺だって、元はと言えばアイツらを見殺しにしたようなもんだ。こうなるような気がしながら、俺はあそこを抜け出したんだ。

「佐鳥が殆どアイツらを殺しててくれたから、ここまではすんなり辿り着けたよ」

 震える息を吐いて、須藤は首を左右に振った。
 俺はそんな須藤に、本当は内心でホッとしていた。
 誰か生きている奴に会いたかったから、誰か、まともな奴と話したかったから。

「そうか…ここまで来たけど、見てくれよ。遺跡だけで、倉岳博士も三浦女史も、誰もいないんだ」

 肩を竦めて溜め息を吐く俺に、須藤は暫く渋い顔をしていたけど、思案するように彷徨わせていた視線を俺に向けて、躊躇うように口を開いた。

「佐鳥…実は俺たちは見つけてしまったんだ」

 やけに思いつめた双眸で、須藤の咽喉仏がゆっくりと上下する。
 それは、俺に1つの予感めいたものと、不安を覚えさせた。
 きっと、悪い予感は的中するんだ、とか、そんなことを考えながら、俺は暗く煌く須藤の双眸を見上げていた。

「な、何を見つけたんだよ?あの化け物の親玉か?」

 俺が恐る恐る聞くと、須藤の奴は視線を外して親指の爪を噛んだ。
 これはコイツの悪い癖で、何かに追い詰められたりすると良くこの癖をやらかすんだ。

「いや、まずはこれを見てくれ」

 思い切ったように顔を上げた須藤は俺の傍らを通り過ぎて、例の神像の足許に屈み込んで何かをしている。

「?」

 訝しく思いながら、俺も須藤の傍まで行ってその手許を覗き込んだ。

「あ!」

 思ったよりも大きな声で叫んでしまって、俺は慌てて片手で口を押さえたが、そんなことよりもこれは何なんだ?

「な?下に通じる階段だと思うだろ?」

「あ、ああ…」

 その、神像の足許にポッカリと口を開いた空間には、確かに下に続く階段がある。階段と言うよりも鉄でできている梯子は、明らかに新しい人工物だと判る。

「ここから、たぶん博士たちは下に逃げたんじゃないかと思うんだ」

「だろうな…よし。じゃあ、降りてみるか」

 俺は頷いて、どんな化け物が待ち受けてるのか判らないその空間に頭を突っ込んで、ペンライトで上と下を照らして見た。上の方はすぐに行き止まりだったが、下は長く続いているようだ。今のところ、化け物の気配はしない。まあ、下で口を開けて待たれていたらそれまでだけど…

「降りられそうだ。じゃあ、俺は先に行くけど、須藤はどうする?」

「もちろん、行くさ」

 慌てたように言う須藤に頷いて、俺は狭いそこに潜り込んで梯子を降りて行く。背中に回したライフルがカチャカチャと耳元で金属音を立てるが、さほど気にならなくなっていた。
 この暗い遺跡の中で、いったい何時間が過ぎたんだろう。
 完全に時間の感覚が麻痺していると思う。
 思ったよりも早い時点で足が床に着いた。…と言うことは、ここが終着点と言うワケか。

「ちょっと待ってろよ、須藤」

 上から降りて来ている須藤に声をかけて、狭いその場所に片膝を付いて屈み込むと、サヴァイバルナイフで床を叩いてみる。軽い金属音がして、ここが何かの鉄板らしきものの上であることを知った。
 どうやって開こうかと思案していると、図らずして取っ手があることに気付いた俺は、一人で照れながら躊躇わずにその取っ手を引き上げてみる。

「わっ、眩し…ッ」

 思わず目を瞑ったが、暫くして慣れてきた双眸を開いて俺は愕然とした。
 そこは、何かの施設の内部のようだったんだ。
 白い壁が続き、電灯の明かりが煌々と照らし出している通路。
 明らかに近代を思わせるリノリウムの床は、無駄のなさそうな施設には妙にマッチしていて、俺は呆然としたように天井から滑り落ちるようにして室内に降り立った。
 キョロキョロと、信じられないものでも見るような…いや、実際に信じられないものを目の当たりにした俺が周囲を見渡す背後から、同じように床に降り立った須藤も驚きで声が出ないようだった。

「こ、これはいったい…」

 その先が続かないのか、須藤は唖然としたように、奴にしては珍しくポカンッと口を開けた間抜け面で長く続く通路を見渡している。

「何かの研究施設なのかもな。あの化け物も、もしかしたらここで造られたのかもしれない」

「まさか!」

 幾らか平静を取り戻した俺がショックの抜けきらない声音でそう言うと、須藤は強めの口調で否定したが、ハッとしたような顔をして、何やら口の中で呟きながら俯いてしまった。おかしな奴だ。

「階上に化け物がいたってことは、もしかしたらここもやられてる可能性はあるよな?」

 冷静に考えれば当たり前のことだけど、その時の俺はやっぱり動転してたんだと思う。そう言って振り返った須藤は、やけに青褪めた表情をして頷いた。

「博士たちのことが気懸かりだ。佐鳥、早く捜そう」

「ああ」

 俺は頷いた。そうだ、こんな所で動転してる暇はないんだ。
 俺たちはそう言って背後を振り返った。振り返って目をむいた。
 そこにいたのは…白衣を着た、恐らくゾンビと呼ばれるモノだった。

Act.6  -Vandal Affection-

 まるで生き物たちは息を潜めているように静かだった。
 比較的、的になりやすい遺跡の階段を慎重に上り詰めながら、俺は上下に視線を走らせた。
 あの化け物は、もしかしたら蛇の形をした奴しかいないのかもしれない。
 立ち去り際に俺を呼び止めた須藤は、思い出したくないだろうに、俺に自分たちを襲ってきた化け物の特徴を教えてくれた。何も聞かずに立ち去ろうとする間抜けな俺を、奴は心配そうに眉を顰めていたけど、俺は大丈夫だからと言って奴と別れたんだ。
 だけど、そう考えてみるとあの転がっていたレンジャーの頭には火傷の跡はなかったし…何か、もっと違う別の化け物もいるのかもしれない。ああ、だったらすっげぇ頭が痛いことになるな。

「ったく、本当はこんな形でこの遺跡に入りたかったワケじゃねーのに」

 わざわざ苦労して入った有名私立大で希望の考古学科を専攻できて、こうして発掘隊のメンバーにもなれたって言うのに、あの順調だった俺の人生の歯車はどこから狂ってきたんだろう。
 それとも、あの大学に入った時点で俺の運命の歯車は軋んでいたのかもしれない。
 全く、何がどうしてこんなところで化け物のことなんか考えているんだ。
 はあ、はあ、と肩で息をする俺は、こんな時でも無頓着なほど晴れている満天の星空を見上げた。
 遺跡の頂上は、手を伸ばせば届きそうなほど星が近い。
 何もなくてこの星空を見上げられるのならどんなに嬉しいだろう。
 俺は大きく息を吸い込んで、深呼吸した。
 ぽっかりと深淵が誘うように口を開いている、真っ暗闇な遺跡の入り口を睨み据えながら、俺はもはや躊躇うこともなく一歩を踏み出した。

 遺跡の中は熱気が篭っているのか、ムッする異臭が鼻をついた。
 黴臭いような、生臭いような、何とも言えない匂いに眩暈を覚えながら、俺は手探りで遺跡の中を進んだ。懐中電灯代わりにポケットに忍ばせておいたペンライトで周囲の壁を照らしながら進んでいると、下に続く階段を見つけた。
 注意をしながら階下に進んでいくと、不意にぬる…っと、何かに足を取られて蹴躓きそうになった。
 な、なんなんだ!?
 俺は慌ててペンライトで足許を照らして、そして吐きそうになった。
 小さな光りに浮かび上がったソレは、既に肉塊と化した人間だった。浮かび上がった服の奇妙な文様みたいな模様は、きっとレンジャーの着ていた迷彩服だ。
 ドッグタグが唯一の身分証明だから、俺は恐る恐るその原型も留めていないほどグチャグチャの肉の塊から、僅かに覗いている銀色に光る鉄のプレートに手を伸ばした。
 血と、肉の破片がこびり付いたソレを引っ張った瞬間、漸くくっ付いていた頭がぐらりっと揺れて俺の方に転がってきた。

「ヒッ…」

 千切れたんだ。俺が、ドッグタグを引っ張ったから。
 恨めしそうな眼球は本当に眼球で、瞼も何もない、たぶん、皮ごと剥ぎ取られたんだろう。

「ぅぐッ!ぐぅおぇ…!」

 ムッとする異臭と血塗れの現状で、俺は今日、何度目かの嘔吐を遺跡の床にぶちまけた。
 俺は震える手でドッグタグを引っ掴み、早くこの場から立ち去りたくて走るようにその場を後にした。
 死体が幾つあったかなんて覚えていない。でも、たぶん俺が知る限りでは一体だけだったような気がする。
 肩で息をしながら遺跡の壁に寄りかかり、手にしていたライフルを肩に掛けると、ペンライトでドッグタグを照らしてその認識票を確認した。

「ア、アルバート…くそっ!血がこびり付いてる。アルバート=セットランド。…タユじゃない」

 出身はミネソタ州だと書いてる、現地人じゃなかったのか。
 血だか肉片だか、それともその両方なのか、判らないものがこびり付いたタグをポケットに突っ込んで、俺はもう1度ライフルを構えると歩き出した。
 映画で見るような迫力は、現実だと、本当はそんなにないものなんだ。
 効果音もないし、あると言えば俺の呼吸音ぐらいで、あとは痛いぐらいに脈打ってる心臓の音だ。
 どんな音より恐怖がこみ上げてくる。
 迫力はないけど、恐怖は深々と身体中に浸透していく。腕が震えるけど、そんなこと気に止めるひまもない。
 誰かに出会わないだろうか?生き残っている誰かに…
 祈るように進んでいると、いきなり開けた空間に出た。
 漆黒の闇が支配する空間の中央で、誰かが呆然と突っ立っている。
 よくよく目を凝らすと…

「辻崎!おい!お前、辻崎だろ!?」

 俺はその空間に躊躇いもなく踏み込んだ。
 だから俺は、馬鹿だって言われるんだ。疑いもせずにこんな暗闇に入り込めるんだからな、くそッ!おめでたい奴だ!

「辻崎!」

 俺の言葉に反応するようにピクリッと動いた辻崎は、ゆっくりとこちらに振り返った。
 ペンライトで辻崎の顔を照らしてみると、眩しそうな反応を見せない奴の、虚ろな双眸はこの世ではないどこかを見ているようだ。

「!」

 俺はこの目を知っている。
 ついさっき、見てきたばかりだ。
 ハッとして辻崎の頭上にペンライトを当てると、ギラッと何か多くの小さなものが光りを反射した。

(く…蜘蛛)

 それもとびきりデカい。
 尻から出した見えない糸で辻崎の身体を持ち上げて、さも立っているように見せている。疑似餌で次の魚を釣ろうとしてるのか?
 何人が犠牲になったんだろう?
 俺は周囲に視線を走らせることもできなくて、そのデカい蜘蛛に釘付けになったままで構えていたライフルの銃口を奴に向けた。
 それは反射的な行動で、蜘蛛のどこを狙えばいいかなんて知ったことじゃない。
 ただ、どうしてもぶらりっと垂れ下がっている辻崎を下ろしてやりたかったんだ。

「ギギ…キシャァ…」

 視覚できるほどハッキリと、禍々しい牙のついた口を開いて、カサカサと両手足を不気味に動かす。尻が動く。俺に糸を絡めようとしているようだった。
 それら全ての一連の行動が、酷くゆっくりと緩慢なスローモーションのように思えた。でも、俺の腕の中にあるライフルは、これは現実なのだと銃口から火を吹いて俺に思い知らせた。
 何発か腹に打ち込むと、蜘蛛は素早い動作で天井を駆け抜けてきて俺の真上に降ってきた。それを完一発で避けて、最後の弾を奴の腹に打ち込んだ。

「グギャウッ!」

 奇妙な悲鳴を上げて大蜘蛛はのた打ち回ったが、怒りにギラつかせた八つの目で俺を睨み据え、体液を振りまきながら襲い掛かってくる。予め開けておいた箱から何発か取り出して装填しながら、奴の動きからするといまいち当たってないことを知った。
 乾いた音が数発響き渡る。
 この広間は、遠い昔に生きた人々が祈りを捧げた神の間なんだろうか。
 皮肉なもんだと、こんな時なのに俺の口から笑いが零れた。
 太古の人々が必死で捧げた祈りの間で、もしかしたら奴らが神だと崇めたかもしれない化け物と撃ち合いをしてるなんて…夢なら醒めて欲しかった。

「いったい…ッ!なんなんだよッ!!お前らはッッ!」

 俺は叫ぶようにそう言ってライフルをぶっ放した。
 でもそれはすらで逸れたのか、蜘蛛が俺に飛びかかってきた。

「うわッ!」

 ゾワゾワと顔を撫でる剛毛は確かに蜘蛛の足についているあの毛だ。ライフルで押し返そうとする俺の力なんか比にならないほどの強力で涎のような、奇妙な粘液を垂れる口が八方に開く。

「キシャァ…ッ」

 ゆっくりとしたスローモーションで開く口に、俺は顔色を変えた。冷や汗が背筋を流れていく。
 待ってたんだ、この瞬間を。
 捕らえた獲物を尻から出る糸で、お前が絡めとろうとする、その一瞬の隙を。

「悪かったな。俺はまだ死にたくないんだ」

 そう言って、予め方向を変えていたライフルの銃口をそのえげつない形をした、口とも言えないような器官に捻じ込んでやった。これでも喰らえ。

「じゃあな!」

 ドゥッ…
 重たい音が響いて、驚愕したように動揺していた大蜘蛛の頭が吹っ飛んだ。
 ビシャビシャッと肉片が弾け飛んで、腐った匂いのする体液が辺り一面に飛び散っている。
 俺は大蜘蛛の穴だらけの腹を蹴って上から退かすと、臭いが染み付いてしまったTシャツに眉を寄せながら、ライフルに弾を装填してから辻崎のところまで走っていった。
 どうせ死んでるけど、せめて何か形見のようなものを持っていこうと思ったんだ。

「辻崎…」

 コイツの遺体の状態は、今まで見てきた中でも一番綺麗だった。
 そりゃそうか、疑似餌にしてたんだからな。
 片膝をついて屈み込んで、俺は辻崎の遺体を確認した、そして…

「なんてこった」

 思わず呟いていた。
 コイツは疑似餌なんかじゃなかったんだ。
 卵の温床だったんだ。
 グッと唇を噛み締めて、辻崎の開いていたシャツを閉めた。今の俺にはどうすることもできない。
 燃やしてやることも、埋めてやることも。
 でもせめて卵だけは何とかしようと、閉めたシャツをもう1度開いて、腰に差していたサヴァイバルナイフで剥ぎ落としにかかった。意外と時間がかかったが、俺は全て取り終えると、それを床に投げつけて足で踏み潰した。二度とあんな化け物が生まれないように、渾身の力をこめて。
 飛び散る、まだ形にもなっていない液体を無表情に見下ろしながら、どうして俺は平静でいられるんだろうと頭の片隅でぼんやりと考えていた。

Act.5  -Vandal Affection-

 密林は夜更けともなると真っ暗闇で、どうして自分がこんな所を歩けるんだろうと不思議で仕方なかった。俺ってば結構根性があったんだなぁ、と変なところで感心したもんだ。
 出掛けにライフルと弾の入った箱だけじゃ心許無いからと、護衛の連中だって酷く不安だろうに、俺にサヴァイバルナイフと短銃をくれた。
 戦闘準備万全!…なわけないか。
 銃器の扱いに慣れているわけでもないし、こんな状況だって生まれて初めてだ。
 こんな俺に、いったい何ができるって言うんだろう。
 何もできないかもしれないけれどやれることなら生きる為に何でもしないと…それに、あのままあそこにいても気が狂いそうだった。何もかも手放して死んだように眠る小松と桜木、憔悴しきった暗い顔で蹲っている宮原と警護の連中。その疲れ切った落ち窪んだ目を見ていると、こっちの方まで発狂しそうになる。
 何より、その無言が怖かった。
 今だって充分無言だけどさ、人間の息を潜めた気配とか炎をジッと見据えるギラついた双眸だとか、その一種独特の雰囲気は重苦しくてこんなもんじゃない。一触即発の感じは、俺が立ち上がった時にフッと和らいだような気がした。
 みんながホッとしたような。
 遺跡の様子も気になるし、おっさんレンジャーも心配だ。何よりも自分の命が一番大事だから、誰かが行ってくれないだろうか…と、思ってたんだろうな。
 俺が立ち上がった時、明らかにみんな安堵したような顔をした。
 行きたくなくったって行かなきゃいけない気分になるだろ?
 まあ、最初から行こうとは思ってたけど。
 枯れ木や草を踏み締めて、突き出てる枝なんかをサヴァイバルナイフで切り分けながら歩く。あの警護の連中には感謝しないと…ああでも、こうなることが判ってたのかもしれないな。
 それでも俺の頬や服のあちこちは引っ掻き傷ができてるだろう。
 …今日は色んなことがあった。
 日本に帰ったら…いや、正確には帰れたら、俺は真新しい日記帳を買おうと思う。何でそんなこと思うのか、本当は良く判らないんだ。非現実的なライフルを抱えて片手にサヴァイバルナイフ、腰に短銃を突っ込んで、化け物の蠢く闇の中をうろうろと徘徊してるんだ。尋常じゃないよな。
 日記帳が欲しかったのは自分の存在を何らかの形で遺したいからなのかもしれない。
 なんで日記帳なんだって考えもしたけど、本当に俺の頭ってのは筋肉でできてるのかもしれないなと思ったら、こんな時なのに笑っちまいそうになった。
 死ぬなんて考えてないけど、死ぬことは確実に付き纏っていると思う。
 先の見えない暗闇の中、考え事ばかりが脳裏を渦巻いていく。体がキュッと引き締まるような緊張感の中で、そのくせ、妙に醒めた俺がいて、頭の片隅がシンッと静まり返ってる。
 耳元で心臓の音がドクドクッと脈打っている。
 そして俺は不意に気付くんだ。唐突に、辺りから音が消えたことに。
 さっきまで聞こえていた虫の声も夜行性の小動物の動きも、風でさえ妙にシンッと静まり返っている。
 …田舎の池で、蛙の大合唱が不意にやむ時、田んぼの中に蛇が泳いでると聞いた。
 ハッとしてライフルを構える。
 でも、別に何も襲ってこなかった。真っ暗闇でも、暫くすると慣れてはくるんだ。周囲を見渡しても何の気配もしない。でも、明らかに何かヘンだ。
 咽喉仏が上下に動く。
 嫌な汗がこめかみから頬を伝う。
 熱帯の夜の蒸し暑さが感じられないぐらい…動揺してる。
 そう、俺はきっと動揺してる。
 何が、どこから襲ってくるのか判らない。それが、俺に動揺を呼んでいるんだ。
 ダメだダメだ!そんなこと考えていたら隙ができちまう!
 俺は顎に伝う汗を腕で拭って、周囲を注意深く窺いながら先に進もうとした。
 と。
 ガサッ。
 ビクッとして音のした方に銃口を向けた。
 それはもう、殆ど条件反射だったと思う。
 そして俺が見たものは───…

「撃たないでくれよ、佐鳥」

 傷だらけで肩で息をしているそいつは周囲に素早く視線を巡らせると、俺が一人であることに驚いたように眉を上げた。

「お前一人なのか?じゃあ、こっちもやっぱり…」

「須藤!」

 俺は、思わず抱きつきそうになるぐらい喜んでヤツの傍に駆け寄った。
 須藤義章、天才だとジジィ博士が褒めちぎる、俺とは全く正反対の友人だ。

「こっちも…ってことは、やっぱり遺跡の方も襲われたのか?」

「ああ。俺と黒川と三宅でこっちの様子を見に来たんだ。途中で化け物に襲われて…レンジャーの大半も死んじまった!」

 俺にとってはあんまり有り難くない情報を持って姿を現した須藤は、悔しそうに唇を噛み締めて首を左右に振る。もしかしたら泣いてるのかもしれない。
 声の震えに気付かないフリをして、俺は腰に突っ込んでいた短銃を取り出して須藤に差し出した。

「これを持って宮原たちのいるところまで行けよ。俺は遺跡の方に行ってみるから…」

「やめておけ!危険だ…」

「そうも言ってらんねーよ。随分前にレンジャーのおっさんが遺跡に向かったんだけど…その様子だと出会ってもないみたいだし。実際、何人ぐらい生き残ってるのか判らねぇんだろ?」

「…ああ」

 須藤は殊の外素直に頷いた。
 蜘蛛の子を散らすように逸れちまったんだろう。で、残ってた黒川と三宅を連れて一先ずキャンプのある所まで戻ろうってことになって、途中で化け物に襲われたんだろう。銃もなしに良くぞ生き残ったと誉めてやりたいぐらいだ。

「取り敢えず行ってみるよ。博士が見つかれば携帯無線とか手に入るし、救援を呼ぶこともできるからな。何よりも、早くこんなところからはおさらばしたいだろ?」

 ちょっとおどけた様に言うと、須藤は力なく笑ったが、すぐに真剣な表情をして俺を暗闇の中から凝視しているようだった。

「お前、お前一人で大丈夫なのか?」

「ここまで一人で来たんだぜ?何を言ってるんだよ」

 俺は笑った。でも、それは嘘だ。
 ヤツを安心させてやる為だけに笑った空元気だ。本当は一緒について来てくれと縋りつきたかった。須藤は賢くて頼りになる。
 だが、今のコイツの姿を見ているとそんなこと、口が裂けても言えない。
 宮原たちと同じを目をしているから。
 もしかしたら、俺もそんな目をしているのかもしれないけど…

「ここから、たぶんそう遠くないと思うけどさ。がんばれよ、一緒に引き返してやりたいけど…」

 俺がそこまで言うと、須藤はすぐに首を左右に振った。
 やっぱりコイツは頼りになる。
 100を言わなくても1で理解してくれる。

「がんばれよ、佐鳥。俺も、まあぼちぼち頑張るさ」

 何をどう頑張るのかなんて、その時の俺たちは理解なんかしていなかった。だから馬鹿みたいに苦笑し合って、片手をガッチリ握り締めた。
 もう逢えないかもしれない。
 そんな言葉がチラッと頭の中を掠めたけど、それは口には出さなかった。

「じゃあな」

 そう言って俺はもう背後を振り返らずに歩き出した。たぶん、須藤の奴もそうしただろう。
 真っ暗なジャングルの中、一時の邂逅を果たした俺たちの運命は、いったいどこに流れていくんだろう。

Act.4  -Vandal Affection-

 奇妙な光景だった。
 宮原は発狂し兼ねない勢いで叫びまくる桜木の口を塞ぐようにして抱きかかえながら、怯えたような目をして上空に枝を張る木を睨み据え、小松は殆ど腰を抜かしたような状態で失禁していた。レンジャーの連中は夢中で発砲しまくり、栗田が虚ろな目をして口許から泡を吹いている。
 何が起こったのかなんて聞きたくもない。
 惨状の凄まじさは俺が見たあらゆるモノの中で最高に匹敵するほど惨たらしかった。
 死んでいるレンジャーもいる。その死に様が尋常でない。
 俺の前に放り出された頭は、ここにはいなかったはずのレンジャーのものだったんだと判った。
 なぜかって、臓腑が飛び散った血溜りに体をクの字のようにへし折られて投げ出されている死体には、全員頭がついているからだ。半分以上ない顔の中からここではない世界を虚ろに見つめている目と目が合って、俺はその場にへたり込んで吐いてしまった。

「ぐえッ!ぐえッ!ぅおぇぇッ」

 ビシャビシャッと、今朝食ったサンドイッチが消化しきれていなかったのか、そのまま吐き出された。
 風が、熱帯らしいムッとする風が、血の匂いを撒き散らしている。

(な、何が起こってんだよ!?)

 吐くものがなくてキリキリと痛み出す胃の部分を押さえながら、俺は口の端を拭ってそれでも懸命に立ちあがった。理解しなくては、この状況を。
 ない知恵をフル回転させて現状打開の策を探す。

(見つかるかっての!)

 それでなくても須藤あたりに言わせれば”脳味噌筋肉”の俺だ。その俺が考えてどんな知恵が浮かぶって言うんだよ!

「ぎぃゃあああああああああああああああああッッ!!!!!」

 半ば絶望したように呆然と立ち竦む俺の目の前で、レンジャーの一人がまた襲われた。
 それは、その異常な化け物は、蛇らしかった。
 らしい…と俺が思うのは、その姿が、今まで見たこともないほど巨大だったからだ。
 上空から降るように落ちてきた巨大な頭部は三角形の形をしていて、毒蛇だと判るけど、俺はこんなに大きな毒蛇は見たことがない。いや、普通の蛇でだって見たことがない。
 アナコンダやニシキヘビにだって、こんな大きさのヤツなんていないだろう。
 レンジャーの断末魔さえ美味そうな顔をして、蛇のくせに!…なぜかギザギザに生えた歯で、巻きつかれて苦しそうにもがく彼の肩の肉を食い千切った。ぶしゅうッと動脈でも切れたのか鮮血が噴き出して、ああ、あのレンジャーはもう駄目だと他人事のように俺は成す術もなく立ち尽くしていた。次は俺の番かもしれないのに…

「ヒギィッ!ギィッ!ギィッ!」

 言葉にならない悲鳴で助けを求める仲間を、レンジャーたちですら成す術もなく見てるだけなんだ。この状況で、何かできるのはスクリーンやブラウン管を通した別の世界で生きているヒーローぐらいだ。一般人の俺に何ができるって言うんだ。

「ぎゃああああああ!!!」

 最後の断末魔を残して、レンジャーの頭部が弾けた。
 目玉が飛び出し、体が奇妙なほどぐにゃりと曲がる。垂れた舌は驚くほど長くて、変な色をしている。血と、圧力のせいでどす黒くなった頭部は、通常の人間の頭より2倍以上膨れ上がっていた。

「う、うぉおおおおおおおおッッ!!!」

 俺は、きっとその光景を目の当たりにしてキレたんだと思う。
 その部分の記憶が曖昧だからだ。
 弾き飛ばされて転がっていたライフルを拾い上げて、滅多矢鱈に撃ちまくった。もちろん、銃なんて撃ったことも手にしたこともない。ゲームで遊び半分におもちゃの銃を振り回したことはあるけどな。
 反動で肩をやったかもしれないけど、その時の俺にはそんなこと気にもならなかった。
 腹に鈍い音を立てて幾つかの銃弾がヒットすると、それまで美味そうに食っていた獲物の体を落として悲鳴を上げた大毒蛇は、ギザギザの歯の中でも一際鋭く尖った、二対の血に染まった牙をギラつかせながら俺にめがけて鎌首を持ち上げた。
 それでも俺は手なんか止めなかった。撃って、撃って、撃ちまくって弾がなくなったって撃つつもりでいたんだ。その様子に仲間の惨状に身動きが取れないでいたレンジャーたちが漸くハッと我に返って、今度は奴の後方から発砲した。

「ギッ」

 鋭い悲鳴のような声を上げて、奇妙な緑色の血を撒き散らしながら大毒蛇は退散しようとした。
 その時。

「ぎゃあ!」

 悲鳴は失神しかけていた栗田の方向から上がった。
 行きがけの駄賃とばかりに、毒蛇らしく、奴は毒液を噴き出して注意を引いている内にジャングルの奥に姿を消してしまったんだ。

(何だったんだ、アレは…)

 肩で息をするのも束の間、両目を覆ってのた打ち回る栗田の元に俺は駆けつけて片膝をついてしゃがみ込んだ。もう役に立たなくなったライフルは、それでも護身用のつもりで肩に下げている。

「大丈夫か!?栗田!」

 何かが、まるで髪の毛が焼けるような異臭が鼻をついて、俺は栗田の上半分の顔が焼けているんだと判った。奴の毒液は硫酸系か…だとすると、あの頭部に焼け焦げた痕はなかったから、別モノが他にいるってことか?

「ひぃ!ひぃ!ギャウッ!」

『救護箱を持って来い!…ああ、だがこれじゃもう駄目だ。顔が溶けてる』

 俺を押し退けるようにして駆けつけてきた壮年の男は、やがて力なく荒い息を繰り返すようになった栗田の、その覆っていた腕を退かしながら一瞬息を飲み、それから首を左右に降った。
 その行動で、ああ、栗田はもう駄目なんだと思った。
 思わず目を背けたくなる惨状は、人間の、本来なら目のある部分から額の辺りにかけて肉は溶け落ち骨も溶けて、どす黒く燻る空洞がポッカリと口を開いていたんだ。

「きゃああああああッ」

 唐突に鋭い悲鳴を上げた桜木にビクッとして振り返った俺と壮年のレンジャーの前で、まるで事切れたようにいきなり桜木は失神した。
 もう堪えられなかったんだろう。
 でも俺は、そんな桜木のことがちょっと羨ましいと思った。

 みんな無口だった。
 ありったけのもので炎を起こして、残された俺たちは膝を抱えながら体を寄せ合っていた。

「遅いな…」

 ボソッと、宮原は俺が考えていたのと同じ事を口にした。
 桜木と小松は死んだように眠っている。

「レンジャーのおっさん、大丈夫かな…」

 残された二人のレンジャーの顔色を見ると、俺たちと同じぐらい蒼白になっていて、人間の顔色がどこまでも変化できることを知った。
 そのレンジャーを代表して、先程の壮年の男が遺跡に向かったんだ。
 俺も行くと言ってみたけど、たった二人のレンジャーだけ残して行くのでは心許無い、と言って止められてしまった。

「君は強い。ここに残って他のメンバーと彼らを護ってくれ」

 と、宮原が訳してくれた。
 そう言われると、駄々を捏ねるわけにもいかず、俺は仕方なく膝を抱えて彼を待つことにしたんだ。
 俺だって、本当は強くなんかない。
 ただ、ここにいるのが嫌だっただけなんだ。亜熱帯特有の湿度のある熱さは、死体を腐らせるのが早い。生臭いような吐き気のする腐臭と、夥しい血痕の跡を見るのが本当に、本当に嫌だった。
 死体は俺とレンジャー三人と宮原で埋めたんだけど、血液は確実に腐っていく。
 そうこうしてるうちに遺跡の連中が気になって、代表して壮年のレンジャーが様子を窺いに行くことになったんだ。いつまたあの蛇が襲ってくるか判らない、この密林の中をたった一人で行ってしまった。そして、その帰りが遅い。

「やっぱり向こうも…」

 そう言いかけて、宮原は口を噤んだ。
 言ってしまうと、もう後戻りができないような気がしたんだと思う…と言うか、今のこの状況だって充分後戻りなんかできないんだけどな。

「こうしていても埒があかねぇ。おい、宮原。このおっさんたちに弾を寄越せと通訳してくれ」

 徐に立ちあがる俺を宮原とレンジャーは驚いたように見上げてきたが、俺がそう言うと、やっぱり同じことを考えていたのだろう、宮原は素直に訳してくれた。

『正気か!?』

『ここにいる方が安全なんだと彼に伝えてくれ』

 二人は同時に声を発したが、賢い宮原は二つともきちんと訳してくれた。

「ばっかだな!ここは密林なんだぜ?何が出るか判らない場所なんだ。どこにいたって安全かどうかなんて判るかよ。それよりも、今は少しだって仲間がいた方がいい。向こうも、救援を待ってるかもしれないし…」

 俺にしては上出来の言葉だったと思う。
 そうかどうかは判らないけど、レンジャーは顔を見合わせていたが渋々弾の詰まった箱を1ケースくれた。そして、弾の詰まったライフルを、護身用にしていたライフルと換えると言ってくれたが、それはありがたく辞退した。
 この銃は俺を護ってくれたんだ。
 目と鼻の先にある遺跡に行くために、俺は大きく息を吸い込んで密林へと1歩を踏み出していた。